増補 大日本地名辞書 上方(大和国、伊賀国、伊勢国、志摩国、紀伊国、淡路国のみ)
吉田東伍
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(例)一百〔ト〕申〔セシ〕四月
韻文の引用の時、題の下あるいは作品の後に数字分あけて作者名を字間を大きくあけて記すものがあるが、一字だけあけて、作者名の字間はつめて表記した。作品と作者名との間をあけていないものは一字分あけた。 〕
大和国
大和《ヤマト・オホヤマト》国 大和は大和川の上游に在りて一国を成す。四周山を以て囲み平曠肥腴なり、神武天皇|橿原《カシハラ》奠都の後列聖の宮室歴代遷移ありと雖大略此間を出でず、和銅中|平城京《ナラノミヤコ》を造営せられ規制最大なり、延暦中山城に遷都あり猶|南都《ナント》と称しき。此国南方は 畳嶂属嶺綿亘太広し、吉野《ヨシヌ》郡と云ひ本国に隷し其水脈を相すれば吉野|北山《キタヤマ》十津《トツ》の三水の上游にして、一水は横流し(吉野)二水は縦貫す。又東方|宇陀《ウダ》郡は伊賀国と一境を為し、名張《ナバリ》川衆水を集めて北流し山城国に入る。
大和古倭に作る、倭は漢魏人本邦を称したる異名なりと雖、取りて夜万止《ヤマト》の訳に仮りたり。又日本に作る、此地即本邦の都邑なりければ義に因りて訓じたり。神武帝磐余橿原宮に居たまひ神日本磐余彦の号あり、磐余《イハレ》即畝傍山の辺の総名にして倭の古国も此地に限れり。(今高市郡磯城郡蓋山処の義に出づ)後葛城国|闘鶏《ツゲ》国|層富《ソフ》等に及ぼし、地方の総名と為ると倶に亦国朝の大号と為る。孝徳天皇大化改新の比定めて六県と為れり、日本書紀云「大化元年八月、於倭国六県被遣使者、宜造戸籍并校田畝」、書紀集解、引延喜式祈年祭祝詞云「御県に坐皇神前に白、高市葛木十市志貴山辺|曾布《ソフ》と御名は白て、此六県に云々」これなり。国郡制度定まるに及び大倭国は前の六県を分ち十二郡と為し、宇陀吉野字智を之に隷せしめ十五郡なり、延喜式和名抄之に同じ。国郡沿革考云、大倭《オホヤマト》国は聖武天皇天平九年改めて大養徳《オホヤマト》と為し、十九年復旧大倭の字を用ゐ、孝謙天皇天平宝字元年更に改めて大和と為す、続日本紀天平宝字元年五月六月の条に大倭宿禰小東人并見し、十二月に至り大倭宿禰長岡あり、二年二月に至り始て大和国とあり、大和守大伴宿禰稲公云々,而て拾芥抄に「天平勝宝中、改大倭国為大和」と云ふ亦拠となし難きに似たり。和は広韻「戸戈切、順也諧也不堅也不柔也」而も呉音にはワと発唱す、倭は広韻「烏禾切、音渦、前漢地理志云、楽浪海中有倭人分為百余国」又玉篇「於為切音※[火+畏]、説文云、順貌従人委声、詩云周道倭遅」と、然れば和倭は元来異字なり唯釈義に共通の意あり、天平宝字中之に因りて改号ありし者の如し、其音亦相同じ。
按に釈日本紀開題云、倭字之訓、其解如何。答云、延喜講記説曰、漢書晋灼淳各有注釈、然而惣無明訓、今案諸字書中、又指無訓読。東宮切韻曰、陸法言云、烏和反、東海中女王国、長孫訥言云、荒外国名、薩※[玉+旬]云、又於幾反、順貌。孫※[りっしんべん+面]云、従貌、東海中日本国也。玉篇曰、於為反。説文云、順貌。詩云、又為禾反、国名。(以上)又云、本朝号耶麻止事。弘仁私記序曰、天地剖判、泥湿未乾、是以栖山往来、因多蹤跡、故曰耶麻止、又故謂居住為止、言止住於山也。延喜開題記曰、大倭国草味之始、未有居舍、人民唯拠山而居、仍曰山戸、是留於山之意也。又或説云、開闢之始、土湿而未乾、至于登山、人跡著焉、仍曰山跡。(以上)此に耶麻止は山に止まると云意、又山に跡ありと云意と為すは信拠し難し、山ある処の義なるべしと、或人其説あり、前説にまされるを覚ゆ、又同書云、磐余彦(神武)天皇定天下、至大倭国、王業初成、仍以成王業之地為国号、譬周成王於成周定王業、仍国号周。松屋国名考云、大和之為言、山処也、処猶言地、凡訓地云止古呂者、略云止、古語其例多矣、謂其国外則青山四周、内則為場也、或曰椰麻騰者椰麻知也、知騰音通、乃山内国義、所謂「玉牆内国《タマカキノウチツ》」又「青垣山|隠《コモレル》倭《ヤマト》」等可以徴矣。
大和、十五郡、明治二十九年合郡する所ありて十郡と為る、今奈良県管治、人口五十万、面積東西十里南北二十五里、約二百方里。畿内志によれば和州四十五万石城州二十一万石と云へり、此二州は郡郷の地細分して公武寺社各家の封邑錯雑を極めし所とす。大和は和名抄に於保夜万止と訓ず、然れども大(於保)もと美称に出で常に夜万止とのみ呼ぶ、古事記仁徳帝御歌に夜麻登、万葉集雄略帝御歌に山跡とあり、魏志に邪馬台とあるも之に同じ。○和《ワ》州は大和を修したる者也。
寄和州高取宰林老丈 伊藤東涯
千年王気古、百里国風新、襟帯山河国、桑麻衆落春、分憂重良吏、禦侮頼戎臣、何日金峰下、蔭花岸角巾、
添上郡
添上《ソフノカミ》郡 大和国東北隅にして旧添下郡と一境の地なり。春日の三笠山中央稍北に峙ち、山東の地は、田原|柳生《ヤギフ》等別に一境を成し、山城相楽郡伊賀名張郡に接す。日本書紀神武帝の巻に層富《ソフ》県あり、(欽明帝の巻に添上郡とあるは追書にして)大化元年大倭六県の一は延喜式に曾布と記し、其後上下に分れたり、続日本紀、元明天皇和銅元年、至春日離宮、詔添上下郡勿出今年調云々。(日本書紀、天武白鳳五年、添下郡あり此頃已に分れたりと知るべし)
和名抄、添上郡、訓曾不乃加美、分郷八あり、今奈良市外十七村と為る、郡役所奈良市に在り。
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那羅山《ナラヤマ》 添上郡奈良|佐保《サホ》及び生駒郡(旧添下)都跡村の北なる丘嶺の総名なり、中にも奈良市の北を奈良坂と云ひ、(相楽郡木津に通ず)佐保村の北を佐保山と云ひ、都跡村の北を歌姫越《ウタヒメゴエ》と云ふ。
日本書紀云、崇神天皇之時、武埴安彦叛、遣大彦与彦国葺撃之、官軍進登那羅山而軍、時軍人屯衆而※[足+(滴−さんずいへん)]※[足+且]《フミナラス》草木、因号其山曰那羅山。神皇正統記云、嵯峨の御代に(弘仁元年)奈良坂の戦ありて後は、朝に兵事といふ事なかりしに、保元より乱れ初めぬるも、時運のくだりぬる姿とぞ覚え侍る。那羅は古書に乃楽又諾楽寧楽に作る事あり、然れども※[足+(滴−さんずいへん)]※[足+且]と云ふより起因すと云ふは信ずべからず、地名に因りて旧事を伝ふるが故に古人往々此種の語あり、惟ふに那羅は樹名楢に出でたるか、万葉集に「ふるころもき馴《ナラ》の山」とよみ楢の字を充てたる所あり。又楢の冠辞をば多く青丹吉《アヲニヨシ》と云へり、青丹は土の名なるべし、又|平山《ナラヤマ》に造るは平均《ナラシ》の訓を仮りたるのみ。
平山の峰のもみぢばとればちるしぐれの雨し間なくふるらし、〔万葉集〕青丹吉奈良の山なる黒木もち造れるやどはませどあかぬかも、〔同上〕
那良豆比古《ナラツヒコ》神社は奈良町大字奈良坂の西側に在り、旧西福寺境内に属し俗に奈良坂春日杜と曰ふ、延喜式に列す。
補【奈良神社】西福寺境内に在り、奈良坂春日杜と号す、延喜式神名帳曰、添上郡奈良津比古神社、即是也。
奈良坂《ナラサカ》 木津村|市《イチノ》阪より十八町、更に南方般若坂|川上《カハカミ》等民家十町許相接して奈良町に達す。(一名|高座《タカクラ》坂また拷問《ガウモン》坂と云ふ)平城坊目考云、奈良坂は慶長以前まで孤村たり、近世繁昌なるを以て在家奈良町につらなる、伊賀路は奈良坂の東北へ行く、俗に平野《ヒラノ》道といふ、盛衰記に平野の笠卒都婆といへるも此東なり。
補【奈良坂】○平城坊目考 当村慶長年前迄孤村たり、近世繁昌なるを以て、在家般若寺町に列る、伊賀路は当郷の北東へ行道なり、俗に平野道といふ、盛衰記に平野の笠卒都婆といへるも此東なり、一条禅閤兼良公藤河記に云、奈良の京を立、般若坂を越、梅谷といふ心冷き所を経て加茂の渉を過て、笠置川に乗船と云々、如件文体、今謂ふ路にあらず、般若坂より梅谷に至る旧道ある事知べし、或旧記云、上古平城朝東国大路非当所、山辺郡竹谿村安保越と称す是也、当郷の通路は上古山州近江北国等に通ずる大路にして、延暦三年遷都以後平安城の行道たるものなり云々。
雍良岑《ヨラノミネ》陵 東西の二陵ありて、其東陵は元明天皇の喪所なり、奈良坂の西北三町許に在り.名所図会云、奈良坂春日社の側に函石《ハコイシ》と云者あり、俗に佐保姫神影向石と崇めたり、是則元明帝陵の碑石也、之を此所に移すこと詳ならず、高三尺横巾一尺三寸許、銘曰
大和国添上郡平城之宮馭宇八洲太上天皇之陵是其所也養老五年歳次辛酉冬十二月癸酉朔十三日乙酉葬此
此銘文は東大寺要録にも載たり、其葬処の南稲荷山に犬石と云者四個あり、隼人の象なるか(聖蹟図志)。此陵は類聚国史、扶桑略記に椎山《ナラヤマ》と為す。続日本紀云、養老五年十月、太上天皇詔曰、厚葬破産、重服傷生、朕甚不敢焉、朕崩之後、宜於大和国添上郡|蔵宝山雍良岑《サホヤマヨラノミネ》造竈火葬、莫改他処、謚号某国某郡朝廷馭宇天皇、流伝後世。又詔曰、其※[車+需]車霊車素薄是用、仍丘体無鑿、就山作竈、芟棘開場、即為喪所、又其地者皆殖常葉之樹、即立刻字碑、十二月太上天皇崩、葬於添上郡椎山陵。小川氏云、雍良峰は火葬所にして後改葬あり故に延喜式に奈保山東陵とあり、改葬は遺詔の本意に非れど後主の厚旨に因り改葬して山陵を起し又謚をも日本根子天津御代豊国成姫と申し、追謚には元明と申す。
雍良《ヨラ》峰西陵は元正天皇の喪所なり、東陵の西二町許弁天山と称す。続日本妃に因れば天平二十年佐保山に火葬し、日本根子高瑞浄足姫と謚し、天平勝宝二年奈保山に改葬し、追謚元正と曰ふ。按に佐保山奈保山の疑は早く本朝世紀にも見ゆ、同書「久安五年、実検山陵之便帰洛陳申云、興福寺上座玄実為造持仏堂、奈保山石少々所引也、聖武天皇山陵者在佐保山、所在奈保山者元正天皇山陵也、所曳之石兆域之外也、東大寺諸司申云、佐保山奈保山是一所異名也、堀頽本願聖武天皇山陵、運取数多大石等者云々、難一決」と古より此種の疑問ありしと見ゆ。扶桑略記には「元明天皇火葬于椎山陵、元正天皇葬佐保山陵」とあり、此椎山は奈良山と訓むべし新撰字鏡に椎字をば奈良之木と注す。※[てへん+叉]此山陵は異説疑難区々にして今断定し難きに似たれど、之を要するに奈良坂の西なる雍良峰を火葬所とし、法華寺の大奈閇小奈閇を奈保山の本陵とする方、稍通じ易きごとし。又犬石(一名七石又隼人石)の事に就き、元明帝陵と佐保山西陵(文武皇后宮子姫)の混乱あり、其説大八洲雑誌に見ゆ。○大八洲雑誌云、隼人石の事まづ石像所在地を考ふるに、其の記載せる所一様ならず。松下見林の説には大奈閉にありと記されたり、前王廟陵記巻上に云、奈保山東陵、平城宮御宇元明天皇、在大和国添上郡、兆城東西三町、南北五町、守戸五烟、或曰、今俗云、大奈閉七疋狐辺、有七立石、石鐫狐、と見えたる是なり。関祖衡並河永等の説には字たいこくにありと記されたり、大和志巻二陵墓の条に云、佐保山西陵、平城朝太皇太后藤原氏宮子、在眉間寺西北陵北六百歩許、呼曰太皇后尾、有巨石彫刻七狐、即天平勝宝六年八月火葬之地、謚曰千尋葛藤高知天宮姫之尊、乃聖武帝母也と見ゆ。蒲生秀実も同所と記されたり、山陵志巻一添上郡の条に云、佐保又有西陵東陵、東陵是聖武皇后藤原氏、西陵是文武皇后藤原氏、文武后之陵、今呼|大黒柴《ダイコクノシバ》、蓋其火葬処云、後尊為太后、大黒其音訛也、其辺有刻石面如狐者七枚、或云狗也非狐、古時隼人職守宮門為狗吠、故臨大喪亦以狗形置梓宮旁云と見えたり。また屋代弘賢が実践せる紀行にも、同所に於て一覧せし事記載せり、道の幸巻中、寛政四年十二月七日の条に云、ひるつかたよりたいこくの芝へ行く、ここは元明天皇御火葬の旧跡なり、この所のならひにて小山を芝といふなり、たいこくとは太后宮といふべきがつゞまりたるなり、このならびに、藤原のみや子の御墓あれば、さはいふとぞ、続日本紀に見えたる遺詔の趣いと掲焉にて竈の跡かすかに残り隼人の像ゑりたる石みつあり、むかしは七ツありしにや、こゝの字を七疋狐ともいふなり、奈良の箱石はこの所に有べきか、誰人のわざにやかしこにうつしぬとぞ云々。以上諸説区々なるが今大沢清臣氏の説を参考するに、此石像は太后宮芝に遺在せし事、また七疋狐と雍良峰と大奈閉山とは各別なるを知るべし。大沢氏の説云、隼人石は法蓮村の内字七疋狐とよべる古墳の上に在り、此地いにしへ佐保山とも那富山とも呼べり、彼佐保山南陵(聖武陵)よりは見渡し四町許西北にあたれる地なり、今は其石四個あり犬石とも云、此犬石の地と雍良峰と大奈閉山とはもとより別地なるを、諸書に一にまがひてこの犬石も雍良岑にありしよしにいはれたるは、土人の物がたりなどを打聴きに記せるものに依りて、其地理に悉しからざりしより起りたる誤にて、この犬石はかの奈保山東陵の雍良峰にも大奈閉山の古墳にももとよりあひあづかれるものならず。(以上)
般若寺《ハンニヤジ》 奈良坂の南に在り、寺辺を般若坂又般若野と云ふ。此寺太平記に、元弘元年、大塔宮親王経櫃に潜み賊手を免れ玉ふと為す所なり、又俗説聖武帝御願にて経塔を建てたまふとあれど採るべからず、孝徳天皇御宇白推五年曾我日向子臣の創建にして、後世重興したる者也。
上宮聖徳法王帝説云、曾我日向子臣、字無邪志臣、難波長柄豊崎宮御宇天皇(孝徳)之世、任築紫太宰帥也、甲寅年十月、為天皇不予、起般若寺。三代実録云、貞観五年、般若寺山内十町、令制禁伐木。元亨釈書云、延喜中観賢開和州般若寺、又云、忍性戒講之余、切于興福、募衆縁造丈六文殊大士、今般若寺之像是也。平城坊目考云、般若寺は治承四年重衡に放火せられ、其後文永年中興正菩薩再興して律宗と為す、延徳中又回禄して唯経蔵楼門等を遺したり、寛文年中本堂を造り、元禄の比寺中十三重の石造経塔を修復したるに、金造釈迦仏一体露盤の中より現はれたり、其後故の如く之を収む。
補【般若寺】○平城坊目考 治承四年十二月、平重衡為放火被焚、而後文永年中興正菩薩再興、於是為律宗、延徳二年回禄、漸遺止経蔵楼門等、於是安置文殊大士像於経蔵云々、寛文年中本堂再興、当時現存是なり。〔元亨釈書、略〕三代実録曰、貞観五年九月廿六日乙卯、下知大和国云、添上郡般若寺近側山十町之内、勿令百姓伐損。実録の如くば既に観賢以前の造立なり。元禄年中般若寺十三重石塔婆修覆、爾時閻浮檀金釈迦仏一体、露盤石中より出、於是開帳あり、諸人参詣せしむ、其後如故納之云々。上宮聖徳法王帝説〔裏書〕曾我日向子臣、字無邪志臣、難波長柄豊崎宮御宇天皇之世、任筑紫太宰帥也、甲寅年十月癸卯朔壬子、為天皇不予起般若寺云々、□□京時定額寺云々。
般若坂《ハンニヤザカ》 平家物語に、治承四年南都大衆七八千人奈良坂般若路二所の道をほり切掻立逆茂木を引て待掛たる事見え、太平記には延元二年桃井直常般若坂に拠り奥州国司北畠顕家を禦ぐ事を載す。
般若野《ハンニヤノ》 平城坊目考云、中世には刑場たり、今亦屠者癩人の住居と為る、十八間戸の東に在り、保元物語に載たる左府頼長公の墓般若野五三昧大道より東入一町余とあるは今東大寺北御門五劫院の東径か、墓は其東に在るべし。又云、笠卒都婆二基あり、一基は表に梵文八字を刻し側に諸行無常の四句偈あり、一基は表に梵文八字を刻し側に如来証涅槃の四句偈あり、旧説曰、是三間卒都婆也、盛衰記、解脱上人貞慶赴于東大寺、亦俊乗上人重源行于笠置寺、両上人相遭平野、於三間卒都婆、而互告合霊夢と。天保年間奈良奉行梶野土佐守給人穂井田忠友此塔の下方に文字を発見し、宋人伊元吉亡母追福の為めに建たるを知る、東大寺法華堂前の石塔も此人の建てし者にて、建久年中の事乎、陳和卿と倶に来朝したる人ならん、盛衰記の三間卒都婆即伊元吉の石塔にや同異詳ならず、頼長墓は北御門の東道の東トリガツボ田の西南畔と云ふ。(坊目遺考)
補【般若野】○平城坊目考 中世には断罪刑戮の場となり、今亦屠者癩人の住居となる、十八間戸の東にあり、北御門の東より北般若寺より東の方にて、京師の鳥部船岡の如し、保元物語に載たる左府頼長公の墓、般若野五三昧より入東一町余とあるは、今北御門五劫院の東径、往昔般若野五三昧に通ふ大道か、夫より東の方に頼長公の屍を埋し地あるべしと考へらる云々。
笠卒都婆 二基 俗高石と云、又三間卒都婆と云、
南一基 面梵字、八字、横面文、諸行無常是生滅法生滅滅已寂滅為楽、以上十六字、
北一基 面梵字如前、横面文、如来証涅槃乗断於生死若有空心聴常得無量楽、以上二十字、今按、是は中川寺の実範営造たるべし、是往年般若野五三昧之惣門乎、盛衰記云、解脱上人は笠置寺を出て東大寺へ行給ふ、俊乗和尚は東大寺を出て笠置寺へ渡り給ふ、両上人平野の三間卒塔婆と云所にて行合て、共に夢の告をかたり、互に涙を流しつゝ、貞慶は俊乗和尚を三礼し、重源は解脱上人を三礼して契て云、云云、一説に曰く、高卒都婆の辺は平野にあらず、平野は爰より七八丁許艮の方なり、此卒都婆に就て故人梅坊善寿云、天保年間奈良奉行梶野土佐守給人穂井田忠友といふ人、此高卒塔婆正面の下の方に文字有を発見し、墨もて紙に摺写して読に、宋人伊元吉亡母追福の為に建し文也、伊元吉母諸共皇国に帰化せしにや、東大寺法華堂の石※[石+登]も此人の建る所なり、建久年中の事乎、陳和卿と倶に南都へ来りし人ならん、然を此卒都婆勤操或は実範の営造なりと云伝、古く名所記に出せしは大成誤りなりといへり。
補【川上】○平城坊目遺考 左府頼長墓は川上村にあり、保元物語云、十四日に奈良へ入れ申しけれども、我が坊は寺中にて人目も慎しとて、近きあたりの小屋に休め奉り、様々に痛はり進らせけれども、終にその日の午の刻計に御事切れにけり、その夜軈て般若野の五三味に納め奉る云々、さる程に二十一日午の刻計に、滝口三人官使一人南都へ赴き、左府の死骸を実検す、云云、その所は大和国添上郡河上村般若野の五三味なり、道より東へ一町計入りて、実成得業が墓の東に新しき墓ありけるを掘発して見れば、骨は未だ相連りて肉少ありけれども、その形とも見分かず、その儘道の辺に打捨てゝ帰りにける。
往昔般若野五三昧の大道は北御門町五劫院の東の道是なり、一丁余東に当り、字トリガ坪といふ処、耕田西南の畔、頼長公の死骸を埋む所なりと考へらる。
北山十八間戸《キタヤマジフハチケント》 般若坂の東側の字なり、旧癩人の住宅にて忍性の阿※[もんがまえ+(八/(人+人))]寺を建てたる所也。坊目考云、北山阿[もんがまえ+(八/(人+人))]寺は光明皇后造立の悲田院と相異なり、忍性律師の造営にして般若五三味の地内なり、古石塔あり今分散す。忍性菩薩行状略頌云、仁治元年、修悲田院済乞丐、不堪歩行疥癩人、自負送迎、到北山宿、戒現業、寛元元年先妣十三回、癩宿十八集千人、悉施飲食、勧戒斎。元亨釈書云、奈良坂有癩者、時忍性在西大寺憐之、暁到坂宅、負癩置店市、夕負帰旧舎、坊目考又云「宿老曰一臈、若癩婦令来入、則為新婦、一臈之於妻、以故妻譲二臈、二臈三臈亦准之、譲於其次焉」と、十八宿老ありて癩者を収容したる謂なり。
補【北山】○平城坊目考 当辺は那羅山にて、即ち興福、東大の北山なり、因て斯名を称するのみ。〔鎌倉極楽寺忍性菩薩行状略頌・元亨釈書、略〕阿※[もんがまえ+(八/(人+人))]如来、此にあり、阿※[もんがまえ+(八/(人+人))]寺と号す、伝云、光明皇后造立阿※[もんがまえ+(八/(人+人))]寺也と云、此説妄説にして不然、忍性律師の造営疑なし、団石十基(近年東側の小川破壊して円石二三基埋れたり)大道東側にあり、俗云、若夫れ此石上に蹲居する時は癩者の族類たらしめんと欲すといふて、行人斯石を慄るゝ事砒霜のごとし、因て暫時も当辺に彳む者なし。按に是童蒙の謬説にして取るにたらず、往古般若寺五三昧の石塔分散し、路傍に存するのみ。
伴寺《トモデラ》址 一名永隆寺、伴大納言安麿其宅を棄て精舎と為したり、故に伴寺と曰ふ、佐保川の上流東大寺の北に在り、亦般若野の東に接す、安麿は佐保大納言と称し壬申の乱に戦功あり、坊目遺考に伴寺の沿革を載す。
旧記云、往昔伴寺法師、害岩淵寺之美童、(号伊王殿)於若草山下、而自共殺害焉、於是両寺互為蜂起基、伴寺僧徒、歴若草山麓路、而寄于岩淵、亦岩淵寺大衆越於下道、而至当永隆寺、相互押空寺、令放火、両寺同時回禄令滅亡也、其後有再興云々、彼児与法師之遺骸、葬於若草山西南林下、今云逢火塚是也、東大寺要録曰、伴寺跡、当時東大寺為三昧所、右幕府頼朝石塔左馬頭義朝阿波民部成良藤本権守俊乗上人重源石塔等先年在于念仏堂傍、元禄十六年移改於伴寺山墓所矣。
中川寺《ナカノガハデラ》址 般若寺の東二十町、中之川村に在り、中之川は今|東里《ヒガシサト》村に属す、相楽郡小田原浄瑠璃寺と国界を隔て相去る十町に過ぎず、或書に此寺長寛二年款識の古鐘を載す。僧実範初め興福寺に居り相宗を学ぶ、唐招提寺に至り鑑真和尚影堂に就き戒本を得て遂に律を唱ふ、嘗忍辱山に在り採花に因て中川に至り境地の奇勝を見官に奏して伽藍を建て成身院と曰ふ是なり、戒法復世に興る云々。〔元亨釈書東国高僧伝〕
補【中川寺】添上郡○人名辞書 実範は高僧なり、参議藤原顕実の第四子にして、俗を出で興福寺に投じて相宗を学ぶ、一夕夢に招提寺より銅筧を以て清水を中川に通ず、夢覚て以て好相とす、明暁招提寺に赴く、招提は唐の鑑真律師の弘戒の場なり、殿宇荒廃、緇徒寥落、一禿丁田間に耕す、範問ふに真公の影堂を以てす、禿丁曰く、我れ已に比丘に非ずと雖も、嘗て四分の戒本を聴きたり、範大に喜び、遂に影堂に就き、乞ひて戒伝を得、尋で中川寺に帰りて律堂を開く、有志の緇侶翕然として来帰す、是より戒法復た世に興る、初め範忍辱山に在る時、花を採るに因て中川寺に至り、境内の奇勝を見、乃ち官に奏して伽藍を建つ、号して成身院と曰ふ、後に光明山に移りて終ふ、嘗て大経要義七巻を述ぶ、貞慶法師甚だ之を称す(元亨釈書東国高僧伝)○般若寺の東二十町に在りて、今廃址となる。
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奈良《ナラ》 奈良市は春日山の西麓にして、奈良坂以南方二十余町を占め、寺社民宅田野村荘相錯雑す。今奈良県庁此に在り、六千戸二万三千口の数あり。
平城坊目遺考云、今の奈良は旧平城左京の程域内なり、本寺社の封領にて奴婢被官の家居たり、遷都以来春日東大興福に依頼し吐田《ハンダ》より南は興福寺に属し、由留木《ユルキ》より北西は東大寺に属し、寺林より南西は悉元興寺に属す、其余は率川《イサカハ》の森田畑竹薮にて偏に田舎の如し、度々の兵革寺社衰弊し自然民家居地となる、信長公秀吉公治世より寺領杜領多く没収有しより工商の住居軒を並べ繁昌しけるに、大和大納言秀長卿奈良民戸三千四百石の屋地子運上させて家臣井上源五郎定利を町司に置き守護せらる、秀長卿滅亡の後郡山住居の工商此に来住す、是に於て竟に肆廛繁盛町家建続きて国府となる、寛永十一甲戌年閏七月町家の家地子二千四百石余地方屋子四百十一貫余赦免と為り、奈良奉行を置かる。明治維新の初、諸寺社領封を奉還し僧祝分散せるが為め奈良の市区衰頽殊に甚く、家宅半ば廃墟と為る、近年稍蘇息の色あるも、未だ旧に復せずと云ふ。
平城懐古 梁星巌
雲端双閼古神京、憶昔春※[風+占]霓旌、囿沼已荒槐柳合、衣冠何在壟墳平、一渓豊草※[口+幼]々鹿、千樹残花※[口+合]々鶯、行尽借香山下路、流泉鳴※[王+(佩−にんべん)]最関情、
風雨望寧楽 藤井竹外
半空涌出両浮図、更有伽藍俯九衢、十二帝陵低不見、黒風白雨満南都、
奈良七重七堂伽藍八重ざくら、 芭蕉
八宗をひとつに楢の落ち葉かな、 鳥酔
誰のぞく奈良のみやこの桐の畑、 千那
笈の小文云、灌仏の日は奈良にてここかしこに詣で侍るに、鹿の子を産むを見て、此日に於てをかしければ、
灌仏の日にうまれ逢ふ鹿の子かな 桃青
又、旧友に分るとて
鹿の角まづひとふしのわかれかな、 桃青
しろく候紅葉の外は奈良の町、 鬼貫
奈良は奈良墨漬瓜并に法論味噌|豆腐《カベ》等の名あるに止らず、工芸には彫刻(金木二種)の業古より著る、是造寺造像の要用あれば也、中にも晒布《サラシ》は最広く世に行はる。産業事蹟云、奈良晒は明治維新の比奈良の市上に一年十万匹と云ひ、近年は大に減ぜりとぞ、惟ふに奈良は永禄十年松永が兵※[(豕+豕)/火]に罹り、次で豊臣秀長郡山を治城となせしより奈良の市街衰頽し、商賈生計に困みしより業を織工に転じ、或は近傍の生布を購ひ之を晒して売買せしに基せしならん、殊に寛永以来侯伯士大夫四時の衣服自ら定まりしより、奈良晒は礼服の科となり、其需用又一層多きを加へしを以て、明暦年中奈良奉行初めて尺幅検査の法を施きたり、此に於て橋本町に生布判場即検査所を置く、検査の記録によれば元文元年には生布二十一万八千七百六匹幅狭布一万二千百八十七匹、合二十三万八百九十三匹、天保十三年には十一万五千六百二十匹、明治元年には五万二千百五十匹、同十五年には二万二千二百匹なりと云ふ。
補【奈良】○平城坊目遺考 往古寺社仏閣の領地にして、興福寺、東大寺別院、新元興寺伽藍、新薬師寺、紀寺、率川、渓国眉間寺、般若寺等の境内にて、奴婢被官の家居なり。○今六千戸、二万二千口。
正倉院《シヤウサウヰン》 東大寺大仏殿の西南二町、碾磑《テンガイ》門の東に在り。天平勝宝八年孝謙天皇先考聖武の遺物を東大寺に納附し.校倉《アゼクラ》を建て之を蔵せしめらる、之を正倉院と曰ふ。本朝世紀に、康治元年鳥羽法皇東大寺勅封倉御覧の記事あり。
平城坊目遺考云、和銅三年平城の地に遷都ありしより七代の天皇茲に都し玉ひ、桓武天皇延暦三年都を山城国に遷され、爾来此地の伽藍堂塔数回兵※[(豕+豕)/火]にかゝると雖、幸にして正倉院のみ火災を逃れ古器物を千有余年の今日に遺し、本邦美術の淵源と賞讃せられ、世界無比の宝庫なり、間口二十間許奥行六間許、一棟三門の校倉《アゼクラ》にて三稜の材木を井桁の如く組建て、高八間半、扉の前に廊を設け中央に階段を置き瓦葺なり、俗|三倉《ミツクラ》と云ふ是也、御宝物は孝謙天皇及び光明太后が聖武先皇の冥福を祈らん為め東大寺廬舎那仏に御愛器を献納して後世に遺し給ふ所也、東大寺献物帳跋に天平勝宝八年六月二十一日とあり、宝庫も此の時の御創建乎、爾来宝庫の開閉は勅旨に依る、建久四年の開封修繕は源頼朝公の請ふ所なり、この時宝物を綱封倉に移し、明年三月竣功宝器還納、便乗坊重源上人宝庫の錫杖を請ひ勅旨にて与へ給ふ、正応元年十一月前摂政藤原道家公宝物拝覧を聴さる、元中二年八月将軍足利義満公春日祠に詣で宝器拝覧、寛正六年九月将軍足利義教公始めて蘭奢待及紅沈香を截る、天正二年三月勅使開封参議織田信長公拝覧を請ふ又信長公の請に由て藺奢待を截る、慶長七年六月内大臣徳川家康公宝庫修繕且宝器点検を請ふ、明年二月同公大久保小堀を発遣し宝器を油倉に移し修繕を加ふ、明治五年世古宮内少丞勅使と為り宝器点検の事あり、十七年正倉院を宮内省図書寮に属せしめられ十九年修繕を為し門墻を改造す。
東大《トウダイ》寺 今奈良市の東北部を占む、その寺域は西|轟橋《トドロキハシ》大路に至り、東|手向山《タムケヤマ》を籠め北般若野に至り南は春日杜域に接す。本寺興立の初め大小の殿舎此間に布かれしも中世以降漸衰頽に就き、徳川氏の時寺禄三千三百石ありしが近年に及び益振はず、唯金仙の大像以下貴重の造功の猶遺存する者ありて世に推称せらる。聖武帝仏法興隆の至願を発したまひ諸国に国分寺を建てさせ給ひしが、天平十三年更に廬舎那大仏の造像を志し、十五年近江紫香楽宮に御し造像の詔を頒ち玉ふ、廿一年平城京東山に大像を鋳、三年にして荘厳成る、実に天平勝宝四年也。大日本仏教史云、大像鋳造の着手は天平十九年九月、(水鏡東鑑)而て其成就は三年の後なり、一代要記※[土+蓋]嚢抄を按ずるに八回の改鋳あり、天平十三年より算すれば前後九年を経、落慶の歳までには実に十二年に及び、世に四聖建立の伽藍と云ふ、蓋本願聖武天皇開基良弁勧進行基導師菩提遷那を菩薩権化の四聖と為す者也。(帝王編年記沙石集)東大寺は創立以降斉衡年中に至り仏頭の自ら墜ちて之を修理したる後、又二回の火災に会ふ、治承四年平氏の兵放火し大殿※[火+毀]け仏頭壊れ、建久六年再興落慶あり後鳥羽天皇臨幸源頼朝監護す僧重源勧進僧栄西幹事たり、永禄十年松永久秀放火、仏像は幾もなく仮に修補したれど殿舎なかりしを、元禄五年金仏をも重ねて修補し尋いでその屋宇を構へぬ、現寺域六万坪華厳宗の大本山也。
補【東大寺】○往時の寺域は西轟橋より東手向山を籠め北般若寺野より春日社興福寺の間に亘り、大小の堂宇其間に満ちたり、中世以降寺運衰へ徳川氏の世には田禄わづかに三千三百余石なり。廬舎那仏興造の縁起は朝野群載に曰ふ、東大寺大仏殿仏前板文、以天平十七歳次乙酉八月廿二日、於大倭国添上郡、奉創同像、天皇専以御袖入土持運、加於御座、然後召集氏々人等、運土築堅御座、以天下十九年歳次丁亥九月廿九日、始奉鋳鎔、以勝宝元年歳次己丑十月廿四日、奉鋳已畢、三箇年八箇度奉鋳御体以天平勝宝四年歳次壬辰三月十四日、始奉塗金、未畢之間、以同年四月九日、儲於大会、奉開眼也、同日奉入大小灌条頂廿六流、呉楽,胡楽、中楽、散楽、高麗楽、珍宝等、金銅廬舎那仏像一躯、結跏趺坐、高五丈三尺五寸、面長一丈六尺、広九尺五寸、肉髻高三尺、眉長五尺四寸五分、目長三尺九寸、鼻長三尺二寸、口長三尺七寸、頤長一尺六寸、耳長八尺五寸、頸長二尺六寸五分、肩径長二丈八尺七寸一分、胸長一丈八尺、腹長一丈三尺、臂長一丈九尺、自肱至腕長一丈五尺、掌長五尺六寸、中指長五尺、脛長二丈三尺八寸五分、膝前径三丈九尺、膝厚七尺、足心一丈三尺、螺形九百六十六箇、高各一尺二寸、径各三尺六寸、胴座高一丈、径六丈八尺、上周廿一丈四尺、基周廿三丈九尺、石座高八尺、上周三十四丈七尺、基周卅九丈五尺、用熟銅七十三万九千五百六十斤、白鑞一万二千六百十八斤、練金一万四百三十六両、水銀五万八千六百二十両、炭廿万六千三百五十六斛、円光一基、高十一丈四尺、広九丈六尺、挟侍菩薩像二躯、並※[土+塞]光高各三丈、面長六尺広五尺、口長二尺一寸、耳長五尺九寸、眉長五尺九寸、目長二尺二寸、鼻下径一尺八寸、云々、大仏師従四位下国土麻呂、大鋳師従五位下高市真国、従五位下高市真麻呂、従五位下柿本男玉、大工従五位下猪名部百世、従五位下益田縄手。
○金燈籠は天平年間の鋳造にして、建久の修補に係る。〔付箋〕
法華堂 桁行五間、梁間八間、礼堂・中堂・本堂を連合し、屋根本瓦葺。
鐘楼 一間四方、単層入母屋、本瓦葺。
廬舎那仏銅座像一躯、日光月光塑像着色立像二躯、不空羂索観音乾漆立像一躯(良弁僧正作)四天王乾漆着色立像二躯(行基菩薩作)金剛密迹二力士乾漆着色立像二躯、石造獅子一双(行基菩薩作)四天王塑造着色立像四躯(止利作)同戒壇院。
大仏殿《ダイブツデン》 東大寺の中堂也、中に金仏廬舎那を置く、殿堂は再度の火に罹り寛永中旧規の寸尺を減縮して之を建つ、其金仏は当初の頭首※[火+毀]壊し後人の補修に係る。朝野群載云、鋳師柿本男玉高市真国高市真麿、大仏師国土麿、鋳料熟銅七十三万九千五百六十斤、白鑞一万二千六百斤、錬金一万四百卅両、水銀五万八千六百両、成像結跏趺坐高五丈三尺五寸、面長一丈六尺広九尺五寸、銅坐高一丈径六丈八尺、石座高八尺基周卅九丈五尺、大仏殿、二重十一間、高二丈六尺、東西二十九丈、広十七尺基砌七尺、○東鑑云、建久六年東大寺供養、法皇(後白河)勅重源上人、去寿永二年令大宋国陳和卿、始奉鋳本仏御頭。坊目遺考云、永禄十年十月、松永三好戦争の兵火に罹りたるを、当国福住(山辺郡福住)住人山田道安富財を抛て仏を修補す、然に大殿焼失後仏体雨露に曝され給ひし事百十余年、龍松院公慶上人大殿再建の志願を発し、五代将軍綱吉公宝永元年再建あり。考古学会雑誌云、現存の大仏は其頭首元禄五年の鋳造にして、右手は寿永二年の鋳造なり、其他所々に修補を加へたれば、天平創造のまゝなる所は、胴体の大部と、蓮座の花片十余枚に過ぎず。
元禄五年南都大仏供養記曰、仏御頭、永禄年中大殿焼失之時落、山田道安以銅板仮修之、今※[莫/手]其面容、鋳之、鋳物師沼津因幡国重、宮本兵庫正次、仏御身内、以洪材上下縦横支之、依像壊雨漏、材木悉朽、今新修之、
抑この金銅仏造立の当時を回顧するに、天平勝宝元年陸奥の貢金を以て之に塗抹せられしも今や数度の災厄を経ければ蒼然たる色沢わづかに其幽光を弁ふべきのみ、銅鋼座蓮※[くさがんむり/(白+巴)]にも三千大千世界の刻図あり其四十八片中数片は尚天平の旧を存し彫鏤観るべし。又堂前の銅燈籠は大仏同功の作にして、柱に刻文あり、康和寛文両度に修補す。東大寺鋼板詔書、菩薩戒弟子沙弥勝満稽首十方三世諸仏法僧、去天平十三年歳次辛巳、朕発願※[にんべん+爾]、広為蒼生遍求景福、天下諸国各令敬造金光明四天王護国之僧寺、施封五十戸水田十町、又於其寺造七重塔一区、又造法華滅罪之尼寺、施水田十町、所翼天地神祇共相和順、恒将福慶永護国家、開闢已降先帝尊霊、長幸珠林同遊宝刹者、今以天平勝宝五年正月荘厳已畢、施封五千戸、水田一万町云々。(以上節略)
鐘楼は大仏殿の東北に在り、近年特別保護を加へらる、一間四方単層屋根入母屋本瓦葺。天平勝宝四年鋳成の梵鐘一口高一丈三尺六寸径九尺一寸厚八寸、其資料熱銅十万二千斤とぞ、扶桑略記に見ゆ、現在の鐘は延慶元己亥年再鋳の銘あり。
尊勝《ソンシヨウ》院 大仏殿の北に在り、村上帝の勅旨に因り大僧都光智開基、智は東大寺所伝の華厳教を発揚し特に尊勝院を開き一宗の本処と為す、其徒弟分れて東大寺高山寺(北京)の二相承と為り、法脈を後に伝ふ。
講堂址 扶桑略記に拠れば大殿側に講堂厨房食屋等あり今皆亡ぶ、坊目遺考云、講堂址は大殿の後に礎あり、天平勝宝中の建立、本尊五丈の観音なりしが、永禄十年の兵火に滅亡す。
大塔址 朝野群載云、大塔二基、並七重、東塔高二十三丈八寸、西塔二十三丈六尺七寸。坊目遺考云、両塔は天平勝宝五年造立、治承四年回禄、建治元年西塔再興延文五年雷火。補【西塔】○平城坊目遺考 西塔址は小門の東道の北側にあり。朝野群載曰、塔二基、並七重、東塔高二十三丈八尺七寸、西塔高二十三丈六尺七寸、露盤高各八丈八尺二寸、用熟銅七万五千五百二斤五両、白※[金+葛]四百九斤十両、錬金一千五首十両二分云々。天平勝宝五年三月三日造立、治承四甲午年十月廿九日為雷火回禄。異本年代記曰、建治元年二月廿九日、東大寺西塔再興、定日取建立云々、延文五壬寅年七重塔雷火、已後無再建乎。補【尊勝院】尊勝院は正倉院の西にありて、宝庫あり、正倉院参看。○史料叢誌 当院天暦十年三月之記云、尊勝院印者、村上天皇附属光智云々。光智は東大寺別当大僧都に任じ、尊勝院の開基なり、天元二年三月十日入滅、年八十六、この銅印も東大寺に所伝す。
二月《ニングワツ・ニグワツ》堂《ダウ》 東大寺二世実忠開基、(大仏殿東北四町)毎年二月法会あり、本名羂索院と云ふ、治承の兵火を免れ寛文七年回禄し九年再造す、西向して高地に倚り佳景なり、北に長廊を架す。
遠敷《ヲニフ》祠并に若狭並は堂側に在り。元亨釈書云、実忠、良弁之徒也、嘗遊摂州難波津、獲十一面大悲像、(長七寸駕閼加器)建羂索院安之、忠毎歳二月対像修兜率軌、始天平勝宝至大同四年、俗号二月法、至今不絶、初忠修法時、若州遠敷明神、託曰願献閼伽水、忽涌甘泉。
三月《サングワツ》堂 法華堂なり、明治卅一年堂構仏像ともに特別保護法に与かる、桁行五間梁間八間礼堂中堂本堂を連合して一構を成す、瓦葺也。仏像は本尊不空羂索観音立像一躯脇侍※[土+念]像二躯四天王乾漆立像四躯を最霊と為し不動弁天地蔵吉祥等の像あり、後面に※[土+念]像執金剛神を祀る、本堂一に金鐘《コンシヤウ》寺と曰ふ、釈書の金熟に同じ蓋良弁の一|字《アザナ》にして、本堂は東大寺に先だち造立し天平五年と称す。拾芥抄に東大寺千手観音道基上人とあるは、今の本尊なるべし。釈書云、添上郡有寺曰金鐘、優婆塞金熟居焉、故名之、持一執金剛像、以縄繋脛捉之、念修昼夜不休、一夜像脛放光照宮、聖武天皇驚怪、勅尋光至此、中使以聞,及召金熟間、欲求何事、奏曰求得度、勅許之、四時供給、時人号金熟菩薩、天皇亦以此地為勝区、鋳大像。三月堂の西に四月堂あり、治安三年の造営本尊普賢菩薩なり。
千手《センジユ》院 三月堂の乾に在り、初め当院は若草山千手谷に在り、元禄年中此に移す、当院の住侶鍛工を善くする者あり、堀河天皇御宇に千手院行信始て長刀を造り、爾後数世其業を伝へ、千手鍛冶と称す。
東南院《トウナンヰン》 大仏殿の南に在り、東大寺々務の住房と為す、古教三輪の法脈を伝へ世々尊勝院と相並び幹事たり。諸門跡譜云、南都東大寺東南院開基聖宝尊師、葛野王息也、十六歳投真雅僧都得度、挙三論于元興寺願暁及円宗、受唯識于東大寺平仁、又華厳于同寺玄栄、延喜九寂七十八。
南大門《ナンダイモン》は大仏殿の正門なり、五間三戸楼門造瓦葺、(特別保護法に与る)正治元年再造。力士は仏工運慶快慶の刀に成る。又石造獅子一双あり、行基の作と伝ふ、実は建久年中宋人陳和卿の徒の作なり。
水門《スヰモン》は南大門の西北を云ふ、今門亡び地字と為る、水谷川《ミヅヤカハ》の流之を過ぎ、佐保川へ入る。東大寺別当次第云嘉吉元年、自興福寺押寄令破却西室房、言語同断悪行儀也、又嘉吉二年彼坊築地相残を継添る処、又自興福寺令下知七郷人、皆悉打こらし了、文安四年相当春日社造替之間、可相懸当郷棟別之由有其沙汰、寺中構要害、九月十四日未明寄来、国分門の板を伐破り乱入、南大門同切破責入、寺中打死の僧五人、凡一寺頓滅両宗離散、中々不及記之。
西大門址は水門の北にして雲井《クモヰ》坂に在り、坊目遺考云、西大門は国分《コクブ》門とも云、金光明四天王護国之寺と題額し本州の国分寺たるが故也、門廃し額は本寺に存す。景清門《カゲキヨモン》は正倉院尊勝院の西に在り、門前の民家八町を手貝《テカイ》と曰ふ。坊目考云、尋尊僧正七大寺巡礼記曰、天平之朝、瑪瑙|輾磑《テンガイ》在東大寺食堂厨屋、是高麗国所貢也、謂其西門曰輾磑。東鑑曰、建久六年、陣和卿鞍一口、為手掻会之移鞍、此地は永禄十年松永三好合戦のみぎり坊舎悉焦土となり、後町家と為る、俗に景清門と云、建久六年大仏供養の時悪七兵衛景清此門に隠れ頼朝公を窺ひ秩父重忠に搦取られしと、強ち妄説とも云ひ難し、鎌倉志は長門本平家物語を引て之を証せり、又謡曲に作るも是によるものなり。按ずるに輾磑門前の西路は法華寺西大寺に直達す、是平城古京一条南路の旧線なり、又南方雲井坂より春日大鳥居を経て紀寺へ通ずるは左京六坊大路の旧線なり。
雑司《ザフシ》 正倉院尊勝院の北を雑司と字す、寺家雑司の宅の謂なり、北門ありし所なれば亦|北御門《キタミカド》と称す。
補【東南院】東南院は寺務の住坊にして、貞観七年聖宝僧正之を開く。○諸門跡譜 東南院、南都東大寺、聖宝尊師、醍醐寺又東南院開基、兵部大輔葛野王息、大友皇子孫、天智帝彦、十六歳投真雅僧正得度、学三論于元興寺願暁及円宗、唯識東大寺平仁、華厳同寺玄栄、又謁金剛峰寺真然受密教、復従源仁益得奥秘、延喜九七六入寂、七十八歳。
補【千手院】○平城坊目遺考 千手院は若草山西麓にあり、当初東大寺別院本尊観世音は元禄年間移安法華堂(三月堂)乾隅是なり。
千手院鍛冶居宅址 千手院谷に在り、往古当寺護僧鍛冶を好、故に千手院と号す、当寺興廃詳ならず、堀河天皇御宇千手院住僧而始作長刀、是千手院流之始祖行信と云。
補【南大門】正治元年の再建にして、力士は湛慶運慶の合作にして絶妙の作と称す。六代運慶建久三年東大寺南大門二王の中左方一体を造る、其の右方の一休は七代湛慶の作に係る、少しく左方に劣るの観あり、本邦無数の二王像中之を以て最も傑大の名作とす、只惜むらくは其足部の短小なる、全身の権衡に副はざること是なり、この他運慶の作甚だ多し。
〔付箋〕東大寺南大門、五間三戸楼門、本瓦葺。
賢却経紙本墨書巻物一巻、大※[田+比]婆裟論紙本墨書巻物一巻、香家大師像絹本着色掛軸一幅、奈良県奈良町東大寺。
補【水門】○東大寺別当次第 〔募吉元年七月〕廿九日自興福寺押寄、令破却西室坊放火了、次日(八月一日)又寄来、西室僧坊、如意坊、案坊、寂相坊、北室宝蔵院、密乗坊五ケ所又破却、言語道断悪行儀也、又嘉吉二年三月、彼坊跡築地相残をつき添る処に、又自興福寺令下知、当寺七郷人皆悉打こらし了、以非理非法義居此職之旨冥見の御とがめか、希代云々、文安四年相当春日社造替之間、可相懸当郷棟別之由有其沙汰、仍八月廿日寺内棟別可執給之由、自興福寺雖評定色々、寺中寺外棟別以敬信之儀可執進之由返牒了処、此趣背先例間可発向当寺之由令風聞、仍老可塞之由、云々、然間寺中寺々構要害畢、同九月十四日未明寄来、国分門の脇壁の板を伐り破て乱入、南水門同切破責人之間、無勢多勢の責難遁之間、思々心々引退、寺中打死の寺僧五人、云々、ゆはかれなどする者数を不知、相残衆は皆離山了、破却在所深井坊、法蔵院、密乗坊、円祥坊也、東南院は門ばかり少切り、尊勝院在所菩薩院は如灯爐なり了、自余坊は少々雖破損大事なし、大仏殿御前東松切之西の方松、尊勝院発向之時切之畢、凡一寺頓滅、両宗離寺、中々不及記之。
補【手貝】○平城坊目考 手貝町は八町の惣号也、〔七大寺巡礼記、略〕或転磑、今俗云石臼是なり、〔束鑑、略〕以之考る時は手掻の文字、既に建久年用之、近世の説に非る事分明なり、手貝又天貝の俗字取るにたらず、永禄十年松永三好合戦兵火のみぎん、坊舎悉焦土となれり、於是町家となる。
手掻門 俗景清門と云、建久年大仏供養の砌、景清此門にかくれ居て頼朝を窺しに、秩父重忠其異相を恠んで搦させられしと云、是しかしながら強て妄説ともいひがたし、梶原景時和田党随兵を率て門々を固と東鑑に見えたり、是等を混じたるものか。
補【景清辻】○平城坊目考 勝願院町は小名景清辻子と号す、往古一寺存す、勝願院と名づく、本尊地蔵立像五尺余の木仏、錫杖の柄に弓の鉾を用ゐ、里俗云、往古悪七兵衛景清当所に隠れ棲む、而後東大寺大仏供養の日窃に右大将頼朝公を窺ふ、其事露顕して警固の武衛にに搦られて鎌倉に下向せしむ云々、鎌倉志長門本平家物語を引て之を証す、彼を以て此を考るときは、大仏供養の日南都において捕るゝ処分明なり、其前当所に隠れ棲む所、是亦謂なきにあらず、手掻景清門の里諺、又謡曲に作る処、皆是によるものあり。
戒壇院《カイダンヰン》 大仏殿の西二町.水門の北岡上に在り。安置の四天王は着色塑像四躯、近年国宝簿に登録せらる。戒壇は聖武天皇唐憎鑑真を請じ創立あり、後世再三火に罹り享保十六年江戸霊雲寺恵光の重興する者今の構造是也、堂中土壇二層高八尺東西五間南北四間、本邦最旧唯一の芳址と為す。鑑真東征伝云、天平勝宝六年入京、詔曰、大徳和上遠渉滄波、来投此国、誠副朕意、朕造東大寺経十余年、欲立戒壇伝受戒律、自今以後一任大和上。釈書云、鑑真館東大寺、奉勅於大殿西構戒壇院、上皇(聖式)受菩薩戒、皇帝(孝謙)皇太后(光明)以下同受、又云、空海延暦十有四年、登東大寺壇受具足戒、乃仏前誓曰、三乗十二部我心有疑未能決択、願垂加祐示我正法、夢中有人告曰、有大経巻名大※[田+比]廬遮那神変加持、是真秘法也、後尋求諸所、適於久米道場得此経。七大寺巡礼記云、戒壇院、南向五間四面、安六重金銅塔、(高一丈五尺許)置壇上中心、是受戒会本尊也、壇下埋聖武天皇御骨、夫天竺紙園精舎戒壇、埋釈迦仏鬚爪、准彼例。日本紀略云、昌泰二年十一月、太上法皇(宇多)於東大寺、登壇受戒、令右大弁紀長谷雄作戒牒文。(寛和二年円融上皇御受戒の次第は専書あり、後世に伝ふ、記事詳備也、其後は鳥羽後白河両皇の登壇あり、鳥羽法皇の記事は本朝世紀に見ゆ)円融院御受戒記云、寛和二年三月、自仁和寺御車、到東大寺、於西面中門外、下御車、門内東南二丈許、有一堆処、掃部所舗小筵一枚、其上供御半畳、法皇着之、向巽三礼、観者攪涙詢之、長老曰、本願聖主礼寺護法之処也、(中略)法皇経覧寺内、※[さんずいへん+自]于覧大炊屋、米十五石一甑炊之、数十人用轆轤下甑、※[(十の縦棒の左右に口)/わがんむり/貝]※[秋/金]者廿人許、頽飯納槽、以樋引水洗飯也、侍臣曰偉哉大哉、此寺草創之後、堂閣屋舎、頽毀有年矣、今僧正寛朝自為別当、以致修繕、土木之功温故、赭堊之飾知新。本朝世紀云、康治元年、法皇従白河殿御幸宇治、小松殿下向東大寺、着御西中門前、(号碾磑)脱御車即下、御門中堂巽角有一堆、号礼拝墓、其上舗小筵、昔本願聖式天皇、於此墓上、遥拝大仏相、次円融法皇亦如此、今日臨幸戒壇、自西廊北脇門人御、次和尚(二品覚法々親王)等着袈裟、法皇入御堂内、沙弥戒座、御手持衣鉢、登壇、繞中央銅塔、作法如常。
南都客中 鱸松塘
客路花飛争送人、暮雲喬木故都春、荒陵草棘衣冠尽、祇有金僊閲劫塵、
むしぼしや甥の僧訪ふ東大寺、 蕪村
二月堂
水とりやこもりの僧の沓の音、 芭蕉
南大門たてこまれてや鹿の声、 正秀
大仏の眠るものならおぼろ月、 鳥酔
手向山八幡《タムケヤマハチマン》宮 東大寺の東五町に在り、即東大寺の鎮守神にして聖武天皇の御願、宇佐より遷奉る。初め天皇造仏の発願ありしに八幡神々教あり禰宜大神社女主神大神田麿之を奏す、乃之を迎奉り新に宮殿を梨原《ナシハラ》に設け、尋で天皇神輿と倶に東大寺に行幸し大仏を拝し、終に寺中に奉祀す、天平勝宝元年十二月とす、左大臣橘諸兄宣命を伝へて曰く、
天皇が御命にませまをしたまへと申さく、去辰年河内国大県郡の知識寺に坐す廬遮那仏を礼奉て則朕も造り奉らんと思ども得成さざりし間に豊前国字佐郡に坐す広幡の大神に申賜へと勅はく、神我天神地祇を率ゐいざなひて必成奉らむ事だつにあらず銅の湯を水と為我身を草木土に交へて障る事なく為さむと勅たまひながら成りぬれば歓しみ貴みなも念ほしめす云々。〔続日本紀〕
永仁二年東大寺衆徒朝廷に訴ふる所あり、神輿を奉じて京に入る、此後しば/\此事ありて公家を驚かしめき。近年之を手向山社と称するは手向山其東にあるを以て也。
補【手向山八幡宮】○神祇志料 東大寺八幡神、今添上郡東大寺域内にあり(大和志)宇佐八幡を遷祭る、蓋聖武天皇の御願也(参取続日本紀・神皇正統記)孝謙天皇勝宝元年十一月己酉、神教に従て宇佐八幡神を平群郡に迎奉り、新に宮殿を梨原宮に設け、尋で天皇太上天皇太后並に神輿と共に行幸して東大寺の仏を拝給ひ、終に之を寺中に遷し祭り、以て東大寺の鎮守とす、(続日本紀、参取帝王編年記・神皇正統記)土御門天皇建仁三年十一月庚寅、使を遣して幣を奉りき、奉幣蓋此に始る(明月記)伏見天皇永仁二年七月辛酉本寺僧徒神人、神輿三基を振て禁中に至り事を訴ふ、壬戊、神輿を東寺金堂に入れしむ(興福寺略年代記・帝王編年記・園太暦康永三年)此後僧徒神輿を捧げ事を訴ふる時は、朝廷又神威を畏て恒例の朝儀を廃給ふ事屡なりき(園太暦大要)凡そ其祭九月三日を用ふ、(奈良県神社取調書)
若草山《ワカクサヤマ》 東大寺の東にあり、春日山の北尾の一嶺なり、又|手向《タムケ》山とも曰ふ、古名|鶯山《ウグヒスヤマ》なり、小芝生の山にして翠氈を被る如く、形状亦温籍なり、春焼の痕殊に雅趣多く、宛然たる土佐家の図様也。
今も猶妻やこもれる春日野の若草山にうぐひすの鳴く、〔夫木集〕 中務卿親王
鶯の春になるらし春日山かすみたなびく夜目に見れども、〔万葉集〕
すだつともみえぬものから鶯の山のいろ/\ふみも見るかな、〔うつぼ物語〕
類字名所外集云、うつぼ物語の梅花笠の段は、藤氏の大臣春日詣して人々題を得てよめるなれば、其鶯山は春日に在りと知らる。
鶯山に古墳あり鴬塚と云ふ、或は之を以て大山守皇子の墓と為す。坊目考云、在原業平、平《タヒラ》の京より奈良へ女をぬすみ具しける程に、之を取返さんとて尋ねられしに女の歌に、
むさし野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり、
此歌伊勢物語には武蔵野といひ古今集には春日野に作る、歌の意を考ふるに当時此野山を春焼したる事明なり、又若草の山名は此歌に因みしたるなり、此山往古より毎年春の比之を焼くを例とす、近代には奈良奉行所の吏員東大興福の両寺務役僧立会して焼きたり。(春日野は手向山八幡宮以南を称す、武蔵野同所なり。)
飯盛《イヒモリ》山は若草山の高処飯を盛りたる状あれば名づく。続日本紀云、宝亀元年、破却西大寺東塔心礎、其石大方一丈余、厚九尺、東大寺以東飯盛之石也。
内侍原《ナイシハラ》 今奈良に属し内侍原町と云ふ、平城京二条大路に当る。坊目考云、東大寺八幡の行宮古跡あり、続日本紀、天平勝宝元年、迎八幡神於平群郡、是日入京、即於宮南梨原宮、造新殿以為神宮、請僧四十口悔過七日と、後歴代春日祭勅使着御の地なり、再考、昔春日祭勅使途中は淀より相楽郡を歴て法華寺道に来り、不退寺前を過て二条大路より当所に着、往還亦同じ、続日本紀なる梨原神宮とあるは今の奈良内侍原にあらざるべし。太平記に元弘元年内侍原法眼は武家方に与し、大塔宮を般若寺に襲ひたる事見ゆ、孰れかの寺司なるべし。○正平六年正月、直義入道は八幡山に陣取り諸方の合図をまたれけるうち、知久四郎左衛門尉に千五百余騎をさしそへ内侍原法眼好専を殺して参るべしと下知せらる、好専は去年直義入道都を落たりし時おのが家に隠し置まゐらせしかど、直義専好を疑ひ再びこゝを忍び出給ひし事あるにより、今は八幡山に至り直義入道に陳謝せばやとおもひし所に、天亡の期や至りけん終に殺されけるは不便なりける事どもなり。〔天正本太平記〕
奈良奉行所《ナラブギヤウシヨ》址 東大寺国分門の西四町に在り、徳川氏の時奉行職(一員)を置き与力七騎同心三十人を属せしめ、幕府直隷の市政を布きたり、明治元年停廃す。(慶長五年大久保長安初任以来の事とすと云へり)
包永《カネナガ》は今町名と為る、奈良剣工の家名なり、初代包永は弘安比の人なり手掻《テガイ》門の西に居るを以て手掻包永と称す、二代平四郎包永以下数代名匠の誉あり。補【押小路】○平城坊目考 俗に延乗坊筋と称す、延乗坊は興福寺窪転経院の旧名なり、因て時の俗北門を延乗坊の門といふ、実名悲田門なり、按ずるに当押小路往年北方推山に通ずる小路にして、推小路と称せるを後世転じて押と作るもの乎、先年に至て猶小路ありて、西包永町に通ず、御代官屋敷造営之砌、件の小路を廃して役所となるものか。
南都名物記云、手掻包永が跡を包永町と号す、貞和年中の者なり、伝いふ、文珠包永は祖を木村平三郎包利と称す、天福中に和州南都手掻に居り、鍛冶を好て而して莫妙を伝へ、業を平四郎包永に伝ふ、弘長中の人なり、平四郎之を四郎左衛門包永に伝ふ云々。
春日《カスガ》郷 和名抄、添上郡春日郷。今奈良町是なり、万葉集借香に作る、但その南部なる紀辻紀寺辺は大宅郷の中なりけん。
冠辞考云、日本書紀(武烈巻)に播屡比能簡須我《ハルヒノカスガ》の句あり、又万葉集に春日乎春日山《ハルヒヲカスガノヤマ》の句あり、此は春の日の霞むと云ひかけつ、文字春日も其義に因る。古事記伝云、開化紀に遷都于春日、春日此云箇酒鵝と、又継体紀に播屡比能可須我能倶須爾などあり、此地名の起の事姓氏録に見えたれど疑はし、其詞に彼大春日氏の先祖仁徳天皇の御代に糟を以て垣にせしに因て糟垣臣と号たまへるを後に春日臣に改むとあり、然れども此より先綏靖紀に既に春日県主あり、古事記孝昭天皇の御子天押帯日子命者春日臣之祖也とあるも、春日もとより正しく地名なるべし云々。
補【春日】神名式春日神社、又春日祭神四坐、頭注、神護景雲二年垂跡於大倭国添上都三笠山。〔古事記伝、略〕東大寺古文書、春日村。名跡幽考、今世添上郡春日の境地にかぎりて奈良といへり、古へは添上添下の郡ともに奈良にこそ侍らめ。
春日山《カスガヤマ》 春日郷の東に峙ち一邑の主山なり、古より神霊の宅と為し厳に伐採を禁じ御笠山《ミカサヤマ》と称す、一山鬱蒼として頗佳色あり、抽海凡五〇〇米突(奈良町凡八〇米突)北は若草山南は高円山左右に脇侍する者の如し。続日本後紀云、承和八年、命倭国国郡司、禁春日大神々山内狩猟伐木。
物おもひかくろひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり、〔万葉集〕
又万葉集に長歌「春日《ハルヒ》を春日《カスガ》の山の高座《タカクラ》の御笠の山に」とあるは、春日山の西峰(今春日大宮東嶺なり)を特に御笠と名づけしか。
三笠山《ミカサヤマ》 顕注密勘云、春日山に三笠山とてひき下りて小き山に春日社おはします、春日山は総名なり、三笠山は別名也。冠辞考云、万葉集に高※[木+安]《タカクラ》の三笠山とあるは、即位朝賀の時など大極殿に高御座を飾て天皇のおはします上に御蓋《ミカサ》のあれば御笠山は此語を冠らせたり、又「大王《オホキミ》の御笠山」「君の服《キル》三笠山」とあるは日蓋の意なるべし。今按ふに此山笠もて覆ふがごとき状あれば原名は起れるならん、中世三笠山と云語を近衛大将の別号とす、八雲御抄俊頼秘抄等に見ゆ、是はいかなる故にや。
青うな原ふりさけ見れば春日なるみかさの山に出し月かも、〔土佐日記、阿倍仲麿〕
名のみして山はみかさもなかりけり朝日夕日のさすを云かも、〔拾遺集〕 紀貫之
三笠山下有懐阿倍仲麿 梁星巌
風華想見晁常侍、皇国諸生唐客卿、山色依然三笠在、一輪明月古今情、
歌人は居ながら入唐す
秋の月人の国までひかりけり 鬼貫
羽買《ハカヒ》山詳ならず、翼の義なれば、春日山左右の一峰なるべし、万葉集に見ゆ、 春日なる羽賀の山ゆ猿帆《サホ》の内へ鳴き往くなるはたが喚子鳥。
香山《カウセン》 春日山の南半腹に坦処あり、旧香山寺天地院に在り、故に今尚其堂存し、延喜式|鳴雷《ナルイカヅチ》社あり、岩井川の源は此山より発す。此香山は古名|香土《カクツチ》山ならん、神代巻に香土神鳴雷神など云ふ名あり想ふべし、鳴雷社今|神鳴《カミナリ》宮と呼ぶ。
香山寺《カウセンジ》址 坊目遺考云、今春日|水谷《ミヅヤ》社の水船銘に曰く西金堂長尾水船文和二年三月日置云々と、此は香山寺の遺物ならん。香山寺跡は春日山の絶頂より南に在り、天喜五年焼亡す、天平勝宝の古図に春日山頂の巽、岩井川水源の上に香山堂を記す、今も坂道に石仏敗瓦の遺りたるあり。続日本紀云、天平勝宝元年五月、勅崇福寺香山寺薬師寺建興寺法華寺、四時各施二百疋。大和志云、天地《テンチ》院在八幡山東、一名上堂又銀堂今亡。扶桑略記云、治安三年十月十八日、入道前大相国(道長)早旦奉礼大仏、又寺内東去五六町山上有堂、謂之|銀《ギン》堂、堂中安銀丈六廬舎那仏像、破損殊甚、銀像過半為賊穿取云々。
春日率川宮《カスガイサガハノミヤ》址 開化天皇の皇居なり、古事記伊邪河宮に作り、日本書紀に「遷都於春日之地是謂率川宮」とある是也。坊目遺考云、春日野々田の東端|浮雲《ウキグモ》宮の辺より南は率川に近き所まで皆旧都の跡にて、後世春日大宮又四恩院等の境域と為り、地相変更したり、按ずるに率川宮址は野田の東なり、率川陵は油坂に在りて相去る事十八町に及ぶ。書紀通証は和漢三才図会に拠り、率川社即皇居と為せり能登《ノト》川は率川の別名、春日杜辺より出でて高畠紀寺を過ぎ猿沢池に入る。
能登川のみなそこさへに照るまでに三笠の山は咲にけるかも、〔万葉集〕
水谷《ミヅヤ》川 宜寸川《ヨシキガハ》と称す、春日神宮の北界を流れ東大寺の南を過ぎ末は佐保川へ注ぐ、
わぎもこに衣|借香《カスガ》の宜寸河よしもあらぬかいもが目を見む、〔万葉集〕
春日《カスガ》神社 春日山の下に在り、社殿南面し本殿拝殿楼門前殿等廻廊之を纔り一区を為す。延喜式に春日祭神四座とある者是なり、藤原氏の氏神にして興福寺の鎮守たり、現在の殿宇は慶長十七年修造す、明治四年官幣大社に列す。
春日若宮は長保五年本殿二三之間に現れたまひ、長承四年別殿を起し之に鎮座す。〔坊目遺考〕酒殿《サカドノ》は祭時醸酒の処なり、続日本紀「天平勝宝二年、行幸春日酒殿」とあるも此か。拝殿の歌仙色紙は後光明帝宸筆を加へ玉ふ者とす、又社蔵の伎楽面舞衣中に稀世の名物あり、又刻像の佳なる者は天燈鬼龍燈鬼二躯あり。
神紙志科云、春日祭神四座、今春日郷三笠山の麓にあり〔大和志和爾雅国華万葉記〕第一殿常陸|鹿島《カシマ》に坐|健甕槌《タケミカヅチノ》命、第二殿下総|香取《カトリ》に坐|伊波比主《イハヒヌシ》命、第三殿河内枚岡に坐|天児屋根《アマツコヤネノ》命、第四殿|比売《ヒメ》神を祀る、〔文徳実録延喜式帝王編年記〕
按、編年記比売神は伊勢相殿にして伊勢大神宮より遷御といひ、神名秘書之を栲幡千々姫とするを以て後世遂に伊勢大神を配せ祭ると云ふに至れり、然れど文徳実録延喜式に正しく比売神とのみあるに拠時は蓋天児屋根命の比売神にして、伊勢相殿の神にあらざる事著し、
初元明天皇和銅二年、右大臣藤原不比等〔官姓拠続日本紀〕鹿島神を氏神と崇めて、天皇及皇后の御為に近く春日の三笠山に移し奉り、地名に依て明日が神と申す。〔大鏡及裏書神宮雑例集色葉字類鈔〕
按、編年記春日験記春日社記諸神記等の書並に景雲二年を以て始としつれど、天平十二年大中臣清麿此神を摂津寿久山に移祭る事雑例集字類鈔に見え、神護元年封戸を寄す由、新抄格勅符に載たる者と合はず、故に今之を取らず、
称徳天皇神護元年鹿島社の二十戸を割て之を寄し、〔新抄格勅符〕神護景雲二年十一月春日神殿造り畢るを以て香取神枚岡神比売神を合祭り、春日四所明神と云き、〔帝王編年記一代要記大鏡裏書春日験記色葉芋類鈔、神殿造畢拠春日社記諸神記〕
按、和銅中既に鹿島神を祭る時神殿ありし事著きを後三座を配祭るに就て殊に改造ありしなるべし、宇佐託宣集に(引春日杜注進状)左大臣藤原永手春日大明神を三笠山に勧請奉ると云るは三座の神を祭りし事にやあらむ、附て後考を侯つ、
其後外戚の権甚盛なるに及て春日神尤も顕る、延暦三十年常陸国鹿島下総国鹿島神封の調庸布千四百端麻六百斤紙六百張を毎年の祭料に充て、前に割く所の二十戸を鹿島に還し納め、〔新抄格勅府〕嘉祥三年建御賀豆智神伊波此主命を正一位に天児屋根命を従一位に比売神を正四位に陞めらる、〔文徳実録〕貞観元年二月丙申祭を行ふ此より二月十一月申日を以て恒例とす、〔三代実録貞観儀式〕一条天皇永祚元年行幸あり、春日御詣此に始る、〔兵範記日本紀略〕寛治の比より興福寺憎徒動もすれば神民数千人を率て桙神木に鏡を懸け春日神体と称へて京に入り事を訴ふ、其暴横尤甚し、〔本朝世紀百練抄〕蓋藤原氏春日神を崇めしより斎女を置き皇室の斎院あるに擬ひ、神封を寄し祭料を班つの多き事亦伊勢大神宮を除く外天下諸社比すべき者なし、中葉以来関白の詣に公卿上官多く之に従ふ、儀衛の盛なる又知るべきのみ、其祭は賀茂祭に異なることなし、建武以後稍衰ふ、奉仕の神人大中臣中臣二氏あり、中臣は中臣殖栗連時風秀行の喬にして、其族修行正預神宮預等に任され大中臣の族は神主に任さると云、近代神官凡百七十余戸あり(以上)
春日の糜鹿と燈籠は詣人の奇談と為す所なり、鹿は古より神便と号し之を殺傷するを禁じ、今囿を設けて之を飼養す、燈籠は石燈凡一千八百基春日野登大路より社前路傍に配置す、銅製の者之に雑る、掛燈は本社内に弔垂す鋼鉄種々あり、凡一千其形状亦一ならず中に鉄製文亀三年の銘ある者、銅製には元亨三年康暦二年等を最旧と為す。
春日は摂関家の氏神にして、中世八幡は武家幕府の崇奉厚かりしより此二神を以て伊勢大神宮に亜等せしめ三社の称あり、春日験記に此権現は慈悲万行菩薩と自称したまへる由の託宣あり、貞治四年足利義詮春日社造替に際し海内諸国に令し棟別拾文の課銭を発したる如き亦其盛威を見るべし、該文書本社に現存すと云〔史料叢志〕坊目考云、奈良は往昔七郷に分ち刀禰《トネ》七人ありて政法を沙汰し、春日供奉人と称する事不審なり、実暁僧都七郷記を按ずるに享禄中興福寺奴婢武頼以下七人各分七郷掌人夫伝馬等とあり、刀禰は此末孫か、南都の衆動もすれば春日供奉人の裔と称するも是れ今を見て古を知らず、抑春日神は神護景雲二年に来りますと雖も其体尚微なり、清和天皇貞観以後やや威厳なり、往時東大寺八幡大神は殊に荘厳にして其委は国史に見ゆ、後世東大寺八幡衰へ其供奉奴婢の族も皆春日を冒せるがごとし。坊目遺考云、餅飯殿町を、大宿所《オホシユクシヨ》と云、古書に曰く当所其先号蕗畠榔、其後因調進餅飯供御於春日興福寺名餅飯殿、所謂遍照院是也、春日若宮御祭礼保延二年始被行之、爰建武年天下争乱以来大和侍盛威、而或兼行興福寺衆徒春日祭礼願主等、若事春日大明神、而実者欲振己威権焉、於此各兼興福寺寺家竟若宮祭礼弓馬料米等神物、悉為大和武士下知矣、於此以当遍昭院為大和武士神事斎場、号大宿所、然慶長年中十市筒井等大家自滅亡、大和武士悉衰微、而末裔僅令相続至于今、毎年祭礼勤仕不怠云々。坊目考又云、春日祭の時大宿所に雉子兎狸塩鯛酒等を調へ春日の大宮へ献ず、此掛物並に仮殿用材は宝暦八年江戸公儀より制令あり、仮屋材木并雉千二百狸二百二十兎二百二十は先規の如く毎歳大和一国中にて勤仕すべしと。
榎本《エノモト》杜は春日本社の東に在り、春日山地主神と曰ふ、神祇志科云、天平勝宝八歳東大寺図に御蓋山の下に神地と云処あり、当時未だ四座神を祭らず、然らば謂はゆる神地は即地主杜にて、延喜式春日神社なること明けし。
天乃石吸《アメノイハスヒ》神社は延喜式に列す、神祇志料云、春日本社の巽に在り春日摂社四所の一なり。
浮雲《ウキグモ》社は春日の摂社にして鹿島神垂跡の地と云、或は之を以て延喜式大和日向神社に充つ、
鹿島より鹿《カセギ》に乗りて春日なる三笠のやまにうきくもの宮、〔春雨鈔〕
或云、日向《ヒムカ》は東《ヒガシ》と同訓にして鹿島社東国より大和に垂跡したまふを以て此名あるか、又云、将軍武日向八綱田を祭るか、姓氏録に倭日向八綱田命とあり。
補【春日社】○奈良県名勝志 亦た燈籠甚だ多く二千七百七十七、内蝉燈籠、抽燈籠、雲朴燈籠、臥鹿燈籠等は最著名の者たり、社中所蔵の優等品は天燈鬼一体、龍燈鬼一体、以下伎楽面、舞衣数十点。
○続紀天平勝宝二年〔二月乙亥)幸春日酒殿。酒殿尚存す、祭時酒を醸す処也。
春日若宮 〔神祇志科〕旧添上郡春日社二三殿の間にあり、崇徳天皇保延元年始て之を遷祭る(興福寺略年代記・諸杜根元記・諸神記)今春日正殿の南百五十余歩にあり(大和志)二年九月壬午始て祭を行ふ(一代要記)四条天皇嘉禎二年己丑、勅使をして内蔵寮官幣を奉る(百錬砂・春日社司祐茂記・諸杜根元記)後定めて永式とす(祐茂記・諸杜根元記)後伏見天皇正安三年十月乙卯、神鏡十面盗の為に奪去られ、十二月丁巳社に還り給ひき(参取続吉記・春日験記・興福寺略年代記)毎年九月十七日を以て祭日とす。
春日社 〔神祇志料〕桓武天皇延暦二十年九月壬午、香取鹿島神封の調布千四百端、麻六百斤、紙六百張を毎年の祭料に充て、天平神護中寄し奉る神封を鹿島に還し納め(新抄格勅符)仁明天皇承和八年三月壬申朔、郡司に勅して神山の内獣を猟し木を伐事を停め給ひ、(続日本後紀)文徳天皇嘉祥三年九月己丑、参議藤原朝臣助をして神財を奉り、建御賀豆智神、伊波比主命を正一位に、天児屋根命を従一位に、比売神を正四位上の御|冠《カガフリ》に上給ひき、前に御祈の事ありしを以て也、(文徳実録)清和天皇天安二年十一月庚申、春日祭を停め、貞観元年二月丙申、申祭を行ふ事常の如し(三代実録)
按、春日杜記・諸神記・公事根源に云、春日祭嘉祥三年に起る、或は貞観元年十一月とす、然れど文徳実録・三代実録を考ふるに、嘉祥は神階を授くるの始にして祭の始にあらず、且天安に祭を停るの文あるときは貞観を始とするもの恐らくは誤れり、蓋其恒例たるもの或は是年十一月九日にか、姑附て考に備ふ
此後二月十一月上申日を似て恒例の祭日とす(貞観儀式・延喜式)八年十二月丙申、藤原朝臣須恵子を以て春日及大原野神の斎女とし十年閏十二月庚寅、勅して大和国騎兵四十人執杖士廿人を差充て、斎女社に参る時の威儀に備へしめ、其春祭には予め国郡司各二人相共に祇承るべく制給ひ、十三年六月丁丑、新鋳銅印を斎院に充しむ、陽成天皇元慶六年十月甲子、是よりさき毎年春秋祭日、興福寺をして走馬の埒を結作り、且其塵穢を掃除しめき、然るに此歳寺家奏上に依て、大和国をして之を造しめ、八年八月甲寅、新に神琴二面を造て神社に充つ、景雲二年十一月九日に充る所の神琴損ふを以て也(三代実録)醍醐天皇延喜の制並に名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預る、春冬二時香取鹿島神封を割て祭料に充ること延暦の制に従ひ、其雑給料は所司各之を供ふ、凡そ神主物忌各一人、預神部弾琴|守神殿《カムトノモリ》仕丁各二人、膳部《カシハデ》八人、卜部二人を置て之に仕奉らしむ(延喜式)朱雀天皇天慶二年十一月壬午、承平中皇太后の病を祈りし報賽に幣帛走馬神宝を奉り(日本世紀)円融天皇天元五年七月丁酉音楽走馬を発遣し(日本紀略)一条天皇永祚元年三月癸卯行幸し給ふ、春日行幸此に始まる(兵範記・日本紀略・小右記・一代要記・歴代皇紀・濫觴砂)正暦五年四月戊申、中臣氏人をして疫癘火災の為に幣帛を奉り(本朝世紀、参取日本紀略)寛弘七年閏二月己末、明年三合厄に当ると云を以て祈年穀使に附て神宝東遊を副奉り(日本紀略・百錬砂・大鏡裏書)後一条天皇治安元年十月丙辰、天皇皇太后と共に行幸して添上郡を寄し奉り(日本紀略・栄華物語・大鏡裏書)堀河天皇寛治七年三月丁酉、上皇春日社に奉じ給ふ、関白藤原師実以下公卿悉く従ふ、其花美を尽すこと尤甚し(扶桑略記)十月発酉、神山屡恠あるを以て使を遣し幣を奉り(百錬抄・中右記)鳥羽天皇元永二年五月壬午朔、伊賀国神領を収む、唯壬生野庄は昔に依て若宮常燈料に充つ、若宮の神祟あるを以て也(中右記)崇徳天皇保延三年二月壬寅、興福寺僧徒七千余人、春日御体を捧げて勧学院に入て事を訴ふ(百錬砂)初め寛治より後、僧徒等動もすれば神民数千人を率て桙神木に鏡数枚を懸け、春日神体と称へて京に入り事を訴ふ、其横暴甚だしかりき(本朝世紀・扶桑略記・百錬砂)近衛天皇久安三年二月丙辰大和に行幸して春日祭大名神四座を祭り(台記)四条天皇嘉禎二年十一月壬午、参議藤原朝臣宗平散位惟宗朝臣盛基等をして幣帛を奉らしむ(春日社司祐茂記)凡そ春日奉幣使は旧制内蔵寮助五位一人を用ふ(延喜式・江家次第)元暦元年勅して四位を用ひ(玉海)此に至て殊に神威を増し、宿祷を賽し給ふ為に三位已上を使とし、兼て若宮祭に官幣を奉るべく制給ひき(祐茂記・百錬砂)仁治二年三月乙卯、鹿島社火あるを以て幣を奉り(東鑑・百錬砂)後宇多天皇建治三年正月蒙古の事に依て本社御祈を行ひ(興福寺略年代記)弘安四年十月丙申、興福寺憎神木を捧て稲荷杜に至り、石清水神人等本社神人を傷く事を訴ふ(一代要記・歴代皇紀・百錬砂)伏見天皇永仁三年十二月庚申、太上法皇臨幸し、七日参籠ありて臨時の神楽を行ひ(興福寺略年代記)正応三年二月癸未、後深草院の御願に依て始て臨時祭を行ふ(園太暦康永三年、月日拠春日杜記・諸社根元記)嘉元中に及て四月上申日を式日とし後或は秋冬の季に之を行はる(園太暦康永三年)後二条天皇正安三年十月乙卯、四社神鏡各二面、若宮正体神鏡十面を失ふ、十二月壬辰神殿に還し奉り(古続記・春日験記・興福寺略年代記)嘉元元年六月丙辰、神厨火災あるを以て四社の御体を若宮に移奉る、此時第四殿神鏡を失ふ事を奏す、朝廷使を遣し宝蔵の神鏡一面を以て御簾に懸奉りき、二年十月甲辰、勅願に依て公卿をLて神楽を行はしめ(興福寺略年代記)後村上天皇興国二年七月、北主光明院河内国楠葉関を本社造営料に充しめ給ひき(春日社司祐植記)蓋藤原氏春日神を崇め奉りしより斎女を置て賀茂斎院に擬ひ、神封を寄し祭科を班つの多き事、伊勢大神宮を除くの外、天下諸社又比類べきものなし、延暦中都を遷すに及て私に大原野社を設け、又吉田社を建て、合せて之を氏三社といふ、皆藤原氏権を専にするの政に出づ、中葉以来、関白春日詣公卿上官多く之に従ふ時は、其儀衛の盛なる事又知るべきのみ(斟酌三代実録・延喜式・大鏡及裏書・日本紀略・百錬砂大意)
凡そ春日祭儀、貞観中之を定む、祭に先つて預め陰陽寮をして祓の日時方地を択ばしめ、所司幄を河頭に立つ、祓日斎女車に駕て祓所に向ふ、時に左右京兵士各一人白杖を執て道の左右にあり、次坊令官人各一人、次六位左右各二人、五位各一人、院別当道中央に在て之に次ぐ、次左右衛門火長五人各道左右にあり、次門部左右兵衛左右近衛各一人、次に斎女の車中路にあり、車従左右各八人、小童左右各一人、並に褐衫を着く、走孺左右各二人紫裔濃を着く、執屏※[糸+散]執翳左右各一人並に退紅染衫を着て之に従ふ、次院司陪従各左右にあり、清櫃韓櫃一荷、女別当車、宣旨車、膳物禄物韓櫃六荷、次に陪従女車六両、童女車一両之に次ぐ、山城国司五位六位各一人、郡司等を率て京極大路に候ひ、引道て祓所に至る、弁史生官掌各一人、所司を率て事を行ひ、中臣麻を供ひ、宮主祓詞を読了て禄を賜ふ事差あり、訖て本院に還る、祭前二日神紙官一人、神主神琴師神部卜部等を率ゐ、掃部官人掃部を率ゐ、内膳官は膳部仕丁仕女等を率て社に向ひ事を行ふ、前一日鶏鳴斎女車に駕て社に参る(其儀大抵祓日に同じ)大和国界に至る時、大和国司山城国司に代て祇承り、佐保頓舎に至て宿りす、是間外記史供奉諸司と社西方に供神物を弁備《トトノ》ふ、祭日平旦、神紙官人物忌童女を率て神殿を掃ひ、神部等神殿を装ひ、神宝を殿頭及垣辺に立つ、大臣已下及六位藤原氏人次々に座に就く、即斎女頓舎より輦に駕り社に参る、其儀郡司二人道の中央に在て前行し、六位無位国司各一人、歩兵左右各十人、騎兵各廿人、内蔵寮中宮春宮及院の幣帛之に次ぐ、春宮中宮の走馬並に左右各一騎、近衛走馬各六騎、次に馬寮五位及近衛官各一人、次に中宮使内蔵官人院司、次に左右衛門門部及左右兵衛並各一人、次に斎女輦車中路にあり、輦前に左右近衛各一人、松担丁各五人、輦の左右前後陪従走孺等若干、執屏※[糸+散]執翳執笠左右各一人、駕馬女各四人、駕馬童各二人、清器韓櫃之に次ぐ、次に厠人掃部及院司左右各一人、陪従左右各三人、膳物服物等韓櫃十荷、次に内侍及女別当童女の車之に従ふ、輦車社の西方北門に至て前行大夫以下馬より下りて列り立ち、陪従女車を下り行障を執て輦下に候ふ、既にして斎女輦を下り門内座に就く、内侍以下みな座に着く、爰に内蔵頭幣を門外棚上に置く、内侍以下神殿に進て供神物を検校《ミサダ》む、斎女神態衣を服入て座に就く、内蔵頭幣を執り瑞垣の前棚上に置き両段再拝、了て退出、二宮使亦此の如し、次に氏人諸家使各幣を執り入て下棚に置き、並に両段再拝、訖て退出、神部四人内蔵幣を物忌に授けて神殿に納め、各食薦を殿前に敷く、氏人五位神饌机を舁き、東殿を首として之を列ぬ、神部酒樽を舁入れ、神酒一樽を一二殿の間に、一樽を三四殿の間に立て机を相配ふ、社醸酒四缶を中重に立て殿毎に之を備ふ、内侍以下入て饌の蓋を開き、酒を酌て殿毎に一宿酒社酒各一坏を奠り、訖て殿前座に就く、次に大臣已下朝使氏人又座に就く、近衛少将馬寮頭神馬四匹走馬八匹を神前に引列ぬ、時に神主木綿鬘して座に就き、両段再拝手を拍つ事四段、祝詞を奏す、大臣朝使各手を拍て再拝(祝詞以下拠江家次第)了て各直会殿座に就く、神部散祭を行ふ、次に馬寮神馬を率き社を廻る事八度、近衛少将官人を率て東舞し、諸司に御膳を給ふの後、神祇副琴師笛工を召し座に就しむ、即各物の音を調せ、神主及祐氏人等次々に和舞し、酒三行、了て斎女還て西門の座に就き、服を釈て頓舎に還る、導従初の如し、其後外記五位六位参文を大臣に進め禄を賜ふ事差あり、大臣已下即馬場に出て御馬を馳しむ、其冬祭の儀も此の如し、唯斎女社に参る事なきのみ(貞観儀式)此日関白又無位氏人を遣して神馬を奉る(年中行事秘鈔)其祭儀の盛なる事賀茂祭に異ることなし、後醍醐帝建武中に至て其儀稍衰ふ(建武年中行事)今猶春冬二時の祭毎に稲垣に榊を指飾り、酒殿の醸酒を神殿に備ふ(春日社年中行事)凡そ神社に仕ふるもの大中臣、中臣二氏あり、中臣は鹿島神の神駕に従奉りし中臣殖栗連時風秀行の裔にして、其族修行正預権預加任預神宮預権預次預新預等に任され、大中臣の族は神主権神主新権神主に補任さる(続南行雑録、参取春日社記)其他神官凡そ百七十余戸あり(大和志)凡そ春日摂社多し
隼明神は内院に、角振明神は中院に、榎木明神は外院にあり(春日社記・諸杜根元記)古へは春日山にあり、之を地主神とす、故に春日社に詣づる者必先この社に詣づといふ(神祇志考引社記)酒殿神祠、竃殿神祠並に外院にあり(大和志)孝謙天皇天平勝宝二年二月乙亥、春日酒殿に幸し給ふ、即此也(続日本紀)赤穂神社 今南都高畑神坊町にあり、春日若宮神之坊社といふ(大和志・名所図会)○慶長十七年徳川氏修造。
補【春日社燈籠】○史料叢誌に曰く、弘化二年調ぶる処に拠れば、石灯呂、千七百廿一基、金灯呂 六基、木灯呂 八基、金釣灯呂 千九十七鑓、木釣灯呂 二十一鎚 計二千八百五十三個ありて、石灯呂には
元亨三癸亥年十一月吉日 施主敬白
康暦二年九月 日 銘不見
応永二十八年丑季六月十一日 沙弥藤厚常建
永享十年十一月 日 金春太夫坐中
とあるを最古とし、鉄灯呂には
文亀三年癸正月廿六日 惣珠院
最古物也
補【春日若宮】○平城坊目遺考 天押雲命或は五所王子、又瓊々杵尊を祭ると云ふ、信じがたし、長保五年三月三日、春日社二三の御殿の間に現れ給ひしを、中臣是忠三の御殿に移し奉り、百三十年を経て長承四年中臣祐房別に神殿を造営し鎮座し奉る、是今の若宮なり崇徳院御宇天下飢饉疫癘三年打続き、人民大に悩死するもの道路に充満す、時の関白法性寺忠通公、天下泰平五穀豊饒万民快楽の為、保延三丁巳の年、春日若宮を御旅所へ出御なし奉り、以来毎九月十七日祭礼行はる、慶長三年より以後明治初年まで毎十一月廿七日を以て例祭たり、明治八年より十二月十七日を以て祭礼を行ふ、以降恒例となる。
拝殿の歌仙は後光明院の宸筆なり、歌は其家々に書せられたるを此拝殿へ納めしなり。○慶長十七年修造。
補【春日刀禰】○平城坊目考 往昔南都七郷使刀禰七人沙汰之、今按ずるに、春日明神供奉人と称するもの不審あり、実暁僧正七郷記を按ずるに、享禄年中興福寺奴婢武頼、武久、為延、友光、友長、武行、武次、武房、行延、為次各分七郷而掌人夫伝馬等、称刀禰者此末孫乎、謡初両乞等之下地職、預所奴婢仕丁有拠也、凡そ中古まで六位以下の人をとねとはいへり、爰にはいやしき人をいふにや、刀禰、庭訓往来にあり、村々の庄屋体の者を云、村長の下役なりと云々、凡そ南都の衆俗、動もすれば春日明神供奉人の末裔と称する者若干あり、是現を見て古を知らず、春日社神護景雲二年神幸といへども、其体微隠にして官社官幣に及ばず、清和帝貞観年中以降、逐日神威厳密なり、亦東大寺八幡大神天平勝宝元年宇佐より神幸、其行荘厳華にして五位十人散位二十人、六衛府舎人各廿人、請憎四十口、迎自平群、※[#のごめへん/女]見国史、然ども後世東大寺八幡宮神威不盛、故八幡供奉人末孫乃奴婢族等大概春日供奉の末裔と称するもの多し、微を悪みて繁を好むは人欲の恒にして佞に近し、察せずんばあるべからず。○祭日の前夜、餅飯殿町大宿所の庭に掛置たる雉子兎狸塩鯛酒樽を春日大宮若宮へ献ず、此掛物仮宮用木につき、江戸表より達の写あり、
覚
春日祭礼御旅所仮屋之材木并雉千二百、狸二百二十兎二百二十、如先規毎歳為大和一国中相勤候様堅可被申付もの也
宝暦八寅七月 隠岐 印
右近 印
伯耆 印
左衛門印
相模 印
山岡五郎作殿 春日役者中
春日野《カスガノ》 興福寺東なる大鳥居より以東、東大寺以南の平岡を春日野と為す。其南方低地を高畠《タカバタケ》と云ふ、春日神官の宅多し。
春日野に朝居る雲のしく/\にわれは恋ます月に日にけに、〔万葉集〕 大伴像見
春日野の雪間を分て生出でくる草のはつかに見えし君はも、〔古今集〕 壬生忠岑
武蔵《ムサシ》野は春日野の別名なり、武蔵塚あるを以てなり。
武さし野はけふはな焼きそ若草の夫もこもれり我もこもれり、〔伊勢物語〕
武蔵塚は登大路《ノボリオホヂ》(春日社道)と東大寺南大門路の十字辻の艮に在り、小玉《コダマ》塚と云者もあり。
飛火《トブヒ》野 飛火は烽燧なり、類聚国史云、和銅三年始置大和国春日蜂火以通平城これなり、烽人を野守と呼べり。
かすが野のとぶひの野守出でて見よ今幾日ありて若菜つみてん、〔古今集〕
奈良《ナラ》博物館 本館は春日野大鳥居北東に在り、近年の創置にて洋式の建築なり、大倭古京の美術妙技を蒐集して其保存を謀り且公益を起さんが為めに計画せらる、東京京都と并せて三所の其一館なり。
補【奈良博物館】○京華要誌 帝国奈良博物館は春日大鳥居の北東にあり、近時の創設にかゝり、巍然たる洋館にして工事既に成功を告ぐ、開館の日は大和一国千年以上の古美術品を集め、之を永久に保有して、国宝の保存万全に至るべし。
興福寺《コウフクジ》 奈良市の中央に在り、即ち平城左京三条七坊にあたる、藤原氏の氏寺にして、大織冠鎌足創建、初め山背国山科の陶原《スヱハラ》に在り、故に山階《ヤマシナ》寺とも云へり、斉明帝三年歳次丁巳の事と為す。天武帝元年歳次壬申之を大倭国飛鳥の厩坂に移し法光寺と号す、元明帝平城造都に及び鎌足の子不比等和銅三年更に春日に移す、乃興福寺改称す、続紀興福寺憎の仁明天皇四十の御賀を申す詞に「旅人に宿春日なる山階の仏聖」とつづけたり。鎌足嘗て疾あり維摩経講会を修して愈ゆ、因て陶原宅を捨て、精舎と為し、銀造長二寸の釈迦仏を奉ず、後之を丈六像の首に納め興福寺本尊と為し、又維摩会を恒例の大修法と為す。〔帝王編年記扶桑略記伊呂波字類抄興福寺縁起史徴〕延喜式云、凡興福寺維摩会施料、調綿六百七屯毎年送彼寺会、十月十日始十六日終、其聴衆僧綱簡定、先経藤原氏長者定之。興福寺は慈訓法師寺務以降法相宗を奉じ、今法隆薬師二寺と并び三大本山たり。夫の法相は南都六宗中勢力卓絶の教門なりしが、近世藤氏衰へ寺門振はざるより宗風漸熄み、戦国の末葉南都兵乱以後愈萎弊す、明治維新に及び春日神を本寺より分離せしめ、寺禄三千余石を収公し僧侶を還俗せしむ、其僧侶は大乗一乗の両門跡以下、塔頭諸坊(院家と称したり)の住持大略京師公家(堂上方と称したり)の子弟なりしを以て、特恩を以て華族に列せしめられ、其後松園(大乗院)水谷川(一乗院)以下二十余家に子爵を賜ふ、今俗云ふ所の還俗華族是なり、而て本寺の廃頽此際を以て極まり殆ど墟土と為る、十数年を経て再興の説起り、幸にして全滅の厄運を免ると雖、旧面目十が一を保つに過ぎず、土人云、五重大塔の如き一時銅鉄商の手に帰し無風の日を相し将に一炬に附して崩壊せられ其金属具を灰中に収めんとせし事ありと。坊目遺考云、興福寺明治維新の際僧侶還俗し、春日杜へ奉仕するに当り、伝来の仏像経巻古書画類多く散失し、食堂を破却し門垣を撤去し、官衙公園を置かれたり、甚きは金堂を掃除して庁舎(堺県出張所)に充てられしこと数年実に歎ずべき限なりき、近年藤氏の華族相謀り興福会を起し寺門維持の途を求め、明治二十一年金堂を復し荘厳を加へ諸仏を還置す。仏像の事は各堂に見ゆ、古書画の稀品は二天王像絹本掛軸二幅、慈恩大師像絹本掛幅一幅、(以上国宝)住吉慶恩筆法相秘事図巻等尚存す。(集古十種に当時勧善院神亀四年鋳鐘の銘を載す)
中世以降本寺々務は大乗一乗の二院交代之に任じたりしが、争論しば/\起り、徳川幕府の裁断を請へる事あり、明治維新両院廃絶す。元亨釈書云、慈訓初事興福寺良敏玄※[#日+方]二師、学法相、後入唐謁賢首国師法蔵、※[(稟−禾)/示]華巌深旨、帰来付良弁、建賢首宗、称徳帝貴之為僧都、宝字元年為興福寺主務、此職自訓始。続日本紀云、天平宝字元年、紫微内相藤原朝臣仲麿等言、緬尋古記、淡海大津宮御宇皇帝、(天智)天縦聖君、聡明睿主、考正制度、創立章程、于時功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣、(鎌足)褒励壱匡宇内之続、世々不絶、伝至子今、今有山階寺維摩会者、是内大臣之所起也、伏願以此功田永施其寺、助維摩会、弥令興隆、遂令内大臣之洪業、与天地而長伝、勅報曰、宜告所司令施行。
西金堂は今本寺大殿と為す者是也、即藤原不比等及光明皇后造立の所にして現在殿宇は文政二年重修す。本尊釈迦如来(長半丈六)脇士薬上薬王を安置す、其他弥勒菩薩(木造座像)六祖(木像座像)四天王(立像四体)無尽畏妙※[車+童]世親無着等の諸像あり、是等蓋平城朝の古製に非ずと雖、藤氏の盛時儀軌に因り抜術を尽して造進せる者也、又板面に刻める十二神将十二枚あり、頗る古樸の製とぞ、其他名高き泗浜磬華原鼓ありて唐国の将来品とす。元亨釈書云、和銅三年、藤公不比等営興福寺大殿、其像者大織冠誅蘇我入鹿時、所誓刻之丈六釈迦及二菩薩也、又云、光明皇后、天平六年、薦先妣橘氏於興福寺、建西金堂安釈迦十弟子神王等像、荘麗妙絶。
南大門址 西金堂の南に在り、享保二年焼失後再営なし。往時は毎年二月此に散楽を興行す、薪能の神事と称す。坊目遺考云、薪能は弘仁十二年両金堂に花を飾り舞楽を為し擁護神に供養し夜を以て昼に継ぎ薪を焚きたるに起因し、後南大門に於て此修法あり、寛文二年幕府制令あり今春《コンパル》宝生金剛三座の猿楽に命じ、料米毎年五百石を給せられき。按ずるに奈良猿楽は古の伎楽の流にして、興福寺の盛なるや其寺戸独其技を伝ふ、竹田氏信(法名禅竹)其業を継ぎ能楽謡曲を改作し一家を成し金春太夫と称す、其徒弟分れて宝生金剛と為る。坊目考云、金春氏は高天《タカマ》町に住し禄五百石を賜はる、或は竹田氏又円満井座と号す、其祖先は山城狛里に住す、織田信長治世の時より奈良に徙居す。竹田氏信は服部清次(観世太夫祖)と同時の人也、其女を観世元清に嫁す、并に足利義満治世の比とす。(旧門の金剛密迹力士二躯(仏師康運作)寺中に蔵す)
東金堂は西金堂の東南二町に在り、神亀三年聖武天皇元正大上皇の為めに病を祈り薬師堂を建つと云者即是也。〔帝王編年記元亨釈書〕今の堂宇は応永二十二年重興す、七間四面単層屋根四注本瓦葺明治卅一年五重塔と同く特別保護法に与る。本尊金銅薬師如来は応永の改鋳なれど古容を模したる者か、又往時は新羅国の貢仏此に在りき、釈書云、敏達帝八年、新羅国貢釈迦像、〔日本書紀曰、新羅進調并献仏像等〕上宮太子奏曰、此像其霊崇之則鎖災受福、蔑之則招※[くさがんむり+【(災−火)/田】]縮寿、帝聞之敬崇供養、今見在興福寺東金堂。金堂に定朝作十二神将運慶作維摩文殊(并着色座像)等あり、其維摩文珠は天下無比の神品と称せられ、仁王力士の作と倶に鑑賞家の嘖々賞して止まざる所也、国宝に列す。
五重塔は東金堂の南西数歩に建つ、本藤原皇后光明子御願天平二年創建、応永二十六年再営す、高十五丈一尺。
補【興福寺】抑興福寺は和銅三年創建以来、出火或は雷火兵火等の災害に罹り、焦滅する所の金銅木塑漆之仏体、及画像、経巻等挙て数ふべからず、明治皇政復古の際、当山は当初より春日社へ奉仕の寺たるに依て、寺禄奉還、僧侶蓄髪して春日社へ神勤す、此時に当り寺院伝来の仏像経巻、古書類に至る迄数多散失し、加之食堂を破却し、境内四囲の築塀を倒し、南大門跡石壇を取崩し、神武天皇遥拝所を設け、塔中頽廃、金堂の仏像を他に移し、清浄の梵宮変じて堺県出張所或は警察署となり、罪人を糾弾し、又郡衙となり、実に可歎の限なり、然に近年藤氏の貴族相謀り興福会を組織し、伽藍保存の基本を起し、金堂を修造し、如元浄刺となし、明治廿一年四月十三日、十四日遷仏供養の大法会を執行す。 住吉慶恩筆法相秘事図、二天王像絹本淡彩掛軸二幅、慈恩大師像絹本着色掛軸一幅。
補【薪能】○平城坊目遺考 薪能は弘仁十二年興福寺東金西金両堂にて、数多の花を飾り擁護神を供養す、此法会昼夜の別なく薪を焚、唐人西金堂の前にて舞を奏す、其後清和天皇貞観六年より五ケ年間供養を廃す、同十年大風雨木を折、雷声山を裂く如く、西金堂の前土陥り穴あき、此穴南大門の芝に抜け通る、爰に於て大衆驚き詮議して擁護神の咎めならんと、法会を南大門に移して行ふ、今春氏の先祖、山城国薪に住す、毎二月南都に来て猿楽す、因て是を薪の能といふとぞ。
薪神事能に付達の写
於春日二月薪神事能料米三百石并霜月為祭礼役同料米弐百石、都合五百石事
今春宝生金剛此三座之内二座宛毎年神事能相勤、役者共年々納之以猿楽、配当米之内被下畢、此旨興福寺役者之出家へ可被伝達者也
寛文二寅六月七日 美濃
豊後
中坊美作守殿
補【高天】○平城坊目考 高天町に代々金春氏居る、秦安盛号金春光太郎(是金春氏之祖乎)至于今凡五十余代之子孫無断絶云々、亦号竹田氏、別号円満井、累世相伝之奇宝高貴より賜領の異物等不可勝計、先年城州薪村に住居す、其後相楽郡狛里に住す、信長公御治世の之時、当所に徙居、太閤秀吉公所賜之座舗舞台于今存す、御当家東照大権現君領地五百石、中ノ川村におゐて賜之、
今春氏信 姓武田、称式部、後号禅竹、秦氏の後也、作六十六曲。
南円堂《ナンヱンダウ》 西金堂の南西に在り、西国巡礼第九番札所にして参詣者多し、寛政元年再建、八角宝珠形の堂宇にて、本尊羂索観音なり、〔平安通志云、南円堂不空羂索は文治四年四天王并に六祖の像と同く法橋康慶の作なりと寺説に伝ふ〕仏前の銅造燈台一基、今国宝に列す。江談抄云、閑院大臣始南円堂、房前(閑院冬嗣曾祖父也)手自作南円堂不空羂索並四天王。釈書云、弘仁四年藤冬嗣建南円堂、安不空羂索並四天王、荘麓殊特、世伝爾時藤氏寝微、冬嗣営構願栄家族、果藤氏益茂。
補陀落の南の岸に堂たてゝいまぞさかえむ北の藤なみ、〔新古今集〕〔旧本、閑院大臣。新古今、春日明神〕
興福寺縁起〔昌泰三年録〕云、法華会、右会於南円堂所行也、弘仁八年閑院贈太政大臣太閤、奉為先考長岡相府名内丸所始行、料米七十三石、以鹿田(備前)地子所用也。古京遺文云、南円堂銅燈台六方、銘亦六版、末二版逸失今、所存四版耳、藤原朝臣名諱不可知、或謂冬嗣公非是、
弘仁七載歳次景申伊予権守正四位下藤原朝臣公等追遵先考之遺敬志造銅燈台一所心不乗麗器期於撲慧景伝而不窮慈光燭而無外遺教経云燈有明明命也燈延命譬喩経云為仏燃燈後世得天眼不冥処普広経云燈供養照諸幽冥苦病衆生蒙此光明縁此福徳皆得休息然則上天下地匪日不明向晦入冥匪大不照是故以斯功徳奉※[立+羽]先霊七覚如遠一念孔邇庶幾有心有色并超於九横無小無大共※[益+蜀]於八苦昔光明菩薩燃燈説咒善楽如来供油上仏居今望古豈不美哉式標良因貽厥来者云大雄降化応物開神三乗分轍六度成津百非洗蕩万善惟新更昇※[りっしんべん+刀]利示以崇親、(其一)薫修福(下闕)。
北円堂《ホクヱンダウ》 南円堂の北に在り、八角宝珠形単層瓦葺の一宇なり、中に定朝作釈迦座像を安置す、今三重塔と同く特別保護法に与る。扶桑略記、養老五年、天皇并太上天皇同勅、為右大臣淡海公周忌法事、興福寺内建北円堂、安置※[土+念]弥勒像四天王像。按に北円堂は爾後重修の事ありて、一書には此堂文治四年又応永六年の上棟と為す者あれど信ずべからず、〔坊目遺考〕京華要誌は永承三年造立と為す。
三重塔は南円堂の傍に在り、康治二年待賢門院藤原皇后靖子の御願に成る。〔坊目遺考〕
悲田施薬《ヒデンセヤク》両院址 近代悲田院の名は城戸《キド》町に在れど、是れ中世此に移したるにて、古は興福寺の中に属し其北に在り、施薬院も同所か。山階寺流記云、山階寺北門名悲田、門前町四町、為病苦孤独之徒、為労養也○元亨釈書続日本紀を按ずるに此二院は養老七年の勅建にして、光明皇后浴室を建て千人の垢を去りたまへる所なり、其阿閃仏放光の奇談は信ずべからずと雖、両院建立皇后施行の事は疑ふべきに非ず、続日本紀石上宅嗣芸亭を置きたるも此か。
芸事《ウンテイ》址 続日本紀云、天応元年石上宅嗣薨、捨其旧宅以為阿※[もんがまえ+(八/(人+人))]寺、寺内一隅特置外典之院、名曰芸亭、如有好学之徒欲就閲者、恣聴之、仍記条式以貽於後、日本後紀云、弘仁六年宅嗣礼待周厚、屈芸亭院、数年之間、博究群書、中朝群彦皆以為、釈道融御船王之不若也。此芸亭は興福寺の阿閃《アセン》堂と同異詳ならねど、同名に因みて此に掲ぐと云のみ。
八重《ヤヘ》桜 興福寺々内の桜種なり、一条天皇の時上東門院此桜花を山城の京に召されしに女房伊勢大輔は「今日九重の」歌を献じたる事世の※[ぎょうにんべん+扁]く知る所なり、其百株の今日に存すべきにはあらねど、種を継ぎて尚名花を伝ふ。〔伊賀国|花垣《ハナガキ》参照〕
浅茅原《アサヂハラ》公園 興福寺東金堂及び其以東大鳥居の辺、近年拓きて公園と為し、衆庶の遊楽所に供す。
一乗院《イチジヨウヰン》址 興福寺々務門跡にして、近年廃して奈良裁判所の敷地と為る、本寺の北に在り。諸門跡譜云、一乗院、定昭大僧都開創、(興福寺金剛峰寺別当東者長者密顕両宗兼学)小一条左大臣伊尹公男也、永観元年寂、七十八歳。按ずるに定昭以来数世信円僧正の時一乗大乗両院を兼帯し、其徒弟良円一乗院を譲附せられ、法務相承して尊覚法親王(後陽成天皇十子)以後真敬尊昭尊映尊誠尊応の五法親王入嗣ありき。(後醍醐帝子玄円親王も入院法務を執り玉へり)
奈良《ナラ》県庁 興福寺の北にして旧本寺食堂の址なり、明治の初め奈良県を置かれ此に営造す其後県廃し堺県に隷し、又大坂府に隷し、明治廿年十二月奈良県再置ありて大和一国を管治す。
菩提院《ボダイヰン》 興福寺の東南に在り、天平中玄※[日+方]僧正創立、応永の頃破壊し天正八庚辰年修繕す、大御堂と云、里俗|十三鐘《ジフサンガネ》ともいふ、本尊無量寿仏にて、その側に観世音菩薩を厨子に安置す児観音といふ、俗伝昔十三の児童鹿を殺し此境内にて石子詰にせしと云は妄説信ずべからず、又当寺の梵鐘を十三鐘といふはむかし暁七ツ時と六ツ時との間に此鐘を撞き其音を聞て塔中の雛僧春日社に往て修行する事ありしより十三鐘と号けしとぞ。〔坊目考〕
大乗院《ダイジヨウヰン》址 興福寺々務門跡にして、近年廃し学校敷地と為る、菩提院の南に在り。諸門跡譜云、大乗院隆禅大僧都初祖、(長谷寺大安寺別当)康和二年寂、六十三歳。按ずるに大乗院三世尋範は京極摂政師実の子にして四世信円は(菩提山寺内山本願又長谷寺金峰山寺別当)法性寺摂政忠通の子たり、大乗院権勢此より興福寺を傾けたり、信円又一乗院を兼帯し一乗を良円僧正に附し大乗を実尊に附したり、後世両院交々主務に就く事となりぬ。本院は鬼園山の傍に在り、泉石の構造頗佳麗にして南都第一の美観と称せられたり、今廃して荒蕪に帰す。鬼園《ヲニソノ》山一名安積山《アサカヤマ》。
補【大乗院門跡】今飛鳥学校の地なり、当家復古維新の後復飾、華族松園といふ、当院境内の林泉、山あり池あり花木あり、奇巌老樹、山頂を鬼園山と云、観音堂、稲荷社、池頭に茶室あり、四時の佳景頗雅趣あり、実に此地第一の美観なり、惜哉明治維新の後、建物破壊樹木伐切、巌石散乱其形を失ふ、誰人か歎惜に堪ざらん。
高畠《タカバタケ》 春日野の南方低地にして、紀寺《キデラ》の東を曰ふ。此地多くは春日神官の邸宅なりしが、近年荒蕪に帰す。
赤穂《アカホ》神社は高畠字上之坊に在り延喜式に列す。天神社は高畠字天満町に在り、続日本紀に見ゆ、曰養老元年、遣唐使祠神紙于|蓋《カサ》山南、宝亀八年、遣唐使拝天地神祇于春日山下、去年風波不調、不得渡海、使人亦頻相替、至是副使小野石根重修祭礼。(遣唐留学生阿倍仲麿が彼地に御笠山の詠ある事想ふべし、)
補【高畑】○奈良県名勝志 赤穂神社、奈良町大字高畑字上之坊に在り。天神社、奈良町大字高畑字北天満町に在り〔続紀養老元年二月壬申、同宝亀八年二月戊子略〕
新薬師寺《シンヤクシジ》 高畠|井之上《ヰノカミ》町に在り、東大寺に属し旧寺禄百石、一名|香《カウ》薬師寺と曰ふ。明治卅一年本堂一宇桁行七間梁間五間単層屋根入母屋本瓦葺は特別保護法に与り、其十二神将(塑像着色十二躯)仏涅槃図(絹本着色掛軸一幅)は国宝と為る。坊目考云、本尊薬師は行基作と云ふ、土仏十二神将は岩淵《イハブチ》寺廃亡以後当堂に安置せるなり、続日本紀云、孝謙帝天平勝宝三年詔曰、頃者太上天皇(聖武)枕席不穏、由是七日間屈請四十九賢僧於新薬師寺、依続命之法、設斎行之、仰願聖体平復、宝祚長久云々、当寺建立年月は諸書に載せず、相伝ふ東大寺大仏殿造木を以て(足代木)当寺本堂を営造す云々、当寺本堂は天平以降曾て火災なし、甚希有之旧所也云々、不空院も井之上町にあり、律宗西大寺派寺領廿石、本尊は不空羂索観世音、本堂は八角宝形なり、俚諺に曰、弘仁年間南円堂建立之時試所造之、然者空海所経営乎、当院者律師円晴之住坊也云々、窃にいふ古へより東大寺と興福寺動もすれば闘諍を事として兵革に及ぶ、於是今日東大寺の末寺たりといへども明日又興福寺の末寺たり、唯ときの剛強猛威に随ひて倶に本末法範の礼なし、新薬師寺不空院の両寺偶堂廟兵革破却の災難にあはずして数百年を歴る事、未曾有の霊場なり、可貴もの乎、又閼伽井町あり、続日本紀云、宝亀十一年、大雷災於京中数寺、新薬師寺西塔、葛城寺塔并金堂等皆焼燼焉云々、按ずるに新薬師寺西塔は此辺なるべき乎、当郷の南野辺を鬼界《キカイ》が島《シマ》と称す、当郷東に吉備塚あり、土俗吉備|垣外《ガイト》と称す鬼界は吉備垣の訛か。
補【新薬師寺】本薬師堂往古より勧修坊の支配地なり、勧修と俊寛と音相似たり、於是勧修坊一代の住侶の石像を以て竟に俊寛の像形とするも此か、亦吉備塚、当郷東に在り、俗某所を謂て吉備垣外といふ、吉備垣外と鬼界亦音声相近し、土俗又鬼界とするも此か、猶考ふべし、俗に新薬師寺の鐘を元興寺鐘なりと謂ふは非なり、本元興寺の鐘か、本元興寺跡は今の肘塚辺なりと。仏涅槃図絹本着色掛軸一幅、十二神将塑造着色立像十二躯(止利作)
紀寺《キデラ》 高畠の西南を紀寺郷と呼ぶ、紀寺※[王+漣]城寺あればなり。坊目考云、紀寺縁起曰、行基菩薩開基号※[王+漣]城寺、其後紀有常為再興、仍称紀寺焉云々、続日本紀云、淡路廃帝天平宝字八年、従二位文室真人浄三等奏言、検紀寺遠年資財帳、放紀寺奴益人等七十六人従良云々、これを以て考ふる時は天平年間既に紀寺と称して※[王+漣]城寺の名あらず、然れど世俗紀有常再興に依て紀寺と称すと云ふは非なり、有常清和陽成帝の御宇の人にして再興においては拠あり、当寺は元来興福寺末なりしに近代誓願寺(浄土宗)門徒となり、享保中住侶罪を犯し一寺破滅す。
補【紀寺】○平城坊目考 享禄年間七郷記及天正年間地子帳に紀寺郷を載せず、往古新元興寺亦は紀寺の奴僕等居住して町屋あらざる故なり、
崇道天皇神社 当郷にあり、往古、※[王+漣]城寺鎮守なり、霊安寺縁起云、奈良南里紀寺天皇崇道天皇なり、彼寺は紀有常建立之寺也云々。
補|氷室《ヒムロ》神社 ○平城坊目遺考 登大路の北側にあり、神主家旧記曰、昔氷室神社在于吉城川上也、高橋神社是也、神階正三位、建保五年遷宮於当氷室敷地、左近府生大神弘為祭主云々。
春日野の古き氷室の跡見るも岩のけしきはなほぞ冷《スズ》しき (夫木集)
此歌は水谷川上氷室の跡を見て読れしならん。
猿沢池《サルサハノイケ》 興福寺の南崖下、登大路《ノボリオホヂ》北側に在り、率川《イサカハ》の水を湛ふる者也、或云|狭澗《ササハ》の義なり、僧徒之を天竺国※[けものへん+彌]※[けものへん+侯]池に擬し改作す、但本国古言良行音を加減するは常の事也大和物語云、昔奈良の帝に仕奉りける采女あり、帝めしけるが後復召さゞりければ限なく心うしと思ひ、池に身を投てけり、帝は、
猿沢の池もつらしなわぎもこが玉もかづかば水ぞひなまし
と詠給ひ、墓せさせ玉ふ。元要記云、猿沢采女、河内国平岡人、其嗣権中納言良世(閑院八男)建立、興南院僧正快祐勧請。
樽井《タルヰ》町は猿沢池の西畔を云ふ、旧興福寺興南院の域にあたる、天正慶長以後民家となる橋本町も同じ。
補【樽井】○平城坊目考 当町は樽井或作垂井、亦作足井、南側計り片町にて、各駅宿なり、昔は興南院の境内にして、古へ民家なし、享禄七郷記に樽井町載せず、又天正慶長の間在家となること分明なり。
采女神社は東の端にあり、元要記曰、采女古郷者河内国平岡人云々、権中納言藤原朝臣良世(閑院左大臣冬嗣八男)卿建立、興南院権僧正快祐勧請云々、里俗云、采女猿沢に身を投死す、池を恨るに仍て杜を西向に建と云、是童蒙の妄説なり、此地興南院境内にて、其東の限に当社を建つものなり、後世在家となるに及で新に東に口を開き鳥居を建るものなり。
補【橋本町】○興南院旧跡にして南方に率川あり、小橋を架す、里翁云、東を興南院と云ひ、西方を西南院といふ、善法堂は西南院の境内なりと云々。御巡礼記云、建久二年辛亥十月廿九日、奈良城春日里御下向、御宿所は橋本之興南院着御云々(御巡礼記は後鳥羽院なり
興南院《コウナンヰン》址 坊目考云、興南院の南に率川流れ橘を架す、興南院の西には善法堂ありき、後鳥羽院御巡礼記曰、建久二年十月、奈良城春日里御下向、御宿所橋本之興南院着御。山階寺流記云、天平記曰、佐努作波池西瓦屋一区。
元林院《グワンリンヰン》址 坊目考云、元林院は天文元年土一揆のために廃亡せしめ後町家と為る、山階寺流記「四至延暦記曰南元興寺北小道」とあるは此辺を曰ふ乎、俗に絵屋《ヱヤ》町と云ふ、往年春日絵所芝宅間住吉粟田口等当坊に住し、近世まで猶仏画師三四家存せり。
補【春日画所】○平城坊目考 元林院は元興寺の北院龍華院之一坊也、天文元年土一揆のために廃亡せしめ天文永禄の年間在家となる、山階寺流記曰、南花園四坊在池一堤、天平記云、名努作彼池、又云、西瓦屋一区云々、是元林院之已往か、同記云、山階寺四至延暦記云、南元興寺北小道云々と、此辺を謂ふ乎、当郷を俗絵屋町と云、往年春日絵所(芝、宅間、住吉、粟田口)当坊に住す、近世まで猶仏画師三四家有せり。○人名辞書 本朝画史に曰く、宅摩、住吉、粟田口、芝の四人は皆な春日の画所なり、共に南都に住して世世仏像を写すを業とすと。
三条《サンデウ》 春日登大路の末にして古京三条大路の遺街なり、油坂《アブラサカ》郷とも称し興福寺の西に接す。今奈良鉄道の車駅なり。
坊目考云、三条、今に至まで此大路直にして遠長なり、山階寺流記曰、天平記云、山階寺在左京三条六坊云々、南京里諺に、春日明神と親鸞派門徒とは不和なりと称す、今按ずるに天文元年七月南都土一揆、大概親鸞派門徒にして興福寺と町人等と大に合戦に及ぶ、今に土一揆調伏の法春日において有之とぞ、是に於て一向宗門は明神悪み給ふとなり、天文年中以後此宗徒南都に稀少にして浄土真宗の道場もこれあらず、天正慶長に至り本願寺光佐三条に道場浄教寺専念寺建つ、異本合運図(興福寺某院所蔵本)寛永十九年、六条門跡春日社参詣、近衛殿以為御縁者而令和興福寺也云々、於是近世逐年法威盛にして、梵宇厳重なり。
林小路《ハヤシコジ》 坊目考云、山階寺流記に、西敬田門、宝字記云、西菓園在三条六坊と、かの菓園有を以て後世林小路と称する乎、又或記に先年饅頭屋宗仁(号方生斎)当町に住居す、宗仁者天正年中の人にて林氏は中華林和靖末裔也、林浄因建仁寺龍山禅師自宋帰朝の時相従て来、後南都に住して饅頭を製造す、是奈良饅頭の始祖なり、子孫宗仁相続して当郷において家業とす、於是林の字を饅頭の中央毎に点印す、其住所を林小路と名くと云、彼宗仁連歌を好み歌学を能し源氏物語抄を編録し、林逸抄と号す、俗饅頭屋本といふ、亦初て節用集を撰す、是本朝俗字要文集の原始也。
円証《ヱンシヨウ》寺 坊目考云、是筒井順昭法印の別荘にて天文廿年法印当所に卒す、(爾時長子順慶三歳なり)然るに松永久秀筒井家の隙を窺ふを以、老臣等順昭の病卒覆密して他に露さず、而後筒井村に葬る、於是当町別業を律院菩提所として円証寺と号す。又云|角振《ツヌフリ》町は平城京角振隼神の社地にて延暦遷都後尚之を祭る、盲《メナシ》黙阿弥といふ者往年当町|隼人《ハヤブサ》明神の辺に住居す、爾後筒井順昭円証寺において病卒、家子等敵を欺かんが為に黙阿弥をして順昭が病床に代らしめつゝ、順昭存命の如く崇敬す、是平素音声面貌の順昭に似たるを以てなり、後兵事止み露顕して順昭を葬り、黙阿弥を彼旧宅に帰らしむ、於是時の人諺に事をなして元に復る事を謂て元の黙阿弥といふ是言縁なり、大和軍伝に此事を載す。
椿井《ツバヰ》 坊目考云、椿井町に天正十三年国主羽柴氏の別業あり、奉行人井上源五郎定利住舎なり、慶長五年江戸より大久保石見守長安出役まで此所官衙なり、又之より先天文元年土一揆の富人橋屋主殿豊冬住居す、南都土一揆の張本なり、異本合運并大和軍伝記曰、後奈良院天文元年七月十七日、南都土一揆蜂起合戦、興福寺衆徒悉不能防、而落行高取城、寺院各坊舎兵火矣、一揆大将橘屋主殿豊冬及雁金屋民部国之蔵屋兵衛正共此三人張本也、同年八月七日衆徒為出頭、亡一揆、屠焼民屋、豊冬於大安寺、八月七日小田切春次相戦、高田亦太郎清之指違討死、国之八月七日於肘塚、為大学利元討死、民部郎徒五十余輩双枕討死云々、蔵屋兵衛正共諸家之妻子守護而在於南都、両張本死後集残兵欲為弔軍、爾時両御門主扱之、八月十五日双方和平、彼一揆之輩大方親鸞派為宗旨。
補【林】○平城坊目考 山階寺流記曰、西敬田門、宝字記云、西菓園二坊在三条六坊、在園地二坊、宝字元年十月六日依勤施納也云々。今此説を以考ふるときは、当郷三条六条坊に当る乎。
補【角振】○平城坊目考 角振町は角振明神の地なり、角振早ぶさの社は遷都のとき遷して平安にあり。
春日率河坂本《カスガイサカハサカモト》陵 開化天皇の御陵なり、三条通油坂の北側林小路に在り、陵東に漢国《カンコク》社あり。本陵は民屋の間に介し念仏寺の寺境に属したることありしが、近年修治せしめらる。延喜式云、春日率川坂上陵、〔日本書紀作坂本陵〕春日率川宮御宇開化天皇、在添上郡、兆城東西五段南北五段、以在京戸十煙、毎年差充令守。
漢国《カラクニ》社は開化陵の東に在り、町名をも漢国《カンコク》と云ふ異邦人の遺墟なるべし。
率川《イサカハ》 此川は春日山より出で能登川又狭井川とも称す、俗に子守《コモリ》川とも云、子守社側を流るればなり、西流して大安寺西に至り(左京六条二坊)佐保《サホ》川に合す。
はねかづら今する妹をうらわかみいさ率河の音のさやけさ、〔万葉集〕
延喜式に大和国京南荘、并率川荘墾田、とあるは今此地方(城戸村三条村)を云か。
伝香寺は率川に在り、律宗招提寺末、天正二年筒井氏母芳秀宗尼建立、泉奘和尚開基、(今川義元二男云)禅尼順庵定次三代其他一族の墓あり、旧寺領百石。
補【率川】俗に子守川と称す、子守杜あればなり、其源紀井社南溪より出て、鷺原(狭井原か)菩提谷を経て猿沢の東南西を廻り、橋本、椿井を過て佐保川の下流に入る。
伝香寺 ○平城坊目考 伝香寺は律宗招提寺末寺にて寺領百石、筒井順慶菩提所なり、天正二年順慶之母堂芳秀宗英大禅尼発志願、為武運栄久建立一律院於率川之地、招提寺長老泉奘和尚開基、今川駿河守源義元之次男なり、芳秀禅尼順慶及侍従定次、子息順定等筒井一族石碑あり。
〔所属未詳〕
和州路上 頼山陽
下市平橋路幾叉 法隆寺遠接当麻 行人買酔和州路 満野東風黄葉花
率川《イサカハ》神社 今子守社と云ふ、往時は大祀にして率川坐大神御子神と称し、大宝令に三枝祭著れ、文徳天皇仁寿二年授位、延喜式、率川杜三座とあり、後世衰へ子守《コモリ》神と曰ふ、御子神と云へるを訛れる乎。此地蓋神武皇后伊須気余理媛の家址と云ふ、古事記云、伊須気余理比売命之家、在狭井河之上、天皇幸焉、一宿御寝坐也、其河謂佐章河由者、於其河辺山由理草多在、故号也、山由理本名云佐章也、比売命歌
佐章がはよくもたちわたり畝傍山このはさやぎぬかぜふかむとす。
神祇志科云、率川杜は又|三枝《サキクサ》明神と云ふ、〔春日社記〕伝云ふ推古天皇御世大神君白堤始て神社を春日率川邑に建て、姫蹈鞴五十鈴媛《ヒメダタライスズヒメノ》命を斎祭る、之を大神御子神といふ、元正天皇養老中藤原朝臣不比等狭井子守二神を配祭る、狭井は大物主命、子守は玉櫛姫なり、(大倭注進状引大神氏家牒大三輪社鎮座次第)玉櫛姫は三島|溝※[木+厥]耳《ミゾクヒミヽノ》神の子、又三島|溝※[木+(織−糸)]《ミゾクヒ》姫といひ、亦勢夜陀多良比売といふ、〔日本書紀古事記〕初美和の大物主神勢夜陀多良比売に娶て生坐る御子、姫蹈鞴五十鈴姫命〔名拠日本書紀〕始名|富登多々良伊須々岐《ホトタヽライスズキ》此売命、後改て比売多々良伊須気余理比売と申す、文武帝大宝令、毎年四月三枝祭を行ふ、三枝華もて厳く酒樽を飾り祭るは蓋古の遺風也、〔令義解〕又麁霊和霊祭と云ふ、〔令集解〕其大神族類の神なるを以て大神氏宗之に供奉る、〔令集解釈日本紀〕光孝天皇の御世勅旨田八十町を寄し奉れり。〔年中行事秘抄〕
率川阿波《イサカハアハ》神社址 坊目考云、延喜式、率川阿波神社は西城戸《ニシノキド》に旧跡あり、天文兵乱に廃亡し今幽微にして知人なし、神祇志料云、大倭神社注進状に拠れば之を三枝御子社と称せりと。
かがみなす吾見し君を阿婆の野の花たちばなの珠にひろひつ、〔万葉集〕
書紀通証云、皇極天皇三年謡歌「鳥智可柁能(遠方也)阿婆努能枳々始(禾野雉子也)」延喜式、率川阿波神社。
城戸《キド》は木戸郷とも云ふ中世奈良七郷の一なり、南方の極にして往時柵門ありしとぞ。
補【狭井川】○平城坊目考 元要記云、神亀二年七朝宮門建立、七星配当、今御門破軍星、面足惶根尊、杏木殖云々、今道祖神社是、其遺跡乎、天正二年地子帳、今御門町と記す、然る時は天文永禄の頃在家となるもの乎。愚案、神亀二年七星配当、有疑、本邦天文暦道吉備真備公而後備悉之所也。
道祖神杜一座 又幸の神と号す、里俗塞の神と称して毎年八月七日祭礼、供物菓菜を以て※[たけがんむり+塞]目貌を作りて献ず、※[たけがんむり+塞]と幸と和訓同じきに因て神号を誤る、正さずんばあるべからず、率川は当郷の北端を流る、率川は西方を伊謝川.東方を狭井川と号す(今菩提川と云ふ)狭井川神たるペき乎。
補【城戸】○平城坊目考 七郷南の惣門此辺に有て、名けて木戸と曰ふ、後城の字に作る、柵門を謂て木戸といふが故なり。○悲田院あり、按ずるに山階寺流記曰、北門名悲田門、前四町為病苦孤独之所住為労養也云々。悲田院往昔在興福寺北面、何の世此所に移すといふ事をしらず。○率川阿波杜 旧迹あり、天文元年の大乱に廃亡す、今旧跡幽微にして知る人なし。
元興寺《グワンゴウジ》址 芝新屋《シバシンヤ》町に在り、古の新元興寺の中門堂大塔婆観音堂等近代まで存せり、之を元興寺と曰ひ、寺領五十石、安政六年大塔観音堂焼失し(先に中門堂又亡び)全く廃墟と為る。大塔は高二十四丈、天平宝字中恵美押勝造進と伝へしが今断礎を見るのみ。
新元興寺《シングワンゴウジ》址 新元興寺は坊目考に左京五条四坊に当る如しと云ふも疑はし、四坊大路は大安寺東にて今田野と為る、山階寺流記に山階寺は三条七坊に在りと云ふより推せば、新元興寺は五条七坊なり。坊目考云、中辻町及廊坂(籠の坂に同じ)七軒町辺は往古の五条大路、即|京終《キヤウバテ》町東西の通りにて新元興寺南大門前東西大路是也、籠の坂といふは元興寺伽藍の跡にて廊の辻子ともいひしなるべし、宝徳三年十月廿日諸堂南大門回廊倶に焼亡せしなり、西門旧地は東木辻町にあり、花園は往古元興寺の僧坊の椿の実の油を燈火に燃す其原料の椿数多ありし花園也、按に椿を殖しは今の花園町より南へ京終町東へ広き花園なるべし、建久年間屋敷券文に「在添上郡元興寺南大門前南口字花園」とあり、元興寺中門堂懸板記録、延慶四年二月二十二日の文にも添上郡元興寺南大門前南口字花園とあり、元興寺古図を観るに東は鬼園山より南ヘ直径紀寺迄、西は下御門通を南へ京終迄、南は京終及七軒町紀寺迄、北は鬼園山より(東西)寺林町を下御門迄を平城左京五条四坊内と云、今存する所の小塔院極楽院十輪院金体寺は往昔新元興寺境内に属す。又云、当寺縁起異説繁多にして或は時代年歴を謬伝する事甚し、続日本紀曰、元正天皇養老二年秋八月甲寅、遷法興寺於新京、号新元興寺、是今謂ふ元興寺にてこれは中門堂と号す、金堂大門廻廊等今謂ふ所の元興寺町以南にあり、悉回禄せしむ、異本合運図曰、後花園院宝徳三年、南都小塔院為馬借炎上、同余烟元興寺金堂極楽坊禅定院等焼云々、然ば宝徳年間廃壊せしむるの上、尚其後天文年中沢蔵軒乱妨或は土一揆の兵火等に廃地となりて原野の如く荒芝生る処なり、天正文禄年間漸民家となり於是芝の新屋町と号すものとす、又中世より東大寺興福寺動もすれば合戦闘争に及び互に法威に乗じ元興寺を奪て末寺とせり、元禄五年当寺観音開帳あり、爾時延喜通宝銅銭十枚観音の花瓶の中にあり、此を以て考ふる時は天平年間造立以降中門堂大塔火災なかりし証たるべし、宝永四年地震に中門堂破壊し、安政六年火災大塔亡ぶ。
新元興寺は又|飛鳥《アスカ》寺と曰ふ、初め蘇我馬子之を飛鳥に創建したれば也。類聚三代格に「元興寺、此寺者仏法元興之場、聖教最初之地也、去和銅三年、帝都遷平城之日諸寺随移、件寺独留、更造新寺、備其不移間、所謂本元興寺是也」と、本元興寺に後れて移されたる者也。
詠元興寺里歌
ふる里の飛鳥はあれど青丹よし平城の明日香《アスカ》を見らくしよしも、〔万葉集〕 大伴坂上郎女
禅院《ゼンヰン》址 続日本紀云、元興寺、道昭和尚物化之後、遷都平城也、和尚弟子等奏聞、徙禅院於新京、今平城左京禅院是也、此院多有経論、書迹楷好、不錯誤、皆和上所将来者也。坊目考云、今十輪院南側後なる公納堂町の遺迹を云ふか。(禅定院禅院同一ならん)
薬師堂址 今薬師堂町と云ふ、亦新元興寺に属せる者乎、御霊社あり其鎮守神なり、又新元興寺に白山権現社あり今に存す、按ずるに道昭弟子泰澄加賀国に至り白山神を拝す、此も泰澄の建てたる者乎。〔坊目考〕
小塔《セウタフ》院址 今西新屋町と曰ふ、即小塔院址なり、護命僧都の住房なりき。(坊目考)
高坊《タカバウ》址 横佩大臣藤豊成の石塔あり、高坊は蓋豊成の菩提所なり、永禄中心前法師此に住しけるに、松永氏の兵其石を徴収しければ、心前松永氏へ書送る、
引のこすあきや花さく石の竹
因りて其事を停めたりと伝ふ。〔坊目考〕
中院《チユウヰン》 坊目考云、中院は新元興寺の中央なれば乎、今町名と為り猶極楽院あり即中院の跡を伝承せる也、智光大法師伝記云「智光、幼名麻福田丸、爾時有猛者、(猛者富人今曰長者)而存一美女、麻福恋之、娘不捨其思情、而令習文筆或仏経、竟為僧形修行焉、未遂情慾、而女子死、於是麻福発菩提心、行篤実」と、智光は河内国の人なり家地は和泉国泉南郡稲葉村にあり、行基菩薩の弟子となり極楽院に住し、師に先達て入寂す、今西大寺に属し田禄百石、律宗を奉ず。
補【新元輿寺】〔前文未詳〕続日本紀〔文武天皇四年三月己未〕道昭和尚物化、天皇甚悼惜之、遣使即弔※[貝+(甫/寸)]之、和尚河内国丹比郡人也、云々、時年七十有二、弟子等奉遺教、火葬於栗原、天下火葬従此而始也、云々、後遷都平城也、和尚弟及弟子等奏聞、徙建禅院於新京、今平城右京禅院是也、此院多有経論、書迹楷好、並不錯誤、皆和上之所将来者也。今按ずるに十輪院南側後にあり、亦大乗院の艮方にあり、是等往年禅院跡なり、今公納堂町の遺迹と謂ふもの、本尊阿弥陀仏今猶存す、舞楽人の家数多あり、是元興寺の余計なり。
補【薬師堂】薬師堂町も新元興寺の古地にして、薬師堂即其遺跡なり、永禄天正年間在家建もの乎、今御霊八所神社あり、鎮守なり。○白山権現杜 元興寺鎮守にして僧泰澄之を勧請する乎。元亨釈書曰、白山明神者泰澄法師、養老元年四月一日登於加賀国白山、而拝神霊云々、白山権現是也。按ずるに泰澄は初道昭の弟子にして、後平城の京に来て毎に元興寺に居する乎、於是白山明神の祠を建て鎮守神とする者、拠あり。
高坊 有横佩右大臣従一位豊成公廟所、永禄年中連歌師心前法師居於当坊、爾時松永霜台久秀築多門城、於是乱妨古墓之石塔婆、将使兵士奪豊成碑、心前述連歌之発句而贈久秀、久秀亦好連歌、因竟停其事云々
引のこす秋や花咲石の竹 心前
按ずるに当坊は往年新元興寺の一院にして、右大臣の菩提所あるべし、葬所たるにおいては所見なし。
西之新屋敷は往古新元興寺の内に小塔院の地なり、按ずるに享禄年中七郷記当町を載す、享禄年間末寺院現在して俗家にあらざるが故なり、小塔院は護命僧都の住坊なり、今は終に小堂一宇、小門等残れるのみ。
補【中院】○平城坊目考 享禄七郷記及天正年地子帳不見中院郷、是寺院天正年猶存故也、文禄年間為在家乎中院は新元興寺の中院にして、今猶極楽院あり、今按ずるに中門堂(今元輿寺観音堂)南方にあり、禅定院(今大乗院御殿)東の方にあり、西光院南室北室、吉祥堂等西方にあり、仙光院北に在て極楽坊中央にあり、故に中院と号する乎、極楽院律宗、寺領百石、西大寺末寺。
補【不審辻】○平城坊目考 里諺云、上古元興寺に鬼魅あり、東山より出で、之に因て其山を謂て鬼園山といふ、於是不思議ケ辻子と名く、是其濫觴なりと云々。古翁曰、先年南都童俗卜事必聞辻占定之、是時之風俗、而多為其街語占是(是神国古風乎)時人亦為鶴福院之辻、所謂有其験、而大概毎夜立聞人於此街。
十輪《ジフリン》院 坊目考云、亦新元興寺の別院にして南光院とも云へり、境内に古雅なる石仏多し、経蔵は空虚なれど扉の両面に四天王を画き床下石台に十六善神を刻む、(此経蔵は謂ゆる校倉造りにて、明治十五年東京上野の博物館へ移し建つ)近代此地を割きて興善《コウゼン》寺を建立す、朝野魚養の墳あり墳前に没字碑あり、魚養は天平年中の人、書札を善くす、七大寺の額榜を題せりと云、続日本紀に下忍海原連魚養とありて、宇治拾遺には遣唐便彼地にて妻を設けて生みけるが帰朝したる也と曰ふ。
井上《ヰノウヘ》 坊目考云、往時新元興本元興両寺の間にあたり今井上町と云ふ、按ずるに光仁天皇々后を井上内親王(聖武皇女)と申し奉る、内親王事を以て幽囚にあひ薨去の後宇智郡霊安寺に祀らる、今此他にも御霊杜あり、井上内親王を祭る、薬師堂御霊是也。補【十輪院】○平城坊目考 興善寺は旧名奥の寺と号す、元来十輪院の境内として石仏の三尊あり、近世傍に草庵を建て浄土法師住居す、其後壇越逐日繁多にして墓所を構へ、此に葬る、竟に十輪院と当寺と争論に及び当寺の利潤となりて其境界を定む、爾時魚養墳、当寺地内となる、仍て又替地をして南方に与へしめ、魚養墳を十輪院に徙さしめ、其後慶長年中智積院末寺となりて本堂を建立す。○十輪院は新元興寺の別院南光院跡是なり、魚養の古墳あり、魚養は天平年間の人にて即東大寺国分門の銘額を書写す、古老云、永禄天正年間、兵士悪党等当院を乱暴して、経巻を奪ひ、これを縄に撚て軍用の兵器等を束縛す、是に於て古経及び仏書悉滅亡して、今経蔵空しく存す、経蔵の扉の両面四天王像を画き、床下石台十六善神の像を刻む、境内に古雅なる石仏多し、
魚養墳は塚の前面左右碑文あり、西の方磨滅して文字不見、南都旧記云、当辺は南光院、是元興寺道昭和尚の住坊云々。蓋し道昭は本元興寺に入寂、滅後十有七年に及て平城左京禅院を遷建、南光院は其一院なり、何年廃壊たる事を知らず、疑らくは沢蔵軒の兵革乎。補【井上】○平城坊目考 井上町、当坊往古本元興寺と新元興寺との中間なり、井上の名目異説繁多にして未詳、宝徳三年十月元興寺金堂其外悉回禄、疑らくは其後為在家乎、里諺云、古井東側商家の裏にあり、且井上の濫觴なり、而往年此井路傍にあり、毎年暑月に至て、里俗井辺に出て納涼をなす、遇々時宗の遊行僧招きて長き板を井上に渡して説教者の坐とす、其上にして音曲等をなす、長歌念仏なり、聴聞の族井の廻に列坐して、慰めて避暑て歓楽す、亦青銅百銭を布施とす、往々郷例となる、是俗に井上町と号すと云々、按ずるに件の説、是に非らず、既に享禄二年七郷記井上郷あり、歌説経は近世宝永正徳以後の風流なり、附会して井上の濫觴と称す、妄説なり、続日本妃曰、光仁天皇宝亀三年三月癸未、皇后井上内親王坐巫蠱廃、宝亀四年十月辛酉、初井上内親王坐巫蠱廃、後復厭魅難波内親王、是日詔幽内親王及他戸王子大和国宇智郡没官之宅云々。或云、井上皇后宝亀三年廃后之後籠居当所、今謂当町東方避地、曰籠屋敷、称籠之坂、地不遠南西、龍居址有拠、其後御霊神社在当地、而後遷祭於今之薬師堂町御霊之地也云々。
本元興寺《ホングワンゴウジ》址 新元興寺の西南、大安寺の東に接して建立ありし者か、木辻村の西南京終村の耕田に葛城《カツラギ》の字存すと坊目考に見ゆ、本元興一名葛城寺又豊浦寺と曰へり、六条大路は大安寺の南路にして故径存す、其四坊にや七坊にや疑惑多し、後の考正をまつと云ふのみ。
続日本紀云、元正天皇霊亀二年五月、始徙建元興寺于左京六条四坊。本元興寺縁起余篇云、(坊目考所引)霊亀二年遷豊浦寺、於平城左京四坊、爾来称豊浦寺曰本元興寺、墾地七百三十二町。続日本紀云、光仁天皇宝亀十一年、大雷災於京中数寺、其新薬師寺西塔葛城寺塔并金堂皆焼燼焉。本元興寺縁起余篇云、光孝天皇仁和三年十二月、本堂一宇無残払地焼亡。本元興寺は仁和焼亡以後再営なかりし如し、続日本紀宝亀元年の童謡に豊浦寺の西なるやとよめるも此寺なり、三代実録に「建興《コンゴウ》寺、是宗我稲目宿禰之所建也、又推古天皇之旧宮也、元号豊浦、故為寺名」云々、東大寺要録、天平勝宝元年官符、元興寺(飛鳥寺)右寺二千町、新薬師寺建興寺(豊浦寺)右寺別五百町など見ゆ。三代実録、貞観五年勅以新銭一千貫文鉄一千廷施入諸大寺、東大寺興福寺元興寺大安寺薬師寺西大寺各銭首貫、鉄百廷、延暦寺新薬師寺各銭三十貫鉄三十廷、豊浦寺本元興寺招提寺天王寺崇福寺知識寺各銭二十貫、鉄二十廷、梵釈寺比叡西塔院東寺西寺各銭十五貫、鉄十五廷。
葛城や豊浦の寺のあきの月西になるまでかげをこそ見れ、〔続古今集〕 源具氏
此寺は飛鳥の豊浦より移されたり、而て一号葛城とあるは上宮法王重興して之を葛城臣(蘇我氏)に附せらるれば也。
補【本元輿寺】○平城坊目遺考 当寺往昔地形を考ふるに、東は中辻町辻より南岩井川に至、西は綿町辺より西へ郡山道大安寺字長池辺迄、夫より南へ岩井川迄直経乎。続日本紀曰、元正天皇霊亀二年五月辛卯、始徙建元興寺于左京六条四坊。是本元興寺なり、豊浦寺、葛城寺といひしも本元興寺の名なり。
葛城寺址 木辻村西南京終領耕田中に在りといふ。仁和三年丁未十二月晦日、本堂一宇無残払地焼亡、後再興あらざるか、肘塚水田の中に本元興寺は六条より四条まで、新元興寺は四条より三条迄。
肘塚《カヒナヅカ》 奈良市の南限にて肘塚村と云ふ、玄※[日+方]法師の肘塚あり。坊目考云、玄※[日+方]は天平中筑紫に虐死す、疑らくは骨肉破壊散乱して全からず、弟子集之て火葬せしめ其枯骨を採て平城旧坊に贈る、亦当所の弟子或は法侶等※[日+方]が妖死と憐哀て元興々福東大等に葬か、天文年中土一揆の記曰、一揆の張本雁金屋民部国之手勢百余人肘塚郷に殿して防戦、終に越智大学利元の為に討たる。
補【頭塔】○平城坊目考 頭塔町之記云、天平年中筑紫観音寺玄※[日+方]僧正為広嗣霊被抓虚空、翌年六月十八日枯独髏落興福寺、其後築塔于此所云々、按、落枯独髏於平城之事、国史所不載、元亨釈書※[日+方]頭落興福寺唐院云々、源平盛衰記落西金堂前、彼是異説多、玄※[日+方]為雷火所害而後門弟子拾骨、贈興福寺唐院、於是葬於当寺、号頭塔者乎、草堂一宇塔傍にあり、賢聖院と号すと云々。
木辻《キツジ》 坊目考云、鳴川《ナルカハ》東西通を木辻と云ふ、往年鳴川郷と呼び、今游女艶里となる、古老曰、往年無在家、有草堂今の称念寺是なり、路頭に一大樹有て木辻と称す是其濫觴なり、慶長年間民家二三宇を造て茶店とす、潜に夜発の族を置く、而後在家軒を列ね真に傾城町となる云々、享禄年中七郷記、天正年間地子帳等に木辻町見えず、是慶長年中以来町屋となる処分明なり。
京終《キヤウバテ》 木辻の南にて、奈良市の南限の意なり、古京六条坊門に当る如し。延喜式大和国京南荘并率川荘とあるは此地にして、往時は京南と曰へるならん。
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猶中《ナホナカ》郷 和名抄、添上郡猶中郷。奈保山佐保山附近の地にして、今佐保村及び奈良坂村に渉る、猶は直山|那富《ナホ》山などの奈保に同じ 其中里の謂なるべし。奈保山佐保山は一地異名の看あれど、佐保は本来水名より起りて山名に転ぜるごとし。
佐保《サホ》 今佐保村は添上郡西北部を籠め法華寺法蓮の二大字に分る、佐保川あり奈良坂の東より発源し水谷川率川岩井川等を併せ南流して南方の諸水と匯して大川《オホカハ》と曰ふ、即大和川の上游なり。宣胤卿記、明応六年殿下伝領荘園の一所を大和国佐保殿とあり、今狭岡神社の辺なり、又本朝世紀、康和五年右大臣興福寺下向の時佐保殿に着到の事見ゆ。
設飲饌以饗長官佐為王、未及日斜王既還帰、於時益人怜惜不厭之帰、仍作此歌、
おもほえず来ませし君を佐保川のかはづきかせずかへしつるかも、〔万葉集〕 ※[木+安]作村主
詠柳
打のばる棹のかはらのあをやぎは今は春べとなりにけるかも、〔万葉集〕
佐保山は一に棹山又蔵宝山に作り、那羅山の中に属す、其北嶺を雍良峰と曰ふ、南を眉間寺山と曰ふ、其西に興福院不退寺あり、又奈保山陵あり。
佐保山をおほに見しかど今みれば山なつかしも風吹くなゆめ、〔万葉集〕
佐保姫宮は佐保村法蓮の東に在り。古事記伝云、後世秋の歌には立田姫をよみ、春の歌には佐保姫をよむ、是奈良の京の頃より言出たるべし、立田は京の西に在りて立田姫と申神あるに対ひ、佐保は東に在るを以て設けたるならん、西三条公高野山参詣記に佐保姫社に参りしとあり。○按ふに古は佐保は大邑にして、古事記率川宮(開化)段云、御子日子坐王、娶春日建国勝戸売之女、名沙本之大闇見戸売、生子沙本毘古王、次袁邪本王、次沙本毘売亦名佐波遅毘売、此為伊久米天皇之后、この沙本毘古王書紀には狭穂彦王とありて、垂仁帝(伊久米天皇)の御宇に謀叛の事あり、袁沙本は日本書紀武烈天皇の歌にも、
春日の箇須我を過ぎつま籠もる鳴佐※[なべぶた/臼最後の画中で切れる/衣のなべぶたなし]を過ぎ
とあり、大小の佐保何地を指すや明了を欠く、法華寺の東南佐保川北畔に丘墳五六凸起して存す、古代の墓なるべし。
法蓮《ホフレン》 佐保村の東部にして、佐保川の北なり、其東西路即左京一条南路なり。春日の香山寺天地院天喜年中焼亡後其名跡を此に伝へ、僧法蓮住居したるより此名起ると云ふ、今閻魔堂其遺址か。
釈書云、法蓮、奥州人居興福寺、後帰郷持法華、同郡人有光勝者、住元興寺、亦帰里、道交和睦。土俗法蓮綿と云ふは本朝本綿最初此地に種子を伝へ、後他境遠国に及ぼす、当村根本の地と称すと、其説明了を欠く。〔坊目考〕
補【法蓮】○平城坊目遺考 当地は松永久秀多門城没落後人家建連ね、新在家出屋敷とす、其後繁盛して今の村落となれりとぞ、旧名を広岡といふ、法蓮寺は、天地院の号にて、則和銅年春日山の奥高山半腹の地に行基菩薩の建る所、天喜元年九月焼失、其余堂を此に移し法蓮寺と号せしより、後に町名となりしならんか。○平城坊目考 北法蓮町は当郷南に佐保川(俗云法蓮川)あり、北は佐保山御陵の麓に至り、東は眉間寺前川岸に及ぶ、法蓮法師の住居所たり、〔元亨釈書、略〕当村闇魔堂其遺跡か、不詳、高倉院安徳帝より以往乎、古老伝云、本朝木綿といふもの、上古其種唐土より渡て初て当辺に殖て往々近里に弘るといへども、曾て他邦に不知之、其後年経て漸く隣国に伝り、亦荏荏遠国に及び、これを殖る事逐年増長し、其能をしつて※[糸+壬]織して木綿布と云ひ、亦木綿を謂て法蓮綿といふ、当郷其根本の地といへども今旧名を失ひ、却而他国遠境に此名残る、既に東都及近国今に至て法蓮綿と称するもの此来由なりと云々。
佐保山《サホヤマ》陵 法蓮の北|眉間《ミケン》寺山に在り、即左京一条南路北五坊大路の衝にあたるか、聖武天皇の御陵なり。初め眉間寺を兆域内に造り、永禄年中松永弾正少弼久秀此に築城し御陵其中に在りしが、猶|御陵森《ミサキモリ》と称し毀壊を免る。文久二年眉間寺を山下に移し御陵を修治せらる。延喜式云、佐保山南陵、平城宮御宇勝宝感神聖武天皇、在添上郡兆城東四段西七町南北七町。
佐保山東陵 聖武皇后藤原光明子(不比等女)の御陵なり、延喜式に列す。聖武陵の東北にて、老松生じて南陵と相対す。〔名所図会陵墓一隅抄〕
佐保《サホ》山西陵 文武皇后藤原宮子姫(不比等女)の御陵なり、延喜式に列す。聖武陵の西北|大黒芝《ダイコクシバ》と称する地蓋其火葬所にして又山陵ならん。〔陵墓一隅抄〕今稲荷山とも呼び、七疋狐又犬石と呼ぶ、隼人像石四個陵上に置かる、雍良峰陵の条を参考すべし。那富《ナホ》山墓は聖武天皇の皇子基親王の葬所とす、近く南陵の西北に在り。(陵墓一隅抄)按に那富山は奈保山直山に同じ、即元明元正と其陵号を一にす、古へより佐保山奈保山又椎山は差別なかりしにや、不審。
椎岡《ナラヲカ》墓は藤原不比等の墓なり延喜式に見ゆ。眉間寺の西に在り佐保山西陵と相并ぶ、〔陵墓一隅抄京華要誌〕椎は楢と同訓なり。隅山《スミヤマ》墓は藤原房前の墓にて、今杉山と号し老松三株雑樹茂生す、椎岡同所なり、隅山墓類聚国史に見ゆ。〔県名勝志〕
眉間寺《ミケンジ》址 佐保南陵の兆域内、其眉間に在りて、寝園看侍の僧なりき。坊目遺考云、和州寺社記、崩御奉葬の後其傍に本寺を建つ、眺望山と号し、仏殿宝塔鐘楼庫裡等ありしと、文久二年之を撤去し山下に移し、其後数年悉皆廃亡す。元亨釈書云、道寂居元興寺、移住眉間寺、其寺主有旧好、嘗作一磔手半観音像一千躯、未畢寂、戮力而成、又鋳洪鐘三、捨東大長谷金峰三寺。
補【眉間寺】○平城坊目遺考 眉間寺址は佐保村大字法蓮、佐保南陵内に在り、眺望山と号す、本堂多宝塔、鐘楼庫裏等の址は今御陵御構内半腹に在り、和州社寺記曰、眉間寺は天平勝宝八年丙申五月二日聖武天皇御年五十六歳にして崩御し給ひ、此所に奉葬、傍に寺を建、眉間寺と号すと云々(松永築城時御陵構内に在り)当寺文久年帝陵御修繕に付、宝塔破却、本堂庫裏を壇下に移す、皇政復古後滅亡。
多門城《タモンノシロ》址 佐保山に在り、南陵東陵を籠め佐保川を前にし般若坂を背にす。永禄十年大和河内国主松永久秀之に城き、以て南都を圧す、石築壮固一時に冠絶す。天正元年久秀の子久通城を以て織田氏に降附す、織田氏山岡景友を置く、後幾もなく廃し其旧材は蓋郡山城に移すと云ふ。久秀永禄の初め三好長慶に仕へ大淀に戟ひ大和を※[ぎょうにんべん+旬]へ功あり遂に州内を平定し、乃信貴山に城き天主楼を起す、兵馬強盛なり、八年久秀足利義輝を弑す亦三好党と隙あり、十年六月佐保山に築き門郭を修め士卒をして之に栖息せしむ、海内築城の規矩之より一変す、称して多門造と曰ふ、当時久秀の属邑逢坂の岡国高、古市の古市景治、高山広瀬の菅田豊春、片岡の岩成春之、平野の森正友、狭山の森正次、高槻の入江盛重等各其地を守備す、是年十月松永三好の兵大に奈良に戦ひ大仏殿を焼く、筒井氏久秀に服せず屡兵を出して相戦ふ、天正五年久秀敗死す。
補【多門】○平城坊目考 多門町は佐保川の北涯、佐保山南陵の東より同東陵の前を云、原縁は天正年松永弾正久秀佐保山に塁を築て出張し、久秀常に信貴山多聞天を信仰す、因て佐保山の塁を多門と名づく、其塁郭の下に家屋を建るを以て当地の名となりしなり、此地往古川上村の内にてありき。
補|称名《シヨウミヤウ》寺 ○平城坊目考 当寺は往古興福寺の別院なり、興北寺と号す、本尊聖観音今に存す、中世浄土宗たり、慶長七年寺領三十石、御朱印頂戴すと云々。地蔵石像千体仏 本堂の東に有り。貞享年当寺住侶造立、但南都者往古より寺院数多郷中に在り、永禄年松永久秀多門城を築く、爾時古墳碑石等を破却して軍用の愁礎とす、而後落城に及ぶ、於是石仏石塔婆片々として郷間俗家に分散し、溝渠路頭にあり、当寺長老其仏石を集て以て造立せしむるもの也、清泉井在方丈、名珠光井、手水石鉢是又存庭上云々。補|珠光庵《シユクワウアン》 ○人名辞書 珠光は茶家の祖なり、少き時南都の称名寺の僧となる、年三十の頃紫野大徳寺に至り、業を一休和尚に受けて自己の必要を究明し、数寄の妙術に至る、偶々将軍足利義政、光を賞し命じて還俗して草庵を三条の辺に造らしめ、珠光庵主の四字を自書せる額を賜ふ、光唯一鐺を貯へ、或は※[米+参]を和して自ら喫し、或は茶を煎じて賓友を会し、和歌を以て自ら娯しむ、是に於て時人争ひ来りて交を締ぶ、其の党特に多し、本朝茶道の宗匠と称する者は実に光より始まる、光が遺愛の書画及び玩好の具、後人千金を以て之を争ふと云ふ、文亀二年五月十五日歿す、年八十一、大徳寺中真珠庵に葬る、其室四顧四筵の外半筵を加へ、以て茶席を為す、世人其の風雅を募ふ、名四方に振ふと、珠光又画を真能に学びて之を好くせり(野史、茶人系伝全集)
補|野田《ノダ》 ○平城坊目考 茶人権太夫跡あり、権太夫は春日禰宜にして、平日茶を好て佳名あり、小堀遠州公及片桐石川公等茗交来訪ありと云々、当初造所の曲木門今猶存す。長闇堂記に曰く、我庭前七尺の堂の起は東大寺大仏再興のひじり俊乗上人の影堂を中井大和守改めかへられし其古き堂おもしろきものなれば其人に申請て前栽の中に移しつくろひて、茶所に用ひたり、堂の内わづかに方七尺、其内に炉を入、床有、押入あり、水屋ありて茶具を取入、床に花掛物して、押入床を持仏堂にかまへ、阿弥陀の木像を安置し、客に茶湯を出せどもせばき事なし、鴨の長明は維摩の方丈をまなびて隠居し、人にまじはらざるを楽しみ、只一すらに弥陀を願へり、我堂は方丈にたらずといへどもあまたの人を入て茶湯せしなれば、浄名居士の獅子の座にはかなへりとぞ思ふ、何ぞ長明を求んや、但し弥陀の本仏の幸に便乗の古堂なれば、似合しくおもひて安置すといへども、我更に弥陀を願んとにはあらず、云々、維時寛永十七辰秋、久保権太夫藤原利世。此長閣堂数寄屋後に角振町岡田寛斎買求め、貞享年龍松院公慶上人大仏再興之時、彼七尺堂を上人に贈る処、下部共古珍物を不知、薪となせしとぞ。
興福《コウフク》院 法蓮の西、佐保山の中央に在り、和気氏弘文院の遺名と称す、初め右京三条(今都跡村大字興福院)に在り、徳川家光寺封二百石を給し小堀遠州宗甫をして此に徙建せしむ、寛永年中の事也。
狭岡《サヲカ》神社 狭穂岡の神なり、興福院不退寺の間字|佐保殿《サホデン》霊山に在り、此神は文徳実録仁寿二年授位あり、延喜式には八座とあり、率川神の苗裔神にやあらん。
不退寺《フタイジ》 興福院の西十町許左京一条北路二坊大路と想はるる地なり、佐保殿と字す、不退寺は平城帝の皇子女協力建立の貴刹にして、在原寺とも称す。在原氏皇子阿保親王に出づ、今は荒衰にして纔に草堂一宇を存するのみ。三代実録貞観二年云、高岳親王為僧、貞観初表請、以大同四年所賜上毛叡努石上内親王等平城水田五十五町余、還施不退超昇二寺許之。(取意)
形ばかり其名ごりとて在原のむかしの跡を見るもなつかし、〔玉葉集〕 為子
阿保山《アホヤマ》 不退寺の岡陵なるペし、平城皇子に阿保の御名あるも之に因る、阿保は或は穴太に作る本伊賀国の地名なり、古事記、垂仁の皇子に伊許婆夜和気王ありて沙本穴太部之別祖と曰ふ、沙本即佐保なれば彼国より此に移れる阿保氏ありて阿保山の号は出たる也。
阿保山のさくらの花はけふもかも散りみだるらむ見る人なしに、〔万葉集〕
法華寺《ホツケジ》 佐保村大字法華寺に在り。寺前東の方法蓮より東大寺景清門に通ずる一径は右京一条南路にして、南の方佐保川に沿ふ田径は左京一坊大路なり、而て本寺は旧宮城境内に属したる如し。今律宗を奉じ、貴族尼公住職し門跡と号す。
栄華物語江談抄には当寺は大織冠鎌足造立と為す、然れども扶桑略記は文武太后宮子媛の宮を棄て、法華寺と為すとありて後説信にちかし、即天平十三年毎国僧寺尼寺を置くの詔ありし際に在りしか、続日本紀、天平感宝元年、大倭国法華寺墾田一千町、又天平宝字六年、太上天皇(型式)御法華寺など見ゆ。東大寺を総国分僧寺と為すに準じ本寺は総国分尼寺なり、延喜式云、凡大和国国分二寺者便以東大寺為僧寺、以法華寺為尼寺。明治卅一年、十一面観音(木造立像)一躯国宝に列せり、仏堂殿舎は頽破の看なきに非ず。
海龍王寺《カイリユウワウジ》 法華寺の東傍に在り。寺蔵毘抄門天像(絹本着色)一幅今国宝に列す、本寺も光明皇后天平中の創建と云、縁起未詳。海龍王寺と法華寺の間を宮垣と字す、即平安宮の遺名にして二寺の間に左京一坊大路ありて宮の内外を分ちし者の如し、又続日本紀天平十年施|隅《スミ》院百戸とあり、隅院即海龍王寺なるべし、当時皇居の東北隅にあたれば也。扶桑略記、天平神護二年、奉請隅寺毘沙門像所現舎利於法花寺、簡点氏々年壮有容貌者二百人、捧持種々幡蓋行列前後、某所着衣服金銀朱紫恣聴之。海龍王寺今西大寺に依属し本堂西金堂の二宇を存す、寺蔵に興正菩薩嘉禎年中所造五層塔模型あり、下壇方八尺壇上より露盤に至る十尺三寸余、今九輪を欠くも以て古代建築の手法を観るべし、蓋亦平城朝以往の様式とぞ。大和志云、海龍王寺、一名|脇寺《ワキデラ》、寺僧兼任大安寺寺務職、其大安寺縁起亦有於斯。
字奈太理《ウナタリ》神社 法華寺の宮垣《ミヤガイ》に在り、高御魂神を祭る、三代実録に法華寺薦枕高御産栖日神と録し、延喜式大社に列す、之より先き持統天皇六年新羅調物を菟名足社に奉りたる事日本書紀に載せたり、古の霊社たるや想ふべし。
神紙志料云、佐保川は法華寺の東南を過ぎ薦枕《コモマクラ》川の名あり、古は本社其川の辺に在り故に薦枕神と呼ぶか、藺笠滴曰、検地帳に佐保殿村法華寺村の間に田地の名に雨多利と書るが今然呼処あるは、古の字奈多利の遺名也、然るを貞観以後神名に法華寺を冠らせ唱ふるは当時仏法盛なりし時此神社を其守護神など云し事のありしより起れるなるべし、長門本平家物語に治承合戟の時平重衡法華寺鳥居の前に打立と云事見えたり、証とすべし。今按ずるに鳥居は古へ寺門にも社前にも同く建てたり、平語の鳥居は法華寺寺門ならん。
奈保山《ナホヤマ》陵 佐保村法華寺の北に二山陵あり、磐之媛陵の東南に接し大奈閉《オホナベ》小奈閉と称す。高墳深溝、平城朝時代の他陵に異なり、其制垂仁成務の御陵に比すべし、故に論者或は之を以て奈保山陵に非ずと為す、然れども尚疑なきにあらねば暫之を以て此に繋ぐ。山陵志云、奈保、佐保之西、所謂平城旧都北郊也、距今奈良西十八町、法華寺是皇居祉也、其北今呼在東者為大奈閉元明東陵也、在西者為小奈閉元正西陵也、奈閉奈保之訛也、大小以前後之世次言之也。(東陵南北二百間東西百四十間、西陵稍小なり)延喜式云、奈保山東陵、平城宮御宇元明天皇、在添上郡兆城東西三町南北五町。又云、奈保山西陵、平城宮御宇浮足姫天皇、在添上郡兆城東西三町南北五町。按に続紀には直山《ナホヤマ》陵に作り、二帝の改葬は必定此なるべし、扶桑略記に養老四年元明天皇火葬の条下に「陵高三丈方三町也、自此以後不作高陵」と注したるは直山改葬の御陵を指せるならん。
那羅《ナラ》山墓 大奈閉の東五町佐保山中に古墳あり、峰に倚り築成し、円塚なり、土俗大山守皇子墓と為す。日本書紀云、大山守皇子死于菟道、葬于那羅山。
平城京《ナラノミヤコ・ヘイゼイキヤウ》址 平城は一に寧楽《ナラ》に作る、按に此京は添上添下(今生駒郡)の二郡に跨り、条坊を区画し宮殿寺塔公私の宅舎を其間に布置せらる、其条坊の跡今に故径を存する者多く、之を寺塔の位置宮殿の廃墟に参考せば其大略を弁知すべし。古図平城京九条の横衢を置き中央縦街を朱雀大路と為し左京両京に分ち各四坊と為すと云ふ、然れども霊異記に左京六条五坊の名を載せ、群書類従本の興福寺縁起に「寺家一院、在左京三条七坊」とありて、坊目遺考にも、山階寺流記を援き左京三条七坊と曰へり、七坊とは東京極の外なる坊目なれど、又固より当然の名なり。されば古京の東堺(左京七坊大路)は今奈良町手貝雲井坂より大鳥居に通ずる大路是なり、東大寺春日社は七坊以外にして興福寺は七坊に属す。西京極(左京西坊大路)は今生駒郡伏見西大寺菅原寺の西に在るべし、故径廃亡す。又一条北路は伏見村西大寺北垣に并行し東の方佐保村法華寺まで故径存す。一条南路は法華寺南垣に并行し東の方東大寺手貝門(景清門)まで一線直通す。九条大路は添上郡辰市村九条より生駒郡郡山町九条に向ひ廃道断続す。其他
左京二坊大路は三条以南に於て大安寺村の南に傍ひて存す、左京一坊大路は三条南北に於て佐保川西畔に傍ひて存す、朱雀大路は滅して跡なし、左京一坊大路は都跡村佐紀の南に微く存す、右京二坊大路は佐紀の西より南方一路洞通し、斉音寺三条六条等を経て郡山町九条に至る号して佐紀大路と曰ふ、右京三坊大路は伏見村垂仁陵南より六条七条九条まで廃径依然たり、其九条民家の間に辻あり縦横の交叉を為す。二条大路は奈良町以西今屈折すと雖伏見村菅原に至るまで猶存在を徴すべし、三条大路は春日大宮登大路と相通じ伏見村垂仁陵の辺まで儼然たる坦道あり、(三条坊門も奈良町より佐保川畔まで存在す)四条大路五条大路は左京奈良町に故径あり、右京には亡び招提寺の南に五条の大字を存す、六条大路は左京三坊大安寺南より右京三坊薬師寺北に至るまで存し、薬師寺の北に六条の大字存す、七条大路は廃滅し右京三坊に七条の大字を存するのみ、八条大路は廃滅し左京二坊八条の大字を存するのみ。
平城京東西市の名は万葉集に詠歌あり、東市は今辰市其址なるべし、
酉の市にただひとり出て目ならべず買へりし絹の商じこりかも、東の市の殖木のこだるまであはず久しみうべこひにけり、〔万葉集〕白金の目貫の大刀をさげはきて奈良の都をねるは誰子ぞ、〔拾遺集神楽歌〕
続紀云、元明天皇、和銅元年春二月、詔曰、朕祇奉上玄、君臨宇内、以菲薄之徳、処紫宮之尊、常以為作之者労、居之者逸、遷都之事、必未遑也、而王公大臣成言、往古已降、至于近代、揆日瞻星、起宮室之基、卜世相土、建帝皇之邑、定永鼎之基、固無窮之業斯在、衆議難忍、詞情深切、然別京師者、百官之府四海所帰、唯朕一人独逸予、苟利於物、其可達乎、昔般王五遷受中興之号、周后三定致太平之称、安以遷其久安宅、方今平城之地、四禽叶図三山作鎮、亀筮並従、宜建都邑、宜其営構、資須随事条奏、亦待秋収後、今作路橋、子来之義、勿致労擾、制度之宜、合後不加、秋九月巡幸平城、観其地形、至春日宮、大倭国添上下二郡、勿出今年調、車駕遷宮、以正四位阿倍宿奈麿従四位多治比池守、為造平城宮司長官。二年秋九月車駕巡撫新京百姓焉、三年春三月始遷都於平城。四年九月勅、頃聞国役民労於造都、奔已猶多、雖禁不止、今宮垣未成、防守不備、宜権立軍営禁守兵庫、五年正月、詔諸国役民還郷之日、国司等宜勤加撫養。又云、聖武天皇天平十二年十二月、遷都于山背恭仁宮、十三年移平城二市於恭仁。
天平十六年傷惜寧楽京荒墟作歌
くれなゐに深くそめにしこころかも寧楽の京師に年の歴ぬべき、〔万葉集〕
世の中を常なき物と今ぞしる平城の京師の移ろふ見れば、〔同上〕
続日本紀云、天平十六年正月詔、喚会百官於朝堂、問曰恭仁難波二京、何定為都、又就市問市人、皆願以恭仁京為都、但有願難波者一人、願平城者一人。二月天皇行幸難波宮、勅云今以難波宮定為皇都、宜知此、京戸百姓任意往来。十七年四月甲賀宮山火、五月地震、太政官召諸司官人等、問以何処為京、皆言可都平城、四大寺衆僧又曰、可以平城為都、地震連日不止。甲子令掃除平城宮、時諸寺衆僧率浄人童子等、争来会集、百姓亦尽出里無居人、以時当農要、慰労而還。丁卯読経於平城宮、是日市人徙於平城、暁夜争行相接無絶。戊辰甲賀宮山火未滅、仍令収官物、是日行幸平城、以中宮院為御在所。乙亥親臨松林倉廩、賜陪従人等穀。六月樹宮門之大楯、八月行幸難波宮、九月還到平城、十二月運恭仁宮兵器於平城。
平城は和銅三年より延暦三年まで八代七十七年の皇都也、其間聖武帝天平年中恭仁甲賀(紫香楽)難波の造京ありしも皆久しからずして回駕せられ、此際平城は別都と為り一時哀運に就きしかど、暫にして東大寺西大寺等の造営ありしを観れば尚盛大を失はず。延暦遷都後は離宮ありて之を修め平城帝入御の後は全く廃絶したる者に似たり。三代実録云、貞観六年、大和国言、平城旧京、其東添上郡西添下郡、和銅三年遷自古京、(高市郡飛鳥藤原)都於平城、於是両郡自為都邑、延暦七年(日本紀略三年)遷都長岡、其後七十七年、都城道路変為田畝、内蔵寮田百六十町、其外私窃墾開、往々有数。類聚国史云、延暦十七年勅、平城旧都、元来多寺、僧尼猥多、濫行屡聞、宜令国守、便加検察。
古里となりにしならの都にも色はかはらず花はさきけり、〔古今集〕 平城帝
道しばの霜よの月をふみならしふりにし都あれにけらしな〔夫木集〕 三条右大臣
補【平城京】○平安通志 延暦十七年七月廿八日勅、南都崇仏の弊殆仏刹の巣窟となる、帝嘗て之を憂ふ、藤原園人時に大和守を兼ね、奏して検察を加へむと請ふ、勅して奏に依らしむ、平城旧都元来多寺、僧尼猥多、濫行屡聞、宜令正五位下右京大夫兼大和守藤原朝臣園人便加検察(類聚国史)和銅元年秋九月戊寅、巡幸平城観其地形、三年春三月辛酉、始遷都於平城。桓武天皇都を山背に定めし後猶都邑たり、中世之を奈良と称す。貞観六年十一月七日庚寅、先是大和国言、平城旧京、其東添上郡、西添下郡、和銅三年遷自古京、都於平城、於是両郡自為都邑、延暦七年遷都長岡、其後七十七年、都城道路、変為田畝、内蔵寮田百六十町、其外私窃墾開、往々有数、望請収公、令輸其租、許之。是より先、聖武天皇九年大和を改て大養徳となし、十九年旧に復して大和と称す。天平九年十二月丙寅、改大倭国為大養徳国。同十九年三月辛卯、改大養徳国、依旧為大倭国。孝謙天皇天平宝字元年大倭を改て大和国となす。
平城宮《ナラノミヤ》址 宮城は二条以北東西一条大路の間に在り、今法華寺(添上郡佐保村)の西南|楊梅《ヤマモモ》陵(今生駒郡都跡村超昇寺)の南にあたる、墾破して田圃と為り廃墟明認すべからず。続日本紀云、天平十五年、始運平城器仗、収置於恭仁宮、壊平城大極殿并歩廊、遷造於恭仁宮。又云、天平十七年五月、行幸平城、以中宮院為御在所、旧皇后宮、為宮寺也、諸司百官各帰本曹。又云、二十一年六月、天皇遷御薬師寺宮、為御在所、七月皇太子受禅即位於大極殿、十月庚午行幸河内国智識寺、以茨田宿禰女之宅為行宮、丙子車駕還大郡宮、十一月於南薬園新宮大嘗。天平勝宝二年正月朔、天皇御大安殿受朝、是日車駕還大郡宮、賜宴、又於薬園宮、給饗焉、二月天皇従大郡宮移御薬師寺宮、五月於中宮安殿請僧一百講経。三年正月、天皇御大極殿南院、賜宴。五年正月、天皇御中務南院賜宴。六年正月、天皇御東院賜宴、七月太皇太后(光明子)崩於中宮。天平宝字元年五月、移御田村宮為改修大宮也。六年太上皇(孝謙)自保良宮還平城宮、天皇(淳仁)御于中宮院、太上皇御于法華寺。按に平城宮は天平十三年一旦毀壊せられ、大極殿を恭仁へ運致せられしが、十七年復都せられ、皇居は此際造営なかりしも年を逐ひて諸宮殿起る、中宮院は光明皇后の法華寺即宮寺なるべし、薬園宮大郡宮は添下郡郡山に在りしと云ふ、南院東院などは大内裡に在りしならん。
田村宮《タムラノミヤ》址 続紀云、天平勝宝八歳四月、大納言仲麿招大炊王居於田村第、天皇詔、迎王立為皇太子、五月天皇移御田村宮、為改修大宮也、六月山背王告橘奈良麻呂傭兵器謀囲田村宮。按に田村は京中の地なれど今詳ならず、東大寺要録、(長徳四年注文)「平城田村地二町四段二百卅八歩、四条二坊十二坪、(一町二段百廿四歩)五条二坊九坪、(一町二段百廿四歩)」此証文にて大略を弁知すべし、続紀「光仁天皇宝亀六年、置酒田村故宮」と云ふも此なり。
田村《タムラ》 万葉集云、大伴宿奈麿卿、居田村里。姓氏録云、左京皇別吉田連、大春日朝臣同祖、彦国葺之後也、昔御間城天皇御代、任那国奏請将軍、天皇令彦国葺孫塩乗津彦鎮守、彼俗称宰為吉、故謂其苗裔之姓為吉氏、従五位下知須等、家居奈良京田村里間、仍謚聖武天皇神亀元年賜吉田連姓、(吉本姓也田取居地名也)弘仁二年改宿禰姓。
青丹吉寧楽の京師はさくはなのにほふがごとくいまさかりなり〔万葉集〕藤浪の花はさかりになりにけり平城の京をおもほすや君、〔同上〕あをによし寧楽の家には万世にわれもかよはむわするとおもふな、〔同上〕海原を八十島かくり来ぬれども奈良のみやこはわすれかねつも、〔同上〕なつきにし奈良の京の荒ゆけばいでたつことになげきしまさる、〔同上〕
寧楽懐古 太宰春台
南都茫々古帝城、三条九陌自縦横、籍田麦秀農人度、馳道蓬生売客行、細柳低垂常惹恨、閑花歴乱竟無情、千年陳述唯蘭若、日暮※[口+幼]々野鹿鳴、
和州道中 梁星巌
古道六七里、春風三両村、花残宮女面、鳥喚帝王魂、
大同帝の修造せられし平城宮は、後の超昇寺なるべし、彼条を参考すべし。又按に扶桑略記、昌泰元年寛平上皇遊幸の条云、早朝進発※[木+王]道過法華寺、礼仏給綿、上皇出入往反、巡覧寺中、毎見破壊之堂舎、弾指歎息、出寺門至旧宮重閣門所、路傍有※[酉+豊]果子、群臣任意飲喫、或曰此物大安寺別当僧所相待也、云々と、此の旧宮と云は即平城宮にして重閣門とは羅城門の事なるべし。
大安寺《ダイアンジ》 大安寺今寺廃し村名と為る、奈良市の西南にして大字大安寺|柏木《カシハギ》八条の三に分る、其大安寺址は六条坊三(左京)にあたる、霊異記に「楢磐島者、諾楽左京六条五坊人也、居住于大安寺之西里」とあるも五坊は東里なるべし。中央に杉山《スギヤマ》墓あり、大山陵にして其制雄略時代以前の者の如し、誰の古墳にや詳ならず、大安寺の東西路は右京六条の六条大路にして、其斜に郡山町に通ずる径を大安寺堤と云ふ、佐保川に沿ふ。
補【大安寺】○大和町村誌集 大安寺址、和銅三年大官大寺を此に移転、称改めて大安寺としたる遺址なり、隅山墓あり、俗に杉山の墓と称す。
補【隅山墓】添上郡○奈良県名勝志 佐保村大字法蓮に在り、境内反別八反二畝二十歩、墓上雑樹繁茂、中に古松三株あり、俗に之を杉山の墓と呼ぶ、嵯峨天皇弘仁四年癸巳十二月、勅して云く、太政大臣正一位藤原朝臣隅山村の墓地、百姓をして侵伐せしむること勿れとは、蓋是なり、○房前なるべし〔日本紀略弘仁四年十二月癸巳、勅、在大和国添上郡隅山村贈大政大臣正一位藤原朝臣墓地、東西八町南北二町、勿令百姓侵伐〕
大安寺《ダイアンジ》址 大安寺は初め熊凝《クマゴリ》平群郷に建て、百済(広瀬郡)に移し大寺と云ふ、高市に移し大官大寺と号す。和銅三年元明天皇詔して新京に移し明年供養法会あり、〔大安寺縁起帝王編年記〕聖武天皇天平元年道慈律師の議に因り改造し唐国西明寺に模す、天皇亦多く封禄を給し東大西大に対し南大寺と称せしむ。(大安寺縁起)後世漸を以て衰微し、今纔に其墟を弁ずるのみ、近代海龍王寺僧本寺職を兼ねしと曰へば、海龍王寺所造の塔婆模型は名高き都率天の遺影にやあらん。大和志云、大安寺又呼大寺、万葉集「相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後辺に額づくがごと」即此、今護摩堂地蔵八幡神僅存。続日本紀云、天平九年、律師道慈言、奉勅住此大安寺、修造以来、於此伽藍、恐有災事、私請浄行僧等、毎年令転大般若経、伏願護寺鎮国、永為恒例、勅許之。書紀通証云、三代実録曰、聖武天皇降詔、遷立高市大官寺平城、号大安寺、東斎随筆曰、大安寺、天平元年道慈律師、因先帝遺詔道立之、模唐西明寺結構、模造之。大鏡云、昔都率天の一院を天竺の祇園精舎に写し作り、天竺の祇園精舎をもろこしの西明寺に移してつくり、もろこし西明寺の一院をこのみかどは大安寺にうつさしめ給へる也。群書類従本婆羅門僧正碑云、僧正諱菩提僊那、姓婆羅門也、本郷風範、難可縷言、冒険経遠、遂到大唐、唐国道俗、仰其徽猷、崇敬甚厚、于時聖朝通好、発使唐国、倭人丹治比真人広成、学問僧理鏡、仰其芳誉、要請東帰、僧正感其懇志、無所辞請、以大唐開元十八年十二月十三日、与同伴林邑僧仏徹、唐国僧道※[王+(叡-又)]、随船泛海、以天平八年五月十八日、得到筑紫太宰府、八月八日到於摂津国治下、前僧正大徳行基、智煥心燈、定凝意水、扇英風於忍土、演妙化於季運、聞僧正来儀、嘆未曾有、主客相謁、如旧相知、白首如新、傾蓋如旧、於是見矣、乃嘱同法緇侶云、原夫開闢以来、雖時経百王世更万載、未有葱石梵英、印度聖種、梯山航海弘化聖朝、而今聖徳作而異人至、昌運起而大化隆、非但諸仏悲願之感、抑亦聖朝崇法之応也、送入京華、皇上大喜、仍勅住大安寺、供給隆厚、僧正諷誦華厳経、以為心要、尤善咒術、弟子承習、至今伝之、以天平勝宝二年有勅、崇為僧正、大法申斯紹隆、群生以之回向、雖道迹末彰、而時英咸謂、已階聖果、但夜※[睿/土]貿遷、閻浮業謝、以天平宝字四年歳次庚子、二月二十五日夜半、合掌向西、辞色不乱、如入禅楽、奄爾遷化、即以同年三月二日、闍維於登美山右僕射林、春秋五十七。釈書云、勒操、就大安寺善議(道慈法嗣)稟三論之学、弘仁中於紫宸殿集諸宗碩徳各堅義、以操為坐主、操尊三論為君父、斥法相為臣子、上賞弁論加僧都、兼管東大寺。扶桑略記云、延暦十六年、最澄和尚書写一切経論疏、比叡山院、本自無備、仍行向平城故京、於大安寺別院龍淵寺、営成此顧、七大寺衆憎傾鉢添供、捨功成巻、大小経律論二千余巻。又云長和六年大安寺焼亡、所遺塔婆也。
高橋《タカハシ》は大安寺村八条の古名か、延喜式高橋神社在り、薦枕川の東にあたる。
辰市《タツノイチ》 辰市村は大安寺村の南に接す、東九条杏の大字あり、即左京九条二坊三坊四坊等の地なり。古京の辰の方位に当り市を立てて交易せる町にやあらん、中世には専ら辰市荘と云へり、辰市明神あり、東大寺要録(長徳四年注文)京八条市と云も此か。 無き名のみ辰の市とはさわげどもいさまだ人を売るよしもなし、〔拾遺集〕 人麿
売間《ウルマ》清水は東九条に古跡をつたふ。
辰の市売間のしみずすずしくてけふはかひある心地こそすれ、〔散木集〕
英俊日記云、永正二年、就去年徳政之義、大安寺辰市美濃庄、対寺致緩怠之間、奈良六方衆下向被放火候、筒井衆西脇衆少々被出候。(美濃は辰市の南にて今|平和《ヒラワ》村に属す)
大宅《オホヤケ》郷 和名抄、添上郡大宅郷。春日郷に連接し、今奈良町南部并に東市《ヒガシイチ》村白毫寺及び大安寺村等なるべし。白毫寺鎖守神を宅春日《ヤケカスガ》と称するは古名の遣れる也。古事記云、押人命(孝安帝)者治天下也、兄天押帯日子命者、春日臣大宅臣之祖也。姓氏録云、大和神別、大家臣、大中臣同祖津速魂命之後也。東大寺奴婢籍帳云、大和国添上郡大宅郷、戸主大宅朝臣可是麿。日本書紀、武烈巻の歌詞に、
ものさはに於※[なべぶた/臼/衣]野該すぎはるひのかすがをすぎ
の句あり、冠辞考云、官家は物|多《サハ》なれば公と云意にて云かけたり。史料通信叢志云、大宅郷は後世東大寺の領荘と為る、志に「大宅寺、在白毫寺村西、難波皇子所建、仍号皇子寺、事見巡礼記」とあるに依り、其書を閲するに「大宅寺、号難波皇子寺、堂塔少々相残、今在之者也」と見ゆ、大乗院領段銭日記(享徳二年)「大宅寺庄、下司山村、給主古市」と載す。
岩淵寺《イハブチデラ》址 春日山の南、高円山の反腹なり、勅操僧都の開基にして中世伴寺の衆徒と喝食雛僧の事より争を為し、両寺相闘ひ互いに放火して滅亡すとぞ、其塑造十二神将ほ今新薬師寺に秘蔵せり。坊目遺考云、岩淵寺址は白毫寺より凡十五町許東南、字|伽藍坊《ガランバウ》と云所に在り、地形を視るに南向なり、世人或は滝坂の路傍と為せど滝坂には伽藍跡と覚しき地を見ず、水は鹿野苑(東市村大字)へ降り岩井川と云ひ佐保川に合す、故に滝坂の北に香山堂の遺址あれど、其南には十五町山中に入り岩淵寺跡ありと為すべし。
補【岩淵寺】○平城妨目遺考 岩淵寺址は白毫寺より凡そ十五丁許東南、字ガランボと云所に在り、地形を視るに此寺南向にてありしや、是より北の方滝坂へ出る道あれども、難路なるべし、然るを世人岩淵寺は滝坂道より北或は南なりと喋々すれども、滝坂道の近傍左右に立入、伽藍跡と覚しき地勢を見ず、久代岩淵寺伽藍坊舎ありて、大衆蜂起の事ありて、小寺にあらず、其頃滝坂辺より南へ越ゆる道ありしなるべし、地勢南降、水は鹿野園の方へ落、下流岩淵川となる(今、岩井川)岩淵寺は鹿野園白毫寺の方より登るは本道ならんか、是を以て考ふるに、滝坂道より北は香山堂の遺址南へ十五町入て岩淵寺の跡なり。○京華要誌 岩淵寺の十二神将は今新薬師寺に移さる、其像は考古家称して無双の妙巧に成ると云ふ者也。○石淵寺は其址高円山の東に残る、何の世にや当時の□天地院の稚子(喝食抄弥)を奪ふたるより、僧寺間の争闘となり、遂に勒操僧都の遺跡も一朝にして兵火に罹る、稚子塚は若草山の西に在りて、今も燐火出でて、俗に逢火と名づくとぞ。
高円《タカマト》山 春日山の南に在り、白毫寺の上方なり。白毫寺《ビヤクガウジ》(東市村大字)に閻魔堂あり寺墟なるべし縁起詳ならず、岩淵寺と同く勒操開基と称せり。(此地に天武皇子志貴親王の家ありし如し)
霊亀元年志貴親王薨時作歌
梓弓手に取持て、ますらをのさつ矢たばさみ、立向ふ高円山に、春野やく野火と見るまで、燎る火をいかがと問ば、玉梓の道ゆく人の、泣く涙云々、〔万葉集〕
高円の野辺の秋はぎいたづらにさきてちるかも見る人なしに、〔同上〕
春日《カスガ》高円離宮址 続日本紀、和銅元年、同五年春日離宮行幸の事あり、後世|尾上宮《ヲノヘノミヤ》と云ふ皆是なるべし、古市の東方高円山の下に宮址ありと云ふ。〔名所図会〕
天平十一年己卯、天皇遊※[けものへん+葛]高円野之時、小獣泄走堵里之中、於是適値勇士而見獲、即以此獣、献上御在所歌。
丈夫の高円山にせめたれば里に下りけるむささびぞこれ、〔万葉集〕 坂上郎女
夕ぐれのころも手すずし高まとの尾上の宮の秋の初風、〔金塊集〕 鎌倉右大臣
続日本紀云、天平宝字四年、石川朝臣広成、賜姓高円朝臣。姓氏録云、高円朝臣、出自広世也、元就母氏為石川。
鹿野苑《ロクヤヲン》 今東市村の大字なり、寺墟なるべし、昔梵福寺と云ふ者ありきと。鉢伏山《ハチフセヤマ》あり、春日烽火即此なりとぞ。※[けものへん+葛]高野《カリタカノ》あり、姓氏録云、右京諸蕃、雁高宿禰、出自百済国貴主王也。
※[けものへん+葛]高の高円山をたかみかもいでくる月の遅くてるらむ、〔万葉集〕 坂上郎女
鉢伏八幡宮は延喜式|宅布世《イヘフセ》神社なるべし、宅を伏せたる如き山あれば地名に因れる社号なり、書紀通証に之を多寄波世《タキハセ》と訓みて竹葉瀬君の関係に充てたるは採るべからず。
補【多奇波世】○奈良県名勝志 宅布世神社、東市村大字鉢伏字城の下に在り、境内二百四十坪、里人八幡宮と称す、姓氏録に曰く、豊城入彦五世の孫多寄波世君と。〔姓氏録、住吉朝臣条〕
八島《ヤシマ》郷 和名抄、添上郡八島郷、訓也之末。今東市村に大字八島あり、明治《メイヂ》村|平和《ヒラワ》村も此郷内にや。
島田《シマダ》神社は八島山の西麓にあり、延喜式に列す。姓氏録云、島田臣、神八井耳命之後也。古市の石立《イハタツ》神社参考すべし。
八島《ヤシマ》陵 桓武皇太弟早良親王の墓なり。親王延暦四年罪あり淡路に配流せられ途にして卒したまふ、追号して崇道天皇と曰ひ、山陵を八島に営み八島寺を建てらる。扶桑略記に山階に八島寺を建つとあるは不審なり、今寺廃し廟存す。延喜式云、八島陵、崇道天皇、在添上郡兆城東西五町南北四町。陵墓一隅抄云、八島陵は八島に廟存すれど、陵地を失へり。
古市《フルイチ》 古市は八島郷の首里なり、今|東市《ヒガシイチ》と改む、元和五年藤堂家(伊勢津藩)陣屋を此に築き、散在の領村を管治せり、明治四年停廃す。
穴次《アナツキ》神社は延喜式に列す、今古市の井栗に在り。石立命神社は延喜式御前杜原石立命に作る、(一本杜を社に作り一本原字なし)今古市に在りて御前石立《ミサキイハタツ》明神と称す。延喜式に添上郡内本社の外に天乃石立神社又五百立神社あり、大和志に前者は柳生村(小柳生岩戸谷)に在り、後者は東大寺(五百余社)に在りと云ふ、蓋以上三社一類の神にして島田臣同祖の氏神ならん、即神八井耳命の孫建五百健命并に健磐龍命を祭ると云ふ説採るべし。
神祇志料云、神八井耳命島田臣科野国造阿蘇国造等の祖也、旧事紀国造本紀神八井耳命孫建五百健命を科野国造とする事みえ、神名帳肥後阿蘇郡健磐龍神社あり、阿蘇系図に神八井耳命の子とす、之に拠らば五百立は五百健に石立は磐龍に音通へり、且上に島田神社あるは或は神八井耳命を祀り、二社は即建五百健命健磐龍命を祀れるにやあらむ、然れども未だ明証を得ず、故今附て考に備ふ。
稗田《ヒタ》 八島の西に在り、今平和と改む、大字稗田存す。日本書紀、壬申乱の条に、大伴吹負稗田に至り近江の軍来るを聞き乃楽山に赴くと云も此なるべし。又延喜式売田神社あり、書紀通証に古事記※[言+音]唱者稗田阿礼は此里人なるべしと曰へり。大八洲会雑誌云
稗田阿礼は天※[金+田]女命の子孫なる事は、弘仁私記序に「先是浄御原天皇御宇之日、有舎人、姓稗田、名阿礼、云々」とある本註に阿礼天※[金+田]女命後也と見え、また斎部氏家牒にも「阿礼者、宇治土公庶流、天※[金+田]女命之末葉也」とあるにて知られたり。稗田氏の猿女君なる由は、西宮記に「猿女依縫殿寮解、内侍奏補之」とある裏書に「貢猿女事、弘仁四年十月廿八日、猿女公氏之女一人、進縫殿寮、延喜廿年十月十四日、昨尚侍令奏、縫殿寮申、以※[くさがんむり+稗]田福貞子、請為※[くさがんむり+稗]田海子死闕替云、天暦九年正月廿五日、右大臣令奏、縫殿寮申、被給官符於大和近江国氏人、令差進猿女三人死闕替云、」と見えたるにて知らる。さて稗田とは、住所の地名を負へるにぞありける、其は神名式なる大和国添上郡売田神社を、今本にヒメタとあり、大和志に「在稗田村今称三社明神」と、元は比売田と有りけむを脱せしなるべく、此猿女君の代々領居し地なるから、其遠祖を祭れるなるべし。又式に、近江国伊香郡売比田神社も、今本にヒメタと訓み、古本に比売田とあり、此も※[金+田]女命を祭れるか近江国にも猿女の養田ありし事、類聚国史また三代格に見ゆ。
此稗田氏もと葛城郡巨勢より出でし者に似たり、又大同類聚神遺方に「佐野辺《サノヘ》薬大和国添上売田主之家」と見ゆと、或人曰へり。姓氏録、※[くさがんむり+稗]田《ヒタ》朝臣斐大臣同氏、巨勢雄柄宿禰四世孫稲茂臣之後、男荒人謚皇極大皇御世、佃葛城長田、其地野上漑水難、至荒人能解機術、始作長※[木+威]灌田、天皇大悦賜※[木+威]田臣姓。
三椅《ミハシ》 今平和村大字三橋と云ふ、稗田の東に在り。続日本紀云、元明天皇和銅七年十二月、新羅使入京、迎諸三橋。
永井《ナガヰ》 今明治村と改む、東市村の西平和村の東なり、中世は永井荘と称す。八雲御抄云、永井里、大和国。又摂津国に同名あり。
補【三椅《ミハシ》】○大和町村誌 三椅村は椅今橋に作る、和銅七年十二月新羅使入京、諸を此に迎ふ、今比田に合して平和村と曰ふ。
清澄《キヨスミ》 八島郷の東南を清澄荘と称す、今|五箇谷《ゴカタニ》村と改む。菩提山寺虚空蔵寺興隆寺など古刹あり、清澄池は大字高樋に在り万葉集に見ゆ、東大寺要録(長徳四年注文)添上郡清澄荘田廿七町。
吾こころ清隅のいけの池のそこわれはおもはずただにあふまで、〔万葉集〕
本朝世紀云、久安五年、(東大寺与薬師寺有企合戦事、尋其由緒、東大寺領清澄庄、与薬師寺領薬園庄接境之間、清澄庄住人等寄住薬師寺領、不随寺家所勘之故也。
虚空蔵《コクザウ》寺は五箇谷村の南にして、和爾に近し、弘仁寺と号す、東大寺に属し小野氏創立、弘法大師開基、聖宝僧正管領と云ふ、東大寺縁起に見ゆ。
菩提山《ボダイサン》は五箇谷村の北に在り、満山松杉檜椚茂生す、正暦《シヤウリヤク》寺あり真言宗、正暦三年僧兼俊開基、建保年中僧信円中興す、龍華樹院と号す。本尊薬師如来寛永の炎上に猛火の間に在りて免れしと云ふ、堂塔諸宇相排比し亦一名藍なり。
大岡《オホヲカ》郷 和名抄、添上郡大岡郷。此郷今詳ならず、蓋五箇谷村櫟本村にあたる、古の和珥分れて大岡山村の二卿と為れるか。
和珥 今|櫟本《イチヒモト》村是なり、大字和爾存す。和珥池は帯解《オビトケ》村大字池田に在り、和爾下神社は治道《チダウ》村に在り、古へ大邑広地なりしを知るべし。和珥氏は春日氏小野氏同祖、孝昭天皇に出でて大和山城近江摂津等に類族繁延せり。日本書紀云、天足彦国押人命(孝昭皇子)此和珥臣等始祖也。古事記云、開化天皇、娶|丸邇《ワニ》臣之祖日子国意祁都命之妹、生日子坐王。姓氏録云、左京皇別、和邇部宿禰、彦|姥津《オケツ》命四世孫矢田宿禰之後也。又和邇部、天足彦国押人命三世孫彦国葺命之後也。和珥氏分派の後は本地の人々春日の名を冠したる如し、日本書紀雄略巻に春日和珥臣あり、姓氏録に摂津皇別和邇部、大春日朝臣同祖天足国忍人命之後也と見ゆ。又異姓あり、姓氏録云、大和地祇、和仁、古大国主六世孫阿大賀田須命之後也。
和珥坂《ワニサカ》 和珥所在の坂なり、謂ゆる武※[金+(繰-糸)]坂《タケスキサカ》に同じきか。日本紀神武天皇中州平定の条に「層富県、和珥坂下、有居勢祝」とあり、祝《ハフリ》蓋凶猛に譬ふ、古語拾遺曰「天十握剣、其名天羽々斬、古語大蛇、謂之羽々云々」祝は蓋羽々人の謂なり、葬人と言相通ずれど異義にて、居勢《コセ》は地名なり。古事記応神帝の御歌に「伊知比韋の和邇佐の邇を」の句あり、本居氏云、櫟井の和爾坂の土の義なり、櫟井和爾同地なり、此辺昔は黛に好き土の殊に此地より出しなるべしと。按ずるに稗田の条に引ける神遺方佐野辺薬は即佐野邇《サヌニ》の誤たるべし、邇は赤土即丹也。
武※[金+(繰-糸)]坂《タケスキサカ》 日本書紀云、崇神天皇、遣大彦命与和珥臣遠祖彦国葺、向山背、撃埴安彦、爰以忌※[分/瓦]鎮座於和珥武※[金+(繰-糸)]坂、則率精兵進、登那羅山而軍。書紀通証に武※[金+(繰-糸)]坂金※[金+且]岡同処と為せど徴なきに似たり、金※[金+且]岡は古事記雄略巻に見ゆ「曰天皇幸行春日之時、媛女逢道、即見辛行而逃隠岡辺、改作御歌曰。
をとめのいかくるをかを加那須岐もいほちもがもすきはぬるもの
故号其岡謂金※[金+且]岡也。
和爾《ワニ》坐赤坂比古神社は今櫟本村大字和爾の天王社是なり、赤坂は坂上の土赤ければ云ふか、蓋和珥氏の祖神なり。神紙志料云、和爾神又丸神に作り、天平二年神戸租稲一余米を充てられし事正倉院文書に見ゆ、延喜の制大社に列す。
山村《ヤマムラ》郷 和名抄、添上郡山村郷、訓也末無良。今|帯解《オビトケ》村是なり、古の和珥の地に属す、昔は豊邑なりけるにや、其名夙に著る。日本書紀云、欽明天皇元年、百済人己知部投化、置倭国山村、今山村己知部之先也。姓氏録云、大和諸蕃山村忌寸、己智同祖古礼公之後也、己智出自秦太子胡苑也。霊異記云、添上郡山村中里。今昔物語云、添上郡山村里住人。
幸行山村之時歌二首〔万葉集〕
あし引の山行きしかば山人のわれにえしめしやまづとぞこれ、 聖武天皇
あし引の山にゆきけむ山人のこころも知らず山ひとやたれ、 舎人親王
円照寺《エンセウジ》は山村《ヤマムラ》御所と号す、後水尾太上皇の女深如海法尼の開創にして後四世相継ぎて皇女入室あり、其御墓存す、旧寺領三百石。
和珥《ワニ》池は帯解村大字池田に在り、越田《コセタ》池蓋是なり、神武天皇紀に見ゆる和珥坂の居勢とある亦此地なり。古事記仁徳帝の時に和邇池を作るとあり、日本書紀にも推古帝十一年和珥池を作ると載せらる。書紀通証云、添上郡和珥池、在池田村、一名光台寺池。大和町村誌云、池田村に天武皇子池田王宅址あり。
越田《コセタ》 帯解村田中池田などの地の古名なるべし。日本後紀云弘仁元年、太上皇赴東国、至大和国添上郡越田村、即聞甲兵遮前、乃旋宮。霊異記云、諾楽京池田池南、蓼原《タデハラ》里中、蓼原堂在薬師如来木像、当帝姫阿陪天皇(元明)之御代、其村有二盲女、帰敬薬師、現得明眼。田中村に廃隆興寺址あり、又田中大臣藤原仲麿の宅址あり。〔大和町村誌〕
帯解《オビトケ》 和珥の今市を云ふ近年寺号に因り村名を立つ、山村田中池田等之に属す。帯解寺は本尊地蔵菩薩、相伝ふ文徳皇后藤明子(染殿后)懐胎の時御祈あり報賽のために寺塔造立、後世因りて帯解寺と称すと、〔名所図会〕詣人多く至り、今に門前常に市を成す。
補【太祝詞《フトノリト》神社】○神祇志料 太祝詞神社、今森本村にあり、森神社といふ(奈良県神社取調書)
按、式社私考に坊目考に云、東新在家村にありしか、何世廃たる事を知らず、今社址とおぼしき処に木株の朽たる有しのみと云り、又大和志にも在所未詳とあるを、取調書にかく云るいぶかし、附て考に備ふ
蓋天香山坐櫛真智命の子大詔戸命を祀る(参取、釈日本紀引亀兆伝・延喜式)
按、亀兆伝に大詔戸神の事を天按持神の女、天香山池に住む、亀津比女命、今天津詔戸大詔戸命といふとある天按持は天櫛待の誤にて天櫛真智命と聞え、太諮戸命は其子神なること著しければ、其系を取て記せれど、亀津比女の名又亀との事は疑はしきに似たり、故に今取らず
称徳天皇天平神護元年神封一戸を充奉り(新抄格勅符)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預る(延喜式)
櫟本《イチヒノモト・イチノモト》 此の村は山辺郡石上村(今山辺村と曰ふ)に接し、小駅市なり、柿本《カキノモト》寺歌塚の旧跡あり。東大寺要録(長徳四年注文)添上郡櫟本荘。顕昭法師人丸勘文云、藤原清輔嘗過大和、聞故老言、添上郡石上寺傍有祠号治道社、祠辺寺号柿本寺、是人丸所建也、祠前小塚名人丸墓、寺礎僅存、墓高四尺許、因建卒都婆。長明無名抄云、人丸墓は大和に在り、初瀬へ参る道なり、人丸塚と云て尋るに知れる人なし、彼所には歌塚と云なる。家隆卿柿本講式云、大和国添上郡石上寺のほとり、治道《ハルミチ》の森の中に一の草堂を建て、爰に柿本を葬る。按ずるに人麿墓は石見国にも在り、孰か是なるを知らず、然れども此地柿本氏の邑たりし事信ずべし、姓氏録、大和皇別柿下朝臣、大春日朝臣同祖、天足彦国押人命之後也、敏達天皇御世、依家門有柿樹、為柿本臣氏、此柿下氏の家は是地なるや明なり。
高橋《タカハシ》 神祇志料云 一説延喜式高橋神社は今八条に在れど櫟本の高階と云地を旧境とす、日本書紀の歌に石上布留を過て薦枕高橋を過ぎとある地理よく符へり。日本書紀云、崇神天皇、以高橋邑人活日、為大神之掌酒。旧事紀云、宇摩志麻治命十三世孫物部建彦連公、高橋連等祖。日本書紀、雄略皇女春日大娘、更名高橋皇女。
櫟井《イチヒヰ》 櫟本村の西に在り、今横田村と合し治道《チダウ》村と称す。和珥櫟井は昔同族の一地を分ちたる称なり、古事記云、天押足日子命者、壱比韋臣之祖也。姓氏録云、左京皇別櫟井臣、和爾部同祖彦姥津命之後也。古事記応神天皇の御歌に「伊知比韋の和邇坂の土を」とあり、又允恭記に「衣通郎姫、従烏賊津使主而来、到倭春日食于櫟井上、弟姫親賜酒于使主、慰其意」と載せたり。
和爾下神社は横田に在り下|治道《ハルミチ》天王と称す、上治道天王は櫟本村に在り、〔大和志〕蓋和珥壱比韋氏等の祖神なり、延喜式に列せり。治道と云も古地名ならん。
刺なべに湯わかせ子ども櫟津の檜橋よりこむ狐にあむさむ、〔万葉集〕
補【和爾下神社】○神祇志料 和爾下神社二坐、今一座は上治道天王といふ、和爾村の南櫟本村にあり、一座は下治道天王といふ、横田村にあり(大和志・神名帳考証・名所図会)蓋和珥臣の祖天押足日子命、大倭帯彦国押人命を祭る(日本書紀・姓氏録大要)凡そ毎年八月十三日祭を行ふ、神官櫟井氏、其神裔也(奈良県神社取調書)
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楊生《ヤギフ》郷 和名抄、添上郡楊生郷、訓也木布。楊生は三代実録貞観元年養父に作り、後世柳生に作る。今大柳生村柳生村|東山《ヒガシヤマ》村(大柳生の東)月瀬《ツキガセ》村(東山の東)東里村(大柳生の西春日山東)狭川《サカハ》村(柳生の西)等に分る。
大柳生《オホヤギフ》 楊生郷の中央にして山口神社あり、文徳実録楊生山口神、三代実録養父山口神とありて延喜式に列せり。
忍辱施《ニニクセ》 今大柳生村の大字なり、忍辱施は元寺号ににて楊生山中の練若なりしが、後世衰へ城州東山(鹿谷《シシダニ》)の円成寺《ヱンジヤウジ》をば此に移し、忍辱施寺の遺跡を并せ伝へしむ、今真言宗を奉じ、正堂護摩堂多宝塔昭堂等あり、幽邃閑寂の浄刹也。寺伝に忍辱施寺は聖武帝本願、唐僧虚滝開基、律師実範中興とぞ。
柳生《ヤギフ》 陣屋ありて今に地方の首村たり。柳生但馬守宗矩は本邑の人にして撃剣を善くし、徳川家光に仕へ封侯の班に列す、采地一万石を賜はり寛永十九年陣屋を本村に置く、近年に至るまで持続す。
広岡《ヒロヲカ》 東大寺要録云、普光寺、又云広岡寺、右寺在添上郡、奉為平城後太上天皇、以天平勝宝五年八月、正二位広岡夫人公所建立也。(今狭川村大字広岡)
月瀬《ツキノセ・ツキガセ》 柳生の東一里を月瀬村と云ふ、(奈良を去る凡三里半)梅花を以て著る、大和伊賀及山城(相楽郡)の交界地にして月瀬村大字尾山桃香野最佳なり、波多野村(山辺郡)大字嵩|獺瀬《ウソセ》広瀬并に花垣村(名賀郡)大字沼田白樫等交錯して名張川(一名|差月《サツキ》川)を挟む、山際水涯皆梅を植ゑ、世に月瀬の梅渓と曰ふ。此諸村は山中に僻在し梅実を採り染料と為し以て活計を為す、文政中時の領主藤堂家(津藩)の儒生斎藤拙堂遊記を草し其勝絶を激賞す、此より名海内に伝へ年々遊賞の客之を訪ふと云ふ。蔵玉和歌集に、春日神社常陸より勧請の時、伊賀より月瀬里に移り遂に御笠山に垂跡したまふと記す、差月《サツキ》川は山城(相楽郡)大河原村に至り泉河と為る。
拙堂梅渓遊記云、何の地か梅無らん何の郷か山水無らんや、唯和州の梅渓、花山水を挟んで而して奇、山水花を得て而して麗、天下の絶勝たり、然れども地州の東陬に在り、頗ぶる幽僻にして旧と造り観る者罕れに名甚だ顕はれず、顕はれしは我伊人より始まりしと云ふ、渓傍に種梅を業と為す者凡そ十村、曰く石打曰く尾山曰く長引曰く桃野曰く月瀬曰く嵩曰く獺瀬曰く広瀬和州に属す、曰く白樫曰く治田伊州に属し我上野城南三里許に在り、旧志を按ずるに月瀬諸村多くは伊に属し、伊人道ふ昔戦国の際豪強相奪ひ此地始めて和に属すと、今其地勢を審にするに上野城に近く山脈相通ず理固より応に然るべし、故に和人の来る常に少なく而して四五十年伊人毎に往て観る焉、渓の勝是に於て乎顕はる矣、十村の梅幾万株なるを知らず然れども尽くは谿に臨まず、谿に臨む者最も清絶と為す、谿源を和の宇陀に発し此に到る広さ殆んど百歩、尾山其北岸に在り嵩月瀬桃野其南岸に在り、危峰層巌簇々其間に錯立し、梅之れが経となり而して梅之が緯と為り、水竹之に点綴す。大八洲遊記云、月瀬は怪石紛錯して、梅と駢立雄を争ふ、河心亦※[山+(纔-糸)]石竦時す、流石を噛み驚奔怒号す、拙堂遊記唯梅花を賞して水石に及ばず、山陽句に云ふ渓山玉絶瑕と其実を得たり、此地本乾梅子を晒し烏梅と為し之を染工に鬻げり、近年西洋紅染に圧せられ其価大減し、三十貫纔に二円、(旧価二十両)故に斬伐以て薪と為す者あり、後年或は鋤して麦畦と為るも知るべからざる也。
月瀬 頼山陽
両山相蹙一渓明、路断游人呼渡行、水与梅花争隙地、倒涵万玉影斜陽、
観梅月瀬村、村属和州、一水貫山而下、凡二十余里、山嶺水涯、巌曲洞口、目之所向、無不看梅花、莫測其幾万株、実天下奇観、惜地僻罕観者、
梁川星巌
衝破春寒暁出城、東風剪々弄衣軽、漫山匝水二十里、尽日梅花香裡行、
瞑煙濃抹水東西、寒圧梅花万玉低、鐘磐数声知有寺、山岩一色欲無蹊、酒将醒処風吹帽、雲忽開時月落渓、怪得※[糸+賓]紛瓊屑乱、梢頭和影鶴来栖、
桃香野《モモカノ》 梅渓遊記云、舟中既に尾上諸谷を覧る、又西して桃野を観んと欲す、纔に棹を転ずれば則北岸に未だ見ざる所の山突兀として躍り出づ、樹石雑焉、蚌龍虎豹、譎詭夭矯、一石有り人の冠して而して立つ如し烏帽子巌と曰ふ、水益々駛く、激※[てへん+(甫/寸)]※[石+畏]※[石+壘]、仰ぎ見れば桃野前に在り、地勢※[こざとへん+走]絶、黄芽数家縹渺として梅花爛※[火+曼]の間に現出し、瑤宮※[王+(橘−木)]闕の白雲中に在るが如く、望むべく而して即く可からざる也、[たけがんむり+高]夫云ふ此渓夏月毎に躑躅花開き、水変じて猩血色を作す、亦奇絶なり、故に名づけて躑躅川と為す也と。
補【月瀬山】添上郡○地誌提要 差月川より凡そ拾町、梅花を以て著る、梅林凡そ三拾町。 月瀬観梅 張紅蘭
山雲篩白界斜陽 万玉※[(斂−ぼくにょう)+欠]容如譲光 与雪相争応不屑 待他月姉闘明粧
補【尾山】○梅渓遊記(斎藤拙堂)一目千本は尾山谷八谷の一也、花最も饒し、故に此名有り、蓋し芳野の桜谷に比すと云ふ、尾山の梅谷を以て量る、八谷各数百千樹、真福其極西に在り、其下を初谷と為す、名を敞谷と曰ふ、第二を鹿飛と曰ひ、第三を捜窪と曰ふ、其上に天狗巌有り、羽客の※[てへん+妻]止する所と謂ふ、第四を祝谷と曰ひ、第五を菖蒲谷と曰ひ、第六を杉谷と曰ふ、第七は即ち一目千本、第八を大谷と曰ふ、土人曰く、尾山一村にして上熟には乾梅二百駄を待、毎駄壱料伍斗、重さ弐陌斤なり、此間十余村を併せば中熟にして大抵千四百駄を得、上熟なれば二千駄なり、毎駄の価銀玖什銭、或は陌銭と云ふと、蓋し地既に※[土+堯]埆耕すべからず、此を以て穀に当つ、実熟するに及んで採乾し、京都の染肆に送る、獲銭万石の入に減ぜず、亦山中の経済也。
波多野《ハタノ》 この一村は月瀬の東南に接す、今山辺郡に属すれど古は添上郡中なり、蓋亦楊生郷の別にして闘鶏《ツゲ》国の旧域なるべし、東は伊賀国と名張川を以て相隔て山中幽僻の地也。
波多野の首部を中峰山《ナカミネヤマ》と云ふ横山神社あり、延喜式添上郡神波多神社即是なり、〔大和志県名勝志〕大字春日に春日神社あり、又延喜式添上郡の一社にあたる。
田原《タハラ》陵 光仁天皇并に御父施基皇子の御陵なり、田原村大字|日笠《ヒカサ》并に矢田原に在り、東西を以て相別つ。
田原東陵 延喜式云、田原東陵、平城宮御宇天宗高紹天皇、(光仁)在添上郡兆城東西八町南北九町。山陵志云、田原別為二村、今東田原村之東有古墳、曰王墓、此即東陵也。光仁帝初め広岡山に葬り、復田原に改葬す、東田原の北に広岡の字あり。〔名所図会〕
田原西陵 延喜式云、田原西陵、春日宮御宇、(田原)天皇在添上郡兆城東西九町南北九町。陵墓一隅抄云。田原村矢田原の西に在り。山陵志云、西田原村有古墳、呼為|君之平《キミノヒラ》此也。
山辺《ヤマノベ》郷 和名抄、添上郡山辺郷。今の田原村蓋是なり、山辺郡山中の地、謂ゆる旧闘鶏国と相接す。惟ふに本郡楊生郷山辺郷及び山辺郡都介郷星川郷等は大和平原地の山背に在り別に一区を成す、昔闘鶏国の建置ありしも以ありと謂ふべし。
生駒郡
生駒《イコマ》郡 明治廿九年添下平群の二郡を合併し生駒郡と曰ふ、生駒は本州西界の大嶺にして古より著る、郡名之に因る。郡衙は郡山町に在り十八村を管治す。添上平群は本来郡界交錯して、大抵南方を平群と為し北方を添下と為せり、国郡制置以前に在りては倶に層富県に属せり。生駒郡は山嶺を以て河内に堺す、生駒山|暗峠《クラガリタウゲ》信貴山等相並び、生駒川其下を流る、富小川其東に在り.、秋篠川更に其東に在り、佐保川添上郡より来り秋篠富生駒の三水を併せ立田川と為る、以て南界を限る、北方は一帯の高陵にして水脈に従ひて南下す。
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添下《ソフノシモ》郡 和名抄、延喜式、添下郡、訓曾不乃之毛。日本書紀「白鳳五年、倭国添下郡、鰐積善事、頁瑞鶏、其冠似海石榴華」とあれば、天武帝以前の分郡なり。本郡東部は平城京右京の地にして今|都跡《ミアト》村近傍是なり、延暦以後廃都と為ると雖、西大寺招提寺薬師寺の名藍尚存し、和名抄四郷に分つ、或は添大郡と曰へり。
秋篠《アキシノ》 今|平城《ヘイジャウ》村と改む、平城京西北隅の渓澗にあたる、潤水は押熊《オシクマ》山より発源し、南流右京三坊の墟を貫き、佐保川へ入り、郡山の東に於て大橋川と称す。秋篠は歌に外山《トヤマ》の里と詠ず、外山とは高嶺の外周に居る山を云ふ、秋篠の西に生駒山あり。
秋しのや外山の里やしぐるらん伊駒の岳に雲のかかれる、〔新古今集〕 西行法師
朝日さす生駒の岳はあらはれて霧たちこむるあき篠の里、〔玉葉集〕 参議実俊
続日本紀云、延暦元年、土師宿禰安人等言、臣等遠粗野見宿禰、造作物象、以代殉人、垂裕後昆、生民頼之、而其後子孫、動預凶儀、尋念祖業、意不在茲、是以土師宿禰古人等、前年因居地名改姓菅原、望請安人等改為秋篠、詔許之。姓氏録云、和泉神別土師宿禰、秋篠朝臣同祖天穂日命十四世孫野見宿禰後也、右京神別秋篠朝臣、土師朝臣同祖、乾飯根命七世孫大保慶連之後也。秋篠氏は桓武帝外戚家の姻類にして、秋篠寺即其氏寺なりしならん。
秋篠寺《アキシヌデラ。シウゼウジ》 平城村大字秋篠に在り。寺伝に光仁天皇宝亀十一年善珠法師(元興寺元※[日+方]徒)創建と云ふ、是歳勅封一百戸秋篠寺の事、続日本紀に載せたり、続紀弘仁三年又一百戸の施入あり。中世以後衰頽し、醍醐三宝院に属し修験道場と為る、幸にして講堂一宇(保延中再営)存在し古仏像を置く。技芸天木造立像一躯運慶作、梵天木造一躯安阿弥作、救脱菩薩木造立像一躯以上は明治卅一年国宝に列す、其他薬師十二神将等の妙作あり。
押熊《オシクマ》 平城《ヘイジヤウ》村大字押熊は秋篠川の源にして、北方は山城国相楽郡と一丘を隔つのみ。仲哀天皇の※[鹿/弭]坂忍熊二皇子の乳部此地に在りしか、書紀通証云押熊村に押熊祠あり、鹿畑村に※[鹿/弭]坂祠ありと、鹿畑《シカハタ》は押熊の北に接す古は鹿子《カコ》坂と云へる者にや。
狭城楯列池上《サキタテナミノイケノヘ》陵 神功皇后の御陵なり、佐紀の郷|縦列《タテナミ》の池の辺に在り、(今五杜神八幡宮北)今池なし、山陵《ミササキ》村(平城村大字)の北に当り御陵山《ミササキヤマ》と称す、丘に倚り南面す、瓢形(長径二百間)周壕あり、其北方欠け東方は損す、秋篠寺の東八町也。日本紀、気長足姫尊葬狭城盾列陵。延喜式、狭城楯列池上陵、磐余椎桜宮御宇天皇、在添下郡兆城東西二町南北二町。類聚国史、仁明天皇承和十年四月、去三月十八日有奇異、捜検図録、有二盾並山陵、北則神功皇后、南則成務天皇、世人相伝以南陵為神功之陵、偏依是口伝、毎有神功之祟、空謝成務之陵、先年縁神功之崇、所作弓剣之類誤進成務陵、今日改奉於神功陵。八幡愚童訓云、神功皇后稚桜宮にて崩御なし給ふ、天下涙をば袖のしがらみせきあへず、さてしも有可きならねば葬礼の儀式調て秋篠山陵に納め奉る、異国蜂起の時は此山陵官幣奉り祈申させ給ふ也、則是当社(宇佐八幡)にて東御前大多羅志女の御事也。
補【秋篠】○八幡愚童訓〔重出〕皇后息長足宿禰女にして開化天皇五世孫、御母儀者城高額姫也、卅二年御年即帝位、治天六十九年をへて一百〔ト〕申〔セシ〕四月十七日大和国十市郡磐余稚桜宮ニテ崩御なり給ふ、天下涙をば袖のしがらみせき不敢、折知顔時鳥彼方此方鳴渡、そよや月雲隠しは是も別を忍とや、花橘匂、馴昔袖香何思連つつ、さてしも可有ならねば葬礼の儀式を調て、大和国秋篠山陵奉納、異国蜂起時は此山陵奉官幣祈申させ給也、則是当社には東御前大多羅志女御事也、神亀元年筑前国若椙山香椎宮造、崇聖母大菩薩給へり。
狭城盾列池後《サキタテナミノイケジリ》陵 成務天皇の御陵なり、池上陵の南四町に在り。瓢形周濠長径百二十間横幅八十間許、高野山陵其南に接す。和州巡覧記云、成務御陵は石塚と云近年(享保以前)本多内記正勝郡山城を領し給ふ頃、里人此に石を掘取り石棺に掘当り棺を披て見れば大刀短刀鏡などあり、本多氏之を聞き元の如く土を封ずべしと命ぜらる。日本書紀云、稚足彦天皇、葬于狭城盾列陵。延喜式云、狭城盾列池後陵、志賀高穴穂宮御宇天皇、在添下郡兆城東西一町南北三町。本陵は池上陵を参考すべし、此二陵は式の兆域よりも現存陵形過大なり、疑ふべし。(楯列池は今山陵の民家の辺か、不審)
狭木寺間《サキテラマ》陵 垂仁皇后日葉酢姫の御陵なり、盾列池後陵の東に接す、瓢形岡濠其大相似たり。本陵の東に方り古荒墳四所あり、一は東北一町許円塚(丘上に在り)と為す、他は東小池を隔てて相集り、円塚一瓢塚二なり。日本書紀云、垂仁皇后日葉酢媛命薨、野見宿補領土部等、取埴以造作人馬及種々物形、献于天皇曰、自今以後以是土物更易生人、樹於陵墓、仍号是土物謂埴輪、天皇大喜、下命曰、自今以後樹是土物、無傷人焉。古事記云、比婆須比売命者、葬狭木之寺間陵。同伝曰、寺間は他書に見えず今も聞えず、続紀に大和国人従七位下寺間臣大虫等四人賜姓大屋朝臣とあるは此地より出でつらむ、此は寺と云ものありて後の地名なるを古に及して云るなるべし。本陵の東に南北相并び四池あり、山陵志之を以て盾列池と為す、即ち池東の古陵を以て神功成務と為す者の如し。
高野《タカノ》陵 孝謙称徳天皇の御陵なり、今狭城盾列池後陵の南に接する者を以て之に充つ、陵制卑小なれど高塚と称し周濠存す。陵墓一隅抄云、西大寺東北古墳是也、史曰以鈴鹿王旧宅為山陵。(一説)山陵志云、成務陵、其東南神功陵、西北孝謙陵也、在高野。(一説)続日本紀云、神護景雲四年、故鈴鹿王旧宅為山陵、葬高野天皇於添下郡佐貴郷高野山陵。延喜式云、高野陵、平城宮御宇天皇、在添下郡兆城東西五町南北三町。按に西大寺は高野寺と称し今に至るも変ぜず、高野は本彼地の名にして天皇の別号なり、今の陵域と相距る事八町、陵墓一隅抄西大寺東北と云者今陵に同じきか疑惑多し。西大寺資財流記云、西大寺、居地参拾壱町、在右京一条三四坊、東限佐貴路、除東北角喪儀寮、南限一条南路、西限京極、除山陵八町、北限京極路。
みわたせば高野の野辺のうつき原みな白妙にさきにけらしな、〔万葉集〕〔未詳〕
歌姫《ウタヒメ》 古京の北郊、那羅山の麓にして佐紀池の北なる民村なり。(今平城村大字)歌姫より那羅山を踰ゆるに二路あり、一は相楽郡木津へ一は同郡相楽へ出づべし、歌姫越と称す。古は奈良坂とも云ひ今奈良町の奈良坂と同名異地なり、平城京の世には春日奈良坂よりも此佐紀奈良坂の方通衢たりしか、平家物語治承四年平家南都責入の時、大衆は奈良坂般若坂両所を防ぎけるに、平重衡之を破り法華寺へ入と云ふは、奈良坂即歌姫越を云へり。
寧楽山作歌
佐保過ぎて寧楽の手祭《タムケ》に置くぬさはいもをめかれず相見しめとぞ、〔万葉集〕 長屋王
歌姫民家の西二町許圃中に瓢形の古墳あり。
坂上《サカノウヘ》 歌姫の古名ならずや、大伴坂上大娘の居地とす、万葉集云、坂上大嬢、是右大弁大伴宿奈麿卿之女也、卿居田村里、但大嬢居坂上里、仍曰坂上大嬢。又坂上氏あり、刈田田村の二将軍の居地即此なるべし居に依り氏を命ずるは古の法なり。姓氏録云、右京諸蕃坂上大宿禰、出自後漠霊帝男延王也。田村里と云ふも近地なるべし、平城京址参考すべし。
坂上墓 歌姫の東南四町狭城池の北畔に在り、高大無比の古陵なり、平地に就き築成、前方後円周濠二重、凸起瓢形を為す、縦二百間横百三十間蓋仁徳皇后磐之媛陵と云。日本書紀磐之姫命、葬于那羅山。延喜式云、平城坂上墓、磐之嬢、在添上郡兆城東西一町南北一町、令楯列池上陵戸兼守。坂上墓式の明文は現在の陵形に合せず疑はし、又本陵の東北に古墳円塚二所、東南小奈閉陵の間に円塚二所、南方狭城池畔に円塚三所あり、小奈閉は添上郡佐保に属すれば本陵辺も添上郡の地たりし事ありしか、土俗ヒシヤケ山と呼ぶ。
狭城池《サキノイケ》 古京の北郊、宮城の北数町に方る。小奈閉山(添上郡佐保村)の西、楊梅陵(添下郡都跡村大字佐紀)の東也、法華寺は池南に在り、方二百間土俗|水上《ミナカミ》池と云、日本書紀「垂仁天皇作倭狭城池迹見池」是なり。迹見池詳ならず、続日本妃聖武天皇「神亀五年三月、御鳥池塘、宴五位已上、召文人令賦曲水之詩」とあり、鳥《トリ》池亦同じきか、宮北狭城池の附近にありし者ならん。
楊梅《ヤマモモ》陵 平城天皇の御陵なり、今都跡村大字佐紀超昇寺と字する地に在り、土俗|禰知《ネチ》山と称す。〔陵墓一隅抄〕延喜式云、楊梅陵、平城宮御宇日本根子推国彦天皇、在添上郡兆城南北四町東西二町。本域古は添上郡に属せりと云ふ事不審なり、狭城池の西なれば添下郡たる事明なり、又楊梅天神杜は添上郡法華寺に在り、然りと雖此超昇寺の遺墟にして即楊梅宮の古跡たるべければ、御陵疑を挟むべきに非ず。(御陵の字を常福寺とも云ふ、常福も超昇同縁起の廃墟か、)
楊梅《ヤマモモ》宮址 続日本紀云、光仁天皇宝亀三年、彗星見南方、屈僧一百口、設斎於楊梅宮。八年 山楊梅宮南池生蓮一茎二花此宮蓋孝謙帝の内裡にして延暦遷都後まで存在し平城帝も御したまひ、後超昇寺と為れるならん、超昇寺は平城皇子真如(廃太子高岳)創建なり。
超昇寺《テウシヨウジ》址 寺址は狭城弛の西に在り楊梅宮址に同じ。僧綱補任云、壱演僧正、謚慈済修行者、右京人大中臣氏、父備中持麿也、在俗内舎人、名正棟、承和二年出家入道、一生間誦持金剛般若、未有退転、時藤良房重病、壱演披巻未至軸之間、病即愈、為超昇寺座主、依本願真如親王之弟子也。元亨釈書云、清海入超勝寺精勤、一日香煙之中弥陀像現、其長五六寸、海感喜便取像、奉安今尚在焉。○名所図会云、超昇寺念仏堂は天正の頃兵火に罹り焼亡す。
扶桑略記云、天慶五年、在唐僧中※[王+(觀−見)]申状称、前春宮坊無品高丘親王、先過震且、欲度流沙、風聞到羅越国、逆旅遷化云々、親王者平城太上天皇之第三子、去大同五年廃皇太子、親王帰命覚路、混形沙門、名曰真如、往東大寺、心自為真言宗義、師資相伝、猶有不通、凡在此間難可質疑、若求入唐、了悟幽旨、乃至庶幾、尋訪天竺、貞観三年上表曰、真如出家以降四十余年、而一事未遂、所願跋諸国之山林、渇仰斗薮之勝跡、勅依請、即便下知山陰山陽南海等諸道、所到安置供養、四年奏請擬入西唐、適被可許、乃乗一舶渡海、彼之道俗、甚見珍敬、親王遍詢衆徳、※[石+疑]碍難決、送書律師道詮曰、漠家論学、無及吾師、至于真言、有足共言焉、親王遂錫杖就路、身殞瀬中途。
賀陽豊年墓は楊梅陵下に在りと云ふも今詳ならず。
後紀云、賀陽豊年、該精経史、射策甲科、秉操守義、無所屈撓、自非知己、不好造接、大納言石上宅嗣、礼待周厚、屈芸亭院、延暦年中任東宮学士、及践酢、拝式部大輔、既而女謁屡進、英賢見預、厥後天皇不予、伝位上(嵯峨)嗣、遷御平城、不預追従、猶守本職、及于後乱、自※[(揖−てへん)+戈]辞退、今上惜其宏材、任播磨守、在任三年、移病入京、臥于宇治之別業、昔仁徳天皇与宇治稚郎相譲之事、具著国典、故老亦語風俗、病裡聞之、追感不已、託左大臣、(藤冬嗣)慕為地下之臣、弘仁六年卒日、有勅葬陵下、贈正四位下、以崇国華也、時人猶謂天爵有余人爵不足。
日本逸史、大同四年十一月、於摂津国豊島為奈等野、及平城旧都、占太上天皇宮地、庚寅遣右兵衛督藤原仲成、造平城宮、戊戌令畿内諸国、雇工及夫二千五百人、以造平城宮也。五年九月依太上天皇命、擬遷都於平城、正三位坂上田村麿従四位藤原冬嗣等為造宮使、丁未縁遷都事、人心騒動、仍遣使鎮固伊勢近江美濃等三国府並故関、繋藤原仲成於右兵衛府、詔曰云々。弘仁二年勅、開平城宮諸衛官人等、出入任意、不勤宿衛、宜直彼参議加督寮焉。〔類聚国史日本紀略〕按に平城宮址は超昇寺なるべし、是平城帝の御子高岳親王の本願なればなり、扶桑略記、元慶二年の条に「修行伝燈賢大法師位真如本願超昇寺」と録す。又続日本後紀云「承和二年、旧宮処、水陸地卅余町、永賜高岳親王、親王者天推国高彦天皇第三子也、大同年末、少登儲弐、世人号曰蹲居太子、遂遭時変、失位落髪」と見ゆ、以て傍証と為すべし。又親王の皇孫の事は三代実録「元慶三年勅、無品高岳親王入唐之後、男正五位下在原朝臣安貞等、請被返収親王封邑、朝家思其遺愛、不忍聴許、如今年紀徒積、帰来無期、宜仰所司令允安貞往日之請焉」とあるにて、其情実を推知すべし。
佐紀《サキ》郷 和名抄、添下郡佐紀郷。古書狭木狭城佐貴等に作る、平城京西北部、今|平城《ヘイジヤウ》村及都跡《ミアト》村(大字佐紀)伏見《フシミ》村にあたる、山陵志云、狭城崎也、言山阜陬※[山+禺]、今超昇寺西北、為|山陵《ミササイ》村、実是山阜陬※[山+禺]、而有四池、皆南北縦列、里老相伝故七池、其三曰作田、所謂盾列池、即縦列池也。霊異記に「犬養宿禰真老者、居住諾楽京活目陵北之佐岐村」と見ゆ、活目陵は即菅原伏見陵なれば伏見村も本郷に属せるに似たり、但今の都跡村五条以南は村国郷なるべし。
補【佐紀】続紀神護景雲三年八月、葬高野天皇於大和国添下郡佐貴郷高野山陵。諸陵式、狭城盾列池後陵、志賀高穴穂宮御宇成務天皇在大和国添下郡、兆城東西一町南北三町、守戸五烟。神名式、佐貴神社。大和志、佐紀郷已廃、存超昇寺常福寺二村。万葉集、咲野。霊異記、犬養宿禰真老者居住諾楽京活目陵北之佐岐村。古事記、沙紀之多他那美。前皇廟陵記、狭城郷名続紀作佐貴、在奈良西超昇寺戌亥、盾列池今没、薬師寺其跡云。諸陵周垣成就記、狭城盾列の池と申所未詳。山陵志、狭城崎也、言山阜陬※[山+禺]、今超昇寺西北為|山陵《ミササイ》村、実是山阜陬※[山+禺]而有四池焉、池皆南北縦列、里老相伝、故七池、其三已作田、所謂盾列池即縦列池也、盾縦音借也。類字名所集、佐幾野、未勘。〔和名抄郡郷考〕風雅集、春山のさきののすすきかきわけてつめる若菜にあは雪ぞふる、藤原基俊。勝地吐懐編、これは万葉第八に、春山の開《サキ》の乎烏里に春《ワカ》菜摘妹之白紐見九四与四門、このうたを取用たる也、大和国添下郡に佐幾といふ所あり、日本紀に狭城とあり、そこにや。旧跡幽考、佐紀山はうたひめ村の西にあり、此山ならよりみゆる、それを佐紀山といふよし八雲御抄に見えたり万葉十、春日なる三笠の山に月も出ぬかも佐紀山にさける桜の花のみゆべく、佐紀池は俗に水上の池といふ、誉田八幡縁起曰、神功皇后池上にはうぶり奉ると云々、もしくは池上の池といふべきを水上の池とあやまりていふにや、狭城池は垂仁紀三十五年十月作倭狭城池と見えたり、又楯波池ともいふ、続紀神亀四年六月従楯波池飄風忽来吹折南苑樹二株、即化成雉とあり。〔同上〕
盾列弛《タテナミノイケ》 盾列は古事記に多他那美に作る、(前皇廟陵記云、楯列池、今没、薬師寺其跡云)続日本紀云、神亀四年五月、従楯波池、飄風忽来、吹折南苑(平城宮皇居)樹二株、即化成雉。盾列池は今尋ぬべからず、神功成務二陵の間に在りしならん、而も南北に縦列せりと云ふ、山陵志は今狭木寺間陵と定むる者の東に南北に遺存する四池是なりと論断す、後考を俟つ。
春日なる三笠の山に月も出ぬかも佐紀山にさける桜の花の見ゆべく、〔万葉集〕
旧跡幽考云、佐紀山は歌姫村の西にあり、此山奈良より見ゆ、それを佐紀山と云由、八雲御抄に見えたり。万葉集に「女へし咲野に生る白つつじ」又「かきつばた開沢《サキサハ》に生る菅根の」などあるは皆此地なり。
佐紀宮址 万葉集、長皇子与志貴皇子(並天武皇子)於佐紀宮倶宴歌、
秋さらば今も見るごと妻恋に鹿鳴かむ山ぞ高野原のうへ。
高野は佐紀の諸山陵の辺を云ふ、佐紀神社は延喜式に列す、今都跡村大字佐紀字超昇寺に在り、大宮と曰ふ。
西大寺《サイダイジ》 今伏見村大字サイダイジに在り、蓋其旧域は古京右京一条三坊四坊に当る、後世西偏に移るもののごとし天平神護元年孝謙天皇創建僧常騰開基にして高野寺《タカノデラ》と称す。〔類聚国史拾芥抄元亨釈書〕嘉禎二年僧思円(興正菩薩叡尊)中興して法弟に附与し、爾来戒律宗の大道場なり、殿堂は近世の重興なりと雖、猶宏大の遺制を存す、中堂愛染堂観音堂等あり。思円は忍性律師とも称し行徳一世に高く、公武の帰依最厚かりき、其鎌倉の恩命に依り西大寺多田院等を管治したる由は多田院古文書に徴すべし、蒙古来寇の時勅旨を奉じ男山八幡宮に詣り愛染明王を祈りて異賊降伏の修法を為す、今此寺に愛染堂あるは其故習に出づ、思円墓も本寺に在り、奥院と称す。
さりともと西の大寺たのむかなそなたの願ともしからじと〔夫木集〕
扶桑略記、天平神護元年、高野天皇造西大寺、供養七尺金銅四天王像、神護景雲三年、天皇奉造西大寺弥勒浄土、在添下郡平城宮右京一条三坊、四年破却西大寺東塔心礎、其石大一丈余厚一丈余、東大寺之東飯盛山之石也、天皇不※[余/心]卜之、破石為祟、即復捨浄地、不令人馬践之、今其寺内東南隅、数十片破石是。続日本紀云、神護景雲元年、幸西大寺法院、令文士賦曲水。元亨釈書云、西大寺者、天平神護元年称徳帝建、鋳四天王銅像長七尺、三像已成、只増長天一像不成、改鋳六度遂不就、至第七度、帝親幸冶処、誓言朕若因是功勲、来世転女身成仏道、手攪熟銅無傷損、而像成矣、若不然、手爛像不成、便以玉手攪洋銅、御手無傷、像便成。〔扶桑略記少異〕興正菩薩伝云、伝燈大法師位叡尊者、一天四海之大導師、濁世末代之生身仏也、以済度衆生為己任、以大悲闡提為我願、故号興正菩薩矣。(正安二年院宣)
補【破石清水】○平城坊目考 続日本紀曰、宝亀元年二月丙辰、破却西大寺東塔心礎、其石大方一丈余、厚九尺、東大寺以東、飯盛山之石也、初以数千人引之、日去数歩、時復或鳴、於是益人夫、九日乃至、即加削刻築基已畢、時巫※[巫+見]之徒、動以石祟為言、於是積柴焼之、灌以三十余斛酒、片々破却、棄於道路、後月余日、天皇不※[余+心]、卜之破石為祟、即復捨置浄地、不令人馬践之、今其寺内東南隅数十片破石是也。○伝云、清水郷破石町等上古西大寺之領地、而塔礎破却之三十余石酒、則汲於此清水醸酒於是称破石清水、是亦南都造酒之濫觴也。
菅原《スガハラ》 今伏見村及都跡村の中にして、平城京右京三条南北の地なり、和名抄に見えず佐紀郷に属せしめたるか不審なり。菅原伏見の二陵は別目あり。日本書紀「推古天皇十四年、造菅原池」続日本紀「元明天皇和銅元年、行幸菅原」などあり、菅原氏の故里にして其祖廟あり。
菅原《スガハラ》神社 延喜式、添下郡菅原神社、今伏見村大字菅原に在り、右京三条四坊にあたる、土師宿補の祖廟なり。続日本紀、天応元年、土師宿禰古人道長等言、土師之先出自天穂日命、其十四世孫名曰野見宿禰、昔纏向珠城宮御宇垂仁天皇世、古風尚存、葬礼無節、毎有凶事、例多殉埋、于時皇后薨、野見宿禰進奏、率土師三百余人、自領取埴、造諸物象進之、式観祖業、吉凶相半、若其諱辰掌凶、祭日預吉、如此供奉、允合通途、今則不然、専預凶儀、尋念祖業意不在茲、望請因居地名、改土師以為菅原姓、勅依請許之。 いざここに我世は経なん菅原や伏見の里のあれまくもをし、〔古今集〕
菅原《スガハラ》寺 菅原神社の西南に接す、今荒敗して堂宇纔に存す、天平二十一年行基僧正菅原寺に入寂の事続日本紀に見ゆ。扶桑略記、天平廿一年正月十四日、於平城中島宮、請大僧正行基、太上天皇受菩薩戒、名勝満、中宮受戒、名徳満、皇后受戒、名万福、即日改大僧正、名曰大菩薩、私云太上天皇者誰人哉、若是書違歟、二月二日、行基菩薩、於菅原寺東南院、右脇而臥、身心安穏、如入禅定遷化、春秋八十歳、最後遺誠云、弟子光信法師為世眼、我之所造卅九院、悉附属汝、又諷弟子等云、口虎破身、舌剣断身、汝等慎口業、塞口令如鼻。行基の連歌とて新勅撰集、続後撰集に見ゆるは
法の月久しくもがなと思へども小夜ふけにけり光かくしつ、 又、仮そめの宿かる我ぞ今更にものな思ひそほとけとぞなれ、
扶桑略記云、延暦四年、皇太子早良親王将被廃、時馳使諸寺、令修白業、諸寺拒而不納、後乃到菅原寺、爰興福寺沙門善珠、含悲出迎、灑涙礼仏訖曰、前世残業今来成害、此生絶讎、更勿結怨、使者還報、親王憂裡為歓云、自披忍辱之衣、不怕逆鱗之怒、其後親王亡霊、屡悩於皇太子、(平城帝)善珠乃祈請云、乞用小僧之言、勿致悩乱之苦、説無相之理、其病立除、十六年僧正善珠卒、皇太子図其形像、置秋篠寺。
伏見《フシミ》 伏見村は今総名となり、菅原其小名となる、古に反す。此地名義は臥身の人あるを以てと為せど附会の語なり、釈書云、伏見翁者不知何許人、或曰竺土来、翁臥平城菅原寺側崗、三年不起又不言、人呼為唖者、天平八年、行基迎婆羅門僧菩提、帰於菅原寺設供、三人甚歓、其臥所因名臥身云々。
大和におやありてかよひける人、後におやなくなりければ(中略)伏見にて、
名に立ちてふしみの里といふことはもみぢを床にしけばなりけり、〔家集〕 伊勢
菅原やふし見のくれに見わたせばかすみにまがふをはつせの山、〔後撰集〕
〔補注、伊勢集の歌の詞書、中略までは別の歌の詞書〕
菅原伏見《スガハラフシミ》西陵 安康天皇御陵なり、伏見村菅原の西六町大字|宝来《ハウライ》に在り、丘に倚り之を構ふ其形完からず。山陵志云、垂仁陵(伏見東陵)西数町、有呼為西蓬莱山、今已犂為田堆、其溝未埋、若半月然、与東陵屹乎相望也、呼保天堂、安康御名穴穂、保天堂即穂天皇訛也。延喜式、菅原伏見西陵、石上穴穂宮御宇天皇、在添下郡兆城東西二町南北三町。扶桑略記云、菅原伏見西陵、高三丈方二町。
菅原伏見《スガハラフシミ》東陵 垂仁天皇の御陵なり、伏見村大字|平松《ヒラマツ》の東に在り、巍祇々たる山陵なり、深壕高陵、長径百五十間短径百二十間、俗に蓬莱《ホウライ》山と云ふ。日本書紀、活目入彦五十狭茅天皇、葬於菅原伏見陵。古事記、伊久米伊理毘古伊佐知命天皇御陵、在菅原之|御立《ミタチ》野中也。延喜式云、菅原伏見東陵、垂仁天皇、在添下郡兆城東西二町南北二町。続日本紀云、櫛見《フシミ》山活目入日子伊佐知天皇之陵也、霊亀元年充守陵三戸。書紀又云、活目入彦天皇崩之明年、田道間守至自常世国、不得復命、乃向天皇陵叫哭而自死之。山陵志云、蓬莱山陵、北円塚、豈田道間守墓歟。
過蓬莱島、在宝来村 藤本田居
※[王+其]樹隔池珠翠開、彩雲高擁小蓬莱、時聞天際風箏響、疑是群仙駕鶴来、
平松《ヒラマツ》は蓬莱山陵の西なる民家なり。姓氏録云、右京諸蕃平松連、広階同祖魏陳思王之後也。垂仁帝陵の北西三条路北側に古墳あり、上に一祠あり、山陵志には田道間守《タヂマモリ》墓と疑へど、大和志には之を以て新田部《ニタベ》親王(天武皇子)墓と為せり、字兵庫山と曰ふ、名所図会、安康陵と為す。
斉音寺《サイオンジ》 大和志云、斉恩廃寺、在斉音寺村、延暦十一年、聴捨故入唐大使藤原清河宅為寺、号曰斉恩院、即此、清河増太政大臣房前第四子也、勝宝五年奉使入唐、礼畢還日、偶遇海運、漂到※[馬+(觀-見)]州、時州人叛、通船被害、清河僅以身免、遂不帰、後十余年薨於唐国、宝亀十年贈従二位。斉音寺村、右京三条三坊に位置す、佐紀大路この民家を貫通す。
招提寺《セウダイジ》 唐招提寺《タウセウダイジ》とも云ふ都跡村大字五条に在り、右京五条三坊にあたる。天平宝字三年唐僧鑑真の創建せる所、新田部親王の旧宅と云ふ、諸殿堂経像多く伝へて今に依然たり、戒律宗の本山にして覚盛(大悲菩薩)中興す。其宗風は後世振はずと雖、南都七大寺中、典雅幽深、千古の風色を伝ふる者、法隆寺以外此宝坊あるのみ。
贈日東鑑禅師 唐司空図
故国無心度海潮、老禅方丈倚中条、夜深雨絶松堂静、一点飛螢照寂寥、〔異称日本伝〕金堂(七間四面屋根四注本瓦葺)今特別保護を加へらる、本尊廬遮那坐像(夾紵乾漆造)後光千体背画二千仏の製にして世上無比の妙相なり。講堂は平城京八省院朝集殿を移建したる者にして当代の朝廷を想見するに足る、鴟尾の款識に元亨三年改葺の由見ゆ。其東に鼓楼東室舎利殿経蔵宝蔵あり開山堂其北に在り、皆往時開創の際に起す所也。戒壇堂は西に在り、近年焼失して堂址を存するのみ。
扶桑略記云、天平宝字三年、鑑真和尚奉為聖武皇帝招提寺所創建也、金堂一宇少僧都唐如宝所建立也、安置慮舎那丈六像一躯、講堂一宇平城朝集殿施入也、安置丈六弥勒像脇侍菩薩像、経蔵一基、鐘楼一基、食堂一宇、羂索堂一宇。元亨釈書云、鑑真唐国楊州人、天平勝宝六年来朝、勅館東大寺、奉聖武上皇詔、於東大寺構戒壇、上皇受菩薩戒、勅賜皇子開府儀同三司田部旧宅、天平宝字七年化、初本朝大蔵経論、多烏焉之誤、及真之至、勅加整勘、真失明而多所※[言+音]誦、数下雌黄、又諸薬物、此方不知真偽、真以鼻別之、一無錯誤。又云、招提寺者、天平宝字三年、鑑真法師薦聖武上皇所創也、初以皇子旧宅賜真、逮上皇崩成宝坊、諸公卿及沙門等共営、大殿者唐僧如宝建、安丈六廬舎那像、講堂者捨平城宮而成、弥勒及二菩薩脇士、唐法力所造也、食堂者藤仲公捨家屋、(食堂今亡)経蔵者唐義静造之、納仏舎利半合及菩薩経律論一切宝物、羂索堂者藤清河施屋、安金色像并八部神衆、又賢※[土+景]法師為国家書大蔵四千二百巻※[まだれ+支]之。延喜式云、凡招堤寺、安居講師、以当寺浄行憎、次第請用。本朝高僧伝云、従鑑真和尚肇律儀、東西二壇専行別受、歴数世而戒師不続、招提之不振四百五十年、至如来之浄戒委※[田+犬]畝之残僧、盛公以間出之時、奮然拠文自誓受戒、非不絆而用規矩乎、始雖孔艱、卒若易然、大開招提中興之業、亦所謂蒙傑之士也。
初謁大和上 沙門普照
摩騰遊漢闕、僧会入呉宮、豈若真和上、含章渡海東、禅林戒網密、慧苑覚花豊、欲識玄津路、緇門得妙工、〔唐大和上東征伝〕
傷大和上伝燈逝 釈思託
上徳乗杯渡、金人道已東、戒香余散馥、慧炬復流風、月隠帰霊鷲、珠逃入梵宮、神飛生死表、遺教法門中、〔同上〕
赤膚《アカハダ》山 招提寺の西に在り、禿山にして不毛の赤土なり、神武帝の時波※[口+多]岳岬に賊名は新城戸畔と云者あり、波※[口+多]岳《ハタノヲカ》岬即此也と。〔書紀通証大和志〕
もみぢする赤はだ山を秋ゆけば下照るばかり錦織りつつ、〔夫木集〕 顕仲
勝間田池《カツマタノイケ》 都跡村大字六条|砂村《スナムラ》の池を云か、薬師寺の東に在り。
かつまたの池は我知る蓮なししか云君がひげなきがごと、原注云、右或人聞之曰、新田部親王出遊于堵裡、御見勝間田之池、感緒御心之中、還自彼池、不忍憐愛、於時語婦人曰、今日遊行、見勝間田池云々。〔万葉集〕
勝地吐懐篇頭注云、按に此親王大髭ましませば戯に打かへてよめるなり、薬師寺の傍にて近きころ田の中より勝間田池の断碑を掘出せしが、文字はよみがたかりしとかや、其田猶池のかたちを存せりとぞ。
物へまかりける道に、昔のかつまたの池とて、家居跡計りみえけるに、
くちたてる家ゐなかりせばかつまたの昔の池と誰か知らまし、〔良玉集〕 道済
薬師寺《ヤクシジ》 都跡村大字六条|砂村《スナムラ》に在り、右京七条三坊にあたる、法相宗大本山なり。天武帝御願にして初め高市郡藤原宮に創立し、元正天皇の朝に平城右京に移し、聖武天皇天平年中造営成る。今金堂六層塔東院堂等存す、講堂西院等は亡びたり。金堂、本尊薬師如来は石壇(長五丈四尺幅一丈二尺)の上に安置す、金銅立像、脇士日光月光すべて三尊なり、黒紫※[黒+幼]然光沢掬すべし、寺伝に養老中行基菩薩鋳と云ふ、然れども藤原宮造成なるやも知るべからず雄麗壮固の作なり、聖観音銅造立像一躯寺伝に孝徳天皇御願と云ふ、其他夜叉神一躯十一面観音(木作立像)一躯皆霊仏なり吉祥天画幅(絹本着色)は世上多く模写して之を伝ふ。又名だかき仏足石あり、堅石盤状を成す、上面平滑にして足※[足+庶]を刻む、縦二尺玉寸横三尺三寸、足※[足+責]石の後に歌碑樹立す、高六尺広一尺五寸厚二寸、正面に和歌を鐫れり。本寺は七大寺の随一にして至貴の宝刹なりしが、平安遷都の後漸く振はず、近時に及び愈挙らず、唯其災余の諸仏大塔等の、往時を徴証するに無比の好拠を為すあるのみ、史学者が大塔※[木+察]柱銘に依り壬申の即位建元を証する如き是也。本朝世記云「久安三年薬師寺最勝会、勅使不下向、五百余年大会、今年初勅使不下向之由、法印隆覚所申也、被尋子細之処、依院御定免除也」と、本寺の衰に就けるは此比よりの事ならん。一代要記、元亨釈書云、天平二年起東塔于薬師寺。続日本紀云、天平四年、以栗田人上為造薬師寺大夫、天平感宝元年、定諸寺墾田地、限薬師寺一千町、天平感宝元年、聖武天皇遷御薬師寺、譲位皇太子、天平勝宝二年、移御薬師寺宮。按ずるに薬師寺は聖武孝謙の朝に落成し至尊之に御したまふ、殿舎の備具したる事想ふべきも其規模詳ならず。濫觴抄に「薬師寺、土木之功熟于三帝、日月之営、送於五代」とあるは三帝天武持統文武にして、五代は元明元正聖武孝謙淳仁なるべし。扶桑略記云、天武天皇九年庚辰、因皇后病、造薬師寺、舗金未遂、始鋳仏於飛鳥浄原之朝、畢造寺於養馬藤原之宮、土木之功熟於三帝、(天武持統元明)日月之営送於五代、(又加文武飯高)為憲記曰、薬師寺、清御原天皇之師、僧祚蓮入定、見龍宮様習作也、宝塔二基各三重有裳階高十一丈五尺、縦広三丈五尺、両塔内安置釈迦如来八相成道形、金堂一宇二重閣五間四面長七丈八尺広四丈五尺柱高一丈九尺、仏壇長三丈三尺高一尺八寸安置丈六金銅須弥座薬師像一躯左右脇士日光遍照菩薩月光遍照菩薩各一、已上持統天皇奉造座者也、又観世音菩薩像二体、又帳外壇下仏前並左右造立綵色十二薬叉大将像高各七尺五寸、南大門五間二重居獅子力士、中門五間立二王像并夜叉形天及座形鬼等、講堂一宇重閣七間安置繍仏像一帳、為天武天皇奉造者也、食堂一宇九間四面、経楼一宇、鐘楼一宇、懸百済国王処献鴻鐘一口也、西院安置弥勒浄土障子。
六層塔は薬師寺東塔なり、三層塔婆なれど毎層裳階あれば俗に六層と曰ふ、天平二年造立、遺構儼然たり。塔頂九輪※[木+察]柱の下に銘あり、寺伝に舎人親王の撰文と曰ふ、蓋藤原より移建して其旧を変ぜざる者か。(藤原の造宮は持統帝の時也)寛元元年薬師寺縁起云、天武天皇即位八年庚辰十一月、皇后不※[余/心]、巫医不験、因之為除病延命、発奉鋳丈六薬師仏像之願、爰霊験有感、皇后病愈、天皇大感、已鋳金銅之像、舗金未畢、以十四年崩於明香清原、以戊子年十一月、葬給於高市大内山陵、皇后嗣即帝位、是持統天皇也、為遂太上天皇前緒、高市郡建寺、安置仏像経論寺、本薬師寺是也、即塔露盤銘之文云「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不※[余/心]創此伽藍而舗金未遂龍駕騰仙太上天皇奉遵前緒遂成斯業照先皇之弘誓光後帝之玄功道済群生業伝曠劫式於高※[足+蜀]敢勤貞金巍々蕩々薬師如来大発誓願広運慈哀※[けものへん+奇]※[けものへん+與]聖王仰延冥助爰傍※[食+芳]霊宇厳調御亭々宝刹寂々法城福崇億劫慶溢万令」
仏足石は金堂西南の小宇に安置す、高一尺八寸余、上面縦二尺五寸許横三尺余、その上面に足※[足+庶]を刻む長凡一尺六寸、石の四側に銘文及び仏像を刻む、石面凹凸にして字画明白ならず又磨※[さんずいへん+おおざとへん+力]あり補刻あり、今古京遺文并に考古学会雑誌に参照し其文を挙ぐ、
釈迦牟尼仏跡図
案西域伝云今摩褐※[こざとへん+(施-方)]国昔阿育王方精舎中有一大石有仏跡各長一尺八寸広六寸輪相華文十指各異是仏欲涅槃北趣拘尸南望王城足所蹈処近為金耳国商迦王不信正法毀壊仏跡鑿已還生文彩如故又損於河中尋復本処今現図写所在流布観仏三昧経云若人見仏足跡内心(一曰而心)敬重无量衆罪由之而滅(一曰由共亡滅)今□倶□非有幸之所致乎又北印度烏仗那国東北二百六十里人大山有龍泉河源春夏含凍晨夕飛雪有暴悪龍常雨水災如来往化令金剛神以杵撃暴龍聞心怖(一曰暴龍出伏)帰依於仏恐悪心起留跡示之於泉南大石上現其□跡随心浅深量有長短今丘慈国城北四十里寺仏堂□中玉石之上亦有仏跡斎日放光道俗至時同住慶修観仏三昧経仏在世時若有衆生見仏行者及見千輻輪相即除千劫極重悪罪仏去世後想仏行者亦除干劫極重悪業雖不想行見仏迹者見像行者歩歩之中(一曰無之中)亦除千劫極量悪業観如来足下平満不容一毛足下千輻輪相※[(土/わかんむり/系)+殳]※[車+罔]具足魚鱗相次金剛杵相足※[足+艮]亦有梵王頂相衆義之相不異諸(一曰不遇諸悪)是為休祥大唐倭人王玄策向中天竺□□国中(一曰磨□□国中)転法輪□因見跡(一曰回見跡)得転写搭是第一本日本使人黄書本実向大唐国於普光寺得転写搭是第二本其本在右京四条□坊禅院向禅院壇披見神跡敬転写搭是第三本従天平勝宝五年歳次発巳七月十五日尽二十七日并一十三箇日作了壇主従三位智奴王天平勝宝四年歳次壬辰九月七日改之写成文室真人智努画師越田安万(一曰安方)書写画石手□□□※[「手□□□」の左に「〔作主□□ィ〕」と傍注]呂人足※[#匠を□で囲む]仕奉□□□人
□□□(一曰至心発)願為亡夫人従四位下茨田郡主法名良式敬写釈迦如来神跡伏願夫人之霊駕高※[「高」に「・(ナシ イ)」の傍注]遊入无勝之妙邦受※[「受」を□で囲む]□□□□之聖□永脱有漏高証无為同霑三界共契一真
諸行无常 諸法无我 涅槃寂静
知識家口男女大小」三国真人浄足 (囲外題名)
古京遺文云、禅院、道昭所建、初在飛鳥、後移平城、智努王、天武天皇之孫、父一品長親王、天平勝宝四年賜文屋真人姓、天平宝字五年改名浄三、是記、石質頑堅、不得深刻、文字隠晦、多不可読、又高卑拗※[土+突]、刻随其勢、是以世罕有榻本、余親至西京、経七日之久、精撫一本、纔得釈之、其方囲下方二題字、埋在塵土中、余磨※[沙/手]得之、前人所未嘗見也、三国浄足無攷。又云、仏足石歌碑、在仏足石之後、所鐫歌廿一首、其十七首、咏賛仏蹟、四首呵責生死、碑嘗罹火災、以故四辺有剥脱者、中亦有磨※[さんずいへん+こざとへん+力]不存者、有後人補刻者、第二首拾遺和歌集載之云、光明皇后自書于山階寺仏蹟、按拾遺集山階寺者、恐伝聞之誤。考古学会雑誌云、仏足石歌碑、文字古雅雄健にして我邦金石文中の上乗なるものなり、智努王は天武帝の孫なれば其縁にて仏足石を薬師寺に建て、又此歌碑を置きしならん、拾遺集光明皇后山階寺の仏蹟に題せられたりと云歌は、本寺仏蹟歌碑の第二首と詞句相捗る所あれど、全く異章とす。今按に仏足石歌碑の第一首に
美阿止都久留伊志乃比鼻伎波阿米爾伊大利都知佐閉由須礼知々波々賀多米爾 毛呂比止乃多米爾
とあるは当時刻神跡の斧声に感じて父母菩提の至願を咏ぜる也、智努王の亡夫人の事と相渉らず、疑ふべし、又仏足石の智努王銘文の囲外に「知識云々三国真人浄足」の題名あり、因て謂ふ浄足は即建碑者にして、父母菩提の為めに智努王の転搭本并に其序詞願文を一石に刻み、又歌碑を其傍に置けるにやと、万葉集に三国人足といふ作者あり、年代を推せば浄足もしくは其子などにやあらん。
補【薬師寺】○〔薬師寺縁起、略〕寛元元年発卯初秋上旬□写之云々、右薬師寺縁起以塔※[木+察]柱銘摺本校合了。〔付箋〕薬師如来金銅立像一躯(行基菩薩作)同脇士日光月光仏金銅立像二躯(行基菩薩作)聖観青銅立像一躯、仏足跡碑一基、仏足跡一基、十一面観音木造像一躯、吉祥天像絹本着色板装一幀。三重塔、三層塔婆毎層裳階あり、本瓦葺き。
羅城《ライセイ・ラセイ》門《モン》址 平城京朱雀大路の南大門なり、今郡山町大字九条の東に在り。大和志に耕田の礎石羅城門の銘ある者を得たり、此所を来生《ライセイ》と字すと云。続紀、天平十七年|※[さんずいへん+(樗-木)]《アマゴヒス》于羅城門。九条は郡山町の北にして、東は添上郡辰市村東九条に通ずる故道存す、即古京の南限なり。
鳥見《トミ》郷 和名抄.添下郡鳥貝郷、訓止利加比。和名抄見を貝に誤り従て加比と訓めり、富小川の上游にして今北倭村富雄村と曰ふ。続紀和銅七年の条に登美箭田二郷とありて、和名抄又矢田郷あり。日本書紀、神武天皇長髄彦を撃ちたまふ条に「有金色霊鵄、飛来止于皇弓弭、其鵄光※[日+華]煌状如流電、由是長髄彦軍卒昏迷眩、不復力戦、長髄《ナガスネ》是邑之本号焉、因亦為人名、及皇軍之得鵄瑞也、時人仍号鵄邑、今云鳥見是訛也」と述ぶ。今按に鵄瑞あるが故に其地を鵄邑と云ひ後鳥見に訛ると為すは事因顛倒なるべし、鳥見は長髄彦の本邑にして此地蓋是なり、磯城郡にも鳥見と名くる地あれど彼の鳥見は皇師の長髄彦を破れる地にて、同名異地とす。神武天皇初め河内固より生駒山を踰えんとして長髄彦に会戦したまふ、長髄彦の生駒山下層富県に占拠したる事推論すべし。長髄も邑名にて鳥見の別称たるべし、其邑主をば長髄彦と云ふ。皇師は更に熊野吉野の方面より進入し磯城に賊軍を撃破したり以て大勢を観るべし。
補〔鳥貝〕 ○止利加比、今按、此郷名ふるくは鳥見とありけんを後に鳥貝と改められしか、または字形の似たるによりてはやく誤りたるにもあるべし、そは神武紀戊午十二月、皇師撃長髄彦、連戦不能取勝、時忽然天陰而雨氷、乃有金色霊鵄、飛来止皇弓之弭、其鵄光※[日+華]※[火+(日/立)]状如流電、由是長髄彦軍卒皆迷眩不復力戦、長髄彦是邑之本号焉、因亦以為人名、及皇軍之得鵄瑞也、時人仍号鵄邑、今云鳥見、是訛也とあるにておもふべし、さて矢田の郷名も皇弓弭云々によしありげに聞えたり、また垂仁紀二十五年作倭狭城及迹見池、万葉八、衛門大尉大伴宿禰稲公跡見庄作歌、いめたてて跡見の岳辺のなでしこの花ふさたをりわれはもちいなむならぴとのため、続紀和銅七年十一月登美箭田二郷云々、神名式に添下郡登弥神社などみなトミとよべり、古事記伝に鳥甘部の件に此鳥貝をも引て大和国添下郡鳥貝郷あり此外にも鳥養てふ地是彼此ありといはれたるはたがへり、但外の国々なるは鳥養の義なり。
白庭山《シラニハヤマ》 旧事紀云、饒速日尊、従河内国川上※[口+孝]峰遷坐於大和国鳥見白庭山、便娶長髄彦妹。※[口+孝]峰は河州北河内郡天之川の上、生駒山の北嶺なり、即大和生駒川の上とす。〔大和志河内志〕白庭山は富小川の畔にして、延喜式登弥神社の地か。姓氏録に拠れば鳥見姓は饒速日命の裔にして、長髄彦は其外戚に当る。史料通信叢誌云、春日若宮嘉禎二年文書に拠るに今の磐船越をば上鳥見路《カウツトミヂ》と曰ふ、饒速日命を斂めし白庭は北倭村大字上《カミ》の真弓山《マユミサン》長弓寺の辺に在りて弓塚《ユミヅカ》と称す。
高山《タカヤマ》 今北倭村と改む、富小川の源にして東は山城相楽綴喜二郡の地にて西は河州北河内郡なり、北界を榜示《ハウジ》と云、北河内郡岩船村に通ずべし、竜王山あり、即富小川の濫觴とす。
高山八幡宮は天平感宝元年宇佐八幡を東大寺に迎ふる時、神輿平群郡に次すと云事続日本紀に見ゆ即此なりと。〔県名勝志〕添下平群は郡相異すれど此地榜示ありて古道之に係る事明白なれば、平群は添下を錯記したる者か。
伊射奈岐神社は三代実録貞観元年伊射奈岐神授位、延喜式添下郡の大社なり。今北倭村大字上村字古川に在り、天王社と称す。〔大和志県名勝志〕
添《ソフ》 添は古書に層富とも記し、添上下平群にわたる大名なりと雖、其本拠は鳥見に在り、添御県神社は今富雄村に属す是也、続日本紀に「天平神護元年、添下郡人大初位上県主石前、賜姓添県主」とあるも添の本拠は此と為すの一証たるべし。
添御県坐神社は富雄村大字三碓字下条に在り。姓氏録云、大和神別添県主、注出自津速魂命男武乳遺命也、旧事紀之に同じ。神祇志科云、添御県坐《ソフノミアガタニマス》神社今鳥見荘三碓村にあり、〔大和志〕祈年祭六県神の一也、〔延喜式〕聖武天皇天平二年神戸粗稲一百七十二束を以て祭祀雑料に充て〔東大寺正倉院文書〕平城天皇大同元年神封二戸を寄奉り〔新抄格勅符〕延喜式添下郡の大社に列す。
富雄《トミヲ》 古の鳥見郷の中村なり、近年改称す、富小川《トミノヲガハ》に因めるならん。伏見村より西へ生駒山暗峠の通路之に係る、即奈良町三条より大坂に通ふ者なり。
補【富雄】添下郡○奈良県名勝志 贈皇后藤原氏河上陵、所在未詳、或は云ふ、富雄村大字大和田字丸山の東北隅に在りと、贈皇后は淳和天皇の御母なり、延喜式に大和国添下郡にありと曰ふは即是か。
僧婆羅門墓 富雄村大字中、霊山寺の境内にあり、石塔高四尺許、伝へて門の墓とす、寺伝に云ふ、門行基と倶に勝地をたづね此に至り寺を建つと。
霊山寺《リヤウセンジ》 中村の西に在り鼻高山と号す、富小川其北を流る。婆羅門僧正菩提僊那の墓あり、又宝塔一基あり弘安六年建立す、本寺は寺伝天平勝宝八年行基僊那の相謀り創建したる所也と云、両僧の事は釈書に所説あり。〔県名勝志京華要誌〕扶桑略記に「天平十八年天竺婆羅門僧正菩提始来本朝、勅令巡礼諸寺、至大安寺東僧坊南端小子坊留任、後尋処給官額、曰菩提僧正院」と載せ、又「宝亀四年勅、散大僧正行基法師修行之院、惣卅余処、其六院未預施例、宜大和国菩提登美生駒、河内国石凝、和泉国高渚五院、各捨当郡田三町、河内国山埼院一町」とあり此菩提院と云は大安寺にて登美院と云ふは霊山寺なるべし。(大安寺址を参照)
河上《カハカミ》墓 延喜式云、河上陵、贈皇后藤原氏、在添下郡兆城東西四町南北四町。本陵は淳和御母、桓武皇后旅子(百川女)なり、陵墓一隅抄は都跡村大字砂村の坤三町許字茶臼山是ならんと云、而て奈良県名勝志は富雄村大字大和田字丸山に在りと為す、孰れか是非詳ならず、大和田丸山は中村の南三町許、富小川の畔なり、聖蹟図誌云、丸山の南に茶碓山と云丘ありて古祭器の破片出づ。
王龍寺《ワウリユウジ》 富雄村大字|二名《フタナ》に在り、林壑深邃にして怪岩峙立す、寺背の一岩に観音不動二像を刻す高一丈五尺、其傍に銘を勒し建武丙子三年二月十二日大願主僧千貫行人僧千歳云々と曰ふ。〔名勝地誌〕
登弥《トミ》神社 延喜式添下郡登弥神社、今富雄村大字石木字|木島《コノシマ》に在り、(郡山町九条の西十五町)登美連の祖神を祭る。姓氏録云、登美連、饒速日命六世孫伊香色雄命之後也。旧事紀云、饒速日尊、遷座於鳥見白庭山、便娶長髄彦妹御炊屋姫、誕生宇麻志麻治。鳥見岡は登弥社より東南郡山城址に連接する山岡是なるべし、万葉集|茂岡《シゲヲカ》と云ふも同所か。
紀朝臣鹿人、至大伴宿禰稲公跡見荘、作歌、
射目たてて跡見の岳べのなでしこの花総た折り吾はもちいなむ寧楽為め、〔万葉集〕紀朝臣鹿人見茂崗松樹歌、茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の樹のとしの知らなく、〔同上〕
大和軍記云、松永久秀は志貴と多門の両城を掛持に被仕其間五里半計に小泉郡山龍の市の城あり、久秀は郡山の少北にカウノシマと申処の山につなぎの城を構へ押通され候、○按に大和軍記カウノシマと云は登美社の木島《コノシマ》なるべし地形合ふ。
矢田《ヤタ》郷 和名抄、添下郡矢田郷。今矢田村片桐村是なり、富小川の西に在り。続日本紀に養老七年始築矢田池とあるも此なるべし、和銅七年の条には登美箭田二郷と見ゆ、旧事紀に拠れば白庭邑と云へるも此地なるべし、白庭山別見す。
八田の野の浅茅いろづく有乳《アラチ》山みねのあわ雪さむくふるらし、〔万葉集〕
略解云有乳山は越前なり、都近き矢田野の秋げしきを見て越路の山を思ひ出してよめる也。
矢田《ヤタ》神社 延喜式、添下郡矢田坐久志玉比古神社二坐、今矢田村横山に在り。新抄格勅符、大同元年矢田神奉寄二戸。三代実録、貞観元年矢田久志玉比古神授位。神祇志料云、矢田神は今矢落明神と云、蓋矢田部氏の祖神櫛玉餞速日命及妃御炊屋媛なり。旧事紀天孫本紀云、櫛玉饒速日尊、稟天神御祖詔、乗天磐船、而天降坐於河内国河上※[口+孝]峰、則遷座於大倭国鳥見白庭山、便娶長髄彦妹御炊屋姫為妃、誕生宇麻志麻治命矣、未産之時、饒速日尊既神殞去坐矢、高皇産霊尊、使速※[風+包]命将上其神屍骸於天上斂竟矣、饒速日尊、以夢教於妻御炊屋姫云、神衣帯手貫三物、葬斂於登美白庭邑、以此為墓者也。
補【矢田神社】○神祇志料 矢田坐久志玉比古神社二座、今矢田村にあり、矢落明神と云ふ(神名帳考証・大和志)久志玉姫命を祀る(延喜式、参取本社伝記)蓋矢田部氏の祖神櫛玉餞速日命及妃三炊屋媛也(新撰姓氏録・日本書紀・旧事本紀)平城天皇大同元年大和地二戸を矢田神に寄し(新抄格勅符)清和天皇貞親元年正月甲申、従五位下矢田久志玉比古神に従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制並に大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ毎年三月八月午日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
八田寺《ヤタデラ》 矢田村の西、山中に在り、金剛山寺と称す、寛元四年款識の古鐘に矢田寺と見ゆ。殿堂古雅、天武天皇八年智通法師開基とぞ。〔県名勝志〕扶桑略記云、宝亀十年、弘耀法師為大僧都、弘耀住薬師寺、通論達経、決択去疑、送辞所帯、入矢田寺、修摂其心、帰乎遷寂。元亨釈書云、満米居和州金剛山寺、(八田寺)野諌議篁展弟子礼、亦不測人也、身列朝班、而神※[王+炎]宮、※[王+炎]王因篁延満米、受菩薩戒、米因請見地獄、往阿鼻城、地蔵菩薩代衆受苦、満米自陰府帰、招良工刻獄中地蔵相、安于寺、或曰米本名満慶、得※[王+炎]宮米改名。通は斉明帝朝に入唐し、玄奘窺基に就き学び、帰朝して大倭国に観音寺を開き僧正に任ず〔日本書紀僧綱補任元亨釈書〕観音寺は郡山町に其字を存す。
東明寺 金剛山寺の北八町に在り、寺伝に持統帝七年舎人親王建と云、鍋倉山と号す。〔名所図会県名勝志〕
松尾寺《マツノヲデラ》 金剛山寺の南十八町、大字山田に在り、養老二年憎永業建立、舎人親王の御願なり、寺後に親王の墓ありと云。〔名所図会〕大和志云、松尾寺、号補陀落山、有正堂三層塔僧院十区、延喜式曰、松尾寺料二千八百束、即此。
小泉《コイヅミ》 今|片桐《カタギリ》村と改称す、富小川の西畔、郡山を距ること一里、松尾寺を去ること廿四町、小駅なり。元和中片桐貞隆本地一万石を封ぜられ、陣屋を置きたり、維新に至るまで存す。小泉庚申堂は縁起詳ならず、賽者多し。
赤檮《イチヒ》墓 赤檮は迹見首《トミノオビト》にして、聖徳太子に随ひて物部守屋を射殺したり.其墓と伝ふる者小泉に在り、高約二丈周回二町許〔日本書紀県名勝志〕此地赤檮墓の外に山寺墓あり、誰たるを詳にせず、高約三丈周回三町許。〔県名勝志〕
補【小泉】添下郡○奈良県名勝志 秦川勝墓 片桐村大字小泉の西北に山の寺と称する小丘あり、高約三丈、周回三町許、伝へて秦川勝の墓とす、信否を知らず。
赤檮《イチヒ》墓 同村同大字にあり、高約二丈、周回二町許、姓は迹見、名は赤梼、厩戸皇子に随て物部守屋大連を射殺したるものなり。
村国《ムラクニ》郷 和名抄、添下郡村国郷。今郡山町筒井村にあたる如し、延喜式村国墓は郡山の南に在りと云。〔陵墓一隅抄〕
村国《ムラクニ》墓 延喜式、村国墓贈正一位安部命婦、在添下郡兆城東西四町南北五町。安部命婦は藤良継夫人、平城嵯峨二皇の外祖母也、或は云|新木《ニヒキ》の丸山是なりと、路傍にして(新木民家の西北、郡山城址の南)田中社の北四町に当る、信否詳ならず。
新城《ニヒキ》 今郡山町大字|新木《ニヒキ》是なり。日本書紀云、神武天皇之時、層富県波※[口+多]丘岬、有|新城戸畔《ニヒキトベ》者、恃其勇力不肯来庭。この新城戸畔は当時此他の女酋なりし如し。
新城《ニヒキ》宮址 日本書紀云、天武天皇白鳳五年、将都新城而限内田薗者、不問公私、皆不耕悉荒、遂不都矣、十一年幸于新城。続日本紀云、光仁天皇宝亀五年、行幸新城宮。
薬園《ヤクヲン》宮址 名勝地誌云、薬園八幡宮今郡山材木町に在り、此社初め市街の北に在り、即薬園宮の遺跡なりき(続日本紀云「孝謙天皇、天平勝宝元年十一月、大嘗於南薬園新宮」また東大寺要録云、(長徳四年注文)定諸荘田、薬園宮内田地十三町四段、存大和国添下郡。
大郡《オホコホリ》宮址 続日本紀、天平二十一年十月庚午、行幸河内国智識寺、丙子車駕還大郡宮、天平勝宝二年正月朔、天皇御大安殿受朝、是日車駕還大郡宮賜宴、又於薬園宮給饗焉、二月天皇従大郡宮移御薬師寺宮。大郡は添下の号なるべし、摂津国東生西成の二郡相并び其東生郡を大郡と号せる例なり。続紀に見ゆる孝謙帝の大郡宮は今其遺址を伝へねど、薬園宮と相接近したりとおもはれ、且郡山の名は即大都の郡家なるべければ之を此にかかぐと云のみ。
殖槻《ウヱツキ》 郡山町の中なるべし、神楽歌に「殖槻や田中の森」の句あり、田中村(今片桐村に合す)は郡山の西南に接す。名所図会云、郡山に殖槻八幡宮あり、傍に観音堂あり此を殖槻森と云。冠辞考云、万葉長歌に「春されば殖槻於《ウヱツキノヘ》の遠つ人待ちし下道ゆ登らして国見あそばむ」とあり、殖槻於は殖槻てふ所の山の上を云ふ。
殖槻や田中のもりやもりやてふ、笠の浅茅が原に、(本)我を置きて二妻とるやとるなてふ、笠の浅茅が原に、(末)〔神楽歌〕
殖槻《ウヱツキ》寺址 郡山観音寺蓋是なり、僧正智通之を開く、天武朝の比なり。〔元亨釈書〕初例抄云、慶雲四年開維摩会於厩坂寺、講師観智也、新羅国僧、和銅中移于植槻寺、五年移于興福寺。(植一作※[木+而])今昔物語に大和固敷下郡殖槻寺とあるは、敷字添の誤なるべし。大和志云、和銅二年、釈浄蓮、修維摩会、于植槻道場。
郡山《コホリヤマ》 今郡山町と云ふ、生駒郡役所在り、天正中より当國の鎮城を此に置き大邑と為る。城墟は西部に倚り市街は其東に居る、戸数二千、殷賑奈良に亜ぐ、鉄道車駅あり、市民は多く綿布を織造す。
補【郡山】○奈良県名勝志 添下郡の東南部に在て、柳沢氏の旧城下たり、市街縦横、商況殷繁、戸数二千余、近来木綿を業とするもの多し、奈良に亜ぎて本州第二の都会たり。
郡山城《コホリヤマノシロ》址 郡山城は内郭南北五町東西六町、石壁塁濠を以て区分して数塞と為す、外郭は南北十二町東西十五町、内郭を抱き外濠を繞らす、其北西南三周は士卒の宅址今皆荒敗す、東部のみ商工の家旧に依る、城西は一座の小丘北方に連亘す。
郡山城は小田切宮内少春次初て築くと云、〔大和志〕天正十三年豊臣秀吉舎弟秀長を大和紀伊和泉三州に封じ郡山に築き筒井城を毀たしむ、〔大和軍記〕秀長秀俊二世にして家絶え、文禄四年増田長盛に賜ふ、食禄二十万石。慶長五年関原戦後江戸の命を以て藤堂高虎之を収む、元和元年大坂兵起る伊賀国主筒井定次兵を以て郡山城を守る、大坂軍撃ちて郡山を略取す、既にして大坂敗れ水野日向守勝成功を以て本城を賜へり。爾後の交替は元和五年松平下総守清国、寛永十六年本多大内記政勝其子政長、延宝七年本多下野守忠泰(五代相続)享保九年柳沢甲斐守吉里以来世襲して明治の初に至る、封土十五万石。
和州路上 頼山陽
小市平横路幾叉、法隆寺遠接当麻、行人買酔和州路、満野東風黄菜花、
菜の花の中に城あり郡やま、 其角
補【郡山城】○史料叢書 凡主人の罪に遭へる時、其家土籠城して天下の御敵になりたる事ついになし、但し慶長五庚子の年、和州郡山の城を増田右衛門尉長盛より渡辺勘兵衛と云者に預けおかれしに、江戸一統の後増田は奥州へ流罪也、城は藤堂和泉守高虎に請取可申様にとて郡山へ取かけらるる所に、勘兵衛申すは、右衛門尉手判を見申さずば渡し申間数と申に付、いそぎ大坂へ使をつかはし右衛門尉手判をとり勘兵衛に見するにより、無相違城を渡しけるなり。
補【郡山学校】○日本教育史資料 享保年中創立、総稽古所と称す、天保六年位置を転じ校舎を改造、尚総稽古所と唱ふ、初め城南字五左門坂に設立す、天保六年城坤字大織冠に移転す、享保九年故松平甲斐守吉里甲斐固より郡山城に移る、吉里夙に志を文武に寄せ、総稽古所を創立し、自ら率先となり、藩士をして両道を研磨せしむ、其後二世相承け、文化八年嫡子故甲斐守保泰世を嗣ぐや、保泰性質尤文武を嗜み、殊に儒学を尊崇す、天保六年総稽古所を便宜の地位に移し、之を新築改良し、且藩制を改革し、冗費を省き、藩主は勿論士卒に至るまで衣食住等の制度を設け、専ら奢侈の風を戒め、学費を増加し、藩士碩学なる藤井友作を儒官となし、自ら奮て学事を拡張す、明治二年版籍返上。
田中《タナカ》 郡山の西南十町許を田中村と云、(今片桐村に属す)田中社あり。古事記云、天津彦根命者、倭田中直等之祖也。古事記伝云、書紀舒明八年の所に田中宮とあるも、三代実録貞観七年大和国田中神とあるも同地なるべし高市郡か、田中村あり、又神楽歌に殖槻や田中の森とあるは添下郡なり。
筒井《ツツヰ》 郡山の南二十四町許、筒井村と云ふ。村中に筒井氏の墟、一古井あり。筒井氏は其先詳ならず、興福寺の盛なるや其寺役に服し、郡邑を略す。坊目遺考、春日勤番次第に乾氏大神姓添下郡十二万石居城筒井村とあり。永禄天正中筒井順慶武略あり松永久秀と争衡し後織田氏に属す。細川両家記云、永録十年松永方へ尾張の衆二万許相添大和へ手遣則筒井|平城《ヒラシロ》は被明退候なり、同く井出城に被懸あまた討取。或は云筒井順慶|布施《フセ》に新城を築く、今郡山に址存すと、天正十三年順慶の子定次伊賀国へ移封、後除封せらる。大和軍記云、先祖は近衛の家より出候由にて、順慶の親は順興と申候出家にて候、器量の人にて還俗、武威を振ひ添下郡筒井と云所に平城を築き、只今の六万石程の知行候、然る処松永殿筒井を可討覚悟にて法隆寺まで被打出候を、順慶も筒井より廿町計も西栴檀の森と申所まで被出向、先手は島左近松倉右近両人にて並松と申処まで互に掛向ひ軍始り、筒井敗軍直に字多郡秋山へ落候、其後順慶龍の市の井出十郎に心を合せ、松永彼城を取詰られ候処に、順慶は十市越智両人引具し、山伝に龍の市の東へ参られ、掛向合戟、松永敗軍。興福寺英俊法印日記、永正二年国衆大名の交名中に筒井良寂房唄腎と云人あり、又永正三年七月、法隆寺禅学両座喧嘩、両方諸勢雖出、筒井成敗而先引勢了、同年八月、京勢沢蔵軒西大寺辺陣替、秋篠宝来自焼、超昇等は※[口+愛]になる、郡山西京以下自焼、筒井井摩城城没落、当国大略武家知行也、十六日筒井自東山|内山《ウチヤマ》際出頭、北方一揆令蜂起了、依之京衆通路今日留了、古市山村以下惣以焼払。
菅田《スガタ》神社は筒井村に在り、延喜式比売神社是なり、姿池の側に在り。〔県名勝志〕筒井の東南八条字一夜松に延喜式菅田神社あり之に異なれど亦同類の祀なり、姓氏録云、菅田首、天之久斯麻比止都命之後也。
をとめ子がすがたの池のはちす葉は心よげにも花さきにけり、〔堀川百首〕 師頼
補【筒井】○人名辞書 筒井順慶、姓は藤原氏、遠祖順快興福寺に属して筒井荘に居る、因て之を氏とす、順快の子順永、郡邑を蚕食し、始めて筒井に城く、子孫皆円順僧位を受く、而して干戈に従事す、足利氏の季世国乱る、順慶の祖順昭、土冦を平げ、地境を拓延して以て自ら封ず、父順政(一説に順慶は順昭の子と)其の後を承け、順政卒して順慶家を嗣ぎ六三郎と称す、初めの名は藤政或は藤勝と曰ふ、年猶幼なり、国人或は叛きて松永久秀に属す、永禄八年十二月筒井を去りて布施城に徙る、順慶胆略あり、郡邑を略す、織田信長久秀をして筒井を伐たしむ、久秀信長に叛く、順慶謀て兵を久秀が信貴城中に入れ、内外夾み攻む、久秀自殺す、信長大和を以て順慶を封ず。
補【菅田神社】○神紙志料 菅田比売神社二座、醍醐天皇延喜の制、祈年祭鍬靭の幣に預る(延喜式)
按、古事記・姓氏録天津彦根命の裔、往々大和に住者あり、且下に菅田神社あるを思ふに、菅田比売は蓋菅田首の祖神天乃目一命の比売神を主として二座を祭れるならむ、然れど明徴なし、附て後考を俟つ
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平群《ヘグリ》郡 延喜式、和名抄、平群郡、訓倍久里。生駒谷《イコマダニ》及び富小川《トミノヲガハ》の末流辺を指す、今龍田村外九村に分れ明治廿九年生駒郡と改む。国郡沿革考云、平群は蓋古|層富《ソホ》の地に属せしなるべし、平群の名は始て景行天皇紀に出づ「幣遇利の山のしらかしが枝を」。天武天皇紀に倭国|飽波《アクナミ》郡とあるも此郡の初称か、抑又追書の誤れるか、和名抄、平群郡飽波郷あり。
額田《ヌカタ》郷 和名抄、平群郡額田郷、訓奴加多。今平端村本多村なり、大字|額田部《ヌカタベ》あり、東は山辺郡二階堂村に接し北は筒井村(旧添下郡)南に佐保川あり、古名熊凝と云ふ地是也。日本書紀云、千熊長彦者額田部槻本首等之始祖也。〔神功紀〕今本多村に大字|椎木《シキ》あり槻の訛か。又仁賢紀云、日鷹吉師還自高麗、献工匠須流枳奴流枳等、今倭国山辺郡額田邑|孰皮《カハシ》是其後也。書紀通証云、今山辺郡嘉幡村(今二階堂)西十町許有皮工邑、隣平群郡額田部村、孰熟本字。姓氏録云、大和諸蕃額田村主、出自呉国人天国(一作呉)古也。(福亮智蔵道慈の三僧は此郷人歟)
熊凝《クマノコリ》 日本書紀云、神功皇后撃忍熊王時、有熊之凝着、為忍熊汪軍之先鋒、注熊之凝者|葛野城《カドノキ》首之祖也。(今平端村大字|柏木《カシノキ》あり蓋葛野城の訛なり、佐保川に瀕す)、姓氏録云、熊凝朝臣、神饒速日命孫味瓊杵日命之後也。古熊凝寺と云者あり、今額安寺は其址なるべし。三代実録云、昔日聖徳太子、建平群郡熊凝道場、飛鳥岡本天皇(舒明)遷建十市郡百済川辺、号曰百済大寺。(熊凝精舎の事太子伝暦并に大安寺縁起にも見ゆ)
額安寺《ガクアンジ》 平端村大字額田部に在り、推古帝御宇上宮太子熊凝村に一精舎建てたまふ即是なり、玉林抄に、推古帝造立、薬師堂額安寺と云。〔名所図会〕大安寺伽藍縁起流記資財帳云、初飛鳥岡基宮御宇天皇(舒明)之未登極、号曰田村皇子、上宮皇子命謂田村皇子曰、愛哉善哉汝姪男、自来問吾病矣、故以熊凝寺付汝、大王及継治天下、歳次己亥春二月、於百済川側建。元亨釈書云、大安寺者、推古二十五年、太子豊聡、入定見来世皇運、出奏曰、季葉多艱、乞建寺鎮之、乃営熊凝精舎、舒明十一年移之百済河側。
大島嶺《オホシマノネ》 額田郷は平野の間に隆起して一丘を成す、万葉集、大島嶺と云は此か、或は立野の島山を大島と云ふにや、今詳ならず。
近江大津宮御宇天皇賜鏡王女御歌
妹が家もつぎて見ましを山跡なる大島嶺に家も有らましを、〔万葉集〕
略解云、鏡女王は額田女王の姉にて平群郡額田郷に同く住給へるなるべし、天智天皇近江へ遷ませし後も女王は大和に居給ひし故にかくは読給ふ、大島嶺も平群郡に在るべし。
飽波《アクナミ》郷 和名抄、平群郡飽波郷、訓阿久奈美。今の安堵《アンド》村なり、佐保川富小川其西南に相合す。日本書紀「天武天皇白鳳五年、倭国飽波郡言、雌鳥化雄」と、当時平群を飽汲の郡と云へる事有りしに似たり。東寺文書、正和三年、七条院領安堵荘。
飽波宮《アクナミノミヤ》址 飽波常楽寺あり、是れ宮址にあらずや。続日本紀、称徳天皇、神護景雲元年四月、幸飽浪宮。〔大安寺縁起云、聖徳太子、薨于飽浪宮〕、常楽寺《ジヤウラクジ》は安堵村の東安堵に在り、寺伝云、山背大兄王建立。
飽波安堵の北に高安《タカヤス》村あり、(今富郷村に属す)延喜式大野墓は高安の古墳是也と云、〔陵墓一隅抄〕大野墓、太皇太后之先大枝氏、在平群郡、兆城東西六町南北四町。(大技氏は桓武御母山城国大枝陵高野新笠の先なり)
富小川《トミノヲガハ》 生駒郡の北界、北倭村高山より発源し南流五里にして佐保川に合し、大和川(立田川)と為る。此川鳥見の地をすぐれば富小川と云ふ、又|斑鳩《イカルガ》を過ぐるを以て斑鳩寺を詠ずるに此水を援く事典故あり。
斑鳩やとみの小川の流れこそ絶えぬ御法の始なりけり、〔新千載集〕いかるがや富の小川の絶えばこそ我大きみの御名を忘れめ、〔拾遺集〕
上宮聖徳法王帝説云、上宮薨時、巨勢三大夫歌、
いかるがの止美のをがはのたえばこそわがおほきみのみなわすらえめ、
補【富緒川】○上宮聖徳法王帝説 「伊我留我乃止美能井乃美豆伊加奈久爾多義※[氏/一]麻之母乃止美乃井乃井能美豆」是歌者、膳夫人臥病将臨没時乞水、然聖王不許、遂夫人卒也、即聖王誅(誄歟)而詠是歌、即其証也、但銘文意、顕夫人卒日也、不注聖王薨年月也、云々、上宮薨時、巨勢三杖大夫歌、「伊加留我乃止美能乎何波乃多叡波許曽和何於保支美乃弥奈和須良叡米」美加弥乎須多婆佐美夜麻乃阿遅加気爾比止乃麻乎之志和何於保支美波母」伊加留我乃己能加支夜麻乃佐加留木乃蘇良奈留許等乎支美爾麻乎佐奈」〔夜摩郷、参照〕
夜摩《ヤマ》郷 和名抄、平群郡夜摩郷。今法隆寺村|富郷《トミガウ》村是なり。玉林抄に引ける法琳寺資財帳夜摩郷法琳寺とありて、法琳寺後世法輪寺と改め富郷村に在り、此郷は一に鵤《イカルガ》と云ふ。夜摩は旧称|山部《ヤマベ》にや西辺に山を負ふ。続日本紀云、「延暦四年詔、自今以後宜改避先帝御名朕之諱、於是改白髪部為真髪部、山部為山」と、山即二字に修せば夜摩なり。姓氏録云「大和皇別山公、内臣同祖、味内宿禰之後也」と。又東文氏の族に山口直ありて、氏族志云「応神帝時、阿智使主、率十七姓県人口帰化、分居諸国、雄略帝時、詔衆漢部、定其伴造賜姓曰直、以其居皇城東、故称東漠直、又倭漠直、阿智生都賀、都賀生三子、山木志努爾波伎、子孫分為数十氏、而志努之後坂上氏最著、〔参取日本書紀続日本紀令義解坂上系図〕文氏出自爾波伎、即東文氏也、初曰漢書直、孝徳帝時、有漢山口直大口、法隆寺二天像光背記、作山口大口費、即是人也」と見ゆるも此辺を故墟とするか、不審。
法王帝説の詠歌、巨勢三杖大夫が上宮薨去を傷む作に
多婆佐美《タバサミ》山|己能加支《コノカキ》山あり、法隆寺北に在る者なるべし、
美加弥乎須多婆佐美夜摩乃阿遅加気爾比止乃麻乎之志和何於保支美波母、
伊加留我乃己能加支夜麻乃佐可留木乃蘇良奈留許等乎支美爾麻乎佐奈、
竹林殿《タケハヤシドノ》址 春日神の影向所なり、大和志に今飽波郷安堵村に在りと云ふは此より彼郷へ転ぜしめたるか。春日権現記目録云、大和国平群郡夜摩郷に一霊地あり、竹林殿と号す、春日大明神御影向の所也、昔し右馬允藤原光弘、広瀬郡吉南殿といふ所に住けり、大和河の北の辺を見れば夜々光る所あり、貴女この所におはして子孫繁昌すべき所なりとの給、如何なる人何れの所より来給にかと光弘申ければ、
我宿はみやこのみなみしかのすむ三笠の山のうき雲のみや
かくおほせられて見え給はず、光弘夢想によりて、天暦(村上)二年二月廿五日始めて土木をかまへて、天皇に奏聞して同年六月十六日より此処にすむ。法隆寺の南は大和川広瀬郡なり、吉南殿今詳ならず。
補【夜摩郷】○和名抄郡郷考 夜麻、春日験記大和国平群郡夜摩郷に一の霊地あり、竹林殿と号す、春日大明神の御影向の所なり。○名蹟幽考 引玉林抄云、法琳寺資財雑物録云、法琳寺東限法起寺界、南限鹿田池堤、北限氷室池堤、西限板垣峰、在平群郡夜摩郷、右寺斯奉為小治田宮御宇天皇御代、歳次壬午年、上宮太子起居不安、于時太子願平復、即男山背大兄王并由義王等始立此寺也、所以高橋朝臣預寺事者、膳三穂娘為太子妃矣、太子薨後以妣為檀越、今斯高橋朝臣等三穂娘之苗裔也、維于時延長六年歳次戊子、三百一十歳云々。
岡本《ヲカモト》 今|富郷《トミサト》村大字三井の東に字存す、法起寺あり、此寺は霊異記に鵤村岡本尼寺とある者にして、法隆寺を太子伝暦に鵤僧寺と呼ぶに対せる称なり。
岡本宮址は今法起寺即是なり。日本書紀云、推古天皇十四年、皇太子講法華経於岡本宮。法王帝説云、太子起七寺、其一曰|池後《イケジリ》寺。
法起《ホフキ・ホツキ》寺《ジ》 法隆寺の東北凡十二町、(大日本仏教史は法隆寺資材帳を引き池後尼寺推古帝十五年建立す法起寺是也と)岡本池の南に在り、草堂一宇三層塔婆一基存す、即聖徳太子の宮址にして、其三重塔は太子造営当年の制を観る、(今時別保護を加へらる)法輪寺と同く法隆寺に属す。霊異記云、観音銅像反化鷺形示奇表縁第十七、大倭国平群郡鵤村岡本尼寺、観音銅像有十二体、昔少墾田宮御宇天皇世、上宮皇太子所住宮也、太子発誓願以宮成尼寺者也、聖武天皇世、彼銅像六体盗人所取、尋求无得、経数日月、平群駅西方有小池、夏六月、彼辺有牧牛童男等、見之、池中有聊木頭、頭上居鷺、指取牽上見、観音銅像、頼観音像、名菩薩池。
池神の力士舞かも白鷺の桙くひもちてとびわたるらむ、〔万葉集〕
三井《ミヰ》 富郷村大字三井、法隆寺の北に接す、法王帝説に富の井の歌あり、蓋此地に泉あるを以て此名あり。法王帝説云、膳夫人(三穂姫)臥病而将臨歿、時乞水、然聖王不許、遂夫人卒也、即聖王誄而詠是歌、
伊我留我乃止美乃井能美豆伊加奈久爾多義※[氏/一]麻之母刀止美乃井能美豆。
法輪寺《ホフリンジ》 古は法琳寺に作る、今真言宗東寺に依属し、法隆寺の北八町に三重塔及妙見堂存す是なり。山背大兄の創立、上宮妃謄三穂姫の御願なり、塔婆は当時の遺構とす。(今特別保護を加へらる、又百済国将来の木造観音一体を伝ふ)玉林抄云、法琳寺資財雑物録曰、法琳寺、東限法起寺界、南限鹿田池堤、北限氷室池堤、西限板垣峰、在平群郡夜摩郷、右寺斯奉為小治田宮御宇天皇御代、歳次壬午年、上宮太子起居不安、于時太子願平復、即男山背大兄王并由義王等始立此寺也、所以高橋朝臣預寺事者、膳三穂娘為太子妃矣、太子薨後以妣為檀越、今斯高橋朝臣等三穂娘之苗裔也。法隆寺目録抄云、当上宮王院北去十町許、有寺名三井寺、亦名法林寺、有金堂講堂大塔食堂、建立之様似法隆寺、推古天皇年中所建云、百済開法師円明法師下氷新物等三人合造此寺云々、奉為聖徳太子、山背大兄王建立云々、然則下氷新物者即大兄王歟。駒場は法論寺の東南二町に在り、岡野原とも称し、広大の古墳なり、土俗之を以て聖徳太子の騎乗烏斑を埋葬したる者と為し駒塚と呼ぶ、然れども太子伝補闕記に馬墓は中宮寺南に在りと為す、此古墳と相異なり。
補【法輪寺】〔付箋〕推古帝二十一年聖徳太子の御創立三十一年より三年間を以て七堂伽藍悉く成り、後世荒廃して今の姿となれり、三重塔は千二百年前建立の儘現有す。
三重塔 三層塔婆、本瓦葺、同宮郷村法輸寺境内。
斑鳩《イカルガ》 霊異記には鵤村に作る、即夜摩郷也、此雄略紀に初出し、聖徳太子宮室を此地に起し諸寺并建ありければ仏法興隆の聖地と為り、今に一千三百年天下無比の霊場とす。
限りありし鶴の林のかたみをば留めて置けるいかるがの里、〔夫木集〕 殷富門院大輔因可《ヨルカ》池は法隆寺内の一池を云ふか、詳ならず。
斑鳩の因可の池のよろしくも君を言はねば念ひぞ吾する、〔万葉集〕いかるがやよるかの池は氷れども富の小川ぞながれ絶せぬ、〔夫木集〕
斑鳩宮《イカルガノミヤ》址 日本書紀云、推古天皇九年、厩戸皇太子初興宮室于斑鳩、十四年天皇播磨国水田百町、施于皇太子、因以納于斑鳩寺。又云、皇極天皇二年、蘇我臣入鹿遺小徳巨勢徳太臣等、掩山背大兄王等斑鳩、王取馬骨投置内寝、逃出隠胆駒山、徳太臣等焼斑鳩宮、三輪文屋君従大兄王勧曰、請移向於|深草《フカクサ》屯倉、王不従、自山還入斑鳩寺、軍将等即以兵囲寺、王使謂之曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之、然由一身之故不欲傷残百姓、是以吾之一身賜於入鹿、終与子弟妃妾、一時自経倶死也、于時五色幡蓋種々伎楽照灼於空、臨垂於寺、衆人仰観称嘆、遂指示於入鹿、変為黒雲、由是入鹿不能得見。斑鳩宮は即法隆寺東院夢殿なりと云、又蘆垣宮あり、同異詳ならず。
蘆垣宮《アシガキノミヤ》址 蘆垣は聖徳太子崩御の宮殿にして、法隆寺古今目録抄に見ゆ、今法隆寺より巽方五六町許俗に神屋《カミヤ》と云ふ所是なり。〔名所図会〕按ずるに神屋は上宮の転訛なり、一説聖徳崩御は飽波宮とも云へり。
北岡《キタヲカ》墓 延喜式云、北岡墓、山背大兄王、在平群郡兆域三町南北二町。大和志云、北岡墓上、有寺、曰法積寺、四畔田丘五所。玉葉集に見ゆる太子御廟は北岡墓にあらずや、法隆寺の丑位に当り即北方なり。
太子の御廟に詣でてよめる
消にしをうしと許りは御墓山さきだつ雲の行衛しらせよ、〔玉葉集〕 花山院入道前右大臣
中宮寺《チユウグウジ》 法隆寺村に在り、法隆に属すと雖近代は斑鳩御所と称し、尼宮門跡の一に列し皇族女僧入寺したまへり。寺宝天寿国曼荼羅図〔刺繍掛軸一幅〕如意輪像〔木造一躯〕今国宝に登録せられたり。
天寿国曼荼羅は間人太后聖徳法王薨去の後、橘大女郎の志願に因り太后法王の為めに推古天皇勅して諸采女をして之を織らしめ玉ふ、令者画工の名は曼荼羅の題詞に見ゆ、又本寺の建立は推古天皇十五年、太子七寺の一なり、中宮尼寺と号す。〔法隆寺資財帳法王帝説〕古今目録抄云、中宮寺者、太子母穴穂部皇女之宮也、而新成寺名鵤尼寺、又裏書云、中宮寺者、葦垣宮岡本宮鵤宮三箇宮之中、故云中宮又云中宮寺、太子生年十六歳丁未、依母妃詔、御手寺塔刹柱立、斑鳩寺始造之。旧跡幽考云、中宮寺は文永年中河州西林寺日浄上人再興、又其後西大寺思円上人重修ありて尼僧を寺主とせらる、当院に天寿国曼荼羅ありて、荘厳微妙瑞応つねならず。考古学会雑誌云、天寿国曼荼羅は新古の二種あり、其古繍帳は今亡び、断片を舗綴して方三尺に満たざる一軸と為す、人物宮殿亀甲銘文等わづかに其旧様を観るべし、新曼陀羅は建治元年の模造なり、新曼荼羅(裏書あり)并に太子伝聖誉抄に拠るに、此繍帳は二帳にして黄紫の両絹各長一丈六尺とす、人物仏像鬼形等五六十、亀形百箇を繍ひ、又亀甲に各四字づつの銘文を繍ひ、当初は法隆寺の宝蔵に置かれたり、安置後六百五十余年(文永十一年)比丘尼信如中宮寺修造の願を発し、法隆寺に古曼陀羅二帳を得たり、即此繍帳なりき、信如其朽敗を傷み京師に詣り衆人を勧募し翌年模造の功を畢る、其銘文の点読者は花山院中納言藤原諸継と園城寺大僧都定円なりし事も新曼陀羅裏書に徴すべし。其亀甲銘文曰
斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等娶巷奇大臣伊奈米足尼女名吉多斯比弥乃弥己等為太后生名多至波奈等己比乃弥己等妹名等己弥居加斯支移比弥乃弥己等復娶太后弟名乎阿尼乃弥己等為后生名孔部間人公主斯帰斯麻天皇之子名※[くさがんむり/(豕+生)]奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等娶庶妹等己弥居加斯支移比弥乃弥己等為太后坐乎沙多宮治天下生名尾治王多至波奈等己比乃弥己等娶庶妹名孔部間人公主為太后坐涜辺宮治天下生名等己乃弥弥乃弥己等娶尾張大王之女多至波奈大女郎為后歳在辛巳十二月廿日発酉日入孔部間大女王崩明年二月廿二日甲戌夜半太子崩于時多至波奈大女郎悲哀嘆息白畏天皇前曰顧之雖恐懐心難止使我大王与母王如期従遊痛酷無比我大王所告世間虚仮唯仏是真玩味其法謂我大王応生於天寿国之中而彼国之形眼所難看※[りっしんべん+希]因図像欲覩大王往生之状天皇聞之悽然告白有一我子所啓誠以為然勅諸采女等造繍帳二帳画者東漢末賢高麗加西溢又漢奴加己利令者椋部蓁久麻
右在法隆寺蔵、繍帳二帳縫著亀背上文字者也、更々不知者云.天寿国者猶云天耳。〔法王帝説〕
長大墓《ナガノオホハカ》 上宮太子伝輔闕記云、庚午四十七年四月卅日、夜半有災斑鳩寺、太子馬其毛烏斑、太子馭之凌空※[足+(攝-手偏)]雲、能※[食+芳]四足、東登|輔時《フジ》岳、三日而還、北遊|高志《コシ》之州、二日而還、太子欲臨看之地、此馬奉駕、辛巳四十八年十二月廿二日斃、太子愴之、造墓葬墓、今中宮寺南、長大墓是也。補闕記の干支紀年疑はし、又長大墓は今土俗駒塚と云者と同異詳ならず。
補【中宮寺】○上宮聖徳法皇帝説 太子起七寺、四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺(并彼宮賜川勝秦公)池尻寺、葛木寺(賜葛木臣)戊午年四月十五日小治田天皇請上宮王、令講勝鬘経、其儀如僧也、諸王公主及臣連公民信受無不嘉也、三箇日之内講説訖也。云云、明年二月廿二日甲戌夜半、太子崩、于時多至波奈大女郎悲哀嘆息白、畏天(皇前曰、啓)之雖恐、懐心難止、使我大王与母王如期従遊、痛酷無比、我大王所告、世間虚仮、唯仏是真、玩味其法、謂、我大王応生於天寿国之中、而彼国之形、眼所難看、※[りっしんべん+希]因図像、欲観大王往生之状、天皇聞之、悽然一告曰、有一我子所啓、誠以為然、勅諸采女等、造繍帷二帳、画者東漢末賢高麗加西溢、又漠奴己利、令者椋部蓁久麻、
右在法隆寺蔵繍帳二張縫著亀背上文字也、更々不知者云々、
(天寿国者猶云天耳、天皇聞之者又小治田天皇也)○人名辞書 太子建る所の寺を四天王、法隆、中宮、橘樹、蜂岡、池尻、葛城、元興、日向、定林、法興と曰ふ、著はす所、勝鬘、維摩、法華経疏あり、号して上宮疎と曰ふ、皆な深義を得と云、
天寿国曼荼羅図刺繍掛幅一幅、如意輪観音木造半※[足+加]像一躯、○尼宮、斑鳩御所。補【長大墓】○上宮聖徳太子伝補闕記 庚午〔四十七〕年四月卅日夜半、有災斑鳩寺、太子謂夫人膳大郎女曰、汝我意触事不違、吾得汝者我之幸大、思群臣預知而召之、一事已上、太子所念、咸預識之、加太子馬其毛烏斑、太子馭之、凌空※[足+其]雲、能餝四足、東登輔時岳、三日而還、北遊高志之州、二日而還、太子欲臨看之地、此馬奉駕、三四五六日、莫処不詣、云々、辛巳(四十八)年十二月廿二日先太子愴之、造墓葬墓、今中宮寺南長大墓是也。
法隆寺《ホフリユウジ》 斑鳩寺是なり、推古天皇十五年建立、或は伊河留我|本寺《ホンジ》〔法隆寺資財帳〕鵤僧寺《イカルガソウジ》〔太子伝暦〕に作る。聖徳太子山背大兄王一族薨去の跡なるを以て現身往生所寺とも云。〔太子伝通要〕本寺は天智帝八年九年連に災あり、一屋を余さざりしが、元明天皇和銅年中興復設斎あり、〔日本書紀続紀〕蓋智蔵法師(熊凝福亮の子也其徒額田道慈亦名僧たり)在住の日にして再興は其力ならん、智歳三論宗を主張し其徒弟に及び法相を兼学せり、故に本寺は今に法相宗大本山たり。(三論は後世亡ぶ)寺域凡二万三千歩、大小の建築之に満つ、中にも金堂五重塔中門は元明朝再興の者にして、雄大絶倫と称す。本寺は其建築に於て推古朝の典型を遺し、法宝に於ては隋唐三韓の光明を伝ふ、識者推重して止む能はざる所也。近年寺門衰弊、頗維持に苦みしも、王室及び政府の保護種々なれば、富の小川の法水げに絶えずして永く後世に流れんかし。好古叢志云、天智紀八年の条に「是冬、災斑鳩寺」と見え、九年には「夏四月壬申、夜半之後、災法隆寺、一屋無余」と見ゆれば今存在の伽藍は推古朝の旧物にあらず、古今目録抄に金堂内の壁画を指して「此堂内壁、有四仏浄土絵、鳥云絵師画之」とあれど天智朝に焼失せば鳥仏師(推古朝の人)画けるには非ず、七大寺年表に「法隆寺、和銅元年、依詔作」とあり、又以呂波字類抄に「法隆寺、七大寺内、和銅年中建立」と載せ、続紀、元明天皇和銅八年六月、設斎於弘福法隆二寺とも見ゆ。南大門 正門なり、永享十一年再建す、中門の南百聞許に在り。
中門 四間二戸の楼門制なり、楼上に孝謙帝勅願と称する百万塔数百基を置く、左右金剛密迹の二像は塑造彩色、形貌太奇偉なり。中門は廻廊と接続し、鐘楼鼓楼講堂と相連り方形を為す、其中庭に金堂大塔相并ぶ、故に俗言に中門は口、鐘鼓楼は双耳、講堂は髻、金堂大塔は両眼の如し、廻廊は其輪廓を為すと曰ふ、此一構即本寺の中院なり。
金堂 中庭東方に位置す、五間四方重層にして裳階あり、(屋根入母屋本瓦葺)今尺高五丈八尺五寸東西十二間四尺南北十一間、石灰壇の上に建つ、形状最壮麗なり。堂内は外陣壁上十二間に四仏浄土図及菩薩諸像を絵画す、又貫木の壁には羅漢像天井の板には蓮花を描写す、今剥削の余と雖五彩燦乎たり。また内陣土壇の本尊釈迦如来金銅坐像、(長二尺八寸七分)脇士薬王薬上金銅立像、(各長二尺七寸)本尊背に銘を勒す、造仏の所由を記す、法王帝説云、
法興元世一年歳次辛巳十二月鬼前大后崩明年正月廿二日上宮法王枕病弗※[余/心]于食王后仍以労疾並著於床時王后王子等及与国臣深懐愁毒共相発願仰依三宝当造釈像尺寸王身蒙此額力転病延寿安住世間若是定業以背世者往登浄土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法王登※[しんにょう+(瑕−王)]癸未年三月中如願敬造釈迦尊像并挟侍及荘厳具竟乗斯微福信道知識現在安穏出生入死随奉三主紹隆三宝遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利仏師造
右法隆寺金堂坐釈迦仏光後銘文如件、今私云、是正面中台仏云々、
同書釈曰、法興元世一年、此能不知也、但案帝紀云、小治田天皇之世、東宮厩戸豊聡耳命、大臣宗我馬子宿禰、共平章而建立三宝、始興大寺、故曰法興元世也、此即銘云法興元世一年也、後見人若可疑年号、此不然也、然則言一年字、其意難見、然所見者、聖王母穴太部王薨逝辛巳年者、即小治田天皇御世、故即指其年、故云一年、其無異趣、鬼前大后者、即聖王母穴太部間人王也、云鬼前者此神也、何故言神前皇后者、此皇后同母弟長谷部天皇、石寸神前宮治天下、若疑其姉穴太部王、即其宮坐、故称神前皇后也。(法輿元は三字建元にて世一は三十一なり即推古帝二十九年也と知るべし)
東壇仏は本尊薬師如来、金銅坐像、脇士日光月光、金銅立像なり、其背に本寺造立の縁起を刻す、
池辺大宮治天下天皇大御身労賜時歳次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大御病大平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉
法王帝説云、右法隆寺金堂坐薬師像光後銘文、師寺造始緑由也、今私云東壇仏也、
按ずるに池辺宮天皇は用明帝、小治田宮天皇は推古帝也、聖徳太子は用明第一男にして丁卯は即推古十五年にあたる、本寺創建の歳次也、古今目録抄に拠れば薬師は金堂最初の本尊と曰へり、即是也。西壇は本尊弥陀座像、脇士観音勢至とす、此金銅の三尊は元明帝の本願なりしを中世盗に遇ひ貞永元年再造したる者とぞ。又土壇の四隅に天王の像あり、製作全く諸本尊に同じ、然れども其一体西方天の銘に「山口大口費上而次木開二人作也」とあれば.孝徳「白雉元年、是歳漢山口直大口、奉詔刻千仏像」と云に参考して当時の造立なりしを知る。此他壇上に吉祥天多聞天観音等数躯あり。古京遺文云、
観世音菩薩造像記、
歳次丙寅年正月生十八日記高屋大夫為分韓婦夫人名麻古顛南无頂礼作奏也
右金銅二臂如意輪像、蔵在大和国法隆寺綱封庫、記在其座下、按丙寅推古天皇十四年也、正月生十八日、謂正月月始見之後第十八日也、当時未用暦日、非因月之明晦、英知毎月之更改、故以月初見於西方為朔、訓朔為月立者以是故也、猶尚書哉生明、其復雖行暦法、無辺鄙猶認月見数日、故天智天皇十年十一月紀、対馬国司上言云、月生二日、是足以見古時素模之風也、高屋大夫名諱今不可知、凡金石文之伝于今日者、不有先於是者、両前人所未見、余客歳(文化中)西遊始得遇之、亦何幸耶。
金堂には壇上又二箇の厨子あり、一は玉虫《タマムシ》厨子と称し、一は橘夫人念持厨子と伝ふ、共に古雅の造巧に成り往代の規模形式を遺せる宝龕とす。○考古学会雑誌云、凡法隆寺の建築は彼の金堂塔婆中門の三宇が相并びて※[にんべん+厳]存し、吾人推論して之を推古式と名づくと雖、亦確然たる憑拠に乏し、此際別に玉虫厨子の在るありて吾人の判断を確実ならしむ。厨子は台座広さ四尺五寸高一尺、須弥座高三尺一寸、其上に宮殿を置く、殿の高さ屋上の鴟尾まで三尺六寸とす、古今目録抄に「推古天皇御厨子、腰細也、以玉虫羽以銅彫透、唐草下臥之」と、諸家考証して推古帝の朝百済工人の所造と為す、今其宮殿の手法を按ずるに殆ど金堂塔婆の諸宇と相符合し、一見して当代建築の模型に接する思あり、洵に天下無比の貴宝たり、斯製作は百済人の手に成りしこと明白にして、毫も本邦上古伝来の芸術に関与する所なし、又其掻飾の著しく西域乃至希臘の趣味を含有せることをも観察し得べし。橘夫人三千代厨子は古今目録抄に「厨子、黒漆須弥座、光明皇后之母橘夫人所造也、内在弥陀三尊、以金銅敷地、作波文、中生蓮花三本」と見ゆ、其屋蓋今逸失し、古作の天蓋を以て之に充つ。
五重塔 金堂と相并び其西に時つ、高十一丈五尺方四丈八尺九寸、現身往生所《ゲンシンワウジヤウシヨ》寺と称し山背大兄王一族同時に此に薨去ありと伝ふ。塔内須弥山を造り諸仏菩薩羅漢を配置す、其製奇古なり、俗に泣仏と称し日本支那天竺三国の土を将て塑型すと云。補闕伝記大兄王の惨禍を記して曰く、癸卯年十小月十一日、宗我大臣発悪逆、太子子孫男女廿三王、同被害、初山代王等皆入山中、経六箇日、入斑鳩寺塔内、立大誓願曰、吾暗三明之智、未識因果之理、然以仏言推之、吾等宿業于今可賽、吾捨五濁之身、施八逆之臣、願魂遊蒼旻之上、陰入于浄土之蓮、フ香炉大誓、香気郁烈、上通雲天上、三道現種々仙人之形、種々伎楽之形、種々天女之形、種々六畜之形、向西飛去、光明※[火+玄]燿、天華零散、音楽妙響、時人仰看、遙加敬礼、当是時諸王共絶、諸人皆歎未曾有曰、王等霊魂天人迎去而滅、賊臣等、目唯看黒雲微雷掩于寺上。扶桑略記云、蘇我入鹿、積悪年深、皇極天皇四年六月、召入鹿入大極殿、中大兄皇子、以剣撃入鹿肩、入鹿□□□、中大兄皇子奏之、入鹿尽皇子将傾天、意指殺山背大兄王等事也、遂令誅入鹿、是日中大兄皇子、即入法隆寺、為城而備、爰大臣蝦夷大怒、焼天皇記并国記珍宝等自殺、堕大鬼道、蘇我門家一旦残滅矣。好古叢志云、法隆寺塔婆内の塑像は古書に※[土+(攝-手偏)]と曰ふ、蓋和銅年中の製にて今百余個あり、大は三尺二寸より小は六七寸とす、本寺資材帳云、塔本肆面具※[土+(攝-手偏)]、一具涅槃像土、一具弥勒仏像土、一具唯摩請像土、一具分舎利土、右和銅四年歳次辛亥寺遺者。(字鏡集※[土+(攝-手偏)]モタヒ)太子伝私記云、塔者五層塔婆也、又在裳階、板也、毎層四面皆板、書景勝所説四種龍王之名、外陣連子、内陣壁也、其内、南面弥勒曼荼羅、脇士在、法薗林大妙相二王二天等眷属一々御坐、西面釈迦之荼毘所、即金棺上積木出炎、(中略)北面菩薩像、涅槃像、皆悲愍相、東面浄名文殊不二法門之所、惣此塔者現身往生御塔云也、太子御入滅後、廿二年十二月十六日朝、廿五人諸王子等一時飛行西方、故云、此塔心柱本、仏舎利六粒鬚髪六毛納籠、表利六道衆生之相、即塔内作地獄衆生等形給、(以上)さて此像は大小取々にて後世の補欠ありて、元禄年中に瓦師して其欠損を補ふたることあり、其後も補へり、其諸像の中に国王大臣在家衆などと云ふ者は、天竺の衣冠風俗にあらずして、本朝の古風俗を徴すべき者のごとし。講堂 東西十三丈四尺南北七丈七尺、延長年間旧堂雷火し正暦元年山城国法性寺普明院を移す、今堂是なりとぞ、東西の鐘鼓楼も其比の改造か。上之堂《カミノダウ》は講堂の北に孤立す、舎人親王本願、旧堂傾倒、慶長元年改造す。〔京華要誌〕
西円堂《サイヱンダウ》 俗に峰薬師《ミネノヤクシ》と称す、西方の丘上に在り、橘夫人(聖徳太子妃にや又光明皇后の母にや)本願と称す、本尊薬師如来(長八尺)十二神将(各長二尺五寸)仏師運慶作と云ふ。
聖霊《シヤウリヤウ》院 中院の東に接す、聖徳太子の影殿なり、本尊三十五歳坐像(長二尺七寸)脇侍山背大兄王殖栗王子茨田王子恵慈法師等なり。〔京華要誌、保元二年建〕綱封倉は聖霊院の東に在り、校倉造一棟、本寺の宝庫なり、太子の遺物を主と為し数十点の法宝を納る、稀世の珍品あり。食堂は聖霊院の東に接す、本尊薬師如来以下数多の塑像あり。
補【法隆寺】
○京華要誌 法隆寺は実に二千二百余年前の古刺に係り、我国最旧最大なる仏法の霊場なり。
南大門 永享十一年再建(京華要誌)
中門 南大門より入りて正北に進み中門に至る、創立のまま存在せるものにて、二重屋根なり、建築古風にして一種特色あり、建築学者の模範とするものなり、楼上に孝謙帝勅願の百万塔あり、今尚ほ数千基を残す、楼下左右に赤黒の金剛密迹二力士の立像を安ず、泥像にして鳥仏師の作と云ふ、相貌雄偉、眼光烱々として生けるが如し。〔付箋〕四門二戸、梁間三間、本瓦葺。
金堂 中門の内第一位にあり、創立の儘有せり、二重閣にして瓦葺なり、高五丈八尺五寸、東西十二間四尺八寸、南北拾一間、塗灰壇の上に建築せり、結構素朴にして屋形の奇趣ある、後世建築中に見ざるものにして、又建築家の嘖々する所なり、内部は分て内陣外陣とせり、内陣に著名なる壁画あり、四仏浄土の景及び菩薩の立像を画き、別に貫木の壁には羅漢、天井裏板には蓮花を画く、五彩燦然として人目を驚かす、本尊は金銅釈迦如来の坐像にして長二尺八寸七分、脇士は金銅薬王薬上二尊、長各二尺七寸、共々鳥仏師の鋳造に係り、本尊の後背に銘あり、法興元世一年歳次辛巳云々と、東の間の本尊は金銅薬師仏にて、脇士は日光月光なり、高鳥仏の作にして、当時彫刻の風を窺ふべきものなり、薬師仏の後背に銘あり、此仏像及び法隆寺建立の由来を記せり、西の間の本尊阿弥陀の旧仏体は鳥仏師なりしが、盗難にて紛失し、現今の分は大仏師康勝の作にて、脇士は観音勢至なり、又堂内には玉虫の厨子あり、密陀絵精妙の称あり。〔付箋〕五間四方、重層、裳階あり、屋根入母屋、本瓦葺。
五重の塔 金堂の西に吃立し、創立の儘に保存せらる、高十一丈五尺、方八間九寸、和銅年間大修理をなし、後元禄九年徳川桂昌院又大修理を加へしものなり、金堂中門等と同じく建築学上著名のものなり、塔の内面には日本支那天竺三国の土を以て作りたる須弥山ありて、其内に文殊菩薩、維摩居士、弥勒菩薩、釈迦如来、涅槃化菩薩、羅漢等五十余体を安ず、皆鳥仏師の作にして甚だ奇観たり、此塔は現身往生の塔と名づけ、皇極帝二年十一月山背大兄皇子蘇我臣入鹿に攻められし時、一族妻子と共に縊して薨じ給ひし所なりと伝ふ。
大講堂 金堂の後北にあり、高五丈一尺、東西二十二間二尺、南北十二間五尺三寸にして、旧来の建物は延長年間雷火に依りて焼失し、現今のものは正暦元年山城国法性寺内普明寺の本堂を移し建てたるものなりと云。
上の堂 廻廊の外北方の山腰にあり、高四丈五尺、東西拾五間、南北七間半、舎人親王本願を以て建立せしものにて、其御堂は大風に依り顛倒せしが、慶長元年之を再建せり。
西円堂 上の堂の西方小丘上にある一奇堂にして、高四丈二尺、方九間四尺六寸あり、光明皇后の生母橘夫人の本願にて養老二年建立せしものに係り、千余年の建物なり、本尊薬師如来像、長八尺、行基菩薩の作にて、十二神将十二躯、高各々二尺五寸余、大仏師運慶の作に係り、何れも巧妙を極む。
聖霊院 高三丈六尺、東西八間五尺五寸、南北十六間五尺、保元二年の建立に係り、本尊は聖徳太子三十五歳の真像にして自作、長二尺七寸五分の座像なり、脇士は山背大兄皇子、殖栗茨田皇子、恵慈法師の座像なり、皆鳥仏師の作と伝ふ、別に百済の聖明王献ずる所の如意輪観音あり、また名作なり。
綱封倉 聖霊院の東にあり、校倉造にして高三丈三尺、東西六間半余、南北十五間余、当寺の宝物倉にして、其内部には和漢稀世の古仏数千体、用明帝、推古帝及び聖徳太子等の御遺物を始めとして、其他関係ある皇族諸臣の遺物も数百点累々堆を作す。
食堂 聖霊院の東北にあり、高二丈一尺、東西十二間五尺余、南北六間三尺、創立のままなりと云ふ、本尊薬師如来の座像及び脇士、日光月光の二休、梵天帝釈二体、四天王四体は何づれも和漢竺三国の土を以て鳥仏師作りしもの、塑像にして絶世の名作なり。
新堂 高一丈八寸、方四間一尺余、もと境内華園地にありし古建物を弘安十一年今の地に移せりと云。
釈迦如来金銅坐像一躯(止利作)
同脇士金銅立像二躯(止利作)
薬師如来金銅坐像一躯(止利作)
同脇士金銅立像二躯(止利作)
観世音菩薩木造立像一躯
四天王木造立像四躯 行法堂か
阿弥陀三尊金銅坐像三躯 金堂か
観世音菩薩乾漆立像一躯
橘夫人念持仏厨子一基、玉虫厨子一基
蓮花図絹本着色二曲屏風一双(巨勢金岡筆)
九面観音木造立像一躯(聖徳太子作)
観世音菩薩木造立像一躯
行信僧都乾漆坐像一躯
夢殿《ユメドノ》 東院又は上宮王院と称す、中院の東四町許に在り。八角円堂(高三丈九尺径五丈六尺)上宮太子在世の日入定の室址にして、夢殿と号す、蓋斎殿の謂乎、扶桑略記云、太子在斑鳩宮、入夢殿内、此殿在寝殿之側、一月三度沐浴而入、明旦談海表雑事、及諸経疏。本尊十一面観音、(木像六尺五寸)又行信僧都道詮律師の二像あり、本殿は天平年中行信造立なるべし、今中院の金堂大塔中門と同く政府特別保護を加ふ。夢殿の前にあたり礼堂あり、側に舎利殿あり、本尊正観音立像(寺伝止利仏師作長二尺九寸)俗に夢違仏と曰ふ妙好の相を具ふ、五間の障子に太子絵伝を描写す、旧画は延久三年摂津国大波郷人秦致真の作なりしを、天明中吉村光貞模写したり。(旧画は今御府に帰す)伝法堂は夢殿の背に在り古仏像多し、中にも木造四天王は最著る。
五言、扈従聖徳宮寺一首、時高野天皇在祚、 淡海三船
南岳留禅影、東州現応身、経生名不滅、歴世道弥新、尋智開明智、求仁得至仁、垂文伝正法、照武掃凶臣、茂実流千載、英声暢九※[土+艮]、我皇欽仏果、廻駕問芳因、宝地香花積、釣天梵楽陳、方知聖与聖、玄徳永相隣、(法隆寺蔵古簡有此一篇)
扶桑略記云、治安三年、前大相国(道長)御法隆寺、先覧東院、是聖徳太子夢殿也、覧種々宝物、有御歌、
王の御名をばきけどまだも見ぬ夢殿までにいかできつらん、
弘安元年、法隆寺宝物和歌 霊山定円
鷲の山法のこころをいかにしてしるしそめけむいかるがの宮、(法花経義疏御章本)すかしなす仏のいますかざりまでさぞ玉虫のひかりますらむ、(玉虫厨子)此寺のさかえを見ればうづみ置くくらひうくべきよははるかなり、(伏蔵)秋の霜さえたる上に夜の星 七の光をならべてぞ見る、(七星御大刃)
法隆寺開帳、南無仏の太子を拝す
お袴のはずれなつかしべにの花、 千那
法隆寺にて
二王にもよりそふ葛のしげりかな、 園女
法隆寺の仏像を、天王寺に拝みて
契沖
いかるがの宮は昔の軒の草おひこそかはれ人の心に、
補【夢殿】○京華要誌 法隆寺東院夢殿 一に上宮王院と称す、八角形にして高三丈九尺、方九間二尺、創立のまま存在せり、聖徳太子在世の日、常に入定し給ひし浄殿なり、因て夢殿と云ふ、本尊十一面観音は木作金色にして、長六尺五寸あり、希世の名作なり、前立の正観音及び行信僧都座像、道詮律師座像は何れも名作なり。
礼堂 夢殿の前面にあり、高三丈、東西十間四尺、南北八間余。
舎利殿・絵殿 舎利殿と同一棟にして東は舎利殿、西は絵殿なりとす、高三丈、東西十三間半、南北七間余あり、礼殿と共に天平創立の儘存在せり、舎利殿の本尊は釈尊、左眼は仏舎利にして、太子二歳の時東方に向ひ南無仏と称し、手中より墜したるものなりと伝ふ、殿内に土佐光信筆の画障子あり、又太子二歳の立像あり、徳治年中仏師丹好作る所なり、絵殿の本尊は金堂正観音立像、長二尺九寸、鳥仏師の作にて、俗に夢違の観音と云ふ、※[土+素]造聖徳太子七歳の座像及び木造長三尺の正観音立像と共に名作なり、殿内に太子入胎の時より薨去の後まで一代のことを記せる絵を五間の障子に画けり、旧画は延久三年五月摂津国大波郷の人秦致真の筆に成れるものにて、非常の名画なるより、曾て之をはぎ貯へしを、先年宮内省に献納し、現今の画は天明中吉村法限周圭光貞の写せるものにて、また凡作にあらず。〔付箋〕八角円堂、単層、本瓦葺。
生駒川《イコマガハ》 北生駒《キタイコマ》村より発源し、生駒山下を県て平群谷《ヘグリダニ》(今明治村)を過ぎ、龍田村を貫き、佐保広瀬の諸水に会し大和川と為る、長四里許。龍田には之を龍田川と云ふ。生駒谷は南北の二村に分る。
生駒山《イコマヤマ》 北生駒村の西に聳ゆ、大和河内の国界を為し頂点抜海六四〇米突、山路を辻子《ツジ》越と曰ふ、宝山寺より河内の芝村興法寺に通ず、辻子越の南に暗峠《クラガリタウゲ》あり河内枚岡へ出づ、(河内国草香参看)辻子越の北に又別路あり善根寺越と云ふ河内|日下《クサカ》へ出づ古の孔舎衙坂此なり、
久かたの雲井に見えし生駒山春はかすみのふもとなりけり、〔新勅撰集〕 後京棲摂政前太政大臣
万葉集仙覚抄に云、昔百済固より馬をこの国へ献りたり、それを秦氏の先祖よくのれりけり、さて帝これをいみじきものにせさせ給ひて、うまと云こと定り始て、いこま山に放てかはしめ玉ひけり。○按に古事記応神帝の時、百済国主照古王牡馬牝馬各一疋を阿知吉師に附して貢上したる事を載す、其時の放飼の故事によりて駒山の名起るか、伊駒の伊は発語を冠らせたる者に似たり。古名は孔舎衙山にや不審。
孔舎衙坂《クサカノサカ》 日本書紀、神武天皇、欲東踰胆駒山而入中洲、時長髄彦聞之、※[ぎょうにんべん+(激-さんずいへん)]之於孔舎衞坂。按ずるに神武帝浪速より草香津に次し生駒を踰えたまふ、草香今|日根市《ヒネイチ》村大字|日下《クサカ》是也、然らば孔舎衞は孔舎衙の誤なるべく、其故道も今|善根寺《ゼンコンジ》の北路にて、草香山の直越《タダゴエ》是なり、旧説多く生駒南路暗峠に充てたるは精からず。
妹がりと馬に鞍おき射駒山うち越くればもみぢちりつつ、〔万葉集〕
宝山寺《ハウサンジ》 生駒山絶巓の東北十町、山腹(四五米突)巨岩暴露の処に在り、石状瑰醜を極む、殿堂亦観るべし般若窟と称す。古は修験道者の行場なりしが、延宝六年湛海比丘遠近に勧募して造営を為す、山下を菜畑《ナバタケ》と云ふ、北生駒の首村なり。
往馬《イコマ》神社 宝山寺の下生駒川の畔に在り、南生駒村大字一分に属す、延喜式往馬坐伊古麻都比古神社二座是なり、生駒谷の氏神にして往馬彦往馬姫を祭る。神祇志料云、胆駒神は天平二年神戸稲租二百三拾余束を無料及び雑用に充て、〔東大寺正倉院文書〕平城天皇大同元年神封三戸を寄し〔新抄格勅符〕清和天皇貞観元年正月従五位下往馬坐伊古麻都比古神に従五位上を授く、〔三代実録〕醍醐天皇延喜の制二座并に大社に列り祈年月次新嘗の案上官幣に預り其一座は又祈雨の幣に預る、〔延喜式〕凡大嘗祭胆駒杜の神都をして火鑚木を奉らしむ〔北山抄〕卜部氏又此神を祭て亀卜|火燧木《ヒキリキ》神と云、延喜式年中御卜料波々迦木は大和有封の社に仰せられ之を採進む、本社火燧木を奉る者或は波々迦木と云ふ。
補【往馬神社】○神紙志料 伊古麻山口神社
按、臨時祭式伊古麻を胆駒に作る
今櫟原村にあり(大和志・名所図会)清和天皇貞親元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け、九月庚申雨風の御祈の為に幣を奉りき(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る(延喜式)一条天皇正暦五年四月戊申、中臣氏人を宣命使として疾疫放火の事を祈らしめき(本朝世紀、参取日本紀略)
按、本朝世紀胆駒に作る時は往馬の社か、又本社を指して云るか詳かならず、今姑く此に附く。
鬼取山《オニトリサン》 生駒山の一峰なり今南生駒村、大字鬼取と曰ふ、鶴林寺あり拾芥抄に役小角の開基、儀学儀賢の二鬼をを呪縛したりと云古跡なり。竹林寺あり行基菩薩の埋葬所と曰ふ、竹林寺の太鼓近年まで大坂城の鼓楼に在りし由、金城見聞録に見ゆ。
生駒《イコマ》山大聖竹林寺、太鼓張之記録、古伝聞、迦葉打鼓則阿難立舞、上宮吹笛則山神出遊、(中略)筒則、生駒山之霊木、而梓則竹林寺之貴木、彼山者是海公大師之聖跡、此寺行基菩薩宿樹也、(中略)正安二年歳次壬寅、(中略)奉張直大聖竹林寺御堂 太鼓、(中略)御願本尊大聖文殊、(中略)寛正三辛巳年、(鼓銘一節)
暗峠《クラガリタウゲ》 南生駒村に属し河内枚岡に越ゆ、近代奈良大坂の通路は専ら之に由りしを以て其名著る、或は暗嶺《クラガネ》越と曰ふ。
重陽くらがり峠にて
菊の香にくらがりのぼる節句かな、 芭蕉
平群《ヘグリ》郷 和名抄、平群郡平群郷、訓倍久里。今南生駒村北生駒村明治村是なり。明治村は旧平群谷と称し、生駒谷と相分れ亦山中一境を成せる地なり。大和志云、平群山、上方数峰、平斉成群、因名。古事記伝云、大和志平斉成群とは仮字を知らざるひが言也、冠辞考云、万葉歌「薦畳平群のあそ」とは編たる薦の幾重もへだて重ぬる意にて云かけたり。小川氏云、平群は重快《エクリ》の意なるべし、応神天皇歌に戸中之異句離《トナカノエクリ》とあると同じ意ならん、景行天皇歌に「たたみごも平群の山」と見ゆ。
補|十三塚《ジフサンヅカ》山 平群郡○大和町村誌集 河州に亘て高約五十八丈、山中に嶺あり、十三峠と称す。○明治村大字福貴畑にあり。
平群谷《ヘグリダニ》 今明治村と改む、福貴《フキ》外十九の大字あり、生駒川の両崖山丘の間に散在す、西南隅を信貴山《シギサン》と為す。
平群坐紀氏神社は延喜式に列す。日本書紀、武内宿禰子曰|木兎《キノツク》宿禰、是平群臣之始祖也。古事記、建内宿禰之子木角宿禰者、木臣之祖。神祇志料、紀氏神社、今平群谷上荘村にあり辻宮(木兎宮の訛にや)といふ※[木+典]原《シデハラ》西向共に之を祀る、〔大和志〕蓋紀朝臣の遠祖武内宿禰を祀る、〔参取姓氏録〕淳和天皇天長元年、右衛門督紀朝臣百継越前加賀守妃朝臣末成等が奏請に依て紀氏神を幣帛の例に預らしめ〔類聚国史〕六年山城愛宕郡の丘一処を百継等に賜ひて神を祀る処たらしむ。〔日本紀略〕
楢本《ナラモト》神社 三代実録云、貞観三年、平群郡雲感寺楢本神授位。延喜式云、雲甘寺坐楢本神社。大和志云、雲甘寺坐楢本神は梨本村野馬田明神なり、県名勝志云、梨本の字宮脇に在り。
双墓《ナラビノハカ》 梨本(上之荘の南)の東方字前と云所に長尾塚牛尾壊あり、相伝ふ長屋王吉備内親王の墓なりと。〔県名勝志〕続日本紀云、天平元年二月十二日、遣使葬長屋王吉備内親王屍、於生馬山。
船山《フナヤマ》神社は延喜式に列す、今梨本の東大字三里に船と名づくる地あり、此か。〔県名勝志〕或云、中宮村山上に三の舟石あり、其形舟を覆ふに似たり、此なり。〔神祇志料〕
鳴川《ナルカハ》山 平群谷の西北隅にして暗峠の南に在り、明治村大字鳴川に属す。古精舎あり千光寺と曰ふ、大和志云役小角の,開創にて、鐘銘に元仁二年四月鋳とあり。胆駒山口神社は鴨川の南東十八町、生駒谷平群谷の交界に在り、明治村大字|櫟原《イチハラ》に属す、三代実録貞観元年授位、延喜式大社に列したり。
平群《ヘグリ》神社 明治村大字西宮に在り、延喜式平群神社五坐并大社に列すとある者是也、即平群氏の祖廟なり。
按古事記姓氏録三代実録、平群木兎宿禰の裔を挙て平群臣佐和良臣馬馬御※[木+(織−糸)]連、平群文室朝臣、韓海部首、額田首、味酒首凡七氏あるが内、平群文室姓は平群に文室を複ねたるにて平群より出たる姓と聞え、額田首は母の姓なりと云へば此二氏を除きて即五氏なり、依て思ふに五座は即五氏の別れたる祖を各一人づつ祭れるにあらじか、〔神献志科〕
御櫛《ミクシ》神社は西宮の西大字|椹原《クシハラ》に在り、〔大和志〕蓋平群氏の一類|馬御※[木+(織-糸)]《ウマノミクヒ》連の祖神なり。古事記曰、都久宿禰平群臣佐和良臣馬御※[木+(織-糸)]連等之祖也云々、延喜式に列す。
石床《イハトコ》神社 延喜式大社に列す西宮の西大字|越木塚《コシキヅカ》字石床に在り、里人巌山社と曰ふ、傍に巨石あり、三代実録、貞観元年石床神授位。神州奇苑云、岩床村は十三峠の麓なり、石床神社の路の辺に甑塚《コシキヅカ》あり古墓なるべし、箱淵川近く流る、又此あたりに丸山二子塚とくりやまなど云ところあり、此石床は大なる岩あつまりて自ら石室を成し、其中に又大石あり之を石床と名づくる也。
穂【石床神社】○奈良県名勝志 平群石床神社は明治村大字越木塚字石床に在り、里人巌山祠と称す、傍に巨石あり、石床と呼ぶ、日本紀に曰く、天武天皇四年秋七月、小錦下三宅吉士入石を副使とし新羅に遣すと、清和天皇実録に曰く、貞観元年平群石床神に従五位上を授くと。
信貴山《シギサン》 明治村大字|信貴畑《シギハタケ》に属す、山頂四八〇米突、和河の国界たり。東半腹に朝護国孫子《テウゴコクソンシ》寺あり、信貴の毘抄門是なり。延喜式平群郡|猪上《ヰノウヘ・ヰノカミ》神社は、大和志信貴山に在りと為せど、今詳ならず。
毘沙門堂は観喜院朝護国孫子寺と称す、澗壑窈窕、楼閣縹渺、画中の趣を具ふ、慶長年中豊臣氏造営する所也。延喜中明蓮上人開基、按ずるに明蓮は道詮と同く法隆寺の住侶たりき、道詮は富貴律師と称する事本朝高僧伝に見ゆ、富貴即信貴の別名なれば此等二師の建立か。南山巡狩録云、元弘元年より此方、誅伐に心を悩まされける大塔宮は(護良親王)命を全して元弘三年六月志貴の毘沙門堂に御座あり、尚合戦の御用意ありと聞えければ、京中の武士心中さらに穏ならず、即征夷大将軍に任じ給ひ、十七日志貴を御立あり都に帰り登られしかば、世の中のさまはな/”\しくぞ見えわたりける。大和志云、志貴山寺、拾芥抄曰、大明上人開基、有縁起文、鳥羽僧正所図也。鶴林寺は鬼取山に在り、史学雑誌云、大和志鶴林寺の楠正虎の書簡は永禄中の者なり、正虎曩祖正成朝臣の信貴山多聞天の申子たるに因て天文二十二年登山して願文を納れ、正成の修羅苦患を救ひ併せて自己の武運長久を祈請したり、其原稿は今鳥取県士族楠某の家に蔵す、又正成勅勘恩免の請願は松永久秀に因て執奏す、久秀が其勅免を賀する状今香川県士族楠某の家に蔵す、久秀は当時当山に在城せり。
補【信貴山】○史学雑誌(廿七年二月)大和志平群郡鶴林寺の下に「寺有文暦二年縁起一巻、楠正虎永享十書簡一章」と見ゆ、永享は必永禄の誤なり、正虎曩祖正成朝臣の志貴山多聞天の申子たるに因て、天文二十二年四月十九日登山して願文を納め、正成の修羅苦患を救ひ、併せて自己の武運長久□喪継承を守らん事を祈祷し(其原稿、今鳥取県士族楠正基の家に蔵す)又正成朝臣勅勘恩免の請願は松永久秀に因て執奏せり、(久秀の朝敵赦免を賀する状は香川県士族楠直吉の家に蔵す)久秀は当時志貴山に在城し、而して鶴林寺は其山麓に在り。○鶴林寺 僧行基開創(本朝高僧伝)
信貴城《シギノシロ》址 永禄三年松永久秀大和河内を征略し、信貴山に築き天主屋倉を起す、後天正四年織田氏の滅却する所と為る。大和寺社記云、信貴山の頂に古城の址あり、初め吉川喜蔵と云し武士築かれしとかや、天正年中松永弾正此城に龍る。〔名所図会〕毘沙門堂の辺なるべきにや、築造の址存すべきも今尋ぬる人なし。
高安城《タカヤスノキ》址 信貴山の西は河内高安なれば、古の高安城も山中なるべし、今詳ならず。日本書紀云、壬申之乱、坂本臣財、長尾直真墨、率軍士三百、距於龍田、坂本臣次於|平石《ナラシ》野時、聞近江軍在高安城、而登之、乃近江軍知財等来、以悉焚税倉、皆散亡、仍宿城中、会明臨見西方、自大津丹比両道軍衆多至、顕見放幟、財等自高安城降、以渡|衞我《ヱガ》河、戦于河西。生駒山の蜂火亦高安にして、天智帝の置かれし者なり、万葉集、悲寧楽故京長歌の句に
秋さりくれば射駒山|飛火《トブヒ》が塊《ヲカ》にはぎの枝をしがらみちらし云々
龍田川《タツタガハ》 生駒川の下游にて、新龍田《シンタツタ》(今龍田村)の西を過ぎ大川に会し大和川と為る、古来詠歌の名所にて学者の議論多し。龍田考云、凡龍田川は古今集に
神なび山をすぎて、龍田川をわたりける時に、もみぢ葉のながれけるをよめる、
神なびの山を過ゆく秋なれば龍田川にぞぬさは手向る、 清原深養父
と詠めるは、河内の方より出こし道の次第に非らず、神南山を越て西の方へ帰りいなんずる秋なれば、先東より立田川にみそぎはらいて幣をば手向る心をいふにて、今秋の越えんとすれば此山は立田川の西にあるなり、即立田新宮の方にあるべし、立野にては実地唯川副の路をこそゆけ、あなたの山は嶮しく渡るべくもあらず。又云龍田川は万葉集に詠じたる者なし、彼古今集に
立田川もみぢみだれて流るめりわたらば錦中や絶なん、
(此歌は読人不知と載せて、左往に奈良帝と記し、同書序に秋は立田川に流るる紅葉をば帝の御目に錦と見給ひと書るは、専此御歌をさして云へるにて、玉勝間にも平城天皇なるべきよしにいはれつるは実にさる事なり、)とある御歌ぞ立田川といふ名の物に見えたる始にはありける、後撰和歌集に元方
立田川たちなば君が名ををしみ岩瀬の杜のいはじとぞ思ふ、
岩瀬杜を詠合せたる、其|岩瀬《イハセ》は新龍田の土橋より四五町下にあれば、此処なる立田川を詠るものなる事疑なし、かかれば今の龍田の立田川ぞ此川の名の起れる原なり、然るに彼の広瀬川に流合つる後は大川筋を龍野の湊過るほど迄をも或は立田川といひつる事あり、其は兼輔集に、初瀬にまうでたりけるに
から錦あらふと見ゆる立田川大和国のぬさにぞありける
を初とし、後拾遺集に
嵐ふくみむろの山のもみぢ葉は立田の川の錦なりけり 能因
これらの歌どもは皆大川をよめり。
那珂《ナカ》郷 和名抄、平群郡那珂郷。此は今の龍田村にあたるか、即平群郡の中郷の謂ならん、霊異記に「平群駅、西方有小池」など見ゆるも此駅家なるべし。
龍田《タツタ》 龍田は今の龍田村|三郷《ミサト》村を総称す、神武天皇紀に、「勒兵歩趣龍田」とありて古より河内大和の交通要害の所なり。
新龍田《シンタツタ》は今龍田村と曰ふ、名所図会云、新龍田は法隆寺より六七町坤にあり民家軒を並べたり、初め龍田神を法隆寺鎮守とし為しけるも其|立野《タチノ》までは程遠しとて、此に移し奉り新宮と称す。按に慶長十九年大坂東西兵起るの前にあたり、徳川氏片桐市正且正を摂州茨木より移封し龍田に治せしめ、邑三万石を賜ふ、寛永五年出雲守孝利除封せられ更に半之允為久に一万石を給せられ、明暦二年に至り全く除封せらる、小泉の片桐氏は本藩の支家なるべし。
龍田新宮《タツタノシングウ》 龍田村駅中北側に在り、延喜式龍田比古龍田比女神社二坐とある者是也。龍田考云 本社伝に聖徳太子法隆寺を建給ふ時、その建立の地を神紙に乞祷みたまひて、毎月此斑鳩宮より彼立野社に参詣たまひしが、法隆寺成就して後に其傍に、勧請し給へるよし(尚此神の老翁となりて伽藍の勝地を教へて我また守護神とならんと詔しよしなどもあり)に伝へつるは実にさもあるべし、然るを大和志に此小社の列なる社をも「倶在龍野村云々、神幸之地在龍田村、旧名御憩所、今建小祠、称曰新宮」とあるは非なり。
吾ゆきは七日はすぎじ立田彦ゆめこの花を風にちらすな、〔万葉集〕
大和の国故郷なりければよめる
つひにわがきてもかへらぬ唐錦たつたや何のふるさとの空、 下河辺長流
清水《シミヅ》墓 延喜式云、清水墓、間人女王(天智天武之妹)在平群郡、兆城東西三町南北三町。書紀通証云、今墓上建寺、曰清水山吉田寺、在龍田村南小吉田。県名勝志云、吉田寺は永延元年僧恵心の開創なり。
因幡《イナバ》宮址 続日本紀、称徳天皇天平神護元年閏十月、河内弓削宮より還幸の時因幡宮に駐輦の事見ゆ、龍田村大字稲葉の名存す、蓋此地なり。
奈良志岡《ナラシノヲカ》 龍田村の南なる小吉田《コヨシダ》車瀬|目安《メヤス》の辺を曰ふ、神南山と龍田川を隔てて其東方なり、磐瀬森は其北に在り、名所図会に、目安に在り龍田大橋より四町許、南川添にささやかなる森あり垢離取《コリトリ》場と称す此なりと、然れども垢離取場は即|磐瀬森《イハセノモリ》にて奈良志野中の一林のみ。奈良志一に平石《ナラシ》に作る、日本書紀云、壬申之乱、将軍大伴吹負、聞散自河内至、則遣坂本臣財、率三百軍士、距於龍田、財次于平石野、時聞近江軍在高安城、而登之。龍田考云、万葉巻の六大納言大伴旅人卿寧楽に在りて故郷を思ふ歌あり、
須臾去而見牝鹿神名火乃淵者浅而瀬二香成良武《シバラクモユキテミテシカカムナビノフチハアセニテセニカナルラム》
巻の八に此旅人卿の孫なる大伴田村大娘が其妹坂上大嬢に送れる歌に、古郷之奈良志之岳能霍公鳥《フルサトノナラシノヲカノホトトギス》とあるに考へ合すれば、旅人卿までの本居は此奈良志岡也、又今の龍田川の東傍に松の老木ども村立残れる森を今も岩瀬の杜と呼べり、此辺にて龍田川一名|神南川《カンナンンガハ》といふ、万葉巻の八に志貴皇子 神名火乃磐瀬之杜之|霍公鳥毛無岳仁何時来将鳴《ホトトギスナラシノヲカニイツカキテナク》かくよませ玉へるは此皇子の御殿この毛無《ナラシノ》岡に在て、其処に住給しかば、今磐瀬杜に鳴なる霍公鳥のいつか吾住処には移り来なかむと詠せ玉へるなり。
岩瀬森《イハセノモリ》は龍田村の南|車瀬《クルマセ》に在り、其林中小祠あり。
神奈備の伊波瀬の杜のよぶこどりいたくななきそ吾恋まさる、〔万葉集〕 鏡王女
磐瀬森の西南、龍田川を隔てて四町許に三室山《ミムロヤマ》神南村等あり。
神南《ジンナン・カンナビ》山 一名|三室山《ミムロヤマ》と曰ふ、龍田村大字神南に在り。山の南東を繞り水瀕に民家あり、山上に神岳《カムヲカ》杜あり、高凡十丈許径五町に満たず、三方水に囲まれ島を成す。或云、万葉集額田女王の詠歌|大島嶺《オホシマノネ》は此ならんと。
龍田考云、神南三室山といふは龍田里より四五町ばかり南の方にて、やや高き山なり、其山東は高き岸にて龍田川流れ廻れり、西の方やや低く成るところに龍田の里より彼龍田越にものする官道ありて、其処なる阪を椎阪《シヒサカ》といへり、彼古今集の歌の端書に、紙なび山をすぎてとかけるは則此坂の事なりけり、さて此椎坂を南に越ゆれば勢野《セヤ》の里なり、北は田畠にて南の方には神南《シンナン》村といふありて、山中に今は里人の山王杜といふなるぞ或は式に見えたる神岳《カンヲカ》神社には坐したる、是れ高市郡神岳より此処に移したる古社あり、按ずるに聖徳太子は磐余池辺《イハレイケノベ》宮の辺りにて生れ給へるには違ひあるまじければ、飛鳥神南備社を産土神ともち斎き玉ふべき理りなれば、斑鳩宮に移り坐つる時其産土神も移したるならん。
神名火のうちわの前の石淵にこもりてのみや吾恋居らむ、〔万葉集〕河津なく甘南備河にかげ見えて今やさくらむやまぶきの花、〔同上〕清き瀬に千鳥つまよび山のまにかすみ立らむ甘南備の里、〔同上〕神なづきしぐれもいまだふらなくに兼てうつろふ神南びの杜、〔古今集〕
勝地吐懐編に、万葉集、笠女郎大伴家持唱和の詞中|飛羽《トバ》|打廻里《ウチワノサト》の名あり、神南備|打廻前《ウチワノサキ》同地なるべしと云ふ、古事記、孝霊天皇の皇女に倭|飛羽《トバ》矢若屋比売と申も、此地名を負給ふならん。
しら鳥の飛羽山松のまちつつぞわが恋わたるこの月ごろを、〔万葉集〕 笠女郎
寛正元年畠山政元大和に入り河内の畠山義就を伐つ、政元龍田に陣し義就の将遊佐国助を邀撃す、国助神南に戦死し政元|島城《シマノシロ》を取る、島城蓋神南山を云ふ。長禄寛正記云、河内勢は高安より二手に分れ、島の領内福基のをうたうと云所に若党二十四人指置、国助追手の大将にて千五百騎押寄、天の川の南片岡の端の郷を通り、総持寺の芝野に勢揃し、一手は神南山の北縄手を東に向て金山の敵に当る、一手は法隆寺と吉田の間馳向ひ此手先づ敗北、遊佐一党誉田一党百五十騎計神南山の頂に上りて、敵の旗を見腹を可切と評定し、河内の国助以下自害。〔節文〕
立野《タチノ》 今|三郷《ミサト》村と改む、龍田村の西南一里に在り。大和川此地より漕運を通じ土俗湊と称す。立野の東を勢野《セヤ》と曰ふ、西は河内の国界にして、山水険隘、謂ゆる龍田越にして亀瀬と曰ふ。龍田考云、龍田大宮は地理を按ずるに太古より此地鎮坐なるべし、東の方は遙にひろくうち開けたる地にして、西は所謂龍田山高く聳えたれば実に然いふべき地のありさまなるうへ、万葉集巻の九の歌に打超而名二負有杜爾風祭為奈《ウチコエテナニオヘルモリニカザマツリセナ》とある、打越えてとは難波より帰るとて立田山を打越てといふ事にて、立野は立田山の東の麓なればよく符へり、然るを橘守部が著せし鐘の響に、行嚢抄龍田明神の条に昔の紀行の文を引て、別当のいはく此神は人皇十代崇神天皇の御宇に斎ひ鎮めたまへる山を神南備山といふて縁起にもありと云へるは、すべて信難き妄言なり、天武天皇紀の「四年夏四月遣小紫美濃王小錦下佐伯連広足祠風神于龍田立野」とあるも此時絶たるを改めて祭られしに非ず。旧事紀云、宇摩志麻冶命十三世孫、物部武彦連公、立野連等祖也。
補【立野】○龍田考〔重出〕龍田はいと古くより書にも歌にも多く見えたる地にて、社は更なり山川など殊に世に名高く、尚歌に詠合せたる此所の名所にては神南備山(または川とも)三室山(または岸とも)磐瀬社、那良志岡などをはじめ尚何くれと詠合せたる名所ども多かるを、いづれもいと紛紜《マギラ》はしくなりきつるは、もと龍田の社の立野と龍田と二所にありて名高き名所をも龍田に近かる地に多かれば、其を龍野の方には羨み嫉む愚痴者やありけむ、もとより本宮とます立野なれば、総て龍田と詠きたる名所どもは山も河も何も悉皆立野の方に在りとしいはむとて、多くの名所どもを其近き辺に設けたり、行嚢抄に引る応永の頃の紀行の文には既に彼の偽妄の見えたるを以て想へば、元亨より応永までの間に設け出づる偽りには違ひあるまじ。
勢野《セヤ》 古事紀伝云、神武天皇皇后を勢夜陀多羅媛と申奉る、勢夜は地名なるべし、聖徳太子伝唇に勢夜里と云見えて、今勢野村あり是なるべし。
坂門《サカト》郷 和名抄、平群郡坂門郷。旧事紀云、饒速日尊天降之時、五部造為伴領、率天物部天降供奉、其一坂戸造。姓氏録云、坂戸物部、神饒速命天降之時従者、坂戸天物部後也。坂門郷今立野村に当る、龍田越の山口なればなり、天武紀に「坂本臣財、率軍士三百、拒於龍田」とある坂本も坂戸物部にや。史料通信叢誌云、坂門は法隆寺資財帳に坂戸に作る、天暦六年の古牒に「牒平群郡坂門郷刀禰、并郡庁家地肆段玖拾歩(中略)限東法隆寺法師安美地」などあり、同寺々要日記に勢野龍田坂戸三所とも録せり。
龍田《タツタ》神社 今三郷村立野に在り、中世二十二社の第十四に列し、風神を祭る。延喜式龍田坐天御柱国御柱神社所祭級長戸辺命級長津彦命二座とある者是也。古事記伝に、風は天と地の間を支へ持てば御柱と称へたりと、書紀纂疏は風神即龍田姫龍田彦なりと曰へり、按ふに級長は古事記志奈に作り、龍田の別名か、名義詳ならず。今官幣大社に列す。神祇志料云、級長津彦日本書紀に見ゆ、旧事紀には級長戸辺ありて二神と為せり、此二神即風神にして、上古伊弉諾尊大八洲国を生給て、我生りし国唯朝霧のみ薫満る哉と詔て、乃|吹撥《フキハラ》はせる|御気息《ミイブキ》に生坐《アレマセ》る神也。〔日本書紀旧事本紀〕崇神天皇御世、五穀物《イツツノタナツモノ》悪風荒水に逢てあまねく傷はるるを天皇憂給ひ祈誓《ウケヒ》して御寝坐《ミネマセ》る大御夢《オホミイメ》に此神顕れ坐して、此は我御心也《アガミココロナリ》、明衣楯戈御馬鞍《ミゾタテホコミマクラ》品々の幣帛《ミテグラ》備て、朝日《アサヒ》の日向《ヒムカ》ふ処|夕日《ユフヒ》の隠る処の龍田立野の小野《ヲノ》に吾宮を定奉りて吾前《アガシマヘ》を治め奉らば、天下の公民の作りと作る物は草の片葉に至るまで成幸へ奉らむこと悟奉りき、故に其始て神社を建て之を祭りき。〔延喜式祝詞〕天武天皇三年、小紫美濃王小錦下佐伯連広足をして風神を龍田立野に祭らしむ、風神祭此に始る。〔日本書紀〕大宝令、風神祭、義解云、広瀬龍田二祭也、欲令※[さんずいへん+(軫-車)]風不吹稼穂滋登、故有此祭。
山姫のちえだの錦織りはへて立田のもりは神さびにける、〔雲葉集〕 源信明
補【龍田神社】○神祇志料〔脱文〕天武天皇三年四月癸未、小紫美濃王、小錦下佐伯連広足をして風神を龍田立野に祭り、明年七月壬午又之を祀る、風神祭此に始る(日本書紀)天武天皇大宝の制四月と七月とを例月とし(令義解)後に四日を祭日とせらる(本朝月令引弘仁式・延喜式・北山鈔)聖武天皇天平二年龍田神戸租稲四百四十束を以て神祭及雑用に充て(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神地三戸を寄奉り(新抄格勅符)嵯峨天皇弘仁十三年八月庚申、龍田神に従五位下を授け(日本紀略)文徳天皇嘉祥三年七月丙戊大中臣久世王を遣して風雨時に従ひ五穀豊登の事を祈らしめ、二神並に従五位上に叙され、仁寿二年七月庚寅、並に従四位下を賜ひ、壬辰幣馬を奉て年を祈り、十月甲子従三位に進め奉り(文徳実録)清和天皇貞観元年正月甲申、従三位龍田神に正三位を授け、九月庚申風雨の御祈に依て幣を奉り、十二年七月壬申、使を遣し幣を奉り雨※[さんずいへん+勞]なき事を祈らしむ、是よりさき河内国堤を築の功未だ成終ざるに重て水害あらむ事を恐て也、陽成天皇元慶二年七月己未、神宝を納る為に倉一宇を造り、三年六月癸酉神財を奉らしむ(三代実録)醍醐天皇延喜の制並に名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣に預る、凡そ夏秋の祭、王臣五位各一人、神祇官六位官人各一人を使とす、卜部一人神部各二人之に従ふ、国司次官以上一人専ら事を行ひ、諸郡をして贄二荷を奉供しむ、其祭料稲並に当国の正税を用ふ(延喜式)一条天皇正暦五年四月戊申、疾疫放火の変に依て中臣氏を宣命使として幣帛む奉らしめき(本朝世紀、参取日本紀略)今四月四日八月十二日祭を行ふ、其神幸の地龍田村にあり、後世小祠を建て新宮と云、即是也(良訓補忘集・大和志・行嚢砂)
龍田関《タツタノセキ》址 立野村に在り、其西限を峠と云ふ。峠の西南水流石に激する辺を亀瀬と名づく、凡此通路南北の峰共に之あり而て近代は専ら葛城郡王子村より南峰を経行す、謂ゆる亀瀬越なり、北峰を古道立野越とす、関隘此に在り。書紀通証云、天武天皇八年、初置関於龍田山、今関址在立野西、天文八年収立野関銭、事見信貴山寺日記、古今集云
たが身そぎゆふ着け鳥かから衣たつたの山にをりはへて鳴く、
相伝四境祭、鶏着木綿放之四関、名曰木綿着鳥。
龍田山《タツタヤマ》 三郷村の西なる嶺を云ふ、信貴山の南に接し河内|堅上《カタカミ》村(大県郡)に跨る山なり、而も一峰の名つくべきなし。日本書紀云、神武天皇、勒兵歩趣龍田、而其路狭嶮、人不得並行、乃還。又云、去来穂別太子、(履中)発当摩県兵、令従身自龍田山踰之、曰彼来者誰人也、何歩行急之、若賊人乎、因隠山中、而待之、出伏兵囲之、悉捕得。書紀通証に龍田に盗賊を詠ずる事は去来穂別太子の故典に起る乎とあれど疑はし、按ずるに
風吹けば沖津しらなみ立田山夜はにや君が独りこゆらん、〔古今集〕
是本より山中亀瀬の滝川に龍田嵐の夜毎に吹すさむを詠ぜるに過ぎず、盗人の異名をしらなみと云ふは荘子に緑林白波の語あり、後世之に因り説を為すのみ。
立田越《タツタゴエ》 龍田考云、立田越の事を玉林抄に聖徳太子初めて開きたまふとあれど非なり、日本書紀に神武天皇又履仲天皇の御事蹟あるぞかし、ただ彼太子此|斑鳩《イカルガ》宮より数河内にものし給ひしよしなれば、其程さしも狭険《サガシ》かりし路を平に造らしめ給ひしかば其を誤りしかいふなるべし、さて万葉の歌に龍田山之滝上とある滝は尋常のにはあらで速川をいふ、今も此川龍田山なる亀瀬《カメガセ》をいふあたりにて岩にせかれ滝落ち流るるが故にしかいへるなり、又滝上の小鞍嶺《ヲグラノミネ》は此歌どもによるに彼亀瀬の辺の一の山の名にはありける、大和志に「小倉峰有二、一在立野村西」、また立田之島山とよめるは彼川の折廻て島となれる処を指して島山とはいへるなり、然るを契沖が古今集余材抄加茂翁が伊勢物語古意などに此立田山なる小倉峰を暗峠の事なりと註はれつるは誤なり。
春三月諸卿大夫等下難波時歌
白雲の龍田の山の、滝の上の小鞍《ヲグラ》の嶺《ミネ》に、さきををる桜の花は、山たかみ風のやまねば、春雨のつぎてふれれば、ほつえはちりすぎにけり、下枝にのこれる花は、しばらくはちりな乱れそ、草枕旅ゆく君が、返り来までに、〔万葉集〕
島山《シマヤマ》は万葉集に難波経宿明日還来之時歌とて
島やまを、射ゆき廻れる、河ぞへの、丘辺の道ゆ、昨日こそ、吾越来しか、云々
是は高市郡橘の島山と其地異なり、立田越の中に属す。
懼坂《カシコノサカ》 立野の西なる峠と字する坂なるべし。日本書紀、壬申之乱の条に「先是遣紀臣大音令守懼坂道、於是坂本臣財等退懼坂、而居大音之営」、万葉集の石上乙麿卿配土佐国之時歌に「やそ氏人の手向すと、恐の坂に幣まつり」云々ここ也。
扶桑略記云、昌泰元年十月廿八日、上皇進発、指摂津住吉浜、経龍田山、入河内国、龍田是自古名山勝境也、群臣献和歌、菅原朝臣道真絶句曰、満山紅葉破心機、況遇浮雲足下飛、寒樹不知何処去、雨中衣錦故郷帰、
神まつり大和こどもや立田歌、 鬼貫
北葛城郡
北葛城《キタカツラギ》郡 上古郡|葛城国《カツラギノクニ》の北部にして、中古分れて葛下|広瀬《ヒロセ》二郡となり、明治廿九年合併して北葛城と称せしめらる。地勢南に高く北卑し、西は二上山の脈を以て河内国に堺し、北は大川(大和川)を以て生駒郡と相距て、東は重坂《ヘサカ》川を以て磯城郡と相隔つ、南方は高市郡南葛城郡と相接す。郡役所は高田町に在り一町廿村を管す。鉄道は高田を交叉点とし、一線東して畝傍桜井に通じ、一線南して新荘経て吉野へ向ふ、一線は西北王寺に通ず、王寺即奈良大坂間の一駅なり。
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葛下《カツゲ・カツラギノシモ》郡 延喜式、和名抄、葛下郡、訓加豆良木乃之毛。地形勾状を成し、広瀬都を東北に抱擁す、和名抄七郷に分れ、今一町十五村と為り北葛城郡に併す。葛下郡は日本書紀天武帝白鳳十三年の条に倭葛城下郡と初出す、後世文字を音読して専らカツゲと云へり。
片岡《カタヲカ》 今|王寺《ワウジ》村志都美村上牧村等の地を云ふ、古は尚其東南に広被す、蓋傍丘の義なり。山陵志云、丘是旧都(高市)西南、而其西並葛城山、延※[しんにょう+(施−方)]乎南者里許、因号傍丘焉、大和西偏古葛城国也、後世分為二郡、曰葛上葛下、傍丘即葛下西地、所謂片岡荘也、而其名泛蒙此間、或指西山曰傍丘、謬名、傍丘磐坏二陵、在葛下南隅。(今磐園村陵西村)姓氏録、左京神別、中臣方岳連、大中臣同祖。旧事本紀に見ゆる「綵靖天皇、皇兄手研耳命、於片丘大※[穴/音]、独臥于大牀」も此片岡の地か。
片崗のこの向峰《ムカツヲ》に椎まかば今年の夏のかげにならむか、〔万葉集〕
大和軍記云、葛下郡片岡と申所の片岡新助は小身にて侯得共、和州にては如形なる武功の人にて、今の知行高八千石計也、松永久秀筒井を字多郡へ逐落し、国侍皆久秀に随候得共、片岡一人不随久秀も両度押寄せ候、志貴城より三里計、其間に河合と申沙河あり、常は歩わたり、水出は舟越に候、新助此河端迄山づたひに打出で松永を防ぐ、松永寄せ難くして龍田に片岡押への城を取、番勢入置る、新助の子弥太郎の時に松永寄せられ城を乗取。英俊日記、永正二年、和州武家衆の交名中に片岡氏あり、此片岡氏の居所は即今の王寺村也。
片丘馬坂《カタヲカウマサカ》陵 孝霊天皇の御陵なり今|王寺《ワウジ》村|馬背坂《ウマセサカ》の東に在り墳起高八間周二十五間、字|峰垣戸《ミネノカイト》と曰ふ。〔書紀通証山陵考〕日本書紀云、大日本根子彦太瓊天皇、葬于片丘|馬坂《ウマサカ》陵。延喜式云、片丘馬坂陵、黒田廬戸宮御宇孝霊天皇、在葛下郡兆城東西五町南北三町守戸五煙。
王寺《ワウジ》 この村は片岡の首邑なり、北葛城の西北隅、大川に臨み亀瀬越の東口也。奈良大坂間の鉄道は此に南方線(五条及桜井)と相接す、亦一要駅也。
亀瀬越《カメガセゴエ》 龍田越の別路にして、大川(大和川)の南岸を通じ河内回国分村(南河内郡)に至る、鉄道も此隘処(凡一里)を経て柏原駅に達す。扶桑略記、治安三年入道相国高野参詣条に云、廿六日御法隆寺、廿七日指河内国進発之間、亀瀬山之嵐紅葉影脆、龍田川之浪白花声寒、爰於山中仮舗草座、聊供菓子、焼紅葉※[火+爰]佳酒、蓋避寒風也、昏黒御河内国道明寺。
片岡坐神社 王寺村片岡山に在り、五社明神と云ふ、延喜式名神大社に列す。神祇志科云、蓋鴨建角身の子鴨建玉依日子命を祀る、〔参取釈日本紀山城風土記姓氏録延喜式千載和歌集〕大同元年大和遠江近江三十戸を神封に充奉り〔新抄格勅符〕貞観元年授位。〔三代実録〕片岡小松杜も此か。
片岡の小松のもりのほととぎすほのかにも啼け恋しかるべし、〔六帖〕
久度《クド》神社は王子村大川端に在り、字を久度と云ひ久土寺あり。〔大和志神祇志科〕続日本紀、延暦二年平群久度神官杜に列し、延喜式平群郡に載せらる、郡界少変有るに由る、按ずるに此神今山城葛野郡平野神社に合祀す、謂ゆる竈神ならん。
補【片岡坐神社】○神祇志科 片岡坐神社、今王寺村片岡山にあり(大和志・名所図会) 按、今村中に片岡山、片岡池あり、又今泉村の地、片岡庄と云り
蓋賀茂建角身命の子鴨建玉依日子命を祀る(参取釈日本紀・山城風土記・姓氏録・延喜式・千載和歌集)平城天皇大同元年大和、遠江、近江地三十戸を神封に充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下勲八等より正五位上を授け、九月庚申幣使を差て雨風を祀り(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る、(延喜式)一条天皇正暦五年四月戊申、授疾放火の変を祈る為に中臣氏人を宣命使として幣帛を奉りき(本朝世紀、参取日本妃略)凡そ九月廿六日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
補【久度神社】○奈良県名勝志 久度神社 王子村大字王寺の北方にあり、境内三千二百坪、続日本紀に曰、延暦二年十二月丁巳、大和国平群郡久度神を従五位下に叙し官社に列すと、延喜式平群郡に載せ、今改めて本郡〔北葛城〕に載す。
達磨塚《ダルマヅカ》 王寺村に在り。元亨釈書に聖徳太子飢人の墓を築き之を達磨塚と曰ふと曰へり、塚上の堂は勝月上人創立とも解脱上人建造とも云ふ、興福寺衆徒之を憎み嘉元三年堂宇を焚きしが、足利氏の時制して寺を置き給田す、近代は臨済宗南禅寺に属し、寺内に中興碑及松永久秀墓あり。日本書紀、推古天皇二十一年、皇太子遊行於片岡、時飢者臥道垂、仍問姓名而不言、皇太子視之与飲食、即脱衣裳覆飢者、而言安臥也、則歌之曰、 級《シナ》てる、片岡山に、飯《イヒ》に飢《ヱ》て、臥《コヤ》せる其旅人哀れ、親なしに汝《ナレ》なりけめや、さす竹の君は や無き、飯に飢て、こやせる其旅人哀れ、他日遣使令視飢者、飢者既死、皇太子大悲之、因葬於当処、墓固封也、曰非凡人、為必真人也。書紀通証云、以飢人為達磨、蓋浮屠好事者為而已、日本紀及拾遺集只云太子云飢人耳、未曾云達磨也、按本朝文粋藤俊生倭歌序元亨釈書等為達磨、俊頼和歌髄脳清輔袋草紙等為文殊、後人因建寺、今在王子村、事見得岩中興記。
〔達磨寺中興記云〕達磨寺在和之片岡、俗称曰墳焉、初鹿苑相公枉駕南京西大、扈従之僧到、則破屋一間、祖師上宮太子二像偶坐、有一禅衲居守焉、涼烟白草、寥闃附可念、既而勝定相公継体、施置荘産、将宮構焉、和乃春日牡封邑、而興福※[てへん+(柄-木)]其治、東大左右之、故法相華厳両流、根拠頡頑、以為儻使禅刹勃興、則精采為之※[日+英]奪、不利於己、損尊像占荘田、相公赫然曰、大行黜罰、威復于旧、輪奐絢爛、過者拭目、鳴呼※[(瑤-王)+系]推古癸酉、至永享紀元、既得八百余歳、起而復仆、々而益起、祖跡由来無動揺、得中興記命工彫、斯文歴劫留斯石、仮使天衣払不消、
文安五年戊辰六月 住持比丘南峰祖能誌焉
此記は八角石幢に勒したり。
葦田《アシタ》 古片岡の一地名にて、王寺村にあたると云ふ、葦田池一名肩岡池と云ひ、今王寺に在り。〔大和志〕古事記云、履仲天皇、娶葛城之曾都毘古之子、葦田宿禰之女、名黒比売命。姓氏録云、大和未定雑姓、葦田首、天麻比止津乃命之後也。
あすからは若菜つまんと片岡の朝の原はけふぞ焼くめる、〔拾遺集〕
葦池《アシノイケ》 日本書紀、壬申之乱、将軍大伴吹負、引軍到当麻衢、与壱岐直漢国、戦葦池側。書紀通証、葦池即葦田池、一名肩岡池、推古紀十五年作倭屑岡地。
志都美《シツミ》 近年平野|今泉《イマイズミ》上里|畠田《ハタケダ》等を合せて志都美村と曰ふ、王寺村の南なり。志都美神社は延喜式に見ゆ、今|上里《カミサト》八幡宮是なり。又延喜式|火幡《ホハタ》神社あり、今畠田八幡宮是なり、火幡即|火田《ヤキハタ》の義なるべし大同元年火幡神伊与二十戸を神封に寄せらるる事新抄格勅符に見ゆ。延喜式伊射奈岐神社、今上牧村大字下牧に在り五社と云ふ。
片岡葦田《カタヲカアシタ》墓 茅渟王(彦坂押人大兄王子)の墓なり、王は敏達の皇孫にして皇極孝徳二帝の父也。延喜式云、片岡葦田墓、茅渟王、在葛下郡兆城東西五町南北五町。今志都美村大字|平野《ヒラノ》清岡の頂に在り、大和志に顕宗天皇傍丘磐坏陵と為す者是ならん。〔山陵志陵墓一隅抄〕按ずるに本陵墓は平野今泉の交界に在り、又書紀通証に「顕宗陵在今市村、宝永年間陵崩、遂為民居」とある今市は下田村大字北今市を指すか、詳ならず。
品治《ホムチ》郷 和名抄、葛下郡品治郷、訓保無智。此郷今詳ならず、片岡王寺村の辺にや。古事記云、本牟智和気命、拝出雲大神宮之時、毎到坐地定品遅部也。日本紀云、垂仁天皇、愛誉津別皇子、定誉津部《ホムツベ》。(此地誉津部の故墟なるペし)
賀美《カミ》郷 和名抄、葛下郡賀美郷。此郷今詳ならず、二上《ニジヤウ》村なるべし、二《フタ》上山の名古より聞ゆる所也。
蓼田《タデタ》郷 和名抄、葛下郡蓼田郷。タデタと訓むべし、本書賀美の次に記されたれば下蓼田の義にて、今|下田《シモダ》村にやあらん。
下田《シモダ》 下田村は王子の南一里余、鉄道車駅にして小山市なり二百戸許、西に穴虫《アナムシ》越あり、河内国へ通ず、古は大坂とも曰へり。旗尾池は下田に在り、周回七十余町、郡第一の巨塘也。
大坂山《オホサカヤマ》 下田村の西に逢坂あり、其西に関屋(二上村大字)あり此より河内へ踰ゆるを大坂と曰ふ、二上山の北に接す、今|穴虫《アナムシ》越と称す。関屋より右すれば田尻《タジリ》を経て国分村に出づべく、左すれば。駒谷《コマガタニ》飛鳥へ出づべし、山中岩石累々、金剛砂を産す。日本書紀云、崇神天皇祭大坂神、運大坂山石而造箸墓、時人歌「飫朋佐介《オホサカ》珥菟芸廼煩例屡伊辞務邏塢云々」古事記云、応神天皇時、百済国貢知醸酒人名仁番、亦名須々許里、須々許里醸大御酒以献、天皇御歌、歌幸行時、以御杖打大坂道中之大石者、其石走避、故諺曰堅石避酔人也。又書紀云、去来穂別太子(履中)、到河内国埴生坂、而醒之、顧望難波、見火光而大驚、急馳自大坂向倭、至于飛鳥山。又云、天武天皇元年、将軍吹負既定倭地、便越大坂、往難波、八年、初置関於龍田山大江山。書紀通証云、天武紀大江山活板作大坂山、今葛下郡|岩窟越《イハヤゴエ》也、関屋大坂村里相隣可以証矣。古事記伝云、此道は古は往来しげき大路なりしを、今はさばかりには非ず、穴蒸越とも云、穴蒸と云村より河内飛鳥村に到り、難波の方に通ふ。続日本紀、天平十五年、大坂獲金剛鑚。〔九月、斐太始以大坂沙治玉石之人也〕大坂山口神社は今穴虫牛頭天王社是か、関屋にも逢坂にも祠あり、執れか山口の神ならん。日本書紀云、崇神天皇、夢有神人、誨之曰、以黒盾八枚黒矛八竿、祠大坂神、於是依夢之教、祭之。延喜式云、大坂山口神社(大月次新嘗)云々。
大坂をわが越来れば二上《フタカミ》にもみぢばながるしぐれふりつつ 〔万葉集〕
地学雑誌云、二上村穴虫山中の渓間には其堆積せる沖積土砂に交り金剛砂を多量に産出す、其質良好にして諸種の石材を切断若くは琢磨するに供用せり、鉱源は西北に発達せる英雲安山岩中にありて、其副成分として多量に抱有せらるる柘榴石の母岩、(あめがんむり/毎)爛崩壊して土砂となると共に湖底に沈※[さんずいへん+差]したるものにして、今尚ほ成生しつつあり。
威奈大村墓 名所図会云、穴蒸山馬場村の農夫近年地を掘り大甕を得たり、甕破れ内に一銅器あり、形大球の如く蓋身両分す、身の下に円足あり、蓋に墓誌銘を小楷にて彫たり、文字鮮明なり、蓋身ともに口径八寸深各四寸重四斤三両。其銘云、小納言正五位下威奈卿墓誌銘并序、卿諱大村、檜隈五百野宮御宇天皇之四世、後岡本聖朝紫冠威奈鏡公之第三子也云々、葬倭国葛木下郡、山君里栢井岡云々。
補【大坂】○履中紀元年太子到河内国埴生坂、而醒之、顧望難波、見火光而大驚、則急馳之、自大坂向倭、至于飛鳥山。天武紀元年、将軍吹負既定倭地、便越大坂往難波。三代実録貞観元年九月、大坂山口神。姓氏録、大和神別天孫大坂直、注、天道根尊之裔也。古事記伝、神名式に葛下郡大坂山口神社あり、葛上葛下と郡の異なるは堺近ければぞ別には非ず、孝徳天皇の大坂磯長陵も河内の石川郡にて此山の西面なり、さて此道は古は往来し大道なりしを、今はさばかりの大道には非ず、穴蒸越と云て葛下郡穴蒸村と云より河内国古市郡飛鳥村に到り、古市などを経て難波の方に通ふ道なり、さて其穴蒸村に並びて逢坂村と云あるは大坂なるべきを、後世にはオホとアフと一に唱るから誤て逢字を書なるべし。
二上山《フタカミヤマ・ニジヤウサン》 北葛城郡の西嶺にして、其高峰双耳を聾ゆる者即二上山なり。其峰麓を今|二上《ニジヤウ》村当麻村と為す、峰は土俗|男岳《ヲダケ》女岳《メダケ》と云ふ
木道《キヂ》にこそ妹《イモ》山在とふ玉櫛二上山もいもこそありけれ、〔万葉集〕二上にかくろふ月の惜しけども妹がたもとを離《カ》るる此ごろ、〔同上〕
当麻越《タイマゴエ》 二上山の南北に二路あり、共に当麻路と称すべし。一は北に在り穴虫越是なり、一は南に在り竹内《タケノウチ》越是なり。履仲紀云、太子到河内国埴生坂、顧望難波、見火光而大驚、則急馳之自大坂向倭、至于飛鳥山、(今南河内郡駒谷村)過少女於山口、対曰執兵者満山中、宜自|当摩径《タギマヂ》踰之、太子於是得免難、則歌之曰、
おほ坂に逢ふやをとめをみちとへばたゞにはのらず※[くちへん+多)耆摩知をのる。
此に大坂と云ふは穴虫越にて、竹内越即当麻路なり、共に河内飛鳥より岐分す。
当麻《タイマ・タギマ》郷 和名抄、葛下郡当麻郷、訓多以末。今当麻村|磐城《イハキ》村五位堂村等なり、二上山の南東を云ふ。当麻寺万法蔵院あり、古今著名の大刹也。旧事本紀云、饒速日尊天隆之時、天物部等二十五部人同帯兵仗天降供奉、其一当麻物部。又云開化天皇々子彦坐王、当麻坂上君等祖。古事記云、用明天皇、娶当麻之倉首比呂之女、飯女之子、生御子当麻王。
腰折田《コシヲレダ》 日本書紀云、垂仁天皇時、当麻邑勇悍士、曰蹶速、強力能毀角申鈎、恒語衆中曰、於四方求之豈有比我力者乎、帝聞之求其対、一臣進薦出雲国人野見宿禰、乃令※[てへん+角]力、宿禰蹈折蹶速之腰而殺之、故奪蹶速之地悉賜宿禰、是以其邑有腰折田之縁也。大和志云、良福寺村有腰折田、又有衢池。(今五位堂村良福寺)日本書紀、壬申之乱、将軍吹負到当麻衢。
当麻神社 当麻彦社(二座)山口社一境に在り、今当麻村字平田荘山口に在り。〔県名勝志神祇志料〕共に延喜式に列し、山口神は大社なり。神祇志料云、当麻彦は蓋用明天皇の皇子|麻呂古《マロコノ》王を祭る、清和天皇の外祖母源朝臣潔姫の外家|当麻真人《タギマノマヒト》の氏神也、〔日本書紀三代実録新撰姓氏録〕是れ麻呂古王の御母は葛城直磐村が女広子なれば其由縁に因て古くより祭れる神なるを、清和天皇の外祖母の氏神たるを以て特に崇奉あり、文徳天皇仁寿三年始て当麻祭を行ふ。諸社根源記に此祭を以て山口祭とするは誤れり。〔三代実録延喜式参取〕
葛木二上神社は延喜式に葛木二上神二座并大社と著録し、今|二上山《フタガミヤマ》の東に在り、当麻村大字染野の上方と為す。二上薬師堂は元亨釈書に見ゆ、今大字新在家の高雄寺是也。二上墓は大津皇子(天武子)の墓なり、二上神社の東に在り、今当麻村大字|加守《カモリ》の域内なり。日本書紀、持統天皇元年、大津皇子賜死於訳語田舎。万葉集云、移葬大津皇子屍、於葛城二上山。
倭文《シツリ》神社は延喜式に葛木倭文坐天|羽雷《ハツチ》命神社、今当麻村大字加守字|上太田《カミオホタ》の志登利の地に在り、棚機森《タナバタノモリ》と曰ふ、〔県名勝志神紙志料〕倭文氏祖神を祭る、倭文の遠祖天羽槌雄神代に在りて文布《シツリ》を織りたる事、古語拾遺旧事本紀に見ゆ。
補【当麻】○大日本人名辞書 初め大伴吹負、乃楽山に敗れ、古京に還り後数日にして墨坂に至る、会々置始菟千余騎を率て来援す、因て其軍を合し、還て金網井に屯し散兵を聚む、弘文帝の兵大坂より至ると聞きて兵を提て西当麻に至り、壱岐韓国と葦池に戦ふ、吹負兵を上中下の三道に分ち、身中道より進む、弘文帝の将犬養五十君別将廬井鯨を遣し、精兵二百を率ゐて吹負の軍を衝かしむ、三輪高市麻呂置始菟上道より進みて箸陵に戟ひ、大に弘文帝の軍を破る、倭地悉く定まる、吹負進みて大坂を経て難波に至る、諸将と亦三道より並び進み、山前に至り河内に屯す、吹負難波の小郡に留り、西国の諸司に官鑰駅鈴伝印を献ぜしむ、天武帝の天下を得る吹負の功大なり、十一年卒す、大錦中を贈る、初め吹負の金網井に軍するに当て、高市郡大領高市許梅、口噤して言ざる三日、神憑りて曰く、我は是れ高市社神事代主、牟狭杜神の生霊なり、当に神馬兵器を以て神日本磐余彦天皇の陵に献ずべし、我已に皇孫を奉じて不破宮に送る、還て本軍を護せん、今敵軍将に西道より至らん、宜く警備をすべしと、言訖て殆んど夢の覚たるが如し、吹負乃ち許梅を遣して陵を祭り、神教の如くせしめ、并びに幣を二神に奉らしむ、又村屋神祝に憑て曰く、敵兵将に至らんとすと、中道より我社を過ぐ、宜く速に備を設くべしと、俄にして壱岐韓国西道より来り、廬井鯨中道より至る、果して其の言の如し、事平らぐ、吹負具に状を奏す、勅して三神の位を陞し以て祀らしむ(大日本史)
補【倭文神社】○神紙志料 葛木倭文坐天羽雷命神社今上太田村志登梨にあり、棚機森と云、蓋此也(奈良県神社取調書)天羽槌雄神を祭る、天羽槌雄神亦名を建葉槌命といふ(日本書紀・古語拾遺・神代巻口訳)蓋倭文宿禰の氏神也(古語拾遺・姓氏録)上古天照大御神石窟に隠り坐時、此神文布を織りて仕奉りき(古語拾遺)武甕槌命、葦原中国を平伐る時、其服はぬ星神|香々背男《カガセヲ》を平げて復命奏しき(日本書紀)平城天皇大同元年神封廿三戸を寄し奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)
補【良福寺】〇三十三所名所図会 腰折田古跡は当麻より艮の方廿丁許り、良福寺村に在りて田圃の字に残れり、垂仁帝七年天皇倭直の祖長尾市を勅使として野見の宿禰をめし、当麻の蹶速と角力を取らしめ給ひ、更に蹶たりけるが遂に蹶速が脇骨を蹶折られて命を失ひけり、勝たる賞に蹶速が地を野見宿禰に賜はりたり、こゝを腰折田と名付て其旧址を遺しけりとぞ。
福応寺 右良福寺村の隣村狐井村に在り、恵心僧都の誕生の地なり、天慶五年こゝに生る、其古跡なりといふ、釈源信は姓は卜《ウラベ》氏、父の名は正親、母は清氏なり。
当麻寺《タイマデラ》 当麻村|丸子《マリコ》山の下に在り、用明帝子麿子王が兄聖徳太子の教を受け興立したまふ者なり。〔古今著聞集大和志大日本史〕禅林寺と号し、本尊観世音、金堂講堂薬師堂東塔西塔法華堂曼荼羅堂以下数多の坊舎あり、真言宗浄土宗両徒之を守る。法華堂は治承年中一山焼失の後源頼朝造進すと云ふ。〔名所図会〕東塔(三層瓦葺)西塔(三層皮葺)は近年特別保護を加へらる、寺宝浄土曼荼羅〔絹本着色法橋慶舜筆〕法然上人絵伝〔藤原吉光筆〕は鑑賞家の喜ぶ所なり。元亨釈書云、和州禅林寺者、俗号当麻寺、初号万法蔵院、在内州山田郷、(二上山西麓也)白鳳二年麿子王移于当麻、当麻者役小角之家地也、天武帝論小角、捨家為伽藍、十年成、改名禅林寺、落慶導師慧灌僧正也。按ずるに麿子王は推古朝に創立ありしならん、〔大日本仏教史は寺記を引き推古帝二十年創と〕而て其移置は麿子王薨去の後か、然らずんば王在世の日天武帝以前に転徙したる者とす。
二上当麻寺に詣で、庭上の松を見るに、凡千とせも経たるならん、大さ牛をもかくさん、かかる非情も仏縁に引れて斧斤の罰をまぬがれたるぞ幸にして尊し、
僧あさがほ幾死にかへる法の松、 芭蕉
曼荼羅《マンダラ》堂 元亨釈書云、天平宝字中、僕射藤横佩有女、性無世染、入寺薙髪、誓曰我見浄土観弥陀、集蓮茎百駄、与二化女、得糸織之、其幅一丈五尺、浄土衆相、厳麗備足、化女即弥陀観音也。古曼荼羅は今秘蔵見る者少し、三十三所図会に延宝中修補すと記す、又云、和州寺社記曰く、中将姫横佩大臣豊成の女、実惟法師を師とし善心尼妙意尼又法如尼の名あり、其庵は今紫雲と名づく、雪玉集に曰く中将姫二上山に草庵を結び、生身の弥陀来迎あらば命終の期とせんとて、念仏三昧に入寥々たる窓の前に日の光さしあらはれたるに、老尼一人来り給ふ法如尼あやしみおぼしめして、
南無阿弥陀仏をのみぞよぶこ鳥あやしやたれぞ二上《フタカミ》の山、
治承年間兵火の為めに金堂講堂及び二基の塔鐘楼経蔵坊舎けぶりとなりたりと雖、曼陀羅堂のみは巽の角に火付きながら自ら消たりと西誉抄に見えたり、凡当麻寺の曼陀羅其古幅は弥陀観音の両尊織らせ給ふ所なるよし、其上品上生中品中生の間に織る所の銘文四百十三字最も奇巧なり、実に三国無双の霊宝といふべし、近世補修あり、新曼陀羅は当今本堂に収むる所なり、故に今本堂を曼陀羅堂といふ、順徳院建保二年に勅許を蒙り同四年阿波国浦の庄にて絹を得たり、五年六月廿三日功成りぬ、画工は良賢法印源慶法眼銘文は修理大夫藤原朝臣行能なり。春日画所法橋慶俊の造れる曼荼羅(文明年中)又延宝中重新造の者等寺中数幅あり。
奥院往生寺 当麻寺の西の方にあり、本堂は円光大師の像を安んず、傍に阿弥陀堂方丈庫裏楼門等巍々たり、当院にも宝物数多あり、即ち本尊弥陀仏は恵心僧都の作也と、当寺に安置する源空上人の遺像は桑原左衛門入道真像を写す所にして上人自ら開帳四十八度に満給ひし霊像なり、其初は洛東知恩院に在りて年歴を経たりしが、十二世誓阿上人の時此院へうつす。恵心僧都源信は当麻郷の人なり。
染野《ソメノ》寺 染野に在り、石光寺と称す。元亨釈書云、染野有精舎、昔天智帝時、其地夜々有光、帝使人見之、三大石形似仏像、勅刻三石、作弥勒三尊像、其上架殿庇之、俗以近染井号染寺、後役小角殿前栽一桜樹、曰仏法沮桜樹枯、自爾旧枝漸朽、新梢※[くさがんむり/夷]※[くさがんむり/秀]、枝葉欝茂、花果鮮麗、見今存焉。
補【横佩】○平城坊目考 横佩或は萩、右大臣と称す、横佩の二字国史に見えず、或説云、横佩は大和国葛城郡の内郷名にして、豊成公別業あり、於是横佩大臣と云々。
長尾《ナガヲ》 今|磐城《イハキ》村と改む、当麻の南にして山駅なり、大字|竹内《タケノウチ》と相接す。西当麻山を踰ゆるを竹内嶺《タケノウチタウゲ》と曰ふ。日本書紀、天武天皇元年、長尾直真墨、率三百軍士、拒於龍田、書紀通証云、葛下郡有長尾村。又此地の長尾神社は延喜式并に三代実録に見ゆ、長尾直の祖神也。
竹内《タケノウチ》嶺 古事記伝云、若桜宮(履中)段に当岐麻道と云は、河内石川郡より大和葛下郡へ越る者にして、二上山の南に在て今竹之内越と云ふ。按ずるに当麻路は河内国山田村鶯関に出で、彼地にて岩屋越とも称する事河内志に見ゆ、山中に岩石多し、天武紀に見ゆる岩手道《イハテノミチ》亦是なり。(壬申年、遣鴨君蝦夷、率数百人、守石手道)
高※[各+頁]《タカヌカ》郷 和名抄、葛下郡高※[各+頁]《タカヌカ》郷。額※[各+頁]《タカヌカ》同字なり、其地今詳ならず、新荘村にあたるか、古事記云、息長宿禰王、娶葛城之高額比売、生子息長帯比売命。日本書紀云、神功皇后母曰葛城高※[桑+頁]媛。姓氏録云、高額真人、春日真人同祖、敏達皇子春日親王之後也。
新荘《シンシヤウ》 北葛城の南部の大邑なり、延宝八年徳川氏永井越中守尚房を此に封じ、明治維新まで世襲す、領高一万石.陣屋は後|櫛羅《クシラ》に移せり。高田より南へ通ずる鉄道、新荘御所を車駅と為し吉野へ入る。
調田《ツキダ》神社は新荘の北大字|疋田《ヒキタ》に在り、春日と称す。〔大和志〕神護景雲四年槻田神に神封を寄する事新抄格勅符に見ゆ、延喜式調田坐一事尼古神社是也。
金村《カナムラ》社は新荘の西大字|大屋《オホヤ》に在り、三代実録延喜式に載す。日臣命九世孫大伴連金村を祀るか、金村は仁賢武烈継体安閑宣化欽明の六帝に歴事し、久く忠誠を竭して大連と為る。
補【調田神社】○神祇志科 調田坐一事尼古神社
按、三代実録事を言に作る
今疋田村にあり、春日といふ(大和志・名所図会)
按、春日神社の摂社に一言主神あり、且本社を春日と云に拠らば、或は一言主神を祭れるか、姑く附て考に備ふ
称徳天皇神護景雲四年、槻田神に大和播磨地二戸を神封に充奉り(新抄格勅符)
按、槻田は即調田なり
清和天皇貞親元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ其祭毎年六月七日、九月九日を用ふ(奈良県神社取調書)
埴口《ハニクチ》墓 飯豊青皇女の御陵なり、今新荘村大字北花内に在り。三歳《サンサイ》山と云ふ、陵山《ミササギヤマ》の転也、書紀通証云.天和中桑山氏毀御墓、建八幡神祠、日本紀云、弘計天皇与億計王、譲位久而不処、由是天皇姉飯豊青皇女、於忍海角刺宮、臨朝秉政、崩葬葛城埴口丘陵。延喜式云、埴口墓、飯豊皇女、在葛下郡兆城東西一町南北一町。続日本紀云、天平六年、葛下郡人白丁|花口《ハナクチ》宮麻呂、散己私稲、救養貧乏、仍賜少初位上。
神戸《カンベ》郷 和名抄、葛下郡神戸郷。今詳ならず、蓋|磐園《イハソノ》村にや、葛木御県《カツラギミアガタ》神此に在り。葛木御県神社は今磐園村大字|築山《ツキヤマ》に在り、〔県名勝志〕三代実録延喜式に列し、祈年祭大倭六県神の一也。神祇志料云、大同元年本社に備前地を充封せらる、和名抄備前赤坂郡葛木郷あるは蓋神戸なり。
傍丘磐坏《カタヲカイハツキ》陵 磐坏に南北二陵あり、傍丘は今葛下の西北隅に其名存すれば探求者或は本陵を下田王寺の辺に索めたり、然れども傍丘は総名にして磐築は小名なり、磐築の跡を求むれば築山の他に従ふべきか、今磐園村陵西村是なり。(武烈紀城上の地は、後の葛下広瀬に渉れる者なるべしと云)
磐坏《イハツキ》南陵 顕宗天皇の御陵なり、今|陵西《ヲカニシ》村大字池田の二子《フタコ》山是なり。〔陵墓一隅抄〕山陵志云、磐坏、傍丘南隅也、武烈陵乃其北、相並曰北陵、磐坏蓋寿蔵、取其名於祝而築之、今有築山村、其南為陵家村、而南北各存古墳、北陵甚高荘、武烈之陵也、而南陵乃平地之所築、頗卑小、日本書紀云、葬弘計天皇于傍岳磐坏丘陵。延喜式云、傍丘磐坏丘南陵、近飛鳥八鈎宮御宇顕宗天皇、在葛下郡兆城東西二町南北三町。扶桑略記云、磐坏丘陵高三丈東西二町南北三町、同北陵、高三丈方二町。
意多郎《オタラ》墓 日本紀、武烈天皇三年、百済意多郎卒、葬於高田丘上。今|陵西《ヲカニシ》村大字岡崎に在り。〔書紀通証〕
磐坏《イハツキ》北陵 武烈天皇の御陵なり、今|磐園《イハソノ》村大字築山に在りて城山と号す、大和志に茅渟王葦田墓と冒認したる者是也。日本紀、葬小泊瀬稚鶺鴒天皇于傍丘磐坏丘陵。延喜式、傍丘磐坏北陵、泊瀬列城宮御宇武烈天皇、在葛下郡兆城東西二町南北三町。武烈紀云、作城像(寿蔵也)於水派邑、仍曰城上。
高田《タカタ》 高田町は大和西南部の都会なり、戸数八百、交通輻輳、木綿売買の市場たり、鉄道は東南北の三方に通ずる外、西は長尾竹内嶺を経て河内に到る山路あり。県名勝志云、高田天神宮は一古嗣にして、貞応弘安応永以下の上棟牌あり。
石園《イハソノ・イソノ》 石園は今磐園村浮穴村の地に当る、磐園村に大字磯野あり古名の遺なり、浮穴村には延喜式石園神社存す。
浮孔《ウキアナ》 三倉堂《ミクラダウ》村近年改称して浮孔と曰ふ。大和志書紀通証に安寧天皇片塩浮穴宮は三倉堂の地なりと為せるに由る、然れども片塩は河内大県郡たる事、古事記伝に之を論ぜるが如し。石薗神社は三代実録、貞観元年、石園多久豆玉命授位、姓氏録、爪工《ハタクミ》連、神魂命男多久豆玉命之後也。延喜式、石薗坐多久虫玉神社。三倉堂の西方に在り、龍王杜と称す、境内八段計。〔大和志県名勝志〕
補【石園】○奈良県名勝志 石園坐多久虫玉神社二座、園一に薗に作る、浮孔村大字三倉堂の西方にあり、境七反九畝九歩、里人龍王と称す、姓氏録に曰、爪工連、神魂命子多久豆玉命三世天仁本命之後也。上梁文に曰、承久元年七月重修、又曰、応永十二年再造と。清和天皇実録に曰、貞観元年正月廿七日、大和国石薗多久虫玉神に従五位下を授くと。○石園は今別れて石園、浮孔の二となるか。
○神紙志科 石薗坐多久豆玉神社二座
按、本書虫に作る、今一本姓氏録に依て之を訂す
今三倉堂村にあり(大和志・名所図会)
按、隣村に磯野村あるは蓋石薗の転音ならむ
神魂《カムムスビノ》命の子多久豆玉命を祀る、即爪工連の祖神なり(新撰姓氏録・延喜式)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上に叙され(三代実録)醍醐天皇延喜の制並に大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ三月六月九月十一日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
山直《ヤマタヘ》郷 和名抄、葛下郡山直郷。和名抄和泉国山直訓也末多倍とあり、山田部の義なるべし、今其地を失ふ、要するに高田町附近の古名なり。一説大坂山の穴虫に掘出せる墓誌に山君《ヤマキミ》里とあるは山直に同じかるべしと。
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広瀬《ヒロセ》郡 明治廿九年廃停し其地北葛城郡に入る。延喜式、和名抄、広瀬郡、訓比呂世。東大寺天平二年大税帳、広湍郡。本郡は東西一里南北二里、狭小の地にして葛下郡に抱擁せられたり。
日本紀の歌謡に飫斯乃広瀬とあり飫斯は葛城の忍海《オシミ》なれば、皆葛城より分出したる事明白也、和名抄六郷に分れ、今五村と為る。
散吉《サヌキ》郷 和名抄、広瀬郡散吉郷。今|馬見《ウマミ》村大字|三吉《サンキ》あり即此地とぞ。〔大和志〕古事記、開化天皇々子、比古由牟須美玉之子、讃岐垂根王。馬見《ウマミ》村は古の城戸散吉両郷の地にて葛下の陵西村と接し古墳多し、大字大塚の地に前年古鏡十余枚を得たり、今東京博物館に収蔵す。日本書紀欽明帝二十三年の条に見ゆる讃岐鞍※[革+薦]と云者も此郷人か。
讃岐神社は三代実録、元慶七年散吉大建命散吉伊能城命授位、延喜式、讃岐神社。今三吉に在り大和志に散吉郷済恩寺安部の界に在りと云是也、按ずるに散吉讃岐その原づく所は城にして狭之城の義か。
補【讃岐神社】○神祇志料 讃岐神社、今散吉郷済恩寺赤部二村の界にあり(大和志)蓋|散吉《サヌキ》大建命、散吉伊能城命を祀る、陽成天皇元慶七年十二月甲午正六位上散吉建命神、散吉伊能城命神に従五位下を授く(三代実録)
按、延喜式載する処一座にして祭料二座なるの例、延暦儀式帳の如き、以て徴とするに足れり、故に今姑く此に附く
凡そ毎年九月十日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
城戸《キノヘ》郷 和名抄、広瀬郡城戸郷。今馬見村に合す、日本書紀に「武烈天皇三年、作城像於水派邑、仍曰|城上《キノヘ》」とある地にあたるか、然れども武烈傍丘磐坏陵此に非ず、万葉集に高市皇子の殯宮を此地に起したる事見ゆ、木※[瓦+缶]城上木上木於城於など種々ある皆同じ。於《ウヘ》神社は延喜式に列す、書紀通証云、於神社在大塚村、称|城宮《キノミヤ》、今馬見村大字大塚にあるべし。成相《ナラヒ》墓は押坂彦人大兄皇子の墓なり、皇子は舒明帝及び茅渟王等の父也。今馬見村大字平尾|小子《ヲコ》塚にあたる、崩壊して原形を失ふ。〔大和志県名勝志〕延喜式云、成相墓、押坂大兄皇子、在広瀬郡東西十五町南北廿町。姓氏録に「成相真人、敏達天皇皇子難波王後也」と見え、成相は本地の名なり、而て成相墓兆城の広大なるを見れば初め押坂皇子等の山荘にやありけん。三立岡《ミタテヲカ》墓は高市皇子(天武子)墓なり、今馬見村大字三吉字大垣内の西北|三立《ミタテ》山あり、然れども墓処を失ふ、近代開拓して之を亡せるなり。〔大和志県名勝志〕或曰三立岡墓は牧野成相両墓の南五町に在り、三墓鼎峙すと。〔名所図会〕延喜式云、三立岡墓、高市皇子、在広瀬郡兆域東西六町南北四町。
牧《マキ》野墓は桓武帝の外祖父高野乙継の墓也、高野朝臣初め和氏と曰ふ、太后新佐笠姓を賜ふて高野と曰ふ。延喜式云、牧野墓、太皇太后之先和氏、在広瀬郡兆域東西二町南北五町。名所図会云、牧野墓は成相基の西十町許に在り。
河合《カハヒ》 広瀬郡の北部を河合村と曰ふ。佐保初瀬飛鳥の諸水相会して此に至り、更に広瀬川(百済川葛城川)と会し富小川を容れて益大なり、故に大川《オホカハ》の名あり、河合村即其南畔に居る。日本書紀に広瀬の川曲《カハワ》と記す所之に同じ、広瀬神社あり、謂ゆる川合神〔正倉院文書〕是なり。広瀬川は本|葛城《カツラギ》川の広瀬を云ふ、今百済村に在り、広瀬神社この川合に立ちたるより大川(大和川)をも広瀬川と呼ぶ。
御そぎして神のめぐみも広瀬川いく千代までかすまむとすらん、〔千五百番歌合〕
河合の大字|佐味田《サミタ》に宝塚と呼ぶ古墳あり前年此より埋蔵品を獲たり。其鑑十七枚は今東京博物館に蔵置す、一は尚方四乳鏡、一は四神四獣鏡、一は日月天王鏡なり、是等製作銘文図様に因り漢魏の世のものたるを知る。
広瀬《ヒロセ》神社 河合村大字川合に鎮座し、今官幣大社に列す。日本書紀大忌神に作り、延喜式和加宇加乃売神に作り、又広端河合神と云ふ。中世は二十二社第十三に列し、歴代祈年の大祀たり。日本紀云、天武天皇四年、遣小錦中間人大蓋大山中曽禰韓犬、祭大忌神、於広瀬河曲。延喜式云、大忌祭一座(広瀬牡)御膳持《ミケモチ》須留若宇加能売命。大宝令云、大忌祭、義解云、謂広瀬立田二祭也、欲令山谷水変成甘水浸潤苗稼得其全稔、故有此祭也。大和志云、河合村定琳寺、為広瀬神宮寺。
補【広瀬神社】○神祇志科 広瀬坐和加字加乃売命神社(延喜式)之を大忌神又広瀬河合神と云ふ(日本書紀・新抄格勅符)今広瀬河合村にあり(和州旧跡幽考・神名帳考証・大和志・国華万葉記)御食の事を知り持ち給ふ神若宇乃売神を祀る(延喜式)天武天皇三年四月癸未、小錦中間人連大蓋、大山中曽禰連韓犬をして大忌神を広瀬河曲に祭り、次年七月壬午又之を祭る、是後毎年四月七月祭を行ふ(日本書紀)文武天皇大宝の制又之に依る(令)後世四日を式日とす(延喜式・北山※[金+少]・本朝月令)聖武天皇天平二年広湍川合神に神戸稲租二十束を充奉り(東大寺正倉院文書)光仁天皇宝亀九年六月辛丑、参議左大弁藤原朝臣是公寺として幣帛を奉り、雨風調和ひ秋稼豊稔ならむ事を祈り給ひ(続日本紀)平城天皇大同元年神封戸を充奉り(新抄格勅符)嵯峨天皇弘仁十三年八月庚申、従五位下を授け(日本紀略)文徳天皇嘉祥三年七月丙戊、従五位上に進め仁寿二年七月庚寅、従四位下を加へ、壬辰散位従五位上安宗王等を以て祈年の為に幣馬を奉り、十月甲子従三位を授け(文徳実録)清和天皇貞親元年正月甲午正三位に叙され、九月庚申雨風の祈に幣を捧げ、十二年七月壬申、幣を奉て河内堤を築に雨※[さんずいへん+勞]の患なからん事を祈り、陽成天皇元慶二年七月己未、神宝を納る為に倉一宇を造らしめ、三年六月発酉神財を奉る(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣祈雨の奉幣に預り、凡そ広瀬祭に用ふる処の贄は当国正税を以てし、国司次官以上一人其事を専当《アヅカ》る、某日王臣五位各一人、神祇官六位各一人を祭使に充しめ(延喜式)一条天皇正暦五年四月戊申、中臣氏人を宣命使として疫疾放火の変を祈申さしめき(本朝世紀、参取日本紀略)
上倉《カミツクラ》郷 和名抄、広瀬郡上倉郷。上倉下倉二郷相并ぶ、旧事紀に「綏靖天皇兄手研耳命、於片丘大|※[穴/音]《クラ》中、独臥于大床」とある大※[穴/音]之に同じかるべし、今河合村大字|穴闇《アナクラ》あり、此地は葛下の片岡相接すれば古は片岡大※[穴/音]とも称しけん、。大和志云穴闇寺、今名長林寺、見于橋寺縁文。
下倉《シモツクラ》郷 和名抄、広瀬都下倉郷。上倉郷参考すべし。
山守《ヤマモリ》郷 和名抄、広瀬郡山守郷。今其名を失ふ、箸尾村萱野の辺郷名なし、蓋此か、応神天皇の時諸国の海人及山守部を定めたまふ事書紀に見ゆ、是其部民の住処なるべし。
箸尾《ハシヲ》 河合の南、百済の北を箸尾荘と曰ひ、其首村を萱野《カヤノ》と為す、今箸尾村と改む。平城坊目遺考に春日大宿所勤番の事を記し、箸尾氏は中川党藤原姓にして、広瀬郡に居り六万石高を有すと録す、戦国頃の大名なり。
大和軍記云、広瀬郡箸尾と申所に箸尾宮内少輔と申仁被居る、先祖より代々の居城にて其旗下には布施|万財《マンサイ》南郷東院などと申人々あり、今の知行高二万石計に候、筒井国替の後其まゝ本領を給り候処、石田逆乱の刻直に改易にて本知を放れ申候。英俊日記、永正二年国衆大名交名に箸尾上野守とあり、別に布施安芸守と云ふもあり、又箸尾上野守父子被述懐遁世事、高田家之儀裁許無一途、近日当麻へ出諸勢、被押寄候、又云、両高田者、河内在国、裁許無一途間、其儘河内に勘忍云々、又布施安芸守行国、箸尾上野守為国、万歳右京進則定、高田常次郎清房などとも注す。
櫛玉比女命神社は今箸尾村大字|弁財天《ベンザイテン》に在り、本社延喜式に列し、旧事紀に拠れば饒速日尊の妃御炊屋姫を祭る者也、浮屠家之を弁財天に転じたるならん。按に畿内志に広瀬《ヒロセ》寺は今大福寺といひ弁財天を祭れり、大福寺貞応三年古鐘、泉州貝塚村願泉寺の什物と為ると曰へり、本社の供僧也。
広瀬《ヒロセ》 今百済村に属す、葛城川の東畔に居る。(百済の北に接す)日本書紀に「天武天皇十年、将蒐於広瀬野、而行宮※[てへん+(構−木)]訖、装束設備、車駕畢不幸矣、十三年幸于広瀬」とあるは此地ならん。大和志、「広瀬行宮址在大野」と、大野は河合村に属す、不審と謂ふべし。
広瀬川袖つくばかりあさきをやこゝろふかめて吾おもへらむ、〔万葉集〕
旧事紀云、饒速日尊天隆之時、供奉防衛、三十二人中、天乳速日命、広湍|神麻続《カンウシ》連等祖。(崇唆紀に広瀬勾原とあり、勾まで広く被れる名なり。)
百済《クダラ》 葛城川(広瀬川)重坂川の間なる村落也、南は葛下の高田町東は磯城の平野村とす。応神帝の朝に百済新羅人等帰住したるに因り此名あるべし、敏達天皇元年百済|大井《オホヰ》に造宮あり。河内志此大井を以て河内国百済郷に求め、今川上村大字|太井《タヰ》に擬すれど太井《タヰ》は造宮あるべき地理に非ず、必定大井宮址も大和百済邑に求むべきのみ。
百済池 古事記云、建内宿禰命、引率新羅人、為役之堤池、而作百済池。大和志云、百済村西、広四百畝。
百済宮《クダラノミヤ》址 日本書紀云、舒明天皇十一年、造作大宮、以百済川側、為宮処、書紀通証云、百済宮故址、今半入十市郡飯高村。按ずるに百済川即|重坂《ヘサカ》川なり、飯高は今平野村に属す、天武紀壬申の乱に大伴連馬来田が弟吹負が兵を起したる百済家も此地に在りしなり。紀云、馬来田先従天皇、赴于東国、吹負留於倭家、謂立名于一時、欲寧艱難、即招一二族、及諸豪傑、僅得数十人、密与留守司坂上直熊毛議之、詐称高市皇子、繕兵於百済家。
百済大寺《クダラノオホテラ》址 日本書紀云、舒明天皇十一年、造作百済大宮、及大寺、百済川側、建九重塔。大安寺縁起云、上宮皇子以熊凝寺、附舒明天皇、歳次己亥、於百済川側、子部《コベ》社乎切排而定寺家、建九重塔、入賜三百戸封、号曰百済大寺、此時社神□而夫火、焼破九重塔、并金堂石鴟尾。三代実録云、昔日聖徳太子、建平群郡熊凝道場、飛鳥岡本天皇、遷建十市郡百済川辺、曰百済大寺、子部大神在寺近側、含怨屡焼堂塔、天皇遷立高市郡、号曰高市大官寺。通証云、今塔之址、在広瀬郡百済属邑二条、三代実録為十市郡、拾芥抄曰、大安寺、本名百済寺。大日本仏教史云、百済大寺舒明帝建立、封邑三百戸を施入し学侶を住せしめ給ふ、〔大安寺縁起扶桑略記〕其後火あり堂塔灰燼し、皇極天皇阿倍椋橋穂積百足を造寺司と為し、近江高志の丁を発し之を造営せしむ、〔日本書紀元亨釈書大安寺縁起〕孝徳天皇僧恵妙を以て寺主と為したまふ蓋造営成れば也、天智天皇七年大に百済大寺を修し丈六仏像を置く、〔大安寺流記資財帳帝王編年記扶桑略記〕天武天皇二年更に之を高市郡夜倍村に移し高市大寺と曰ふ。名所図会云、百済寺の址、僅にのこりて毘沙門堂あり。
百済野は万葉集高市皇子城上殯宮之時の歌に、
言さへぐ百済の原ゆ神葬り葬いまして云々、
高市の京より葛下の城戸郷への葬所に赴く路次にあたれば此の如くよめる也。
百済野のはぎのふる技に春まつとすみし鶯なきにけむかも、〔万葉集〕
下勾《シモツマガリ》郷 和名抄、広瀬郡下勾郷。今百済村是也、高市郡に曲川《マガリカハ》村あり相接す。古は当麻勾《タギマノマガリ》と云ふ、当麻へ通ずる路辺なればならん、又広瀬勾と云ふ、広瀬に属する郊野なれば也。古事記云、開化天皇御子、日子坐麻生小俣王、小俣王者当麻勾君之祖。
勾原《マガリノハラ》 日本書紀(崇峻紀)云、物部守屋大連誅之軍、忽然自敗、合軍悉被p衣、馳猟広瀬勾原、而散。
南葛城郡
南葛城《ミナミカツラギ》郡 古葛城国の南部にして、後葛下忍海二郡に分れしを、明治廿九年合同して南葛城の号を立つ。西は葛城|金剛山《コンガウセン》を以て河内国に界し、南は巨勢山《コセノヤマ》を以て吉野宇智郡に界す、東は高市郡と相交錯す、葛城川(下流広瀬川)重坂《ヘサカ》川(下流百済川)南方より発し北葛城郡へ入る。郡衙は御所《ゴセ》町に在り、十四村を管す。鉄道高田より御所を経て宇智郡五条に向ふ。
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忍海《オシノミ・オシウミ》郡 延喜式、和名抄、忍海郡、訓於之乃美とありて、日本書紀顕宗巻に於戸農瀰とあり、神功巻に桑原佐糜高宮忍海凡四村とありて、本葛城国の一村なり、初め忍海部氏の邑とす。古事記云、開化天皇御子、建波豆羅和気王者、道守臣忍海部御名部造等之祖也。この邑後は飯豊皇女一名忍海郎女の御名代に定められしか、天智紀忍海造小龍あり、続紀大宝元年倭国忍海郡人三田首あり。忍海は初め一村なるを一郡に建て、和名抄四郷に分つ、人口稠密の地なる事想ふべし。然れど域内東西二里南北一里に満たず、故に今又合併して忍海《オシミ》一村と為る。
中村《ナカムラ》郷 和名抄、忍海郡中村郷。今忍海村大字忍海なるべし、即忍海の中心なり、続日本紀に葛下郡国中村とあるも同じかるべし。宝亀五年、国中連公麻呂卒、本是百済国人也、其祖父徳率国骨富、属本蕃喪乱帰化、天平年中、聖武皇帝発弘願、造廬遮那銅像、其長五丈、当時鋳工無加手者、公麻呂頗有巧思、竟成其功、以労遂授四位、官至造東大寺次官、宝字二年、以居大和国葛下郡国中村、因地命氏焉。
角刺宮《ツヌサシノミヤ》址 顕宗天皇登極の際飯豊皇女権に朝政を聴きたまへる所也、忍梅村忍海に小祠あり、此なりと云。〔書紀通証〕日本書紀云、億計王与弘計天皇譲位、久而不処、由是天皇姉飯豊青皇女、於忍海角刺宮、臨朝秉政、当世詞人歌曰、
野麻登べにみがほしものは於尸農瀰のこのたかきなる都奴娑之のみや。(古事記云、葛城之忍海之高木角刺宮)
津積《ツツミ》郷 和名抄、忍海郡津積郷。今詳ならず、忍海村笛吹の辺にや。
園人《ソノヒト》郷 和名抄、忍海郡園人郷。今詳ならず、古事記に葛城五村苑人とある其一村なり。古事記穴穂宮(安康)段云、大長谷王興軍、囲都夫良意美之家、都夫良意美八度拝白者、先日所問賜之女子、※[言+可]良比売者侍、亦副五処之屯宅以献、注、所謂五村屯宅者、今葛城之五村苑人也。姓氏録、大和諸蕃、園人首、出自百済国久知豆神之後也。
栗栖《クルス》郷 和名抄、忍海郡栗栖卿、今詳ならず.大和志云、柳原《ヤナギハラ》に栗栖野ありと、忍海村の東部に大字柳原あり。日本書紀云、去来穂別太子、自龍田山踰之、時倭直吾子籠、素好仲皇子、密聚精兵数百、於|攪食栗林《カキハミクルス》、為仲皇子将拒太子。書紀通証云、攪食栗林、在忍海郷柳原村。万葉集云、
さしずみの栗栖の小野のはぎの花ちらん時にし行て手むけん。
按に此歌は大納言大伴旅人の詠なり、栗栖は和名抄山城固愛宕郡栗野に作り、久留須と訓注したり、栗栖とは国栖と同言なるべし其考は吉野郡の中に注したり。日本後紀、大同元年勅、池之為用、必由灌漑、栗林之用.良為得栗、今諸国所有蓮池并栗林等、或決灌田之水、潤彼芙蓉、或占無実之林、寄言供御、如此之頬、必妨百姓、宜遣使仔細勘定。
忍海《オシウミ》 今は一郡一村と為り、十五大字あれど、旧四郷の区分明ならず、為志《ヰシ》神社は延喜式に列す、今林堂十二所権現と云ふ。〔大和志〕皇極紀に「やまとの飫斯の広瀬を渡むと」云々、為志は忍志《オシ》の誤ならん。
笛吹《フエフキ》神社 延喜式、葛木坐火雷神社二座是なり、笛吹山に在り、一座は火宮《ヒノミヤ》と称し火雷神を祭り、一座は笛吹連の祖を祭る。〔大和志神祇志料〕三代実録、貞観元年正三位勲二等葛木火雷神に従二位を授け、延喜の制名神大社に列し、凡朝廷に事ある毎に笛吹社より波々迦木を奉らしむ。姓氏録、天孫笛吹連、天火明命之後也。旧事紀、天火明饒速日命六世孫建多乎利命、笛吹連若犬甘連等祖。笛吹池は笛吹の北梅室に在り。
笛吹の池の堤はとほくともちかくとひなばわすれざらなん、〔古今六帖〕笛吹のやしろの神は音にきく遊の岡やゆきかへるらん〔藻塩草〕
書紀通証云、古事記曰、天照大神、閉天石屋戸時、召天児屋命、取天香山之天汲々迦、而令占、奥儀抄曰、婆々迦木、取自笛吹社上之山、和名抄、朱桜一名桜桃、和名波々加、一名邇波佐久良、今按婆々迦樺也、和名加波、又云加仁波、俗名犬桜、一名南殿桜是也。
補【火雷神社】○神紙志料 葛木坐火雷神社二座、今笛吹村笛吹山にあり、火宮と云ふ、所謂笛吹社是也、(大和志・奈良県神社取調書)
按、中古笛吹杜と本社とを以て別神とし、終に本社を笛吹社の末社とす、今之を改むと云り
蓋一座は火雷神を祭り(日本書紀。古事記・延喜式)一座は笛吹連の祖天香山命を祀る(参取、新撰姓氏録・旧事本紀)清和天皇貞観元年正月甲申、正三位勲二等葛木火雷神に従二位を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上祭幣に預る(延喜式)凡そ朝廷卜事ある毎に笛吹社より波々迦木を奉らしむ(奥儀抄・卜部秘事口伝)即本社也、凡そ其祭九月廿四日を用ふ(奈良県神社取調書)
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葛上《カツジヤウ・カツラギノカミ》郡 延喜式、和名抄、葛上郡、訓加豆良岐乃加美。本郡は和名抄九郷に分れ、今|御所《ゴセ》町外十三村と為る、明治廿九年忍海郡と合し南葛城と称す。加豆良岐乃加美は近代専らカツジヤウと呼べり、古の腋上秋津洲の地なり。
葛城《カツラギ》川は金剛山の東麓より発源し、南流して広瀬川と為り、北葛城郡河合にいたり大川に注ぐ、長凡八里。
鴨《カモ》 葛上郡に広く被れる古名にて、神武帝の時建角身命も一時此に居り、因て賀茂《カモ》の称を冠す、其他饒速日の供奉、又大田々禰古の裔孫、共に鴨の称を冒す。和名抄に上鴨下鴨二郷あり。
釈日本紀云、山城風土記曰、日向曾之峰天降坐神、賀茂建角身命、神倭石余比古御前立坐而、宿坐大倭葛木山之峰、自彼漸遷至山代国。旧事妃云、鏡饒速日尊天降之時、供奉防衛三十二人中、天櫛玉命、鴨県主等祖。古事記云、意富田々泥古命者、神君鴨君之祖。旧事紀云、大田々禰古命之孫、大鴨積命、此命磯城瑞籬朝御世賜賀茂君姓。姓氏録云、大和神別、賀茂朝臣、大神朝臣同祖、大国主神之後也、大田々根古命孫大賀茂都美命(一名大賀茂足尼)奉斎賀茂神社也。按ずるに安寧帝の后渟名底仲媛は事代主命孫|鴨王《カモキミ》女也と日本書紀に見ゆ、此鴨王やがて大田々根古の祖にあたるか。(開化皇子彦坐命より出でたる鴨氏は牟婁郷参考すべし、)
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下鳧《シモカモ》郷 和名抄、葛上郡下鳥郷。下鳥は下鳧の謬りなる事明白なり、今御所町及び三室|竹田《タケダ》等の諸村ならん、下鴨社は御所町にあり、謂ゆる鴨都美八重事代主神社二座是なり。
下鴨《シモカモ》神社 本社は高鴨に対し下津賀茂杜と云事、応永二十五年田荘注進状に見ゆ。〔史料叢誌〕神祇志料云、本社は又葛城賀茂神社といふ、(出雲風土記延喜式神皇正統記大三輪神鎮座次第)大三輪社の別宮也、(大三輪神鎮座次第)今御所村にあり、近隣五村の氏神とす。〔大和志神名帳考名所図会〕蓋積羽八重事代主神妹高光姫大神命を祭る、〔参取古事記旧事紀延喜式〕社伝に下照姫命建御名方命を合祭るとある下照姫は蓋高光姫を謬り伝へし者なること著し、旧事紀に拠るべし、こは天下造らしゝ大神大国主の辺都宮に坐高津姫を娶て生坐る神也、〔旧事紀〕崇神天皇御世神裔大賀茂祇命に勅して初て社を葛城邑の賀茂に建て此神を斎き奉らしめ給ひき、〔大三輪神鎮座次第参取旧事本紀〕醍醐天皇延喜の制並に名神大社に列す。
御所《ゴセ》 御所町は南葛城の大邑にて、郡衙あり、又鉄道車駅たり。或は五所に作り、古来ゴセと訓む、其義詳ならず。三十三所図会云、五所新荘高田の辺は諸村木綿紺飛白縞織の類名産たり、或は絹の糸を交へてめづらしき縞を織出すを家毎の手業《テワザ》とせり、是を世に大和縞と号して名産とす、されば村中に藍染の紺掻多く、数多の綛糸を染て軒端に干す、表の傍には機織処女小歌を諷ひ、裏には糸繰老婆詠歌をあぐる、爪の長き仕入の商人あれば、気の短き親仁ありて恰かもいさかへの如く、算盤の音機音に混じて甚静ならざるは、正しく土地の栄と謂ふべし。
掖上池心《ワキカミイケノウチミヤ・※[池心の左側のふりがなに「イケゴコロ」とあり]》宮址 孝昭天皇の宮址なり、大和志書紀通証に池内《イケノウチ》(今秋津村)御所二村の間に在り、此地一名|大韋古《オホヰコ》原今|蓬原《ヨモギハラ》と云ふとあり。掖上は御所東西広く被むれる名なり、博多陵※[くちへん+兼]間丘牟婁郷の所在にて之を知るべし。日本書紀、孝昭天皇遷都於掖上、是謂|池心《イケゴコロ》宮。
掖上《ワキカミ》池 日本書紀云、推古天皇廿一年、作掖上池。持統天皇四年、幸于掖上陂、観公卿大夫之馬。掖上池は書紀通証に井戸村と為せど疑はし、宮址と同く池内村に在るべし。
博多山上《ハカタヤマノヘ》陵 孝昭天皇の御陵なり、今御所町の西南|三室《ミムロ》村に在り。延喜式、博多山上陵、掖上池心宮御宇孝昭天皇、在葛上郡兆城東西六町南北六町。山陵志云、孝昭帝都腋上、居於池心宮、今池内村即其址、博多山在池内西北、掖上是此間総名矣、博多山今呼天皇山、上有祠、奉孝昭之祀、其地三室村、又池内村西隣曰室村、孝安帝秋津島宮所在、今有古墳焉、石棺一片暴露於其上、里老相伝、此亦孝昭陵、夫孝昭之葬、日本書紀為孝安三十六年、意不応稽延至此、更拠旧事紀、書元年葬之、則孝安孝思之深、蓋初近葬某所居室地、朝夕観望之、乃晩年卜地改葬博多矣、且某曰三室、或仍陵室名之也。(山陵考云、博多山、根廻百二十六間高九間垣廻百四十三間)
掖上《ワキカミ》 今御所町の東玉手茅原の辺を掖上村と為す、蓋古の桑原郷にあたる、即ち掖上の古都なり、※[くちへん+兼]間丘あり。掖古書腋と通用す。西州投化記云、姓氏録、功満王、秦始皇三世孝武王之子也、仲哀帝八年来朝、按三代実録三世作十二世、東雅鳩巣小説并曰蓁至子嬰而亡、今称始皇之孫者、蓋出自扶蘇也、功満王之子曰融通王、又作弓月君、応神帝之時更帰国、率百二十七県狛姓帰化、天皇嘉之、賜朝津間腋上地居之。
桑原《クハハラ》郷 和名抄、葛上郡桑原郷、古の腋上の中にして、日本書紀に桑原邑とありて、帰化人の住地なり、今掖上村にあたる如し。姓氏録云、大和諸蕃、桑原直、漢高帝十世孫万得使主之後也、左京并摂津諸蕃、桑原史、桑原村主同祖。
玉手《タマテ》 掖上村大字玉手に孝安天皇玉手丘陵あり、日本書紀仁徳巻に「播磨佐伯直阿我能胡、殺雌鳥皇女、探足玉手玉得之、皇后命有司、推※[革+(句の口の代わりに言)]得状、阿我能胡乃献己之私地、請免死、故納其地、赦死罪、是以号其地曰|玉代《タマテ》」とあるは此か、河内国にも玉手村あり。古事記、葛城長江曾都毘古者、玉手臣祖也、即此なり。
玉手丘上《タマテヲカノヘ》陵 孝安天皇の御陵なり、今掖上村大字玉手に在り。延喜式云、玉手丘上陵、室秋津島宮御宇孝安天皇、在葛上郡兆城東西六町南北六町。山陵志云、孝安陵、今所在曰宮山、其上有祠焉、蓋此間亦当隷掖上、而式不冠之、略言爾。(山陵考云、玉手丘上陵、高九間根廻百四十間、)
※[くちへん+兼]間丘《ホヽマヲカ》 掖上村大字|本馬《ホンマ》の南、柏原に在り、国見山と曰ふ、本間《ホンマ》は即※[くちへん+兼]間の訛なり。日本書紀云 神武天皇巡幸 因登腋上※[くちへん+兼]間丘、両廻望国状、曰研哉乎国之獲矣、雖|内木綿《ウツユフ》之|真※[しんにょう+乍]《マサキ》国、猶如|蜻蛉《アキツ》之|臀※[くちへん+占]《トナメ》焉、由是始有秋津洲之号也。書紀通証云、秋津洲、此非云日本国状、※[くちへん+兼]間丘所瞰之地形爾、蓋蜻蛉喜銜尾而飛、状成輪曲、故譬之青山四周。按ずるに秋津洲は腋上の地の別名なり、島とは一締《ヒトシマ》りの地域を指す、孝昭天皇之に移都し孝安天皇之に造宮ありしより其名著れ後は和州《ヤマト》全体に及ぼして遂に国朝の別号となれる者の如し。
補【※[くちへん+兼]間丘】○奈良県名勝志、葛上郡掖上村大字柏原にあり、日本紀に曰く、神武天皇三十有一年辛卯夏四月乙酉朔、皇輿巡幸因て腋上※[くちへん+兼]間丘に登り国状を廻望して曰く、妍なる哉国を之れ獲たり、内木綿の其真※[しんにょう+乍]国といへども、猶蜻蛉の臀※[くちへん+占]の如し、是より始めて秋津の号ありと。○掖上村大字本間あり。
茅原《チハラ》 掖上村大字茅原は修験道の開祖役小角の故里なり、今吉祥草院五条寺存す、小角の開基と称し其遺像を置く。霊異記云、修持孔雀王呪法、得異験力、以現作仙飛天縁、第二十八、役優婆塞者、賀茂役公氏、今高賀茂朝臣者也、大和国葛木上郡茅原村人也、自性生知、博学得一、仰信三宝、以之為業、修行孔雀之呪法、証得奇異之験術。
補【茅原寺】○掖上村茅原にあり、吉祥草院五条寺と称す、僧行基の開基にして、其遺像あり。
牟婁《ムロ》郷 和名抄、葛上郡牟婁郷、孝安帝の都邑したまふ所にして、今秋津村大字室の名存す、日本書紀履仲巻にも掖上室山あり。古事記伊邪河宮(開化)段に、御子日子坐王の子室毘古王あり、葛城鴨氏の一流の祖なるべし、姓氏録、左京皇別鴨県主、摂津皇別鴨君は蓋是なり。
秋津島《アキツシマ》宮址 今秋津村大字室に在りとぞ、〔大和志〕孝安帝の御宮なり、古事記云、天皇坐葛城室秋津島、冶天下也、日本書紀云、天皇遷都於室地、是謂秋津島宮。按ずるに室は亦掖上の中にして、孝昭孝安二帝の都城也、秋津島の名之より著れ後国朝の別号と為る。
室墓《ムロノツカ》 武内大臣の墓なり、或云ふ玉手に在り、又云ふ室村に在りと。日本書紀允恭巻云、玉田宿禰、主反正天皇之殯宮、逃隠武内宿禰之墓域。山陵志云、孝安玉手陵南有旧家、呼為罐子山、検之是宮車象、而左右有二三円冢、蓋所陪葬者、或以為孝安陵、非也、孝霊孝元二陵未象宮車、而孝安独先得如此乎、玉手一為玉田、武内是玉田氏之祖、由此観之、蓋武内之丘墳、而其孫之所匿、亦可以備考矣。史料叢誌云、三輸神官巨勢氏系図曰、葛上郡室村南、鉢伏山有墳、即武内之室墓也。
琴弾原《コトヒキハラ》 秋津村大字|富田《トンダ》に在り.又白鳥陵あり 室の鉢伏山の東北なり。〔大和志〕日本書紀允恭巻云「新羅人恒愛京城傍耳成山畝傍山、則到琴引坂顧之」
白鳥《シラトリ》陵 日本書紀云、日本式尊葬于伊勢能褒野、化白鳥自陵出、指倭国而飛、群臣因開其棺而視之、明衣空留、而屍骨無之、追尋白鳥、則停於倭琴弾原、仍於其所造陵焉、白鳥更飛至河内。
上鳧《カミカモ》郷 和名抄、葛上郡上烏郷。和名抄の上鳥は上鳧の謬りなるべし、下鴨の上方にして今|櫛羅《クシラ》村小林村などにあたる、櫛羅には鴨山口神社あり。
櫛羅《クシラ》 此村延宝八年丹後宮津城主永井氏の舎弟直円櫛羅新庄一万石の地を賜ふ、其陣屋近年亡ぶ。西嶺は葛城の一峰にして、戒那と名づくる滝あり。
葛城山、倶巳羅瀑布 藤本田居
銀河分一派、直向葛城流、飛響無今古、動揺天地秋、
鴨山口神社は櫛羅村に在り、延喜式大社に列す、又三代実録に載せらる。按ずるに戒那山《カイナサン》即鴨山と呼びし者にて、建角身命の寓止せるは此地なるべし。
楢原《ナラハラ》郷 櫛羅村の南にして、又葛城山の中に在り、大村なり。和名抄、葛上郡楢原郷。太平記云、元弘元年東国勢初度の合戦に負くれば、楠が武略侮りにくしとや思ひけん、吐田楢原迄は打寄んとは不擬。平城坊目遺考に、南党楢原氏は葛上郡金剛山麓に住し三万石高なり、春日明神勤番五年毎に勤むとあるは、戦国頃の大名なり。大和軍記云、楢原は国侍の内にては、よき身上の仁にて旗下も多くクシラ、サヒ、長良など申者に候。英俊日記、永正二年和州武家衆の交名中に 楢原三郎栄遠とあり、又吐田修理進遠光と云もあり、
葛木大重神社は延喜式に列す。大和志云、楢原村に在りと。神紙志料云、新抄格勅符に大同元年葛木犬養神に信濃地廿戸を神封に充てらる、大重は犬養の謬に似たり。
吐田《ハンタ》 今|吐田郷《ハンタガウ》村と云ふ、和名抄大坂高宮二郷の地なり、吐田の名は太平記に吐田楢原と見ゆれば新称にもあらず、金剛山の東麓にして山路あり、即大坂にして今|水越峠《ミヅコシタウゲ》と称す。(名義は埴田なるべし)
大坂《オホサカ》郷 和名抄、葛上郡大坂郷。今吐田郷村の上方を云ふ、大字関屋あり、山路を水越と呼び河内石川の上游に到るべし。古事記掖上宮(孝昭)段云、皇子天押帯日子命者大坂臣之祖也。葛下郡にも大坂あれど之と異なり。姓氏録「大和神別、大坂直、天道根命之後也」とあるは孰の大坂ならん。
葛木|水分《ミコモリ》神社は今吐田郷村関屋の水越峠《ミコシタウゲ》に在り、此神三代実錦貞観元年授位、延喜式に列し、祈年祭水分四神の一なり、水分は配水の謂なり。
補【水分神社】○神紙志科 葛木水分神社、今関屋村水越峠にあり(大和志・名所図会・奈良県神社取調書)蓋速秋津日子神の子天之水分神、国之水分神を祭る、(古事記・旧事本紀)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より正五位下を授け、九月庚申幣使を遣して雨を祈り(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣に預る、即祈年祭水分四神の一也(延喜式)
按、本書之を名神の社とす、然れども名神祭の条に此神を載せず、今姑く之に従ふ
凡そ毎年八月一日九月廿四日十一月廿日、祭を行ふ(奈良県神社取調書)
葛城《カツラギ》 葛城は南北に渉り、古来大名なるが、其本拠は金剛山下高宮郷なるべし、即今の吐田《ハンタ》郷の中なり。日本書紀云「高尾張邑有土蜘蛛、皇軍結葛綱而掩襲之、因改其邑曰葛城」と、是れ神武帝の時にして謂ゆる「以剣根者、為葛城国造」とあるも当年の事なるべし、高尾張の名は後に聞く所なし、蓋高丘と云ひ高宮と転ずるは皆高尾張丘、高尾張丘宮の略ならん。武内宿禰、其族党繁衍し子孫葛城を以て本拠と為し、蘇我大臣高宮に祖廟を立つ、高宮の条参考すべし。
尾張《ヲハリ》 葛城《カツラギ》の別名なるべし、古は尾張連あり大姓也。神武天皇紀に高尾張邑と云ふは即高宮郷なるべし、河内国に尾張郷あり、東海道に尾張国あるは尾張連の移住に因るか。又尾張に古言両義あり、小墾田《ヲハリダ》と曰ひ土地に因り、尾羽張《ヲハバリ》と曰ひ剣制に因る。
高尾張《タカヲハリ》 日本紀神武巻に高尾張邑と見ゆ、即尾張の高丘の地を指して斯くも曰へるか、(神代巻)天忍穂根尊、生児天火明命、火明命児天香山、是尾張連等遠祖也。火明命は旧事紀に因るに即饒速日と同じ、曰饒速日尊天隆之時、供奉防衛三十二人中、天香語山命、饒速日尊児也。古事記「掖上宮孝昭段云、天皇娶尾張連祖奥津余曾之妹、名余曾多本毘売命。又境原宮孝元段云、御子比古布都押之信命、娶尾張連等之祖、意富那毘之妹、葛城之高千那毘売」と。当時葛城は皇居在り、押之信命の孫武内の族亦此地に繁衍す、以なしと為さず。小川氏云、旧事紀尾張連系譜、三世天忍人命の妻に葛木出石姫あり、弟天忍男命は葛木土神剣根命女を娶る、土神は国造の謂なり、四世瀛津世襲命亦葛木彦と云ふ、七世建諸隅命は葛木直祖大諸見足尼女娶る、建諸隅の妹大海姫一名葛木高名姫は古事記水垣宮(崇神)段に天皇娶尾張連之祖意富阿麻比売とあるに合す、之に依りて之を観るに当時尾張連は葛城に居住したる盛強の族たるや明なり、然るに延喜式六国史中葛城に於ける尾張連の祖神絶えて之なし、是れ疑問なり。
高宮《タカミヤ》郷 和名抄、葛上郡高宮郷、訓多加美也。是は高丘宮の謂にて綏靖天皇の都邑なれば此名あり。大和志に森脇を宮址と為す、是なり。今|吐田郷《ハンタガウ》村の下方にして大字|森脇《モリワキ》存す。又大字|名柄《ナガラ》あり、古は長柄に作り長江《ナガエ》と訓む即葛城襲津彦の邑なり、襲津彦の女磐之媛皇后の歌に「箇豆羅紀(葛城也)多伽彌揶(高宮也)和芸幣能阿多利(吾家之辺也)」と日本書紀に見ゆ、又同書神功紀に桑原佐糜高宮忍海凡四邑とありて共に葛城に属す。
高丘宮《タカヲカノミヤ》址 高丘は神武帝の葛城の土蜘妹を誅したまへる高尾張の地にして、尾張連居る、別目に其説を挙ぐ、綏靖帝此に都邑したまひ、又高宮と曰ふ。書紀通証云、釈引土佐風土記曰、葛城山東下、高宮岡、持統帝幸焉。按に高丘宮は葛木一言主神社と同く吐田郷村森脇なるべし。
日本書紀云、綏靖天皇都葛城、謂高丘宮。又云皇極天皇元年、蘇我大臣蝦夷、立己祖廟於葛城高宮、而為八※[にんべん+(八/月)]之※[にんべん+舞]。
又云推古天皇三十二年、蘇我馬子宿禰遣使奏曰、葛城県者元臣之本居也、故因其県為姓名、(葛城氏)是以冀得其県、以欲為臣之封県、天皇詔曰、朕自蘇我出之、大臣朕舅也、然今当朕之世、頓失是県、後君曰、愚痴婦人、臨天下、以頓亡其県、豈独朕不賢耶、大臣亦不忠、是後葉之悪名、則不聴。
一言主《ヒトコトヌシ》神社 吐田郷村大字森脇に在り、此神は葛木の一言主と称し雄略の朝に出現の事古事記に詳かなり、旧事紀には是神は素盞鳴尊の児とあり。釈紀引土左風土記曰、土左高賀茂大社、其神名為一言主尊、其祖未詳、一説曰大穴六道尊子味※[金+且]高彦根尊、暦録云、雄略天皇時、一言主神与天皇相競、有不遜之言、天皇大瞋、奉移土左、神随而降、神身已隠、以祝代之、初至賀茂之地、後遷于此社、而天平宝字八年、高賀茂田守奏、而奉迎鎮於葛城山東下高宮岡上、其和魂者猶留彼国于祭祀、云々と、之に拠れば高賀茂神と同神にして、土佐国一宮亦同じ。通証云、或曰、事代主命、一言以決天下、焉知非一言主神。文徳実録、嘉祥三年葛木一言主神授正三位、三代実録、貞観元年葛城一言主神授従二位、延喜式名神大社に列す。雄略天皇葛城山に登幸せるとき、其向の山尾より山上に登る人あり、既に天皇の鹵募簿《ミユキノツラ》に等しく其|装束《ヨソヒ》の状《サマ》及《マタ》人衆《ヒトドモ》も相似て分れず、爾天皇望けて問しめ給はく、此倭国に吾を除《オキ》て亦|天子《キミ》はなきを、今誰人ぞ如此て行くと問しめ給ひしかば、答申せる状も大命の如くなりき、於是、天皇怒りて矢刺《ヤサシ》給ひ、百官の人等も悉く矢刺ければ、其人等も皆矢刺り、故天皇其神なる事を知しめせるを、猶殊更に亦問しめ曰く、然らば其名を告《シラ》さね、各も各も名告て矢《ヤ》弾《ハナ》たむと詔ひき、於是答曰く、吾先問ひたれば吾先名告せむ、吾は悪事《マガコト》も一言《ヒトコト》、善事《ヨゴト》も一言、言離《コトサカル》之神葛城之一言主大神也と申しき、天皇惶畏て白し曰く恐《カシコ》し我大神|顕見大身《ウツシオミ》坐むとは覚らざりきと白して、大御刀弓矢を始めて百官人等の所服《ケセル》紅紐《アカヒモ》の青摺の衣を脱しめて拝み献りき、故其大神手拍て其捧物を受給ひ、天皇の還幸時長谷の山口に送り奉りき是一言主神は彼時にぞ顕れ坐ける。〔古事記参取日本書紀〕按に一言主出顕の状は、彼の天空倒映の象に似たり、亦一不思儀と謂ふべし、通証云、按小説曰、役小角架石橋于葛城山、役使山神、憤成功之遅、縛山神、此本三斉略記所説、秦始皇之故事、載在広博物志、一言主神豈見役使之鬼乎、俗説之惑人、吁亦甚。
石橋《イハハシ》 古より其説あれど実を詳にし難し。扶桑略記元亨釈書云、役小角、入葛木山、居巌窟者、三十余歳、持孔雀明王咒、駕五色雲、優遊仙府、駆逐鬼神、以為使令、日城霊区、修塵殆偏、一日告山神曰、自葛木嶺、至金峰山(吉野)其間危、雖苦行者、猶或艱之、汝等架石橋、通行路、衆受神命、夜々運巌石、督営構、小角呵神曰、何不早成、対曰葛城峰一言主神其形甚醜、難昼役、待夜出、以故遅耳、小角怒、咒縛一言主神。
岩橋のよるの契りも絶えぬべしあくるわびしきかつらぎの神、〔拾遺集〕
小川氏云、寛文記に葛城の神は女体にましますと曰へるは、彼石橋の虚誕により、詠歌者流之を夜の契などとよみたるより出しならん。
多太《タタ》神社は吐田郷村大字多田に在り、荘神と云ふ、蓋三輪賀茂両氏の祖大田田根子の故里にして之を祭る、延喜式に列す。古事記水垣宮(崇神)段云、天皇問之、汝者誰子也、答曰僕者大物主大神娶陶津耳命之女活玉依毘売生子、名表櫛方命之子、飯肩巣見命之子、建甕槌命之子、僕意喜多々泥古白、即以為神主、而於御諸山、拝祭意富美和之大神前、此意富多多泥古命者、神君鴨君之祖。摂津国|多田《タダ》も此大田田根子の一族分居の地なるべし。
宮戸《ミヤト・ミヤノヘ》 宮戸は吐田卿村の大字なり、今ミヤトと呼ぶ、蓋旧地にして此辺に猪石岡あるべきも今詳ならず。姓氏録云、山城神別|神宮部《カミヤベ》造、葛城猪石岡|天下神《アマクダルカミ》天破命之後也、六世孫吉足日命、磯城瑞籬宮御宇崇神天皇御世、天下有災、因遣吉足日命、令斎祭大物主神、災異即止、天皇詔曰、消天下災、百姓得福、自今以後可為宮能売神、乃賜姓宮能売公、然後庚午年籍注神宮部造也。
長柄《ナガエ・ナガラ》 今吐田郷村名柄は古は長柄に作り長江と訓む、後世転じて長良と為す、仁徳皇后磐之媛の故里にして日本書紀に葛城部を定むとあるも此地の事か。
磐之媛は父は古事記に「葛城長江曾都比古者、玉手臣之祖」と称す、即邑人なり。長柄《ナガエ》神社は名柄に在り、延喜式に見ゆ。姓氏録云、大和地祇、長柄首、事代主神之後也。日本書紀云、天武天皇九年、幸于朝嬬、因以看大山位以下之馬於長柄杜、乃※[にんべん+卑]馬的射之。
御歳《ミトシ》神社 今葛城村大字|東持田《ヒガシモチタ》の御年山に在り、延喜式に祈年祭斯神を拝し名神大社に列す。三代実録、貞観元年葛木御歳神授従一位とある者是なり、初め大田々根子の裔孫本社の視たりと云ふ。〔姓氏録〕此神後世太だ顕れず旧事本紀に本社は事代主及高照姫を祭ると為せど、謬文に似たり。
御歳神は大年神の子とす、其功烈は古語拾遺に詳なり、上古|大地主《オホトコヌシノ》神御田営らしゝ時、田人に牛肉を食はしむ、御蔵神の子其田に至り御饗《ミアヘ》に唾《ツバキ》て還り坐て父神に其|状《サマ》を告《マヲ》す、時に御歳神怒り坐て其田に蝗《イナムシ》を投じ給ひしかば、苗葉《ナヘノハ》忽に篠《シノ》竹なし枯損《カレソコ》ねき、故大地主神|片巫《カタカウナギ》(本注に云ふ志止々鳥)肱巫《ヒヂカウナギ》(本注云今の俗竈輪また米占と云是也)をして占求《ウラマギ》給へば此は御歳の祟也、白猪白馬白鶏を献りて其神怒りを解和給へと白して、故教のまゝに御年神に奉謝《イノリ》給ふ、時に答曰く是は誠に吾意也、故|麻柄《アサガラ》を加世岐に作り、其葉を以て之を払ひ、天押草をもて其を押し烏扇《カラスアフギ》を以て扇げ、如此《かく》して猶去ずば溝口に牛肉を置き※[くさがんむり/意]子《ツス》蜀椒《ヤマハジカミ》呉桃葉《クルミノハ》及塩を其|畔《クロ》に班《アカチ》置けと言教給ひき、茲に大地主神其教の隨《マニマニ》行給ふ、時に苗葉復茂りて年穀《タナツモノ》豊《ユタカ》に稔りき、是神祇官白猪白馬白鶏を以て此神を祭る緑也。〔古語拾遺〕称徳天皇天平神護元年、大和讃岐等十三戸を神封に充奉る。〔新抄格勅符〕
補【御歳神社】○神祇志科 葛城御歳神社、今東持田村御年山にあり(大和志・名所図会・奈良県神社取調書)大年神の子御年神を祭る(古事記・延喜式)
按、旧事本紀に八重事代主神の妹高照光姫大神命は倭国葛上郡御歳神社に坐すとあるは、恐らくは神名帳の順序に依て推あてに云る妄説に似たり
文徳天皇仁寿二年四月庚申、御歳神に従二位を授け、十月甲子正二位を加へ奉り(文徳実録)
按、本書大和国御歳神とのみにて郡名なし、故に高市郡御歳神社と混はしく思はるれど、三代実録の位階神名に拠る時は本社なる事甚明らかなり、故に此に附く
清和天皇貞観元年正月甲申、正二位葛木御歳神に従一位を授く(三代実録)初め大田田根子の裔本社の祝たりしより後神主を置事なかりき(新撰姓氏録・三代実録大意)八年に至て始て神主を置しに、神祟甚だ著る、仍て勅して之を停む、十二年七月壬申、幣を奉て河内国の堤重て水害なからむ事を祈らしめ給ひき(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る、凡そ祈年祭例幣の外必ず白猪白馬白鶏各一を加奉らしむ(延喜式)毎年八月廿七日廿八日を以て祭を行ふ(奈良県神社取調書)
日置《ヒキ・ヒガ》郷 和名抄、葛上郡日置郷。日置は諸国に多き名なるが、此地最旧きか、旧事紀に「腋上池心宮御宇孝昭天皇の后は饒速日尊四世孫世襲足姫命亦名日置姫命」とあり、本郷蓋世襲足姫の御名代なるべし。仁徳天皇の御歌に「朝妻の避箇《ヒカ》の小坂」の句あり、避箇即日置なるべし、然らば今葛城村の中とぞ。栗田氏郷名同唱考云、日置といふは和名抄に能登珠洲郡、丹波多紀郡、出雲神門郡、肥後玉名郡、大和葛上郡、安房長狭郡、尾張海部郡、薩摩郡名、伊勢壱志郡、長門大津郡、越後蒲原郡、周防佐婆郡、但馬気多郡、ヒオキともヘキともヒキとも訓るは皆音の転なり、正しくはヘオキとも訓むべきにや、出雲なるは風土記に「日置郷云々、志紀島宮御宇天皇之御世、日置伴部等所遣、来宿停而為政之所、云日置郷」とある志紀島宮は崇神天皇なるべし、この御世に出雲振根が事ありて後大神を祭らず、是によりて神託ありしかば伴部を遣はされて大神を祭らせ政をせさせ、其人々を置せ給ひしなるべし、さて其の人々の戸を定めて置かれしよりヘオキの義にて日置郷は出来たるにやあらむ、さて日置部臣といふ姓も出雲にあるは此に起りしなるべし、部々の住る処をしか名けたりけむも知るべからず。
避箇《ヒカ》 書紀通証云、朝妻山在葛上郡、朝妻村上方山路、曰比介小坂。(避岐を避箇に転ずる事古言其例あり)
阿佐豆磨の避箇の烏瑳箇《ヲサカ》をかたなきに道行くものもたぐひてぞよき、〔日本書紀〕
朝妻《アサツマ》 今葛城村の大字なり。姓氏録云、弓月王、応神天皇十四年来朝、上表更帰国、率百二十七県伯姓帰化、并献金銀玉帛種々宝物等、天皇嘉之、賜大和朝津間腋上地居之焉、又云、大和国諸蕃、朝妻造、韓国人山都留使主後也。允恭天皇御名を雄朝津間稚子と申奉る、相因める所あるか、又、天武天皇九年、幸于朝嬬」とも見ゆ。
けさゆきて明日は来なむと云へしまに旦妻山に霞たなびく、〔万葉集〕
葛城山《カツラギヤマ》 大和国西界の峻嶺にして、其脈北に赴く者は戒那山二上山と為り、西に趨る者は河内紀伊の国界を為し由良海門に至る。其高峰は南葛城郡の西に於て高天山《タカマヤマ》と為る、一名金剛山と曰ふ、役小角山中に修行しけるより今に道士絶ゆるなく、中世は七高山の随一にして、修験宗の霊場たり。
春柳|葛城山《カツラギヤマ》にたつくものたちてもゐてもいもをしおもほゆ、〔万葉集〕よそにのみ見てややみなんかつらぎや高間の山のみねの白雲、〔新古今集〕
葛城峰 新井白石
天上玉芙蓉、五城十二重、帝畿標巨鎮、神府擁群峰、列宿環朱鳥、飛泉掛白龍、霓旌仙蹕度、時有羽人逢、
葛城山にて
猶見たし花にあけ行く神の顔、 芭蕉
日本書紀、雄略天皇四年、射猟於葛城山、急見長人来望丹谷、面貌容儀相似天皇、天皇知是神、猶問曰何処公也、長人対曰、現人之神先称王諱、然後応※[道/口]、天皇答曰朕是幼武尊也、長人次称曰、僕是一言主神也、遂与盤于遊田、駈逐一鹿、相辞発箭、並轡馳※[馬+(聘−耳)]、言詞恭恪、有若逢仙、於是日晩田罷、神侍送天皇、至来目水。又云雄略天皇五年、狡猟于葛城山、嗔猪従草中暴出逐人、天皇詔舎人逆射、舎人怯縁樹、嗔猪直来欲噬、天皇用弓刺止、拳足踏殺、於是欲斬舎人、皇后止之曰、陛下以嗔猪故而斬舎人、無異於豺狼也、天皇乃与皇后上車帰、呼万歳、曰楽哉、人皆猟禽獣、朕猟得善言而帰。又云斉明天皇元年正月、空中有乗龍者、貌似唐人、著青油笠、而自葛城嶺、馳隠胆駒山、及至午時、従於住吉松嶺之上、元以役行者為師、敬重、後妬賢徳、讒奏公家云、小角夾誑惑世間、為国凶乱也、又葛木山之澗底、常有吟音、聞之尋至、大巌藤纏、疑是巌吟歟、切放即纏、如本繋縛、役公伝曰、役儀婆塞者、着藤皮衣、松葉為食、吸花汁、助保身命、卅余箇年、誦孔雀王咒、難行苦行、大験自在、追聚鬼神、令駈仕、吾国無比也、於時金峰与葛木峰、為行通於両山、召集諸神、令度橋、金峰大神、不勝咒力、而且作始之、葛木一言主大神、又且始作、申於行者云、自形尤醜、夜間作之、行者云、昼尚怠、況将夜作哉、時一言主神、不勝於行者追、讒言於王宮、云々。〔節文〕
高天《タカマ》 葛城村大字高間、葛城山の上方にして世俗高天原と曰ふ、南遊紀行云、葛城山東麓より二十町登りて高天村に至る、高天は郷内広く村々多し、桜又鶯の名所なり、此辺より大和国中よく望見す。
葛城の高閲の草《カヤ》野はやしりて標《シメ》さゝましを今ぞくやしき、〔万葉集〕古今秘抄に、孝謙天皇の御宇、大和国高天寺の小童空くなる、次の年鴬来り梅が枝に鳴く、其声をきけば「初陽毎朝来不相還本栖」と、これを文に移せば「初春の朝夕毎にきつれどもあはでぞかへるもとの栖かに」、云々と見ゆ、今も高天寺の境内に古梅あり。〔名所図会〕高天彦神社は高天山に在り、今彦沢権現と称す。〔大和志〕延喜式名神大杜なり。新抄格勅符云、宝亀十年、高天彦神奉充四戸。類聚国史云、大同元年、高天彦神預四時幣帛、縁吉野皇太后願也。三代実録云、貞観元年、正三位勲二等高天彦神授従二位。
補【高天彦神社】○神紙志料 高天彦神社は今高天村高天山にあり、彦沢権現といふ(和州旧跡幽考・大和志・神名帳考証)光仁天皇宝亀十年神封四戸を充奉り(新抄格勅符)平城天皇大同元年四月己未、正四位上高天彦神四時幣帛に預る、吉野皇太后の御願に依て也(日本後記・類聚国史)、仁明天皇承和六年五月丙午、従三位高天彦神を名神とし(続日本後記)清和天皇貞観元年正月甲申、正三位勲二等高天彦に従二位を授く(三代実録)
按、本神従三位に進み又正三位勲二等に叙されし事史に漏て考ふべからず
醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上官幣に預る(延喜式)凡そ其祭九月五日を用ふ(奈良県神社取調書)
金剛山寺《コンガウセンジ》 葛城山の頂に在り。神皇正統記に華厳経の文「東北海中有一処、名金剛、従昔以来、有菩薩、名曰法起」を引き、書紀通証は金剛鑚山中に出づ故に名づくと為す、名所図会云、金剛山寺は正堂大和国に属し、余堂河内国に隷す、東に朝原寺あり南に猪石岡寺あり。(猪石岡は姓氏録に見ゆ昔天降る天破神此に居る)正堂本尊法起菩薩なり、役行者開基と云ひ、此寺一名転法輪と云ふ。吉野詣記(天文廿二年)云、此名山は彼「於南海中、有一浄土、常在説法、法喜菩薩、名金剛山」の本文も此世の外の心ちして、道すがらのけはしき、鳥の声もたえたる所に雪のこり、み山木など冬の盛の姿にてたてる誠に馬の通ひもなき故と人々申けり、哺時に辛うじて上りつきぬ、榾と云もの焚きすさびたる炉火のもとによりて、道すがらの寒さつくろふ、程もなく点心などいふものとりまかなひ備へたり、長く道たえたる山のうへに、かゝる貯へのとりあへざりしもふしぎにて、思ひつゞけゝる、
衆峰絶頂金剛窟、行者高蹤路転迷、今日初嘗禅悦食、相盟法喜法身妻。
金剛沙一名柘榴石、(一名柘榴子又柘榴珠)色沢種々にして其美麗なるを宝玉と為し、細沙を玉石の截磨に用ゐ、金剛鑚と称す、本邦其産地金剛山最著れ、今葛下の穴虫河内石川郡古市郡等金剛山の脈中に産す。天平十五年、官奴大友斐太葛下郡大坂に金剛鑚を獲て玉を造る事続日本紀に見ゆ、当時称して大坂沙と曰へりとぞ。
補【金鯛山】○産業事蹟 聖武天皇天平十五年に大友史斐太と云ふ者ありて、官奴なりしが玉を造ることを能くせり、此の年大和国葛下郡大坂と云ふ所にて金剛鑚を得て玉を造るに用ひしに、其功甚だ速かなり、天皇斐太が功を賞して官奴を免じて良民に従はしめらる、而して大坂に於て得たる砂なるを以て当時大坂砂と云へり、其事は続日本紀巻十五に見えたり、因て案ずるに、金剛鑚の出しより其山を金剛山と云ふなるべし、此の砂は金剛山のみならず大和の生駒山其他丹後、土佐、讃岐等の諸国にもありて、何れも解玉の功あり、天工開物に解玉砂と云ひ、通雅に※[(刑−りっとう)+おおざと]砂と云ふも、恐らくは此の類の砂なるべし、此の金剛鑚出てより玉を造ること大に易くなりたりと云ふ。
佐糜《サビ》 今葛城村大字佐味、中世は佐味荘と称したり、日本書紀神功巻に佐糜邑とある者此也。
神戸《カンベ》郷 和名抄、葛上郡神戸郷。今葛城村佐昧高鴨の辺なるべし、即高鴨社の神戸、中世は神通寺村の名あり。
高鴨《タカカモ》神社 葛城村大字高鴨字|神通寺《ジンツウジ》に在り、〔大和志〕出雲阿遅※[金+且]高日子根神を祭る、又迦毛大御神と謂へり。〔古事記〕旧事本紀に捨篠《ステシヌ》社と云ひ、延喜式高鴨阿治須岐詫彦根神社四座(並名神大社と為す、蓋苗裔神を配祀せる也。初め雄略天皇の朝此神出現ありしが、天皇之を土佐国に移し、天平宝字年中某氏人の請に因り之を迎ふ。出雲風土記云、意宇郡賀茂神戸、阿遅須岐高日子禰命、坐葛城賀茂社、此社神戸在焉、改名鴨。(新抄格勅符云、鴨神戸八十四戸大和卅八戸伯耆十八戸出雲廿八戸)続日本紀云、天平宝字八年、復祠高鴨神於葛上郡、高鴨神者、法臣円興其弟中衛将監賀茂朝臣田守等言、昔大泊瀬天皇猟于葛城山時、有老夫毎与天皇相逐争獲、天皇怒之流其人於土左国、先祖所主之神、化成老夫、爰被放逐、於是天皇(淳仁)乃遣田守迎之、令祠本処。新抄格勅符云、天平神護元年、土左地廿戸奉充高鴨神、二年大和伊与地三十三戸奉加。三代実録云、貞観元年、従二位勲八等鴨阿治須岐宅比古尼神授従一位。補【高鴨神社】○神祇志料 高鴨阿治須岐詫彦根神社四座、又|捨篠《ステシノ》社といふ(旧事本紀)今佐味荘神通寺村にあり(大和志・神名帳考証)大国主神の子阿遅※[金+且]高日子根神を祭る、今迦毛大御神と申す(古事記)高鴨神にして皇孫命の近き守り神と坐させ奉る神也(続日本紀・延喜式)此神天稚彦が喪を弔給ふに、其妻子等此神を天稚彦と見まがひて哭悲みき、爰に此神大く怒りて、我は愛しき友なれこそ弔ひ来りつれ、何とかも我を穢き死人に比《ナゾ》ふると云て、御佩せる十掬剣を抜て其喪屋を切伏せ、足もて蹶離ちやりて飛去給ひしかば其妹下照姫命歌よみして其名を顕し申しき(日本書紀・古事記)初め大国主神の裔大田田根子命の孫大賀茂積命、此神を斎奉りしより賀茂朝臣世々其祭を掌る、(参取、新撰姓氏録・続日本紀)雄略天皇葛木山に猟し給ふ時、此神老翁と化て獲ものを競て不遜《ナメシキ》詞ありしを、大く怒坐て土佐国に移奉らしむ(続日本紀)大炊天皇天平宝字八年十一月庚子、僧円興弟中衛将監高賀茂朝臣田守が請に依て高鴨神を土佐より迎へて、葛上郡葛城山東下高宮岡上に鎮祭り給ひ(続日本紀・釈日本紀)称徳天皇天平神護元年土左地廿戸を充て神封とし、二年大和伊与地三十三戸を寄し奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従二位勲八等鴨阿治須岐宅比古尼神に従一位を授け(三代実録)
按、本書同条に正三位高鴨神に従一位を授くるとあるは、恐らくは誤りて重複りしものなるべし、故に今取らず
醍醐天皇延喜の制四座並に名神大社に列り、祈年月次相嘗祭の案上官幣に預る(延喜式) 按、四座の内三座祭神、今考ふべき由なし
一条天皇正暦五年四月戊申、疫癘の御祈の為めに中臣氏人を宣命便として幣を大和鴨社に奉る、蓋此神也、(本朝世紀、参取日本紀略)凡そ九月九日を以て祭を行ふ(奈良県神社取詞書)
余戸《アマリ》郷 和名抄、葛上郡余戸郷。蓋神戸の余戸にして、今|葛《クズ》村なるべし、雲櫛神あり。重坂川の上游にて、地勢高市郡巨勢郷と連接す、巨勢山あり。
巨勢山《コセヤマ》 葛城郡と吉野郡の堺に在り、重坂川《ヘサカガハ》より発す、延喜式巨勢山口神社は葛村大字|古瀬《コセ》に在り。
巨勢山のつら/\椿つら/\に見つゝ思ふな許湍《コセ》の春野を、〔万葉集〕
巨勢寺址 日本書紀云、天武天皇、朱鳥元年、巨勢寺封二百戸。書紀通証云、巨勢寺、在葛上郡古瀬村、今廃。
※[木+威]田《ヒタ》 今葛村の大字|樋野《ヒノ》蓋此なり。姓氏録云、巨勢|※[木+威]田《ヒタ》朝臣、雄※[てへん+丙]宿禰四世孫稲茂臣(欽明紀許勢臣稲持)之後也、男荒人、皇極天皇御世、遺佃葛城長田、其地野上漑水難至、荒人能解機術、始作長※[木+威]、川水灌田、天皇大悦、賜※[木+威]田臣姓也。
戸毛《トゲ》 戸毛村古瀬村等今合同して葛村と改む、御所より吉野山へ赴く駅路にあたる。吉水院文書、建武元年戸毛荘。
大穴持神社は葛村大字|朝町《アサマチ》に在り、三輪明神と称し拝殿ありて神宮なし、〔大和志名所図会〕延喜式に列す。
雲櫛《クモクシ》神社は延喜式、葛上郡大倉比売神社、又云雲櫛社、旧事紀によれば此神即高鴨神の妹下照姫に同じ、大穴持と同く高鴨社の苗裔神也、土人宇久比須宮と称す、〔県名勝志〕彼高天寺にも鶯を名所とす、惟ふに高天彦は下照姫の夫天椎彦を祭る者にして、亦同く高鴨社の苗裔神ならん。
重坂川《ヘサカガハ》 葛村巨勢山中より発し、重坂を経て高市郡に入り北葛城磯城二郡の間を流れ百済川と称す、長八里、大川に注ぐ。能登瀬《ノトセ》川と云ふは本川の古名か。
高湍《コセ》なる能登瀬の川ののちにあはむ妹には吾は今ならずとも、〔万葉集〕
火打崎《ヒウチサキ》 火打崎は大治元年白河法皇高野御幸記に見ゆ、大和川の南方広瀬杜に近しと云ふ、今詳ならずと雖葛城郡の中なるべけれは、仮に此に係く再按、扶桑略記、寛治二年太上天皇高野御幸の時も、往復とも火打崎行宮に着御ありて、葛上郡火打崎と録す。大治元年高野御幸記云、大和川連日雨降、中途泥濘、然間河梁遂流、危渡有畏、※[舟+乍]※[舟+孟]三艘、可渡由仰左衛門少尉源為義、着御于火打崎、件御所立三間四間檜皮葺屋一宇、為御所、西有板葺五間廊、為公卿殿上人座、北有同六間廊、為所衆武者所座、御所艮方有五間廊、為御厨子所、北垣西頭五間一面屋為庁、乾角立九間二面屋、為御厩、坤角立四問屋為御車宿、御随身所艮角立三間一面屋、為釜殿并召次所、此処人家相僻、民居稀疎、仍扈従輩或構仮屋、或占殿舎、抑今夜依為巡路、奉幣広瀬社。
高市郡
高市《タカイチ・タケチ》郡 延喜式、和名抄、高市郡訓多介知。色葉字類抄、引古記云、武市、高市。今タカイチと云ふ、和名抄八郷、今八木町今井町外十二村と為り、郡衙を八木《ヤギ》に置く、南は鷹鞭山を以て吉野郡と堺し、西は重坂川《ヘサカガハ》西岸の地をも兼領し、東北は磯城郡と接す。本郡は上古|倭《ヤマト》磐余《イハレ》の地なり、後高市県と為り、磐余の名は僅に十市郡耳成川辺に存し、今其遺地磯城郡に入る、神武天皇橿原宮に御し尊号を神|日本《ヤマト》磐余彦と称し奉る、橿原即磐余の属地なれば也、宮址今本郡白橿村に在り。
日本書紀神代巻に「大物主神及事代主神、乃合八十万神於天高市、以朝参京師」の語あり、此天高市は此地なるや否詳ならずと雖、同名社あり、蓋高市は高処市邑の義たるや明なり。神武奠都以降歴朝の宮殿多く本郡に在り、謂ゆる国之奥区なり、故に高市《タケチ》の名あるか。又一時今来郡の称あり、帰化種裔満地に居住しければと云ふ、今来は新帰の義なり。古事記云、天津日子根命、倭高市県主之祖也。姓氏録云、高市県主、天津彦根命十二世孫建許呂命之後也。日本書紀云、天武天皇元年、高市郡大領高市県主許梅、同十二年、高市県主賜姓曰連。今来《イマキ》郡の名は日本書紀欽明巻の外所見なし、高市郡の別称にして新帰の民多きを以て此名あり、蓋一時の私謂ならん、然れども亦以て昔時古京住居の種別は蕃氏特に熾盛なるを徴るに足るは此一事の存せるに由る。日本書紀云、欽明天皇七年、倭国今来郡言、於五年春|川原《カハラ》民直宮(民は姓宮は名)買取良駒、襲養兼年、檜隈村人也。続日本紀云、宝亀三年近衛員外中将勲二等坂上大忌寸苅田麿等言、以檜隈忌寸任大和国高市郡司、元由者、先祖阿智使主、軽島豊明宮馭宇天皇御世率十七県人夫帰化、詔賜高市郡檜前村而居焉、凡高市郡内者、檜前忌寸及十七県人夫満地而居、他姓者十而一二、是以天平元年、従五位民忌寸袁志比等申其所由、被任郡司、四世于今、勅、宜莫勘譜第、聴郡司。按ずるに高市郡は当時の京邑なれば蕃別雑居多しと云と雖固より貴種国姓亦大なり、但飛鳥藤原廃墟と為りて百官悉皆平城に移りたるより、本郡遺留の人民蕃別独り多く十中八九を占め、因て古県主天津彦根の譜第を停め、新帰化檜前忌寸の任を見たる也。
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巨勢《コセ》郷 和名抄、高市郡巨勢郷。今越智岡村|新沢《シンサハ》村|天満《テンマ》村にあたる、郡の西部にして重坂川の西傍に居る、重坂川は南葛城郡巨勢山より発源す、一名能登瀬川。
さざれなみいそ越道《コセヂ》なる能登瑞河音のさやけさたぎつせ毎に、〔万葉集〕
古事記云、武内宿禰之子、許勢小柄宿禰者、許勢臣之祖也。(小柄三代実録に男韓に作る)日本書紀、継体天皇元年、巨勢臣男人。孝徳天皇大化五年、巨勢徳陀古。按ずるに天満村は古南葛城の忍海郡の地たるやも知るべからず。
越智《ヲチ》 今|越智岡《ヲチヲカ》新沢の二村は古の越智なり。姓氏録「左京神別越智直、石上同祖神饒速日命之後也」は此に因あるか、越智岡陵は皇極天皇を葬り越智野は万葉集に詠ぜらる。続日本紀「延暦二年、贄田物部首年足、築越智池」と見ゆ、今大字|田井《タヰ》荘あり、其潅漑の所にあらずや。
越智館址 中世越智氏あり本郡の豪棄族なり、物部姓と称すれな越智直の裔ならん、南主に勤王し正平五年足利直義を庇保したる事あり、享禄天文の頃高取城へ移る、故館は越智岡村大字越智なるべし。平城坊目遺考云、大和国武士春日明神大宿所動番、越智姓物部、毎年なり、高市郡畝火山西にて、高二万四千石。太平記云、左兵衛督慧源は吉野殿と御合体ありて、慧源は大和の越智の許におはしければ、和田楠を始めとして、大和河内和泉紀伊国々の宮方とも我も/\と慧源殿に馳せ参る。
越野は越智野なり、歌枕にコス野とよむは謬れり。冠辞考云、万葉集
しきたへの袖易へし君玉だれの越野《ヲチヌ》に過ぎぬ亦もあはめやも、
此反歌は裏書に 「或本云、葬河島皇子越智野時」とあり、因りて越野は乎知能とよむべし、高市郡の地なり、「玉の緒」とかけたり。万葉集に又越の菅原あり、之を高志国と為すも非なり、同く越智ならん「真珠のを」とかけたり、
またまつく越の菅原わが苅らず人のからまく惜きすが原。
天津石門別《アマツイハトワケ》神社 延喜式、三代実録に見ゆ、今越智岡村大字越智に在り。〔県名勝志〕姓氏録云、神魂命之子天石都倭居命。古事記云、天石戸別神者御門之神也。
補【越智】市布郡○史学雑誌(廿六年十月)遠智家譜伝に拠れば、其先大和源氏(即清和源氏満仲の流)にして右馬頭親家始めて越智に住して越智を称し、其長子親房大島冠者と号し、次子家房越智冠者と号す、享禄天文の間に至り高取城に居る、家房より二十一代玄蕃頭頼秀、大和大納言秀長卿に属せしが、天正十七年讒に遇て自害、其子家政徳川家康公に従ひ、旧邑に復せしも、子家常に至り再び邑を失ふ。
越智崗上《ヲチヲカノヘ》陵 皇極斉明天皇の御陵なり、今越智岡村大字越智の東にあり。一丘二塚其一塚は崩壊して石棺暴露す、古丘は完好なり、是即帝陵にして陪塚は皇女皇孫なるべし。或は曰ふ越智の南|車木《クルマギ》天王山即御陵と。〔陵墓一隅抄〕山陵志云、越智軍記曰、茅原之東|志貴奈美伊佐羅波《シキナミイサラバ》山、志貴奈美布列也、謂山勢布列東西也、伊佐羅波、大和方言謂崩、則崩山指越智崗、続日本紀、天平十四年越智山陵崩壊、長一十一丈広五丈二尺、在茅原之東矣。按ずるに大和志は本陵を北越智東北升塚と為す、一隅抄謂ふ所と同異詳ならず、山陵志の茅原は南葛城腋上村にして本地の西南に接す。日本書紀、天智天皇六年、合葬天豊財重日足姫天皇与間人皇女於小市岡上陵、以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。延喜式、越智岡上陵、飛鳥川原宮御宇皇極天皇、在高市郡兆城東西五町南北五町。扶桑略記云、斉明天皇、辛酉夏遷居筑紫朝倉宮、七月天皇崩、山陵朝倉山、十一月改葬大和国高市郡、越智大握間山陵。
今城谷上《イマキタニノヘ》墓 大和志之を以て吉野郡大淀村の今木に在りと為せど疑ふ可し、趨智崗上陵と同所にあらずや。日本書紀、斉明天皇四年、皇孫建王薨、今城谷上起殯而収、天皇本以皇孫有順、而器重之、詔群臣曰、万歳千秋之後、要合葬於朕陵。
新沢《シンサハ》 北越智は近年改めて新沢村と為す。字常門に延喜式|稲代《イナシロ》坐神社あり、打鳥祠と称す。〔大和志県名勝志〕又北越智の東に古墳あり(升加山天王社)身狭桃花鳥坂《ムサツキサカ》墓なるぺしと云ふ、今別目に出せば此に掲げず。三十三所図会云、常門の長法寺は本堂大日如来観音堂地蔵堂等あり、十三重石塔婆は先年其中より銅鏡金仏を出せる事あり、石燈籠は正和五年施入の銘ありとぞ。新沢の西なる天満《テンマ》村は南葛城郡忍海村と相錯る。
補|長法《チヤウホフ》寺 高市郡〇三十三所図会 天満山長法寺は常門村にあり、本尊大日如来、池中の観音堂には三十三所の観世音を安置し、地蔵尊の千体堂は池の傍にあり、鎮守熊野権現の社は本堂の傍、山の方にあり。
十三重石塔 本堂の左の向山の方にあり、寺僧曰、先年此地所崩れ、石塔の倒れし時地中より経一巻軸のみ存す、鏡一面、金仏三体、長三寸許、三尊の弥陀と覚しきもの出たり、爾後又埋むとぞ。
古物石燈炉 本堂の前にあり、勒して曰、正和五年施入。
波多《ハタ》郷 和名抄、高市郡波多郷。今高取村舟倉村是なり。霊異記に高市郡波多里、又今昔物語高市郡八多郷に小島小寺ありと見ゆ、小島は今高取村に大字存す。
旗野は日本書紀推古巻に「薬猟集于羽田、以赴於朝」とあるに同じかるべし。
あられふり板ま風ふき寒き夜や旗野に今宵われひとり寝む、〔万葉集〕
波多神社 大和志に今高市村の大字畑に在りと為す、畑は高取村の東に接すれば或は然らん、本社は延喜式に列す、波多氏の祖神なるべし。波多は四流あり、一は建内宿禰の後也「古事記、建内宿禰之子、波多八代宿禰、波多宿禰之祖也」「姓氏録、八多朝臣、武内宿禰命之後也」。二は稚野毛二俣王の後也「古事記、二俣王(応神皇子)生子大富杼王者、波多君等之祖」「姓氏録、八多真人、出自謚応神皇子椎野毛二俣王」。三は「姓氏録云、大和諸蕃波多造、出自百済国佐布利智使主也」四は「大和未定雑姓波多宿禰、高弥牟須比命孫治方之後也」これら四流孰れか本郷に拠占したるなり。
舟倉《フネクラ》 高取村の西南に舟倉山あり、近年市尾|丹生谷《ニフタニ》羽内の諸村を合せ舟倉村と改称す。波多甕井神社は新抄格勅符三代実録延喜式に見ゆ、舟倉村大字|羽内《ハウチ》に在り今天照大神と曰ふ。
大丹穂山《オホニホヤマ》 舟倉山の古名ならん、今も丹生谷の大字存す、大仁保神授位の事三代実録に見ゆ。紀州丹生祝詞に巨勢丹生と云此か。日本書紀、皇極天皇三年、蘇我大臣蝦夷、使長直於大丹穂山、造|桙削《ホコヌキ》寺。書紀通証云、桙削寺、在高市郡丹生谷村、今廃。霊異記に法器山寺あり、桙削山寺を修正したる者にあらずや、同書云、大皇后天皇(皇極斉明帝)之代、有百済禅師、名曰多常、住高市郡内法器山寺、勧修浄行、看病第一、応死之人蒙験。
補【法器山寺】高市郡○日本国現報善悪霊異記〔重出〕寺戒比丘修浄行両得現奇験力縁第廿六、大皇后天皇之代、有百済禅師、曰名多羅常、住高市郡部内法器山寺、勤修看病第一、応死人蒙験更蘇、毎咒病者有奇異、取楊枝上枝時、立錫杖於錫杖、而互用二物物不仆、如鑿而樹之、天皇尊重、而常供養、諸人帰依、而恒恭敬、斯乃修行之功、遠流芳名、慈悲之徳、長存美誉也。○谷の桙削寺是か。
高取《タカトリ》 高市郡の南隅にして 鷹鞭山を負ふ。其尾を高取山と云ふ、其西谷は壷坂と云ひ澗水西流して重坂川に入る、其東谷は子島土佐と云ひ澗水は北流檜前川の源なり。詞林採葉抄云、竹取物語なる竹取翁の旧跡は大和の国竹取の城とて、おどろ/\しく聞えし是なりといふ。〔三十三所図会〕高生神社は三代実録に高生神とあり、今|高羽根《タカハネ》明神と曰ひ、高取村|清水《シミヅ》谷に在り。
補【高取】〇三十三所名所図会 竹取今は高取と書けり、詞林採葉云、竹取の翁の旧跡は大和の国竹取の城とておどろおどろしく聞へし是なりといふ、竹取物語の翁は駿河国大綱の里に住し人なれば、別の人にぞ侍りなん云々。
高取城《タカトリノシロ》址 高取山に在り、土佐《トサ》町より登る事五十余町、険阻に拠り塞を成したり。南北争乱の際吉野方の防備を起せしに初まり 天文中越智氏之に移り、天正年中国主豊臣秀長に帰伏す、已にして越智氏家絶ゆ、慶長五年徳川氏増田長盛の封邑を奪ひ高取城を割き本多因幡守俊政に給附す二万五千石、乃其旧築を修補す、寛永十七年植村出羽守家政之に代る、子孫世襲して近時に至る、封邑二万九千石土佐町を市聚と為す。本城明治の初め廃城と為り、層楼粉壁尚旧観を存す。三十三所図会云、越智家は代々大和に住す、和州諸将軍伝に、応永二年筒井の初代順永の麾下とあり、又天文元年の春南都合戦の条下に越智玄蕃頭利之は高取の城主にして父を大学助利元と云ひ同従弟小治郎利祐といへるあり云々、又高取玄蕃頭利之は和州高市郡高取山の城主知行一万五千石順庵の姪婿也、麾下土佐八木飛鳥氏五千石合せて二万石なると。按ずるに史学雑誌越智家譜伝を引き、源満仲の流大和源氏右馬頭親家始めて越智に住し、其長子親房大島冠者と号し、次子家房越智冠者と称すとあり、親家は物部氏に入婿したる者ならん、中世其例多し、同書又云、享禄天文の間に至り越智氏高取城に居る、家房より廿一代玄蕃頭頼秀大和大納言秀長卿に属せしが、天正十七年自害す。高取城は文久三年八月浪人天忠組に襲はれし事あり、或書之を記して曰く、八月廿七日天忠組五十余人を以て高取を攻む、昧爽の軍利なく天之河辻へ退く、其一将吉村寅二郎重卿殿して三在に至り、功なくして退くを見慨然胸を撫して曰く、咄無腸男子何をかなさむ我れ死せん耳と、即ち書を遺し同志十三人を率ゐ潜行、城に火し以て死を決せむと欲し、乾草を背にし火を袖にして返り進む、時既に夜、途に敵の哨兵杉野某逢ふ、其兵凡六十人衆皆死闘す、重卿大槍を揮ひ杉野を狙刺す、流丸忽ち重卿の胸を洞す、遂に志を得る能はず。
鷹鞭《タカムチ》山 大和志云、鷹鞭山、在土佐村上方、今曰高取山、山勢※[山+肖]抜、為郡主山、山中有巨巌、就造五首羅漢像、傍有石燈籠、勒曰慶長十一年本多俊政創立、其西壷勒山。(鞭は古言神に通ず鷹神の義か)
狩人のこぬ日ありとも鷹むちの山のきぎすはのどけからじな、〔相模家集〕
壷坂《ツボサカ》 鷹鞭山の西にして、高取山の南極なり。南法華寺《ミナミホツケジ》あり、壷坂寺と称し古今不易の名藍なり、真言宗を奉じ三十三所の随一なり。
壺坂寺《ツボサカデラ》 三十三所図会云、壷坂寺は高取土佐町の東南一里壷坂に在り、八角の本堂礼堂法堂鐘楼経蔵二王門以下魏々として建つ、南法華寺と号し、本尊千手の像は道基上人造作なり.、開基は元興寺の海弁上人なり、〔拾芥抄〕又帝王編年記に曰く「文武天皇大宝三発卯、佐伯姫|足子《タラシ》の尼善心といふ者有り高市郡南法華寺を建立せし人なり」冥応集に「本浄曰、子島と壺坂とは開基別なりと雖、中古より一所の寺となれり、花山院の時分真興阿闍梨といふ人あり是を世に子島の先徳といふ、今密宗の秘事を伝ふるには子島の流をば又は壷坂とも云、」然れば一本寺にて兼帯せしなるべし、仁明天皇承和四年、壷坂寺は定額並に官長の検校たるべしとの宣下ありとは続日本後紀に見えたり、当寺の詠歌は
岩をたて水をたゝへて坪さかの庭のいさごも浄土なるらん、
因幡堂は二王門の下に在り、寛永年中領主高取城本多因幡守政武建立と云ふ、堂内に豊臣秀長本多俊政等の肖像を安置す。
図会又云、五百羅漢石及両界曼陀羅石は壺坂本堂より凡八町ばかり東高取の山中に在り、巨巖の石面に各彫り付たり、慶長年間本多俊政彫刻せるよし、寛文大和寺社記に曰く、高香《カウカウ》山とて壺坂より八丁程東の方に、近き頃本多因州安置し給ふとて、五百羅漢を切り付たる石両界のまんだら切付たる石仏おはします云々。本居氏玉勝間に、壺坂の人形彫たる石を論じて曰く、五百羅漢の像とて石に数百の人の形を彫たるあり、或人の云へるはこれを俗に羅漢ともいふはあらぬ事なり、よく見れば皆上つ代の人の形也、神の御しわざと見えたりと云へり、すべて旧き神の御像またさらぬをも世には皆おしなべて仏の像と思へる多し、又物の形など石にゑりたるが異しく跡もわきまへがたきなど世に多かるを見れば、上つ代にはくさ/”\石に物ゑることの多かりし也、神代のしわざをも今まのあたり見るべき物は石のみぞ有ける。考古学会雑誌云、壺坂寺の奥香高山の石面に彫刻あり、凡此山に登れば先づ岩石に地蔵菩薩を彫り浮べる者、次に両界曼陀羅を彫めるを見るべし、やがて進めば五杜明神の像を観るべし、此五社明神の形像を按ずるに、其一は鋒を杖にし宝塔を捧げたる者、多聞天に似たり、其二は有髯合手の相にして、頭髪の上に髻を見る、其三は鑰と珠を手にせる者、印鑰童子に似たり、其四は其二と頭顔を同じくするも、右肩を袒にし手を上下して巻子と刀子に似たる者を持つを相異とす、其五は宝塔を戴き八臂を備へ柔和の座像也、弁財天たるや明白とす、其彫刻の縁起詳ならず、本邦の古神像に類する形状も稍これあり。又云、壺坂寺に方尺許の磚二枚ありて、面に釈迦三尊并に天蓋天女等、又鳳に雲を描出す、其図様太だ古雅にして蓋推古天智の比の様式に係る、此磚は寺内の土中より往々発見せられ、龍蓋寺にも同種の磚一枚を所蔵し、図様酷似すと云ふ、土壇などの装飾なりしなるべし。
補【壺阪寺】○霊場記云、寛文の頃土佐の町に沢都《サハイチ》といふ盲目あり、日参して千日に満じけれども験なければ沢都大に腹を立て、仏をふかく頼みし悔しさよと、杖ふり上て其辺を敲たて、一首の狂歌に「酒壺を転臥《ウツブセ》にする壺坂の堂も仏も同じ土塊」かく読みて様々と悪口し立帰りけるに、後より沢都々々と呼声あり、誰ならんと、其夜は堂内に通夜し、夢に本尊告げて宣く、汝罪業深き故に盲人となりしなり、眼ばかり明て得さしたりとも、頓て悪趣に堕しなば何の益かあらん、此の祈りを縁として毎日歩みを運びなば、其功徳に依て身中の罪障悉く消滅し、命緑尽くる夕には目出度浄土へ生ぜしめんと思ふ故に、態と今日まで捨置きしぞと御告ありければ、沢都いよいよ感応空しからざるを喜び信心肝に銘じ、斯くて生涯病なく、悩むことなくして、産業乏しき事なく、志度に至つて大往生を遂ぐるとなん。
因幡堂 二王門石階の下に在り、観音三十三体、岩上出現の像を安んず、前の領主本田因幡守政武建立なりと聞ゆ、堂内左の傍に大和大納言秀長、本田因幡守父等の木像を安ず。
国府《コフ》址 大和国府は高取村大字土佐町に在りし者とぞ、今国府八幡宮あり、境域一千余歩、蓋庁址なり。〔地誌提要県名勝志〕和名抄、大字国府、在高市郡、行程一日、管十五郡。
土佐《トサ》 高取村の主部にて、土佐町と称す、旧高取城下の市聚なれど民戸寂々、一百許に過ぎず。
子島《コシマ》 高取村の大字にして土佐町と相接す、子島神は三代実録に見え延喜式に列す、今春日明神と称す。観覚寺は寺伝に古の小島寺なりと云ふ、千手院と号し観音を祀る。〔三十三所図会〕
子島寺《コシマデラ》址 元亨釈書云、報恩、天平宝字四年、於和州高市郡子島神祠畔、建伽藍、安丈八観自在菩薩像、及四大天王像、号曰子島寺、桓武帝勅、賜官禄恩、又受封戸。又云、真興、長保五年、為維摩講師、棲子島寺、人貴之不字、呼子島先徳。子島寺は今昔物語に見ゆ、今の観覚寺其名を伝ふる者にや、報恩は備前国に興立の寺宇最多く、彼地にて報恩大師と呼び、尊崇比なし、惟ふに子島は備前にも其名あり、相因縁する所ある如し。
補【子島山観覚寺】千手院と号す、世に子島寺といふ、天平年中建立の古刹なり、後世大小廃す、近来両建の模様ありて、追々に旧観に復する形勢なり、天平宝字四年報恩抄弥、高市郡子島神祠の畔に伽藍を建て、一丈八尺の観自在菩薩の像及び四大天王の像を安んぜらる、其寺を名付て小島寺といへりと釈書に見えたり。
高生神祠 旧は高取の山上に在りしを、天正年中土佐の町つゞき清水谷村に移すと云ふ、此れ三代実録に出づ。
清水井 右同村高ドノヤと言へる在家の内に在り、近郷にならびなき清泉なり、土人曰、此清水あるを以て地名を清水谷と号すとぞ。霊鷲寺 桃源山常喜院と号す、清水谷の山方に在り、本尊薬師如来、左右に十二神将列す、并に千体仏の薬師如来厨子内に充満す。
越智家之墓 草庵の上の方に古墳の石塔婆五基あり、三基は文字滅して見えず、漸くに二基おぼろげながらに読得たり。
○人名辞書 真興は高僧なり、南都仲算の弟子、因明に精し、内大人藤原教通其道行を知りて方外の交を締ぶ、興居る所の小島の道場に於て兜率天を現じ、教通をして瞻礼せしむ、興一日出でて小島に帰る、偶々群妖出でて将に侵悩せんとす、興唯識観に入り良久しくして群妖皆な地に仆る、平生の行為甚だ真率にして辺幅を修めず、長保中詔を奉じて最勝会に赴く、講已りて懐中より草履を出だし、自ら穿て行く、後人其の徳を敬し、呼ぶに名を以てせず、皆な子島先徳と云ふ(元亨釈書・東国高僧伝)
檜前《ヒノクマ》郷 和名抄、高市郡檜前郷、訓比乃久末。今|坂合《サカアヒ》村と改む、坂合陵あれば也、又大字檜前存す。檜前氏は帰化種なれど、姓氏録によれば他に檜前舎人連あり「火明命十四世孫波利那乃連公之後」と云ふ。古事記檜※[土+(向-ノ)]に作る、牟狭《ムサ》も昔之に属す。
日本書紀云、雄略天皇、所愛寵、史部身狭村主青、檜隈民使博徳。又欽明七年、川原民直宮、檜隈邑人。(民使、民直共に姓なり)姓氏録云、檜前村主、出自斉王祖男斉王肥也、又云檜前忌寸、阿智王之後也。続日本後紀云、阿智使主、軽島豊明宮馭宇天皇御世、率十七県人夫帰化、詔賜高市郡檜前村而居焉。
於美阿志《オミアシ》神社 延喜式に列し、今檜前に在り、僧舎を置き之を守る、道興寺と曰ふ。於美阿志は史に使主阿智と云ふにあたる、即檜前忌寸の祖神なり。〔名所図会県名勝志〕西州投化記云、阿智便主、後漢霊帝之曾孫也、〔続日本紀〕按姓氏録、作三世又四世孫、三代実録作四世孫、姓氏録云坂上大宿禰、出自霊帝男延王也、拠之則延王蓋阿智王之祖父也、漢祚遷魏、阿智王、因神牛教、行帯方、聞東国有聖王、帰之則応神天皇二十年也、阿智王奏請曰、臣旧居在於帯方、人民男女皆有才芸、伏願天恩遣使追召、乃勅遣使、挙十七県人夫、随使尽来、永為公民、詔賜檜前村而居焉、〔姓氏録〕按秋月氏系図曰、阿智王生高貴王、又名阿多倍、来帰号都賀使主、生三子、長志努直賜坂上姓、次山木直腸大蔵姓、次爾波木直賜内蔵姓。檜前川は高取山より出て、真弓岡の東を過ぎ久米寺の西を経て重坂川に入る、真弓川又久米川とも呼ばる、長凡三里。冠辞考云、佐檜乃熊檜隈川と云ふは佐は発語にて檜隈を重ねて曰へるなり、三吉野の芳野などの類也。
佐檜のくま檜の隈川の瀬を早み君が手とらばよせ言むかも、〔万葉集〕
呉原《クレハラ・クリハラ》 今坂合村大字栗原なり、呉人《クレヒト》の帰住せる地にて日本書紀に檜隈野と記したり。古事記、朝倉宮(雄略)段云、呉人参渡来、其呉人安置於呉原、改号其地謂呉原也。呉人は即漢土江南の地より到来せる者なるが、其之をクレと呼ぶ事何の由る所あるを知らず。呉津彦神社は栗原に在り下宮《シモノミヤ》と称す。〔大和志〕書紀通証に雄略帝の時「呉国使献漢織呉織及衣縫」の文を引き本社呉人の廟なりと曰へり。姓氏録云、牟佐呉公、呉国王子青海王之後也。牟佐は坂合村の北に接したる地にて、古は一郷の中か。栗原に道昭法師を火葬したる事、釈書に見ゆ、又此地なるべし。曰、遣昭和尚河内国丹比郡人、俗姓船連、父恵釈、白雉四年入唐、遇玄奘三蔵受業焉、帰朝於元興寺東南、別建禅院住焉、文武三年物化、弟子等火葬於栗原、天下火葬従此而始。
安古岡《アコノヲカ》陵 文武天皇の御陵なり、今坂合村大字栗原に属す、火葬の事続日本紀に見ゆ。延喜式云檜前安古(古一作占)岡上陵、藤原宮御宇文武天皇、在高市郡兆城東西三町南北三町。扶桑略記云、文武天皇火葬飛鳥岡、山陵檜前安古岡上、高三丈方一町。山陵志云、欽明陵の南、以陵上孤松茂翳、今呼高松山、一名美賛佐伊、即文武陵也(名所図会云、平田の西に在り、俗に中尾石墓と云、陵図考云、高松山、高一丈五尺周廻二十間、)
坂合《サカアヒ》陵 欽明天皇の御綾なり、坂合村大字平田に在り。延喜式云、檜隈坂合陵、磯城島金刺宮御宇欽明天皇、在高市郡兆城東西四町南北四町。(扶桑略記云、本陵高四丈)山陵志云、欽明陵、今謂其丘北、曰坂中、推古帝二十八年、以砂礫葺檜隈陵、今検之果然、故或号石山。名所図会云、本陵は罐子山又梅山と呼び、高四間廻三十四間、石仏四体あり背にも膝にも面貌あり、元禄十五年平田村池田より掘り出して此に据ゑたり。陵墓一隅抄云、平田の猿山(石像猿に似たれば也)の欽明陵は初め河内国古市郡軽墓に殯りしたまへるを、後此に改葬ありし也。按に書紀、推古天皇二十年、改葬皇太夫人堅塩姫、於櫓隈大陵云々、是は欽明皇后をも合※[やまいだれ+(夾/土)]ありしにや、今陵辺に鬼の俎鬼の雪隠と呼ぶ大石あり、是は其実人巧の棺にて身蓋二片なり、長一丈二三尺其内容を測るに凡長九尺横五尺高三尺六寸、鑿成頗精也、一説之を以て倭彦命墓の遺棺と為すは誤れり、一説此棺は身蓋二片の外に横側の扉ありし者と云ふ、形状を按ずるに其言当れり。
廬人野宮《イホリノノミヤ》址 是れ宣化帝の皇居にして、日本書紀に「遷都于檜隈廬入野、因為宮号也」とありて、威奈大村墓誌に櫓前五百野宮とあり、此宮址即檜隈寺ならん。
檜前寺《ヒノクマデラ》址 日本書紀、天武天皇元年、檜隅寺封百戸、限三十年。山陵志云、聖徳太子伝記曰、檜隈寺者欽明天皇宗廟也、今檜隈村道昭寺、蓋其遺構矣、尚有九層石浮屠、俗謂之欽明陵、即以陵廟之称互通也。道昭火葬の事呉原の条に出づ、此に道昭寺と云ふは又相因る所ある也。
真弓《マユミ》 坂合村大字真弓あり、檜隈川西畔にして丘に倚り、巨瀬郷と相腹背す。続日本紀に、檀山とありて御陵あり。
櫛玉命神社は三代実録、貞観元年授位、延喜式四座并に大社に列す、今真弓八幡宮是也、玉造氏の祖櫛明玉王祖櫛玉彦櫛玉媛を祭ると云ふ。〔名所図会神祇志料〕檀弓岡基は茅渟王妃吉備姫の墓なり、坂合村大字越に在りと云ふ〔書紀通証〕今詳ならず。日本書紀、皇極天皇二年、吉備島皇祖母命薨、葬于檀弓山岡。
真弓岡《マユミヲカ》陵 草壁皇太子の墓なり、坂合村大字|越《コス》の戊亥に在り、土俗御前塚と云者是か、或は云真弓の西なる王塚(今越智岡村大字森に属す)是ならんと。〔陵墓一隅抄〕
続紀、天平神護元年、車駕過檀山陵、詔陪従百官悉令下馬、儀衛巻其旗幟。延喜式云、真弓丘陵、岡宮御宇天皇、在高市郡。草壁皇太子の東宮は飛鳥岡に在りしならん、故に岡宮と称す、文武帝の御父なるを以て追尊ありしなり。万葉集に「日並《ヒナメシ》皇子尊殯宮之時、舎人等慟傷歌」あり、佐太岡を詠めり佐太岡は真弓岡に接し今越智岡村に属す、大字佐田是なり。
朝日てる佐太の岡辺にむれ居つゝわが哭く涙やむ時もなし、〔万葉集〕よそに見し檀の岡も君ませばとこつ御門ととのゐするかも、〔同上〕
越村《コスムラ》 巨勢郷の分村にて今坂合村に入る者ならん、古墳の石室暴露せる者あり甚大なり、奥行一丈四尺幅八尺二寸高九尺、天井は一枚石なり、側壁又巨石を用ひたり、羨道長二丈八尺幅八尺より七尺に至る、天井五枚の巨石を列せり。〔人類学会雑誌〕許世都比古命神社越村に在り、延喜式に見ゆ許勢氏の祖神なるべし。(巨勢郷参看を要す)
補【越村】○人類学会雑誌 高市郡坂合村字越村の石室も亦甚大なるものにて、石室の奥行一丈四尺、幅八尺三寸、高さ九尺、天井は一枚石なり、側壁も亦巨大なる石を用ひたり、羨道は長さ二丈八尺幅は入口に於て六尺九寸、天井は五ケの大石を用ふ。
身狭《ムサ》 今|白橿《シラカシ》村大字見瀬は身狭の訛なり、此地は檜前久米両郷の間に居れり、孰れに属すべきか、或は牟佐又武遮にも作る。大字鳥居五条野も身狭の中たるべし、鳥居は古築坂と云ひ、五条野は大内丘と云へり。日本書紀云、雄略天皇、寵愛身狭村主青、又云、欽明天皇十七年、遣蘇我大臣稲目、於高市郡、置韓人百済大身狭屯倉、高麗人小身狭屯倉。姓氏録云、牟佐村主、出自呉孫権男高也、又牟佐呉公、呉国王青海王之後也。続日本紀云、和銅三年、牟佐村主相模、奏賀辞、進位二階。
牟佐坐神社 日本書紀天武巻に、神教あり「吾者牟佐社所居、名|生霊神《イクムスビ》者也」と載せたり、延喜式大社に列す。今見瀬に在りて境原天神と称す、〔大和志〕生霊をば一に生雷に作る。
補【牟佐坐神社】○神祇志料 牟佐坐神社、今三瀬村にあり、境原の天神と云(大和志・名所図会)
按、三瀬鳥屋二村相隣る、蓋古牟佐地なり
生霊神を祭る(日本書紀一本・釈日本紀)蓋高魂命の子伊久|魂《ムスビ》命即是也(新撰姓氏録)天武天皇壬申の乱、神霊を顕して軍威を助け奉りき、故に幣を捧げ品位を登進して之を礼祭る(日本書紀)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を給ひ (三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ毎年九月九日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
大内丘《オホウチヲカ》 今白橿村|五条野《ゴデウノ》なるべし、檜隈大内陵此に在り、古は牟佐に属し檜隈に近ければ其称あり。山陵志云「檜隈是身狭東南、所謂軽之旧都也、今古時蓋広、而檜隈名始見雄略紀」と、然らば軽の地等内なりし事もあるか。日本書紀云、欽明天皇七年、檜隈邑人、川原民直宮、得良馬、超渡大内丘之壑、十八丈焉。
大内《オホウチ》陵 天武持統二帝合葬の御陵なり、五条野の西字円山是なり。〔野口《ノグチ》荒墓を参看〕聖蹟図志云、元禄中大内陵を野口の荒墓に擬したる事あれど非なり、五条野の丸山是なり、塚崩れ羨門露る、其門南面し隧道長十四間半、天井は六枚の石を以て蓋へり、室は縦四間横三間半、石棺二個あり各長九尺高六尺幅六尺、蓋は金字を成す、即二帝の合葬陵なり。山陵志云、大内陵巍然而崇、今呼為丸山、取名其形也、為壇三成、而南面、其中等之上有羨門、黒石為之隧道、深可三丈、而有室、築之以堊、覆之以巨石、崇広皆丈余、有石棺二焉、一在北南面、一在東西面、因以為其南面天武也、西面持統也。日本書紀云、持統天皇元年、皇太子(草壁)率公卿百寮人等並諸国司国造及百姓男女、始築大内陵、三年葬之。延喜式云、檜隈大内陵、飛鳥浄御原宮御宇天武天皇、在高市郡兆城東西五町南北四町。又云、藤原宮御宇持統天皇、合葬櫓隈大内陵。扶桑略記云、檜隈大内陵、高五丈方五町、大宝二年太上天皇崩(持統)火高大内陵、天武天皇之同陵也、以下火葬。
築坂《ツキサカ》 今白橿村大字|鳥屋《トリヤ》是にあたると云ふ、身狭の桃花鳥坂とも曰へり。日本書紀、神武天皇、賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。この地畝傍白橿原の皇居と相去る遠からず。
桃花鳥坂墓は倭彦命(崇神皇子)の墓なり、今鳥屋と北越智の立合場、字升加山の半腹、牛頭天王杜の地なるべし。【陵墓一隅抄〕日本紀、垂仁天皇、葬倭彦命于身狭桃花鳥坂、集近習者悉生而埋、立於陵域、数日不死、星夜泣吟、遂死而爛※[自/死]、犬烏聚※[口+敢]焉、天皇聞此泣吟之声、心有悲傷、詔群卿曰、是雖古風、非良何従、自今以後、議止殉。(益田池碑文に「武遮※[土+龍]押其坤」とある荒※[土+龍]蓋此也)
鳥坂《トリサカ・ツキサカ》神社 延喜式鳥坂社二座鳥屋に在り、又大伴神社と曰ふ、大伴氏の祖天押日命道臣命を祭ると。〔県名勝志神祇志科〕或は云鳥坂は桃花鳥坂の略ならん。
巨勢山《コセヤマ》坐石椋孫神社 延喜式に見坂、今鳥屋の東南巨勢谷に在り、土人呼びて春日明神と為す。〔大和志県名勝志〕
桃花鳥坂上《ツキサカノヘ》陵 宣化天皇の御陵なり、皇后橘仲皇女(仁賢皇女)及子女を合葬す、今白橿村大字鳥屋に在り。ミサンサイ山と称し、高十二間周百九十間、濠を繞らし、陪塚五あり。日本紀云、天皇葬于身狭桃花鳥坂上陵、以皇后橘皇女及其孺子、合葬于是陵。延喜式云、身狭桃花鳥坂上陵、檜隈直入野宮御宇宣化天皇、在高市郡兆城東西二町南北二町、扶桑略記云、本高三丈方三町。山陵志云、桃花鳥者乃畝傍南地、身狭之地、分在南北、欽明紀所謂大身狭小身狭此也、其地相接桃花鳥坂、両地之交不可偏挙、故号之以両地、益田池碑云左龍寺、右鳥陵、龍寺謂岡村龍蓋寺、鳥陵即桃花鳥坂上陵、陵地今為鳥屋村、自此東南、即益田故池。
桃花鳥田丘上《ツキタノヲカノヘ》陵 綏靖天皇の御陵なり、今詳ならず、一説綏靖陵は畝傍山の北に在りと為す、(下に其地目あり)信ずべからず。聖蹟図志に池尻八幡宮は土人綏靖帝陵と為すと、池尻は白橿村に属し今の桃花鳥坂の田間に当る、稍信にちかし。延喜式、桃花鳥田丘上陵、葛城陵丘宮御宇綏靖天星、在高市郡。(古事記には衝田《ツキタ》岡陵に作る)
聖蹟図志又云、鳥屋宣化陵の東に大古墳あり、其陵の石槨顕る、土俗|石長持《イシナガモチ》と称す、其傍に大陵と想はるゝ者存す、元禄年中之を以て越智岡上陵に擬したり。
益田池《マスダノイケ》址 弘仁十四年勅旨ありて、久米の南、檜隈の間に此池を造る、弘法大師其功を紀して碑文を勒す、後世池廃し碑も亦亡ぶ、今見瀬の西南岡上に碑の趺坐石あり、俗に石船と云、高二丈許縦二丈五尺横一丈三尺、上に孔を鑿り二槽と為す、碑文の原稿真蹟は高野山の古院に伝ふと云ひ、模刻を世に伝ふ、字体放蕩を極めたる大筆なり。〔大和志名所図会〕益田は沙田の義か、姓氏録云、左京蕃別、沙田史、百済国人意保尼王之後也。
三十三所図会云、益田池の碑石は何の世の事にや、当国高取の城の石塁に積み込みありと古く言伝へたり、然れども其城の廻り広大にして何方にありと云ふ事を知るものなしとぞ、今集古十種に載する処雷の一字を摺たるあり、其字の大さ竪凡五寸余、巾凡四寸余と見ゆ、さもある可しと覚ゆ。旧跡考云、益田池、久米寺の辺りに花出山と云ふ際に益田の池の跡とてかすかに残れり、其西に続きて池尻村と云ふあり、村老言ひ伝て彼池の樋口にて侍れば池尻の名ありと也、思ふに是より南半里許り行き碑銘をすゑける石今に残れり、池尻村より爰迄昔は池に侍りなん、益田の旧名は村井と云へり、此地は漢の直の旧宅なり、嵯峨天皇旱天に田畑の損はれん事を愁ひ給ひしかば、弘仁十三年の比大和守藤原朝臣縄主紀伊守末等、此所の地理佳き事を弁へ、池を掘すべき由奏しければやすく勅許ありしより、縄主未等真円律師と申合せて池を掘せたり、大伴参議国道和州太守藤広を池の検校職に補せられたり、或人曰旱魃の時に至りては田に益ある事甚だしきを以て益田の池と号せられけるとなん、銘は釈空海性霊集に見えたり、其句に「池之為状也、左龍寺、右鳥陵、大墓南聳、畝傍北峙、来眼精舎鎮其艮、武遮荒※[土+龍]《ムサノアラハカ》押其坤、十余大陵聯綿虎踞、四面長阜※[しんにょう+麗]※[しんにょう+(施−方)]龍臥、雲蕩松嶺之上、水激陵隈之下」斎藤拙堂紀行云、抵一岡、石船在焉、岡下旧為益田池、有碑僧空海撰、見其性霊集、此石実為其趺、々高可二丈、碑之大可知矣、其上可坐数十人、歩而数之、竪得十二武、横其半而加八之一、石面有方鑿二、径三四尺、左右相対、是蓋承坐処、石上高顕、望頗空豁、碑文所謂、「左龍寺、右鳥陵、大墓南聳、畝傍北峙」者皆可坐而按焉、余謂、太祖相中土、営橿原宮、諸帝遷徙、不出此間、当時壮観可想、今荒邨曠郊、皆不可的知其処、且拠碑文所云、「笑昆明之非※[にんべん+壽]」等語、池水之大、当如湖海、今也数里内求一帯水、而不得焉、況於所云「春繍秋錦玄鶴黄鵠」之美観者乎、又其所謂蒼桑之変於今日見之者、可勝歎哉。
来目《クメ》郷 和名抄、高市郡来目郷、訓久米。今白橿村に当る、大字久米存す。来目郷は古の畝傍|軽《カル》牟佐等の地を并せたる者ならん。来目は神武帝の軍将大来目命の居宅せし所なれど、又他流の久米氏あり、旧事紀、饒速日尊天降之時、天物部等二十五部供奉、其一曰久米物部。又古事記、武内宿爾之女久米能摩伊刀比売、姓氏録云、久米朝臣、武内宿禰孫稲目之後也、又久米朝臣、大足彦国押人命之後也。天孫本紀云、宇摩志麻治命者、橿原宮御宇天皇、御世、元為足尼、次為申食国政大夫、奉斎大神|活目《イクメ》邑、五十呉桃女子師長姫為妃。按に活目は伊久米にて、伊は発語なるべし、五十呉桃は伊久米部と云ふに同じかるべし、又垂仁天皇の御名を活目と申すも此地に因みあらせられしならん。
来目川《クメカハ》 檜前川に同じ、真菅村に至り百済川に注ぐ。日本書紀云、神武天皇、使大来目、居于畝傍山以西川辺之地、今号来目邑。又云、雄略天皇、射猟於葛城山、一言主神出而与盤于遊田、送天皇至来米水、是時百姓咸言有徳天皇也。
葛城へ渡る久米路の継橋の心も知らずささ帰りなむ、【神楽歌〕御狩する君かへるとて久米川に一言主ぞ出でませりけれ、〔夫木集〕
久米御県《クメノミアガタ》神社は延喜式に本社三座とあり、今久米に在りて天神と称す。来目都の祖高御魂命味耳命大来同命等を祭るとも云ふ。〔大和志神紙志料〕姓氏録、久米直、命御魂命八世孫味耳命之後裔。按ずるに垂仁帝の興したまへる来目屯倉来目高宮即此か。
来目高宮《クメノタカミヤ》址 日本書紀、垂仁天皇行幸来目、居於高宮、興屯倉于来目。又云、景行天皇定倭屯家、又云纏向玉城御宇天皇(垂仁)之世、為太子大足彦(景行)定倭屯田。此来目屯倉は其朝号倭を冒すを見れば、当時盛大の御府なりし事推知すべし。
久米寺《クメデラ》 白橿村大字久米に在り、今真言宗を奉ず。大師空海嘗て秘経を本寺塔中に獲て立志修学すと称す、開基不詳、益田池碑に来眼精舎鎮其艮の句あれば当時既に名藍たり、仏殿本尊薬師なり影堂善無畏空海二師像を置く、多宝塔は慶安中賊火に罹り仁和寺の旧塔を移建す。この寺は古仙久米の造立と称せり、一書来目皇子(聖徳皇弟)の開基と為す。釈日本紀所引「伊予風土記曰、伊予郡天山、所名之由者、倭在天加具山、自天天降時、二分而以片端者降於倭国、以片端者降於此土、其御影敬礼奉久米寺」と、此古語に云ふ久米寺は本寺にや、伊予にも久米郡あり、不詳。扶桑略記、弘法大師本伝云、海仏前発願、一心祈感、夢有人告曰、於此有経、名字大毘廬遮那経、是乃所要也、在高市郡久米道場東塔下、於此解緘普覧。今昔物語云、今は昔何れの時にや、帝内裡を大和国高市郡に造営し給に、国中の夫を催して其役とす、夫の内に仙人と呼者あり久米と申す。先年当国吉野郡龍門寺に籠り法を行て仙となり空に飛行しけるが、吉野川の辺にて若き女の衣を浣へるを見て心まよひつゝ女が前に落ぬと行事官聞て、偖はやんごとなき人にこそ、其時の行法定て覚えたるらん、かく多き材木を自持運ばんより祈て飛ばしめよかしと戯る、久米一の道場に籠り祈るに、八日に当れる朝そこばくの材木南の山辺の杣より空を飛て造営所へ集りけり、行事官等も敬ひ貴みて久米を拝しけりとなん。元亨釈書云、久米仙者和州上郡人、嘗於高市郡営構精舎、鋳丈六薬師金像并二菩薩、所謂久米寺也、後又修仙凌空飛去、又有大伴仙安曇仙二人、与久米相後先、両仙庵基今猶在和州。多武峰略記云、久米寺旧記曰、古仙之所建立也、昔有一女於久米川洗衣、古仙見其脛白、自従天落、即建寺於此地、至心亦修悔、白日更昇青天、安置丈六薬師銅像并二菩薩像、霊験掲焉、利益甚盛矣、検校于満注文云、天慶八年当国守忠幹着任、初奉拝当寺聖廟、以座主大法師真昇、補任久米寺別当職矣。扶桑略記云、久米仙、飛後更落、其造精舎在高市郡、奉鋳丈六金銅薬師仏像、堂宇皆亡、仏像楢在曠野之中、久米寺是也。
畝傍《ウネビ》 白橿《シラカシ》村大字畝傍及畝傍山四近の総名なり、畝火雲飛宇禰烽にも作る。古歌に玉襷畝傍とつゞけたり、襷を纏《ウナゲ》ると云かけたるか。日本書紀「推古天皇廿一年、作畝傍池」とあり、池今詳ならず。姓氏録云、諸蕃畝火宿禰、坂上大宿禰同祖、後漢霊帝男延王之後也。古事記云、宇摩志摩遅命、此者|妹《ウネメ》臣祖也。
畝傍山《ウネビヤマ》 白橿村の中央に特起す、一座の丘陵他に連接せず、土俗|慈明寺山《ジミヤウジヤマ》と呼ぶ。其形質たる層状を呈し水成岩の如き観ありて、主成鉱物は黒雲母と斜長石、所謂雲母安山岩なるものにして、稀に柘榴石を抱有し火山岩中多く現出せざる種類なり、之を砥石に用ゆることあり、此地又所々に古土器を出し、雨後などには多く顕はるといふ。〔地学雑誌名所図会〕
宇泥備やまひるは雲とゐ夕されば風吹ふかむとぞ木のはさやげる、〔古事記〕 神武帝皇后
思ひあまりいともすべなみ玉襷雲飛の山にわがしめゆひつ、〔万葉集〕
神代をもかけてぞしのぶたまだすき畝火の山をけふし見つれば、 富士谷成章
畝火山口坐神社 本社は大同元年神封を進められ〔新抄格勅符〕貞観元年昇位〔三代実録〕延喜式大社に列し、祈年祭山口神六座の一なり、然るに後世之を神功皇后を祭ると為す其所由詳ならず。○畝火社、昔は畝火の山腹にあり、今山の頂上に遷す、祭る所神功皇后なり、畝火明神と名附、神名帳及び三代実録に出づ、又官寺を慈明寺《ジミヤウジ》と云ふ、西の麓に神祠の跡の石あり今御旅所と云ふ、又山腹に馬繋《ウマツナギ》と云ふ所あり、畦樋|大谷《オホタニ》吉田慈明寺|山本《ヤマモト》大窪四条|小世堂《コセダウ》等の氏神とす、毎年摂津住吉神社より神官此社に来り祭儀ありてのち、畝火山の土を取る事旧例なり、孰れの代より始りしことを知らず。〔大和志三十三所図会〕慈明寺と云古院、畝火旅所の傍に在り。〔聖蹟図志〕
補【畝火山口坐神社】○神紙志科 畝火山口坐神社、今畝火山本大谷三村の界にあり、昔畝火の山腹にありしを、後山頂に移祭り畝火明神と云(大和志・名所図会・奈良県神社取調書)
平城天皇大同九年神封一戸を充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より正五位の下を授く、九月庚申、雨風の御祈に使を遣し幣を奉り(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及び祈雨の幣に預る、即祈年祭山口神六座の一也(延喜式)凡そ十月廿二日祭を行ふ(奈良県神杜取調書)
畝火山《ウネビヤマ》北陵 神八井耳命(綏靖帝兄)の墓なり、大字山本に属す今|御陵山《ミササギヤマ》と称す、陵辺小祠あり岩井耳《イハヰミミ》と曰ふ。〔書紀通証〕聖蹟図志之を以て綏靖陵に擬せり主膳塚《シュゼンツカ》の名あれば也、日本紀云、神八井耳命、葬于畝傍山北。山陵志云、神武陵、古事記為畝火山之北方白橿尾上、尾上者山※[山+禺]如尾者、今畝傍山東、里人呼曰御陵山、墳然而隆起此也、大和志以此為神八井耳墓也、若果神八井耳之命、何以伝謂之御陵乎。山陵志の古事記白橿尾上の語に拠り論ずる所誠に以あり、而て今制定して神武陵と為す者は平野に居り、尾上と云ふ者に符合せず。然れども此山本の寝園は神武帝陵にや、又皇子墓にや、尚覈審を要す。
橿原宮《カシハラノミヤ》址 橿原宮は神武天皇創国の皇居にして、古事記に畝火之|白檮原《カシハラ》宮に作る、近年|白橿《シラカシ》村の名は之に因る。宮址は二千年の久き其処固より遺失す、明治廿二年国家発祥の跡を標せんが為め畝傍山東南に地を相し神宮を建つ、特旨西京旧闕の神嘉殿及内侍所を賜り移造す、号して橿原神宮と曰ひ、官幣に列す。
高みくらとばり掲げて柏原の宮のむかしもしるき春かな、〔新葉集〕 後村上天皇
日本書紀云、神武天皇下令曰、自我東征於茲六年、頼以皇天之威、凶徒就戮、雖辺土未清余妖尚梗、而中洲之地無復風塵、誠宜恢廓皇都規※[莫/手]大壮、観夫畝傍山東南橿原地者、蓋国之墺区乎可治之、即命有司経始帝宅、即位於橿原宮、是歳為天皇元年、号曰神日本磐余彦天皇。古事記伝云、畝傍山の東南麓に畦樋《ウネヒ》村と云あり、今樋を清て呼り、然れども古は濁れり、白檮原宮とは白檮樹原にてありし故に負る名なるべし書記に「払山林、経営宮室」とあり、此地名は今世に遺らざれ共、大宮所は山の東南の麓に近き地なりしこと著明し。或説に葛上郡なる柏原村(今掖上村)此宮址なり、山の西南に当れば東字は西の誤りと云は非なり。一説橿原は加志布ともよむべしと、天平六年造の讃岐国山田郡中臣宮処氏本系帳には「高市県畝火之橿原宮、家牒云加志布能美夜云々」と見ゆと、古へより斯く両様に呼べる地名にや、風土記逸文に宇禰備能可志婆良と見ゆ。
御陰井上《ミホトヰノヘ》陵 安寧天皇の御陵なり、白橿村大字吉田御陰井の西北に在り、安寧山と呼ぶ。古事記云、陵在畝火山之美富登也。日本書紀云、葬天皇、於畝傍山南御陰井上陵。延喜式云、畝傍山西南御陰井上陵、片塩浮穴宮御宇安寧天皇、在高市郡兆城東西三町南北二町。書紀通証云、陵在井西北、廟在井東南。
繊沙渓上《マサゴタニノヘ》陵 懿徳天皇の御陵なり、白橿村大字畝傍|真名子谷《マナコダニ》に在り、陵西一荒墳あり。古事記云、陵在畝火山真名子谷。日本書紀云、葬天皇於畝傍山南繊沙谿上陵。延喜式云、ウネビヤマ南繊沙溪上陵、軽曲峡宮御宇懿徳天皇、在高市郡兆域東西一町南北一町。
畝傍山東北《ウネビヤマウシトラ》陵 神武天皇の御陵なり。本陵は後世其処を失ひ元禄の比|神武田《ジブノダ》の字存するに拠り其近傍に就き古冢を捜り、前王廟陵記(松下見林)大和志(並河永関祖衡)等首唱して帝陵と為す、曰く「畝傍山東北陵、可百年以来、壊為糞田、民呼其田字神武田、暴※[さんずいへん+于]之所為、可痛哭也、余数畝為一封、農夫登之、※[りっしんべん+舌]不為怪、及観之寒心、夫神武天皇、継神代草昧之蹤、東征中州、闢四門朝八方、王道之興、治教之美、実創於此、我国君臣億兆、当致尊信之廟陵也、澆季至於此噫哀哉」と此数畝を余せる一封は、蓋四条の管内なる荒丘にして、今綏靖帝陵に擬定せらる、者なり、其塚山は一書高七尺廻三十間とす、幕府之に因りて陵域を標す、寛政四年、幕府博士柴野邦彦巡視し、詩あり之を紀す、
壬子冬、奉使入大和、行経神武陵、
遺陵才向里民求、半死孤松数畝丘、非有聖神開帝統、誰教品庶脱夷流、厩王像設専金閣、藤相墳塋層宝楼、百代本支麗不億、幾人来此一回頭。
爾来国情の変遷にしたがひ帝陵の議世に起る、山陵志(蒲生氏)に至り古事記「畝火山之北方白|橿尾上《カシヲノヘ》」の語に拠り廟陵記大和志の所定を駁す、而も文久年中幕府戸田氏の請を以て朝廷に奏し山陵修理の事あるや、猶前標に因り営造したり。今代に及び議者|神武田《ジブノダ》に尚古塚あるを主張し、宮家遂に之に就て修理を加へ神武陵を制定す、明治十年車駕行幸陵前に拝告あり。(今白橿村大字山本の管内字神武田)
古事記云、御陵在畝火山之北方白橿尾上。日本書紀云葬天皇於畝傍山東北陵。延喜式云、畝傍山東北陵、在高市郡東西二町南北二町。山陵志云、神武陵、在畝火山之北方白橿尾上、尾上者山※[山+禺]如尾者、今畝火山東、里人所呼曰御陵山、墳然而隆起此也、大和志以此為神八井耳墓矣、若果神八井耳墳乎、何以伝謂之御陵乎、且所謂余数畝為一封塚者、亦不在神武田、距神武田又北三町許、決非神武陵。聖蹟図志云、畝傍山の東北麓洞村(今白檀村大字)に生玉明神あり、洞畔に丸山あり此丘即神武天皇東北陵たるべし、彼神武田の古塚、又|四条《シデウ》の東塚共に真陵に非ず。神武田《ジブノダ》址は今神武天皇の御陵域是なり。聖蹟図志云、神武田は一説神武堂の訛なり、即廟堂の址といふ、山本村に属し古塚新塚二個あり。山陵志云、神武田亦曰美佐々岐、蓋以其嘗有廟焉、相伝旧有神武飼廟、在神武田地、昔年水潦、廟為之所漂、而後遷大窪村、今大窪寺之址、有国源寺焉、又伝、国源寺亦自神武田旁遷于此、拠多武峰記、有泰善法師、貞元二年、創国源寺。
国源寺《コクゲンジ》址 神武田《ジブノダ》の地に当り、今陵東勅使殿をば塔垣内《タフカイト》と曰ふ亦寺址なり。初め貞元二年僧泰善国守藤国光と協力創営し、神武天皇の神教に依ると曰ふ、後水害を被り大久保(白橿村大字)に移す、寺田を神武田と称す。多武峰略記云、神武天皇崩于橿原宮、葬畝傍山北陵、旧記曰、国源寺在高市郡畝傍山東北、天延二年三月十一日早朝、検校泰善被過彼地、途中有人頭戴白髪、身着茅蓑、告泰善曰、師於此地、為国家栄福、講一乗矣、奉善問云、公姓名亦住処何乎、答曰我是人王第一国主也、常住此処、言訖不見、故泰善毎年三月十一日、到彼地講法華、貞元二年、当国守藤原国光伝聞此事、建方丈堂、安観音像、永為当寺末寺矣云々。
大窪寺《オホクボデラ》址 大久保に在り、近世国源寺彼地より移り此址に居る、書紀通証に「神武祠廟在大久保村」と云者是也、大窪寺は日本書紀に「天武天皇朱鳥元年、大窪寺封百戸限三十年」と云者にして、其廃亡久し、縁起亦詳にし難し。(白橿村)
娘子《ヲトメ》塚、大和志云、在大窪村、昔有娘子、字曰桜児、有二壮士、共挑之、捐生格競、貧死相敵、娘子歔欷曰、従古至今、未聞一女適二門矣、二子意難和平、不如妾身死相害永息爾、乃尋入林中、懸樹縊死、見万葉集和歌小序。謡曲三山云、南は香具山、西はうねみの山に咲く桜子の里見れば、よそめも花やかにて、羨ましくぞ覚ゆる、生きてよも明日までの、人のつらからじ、この夕暮を限りぞと、思ひ定めて耳無の池水の淵にのぞみて影うつる、名も月の桂のみどりの髪は、さながらに池の玉藻の濡れごろも。
四条《シデウ》 綏靖天皇陵は白橿村大字四条の東に在り、元禄中之を以て神武陵と為す、近年更に綏靖陵に擬す。旧史に見ゆる桃花鳥田岡と称すべき地に非ず、神武田《ジブノダ》の東北にあたる、不審。
古事類苑に引ける四条村神武帝陵周垣成就の図に、台山惣廻五十間、溝八角形延長三十六間、中に丘墳あり、下段西方高七尺、上段東方一丈とす、東北隅は細流に浜し、西南辺は小径に沿へり、是は元禄十年幕府(其実は細井広沢等の建言にて、広沢の主人柳沢甲斐守吉保の執行)にて修理ありし時の事とす。広沢の記に云「神武天皇の陵、畝傍山の東北におはします、田の中にて知る人なかりし、所の民「ジブノタ」とよび侍りき神武を伝へあやまると見えたり云々。
高市御県《タケチミアガタ》神社は四条に在り、今|高県《カウケ》宮と称する是也、〔大和志〕大同元年神封を奉じ、貞観元年昇位あり、〔新抄格勅符三代実録〕延喜式名神大社に列し、即祈年祭倭国六県神の一なり。高市は畝傍山北曾我川の畔の古名にて、後郡名と為れる者の如し、日本書紀「推古天皇十五年作高市池」の事あり、今詳ならず。
補【高市御県神社】○神祇志料 今四条村にあり、高県宮といふ(大和志・名所図会)平城天皇大同元年神封二戸を充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞親元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預る、即祈年祭六御県神の一也(延喜式)凡そ十二月廿二日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
軽《カル》 白橿《シラカシ》村の東部、大字大軽|和田《ワタ》石川五条野の辺なるべし、古は軽の地と云ふ総名なり、懿徳孝元応神三朝の皇居あり、又軽市と称して、市邑なりき。古事記に「あまたむ軽」と詠ず、天飛雁と云ひかけたる也、万葉集には「わか薦をかり路の小野」と詠ず、軽を苅に言ひかけたり。古事記、境原宮(孝元)段云、建内宿禰之子許勢小柄宿禰者、軽部臣之祖也、又姓氏録云、軽部、倭日向八綱多命之後也、雄略天皇御世献加里之郡、仍賜姓軽部君、又姓氏録云、軽我孫、彦坐命之後四世孫白髪王、成務天皇御代、賜軽地三十千代是負軽阿弥古姓之由也。
日本書紀、天武天皇白鳳十年、天皇将蒐於広瀬野、群卿皆居于軽市、而検校装束。軽市《カルノイチ》は今大軽の軽町ならん。
やまと路や軽の市女に事問んあふにつらさをいかが買ふべき、〔五百番歌合〕 季経
軽曲峡宮《カルマガリヲノミヤ》址 懿徳天皇の皇居なり、古事記に境岡《サカヒヲカ》宮に作るも同じかるべし。書紀通証云、曲峡宮在軽町坤方、今名田有末波利乎佐、即此。日本書紀欽明巻に、「大伴紗手彦伐高麗、以所獲美女、送蘇我稲目宿禰、稲目居軽曲殿」とあり、曲殿亦此地か。
軽境原宮《カルノサカヒハラノミヤ》址 孝元天皇の皇居なり。書紀通証云、境原宮、在軽村大道西、今里民云佐加伎婆羅。身狭《ムサ》に牟佐坐境原天神あり、彼地か。
豊明宮《トヨアキラノミヤ》址 応神天皇の皇居なり、古事記に軽島之明宮とありて、日本書紀亦同じ。旧事紀は「都于軽島地、謂豊明宮」と録し、続日本紀古語拾遺霊異記山城風土記等は皆豊明宮とあり、津国風土記には軽島豊阿岐羅宮と記す、宮址蓋大軽大内丘の軽寺なるべし。
軽池《カルノイケ》 日本書紀、「応神天皇、作軽池、」これは酒折池と云者同処なるべし、酒折は坂降りの義理にあらずや。古事記、水垣宮(崇神)御世、作軽之酒折池。又玉垣宮(垂仁)御世、本牟知和気命作二俣小舟、浮倭之市師池軽池。万葉集猟路は軽路の仮借なり、
軽の池のうらわゆきめぐる鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに、〔万葉集〕遠つ人猟路の池にすむ鳥の立ても居ても君をしぞ思ふ、〔同上〕
軽寺《カルノテラ》址 日本書紀、天武天皇朱鳥元年、軽寺、封百戸、限三十年。大軽の字に東明寺あり、草堂纔に存し廃軽寺と称す。〔名所図会〕山陵志云、軽旧都古時蓋広、大内之丘北、田畝土俗称軽大臣宅地、疑是軽大寺之訛也、凡旧宮地、必※[てへん+(講−ごんべん)]仏寺、以異之、蓋中古風習矣
軽神社 延喜式、軽樹村坐神社二座。大和志云、白橿村大字池尻の南、軽子村に在り、軽我孫公の祖神か、又樹を祝ふ者か。
天飛ぶや軽の社のいはひ槻いく世まであらむこもり妻ぞも〔万葉集〕
石川《イシカハ》 白檮《シラカシ》村大字石川存す。蘇我氏の祖石川宿禰河内の石川に生れ後本国に移ること三代実録に見ゆれば、彼地名を移したる者なるべし、蘇我氏の宅此に在りしことも諸書に見ゆ。日本書紀、敏達天皇十三年、蘇我馬子宿禰、於石川宅、修治仏殿、とあれば後世まで別荘を此に有てり、同書皇極天皇元年紀に蘇我大臣畝傍家とあるも此か、又宗我村の邸か、詳ならず。
大歳《オホトシ》神社は延喜式本社二座、今石川に在り、歳は古言|田寄《タヨセ》にて穀物に本づき其収納を一年と為すと古事記伝に見ゆ、大歳神即穀神にして、祈年祭主として之を祭るとぞ。
石川精舎《イシカハノシヤウジヤ》址 敏達天皇十三年蘇我馬子石川の宅に精舎を修治し仏像を奉祀す、翌年塔を大野岡に起す、是より仏法初て起る、当時物部守屋中臣勝海奏請して仏法を禁断し、塔を倒し之を焼きしかど遂に果さず、仏法愈盛なり。石川精舎は何の世まで存立したるにや、遺址歴々たり、今浄土宗本明寺其故跡を伝へ馬子塚と称する五輪石塔(高丈余)あり、又村中田圃の字に八講田、山林の字に花厳寺大楽寺感道寺等あり。〔大和志三十三所図会〕日本書紀云、敏達天皇十三年、従百済来鹿深臣有弥勒石像一躯、佐伯連有仏像一躯、蘇我馬子宿禰請之、乃遣鞍作部村主司馬達等池辺直永田使於四方、訪覓修行者於石川宅修治仏殿、仏法之初自茲而作、十四年宿禰起塔於大野丘北、大会設斎、以司馬達所獲舎利蔵柱頭、時疫疾流行、物部弓削守屋大連与中臣勝海大夫奏、禁断仏法斫倒其塔、縦火燔之。古事記伝云、推古帝の陵初め大野岡上に在り、後|科長《シナガ》大陵に移すとあれば、大野岡即馬子の起塔したる所なるべし。大野丘北塔址は今白橿村大字和田に属す、田園と為り塔之田と曰ふ。〔三十三所図会〕
真こも苅る大野河原のみごもりに恋こし妹が紐とく我は、〔万葉集〕
補【石川精舎】○外交志稿 用明帝の時、鹿深臣佐伯連、百済より還る、弥勒石像一躯、仏像一躯を齎す、蘇我馬子其像を請ひ石川の宅(案ずるに大和志に高市郡石川の廃精舎石川村の古祉、今本明寺及石浮屠あり、高丈余)に於て仏殿を修治し、石仏像を安置す、之を石川精舎と云ふ、仏法此より弥漫せり。
石川精舎廃址 石川村にあり、今本明寺と云へる浄土宗の寺ある地、其旧址なりと云ふ、馬子の塚とて古き五輪の石塔あり、又村中田圃の字に八講田と云ふあり、法華八講を行ひし址とぞ、又山の字に花巌寺山、大楽寺山、感通寺山など呼べるあり、皆寺院の旧地なる可し、蘇我馬子石川の第宅の傍に於て堂舎を営むとあれば、凡て此辺馬子の第宅の旧址ならんか(三十三所図会)
剣池《ツルギノイケ》陵 孝元天皇の御陵なり、白橿村大字石川の剣池是なり、池中島を起す、高一丈周三十二間、池周三百間。〔名所図会〕日本書紀、葬天皇于剣池島上陵。古事記御陵在剣池之岡上。延喜式云、剣池島上陵、軽境原宮御宇孝元天皇、在高市郡域東西二町南北一町。
剣《ツルギ》池 日本書紀云、応神天皇、作剣池軽池鹿垣池厩坂池、舒明天皇七年、瑞蓮生剣池、一茎二花、皇極天皇二年、剣池蓮中有一茎二萼者、豊浦大臣(蝦夷)妄推曰、是蘇我臣将来瑞也、即以金墨書而献大法興寺丈六仏、明年蝦夷入鹿並被誅。
厩坂《ウマヤサカ》 軽の中なれど今詳ならず、白橿村大字田中の辺か。日本書紀云、応神天皇御世、東蝦夷悉朝貢、役蝦夷而作厩坂道、又作厩坂池、又云、百済王阿直岐貢良馬二匹、即養於軽坂上厩、以阿直岐令掌飼、改号其養馬之処曰厩坂也。美作《ミマサカ》池と云も厩坂の訛ならん、
伊勢ならばひがごとぞとや思はまし大和なるてふ美作の池、〔堀河次郎百首〕
厩坂《ウマヤサカ》宮址 日本書紀云、舒明天皇十二年、天皇至自伊予、便居厩坂宮。是は田中宮と同じきか、即厩坂寺を其宮址に置かれしならん、厩坂寺は高市郡なる事源平盛衰記に見ゆ。
厩坂寺《ウマヤサカデラ》址 初め藤原鎌足山階(今山城山科郷)に精舎を建て維摩講を置く、天武天皇元年之を高市郡飛鳥里厩坂に移し法光寺と号す、〔伊呂波字類抄大日本仏教史〕平城遷都の時和銅三年左京に移す、今の興福寺是なり。多武峰縁起云、維摩会者大織冠遠忌也、大織冠性崇三宝、毎年十月荘厳法筵、仰維摩之景行、説不二之妙理、薨逝以来、間断年久、爰淡海公、以慶雲二年丙午冬十月、於城東第、初開維摩法会、屈入唐智鳳、以為其講匠、同四年丁未十月、在厩坂寺、請新羅遊学僧観智、講両本維摩経。初例抄云、維摩会、始自斉明天皇元年、講師西大寺寿遠法師、慶雲四年開於厩坂寺、講師観智新羅国僧。
補【厩坂】○初例抄 維摩会始自斉明天皇、仁〔元歟〕明天皇即位元年始之、講師西大寺寿遠法師、元都〔元歟〕興寺、中絶四十三年、慶雲四年丁未開於厩坂寺講師観音新羅国僧、和銅移于植槻寺、和銅五年移興福寺、亦移南京法花寺、亦移長岡神足家云々、永留興福寺事、延暦廿年殊有宣旨。
田中《タナカ》 白橿村大字田中は石川と接す。古事記云、建内宿禰之子、蘇我石河宿禰者、田中臣等之祖也。此地は古へ軽に属し、舒明天皇の田中宮厩坂宮一処にあらずや、又三代実録に馬立伊勢部田中神と云者あり、大和志之を以て田中八幡宮に援当たり、馬立《マタテ》伊勢部と云ふ所以は詳ならず。
田中《タナカ》宮址 日本書紀云、舒明天皇八年、災岡本宮天皇遷居田中宮。厩坂宮と一処か。
雲梯《ウナデ》郷 和名抄、高市郡雲梯郷、訓宇奈天。今|金橋《カナハシ》村真菅村今井町等にあたる。金橋に大字雲梯あり、来目郷の北にして磯城郡北葛城郡の間に夾在す。重坂川郷中を貫流し此に曾我川と呼び、下流には百済川と曰ふ。宇奈天は溝の古言なり、日本書紀欽明十四年に溝辺《ウナテ》直と云人あり。姓氏録云、雲梯連、高向村主同祖、漢宝徳公之後也。続日本紀云、天平宝字七年、賜漢人伯徳広道、姓雲梯連。
雲梯森《ウナデノモリ》 古事記伝云、出雲国造神賀詞に「事代主命の御魂を宇奈提に坐《マサセ》」とあれども延喜式に此社載せず、又「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐《マサセ》て」とあるも式に合はず、熟思ふに彼文は「事代主命を飛鳥の神奈備に賀夜奈流美命を宇奈提に」とあるべきをまがひ誤る者なるべし、故は飛鳥は事代主雲梯は賀夜奈流美と云事今も国人の言なり、大和志に延喜式加夜奈留美命神社は柏の森(今高市村)に在りと云るは定かなる証なし。
真鳥すむ卯名手の神社《モリ》の菅の根をきぬにかきつけ着せむ児もがも、〔万葉集〕延喜式加夜奈留美命神社は三代実録にも其名見ゆ名社也。神紙志料云、加夜奈留美命神社今雲梯村にあり、〔古事記伝〕大穴持命の子加夜奈留美命を祀る、加夜奈留美命又|加屋鳴比女《カヤナルヒメ》神と云、〔延喜式類聚三代格〕飛鳥神の裔神とす。〔類聚三代格〕
高市森《タカイチノモリ》 雲梯神社同処か、或は云ふ今廃すと、壬申の乱に「吾者高市杜所居名事代主神」と神教ありし霊祠なり。貞観元年従三位高市御県鴨八重事代主神授従一位と三代実録に見ゆ、延喜式大社に列したり、大和志に本社今|鴨公《カモキミ》村大字高殿に在りて鴨公森と云ふとあり、亦一説なり参考すべし。日本書紀云、大伴吹負軍金綱井之時、高市郡領高市県主許梅、※[修の彡の代わりに黒]忽口閇而不能言也、三日之後方|著神《カミカヽリ》以言、吾者高市社所居名事代主神、又|牟狭《ムサ》社所居名生霊神者也、乃顕之曰、於|神日本磐余《カンヤマトイハレ》彦天皇之陵、奉馬及種々兵器、便亦言、吾者立皇御孫命之前後、以送奉于不破而還焉、今且立官軍中守護之、且言、自西道軍衆将至之、宜慎也、言訖則醒矣故是以便遣許梅而祭拝御陵、因以奉馬及兵器、又捧幣而礼祭高市身狭二社之神、然後壱伎|史韓国《フヒトカラクニ》自大坂来、故時人曰二社神所教之辞適是也、軍政既訖、勒登進神之品以祠焉。神祇志科云、雲梯事代主神社は今その社既に廃たり、〔奈良県神社取調書〕即八重事代主神を祭る、〔三代実録日本書紀延喜式〕初此神其御父大己貴命と共に群神を天高市に建て天に昇て天神の命に帰順ふ由を申し給ひき、〔日本書紀古事記〕其後大己貴命己神の和魂を大御和の神奈備に坐させ、御子事代主命の御魂を宇奈提の神奈備に坐せて、皇御孫命の近守神と宣り給ふは即是也、〔延喜式祝詞〕此神其稜威尤厳なるを以て、人皆之を畏る、所謂宇奈提の森の神也。〔万葉集〕
川俣《カハマタ》神社、今金橋村大字雲梯に在り、今川俣八王子と称す、三代実録延喜式に見ゆ、蓋川俣公の祖神なり。姓氏録云、大和皇別、川俣公、彦坐命之後也。
補【川俣神社】○神祇志料 川俣神社三座、今雲梯村にあり、川俣八王子と云(大和志・名所図会)蓋川俣公の祖彦坐命族類の神を祭る(参酌新撰姓氏録・大和国神名帳略解大要) 按、神名帳略解に崇神帝坐命に勅し、神殿を石川俣に建て、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、※[火+(漢-さんずい)]之速日命、熊野忍蹈命を祀らしむ、因て川俣公姓を負ふ、後其二神を分て子部神社に祀ると云る、信じがたき説なれど、彦坐命川俣公姓の事を云るは由縁あり、其川俣公の祖を祭る事を徴すに足れり
清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け(三代実録)
按、本書陽成天皇元慶六年五月癸卯の条に、高市郡従五位下天川俣神社の事みゆ、されど位階違へり、異神か同神か詳ならず、或は三座の内の一神か、姑く附て考に備ふ
忌部《イムベ》 金橋《カナハシ》村大字忌部は忌部氏の住所なりき、祖神太王命社あり。忌部氏の祖は天照大神に奉事し大功あり、子孫世々国家祭祀の礼儀を掌知す、古事記云「布刀王命者、忌部首等之祖」と、其裔斎部広成、大同二年、古語拾遺を撰述し廷奏する所あり。
太玉《フトダマ》神杜は貞観元年授位〔三代実録〕飛鳥神の苗裔神と為す〔類聚三代格〕延喜式名神大杜に列し四座并祭す、布刀玉命及其子能売命豊磐窓命櫛磐間戸命を云ふ、四神並に天照大神に侍従したる事、日本書紀古語拾遺に見ゆ。按ずるに本社飛鳥の苗裔と云ふは、忌部氏退転して後彼摂属と為れるを云ふか、飛鳥は事代主神なれば本一族の類に非ず。
補【太玉神社】○神祇志料 太玉神社四座、今忌部村にあり(日本紀通証・大和志・神名帳考証)高皇産霊尊の子斎部宿禰の遠祖天太玉命及太玉命の子大宮売神、豊磐間戸命、櫛磐間戸命を祀る(日本書紀・古語拾遺・日本紀通証・神名帳考証)
按、大和国神名帳略解に磐間戸二神なく、太玉命天比の理当スとあり、太玉命は天太玉命と重複なれば取りがたけれど、天比の理刀@命は天比理刀当スにて此に由縁あり、さらば磐間戸二神を一柱として此姫神を加ふべきか
此四柱の神、蓋皆天磐屋戸に大功あり、太玉命は祭祀の礼儀を掌り(日本書紀・古事記・古語拾遺)大宮売神は殿内に侍て神意を和奉り、豊磐間戸神・櫛磐間戸神は宮門を守衛る事を掌りて仕奉りき(古語拾遺)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制、並に名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預る(延喜式、名神二字拠名神祭式)飛鳥神の裔神也(類聚三代格)
勾《マガリ》 金橋《カナハシ》村大字|曲川《マガリカハ》の辺を云ふ。其西北に接せる北葛城郡百済村は和名抄広瀬郡下勾郷の地なれば、曲川は上勾なるべし。安閑天皇の遷都したまへる勾は此地と云ふ、大和志に曲川は旧名勾金と云ふとあれど疑はし、曲川は此地を流るゝ宗我川に因みたる者にて亦其所由あり。天文二十二年吉野詣記に見ゆ、曰高田を立出ぬるに、曲川までわかき人おくりに馬など引せてきたり酒すゝめて立別れけり、きさらぎもけふのみなるに桃花こゝかしこ咲て、川のまがり曲水の興を催すべき所のさまなるよし申て、
さかづきに千とせもめぐれもゝの花川は曲の水にうかべて。
金橋宮《カナハシノミヤ》址 今金橋村曲川にあるべし、近年宮名に因み村名を改む、安閑天皇の皇居なり、日本書紀云、安閑天皇、遷都于大倭勾金橋、因為宮号、古事記云、勾之金箸宮。
曾我《ソガ》 今|真菅《マスゲ》村と改む、万葉集に「真菅よし宗我の河原」と詠じたるに因る。蘇我氏の祖先此に居宅したるに因り彼氏名起れり、古事記伝云、蘇我氏は満智韓子稲目馬子倉山田蝦夷赤兄の人々あり史に著る、後は石川と改む、三代実録に「右京人石川朝巨木村箭口朝臣岑業改姓賜宗岳朝臣」と見ゆ、馬子蝦夷等逆臣なれば我を岳に改めたるか云々。国造本紀云「素賀国造、橿原朝廷、始定天下時、従侍来人、名実志印命、定賜国造」と、按に此条は本書遠江と駿河の間に載せたれど、神武帝開国の初に方り東海の遠地まで国造配置あらん事疑はし、大和の蘇我にあらずや、今徴証なけれど録して後の考定をまつ。
宗我神社は曾我村の北河原に在り、今|入鹿宮《イルカノミヤ》と云ふ、蘇我氏の祖神なり。新抄格勅符神封、三代実録授位の事あり、延喜式宗我坐宗我都比古神社二座並に大社に列す。三代実録云、宗我氏始祖石川、賜宗我大家為居、因賜姓宗我宿禰。
補【宗我神社】○神祇志料 宗我坐曾我都比古神社二座、今曾我村の北蘇我河原にあり、入鹿宮と云(大和志・神名帳考)宗我都比古神、宗我都比売神を祀る、(延喜式・宗我社伝)蓋蘇我臣の祖神也(日本書紀・古事記・姓氏録大意)
按、日本紀葛木県を以て蘇我氏の本居とす、今国図を考ふるに葛上郡と本郡の界に曽我村あり、古へは葛城県の内にて本居となりし故に、其祖神を祀れる事著し、附て考に備ふ平城天皇大同元年神封三戸を寄し(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授く、六年六月辛未正五位下を賜ふ(三代実録)醍醐天皇延喜の制、並に大神に列り、月次新嘗の幣帛に預る(延喜式)凡そ十月十六日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
宗我川《ソガガハ》 真菅村金橋村の間を流る、重坂川檜前川(一名久米川)の合流にして又勾川と称す、末は百済川と為り大川《オホカハ》に注ぐ。
真菅よし宗我の川原に鳴くちどりまなし我せこわがこふらくは、〔万葉集〕
安川《ヤスカハ》 日本書紀神代巻に天安川と云者あり、古語拾遺に天八湍河に作る。小川氏云、安川は即八宗我川なり、八は発語にして之を約めて安川と云ふ、按に天高市神社曾我村に現存す神世に在りて諸神の霊蹟をあらはし給ふも此地なるべし、旧事紀を参照するに「伊弉諾尊、斬※[車+可]遇突智、剣鐔垂血、激越為神、所走就揚津石村、所成之神名、曰天尾羽張神、今坐天安河上|天窟《アマノイハヤ》神也.とありて宗我川の上游に天津石戸別神社あり、延喜式に著れ巨勢郷越智岡に存す。明治三十年宗我川の右岸真菅大字中曾司に石器時代之遺蹟を発見す、即宗我神社の北なる古墳散在の畠地是なり、石鏃土器の徴証に足るものを見るべし、従来石器時代遺跡は畿内に於て之を見ること最稀なり、前年河内国々府村の地に之を見たりといふ。〔考古学会雑誌〕
天高市《アマノタカイチ》神社 真菅村大字曾我に在り、高市八幡宮と称す。〔大和志神祇志料〕三代実録貞観元年授位、延喜式大社に列す。天高市及び天安川は神代史に見ゆ、然れども神代の談人事を以て律すべからず、此地即神代史に合するや否やは詳ならず。日本書紀神代巻一書曰、大物主神及車代主神、会乃八十万神於天高市、帥以昇陳其誠疑之至。古語拾遺云、素盞鳴命、為日神行甚無状、天照大神赫怒、入天石窟、閉戸而幽居、時八十万神相会天高市、議之。
補【天高市神社】○奈良県名勝志 真菅村大字曾我に在り、古事記に曰く、天津日子根命は高市県主の祖なりと。古語拾遺に曰、素盞鳴命日神を奉為し、行甚だ無状、天照大神赫怒天石窟に入り磐戸を閉て幽居すと、時に八十万神天の高市に相会して祷るべきの方を議すとは、即此所なりと云ふ。
今井《イマヰ》 今井町は真菅村の東にして八木町に接す、戸数五百、本郡の小繁華なり。和州軍記云、今井村と申所は兵部と申す一向坊主の取立たる新地にて候、此兵部器量のものにて四町四方に堀を廻し土手を築き、内に町割をいたし人をあつめ家を造らせ、国中へ商等をいたさせ、又は牢人をはひあつめ候、然処に大坂一向門跡逆意の刻石の兵部も今井に一揆を発し、近辺を放火し相働候を、筒井順慶仕寄にて半年計も被攻終に落去せず、大坂扱になりて後は今井も扱になり、矢倉等をおろさせ、兵部は其まゝ信長公より赦免、先規に不替、今井の支配仕り宗門を相続候、秀吉公時代も右の通にて居住候。
金綱井《カナツナヰ》 日本書紀、天武元年壬申の乱の条に曰く、将軍大伴吹負、為近江軍所敗、以独率一二騎走之、逮于墨坂、更還屯金綱井、而招聚散卒、西到当麻衢、先是軍於金綱井時、高市大領高市県主許梅著神、云々と。墨坂は宇陀郡に在り、吹負及楽山(添上郡)に敗れ墨坂に走り、高市県に返り高市杜(曾我村)牟佐神(身狭村)の神教を得たり、謂ゆる金綱井は今井の辺なる事明なり、今井の大字|小綱《セウコ》あり古はコツナと呼び、即|金綱《コツナ》に非ずや、詳ならず。
補【金綱井】○日本書紀〔天武紀元年〕将軍吹負為近江所敗、以独率一二騎走之、逮于墨坂、遇逢菟軍至、更還屯金綱井、而招聚散卒、於是聞近江軍至自大坂道、而将軍引軍如西、到当麻衢、与壱伎史韓国軍戦葦池側、云々、先是軍金綱井之時、高市郡大領高市県主許梅、※[修の彡の代わりに黒]忽口閇而不能言也、三日之後著神以言、吾者高市社所居、名事代主神、又牟狭所居、名生霊神者也、云々。○今井町大字今井大字小綱。
八木《ヤギ》 八木町は今井町の東北に接し、飛鳥川を隔つ、亦同く小繁華にして機織戸多く、総て三百余戸なり。小房《コフサ》観音堂あり。飛鳥川は八木にて曾我川と云ふ、玉林抄に聖徳太子斑鳩より曾我川を経八木宮を過ぎて橘宮と通ひ玉ふと見ゆ、是也。
補【八木】〇三十三所図会、八も|札街《フダノツジ》 八木の町の札の辻は東は桜井より泊瀬に至る街道、南は岡寺、高取、吉野等への道筋、西は高田より竹内、当麻への往還、北は田原本より奈良、郡山への通路にして、四方往還の十字街なれば、晴雨暑寒を厭はず、平生旅人間断なく至て賑し、毎朝札場の傍に於て魚市あり、此辺何れも旅駕屋にて、家作広く端麗なれば、伊勢参宮の陽気連駕をつれたる大和巡り、両掛もたせし西国順札なんど日の高きを言はずして爰に宿る、所謂迫隣に於ては繁花なり。
遊部《ユフ・アソブ》郷 和名抄、遊部郡遊部郷。今の八木町|鴨公《カモキミ》村にあたるか。三代実錬元慶四年の条に百済大寺を高市郡夜部村に移されし事見ゆ、夜部遊部同じかるべし、又大和志に飛鳥川を一名|遊副《ユフ》川と呼ぶとあり、因りて其地を求むるに八木町鴨公村に相当す。玉林抄に八木の曾武川とあるも遊部《アソブ》川の転じたる乎、尚徴証を要す、一説白橿村大字|四分《シブ》は遊部の訛と曰へり。按に遊部は本来部民の称にして、阿曾賦と呼べるを後地名に転じ由賦とも唱へしならん。遊部の本義は令集解云、遊部、隔幽顕境、鎮凶万魂之氏也、終身勿事、故云遊部、古記曰、遊部者、在大和国高市郡、生目天皇(垂仁)之苗裔也、天皇之子円目王、娶伊賀比自伎和気女為妻也、凡天皇崩時、比自岐和気等到殯所、而供奉其事、仍取其氏二人名、称禰義与此也、禰義者負刀並持戈、与此者持酒食、並負刀入内供奉、唯禰義等申辞者輒不便人知也、(中略)其人終身無事、免課役任意遊行、故云遊部。
高殿《タカドノ》 今|鴨公《カモキミ》村と改む、八木村の南にして古の藤原の地なり、畝傍香久耳成三山鼎立の間に在り。(耳成山は八木町の北に在り)
鴨公森《カモキミノモリ》 大和志書紀通証云、延喜式高市御県坐鴨事代主神社、在高殿、今称大宮、又名鴨公森。今按ずるに高市森は雲梯森と同じ此に非ず、県名勝志又云高宮と曰ひ大殿と曰ふを合せ考ふれば蓋藤原宮の跡ならんと。
補【高殿】○奈良県名勝志 高市御県坐鴨事代主神社は鴨公村大字高殿にあり、里人大宮と称し、又鴨公森と呼ぶ、日本紀の高市社是なり、或は云ふ、本社を大宮と称し、所在を高殿と云ふ、彼是合せ考ふれば、蓋藤原宮の址ならん。
飛騨《ヒダ》 鴨公村大字飛騨あり、斐太の細江此なるべし。冠辞考云万葉集「白まゆみ斐太の細江の菅鳥の」云々、是は引を略きて斐と言掛たり。東大寺要録(長徳四年注文)高市郡飛騨荘。
藤原《フヂハラ》 今鴨公村高殿の地蓋是なり、又大原と称し埴安の西に方る、持統文武の皇居藤原宮同く此なり。之より先に古事記明宮(応神)段に「御子二俣王生藤原之琴節郎女」とあれば旧地なり、日本書紀、允恭天皇藤原に別官を構営し衣通媛を置きたまふ、、衣通姫は即藤原之琴節郎女なり。曰、天皇召衣通郎女、(即弟姫)留於倭直吾子籠之家、勿近宮中(遠明日香宮)則別構殿屋於藤原而居也、天皇幸于藤原宮、密察衣通姫消息、是夕衣通姫変天皇而独居、其不知天皇之臨、而歌曰
わがせこがくべきよひなりささがにのくものおこなひこよひしるしも、
天皇聴是歌、則有感情。推古天皇十五年、於倭国作藤原池。
大原《オホハラ》 藤原の別称にて、藤原鎌足の本居なり、今大織冠宅址と伝ふる所あり、即鷺栖坂の北に当る。〔書紀通証名所図会〕多武峰略記云、推古帝二十二年、鎌足生大原藤原第。姓氏録云、藤原朝臣、出自津速魂命三世孫天児屋根命也、二十三世孫内大臣大織冠中臣連鎌子(古記曰鎌足)天智天皇八年、賜藤原氏、男正一位増大政大臣不比等、天武天皇十三年賜朝臣姓。
天皇(天武)賜藤原夫人(鎌足女為皇妃)御歌
吾里に大雪ふれり大原の古にし里にふらまくはのち〔万葉集〕
大原のこのいちしばのいつしかと我おもふ妹にこよひあへるかも〔万葉集〕 田原天皇 大原のふりにし里にいもをおきて我いねかねつ夢に見えこそ〔万葉集〕
按に万葉集第八の一歌の注云「藤原夫人、字曰大原大刀自、即新田部皇子之母也」又続紀には「天平神護元年、行幸紀伊国、車駕巡歴大原、長谷、臨明日香川、而還藤原」と載せたり、略解云、大原は続紀に紀伊行幸の路を記せしに泊瀬と小治田の間に大原と云所見ゆ、今も大原村あり、即藤原とも云り、藤原氏の本居にて十市郡なり。(十市郡香具山の西に接したれど固より高市郡也、)
藤原宮《フヂハラノミヤ》址 鴨公村鴨公森の辺なるべし、万葉集に「あら妙の藤井が原に大御門始めたまひて埴安《ハニヤス》の堤の上にありたゝし」云々の句あり、藤井原即藤原の井ある処なれば斯くも呼ぶのみ。日本書紀、持統天皇朱鳥七年、幸藤原宮地、八年春、幸藤原宮、冬十二月、遷居藤原宮。続日本紀云、天武天皇慶雲元年、始定藤原宮、入百姓一千五百五煙於宮中、賜布有差。按ずるに日本書紀朱鳥の紀年詳ならざる所あり、之を要するに持統帝五年甲午より元明天皇和銅三年庚戌まで十六年の皇居なり、後世特に持統文武の二主を藤原宮御宇天皇と称し奉る、浄見原宮より此に移り後平城に遷都なり、帝王編年記に元明天皇四年藤原宮火の事見ゆ、此より廃墟と為る、扶桑略記云、和銅四年、大官大寺並藤原宮焼亡。釈日本紀藤原宮条云、私記曰此地未詳、愚按氏族略記云、藤原宮在高市郡鷺栖坂北地。(鷺栖は今白橿村大字四分の地なり)
藤原の大宮づかへあれつくやをとめがともはともしきろかも、〔万葉集〕藤原のふりにし郷の秋はぎはさきてちりにき君待かねて、〔同上〕
大官大寺《ダイカンダイジ》址 大官一に大宮に作る、天武天皇二年百済大寺を高市郡夜部村に移し改号したる也。〔日本書紀三代実録〕夜部は今鴨公村なるべし。書紀通証云、「大寺址、在小山村東、礎石尚存」と、小山は今飛鳥村に入れど鴨公村と密接す、蓋是なり。和銅三年平城左京に移し、更に大安寺と号す。〔元亨釈書大安寺縁起流記〕日本書紀云、天武天皇二年、以小紫美濃王小錦下紀臣訶多麿、拝造高市大寺司。十一年、天皇不預、誦経於大官大寺川原寺飛鳥寺、因令稲納三寺、各有差。朱鳥元年勅之、大官大寺、封七百戸、乃納税三十万束。大安寺伽藍流記云、天武天皇二年歳次癸酉、自百済地移高市地、六年歳次丁丑、改高市大寺号大官大寺、藤原宮御宇天皇朝廷、恵勢法師乎令鋳鐘之、爾後藤原朝廷御宇天皇(文武)九重塔立、金堂作建、並丈六像敬奉造之。続紀云、文武天皇大宝元年六月。於大安寺講新令。
葉師寺《ヤクシジ》址 今生駒郡都跡村の薬師寺は初め藤原宮に在り、大和志に木殿と為す、木殿《キドノ》は鴨公村の西に接し、今白橿村に属す。天武天皇の時に創始、〔薬師寺大塔露盤銘〕養老二年平城西京に遷す。〔濫觴抄〕日本書紀云、天武天皇白鳳九年、皇后体不予、則為皇后誓願之、初興薬師寺、仍度一百僧、由是得安平。続日本紀云、文武天皇二年、以薬師寺※[てへん+(講-ごんへん)]作略了、詔衆令住其寺。濫觴抄云、薬師寺者、養馬徳藤原宮建立、土木之功熟三帝、日月之営送五代。元亨釈書云、白鳳八年、皇后(持統)病、勅建薬師寺、祈冥救、時不知営構之規、祚蓮入定、見龍宮之伽藍、出定而奏造式、以故薬師寺宏壮麗妙云。按ずるに薬師寺移建の大塔は生駒郡に現存す、骨※[てへ+(講-ごんべん)]麓妙古人の所言に合ふ、而も金堂諸宇今焚毀の余旧規を存するなし。
鷺栖《サギス》 鷺栖は藤原宮址の南にして、古書藤原古墟の指鍼と為す所なり。玉林抄云、「藤原宮は鷺栖坂の北なり」、釈紀云、「藤原宮、在高市郡鷺栖坂北地」。鷺巣池は古事記に見ゆ、玉垣宮(垂仁)段云、天皇鷺栖の池の樹に住む鷺や宇気比(誓也)落ちよと斯く詔り給ふ時、其鷺地に堕ち死き。
鷺栖神社は延喜式に列す今白橿村大字|四分《シブ》に在り、鷺栖八幡宮と曰ふ。〔大和志〕
飛鳥《アスカ》 今飛鳥村|高市《タカイチ》村に当る、或は明日香に作る(初允恭天皇顕宗天皇此地に皇居を営みたまひしも各一代にして止み、推古帝に及び又造都あり、爾後一百年京邑と為る。藤原(持統帝)平城(元明帝)の遷移に至り尚古京と称し別都たり、天平宝字中淳仁帝行幸あり後廃墟と為る。飛鳥を明日香と訓むは「飛鳥《トブトリ》のあすか」と云ふ冠辞に由る、日本書紀「天武十五年、改元曰朱鳥、元年、仍名宮|飛鳥《トブトリ》浄御原《キヨミハラ》宮」と見ゆ、此浄御原即明日香の中なれば転じて飛鳥の明日香と唱へ、終に其飛鳥をば明日香とよみならはせりと。(本居氏の説)又云、あすかと云鳥の名を明日香の地に云掛て、飛ぶ鳥とは冠らせしならん。(加茂氏説)此あすかと云鳥は即いすかならん、紅色にて口角の齟齬ひたる者なり、皇国にあるなべての鳥の中にかばかり全く紅きはをさ/\あらず、此鳥何国に棲るにか尋常は見えず、秋の比西南の方より数多打群れ飛渡り来て春の半過る頃又うち群れて帰り去く者なり、此鳥古は阿須迦と云けむ云々。(伴氏説)古事記、玉垣宮(垂仁)段云、御子大中日子命者、飛鳥君等祖也。姓氏録云、飛鳥直、天事代主命之後也。
遠飛鳥宮《トホツアスカノミヤ》址 允恭天皇の皇居なり、書紀通証に飛鳥村鳥形山なるべしと云ふも徴証なし、或は之を河内国飛鳥に求むれど信ずるに足らず、要するに本地に在りて故址を失ふ者也。其|遠飛鳥《トホツアスカ》と云ふは仁徳帝難波都の時、河内の飛鳥を近《チカツ》と為したるに対し、大和のを遠と呼べる也。古事記曰、伊佐本和気命(履仲帝)坐難波宮之時、其弟水歯別命(反正帝、河内丹比宮御宇天皇)到倭大坂山口、詔斬曾婆訶理、今日留此間、而先給大臣位、明日上幸、留其山口、斬曾婆訶理之明日上幸、故号其地謂近飛鳥也、上到于倭、詔之今日留此間、為祓禊、而明日参出、将拝石上神宮、改号其地謂遠飛鳥也、云々。(履仲反正二帝は並に允恭の同母兄にして、仁徳帝の皇子とす)
草まくら我ふるさとの外に亦遠つあすかの都恋しも、〔新続古今集〕 尭好
賀美《カミ》郷 和名抄、高市郡賀美郷。飛鳥の地にして今飛鳥高市の二村是なり、高市郡の上方に在れば也。日本紀略、天長六年、高市郡賀美郷甘南備山鳥形山と云事見ゆ。
飛鳥京《アスカノミヤコ》址 又小墾田京と称す、推古帝以降持統帝に至るまで一百年の都邑なり、豊浦岡本川辺浄御原等の諸宮あり。当年の皇居は毎代必変易し其間時々移御あり、故に造宮ありて造都なしと謂ふべし、然れども飛鳥は百年余の間皇居常に此に在りしを以て自ら造都の状を為し、以て後世の都邑不易の勢運を馴致したり。孝徳帝天智帝は一時此を去り難波滋賀に遷都ありしかど永からず、尚古京と称し其街市も旧に依り別都たりき、天平宝字中尚岡本宮存在す、後荒墟と為る。万葉集に飛鳥明日香の里と詠み、霊異記に小墾田古京と見ゆ。
飛とりの明日香の里をおきていなば君があたりは見えずかもあらん、〔新古今集〕 元明天皇
たをやめの袖吹きかへすあすか風都を遠みいたづらに吹く、〔続古今集〕 田原天皇
日本書紀、天武天皇元年、大伴吹負詐称高市皇子、率数十騎、自飛鳥寺北路、出之臨営、爰留守司高坂王、拠飛鳥寺西槻下為営、運小墾田兵庫器仗、軍衆聞敵声悉散走、吹負等曰、古京是本営処也、宜固守之、解取道路橋板作楯、竪於京辺衢、時吹負与近江将大野果安、戦于乃楽山、為其所敗、於是果安至八口、〔集解本作八田〕※[(企-止)/山]而視京、毎街竪楯、疑有伏兵、乃梢引還。按ずるに八口八田詳ならず、延喜式治田神社あり今高市村大字岡の宮山に在り、此か、※[入/山]は古字登に同じ。
補【古京】○大日本人名辞書 大伴吹負は天武帝の東国に入るや、吹負留りて従はず、親族豪傑と結びて数十人を得たり、時に留守司高阪王、飛鳥山の西に営す、吹負詐りて高市皇子と称し兵を率ゐて飛鳥寺の北に出で、高阪王の営に臨む、営兵之を聞て逃走す、吹負使を発して不破に遣し、之を奏せしむ、天武帝大に喜び吹負を拝して将軍と為す、吹負将に近江を襲はんとす、乃ち乃楽に赴く、稗田に至る比ひ二人あり、近江の軍河内より至ると伝ふ、吹負龍田大坂石手の三道を探り自ら乃楽山に屯す、荒田尾赤麻呂曰く、古京〔飛鳥岡本宮という〕は是れ根本の地なり守らざるべからずと、吹負即ち赤麻呂忌部子人を古京に遣す、赤麻呂等橋を毀ちて盾と為し、街衢を列ねて守る、明日吹負大野果安と乃楽山に戦ひて敗績し、僅かに身を以て免る、果安迫て八口に至る、街衢に盾を列ぬるを見て、其備あらんことを恐れ、兵を率て還る。
小墾田《ヲバタ・ヲハリダ》 或は小治田に作る 飛鳥の異名同地なり、故に或は飛鳥岡本宮〔日本書紀〕又小治田岡本宮〔続日本紀〕の名あり、然れども飛鳥は広く及ぼし、小墾田は狭く限れり。雷岳豊浦岡本の辺を指したるに過ぎじ。河内国船氏墓版に乎婆陀に作る。
日本書紀云、安閑天皇、以小墾田屯倉、与毎国田部、給賜妃紗手媛。古事記、建内宿禰之子、蘇我石川宿禰者、小治田臣等之祖也。欽明紀云、蘇我稲目宿禰、小墾田家、安置仏像云々。姓氏録、小治田朝臣、蘇我稲目宿禰之後也。又云、小治田宿禰、物部石上同祖、欽明天皇御代、依墾小田鮎田、賜小治田大連。
補【小治田京】○天武紀〔元年〕我(大伴吹負)詐称高市皇子、率数十騎自飛鳥寺北路出之臨営、乃内応之、云々、爰留守司高坂王、及興兵使者穂積臣百足等、拠飛鳥寺西槻下為営、唯百足居小墾田兵庫運兵於近江、時営中軍衆開熊叫声悉散走、云々、壬辰、将軍吹負屯于乃楽山上。時荒田尾直赤麻呂啓将軍曰、古京是本営処也、宜固守、云々、解取道路橋板、作楯竪於京辺衢以守之、発巳、将軍吹負与近江将大野君果安戦于乃楽山、為果安所敗、軍卒悉走、将軍吹負僅得脱身、於是果安追至八口(集解、作八田)※[(企-止)/山](信友云、※[(企-止)/山]訓ノボリ)而視京、毎街竪楯、疑有伏兵、乃稍引還之。〇八田は即治田なるべし。
雷《イカツチ》 飛鳥村大字雷は、日本書紀並に霊異記|小子《チサコ》部栖軽(一作螺贏)雄略天皇の詔命を宣べて雷を豊浦と飯岡の間に捕獲したりと伝ふる地なり。雷岡あり、神岳《カミヲカ》又神奈備三諸の別称を負ふ。
補【雷】○奈良県名勝志 気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社二座、飛鳥村大字雷の北端にあり、境内三坪、今九頭明神と称す。〇三座なるべし。清和天皇実録に曰、貞観五年大和国従五位下気吹雷神、従五位下響雷神並に官社に列すと、或は云ふ、九頭は国栖の訛なりと。○神祇志料 気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社二座、今飛鳥川の東雷土村雷岡にあり、九頭明神と云(大和志・神名帳考証)
按、大和国神名帳略解に本社もと吉野郡国栖村にあり、後波多郷稲淵山に移す、又按、九頭は国栖の転音也
気吹雷響雷神、吉野大国栖御魂神を祭る(延喜式)吉野大国栖御魂神は蓋吉野国栖部の祖盤穂排別神也(日本書紀・新撰姓氏録)
按、文安三年神名帳注解、盤穂排別神の子とす、姑附て考に備ふ
雷岡《イカツチノヲカ》 古事記諸云、書紀雄略巻に「天皇詔少子部連螺贏曰、朕欲見三諸岳神之形、或云此山之神為大物主神也云々」此古事記霊異記にも委く見えて、三諸岳即出雲国造賀詞の飛鳥之神奈備山と云所なり、三輪山と混ふべからず、万葉集十三、登神岳山歌、三諸乃神名備山とも神名備乃三諸山ともよめる皆此にて、神岳とも雷岳とも云、飛鳥神社もとそこに坐しけるなり、天長六年今の鳥形山へ移し奉る。今按ずるに雷岡の神奈備山は出雲国造賀詞に「賀夜奈流美命乃御魂乎飛鳥乃神奈備爾坐」とあるに当り、延喜式加夜奈留美命神社は天長六年本社移転後尚旧祀を存したる者に似たり、古事記伝神祇志料に加夜奈留美命神社は雲梯社なりと為す者恐らくは穿に失する論なるべし。(日本書紀、天武天皇朱鳥元年、天皇不予、奉幣飛鳥四杜とあるは鳥形山遷坐以前、雷岳の事なり)
天皇(天武)御遊雷岳之時、柿本朝臣人麿作歌
おほきみは神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも〔万葉集〕
神山の山下とよみゆく水の水尾の絶えずは後もわがつま〔同上〕見渡せば白ゆふかけてさきにけり神をか山の初さくら花〔玉葉集〕
三垣山《ミカキヤマ》は雷岳の辺に在るべし、柿本人丸詠鳴鹿歌あり
三諸の神辺山に立向ふ、三垣の山に、秋はぎの妻をまかむと、朝づく夜あけまくをしみ、足引の山びことよめ、喚立て鳴くも、〔万葉集〕
垣田池《カキタノイケ》は書紀通証に曰く応神紀に鹿垣《シシガキ》池を作る事見ゆ、神代巻一書に天垣田とあると同く垣を繞らせる天子の御田を云ふ、万葉集に「神奈備の清き御田屋の垣津田の池」とよむ、今飛鳥村に在り云々。彼三垣山も同類の語か。
国栖《クズ》神社 延喜式、気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社二座とありて、今雷村の北に纔に存す、九頭《クヅ》明神と云ふ〔県名勝志〕三代実録、貞観元年気吹雷神響雷神官杜に列すとあり、蓋雄略帝雷丘の故事に因る、之に国栖部の祖神を配し都て三座なるべし、国栖部は吉野郡の古住民たる事、日本書紀姓氏録に詳なり。
八釣《ヤツリ》今飛鳥村大字八釣なり、顕宗天皇近飛鳥八釣宮は此なるべし。古事記伝云、伊邪河宮(開化)段「御子日子坐王之子、神大根王亦名八瓜入日子王。又遠飛鳥(允恭)段「御子八瓜之白日子王」〔日本書紀、八釣白彦皇子〕八瓜は夜都理と訓べし、こは高市郡八釣村なるべし。
献新田部皇子歌
八釣山木だちも見えずふりみだる雪はだらなるあした楽しも、〔万葉集〕 柿本人麿
近飛鳥八釣《チカツアスカヤツリ》宮 顕宗天皇の皇居なり、飛鳥村八釣なるべし、允恭天皇の遠飛鳥に対して別異せる称ならん。古事記に倭の山口大坂を近飛鳥(今河内国南河内郡駒谷村飛鳥)と称する由見ゆる所あれど之と異なり。古事記云、遠祁之石巣別命、(顕宗帝)坐近飛鳥宮、治天下捌歳也、日本書紀云、顕宗天皇元年、於近飛鳥八釣宮即位。
飛鳥川《アスカガハ》 高市郡|稲淵山《イナブチノヤマ》に発源し、飛鳥村を経て北流、磯城郡に入り大川に合す、長凡八里。古事記八釣宮(顕宗)段云、初天皇逢難逃時、求奪其御粮猪甘老人、是得求喚上而、斬於飛鳥河之原。
阿須箇我播みなぎらひつつゆく水のあひだも無くも念ほゆるかも、〔日本書紀〕 斉明天皇
飛鳥川七瀬の淀にすむ鳥もこゝろあれこそ波たてざらめ、〔万葉集〕あすか川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ、〔古今集〕
甘檮岡《アマカシノヲカ》 飛鳥村大字豊浦に在り、誓盟の神古より此に鎮坐し探湯《クカダチ》の事ありし所なり、「弘仁私記云、今高市郡有釜是也」と見ゆ、後世揚釜亡ぶと雖神社猶存す。日本書紀、皇極天皇二年、蘇我大臣蝦夷児入鹿臣、双起家於甘檮岡、称大臣家、曰|宮門《ミヤト》、入鹿家曰|谷宮門《サハノミカド》 甘檮は或は味橿、又甘白檮に作る。
甘樫《アマカシ》坐神社は延喜式四座并大社と為し、三代実録授位の事見ゆ、土俗推古天皇と称すと云へり。〔大和志〕神祇志料云、甘樫坐神社蓋|八十禍津日《ヤソマガツビ》神大禍津日神神直毘神|大直毘《オホナオビ》神を祀る、〔参酌古事記文安三年神名帳注解及社説本社伝説〕此八十禍津日神大禍津日神は伊邪那岐命黄泉国の穢き汚れに依りて成坐る神也、故天下の万づの禍事悪事は此神の御霊より起り、神直日神大直日神は其禍を直さむとして成坐る神也、故天下の禍事悪事を直し給ひ見直し給ふ御霊に坐り、〔古事記参取延喜式祝詞〕垂仁天皇の御世|本牟智和気御子《ホムチワケノミコ》の為に、使を遣して甘白檮の前なる葉広熊白檮を宇気比枯し誓い生し、允恭天皇の御世天下の氏々の氏姓を正し給ふ時に言八十禍津日前《コトヤソマガツヒノサキ》に玖珂瓮を居て、其違過まてる氏姓を定玉へるも、蓋皆此神に祈りませる也。〔古事記、日本書紀〕
飛鳥《アスカ》神社 飛鳥村|鳥形山《トリガタヤマ》に在り、延喜式四座并大社と云者是なり。旧|雷岡《イカツチヲカ》の三諸に鎮坐し飛鳥神と称す。出雲国造神賀詞に拠れば、大物主神杵築宮に静まり御子賀夜奈流美神の御魂を飛鳥神奈備に坐させて皇孫の近き衛護と為したまふと云者にして、日本書紀には三諸岳の神は大物主ぞとある皆是也。他の二座は蓋味耜高彦根と事代主なるべしと云。(神祇志料)日本紀略、天長六年、高市郡賀美郷甘南備山飛鳥杜、遷同郡同郷鳥形山、依神託宣也。類聚三代格云、貞観十六年太政官符、応以大社封戸修理小社事、其祖神者貴而有封、其裔神則微而無封、仮令飛鳥神之裔、天太玉櫛玉臼滝加夜鳴比女四神此等之類是矣。按ずるに本社|鳥形山《トリガタヤマ》今甘南備とも称するは旧地の名を襲ぐものなり、裔社加夜鳴比女は雷岡の旧境に在来する者を指せり。飛鳥神境に今伊勢八十末社と称し伊勢神宮に擬せる祠あり、又飛鳥井あり、催馬楽詞に
飛鳥井に宿りはすべしかげもよし御水《ミモヒ》もよし御秣《ミマクサ》もよし、
酒槽石《サカフネイシ》は酒谷(本社南方)に在り、大石縦一丈五尺横五尺石面に槽《フネ》七道を形成す、相伝ふ本社の酒殿にて醸造の遺器なりと。
飛鳥山口坐神社は新抄格勅符安宿山口神、大同元年大和播磨の地十四戸を奉寄し、三代実録授位、延喜式大社に列す、今鳥形山の酒谷に在り。〔大和志県名勝志神紙志料〕
補【飛鳥神社】○奈良県名勝志 飛鳥村大字飛鳥字鳥形山にあり。日本紀に曰、天武天皇朱鳥元年秋七月乙亥朔、幣を飛鳥四社に奉ずと。日本紀略に曰、天長六年高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社を同郡同郷鳥形山に遷す、神の託宣に依てなりと。類聚三代格に曰、貞観十六年六月二十八日太政官符に、大社の封戸を以て小社を修理すべき事、其祖神は則ち貴て封戸あり、其裔神は則ち微にして封なし、仮令飛鳥神の裔、天太玉、櫛玉、臼滝、賀屋鳴比女の四神此等の類是なりと。域内八十九社あり、酒槽石は南方酒谷山にあり、長一丈、幅五尺、飛鳥神の神酒を醸したるもの、実に上古の遺物なり、飛鳥井は社務所の北にあり、社記に曰、神武天皇御馬の水を汲み給ひし所なりと。〔催馬楽、略〕社中所蔵の古物、八菱形古鏡、八握剣、古印、神鏡五面、刀剣六口、麒麟欄間等なり。
○神祇志料 飛鳥坐神社四座、昔加美郷神奈備山にあり(日本紀略)
按、日本書紀に三諸岳、延喜祝詞式に飛鳥之神南備山など見えたる処はみな同地にして、今飛鳥川に沿たる雷村に小山あり、此山を古へ神岳とも雷岳とも云し也と云ふ、姑く附て考に備ふ
故に又甘南備飛鳥社とも云り(日本紀)今飛鳥村にあり(大和志・祝詞・名所図会)蓋|賀夜奈流美《カヤナルミ》神、
按、類聚三代格賀夜鳴比女に作り、大和国神名帳略解に神南大飛鳥之日女神とある其何故なる事を知らずと雖ども、其姫神なる事明けし、故に今神南火飛鳥の文に因て之を記す
を主として大己貴命、味耜高彦根命、八重事代主命を祀る(参酌、延喜式・大和国神名帳略解)
按、諸書本社祭神を云ふもの一定の説なし、神名帳略解載する処、明快疑を容れず
初大穴特命杵築宮に静り坐時、御子賀夜奈流美神の御魂を飛鳥神奈備に坐させて、皇孫命の近き守神と奉り給へるは即此神也(延喜式)天武天皇朱鳥元年七月癸卯、使を遣して幣を飛鳥杜に奉り(日本書紀)淳和天皇天長六年三月己丑、神宣に依て高市郡賀美郷甘南備山社を同郷鳥形山に遷奉る(日本紀略)蓋今の地なり清和天皇貞観元年九月庚申、雨風の御祈の為に幣使を奉り(三代実録)醍醐天皇延喜の制四座並に名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る(延喜式)凡そ其祭正月十一日、十一月朔日を用ふ(奈良県神社取調書)
飛鳥寺《アスカデラ》址 蘇我馬子の本願に依りて真神原に興立し、法興寺又元興寺と号す。続紀に養老二年八月新京に移す事見ゆ、蓋之を平城左京新元興寺に併せたるなり。而も故地には別院を遺して、本元興寺と称し治安中まで存す、今|安居院《アグヰ》(真言宗、号鳥形山、飛鳥大仏と称する者)、の北に本寺址礎石数多あり、墾破して田圃と為る、院の西に五輪古石塔あり、土俗入鹿墓と曰ふ。元亨釈書に「崇峻元年、蘇我馬子営法興寺、推古十四年寺成、今之元興寺也」とあるはすなはち飛鳥寺にあたる、又玉林抄に元興寺四門の額、南に元興寺北に法満寺東に飛鳥寺西に法興寺と掛られたりと記す、諸寺興立年を逐ふて成り一地に相並び遂に元興寺の大号の下に摂せしめたる者か、法満寺は今其寺名を遺す(真宗を奉ず)とぞ。色葉字類抄云、元興寺、推古天皇御願、建立於大和国武市郡、号本元興寺、寺家縁起云、崇唆天皇第二年己酉、聖徳太子与蘇我馬子大臣、武市郡建法興寺。
日本書紀云、崇峻天皇元年、蘇我馬子宿禰大臣軍敗而退、乃発誓言、凡諸天王大神王等、助衛於我、便獲利益、願当奉為諸天与大神王起寺塔、流通三宝、誓已而進、果殺守屋大連、平乱之後、蘇我大臣、亦依本願、於飛鳥地、起法興寺。又云、是歳百済国遣使、并僧恵※[てへん+(總-糸)]等、献仏舎利、又并献寺工、鑪盤博士、瓦博士、画工、馬子請百済僧等、問受戒之法、以善信尼等、付百済国使、発遣学問、壊飛鳥衣縫造祖樹葉之家、始作法興寺、此地名飛鳥|真神原《マガミノハラ》亦名飛鳥|苫田《トマダ》。(苫田邦音、与鳥形相近似、疑転訛為鳥形、)推古天皇十四年、鋼繍丈六仏像并造竟、坐於元興寺、金堂設斎。扶桑略記云、推古五年法興寺造了、今元興寺是也、天皇設無遮会供養之、紫雲降覆、合掌目送、語左右曰、此時感天、故有此祥、但三百年後霜露沾衣、五百年後堂殿亡矣。三十三年、高麗僧恵灌住元興寺、流布三論法門、建井上寺。又日本書紀、皇極天皇三年、中臣鎌子連求可立功名哲主、偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毬之侶。斉明天皇三年七月、作須弥山像於飛鳥寺、且設盂蘭盆会。又云、天武天皇元年、大伴連吹負、密与留守司坂上直熊毛議之、謂一二漢直等曰、我詐称高市皇子、率数十騎、自飛鳥寺北路出之、臨営、乃汝内応之、既而繕兵於百済家、先使秦造熊馳、謂寺西営中日、高市皇子自不破至、爰留守司高坂王及興兵使者穂積臣百足等、拠飛鳥寺西槻下為営、唯百足居小墾田兵庫、運兵於近江、時営中軍衆聞熊叫声、悉散走、吹負率数十騎、劇来喚百足、而殺之、喚高坂王而令従軍焉、遣使於不破宮、奏事状、天皇大喜、乃令吹負拝将軍。又云、白鳳九年、勅凡諸寺除国大寺二三、官莫治、唯基有食封者、先後限三十年、満削除之、是以飛鳥寺不可関于同法、而官恒治。十四年幸于浄土寺、〔書紀通証云即飛鳥寺〕持統天皇元年、請集三百龍象大徳等於飛鳥寺、奉施袈裟人別一領、此以先帝御服所縫作也。元亨釈書云、慧灌高麗国人、入隋受嘉祥吉蔵三論之旨、推古三十有三年、本国貢来、勅住元興寺。又云、道昭姓船氏、丹比郡人也、居元興寺、有戒行誉、白雉四年奉勅入唐、至長安謁三蔵玄奘、承禅法得悟解、業成還邦、又止元興寺。三代格、貞観四年官符云、此寺者仏法元興之場、聖教最初之地也、去和銅三年帝都遷平城之日、諸寺随移、件寺独留、朝廷更造新寺、備其不移間、所謂東元興寺是也。平城坊目考云、世俗|元興寺《ガゴゼ》と謂て小児を魘す、是れ元興寺鐘楼灘法師の故事にして、平城京の時に非ず、本朝文粋及神社考にも載せたり、元興寺は平城に移されしと雖その余堂倉廩等彼鬼頭と高市郡の古寺に遺存す、扶桑略記曰「治安三年十月、入道大相国道長詣紀伊国金剛峰寺、十八日奉札東大寺、興福寺元興寺、大安寺石上寺等、十九日御本元興寺開宝倉、令覧鐘堂鬼頭、忽難撰出、依物多事忙也、次御橘寺云々」文繁ければ其要を摘て、本元興寺悪鬼の事平城にあらざる証とするのみ。
真神原《マガミノハラ》 又真髪原に作る、飛鳥法興寺の地にて、鳥形山《トリガタヤマ》の下なり。日本書紀雄略巻崇峻巻に見ゆ、漢才伎の住所なり。姓氏録云、大和諸蕃、真神宿禰、出自漢福徳王也。書紀通証云、倭名抄、兼名苑云、狼一名豺、和名於保加美、蓋大神也、昔明日香地有老狼、土民謂之大口神、故其地名大口真神原、見風土記。
大口の真神の原にふる雪はいたくなふりそ家もあらなくに、〔万葉集〕
豊浦《トヨウラ・トヨラ》寺《テラ》址 飛鳥村大字豊浦に在り、飛鳥寺の南に接し、二寺一境を成したる者の如し。本名|建興《ケンコウ》寺と云ひ又小墾田寺と云ふ、初欽明帝の時蘇我稲目向原の家宅を捨て、精舎と為し向原寺と称せしが、物部守屋の焚く所と為る、厩戸王再興して葛木《カツラギ》寺と号す是也。和銅三年平城造都の時本寺猶故京に留存し、続紀霊亀二年元興寺を左京に移すとあるは建興の豊浦寺なるべし、而も此寺当時新元興寺に対し本元興寺と称し、飛鳥寺も亦本元興寺と称したるごとし。葛木寺と云は法王帝説、太子起七寺(中略)葛木寺賜葛木臣と見え、蘇我氏即葛木臣なり。太子伝暦に葛城寺又名妙安と曰へり、而て大和志に「故葛木寺、在葛上郡朝妻村」など説くは採るべからず、葛木寺豊浦寺の一所なることは霊異記并に催馬楽に伝ふる歌詞に徴して明白とす。大和志又云、広厳寺、在高市郡豊浦村、旧作向原、又名豊浦寺と、此広厳は向原の音カウゲンを転じて後世かく改めたる者のごとし、今も難波池の西に僧堂坊舎ありと。
朝日刺、豊浦寺の西なるや、桜井に押てや押てや、桜井に白玉しづくや、云々〔霊異記、白壁天皇治天下之表、挙天下而歌之、〕
葛城の寺のまへなるや、豊浦の寺のにしなるや衣《エ》の波井《ハヰ》にしらたましづくや、云々〔催馬楽葛城〕
日本書紀云、欽明天皇十三年、蘇我稲目宿輔、浄捨|向原《ムクハラ》家為寺、会疾疫大行、大連物部守屋等奏、以仏像流棄難波堀江、復縦火於伽藍焼尽。〔扶桑略記云、向原榴木原也〕榴木牟久木也、日本書紀云、舒明天皇之時、山背大兄王向京、而居豊浦寺、持統天皇二年、為先帝設無遮大会於五寺、大官飛鳥川原小墾田豊浦(五字一寺名也)坂田。三代実録、元慶六年、太政官下符大和国司、※[にんべん+(稱−のぎへん)]、散位宗岳朝臣木村等言、建興寺者、是先祖大臣宗我稲目宿禰の処建也、本縁起文具存灼然、望請宗岳氏検領、而彼寺別当伝燈大法師位義済確執曰、太政官仁寿四年符※[にんべん+(稱−のぎへん)]、彼寺推古天皇之旧宮也、元号豊浦、敢為寺名、凡厥縁起具存前志、仏法東流最始於此、其田園奴婢施入之田、勅誓堅懇、銘之金盤、頃年堂龕頽破、尊像暴露、綱維不勤、勾当有懈、仏物僧物還致俗用之訟、習而不悛、恐乖御願、又貞観三年符※[にんべん+(稱−のぎへん)]、彼寺本自無有俗別当、而今特置之、寺中諸事触途為損、早従停止者、宗我稲目宿禰以家為仏殿、天皇賜其代地、遂相移易、施入皇宮、稲目宿禰奉詔造塔、然別建興寺、之建、出自御願、不可為宗岳氏寺明矣、官商量宜停氏人検領之望、不得重致寺家之愁。
桜井《サクラヰ》 書紀通証云、向原寺今日広厳寺、在豊浦村、傍有井曰桜井、又名榎葉井。続日本紀、宝亀元年童謡曰、
葛城寺の前なるや豊浦寺の西なるや(オシトドトシトド)桜井に白璧しづくや好璧しづくや(オシトドトシトド)しかしては国ぞ昌ゆるや吾家らぞ昌ゆるや(オシトドトシトド)、時井上内親王為白壁皇子妃、識者以為井則内親王名、蓋白壁天皇登極之徴也。
按に当時豊浦寺は平城京に移されたれど、旧地の桜井に因みて此童謡あり。其旧曲は「白玉しづくや」と曰へるを白玉と白壁白亀は音相通ずるに依り、続紀に載する詞章のごとく改められしにや、催馬楽には白玉と謡ふと曰へば旧曲なるべし。法王帝説裏書云、庚戌(崇峻帝三年)学問尼善信等自百済還、住桜井寺、今豊浦也。又推古紀云、二十年、百済人味摩之帰化、曰学于呉、得伎楽※[にんべん+舞]、則安置桜井、而集少年令習。又按に朴井《エノヰ》と榎葉井は一所にて桜井に同じかるべし、推古紀、二十四年、掖玖人帰化、先後并三十人、皆安置於朴井。氏族志云、榎井氏、物部之属、孝徳帝時、有物部朴井連稚子、天武帝時、有朴井連雄君、為壬申功臣、賜氏上、〔日本書紀〕本族自是自興、文武帝二年大嘗、直広肆榎井朝臣倭麻呂(代本宗物部氏)竪大楯、(続日本紀参取日本紀)是後榎井氏与石上氏、世掌其事、(貞観儀式)元正帝時、従八位下榎井連※[てへん+(上/下)]麻呂賜朝臣。〔続日本紀〕日本書紀、欽明帝十三年、以向原家仏像、流棄難波堀江。玉林抄云、堀江は豊浦寺の東の仏門の尚東、飛鳥川の西の入江是也、今かすかに遺れり、昔は広くして海にたとへ、浦にことよせて或は豊浦と云ふ。按に古史難波堀江と明記す、其摂州の津頭を指すこと必然とす、玉林抄の説採るべからず。
補【向原寺】〇三十三所図会 広厳寺は豊浦村難波の池の傍にあり、今廃して小堂一宇、僧舎一坊存す、又向原寺に作る、又の名豊浦寺と云ふ、傍に井あり、桜井と云ふ、又の名榎葉井と云、一説に向原寺は河内国古市郡向原山西琳寺也、初め向原寺と云しを後西琳寺と改むと云、又向原寺は蘇我稲目宿禰に始まり、蘇我の馬子造り加へて石川の精舎となし、守屋大連焼き払ひての後元興寺となしけると云ふ、然れば向原寺の旧地不詳、旧跡幽考に曰、或和尚元和年中の著作の書に、向原寺の跡は曲川の辺にありと云々、此義に従へば初め向原寺は曲川の辺にありて後石川に移して石川の精舎と云ひけるにや、又日本紀に守屋大連焼き払ふ体を思ふに、向原寺石川精舎大野丘の塔、同所の様にも見へ侍る云々。
葛木寺 法王帝説云、太子起七寺、四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺、池尻寺、葛木寺(賜葛木臣)○元興寺なり。
○日本後紀、延暦十八年二月乙未、贈正三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造和気朝臣清麻呂薨、本姓磐梨別公、右京人也、後改姓藤野和気真人、清麻呂為人高直、匪窮之節、与姉広虫共事高野天皇、並蒙愛信、云々、姉広虫及笄年、許嫁従五位下葛木宿禰戸主、既而天皇落餝、随出家為御弟子、法名法均、授進守大夫尼位、委以腹心、賜四位封并禄位田 宝字八年、太保恵美忍勝叛逆伏誅、連及当斬者三百七十五人、法均切諌、天皇納之、減死刑以処流徒、乱止之後、民苦飢疫、棄子草間、通人収養、得八十三児、同名養子、賜葛木首。
豊浦宮《トヨウラノミヤ》址 三代実録によれは推古帝十一年小墾田新宮に移御ありて十四年元興寺を旧宮に置かれし者の如し、然らば蘇我氏の向原宅豊浦宮元興寺同所たるべし、推古帝豊浦宮に即位したまひ、十一年間の皇居なり。
堤をば豊浦の宮につきそめて世々を経ぬれど水はもらさず、〔新勅撰集〕 貞信公
川原宮《カハラノミヤ》址 河辺《カハベ》宮同処にして、川原寺の地たるべし、今高市村大字川原に在り、飛鳥川の西岸豊浦の南なり。日本書紀、孝徳天皇白雉四年、皇太子(天智)奉皇祖母尊(斉明)往居于飛鳥河辺宮、五年鼠従難波向倭都而遷、又云、斉明天皇元年、災飛鳥板蓋宮、遷居川原宮。
川原寺《カハラデラ》址 高市村大字川原に在り、一名|弘福《グブク》寺と曰ふ斉明天皇の造立にして其皇居たり、川原又河辺宮と称す。日本書紀 白雉四年、画工狛竪部子麿※[魚+即]魚戸直等多造仏菩薩、安置於川原寺。天武天皇二年、聚書生、始写一切経、於川原寺。続日本紀云、天平感宝元年、定諸寺墾田地、弘福寺五百町。三十三所図会云、淳和天皇弘仁九年、川原寺を弘法大師に給はり、高野より都に通ひ給ふ道の宿りにせられよとの勅ありと、水かゞみに著せり、爾有て寺の東南院に折々住居せしとぞ、其院は程ふるまでも残りたりしが、定恵和尚の住給ひし西南院は無なりけるよし、玉林抄に見えたり、今は唯名のみ残りて、幽かに草堂一宇を古跡とす。
橘《タチバナ》 高市村大字橘は飛鳥川の上游にして、稲淵の北なり。雄略帝后草香幡梭姫は後名を橘姫と申す此地に居たまふか。又用明天皇は橘豊日命と称し奉る、古歌橘花降里と詠ぜり、聖徳太子一寺を創め今に存す、菩提寺と曰ふ。
橘寺《タチバナデラ》 今仏頭山|上宮院《ジヤウグウヰン》と称し、聖徳太子の像を置く堂塔旧観なしと雖尚僧舎数宇あり、寺伝に用明天皇の別宮址と為す、或は然らん、天皇は橘豊日と号したまへり。仏頚山《ブツトウサン》は寺傍の丘を曰ふ、丘下池あり。書紀通証云、太子伝曰、推古十四年、皇太子勝鬘経講説之夜、蓮花零降、花長二三尺、而溢方三四丈之地、即於其地、誓立寺堂、是今之橘樹寺也。橘寺興立の事は法王帝説に見え、日本書紀に「白鳳九年、橘寺尼房失火、以焚十房」とあり、元亨釈書に一名菩提寺と為す。畝割塚《セワリヅカ》、建治四年古鐘(泉州深井善福寺)古燈籠等存す、石燈籠は僧舎の側に在り、仏像と十二支を刻めり、銘文なけれど古色多し、世に天下第一と称す。万葉集に「橘の寺の長屋の」と云句あり、又「橘の殿の立花」とあり皆此ならん、寺伝に聖徳太子此殿に誕生したまふとも云ふ。
たち花の寺のながやにわがいねしうなゐはなりはかみあげつらむか、〔万葉集〕
名にしおはばしばしやすらへほととぎす橘寺の夏の夕ぐれ〔月清集〕いにしへに誰袖の香をうつし置きて花たちばなの寺となしけん〔夫木集〕今こそは苔の下まで見えずとも空より花のふりしところぞ〔新撰六帖〕 〔月清集、未詳〕
扶桑略記云、治安三年、入道大相国(道長)次御橘寺、披覧宝物、今日恨所、不求得天雨曼陀羅花、太子講経時之瑞也、次漸向晩頭、次龍門寺。
補【橘寺】○史料叢誌に曰く、石燈籠の名物は橘寺に仏像と十二支をゑりたるが、年号をしるさざれども天下第一の古物といふべし、次に春日の祓殿社なるは火ぶくろに鹿の形あり、春日杜に火見形といふがあり、西屋、柚木、東大寺の八幡宮、三月堂、般若寺の文殊堂秋篠寺、春日の奥院、当麻の穴虫石などいとおほかり、元興寺に延元元年の燈籠あり、太秦に頼政の寄附といひ伝しがあり、大徳寺の高桐院に幽斎法印のめでたまへしがあり、ちかき比には泉涌寺の雪見形などきこゆ、江戸浅草竹町の渡の近所に六地蔵の石燈籠とて、鎌田政清がたてけりといふがあり、相模国筑井県下河尻村なる宝泉寺の観音堂には、建久二年の年号をしるせしがあり、云々。
野口《ノグチ》荒墓 橘寺の西大字野口(高市村に属す)荒墓あり其一所王之墓は元禄中之を以て天武持統の合葬陵に擬したり、石槨あらはれ棺なし、或は倭彦命の墓と為せり、之を去る遠からず鬼俎《オニノマナイタ》及|鬼厠《オニノカハヤ》と号する者あり石棺の委棄せられたるを斯く呼び習はす。野口荒陵は近年宮内省諸陵寮論定して大内陵と為し修理せらる、即天武持統合葬の寝所也と云ふ。文暦二年四月、高市郡大内山天武帝陵盗に穿鑿せられし事百練抄、帝王編年記、并に明月記に見ゆ、古事類苑に高山寺文書|阿不幾乃《アフキノ》山陵記を援く、穿鑿の始末最詳なり、曰く阿布幾乃陵は大内山陵なり、諸陵雑事注文に大和青木天武天皇御陵とあり云々、記云
里号野口□□□□
盗人乱入事文暦二年三月廿日甘□□両夜入云
件陵形八角、石壇一通一町許歟、五重也、此五重の峰有森、十余株、南面有門、門前有石橋、此石門を盗人等纔人一身通許切開、御陵の内、有内外陣、先外陣方丈間許歟、皆馬脳也、天井高七尺許、此も瑪脳無継目、一枚を打覆云、内陣の広南北一丈四五尺東西一丈許、有金銅妻戸、広左右扉各三尺五寸七尺、扉厚一寸五分高六尺五寸、左右腋柱またまぐさ鼠走、冠木已上金銅扉の金物、大小六、形如蓮花、こふの獅子也、内陣三方上下皆馬脳歟、朱塗也、御棺張物也以布張之入角、朱塗長七尺広二尺五寸許深二尺五寸許也、御棺蓋は木也、朱塗、御棺床の金銅厚五分、互上を彫透左右尻頭に十二、くりかた尻頭に六、御骨首は普通よりすこし大也、其色赤黒也、御脛骨長一尺六寸、肘長一尺四寸、御棺内に紅御衣の朽たる少々在之、次皿人取残物等被移橘寺内、石御帯一筋其形は以銀兵庫※[金+巣]にして、以種々玉飾之、石二あり、形如連銭、表手石長三寸、石色如水精、似玉帯、御枕以金銀珠玉飾之、似唐物、其形如鼓、金銅桶一、納一斗詐歟、居床、其形如礼盤、※[金+巣]少々くりかた一在之、又此外御念珠一連、三匝の琥珀、以鋼糸貫之而多武峰法師取了、又彼棺中に銅かけかけ二在之、已上。
又明月記に「天武天皇大内山陵云々、只白骨相、又御白髪猶残云々、於女帝御骨者、為犯用銀筥、奉棄路頭了」などとありて、大内山の合葬陵たること当時其言説ありしを知る、然れども高山寺文書の委細なる検注に、二帝の御棺又は二皇の御骨のことを見ず、野口里の青木墓の真に大内山陵たりや否やは尚疑ふべし、且延喜式に檜隈大内山陵と号し奉るに拠れば其檜隈の地たること最確実なり、野口の青木墓は飛鳥の橘の地にして山谷相隔てゝ全く別境とす、後の識者の考按をまつのみ。(阿布幾乃山陵記に馬脳石と云ふは、石をばセメント以て畳みたるを見て斯く述べしならん、古墓には往々※[石+專]瓦を以て造れるごとき精巧なる窟室ありと云ふ)
島《シマ》 高市村橘に接し島荘《シマノシヤウ》と云大字あり、古は橘の島と称したり。帝王編年記に「高市郡飛鳥岡本宮島東岡地也」見ゆ、是也。日本書紀云、推古天皇三十四年、蘇我馬子大臣薨、仍葬于桃原墓、大臣則稲目宿禰之子也、家於飛鳥河之傍、仍庭中開小池、乃興小島於中、故時人曰島大臣。書紀通証云、島荘村有荒墳、疑是桃原墓也、又宅址在同村。桃原《モモハラ》雄略巻にも見ゆ。
島山にてる立花をうずにさし仕へ奉るはまうちぎみたち、〔万葉集〕
島宮《シマノミヤ》址 高市村島荘に在るべし、天武天皇の別宮にして皇太子草壁亦此に御す。日本書紀、天武天皇元年、天智帝授鴻業、乃辞譲之、即日出家、入吉野宮、自菟道(宇智郡)返、或曰虎著翼放之、是夕御島宮、又云、捷後車駕詣于倭京、而御于島宮。白鳳五年天皇御島宮、宴射手、同十年、周防国貢赤亀、乃放島宮池。
島の宮勾の池のはなちどり人目に恋ていけにかづかず、〔万葉集〕御立しの島をも家と住む鳥も荒びな行きそ年かはるまで、〔同上〕つれもなき佐太の岡べにかへりゐば島の御橋にたれかすまはむ、〔同上〕東の多芸の御門にさもらへどきのふもけふも召すこともなし、〔同上〕ひとひには千たび参りし東の太寸の御門を入りがてぬかも、〔同上〕
此の東の滝の御門と云ふも、島宮の別殿なるべしと思はる。
播磨風土記標注云、島宮の号は天武紀に屡見えて、万葉集巻二に「高光我日之皇子乃、万代爾国所知麻之、島宮婆毛」、是は天武天皇の皇子草壁皇子の坐し給ひし宮にて、此皇子持統天皇三年四月に薨じ給ひしを傷奉れる歌也、然るに爰に天皇としも称奉れるは、朱鳥元年に天武天皇崩給ひ翌年を持統元年として、其四年に持統天皇位に即き給ひしかば、三年の間は此皇子皇統を継ぎ給ひし事疑ひなし、然るを明治に追謚に洩たるは口をしき業也、続紀天平宝字二年の詔に「日竝知《ヒナミシリ》皇子命、天下未称天皇、宣奉称岡宮天皇」と宣ひ、紹運録には長岡天皇と記し奉れり、日竝知皇子とは此草壁皇子を申す、播磨風土記には歴然と島宮御宇天皇とあり。
高ひかる吾日の皇子のいましせば島の御門は荒れざらましを、〔万葉集〕
稲淵《イナフチ》 或は蜷淵《ニナフチ》に作る、今高市村大字稲淵是なり。日本書紀、用明天皇二年に南淵坂田寺とあり、坂田村(今高市村大字)相接す、日本紀略、弘仁十四年、坂田朝臣弘貞改姓、賜南淵朝臣。和名抄、蜷俗訓美奈とありて、姓氏録云「右京皇別蜷淵真人、出自謚用明天皇皇子殖栗王也」又続日本紀、藤原宇合子田麿隠蜷淵山、世称蜷淵大臣。又冠辞考云、和名抄、河貝子美奈とありて古は饗に供し者也、
御食向ふ南淵山のいはほにはちれるはだれかきえ残りたる、〔万葉集〕
日本書紀 皇極天皇元年八月、天皇幸南淵河上、跪拝四方、仰天而祈雨。玉林抄云、南淵山は橘寺より五十町許にて、滝の名所なり。按ずるに延喜式に高市郡滝本神社字須多岐神社あり、共に飛鳥川の水上南淵に在る者ならん。
臼滝《ウスタキノ》神社は今稲淵に在り、宇佐宮と曰ふ。〔大和志〕類聚三代格に臼滝は飛鳥神の裔社と為し、延喜式に飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社とあるもの是也。大和志云、龍福寺、在稲淵村界内、有墓表、文字頗剥減、其中曰、「二位竹朝臣墓天平勝宝三年歳次辛卯四月三日葬于朝風南」
日本図経云、高市郡稲淵村、龍福寺、石浮図処、有竹野王墓碑、正書四行、前二行各八字(天平勝宝三年歳次辛卯四月廿四日丙)三行一字(子)四行六字(従二位竹野王)又共石浮図、凡四層、上第一層、高九寸五分方一尺一寸、有半蓋石厚五寸方一尺四寸、(中略)第四層高尺六寸万一尺四寸五分、墓石厚七寸方二尺七寸、惟此層有字、正面今不之見、右側有字五、而不可弁、右側僅有昔阿育三字。
日本書紀云、皇極天皇三年、中臣連鎌子既与中大兄相善、倶手把黄巻、自学周孔之教、於南淵先生所。通証云、先生未詳其名、疑南淵朝臣之先也、今稲淵村有神明塚、或謂先生墓也。
補【蜷淵】○人名辞書 藤原田麻呂は宇合の第五子なり、天平中兄広嗣の不軌を諌るに坐して隠岐に流さる、居ること三年、赦に遇ひて帰る、蜷淵山に隠れて時事に与らず、心を古典に潜む、廃帝の六年聘唐副使に調ぜらる、国家多難にして果さず、延暦元年右大臣に陞り二年官に卒す、年六十二、世に蜷淵大臣と称す(大日本史・日本儒林伝)
補【臼滝神社】○神祇志料 飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社、今稲淵村にあり、宇佐宮と云(大和志・奈良県神社取調書)蓋高津姫の命を祀る(本社伝説)高津姫命は胸形に坐す多岐津比売命也(古事記)
按、高津姫多岐津比売と多岐比売、音相近し、本社伝ふる処又極めて拠あり、其同神なること著し、姑附て考に傭ふ
蓋飛鳥神の裔神とす(類聚三代格)凡そ十月十日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
坂田寺《サカタデラ》址 高市村大字坂田にあるべし。書紀通証云、坂田寺一名小墾田坂田尼寺、万葉集小墾田之坂田、一書曰司馬達等居址。日本書紀云、用明帝疾病、司馬達子鞍部多須那進奏曰、臣奉為天皇出家修道、又奉造丈六仏像及寺、天皇為悲慟、今南坂田寺仏像是也。多武峰略記云、日本紀第二十二、推古天皇十四年夏五月五日、勅鞍作鳥即賜大仁位、因以給近江国坂田郡水田廿町焉、以此田為天皇作金剛寺、是今謂南淵坂田尼寺矣、太子伝上云、用明天皇二丁未年、仏工鞍部多須奈為天皇自身出家、造丈六仏像并坂田寺矣、承安二年八月四日、南淵坂田等永可為当寺之末寺由、賜長者宣、三年正月晦、彼寺本主木幡寺上座永厳、以坂田寺流記公験等永寄進当寺了。司馬達等継体天皇の朝に仏像を以て梁国より渡来し坂田原に廬居したる事扶桑略記水鏡及元亨釈書に見ゆ、本邦の仏像最初の所なり、達等の子多須那は河内鞍部の村主と為り其子を止利と曰ふ、一門力を興法に致す、推古天皇の止利を褒美したまへる詔旨、日本書紀に曰、朕欲興隆内典方将建仏刹、肇求舎利時、汝祖司馬達等便献舎利又於国無僧尼、於是汝父多須那、為橘豊日天皇出家、又汝姨島女初為諸尼導者、以修行釈教、今汝所献仏又合朕心、此皆汝之功也。
小墾田の坂田の橋のくづれなば桁より行かむな恋そ吾妹〔万葉集〕
歌人等中世に当り此坂田を板田に謬り換歌多し。扶桑略記云、継体天皇即位十六年壬寅、大唐漢人鞍部村主司馬達止入朝、即結草堂於高市郡坂田原、安置本尊、帰依礼拝、挙世皆云是大唐神也、然而非流布也。
上宮《カミノミヤ・ジヤウグウ》址 聖徳太子の上宮は池辺宮(今磯城郡安倍村)の辺なるべしとも思はるれど、扶桑略記、に曰ふ「厩戸皇太子居宮南、称上宮太子、今謂坂田寺、是其処也」と蓋豊浦宮の南の謂ならん。書紀通証云、推古元年、立厩戸豊聡耳皇子、為皇太子、令居宮南上殿、故称其名、謂上宮太子、今謂坂田寺、是其宮、所見暦録。
岡《ヲカ》 高市村大字岡は飛鳥に接し、今岡寺存し古の岡本宮址の地なり。岡は市往岡《イチキノヲカ》と称し、日本書紀には飛鳥之岡と云ひ、万葉集には高市之岡とも曰へり。姓氏録云、右京諸蕃、岡連、市往公同祖、百済曰図王男安貴之後也、鬼神因鬼感和之義、今代謂鬼室、廃帝天平宝字三年改賜百済公姓。
市往岡《イチキノヲカ》 或は逝回丘《イキキノヲカ》に作る、岡の里の高処の名なり。続日本紀云、神亀四年詔、僧正義淵法師、禅枝早茂、法梁惟隆、扇玄風於四方、照恵炬於三界、加以自先帝御世迄于朕代、供奉内裡、無一咎※[にんべん+((天+天)/心)]、念斯若人、年徳共隆、宜改市往氏賜岡連姓、伝其兄弟。
故郷豊浦寺尼私房宴歌
明日香河逝回の丘のあきはぎは今日ふる雨にちりかすぎなん、〔万葉集〕 丹比国人
治田《ハリタ》神社は延喜式大社に列し今岡村の宮山にある者是なりと云〔大和志〕小治田氏数流なり其中の祖神か。(小墾田を参考すべし)日本書紀、天武帝王申の乱に「大伴吹負、与近江将大野果安戦于乃楽山、為某所敗、於是果安至八口、(集解本作八田)登而視京、毎街竪楯、疑有伏兵、乃稍引還」とあり、此小墾田京を望視すべき八口は何地にや、八田の誤りと為せば八田《ハツタ》治田《ハリタ》相通ず。
岡本宮《ヲカモトノミヤ》址 今高市村大字岡の龍蓋寺蓋是なり。然れども本宮は或は小墾田宮又岡本宮後岡本宮等、同所異造の皇居なれば其詳今尽し難し、大和志に小墾田宮は豊浦なりと為せど従ひ難し、龍蓋寺寺説に治田神社及寺境は故宮なりと云ふに従ふべし。小墾田宮《ヲハリダノミヤ》址 日本書紀、推古天皇十一年、遷于小墾田宮。此朝廷には厩戸皇子摂政し、始て冠位を定め、朝礼を正し、憲法を布き、暦法を頌ち、、十六年隋国の使者を延見し、文物典章此時より観るべし、実に国勢推移の大時運際したり。
岡本宮《ヲカモトノミヤ》址 日本書紀、欽明天皇二年、遷於飛鳥岡傍、是謂岡本宮。書紀通証云、在岡飛鳥二村間、即逝回岡也、万葉集謂之高市岡本宮。
後岡本宮《ノチノオカモトノミヤ》址 日本書紀、斉明天皇二年、於飛鳥岡本、更定宮地、遂起宮室、天皇乃遷、号曰後飛鳥岡本宮。天武天皇元年自島宮、移岡本宮。
小治田岡本《ヲハリダオカモトノ》宮址 続日本紀云、淳仁天皇天平宝字四年八月、転播磨備前等※[米+(備の旁)]三千斛、以貯小治田宮、尋幸小治田宮。五年正月朔、廃朝、以新宮(平城)未就也、暫移而御小治田岡本宮。
板蓋《イタブキ》宮址 日本書紀、皇極天皇二年、自権宮移幸飛鳥板蓋新宮。斉明天皇元年、即位于飛鳥板蓋宮、是冬炎。通証云、在岡飛鳥二村間。按ふに中大兄皇子十二門を鎖し大極殿を囲み蘇我入鹿を誅斬したまへるは本宮の事とす、凡岡本宮の造営は多武峰上に至る迄園垣を繞らし山上に天宮《アマノミヤ》を起し、種々の興立あり、天平宝字中の宮殿も此旧※[てへん+(講−言)]に依る者ならん、今龍蓋寺に古楼門一宇あり、故宮の遺物と伝へり。
長等山風云、東大寺要録所引龍蓋寺記に拠れば、天智天皇岡宮を義淵僧正に賜はりて寺と為し龍蓋と云ふとぞ、此岡宮即岡本宮に同じ、草壁皇子(文武帝父)をも岡宮天皇と称し奉る即此宮地に御坐せしなり、神皇正統記紹運録などに岡本天皇を長岡天皇と記し奉るは岡を長岡とも云へるによりて然も称しならひたるなるべし、色葉字類抄に「岡寺、大炊天皇之時、越前国封五十戸施入」と見えたり。
岡寺《ヲカデラ》 法号|龍蓋寺《リユウガイジ》と曰ふ 寺説、天智天皇二年.後岡本宮を捨てゝ精舎と為し義淵法師に附与せらる本尊塑像丈六二臂の観音は空海の作にして、其胸中に天平宝字の聖主念持小像を納れたりと、按に拾芥抄に「善蓋寺、丈六土仏、高市郡、興福寺末、弓削法王造立之後未焼」とあるは、三十三所観音の一にして、即此岡寺なるべし、善は龍の誤ならん。本寺は荒敗の余今堂宇の存するもの、卑小にて宏大の状なけれど、古制を伝へ、其仏殿小楼景観るべし、其他山門僧房等は皆後世の修造也。三十三番第七の札所也、詠歌に
けさ見れば露岡寺の庭のこけさながら瑠璃の光りなりけり。
元亨釈書云、義淵之幼也、天智帝同皇子鞠育於岡本宮後出家、※[にんべん+昌]相宗、受其業者、行基道慈良弁宣教隆尊等也、又勅建営龍蓋寺龍門寺龍福寺、皆淵之構造也、大宝三年為僧正、神亀五年寂。
補【岡寺】〇三十三所図会〔詠歌、略〕天人浮刻一枚。酒槽岩は岡村の北三丁余東の山の方藪林の中にあり、上平面にして長凡一丈五尺許、幅五尺余、高さ凡四尺余。伝云、飛鳥神社の酒殿の古跡なりとぞ、按に古へ神に奉つる酒は斎して瓶に醸し、其瓶ながら奉るとぞ然れば古は今の如く槽にて絞りて造りしにはあらず、酒槽の由来怪かし。
浄御原宮《キヨミハラノミヤ》址 高市村大字|上居《ジヤウゴ》にありと云ふ、上居は浄御《キヨミ》を改作せる者なり。〔大和志書紀通証〕日本書紀、天武天皇営宮室於崗本宮南、遷以居是、謂飛鳥浄御原宮。又※[盧+鳥]野皇女(持統)及有天下、居于飛鳥浄御原宮。古事記伝云、書紀「天武十五年改元、曰朱鳥元年、仍宮曰飛鳥浄御原宮」とあるはトブトリとよむべし、朱鳥の祥瑞の出来たるをめで給ひて飛鳥《トブトリ》と名づけ給ふ、大宮の号をトブトリと云から其地名に冠せて飛鳥明日香と云ひ、終に枕詞の字を地名に用ひて書くこととなれり。万葉集名所考云、按に本来の地名は浄《キヨミ》にて、宮名に浄御原と負せしにやあらむ、されば歌詞には本のまゝ浄宮ともよめるなるべし略して云るにはあらず、巻一に「明日香清御原宮」巻二に、「飛鳥之浄之宮」云々、又
妹もわれも清之河のかはぎしのいもがくゆべき心はもたじ。
細川《ホソカハ》 高市村大字細川は浄御原宮の上方にして、多武峰に接す。天武紀、白鳳五年勅、禁南淵山細川山並莫蒭薪、とある者是也。
打手折《ウチタヲリ》多武の山霧しげみかも細川の瀬になみのさわげる、〔万葉集〕
滑谷岡《ナメノハサマ》 ○日本書紀、皇極元年、葬舒明天皇于滑谷崗。通証云、滑谷岡在|冬野《フユノ》、(今高市村大字冬野)翌年改葬于押坂陵。
磯城郡
磯城《シキ》郡 磯城は明治廿九年|十市《トイチ》式上《シキシヤウ》式下《シキゲ》三郡を合併したる地なり。古磯城県あり、実に今の郡境に当る。十市(田原本町外八村)式上(三輪村外七村)式下(都村外三村)総て一町二十村郡衙を三輪に置く、西北部は平坦にして、北葛城生駒二郡と水脈を以て分る、其山辺高市二郡の交界は村荘相接す、東南部は多武峰音羽山吉隠山等の山嶺を以て宇陀吉野と相限る、寺川初瀬川此間より発源し西北流して式下に至り皆|大川《オホカハ》に会注す。
磯城県主は古の大姓にして、其流二あり、一は黒速の裔にて其家綏靖帝以来数代の姻戚たり、孝元帝以降聞ゆる所なし、一は建新川命の族党なる物部にして垂仁帝以降に起る。惟ふに磯城県は十市県と接近し十市亦物部一党の邑なりければ、古書に二県相混同す。初め神武天皇磯城県主兄磯城を誅し弟磯城を以て県主と為す、(名を黒速と曰ふ)綏靖帝は師木県主祖の女河俣比売を納れ、安寧帝は磯城県主葉江の女阿久斗媛を納れ懿徳帝は磯城県主太真椎彦女飯日媛を納れ、孝霊帝は十市県主祖大目の女細媛を納れたまふ、〔古事記〕大目は日本紀磯城県主に作る。姓氏録、大和神別、志貴連、神饒速日命孫日子湯支命之後也。旧事紀云、日子湯支命五世孫伊賀色雄命子建新川命、倭志紀県主等祖、纏向珠城宮御宇(垂仁)天皇御世、為侍臣供奉。又云、伊香色雄命児十市根命、纏向珠城宮御宇天皇賜物部連公姓。又云、十市根大連之子物部印岐美連公、志紀県主等祖、志賀高穴穂宮御宇天皇(成務)御世為侍臣供奉。又按ずるに磯城とは石塁の謂なり、工芸志料云、石をならべて垣を成す是を志貴といふ、雄略天皇泊瀬朝倉宮に於て詠じたまふ「もゝしきの大宮」と云句あり、則皇居の周垣石を以畳み築き、城を成したるを云ふ。
補【磯城】○工芸志料垣を造ることは太古よりあり、而して其形状及製作並に一ならず、石をならべて垣となす、是を志幾といふ、柴を以て作るを布志賀垣《フシガキ》といふ、葉の着たる柴を以て造るを阿袁《アヲ》布志賀岐といふ、神武天皇大和の橿原の宮殿成る、垣を四面につくる、橿原の皇垣は其製造詳ならず、按ずるに志幾を築き其の内に柴を以て造るか、崇神天皇磯城に都す、是を瑞籬宮といふ、美豆賀岐とは稚木を皇城の域内にならべ植ゑて以て垣となすなり、後世に至ては方木及木板を以て造るも亦美豆賀岐といふ、垂仁天皇更に纏向に都す、是玉垣宮といふ、又珠城宮ともいふ、玉垣珠城は同義にして、並に皇城の城内の垣を美にするの名なり、此垣は何を以て造りしにか詳かならず、按ずるに、多麻賀岐を築くの語あり、後世に至ては神社の外垣を多麻賀岐といひ、内垣を美豆加岐といふ、而して並に木を以て之を造る、反正天皇河内の丹比《タヂヒ》に都す、柴を以て周垣を作る、故に之を丹比の柴籬宮といふ、皇居多く柴を以て垣をなす、清寧天皇の大和の磐余の甕栗宮は柴を以て垣となし、又欽明天皇の離宮の泊瀬の柴籬宮崇唆天皇の大和の倉椅の柴垣宮、皆柴垣を以て称す、凡て上古の皇居の周廻は石を以て畳て城となし、以て其域内を囲む、是を柴籬といふ、雄略天皇の御宇、天皇大和の泊瀬の朝倉宮に於て歌を詠じて曰、毛々志紀能淤富美夜比登波と毛々志紀は則皇居の周垣にして、衆石を畳て以て城となせるをいへるなり。
磐余《イハレ》 磐余は本高市郡及磯城郡南部に広被したる地名なり、然れども耳成川の辺即十市郡を中心となし其四近に及ぼせる者に似たり、故に磐余川磐余池は今安倍村に在り。日本書紀云、神武天皇、撃虜、有兄磯城軍布満於磐余邑。又云、磐余之地、旧名片居《カタヰ》、亦居|片立《カタチ》及我皇師之破虜也、大軍集而満其地、因改号曰磐余。片立又片居今所考なし。古書に石村《イハレ》に作るも同じ岩村《イハムラ》の略と云ふ。 ――――――――――
十市《トホチ・トイチ》郡 明治廿九年廃停して磯城郡へ合す、田原本町外八村なり。和名抄に止保知と訓じ、四郷に分つ、桜井村は旧城上郡より入れるなるべし。近代は止保知を止伊知に転じたりき。十市郡は古の十市県にして、日本書紀「孝安天皇皇后、注、一曰十市県主五十坂彦女五十坂媛也。又孝霊天皇皇后、磯城県主大目女細媛、一曰十市県主等祖女真舌媛也」など見ゆれば磯城の分地なるが如し、又旧事紀に物部氏の一祖十市根命垂仁帝の朝に物部連の姓を賜ふとあり、国郡制置の初に一郡と為る。十市は遠市の義か、十《トヲ》は止保に仮れるのみ。
池上《イケノヘ》郷 和名抄、十市郡池上郷。埋※[鹿/(弓+耳)]発香、天平宝字五年沽券、十市郡司池辺の解文に部内池上郷と載す、磐余池辺の地にして用明帝宮此に在り、今安倍村|香久山《カグヤマ》村是なり。姓氏録云、右京皇別、池上真人、出自謚敏達孫百済王也。又左京未定雑姓、池上椋人、謚敬達天皇孫百済王之後也。
磐余池《イハレノイケ》址 市磯池《イチシノイケ》とも称す、今安倍村大字池内香久山村大字池尻ありて、池塘は廃す。〔大和志〕古事記、玉垣宮(垂仁)段、御母等率御子本牟智和気命、遊状者、作二俣小舟、浮倭之市師池、率遊其御子。日本書紀、履仲天皇、作磐余池、又泛両枝船磐余市磯池、与后妃分乗而遊宴、時桜花落于御盞。磐余池は一名埴安池と云。
桜散る室の山風吹ぬらし市磯の池にあまる白波〔夫木集〕
稚桜《ワカザクラ》宮址 磐余の稚桜宮は市磯池の辺に在るべし大和志に池内(安倍村大字)と為せり。日本書紀「神功皇后摂政、都于磐余、注、是謂若桜宮」とあり。古事記伝云、若桜の名は履仲天皇の宮号にて書紀神功巻に「是謂若桜宮」と注したるは後人のさかしらに加へたるなり、彼紀に和加には稚字をのみ用て若と書る例なし、然るを又古語拾遺に神功の御世を稚桜朝と云ひ、履仲の御世を後稚桜朝と云るは誤なり。履仲紀云、即位於磐余稚桜宮、天皇泛船于磐余市磯池時桜花落于御盞、天皇異之、則召物部長真胆連、詔之曰、是花也、非時而来、其何処之花矣、汝自可求、於是長真胆連独尋花、獲于掖上室山而献之、天皇歓其希有、即為宮名、故謂磐余稚桜宮、其此之縁也。
甕栗宮《ミカクリノミヤ》址 清寧天皇の皇居なり、亦磐余に在り、蓋安倍村池内と云ふ。〔大和志〕甕栗の義亦詳ならず。清寧紀云、設壇場於磐余甕栗、陟天皇位、遂定宮焉。
玉穂宮《タマホノミヤ》址 継体天皇の皇居なり、亦磐余に在り。継体紀に(つぬさはふいはれのいけのみなしたふ)の歌詞あり、此宮址も安倍村池内の辺に外ならじ。日本書紀、継体天皇、遷都磐余玉穂、崩玉穂宮。常陸風土記云、石村玉穂宮、大八洲所馭天皇。(継体)按に玉穂は土地の名に取れる宮号ならん。
池辺宮《イケベノミヤ》址 用明天皇の皇居なり、又|双槻宮《ナミツキノミヤ》と曰ふ。大和志、宮址は長門邑今安部村(大字安倍)にあたると為せリ。日本書紀、用明天皇館於磐余、名曰池辺双槻宮。(続日本紀、作石村池辺宮)按ずるに双槻は槻樹の在りけるを以て名づけたる也「用明紀二年、※[田+比]羅夫連手執弓箭、就蘇我馬子大臣|槻曲《ツキノワ》家不離昼夜守護」とある槻曲家も宮傍にある者なるべし、万葉集には「池の辺の小槻が下の細竹《シヌ》」と詠ぜり、又「帝葬于磐余池上陵、後改陵于河内磯長陵」と用明紀にあれば、当時宮傍に仮殯の事ありし也。
磐余《イハレ》河 用明紀、二年夏四月、御新嘗于磐余河上。此川は耳成川の上流にて、山田寺の奥より発する者也。
磐余《イハレ》野 安倍村香久山の辺ならん、今其名なし。
うま人にいはれの野辺の花すゝきかたよりにのみなびく君かな、〔覚雅僧都百首〕
高佐士《タカサジ》野は磐余野と同処ならん、大和志に南浦(今香久山村)に在りと為す、古事記に神日本磐余彦天皇七媛と高佐士野に遊びたまふ事見ゆ。
山田寺《ヤマダデラ》址 安倍村大字|山田《ヤマダ》に在り、華厳寺《ケゴンジ》と曰ひ蘇我倉山田の建営なりき。日本紀、孝徳天皇五年、蘇我臣日向、※[言+(濳-さんずいへん)]倉山田大臣於皇太子、(天智)曰将叛、天皇将興軍囲大臣宅、大臣逃向於倭、大臣長子興志、先是在倭、(謂在山田家)営造其寺、大臣仍陳説於山田寺衆僧、及長子興志等曰、夫為人臣者、安構逆於君、何失孝於父、凡此伽藍者、元非自身故造、奉為天皇誓作、今我見※[言+(濳-さんずいへん)]身刺、而恐横誅、聊望黄泉、尚懐忠退、所以来寺使易終時、言畢、開仏殿之戸、而発誓曰、顧我生々世々不怨君主、誓訖自経而死。多武峰略記云、山田寺法号華厳寺、蘇我山田石川麿大臣安置十一面観音像長五尺、長元七年、検校善妙当大臣之忌日、始修法華八講、堂塔鐘楼経蔵等跡、今猶存之。扶桑略記、治安三年十月、入道前相国(道長)云々、次御山田寺、已以入夜、十九日覧堂塔、堂中以奇偉荘厳言語云黙、心眼不及、御馬一疋給僧都扶公、次御本元興寺、開宝倉令覧、中有此和子陰毛、鐘堂鬼頭忽難撰出、依物多事忙也。
東大谷日女《ヒガシオホタニヒメ》神杜は延喜式高市郡に列す、今安倍村大字山田に在り、大谷八幡と称す。〔県名勝志大和志〕書紀通証云、姓氏録、東漢文《ヤマトノアヤノ》直谷宿禰、漢別也。
阿部《アベ》 今阿部生田山田池之内の諸村合併して安倍と改む。姓氏録云、阿倍朗臣、孝元天皇々子大彦命之後也。書紀通証云、孝徳巻阿倍内麿臣、為左大臣、又有阿倍倉梯麿、二名同人、十市郡阿倍村倉梯村。(今多武峰村大字倉橋)姓氏録、阿倍朝臣の外に和安部《ヤマトノアベ》臣あり、大春日朝臣同祖、彦姥津命の後なり、是異流にして北葛城郡馬見村大字安部を本居とする者ならん。阿部は霊異記にも「自阿部、山田、追至豊浦寺西」とありて古より阿をのみ用ゐたり、今安に改む紛更の業なり。南山巡狩録に、興国二年辛巳正月、大和の国安倍山の城に於て吉野方官軍楠西阿蜂起するのよし京師に聞え足利直義佐々木近江入道に下知し彼城にむかはしむ、〔朽木氏文書〕又太平記巻廿六の楠正行参吉野条に、補将監西阿といふ人あり、毛利本には石楠将監西阿に作るこゝに見ゆる西阿も同人か、二月廿八日、大和国西阿城合戦あり、足利方渡辺源四郎実戦功を遂る。〔蠹簡集〕此安倍は馬見村か、又此なるにや、後の分別を期すと云ふのみ。
阿部文殊堂《アベノモンジユダウ》 安部村に在り、寺城に古墳多し、今崇敬寺知足院と称す。寺伝大化中創立、本尊文殊大士、是日本三文殊(奥州永井丹州切戸と合せ)其一とぞ、又大日堂あり。寺説に本尊文殊は堂の巽なる石窟|浅子《アサコ》の中より顕出すと云。元亨釈書云、承暦三年、暹覚結庵和州安部山、安部之峰、為精修之区者、覚之力居多。
香具山《カグヤマ》 今香久山に作る、山辺の諸村を合同して香久山村と称す。山は大字|戒外《カイゲ》に属し高凡十七丈、頂を天之指《アマノサシ》と呼ぶ、土質埴土なり、赤埴白埴と曰ふ。安倍村の北鴨公村の東なり、藤原宮址は山の西北に接す、此山天香山と称し或は高山賀久山に作る。続紀、文武天皇四年、字尼備、賀久山、成会山陵、及吉野宮辺樹木無故彫枯(此に賀久山と云ふは山陵号と聞ゆれど、賀久山に帝后の陵寝ありしを知らず、不詳)。
春すぎて夏来るらし白たへの衣ほしたりあまの香来やま、〔万葉集〕
万葉考別記云、大和国は山々四方に廻りたちて国の中は平かなるに、香具山|耳成山《ミミナシヤマ》畝火山の三つのみ各独り立て其あはひ各一里づつあり、物の三足あるが如し、藤原宮の跡所は此三つの山の中にて、香山へよりし也扨畝火は高く耳成はそれに次ぎ香具山は中に卑けれど形は富士の山を小さく作れる如くにて、往古四方の麓広く水木繁く万足りて美しかりければ、取りよろふ天の香久山とは詠めるなり、又此山の畝尾は西へも引、殊に東へは長く曳わたりけん今は其畝尾の形いささか残れるが、其畝の本につきて二町四方計りの池あり、是ぞ古の埴安《ハニヤス》の池の残れるなり、彼池より八町許東北に池尻村池内村てふ里の今あるは古の此池の大きなりし事知る可し、夫は後にかの畝尾を崩し池を埋めて田所とし里居をもなせし者なり、斯れば古の歌に其池を海原見てとも詠み給ひ、且つ彼山々の中に香具山はなだらかにて万便りあれば、登りて国見をもし給ひけん。
高市崗本宮御宇(舒明)天皇、登香具山望国之時御製
山常《ヤマト》には、村山あれど、取よろふ、天の香具山、のぼり立、国見をすれば、国原は烟立こめ、海原はかもめ立たつ、うまし国ぞ、あきつしま、八開跡のくには、〔万葉集〕
いにしへの事は知らぬを我が見ても久くなりぬ天の香具山、〔万葉集〕
天香山は神代巻に載せたれど天上の事とせば論及し難し。釈紀所引伊予風土記云「伊与郡、自郡家以東北、在天山、所名天山由者、倭在天加具山、自天天降時、二分而以片端者天降於倭国、以片端者天降於此土、因謂天山本也、其御影敬礼、奉久米寺」と、亦稽ふる所なし、此久米寺と云は大和にも伊予にも久米の地名あれば孰れとも定め難し。又添上郡|春日《カスガ》にも香山《カグヤマ》の地名ありて雷神を祭る、紀州鳴神郷にも香土《カクツチ》神社ありて神代巻の迦具土神八雷神の事と相捗る者のごとし。歌学者流の説に天香山は在所知る人なしと曰へり、亦以ある哉。神武紀に「夢有天神訓之曰、宜取天香山社(注云香山此云介遇夜磨)中之土、以造平瓮、而敬祭天神地祇、則虜自平伏」とありしは正く此地の故事にして、崇神帝の時武埴安彦亦此山の土を取り逆謀を為したり、蓋上古以来神秘の霊山と倣したる故也。又案ずるに万葉集中大兄天皇御詠に「高山《タカヤマ》は雲根火《ウネビ》ををしと耳梨と相争ひき」と詠じ、播磨風土記云「出雲国阿菩大神、聞大和国畝火香山耳梨三山相闘、此欲諫止、上来之時、到於此処、(播磨国)乃聞闘止」など見ゆれば、三山争競と云ふ故事は一の寓意ある諺なるべし。姓氏録云、香山真人、出自謚敏達天皇皇子春日王也、又香山連、出自百済国人達率荊員常也。
天香山神社は香具山の北麓南浦に在り、〔大和志〕神武天皇天香山社中の土を採らしめたまへるは此所と云、新抄格勅符、天香山櫛真知命と為し、延喜式元名大麻呂并天知神、三代実録太麻等野知神と曰ふ。神祇志科曰、延喜式、元名太磨止乃知神の誤にて、蓋|太兆《フトマニ》の卜事《ウラゴト》を掌り坐す神なりと。
補【櫛真知命神社】○神祇志料 天香山坐櫛真知命神社、
按、本書知字を脱せり、今新抄格勅符に拠て之を補ふ
元名大麻等乃知神と云(延喜式)
按、本書印本、大麻呂并天和神とあるは誤れり、今一本及三代実録に拠て之を訂す
今香具山の北南浦村にあり(大和志・名所図会)神皇産霊尊の御子櫛真乳魂命を祀る(尊卑分脈・度相氏系図)
按、尊卑分脈神魂命の弟津速魂命の子高千穂命の子居々登魂命の子天児屋根なれば、櫛真乳魂命は天児屋根命の曾祖父津速魂命の甥に当り坐神也、附て考に備ふ
蓋太兆の卜事を掌り坐神也(大和国神名帳略解、参取延喜式・釈日本紀大意)神武天皇天神の御訓に依て八十平瓮を造る時、土を天香山社中に取らしむ、蓋本社也(日本書紀)平城天皇大同元年神封一戸を充奉る、(新抄格勅符)
畝尾《ウネヲ》神社 延喜式、畝尾|都多本《ツタモト》神社、今香久山村大字|木之本《キノモト》哭沢杜《ナキサハモリ》是なり。〔大和志〕日本紀、神代巻一書云伊弉冊尊化去、伊弉諾尊哭之、涙堕而為神、是即|畝尾樹下《ウネヲノコノモト》所居之神、号哭沢女命。按ずるに本社は神代の故事に因み後世追祀したる者か、万葉集に人命を此に祈る事あれば、当時既に在りし者とす。
檜隈女王怨啼沢神社歌
哭沢のもりに三輪すゑいのれども我おほきみは高日知らしぬ、〔万葉集〕
姓氏録云、畝尾連、天辞代命子国辞代命之後也。
香山寺《カウセンジ》は香久山村|戒下《カイゲ》に在り、今興善寺に改め文珠院と号す、香具山の東麓に居る。帝王編年記に見ゆる香久山三学院は此か、天照皇大神の故跡と称せり。〔三十三所図会〕日本書紀、神代巻、天照大神発慍、乃入于天石窟、閉磐戸而幽居焉、注云天磐戸在香山。按ずるに神代の事人世を以て規律すべからざる所多けれど、香山の磐戸、畝尾の樹木の遺跡の如きは、史書撰述の当時既に此地なりと説ける者ありて、斯く注せる如し。
補【畝尾神社】○神祇志科 畝尾都多本神社、また哭沢神社といふ(万葉和歌集)今木本村哭沢森にあり、(大和志・名所図会)蓋哭沢女命を祭る、初伊弉諾尊其姫神の神去坐し時、哭泣流涕給ふ涙堕て神と化き、畝丘樹下に所居神啼沢女命即是也(日本書紀一書・古事記)古へ人命を此神に祈る者あり(万葉和歌集)醍醐天皇延喜の制、祈年祭に鍬靭各一口を加奉らしめき(延喜式)凡そ毎年八月廿六日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
補【香山寺】〇三十三所図会 香具山興善寺文珠院、戒下村にあり、真言宗、僧坊五宇あり、十市郡に属す、香具山の東麓なり、寺記に云、往古天照大神此地に於て秘法の要を現し、国を福し民を益し善く興す、故に号をなせり、中興の開基は隆俊上人、又豊臣秀吉公より令旨を給ふ、伽藍開基の記に見えたり、帝王編年記曰、香久山三学院と見えたり。
二階堂古址 天香具山の北表にありて、今は唯名のみ斗りなり、昔二階堂之に草創ありて〔脱文〕
香具山法然寺 南浦村にあり、今は浄土宗なり、本尊阿弥陀仏、脇士観音勢至等、共に鳥仏師作、少林院と号す。○聖徳の向山寺にあらずや。
埴安《ハニヤス》 香具山の麓の古名なるべし、今此名なし。古事記伝云、波爾夜須は埴※[黍+占]《ハニネヤス》なり、字鏡に「挺謂作泥物也、禰也須」と見ゆ、香山畝尾の地名なり。健埴安《タケハニヤス》神社は今香久山村大字|下八釣《シモヤツリ》に在り、延喜式に畝尾坐健土安社是なり。〔大和志〕蓋孝元皇子健埴安彦命を祭る、古事記伝神祇志料は之を以て土神《ハニノカミ》を祭ると為せど、健の名負ふを見れば皇子なるべし。古事記境原宮(孝元)段云、此天皇、又娶河内青玉之女名波邇夜須毘売、生御子建波邇夜須毘古命、この母子は此に住し給へるより、其名を取りたるならん。
埴安池《ハニヤスノイケ》は今香久山村大字|南浦《ミナミウラ》に纔に遺る、蓋古の大池の幾分なるべし、磐余池市磯池同所異名なり。再考するに万葉集に「埴安の御門の原」と詠じたるは藤原宮の事なれば香久山の北面にて磐余と異所なるべし。
高市皇子尊城上殯宮之時、柿本人麿和歌、
埴安の池のつゝみのこもり沼のゆくへも知らに舎人はまどふ〔万葉集〕
補【健土安神社】○神祇志科 畝尾坐健土安神社、今下八釣村にあり(大和志・名所図会)蓋土神波邇夜須毘古神、波邇夜須比売神を祭る(古事記)此神又埴安姫と申す(日本書紀及一書)神武天皇天神の教に因て此社中の土を取り、平瓮を造て天神地祇を祭り、八十梟帥平伏し給ひき(日本書紀)聖武天皇天平二年神戸租稲九十束を以て祭神料に充奉り(東大寺正倉院文書)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授く(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ九月三日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
多武峰《タムノミネ・タウノミネ》 今峰下の諸村を連合して多武峰《タウノミネ》村と云ふ、古はタムと呼びしを中世以降タウとと云ひ、又談武に作るにより、修して談峰談山と為したり、峰上に藤原鎌足廟あり。この談峰は磯城郡の南限にして西は高市郡東は吉野郡とす、澗水北流して倉橋川に入り寺川《テラカハ》と為る。斉明天皇田身の峰上に離宮を造り給ひ持統文武又行幸あり二槻宮《フタツキノミヤ》と号す。東鑑云、文治元年予州(義経)凌吉野山深雪、向多武峰、是為祈請大織冠御影云々。
二槻宮《フタツキノミヤ》址 日本書紀、斉明帝二年、於田身嶺、冠以周垣、又於嶺上、両槻樹辺、起観、号為|両槻《フタツキ》宮、亦曰|天宮《アマツミヤ》。通証云、多武峰西北有地名|根槻《ネツギ》、即宮跡、田身注此曰大務。多武峰勝志云、紫蓋寺者、増賀上人改葬処也、為念仏道場、斉明帝両槻宮址。
補【多武峰】○奈良県名勝志 十市郡多武峰村大字多武峰にあり、形龍の如し、談山神杜あり、蓋山中の幽邃殿宇の華麗之を兼ぬるもの、本邦未だ多く其比を見ず、本殿の北背を談山又は談峰といふ、嘗聞く、大織冠天智帝と倶に撥乱の事を談じ給ふ所と。〔談山神社の山陽詩・鉄兜詩、略〕河野鉄兜、名熊、字夢吉、別号秀野、播磨人。
談山《タンザン・ダンザン》神社 多武峰上北面に在り。初め太織冠藤原鎌足の墓所に就き、其子定恵、寺塔を建てたり、藤原氏の盛大を極むるや崇重益加はり、供奉頗厚し、後梢衰ふと雖徳川氏の時尚寺録三千石を給したり、祠廟は嘉永二年重修し、壮麗州中の第一たり、大塔は古時の遺構、其余の堂宇明治維新の際妙楽寺の廃亡と共に多く毀敗に属す、今別格官幣に列す。延喜式云、多武岑墓、増太政大臣正一位淡海公藤原朝臣、在十市郡、兆城東西十二町南北十二町。三代実録云、貞観五年、大和国、禁藤原氏先祖贈太政大臣多武峰墓、四履之部内、百姓伐樹放牧。大日本史云、初葬鎌足於摂津|阿威《アヰ》山、子僧定慧帰自唐、改葬大和多武峰肖像祀焉、後世国家将有大変、則其像破裂云、注、談峰縁起曰、初鎌足与天智帝、会談和州倉橋山藤花下、謀誅入鹿、因号其地曰談峰、鎌足嘗謂定慧曰、談峰之為地也、東連伊勢山、西村金剛山、南界金峰山、北隣大神山、其霊勝不下唐之五台、我百歳之後卜、兆域於此、則後葉繁衍矣、定慧帰自唐、憶其言遂改葬于談峰、且創伽藍名曰妙楽寺。神社考云、延長四年建多武峰総社於是勅号曰談山権現。
回合同巒気勢騰、※[火+軍]煌金碧廟廊層、風雲一体君臣業 山背誰※[言+音]天智陵、 頼山陽
園城寺古袈裟少、飛鳥宮空環佩間、唯有談峰神徳在 夕陽金碧照寒山、 越鉄兜
藤かづら絶ぬ根ざしをとどめける跡もかしこき多武の山寺、 伴※[草冠/高]※[さんずいへん+爰]
尋ねきて此も桜の峰つづき芳野泊瀬の花の中宿、 飛鳥井雅章
大八洲雑誌云、貞慧法師は藤原鎌足の子にて、日本書紀には定恵に作る、世に貞慧伝の一書あり「白鳳十六年、歳次乙丑、秋九月、経自百済、来京師也、(中略)以其年十二月廿三日、終於大原之第、春秋廿三、道俗揮涙、朝野傷心」と見ゆ、白鳳十六年は日本書紀天智天皇四年の原注に「定恵以乙丑年、付劉徳高等船帰」とあるに※[金+(攝-手偏)]合す、其大原第は高市郡大原の藤原第に外ならじ。かくては貞慧多武峰を開きたりと云事も疑ふべく其事は古くより異説多し、多武峰略記「荷西記云定慧和尚、天智天皇治天下丁卯(天智六年)生年二十三人唐、天武天皇治天下戊寅(大武七年)帰朝、謁弟右大臣(不比等)問云、大織冠御墓何地哉、答曰摂津国島下郡阿威山也、於是和尚具語先公契約、即引率二十五人参阿威山墓所、掘取遺骸、手自懸頸、即落涙言、吾是天万豊日天皇(孝徳)太子、宿世之契為陶家子、云々(陶家とは、多武峰縁起に内臣有痛蟄居山城国字治郡小野郷山階村陶原家とある家を指るなるべし、)故役人荷土、共登談岑、安置遺骸、於十三重之塔之底矣」後記(冷泉円融の朝の僧千満撰)云「或記云、白雉四年(癸丑)夏五月十日、定恵和尚生年十歳、随遣唐使小山上吉士長丹等到長安、天智四(乙丑)年秋九月廿二日付大唐使劉徳高等帰京師、天智九(庚午)年閏九月六日、改大織冠聖廟、移倉橋山多武峰云々、或記云、天智六(丁卯)年、定慧和尚生年二十三入唐、白鳳七(戊寅)年帰朝、同年十月、改大織冠聖廟移倉橋山多武峰、其上起十三重塔云々、或説云、白雉四年入唐、天智六年重入唐、旧記云、定慧和尚、白雉四(癸丑)年夏五月、随遣唐使入唐、高宗永徽四年也、在唐習学二十六年、高宗儀鳳三(戊寅)年、伴百済使帰朝、白鳳七年秋九月也、同年十三重塔矣、已上入唐帰朝改葬起塔等之時代、異説如此、但此中荷西記者、与定慧和尚存日記全同、仍暫以彼説可為指南歟」とありて、後記の或説の白雉四年云々の説は、日本書紀に合へど、其余はすべて合はず。元亨釈書には、白雉四年の入唐、唐の調露元年己卯即白鳳七年(癸酉をもて元年とす)の帰朝として、習学殆十歳とあるは誤なり。本朝高僧伝にその帰朝を調露元年即白鳳八年(壬申を元年とす)とし、在唐二十七年としたるは、年数をかぞへて改めたるなるべし。是等の諸説を観るに定恵の多武峰を開きたりとの事蹟も疑ふべし、尚考索すべきことにこそ、もとより高明の裁定を仰ぐべきことなり。(以上)
妙楽寺《メウラクジ》址 大和志云、妙楽寺在多武嶺、号曰護国院、僧定恵建、鎌足公廟、在正堂東。元亨釈書云、定慧大織冠之長子也、慧在唐、大織冠已薨、慧帰朝、与従属上阿威山、取遺骸改葬談岑、就上構十三層塔。○談峰大織冠像破裂及び大衆蜂起の事中世歴代之あり、中にも其一例、永保元年、興福寺僧数千入多武峰、焼氏家三百余区、多武峰僧負大織冠像、逃匿僅免、像破裂墓鳴、罷興福寺別当公範、逮捕首悪繋獄」〔大日本史〕の如きあり、又降りて英俊日記「永正三年八月、京衆沢蔵乱入間、国衆者十市箸尾以下南脇衆者悉多武峰楯籠り、堅固に相踏了、廿七日沢蔵軒香久山陣替、多武峰の麓の小屋二三所追落、九月四日沢入道惣勢を出し多武峰取懸了、五日暁多武峰没落、則焼了、言語道断体也」など僧兵の状を推知すべし。
飯盛《イヒモリ》塚 談山廟の下に飯盛塚あり、多武峰少将高光墓と云。〔名所図会〕高光は九条右大臣師輔の子村上帝に仕へ文才の名高し、遁世して其祖先の廟山に入り、逸遂に此に卒す、正暦五年なり、法名如覚と曰ふ。
音石《オトハ》 今多武峰の東に其大字遺り、倉橋と相接す、音石《オトハ》寺の跡あり、多武峰略記云、音石寺、又善法寺者、千手観音霊応之地也、勝宝元年沙門心融建立之、其後天長年中改造之、願主安部中納言入道俗名国香、檜皮葺坊舎廿宇、相分上院下院、坊舎数繁多也、又元興寺僧都明詮来住此地、又高尾峰僧正真済来任此地、貞観十年延安和尚時、永為当寺之末寺矣。
粟原《アハハラ》 今多武峰村の大字と為る、粟原寺は後世廃絶し、其鑪盤銘を勒せるものの伝ふるに因り旧事を得たり。古京遺文云、粟原寺鑪盤、今蔵多武峰妙楽寺、
寺壱院四至 限東竹原谷東岑 限南太岑 限樫村谷西岑 限北忍坂川[#「限東〜坂川」は「限樫…」から改行して二行に書く]
此粟原寺者仲臣朝臣大島惶々誓願奉為大倭国浄美原宮治天下天皇時日並御宇東宮敬造伽藍之爾故比売朝臣額田以甲午年始至於和銅八年合廿二年中敬造伽藍而作金堂仍造釈迦丈六尊像和銅八年四月敬以進上於三重宝塔七科鑪盤矣仰願籍此功徳皇太子神霊速証无上菩提果願七世先霊共登彼岸願大島大夫必得仏果願及含識具成正覚
按崇峻天皇紀、有鑪盤博士、七科即七階、猶云七層也。
倉橋《クラハシ》 多武峰村大字倉橋古は倉橋(古事記)又椋梯(三代実録)に作る、多武峰の東口なり。東嶺は宇陀郡と交界し倉橋山又音羽山と曰ふ。日本書紀、天武天皇白鳳十一年、※[けものへん+葛]于倉梯。三代実録、貞観十一年、大和|椋梯《クラハシ》山河岸崩、獲鏡一枚、広一尺七寸献之。古事記、仁徳帝御世、速総別王宇陀へ逃退の時、倉椅山に騰り「椅立の倉梯山をさかしみと」の詠あり、古は磐余より宇陀の通路は此に係り、今の長谷路には非ず。
椋橋の山を高みか夜ごもりにいで来る月の光りともしき〔万葉集〕
遊猟 大津王
朝択三能士、暮開万騎筵、喫※[(巒−山)/肉]倶豁矣、傾蓋共陶然、月弓輝谷裡、雲旌張嶺前、※[日+義]光已隠山、壮士且留連、〔懐風藻〕
天武紀十二年に倉梯に狩りしたまふことあり、大津皇子の遊猟篇も其時の事にや。
倉梯宮《クラハシノミヤ》址 崇唆天皇の皇居なり。古事記云、天皇坐倉橋柴垣宮。書紀通証云、倉橋村金福寺、是其旧址。名所図会云、下居《オリヰ》村なり「倉梯山の下居原と云ひ、いみじう庭つくらせ四季に従て叡覧ありけるとぞ」と七巻抄に見ゆ。
下居《オリヰ》神社 三代実録、天安元年梯橋下居下授位、延喜式に列す。姓氏録云「下家《オリイヘ》連、彦八井耳命之後也」と蓋神武帝の皇子を祭る、今香久山村大字下居の北数町(桜井村大字下居)に在り。
補【下居神社】○神祇志料 今椋橋村を去る五六町、多武峰東口、下居の隣邑下村にあり(和州旧跡幽考・大和志・名所図会)蓋神八井耳命を祀る、初神八井耳命皇居を去て春日県に降居坐き、故に下居神といふ、河内志貴県主神亦同神也(大和国神名帳略解)文徳天皇天安元年八月庚辰、従五位下椋橋下居神に従五位上を授く(文徳実録)凡そ其祭九月七日を用ふ(奈良県神社取調書)
倉梯岡《クラハシノヲカ》陵 崇峻天皇の御陵なり。延喜式云、倉梯岡陵、倉梯宮御宇崇峻天皇、在十市郡、無陵地。書紀通証云、在倉橋村東、今云赤城。山陵志云、多武峰、其東北之麓、是為倉梯、按崇峻為賊臣所虐、即日葬之、意其陵不応比他、而今検之頗高壮、蓋非一朝所治、治寿蔵当時已成俗、崇峻亦然歟、地傍蹊間甚隘、不獲之兆城、式曰無陵地、其此之謂歟。名所図会云、倉橋岩屋山、高十三間周廻八十三間窟中に石十あり、高三尺八寸長八寸横三尺七寸厚九寸練石也、窟の広九尺。
倉梯川《クラハシガハ》 多武峰音羽山の渓水相合し倉梯川と為り、桜井に至り忍坂川と合し、耳成村に至り磐余川を容れ寺川と為る。日本書紀、天武白鳳七年、堅斎宮於倉梯河上。又万葉集に「橋立の倉梯川の石のはし」と詠ぜり。
川辺《カハノベ》郷 和名抄、十市郡川辺郷、訓加八乃倍。蓋倉梯川の辺にて、今の多武峰村是なるべし。
磐余《イハレ》山 安倍《アベ》村と桜井村の間を曰ふか、磐余山口神杜今桜井村大字|谷《タニ》の西南に在り。日本書紀斉明天皇二年に見ゆる石上山も此地なるべし、延喜式石寸に作る寸は村の略字なり、書紀石上は石寸の誤ならん。斉明紀、二年起宮、曰後飛鳥岡本宮、時好興事、廼使水工穿渠自香山、西至石上山、以舟二百隻、載石上山石、順流控引、於宮東山、累石為垣。水理を按ずるに石上は山辺郡の名なれど.穿渠順流の事と相符せず、蓋石寸の誤のみ。
つぬさはふ石村《イハレ》もすぎず泊瀬山いつかも超えむ夜はふけにつゝ、〔万葉集〕
石寸《イハレ》山口神社は天平二年正倉院文書、又新抄格勅符に見ゆ、延喜式、祈年祭六山口杜の一にて大社に列す、桜井村大字谷の西南に在り、〔県名勝志〕一説安倍村に在り。〔大和志〕
桜井《サクラヰ》 桜井村は古城上郡の地に似たり、延喜式城上郡内の二社今本村に在り、証すべし、地域十市郡と交錯し全く倉梯川の両岸に跨る。桜井の名は桜部の訛にして謂ゆる磐余若桜部の居邑なり、但推古紀「二十年、百済人味摩之帰化、曰学于呉得伎楽舞、則安置桜井、而集少年令習伎楽」とあるは此に非ず、豊浦寺の桜井なり。桜井の駅舎は戸数五百、鉄道西南方より支線を通じ、多武峰初瀬三輪等の集散は本車駅之を専にす、亦四方の小走集なり。
拙堂紀行云、桜井駅、係我藩(伊勢藤堂氏)封疆、邑屋稠密、為四方走集、我藩除二伊外、有城和提封五万石北起城之笠置、南至和州多武山下、自為一勝概、差奉行官属、掌其政事、治於|古市《フルイチ》。桜井薬師堂は磐余寺と云ふ、又来迎と称する巨刹あり、殿堂宏壮なり。桜井町大字浅古の前谷に古墳石槨の露出せる者あり、洞高五尺余横四尺余奥に行くこと八尺八寸、其前面は破壊したれど今其周壁天井を検するに煉瓦を以て畳成せるに似たり、実は然らず、磚状の石塊をばセメントにて築きあげたる者のみ、此種の古墳は多武峰村大字粟原の見寄峠、榛原村(宇陀郡)大字萩原の南山に在り、安倍文殊堂の境内なる洞窟も同種の墳穴とす。〔考古学会雑誌〕
若桜《ワカザクラ》神社は延喜式城上郡に列す、桜井村大字谷に在り〔大和志〕若桜郡の祖神なり、姓氏録云、若桜部造、初去来穂別天皇、謚履仲、泛両枝船於磐余市磯池遊宴、是時膳臣余磯献酒、桜花忽来浮于御蓋、天皇異之、遣物部長真胆連尋求 乃俘得掖上室山献之、天皇歓之賜姓。
高屋《タカヤ》神社は延喜式城上郡高屋安倍神社三座とある者是なり、今若桜神社(土俗白山社と云ふ者)と同境に在り大和志に土舞台と云者或は旧址ならん、(桜井村坤方の高岡にて安倍村の東也)万葉集舎人親王の御歌に、
ぬば玉の夜ぎりぞ立てる衣手を高屋のうへにたなびくまでに、
祭神は阿部朝臣同祖、膳臣若桜部朝臣等の祖神なり。姓氏録、若桜部朝臣阿部朝臣同祖とありて、膳臣余磯の事は若桜神社及稚桜宮の条下に見ゆ、隣村安倍に今大字|膳夫《カシハデ》あり。
補【桜井】○奈良県名勝志 北八木駅の東方に在り、市肆連接、物貨富贍、戸数五百あり。○駅中の巨刹来迎寺は明治廿三年皇后陛下駐駅の所とす。〇三十三所図会、東光寺は桜井村にあり、往古は磐余《イハレ》堂又桜井寺と号す、大永天正の頃、桜井掃部介延久と云ふもの、薬師仏の霊夢を蒙り、東方より光明赫々たるに依て東光寺と改むと云ふ。桜井は八木より初瀬に至るにも、同寺より飛鳥、安部を経て長谷に至るにも此地に出るを順路とす、又是より右に行けば多武峰の東口に至り、左に行けば奈良街道なれば、平日に往還の旅人繁く、尤近隣の在郷より此里に来て諸色を求むるが故に、商家軒を列べ交易し、月に六度の市をなして、至て賑はし。
補【高屋安倍神社】○神紙志料 高屋安倍神社三座今十市郡若桜神社の側にあり、高屋明神と云、若桜井谷の安倍松本山にありしを、後之を今地に遷祭る(和州旧跡幽考・大和志・神名帳考証)按、安倍山の西に膳部村あり、安倍朝臣、膳臣、若桜部朝臣共に同族也、附て考に備ふ
蓋安倍朝臣の氏神たり(新撰姓氏録・延喜式)文徳天皇天安元年八月庚辰、従五位下より従五位上を授く、二年四月戊申従四位下に叙され(文徳実録)醍醐天皇延喜の制並に名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預り(延喜式)朱雀天皇天慶三年九月丙寅、正四位下より従三位を授く(日本紀略)
耳成《ミヽナシ》 今|耳成《ミヽナリ》村立つ、耳成山の近傍を云ふ、大字葛本木原十市大田市等之に属す。耳成川倉橋川の合流処にて耳成《ミミナシ》山は其南に在り。日本書紀「推古天皇九年、天皇居于耳梨行宮」と見ゆ、大和志木原に在りと為す。
和名抄、十市郡神戸郷、今其名を失ふ、蓋十市御県の神戸にして、今耳成村に当るか。
耳成《ミヽナシ》山 香具山の南に聳ゆる一座の小丘なり、木原《キハラ》の東方に特起し、高十余丈形状愛すべし。日本書紀允恭巻に「新羅人恒愛京城傍耳成山畝傍山」とあるも以あり、当時皇后は飛鳥の八釣に在り。類聚国史、延暦廿四年、勅大和国畝火香山耳梨等、百姓任意伐損、自今以後莫令更然。大和志云、耳梨山、四面田野、孤峰森然、山中梔樹多矣、因又呼|梔子山《クチナシヤマ》、
みヽなしの山のくちなしえてしがな思の色の下染にせん、〔古今集誹諧歌〕
耳梨池は耳梨畝火香山の三山争競と云ふ古諺に因めるにや、万葉集に耳梨池に鬘児三人の男に相競はれ我身を沈む云事小序に見え、其歌に
耳なしの池しうらめしわぎもこがきつゝかづかば水はあせなむ。
耳梨川は磐余川に同じ、耳成山の西を流る、目梨川《メナシガハ》とも云、
目なし川耳なし山の見もきかずありせば人をうらみざらまし、〔六帖〕
耳成山口神社は耳成村木原(耳成山の頂)に在り、天平二年正倉院文書新抄格勅符三代実録等に見ゆ、延喜式祈年祭山口神六座の一にて大社に列す、耳成は本社鎮坐するを以て土俗|天神山《テンジンヤマ》と称す。
補【耳成山】○奈良県名勝志 俗に天神山と称し、十市郡耳成村大字木原の東方に孤立す、高約二十余丈、山頂に耳成山口神社あり。
補【耳成山口神社】○神祇志料 今木原村耳成山にあり(大和志・名所図会)聖武天皇天平二年神戸祖稲五十三束を以て祭神料に充奉り(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神封一戸を寄し(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より正五位下を授け、九月庚申雨風の祈に依て幣便を奉り(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る、即祈年祭山口神六座の一也(延喜式)凡そ毎年十月三日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
太田市《オホタイチ》 耳成村大田市は古の磐余田《イハレダ》にして、目原《メハラ》の地なるべし、高皇産霊祠あり。〔県名勝志〕延喜式、目原坐高御魂神社。日本書紀、顕宗巻云、阿閇臣事代※[ぎょうがまえ+金]命、出使于任那、於是日神著人謂之曰、我祖高皇産霊、有預鎔造天地之功、宜以民田奉我、若依請献、我当福慶、事代由是、還京奏、奉以磐余田十四町、対馬県主直侍祠。
目原坐高御魂神社 延喜式二座并大社、天平二年正倉院文書薪抄格勅符にも見ゆ、高御産霊神及日神を祭る日神は旧事紀対馬県主等祖天日神(饒速日尊供奉三十二人之一)是なるべし。
補【高御魂神社】○神祇志科 目原坐高御魂神社二座、高皇産霊尊及御女栲幡千々媛命を祀る(延喜式)
按、大和国神名帳略解に本社川辺郡目原村高森にありと云り、されど今詳ならず
顕宗天皇三年四月庚申、日神人に着りて阿倍臣事代に詔はく、磐余田を以て我祖高皇産霊尊に献れと詔ひき、事代其由を奏しゝかば、神の乞のまゝに田十四町を献り、対馬県直を以て祠に侍らしむ(日本書紀)即是也、聖武天皇天平二年神戸租稲二百七十一束を以て祭料とし(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神封二戸を充奉り(新抄格勅符)〔以下脱文〕
十市《トホイチ》 耳成村大字十市に十市森あり、謂ゆる御県神此なり。中世十市氏和州の豪族にして南朝に属し足利氏に抗す、平城坊目遺考に「十市氏中原姓、或曰県主、長谷川党なり、十市山の城に住し春日大宿所隔年勤番」とありて、城址は弓月岳《ユヅキタケ》と云へり。氏族志云、中原氏、初曰十市首、曰安寧皇子磯城津彦後、然未詳也、旧事紀天降五部人中、有十市首祖富々侶、是或其先也。朱雀帝時、有左少史十市部宿禰春宗〔九条殿年中行事記〕春宗子大学博士有象、及同姓助教以忠等、円融帝時改賜姓中原宿禰、尋為朝臣、子孫世任文職、〔中原系図〕按三代実録、陽成光孝朝有助教中原朝臣月雄、蓋是族也」と、此文職中原と土豪十市の関係知れず。又県主は、古事記云、黒田宮(孝霊)天皇、娶十市県主之祖大目之女、名細比売、生御子大倭根子日子国玖瑠命(孝元)。又旧事紀云、伊香色雄命児十市根命、纏向珠城宮御宇垂仁天皇御世、賜物部連公姓。
十市御県坐神社は十市森に在り、十三社と称す。〔大和志〕天平二年正倉院文書十市御県神稲一千余束と見え、新抄格勅符三代実録に封戸授位あり、延喜大社に列し大和六県坐神の随一とす、坂門《サカト》神社は延喜式に列し今耳成村大字中村に在り。
竹田《タケダ》 耳成村大西竹田、(平野村竹田に対し東竹田と云)延喜式竹田神社あり、土人三十八所社と呼ぶ、〔大和志〕竹田川辺連の祖火明命を祭るならん。万葉集に竹田庄あり。
坂上郎女従竹田庄贈賜女子大嬢歌
うちわたす竹田の原になくたづのまなく時なし吾恋ふらくは、
姓氏録云、神別天孫、竹田川辺連、火明命五世之後、仁徳天皇御世、十市郡刑坂川之辺、有竹田社、因以為氏神、同居住焉、録竹大美、供御箸竹、因茲賜竹田川辺連。
飫富《オホ》郷 和名抄、十市郡飯富郷。飯は飫の誤なり、古来沿用す、今多村及び平野村の南部是なり(平野村北部及び田原本は古の城下郡の地か)多神社あり、意保臣の祖神也。古事記、白橿原宮(神武)段云、御子神八井耳命者、意富臣祖。姓氏録、多朝臣、出自謚神武天皇子神八井耳命之後也。大日本史氏族志云、多臣、景行之時、有多臣祖武諸木、従西征有功、天智帝時有多臣蒋敷、其妹嫁百済王子豊、壬申之乱、美濃安八磨郡湯沐令多臣品治、従天武帝有功、十二年多臣改賜朝臣、〔日本書紀〕以従四位下大朝臣安麻呂為氏長、即撰古事記者也。〔続日本紀古事記序〕
多《オホ》神社 多村大字多に在り、延喜式多神社、又弥志理都比古神社二座とある蓋是。綏靖皇兄を祭る 書紀通証云按弥志理都比古身知彦也、神八井耳知身之才、而克譲之謂歟、綏靖紀云、与兄神八井耳命、知庶兄手研耳命蔵禍心、遂殺之、神八井耳命服其勇、譲曰吾当為汝輔、奉典神祇者、是即多臣之始祖也。神祇志料云、本社は神武天皇を并祭て二座と為すとぞ、初神八井耳命弟建沼河耳命に吾は兄なれども汝命を扶けて忌人となり、天神地祇の神事を知りて仕奉らむ、汝命上として天下知しめせと詔て御身を退き給ひき、故弥志理都比古命と称奉りき。〔古事記、参取多大明神社記〕聖武天皇天平二手神戸租稲一万六百九十束を祭神及神嘗酒科に充奉り〔東大寺正倉院文書〕平城天皇大同元年大和播磨遠江六十戸を寄す。〔新抄格勅符〕皇子神命神社は延喜式多神社四皇子の一なり、今本社の西南に在り。〔大和志〕姫皇子神社は延喜式多神社四皇子の一なり、今本社の東に在り。小杜《コモリ》神命神社は延喜式多神社四皇子の一なり、今本社の東南にて木下社と称す。屋就《ヤツキ》神命神社は延喜式多神社四皇子の一なり今本社の西大字大垣に在り。千代《チシロ》神社は延喜式に列す多村大字|千代《チシロ》に在り亦多神の苗裔なるべし。
秦楽寺《シンラクジ》 多村大字|秦荘《ハタノシヨウ》に在り、小堂宇なれど建築観るべし、蓋中古の遺構と云ふ。楽戸秦氏の氏寺ならん。(杜屋参看すべし)
新口《ニイクチ・ニノクチ》 多村の大字なり、建武二年吉水院文書に新口荘と云此なるべし、近世劇部に新口の民忠平大坂の妓梅川に狎る事を伝称す。
子部《コベ》神社 今平野村大字飯高に在り、延喜式、三代実録に列し、蓋|小子部《チヒサコベ》連の祖神八井耳命を祭る。
雄略紀、六年、天皇欲使后妃親桑、以勧蚕事、受命螺瀛聚国内蚕、螺瀛誤聚嬰児、奉献天皇、天皇大咲、賜嬰児於螺瀛、曰汝宜自養、螺瀛即養嬰児於宮牆下、仍賜少子部連。通証云、詩曰螟蛉有子、螺瀛負之、螺瀛取他子為己子、因此為名。按ずるに姓氏録に異流あり、子部、火明命三世孫、建刀米命之後也、又旧事紀云、天火明櫛玉饒速日尊四世孫、天戸目命。子部神社の西に百済川あり、舒明帝川辺に百済大寺を建て玉ひし時、子部神祟あり、三代実録曰、子部大神、在寺近側、含怨屡焼堂塔云々。
飯高堂《イヒタカダウ》 今瑞華院と称す、小堂宇なれど亦中世の構造なれば様式参考すべし、秦楽寺と一対の古刹なり。
野倍《ヤベ》 多《オホ》村大字矢部あり、万葉集に屋部坂あり、此か。日本後紀には「於保美野にただに向へる野倍の坂」の謡あり、於保美野は多宮なるべし、即皇居に比興し、野倍は桓武御諱|山部《ヤマベ》と相近し、
宝亀四年天皇(桓武)為皇太子、天宗天皇(光仁)心倦万機、遂譲位于天皇、初有童謡、識者以為天皇登祚之徴、
於保美野にただに向へる野倍の坂いたくなふみそつちにはありとも、〔日本後紀〕
田原本《タハラモト》 田原本町は十市郡の北限にして、式下郡界に在り、古は城下郡の地なるべし。和名抄、城下郡賀美郷か。田原本は徳川幕府の時旗本交代寄合平野氏の陣屋あり、五千石高を知行す、今田原本町及|平野《ヒラノ》村是なり。故に田原本は今に市店六百戸、小繁華の邑なり。
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城下《シキノシモ》郡 後世|式下《シキゲ》に改め、今磯城郡へ合併す、延喜式、和名抄、城下郡訓之岐乃之毛とあり、磯城の北部を分割したる者にして和名抄六郷に分る。後其大和郷は山辺郷へ入り、賀美郷は十市郡へ入る。磯城の上下二郡は続日本紀天平勝宝二年の条に初て出づれど、尚其以往に分割せられしならん。
明治廿九年|式下《シキゲ》郡四村を磯城郡に合同す、本郡は古の城下郡なるが何の世より文字を改めたるか詳ならず、和州平坦地の最中に居る、北は佐保川を以て生駒郡に界し、西は百済川を以て南葛城郡に界し、東南二面は山辺郡及旧式上十市の地と錯雑す。初瀬川寺川飛鳥川(一名遊副川)の三水南より来り、各自に佐保川に注ぐ地勢卑低なり。
黒田《クルダ》郷 和名抄、城下郡黒田郷、訓久留多。今都村大字黒田あり是也、孝霊天皇此地に都邑し御子を彦国牽命と申奉る、牽古事記玖瑠に作る、黒田の久留と相因る所あるが如し。
廬戸宮《イホトノミヤ》址 孝霊天皇の皇居なり、書紀に「遷都於黒田、是謂慮戸宮」とありて、大和志に宮址は都森即是なりと為す。
都森《ミヤコモリ》は都村大字宮古と黒田の間に在り。(書紀通証)
すぎゆかん三輪の山辺をしるしにて宮古のもりの名をな忘れそ、〔夫木集〕 祐挙
富都《フツ》神社は延喜式に見ゆ、大和志|富本《トミモト》(今都村大字)に在りと為す、蓋村屋坐弥富都神の裔社なり。
鏡作《カヾミツクリ》郷 和名抄、城下郡鏡作郷訓加加美都久利、(都上脱美)今|都《みやこ》村大字八尾及川東村の西部にあたる如し、鏡作諸社は八尾及び川東対大字小坂に存す。
鏡作神社 神祇志料云、今鏡作郷八尾村鏡池の側に在り、蓋鏡作連の祖天照国照火明命を祀る、〔神宮雑例集〕火明命の子天香山命を鏡作の遠祖とす、延喜式鏡作坐天照御魂神社是なり、旧事紀と併証すべし、天平二年正倉院文書、鏡作神戸租稲百余束、大同元年新抄格勅符大和伊豆の地十八戸神封に充奉す。鏡作伊多神社は延喜式に列す、今都村字保屋に在り。〔県名勝志〕又鏡作麻気神社同く式内なり、今川東村大字小坂に在りと云〔大和志〕補【鏡作神社】○神祇志料 鏡作坐天照御魂神社、今鏡作郷八尾村鏡池の側にあり(和州旧跡幽考・大和志・神名帳考証)蓋鏡作連の祖神天照国照彦天火明命を祀る(旧事本紀・神宮雑例集引神宮記)
按、神宮記に火明命の子天香山命を鏡作の遠祖とする者、旧事紀と併せ証すべく、又今昔物語十市郡奄知村に鏡造氏居りし事見ゆ、本国鏡作氏ありし事知べし、附て考に備ふ
平城天皇大同元年、大和伊豆地十八戸を神封に充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ九月十九日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
三宅《ミヤケ》郷 和名抄、城下郡三宅郷、訓美也介。今三宅村再興す、黒田郷の西北に接す、川西村も本郷に属したるか。
仁徳紀云、纏向珠城宮御宇(垂仁)天皇之世、科太子大足彦尊、定倭|屯田《ミタ》也、是時勅旨、凡倭屯田者、毎御宇帝皇之屯田也、其雖帝皇子、莫御宇不得掌。
父母にしらせぬ子ゆゑ三宅道の夏野の草をなづみ来るかも〔万葉集〕
結崎《ユフサキ》 今川西村と改む初瀬川寺川|遊部《ユフ》川の匯集する所にして、其西方に在ればならん、川東村あり之に対す。結崎《ユフサキ》唐院《タウヰン》は川西村の首部なり。観世系図云、観世之先、伊賀服部氏之子、幼名観世、為春日社掌、領結崎(大和)、因更曰結崎清次、号観阿弥、其子元清伎能絶特、鹿苑大相国嬖之、寵幸最渥叙従五位、号大夫、薙髪曰世阿弥、乃新為謡曲、有序破急、称于当世。按に観世家は杜屋の楽戸秦姓服部氏の末なるべし、伊賀服部と云ふは附会のみ。
糸井《イトヰ》神社は結崎の結城市場に在り、今春日と称す。〔名所図会〕糸井は日本書紀安寧巻に糸井媛、応神巻に糸媛、〔古事記糸井比売〕敏達巻に糸井王あり、此地に因みあり。姓氏録云、大和諸蕃、糸井造、伊蘇志臣同租、新羅天日槍命之後也、蓋結崎の古名也。
比売久波《ヒメクハ》神社は延喜式に列せり、今唐院の教塚《ケウヅカ》に在り子守《コモリ》社と称す。〔名所図会県名勝志〕
室原《ムロハラ》卿 和名抄、城下郡室原郷。今|川東《カハヒガシ》村なるべし、万葉集に「日本《ヤマト》の室原の毛桃」とあるは此か、一説川東村大字唐古に室原の名ありと。〔県名勝志〕日本書紀、孝徳巻に「遣使大唐、以室原首御田、為送使」。
淹知《アムチ》 川東村大字|海知《カイチ》あり、古は淹知(海知《アマチ》)なるを改めたるか、大和志海知に恩智《オムチ》神社ありと為す。又山辺郡二階堂村大字|奄冶《アムチ》あり郡界に接せば古は本郡の地か、霊異記に十市郡菴治村、今昔物語にも十市郡庵治村鏡作部など見ゆ、十市式下二郡亦相隣る、要するに古滝知氏の邑此辺にありける事明なり。姓氏録、奄智造、額田部湯坐部同祖、天津彦根命十四世孫建凝命之後也。古事記云、天津彦根命者、倭淹知造等之祖也。延喜式倭恩智神社あり、是は河内恩智神社と分別する為め倭字を冠する者也。
村屋《ムラヤ》 今川東村大字蔵堂に村屋神社あり、此辺の古名なり。天武紀壬申乱の時近江将犬養連五十君中道を経由し杜屋に陣する事見ゆ、当時山辺箸墓の一線を上道と云ひ、(初瀬川東)之に対して城下十市の低野を通ずるを中道と称したる者の如し、即奈良方面より飛鳥京に向ふ路程とす、今上道あれど中道なし。延喜式に楽戸郷|杜屋《モリヤ》あり、村屋の一称ならん。雅楽寮式云、凡四月八日七月十五日斎会分、充役楽人、於東西二寺并寮、宮人詣寺検校、前会三日、宮人史生各一人、就楽戸郷簡充、原注在大和国城下郡杜屋村。大和志を按ずるに同寺現在の古鐘の銘に「城上郡森屋郷新楽寺建保三年四月鋳」とありとぞ、新楽寺は今多村の秦楽寺を曰ふ、此寺蓋楽戸秦連の氏寺にして、郡郷の所管諸書相異なるは、境域の移動に因れるか。
村屋神社は延喜式、村屋神社二座、大和志蔵王堂に在りと云ひ、神祇志料今弥富都比売神社域内に在りと為す、旧祠退転したるにや、又初より弥富都の裔社にや詳ならず。
弥富都比売《ミフツヒメ》神社は延喜式に列し、今|蔵王堂《ザワウダウ》森屋社と曰ふ(大字|蔵堂《クラダウ》)者是なり、式下郡の大社なり。神祇志料云、大物主部の妻三穂津姫命を祀る、三輪杜の別宮也〔日本書紀大三輪杜鎮座次第〕初大物主神天神の命に帰順奉る時事代主神と共に八十万神等を天高市に合集て天に上り坐き、茲に高皇産霊尊勅給はり汝若し国神を妻とせば吾猶汝を※[足+(流−さんずいへん]る心有と思はむ、故今吾女三穂津姫を配せて汝が妻とせむ、今より後八十万神を領て永《ヒタブ》るに皇孫命を護奉れと詔を還し降らしめき。天武天皇壬申の乱、将軍大伴吹負金綱井に軍する時、村屋神祝に託て陰に軍威を佑給へり、依て進て之を祀らしむ〔日本書紀〕村屋神は即弥富都比売命也、〔延喜四時祭式〕聖武天皇天平二年神戸租稲五十四束を以て祭神及神嘗酒料に充しむ。〔東大寺正倉院文書〕久須々美神社は延喜式に列す、今弥富都比売社内に在りと云、〔神祇志料〕服部神社は延喜式二座とあり、楽戸秦氏の氏神なるべし、旧川東村大字大安寺に在り波登《ハト》社と云へり、今弥富都比売社内に移す。
堅塩《キタシホ》 堅塩は今河内国中河内郡竪上村堅下村(旧大県郡)にも此名あり、安寧天皇々居は片塩浮穴宮と称す、旧説葛下郡に宮址を充てたるは固より徴証なし、河内堅塩稍信に庶幾し、然れども大和亦|岐多《キタ》志太神社あり、是神名に非ず地名に似たり。書紀通証云欽明天皇妃堅塩媛、(蘇我稲目女)孝徳紀曰、忌称塩名改曰堅塩、延喜式、城下郡有岐多志太神社、万葉集竪塩皆訓加多志保。県名勝志云、岐多志太神社川東村大字大木の大鼓地に在り。
阿刀《アト》 今川東村大字坂手の辺の旧名也。書紀通証云、城下郡阿刀村、在坂手村東南今廃。日本書紀、敏達天皇十二年、召葦北国造阿利斯登子于百済、営館於阿斗桑市、使住日羅、供給随欲。按ずるに河内渋川郡又阿都の地あり、日羅阿斗桑市館は渋川に非ずや、雄略紀、七年倭国|吾砺広津《アトノヒロキツ》邑は正く此なり。
鹿の音に草のいほりも露けしてなみだ流るゝ阿刀の村里、〔相模家集〕
姓氏録に拠れば摂津国にも阿刀の地ありし者の如し、又某氏号に尋来津《ヒロキツ》氏あり。
補【阿刀】城下郡○大日本史 阿刀氏(或作安斗、又安都)出自味饒田、有宿禰姓、云々、中宗時有僧義淵阿刀氏、大和高市郡人(今昔物語、○本書聖武帝時、有僧玄ム、阿刀氏、亦大和人、日本霊異記、僧善珠初冒迹連、居大和山辺郡、拠此、本氏又有貫大和者也)
池《イケ》 川東村大字|法貴寺《ホフキジ》の古名なり、池大宮今同所に存す、〔県名勝志〕延喜式に池坐朝霧黄幡比売神社と録し又池社と云ふ、〔令集解延喜式〕大同元年池神社封三戸を充奉る事新抄格勅符に見ゆ。
坂手池《サカテノイケ》 川東村大字坂手。通証云、池水今涸、為田畝、堤則属于十市郡竹田村、日本紀景行巻曰、造坂手池、即竹蒔其堤上。
韓人池《カラコノイケ》 今川東村大字|唐古《カラコ》に在りと云。〔大和志〕応神紀、武内宿禰領諸韓人等作池、因以名池、曰韓人池。
軽島の明の宮のむかしよりつくりそめてし韓人の池〔夫木集〕 衣笠大臣
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城上《シキノカミ》郡 後世|式上《シキジヤウ》に改め明治廿九年停廃して磯城郡と為す。城下の東十市の東北に接し初瀬川の上游なり、三輪山中央に立ち東境は山嶺を以て宇陀郡と相限る。延喜式和名抄、城上郡、訓之岐乃加美とあり日本紀皇極巻に志紀上郡とあれば其比の分郡なるべし。(磯城郡参看)古城上は或は今山辺郡の地と混同し山辺の名を称す、蓋石上山より三輪山一帯の高地其通跡を上道(天武妃に見ゆ)と号し、因りて其間を山辺と命名したるなり、山辺道上陵は城上郡に属し、霊異記に山辺郡磯城島村の私謂あるが如き以て証すべし。磯城川は初瀬川の一名なるべし、今|城島《シキシマ》村と三輪村の間に此称ありしか、城島即古の磯城島にあたり初瀬川其北を限り、刑坂川《オサカヾハ》(一名寺川)其南を繞る。日本書紀応神巻、武内宿禰弟甘美内宿禰讒言于天皇、武内宿禰有望天下之情、天皇勅兄弟令請神祇探湯、是出于磯城川辺、為探湯、武内宿禰勝之。
式上《シキジヤウ》郡は即城上郡に同じ、和名抄、城上郡八郷今三輪村外七村、明治廿九年磯城郡を復し、式上式下十市を合同す。
大市《オホイチ》郷 和名抄、城上郡大市郷、訓於保以智。大市は崇神紀に「倭迹々姫命、葬於大市、謂|箸碁《ハシノハカ》也」とありて今|織田《オダ》村にあたる、大字箸中に御墓存す。姓氏録云、諸蕃任那、大市首、出自任那国人都怒賀阿羅斯止也。大倭神社注進状云、井神社在城上郡、所謂大市長岡、今狭井社地是也。又姓氏録云、諸蕃、長岡忌寸、己智同祖諸歯王之後也、(己智出自太子胡亥)。穴師兵主神社参看。
狭井《サヰ》 狭井は一所添上郡奈良町の南に故蹟を有す相参考すべし。延喜式、城上郡狭井坐|大神《オホミワ》荒魂神社。神祇令云、季春鎮華祭、義解曰、謂|大神《オホミワ》狭井二祭也、在春華飛散之時、疫神分散而行癘、為其鎮遏必有此祭、故曰鎮華、大和志云、狭井渓源自三輪山、※[しんにょう+堯]狭井寺跡、至箸中村、入纏向渓。
狭井神社 神祇志料云、狭井坐神五座、今三輪神社の北、狭井渓南にあり、花鎮《ハナシヅメ》狭井神社と云、〔和州旧跡幽考大和志名所図会〕古之を佐為神と云ひ〔東大寺正倉院文書新抄格勅符〕大物主神の荒魂〔令集解延喜式〕及和魂并神の御子事代主命姫稲蹈鞴五十鈴姫命妃勢夜多良比売命を祭る、即大倭社の別社とす。〔大倭社注進状参取古事記〕聖武天皇天平二年神戸租稲三百九束を以て祭料とし、〔東大寺正倉院文書〕平城天皇大同元年神封二戸を充奉る。
笠縫《カサヌヒ》 後世其地を失ふ、蓋織田村大字|茅原《チハラ》に在るべし。〔史学雑誌〕大和志、十市郡|新木《ニヒキ》村と云ふも明徴なし、名所図会、三輪社の南三町と為す亦証なし。神楽歌に「笠の浅茅原」の語あり笠縫浅茅原の訛ならん。今の茅原是のみ、崇神垂仁両帝の皇居に遠からず。日本書紀、崇神天皇、以天照大神託豊鍬入姫命、祭於倭笠縫邑。又(垂仁紀)云、倭姫命以天照大神、鎮坐於磯城巌橿之本而祠之、然後随神誨、遷于伊勢国渡遇宮。延暦儀式帳云、美和乃御諸原爾造斎宮始奉支。茅原は三輪山の北狭井川の東なり、崇神帝卜問の所之に同じ、日本書紀云、崇神天皇幸于|神浅茅原《カンアサヂハラ》、而会八十万神以卜問之。又(顕宗紀)弘計王曰、倭者|彼彼《ソソ》茅原浅茅原|弟日《オトヒハ》僕是《ワレソ》也。弘計天皇の辞によれば茅原と笠縫は二名一所たる事明白なり。
箸墓《ハシノミハカ》 著箸古字同じ、土師《ハシ》と音義相通ず。今織田村大字箸中の路傍に在り、迹々日百襲《トトヒモヽソ》姫(孝元皇女)の御墓なり、天武紀、壬申乱の時山辺の上道箸陵に両軍会戦の事見ゆ、亦此と為す。日本書紀〔崇神〕云、倭迩々日百襲姫命、為大物主神之妻、然其神昼不見、而夜来矣、姫曰明旦仰観威儀、大神曰吾入汝 柵笥而居、願勿驚、姫心裏異之、待明以見櫛笥、有美麗小蛇、則驚之叫啼、時大神忽化人形、仍践大虚、登|御庶《ミモロ》山、爰姫悔之、隠居、則箸撞陰而薨、乃葬於大市、故時人号其墓、謂著墓者、是墓也日也人作、夜也神作、故運大坂山石而作、則自山至于墓、人民相踵、以手逓伝而運焉。
芝村《シバムラ》 三輪村の北に接し、徳川氏の時邑主織田氏一万石の陣屋あり、近年芝村茅原等合同して織田村の号を立つ、旧主に因む者なり。初め織田長益慶長五年東軍に属し戦功を以て大和地二万石を加封せられ、元和中二子長政尚長を戒重柳本の二所に居き分禄す、長政の後丹後守長清正徳三年幕府に請ひて陣屋を芝村に移す、子孫相継ぎ明治の初に至る。
補【芝村※[遷−しんにょう)]喬館】○日本教育史資料 元禄二巳年三月五日、藩主より士卒一般へ教示したる首項に曰く、
一文武の学問を勉、孝悌忠信を守、軍法弓馬太刀鎗砲柔術等役儀に応、不失当用可守之勿論、小判に偏るべからず
一士は可成多芸者也、是は用ひ彼は用ひまじきと□取のならざる事なれば、偏よらずして為すべし、稽古は暫く賓主をなし、修練は四時に順て怠るべからず
又曰く、
一道理は善也、理屈は不善、他人の過悪を語、吾に過悪ある事をしらず、為頭者は尚以深く戒て人と交るべし、但道理は少くも無私意を云、理屈は己を利するの人欲也、云々、
元禄九年始めて大和国式上郡戒重村に設立し、正徳三年居所替願済の上同国同郡芝村へ移し、本村字駒止に設立す、初め織田丹後守平長清、士気の衰頽せしを憂歎し、元禄九年※[遷−しんにょう]喬館を設立し、京師より鴻儒北村可昌なるものを聘招し、率先藩士と共に文学を修む、武術も本館構内、別に一棟を建立し、育英場と称し、両道頗る興起し、士気大に振ふ、故に当時尤文武隆盛なる事は、今尚口碑等にも伝ふ所なり、長清著述、織田真記十五巻あり、今尚其家に伝ふ、可昌学派は朱氏を主とす。
大神《オホムチ・オホミワ》郷 和名抄、城上郡大神郷、訓於保無知。今三輪村大字三輪是なり、三輪山あり大神鎮坐し古来国家の崇奉する所也。三輪の名義は古事記及姓氏録旧事紀に績苧三※[(榮−木)/糸]の故諺を録す、然れども酒瓮をも水曲をも古言皆三輪と云ふ、此地初瀬川の迂曲処にあれば水曲の称先起り、其山に名づけ其社に及ばし遂に祭神の酒瓮に及ばしたる者か、此地美酒を出し神霊亦造醸を愛したる事三輪大神宮の条参考すべし。又神字を無知と訓むは、日本紀貴字を牟知と訓むと同義なり、地名に神字を無知とよむ例多し。古事記伝云、和名抄大神を於保無知と云ふ、美を無と云も音便なり知は和の誤ならん、此氏人は垂仁巻に三輪君祖大友主、旧事紀、大田々根子命之子大御気持命其子大鴨積命次大友主命、此命磯城瑞籬朝(崇神)御世賜|大神《オホミワ》君姓。姓氏録云、大神《オホミワ》朝臣、大国主命之後也、初大国主神娶三島溝杭耳之女玉櫛姫、夜来曙去、未曾昼到、於是玉櫛姫|積苧《ヲダマキ》係衣、至明随苧尋覓、経於茅渟県陶邑、直指大和国御諸山、還視遺苧、唯有三※[(榮−木)/糸]、因之号姓大三※[(榮−木)/糸]。
美和河《ミワカハ》、古事記、朝倉宮(雄略)段云、天皇一時遊行到於美和河之時、河辺有洗衣童女、名謂引田部赤猪子。
大神大夫任長門守時集三輪河辺宴歌
三諸の神のおばせる泊瀬河水尾し絶えずばわれ忘れめや、〔万葉集〕
泊瀬川は三輪山(即三諸)の東北|上之郷《カミノガウ》村より発源し、山南を繞りて山の西を北へ流れ去る、大神郷にて之を三輪河と云。謡曲鉢木云、駒とめて、袖打払ふ陰もなし、佐野のわたりの雪の夕ぐれ、箇様によみしは大和路や、三輪が崎なる、佐野の渡り、是は東路の佐野の渡云々。
三諸山《ミモロヤマ》 後世専ら三輪山《ミワヤマ》と称す、三輪村の東、初瀬村の西、孤峰峻抜にして林木青葱たり。眺望群山に異なり、春日の三笠山と相比すべし。日本書紀神代巻一書云、大己貴神、問幸魂奇魂、欲何処住耶、答欲住於日本国之三諸山、故即営宮処、使就而居、此大三論神也。又崇神巻云、天皇勅豊城命活目尊曰、汝等二子慈愛共斉、不知曷為嗣、各宜夢、朕以夢占之、於是兄豊城命、以夢辞奏曰、自登御諸山、向東而八回弄槍、八回撃刀、弟括目尊以夢辞奏言、自登御諸山之嶺、縄※[糸+亙]四方、逐食粟雀、則天皇相夢、謂二子曰、兄則一片向東、当治東国、弟是悉臨四方、宜継朕位、立活目尊、為皇太子、以豊城命令治東国。
三諸つく三輪山見ればこもりくのはつ瀬の檜原おもほゆるかも、〔万葉集〕
日向《ヒムカヒ》神社は延喜式、神《ミワ》坐日向神社、三輪山の巓にあり高宮日向王子と称す、大神の裔社なり。〔大和志神紙志科〕
玉列神社は延喜式刊本或は玉烈に作る、今三輪山の南に在り、朝倉村大字慈恩寺に属す、大神の裔杜なり。〔大和志〕
補【日向神社】○神祇志料 神《ミワ》坐日向神社、今三輪山の巓にあり、高宮と云(大和志・名所図会)日向王子と申す、蓋大神の御子神也(延喜式)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上に進め(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預る、凡そ大神祭の日使に附て緋帛二丈を此神に上らしむ(延喜式)凡そ四月十三日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
補【玉列神社】○神祇志料 按、本書印本列を烈に作る、今内蔵式に従ふ、今慈恩寺村にあり(大和志・名所図会)
按、本村と出雲村との間なる置崎村に玉貫と云地名ありとぞ、附て考に備ふ
凡そ大神祭の日幣料の緋帛一丈五尺を奉らしむ(延喜式)凡そ十月廿一日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
大神大物主《オホムチオホモノヌシ》神社 三輪山の西面に鎮坐す、又三輪社と称す。今官幣大社に列し、神域三首町、鬱蒼たる霊境なり。斯神崇神天皇の世に著れ大己貴神(一名大国主)の御魂を祭り、大物主神と号す。惟ふに斯神国土修成の功業あり、子孫盛大なるを以て初より此地に祀祭せられ、崇神帝礼典を尽し神子をして之に侍嗣せしめ、威徳益加はる。本社今神殿あれど、前年まで鳥居楼門拝殿のみありて神の宮室なし。奥儀抄曰、大三輪は祭の日茅の葉を三くゝりて岩の上に置てそれを祭る、社のおはさぬを怪しとて作りければ、百千鳥飛来てつゝき破り蹈みこぼちて去にける、それより神の誓と知りて社は造らざりしと也、云々。古事記伝曰、大三輪社は崇神の御世に始て建たるが如く聞ゆれど然には非ず、白|檮原《カシハラ》宮の(神武)段に美和之大物主神と見え、下文に「至美和山而留神社」とあるも往昔の事なるをや、さて此社今世には御殿はなくしてたゞ山に向て拝むはいかなる故か、古は御殿ありつと見えて、即書紀この御世の御歌に「瀰和の殿の、あさ戸にもおしひらかね、瀰和の殿戸を」と詠みたまひ「開我宮門」など見ゆ、又日本紀略、長保二年、大神社宝殿鳴、童蒙抄、三輪社に参り祈り申程に某社の御戸を押開き見えたまふなど見えたり。中世三輪大明神二十二社の第五に列し、和州一宮と称せり。令義解云、天神者伊勢山城鴨住吉神等類也、地祇者大神大倭葛木鴨出雲大汝神等類是也。
日本書紀云、崇神天皇御世、国内多疾疫、民多死亡者、天皇乃幸神浅茅原、而会八十万神、以卜問之、是時神明憑倭迩々日百襲姫命曰、天皇何憂国之不治也、若能敬祭我者、必当自平矣、天皇問誰神也、答曰大物主神、(大己貴別名)時随教祭、然無験、天皇析之、夢大物主神曰、以吾児大田々根子、令祭吾者、則立平矣、亦有海外之国、当帰服、天皇布告天下、求大田々根子者、得諸茅渟県陶邑、即以為祭主、於是国内漸謐、天皇以高橋邑人活日、為掌酒、活日奉神酒献天皇、仍歌之曰
このみきはわがみきならず椰磨等なす大物主のかみしみき、いくひさいくひさ。
又云、雄略天皇御世、呉国使献漢織呉織及衣縫兄媛弟媛等、以衣縫兄媛、奉大三輪神。天平二年東大寺大税帳、大神神戸穀弐百壱拾漆斛。新抄格勅符、天平神護元年、大和摂津遠江美濃長門地百六十戸奉充神封。続日本紀、天平九年遣使於伊勢神宮大神社、以告新羅無礼状。三代実録、貞観元年正月大神神授従一位、二月授正一位。延喜式、出雲国造神賀詞云、大己貴命和魂を八咫鏡に取託て倭大物主櫛※[瓦+(肆−聿)]玉命と名を称て大御和の神奈備に坐。(県名勝志云、三輪神宝鉄鏡二面あり径各一尺厚六分許古色蒼然掬すべし上古の物たる疑なし)
補【大神大物主神杜】○神祇志料 大神大物主神社、今三輪村東三輪山(亦名三諸山)にあり(和州旧跡幽考・大和志)
按、日本書紀古事記神宮とありし事、崇神紀に見え日本紀略一条天皇の御世にも宝殿ある事見ゆ、然るに今神殿なく、ただ山に向ひて拝み奉るを深き故あることの如く云るは誤りにて、取るに足らず、されど中古以来神紙の祭奠甚しく衰ふるに合せて、神社も破損へるまにまに、自ら此の如くなりこしものなる事著し、かゝれば神道を興し給はむ時には、必ず厳しく宮柱を大敷たて給ふべき事なり、世人多く前説に惑ふを以て、此に附て疑を解くこと然り
大穴待命の和魂を祭る、之を大物主神と申し(日本書紀・古事記)又倭大物主櫛※[瓦+(肆−聿)]玉命と云(延喜式)初大穴持命、天神の詔の随に少彦名神と共に此国を作り堅め給ひ、大造の績を建給ひて後、其幸魂奇魂を倭の青垣東山上に斎奉る、此は所謂御諸山上に坐す神即是也(古事記・日本紀)即大和の一宮也(一宮記・諸神記)崇神天皇御世、神|誨《サトシ》に依て神孫大田田根子を神主とし又吉足日命をして大物主大神を斎祭らしむるに、神気悉息て天下安平しかば、天皇神宮に行幸して宴楽《トヨノアカリ》し給ひき(日本書紀・古事記、参取姓氏録)此時高橋邑人活日掌酒となりて天皇に神酒を奉れり(日本書紀)神功皇后韓国を伐つ時、大三輪社を筑前に建しかば、軍士自ら集て新羅遂に伏平ぎ(日本書紀・筑前風土記)其威霊の盛なる事既に此の如し、清寧天皇大室屋大連に勅して幣帛を奉り、皇子なき由を祈祷らしむ時に、神教に依て少彦名命を辺津磐坐に祭り給ひしかば、顕宗、仁賢二皇子を播磨に見得て迎入奉りき(鎮座本紀次第記・日本書紀)称徳天皇天平神護元年、大和、摂津、遠江、美濃、長門の地百六十戸を神封に充奉り、(新抄格勅符)文徳天皇嘉祥三年冬十月辛亥、正三位を授く、仁寿二年十二月乙亥従二位を賜ひ(文徳実録)清和天皇貞観元年正月甲申、従二位勲二等より従一位を授け、二月丁亥朔正一位を加へ、七月丁卯右兵庫頭藤原朝臣四時をして神宝幣帛を奉り、九月庚申幣便を差して雨風を祈り、十二年七月壬申、河内堤を築くに重て水※[さんずいへん+勞]の患なからむ事を祈る(三代実録)凡そ大神祭四月十二月上卯日を用ふ(延喜式)初瑞籬の朝祭を行ひしより後、醍醐天皇昌泰元年三月丙子に至て勅して夏冬の祭を行はしむ(諸杜根元記・諸神記・大三輪杜鎮座次第)是後毎年内蔵寮馬寮官人をして幣帛及走馬十疋を奉る、延喜の制名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上官幣祈雨の幣に預る、一条天皇正暦五年四月戊申、中臣氏人を使して放火疫※[やまいだれ+萬]の御祈に幣帛宣命を奉り(本朝世紀、参取日本紀略)長保二年七月戊子、宝殿鳴動の故を以て幣を廿一社に奉りき(日本紀略)
大三輪寺《オホミワテラ》址 倭路記云、三輪大明神の大鳥居の辺茶屋多し、鳥居に入て行て北の方に大三輪寺あり、寺内に若宮おはします、此処へは慶円法師(長和三年天台座主慶円にや)開基、其東に三面大黒天あり、又三輪山南に平等寺あり。天文二十二年吉野詣記、廿八日柳本太神にまゐりて、あなし川を渡り檜原大御輪寺にまいりたりしに、寺のさまうるはしくよのつねのつくりざまにあらず、くさびなどいふものも用ひず造れるさまものがたりせり、かたはらにみわ明神の王子の入定の所あり、王子宝殿にとぢ入せ給ひし時の両足の跡顕然として有り、錦にて覆あり、開きて見るにそのあと聊かふみちがへたり、顕当を表し給ひしよし神秘などかたれり。大三輪寺は近世停廃したれど、其址に若宮存す神子大田々根子の廟墳なりと云。
緒環《ヲダマキ》塚 活玉依姫(大田々根子母)の墳なるべし、本社の下なる字明神溝に在り。三代実録延喜式に見ゆる綱越《ツナコシ》神社即此なりとも曰ふ。〔県名勝志〕古事記云、活玉依毘売、其容貌端正、夜半之時、有神相感、美人妊身、其父母欲知其人、誨其女曰、以赤土散床前、以閉蘇紡麻貫針、刺其衣襴、故如教、而旦時見者、所着針麻者自戸之鈎穴、控通而出、唯遺麻者三|勾《ワ》耳爾、即知自鈎穴出之状、而従糸尋行者至美和、而留神社、故知其神子、故意富多多泥古命者|神《ミワ》君鴨君之祖也。近代院本浄瑠璃に三輪杉酒家《ミワノスギサカヤ》の一編は本社の故事を材料と為して作意したる也。
三輪《ミワ》 三輪村大字三輪は古三輪市と称し、今に駅舎なり、造酒と索麺を土産とし、店を設け客に饗す、殊に酒は古代より其名あり。
尋ねばやほのかに三輪の市に出でいのちにかふる印ありとや、〔六百番歌合〕
うま酒を三論の祝がいはふ杉手ふれし罪か君にあひがたき〔万葉集〕うま酒の三輪のはふりが山てらす秋のもみぢば散らまくをしも〔同上〕
三輪磐井《ミワノイハヰ》 日本書紀、雄略天皇、訖猟殺市辺押磐皇子、是月御馬皇子(市辺皇弟)往三輪、不意道逢邀軍、於三輪磐井側、逆戦不久、被捉、臨刑指井而諷曰、此水者百姓唯得飲焉、王者独不能飲矣。
三輪城《ミワノシロ》址 十訓抄云 昔中納言和田磨の末に余古太夫といふものありけり、年来三輪市の傍に城を造て住けるに、妻の敵に責られて城も破れ、兵も悉打失せて、笠置山寺の窟のありける中に隠れて住みける。太平記に三輪の西阿と云あり、武士にや又僧祝の徒にや、吉野に勤王す。大日本史云、西阿三輪人、延元二年、帝御吉野、勅諸国討足利尊氏、西阿応勅、拠関地城、挙兵尊氏遣兵攻之不能克、興国二年、尊氏又遣細川顕氏佐々木貞氏等来攻、拒戦無利、棄城走、聚兵還拠城、顕氏等又来囲、遂不能抜之、後与子良円従楠正行、戦死于四条畷、其族尚在三輪、勤王不易節云。関地《セキチ》城址即三輪なるべし、南山巡狩録に阿倍山の楠将監西阿とあり、三輪西阿と同人にや。巡狩録又云、永享十二年五月一色左京大夫義貫大和国三輪にて一族三百人自害し、諸人心をいたましむ、(富麗記に拠る)南方紀伝に一色は越智退治として和州三輪に居たりけるに、義教に近侍する女房小弁と聞しが、いかなる故有しにや一色義貫は官方にこゝろを通じ京都を傾んとはかるよし讒言しければ、義教事の実否をも糺さずして一色を責るにより終に一族三百人三輪にて自害す、是により義貫が怨霊義教の愛子を罰すといふ。
上市《カミノイチ》郷 和名抄、城上郡上市郷。大市に対し此名あり、謂ゆる海柘榴市にあたる如し、即今三輪村の南部大字|金屋《カナヤ》の辺の古名なるべし。
海柘榴市《ツバキイチ・ツバイチ》 今三輪村大字|金屋《カナヤ》の中なり、椿市観音堂又つばいち地蔵など云あり。〔名所図会〕長谷の山口にして観音参詣の路なれば、古には殊に世に聞えし市なりしとぞ、今は全く荒村なり。枕草子に云、市はつばいち。日本紀略云、延長四年、長谷寺山崩、至于椿市、人烟悉流。花鳥余情云「小右記、正暦元年長谷寺、午時至椿市、令交易御明灯心器等、而詣御堂」これ等にて当時を知るべし。日本書紀云、武烈天皇、聘物部麁鹿火大連女影媛、平群鮪報曰、妾望奉待海柘榴市巷。又云、敏達天皇十三年、弓削守屋中臣勝海奉詔焼寺塔、有司便奪尼等三衣、禁鋼楚撻、海石榴市亭。又云、炊屋姫皇后(即推古帝)別業、是名海柘榴市宮。
むらさきは灰さすものぞ海柘榴市の八十の街に相し児也誰、〔万葉集〕
略解云、紫は海石榴の灰を加へて染る者なるによりつばいちといはむ序とせり。
殖栗《ウヱクリ》神社は三輪村大字上之荘字南垣内の殖栗に在り、延喜式内の古祠なり。〔神祇志料県名勝志〕日本書紀用明帝の御子殖栗王此に因める御名か。
志貴《シキ》神社 三輪村大字金屋にあり、志貴宮と称す。三代実録延喜式に見ゆ。即倭国六県の一社にして、磯城県主の祖神なり、県主の家系の事磯城郡の条を参考すべし。本社は正倉院文書、天平二年磯城神戸租稲三千三百五十余束、新抄格勅符、大同元年神封千二百戸を進めらる。崇神帝磯城瑞籬宮も同地なるべし。
補【志貴神社】○神紙志料 志貴御県坐神社、今金屋村にあり、志貴宮と云(大和志・名所図会)聖武天皇天平二年神戸租稲三千三百五十余束を以て神祭料とし(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神封十二戸を充奉り(薪抄格勒符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上に叙され(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る、祈年祭六県の一也(延喜式)凡そ十月廿六日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
磯城瑞籬宮《シキミヅガキノミヤ》址 崇神天皇の皇居なり。日本書紀云、天皇遷都於磯城、是謂瑞籬宮。古事記には水垣宮に作る。通証云、宮址在三輪村東南、志貴御県坐神社西。史料通信叢誌云、磯城水垣宮址は今長谷川と三輪川の間なる金屋(今三輪村大字)に在り、天皇山《テンノヤマ》と呼ぶ、天宮《テンノミヤ》あり、志貴御県祠の西南に当る。
恩坂《オサカ》郷 和名抄、城上郡恩坂郷、訓於佐加。今城島村なるべし大字忍坂あり。古事記伝に恩は忍の誤なるべし今も忍《オシ》坂村と云ふとあれど忍《オシ》若くは恩を於に仮りたる者にして、後世オシ坂に訛れる也、昔は磐余磯城より宇陀郡の地へ通ずる径路は此忍坂より萩原へ出でたり、神武天皇大和打入の際実に然り、其後初瀬路開け、恩坂路漸廃す。恩坂忍坂は舒明紀押坂、姓氏緑|刑坂《オサカ》に作る。古事記、遠飛鳥宮(允恭)段、娶意富杼王之妹忍坂之大中津比売、(安康母)為御名代、定刑部。本居氏云刑部は忍坂部なり、刑部と書故は其郷の人等の刑部《ウタベ》の職に仕奉りしことのありしより、やがて其職名の字を書ならへる也。姓氏録云、未定雑姓、忍坂連、火明命之後也。(氏族志云、刑部、諸書或作忍壁、又作小坂部、邦読皆通)
刑坂《オサカ》川は姓氏録に見ゆ忍坂川なり、忍坂の東に発し西流、外山桜井の間を過ぎ、倉橋川に合し寺川と為る。
室屋《ムロヤ》址 神武帝大和打入の条に於佐箇の大室屋に虜を掩殺したる事見ゆ、曰天皇勅道臣命、汝宜帥大来目、可作大室於忍坂邑、盛設宴饗、誘虜取之、道臣命奉密旨掘※[穴/音]於忍坂、而選猛卒、与虜雑居、酒酣之後、一時刺虜、無複※[口+焦]類者。恩坂山口坐神社は三代実録延喜式に見ゆ、祈年祭山口神六座の一なり、今城島村大字赤尾に在り。生根《イクネ》神社は延喜式恩坂坐生根神杜、今忍坂の宮山に在り、山口神と同く三代実録新抄格勅符天平二年大税帳等に見ゆ、土人|神体山《シンタイサン》とも曰ふ。補【刑部】○大日本史 刑部氏、造姓、出自餞速日十一世孫石持(旧事本紀○刑部、諸書或作忍壁、又作小坂部、邦読皆通)又有連宿禰二姓、云々、清和帝時、讃岐多度郡人斎院権判官刑部造真鯨、改貫左京(○本書、同時有陸奥名取団大毅刑坂宿禰本継、刑坂無所見、疑刑部之訛、附待後考)
刑坂川 城上郡○姓氏録竹田〔川辺〕連の条に見ゆ。〔仁徳天皇御世、大和国十市郡刑坂川之辺有竹田神社、因以為氏神、同居住焉〕補【忍坂室屋】城上郡○今城島村に在るべし。神武紀戊午年、先撃八十梟帥於国見丘破斬之、云々、既而余党猶繁、其情難測、乃顧勅道臣命、汝宜帥大来目部、作大室於忍坂邑、盛設宴饗、誘虜而取之、道臣命於是奉密旨、掘※[穴/音]於忍坂而選我猛卒、与虜雑居、陰期之曰、酒酣之後吾則起歌、汝等聞吾歌声、則一時刺虜、云々、時道臣命乃起而歌之曰、於佐箇廼、於朋務露夜珥、比苔瑳破而云々。○菅笠日記、初瀬より多武の峰へゆく、細道にかゝる此橋は、はつせ川のながれにわたせるはし也けり、云々、東の方にいと高き山をとへば、音羽山とぞいふ、音羽の里といふもその麓にありとぞ、忍坂村は道の左の山あひにて、やがてこのむらのかたはらをとほりゆく。
補【忍坂山口坐神社】○神紙志料 今忍坂村の隣邑赤尾村にあり(大和志・大和国図・名所図会)聖武天皇天平二年神戸の穀八斗一升を以て祭神料に充奉り(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神封一戸を寄し(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より正五位下を授く、九月庚申、幣を奉て雨風を祈り(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る、即祈年祭山口神六座の一也(延喜式)補【生根神杜】○神祇志料 忍坂坐生根神社、今忍坂村宮山にあり(大和志・名所図会・奈良県神社取調書)聖武天皇天平二年神戸祖稲一百五十束を祭料雑用に充て(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神封一戸を寄し(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授く(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)
押坂《オサカ》陵 舒明天皇の御陵なり、田村皇女(舒明母)大伴皇女(欽明女)鏡女王の墓同所に在り。日本書紀、皇極天皇元年、葬息長足日広額天皇、於滑谷岡、二年葬于押坂陵、延喜式云、押坂内陵、高市岡本宮御宇舒明天皇、在城上郡兆城東西九町南北六町。日本紀、天智天皇三年、島皇祖母命薨、通証云、帝王系図曰、糠手姫皇女号島皇祖母尊、押坂彦人大兄王子妃、舒明天皇母。延喜式曰、押坂墓、田村皇女、在城上郡舒明天皇陵内。延喜式、押坂内墓、大伴皇女、在城上郡押坂陵域内。又押坂墓、鏡女王、在城上郡押坂陵域内東南。今城島村大字忍坂の字丹塚(又段々家)高十七間周廻百三十六間三壇を成す、舒明皇陵なり、陵西南二町許天神社後の古墳は蓋田村皇女也、又東北半町許塚穴あり、恐くは大伴皇女ならん。〔名所図会山陵志陵墓一隅抄〕
迹見《トミ》 今|外山《トミ・トビ》に作る、城島村に属し忍坂の西に接す、等弥神社あり、蓋長髄彦の徒類の居址にして神武帝大捷の故蹟なるべし。長髄彦は古事記一名登美毘古と曰ひ、生駒郡鳥見郷を本居とす、此地は別居ならん。日本書紀、天武白鳳八年、自泊瀬遷宮之日、看群郷儲細馬、於迹見駅道頭、皆令馳走。外山は今初瀬桜井間の小村なれど、古は忍坂路の要駅にして忍坂山を一に鳥見山と曰へるに似たり、神武紀「立霊※[田+寺]於鳥見山」とある故蹟は大和志宇陀郡萩原に在りと為す、萩原は忍坂の東一里に当る、再考するに類聚三代格登美山に宗像神社在り、然らば烏見霊※[田+寺]も此地にして、萩原には非じ。
家像《ムナカタ》神杜は外山《トミ》の春日宮即是也。〔大和志〕日本書紀、雄略天皇、遣凡河内直香賜与采女、祠胸形神、欲親伐新羅、神戒天皇曰、無往也、天皇由是不果行、通証云城上郡宗像神社疑即是、時皇居在此郡。延喜式、宗像神三座名神大社に列す、類聚三代格、登美山宗像神高市皇子外家の神なるを以て、某氏賤年輸物を分て神社を修理せしめ、後裔高橋真人即氏人と為る、筑前宗像神の別宮なり云々。
補【宗像神社】○神祇志料 宗像神社三座、今外山村登美山にあり(類聚三代格・神名帳考証・大和志)天照大御神の御子田心姫、湍津姫、市杵島姫を祭る(日本書紀・類聚三代格)蓋筑前国宗像神社の別社也(三代実録・類聚三代格)天武天皇の御世、皇子高市皇子外家の神なるを以て、某氏賤年輪物を分て神社を修理せしむ(参取日本書紀・類聚三代格)是後皇子の裔孫高階真人を氏人として神社の事を掌らしめき(類聚三代格)陽成天皇元慶四年三月庚辰、官社に預り、五年十月辛卯氏人高階真人忠峰を神主とす、是より先氏人等解状を奉て浄御原天皇の御世以来今に至るまで氏人奉る処の神宝園地色数稍多し、且高階真人世々当社の事を掌りしが、世遠く人怠り或は職掌を勤ずして神宝を紛失ひ、或は彼此相譲て祭事を闕怠るを以て、屡祭祟を致せり、願はくは筑前本社に准へむと奏すを以て也(参取三代実録・類聚三代格)字多天皇寛平五年十月癸亥、忠峰等奏さく、当社は筑前宗像神と同神にして天照大神の御子に坐を以て、大神の勅に汝三柱神は道中に降居て天孫を助奉て天孫に崇祭れよと詔ひき、今国家祈祷ある毎に幣を奉給ふは其本縁也、唯筑前にのみ封戸神田ありて大和は未だ封例に預る事なし、因て忠峰等の始祖太政大臣浄広壱高市皇子命、氏賤年輪物を分て神社を修理るを永例とせられき、然るに年代久遠物情解体、且氏蓑へ路遙にして之を催促べき力なし、故に貞観十年の格に依て祖神宝物を請て修理に充てんとするに、氏人狐疑猶予つゝ年月を送る間に、神舎既に破壊を致せり、今筑前宗像郡金崎に在る所の氏賤同類蕃息其数已に多し、願はくは其正丁十六人を良民として調庸を奉らしめ、之に代るに当社随近徭丁を以て永く神社修理に充むと申しき、即勅して之を許し、件の徭丁は氏長者並神主等の申請を待て之を充て、一度差充るの後輒く他役に充べからずと制給ひき(延喜式)
磯城島《シキシマ》 今磯城島の名回復し城《シキ》島村に作る、粟殿《アハドノ》外山等の大字あり。三輪村と初瀬川を隔て、桜井村と刑坂川を隔て自ら一洲の状あり(太子伝玉林抄云、欽明天皇の敷島は異説あれど皆実説を知らず、彼処の人勧田房曰ふ、敷島とて長谷へ参れば山崎に小堂あり、今は武家入部の時くづせり、惣じて敷島とて一郷の処なり、慈恩寺殿の管領なる故に三輪の宮本へ郷役をするなり、金刺宮は川の向に竹原あり其内に小社あり、此欽明天皇内裡の跡也。按に古来「敷島の倭国」の成語あり、大和の別名と為り、又本邦の大名に転じ、更に歌道を敷島の道とも曰ふ、凡平城朝以後の語なるべし、論者或は崇神天皇磯城瑞籬宮に御宇して神の教を人の世に広め政法興りければ之を敷島の道と言ひ、言語を以て之を伝ふるを以て歌道にも及ぼすと説けど、崇神の皇宮に敷島の号なし、仏の教の我邦に顕れたる欽明の御宇こそ敷島と相関すれ、因て再考するに「敷島の倭国」の語は上古に聞く所なく、万葉以降に多し欽明天皇以前に此詞あるべからず、然らば欽明の昭代を謳歌したるより起るに非るは莫し、但書紀通証に、「称此邦為磯城島、旧説以欽明都城於磯城、故取其号者、不是、延喜式祝詞曰皇神之|敷坐《シキマス》島之八十島、蓋出干此」亦一説なり、然りと雖秋津島は南葛城の地名にして又飽き足らす意を含む如く、敷島も此地の名にして又知ろし食す(猶統御といふごとし)の義に通ずるは、皆古人措辞の妙趣と謂ふべきのみ。
補【磯城島】○日本国現報善悪霊異記 釈善珠禅師者、俗姓跡連也、負母姓而為跡氏也、幼時随母、居住大和国山辺郡磯城島村、得度精懃修学、智行双有、皇臣見敬、通俗所貴、弘法導入、以為行業、是以天皇貴其行徳、拝任僧正之。〔山辺郡は誤り〕
金刺宮《カナサシノミヤ》址 今城島村の中なるべし。日本釈名云、敷島の都の跡は長谷の谷のひろき所、慈恩寺村(朝倉村大字)の下五六町に在り、芝原少し残れり。日本書紀、欽明天皇元年遷都、倭国磯城郡磯城島、仍号為磯城島金刺宮。法王帝説に欽明帝を志癸島(又志帰島)天皇と記したり、金刺は造営上に因める名なるべしと雖詳ならず、或は曰ふ金は堅固の状を言ひ、刺は※[てへん+叉]なり、和名抄※[木+叉]首和名佐須とありて、柱上の横叉を言ふと。
大和にも磯城島の宮しきしのぶむかしをいとゞ霧やへだてむ〔月清集〕
史料通信叢志云、三輪村大字金屋の山崎は敷島と呼び垣内《カキウチ》と字する田あり、又三輪山の南岬(即山崎)に金屋島《カナヤシマ》及び穴刺《アナサシ》の字ありて、長谷川は其柿内と穴刺の間を流る、三百年前の古図に長谷川西岸に磯城島宮と標する者は今の垣内に当る、田地は近年の開拓にて其玉林抄に曰へる小祠今は亡びてこれなし、高円山《タカマヤマ》は慈恩寺の南に在り。
戒重《カイヂユウ》 城島村の大字なり、慶長五年関原の役織田武蔵守長益(信長弟)石田軍を破るの功を以て徳川氏三万余石の地を大和に給す、元和元年長益退隠して有楽と号し戒重一万石を左衛門佐長政に分禄し、子孫世襲す、正徳三年同郡芝村へ移館す。
英俊日記云、永正二年、戒重大仏供公事云々、十市衆大仏供合力人共損云々。大仏供殿久敷被違例、合戦之最中被奪去、依之諸勢引了、越智仲人云々、三年八月京衆入国、戒重城没落。
長谷《ハツセ》郷 和名抄、城上郡長谷部、訓波都勢。今朝倉村初瀬村の中なるべし、辟田郷と相混す。長谷は古書又泊瀬と記したり、其地勢狭長の谿澗なるを以て、長谷の字を押当てたりと雖、語意|終瀬《ハテセ》か、古事記伝に初瀬川々上は猶遠けれど此地ぞ上瀬なれば初の瀬の意かとあり、物の終始は義相通ず。又小泊瀬と称す、信濃国にも小泊瀬山あり後世訛りて姥捨山《ウバステヤマ》と曰ふ、因て古の葬所なりやの疑あれど、此地の氏人信濃に移り小長谷の名彼地にも起れるのみ、而も泊瀬に終《ハテ》の意あれば詞人特に葬所の悲感を寓せるならん。長谷に三氏あり。姓氏録、長谷|置始《オキソメ》連、神饒速日命七世孫大新川命之後也。(是其一なり)古事記朝倉宮(雄略)段、大長谷稚建命、坐長谷朝倉宮、定長谷部舎人、又建内宿禰之子波多八代宿禰者、長谷部君之祖也。(是其二なり)武烈帝は小泊瀬稚※[焦+鳥]※[寮+鳥]天皇と称す。氏族志云、小長谷氏武烈天皇置小泊瀬舎人、〔日本書紀〕本氏蓋出於此、有連姓、有造姓、〔古事記、連拠日本書紀〕仁徳帝時有小泊瀬造祖宿禰臣、賜名賢遺臣、天武帝十一年小泊瀬造賜連。〔日本書紀、瀬拠釈日本紀〕又|長谷川《ハセガハ》氏あり、新編常陸国誌云、長谷川は大和国長谷より起る、多武峰縁起に承安年中の人長谷川三郎季俊長谷川主殿正経など云ふあり、是長谷川の初祖と見えたり。長谷の枕詞を隠口《コモリク》(又籠国)と云。詞林采葉抄云、此所は山の口より入て奥深き故に籠口といへり。書紀通証云、挙毛利矩《コモリク》隠口也、見万葉集、蓋泊瀬山口※[くさがんむり+翁]蔚故為枕辞也、泊瀬或用長谷瀬亦可以見其義。古今六帖に海士小舟|泊瀬《ハツセ》と詠ず。
隠口の泊瀬少女が手にまけるたまはみだれてありと言はずやも、〔万葉集〕君が世は大初瀬路の百枝槻ももえながらもさかえますかな、〔同上〕〔未詳〕
泊瀬小野 日本書紀、雄略天皇、游乎泊瀬小野、観山野之体勢、慨然起感歌、曰云々、於是名小野曰|道《ミチ》小野。通証云、小野在初瀬西。
初瀬《ハツセ》川 本郡|上之郷《カミノガウ》郷村大字|小夫《ヲブ》の山中に発し、南流長谷寺の傍を過ぎ、西流朝倉三輪を過ぎ西北に屈折し、山辺郡二階堂村に至り佐保川に合し、大川(即大和川)と為る、長凡十里。古歌泊瀬を百瀬と誤りモヽセとも云へり。詞林采葉抄云、此川百瀬川とも云ふ、長谷寺に詣でぬるに渡る処は初の瀬なる故に初瀬と云なるべし。
石走るたぎち流るゝ泊瀬河たゆる事なくまたも来て見む、〔万葉集〕
泊瀬列城《ハツセナミキ》宮址 武烈天皇の皇居なり。日本書紀武烈天皇、設壇場於泊瀬列城、陟天皇位、遂定都焉。通証云、在長谷寺南、出雲村。(今朝倉村大字出雲)古事記、継体天皇の皇女出雲郎女あり、出雲《イヅモ》に住居したまへるならん、又書紀「欽明天皇、三十一年、幸泊瀬|柴籬宮《シバガキノミヤ》」の事あり、列城宮と同異詳ならず。
泊瀬朝倉《ハツセアサクラ》宮址 雄略天皇の皇居なり。日本書紀、雄略天皇、設壇於泊瀬朝倉、即天皇位、遂定宮焉。通証云、在黒崎岩坂二村間。(今朝倉村大字黒崎大字岩坂)姓氏録云、秦酒公率秦氏、養蚕織絹、盛諸国、貢進如丘如山、積畜朝廷、天皇嘉之特命寵命、役諸秦氏、※[てへん+(構−木)]八丈大蔵於宮側、納其貢物、故名其地、曰長谷朝倉宮。氏族志云、内蔵公、系出阿智便主子都賀四世孫東人、履中雄略二朝、相踵建内蔵大蔵、納諸国調絹、便東西文氏、勘録其簿、於是漢氏賜姓為内蔵大蔵二氏。〔姓氏録古語拾遺〕帝王編年記云朝倉宮、在城上郡磐坂谷南、廿町許。朝倉は蔵庫に因める号なり、蓋後世|校倉《アゼクラ》又|叉庫《アゼクラ》と云ふは即朝倉なり、其制は古歌に謂はゆる「朝倉や木の丸殿」と云ふ類にして、横材をたゝみ之を造為す、又支倉と云語あり波世庫と訓む、支は叉の訛にて長谷倉なるべし、秉燭譚に宝庫は四角なる木を積上て造る之をアゼリ又アゼ庫と称す、下学集叉庫をアゼクラと訓むと或書に見ゆ。和名抄、校倉(阿世久良)蔵穀物也、然れども支倉は後世仙台の氏名に遺るのみにて、未だ徴証を得ず。
倭訓栞云、和名抄校倉をあぜくらと読み、今昔物語宇治拾遺にも見ゆ、あぜは交《マゼ》の義なるべし、方なる木を打違へて井楼の如くに組上て、木の角を外へあらはす、依て下学集には叉庫と書り、新猿楽記にも叉倉に作り、俗にあぜりとも云といへり、姓氏録には※[田+寺]籠とかけり、北山鈔に校屋あぜやとよむ。
白川陵は後村上天皇中宮源顕子(北畠親房女)の墓なり、陵墓一隅抄云、正平八年入長谷寺為尼、御陵在笠間山、曰白川陵。今朝倉村大字笠間に在るべし。
泊瀬山《ハツセヤマ》 初瀬郷の山を指せりと雖、特に初瀬村大字初瀬を本拠とす、長谷坐山口神社同所に在り、雄略天皇の御詠に、
挙暮利矩の播都制の山は、いでたちの宜き山、わしりでのよろしき山の、籠国のはつせの山は、あやにうらぐはし、あやにうらぐはし、〔日本紀〕籠国の初瀬の山の山際にいざよふ雲はいもにかもあらむ、〔万葉集〕
長谷山口坐神社は天平二年東大寺大税帳に、神戸穀三拾参束、新抄格勅符、大同元年長谷山口神々封二戸などあり、延喜式大社に列す、初瀬村大字初瀬に在り。
事しあらば小初瀬山の岩木にもこもらば共にな思ひわがせ、〔万葉集〕
小初瀬山の岩木とある岩城《イハキ》即石郭の謂にて墓穴也、前にあげたるいざよふ雲の歌も火葬の挽歌なりと知るべし、按に泊瀬はやがて葬所の義なるべし。
初瀬《ハツセ》 今初瀬村と云ふ、此村川に臨み伊賀国及宇陀郡より大和へ通ずる大路にあたり、山中の孤駅なり。長谷寺の大伽藍あり、観音大士の霊場にして、真言宗新義派の学寮なるを以て道俗の参詣頗多し、或人の句に「麦青し泊瀬まゐりの笠ならぶ」と云へり。
長谷寺《ハツセデラ》 初瀬に在り、仏殿山に倚り高に在り、堂塔諸宇四傍に散布し、儼然たる大伽藍也。寺説元正天皇養老五年辛酉草創、又云文武帝の朝に徳道上人造立と。本堂は八棟《ヤツムネ》造、本尊十一面観音、殿堂の構造京都清水寺に相似たり。(明応五年重興なりとも又寛永年中造進とも云へり)豊山神楽院と号す、延喜式に豊山寺《ホウザンジ》料租稲二千四百束とあれば、別名豊山と云ひし也、万葉に豊泊瀬道《トヨハツセヂ》の語あり。続日本紀、称徳天皇神護景雲二年、行幸長谷寺、捨田八町。続日本後紀、仁明天皇承和十四年、勅、大和国城上郡、長谷山寺、元来霊験之蘭若也、宜為定額、永以官長令検校也。三代実録云、貞観十八年、律師法橋上人位長朗申牒※[にんべん+(稱−のぎへん)]、大和国長谷山寺、是長朗先祖、川原寺修行法師位道明、霊亀年中率其同類、奉為国家所建立也、霊像殊験遐邇仰止、請毎年安居、令居住僧等講演最勝仁王両部経、誓護朝廷、其布施供用寺家物、太政官処分依請。元亨釈書云、神亀三年、長谷寺成、行基法師為導師、義暹咒願而慶之。又云、長谷寺者、比丘道明沙弥徳道(即法道仙人)勠力建、其像者、自近州高島郡三尾山流出、霹靂木也、中書侍郎藤房前奏、賜和州租稲三千束、乃刻十一面観音像、高二丈六尺、震雷破巌石為坐、方八尺、仏工稽主勲稽文会作之。長谷寺縁起は菅原道真書と称すれど信憑し難し、近年寺中より千体仏銅版の発見あり、三代実録と并看して当寺興立の本縁を知るに足る。千仏多宝塔銅版、竪三尺巾二尺六寸厚一寸、其面の中央に多宝塔を鋳出し、無数の諸仏菩薩其四傍に充満す、其鋳巧最精妙なり。下段に銘文あり三百二十余字を勒す、其首八行許半ば欠損すれど、後段及銘辞は完し。此銅版久く隠没し集古十種古京遺文等にも収められず、近年五重大塔焼失の後灰中より端なく現出したり、然れども火の為めに欠損ししは痛惜すべき也、其序中に「粤以奉為天皇陛下、敬造千仏多宝仏塔、上※[まだれ+昔]舎利、仲擬全身、下儀並坐諸仏、方位菩薩囲繞」云々、又銘辞曰、
遙哉上覚 至哉大仙 理帰絶妙 事通感緑 釈天真縁 降茲豊山 鷲峰宝塔 涌此心泉 負錫来遊 調琴練行 披林晏坐 寧枕熟定 乗此勝善 同帰実相 一投賢劫 但値千聖 歳次降婁 ※[さんずいへん+来]菟上旬 道明率引 捌拾許人 奉営飛鳥 清御原大 宮治天下 天皇敬造
此銘によれば本寺は天武帝の為めに道明造立、歳次降婁は建卯之辰なり。礼記云、日在奎、注、仲春者日月会於降婁、而斗建卯之辰也。※[さんずいへん+来]菟詳ならず、一説漆兎にして七月ならんと、卯年三代実録に参照し、霊亀元年乙卯なる事疑なし。長谷寺縁起云、此豊山有二名、一者泊瀬寺、又云本長谷寺、二者長谷寺又云後長谷寺、其差別者、十一面堂西有谷、自其西岡上有三重塔並石室仏像等、是泊瀬寺也、得号者泊瀬河瀬、滝蔵権現坐、其所勝地而往古以来諸天影向砌也、脇彼地在天人所造之毘沙門天王、古人喚為天霊神矣、雷取登空之時、御手宝塔流、而泊此山麓三神里神河瀬、武内宿禰卜筮則自手崇、而北峰西北隅納之、其後経三百余歳、河原寺道明聖人移之石室、天武天皇更勅道明聖人建精舎於此矣、其聖人六人部氏矣。次東岡上有十一面堂者、長谷寺也、徳道聖人之願、而北家曩祖房前臣、奏元正天皇奉聖武勅詔、以所建立也、彼聖人播磨国揖宝郡人、俗姓辛矢田造米麿也。(以上大意なるが疑惑多し)長谷寺は三十三所第八番に当り、古より賽者盛なり、早く源氏物語玉葛巻にも見え、初瀬詣の名あり。順礼詠歌の事は何世より起れるにや、天文二十二年吉野詣記云、初瀬本尊の御前に参り、折しも歌うたへる女二人法楽とおぼしくて歌うたへるあり、其詞に花の都人うたよませ給へやと云を打開くより、誠に都人にはまぎれなけれど、歌よみなむ事は胸つぶれて、暫念誦して本尊に向ひ奉れり云々。
拙堂紀行云、山行崎嶇数十里、経萩原吉隠、日将※[日+甫]、忽遇一岡、石榜上題曰長谷之道、登則眼界頓豁、寺在前山中央、金閣宝塔、窈窕緑樹間、其下碧甍牆、人家且千、実為壮観、同人連声呼快、下阪数町、自大門入穿廊々長二町許、南郭詩三十三天次第攀信矣、曲折而上、右傍有一老梅樹、榜曰紀貫之故里梅、出後人狡獪耳、廊尽即為大悲閣、々架崖而起、与清水石山同制俗呼為舞台、倚欄而望、桜花爛漫、坐人白雲中矣、通覧而出、已昏黒、長廊掛燈数十、累々如連珠。
きかでただあらましものをけふの日も初瀬の寺の入相の鐘、〔新続古今集〕 通守
をはつせや花よりひゞく山風のかねのにほひもしらむ夜のそら、 宣長
奈良を出で初瀬どまりや花の春、 失名
晩に初瀬山に詣でて、堂の前なる欄に立よりて見れば、朝風の遙に谷より吹上りて、滝のひびきのそこはかとなし、
嶺はたゞもみぢ吹はらひ鹿ぞ暗く、 涼岱
春の夜やこもりゆかしき堂のすみ、 芭蕉
笈摺に卯の花さむしはつせやま、 去来
小池坊《セウチバウ》 観音堂の西なる岡上に在り、妙音院と云、旧紀州根来山寺学頭なり、天正年中根来破滅し、妙音院は寛永に及び其遺侶徳川氏の外護に因り講堂学寮を豊山域内に起し、真言宗新義派の種芸綜智場と為す。
与喜山《ヨキヤマ》 観音堂の東方、水を隔てゝ与喜山あり、山上菅丞相祠あり、其辺を与喜の里と曰ふ。此他に洞院実世の墓あるべしとぞ。南山巡狩録、正平十三年、洞院左大臣実世公薨じ給ふ、年五十一、此人元弘のはじめより先帝の御旨を受け万事を執し、忠功の程たぐひすくなかりける所なり、〔公卿補任太平記合考〕細々要記に、与喜山と云処に葬りけるとあり、新葉集に与喜左大臣と署せり。
鍋倉《ナベクラ》山 相模集云、初瀬に詣でつきて、はしの前に谷深うもみぢ多かるを、いづくぞと問へば、なべくら山といふ、
春ならで色もゆ計りこがるゝはなべ倉山のたきぎなりけり、
補【長谷寺】○史料叢誌 大和国字陀郡長谷寺の什宝、千体釈迦銅仏は竪三尺巾二尺六七寸、厚さ一寸余なり、此銅版鋳造の精工なる、中央には多宝仏塔あり、無数の仏菩薩四方に充満す、其意匠誠に妙絶にして奇々異様ならざるはなし、惜むべし下の隅少々闕損するを以て、四天王の内一体は木を以て古く補ひあり、天武天皇の朝に形の如くに鋳造の術に長じたる、実に美術の模範とも称すべき仏図にして、且つ其証とするは、下段に左記の銘あり、是又八行、凡そ四十五字を闕く、楽翁侯の集古十種、狩谷掖斉の古京遺文、葛西彰子の証古金石集及び金石年表以下に記載せざると、元来長谷寺五重塔中に秘しありしを以て、人の知らざる処なりしが、近世此塔焼失し、其灰中より現出せしを以てなり、寺憎は本長谷寺の本尊と称す、其銘曰、
惟夫霊
立称已乖小
真身然大聖 (此処欠損)
不図形表利
旦夕畢功慈氏
仏説若人起※[穴/卒]堵
阿摩洛菓以仏駄都
安置某中樹以表刹
上安相輪如小来葉或造像
下如※[のぎへん+廣]麦此福無量粤以奉為
天皇陛下敬造千仏多宝仏塔
上※[まだれ+昔]舎利仲擬全身下儀並坐
諸仏方位菩薩囲繞声聞独覚
冀聖金剛師子振威伏惟聖表
超金輪同逸多真俗双流化度
旡史為冀永保聖蹟欲今不朽
天地等同法界無窮莫若崇拠
霊峰星漠洞照恒秘瑞厳金否
相堅敬銘其辞曰
遙哉上覚 至矣大仙 理帰絶妙 事通感緑〔下略〕
泊瀬 麦青し泊瀬まゐりに笠ならぶ 吾東
○聖武天皇の朝に吉備大臣遣唐使を奉り唐土に渡り給ふに、彼国に於て野馬台の詩と云へる縦横分らざる一百二十字の文を出して読ましむ、吉備公更に読むこと克はざりしかば、心中に長谷寺の観音を念じ給ふ、奇異や紙上に蜘下りて其文の順を糸にて引て教へけりと云ふ、野馬台詩の事既に江談抄に出て、江帥云、此事我慥委、雖無見書故孝親朝臣之従先祖語伝之由被語也、又非無其理、大略粗書有所見歟、云々、然れば最も古く伝ふる小説なり。
野馬台之詩
東海姫氏国百世代天王右〔一本石〕司為扶翼衡主建元功初興治〔一本和〕法事終成祭祖宗本枝周天壌君臣定始終谷填田孫走魚膾生羽翔葛後干戈動中微子孫昌白龍遊失水※[穴/君]急寄胡城黄※[奚+隹]代人食黒鼠食牛腸丹水流尽後天命在三公百 王流異※[立+曷]猿犬称英雄星流飛〔一本鳴〕野外鐘鼓喧国中青丘与赤土茫々遂為空。
春の夜は誰かはつ瀬の堂ごもり 曾良
吉隠《ヨナバリ》 今初瀬村に属す、初瀬の東一里宇陀郡の界辺に在り。日本書紀「持統天皇九年、幸|菟田《ウタ》吉隠」とある者此也、万葉集吉魚張に作る、長谷より宇陀への通路なり。
吾やどの浅茅いろづく吉魚張の夏身の上にしぐれふるかも、〔万葉集〕夏身一に浪柴に作る、地名なり。
吉隠陵は光仁太后紀氏の墓なり、吉隠に在り、今高塚と呼ぶ。〔大和志〕延喜式、吉隠陵、皇太后紀氏、在城上郡、兆城東西四町南北四町。
猪養岡《ヰカヒノヲカ》は天武皇女但馬女王の墓此に在りと云。
但馬皇女薨後、穂積皇子遙望御墓、悲傷歌、
ふる雪はあはになふりそ吉隠の猪養の岡のせきならまくに、〔万葉集〕
辟田《ヒケタ・ヒキタ》郷 和名抄、城上郡辟田郷。今初瀬村の中に混じたるならん、秉田《ヒキタ》神社同村大字白川に在り。古事記雄略帝の引田部赤猪子に賜へる歌に、
比気多のわかくるすばらわかくへにゐ寝てましもの老にけるかも
とある栗林は此郷なり。続紀に、慶雲二年、大和国人大神引田公足人、賜姓大神朝臣とあるも此郷の人なるべし。辟田を引田とよむこと其例稀有なり。古事記、朝倉宮雄略(段云)、天皇一時遊行到於美和河之時、河辺有洗衣童女、其容貌甚麗、天皇問誰子、答曰己名、謂引田部赤猪子、即令詔者、汝不嫁夫、今将喚而還坐云々。○辟田即ヒラタと訓むか、しからば辟田も平田も平らなる地面の田あるを云ふときこゆ、推古紀に百済味摩之帰化云々此今大市首辟田首等祖也と見え、姓氏録、大和蕃別に「辟田首、任那国主都奴加阿羅志之後也」とあるも此に住みけるに依りて負るなるべし、一説に辟田は佐岐多と訓べし雄略紀に菟田郷戸部|真鋒田《マサキタ》高天あり、鉾田は辟田に同じ、兎田は隣郡の宇陀なりと云へり、如何あらむなほ考ふべし。〔郡名同唱考〕
秉田《ヒキタ》神社 延喜式秉田神社二座、一本曳田に作る今初瀬村大字|白川《シラカハ》轟瀑の上に在り、白山権現と云ふ。蓋引田首の祖神なり、引田部赤猪子、又天武紀に見ゆる三輪引田君難波麿は此氏人ならん。
迹驚淵《トドロキノフチ》は白川の宮山の下に在り、枕草子に「轟の瀑はいかにかしましく恐ろしからん」と記せるも此なるべし。天武紀云、白鳳八年、幸泊瀬、宴迹驚淵上。
神戸《カンベ》卿 和名抄、城上郡神戸郷。此郷今詳ならず、三輪山の背なる上之郷村にあらずや、初瀬川の上游なり小夫《ヲブ》笠村滝倉の諸大字あり。
滝倉《タキクラ》 上之卿村滝倉は小夫の南笠村の東なり。滝倉明神杜あり、延喜二十年授位の事類聚符宣抄に見え、天慶三年正二位に進むと日本紀略に在り。滝倉礼堂と今昔物語に載せたり。大和志云、滝倉神宮寺、鐘銘応永二十六年。上之郷村大字|笠《カサ》に笠山あり、纏向山に接す、峰容蓋の如し故に名づく。
雨ふらばきむと思へる笠の山人にな着せそぬれはひづとも〔万葉集〕 石上乙麿
巻向山《マキムクヤマ》 纏向村の東嶺にして上之郷村の西界を為す万葉集に「三毛侶の其山なみに児等《コラ》が手を巻向山はつぎのよろしも云々」とある如く、三輪の御諸山の北に相並ぶ。
檜原《ヒバラ》 巻向山の麓を曰ふ。姓氏録、檜原宿爾、坂上大宿禰同祖、出自後漢霊帝男延王也。
巻向の檜原に立てる春がすみおほにし思はばなづみ来めやも、〔万葉集〕鳴神の音にのみきく巻向の檜原の山をけふ見つるかも、〔同上〕
弓月岳《ユヅキタケ》 纏向の高峰の名なり、多く万葉集に詠ぜり。名所図会云、弓槻岳の頂上に十市兵部少輔遠忠の城跡あり、此辺の道筋に竈馬《カウロギ》橋と云あり、小溝に野づら石を渡したり、カウロギと云謡曲あり。
痛足《アナシ》川かは波立ちぬ巻目《マキムク》の由槻が嵩に雲居たつらし〔万葉集〕大和軍記云、十市と申所に十市常陸介と云人、代々の居城にて、和州の東山際は此人の領知に候、東の山中伊賀境まで持分に候、常陸介は筒井順慶の姪婿にて候。英俊日記、永正二年国衆大名の交名中に、土市新次郎遠治と云あり。
玄賓僧都の庵址は檜原に在り、三輪山の北に方り一名玄賓谷と曰へり。〔名所図会〕玄賓は平城平安両朝の交に盛名あり、特に嵯峨天皇の眷顧を被りたり、然れども隠退して出でず清操を持して身を終る、江談抄、弘仁五年玄賓任律師、辞退歌云
三輪川のきよき流れにすゝぎてしころもの袖は更にけがれじ。
纏向《マキキムク》 纏向は垂仁景行二帝の皇居したまへる所なり、今纏向村の東部穴師巻野内などの辺の古名なるべし。巻向神社は即巻向坐若御魂《マキムクニマスワカミタマ》神杜、〔延喜式〕一名巻向穴師社〔釈日本紀引大倭本紀〕今三輪山の北巻向の檜原にあり、豊受大神と云、〔大和志神名帳考証名所図会〕蓋天皇伊弉諾尊の御子豊受毘売神の御父|和久産巣《ワクムス》日神を祭る、〔古事記日本書紀〕斎鏡一面子鈴一合を以て霊形とす、上古天祖皇孫命を天降し給ふ時三種神宝に此鏡鈴を副て天皇命の御食津《ミケツ》神として朝夕御食《アサユフノミケ》夜の護り日護り斎奉れと詔ひし大神、即是也。〔釈日本紀引大倭本紀〕平城天皇大同元年大和二戸を神封に充つ〔新抄格勅符〕本社は後世いたく衰頽し、今わづかに小祀を存するに過ぎず。
纏向珠城宮《マキムクタマキノミヤ》址 垂仁天皇の皇居なり、今纏向村大字穴師の西|長者屋敷《チヤウジヤヤシキ》と云ふ者是か。〔書紀通証名所図会〕珠城は古事記に玉垣に作り、師木玉垣宮と曰ふ。
日にみがく玉城の宮のさくら花春のひかりと植や置けむ、〔統古今集〕
纏向日代宮《マキムクヒシロノミヤ》址 景行天皇の皇居なり、今纏向村大字穴師の北に在りと云。〔大和志書紀通証〕古事記之を頌して曰ふ、
麻岐牟久の比志呂のみやはあさひ照る宮、夕日のひかげるみや。
穴師《アナシ》 纏向村大字穴師是なり、穴師山|痛足川《アナシカハ》巻向山巻向川異名同実とす、古は大市郷の中なるべし、日本書紀穴磯に作る。
纏向の痛足の山にくも居つゝ雨はふれどもぬれつゝぞこし、〔万葉集〕世の中の女にしあらば吾渡る痛背《アナセ》の河をわたりかねめや、〔同上〕ぬばたまの夜さりくれば巻向の川音たかしもあらしかも疾き、〔同上〕
兵主《ヒヤウス》神社 穴師に在り、蓋大和国魂神の別宮なり。新抄格勅符大同元年大和和泉播磨地五十二戸を神封に寄進せられ、播磨風土記餝磨郡兵主郷穴無里あり、延喜式名神大社に列す。正倉院文書天平二年穴師神戸祖稲一千四百三十六束とあり、今延喜式大兵主神社亦同境に在り。本社の地即古の穴磯邑大市長岡岬なるべし。日本書紀垂仁巻云、倭大神者大水口宿禰曰、太初之時期曰、天照大神悉治天原、皇御孫尊専治葦原、我親治大地官者、言已訖焉、然先皇(崇神)、祭祀神祇細微、未探其源根、以粗留於枝葉、放其天皇短命也、今汝御孫尊、慎祭則天下太平矣、天皇命渟名城稚姫命、定神地於穴磯邑、祠於大市長岡岬、然是姫命身痩弱不能祭、是以命長尾市宿禰令祭矣、按ずるに崇神帝の時に先祭られしは大兵主社にて、渟名城稚姫は兵主杜を起し、長尾市に至り大和社(山辺郡)を始めたるか。其兵主と曰ふは即軍神の謂ならん、後世の追称に出づ、大和神社参看すべし。補【兵主神社】○神祇志料 穴師坐兵主神社、今穴師村の東弓月|嵩《タケ》にあり(和州旧跡幽考・大和志・名所図会)蓋大倭大神大国魂命を祀る、垂仁天皇御世、神教あるを以て大神を祭るべき人を穴磯邑に定めて、大市長岡岬に齋祀らしむ、即是也(日本書紀) 按、本書山辺郡大国魂神社は崇神の御世より祭れる地にして、本社は神地を定むるに及て祭られし所なる事著し、且延喜式・倭名妙に穴師大市等の地名山辺郡にあらずしてみな本郡に属たるも、又其一証なり、附て考に備ふ
聖武天皇天平二年神戸祖稲一千四百三十六束を以て神祭神嘗酒料に充奉り(束大寺正倉院文書)平城天皇大同元年、大和、和泉、播磨地五十二戸を神封に寄し(新抄格勅符)
按、播磨風土記穴無里は倭穴師神戸に附て仕奉りきとあるは、此時寄せる神封なるペし清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下勲八等穴師兵主神に従五位上を授く(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次相嘗の案上幣帛に預る(延喜式)一条天皇正暦五年四月戊申、中臣氏を宣命便とし幣帛を奉て疾痩等の事を祈らしめき(本朝世紀、参取日本紀略)
柳本《ヤナギモト》 纏向村の北に接し、山辺郡の郡界に密邇す。戦国の頃柳本氏あり、柳本の東なる弓月岳を要害と為し之に築けり、蓋三輪十市の一党ならん。
柳本塞址 芝村と同く織田氏の陣屋なり、初有楽斎長益(信長弟)関原役東軍に属し戦功あり、徳川家康三万石を給す、元和元年其一万石の地を大和守尚長に分禄し柳本に居館す、子孫世襲以て明治維新に至る。
天神山《テンジンヤマ》 延喜式伊射奈岐神社此に在り。〔県名勝志〕工芸志料云、正嘉元年人あり柳本天神社に石柱を立て以て道標と為す、石を以て道標を造る事蓋此に始る。補【柳本】○工芸志料〔重出〕正嘉元年人あり、大和国城上郡の柳本天神社に石柱を立て、以て道標と為す、石を以て道標を造ること蓋此始めか、是より後石柱を以て遣標となすこと諸国に多し、而して後又石を以て橋柱となし、門柱となすこと諸国並に起る、而して今に至る
水口《ミナクチ》神社 柳本村大字渋谷《シブタニ》の神山に在り。〔県名勝志〕垂仁帝の時、大和大神大水口宿禰に憑着して教命ありし事、穴師兵主神杜の条参看すべし。旧事紀に依れば大水口氏は穂積同祖にして、物部氏と出自を共にす。
山辺道上《ヤマベノミチノヘ》陵 崇神景行二帝の御陵なり、今柳本|朝和《アサワ》の辺とす。石上より三輪に通ずる路は山に沿ふて行くべし、之を山辺道と曰ふ、天武紀壬申乱の条に大和上中下三通の一なる上道即是なり、陵名之に因りて命ぜられし也、今諸陵寮柳本の王墓向山の二所を以て之に擬定せらる。
崇神天皇陵 延喜式、山辺道上陵(古事記山辺道勾之岡上)磯城瑞籬宮御宇崇神天皇、在城上郡兆城東西二町南北二町。大和志山陵志は崇神陵は南に在りと為し、柳本村大字渋谷東南向山(高十一間周二百間)を以て之に充て、聖蹟図志は其西に一荒墓を録す。陵墓一隅抄は崇神陵北に在りと為し柳本村の東字別所ニサンサイ又王墓と称する者を以て之に擬す。按ずるに延喜式「山辺郡衾田墓、無守戸、令山辺道勾岡上陵戸兼守」とあれば崇神陵当に北に在りて衾田《フスマダ》に近かるべし、後の論者をまつ。
景行天皇陵 延喜式、山辺道上陵、纏向日代宮御宇景行天皇、在城上郡兆城東西二町南北二町。大和志山陵志は景行陵を以て北に在りと為す、即柳本村別所のニサンサイ是也、高一丈四尺周百間式文に符合す。山陵志云、景行陵、呼為|忍代《オシロ》山、即古遺言也、帝諱忍代別、古者上下相名、而不敢諱、陵旁柳本北、接乎釜口。而て陵墓一隅抄は之に反し景行陵は南に在りと為す、按ずるに南なる古陵は過大式文に合せず、疑らくは帝陵に非ず、崇神の真陵は釜口衾田の地に求むべきか。
下野《シモノ》郷 和名抄、城上郡下野郷。下野今其名なし、柳本村纏向村の中にて平夷の地を謂ふか、万葉集に敷野あり磯城の下野の義なるべし。
君に恋うらぶれ居れば敷の野の秋はぎしぬぎさをしか鳴くも、〔万葉集〕
訳語田《ヲサダ》 又他田に作る、今纏向村大字|太田《オホタ》辻村の辺の古名なり。古語訳語(通事)を袁佐《ヲサ》と曰ふ、因りて他種の通訳を経る者をも袁佐と呼び、他字を仮りたる如し。敏達天皇の皇居したまふ所なり、霊異記及神明鏡には磐余訳語田宮とあれど、磐余は十市高市に広く被むれる名なりと知る可し。
訳語田幸王宮《ヲサダサキタマノミヤ》址 敏達天皇の皇居にして、初め天皇此に生長したまふ、故に諱を訳語田と曰ふ、謚して渟中倉《ヌナクラ》太玉敷と曰ふ、幸王宮に居りたまふを以てなり。渟中倉とは宮中の御庫の号なるべし、今纏向村大字太田に天照御魂神社あり、幸玉宮其社辺に在りしなるべし。日本書紀云、敏達天皇四年、命卜者、占海部王家地、与糸井王家地、卜便襲吉、遂営宮於訳語田、是謂幸王宮。通証云、大田村有旧址。
他田《ヲサダ》神社 延喜式、他田坐天照御魂神社。今纏向村大字太田字海道に在り、〔県名勝志〕饒速日命を祭る、正倉院文書(天平二年)新抄格勅符三代実録等にも見ゆ。
山辺郡
山辺《ヤマベ・ヤマノベ》郷 今夜万倍と呼ぶ、延喜式和名抄山辺郡訓夜万乃倍とあり、日本書紀雄略巻には耶磨能謎とあり、和名抄六郷あれど郡域固より整はざるを以て古今の沿革あり。山辺は初めより総名にして石上より三輪の辺まで一帯の称なり、古事記、垂仁天皇御子、大中津日子命者山辺之別之祖也とあるは此間に領邑したまへるなり、山辺県主も此に外ならず。当時|闘鶏《ツゲ》国造あり東山嶺背数里の渓間を占有す、其国廃し置郡の日之を本郡に入る。天武紀白鳳十二年山辺郡竹谿村とあるは和名抄宇陀郡多気郷に同じ、又和名抄添上郡山辺郷あり。蓋天武朝以後山辺郡旧闘鶏の諸郷を分割し宇陀添上に入れしめたり、字多郡多気郷笠間郷添上郡山辺郷楊生郷等是なり、而も今波多野村は楊生を離れ本郡に復し笠間郷(東里村豊原村)も本郡に復したり。又西南界大和神社は(今朝和村の内)古城下郡大和郷と称す、延喜式大和神社本郡に載するを見れば延喜以前に変遷あり。山辺郡今山辺村外八村と為り、山辺村丹波市を首邑とし郡役所を置く。奈良町より三輪桜井に通ずる孔道丹波市を経由す、古の山辺《ヤマベ》の上道是なり。
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大和《オホヤマト》郷 和名抄、城下郡大和郷、訓於保夜未止。今山辺郡朝和村東南部なる長柄萱生等の地なり、大和大神鎮座するを以て其名あり。日本書紀崇神巻に「祭倭大国魂神、倭国|市磯《イチシ》邑、後改名曰大倭邑」とあり之を垂仁巻一注に参照するに市磯は穴磯《アナシ》の誤にて城上郡穴師兵主神にあたり、大倭は大倭直祖長尾市の祭事したる者にて相異なり、旧名|穂積《ホヅミ》なるべし。書紀磐之媛皇后歌に「鳥陀※[氏/一]夜莽苫をすぎ」の語あり、釈紀云「烏陀※[氏/一]小楯也、言山如立小楯也」と見ゆ、大和社の東方に丘陵相接す、之を小楯に比するか。続日本紀、天平宝字二年、大和国奏※[にんべん(稱−のぎへん)]、部下城下郡大和神山、生奇藤、其根虫彫成文云々。当時本郷は城下郡に隷す、延喜式に至り山辺郡に属せしむ、和名抄城下郡と為すは延喜式の旧を襲げる者のみ。
衾田《フスマダ》墓 継体天皇々后手白香皇女(仁賢帝女)の陵なり、今朝和村大字|中山《ナカヤマ》に在り殿墓《トノハカ》と称す。〔大和志〕延喜式、衾田墓、手白香皇女、在山辺郡兆域東西西二町、令山辺道令山辺道勾岡上陵戸兼守。按ずるに山辺道勾岡上陵は崇神帝にして今城上郡柳本村南陵を以て之に擬定すれど疑なきにあらず、衾田墓附近の地に求むべし。大八洲雑誌云、中山邑の東北に一大荒隴あり、前方後円にして封域頗広し土人之を東殿塚(又ウプヤマ)と字せり、此荒隴の西に沿ひ又一座の大陵あり、之を西殿塚と称す、二者相并び其間僅に六七間を距て、形状高低封域方向を同じくせり、其西殿塚は継体天皇の皇后手白香姫の山陵とぞ。
衾道を引手の山にいもを置きてやま路をゆけば生けりともなし、〔万葉集〕
名所図会云、中山の東に龍王山高く聳ゆ、即引手山なり衾道《フスマヂ》は此辺に在り。按ずるに引手山即釜口山の一峰ならん、南は纏向弓月岳に連る。
釜口山《カマクチヤマ》 朝和村中山の東にして、壊墓の羨道露出する者多く其竈に似たるを以て釜口の名起るか、長岳寺あり寺を繞り古墳累々たり、古より農民田野に耕牧する者副葬の器具を獲ることあり、今に絶えず。天明寛政の頃にや長岳寺主曇如好古の癖あり、近郊出す所の金石多く其蔵に帰す、故に自称して曲玉館主人と号せりとぞ。天文二十三年吉野詣記云、大和国に入り、山辺内山にて暫く足をやすめ、長岳寺(釜口と号す愛染明王)におもむき二夜をあかしけり、此の寺の外護柳本とてやさしく情けふかし、凡浮屠は桑下の三宿をだに戒められしに、此柳本こそ千夜をも明すべきやどりとは覚え侍れ、本堂にまいりて、愛染堂前花繞松、方池亀出水溶々、忽除業障洗煩悩、十二時中不退鐘、又寺に帰りて夜に入て楊本範堯と盃さしいて遊びけり。
補【釜口】山辺郡○史料叢誌に曰く、釜口山の地勢たる、式上山辺二郡に跨り、所謂萱生の千塚に接近し、古墳累々として寺地を囲繞せり、農民田を墾し、曲玉管玉金環及び石器等を発出すること、古へより今に至るまで往々之れありしは、世人の普ねく知る所なり、近世釜口長岳寺普賢院主曇如、随て見れば随て求め、名玉珍器を以て書斎に充満せしめ、身を其間に置き朝夕之を娯む、故に自ら称しで曲玉館主人と号したり、其多く曲玉を蔵するを以てなり、当時近畿の古物家を称すれば、先づ指を浪花の※[くさがんむり+兼]葭堂と大和の普賢院に屈せしむるに至れりとぞ、曇如入滅して、後任其遺物を保有する能はず、四方に散逸し、今何人の手に帰せしを知らず。
萱生千塚《カヤフノセンヅカ》 朝和村東部高地に古墳甚多し、故に此名あり。貝原氏の二階堂窟と曰ふも此なり、世俗今に古人穴居の跡と為す者あれど非なり、万葉集に衾道の引手山とありて当時葬所の事著明なり。又此墓を戦国の頃殺戮の事ありて原上一時に其屍を収めたる者と云ふも非なり、古代数世間(平城朝以前)の葬所のみ。
史料通信叢誌云、荒隴を千塚と云は諸州往々之れあり、千塚とは数十の古墳一区に碁布するもの、俗称にして千は其多きを謂へるなり。大和国山辺郡朝和村の大字に萱生中山あり、其地東は衾田《フスマダ》引手山《ヒキテノヤマ》(名勝たり俗に龍王山と呼ぶ)を負ひ、南は崇神景行の山陵を隔て纏向《マキムク》三輪《ミワ》長谷《ハツセ》の諸山を控き、北は布留山《フルヤマ》石上《イソノカミ》邑に連り西は成願寺邑(亦朝和村の大字)を隔て官幣大社大和神社を望めり。此萱生中山成願時は勿論、接近の村落は古墳頗る多く累々として相依り地上微く隆起せるものは皆古墳ならざるなく、一望波瀾の起伏するが如し、就中萱生中山最多し、俗に萱生千家と称す、其何れの時何人等を葬りしや記録口碑の徴すべきなければ之を知るに由なしと雖古来村民開拓する毎に冢穴石棺等発現し、曲玉管玉小玉石器古鏡甲冑馬具刀剣鏃土器の類を獲たり、今山野墾破の余其地大概民有と為り、茶園に変じ柑園に化せり。貝原益軒営窟説云、凡諸州、依高岡爽※[土+豈]之地、為石窟者多矣、五畿四荒皆然、就中大和州二階堂邑、河内州服部川邑、傍山為骨窟者、孔夥矣、殆不可数、故二州民、目之倶称千塚焉、是皆人力之所営作、非天工之自成也、其窟口咸向南面開、窟中左右及深奥当面之処、畳石為壁、其上頭以大石之扁者、連布而蓋之、恰若今之藻井然、大率深入可二三丈或四五丈、其中作区処二三間、恰如今世民屋之中為区別、其高濶各六七尺、其口窄狭纔可容身、鞠躬而入、人皆疑之曰、此窟古人之所築、未知其為何而作也、国俗曰上世氷雨氷風屡傷人、故子営為之、方其雨氷時避之而潜居于此焉、或曰疑是上世葬人之坑也。
岸田《キシダ》 朝和村大字岸田は中山の西に接す。姓氏録云、岸田朝臣、武内宿禰五世孫稲目之後也、居岸田村、負岸田臣号。日本書紀、孝徳天皇二年「涯田臣之過者、在於倭国被偸官刀、是不謹也」とあるも同族也。
兵庫《ヒヤウゴ》 朝和村大字兵庫は大和神社の北に接す、大倭神社は武器を納めたる旧祠なれば其兵庫にあらずや、東鑑大和国兵庫荘見ゆ。
大和《オホヤマト》神社 朝和《アサワ》村大字|新泉《ニヒヅミ》に在り、延喜式大和坐大国魂神社三座并に名神大社に列し、中世二十二社第四に班す、今官幣大社也。此神は日本書紀を按ずるに崇神天皇の時顕れたまふ、初め穴磯に祭る穴師兵主神是なり、垂仁天皇の時更に穂積臣祖大水口宿輔に神教あり因て長尾市宿禰をして祭祀せしめたまふ、即本社なり。(旧説此地は市磯邑なりと曰ふ市磯は穴磯の誤にて此に非ず)神祇志科云、大和社は素戔嗚尊の子大年神の子大国御魂神をまつる、八尺瓊を以て霊形とす。〔大倭社注進状蓋此神倭国を経営坐し功徳ある神なるを以て朝廷にも殊に深く尊み崇奉れり故之を大和大神と申す。〔参取日本書紀、古事記、旧事本紀大意〕
按出雲風土記に此神意宇郡飯梨郷に天降坐すことみゆ、此は大穴貴命天神に帰順奉り天上に参上り坐時此神も従奉りしが降坐しなるべし、旦大穴貴命天下を経営玉へるを以て大国玉命と称奉るを、此神も大和大国魂神と申すは、或は彼神を肋けて殊に倭国に功徳ありし事著し、姑附て考に備ふ、
初大国魂神を天皇大殿の内に斎奉り、崇神天皇に及て甚く神威を畏給ひ渟名城稚媛命に託て之を市磯邑に遷祭らしむ、〔日本書紀、市磯邑拠大倭社注進状〕相殿二座其一は大年神の兄八島士奴美神五世孫八千矛神を祭る〔古事記大倭社注進状〕八千矛神は即大穴貴命也、昔此神の天孫に奉りし広矛も大殿内に在しを斎奉て即其霊形とす、〔参取日本書紀大倭社注進状〕其一は大年神の子御歳神を祀る、〔古事記、大倭社注進状〕垂仁天皇御世大倭直祖長尾市を神主とせば天下太平ならむと神教給ひき、故長尾市を以て大国魂神を祭る神主とす。〔日本書紀〕此後大倭氏世々其祭を掌りき、〔日本書紀続日本紀〕持統天皇六年幣を奉て藤原宮を造る由を告し、新羅の調物を奉り〔日本書妃〕聖武天皇天平二年、神戸租稲一千四十束を以て祭神及神嘗酒料に充しめ、〔東大寺正倉院文書〕孝謙天皇天平勝宝元年大和尾張常陸安芸出雲武蔵の地三百二十七戸を神封に寄奉る、〔新抄格勅符〕清和天皇貞観元年従二位勲三等大和大国魂神に従一位を授け、宇多天皇寛平九年大和大国魂神に正一位を授け奉り、〔大倭社注進状引新国史〕醍醐天皇延喜の制三座並名神大社に列り祈年月次相嘗新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る、〔延喜式〕鳥羽天皇元永元年二月、乙火災に依て神殿三宇及霊形みな焼失給ひき。〔中右記〕
長柄《ナガラ》 朝和《アサワ》村大字長柄、白鳥明神あり、延喜式曰堤神社あり、〔大和志〕姓氏録云、大和神別、白堤首、天櫛玉命八世孫大熊命之後也。神武紀に臍見長柄丘と云地あり、臍見即穂積なれば長柄此也。史学雑誌、臍見長柄丘は猪祝の拠るところにて、山辺郡の東南隅に長柄村あり、即其地にして和珥の南に当り、波※[口+多]丘と共に鼎足の勢を為す、神武天皇既に磯城長髄等を滅す、是に於て西北方隅猶三賊ありて相聯結す、故に偏師を遣り先づ平げ、尋で力を東南葛城の賊に用られしなり。
穂積《ホヅミ》 今|朝和《アサワ》村の中なるべし、大字|新泉《ニヒヅミ》は新穂即初穂を積置処の義にて此を謂ふか、神武妃|臍見《ホソミ》長柄丘とあり、今新泉長柄相接す。穂積氏は物部氏同族にして盛胤なり、穂積臣遠祖大水口宿禰大倭大国魂神の教を被り其社を居邑に興せるより之を大和郷と為す。古事記、宇摩志摩遅命、此者物部連穂積臣※[女+采]臣等祖也とあり。軽堺原宮(孝元)段云、天皇娶穂積臣等之祖内色許男命妹内色許売命。志賀宮(成務)段云、天皇娶穂積臣等之祖建押山垂根之女名弟財郎女。万葉集に長歌
みてぐらを楢より出でて、水蓼穂積に至り、鳥網張る坂手を過ぎ、石走の甘南備山に云々
此行程、楢は奈良京なるべし、甘南備は飛鳥にも龍田にも二処あり。
朝日《アサヒ》 朝和村大字佐保荘に朝日観音堂あり、朝日は地名なるべし、今朝日の朝と大和の和を取り朝和の村名を命じたり。延喜式、朝日豊明姫神社は三代実録にも見ゆ、今観音堂の地蓋神域にて小祠存す。〔大和志〕夜都伎神社延喜式に列す、今朝和村大字乙木《オトギ》に在り。〔大和志〕
内山《ウチヤマ》 朝和村大字|杣之内《ソマノウチ》は内山と称し永久《エイキウ》寺(一作永福)の廃址あり、此寺明治維新の際まで田禄一千石を有し堂宇諸房巍々たりしが、住持の僧下劣にして一朝毀壊に附し、今悉皆敗亡す。名所図会云、内山金剛来院永久寺は山口村に在り、永久年中鳥羽院の御願、開基亮彗なり、本堂阿弥陀奥院不動明王真言堂大日如来なり、元弘年中笠置没落の時後醍醐帝忍て入御ありし遺跡とす、真言宗を奉じ堂塔屋舎四十八区。大和志云、内山永久寺、又曰石上神宮寺、貞観八年、勅以大和国田二十八町、施入石上神宮寺、須待造寺畢還収、見三代実録。
長屋《ナガヤ》卿 和名抄、山辺郡長屋郷、訓奈加也。○旧跡幽考云、長屋原は今長原にあり、万葉集に見ゆ、続日本後紀承和十三年の条に山辺郡長屋郷と見ゆ。今朝和村大字|永原《ナガハラ》の辺なるべし、二階堂村の東南部大字井戸堂も此郷中なるべし。
長屋原《ナガヤハラ》、万葉集云、和銅三年春、従藤原宮遷于寧楽宮時、御輿停長屋原、向望古郷作御歌。近年永原の人中村直三と云者あり、農を勉め徳を好み、篤行の名遠近に聞ゆ、明治十五年歿せり。
補【永原】○産業事蹟 山辺郡永原村は往古より地論水論等の絶ゆる時なく、人心の治り兼ねたる所なりしを、善次郎と云もの年来深く歎きて、臨終の際に一子直三を病床に呼び、其方は終身の間に力を尽して村内の葛藤を治めよとありしより、直三は其遺言を守り、人心を治るには学問に如かずと、然れども高きに登るは低きよりし、遠に行は近きよりするこそ順序なりとて、遂に心学に志し、道話書を読み仁義の大道を学び、数年躬行して村民を教導し、遂に村内の葛藤を静定せしこと其領主に聞え、嘉永元年三月十七日青銅三貫文の褒賞を賜り、直三又農学に志して米穀の良種を各地方に求め、地味と寒暖に因て耕事を研究し、同国千余箇村の農夫に培養法を授け、専ら国益を謀り、明治維新の後は諸藩府県に招聘せられ農を勧む、明治十五年直三の善行上聞せられ、天顔に咫尺して日本三農師の一人なりとの名誉を揚ぐ、直三益感激し、五月十二日永原村に遙拝所を設け、大小の神紙を始め農業に尽力せし貝原、宮崎、佐藤、大蔵四大人の霊を祀る、大日本農会々頭能久親王之を嘉し、祭文を贈られたり、其年八月時疫に罹り死す、世の識者之を惜み、近世稀見の篤志者となす。○今朝和村大字永原。
山辺《ヤマノベ》 今此名なし、二階堂《ニカイダウ》村大字|井戸堂《ヰトダウ》の辺なるべし、山辺御県神此に在れば也。古事記伝云、更科日記に初瀬に詣づる道の所東大寺云々、石上云々、其夜山の辺と云所の寺に宿りてなど見えて、中昔まで山辺里あり、本其名より郡名にもなれるなり。
泊瀬へ詣づとて山辺と云わたりにて
草枕旅となりなば山の辺にしらくもならぬわれや宿らん、〔後撰集〕
山辺御県《ヤマノベミアガタ》坐神社は二階堂村大字西井戸堂字大門に在り〔県名勝志〕更科日記山辺寺と云も此なりしならん。本社は天平二年東大寺大税帳に山辺御県神戸租稲二百七十束、大同元年新抄格勅符神封二戸とあり、延喜式大社に列し、倭国六県神の一なり。旧事紀云、饒速日尊六世孫建麻利尼命、石作連桑内連山辺県主等祖也。
小島《コジマ》 二階堂村大字小島は嘉幡の東に存す、古の服部郷なるべし初瀬川其側を流る。日本書紀、雄略天皇時、歯田根命奸采女山辺小島子、天皇聞、以歯田根命、収附物部目大連、以馬八匹大刀八口、祓除罪過。
補【小島】○日本書紀 雄略帝十三年春三月、狭穂彦玄孫歯田根命窃※[(女/女)+干]采女山辺小嶋子、天皇聞以歯田根命収付於物部目大連而使責譲、歯田根命以馬八匹大刀八口、祓除罪過、既歌曰、耶磨謎能、故思麼古喩衛爾、比登涅羅賦、字麼能耶都擬播、鳴思稽矩謀那斯。
服部《ハトリ》郷 和名抄、山辺郡服部郷、訓波止利。今二階堂村大字|嘉幡《カバタ》あり蓋神服部の訛なり。姓氏録云、大和神別服部連、天御中主命十一世孫天御桙命
二階堂《ニカイダウ》 村名なり、嘉幡《カバタ》に二階堂|膳夫《カシハデ》寺あるを以て近年四近十余村を合併し二階堂村と称す、佐保川初瀬川南北より来り此に於て相合す。膳夫寺は初め十市郡膳夫村(香久山村大字)に在り、聖徳太子妃膳夫姫の造立なり、二階堂と呼び、本尊虚空蔵菩薩後世此地に移す。〔名所図会〕
喜殿《キドノ》 二階堂村大字喜殿、此地は古へ奈良より飛鳥泊瀬の方へ赴くに中道と云ふ筋にあたるか、喜殿井戸堂より磯城郡村屋蔵堂を通じたる者に似たり。
初瀬に参り侍りけるに、きのとのと云所に宿らんとし侍けるに、誰と知りてかなど云ければ、答するとて、
名のりせば人知りぬべし名のらずば木の丸殿をいかで過ぎまし、〔後拾遺集〕 赤染衛門
石上《イソノカミ》郷 和名抄、山辺郡石上郷訓伊曾乃加美。今|山辺《ヤマベ》村即是なり、石上神宮は布留に在り、古へ皇家武器宝璽を奉安し給ふ所にて、安康仁賢の二帝亦此に皇居したまふ。姓氏録云、石上朝臣、宇摩志摩治命十六世孫物部連公麿賜物部朝臣姓、改賜石上朝臣姓。石上は古事記に磯上に作り、日本書紀は伊須能箇瀰と訓める所あり。
石上溝《イソノカミノウナデ》は日本書紀「履仲天皇、掘石上溝」の記事あり。高抜《タカヌキ》原は日本書紀「雄略天皇、命根使主、於石上高抜原、饗呉人云々」、石上池は日本書紀「斉明天皇六年、於石上池辺作須弥山、高如廟塔、以饗粛憤四十七人」など見ゆ。石上市神社《イソノカミイチノヤシロ》は山辺村大字石上の古屋敷に在り、天神と云ふ、旧址は村東の平尾《ヒラヲ》の地とぞ、〔神祇志科大和町村誌集〕蓋押磐皇子(履仲帝男)の宮址にして仁賢天皇の因りて皇宮としたまふ所なり、仁賢は押磐皇子の子にして、日本書紀に
石上振の神椙本かり末きり市辺宮《イチノベノミヤ》に天下治す天万国万押磐尊の御子と云宣旨あり、履仲帝亦石上神宮に居たまふ事同書に見ゆ。
祝田《イハヒダ》神社は延喜式に列す、今山辺村大字田部の南方に在り、〔県名勝志〕古の屯倉の遺ならん。豊日神社も延喜式に列す、今山辺村大字豊井の天神是なるべし。〔大和志〕
石上広高宮《イソノカミヒロタカノミヤ》址 仁賢天皇の皇居なり、大和志之を嘉幡《カバタ》に在りと為せど徴証誤れり、帝王編年記に「広高宮、山辺郡、石上左大臣(石上麻呂天武文武の比の人)家北辺、田原」とあるに拠れば石上市神社の祝田神社の辺に外ならず。日本書紀には「於石上広高宮、即天皇位、或本曰天皇之宮有二所焉、一宮於川村、二宮於縮見高野」とあり、縮見は播磨美嚢郡の潜邸なれど、川村は大和の皇居にやあらん、大和志川村を嘉幡に擬すれど石上と地勢遠隔す、当に今の山辺村の中に就き求むる所あるべし、穴穂宮参看。
石上穴穂《イソノカミアナホ》宮址 安康天皇の皇居なり、大和志山辺村大字田村と為す、田村は丹波市に接し布留川の南畔なり。帝王編年記云.穴穂宮山辺郡、石上左大臣家西南、古川南地是也。古事記伝云、田村は丹波市に近く布留川の南なり、此天皇早くより此地に住坐けるを以て穴穂王と申せるなり。穴穂宮を田村とせば石上左大臣家は大字川原城にあたる、更に広高宮を求むれば大字田部石上の辺こそ其所なれ石上溝石上高抜原原等は皆此間に在りしならん。
三島《ミシマ》、山辺村大字三島に近年□祠神道天理教会と云者興る。
丹波市《タンバイチ》 山辺《ヤマベ》村の駅舎にして、戸数三百山辺郡の首邑なり、奈良の南三里三輪の北三里。丹波市は布留川の辺に在り、布留川古名市川也、官幣大社石上神宮は丹波市の東十八町に在り。
石上《イソノカミ》寺址 今山辺村に石上寺址二所を伝へり。一は大字石上に在り、旧跡幽考云、磯上寺は磯上村にて、在原山本光明寺と号し、在原業平朝臣の住まはれし地に立られける也、拾芥抄に磯上寺は宝蓮寺と号すと見えたれば何の代に本光明寺と改めたるにや。一は大字布留に在り、名所図会云、良因寺、又良峰寺石上寺と曰ふ今宵《コヨヒ》薬師堂とも云ひ布留に在り、天長年中善守法師住持す、後僧正遍昭其子素性并に爰に幽居す良峰氏なり。按ずるに在原氏は桓武の皇孫に出て良岑《ヨシミネ》氏も桓武の皇裔也、又石上内親王(桓武皇孫女)あり、前二説を参照するに、石上の二寺共に蓋王氏造立の貴寺なり、後世衰敗今之を詳にし難し、扶桑略記延喜元年良岑法師(素性)此良因院に住居の事見ゆ、又扶桑略記云、治安三年、入道前大相国留宿東大寺、奉礼大仏、次拝興福寺、次御元興寺、次御大安寺、次未時御法蓮寺(字石上寺)覧給下八相、次御山田寺。謡曲井筒云、名ばかりは在原寺の跡ふりて、松も老いたる塚の草、是こそそれよ、なき跡の、一村すすきの穂に出るは、いつの名残なるらん、草茫々として、露森々と、古塚の、まことなるかな、古への跡、なつかしき景色哉。天文二十三年吉野詣記云、在原寺道すこし行きて問ひければ、昔の筒井筒の井の本など教へける、形の如く残れり、磯の上|古野《フルノ》の田面を行き云々。
石の上と云寺に詣でて、日の暮れにければ夜明てまかり帰らむとてとゞまりて、此寺に遍昭侍ると人の告侍りければ、もの云試んとて 小野小町
石の上に旅寝をすればいとさむし苔のころもをわれにかさなん、(逓昭返し)世をそむく苔のころもはただ一重かさねばうとしいざ二人ねん、〔後撰集〕
ならの石上寺にて 素性法師
石上ふるきみやこのほとゝぎすこゑばかりこそ昔なりけれ、〔古今集〕良峰の寺にきてこそ千早ぶる布留のやしろのもみじばを見れ、〔相撲家集〕昔より植けんときを人知れず花にふりぬるいその上寺〔夫木集〕
補【磯上寺】○和州旧跡幽考 磯上寺、磯上村にあり、石上在原山本光明寺と号して在原業平朝臣の住れし地に立られける寺なり、拾芥抄に磯上寺は宝蓮寺と号するよし見えたれば、いつの代に本光明寺とは改めたるにや、古今集、ならの石上寺にて「石上古き都の時鳥こゑばかりこそむかしなりけれ(素性法師)顕注密勘に此歌の端書に、ならの石上寺にてと書る心えず、奈良都は添上郡、石上は山辺郡なり、石上寺をならといはんこと、いはれなし、只奈良を過てまかれば石上寺遠からぬにおもひわたりて奈良の石上と書て侍るなり、遠鏡に詞書なる石上寺は山辺郡石上にあるを、奈良といへることは、今の京にては石上のあたり迄をもひろく奈良といひならへるなり、丹波国なる愛宕山をも他国にては京の愛宕といふ類なり、○今按、いま櫟本のつづきに磯上村といふあり、是より左の方布留の社の辺也、磯上は此辺の惣名也、磯上寺また柿本寺ともいへり、いまはいさゝかなる小宇遺れりとぞ、石上池は斉明紀六年に見え、石上溝は履中紀四年六月に見ゆ、名跡考にいその上の五六町東寺井川是也といへり。
布留《フル》 今山辺村大字布留.この地は崇神天皇布留の霊宝を鎮座せしめたるより此名あり、姓氏録に「市川臣木事、大※[焦+鳥]※[寮+鳥]天皇御世、達倭《ヤマトニイタリ》、賀布都奴斯神社、於石上御布瑠村高庭之地」とあれど仁徳帝始て布都の霊宝を賀祭せられしに非ず、此以前已に其神庫其村名ありし也。布留布都古言相通じ又|※[音+(師の旁)]霊《フツノミタマ》と号す、玉篇、※[音+(師の旁)]断声とあり、利刃の謂也。
石の上|零《フル》とも雨にさはらめや妹にあはむと言ひてしものを、〔万葉集〕
姓氏録云、大和皇別、布留宿輔、柿本朝臣同祖、天足彦国押入命七世孫米餅搗大使主命之後也、男木事命、市川臣、大※[焦+鳥]※[寮+鳥]天皇御世、達倭、賀布都奴斯神社、於石上御布瑠村高庭之地、以市川臣為神主、斉明天皇御世曰物部首并神主首、因茲失臣姓、為物部首、天武天皇御世依社地名、改布瑠宿輔。
石の上振の山なる杉村のおもひすぐべき君にあらなくに、〔万葉集〕
布留川は或は古川に作る、姓氏録布瑠市川宿禰あり、市川は蓋布留川なり。石上神宮の下を過ぎ丹汲市を経て二階堂村に至り初瀬川に入る長凡三里。(中世の俗布留の枯野を歌枕に古枯《フルカラ》野とよめり)
わぎもこやあを忘らすな石の上袖振川の絶えむとおもへや、〔万葉集〕
石上《イソノカミ》神宮 山辺村大字布留の高庭《タカバ》に在り、日本書紀石上神宮又|振神宮《フルノミヤ》に作り履仲天皇此に御したまふ事あり、延喜式名神大社石上坐布留御魂神即是なり、今官幣大社に列す。本社は神武天皇|平国《クニムケ》の霊刀を奉祝し種々の神宝を収蔵したる御庫なり、故に神府の名あり。崇神天皇神府造立の初め太后伊香色謎の弟伊香色雄をして鎮祭せしむ、伊香色雄之に因りて物部と称し、軍事の柄自ら其家に帰し、此より大伴佐伯二氏と相并び武職を世々にする事と為る。延喜式に拠れば古へ正殿及び佐伯大伴の三殿あり、正殿即物部殿と謂ふべし。後世宮庫壊廃、今楼門宝庫等あり、正殿は近年造立。史料通信叢誌云、石上神宮は拝殿ありて宝殿なかりしが、相伝ふ拝殿の後の禁足地は往古火盗の難を慮り霊剣と宝物を封埋したる処と、明治七年宮司より教部省に稟請し地方官立会にて発掘を為す乃ち神剣一口鈴一口鉾の破折数片勾玉管玉二百数十を獲たり、其神剣は鑑定して布都の霊なるべしと云ひ、之を奉安して正殿の神体と為せりとぞ。神宝は秘蔵の霊器なれば多く世に聞ゆるなしと雖、鉄製の古盾、鉄製内反刀二口、隷書銘文の七枝刀等模影流布す、并に貴重すべき者也。続国史略に弘化四年盗あり成務垂仁称徳の三陵(添下郡)を発き剣玉朱沙を窃み、又布留神庫に入り小狐丸と名くる剣を窃みたりと記す。神祇志料云、石上神宮|布都《フツ》御魂の横刀を祀る、布都御魂亦名佐士布都甕布都神と云ふ、初神武天皇紀伊国熊野に幸して荒神を順ひ給ふ時に、建御雷神其平国時の横刀布都御魂を下し給ひしかば其荒振神自ら切仆されき、〔日本書紀古事記〕天皇橿原に都するに及て物部連遠祖宇麻志麻治命其天瑞宝を献り神楯を立て五十櫛を布都主剣大神に刺繞して殿内に齋奉りき、崇神天皇御夜八十万神を祭る時初めて建布都大神社を大和国山辺郡石上邑に移し奉り、伊香色雄命をして天神より受伝し瑞宝をも共に此牡に蔵めて国家の為めに斎鎮め奉り号を石上大神と申し、又其氏神とす。〔旧事本紀〕垂仁天皇御世皇子五十瓊敷命の作らしし横刀一千口を神宮に納め、又之を掌らしむ、其後妹大中姫命に其事を知らしめんとし給ふ時吾は手弱女也いかで天の神庫に得升らんと申給ひ、更に伊香色雄子物部十千根大連に治めしめ給ひき〔日本書紀〕仁徳天皇此布瑠村高庭の地に幸して布都奴斯神を斎ます時に、布瑠宿禰の祖市川臣を神主とせられき、〔新撰姓氏録〕是より物部臣市川臣裔今に奉仕す。〔石和聞見志書紀通証〕天武天皇忍壁皇子を神宮に遣して神宝を塋き、即勅して神府に貯ふる諸家の宝物を其子孫に還さしむ。〔日本書紀〕聖武天皇天平二年、神戸租稲三千八百余束を充て祭料とし、〔東大寺正倉院文書〕称徳天皇神護景雲二年神封五十戸を充奉る。〔続日本紀〕桓武天皇延暦廿四年二月、典薬頭中臣朝臣道成等に勅して石上の兵仗を返し納めしむ、是よりさき神社の器仗を山城葛野郡に運びつるに神怒あるを以て也。〔日本後紀〕平城天皇大同元年大和備後信濃八十戸を神封に寄し、〔新抄格勅符〕文徳天皇嘉祥三年正三位を授け〔文徳実録〕清和天皇貞親元年正三位勲六等石上神に従一位を加へ、九年正一位に叙され、尋で大和国に勅して百姓神山を焼き禾豆を播蒔事を禁しむ。〔三代実録〕凡本社正殿及伴佐伯二殿並に鑰各一口神祇官庫に納めて輒く開くことを得ず、又本社門鑰匙常に官庫に納め、祭時宮人神部卜部をして門を開き社地を掃除して祭に供奉らしむ、其備後の封租穀は社家に収て夏冬祭料に充つ。〔延喜式〕今神宝猶遺る者多し、又神に仕ふる者忌火禰宜年預あり、忌火は禰宜の上首たり布留氏之に補され、物部氏を以て其神宝を掌らむと云。〔石和聞見志〕○旧事記云、磐余彦天皇肇即位、宇摩志摩治命奉献天瑞宝、乃先考饒速日尊自天受来天璽瑞宝十種、是所謂瀛津鏡一辺津鏡一八握剣一生玉一足玉一死反玉一道反玉一蛇比礼一蜂此札一品物比礼一是也、天神教導者有痛処者、令茲十宝謂一二三四五六七八九十而、布瑠部由良由良止布瑠部、如此為之者、死人返生矣、即是布瑠之言本矣。日本書紀云、垂仁天皇詔曰、朕聞新羅王子天日槍将来宝物、今在但馬為神宝也、朕欲見之、天日槍曾孫清彦、献羽太玉一箇足高一箇鵜鹿赤石玉一箇日鏡一面熊神籬一具、皆蔵於神府。
出雲建雄《イヅモタケヲ》神社は石上神宮の前に在り、〔県名勝志〕若宮《ワカミヤ》と称し、延喜式に列す。蓋出雲建を平げし霊を祭る、古事記には景行の朝に倭建命討ちて出雲建を平ぐとありて、書紀と少異あり。書紀崇神巻云、出雲振根有怨其弟飯入根、欺弟共沐|止屋《ヤムヤ》淵、先是兄窃作木刀自佩之、及浴兄先上陸、取弟真刀自佩、後弟驚而取兄木刀、共相撃矣、弟不得抜木刀、兄撃弟飯入根而殺之、故時人歌之曰、やくもたつ出雲建が佩けるたちつづらさわまきさみなしにあはれ。
今接ずるに飯入根の大刀を伝へたる出雲振根は、即ち古事記に録せる景行朝の虜にあたるか。
石成《イハナシ》神社は石上神宮前に王子《ワウジ》宮と云者此か。続日本紀神亀三年聖武帝不予の時奉幣あり、蓋備前国赤坂郡石上神都部別社なり、赤坂郡は古吉備磐梨県の域内なれば此に石成神と称す。日本書紀神代巻云、素戔嗚尊断蛇之剣、号蛇之麁正、此今在石上也、一書曰今在吉備神部許也。古事記伝云、備前石上布都之魂神社の伝説には神剣は昔大和の石上へ遷し奉りて此には坐まさずと云り、崇神垂仁の御時など余の神宝と共に京に召上給ひて、其時より石上に納められけん。○垂仁帝の皇子大中津日子は吉備|石無《イハナシ》別と称し、子孫大に吉備の地に興る、因由ありと謂ふべし。
補【石上神宮】○史学雑誌 石上神宮神宝に六叉鉾と称する者あり、鉄質にして左右三枝あり、中鉾と共に七箇にして、或は神功紀の七枝刀ならむか、中鉾の表裏に各隷書一行を彫刻す、文字磨(三水こざと力)多くして尽く読むべからざるも、裏面泰の字の下左偏イを留め、其下四の字あり、又二字磨※[さんずいへん+こざとへん+力]して其下□月十一日丙午正□造の字あり、字様と鋳法を按ずるに、魏文帝の泰初年中の作也。○弘化四年大和大盗嘉兵佐蔵等四人密発成務天皇陵、窃御剣珠玉朱沙、又入布留祠庫、窃剣(小狐丸)及宝器、售之、某商観之関白政通、政通驚曰、此剣非世間所有、唯布留社蔵之、命検之、事覚、至安政中悉礫之奈良、佐蔵又発垂仁称徳二陵云(続国史略)
石成《イシナリ・イハナリ》郷 和名抄、山辺郡石成郷、訓以之奈利。今山辺村大字布留及び其山中の古名なるべし、石上神宮の石成神社参考すべし、備前国磐梨より蛇之麁正神を此に移したるに因り其名出しならん、以之以波古言相同じ。
桃尾《モモヲ》滝 今山辺村大字滝本に在り、高七丈幅一丈、寺あり龍福と曰ふ、滝の水は流れて布留川と為る。大和志云、龍福寺、在桃尾山、有正堂弥陀堂不動堂伽藍神祠僧房十六区、元亨釈書曰僧義淵建。
闘鶏《ツゲ》国 古国名なり 層富山辺磯城等の東嶺背にして宇陀郡并に伊賀国と相接し名賀郡と名張川の一線を以て交界す。後世山辺郡に隷属し山辺楊生都介星川笠間の数郷と為る、和名抄に至り山辺楊生を添上郡に分隷せしめ、笠間を宇陀郡に割与したり、今笠間の地復山辺郡に入る。
日本書紀仁徳巻云、額田大中彦皇子猟于闘鶏、因喚問闘鶏稲置大山主。又允恭巻云、初皇后随母在家、闘鶏国造嘲之、於是皇后貶其姓、謂闘鶏稲置。万葉集に「日本《ヤマト》の黄楊の小櫛を抑へさす」の句あり、黄楊即闘鶏に同じ、又続日本紀「元明天皇霊亀元年、開大倭国都祁山之道」とあり、当時平城造都の初めなれば忍坂泊瀬の旧路を不便とし、此拳ありし也、故径今詳ならず。
星川《ホシカハ》郷 和名抄、山辺郡星川郷、訓保之加波。今其名なし、蓋|福住《フクズミ》村|針別所《ハリガベツシヨ》村に当るか、針別所は針荘と云へる地なるべし。
長門本平家物語云、興福寺領針庄と云所あり、去仁安の比西金堂衆の代官として小河四郎遠忠と云者是非なく庄務を打止る間、衆徒の中より快尊を差遣し遠忠が濫妨を押へさす。針別所福住の北に波多野村あり、(添上郡に編入す)波多星川二氏、建内宿禰に出でて同祖の裔なり、古事記、波多八代宿禰者、星川臣之祖也、姓氏録云、大和皇別、星川朝臣、武内宿禰之後也、敏達天皇御世、依居地改賜星川臣。
福住《フクズミ》 今|福住《フクズミ》村と云ふ、永禄中福住の郷士|岩掛《イハカケ》城主山田道安東大寺大仏の修補を為す、此地に都介氷室址あり。大和志云、文明以降、大和国士、越智十市清澄福住等、各割拠其邑、統属不一、加之多武吉野緇徒、衡行国中、天正年間、筒井松永、占其渠魁、国入戦図、民労賦役。
都介《ツゲ》郷 和名抄、山辺郡都介郷。今都介野村是なり、日本書紀仁徳巻云、額田大中彦皇子猟于闘鶏、時自山上望之、謄野中有物其形如廬窟也、闘鶏稲置大山主曰氷室也、皇子即将来其氷、献于御所、天皇歓之、自是以後毎当季冬必蔵氷、至春分始散氷也。
延喜式、山辺郡都介氷室一所。大和志、福住村有氷室神社。
都介の野に大山主が蔵めたる氷室ぞ今もたえせざりける、〔堀河院百首〕
都祁山口神社は三代実録延喜式に列す、今都介野村大字小山戸に在り。〔県名勝志〕都祁水分神社は延喜式に列す、今都介野村大字友田に在り。〔大和志〕下部神社は延喜式に列す、今都介野村大字|吐山《ハンヤマ》字織部に在り。
笠間《カサマ》卿 和名抄、宇陀郡笠間郷、訓加佐末。今|東里《ヒガシサト》村大字笠間あり、豊原《トヨハラ》村も之に属す、溪水は名張川に入る、東大寺要録、長徳四年注文、伊賀国笠間荘四十二町とあるも此なるべし。旧事紀云、物部胆昨宿禰、宇太笠間祖大幹命女此巳呂為妻。
神野寺《カウヌデラ》 豊原《トヨハラ》邑大字|伏拝《フシオガミ》に在り、法性山一心院と号す、神亀年中僧行基の開く所と云。〔名所図会県名勝志〕扶桑略記、元慶四年、以太上天皇聖体乖予、遣使廿一寺修功徳、東大興福元興西大薬師大安法隆招提延暦新薬師四天王香山長谷壷坂崇福梵釈現光神野三松子島龍門云々と、此の廿一寺の中に三松と云ふもの詳ならず。
宇陀郡
宇陀《ウダ》郡 延喜式、和名抄、宇陀郡、宇太。古は菟田県又|猛田県《タケダノアガタ》と曰ふ。磯城郡山辺郡の東西にして、名張川《ナバリガハ》の上游なり、四面皆山、渓水悉名張に入る。郡東南界は山脈を以て伊勢国(一志郡飯高郡)及吉野郡と相隔つれど、北方は伊賀国|名賀《ナカ》郡と相交錯す通路は初瀬より本郡|萩原《ハギワラ》駅に至り三本松《サンボンマツ》を経て伊賀国に入るを初瀬街道と曰ふ、内牧|神末《カウスヱ》の山腹を渉一志に出づるを伊勢路の故径とす、郡の南西部に松山《マツヤマ》あり郡中の小都会なり。
神武天皇東征の師は熊野吉野より先菟田県《ウタノアガタ》に至る、書紀に「尋八咫烏所向、仰視而追之、踏山啓行、遂達菟田下県」とあり、下県蓋郡の東部今宇賀志村宇陀村等なり。天皇兄猾を誅し弟猾を封じ猛田県主と称す、其後裔史書に見ゆる所なし。皇極天皇三年菟田郡人押坂直あり。〔日本書紀〕菅家文草に雨多《ウタ》県に作る、和名抄五郷其笠間郷は今山辺郡に属す。又多気郷は一時山辺郡に隷したる事あり、天武紀白鳳十二年山辺郡竹谿村と記す、竹谿即多気郷にして猛田県の遺号なり。今本郡松山町外十一村に分る。
菟田《ウタ》山 皇極紀、三年倭国言、頃者菟田郡人押坂直、登菟田山、便見紫菌、挺雪而生、高六寸余、満四町許、乃採取還示隣家、※[てへん+(總−糸)]言不知、押坂直煮而食之、大有気味、因喫菌羹、無病而寿、或云蓋俗不知芝草、而妄言菌耶。
宇田川《ウダガハ》 神武紀に菟田川の名出づ、今|萩原川《ハギハラガハ》とも称す、字賀志村高見山中より発源し西流、又北流、萩原駅を経て東流す伊賀に入り名張川と為る、凡七里。
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多気《タケ》郷 和名抄、宇陀郡多気郷。今萩原村|内牧《ウチマキ》村三本松村等なり、蓋猛田県の遺号にして、続日本紀「聖武天平十二年、幸伊勢国、是日到山辺郡竹谿村、堀越頓宮」とある者此也。
猛田《タケタ》 神武紀云、皇師立詰之処、是謂猛田、作城処号|城田《キタ》、又賊衆戦死而梟僵屍枕臂処、呼為|頬枕田《ツラマキタ》。書紀集解同通証等に頬田を十市郡竹田に充つ、、地理相符せず、同紀に「弟給猾猛田邑、因為猛田県主、是菟田|主水《モヒトリ》部遠祖也」と見ゆる如く此諸地皆菟田の域内なる事明白なり、但其城田頬枕田主水部の故跡審ならず、猛田の本拠も亦詳実を欠く。
多気山は萩原内牧の東嶺にして、三本松の南に聳ゆ、室生山《ムロフヤマ》と相並び高二百丈と称す、岩石崖嵬形状奇偉なり。皇極紀に見ゆる紫菌を採れる菟田山《ウタヤマ》此か。
補【猛田】○史学雑誌(二六年二月)神武紀、又皇師立詰之処、是謂猛田、作城号曰城田、又賊衆戦死而僵屍枕臂処、呼為頬枕田、云々。猛田は集解、十市郡竹田を以て之に充つ、鑿説と謂べし、竹田村は郡の西北端に在り、蓋古磯城に属し、後倭名抄城下郡三宅郷の地なり、因て按ずるに、二年紀に「給弟滑猛田邑因為猛田県主、是菟田主水部遠祖也」と、倭名抄宇陀郡多気郷あり、即其地にして、今下竹村及松山町(延喜式宇陀駅の地なり)其近傍数村是なり、蓋兄猾弟猾菟田県の魁帥にして、其地に拠る、而て弟猾先降り、功あるを以て故に之を賞するに旧邑を以てし、子孫因て主水部となるなり。○神戸村下竹。
榛原《ハイバラ・ハリハラ》 又|萩《ハイ》原に作る、宇陀郡西北隅に在り、西|吉隠《ヨナバリ》山を踰ゆること一里にして磯城郡初瀬に達す、東は三本松を経て伊賀に入り内牧曾爾を陟れば伊勢に達すべし、小駅なり。神武紀小野榛原の地此と云へり。
鳥見山《トミノヤマ》 神武紀云、天皇立霊時於鳥見山中、其地号曰上小野榛原、下小野榛原、用祭皇祖天神焉。古事記伝云、榛原は今の榛原《ハイバラ》駅是なりと云、此村長谷の東方にて今は宇陀郡に入て、彼城上郡|外山《トビ》村とはやや遠けれど、古へ登美と云は広き名に聞ゆれば、彼駅のあたり迄かけて鳥見山中なるべし。
墨坂《スミサカ》 萩原の西に在りと云ふ。日本書紀、神武巻云、国見岳上有八十梟帥、又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置※[火+赤]炭、其女坂男坂墨坂之号由此而起也。又天武巻云、将軍大伴吹負、為近江所敗、以独率一二騎走之、逮于墨坂、遇逢菟軍至。按ふに吹負は、乃楽山に敗れ南走、東国に入らんとして墨坂に至り還軍、又飛鳥古京を守る、其地理合す。又姓氏緑云「大彦命遣治蝦夷之時、至於菟田墨坂、忽聞嬰児涕泣」と。
墨坂《スミサカ》神社は榛原村大字萩原に在り、六杜権現と称す。〔県名勝志〕日本書紀云、崇神天皇夢有神人誨之曰、以赤盾八枚赤矛八竿祠墨坂神、古事記云、於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛。又雄略紀、天皇詔少子都連螺贏、朕欲見三諸岳神之形、原注或云菟田墨坂神也。
秋もはや宇田の炭がま煙りけり 鬼貫
宇陀野《ウダノ》 日本書紀、推古天皇、十九年夏五月五日、薬猟於菟田野、鶏鳴集于藤原池上、(高市郡)以会明乃往之、諸臣各著髻華。三代実録云、貞観二年、詔源朝臣融、賜大和国字陀野、為臂鷹従禽之地。大和志、足立村(今榛原村)今云禁野、県名勝志、萩原の西二町許に狩屋殿《カリヤデン》の字あり、即此と、按に承元中の宇多の内野行幸も此か、百練抄云、承元三年三月六日、上皇(後鳥羽)行幸南部、七日上皇御幸長谷寺、并字多郡内大野召仰、九日上皇還御。
宇陀の野の秋|芽子《ハギ》しぬぎ鳴鹿もつまに恋ふらく我にはまさじ、〔万葉集〕
郡家《グウケ》址は榛原村の中なるべし今詳ならず、天武紀云、王駕逢伊勢駄五十匹、於菟田郡家頭、皆棄米而令乗歩者、到大野。
丹生《ニフ》 宇陀の丹生神は神武天皇祈祷の遺跡なれど、後世甚著れず、丹生神社延喜式に列し、今榛原村大字雨師に在り。神武紀云、吾今当以厳瓮、沈于舟生之川、如魚無大小悉酔而流、譬猶※[木+皮]葉之浮流者、吾必能定此国、頃之魚皆浮出、随水※[口+瞼の旁]※[口+禺]。
朝原《アサハラ》 榛原村大字雨師に在り。神武紀云、天皇祭天神地祇、則於彼菟田川之朝原、譬如水沫、而有所咒著也。書紀通証云、延喜式、宇陀郡丹生神社即此、在雨師村。雨師《アマシ》は菟田川の西岸にして丹生社の西に朝原あり、周廻五町、原中に龍王池あり。〔県名勝志〕雨師又龍王は丹生神の別名也。
補【朝原】宇陀郡○奈良県名勝志 丹生神社、榛原村大字雨師の西方に在り、本社もと朝原に在り、後此に移祭す、朝原本殿の西方に在り、周回約五町許、神武天皇紀の所謂彼菟田川の朝原と曰ふは即此、其原中に池あり、龍王池と称し、丹生川の源たり。
※[たけがんむり+(にんべん+縦棒+のぶん)]畑《サヽハタ》 榛原郡の東北大字山辺《ヤマベ》に在り、天照大神の別宮とて、小祠存す。垂仁紀云、倭姫命求鎮坐大神之処、而詣菟田※[たけがんむり+(にんべん+縦棒+のぶん)]幡、延暦儀式帳云、宇太の阿貴に坐し、次に佐々波多宮に坐き、書紀通証云、山辺村属邑篠畑、今猶存神祠云、※[たけがんむり+(にんべん+縦棒+のぶん)]篠本字。按に、※[たけがんむり+(にんべん+縦棒+のぶん)]畑頓宮は延喜式御杖神社是なり。椋下《ムクノシタ》神社は榛原村大字|福知《フクチ》の字|椋下《ムクノシタ》に在り、延喜式に列す、一説|椋下《クラシ》と訓み高倉下を祭ると為す。〔県名勝志神祇志料〕
補【椋下神社】○奈良県名勝志 同村大字福地の南方に在り、高倉下命を祭る。
檜牧《ヒノマキ》 今内牧村と改む、榛原村の東にして一溪に拠り赤埴《アカバネ》八滝の諸村あり内牧谷《ウチマキダニ》と称す。東|山粕《ヤマカス》峠を陟り曾爾村を経て伊勢通路あり。日本後紀、延暦十八年、停大和国字陀|肥伊牧《ヒノマキ》、以接民居損田園也。真木原《マキハラ》寺址は今詳ならず、真木原は牧原なれば此地にありし事推知すべし。霊異記云、閣羅王示奇表、勧人令修善縁第九、藤原朝臣広足者、帝姫阿倍天皇(元明)御代、倏病嬰身、為差身病、神護景雲二年、至菟田郡於真木原山寺、而住云々。御井《ミヰ》神社は延喜式に列す、今檜牧に在り、倉井明神と称す。〔名所図会〕
八滝《ヤタキ》墓は壬申役将軍文根麿の墓なり、天保二年八滝の米山に耕夫土中より銅函を発見す、中に銅版墓誌銘あり、量五百匁、函長九寸五分広一寸九分高一寸五分、広一寸四分銘云、
壬申年将軍左衛士府督正四位上文禰麿忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒
後其墓誌銘を本地龍泉寺に附し、寺内に塚を築き之を埋む。〔三十三所図会〕日本書紀、天武天皇壬申六月、発途入東国、事急不待駕而行之、従者皇后皇子已下、書首根麿之類二十有余人、七月遺書首根麿、率数万衆、自不破出、直入近江。続日本紀、大宝元年、壬申年功臣賜食封、書首尼麿一百戸。慶雲四年十月、従四位下文忌寸禰麿卒、遣使宣詔、贈正四位上、并賻※[糸+施の旁]布、以壬申年功也。
補【真木原寺】宇陀郡○霊異記〔略〕〔霊異記攷証、吉川氏曰、宇陀郡赤瀬村之西北香水山嶽有廃寺跡、蓋真木原山寺之蹟也〕
補【八滝】〇三十三所図会 文禰麻呂忌寸之墓 宇陀郡八滝村にあり、天保二年辛卯九月廿九日、八滝村の米山と云へる所の山畑より、農夫計らず銅器を掘出せり、是に依て文氏の墓なる事を考へ知れり、器は函にて鋳鋼、重五百匁あり、長九寸五分、広一寸九分、高一寸五分、内に牌あり、錆色凡そ紺と緑の群濃なり、牌は長八寸五分、広一寸四分、銘に曰く、壬申年将軍左衛士府督正四位上文禰麻呂忌寸、慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒、今当村龍泉寺の境内に埋みて塚を築けり、按ずるに、
書紀天武天皇元年六月、発途入東国、事急不待駕而行之、云々、是時元従者草壁皇子、忍壁皇子云々、書首禰麻呂云々、秋七月庚寅朔辛卯、天皇遣村国連男依、書首根麻呂云々、率数万衆、自不破出、直入近江。
続日本紀文武天皇大宝元年七月壬辰、壬申年功臣、随功第亦賜食封、並各有差、又勅、先朝論功行封時、云云、書首尼麻呂云々各一百戸。同慶雲四年冬十月戊子、従四位下文忌寸禰麻呂卒、遣使宣詔、賜正四位上、並賻※[糸+施の旁]布、以壬申年功也。
とあり、牌は贈位を記したりと見ゆ。○今内牧村大字八滝。
補【内牧】○奈良県名勝志 太平山 宇陀郡内牧村にあり、高大約数十丈、自明《ジミヤウ》にては之を坊耕地と称し、赤埴及荷坂にては之を高峰山と呼ぶ。
光明ケ岳 俗に赤埴山と云ふ、内牧村大字赤埴にあり樹木繁茂、寺あり、仏隆寺と称す、嘉祥三年僧賢恵の開創、石磴を登るべし、東北室生寺を去ること一里。
赤埴《アカバネ》 内牧村大字赤埴は八滝の東北に在り相接す。赤埴山は樹木繁茂し林中仏隆寺あり、石磴を踏みて之に上る、寺の東北一里室生寺に一径を通ず。〔県名勝志〕
山跡の宇陀の真赤土のさにつかばそこもか人の我をことなさむ、〔万葉集寄赤土〕
味坂《ミノサカ》 今|荷坂《ミノサカ》に作る、内牧村に属し赤埴山の上方に在り、延喜式昧坂比売神社此に在り。〔県名勝志」按ずるに味坂は神武紀に「女坂《メノサカ》置女軍」とある地なるべし、後世味坂に訛る。
補【浪坂】○奈良県名勝志 味坂比売神社 和名抄浪坂に作り、応神天皇紀に厩坂に作る、内牧村大字荷坂の東南に在り。○神武紀女坂是也。
大野《オホノ》 三本松村大字大野は萩原駅の東北二里 宇陀川の左岸に居る。天武紀に壬申六月、天皇発途入東国、到大野以日落也.及夜半到隠郡。(隠訓名張)古事紀伝云、大野は今山辺郡にて名張へ到る道なり、大野寺あり、承元三年後鳥羽太上皇の御幸ありし宇陀郡大野石仏と云是なり。大野寺は宇陀川の上に在り、室生渓の合流処にして山水幽奇なり、弘法大師の開基と称す、龍神滝あり高八丈濶三尺。
毛ごろもを春冬かたまけて出でましゝ宇陀の大野はおもほえむかも、〔万葉集〕
三本松《サンボンマツ》 三本松村は近世山辺郡に属したる事あり、今本郡に属し萩原名張間の間駅《アヒノシユク》なり。宇陀川に沿ひ水清く石秀て旅客の詩情画想を発するに足る南に水を渡り山に入る一里室生寺あり。名勝地誌云、三本松の山中に瀑布多し、中にし担《ニナヒ》滝最美なり、字龍口に在り高五丈幅八尺、広瀬旭荘の詩に 「上潭与下潭、浪花散復集、分派蒙巌肩、知人荷担立」と云者是なり、大字滝には三瀑あり。
堀越頓宮址 三本松村大野の西に堀越頓宮址あり、大|向淵《ムコチ》に属す。続日本紀、聖武天皇天平十二年、行幸伊勢国、是日到山辺郡竹谿村堀越頓宮。〔大和町村誌集〕
室生《ムロフ》 室生村は三本松の南、内牧の東、曽爾の西に一溪を成す、大字田口室生等あり。山粕《ヤマガス》は地勢曽爾に属すれど今室生村へ入る。室生一に一に※[木+聖]生に作る、室生寺は俗に女高野《ヲンナカウヤ》と称し、其霊異を高野山に比す。
室生寺《ムロフデラ》 室生山中に在り、高峰東北に聳え渓澗三方を繞り、塵外の清境なり。龍穴神の供僧坊にして桓武天皇御願僧賢※[土+景]開基、或は曰ふ僧修円創立、空海重興すと。本堂五重塔慈尊院等数宇あり、其大塔は明治三十一年政府特別保護を加ふ、寺像は観るべき者多し、中にも木造観音一躯国宝簿に登録す。
龍穴神社《リユウケツ》 神祇志科云、いま龍王社と云ふ、〔和州旧跡幽考神名帳考証大和志〕光仁天皇宝亀中僧をして延寿法を室生山に修めて東宮の御疾を祈らしむるに即愈給ひき、蓋宝亀九年の事なるべし。後興福寺僧賢※[土+景]室生山寺を創建してより此神殊に霊あるを以て伽藍護法神とす、凡旱災ある毎に龍穴に臨て雨を祈るに神験屡顕る、(承平七年室生山寺奏状)清和天皇貞観九年従五位下穴生龍穴神に正五位上を授け、〔三代実録〕醍醐天皇延喜十年雨を祈るに感応あるを以て従四位下を給ひ、(日本紀略室生寺奏状〕朱雀天皇承平七年、大和少掾藤原善隣を使として幣を奉るに甘雨忽至りき。〔室生寺奏状〕元亨釈書云、慶円屏居室生山、一千日、還過河橋、貴婦人至、儀服甚※[青+見]、而不露面、啓曰願授即身成仏印明、円曰姉誰人也、女曰善龍女也、円附印明、女便騰空中、其爪長丈余、放五色光、倏忽隠没。
漆部《ヌリベ》卿 和名抄、宇陀郡漆部郷、訓奴利倍。今曾爾村御杖村にあたると云ふ。〔大和志〕用明紀に小坂漆部造兄あり本郷人なるべし、文霊異記に宇陀郡漆部郷、風流女、難波長柄豊崎宮(孝徳)甲寅年登仙飛化の奇譚を載す、又以呂波字類抄云「倭武皇子、遊※[けものへん+葛]宇陀|阿貴山《アキヤマ》之時、以手牽折木枝、其木汁黒美、染皇子之手、爰召舎人床石足尼曰、此木汁塗干而可献之、床石塗干而献之、皇子大悦、取之令塗翫好之物、以床石足尼任漆部官」と、是は宇陀に漆部を置かれし濫觴ならん。史料通信叢志云、今阿貴山(神戸村)に嬉川原《ウレシガハラ》と云ふ大字あり、応永十二年の古文書に漆河原荘と記せり、倭武皇子漆木を獲たまへる古蹟にや。
山粕《ヤマガス》 室生村に属す曽爾村の上方にして伊勢路之に係る、山粕の北に昇風岳あり山答壁立削成横屏の如し。
曽爾《ソニ》 室生村の東に在り 溪水北流して伊賀国に向ふ曾爾谷と云ふ、今曾爾|御杖《ミツヱ》の二村に分る。日本書紀、仁徳巻云、隼別皇子、率※[此+鳥]鳥皇女、逃走于伊勢、吉備品遅部雄※[魚+即]追之、至菟田、迫於|素珥《ソニ》山時、皇子隠草中得免、急走而越山、歌曰
梯立のきがしき山も吾妹子と二人越ればやすむしろかも
古事記高津宮(仁徳)段、速総別王女鳥汪、逃亡到宇陀之|蘇邇《ソニ》時、御軍追到而殺也。
菅野《スガノ》 今|御杖《ミツヱ》村と改む、山駅なり。古事記伝云、速総別王の物し給へりし道は蘇邇より伊勢一志郡の家城村を経て川口に至る筋なり、古の大道は是にや有けむ、川口関此に当る。○御杖《ミツヱ》村は此地|神末《カウズヱ》に延喜式御杖社ありと大和志に記したるに因りて改名したる也、然れども日本書紀垂仁巻には「天皇以倭姫命為御杖、貢奉於天照大神」とあれば、※[たけがんむり+(にんべん+縦棒+のぶん)]畑《ササハタ》頓宮即御杖社なり。
門倍《カドベ》神社は延喜式一に門僕神と曰ふ、今曽爾村大字今井の曽爾明神是也。〔大和志県名勝志〕姓氏録云、門部連、牟須比命児安牟須比命之後也。
補【門僕神社】○奈良県名勝志 門僕《カドベ》神社、僕一に倍に作る、曽爾村大字今井の中央に在り、境内千三百五坪、日本紀に曰く、天武天皇十二年門部直姓を賜ひて連と曰ふと、姓氏録に曰く、門部連は牟須比命の児安牟須比命の後なりと。宇陀郡に属す。
国見岳《クニミダケ》 国見山とも曰ふ、曽邇谷と伊勢一志郡界間に在り、蓋古の八十梟帥の拠れる所とぞ。〔大和志〕神武紀云、天皇陟菟田、高倉山之巓、瞻望城中時、国見丘上、別有八十梟帥。按ずるに国見山の位置明了を欠く、古今の異同あるに似たり、三国地志によれば此辺は六箇山郷と称し、最幽僻の里なり。
高倉山《タカクラヤマ》 今|高見山《タカミヤマ》と称す、室生村大字|田口《タグチ》の南に在り、標高凡八八〇米突、山粕駅より凡二十町、東は伊勢国飯高郡、南は吉野郡高見村なり、俗に宇陀富士と称す。駅路北麓を山粕峠と云ひ、南麓を高見峠と曰ふ。大和志高倉山は守道《モヂ》に在りと云ふは之に異なり、疑ふべし、神武紀「天皇勅菟田高倉山之巓瞻望城中」と云ふは此なる地形と相合ふ、守道は今政始村に属し遠眺の地に非ず。
斎藤拙堂南遊志云、高見嶺、界勢和、神武帝之東征、向孔舎衙坂(衙或誤作衛今為暗嶺)軍不利、乃転径紀国、向伊勢、由此嶺入大和、故御製中有神風伊勢之語、或以為由熊野、人吉野者非、又帝撃破八十梟帥於国見丘、按国見在高見南、山勢相連、谷川氏謂、国見山在勢伊之界、伊賀見村上方、余遍検図誌、無所謂伊賀国見村者、且勢之界伊処、与国見相距数里、帝之至伊、史亦無明文、此説不可従。
補【高倉山】宇陀郡○奈良県名勝志 所在未詳、或は曰く宇陀郡政始村大字守道にあり、上に望軍の碑あり、高六尺許、是其証なりと、或は曰く此山四面狭隘にして城中を瞻望すべからず、況んや国見岳を望むを得んや、乃州界にある高見山即ち是ならむと。
補【高見山】○奈良県名勝志 旧名高角山、又宇陀富士と称し、吉野郡高見村の東にあり、勢州飯高郡に亘る、高約四千六百二十尺、頂上高角神社あり、両南に冠岩、獅子岩、天狗岩等あり、字ミツカノより登る、凡そ五十町。○今高角神社、吉野郡高見村大字平野に属す。
宇賀志《ウガシ》 高見山の西を字賀志村と為す、則神武紀に「頭尋八咫烏所向、遂達于菟田下県、因号其所至之処、曰菟田穿邑。注曰穿邑此云|于介知《ウカチ》能務羅」とある者是也、大字宇賀志存す。古事記に「於宇陀、有兄宇迦斯、弟宇迦斯二人」とあれば、書紀穿邑は本より地名にして其梟帥の負へる号なり。
血原《チハラ》 神武紀云、兄猾(兄宇迦斯)陳屍斬之、流血没踝、故号其地曰菟田血原。大和志之を以て高倉山の北に在りと為す、今室生村上田口に属す、古事記伝之を疑ふも其以なきに似たり。
日張山《ヒバリヤマ》 字賀志村大字字賀志の東に在り、高倉山の西南一里とす、山中に青蓮寺あり、俗に中将姫の古跡と云ふ。
駒帰《コマガヘシ》 字賀志村大字駒帰に辰砂水銀の鉱産あり。
佐倉《サクラ》神社は延喜式に列す、宇賀志村大字佐倉に在り、境内一株八幹の老杉樹存す。〔県名勝志〕
宇陀《ウダ》 宇陀村は字賀志村の西に接す、大字|古市場《フルイチバ》を首邑とす、古市場は戸数二百あり、延喜式宇陀水分神社鎮座す。
宇陀水分《ウダノミクマリ》神社は三代実録貞観元年授位、大和志に榛原村大字井足に在りと為せど彼社は水分と謂ふべき地に非ず、古市場《フルイチバ》の社は老樹鬱立、祠堂亦古雅なり、内務省鑑定して四百年外の建造と為し維持費を給す、宇陀川の上游水浜に居る、状態想ふべし。
大神《タイシン》ば宇陀村の大字にて古市場の北に在り、延喜式|神御子《ミワノミコ》美牟須比命神社此に在り、今は古首《コス》神と曰ふ。〔大和志〕
補【宇陀水分神社】○神祇志料 今下井足村にあり(大和志・名所図会)天之水分神国之水分神を祭る(古事記・延喜式)崇神天皇御世神教に従て赤盾八枚、赤矛八竿を以て墨坂神を祀りき(日本書紀・古事記)墨坂神は蓋宇太水分神也(参酌日本書紀・延喜式大意)平城天皇大同元年神封一戸を充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より正五位下を授け九月庚申、幣使を差して雨風を祈り給ひ(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣に預る、即祈年祭水分四神の一也(延喜式).凡そ六月十八日九月廿一日祭を行ふ(奈良県神社取調書)○榛原村井足。
伊那佐《イナサ》 宇陀村の西南に接し内牧村の南なり。大和志|山路山《ヤマヂヤマ》を以て神武帝御歌に見ゆる伊那佐山に充てたるに由り、近年此名立つ。古事記伝は之を採らず、伊那佐山は墨坂の別名ならんと曰へり。延喜式、都賀那木《ツガナキ》神社、伊那佐山の上に在り、是亦大和志の説なり。
補【伊都佐山】○奈良県名勝志 宇陀郡伊那佐村大字山路にあり、高約四十丈、神武天皇紀の所謂伊那佐能瑳摩能とは即此なり、山上に都賀那木神を祭る、字三薮より登る、凡そ十七八町。
都賀那木神社 伊都佐山の上にあり、日本紀に応神天皇二十年秋九月、倭漢直の祖阿知使主其子都加那使主並に己の党類十七県を率て焉に来帰す。
八咫烏《ヤタガラス》神社 山路山の西面に在り、宇陀村大字高塚に属す。神紙志料云、八咫烏《ヤタガラス》神社旧鷹塚村にありてをところすの社と云、今其旧址僅に存れり、〔和州旧跡幽考大和志神名帳考証古事記伝〕神魂命の孫鴨建角身命を祭る、〔参取日本書紀続日本紀姓氏録釈日本紀〕初神武天皇中州に入坐時、此神八咫烏となり虚空より飛翔りて皇軍を導き奉り大なる功を著し給ひき、〔日本書紀古語拾遺〕文武天皇慶雲二年九月八咫烏社を宇太郡に置て之を祭らしむ即此神也。〔続日本紀〕太平記に、昔大和国宇多森に鬼神ありて人を害す、頼光朝臣の従者渡辺綱之を打取鬼の手を斬りたる事見ゆ、今高塚の辺に大字|母里《モリ》あり、此即宇多森にあらずや。
補【八咫烏神社】○奈良県名勝志 伊都佐村大字高塚字八咫烏に在り、神武天皇戊午の年、夢に天照大神天皇に訓して曰く、朕今頭八咫烏を遺し、宜しく以て嚮導者と為すとは即此神なり、続日本紀に曰く、文武天皇慶雲二年九月丙戊、八咫烏社を大和国宇陀郡に置て之を祭ると、傍に石造の祠あり、高三尺許、境内伊那佐山と対し、眺矚絶だ佳なり、但登路険悪、頗攀路に苦しむ。
補【宇多森】○五鈴遺響 太平記三十二、大和国宇多森に鬼あり、人を害す、源頼光は渡辺綱に命じて此鬼を伐たしむ、重代の太刀を賜る、鬼の手を切て頼光に見参す。○伊那佐村母里。
伊福《イブキ》郷 和名抄、宇陀郡伊福郷。此郷名今某所を失ふ、宇陀村字賀志村伊那佐村などにあたるか。伊那佐村大字|福西《フクニシ》あり、伊福西の遺称にあらずや。(三代実録、貞観四年播磨人雅楽寮笛生伊福貞、復本姓五百木連云々)
浪坂《ナムサカ》郷 和名抄、宇陀郡浪坂郷、訓奈無佐加。此郷名今某所を失ふ、松山町神戸村政始村にあたるか。続日本紀「和銅六年、宇太都浪坂郷人、得銅鐸於長岡野地」とあり。
岡田小秦命《ヲカタノヲバタノミコト》社は延喜式に列す、今政始村大字小和田に在りと云。〔大和志〕岡田は波坂村長岡の地か。続紀「和銅六年、波坂郷人、得銅鐸於長岡野地、而献之、高三尺口径一尺、其制異常、音協律呂」。
守道《モヂ》 近年|政始《セイシ》村に改む。吉野郡龍門山の脈を以て南方を限り、高見村|鷲家《ワシカ》に通ずる山路あり。大和志は神武天皇登望の高倉山は守道に在りと云ひ、神祇志科亦|高角《タカツノ》神社〔延喜式〕守道の字高倉に在りと為す、然れども高見山(今吉野郡高見村)にも高角神社あり、登高瞻望は彼地相勝れるを覚ゆ、後の考慮を期す。
吾城《アキ》 吾城は延暦儀式帳阿貴に作り、万葉集安騎野と云ふも此か、(万葉に詠ぜるは吉野の地か)今松山町近傍の総名にして、和名抄浪坂郷にあたる如し。天武紀壬申乱の条に「王駕自吉野発、入東国、即日到菟田吾城。又白鳳九年、幸于菟田吾城」とあり。
秋山《アキヤマ》 松山町の南に接し一丘あり、丘上寨址あり秋山城と称す。天文の頃土豪秋山氏の居と云ふ、今神戸村大字|拾生《ヒロフ》に属す。万葉に見ゆる安騎野は此なるべし、中世宇陀狩場といふ、謡曲国栖云、身を秋山や、世の中の、宇陀の御狩場よそに見て、男鹿伏なる春日山、みかさぞまさる春雨の、音はいづくぞ吉野川云々。又以呂波字類抄に阿貴山に作るも此を指す。
軽皇子宿于安騎野時、柿本朝臣人麿作歌、
阿騎の野にやどる旅人打なびきいもぬらめやも古へおもふに、〔万葉集〕
大和軍記云、宇多郡の秋山は筒井順慶の縁者にて、一度順慶此人を頼み、字多へ引込み終に運を開き候。
松山《マツヤマ》 松山町は戸数四百、宇陀郡の小都会なり、天正年中多賀氏此地に築城したるより、元禄年中まで封侯相承したり
松山城《マツヤマノシロ》址 神楽岡と称す、初め多賀秀種(豊臣氏の将堀秀政の弟なり)此地に封ぜられ二万石を領す、子出雲守秀家慶長五年西軍に属し除封と為る。福島正頼(正則弟)之に代り三万石を賜はりしが、元和元年故あり除封、織田内大臣信雄更に本地五万石を食み子孫此に住す、元禄八年伊豆守信武に至り丹波柏原へ移り、松山城廃す。
甘羅《カンラ》 松山城は旧名|神楽岡《カンラヲカ》と云ふ 廿羅と云も吾城の地なれば此なるべし。天武紀云、車駕発吉野、到菟田吾城、過甘羅村、有※[けものへん+葛]者二十余人、則喚令従駕、逢駄馬於郡家。姓氏録云、大和諸蕃|蘰《カツラ》連、出自百済人狛也。
神戸《カンベ》 今神戸村立つ、大字|迫間《ハザマ》に神部明神あり、昔伊勢神宮の封邑なり、大神宮諸雑事記云、垂仁天皇時、天照坐皇太神天降坐於宇陀郡、于時国造進神戸等、今号宇陀神戸是也。神鳳抄云、宇陀神戸、卅七町白布廿一段。
阿紀《アキ》神社は神戸村迫間に在り其地を神楽岡と云ふ、延喜式に列し垂仁天皇の御宇皇女倭姫命天照大神の宮処を求め美和より宇太阿貴に移り、次に※[たけがんむり+(にんべん+縦棒+のぶん)]畑宮に赴きたまふ事延暦儀式帳に見ゆ。
剣主《ツルギヌシ》神社は延喜式に列す、今神戸村大字|宮奥《ミヤオク》の白石明神是なり、神殿の背に広三席ばかりの巨石横たはる、所祭詳ならずと云。〔県名勝志〕
補【阿紀神社】○宇陀郡神戸村大字迫間字神楽岡に在り、境内千三百八十六坪、里人神戸明神と称す、日本紀に載す、神武天皇厳※[分/瓦]を造作して丹生川上に陟り、用ゐて天神地祇を祭るとは即此、本社宝物中天国作の太刀長二尺一寸。○神祇志科 今迫間村阿紀にあり、神部明神と云ふ(大和志・名所図会・奈良県神社取調書)蓋伊勢大神也、垂仁天皇の御世皇女倭姫命、大神の宮処を求めて美和の御諸宮より宇太阿貴宮に座せ奉る時に倭国造神田神戸を奉りき(延暦儀式帳・倭姫世記)所謂宇陀神戸是也、故に今に至まで此地猶祭料米を奉ると云(神鳳砂、参取延暦儀式帳解)
男坂《ヲノサカ》 神戸村大字|半坂《ハンザカ》蓋是なり、西に踰ゆれば磯城郡|忍坂《オサカ》の栗原に出づべし、忍坂即大坂の義あれば男坂は小坂なるべし。神武天皇の時虜の陣し故跡なり、中世又|波津《ハツ》坂と云ひ今|半坂《ハンザカ》と呼ぶ。旧説女坂も男坂の近傍に在りと為せど詳ならず、延喜式昧坂の名ありて、今内牧村大字|荷坂《ミノサカ》にあたる如し。
咲岳《ワラヒヲカ》 半坂の南に大字嬉河原あり此地か。奈良県名勝志云、神武紀、椎根津彦弊衣服及び簑笠を著け老父の貌を為し、又弟猾箕を被り老嫗となり天香山に至る、群虜二人を見て大に之を咲ふと、後人其地を指して咲岳と称すと云ふ、今其所在詳ならず、或は曰ふ宇陀郡神戸村大字嬉河原の西南方に小字ワラヒと云ふ処あり即是なりと、未だ当否を知らず。
波津坂《ハツサカ》 今の半坂是なり。元弘三年正月官軍蜂起し、和泉国熊取地頭木本宗元は護良親王の令旨に応じ此に戦ふ事古文書〔史学雑誌〕に見ゆ。木本宗元、最前参御方、致合戦忠節、就中出羽入道寄来吉野御所之時、奉属大将中院少将家、馳向大和国字多郡波津坂、致合戦忠節之条、兵部卿親王家御感、令旨炳焉。
補【神戸】○奈良県名勝志 女坂 日本紀曰、女坂に女軍を置くと、今所在未詳、或は曰ふ、宇陀郡神戸村大字麻生田にありと、或は曰ふ、同村大字宮奥の地これなりと、未だ執れか是なるを知らず。
男坂 同村大字半坂にあり、同書に載す、男坂に男軍を置くとは即此嶺、上に至る凡そ十七八町。
補【波津坂】○史学雑誌 元弘三年正月、北条勢は天王寺に到着せしが、其後其近傍に於て小戦あり、勝敗決せず、官軍は進て吉野山の東北なる宇陀郡に於て賊軍を逆撃せり、湯浅宗元訴状に云々〔略〕○神戸村大字関戸、又大字半坂、磯城郡外山へ通ず。
吉野郡
吉野《ヨシノ・ヨシヌ》郡 吉野或は芳野に作る、大和南部の大郡にして紀伊川《キノカハ》の上游(即吉野川)の地なり。十津川卿北山卿の地は更に其南に在り、地勢相異なりと雖本郡に隷す。宇智郡は吉野の西部を割きたる者にして本郡と一塊を成す、面積約百三十方里、土俗|奥郡《オクノコホリ》と云ふ。
神武天皇熊野より嚮導を得て其軍を吉野河の河尻に進めたまふ事古事記に見ゆ、当時十津川の重嶺深谷を陟絶したるや想ふべし、日本書紀に菟田穿より吉野を巡幸すとあるは誤れるに似たり。応神天皇吉野に離宮を置きたまへるより歴世其設あり、故に元正天皇の時|芳野監《ヨシヌノツカサ》と為し国郡以外の行政区と為る、聖武天皇の時監を廃し郡に復す。国郡沿革考云、芳野郡の名は続日本紀和銅四年に初出し、元正天皇の時|芳野監《ヨシノゲン》と改め和泉と共に二監と称す、離宮あるを以て監の官職を立つ、霊亀二年和泉監を置かるれば此前後に建置せられしならん「天平四年七月、令両京四畿及二監、依内典以請雨焉、十二年、廃和泉監」と、芳野監も此比に停止せられし也。
荘園考云、大館高門所蔵無題古文書に日本国六十七とありて、和泉国佐渡国を挙たれば天平宝字元年和泉国を立られし後に記せる者と見ゆ、然るに芳野監芳野国郡二郷三里九とあるを思ふに、芳野国と云がありける故に六十七国なりしなり、大和を大倭とかき去京里程はなく山城を山代とかき去京行程半日とあるにて、延暦以前奈良の朝の事なるを知る。延喜式、和名抄、吉野郡、訓与之乃。或は三吉野と呼ぶ、雄略帝の歌に美延斯乃《ミエシヌ》と詠じたまふ、美は発辞にて異義あるに非ずと曰ふ。日本紀万葉集には曳之努《エシヌ》又与之努|余思努《ヨシヌ》なりと書す。吉野には神武帝巡幸の比|井光《ヰヒカ》国栖《クズ》の二族あり帰伏す、井光の後は吉野連と為り、続日本紀続日本後紀に其氏人載せられ郡領に任ず、国栖は国栖部と称し中世まで其異俗を持せり。
吉野十八郷の名は太平記赤松記に出でたれど其郷名詳ならず、和名抄四郷は吉野川沿岸に止まり、僻遠なる十津川郷北山郷は未だ録せざりしに似たり、今上市町外十四村十津川郷九村、北山郷二村と為る、郡衙は上市に在り。
新刊の一冊子に曰く、吉野山林は方今幽蔭※[くさがんむり+會]蔚雲興霞起して其観最盛なり、此杉檜の造林は三四百年来の事に過ぎずと云ふ、或は其良種を薩摩土佐より伝へたりと説き、川上《カハカミ》村の杉檜栽培を文亀年間に起ると為す者あり、然れども川上の五社峠の三本杉は各周囲二丈、其大さ牛を蔽ひ其寿四五百年を下らず、蓋吉野の山谷古より天生の杉檜なかりしに非ず、造林の術亦自此に出でしのみ、近年の統計書を見るに吉野郡に官有林なし、其民林毎歳の売高は百六十八万円の多きに達す、此造林地には古来五郷組合と称する団結あり、川上中荘黒滝西奥の五組にして、造林及び林木の流出販売等の改善を謀れり、又所有権の事に就きては大抵林地と林木は其主を異にす、地主は村落の共有あり富家の私有ありて林木の栽培は別に木主の在るあり、地主の政府に納むる租銀を山手と称し、木主の地主に私ふ料銀を歩一又は歩口と云ふ、是材木販与の価銀中百分の五乃至十許を地主に納るれば也、而て此地主木主の利害を計較するに、村落人民を地主とせる木主の造林を最善美と為すがごとし、又地主木主の貸借を計較するに、年期貸借の法は大に不可なり、謂ゆる立木一代限〔五字傍線〕の慣習こそ便利なれ、何則、凡吉野の林齢は七八十年より百二三十年を大法とす、若し短期にして伐木を急がば木主地主共に利益なし、長期にして造材需用の時機に投合し易からしめば、木主地主共に多額の収益を得れば也、十津川郷は吉野に属すと雖、造材流出の上に於て損失多ければ、林業盛大ならず、吉野河沿岸の独り森々たるは、紀川の漕運自在なるに因る、封建の時世に当り、和歌山藩は吉野の下游|岩出《イハデ》村に関を置き、木材通過の税百分十を徴したり、之を口役と称せり、明治維新後、口役の関税を除却せらる。
斐太《ヒダ》人の真木流すてふ爾布《ニフ》の河ことは通へど船は通はず〔万葉集、今按に斐太人は造材者の古名か、爾布は山林の別名か〕
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賀美《カミ》郷 和名抄、吉野郡賀美郷。今高見村龍門村上市町等吉野川の上方の地にあたるか。北并に東は山嶺を以て限る、即宇陀郡及伊勢国飯高郡なり、高見山東北隅に峙つ。
高見《タカミ》 高見山は一名|高角山《タカツヌヤマ》吉野川の北支源小川《ヲガハ》之より出て、国樔村に至り川上川に会し初めて大なり、此間五里許、高見小川の諸村散布す。
高角《タカツノ》神社は延喜式宇陀郡に列す、神武天皇熊野より進軍したまふ時嚮導たりし八咫烏本名建角見命を祭る、今高見大字平野に在り土人|水分《コモリ》神と称す。
補【高角神社】○奈良県名勝志 高見村大字平野にあり、里人水分社と称す、姓氏録に曰、神魂命の孫鴨建津見命、化如大烏、翔飛奉導、速達中洲、時天皇嘉其有功特厚褒賞、八咫烏之号従此始也と。延喜式二座宇陀郡に載す、今吉野郡に移載す。
小川《ヲガハ》 是中世荘名にして、今の高見小川四郷の三村にあたる、高見山の山中瀑布あり小川瀑と呼び、其末国樔に至るまでを小川と呼ぶ。
鷲家《ワシカ》 高見村の首邑にて、宇陀郡より上市下市に通ずる駅舎なり。文久三年天誅組の浪士此地に来り諸藩兵の囲む所と為り遂に散亡に帰す。藤本鉄石忠烈碑(吉野村如意輪寺建立)云、鉄石常歎皇威之不振、慨然以天下之事、為己任矣、文久三年癸亥秋九月与同志士五十余人、奉侍従中山公忠光、挙兵於十津川、先生実為之総裁、幕府遣兵来攻、二十五日、大戦於鷲家村、遂死之、時年四十有八、其臨戦也、従容賦国詩、以精神貫磐石自説云、後五年、大政復古、雖頼先帝在天之霊、抑亦先生首唱之功、与有力為、朝廷嘉其忠烈、為追思之。
※[くさがんむり+解]岳《アザミダケ》 四郷村大字|麦谷《ムギタニ》に在り、高見村の南にして川上村の北に聳ゆ。元亨釈書に、「良算上金峰山、住※[くさがんむり+解]岳《アザミダケ》、数十年、持法華、鬼神出現、供果爪、猛獣毒蛇、皆悉馴伏」とあるは此か。〔名所図会〕
龍門《リユウモン》 高見村の西に接し、上市村に至る間を龍門村と為す、古の龍門牧又龍門荘の地なり。北に龍門山を負ひ、吉野川に臨む、大字柳村山口の二を首里とす。東鑑云「文治元年、源義経赴大和国字多郡龍門牧以来、一日片時不住安堵之思」この宇多郡は比隣の地なれば誤記したるか、義経の幼時母常盤に抱かれ此里に隠れたること平治物語に見ゆ。
過龍門里、在宇※[こざとへん+施の旁]郡、常盤抱牛若避難処、
満天飛雪暗荒村、懐裡孤雛泣凍喧、他日嶄然頭角現、始知此地是龍門、 斎藤拙堂
龍門郷山口村に古文書あり、正平三年本郷百姓愁訴状を載す、此の大頭入衆日記は春日講の頭をなす順帳にして、上冊は正平二年乙丑に始り大永八年にいたり、下冊は享禄二年乙丑に起り天正十二年甲申にいたる、みな古き反古を返して帳につゞりしものにして、本文を載する申状もかの帳の裏に見ゆるものなり、扨又龍門郷は此時まで南都興福寺の領地なり、しかるに後醍醐天皇この山に入らせ給ふよりのちは勅命にしたがひ租税を行宮に納め来れり、しかるに内裏は師直が為に焼失ありしゆゑ、穴太といふ所へ皇居を移されしうへは、龍門郷の租税を以前の如く興福寺へ納むべきとし、彼寺より下知す、されども行宮よりも勅ありて今の御所へ参らすべしとあるゆゑ、百姓等双方へ役をつとむる事を難義におもひ、愁状を捧し者なりと。
龍門寺《リユウモンジ》址 龍門村の山口の上方に在り、元亨釈書義淵法師の興立と為す、飛泉あるに依り此名を命じたるならん。今昔物語云、今は昔何れの時にや、大和高市内裏の時、当国吉野郡龍門寺に籠り法を行て仙となりたる久米と云者あり、空に飛行しけるが、吉野川の辺にて若き女の美なるが衣を洗へる脛の白を見て、心まよひつゝ女が前に落ぬ、則其女を妻として住侍る、其より仙人とは呼ぶ也。扶桑略記、〔三代実録〕元慶四年云々太上天皇落飾入道、寄事頭陀、意切経行、便欲歴覧名山仏※[土+龍]、於是始自山城国貞観寺、至大和国東大寺香山神野比蘇龍門大滝、摂津国勝尾山、諸有名之処、経廻礼仏、或処留住踰旬乃去。又治安三年、入道相国(道長)次龍門寺、于時仙洞雲深、峡天日暮、青苔岩尖、湊布泉飛、礼仏之後、留宿上房、霜鐘之声屡驚、露枕之夢難結、昔字多法皇詠卅一字於仙室、今禅定相国挑五千燈於仏台、岫下有方丈之室、謂之仙房、菅※[極−木]相都良香之真跡、書于両扉、前総州刺史孝標者、菅家末葉也、誤以仮手之文、忝書神筆之上、悪其無心、消以壁粉、其外儒胤成業者、又並拙草、衆人嘲之。
龍門滝《リユウモンダキ》 山口と柳村の間に在り、即龍門寺址の地なり。
大和に三月ばかりすむに、さう/\しく寺めぐりせんと思ひてありきけるに、りうもんと云寺に詣でて、む月の十日あまりになん有ける、見れば其たきの有さまは雲の内より立くる様に見ゆ、仙の窟と云はいたく年つもりて、岩の上の苔八重むしたり、哀に覚えて、
たちぬはぬ衣きし人もなきものを何山姫の布さらすらん、〔伊勢家集〕
雲見えて人まどはすは流れ出し龍の門よりきたる水かも、 素性法師
龍門《リユウモン》山、懐風藻云、葛野王子淡海帝之孫、大友太子之長子也、母浄御原之長女十市内親王、器範宏※[しんにょう+貌]、風鑑秀遠、材称棟幹、地兼帝戚、少而好学、博渉経史、頗愛属文、
遊龍門山一首
命駕遊山水、長忘冠冕情、安得王喬道、控鶴入蓬瀛。
吉野山口神社は三代実録延喜式に列す、龍門村大字山口に在り。又本社境内に高桙《タカホコ》神社あり、延喜式に列し古は龍門山の巓に在りし者と云。〔大和志〕
津振川《ツブリカハ》 龍門寺大字|津風呂《ツブロ》は山口の南にして渓に沿ふ、日本書紀、天武巻云、大海人皇子発途東国、事急不待駕、乃皇后載輿従之、逮于津振川、車駕始到、即日到菟田。往時の行径は津振より牧村を経て龍門山を踰えしならん。
妹兄山《イモセヤマ》 国樔《クズ》村宮滝の西、上市町の東、吉野川を挟み相対せる丘陵の名なり。北峰を茂山《モヤマ》と呼ぶ即|妹山《イモヤマ》なり、三代実録授正一位大名持神社此にあり、蓋古歌に神ありて妹兄山を造れる由詠ずるに依り此祠を起し、下流に別に兄山あるを以て或は此地の兄山洪水に漂はされて彼に到るなど、古来雑談多し。
大名持《オホナモチ》神社は延喜式名神大社に列す、妹山に在り境内に大海寺あり、又|潮生《シホフ》淵あり、鹹水涌出す。〔名所図会〕今龍門村大字河原屋。
大名持少名み神の作れりしいもせの山を見るぞうれしき〔拾遺集〕 柿本人麿 〔万葉集読人不知〕
和州巡覧記云、上市より龍門へ入る谷口吉野川の両傍に水を隔てゝ双山あり、飯貝(今吉野村大字)に在るを背山と云ひ西也、龍門の方を妹山と云ふ東也、是は茂山《モヤマ》なり、共に高からぬ同大の山相むかへり、古歌に詠ぜる名所なり云々。○按に顕昭袖中抄に万葉集紀の国の妹背の山とよめるを以て妹背山紀伊に在りと曰ふ、また元明天皇阿閉皇女と号ひ給ふ比の詠に「越|勢能山《セノヤマ》時御作歌」と題し、
是れやこの倭にしては我こふる木路に有とふ名に負ふ背の山〔万葉集〕
と見ゆ、歌意を推せば古より唱ふる諺に「紀伊の妹背山」と云者も実は吉野即大和国の中なりとて其事に附けて懐を述べたまへるなり、日本紀に京畿の南限は紀伊|兄山《セノヤマ》とありその名著るれど、此兄山と云は伊都郡笠田村の中流の孤島にて、妹兄相并ぶ地形にあらず。
兄の山にたゞに向へる妹の山ことゆるすやもうち橋わたす、〔万葉集〕人ならば親のまな子ぞあさもよし紀の川のべのいもとせの山、〔同上〕
など皆吉野なるべし、而も当時已に「紀伊の妹背山」てふ諺ありて、兄山の方をば専一に詠じたるごとし、彼地は南海往反の通路にて人々の詠吟も多くありし如し、之を要するに同名両地と判断すべきか、後世にも古今集続後拾遺集には吉野たるべき証歌を載す。
流れては妹背の山の中に落る吉野の川のよしや世の中、〔古今集〕 読人不知
流れてもうき瀬な見せそよし野なるいもせの山の中がはの水、〔続後拾遺集〕 行家
上市《カミイチ》 吉野川の北岸に在り 吉野村と水を隔てゝ相望む、戸数三百、小水駅なり、上市町と称す。北なる山を千股山《チマタヤマ》と曰ふ、万葉集宇治間山は此とぞ、名所図会及び略解の説也。
宇治間《ウヂマ》山あさ風さむし旅にしてころも借るべき妹もあらなくに、〔万葉集〕 長屋王
那珂《ナカ》郷 和名抄、吉野郡那珂郷。国樔村の辺を中荘と称するは那珂郷の遺か、然らば国樔村吉野村川上村にあたる。
国樔《クズ》 又国栖に作る、此地古代穴居異習の土民在り国樔と号す、中世に至るまで雑糅せず、其後形跡全く亡び唯葛根に名を存するのみ。国樔村は吉野川に跨り龍門の南、金峰の東に在り、応神以降聖武帝に至るまで離宮の在りけるは即此地に属す。郵便局は新子《アタラシ》に在り。
日本書紀云、神武天皇親率軽兵、巡幸吉野、有尾而披磐石而出者、天皇問之曰、汝何人、対曰臣是磐排別之子、此則吉野国樔部始祖也。姓氏録云、大和地祇国樔、出自石穂押別神也、神武天皇行幸吉野時、川上有遊人、于時天皇御覧、即人穴、須臾又出遊、窃窺之喚問、答曰、石穂押別神子也、爾時詔賜国栖名、後孝徳天皇御世、始賜名人国栖意世古、次号世古、二人、允恭天皇御世、進御贄、仕奉神態、至今不絶。日本書紀云、応神天皇幸吉野宮、国樔入来朝、因献醴酒干天皇、而歌之曰、云云歌訖則打口以仰咲、今国樔献土毛之日、歌訖即撃口仰咲者、蓋上古之遺則也、天国樔者其為人甚淳朴也、毎取山菓食、亦煮蝦蟇為上味、名曰毛瀰、其地自京東南、而居于吉野川上、峰嶮谷深、道路狭※[山+獻]、故雖不遠於京、本希朝来、自此之後、屡参赴、以献土毛、其土毛者栗菌及年魚之類焉。延喜式云、践詐大嘗祭、宮内官人引吉野国栖十二人、楢笛工十二人、入自朝堂院東腋門、就位奏古風。延喜式又云、吉野御厨、年魚鮨火干、従四月至八月、月別上下旬、各三担、吉野御贄所進、蜷并伊具比魚煮凝等、随得加進。
国栖どもがわか莱つまむと司馬《シバ》の野のしば/\君を思ふこのごろ、〔万葉集〕勝地吐懐編に契沖師「司馬は奥義抄にしめの(標野又禁野)とよめるは非なり、しば/\とうけたるに叶はず」と述べたり、蒿渓子頭注に国栖等を仙覚抄にクニスラと訓み、契沖師クズドモと言はる顕昭袖中抄にはクズヒトとよめり、仙覚の鋭は心得がたし、按にクニス・クズ・シバノ・シメノ古言通用にや。源平盛衰記云、吉野の国栖とは舞人なり、国栖とは人の姓なり。浄御原天皇大友皇子に襲はれて、吉野の奥に籠りまし/\けるに、国栖の翁栗の御料にうぐひと云魚を具して供御にに備へ奉る、後天皇御位につきたまふてより以来、元日の御祝には国栖の翁参りて、桐竹に鳳凰の装束を賜て舞とかや、豊明の五節にも此翁参りて、栗の御料にうぐひの魚を奉る也。古事記伝云、続紀(卅一)外従五位下国樔小国あり、小右記に「寛弘八年正月一日、無国栖奏、依不参上也、近年如之、是大和守頼親時被調、已不参上」とあり、此程より参上絶たるも江次第盛衰記等に国栖人の見ゆるは其|調《マネビ》のみなり。
うぐひすや国栖の翁の笛の弟子、 貞室
按に諸国に栗栖《クルス》小乗栖の地名多し、和名抄に郷名あり万葉以下の古歌にも此名見ゆ、蓋栗林の地にして其郷民は秋実を採り、之を貢献するを例とす、即一種の山民なり、而して之を久留須と呼ぶは栗林に栖むと云義にはあらず、語源自ら異なり、クズの転りに非ずや。
紀伊国栖原浦に久授呂宮《クスロノミヤ》あり、社伝に国栖人の吉野より来りて祭れる者と為し、今|国主《クニヌシ》宮と訛る、此栖原は持統紀那耆野と載せられたる禁野にて、仁寿四年東寺真済大徳の田券に在田郡野村栗栖林と記せる地なりとぞ、亦国栖栗栖の同言たるを証すべし。
吉野宮《ヨシノミヤ》址 吉野離宮は蓋二所あり、一は国樔村大字宮滝にして一は下市村なり、然れども下市の徴証明白ならず。「応神天皇、幸吉野宮時、国樔人来朝、雄略天皇、幸于吉野宮」〔日本書紀〕是時の行在詳にし難し、但雄略帝の河上|蜻蛉《アキツノ》小野に幸せるに考合すれば皆宮滝の蜻蛉宮か。斉明天皇二年吉野宮行幸、此より天武持統文武元正聖武の行幸は書紀続紀及万葉集に見ゆ。
よき人のよしとよく見て好しといひし芳野よく見よ良人よくみつ、〔万葉集〕
蜻蛉野《アキツノ》 大和志|蜻螟《セイメイ》滝の地に充てたれど鑿説のみ、万葉集蜻蛉宮あり今宮滝にあたれば蜻蛉野亦此なり、河上小野と詠ぜる亦同所とす、下市村の秋の野或は蜻蛉野と同じからんと曰ふも明徽なし。(中世和歌者流は蜻蛉野は形《カタチ》野ともよみたりと云)
雄略天皇、吉野幸于河上小野、命虞人駈獣、欲躬射待、虻疾飛来、※[口+(潛−さんずいへん)]天皇臂、於是蜻蛉忽然飛来、囓虻将去、天皇嘉厥有心、号曰云々因讃蜻蛉、名此地、為蜻蛉野、
野磨等の、〔古事記美延斯怒乃〕嗚武羅の岳に、獣《シヽ》ふすと、誰か此事、大前《オホマヘ》に申す、大君はそこを聞かして、玉纏きの呉床《アグラ》にたゝし、しづ巻のあぐらにたゝし、獣待と朕《ワガ》いませば、手腓《タクブラ》に虻《アム》かきつきつ、其虻を蜻蛉はやくひ、這虫も大君にまつらふ、汝《ナ》が形《カタ》はおかむ、あきつしま野磨等、〔日本書紀〕
養老七年発亥夏五月、幸子芳野離宮時、笠朝臣金村作歌、
滝の上の、御舟の山に、水枝さし、しじに生ひたる、刀我の木の、弥継々に万代に、かくし知らさむ、三芳野の、蜻蛉の宮は、神柄か、貴かるらむ、国柄か、見がほしからむ、山川を、清みさやけみ、諾《ウベ》し上代ゆ、定めけらしも、〔万葉集〕
嗚武羅岳は大和志小村山(今小川村大字小村)に擬したり、当否詳にし難し、御舟山は宮滝の上に其名存す。
幸于吉野宮時、弓削皇子贈与額田王歌、
古へに恋る鳥かも弓絃葉の御井の上よりなきわたり行く、〔万葉集〕
略解云、弓絃葉《ユヅルハ》井は蜻蛉離宮の辺に在るべし、御父天武帝の暫入おはせし所なれば、かの姪王も同く恋奉られむ、故に贈り給ふなるべし。
吉野川《ヨシノガハ》 二源あり、北支源は高見山に発し小川《ヲガハ》と称す、南支源は川上川と称し大台原山に出づ、西北流七里国樔村に至り小川と合し、西流上市下市五条等を経て紀伊国界|真土山《マヅチヤマ》に至る八里、尚西赴十三里和歌山市の西北に至り海に入る。吉野諸村、材木を山林に採り水を利用して和歌山に降下し、海上諸州へ販与す、本郡第一の富源とす。古歌に「吉野川其水上を尋ぬれば葎かしづく萩の下露」と詠る如く、源は一所にあるべからず、土俗曰ふ此山中西風には東方へ水多く流れて伊勢の宮川嵩まさり、東風吹けば吉野川あふれ、北風には熊野川(十津川)水多しと。
隼人の湍門のいはほも年魚はしる芳野の滝に尚しかずけり、〔万葉集〕
吉野川は山中飛泉多し、宮滝大滝は幹川の石に激し急湍と為る者にして、最雄観なり。
遊副川《ユフガハ》は吉野川の一名なるべし、万葉集吉野宮長歌に「遊副川の神も大御食に仕奉ると上津瀬に鵜川を立て下つ瀬に小網《サデ》さし渡し」云々と見ゆ、略解は宮滝の末に遊川《ユガハ》野ありと記す、或は結八川《ユフヤガハ》に作る。
妹が紐結八川内をいにしへの※[にんべん+叔]人見きと此をたれか知る、〔万葉集〕懐風藻の詩句八石洲笛浦琴淵等の勝景あり、吉野川の中ならん、八石《ヤシ》は今国栖村大字|矢治《ヤヂ》あり転訛したる者か、夢淵は下市に其名寄す、笛浦琴淵は詳ならずと雖笛浦は延喜式国栖村に楢の笛工あり、今国栖村|楢井《ナラヰ》の住民なるべし、笛浦の名之に因るか、琴淵は雄略帝歌舞の故典に因る如し。
天皇幸行吉野宮之時、吉野川之浜、有童女、其形姿美麓、故婚是童女、而連坐於宮、後更亦幸行吉野之時、留其童女之所遇、於其処立大御呉床、而弾御琴、令為※[にんべん+舞]其嬢子、作御歌曰、
呉床居の神の御手もちひく琴に舞するをみなとこよにもがも、〔古事記〕
和藤太政佳野之作 葛井広成
物外囂塵遠、山中幽隠親、笛浦※[てへん+妻]丹鳳、琴淵躍錦鱗、月後楓声落、風前松響陳、開仁対山路、猟智賞河津、
従駕吉野宮 吉田宜
神居深亦静、勝地寂復幽、雲巻三舟谿、霞開八石洲、葉黄初送夏、桂白早迎秋、今日夢淵上、遺響千年流、
宮滝《ミヤタキ》 国栖《クズ》村大字宮滝は北岸なり、古の蜻蛉野にして吉野川此に至り急湍と為り、石出て水蹙む、古来遊賞の勝地、殊に離宮の在りけるを以て、宮滝の名あり。名所図会云、宮滝は懸泉に非ず、吉野川の両岸に大岩あり、高五間許巨水其間に狭められ一丈八尺許と為る、其景絶妙なり。
扶桑略記、昌泰元年十月廿二日、太上天皇進発直向宮滝、廿四日過現光寺、礼仏捨綿、別当聖珠捧山果、煎香茶、以勧饗侍臣、上皇進行留宿於吉野郡院、廿五日遂至宮滝、愛賞徘徊、不知景傾、其滝之為体、広袤二三町、勢非峻嶮、其※[石+良]※[石+盍]急流之色、如崩積雪、有勅曰勝地不可空過、以観宮滝為題、各献和歌、路次向龍門寺、礼仏捨綿、松蘿水石、如出塵外、源朝臣昇向古仙旧庵、不覚落涙、殆不言帰、上皇安坐仏門、痛感飛泉、勅令献歌、是日山水多興、人馬漸疲、素性法師菅原朝臣道真等銜尾而行、法師問曰、此夕宿於何処、朝臣応声誦曰、不定前途何処宿、白雲紅樹旅人家、入夜執炬、到野別当伴宗行宅、廿六日留而不出、廿七日進発、上皇指摂津住吉浜、経龍田山、入河内山国。 年のはにかくも見てしが三吉野の清き河内の滝つしら波、〔万葉集〕
昌泰元年十月廿五日宮滝に遊び、立やすらふに日の暮るる事も知らず、其滝のありさまめぐり三四町許、高くさかしからねど音はいとたかく、早く流れたる岩に積れる雪の崩れかゝるが如し水の中に所々に大なる石あり、相去ること遠きは一丈あまり、近きは七八尺云々、〔後撰集引菅家記〕
水引の白糸はへて織るはたは旅のころもにたちやかさねん、 菅原道真
滝落る吉野の奥の宮川のむかしを見けん跡したはゞや、〔山家集〕 西行法師
清河原《キヨキカハラ》日晩山《ヒグラシヤマ》などは、古の歌詠にまかせ後人其地名を立てたるか、二所ともに宮滝の辺に在りと名所図会に見ゆ。
苦しくも暮行く日かも吉野川きよき河原を見れど飽かなくに、〔万葉集〕
日ぐらしの山路をくらみ小夜ふけて木の末毎にもみぢてらせる、〔後撰集〕
菜摘《ナツミ》 国樔村大字莱摘は宮滝の東に接す、万葉に「国栖どもがわかな摘まむと司馬野《シバノ》の」てふ句あれば古名司馬野なるべし、吉野川を此地にて夏実川と呼ぶ。 吉野なる夏実の河の川淀にかもぞ鳴くなるやま影にして、〔万葉集〕
かすみたち雪も消えぬや御吉野の御垣の原に若菜つみてん、〔続後撰集〕
三船《ミフネ》山 三船山は菜摘の東南に在り、遠く望めば船の状あり、坂路太嶮なり。〔名所図会〕懐風藻に「雲巻三舟谿霞開八石洲」の句あり、三舟谿即此地にして、其東に大字|八治《ヤチ》あり、八石《ヤシ》を訛れるにあらずや、雄略天皇御歌烏武羅岳も此にあらずや、
滝のへの三船の山に居る雲の常にあらむと我おもはなくに、〔万葉集〕
たぎの上の三船の山ゆ秋津辺に来なきわたるは誰れ喚児鳥、〔同上〕
楢井《ナラヰ》 国樔村大字楢井は宮滝の西に接す、延喜式外楢井坐神社此に鎮座す、今春日神と称す。〔大和志〕古の国栖人の祭りし者なるべければ春日と云ふは後世の事也、国栖部の楢|笛工《フエフキ》あり此の住民なるべし「延喜式、国栖十二人、楢笛工十二人、奏古風」との事あり。
樫尾《カシヲ》 古は鹿塩《カシホ》に作り、又加志能布と呼ぶ、国樔村の大字也。宮滝の対岸(吉野川南側)にあたる。延喜式、川上鹿塩神社あり。大和志古事記伝云、豊明宮(応神)段、国主人の歌に「加志能布に横臼《ヨクス》を造り」とあるは樫尾に今も鹿塩神社あり、大倉明神と云ふ此なり、国栖七村の氏神とす。
象《キサ》 今国樔大字|喜佐《キサ》谷是なり、樫尾の西南に接す、一渓西|青根《アヲネ》峰より出でて吉野川に入る、又西南に登陟すれば数町にして吉野村に至る、象の中山即此ならん。
暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌
昔見し象の小河を今見ればいよよさやけく成りにけるかも、〔万葉集〕
太上(持統)天皇幸于吉野宮時高市連黒人作歌
やまとにはなきてか来らむ呼子鳥象の中山よびぞ越ゆなる、〔同上〕
倭訓栞云、倭名鈔に※[木+雲]をきさとよむ、木文也と注せり、今いふ木目也、刻むの義なるべし、象をきさと訓むも象牙の様に似たる文あればなるべし、天智紀に象牙をきさのきとよめり、拾遺集物名にも見えたり。
川上《カハカミ》 国樔村の南東、長七里幅三里の山中を川上村と云ふ。大台原山東に屏立し、大峰《オホミネ》西に盤踞し、伯母《ヲバ》峠は南方北山郷の分水嶺を成す。此地東は伊勢の大杉谷、西は十津川郷、四面皆高山深谷にして川上谷其中央に居る、即吉野川の源頭とす、所々に急湍ありと雖木材を流下するに筏師の技巧善く之を過ぐと云。方今吉野の山林、川上村を推し善美と為す、民其業を勉め、往々巨万の富を累ぬるものあり。
大滝は国樔の南一里、川上村大字大滝|西河《ニシガウ》の間に(吉野川の激湍)あり、一名西河滝と曰ふ。
蜻螟滝《セイメイノタキ》川上村大字|西河《ニシガウ》に属す、水高処に潴り一潭を成し溢れて下垂す、直高凡十二間。文禄年中大和国主豊臣秀俊(郡山城主)蜻螟滝の※[さんずいへん+秋]中に溺死すと云ふは此なり、一名白糸滝と曰ふとぞ。
代々を経て絶えじとぞ思ふ芳野川ながれて落るたきの白いと、〔続後撰集〕 延喜帝
吉野西河の滝にて
ほろ/\と山吹ちるか滝の音、 桃青
鮎の子のこゝろすさまじ滝の音、 土芳
南朝皇孫遺跡 川上村諸所に王孫の事を伝ふ、凡南朝皇胤の談は川上荘及北山郷(和州及紀伊)に土俗の所説多けれど徴証の明確なるは少し。大和志云、川上荘|神野谷《カウノタニ》金剛寺、一名中寺、山号妹背、本尊日抛地蔵、山中有南帝自天王陵、及小祠宝篋印塔一基、刻曰長禄元年十二月二日。南朝遺史云、川上村|東川《ヒガシガハ》に住吉明神と云あり、此は即小倉宮実仁親王(後亀山帝長子)の廟とぞ、大字|神野谷《カウノタニ》金剛寺忠義王尊秀王(後亀山帝三子万寿寺尊義王之子)の石塔神牌あり、大字|入之波《シホノハ》の三之公《サンノキミ》山に万寿寺尊義王の墓あり、大字高原に河野宮忠義王の居址あり、忠義王は神の谷に居給ふ。○陵墓一隅抄云、南朝先帝中宮、新待賢門院藤原廉子、川上西陵也、在高原村、隆起如山、上有一祠。
入之波《シホノハ》 温泉あり、炭酸性九十度、澄明にして味甘酸なり、砂磧の間より湧出し、夏時来客を待ちて蓋屋を営み浴場を開くのみ、土俗役小角の発見と称す。
補【川上】○南朝遺史 湯浅の戦に義有王討死の後、尊義王神器を奉じ二皇孫とともに吉野川上に遷らせ三の公に匿し坐す、三の公と云ふ処は大和吉野郡川上荘(古書小倉の奥とも)神の谷村の領|入《シホ》の波《ハ》村の奥なり、尊義王自ら太上天皇と称す、康正元年(南帝)天靖十三年太上天皇尊義王崩御(年四十五)三の公山に葬し、高福院と謚す、尊秀王は父王崩御し給ふてより宮方の軍勢を駆り催さんと、北山の荘大河内小瀬滝川寺の御所に遷らせ給ふ。
補【神谷】○南朝通史 金剛寺は大和吉野郡川上郷|神《カウ》の谷村に在り、大峰山の奥院とも称す、尊秀王の御頸は神の谷村金剛寺山内に葬し奉り、自天院と謚し奉る、金剛寺内に御頸塚と称し五輪塔あり、鐫に曰く、長禄元年十二月二日とあり、南帝王の神社と崇め奉る。
補【高原】○南朝遺史 岡室の御所は大和国吉野郡川上郷高原村なり、忠義王此に坐す、古蹟あり、忠義王薨じ給うてより自天院の御兜鎧太刀長刀等川上荘二十三ケ村の宝物となし、是に向ひて南朝の皇族御在世の如く朝拝の式を行ふに、同荘|東《ウノ》川村龍谷山運泉寺にて、寛永二年乙丑迄累年二月五日を以て此式を行ひ奉りしを、後年に至り火災の難を厭うて御宝物を三保に分つ、皇孫九代とは一後醍醐天皇、二長慶院、三後村上天皇、四後亀山天皇、五小倉宮実仁親王、六勧修寺門主教尊元基親王、七円満院門主円胤義有王、八万寿寺門主空因尊義王、九大河内宮尊秀王(自天親王)以上を尊称す。
補【新待賢門院陵】吉野郡〇一隅抄 南朝先帝中宮藤廉子、川上西陵也、在高原村、隆起如小山、陵上有杜。
補【小倉】○南朝遺史 実仁親王は潜に嵯峨を忍び出で吉野の奥小倉山に遷らせ給ふ、今川上荘東川村の小倉山と称す、此所を御所となし、遷座す、嘉吉二年実仁親王吉野小倉の御所に於て薨ず(年六十四)小倉院と称す、郷民勧請して、霊を住吉大明神と崇め奉る。補【河野】○南朝遺史 忠義王は河野の御所へ遷らせ給ふ、残桜記に神の谷村の金剛寺の如く指せり。○吉野旧事記、起立系譜白川渡村川向ひ御霊の森を指せり、茲に於て南朝の皇子吉野の奥に尊秀王、忠義王、尊雅王の三皇子坐す、忠義王は赤松の逆党危害を遁れ、高原村に隠れ坐す。
柏木《カシハギ》 川上村大字柏木は国栖村を去る事五里、伯母峠《ヲバタウゲ》を越ゆれば四里にして北山郷《キタヤマガウ》河合に至るべし。柏木十二社権現は川上荘の氏神なり、山中に洞窟多し深十余丈に至る者あり、中に石鐘乳を生ず、凝結種々にして、珠玉纓絡の状を為す。
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飯貝《イヒガヒ》 吉野村大字飯貝は上市町の南岸に在り、古事記伝吉野連の祖井氷鹿の遺号なるべしと云へり。日本書紀云、神武天皇親率軽兵、至吉野時、有人出自井中、而有光、天皇問之曰、汝何人、対曰臣是国神、名曰|井光《ヰヒカ》〔古事記井氷鹿〕此則吉野首部始祖也。姓氏録云、大和地祇、吉野連、弥比加尼之後也、謚神武天皇行幸吉野到神瀬遣人汲水、使者還曰、有井光女、天皇召問之汝誰人、答曰臣是自天降来白雲別神之女也、名曰|豊御富《トヨミケ》、天皇即名水光姫、今吉野連所祭水光神是也。
よし野を下る時
飯貝やあめに泊りて田にし聞く、 芭蕉
吉野《ヨシノ》 吉野村は吉野川の南金峰山の下、爽※[土+豈]に拠り村を成す。六田渡より金峰に至る一里余、寺社民家景勝を相して排置す。昔は金精明神威霊の地にして堂塔壮厳を極め、花木の美山川の清その風光を加へたり、元弘の乱に及び大衆勤王、尋いで天子南巡行在を寺中に置き以て恢復を図りたまふ、先帝(後醍醐)大業克たず蒙塵四年にして崩ず、太子(後村上)践祚正統の号令を以て海内の義軍を奨む、国勢遂に分裂して宮方京方と為る、謂ゆる南北朝是なり。正平三年賊軍吉野を犯し行在陥る、南主避けて加名生《カナフ》に移り又河内に赴きたまふ、延元元年より此に至り凡十三年也。爾後四十年南主多く此に御せずと雖、尚吉野朝廷と称するは、吉野実に南方の倚頼する所なれば也。已にして南朝義烈の事陳跡に帰したりと雖、桜花万朶の絶景今に依然として在り、懐古覧勝の客推して天下第一と為す。吉野村大字吉野山は山市を成し戸数三百旅亭酒家の款待に便するあり、年々花候には四方の人蔟り至る。
南遷弔古 伊藤東涯
黄屋南奔王気分、峰巒重畳駐孤軍、中原戈甲無清日、北闕鐘※[てけがんむり+虞]只白雲、神器那能祚衰運、藁人誰復答殊勲、漁郎不知興亡事、一棹刺過箕水※[さんずいへん+賁]、
芳山懐古 中井竹山
天子蒙塵度大瀛、親王敵拠孤城、帳中不※[さんずいへん+麗]悲歌涙、麾下長懸節義名、土窟游魂千載恨、邦畿振旅一時栄、恨望故塁烟塵迩、魅谷風腥杉檜嶋、
よしの山入にし人は音せねど夕の鐘のありかをぞ知る、 加茂真淵
みよしのはいかに秋立つ貝の音、 破笠
よしの山たヾ大雪の夕かな、 野水
歌書よりも軍書にかなし吉の山、 其角
桃青笈の小文に云、吉野の花に三日留りて、曙たそがれのけしきに向ひ、有明の月の哀なる様など、心に迫り胸に満て或は摂政公のながめに奪れ、西行の枝折にまよひ、彼貞室が是は/\と打なぐりたるに我は言んこと葉もなくて徒に口を閉たるいと口をし、思立たる風流いかめしく侍れども、こゝに至りて無興の事也。
吉野山《ヨシノヤマ》 山中の総名なり、凡此山の花一時に開かず上中下の候あり、大概立春より六十五日に当る頃を最中とし、麓の花過ぎて中路の花盛に、中路過ぎて上の花開く、其間三十日許。昔より桜樹一切伐採を禁じ、蔵王権現の祟ありと伝ふ、薪の中に小枝あるとも之を焚くことなし。吉野山の名は旧事紀に「茅渟県大陶祇女、随糸尋人、入吉野山、留三諸山」とあるを最古とす。
補【吉野山】○奈良県名勝志 吉野郡北方に在り、屋宇概ね崖服に連る、戸数二百三十余、後醍醐天皇陵及吉野宮吉水神杜、勝手神社、如意輪堂、蔵王堂、桜本坊、竹林院等あり、遠近来拝するもの少なからず、又山に桜樹多く、花時には市街最も賑へり、江馬某の詩に云、峰巒一白似雪遮、此際山家即酒家、不識東皇賦何税、※[もんがまえ+盍]村生計在桜花と、実況を詠ずるなり。
芳野 河野鉄兜
山禽叫断夜蓼々 無限春風恨末消 露臥延元陵下月 満身花影夢南朝
芳野 吉野にてさくらみせうぞ櫓笠 芭蕉
一目千本《ヒトメセンボン》 六田渡より東南に登れば鋼鳥居まで三十三町あり、其三十三町前後の地、山上山下一目皆花なり、故に一目千本と称す、又坂路羊腸たれば七曲《ナナマガリ》坂の称あり。
藤尾《フジオ》坂 東鑑云、文治元年十一月十七日、予州(義経)籠吉野山之由、風聞之間、執行相催悪僧等、日来雖求山林、無其実之処、今夜亥刻予州妾静、自当山藤尾坂降、到于蔵王堂、其体尤奇怪、衆徒等具問子細、静云予州自大物浜来此山五箇日逗留、衆徒蜂起之由依風聞、仮山臥之姿逐電訖、于時与数多金銀於我、附雑色男欲送京而彼男取財宝、棄置于我雪中之間、如此迷来。八坂本平家物語云、判官義経は吉野山の深雪に踏迷ひ、兎角して宇多郡へぞ出られける、龍門の牧は母常盤の所縁なりければ暫く息をつき、それより南都に上り東大寺の辺春走と申山寺に忍ておはしけるが、年の暮に都に上り伏見深草梅津桂西山東山の片辺に隠れ、次年(文治二年)春の比山伏修行者のまねをし、笈を掛北国に懸て奥州へ下られける。愚管抄云、文治元年十一月、九郎義経川尻にて落失せ、暫しと隠れつゝありきけるが、無動寺に財修とて有ける堂衆が房には暫ありけると、後に聞えき、終に陸奥へ逃て行にける。東鑑云、文治二年十一月廿二日、予州凌吉野山、向多武峰、廿九日十字坊相談予州、奉送遠津河辺、三年二月十日条曰、前伊予守義顕、日来隠住所々、度々追逃捕使害訖、遂経伊勢美濃等国、赴奥州云々。
吉野城《ヨシノノシロ》址 元弘二年冬、尊雲法親王還俗護良と曰ひ、(大塔宮)吉野山に兵を挙げたまふ蔵王堂に拠り守備を為し吉野城と称す、然れども謂ゆる永久築造にあらねば山中処々に防禦の設を為ししならん。今廃長峰薬師堂の側に村上彦四郎義光父子忠烈の碑あり、(二十五丁目)此辺追手外郭にあたるか。
高城山《タカキヤマ》 子守明神の左なる高処を曰ふ、俗に城山と呼び吉野城址なりと云ふも疑はし、高城山の名は夙に万葉集に出づれば元弘年中の故跡にあらず。
見吉野の高城の山にしらくもは行はヾかりて棚引る見ゆ、〔万葉集〕
吉野塗は吉野郡製造の漆器にして、多く膳椀を作る、其作紀州根来の産に似たる者を吉野根来と称す。吉野紙は其理疎にし潔白なり、軽薄比なし、漆及油を漉すに必需の料なり、亦本郡の名産とす。
補【吉野塗】○貿易備考 大和国吉野郡に製する所にして、多く椀を作る、其製黒漆を以て之を塗り、外面に朱漆を以て木芙蓉を画けり、文吉野膳と称する折敷あり、吉野郡の下市村及び字智郡の五条村に於て之を製す。○吉野根来は大和国吉野に製する所の漆器なり、伝へ云ふ、初め漆工某、根来塗に基き一種の※[(髭−此)/休]方を始め、朱漆或は黒漆を以て塗り、其縁の側面を朱の掻合(春慶塗に類せし色を云ふ)に塗たるものなり(按ずるに、吉野根来と称する五百年前の漆器、今尚存す、恐らくは後醍醐天皇の時に製せしものならん)工人業を伝へて今に至る。
補【吉野紙】○貿易備考 漆漉紙は延紙に似て甚だ軽薄、其|理《キメ》疎にして色潔白なり、因て※[王+毒]※[王+冒]珠玉を裹むに用ゐ、又漆及び油を漉すに必要の紙となす、故に名く、大判並判の二種あり、大和国吉野の名産にして、十日市駅を以て本場となす、此地に於ては八寸と呼び、他州にては吉野紙と称す、又或は和紙と唱へ、小和良と曰ふ、宇多郡よりも亦之を出す、他国にて模製すと雖も其用に堪へずと曰ふ。
勝手《カツテ》祠 勝手神は祭る所詳ならず、坂路西側に在り、吉野山八神の一にて古より、其名あり、神社啓蒙云「勝手神、鬘受命、天孫降臨之後、為後見降焉」と。今村上義隆の墓碑此に在り、義隆戦死の地か。
補【勝手】○西国三十三所図会 村上義隆碑 勝手の祠社の奥にあり、義隆は村上彦四郎義光の子なり、元弘三年正月吉野の城敗れ危きに及ぶにより、父義光は大塔宮の御身がはりと成て敵をあざむき、宮を落し奉る、一子兵衛蔵人義隆は父の諌にしたがひて宮の御供したりけるが、落行道の軍急にして又も危ふかりしを、義隆たヾ一人踏とゞまり、五百騎の敵を支へて討死す、村上父子が忠死によりて宮は虎口の難を逃れて高野山に落させ給ひけるとあり、太平記に義隆只一人踏とゞまりて十余ケ所の庇を被てけり、死ぬるまでも猶敵の手にかゝらじとや思ひけん、小竹の一村ありける中へ走り入て腹掻き切て死にけりと云々、按ずるに此地その自殺せし古跡ならんか、尚考ふペし、按ずるに大和名所図会に曰、廷尉源義経公の愛妾静御前は勝手の社前にて法楽の舞を奏し、衆徒の心を蕩かし、義経主従十二騎を落せしは誠に刃を用ずして勝を全うするは、六韜文伐の篇の奥儀ともいひつべき者かと云々、然るに義経記評判には蔵王堂の前にとあり、別して白拍子の上手にてありければ、音曲もじうつり心も詞も及ばれず、聞人涙を流し袖をしぼらぬは無かりけり、終にかくぞ諷ひける。
ありのすさみのにくきだに、ありきのあとは悲しきに、有て離れし面影を、いつの世にかは忘るべき、別れの殊にかなしきは、親の別れ子の別れ、勝れて実に悲しきは、夫妻の別れなりけり」と涙の頻りにすゝみければ、衣引きかづき伏しにけり、
袖振山《ソデフルヤマ》 勝手祠の辺に在り、天女舞楽の故事あり、彼雄略天皇吉野川辺に童女の舞を覧たまふと云者と相似たり。本朝月令云、五節舞者、浄御原天皇(天武)之所製也、相伝云、天皇幸吉野宮、日暮弾琴有興、試楽之間、前岫之下、雲気忽起、疑如高唐神女、髣髴応曲而舞、独入天瞻、他人無見、挙袖五変、故謂之五節、其歌曰
をと女どもをとめさびすもからたまをたもとにまきてをとめさびすも。
吉野拾遺、先帝豊明の節会をせさせ給へるに、余りに形ばかりなる有様を思しなげかせ給ひけるに、袖振山の目近く見えわたりければ、
袖かへす天津乙女も思ひ出よ吉野の宮のむかしがたりに、
と打詠めさせ、月更るまでおはしましけるに、御夢ともなく袖振山の上より白雲の棚びきて南殿の御庭の冬枯し桜の梢にとヾまりけるに、夫れかとばかりおぼしやらせ給へるに、乙女の姿のうちしほれたるが、
かへしては雨とやふらむ哀れしる天津乙女の袖のけしきも、
となく/\詠じて雲に隠れけるを、御覧じおくらせ給ひて御こゝろぼそげに渡らせ給ひし。
水分山《ミクマリヤマ》 水分峰に吉野水分神あり、後世子守明神と称す、一説水分子守を別社と云ふは非なり、古事記伝神祇志科に拠り同神と為すべし。
神さぶるいはねこごしき三芳野の水分山を見れば悲しも、〔万葉集〕
吉野水分神社は水分山に在り今子守明神と云ふ、勝手祠の上方十八町、或は籠《コモリ》の宮と云ふ。水分神は諸山多く之あり、水の配分を司る神霊なり、故に水分と号す、枕草紙にみこもりの神とある、同じ、続日本紀、文武天皇二年馬を芳野水分峰神に奉り雨を祈る、新抄格勅符、三代実録、延喜式にも見ゆ。
世尊寺《セソンジ》址は水分峰の辺、獅子尾坂の上に在り、近代大淀村比曾に移し廃墟と為る。世尊寺は霊鷲山と号し、保延七年鋳成せる播摩守平忠盛施入金峰山寺の古鐘ありしと。〔名所図会〕縁起詳ならず。
鷲の山御法のにはにちる花を芳野の峰のあらしにぞ見る、〔月清集〕 後京極良経
補【水分神社】○神祇志科 吉野水分神社、今吉野水分山の峰にあり、子守明神と云ふ、即是也(大和廻記・玉葛間)
按、大和志等諸書みな丹治村に在とするもの誤れり、故に今とらず
蓋|水戸《ミナト》神の子天之水分神国之水分神を祀る、水を分《クマ》り施して奥津御年を成し幸ひ給ふ神に坐せり(古事記・延喜式)後之を美許毛理乃神と云ひ(枕草紙・和歌六帖)遂に訛て子守神と云ふ(草根集・太平記)文武天皇二年四月戊午、馬を芳野水分峰神に奉て雨を祈り、(続日本紀)平城天皇大同元年神封一戸を充て(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より正五位下を授け、九月庚申、雨風の御祈の為に使を遣し幣を奉り(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の祭幣に預る(延喜式)凡そ毎年六月九月五日を以て祭を行う(奈良県神社取調書)
子守神社 〇三十三所図会 子守神社は世尊寺の古跡に次ぐ、籠守とも云ふ、勝手社より此所迄凡そ十八町余、社記に云、抑当社子守大明神は大峰の鎮守にて山上随一の神社也、是に依て大峰登山の行人等携ふる所の金剛杖にも子守卅八社と申し崇め奉るなり、子守卅八杜と申奉ることは御子卅六神を生せ給ふ故なり、子守は則ち子を守ると読みて、子孫長久を護らせ給ふとぞ
吹きはらへ山は芳野の秋霧に子守かれても宮の花ぞことなる(草根集) 正徹
補【世尊寺】〇三十三所図会 世尊寺古址は獅子尾坂の上にあり、此地は霊鷲山に等しきとて鷲尾山と云ふ、回禄の後廃して小堂一宇あり、其古蹟の遺風ならんか、後世比蘇村現光寺の廃址に禅剃を建て、霊鷲山世尊寺と号し再興す、〔月清集、略〕
金峰山寺古鐘 右同所の上の方にあり、俗に吉野三良の鐘と云ふ、其来由詳ならず、金峰山寺は蔵王堂の寺号なれば、此鐘貞和五年の兵火をのがれしものなるべし、世尊寺の鐘にはあらず、
鐘銘跋曰、金峰山寺洪鐘保延六年十二月播磨守平朝臣忠盛施入熟鋼七年辛酉鋳成云々
金峰《カネノミタケ・キンプ》神社 又蔵王堂《ザワウダウ》と称す、金峰山《カネノミタケ》の下に在り、近年其神仏混淆を改む。神社考に「世伝金峰山権現者、勾大兄広国押武金日天皇(安閑)也」とあれど、御諱金日に附会牽合したるに過ぎず、本社蓋吉野金峰の鎮守神にして、僧家之を両部に祭り金剛蔵王権現と為す。中世に方り供奉の僧徒盛強号して吉野大衆と曰ふ、延元の乱に勤王帝駕を奉迎し行在を寺中に置く、正平三年(北朝貞和四年)正月賊師泰(高階越後守)師直(同武蔵守)来犯し行在及祠宇を焼く。後世再興、其旧観復する能はずと雖、尚広壮の建築なり。鋼造鳥居高二丈五尺発心門と称す、相伝ふ聖武天皇東大寺巨像鋳成の剰余を以て之を作ると。(門前橋は豊臣氏架進)山門康正元年造立、金剛密迹二力士各高一丈六尺、大塔は土壇を遺すのみ礎石の上に一小宇を置く、此大塔供養の事承暦三年と元亨釈書に見ゆ、鋼製燈台高一丈文明三年辛卯の銘あり。本堂十八開四面康正元年再興、(足利義政の時代)天正十九年修繕、(豊臣氏の時)本尊金剛蔵王権現脇士すべて三体を安置す(本尊二丈六尺魔障降伏の相を表示す)棟梁柱楹の類堅完無比の良材をあつむ、中に躑躅樹の柱と曰ふ者周囲八尺長三丈一尺相柱周囲一丈三尺長三丈五尺。〔名所図会京華要誌〕神祇志料云、金峰《カネノミタケノ》神社今吉野山村金御岳にあり、金精《コンジヤウ》大明神といひ、〔大和志和爾雅大和回記〕又蔵王権現と云ふ、〔太平記和爾雅〕蓋金山彦姫命を祭る、〔参酌本社伝説日本書紀古今著聞集〕即吉野山鎮守の神也。〔大和志大和廻記神名帳考〕文徳天皇仁寿二年特に従三位を授け、三年名神に預り、斉衡元年相嘗月次神今食祭に預らしめ、〔文徳実録〕清和天皇貞観元年従三位勲八等より正三位を授け、〔三代実録〕醍醐天皇延喜の制名神大社に列り祈年月次相嘗新嘗の案上官幣に預る、〔延喜式〕堀河天皇寛治六年上皇及中宮御精進ありて本社に詣給ひき、〔百練砂中右記〕中世以来御岳精進を重んずるは此杜に詣るの神斎を云也、〔河海鈔※[土+蓋]嚢抄〕後金峰寺盛なるに及て僧徒此神を称て蔵王権現といひ、子守勝手神人等も又屡神輿を舁て事を京師に訴ふ、〔一代要記皇帝記鈔百錬鈔太平記大意〕後村上天皇正平三年正月辛亥高師直等吉野皇居を襲ひし時神殿及七十二間の廻廊三十八所の神楽屋宝蔵竈殿悉く火に罹りて焼亡き。〔園太暦太平記〕三十三所図会云、金精大明神は吉野山の地主神なり、祭神垂跡未詳、三代実録貞観元年八月、従五位下行備後権介藤原朝臣山蔭外従五位下行陰陽権助兼陰陽博士滋岳朝臣川人等を遣され大和国吉野郡の高山に於て祭礼を修せしむ、又五年二月吉野郡の高山に祭事を修せしむ、是両度共に螟※[騰の馬を虫に]五穀を害するを穣ふ法也、蓋斯の金峰の事たるべし、又宇治拾遺に、京洛七条の箔打師あり、金御岳の金を穿ち冥罰を被ふる事を記したり。○金峰祠は中世以降修験道の行場にして、蔵王堂金輪王寺の名あり、寺伝亦云役行者小角の開創する所、山神化現の像威猛の徳を備ふ、小角の礼拝せる者と。金峰本堂の側に威徳天神社あり、菅原道真の霊を祭る、扶桑略記元亨釈書に天慶四年沙門道賢(日蔵上人)の礼拝したる由見ゆ。元弘三年大塔宮護良親王蔵王堂に拠り城と為し賊の来攻に備へたまふ、賊将二階堂出羽入道道蘊大兵を以て至る、城遂に陥る。太平記云、
大塔宮は蔵王堂の大庭に最期の御酒宴あり、宮は御鎧に立ところの矢七筋、御頬さき二の御腕二箇所突れさせ給ひて血の流るゝこと滝のごとし、然れども立たる矢をも抜かず流るる血をも拭ひ給はず、敷皮の上に立ながら、大盃を三度傾けさせ給へば、小寺相模四尺三寸の太刀の鋒に敵の首を貫きて宮の御前に畏まり「戈※[金+延]剣戟を降すこと電光の如くなり、磐石盤を飛ばす事春の雨に相同じ、然りとはいへども天帝の身には近づかで、修羅かれが為に破らる」と囃を揚げつゝ舞ひたりける、折しも大手の合戦急なりと見えて、村上彦四郎義光鎧に立ところの矢十六筋、枯野に残る冬草の風に臥したる如くに折懸て、宮の御前に参りて申けるは、今は叶はじと覚え候、一先落て御覧あるべしと、錦の御鎧直垂と御物具とを下し給ひつゝ御諱字を犯して敵を欺き御命に代り参らせ候はん、早く御物具を脱せ給へと、上帯を解奉れば宮げにもとや思召しけん、脱替させ給ひて、我若生たらば汝が後生を弔ふべしと仰られて、御涙を流させ給ひながら、勝手の明神の御前を南へ向つて(十津川郷へ)落させたまふ。
補【金峰社】〇三十三所図会 往昔京洛七条に箔打ありけるが、金の御岳の金を穿ち取りて箔に打ちて売りけるに、其箔毎に小さき文字にて金の御岳々々と悉く顕はれけるが、箔打は此文字更に見えざりしとぞ、やがて検非違使の詮議に合て一五一十を白状し、終に獄屋に入れられて十日許りありて死しけり、箔をば不残金峰山に返して本の所に置きけると語り伝へて、夫より人怖ていよいよ件の金を取らんと思ふ人更になしと、宇治拾遺に見へたり、是則神の試し給ふ所なりとぞ。金精大明神社 延喜式神名帳曰、金峰《カネノミタケ》神社、名神大、月次新嘗とありて、吉野山の地主神なり、故に金御嵩の号爰に起ると云、祭神の垂跡未詳。三代実録曰、貞観元年金峰神に正三位を授くと云々、
○西国三十三所図会 義楚六帖曰〔略〕土俗に云、其土みな黄金なり、因て金御岳と称す、聖武天皇東大寺の大仏を鋳んと欲し、多くの金を求め給ふ、時良弁僧正に詔して当山の金を求めしむるに、蔵王権現此山の金を取ことなかれと告たまひて許し給はずといふ。
補【金峰山寺】○西国三十三所図会 本尊は蔵王権現三体ならび安置す、長二丈六尺、魔障降伏の相あり、○躑躅大柱 堂内右の前にあり、周凡そ二抱半余あり、俗に立樹なりと云ふは誤なり、往昔諸堂再建の時、吉野郡樫尾村より寄附する所と云ふ。○大塔古址 本堂の西にあり、礎石の上に仮堂を営む、三尊仏を安ず、承暦三年十一月金峰山の塔供養の事、釈書に見えたり、〇大銅燈籠 四本桜の間にあり、高凡そ一丈余、紫鋼を以て造る、文明三年辛卯九月十一日と鐫す。
神社考曰、役行者吉野山にあるとき、神釈迦の像を現はす、行者曰、此形衆生を度し難しと、次に弥勒の像を現ず、尚曰く、未だなり、次に蔵王権現現ず、甚怖るべきの貌なり、行者曰く、此我邦の能化也云々、蔵王権現三体中尊の本地は釈迦如来、左は本地千手観音、右の本地は弥勒菩薩也と云、当山は役行者の開基にして文武天皇大宝元年の建立なり、○大塔の古址は側に鉄具あり、按ずるに大塔の露盤の類なるか、貞和五年の兵火にかゝる物なるべし。
補【威徳天神杜】○西国三十三所図会 金峰本堂の右大塔古址の左に隣る、元亨釈書云、天慶四年八月沙門道賢と云ふものあり、冥昭をかりて金峰山の金剛蔵王菩薩に見ゆ、蔵王の曰く、今大政威徳来らんとする相なりと、須臾の間に西方の空中より千万人至り来る、其儀相衛護の体魏々として見えにける、王者の郊礼にしも似たり、大政天道賢に語りて曰く、我はこれ菅丞相也、※[りっしんべん+刀]利天帝我に字して日本大政威徳天と呼べり、我讒言によりて配流せらるゝ時、こころを動かさざるに非ず、我国土の一切疾病災難の事を主どる、我君臣を悩し人民を傷らんと欲す、道賢の曰我国の人民倶に火雷神と称して尊重礼敬、何とて愁ありけるやと、大政天の曰く、火雷神は我第三の使者にて、火雷気毒王といふ者なり、是我名にあらず、若し人我形を作り我名を称へて慇懃に尊重せば、我必ず彼を擁護してん云々、道賢此時名を日蔵と改む、其後当社を建立し威徳天神宮を鎮め奉りしとなり、花供※[りっしんべん+(籤−竹)]法会式(例年二月朔日)餅搗(正月廿六日より廿八日に至る)当山の大礼なり、則云蔵王権現の祭式、天下泰平五穀成就の祈祷なりと云ふ。
〔付箋〕象王堂は頗る広大なる伽藍にして、聖武天皇の御宇創立する所、元弘三年大塔宮此処に楯籠らせ給ひ、賊将二階堂道蘊攻めて之を焼く、後再建せしが正平四年高師直また之を焼く、現在の建物は康正元年の建立にかゝる、本尊金剛蔵王大権現は丈二丈六尺、其脇は二丈四尺の弥勒菩薩、左脇は二丈二尺の千手観音にして、いづれも木像なり、傍に役小角の像を安置す、自作なりと伝ふ、有名なる神代杉の柱は周囲一丈三尺、長さ三丈五尺、躑躅の柱は周囲八尺、長さ三丈一尺あり、堂前には四角に画せられたる地ありて四隅に一本宛の桜あり、之を四本桜といふ、元弘三年閏二月朔日、護良親王錦の直垂を村上義光に賜ひ、こゝに惟幕を張りて君臣の永訣を告げ給ひし所なりといふ、〔脱文〕―鋳造の残銅を以て造りたるものにて、額は発心門とあり、聖武の御宸筆ともいひ、空海の筆とも伝ふ、華表の高さ二丈五尺、柱一丈一尺あり、山門は康正年間の建立にして左右の二王は湛慶の作、他は運慶の作なりといふ、丈各一丈六尺余あり。
吉水《キツスヰ》院 蔵王道の供僧坊なりしが 近年改替して吉水《ヨシミヅ》神牡と号し、南朝弔祭の霊場と為す。蔵王堂を去る凡三町、地稍低下す。三十三所図会云、吉水院の草創は大宝年中小角山上修行の時姑息の庵室なり、其のち醍醐の聖実尊師もこゝに跡をとゞめ玉ふ、加之源平兵乱には源義経密に此寺にいる、吉野法師等義経を討んとせしゆゑ又此寺を出て中院谷《チユウヰンダニ》に隠れしに悪徒等なほも跡を求め来りければ、佐藤忠信を残して落玉ふとなり、又後醍醐帝京都を逃れさせ玉ひ此山に潜幸ありし時、先当院へ行幸ありて行宮とし、後に実城院に移り給ふ、此院の床を御枕として詠み給ひし御歌に、
花にねてよしやよしのヽよし水の枕の下に石ばしるおと。
秋斎閑話云、吉野吉水院あり、太平記に吉水法師宗信とあるは此住持にて、後醍醐天皇の姫宮を下され妻帯なりしが、今は清僧の寺となれり、此寺親房の自筆の職原抄あり、○今按ずるに吉野拾遺に「みよし野の山の山守こととはん今いく日ありて花は咲なむ」と後醍醐天皇の尋ねさせ給ふ御返しに「花さかん頃はいつとも白雲のゐると知るべきにみよしのゝ山」と申上たるよし、此寺の事にこそ云々、尚近くは豊太閤も吉野花見の時、此院に入らせ給ふとなん。
補【吉水院】吉野郡○要誌 吉野金峰山寺の僧坊なり、源義経の潜みしも、延元帝の行在も此院にして、当時の殿舎を存す、帝の御製「花に寝てよしや吉野の吉水の枕の下に岩走る水」雲居桜あり、御製「此にても雲井の桜咲にけりたゞ仮そめの宿と思ふに」豊太閤も此に宿りて花を看たりとぞ。
〔付箋〕吉水神社は路の左方にあり、坂を下り行く、入口に「吉水神社、南朝皇居旧跡」と記したる標木あり、昔は吉水院と称し天台宗の精舎なりしが、明治の初年神社に改めたるなり、白鳳年中役小角の創立する所、文治元年源義経此処に潜みし事あり、義経の駒繋ぎ松(枯れて根のみ残れり)弁慶の力釘(巌石に二本の釘を打ち込む)といふもの今尚存せり、延元元年天子蒙塵、吉野に幸して吉水院を行在となし給ふ、時に十二月二十一日なり。
実城院《ジツジヤウヰン》址 蔵王堂の乾方三町許に在り、実城院は吉水院と同く旧供僧房にして、延元興国の際行在所と為る者是也、近年廃頽し全く荒墟と為る。竹林院も蔵王堂供僧也、凡吉野衆徒の遺院は今竹林院わづかに存す、庭園の造為佳麗なり。
補【実城院】○西国三十三所図会 蔵王堂の乾の方三町ばかりにあり、又は金輪寺とも云、建武三年より後醍醐天皇皇居に定められ、当時御手づから茶入十二を刻ませ給ふ(或は廿一とも云)是を世に金輪寺と云、尤も漆器といひながら勅作の品なれば、金輪寺あしらひとて茶湯にも有るよし聞ゆ、南朝四世五十六年の間の皇居の地にして、則其の皇居の儘にて作もかへず、さるほどに殿屋美麗にして後世の及ばざる事ども多し、常の御座等も有て貴し。
吉野行宮《ヨシノアングウ》址 実城院即当年の行在たるべしと云ふ。又初めは吉水院に御し、後は実城院へ移りたまふとも云へり。後醍醐天皇延元元年十二月吉野に入り行宮を定め、四年天皇崩ず、皇太子即位之を後村上天皇と為す、正平三年賊兵来犯火を行在に縦つ、神社仏寺多く延焼す、天皇加名生に避けたまふ。南山巡狩録云、按ずるに後醍醐天皇より後村上天皇の御宇はじめまで吉野内裏と称せしは今の実城院の所と思はる、太平記園太暦等によるに正平三年正月楠正行四条繩手に於て討死の後官軍敗北せしかば、廿五日師直等皇居に責より見るに、御前には人なかりし程に、其辺に火をかけたり、折ふし山風吹て皇居をはじめ月卿雲客の宿所のこるかたなく焼失し、この余煙に蔵王堂北野杜七十二間の廊迄灰焼となりぬ。桜雲記云、興国二年(北朝暦応三年)新帝後村上吉野を帝都とすといへども、行宮殿閣なし、月卿雲客微少にして昇進除目殆断絶せんとす、於是二月下旬源親房常陸小田の城に居して職原抄二巻を作りて吉野へ献じ奉る、百官諸位職掌を指すが如し、末代に至て帝都の亀鑑とす。
此にても雲井のさくら咲にけりただ仮初めの宿と思ふに、 延元帝御製
みやこだにさびしかりしを雲はれぬ吉野の奥のさみだれの空、 同上
延元四年、吉野の行宮にさぶらひし比、よみてたてまつりし歌の中に、
あきらけき御代の春しる鶯も谷より出る声きこゆなり、 宗良親王
さらぬだに春は先思ひやらるる吉野の奥、此比は皇居にて、さま/”\おしはかられさせ給ひしかば、
さかば先ゆきてこそ見め我やどとたのむよしのの花の下蔭、
中院准后(親房)歌よみて吉野より見せ侍し中に「九重の御階のさくらさぞなけに昔にかへる春をまつらん」とありしそばに書加侍りける、
君すめばこれもみはしのさくら花むかしの春にかはらざるらん。
芳野竹笛歌 頼山陽
有客手裡横紫玉、就視蒼箆褪老緑、吹之一曲声悲※[戚+足]、加蒼梧之狩不北還、涙乱湘雨斑痕簇、又加望帝之魂※[口+眞]百鳥、啼裂山竹夜濺血、問客何処得此物、延元天子古殿屋、敗橡敢学柯亭収、一条龍髯寄騰矚、長舌有※[たけがんむり+黄]君楽聽、短夢重失中原鹿、剣器渾脱始犯声、七道戦伐沸野哭、囲城聞笛非無人、凝碧管弦長胡曲、君不見芳野山中頭白烏、畢逋似呼返闕速、吉語誤人入歌詞、空止殿屋※[人+免]且啄、龍顏仰屋曾按剣、王気或寄一尺竹、
如意輪堂《ニヨイリンダウ》 吉野勝手神社の坤の谷に在り、蔵王堂の艮にあたる、字を塔尾《タフノヲ》と曰ふ、往昔如意輪塔ありける地とぞ、吉野先帝(後醍醐)の御陵は堂背に在り。本堂は先帝御影殿にて、影像厨子に奉安し扉に吉野金峰より熊野那智の行路絵図を写し、其上に蔵王権現の讃辞あり、相伝ふ先帝の麗筆と。〔名所図会〕初め正平の兵火如意輪塔御影堂亦免るゝ能はず、天授年中世泰親王(後亀山帝長子)更に新堂を此地に営みたまふ、薨じて堂側に葬る。〔京華要誌〕太平記云、正平三年、楠正行先帝の御廟に詣でて、討死の御暇など歎申て、如意幾重の過去帳に「楠正行同正時同将監和田新発意同舎弟新兵衛同紀六左衛門子息二人野田四郎子息二人西阿子息関地良円
各留半座乗蓮台待我閻浮同行人
先だたば後るゝ人を待やせんひとつ蓮の中を残して
願以此功徳平等施一切同発菩提心往生安楽国
帰らじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞ留る
と書附ける」。嘉喜門院御集云、天授二年やよひのはじめつかた如意堂に御こもりありし比、御影堂の前の花につけて内の御かた(後亀山帝)へ奉られける、
こゝのへに色そへて見よむかし思ふみのりの庭の花の一えだ、
御返し
なきかげを花によそへてしのべども是もあだなる色ぞかなしき。
髻塚《モトドリヅカ》は如意輪堂側に在り、慶応元年碑を立つ、森田節斎撰文して之に勒す。其文に云ふ、正平三年正月、車駕在芳野、賊将高師直大挙来寇、楠左右衛門尉与其族等百四十三人、詣行宮陛辞畢、拝訣後醍醐帝陵、入如意輪寺、各截髻題姓名於壁、然後進戦不克、皆死之、今立乙丑之秋、益自備中帰郷、将登談山、遂遊芳野、会津田正臣、建石欲以表左衝門尉髻塚、来請文益、益曰余且遊二山、子姑待之、已而登談山、謁藤原大織冠廟、規模宏敞、殿宇壮麗、偉人起敬、及登芳山、首問某所謂※[やまいだれ+(夾/土)]髻処、在蔓草寒烟中、過者或不知也、於是益低徊不能去、潜然泣下、已左衛門尉与大織冠皆王朝尽臣也、而大織冠斃※[敦/心]於一撃、回天日於将墜、位極人臣、子孫蔓衍、廟食百世、左衛門尉則賊不克、以身殉難、南風不競、宗族殆尽、今欲求其遺跡、而不可遽得、鳴乎何其幸不幸之異也、已而益拭涙、以為其幸不幸雖異、其功未嘗不同也、夫大織冠回天之績偉矣、然比之左衛門尉父子之大節、彪炳与日月並懸、存綱常於無窮者、未知其執愈、故曰其幸不幸曰異、其功未嘗不同也、益既帰、正臣復来促、乃拳前言告之、且曰方今夷狄猖獗、九重宵肝、士効力国家之秋也、事成則為大織冠、廟食百世、不成則為左衛門尉死節、垂名於竹帛、豈非大丈夫平日至願乎、正臣躍然起、曰是以表左衛門尉髻塚矣、遂書以与之。
吉野《ヨシノ》陵 後醍醐天皇の御陵なり。山陵志云、在吉野山蔵王堂東北、今呼塔尾陵、昔時以陵前有如意輪塔名之也。太平記云、延元四年八月十八日崩玉ひき、蔵王堂の艮なる林の奥に、円丘高くつきて、北面に葬奉る。○侍従吉房は延元帝に奉仕し、登※[しんにょう+(暇−日)]の後思慕止まず薙髪して僧と為り松翁と号し、陵傍に座したり、松翁の著はす所吉野拾遺世に伝ふ。〔南山巡狩録三十三所図会〕
芳野 藤井竹外
古陵松柏吼天※[風+(犬/(犬+犬))]、山寺尋春春寂蓼、眉雪老僧時※[車+(綴−糸)]、落花深処説南朝、
吉野山に登りけるに秋の日既に斜になれば、名ある所をのこして、まづ後醍醐天皇のみさゝぎを拝む、
御廟としを経てしのぶは何を忍ぶ草、 芭蕉
補【吉野陵】○西国三十三所図会 松翁廬跡、陵の畔にあり、新井白石曰、世に吉野拾遺あり、南朝の事を記す、歴々として徴すべし、余野山集に於て適撰人の名を得たり、吉房朝臣の所著なり、吉房は後醍醐天皇に仕へ二心あらず、登※[しんにょう+(暇−日)]の後思慕やまず、薙髪して僧となり、自ら松翁と号す、松柏操を変ぜざるの義を取れり、陵の傍に廬す、後に旧僚公連朝臣世を遁れて古音と号し、相ともに古琴禅師に参じて宗要を究む(以上大意)
○南山巡狩録 吉野拾遺は古書なりといへども、近世好事のもの附会の別冊をそへたり、此物語を書し松翁と云ふ人は、南京の侍従吉房朝臣の事にやあらん、新井源君安積覚兵衛に贈れる書簡に、余野山集に於てたまたま撰人の名を得たり、云吉房朝臣の著す所也、吉房朝臣は後醍醐帝につかへふたごころあらず、登※[しんにょう+(暇−日)]の後思慕止ず、薙髪して僧となり、みづから松翁と号す、陵の傍に廬す、復旧僚公連朝臣世をのがれて古音と号し大安寺に住する者と相共に、河内国経山古琴禅師に参じて宗要を極む、古琴は草河の真観禅師に嗣法して雲門宗を唱ふるものなり、野山集を顕はすものは是も又南朝の官人にして、松翁古音と法友たる情を忘るゝこと克はず、具にしるして後に備ふと云ふ。
椿谷《ツバキダニ》 吉野山南の渓なり、椿山寺あり天慶年中僧道賢創建。道賢は一名日蔵世に御岳上人と称す、種々霊験を示現せしめ修行道の英傑たり、扶桑略記元亨釈書に本伝あり。名所図会云、椿谷の辺に雨師《アマシ》獏《ハク》の観音堂あり、昔こゝに後醍醐天皇御幸ありて雨を祈りたまふ、
此里は丹生の川上ほどちかし祈らばはれよさみだれの空。
此処より一里許下流に丹生神社あり。
補【椿谷】○西国三十三所図会 椿谷、椿山寺は日蔵上人修行の地なり、延喜十六年此寺に入て剃髪し修行すること六年なりとぞ、御岳上人とも云ふ、天慶四年の秋金峰山に入て三七日を限り断食無言して秘密供を修せらるヽに、執金剛神あらはれて水をあたへ、天童来て珍味を授け食せしむ、尚又蔵王権現あらはれ給ひ、地獄の苦相を見せしめ、大政威徳天神の宮殿に至る等、種々の不思議の事ども多かり、委しくは釈書にも見えたり。
青根《アヲネ》 吉野山の東嶺にして金峰の北に並ぶ、青嶺の義なり。万葉集に蘿を詠じ、此山に寄せて其青氈に似たる景致を叙せり、
三芳野の青根が峰の蘿席《コケムシロ》たれか織りけむ経緯《タテヌキ》なしに。
安禅寺は青根峰の下に在り、飯高山宝塔院と号す、蔵王権現を祭り、奥院と云ふ慶長九年豊臣秀頼重興。〔三十三所図会〕
苔清水《コケシミヅ》 青根の安禅寺を去る西北二町に在り、西行法師庵室の址にして、芭蕉又之を訪ひ雅懐を述べたり。
浅くともよしや又くむ人もあらじ我にことたる山の井の水、〔山家集〕
〔補注、右の歌未詳〕
野晒紀行云、独吉野の奥にたどりけるに、まことに山深く白雲峰に重なり、烟雨谷を埋んで山賤の家ところ/”\にちひさく、西に木を伐るおと東にひびき、院々の鐘の声こころの底にこたふ、昔より此山に入て世を忘れたる人のおほくは詩にのがれ歌にかくる、いでやもろこしの廬山と云はんも又むべならずや、ある坊に一夜を借りて、
碪打てわれにきかせよや坊が妻、 はせを
西上人の草の庵のあとは、奥の院より右の方二町許りわけ入る程、柴人の通ふ道のみわづかにありて、さかしき谷をへだていとたふとし、彼とく/\の清水はむかしにかはらずと見えて、今もとく/\と雫落ける、
露とく/\こころみに浮世すすがばや。
凍とけて筆に汲干す清水かな、
西行庵遺址在芳山極深処 藤井竹外
樵人牧豎語行公、風雨満山春已空、我覚残碑不辞遠、行三十里落花中、
金峰《キンプ・カネノミタケ》 吉野山の高峰にして吉野村の東南に峙ゆ。南は大峰《オホミネ》(釈迦岳弥山等)に連り山谷重畳遙に熊野那智の境に至る、修験道者の経行せる所にして古より其名著る。万葉集に「三吉野の御金嵩《ミカネガダケ》にひまなくぞ雨はふるといふ時じくぞ雪はふるといふ」云云の句あり、文徳実録に金峰《カネノミタケ》三代実録に高山《タケノヤマ》と記して霊神あり、後世蔵王権現と称する者是也、山中に金あり山神惜みて人の採ることを聴さずと云事は宇治拾遺物語に見ゆ。
扶桑略記云、役優婆塞者、賀茂役公氏、葛木上郡茅原村人也、自性博学、仰信三宝、住葛木山、卅余箇年、被藤皮餌松葉、閑孔雀之神咒、究奇異之験術、乗五色雲、通仙人都、駈便鬼神、汲水採薪、仰山神※[にんべん+(稱−のぎへん)]、金峰山与葛木嶺、竝亘石橋、可通行路云々、大宝元年、母子共度去於大唐、件行者唐国四十仙人中第三座也、遣唐副学生道昭、住新羅山寺時、神仙毎日集会、其第三聖以倭音揚問論議、道昭驚奇、件聖人答言、我是日本国金峰葛山并|富慈《フジ》峰等修行、役優婆塞也。又同書云、天台沙門陽勝、於吉野郡堂原寺辺、飛行空中、元登金峰山之次、尋古仙旧庵、弥存幽居之志、到吉野郡牟田寺、三年苦行、終到堂原寺止住、不食無衣、遂以飛去、古老相伝、本朝往年有三、仙飛龍門寺、所謂大伴仙安曇仙久米仙也、大伴仙草庵有基無舎、余両仙室于今猶有、但久米仙後更落。釈書云、聖宝、修練経歴、名山霊地、金峰之嶮、役君(小角)之後、榛塞無行路、宝援葛※[くさがんむり+(田/(田+田))]而踏開、置衛役、自是苦行之者、相継不絶。又云、都藍尼、精修仏法、兼学仙術、世伝金峰山者黄金之地、金剛蔵王菩薩護之、不容婦人渉竟、藍曰我雖女身浄戒、豈凡婦之比哉、乃登金峰。義楚六帖云、日本国、都城南五百里、有金峰、山頂上有金剛蔵王菩薩、第一霊異、山有松檜名花軟草、大小寺数百、節行高道者居之、不曾有女人得上、至今男子欲上、断酒肉慾色、所求皆遂云、菩薩是弥勒化身、如五台文殊。金峰或は黄金峰とも曰へり。
神のますこがねの峰は法説きし鷲の御山のあととこそきけ、〔末木集〕 藤原信実
あまそそりかねの御たけは雲居にて高く見えける金の御嵩は、 本居宣長
万葉集名所考云、御金嵩は僧尼令義解に「仮如山居在金嶺者、判下吉野郡之類也」また霊異記に「聖武天皇代、広達入於吉野金峰、経行樹下、而求仏道云々」など諸書にあまた見ゆ。然るを本集巻一に「吉野之|耳我《ミヽガ》嶺」と書たるによりて、後世早く八雲抄にみみがの嶺は吉野の山のよし書せ給へるを初めて、近来おしあてに説く者多し、岡部氏|耳我は御缶《ミヽカ》てふ意にて、此山の形缶に似たるをいふならむといひ、巻十三御金嵩とあるをさへ引出で、金は缶の誤なりと漫に推定めしはいかにぞや、抑美加は御缶の意にて、御御缶といかで云ふべきぞ、又御御缶の義とするも加を我と濁る例なし、皆違へたり、耳我は誤字なるべし、中世金御嵩を専ら御嵩とも呼べり、源氏物語に御たけ精進《サウジ》の事見え、当時崇敬並びなき霊祠たりき。
六条の源中将と経房の中将と花見んと契りて、俄に中将はみたけ精進して、いかにぞ花見にはありきたまふとぞいひたるを、いかが云んとありしに、かはりて二首、
我はまたおもひもたえず花さくら君やみたけの山もこゆらん、
心にもあらでのぼりし吉野やま君をみたけのほどなかりしぞ。〔赤染集〕
六田《ムタ》 吉野村の北なる渡津にして、大淀村に対す。六田の渡又六田の淀と称す、水浜楊柳多きを以て柳之駅《ヤナギノシユク》の名あり、芳山来往の客之を過ぎざるものなし。
かはづ鳴く六田《ムツタ》の川の川楊の根もごろ見れどあかぬ君かも、〔万葉集〕
さくら咲く水分山に風吹けば六田の淀に雪つもりけり、〔続後拾遺集〕
芳川 中井竹山
芳川滾々繞芳山、練色藍光百折湾、天愛名花設斯険、不分一樹向塵寰、
元亨釈書、仙人陽勝、夏入金峰山、冬下|牟田《ムタ》寺、延喜元年謝世。
大淀《オホヨド》 上市町の西を大淀村と為す、近代池田荘北荘など云へる地なり、吉野川の北岸に居る、大字増口は吉野村六田の渡の津処也、大字下淵は下市村への渡口なり。 今しくは見めやとおもひし三芳野の大川淀を今日見つるかも、〔万葉集〕音にきき目にはまだ見ぬ吉野河六田の与杼を今日みつる鴨、〔万葉集〕
御馬瀬《ミマセ》は日本書紀雄略天皇御馬瀬行幸の事見ゆ、通証云、吉野郡池田荘|増口《マセクチ》村。羽狭山《ハサヤマ》は日本書紀、履仲卷羽狭、允恭卷、幡舎能夜摩、通証云「吉野村北荘|馬佐《マサ》村、上方有羽狭山」、と当否を知らず。
比蘇寺《ヒソデラ》址 大淀村大字比曾に在り、近代吉野世尊寺を此に再興す寺鐘は寛元二年金峰山寺の物にて、吉野郡薬師寺庄葛上郡字鳥屋を寄進せる由を識せりと云ふ。比曽|現光《ゲンクワウ》寺は古の吉野寺なり、玉林抄に本尊仏光を放ちたまふにより現光寺と名づけられき、又栗天八一と書し額ありしと、今破壊して唯古瓦現光寺と銘ずる者旧址より出づるのみ。〔名所図会三十三所図会〕、欽明天皇紀十四年、河内国言、泉郡茅渟海中、有梵音、震響若雷声、光彩晃燿、如日色、天皇心異之、遣溝辺直、入海求訪、果見樟木、浮海玲瓏、遂取而献、天皇命画工、造仏像二躯、今吉野寺放光樟像也。元亨釈書云、推古帝三年、南海之浜有浮査、夜放光声如雷、着淡州、沈水香木也、勅百済工、刻観音像、安吉野比蘇寺、時々放光。〔釈紀云、天書曰、欽明十四年、樟樹浮海、初造仏像、遂為※[田+比]蘇山寺〕
越部《コスベ》 大淀村大字越部は増口と下淵の間に在り、越部の名は霊異記に見ゆ。同書云、未作畢仏像而棄木示異霊表縁、第廿六、禅師広達者、俗姓下毛野朝臣、上総国武射郡人(一云畔蒜郡人)聖武天皇代、広達入於吉野金峰、経行樹下、而求仏道、時吉野郡桃花里秋河、有椅々下有音、曰鳴呼莫痛喩邪、禅師聞之、怪見、未造仏了而棄木也、禅師大恐、勧人集物、彫造阿弥陀仏弥勒仏観音菩薩像、既訖、今居置吉野郡越部村之岡堂也。越部村之岡堂をば釈書に和州村崗寺に作るは誤れり、今越部堂なし、蓋南北戦争の際に亡びたるならん。
下淵《シモフチ》は今大淀村に属す、南岸は下市村なれば舟渡あり。
補【越部】○日本国現報善悪霊異記 未作畢仏像而棄木示異霊表縁第廿六、禅師広達者、俗姓下毛野朝臣、上総国武射郡人、(一云畔蒜郡人)聖武天皇代、広達入於吉野金峰、経行樹下、而求仏道、時吉野郡桃花里有椅、椅本伐梨引置之、而歴余歳、同処有河、名曰秋河、彼引置梨、度于是河、人畜倶践、而度往還、広達有縁出里、度彼椅往、椅下有音、鳴呼莫痛踰邪、禅師聞之、怪見无人、良久徘徊、不得忍過、就椅起看、未造仏了而棄木也、禅師大恐、引置浄処、哀哭敬礼、発誓願言、有因縁故遇、我必奉造、請有縁処、勧人集物、雕造阿弥陀仏、弥勤仏、観音菩薩等像既訖、今居置吉野郡越部村之岡堂也、木是无心、何而出声、唯聖霊示、更不応疑也。
今木《イマキ》 大淀村下淵の上方にある大字なり。今木の北は高市郡南葛城郡の地にして接続の地|葛《クズ》村(南葛城郡)越智岡坂合(高市郡)等は昔今木郡の称ありし地なり、此地も其名の遣れるならん、日本書紀今木の諸墓は大和志書紀通証等此の大淀の今木に在りと為せど疑はし、彼葛村越智岡村坂合村等に求むべき者のごとし。
槻本《ツキノモト》南丘墓 日本書紀云、雄略天皇、燔円大臣宅、与坂合黒彦皇子眉輪王倶被燔死、時坂合部連贄宿禰抱皇子屍而見燔死、其舎人等収所焼、遂難択骨、盛之一棺、合葬|新漢《イマキ》槻本南丘。書紀通証云、吉野郡有今木村、此墓俗称天狗森。
今木双《イマキノナラビ》墓 日本書紀云、皇極天皇元年、蘇我大臣蝦夷、尽発挙国之民、并百八十部曲、予造双墓今木、一曰大陵、為大臣基、一曰小陵、為入鹿臣墓、四年大兄(天智)殺二人、詔許葬於墓、復許哭泣。書紀通証云、双墓、今在古瀬水泥村(今葛村大字)与吉野郡隣。
今城谷上《イマキノハサマノヘ》墓 日本書紀云、斉明天皇四年、皇孫建王薨、今城谷上起殯而収、天皇本以皇孫有順、而器重之、詔群臣曰、万歳千秋之後、要合葬於朕陵。書紀通証云、殯塚在吉野郡今木村、今云保具良冢。又斉明天皇御歌あり、本紀に載す
伊磨紀なる乎武例《ヲムレ》がうへにくもだにもしるくしたたばなにかなげかむ、
(按本史云、天皇傷哀極甚作歌、時々唱而悲哭、幸紀温湯又有歌、詔曰、伝此歌勿令忘於世)
山こえて海わたるともおもしろき今来の内は忘らゆましじ、
乎武例は小巒の義なるべし、続古今集に外山に改む。
吉野《ヨシノ》郷 和名抄、吉野郡吉野郷、訓与之乃。上中下三郷の外に本郷あり、今の大淀村下市村秋野村等にあたる如し。霊異記に桃花里秋河とあるは秋野村に当れば、一名桃花里と曰ふか。
あさぼらけ有りあけの月と見るまでに吉野の里に隆れる白雪、〔古今集〕 坂上是則
下市《シモイチ》 下市村は吉野村の西大淀村の南に方り、秋野と共に秋河の谷に居る。下市は一小山市にて吉野鮨吉野塗を名産とす、吉野鮨は古の吉野厨年魚鮨火干の遺流なるべし、鮨火干は延喜式に見ゆ。
三十三所図会云、※[魚+條]鮓《アユズシ》下市に産す、鮓屋弥助と云者之を製す、其盛器釣瓶のかたちに似たり、故につるべ鮓と云ふ、其味又美なり、土人曰例年吉野七郷より院御所はじめ高家の方に鮎《アユ》の鮓を献じ奉ること久し、近世下市村に宅田屋何某といへる魚商人ありて鮓の調味に馴たるに依り此家に托して漬させ献ぜし事ありしより、年々其加減の違はざる為めとて終には例年宅田屋に打任せて漬させしとぞ、夫より此家の名物となりて、献上の時過ぐれば平日にも製して商ふ事となれり、然るに近世義経千本桜と云へる浄瑠璃の戯作に此家の事を取組て作りしより、諸国に其名高く開え、主人の名さへ更めて鮓屋の弥助と呼べり、世に斯る例はまた少なからず云々。古ヘ吉野の里に味稲《ウマシネ》と云へる男ありて吉野川に至りて魚梁を打て魚を取る、柘の木の枝流れ来りて其魚梁に留まりしほどに、取りて帰るに忽ち化して麗しき女となる、是則ち仙女なり、終に味稲と夫婦の契りをなし老せず死せず、共に久しく住けりとぞ、此歌万葉集に見ゆ。○維新史料云、文久三年天誅組浪人下市を襲ひたる事伴林光平日記に見ゆ、当時彦根藩井伊氏の戌所なりき「文久三年九月十日夜下市の民家に放火す四十五ケ所なり、彦賊等周章狼狽し烟の下より迷ひ出る賊兵を味方の勇士芋刺にする、方角を失ふて賊の討るゝもの数を不知と云々、己は終夜銀峰山の御軍陣より火の手を見つゝ、
吉野山峰の梢やいかならん紅葉に成ぬ谷の家村」
本邦にて手形流通の事は、和州下市を以て始とすべし、下市には南北朝の末つ方より一種の流通手形起れり、此地毎月六次の市立ありて百貨を交易売買するに、銭にては持運びに不便なりとて、有徳の商人銀目を紙にかきつけ、切手と名づけて発行せるに濫觴す、其公許を得たるは寛永十三年の事にて、当時下市の有徳者三十人を三組に分ち、定札一貫目出すものは三貫目の抵当品を差入れさせ、若し札元の身上不如意となれば組合にて引受くることを命ぜらる、当時都合二百貫匁を限りて出札せしに、延宝中には三組八十六人の札高五百貫匁に達せりとぞ。〔皇典講演〕
夢回淵《ユメワタフチ》 下市村大字|新住《アラスミ》に在り、吉野河の一潭にして、奇石あり、土俗|梅《ウメ》の回《ワタ》と呼ぶ。
夢の和太事しありけりうつゝにも見てこし者を念ひしおもへば、〔万葉集〕
波比売《ハヒメ》神社は今下市村の南大字|栃原《トチハラ》の黄金《コガネ》岳に在り、供僧を金山寺と曰へり。〔名所図会〕文徳実録天安二年波宝神波比売神並に官社に預り、三代実録貞観八年二神共に従三位に叙され、延喜式に列す、波宝神は今銀峰村に在り相去る一里。
補【波此売神社】○神祇志科 今栃《トチ》原村西南黄金岳の頂にあり、黄金岳宮といふ(大和志・名所図会)文徳天皇天安二年三月己丑、従五位下波宝神波比売神並に官社に預り、四月発丑二神に従四位下を授け(文徳実録)清和天皇貞観六年六月戊寅並に正四位下を加へ
按、本書従四位下とするは誤れり、今八年文に依て之を訂す
八年十一月乙巳二神共に従三位に叙され(三代実録)醍醐天皇延喜の制、祈年祭並に鍬各一口を加奉る(延喜式)
按、印本神名帳波此売神社の下鍬字を脱せり、今一本及京極宮本・日野家本に拠て之を補ふ
凡そ八月十五日十一月十一日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
秋《アキ》 今下市村の東南に秋野村立つ、秋河あり長三里、下市にて吉野川に入る。仙覚万葉抄に安騎野は吉野山の方に在りと云ふは此地を指す、然れど万葉集に詠ぜる安騎野は此に非ず、宇陀郡なり。霊異記云、聖武天皇時、吉野郡桃花里有椅、椅本伐梨、引置之而歴歳余、同処有河名曰秋河、彼引置梨、度于是河。
補【秋野川】吉野郡○図会云、下市川とも云、水源吉野山より流れて下市に至て吉野川に入る。〔霊異記略、越部参照)
丹生川《ニフカハ》 吉野山の南に発源し西流四里、賀名生《カナフ》村に至り吉野川へ注ぐ。丹生川は二所に瀑布を為す、一は丹生滝(南芳野郡大字丹生)と云ひ、一は王之滝(賀名生村大字滝)と曰ふ
斧取りて、丹生の檜山の木こり来て、機《イカダ》に作り、ま梶ぬき、磯こぎたみつゝ、島づたひ見れども飽かず、三吉野の、滝もとどろに落る白浪、〔万葉集〕
賀名生の行宮にて、人々歌よみ侍りける中に、 冷泉右大臣
忘れめやみかきにちかき丹生川の流れにうきて降る秋霧、〔新葉集〕
補【丹生川】○地誌提要 源を吉野郡吉野山及赤滝山に発し、西流丹生村に至り瀑布をなす、其高凡そ三拾丈、加名生村を経て西北流し、滝村に至り又瀑布をなす、是を王の滝と云、終に字智郡霊安寺村に入り吉野川に合す、長九里拾七町※[濶−さんずいへん]五拾間。
資母《シモ》郷 和名抄、吉野郡資母郷。此郷詳ならず、地勢より論ずれば丹生川の谷なる、賀名生村白銀村等あたるが如し、故に今仮に此に係く。
南芳野《ミナミヨシノ》 吉野村下市村の南にして丹生川の上游なり大字中戸堂原長瀬丹生等あり、中世には黒滝《クロタキ》荘の名あり。丹生に丹生滝あり、高三十丈其北に丹生川上神社あり。
堂原《ダウハラ》 元亨釈書に堂原寺の名見ゆ此地なるべし、云仙人陽勝、能州人、姓紀氏、初登叡山、後居和州、夏入金峰山、冬下牟田寺、習仙方、延喜元年永謝世境、掛袈裟松枝曰、譲与堂原寺延命、命見是尋求、無縦跡。
丹生川上《ニフカハカミ》神社 南芳野村大字丹生に在り.祈雨の大社にして、或は雨師《アマシ》神と称す、中世二十二社第二十一に列したり。神祇志科云、本社は水神|弥都波能売《ミツハノメノ》神を祀る、(廿二社注式廿二牡本縁)伊邪那岐命の御子神也、〔古事記日本書紀〕此神よく天下蒼生の為に甘雨を降し給ふを以て、其徳を称て雨師神と申す、〔参取類聚三代格日本紀略大要〕昔此神|教《サト》し給はく、人声の聞えぬ深山吉野丹生川上に我宮柱を建て敬《イツキ》奉らば、甘雨《アマキアメ》を降して霖雨《ナガアメ》を止給はむと教給ひき、故宮社を造りて仕奉りき、〔類聚三代格〕之を大和神社の別牡とす。〔類聚三代格大倭社注進状〕大炊天皇天平宝字七年旱するを以て幣帛及黒毛馬を奉り、〔続日本紀〕光仁天皇宝亀四年大和丹波四戸を神封に充しむ、嘉※[さんずいへん+(樹−木)]あるを以て也、〔続日本紀新抄格勅符〕六年霖雨祈の為に白馬幣帛を奉る、是後此神を祭るもの、旱には必黒馬を奉り、霖雨の日には必白馬を奉りき、〔続本紀三代実録続日本後紀日本紀略延喜式〕其祷祈ある毎に神験霊応尤顕る。〔左経記古今著聞集、新葉集吉野拾遺〕元慶元年正三位を授け〔三代実録〕寛平七年勅して百姓浪人等神地を妨げ穢奉る事を禁しむ。是よりさき大和社神主|大和人成《ヤマトノヒトナス》称さく、別社丹生川上雨師神の祝等云く、名神本紀を考ふるに昔神宣に依て社を建しより今に至るまで幣を奉り馬を奉るに依て、東は、塩勾《シホアヒ》南は大山峰西は板波滝北は猪鼻《ヰノハナノ》滝を神社の界とし、神馬を放牧ひ狩猟を禁めらる、然るに国栖戸百姓浪人事を供御に寄せ神地を妨げ、動すれば神祟ありと云ふ由を奏せるに依て也。〔類聚三代格帝王編年記〕九年従二位を授け、〔大倭社注進状〕延喜の制名神大社に列し、大和社の神主奉幣す、爾後歴朝尊崇、之を山城国貴船神に比す。
白銀《シロガネ》 南芳野村の西に接し、駅所を十日市《トヲカイチ》と曰ふ丹生川の谷なり。北嶺を白銀岳と曰ひ、山上に延喜式波宝神社あり、波宝《ハホ》神彼此売神の事文徳実録三代実録に見ゆ。正平十五年睦良親王(大塔宮王子)叛かせたまひ、賀名生の行在を焼き、銀嵩に拠る事大平記に見ゆ。維新史料伴林光平日記云、文久四年九月九日、銀峰山の御陣に在けるに、後の山陰に俄に玉打音の頻にしける故、何ぞと問へば、彦根の賊間近く寄来りしと云、さらば速に蹴散せと「身を捨て千代はいのらぬ大丈夫も流石に菊は折かざしつつ」斯て上の平と云所まで打出しかば、彦賊等旗の手を取乱して雲霞の如く逃退。
賀名生《カナフ》 丹生川の未に在り今賀名生村と曰ふ、字智郡南宇智村に接す、旧名|穴生《アナフ》と曰へるを正平年中南帝此に行在を建てたまへる時改めて賀名生と為す。初め延元元年十二月後醍醐帝先づ穴生に至り吉野に移りたまふ、正平三年吉野内裡賊火に罹り後村上帝又此に御したまへり、既にして正平七年の春(即観応三年壬辰)主上親ら諸軍を督し八幡(男山)に出征したまふ。其夏軍利なく北方の上皇以下を伴なひ奉り山中に帰り給ふ、幾程もなく河内に移り、翌年は天野行在におはしませり。後亀山天皇の時、文中二年三度賀名生の御幸あり、是より二十年間の皇居たり、或は吉野の奥なれば推し及ばして唯吉野宮と呼ぶ。大和志に賀名生村の和田華蔵院址を以て先帝延元の行在に擬し黒淵総福寺址を以て後村上後亀山の皇居なりと曰ふ、南山巡狩録は之を採らず。
賀名生《カナフ》行宮址 南山巡狩録云、正平三年後村上院穴太まで立のかせ給ひしかども、行宮になさるべき堂含もなきにより、先帝の行在堀又太郎が家に入らせ給ひし事とみゆ、幾程なく此所に行宮を作られ八九年頃まですませ給へり、大和志によれば後醍醐帝のすませ給ひし、故跡は賀名生の庄和田村後村上院は黒滝村に居絵ふよししるせり、今より考ふるに二帝ともに和田村黒滝村等にすませ給ひし事はなし、是は小倉宮御兄弟の御子泰仁王尊義王高秀王忠義王等のすませ給ひし事ありしをあやまりつたへし事と思はる。又云、正平十五年将軍宮睦良親王いかなる御心やつきけむ、賀名生の皇居に押よせ御所を焼給ふ、この宮に附したがひし軍兵どもはじめの程は宮の御謀にやあらむとおもひしかど、終に此宮北朝に御合体にて叛逆し給ふ由披露せしかば、兵どもは離散し宮も御自害を遂げらる、此頃賀名生の御所には主上御座なかりしかど、睦良親王をはじめ宮及公家の従類多くとゞまり給ひし事と見ゆ。凡正平三年の後吉野の行宮と指て云へるものは賀名生に限れり、而も正平中北方へ出陣ありて後其賀名生に還らせ給へるは文中二年なるべし、其拠所々にあり。まづ花営三代記の応安六年の条に宮方天野へ発向の事見え「八月南方奉譲位於御舎弟宮之間、相副三種神器、没落吉野」とみゆ、是天野より吉野へ行幸をさしていへる拠一也。また五百番歌合に入道関白「忘れじなまた出ぬとも吉の山なれて三とせの花の下蔭」とあり、此歌合ありし天授元年より三年後に推時は文中二年に相当り、北朝の応安二年となれり、是拠二、又新葉集雑中、中宮の歌の詞書を見るに、正平廿四年の春吉野の行宮におはしましけるを年月をへて後又彼山に行幸ありける比、松といふ事を「契あればまたみよしのゝ峰の松まつらむとだにおもはざりしを」とあり、此詞書より考ふれば正平廿四年より後も吉野より他所へ臨幸あり、程なく帰り給へる証となる、是拠の三。又嘉吉門院御集に文中二年霜月廿日頃雪いとう降り侍りし日こぞの冬あま野にて御覧ぜられし雪のけしきなど思召し出づる由申されて「かきくらす峰の白雪それながらともに見し世のおもかげはなし」とあり、この歌も又去年はあま野といふ所の雪を見姶へども今年は他所の雪見拾ふこゝろ見ゆ、是拠の四也。是れらより考ふれば実に文中二年行宮を賀名生にうつされしこと分明なり、何故文中二年天野山より賀名生にうつされしといふに、花営三代記に見ゆる如く細川氏春、京勢を率ゐて天野山に打むかひし故なり。扨又新葉集雑中に天授三年行脚の僧よみける歌をのせ、其詞書にさき山の行宮と見えたり、かのさき山といふものはいずれにや知らずといへども、賀名生に在所の山にして行宮はやはり賀名生の皇居をさして云へるものか、猶尋ぬべし、此後元中九年にいたるまでこの賀名生の御所に居たまふ。
天の下大御心にかなひきや賀名生は里の名にこそありけれ 本居宣長
芳野古竹笛歌、竹賀名生邑堀又太郎家出之、 草場佩川
畿内南北割鴻溝、一隅偏安芳嶺幽、文武衣冠不復見、多恨年々花満邱、山陰秦子慷慨志、千里弔古去幽捜、翠華当年駐此地、一区旧廬迹可求、夜半梁上如有物、怪底悲吟訴冤愁、尋声仰視起歎息、枯骨安図是龍※[虫+斗]、為倩伶倫高世手、一腔六孔便渠修、聞昔国栖里中老、奏曲為解君主憂、独此南狩保難釈、万古芳河水激流、英魂知有待妙弄、悲風落月満山秋、
皇代略記云、観応三年五月十一日、新主(後村上)両上皇新院并儲皇、遷御於賀名生離宮、是新主官軍失利御没落、被奉伴之。吉野拾遺云、正平壬辰の年の春旧都の三主ともにとらはれ人とならせ玉ひて、此山に入らせ給へるに、黒木の御所の浅ましきに、尚其外に荊棘を隙なく植たる内に押こめ奉る。
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十津川《トツカハ・トヲツカハ》 吉野郡南部広大の地を十津川郷と称す古は遠津川と唱へたり、熊野川の上游にして今九村に分る。東鑑云、文治元年十一月廿二日、予州(義経)凌吉野山深雲、吉向多武峰、到着之所者、南院内藤室、其坊主号十字悪僧也、賞翫予州、廿九日十字坊相談予州云、寺院非広、住侶又不幾、遁隠始終不可叶、自是欲奉送遠津河辺、彼所者人馬不通之深山也者、予州諾之、大欣悦之間、差悪憎八人送之。三年二月十日条曰、伊予守義顕、日来隠住所々、度々遁追捕害訖、遂経伊勢美濃等国、赴奥州也、相具妻室男女、皆仮姿於山臥并児童等。
十津川の吉野のたきを分けゆけば氷ぞ泡ととけてさまよふ、〔家集〕 曾根好忠
吉野山十尾津川上ゆきふかみけぶりも民の家居なるらん、〔堀河百首〕 国信
神武帝大和打入の時、熊野より吉野に出で給ふ、実に十津川を経由したまへり。古事記云、於時|高倉下《タカクラシ》亦高木大神之命以、覚白之、天神御子(神武帝を云ふ)自此於奥方、莫使入幸、荒神甚多、今自天遣八咫烏、故其八咫烏引道、従其立後、応幸行、故随其教覚、幸行者、到吉野河之河尻。(此に謂ふ所奥方即十津川郷にして河尻は今宇智郡阿太村を云ふ)十津川の郷民は山中に生活し一種の気風古よりこれあり、古事記に奥方の荒神《アラブルカミ》と録したるは当時土酋の類なるべし、保元物語太平記に見ゆる十津川郷士より、近年浪人与力の十津川徴兵に至るまで、皆武勇を好む習あり、蓋地理に所因あるべし。保元物語云、南都より衆徒大勢にて、吉野十津河の者共を召し具して、十余騎にて今夜宇治に着き、明朝入洛仕る由聞え候ふ、敵に勢の着かぬ前に押し寄せ候はん、内裏をば清盛などに守護せさせられ候へ、義朝は罷り向て忽に勝負を決し候はんとぞ勧めける。太平記云、元弘二年大塔宮は十津河を尋てぞ分入らせ給ける、其道の程三十余里が間には、絶えて人里もなかりければ、或は高峰の雲に枕を※[(鼓−支)+奇]て苔の筵に袖を敷き、路の程十三日に十津河へぞ着かせ姶ひける、宮をばとある辻堂の内に置き奉りて、御供の人々は在家に行きて、熊野参詣の山伏ども路に迷ひて来れるよしをいひければ、在家の者共哀を垂れて粟の飯橡の粥など取り出して其飢を助く、声を高らかに揚げて、是は三重の滝に七日うたれ、那智に千日籠りて三十三所の巡礼のために罷り出でたる山伏共、終に踏み迷ひて此里に出でて候云々、戸野兵衛申すには身不肖に候へども某一人だにかゝることぞと申さば、鹿瀬《シシセ》、蕪坂《カブラザカ》、湯浅《ユアサ》、阿瀬川《アゼガハ》、小原《ヲハラ》、芋瀬《イモセ》、中津河《ナカツガハ》、吉野、十八郷の者までも手刺す者候ふまじきにて候。(按ずるに鹿瀬以下五郷は紀伊国に属し小原以下三郷を十津川と為す戸野も郷名の一なるべし当時十津川四郷に分れしか)人類学会雑誌云、十津川郷は五十余の部落(大字)あり、其住民往古より十津川郷士と称したるものなれば、木を伐る樵夫も田を鋤く老叟も皆是籍を士族に列ぬるものにして、其気風の如きも京畿地方の農夫とは自から異る所あるが如し、然るに去る明治廿二年八月一たび大洪水の汎濫して、山壑を崩壊し耕地を侵すや、住民多くは北海道に移住せしが、猶今日にても山腹向陽の地には、数頃の田園に囲まれて点々矮屋あり、総べて杉の厚皮にて蔽ひ、之に数条の大材と石塊とを横ふるを常とす。地学雑誌云、南吉野郡高峻多く山脈あり、之を大峰山上岳の連山とす、其東西に各一径の谷あり、東を北山谷と称し、西を十津川谷と称す、北山谷の東は大台ケ原の山脈に連なり、十津川谷の西は高野山の山群に接し、恰も山字形の断面を示し、中央の山系に於て其海抜の最高点は山上岳二千メートルに達し、左右の山系に在りては是より低きこと二百メートルなり、此二谷は喚雲起雨の地形を成し、森林の養成に適して喬木鬱蒼天日を遮り、谷深く崖高く、嶮峻の山間なれば河流に沿ひて纔かに小径を通じ、山腹の平夷地及び河畔の洪涵地に拠り村落を成したり、所謂十津川郷是なり、其表土は皆※[あめがんむり+毎]爛土壌なれば、明治廿二年の大雨に地辷り山崩れの惨状を招けるも自然の数也。
十津川《トツカハ》 吉野新宮川の上游にして、源を大峰山上岳に発す、(天川村)西流七里大塔村に至り漸南流し、南十津川村大字七色に至り紀伊に入る、源頭より此に及ぶ凡二十二里、十津川の舟楫は中十津川村以下に於て之を見る。探奇小録云、十津川舟槎下る者岩石間を縫ふ、舟子棹を手にして舟首に立ち石に逢へば則ち撞て以て避く、左逃右転其巧なること人を驚かす、時に浅灘有り灘石水を激し水咽んで白を※[(翻−羽)+飛]すこと百十頃、舟底石に触れ※[車+歴]轆声有り、又巨岩の下盤渦して潭と成る、乃ち恐る舟随ふて而して輪旋するを、舟子随処手を着け易々に経過す、舟矢より駛く、山転じ岩逃げ、走馬燈を看る如し、眼を転ずる匆々、忽ち七色に至る、舟行蓋已に三里、和州尽き焉、紀州続き焉、両崖即ち低く河身漸く濶く、而して水勢頗る緩し。
大峰《オホミネ》 十津川郷の東に横はる大山脈也。吉野金峰の南より.玉置山に至る迄凡十五里、嶺勢綿亘|大天上《オホテンジヤウ》小天上|山上《センジヤウ》岳国見山|弥山《ミセン》釈迦岳天狗岳東屋岳玉置山等一条の山脈を成す。其国見山より一支東に走り伯母峠《ヲバタウゲ》と為る者は大台原山に接す。大峰は往時修験道の登陟以て練行を試みたる霊地にして、其※[足+齊]攀を峰入《ミネイリ》と名づく。修験道(山伏)に二流あり、一は天台宗聖護院に属し当山派と号し吉野より峰入を為す、一は真言宗三宝院に属し本山派と号し金峰より峰入を為す、此時入は役小角の創始する所にして近時に至る迄其業盛行したりしが、山伏停廃の政令ありけるより今や蓑へたり。
法眼定忍にあひて侍し時、大峰の物語などをしいへるを聞て、後によめる、 源実朝
すゞかけの苔おりぎぬのふり衣おくもこのももきつつ馴けむ、〔金槐集〕
大岑にて 僧正行尊
もろともにあはれと思へ山ざくら花より外に知る人もなし、〔金葉集〕
峰入は宮もわらぢの旅路かな、 宗因
花も奥ありとや、芳野にふかく吟じ入りて、
大峰やよしののおくを花の果、 曾長
山伏詩并序 僧元政
山伏者本僧也、昔我俗称僧、総以山伏、是也、今之所謂山伏者、祇是一類異形之徒也已、額着小角巾、肩袿不動袈裟、腰横双刀、手袿八角棒、而高声鳴螺、※[皐+羽]翔市邑、或謂役行者之徒、其叔父願行者、是鼻祖也、行之次曰義学、其次曰義玄、其次曰義直、其次曰寿元、五代之後、枝蔓布浸、充塞乎世間云、
一錫出峰鳴帝畿、電奔雷震燿神威、腰間倒帯明王剣、肩上斜懸古仏衣、華洛月随巾影動、葛城雲背枕頭飛、不知大法下衰去、終日吹螺何処帰、
参考本盛衰記云、山王院大師(円珍)大峰に入給しに、雲霞峰を隔て荊棘道を埋て東西を失ふ、滝尻に留り七日祈祷し給へば、八咫の霊鳥飛来て木を食折て其路を示し給き、八尺の長頭巾この表示とぞ聞ゆ、凡彼山の体たる、三重の滝に臨めば百丈の浪六根の垢を洗ひ、千草《チグサ》の岳に上れば四季の花一時に開て盛なり、フキウの峰には寒嵐衣を徹し古家《フルヤ》の宿には時雨袖を濡す、彼馳、児宿、滝の胸先、大禅師、小禅師、犀風の岨《ソバ》道、釈迦が岳、負釣、行者帰、何れも得道の人に非ずば争か爰を通はん。
山家集云、行者返り児《チゴ》の泊りと云所につゞきて過ぐる也、昔の山伏は屏風が嵩と申所をたひらかに過むことをかたしと思ひて、行者児の泊と思ひわづらふなるべし、 屏風にやこころをたてておもひけむ行者はかへり児はとまれる、
又云、大峰にて、大和国近くなりて古畑と云所にて、※[合+鳥]の声いとすごくなきければよめる、
ふる畑のそばのたつ木に居るはとの友よぶ声のすごき夕ぐれ、〔新古今集〕
名所図会云、吉野山(金峰)より六里にして大峰|山上《センジヤウ》岳に達す、山勢高峻にして路嶮阻を極む、其間大天上小天上の二峰を踰ゆれば今宿に至る、又|洞辻《ドロツジ》あり、洞辻より直に山上岳の頂に攀づ蔵王堂あり。(古鐘を置く銘云「遠江国佐野郡原田荘長福寺天慶二年」)山上より東行一里を小篠と曰ふ、此辺岩窟多し、又西南一里許を脇宿と曰ふ、又一里許にして普賢岳あり、又南一里余を児泊《チゴトマリ》と曰ふ、国見山あり、又其南一里にして行者帰《キヤウジヤカヘリ》と曰ふ、又行こと二里八町弥山と称す、(弥山以南の路程別見す)すべて金峰より玉置に至る間を峰中と称し高嶺に行径を求めて修行したり。
山上岳《センジヤウガタケ》 天川《テンノカハ》村の東に在り、熊野川の源此に出づ、山上蔵王堂あり故に山上の名あり、即大峰の奥院なり。天川村大字洞川龍泉寺より登る者は八十余町の高原を経て之に達す、峰入行者近年大に減じたりと雖信徒未だ全く絶ゆるにあらず、夏季登山者諸州より至る。頂高凡五千六百七十尺。
笙窟《シヤウノイハヤ》は国見山(六百四十丈普賢岳の西南)に在り、国見は北山谷川上郷及十津川郷の交界点にあたり、遠眺頗広し、山中岩窟多し中にも笙窟は日蔵上人(三善清行子道賢)行慶僧正(白河帝の皇子)の栖止したまへる所とぞ。〔名所図会大日本史県名勝志〕
補【山上岳】吉野郡○奈良県名勝志 一に大峰山と称し大天井ケ岳の南少し東にありて、吉野郡天の川・川上二村に亘る、高約五千六百七十尺、絶頂に蔵王堂あり、中に蔵王権現の像を安ず、伝へて役小角の作とす、毎歳諸州より来賽するもの織るが如し、蓋山岳の深奥にして信徒の群賽するもの本州未だ此山の如きあらず、実に希世の霊区なり、登路六条あり、吉野山より六里、上谷より三里、下多古及高原より四里、赤滝は四里二十町、洞川は二里五町、又渓水五条あり、一は天の川に注ぎ、余はみな吉野川に入る。
補【国見岳】○奈良県名勝志 又国見山と称し、大普賢岳の西南にありて、吉野郡天の川・上北山二村に亘る、高約六百四十丈、山上は遠眺裕遠数州を俯瞰すべし、山中に岩室多し、笙窟、鷲窟、朝日窟等あり、西行嘗て此辺を過ぐ、笙の岩室を詠ずるに、
今宵こそ哀ぞあつき心地して嵐の音をよそにきゝつれ
と、此山より西南を総て峰中と称す。
天川《テンノカハ》 天川村は吉野丹生川谷の南にして、天川に沿ふて部落あり、天川は古歌にあまのかはと詠ぜり。
吉野山花やちるらんあまの川雲の堤をあらふしらなみ、〔未木集〕
長禄記云、寛正四年六月、畠山義就紀州岡の城を忍び出で、天川より末々の人をば暇賜り、三十余人計にて深山を凌ぎ、北山とやらんに忍び給ふ。
大字和田に延喜式伊波多神社あり、〔大和志〕又銅鉱を出す。〔地誌提要〕大字坪内に宗像神社あり、旧弁財天を祭り供僧を白飯寺妙音院と号し、天川荘廿一村の氏神なりき。〔名所図会〕
補【天之川】○維新史料 天の川辻と云所は要害屈竟の地なれど、手立隔り民家の少きのみ兵衆の愁なりけり、「蒸苔の簾の里に住居ても憂目ばかりは隔てざりけり」此程木工竹工抔を呼て大砲幾許を造らしむ、或朝天の川御陣いと寒かりければ
榧の実の瓦に落つるおとずれに交るも寒し山雀の声
○今大塔村大字簾。
天辻《テンノツジ》 今|大塔《オホタフ》村大字|簾《スダレ》の上方にして、五条賀名生より十津川郷に入る要路にあたる、天辻峠と称し駅所を坂本《サカモト》と曰ふ、文久三年九月天誅組の浪人十津川を保せんと欲し此に拠り諸藩兵を拒みし事あり、当時伴林光平日記云、天の川辻と云所は要害屈竟の地なれど、水の手立隔り、民家の少きのみ兵衆の愁なりけり、
蒸苔の簾の里にすまひ居てもうき目ばかりはへだてざりけり。
天辻は西は高野山(紀州伊都郡)に連り、筒香《ツヽカ》の藤代峰に接比す、神功皇后が丹生神を筒川に鏡め祭り給ふと云事播磨風土記に見ゆ。
補【天辻】○人名辞書 藤本鉄石、名は真金、通称津之助、備前の藩士なり、少壮にして武技を綜練し、また経史に通じ書画を善くす、文久三年八月朝廷已に大和行幸及び夷狄親征の議を決す、鉄石窃に有志の士松本奎堂吉村寅太郎等と謀り、将に義兵を挙げんとす、奎堂首として之を賛成し、同志三十余人と共に侍従中山忠光を奉じて京師を脱し、大坂より河内富田林に趣く、実に文久三年八月十七日なり、因て奎堂等と議し、大和五条代官鈴木源内を襲殺し、其の庁を焚き以て義兵の首途とす、衆士游踊躍奮興し、鉄石及・奎堂を推して総裁とし以て軍議を決せしむ、居ること数日、四方の土民身を致して応ずる者殆んど千人に及ぶ、屡々和歌山、津、彦根、郡山の藩兵来り攻む、鉄石陣営を天の辻に定む、津藩の隊将藤堂高猷諸藩の兵に牒し、大挙して天の辻に迫る、鉄石謂らく、事爰に及ぶ終に遁る可からずと、大将中山忠光に説き、去て南海鎮西の義士と力を戮せ再挙を謀らしむ、忠光去る、乃ち火を陣営に放ち自ら創始三十余人と兵を部署し、奮闘激戦終に之に死す、特に文久三年九月十五日なり。
殿野《トノノ》 今|大塔《オホタフ》村と改む、旧十二村荘と称し元弘年中大塔宮護良親王の潜居したまへる地なれば、今大塔に改む。殿野は太平記戸野に作る。大日本史云、尊雲(護良)遂与光林房玄尊赤松則祐等、装為修験者、出般若寺、赴熊野、饑困旬余、始抵十津川、憩息仏舎、従者散入村落、乞食得粟飯橡粥進焉、如此者三日、玄尊適造土豪戸野兵衛家、乃入門覘伺、有女奴出請曰、主母正罹邪祟、願煩師之祷解、玄尊顧指仏舎曰、老師在彼、尊雲乃往其家、病者得愈、兵衛出謝曰、田家無物可答報、願舎干此旬余、以解覊倦、兵衛一夕従容謂曰、如聞大塔宮避難熊野、師等豈知之耶、熊野別当定遍素党北条氏、非宜駐駕之地、此地雖小四方負嶮、加之俗頗僕実習武、往昔平維盛避乱投我家、卒得保全、今大塔宮亦幸来于此乎、将出力奉之、従者指尊雲請曰、是即大塔宮矣、兵衛驚而謝罪、乃造新館、奉尊雲、柵絶諸要、為守備計、兵衛舅竹原八郎聞之、大喜迎致其家。太平記に戸野の仏舎とあり、今殿野に接し辻堂《ツジダウ》の大字あり、仏堂此に在りしならんと云者あり。
中津川《ナカツガハ》 今野迫川村に改む.野迫川の谷間に在り、旧十二村荘に属せり、中津川の名は太平記に出でて今大字存す。野迫川村の池津川《イケツガハ》立里等の地に銅鉱あり、又北俣に将軍塚あり。名所図会云、将軍塚は石塔十三あり羅列す、或云将軍宮睦良王の墓なりと、睦良は大塔宮の子也。野迫川《ノセガハ》村は大塔村の西にして、紀州高野山に接す。
長殿《ナガドノ》 今|北十津川《キタトツカハ》村と改む、大塔村の南なり、北十津川は大字長殿及|上野地《ウヘノチ》を主要とす、文久三年九月天誅組此地を本営とす、伴林光平日記云、
九月十三日長殿山を越ゆる時、山紅葉を見て
長殿の木々のもみぢを今日見れば君が御旗をよそふなりけり、
同時に藤本津之助が詠る歌に、
雲を踏みいはほ裂くらん武士の鎧のそでにもみぢかつ散る、
又云九月十四日義兵は上野地《ウヘノチ》を本営とす、中山公義兵解散の仰あり、十津川郷民も亦云ふ、山中塩食に乏き故に得堪へず、軍衆此に屯ありては新宮口五条口諸方の口止となり候へば退陣を乞ふとなり、やがて退陣と為る、
夕附日ふもとの松にかたぶきぬこゝや雲より上の地の里。
上野地の西に大字谷瀬あり、名所図会に、竹原八郎宅址は谷瀬に在り、大塔宮寓居ありし所と、然らば大塔宮還俗改名八郎の女を納れ、恢復の計を立てたまふと云ふも此にや、尚再考すべし。
芋瀬《イモセ》 今北十津川大字五百瀬是なり、芋瀬は往時一荘の名なりしにや、太平記に芋瀬荘司と云ふ者あり。芋瀬川は紀州阿瀬川郷の堺より発源し、川津(今十津川花園村)に至り熊野村に注ぐ。
野尻《ノジリ》 今|十津川花園《トツカハハナゾノ》村に改む、北十津川村の南にて中十津川村の北なり。野尻は一山駅なり、野尻の北に風屋《カザヤ》滝(熊野川)あり高三十丈。
弥山《ミセン》 大峰山脈の一峰にして高六千七百尺、和州第一の高山なり。山上岳の南六里(山径)と称す、弥山の南十町を大日岳と呼び、更に南行して峰入路を求むれば三里許にして釈迦岳に至る、其間に小池宿平地宿あり、共に行者の憩所と為す、山東は北山谷也。〔名所図会〕
釈迦岳《シヤカガダケ》 一名|転法輪《テンポフリン》と云ふ、弥山の南に在り、山勢雄大其高六千六百尺、弥山に亜ぐと云、土俗|履掛富士《クツカケフジ》と曰ふ。〔県名勝志〕釈迦岳の南に天狗岳笠捨山|東屋岳《アヅマヤガダケ》等四五里の間に連り、以て玉置山に至る。大和志云、釈迦岳、在御山南五里許、一名大峰、郡内諸山、唯此山最雄峻而秀、遠眺磊状如布※[其/木]石者、可以百数、海内之山如是者則幾何。
補【釈迦岳】○奈良県名勝志 一名転法輪岳、又履掛富士と云ふ、仏生山の南にありて北十津川、十津川、十津川花園、上北山、下北山四村に跨る、高約六千六百十八尺、弥山に亜ぎて県下第二の高山なり。
小原《ヲハラ》 今|中十津川《ナカトツカハ》と改む、花園村の南なり大字武蔵の東泉寺に二所の温泉あり、硫黄性熱百五十度許。太平記に十津川郷小原とあるは此ならん。小原に接し大字|小森《コモリ》あり、山駅にして十津川郷の首里なり、其西方に行者《ギヤウジヤ》岳峙つ。
果無《ハテナシ》 今|南十津川《ミナミトツカハ》村と曰ふ。大字平谷桑畑七色等あり、十津川の本流此に及べば舟を通ず、果無山は桑畑七色の西北に峙ゆ、谷幽にして峰嶮し、紀州東牟婁郡に界し、本宮村(熊野)を去る三里に過ぎす。平谷《ヒラタニ》の柳本温泉は炭酸性百四十度の甘泉なり。
大和紀伊の界なる果無坂にて、往来の順礼をとどめて奉加すゝめければ、料足つゝみたる紙のはしに書つけ侍る、
つゝくりもはてなしさかや五月雨、 去来
玉置《タマキ》 今|東十津川《ヒガシトツカハ》村と云ふ、十津川北山川両水相近づかんとする地にして、玉置山其中央に聳ゆ、上に玉置権現あり、玉置氏の祖神か。
玉置山、有玉置神祠、巨鐘一口、鐫曰応保三年、金口二口、一曰貞永二年造焉、一曰文安四年懸焉、祝家則玉置氏、其僧舎曰多聞院。〔大和志)和州玉置氏は明神の社人にて、奥州岩城判官平某の後なりと云も詳ならず、家の紋章は州浜形也、一説に平中将資盛の子伊勢国|蔦野《ツタノ》の住人十郎資平寿永の乱に玉置山中へ入り此に家を起す、承久の頃より北条氏へ属し八十五町の地を領し玉置荘司と称す、元弘の頃は荘司盛高あり大塔宮の熊野へ入り玉ふ時武家方として宮を拒み奉る事太平記に明かなり、盛高子なし左衛門尉藤直光を以て家督と為し所領を譲る、直光三子あり長子は玉置山の別当職を受つぎ、次男三男は日高郡河上荘同郡|山地《サンチ》荘に移り別家を立つ。〔紀州名所図会〕出谷《デタニ》塩類泉、(東十津川村)熱百五十度、僻地浴客少し。
洞谷《ドロタニ》 東十津川村の南、玉置口《タマキグチ》村(紀伊東牟婁郡也)に在り、北山川の水此に至り奇絶の景を生ず、或は瀞渓に作る。大八州遊記云 北山川南流而至瀞渓、両崖逼束、其開纔八九間、入谿口、頓為別天地之観、河心極深、水流無声、其色紺碧※[青+色]緑、土人呼為度呂、言其水瀞而不動也、故詞人填以瀞字耳、夾水奇巌層出、千姿万態、不可殫述、巌上古木茂樹、蔽翳※[日+義]影、殆如壷中洞裏天、其※[直/(直+直)]直者如壁之削、円者如釜之覆、横者如屏墻之環、蹲者如虎豹、層者如楼閣、縫裂為紋、大者如氷裂、細者如穀※[糸+(雛−隹)]、或平衍可歩可攀、有巌洞、※[穴/目]※[穴/兆]似神仙之居、有屹立水中者、為蓬壷之容、一涯未畢、一涯亦至、応接不暇、盤亘※[てへん+賛]列、如此者凡八町、説者因謂、瀞渓上下、背広流、至此為山、所窄、殆如石門、蓋往古大水為門所壅、不能俄洩、沙土皆為水噛尽、雲根露出、為此異態。
北山《キタヤマ》 吉野郡川上村の南十津川郷の東に在り、大峰大台原二大嶺に挟まれ最幽僻の境なり。澗水は南流して紀伊に入る、凡七里にして西に赴き、両国界の間を流れ、又七里にして十津川に合し、熊野川と為る。北山郷は今上北山|下北山《シモキタヤマ》(吉野郡)山北(東牟婁郡)の三村に分る、其川の南岸を口北山と云ふ、今南牟婁郡に属す。(今入鹿村西山村神川村五郷村飛鳥村)上北山の河合《カハヒ》と下北山の浦向《ウラムコ》に郵便局あり。
龍川寺《リュウセンジ》 自天皇潜居の所とぞ、神暦云「開基南帝自天勝公正聖仏位神康正三年丁丑十二月」又遺教経あり跋云「宝徳二年庚午之秋建当寺」〔大和志〕自天皇は尊秀王又北山宮と称す、残桜記に北山荘大河内に居たまふとあるは大河内即大瀬なるべし。北山宮は嘉吉三年御父万寿寺宮に随ひ兵を挙げ比叡山にこもり軍敗れ、父宮は亡せ給ふ、尊秀忠義尊雅の三王孫は吉野山中に逃れ此地に御坐ます事十余年、神事を奉じて恢復を志したまへり、長禄元年(即康正三)赤松家の遺臣どもにあざむかれ尊秀王害され給ひ、忠義王川上荘に走り尊雅王|高野上《かうのうへ》(今紀州北山郷)に走りたまふと、実否詳ならず。史学雑誌云、扨南朝の皇胤は其名諱系属詳ならざれども、今姑く実録諸書に載する所を挙れば、小倉宮と云ひ(後亀山の皇太弟泰成親王を云ふか但泰成子なし後亀山の皇子其後を承くるならん)上野宮と云ひ(後村上第五の皇子上野太守説成親王の胤)玉川宮と云ひ(長慶帝の胤帝嘗て紀州の玉川に在りしを以て此称あり)又円満院宮(長慶帝の胤)護正院宮(又護聖五庄に作る説成親王の胤)等あり、此諸皇族の内或は遺臣に奉戴せられ或は幕府不逞の徒に挟持せられ前後屡兵を動かして継統を争ひ給ふ、然れども皆志を得ず、或は横に禍害に罹り、或逃匿して終る所を知らず、其京に在るもの足利氏薙髪入寺せしめて其胤を絶たんことを謀れり、嘉吉二年南朝の余党万寿寺金蔵王(後名尊秀王)を擁して兵を起し、潜に禁闕に入り神璽を奪ふ、金蔵主殺さるるに及び又上野宮中類(一に護聖院宮に作る或云即円満円胤なりと)を奉じて紀伊の北山に拠る、中類亦害に遇ふ、乃ち一宮二宮(南朝紹運録に一宮を尊秀王二宮を忠義王と為す然れども尊秀嘉吉三年に薨じ忠義の事は実録の徴すべき者なし)を擁す、長禄二年赤松氏の遺臣一宮二宮を害し神璽を収還す、南北合一より此に至て又六十六年、南朝王子の事是後所見なし云々。
補【北山宮】吉野郡○北山宮一称自天大王、其弟河野宮、一称忠義王、或曰尊秀子也、倶居吉野、尊秀之死、神璽入吉野二王擁守凡十有五年云、初唱義募兵、属者日多、伊勢豪族磯部兼政献軍器粮米若干、嘉吉変赤松満祐弑将軍義教、一族誅夷、其遺臣等欲立功起主家、遺臣上月満吉中村貞友等詐来仕、漸得昵近、長禄元年十二月夜乗密雪※[(妝−女)+戈]北山宮、上月満吉※[(妝−女)+戈]河野宮、執王首及璽而遁、塩谷村人大西某射斃中村貞友、余賊逸去、重竟還禁宮。○北山宮葬于神谷金剛寺、諡高福院、土人立祠致祭、云河野宮不知其葬所也。○吉野郡北山荘小瀬村に御在所を構へ、忠義王は同所より大山を隔てたる河野郷に在り、残桜記に吉野の山奥なる北山庄大河内と云ふ所と記したるは、大河内を小瀬の一名としたるに似たり。
大台原《オホダイハラ》山 北山郷の東に横亘し、伊勢の大杉谷及北牟婁郡|尾鷲《ヲワセ》浦に跨る、直立四千九百尺、山容高台の状を成す、大台原の支峰備後山は大瀬の北に在り、大瀬より東に一嶺を越ゆれば尾鷲に至る山径五里。
宇智郡
宇智《ウチ》郡 吉野郡西北隅の小村にして、旧芳野の河尻《カハジリ》と云へる地なり、古事記伝此宇智を以て建内甘内兄弟の本居と為せど疑はし、内臣氏の古里は紀伊名草郡の宇治郷なるべし。続日本紀、「文武天皇二年、車駕幸宇治郡。大宝二年、復大倭国吉野宇智二郡百姓」など見ゆ、当時御遊猟場にて内野と称したり、宝亀勘録西大寺流記資財帳に宇治野桃島荘と云ふあり。字智郡和名抄四郷に分る、今五条町外七村と為る、北に葛城金剛山を負ひ吉野郡川中を貫流して紀伊に入る、丹生川吉野の南より来り(南宇智村)之に注ぐ。五条は吉野字智二郡の都会にして鉄道は南葛城郡御所より来り五条を車駅と為し吉野川に沿ふて和歌山に赴く。
古事記云、天皇(神武)到吉野河之|河尻《カハジリ》時、作筌有取魚人、爾《カレ》天神御子問、汝者誰也、答曰僕者国神、名謂贄持之子、此阿陀之鵜養之祖也。(今阿太村)按ずるに旧名阿陀、後宇智に改めたる也、阿陀古言|異《アダ》なれば異類の人民に命名したる者か。
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加美《カミ》卿 和名抄、宇智郡加美郷。阿陀の上郷の謂ならん、今阿太村南岸の地及|野原《ノハラ》村にあたるか、大字南阿田あり。栄山寺天平古文書云、栄山寺領西新開弐拾漆町陸段、在字智那賀美郷万提村真土条。
那珂《ナカ》郷 和名抄 宇智郡那珂郷。阿陀の中郷の謂ならん、今南宇智村坂合部村にあたるか、坂合部に大字中村存す。栄山寺天平古文書云、栄山寺領高栗栖牧地参拾町、在字智郡那賀郷河南三条五灰焼里北辺布師村。
丹生川《ニフガハ》 南宇智村を貫き吉野川に入る、此川は吉野金峰に発源し、丹生川上神(南芳野村)在り、南宇智大字|丹原《タンバラ》にも丹生川神社あり延喜式に列す。
霊安寺《リヤウアンジ》 南宇智村に在り、今寺廃し廟を存す、御霊明神と称す、井上皇后他戸太子の霊を祭る。皇后宝亀三年巫蠱に坐して廃せられ皇太子従ひて庶人と為り并に憤死し玉ふ、宝亀九年改葬、延暦中に及び山城京に御霊社を立て、本郡に山陵を置かる。延喜式、霊安寺料四千束は官稲を分給せられし制也 蓋霊安寺は陵廟供奉の僧房にして、延暦中の創建とす。
宇智陵は光仁天皇々后井上内親王の墓也、霊安寺の西大字|御山《ミヤマ》に在り、御霊塚と称す。〔名所図会〕廃太子他戸親王(井上皇后腹)の墓も同※[やまいだれ+(夾/土)]と云ふ。〔県名勝志〕延喜式云、字智陵、皇后井上内親王、在大和国字智郡兆域東西十四町南北七町|火雷《ホノイカヅチ》神社は南宇智郡大字|御山《ミヤマ》に在り、蓋字智陵に就き更に祠廟を建てたる也、三代実録、貞観元年正四位上火雷神授従三位、元慶三年授正三位とあり。当時の俗、鎮魂其所を得ざれば、其霊鬼火雷と化りて世を害すと為せり、故に此祠あり、又延喜式に列したり。
坂合部《サカヒベ》 坂合部村は近年の命名にして、紀伊国伊都郡の交界なれば也。大字大深に狭嶺山あり「続日本紀、慶雲三年、大倭国狭嶺山麓」とあるは此なりと云。〔名所図会〕
落杣《オチソマ》神社は延喜式に列す、今坂合部村大字黒駒に在り〔県名勝志〕落刊本一に蕗に作る、或云落杣は久米仙を謂ふかと、久米の仙人《ソマビト》其通力を失ひ吉野川辺に降落したる古諺あり。(吉野郡龍門を参考すべし)
阿※[こざとへん+施の旁]《アダ》郷 和名抄、宇智郡阿陀郷、音可濁読。今|阿太《アダ》村字智村北宇智村等か、吉野川の北岸なり。万葉集阿太大野又字智大野とよめるも本郷の中なり。阿太は字智郡の旧名なるべし、其居民漁業に名あり、阿太鵜養又は阿太人と称す。古事記玉垣宮(垂仁)段云、御子大中津日子者、阿太之別等之祖也。日本書紀云、神武天皇至吉野、及縁水而行、亦有作梁取魚者、天皇問之、対曰臣是|苞苴担《ニヘモチ》之子、此則阿太鵜養部始祖也。
阿大人の梁《ヤナ》うちわたす瀬をはやみこころは思へどただにあはぬかも、〔万葉集〕延喜式阿多比売神社あり、今阿太村大字原に鎮座す、蓋阿太鵜養部の祖神なり。鵜養部は一に贄持部と称し其祖神武天皇の大帥に帰順し、垂仁帝の皇子大中津彦は阿太の別君と為りたまふ、阿太人は異種他類の義ならん。
真葛原なびくあき風吹く毎に阿大の大野の芽子が花ちる、〔万葉集〕
阿陀墓は藤原良継の墓、平城天皇外祖父なるを以て延喜式に列す、今阿太村大塚是也。〔名所図会〕延喜式云、阿陀墓、贈大政大臣藤原朝臣良継、在大和国字智郡兆城東西十五町南北十五町。
補【阿※[こざとへん+施の旁]比売神社】○神祇志料 阿※[こざとへん+(施−方)]此売神社、今阿※[こざとへん+施の旁)]郷原村にあり(大和志・名所図会)蓋大山津見神の女神阿多都比売を祀る、
按、神阿多都比売又豊吾田津姫、吾田津姫或は神吾田鹿葦津姫又鹿葦津姫に作る。
亦名を木華開耶姫と云(日本書紀・古事記)初皇孫瓊瓊杵尊天降りて吾田長屋の笠狭の崎に至り坐時、開耶姫に娶坐て火照命、火須勢理命、火遠理命を生坐き、(日本書紀・古事記・旧事本紀)凡そ十月廿九日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
宇智《ウチ》 今宇智村立つ、古の内野の地蓋是なり(今大字今井安生寺に延喜式宇智神社あり、国生明神と称す。〔大和志〕又其北に荒木山あり、延喜式荒木神社あり、按ずるに姓氏録「玉祖宿禰、建荒木命之後也」とあれば玉作部の祖神なり、今井の北大字|三《サン》在に庶人《シラウド》墓あり、土人は之を以て廃太子他戸親王と為す。〔名所図会〕 高市崗本宮御于(舒明)天皇、遊猟内野之時、中皇命使間人連老献歌、
たまきはる内の大野に馬なめてあさふますらむその草深野、〔万葉集〕
宇野《ウノ》 宇智村大字宇野は保元物語に見ゆる源親治が邑也、宇奴首も此地の旧族か。姓氏録云、大和国諸蕃宇奴首、出自百済国男弥奈曾富意弥也。保元物語云、法性寺一の橋の辺にて、馬上十騎計り直冑の兵上下二十余都へ打て上りけるが、大将進み出で身不肖に候へども形の如く系図なきにしも候はず、大和守頼親が四代の後胤下野権守親弘が子に宇野七郎源親治とて、大和国奥郡に久しく住して未武勇の名を落さず、左大臣頼通殿の召しに依つて新院の御方に参ずるなり、源氏は二人の主取ることなければ宣旨なりとも得こそ内裏へは参るまじけれとて、打ち過ぎけれ。
栄山寺《エイサンジ》 字智村大字子島に在り、今梅室院と称す、藤原武智麿養老三年創始す。武智麿は藤氏南家の祖にして、薨じて此に葬る、其子豊成仲麿并に顕達す。今寺蔵山城国深草道澄寺の古鐘あり、(国宝に列す)銘文は小野道風書とぞ、天下の絶品と云。栄山寺古文書曰、天平神護元年九月官符、大和国司、応永為栄山寺領掌山地畠水田等之状、贈太政大臣武智麿公御墓山地壱佰町(在阿陀郷)(中略)右寺家本願贈正一位藤原朝臣施入、厥後男豊成卿申請、為不輸租田、宛供燈料修理等、而土人致妨、国宰亦収公云々。
後阿陀墓は栄山寺の北に在り。〔名所図会〕延喜式云、後阿陀墓、贈太政大臣正一位藤原武智麿、在大和宇智郡、兆域東西十五町南北十五町。(栄山寺大平古文書云墓山地弐佰捌拾町、在阿陀郷鵜野)
牧野《マキノ》 今北宇智村牧野村なるべし、太平記に大和国官軍真木野宇野酒辺等あり、酒辺は今坂合部村にや。槇野城址は牧野村大字上村に在り槇野氏の居館也〔名所図会〕南山巡狩録云、南朝編年略記に佐佐木系図を引て大和国字智郡水越に於て三輪入道西阿真木野入道定観男宝珠丸長谷寺談峰の衆徒を牒じ合せ師直と合戦に及ぶ、佐々木佐渡四郎左衛門尉秀宗師直が命をうけ接戦して終に討死すといふ。(水越は槇野の城地の名なり)
一尾瀬《イヲセ》神社は延喜式に列す、今牧野村大字北山に在り水分神と称す、宮前霹靂社神は延喜式に列す、今北宇智村大字西久留野に在り雷神と称す。〔大和志県名勝志〕
高天《タカマ》山 牧野村の上方にして葛城金剛山を指す、延喜式高天山佐太雄神社は大字大沢の神福《カメフク》山に在り、延喜式高天岸野神社は大字北山の岸野に在り。神州奇苑云、大沢村蓮華寺に古瓦多し、享保中土中より墓誌一枚出づ、厚二寸長六寸八分濶九寸、表に文字を彫る、瓦製にて彫文には朱をさせりとぞ。
従五位上右衛士督兼行中宮亮下道朝臣真備葬亡楊妣貴氏之墓天平十一年八月十二日歳次己卯
資母《シモ》郷 和名抄、宇智郡資母郷。今五条町及坂合部村(吉野川北岸)の中なるべし。
五条《ゴデウ》 五条は山を負ひ水に臨み、吉野川の江流を利し奥郡の名邑なり、戸数七百本郡の諸官衙此に在り。往時松倉氏此に築城し、元和以後徳川幕府の時吏を派し之を治す五条代官と称したり。文久三年八月京師大和行幸の議あり、諸州浪人廷臣中山侍従忠光を擁し行幸の先駆たらんと欲し、大和河内に入り兵を集、松本謙三郎(奎堂)藤本津之助(鉄石)吉村寅太郎等其魁帥たり、五条陣屋を襲ひ、代官鈴木某を殺し、吉野十津川に赴き幕府の来討を拒む、事就らずして皆敗死す、天誅組の乱是也。
須恵《スエ》 五条町の東北に接す、八幡宮あり、三代実録、元慶五年授位|統《スヘ》神は是なりと云ふ〔大和志〕。文久三年天誅組の乱に、須恵野に代官等の首級を掛渡たる事あり。
切りとれば羊頭さへ憐なり寒き葉つきの須恵のやまはた、 伴林光平
補【五条】○人名辞書 文久三癸亥の年八月十二日、大和行幸夷狄親征の盛挙を天下に布令す、河和摂泉の壮士之をき、鳳輦を迎んとす、已にして其事やむ、松本謙三郎・吉村寅大郎等侍従中山忠光を奉じて、義兵を大和五条村に集む、是より十津川の郷兵を招き、白銀峰和田峰等にたゝかふ、幾もなく藤本鉄石以下壮士数輩已に軍に死す、伴林光平乃ち和歌を詠じ之を弔す、曰く「武士の屍をさらす荒野辺に咲きこそにほへ大和なでしこ」已にして糧仗継がず衆寡敵せず、十津川の郷兵稍逃去る、光平長門に赴き再挙を謀らんとす、不幸にして脚疾を発し縛せられ、京師の獄に下る、光平幽憤の遣るべきなく、曰く「畝火山そのいでましを玉だすきかけて待しは夢かあらずか」獄中往事を追想し、手づから藁筆を製し、大和義挙の概意を記し名づけて南山踏雲録といふ、居ること数月刑に死す。
○大八洲游記 五条駅居民三千四百、頗為大邑、文久三年三河人松本衡、備前人藤本真金、擁廷臣中山忠光、殺代官鈴木源内挙兵、唱尊攘之戦、事不就、皆死、世謂之五条之乱、即此地也。
補【須恵神社】○神祇志科 統神
按、本書一本三統神に作る
今宇智郡須恵村にあり(大和志・名所図会)陽成天皇元慶五年十月丁酉、正六位上より従五位下に叙さる、(三代実録)凡そ其祭八月十六日を用ふ(奈良県神社取調書)
二見《フタミ》 五条町の西に接し二見神社あり、延喜式に列す、今雨師と称す〔大和志〕。姓氏録云「二見首、富須洗利命之後也」と、是れ筑紫の阿多隼人の祖神|火闌降《ホスセリ》命の子孫と為す者にして、疑ひなきに非ず、神武帝東征以前に、阿多人薩摩より転移し来れりと想はれず、同名なれば、姓氏録に祖先冒称のままに記したる者か。二見城址は吉野川に臨み、慶長年中松倉弥七郎重政築く所也、重政は越中新川郡松倉村の人、大和に来り筒井氏に仕官し、才幹勇気一世に重く関原役東軍に従ひ功あり、徳川家康抜擢して二箕《フタミ》二万石を給与す、大坂役又功あり、肥前島原城に移封せらる。〔原城記事、徳川加除封録〕
補【二見神社】○神祇志料 二見神社、今二見村にあり(大和志・名所図会)
按、大和国図、上中下等の村あり、蓋古へ阿※[こざとへん+(施−方)]郷を三つに分ちたる名と聞ゆ、二見村又三村と相近き時は古への阿※[こざとへん+(施−方)]郷内なり、姑く附て考に備ふ
蓋二見首の祖神富須洗利命を祀る(新撰姓氏録)
按、富須洗利命或は火須勢理命、火闌降命、火酢芹命に作る、並に同じ
亦名を火進命といふ(古事記)凡そ其祭九月九日を用ふ(奈良県神社取調書)
真土山《マツチヤマ》 和州紀州の堺上に在り、今紀州伊都郡隅田村の東に大字|芋生《イモフ》真土相並び、紀之川の北岸通路に沿へり。此辺に紀之川を角太《スミダ》川とも呼ぶ、古の紀伊路なるを以て、覊旅の詞藻多く万葉集に見ゆ。
亦打やまゆふ越行きて廬前《イホサキ》の角太川原にひとりかもねん、 弁基
亦打は真土に同じ。略界云、すみだ川と云所、古今集には武蔵下総のあはひと云、古今集には武蔵下総のあはひと云、古今六帖には出羽なる青戸の関のすみだ川とも有、又駿河庵原郡にもあれど、此なる弁基の歌は紀伊国と定むペし。
白栲ににほふ信土《マツチ》の山川にわがうまなづむ家恋ふらしも、〔万葉集〕
大宝元年辛丑九月太上天皇幸紀伊国時歌
朝もよし木人ともしも亦打山ゆきくと見らむ樹人ともしも、 調首淡海
たびなれば誰かは我をまつち山ゆふ越えゆきて宿は間ふとも、 本居宣長
雪と見て駒やなづまむ白妙ににほふ真土の山ざくらばな、 本居大平
紀伊名所図会云、古の亦打山、国郡界少変して今和州|木原《コノハラ》村(今牧野村大字木之原)に属す、廬前は芋生《イモフ》待乳川紀川へ合流する処を云ふ、芋生《イモフ》は庵と云ふ詞の訛にて此地出崎の如きを以て庵崎《イホサキ》の名あるなる可し、今|上夙《カミシク》村に岩坂とて海道に岩を敷る小坂あるを庵崎の転語と云へどもあやまりなり、又今の堺川の東道に宮ある山を待乳峠《マツチタウゲ》と云ひて大和国に隷けり、古は峠より少し南の方を越ゆるを南海道とす、万葉集に所謂待乳山是れなり。上古此海道を木戸《キノト》と名く、帝都より紀伊国に出づる門の義なり、其山脈は葛城《カツラギ》連峰に起りて北より南に走り、紀和両国の隔をなす、古国都の堺を定むるとき此山の東を大和とし西を紀伊とす、故に神亀元年笠朝臣今村の歌にも「木道に入たつ真土山《マツチヤマ》」と読めるならん。又峠の西麓《ニシノフモト》に木原《コノハラ》畠田《ハタダ》等の村ありて今大和に属すれども永仁弘安の文書に二村を隅田庄とす、益証とす可し。
木戸《キノト》 紀伊の門の謂にて、皇畿と余州の関塞なり、後世其名は伝はらねど真土山の辺りに在りし也。古事記玉垣宮(垂仁)段云、御子本牟知和気命、遣拝出雲大神之宮時、自那良戸(那羅山)遇※[足+支]盲、自大坂戸(穴虫越)遇※[足+支]盲、唯木戸是腋戸之吉戸、卜而出行。
字智河崖涅槃経碑の事、古京遺文に載せ、五条駅などの辺と想はるれど、今存否をだに詳にせず。
大般涅槃経
諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅為楽
如是偈句乃是過去未来現在諸仏所説開空法道如来証涅槃永断於生死若自至心聴常得無量楽若有書写読誦為他能説一経其身於劫後七劫不墜悪道
宝亀九年二月四日 工少……… 知識……
右、刻在大和国字智河、就崖書、後彫仏像、区未完、似鐫鏤不卒業者、字頗漫滅、而以碑首大般字、遂或謂大般若経碑者誤。
伊賀国
伊賀《イガ》国 東北二面は伊勢近江に至り、山嶺を以て相限る、南西二面は大和(宇陀山辺及添上)諸郡と交錯し、村落相雑る、東西凡七里、南北凡十里、四山※[てへん+賛]合し沿河の地稍平坦なり。今人口十一万面積約四十七万里。地勢を以て之を視れば、木津《キツ》川(淀川支源)の上游に居り、当に畿内に附属すべし。而て其北域は旧伊賀阿拝山田の三郡にして、全く伊賀川の一渓なり。其南域は旧名張郡にして、宇陀|山辺《ヤマベ》の諸水、西南両面より之に乱注し、境界最不整なり。明治廿九年、伊賀名張を合同し名賀《ナカ》郡と改め、山田阿拝を合同し阿山郡と改め、境域益不整なり。県冶は三重に属す、是れ津藩藤堂氏の故習に依る者也。伊賀は和名抄、以加、管四郡とあり、大彦命(孝元皇子)の裔孫此に居り、伊賀臣と称す、蓋伊賀国造の祖なり。
姓氏録云「皇別、阿閇朝臣、大彦命男彦背立大稲輿命之後也、伊賀朝臣、大稲輿命男、彦屋主田心命之後也。」日本書紀「持統天皇六年、幸伊勢、賜所過神郡及伊賀伊勢志摩国造冠位」、然るに国造本紀は之に異なり、「伊賀国造、志賀高穴穂宮(成務)御世、意知別命三世孫、武伊賀都命定賜国造」と、意知別は書紀垂仁皇子|租別《オチワケ》命、古事記|落別《オチワケ》王に作る者是なり、本国に大内の地名存す。国造本紀又云「伊賀国、難波朝(孝徳)御世、隷伊勢国、飛鳥朝(天武)代、割置如故」を扶桑略記倭姫世記に参考するに、天武天皇九年「割伊勢四郡、建伊賀国」とあり、惟ふに大化改新の際、畿内を定めて東は名墾の横河(名張川)以来と為され、伊賀国を停め其東部四郡を伊勢に隷せしめ、西部宇陀郡を大倭にに入れ、天武帝の時再び伊賀国を置かれしににたり。伊賀伊勢は平氏の嘗て拠る所也、寿永の乱、平買惟義(信濃人)守護と為り平氏余党を討平す、其弟朝雅子惟信相尋で州職を賜り大内氏と称す、佐藤朝光又州守に任じ、其子孫伊賀氏を称す。南北朝の際、足利氏仁木義長をして伊賀伊勢を兼知せしめ子孫に伝ふ、応永の初め足利氏地を割き北畠顕泰(南伊勢の国司)に与ふ、勢州軍記に「伊賀四郡者、仁木家之領地、雖然名張伊賀二郡之侍、不従之」とある是也。永正の末、仁木氏衰へ、諸族相鬩ぐ、天正七年、北畠信雄(織田氏)撃て諸族を滅す、十一年信雄豊臣秀吉と隙あり、秀吉の臣脇坂安治上野城を襲ひ之を取る、十二年秀吉大和国主筒井定次を伊買に移封す、(八万石)以て慶長十三年に至る、徳川氏其封を収め之を藤堂高虎に賜ふ、藤堂氏世襲、上野に鎮将を置き之を治めたり。伊賀は一に伊州と称す、伊賀風土記残篇と云ふ者あり、伊賀旧|吾餓《アガ》と曰ふなど説く所あれど、信憑すべき書に非ず。
補【伊賀国】○日本国郡沿革考 以加、伊賀は孝元天皇長子大彦命の裔此地に居り国造となる、後伊勢國に併せ、尋で分て伊賀国を置く、始めて天武天皇紀に出づ、
孝元天皇七年、大彦命是阿倍臣、膳臣、阿閇臣(中略)伊賀臣、凡七族之始祖也。姓氏録曰、阿閇臣、大彦命男彦背立大稲輿命之後也、日本紀合」伊賀臣大稲輿命男屋主田心命之後也、日本紀合。天武天皇二年八月甲辰朔壬辰、詔在伊賀国紀臣阿閇麻呂等、壬申年労勲之状。按扶桑略記曰、天武天皇九年七月割伊勢四郡建伊賀国。倭姫世記亦同じ、蓋是年復分置せしなるべし、二年伊賀国を載するは追書に出づるなり。持統天皇六年三月辛未、幸伊勢、壬午賜所過髪郡及伊賀、伊勢、志摩国造等冠位。按国造は蓋伊賀臣の後ならん。
伊賀越《イガゴエ》 伊勢|鈴鹿《スヾカ》関より本州|柘植《ツゲ》に踰え、(大岡寺《ダイカウジ》峠)山城国笠置に向ひ、以て京都奈良及び大阪に通ずるを伊賀越と称す、平城造都の時官道と為る。又古の高市《タカチ》京の東海道線を按ずるに、是は宇陀郡|三本《サンボンマツ》松より本州名張に至り柘植に会せし也。又|倉歴《クラフ》山道と云ふ者あり、柘植より近江甲賀郡へ赴くものなり。○今関西鉄道は関《セキ》より来り、柘植に至り二分し、一は上野を経て笠置に向ふ、即伊賀越なり、一は直に北折して深川石部(甲買都)に向ふ、即倉歴山道なり。伊賀|専女《タウメ》は、源氏物語、東屋巻にいがたうめとありて、狐の異名と云ふは疑はし、岷江入楚云、伊賀の諺に、中立ちをたうめと曰ふ、新猿楽記には「伊賀専の男祭、叩※[虫+包]苦本舞」とつづけたり。三国地誌云、専女は老嫗の謂なり、古書に物の一むきなるをたうめと云へば、皆絶経の婦を称するならん。○伊賀衆(又伊賀者)とは、徳川氏旗本軽輩の一団隊なり、旧伊賀の郷士土兵して、徳川氏之を招致し、江戸開府の後、尚其団結を解かず、之に邸宅を給し、子孫奉仕、仍故実に依り、累世伊賀衆と称したり、蓋天正七年織田氏伊賀討平の頃、散亡して徳川氏に帰参したる者ならん。
名賀郡
名賀《ナガ》郡 明治二十九年、名張伊賀両郡を合同し、名賀の号を立つ、郡衙を名張町に置く、管する所十八村、四方凡五里。
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名張《ナバリ・ナンバリ》郡 明治二十九年廃し、其地名賀郡へ入る、伊賀国西南部、境域不整の小郡なり、大略三角を成す、東北は伊賀郡と分水嶺を以て相限り、東南の一角|六箇山《ロッカヤマ》郷は伊勢一志郡に触接す、南は大和宇陀郡と錯り、西は大和山辺郡と錯る、宇陀川南より来り、西偏を過ぎ北流す、名張川と称す、名張町郡の中央に在り。(名張俗唱ナンバリ)
名張古書或は隠に作る、天武紀に「車駕東行、到菟田大野、(宇陀郡三本松村)以日落也、及夜半到隠郡」と、隠慝を古言奈波利と曰ふ。○和名抄、名張郡、訓奈波利、分三郷とあれど、其西南は大和国と錯雑するを以て、東大寺要録、長徳四年注文、伊賀国笠間荘は和名抄、宇陀郡に属し、今は又山辺郡に移る等の沿革之あり。
吾夫子はいづく行らむおきつ藻の隠の山を今日か越ゆらむ〔万葉集〕
古事記、大倭日子※[金+且]友命(懿徳)弟、師木津日子命之子二王坐、伊賀那婆理之稲置等之祖。姓氏録、皇別、名張、阿閇臣同祖。大日本史云、承和中、伊勢盗聚名張郡山中、私鋳銭、坂上当宗率近衛夷俘等、索捕獲之。伊賀考云、天正伊乱記曰、名張中村(今箕輪村)の住土中村半六、かれ等先祖は太平記に載たる名張八郎が子孫なり。
名墾《ナバリ》川 和州宇陀川の末にして、伊賀に入り西《ニシ》川と曰ふ、孝徳天皇大化二年、畿内を定め、東は名墾《ナバリ》横河《ヨコカハ》以来と為さる、横河即西川なり、更に曾爾郷(宇陀郡)より来注する滝川東川(長瀬川)等を併せ、名張町の西を経て北流す、乃|月瀬《ツキノセ》の北に至り、山城相楽郡に入り、伊賀川と合し淀川の上游と為る。
黒田《クロダ》 名張川の西岸に在り、西は笠間三本松(共に大和国)等に接す、今|錦生《ニシキオ》村に属す、東大寺古文書、「天喜四年、里田郷」東大寺要録「承久三年官符、寺領黒田荘同新港伺出作」又神宮年中行事に「寺領黒田荘」見ゆ、往時は名張郡の大荘にして、東は六箇山神戸に至る。
補【黒田】名張郡〇三国地誌 東大寺要録〔重出〕承久三年弁官符、寺領拾弐参箇処の中伊賀国黒田荘同新荘同出作。
安部田《アベタ》 今錦生村と改称す、黒田の南に接す、永享十二年東大寺文書「安部田村井手村」。(共に今錦生に属す)三国地誌云、安部田は今郷名に呼び.黒田は之に属す。
補【安部田】名張郡〇三国地誌 郷名安部田、黒田村等四村。東大寺古文書天喜四年黒田郷、又神宮年中行事に見ゆ。永享十二年同書安部田村、井手村あり。○今錦生村大字。
矢川《ヤカハ》 矢川今錦生村に属す、名張川の南岸、安部田の南に在り、東大寺古文書延久以下の者に矢川郷又矢川条多く見ゆ、又|滝口一井《タツノクチイチノヰ》寺垣内(丈六寺なり)等も見ゆ、矢川の郷内なり。三国地誌云、類聚国史、貞観九年授位の鹿高《カタカ》神は矢川に在り、東大寺文書にも散見し、今春日神社と呼ぶ。
補【鹿高明神】名張郡〇三国地誌 類聚国史貞観九年正六位上鹿高神は矢川村に在り、東大寺古文書にも多く見え、今春日明神とす。○錦生村大字矢川。
滝川《タキガハ》 赤目《アカメ》滝の流末諸村、今合併して滝川村と曰ふ、大字|檀《マユミ》長屋柏原|星合《ホシガフ》等は、東大寺嘉暦二年古文書に見ゆ。○三国地誌云、道観長者宅址、一井《イチノヰ》(今滝川村大字)に在り、方二町許、道観芝と云ひ墓存す、又|青蓮寺《シヤウレンジ》山の上、字八幡山にも宅址あり、相伝ふ道観近隣九郷を領して此に住し、八幡山より良材を出して、東大寺二月堂を修造す、其所由を以て今に至るまで秉炬木を調進す、秉炬木一荷に精米一斗二舛宛東大寺より出す、正保年間八幡山争論ありて、四五年の内中絶せしが、東大寺より訴へて一ノ井極楽寺にて製造して下行を給はる、此事実なりと雖、道観がこと詳ならず。
補【檀】名張郡〇三国地誌 今郷名、東大寺嘉暦二年古文書に檀見ゆ、柏原星合など郷名の村里皆同じ。○今滝川村大字。
赤目滝《アカメノタキ》 一名|阿弥《アミ》が滝と曰ふ、宇陀郡|曾爾《ソニ》郷の南高見山より発源し、屈曲四里、滝長坂に至り懸水と為り、琵琶湖に落ち、更に飛流激湍と為り、四十八所の多きに及ぶ、其尤魁たる者を龍壷布引千手不動伶人等是なり、末は一里余にして名張川に入る。〇三国地誌云、赤目山は形八葉にして、正中を妙法と名づく、山中に胎内洞屏風岩等の奇あり、精舎を滝寺延寿院と曰ふ、堂舎の結構尤倹素なり、僻地危険なれば、山気粛索として、梵境の幽邃、伊州の最と云べし、四至八町、侯家施入の地なり、建武二年、住侶領黒田荘の土民と争論の古簡を蔵せり。
赤目山、有四十八瀑、其大者十二、曰行者曰千手曰不動曰霊蛇曰曳布曰滝壷曰縋藤曰柿窪曰横潭曰荷担曰琵琶曰厳窟、(節録五首) 梅※[土+孰]
潭光明可鑑、人影散※[さんずいへん+放]魚、側有盤陀石、面鐫行者書、飛流漱厳口、散沫白紛々、万点乱桜花、春風吹不分、大響揺坤軸、高勢自雲中、※[山+肖]壁如墻立、雪花翻夏風、細路依垂葛、間雲纏古松、一水当厳砕、忽成双白滝、水気沾衣袂、廻岩幽且深、樵人帰尽已、風声在樹林、
補【延寿院】名張郡○三国地誌 矢川郷滝長坂に在り、滝寺とも云ふ、役小角開くところにして、堂舎の結構尤倹素なり、僻地絶険山気粛索、梵境の幽邃国中の最と云べし、四至八町、侯家施入の地なり、建武二年、住侶聖観及び円信慈観以下、寺領黒田荘の土民と争論の古文書あり。○錦生村。
丈六《ジヤウロク》寺 滝川村大字丈六に在り、相伝ふ古は七堂坊含の大伽藍にして、今安置する処の本尊は其遺像なりと云ふ、東大寺永享十二年文書に丈六寺、嘉暦二年文書に丈六郷見ゆ。丈六の東|柏原《カシハラ》より僧妙沢と云者出たり、此僧夢窓国師に嗣法して、後は天龍寺寿寧院に住み画を能し、中にも不動三尊に妙を究む、世に妙沢不動と称す。〔三国地誌〕
補【丈六】名張郡〇三国地誌 今郷名、嘉暦二年東大寺古文書に見ゆ、郷の中なる長屋村も見ゆ。○滝川村大字。
丈六寺 三周地誌、丈六村に在り、相伝ふ古は七坊舎の大伽藍にして、今安ずる拠の本尊は其遺像なりと云、永享十二年東大寺古記に丈六寺云々の事あり。柏原村より出夢窓国師より嗣法して、後天龍寺寿寧院に住す、画を能す、中にも不動三尊に妙を究む、世に妙沢の不動と称す。
夏見《ナツミ》郷 和名抄、名張郡夏見郷。○今|箕曲《ミノワ》村に大字夏見存す、本郷は往時滝川|国津《クニツ》比奈知の諸村をも総べたるならん、夏見栗栖は東大寺文書康保元年のものに見ゆ、夏見河は東《ヒガシ》川の別名也。
夏見《ナツミ》神社 春日社記に見ゆ、鹿島神遷幸の遺跡とぞ、二十二社註式云 「神護景雲元年六月、伊賀国名張郡夏身郷一瀬川御沐浴、以鞭為験立給、成樹生附」と即此なり。○三国地誌云、中村青蓮寺国津神戸等の名は、東大寺長承三年文書に見ゆと、中村今箕曲村に属す。
青蓮寺《シヤウレンジ》滝 夏身の南、山中に在り、其地を青蓮寺と字す、飛泉三段、凡二十丈、源は曽爾郷に発す、青蓮寺山の東に三国山あり。
六箇山《ロクカヤマ》 夏身の東《ヒガシ》川(長瀬川)の上游にして、今大和伊勢伊賀三国に分隷す、太郎生《タラフ》村(一志郡)御杖《ミツエ》村(宇陀郡)国津村比奈知村(本郡)是なり、古は六箇山郷と称す。東鑑、元久元年、平氏の余党富田基度三浦盛時乱を起せる時、大内朝雅兵を以て伊賀に入り、盛時を六箇山に攻め、之に克たる事見ゆ。三国地誌云、比奈知《ヒナチ》郷長瀬郷長木(今国津村大字長瀬奈垣)は東大寺承安二年文書に見ゆ、又神鳳抄に多良牟六箇山の神戸あり、蓋皆此地なるべし、多良牟は即太郎生とす、天承二年、伊勢太神宮領六箇山、并東大寺領黒田荘等境を実検せしめん為め、官使下向の事旧案之あり、古図にも出たり、今下比奈知の国津《クニツ》明神社地を六箇山と曰ふ、国津杜は本郡各処に多し、慶長十八年の旧案に、下比奈知滝原(今比奈知村)奈垣布生(今国津村)多羅生神末(今御杖村)を六箇山と載たり。○按ずるに、三国地誌「六箇山はもと一社他の名と云とも、六邑を神戸と為し貢調を供するを以て、六筒山郷と称するか」とあるは事理本末を違へり、国津社は神戸の※[まだれ+寺]なれば、後世某社を六箇山とも呼べるならん。○延喜式、名張郡|名居《ナヰ》神社今比奈知村に在り、山神と云ふ、郡内各処に分祀して二十余に及ぶ、而て此所を推して総社と為す、前年まで本地仏観音菩薩を祭る、〔三国地誌〕按ずるに名居神社、即六箇山の地主祠にて、国津神と称するものか。
補【比奈知】〇三国地誌 今郷名。東大寺承安二年古文書に見ゆ、郷の中なる長瀬・長木なども見ゆ。○神鳳鈔、多良牟六筒山は天承二年七月伊勢大神宮領六箇山并東大寺領黒田荘等境を実検せしめん為に使を下されたる事あり、又古図にも出たり、今下比奈知村国津明神の社地を六箇山と云、所謂六ケとは下比奈知・滝原・奈垣・布生・多羅生・神末是也、慶長十八年の旧案に見えたり、六箇山は一社地の名といへども、此六箇邑神戸の貢調を供するを以、山名を以称する、多良牟は恐く多羅生の転訛なるべし。○今比奈知村。
三国《ミクニ》山 六箇山郷の西に峙ち、伊賀伊勢(一志郡)大和(宇陀郡)の交界点に当るを以て此名あり、高七千尺、伊賀第一の峻峰と云ふ。(首岳を参考)
名張《ナバリ》郷 和名抄、名張郡名張郷。○又隠駅家と称し、中世|簗瀬《ヤナセ》荘と云ひ、今の名張町是也。
補【名張郷】名張邸○和名抄郡郷考 伊水温故、名張町旧名簗瀬と云、簗瀬城簗瀬駅は慶長の始、羽柴伊賀守が与力松倉豊後守重政八千石を領し、当城に居住す、又名張寺は今処不詳、准后記にも見えたりと。行嚢抄大坂より諸方城下道程、伊賀之名張九十九里、和泉守家司藤堂宮内在所。菅笠日記、阿保よりは三里とかや、町中に此わたりしる藤堂の何がしぬしの家あり、その門の前をすぎて町屋のはづれに川のながれあふ所に板橋を二つわたせり、なばり川やなせ川とぞいふ、いにしへなばりの横川といひけんはこれなめりかし。
名張《ナバリ》 人口四千、本州の名邑なり。東川西川本郷の南に会し、名張川と号す。○日本書紀、(大海人皇子東行段)「夜半到隠郡、焚隠駅家、因唱邑中曰、天皇入東国、故人夫諸参趁、然一人不肯来」。万葉集の隠野《ナバリノ》は後世加久礼野と訓む、本歌は
暮にあひてあした面なみ隠野《ナバリノ》のはぎはちりにきもみぢ早つげ
よひに会て朝おもなみ隠にか気ながき妹がいほりせりけむ、
又隠山、
わがせこは何くゆくらむおきつもの隠の山を今日か越ゆらむ、〔万葉集〕
名張は梁瀬《ヤナセ》とも曰ふ、倭姫世記に簗作瀬の細鱗魚を奉る由見ゆ、是地名の起る所也、東大寺文書、元徳元年及養和元年簗瀬荘とあり、〔三国地誌〕又東大寺要録「承久三年官符、当時寺領弐拾参箇処之一、伊賀国梁瀬荘」。
市守《イチモリ》宮 皇太神宮遷幸の時、隠の市守宮に次りたまふ事、倭姫世記に載せ、崇神帝の朝に在り、今名張の市中に坐す小祠是なり、俗之を恵比須堂と云ふ、其処を夷町と呼ぶ、昔は毎月六度の市ありて、隣国より人民輻輳せり、蓋古の遺風とぞ、市守の名空からざるを知る。〔三国地誌〕
宇流富志禰《ウルホシネ》神社 三国地誌云、梁瀬郷|平尾《ヒラヲ》に在り、三代実録授位の宇奈根神即此なり、東大寺古図に「簗瀬条宇船明神」と標す、春日神の遺跡とぞ、公事根源曰「春日明神、鹿島より御住所尋ねに出給ふ、御乗物は鹿にて、柿の木の技を御むちに持たせ、伊勢の国なばりの郡につかせ給ふ、御ともには中臣の連時風秀行と云人なり」。〇三代実録、貞観三年、高蔵神高松神宇奈根神並授従五位下、十五年、宇奈根神授従五位上。
補【宇奈根神社】○神祇志料 宇奈根神、按神名帳即本
宇流富志禰神の宇流を字奈禰と訓じたるを以て、宇流富志禰神を此神なりと云ひ、名居神を宇奈根神なりと云説も聞ゆれど、いづれも未だ其確証を得ず、故に今取らず。
清和天皇貞観三年四月十日甲寅、正六位上高蔵神、阿波神、高松神、宇奈根神、並に従五位下を授け、十五年九月廿七日己丑、宇奈根神を従五位上に殺さる(三代実録)
名張《ナバリ》塞址 津藩藤堂氏の将士を置き地方を鎮ぜる所也。伊水温故云、簗瀬城は、慶長の初め、羽柴伊賀守(筒井)が与力松倉豊後守重政八千石を領し此に住す、(天正十三年より慶長五年の比までなるべし)三国地誌云、寒松廟(藤堂高虎)寛永十三年、宮内少輔高吉君をして名張に第を造り居らしむ。菅笠日記云、名張は阿保より三里とかや、町中に此わたり知る藤堂の何がし主の家あり、門前を過ぎて、その町屋のはづれに、川の流れ合ふ所に板橋を二つわたせり、名張川簗瀬川(東川)とぞ云、古へ名張の横川と云ひけんはこれなめりかし。
周知《スチ》郷 和名抄、名張郡周知郷。○今|薦原《コモハラ》村蔵持村等なるべし、三国地誌云、薦生郷八幡村(今薦原村)は旧名|唐琴《カラコト》里、永閑名所記に周知郷は唐琴里なりと為す。
周知は古事記「大倭日子※[金+且]友命(懿徳)弟、師木津日子之命之子、二王座伊賀須知之稲置等之祖」とありて、延喜式、阿拝郡|須智荒木《スチノアラキ》神社、続紀に須珍《スチ》都計王(阿拝郡柘殖郷)などあるは、此地より出たる称なるべし。(阿保郷参照)
補【周知郷】名張郡○和名抄郡郷考、神名式、阿拝郡須智荒木神社。風土記、荒木山有神、号須智明神、所祭猿田彦、武内宿禰・葛城襲津彦也。周智山周智郷。風土記、地富饒而民用多也。国人云、今此文字を書てヒナチと唱ふる村あり。
薦生《コモフ》 今|薦原《コモハラ》村と改む、名張町の北、名張川の東西にわたる。仁徳紀「遣兵伐隼別皇子、追及于伊勢|蒋代《コモシロ》野、而殺之」或は蒋代は即薦生ならんと曰ふも疑はし、蒋代は素珥山の東一志郡の地なるべし。○東大寺要録「長徳四年註文、伊賀国薦生荘、庄甲荘合四町二百八十歩」とありて、後鳥羽院御巡礼記に薦生邑荘と見え、中山春日明神本郷に存す、即院の御巡拝ありし者也、春日社記に「大神遷幸の時、薦生中出に御贄の栗を植うるに、蕃茂したる事を伝へ、今も八幡村に焼栗《ヤキグリ》井と名づくる神供水あり、東鑑、文治二年、平六※[にんべん+兼]杖時定、於字多郡、与伊豆左衛門源有綱(仲綱息義経聟)合戦」と、俗説弁、伊賀地志云、有綱は伊賀国に至り、薦生にかゝる、当国の勇士服部六郎時定之を討取る。
大屋戸《オホヤト》 今|蔵持《クラモチ》村に属す、杉谷《スギタニ》神社あり、鳥羽天皇の勅建と称す。〇三国地誌云、大家戸村は、東大寺文書天喜元年の者に載す、康保年中には大屋戸郷夏焼村とあり、又大江寺とて、大江定基の創めたる精舎本郷に在りしが、後世廃絶す。
補【杉谷神社】名張郡○地誌提要 郷社、大屋戸村、少彦名命を祭る、鳥羽天皇の勅に依て之を建つと云ふ。○今蔵持村大字大屋戸。
関岡《セキヲカ》 此地名は今詳ならず、名張郡の中かと想はるれば、此に掲出す。関岡家始末云、伊賀国には服部党大名にて、北郡に威を振ひ、信楽の多羅尾も相従ひける、二千人の大将にて、国司(北畠家)の与力なれば、関岡家と水魚の交を為す、関岡の屋形は上野と名張の境目に在りて、多芸御所に近し、元祖大館左馬助氏明の末孫なれど御所の与力にて千五百人の大将なり、甲賀の地侍も与方しければ、三千人の大将とも云べし。(柘植の楯岡を参照すべし)
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伊賀《イガ》郡 或は阿我《アガ》郡と称す、明治二十九年廃し、名賀郡へ併す、北は阿山郡に至り、東は伊勢一志郡に界し、西南は旧名張郡なり、四面囲むに山嶺を以てし、溪澗は相会し一束北流す、即伊賀川なり。本郡は国名に取りて之を命ず、天武天皇紀に「車駕急行、到伊賀郡」の文あり、和名抄、伊賀郡、分六郷、其長田郷大内郷は今阿山郡に入る○国郡沿革考云、凡国名と同き郡名は、中世皆改称したり、伊賀郡は、郡内阿我郷あるに因みて、阿我郡と曰ふ、正保国図之に従ふ、寛文年中伊賀に復す。
補【伊賀郡】○〔脱文〕目鑑世記、阿我中村と云処にて伊勢国司幕下の者どもより集り云々と見えたる阿我は上に引ける風土記の吾娥なれば、後世までも古名を郷名に存して、則伊買郡の内にあるか。風土記、中郡也、東限沢墳、西限高師川、北限横川、南限豊国、以国名為郡名。神宮雑事記、垂仁天皇二十五年天照坐皇大神云々、伊賀郡に宿御坐、即国造奉神戸云々。勢州軍記、一云、西方伊賀国四郡者仁木家之領地也、雖然名張伊賀郡之侍□従之。
〔国都沿革考〕伊賀は国名の由て出る所なり、伊賀郡は始て天武天皇紀に見ゆ、
天武天皇元年六月、天皇即急行到伊賀郡云々
後世阿我郡に作る、阿我郷に因るなり、正保図之に従ふ、寛文中旧に復し、後皆之に依る。 按、和名抄伊賀郡阿我郷あり、凡国名と同じき郡名は中世以後皆之を改称す、伊賀郡其一なり。
六郷の内長田郷の地、今阿拝郡に入る。
和名抄伊賀郡六郷あり、其長田郷今阿拝郡長田村あり、是其遺名なり。
種生《タネオ》 伊賀川の源頭にして、名張の東にあたる、今種生村と曰ふ、其東を矢持《ヤモチ》村と曰ふ、共に三国岳《ミクニダケ》の陰なり。
兼好塚○兼好法師、観応元年伊賀に卒し、国分寺に葬る事、園太暦に見ゆ、而て国見山に其塚在りと云事、国人の伝唱する所なり。三国地誌云、種生村に国見草蒿寺あり、准后伊賀記に国見山草蒿寺の名ありて、信西法師の開基本願なるが、頽敗したるを、元禄年中僧龍雲の再建する所也、永閑名所記曰「名張の奥、国見山に近き辺に、由井の荘と云ふ所に、兼好法師の石塔あるよし、至宝抄に侍る故、尋参りしに、由井と云ふ村のちいさき杉むらの中に、兼好庵の跡とて侍る」と、今草蒿寺の境内に兼好塚あり、元禄年間土民其荒たるを修め築ける者なりとぞ。(国見山は三国岳の別称ならん)
極楽《ゴクラク》寺 種生村大字|老《オイ》川に在り、三国地誌云、当寺本尊趺坐銘曰「東大寺金堂壇上于時弘安七年正月八日、造東大寺大勧進沙門聖然之」云々、鰐口銘曰「伊賀国老川極楽寺応永六年己卯九月三日、勧進聖」
補【極楽寺】伊賀郡〇三国地誌 縁起云、善光寺三尊の中仏なりしが、示現に依て播州赤松家臣宇野修埋、南京より此に安置す。
首岳《クビガタケ》 一名大山岳、種生村大字高尾の南一里余、東は一志郡にして、西は六筒山郷太郎生村なり、岳陰の水は伊賀川の濫觴と為る、伊州の高嶺にて、北は布引山に連る。准后伊賀記曰「三国嵩、藤原千方朝臣之戦場也、霧生郷、千方将軍之墓所在、千方、村上天皇御宇、仰望正二位、無其甲斐、日吉之神輿取奉、而当国霧生郷籠居、紀朝雄為副将軍、討之」と此千方の城跡と云者、三国岳と笛吹山の中間半腹の地に在り、石屏壁立す。(千方は大系図に載せ、稗史に伝ふる所あれど、其事明徴なし、霧生は今|矢持《ヤモチ》村と改称す)
阿保《アホ・アオ》郷 和名抄、伊賀郡阿保郷。○今阿保村上津村是なり、西は阿我郷に至り、東は一志郡に堺す、佐田村|垣内《カイト》を経て安濃津に至る間道あり。(土俗阿保を呼びて阿於と為す、延喜式には早く於保と訛れり)
阿保は旧|穴太《アナホ》と呼ぶ、垂仁皇子息速別王の居邑なり、後の阿我神戸二郷をも総べたり。○古事記玉垣宮(垂仁)段云「御子伊許波夜和気王者、沙本穴太部之別祖也」と沙本は大和にて、穴太は伊賀なり、日本書紀、雄略天皇穴穂部を置きたまふと云は之と相異なり。続紀云、延暦三年「武蔵介建部朝臣人上言、臣等始祖息速別皇子、就伊賀国阿保邑居焉、逮於遠明日香朝廷(允恭)詔皇子四世孫|須珍都計《スチツケ》王、由地賜阿保君之姓、其胤子意保賀斯、武芸超倫、足示後代、是以長谷旦倉朝廷(雄略)改賜建部君、望請返本正名、詔許之」又姓氏録云、皇別、阿保朝臣、垂仁天皇々子息遠別命之後也、息速別命幼弱之時、天皇為築宮室於伊賀国阿保村、以為封邑、子孫因家之、允恭天皇御代、以居地名賜阿保君牲、天平宝字八年、改公賜朝臣姓。〇三国地誌云、
阿保村に字石室又西之森と云所あり、堡址に似て地勢最よろしき地なり、息速別命の遺跡なるか。○皇太神宮遷幸の時、穴穂宮に次ります事、儀式帳に見ゆ、後の神戸郷の地、其旧址とす、神鳳抄神宮雑例集等に阿保神田と云ふは、本郷に属せる供御田なるべし。
補
【阿保】伊賀郡〇三国地誌 和州より伊勢神宮への官道なり、名張より此に至る三里、阿保より勢州垣内に至ること四里。○和名抄郡郷考 続紀天平十年十月伊賀郡.安保頓宮。又延暦三年十一月武蔵介建部朝臣人上等言、臣等始祖息速別皇子就伊賀国阿保村居焉。姓氏録右京皇別下、阿保朝臣、垂仁天皇皇子息速別命之後也、息速別命幼弱之時、天皇為皇子築宮室於伊賀国阿保村、以為封邑、子孫因家之、允恭天皇御代以居地名賜阿保君姓。神鳳抄、伊賀国阿保神田。末社記、伊賀国阿保庄。神宮雑例集、阿保神田。菅笠日記、村道の左に中山といふ山のいはほいとあやし「河づらの伊賀の中山なかなかにみれば過うき岸の岩むら」かくいふは、きのふこえし阿保山より出る阿保川のほとりなり、朝川わたりて岡田別府などいふ里を過て、左にちかく阿保の大森明神と申す神おはしますは、或伊賀郡大村神社などをあやまりてかく申にはあらじや、猶川にそひつゝゆきゆきて阿保の宿の入口にて又わたる云々、伊勢路より此駅迄一里也。
安保《アホ》頓宮址 続紀、天平十二年、幸伊勢国、到伊賀郡安保頓宮宿、大雨途泥、人馬疲煩。○三回地誌云、阿保村六本松に城腰と云所あり、其地凡五間四方の営址と見えて、其形のこる、其側は野山にして、勢州の旧路にあたれば、是頓宮の所なるべし。
延喜式、伊賀郡|大村《オホムラ》神社は阿保村の訛なり、今阿保村に在り、大森明神と曰ふ、三代実録、貞観五年授位。○阿保の北大字|寺協《テラワキ》に吉祥院|宝巌《ハウゴン》寺あり、多く古仏像を収蔵す、文永四年亀山天皇の勒建とす。〔三国地誌〕
補【宝厳寺】伊賀郡〇三国地誌 寺協村吉祥院、多く仏像を蔵す、亀山院勅に依て文永四年建、天皇能作障玉此に歳む、故に宝厳の名ありと云。
伊賀中山《イガノナカヤマ》 阿保邑大字|岡田《ヲカダ》に在り、天武紀云「車駕急行、到伊賀郡、焚伊賀駅家、還于伊賀中山、而当国郡司等、率数百衆帰焉」書紀通証云、中山在岡田村|下河原《シモカハラ》村(今上津村)之間、今中山寺之名存矣。
ながむれば伊賀の中山きりはれて月に数ふる雁がねの数、〔家集〕 源三位頼政
菅笠日記云、道の左に中山《ナカヤマ》と云山のいはほいと奇し、
河づらの伊買の中山なか/\に見れば過ぎうき岸の岩むら、 本居宣長
かく云は昨日越えし阿保山より出る阿保川の辺なり、朝川わたり、岡田別府など云里を過て、左に近く阿保の大森明神おはします、伊勢路より阿保の駅まで一里なり。
上津《カウツ》 阿保村の東に接す、東大寺文書、康平七年の者に阿我郷上津阿保等あり。延喜式、伊賀郡|比々岐《ヒビキ》神社は今|北山《キタヤマ》郷上津に在りて、鹿島明神と称す、〔三国地誌〕今北山伊勢路等を合せ上津村と改称す。
伊勢地《イセチ》 伊勢路の義にて、天武紀に見ゆる伊賀駅家此なり、今も之より東阿保山を踰え、一志郡佐田村垣内宿まで山径四里、大峠と称す、按ずるに天皇東行の時、名張より此に至り、故ありて東踰を果さず、中山に還り、更に柘植路を取り給へる也。
阿我《アガ》郷 和名抄、伊賀郡阿我郷。○今神戸村の一部、及び美濃波多村古山村等なるべし、神戸村大字|上神戸《カミカウベ》に我山《ワガヤマ》の名存す。○本郷は元神戸郷と同く阿保郷の分属なるべし、三郷の区分錯雑甚し、天智皇女に阿雅《アガ》の御名あり、本地に因める者也、其母即伊賀采女宅子姫なり。又中世伊賀郡を改め阿我郡と称したる事あり、准后伊賀記に阿我郷五保と称す、指す所詳らず。
補【阿我郷】○和名抄郡郷考 伊水温故、伊賀郡阿我は准后記に阿我郷五保とは上神戸・下神戸・上林・丸山・子等なり、これ今云阿我山なるべし、但し子等を除て此自岐川を入て五保と云が、丸山を除くかとも云へり。伊賀名所記に阿我の観音堂は玄賓僧都の開基也。
我山《ワガヤマ》 三国地誌云、上神戸の小邑に我山あり、観音堂廃跡をのこす、天正の兵乱に堂塔焼亡し、其遺像は今古山村の吉田寺に在る者是也、准后記曰「阿我郷観音寺、玄賓僧都開基」、永閑記曰「阿我観音堂、畠山宗与入道墓所」。○又云、阿我山蓮明寺に児塚と云者あり、生率部婆と号し松樹生ず、此生塔婆の説紛々として俗談多し、永閑が名所記にも其談あり、
比土《ヒド》 比土村は上神戸の南に在り、今神戸村に属す、延喜式、伊賀郡|比地《ヒチ》神社今高土明神と称し、延喜式、伊賀郡|高瀬《タカセ》神社今蔵鍵明神と称し、并に比土に在り。〔三国地誌〕然れども比地は此地に非ず、長田郷肱山なるべし。
身野《ミノ》 身野は今美濃波多村蓋是なり、南は名張の薦原村に連り、北は花垣村に接す。持統紀「三年、禁断漁猟、於伊賀国伊賀郡身野二万頃」、身野即禁野にして、薦原古山花垣に跨れる御料地なりけん。
補【小波田《ヲバタ》】伊賀郡〇三国地誌 今郷名。○今美濃波多村と曰ふ、名張郡蔵持村と接す。
古山《フルヤマ》 神戸村の西にして、岡陵の上に村居す、名張上野間の小駅なり、大字|湯屋谷《ユヤダニ》に石罅より出る鉱泉あり、冷水にして効験少し、空華集に「甲寅春、以湯医浴于伊陽温泉」と見ゆ、今は瑠璃石薬水の名を伝ふるのみ。延喜式、伊賀郡|田守《タモリ》神社今古山村大字|鍛冶屋《カヂヤ》に在り、雷明神と曰ふ。〔三国地誌〕
補【古山】伊賀郡〇三国地誌 今郷名、石縄村に阿我郷古山荘吉田宮とある、元和年間の上棟文あり。
神戸《カウベ》郷 和名抄、伊賀郡神戸郷。○今神戸村の下神戸及|比自岐《ヒジキ》村なり、即穴穂神※[まだれ+寺]の地にして、延暦儀式帳、外宮伊賀神戸と云ふ是なり。
穴穂《アナホ》宮 下神戸《シモカウベ》に在り、穴穂は阿保と相通用したり、延暦儀式帳、皇太神宮遷幸の記事に「次伊賀穴穂宮坐、次阿閇拓殖宮坐」とあるは此なり、神宮諸雑事記云「垂仁天皇御宇、倭姫内親王、奉戴之、先伊賀国伊賀郡一宿御坐、即国造奉其神戸」○三国地誌云、穴穂宮は神※[まだれ+寺]社是なり、永閑記に観勝寺は六穂宮の供僧にて、兵範記に出でし由見ゆ。
本朝高僧伝云「釈行然、賀州人、文永初盤旋旧里、興営天道山無量寿福寺、戒定并修」この寺は今下神戸に存す。
比自岐《ヒジキ》 神戸村の東北に接す、或は※[木+(形−さんづくり)]に作る、今比自岐村と曰ふ、東大寺康平七年文書、阿我郷火食村、准后伊賀記云、当帝御領比自基。比自岐神社○延喜式、伊賀郡に列す。神祇志料云、今比自岐の森邑に在り、大森明神と曰ふ、令集解延喜式を参酌するに、蓋伊賀比自岐和気の祖神を祭る。
猪田《ヰタ》郷 和名抄、伊賀郡猪田郷。○今猪田村存す、古山村の北に接す、東は依那古《イナコ》村に至る。延喜式、伊賀郡猪田神社本村に在り、又東大寺天養元年文書、猪田郷の名見ゆ。○猪田の西なる花垣《ハナガキ》村は地勢旧名張郡に入れど、猪田に近接すれば本郷内か。
花垣《ハナガキ》 此村名張川の東岸にして、和州添上郡月瀬と相対し、梅樹多し、一帯の清渓なり、古山駅の西にあたる、延喜式、伊賀郡|乎美禰《ヲミネ》神社は花垣村大字|桂《カツラ》に在り。
沙右集云、上東門院とて后おはしましける、興福寺の八重桜を都に召ければ、大衆いと便なし、譬へ命はともあれ、桜を掘て得こそ参らすまじと申す、女院斯と聞召し給て、奈良法師は心なき者とこそ思ひしが、誠に色ふかしとて、桜はめさずなりける、殊に伊賀国|余野《ヨノ》荘を寄給ひ、それより花盛七日が間、宿直をして守らせ給ひける、斯ありければ、余野荘を改て花垣荘とぞ名附らる。(古今著聞集之に同じ)三国地誌云、余野の地名に花前《ハナガサキ》あり、古の八重桜のありし所ならん、又今川了俊の詠あり、
伊賀よりの帰るさに花垣の里に至りて
けふとてもうつるにほひは九重にちかきあたりの花垣のさと。 源貞世
花垣の荘は、そのかみ奈良の八重桜の料に附られけると云伝へ侍れば、
一里はみな花もりの子孫かや、 芭蕉
補【余野】伊賀郡○三国地誌 今郷名、著聞集、沙石集、余野。○月瀬(和州)と相接し、同く梅花の勝賞地なり。
依那古《イナコ》 猪田村の東に接す、此村は康平七年東大寺文書に大内郷|依那具《イナグ》村とあり、延喜式、伊賀郡依那古神社を載す、三国地誌、高野社を以て之に擬し、伊水温故、小泉霊社の相殿なる江大神是なりと云ふ。○依那古村大字上郡下郡相並ぶ、蓋古の伊賀郡家なり、其他大字才良市部等あり。
才良《サイリヤウ》 延喜式、伊賀郡|坂戸《サカト》神社、今依那古村大字才良に在り、杉谷明神と曰ふ、同所に引谷山利生院あり、本尊不動明王、智証大師開基、天正の兵火に罹り律師祐泉再興す。〔三国地誌〕
補【不動寺】伊賀郡〇三国地誌 才良村に在り、引谷山利生院と云ふ、貞観年中智証大師開基にして、嘉禎年中興正再建、天正兵火に罹り、天正十五年律師祐泉今の寺とす。○依那古村。
誰其森《タガソノモリ》 永閑記に依れば、哀其森と共に市部《イチベ》の田間に在りと云ふ。〔三国地誌〕
さよふけて誰その森のほととぎすなのりかけても過ぎずなるかな、〔夫木集〕
かきくらし雨の降夜はほとゝぎす鳴てすぐなり哀れその杜、〔名寄集〕
伊水温故、延文の頃兵乱に、伊賀権守橘成忠と云人有しに、河内国交野の郷の住人|遠地《ヲンチ》入道、南帝の勅命を蒙り、此国の楯岡《タテヲカ》山にたて籠り、諸民をつゐやしけるに、成忠かれをうちほろばす、しかる所に遠地は菊水の旗をなびかし、服部川に進み、多勢おそひ釆て責ける程に、叶はずして此誰某森に入て自害す、其古墳此社頭にありときこゆ。
大内《オホチ》郷 和名抄、伊賀郡大内郷。○今名賀阿山両郡に分属す、依那古村(名賀郡)浅宇田《アサウダ》村花之木村(阿山郡)等是なり。神鳳抄、伊賀郡大内御薗、又准后伊賀記、大内郷十五保など見ゆ。伊水温故に「大内下荘は今阿拝郡に入る、(花之木村)而て上荘は伊賀郡に在り」と、此上荘は今猪田村に割入す。○建長二年道家処分記、大内東荘、故禅閤(良経)御時、被寄附春日唯識会供料。按ずるに国造本紀「伊賀国造、志賀高穴穂宮(成務)御世、皇子意知別命三世孫、伊賀都命定賜国造」とありて、垂仁紀、祖別命(古事記落別王に同じ)の名跡は本郷たるべし、和名抄祖父を於保知と訓む、大内是なり、又源氏勃興の際信濃の人平賀惟義伊賀守護と為り戦功あり、弟朝惟子惟信共に大内と称す、蓋亦本郷に居住せしに因るが如し。
伊賀の山家にうにと云物あり、土の底より掘出して薪とす、石にもあらず木にも非ず、黒色にしてあしき香あり、そのかみ高梨野也これを考て曰く本草に石炭と云物あり、いかに申伝て、此国にのみ焼ならはしけん、いとめづらし、
香に匂へうにほる岡の梅の花、 芭蕉
補【大内郷】伊賀郡〇和名抄郡郷考 風土記、大内里、中肥也。伊賀記、大内郷十五保。神鳳抄、伊賀郡大内御薗。伊賀考、天喜中古按に、大内郷安佐小田村ありと云り。伊賀温故、大内下庄は隣郡阿拝郡に見ゆ、大内上庄は当郡に見ゆ、天神宮は大内□□両郷の宮也、大内村大内庄と記に見えたりと云り、東鑑、信濃国住人大内太郎惟義領当国信州大内郷産生、依之惟義住居の地比々岐村を大内と改む。○按ずるに比々岐杜は上津村に在りて伊賀郡に属す、是れぞ上荘なるべけれど下荘は本郷にて、今阿拝郡花之木村下荘ぞ原地ならむ。〇三国地誌 正応四年文書に加藤左衛門尉伊賀国大内住とありて、今大内下荘に加藤将監の宅址あり、是也、天正中亡ぶ。○今花之木村に属す。
阿山郡
阿山《アヤマ》郡 明治二十九年、阿拝山田両郡を合同し、阿山郡の号を立つ、衙所上野町に在り、管する所凡十九村、東西七里南北三里余に及ぶ。
――――――――――
阿拝《アベ・アハイ》郡 明治二十九年廃し、其地阿山郡に入る、古は阿閇又敢に作る、後世|綾《アヤ》郡に訛り、正保国図綾之郡と標し、寛文中復旧すと雖、土俗訓みて安波以と為す。
此地阿閇臣の故里にして、敢国《アヘノクニ》の称あり、〔日本書紀延喜式〕倭姫世記敢郡に作り、天武紀に車駕宿|阿閇《アベ》とあり、阿閇里は今府中村印代郷なるべし。○和名抄、阿拝郡、訓安部、分六郷、後世伊賀郡長田郷及大内郷の一部之に入る、勢州軍記云「伊州綾郡河合有綾杉」と今阿拝の河合村なり、又類聚往来に阿弁《アベ》に作れり。補【阿拝郡】○和名抄郡郷考 国府、風土記、中郡也、往昔阿牟忌寸死此、有墳、仍有此号、東限佐与川、西限樫淵、北限篠岳、南限岸村。残篇風土記、阿部山、阿部川。天武紀元年九月戊戌、車駕宿阿閉。三代実録貞観六年十月、伊賀国正六位上安部神伊賀津彦神授従五位下、又云、従五位上敢国津大社神。神名式、阿拝郡敢国神社。倭姫世記にも敢とあり、今アユと云。勢州軍記、伊州綾郡河合有綾杉之名木、信雄之侍結城源五右衛門尉誤斬其木云々。今俗にハアヤ郡ともアハイ郡とも云なり。
浅宇田《アサウダ》 今|小田《ヲダ》村に属すれど、古は伊賀郡大内郷内なり、上野町の南にして、名賀郡の境上に在り、東大寺天喜中旧案に大内郡安佐小田村と云者此なり、伊賀考に其説あり、又建長二年道家処分記云「東福寺領伊賀国浅宇田荘、法性寺殿(忠通)御時、為報恩院領寄附」。〇四十九院は浅宇田の東に在り、九品寺と号す、行基大徳の創建とぞ、今衰ふ。〔三国地誌〕
下之荘《シモノシヤウ》 今|花之木《ハナノキ》村と改称す、浅宇田の西に在り。三国地誌云、正応四年古文書に「加藤左衛門尉.伊賀国大内住」とありて 今大内下荘に加藤将監の宅址と云者あり、天正中まで其家存せりとぞ。
法華寺《ホツケジ》址 今花之木村大字法華に在り、是れ国分尼寺にして、其廃墟歴々たり、神祇志科云、三代実録、貞観五年十五年両度授位の伊賀国応感神は法華寺に在り。
補【応感《オカムノ》神】神祇志科 今阿拝郡法花村にあり(三重県神社調)清和天皇貞観五年三月十六日戊寅、正六位上応感神に従五位下を賜ひ、十五年九月廿七日己丑従五位上を授く(三代実録)毎年十月廿五日祭を行ふ(三重県神社調)
長田《ナガタ》郷 和名抄、伊賀郡ナガタ郷。○今長田村是なり、上野町と伊賀川を隔てゝ其西に在り、東鑑「元暦元年、長田荘」万寿寺記「長田荘院田」などあるは皆此なり。○天正十一年、国主織田信雄の羽柴秀吉と不和に及ぶや、秀吉の臣協坂甚内安治伊賀に打入り、上野城を襲ひ、滝川雄利を逐ひ長田市場に在陣して国務を執る、翌年筒井定次上野へ入部す。
民の戸の烟もかぜになびき行く末はながたの里のかやり火、〔永閑伊賀名所記〕
補【長田郷】伊賀郡○和名抄郡郷考 今阿拝郡長田村、風土記長田里上田也、長田河と云もあり。東鑑寿永三年四月、長田庄。残篇風土記、長田山、長田川。神鳳鈔、長田。国図、長田御厨。又長田村は国図及伊水温故、隣郡阿拝郡にあり、盛衰記、又道はなきかと問給へば是より長田里花苑と云所を廻りて射手大明神の御前を笠置に懸りても道のよく候と申す。行嚢抄、長田村、自此辺左の山の方に安楽院と云寺あり。京城万寿禅寺記、伊賀長田庄院田。
花苑《ハナゾノ》森 三国地誌云、長田市場に在り、永閑記には名張里より一里計北に在るよし、宗祇の至宝抄に侍るとあれど、詳ならず、長田森と称する者に同じかるべし。
相知りたる女、伊賀団長田森と云所にありとききてよみ侍る、(一書に之を摂津の長田とす)
いのちだに長田の森のなかりせばたよりに君がやどを見ましや、〔家集〕 為頼
源平盛衰記云、義経新居河原に磬へさせ、又道はなきかと問拾へば、是より長田里花苑と云所を廻りて、射手大明神の御前を笠置にかゝりても、道よく候、と申す。
射手《イテ》神社 今長田村字|寺内《テラウチ》に在り、准后伊賀記に天武天皇勧請、猿田彦神と為す、古は此を去る四十町、射手森(島原駅の南)に鎮座したるを、天正以後に移したる也、盛衰記一本にイトド明神とあるも之を指す、別当仏性寺。〔三国地誌〕○伊賀記又云、仏性寺、六条殿顕房開基也、遍照院在其南、徒然草野槌云、少僧都弘融、与兼好房有因縁、貞和三年、兼好仏性寺之遍照院居住。○古今著聞集に西行「伊勢国分寺の鎮守、射手の社に詠歌」の事見ゆ、是は伊賀の誤にて、国分は法華尼寺なるべし。
伊勢に住せし頃、国分寺に折ふし通ひ来て、射手の明神は此寺の鎮守なればとてよむ、
あづさ弓引きしたもとは力なく射手のやしろにすみぞめの袖 〔未詳〕 西行法師
西蓮寺《サイレンジ》 長田村に在り、天台宗真盛派の名刹なり、東国高僧伝云、西教寺沙門真盛、明応四年在賀州西蓮寺、四十八夜、念仏説法、俄病而逝。〇三国地誌云、此寺は真盛師の開く所にして、其墓塔を遺す、後土御門院御塔亦寺内に存すと、真盛は有徳の僧にして、公武の尊信を得て、其名声当代に振ふ、渡御塔も其故ある事ならん。
比地山《ヒチヤマ》 長田村の字|百田《モヽタ》に在り、常住寺と称する※[王+炎]王殿あり、相伝ふ摂州清澄寺慈心房尊恵伊勢参宮の帰路、長岡駅百田氏の宅にて死す、其遺仏※[王+炎]王像を後につたへ、筒井定次慶長年中為めに造営を加へ、寛文年中藤堂家より重修あり、寺内に神明宮ありしが今廃す、延喜式伊賀郡|比地《ヒチ》神杜は是なりしならんと云。〔三国地誌伊水温故〕○蒲生氏郷記の伊賀国肱山と云は此ならん、曰「氏郷は秀吉其主の仇討被申上は、自余に可申合に非ずとて、秀吉公得同心、其後柴田修理勝家と秀吉公と合戦の刻は、伊賀伊勢の敵無心許とて、氏郷を両国の押得に頼被置、江州日野の居城に被居、其節伊賀より八度まで甲賀得伊賀守打出、氏郷其度毎にかけ合戦追返して、筒井伊賀守の肱山を落す。」
鳥屋野《トヤノ》 三国地誌云、此野は万葉集に等夜野に作リ、白鷹記に「鳥屋野の原の跡を尋ねても、田猟の遊興を催さずと云ふことなし」と叙す、今長田村の南に朝屋《トモヤ》の里あり、其西に鷹芝高野など開曠の山野なり、是れ古の田猟の処なるべ」、朝屋は鳥屋の訛か。(下総印幡郡にも烏矢郷あり)
はし鷹のとやのゝ浅茅ふみわけて己れもかへる秋のかり人〔新続古今集〕 順徳院
補【鳥屋野】阿拝郡○白鷹記云、とかへる山の秋の色をそへ、とやのの原の跡をたづねても、田猟の遊興を催さずといふ事なし。
賤の男がしばかりみだる鳥屋の野にけさぞ霞はたなびきにける〔堀川百首〕
三国地誌云、万葉集にも等夜乃野にあるは朝屋《トモヤ》の野の事にや、名所記に其疑をなせり、朝屋の西に大野木の鷹芝野の辺開曠の地なり、因て憶ふに木興川以西は古の田猟の場ならん。○今長田村の南なる山野を云ふ。
新居《ニヒヰ・ニヒノミ》郷 和名抄.阿拝郡新居郷。○今|新居《ニヒヰ》村|島原《シマガハラ》村是なり、長田村の北にして伊賀川に沿へり、古の新家駅新居河原は新居村大字|東《ヒガシ》の地なり、後世駅家は其西一里余に移る、島原是なり。
新家《ニヒノミ》 続日本紀云、和銅四年、始置都亭、伊賀国阿閇郡新家駅。又三代実録云、貞観十六年、伊賀国節婦新家公福刀自。又源平盛衰記云、義経は伊賀国一之宮大菩薩の御前心計に再拝して、暫新居河原に磬へたり、西に平岡あり、里人を招きて、是より宇治へ向はんには、何地が道よきと問給へば、西に見え候平岡は、あをた山と申、其より前に頭落《クビオチ》滝と云所を通には近く候と申す。○和銅の置駅は平城造都の初にして、当時之を通じて、東海道の道口の為されし也。三国地誌云「新居東村に桜町池町上官舎等の地字存す、古駅の墟なれば也」義経は東村より伊賀川北岸の捷径を問ひしも、地名不吉なれば、南岸を迂回し、長田村より笠置へ出づ、長田郷を参考すべし。○平野|仏土《ブツド》寺と云は東村に在り、往昔台家の大伽藍にして、今尚雁塔多宝塔を遺し、古文書仏像等観るべき者多し。依那古村仲満寺蔵、古経櫃に題して「伊賀国新居郷嘉暦三年妙覚寺願主了意」と曰ふ、妙覚寺は今詳ならず。〔三国地誌伊水温故〕
三国地誌云、新居西村に諏訪明神あり、天正二年仁木長政と云人の造営棟札あり、此社は三代実録、貞観三年授位の高蔵神なり、同所に補陀落寺廃跡ありて、建長五年癸丑の銘ある石碑存す。○又云、新居西山村に頸墜《クビオチ》滝あり高二丈許、青田山と云は今開きて白田と為す、亦同所とす、盛裳記一本アダ山に作る、頸墜滝も一本頸落に作る。
補【仲満寺】伊賀郡〇三国地誌 依那具村に在り、山内に岡寺と云地名あり、是妙覚廃寺の址なり、彼寺の什物とて古写の大般若経を此寺に伝ふ、其書軸に寛和四年丙午三月一日執筆信盛云々。其櫃上に伊賀国新居郷嘉暦三年三月卅日妙覚寺願主了意とあり、今此経を解脱上人の筆なりと云、其実をしらず。
島原《シマガハラ》 長田村の西にして、伊賀川南北に民居す、島原宿と称し、伊賀越西口の駅家なり、今鉄道通過して車駅と為り、西は城州大河原笠置に接続す。〇一条兼良美濃路記云、上野小田など云所を通る、タヤマ越は河水未だ渡りがたかるべしとて、笠置とほりに赴き、島の原川を渡る。(たやま越今詳ならず)
岩が根のながれをたえず住む亀の知るやよもぎの島が原川、〔永閑名所記〕 今川了俊 島が原山おろし吹く夕しぐれ笠もとりあへぬ旅の空かな、〔独清集〕 玄恵法師
島原より西|笠置《カサギ》まで四里、流に沿ふて峰巒高下し、奔湍石の奇観あり、又北方嶺を踰ゆれば、近江国|多羅尾《タラヲ》に至る、凡二里。
観菩提《クワンボダイ》寺 東大寺二月堂の別院にして、正月堂と称す、島原駅の北に在り、正堂楼門十三級石浮屠等あり、子院四坊、共に天正の寇火を免れ、伊州の宝刹なり、本尊十一面観音、金鼓の銘云「応永三十一年豊前国伝法寺荘法華院鰐口」。〔三国地誌〕補【観菩提寺】阿拝郡○島原駅。○美濃路記、一条兼良此に宿ること見ゆ。
小田《ヲダ》 上野小田と云ふは、美濃道記に見え、中世小渡郷と称するは後の上野城をも籠めたりと云ふ、蔵王権現宮あり、此宮は准后伊賀記にも見ゆ、其側に阿拝神社あり、上野城西丸を築く時、彼地より移すと、〔三国地誌〕三代実録に、貞観六年伊賀国安倍神伊賀都彦神並授位とある、伊賀都彦は此社にや、国造本紀なる意知別命三世孫伊賀都命を祀るか。○今小田村は上野町と相離れ、大内郷浅宇田と合同す。
上野《ウヘノ》 今上野町、戸数三千、伊州の都会なり、文禄年間、筒井定次築城して国府と為す、慶長十三年、徳川幕府定次の封を奪ひ、藤堂高虎に与へ以て伊勢の支鎮と為す。今城廃し、阿山郡衙を置き、鉄道車駅あり。(安濃津を去る十二里)
上野は伊賀川の東、服部川の南なる高地を占め、伊賀一州の田野は、上野四郊を最広とす。美濃路記に、服部の菩提寺を立て、上野小田など云ふ所を通ると録せり。三国地誌云、上野は中世小田郷に属し、(和名抄阿拝郡服部郷なるべし)往時上野と云は、今の農人町にあたる、是れ旧民家の部分なり、築城以後形勢変ず、上野平楽寺と云精舎は、今伊予殿丸に在りて、平相国清盛の創建と伝へしが、天正の寇火に罹り、郭外に移し再興して、今万福寺是なり。平楽寺の伽藍神|天満《テンマン》宮は、万治三年藤堂家にて之を農人町に移し、社田を寄附し上野町の鎮守と定めらる。○上行寺は、初め天正十六年藤堂高虎之を紀州粉川山に創建し、予州封侯の時、彼地に移したるも、伊勢を賜ふに及び、更に此に移す。藤堂家の家廟墓塔あり、広禅寺は元和元年渡辺了の創建せる禅房なり、了は勘兵衛と称し、藤堂氏に仕官し、大坂役に戦功あり、名誉の武士なり。
芭蕉翁故郷塚○上野町|愛染《アイゼン》院の境内に在り。松尾宗房、其先柘植氏より出て、此地にて人と為り、遁世して桃青と号し、近世俳句の宗祖と為る、世に芭蕉翁と称す。○枯尾花云、此翁孤独貧窮にして、徳業に富めること無量なり、二千余人の門弟、近遠ひとつに合信す、因と縁の不可思議、いかにとも勘破し難し、去ぬる年深川に庵を結び、しばし心とどまる詠にもとて、一株の芭蕉を植たり、
野分して盥に雨をきく夜かな
と侘られしに、堪感の友しげく通ひて、自ら芭蕉翁と呼ぶ事になんなりぬ。
雲と隔つ友かや雁の生きわかれ、 桃青
譚海云、俳諧発句、創基於聯歌、古著以滑稽諧謔為主、鄙俚猥雑、不過為閭巷※[言+(爛−火)]語也、芭蕉翁起而極力排之、其辞卑近、而其旨趣深遠、一句十七字、有千万言不能尽者、未可以鄙近之言軽易之、翁歿其門人相継益盛、残香剰馥二百余年不衰、是豈偶然也哉、翁伊賀柘植村人、名宗房、称忠左衛門、仕国主藤堂氏世臣藤堂良精、々々子曰良忠、号蝉吟子、受和歌於北村季吟、翁亦随学焉、無幾良忠病歿、宗房悲痛切情、乃書俳歌一首於門去、歴遊諸州、剪髪着道服、自号桃青。
鍵屋《カギヤ》辻○上野の郊外の字なり、寛永十一年、渡辺数馬其仇河合某を此に要撃す、剣客荒木又右衛門数馬を援け、遂に其志を成す、世に伊賀越復讐と称す、渡辺河合は共に備前池田侯の士なり、荒木は本郡荒木(中瀬)村の人、池田侯其侠勇を褒美し、召して家臣と為せりとぞ。
上野黒門、是寛永中渡辺某復仇処、 山陽
伊賀城頭西閭門、復讐有跡恍血痕、仇人騎駕魚貫過、挺刀一呼褫渠魂、姉夫慷慨慊従義、脊令原寒同雪冤、一水西渡是※[山+壽]原、苗時投宿館尚存、吾来挑燈思往昔、想見※[さんずいへん+卒]刃候暁※[日+敦]、嗟哉士風猶使薄夫敦、寛永之俗今誰論、
補【菅原神社】阿拝郡○地誌提要 郷社、上野、菅原道真を祭る、初同所平楽寺にあり、天正九年辛巳今の地に移す。三国地誌 上野城下に在り、往昔平楽寺の伽藍神なりしを藤堂氏の時万治三年農人町に移し、社領十八石を寄せらる、祭神十座あり。
補【鍵屋の辻】○日本名勝地誌 鍵屋の辻は上野町の郊外に在り、古へ此処に鍵屋と称する烟草屋ありし故に此称あり、当時は人家立て列なりしも、今はたゞ十字路頭に一小茶店あるのみ、相伝ふ寛永十一年十一月七日、渡辺静馬、荒木又右衛門と共に鰯の頭を踏つぶして讐敵なる沢井又五郎を此家にて待ち合はしたりと、其復讐始末は院本にも作り世に喧伝す。
上野城《ウヘノノシロ》址 上野町に在り、初め天正中、北畠氏の臣滝川雄利こゝに営す、筒井定次本州に封ぜらるゝに及び、此に築造を為す、文禄年間の事なり、定次伊賀侍従と称し、羽柴姓を賜はる、慶長十三年、定次淫虐度なく、家臣中坊飛駅と相争訟するの故を以て、封土を歿収せらる、(八万石)藤堂高虎同年を以て安濃津上野二城を賜はる、後藤堂氏世々城代を置き、士卒を配賦し之を鎮す、明治の初に至り廃墟と為る。
服部《ハトリ》郷 和名抄、阿拝郡服部郷。○今府中村大字服部及び中瀬《ナカノセ》村上野町等にあたる、古服部氏の邑にして、延喜式、伊賀国貢調※[穴/果]綾」とあるは蓋其所造なり、後世綾郡の名起るも偶然に非じ。○服部氏の裔、平家物語に、服部の下司平六時定あり、観世系図云、観世之先、伊賀杉内服部氏之子、幼名観世、為春日社掌楽、更名清次。異制庭訓往来云「伊賀八鳥之茶園」八鳥は服部なり、今も伊賀茶の称あり。
補【服部郷】阿拝郡○和名抄郡郷考 風土記、服部里、中肥也、有神号小宮大明神并扶伯大明神、共服部氏祖之所祭也。神名式、阿拝郡小宮神社(伊賀考、阿拝郡小宮神は服部大宮是也、正二位服部氏惣社也、号二宮)応仁記、今出川殿勢州下向の条に、五月廿五日夜伊賀の服部荒木の菩提寺に御着云々。藤川記、服部川をわたりて菩提寺にいたる。行嚢抄、服部村此辺より上野城の櫓松の中に見ゆ。貝原氏和事始、伊賀の八鳥と書り。青湾茶話、茶品彙といふ条に服部(伊賀産)とあり、こゝより出るなるべし。異制庭訓往来、茶の事をいへる件に伊賀八鳥とあり、今もハットリと云ふ。
羽取《ハトリ》山 東鑑、元暦元年五年、伊勢国馳駅参着申云、去四日、波多野三郎大井兵衛次郎実春山内滝口三郎并大内右衛門尉家人等、於当国羽取山、与志太三郎先生義広(系図為義之子志田義広といふ)合戦、殆及終日、争雌雄、然而遂獲義広之首云々、此義広者、去々年率軍勢、擬参鎌倉之刻、小山朝政依相禦之、不成而逐電、令属義仲訖。
服部川をわたりて菩提寺に至る
たび衣きのふも今日もくれ服部あやに恋しき奈良の古里、〔美濃路記〕 一条兼良
服部《ハトリ》川は山田の東|阿波《アハ》村より発源し、西流四里服部に至り柘植川を併せ、長田の北にて伊賀川に入る。
小宮《ヲミヤ》神社 延喜式、阿拝郡に列す。伊賀考云、小宮は服部氏の惣杜にして、伊賀国二之宮と曰ふ。三国地誌云、昔は服部のやから、阿拝郡を領知せる故に、服部の社もありと、永閑記に見ゆ、土俗なべて服部氏を秦人の裔と為すは非也、姓氏録に、速日命の裔麻羅宿禰、允恭帝の時織部司に任じ、服部連と為れる由見ゆ、凡服部の氏族は慈蔓して伊賀一州に散在したり、或は平内左右衛門尉家長盛衰記に著れ、其名最高ければ、桓武平氏と為すは謬れり、服部六郎時定〔平家物語〕服部伊賀守宗純〔浪合記〕等あり、又円覚律師これは服部広元の子にして、京都法金剛院及清涼寺の住侶にして、応長元年寂す。
荒木《アラキ》 今|中瀬《ナカセ》村と改称す、上野町の東にして、山田村の西、府中村の南なり。三国地誌云、荒木村は今昔物語に載せ、服部郷に属す、天正の頃、又右衛門と云者あり、菊山氏、撃剣を善くす、今も其一族存す、元禄年中、荒木の農民一種の稲を出す、実粒大にして太繁茂す、四方に伝播して荒木白子と曰ふ。
須智荒木《スチノアラキ》神社 荒木に在り、須智は名張郡周知郷と相因む所あらん、今昔物語に「伊賀の荒木なる白鬚明神は、相殿に武内宿禰の子、葛城襲津彦なり」と云へり。 葛城の其津彦まゆみ荒木にもよるとやきみが吾名のりけむ、〔万葉集〕
頓阿法師の十楽庵記に、霊杜荒木宮と云も此なるべし。
菩提《ボダイ》寺 荒木に在り、応仁記、今出川義視勢州下向の条に「伊賀の服部荒木の菩提寺に御着」又藤川記に「菩提寺に至る是も招提門徒の律院なり、設の事は法印申付て伊賀のもの共沙汰せしむとなん、廿七日菩提寺に逗留す、伊賀のもの共去り難く抑留するが故なり、
菩提樹下古精藍、殿閣微涼来自南、暫借藤床兼瓦枕、※[鼻+句]々一睡味方甘。 一条禅閣
車塚《クルマヅカ》 三国地誌云、荒木の車塚は阿雅皇女の墓なり、類聚国史「和銅二年、阿雅皇女崩御於|杉坂《スギサカ》駅、葬伊賀国、賜封田如例」○皇女は弘文帝の同胞なり、相坂駅は即荒木の別名にや、永閑名所記に、信西国分記と云者を援き、伊賀采女宅子媛は山田郡司の女にて、大友皇子(弘文帝)阿閇皇子阿雅皇女を生み奉る由見ゆ。
補|大光《ダイクワウ》寺 阿拝郡○三国地誌 西明寺の隣里寺田に在り、西明寺長者服部氏日丸主計と云ふ富家の建立なりとぞ、寺内に春日明神あり。○今中瀬村。
印代《イシロ・イナシロ》郷 和名抄、阿拝郡印代郷。○今府中村の内、一宮の辺にあたる、大字|印代《イシロ》存す、郡郷考に今稲代と書き、イシロと訓むと云者此なり、古訓以奈之呂たるペし、服部郷の北に接し、柘植川の南側なり、其東部に敢国祠あり、北岸三田郷に国府址あり。
補【印代郷】阿拝郡○和名抄郡郷考 風土記、印代里、下肥也。国図、印代村。上田百樹云、今イシロと云、国人云、今稲代と書イシロと訓む。行嚢抄、井代村、佐奈具より上野に至道あり。地勢提要、印代村。穂井田忠友云、印代村、当郡佐奈具駅の西に接たり、和名抄にも載たれど訓注なし、神名式を按ずるに近江国栗本郡印岐志呂神社あり、音相近し、隣国の類名なり。○今府中村大字印代。
敢国《アヘノクニツ》神社 府中村大字|一之宮《イチノミヤ》南宮山に在り、今国幣中社に班す、延喜式、阿拝郡の大社に列したり、盛衰記に一之宮南宮大菩薩と云者是なり。頓阿十楽庵記云、霊社一宮に程近き里を千座《センザ》(今千歳)といふ、此は神供など調ふる処になん、御手ぐらそこら数見えて、里の童鉾などそぎて持運ぶ。三国地誌云、一宮は、天正の兵火に社頭破壊しけるを、藤堂家、慶長十四年修営し、社領一百石を祀田として寄進せらる。○此神は阿閇臣の祖神なるべし、中世南宮権現又少彦名命など云ふは信拠し難し、三代実録「貞観六年、安倍神授従五位下、九年、敢国津神授従五位上、十五年、敢国津大神授正五位下。」
補【一宮郷】阿拝郡〇三国地誌 一宮、千歳・佐奈具等是也。
補【敢国神社】○神祇志料 今一宮村南宮山にあり、(伊水温故・式社考)之を伊賀一宮とす(一宮記)蓋阿閇臣の祖大彦命の男彦背立大稲越命を祭る(参酌日本書紀・姓氏録・続日本紀大意)清和天皇貞観六年十月戊辰、正六位上安部神に従五位下を授け、九年十月庚午敢国津神に従五位上を賜ひ、十五年九月己丑敢国津大社神を正五位下に叙され(三代実録)
按、安部神・敢国津大社神は異神の如くなれど、並同神なる事叙位の次第に依て明也、十五年に至て大社神と云ふに拠れば、其大社たりし事是歳に在か、姑附て考に備ふ
醍醐天皇延喜の制大社に預る(延喜式)凡そ其祭十二月初卯日を用ふ(明細帳)
佐那具《サナグ》 今府中村に属す、道路四通の便あるを以て、鉄道車駅たり、一宮の北に接す、東は柘植駅に至るべく、北は河合玉滝を経て甲賀郡に通ずる間道あり。
補【佐奈具】阿拝郡〇三国地誌 古駅にして其旧地を古市片町と云ふ、水患ありて民舎をうつす、官道之に係る。
青墓《アヲハカ》 日本書紀、雄略天皇、遣物部菟代宿禰物部目連、以伐伊勢朝日郎、朝日郎聞官軍至、即逆戦於伊賀青墓。○此遺跡詳ならず、佐郡具の古墳蓋是なり、阿保氏の墓などにや、三国地誌に「粟生某と云者の墓佐奈具に在り、土俗粟生は新田義貞の従士と伝ふ」云々、粟生は青の訛にて、此塚の名なるべし。○同書又云、佐郡具御墓山は、東西十九間、南北五十間許、四辺に埴輪をのこす、土人呼びて天子の陵なりと云も詳ならず、一名明星山、頓阿十楽庵記に「若林山の舟、粟生左衛門入道長慶軒の石塔、四五年以前に築きぬ、佐那具の後辺に在り」と云者亦詳ならず。
府中《フチユウ》 今府中村と曰ひ、印代郷の諸村を併入す、本|府中《フチユウ》郷と称し、東条西条に分る、和名抄|三田《ミタ》郷の地にして、柘植川の北岸なり、此川恋湊の号ありと永閑記に見ゆ、蓋|国府《コフ》の津なればなり、然れども舟楫の利ある流には非ず。
人をのみこふの湊による波はそでをのみこそうちぬらしけれ、〔夫木集〕
補【府中郷】阿拝郡〇三国地誌 西条村東条村等是也、准后伊賀記、当帝領土橋村とあるも此郷に属す。
国府《コフ》址 和名抄、伊賀国府、在阿拝郡、行程上二日下一日、延喜式、伊賀近国、管四郡。○日本書紀、宣化天皇元年、詔曰、阿倍臣宜遣伊賀臣、運伊賀国屯倉之穀、修造官家於那津之口也。永閑記云、国府には国中の土貢をおさめらるゝ所にて、御倉の跡など今に侍る、此脇に伊賀守宗光の石塔あり。〇三国地誌云、府址は府中郷の西条に在り、宗光塔は今見えず、宗光は伊賀前司朝光の子にて、式部入道光西と号す、又伊賀屯倉故墟を伝へざれど、国府に外ならじ。○按ずるに佐藤朝光は東鑑「健保二年、佐藤伊賀前司」とありて、其子季光宗光并に伊賀判官と称し、北条義時に親姻し、鎌倉府権要の地に居る、朝光伊州に所知ありて、子孫実に此地に来往したるに似たり。
新国分《シンコクブ》寺 伊賀国々分寺料五千束と云こと、延喜式に見ゆれど、後世廃絶しければ、府中|坂之下《サカノシタ》の楽音寺薬師堂を以て回国参拝の札所と擬へたり、楽音寺は上野城の艮位に当るを以て、鬼門鎮護の為め、藤堂家より四方四町の地を寄進せられし大坊なり、享保七年に至り、公裁を得て国分寺の号を之に附与せらる。桃青の句に「初桜折しもけふはよき日なり」伊賀の薬師寺初会に第すとあるも此なり。
補【新国分寺】阿拝郡○三国地誌 府中郷坂下に楽音寺と云へる薬師堂あり、上野城の艮位にあたるを以て鬼門鎮護として、藤堂氏より四至四町の地を寄せらる、時に国分寺の廃せること久く、回国参拝者は楽音寺を以て国分薬師に擬したりしが、享保七年公裁を得て国分寺の旧号を薬師寺に附与せらる。
土橋《ツチハシ》 今府中村の大字なり、准后伊賀記云「当帝領、土橋村、又国府湊三宮」と、三宮は土橋に在りて、延喜式、阿拝郡|波太伎《ハタキ》神社是也、同く宇都可《ウツカ》神社、三代実録「貞観十五年、伊賀国宇豆賀神授従五位下」とありて、本土橋の大堀山に在りしが、今三宮に合併す。〔三国地誌〕
三田《ミタ》郷 和名抄、阿拝郡三田卿。○今の三田村なり府中の西に接す、国分僧寺の廃址あり、広大其古規を想ふに足る、支院址は安福寺山|西条《サイデウ》坂之下の三処に存す、十楽奄は頓阿法師の幽栖にして、国分寺に在りしが、又同く亡ぶ、十楽庵記は世に伝ふ。永閑記曰「三田の瑞龍寺は今絶え、朝光の石塔のみ国分寺に残る」と、朝光は承元四年任補し、佐藤前司と称す、其遺塔五輪石今に存す、又仁木氏の守護館の址、本村に在り。〔三国地誌〕○永閑記云、昔大和城上郡の女浅子、興福寺の児を見そめ狂気し、三田の古井に身を沈む、
いもはたゞ浅子の井戸の浅ましき契りと身をばなし沈めけん。〔蔵玉集〕
頓阿十楽庵記云、国府天王は、河合の社より此頃移しまつりて、其神宮寺は、今出川右府の久う扶持し給ふ童の国丸が頭をおろせしになん。(此天王社三田に在り)〇三国地誌云、三田村の廃跡安国寺は、旧平等禅寺と曰ふ、足利氏諸州安国寺配置の時、之を改む、永仁三年、顕覚僧正の祖母尊阿相伝の地なりしを、慶覚法師捨てゝ寺と為したり、本寺正安二年文保二年以下元応元徳等の古文書は、今郡内に散在す。
丸柱《マルバシラ》 三田府中の北にして、近江国|信楽《シガラキ》多羅尾の山谷と一嶺を隔つ、旧|音羽《オトハ》郷と称し、山峰重畳す、其一峰を笠岳と呼ぶ。延喜式、阿拝郡|佐々《サヽ》神社、今本村大字音羽に在り、文徳実録「嘉祥三年、佐々神授位」と云者此なり、神祇志料は伊水温故を引き、佐々木明神と称するに因れば、阿閇臣同祖佐々貴君の祖神ならんと云ふ、然れども古事記伊邪河宮段(開化)云、「御子日子坐王生小俣王、小俣王者佐々君之祖也」と見ゆ、此佐々君の祖にあらずや。○丸柱村と横山より製出する※[次/瓦]器を伊賀焼と曰ふ、其古窯は筒井家前後の事にして、大抵信楽焼に類す、藤堂家に及び、更に公命を以て茶器を造進せしむ、故に土俗御家窯と云ひ之を珍重したり、〔三国地誌〕今伊賀焼衰ふ。
補【佐佐神社】○神紙志料 旧篠岡に在しを後音羽村に移さる、即今地也、佐々木明神と云ふ(伊水温故・神名帳考証)蓋阿倍朝臣同祖佐々貴君の祖神を祭る、(参酌新撰姓氏録・延喜式大意)文徳天皇嘉祥三年六月庚戊、佐々神に従五位下を授け(文徳実録)清和天皇貞観十五年九月己丑、従五位上に叙さる(三代実録)
河合《カハヒ》郷 和名抄、阿拝郡川合郷。○今河合村、玉滝村鞆田村等にあたる、三田郷の東北、柘植郷の北にして、山谷曠遠なり。
河合《カハヒ》 万寿禅寺記に、伊賀国川合荘と云ふは此なり、永閑名所記に「河合里|高松《タカマツ》宮」と云は、延喜式、阿拝郡陽夫多神社に同じく、三代実録授位の高松神を之に配祀すと、後世高松祇園と称し、社僧を高松山吉蔵院と云ふ、〔伊水温故神祇志科〕今河合村大字馬場に在り、頓阿十楽庵記に、此祇園天王を三田郷に勧請したる由見ゆ。 ゆふかけて猶こそきかめほとゝぎすたむけの声の高松の里、〔美濃路記〕 一条兼良
勢州軍記云、伊州綾郡河合、有綾杉之名木、北畠殿信雄之侍、誤斬其木。〇三国地誌云、天文年中、江州佐々木の家臣安房守実之と云者、河合に来宿し、河合氏を称す、又云、河合郷石川の天津宮は、延喜式、阿拝郡|穴石《アナシ》神社なるべし、天津とは国津に対称したるにて古言東北風をアナシと呼ぶ、此地実に国の東北に当る。
補【川合郷】阿拝郡○風土記 川合山有神、号薮田大明神。国図、川合村。京城万寿禅寺記、伊賀川合庄。
補【高松神社】○神紙志料 高松神、按、伊水温故此神を以て陽夫多神とす、陽夫多神馬場村に在て高松祇園と云を以て也、其祭神大己貴命少彦名命二神にて、社僧を高松山吉蔵院と云に拠時は、高松神即陽夫多神の如くなれど、此二座は陽夫多神一座は高松神ならんも知がたし、姑附て後考を侯つ。
玉滝《タマタキ》 河合村の北なる山村なり、西に槇山《マキヤマ》あり、江州長野(信楽)に越ゆべし、北に内保山あり、甲賀郡深川に踰ゆべし。美濃路記云「伊賀の服部につくべき支度なれど、洪水道をとほること易からず、同国玉滝寺と云律院にとまる、本尊は薬師如来にます、玉滝をたちて、かは井と云所を通る、一つ橋あり、高松宮は右の方に在りて見やる、北《キタ》川と云ふ川ばた水なほ落ちず、住人におほせつけたるによりて、藤長寺といふものどもきたりてこしをかたにかけて渡す、又服部川を渡りて、菩提寺に至る。(これは文明四年兼良禅閤の紀行なり)東大寺要録「承久三年官符、寺領伊賀国玉滝荘」。〇三国地誌云、玉滝寺は現存し、境内に八景の勝致あり、又本村には堡塁の跡大小十余所あり、皆天正年中伊州の郷士が、織田氏の軍を拒ぎし者とぞ、玉滝一に玉他儀に作る。
補|豊田天王《トヨダテンノウ》社 玉滝村の大字なり、丸柱村の北に接す、延喜式、阿拝郡|真木山《マキヤマ》神社あり、今白石明神と曰ふ。(近江国紫香楽宮址参看)
鞆田《トモタ》 玉滝の東に接する山村なり、東大寺要録に承久三年官符、寺領伊賀国鞆田荘と云ひ、村中に伊賀盛景の諸子、山尾鷹山中谷等諸家の宅址あり、土人謂ふ所の盛景は服部家長に同じ。
柘殖《ツミエ》郷 和名抄、阿拝郡柘殖郷。○今東柘植西柘植|壬生野《ミブノ》の三村に分る、川合郷印代郷の東にして、方二里余の山野を占む、其南は旧山田郡、東は鈴鹿郡|加太《カブト》(伊勢)北は甲賀郡|油日《アブラビ》、共に山を以て相限る。○観古雑帖云、東大寺所蔵古田券に、柘殖郷長解文あり、拓殖は、和名抄郡郷部に、柘を枯に誤り訓註なし、木類に柘を都美と註す、乃ち都美恵なり、音便して今は都介と云、殖字も植を用ふ。○続紀、延暦三年阿保氏の本系を叙する言中に、須珍|都計《ツケ》王の名あり、此須珍は伊賀の地名と思はるれば、都計も本郷を指すに似たり、又東大寺古文書大安寺資財帳万寿寺記等に柘植荘散見すれば、其寺領たりしを知る。天武紀に「車駕到|積殖《ツミエ》山口」の文ありて、之より伊勢に入御、又盛衰記云「九郎義経は伊勢より伊賀路に懸て攻上けるが、鈴鹿山の麓を過ぎ、八十瀬の白浪分つゝ、加太山にぞ懸ける、此山の体たらく、峰高く峙て上る岩嶮しく、谷深して漲落る水早ければ、足を危して渡る、角て山路を出ぬれば拓殖里に至る」〔節文〕と。
限りなくおもふ心をつげの山やまくちをこそたのむべらなれ、〔松葉集〕郡にもゆかぬさきより鶯のまくらにつげのやどのあけぼの、〔永閑名所記〕
源平盛衰記に、柘植十郎直重は源行家に従ひ、播州室山合戦に死すとあり、本郷士なるべし、天正伊乱記には、柘植の一族は池大納言頼盛の従士、弥平兵衛尉宗清の未流と云ふ、大日本史平宗清伝云、平氏亡、宗清不知所之、按柘殖系図曰、平氏亡、宗清避地伊賀山中、子孫為柘殖氏、而平氏系図曰、柘殖宗清、為少納言平信実子、而非平兵衛尉宗清。三国地誌云、柘植氏の後、近世日置弾正正次と云ふ射術者あり。
柘殖《ツミエ》宮○これは天照皇大神宮の嘗て径行しませる遺跡なり、今柘植の上村に小祀を存す。内宮延暦儀式帳に「阿閇柘殖宮」倭姫世記「敢都美恵宮」に作る。(今東柘植)補【柘殖郷】阿拝郡○和名抄郡郷考 風土記、枯殖里、中肥也。和訓栞、柘殖なり、天武紀積殖山口とみゆ、枯殖に作るは誤なり、風土記に柘殖は天照大神遷座之仮殿也とみゆ、倭姫世記に敢津美恵宮に作る、神名式に敢国神社とあり、敢は即ち阿拝郡なり。京城万寿禅寺記、伊賀柘殖庄。大安寺資財帳、伊賀国阿拝郡柘植原、又伊賀国阿拝郡柘植庄。内宮儀式帳、阿閇柘植宮。天正伊乱記、柘植の一族は池大納言従士弥兵衛宗清、柘植里に住居す、其末流也。源平盛衰記四十一、柘植郷与野、又伊賀路に懸て責上りける、角て山路を出ぬれば柘植里も打過て当国一の宮南宮大菩薩の御前をば心計に再拝して云々。国図、柘植村上下あり。○今ツゲと云。○残篇風土記、柘殖山・柘殖里。行嚢抄、上柘植・中柘植村・野村・下柘植邑。穂井田息友観古雑帖所載東大寺新造舎文庫所蔵田券、柘殖郷長解云々、忠友云、柘殖郷は和名抄に柘を誤て枯に作り訓注なし、倭姫世記に敢の都美恵宮とある是なり、和名抄木類に柘(豆美)あり、恵は宇恵の略なり、音便して今は都介と云、殖字も植を用ふ。
補【柘殖堡】阿拝郡〇三国地誌 弥兵衛宗清の居る所なりと云ふ、日置弾正正次と云ふ射術者は此宗清の裔なりと云ふ。大日本史、平宗清伝云、柘植家譜以宗清為少納言平信実子、其説謂平氏亡宗清避地伊賀山中、頼朝遣藤九郎盛長就賜宗清以本州山田郡三十三邑、盛長勧宗清構室而居焉、宗清手折柘枝挿地曰、此枝蕃茂則吾居成矣、明年果開花、宗清奇之作和歌、因以柘植為氏、然東鑑等書無所見、且考平氏系図、信実子有右京大夫宗清、而無称柘植之文、其称柘植者、即左衛門尉宗清、則柘植家譜蓋以其同名、誤為一人也。
柘植《ツゲ》 柘植山は鈴鹿峠の西南二里、伊賀近江伊勢の交界点に当るを以て、或は三国山と曰ふ、坂路鈴鹿に比すれば急峻ならざるを以て、今鉄道は鈴鹿を避けて之に由る、柘植車駅を以て分岐と為す、東柘植村に在り。
倉歴《クラフ》山 柘植山油日越の別名なり、甲賀郡油日は旧蔵部郷と称す、日本書紀壬申の乱に「天皇(天武)到伊賀積殖山口、高市皇子自鹿深越(甲賀山)以遇之、又云、近江別将田辺小隅、越鹿深山、而巻幟抱鼓詣于倉歴」と、当時攻守の要隘たりしを知るべし。〇三国地誌云、倉歴山は即柘殖山を曰ふ、上柘殖(東村)に倉部山薬師寺と云ふ古刹あり、准后伊賀記「当帝御領蔵部」とあるも 此なり。
秋霜の立ぬる時はくらふ山おぼつかなくぞ見えわたりける、〔後撰集〕
風森《カゼノモリ》 盛衰記、九郎義経京都へ攻上る時、伊賀路に懸り風森に投宿の事見ゆ、上柘植に今|誰哉《タソヤ》森と呼ぶ老杉あり此とぞ、〔三国地誌〕伊勢鈴鹿郡加太より大岡寺峠を経て柘植に来れるを推知すべし。
うらみじな風の森なるさくら花さこそあだなる色に咲とも、〔夫木集〕
楯岡《タテヲカ》 関岡即此地か、今西柘植村の大字なり。三国地誌云、延文年中、恩地入道と云人、楯岡に来り 国守橘成忠と市部に戦ふて敗死、蓋南方の士なり。伊水温故云、爰に昔楯岡の長者とてゆゝしき長者あり、其祖河内国交野と云里の住士、遠志入道、延文の頃、南帝の命を請て、此楯岡山に籠ると雖、終にうたれけると也。○南山巡狩録、関岡家始末を引きて曰く、大館氏明氏清は文中の頃伊賀国に関をすゑ、往来の輩をあらためけり、国司北畠は氏清が功を賞し、顕能卿の婿となりければ、国人氏清を称して関岡の屋形と仰ぎ、近江国甲賀郡及び伊賀の国の者ども帰服す。又大日本史云、大館氏清、正平十六年、往属其母家伊勢国司源顕能部下、居伊賀関岡城、顕能以女妻之、氏清累建戦勲、国内兵士、自服部柘植諸氏莫不服従。○関岡楯岡已に地名に相異あるのみならず、恩地大館の事跡亦疑あり、録して後考をまつ。
柏野《カシハノ》 今西柘植村の大字なり、東大寺要録「長徳四年註文、伊賀国阿拝郡、伯野荘田廿町九段」とある此なり。准后伊賀記云、伯野、内膳職預也、市自日中至暮、是又当家之処分也。〇三国地誌云、膳野の謂なるべし、今市場の字も残りて、其東に在り。 柏野の市女のそでもひとたびはうつる心の花にそめけり、〔永閑名所記〕 今川了俊
壬生野《ミブノ》 西柘植村の南に接し、山田村の北にあたる。東鑑の元暦元年、宇都宮左衛門尉朝綱、拝領伊賀壬生野郷地頭職、又建保四年、伊賀国壬生郷の若林御厨社是なり、和歌蔵玉集に「春日神経行の時、壬生野の里坂下の御厨に宿りたまふ」と云ふ。〔三国地誌〕盛衰記云、元暦元年七月、平田四郎貞継法師、伊賀伊勢両国の勇士催し、謀叛を起し壬生野平田に在り、ミブノ新源次能盛と云者の計ひにて、三百余騎柘植郷与野道芝打分て、近江国甲賀郡上野に一戦あり、能盛は敵に射落さる、乗替の童飛下り主の首を掻落して、壬生野の館に馳帰る。
補【春日宮】阿拝郡○東鑑 伊賀国王生野荘為春日社領。准后伊賀記、壬生野春日社云々。和歌蔵玉集、春日神は神護景雲二年常陸国より尾張の谷陽村、伊賀の中山、壬生野の里坂下の御厨を経たまひ、大和国月瀬里より大和の御笠山の跡垂れ給ふ〔此項未詳〕三国地誌、壬生郷の氏神、一名若林御厨社。
補【児塚】〇三国地誌 上神戸村阿我山蓮明寺の疆内にあり、俗呼で児塚の松とも又は生卒都婆とも云、此生卒都婆の説紛々として俗談多し、永閑が記に俊頼の説を引て、去妻の故夫を慕ひて此国にいたり、妬婦の為に殺されし其卒塔婆を生卒塔婆と云とて、其始末を記する甚委曲なり。
若林《ワカバヤシ》 東鑑、文治四年、新中将殿、伊賀国若林御園地頭被拝。永閑名所記には佐那具の若林山と曰ふ、壬生野佐那具相接す、今壬生野村大字西之沢の辺の名なるべし。〇三室《ミムロ》池、古今著聞集「文治の頃、伊賀国住人、女子を持たりけるが、三室の池の龍にとられけり」云々、此池は壬生野の蛇食《ジヤクヒ》池なり、三室は壬生の訛なるべし、土俗相伝ふ、昔石成氏の女子此池に入り、蛇と化したりと。〔三国地誌〕
※[くさがんむり+刺]萩野《タラノ》 天武紀壬申六月車駕東幸の条に「会明到※[くさがんむり+刺]荻野、暫停車駕而進食、七月、遣紀臣阿閇多臣品治等、帥兵数万、自伊勢大山、入倭国、多臣品治率三千衆、屯※[くさがんむり+刺]荻野、田中臣足麿、守倉歴山道」。書紀通証云、※[くさがんむり+刺]萩野、当作※[くさがんむり+刺]荻野、今云多羅尾、与近江甲賀郡相接。按に通証は多羅尾に引あつれど、不審也、車駕経由の路程は、伊賀郡家(今阿保村)と積殖山口(今柘植村)の間にして、戦陣の跡を見るも、積殖の大山と倉歴の山道(甲賀越)の近地とす、今此名称なし、蓋江州の多羅尾も、原|※[くさがんむり+刺]萩生《タラオ》の義なるべけれど、同名異地也。
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山田《ヤマダ》郡 明治二十九年、阿拝郡に合併して、阿山郡と為る、阿拝の東南に接したる小郡なり、服部川の上游にして、山間の隘地、東に踰ゆれば伊勢国長野に出づ。○和名抄、山田郡、訓也未太、分三郷。永閑名所記云、信西国分曰、山田郡に御所の内とて、大なるかまへ侍る、此は昔此国より采女にたてまつりける郡司の娘|宅子《タカコ》姫と云あり、天智帝へ仕へ奉て、御子三方おはします、一かたは大友皇子、一方は阿閇皇子、一かたは阿雅皇女とぞ申ける。伊賀采女と云ひしも此事なり、郡司程なく徳つきて、後はいみじき長者のやうになりて、此国に子孫も猶すゑ/”\までも侍ると云。(山田郡司宅址山田村鳳皇寺参考すべし)
補【山田郡】○和名抄郡郷考 風土記下郡也、東限※[入/小]保川、西限阿野、南限葭塚、北限沢田、神日本磐余彦天皇御宇、薬師道守之所知也、其時属伊勢国郷名也、後為郡、山田山在郡東南。源平盛衰記十五、平家滅亡之後兵衛佐殿、律浄房がことを三井寺へ尋給けるに、治承之比高倉宮の御伴申して光明山之鳥居之辺にて打死也と申したりければ、其人なければとて、兼て存ぜしこといかでかむなしかるべきとて、伊賀国山田郷を三井寺へ寄られて、律浄房が孝養報恩無退転とぞ聞ゆる〔節文〕○今按、山田郷は山田郡なるべし、但京城万寿禅寺記、伊賀山田庄院田とあれば、郡中に山田庄もありしか。国図、山田郡山田町。伊水温故、山田町は郡の府なり、昔筒井順慶従士箸尾半三郎住居せり。
竹原《タケハラ》 和名抄、山田郡竹原郷。○今山田村なるべし。伊水温故に山田鳳凰寺は竹原村に在り、竹原の名亡びて鳳凰寺村と称する由見ゆ。○山田村の千戸平田鳳凰寺喰代村処々に巌洞あり、土俗之を壙《ハカアナ》と曰ふ。〔三国地誌〕
山田《ヤマダ》 旧山田郡の首邑なり、別名|平田《ヒラタ》と云ふ、又|中村《ナカムラ》郷と称したり、今山田村と号す、中瀬村の東に接し、筒井氏国主の比は、箸尾半三郎の館あり。○山田平田は伊賀平氏の居邑なりき、中にも平田冠者太郎家定、筑後前司平貞能、平田入道貞継(一に家継に作る)は兄弟にして、治承寿永の兵乱に武名を墜さず、百練抄東鑑等参考すべし、又盛衰記に平忠盛(刑部卿)の家子山田荘司行末、其孫山田小三郎伊行(惟之にも作る)蓋同族なり。〔三国地誌〕○盛衰記云寿永三年七月、伊賀国山田郡住人、平田四郎貞継法師と云者あり、是は平家の侍肥後守貞能が弟なり、平家西国に落下て、安堵し給はずと聞えければ、日頃の重恩を忘れず、多年の好みを思て、当家に志ある輩、伊賀伊勢両国の勇士を催し、平田の城に衆会して、謀叛を起しける、其志は哀れなれども、大気なしと覚えたるが、三日平氏と笑はれけるは此事なり。(大日本史、寿永三年、関信兼平田家継聚兵二百人、襲守護所大内惟義、吏兵拒戦不克、家継引兵入近江、斬佐々木秀義、已而惟義追撃之、斬家継及富田家資平家能家清等)○又云、平家滅亡の後、兵衛佐殿(頼朝)律浄房(日胤)が事尋給ひ、高倉宮の御伴して、光明山の鳥居の辺に打死と申たりければ、其人なければとて兼て存ぜしこといかでか空しかるべきとて、伊賀国山田郷を三井寺へ寄られて報恩とぞ。〔節文〕(大日本史云、千葉常胤子、僧日胤、受頼朝密旨、限一千日、詣石清水社、黙誦以求神助、死于以仁王難、頼朝悼之、附山田郷、于園城寺、祈日胤冥福)
いかに世はかくまでつらき身の秋にあはで山田の山にくちなば、〔永閑名所記〕
補【中村郷】山田郡○三国地誌 今中村郷と云、古千戸・真泥・畑是を河原郷と云、平家物語に下千戸に作る、今奥千戸西千戸の唱へあり。○山田村大字中村。
補【平田】山田郡〇三国地誌 平田は駅なり、平田は一に山田とも云ふ、准后伊賀記にも見ゆ、平田冠者太郎家次、筑後前司貞能、平田四郎貞純、伯仲叔ともに平家の家人にて、治承寿永の頃源氏の兵と戦はんが為、伊賀伊勢近江を乱せしこと百練抄・東鑑又盛衰記に見ゆ。○慶長初年豊大閤の命によりて箸尾半三郎是に拠る、二千五百石を領す、平田村あり。
補【山田山】山田郡〇三国地誌 永閑伊賀名所記〔重出〕引至宝抄曰、了然上人「いかにせむかくまでつらき身の秋にあはで山田の山にくちずば」按、平田鳳凰寺富岡等の村より領す、此山上に西京寺廃堂の址あり。
千戸《センド》 山田村の大字なり、仏光寺と云は、古の下千戸の山寺と云者にして、志太先生義広の墓あり。東鑑「元暦元年、於羽取山合戦、獲志田三郎先生義広首」と、旧説之を以て伊勢奄芸郡と為すは謬れり、羽取山は千戸の西中瀬村に在り、服部郷の地なり、彼処に戦死して此寺に葬れるならん、源頼朝の叔父に当る。〔三国地誌〕○平家物語云、志田三郎先生義憲は、伊賀下千戸の山寺にしのびてありと聞しかば、服部の下司平六正綱、頓て其勢二百余騎にて押寄せ鬨を作る、義憲ある坊にありけるが、火をかけて自害す。大系図云、義広、暫経廻伊賀国之間、為頼朝卿仰付、当国住人服部六郎時定、於彼国千戸寺被誅之時自害。
補【下千戸山寺】山田郡〇三国地誌 下千戸村仏光寺に志太義広の墓あり、平家物語(八坂本)曰、志田三郎先生義憲は伊賀下千戸の山寺にしのぴてありと聞へしかば、服部の下司服部平六正綱此よしを聞、頓て其勢二百余騎ばかりにて押寄せ、鬨を作る、義憲ある坊にありけるが、火をかけて自害する。大系図曰、義憲暫経過伊賀国之間、為頼朝卿仰付当国住人服部六郎時定於彼国千戸寺被誅之時自害。旧記に羽取山を以て伊勢とするものは一伝の謬り、仍て皆誤る、所謂羽取山は寺田村の上方岡山是なり、本邑の西南にあたり脈相つづけり、彼に戦死してこゝに葬むるならん。東大寺古文書曰、建長七年五月伊州清浄光寺住侶重阿弥陀仏敬曰、請殊蒙十方檀那広恩寺内修種々善根状、右当寺者覚弁聖人経始霊地也。寺院もと台嶺の末刹にして結構巍然たるに、天正の兵火に烏有となる。○今山田村大字千戸。
鳳凰寺《ホウワウジ》 山田村の西に在り薬師寺とも曰ふ、寺観今廃し大字に遺るのみ、古伽藍の断礎散在す、里俗武帝の創建と曰ふ、蓋山田古郡司の本願ならん、寺辺に城内《ジヤウノウチ》権現祠あり、弘文天皇を祭ると称す、帝母は郡司の女と云ふ、而て城と呼ぶ者即郡司の宅址也。〔准后伊賀記永閑名所記三国地誌〕
本代《ホシロ》郷 和名抄、山田郡木代郷。○此郷は和名抄木代に作れど、木本の謬あるに似たり、今喰代里ありホウシロと呼ぶ、蓋是なり、故に之を正す。本は保音に仮り保字に充たるなり、而て喰は波牟の訓義に仮り、波字保字に転じたるならん、今|友生《トモノフ》村に当る。
補【木代郷】山田郡○喰代は今ハウシロと訓む、喰をハムに仮りハウと移るか、木は誤字なるべけれど推考なし。○和名抄郡郷考 霊異記、伊賀国山田郡※[口+敢]代里といふあり、こゝか。掖齊考証云、今山田郡有喰代郷喰代邑。神鳳抄、喰代御厨。風土記、木代山在郡之東南。伊水温故、風土記木代山、和名抄に木代郷あり、此山此郷今世に知人なし、又喰代郷は喰代高山蓮池。伊賀考、喰代村は元木代と云、此処元木代山と云あり、喰代は今ホオシロと呼。
喰代《ハウシロ》 今|友生《トモフ》村の字なり、霊異記、伊賀国山田郡※[口+敢]代里とある是なり。和名抄、木代に作る。今昔物語は霊異記に拠り「※[口+敢]代《ハウシロ》の里に高橋東人と云者あり、家大に富みて財に飽き満ちたり、死たる母の恩を報ぜしむるが為めに、心を発して法華経を写し奉て供養したる事」を載す。○按ずるに※[口+敢]代の高橋東人と云ふは、山田郡司(伊賀釆女父)同人に非ずや、阿閇臣伊賀臣同族に高橋あること、書紀姓氏録に明なり。○東大寺古文書「天喜四年、山田郡喰代村、四至東限高山、西限里山、南限山、北限谷口」と此東限高山と云は、今も高山の大字存す、又神鳳抄喰代御厨あり。
友生《トモノフ》 今友生村と曰ふ、山田村の南に在り、東大寺嘉暦三年古文書に伊賀国友尾とあり、准后伊賀記云「公田分鞆尾村」。
川原《カハラ》郷 和名抄、山田郡川原郷。○今|布引《ヌノヒキ》村阿波村なるべし、三国地誌には之を千戸の辺と為せど非なり、謡曲井関山に「広瀬川原や井関やま」の句ありて、其地は即布引村なり。
広瀬《ヒロセ》 今布引村と改称す、布引山の下なれば也、謡曲に見ゆる井関山は此に在り。東大寺旧案「建仁元年、広瀬村十八町 浄土寺三町,有丸名廿七町三段大」。
流れいづる涙計りは先き立ちて井せきの山をけふ越るかな、〔新続古今集〕 道命法師此所は山田阿波両駅の間にして、伊勢路の別径之に係る、大字川北の路傍に石窟あり、蓋塚穴なり、此辺に猶数穴ありと云ふ。〔人類学雑誌〕○神鳳抄云、伊賀国広瀬山田本御厨。
馬野《バノ》 一に番野に作り、笠取山より布引山に至るまで一面の草生にして、古より牧馬の地と為せり、東大寺暦応三年文書曰「馬野者、寺家根本十三大会、并八幡宮転読之料荘」
布引《ヌノビキ》山は馬野の東南に横亘する大嶺にして、東は伊勢一志郡榊原村とす、嶺勢綿延布を曳くが如し、故に名づく、今山下の村名に転用す。
補【馬野】山田郡〇三国地誌 奥馬野、中馬野、坂下是を呼て馬野郷と云。○笠取山より布引山に至るまで一面の草山なり、宜なり古より牧地とすることを。布引村大字馬野。
補【布引山】山田郡○地誌提要 馬野三郷、下阿波猿野諸村に亘る、地蔵尾より峰を界して伊勢となす、山下坂下村より一里十町。○今布引村を立つ。
阿波《アハ》 布引村の北にして、其駅舎を平松《ヒラマツ》と曰ふ、東|長野《ナガノ》峠を以て伊勢国に堺し、安濃津より山田上野に至る便道なり。○東大寺建仁元年旧案云「阿波保廿七町小、同新別府三町二段、同召次名三町」、又東大寺要録「承久三年官符、寺領伊賀国阿波荘」
補【阿波郷】山田郡〇三国地誌 上阿波、猿野、富永、下阿波、川北、広瀬是を呼で阿波郷と云。東大寺古文書(建仁元年)曰、念仏堂庄八十一町九段(山田郷内)阿波保廿七町小、同新別府三町二段、同召次名三町三段、広瀬村十八町、浄土寺三町、有丸名廿七町三段大、已上建久之比。按、暦応三年古文書、富永荘云々。神鳳砂曰、広瀬山田本郷御厨、按、東大寺古文書暦応三年広瀬荘云々。
補【阿波野】山田部○万雑挽〔万葉七挽歌)に
鏡なすわが見し君を阿婆の野のはなたちばなの珠にひろひつ
今野と云ふべき処なし、阿波の社の前一面の平地なり、吉野なるか不祥。○平松駅は阿波村の中なり。○神功紀〔摂政前紀〕更造齊宮於小山田邑、云々、答曰、幡荻穂出吾也、於尾田吾田節之|淡《アハノ》郡所居神之有也。○〔鰐口銘、略〕土俗杉尾白髪〔本篇髭〕明神は猿田彦を祀るとす、紀に所謂淡郡は当時伊勢の管内にして、即この邑なり、筑紫馮談の神蓋し猿田彦大神なり、後に小邑小山田あり。○土俗阿波神社と云こと、みるものなし、杉尾荻穂の転訛せるか。
阿波《アハ》神社 大字|下阿波《シモアハ》に在り、三代実録貞観三年同十五年授位、延喜式、山田郡に列す。〇三国地誌云、本社鰐口銘云「阿波谷杉尾大明神、文禄五年丙申五月日」又狛狗像あり頗古雅なり、土俗杉尾白髭明神と称し、猿田彦を祀ると為す、按ずるに是れは、日本書紀神功皇后筑紫に於て請教したまへる、淡郡《アハノクニ》神なるべし、其神講に「幡荻《ハタスゝキ》穂に出でし吾や尾田《ヲタ》吾田節《アタフシ》の淡《アハ》の郡《クニ》に居る神なり」と宣りたまふ。(今按、淡郡神は此にあらず志摩国に在り)○延喜式、山田郡葦神社は、今大字上阿波別府に在り、八王子と称す。(伊水温故三国地誌)
新大仏《シンダイブツ》寺 大字|富永《トミナガ》に在り、東大寺古文書「建仁元年、山田郡内念仏堂荘八十一町九段」、又円光大師行状に、東大寺俊乗房重源は念仏を信仰のあまり、七箇所の不断道場を興隆せる事を述べたり、伊賀には新大仏と云ふ即是なり、一名神龍寺と称し、源頼朝本願佐々木秀義の菩提を弔へる者とす、相伝ふ俊乗坊創建の初め十一宇の大伽藍なりしが、後世衰頽し、大雨の時、山壑崩れて堂舍破壊したり、本尊も土中に埋没したるを、漸くにして修補し、今の如く石座の上に安置す、又古仏像の頭の内より、長五寸の白銀量廿五分の舎利及香木を発見したる事あり建仁の銘ある千体仏印を現蔵す、佐々木塚は五水谷の頂に方三尺許り石塚なり、又別に経塚あり。〔三国地誌〕○准后伊賀記云、佐々水源三秀義者、源為義之養子也、保元平治軍中、其誉多、寿永三年七月、於山田郡平田城、武勇甚励、老骨負痛手死、七十三歳、即自関東、被定当代第一勲功、御感之余、伊賀御免築墳墓。
阿波の荘と云所に俊乗上人の旧跡あり、護峰山新大仏寺とかや、名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶て田畑と名の替はり、丈六の尊像は苔の緑に埋れて、御ぐしのみ現前と拝まれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ全くおはしまし侍るぞ、其代の名ごり疑ふ所なく、涙こぼるゝばかり也、石の蓮台獅子の座などは蓬葎の上にうづたかく、双林の枯たる跡も、まのあたりにこそ覚えられけれ、
丈六にかげろふ高し石のうへ、 桃青
さま/”\の事おもひ出す桜哉、
補【念仏堂】山田郡〇三国地誌 円光大師行状曰、俊乗房重源念仏を信仰のあまり、七箇所に不断念仏を興隆せられき(同翼賛曰、七カ所不断念仏、或伝説に云、東大寺念仏堂・高野新別所・播磨浄土寺、醍醐旧址道場、伊賀大仏道場・大坂渡辺道場・周防阿弥陀寺是為七ケ処云々)按富永村にあり、俗念仏堂山と云、東大寺古文書に念仏堂庄八十一町九段と云、是なり。○阿波村大字富永。
補|佐々木《ササキ》塚 山田郡○此地山田郷新大仏寺也、按、富永村字五水谷の山頂にあり、呼て佐々木塚と云、方三尺ばかりの石棺あり、又経塚あり。○鎌倉実記、引或記曰、建久七年新大仏寺建立、伊賀山田郷俊乗房重源幼住、同八年七月十九日供養之、時其式 奈良東大寺三分一也、棟梁之面為佐々木源三菩提、大檀那源二位頼朝野木四郎左衛門高綱。○阿波村。
補【小田】阿拝郡○三国地誌 今上野も此郷に属せし也、寛永中荒木又衛門此地にて復讐の事あり、此又衛門は備前侯にに出仕す。
補【阿拝神社】阿拝郡○清和天皇貞観六年十月十五日戊辰、伊賀国正六位上安部神、伊賀津彦神、並従五位下〔三代実録〕〇三国地誌 小田町に在りて蔵王権現と同境とす、蔵王権現は准后伊賀記に見えたり、此阿拝神社は上野城西丸の地に鎮座せしを、築城の時彼境内へ移したる也。○今小田村。○神祇志料、敢国同神と為す。
伊勢国
伊勢《イセ》国 境域東は内海に臨み、北は尾張美濃に至り、西は近江毬大和、南は志摩なり、東西十二里、狭処四里、南北凡二十七里、面積約二百十五万里。(度会郡南九村旧志摩の地を除く)山岳三面に連亘し、北界の少部は木曽川の洪彼を以て尾張と相限る、土壌肥沃にして山海の産亦豊なり、人口七十万。古時天照皇大神の鎮座(垂仁の朝倭姫之を奉ず)したまふ処にして、号して神国と曰ふ、昔人云、伊勢、山海平均、勝於余州、仍為|国親《クニオヤ》〔類聚往来〕今県治を三重と称し、安濃津に庁舎を置く。○国道は東海《トウカイ》線北部を貫き、参宮線は南北に馳せ四日市と神宮を連絡す、今鉄道北部を貫く者は鈴鹿嶺の西方より伊賀に通じ、亀山駅に於て参宮鉄道と会ふ。
神代紀一書云、「猿田彦神曰、吾則応到伊勢之|狭長田《サナダ》五十鈴川上」其猿田彦の裔を宇治土公《ウヂツチギミ》と為す。神武天皇、熊野浦に進軍して、吉野宇陀に向ひたまふ時「神風の伊斉《イセ》の海」の御詠あり、論者或は之に因り、天皇伊勢を経て宇陀に入りたまふと為せど非なり、蓋天皇の御詠は丹敷《ニシキ》浦|荒坂《ヲサ》津の海を伊勢と呼びたまへるにて、後世の内海と其所指異なりとす。(丹敷荒坂は後世志摩国又紀伊国牟婁郡に属し、其海面をも熊野灘と称す)風土記に拠れば当時国主伊勢津彦(倭姫世記曰、出雲神子、出雲建、一名伊勢津彦、古事記伝云、伊勢津彦は建御名方神に同じ)有り、天皇天日別に命じ之を問ひ、避去せしめらる、天日別仍て伊勢を定め、其子孫国造と爲り、又神主を兼ぬ。
伊勢風土記(釈日本紀所引)曰、伊勢国者、天御中主尊七十二世孫、天日別命之所平治、天日別命、神倭磐余彦天皇、自彼西宮征此東州之時、随天皇到紀伊国熊野村、奉勅東入数百里、其邑有神名曰伊勢津彦、天日別命問曰、汝国献於天孫哉、答曰吾覓此国居住日久、不敢聞命矣、天日別命発兵欲戮其神、于時畏伏啓云、吾国悉献於天孫、吾敢不居、遂乗波而東焉、(近住信濃国即為天日別命之封地邑或云、天日別命奉詔、自熊野村、直入伊勢国、殺戮荒神、堺山川定地区云々。国造本紀曰、伊勢国造、橿原(神武)朝、以天降天牟久怒命孫天日鷲命、勅定賜国造。(標註曰、牟久怒、牟羅久母怒之脱誤、日鷲、日別之訛謬乎)。大同本紀曰、皇大神御鎮座之時、大幡主命曰、己先祖天日別命、賜伊勢国内|磯部《イソベ》河以東、神国定奉、即大幡主命、神国造并大神主定給。姓氏録、伊勢朝臣、天底立命六世孫、天日別命之後也。持統紀曰、六年、天皇幸伊勢、賜所過神郡、及伊賀伊勢志摩国造等冠位。○垂仁天皇の時、大神宮を度会に奉じ、其封邑を神国と名づく、孝徳天皇の時国郡制を布き、十二郡と為し、其度会多気を神郡と云ひ、其旧に仍る、天智天皇の時、多気より飯野を分ち、十三郡と為る、(延喜式、和名抄、伊勢、訓以世、管十三郡、近大国)後神郡増封ありて、飯野を加へ、神三郡と称し、更に員弁三重朝明の三郡を加へ、道前《ドウゼン》道後の目を以て之を分てり、又安濃を東西に分ち、飯高を南北に分ち、封郡に列せしむ、此に於て神八郡の称あり。平維衡国守に任じ、子孫之に繁殖して清盛に極まり、神封の地多く平族の侵略を被る。鎌倉幕府制止する所あれども、復する能はず。延元以後に及び、国勢益分裂し、国司北畠顕能一志郡多気に居り、吉野朝廷の藩屏となる、足利氏仁木義長土岐頼康を本州守護に任じ、北畠氏を攻めしむ、此に於て南伊勢北伊勢具号令を異にす、北畠政具(顕能五世孫)の時、北勢を定め全州一致す、其曽孫具教に至り、織田信長の滅する所と為り、乃郡邑を諸将に分封す、徳川幕府に及び、山田に奉行を置き、神宮及海船の事を監せしめ、其近傍十八万石を和歌山藩の兼知に属せしめ、安濃津城二十万石を藤堂氏に給す、其他小侯数藩あり、桑名城は城主屡改変ありて振はず、明治維新の際全州草高七十万石と云。(明治二十九年、朝明郡を三重に併せ、河曲奄芸を廃し河芸郡を置き、飯高飯野を廃し飯南郡を置かる)
伊勢志摩は境域相接し、旧一国なり、国郡制置の後も、境堺の変遷あり、度会郡伊気郷は志摩に入り、志摩の道潟船越芳草三郷は度会郡に帰す、本編は其三郷(今九村)を旧貫に仍り志摩郡の下に移し、以て地形に順応せしむ。○伊勢の名義、及び出拠詳ならず、書紀通証云、垂加翁曰、「伊勢五十瀬也、出自五十鈴川之名世」と参考すべし、後世|勢《セイ》州と称し、又|雲津《クモツ》川に由り、北伊勢南伊勢の別を為す。
俗諺に伊勢浜荻、伊勢平氏、伊勢暦(神宮司庁参考)、伊勢音頭(古市参考)など云事あり、浜荻は伊勢海の条に掲げ、平氏を此に附説すべし。此諺は盛衰記に出て、平氏と瓶子を通用せるなり、五鈴遺響云「昔河曲郡|土師《ハジ》村の陶工壷を出す、今其業廃せり、之を伊勢壷又伊勢瓶子と曰ふ、一休禅師梅法師の詩に曰、
五月黄梅歿落時、起青道心成法師、欲問疎影横斜古、伊勢壷底暗皺眉、
北畠材親卿記に曰く、昔平忠盛と云ふは、多度の神に詣て、其の願みてなん夜の夢に、一の壷をたびけり、うれしき事にて酒ぞとおもひければ、酢瓶なりけり、それより目をわずらひ、一とせの間にすがめとなれども、官加階心にまかせ、昇殿まで許されしとなむ、されども孫にてありける世に亡びけるとぞ、これより伊勢のならひとなりて、目出度ことぶきには、酢おくらぬたしめとはなりき、此事節会の夜、平忠盛の舞けるときに、俄に柏子をかへて、伊勢平氏はスガメなりと囃しけり、此の忠盛は桓武天皇の後胤とは申しながら、中比は無下に打下りて、官途も浅く、近来より都の住居もうと/\しく、常は伊賀伊勢のみ居住せし人なれば、此一門をば伊勢平氏と申しけるに依て、彼国の器に准へて、忠盛右の目のすがみたりければ、伊勢平氏はスガメ成りけりとは囃しけるにこそ云々、今考ふるに前説は多度の神酢瓶を賜ひしに拠り、盛衰記は伊勢の国の産の陶器に拠て謔名せしなれば、其旨相異なり、忠盛と生地は安濃郡|産品《ウブシナ》村とぞ。」○按ずるに、忠盛は其高祖維衡伊勢に任国し、父正盛忠盛又伊勢守を賜り、伊賀伊勢に其族党の多かりし事、各地の条下に散見す。
補【伊勢国】○日本国郡沿革考 以世、伊勢は上古伊勢津彦之に居る、神武天皇東征の時、紀伊より転じて此国に至り、天日別命をして之を征服せしむ、伊勢津彦乃ち国を献じて去る、因て天日別命に賜ふて其邑となす、伊勢朝臣は其後なり、
伊勢風土記釈日本紀所引曰、伊勢国者天御中主尊之十二世孫、天日別命之所平治、天日別命、神倭磐余彦天皇、自彼西宮征此東州之時、随天皇到紀伊国熊野村(中略)天日別命奉勅、東入数百里、其邑有神、名曰伊勢津彦、天日別命問曰、汝国献於天孫哉、答曰、吾覓此国、居住日久、不敢聞命矣、天日別命発兵欲戮其神、于時畏伏啓云、吾国悉献於天孫、吾敢不居矣(中略)遂乗波而東焉(中略)国宜取国神之名号伊勢、即為天日別命之封地国、賜宅地于大倭耳梨之村焉、或本曰、天日別命奉詔、自熊野村直入伊勢国、殺戮荒神、罰平不遵、堺山川定地邑。姓氏録曰、伊勢朝臣、天底立命六世孫、天日別命之後也。
神代紀一書曰、吾(猿田彦)則応到伊勢之狭長田五十鈴川上。神武天皇紀戊午年冬十月、乃為御謡之曰、伽牟伽筮能伊斉能于彌(さんずい)能云々。按、古事記伝建御名方神の条に云、伊勢津彦といふは建御名方神の亦名にて、右(風土記)の故事は即建御雷神の建御名方神を攻追ひ給へる此段の事なるを、神武天皇の御世の事とせるは、伝の誤なるべしと云ふ、然れども神武天皇熊野より菟田下県(大和)に到る地理を考ふるに、天皇熊野荒坂津(今錦津、後志摩に入る、二色郷の地なり)に到り、丹数戸畔を誅し伊勢の西南隅を過ぎ、高見嶺を踰え(此路今高見越といふ、地勢狭束して大和宇陀に至る最捷となす)大和の東に出て(所謂背負日神之威者)菟田に至られしなり、然れば其時天日別命をして別に軍を率ゐて伊勢津彦を平定せしむるは、勢の必あるべき所なり、故に今風土記を採り、以て神武天皇の時事となす、風土記又云、詔云、国宜取国神之名号伊勢とあるは誤りにて、伊勢の名は既に猿田彦の時に見ゆれば、其来る久しきなり、伊勢津彦蓋其国名により名となす者なり
国郡の制定るに及て蓋十二郡あり、天智天皇の時飯野郡を置き十三郡となる、又大神宮封戸の地を神郡と称す、後道三郡前道後三郡の称あり、
渡会郡南境古へ志摩と接す、淳仁天皇の時志摩国と国境を争ふ事あり、後世志摩国英虞郡三郷の地を併せて海浜に達す(志摩国に詳也)
〔前後脱文か〕
度会郡 今人口十一万四千 四町卅一村 面積四十八方里
多気郡 今面積二十九方里 人口四万七千 十七村
飯野 今面積三方里 人口一万六千
飯高 今面積廿三方里 人口五万七千
一志郡 今面積卅六方里 人口九万四千 久居町外卅八村とす
阿濃郡 今面積十一方里 人口三万八千 十七村
阿濃津 人口二万七千
奄芸郡 今面積七方里 人口四万三千 白子町外十四村
河曲郡 今面積三方里 人口二万二千 神戸町外六村
鈴鹿郡 今面積十九方里 人口五万二千 二町十八村
三重郡 今面積十二方里 人口七万余 四日市町外十八村
朝明郡 今面積五方里余 人口三万四千 十一村
伊勢海《イセノウミ》 今は伊勢尾張及参河志摩間の内海を指せど、古は志摩国も伊勢島と称し、一境と見做したるより、志摩の南海をも此名の下に摂したり、即熊野灘の東北部をも包有したりと知るべし、故に伊勢蝦と云ふも、皆志摩の産也。
伊勢の海の磯もとどろによするなみかしこき人に恋渡るかも、〔万葉集〕伊勢の海に釣するあまのうけなれや心ひとつを定め兼つる、〔古今集〕
源氏物語に「伊勢をの海人」と云詞ありて、伊勢の海の義なりと云ふ、名寄は之に本づき、大神宮を雄の宮とよめる者を収めたり、此|雄《ヲ》と云ふも魚の義より転じて、海の意となれるにやあらん。
うきめかるいせをの蜑を思ひやれもしほかるてふ須磨の浦にて、〔源氏物語〕月影もたえずやすまん五十鈴がは伊勢をの宮の世々のふる道、〔歌枕名寄〕
「伊勢の浜萩を難波にて葦と呼ぶ」てふ諺あり、今東二見村|三津《ミツ》浦に片菓の葦あり、是なるべしと云。〔俗説弁神都名勝志〕
碁檀越、往伊勢国時、留妻作歌、
神風の伊勢の浜荻折ふせてたびねやすらむあらき浜辺に、〔万葉集〕
伊せのうみの伊勢の海の清き渚の潮かひに名のりそや摘まん貝や拾はん珠やひろはん、〔催馬楽伊勢海〕
日本水路志云、伊勢海は、鳥羽港門の北側をなせる答志島を西角とし、伊良湖崎を東角とし、此処幅凡六海里、中間に神島あり、此島と伊良湖崎との間を伊良湖水道と曰ふ、海湾の長さ南北大凡三十五海里、分れて二湾となる、西部は即ち本湾にして、東部は三河湾なり、水深は最深処二十尋を踰えずと雖、割合に岸に近きて探し、北隅の熱田《アツタ》湾(即ち木曽川口と日長《ヒナガ》地角の一線以内)は頗る浅く、固より大船の行く可き所に非らず、又此海湾の中部は平底にして、岸に近づくに従ひ徐かに水深を減じ、且泥底なる為め至極船を導き易く、静穏の日に於ては到る処に仮泊地を得べし、又陸地の総観に於ては、西側は一般に平低にして、白沙青松之に沿ひ、浜より内地凡十二海里にして、長き高山脈に達す、知多半島は凡三〇〇呎に過ぎぎる一帯の低山脈にして、西面に精々険に東面に夷なり、三河湾と伊勢湾とは此半島の為めに分る。
伊勢神風○此は上古の諺にて、風土記逸文〔万葉仙覚抄釈日本紀〕に出づ。曰「天日別命、令問伊勢津彦曰、汝之去時、何以為験、啓曰吾以今夜、起八風吹海水、乗波浪将東入、此則吾之却由也、天日別命、整兵窺之、比及中夜、大風四起、扇挙波瀾、光耀如日、陸海共朗、遂乗波而東焉、古語云神風伊勢国者、蓋此謂之也、伊勢津彦、近住信濃国」云々、本居氏云此伊勢津彦は諏訪建御名方神に同じければ、此避国東入の事は、神武天皇の時にあらず、其以往天孫降臨の初に在りと、神代史の事なれば、今明白の理会に苦むも、逸文及倭姫命世記延暦儀式帳等を合考するに、伊勢津彦の喬孫の此国土に地主たりし事は、其徴証多し、蓋天日別が神武帝の命令を以て、此国を懐柔したるは、伊勢津彦の裔孫の世の事にして、風土記は其裔孫の帰順をば、其祖の避国の故言に混同し、神風の諺を此に引きたるなり。
鈴鹿郡
鈴鹿《スヾカ》郡 北は三重郡并に近江甲賀郡に至り、東は河芸郡、南は安濃郡、西は伊賀阿山郡也、西北は峰巒綿亘し、一水諸澗を併せて東流す、之を鈴鹿川と曰ふ。○本郡は、大和山城両京の昔、東海道の咽喉に当り、関塞を置かる、今鉄道は名古屋より来る者を関西線と称し、関駅を過ぎ西|伊賀《イガ》に入り、柘植《ツゲ》駅に至り旧京に向ひて二分す、故に関は間駅と為る。又参宮鉄道は本郡亀山より起り、南馳して神宮に向ふ。○本郡今人口五万五千、二町十八村に分れ、面積約十九方里。(文録検地四万九千石、元禄検地五万二千石)倭名抄、鈴鹿郡、訓須々加、七郷に分ち、当国々府の所在なり。日本書紀、天武帝壬申乱の条に「車駕入伊勢、爰国司守三宅連等、参遇鈴鹿郡」と見えたり、延暦儀式帳に味酒《ウマサケ》鈴鹿国とあり、古事記明宮(応神)段に須々許里と云韓人醸酒の事を載す、之に因みて味酒の枕詞あるか、而も鈴鹿は山名に原づきたる者にして、篶の生へたる義なるべし。○倭姫命世記延暦儀式帳を参考するに、本郡及河曲は古|川俣《カハマタ》県と称したり。
鈴鹿《スヾカ》郷 和名抄、鈴鹿郡鈴鹿郷。○今関町坂下村|加太《カブト》ミラ是なり、郡の西界に在り、坂下《サカノシタ》は近江に通ずる山路にして、加太は伊賀に通ず。参宮図会云「鈴鹿関は、古来九度其所を換らる、凡崇神帝以来東海道往来は皆伊賀路に由る、近江より通ずるは、光仁帝仁和二年、新道を開かれしより始まる」、九度と云事明かならねど、通路の沿革数々なりしを想ふべし。
補【鈴鹿郷】鈴鹿郡○和名抄郡郷考 兵部式、鈴鹿駅馬二十疋。名所図会、鈴鹿山在伊勢近江界、東海道駅村なり、近江土山へ行程二里、往古は此所に関を置れたり、関市令・拾芥抄等に見ゆ、三関の一也、海道の左に鈴鹿川ながれ、又右に流れて幾瀬もあるゆゑに八十瀬川ともいへり。
鈴鹿《スズカ》川 二源あり、一は加太村大岡寺峠より発し、一は坂下《サカノシタ》村|三子《ミツゴ》山より発し、関町の西に於て相会し、東流して河芸三重両郡の間に入り海に朝宗す、長凡九里。
鈴鹿川八十瀬度りて誰故か夜こえに越んつまもあらなくに、〔万葉集〕
鈴か川すずかがは八十瀬の滝を皆人のめぐるもしるくや時にあへる時にあへるかもや、〔催馬楽、鈴之川〕
八十瀬とは、同じ山かはを彼方此方と幾度も渡れば也、〔万葉略解〕万葉集に見ゆるは加太越の渓澗を曰ふ、(即今の鉄道線)後世は坂下村|一瀬《イチノセ》沓掛の辺に、八十瀬の号を移したり、鈴鹿川は関駅の辺には関《セキ》川とも呼ぶ。
鈴鹿《スズカ》山 鈴鹿郷の西北を擁塞する山嶺の総名なり、古は伊賀路加太村の方をのみ鈴鹿山と呼べり、後に至り近江路を以て孔道を為したれば、鈴鹿峠の称は坂下村に移りぬ、新旧の別ありと知るべし。鈴鹿山は篶之《スズカ》山の義にて篶草より起れる歟、古名|須受我嶺《スズガネ》、後世|栖鹿《スシカ》又鈴鹿と訛るは、原地に相干与せず。天武紀(壬申乱条)「自伊賀積殖山口、越大山、至伊勢鈴鹿、発五百軍士、塞鈴鹿山道」とあるは古道にて、今の加太山なり、万葉集に「須受我禰《スズガネ》乃波由馬字馬夜と曰ふも之に同じ。平安京の御世に至り、東海東山両道は、近江国草津より岐分せしめ、鈴鹿駅に達せしむ、然れども其鈴鹿山横絶は、尚柘植加太に於てしたるか、其今の如く坂下村を経て土山駅(近江甲賀郡)一線の定まれるは、何世の事にや、沿革審ならず。
参考本盛衰記云、平田四郎貞継法師(太郎入道家継に同じ)伊賀より近江国へ打出て、鈴鹿山を後に当てゝ一戦せしが、源氏の為めに散々に蒐立られて、今に返合するに及ばずとて、鈴鹿山に引籠、夫よりちり/”\にこそ成にけれ、平家重代の家人なれば、相伝の志は哀なれども、大気なしとぞ覚えたる、三日平氏と笑ひけるは此事也、東鑑曰「元暦元年七月五日、大内維義於伊賀国、為平家一族被襲、十九日、与平家余党等合戦、逆徒敗北、其内張本、富田進士家肋、前兵衛尉家能、家清入道、平田太郎家継入道等也」、玉海曰「元暦元年七月八日、伝聞、伊賀伊勢国人等謀叛畢云々、又伊勢国、和泉守信兼已下、切塞鈴鹿山、同謀叛畢云々、廿日伝聞、昨日伊賀伊勢之輩、出逢近江国、与官兵合戦、官軍得理、廿一日伝聞、謀叛大将軍平田入道家継、被梟首、忠清法師家資等蔵山畢」、(本書に三日平氏とあるも、東鑑玉海に参照せば三日平氏にあらず、蓋元久元年四月の条に、別に三日平氏あり、三重郡富田、関の三日《ミカ》城址を参考)本書又云、八月十一日、義経は和泉守平信兼が、伊勢国|滝野《タキノ》と云所に城郭(土偏)を構へ、西海の平家に同意すと聞て、軍兵を指遣す、信兼城内に籠り、失種尽にければ火を放ち、信兼以下自害して炎の中に死にけり。東鑑曰「八月、今度伊賀国兵革事、偏在出羽守信兼子息等結構歟、而彼輩遁囲之中、不知行方、十日、廷尉義経招信兼子息兼衡信衡兼時等於宿廬、誅戮之」、山槐記曰「八月十二日、義経発向伊勢国、為伐信兼」。(この滝野の城も鈴鹿山にして、関の三日城址にあたるかと想はるれど、明徴なし、今南伊勢に多芸谷あり又滝野の村名あれど、信兼の故墟にあらざるべし、又薩州頂峰院文書に信兼党類領の波出御厨あり) 下伊勢国波出御厨 左兵衛尉惟宗忠久
補任地頭職事
右件所者故出羽守平信兼党類領也而信兼依発謀反令追討畢仇任先例為令勤仕公役所補地頭職也早為彼職可致沙汰之状如件以下
元暦二年六月十五日 (花押)
鈴鹿山ふるの中道君よりもきゝならすこそおくれがたけれ、〔斎宮家集〕鈴か山伊勢路に通ふみせ川のみせばや人にふかき二ゝろを、〔夫木集〕すゝ鹿やま伊勢をのあまの捨衣汐なれたりと人やみるらん、〔後撰集〕
鈴鹿嶺 越 鉄兜
古木回厳望欲迷、秋煙匝地失東西、将軍祀外青杉雨、鳥不知名学鬼啼、
補【鈴鹿山】鈴鹿郡〇五鈴遺響 旧名片山或は三箇山、方俗ミツコ山と称す、東街官道を挟みて三峰崔嵬深谷幽渓嶮岨にして南北に聳えたり。林春斎癸未紀行、
勢州鈴鹿鎖関家 九折八町ー径斜 秋色嵐光多感慨 護花声裡却※[口+御]花
註云、鈴鹿坂羊腸四百八十間、土人謂之八町。
鈴鹿山 花を踏て岩に角なし鈴鹿山 暁台
補【片山神社】○神祇志料 片山神社、今古厩村にあり、八王子といふ(本村検地帳・式内社検録)
按、社南小山二嶺ありて片山と唱へ、社東の田畠道を限て西を皆片山と字し、社域の廻りにも片山と字する田畝あるもの、証とすべし。
加太《カブト》 又鹿伏兎に作る、鈴鹿川の源頭にして、四面皆山、其伊賀国柘植駅に通ずる山道を大
岡寺《ダイカウジ》峠と曰ふ、今鉄道此村を過ぐれど車駅なし。○平家物語云、元暦元年正月、義経範頼上洛の時、義経は搦手の大将にて、鈴鹿山の麓の関を通し、八十瀬の波を凌ぎ、加太山にかゝり、峰高くー嶮にして身を側ち伝ふ、谷深く水急なれば馬蹄危うして過させたり。
漉伏兎氏は平氏関家の一族なり、其城墟は加太の字|市場《イチバ》に在り、塁壕の址古井等存す。〔伊勢名勝志〕勢州四家記云、関の三家督と云は鈴鹿郡亀山、河曲郡神戸、鈴鹿郡峰、軍兵千の大将也、同五大将といふは、鈴鹿郡国符関家、鹿伏兎関家と三家督となり、何も五百の大将也、関勢与力五千人、此五家は各足利の侍也、関家幕紋は上羽の蝶也。補【鹿伏兎《カブト》城址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 加太村市場に在り、雑木繁茂す、山上塁濠の址尚存す、古井二あり、大旱と雖も涸れず、関平氏の一族之に居る、天正中廃城。○加太村 山中一区を為す、東は関駅に通じ、西は拓殖に至る、今汽車を架す。
坂下《サカノシタ》 加太の東北、関町の西北にて、鈴鹿川の支源|一瀬《イチノセ》の源頭に在り、多津加美《タツカミ》坂の下なるを以て、此村名あり。坂を西北に越ゆれば土山駅(近江甲賀郡)に至る、凡二里半。(関町へは凡二里)本村は往時国道往来の旅客盛なりし頃は、人馬の継立特に多かりける所なるも、今は廃絶して寂寥を極む、慶安年中、坂下宿洪水に罹り、今の地に移る、旧駅は十町許西、鈴鹿明神の下なりとぞ。〔参宮図会東海道図会〕
多津加美《タツカミ》坂 一に立神に作る、蓋馬鬣の義なり、坂路八町廿七曲、其高峰を三子《ミツゴ》山と曰ふ。〇五鈴遺響云、三子山は路を挟み三峰崔嵬、深谷幽渓嶮岨にして南北に聳えたり、土俗に八百八谷ありといふ、官道の坂路廿六町、樹木陰欝として、屈曲すること羊腸に似たり、且は嶮なる処八町許廿七曲あり、東海道第二の嶮難の処なり、相模筥根山に伯仲すべし、故に古昔より鬼魅緑林の妄談あり、彼田村将軍の事は固より徴証なし、太平記に「鬼切丸と申すは源家の宝刀にして、武将田村将軍より帝に献ず、是は鈴鹿の御前、田村と鈴鹿山にて剣合せの大刀なりと」あるのみ、蓋し鬼魅と称するものは、奸盗にして、今昔物語に「鈴鹿山の旧堂に鬼ありて、人の宿ることを得ず、然るに旅客三人宿りて怪に遇たる事」見えたり、古今著聞集、朱雀門女強盗の事を記して「昔こそ鈴鹿山の女盗人とて云ひ伝へたるに、近き世にも斯る不思議侍るにこそ」と云へり、又神宮雑事記云、「抑古記文曰、醍醐天皇御代、昌泰元年十二月、祭便下向之間、鈴河山内白河強盗出来」云々、田村麻呂鈴鹿御前の剣合といふ事は、田村草紙と云ふ作り物語、及び謡曲に見ゆ。有方録云、鈴鹿山中、有将軍坂上田村麻呂廟、或曰、昔賊挟妖術、拠山擁道、剽奪行旅、朝廷遣将出兵、討之無克、後択材武卓偉、以田村麻呂充之、田村麻呂祷観音大士、依冥祐得勝、是以此山有祠、然於史伝無所見、按古朝廷有事、勅固三関、鈴鹿三関之一、凡関鎮圧以武為重、故祠田村将軍不絶也。
鈴鹿関 林 春斎
勢州鈴鹿鎮関家、九折八町山ー径斜、秋色嵐光多感慨、護花声裡却啣花、
鈴鹿関 草場 船山
将羊殺賊事千秋、鈴鹿関荒草木稠、勢北峰巒従此尽、残山起伏入江州、
花をふんで岩にかどなしすゞ鹿山 暁台
俚謡に「坂はてる/\」と、即多津加美を云ふ。
秋なれば思ほゆるかな鈴鹿山しかと霧とのたつかみの坂、〔末木集〕
のぼりくだりのおつづら馬よ、さてもみごとな手綱染かいな、まご衆のくせか高声で、鈴をたよりに小諸節、坂はてる/\すずかはくもる、あひの土山雨がふる、(端唄)
鈴鹿御前《スズカゴゼン》社 坂下村に在り、諸書之を以て、延喜式「鈴鹿郡片山神社」に当てたれど、信ずべからず、神祇志料、片山神は関町|古厩《ふるまや》に在りと云ふ者に従ふべし。○俗説弁云、弘安元年勅使記曰、鈴鹿山鈴鹿姫坐、坂頭之北辺、世伝坂上田村麿奉勅、征此山鬼女、且相婚、而女自伏罪就囚、献之朝廷、亦逃入山、後田村麿追到、為夫妻、其鬼女是鈴鹿姫也、按此征役事、不見于史籍。○応永三十一年参宮記云、鈴鹿川を渡り、鈴鹿姫と申す小社の前に、人々祓などし侍るなれば、しばし立よりて心の中の法楽ばかりに、彼立烏帽子の名石の根、えも不思議におぼえ侍りて、
鈴鹿ひめ重き罪をば改めてかたみの石も神となる也。
筆捨山《ふですてやま》 坂下村の南、大字|沓掛《クツカケ》より一瀬の辺なる石峰を曰ふ、山は全く岩石を以て畳成せる如く、古松其間に生ず、俚諺に狩野古法眼此勝景を写し、心に逮ばずとて筆を捨てしとぞ、疑ふらくは振捨《フリステ》の訛にて、定家卿又円位上人の詠に因めるならん。
すゞか山浮世をよそに振り捨てゝいかに成行我身なるらん、〔新古今集〕 西行
関《セキ》 今関町と曰ふ、往時関(淺の旁+りっとう、センを置かれし地なり、加太村の東二里余人口三千鉄道車駅あり。和名抄、鈴鹿郡駅家郷と曰ふは此とす。○関の駅舎、今中町と曰ひ、其東口を木崎と呼び、亀山町に至る凡そ一里半、西口を新所と曰ふ、寛永年中、東海道往来の路程を定められし以後の事也、其已前は鈴鹿の南岸、今|古厩《フルマヤ》と云地を東海参宮両道の衝と為したり、延喜式鈴鹿駅馬二十匹と云者之に同じ、古関址は明ならず、時々変移したるならん、○関谷《セキダニ》と云は、亀山より加太までの総名なり。
補【関】鈴鹿郡〇五鈴遺響 駅舎東口木崎といふ、古は関川を渡り古馬屋を東口とす、今の関駅は天正年中関阿芸守所知の時より変革し、又寛永年中以来江戸往来の盛なりしより、東口今の形勢に変りたるなり。
関町坂下村は南北に連接す、是は平安京以後の駅路なり、古の平城京の駅路は関町加太と連接せしか、随ふて関寨の形勢に大変あらむ、但し鈴鹿山を近江の境とのみ思ふは非なり。
鈴鹿《スズカ》関址 大和京の時は加太を山隘とし、山城の京の後には坂下を要害したるならん、関址明白ならず。○大日本史云、養老五年太上天皇崩、遣使固三関、(按後世有大喪、必固三関 蓋(日+方)于此)宝亀十一年、帝病大漸、遣使伊勢美濃越前固関、延暦八年、廃三関、天慶三年平将門作乱、又固三関。
伊勢の勅使に伴れて、鈴鹿関を越とて、
得ぞすぎぬこれやすゞかの関ならんふり捨がたき花の影かな、〔新後撰集〕 藤原 定家
振すてゝ誰かは越むすヾか山関屋は夜半の月ももりけり、〔新拾遺集〕 荒木田氏忠
古厩《フルマヤ》 今関町の南、鈴鹿川右岸の大字なり、即古の駅亭《ハユマウマヤ》址とす、延喜式、片山神社大井神社並に此に在り。〇五鈴遺響は古厩の八王子権現を以て大井神社に擬し、神祇志料は之を片山神社に当つ、蓋二牡一境なるべし、大井は井神にて筒井《ツヽミヰ》と云者此にあり。
須受賀禰のはゆまうまやの都追美井のみづをたまへないものたゞ手よ、〔万葉集〕
片山《カタヤマ》神社 延喜式に列す、今古厩に在り、八王子と称す、社南二嶺ありて片山と唱へ、社東の田畠道を限て西をば皆片山と字し、社域の廻りにも片山と字する田畝あり。〔神紙志料〕○神社考云、皇太弟踰伊賀国、入鈴鹿山、闇夜迷路、遙見火光、到一柴庵、以※[人偏+就]宿、老翁熟見曰、此人有王気、因令一女看之、太弟幸之、於是告曰、吾是皇太弟、避乱到此、会大雨、鈴鹿河漲不得渉、忽二鹿来遇、乃乗而渡、故改号曰|会鹿《アフカ》河。(神社考の語は出典を知らねど、壬申乱の時天皇往復共に鈴鹿に宿りたまふ、参考すべし、片山神社は彼駅翁の祖神たるべし)
新所《シンジヨ》 又|新城《シンジヤウ》に作る、関中町の西に接す、天正年中関氏十八世盛信の築く所にて、亀山の支砦なり、盛信の子長門守一政、天正十五年、美濃国土岐に移封せられ、此砦廃す。〇五鈴遺響云、新所の左傍に観音堂あり、城址なりといふ、亀山城主関安芸守盛信(入道万鉄斎と号す)新に所築にして隠居地なり、天正十一年、盛信父子京都に至る留守を窺ひ、盛信が臣岩間七郎左衛門一党四十三人叛逆して、桑名城主滝川に属す、十二年正月江州より蒲生氏郷、関盛信父子出兵し亀山城を奪ひ返し、万鉄斎入道に隠居処として此地をば再び賜る。○大永年中、関何似斎の別館亦此か、宗長手記曰「亀山より程三里ばかり山に入る、三町へだてゝ新福寺といふ律院の内成就院旅宿、奇麗の掃除目を驚し侍る、十日余り休息、毎日の懇にやゝ心かたくぞ侍りし、連歌一座あり、 八十の瀬のみなかみたかし秋の声
ながれも霧のおくふかきやま 何似
又こゝにも鉾楯軍の用意隙もなし、江州蒲生の城主護より退治数日になりて、こゝかしこ浪人あつまり、後詰の合戦度々と聞ゆ。
木崎《キザキ》 関中町の東に接する大字なり、川上山瑞光寺と曰ふ曹洞禅家あり、関万鉄斎の建立とぞ、此辺は古名出羽村と曰ふ。〔参宮図会〕按に出羽《イヅハ》は厳磐の義なるべし、岩石に因む、出羽社あり、今羽州羽黒権現を勧請すと云は、例の附会ならん。 嵐ふく川上かけてすむ月のいつはのもりにかげぞさやけき、〔歌枕名寄〕 行済
赤坂《アカサカ》 続日本紀、聖武天皇、天平十三年十月、行幸伊勢、至鈴鹿郡赤坂頓宮。○赤坂美哉址は瑞光院の後に在り、〔五鈴遺響〕木崎に属し、字を内山と曰ふ。〔伊勢名勝志〕
三日城《ミカノシロ》址 木崎山に在り、伊勢平氏の籠りたる古跡なるべしと云ふ。〔五鈴遺響〕平家物語「平肥後守貞能が伯父平田入道貞継を先として、伊賀伊勢両国官兵等、暫もたまらず攻落さる、平家相伝の家人、昔のよしみを忘れぬ事は哀れなれども、思立こそおほけなけれ、三日平氏とは是なり」云々、又東鑑「元久元年三月、伊勢平氏等塞鈴鹿関所、凡狼※[獣偏+戻]雖靡両国、蜂起既不軼三日、十一月、伊勢国三日平氏跡、新補地頭」。○按に三日城は伊勢平氏関族の墟なるべし、関氏は平資盛の後裔と云ふも疑はし、平家物語に関出羽守信兼あり、蓋此裔孫のみ、伊勢名勝志は、伊勢平氏伊藤武者景綱の後裔国綱と云を、関一党の祖と為せり。信兼は養和元年、熊野悪僧戒光等が二見浦に乱入せるを撃退し、寿永三年、伊賀の平田氏に与党して克たず、後|滝《タキ》野城に拠り、九郎義経の攻滅する所と為る、滝野と云も鈴鹿山中にや、今伝ふる所なし。
大日本史、平資盛、嘗為父重盛所逐、屏居伊勢、生盛国、後還京師、生親実、源頼朝特宥盛国、為北条氏臣、盛国二子実忠、盛綱、実忠左近衛将監、食伊勢関谷邑、称関氏、子孫仕足利氏、門葉頗盛、其族有亀山、神戸、峰、国府、鹿伏兎等氏、盛綱称長崎氏、世為北条氏執事。〔勢州四家記、伊勢国司伝記、桓武平氏系図〕○勢州軍記、北勢関の一党は太政大臣平清盛の後胤、関左近大夫将監実忠建仁四年初めて勢州鈴鹿郡関の谷を給はり関家と号し北条家の与力となり鎌倉に居住す、北条家滅亡の後、関四郎は足利尊氏公守護方の手に属し、子孫多し、関家元来富人なりき、すべて鈴鹿河曲諸郡中に於て領地を給り、子孫大に繁昌せり。(関氏は、元和三年伯州黒坂城にて除封と為る)
関地蔵堂《セキノジザウダウ》 関中町に在り、九関山と称す、里俗鈴鹿関は九度の沿革あれば、九関の名ありと曰ふ、附会なるべし、本尊地蔵菩薩にて、宝蔵寺と曰ふ、蝦夷《エゾ》桜と曰ふ老株あり、此は、定家卿の「エゾスギヌ」の歌詠に因める者なり。〇五鈴遺響云、関の地蔵堂は、勢陽府志に「元応年中炎焼、此時尊像火滅せり、文明四年再び尊像を興し、本堂も建営、洛北大徳寺真珠庵一休和尚を開眼の導師とす、宗長及び紹巴の記に行基の作と載せ、東路記に一休開眼の事を載す、今の堂宇は元禄九年再建す」とあり。○岩佐又兵衛回国記云、関の地蔵はふりたる堂の中に、大の地蔵のおはします、相好尊く見えけれど、紫磨黄金の肌もよごれ、御衣の袖のいろわかず、聞ならく六道能化にてましませば、爰とても道のはた也、導かせ給へ、此堂の軒ならびに数多家ども作りつづけ、旅人の為にとて、多くの飯をもりならべ、これかや物の喩にも、蔵かしらの飯なるべし、此にも又女の白きものにて、顔ぬれるが立出でて、軒の柱によりそひて、そら/”\しくうたうそぶいて、吾こそぶりたる有様を、見るも中中片腹いたくて、馬にまかせて行く。
琴橋《コトノハシ》 鈴鹿の琴橋は定かならねど、名高き古跡なり、或は坂下村の一瀬の弁天橋是なりとも曰ひ、又関町の南なる田間に琴橋あり、近傍を桐木と字すと。禁秘抄に「玄上、又鈴鹿、六絃、累代宝物、但毎年御神楽用之」江次第に「和琴鈴鹿、累代帝王渡物也」など見え平家物語にも録せり。多気窓螢云、昔当国鈴鹿の橋板にて造りける和琴《ヤマトゴト》いとめでたきものにて、代々帝の宝物とはなれり、其橋板のかなぎは椿姫に造り、鈴鹿の社に納しとなり、今之を求めけるに、坂の下と云所に板橋弁財天とて祀るあり、開かせて拝むに、尋常の弁財天には非ず、まがふべくもなく橋姫なるべし。
神戸《カムベ》郷 和名抄、鈴鹿郡神戸郷。○今神戸村亀山町及白川村是なり、中世には関谷の中に摂したり、延暦儀式帳に鈴鹿川俣県造祖大比古が神田并に神戸を奉りたる由見え、神宮雑例集に、鈴鹿神戸十戸とあり、其神※[まだれ+寺]址は今大字|野村※[ノムラ]に在り。
小野《ヲノ》 今神戸村の大字なり、関町の東に接す。○保元物語云、伊勢の住人|故市《フルイチ》伊藤武者景綱、同じき伊藤五伊藤六、同じ郎等ながら、公家にも知られ進らせたる身なり、其故は伊勢の国鈴鹿山の強盗の張本小野七郎を搦めて、副将軍の宣旨を蒙りし景綱ぞかし。○小野に城址あり、殿内と字し、今も五十余間乃至百間の壕其形を遺す、若菜五郎盛高の故跡とぞ、盛高は元久元年平氏蜂起の時其党魁たり、鈴鹿山を塞ぎ所々横行之後、平賀朝雅の為めに関小野にして斬らる。〔東鑑五鈴遺響伊勢名勝志〕
補【若菜城址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 小野村字殿の内及び大堀に連る、今耕地藪地等となれり、深一丈幅三間、
長五十間乃至百間の壕址を存す、元久四年四月平氏の族若菜盛高之に居る、富田基度三浦盛時等と平氏の余党を糾集し、鈴鹿山を扼して大に本州を乱る、京都守護平朝雅大兵を率ひて来り撃つ、逆に誅せられ、城廃す。○関駅の東に連り、今神辺村と改む。
忍山《オヤマ》 延暦儀式帳倭姫世記等に、鈴鹿郡神戸郷忍山ありて、一に奈具波志小山《ナグハシノヲヤマ》に作る、皇太神宮の頓宮在りし所也、今布気の小山観音堂は頓宮址なるべし、延喜式忍山神社は今|皇館《カウタチ》神明宮是なり、又延喜式|布気《フケ》神社は同所鈴鹿川の北崖に在り、亀山町大字野村に属し、白鬚大明神と称す。〔五鈴遺響神祇志料〕○按に布気神社は穂積忍山氏の祖神なるべし。古事記伝云「成務天皇、撃穂積臣等之祖、建忍山垂根之女、名弟財郎女、生御子和※[言+可]奴気王」と、此忍山は伊勢の地名か、書紀に此天皇の皇子ましまさねば、王即倭建命の子椎武王なるを伝へ誤れるか、書紀に倭建命后弟橘比売の父を穂積山宿禰と曰へり、又継体記に穂積臣押山と云人見えたり。
補【布気《フケ》神社】○神紙志料 今野村の巽鈴鹿の北涯、田圃にあり、白鬚明神と云ふ(式内杜検録)
按、社辺より北街道に布気林の字あり、文禄検地帳に白髭御供田を布気の神でんと注せり、布気の白鬚なる事明らかなり、布気と鬚と通音あれば、布気明神と云しを鬚明神と訛り、白字をさへ加へしものなるべし。
亀山《カメヤマ》 今亀山町と曰ひ、本郡の治所たり、人口七千。又参宮鉄道は、本車駅を以て幹線に連絡し、東西に通ず、西は柘植に至る十三哩、東は名古屋に至る卅七哩、南は津に至る十哩。
亀山《カメヤマ》城址 亀山町の北偏に在り、関氏の築く所にして、天正十五年、豊臣氏岡本下野守重政を此に封ず、十九年重政大に土木を興し修造を加ふ、慶長五年、重政西軍に応じ守禦を爲す、因て徳川氏の没収する所となり、爾来城主数易す、関長門守一政、松平下総守清匡(元和元)三宅越後守康信(寛永十三)本多下総守俊次(慶安四)石川主殿頭昌勝(寛文九)板倉隠岐守直常(宝永七)松平和泉守乗邑(享保二)板倉近江守重治、延享元年、石川主殿頭総慶、入部以後六万石、世襲して近年に至る。○本城址の外に字|若山《あわかやま》と云ふも、関氏の城址とぞ、大字野村は関氏の旧館なりしを、後世若山に移り、岡本氏の時又修造を為しゝ者の如し。関氏は伊勢平氏にて、永禄年中、盛信は長野工藤氏と数兵を構へしが、後織田氏に服従し、故あり拘禁せられて江州日野に置かる、天正十二年盛信蒲生氏郷に倚り、織田の臣属を撃破して故封を復す、其子を長門守一政と曰ふ、天正十五年封三万石を美濃国土岐に賜り之に徙り、庚子の乱、一政東軍に属し、功を以て又故封に帰りしが、慶長十五年、更に伯州黒坂五万石を賜り彼地に転じ、数伝して元禄中廃絶す。亀山大神宮は西町に在り、関氏の奉祀する者とぞ。元禄年中、浜松浪人石井源次郎亀山城下に復讐したる事あり、〔五鈴遺響伊勢名勝志〕野史云、石井兵右衛門、仕浜松城主太田資定、同僚赤堀源蔵殺兵右、兵右之子兵肋、欲報其讐、反為仇所殺、兵助二子半二郎三助皆幼、有僕曰常右衛門、有養二孤、誓復其仇、元禄四年、往亀山狙仇、遂扶二孤斬源蔵。
大永年中の宗長手記に「亀山は慈恩寺新福寺阿弥陀寺長福寺など律院の七堂見え、各々の宿所宿所ありて、東西に市あり、又の日鷲の巣山(今亀山町大字佐山ならん)を見に行くとて、乗ものにて何似斎誘引、※[草冠+毎]の細道滑かにて、上よりみなぎる水谷広くひたして入たる海の如し、たま/\手をかくる岩も足は留らず、むかし山寺ありけるとなむ、、鉾楯の用意にや、おのづからの巌を楯矢倉、門は石を棟柱、四方五十町谷廻りてみゆ、凡数万軍兵とりむかへるとも、罹るべくも見えず。
補【亀山城址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 亀山に三処あり、一は字古城(旧字若山)に在り、今社地及耕地たり、元弘三年初め平盛岡の子実忠、本郡関谷の地を領し、関氏と称す、六世孫実治本城を築きて之に居る、或は言ふ、元弘以前白子党伊藤景綱の後裔国綱なるもの、本郡野村城より此に移し築くと、五子あり、盛澄・盛門・盛繁・盛宗・政美とす、本城及神戸国府、鹿伏兎峰の諸城を分治す、関家の五大将と称す、盛信の時に至りて永禄中長野工藤氏と数々兵を構ふ、近傍諸城皆服従す、後織田氏の為に近江国日野に幽せらる、已にして国に帰る、祝髪して万鉄斎と称す、秀吉此城を氏郷に賜ふ、氏郷万鉄の子を挙用し長門守一政と云ふ、此に居り天正十五年岡本下野此地を賜り、十九年大に土木を起す、今亀山城は其規模による。
○人名辞書 岡本重政は尾張春日井郡の人なり、羽柴秀吉に仕へ亀山城を賜ふ、下野守と称す、慶長庚子の乱起り石田三成に党し、兄之休入道・子重義をして亀山を守らしむ、而して羽柴勝雅と桑名城に拠る、山岡道阿弥調略、和を講ず、家康其旧科を責めて聴さず、重政終に自殺す、子重義主税介と称す、死を水口に賜ふ、時に十二(野史)
補【亀山大神宮】鈴鹿郡○伊勢名勝志 亀山西町に在り、文永中関実忠之を勧請し、亀山権現と称す、城内の鎮守たり、亀山城主世々之を崇敬す。
槙尾《マキヲ》 亀山町の南にて、鈴鹿川を隔つ。延喜式、真木尾《マキヲ》神社は大字阿野田に在り、神鳳抄豐
田御厨と云は此とぞ、〔神紙志料五鈴遺響〕横尾|昼生《ヒルフ》の二村は和名抄郷の貫属を詳にせず、続日本紀、「天平十七年、伊勢国真木山火、三四日不滅、延焼数百町、即仰山背伊賀近江等国撲滅之」とあるは此なるべし。(再考此真木山は伊賀国の誤也)
昼生《ヒルフ》 槙尾《マキヲ》村の南に在り、河芸郡|栄川《サカエカハ》に臨む、東鑑に「文治三年、伊勢国昼生荘預所、斎院次官親能代官、民部大夫籠重」とあるは此とす、今下荘中荘|三寺《ミツデラ》の三大字と為る。○神祇志科云、延喜式、大井《オホヰ》神社は下荘に在り石《イハ》神社は三寺に在り。
五鈴遺響云、東鑑、養和元年、関出羽守信兼|蛭《ヒル》伊藤次郎を具し、熊野悪僧を二見浦に誅したる事見えたり、蛭は昼生の略也、古今著聞集に「仁治の頃、伊勢の国昼生荘より、百姓なりける法師のぼりて、五条坊門富小路に屋どりて居たりけり」云々、昼生荘といふは即今の上荘中荘下荘其余四邑の属なり、猶方俗昼生谷七郷と称す。
補【蛭】鈴鹿郡〇五鈴遺響 東鑑養和元年正月廿一日条云、熊野山悪僧等去五日以後乱入伊勢志摩両国、合戦及度々、焼払二見浦人家、攻到固瀬河辺之処、平氏一族関出羽守信兼相具蛭伊藤次郎以下軍兵、相逢船江辺防戦云々。今案、固瀬川カタセと訓ず、末考得ず、船江は度会郡及飯高郡に今存せり、然れども山田の船江は旧名勾村なり、松阪の船江は古街道にあらず、未詳ならず、蛭は昼生の略。
下荘《シモノシヤウ》 昼生村の南部なる大字にて、参宮鉄道の車駅也、亀山を去る凡四十町、南は一身田駅を去る三里許。
国府《コフ》 今国府村と曰ふ、槙尾村の東に接し、鈴鹿川の南岸に居る、北は牧田村及井田川村に至る、古枚田郷の中なるべし。伊勢国府は延喜式に「伊勢、大近国、管十三郡、在鈴鹿郡行程上四日下二日」と録す、式内|三宅《ミヤケ》神社在り、総社と称す、天武紀に、本国々守三宅連石床と云ふあり、其祖神なるべし、(神紙志料三宅神は今奄芸郡三宅村と云ふ)式内|江《エ》神社は城山《シロヤマ》に在り。(五鈴遺響江神は下荘と云ふ)○城山と曰ふは塁壕の形纔に遺る、往古府庁の跡にして、後関一党の拠れるならん。相伝ふ、元弘年中、関実治の二子盛門、国府に築き、子孫国符氏と称し、天正中に至り廃絶。〔五鈴遺響伊勢名勝志〕
補【国府城址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 国府村字長之城に在り、概ね耕地となり周回竹木茂生す、塁濠の址尚存す、蓋し往古国府所在の地ならん。
王塚《ワウヅカ》 国府村西方、字西野に在り、鈴鹿川に近し、面積二千六百余坪、高二丈許、何面したる古陵なり、陵上古樹林を成し、周囲に溝址を見る、土俗王塚と呼ぶに因り、倭武尊|能保野《ノボノ》御墓に擬すれど採り難し、蓋古の川俣県造のものなるべし、王と云ふも大墓の訛のみ。
補【王塚】鈴鹿郡○伊勢名勝志 国府村の西方、字西の野に在り、鈴鹿川の東岸に位す、面積二千六百廿五坪、高凡そ二丈許、南北に長く北は高くして南は稍低し、周囲土居及溝の址を存し、老松雜樹欝葱林をなす、寛平熱田大神宮縁記に「渡鈴鹿河中瀬、忽随逝水、時年三十、仍号其瀬曰能知瀬(能知者、命終之詞也)今改為長瀬訛也」とあり、本村古へ長瀬郷の地にして、隣菅内村に長瀬神社あり、而して又鈴鹿川に沿へり、此地或は其薨所には非るか、暫く疑ひを記す。
座頭《ザトウ》塚 座頭塚、又金かけ松といふあり、元和四年、陸奥国より凶徒へ官途に上洛する瞽者四人、参宮を志して此地に係る処、平野と国府の間にして、盗賊の為に官金を奪はれ終に殺害、京都検校是を奉行人に訴ふ、故に此処に高札を建て、黄金三十枚をかけて犯人を求めしむ、古昔平野国府より鈴鹿川の南を通して、古馬屋村に至り関駅に出るを街道とす、院本に恋女房染分手綱といふ文段は、此座頭塚を模して作れるものと憶はる、俗謡と云へども本州の関の小まんといふ旧章に作り合せたる也云々、〔五鈴遺響〕今大字平野は国府村に属し、其西に存す。
枚田《ヒラタ》郷 和名抄、鈴鹿郡枚田郷、訓比良多。○今国府村(大字平野)枚田村(大字平田)及び井田川村に当る如し、井田川は鈴鹿川の北岸にして、西は亀山町川崎村に接す。○此地は鈴鹿郡旧邑にして、古は川俣県造の起れる所なり、続日本後紀、承和十三年、鈴鹿郡牧田郷戸主川俣県造藤継の名ありて、川俣神社は井田川村富田に在り、其条参考すべし。
平田氏は伊勢平氏にて、伊賀平田と同族ならん、字御門垣内に城跡と伝ふ所あり、永亨年中平田喜国|海善寺《カイゼンジ》(今井田川村)に居り、後此に移り、永禄十一年賢元に至り織田氏に攻滅せらるとぞ。神鳳抄、鈴鹿郡平田御園と云は此地なり。
補【平田城址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 平田村字御門垣内、耕圃の中に在り、後に樹木を生ず、永享七年平田喜国足利氏に仕へ、鈴鹿三重奄芸等数郡を領し、本郡海善寺に城を築き、歴世之に居る、五世直隣、応仁中本村に城を築き移る、永禄十一年賢元に至りて織田氏に服せず、敵兵来り攻む、遂に自殺して城陥る。○今枚田村、広野の東方一里。
甲斐《カヒ》 今枚田村に属す、神祇志料云「延喜式、河曲郡|夜夫田《ヤフタ》神社、今鈴鹿郡甲斐村の藪田に
在り」と、此なり、又|岡太《ヲカタ》神社も今鈴鹿郡へ入ると、岡田の大字は甲斐の西に接し共に郡の交界にあれば、古今の変移あり。○鈴鹿川を此辺にては甲斐《カヒ》川と曰ふ
補【岡部忠澄宅址】鈴鹿部○伊勢名勝志 甲斐村字城垣内にあり、広一町余、今村民住す、相伝ふ元暦元年西海の役平忠度を獲るの功を以て、荘園五箇所を領す。○今枚田村大字甲斐。
川俣《カハマタ》 今|井田川《ヰダカハ》村と云ふ、和田井尻川合小田和泉富田海善寺等の大字あり、枚田郷の属にして、野登《ノノボリ》川西北より来り、此地にて鈴鹿川へ注入す。和田《ワダ》は貞和四年古文書「伊勢国、和田荘」と見ゆ、〔三国地誌〕川合海善寺小田は和田の東に接す、小田の東和泉は、鴨長明の
伊勢ひとはひがごとしけり津島より甲斐川すぎて和泉野の原〔歌枕名寄〕
とある地なり、富田は更に其東にて、荘野村に連る。
補【和田】鈴鹿郡〇三国地誌 貞和四年古文書、右大弁宰相(藤長脚)与右大臣家政相論、伊勢国和田庄事云云。○今井田川村大字和田、亀山の東に連る。
川俣《カハマタ》神社 延喜式に列す、今井田川村大字|中富田《ナカトミタ》に在り土俗川又八王子と曰ふ、蓋鈴鹿川俣県造祖大比古命を祭る、延暦儀式帳倭姫命世記に、倭姫太神を頂きて鈴鹿小山宮に座す時、大比古神田神戸を進れる事見ゆ、続後紀、承和十三年、鈴鹿郡牧田郷戸主川俣県造藤継女の名あり其氏人とす。○東海道図会云、富田八王子祠は、街道を背にして立たり、為村卿紀行に 「降雨に風さへ添て今日笠の雫も繁き森の下遣」とあるは此なり。
補【川俣】○神祇志料 天照大神の御杖代伊勢桑名野代宮に坐時、伊勢国造祖建夷方命神田神戸を進りき、次に河曲鈴鹿小山宮に坐時、川俣県造祖大比古、安濃県造真桑枝並に神田神戸を進りき、次に壱志藤方片樋宮に坐す時、壱志県造祖建呰子、飯高県造乙加豆知並に神田神戸を進りき。
英多《アガタ》郷 和名抄、鈴鹿郡英多郷。訓安加多。○今|川崎《カハサキ》村及|野登《ノノボリ》村荘内村に当る如し、井田川村の西、亀町の北にして、野登川の谷なり、川崎は旧称県村と曰へり。
県主《アガタヌシ》神社 延喜式に列す。今川崎村に在り、方俗|穂落《ホオトシ》明神と曰ふ、蓋伊勢県主の祖倭武尊を祭る、古事記に「倭武命御子、武具見王、伊勢之別、宮首等之祖」とありて姓氏録には「県主、日本武尊之後也」と記す。○延喜式|志波加支《シハカキ》神社は河崎村峰城址の北に廃址を遺す、那久志理《ナクシリ》神社は河崎村字名越に在り、弥牟居《ミムケ》神社は県主社の西十町に在り、林尾崎天王と曰ふ。〔五鈴遺響神祇志料〕
補【河崎】鈴鹿郡〇五鈴遺響 和名抄県郷なり、式内志波加支神社 本邑の内柴崎に古昔神社あり、今廃してなし、村老に探索するに、峰の城旧址の北に宮ヤシキといふ処あり、土人柴垣サマと称せり、然れども社宇なしと答ふ、○式内県主神杜、同処にあり、方俗穂落の社と称す。
田村《タムラ》大塚 川崎村の南、大字田村の女坂に在り、一名|丁子《チヤウジ》塚と曰ふ、面積一千六百坪、周回一百八十間、高二間許、土俗倭武尊能保野御陵と曰ふ、能保野は鈴鹿郡東北の山野を総称せるにて、川崎村の西なる野登山も之に因める称なれど、此塚は御陵に擬すべからず。
補【日本武尊陵】鈴鹿郡○伊勢名勝志 一に王塚、又丁子塚と云ふ、田村字女が坂にあり、高二間余、面積三千六百六十坪、周回百八十四間、松樹森欝たり。○川崎村大字田村。
峰《ミネ》城址 川崎村の高処っを曰ふ、関の一党峰氏の城墟也、故に殿町と字す。○峰城跡は、北東南は水田繞り、西は山脈を承く、高七十尺、山頭平坦にして、天守台石塁の跡明なり、元弘年中、関実治の五子、政実之に居り、峰氏と称し、子孫世襲して天正年中に至り、其家滅し城廃す。〔勢州軍記伊勢名勝志〕○峰城は、天正十一十二年の比、羽柴・方織田方相戦ふに当り争へる所なり、関万徹〔また鉄〕斎一旦之を略取し、後廃毀したるならん、峰氏は之より先き織田氏の兵に攻滅せらる。
補【峰城址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 河崎村字殿町に在り、北東南は水田に接し、西は小谷の山脈に連る、高七拾尺、山上平坦なり、天守台石塁の址存す、元弘中関実治の五子政美城を築き、之に居り峰氏と称す、歴代之に居る、天正中城遂に廃す(勢陽軍記背書・国誌・九々五集)○今川崎村、亀山の北二里にあり。
野登《ノノボリ》 川崎村の西なる山地にして、今野登村荘内村の二に分る、野登山は鈴鹿山の北に連り、三重郡の諸嶺に接す、其西背は近江甲賀郡に属す、野登の高峰を鶏足《ケイソク》山と名づけ、野登川之より発し、川崎村の東に至り椿川を容れ富田に至り鈴鹿川に入る、長凡四里。○古事記伝云、能煩野は一連の大野にして、鈴鹿郡の東西の極《ハテ》までわたれる、西の方は漸く高くして登る地なれば、名義|登野《ノボリノ》なるべし、斯くして西の極は高山並続きて、(近江の国堺なり)、其中に野登山と云ふありて、最高し。
補【野登山】〇五鈴遺響 当山七八分より麓は万樹欝葱として松柏老て枝を交へ、高峰を鶏足山といふ、西の山岨を攣登れば仙が岳なり、近江一国過半一望の中にあり。
野登《ノヽボリ》寺 野登山中に在り、字を坂本と曰ふ、此寺延喜年中僧仙朝開基、慶長六年関一政寺領を定めたるより、後亀山城主代々先規により給与する所あり。〔伊勢名勝志〕
補【野登寺】鈴鹿郡○伊勢名勝志 野登村野登山の坂本に在り、延喜七年四月憎仙朝、醍醐天皇の勅願により創立す、堂宇荘厳にして奕世繁盛なりしか、天正十年兵燹にかゝり焼亡す、慶長六年関一政寺領を寄附す、後亀山城主代々先規により之を給す、寺地高峻にして眼下十数里の地一目に尽すべし。○今野登村。
遍法《ヘンボウ》寺 野登山の麓、大字辺法寺に在り、今|不動《フドウ》院と曰ひ衰微に就く、東鑑、文治三年の条に、遍法寺領の事あり、当時大江広元の所職と見えたり。〔五鈴遺響〕
補【野登】鈴鹿郡〇五鈴遺響 文治年中鎌倉大江広元領知、旧名遍法寺、今辺法寺に誤れり、東鑑文治三年三月不勧仕庄遍法寺領広元云々。
○辺法寺不動院、同処にあり、昔は大刹なり、寺塔の蹟若干遺れり。
原《ハラ》 今三畑と合同し荘内《シヤウナイ》と改む、川崎村の北に在り、原村の八島明神は、延喜式|天一鍬田《アメヒトツクハダ》神社なりと、〔神祇志料〕天一とは神代巻に天日一筒命と曰ふ神にや、此神は刀斧鉄鐸を造り、伊勢忌部の祖なる由、日本書紀古語拾遺に見ゆ。○原村に松尾道場の廃址あり、此は寛正の比高田派流専修寺真恵上人留錫の所にて、当時峰城主筑後守某と不和の事ありて、此を去り一身田に就けりとぞ。〔伊勢名勝志〕
補【松尾道場址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 原村の西北部字上野に在り、一森林をなし樹木欝蒼たり、本堂支院及溝渠等の址尚存す、寛正中専修寺中興僧真恵、本州巡化の際本郡小松村中山寺より此に至り、留錫すること六年、教化大に行はれしが、峰城主峰筑後守と意会はずして去る。○川崎の北にて、今荘内村と曰ふ。
庄内《シヤウナイ》山 原村の北椿村の交界に在り、白色の巨岩聳立す、高二百間幅五十間許、頗壮観なり、土俗石大神と曰ふ。
長瀬《ナガセ》郷 和名抄、鈴鹿郡長世郷訓、奈加世。○今|深伊沢《フカイサハ》村及椿村なるべし、川崎村の北、椿川の谷にして、東は高宮郷に至る。西北堺は三重郡甲賀郡に至る山嶺之を擁す。○熱田舎寛平縁記云、日本式尊、渡鈴鹿中瀬、随逝水、時年三十、仍号其瀬曰能知瀬、今改為長瀬訛也。○日本式尊東征の帰途、此にして長逝したまふ、其路程は三重郡より鈴鹿川の岸に沿ひて登りまさず、却て野登の上方の地を経過したまふに似たり、迂回の故を詳にし難し、従て御陵墓の所在に就き二説あり、一は長瀬郷長沢に在りと云ひ、一は高宮に在りと云ふ、二所相去ること二里許、其是非判別し易からず、両擬陵并び挙げて、後の考定をまつ。
長瀬《ナガセ》神社 今深伊沢村大字長沢に在り。神祇志料云、長沢村深広寺は長瀬山と号し、寺蔵恵心筆の寿像にも長瀬山白方院と題す、本村即長世郷なり、延喜式長瀬神は、今白鳥大明神と云ふ〔慶長六年棟札神名帳考証神名帳検録〕蓋日本武尊を祭る〔寛平縁記慶長六年棟札深広寺略緑記〕初め日本武尊伊勢に移り、熊褒野に至り給ひ、鈴鹿山を過坐時、御病いと危迫、鈴鹿河中瀬を渡りて、忽に逝水と共に薨給ひき、故其瀬を能知瀬(能知は命終ると云詞也)と云、今改て長瀬と云は訛也」〔寛平縁記〕とある即是也。○古事記伝云、長瀬村の古塚は日本武尊御陵に非ず、然れど尊の氏人など遠祖の御陵の辺を慕ひて、此野に葬りしにもあらむ、長瀬神社の神像は背の長き御像なりと云ば、日本武尊御長一丈余とあるに由あるに似たり。
建部塚《タケベヅカ》 日本武尊の御陵なるべしと云ふ、塚墳数所あり、蓋日本武尊の裔孫、建部氏県主などの古墓なるべし、寛平熱田緑記に長瀬に薨崩の事を記すれば、由緒ある地なり、之を日本武尊陵と称するも、以なきに非ず。〇五鈴遺響云、長世郷の曠野の中に陵墓あり、俗に多気比墓又|武備《タケビ》塚と云ふは、建部の訛なるべし、この壕は石薬師駅より二里余西方、長沢村の北なる林中にありて、高六七尺許の小塚なり小き木竹など生茂けり、前に社ありて之を武日明神と曰ふ、近世建部綾足私に石を建て御陵と曰ふ、其北五町許の塚は、西にあるを宝装塚、東にあるを開田塚と俗称す各石標に建てたり、其塚広三間四方許、東西の二塚相去ると十間許とす、其西一町許にも車塚と云者あり、すべて此の古墓は高大ならず、又村の西南の方の野中に、高一丈あまり、周十丈許の古塚あり、東面の半腹の土の崩れたる処に穴ありて、二子穴ともいへり、其辺ここかしこに大石どもに地に埋れたるが、聊か露れたる者幾つもあり、又此塚の西の方にも一塚あり。
建部凌岱は陸奥の人、江戸に徙り俳歌及絵事を以て生業を為し、家産以て富む、是時に当りて加茂真淵大に万葉の古風を唱へ、名声籍甚、凌岱乃妻をして従ひ学ばしめ、己れ亦因て其説を聞くを得たり、是より俳歌を鄙しみ、自ら一家の言を立んと欲し、始めて片歌を唱ふ、片歌は日本式尊を以て開祖とす、京師に徙り専ら片歌を以て徒を誘ふ、伊勢能保野は日本武薨去の地なり、凌岱碑を樹て、之れを誌す。
補【建部塚】鈴鹿郡〇五鈴遺響 鈴鹿郡長世の郷曠野中有陵墓、俗云多気比墓と、建部の訛か、此武備塚といふ、又同林の中其塚の後の方に車塚、又一丁許東南の方に宝冠塚・宝装塚など云ふものあり、並にいと小き塚なり、倭建命の御末に建部氏ありて、後に此国の安濃郡などに其氏の人あれば、遠祖の御陵の辺を慕ひて同じく此野に葬りし墓などにもあらむか。
補【武日社】鈴鹿郡〇五鈴遺響 長沢村の竹林中にあり、武日明神と俗称す、近せ建部綾足此処を倭武命の御陵として石を建つ、此所より五町許北に古塚。
按、長沢村深広寺の事を同寺縁起に長瀬山宝蔵寺とみえ、恵心筆の寿像に長瀬山白方院とあるを見れば本村即和名抄所謂長世郷の地なる事明らけし。
補【二児塚】鈴鹿郡○伊勢名勝志 一名日の穴、長沢村の北方字能褒野に在り、面積三十一坪、傍に穴あり、深副共に二間許、大石を以て之を畳む、又塚の東西に守戸の宅址あり、石垣今に存せり。○今深伊沢村大字長沢、石大神山の東麓に近し。
椿《ツパキ》 深伊沢村の西北を椿村と為す、鶏足山荘内山西南を蔽ひ、北は入道岳を以て三重郡界を限る、渓嫺(さんずい)は南注して川崎に至り、野登川に入る。○入道岳の山隘より江州鮎川村に山径を通ず。
椿《ツバキ》大神社 延喜式に列す、椿|大社《オホコソ》神社と称すべきか、椿村大字小社の名あり。三代実録、貞観七年椿神授位の事見ゆ、今大字山本に在り、社宇は寛永年中亀山城主本多氏修造する所なり。神祇志料云、椿大神は今山本村椿岳の麓にあり、一宮椿大明神と云、即伊勢一宮也、(本社所蔵唐暦永徳明徳筆写大般若経跋一宮記神名帳考証勢陽雑記椿詣記式内社検録)社の坤位城内に前方復円西向の大塚あり、高山塚と云、是大神の霊陵なるべしとぞ。○椿神は本国諸所に在り、祭神詳ならず、延喜式三重郡、椿岸神社は本社の北一里余、椿尾山に在りしを、何の世にや移し来りて、今本社の東北|旅所《タビシヨ》森に在り、又式内|小岸《ヲキシ》大神社あり、同く椿神の裔社ならん、今大字|小枝須《ヲキス》に鎮坐す。
補【椿大神社】鈴鹿郡○伊勢名勝志 式社、山本村椿岳麓、寛永中亀山城主本多氏再造、本州一宮。
補【椿岸神社】○神祇志料 今鈴鹿郡椿木神社の東北旅所森、御輿宿殿の北にあり、旧三重郡椿尾山にありしを此に移すといふ(式内社検録)
按、社を移す年代詳ならねど、椿社祭祀の日神輿を其社頭まで舁行く例なるに、−里余の遠程を以て此に移せる也、按、式内社検録云、社の坤位域内に前方後円西向の大塚あり、高山塚と云、是大神の霊陵なるべしと云り
清和天皇貞観七年四月乙丑、従五位上勲七等椿神に正五位下を授け(三代実録)〔脱文〕○神祇式、三重郡椿岸神社。
椿《ツバキ》山 椿村小岐須より坤位十八町、小岸山野登山の陰也、東西五十間高二百間許の巨巌あり、此ーを指して方俗石大明神と称す、石神社より十丁余奥に滝山或は祓山御贄山といふあり、屏風岩あり高五十丈許、其流水の前に俗に括りと云ふ所あり、岩石径六七間重り括るの如し、両巌絶壁にして石大神《イシダイジン》に同く白石なり、此辺岩窟あり入ること七八間許、石鐘乳に似て白色なるものあり、方俗骨石といふ、鮎どめの滝あり。○西遊旅談云、石大神は石薬師駅より四里山中に入る、白石直立して数丈の高あり、石大神よりすこし入れば屏風岩あり、十八九町許の間渓水の両岸絶壁其色白し、松楓等之に生じ、秋は紅葉して画のごとし。
補【石大神山】鈴鹿郡○伊勢名勝志 山岐須村の西南部、字庄内山に在り、白色の巨岩峨然聳立す、高二百間、幅五十間許、頗る壮観となす、世に称する所石大神是なり、御幣川其麓を流る、古老伝へて云ふ、往昔敏達天皇駐蹕ありし処なりと。○川崎の西北山中にあり、椿村大字小岐須、江州境也。
高宮《タカミヤ》郷 和名抄、鈴鹿郡高宮郷、訓多加美也。○今高津瀬村荘野村石薬師村等なり、枚田郷の北、長瀬郷の東なり、其東は河芸郡川曲村に隣比し、其北久間田村は旧三重郡葦田郷の地なるべし、鈴鹿川は郷の南界に在り。
庄野《シヤウノ》 今荘野村と曰ふ、近世は官道の駅家なりしが、今は車駅を高宮にうつさる。○五鈴遺響云、荘野は古の荘園の地にして、能褒野の内なるが、寛永元年より郵亭を置て駅となれり、神鳳抄「内宮、庄野御園」とあり、駅中に火米《ヤキゴメ》を桃李実の如く小俵子に造りて、毎戸に售れり羅山の丙辰紀行にも此事を記したり。○回国道記(岩佐又兵衛)云、馬にまかせて亀山に着く、今日本の御主古今不双の名大将にて、江戸の地に城郭をしめ給へば、江戸往来は高麗もろこしの人まで満ちみち、折々上洛ましませば、此海道の広き事はゞ十五間に道作り、双に千代ふる松を植ゑ、江戸と都と其間百三十里の道なれど、山はたかひき引ならし、川には船橋うちわたせり、此亀山と聞く名さへめでたかりける名所なり、亀山過ればせう野の里なり。○荘野と高宮は南北相接比す。
高宮《タカミヤ》 今都賀村広瀬村と合同し高津瀬《タカツセ》の新号を立つ、上月記に長禄元年勢州高宮庄と曰ふは此なり、今鉄道車駅あり、亀山を去る二里、四日市を去る四里許。
綺宮《カムハタノミヤ》址は、高宮村御所垣内の地なりとも、又字宮崎なりとも云ふ、蓋綺は此里に倭文を織れるを以て其名起る、景行天皇此に居たまへる事あり、日本書紀云、天皇従東国還之、居伊勢也、是謂綺宮。○按に綺は加牟波多と訓み、川俣と相近似す、綺宮即川俣宮かと疑はるれど、明徴なければ今旧説に従ふ、高宮の号も此等の事に由れるもの也。
補【高宮荘】○上月記 長禄元年勢州高宮荘。○今高津瀬村大字高宮、庄野と相接す、駅舎なり、石薬師に近し、荘野村。石薬師村。○久間田村は三重郡の葦田郷と混乱ある如し。
倭文《シツリ》神社 延喜式に列す、今高宮に在り。五鈴遺響云、此郷俗紡織を業とし、或は縞文の類を織出す、高宮縞と称す、倭文は青布に文ありと注すれども、文采は織難し即縞にして今俗シダウ島と称するはシトリ縞の訛にして、倭文なるべしと思はる。正法寺《シヤウホフジ》址○此寺明治五年廃す、椎山と称し、高宮村字的場に在り、相伝ふ天平中開創と、東鑑文治三年、伊勢国遍法寺領慈悲山領と見ゆ、慈悲即椎山にて、寺内に椎樹多かりしと云。〔伊勢名勝志〕
補【正法寺址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 高宮村字的場に在り、今耕宅地たり、山中椎樹多し、因て椎山と称す、伝へ云ふ、天平宝字中聖武天皇伊勢国へ行幸の時、僧行基創立す、又源頼朝八拾町の田を寄附すと、東鑑文治三年四月条、不勧仕庄の項に遍法寺領広元、慈悲山領と記す、即ち是なり、明治五年無住により廃寺す。○今高津瀬村。
能褒野《ノボノ》陵 日本武尊の御陵なり、今高宮の鵯《ヒヨドリ》塚蓋是な、延喜式能褒野墓、日本武尊、在伊勢国鈴鹿郡、兆城東西二町南北二町。又日本書紀云、日本武尊入膽吹山、跨大蛇、於是始有痛身、然梢起之、移伊勢、逮于能褒野、而痛甚之、崩于能褒野、仍葬於野時、尊化白鳥従陵出之、指倭国而飛之、群臣等因以開其棺槻(旁親)而視之、明衣空留、而屍骨無之。○古事記云、倭武命御病甚、急爾御歌曰、
をとめのとこのべにわがおきしつるぎのたちそのたちはや、
歌竟而即崩、爾貢上駅使、於是坐倭后等及御子等諸下、到能煩野而作御陵、即匍匐廻其地之、那豆岐田而哭。東海道図会云、白鳥塚は荘野より十町許東、高宮村に在り、土人誤て鵯塚と曰ふ、陵高十八間東西二十五間南面す、其辺より土器の類出づ。〇五鈴遺響云、高宮村の南椎山の山脈に続きて一堆の山丘より、形円にして上下二段に重畳して、茶臼に似たり、方俗茶臼山或丸山或経塚山或鴨塚といふ、是白鳥の陵なり、北は広瀬野に続きて馬鬣村の威儀遺れり、往年曲玉及埴輪甍壷の類を掘出せしとぞ。○古事記伝云、能褒野御陵高宮の白鳥塚なるべし、甚高く大にして円し、周に堀の形などもかつ/”\残りて、全く上代の御陵どもの状なり、先は此ならむとぞ覚ゆる、谷川氏ひよどり塚と云是也、度会延佳の曰へる建部墓は御陵のさまに非ず。
能褒野《ノボノ》 能登川崎井田川深井沢椿荘野高瀬石薬師の諸村に渉る山野の総名ならん、鈴鹿川を以て南界と為し、地勢南北に向ふて漸高なり、登野の義ならんと云ふ。古事記伝云、鈴鹿郡の北方は過半みな野にて、古へ能煩野と云しは大名にてぞありけむ、今の広瀬野《ヒロセノ》(広瀬原は猶三百数十町の空閑を遺す)鞠賀野又五十師原など云も、此野の中なり。○按に大安寺資財帳に「鈴鹿郡、大野百町、四至東北野、西高山、南石間河之限」とあり、蓋能煩野の中ならん、今椿村に大字大野あり、西は高山と云地勢なれば其処にや。
古事記云、倭建命到能煩野之時、思国以歌曰、
夜摩苔はくにのまほらまたゝなづくあをがきやまこもれる夜摩苔しうるはし、又歌曰、いのちのまそけむひとはたゝみこも幣遇利能夜摩のくまかしがえをうずにさせそのこ、此歌者思国歌也、又歌曰、はしきよしわぎへのかたゆくもゐたちくも、此者片歌也。
石薬師《イシヤクシ》 今村名と爲る、石薬師堂西福寺あり、高宮の東にて官道の駅舎なり、旧名を高富《タカトミ》里大木と曰ふ、元和二年より駅次に定まる、東郊を鞠賀《マリガ》野と曰ひ川曲村山辺に接す。○万葉集に「山辺の五十師《イシ》原」の句あり「今石薬師仏と云は、地の上に自に立る大きなる石の表に、仏の形をいり附たるにて、此石あやしき石なり、因て思ふに仏をいり附たるは後の仕業にて、上代よりあやしき石のありしによりて、石の原とは名に負たるならむ」と略解に見ゆ。延喜式、本郡石神社あれど今此地になく、昼生村又椿村に石神と云者存す、猶考定すべし。
補【石薬師】〇五鈴遺響 東街官道に民居す、三重郡四日市駅より馬次の駅舎なり、伊志耶久斯と訓ず、旧名大木と称す、高富郷の総郷なり、元和二年官より駅を置る、石薬師と改名せり。〔元政詩、第五句一本「百痾有自性」に作る〕
西福《サイフク》寺 又石薬師寺と曰ふ、真言宗を奉じ、神亀年中僧泰澄開基と称す、本尊石像長七尺五寸、金輪際より出現の霊石也、天正の兵燹に罹て仏閣一時に煙となる、幸に本尊は災を免れ時の住職の夢中に示現あり秘法を教へ玉ふ、精米を加持し世上に与へ病難を救ひ、殊には乳汁なき婦人は乳出る事滝の如しと、是を薬師の八割米といふ、一柳直盛侯当国神戸居城の時、種々の奇特を感じ本堂院内再建あり。
石薬師 深草 元政
纔過荘野郵、有寺聳高楼、西福門前景、東方世界秋、百阿無有性、四大一浮區(さんずいあり)、刻石薬師仏、此言須点頭、
西行法師山家集に「伊勢の西ふく山と申処に侍りけるに庭の梅芳しく匂ひける」とあるは石薬師西福寺の事ならずや。
石やくしにてかきつく
国富や薬師のまへの綿はつ穂、 鬼貫
補|大野《オホノ》 ○大安寺伽藍縁起流記資財帳 錦鹿郡大野百町、四至、東北野、西高山、南石嫺(さんずい)河之限。〔未詳〕
三重郡
三重《ミヘ》郡 東は海、西は八峰《ハツプ》鎌岳を以て江州に界し、南は河芸鈴鹿二郡に接し、北は桑名|員弁《イナヘ》二郡に至る、明治二十九年、旧|朝明《アサケ》郡の地を本郡に併入したる也。今面積凡十七方里、人口十一万、一町二十九村に分る。○本郡鉄道は国道と相並び、海に沿ふて走り、富田四日市河原田の三駅あり、四日市は海運の利を亨け、北勢の都会なり郡衙を此に置く。
旧三重郡は千草坂部以南の諸村なり、(文禄検地五万六千石)和名抄、三重郡、訓美倍、五郷に分つ、南界三重鈴鹿両川の間に、村里古今の出入あり、神宮雑例集に、員弁朝明三重を神郡に加へ、道前と号する由見え、東鑑「建久元年、加藤左衛門尉光男諌申云、伊勢国道前郡政所職者、為祭主為恩顧之間、所従其成敗也、神領知行事者、本自開発之地、寄附神祝許也、難称押領」○古事記云、倭建命、幸到三重村之時、詔曰、吾足如三重勾、而甚疲、故号其地謂三重。日本書紀、天武天皇、従駕者衣裳湿、以不堪寒、及到三重郡家、焚屋一間、而令温(火偏)寒者。按に三重村と郡家は一所にて、采女郷に同じ、古事記伝曰、朝倉宮(雄略)段に三重釆(女偏)見え、今も采女村あり、三重川もそこに近ければ、其辺なるべし、三重勾とは和名抄に「環(米偏)餅、形如藤葛者也、和名万加利」字鏡に「餌、万我利餅、又饌飴同、万加利」と見え、大嘗会寮式供神雑物中にも勾餅あり、上代より有し者なることを知るべし、御足の腫まさりて勾餅の如く成れるに、譬へ給へる也。補【三重郡】〇五鈴遺響 文禄検地五万六千石、元禄検地六万石。○今十二方里、七万余、一町十八村。
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釆女《ウネメ》郷 和名抄、三重郡采女郷、訓宇禰倍。○今|内部《ウツベ》村(大字釆女)及鈴鹿郡|久間田《クマタ》村是なり、内部川の中游に居り、東は川後郷西は葦田《アシタ》郷なり、釆女一に釆(女偏)に作る。釆(女偏)
武紀に見ゆる三重郡家は即本郷にて、三重川は今内部川と称ふ。古事記伝云、朝倉宮の御時、伊勢釆(女偏)三重子が歌よみて罪を免れ禄を賜ること見たり、後世采女郷と云は全此釆(女偏)がいとど名高かりし故なるべし、但し郷名宇禰倍とあれば、釆(女偏)部の意なり、延喜式にも采部と見えたり、此は宇那宜弁の切たるにて、物を項《ウナジ》に掛るを云ふ、神代巻に所嬰《ウナゲル》などある是なり。
朱女城址今内部村大字采女の北山に在り、古井墳墓の廃址あり、後藤実基元久元年平氏の遺類を誅伐し、乱後本郡を管治し、男基清は承久の乱に敗死す、其裔孫本邑に給食して、永禄年中に至ると云、〔伊勢名勝志〕神鳳抄、采女御厨。
補【采女】○大安寺伽藍縁起流記資財帳 三重郡釆女郷十四町、開二町五段、未開田代十二町五段、四至、東公田、南岡山、西百姓宅、北三重河之限。
補【釆女城址】三重郡○伊勢名勝志 釆女村字北山に在り、樹木繁茂す、古井墳墓の址尚存す、後藤実基元久の乱後本郡を管す、男基清承久の乱京師に属し誅せらる、男基綱は関東に従ひ評定衆となる、子孫永禄十一年織田信長に亡され、城遂に廃す。
杖衝《ツエツキ》坂 古事記云、倭建命、到能褒野、自其地差少幸行、因甚疲、衝御杖稍歩、改号其地謂杖衝坂也、幸到三重村。○古事記伝云、延佳曰、按伊勢国、自桑名郡入来、則経尾津、次三重、次杖衝、次能褒野、是今之順路也、由是考則自「自其地」以下二十四字、当在下文「三重」之下乎と、此坂は実に三重郡と能煩野の間にて、釆女村の西のはづれより登り、坂の上は平野なり、但古の大道は今のより三町許北方とぞ。○按に杖衝坂より高宮鵯塚は順路にして、西南一里を隔つ、長沢(今深井沢村)の建部塚は西北二里を去り巡路に非ず。
「桑名よりくはで来ぬれば」と云日永里より
馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍打かへりて馬より落ぬ
歩行ならば杖つき坂を落馬かな 芭蕉
と物うさのあまり云出侍れど、終に季のことば入らず。〔笈小文〕
回国道記、(岩佐又兵衛)石薬師の宿を出、たどり/\て行程に、実にや其名も旅の道、杖つきにこそ着にけれ、
老らくのためにはよしや杖つきのつきぬ旅路をたどるこの日に。
補【杖突坂】○日本名勝地誌 内部村大字采女に在り、里伝に云ふ、上古日本武尊東征の時、桑名郡美津村より能褒野に至るの時、帯ぶる所の剣を杖き此坂を攣ぢ給ふと、側らに古塚あり、芭蕉此坂を過ぎ句あり、「かちならばつゑつきざかを落馬かな」近世碑を建て此句を刻せり。
内部《ウツベ》川 水沢《スヰサハ》村鎌岳入道岳より発源し、東流葦田郷采女郷を過ぎ塩浜にて海に入る、長六里、旧名三重川なり。一説、四日市の御滝川を三重川に擬するは謬れり、大安寺資財帳云「三重郡采女郷、十四町、四至東公田、南岡山、西百姓宅、北三重河之限」とあるに拠れば、三重川は采女郷に接比し即内部川たる事明白也。
わがたゝみ三重の河原の磯うらにかくしもがもと鳴く河蝦《カハヅ》かも、〔万葉集〕
小古曽《ココソ》 今内部村に属す、三重川の北岸に在り、延喜式、三重郡小許曽神社在り。
小松《コマツ》 今内部|久間田《クマタ》両村に分属す、采女の西にて、月見山中山寺の故跡此に在り。専修寺高田
正統伝云、又采女の城主後藤釆女正が妻室、大神宮に参詣両度に及び、御拝を不遂を甚だ歎き、真恵上人に語る、上人即守の札を与へ玉ふ、往て恙なく両宮拝ありて、喜悦限なく上人に帰依す、彼守符を開き見るに犬といへる字あり、采女正怒て我妻に畜生の符を与へしとて、軍兵を発し中山寺を襲ふ、真恵過て吉尾に趣き、更に庵芸郡黒田誓祐の招きに応じて、黒田に遷り玉ふと云々。
葦田《アシミタ》郷 和名抄、三重郡葦田郷、訓安之美多。○今|水沢《スヰサハ》村及小山田村なるべし、内部川の上游に在り、古事記伝に「安之美多は倭建命|三重《ミヘ》にて、足を傷みなやませ玉ふに因めるならん」と曰へり、然れども姓氏録「大和未定雜姓、葦田首、天麻比止津乃命之後也」とありて鈴鹿郡に天一神あり、葦田氏の住みける地ならんとも思はる。
足見田《アシミタ》神社 今水沢村に在り、八古明神と曰ふ、〔神紙志料〕或は云ふ此神は倭建命を祭ると、〔古事記伝〕延喜式、三重郡に列す。
補【足見田神社】○神祇志料 今蘆田郷水沢村にあり、八古明神といふ、凡そ毎年八月十四日祭を行ふ(神名帳考証・菰野藩調帳・式内杜検録)
按、拝殿額に正一位葦見田大明神とあり、地祖帳に葦見田あり、又あせみ川の涯の田を葦見川と字するもの証とすべし
水沢《スヰサハ》 此村の西嶺字|入道《ニフダウ》岳に黄玉石煙水晶電気石を産出す、又字中谷に、花崗岩中より、黄鉄鉱と交り、辰砂現出す、土抄中に往々水銀の滴り居ることあり。○水沢村字西野に楓溪り、冠峰の麓にて老株澗に満つ、文化六年、菰野侯土方氏遊賞して、碑を立て銘を勒す。水沢の北一里を菰野《コモノ》村とす。
補【水沢】三重郡○地学雑誌 水沢村入道山に黄玉石・電気石を産す、此山中(字中谷)に花花崗岩中に黄鉄鉱と交り辰砂現出す、砂中に水銀の滴ることあり。
○日本名勝地誌 楓渓は水沢村字西野に在り、楓数百株、幽渓の間を囲む、文化六年九月土方侯石に刻す、曰く、山房燗(木偏)楓之勝伝播於遠邇、秋冬交四方騒人来遊、是以其声益噪、今茲秋君侯渉命(賤の旁+リ)、伐雜附妨観者数百株、伐臣者道係之辞、因恐惶□以奉之日、
冠峰之麓 欄(旁間)楓成林 物換星移 松柏森々 一朝尋斧 観奇於初 青女殿秋 繍惟四舒 且丹且紅 蜀錦(言+巨)加 觴焉咏焉 誰不停車
河内《カウチ》 水沢村の字に遺る、延喜式、椿岸神社旧此地に在りしを、今鈴鹿郡椿村一宮に移さる、大安寺資財帳に河内原椿社の名見ゆ。
補【河内原】三重郡○大安寺伽藍縁起流記資財帳 三重郡河内原六十町、開六町、未開田代五十四町、四至、東椿社、南鎌山登道、西山、北牧木之限。〔頭書〕水沢なり。○今〔水沢〕の辺ならん、鎌岳は其西方に聳ゆ。〇五鈴遺響に楼村の字|知積《チシヤク》寺は旧寺址にて、此に椿神明宮ありといふ。
鎌岳《カマガタケ》 一に冠《カムリ》山と称す、直立三千六百尺、水沢村の西嶺にして、山背は江州甲賀郡に属す、大安寺資財帳に鎌山と曰ふもの此也。帳云「三重郡河内原六十町、四至東椿杜、南鎌山登道、西山北牧木之限、右天平十六年納賜者。」
冠山爆布歌贈雪鼎上人 江村 北海
雪鼎上人氷壷心、自道山水是知音、曽歴南豫又北越、到処名山究討尋、今年金錫駐勢州、高躅始試冠山遊、冠山奇絶世無識、
巨霊蔵俣上人求、山寺鳴鐘水村鶏、肩輿(口+伊)吼転入渓、渓勢漸狭泉漸響、松杉風回笙竿斉、棲鶴在巣護崩崖、
陰洞往往見異花、石路難著謝公(し)、苔桟堪回王者車、轎夫気喘寸不進、牆面芙蓉(直三つ)千仞、上人杖履如踏平、同侶因何目得瞬、大石若屋或似門、紫葛翠篠繞其根、左山右山争出嶮、前水後水相逐喧、始疑白虹倒絶壁、徐知瀑布潟巨壑、噴珠散乱大如斗、雲奔電掣闢霹靂、冠山瀑布奇又奇、上人収拾画与詩、画伝其状詩伝神、詩画併奇達京師、明窓(火+主)香披展間、感極慨然歎人寰、山水顕晦亦有待、世上虚名好是閑、
河後《カハシリ》郷 和名抄、三重郡河後郷、訓加槃之利。○今河原田村(大字河尻)日永村塩浜村に当る、内部川の末に居る、神鳳抄「河後郷、二宮方神田」と見ゆ。
河原田《カハラダ》 内部川の南にて、采女郷に接す、五鈴遺響に「神鳳抄、今河御厨と云は此なり、采女郷に属せる地なり」と曰ふ、今此に鉄道車駅あり、鉄道は此地にて西に屈折し、南方神戸(一里)に達せず、○河原田の東に一溝あり、内部川と鈴鹿川を交通す。補【河原田】三重郡○勢陽五鈴遺響 三重堺川の南にあり、田畝の地なる故名く、神鳳紗「三重郡今河御厨、(内宮)」今の河原田の内今宿なりと云、采女郷の内なり。
大治田《オバタ》 今河原田村に属す、内部川の北岸に在り、旧名小幡なり。東鑑、承元元年十一月の条に曰「小幡村者、為伊勢平氏富田三郎基度、年来忽諸領家押領之、滅亡之後、又為収納地、被補新地頭之間、領家女房頻愁申之、為大夫入道善信奉行、今日停止其職、如本可為領家進止之由、被仰遣」云々。又玉葉集の詞書曰「二条院讃岐、いせの国にしる所侍りけるに、わづらひあるによりて、鎌倉右大臣にうれへむとて、あづまにくだり侍りけるに、ほいのごとくなりてのぼり侍りければ、申つかわしける、
をはただの板田の橋のとだえしをふみなほしてもわたる君かな 善信
朽ぬべき板田のはしの橋づくりおもふまゝにもわたしけるかな。 讃岐
按に前輩此歌の作者善信は、親鸞上人の法諱と同じければ、親鸞の作とするは僻説なり、東鑑に載る処の小幡は富田基度が押領せる東富田に邇き処なれば、三重の大治田なるに必せり、領家の女房と云は二条院讃岐にして、源頼政の女なり、善信は三善朝臣康信の法名なり、然るに此小幡に小墾田板田の橋を咏入たるは、大和国の名所を引たるなり。〔五鈴遺響〕
補【大治田】三重郡○勢陽五鈴遺響 日永の巽位にあり、於婆多と称せり、旧名小幡なり、東鑑巻十八承元元年十一月十七日条云、伊勢国小幡村。
日永《ヒナガ》 河原田村の北神鳳抄|日長《ヒナガ》御薗此也、字|追分《オヒワケ》は東海道と参宮道の岐にして、駅舎あり、神宮まで十六里。四日市へ一里半。
行わびぬいさ浜村に立よらん朝明すぎては日長なりけり 〔夫木集〕 長明
浜村と曰ふは、今の塩浜《シホハマ》村なるべし。
補【日永村】三重郡○伊勢名勝志 東海道に属す、神鳳鈔載する所、岡本御薗、日長新御薗、長(ママ)田御薗の地なり、此地多く団扇を製して販売す、俗日永団扇と称す、浜田村、東海道に属す、旧と浜村と称す。
補【日永城址】三重郡○伊勢名勝志 日永村字登城山に在り、山上平坦にして老松欝々空に聳ゆ、伝へ云ふ、平氏の党日永楯(一に館に作る)三郎之に居る、元久元年三月、若菜五郎等と共に乱を作し、平賀朝雅の為に滅され城廃す、此地東内海を望み、尾張参河の連山は海を隔てゝ隠見す、頗る風景に富むを以て春時登臨するもの多し。
六呂見《ロクロミ》 今日永村の大字にて、塩浜に在り、観音堂は浜宮内院と称し、本尊四足八鳥の像の上に立つ、後花園院御宇、僧良忠開基とぞ、〔参宮図会〕土俗四足八鳥をロクロミと訓む、其意を詳にせず。
塩浜《シホハマ》 日永河原田の東なる海村なり、神鳳抄、三重郡塩浜御薗とある地なり。勢州四家記云、永禄年中、工藤は北畠家につき、関は江州六角家につき、工藤北畠家の諸侍と示合て船にて迫り、三重郡塩浜へ寄たりし所に関衆兼てや知つらん、陸に人数を隠し待かけ、舟より上る所へ打寄戦ひ、大勢切取、是大合戦也、夫より関家威を振ひ、北方諸侍大形関五人の手に付属せり。○内部川(三重川)は塩浜の東南にて海に入る、此塩浜一帯の砂嘴は四日市港の南方を塞ぎ、風浪を防ぐと云。
楠《クス》 塩浜村の南にて、鈴鹿川内部川の間に在り、大字|本郷《ホンガウ》五味塚《ゴミツカ》等の地は、旧鈴鹿郡の地なるべしと想はるれど、明徴なし。〇五鈴遺響云、楠郷和名抄所載の郷名に非ず、古昔楠氏居住に拠て名くる処なるべし、伊勢軍記曰、永禄十一年二月、信長北伊勢へ発向、千草宇野赤堀以下悉く幕下に属す、諸勢を率して楠の城を攻らる、楠家勇を揮ふといへども不遂して終に降参す、北畠物語曰、永禄十年八月、信長楠の城に押寄らる、楠家終に降参し、先駆の案内者となる、楠家は五百人の大将なり。
日野《ヒノ》 今八王子村と合同し 四郷《ヨガウ》村と改称す、日永常磐両村の西なり、平家物語、伊賀伊勢両国の官兵の其中に、日野十郎と云兵ありと見ゆ、此村人なりけん。
穂【日野】〇五鈴遺響 平家物語に云、爰に伊賀伊勢両国の官兵等馬仙筏押破られて六百余騎こそ流されたる中にも、日野十郎は古兵にて有ければ、弓の筈岩のはざまにねじ立て掻上り、二人の者どもを引上げてたすけたるとぞ聞えし云々。今按ずるに官平は平氏なり、日野は三重郡にあり。
三重郡○大安寺伽藍縁起流記資財帳、三重郡日野町百町、四至、東堀溝、南大河、西細川、北閏田里之限。○神鳳砂、閏田御厨ありて今千草村の南なり、去れば日野はその南にて、菰野村の中なり、神鳳鈔宿野御厨(須久野)三十町あり、今菰野に属す、須久野の旧名日野にや。
安国《アンコク》寺址 今四郷村大字西日野に在り、廃址に五位鳥山と刻せる石標を立つ、足利氏暦応の比、諸州興立の其一院なり、天平の国分寺に亜ぐべきか。
補【安国寺址】三重郡○伊勢名勝志 西日野村字里中に在り、今概ね耕宅地となり、僅に六拾坪許の旧址を存し、中央に五位鳥山(塔頭の一院)と刻せる石碑を建つ、寺伝に云ふ、興国元年七月光明天皇足利尊氏に詔して諸国に安国寺を建つ、本寺其一なり、数十の支院あり、構造荘厳なりしが、元亀三年九月滝川一益の兵燹に障り堂宇焼失す、今塔頭華蔵院(今放光寺と称す)総持院(今顕正寺と称す)の二院は再建し、其他は廃せり。○今四郷村大字日野。
柴田《シバタ》郷 和名抄、三重郡柴田郷、訓之波多。○今常磐村四日市町等なり、朝野群載「康和五年、三重郡柴田郷専当」と見ゆ、又神鳳抄「柴田郷弘永名」とあり、今柴田の大字は常磐村に属す。
赤堀《アカボリ》 今常磐村と改む、四日市の西南に在り。○赤堀城址は田間に存す、高一丈余の小丘にて、応永の比、下野国赤堀庄の住人田原景信、当所|栗原《クリハラ》村に来り築城して之に居る、後長子景宗は羽津に、二子季宗は赤堀に、三子忠秀は浜田に分邑し、天正年中に至り其家亡ぶ、〔伊勢名勝志〕勢州四家記に見ゆ。
補【赤堀城址】三重郡○伊勢名勝志 赤堀村田圃中に在り、高一丈余の小丘たり、頂上平坦にして荒蕪地となれり、応永の頃田原景信、下野国赤堀庄より本村(旧と栗原村と称す、是に至りて今爾に改む)に来り城を築き之に居る、因て赤堀と改む、後長子景宗は朝明郡羽津村に、二子季宗は本城に、三子忠秀は本郡浜田村に居城す、永禄中長野工藤氏之を攻めしむ、抜く能はず、天正四年秀(ママ)宗美濃竹が鼻の役に戦死し、城廃す。○今常磐村大字赤堀。
松本《マツモト》 今常磐村に属す、赤堀の西にて、川島の東南に在り、此辺を富田郷とも称したり、神鳳抄「松本御厨」古へ平氏党松本三郎盛光居住す、盛光は中宮進士教光の三男、富田進土盛基が弟なり、日永城主楯三郎に与力して、元久元年亡ぶ、事跡は東鑑に載たり。〔五鈴遺響〕
補【松本】三重郡〇五鈴遺響 川嶋の巽位にあり、丘岡に傍て平林の中に民居す、此辺吉田郷と私称するなり、神鳳砂「松本御厨(二宮)三丁、三石」とあり、伊勢平氏の党松本。
川島《カハシマ》 此村は四日市の西二里許、御滝《ミタキ》川の南岸に在り、字東谷西福寺境内に伊勢義盛墓と伝ふる者あり、慶安四年之を発掘したるに、棺槨大小相かさなり、一大甕を獲しに、中には小壷ありしと、〔伊勢名勝志五鈴遺響〕蓋上代の古墳ならん。
補【川島】○神鳳抄 北山田御厨(一名号河島又号升山田)上分田六丁、内宮一石、六九十二月。五鈴遺響、慶安四年土俗伊勢義盛の塚と称するものを掘穿ちたるに一大壷を得たり、其中に小壷ありて棺槨大小相かさなれり云々。○上代の古墳にて平氏党などのものに非ず。
補【伊勢義盛墓】三重郡○名勝志 川島村字東谷西福寺境内に在り、伝へて義盛の墓となす、義盛の父を俊盛と云ふ、本郡の司たり、没して後平家の士伊勢守景綱なるもの其釆邑を没収す、義盛鈴鹿山に隠れ、景綱を殺さんことを謀る、事露れ信濃に流さる、安元中源義経に従ひ、後此地に没すと。○今川島村、四日市の西方也。
四日市《ヨツカイチ・ヨカイチ》 北伊勢の都会にして、人口一万八千、徳川幕政の時、陣屋を置き代官を派出したり、明治維新の初、三重県庁を建てゝ北勢を管治せしが、後之を安濃津に移す。〇四日市の海運は、幕政の時より伊勢海湾の大埠頭たり、近年町人稲葉三石衛門港内の(雍/土)塞を患ひ、一家の資財を傾けて築造に従事し、波止場を設け浅水面を埋め、溝渠を通し漕輸の路を開く。凡東海の海運は、神戸横浜の中間に、四日市を推して第一と為し、貨物の聚散最盛大なり、(年額三千万円と称す)又関西鉄道は初め基点を此に定め、先之を草津(江州)に通し、尋で名古屋及び奈良大坂の連絡成れり、海内屈指の海市と謂ふべし、(特別輸出港に列す)又紡績製紙の工場あり。
五鈴遺響、四日市は明暦年中七百余戸、海陸都会の地にして、富有の高価あり、林氏癸未紀行に「四日市駅人争趣、処々商売相共遇」の句あり、亦古駅なり、之より尾州熱田の宮駅に至る舟行を、四日市乗と称す、巨船回漕は陸岸より五町余の沖に舟がかりす、二町余の遠浅ありて、小舟ならでは着岸し難し、相伝ふ天正十年六月、織田信長公京師本能寺に害せられける時、東照神君堺津より伊賀路を歴て、本州に潜行あり、本邑に到り玉ひて、舟行して尾張国大野に渡りしとき、駅長小林杢左衛門に、御貰として舟年貢免許あり、今の如く尾張熱田に至る十里の海路を渉る御宋印を恩賜す、又此他の漁人、冬月多く雁鳧を捕るに、海上に(黍+占)縄を張りて捉へて市に鬻ぐ、其縄を他領の海中も厭はず張ることをも恩免ありしと云、今に至り然り、是を流し(黍+占)と称す。○聖代実録、明治九年十二月、三重県農民、地祖の事を以て数千党を成し蜂起す、県令岩村定高説諭して之を鎮んとす、暴徒聴かず、大衆四日市に入り、支庁及び区裁判所を焚き、懲役場を毀ち囚徒を放ち民家を劫椋し、転じて尾張美濃諸国に侵入す、地方諸県為に騒然たり、二十三日、事始て平ぐを得たり。
諏訪神社は四日市の総鎮守にて、市民の崇敬他に異なり、祭礼にぎはし。建福寺は曹洞宗総持寺の輪番所也、竺堂了源和尚開基にて、地方の名藍なり。
四日市の北偏に御滝川(又三岳川)あり、水北を浜一色《ハマイシキ》と曰ふ、又四日市の南を浜田村と曰へり、今共に市内に編入せられ、都合人口二万五千余、四日市市と号す。補【四日市】三重郡〇五鈴遺響 民家明暦中七百余戸、海陸都会の地にして駅舎商賈あり、又娼家ありて富有なり、林羅山癸未紀行詩 四日市駅人争趣 処々商賈相共遇 交易添得一日多 廛中恐作公超霧
慶長寛永中より旧き市駅なり。○尾張国熱田駅に至る舟行あり、俗四日市乗と称す、巨舶運漕は陸より五町余、澳中に舟かゝりあり、二町余は遠浅にして小舟の着く岸なり。
○産業事蹟 三重郡四日市中納屋町稲葉三右衛門なる者は、夙に四日市港の壅塞を患ひ、力を築港の事業に尽し、海浜一万四千余坪を開築し溝渠を鑿て漕輸を通し、埠頭を築て船舶に便にし、為めに一家の(此/貝)財を傾くるに至る、其績顕はるを以て明治廿一年藍綬褒章を賜ひ、其善行を表彰せられたり。
御滝《ミタキ》川 又|三岳《ミタケ》川と曰ふ、菰野の西|御在所《ゴザイシヨ》岳より発し四日市に至り海に入る、長七里、一説之を以て三重川に擬すれど謬れり、三重川は今の内部川なるべし。
神前《カムザキ》 四日市の西一里余、御滝川に沿へる村落なり、大字|高角《タカツヌ》に延喜式神前神社あり、今東カンゼンと唱ふ、神鳳抄には高角神田の名あり。
高角《タカツヌ》城址は今神前村大字|寺方《テラカタ》の乾位にあたる山頭に在り、五鈴遺響云、東鑑「元久元年五月六日、朝攻飛脚重到来、去月二十九日到伊勢国、平氏雅楽助三浦盛時、並子姪等、構成郭於当国六箇山、数日雖相支、朝政励武勇之間、彼等防戦失利敗北、凡張本若菜五郎城郭構処、謂伊勢国日永|若松《ワカマツ》南村高角|関小野《セキノヲノ》等也、遂於開小野亡其命」云々、按に朝政は右金吾朝雅なり、小山朝政に非ず、北条九代記、朝雅に作る是なり、伊勢平氏雅楽助は中宮長司度光が男、富田進士三郎基盛なり、高角城の旧址より享保五年、太刀鑵子の蓋の朽たるを鑿出せり、上人其祟を畏れて旧土に埋めりと云。
補【神前神社】○神祇志料 今高角村の東かんぜんに在り(式内社検録)
按、かんぜんは即神前の転訛なり
高角東之宮といふ(慶長四年棟札)○今神前村。
○神鳳妙 高角御厨、高角神田。
菰野《コモノ》 桜《サクラ》村は神前の西にて、菰野の東なり、良米を産出して之を桜米と曰ふ、菰野は精良第一と称せらる。○産業事蹟云、伊勢米の精良は、三重郡菰野を推す、明治維新後は、貢米の制限を解き金納に改正ありしを以て、自然農家に於ても米質の如何を顧慮するものなく、只収穫の多からんことのみに注目し、加ふるに精撰乾燥俵装等の法も亦粗悪となり、旧藩時代に比すれば漸く劣れりとぞ、初め菰野村の農惣吉、万延元年秋、千本の中より一穂を撰出し之を培養せしに、品質佳良なるのみならず、収穫甚だ多く、加ふるに稿稈強くして、風害等の為めに倒るゝこと少きを以て、称して関取米と曰ふ、之より其価格は普通米に比すれば常に一割を高くし、関取の名四方に聞ゆ。菰野は神鳳抄「菰野御厨」とありて、天正年中、滝川一益織田氏の命を以て管領したる時、代官を置ける所とぞ、慶長五年、土方河内守雄久の封邑となる、雄久館を置き塞を築き、子孫世襲して明治維新に至る。
補【桜米】○産業事蹟 三重郡桜村は伊勢米の精良品を出したる所にて、当時同村は津藩の領分に属せるを以て津桜の名あり、之を藩主藤堂侯の膳米に供する例なりとぞ。○今桜村。
菰野湯《コモノユ》 揚山と称し、創見詳ならず、貞享四年、修治して遠近の客を招きたるより、今に衰へず、四日市を去る四里、山路稍軽車を通す。○此湯は単純温泉にして、八十五度の常温を有ち、山腹に泉竅三所あり、之を延き浴槽を造る、浴舎客室数戸あり。補【湯山】三重郡○地誌提要 菰野泉質硫気あり、疥癬諸瘡痛風等によろし。
薦野温泉 伊勢名勝志、菰野村字湯山に在り、林岳並び整えて樹木深欝たり、養老中僧浄訓霊夢に感じ此を開く、能く百病を治す、遠近来浴するもの多し。
御在所《ゴザイシヨ》岳 菰野の西嶺にして、山背は江州綿向山に連る、北は八峰山、南は鎌岳に亘り、北勢の西界を為す、御滝川の水源なり、直立四千尺許。西遊放談云、天明戊申、日永村にて七月盆のツンツク踊を見て、三里余菰野に至る、土方侯一万石の陣屋あり、市中一二町、此より東十余町にして河原あり、雨降れは水漲る、青滝《アヲダキ》の末なり、方一里程の原あり小笹多し、溪を渉り山中に入れば、山皆土砂流れて、山骨露れ、大石道路を塞ぐ、又渓水にあひ、石を蹈み之を躍り越ゆ、又一渓を過ぎ人家を見る、山を挟みて屋舎を作ること七軒計、湯室は火を焚きて湯となす、此地嶮岨、樹すくなく五穀生ぜず、土なく皆こいしなり、大山は冠が岳御座が岳と云ふ、此山越四里人家なし、江州日野に出づ。
千種《チグサ》 菰野の北なる山村にて、澗水は東北に傾き、朝明川に入る、西には千草越ありて、江州神崎郡に通ず。中世土豪千草氏此に居り、北勢の諸族と競へり、一書千草氏は千種少将源忠顕に出づと為す、是非を知らず、天文天正の頃、千草常陸介忠房あり、初め江州六角氏に降附し、後北勢諸家と同く、織田氏に攻滅せらる。
補【千種城址】三重郡○伊勢名勝志 千種村字城山に在り、今耕地及び山林となれり、周囲濠址を存す、建武元年千種忠顕、後醍醐天皇に仕へ功あり、本郡二十四郷を領し目代伊藤吉治をして之を管せしむ、二子顕経正平廿四年九月北畠顕康の命により本郡に数城を築き、自ら禅林寺城に居り之を総轄す、永徳元年忠顕の長子通治の子隆通本村(旧名岡村、是時今称に改む)を築
き子孫之に居る、弘治三年(一に元年、また二年に作る)近江佐々木義賢北勢を取らんとす、先づ本城を攻めしむ、克たず、天正十八年秀吉忠治の養子顕理を音羽村に移す、後大坂の役に戦死す。
閏田《ウルタ》 今千種村の大字なり、神鳳抄「閏田御厨」とあり、又潤田に作る、大安寺資財帳に「三重郡日野百町、四至、東堀溝、南大河、西細川、北閏田里之限」とあり、大河とは御滝川を云。
赤水《アカウヅ》 今|県《アガタ》村と改む、千種菰野の東にて、其北に鵜川原村あり、赤水は旧名赤松なり、大安寺資財帳に見ゆ、帳云 「三重郡赤松原百町、四至、東上無清泉、甫甲杜山道、北都界、西山之限、右天平十六年納賜者」と、之に因れば今千種鵜川原二村は、当時朝明郡の属なるを想ふべし。
刑部《オサカベ》卿 和名抄、三重郡刑部郷、訓於佐加倍。○今三重村|海蔵《カイザウ》村是なり、四日市の西北にて、県村の東南なり、海蔵川郷中を貫き、四日市の北に至り海に入る。○刑部は今坂部の名遣る、頭書のオをば上略したる也、此例往々之あり。○大日本史云、正平二十四年、土岐頼康侵勢州、北畠顕能令子顕泰、拒戦於刑部、却之。
坂部《サカベ》 今三重村と改む、即刑部郷の本拠なり、旧事紀に景行天皇皇子「五十功産命、伊勢刑部君、三川三保君祖」と載す、今延喜式|江田《エタ》神社此地に在り、蓋五十功彦を祭ると云ふ。○坂部に字|御館《ミタチ》と云ありて、神宮御厨址なるべし、(神鳳抄坂部御厨)諸書之を以て三重村頓宮址と為し、近年之に因みて三重村の名を立つれど、三重村の旧地は此に非ず。○鉱泉志云、御館鉱泉は炭酸泉にして、温六十度、田畝の間より涌出し、四日市を距る六十町の近きに在り。
五鈴遺響云、西坂部車坂と云は、小坂氏の館祉なりとぞ、源平盛衰記、砥並山合戦条に曰「伊勢国住人|館《タチ》太郎貞康、八十余騎にてひかへたり、貞康が叔父|小坂《ヲサカ》三郎宗綱と云ものあり、名を得たる兵なり」云々、按に官軍は平家六波羅勢にして、館太郎貞康は伊勢平氏党とす、小松維盛に属して木曽義仲に対陣の時なり、小坂三郎宗綱本州に小坂の地名なし、疑らくは刑部を下略して小坂と称せしなり、又坂部城址は同処にあり、元久元年、平氏党若菜五郎が萩原小太郎に命じて守禦せしむる処なり。
阿倉川《アクラガハ》 この村は今|末永《スヱナガ》村と合同し海蔵《カイザウ》村と改む、海蔵は古訓即阿久良なるべし、四日市の北に接す。神鳳抄「飽良川御厨、末永御厨」并び載せたり、海蔵の北は羽津村、旧朝明郡の地なり、郡界此間に分れたり。○勢州四家記云、阿久良川家は平貞盛の末、館太郎貞治が後裔なり、天正元年四月、浜田家の侍二百騎率し、阿倉河の城近まで来る、阿久良川の館弥三郎貞隆勇者なりしかば、逃るを追事法過たり、薩摩守貞晴矢倉の上より之を見、弥三郎危し続けと下知す、案の如く菰野道の辺にて、敵伏勢をして弥三郎打死す。
賀保宮原《カホノミヤバラ》 今詳ならず、賀保は延喜式「三重郡|加富《カフ》神社」と云者にして、大安寺資財帳云「三重郡宮原四十町、開十三町、未開田代廿七町、四至、東賀保社、南峰河、北大川、西山之限也」と。
補|忍《(おし)》米 ○産業事蹟 伊勢国三重朝明両郡の稲米は 其の産額甚だ多く、品質も亦沿海村落を除くの外は善良にして、旧藩制の頃には稲草は最も良種を撰精し、其の種類に制限ありて、制限下の稲草は作付することを禁止し、之に加ふるに米の精撰及び乾燥俵装等完全ならざるものは貢納米とならざるを以て、貢納に先て庄屋年寄等に於て厳重に其の良否を検査し、不良のものは幾回たりとも精選せしめたるを以て、東京大阪市場に於て、伊勢忍米の名最も著はる、其の主産地、朝明郡沿海に非る各村にして、忍藩の領分に属せるを以て忍米の名あり。
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朝《アサケ》明郡 明治二十九年廃停せしめ、其地を挙げて三重郡に入る、此郡は朝明川左右の地にて、和名抄、朝明郡、訓阿佐介、六郷に分ち、延喜式「朝明、駅馬十匹伝馬五匹」とあるは、今|朝日《アサヒ》村の地なるべし、壬申の乱に、天武天皇朝明郡迩太川辺に天照大神を望拝み給ふと云も此駅なり、文禄検地二万四千石。姓氏録「右京未定雑姓、朝明史、高寵帯万国主氏韓法史之後也」と、此史氏の故墟は此か。○日本書紀、雄略天皇の時「物部目連斬伊勢朝日郎、乃賜猪名部」とあり、朝日《アサケ》は蓋朝明に同じ、其猪名部の来住したるは即員弁郡なり、因て按に朝明員弁は初め一国にて、朝日郎の主帯せる地なるべし。大日本史云、物部目、物部菟代、奉詔伐伊勢賊朝日郎、朝日郎聞王師至、逆戦於伊賀青墓、自今善射、発洞重札、軍中恐懼、菟代不敢進撃、相持二日、日親執大刀、令筑紫聞物部大斧、手持楯並進、朝日郎射中大斧手、矢穿楯洞重甲、入膚一寸、大斧手以手楯蔽目、目即獲朝日郎斬之、帝乃奪菟代所領猪名部、賜目。
補【朝明郡】〇五鈴遺響 文禄検地二万四千石、元禄検地二万九千石。○今五方里、三万四千、十一村。
杖部《ハセツカベ》郷 和名抄、朝明郡杖部郷、訓鉢世都加倍。○今羽津村などにやあらん、杖部は姓氏録に丈にも作ることありて、走使部《ハセツカヒベ》の義なるべし。(走便部を下略して走と呼び、羽津《ハヅ》に謬るか)
長谷《ハセ》神社は延喜式朝明郡に列し、羽津村の北字|別名《ベツミヤウ》に在りと云、〔五鈴遺響〕又|大矢知《オヤチ》村西南の山に在りて「八幡と云ふ、旧址は八幡の東南観音堂の地なり、其東麓の久留倍《クルベ》民家を長谷《ハセ》町と呼ぶ是也」と、〔神祇志料〕按に長谷は杖部の略なるべし、此地は訓覇《クルベ》郷と相接地す、而も今長谷町と久留倍一処に混同するは後世の事にて、已往は其別ありしならん、大略羽津村を杖部郷とし、大矢知村富田村を訓覇郷とす。
羽津《ハヅ》 四日市の東北一里なる海村なり、天正十二年十一月、羽柴秀吉羽津に陣し、織田信雄と和議の事あり、又羽津氏は赤堀の一族にて、天正の初に滅亡す。○勢州四家記云、赤堀羽津浜田は元一家にて、田原又太郎忠広の末也、羽津先祖は赤堀衛門太夫と云、六代右京助は元亀三年六月、茂福城主山口次郎四郎とは縁者なる故、料理を振舞たしと謀られて、窃にころさる、然ども羽津に残る一族城を不渡取合ありしとぞ。
四泥崎《シデノサキ》 羽津の浜を曰ふ、延喜式、朝明郡|志※[氏/一]《シテ》神社此に在り、今|高御前《タカゴゼン》と呼び、土俗風伯神と為す。
おくれにし人をおもはば四泥の埼木綿とりしでゝ往むとぞ思ふ、〔万葉集〕
志※[氏/一]社境内に古墳あり、面積百余坪、樹木叢生す、嘉永五年、社殿修造の時、之を発見し、曲玉土器等数品を出せり。〔伊勢名勝志〕
伊賀留我《イカルガ》○羽津村の西北別名に隣る字なり、神風抄鵤御厨と曰ふ、延喜式、朝明郡伊賀留我神社在り。
補【額田郡氏墳】朝明郡○伊勢名勝志 羽津村字大宮西、志※[氏/一]神社境内に在り、面積百余坪樹木叢生す、里人伝へて額田部天津彦根命孫意富伊我都命の墓となす、嘉永五年三月社殿修造の時、此墳を発見し、曲玉古器等数個を出せしと云ふ。
補【伊賀留我神社】○神紙志料 今北鵤村の南に在り、斎大明神といふ(神名帳考証・神名帳検録・勢陽雑記・式内社検録)
按、検録云、同村伝来の古祝文「トウシヤハアマノヲヽヒコノミコト」とあり、当社は天大彦なるべし
蓋御厨の地なるを以て大神宮を斎祭る(神鳳鈔大意)
訓覇《クルベ》郷 和名抄、朝明郡訓覇郷、訓久留倍 。○今大矢知村富田村なるべし、大矢知に宇久留倍の地ありと五鈴遺響に見ゆ、蓋訓覇は呉部に同じ、紡織を業とせる部民の称なり。
久留倍八幡宮は、一説式内長谷神社に擬し、又朝明郡式内|長倉《ナガクラ》神社にも擬せらる。
補【訓覇郷】朝明郡〇五鈴遺響 一説大矢知村に宇久留倍あり、又式内長倉神社も大矢知八幡宮に外ならず、訓覇は倉部の義なりと。○今富田村・大矢知村。
大矢知《オホヤチ》 羽津の北、富田の西にて、民家林野の間に居る、神鳳抄、大矢知御厨と曰へり、享保年中、村内の廃寺址より、宝鐸二箇を掘出したり。○字|挟間《ハザマ》に浮石層あり、採りて磨砂の用に供すべし。〔地学雑誌〕
補【大矢知】朝明郡〇五鈴遺響 高田専修寺の真恵上人此他に一寺を起したることあり、今廃す、享保年其址より宝鐸二個を掘出す。○神鳳妙 大矢知御厨。
布自《フジ》 延喜式、朝明郡布自神社、今大矢知村に在り、富士権現と称す、又同式同郡桜神社も同所桜谷に在り、同く富士権現と称す。
下之宮今大矢知村の大字にて、延喜式、朝明郡|耳常《ミミト》神社在り、神鳳抄「下之宮、神領二十町云々」
富田《トミタ・トンダ》 羽津村の木谷在り、其東に接する海村を富田一色と曰ひ、今|富洲原《トミズハラ》村と曰ふ。○富田は東鑑に富田荘、神鳳抄に富田御厨とあり、数邑に分れ、其東富田村は駅舎に当り、民戸最多し、鉄道停車場あり、今富田村と曰ふ者是なり、西富田は即大矢知村也。
富田《トンダ》城址 東富田|茶屋《チヤヤ》町にして、今民宅と為る、富田進士平家資の墟とぞ、元暦元年平氏蜂起の時、家資之に与し、大内惟義に斬らる、元久元年、平氏再挙、家資の子基度又之に張本たり、平賀朝雅に撃たれ敗死す。東鑑云、元久元年三月、爰伊勢平氏等、塞鈴鹿関所、索険岨之際、人馬難通、武蔵守朝政出京、廻美漉国、二十七日入伊勢国、自四月十日至十二月合戦、先襲進士三郎基度、朝明郡富田之舘、挑戦移剋、誅基度并舎弟松本三郎盛光等、次於安濃郡、攻撃岡八郎貞重、次到多気郡、与庄田三郎佐房等相戦、彼輩敗北、又生虜河田刑部大夫、凡狼戻雖靡両国、蜂起不軼三日、残党猶在伊賀国、云々。○同書文治三年「院御領、工藤左衛門尉祐経知行、富田荘」と云も此にや、鈴鹿郡川俣にも富田村あり。
補【富田城址】朝明郡○伊勢名勝志 東富田村字茶屋町に在り、今小阜にして宅地に属す、文安三年南部頼村信濃国松本より来り、城を築き之に居る、北畠氏に属す、富田館址所在詳ならず、蓋東富田村富田城址の地ならん、富田進士平家資(一に家助に作る)之に居る、元暦元年七月平氏の族乱を作す、家資亦た与る、大内惟義の攻むる所となり逃れ走る、文治三年幕府此地を以て工藤祐経に賜ひ、富田庄六ケ村を領す。(此時後白河院の御領たるを以て守護代蒔田相模守亦之に住とい)元久元年平族亦乱を作す、家資子度光、其子基度又此に拠り以て本州を乱る、伊賀伊勢守護首藤経俊、兵寡ふして逃走す、平賀朝雅命を奉じて美濃を経て本州に入り、先づ本館を襲ひ誅す。○今富田村。
○東海道名所図会云、四日市桑名のあいだ、富田おぶけの焼蛤は名物にして、ゆきゝの人もこゝに憩ふて酒を勧め、これを賞翫す。
はまぐりの焼れて鳴くやほとゝぎす 其 角
鳥出《トリイデ》神社 延喜式、朝明郡に列す、今富田村に在り。古事記伝云、倭建命の陵造りの時、八尋の白鳥に化て天翔り浜に向ひ飛行きぬと云由見ゆ、鳥出神社も、一説に其白鳥の飛出給ひし地と伝ふ、富田と云も鳥出の訛れ
るなるべし。(和州琴引原の白鳥陵をも富田《トンダ》里と云ふ)
広永《ヒリナガ》 今|八郷《ヤサト》村と改む、大矢知村の北なり、五鈴遺響云「広永は朝明川の崖に民居す、神鳳抄、弘永御厨六十町、又東鑑、文治三年、伊勢国|穂積《ホツミ》荘、預所式部大夫とあり、穂積此なり、延喜式、朝明郡穂積神社、今此地にて、川島明神と称す」
補【穂積神社】〇五鈴遺響 式内穂積神社 同所(広永)小字川島と云所にあり、方俗川嶋明神と称す。
補【広永】朝明郡〇五鈴遺響 朝明郡は神鳳妙に「郡司職田、十町」東鑑曰穂積庄。広永村の遺縦あり、是郡家なるべし。
萱生《カヤフ》 今八郷村の大字なり、一に加用に作る、塞址あり、富田氏の属塞にて、永禄年中、春日部時家之に居り、千草氏の与党なりしとぞ、神鳳抄に能原御厨とありて、延喜式、朝明郡能原神社鎮座す、日本紀略、天慶三年能原神授位。〔五鈴遺響伊勢名勝志〕補【萱生城址】朝明郡○伊勢名勝志 (一に加用城に作る)菅生村の北部、字城山に在り、方凡そ弐町、旧形猶存す、景勝の地たり、文治中富田家資本州平氏の末葉なるを以て、源頼朝に擒にせらる、頼朝其勇武を惜み死を赦して本州に流す、後姓を春日部と改む、其裔宗方初めて本城を築き之に居る、近郷十余村を領す、三重郡千種城主千種常陸介の与力たり、俊家の時に至り永禄十一年織田信長兵を本州に出す、遂に降る。○今八郷村朝明川の辺にあり。
補【能原神社】○神祇志料 今萱生村にあり(神名帳考証・二郡神社考)朱雀天皇天慶三年九月丙寅、従五位上能原神に正五位下を授く(日本紀略)
大金《オホカネ》郷 和名抄、朝明郡大金郷、訓於保加禰。○今|下野《シモノ》村|八郷《ヤサト》村なるべし、大字大鐘は下野に属す。〇五鈴遺響云、此は古代金作部の住地なりけん、続日本紀、養老六年、伊勢国金作部牟良忍漢人安得の名を載す。
大《オホ》神社 延喜式朝明郡に列す、今下野村に在り、〔神祇志料〕蓋大和国多神社の裔杜なり、天武紀壬申乱の時、伊勢の将士に多臣品治あり、古事記に依れば開化帝の四世孫曙立王者伊勢之品遅部君之祖と曰へり、按に品遅部絶え、多臣にて其名を負へるにや。
下野《シモノ》 此村、大字|山城《ヤマシロ》は見永氏塞址とぞ、見永藤七郎秀宗足利氏に属し屡戦功あり、故に此地を恩賜して歴代居城す、永禄十一年十月、織田信長の為に滅す、萱生村春日部氏と同時なり、桜雲記、暦応二年四月五日条に 「於南朝、阿曽宗貫に勢州朝明郡を賜て地頭職に補す」云々、阿曽氏の廃亡の後、見永氏永禄中に至り居する処とも云べし。〔五鈴遺響〕
補【下野】朝明郡〇五鈴遺響 山城は山に傍て民居す、志知に同名あり、故に下野山城と称す、也摩自耶宇《(ヤマジヤウ)》と訓ず、伝云、建武年中見永藤七郎秀宗、足利尊氏将軍に奉仕して之を賜ふ。
補|鶴沢《ツルサハ》 〇五鈴遺響 神鳳砂「朝明郡鶴沢御厨(内宮)五十丁、二石八斗」鶴沢御厨は今千代田村と改む云々。
田光《タヒカ》郷 和名抄、朝明郡田光郷、訓多比加。○今|朝上《アサカミ》村|竹永《タケナガ》村保々村に当るべし、朝明川の上游に居り、南は千種村に至り、西は八風峠を以て江州に界し、北は員弁郡石榑村に至る。
保々《ホホ》 此村は神鳳抄に保々御厨とあり、大字市場に延喜式朝明郡|殖栗《ウエグリ》神社鎮座す、県明神と称す、大字小枚の若宮塚は明治十五年発掘し、金鐶を獲たり、近傍に大塚と云巨墳あり、又|筆崎《フデガサキ》と云に十余の古墓あり。〔神祇志料伊勢名勝志〕
補【保々】朝明郡〇五鈴遣響 朝明川の北庄に民居す。神鳳紗 保保御厨(二宮)各三石一斗八升、同別名、一石五斗。○保々市場村。
補【殖栗連墓】朝明郡○伊勢名勝志 小牧村字若宮耕地中に在り、始め此地に小阜あり、明治十五年三月村人之を開拓す、石窟あり、広凡そ壱坪、高六尺許、中に石あり、殖栗連の三字を刻す、亦金鐶を出す、近傍字山が鼻に巨塚あり、王塚と云ふ、又字筆が先(ママ)に尚拾余の古墳あり。○今保々村小牧。
田光《タビカ》 田光田口|杉谷《スギタニ》切畠等、八風峠の下なる諸村を合同し、今|朝上《アサカミ》村と称す、田光に延喜式、朝明郡|多比鹿《タヒカ》神社在り、多気窓螢に「昔伊勢武者に田光隼則と云は、彼一条院の時、きれもの年則がことなり、朝明一郡の主なれば、人にも敬せられぬ」と見ゆ、此に住める土豪なるべし。
補【田光】朝明郡〇五鈴遺響 田口は本郡の極北界にして員弁郡の界山中に民居す、多具知と訓ず、神鳳抄「田口御厨(二宮)二十一丁、各三石、六九十二月」とあり。式内|耳利《ミミトシ》神社同処にあり、多比鹿神社より十町山坂を踰て至る、切畑越と云、此処より東に小山あり、アシカサ越と云地に坐す。
切畑《キリハタ》 八風峠の下なり、延喜式、朝明郡|伎留太《キルタ》神社此に鎮座す、和名抄に切畠をば「横戟山作畠」と注したり。○田口は神鳳抄「田口御厨廿一町」と云此なり、○地学雑誌、朝明郡いつくれ山より黄玉石煙水晶電気石柘榴石螢石等を産出すと云は、田光山の事にや。
永井《ナガヰ》 今|竹成《タケナリ》村と合同し、竹永村と改称す、田光の東南に在り、神鳳抄、長井御厨四十町とありて、延喜式、朝明郡井手神社鎮座す、大堰あり田野の養水と為す、此池より五町許巽位|雁沢《カリサハ》に石鏃を拾ふことあり。
補【永井】朝明郡〇五鈴遺響 岡山に傍て郊原の間に民居す、神鳳抄「長井御厨(二宮)四十丁、各三石」とあり、大池は村落の南郊野の間にあり、水田の用に設くる処なり、溜池より五丁許巽位岡山あり、雁沢と云水湿の地あり、石鏃を産す、矢の根石と云、形箭鏃に似て尖り、或は雁股等数品あり、希に透徹するあり。式内井手神社 同所にあり、土俗井手大明神と称す。
八峰《ハツポウ》山 今|八風《ハツプウ》峠と曰ふ、田光及び員弁郡|石榑《イシグレ》より江州山上村へ通ずる間道あり、或は根平越と称す、朝明川の水源とす。
東鑑、元久元年三月条云、武蔵守朝政飛脚到着申云、去月雅楽助平維基子孫等、起伊賀国、中宮長司慶光子息等、起伊勢国、各叛逆云々、彼両国守護人山内首藤刑部丞経俊、相尋子細之処、無左右企合戦、経俊於無勢逃亡之間、凶徒等虜領二箇回、固鈴鹿関八峰山等道路、仍無上路之人云々。
朝明《アサケ》川 二源あり、一は八峰山朝上村より出で、一は千種山より発し、下野村に至り二流相会し、東流福崎(川越村)に至り海に入る、長凡六里、日本書紀、天武天皇|迩太《トオホ》川辺に望拝の事見ゆ、或は此川と云ふ。
額田《ヌカタ》郷 和名抄、朝明郡額田郷、訓沼加多。○神宮雜例集には「朝明郡額田神田」とありて、
同社 今朝日村なるべし、古の朝明駅家|止保《トホ》御厨など云は朝日の大字縄生に当る如し。
延喜式朝明郡井後神社は、朝日村大字|柿《カキ》に在り、同式同郡|移田《ウツシダ》神社は同村大字|埋縄《ウメナハ》に在り。〔五鈴遺響〕
小 向《ヲブケ》 今朝日村に属す、縄生の南に接し、国道に沿ふ、焙蛤を旅客にすゝめ、万古《バンコ》焼の窯元なるを以て、駅路に名あり。
はまぐりのやかれて鳴くや郭公、 其角
産業事蹟云、伊勢の万古陶器は、近世盛行し、一種の式となれり、此陶器は元文中沼浪弄山なる者の創製せるに権與す、弄山通称五左術門と云ふ、(一説、万古焼の祖を柿沼館次郎と云ふ、世にこれを弄山に誤ると)朝明郡小向村に住し、製陶を好み極めて雅致あり、其彩紋は多く唐草を描き、又草花を写す、其着色は赤黄淡青等にして、就中瑠璃の一種大に世人の称賛を得たり、五左衛門の家万古屋と号するを以て、之を陶器の名とせしと云ふ、其名漸く遠近に伝はる、後江戸に出で小梅村に寓し幕府御用陶師となりしが、数年にして罷め、安永六年没す、文政年間、小向の人森与五左衛門なる者あり、有節と号す、万古焼再興の志あり、乃手捻の壷類を造り、素焼にして之を試み、漸く発明する所あり、天保年間、陶窯を改良し、殊に菊花盛上法及臙脂色の彩料を発明し、又模型に数箇の木片を用ゐ、製成の後抜出すの方法を案出し、勉めて精緻の良品を主とせり、是を以て名声大に世に送る、又同国四日市末永村の人、山中忠左衛門なる者あり、有節の家法を秘して世に伝へざるを憾み、嘉永年度以来、屡々製造を試み、百方経験を積み、明治三年に至り、終に精良の器具を製する事を得たり、乃ち広く其法を人に授く、是に於て万古陶器を製造する者、頓に其数を加へ、近時四日市及び桑名を合せて営業者数千名、一箇年の産出代価凡四万円余に達せり。
縄生《ナオフ》 今|朝日《アサヒ》村と改む、小向と相接し、北は町屋川を隔て、桑名の市街を望む、古は金綱《カナツナ》駅と称し、町屋の構なりしを以て、員弁川をば後世|町屋《マチヤ》川と改むとぞ、即朝明駅家なるべし、神鳳抄には金綱御厨と見ゆ。
五鈴遺響云、縄生富士権現は、延喜式、朝明郡|苗代《ナオフ》神社なりと、苗代即苗生にて縄生と云ふに同じかるべし。○縄生塞は、天正中、羽柴織田合戦の比に聞ゆ、桑名の属塞なり。
補【縄生城址】朝明郡○伊勢名勝志 縄生村字城山に在り、小丘にして小樹茂生す、北畠氏に属す。今朝日村、町屋川の南岸にあり。
迹太《トオホ》 神鳳抄、止保御厨とありて.日本書紀「天武天皇元年、於朝明郡迹太山辺、望拝天照大神」と云地なり、今縄生小向の間、官道の傍に遙拝所ありて、参宮の旅人尚此に詣づ。○按に迹保川は朝明川に非ずして、員弁川ならん、縄生遥拝所は員弁川に近くて、朝明川に遠ければ也。
補【迹保川】朝明郡○伊勢名勝志 縄生村と小向村の間官道の右側に在り、日本書紀迹保川〔天武紀元年「旦於朝明郡迹太川辺望拝天照大神」〕は即ち今の朝明川なり(書紀通証)参宮の旅人今尚此に遙拝す。一源は本郡田光(今朝上村)より出で、一源は三重郡千草より出づ。
豊田《トヨダ》郷 和名抄、朝明郡豊田郷、訓止与多。○今川越村是なり、朝日村の東に接し一方は海に至り、他方は朝明員弁の両川あり、大字豊田一色福崎等あり、東鑑「文治三年、豊田荘地頭、加藤太光員」と見ゆ此なり、今土俗トイタと唱ふ。延喜式、朝明郡|八十積椋《ヤソツミクラ》神社は豊田に在りと、神祇志料に記せり。
福崎《フクサキ》 今川越村と改む、朝明川此にて海に入る、神鳳抄、福崎御厨廿五町とある地なり。
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延喜式、朝明郡|菟上《ウナカミ》神社は今所在を知らず、古事記に開化天皇皇子日子坐王の子大俣王、大俣王の子「曙立王、次菟上王、此曙立王者伊勢之品遅部君、菟上王者(伊勢之)比売陀君之祖」とあれば歴々たる事跡なれど、之を詳にする能はず。○同式、同郡|櫛田《クシタ》神社|石部《イソベ》神社又詳ならず石部神社は員弁郡石榑村に在りと云ふも、石樽は朝明に混ずべき地に非ず。
員弁郡
員弁《ヰナベ》郡 伊勢国の北端にして、三重郡の北に接す、藤原岳|龍《リユウ》岳を以て近江国と相限り、三国《ミクニ》岳の山脈東南に馳せ、多度《タト》山に連亘し美濃国界を為す、四面皆山、東南町屋川(員弁川)に従ひて微く開く所あるのみ、面積約七方里、人口四万五千、二十二村に分る、幽辟の境なれば名邑なし、郡街を楚原に置く、桑名の西四里。和名抄、員弁郡訓為奈倍、五郷に分つ、蓋朝明の分地にして、雄略帝の時、朝日郎罪あり、物部目之を誅斬し、因て其所領猪名部を此に移せる也、事は朝明郡の条下に注出せり。○猪名部は元摂津国の為奈に起る、姓氏録「神別、猪名部造、伊香我色男命六世金連之後也」とあれば、物部氏の部民たる事明なり、続紀神護景雲三年、員弁郡人猪名部丈丸。
大安寺資財帳云、員弁郡|阿刀《アト》野百町、四至、東百姓墾田御井、西高山、南武賀川、北河胡登山道之限。(此野今詳ならず) 仁和の御べの伊勢のうた
君が世は限りもあらじ長浜のまさごの数はよみつくすとも、〔古今集〕(按に、此歌は光孝帝即位の時、伊勢国員弁郡主基方の詠なれど、其地を知らず長浜に砂をよむによれば、海浜なるべけれど、員弁郡には臨海の村落なし疑ふべし)
補【員弁郡】○和名抄郡郷考 風土記、当郡東西七里、南北八里、河海多而山林出樹木、神戸十八座、土地富饒也、但不出大竹、魚鳥禽獣不少。続紀神護景雲三年五月、伊勢国員弁郡人猪名部丈丸。後紀〔逸文類聚国史〕天長五年十一月丙申、伊勢国員弁郡空閑地一百町
爲勅旨田。東鑑 元久元年二月伊勢国員弁郡司進士行綱、為囚人被召置、依義盛之訴也。〇五鈴遺響 此郡は朝明の分郡なるべし、津国猪名の工匠部の此に移りて一郡を建てたるならん、聖武孝謙の朝に本郡の工匠造東大寺の役に従事し、盛名を発すること続日本紀に見ゆ。続日本妃、神護景雲元年二月甲申、幸東大寺、云々、授造寺工正六位上猪名部百世外従五位下(此説非也)
白瀬《シラセ・シレシ》 員弁川の源頭に在る山村なり、三国岳乾位に聳ゆ、即伊勢近江美濃の交界なり、大字本郷を主里と為し、西は焼尾《ヤキヲ》を渉り犬上郡に至るべく、北は篠立村(今立田村)を経て養老郡に出づる山径あり。○大安寺資財帳に「員弁郡|志理斯《シリシ》野百町、四至東山井河」云々とあるは、此地なるべし。五鈴遺響云、山口と云は篠立の坤位にありて、白瀬郷の内なり犬上郡に至る山径あり龍華越と云ふ、本郷村とは白瀬郷の魁たる故に名づく、神鳳抄「内宮、志礼石御厨、三十町三石」と載す、東鑑にも見ゆ、自瀬砦跡、本邑の内にあり、北畠物語に領主白瀬家あり然れども白瀬郷の名は和名抄になし、東鑑天治中より私称する処なり、神鳳抄志礼石と填(マヽ)るといへども、志礼世と訓じて適へり。
篠立《シノダチ》 今|立田《タツタ》村と改称す、三国岳の麓にて、白瀬本郷の北一里、員弁川の水源なり。〇五鈴遺響云、篠立山観音寺は村の坤位山中にあり、此山麓に方俗風穴と称する洞穴あり、高十間許、洞口より五六町許は、流水足を浸して至て清冷なり、六七町に至て石鍾乳多く、左右の窟上に附着して其深さ究め難し、此渓を北に踰嶺すれば石津郡なり西は犬上郡なり。
長尾《ナガオ》 今相場村と合同して中里と改称す、白瀬村の東に接す、神鳳抄、長尾御厨|饗庭《アヒバ》并び載せたり、猪名部氏の古跡を伝ふ、一は館址にして長尾の字両馬場に在り春澄善縄館とぞ、一は古墳にて面積十坪許、小石を散布す、進士行綱墓とぞ、五鈴遺響には式内|猪名部《ヰナベ》社も長尾に在りと主張したり、今善縄行綱の事は別目「北大社」の下に詳にす。補【長尾】員弁郡〇五鈴遺響 式内猪名部神は長尾村に在り、俗説に大社村にありと云ふは誤れり。
春澄善縄館址 伊勢国名勝志 長尾村字両馬場に在り、森林中礎石を存す、是其館址なりと云ふ、善縄本姓猪名部造、本郡の人たり、祖財麿本郡の少領たり、善縄博学藻思あり、貞観中累遷して参議正三位に至る、嘗て勅を奉じて続日本後紀二十巻を撰修す、其裔員弁三郎行綱及び其子行経等あり、相継で之に任す、後家絶す、此他に祠あり、善縄の霊を祀る。○善縄の事蹟は続日本後紀・三代実録に詳なり、其家は歴代北勢の著姓として員弁三郎行綱に至り、其子行経・頼綱并に左衛門尉に任じたること東鑑に見ゆ、鎌倉以後何の世にか家亡ぶ。
石加《イシカ》郷 和名抄、員弁郡石加卿、訓以之加。○今東藤原村西藤原村|治田《ハルタ》村|阿下喜《アゲキ》村等に当り、東藤原に大字|石川《イシカハ》あり、郷名の遺れる也。神紙志料に、延喜式|石《イシ》神社は石加郷石川に在りと為す者、また之を証す、而て今|石樽《イシグレ》村を以て石加と改称したるは、其所由なし。○石河は藤原《フヂハラ》岳の麓にて、阿下書村の西なり、神鳳抄、石河御厨東禅寺御厨など云へる地なり。
補【石河】員弁郡〇五鈴遺響 員弁川分派の間に民居す、藤原岳の東麓なり、伊志加波と称す、神鳳抄「石河御厨(内宮)三石、七丁」とあり。東禅寺村は石河の坤位にあり、神鳳抄、東禅寺御厨あり。
野尻《ノジリ》 今東藤原村に属す、字羽場に三朝塚と云者あり、文禄年中、北畠氏の裔孫具成、桑名城主に仕へ、此地方を管治し、曩祖親房顕能等が南朝三代より伝授せられたる遺物を埋蔵したりと、具成墓其傍に在り。〔伊勢名勝志〕
補【西野尻城址】員弁郡○伊勢名勝志 西野尻村に二処あり、一は字西野に在り、里人云ふ、永享中北畠教具の臣西野左馬允此に居り、近郷渚村を管す、西野殿と称す、三世相承く、永禄十二年織田氏に降る、一は字向野に在り、西南は山里に連り、空(さんずい+皇)二あり、文治中輪田右馬允此に居る、尋で白瀬庄司之を領すること六世、其後数家の居城たり。
補【三朝塚】員弁郡○伊勢名勝志 西野尻村羽場にあり面積百坪、方形にして周囲(さんずい+皇)あり、壇上桜樹数株を植う、社あり、三天皇社と称す、後醍醐・後村上・後亀山の三帝を祀る、伝へ云ふ、文禄中北畠具親の子具成此地を相し、鼻祖親房等南朝三帝より拝賜せし遺器を此に埋め、其霊を祀る。
北畠具成墓 三朝塚の傍に在り、又傍に其母佐々木氏の墓あり、承禎の女なり、具成具親の子、北畠氏亡ぶるや具成免るゝを得たり、文禄三年九月一柳直盛桑名城主たりし時、具成を挙げて本郡志礼石郷長たらしむ。○今東藤原村大字西野尻、白瀬村南たり、即ち石津駅路の傍。
治田《ハルタ・ハツタ》 治田は藤原の南に接し、龍《リユウガ》岳の麓なり.此山中字新町の上は、往時銀鉛鋼の出たる地なるが、今尚多少の稼行あり。○治田は八田と訓じ、明暦図に新町と載す、市部の如く民家列居す、山中より旧時銅を出すといへども、今は聞く所なし、神鳳抄治田御厨と載する処なり、近江同犬上郡君が畑村に至る二里八町、山路あり治田越と云ふ、治田砦跡村内にあり、伊勢兵乱紀に当村に治田山城守居住す、太閤記に楠七郎左衛門輔正具居すとも云へり。【五鈴遺響〕
補【治田】員弁郡〇五鈴道響 治田は石川より坤位にあり、山間に民宿す、或は八田に作る、波津多と。○提要 治田郷は銀鋼鉛を出鉱したれども今廃山となる。○今治田村、阿下喜村の西南にて近江国境なり。
補【多志田山】員弁郡○提要 多志田山は銀鉛を出すと雖、未だ開鑿せずと云ふ(近江国にまたがる)
賀毛《カモ》神社 延喜式に列す、神紙志料云、今治田郷垣内に在り、蓋治田連同祖鴨君の祖、彦坐命を祭る、開化天皇の子に坐す、古事記姓氏録参考すべし。○人類学会雑誌云、伊勢国石器散布の状は、未だ多く開かず、唯治田郷垣内賀毛神社境内に出づと云ふ、千種村(今三重郡)にも出づ。
阿下喜《アゲキ》 白瀬の南一里余、治田の東北にある山村なり、〇五鈴遺響云、式内石神社は飯食山地高寺観音堂の東に坐す、阿下喜駅の北なり、阿下喜は員弁川水涯に民居す地広闊(さんずい)にして商農あり、養蚕家多し、繭糸綿を産す、町屋川の水畔なれば、桑名より船を遡せ、山中より出す処の産物を運漕す、然れども此地より以北には舟上らず、神鳳抄「内宮、阿下喜御厨五十四町」とあるも此地なり。
丹生川《ニフカハ》 治田の南に接する村名なり、龍岳の麓にて、山林薮沢曠遠なり、神鳳抄に丹生川御厨は十町と載せ、村内大字|片日《カタヒ》も御厨なりき。
鴨神社大字上村に在り、神鳳妙に鴨大明神神田の事見ゆ、祭る所は治田村賀毛神に同じかるべし、共に延喜式に列したり、又大安寺資財帳に見ゆ。
宿野原《スクノハラ》 大安寺資財帳云、員弁郡宿野原五百丁町、開田卅町、未開田代四百七十町、四至、東至鴨杜、南坂河、西山、北丹生川。○此野は五百町と称すれば、広大想ふべし、石榑の山野まで龍絡したるならん。
補【宿野原】○大安寺伽藍縁起流記資材帳〔略〕○今丹生川村なり、字上村に式内鴨神鎮座す。五鈴遺響 丹生川村は治田郷の南にて、神鳳妙に「丹生河御厨(内宮)一百八十丁、三十三石、大御贄上分三石」とあり、又鴨大明神社神田のことも見ゆ。○片目村は神鳳妙に見ゆる地にて、三輪明神あり、之に式内朝明郡|太《オホノ》神社をあてたる説あり、不審。
石榑《イシグレ》 今北石加南石加三里の三村に分裂す、丹生川の南にして、西南は郡界を尽す、一説、和名抄石加郷を石榑に擬するも採り難し、神鳳抄、石榑御厨高柳御厨字賀御厨などあり。石榑の田野、処々に火塚と呼ぶ者あり、墳起数尺、大小一ならず大略円形にして、周囲十二三間より三十間に至る、石を畳む所あり、其数二十余、〔伊勢名勝志〕蓋古墳なり。
補【石榑】員弁郡〇五鈴遺響 神鳳砂石榑御厨(内宮)五十丁、白米。和俗山郷の民幽谷僻遠の地より材を伐り出すに、其全材を運び難きが故に四五尺或は七八尺に伐割て遠境に售る、是を久礼木と云、榑の字を通用す、此地僻遠にして此物を産業とするに拠て名く処なるべし、高柳は神鳳妙高柳御厨(外宮)二十四丁、三石と載す。
補【火塚】桑名郡○伊勢名勝志 石榑東村に俗火塚と称するもの弐拾弐基あり、宇野々田、南村、野口、西大野、中大野、東大野の諸処に散在す、円形にして皆石を以て畳む、回り三十間より拾二三間に至る、皆南方に向ふ。
野摩《ヤマ》郷 和名抄、員弁郡野摩郷、訓也末。○今詳ならず、阿下喜の東なる其原《ソノハラ》麻生田などを合同して、近年|山郷《ヤマサト》村と改称したり、所由ある事なるべし、然らば其の辺の地とせんか、贋作風土記残篇に野摩池ありて、今の笠田池に当るに似たりと云説あれど、偽書の事なれば挙ぐるも益なし。
麻生田《ヲフタ》 今山郷村に属す、大塚一名茶臼山と云古墓あり、大小二所相並ぶ土俗は麻績連の墓と称す。〔伊勢名勝志〕
補【麻績連墓】員弁郡○伊勢名勝志一名王塚、又茶臼山、麻生田村字南山に在り、麻生田野に接す、大小二あり、里人伝へて麻績連の墓となす。○今山里村、阿下喜村の南にあたる。
笠田《カサダ》 山郷村の東、大泉原村の北にあり、神鳳抄笠田御厨此なり。〇五鈴遺響は、笠田村を以て和名抄笠間郷に擬したれど、附会なるべし、笠田池は方一里と称すれど、左のみ闊(さんずい)大ならず。
補【笠田】員弁郡〇五鈴遺響 和名抄野摩郷後に笠間郷に転じ、今笠田に訛す、神鳳紗二宮〔今本なし〕笠田御厨などあり、野間池今笠田大池と称して方一里、南北に闊(さんずい)く東西に稍狭し、用水二万斛を貯設て近邑水田の資とす。
宇野《ウノ》 今笠田村の大字なり、砦址あり後藤氏の裔宇野部某之に居れりと、〔五鈴遺響〕勢州四家記云、弘治年中、近江国六角左京兆源義堅、伊勢を打取べしとて、小倉三河守に三千の兵を相副、先づ千種を攻め、千種服従の後、宇野部萱生以下を打従ふ、永禄十年八月、織田信長初て桑名表へ発向あり、北方諸侍宇野部萱生以下之に随ひ、其後楠の城を攻めらる。
補【宇野部】朝明郡○勢州四家記 弘治年中、近江六角左京大夫源義堅伊勢を打取べきとて、小川三河守に三千の兵を相副、先千種を攻、千種服従の後、宇野郡郡蘆〔頭注、萱生。同書前記に朝明郡「福家、羽津家、木俣家、柿家、萱生家」郡は部〕以下をしたがへる、(中略)永禄十年八月信長初て桑名表へ発向あり、北方諸侍宇野部蘆(ママ)生以下随之、其後信長楠の城を攻、楠降参し則鬼〔龍川一益〕の与力となる。〇五鈴遺響、笠田郷宇野村に砦址あり、後藤氏の裔宇野部氏の址なるべし。
大泉《オホイズミ》 今大泉村大泉原村の二に分る、石榑の東大社の北にて、郡中の首邑に推さる。
大泉原《オホイヅミハラ》 近年|楚原《ソハラ》を改め大泉原村と云ひ、本郡々治の所とす、県庁を去る十三里、(桑名の西北四里)阿下喜の南二里とす神鳳抄に大泉楚原井に御厨とあり。
長尾《ナガヲ》寺址 五鈴遺響云、大泉に在り、永禄天正中、長島門徒の乱に焚毀の禍に罹り後廃す、智証大師真筆十六善神画幅及大般若経一部六百巻今に遺り存す、裏書に永享十一年十月長尾寺什物と記す、大泉金井西方三邑の村正等、其旧物を賞して、年預に領して蔵せり、当国守護土岐世保刑部大夫持頼墳墓、同処円福禅寺にあり、永享十二年五月十六日自刎して死す、標石あり土俗石仏と称す、南方紀伝及桜雲記云、永享十年五月、武家より命じて一色左京大夫義貫、世保刑部大夫持頼大軍を卒し和州に趣き、処々の一揆と戦ふ、永享十二年更た柳営足利義教の命に依て、土岐興安軍士を将ゐて和州多武峰に至りて、世保持頼を伐つ、持頬自殺。
補【大泉】員弁郡〇五鈴遺響 長尾廃寺址 同所にあり、天台宗、永禄天正の間桑名郡長島一揆の時兵燹に焼亡。
美耶《ミヤ》郷 和名抄、員弁郡美耶郷、訓三也。○今詳ならず、神鳳抄宮村御薗なりと云ひ、今大泉原村に大字御薗あり、此の辺即古の宮村にや、後の考定をまつ。
笠間《カサマ》郷 和名抄、員弁郡笠間郷、訓加佐万。○今詳ならず、神鳳抄「笠間郷、荒祭宮神田、又笠間郷司職田」など云事見ゆ、近年大泉原村の南、鳥取山田の辺を神田村と号するも、笠間神田なりや、蓋員弁郷は美耶笠間いづれかに当るべし。
梅戸《ウメト》 今|大井田《オホヰダ》と合同して、梅戸井村と改む、石榑の東にて、南大社村の北に接す、神鳳抄梅津御厨大井田御厨と云者此なり。光蓮寺と云は往昔大坊なりしにや、其門前の民居おのづから一村を為したり、此門前に城址あり、昔梅戸高實の居所なるが、天正三年十月の役に、高実遂に長島に戦死せり、伊勢軍記に曰く、梅津家は伊勢平氏富田家資の後胤にして、江州佐々木承禎の四男を養ひ嗣となすと、蓋し高実の事なるべし。○宗長手記に、梅戸より江州に赴ける路程を記す、大永年中の事也、曰「八峰峠になれば、送りの僧俗と盃を傾け、梅戸よりの迎の人来りて、その日には峰をこえぬ、此峠は昔より馬輿とほらぬ仔細ありと聞ども、老の足一あしも進まず、人に負るれば胸痛み息もた、え、谷にも落入ぬべく覚え侍れば、老のこしかき、二三十人梅戸よりやとひ喚びて、左右の大石をふまへ、おち滝津波をまたげ、度々心を惑はし、空へもかきあぐるこゝちして、やう/\峠の一屋に一宿、翌朝江州山上の会下寺一見して、麓のたか野といふ里に日たかく一宿。
補【梅戸】○日本名勝地誌 梅戸城址は梅戸井村大字門前字天水に在り、往昔梅戸高実の居城なりし。○光蓮寺は往昔大坊なりしにや、其門前の民居は自ら一村を為す。
南大社《ミナミオホヤシロ》 大社は員弁川を挟み、南北の二村に分る、今南大社は長深《ナガフケ》と合同し大長《オホナガ》村と称す、神鳳抄「大社神田四反、長深御厨」など見ゆ、明治八年長深の字生木に一古墳を発きしに、中は石窟南面し、金環(金偏)及土器類を出せりと云。
南大社梅戸の辺に、往時|大谷《オホタニ》と云里ありと神紙志料に見ゆ、曰「員弁郷の南に神貝と云地あり、三十年前は三戸ありしが、後皆大泉に移り、今は一戸もなし、唯神明社遺れり、今梅戸村領南山の谷一里も連りて、大谷の称あり、世人もよく知れり、明応の震災に延喜式大谷神社も人家も流され、人民は大泉に移り、廃址は白河原となりしを、大泉より出て新開せるなり、是即大谷御厨の旧址にして、其神明祠即本社なり、されど人民移居の後、懸隔の地故、神明の霊形を大泉春日社に遷す」。
補【長深】〇五鈴遺響 ながふけは長き泥田の義ならん、神鳳砂「長深御厨、十五丁、三石」大社神田、四反」○今南大社と合せ大長村と改む。
古墳 伊勢名勝志 長深村字生木に在り、面積四坪、始め之を知るものなかりしが、明治八年村人之を毀ちしに石窟あり、南に向す、窟口狭くして中広し、階級の形をなす、金環及び土器類を出せり、近傍旧字船山船塚等の名あり、姓氏録に船連を載す、或は此人の墓には非るか、書して参照とす。
補【大谷神社】○神祇志料 大谷神社、旧大泉村神貝(神貝は軒開の仮借なりとぞ)の地にありしを、後村内春日祠の相殿に祭る、仍て大谷春日と云ふ(式内杜検録)○神鳳砂 大谷御厨、内宮三石、外宮一石五斗、六九十二月、田文云、大泉大谷五丁。
北大社《キタオホヤシロ》 今|稻部《イナベ》村と改む、東は神田村と相並び、古の員弁氏の墟なり。員弁は即猪名部にて、摂津国を本拠とし、雄略天皇の朝に、物部大連目、当国の賊|朝日郎《アサケノイラツコ》を誅し、所領の猪名部を此に移す、某氏人猪名部造財麿は本郡少領たりしが、孫善縄学術を以て仕官し、貞観年中累遷して参議正三位に至り、春澄朝臣姓を賜ふ、嘗勅を奉じ続日本後紀四十巻を修選す、同時に掌侍春澄高子あり蓋善縄の一族なり。○大日本史云、善縄員弁郡人、達官後移隷于左京、祖財麿、父豊雄、善縄幼明慧、骨格非凡、財麿奇之、加意撫育、傾産無所惜、弱冠入学、博洽多通、天長之初、及第補俊士、承和十年、遷文章博士、仁明帝執弟子礼受荘子。(下の大木の条参看)
猪名部《ヰナベ》神社 延紀式に列す、今北大社員弁寺址の辺に在り即員弁氏の祖神也。姓氏録云「為奈部、伊香我色男命六世、金連之後」三代実録云「貞観元年、員弁大神授位、十五年勅、掌侍従五位下春澄朝臣高子、賜稲一千五束、奉幣氏神、向伊勢国」
員弁寺址○今猪名部社の辺に、鐘つき、寺うへ、寺前等の字あり。其北員弁裏と云は山田村に在り員弁寺浦の義ならん、〔神祇志科〕山田より鳥取まで亘れるにや、此間に大御堂大堀跡、古堂地蔵塚、供仏田三百坊など云字あり、天正年中廃滅すと云。〔伊勢名勝志〕補【猪名部神社】○神祇志料 今北大社村猪名部廃寺の辺に在り(猪名部神社弁断)
按、式内社検録廃寺の跡と云田所は、古検地帳にかねつき上田若干あり、寺うら、寺まへ、其北に員弁裏と云字の地、南山田にありと云り、附て考に備ふ。
蓋猪名部造の祖餞速日命を祭る(新撰姓氏録・三代実録)清和天皇貞観元年五月廿六日辛巳、従五位下員弁大神に正五位下を授け、
按、員弁は即猪名部に同じ、其大神と云るは何故にか、詳ならず
八年閏三月十三日戊午従四位下を賜ふ、十五年〔九月九日辛未〕掌侍従五位上春澄朝臣高子に勅して、稲一千五百束を賜ふ、伊勢国に向て幣を氏神に奉るを以て也、所謂氏神は即猪名部神也(三代実録)凡そ毎年二月二日、十月一日祭を行ふ(三重県神社調)
補【員弁寺址】員弁郡○伊勢名勝志 山田村に在り、区域ならず、字鳥取下具戸南林谷口の辺に綿亘せしならん(大御堂、鐘楼堂、大堀の跡、古堂、地蔵塚、員弁、浦、仏供田、三百坊等の旧字なり)今耕地或は荒蕪地となれり、上古天台宗の巨刹なりしが、天正の頃織田氏の廃滅する所となる。○今神田村大字山田、稲辺村の東に接す。
大木《オホキ》 今稲辺村の大字にて、北大社の西北に接す。勢陽雑記拾遺に、員弁進士三郎行綱は此に住したりと云ふ、行綱は東鑑に大領又五位前司と見え、其子行経頼綱並に廷尉に補任し、北勢の著姓なり、按に行綱は伊勢平氏に党し、元久元年の乱に与るも、宥されて旧領を安堵したり、南北朝以後の世に、此氏人聞ゆる所なし、蓋謂ゆる伊勢平氏に混同して、旧系を失へるならん。○大木の東|六把野《ロツパノ》に古墳散在す、小金《コガネ》塚と云は円冢なり、三《ミツ》塚と云は三墓相并ぶ、文久年中、土人小金塚を発きしに、中室は方九尺、石を以て畳む、土器五六箇を見たりと云。〔伊勢名勝志〕
補【大木】員弁郡〇五鈴遺響 大木は大泉の東に在り、員弁川に傍て民宿す、於保宜と訓む、神鳳砂大基御厨あり、これにや、勢陽雑記拾遺に員弁三郎行綱、元久の比此に居住して郡司たりと云ふ、不詳。
補【員弁行綱墓】員弁郡○伊勢名勝志 長尾村字屋敷に在り、面積拾坪、塚上小石を散布す、行綱三郎と称す、本郡郡司たり、建仁中叛を謀ると疑はれ、和田義盛の訟する所となり逮捕せらる、後宥されて郷に還る、所領故の如し、東鑑に大領進士行綱、又伊勢前司五位行綱とあり、○今中里村長尾、白瀬本郷の東とす。
補【大木塚】員弁郡○伊勢名勝志 大木村字東六把野に在り、雑草茂生す、小金塚は円形にして、三ッ塚は三個相並び共に方形をなす、或は大木氏の遠祖猪名部造財磨及専豐雄等の基となし、又往昔員弁寺廃滅の時、宝器を埋めし処なりとなす、文久中村人小金塚を開きしに、広方九尺深五尺、石を以て之を畳む、其中土器五六個を存すといふ。
鳥取《トトリ》 今山田穴太筑紫の諸大字を合同し、神田村と曰ふ、稲辺村の東に接す。延喜式鳥取神社鳥取山田神社の二あり、今共に大字山田に存す、神鳳抄には山田御厨|阿奈宇《アナウ》御厨など見ゆ此地なり、鳥取とは古の鳥取部の民の住所なりけん。○鳥取に反身《ソリミ》坂と云字あり、
雲いくへひばり鳴なるそり身坂、 芭 蕉
補【山田】○神鳳砂 山田御厨、五丁、又穴太御厨(二宮)各三石、本田六丁、阿奈宇御厨。○今穴田村これ也。
補【鳥羽《トバ》】○日本名勝誌 雲花岡は神田村大字鳥取字元鳥羽に在り、美濃街道及び大木道の岐路にして、字|曲身《ソリミ》阪に接す、芭蕉句あり曰く〔句略、句は句集になし〕
補【山田神社】○神紙志料 鳥取山田神社、今南山田村にあり(寛政六年多門天縁起・桑名藩神社調)
按、縁起に当村氏神本社に鳥取山田神社、両脇は猪名部の神社・稲荷大明神とあり、之に拠らば猪名部神社を此社に合せ祭れるか。
星川《ホシカハ》 今|七和《ナヽワ》村と改称す、神田村の東にて、桑名郡々界に接す、南は員弁川に至る、故に或は星川を水名に仮ることあり、神鳳抄、星川御厨。
星川神社は延喜式に列し、此地は武内宿禰の裔なる星川臣平群臣等の族党の来住せるを徴すべし、星川の南岸志知村(今久米村)に平群神社あり、是皆裔民が其祖神を祭れる者也。
員弁川 白瀬《シラセ》村三国岳の下より発し東南流し、悉く郡内の渓澗を併せ、星川の東に至り、桑名郡に入り、以て海に朝宗す、長凡九里、古は星川と称し、近世通して町屋《マチヤ》川と呼ぶ。
限あれば橋とぞならぬ鵲のたてるにしるしほしかはの水、〔歌枕名寄〕 長明
桑名よりくはで来ぬれば星川のあさけはすぎぬ日ながなりけり、〔方角抄〕 宗祇
補【稲辺】○今大木、大社、八幡の諸村合せて稲辺と曰ふ、郡の東南部にて員弁川(町屋川)の北岸とす。
補【町屋川】桑名郡〇五鈴遺響 町屋川の名義駅店に起る、延喜中に至り今の朝明郡縄生は金井の支郷にて、金綱の駅といふ、過客を舎す処なり、後世桑名府城を置けるより駅は桑名に転じたり、〔方角抄、略〕是此川を星と定められたるなり、水源は星川村邑及星川神社の坐す故なり。
久米《クメ》郷 和名抄、員弁郡久米郷、訓久女。○今久米村并に桑名郡桑名村是なり、桑部に久米の村名ありし事五鈴遺響に見ゆ、員弁川の南岸にして旧朝明郡の地と相隣比す、神鳳抄云「久米郷神田、又久米郷司職田」。
志知《シチ》 今久米村の大字なり、字平群沢に塁址あり、其山岡に延喜式|平群《ヘグリ》神社あり、社後に古墳と想はるゝ一丘あり 平群は神鳳抄に平栗新田三町郎と載たり、平群星川は共に大和国の地名にて、部民の移住につれて起れる者也。三代実録(巻五)曰味酒首文雄味酒首文主味酒首文宗等三人並賜巨勢朝臣、先是巨勢朝臣河守奏言、文雄款(人偏+尓)、先祖出自武内宿禰大臣也、大臣第五男巨勢男韓宿禰、是巨勢朝臣之祖、第三男平群木菟宿禰、即是文雄之祖也、木菟宿禰之後、賜味酒臣姓、淪落伊勢国、至于文雄祖、改臣賜首姓、是以改姓之望、朝夕刻思、但須順祖胤之称、賜平群之姓、而平群之字、称謂是凡、巨勢之文、義理堪愛、従之。
補【志知城址】員弁郡○伊勢名勝志 志知村の南方字平群沢の山上に在り、面積千二百坪許、西北稍険なり、雑木茂生し僅に土塁を存す、往昔平群木蒐宿禰の裔大内記昧酒首文雄本貫の地なり、後世に至り員弁行綱塁砦を設け、羅城となせしと云ふ。○今久米村大字志知、桑名郡桑部村に連接す。
田辺《タナベ》 今久米村大字|中上《ナカカミ》の旧名なり、神鳳抄田辺御厨あり、字|北山《キタヤマ》は、文禄慶長の頃、岐阜城主織田秀信の宰臣木造具康の館址にして 空(さんずい+皇)土塁及家士の邸址猶存す、当時二万五千石を領知したりとぞ。〔伊勢名勝志〕○延喜式、多奈閉《タナベ》神社在り、蓋伊勢国造天日鷺命を祀る、即田辺宿禰の祖なり、旧事紀姓氏録参考すべし。〔神祇志料〕
補【田辺城址】員弁郡○伊勢名勝志 田辺村字北山に在り、地勢三層をなす、内外の空(さんずい+皇)土塁及家士の邸、猶存す、木造具康北畠信雄に属し、此に城を築き居る、天正十八年豊臣秀吉、田辺二万五千石の地を与へ、岐阜秀信の後見とす、慶長五年廃す。○今久米村大字中上。
桑名郡
桑名《クハナ》郡 伊勢の東北隅に在り、北は多度《タド》山を以て美濃(海津郡)と相限り東は木曽川に浸され、今|鍋田《ナベタ》川筋を以て尾張(海西郡)と相限る、西は員弁郡に至り、南は三里郡に至る、南東の一隅海に臨む、面積凡七方里人口六万、桑名町に郡衙を置き、十六村を管治す。
和名抄、桑名郡、訓久波奈、五卿に分つ、文禄検地二万一千石、明暦年中、江海渺茫の沢他聞墾成り、新円高一万九千石を増加し、元禄年中四万七千石の検帳高を見る。〔五鈴遺警〕○桑名は姓氏録「右京神別、桑名首、天津彦根命男、天久之比乃命之後也」とありて、即其故里也、天武天皇東国巡幸の途次、往復共に桑名郡家に宿したまふ事日本紀に見ゆ。補【桑名郡】○和名抄郡郷考 天武紀元年六月、高市皇子遣使於桑名郡家、九月天皇宿于桑名郡家〔共に六月、亦記事前後す〕風土記、当郡東西拾二里、南北九里、河海多而少山林、五穀多而民戸盛、雑魚多陽年、大魚多陰年、樹木貧而土地出名竹。〇五鈴遺響、文禄検地二万一千石、明暦中新田増加、一万九千石、元禄中人合高四万七千余石。○桑名郡、今面積七方里、人口六万、桑名町外十六村。 ――――――――――
桑名《クハナ》郷 和名抄、桑名郡桑名郷訓久波奈。○桑名町|益生《マスオフ》村是なり、東南は江海に接し今赤須賀|城南《シロミナミ》の二村あり、南北は大山田村及額田郷(在良村)に至る。○天武紀、元年六月、車駕停于桑名郡家、令起軍陣、高市皇子遣使於桑名郡家、請御于不破、督諸軍事、即日留皇后於桑名、而入不破、九月車駕発美濃、宿于桑名郡家。続紀、天平十二年、幸伊勢国、至桑名郡石占頓宮。
天武天皇祠○今桑名|鍋屋《ナベヤ》町に在り、旧址は益生村大字本願寺なりとぞ、〔五鈴遺響東海道図会〕一説大山田村|蠣塚《カキヅカ》楊柳寺なりとも曰へり、按に此地に本祠あるは、天皇郡家行在の跡なれば也、神社考俗説弁にも見えたり。
補【桑名郷】桑名郡○和名抄郡郷考 神名式、桑名神社、
今大社村に有といへり。内宮儀式帳、桑名神戸六束。勢陽雑記、今も桑名村あり。武鑑、伊勢国桑名郡桑名城。○大社村は員弁郡にて今異郷とす、此話非なり。
○大山田益生村もこの中なり。
矢田《ヤダ》 今|益生《マスオフ》村と改む、桑名町の西に接す、一市街を成す、神鳳抄、八太御厨とあり。天正十二年、織田信雄羽柴秀吉矢田河原に会見して和議の事あり、城山《シロヤマ》と号する塁址存す、此辺往時は員弁川横流したる所と云も、今は士民宅舎之に満つ、慶長年中、桑名城修築以後然りと為す。○大日本史云、北畠顕能、延元元年、帰于伊勢、会高師秋受足利尊氏命、来襲北勢、顕能乃命将士督兵、急攻矢田城、却師秋、興国年間、屡戦与師秋破之、正平六年遂擒殺之。
矢田八幡宮は、天武天皇の頓宮址なりと云ふ説あれど、五鈴遺響は之を非と為し、延喜式立板神社を後世八幡宮に謬れる也と曰へり。補【矢田】〇五鈴遺響 今民戸桑名に連続して矢田町と称す、神鳳紗云、八太御厨七丁五反とある是なり、又式内立板神社同処にあり、方俗矢田八幡と称す。
矢田河原信雄秀吉和睦所 伊勢名勝志、桑名市街の西方字矢田河原に在り、今宅地にして旧形を見ず、員弁川旧と此処を過ぎ海に注ぐ故に此名あり、慶長中本多氏流域を南方に換へ、此に外郭を設く、以て藩士を住ましむ。○今益生村大字矢田。
桑名《クハナ》 今桑名町と曰ふ、東北は木曽川の別流|揖斐《イヒ》川に倚り、海口に近く水陸の都会也、溝渠
市街を貫流し、北部に艇舟の泊所あり、戸数四千、旧城は江海の要衝を相し、水を利して防禦を為せり。四日市を去る三里半、名古屋を去る七里、鉄道車駅西偏にあり、東北木曽川を横絶し弥富《ヤトミ》駅(前箇須)まで二里
桑名《クハナ》神社 延喜式に列し、二座とあり、即桑名首の祖神とす、今|三崎《ミツサキ》明神と称し、春日神を配祀す、往時は神宮寺仏眼院を置き、田禄五十石を給せられたり。又石取と云神事あり、古の石占の遺風ならんと云ふ。日本書紀、日本武尊の従者に善射者石占横立あり、聖武天皇は本郡|石占《イシウラ》頓宮に御したまへり、或は疑ふ石占は此地の別名なるを。○延喜式|佐乃富《サノフ》神社旧溝野村に在り八剣宮に同じきを後世桑名宝殿町に祭る、延喜式|中臣《ナカトミ》神社旧香取村に在りしを、後世宝殿杜の域内に移したり。〔五鈴遺響〕
補【桑名神社】桑名郡○伊勢名勝志 中臣神社、桑名三崎に在り、両社合殿なり、桑名神社は天津日子根命、天久之比乃命、中臣神社は天児屋根命、武雷命、斎主命を合祀す、創建詳ならず、祭日五月十七日・十月十九日、祭礼甚だ盛んなり。○按ずるに社地詳ならず、或は言ふ、桑名神社は桑部村に在りと、されども桑部村は古員弁郡久米村の地なれば、桑名神社の此に在るべき理なし。
補【石名原】○日本社会事彙 小児の語に小石をいしなといふ、伊勢に石名原あり、奥州に石名坂ありといへり、いしなとりは今いふ手玉なるべし、埃嚢抄に石昨(手偏)子をいしなごと訓り、昨(手偏)《サン》は字書に摸《サグル》也とありて、義はかなへるやうなれ共、其字面何に出たるか、疑ふらくは抓字の誤にや、物類称呼、石投、江戸にて手玉といひ東国にて石なんご、又なつことも云ふ。
補【石占頓宮址】○伊勢名勝志 桑名郡に在り、今詳ならず、桑名春日祭に石取の神事あり、是石占の遺なるか。
榎撫《エナツ》 桑名の古駅名にて、蓋江之津の訛なり、延喜式「伊勢国駅馬、榎撫十疋。」○日本後紀「延暦廿四年、伊豆国山田宿禰豊浜、奉使入京、至伊勢国榎撫朝明二駅之間、就村求湯」云々「弘仁三年、伊勢国言自桑名郡榎撫駅、達尾張国、既是水路、而徒置伝馬、久成民労、伏請一従停止、永息煩労、許之。」○接に朝明と桑名は両駅相距る一里許、設置の必要を見ず、唯桑名以東江海(水三つ)々之れを渉る困難多し、去れば榎撫駅の置かるゝ事となり、又水路なればとて、馬匹を停めらる、延喜式に馬を録したるは、舟の誤にあらずや。
間遠渡《マドホノワタリ》 桑名より尾張熱田駅に航する船路なり、桑名七里渡とも曰ふ、伊勢物語に「伊勢尾張の間なる海」と云ふも此也。
有明の月にまどほのわたりして里にいそがぬ夜の舟びと、〔名所図会〕
舟泊桑名城下 梁 星巌
遠水無波日已沈、万檣(直三つ)々立如林、青楼翡翠多年夢、白露蒹葭此夕心、断続弄風江叟笛、丁東搗月女郎碪、声々末肯無情思、来話蓬窓半夜吟、
伊勢物語云、むかし男ありけり、京にありわびて、あづまにいきけるに、伊勢をはりのあひの海のつらをゆくに、浪のいと白くたつを見て、
いとゞしく過行かたの恋しきにうらやましくもかへる浪かな。
五鈴遺響云、桑名客船の岸に纜する処を船場と称し、大鳥居一基を建て、船の的の為に灯籠を挑け置けり、又看監所あり、諸侯公卿東関往還するは、城主より官船を装て、凡て風涛の患なし。○桑名より木曽川を上下する舟筏亦多し、木曽美濃の木材米穀等は皆桑名に回漕し、後熱田四日市に転致す。此木曽川筋津島往来の事、宗長手記(大永年中)に見ゆ、曰く、尾州津島へは河のほど二里ばかりなり、桑名衆老若舟にて雨後河水をさしのぼす、数盃の中、津島より又迎ひの舟に乗移り、おくりの舟もしばし川上に浮べてさしやらず。(津島舟は佐屋廻と称す)
桑名城《クハナシロ》址 伊勢名勝志云、桑名町の東北部に在り、東は揖斐川(木曽の別流)を帯にし、今吉之丸と字す、按に桑名郷は古には桑名首の居る所にして、後郡家を設け郡司の住する所たり、文治中、伊勢平氏の党桑名三郎左衛門尉行政、幕府の命を受け此地を管す、戦国の時桑名を二分し、東方は伊東武左衛門、(即ち今の城址)北方三崎は矢部右馬允之を領し、南は樋口内蔵介之を領し共に三城たり、永禄中伊勢氏直之を領し北畠具教に属す、天正二年、信長本州征伐の時、滝川一益に命じて長島城を守り、兼て本城を鎮ぜしむ、四年大に城郭を修補す、十一年、羽柴秀吉天野景俊をして之を守らしむ、十二年、小牧の役酒井忠次及び石川数正之を守る、十五年、丹羽氏本城に居る、文禄四年、神戸城の天守を移し修築す、七月氏家行広封を此に受く、慶長五年関ケ原の役、行広石田三成に党し封除かる、本多中務大輔忠勝来り鎮し、封邑十五万右、子忠政元和三年に至り、播州に移り、松平隠岐守定勝(久松氏)之に代る、封十四万石。○豊鑑云、天正十二年、羽柴殿は和平なさばやと、桑名の南の河原に出給へば、信雄もともに御座して対面なり、秀吉膝を析て手をつかね、詞を出されず、涙をすゝり給ふとなり、秘蔵して持し太刀を進上し、本の陣に帰り給ふ、さてこそ両軍泰平のうたをなし悦びあへり、秀吉信長の臣として信雄に従はず、刃をとぐ事其罪明けし、信雄父の仇を討ちし秀吉を亡さむとし給ふ事、義にあらざるべし、春秋いかに筆すべきや、愚心わきがたきにこそ。○氏家常陸介卜全は、元亀元年、信長公長島合戦の退口に討死し、其子内膳正行広は二万石を知行、秀吉公に仕へ桑名に居る、後石田に党しければ、慶長五年家康公四日市に着、氏家より使者を以て桑名に於て饗を奉り、船にて送り奉ると申出づ、井伊直政氏家何の謀あらんと申上げ、公は直に渡海ありければ、氏家は籠城し、山岡道阿弥に攻め落され、行広逐電して剃髪道喜と云ひ、元和元年大坂に入り、天王寺口に勇戦、遂に自殺す。〔北越軍記下野国志〕○久松松平の祖定勝は、徳川家康の異父弟なり、長子定行、寛永十二年、予州松山城を賜り、次子越中守定綱を城州淀城より此に移居せしめらる、封十一万石、孫重定宝永七年越後に移され、又白川城に転ず、桑名は松平下総守忠雅に賜ふ、文政六年、越中守定永(白川楽翁公定信子)に至り、故封に復す、戊辰の乱、城主定敬越後国柏崎に奔り、家士を率て各処に転戦し、会桑の勇名東軍に冠たり。
浄土《ジヤウド》寺は清水町に在り、宝治元年、僧道観中興す、慶長十五年、城主本多平八郎忠勝の墓所を此に定む、浄土宗也。○本統《ホントウ》寺は今一色町に在り、本願寺教如上人女長姫の開基にして、今東派に属し、土俗桑名御坊と称す、法盛《ホフジヤウ》寺は萱町に在り、相伝ふ参州矢矧柳堂を移すと、本願寺准如上人の孫寂全中興し、今西派に属す。
〇五鈴遺響云、十念寺は桑名に在り、創建朝明郡|田光《タビカ》村にして、行基僧正の開基なり、嘉禄年中中興、良忠上人、三重郡六呂見四足八烏山観音寺に於て、専念浄土宗を称讃して世に弘む、其弟子誉阿弥此寺に任し、浄土宗に改めたり、其後文明年中、又天正年中、今の地に遷せり、西方寺は高田派の中興上人真恵の開基、初め真恵野州より出て江州戸津の浜妙林寺に遷り、又朝明郡大矢知青木山光明寺を創建して、又此地に移り、又三重郡北小松に遷住し、又今の一身田に専修寺を建営す、其大矢知廃寺の跡より、享保年中宝鐸二口を鑿得たり、今当寺に什蔵す、中興上人の遺址なればなり。
補【浄土寺】桑名郡○伊勢名勝志 桑名清水町に在り、永承四年創建す、当時或は三崎の神宮寺と称せり、宝治元年僧道観中興す、旧と田町にありしを慶長中今の地に移す、十五年本多忠勝の骨を此に葬る、同氏累代の菩提所たり。
赤須賀《アカスガ》 桑名の東に接し、木曽川入海の処なり。五鈴遺響云、赤須賀新田は、勢陽雑記に載せず、明暦図に見ゆ、赤須賀地蔵堂海辺の東の(こざと+是)の上にあり、堂の側に常灯龍あり、海舶の渡海の的標とし、宝暦中より始て置けり、白魚塚は芭蕉俳士の句標なり「白魚や水より白き事一寸」と刻す、白魚は即麺条魚なり、網して獲る地は、桑名より四日市の間海上三里許にして、其堺に方俗横まくらと称する処あり、これより東は尾州愛智郡の地なり、是より西は本州の地にして、尾州の界内は蠣多し白魚なしとぞ、又桑名は蛤貝を名産とす、白魚を漁る海湾に之を獲る也、桑名蛤の奇とするは、他郡の産と異にして、殻大に肉充満し淡味なり、他郡は鹹味甚し、其謂は海朝の淡鹹に拠れり、旅店に松毬の火を焼て炙り食す、過客名産と称す、又醤を以て蛤の肉を煮山椒及薑等を和し、日を経て餒ることなし、方俗時雨ハマグリと称す、初冬より製造すればなり。
額田《ヌカタ》郷 和名抄、桑名郡額田郷、訓沼加多。○今|在良《アリヨシ》村是なり、大字糖田あり、益生村の西に接し、員弁川の北岸に沿ふ、南岸|桑部《クハベ》村は一説員弁郡久米郷の属なるべしと云ふも、地形を按ずるに額田郷の属なり。
額田《ヌカタ》神社 延喜式に列す、額田部氏の祖神なり、姓氏録に二流あり「額田部宿禰、明日名門命三世孫、天村雲命之後也」又「額田部湯坐連、天津彦根命子、明立《アケタツ》天御影命之後也、允恭天皇御世賜姓」。○神紙志料云、今糠田に在れど、旧|増田《マスダ》に在り社址遺る、増田に額田山源流寺の名あり、大福田寺文亀元年勧進帳に因れば、額田部祖神を祭る、而て勧進帳を按ずるに「大福田寺と云ふは、後字多院の朝に、額田部実澄の草創、彼先祖をば神戸開発の領主門鎌と云、大神五十鈴川鎮座の初、社職に任補せられてより、実澄まで累代不易の神職なり」と、門鎌以来額田郷に居て、桑名神戸の司に補せられしなるべし、されど額田部に宿禰姓あり、湯坐連あり、臣あり又村主ありて、根何れよりの出身なるかを詳にせず、恐くは天津彦命なるべし。○伊勢名勝志云、糠田村の字高塚、遠祖輪前祖場石塔山の諸所に、往々玉環(金偏)陶器の出づるありて、石室の崩壊せる者あり、是額田部氏の墓址ならん。
補【額田神社】桑名郡○神祇志料 今桑名駅の西、糠田増田二村の間にあり、旧増田村にありしを後今の地に移す(神名帳考証)
旧址を宮址と云ひ、又田地を元宮裏と云、増田村内に額田山源流寺と云もあり
蓋額田部祖神を祀る(伊勢大福田寺文亀元年勧進帳)
按、本書に此寺は後字多院朝額田部実澄の草創。
補【額田部氏墓】桑名郡○伊勢名勝志 所在詳ならず、額田村字葉田及び八字谷の辺、蓋し其遺址ならん、里人伝へ云ふ、額田部湯坐連等数世を此に葬ると、小字高塚、遠祖輪、前祖場、石塔山の諸処土中、往々曲玉古陶器及び石室の崩壊するものを出すことあり。○今在良村大字額田、桑名の西郊町屋川の北岸。
蓮花寺《レンゲジ》 大字糠田の東に接し、又大字なり、此に浮石層あり、抹掘して磨砂に供用す。〔地学雑誌〕
益田《マスダ》 元荘号にて、桝田にも作り、中世矢田村桑名町まで広被したり、今大字増田を遺し、糠田と相並ぶ、神鳳抄、増田御厨。〇五鈴遺響云、東鑑嘉禎四年、従五位下行隠岐守藤原行村法師、法名行西卒、年八十四、于時在伊勢国益田庄、此間向彼所。按に今ウノキと云地は行村の住址とぞ。
補【増田】桑名郡〇五鈴遺響 旧名益田庄なり、東鑑嘉禎四年、従五位下行隠岐守藤原朝臣行村、法師名行西卒、年八十四、于時在伊勢国益田庄、此間向彼所云々、又嘉禎四年二月、隠岐守行村入道此庄を領せし旧案あり、今のウノキに住せりと云ふ、神鳳砂云、増田御厨。
桑部《クハベ》 三重郡縄生の西、員弁郡久米村の東に接し、町屋川の南岸なり。神祇志料云、延喜式、桑名郡|長谷《ナガタニ》神社、今桑部村字長谷の水辺に在り。
尾野山《ヲノヤマ》 大山田|《オホヤマダ》村大字桑名に在り、矢田の北に接し、一座の丘なり、丘北を大字東方と曰ひ、民戸寺宇丘を壓す、桑名町の西十町許、字入江に延喜式|尾野《ヲノ》神社あり。五鈴遺響云、尾野神社は舟着大明神と称し、東方を土俗|本村《モトムラ》と曰ひ、属邑を舟着と日ふ。按に、日本武尊の「尾津《ヲヅ》の孤松」と詠じたまへる尾津郷は即此か、山野には尾野と称し、江津には尾津と称したるに似たり、然れども旧説、大略尾津を今多度村大字|戸津古浜《トツフルハマ》村大字御衣野の辺に定めたり、今説に依れば大山田村は古の桑名郷内と為すべし、後の考をまつ。五鈴遺響に、尾津浜又御衣野浜と云は、海崖なるべし、又磯野浜の名あり、是等の浜は皆今の桑名町の辺にて、多度山中にはあらざるべしとの意を述べたれど、明白ならず。○多気窓螢云、むかし吉田と云へる馬乗り、伊勢の府に来り馬を教へけるが、権目正行其芸をつたへ、高名のゝりしりになりにき、正行は白河院の上北面源正親が子なり、宅は桑名の浜ばた磯のといふ所なり。
補【尾野山】○再考 尾津は今桑名町の西に接する大山田村の中にて、東方などにや、此地古の津頭たり、尾野神社は尾野山に在りて、舟着明神と称す、旧説尾津郷と多度山麓の戸津にあてたるは甚非なり、戸津は野代郷たり、尾津は昔日熱田より渡航の地なるべければ後世の桑名渡と云ふも同じ様子なるを思ふべし。
東方《ヒガシカタ》 今西方|播磨《ハリマ》汰上《ユリアゲ》等を合同して、大山田《オホヤマダ》村と改称す、尾野山以西の山野にわたる、高塚《タカツカ》山あり、播磨の南に当り、高九十米突許なれど、木曽川長島より尾州の広野を平臨す、日本武尊の御詠「尾張にただに向へる尾津の崎」とあるも想ふべし。
補【東方】〇五鈴遺響 東方一名もとむらと云ふ、属邑を船戸と云ふ。○今伊曽野の地、考ふべきなし、恐くは勢陽雑記所引の俗歌に「伊勢嶋やみそのゝ浜云々」伊曽野・美曽野の相同じきか、孰れ此地の海涯(さんずいなし)邇き処なりといふべし。
補【丸山】桑名郡○伊勢名勝志 北別所村字高塚山に在り、四境開豁、東は尾濃参の三州を望み、名護屋・犬山の二城嘱目の中に在り、山下に馬場、的場及用水井等の址あり、蓋し往昔桑名城主遊覧の地ならん。○今大山田村大字北別所、桑名の西にあり、一名高塚山。
照源寺《セウゲンジ》 東方に在り、浄土宗、寛永元年、桑名城主松平氏創建、初め崇源寺と称したり、松平氏の廟墓を置く。
補【照源寺】桑名郡○伊勢名勝志 東方村に在り、浄土宗、寛永元年松平氏一寺を建て崇源寺と称し、後故ありて寺号を照源寺と改む、松平定綱の廟あり。○今大山田村。〇五鈴遺響 柿塚は下深谷部の南にあり、明暦中図に蠣塚新田と載す。○勢陽雑記、柿塚に作る、同所に持統天皇行宮の跡といふ寺院一宇、古柳樹一株あり、楊柳寺と号す、今は桑名新屋敷に移せり。〇五鈴遺響、行宮と云ふこと謬なり。〔蠣塚参照〕
大福田《ダイフクデン》寺 東方に在り、神宝山法皇院と称し、真言宗、多く霊仏宝器を所蔵し、北勢の名刹なり、初め矢田の南、今大福《ダイフク》と字する地に在りしを、万治年中、尾野山へ移す。用明天皇の草創と云ひ、所伝の縁起あれど信従し難し、土俗桑名大寺と呼ぶ、蓋額田部氏の所建也。〇五鈴遺響云、福田寺々記は、悉く信じ難しと雖、此寺もとは神戸のありし地に建て、後此処に寺を遷したりと謂へり、今詳にするに、桑名郡神戸の御厨の地なるべし、然る故に大神を奉祀す、又大福にも其神祠の遺址あり真とすへし。(額田郷額田神社参考すべし)
蠣塚《カキヅカ》 今大山田村の大字にして、播磨の北、汰上《ユリアゲ》の西なり、岡に倚り東面す、勢陽雑記に柿塚に作り、楊柳寺とて天武天皇頓宮址ありと見ゆ、今桑名町に寺を移したり。人類学会雑誌云、桑名の北一里許にして、小山の裾に蠣殻の重畳して塚をなすを見る、其上に二三の家を建つ、其前面及び左方は皆田なり、田中に硫気水を生ず、浴場の設あり、介墟中より種々の土器を出す。
補【柿塚】〇五鈴遺響 柿塚は下深谷部の南にあり、明暦中図に蠣塚新田と載す。勢陽雑記、柿塚に作る、同所に持統天皇行宮の跡といふ寺院一宇、古柳樹一株あり、楊柳寺と号す、今は桑名新屋敷に移せり(遺響、行宮と云ふこと謬れり)○今大山田村。
深谷《フカヤ》 大山田村の北、野代《ノシロ》村の南、西は山に倚り、東は揖斐川に臨む、延喜式|深江《フカエ》神社は大字下深谷部に在り、県明神と称す。此村は上下の二村に分れ、深谷部《フカヤベ》と称したりしが、今合併す、戦国の頃、邑主近藤氏の塁址あり。〔伊勢名勝志神紙志料〕
補【下深谷部城址】桑名郡○伊勢名勝志 下深谷部村に在り、併せて三処、一は字北廻の山上に在り(一名北迫城、又白米城と云ふ)今耕宅地たり、延元中近藤家高始めて之に居る、孫家教永禄九年(一に元亀二年に作る)滝川一益と戦ひ敗死す。○今深谷村。
野代《ノシロ》郷 和名抄、桑名郡野代郷、訓乃之呂。○今野代村深谷村是なり、延暦儀式帳及倭姫命世記に桑名野代宮と云あり此とす。
補【野代郷】桑名郡○今野代村、深谷村、多度村、古浜村、七取村、古美村。○和名抄郡郷考 勢陽雑記、野代村桑名より乾行程一里。神名帳、野志里神社と有、天照大神垂仁天皇十四年秋九月尾張国中嶋の宮より伊勢国桑名の野代宮に遷幸し奉り、次に鈴鹿の奈久波志忍山に幸し給ふ。内宮儀式帳及倭姫命世記に桑名野代宮。〔渡合元長歌、略〕○今野代村、深谷・香取の間にて多度山の麓也。
野志埋《ノシリ》神社 延喜式に列す、神紙志料は之を以て大福田寺の神明に擬したれど何如にや。勢陽雑記云、野代宮に垂仁天皇の時、天照大神尾張国中島宮より桑名に遷幸、此に暫くましまして、次に鈴鹿郡忍山に遷幸し給ふ、桑名府の乾行一里に在り。
すみれおふ野代の宮のあたりとてつむ人なしに過る春かな、〔神祇百首〕 度会 元長
野代の東に大字|大鳥居《オホトリヰ》あり、多度神の門址なりと云ふも、或は野代宮の門址にや、天正二年長島合戦の時織田方より大鳥居に押寄せ、男女二千人の耳鼻を載り取りたる事、当時の軍書に見ゆ、大鳥居の対岸、即長島郷なり。
尾津《ヲツ》郷 和名抄、桑名郡尾津郷、訓乎都。○今多度村古浜村ならんと曰ふ。勢陽雑記、戸津を以て尾津に擬し、八剣宮を以て日本武尊の遺址と為したるより、此説稍定まれるに似たり。勢陽雑記云、今尾津と云所なし、戸津と云所ありこれなるべし、八剣宮とて溝野といふ所にあるは、即尾津神社なるべし、戸津と溝野相並べり。○按に戸津は今多度村に属し、溝野(御衣野)は今吉浜村と改め、野代の西北に接し小山と呼ぶ山丘を挟み、多度山を背にし、東西して香取江揖斐川を隔てゝ尾張海西郡の沢地に臨む。
補【尾津郷】桑名郡○和名抄郡郷考 神名式、尾津神社。勢陽雑記、今尾津といふ所なし、戸津といふ所あり、これなるべし、又尾津神社は今八剣の宮とて溝野といふ所にあるは即尾津神社なるべし、戸津と溝野も並べり、昔倭建命東征時、至尾津忘御剣矣、凱旋後不失在焉、憐之有詠歌、爾後崩御、載日本紀、然則八剣宮祭尊与御剣歟。古事記景行段に尾津前、又歌に袁都能佐岐。景行紀四十年夏六月、尾津又尾津浜。○今多度村戸津、又古浜村御衣野の辺ならむか、不審。
尾津《ヲツ》神社 延喜式に列す、蓋日本武尊の遺蹟にして、謂ゆる尾津崎、尾津浜の地に在るべき也。○日本書紀云、日本武尊還於尾張、便移伊勢、而到尾津、昔日向東之歳、停尾津浜、而進食、是時解一剣置於松下、遂忘而去、今至於此剣猶存、放歌曰
をはりに たゞにむかへる ひとつまつ あはれひとつまつ ひとにありせば きぬきせましを たちはけましを。
又古事記云、倭建命、到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀、不失猶有爾、御歌曰、
をはりに たゞにヽむかへる をつのさきなる ひとつまつあはれ ひとつまつ ひとにありせば たちはけましを きぬきせましを ひとつまつあせを。
又古事記、倭建命御子、足鏡別王者、小津石代之別祖也。旧事紀云、日本武尊児、椎武彦命、尾津君|揮田《フキタ》君武部君等祖。○按に此尾津と云は尾州より勢州の通路に当り、江浜にして埼頭なりしなり、斯る地形は今の尾野山以東桑名町を推して恰当と為す、因て再考するに、和名抄尾津郷は即桑名町にて、桑名郷は大山田村にあらずや、彼|三崎《ミツサキ》大明神は近時式内桑名神社に擬したるも、其実尾津神社にあらずや。
御衣野《ミソノ》 或は溝野に作る、野代村の西に接し、今|古浜《フルハマ》村と改む、力尾《チカラヲ》猪飼《ヰカヒ》等の大字あり、多度村|小山《ヲヤマ》の南なる澗を占め、水は東流して香取江に至り、多度川に会し以て揖斐に注入す。○書紀通証は勢暢雜記を援き、尾津孤松此に在りと為す、曰「此松号曰|剣掛《ツルカケ》松、其地云溝野、与戸津相隣、村西有八剣祠、村長為草薙氏」と、伊勢名勝志「太刀掛松は溝野の西に在りしと、今松亡び耕地と為る、蓋往昔は海潮の去来したる地ならん」云々。五鈴遺響は、御衣野古野川の谷は海浜と謂ふべからず、八剣宮は式内佐乃富神社に当り、尾津孤松の所在に非ずと為し、又伊勢しまやみそのゝ浜のまつが枝に年経てたてる太刀もかしこし
と、勢陽雑記に引ける古歌をも疑ひぬ。
補【溝野浜】桑名郡○伊勢名勝志 太刀掛松一名一ツ松、御衣野村西谷の辺を云ふ、今概ね耕地となる、蓋し往昔沿海の地ならん、里人伝へ云ふ、日本武尊東征の時其帯剣を掛けし松ありし処なりと。五鈴遺響 溝野は太刀掛松のあるべき地にあらず。○今古浜村大字御衣野、古野川の渓潤岡陵の上なり、之を海浜と云ふは歴史時代の談に非ず。○式内佐乃富神社あり。
猪飼《ヰカヒ》 今古浜村に属す、古野川の北岸にて、多度神社の南山の陽に在り、塁址を存す、元弘建武の頃、小串詮行足利氏に属し此に居る、六世孫詮道は天正の初に至り、織田氏の兵を拒ぎ敗死す、〔伊勢名勝志〕小串氏は蓋多度祀官の一族なり。○猪飼の西山は多度谷に連接し、浮石層あり硅酸より成るを以て採収して、硝子の原料と為すべし。〔地学雜誌〕
補【猪飼】桑名郡○地学雑誌 多度山及び猪飼村の高塚山に浮石層あり、硅酸より成るを以て硝子の原料とす。猪飼城址 伊勢名勝志 北猪飼村字東谷に在り、小丘にして概ね耕地たり、南方は耕圃に臨む、濠形猶存す、古井二あり、今埋没せり、元弘建武の頃小串詮行、足利氏に属し此に居る、六世の孫を詮通(一に則道、又常政に作る)と云ふ、天正六年八月織田氏の兵、朝明郡萱生城を攻む、詮通赴き戦ひ、戦死す。○今古浜村大字。○小串は多度神官と同称なり。○外宮神領目録、猪飼御厨。
戸津《トツ》 今多度村に属す、多度谷の口に当り、御衣野の北凡十八町、神鳳抄、富津御厨とある地にして、一説尾津の訛なりと云ふは疑ふべし。
補【戸津】桑名郡〇五鈴遺響 旧名尾津、或は袁津、中古にいたり富津、今戸津と称せり、神鳳紗云「富津御厨(内宮)十九丁、外宮三石」東富津御厨、十九丁」尾津神社 神祇志料 尾津神社二座、今尾津郷小山村にあり、尾津宮といふ(桑名藩神社調・三重県神社調) 按、神社の山下に円正寺ありて山号を尾津山と云ふ、又一証に備ふべし(五鈴遺響、戸津村の牛頭天王社是なり)
蓋尾津氏の祖日本式尊の子稚武彦王を祭る(参酌古事記・旧事本紀)
小山《ヲヤマ》 戸津の民家の西、御衣野の北多度社の南、猪飼の東なる一丘なり、高百米突許、東に向て傾斜緩なり、戸津の田野は堤防を以て揖斐川を支ふる地なれば、往時は海潮香取江より浸漸して、小山の下を洗へるも知るべからず、延喜式小山神社あり、今牛頭天王と称す。
八剣《ヤツルギ》宮 小山神社の南に在り、一説延喜式尾津神社二座是なり、近傍に尾津山円正寺と号する者あり、又一証に備ふべし、蓋尾津君氏の祖、日本武尊の子、稚武王を祭る。〔神祇志料〕○古事記伝云、戸津は桑名より二里許西北、多度神社より廿町許東南なり、戸津と溝野の間に、八剣宮と云社あるは、尾津神社なりとぞ、孤松は此に其蹟を遺せり、此地は古より美濃伊勢の通路にて、戸津は美濃国界より一里南とす、此あたり今は海より遠けれど、古はやがて海辺にて、尾州津島より渡る泊所なりしと伝へ、多度山より尾崎の長く引延たる端にて、其山埼を里人は鼻長《ハナナガ》と云り、実に尾津の崎と云べき地形なり。○按に尾津の地点疑なきに非ず、諸説を並挙して、計較の料に供ふるのみ。
多度《タド》 今|戸津《トツ》小山の諸村を合併す、多度山の下に在り、多度神社は戸津の西、大字多度に在り、桑名を去る三里。
美濃国には養老山を多度山と称す、続日本紀、養老元年の条に見ゆ、伊勢の多度山は養老の南五六里、連峰相接比し、揖斐川の西屏を成す、蓋同山彙なり。○多度祠後の峰を朝拝と名づけ、西峰を甕尾と呼び、東峰を岸名と呼ぶ、猶上方三十町を鷲倉又愛宕と称し、濃尾の野を下瞰すべし。
多度《タド》大神宮 延喜式、名神大社に斑し、続日本後紀に多度大神宮と曰ふ、初め神宮寺を置き、歴朝の崇敬ありしが、中世頗衰へ、幕政の時領五十石を定む。○延暦元年、多度神叙位、貞観元年、遺右中弁大枝音人、向多度神社、奉神位記財宝、五年、多度神加正二位。〔続日本紀三代実録〕○此社は天津彦根命を祭る、古事記云「速須佐之男命、乞度天照大御神所纏御鬘之珠所成神、御名大津日子根命」姓氏録云「桑名首、天津彦根命男、天久之比乃命之後也」古語拾遺云「天日一箇命、筑前伊勢両国忌部祖也」又姓氏録云 「天津比古禰命子、天麻比止都禰命」〔古事記伝神紙志料〕○東海道図会云、多度大神、天津彦根命、相殿|新宮《シングウ》明神|内母《ナイモ》明神、摂社|一目連《イチモクレン》祠等あり、社説曰、北勢洪水暴風の時、此神其難を防がせ給ふ、往昔は多度柚井戸津小山猪飼等の地皆神領なりき、永禄天正の頃、長島合戦連年止まず、神社寇火に罹る、慶長に至り、桑名城主本多忠勝再営あり、爾後累代桑名侯の尊崇する所と為り、大略旧観に復し、供僧法雲寺を再置す、神庫に古鏡三十面古剣一口古陶古銭数十品を蔵む、神域に老樹奇草を生じ、巌石の怪異なる者多し、八壷谷の幽渓は勝景特に著る。
法雲寺《ホフウンジ》 多度神宮の東 愛宕山の下に在り 寛永年中、桑名城主松平氏旧寺址を垂興せしめ、供僧坊と為す、真言宗を奉じ、鎮守愛宕権現あり。多度大神宮寺は、天台の一院たる由、続日本後紀承和六年の条に見ゆ、東寺文書には真言院と為し、訴訟の事見ゆ、古寺は後世廃滅し、五輪石塔散在するを以て、此所即其故跡たるを知る。
東寺文書、長治二年弁官符云、東寺所司等解状稱(にんべん)、多度大神宮法雲寺者、為寺家末寺、既経数百歳、而以去寛治年中、俄依有延暦寺之相論、経奏聞、任国史旨、為真言別院之由、被下宣旨(中略)爰彼山住僧仁誉、相語伊豆前司源国房、随数多軍兵乱入多度寺所領庄々、苅取作田等、兼又令損亡任人等、其子細旨載寺家氏人盛正所進解状云々、又嘉承二年弁官符云、東寺解状稱(にんべん)、多度神宮寺、往古之比、満願聖人依多度大明神託宣、建立堂舎、安置仏像所草創也、而承和十四年、彼寺僧寺憎寿寵、為真言宗、可奉祈鎮護国家之由、請官裁(中略)件多度神宮寺、本宮石本、任往古之例並前官符旨、停止延暦寺妨云々。〔節文〕
五鈴遺響云、多度の祠官は、小串氏と曰ふ、然れども多度庄司と云家あり、異同如何、北畠国司材親卿の多気窓螢に曰、昔三条殿の御領に、多度の国友匠材の上手にて、京にめされ清涼殿造りける、いとめでたく造りいたしければ、大工の官たまひけり、多度の郡にたいこのはたといふめるは是が領なりとぞ、准后暫く此所にましまし、多度の庄司に百貫文からせ給ひける、
さだめの事
鷲眼百貫は軍用ふそくにてむつの国司に送る料とて当庄の人々かし給ひよろこび思しめしぬ代もゆたかにかへらす時ごさうばいにて返し賜はらむ事に三神かけ奉るもの也
午の九月三日 ちかふさ
たどの庄司どの
今詳にするに、今多度神領の中に古野《コヌ》あり、大鼓野の略して転訛せしにや、陸奥の国司は中納言顕家卿の弟春日中将顕信なり、文中の軍用の料は南朝興国五年(北朝康永元年壬午)九月より、其十月、准后親房卿及び其男顕信其弟少将顕時等、一品宗良親王を奉じて奥州下向の時なるべし。
八壷谷《ヤツボダニ》 多度祠の西数町にして、渓澗両崖相対し、之を泝る数十町、危岩削絶、渓流高下し、松楓の間に掩映す、中にも八壷と称するは、(手偏+賛)峰相畳み幽谷を囲み、飛泉急灘あり、潭を為すこと八処、故に八壷谷の称あり。此下流|岩淵《イハガフチ》は水地底に潜り、四五町を経て再涌出し、滔々として東逝す。
たど権現をすぐるとて
宮人よ我名をちらせ落葉川、 芭蕉
布子着てなつよりは暑し桃の花、 支考
柚井《ユヰ》戸津の北に在る大字なり、延喜式|宇賀《ウガ》神杜、今此地の字石垣に在り。〔神紙志料〕
香取《カトリ》 今|七取《ナナトリ》村と改称す、多度|古野《コノ》の渓水此に匯(さんずいは外)集し、江湾を成し、揖斐川に通ず、桑名郡の北界にして、美濃国太田村(海津郡)に至る一里。○東鑑云、文治元年、伊勢国香取五箇郷、大井兵三次郎実春賜之。
五鈴遺響云、香取は戸津の東也、桑名府に次で富有の地、近郷の庶民交易す、方俗香取市と称す、信長記、鹿取を駕島と記す、撰者の鹵莽なり、香取と称する名義は、常陸国鹿島香取大神、神護景雲元年、鹿島より遷幸、此地を過玉ひ、奈良の春日山に鎮座ありとぞ、式内|中臣《ナカトミ》神社の旧地なるべし。
熊口《くまくち》卿 和名抄、桑名郡熊口郷、訓久末久知。○今此名なし、香取辺にあらずや、一説長島に駒江村ありとて之に擬するも、採るべからず、且長島は江中の洲にして、全く沢地なれば、古代開村の所とは為し難し。○揖斐川の中游(海津郡)駒野村あり、其末に駒江の名あるを思ふに、揖斐川に沿ふて本来熊又駒の地名ありて、香取の辺は某口部に当るを以て此郷名ありしにや、録して後考に備ふ。
木曽《キソ》川 木曽|揖斐《イビ》の二川は、香取の東に会ふ、即勢濃尾三州の交会にして、洪水の激衝に当る、油島千本松と号する築堤ありて之に備ふ、土俗油島締切と称し、二水匯(さんずいは外)処の中間を屏塞し、各分流に就かしむる者也。延享年中、幕府美濃伊勢の水患を救はんが為め、薩藩に助力を課し(手伝普請と号せり)之を築く。揖斐川直に桑名を過ぎ海に入るも、木曽川は鍋田|筏《イカダ》の二支を東方に分ち、本流は伊曽島村を貫き後海に入る。近年木曽川の西支長島江鰻江の二口は、杜塞工事を施し、之に因り揖斐川桑名方面の陸(旁是)防は、木曽川洪水の圧迫を免れたりと云ふ、凡香取より以南桑名長島の輪中(南北三里東西若干)は、泰西謂ふ所のデルタ地也。(尾張美濃に於ける木曽川及美濃揖斐川油島参考すべし)木曽川は信州に発源し、長凡五十里、揖斐川は西美濃に発源し、長凡廿五里。
補【長江】桑名郡〇五鈴遺響 秋寐覚集「津島より棹さしくれば長江なる甲斐川過ていづみのゝ原」長江は桑名長島の間の長き木曽川の流れにして、桑名郡より三重郡を歴て鈴鹿郡の甲斐川(今の高岡川なり)を経て和泉にいたる地なるべしといふ、又長明が伊勢記及名寄歌に「いせ人はひがごとしけり津島より甲斐川ゆけばいづみのゝ原」是亦同じ。○再考 甲斐川は峡水にて即木曽川ならむ。
長島《ナガシマ》 揖斐川鍋田川間の大洲にて、木曽の幹流其東偏を貫くを以て、分れて二洲を為し、其東洲を今木曽岬村と曰ふ、南部は海に浜し江渠抄堆相雜る、伊曽島と曰ふ、長島の本郷は西偏に在り、今長島|楠《クスノキ》の二村に分つ。
長島は元亀年中門徒蜂起の地にして、滝川一益築城して之に居る、天正十二年、織田信雄之に移り、羽柴の兵を拒く、江中に在るを以て、防禦の便多し、豊臣氏の時、之を清洲主に隷せしめ、福島掃部頭正頼を置く、慶長五年、正頼和州宇陀に移り、長島一万石は其兼治と為す、元和以後、桑名城主の兼知と為り、元禄十五年、増山兵部少輔正弥に賜与せらる、封高二万石、城邑は桑名の北一里、長島江を以て揖斐川に通航す、今纔に塁址を遺す。○伊勢名勝志云、文明年中、安濃郡長野の族、伊藤重晴長島に拠り、押付殿名竹橋の三処(桑名志五処に作る)に堡砦を置く、永禄中、服部友定砦を修して之に拠り、北畠氏に属す、元亀二年五月、一向宗願証寺の憎証意、檀徒の強梁なるものを誘ひ乱を作し、重晴を遂て此に拠り、自ら長島殿と称す、威を近国に振ひ、織田氏の威令一も行はれず、天正二年七月、信長大軍を発し遂に之を殲す、尋で之を一益に賜ひ、北勢五郡を管せしむ。〇五鈴適響云、元亀元年、諸州門徒蜂起して国主に抗敵し、織田殿に叛きぬ、時に桑名長円寺の門徒、下間三位法印を招き、一揆して数万騎長島城に拠て籠居し、勢濃州の門徒の村々を押領す、滝川一益制すといへども敗軍に及ぶ 信長の弟信興尾州漕江の城に戦死す、信長之を聴て大に憤り、同二年五月十日、自ら五万余騎の兵を率して長島を討つ、同十三日退陣のとき、長島一揆濃州大田川へ舟五六十艘出し、軍卒を乗て横ざまに織田勢を支へ、所々に追打す、元亀四年九月、織田信長大軍を発して桑名に至る、門徒詐り降る、二十五日、信長帰陣せむとす、長島より急に三千余兵を発して追慕ふ、後陣林新三郎以下百余人悉く戦死す、天正二年七月、信長又之を討ち四手に分ち進発せり、市《イチ》掖口、香取口、漕江口、桑名口より攻入る、一揆は篠橋大鳥居櫃島大島中江五処に城砦あり、織田の軍悉く之を屠り、男女数千を殺す、八月十二日長島城中力尽て降らんとす、長円寺曰く男女助命ならば一人生害して開城すべしと、信長之を聴す、一万余の門徒の男女群り遁れ去らんとする時、伏兵鳥銃を放ち、其三千余人を殺す。
河内《カハウチ》 長島及び美州海西郡市江島の旧名とぞ、市江の北佐屋より蟹江の南に通じ、往時佐屋川の支流あり、故に名づく。〇三国地誌、長島及一江島七村を指して河内と言ふ、往古願証寺を川内御堂と号し、古仏の背に 「伊勢国横郡川内某村某寺某」と記し或は長島御堂と呼ぶ、乃ち川内は河内にして、長島一郷四面河を繞らす、故に此名あり。
長島《ナガシマ》御堂址 即長島城の地ならん、仏堂願証寺又顕証寺と云、○伊勢名勝志云、天文中、僧蓮如の十二男蓮淳の開基にして、始め長島に創建し、川内御堂と号す、元亀二年、四世証意長島城に拠り、織田信長に抗す、其子顕忍継て居る、天正二年信長来り攻め、顕忍自殺す、其子准恵免れて民家に養はる、長ずるに及びて再び願証寺を桑名に営す、正徳中、宗派を更め寺終に廃し、其寺字を一身田専修寺に移す。
補【長島】○今長島村及楠村とす、村南の新田地合同して伊勢木曽島、略して伊曽島村と云ひ、木曽岬村と曰ふ、鍋田川筋を以て尾州海西郡と分堺す。
長島城址 伊勢名勝志 本郡の東北部木曽揖斐二大川の間に位せる洲嶼の中央に在り、地形東西に延び長島江其北を擁す、西部は高地にして一宇の小祠を安んず、老杉古松参差相錯る、南に池あり、白蓮を植う、首夏の頃風色頗る佳なり、全地概ね開墾して耕圃となり、僅に石垣の存するを見る、寛永中光明峰寺道家此に来り、邑長其家を修築して之に居る、後京〔脱文〕
度会郡
度会《ワタラヒ》郡 伊勢の南堺に在り、東及南は志摩郡及北牟婁郡に至り、北西は多気郡と交錯す。今四町三十一村に分れ 面積凡四十八方里、人工十二万、郡役所を宇治山田町に置く。通路は参宮鉄道亀山安濃津より来り、宮川を終駅と為す。熊野街道は一に札所道と称し、田丸《タマル》より西南に赴き、大内山|荷坂《ニサカ》峠を経て北牟婁郡尾鷲に向ふ。本郡は地勢宮川の末流に因り東に向ひ開く、然るに今宮川の上游大杉谷以下の六村を多気郡に附け、嶺南なる志摩の九村を本郡に管せしむるは、稍不当の区画なり。度会は古書に渡遇又度合に作り、垂仁帝の朝に皇大神宮の鎮座ありて、神国と称す、神功紀に「神風伊勢国の百伝ふ度逢県」と云者此なり、後分割して多気飯野の二郡を置く。伊勢風土記〔倭姫命世記所引逸文〕に度逢の説あり、曰く「畝傍檀原宮御宇天皇、詔天日別命覓国之時、大国玉神遣使奉迎、令以梓弓為橋、而度焉、爰大国玉神資弥豆佐々良比売命、参来迎相土橋郷岡本村申、天日別命歓地主之参相曰、刀自爾度会焉、因以為名也。(神郡の沿革は別に見ゆ)○度会神主は続紀「和銅四年、伊勢国人、磯部祖父高志二人、賜姓渡相神主」とありて、伊勢国造同祖、天日別命の後、大幡主命(一名大若子命)の裔孫なり。和名抄、度会郡(和多良比)十三郷に分つ、其伊気郷は今志摩郡に入る、類聚国史天平宝字三年、伊勢志摩国堺を争ひ、尾垂(銭の旁+リ)を葦淵に移すと云者、此郷なるべし。延暦儀式帳、神界束限を尾垂嶺と為す、尾垂蓋伊気郷の西|二見《フタミ》郷の交界ならん。○度会郡制置の事は、延暦儀式帳に明なり、曰「難波朝廷(孝徳朝)評を立て給時に、十郷を分て度会の山田原《ヤマダノハラ》に屯倉を立て新家連阿久多督領磯連牟良助督仕奉き」
奉賀人勢州拝神宮 染田蛻巌
乗霽経松阪、臨岐進竹都、春川催(舟+方)度、宝殿摂衣趨、天楽(草冠+貴)桴鼓、太羨越席厨、従茲神春渥、瑞靄満遙陬、
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補【度会郡】○和名抄郡郷考 兵部式、度会駅馬八疋。神名秘書、度会郡者大国玉神奉迎之時、以梓弓為橋而渡焉、爰大国玉神佐々良比売参来迎相土橋郷(或云、継橋郷)岡本村、刀自爾度会焉、因以為名也。
続紀文武天皇二年十二月遷多気大神宮于度会郡。風土記、夫所以号度会郡者、畝傍樫原宮御于神倭磐余彦天皇詔天日別命覓国之時云々、大国玉神遣便奉迎天日別命、因令造其橋、不堪造畢于時到、令以梓弓為橋而度焉、爰大国玉神資弥豆佐々良比売命参来、迎相土橋郷岡本村云々、〔刀自爾〕度会焉、因以為名也。古事記伝、大国玉神とあるは伊勢国玉神にて、神名式に度会郡に大国玉比売神社とある是なり、然るを神宮の書どもに大己貴命なりとするは名によりて混ひたる誤也、凡て国玉神と云は国々にあるを、当《その》国にて尊びて大国玉と申すなり、土橋郷は和名に継橋とある是なり、岡本村は今も山田の坊名によぶ処なり。和訓栞、伊勢風土記に号度会郡者川名而巳とみゆ、夫木集にわたりあひ川とよめるは即度会川なり、りあの反らなり、度会川延喜式にみゆ。釈日本紀、二神郡、度会多気両郡也。行嚢抄、度会郡、東は志摩国を堺、南は紀伊国を限り、西は宮川に及びて南北に横はりて長し、北は大湊の海岸を限。
補【神郡】○神都名勝志 按ずるに神宮の御領を古く神国《カミクニ》と称しき、大化以後郡制を布かせ給ひしより此神国をも二分して度会・多気の二郡を置き、各十郷を管轄せしめられき、又神国造の職を廃して大神宮司の職を置き、天智天皇の三年甲子、多気郡十郷の内四郷(乳熊・黒田・長《ヲサ》田・漕代)を割きて伊勢国司に属し飯野郡と称し、高宮村に屯倉を立て、小乙中久米勝麿をして督領せしめらる、延暦十六年八月三日詔ありて大神宮司の御厨を湯田郡|宇羽西《ウハセ》村に移さる、同廿年七月朔日に諸国の神税は一に義倉に准じ、国司検校すべき由仰せ出さる、是に於て大御神の神税も国司の検校する事となれり、然るに太神宮は諸神と異なりとて、同廿四年に至り旧の如く宮司の職権に復せられたり、仁和五年三月十三日又詔ありて、天皇御一代の間飯野郡を神国に復せらる、尋ぎて寛平九年九月十一日に至り、永く皇太神宮の御領たるべき旨仰せ出されたり、是より度会・多気・飯野を神三郡とも道後とも称せり、当時封戸九百七十二烟、度会郡四百四十七烟、多気郡三百十五烟、飯野郡二百十烟、御厨二十ケ所、度会郡十三ケ所、多気郡五ケ所、飯野郡二ケ所、御薗百五十八ケ所、度会郡七十四所、多気郡四十六所、飯野郡三十八所なりき
此の地神領伊勢国に五郡あり、又大御神御遷幸の途次、国造・県主より進りし神田神戸あり、又歴代の天皇より諸祈願の度毎に国々の封戸を寄せ進られし事、延喜式・皇大神宮儀式帳・大神宮諸雑事記・神宮雜例集・神鳳抄・日本紀略・扶桑略記・拾芥抄等に見えたり、然れども三郡に因なきを以て茲には略きつ
其後文治年中鎌倉幕府より諸国に守護使を置きし時、此の三郡は守護使不入の地と称し、厳しく兵士の椋奪を禁じたり、然るに延文応安の頃、仁木義長此の国の守護となりて所在の神田封戸を押領し、遂に神郡に及べり、是三郡の武家に侵略せられし始なり、永享十二年七月将軍足利義教、国司北畠顕雅と和睦し、守護使を停めて国中を国司に属せしむ、是時かの五郡の神領は勿論、三郡も既に武家の押領に帰してありしかば、国司は其の儘に之を兼併して、分領を定めたり。
○大同本紀 皇大神御鎮座之時大幡主命、物乃部八十友諸人等率、和御魂荒御魂宮地乃荒草木根苅掃、大石小石取平、大宮奉定、尓時大幡主命白、己先祖天日別命賜伊勢国、内磯部河以東神国定奉(飯野多気度会の評なり)即大幡主命、神国造并大神主定給。
○皇大神宮儀式帳 一、初神郡度会、多気、飯野三箇郡本記行事、
右従纏向珠城朝庭以来、至于難波長柄豊前宮御宇天万豐日天皇御世、有爾|鳥墓《トツカ》村、造神痔(まだれ)弖、為雜神政行仕奉支、而難波朝庭天下立評給時仁、以十郷分与、度会乃山田原立屯倉弖、新家連阿久多督領、磯連牟良助督仕奉支、以十郷分、竹村立屯倉、麻続連広背督領、磯部真夜手助督仕奉支、同朝庭御時仁、初太神宮司所称、神痔(まだれ)司中臣香積連須気仕奉支、是人時仁、度会山田原造御厨弖、改神痔(まだれ)止云名弖、号御厨、即号太神宮司支、近江大津朝庭天命開別天皇御代仁、以甲子年、小乙中久米勝麻呂仁、多気郡四箇郷申割弖、立飯野高宮村屯倉弖、評督領仕奉支、即為公郡之、右元三箇郡摂一処、太神宮供奉支、所割分由顕如件。
○持統紀 六年三月辛末、天皇不従諌、遂幸伊勢、壬午、賜所過神郡及伊賀伊勢志摩国造等冠位。按、神郡初多気度会二郡を云、三代格云、弘仁十二年太政官符云、承前之例太神宮司検伊勢国多気度会両郡神田祖及七所神戸田等粗、用祭礼、従来尚矣。儀式帳云、二個神郡云々、又云、多気度会二箇神郡所進云々。雉例集云、飯野郡、仁和五年三月十三日勅、一代之間奉寄、寛平九年九月十一日官符曰、永以奉寄、已上謂之神三郡、又云道後。延喜式之に仇る(後東鑑等神三郡の称見ゆ)雜例集又云、天慶三年八月寄員弁郡二百烟、応和二年二月三重郡二百一烟、天禄四年(改元天延)九月安濃郡三百八十九烟、寛仁三年九月符、員弁、三重、朝明謂之道前三郡、安濃之謂東西郡。○寛治元年六月廿一日、北条時頼式目追加、伊勢国道前三郡政所云々あり〔北条未詳〕文治元年九月飯高郡(南北両郡)謂之神八郡、是に於て八郡となる。
宇治《ウヂ》郷 和名抄、度会郡宇治郷。○延喜式、太神宮、在度会郡宇治郷、五十鈴河上。○伊勢風土記云、宇治村、五十鈴河上、造作宮社、奉太神以為内郷也今以宇治二字為郷名。〔神名秘書〕
今|宇治山田《ウヂヤマダ》町の中、内宮神路山及宇治館町今在家町中之切町浦田町及四郷村大字中村楠部等の地なり神域内の謂を以て内と云ひ、後世内宮の称因りて起る、本郷は東(朝熊山)南(神路山逢坂峠)西(鷲峰)は峰巒環繞し、二水其上方に発源し、内宮の南に至り相合ひ北流す、即五十鈴河なり。○宇治より西北|浦田《ウラタ》坂を経て古市《フルイチ》町に通じ、以て山田町に至る、(宇治橋より宮川橋まで)民家連接し六十町に及ぶ、人口三万、今合同して宇治山田町と曰ふ、抑地名は、佳称二字と云事、古聖王の遺旨あれば後人と雖尚留念すべき所なり、而て今宇治山田と云ふ如き、不雅無稽(のぎへん上)にして古に違ふ名を立てしは、神都の為めに惜まるゝ業なり、此地の如きは世俗の新奇に迷ふなく、必ずや其古の本称に帰り、度会町と云ふこそ当然なれ。
補【宇治郷】度会郡○和名抄郡郷考 神祇式 大神宮在度会郡宇治郷五十鈴河上。神鳳抄、度会郡宇治郷。年中行事、宇治郷北谷、又宇治河原、又宇治田辺両所御常供田。神宮雑事記、長暦三年二月大神宮禰宜等上京了云々、抑神宮訴十三箇条也云々、宇治沼木兩卿浪人雑事可致免除事。神社啓蒙、興玉社在伊勢国度遇郡宇治郷内宮酒殿辺、無神殿、猿田彦命一座、宇治土公租神。元々集、宇治郷下松下村。風土記、宇治村五十鈴河上造作宮社奉大神、是日以宇治郷為内郷也、今以宇治二字為郷名。勢州古今名所集、宇治郷にある河なれば宇治川といふ也、水上は五十鈴、河流の末は御裳濯川、五十鈴御宮所より二見の浦の入江までは二里余りあり、其所々に字は有といへども、すべて是を宇治と云なり。
神路山《カミヂヤマ》 宇治内宮の神苑を繞り、殊に南方に拡延する地積にして、欝蒼たる山林也、今神路|島路《シマヂ》の二御料地に区分し、南界は志摩郡磯部村神原村に至る(南極の峰を築地又須波留と云)東北は朝熊山、西は鷲嶺前山に至る、方二里余に上るとぞ。
参宮図会云、神路山は一名|天照《アマテル》山と曰ふ、又|鷲日山《ワシノヤマ》と詠ずるは、天竺霊鷲に比したるにて、好て呼ぶべきに非ず。弘安参詣記、神地の山の嵐の音、有為の妄雲も忽に晴れ、御裳濯川の浪の音、無始の罪障も早く濯したる心地して、承り及びしにも過ぎて、身の毛よだち云々。○元亨釈書云、予詣勢州神祠、高山環峙、清河繞流、杉林森(直が三つ)、大数十囲、高百余尺、一鳥不鳴、幽邃闔爾。
ふかく入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風、〔千載集〕 沙門 西行
かくしつゝそむかんまでも忘るなよ天照山の秋の夜の月、〔歌枕名寄〕 後鳥羽院
太平記仁木義長参南方条曰、近年此の人、伊勢の国を管領して在国したりしに、前々更に公家武家手を指さゞる、神三郡に打ち入りて、大神宮の御領を押領す、是によりて祭主神官等京都に上りて、公家に奏聞し武家に触れ訴ふ、開闢より以来斯る不思議やあるとて、厳密の綸旨御教書を成されしか共、義長全て承引せず、剰我を訴訟しつるが悪しきとて、五十鈴川を堰きて魚を取り、神路山に入りて鷹を仕ふなど、悪行日来に重塁せり。
補【神路山】○参宮図会云、神路山は内宮の域のめぐり東南の惣号也、一名太山、天照山、宇治山、鷲の日山とも云、鷲の日山とは天竺霊鷲山に比して、西行の歌より言始たるなるべし、好て呼ぶ名には非。
五十鈴《イスズ》川 神路山の南嶺より発し、北流四里西二見村に至り海に入る。神都名勝誌云、一名|御裳濯《ミモスソ》川、俗に大川と云ふ、水源二派あり、共に伊勢志摩国界より出づ、其一逢坂山より出で、皇太神宮の南を繞り、一は神路山より出で、龍が嶺大瀧小瀧の渓流をうけ、此二流神宮西南に至り、一道の大河となり今在家中之切浦田等の東に沿ひて北流し、鹿海にいたりて朝熊川を入れ、又二派に分れ、一は三津江村松下等を経て二見浦に注ぎ、一は汐合に至り、下流は勢田川を合せて海に入る、長き大約四里、濶さ六十間なり、此川二源あるによりて、五十鈴川御裳濯川の別をなす説あれども非なり。(国邑志云、五十鈴は河瀬のいと清けきを鈴に比して名づけたるか、又篶川にや、又濯川の義にて、伊須岐河にや、不詳)
御裳すその岸の岩根によをこめてかためたてたる宮柱かな、〔山家集〕おりたたん事も畏こし神垣やみもすそ川の清きながれは、 八田 知紀
日本書紀云、倭姫命、興斎宮于五十鈴川上、是謂|磯《イソ》宮則天照大神自天降之処也。倭姫命世記云、命河際にして御裳裔長く穢れ侍るを洗給へり、従其以来号御裳須曽河也。神名秘書云「風土記曰、八少男八少女逢此|泗樹接《イススキ》因以為名也。」○東鑑云、建長二年三月、依為大神宮祈年祭例曰、相州(北条時頼)被奉幣物、東条次郎大夫為御便、参宮之処、彼御裳濯河水色如紅、一日一夜帰本流。
神都名勝誌云、五十鈴川神路山の奥に、奇勝の境地多し、先つ一瀬は山口也、水中石(石+工)を置き人を通す、維新前までは此の所に番屋ありき、御贄小屋《オムベゴヤ》といへり、南海の浦々より魚藻を擔ひて市場に出る道にして、魚人其の荷前《ノザキ》を神宮に納めし所なり、一之瀬より五十鈴川に泝る、溪澗凡十四五町の沿途には、巨岩大石互に奇状を呈し、其の間奔湍衝激して、水は石と相搏ち、珠沫霏々たり、人をして恍惚柳州小石潭に遊べる想をなさしむ、就中鰒石龍淵熊淵海鼠石屏風岩御船石行戻などを最奇と為せり、鏡石とは、高さ二丈横五尺許の巨岩にて、西面削るが如くして、晶螢(中火)物を鑑みるとぞ、白銅鏡に異ならず、土俗は鏡と称す、大滝と云は神路山の上方に在り、高七丈許幅四尺、距山数仞の上より霏々直下せり、両岸の楓樹、飛泉に根を洗ひて恰も(鹿/主)尾の如し。
大神宮《ダイジングウ》 五十鈴川の上、神路山の麓に在り、(宇治山田町の東南大字宇治館町南)正殿南面す、国家無上の太祀なり。泝釧《サククシロ》五十鈴宮と号し、古は磯宮又宇治宮と称す、後世専|内宮《ナイクウ》と呼び奉り、之に対し山田豊受大神宮を外《ゲ》宮と曰ふ、即伊勢両所神宮にして、通俗オイセサマと唱奉る、畏き辺にては宗廟とも申さる。神皇正統記云、垂仁帝の御時皇女天照大神を斎き奉り、伊勢の国度会郡五十鈴の川上に宮所しめ、是より皇太神とあがめ奉て、天下第一の宗廟にまします。拾芥抄云、兼豊注進曰、宗廟事、大神宮(伊勢)石清水(八幡)御事也、口伝曰、宗廟社稷之号分別事云々、皇帝祖神号宗廟、又勅願杜称社稷。(又塵添(土+蓋)嚢抄にも此説見ゆ)神宮雑例集、永暦元年宣命云、去年兵革俄起之間、為凶悪之輩、雖掠取内侍所、依宗廟之厚助、正体自然出来給、云々。
伊勢遷宮の年よみ侍りける
神風や朝日の宮のみやうつりかげのどかなる世にこそ有けれ、〔玉葉集〕 鎌倉右大臣
いすず河あらたにうつる神がきや年ふる杉の影はかはらず、 本居 宣長
拝大神宮作 伊藤東涯
惟皇垂帝統、無外庇蒼生、首出乾坤位、照臨日月明
茅茨余古朴、狙豆属昇平、万室比甍集、一川夾字清
我来何所祷、文数日斯成、
神都名勝誌云、太神宮また朝日宮と称す、斎き祀れる御霊代は、大御神の天岩窟に幽居し給ひし時、石凝姥神の造り奉りしは、八咫の御鏡なり、皇孫邇々芸命の此の国に降臨し給はむとせし時、大御神御手づから此の御鏡をとらせ給ひて「此之鏡者、専為我魂、如拝吾前、伊都岐奉」と詔らして授け給へりき、されば此の御鏡は全く大御神の現御身に異なる事なし、そは息長帯比売命に神憑ましし時に「神風伊勢之|百伝度逢県之折鈴《モヽツタフワタラヒノアガタノサクスズ》五十鈴宮、所居神名|撞賢木厳之御魂天疏向津媛《ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメ》命」と宣り給ひし大御言以ても著しき御事なり、又此正殿には相殿神ます、皇太神宮儀式帳に「相殿坐神御船代、二具」とあり、延喜式「太神宮、船代三具」とある註に、二具は相殿神料とありて、皇太神宮儀式帳の分註には、天手力男命万幡豊秋津姫命とし、御霊代は弓剣の二種とせり、されども女神の御霊代に御剣を用ゐし例なし、弘安参詣記には日本書紀を引用して、天児屋根命一名思兼命及び太玉命なるべしといへり、儀式帳奏上の当時分註のありしものなるか、はた後人のかき添へたるものなるか、今定かに知りがたし。(古事記云「天照大神詔者、此鏡専為我御魂、而何拝吾前伊都岐奉、次思兼神者、取持前事為政此二柱神者、拝祭佐久久斯侶伊須受能宮」と、二座は斯く明白なれば、後に追配ありし神は、又太王命なること下条に其論あり、之に従ふを可とす)
神紙志料云、皇大神宮三座、今宇治郷五十鈴河上に在り、古之を渡遇《ワタラヒ》宮と云ふ、〔日本書紀二所太郎宮神名略記〕天照坐皇太御神を斎祭る、霊御形八咫鏡に坐せり、〔日本書紀古事記延暦儀式帳〕皇大神之を日神と申し、又天照大神亦名大日霊貴、又天照大日霊尊とも申奉る、〔日本書紀〕即天日嗣知看皇孫命の大祖神に坐て、四方国を看はるかし坐し、天下の福祥禍災《ヨゴトマガゴト》を知りて、百姓を恵み給ふ甚も尊く畏き大神に坐り、(参取日本書紀古語拾遺延喜式小右記)故五穀の種を穫ては水田物陸田物《タナツモノハタツモノ》を殖る法を定め、養蚕織服の道を教給ひ、〔日本書紀〕朝廷の御為には狭《サキ》国を広く、峻《サカシキ》国を平けく、遠国《トホクニ》を八十綱掛て引寄る如く順服はしむるを以て、大神の神慮とは為給ひける、〔延喜式〕故日本武尊神宮を拝奉りて、蝦夷を伐給ふに、賊類忽に順ひ奉り、息長帯姫命神教に依て韓人を馬飼の奴と仕奉らしめ給ひき、〔日本書紀古事記〕大凡外蕃の貢物を必ず神宮に奉る事は蓋又此故也、〔日本書紀類聚国史日本紀略〕上古天照大神天石屋に隠り給ふ時に、八百万神等神集々て、思金神に思はしめて、常世長鳴鳥を衆鳴しめ、石凝姥命に日像《ヒカタ》の鏡を造らしめ、天鈿女神に歌舞て咲楽はしめ、其鏡を賢木に取繋け、天太玉命天児屋命に広き厚き称辞もて、神祝《カムホサギ》ほざかしめて招出し奉り、即新宮に遷り坐しめき、〔日本書紀及一書古事記古語拾遺〕日像の鏡は即八咫鏡也、〔日本書紀古語拾遺〕皇孫瓊々杵尊筑紫に天降坐しより後、御世御世大神の大詔の随に、宝鏡を同殿に斎奉り給ひ、崇神天皇に至て、深く神威を畏奉り宝鏡を豊鍬入媛命に託て、倭笠縫邑に斎祭らしむ、垂仁天皇の御世、倭姫命に託奉て大神を鎮め坐べき処を求て菟田《ウダ》に至り伊賀国に入り、〔伊賀国拠延暦儀式帳〕更に還りて近江に入り東方美濃固より伊勢に到りたまふ時に、(昔皇孫命の啓行して伊勢狭長田五十鈴川上に到坐る、猿田彦命の裔、宇治土公の祖)大田命参来て五十鈴の川上に好大宮処ありと申す、〔日本書紀神裔以下参取延暦儀式帳倭姫命世記神名秘書〕即見そなはして、宮処を定賜ふ時に「大神是神風の伊勢国は常世《トコヨ》の浪|重浪《シキナミ》寄る国、傍国《カタクニ》の可怜国《ウマシクニ》也、是国に居む」と教し給へる随に、斎宮を興奉りき、是即今の大宮也、〔日本書紀延暦儀式帳〕相殿神二座、左方に坐を天児屋命と申す、霊御形弓に坐す、右方に坐を天太玉命と申す、霊御形剣に坐す、〔日本書紀参取倭姫命世記〕
按に相殿神、古事記には其一座を思金神とし、儀式帳に天手力男神、万幡豊秋津姫命とす、されど手力男神は佐那県に坐とみえ、神名帳に佐郡神社もあれば相殿に坐べき由なく、又秋津姫命は姫神に坐して其御霊形の剣に坐す事も疑はし、故にとらず、日本書紀に「天祖皇孫に斎鏡を授けて、同殿共床の詔を下し給ひ、次に天児屋命太玉命に勅して、殿内に侍ひてよく防ぎ護り奉れと詔ふ」事見え、鎮座本紀弘安九年大神宮参詣記等にも二座を相殿とする事同じ、故今日本紀倭姫世記の説に従へり、又鎮座本紀に相殿二座昔は天児屋命太玉命なるを、雄略の朝神誨に因り天力男神万幡豊秋津命を本宮に祭られきとあれど、古書に徴し難ければ輙く信じがたし。
其大宮を定給ふ時、八尋機殿を建て、大神の神衣を織奉り、〔機殿儀式帳神名秘書鎮座本記〕又|有爾鳥墓《ウニトツカ》村に神痔(まだれ)を造り、雑々の神政を行仕奉らしめ、孝徳天皇御世、神痔(まだれ)を改て御厨とし、神郡を割て度会山田原と竹村に屯倉を置、天智天皇甲子年、多気郡を割て飯野高宮村の屯倉を立給ひき、〔延暦儀式帳神名秘書〕凡神界の四至東は石井《イハヰ》朝熊《アサクマ》尾垂《ヲタリ》峰等を山界とし、北は比奈多島|志婆崎《シバサキ》阿婆良岐《アハラキ》島、都久毛《ツクモ》島小島等を海界とし、南は志摩の鵜椋嵩錦山坂を界とし、西は飯高、下樋小河《シタヒヲガハ》を神の遠堺とし、飯野郡磯部河を神の近界とす、〔延暦儀式帳〕大同元年、大和伊賀伊勢志摩尾張参河遠江の地一千百卅戸を神封に充奉る、〔新抄格勅符〕初め垂仁天皇の朝、諸国造等奉る所の神戸三百五十三戸之を本神戸といふ、延暦廿年神宮封戸は改減の限に非る事を制給ひ、〔神宮雑例集神宮雑事記〕嵯峨天皇弘仁十二年伊勢大神宮司に勅して多気度会両神郡及七処の神戸田租を検納しむ、〔類聚三代格〕天慶三年平賊の報賽に尾張三河遠江各封戸十烟并に員弁一郡二百烟を寄し給ひ、〔日本紀略神宮雑事記〕応和二年、三重郡二百一煙を充、天延元年、安濃郡三百八十九煙を奉り、〔小右記日本紀略神宮雑例集〕後寛仁元年に至りて、更に御願に依て朝明郡を寄奉る、〔小右記左経記〕合せて之を道前三郡といふ、〔神宮雑例集〕長暦元年封戸百煙を充給ひき、〔扶桑略記〕此後二所太神宮の神田御薗御厨甚多く五畿七道大凡神戸あらざるものなし、〔神鳳砂神領目録大要〕養和元年、金銅鎧を奉て兵乱の事を祈り給ひ、寿永二年祭王大中臣親俊禰宜荒木田成長太神の神教に依て、宝殿の御剣を後白河法皇に奉りき、〔書記百錬紗大中臣荒木田拠中臣本系帳荒木田系図〕初垂仁御世より後封戸神田甚多し、是に至て東国神領神戸所司神人等、事を兵乱に寄て所当神税を妨げ、祭祀の闕乏を致せり。〔参取延暦儀式帳日本紀略神鳳抄東鑑〕○按ずるに神宮雑例集、道前三郡道後三郡の外に「安濃郡、謂之東西郡、文治元年九月、飯高南北両郡、謂之神八郡」とありて、文治には飯高の一郡を割き、神郡と為されしと見ゆ、初め天智の朝に飯野を分割して公郡とせられしが、光孝天皇仁和五年一代の間奉寄の勅あり、寛平九年に至り更に永代の官符を下し給ふ、神三郡と云者是なり、多気度会と相接して道後と曰ふ、封戸九百七十二畑、御厨二十所御園自五十八所あり、員弁三重朝明は道前にして、貞永式目追加に伊勢国道前三郡政所と云名見ゆ、諸国神封の大数は承久注進の神鳳抄に載す。又神宮の変災を視るに、歴代の久き火盗の事往々にして之あり、中にも兵乱の為に事を生じ、因て以て神宮の衰替を招けるは、平氏暴横と兩宮争闘の二者に在り。東鑑治承五年の条に曰「平相国禅門驕奢之余、蔑如朝政忽諸神威、破滅仏法、悩乱人庶、近則放入使者於神三郡、充課兵粮米、追捕民烟、天照大神鎮座以降千百余歳、未有如此例」云々、建仁三年条曰「伊勢国三日平氏跡、新補地頭等募武威、停止大神宮御上分米之由、本宮訴中之、彼他者当国散在之田畠也、平氏雖管領地下、於上分米者、備進本宮之条、所見分明之間、為清定奉行、守先例可致其弁之由、今日被仰下」云々、また内外両宮兵乱記に曰「長享二年六月、此度宇治の滅亡する所以をたづぬるに、多気の国司御所より、宇治衆へ御扶持あるに因て、宇治衆万づ無礼の振廻法に過るに依て、在々所々より之を不悪云となし、故に山田衆よき折節ぞと、近辺に示合、大勢にて発向す、先山田三方を始として、浜七郷三箇郷神都七郷五智白木上野一宇田原外木田の勢幾千騎と云数不知けり、朝熊鹿梅兩郷も山田に組す、去程に六月廿三日早天より、諸勢押寄る、長官傍官物忌衆は今度の大乱能々思案を加るに、先年外宮御殿炎上ある間、内宮の御事も無心許存じ、宮中に伺公し奉り、祈念致す所に、如案既に上館御厩子良館まで焼上る間、御殿に掛る焔は秋の木の葉の嵐に散が如し、落合口御山峠の手負神殿へ逃入に依て、敵数百人御階の下まで乱入し、生害二人あり、同廿四日に死人どもをば、山田より皆取退る」云々、此宇治山田の不和は後年まで余習を遺し、各自奉事する所の神宮に就て相主張し、多く不祥の事態を見たり、毎二十年正殿造替の故儀も廃しける比、漸く比丘尼の勧進に因り遷宮を行ひし時もありき。○神都名勝誌云、北畠国司の頃、神領は宮川東より宇治沼木高向箕曲継橋の五郷と、多気郡斎宮寮の旧址及|相可《アフカ》郷とのみにぞなりにける、神領此の如く減削せしかば、大宮司の神政を執りし離宮の庁院を始め、神税を納めし正倉も遂に廃れ亡ぶるに至れり、天正十一年、国司北畠信雄より両官御供料として、多気郡斎宮|上野《ウヘノ》有爾《ウニ》中村の四村高二千五百貰文の地を寄附せり、同十二年国司廃絶の後、豊臣家より三郡を蒲生氏郷に与へしが、特に皇太神宮に四千余石の地を寄贈し、徳川家に至りても旧例により、朱印の証書を寄せたり、寛永十年に至り、二見《フタミ》郷の人民の愁訴により、両宮御塩の料として、同郷にて高二千三拾余石を復旧せり、爾後明治維新の際まで変る事なかりき、明治四年、海内改封給禄の時、神領はすべて上地せしめらる、爾来両宮年中祭典の供御より百般の調度に至るまで、皆国庫より支弁せらるゝ事と為り、特に神宮司庁を置かせられ、察祝を司らしむ。
神祇志料又云、謹按に凡歴世天皇太神宮を斎祭り給ふ、必其誠を致し其敬を尽し給ふ、故践詐大嘗即位及国の大事繚(さんずい)旱疾疫ある毎に、必大極殿に御して幣使を発遣し、其神宮に至るまで、日毎に御拝を行ひ、御衣を脱ずして寝に就き給ふが如き、後世に至る迄皆古に異なる事なし、(参取類聚国史日本紀略中右記伏見院御記大意)其幣神宮には錦綾、豊受宮には緋縹黄(白/七)帛を用ふ、王臣以下輙く幣を供る事を得ず、皇太子と雖も朝廷に奏して後之を献る、凡二所太神宮に参入る者、兵丈(にんべん)を帯く事を許さず、(延喜式〕勅を奉りて神宮に詣る者、沐浴潔斎し、必仏像仏具穢悪の物を家中に置事を得ざらしむ、若適之を犯す時は、神験立処に著る、〔台記公卿勅使記〕凡仏法僧尼の類に至ては尤も神宮の忌給ふ所なるを以て、僧徒神境に入る事を得ず、其制甚厳也、〔延喜式参取元亨釈書太神宮参詣記〕其祭祝に供ふる舗設雑器松薪炭等の類、皆神戸雑徭をして修備へしむ、凡神宮朝夕に神饌を奠奉り、又歳時に祭る、祭毎に必豊受宮を先にして太神宮を後にす、又宮地は預め二処を定め置き、造替奉遷の所と為す、乃ち二十年を経る毎に、正殿宝殿及外幣殿みな新材村を操て造替、更に遷る、豊受及別宮等之に準ふ、初天武天皇遷宮の制を設給ひしより、時或は例に違ふ事ありと雖、後世に至るまで又之を改る事なし、〔参取園大暦神宮雑事記日本紀略太神宮例文大意)凡神宮諸院及斎王神宮に参る時の館舎は、宮司並神戸調庸をして破に随て之を修め、損壊ふ事ならしむ。〔延喜式〕
補【大神宮】〔神紙志料、脱文〕天武天皇未鳥元年四月丙申、多紀皇女、山背姫王、石川夫人を太神宮に遣し給ひ(日本書紀)持統天皇六年五月庚寅、使を遣し幣を奉る、藤原宮を造るに依て也(日本書紀)文武天皇大宝二年三月丁未、使を遣して秦忌寸広庭が献れる杠谷樹八尋鉾(木偏)根を奉り(続日本紀)七月癸酉詔して云、神宮の封物は神御の物なるを以て、宜しく濫穢を致事勿れと制定ひ(続日本紀・類聚三代格)八月癸亥勅して神戸の調を太神宮服料に充しめ、慶雲元年十一月癸巳、忌部宿禰子首をして幣帛鳳凰(穴/果)子錦を奉り、三年閏正月戊午新羅の調を奉り、元正天皇養老五年九月乙卯、天皇内安殿に御て使を遣し幣帛を奉らしむ、九月奉幣此に始る(続日本紀)此後十一日を以て例日とせり、
按、是年及天平十二年、延暦九年、承和元年並に九月十一日を以て幣を奉り、承和七年以後みな然るときは、其例日となれる事明らか也、附て考に備ふ
聖武天皇天平十年五月辛卯、右大臣橘諸兄・神祇伯中臣朝臣名代等をもて神宝を奉り(続日本紀)十一年十二月辛巳始て政印一面を置き(神宮雑例集・神宮雑事記)廃帝天平宝治三年十月戊申、初勝宝五年太神宮の界を限て標を樹しに伊勢志摩両国相争ひき、是に到て尾垂割(左賤の右)を葦淵に遷し、即使を遣して幣帛を奉り、称徳天皇神護景雲元年二月乙卯、大炊頭掃守王、左中弁藤原朝臣雄田麻呂を伊勢太神宮使として、社毎に男女神服各一具を奉り、太神宮及月次社には馬形及鞍を加奉らしめ、光仁天皇宝亀元年八月庚寅、幣帛及赤毛馬二匹を奉り、九年十月丁酉、皇太子病(やまいだれ/謬の旁)るを以て親ら神宮を拝み、其十年八月辛卯、神宮正殿及財殿御門瑞垣盗の為に焼るゝを以て、参議左大弁紀朝臣古佐美、神紙伯大中臣諸魚をして幣を奉り其事を謝《マヲ》さしめ、尋で使を遣して神宮を修造らしむ、此火災の時相殿二座の霊形皆折損れき(此火災以下、神名秘書)
○〔続日本紀〕廃帝天平宝字三年十月戊申、去天平勝宝五年、遣左大弁従四位上紀朝臣飯麻呂、限伊勢大神宮之界樹標、已畢而伊勢志摩両国相争、於是遷扈乗(左賤の右)於葦淵。按、考証云、扈乗当依別本及類聚国史作尾垂。度会氏曰、儀式帳云、四至神界、以東尾垂嶺等為山堺云々。即此地葦淵、度会君今有押淵村、疑此と見ゆ、押淵村志摩旧地道潟卿界にあり。〔以上、補注か、補入。○錯簡多く、今仮に以下に続く〕
淳和天皇天長元年九月乙卯、度会離宮を常斎宮とする事を告し(類聚国史)仁明天皇承和五年七月丁丑、幣帛を奉て秋稼成熟を祈り、尋で八省院に御し使を遣して豊年を祈り、十月戊子神宝を捧げ、六年四月壬申祈雨の為に幣を奉り、九月辛酉唐物を奉り、十二月庚戌斎宮焼損に依て珍幣を奉り、多気宮地を卜定めて常斎宮とする事を祈申さしむ、嘉祥二年九月丁巳、左少弁文室朝臣肋雄等をして廿年一度の神宝を奉る即例也、(続日本後紀・日本紀略)文徳天皇即位の年〔嘉祥三年〕九月乙酉、奉幣使に附て細馬五匹を神御に充奉り、仁寿元年九月庚辰、又八匹を奉り(文徳実録)清和天皇貞観八年五月己巳、是歳国内大疫、神郡百姓死穢に触れ駆使の人なきを以て、六月祭に斎王神宮に参給ふ事を停め、九月壬子斎宮允以上穢に仍て祭に供奉る事あたはず、故に勅して中務少輔藤原朝臣諸房を遣して事を行はしめ、十年九月丁酉、右少弁藤原朝臣千乗等をして廿年一度の大神財宝を奉り、陽成天皇元慶二年三月癸卯、幣及神宝弓鉾(木偏)剣等物を奉り、十二月壬申橿日神教あるを以て弘道王を遣して大神の祐助を請奉らしむ(三代実録・類聚国史)光孝天皇仁和元年十一月辛丑、散位大中臣朝臣罕雄判官主典各一人を遣して大神宮を造らしめ、明年九月神宝使左大史善世宿禰有友、史生二人官掌を進発し給ふ、式条に拠るに神宮及神宝二十年毎に一度之を改造る、初貞観十年修営の後並に未だ其限に満ずと雖ど、神宮已に成るを以て神宝を奉りき(三代実録)字多天皇寛平元年三月癸卯、一代を限て飯野郡を寄奉り(類聚三代格)九年九月十一日に至て兵乱の御祈の為に永く之を寄奉る(類聚三代格・日本妃略)醍醐天皇延喜の制太神宮及相殿神二座並に大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預り、 按、神名秘書延喜十一年正月癸未相殿神二座並預四度官幣〔脱文〕
崇徳天皇長承二年八月丙午、臨時幣を奉て豊受宮及別宮滝原伊雑等宮変異の事を謝し、兼て鎮西宗像社焼亡の事を告さしむ、宗像神は太神の御子なるを以て也、(中右記)二条天皇永暦元年二月辛酉、宣命を捧て去年兵革の時内侍所賊の為に掠取られしかど、宗廟の厚助に依て神鏡自ら出来れり、故に新櫃を送て納奉る由を告し(神宮雑例集)後鳥羽天皇元暦元年五月庚寅、源頼朝既に平氏を殲し、武蔵国飯倉御厨を奉る、是よりさき祈願意の如き事を得ば二宮に新加神領を立て東国神領旧に復さんと祈り申せるを以て也、文治三年正月壬戌、又幣帛及神馬砂金御剣を奉て弟義経追捕の事を祈り、土御門天皇正治元年正月乙卯、源頼家遠江浦、尾張一楊・参河飽海及大津・伊良胡等神戸御厨を寄奉り、建仁三年三月己卯、駿河方上御厨を寄し、順徳天皇承久三年三月丁未、頼朝妻北条政子神告ありしを以て、伊勢安示・井後及葉若・西園四村を奉り、後深草天皇宝治二年十二月戊寅、将軍藤原頼嗣御神楽米を神宮に寄奉り、建長二年二月四日祈年祭例日なるを以て幣帛を奉りき(東鑑)後亀山天皇天授五年八月壬辰、伊勢太神宮禰宜神宝を捧げ京に至て遷宮延引の事を訴ふ、後円融院即祭主を遣して之を宥め、十一月に神宝を調献るべき由を告しかば、禰宜等みな命に随て国に帰りき(後深心院関白記)
○〔以下、祈年祭儀か、錯簡未詳〕
祭毎に必豊受宮を先にして神宮を後にす、凡そ祈年祭朝使至る時、太神宮司使者を引て先度会宮に参り、次に太神宮に幣帛を奉る(延喜式)其儀朝使宮司と共に神宮外苑に至る、即ち禰宜|内人《ウチヒト》等候ひ侍りて、宇治大内人太玉串二枝捧げて宮司に授く、宮司手拍給り、禰宜生絹の明衣を着、左右の背に木綿手(糸+強)懸て太玉串四枝を手拍給り、捧持て左方に立ち、宇治大内人太玉串八枝捧持て右方に立ち、共に左右に前行、次に宮司、次幣帛捧持内人、次御馬飼内人御馬牽立つ、次に朝使次内人等立列り、第三重に至り正殿に向ひ跪て版位に列る、内物忌子及内物忌父諸内人等各東に向て跪く、太神宮司版より進み祝詞、畢て座に還り、其持る玉串を宇治大内人に授く、即禰宜大物忌父を召て之を第三御門の左に奉置、次に宮守物忌父を召て、其禰宜捧持る玉串を其右方に進り置、次に地祭物忌父を召て宇治大内人が持る玉串を同御門に進置しめ、畢て四段拝、短手二段拍て一段拝、即退出て荒祭宮を拝み、了て幣帛を正殿に入奉り、終に直会殿に就て此月初子日禰宜内人等揚鍬山に至て山口神を祭り、櫟木本《イチヒコノモト》に至て木本を祭り、山向《ヤマゲノ》物忌其木本を忌斧を以て切、始て禰宜内人等に切しめ、湯鍬に造り、諸禰宜内人真佐岐縵(くさがんむり)為て太神の神饌田に至り、酒作物忌父に忌鍬採しめ、御刀代の田耕《タガヘシ》始め、田耕歌歌ひ、田舞して即諸神田を耕し始め、諸の百姓の田耕始め、又秋の収る時に小内人祝部等を率て御田の稲を抜穂に抜き、長(木+若)に附て田頭に立て、九月祭に之を奉る(延暦儀式帳)神衣《カムミソ》祭 大神宮司神服部|麻績《ヲミ》等を率て、朔旦より荒妙衣和妙衣を織造り、祭日に至て之を供ふ、其儀太神宮司禰宜内人等|神服織《カムハトリ》織女神麻績織女各八人を率て、並に明衣を着、各玉串を執り、神衣の後に立列り参入て宮司祝詞を宣訖る時、共再拝両段、短手を拍事両段、膝退て再拝両段、短手両段一拝訖て退出、即荒祭宮に至て神衣を供ふる事上の如し、其他儀節大抵二月祭に同じ、是日|日祈《ヒノミ》内人笠縫内人等蓑笠を奉て雨風の害なき事を祈る、後世之を御笠神事といふ (延暦儀式帳・延喜式、参取大神宮年中行事)
月次祭 十六日度会宮を祭り、明日神宮を祭る、其儀十五日御巫内人に御琴給て大詔を請奉り、禰宜諸内人物忌等を率て殿内を浄めて、天八重榊を差たてはやし飾り、又御垣の廻りにも栄《ハヤシ》飾り、木綿を懸附け神御の雑物を列ね、大物忌が忌竈に炊奉れる神饌に、志摩の御蟄を造備て、十六日亥時に夕|膳《ミケ》、丑時に朝膳を備奉る、之を斎忌神饌《ユキノミケ》と云ふ、十七日平旦斎内親王神宮に参入り、輿を下り手輿に移坐て外玉垣門座に就く、預め東殿に斎王の座を設け、左右に命婦座を置き、西殿に女孺等座を設訖て、宮司鬘木綿を執り神宮に向て跪時に命婦之を奉る、帝王手を拍て鬘を着く、宮司又太玉串を奉る、命婦又斎主に伝ふ、斎王手を拍ち執捧て内院の座に就き、席を避け前に進み両段再拝、訖て玉串を命婦に授け、物忌に伝て瑞垣門西頭に進置、斎王座に還て後禰宜明衣を着け、宮司当色を着て并に太玉串を執り、禰宜宮司次幣雑物及馬|単行陣列《ヒトヘニツラナ》り、次朝使外玉垣門に入り内玉垣門に当て皆跪く、先便中臣詔詞を申し、次官司祝詞を宣、訖て物忌内人等|明曳《アカヒキノ》御調糸幣帛案を舁入て、瑞垣内財殿に置奉り、帝王并衆官再拝八開手を拍ち、次に短手を拍て再拝両遍、既にしてみな退出、次に荒祭宮を拝み、各解斎殿に就き、齋宮女嬬等五節舞鳥子名舞を舞ふ、神嘗祭は神衣祭使之を祭る(神嘗以下拠延喜式、令集解)神嘗祭 祭の前日大物忌宮守物忌、地祭物忌荒祭宮物忌等、御出の抜穂志摩の御贄を種々の器に造盛しめて朝夕御饌供奉り、酒作物忌の作奉る白|酒《キ》、又清酒作物忌の作奉る黒酒をも副奉り、神郡及国々神戸の懸税《カケヂカラ》を内外重の玉垣に懸奉る、斎主神宮を拝給ふの後、使忌部幣帛を捧げて跪く、時に中臣告刀を申し、宮司又常例の祝詞を奏す、其余儀月次祭に同じ、凡そ度会宮祭多賀宮を拝奉る事、亦荒祭宮の如し、神嘗祭の夜禰宜内人始て新稲の酒飯を食ふと云(参取延暦儀式帳・延喜式)凡そ六月九月十二月は所謂三時祭即是也(延喜式)
〔遷宮〕其造宮便長官次官判官各一人、主典二人、木工長一人、番上工四十人を率来り、吉日を取て二所太神を拝奉り、即伊勢美濃尾張参河遠江の役夫を発し、国別に国司郡司各一人之に仕奉る(延暦儀式帳)次に山口神を祭り、次に使忌部自ら内人等を率、山木本を祭り、正殿心柱を操り宮地を鎮祭り、地祭物忌其地を掃清めて心柱穴を掘り、禰宜をして柱を立しむ(延喜式)心柱また忌柱といふ(延暦儀式帳)次太神宮船代三具、度会宮船代四具并樋代各一具を造る、船代は樋代を納れ、樋代に霊形を納奉る器也(延暦儀式帳・延喜式)其神宝及装束、七月一日より神祇官西院にして之を造備ふ、其神宝、多多利・麻笥・賀世比・(金+専)《サヒヅエ》(金銅四種・銀銅四種)梓弓・征矢・王纏横刀・須我流横刀・雑作横刀・姫靭・蒲靭・草靭・纏・楯・戈・御鏡
按、延喜式鏡なくして須我流横刀あり
鵄尾琴凡そ廿一種、新宮既成り諸物みな傭る、即弁大夫史、史生、管掌、使部、神祇官史、史生、神部卜部等をして部領《ヒキヰ》送らしむ、預め宮中を祓ひ又中臣氏を遣して京畿及近江伊勢并太神宮を祓はしめ、九月十四日度会宮を粧飾て、明日御像に遷奉り、次に神宮を粧飾て十六日御像を遵奉る(延喜式)其儀十五日巳時斎王参入坐て、暫外川原殿院に侍ひ、手輿にして旧宮御門に至り手輿を下り、玉垣の間に侍坐す、女嬬二人之に従ふ、大神宮司大玉串蘰木綿を捧る事常の如し、斎王蘰木綿を着、大玉串を捧持拝奉給ひ、畢て離宮に還り給ふ、十六日御装束を祓清め、使王神祇副忌部各一人太宮司共外院に参入り、禰宜内人及人垣男女共に大祓して御装束を持参り、内院中御門に使中臣新宮仕奉りて遷奉り、御装物奉る状を告刀申て、中臣及宮司新宮正殿御橋下に侍ふ、中臣東にあり、宮司西に在り、時に大物忌先参上て手附初《テツケソメ》、次禰宜正殿戸を開奉り、殿の四角に燈燃して御装束具を進、畢て皆退出、使は外直会殿座に就く、宮司即人垣仕奉る人等を召集ひ、衣垣衣笠刺羽を持しめ、各太串捧げて左右に分立て正殿の御階下に候ふ、時に行幸の道に布敷、大物忌御鎰賜りて御戸開奉り殿内に燈燃し、御船代開奉て正体《ミカタ》をば禰宜頂奉り、相殿東方に坐御体は宇治内人頂奉り、西方御体をば大物忌父頂奉り遷奉る、行幸の先立は禰宜、次宇治内人、次大物忌、次諸内人物忌及妻子等人垣立て、衣垣曳|衣翳《キヌサシバ》等捧て行幸しむる時に、新宮玉串門に立留て鶏の如く三遍鳴て(本注云、其|音《コヱ》鶏の如く|加祁加不《カケカフ》と云)行幸坐しめ、瑞垣門に至り留て又鳴き、御河橋下に留て又三遍鳴く、蓋長嶋鳥の遺風也、使中臣進入て玉串御門に侍行幸坐しむ時、禰宜殿内に鎮奉り坐しめ、畢て即内御門に御燈炬して退出、八度拝奉り、各直会院に至て湯貴供奉る(延暦儀式帳)〔以下脱文〕
〔脱文、未詳〕と云、初垂仁天皇朝有爾鳥墓村に神痔(まだれ)を造り、神痔(まだれ)司を置て雑の神政を行ふ、孝徳朝郡を建るに及て度会山田原に御厨を造り、神痔(まだれ)司を改て太神宮司とす(延暦儀式帳)此後宮司専其事を掌る(参酌延暦儀式帳三代実録・延喜式)延暦十六年宮司奏さく、神宮御厨斎内親王離宮及諸司宿舎等、宝亀中改造の後二十六年なるを以て、悉破損を致し且河水溢るゝを以て修営を加ふれども猶全からず、願はくは神部課丁に功食を充て他処に移さむ者、即勅して請に従て湯田郡字羽西村に移造らしむ(園太暦・神宮雜例集)承和八年是よりさき離宮火災に罹れり、故に此に至て伊勢尾張二国正税を充て、斎内親王離官を造らしめ給ひき(続日本後紀)凡帝王神宮を拝坐時、先此宮に向ひ禊を禊殿に行ひ、祭終て宮に還る、主神司中臣南門に候て御麻を奉る、凡御厨案主十人、司掌一人、鎗取三人、厨女一人を置く、并神都百姓を充つ、其衣食は神封物を分給ふ(延喜式)凡そ神宮に仕奉る者、禰宜一人、大内人四人、大物忌九人、殳九人、小内人九人、其禰宜大内人十日毎に内人等を率て番を分て宿直す、(延暦儀式帳・延喜式)又大神宮司あり、孝徳天皇朝始て一員を置き、貞観十二年二員とし、元慶二年大少二員を置く(延暦儀式帳、貞観以下三代実録)諸宮も内人二人、物忌父各一人を置き、凡そ封戸仕丁、太神宮三人、豊受宮二人、諸宮各一人、御厨十六人、斎宮四十八人、祭主十人 (延喜式)
荒祭宮《アラマツリノミヤ》 大神宮の摂社第一に居り、正殿の背に在り。続日本紀「宝亀三年八月、荒御玉神預官社」と云ふもの此也、延暦儀式帳「荒御魂宮、以鏡為霊形」延喜式「荒祭宮一座、太神荒魂、去太神宮北二十四丈」○倭姫命世記云「荒祭官、皇太神荒魂、伊邪那太神化生神、一名八十枉津日神也、一名瀬織津比(口+羊)神是也」○日本妃略に長元四年荒祭神斎王に託りまして、甚く神威を著したまふ由見え、東鑑、文治三年、源頼朝此神に馬一匹を進献す。
風宮《カゼノミヤ》 本宮の西南二町水を隔てゝ鎮座す、風神社又|日祈《ヒノミ》神社と称し、風雨草霖の祈ある所也、延層儀式帳に見ゆ、弘安四年蒙古来寇の時、此神大に神威を顕揚したまふを以て、正応六年宮号宣下あり。風宮の傍に往時僧尼拝所一宇あり、僧尼は宇治橋以内に入るを禁ぜられしを以て、五十鈴川の西南を迂廻し、此に至りて皇大神宮を遙拝せしむるを例としたりとぞ。
この春は花ををしまでよそならん心を風のみやにまかせて、〔夫木集〕 僧 西行
風宮の西数十歩にして、五十鈴川の二源流の集会する碩を落合《オチアヒ》と曰ふ、此に滝祭の場あり、延暦儀式帳に見ゆ、延喜式には滝祭は神殿なきを以て大神宮摂所二十四社の外とす、儀式帳に二十五社と云は之をも数へしを知る。
伊勢の神路山の月、杉の木末にかくれ、御もすそ川の西の落合かはらに影見えければ、 月ははや神路の峰にいでぬらし御河の西の影ぞすゞしき、〔続門葉集〕 僧正 通海
補【風宮】○神都名勝誌 風宮橋、僧尼拝所址、古は僧尼の拝所にて風宮橋の南端より枝橋を掛け、川南の岸をつたひ遙に正殿に対して一宇を設けありき、今はなし、
風曰祈《カザヒノミ》宮 橋を渡りて右の方に鎮り坐す皇大神宮の別宮なり、当宮はもと風神社と称し、風雨旱災を祈り申しゝ由、皇太神宮儀式帳に見えたり、弘安年中蒙古襲来の時神威を顕はし給ひしを以て、正応六年三月廿曰宮号宣下ありて別宮に列せられ給ひき。
神苑ジンエン》 内宮西北に接す、此地もと館《タチ》町と称し、神宮の斎所也、近年人家五十余戸を撤去し、樹石を排置し苑囿と為し、神宮の風致を添ふ。○神苑の東辺、荒祭宮の北に当れる地より、往々茶臼石と云者を拾取る、此石は管玉の類なれど、何の故にて此に発見せらるゝや、詳ならず。〔神都名勝誌〕
補【内宮神苑】○神都名勝誌 此の地もと館町と称し神宮の斎官ありし所なり、近年有志の輩神苑会を起して、人家五十余戸を撤去し、樹石を排置し、神域の風致を添へたること、山田外宮神苑に同じ。
茶臼石 荒祭宮の北に当れる宮域にて往々之を拾ひ取る者あり、管玉に類せり、何の頃の物なるか知るべからず、
百《モヽ》枝松 何所にありし今詳ならず、水左記に大神宮御前とあり、
みづからよみあつめたりける歌を三十六番につがひて伊勢太神宮に奉るとて俊成卿にかちまけしるしてと申しけるに、度々いなみ申しけれど、しひて申し侍るとて歌合のはしにかきつけてつかはしける
藤波を御裳濯川にせきいれて百枝の松にかけよとぞ思ふ (風雅集) 西行法師
勝負しるしつけてつかはしける歌合の奥に書き付け侍りける
藤波も御裳濯川のすゑなればしづ枝もかけよ松のもも枝に (同) 皇太后宮大夫俊成
神宮司庁《ジングウシチヤウ》 神苑の南に接し、正殿の西北に在り。神宮は朝家王政の盛代には、斎王祭主宮司以下、定制に従ふて奉仕し、両所は一統の斎宮寮大神宮司に管掌せられしが、中世以降神封亡び旧制破れ、度会荒木田(中臣姓)の禰宜神主等纔に神徳の洪大を説きて、諸州に勧募し辛うじて祭事を済す、之より両所の神官各家は皆競ふて郡邑の信者を結縁し、其関係仏寺の師檀に同じ、明治維新の際、悉く如是の弊習を除き、祭主は親王諸王の任補に帰し、宮司禰宜以下の官制を布かれ、神宮使は臨時官と為さる。(斎宮寮大神宮司址参考)
伊勢暦と云は、往時両宮の御師《オンシ》神主より、毎年其檀信へ御祓(大麻)と共に頒与したる者を云ふ、其頒暦の事は何時より起りしか、蓋徳川氏以後の事ならん、神都名勝誌に正保五年の旧本ありと曰へり、今政府は帝国頒暦の特権を神宮司庁に附与す。
補【伊勢暦】○神都名勝誌 伊勢暦は何の頃より創りしか、宇治山田の御師より諸国の信者に伊勢土産の暦と唱ふる暦本を頒布する慣例ありき、維新の後廃れたり、今摸本〔欠〕、こは正保五年の物なり。
子等館《コラノタチ》址 子等とは神宮奉仕の幼童の風俗舞楽なり。神都名勝誌云、毎年神嘗両月次の三祭礼に、度会郡野篠矢野山神積良蚊野の諸村より、親禰宜幼童数人を率ゐ来り、原村よりは歌長弾琴笛生等来りて、玉串《タマグシ》御門前にて舞を奏する事ありき、之を鳥名子舞と称せり、維新の後廃れ今は亡ぶ、建久年中行事六月々次祭の条、
従酉剋計、鳥名子等参候、瑞垣御門外方撃志多良、叩手也、謳歌、件歌之中、
シダラウテト、テヽガノタマヘバ、ウチハムベリ、ナラビハムベリ、アコメノソデヤレテハムベリ、オピニヤセム、タスキニヤセム、イザセム/\、タカノヲニセム。
慶長十二年国母仙院より両宮の子良館に貝桶を下し賜ひしことあり、今猶庁庫に保存せり、其の蓋の裏に良恕法親王の題あり。
貞享五年、きさらぎの末、伊勢に詣づ、我れ御白洲の土を踏こと、既に五たびに及侍りぬ、一つ/\年の加るに従ひて畏くもかしこきおほん光も、思ひまされる心地して、かの西行の跡をしたひ、増賀のまことを悲びて、内外の御前にぬかづきながら、袂をしぼる計になん、
何の木の花とはしらず匂ひかな、 芭蕉
神垣の内に梅一本もなし、いかに故有事にやと、神主などに尋侍れば、只何とはなし、おのづから梅一もともなくて、子良の館の後に一もと侍るよし語る、
御子良子のひともとゆかし梅の花、 芭蕉
宇治《ウヂ》橋 神苑館町の北に在り、宇治|今在家《イマザイケ》町へ架す、即五十鈴川の梁なり、往時は此橋上流に在りて、神苑の東辺滝祭の祓所の北なりき。神都名勝誌云、今の宇治橋の辺、昔は洲にて人家もなく、神官家も大半|中村《ナカムラ》に居住せり、其の後川の洲平地となり、人家も立ち続き、神官家も宇治に移住し、宜きに就きて大橋を今の処に架せしなり、昔の大橋は蕎麦川原に在りしと云ふ、土仏参詣記に曰、「滝祭神とて、河の洲崎に松杉なんど一村立てる計にて、御社もましまさず、其より北を望めば長橋の流をきるあり」と云々、此橋往古は仮に岡田郷の中央より東岸なる岩井田山に架したりしを永享六年、足利義教参詣の時、今の所に移して、堅牢なる大橋となしゝならむ。
林崎文庫《ハヤシザキブンコ》 宇治今在家町の西側、鼓《ツヾミ》岳の下に在り、文庫の設広大に非るも、古より其名ありて遠く聞ゆ。 ○神都名勝誌云、林崎文庫は前山の半腹にあり創立年月詳ならず、旧丸山に在りきといふ、貞享三年故ありて今の地に移せり、天明年中、権禰宜荒木田神主蓬莱尚賢僚友と謀り、書庫講堂塾舎等を建てつらねたり、現今神宮司庁の所轄に属せり、蔵書は在来数万巻ありしに、猶珍籍奇書を広く天下に求めしかば、献納する者どもありて、年に月に増加す、鷲嶺鼓岳桐嶺島路神路朝熊の峰巒三面を囲繞して、一方は楠部中村鹿海等の村落遠近に顕はれ、五十鈴川の清流は其東麓を螢(虫が糸)廻して、四時の風光いはむかたなし、文人墨士の常に杖履を容る所也、文庫創立碑、一は南庭にあり、本居宣長の撰文、屋代弘賢の書なり、一は北庭にあり、柴野邦彦の撰文、浅野長祚の書なり。
津長《ツナガ》原 宇治今在家町の西、林崎の下に接す、今此辺は民家満ちて郊原の旧形なし、倭姫命世記云、「大神之御船泊在処を津長原と号き」。
宮木ひく津長の原の春の雪こゝろもとけぬあとをこそ見め、〔神祇百首〕 度会 元長
津長大水神社、又大水神社二座、延喜式に見ゆ、今并び存す、内宮摂社二十四座の中にて、蓋度会地主の裔神なり。
補【津長原】○神都名勝誌 倭姫命世記曰「其御船泊留在志処乎津長原止号支、其処尓津長社定給支」と、宇治今在家町字津長原あり、蓋し此地ならん。
慶光院《ケイクワウヰン》址 今神宮祭主官舎是也、宇治浦田町の東側に在り、院宇は天正慶長の比、住持比丘尼豊臣氏の力を仮り造営する所にして、書院廊無(まだれ)今に巍々乎たり、明治維新の初め尼院を停廃せられ、神宮司庁と為し、後祭主官舎に充つ。
慶光院は神宮衰頽の日に造営勧進の功あり、宇治の浦田に在り、昔は山田の西河原にあり、天正中此に遷り住す、当院は他の寺堂に異にして、仏像及梵唄鐘鼓等無し、住持は歴代伝奏を経て勅許あり、賜紫衣の比丘尼にして、宗旨は禅宗、無本寺地あり、近代の尼公には権門の女を乞て寺主とす、威厳他院に殊なり、開山清順上人、(順一作臨)尾州の産中世兵革に因り、二所大神宮遷宮、百余年の間断絶して頽廃す、清順尼深く之を憂ひ、諸州を勧進して造営の料を寄せんとす、然るに僧尼の所勧を以て造営するは、神慮も畏るべく、祠官等も末世の瑕瑾なるべしとて聴さヾれば、其尼の御師足代弘興に託して、其料を送り公訴に及ぶ、永禄年中遂に正遷宮を勤行せしと云ふ、其後兵乱連綿して、又遷宮及宇治橋等廃す、其弟子前例に准し其料を送り寄す、天正慶長中の寺主、豊臣氏に昵近して甚親し、この時庫裏客殿等修営す、今に至り伊勢上人と称す、是前世に諸州を経過して勧進せる時の名の遺りたるなるべし、郷談文雅に曰ふ、第二世守悦上人、文明中御裳濯橋を造営す、第三世清順上人、天文中内宮仮遷殿宮、四世周養上人、天正中内宮仮殿及正遷宮を執行ひ、又外宮正遷宮を行ふ、其後守清上人守長上人相継ぎ寛永慶安の正遷宮を行ふ、其後其造営執行を停らる云々。〔五鈴遺響〕○東照宮実紀云、慶長八年、「伊勢慶光院に御朱印を下さる、伊勢両宮遷宮の事、先例にまかせ執行べし」とあり、是は応仁この方、四方兵革の中なりし故、伊勢両宮荒廃きはまる事百年に過たり、天正十三年、慶光院開基清順尼豊臣家に請ひて造替の事はかりし先縦を以て、斯く令ぜられしなるべし。
補【神宮祭主官舎】○神都名勝誌 浦田本町の右側にあり、此の官舎は元慶光院の建物なりき、慶光院は天正年中豊臣秀頼、片桐且元を奉行として創立せしめられし所なり、書院廊無(まだれ)等輪奐其の美を尽せり、維新の後之を神宮司庁とし明治廿三年迄庁務を執れり、其後修繕を加へて祭主官舎としたり、年々祭主の宮参向の時御宿泊に充つる所なり。
菩提山《ボダイサン》 朝熊山の西の尾にして、内宮神苑東北凡十町、(今四郷村大字中村の属)仏寺址在り、(逢鹿瀬参考)続紀「孝謙天皇天平神護二年、遣使造丈六仏像、伊勢大神〔宮〕寺」と云者此か。寺伝云、聖武皇帝勅願、僧正行基開基、往古は大伽藍なりしが、数度の火災に罹り、文治元年良仁上人中興の後、弘長中回禄し、宝暦年中に及び朝熊山尊隆阿珊梨重修す、仏堂山門等近年まで存しき。〔参宮図会神都名勝誌〕○按ずるに神宮に仏寺を置き、本地垂跡の習俗を醸成したるは、聖武帝の御宇にして、行基良弁等の主張に出づ、本朝神社考は太神宮雑事記を援き、天平十三年、行基詣神宮請教、七日之夜、真殿自開、大声唱之曰「実相真如之日輪、照却生死之長夜、本有常住之月輪、(火+樂)破煩悩之迷雲、我今逢難逢大願」其十一月右大臣橘諸兄、拝神宮、天皇夜夢、大神告之曰「日輪者大日如来也、本地者廬舎那仏也、衆生悟之、当帰依仏法也」云々、是れ東大寺造仏の本縁にして、恐らくは奸僧の偽言ならん、然れども又其事の必無を断じ難し、天平神護二年の造仏、蓋非常の聖慮に出づ、漫に非仏の念を挟むべからず。○康永参詣記云、香爐風は薫ず、弘正寺の浄場、茶竈煙幽なり、菩提山の禅坊、かゝる寺々一見して、朝熊の宮にまゐりぬ。
伊勢にて菩提山上人房に月に対して述懐せしに
めぐりあはで雲のよそにはなりぬとも月になれゆくむつび忘るな、〔山家集〕 西行
菩提山にて
山寺のかなしさつげよところ掘、 桃青
神垣やおもひもかけず涅槃像、 同
菩提山の古墟より経文を刻せる瓦を発見すべし、両面に刻みて、年妃は山田天神山に掘取る者と同く、大抵承安四年なり、又山中に古墳三所あり、近年其一所を発掘したるに、瑪瑙金銀鐶太刀土器等の埋蔵を見たり、其構造石を以て室を畳み成したり、恐らくは宇治土公氏(猿田彦裔孫)の墓ならん。
補【菩提山神宮寺址】○神都名勝誌 西行谷より三町許東の山間にあり、今四郷村に属す、寺伝に云ふ、聖武天皇の勅願により天平十六年僧行基の草創せし所なりと、続日本紀に丈六仏像を伊勢大神宮に造るとあるは、即此の寺の本尊なり、往古は大伽藍なりしが数度の火災に罹り、宝暦年中所建の本堂山門等近年まで存したりき。
経瓦 此地にて往々拾ひ取るものあり、両面に経文を刻す、天神山より出づる物と年紀相同じ、承安四年也。
古墳 後の山の半腹にあり、都べて三箇所あり、近年其一ケ所を発掘す、瑪瑙の曲玉金銀鐶数品、太刀土器等を蔵せり、其構造大石を以て四方を畳み、覆石は頗巨大なり、今形跡によりて考ふるに、千年以前の物と見ゆ、恐らくは宇治土公氏の祖先の古墳ならむか。
西行《サイギヤウ》谷 菩提山の西三町許、宇治館《ウヂタチ》町の巽五町、円位上人西行の栖址なり、谷の辺を世木《セキ》とも字す、保延の頃上人伊勢に来り、二見山と此谷に庵を縛し住止す、当時御裳濯川歌合宮川歌合の撰あり、此に近年まで茅屋を置き、尼僧住みて上人の古跡を伝へたり。
西行谷の麓に流あり、女共の芋洗を見て、
芋洗ふ女西行ならば歌よまむ、 桃青
【世木】○神都名勝誌 西行谷、館町の巽五町許にあり、保延年中僧円位二見郷の安養山と此の谷とに小庵を構へ、御裳濯川歌合・宮川歌合などを撰集したりき、近年まで茅堂尚存し、尼僧住み居ければ、雅客常に逍遙して、夏日は瀑布に炎塵を洗ひ、秋夜は月下に鹿鳴を待つなど頗る幽興に適せる地なりき。○康永元年太神宮参詣記、
西行庵址 坂士仏
此地空余山寂寞 昔人去後幾朝昏 緑蘿庵旧絶縦跡 只有松風敲寺門
○世木、西行谷の西なる田圃の字なり。
中村《ナカムラ》 北中とも云、宇治の市街の東北十六町許、五十鈴川の下流に沿へる村なり、今四郷村に属す。往古は河原田《カハラダ》村とも、宇治郷河原里ともいひき、宇治岡陽田の片岸より、此の村を経て皇大神宮に参詣せし古道あり、荒木田氏の旧家多くは此の所に居住したりきとぞ。建久年中行事、六月月読宮月次祭祝詞、
度会の宇治の河原田村の下津岩根に大宮柱太敷立て高夫原に千木高知て云々、
此地は宇治郷の旧里にして、今の宇治市街(今在家町浦田町等)は後世の造立なり、月読社宇治社等あり、又荒木田神主の墓所あり、此神主は太神宮本紀に垂仁天皇即大鹿島命を祭官と定め給とある家にして、続紀、「天平十九年、伊勢国人伊勢直大津等七人、賜中臣伊勢連、天平神護二年、中臣伊勢連大津、賜姓伊勢朝臣」と云、亦此氏人なるべし、田辺郷参看すべし。
宇治の中村といふ所にて
秋かぜや伊勢の墓味なほすごし、 芭蕉
五鈴遺響云、大永年中、内宮の一の禰宜荒木田守武、世中百首を造る、世に称して伊勢論語といふ、巻首に「世の中の親に孝ある人はたゞ何につけてもたのもしきかな」と、百首の体教導を要領とす、此を以て論語の名を冒すなるべし、又享禄三年守武百韻を連ね、天文九年独吟千句を綴る、是連句百韻千句等の権輿なり、其後山崎宗鑑独吟千句の出るあり、而して松永貞徳御傘淀河等、連歌式の書著述成りて、俳諧大に興れり、故に伊勢は俳譜権輿の称あり。
宇治神社 ○延暦儀式帳云、宇治山田神社一処、称大水神児山田姫命、形無、倭姫内親王御世祝定。○今中村に在り、内宮摂社廿四座の一なり、〔神都名勝誌〕蓋葭原神と共に度会地主神と為す。
葭原《ヨシハラ》神社 延暦儀式帳云、葭原神社、大歳神児佐々良比古命、形石坐、又宇加乃御玉御祖命、形無、又伊加利比女、形無。文徳実録云、天安二年、在伊勢国正六位上西原神、預官社。○今中村の月読森の南に坐せり、内宮摂社廿四座の一なり、〔神都名勝誌〕参宮図会に、興玉森は都波岐明神と呼び、月読の南に在り、猿田彦の旧址とぞとあるも此か。
月読《ツキヨミ》宮 中村|北森《キタノモリ》也、延喜式「月読宮去大神宮北三里」とありて、今道十八町に当る。仁寿二年洪水、殿舎漂流し、宣旨あり新地を定められ奉遷す、或云久世戸坂の下水田の中に森二所あり、俗に二光森と称するは、月読伊佐奈岐の旧址ならむと。〔神都名勝誌〕
治承四年、遷都の時、伊勢太神宮に帰り参りて君の御祈念し申侍りてよめる、
月よみの神し照らさばあさ雲のかゝる浮世も晴れざらめやは、〔千載集〕 大中臣為定
梢見れば秋にかはらぬ名なりけり花おもしろき月よみの宮、〔家集〕 西行法師
〔補注、一生涯草紙・西行物語に拠る〕
神紙志料云、月読宮《ツキヨミノミヤ》二座、神宮の北三里、今宇治郷河原田村にあり、〔延喜式神名帳考証神名略記〕伊弉諾尊の御子、月読尊及荒御魂を祭る、月読尊霊形は紫御衣を着て金作太刀を佩馬に乗給へる男神の形に坐す、〔日本書紀延暦儀式帳〕荒御魂命は鏡を以て霊形とす、〔神名秘書〕月読尊文月神月弓尊月夜見尊と申す、其光彩日神に亜ぎ、夜の食国を治し滄海原潮の八百重を知し坐神也、〔参取日本書紀古事記〕光仁天皇宝亀三年八月、京師雨風の災あるは、此神の御祟なりと卜申すを以て、毎年荒祭神に准て馬を奉り、伊佐奈岐神並に官舎に預る、〔続日本紀〕仁寿二年、月読神殿伊佐奈岐神と同じく洪水の為に流失たるを以て、勅して布施河原両里の間に正殿を造り、斉衡二年九月に至て成り、御体を遷奉る、〔神名秘書神宮雑事記〕貞観九年両社を改て宮と称し、延喜の制大社に列し、凡荒祭滝原滝並伊佐奈岐月読伊雑風宮は之を内宮七所の別宮と云ふ。〔神名略記〕
補【月読宮】○神都名勝志 宇治中村の北の森に坐せり、皇太神宮の別宮なり、仁寿二年八月廿八日の大洪水に殿舎漂流し、同年十一月朔日宣旨ありて宮地を此の所に定められ、斉衡二年九月二日に奉遷の式を行はせられしよし、太神宮諸雑事記に見えたり、或はいふ、久世戸坂の下水田の中に二つの森あり、二光の森と称す、これ其旧地ならむと。○神祇志料 清和天皇貞観九年八月丁亥、社を改めて宮と称し、月次祭に預り、十年九月遷宮の時月読宮の神殿を増造る、其荒魂命は旧に仍て改る事なし(神名秘書・神道本源、九月拠三代実録)醍醐天皇延喜の制並大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預る(延喜式)凡そ荒祭・瀧原・龍原並宮・伊佐奈岐・月読・伊雑・風宮合せて之を大神宮七所別宮と云(神名略記)
伊佐奈岐《イサナギ》宮 月読森に在り、月読宮と同所に鎮坐し、其沿革を同くすと云ふ。○神祇志料云、伊佐奈岐宮《イサナギノミヤ》二座、神宮の北三里にあり、〔延喜式〕今月読宮同地の西に在り、〔神名帳考証〕天照大御神の御祖伊弉諾尊伊伊弉冉尊を祭る、霊形並に鏡に座す、〔日本書紀三代実録延喜式、霊形拠神名秘書〕初二神天神の詔の随に此葦原中国を治め給ひき、其神功威烈尤盛にして且大也。〔日本書紀古事記〕
楠部《クスベ》 中村の北東に接し、古市町|九世戸《クセト》より朝熊岳及鳥羽港に到る通路にあたり、今は四郷《シガウ》村の大字也、太神宮諸雑事記、月読宮奉遷の条に「宇治郷十一条廿三|布施《フセ》里、同条廿四川原里等之間」とあれば、布施は楠部の旧名にて、川原は中村なり。
補【楠部】○神都名勝誌 中村の北東に在り、古市町久世戸より朝熊岳及鳥羽港に到る通路なり、今は四郷村に属す、太神宮諸雑事記月読宮奉遷の条〔仁寿三年八月の条〕に「宇治郷十一条廿三布施里、同条廿四川原里等之間」と見えたり、川原里は今の中村なり、されば布施は楠部の古名ならむか。
大土《オホツチ》神社 延喜式内宮摂社二十四座の一にして、楠部の東鳥羽路の左側に在り、所御社《トコロノヤシロ》とも称す、延暦儀式帳「大土神社一処、称国生神児大国玉命、次水佐々良比古命、次佐々良比売命、形石坐、倭姫内親王定祝」○按ずるに古事記に「大年神生子大土神、亦名士之御祖神」と云名あれど、伊勢なる此神は之と異なるべし、度会大国玉神社を参照するを要す。国津神所《クニツミオヤ》御社○大土神所御社の域内に在り、御子社とも称す、延暦儀式帳云「国津御祖神社一処、称国生神児宇治比売命、形石坐、又田村比売命、形無、倭姫内親王御世定祝」。
家田《ヤタ》 大土神社の近地の旧名なり、家田田上《ヤタタノヘ》の頓宮は皇大神五十鈴川に行幸の初め、暫止の遺跡とす。○神都名勝誌云、此は倭姫命大御神を載き奉りて坐しましける時、猿田彦神の裔孫、宇治土公の祖先なる太田命参りあひて「五十鈴川上に吉き大宮地ある由」答へ奉りし所なり、皇孫命降臨の御時には、猿田彦神御前仕へ奉り、茲に又太田命の大宮地を奏し奉りしは、蓋天上よりの御幽契にして、深き故ある御事なるべし、さて其の旧址を案ずるに、大土神社の南に当れる地を家田(今は尾崎)と云へり、田上は御常供田《ミチウグデン》の辺を云ふなり、(宮崎御常供田の辺に坐す社をも田上大水神牡と称せり)仍りて本村家田にて、神田に近き森を尋ねたるに、産土神八柱神社を得たり、域内古木鬱葱として、自ら千古の風を存せり、恐らくは是即行宮の遺跡ならむか、大神宮本記及儀式帳に本文あり。○伊勢名勝志云、内宮の大御田は楠部に在り、外宮の大御田は藤里に在り、共に天長田と称奉る。
我くにゝ長田の早苗うつさずばいかヾせん世のとみ草の花〔神祇百首〕 度会 元長
補【家田】○神都名勝誌 家田田上行宮旧址 皇大神宮御遷幸の時、暫時坐しましゝ行宮の跡なり。
皇女《クワウニヨ》森 神都名勝誌云、栲幡《タクハタ》皇女は五十鈴川の辺にて自経し給ふ、其所詳ならず、此皇女は稚足姫皇女とも白髪《シラガ》内親王とも称す、雄略天皇の皇女におはしつ、第五代の斎宮に坐す、阿閇《アベ》臣国見の讒により、冤罪を蒙りて縊死し給ひき、或は云ふ、楠部の皇女森は即其の旧址ならむと。
浦田《ウラタ》 宇治中村の西を曰ふ、其西北高地を浦田坂と曰ひ、其南は今宇治の市街と為り、浦田町と呼ぶ、神宮祭主官舎在る所是也。○猿田彦神社は浦田町の二見氏の構内に坐す、同氏は世に宇治の土公と称せり、猿田彦大神の裔孫、太田命より系統連綿として今に至るといふ。〔神都名勝誌〕○倭姫命世記云、興玉《オキタマ》神、無宝殿、衢神猿田彦大神是也、一書曰衢神孫太田命、是土公氏遠祖神、五十鈴原地主神也。
補【浦田坂】○神都名勝誌 往古僧行基の両宮に参詣せし時、世人に無常を示さむとて唱歌数首を綴り、比丘尼にうたはせしが初なり。〔間山、参照〕
陽田《ヒナタ・ヤウタ》郷 和名抄、度会郡陽田郷、訓比奈多。○神鳳抄、度会郡陽田郷、又内外両宮兵乱記に陽田見ゆ、今詳ならず。神都名勝誌は古書を引き宇治岡の東に字|陽《ヤウ》田片岸の名ありと論ず、之に因れば浦田坂以北、間之山中之町桜木町古市町久世戸町等すべて字治郷の西北継橋郷の南を謂へるに似たり。
宇治《ウヂ》岡 神都名勝誌云、古市より東南浦田坂に至る高地を(前山の尾なり)宇治岡と云ふ、古は一帯の丘陵腕艇(2字とも虫偏)横亘し、其間石路(しんにょう+施の旁)(しんにょう+麗)して、纔に人馬を通じたりき、故に長峰の称あり、天正年中、神郡の奉行を兼ねし田丸の城主稲葉蔵人道通(諸書に通直に作れるは非なり)豊臣家の命を受け、岩石を断鑿して坦途を開き、路の両側に松桜の樹を植ゑしめ、参拝人に便を与へたりといふ、太神宮諸雑事記に、治暦四年九月の条に「宇治岡之東、字|陽田《ヤウダ》片岸」と見え、又東鑑治承五年正月の条に「江四郎経太神宮御鎮坐神道山、遁隠宇治岡」とあるは此也。
間山《アヒノヤマ》 宇治岡の今名なり、古市|尾上《ヲヘ》坂と宇治浦田坂の間にして、両神宮の中山なれば也、天正以後、参宮路を此に通じたるを以て、民屋櫛比し、路傍に三味を弾き客を呼び銭を乞ふ婦女あり、間山の阿杉阿玉と称し、伊勢参宮の一名物なり、此歌妓は蓋歌比丘尼の流とぞ、今は鄙俚聞くに勝へず、園女の句に「三絃の拍子にかゝるきくらかな」と云ふは巧なり。○神都名勝誌云、間山唱歌の起因は、行基の跡逐へる法師が、参宮の人に無常の旨を歌ひ授けしに在り、近世寛文延宝の頃に、両間の山(尾上坂浦田坂)の路傍に小屋を作り、女は紗綾縮緬を纏ひ三絃を弾き、男は編笠を被り簓を摺り、子児を踊らせ銭を乞ひき、其の諷ふ歌いと哀にして、文句もよく聞き分けられたるよし、神都長嶺記等に見えたり、此の歌を院本などに挿みて、今に間の山節と称す、山東京伝の著しゝ二見の仇討といへる書に、僅かに一首を載せたり
我に涙をそへよとや、ゆうべあしたのかねの声、じやくめつ為楽とひゞけども、きいて驚く人もなし、のべよりあなたのともとては、けちみやく一つに珠数一れん、これがめいどのともとなる。
古市《フルイチ》 山田宇治両宮の間に在る小繁華なり、妓楼娼戸最多し。此地は往古郷中の市立せし場所なれば、其名あるべし。伊藤武者景綱上総介伊藤五忠清は古市の人なる由保元物語源平盛表記に載す、亦久しと謂ふべし、然れども今日の賑ひは近世に起れる事なり、寛文初年刊行の伊勢道中記云、
古市町、此の町を過ぎて中の地蔵にかゝる、中の地蔵といふも町の名なり、此の町には茶屋多きなり、遊女あまたあり、あやつり見物芝居此の所にて取り行ふ、是よりめてにあたりて、二町ばかりもあなたに、寒風《サムカゼ》といふ所あり、左右に並木の松あり、昔より此所には人の家居もなかりけるが、近年あそこ爰に人家も出来にけり。
神都名勝誌云、古市の名は久しと雖、妓家は慶長元和の頃に、路傍並木の間に竹格子揚蔀の家を設け、婦女を養ひ往来人に茶菓を供せしが濫觴なり、夫より年月を経るに従ひて、漸殷盛に赴き終に一大遊廓となり、娼楼酒館、列肆繁錯して構造最雄麗を極めたり、されども明治維新の頃までは、尚古風を存し、店前に茶釜を架けおきたりとぞ、或は此廓を呼び長峰《ナガミネ》里と曰ふ、又劇場在り、新撰古今役者大全に「田舎芝居の第一と立つるは、伊勢の芝居にて、尤も由緒深し、毎年正月末より五月までは、二軒はあれども、一軒もなきことなし、昔は伊勢の芝居を芸の示めし場として、是を首尾よく勤め評判よき役者を、京大坂の二番目師にしたるものなり」と見えたり、今は一場のみ残れり、又伊勢音頭の始を考ふるに、上世は歌垣とて、春秋に若き男女立ちまじりて、音頭をあげ歌舞を行ひたることありき、後にはその風俗すたれたれど、秋のふみ月にのみ月にうかれて歌ひ踊る事、ひなの国にぞ残りける、この国にても伊勢踊と唱へて、其遺風を行ひ来りしを、寛延の頃、古市備前屋の主人感ずる所ありて、今の如くに仕組みたり、こは往古弥生望の月毎に、この国なる小倭郷より、齢六十路にあまる夫婦の者等の来て、外宮に鶴の舞という者を奏せし古例ありしを思ひ出でて、少女子等にねり踊らせて、伊勢詣の人どもの見物に供せむとて始めたるものなりとぞ、土俗或は之を河崎踊と云ふ。○妓|阿紺《オコン》墓碑は大林寺の境内にあり、江戸俳優某の建てし所なり、阿紺は本町青楼油屋清右衛門の抱妓なり、阿紺の事よりして、宇治浦田町なる医師孫福斎(院本福岡貢に作る)が数人を斬殺したるを、伊勢音頭恋寝刃と題して院本に物せしより、世に名高くなりぬ。
南遊絶句 梁川星巌
(横目/菴のくさがんむりなし)寄書楼台翡翠簾、揺々酒影閃風(穴/巾)、南游到処無多願、只買珠娘一笑塩、
伊藤五忠清は古市の人、膽勇を以て著る、平清盛に事へ右衛門尉と為り、上総介に遷る、治承中源氏兵を諸処に起す、忠清軍に従ふて之を撃ち、後富士川に大敗す、又北陸道に出戦し克たず、忠清亡命し去る、平田家継兵を伊賀に挙ぐるに及び、忠清往て之に属す、家継敗死す、忠清逃れて志摩の麻生浦に匿る、源氏の家衆執へて之を京師に送り、竟に斬らる、子あり忠光と曰ふ、上総五郎兵衛尉と称し、平宗盛に事ふ、宗盛滅後脱走して民間に匿れ、建久三年潜に鎌倉に入り、源頼朝を刺さんと謀り、遂に果さずして執へられ、死に処せらる、世其志気を憐むと云。○僧月仙は古市寂照寺の住持なり、丹青の妙技を極め、令名を後世に伝ふ、今寺中に墓碑あり、文化六年、世寿六十九と曰ふ、寂照寺は浄土宗、延宝五年僧知鑑開創。
補【長峰】○神都名勝誌 酉の時、変化既になりて安の間より顕はれ出で、多分茶釜の前に着坐す、暮色の見事さは殊更にして、過行の客を呼びとゞめて茶にするあり、茶にして酒となるあり、相手ほしき折からにして、情人は情人のかなひ、雲顛客は雲顛の調莱坊となる、キャキャとの門遊も亦一興。
補【寂照寺】○神都名勝誌 本町の左側にあり、浄土宗なり、此の寺の八代目の住職に月仙と号する僧ありき、丹青の技を以て名を江湖に博せり、今境内なる碑文によれば、文化六年世寿六十九、法臘五十四、葬於当寺蔵堂之南。○名勝記 宇治中之町にあり、浄土宗、延宝五年知恩院三十七世僧智鑑創立す、安永三年僧月仙来りて住職となる。
前山《マヘヤマ》 古市山田の南、五十鈴宮川両水の間に盤拠す、神路山の西側を成し、南界は菖蒲谷(今沼木村に属す)に至る、方五六十町、其高頂を鷲嶺《ジウレイ・ワシガミネ》と曰ふ、鼓岳其東北に堀起し、内宮の西に当る、北尾は分れて高倉山高神山宮崎城山等と為る。
神都名勝誌云、前山は両宮間の山岳の総称なり、古文書には左貴山の名あり、神路山の先の義ならん、(神路を奥山と曰ふ)伝へ云、昔大和街道より神宮に詣づる人々は、宮川の東岸佐八村より山間を攣ぢ登りて此所に出で、宇治郷浦田坂に通じたりと、又山北には永禄年間までは、世義寺三宝院光明寺等の巨刹、勝概を占め居たりきといふ、当時の名残にや、今なほ処々に桜の老樹を存せり。
鷲嶺《ジウレイ・ワシガミネ》 前山の南る峻峰なり、抜海凡五三○米突、西南は沼木村大字|上野《ウヘノ》菖蒲《シヤウブ》等の地なり、鷲嶺に石鍾乳洞あり、三坊窟の東南に当る。或記曰「水従洞中出、従流入之、把燭(人偏+句)(人偏+婁)而入也、漸渉水、覚岩湿泥滑、燭光所射、垂露螢(虫が火)螢(虫が火)如也、凡十八歩路稍闢、見石榜及両石(石+工)、如人標置、先入左穴、石下嵌空、透下得路、始不覚出何許、乃知循岩孔、一匝復出故道、更於榜右稍高処、得一穴、漸入有飛泉、其下大石森立、泉左又有一小穴、腹行僅得入、益入益窄、不可復前、乃進燭窺之、上下岩勢如断(歯+咢)相合、水布其底、左尤深(黒+幼)、旁入者遽呼曰、得源矣、追従之、仄行又得一穴、入而上、高二丈許、周径若干、状若閣道、由此文入一穴、下五六尺、(門/可)然軒豁、洞之所窮也、所覆之岩特蒼古、瀑布二丈許、噴沫飛散、下有一白石、突起承之、日夜寒水之所噛、肌剥髄露、水湛々貯其下、意必与余所窺断(歯+咢)下水通脈也。
さやかなる鷲の高嶺の雲ゐより影和ぐるつきよみの森〔新古今集〕 西行
鼓岳《ツヽミガタケ》 前山の東、宇治今在家町の上に聳ゆ、標高三六〇米突、宮川の佐八村より、大字前山(今宮本村に属す)を経て、鼓岳の下を浦田坂林崎に通ずる林径あり。
林崎まはではいかゞ通るべき鼓がたけをうちながめつゝ 〔歌枕名寄〕 鴨 長明
連台《レンダイ》寺址 鼓岳の北麓、大字|勢田《セタ》(今宮本村と改む)に在り、神都名勝誌云、正暦年中、祭主大中臣朝臣永頼卿、霊夢に感じて創立せられたる真言宗の寺なりしよし、古事談に見ゆ、近年廃毀して、旧址のみを存せり、境内に鏡池といへる小池あり、又上方に鼓瀧と云飛泉あり、高一丈七尺。
大神宮袈裟記〔群書類従本〕云、茲有大禅師別峰和尚、永徳二年春、始詣伊勢大神宮、而後寓居御山蓮台寺数月矣、欽惟、天照大神者、天神七代之苗裔、地神五代之尊祖、日本第一之宗廟也、天下万民之所敬崇也、誰敢不瞻仰乎、茲年四月上旬、有檜垣大長官貞尚五代之孫、四禰宜貞昌者、大神夢告曰、我社蔵由良心地上人所授之藕糸袈裟、爾(人偏)取之付与蓮台寺別峰和尚、自此山田数万家、及国中人民、競詣蓮台寺、譬如百川之流水、帰于大海。
継橋《ツギハシ》郷 和名抄、度会郡継橋郷、訓都木波之。○今宇治山田町の中、山田の東部|倭《ヤマト》町より、外宮の東までなるべし。
延暦儀式帳「継橋郷河原村」、神宮雑事記「継橋郷美乃乃村」○此郷は古風土記には土橋《ツチハシ》とせり、後之を継橋と改む、光明寺所蔵天福二年の文書に継橋郷大河原村とあり、皇太神宮儀式帳奥書、山宮神事祝詞、神名秘書、釈尊寺沙汰文等に就きて考ふるに、南は前山《マヘヤマ》より宮崎《ミヤザキ》岡本《ヲカモト》岩淵《イハブチ》吹上《フキアゲ》の辺まで、此の郷に属せしなり。補【継橋郷】○和名抄郡郷考 節用集、継橋在勢州山田。神鳳抄、度会郡継橋郷。故老口実伝、沼木継橋。神宮雑事記、継橋郷美乃々村。太神宮儀式帳、継橋郷河原村。勢州古今名所集、度会郡継橋郷豊宮崎文庫者慶安元年所創立也。
尾上《ヲベ》 或は下部《オベ》に作る、尾上坂の上を倭町と称し、古市の西に接す、旧常明寺門前と云ひ、継橋郷と宇治郷との境なり。常明寺一名尾上寺、神萱落《カムカヤオトシ》神社の別当たり。近年まで堂宇山門巍然たりしが、遂に廃絶せり、長徳検録に尾上寺とあるは常楽坊にて、泉寺とあるは常明寺を指せるなるべし、度会益弘の説には、尾上寺は古の尾上の陵守の栖みたる処にて、常明寺一代の住僧彼の寺役の料を取りて隠居す、是今の常楽坊なりといへり。
補【尾上】○尾上町は岡本の東に続ける国道なり、此の町妙見堂の下にあるゆゑ妙見町と称せしを、近世改めたり。尾上坂《ヲベサカ》 往古は羊腸の岩路なりしに、寛文九年坂道を開鑿せしめたり、何の頃よりか於杉於玉と唱へ、処々に仮小屋を作り、(衣+玄)服濃粧の女子に三絃又は胡弓を弄せしめて、往来人の投銭を乞ふ者ありき、近年之を廃して人家を建て連ねたり。〔間山、参照)
尾上《ヲベ》古墳 神萱落神社の巽の方、叢林の中にあり、巨岩相覆ひて入ることを得ず、土俗倭姫命の御墓なりと云ふ、然れども古記の徹すべきものなし、近年此の所より曲玉金鐶忌瓮等を掘出せり、何にまれ貴人の墳墓にて、千年以上の物なるべし。
経峰《キヤウミネ》は、尾上坂の南の峰をいふ、又伝ふ倭姫命の御墓なりと、未だ其の証を得ず、毎年十月世義寺の僧徒夜中如法経を納むる式ありき、因りて此の称あり、倭姫命世記云「雄略天皇二十三年二月十五日、自退尾上山峰石隠坐」〔神都名勝誌〕○曼陀羅石《マンダライシ》は、経峰東南の尾崎竹林の中にあり、高さ六尺許の碑石二基、二三尺許の断碑数基立てり、いづれも苺苔繍斑、字画磨滅して定かならず、纔に建武二年月日藤原保重、源幸、大中臣、荒木田氏女等の数字を読み得べし。
今尾上町と云所は近年まで妙見《メウケン》町と称したり、妙見祠在れば也、西は岡本町接す、南は岩淵町吹上町、北は河崎町也。
補【倭姫命旧跡】度会郡○神都名勝誌 尾上陵所在詳ならず、本郡山田尾上町と倭町の間に坂あり、尾上坂といふ、蓋し此近地なるべし、倭姫世記に云ふ、雄略天皇二十三年二月十五日、自退尾上山峰石隠坐と、後人之を尾上陵、又隠山等と称す、古老伝へて此地に尾上社、又小部御陵と称する小社ありと云ふ、今考索するに其地を見ず。
光明《クワウミヤウ》寺 尾上の南|岩淵《イハブチ》町に在り、臨済禅院なり、寺伝に曰、初め天平十四年、聖武天皇の勅によりて前山に草創せられ、何の頃にか山田吹上村に移りしに寺運漸衰へたり、元応年間に至り、住職恵観之を禅宗に改め、伽藍を修築せしかば道風復振ひぬ、世に中興開山といへり、爾来東福寺の未刹となる、寛文年間、本支院とも祝融の災に罹りしにより、此の地に再築せり、恵観は月波禅師と称す、南朝の忠臣結城上野介入道宗広朝臣の遺族なりしを以て、入道自筆の勅制軍中法并に軍中日記及び室家の消息、其の他院宣北畠准后の袖判等数通を什襲せり、往年水戸藩に大日本史を編輯せられし時、之を採収して光明寺残篇と曰ふ。○古鐘一口、小楼に懸く、常盤井摂政関白藤原実氏の寄附せしものなりとぞ、古来神境に於ては、梵鐘を撞くこと禁制なりしゆゑ、神官等之を止めしに、天正年中、寺僧郡宰上部越中守に愁訴し終に豊臣家の特許を得てより、毎日二回此の鐘を撞く事とはなれり、其の朱印今に当寺に蔵せり、因にいふ白河天皇の第二の皇女(女+是)子内親王、第五十二代斎内親王として、伊勢に居給ひし頃、其の外祖母なりし六条右大臣の息室伊勢に下り給ひしに、鐘声の聞えければ「神垣のあたりとおもふにゆふだすきおもひもかけぬ鐘の声かな」と詠ぜられしよし、金葉集に見えたり、此の歌のは此の鐘の事なりとの説あれども、年代違へり。〔伊勢名勝志神都名勝志〕○光明寺に後白河院及源顕家結城宗広の供養石塔、并に僧月波の墓あり、宗広入道道忠は月波の父にして、延元四年、八宮義良親王に随行し東国へ進発し、船破れ果さず、安濃津に卒す、其廟今藤方山に在り、一説光明寺に卒し、即此に葬ると云ふ。
補【光明寺】○名勝誌 山田岩淵町にあり、臨済宗東福寺末なり、天平十四年聖武天皇創建、帝及後深草後醍醐天皇の勅願所たり、元応元年結城宗広堂宇を再建し、其子月波を中興開山とす、此寺もと本郡鼓が岳にありしを山田吹上町に移す、後今の地に転ず、寺に宗広自筆の勅製軍法・軍中日記を蔵す、又後深草帝の時常盤井入道実氏寄附と称せる梵鐘あり、伝へ云ふ、神境もと鐘を撞くことを禁ず、天正中外宮神官等本寺の撞鐘を禁ぜんと欲し、豊臣秀吉に訴ふ。
岡本《ヲカモト》 尾上町の西に接し今岡本町と称す、外宮の東也、倭姫命世記伊勢風土記に土橋郷岡本村の名見えたり、高神《カウシン》山の開通以前、六坊山の東麓に人家散在したり之を岡本里と曰ふ。
染めあかぬもみぢ葉のこるうきぐものしぐれてかゝる岡本の里、〔新名所歌合〕 大中臣定忠
補【岡本】○神都名勝誌 岡本町、豊川町に続ける国道なり、伊勢国風土記・神名秘書等に土橋郷岡本村の名見えたれば、上古より存在せる村邑なり、高神山の開通以前六坊山の東麓に人家散在したりき、其の町より東町蛭子祠の辺は岡本の里の旧址なり、新名所歌合の画題に入れり。
世義《セギ》寺 岡本町瀧波山に在り、真言宗醍醐寺々末なり、旧前山亀野に在りしを、永禄年中外宮の西に移し、寛文十一年今の地に移す、天平年中の開創にして、往時は堂宇盛大塔頭十九塔ありしと、後威徳院を遺し自余は廃頽せり、本寺例歳に如法経会を修行す、俗にドウヒと称し、播州書写寺の法会に同じ。〔参宮図会伊勢名勝志〕
瀧なみの山ごしにきく鹿の音にねざめさびしき岡本のさと、〔新名所歌合〕 荒木田成定
補【世義寺】○伊勢名勝志 山田岡本町瀧波山に在り、真言宗山城醍醐寺未なり、天平中聖武天皇の勅創にして、元と前山亀の郷と云ふ地にありしを、永禄中外宮の西に移し、寛文十一年今の地に移せり、往古塔頭十九坊あり、輪番之に住す、後本坊を威徳院に合す、本寺例歳如法経会修行の式あり、俗ドウヒと称す、此法会は播磨書写山と本寺のみなりと云ふ。
高坐《タカクラ・タカザ》山 前山の北尾にして、直に山田外宮の上を蔽ふ、通俗高倉に作る、古名賀利佐嶺と曰ふ、天日別命が地主《クニオサ》伊勢津彦に会見したる古跡なり、外宮の東南を擁し、山林は千古斧斤の侵さざる所なれば、老幹直立積翠滴るが如し。或は多加佐山と称し、山中岩窟あり、之を天岩戸と呼び四十八ありと云ふも、今は二三所を見るのみ。
君が世に濁りもあらじ高くらや麓に見ゆる忍穂井の水〔新名所歌合〕 度会仲房
補【高佐山】○神都名勝誌 此の御山は往古春日戸高座神の住み給ひし所ゆゑ、旧記に多賀佐山或は高座山と記せりしを後に座をクラと読みしより終に高倉と訛伝せしなるべし、又加利佐我嶺・日鷲山・音無山・郭公不為声山・鶏足山などの称号あり、豊受大神宮御鎮座以降は天然の藩屏となりて、東南を擁護せり、数十年来斧斤の侵さざる霊域なれば、老樹(直三つ)々積翠滴るが如く、人をして粛然恐敬の念を起さしむ。
天岩戸《アマノイハト》 神都名勝誌云、外宮神苑の東、高神《カウジン》山麓より凡九町許にして岩窟に達す、是古代の墳墓なるべしともいへり。洞口巽位に向ひ、稍入れば広敞大厦の如し、左右天井ともに巨岩怪石を以て塁めり、其の石質を験するに多くは海石なるべし、貝族の付着せるもの今尚存せり、連雨の候には常に塩気を吐きて石膚滑なりとぞ、海浜を距ること数里の絶巓に、かゝる大石を運搬せしは、実に容易の業にあらず、其の非凡の大土工たりしを察すべし、康永参詣記曰「外宮後の山に希代の岩窟あり、仙客常に来り諸神爰に集ると申伝へ、四十八洞と云へり、唯今まで人のゐたると覚えて、石面の暖なる所も有り、又よの常ならぬ翁の人に行きあふ時もあり、漢家に三十六の洞天有り、かれは道工が方術を行ふ霊窟なり、当山に四十八の霊崛あり、是は神仙遊戯をなす化城なり」云々。○按ずるに天岩戸南の小岩戸あり、(大石谷)玄門閉ぢて人をして窺はしめず、未発の古墳なるべし、又土俗高倉の絶巓を高天原と呼び、神代史に因り山中に種々の所会を為したるが、近年は多く亡びたり。
いにしへの神世の影ぞのこりける天の岩戸のあけがたの月、〔金槐集〕 鎌倉右大臣
倭姫命世記云、裏書勘注曰、風土記曰、畝傍樫原宮御宇神倭磐余彦天皇、詔天日別命、覓国之時、度会|賀利佐《カリサ》嶺火気発起、天日別命視之曰、此小佐居歟、礼使遣命見、使者遠来申曰、有大国玉神、賀利佐到、于時遣使奉迎天日別命、因令造其橋。○又風土記云、〔古風土記逸文本〕伊勢者云、伊賀事志社坐神、出雲神子出雲建子命、又名伊勢都彦神、又名天櫛玉命、此神昔石造城坐於其地、於是阿倍志彦神来集、不勝而還却、因以為名」と、此石城と云は何処にや、高坐山の石戸の類ならん。
補【岩戸】○神都名勝誌 岩窟、高倉山の巓にあり、世俗天岩戸といふ、神苑の東端、高神山の麓よる昇る道あり、凡そ九丁。
客神《カウジン》山 高倉の麓を曰ふ 一に高神又荒神に作る。其南の尾|大国《オホクニ》谷に度会大国玉比売神社あり、延喜式に列し外宮摂社十六座の一にして、延暦儀式帳に拠れば大国玉命佐々良比売命二座を奉祝し、伊加利比女命社は其傍に在り謂ゆる地主の神なり。凡此国に於て地主に擬すべきは伊勢津彦と猿田彦の二神なるが、後代奉祝の者は皆伊勢津彦乃其裔神なるが如し、此なる度会大国玉社も伊勢津彦なり。○古事記伝云、古風土記に神武天皇中州に入り座比、天日別命を遣して、伊勢国をうしはける伊勢津彦と云神を言向けしめたまふ、此神は建御名方の亦名にて、神武天皇の御世と為せるは、天皇の御歌に「神風の伊勢」と云詞の初て見へたるより伝へ誤れる者なるべし、(此説いかがあるべき原書の方却て通じ易し)今も高倉山の岩屋は、伊勢津彦の住りし跡なりと伝ふ、暫く此に隠れ居て後信濃国へ去りたまへるにやありけん、(此説岩戸を居室と為し隠所と云ふも不当)高神《カウジン》山に客神《カウジン》社とて、建御名方神を祭ると云ふ。○因云「神風の伊勢」てふ枕辞は本居氏「伊勢津彦が風を起し、之に乗りて去れりと云ふ故典に基けるならん」と説かる、国名の下に註するごとし。
宮崎《ミヤザキ》文庫 大国谷の東に在り、岡本町に属す、坊山の南なり、宮崎は一に豊宮崎と曰ふ、豊受宮の崎山の義なり。○神都名勝誌云、宮崎文庫は慶安元年外宮禰宜度会神主延佳(出口氏)弘正(与村氏)等首唱し、衆庶に資財を募りて創建せし所にして、神官の子弟修学の黌舎なり、当時延佳弘正末清正清の功績朝廷に達し、皆栄爵に叙せられき、幕府儒生林道春文庫記を作る、万治三年に至り幕府より修繕費として米弐拾石の采地を寄附、尋いで貴紳家よりも其の拳を賛同して、珍籍奇書を贈付せしかば、和漢の書籍及図画刀剣等倉庫に充棟したり、傍に講堂学舎数宇を設く、室直清、貝原篤信、伊藤長胤、井沢長秀、谷重遠近くは大塩後素、藤森大雅等来りて書を講ぜり、明治十一年の春、祝融の災に罹りて講堂其の他烏有に帰せしが、書籍及大観社の一構は幸に其の災を免れたり、書籍中にも貞享年間島原城主源忠房の寄進せる古文尚書十二巻は、清家々伝の遺冊にして希代の一品也、庫側に外宮神主の碩学度会延佳足代弘訓の霊社を建つるは、郷人追仰の志也。
田上《タノヘ》大水神社○延喜式に列す、宮崎に在り、外宮の摂末也、其地を丸山と呼び、又車塚と曰ふ、社後に古墳あり。
沼木《ヌキ》郷 和名抄、度会郡沼木郷、訓奴木。○今宇治山田町、外宮以西の地に当る、近年前山鷲領の南なる諸村を合併し沼木と曰ふは之と異なり、或書に招木とは沼沢に木あるを以て此名ありと為すは、文字に因れる附会にて、本義に非じ。
神都名勝誌云、沼木郷は外宮鎮座の処也、古は宮川の支派山田の平原を繞り、池沼叢樹の其の間に錯落せるを以てかく名づけたりとぞ、止由気太神宮儀式帳延喜式等に沼木郷山田原と見え、神鳳抄に度会郡沼木郷、光明寺所蔵安貞二年文書に度会郡沼木郷|上山幡《カミヤハタ》村など見えたり、中島《ナカジマ》、二俣《フタマタ》より宮後《ミヤジロ》田中の辺に至るまで此の郷に属したりき。
豊受《トヨケ》宮 山田の宮後町の北に在り、南面して高倉山に対す、宇治大神宮と共に国家の大祀なり、故に両所伊勢神宮と称し、内宮《ウチノミヤ》に比し外宮《トノミヤ・ゲクウ》の号あり、古書に「大神宮西七里度会宮」と云者是也、七里は今路四十二町也。神都名勝誌云、外宮は等由気宮又度会宮と曰ふ、祝奉る所は豊受大神なり、此神日本書紀に「伊弉諾尊又飢時、生児号|倉稲魂《ウカノミタマ》命、倉稲魂此云|宇介能美陀磨《ウカノミタマ》」また保食神とも見、え、古事記皇孫命天降の段に「次|登由宇気《トヨウケ》神、此者坐外宮之度相神也」和名抄に「保食神、和名|字介毛知乃加美《ウケモチノカミ》」また「稲魂|宇介乃美太万《ウケノミタマ》、俗云|字加乃美太万《ウカノミタマ》」など見え、又大宜都比売とも申し奉り、百穀発生の原素を掌り、天下の人民に衣食を幸ひ給ふ神なり、抑此大神はもと丹波国丹波郡比沼の麻奈為原に坐しましゝを、雄略天皇の御宇度会神主の遠祖大佐々命をして、此の大宮他に鎮め奉らせ給ひしなり、相殿神三座ゐます、延暦儀式帳正殿一区の註に「同殿座神、参前称相殿申」また「相殿神、御船代弐具」とあり、延喜太神宮式に「度会宮、船代四具」とある註に二具相殿神料とありて、西の御船代に二座、東の御船代に一座ましますなり、きてまた延喜太神宮式に「神殿三座、装束帛被三条、絹被三条、帛衣三領、絹衣六領、絹裳九腰」とあり、御裳をも調進せられし上は、女神にましますか、弘安九年通海参詣記に「当宮には左右の相殿三座おはします、何れの大神にて御座するよし、人いまだ知り奉らざることなり」とあり、大同本紀には御伴の神三前と見えたりし。○神祇志料云、度会宮四座、今山田原村に在り、天照大御神の御饌神登由気大神を祀る、蓋伊邪那岐神の子、和久産巣日神の子豊宇気毘売神即是也、〔延暦儀式帳古事記〕上古皇孫命の天降し給ふ時、天神の詔をもて此神の御霊を副降し奉りき、〔古事記〕而して丹波国与佐の比沼の真名井に鎮り坐しゝを、雄略天皇の御世、大御神天皇の御夢に「我御饌津神等由気大神を我許もか」と誨奉り給ふを以て、大佐々命に勅して、布理《フリ》奉れと宣ひき、故罷往て布理奉り、即|御饌《ミケ》殿造奉りて、大御神の朝の大御饌夕の大御饌を日別に供へ奉らしめ給ひき、〔延暦儀式帳上代本記皇字沙汰文〕霊御形鏡に坐す、〔倭姫命世記神名秘書〕相殿神三座、御伴神三前を祀る〔大同神事供奉本記〕皆女神に坐り、〔止由気宮儀式帳延喜式〕(一書、三座は瓊々杵尊天児屋命天大玉命なりと云ふは、後人の妄誕)初め豊受宮の艮角に御饌殿を造り、朝夕の御饌物を調備へ、捧持して太神宮に参向ひ仕奉れるを、聖武天皇神亀五年正月、例に依り本宮より皇太神の朝御饌を備て、先天村雲命の孫に捧げ賚しめて参る処に、途なる宇治山の谷道に死人の有るを見つゝ持参り、天見通命の孫荒木田禰宜に授渡し仕奉り、終て後二月余りを経て、天皇御薬急ぎ御坐して重く祟り給ひき、故宮司高良比連干上其由を奉ずに依て、使を遣して之を祈白さしめ、神主川麻呂御炊内人弘美等に大祓を科せ、三月勅して新に御饌殿を立て、永く神宮に持参ることを停め給ひき、凡饌殿内東方に天照坐皇太神を御奉《マセ》り、西方に止由気大神を坐せ、又御伴神三前を坐奉り、大佐佐命の定奉る抜穂を舂炊ぎ御器に盛り奉らしめ、終て神主物忌を率て其殿前に侍ひ、祈祷み 「天皇朝廷|常石《トキハ》堅石《カキハ》に護り幸へ奉り給ひ、百官に仕奉る人及天下四方国の人民を平に愍給へ」と申て、皇太神を八度止由気大神を八度、御伴神を八度拝奉りて、毎日朝夕に供へ奉りき。〔皇字沙汰文神宮雑例集並引大同本紀、参取神宮雑事記〕
何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるゝ、(山家集、とよけの宮にて)円位 上人
はたすゝき尾花かりふき神風や内外のみやはよろづ世までに、〔夫木集〕 鎌倉右大臣
かけまくもかしこき豊の宮柱直きこゝろはそらに知らるゝ〔続後撰集〕 藤原俊成
日本書紀〔神代巻一書〕云、天照大神、聞葦原中国|有保食《ウケモチ》神、遣月夜見尊就候之、保食神自口出品物而饗之、月夜見尊忿抜剣撃殺、然後復命、天照大神怒不須相見、乃与月夜見尊、一日一夜隔離而住、是後遣天熊人往看之、保食神既死、其躯生種々物、天熊人悉取持去、奉進之、乃以為陸田種子水田種子。○古事記伝云、等由気大神は天照大神の御食の神にます、神祇官の御食神は即此也、然れども膳夫《カシハデ》の神など云はいみじき非なり、されば天照大神よりも貴き霊なるやと云んに、さには非ず、天にも地にも天照大神より尊き神坐すことはなし、唯其大神も又祭りたまふ神はある事にて、世々の天皇の天神地祇を祭らせたまふと同じ。○按ずるに、内外両所宮は相殿数座に上り、古来朝廷の崇敬之を視て同一と為したまふは、皆天照大神の神慮に因るべしとこそ申奉れ、差別の説は後世の議論に出づ、彼陰陽に配し火水に当て、宗廟社稷若くは対比高下の弁を立つる等、後人知巧の見を以て古の神道に擬するは、いかで誤謬なかるべき、之を支那の道家印度の仏者の理談に習合し、(若しくは泰西学者の鬼神論に比較して)云々するも、皆本邦の古風儀を悉す能はず。我中世夙に習合神道の起るあり、両祠の両官其典冊を伝へ、三部書又は五部書と云ふ、五書中倭姫命世記独り信拠に足る、而も是れ大神宮本紀の残欠にして、天慶以降大治以往の纂集に係る、開巻先づ曰ふ、
天地開闢之初、神宝日出之時、御饌津神、与大日靈貴、豫結幽契、永治天下、或為月為日、永懸而不落、或為神為皇、常住以無窮、と後人の竄入を視るべし、又神託を録して、 心神別天地之本基、身体則五行之化生、肆元元入元初、本本任本初、神垂以祈祷為先、冥加以正直為初、
と、理談の発達を視るべし、遂に豊受大神をば大自在天の子と註し、亦天御中主霊と説けり、大自在天を両所御鎮座伝記は伊舎那天に作る、是仏説に仮れる者也、外宮御鎮座本紀は首掲し、
天地初発之時、大海之中、有一物、形如葦芽、其中神人化生、名号天御中主神、亦曰豊受皇大神也、
と揚言し、造化の始元を極めたり、而も内宮を国常立尊と為し、高下の分を示せり、然れども是等の事古書に見えず、皆外宮祠官が私に造れる妄語のみ、蓋外宮をば内宮よりも貴くせんとする奸計に出づと云ふ。宝基本紀は延喜以後天慶以前の纂録なるべし、中に
因茲奉代皇天、西天真人以苦心誨喩、教令修善、隋器授法、
などと説き、又内宮を火徳、外宮を水徳に対比し「日月変化、水火徳用」と談ぜり、又
神道則出混沌之堺、帰混沌之始、三宝別破有無之見、戻実相之地、神則罰穢悪導正源、仏亦立教令破有相、
と曰ふ、習合論の開展頗力めたるを知る、然れども此宝基本紀には未だ外宮を以て造化之神天御中主と為さず。永仁四年、両宮の祠官の間に、皇字沙汰の訴訟起る、鎮座本紀鎮座伝記等の偽造は、当時已に成れるや明なり、是より以降「外宮は天御中主を祭り、内宮は国常立尊を祭る」と云ふ事殆世の通説と為る。徳川幕府の初めに、儒生往々神道を談ず、亦多くは五部書に拠る、山崎垂加の流派を其魁としたり。元禄の比より復古の学風起り、神道又漸く変じ、以て近時の勢を成せり。
又按ずるに、中世乱離、大神宮司の政廃し、内外両所の祠官相抗争して止まず、其極武家の抑制に会ふを常とせり、中にも文明中の争闘は、北畠国司の干渉する所なり、神域に殺戮焚毀の珍事を見たり、両宮兵乱記曰く、先年山田外宮衆より、岡本に番所を置、諸国道者を内宮の宿へ通さず堅く相止め、但参宮の上下計を通ずる間、内宮より種々の山田へ仔細を申と雖、不承引、弥堅く止るの間、多気の御所を頼み、御口入有て可給由、日安庁宣を以て、致訴訟所に、内宮より申事無余義の由仰られて、山田へ仔細を被仰付といへども、不承引、剰へ榎倉掃部助氏則本人として文明十九年十月二十四日より、内宮の通路を一向に止む、然間宇治衆兵粮以下万づ及迷惑の間、多気殿御腹立にて、同十二月十九日御勢を遣され、同廿日に山田三方悉く放火せらる、榎倉一類は宮中に走入り、火を掛け奉り腹を切る、翌年より無為に治り、山田三方の面々還住也、去るに因て、山田の破れ偏に宇治の所行ぞと意趣を残す。(神都名勝誌云、山田三方は須原方坂方岩淵方と曰ひ、三方の年寄集会して執政する法なりき、近年三方年寄会所とて、大世古町に在りき)
忍穂井《オシホノヰ》 卸饌水《ミケツミツ》なり、御井社其傍に在り、外宮御炊殿の西百廿丈、藤岡の麓にて、称へ奉りて天真井《アマノマナヰ》とも天長井《アマノナガヰ》とも曰ふ、伊勢国造度会神主の遠祖天村雲命、天孫降臨の時、天上より移し下したる者と伝ふ。
代々をへて汲ともつきじひさ方の天より移す忍穂井の水〔風雅集〕 度会延誠
花咲ば真名井の水をむすぶとて藤岡やまにあからめなせそ、〔神祇百首〕 度会元長
度会国見神社は延喜式外宮摂社十六座の一なり、延暦儀式帳によれば、彦国見加岐建与束命と曰ふ、蓋亦度会地主の裔神なるべし。参宮図会云、国見杜は其旧址藤岡山に在り、今石を積置き藤《フヂ》社と曰ふ。
高宮《タカノミヤ》 外宮正殿の東北なる高処に在り、豊受大神第一の摂社也。延喜式云、多賀宮一座(豊受大神荒魂)去神宮南六十丈、凡二月祈年幣帛者朝使到日、太神宮司引使者先参度会、次太神宮奉献幣帛、其高荒祭宮、使者自進奉、余官命禰宜等進奉。○倭姫命世記云、多賀宮一座、豊受荒魂也、伊弉那伎神所生神、名伊吹戸主、亦名曰神直日大直毘神、霊形鏡坐。
神苑《ジンエン》 宮域の四至は延長四年の官符に定め給ひしに、中世以来其境内に人家建ち聯り、自然に市街をなすに至れり、近年之を慨き、公私協議、一挙して人家百余戸を撤去し、池沼を穿ち岡阜を築き、松杉疎密の間に四季の花木を植ゑ、大に神苑を開きたり、農業館は別区に設置して、百穀草木播種の道に資く。○坂士仏参詣記に「出家の輩は五百枝《イホエ》の杉と申霊木の下に詣でて、宮中へは参らず」と見えたり、此杉今はなし。補【農業館】○神苑の北方国道を隔てゝ之を設く、苑の別区なり、百穀の種子はいふも更なり、大凡農事蚕業に係る諸器械は国の内外を問はず網羅蒐集して満場に陳列せり、蓋此の館をこゝに設けしは豊受大神宮の御神徳を広く衆庶に仰がしめむが為なり。
月夜見《ツキヨミ》宮 外宮摂社十六座の一にして、外宮の後に在り、内宮摂社月読神と同体、豊受神に因みまします神也、延暦儀式帳延喜式に列す。○神都名勝誌云、月夜見神社は承元四年宮号宣下ありて、別宮に列し、神殿を増作せられたり、宮域の四至封疆地(さんずい+皇)を繞らし、その内には老樹(くさがんむり+翁)欝として実に千古の風致を存せり。又|高河原《タカカハラ》神社同域に坐す、延喜式川原|国生《クニナス》社と載せたる社なり、相伝ふ旧社域は此処より一丁許東、西河原薮世古なりきといふ、又|須原《スハラ》大社ならむといふ説もあれども証とするものなし、応永年中頭工日記の文によれば、其の頃已に今の地に坐しゝ趣なり。○康永参詣記云、月読宮に参りて拝すれば、森の朽葉跡をかくして、庭の冬草塵をなせり、月読の御名を思へば、神代の事もきゝなれたる心にて、
いくとせか露の玉垣ふりぬらんかみよの秋の月読のみや。
平尾《ヒラヲ》 平尾頓宮址は、月読宮の東|高河原《タカカハラ》の辺なりといふ、雄略天皇二十三年、豊受大神宮丹波国与佐の宮より御遷幸の節、所々の行宮を経させられ、当国一志郡山辺の行宮より、先此の所に移り給ひ、三箇月の間坐しましゝ霊蹟なり。〔神都名勝誌〕
山田原大神宮司《ヤマダハラダイジングウシ》址 又御厨と曰ふ、高河原に在り、遺址今詳ならず、御厨とは初め神痔(まだれ)《カムダチ》と呼び、神邑神戸の租税を徴し、貢物を収むる政所なりき、垂仁天皇の御代、皇大神宮御鎮座の当初は、有爾《ウニ》郷|鳥墓《トツカ》村に設けられしを、孝徳天皇の御代に至り、大神宮司の職を置かれ、中臣|香積《カツミ》連須気を以て之に任ぜられたり、是大神宮司の権輿なり、(此大神宮司の職務を執る所を御厨政所と云)以来凡一百五十年、神宮の諸政を執行せし旧址なり、また此の所に斎内親王の別館諸司宿舎まで数棟ありて、その一郭内をすべて離宮院とも称したりとぞ、然るに延暦十六年の水難によりて、湯田郷宇羽西村に移転せられし由旧記に見えたり、此の近傍の地名を察するに河原大河原(継橋郷)高河原(沼水郷)等の名ありて、中古までは宮川の分流月夜見の宮の北裏(俗にきとらと曰ふを通りたりと覚ゆれば、其の水害に罹りしを知るべし。〔延暦儀式帳神宮雑例集神都名勝誌〕
山田《ヤマダ》 山田町又山田郷と曰ふ、外宮の在所なり、今内宮宇治郷に合併して、宇治山田町と称す。
山田は旧沼木郷山田原と称し、又沼木平尾と称し、平郊の地にて、外宮鎮座以後神邑と為り、中世より民口富庶の名あり、康永参詣記にも「宮川を渉り端山繁山の陰に至りて見れば、此面彼面の里道をひらきて、誠にひとみやこなり」と載せ、南勢第一の都会なり。
延暦儀式帳云「等由気太神宮院事、今称度会宮、在沼木郷山田原村」と、東鑑、養和元年の条には山田郷と記したり。此地本神封なれば、宮司政所の治下なれど、戦乱荒廃の後は、武家の干渉を免れず、北畠国司の頃は已に田丸城を置き、将士をして神邑の政治に参与せしめたり、徳川氏に至り特に山田奉行庁を置き、将士を派して神邑の民政及び大湊船廠の事を司らしめ、役料千五百俵を給す、卒を附属せしめずと雖、水主七十五人を支配せしめたり、明治維新の際、此に度会県を置き南勢を管治したりしが、後廃し、今度会郡衙あり。 神のます山田の原の鶴の子は帰るよりこそ千代はかぞへめ、〔玉葉集〕 源 順
元文年間、旅人小憩の為めに、茶屋を設けたるより濫觴して、妓館を生じ之を新町と曰ふ、又文政年間新地を開き、遂に一郭の娼家を成す。
補【山田原】○神都名勝誌 豊受大神宮大宮地近傍の総称なり、往古宮川の堤防全からざりし時、支流数派に分れ、池沼林(木+越)処々に交錯せる平原なりしかば、沼木《ヌキ》の平尾とも或は山田の原ともいひき、中世より人家稠密して一都会を為すに至れり、近年宇治・高向《タカムク》・箕曲・招木・継橋の五郷を合せて宇治山田町と称す。康永太神宮参詣記、宮川を渉り端山繁山の陰に至りてみれば、此面彼面の里道をひらきて、誠にひと都なり。〇三十三所名所図会、雨合羽のたち屑をもて附髪を作り山田広小路の商家に鬻ぐを、剃髪の徒之を求めて頭にくゝり宮中に詣づれば許させ給ふ、公けなる神慮のほどぞ最とたふとし、狂歌に曰く、髪長は伊勢の宮居のかゐ(かゐにママ)言葉坊主合羽のたち屑の髷。
補【宮後町】○神都名勝誌 豊受大神宮の本殿南面にして、此の町其の後に当れるを以て名づけしか。
補【八曰市】○神都名勝誌 八曰市場町、此の地中世毎月八曰郷人市(纏の旁+おおざと)部を開き、諸物品を交易せし所なれば、この称あり。
新町 元文年間旅人小憩の為に茶店を設けたるが其の濫觴にして、今は章台楊柳に白馬を繋ぎ、演劇歌舞にゆる間なし、殊に夏月の納涼には烟火の妙技を尽し、涼柵楼閣の紅燈昼を詒くばかりなり。
新道 文政年間田沼を填めて其の築地に両三軒の茶店を設けしが、次第に繁華に趣きたりとぞ、今は両側競ひて大厦層閣を構へ、唱歌絃声かまびすし、亦一の銷金商なり。
城山《シロヤマ》 山田の南、常盤《トキハ》町の上方に在り、高百尺許、民家あり、是は文明十八年宇治山田一揆争乱の時、ヤマダ方の要害城として、村山掃部介武則陣営を設け、北畠国司の軍勢を拒みし所なり、其の事跡は伊勢軍記勢陽雑記久志本年代記先規録官司引付遷宮次第記文明一乱記子良館旧記等に掲載したり。〔神都名勝誌〕
補【村山砦址】度会郡○神都名勝誌 山田常磐町字城山に在り、高大約百尺、山上平坦なり、山海の景目睫に集り風景愛すべし、文明八年十月宇治の役村山武則国司北畠氏の兵を拒がんとして砦を設く、後廃す。
大間国生《オホマクニナリ》神社 城山の下、常盤町字大間に在り、草名伎《クサナギ》神社同域なり、其東に清野《スガノ》井庭神社あり、并に延暦儀式帳延喜式に列し、外宮摂社十六座の中とす。
天神《テンジン》山 城山の西にして、二俣町の南に在り、往昔山下に菅廟ありしを以て名くと云ふ、山上に経塚あり、此地より曼陀羅梵文漢字の彫刻ある古瓦を発見すべし、或云箇は大曰経の文にして、承安四年の記載の物ありと。
補【山上郷】○史料通信叢誌 山上郷より掘出せる経瓦あり、瓦の表裏に誌せるは大曰経の経文にして、承安四年のものなりと言ふ。〇二俣町 天神山は田原の南にあり、往昔麓に菅神の廟ありしを以て名づく、土人経塚と称す、此の地より曼陀羅梵字仏経等を彫刻せる古瓦を掘出すこと毎々あり。
中島《ナカジマ》 山田東部の総称にして、中にも中島町と云は宮川上渡の街路に当る、文明十八年、山田一揆村山掃部此磧にて北畠氏の兵と戦ひ克たず、応長五年、鳥羽城主九鬼義隆西軍に応じ田丸城を攻めたる時、中島に退く、敵兵追撃、北勝蔵辰親戦死す、其事を録せるを中島兵乱記と曰ふ。○宮川の畔に三好塚と云竹叢あり、三好長秀(阿波三好元長の子とぞ)其子頼澄の二人、永正五年此地にして北畠国司材親の殺す所と為り、因て此に葬ると云。〔伊勢名勝誌〕
蔀野井庭《シトミノヰバ》神社○今中島|辻久留《ツジクル》町に在り、大河内神社同域なり、共に延暦儀式帳延喜式に列し、下宮摂社十六座の中なり、打懸社と云は儀式帳に見ゆ、亦同域とす、古記に沼木郷|八幡《ヤハタ》村と曰へり。
補【中島】○神都名勝誌 中島町は宮川上の渡の街道にして、京町よりの国道と合す、鳥羽の城主九鬼大隅守と岩手の城主稲葉蔵人頭との間常に不和なりしが、慶長年中稲葉蔵人九鬼を討たむとして出陣せる途次、其の一族なりし北勝蔵辰親と云ふものと此所にて戦ひたりとぞ、旧記に載せたり、中島兵乱記といふものあり。
補【三好《ミヨシ》塚】度会郡○伊勢名勝志 山田宮川町(或は云、中島町にありと)に在り、方二十間許の竹叢たり、俗三好塚と称す、長秀元長の子、頼澄は長秀の子なり、二人永正五年四月北畠材親と此地に戦ひ、軍敗れて自殺す、因て此に葬る〔系図、之長の子に長秀・元長・長光・頼澄・善長あり〕
宮川《ミヤカハ》 度会郡を貫流する大水なり、神宮の傍を過ぐるを以て宮川の名あり、即宇治山田町の西限を成し、其西岸|小俣《ヲマタ》村に宮川停車場あり、参宮鉄道の終駅とす。
度会の大河の辺のわかひさ樹わが久ならばいも恋むかも、〔万葉集〕
水源を大和紀伊伊勢三国の堺、大台原《オホダイハラ》巴が淵より出て大杉谷《オホスギダニ》、三瀬谷《ミセダニ》を経て野尻《ノシリ》川に会し、又一の瀬谷の流と合ひ、其の余多気度会両郡の渓流数百条を一括して東北に奔り、大湊《オホミナト》に至りて海に入る、水源を距ること二十余里なり、古は度会川とも、又度会の大川とも、斎《イツキ》の宮川ともいひき。渡口三箇所、上を柳の渡といひ、下を磯の渡と云ひ、中を桜の渡といふ、国道の渡口なり、天平宝字二年に、此の渡口に船橋を懸けしこと、太神宮諸雑事紀に見えたり、近年又長橋を架し、小俣の宮川車駅を山田市街に相続す。
河原禊《カハラノミソギ》所址 昔斎王勅使例幣等参向の時、祓を受けられし跡なり、延喜式云「斎王参度会宮、禊度会川、参入神宮」(中渡国道の北なりと神都名勝誌に見ゆ) 契りありて今日みや川のゆふかづら永き世までもかけてたのまん、〔新古今集〕 定家
御そぎする豊宮川の敷なみの数より君をなほいのるかな、〔新拾遺集〕 朝勝
古は宮川洪水の為に堤防壌れ、河水山田の原に溢れて、宮域までをも浸しし事屡なりきといふ、其の度毎に公家より沙汰ありて堤を修補せられ、或は度会地主神大土御祖神に土宮の宮号を宣下し給ひし事さへありしを、応保長寛のころ、中納言平清盛勅使として参向せし時、堅牢なる堤防を改築したりとぞ、故に土俗今尚東岸を清盛堤といひ伝へたり。〔参宮図会神都名勝誌〕○応永三十一年参宮記云、さむ風と申処と申所にて、誠に此頃は寒嵐相応の名所にて侍りけると覚えて、
吹くからに猶寒かぜの里人はなれてもさすが袖しぼるらし、
宮川を見わたせば、此処彼処に人々垢離かく、斎宮の御跡は此あたりにと人の申に、よそながら見奉れば、木竹いみじく繁りあひたる計也。(此にさむかぜと云ふは、宮川の渡口|三箇《サンカ》の瀬の義にて、当時三箇瀬の名あり、之を寒風とは言ひかへたり、一説、今の古市の辺に寒風里ありしと云ふ、従ふべからず)
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河崎《カハサキ》 宇治山田町の北に接し、漁船小艇の埠頭なり、小溝を以て神社港大湊汐合川二見浦等に通ず、各一二里に過ぎずと雖、両宮神都の海漕は一に此口に由るを以て、出入の舟多し。宗碩曰記にも、「山田にて尾張国へ渡る舟をまち、川崎と云ふ辺より釣舟をまうけて、大湊にさしよせぬ、ここの旅宿は馬瀬の某成俊が所なり、明日つとめて舟出すべき由かまへ侍る」と叙したり。
河崎、舟赴双鑑浦 山陽
春帆不嫌緩、舎轎就江湾、暖靄三河郡、斜陽両勢山、此行従阿母、何処不郷関、到岸投村店、鮮魚(酉+它)酔顔、
黒瀬《クロセ》 河崎の北に接し、鳥羽二見瀬通路なり、今一色神田久志本の諸村と合し、浜郷《ハマガウ》村と曰ふ、長寛二年古文書「継橋郷黒瀬村」とある由神都誌に載せたり、二見箕曲南郷の間なる江渚に臨む。
橘《タチバナ》神社 黒瀬路傍の祠にて、古は橘氏の氏神なるべし、橘大臣諸兄の母県犬養宿禰三千代は伊勢の人と伝ふれば、其因みにては古跡を遺すか、〔参宮図会神都名勝誌〕高向の県神社参考すべし。
鹿海《カノミ》 黒瀬の南、楠部の北、今楠部|一字田《イチウタ》朝熊の諸村と合併して四郷《シガウ》村と曰ふ、五十鈴川の末に臨み、朝熊山に対す。○神都名勝誌云、鹿海は太神宮本紀に加奴弥と録し、村中に止鹿淵見佐山《トカノフチミサヤマ》あり、鹿海橋の東、懸崖の下、澄潭碧を湛へ、古樹其上を蔽ふ、見佐山之に対し、西岸に聳ゆ、水之を環囲して宛然たる墳丘なり、山腹に石をたゝめる所あり、其傍往々古土器を出すといふ、疑ふらくは宇遅都比女の墓にや。
補【鹿海】○神都名勝誌〔重出〕桶部の艮にある村なり、四郷村に属せり、川を挟みて東西に分れたり、鹿乃見また加奴爾《カヌミ》とも見えて太神宮本紀にも見ゆ。
止鹿《トカノ》淵 鹿海橋の東の沿岸にあり、懸崖壁立すること数丈、澄碧其の下を繞り古樹其の上を覆ふ、岩上に小祠あり。
見佐《ミサ》山 止鹿淵に対して西岸にあり、此山四方に連絡なし、細流環囲して宛然たる墳墓なり、山腹に石を畳める所あり、其傍より往々古土器を掘り出すといふ、疑ふらくは宇遅都日女の古墳にや。
朝熊《アサクマ》 楠部鹿海の東なる聚落にして、東嶺を朝熊山と曰ふ、(今四郷村の属)神都志云、此村応永年中まで、西北|昼川《ヒルカハ》山に在りと、故実郷談に見えたり、朝熊の名義には諸説あり、僧空海求聞持法を山中に修めし時、朝に熊獣出で夕に虚空蔵現ぜりよりてかく名づけたりと、又旧蹟聞書には熊野は浅隈なり、五十鈴川の下流迂曲し此の地其の浅水の隈に当れるを以て名づけたりと云へり。
朝熊《アサクマ》神社 延喜式に列し、内宮所摂二十四社の一なり、寛文年中再修す。延暦儀式帳云「小朝熊神、称神櫛玉命児、大歳神児、桜大刀自、形石坐、又苔虫神形石坐、又大山罪余子、朝熊水神、形石坐、倭姫内親王御世定祝」○按に、桜刀自是れ亦度会の土地神伊勢津彦の裔ならん、或云、富士神を浅間《アサマ・センゲン》と称へ木花開耶《コノハナサクヤ》姫を祭ると伝ふ、朝熊浅間語相近し、開耶桜又古言を同くす、蓋相因る所あるに似たり。○神都名勝誌云、朝熊神は本村の西北の山腹に鎮座、桜の宮とも鏡の宮とも云ふ、儀式帳には小朝熊神社とあり、小は美称なる可し、社域はさまで高からざる山の西端にあり、鹿海川を負ひ朝熊川に面す、対岸の洲嘴に坐せるは鏡宮なり、其傍に虎石汐干石等の奇石あり、又桜大刀自神の由縁にや、境内頗る桜樹多し、弥生の頃は松杉の間に掩映し、風色の幽媚なる事、此の地を以て神都中の第一とす。
小朝熊の神の坤の角に六七段計を去りて奇石あり、其上に桜樹あり、高き三尺計なり、此木往昔より以後、年を送り春を迎へて花を開き年を結ぶ、今に枯れずしてあり、是を桜大刀自の神の神体と申す説もあり、〔文永十年思円参宮記〕
神世より光りをとめて朝くまのかゞみの宮にすめる月かげ、〔続拾遺集〕 隆辨
神かぜにこゝろやすくぞ任せつるさくらの宮の花のさかりは、〔続古今集〕 西行
神都誌又云、鏡宮《カガミノミヤ》は同処別域、水を隔てゝ丘上に坐す、往昔より二面の神鏡を奉祭す、其由来する所詳ならず、山麓坤の水涯なる大石の上に坐しまして、潮にも沈み給はず、浪にも流れ給はざりきとぞ、時ありて坐さざれば、奏聞を経るに従ひ、朝廷に於ては御卜を行はれ、特に公卿勅使を立て給ひて、祈謝し給ふを例とせり、又時宜によりて神殿に奉安すれば、忽元の処に飛び出で給ひし事もありきとぞ、寛文三年神鏡を掘り出しに、小蛇蟠屈して護衛したりと云ふ、かゝる霊鏡なれば、其事跡多く旧記に散見せり。
神さびてあはれいく世になりぬらん波になれたる朝熊の宮、〔続古今集〕 嘉陽門院越前
俗説弁云、類聚神祀本源曰、小朝熊神、鏡二面、大和姫命、朝熊《アサクマ》海上にして奉鋳白銅鏡也、正治元年、祝磯部時次解文曰「朝熊杜並御前社宝殿者、共在高山之上、其山下坤方、隔江二十余丈之程、水辺岩上、伴御鏡二面坐」○参宮図会云、朝熊神社、寛文十年大宮司清長旧地を求め再興あり、鏡宮は昼川《ヒルカハ》の尾崎に在り、石上御前《イシノヘノゴゼ》と曰ふ。
月はたゞひるかは山に雲きえてひかりもみちぬ汐合の浜、〔歌枕名寄〕 長明
音無山《オトナシヤマ》 朝熊神社の上方にして、北は二見郷に対する嶺なるべし、長明伊勢記に見ゆ、曰「二見の音無山とて、人々登りて遙に海山を見るに、東は参河遠江駿河など越て、富士の山ほのかに見ゆ、艮に当て甲斐の白根信濃の御坂《ミサカ》あり、木谷美濃尾張の山どもの上より、加賀の白山見ゆ、乾に多度の山鈴鹿の三子《ミツゴ》、西に布引山|阿坂《アザカ》山伊賀の山など名を知らず、南は朝熊山志摩国の方なり、朝熊川を隔て昼川の横根と云あり、其西のはなに鏡の宮おはします」云々。
桜木《サクラギ》 是朝熊の古村なるべし、伊勢名勝志云、今此里亡ぶ、元和年中水害にあひ、居民一宇田に移る。
月にくれて近づくまゝに白雲の花になりゆくさくら木の里、〔新名所歌合〕 大中臣定忠
補【桜木】度会郡○伊勢名勝志 桜木の里、朝熊村字桜木の地を指す、今社地及河岸場たり、往古朝熊村の枝村にして一部落をなせしが、元和中洪水に罹り民居悉く一宇田村に徙る。
永松《エイシヨウ》庵 朝熊の里中に在り、朝熊岳金剛証寺に属す、林泉幽邃にして、杜鵑花多し、秋田城介入道安倍実季の墓あり、慶長七年、実季幕府の譴を受け此に謫居し、万治二年卒す、幼女及侍女の墓相並ぶ、家は子俊季継ぎ、三春城に居るを以て、高乾院を造り追弔を為すと云。○朝熊村に製薬家あり、世俗朝熊万金丹と曰ひ、実季入道の遺法と為すは非なり、尾州知多郡野間氏の家伝のみ。〔神都名勝誌〕
栖のかたはらに、夕がほといへるものゝ、おのづから生ひ出て、あれたる垣根ともいはず、青きかづらのおのれひとり心地よげに、はひまつはれ侍るを見るに、あの花折れとの給ひし、ふるごとおもひ出でられて、よみ侍りけり、
住みわぶる宿とも知らで夕顔の花のみゑみの眉ひらくなり、〔永松庵所蔵筆跡〕 実季
按に実季は安東太郎と称し、羽州檜山館より起り、秋田数郡を平定し、十九万石を領知す、庚子の役、観望反覆の故を以て、江戸幕府の収封する所と為り、仍朝熊に竄逐せらる、後其子俊季を禄し祀を存せしむ、奥羽第一の旧家也。
補【秋田実季墓】度会郡○伊勢名勝志 朝熊村永松庵境内に在り、実季の墓今磐城三春高乾院にあり、蓋し分骨を埋めしものならん、三春城主秋田氏の祖なり、寛永七年九月此地に謫居す、万治二年卒す、幼女及び侍女片山従て此に終る、実季書を能くし和歌に工なり、詠草若干を存す、又医薬を好み奇法多し、世に謂ふ所朝熊万金丹は其家伝なりといふ。○神都名勝誌 野間氏の家法なり、祖先は尾州知多郡の人のみ。
朝熊岳《アサクマダケ》 山嶺南北に延び、伊勢志摩の分水界と為す、其山勢北は海に没し神崎と為り、南に崛起し最高峰を生ず、抽海五五〇米突、内宮の正東に当り、神路山の東北堺を成す、(内宮より登る五十町朝熊より登る二十町)登臨の眺望最雄大なり、東海の富岳北陸の白山を見るべしと云ふ、峰の東側に寺宇在り。
跡たれていく世へぬらん朝熊や御山をてらす秋の夜の月、〔続拾遺集〕 荒木田延季
金剛証《コンガウシヨウ》寺 朝熊岳に在り、開創詳ならず 弘法大師中興と称し、本尊虚空蔵なり、中世衰微したるを、建長寺東岳和尚重修して、済家の禅林と為す、勝峰都率院と号す、寺北の別院は呑海と号し、本尊地蔵を安置す、神宮より鳥羽二見経廻の客、登陟する者多し。
二見《フタミ》郷 和名抄、度会郡二見郷、訓布多美。○今東二見村西二見村及び浜郷村大字一色等是なり、東は伊気郷〔今志摩郡〕に至り、西は浅水の海湾を隔て、箕曲郷(大湊神社港)に対す、北は海洋にして南に汐合《シホアヒ》の入江あり、坂士仏参詣記云「倭姫の皇女神鏡をいただき奉りて、御鎮座あるべき所を御尋あり、伊勢の海づらに歴覧、あきたらずおぼしめさるゝ所ありて、二度御覧ありし故に二見の浦とは名づく」と、然れども太神宮本紀には「大神御船、二見浜坐時、大若子命に国名何問給白く、速雨《ハヤサメ》二見国と白き」とあれば、倭姫の名づけ給ふと云は非なり。○延喜式云、凡斎王到国之日、取度会二見郷磯部氏童男、卜為戸座。延暦儀式帳に大内人宇治土公磯部小(糸+世)あり、之に拠て考ふるに、磯部氏は蓋宇治土公姓にして、昔倭姫命に大宮地を教奉れる太田命の裔にて、斎王に由縁ある故に、其氏人を以て戸座とせしか。〔神祇志料〕
東鑑、養和二年四月廿一日、熊野山悪僧等、去五日以後乱入伊勢志摩両国、合戦及度々、焼払二見浦人家、攻到固瀬河辺之処、平氏一族関出羽守信兼、相具蛭野伊藤次郎下軍兵、相逢船江辺防戦」と固瀬船江共に郷内ならん。〇二見郷は神鳳抄に録し、採塩の御料なるが、武家の押領と為り、鳥羽九鬼氏の知行に帰したる事あり、寛永年中、一色村の長愁訴して、幕府より二見郷一千三百石高は神宮に附せらる。〔勢州名所集参宮図会〕
補【二見郷】度会郡○和名抄郡郷考 斎宮寮式、凡斎王到国之日取度会二見郷磯部氏童男、卜為戸座、其炬火取当郡童女卜用、但遭喪及長大即替之。神鳳抄、度会郡二見郷。神宮雑例集、二見御鎮地祭物塩三斤。坂士仏太神宮参詣記、垂仁天皇の御娘倭姫の皇女神鏡をいただき奉りて、御鎮座あるべき所を御尋あり、伊勢の海づらに歴覧あきたらず、おぼしめさるゝ海ありて二度御覧ありし故に二見の浦となづく。遷宮物語、宇治郷二見郷伊介郷此三郷合せていまは八郷となる。勢州古今名所集、二見郷千三百石の所も武家の押領たりしを、寛永の頃返し給へり。行嚢抄、二見里六郷あり、惣名を二見と云、昔は七郷有しに今は六郷となる事は、出口村と云一郷絶けるに依てなり。○神都名勝誌 太神宮本記〔倭姫命世記〕に「二見乃浜御船坐、于時大若子命仁国名何問給支、答白久、速雨二見国止白支」とあり、皇太神宮御遷里の以前に既く二見の称ありしなり、出雲風土記に「波夜佐雨《ハヤサメ》久多美《クタミ》山」と記せるも同例なるべし。
二見《フタミ》山 御塩《オシホ》山とも称し、二見浦に臨める丘陵の名なり、江海環繞して、全く島を成す、峰勢五分しあるを以て、五峰山とも呼ぶ、或は密厳寺《ミツゴンジ》山と呼ぶ。〔神都名勝誌参宮図会〕
玉くしげ二見の山のこの間よりいづれば明くる夏の夜の月、〔金葉集〕 親房
康永参詣記云、二見浦より磯山かげの路をつたひ行程に、あはれに心すごき古寺あり、安養山と申処なり、是は西行上人の住み侍りける旧跡とかや、
此地空余山寂寞、昔人去後幾朝昏、緑蘿庵旧絶縦跡、只有松風敲寺門。 坂士仏
参宮図会云、安養山の寺址は西二見山田原の南に在り、此は宇治の西行谷よりはふるく住止せられ、年も長かりしやにおぼゆ、千載集にも「高野の山を住うかれて、伊勢国の二見山に侍りける」云々との自叙あり。
補【五峰山】○神都名勝誌 山田原の南に環列屈起せる山なり、其の峰の数を以て名づく、また御塩山とも密厳寺山とも称せり、長明伊勢記なる音無山眺望の記文を案ずるに、朝熊川を隔てゝ昼川の横根といふ山ありと見えたれば、立石崎なる江山にあらざること明けし。
佐見之《サミノ》山 万葉集名所考云、倭姫命世記に「佐美津彦佐見津姫参相而、御塩浜御塩山奉伎」と云るは二見浦の大夫松と云大樹の生たる山、即佐見の山なるべし、今も其麓の小川を佐見河と云ふ、万葉集に伊の発語をそへ、去来見の山と云ふは此ならん、坂士仏の参詣記に二見の浦に佐美明神とて、古き神ましますと書し、即佐見津彦を斎るなるべし。
わぎもこを去来見の山をたかみかもやまとの見えぬ国とほみかも、(一説去来見山は飯南郡|波瀬《ハゼ》に在り)
三津《ミツ》 今東二見村の大字なり、二見山の南、汐合川に瀕する小村にて、彼伊勢浜荻と呼ぶ片葉葦は此地に生ずとぞ。
伊勢にまかりけるに、三津と申所にて海辺春暮と云ことを神主よみけるに、
過る春しほの三津より舟出して浪の花をやさきに立らん、〔山家集〕
我もさぞ願はかくる伊勢島や恋しきひとをみつの浦なみ、〔夫木集〕
三津の東北は江村二見浦なり。
江《エ》 今東二見村と改む、此村|汐合《シホアヒ》川に臨めば江の名あり、江水を隔て東に松下村(今東二見に併す)ありて、志摩都鳥羽小浜の地界に接す、北は二見浦なり。○延喜式、江神社此に鎮座す、内宮所摂廿四座の一なり。文明五年正広日記云、伊勢の山田に四五日やすらふ事ありて、大江と云所より舟にのり、伊良胡の渡とてすさまじき所を越し侍るに、こよひは十五夜なりけり、
古へを思ひいらこの月見ればかいのしづくぞ袖におちそふ。
源延尉義経の従士に伊勢三郎義盛と云者あり、相伝ふ其父俊盛は三重郡福村の人にて、義盛二見郷に移り、江三郎と称す、或は鈴鹿山中に入り焼下小六と号し、後東国に赴き上野荒蒔郷にして義経に従ふと。〔五鈴遺響参宮図会〕○江村と三津の間に内座山と云塞址あり、土人正平年中伊勢守護職仁本京兆義長の築く所と称す、安政四年村民此地より古刀剣土器を発掘したる事あり、〔伊勢名勝志〕古墳にあらずや。
補【伊勢義盛宅址】度会郡○伊勢名勝志 今詳ならず、里人伝へ云ふ、義盛本郡江村に生る、今三津村字東山、旧と常泉寺は嘗て習学する処なりと(同所に巨石あり、中央凹処常に瀦す、之を義盛の硯石と称す)五鈴遺響に云ふ、義盛父俊盛は三重郡福村の人、義盛早く父を喪ひ伊賀に到り中井某に倚り生育し、後二見郷に流落して江三郎と称し、或は鈴鹿山に潜伏して焼下小六と称す、後上野国荒蒔郷に潜居して其主義経に遇ひ、伊勢三郎義盛と称すと、されば其本村に至るも一時の寄寓にして、生誕の地に非るや明けし、記して参照とす。
補【仁木砦《ニキトリデ》址】度会郡○伊勢名勝志 三津村字内座山に在り、山上平坦にして礎石を存す、伝へ云ふ、正平中仁木左京大夫義長本州の守護となり、長野城に拠り神領を侵掠せんとして砦を此に築くと、安政四年村人此地より刀剣及び古土器等を掘出せしことあり。
大江寺《オホエデラ》 江村の西、二見山の半腹に在り、真言宗、開創詳ならず、貞享中火災に罹り重修す、観音堂なり。○康永参詣記云、山陰を遠くめぐれる入海のかたを尋て、江寺と申す観音の霊地に参りぬ、苔ふみのぼる石ばしは盤折にて、谷のせゝらぎ音幽なり、黄葉を払ひて古き跡を探り、青竹を携て遙なる峰に到る、
浦松似昼夕陽裏、老眼摩裟費苦吟、水自細流通海脈、波横万頃列天心、雲暗雲起山高下、潮去潮来月浅深、六十余年漂泊処、江湖風景不如今。
江山(二見山の東部)の頂に天覚寺廃址あり、東大寺衆徒参詣記に「文治二年、俊乗坊重源霊夢に感じ、院宣を奉じて僧侶六十名を率ゐ参宮したる時、此天覚寺に掩留せる由」見えたり。〔神都名勝誌〕
補【大江寺】○伊勢名勝志 江山にあり、真言宗、天平中僧行基の開創に係る、延喜の時叡旨を以て方七間の堂を建築せらる、貞享中火災にかゝり什器記録類悉く焼失す、後僧尭誉之を中興す〔坂士仏康平参詣記、略〕○神都名勝誌 潮音山大江寺は江村の中央より登ること一町許なる江山の半腹にあり、真言宗、創立年月詳ならず。
補【大夫《タイフノ》松】○神都名勝誌 江村字江山に在り、往昔一大老樹なりしが寛政中枯槁して、今存するものは新樹たり、此松数説あり、或は云ふ仁木義長左京大夫と称す、嘗て之に居る、故に名づくと、或は云ふ此樹元と山上に挺立し、海舶の目標となれり、故に伊勢大夫の居所なりと呼びしに起因すと。
二見浦《フタミノウラ》 二見村の海を云ふ、東神崎を以て志摩郡伊気浦と相界し、東北は阿波良伎《アハラキ》島|答志《タフシ》島と斜に相対す、西は一色《イシキ》大湊に至る、其中央|立石《タテイシ》崎打越浜の辺を絶景の勝地と為す。
ますかヾみ二見の浦にみがかれて神風きよき夏の夜の月、〔拾遺愚章〕 定家
夏の夜は玉ゆらもなし玉くしげ二見の沖にあくるつきかげ、〔夫木集〕 家隆
千尋《チヒロ》の浜と云ふも二見浦なるべし、二見の干潮につけて起る名か、参宮図会云「毎年十一月望日の子刻に、大湊二見浦の海汐干となり、おぴたゞしく陸地と為る、破船の碇などを拾ふ事あり、之を七汐干と呼び、一国の奇観なり、七里あなたなる伊良胡崎まで歩行すべし」と、此七里の干潮につけて、千尋の海の浜とも成ると云ならん、共に過甚の荒唐談なりかし。
伊勢の海千尋の浜に拾ふともいまはなにてふ貝かあるべき、〔後撰集〕 敦忠
はまぐりのふたみに別れ行く秋ぞ、 芭蕉
二見がた月かげさえて更る夜に伊勢島遠く千鳥なくなり、 景樹
蒔絵《マキヱ》松と云ふ、今詳ならず、康永参詣記の文に「二見の浦の景色を見るとて、彼寺より麓の浦に下りて眺望するに、曲渚波を隔てゝ所々の松、絵にかけるがごとし、是や音に聞し蒔絵の松ならんと思へども、誰に問べしとも覚えず」とあり、江寺の下にして彼方に水を隔てゝ松の在るべきは、松下(今東二見村大字)の山なり、此山の北尾を神崎と為す、此に擬すべきか。
神崎《カウサキ》 東二見村大字|松下《マツシタ》の北岬なり、即二見浦伊気浦の界と為す、倭姫命世記に荒《アレ》崎と曰ふ、延喜式神前神社在り、(内宮所摂)延暦儀式帳に拠れば、国生《クニナス》神児荒崎比売を祭る。○神前の岬嘴(口偏なし)に屋大の巨岩あり、洞門天成して干潮には徒歩之に入るべし、故に潜島《クグリシマ》と呼ぶ。
秋をやく神崎山はいろ消てあらしの末に海人のいさり火、 鴨 長明
此歌は伊勢記に「西行法師の住侍りける安養山と云処に、人々歌よみなどし侍りし時、海辺落葉と云事をよみて」と題したり、唐詩の江楓漁火対愁眠の句意を翻せるに似たり、情景ともに善く当れり。
立石崎《タテイシサキ》 江村《エムラ》北数町、二見山の尾海に入り、双岩を峙て其側に暗礁を布く、双岩之を立石と呼び、二見浦の景致此に尽く、暗礁は周囲二百数十間に上り、嘉永年中の地震以来、落潮の時纔に礁頭を露すと云ふ、此所は土俗|垢離掻場《コリカキバ》と呼び、古来身を清むる所と為し、海藻を湯に入れ沐浴するを無垢塩湯と曰へり、〔参宮図会地誌提要〕近年は海水浴場の設あり。
さかろ押す立石埼のしらなみは荒き汐にもかゝりけるかな、(夫木集〕 西行
神都誌云、立石崎の双岩は、崎東敦十間に在り俗に夫婦岩《メウトイハ》と云ふ、其の北の方の大なる岩は高さ二丈九尺、周二十二間、其の南の小さき岩は高さ一丈二尺、周五間あり、両個の距離三間余なり、海中に屹立す、何の頃よりか此の岩に太やかなる注連縄を掛けて、興玉《オキタマ》の神の拝所とせり、太平記剣巻に「彼の鏡は伊勢国蓋見浦に一里計の沖に岩に副ひて御坐す、海のなぎたる時は、船にて押し渡りて、先達ありて拝むなり」とあるは小朝熊の神鏡と混同したる説なり、されど勢陽雑記に潮干《シホヒ》石海中にあり、世俗鏡石と云ふと見えたれば、剣巻の説は即興玉石の事を指したるならむ、また世に画がくなる二見浦の図には、夫婦岩の上に必富士峰と旭とを添へたり、是丹青家の虚構に非ず、四時いつにても風恬に波穏なる暁には、富士峰の雲間に聾聳ゆるを仰ぎ、霊陽の海上に浮び出づるさま、金蛇万丈たなびき渡りて、其壮観たとへむに物なし、別けて夏至の頃には、玉芙蓉の上に光華暉き昇るをおがみ奉らむとて、前夜より人々群をなして集ひあふなり、又云、賓日《ヒンニチ》館は、初め文久三年、阿濃津藩藤堂氏の、神宮御警備の為めに築きし砲台なりき、廃藩の後久しく草莱に委ねしを、明治十九年神苑会にて購求したり、尋いで土木の工事を起し、日ならずして館舎を経営せり。
双鑑浦、観出日歌、 頼 山陽
金烏新浴大東洋、帯湿朱輪未吐芭、参山遠山猶宿霧、海涛漸作赤金光、三万六千中一日、来此始見全日出、瞬息飛升難正視、乃信催吾白鬢髪、今日春尽欲呼触(旁光)、伝語義和且徐行。
立石《タテイシ》崎の西は打越《ウチコシ》浜と呼び、神宮の御塩殿《オシホドノ》あり、凡て立石崎より一色村(浜郷村)まで、磯に潮満ちぬれば其辺を通行し難し、山越を為すと云より打越の名あり、清渚《キヨキナギサ》とて催馬楽にうたふも此なるべしとぞ、神都の人々喪の服はてし時、必此渚に潮あみするを古法としたりと云ふ。〔参宮図会〕
伊勢しまや波の打越しに月さえてしほ風あらき冬の浜荻、〔新名所歌合〕 荒木田延行
伊せの海のきよき渚のしほ貝に名のりやつまむ貝や拾はむ玉やひろはむ、〔催馬楽〕
公の使に伊せの国にまかりて帰り詣で来て久しう問はず侍りければ
人はかる心のくまはきたなくてきよき渚をいかで過ぎけん、〔後撰集〕 少将内侍
補【興玉】度会郡○地誌提要 二見浦立石の東三町五十八間にあり、周囲凡そ四町四十間、深三尺、嘉永甲寅地震以前落潮の時纔かに礁頭を露すと云ふ。
汐合《シハヒ》川 五十鈴川の末にして 分派停滞、江湾の状を成して海に入るを曰ふ、一派は東に流れ江村の北にて二見浦に注ぎ、一派は北に向ひ二見箕曲両郷の間に浅水の曲湾を成す、一色|神社《カミヤシロ》大湊の諸村此湾港に臨む、此江水満潮には両方より潮流を生じ込み合ふを常とす、神鳳抄「度会郡塩合御園」と云は此辺に在りける御料なり。 伊勢記云、明ぬれば二見へ行く、伴なる人潮時はいかがあらむ、今は湊にはのぞみぬらむかし、駒を早めよと云ふ、此渡を塩合といふ事は、東西のみなとよりみちくる汐の、爰に行あへばなるべし、
二見潟とほの湊はいかならむ汐合は駒の爪もかくれず、 長明
塩合合戦とは、永禄十二年六月、木造左中将具正其子具康等、志摩二郡の諸士と合して、款を小田信長に通じ、国司北畠不知斎具教に背きしかば、国司、野呂越前守源実をして之を討たしめき、両軍塩合川の辺に於て接戦したり、是より先北畠国司屡神領を略奪し、処処に関門を設けて参拝人を止むる等、頗横恣の挙動ありき、是に於て山田三保の神官、宿憤を晴さむとして、志摩勢に応援して国司の兵を横撃す、事不意に起りしを以て、国司勢遂に利を失ひ、越前守以下波多波瀬の一族、此の処にて戦死いたす。〔神都名勝誌〕
箕曲《ミノワ》郷 和名抄、度会郡箕曲郷、訓美乃和。○今大湊町神社町及御薗村の中大字小林新開等なるべし、汐合川宮川の水分派して郷内を繞り、北は海波と激衝し時々洪浪陸を浸すを見る、箕曲は即水曲の義なり。○光明寺文書「元徳二年、度会郡箕曲郷河辺村」と今河辺の名亡ぶ、延喜式延暦儀式帳に、川原大社并に川原淵神社ありて、(外宮所摂)旧記に箕曲郷勾村に鎮座と云ふも後世水害に会ひ新開(神鳳抄新開御薗今御薗村に属す)河崎の両処へ移す。
住む人やくるれば窓にあつむらん河辺の里に飛ぶほたるかな、〔新名所歌合〕 荒木田尚長
補【箕曲郷】度会郡○神都名勝誌 箕曲郷は水曲にて、箕は仮字なり、五十鈴の分脈勢田川の下流屈曲して凍流る、故にその沿岸の諸村をかく名づけたりとぞ、神鳳抄に度会郡箕輪郷と見え、又光明寺所蔵元徳二年四月の文書に度会郡箕曲郷河辺村と見えたり。
大湊《オホミナト》 山田の北一里半、宮川汐合川の匯(さんずい外)集に在り、北は海に背き、港口は東に開く、方十町の浅水湾を抱き船舶を容る、南十余町を距り神社町あり、又一埠頭なり○大湊は今巨艦大舶を容るゝなしと雖、尚南勢の良港なり、其往昔より名津の一に数へらるゝは、蓋此地京畿神都より東海に航走する門戸に当り、且伊勢志摩熊野の居民の、善く海上の業務を執る者、此地を便近と為すに由る、南朝偏安の時、北畠国司之を以て要港と為し、徳川氏沿習して之に依る、近時船制大に変じ、之を往時に比するに洪卑霄壌の差あり、故に海港の形勢価値亦一変したり。
神都誌云、大湊町は宮川汐合其他数派の朝宗する海口なり、故に古書にも水門と記せり、其地勢東に奔り、
海中に突出して、遙かに遠江灘の衝に当り、自ら神埼北端の鎮護となれり、市街は数百の人家軒を列ね、概ね造船製鉄を以て産業とす。此港古より廻船を支配せしにより、延元四年、義良親王奥州御下向の時、五十余艘の大船を調進し、文亀元年、北条早雲の軍用を蒙り、天正元年、織田家岐阜在城の節も、亦軍船を弁じ、文禄年間、朝鮮の役にも、九鬼長門守義隆豊臣家の命を受け、此所にて軍船を造作せし事あり、其後徳川家より屡大船の準備を命じたることもあり、朝鮮分取の陣鉦陣幕及武門諸氏の文書等此の地に什蔵せるもの数点あり。○太平記云、延元三年、結城上野介入道は、東国より重ねて京都へ攻め上り、会稽の恥を雪がむとて、第八の宮の今年七歳にならせ給ふを初冠召させて、春日少将顕信を輔弼とし、結城入道道忠を衛尉として奥州へぞ下し進らせられけるが、当時陸路は皆敵強にして通り難し迚、此の勢皆伊勢大湊に集りて、船を調へ風を待ちけるに、九月十二日の宵より風やみ雲収りて、海上殊に静りたりければ、船人纜を解きて、万里の雲に帆を飛す、兵船五十余艘、宮の御座船を中に立て、遠江の天龍灘を過ぎける時、忽風波の災にかゝる云々。
大湊船廠《オホミナトノフナクラ》址 今大湊町の南、小林《コバヤシ》(御薗村大字)に存す、奉行邸址亦同処なり、奉行は山田奉行と称し、慶長年中徳川氏之を置く、其政務を取りし公(まだれ+解)は、当時の奉行の便宜によりて、所々に移転せしが、寛永十八年、石川大隅守在任の時、この所に奉行屋舗を設置したり、爾来明治維新の際に至るまで、数代の交替あり、其舟倉には常に航海を準備し、御用船孔雀丸虎丸等数艘を蔵し、水主七十余人附属したりき、此の蔵も宮川の西岸有瀧にありしを、寛永十一年こゝに移せり、享保六年孔雀丸を解きまた安政二年諸船の朽破の由を徳川家に申告し、同四年に至り虎丸以下を解きつ、是に至りて終に廃れたり、蓋虎丸は文禄慶長の頃、長曽我部元親より豊臣家に献ぜしものなりといふ、毎年正月某日船おろしの式あり、時の奉行諸司を率ゐて乗船し、水主数名船頭に立ち款乃を唱へて祝賀したり、又大湊町の東洲崎に貯木場あり、造宮造船に備ふ、享保五年、山田の奉行保科丹後守の築く所、当時一千金を費したり、世に伊勢船と云は、艫の形を高く発き挙げて造る者を指す、又諸国の海船は往時多くは大湊に於て修造しければ、之をも伊勢船と曰ひ、一の諺とはなれる也。〔神都名勝誌五鈴遺響〕
補【伊勢船】〇五鈴遺響 艫の形を高く発き挙て造る、伊勢造りと称す、是一種のものなり、猶諸州海船多く度会郡大湊にして修造せり、故に古今混じて謂ふ処なり。
神社《カミヤシロ》 大湊の南数町、山田河崎より一渠を通じて港泊あり、大湊の支湾なり、近年神都の海運は専ら此地に由る、旧名|大口《オホクチ》と曰へり、港は東西九十間南北四百五十間、浅水なれば入船は皆大港の沖に碇泊し、端舟にて運搬の便を執れり、日々定期汽船を発し、紀伊の熊野の浦々、志摩の鳥羽、三河の豊橋尾張の武豊熱田当国の桑名四日市等の諸港に往来す、岸上市烟錯落、酒楼旅館劇場あり、春夏の候は遠近の参官(マヽ)人輻輳して頻繁昌す、神社町と曰ふ、山田を去る一里。〔神都名勝誌〕
補【神社港】○神都名勝誌 此地勢田川の注ぐ所なり、古は水曲郷大口と称す、港内東西九十間南北四百五十間あり、水底土砂ふかし。
水戸御食《ミトミケツ》神社 神社町に鎮坐す、此神は延喜式外宮所摂十六座の一にして、延暦儀式帳に拠れば速秋津彦命を曰ふ、即海舶の出入あるにより、此神を祝ひたるならん、神社の港の名も偶然に非ず、又古の大湊と云ふは今地にあらで此なるべしとも思はる。
小林《コバヤシ》 今|御薗《ミソノ》村に属す、大湊町の南、神社町の西なり。神鳳抄、小林御薗とありて、近代には大湊船倉を此に置かる。神都誌云、大湊と小林の間に、大塩屋御薗と云地ありしが、明応七年八月廿五日、地震海嘯の為めに、人家百八十挙りて流失す。
補【小林】○神都名勝誌 長屋の東北にあり、御園村に属す、神鳳抄に小林御薗といふ。奉行屋舗址、同村にあり、船蔵址、同村にあり。○大塩屋御薗 大湊町より小林に至る間にありきといふ、古文書に長屋御厨内とあり、両宮御料の御塩を調進せし所なり、人家百八十軒余ある一村落なりしが、明応七年八月廿五日の大地震の時海嘯の為に流失す。
高向《タカムコ・タカブク》郷 和名抄、度会郡高田郷。○原書高田とあるは高向《タカブク》の謬なり、神鳳抄「度会郡高向郷」今御薗村に大字高向あり此なり、山田の北十町、東北は箕曲郷に至り、西は宮川に至る。
高向の宇須乃《ウスノ》野神社は延暦儀式帳延喜式に列し、外宮の所摂なり、相殿に県《アガタ》神社あり、類聚神祇本源并に長徳検録に県神社高向に鎮坐とあり、此か。〔神都誌〕按に河崎の橘神社は、橘氏の由緒神なりと云へば、此杜は橘氏の母県犬養宿禰三千代の産土にあらずや、梅宮旧記(山州名跡志神祇志料所引)梅宮、天平宝字中祭大若子社、伊勢度会神主遠祖、加夫良居命也、小若子同大若子弟也。色葉字類砂、引橘氏譜牒云、橘諸兄母県大養祭之。
伊蘇《イソ》郷 和名抄、度会郡伊蘇郷、訓以曽。○今|豊浜《トヨハマ》村|北浜《キタハマ》村是なり、豊浜に大字磯あり、宮川の西岸、北は海、西は多気郡に至る、南は小俣村に接す。延喜式、度会郡磯神社、又延暦儀式帳「難波朝廷、度会山田原立屯倉、新家連阿久多督領、磯連牟良助督助仕奉」
補【伊蘇郷】度会郡○和名抄郡郷考 神名式、磯神社。年中行事、伊蘇御厨。司中公文抄、伊蘇郷内小川村。神鳳抄、度会郡伊蘇郷。
大若子《オホワクゴ》命墓 磯村の袴田《ハカマダ》と字する地に古墳あり、面積一百二十歩、土俗若子三味と呼ぶ、即大若子命の墓也、大若子は一名大幡主と曰ひ、倭姫命に随従し、大神宮鎮座の際に忠勤し、伊勢国造兼大神主と定めらる、事古典に散見す、天日別命の裔にして、度会神主の祖なり、後世神都の諺に袴田衆大薮衆と曰ふは、其族党なり。○按に延喜式度会郡磯神社又機上神社あり、磯部姓は和銅四年度会神主と改め、其氏人の神宮に奉事したる事は、続日本紀延暦儀式帳等に歴然たり、又倭姫命世記に「従飯野高宮、遷幸宇伊蘇《イソ》宮、大若子命玉拾伊蘇国と申して御塩浜定奉」とあるも此也、或は伊勢は磯の転訛とも説けり。○甲陽軍鑑、石水寺物語に「延尉義経の妾白拍子静の母は伊勢磯村の人なりければ、磯禅師と呼ばれたる」由載す、古の歌舞の堪能は多く寺社の伶人巫女に在りければ、磯禅師と云も其類なるべし。
美曽箇瀬《ミソカセ》 宮川の末なりと云ふ、磯村の辺ならん、宮川は磯村の東より分裂し、数派と為り大湊有瀧の間に於て海に入る、洲堆沙嶼紛雜す。○長明伊勢記云、宮川の末渡るに、水上り流るゝ様に見ゆるを、爰はいづくとか云何とて水はのほるぞと云へば、或人塩のさきとて水の逆上るなり、こゝはみそか瀬となん申と云をきゝて、
さかしほはみそかせまぜて指しのばる洲を過ぎゆきて人に間はゞや。
有瀧《アリタキ》 今北浜村に属す、神鳳抄、有瀧御薗と見え、宮川の一支其側にて海に入る、徳川氏の初世には、山田奉行所轄大湊の船倉此に在りきと云ふ。
村松《ムラマツ》 今北浜村と改む、豊浜村の北、西は多気郡大淀村に接す、神鳳抄、度会郡村松御厨。
蝉の貝の声かときけば村松の岸うつなみのひゞきなりけり、〔夫木集〕 斎宮越前
村松の西大字|柏《カシハ》に延喜式、多気那加須夜神社あり、神鳳抄糟屋御薗とある地にて、何の世にや度会郡に入る、明星野の北部なり。
駅家《ウマヤ》郷 和名抄、度会郡駅家郷。○小俣《ヲバタ》村|城田《キタ》村(上地)に当るべし、湯田郷の駅家なり、古の宇羽西村も此に在り、日本後紀弘仁八年、及び延喜式に度会郡駅家と云は亦同じ、近世には城田郷に并せられて外城田《トキタ》と曰へり。補【駅家郷】度会郡○神都名勝誌 在地詳ならず、多気郡竹川村の辺より度会郡湯田郷離宮院に至るまでの間にて、駅舎の立ち並べる地を唱へしならむか。
小俣《ヲバタ・ヲマタ》 宮川の西岸に在り、山田町と一橋を隔つ、参宮鉄道の宮川駅は此に置かる、此村は神鳳抄小俣御厨東鑑文治三年伊勢国|小倭田《ヲマタ》荘と云者ならん、文政年中、北郊湯田野を開墾し今|明野《アケノ》と呼び農園あり。
延喜式、度会郡小俣神社、今此村に遺る、外宮の摂社と為す、又板田橋と云歌枕の名所あり、(三重郡に大治田あり、彼所を実とす)をばたゞの板田と云ふは続後拾遺集にも見え、本万葉集なる「小墾田《ヲハリダ》の坂田《サカタ》の橋」を誤りたる者にて、玉葉集は更に小俣をば之に引附て読みたる也と云ふ。
宇波西《ウハシ》 今|城田《キタ》村是なり、神宮雜例集に「延暦十六年、湯田郷宇波西村へ、沼木郷高河原離宮
院を移立すと云」者にして、後世|上地《ウハチ》と訛る、院址は上地の北、小俣駅の南に存す。
補【宇羽西】○神都名勝誌 湯田郷小俣村上地是也、離宮院址此に存す、今参宮鉄道宮川停車場の地是也、度会元長の参詣記に当時猶築垣溝渠荒廃せるもの、名残を留めたる由記載す。
離宮院司庁《リクウヰンノシチヤウ》址 今参宮鉄道宮川停車場の辺是なり、延暦十四年、大神宮司奏請して、御厨離宮及び諸宿舎破損且水患あるを以て、遷替の勅許を得、十六年、大中臣豊庭沼木郷旧院を壊ち、之を湯田郷宇波西村に建つ、御厨即神宮司庁にして、斎王の別殿在り、故に離宮院と称したり。官舎神社〔延喜式〕構内に在り、即荒木田神主の祖神にして、中臣神社とも云ふ、後世此社庁院の亡滅と共に一時廃絶せしが、荒木田清長再興し、今院址に小祠を見るのみ。○神都名勝誌云、神宮御厨は庁院と称せり、神三郡并に六所神戸の政務を行ひ、其の調庸を納むる所なり故に司庁調御倉宿館官舎等数棟ありき、三代格に正倉官舎卅一字を修理すべきよしの官符見ゆ、中世廃絶、元長参詣記に当時庁院の坦溝など尚其なごりをのこせる由を載たり、又大神宮司政印は、天平十一年、神祇官の上奏に因り鋳造の事、続紀に見え、宝亀三年、宮司宿館(沼木郷)焼亡の時災に罹り、斉衡二年、再鋳して下さる、印笥に「太神宮司正印笥、元彫木也、而大宮司公忠長徳四年五月廿日鋳改於銅」と銘す、荒木田神主の家に伝来して、今に神宮司庁に蔵すと云。
補【神宮政印】○神都名勝誌 皇大神宮政印は天武天皇の白鳳年間、禰宜荒木田神主|石門《イハカド》の解状に依りて神祇官より上奏し、宣旨賜はりて政印を鋳下せらる、これ皇大神宮政印の始なり、其の後承暦三年外院の焼亡せし時此の印章も火災に罹り、原形に摸して再鋳造し銅笥銅尺と共に之を寄進せられたり、今猶宝殿に納む、明治廿七年まで八百十六年を経たり
豊受宮政印は貞観五年禰宜度会神主真水の解状に依りて神祇官より上奏し、内宮政印の例に准いて鋳下せられたるものなり、明治廿七年まで千三十年を経たり、印笥は元は木製なりしなるべし、今存せるは銅製なり、側面に宣旨奉造、承徳二年戊寅十二月廿六日庚子の十八字を彫たり、本年まで七百九十七年を経たり、今猶政印と共に宝殿に納む、
大神宮司政印は天平十一年神祇官の上奏によりて、始めて之を鋳下せらる、然るに宝亀三年大神宮司の宿館焼亡せし時、其災に罹れり、斉衡二年原形に摸し再鋳下せられたり、今存せるは即是なり、明治廿七年まで千三十七年を経たり、印笥は元木製なりしを長徳四年銅笥に改め、其側面に大神宮司正印笥元彫木也、而るに大司|公忠《キンタダ》長徳四年五月廿日鋳改於銅の廿八字を彫たり、本年まで八百九十五年を経たり。
湯田《ユタ》郷 和名抄、度会郡湯田郷。○今|有田《ウタ》村と曰ふ、旧は宇羽西小俣駅をも包有したる郷名なれど、中世以降は其西部に制限せらる、大字湯田に延喜式|湯田《ユタ》神社あり、内宮所摂廿四座之一なり。○明野を湯田野とも云ふ、里は其南に在り、湯田とは斎田の義なり。〔和訓栞行嚢抄〕
竹川や湯田野を見ればはる/”\と山田のはらの松はくもれり、〔歌枕名寄〕 長明
本郷の北は多気郡有弐郷(明星村)に接し、西南は田辺《タノベ》郷田丸町に至る、参宮図会云「湯田野の東、離宮院の旧地に千引《チビキ》石と云者あり」と、或は廃礎などにや。
君がため湯田野をわけてひろひつる千引のいしに誰かあふべき、〔家集〕 俊頼
補【湯田郷】○神祇志料 延暦十四〔六の誤り〕年、伊勢大神宮司奏さく、神宮の御厨離宮及諸司の宿舎は宝亀中改造ありしより既に廿六年を経て、皆悉く破損ね、加之河水暴漲の患あるを以て修理を加ふれども、其金を得難し、請ふ神部課丁を役して他処に遷し建む、故に其功食を充給へと申すと(園太暦延文二年十二月九日)勅して請に従ひ、遣宮使大中臣豊庭を遣し、度会郡沼木郷高川原の離宮を壞て、之を湯田郷宇羽西村に移し立しむ(園太暦・神宮雉例集)○今|有田《ウタ》村大字湯田。
田部《タノベ》郷 和名抄、度会郡田部郷、訓多乃倍。○今|田丸《タマル》町及東外城田村西外城田村是なり、田丸に大字|田辺《ダノビ》存す、後世|城田《キタ》郷に合併せられ、外城田《トキタ》と称したる事あり、田部とは佃民の謂にて、此地旧名坂手と呼び、神田在りしに由る。神都誌云、田辺又田上に作る、神宮神田の所在地なりしを以て此の称あり、太神宮本紀に「従其処幸行、高水神参相き、汝国名何問給、岳高田深|坂手《サカテ》国と白て田上御田進き」と見え、皇太神宮儀式帳に荒木田は即田上の神田なる由載らる、坂手神社存す、又田部神田は土俗みかうだと称せり、古来皇大神宮の御供田なり荒木田神主の嚢祖太阿礼命、其の姉大字禰奈と共に大和国字陀の秋山より、大御神の御供仕へ奉りて、此の坂手国に移り住めり、子孫最上に至りて、田上の神田三千代を開墾せしかば、其功労によりて荒木田の姓を賜はりし由、延喜年中の譜図帳に見えたり。三代実録云、元慶三年、伊勢国度会郡大神宮氏人神主有三姓、荒木田神主、根木神主、度会神主是也、而自進大肆荒木田神主首麿以後、脱漏荒木田三字、今裔孫向官披訴、故因旧加之。骨董雑誌云、讃岐の或家に、古調印「已西首丸」の四字を刻めるものを蔵す、已西首丸は荒木田神主の祖なること明確也、今の荒木田神主の宗家藤波氏にも、古銅印「神主石敷」と刻せるものを蔵せらる、系図に拠れば成務帝の御宇に神主最上始て荒木田と称し、長承の比藤波里に居れるより藤波を家号とし世々神宮の一禰宜職たり
天児屋根命十一世孫天見通命――布多由岐命――大貫連伊己呂比命――大阿礼命――大貫連波己命――神主最上――神主佐波――神主葛木――神主已波加禰――神主牟牟賀手――神主酒目――神主押刀――赤冠荒木田神主薬――神主刀良――神主黒人――神主首麻呂――神主石敷――佐禰麿(一門沢田氏)
┗田長(二門藤波家)
補【田部郷】度会郡○和名抄郡郷考 神名式、田乃家神社。神鳳抄、度会郡二段瀧原宮神田、在田辺郷。年中行事、田辺御神田、又田辺郷神田。元々集、田辺郷蚊野村原村。今按、景行天皇の御時諸国に田部と屯倉とを興し給へり、是より起れる名なり。上田百樹云、今も田辺上下あり、田部はもと清に呼しにや、今タヌイ又タノヱと云、戎書に田の井とも書り。
○神都名勝詰 田丸の西にあり、上下二村に分れたり、土俗たぬいと称せり、古の田辺郷の本邑なり。○榛《スギ》原神杜 上田辺字朝久田に坐せり、皇太神宮儀式帳に見ゆ。○坂手国生神社 上田辺の北潮尾崎池の西に坐せり。
坂手国生《サカテクニナリ》神社 田丸城址の西十余町、大字上田辺の岡上に在り、傍に池塘多し、榛原《スギハラ》神社は神都誌に須岐波羅と訓み、上田辺の西|朝久田《アサクタ》に在りと為す、共に延暦延喜の官社也。倭姫命世記に、天見通命の田辺氏神社と載す。
狭田国生《サタクニナリ》神社 田丸城址東三町、大字佐田に在り、延喜式所載、内宮の摂社なり、彼猿田彦に所因あるにもあらず。神都誌云、佐田萱町の道の北側に坐せり、倭姫命宇久留より小川を泝り給ひし時、速河比古参りあひて、国の名を畔広の狭田国と答へ奉り、佐々上神田進りし由太神宮本紀に見えたり、今に外城田川の南岸にサヽガミと字せる耕地ありとぞ、皇太神宮儀式帳に云、狭田神社一処、称須麻留女神児速川比古速川比女山末御玉三柱、形無。
田乃家《タノベ》神社 延暦儀式帳云、太神宮所管、度会郡田辺神社、称太神|御滄《ミソキ》川神、形鏡坐、大長谷、(雄略)天皇御宇、定祝坐、地東限五百木部浄人家。○書紀通証は本社を以て栲幡皇女の御霊ならんと為す、雄略紀曰「栲幡皇女侍伊勢大神宮、為阿閉臣国見所譖、賚持神鏡、詣於五十鈴河上、何人不行、埋鏡経死、天皇疑皇女不在、便東西求覓、乃於河上虹見、如蛇四五丈者、掘虹起処、而護神鏡、移行未遠、得皇女屍。○今東外城田村大字|積良《ツフラ》に田乃家社存す、田丸城址の西南三十町許、積良の東北に大字|田宮寺《タミヤジ》あり。神都誌云、田宮寺《テンクウジ》、神護景雲年中焼失して長く中絶せしを、長徳年中二一禰宜荒木田神主氏長再興したる由、内宮引付に見ゆ、維新の後全く廃れたり、或はいふ此の地は田の家神社の旧地ならむと。
蚊野《カノ》は田辺城址の西二十四町、矢野は蚊野の南にして、田宮寺の西なり、蚊野神社は内宮所摂二十四座の一に列す、矢野は万葉集に詠みたる神山なるべし今矢野の南に大字|山神《ヤマカミ》の名あり。(城田郷石鴨杜は大字山神に在りとも云)
つまごもる矢野の神山つゆじもににほひそめたりちらまく惜しも、〔万葉集〕
外城田《トキタ》川 外城田郷を貫流し、宮川に入る長六里、一条の細流なれど、相鹿瀬の北、西外城田村(今多気郡)大字野中より発し、東北流、田丸城址を回り、小俣駅西を経て、磯村有瀧浜の間に至り宮川に会し、直に海に入る。○外城田卿は今西東下の三村に分る。
田丸《タマル》 今田丸九町と曰ふ、山田の西一里、北は有田《ウタ》村東は上地《ウハチ》に至る西は熊野(紀伊)街道吉野(大和)街道に通じ、又参宮鉄道の車駅たり。神鳳抄、玉丸御薗と云は田丸に同じ、又三橋御薗あり、三橋の字は邑北に存す、徳川氏の世には、和歌山藩其家宰久野氏を此に置き、五万石を給し、附近郡村を鎮制せしめたり。
補【田丸】○神都名勝誌 田丸町は大字田丸、佐田、下田辺、上田辺の総称なり、三橋といふ、属邑あり、神鳳抄「三橋御薗」此地維新までは和歌山城主徳川家の領地にして、城宰は久野某なりき、坊巷数町に分れ、戸数三百余あり、大和の長谷大峰山并に紀伊の熊野等に通ずる街道なるを以て、旅館娼楼茶店多し。神鳳抄、玉丸御薗。
○人名辞書 玉丸具安は伊勢国田丸(田丸或は玉丸に作る)の城主なり、北畠具教の亡ぶるに及びて具教流離す、後ち蒲生氏郷の妹を娶る、民郷会津に封ぜらるるに及び姻戚の故を以て之に附属し、陸奥須賀川の城主となりて三万石を食む、天正十九年三春の城主となり、食邑五万五千石を賜はれり、慶長五年家康に小山の軍に従ふ、偶々上国に於て騒乱の起るに際し、請ひて国に帰り、三成に党して遠山友政と戦ひ、軍破れて剃髪、城を致して奔る、乱平ぐに及び越後に配流せられ、七年五月赦されて会津に往き、実相寺に館すと云ふ(野史)〔田丸城址、参照〕
田丸《タマル》城址 田丸町大字|佐田《サダ》と下田辺の間なる岡に倚り築為したり、方五町許、外壕石塁尚存す、旧|愛洲《アイス》氏の館にして、元和五年、徳川頼宣の宰臣久野丹波守宗成之を修築し、子孫世襲して明治維新に至る、神宮の外衛たりき、○伊勢名勝志云、田丸愛洲氏此に居る、古記に「延元三年七月、玉丸城軍勢等寄来宮田村放火之間、忠緒朝臣宿所炎上云々、又興国三年八月、宮方は勢州田丸の城に立籠る、高土佐守師秋是を攻落す」云々のことを記す、蓋し愛洲氏の族類之に居りしが、其後北畠政郷の庶長子政勝出でて愛洲忠行の後を承け、田丸氏と称す、子孫相継て住す、天正三年本郡岩手城を築き之に移る。(愛洲氏の事は飯南郡阿波曽参考すべし)○神都名勝誌云、田丸城は魚見宏徳寺記に「暦応元年七月晦日、玉丸城軍勢等寄来宮田村」とあり、又南方紀伝桜雲記等に「興国三年八月廿八日宮方は勢州田丸城に立籠る」と見えたり、されば本城は延元以前に南朝方にて築きしものなるべし、其後七十余年の間は何人の占拠せしか分明ならず、応永の頃は已に北畠国司に属したりし由、南方紀伝に見えたり、北畠国司の臣愛州忠行といふもの此に拠り、国司北畠政郷の妾腹の男政勝を養子として、当城を譲る政勝国司の一族なるを以て権勢頗る盛にして、玉丸御所と称せり、其後玉丸氏天正三年まで城主たり、永禄十二年、織田信長北畠国司父子を大河内城に攻む、城固くして落ちざりしかば、終に和を講じ、二男茶箋丸を国司長房の養子とし、信雄(具豊信意ともいひき)と名づけて北畠氏を嗣がしめ、当城を玉丸忠顕より回取し、天正三年本所と定めたり、天正八年、本城回禄に罹りしかば、信雄松島城に移りぬ、同十二年、豊臣秀吉より多気度会の地を蒲生氏郷に賜ふ時に忠顕は氏郷と所縁あるを以て、其の旗下に属し、再田丸の城に主たり。○按に天正十八年蒲生氏会津に移封せられ、稲葉一鉄斎の聟牧村某此地に封ぜられ、岩手に居る、文禄征韓の役牧村戦死し、其遺封を一録の子稲葉蔵人道直(或云一鉄孫一作道通又道周)に伝ふ、慶長五年道直増封五万石に及び、更に田丸に移る、元和二年、子淡路守紀通、摂津中島に移され、後久野氏の居城と為る。
補【稲葉通直墓】度会郡○神都名勝誌 田丸字本町西光寺境内にあり、五輪塔高三尺余、台石二層、通直蔵人と称す、慶長中田丸城主たり、在世中一寺を創建す、本寺是なり、卒して此に葬る。○通道又道周。
補|国束《クニタバ》寺 ○伊勢名勝誌 東原村国束山上に在り、天台集、推古天皇の時厩戸皇子皇大神の神勅により本尊を彫刻して之に安置す、元と大伽藍にして塔頭三十六院あり、北畠国永禅也法師の国束山に参籠せし時贈りし歌に
寺の名も国を束ぬる山なれば世々にし高くあふがざらめや
○今東外城田村。
城田《キダ》郷 和名抄、度会郡城田郷、訓木多。○今下外城田村内城田村なるべし、神鳳抄に外城田内城田の二郷ありて、後世は広く湯田田部の諸郷に及ぼせり。石鴨《イシカモ》神社、神宮雑事記云、天平廿年、宮司従五位下津島朝臣小松、度会郡城田郷字石鴨村、新築固地一処。○延喜式、内宮所摂鴨神社、延暦儀式帳に大水上命児石己呂別命と為す。補【城田】○神都名勝誌 名義詳ならず、今も織田村といふあり、神鳳抄に外城田・内城田の二郷を載す、古は宮川より北を外城田と称し、宮川より南を内城田と称せしなり、勝田・矢野・山神・津不良。宮古寺は外城田に属し、久具・川口・田間・当津・鮠川等は内城田に属したりき。○今西外城田は多気郡に属す。
城田村 度会郡に属せり、本村は大字上池〔地〕中須・川端の総称なり、太神宮諸仏雑事記・天平廿年、任宮司従五位下津島朝臣小松、件小松以去十五年正月廿三日、度会郡城田郷字石〔一本、右〕鴨村新築固池一処既畢、依件成功叙従五位下之後、拝任宮司也。
宮古《ミヤコ》 今下外城田村に属す、内宮所摂|那良原《ナラハラ》姫神社あり、又大水上命の子にて霊形は石とぞ。○宮古|広泰《クワウタイ》寺は神照山と称し、明応三年僧玄虎の創立にして、伊勢一州曹洞禅家の録司なり、玄虎は洞上の卓識にして、阿坂浄眼寺(一志郡)同開基なり、玄虎の入滅は此寺にて其墓存す。
補【宮古】○神都名勝誌 下外城田村|小社曽根《ヲゴソソネ》の西南にあり、旧記には宮子と書けり、神領目録云、宮古御厨。奈良波良神社 同所に坐せり、土俗屋久良土といふ、皇太神宮の摂社なり、皇太神宮儀式帳「楢原神社一処、称大水上児那良原比女命、形石坐」
補【僧玄虎墓】度会郡○伊勢名勝志 宮古村広泰寺境内に在り、玄虎一志郡大阿坂村浄眼寺を開基し、曹洞卓立の道人と称せらる、後土御門院紫衣勅許の綸旨を下賜せらる、後此に一寺を建立し広泰寺と号す、終に本寺に寂す。
岩出《イハデ》 又岩手に作る、今下城田村に属す、山田町中島の西南一里、佐八《サハチ》の対岸、宮川の西畔の部落なり、此地は大中臣祭主家の田荘にして、謂ゆる藤波の里也。
補【岩出】○神都名勝誌 岩出祭主故墟は宮川渡口より一里許川上の西岸岩出村にあり、長保年間祭主大中臣輔親卿より明徳応永年間清忠卿の頃まで凡そ三百九十余年居住せられし旧地なり、第宅の故墟今に存して其の規模を見るに足れり。
岩出寺 旧址詳ならず、大中臣系図・鏑矢記等に輔親卿大の木村に釈尊寺を造立せし由見えたり、恐らくは此の寺ならむ。
岩出祭主《イハデサイシユ》宅址 神都誌云、岩出の村中に存す、大中臣輔親卿より(長保年間)清忠卿の頃まで(応永の比)凡四百年の旧墟なれば、第宅の規模尚探るべし、古今著聞集に「祭主神祇伯親定、伊勢国岩出と云所に堂を建て、瞻西上人を請して供養を遂げし由」を載す、今寺屋敷の字あり合せ考ふべし。
伊勢の祭主輔親が立たるいはで寺より、三昧堂のほら貝の失せたるをこひ侍りけるを、遣はすとて、
かすかなる谷のほらとぞ思ひやるあき風のみや吹きてとふらん、〔新拾遺集〕
伊勢に侍る比、祭主親定卿のいはでといふ家にまかりて後、向ひの山づら優なりけるが思ひ出でられてよめる、
遠こちの外山のすそをこひしともいはでおもへば知人もあらじ、〔散木奇歌集〕 俊頼
大中臣祭主家は荒木田神主同祖の後なれど可多能古大連大神宮祭主に任ぜられ、其四世孫清麿、聖武孝謙の朝に神祇伯を拝し、大中臣朝臣姓を賜ふ、宝亀年中大納言東宮傅と為り、累進して右大臣に至り、仍祭主を領す、国家の耆老と称せられ、延暦七年八十七を以て薨ず、子孫因りて大に起る、清麿七世孫能宣輔親父子並に国詩を善くす、せ々伊勢の祭務を管掌し、京勢の間に往来す、応永以後京師に常住し、藤波を家号とす。岩手《イハデ》城址は祭主の故墟に同じ天正三年、田丸中務具直之に築き、天正十八年、豊臣氏牧村兵部利貞に賜ひ二万石を領知す、利貞戦歿し、其妻弟稲葉通直之を継ぎ、慶長五年の乱に通直東軍に応じ、九鬼義隆の来攻を拒む、乃功を以て増封田丸城に移り、岩手を毀つ。○管窺武鑑云、岩手山へ九鬼大隅守押掛て、町口まで攻破候と雖、城主稲葉蔵人家来計り閉籠り、大功の者なれば、堅固に持忍へ剰へ、九鬼を突退る。
佐八《サハチ》 山田町中島の西南一里、宮川の東畔にして、岩出と相対す、(今宮本村に属す)内宮所摂の一なる河原神社此に在り。神都名勝誌云、沢道小野《サハヂノヲノ》は今の佐八村の事なり、沢地とも相地とも見えたり、往昔倭姫命大宮所を覓め給ひ、野後より宮川の東岸を次第に巡幸し給ひし時、御通過ありし旧蹟なり。
藤波里は佐八村の西にあり、今に田圃の字を藤波《フヂナミ》と称す往昔皇大神宮の祭主大中臣家の居住せし所といふ、秦(くさがんむり)荊の間に土塀の遺存せるものあり、当時の構造思ひやらる、此地川の東西ともに藤波といひしにや、蟄居紀談拾遺に「いづれの祭主か、岩出に住み給ひし時の歌とて、吾が庵は岩出岩代峰のうへ松にかゝれる藤波の里」といへるをのせ、又新名所歌合荒木田成言の歌にも、両岸の事をよめり、明徳応永の頃まで代々岩出に居給ひ、京都に還られし後其の由縁を忘れじとて、岩出と称し後藤波と号せられきともいへり、新名所歌合二巻、冷泉中納言為世卿の判にして、其一巻は内宮神苑徴古館に収蔵す。○参宮図会云、藤波里は沢地の北、浅間森の西、宮川の畔に屋舗跡あり、新名所歌合は輔親祭主十一代忘忠の集むる所也。
春ふかき御牧の小野のあさ茅生に松ばらこめてかゝる藤波、〔新名所歌合〕 荒木田成言
御牧野は延喜式「凡大神宮放神馬於御牧」とある所にて、岩出の野なりと云。〔参宮図会〕補【河原神社】○神都名勝誌 岩出村の向ひ宮川の東岸佐八村に坐す、皇大神宮の摂社なり、延喜式大神宮所摂河原社是なり。
円坐《ヱンザ》 今|上野《ウヘノ》と合併し、沼木《ヌマキ》村と改む、佐八の南にして、神路山|鷲嶺《ジウレイ》の西麓の村落なり。○神都誌云、岩波《イハナミ》里は其旧址今詳ならず、佐八村の南、円坐村の南西に当り、宮川の水涯に突出せる巨岩あり、奔流これに激し白浪つねに雪を巻けり、岩上には龍蛇の蟠屈したるが如き老松近年まで生ひ茂りてありき、恐らくは此の所なるべし。
秋風はかは音たかくふくる夜に月影さゆるいはなみの里、〔新名所歌合〕 大中臣定忠
大野木《オホノキ》 今|内城田《ウチキダ》村と改む、岩出佐八の西に接し、南は一之瀬小川郷に至る、三瀬谷の東なり。○大中臣系図鏑矢記等に、祭主輔親卿大野木村に釈尊寺を道立せし由見ゆ、〔神都誌〕大野木は沼木郷に対せる名か、大野木の西十余町に大字|久具《クグ》あり、神鳳抄、久具御厨と曰ひ、内宮所摂久具神社あり、大水上命の児久求都彦媛二柱を祭り、其形は石とぞ。
一之瀬《イチノセ》 大野木久具の南、三里余に一渓あり、一之瀬谷と称し、今小川一瀬二村と為る、東は龍泉山、南は東宮山を以て海表五箇所|慥柄《タシカラ》の諸浦と相限る。〇一之瀬御所と云は、田丸具直其子具良と与に、天正年中織田氏を避けて、田丸より移りたる山栖なりと云ふ、其地は大字|脇出《ワキデ》なりとも、南中なりとも曰へど明白ならず、脇出の民家に織田信雄(北畠義子)の書翰を蔵せり。〔伊勢名勝志神都名勝誌〕一之瀬は、延元二年(建武四)尊澄法親王の入山ありし事あり、其前後の始末詳ならねど南方の義軍を招致したまはん為めに、経廻ありしならん、御詠あり玩味すべし、
延元二年の夏の比、伊勢国一瀬といふ山の奥にすみ侍しに郭公をき、て、
深山をばひとりな出でそ時烏われもみやこの人はまつらん、〔御集〕 宗良親王
補【一之瀬】○神都名勝誌 本村は土俗之を一之瀬谷といへり、度会郡に属せり、久具の南方なり、吉野日記、建武四年四月五日尊氏、細川和氏をして公家領を貶す、尊澄親王勢州一の瀬山の奥にて詠ず〔歌、略〕
一之瀬御所旧址 今詳ならず、田丸中務少輔具直の息男具良の住居せし所を一之瀬御所といひきとぞ、脇出村帝釈氏の家に北畠信雄の書翰を蔵せり。
鸚鵡石は此谷にあり。
城址 ○伊勢名勝志 南中村(一説に云ふ、脇出村にありと)に在り、天正中田丸具直北畠信雄の命により本郡岩本城より此に移る、其子具良継て居る、州人一瀬御所と称す、〔吉野日記・歌、略〕されば当時此に城を設け北畠氏の所領となりて之を田丸氏に与へしものか、記して後稽を俟(立偏)つ。
鵜鵡石《アウムセキ》 一瀬川の南極、大字|南中《ミナミナカ》に在り、(一瀬の水源は尚西方二里に出で、末は宮川に入る、全長六里)土俗カケ石と呼ぶは懸巣《カケス》と云小鳥の善く他鳥の声を真似ればならん、近世操(角+瓜)者彼の鸚鵡返と云諺によせて、此名を命ず、蓋此石其傍に発音せば(空気の震動)返響すべき理学的形状を有せる者か。○参宮図会云、鸚鵡石は山腹に横臥して偃然たり、其高十丈、色青黒なり、石辺に在りて語言し、又絃歌せば、石中に物あり之に答るが如し、菅長義卿此奇を聞き、其詩文を霊元帝の御覧に入れ、院の画師に其図を作らしめる、此石の上方|能見坂《ノミサカ》は、南海の景を望み、奥州松島に劣るなし、又此種の響石は志摩磯部村にも在り。
滝原《タキハラ》 宮川の上流十里、支源|野後《ノシリ》川の谷に在り、神宮を去る十一里、古書「滝原、在伊勢与志摩境山中、去太神宮西九十里」と云者是也、(古道六町一里、即今十六里強とす、猶長短の差あるは、迂直の別に依る)野後阿曽舟木の三大字に分る。
滝原《タキハラ》宮 神祇志料云、太神宮の西九十二里に在り、〔延暦儀式帳延喜式〕今度会河上の野尻村に存在す、〔度会県神社帳〕天照大神の造宮と云、〔延喜式〕鏡を以て霊形とす、〔延暦儀式帳〕延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る、〔延喜式〕文治三年源頼朝鎌倉より神馬一疋を奉りき、〔東鑑〕滝原|並宮《ナラビノミヤ》太神宮遙宮といふ、滝原宮地内に在り、〔延喜式〕速秋津比売神を祭る、霊形鏡に坐す、〔神名秘書〕延喜の制祈年神嘗祭に預る、凡内人二人物忌及父各一人を置く。〔延喜式〕
補【滝原】〇三十三所名所図会 滝原宮は野尻村にあり、滝原大神宮と称す、野尻の村中に入て凡そ十町ばかり左の森の中に入れば本宮の傍に出る。
多岐原《タキハラ》神社 三瀬川の向ふ岸左の上方に在り、此地は殺生を禁ず、此地度会郡に属す、大神宮摂社二十四座の内なり。
三瀬坂 上下凡そ廿四丁余、坂嶮なり、野尻までの間行程凡そ一里余。○今三瀬谷村。
野後《ノジリ》 熊野札所街道の一駅なり、滝原宮鏡座す、太神宮本紀によれば、倭姫命三瀬川より真奈胡神の船に乗り給ひ、大川を泝り、船木を経て川合より野後川に入り、此の所に上陸し給ひし時、美しき宮地なりと見そなはして、此の地を万世不換の大宮地とし給はむ御心なりしかども、大御神の御神教ありければ、又此の地を出させ給ひて、遂に五十鈴宮に鎮り座しきとぞ、其の時四年の間此の宮に鎮りましき、よりて遙宮として、別宮に列せられたり、因にいふ滝原は此野後川に落る滝、四十八ヶ所あり、是等の瀑の間にある郊原なるを以ちて、かく称せしなるべし、また弘安参詣記に「滝原並宮両所軒を並て阿曽の御杣と申す、豊受大神宮の御杣山に御座せり、太神宮の西を去れる事九十里なり」云々。〇三十三所図会云、滝原大神宮の森は、一円に杉の大樹繁りて尊し、当社は内宮第四の別宮にして、両宮にひとしく廿年ごとに一度御造替、両宮より一年前に行はるゝ事、伊雑《イザハ》宮に同じ、傍に神宮寺あり、本尊は不動明王を安んじ、別に三十三体の観音堂あり。
白いとのたえずおちくる滝の原跡垂れそめて幾世へぬらん、〔夫木集〕 延 季
野後川は荷坂《ニサカ》峠より発源し、東北流して船木に至り宮川に入る、全長凡五里、飛泉多し、中にも御幣《オンベ》滝最美観なり。
阿曽《アソ》 野後の南一里余に在る間駅なり、宝暦年中より此に鉱泉の名あれど埋却し、近年更に塩宮の傍に炭酸泉を酌み浴場を開く、温七十四度、此塩宮は古社地にて老樹亭々たる岡阜なり、重炭酸の為めに凝結せる木の葉の堆積して自然岩石状に化する者あり。〔鉱泉志神都誌〕
補【阿曽】○神都名勝誌 野後の南にあり、熊野街道なり、旅館数軒立ち並びて、浴場を設けたり、宝暦年間より鉱泉出づ。
塩宮 同所鉱泉井の傍に坐せり、社地は古樹の叢生したる岡阜なり、此の地重炭酸の為に凝結せり、木葉堆積して自然岩石に化せり。
大内《オホウチ》山 滝原より柏崎《カシハザキ》村を経て、三里にして間弓《マユミ》宿あり、荷坂峠の麓にて、大内山村と曰ふ、荷坂は延暦儀式帳に錦坂と曰ひ、神界の西限と為す、今度会郡と北牟婁郡(古志摩国二色郷)の交界なり。三十三所図会云、荷坂(又二坂)上り十二丁、下り十八丁、勢紀の国界なり、山田より卅六丁道凡十五里余といふ、藤代まで五十丁道六十三里余、此間をすべて熊野といふ、峠より向ふを眺望すれば東南の滄海砂々として、紀の路の浦々遠近に連り、長島|二江《ニコウ》なんど眼前にありて、風景言語に絶す。
大杉谷《オホスギダニ》 滝原の西方十里に余る大山谷にして、即宮川の上游なり、今多気郡に属すれど、本篇は地形の当然に因り、三瀬谷と共に度会郡に繋く。
大杉谷は今|大杉谷《オホスギダニ》村|領内《リヤウナイ》村|荻原《ヲギハラ》村(江馬)の三に分れ巨材良杉多し、北は|渡瀬《ハセ》谷(飯高郡)西は川上郷北山郷(吉野郡)南は滝原村及長島相賀の浦に至り、山壑重畳し、殊に西極は大台原《オホダイガハラ》山にして、最高峻を窮む。○神都誌云、大杉谷は度会川の源、嶺脈連亘して峰勢攅合す、人跡殆絶えて、旦暮に聞くものは唯猿声と水語とのみ、往年は神宮式年御造営の料材を此の谷にて伐採せしことありしかども、運搬に不便なるを以て、近世終に止みたり、其大杉といふは回四丈高八十五尋ある霊木なり、周回玉垣を繞らし、鳥居を立てたり、山中に飛泉懸岩太だ多し。五鈴遺響云、大彬谷は嵩谷幽僻の間に民居す、大台原は和州吉野郡に跨り、豊宮川の水源なり、万山千壑の水滴り巨流と成り、行程二十里にして東海に入る、俗説大杉谷にも式内の神祠ありと云は非なり、凡本州の古社は幽僻の地に在ることなし、鈴鹿片山神社の如き、滝原宮の如き官道の傍、又は由緒の処に建置せらるゝは格外なり。○大杉谷は其良材に富めるを以て、和歌山藩政の時、特制を布き林務を挙げしめたり、近年吉野の造林家官に請ふて経営し、大台原の峻嶺に民戸を見るに至れりと、此山頂凡一万尺の高ありて、一説に、大台原の北に並峙する国見《クニミ》山稍高くして、一万三百尺を数ふと曰へり。
補【大杉谷】度会郡〇五鈴遺響 大和吉野郡に隣れり、高嶺幽谷の間に民居す。○大台峰 〔前文、略〕凡そ本州古社は幽僻の地に在すことなし、鈴鹿片山神社は官道なるが故に鈴鹿山中にあり、其地神郡には飯高は丹生郷を限りて以西に郷名社名なし、多気郡は相可に限り、度会は田丸城隅に尽て西位になし。
○神都名勝誌 大杉数千年の星霜を経たる杉の大木あるを以てかく名づけたり、此の地は多気郡南西の極端に位せり、西は大和の吉野郡大台原の山岳に連亘し、東南は紀伊の牟婁郡の峰嶺を攅合す。
補|唐櫃《カラト》館址 多気郡○伊勢名勝志 唐櫃砦址、唐櫃村大栃(旧桃原村字総門)にあり、面積大約一万二千坪、地形平坦にして草生地たり、伝へ云ふ、天文八年北畠晴具館を此に築く、国平と称す、天正四年十一月北畠氏滅亡の後其臣吉田兼房来て此に隠れ、具教の冥福を祈る、居ること三年後其邑桃原野に移る、唐櫃砦址は所在詳ならず、今村の西部に八幡神社あり、唐櫃氏の鎮守なりと云ふ、蓋し此辺にありしならん、天正四年北畠氏の臣唐櫃五身助之に居ると。○今領内村(三瀬谷と大杉谷の間に在り)
三瀬谷《ミセタニ》 大形谷の下游、舟木三瀬より相鹿瀬の辺までを云ふ、今三瀬谷村川添村西外城田村(多気郡)七保《ナナホ》村中川村(度会郡)の五と為る、宮川を此にて三瀬川と曰ふ、長四里許。
三瀬舟木《ミセフナキ》は対岸にして、滝原の北一里、大杉谷野後谷の交会にて、和歌山藩政の時、此に番所を置き木材薪炭の流送及舟筏の上下を監視したり。〔五鈴遺響〕○神都誌云、舟木は御舟木村と云ひ、此の地より上下数里の間、層峰重岩吃然として対峙し、浩瀚たる長江其の中を盤廻せり、或は奔湍駿馬の如く、或は蕩漾(青+定)藍を浮ぶ、(石+累)(石+危)の族(竹冠)立せる所水之が為に怒り号ぶ、景色いはむかたなし、又小舟を浮べて急灘を降れば、唐の李白が詩に所謂「両岸猿声啼不住、軽舟已過万重山」の想あり。○按に古事記白橿原宮(神武)段に「神八井耳命者、伊勢舟木直等祖」とあり、此舟木は何処の族にや。
三瀬御所と云は、天正年中、北畠国司の蟄居を指す、其居址は上三瀬の字空通に在り、〔伊券名勝志)甲陽軍鑑云、永禄十二年信長伊勢に発向あり、国司(具教)は昔の多気(大河内)を出、内山の三瀬と云所に隠居し、信長二番目の子息茶筌(信雄)を聟にす、国司の御前方は近江佐々木の息女男子(信意)有と雖、殊の外肥満にて然も虚人《ウツケ》なれば、妹聟に国司を譲り玉ふ、乃三瀬を大御所、ふとり御所を中と仰ぎ、茶筌を御本城と仰ぐ、元亀三年極月、信玄公遠州味方原勝利、翌年正月、三瀬の大御所より使者にて、天下に御旗を建らるゝに附ては、御舟を可進と堅き誓紙を以被仰入候、然に同年四月信玄公他界也、天正四年霜月に三瀬にて、大御所切腹。
補【三瀬】〇三十三所名所図会 三瀬川は宮川の川上にして、水源は大台が原より出る、晴雨に拘らず西風つよき時は必ず水増るといふ滝ありて、風景よし。
補【船木】度会郡〇五鈴遺響 式内|榛《スギ》屋神社あり、榛は古人欅字と混用す、今紀州領主より監船庁に置て用材薪炭等運漕の鑑看あり。
相鹿瀬《アフカセ》 宮川の中游北岸に在り、岩出の西三里、三瀬の東四里、今多気郡に入り、西外城田村と改む、古書には大川瀬逢鹿又相可瀬とも書し、其名太神宮本紀にも見ゆ、相可村の南一里半。
補【相鹿瀬】○神都名勝誌 宮川に沿へり、七箇谷に通ふ渡船場あり、旧記には大川瀬・逢鹿瀬とも相可瀬とも書けり、太神宮本紀にも見ゆ。○逢鹿瀬寺旧址 同所。
逢鹿瀬《アフカセ》寺址 相鹿瀬の字広といふ所にあり、今も往々古瓦を掘出す事ありとぞ、天平神護三年、此の寺を以て永く大神宮寺となすべき旨宣旨を賜ひ、また宝亀六年に、同寺の僧侶大神宮の御贄を穢し奉りし罪によりて、大神宮寺を停止し、飯野郡に移すペき宣旨を下されし由、共に大神宮諸雑事記に見えたり、〔神都誌〕多気郡丹生神宮寺及飯南郡神山村参看すべし。
補【逢鹿瀬寺】多気郡○伊勢名勝志 相鹿瀬村字浅間山に在り、稍平坦にして礎石等の遺址を存す、創廃年月詳ならず、神護景雲元年十月本寺を以て大神宮寺と定めらる、宝亀六年六月石部楯杵同吉見私市安食等神宮御饌の年魚を逢鹿瀬川に漁す、同寺僧徒の辱しむる所となる、之を官に訴ふ、是より遂に本寺を廃すといふ。○今西外城田村大字逢鹿瀬。
多気郡
多気《タケ・タキ》郡 度会郡の西、飯南《ハンナン》郡の東、北は海に至る、郡界頗不整なり。今面横凡廿九方里、人口五万、十七村に分れ、郡衙を相可《アフカ》村に置く、然れども其六村宮川に沿ふ者(大杉谷三瀬谷逢鹿瀬)は、本編之を度会郡に繋く、地脈懸絶すれば也。
多気は埋俗或は多喜に訛り、文禄検地四万石、古は神三郡(道後)の一郡にて、和名抄、多気郡訓竹 七郷に分てど、櫛田郷は多気に属すべからず、蓋飯野郡に入るべきを謬りたる也。後世郡界変遷し、丹生郷(和名抄飯高郡)兄国郷(和名抄飯野郡)の地今本郡に属す。○倭姫命|佐々牟延《ササムエ》の行宮に座して、地名を問はせ、竹《タケ》首吉比古の答に「五百枝刺《イホエサス》竹田国」と曰へるは此とす、孝徳天皇の朝、丙午歳、天下に評(郡に同じ)を立てられし時、竹村《タケムラ》の屯倉を建て、度会より十郷を分ち、之を多気郡と為し、天智天皇の朝、甲子歳、更に本郡より四郷を分ち、飯野郡を建つ、其度会多気を神二郡と称す、後飯野を之に加へらる。
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補【多気郡】○神都名勝誌 大御神御遷幸の途次|佐《サ》〔佐佐か〕牟延《ムエ》の行宮に坐しましゝ時、倭姫命国の名を問はせ給ひしかば、竹首吉比古、五百枝刺竹田国と答へ奉りき、因りて一郡の名とせられたりとぞ、延暦儀式帳に見ゆれば、いと古き称号なり、南は紀伊の牟婁郡、大和の吉野郡の山壑に連り、西は飯高郡の峰嶺に境す、世にいと名高き大杉谷の霊木、大台原、千尋滝・飛滝・大滝等の諸勝はことごとく此の郡域に属せり。〇五鈴遺響、文禄検地四万一千石、元禄検地四万二千石、面積廿九方里、人口四万七千、十七村、相可村。○或は多喜郡と曰ふ。
有弐《ウニ》郷 和名抄、多気郡有弐郷、訓宇爾。○今|明星《ミヤウジヤウ》村是也、東南は度会郡湯田郷、西は多気郷、北は麻続《ヲミ》卿に至る、有弐湯田両郷の間は林叢の地にして、之を明野《アケノ》又明星野と呼ぶ、此野も近世開拓し、殊に斎宮村より小俣駅に至る国道を通じたるより、民戸路傍に櫛比す。○神宮雜例集、永久四年|有弐《ウニ》村|土師長《ハシノヲサ》の名ありて其土師の遺習にて、毎年三千八百の土器を神宮に貢進し、土師御器《ハシカハラケ》と称したり。
有弐《ウニ》神社○延喜式に列す、土師氏の祖神とぞ、又有弐桜神社同式に列す、神鳳抄、桜御薗と云ふ地ならん。
補【明星】○神都名勝誌 長松山安養寺、伝へ云ふ、徳治年中京都東福寺の僧大恵、此の地に来りて七堂伽藍を造築したりと、天正年中織田信長の為に全院を焼き尽されたり、その後今の堂宇を再立。
海田《ウナタ》神社 延喜式、天大海田水代《アマノオホウナタミヅシロ》大刀自神と曰ひ、有弐の西北、斎宮村の南字|宇田《ウダ》にあり。〔参宮図会〕
あけぼのの宇田の畔より立つ鴫の羽かく音や万代の数、〔家集〕 俊頼
堀川《ホリカハ》塚 大字中村字|発志《ハツシ》に古墳数塚あり、高約丈余経六尺、往年土人其一所を発掘し、銀鎧鉄剣土器等を見て之れを停止したり、此辺堀川溝の字を遺すに拠り、六十一代斎王惇子内親王の墓かとも曰ふ、惇子は承安二年多気に薨去ありて、堀川斎宮と称したまふ。〔伊勢名勝志神都誌〕
補【有爾中村古墳】多気郡○伊勢名勝志 有爾中村字発志(旧字堀川)に数塚あり、高大約丈余径六尺、何人の墳なるを知らず、往年里人開拓して墓地となさんとす、偶々塚を発き銀環古刀土器及び鉄器の腐蝕するものを得、乃ち中止して之を官に告ぐ、或は以て斎宮六十一代惇子内親王の墓となす。○神都名勝誌 土俗之を堀川溝の塚と云ふ、惇子内親王は承安二年斎宮寮にて薨去、堀川斎宮と云ふ、此に葬ればならむ。
鳥墓※[まだれ+寺]《トツカノカンダチ》址 明星《ミヤウジヤウ》村大字|蓑《ミノ》の鳥墓の地に小祠あり、此なるべし、垂仁天皇の朝に、神宮鎮座ありし以後、此に神※[まだれ+寺]を置き諸政を執行したり、孝徳天皇大化五年、度会郡沼木郷山田原に移し、之を御厨と改む、即大神宮司也、〔伊勢名勝志神都名勝誌〕延暦儀式帳云、纏向珠城朝廷以来、至于難波長柄豊前宮御于天皇御世、有爾鳥墓村、造神※[まだれ+寺]、為雜神政行仕奉、而同朝廷御時、初太神宮司、所称神※[まだれ+寺]司中臣香積連須気仕奉、是人時度会山田原造御厨、改神※[まだれ+寺]云号、号御厨、即曰太神宮司。
補【鳥墓厨】多気郡○名勝誌 蓑村字鳥墓の地なり、今小祠あり、鳥墓神社と称す、徃昔此に神※[まだれ+寺]を建て神領の雑務を執行し来りしが、大化五年度会郡山田原の離宮院に合す、内宮儀式帳に云ふ即ち是地なり。○今朝星村。
安義寺《アンヤウジ》 神都誌云、此寺明星野に在り、徳治年中東福寺僧大恵の建立する所にして、天正中兵火に罹り、後今の堂を再建せり、土俗云ふ旧址は国道の南なる叢林の中に在りきと、今なほ此の林の中央に、元禄年中の建設に係る開山大恵の碑あり、寺に大恵の資財状及北畠足利等よりの祈願書を什蔵せり。
大淀《オホヨド・オホイヅ》 明星村斎宮村の北、海水を東北に受く、西は上御糸下御糸二村に至、方数町の港湾あり、水浅く岸平にして民家は其傍に族(竹冠)集す、昔は「倭姫命佐々夫江宮より御船にて出でさせ、此海は淀みに淀むとて、大与度社を祝定め給ふ」と世記に見ゆ、延喜式、竹太与|杼《ド》神社是なり、此社は古の禊場なるべけれど、今は海汀を去る数町に及ぶ。
大淀浦は小野湊とも云ひ、彼浅水湾蓋是なり、此浦屡天災地妖にあひ変革し、小野古江《ヲノフルエ》の跡、疑惑の説多し。
昔男、狩の使より帰りきけるに、大淀のわたりに宿りて、いつきの宮のわらはべに言ひかけゝる、
みるめかる潟やいづこぞ棹さしてわれに教へよあまの釣舟、〔伊勢物語〕
昔男ありけり、伊勢の国なりける女をえあはで、隣の国へいくとて、いみじく嘆きければ、彼女
大淀のはまに生ふてふ見るからに心はなぎぬ語らはねども
といひて、ましてつれなかりければ、男
袖ぬれて海士のかりほすわたつみのみるを逢にてやまむとやする。〔伊勢物語〕
大淀の松はつらくもあらなくにうらみてのみも返る波かな、〔新古今集〕大淀の御禊いく世になりぬらん神さびわたる磯の姫松、〔拾遺集〕 兼隆
大淀に業平松とて一老幹ありしが、延宝年中、風に倒されければ、時の山田奉行古郡一重年植継を為したりと。〔参宮図会神都誌〕○小野湊は延喜式|尾野《ヲノ》湊に同じ、麻続《ヲミ》郷の水門の義なり、故に歌枕には苧生海に作る、其|流江《ナガレエ》と云は、明星野の水此に匯(さんずい外)すればなり。神都誌云、小野湊又小野古江と云は、所在詳ならず、古来諸説あれども従ひ難し、延喜斎宮式に「五月十一月晦日、随近川頭為禊、八月晦日、臨尾野湊為禊」と見え、拾遺集源兼隆の歌に「大淀の御禊幾世になりぬらん」と見え、又新古今集斎宮女御の歌の端書に「大淀の浦にみそぎし侍る」などあるを考ふるに、小野湊は此の大淀の浦なること疑ふべからず、さるは斎宮に近きわたりの海岸にて、御禊し給ふ例なればなり。
伊勢記云、御禊の橋といふ処有り、これは霜月の新嘗の祭に、斎宮御しほあみ給ふとて、浜へいで給へるゆゑに、かくなづけたるなり、もとは爰をば小野の古江といへば、小野の江の橋と云をきゝてよめる、
うしほくむ斎のいも井年ふりてやゝ朽にけり小野の江の橋。 長明
峻頼が伊勢へまかる事ありて、くだりける時、人々馬のはなむけし侍りける時よめる、 伊せの海をのの古江にくちはてでみやこの方へ帰れとぞ思ふ、〔金葉集〕 師頼
伊せの海小野のみなとの流れ江のながれても見む人の心は、〔続後撰集〕
補【大淀】○神都名勝誌 倭姫命佐々牟江の宮より御船にて出でさせ給ひしに、海面淀みに淀みていと穏かなりしかば、皇女悦び給ひて大与度の社を定めさせ給ひき、夫より此の浜を大淀とは称せるなるべし。
業平《ナリヒラ》松 大淀の海岸にあり、此の海岸に数百年の星霜を経たる老松ありき、土俗業平松と呼べり、延宝年中の大風に転倒せしかば、代官古郡重年と云ふ者代の松を植ゑしめたり、今の松即ち是なり。
大淀《オホヨド》城址 北畠国司具教の隠居処として築ける者なり、永禄十二年、九鬼嘉隆織田氏の命を承け、水軍を以て之を攻む、後廃嘘と為り、天保年中洪浪の為めに壊さる、今尚一丘を存す。〔神都名勝誌〕
麻続《ヲウミ・ヲ》郷 和名抄、多気郡麻続郷、訓乎宇美。○今|上御糸《カミミイト》村下御糸村及大淀村是なり、斎宮村の北なる広邑にして、祓川(一名稲木川)両畔に渉る。○本郷は其名に負ふ如く、紡績に長ぜる民村にして、古は神宮に奉仕し麻続氏と称し、今も御糸村と呼び松坂木綿の産地なり、麻続は下略して乎《ヲ》とも曰ふ。
補【麻続郷】○和名抄郡郷考 機殿、儀式帳太神御霊称麻紙屋姫神といふ是也。古語拾遺、長白羽神、伊勢国麻続祖、今俗衣服謂之白羽此縁也。三代実録貞観五年八月伊勢国多気郡百姓少初位下麻続部〔愚麻呂、麻続部〕広永等十六人、復本姓中麻続公、愚麻呂等自歎云、豊城入彦命之後也。太神宮例文、麻続。節用集、烏呼浦と書てヲミノウラと訓り、又小忌浦とも有。
○続紀 神護景雲元年四月癸巳、伊勢国多気郡人外正七位下敢国礒部忍国献銭百万、絹五百疋、稲一万束、授外正五位下(同二年二月、外正五位下敢礒部忍国為志摩守、宝亀六年五月癸巳朔、敢礒部忍国等五人賜姓敢臣)○皇太神宮儀式帳 〔難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世、孝徳天皇〕以十郷分、竹村立屯倉、麻績連広背督領、礒部真夜手助督。
麻績《ヲウミ》神社 延喜式に列す、麻続氏の祖神なるべし、古語拾遺云、長《ヲサ》白羽神、伊勢国麻続祖、今俗衣服謂之|白羽《シロハブタエ》此縁也。延暦儀式帳云、難波朝廷、分竹村十郷、立屯倉、麻績連《ヲミノムラジ》広背督造仕奉。○旧事紀に「天八坂命、伊勢神麻続連等祖」とあり、是は長白羽神裔と一類なるべし、神麻績機殿は本郷の西南|機殿《はたどの》村(飯西都)に現存す。
佐佐牟江《ササムエ》 大淀村の西、下御糸《シモミイト》村大字|根倉《ネクラ》の東なる細流を曰ふ、田間の水之に注ぎ、北流三十町許にして海に入る、笛《フエ》川とも呼ぶ。
音にたちて恨やせまし笛川の瀬による竹のおのがうきふし、〔建保百首〕 九条内大臣
補【寒河】多気郡○伊勢名勝志 土羽村にあり、倭姫命世記に云もの〔其河之水寒在キ、則寒河卜号〕即是なり。○神都名勝誌 小俣駅の国道を横ぎる、寒川橋あり。佐々牟江 ○伊勢名勝志 又篠笛橋山、大淀村と根倉村の間に在り。○今下御糸村大字根倉。
竹佐々夫江《タケノササフエ》神社 根倉に在り、延喜式に列し、儀式帳根倉佐牟江に作る。神都名勝誌云、佐々夫江行宮址は即此神社の近傍ならむ、今所在を詳にせず、大御神御遷幸の時の行宮の址なり、大御神此の佐々牟江の宮に座しし時、真名鶴一羽北の方より飛び来て、夜昼となく鳴き居たり、倭姫命怪み給ひ、足速男命《アシハヤヲノミコト》をして鶴の址を追はしめ給ふ、葦原の中に本一株にして八百穂に蕃殖せる稲あり、皇女いたく歓び給ひ、竹連吉比古等に仰せて、其の稲を苅り取らせ給ひき、これ懸税行事《カケヂカラギヤウジ》のおこりなり、かくて其の葦原をば竹連の一族開墾して、根倉の御刀代田《ミトシロダ》と称せり、根倉物忌神酒を醸造して、神嘗祭由貴の大御饌に進る、儀式及神服織、神麻績、神部、抜穂大税を貢献する遺例、近年まで行はれたり。
根倉《ネクラ》 今下御糸村の大字なり、佐々夫江の西、祓川の東なり。延喜式、根倉神社(根一作(木+貴))延暦儀式帳、根倉甕皇御神とあり、櫛田根椋神田《クスダノネクラノミタ》と称するは此なり、又「根倉物忌は石部《イソベ》稲依女」と同書に見ゆ、多気郡の豪族磯部氏は即其族類なるべし。本郡制置の時、磯部真夜手は助督を拝し、統紀には「神護景雲元年、伊勢多気郡人敢磯部忍国、献銭百万絹五百疋稲一万束、授外正五位下、宝亀六年敢磯部忍国、賜姓敢臣」
月夜には根くらの森もくらからずまして白良の浜いかならん、〔斎宮歌合〕
白良《シララ》浜根倉の北大字浜田の浦辺なり、神鳳抄に「浜田御薗塩三斗、真名胡御薗神田」云々とある地也。〔五鈴遺響〕
藤原《フヂハラ》 今|下御糸《シモミイト》村と改む、祓川の西岸にして海に接す、延喜式|畠田《ハタダ》神社三座此に存す、神鳳抄に藤原御園の名あり、北藤原の大字|煙草《ケムリサウ》に、御炭山と云ふ小丘あり、相伝ふ斎宮の御黛を製して献ぜる所なりと。〔参宮図会神都名勝誌〕
行く先きの御すみの山をたのむにはこひをぞ神に手向つゝ行、〔懐中抄〕
藤原の南十余町、大字|志貴《シキ》は、神鳳抄志貴御厨、佐貴栗栖《サキノクルス》神社〔延喜式〕此に在り。〔神都名勝誌〕
補【藤原】○神都名勝誌 祓川村の注口なり、神鳳抄藤原御薗、〔御炭山、略〕畠田《ハタダ》神社 三社あり、北藤原・南藤原・中藤原の三箇所に坐せり、延喜式畠田神社、三座。
補【志貴】○神都名勝誌藤原中村の南にあり、神鳳抄志貴御厨とあり、佐岐栗栖神社は旧本村の北方なる田圃の内に鎮座せしを、近世今の所に移したりとぞ、土俗旧地をくるす塚といへり、延喜式、佐支栗栖神社二座。
中海《ナカウミ》 に今|上御糸《カミイト》村と日ふ、祓川の東、斎宮村の北に接す、中|麻績《ウミ》の義なり、延喜式|仲《ナカ》在り、三代実録「貞観五年伊勢国多気郡百姓麻績部愚麿、愚麿等、自款云、豊城入彦命之後也」光明寺元亨元年の文書に「五条二麻績里」あり、藤波氏所蔵兵部少輔為宗の書状に「多気郡麻績郷内中麻績住人迫残狼狼籍之事」とあり。〔五鈴遺響神都名勝誌〕
馬之上《ウマノヘ》 上御糸村の大字なり、中海の東|佐田《サタ》の南、此地小松山に古墓あり、面積百八十坪、高一丈二尺、円形を成し、傍に陪従塚四基あり、樹木繁茂す、近年宮家にて修理あり、斎宮四十一代隆子内親王(醍醐皇子章明親王の一女)と為す、蓋此斎王小松の宮号ありたまへれば、斯く擬定したるならん、此墓の東南は茫々たる林野にして、南斎宮村に至る、二十町とす。
補【隆子内親王墓】多気郡○伊勢名勝志 (一名姫塚、亦小松塚)馬上村字寺山(旧字小松山)百七十八坪、高一丈二尺、円形を為す、周らすに柵を以てす、傍に陪塚の如きもの四基あり、樹木繁茂す、内親王は醍醐天皇の皇子章明親王の第二皇女にして斎宮四十一代たり、小松斎宮と称す。○今上御糸村大字馬上小松塚。
流田《ナガレダ》郷 和名抄、多気郡流田郷、訓奈加礼田。○今東黒部村是なり、下御糸村の西にして、櫛田川の東、機殿村の北なり。延喜式、流田流田上の二社を載せ、今飯南郡櫛田村大字清水に此社在りと云は不審なり、五鈴遺響は因て流田は飯野郡|長田《ヲサタ》郷に同じかるべしと為す、按に神宮雑例集に「神服機殿、在多気郡流田郷服村」と見え、神鳳抄にも多気郡流田郷と記すれば、長田と混ずべからず、今東黒部村大字|大垣内《オホカイト》に機殿あり、即|服《ハトリ》村なるべし。
補【流田郷】○神都名勝誌 和名類聚妙に奈加礼多と訓ぜり、神宮雑例集に神服機殿(在多気郡流田郷服村)と見えたり、服村は今の大垣内村なり、神鳳抄にも多気郡流田郷とあり、然るを飯野郡清水村に流田神社及流田上神社のあるによりて、五鈴遺響には流田は長田の転れるにて、長田郷清水村の辺を後世流田と称せしかと記せるは誤なり。○今東黒部村。
東黒部《ヒガシクロベ》 此村は櫛田川の東岸にして、北は海に接す、西黒部は飯南郡に属す。神都誌云、吹井《フケヰ》松は東黒部字|西之越《ニシノコシ》に在り、昔此なる老樹を北畠国永賞美したることあり、後世朽枯しければ、嘉永年中、村民更に数珠を植継ぎ、斎藤拙堂の文を乞ひ石碑を立つ。○黒部は呉部の転か、壱志郡|呉部《クレベ》郷参考すべし。
補【東黒部】○神都名勝誌 吹井松は字西の越に在り、土俗根上松と云ふ、初め此の地は千年以上を経たる古松のありし趾なり、北畠国永曽て之を賞し和歌を詠ぜしことあり、嘉永年中村民飯田美郷といふもの旧趾の滅びむ事を嘆き、斎藤拙堂に乞ひて碑文を作らしめ、又其の趾に数珠の松を植ゑたり、其の松今は合抱四五尺に及べり。○飯野郡黒部に対す。和名抄一志郡呉部郷の遺か。
服部殿 神都名勝誌、神服織《カムハトリ》機殿は東黒部村大垣内にあり。○東黒部村大垣内的形機殿の東|出間《イデマ》に在り、謂ゆる流田の下館是なり。
的形《マトカタ》浦 流田郷束黒部の浦の旧名なり。麻刀方《マトカタ》神社は大字垣内田に在り、今海岸を去る十余町に及ぶ。
藤原宮御宇天皇二年、舎人娘従駕作歌、
ますらをがさつ矢手挿み立ち向ひ射る円方は見るにさやけし、〔万葉集〕
仙覚万葉抄曰、伊勢風土記、的形浦者、此浦地形似的、故以為名也、今已絶成江湖也、天皇(持統)行幸浦辺、歌云「麻須良遠能佐都夜多波佐実牟加比多立伊流也麻刀加多波麻乃佐夜気佐」。○櫛田川は往時小溝なりしを、中世以降祓川の水之に傾注し、巨流と為れりと云ふ、的形浦も此水道の変に因り、地形益其故態を改めたるか。
服部麻刀方《ハトリマトカタ》神社 延喜式に列す、倭姫命世記に「八尋機殿、円方機殿是也」とありて、後世の大垣内の機殿は当初此に在りしならん、今東黒部村大字垣内田に属し、機殿の西北十町。○神都誌云、垣内田《カイトダ》は神守《カミモリ》の西北に接し、勢陽雑記拾遺に神鳳抄壷方御薗は此と曰へり、宝徳三年機殿神事日記に「在所のいと田まへかたつふかた二社」と載たるは、麻刀方壷方の訛也。
服部伊刀麻《ハトリイトマ》神社○延喜式に列す、東黒部村大字|出間《イツマ》に在り、下館と称す、麻刀方に対せる名ならん、機殿の北八町の処なり。出間の東に接し、大字|土己路《トコロ》あり、此に延喜式|国乃御神《クニノミカミノ》社鎮坐す、謂ゆる所《トコロ》の神の義とす。
服部機殿《ハトリノハタドノ》 東黒部村大字|大垣内《オカイト》に在り、神宮の御衣を此に造進す、其式例は延暦儀式帳神宮雑例集以下に詳なり、麻続機殿は本殿の南十八町井口村(今飯南郡機殿村)に在り。○神都誌云、倭姫命皇大神を奉じて、飯野の高宮に坐します時、其国なる長田郷に神服麻積の両機殿を建て給ひ、服部連等に御衣を織らしめ給ひしを始とす、其の後いつの頃にか此両機殿を岸村に移きれき、(これ神名帳なる多気郡紀師神社ならむか)孝徳天皇の御代に、神御衣の調進を止められ、此の儀一時中絶せり、天武天皇の御代に旧儀に復し給ひ、多気郡流田郷服村(今の大垣内村なり)に両機殿并に鎮守の杜を建築せられき、承暦三年に宣旨ありて、麻績機殿并に同鎮守社を飯野郡井手郷井口村に移されたり、夫より以来儀式恒例となり今に変ることなし。
多気《タケ》郷 和名抄、多気郡多気郷、訓多介。○今|斎宮《サイグウ》村是なり神宮雑例集に「斎宮寮、在多気郡竹郷」と見え、斎王の御在所なるを以て、竹都《タケノミヤコ》の称あり、西は祓川に、東は有弐郷に至る。
ときはなる竹の都の石なればうれしきふしを数へてぞ見る、〔散木集〕呉竹の世々の都ときくからに君が千とせのうたがひもなし、〔新勅撰集〕
延暦儀式帳云「難波朝廷、評を立て給時に十郷を分て竹村に屯倉立を立て麻続連広背督領」神名秘書、引風土記云「難波宮御宇天皇丙午年、伊勢多気郡、竹連磯真建此郡」○此郷は大化年中屯倉を置かれしと云は詳なれど、其斎宮寮は何世の創置にや、初め神痔(まだれ)にて斎王の供給を司りし如し、南北争乱の際に至り斎王絶え、後世ただ村名を伝ふるのみ。日本書紀文武天皇二年、「遷多気太神宮、于度会郡」と云事あり、稍不審なり、宮の下誤脱あるか或は疑ふ、斎王離宮院多気に在りしを、度会の山田原御厨に徙したる事にや、凡斎王神宮に向ふ毎に先離宮に着くと云へり。
竹《タケ》神社延喜式に列し、一に竹上《タケノヘ》神社と曰ふ、今斎宮村大字竹川の八王子と云祠此なり、蓋竹連の祖神ならん。
補【多気郷】多気郡○和名抄郡郷考 続紀文武二年十二月遷多気太神宮于度会郡。神名式、竹神社。神鳳抄飯野郡竹庄神領竹川村(今も竹川村あり、即多気川也、今此川を稲木川とも云ふ)。神宮雑例集、斎宮寮在多気郡竹郷。○今斎宮村大字竹川。
神名秘書引風土記云、難波長柄豊碕宮御宇天皇、丙午、竹連磯部直二氏、建此郡焉。倭姫世記、竹首吉比古。
補【斎宮址】多気郡○伊勢名勝志 文久二年津城主藤堂高猷建議して斎宮を造らんことを請ふ、朝廷之を嘉す、慶応三年封内鷹野尾村(今奄芸郡椋本村の地なり)の地を開墾し以て其経費に充んとす、未だ成らず、因て米五百石を献じ以て墾地の用に充んとす、然れども世変多端に際し、遂に之を果す能はず。
斎宮寮《サイグウレウ》址 大字|竹川《タケカハ》に在り、猷弐郷鳥墓痔(まだれ)址の西北十余町、国道南北に渉り、金剛坂坂本の通路の辺にして、方数町に亘る、禊川其西傍を過ぐ。
神都誌云、延喜斎宮式を按ずるに「凡溝皇(さんずい)四辺列植松柳」云々と見えたり、其の旧跡に就いて検するに、東の境を鈴池といふ、西は国道より阪本に至る路の東傍を限とす北を字ゆうさむ堀といふ、南は天正年間田圃を開墾せしより、人民次第に移住して、遂に一邑をなし西堀木《ニシホリキ》郷と呼べり、其の四至の処に渠濠の址ども遺り、又御館|御川《ミカハ》上園下園井戸屋敷柳原等の字も存せり、これ斎宮寮内中外三院の旧蹟なり、康永参詣記「斎宮にまゐりぬ、古の築地の跡と覚えて、草木の高き所にあり、鳥居は倒れて巧ち残りたる柱の道に横たはれる、人だにもかくと知らせずは、只伏木とのみぞ見てすぎなまし、斎宮と申すはたえて久しき址なりしを、近頃再興有るべしとて、花やかかる風情など有りしかども、芳野山の桜常なきかぜにさそはれて、嵯峨野の原の女郎花、あだなる露にしほれしかば、野宮の名のみ残りて、斎宮の御降にも及ばず、神慮のうけおぼしめさぬ故なりけるとぞ、此の時こそ思ひ合せ侍りしか、是は近き程の事なり」云々。 竹のみやまがきに植て千世までもいはひそめけん此君ぞこれ、〔夫木集〕 俊成
為近がはらから為国は斎宮頭なり、五月五日、参りて宮の御前のやり水を、みかはの池となん云なるを、だいばん所に、
ことし生のみかはの池のあやめ草ながきためしに人もひかなん、〔斎宮集〕
竹川の橋の爪なるはなぞのにわれをばゆるせめざしたぐへて、〔催馬楽〕
御溝《ミカハ》は延喜式斎宮寮十七座中|御川水《ミカハミヅ》神あり、又竹川の菖蒲は今も田野に野生のものおほしとぞ。〔参宮図会伊勢名勝志〕
神祇志料云、昔崇神天皇御世、皇女豊耜(旁巨)入姫命太神を斎奉り給ひ、垂仁天皇御世、倭姫命之に代て伊勢に斎鎮め奉り、是後世毎に斎宮を置く、斎宮古へ御杖代と云、〔日本書紀類聚国史延暦儀式帳〕凡天皇位に即給ふ時は、内親王を卜定て斎王とす、城外浄野を卜て野宮を造り、朔日毎に木綿鬘を着け、遙に神宮を拝み奉る、凡京にして斎し給ふ事三年、其八月晦朝廷大祓を行ふ、九月上旬斎王河に臨て祓禊し、尋で近江国府甲賀垂水伊勢鈴鹿壱志の頓宮を営造しめ、又此月内、京畿伊勢近江等国、燈を北辰に奉り及び挙哀改葬の事を禁む、其発給ふ日に至て天皇大極殿に御し、斎王の御髪に櫛を刺加へ坐て、之を遣し給ふ、(斎王御髪以下江家次第)従行群官甚多し号して斎王群行といふ、(斎王群行拠江家次第)其斎宮奉仕の諸事務は斎宮寮を置て之を掌る、初め神亀四年寮官一百余人を任じ、〔続日本紀〕此後或は置き或は廃め、又定制なし、〔続紀令集解大意〕天平二年、詔して斎宮供給の年料は官物を用ゐしめ、神税を停め、〔続日本紀〕弘仁三年、神税の外正税十三万三千束の息利を挙て之に充給ひ、〔日本後紀〕天長元年、多気斎宮に遠く便利ならざるを以て、度会離宮を常斎宮とし、〔類聚国史〕承和六年、斎宮災にかゝるを以て、又多気宮を卜定て斎宮とす、十二年、寮頭及助をして神宮及多気度会二郡の雑務を検校べく制給ひ、〔続日本後紀〕貞観六年、銅印一面を以て斎王主神司に充て、元慶五年本国正税稻一万束を宮司に附け、其出拳の利を以て斎宮雜舎を修理の料に充しむ、〔三代実録〕初め崇神天皇皇女を太髪に仕奉蘿シメ給ひしより、、世々相継ぎ、後醍醐天皇元弘中に至て、斎王終に絶たり。〔歴代皇紀斎宮記〕
祓《ハラヒ》川 斎宮《サイグウ》村と漕代《コイシロ》村稲木(飯南郡)の間を流る、古は多気《タケ》川と称し、波瀬谷の高見峠より発源し、東流十五里、相可の東に至り、分裂して櫛田多気の両川と為り三里にして各海に入る、稲木に津梁あるを以て、稲木《イナキ》川とも曰ふ。○神都誌云、此水は往時伊勢斎宮の群行、及勅使例幣使参入等の時、太神宮司の卜部此の川にて修禊したりき、故に禊川の名あり、稲木川などとも称せり、櫛田川の一分脈にて、三里弱濶四十間、案ずるに此の川は即古の櫛田川なり、今の櫛田川は永保二年七月大洪水の節分派したる者なり、伊勢勅使部類記に「関河、安濃河、雲津河、竹河、宮河」と次第し、竹河の分注に或は櫛田川といふとあり、延喜斎宮式、江家次第等にも下樋小河、多気河とありて、其中間に櫛田河の目なし。
延喜十七年、伊勢いつきの宮の御れうの屏風の歌の中に、
もみぢばのながるゝ時は竹川の淵のみどりもいろかはるらん、〔家集〕 大河内躬恒
たのもしき名にもあるかな見てゆけばまづ幸の橋をわたらん、〔名寄〕 大弐高遠
参宮図会云、幸橋とは、昔斎王勅使参向の時、多気川に架したる梁なり、今稲木の渡の下方なりとぞ。
補【子得《コウル》岩】多気郡○伊勢名勝志 (一に子売岩に作る、亦名向岩といふ)四疋田村字脇田にあり、櫛田川の南涯に属し、飯野郡阿波曽村と相対す、村人子を育するもの生産後七日間に其児を懐き岩辺に到り、阿波曽村人の来る者を招き、其児に名づけしめ、冒すに岩字を以てせば、其児長生を得ると云ふ。○今津田村。
兄国《エクニ》郷 和名抄飯野郡兄国郷、訓絵久爾。○今本郡に入り、相可村の東部なり、北は櫛田川を隔てゝ乳熊郷(今飯南郡神山村)に対し、南は佐那村なり、大字兄国あり。○神都誌云、延喜式、多気郡|伊呂止《イロト》神社の名ありて、神鳳抄「飯野郡伊呂止御園」あり、惟ふに箇は伊呂上伊呂止《イロネイロト》と曰ふ地を、兄国弟国とも呼びたるか、即此兄国郷なり、此の地櫛田川の東にありて、固より多気郡の内なり、然るを神鳳抄に飯野郡兄国郷とあり、和名抄にも飯野郡の下に出せり、又貞治七年二月、宮田前大宮司忠緒朝臣の紛失日記に「飯野郡大領兄国宿禰」の署名あり、されば郡領本居の地を、其の郡に付属せしめたること、楠田と同例なるべし、朝長《アサヲサ》弟国《オトクニ》河田《カウタ》等の諸村は此の郷に属したりき。相可《アフカ》車駅○参宮鉄道、松坂より来り、神山《カウヤマ》村一乗寺の下にて櫛田川を絶り、朝長弟国の間に停車す、之を相可駅とす、相可射和の市街を東に去る三十町。大国《オホクニ》荘は東寺文書「承和十二年、大国荘、四至、限東宇保村高岡、西中万氏墓、南多気郡佐奈倉崎、北四神山東縄手大溝」〔神都誌〕按に此字保は今斎宮村大字岩内なるべし、倉崎は佐奈村大字五佐奈なるべし、四神山は後の一乗寺にて、大溝は即櫛田川の旧流とぞ、(櫛田川参考)大国弟国通用、今もオークニと唱ふ。
補【兄国郷】○神都名勝誌 和名類聚抄に江久尓と訓ぜり、旧は伊呂上伊呂止《イロネイロト》と称せしを、後に兄国弟国と改めたりといへり。
相可《アフカ》郷 和名抄、多気郡相可郷。○今相可村の西部及び津田村なり。
相可《アフカ》 郡中の小都邑にして、役所を置く、佐那村の北にして、櫛田川を隔てゝ射和村と相対す。○勢遊志(伊藤東涯)云、射和相可両村、邑戸殷実、瓦屋参差、櫛田川流于其間、山明水媚、殆有衡山石田画意。
相可《アフカ》神社 延喜式、相鹿上神社と云ひ、土俗上宮と称す、大鹿首の祖天児屋根命を祭る、大鹿首は旧事紀に見ゆ、【敏達天皇采女、伊勢大鹿首小熊女、曰菟名子夫人、生二女、長曰太娘皇女、更名桜井皇女、少曰糠手姫皇女、更名田村皇女」〔神都誌〕(大鹿は相可と相異なり、河曲郡に属す、相可と混ずべからず)○延喜式、相鹿|牟山《ムヤマ》神社、相鹿中神社(一云木太御)共に此地に在りしならん、牟山社今存す、中社詳ならず、〇五鈴遺響云、相可村の磯部寺の林中に、磯宮と云古祠あり、皇太神遷幸の跡と。近長谷寺文書、天暦七年資財帳に「多気郡相可郷、十六条三疋田里四疋田里、相可里、津留里」など見ゆ、三疋田《サンヒキタ》四疋田《シヒキタ》津留《ツル》は皆相可の西に在り、今津田村と改め、其大字に遺る、近長谷寺の寺北二十町許。
三宅《ミヤケ》郷 和名抄、多気郡三宅郷、訓美也介。〇三宅は神鳳抄にも多気郡とあれど、今此名なし、蓋|佐那《サナ》村なり、佐那は佐那県《サナガタ》と称したる古邑とす。
佐郡の谷を東北に流るゝ一あり、逢鹿瀬の北より発源し、平谷仁田(佐那村大字)を経て、相可村|池上《イケガミ》朝長《アサヲサ》に至りて櫛田川に入る、蓋古の磯部《イソベ》川なり、長凡三里。○磯部川は延暦儀式帳に「飯野磯部川、為神近堺、飯高下樋小河、為神遠界」とありて、当時多気の神郡と飯野の公郡の交堺を此辺に置かる、即ち和名抄多気の三宅郷(佐那村)と飯野の兄国郷(今相可村東部一半)の交堺たるを知る。古屋草紙、此磯部川は池上村の西にて、末は相可池に入ると云ふ、今池上は相可村に入り、池は亡びて田野と為す。
佐那《サナ》 佐那は相可村の南、度会郡外城田村の西北にして西は丹生村に接し、一村陵谷に倚りて成る。神都誌云、佐那村は上古には佐那県と称しき、曙立王の子孫、佐那造の居住せし旧蹟なり、其名古事記に見えたり、今多気郡に属す、其佐那神社、土俗大森社といふ、祭神は佐那県造の遠祖曙立王命を祀りしなるべし、また玉垣の内に奈良殿と称する一社坐せり、此は手力男神を配祀したるならむ、古事記云「手力男神者、坐佐那県也」○古事記伝云、佐那県は佐那賀多と訓べし、本書に「手力男神者坐佐那県也」とありて書紀には猿田彦神伊勢之|狭長田《サナダ》に降り坐すとあるも此地の事なり、延暦儀式帳曰、「倭姫命、飯野高宮坐き、彼時佐奈の県道御代宿禰を、汝国名何問賜き曰く許母理《コモリ》国|志多備乃《シタビノ》国|真久佐牟気草向《マクサムケクサムケ》国と白き即神御田并神戸進き」とあり、其真久佐牟気草向国とは、覓前迎来前迎《マクサキムカイノクルキムカヒ》てふ意にて、猿田彦神の、皇孫の天降り国覓き来ます御前を、迎へ奉り賜ひし由の称なるべし。
佐那《サナ》神社 延喜式に列す、書紀通証に文武天皇「大宝二年、遷多気大神宮、于度会郡」と云は此神なるべしと云ふ。古事記伝云、佐那神社は今佐那谷の仁田《ニタ》村と云に在りて、大森社と申す、式に二座とあり、一座は手力雄命たる古事記に明白なり、今一座をば大気都比売神の子、若沙那売神と古事記に見ゆる者に引き当てたり、此は名に因み押当てにはあらぬか。○古事記云、伊邪河宮(開化)段云「御子日子坐王、生大俣王、大俣王之子|曙立《アケタツ》王者、伊勢之品遅部君、伊勢之佐那造之祖」○佐那社は大字仁田の西南、田間に在り、其西|平谷《ヒラタニ》神坂《カウサカ》長谷みな旧跡の地なり。
須麻漏売《スマロメ》神社 佐那社の西十町、大字|平谷《ヒラタニ》の岡上に在り、延喜式多気郡四十五前の第一に列し、神宮造替の例に与る十二社の一なり、土俗一之大宮と称す。(佐那も造替十二社の一なり)
神坂《カウサカ》 大字仁田の西二十町、延喜式、守山神社此に在り、又北岡に金剛座《コンガウザ》寺あり、天台宗の
古刹なり、万治年中重修〔五鈴遺響伊勢名勝志〕或は曰ふ金剛座寺は旧名穴師寺、延喜式「穴師神社」即此か。○式内社検録「近長谷寺資財帳云、穴師子寺田」、藤波氏所蔵の文書「伊勢国普賢穴師両寺事綸旨如此」とある穴師寺を求むるに詳ならず、普賢寺は今も佐奈谷神坂村にあり、其の西山に金剛座寺あり、中間の山路を神坂と云ふを以て考合するに、金剛座寺即穴師寺にて、其域内に穴師神社もありけむを、山下に遷せるにて、神坂村の産神即当社なるべし。〔神祇志料〕○神坂は神鳳抄「神坂御薗」とありて、其傍なる前村は同「前村御薗」此なり。
補【金剛座寺】多気郡○伊勢名勝志 神坂村に在り、天台宗延暦寺末なり、白鳳九年藤原不比等創立す、応仁二年火災に罹り万治中再建す。○今佐那村。
近長谷寺《キンチヤウコクジ・ハセデラ》 佐那村大字|長谷《ハセ》の北岡に在り、金剛座寺の西十五町、尚西に下れば丹生村なり、故に丹生山と称す、近長谷寺は和州泊瀬寺に擬し、本名光明寺なるを斯く呼ぶ。
神都誌云、近長谷寺は創始の年月詳ならず、元禄年間までは丹生の神宮寺に属したりき、今に天暦七年の資財帳を蔵せり、其他北畠国司及び羽柴稲葉藤堂等の諸家より寄られし祈願状数通あり。
勢州南五郡中之従関白様就被下候、雖為堂舎仏閣寺領一円致闕所候事に候、然共丹生泊瀬寺者、和州泊瀬寺十一面観音自在薩(土+垂)の御衣木一体分身として上代より卅三身の御威光もあらたなれば、貴餞群集して門前市をなすよし及聞候、然ども五々百歳末世濁乱のしるしかや山中坊中悉退転せり時節なれば不及了簡事也、国中無双之観音堂退転候得者公私外聞実不可然事也、山を可致寄進候間、是をたよりとして観音堂無退転之様に可有才覚候、猶以委敷事者一花
院可申恐々謹言
正月十八日 羽柴侍従
氏郷花押
丹生泊瀬寺真海法印
近長谷寺堂舎資財帳は史伝地志の参考に資す可し、其節略下の如し、古郷条里坪の田制、歴然として明なり。
近長谷寺舎資財帳
合
堂壱院 法名光明寺
寺山四至 註略
多気郡相可郷十六条三疋田里五坪二段八坪二段惣肆段四至云々
右治田飯高豊子以去寛平七年施入(在願文)
十七条一判田里云々
右治田相可故大司大中臣良扶家悔過料
十六条四匹田里云々
右治田故麻続在子以延喜十三年進於大悲常燈料
同条一当恵里
右治田故飯高常実以去延喜廿二年施入鏡堂修理料
十七条四少山里云々並大朽里云々十六条七新家里云々
右治田故物部康相以去延長二年施入
十七条五大朽里云々
右治田故麻続孝志子延喜五年於寺家在本券新券二枚
同条二判田里云々
右治田日置畠□町以天暦二年施入
同条矢田里云々
右治田故大宰帥宮御監伊勢包生以延喜十七年悔過
同条里九坪云々
右治田飯高僧丸去延喜四年施入
十八条三菅生里云々
右治田故安道並飯高女戸屎延長二年施入
廿条一津留里云々
右治田僧朝仁去延長九年施入
同条二道俣里云々
右治田多気郡検校麻続高主去寛平二年施入
廿一条三河合里云々
右治田物部茂世之施入延長二年
同条里四坪云々
右治田日置佰雄施入廷喜十五年
飯野郡九条二柴原里云々
右治田中臣真有去延長八年施入
多気郡十六条五相可里云々
右垣内前斎宮寮大允百済永珍去天慶二年施入
同条相可里云々
右垣内藤原乙御延喜九年施入
廿条一津留里云々
右治田大法師泰俊為除病延命奉施入
以前堂舎并資財田地等略勘定如件但件寺元者泰俊之先祖正六位上飯高宿禰諸氏仏子観勝之御蔭存生之間勧内外近親等去仁和元年所建立自爾以降資財等也云々
天暦漆年歳次癸丑二月
座主 東大寺伝燈大法師在名
別当 延暦寺伝燈大法師在名
本願施主子孫
相模守従五位下藤原朝臣在判
(以下交名一四人)
件田畠光明寺施入明白也仍在地加証者
散位 大中臣
藤原朝臣
飯高宿禰
磯部
郡判
件田畠任施入文在地証著明白也仍与判
到来天徳二年十二月十七日
大領勘済便外正六位上竹首元縢
少領検校外従八位下麻続連公 〔荘園考神都誌〕
近長谷寺の高処より、東方海面を望むべし、城山と曰ふ、此は飯高宿禰諸氏の故墟と称す、地中往々土器を出す。〔伊勢名勝志〕
補【城山】多気郡○伊勢名勝志 長谷村北山に在り、地を抜くこと凡そ五十五丈、東方内海を望み、松坂・香良洲寄の勝亦眼中に属す、山頂金刀比羅神社を安んず、里俗伝へて飯高宿禰の故居となす、地中往々土器を出すことあり。○今佐那村。
丹生《ニフ》郷 和名抄、飯高郡丹生郷、訓爾布。○今本郡に入り、丹生村五箇谷村の二と為る、佐那村の西にして、櫛田川の右岸なり、丹生の西、櫛田川の上游|大石《オホイシ》渡瀬等の八村(川俣谷)は、今飯南郡に属す、和州吉野へ通ずる高見越は之に係る。補【丹生】○神都名勝誌 此の地嶢(山+焦)たる山岳四面を囲めり、中央部は平衍にして市街をなし、酒楼茶廛多し、其他神祠仏刹、鉱泉丹坑等あり、桜花楓葉の候は遊客曳杖の一勝区なり。
丹生八景 ○伊勢名勝志 丹生村にあり、貞享中長谷川三慶之を撰す、曰ふ、今悉く散逸して其建つる所の潮沢碑を存す、(潮沢の水海水の満干によりて涌出す、故に常に塩気を含む、往昔方俗父母の喪、此に祓禊するの札あり)天和享保の際大淀三千風其遺風を慕ひ、之に賽ぐ。
丹生《ニフ》 此地(山+羔)峻之を繞り、山市を為す、酒楼茶店多し、古祠名刹鉱泉等ありて、春花秋葉の候には、遊人曳杖一勝区なり、丹生八景と云は、貞享年中、長谷川某の撰にして、今尚潮沢碑を遺す。○奇異雑談曰、義満相国、伊勢丹生荘、有御退治之事、橋崎国明承之、出陣云々。〔書紀通証〕
丹生潮之《ニブシホノ》湯○塩類泉、無色無臭、透明にして軟甘なり、煮沸すれば白濁を生ず、常温五十八鹿、浴湯は村中在りて、風景梢佳なり、此地松坂町を去る四里、相可村を去る二里、道路険悪ならず。〔日本鉱泉志〕神宮寺の西一町許にあり、四方に石を畳み井の如くなせり、昼夜時を違へず湧出す、伝へいふ僧空海の発見したる所なりと、故に弘法湯といふ、又御潮井とも称す、近傍に入浴場を設け、患者の需に供せり、浴客一ヶ年大約六千人に下らずといふ。〔神都誌〕
丹生《ニフ》神社 延喜式、飯高那丹生神社、丹生中神社の二あり、朱砂水銀の鉱産あるに因りて祭られたる地主神なるべし。○日本書紀、持統天皇、賜沙門観成(糸+施の旁)十五匹綿卅屯布五端、美其所造鉛粉。書紀通証云、伊勢於志呂伊、出於射和、為精品、続日本紀、文武二年、伊勢国献朱砂雄黄、和銅六年、令伊勢国献水銀、今丹生山、出職人歌合、所謂丹生太山之堀金是也。○神都誌云、丹生の廃坑、丹生神社の東南|中尾《ナカヲ》谷に在り、此の丹坑の事は続日本紀外宮神領記職人尽歌合等に見えたり、最古くより水銀丹砂を掘り出ししゝなるべし、近世は丹脈切れしにや、廃坑とす、洞穴あり、入ること十五六間許にて、数箇所に横穴あり、当時朱砂を運搬せし手桶、今神宮寺に蔵せり。
神宮《シングウ》寺 今真言宗を奉じ、勧修寺に属す、天正中|三瀬《ミセ》左京の兵乱に焼失し、貞享中重修せり。此寺は勒操僧正開基の大神宮寺にして、字野尻に不軽《フキヤウ》塚あり、域内九十坪、巨檜あり傍に石二箇を置く、行基神宮に詣でし時大神の託宣を聴き、舎利一粒を此に蔵し、不軽菩薩と名づくと。〔伊勢名勝志〕○大神宮寺の事は、初め宇治菩提山又|逢鹿瀬《アフカセ》に在りと云ひ、宝亀六年之を飯野郡へ移さる、丹生神宮寺、宝亀五年勒操開基と云者は、之を誤り伝ふるにや、不審なり。○神都誌云、丹生神宮寺、宝亀五年、僧勒操観音堂を創め、弘仁七年、僧空海重修し、高野山に模擬す、中世数度の兵燹にかゝり、今尚大師堂薬師堂観音堂経蔵二王門等を存せり、又什宝に般若心経(天平十四年僧行基判)一巻同経三巻(僧空海の書と伝ふ中に鼠足心経最妙也)同一巻(永万元年僧文覚印)牙印一枚方二寸「魏国之宝」と刻する者等あり。○丹生正明寺は今廃す、往年僧日蓮此に自書の題目石塔を建しが、天正の頃之を身延山(甲州)に移したりと云。〔伊勢名勝志〕
補【丹生神宮寺】多気郡○伊勢名勝志 丹生村に在り、真言宗京都勧修寺末なり、宝亀中僧勒操始創立す、後勒操の弟子空海来り住し寺門盛なりしが、天正中三瀬左京の兵乱に焼失し、貞享中之を再建せり。
丹生山成就院神宮寺 ○神都名勝誌〔重出〕伝へいふ、宝亀五年僧勒操始めて一宇を建て千手大悲像を安置せり、(今観音堂の本尊なり)弘仁七年僧空海錫を此地に留め、高野山に摸して七堂伽藍を創立せりと、其の後数度の兵燹にかゝり今は僅かに大師堂・薬師堂・観音堂・経歳・二王門等を有せり、毎月廿一日には遠近より参詣するもの絡駅たり、当寺什物、船若心経(巻末に天平十四年壬午暦三月五日僧行基花押とあり)同三巻(僧空海の書也、此の内鼠足心経最妙なりとす)同(巻末に永万元乙酉歳三月二十一日僧文覚〔壷形印〕とあり)牙印方二寸魏国之宝と刻せり、此の他数品あれども略しつ。
補〔不軽塚〕多気郡○伊勢名勝志 丹生村野尻に在り、塚域凡そ九十坪、巨檜あり、傍に径一尺五寸許の小石二を存す、伝へ云ふ、聖武天皇の時僧行基勅を奉じ、宗廟に詣で託宣により舎利骨一粒を此に蔵すと、世の謂ふ所不軽菩薩塚是なり。補【丹生正明寺】多気郡○丹生村字馬宝殿に在り、今耕地たり、相伝ふ、往昔法華宗の元祖日蓮開基にして其自書の題目を刻せる石塚ありしに、天正の始大黒屋某窃に之を身延山に売り、唯台石のみ存せしが後神宮寺に置く、其所在今詳ならず。
飯南郡
飯南《ハンナン》郡 明治二十九年、飯高飯野二郡を合併し、飯南の号を立つ。多気郡の北にして、西北は一志郡に至る、地形分れて二区と為すべし、一は櫛田川上游の地にして、神山村以下十村に分る、西は和州吉野郡高見山に至る、面積二十一方里、一は其北に接し、櫛田川及び坂内《サカナイ》川の沿岸にして、松坂市街其中央に在り、北面して海湾を控す、面積約六方里、一町八村に分る。人口合七万五千、郡衙は松坂に在り。
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飯野《イヒノ》郡 明治二十九年廃し、飯南郡へ入る、多気郡の北、旧飯高郡の東、櫛田川下游両岸の地なり。和名抄、飯野郡訓伊比野、六郷に分ち、其兄国郷は後世多気郡に入る、又多気郡に属せしめたる櫛田郷は、本郡の中央に在り、蓋和名抄の謬なり、文禄元禄の検地二万三千石。○延暦儀式帳云「纏向珠城朝廷、倭姫皇女仕奉大神、斎奉飯野之高宮、近江大津朝廷天皇、御代以甲子年、小乙中久米勝麿、多気郡四箇郷申割、立飯野高宮村屯倉、即為公郡」と、飯野は多気の分地にして、多気又度会の分地なれば、其已往には神国の分域たるを知る、延喜神祇式には飯野の諸社皆多気郡に列せしむ。続日本紀「天平勝宝四年、伊世国飯野郡人飯麿等十七人、賜秦部姓」按に此秦部は服部に同じ、神麻続機殿に奉事せる郡族なり、又神山村今|八太《ハツタ》の大字遺れり。寛平中再度の宣旨ありて、飯野の公郡を停め神封に復し、神三郡の一に列す、延喜式云「三神郡、度会多気飯野為神郡、飯野郡内十一町六段神田、其余封戸也」
補【飯野郡】○神都名勝誌 太神宮本紀に飯野高宮四年奉斎と見え、機殿儀式帳に纏向珠城朝廷倭姫皇女仕奉大神、斎奉飯野之高宮とも見ゆ、太御神御遷幸の以前より既に飯野の称ありしなり、天智天皇の三年、多気郡の内なる四郷を割き、始めて此の郡を置かれし時、屯倉を飯野高宮村に建て、其の号を直に郡名とせられたり。○儀式帳云、近江大津朝廷、天命開別天皇御代仁、以甲子年、小乙中久米勝麻呂仁、多気郡四箇郷申割弖、立飯野高宮村屯倉弖、評督領仕奉支、即為公郡之。
乳熊《チクマ》郷 和名抄 飯野郡乳熊郷。○乳熊は神鳳抄中万に作り、今|射和《イサワ》村|神山《カウヤマ》村(大字中万)に当る、櫛田川の北岸にして、南は相可村(多気郡)に対す、松坂の南三里。
射和《イサワ》 或は伊沢《イサハ》に作る、延喜式、多気郡伊佐和神社あり、今射和村と曰ふ、相可の市街と一水を隔て、相望み、北には岡陵起伏す。○射和|蓮生《レンシヤウ》寺々域に伊勢塚あり、蓋伊勢氏の古墳なり。〔伊勢名勝志〕
相州兵乱記曰、伊勢国住人新九郎宗瑞、伊沢と云所の人也、明応の比相州に来て旗を挙、子孫相続五代、関東の権柄を司りて号北条、其武功後代に伝はる佳名不勝計矣、予先祖より彼家人となり、戦功を積む、加之五代間の敵味方合戦勝劣を記置」云々と、野史云、長氏初名氏茂、其先出于維衡、維衡曽孫季衡任上総介、子孫世居伊勢、其十一世孫貞行、叙伊勢守、仕足利義満、為奏者掌出納、子貞国孫貞観相継任之、甚有威権、貞親弟貞藤、叙備中守、娶尾張人横井某女、生長氏於任処、長氏及長、為足利義親近士、応仁中従奔伊勢、義親還京、長氏独留。○産業事蹟云、射和村の人竹川竹斎彦三郎と称す、家富み志常に経済にあり、初め射和村戸口蕃殖称して殷富の地とす、而して輓近漸く衰頽し(しんにょう+甫)逃日に多し、竹斎以為く是皆此地畑多くして稲少し潅漑の利を興し畑を変じて稲田となすに如かずと、乃ち大に農業、土木、堤防溝洫、及測量の術を学び、救済を以て己の任とす、会天保丙申以来大に餓へ、餓(草冠/孚)途に満つ、同七年、竹斎幾多の私財を抛ちて土功を起し、専ら射和、阿波曽の村民を役す、老幼各課する所あり、以て廃田を興す、前後三十七町、嘉永中海外諸国来りて互市を求む、竹斎謂らく我国民心惰弱智識未だ開けず、富号を計るに足らずと、乃ち射和文庫を創設し、図書壱万巻、農商を招集して、殖産の事を勧誘す、安政二年、窯を薗中に築き、細民授産の為に万古陶を造らしめ、海外に輸出せんとす、産する所精にして雅、射和万古の名四方に鳴る、慶応二年三月、幕府召して諮ふに国事を以てす、竹斎病を勉めて江戸に詣り、対へて曰く、開港以来、各道の村駅徭役太だ繁く、民力疲弊、宜しく江戸より大坂に四日市に汽船の航行を開き、以て諸侯の兵を輸し、又其運輸の利を以て各駅に貸し、茶圃を開かしめ以て民力を養ふべしと、明治十五年、病を以て家に没す、享年七十四、郷民今に至りて欽慕して止まずと云ふ。
射和寺今廃し、僅に薬師堂一宇を遺すのみ。神都誌云、此寺は中世国司北畠氏の祈願所なりしに依り、長禄、寛正年間、同氏より此の寺に寄せたる文書数十通、今に射陽文庫に蔵せり、又延命寺地蔵院今尚存す、開基詳ならず、本尊は行基作とぞ、文明六年、僧光誉盛観之を浄土宗に改めたり、盛観夙に高徳の誉あり、北畠氏の崇敬浅からざりき、其の後北畠氏の亡ぶるに及び、諸堂宇次第に廃壊せしを、正保年間、僧然誉再建、惣門の如きは当時国司より寄附せしものなりと云へり。○射和軽粉 世に伊勢白粉と称す、氏経日次記、三郡内神税徴納注文の条に「白粉焼寵神税」とあり、何時の頃より始めしにか、此の地の村民丹土を採り、汞に合せて軽粉を製造す、多気郡丹生の丹鉛参照すべし。
補【射和】○神都名勝誌 沢亀山医王院射和寺、今は廃れて僅に薬師堂を存せるのみ。戴龍山地蔵院延命寺、本尊地蔵は行基の自作なりとぞ。
補【伊勢氏墓】飯野郡○伊勢名勝志 射和村蓮生寺内に在り、里俗伊勢義盛の墓と云ふ、其拠る所を知らず、按ずるに多気郡近長谷寺資財帳に東限伊勢得薗宅云々の文を載す、蓋し伊勢氏世々此の地に住せしものゝ墳墓ならん。
本宗《ホンシユウ》寺 射和の大伽藍なり、真宗東本願寺に属す、寛永年中参州土呂本宗寺を此に移し、(うがんむり/眞)楽寺廃墟に建造したるなり、此寺は慧燈大師(蓮如)文明の比参州に開基し、参河門徒の道場たり、永禄中門徒乱を興し松平氏に抗敵し、本宗寺災に罹りたる事あり。
補【本宗寺】飯野郡○伊勢名勝志 射和村に在り、真宗東本願寺末なり、応仁中僧蓮如三河国額田郡土呂に一寺を建て本宗寺と称す、永禄中徳川家康の兵燹にかゝり焼失す、寛永中東本願寺第十四世宣如、本寺を今の地の真楽寺址に再建し、尚真楽寺と称せしが、後今称に改む。
阿波曽《アハゾ》 射和村大字阿波曽、五鈴遺響は之を以て愛州氏の故拠と為せり、太平記に「伊勢の愛洲《アイズ》伊勢守は、当国の敵を退治して、江州へ発向すべしと注進したり」とあり、又田丸城は愛洲氏の居れる所と曰ふ、此より田丸へ移りたるにや、志摩の五箇所浦にも愛洲氏の墟あり。
御麻生園《ミヲソノ》 射和の大字なり、河波曽の西二十町、大字|荘《シヤウ》村と相接す、延喜式多気郡|紀師《キシ》神社在り、土俗|岸御林《キシノオハヤシ》と曰ふ、延暦儀式帳云「大神機殿、遷於岸村、此処立社、称岸社」○庄村字切林に石窟あり、高給尺濶六尺深弐拾七尺許、内部は各方石を以てたゝみ上げたり、外面は樹木繁茂す、何人の所造なるやを伝へずと雖、蓋古墳穴の発露せるものなり。
神山《カウヤマ》 射和の東を今神山村と雖ふ、大字|中万《チユウマ》八太|蛸路《タコヂ》山添等の名あり、山峰中万の東櫛田川の北岸に吃立す、之を神山《カミヤマ》と称す、高宮古跡神宮寺址及び一乗寺皆此なり。
補【神山】○神都名勝誌 一乗寺の占拠せる山を云ふ、平地を抜くこと三十六丈、北は勢海を隔てゝ近く尾参の巒(山+章)を望み、東は志山を跨ぎて遠く遠州洋を観る、白帆飛鳥の如く、群島臥牛の如く、烟波漂渺の間に隠見して風光最佳なり、一説に是即飯野高宮の旧址なりといふ、山腹に磨崖の碑あり、伊藤東涯の詩を勒せり
中万《チユウマ》 射和相可の東数町、櫛田川の北浜に居る、神鳳抄飯野郡中万郷、又中万神田、又中万御厨七十町」など見ゆ。勢陽雑記云、神生山乳熊寺、松坂より巽行程二里、和名抄に乳熊とある此所なり、今も三間四面の観音堂あり。勢遊志云、休于安楽寺、経山添村、尋飯野高宮、登神山遊一乗寺、尋仁木義長故塁、左中万村、造蛸路村。○延喜式|石前《イハサキ》神社、神都誌云、今中万宇戸笠に在り。
神山は中万の東十余町、櫛田川に臨む高百三十米突、其東南に一乗寺の伽藍あり、参宮鉄道は山下に於て川を絶つ、川は直に分岐して(本流及祓川)二流と為り、東に赴く。○神都誌云、神山とは一乗寺の占拠する嶺を曰ふ、平地を抜く三十六丈、登臨すれば、近海遠洋、尾参の群峰、志摩の諸嶼目前に来り、万景烟波縹渺の間に隠見す、山腹に磨崖碑あり、伊藤東涯の弟子奥田三角の造る所也。
修林夾回磴、香刹倚神山、未至小天下、已知超世間、雲深参白足、泉涌照蒼顔、行欲窮奇絶、此途更往還、
享保庚戊四月随師遊此有詩毎念勒石于路傍擬磨崖碑遂乞智厳和尚得償四十九年志成人不可以無寿也
安永丁酉夏五月望 津 奥田子享書年七十五
一乗《イチジヨウ》寺 神山の頂に在り、天台宗を奉ず、開基不詳、元中年中、北畠国司、仁木守護を此に収む、後北畠教具堂宇を修造し 文化年中、津藩藤堂氏又修理を加ふ、什宝に延徳明応年中の北畠氏古簡数通あり。○仁木京兆義長の石塔高十尺、元中元年、国司北畠顕能と戟ひ敗績し、一乗寺に入り自刎す。〔伊勢名勝志神都誌〕○大日本史云、足利尊氏起兵、仁木義長屡立戦功、為参河伊勢伊賀等守護、食邑数百所、其人凶残、賞罰任意、驕恣特甚、豪占神戸三郡、祭主訴之京師、後光厳院命尊氏、下書責還、義長怒祭主訴己、肆意漁猟神路山五鈴川、正平中叛拠長野城、足利義詮令佐々木氏頼土岐頼康攻之、相持二年、義長族党降者多、乃遣使吉野帰順、二十年又請降義詮、義詮思其旧功、宥罪還京師、後薙髪、天授二年死。
補【一乗寺】飯野郡○伊勢名勝志 中万村神山に在り、天台宗安楽院未なり、推古天皇の時厩戸皇子創立、昔は山上にあり、塔頭十六宇ありしが、建武中仁木義長の兵燹にかゝる、後北畠教具堂宇を修造せり、文化年中藤堂氏堂宇を再興す。○今神山村、一乗寺に延徳明応年中の北畠氏古文書あり。
仁木義長墓 中万村一乗寺境内にあり、五重塔高十尺許、義長右京大夫と称す、足利執権仁木頼章の弟なり、正平中畠山道誓と隙あり、之と戦ひ利あらず、遂に幕府に叛き、安濃郷長野城に拠る、幕府諸将をして之を攻めしむ、義長力尽き南朝に降り本州を守護す、義長驕奢屡々神領を侵す、神官等之を制する能はず、後再び足利氏に降る、元中元年国司北畠顕能と朝明郡三無瀬山城に戦ひ敗績す、終に本寺に入り自刎して死す、即ち是に葬る。
飯野高宮《イヒノタカミヤ》址 延暦儀式帳に「飯野高宮」と見えたり、伊勢国風土記には「飯野|高丘《タカヲカ》宮」に作れり、其の所在は御遷幸図説に「飯野郡神山薬師山ならむ」と云ひ、又神名帳考証に「神山神社、在乳熊郷山添村神社北麓、土民称鑰取神」と見えたり、今其の地形を察するに、神山の東麓より石階を登り、稍高き所に至れば東面に神殿拝殿御饌殿等あり、老樹繁茂して千古の風を存せり、此の社こそ正しく行宮の旧址ならめ、近年社域を横断して参宮鉄道を架設せるにより、大に風致を損じたり。
大神宮寺《ダイジングウジ》址 続日本紀に飯高郡|度瀬《ワタセ》山房を大神宅寺とする由を載す、飯高は飯野の誤にして、度瀬山と云は神山の旧名にや、伊勢名勝志は諸書を引き、神山の中に神宮寺の字ありと曰ふ、此地は櫛田の度瀬なれば合考すべし。○続日本妃、宝亀三年、徙度会郡神宮寺、於飯高郡度瀬山房、十一年、神紙官言、伊勢大神宮寺、先為有崇、遷建他処、而今近神郡、其祟未止、除飯野郡之外、移造便地者、許之。(度会郡逢鹿瀬多気郡丹生を参考すべし)
渭代《ヰテ》郷 和名抄、飯野郡漕代郷、訓古以之呂。○和名抄の漕代は誤にして渭代なるべき由、神都誌に弁明あり、曰「飯野郡に漕代郷の名なし、神鳳抄に井手郷あり、漕代は渭代の誤にて、即井手郷に同じ、神宮雑例集に「麻続機殿、在飯野郡井手郷」と見ゆ、光明寺文書、「仁治三年、飯野郡四条四高橋里廿五坪井手郷加知買田」ともあり、後世の法田早馬瀬《ホフタハヤマセ》井口|保津《ハウツ》等の諸村なるべし、○今|漕代《コイシロ》村機殿村是なり、祓川櫛田川の間、北は下御糸村東黒部村(多気郡)に至
る。
補【渭代郷】飯野郡○神都名勝誌 漕代《コイシロ》郷は和名抄には渭代郷ありて井手郷なく、神鳳抄には井手郷ありて渭代郷なし、和名抄に古以之呂と注せしより後世漕代と書けり、されば漕代は渭代の誤にてヰデと訓ずべきか、神宮雑例集に麻績機殿(在同郷井出郷)とあり、光明寺所蔵仁治三年十一月の文書に「飯野郡四条吋高橋里廿五坪井出郷(加知買田)」と載せたり、法田・高木・早馬瀬・目田・横地・井口・保津等の諸村は此の郷に属したりき。
稲木《イナキ》 今漕代村と改む、和名抄|渭代《ヰテ》を漕代《コイシロ》に誤れるを採りたる也、国道之に係る、稲木の西|櫛田《クシタ》川の津梁あり、早馬瀬と云ふ、今大字と為る、稲木は神鳳抄に「中稲木御園」と云地にあたる、又稲木の北数町大字|高木《タカキ》に延喜式多気郡神垣神社あり。
産業事蹟云、伊勢の壷屋革、即擬革紙は、近年製出、代価毎歳七万円に上る、初め天明年間、飯野郡稲木村の人壷屋清兵衛(池部氏)の創意に成り、当時は桐油紙に類したる製にして、多く煙草袋に充てたり、後年更に工夫を加へ、今の擬革紙を獲て、大に時好に投じ、種々の器用に適することとなる。
補【稲木】飯野郡○産業事蹟〔重出〕伊勢国飯野多気郡等に於て製出する壷屋紙即擬革紙は伊勢著名の物産なり、其起原は天明年間伊勢国飯野郡稲木村の人池部清兵衛の発明する所に係れり、当時製紙は透明の桐油類のものにして、多く煙草袋等を製造す、後年今の擬革紙を製造するに至り、大に世の時好に適ひ、伊勢壷屋紙の名遠近に鳴れり、壷屋紙の名称は池部氏の屋号に取ると云ふ、現今一箇年の製造代価は無慮七万円の上に出づるといふ。○今漕代村大字。
井口《ヰクチ》 今|魚見《ウヲミ》保津の諸村と合し、機殿《ハタトノ》村と改む、漕代村の北に接す、大字中村に大神宮の機殿あり。○大安寺資財帳云「飯野郡中村野八十町、開三十町、未開田代五十町、四至、東南大河、西横河、北百姓家、并道、右飛鳥浄御原御宇天皇歳次癸酉納賜者」と、此中村野は今の井口中村なるべし、其四至東南大河と云は祓川にて、西横河は櫛田川の旧道なり、往時祓川大にして櫛田は其支分なりと云事、両川の各条下に其説あり、参照に供すべし。
麻績機殿《ヲミノハタドノ》 井口中村に在り、毎年大神宮御衣|荒妙《アラタヘ》和妙《ニゴタヘ》を織りて供進する処也、服部機殿(多気郡東黒部村)の南十八町許、機殿は初め服部村一処両殿なりしを、承暦三年井手郷に麻績殿を移さる、其始末延暦儀式帳神宮雑例集に詳なり、此献織の例も、後花園院の御世の頃より中絶しけるを、元禄年中再興ありて、故実を復せらる。〔参宮図会神都誌〕
腹太《ハラフト》 今機殿村の大字と為る、井口の東に在り、延喜式、多気郡|字留布都《ウルフツ》神社此に鎮座す、神鳳抄、腹太御薗。〔神都誌〕○腹太の西北、大字|保津《ホウツ》に延喜式|天香山《アメノカゴヤマ》神社あり、其西大字|六根《ロッコン》に延喜式大国玉神社あり。〔参宮図会〕
魚見《ウヲミ》 井口の北櫛田川の辺なる大字なり、神鳳抄「若菜御厨」と曰ふ此なり、延喜式多気郡魚海神杜二座と云者今存す、太神宮本紀及遷幸要略に倭姫命櫛田河の後江に至ります時、魚御船に入りければ魚見と名づけたまへる由見ゆ、後江《シリエ》と云は今北魚見の鯉池にして、神社は其坤に在り。〔参宮図会神都誌〕
櫛田《クシタ》河 飯南郡の巨流にして、其河道|神《カウ》山以東に於て変革多し、古は祓川を本流とし、櫛田河は其支流に過ぎず、故に大安寺資財帳に飯野郡中村野の四至を記し、祓川を大河と曰ひ、此の川を横河と曰ふ。延喜式に「凡斎内親王参入之日、飯野郡櫛田川浮橋者、太神宮司専当其事、令神郡人臨時労作」とあるは、此河道に非ずして、今の禊川に当ると云ふ、然れども此二水は古より一流の分岐せるにて、相去る近ければ、古書の謂はゆる櫛田川は彼此通用したるならん、殊に櫛田郷は禊川に在らずして此に在れば、櫛田河の名此方を正当とすべし。
君がすむくしだ川にやみだれたるかみの心も打とけぬらん、〔散木集〕
雲津川わたりてあや井がさと申所につきぬ(あや井がさ今詳ならず)櫛田川を渡り侍るに
浦近き伊勢をのあまの櫛田川さゝでや是も藻塩焼らん 〔応永参宮記〕
神都誌云、櫛田河は郡の西境なる高見山より発し、数多の渓澗を容れて東流し、漸大河となり、相可射和の間を経|神山《カウヤマ》の南東に於て二派に分れ、其南を祓川と云ひ、北なる本流は黒部に至り海に入る、長凡十八里、濶百間、下流七里五十石以下の船舶を通ず、此川元は祓川より井堰を以て耕地に水を引きし大溝なりき、其証は東寺所蔵承和十二年の国符に「大国庄四至、限東字保村高岡、限西中万氏墓、限南多気郡佐奈倉崎、限北四神山東縄手大溝」とあり、又保安三年大国庄田堵等愁状に「抑謂堰者堤塞所謂櫛田河之名也、件河広五十余丈也、又埋損本溝七八町頽失之時、可改掘之溝、廿余町也、件溝広二丈余深一丈六尺許也」とあるを見て知る可し、此の渠溝遂に一大江河となりたりとぞ、神麻続神部脇田氏所蔵の古記に「人皇七十三代白河天皇御宇、永保二年壬成七月十日、中伊勢の地大に震ひ、同月十三日早朝より大に風雨、祓川流を変じ櫛田川へ流れ入り、田地六百余町を破壊し、社祠十二宇を流失す」と見え、古今河流の変遷する実に驚くに堪へたり。
櫛田《クシダ》郷 和名抄、多気郡櫛田郷、訓久之多。○今櫛田村是なり、神山村の北、櫛田川の西岸の地なれば、全く多気郡と隔離す、神鳳抄には、「飯野郡櫛田河原御薗」と見ゆれば和名抄之を多気郡に属せしめたるは誤れり、東鑑「文治三年、伊勢国斎宮寮田、櫛田郷」云々。
補【櫛田郷】多気郡○和名抄郡郷考 神名式、櫛田槻神社。節用集、櫛田河。倭姫世記、御櫛落給支、其地乎櫛田止号給、櫛田社定賜支。神鳳抄、櫛田郷、又飯野郡櫛田河原御薗。東鑑文治三年五月、伊勢国斎宮寮田櫛田郷。太神宮式、凡斎内親王参入之日、飯野郡櫛田河浮橋者、太神宮司専当其事、令神郡人臨時労作。今按、勢陽雑記飯野郡櫛田村を出せり、今は飯野郡に属たるか、又櫛田村遷幸記を引ていふ、垂仁天皇廿五年従飯野高宮幸行、倭姫命御櫛落し給其所乎櫛山と号給ひ、楠田の社定賜ふ云々、式にも櫛田神社と云有、其所在あれども社もなく絶うせて知人なし、月もとの社と云は、小さき社なり、是なん式に櫛田槻本神社といへるならん。
○神都名勝誌 和名類聚妙に久之多と訓ぜり、此地は飯野郡の中央にあり、さるを倭名類聚抄・神鳳抄共に本郡に属せり、これ竹首吉比古の裔孫代々郡領に任じ、此に本居せるを以て、新に飯野郡を置きし時此郷は猶多気郡に隷せしめしなるべし、漕代《コイシロ》郷の有らざりし前までは安楽・豊原等より祓川の辺まで此の郷に属したりき。
○再考 櫛田郷は和名抄に多気郡とあるは、恐らくは重複ならん、飯野郡既に定めたる上は自然に亡びたるを誤りて重掲したるもののみ、和名抄飯野郡長田郷あり、即此地のみ。
櫛田《クシダ》 今大字|豊原《トヨハラ》に国道通過し、之を櫛田駅と為す、古村は其北に在り、延喜式に多気郡櫛田神社ありて、倭姫命世記云「従飯野高宮幸行、御櫛落給き其地を櫛田と号給、櫛田社定賜き」此社は今村社に列せらる、其他大櫛神社櫛田槻本神社并に式に列し、今本村に遺る。〔参宮図会神都誌〕
補【櫛田】○神都名勝誌 豊原は今櫛田と称す、後世官道の変遷するに随ひ楠田より此村に移転せし者多し、故に土俗豊原と唱へずして仍櫛田と私称せり、近年又旧名に復したり。○大櫛社 字西町、道の北側に坐せり、延喜式大櫛神社是なり。○櫛田橋 国道櫛田村大字豊原と漕代村大字早馬瀬との間なる櫛田川に架せり、長さ四百八十尺。延喜式櫛田神社 字社に坐せり、今村社に列せらる、櫛田槻本神社 字槻本に坐せり、今此地の産土神と仰げり、神鳳抄槻本の御薗是なり。
清水《シミヅ》 櫛田村の大字なり、五鈴遺響に此村は旧長田郷に属し、延喜式|流田《ナガレタ》神社は其伏拝の古祠是也と曰ふ、不審。○参宮図会云、清水村は松坂の東一里半、(櫛田川を渡り井口村に通ず)此に伏拝《フシオガミ》と云田の字あり、参宮の古道にして銭掛松と云者も同地なり、北畠国永家集に見ゆ、
二月清水と云所を通りければ、民のかまどの荒果るを、
汲人もなくて過して来て見れば野中の清水み草居にけり、
其後星霜ふりたる松のありけるを、いかにやと尋侍りければ、伏拝とて天照大神宮遙向の松と答へ侍りける程に、
天照す神の御前とふしおがみ松の葉かずの世をいのるかな。
七見《ナナミ》は清水の北の大字なり、延喜式、多気郡|奈延美《ナナミ》神社此に在り。補【清水】○神都名勝誌 清水は櫛田の北に在り、此の村の北に菅生と云ふ村あり、元長田郷なりしを後世流田郷と云ひし由、五鈴遺響に見えたり。
神戸《カムベ》郷 和名抄.飯野都神戸郷 飯高郡神戸卿.○今|神戸《カンベ》村是なり、山室《ヤマムロ》川蓋飯野飯高の古郡界なれば、其東西に渉る。櫛田村の西、松坂町の東、北は鈴止村朝見村に至る。此地近代飯野飯高の郡界移動し、悉皆飯高郡に入りし事あり、然れども山室川の東大字|上川下村《ウヘカハシモムラ》久保等は、飯野神戸にして、其西|垣鼻《カキノハナ》大津田原等は飯高神戸ならん、三代実録云、元慶七年、伊勢国飯野郡神戸百姓秦貞成、向官愁訴、大神宮司大中臣貞世、犯用神物。○神都誌に下村に神館《カウタチ》神社あり、是は神戸の館なるを、勢陽雑記に飯高郡意非田神社に充たるは非なりと曰へり、此神館は即飯野の神戸に属すべし。
神都名勝誌は、神二郡多気度会の近堺たる磯部川を神戸村中に求め、山室川の古名を龍瀬と云とて、古図書を引き論断したるは善し、然れども、郡界は、上川にて、「此流即磯部川」と為したるは採るべからず、本編は古屋草紙に従ひ相可村大字池上を以て磯部川の所在と定む。神都誌は又延暦儀式帳に飯野磯部川とあるに拠り之を以て飯野以西に擬したれど、当時は神郡多気度会に限られ、飯野郡は天智朝に割出して公郡と為りたるまゝ、尚神郡に復せられず。○神都誌云、磯部川は儀式帳に神近堺と為すとありて、飯高飯野の郡界なるべき事は論を俟たず、然るに其所在を詳にせしものなし、古屋草紙に「磯部河は池上村の西にあり、下相可の池に流れ、末櫛田川と一所になる」と載せ、皇太神宮儀式解には「相可にある磯部寺の辺ならむ」と云へり、共に池上村磯部寺等の名より牽強せし説にて、郡界を探究したる考証にあらず、仍りて延徳の古図を按ずるに、飯野郡「四条一宮田里、六条一堺里同条二長田里」とあり、その西に川を画き、多津賀瀬と註す、其の西は飯高郡の「一条十麻生里、二条十一須木里」なり、此の川下流は上河と合し、大口と西黒部との間を過ぎ海に注げり、是即ち古の磯部河にして、中世多津賀世と称せしならむ、又貞治七年宮田前大宮司の紛失日記に「林一所、飯野郡西黒部字北庭、四至限東川限南川、限西龍瀬限北道」とあり、今実地に就きて推考するに、櫛田村大字豊原と、神戸村大字上川との堺に小流あり、水源は神山より流れ出で、港村大字大口の東にて海に入る、今之を真盛川又金剛川と云ふ、此の川即飯高飯野両郡界の流るゝ近神堺の跡ならむ。
長田《ヲサダ》郷 和名抄、飯野郡長田郷 訓香加多。○今|朝見《アサミ》村及び西黒部村是なり、櫛田神戸二村の北にして海に至る、東鑑文治三年、伊勢国長田郷、加藤光員知行」と云は此なり、和名抄訓奈加多は乎佐多の謬と云ふ。○神都誌云、神鳳抄「飯野郡長田郷四十六町五段」延暦儀式帳に「機殿立長田郷」と見え、紛失日記に飯野部長田郷三条四火所里また、沢氏所蔵延徳二年の古図に「飯野郡、六条一堺里、同条二長田里」と見えたり、長田朝田音訓ともに相似たるを以て、後世転じて朝田《アサダ》とかけり、和名抄に奈加多と訓ぜしは誤なるべし。
長田麻続《ヲサダヲミ》神社 延暦儀式帳云、昔倭姫皇女、伝奉大神斎服飯野高宮、于時機殿立長田郷、此処立社号麻続社、又川崎社云、是大神霊也、于後機殿、遷於岸村。○長田麻続機殿址、今詳ならず、岸村と云は今射和村麻生園是なるべし、又倭姫命世記云、倭姫命入坐飯野高丘宮、作之機屋令織大神之御服、従高宮而入坐磯宮、因立社於其地、曰神服織社、号麻続郷者、郡北有神、此奉大神宮荒衣、神麻続氏人等別居此村、因以為名也。補【長田麻績社址】○和名抄郡郷考 儀式帳云、此機殿昔纏向珠城朝廷、倭姫皇女伝奉大神斎服飯野高宮、于時機殿立長田卿、此処立社号麻績杜、又川崎社云、是大神霊也、于後機殿遷於岸村、此処立社、称岸社云々。○和名抄に飯野郡へ黒田神戸の二郷を混入す、蓋誤れり、飯高郡に入るべし、黒田神戸は今の花岡村神戸村ならん、然らざれば地形合せず。下《シモ》村〔神戸郷・朝田参照〕徳□畷に続ける国道なり、神館《カウタチ》神社あり、飯高神戸の神館なり、神名帳考証・勢陽雑記・拾遺及式社案内記等には此社を意非多《ヲヒタ》神社に充てたり。
朝田《アサダ》 今朝見村と改む、朝田寺と号する天台教の精舎あり、寺伝云、延暦中僧空海創立、正応年中、僧尊重伏見院の院宣を奉じ、七堂伽藍を建つ、後世衰へ、承応の比、今宗に改む、飯野郡の土俗死者あれば衣を此寺に納るゝを例とす。○延喜式、多気郡|意非多《ヲヒタ》神社、今朝田に在りて長田《ヲサダ》天王と称す、此神は俗説に、源義朝を弑せる長田の忠致の霊也と云事神名帳考証俗説弁等に見ゆ、蓋長田氏の氏神なればならん。(意非多は古言|食田《オスタ》の義か)
補【朝田寺】飯野郡○伊勢名勝志 朝田村字里辺に在り、天台宗、延暦寺末なり、延暦十五年僧空海創立、正応中僧尊重伏見院の院宣を奉じ七堂伽藍を建立す、又修神料として田二十八町歩を給せらる、初め真言宗なりしが承応中亦今宗に改む、里俗死者あれば衣を此寺に手向るの慣例あり。○今朝見村。
佐久米《サクメ》 朝田の北大宇佐久米の字|広田《ヒロタ》に古墳在り、東西十九間南北二十四間、円形を成す、土人伝へて練君《ネリキミ》長者の墓と曰ふ、又字|角田《ツノダ》に丸山塚と云あり、土人亦長者の跡と曰ふ。
補【大塚山古墳】飯野郡○伊勢名勝志 丸山古墳、佐久米村字ヒロ田に在り〔下略〕○今朝見村。
和屋《ワヤ》 今朝見村の大字なり、朝田の南櫛田村に近し、昔は和屋及勝田(今度会郡東外城田村)に楽戸伶人あり、神宮にも奉仕し、之を散更《サルガウ》と曰ふ、和屋太夫勝田太夫之に春王を加へ伊勢三座と唱ふ、されば和屋村の字|辻垣内《ツジカイト》の田間、翁塚《オキナヅカ》と云者あり、字藤木破戸二所に面塚と云者あり、皆古人仮面を獲又埋めたる古跡なりと。〔参国見聞録参宮図会伊勢名勝志〕
補【翁塚】飯野郡○伊勢名勝志 和屋村字辻垣内の田圃中に一小丘をなす、伝へ云ふ、往昔翁の面此に天降れり、故に名づくと、元と和屋勝田の両村に神宮伶人二派あり、和尾大夫・勝田太夫と云ふ、毎歳正月式例によりて神宮に舞楽を張る、和屋太夫の子孫相続の時は此塚に舞楽するを例となす(勢国見聞録)又本村字藤木及び破戸の二処に面塚なるものあり、舞楽の面を埋めし処なりと云ふ。○今朝見村。
西黒部《ニシクロベ》 朝見村の北に接し、櫛田川村中を貫き字高須の北に至り海に入る、東は東黒部村(多気郡)西は港村に至る。神鳳抄、二宮黒部御厨と云は此なるべし、高須《タカス》の前面は浅水の小湾を成し、港村大字大口は其湾首に居る、北に向ひ開き、方十町許、櫛田川及び山室川鈴止川等之に匯す。○神都誌云、西黒部の湾には船舶運送の便ありて、本村は紡績の業最盛なり、世間流布する所の松坂木綿は方今本村及多気郡機殿村等より産出する者也。(一志郡|呉部《クレベ》郷参看)
補【黒部】飯野郡○和名抄に一志郡呉部郷あり、今其地詳かならず、本郡に西黒部村、多気郡に東黒部村あり、黒部是れ古の一志郡の地なるべし、然らば飯野飯高二郡は海に浜することなかりしと想はるゝ也。
西黒部 和屋の北海浜に在り、黒田郷に属せり、此の地は櫛田川の要津にして、尤運漕に便あり、陸地より二町許の処埠口深さ数尋あり、大舶を容るべし。○神都名勝誌 神鳳抄二宮黒部の御厨とある是也、産物木綿、此の地紡績の業いと盛なり、世間に流布せる松坂木綿と称する物、多くは当村及多気郡機殿村等より産出す。〔呉部郷・東黒部参照〕
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飯高《イヒタカ》郡 明治二十九年廃して其地は飯南郡に入る、飯野の西に接し、櫛田川の上游、広大の山地を占めたり、文禄検地三万八千石、元禄に及び四万六千石に上れり、此一郡は坂内川筋松坂附近、及び櫛田川筋河俣谷の二区に分裂す。和名抄、飯高郡訓伊比多加、七郷に分つ、其丹生郷は櫛田川の南岸に在り、今多気郡に属す、余六郷は皆|坂内《サカナイ》川筋に在り。
古事記、室秋津島宮(孝安)段「兄天押帯日子命者、伊勢飯高君之祖也」と見え最旧国なり、倭姫命世記云「于時、飯高県造祖乙加豆和命を汝国名何問賜白く、意須比飯高国と曰て進神田并神戸、倭姫命飯高しと白事貴と悦賜き」この意須は延暦儀式帳に忍に作る、飯の冠詞なり、食の義なるべし、郡内に意悲神社あり、意須比の訛ならん。○飯高氏は孝安帝の皇兄に出でて、倭姫命世記に著るゝが制郡の際には神郡に入らず、其氏人は天平宝亀の間に名あり、続日本紀に散見す、今英太郷に詳にす。又同書「天平十年、飯高郡人伊勢直族大江、授外従五位下、神護景雲元年、飯高郡人漢人部乙理等三人、賜姓忌寸。」
補【飯高郡】○和名抄郡郷考 兵部式、飯高馬八疋。太神宮儀式帳、忍飯高国。〔倭姫命世記、略〕
鈴止《スズトメ》 旧|岸江《キシエ》と云ひ、松坂町の東に接す、和名抄駅家郷にあたり、其南なる大津|垣鼻《カイハナ》田原等は、即神戸郷なり、延喜式「飯高駅馬八疋」と注す此也。神都誌云、鈴止村は岸江矢川の大字ありて、往古駅使此に到るや、神郡の口なれば、鈴を止めし所とぞ、飯高駅家は即此村を云ふ、往古の官道は保曽久美平生《ホソクミヒラフ》、大口江津《オホクチコウツ》より東岸江《ヒガシキシエ》を過ぎ、朝田《アサダ》、立利《タテリ》、清水等を経て、斎宮に通ぜし由、今の国道は松坂城を移し、後に改めたるものなりとぞ伊勢勅便部類記に見ゆ、
神鳳抄岸江御厨あり、祓所《ハラヒド》旧址は東岸江にあり、今猶老松一株存せり、古下樋小河の修祓を行ひし処なりとぞ、○神戸村田原は神鳳抄|手原《テハラ》御薗なり。
補【鈴止】○神都名勝誌 鈴止村は駅使の鈴を止むる所なりしを以て此の称あり、本村は大字矢川東岸江・西岸江の総称なり、松坂の東にあり、和名抄に飯高郡駅家とあるは此村の事なり。
下樋小河《シタヒノヲガハ》 神都誌云、飯高の下樋小河を神遠界と為し、飯野の磯部川を神近界とせる事、延暦儀式帳及神宮雑例集に見ゆ、之を延喜式には大神宮界また堺川とも載せたり駅使も此の堺に入れば鈴の口を塞げりとぞ、さばかり由緒ある所なりしかども中世兵乱あひつぎて遂には其の位置すら定かならずなりにたり、太神宮本紀に「佐奈県《サナクアガタ》の造の答に許母理国志多備《コモリクシタヒ》国」とあるを此の下樋に附会して、多気郡佐奈に在る小河なりといひ、又飯高神戸の下村を下樋村の略なりとして、其の村の東なる中川なりと云ふも非なり、按ずるに延徳二年黒部村界の古図に飯高郡一条十麻生里、二条十一|須木《スギ》里の一里西、一条九河副里とありて其間を通ずる川あり名を上川《ウヘカハ》と記せり、
麻生里は今の大津にて、須木里は今なほ、杉村と称せり、河副里は今の江津《コウツ》なれば、其の地里に依りて考ふるに、今松坂市街の東部を通ぜる川あり、愛宕《アタゴ》川また町屋《マチヤ》川とも称す、水源は松尾村に属せる坂内川より分派して城隍の下流に合し、愛宕《アタゴ》平生《ヒラフ》の両町界を過ぎ、矢川の東岸江の西を経て北流せり、是古の下極小河にて、中世上河と称せしならむ、永享参詣記に「弥生廿日うへ川の橋と申す所にて、旅人の影さへ見ゆる渡かな春引く水の上河の橋」と詠ぜしは此の川に架せる僑なり、さて江家次第、中右記等にもまた下見《シタミ》橋のことあり、神名秘書には下樋《シタヒ》橋と云へり、此等の書にいふ下見橋は即勅使祇承の交代する所なれば、うへ川は即下樋小川の別名にて、下見橋即下樋橋なることを察知すべし。
松坂《マツサカ》 南伊勢の都会なり、参宮鉄道の車駅は邑東に在り其北二十町にして港村に大口《オホクチ》の埠頭あり、以て海運を通ず、又飯南郡衙の庁舎あり、四面皆田野、坂内《サカナイ》川其西北を流れ、四五百森の岡陵(即旧城址)市街の西傍に特起す、高六七丈。
神都誌云、松坂町、街巷十八、戸数二千五百、巨商豪賈殊に多し、此の地旧北畠国司の治下に属して、元亀元年其の臣潮田長助始めて四五百《ヨイホノ》森に城を築く、天正十六年蒲生氏郷本郡松島|細頸《ホソクビ》城より此に移りし時、社寺の樹石を伐採し、大に工事を興し、城郭の規模を壮大にし、名を松坂と改称せり、市街の整理したるは、此の時よりの事なるべし、同十八年、氏郷の奥州若松城に転ぜし後は服部一忠の所領に帰し、文禄四年より吉田重勝之を領せり、元和五年に至り、終に徳川頼宣の封土となる、それよりこのかた維新までは、紀州藩より世々宰臣を置き民政を執らしめたり、即六万石の治所たりき、廃藩毀城の後、尚南龍公(頼宣)の祠を建て、故恩を紀すと云。○松坂木綿は古の麻績服部氏の遺業にして、来由する所久し、寛文延宝の頃、三井八郎右衛門高利と云大賈起り、松坂江戸京都の間に商販を為しけるより、本品の製造初て大なり。産業事蹟云、松坂木綿は、天正の比は麻糸にて織成し、後綿糸となり、寛文年間、織製及縞柄等に注意し、大に面目を革むる所あり、殊に蚕糸を交織し之を菅縞と称して、(当時一反二丈八尺)専ら諸国に販売し名声を博す、天和年中より松坂木綿の名称益顕る、元禄宝永の頃江戸に輸賑すること最も盛なり、当時該品を販売せんが為め、三井氏初め松坂より江戸に出店するもの七十余戸にして、諸侯の用達を為せり、以て其盛況を窺ふに足らん、而して宝永二年大廟参拝群集の際(俗に御蔭参りと云ふ)旅人みな土産として需求しければ愈声価を得たり、此時に当り飯高、飯野、一志、多気の四郡各村織製に従事する者頗る多し、文化文政年度に至り大に産額を増し、加ふるに晒木綿栗皮茶木綿諸国へ輸販すること前年に倍す。三井家奉公履歴云、三井越後守高安、江州|鯰江《ナマヅエ》より伊勢に移り、其子三井則兵衛高俊、元和年間松坂に居り、醸酒の業を営む、人呼て越後殿《エチゴドノ》の酒屋と云ふ、越後屋の屋号此に濫觴す、長男三郎左衛門俊次、長じて京都に移住し、又呉服店を江戸に開く、四男八郎兵衛高利、寛永中江戸に出て、兄の商店を管理し、延宝元年別に一店を開き、現金掛直なしの方を設けて、売品に正札を附したり商業大に繁盛す、是より先高利は則右衛門孝賢、吉右衛門高古の両人を養子とし、之を松坂に留め、自ら京都に往き、呉服仕入店両替店等を開き、又手代をして別に荷物の運送を営ましめ、尋で江戸駿河町に両替店及綿店を開き、又長崎に一商店を開く、貞享四年、幕府より呉服調度為替用達を命ぜられ、元禄四年、大坂に呉服店両替店を開く、又禁裡御所御掛屋御用を命ぜらる、高利諸子に諭し協力同心以って家を守らしむ、即高利を以て中興の祖とす。○按ふに三井高利又八郎右衛門と称し、法名宗寿、男子十三人女子五人、其家を成すもの六、之を六本家と呼び、嫡流を惣領と称し連家若干あり、一族宗支共同維持の法を立つ宗寿の孫宗竺に至り家声愈起る、宗竺遺書あり家法の大綱を示す、子孫之に由り孜々業を勉む、近年に至り益顕掃する所あり、蓋近世市賈の冠冕也。
来迎《ライカウ》寺は松坂萱町に在り、天台宗、永享八年北畠材親創建、僧盛品開基する所也。常念寺松坂中町に在り、天台宗、観音寺と称す、文明三年僧真恵中興、初め松島《マツガシマ》に在りしを、天正十七年今地に移す、継松寺同地に在り、真言宗、創建不詳、本尊は二見浦人三津其の海中に獲たる者とぞ。清光寺同地に在り、浄土宗、初め松島に在り、神光寺と云ひ、密教を奉ず、大永年中僧超挙今宗に改め、天正年中津川氏蒲生氏の菩提所たり、後此地日野町に転じ、元和中僧信阿今境に於て重修す。 〔地誌提要名勝志〕○愛宕山龍泉寺は松坂の東、垣鼻町に在り、真言宗、旧滝川山に在り、後世松島に移り、又此に転ず、古田兵部重勝の墓あり。〔参宮図会野史〕
補【松坂】○神都名勝誌 松坂町、三重県下の一都会にして、東西京より太神宮に参詣する国道あり、飯高郡の東北端に位し、南は四五百《ヨイホノ》森の岡陵に倚り、北は一里にして勢海の要津を控えり、街衢井然として十八丁に分れ、戸数二千五百、百貨の運輸五都の交通頗便なるを以て、巨商豪族檐を連ね、商業殊に殷盛なり。
松坂木綿 産業事蹟、松坂木綿の濫觴は遠く太古の遺伝にして、天正年間に此地方の民は麻糸又は綿糸を以て織製せり (当時壱反三丈)
補【来迎寺】飯高郡○地誌提要 松坂萱町、天台宗、永正八年辛未北畠材親創建、僧盛品を以て開山とす、寺域四千八十八坪。
補【常念寺】飯高郡○地誌提要 中町、元同郡松島村にあり、天台宗にして観音寺と称す、創建未詳、文明三年辛卯真宗僧真意中興、今称に改め、天正十七年己丑今地に移す、寺域千二十五坪余。
補【継松寺】飯高郡○伊勢名勝志 松坂中町に在り、真言宗、天平十五年僧行基本郡石津郷に創立、天平勝宝二年秋洪水にかゝり堂宇漂流す、八月度会郡二見郷の人三津正信海中に於て本寺の本尊を獲、因て旧地に堂宇を再建し、薙髪して継松と云ふ、後之を寺号となす、天正中今の地に移す。
補【清光寺】飯高郡○伊勢名勝志 松坂中町に在り、浄土宗、知恩院末寺なり、天平感宝元年僧行基、松島村(今一志郡に属す)に創建し、真言宗神光寺と号す、大永中僧超誉今宗に改め清光寺と号す、天正中津川玄蕃允蒲生氏郷(共に松島の城主)の菩提所たり、十六年松坂日野町に転ず、元和中徳川頼宣今の地を与へ、堂宇を再建せしむ、後僧信阿を中興開山となす。
松坂《マツサカ》城址 市街の西に傍ふ、菱形を為し、中に二丘を擁す、北丘を牙営と為し、石塁尚遣れり、南丘を別営と為し、意非祠在り。南北六町東西五町、坂内川愛宕川の細流之を繞る、天正十六年蒲生氏郷の創築する所、旧|夕宵森《ヨヒノモリ》と曰ふ、慶長五年の乱に、城主古田重勝(三万七千石)東軍に応ず。野史云「庚子之乱、重勝従徳川公東伐、令家士守松坂、石田三成帥遣人誘之、家士不聴、会重勝帰邑分兵援安濃津城、鍋島勝茂率兵一万来攻松坂、而遠囲歴日、関原軍敗、徳川公賞賜重勝二万三千石、弟重治継嗣元和五年徙于石州浜田城。○大八洲遊記云 松坂城本依山城築、然与陀山脈不相属、如天為此城、設一山者、真為堅城、々上遠眺、四望皆佳、俯則烟火三千、棟甍相含、田圃村落、従而環繞、海亦擁其東北、今廃為公園、建南龍公祠。
四五《ヨイ》森 四五百《ヨイホ》森又宵杜に作る、松坂城の旧名なり、今此城址南丘に延喜式飯高|意悲《オヒ》神社在り、之を四五森と云ふ此神は蒲生氏築城の初にも鎖守と崇めたり。〔伊勢名勝志神祇志料〕
此頃の月見る宵のもりならばゆくたび人の立やよらまし、〔永享五年参宮記〕 法印尭孝
按ずるに四五は意悲の訛にして、意悲は倭姫命世記に「飯高県造の祖乙加豆知が意須比飯高国」と称へたる意須比を原拠とすべし、即|食飯《オスイヒ》の義なり、蓋飯高氏の故墟にして、其祖先を祭れる処か。○松坂は古へ何郷に属したるにや、神戸郷駅家郷黒田郷等其東南に接すれば、今何れと擬定し難し。
下枚《シモツヒラ》郷 和名抄、飯高郡下枚郷。○今昔物語に伊勢国|平《タヒラ》郷と云ふありて、和名抄に上牧下校に分る、松坂町の北なる平野、今|伊勢寺《イセデラ》村松江村港村等に当る、其下枚は蓋港村なり、大字|町平尾《マチヒラヲ》大平尾等あり、此地は松島村(一志郡)の南に接し、海湾に臨む、俚称新松島とも云ふ。
大口《オホクチ》 大口御津の二大字は、平尾の東南十余町、西黒部の湾頭に在り、松坂町の海運は之に由る。五鈴遺響云、延喜式飯高郡|加世智《カセチ》神社は大口に在りと、加世智は加豆知の謬に非ずや、飯高国造の祖に乙加豆知の名あり。〔倭姫命世記〕又延喜式久爾都神社は今|郷津《ガウツ》に在りて、乙加豆知命を祀ると伝ふ。〔五鈴遺響神祇志料〕
補【郷津】飯高郡〇五鈴遺響 大口の南にあり、旧本或は江津と録す、式内久爾都神社同処にあり、生土神なり、祭神飯高国造乙加豆知命、里俗明神と称す。
上枚《カミタヒラ・カムツヒラ》郷 和名抄、飯高郡上枚郷、訓加無都比良。○今|松江《マツエ》村大字田枚あり、松江伊勢寺両村は蓋本郷なり。(枚字に平夷の義なしと雖、平枚其訓を同くするを以て、此に枚をばタヒラに仮借す)
船江《フナエ》 今|松江《マツエ》村と改む、松坂町の西北|坂内《サカナイ》川を隔て国道に沿ふて民居あり。大字|田枚《タヒラ》は其西十余町伊勢寺村に近し。○船江は一に府内に作る、管窺武鑑云、永禄十二年、信長公二番目の子息於茶筌を、伊勢国司北畠家の聟にして家を譲り、三瀬と云所に隠居し、大御所と云、於茶筌を御本城とて、是れ本の国司なれども多気には置かずして、府内と云所に居給ふと、此なるべし。
伊勢寺《イセデラ》 今村名と為る、松江村の西、堀坂《ホリサカ》山の東麓を云ふ、大字伊勢寺|岩内《イハウチ》深長等あり。
恵雲寺《エイウンジ》は国分寺と称す、伊勢寺村に在り、古の尼寺なるべし、河曲郡国分寺は僧院なりけん。〔伊勢名勝志五鈴遺響)○日本後紀云、大同四年、始遷志摩国国分二寺僧尼、安置伊勢国国分寺。○日本往生極楽記に見ゆる、上平郷の尼と云ふも此に任せるにや、曰「尼某甲、伊勢飯高郡上平郷人也、暮年出家、偏念弥陀、尼多年意剥手皮、奉図極楽浄土、雖有懇志、不能自剥、干時一僧来問、剥尼手皮、忽焉不見、図浄土之相、一時不離其身、命終之時、天有音楽。○延喜式、飯高郡物部神社、今国分寺々域に在り、〔五鈴遺響〕日本書紀、継体天皇二十三年の条に、物部伊勢連あり、旧事紀云「物部建彦連公、伊勢荒比田連等祖」
掘坂《ホツサカ》山 伊勢寺の西方の嶺なり、延喜式、飯高郡|堀坂《ホリサカ》神社は此地に鏡坐せるならん、山太だ高きに非ず、眺望に佳なり。
岩内《イオチ》 大字伊勢寺の北なり、岩内氏は北畠国司のー族なりき、瑞巌寺と云精舎あり、巌面に観音菩薩の大像を刻す、山色渓声賞すべき境なり。〔伊勢名勝志〕
深長《フコサ》 岩内の東なる大字なり、延喜式、飯高郡|大《オホ》神社此地に在り、泉の森と呼ぶ。〔五鈴遺響〕
黒田《クロダ》郷 和名抄、飯野郡黒田郷。○今花岡村是なり、大字大黒田小黒田存す、大黒田は松坂町の西南連檐の邑なり、神鳳抄、飯野郡黒田郷と見ゆ、後世飯高郡へ編入せらる。
神都誌云、大黒田《オホクロダ》は松坂の西南に在り、元は北黒田と云ひき、同所に北畠の家臣中津下総守の城跡あり、神鳳抄に南黒田御厨と云、駅部田《マヤノベダ》は小黒田の東に在り、紀州徳川家の宰臣、三浦長門守近年まで塞堡を置きし処なり。
山室《ヤマムロ》 大宰山室は今花岡村に属し、駅部田の南にあり、神鳳抄に山室吉光七町とあり。本居宣長墓は妙楽寺より三町許、山室山の山巓にあり、塚上に桜樹を植ゑたり、宣長は松坂の人、著書頗多く、国学中興の祖たり、其の書斎今尚存せり、墓碑は自筆にて本居宣長之奥墓と書けり、傍に平田篤胤の碑あり「なきがらは何処の土となりぬともたまは翁のもとにゆかなむ」と云ふ歌を彫れり、明治八年社殿を建設して山室山神杜と称せり、同十三年七月勅使参向して幣帛を賜ひ、近年社殿を松坂市街に移転したり。
しき島のやまとごころをひととはゞ朝日ににほふやまざくら花、 宣長
山室城は、建暦二年九月、伯耆の人山室兼高なるもの始めて之を築き、歴世之に居る、兼氏に至りて子なし、北畠具教の三子具郷を養ひ嗣となし兼郷と称す、天正四年、父子倶に田丸城に自殺し城廃す、其跡今奥殿と曰ふ。〔伊勢名勝志〕
英太《アガタ》郷 和名抄、飯高郡英太郷、訓阿加多。○今|松尾《マツヲ》村大字阿形存す、神宮雜例集神鳳抄に「飯高郡英太神田、又英太御厨、県御薗」などありて、飯高県造の祖乙加豆知が供御出を定めたる所也、坂内《サカナイ》川の北畔なり。
続日本紀、天平十年、飯高郡采女、飯高君笠目之親族、県造等、皆賜君姓、神護景雲二年、飯高郡人、飯高公家継等二人、賜姓宿禰、宝亀六年、飯高公若舎人等十一人、賜姓宿禰、八年、典侍飯高宿禰諸高薨、飯高郡人也、性甚廉謹、志慕貞潔、葬奈保山天皇(元明元正)御世、直内教坊、遂補本郡釆女、飯高氏貢釆女者、自此始矣、歴仕四代、終始無失、薨時年八十、九年飯高公大人諸丸二人、賜姓宿禰。続後紀、承和三年、左京人、飯高宿禰全雄、改賜朝臣。
立野《タチノ》郷 和名抄、飯高郡立野郷、訓多千乃。○今|松尾《マツヲ》村大字立野存す、坂内川の南畔にして、阿形を去る十余町に過ぎず、大河内村も本郷の属なるべし。立野《タチノ》神社、神鳳抄、飯高都立野の名出て、延喜式には立野社あり、旧事紀に 「物部建彦連、伊勢立野連公等祖」とあれば此祖神ならん。〔神祇志料〕
大河内《オホカウチ》 立野村の西を大河内村と云ふ、坂内川の源頭にして、俗に深山《ミヤマ》谷と呼ぶ、大河内は北畠国司の廃墟にして、其古跡を伝ふ。○吉野日記曰、応永二十一年、先頃南帝皇子に位を譲らるゝに依て、伊勢国司北畠満雅、欝憤を含み武家に背て軍士を駈催す、其一族顕雅大河内城を守る、正長元年七月後花園院即位、十二月、前南帝皇子寛成親王(称小倉殿)帝位を継嗣せざる事を憤り、潜に嵯峨を出て勢州に至る、永享元年、滿雅の軍敗す、爰に於て寛政親王力竭き、満雅及び其子顕雅降参す、永享十二年満雅卒す、其遺跡其子中将顕雅相続して、大河内城を守る、其弟少将教具多気城を守る、北畠家代々南朝に忠ありといへども、南方悉く衰微して、爰に至て武家の招に応ず、一族皆以て武家に属す」又伊勢兵乱記曰、北畠中納言具教卿、永禄の末に織田信長襲来の由聞えしかば、多気は要害宜しからずとて、大河内に城郭を構へ、嫡子信意を据ゑ、大江内御所と称す、具教は多気郡大淀に隠居して、入道不智といひける、既に永禄十二年、信長南伊勢を撃べき由聞えしかば、籠城を牒し合ける、大河内城には大御所黄門入道不智、御本所信意父子相従ふ、大河内の境地は七尾七谷の嶮岨にて、寄手は不馴、国司方は案内を知り、駈引自在なれば、毎軍寄手不得利して退屈せり」云々。○大河内より西に一嶺をこゆれば、櫛田川の川俣谷に出づ、大石駅まで二里、又大河内より東北松坂町へは凡二里半。
坂内《サカナイ》 大河内村の西限にして、其西は一志郡多気谷の重嶺に連る、応永年中、国司北畠満雅其一族雅俊を此に居き、子孫一家を成し、坂内氏と曰ふ、天正中共に亡ぶ、其城址存す、絶険の地とぞ。〔五鈴遺響伊勢名勝志〕○坂内川は大河内の諸水を集め、東北流し、松坂町を経て港村平尾に至り海に入る、長四里。
補【坂内城址】飯高郡○伊勢名勝志 坂内村字石上谷と脇谷の間に在り、西南坂内川に臨み東北細野山の連脈重畳し、尤も要害の地なり、山上平垣、僅かに礎石を存す。応永年中北畠満雅其族雅俊」等之に居り、子孫世襲して阪内氏と称す、天正中北畠氏と同く亡ぶ。○坂内川は此より発し松坂を過ぎ海に入る。
大石《オホイシ》 櫛田川の上流にして、松坂より高見越和州吉野郡に通ずる山駅なり、神鳳抄に飯高郡大石御薗と見ゆ、此地大石磊々たり、河南は丹生谷と曰ひ、今多気郡に属す。
大石を行ける折節、人のもとへ返事に、
とにかくにつらきは人のこゝろかな千曳の石もひけばひかるる、〔家集〕 北畠国永
河俣《カハマタ》谷 櫛田川の上流、和州路八里間の総称なり、粥見《カユミ》駅より波瀬駅に至る、今粥見|宮前《ミヤノマヘ》川俣《カハマタ》森波瀬の五村に分る、神宮雑事記に「延久元年、河俣山に悪人散位為房同近助同宗近等籠居したるを、飯高郡より前駿河守平惟盛討手に向ひたる由」を載す、此山中なるべし。
大石より粥見駅まで凡二里、粥見より宮前駅まで凡一里半、宮前より七日市(今川俣村)まで凡三里、七日市より波瀬駅まで凡二里、渡瀬より高見山国堺まで凡一里半。
滝野《タキノ》 源平盛衰記、元暦元年、和泉守平信兼が城廓、伊勢国滝野見ゆ、信兼は伊豆目代八牧判官兼隆が父なり、今|宮前《ミヤノマヘ》村大字滝野あり此か、不審。(鈴鹿郡に信兼の滝野城址ありと想はる)
川股途中 久野玉城
危峰又曲径、水響馬頭聴、丁丁伐木遠、老樹晝猶冥、樵家上代剣、梵字古巌銘、行識駅村近、幽煙出竹青、
渡瀬《ハゼ》 櫛田川の源、高見山の下なる山村を云ふ、波瀬の南を森村と曰ふ、大杉谷及び北山郷川上郷(共に和州)と相表裡捜し、最僻遠の山地也、森村|蓮《ハチス》滝は高九十丈幅二間。
渡瀬城址、今山林たり、天正四年、北畠氏の亡ぶるや、具教の弟僧伊賀六箇山に走り、長木《ナガキ》の青原某に憑り、還俗して具親と改む、因て義故を集め兵を挙ぐ、来属するもの多し。波瀬峰乙栗栖の諸族之を奉じて森城に入る、五年春、河俣谷滝野有馬野鉄中の諸柵を築く、北畠信雄其将滝川一益をして之を攻めしむ.諸城陥る。〔伊勢名勝志)
補【波瀬】○此は勢州神郡より和州吉野郡へ出づる通路にて、国境を高見峠と云ふ、神宮雜事記に延久元年川俣山に悪人散位為房、同近助同宗近等籠居したるを飯高郡より前駿河寺平惟盛討手に向ひたることを記す、河俣は今川又谷と曰ふ、波瀬より粥見までの惣名なり
補【布引滝】飯高郡○地誌提要 大俣村にあり、蓮《ハチス》川に入る、高九十丈幅二間、多気川の上流也。○今森村大字蓮にあるべし。
去来見《イザミ》山 波瀬村の西嶺|高見《タカミ》の別名なりと云ふ、此山は古来和州勢州の交通路にあたれぱ、万葉集に詠ぜらるゝも其以あり、〔伊勢名勝志〕高見山、高凡七千尺と称す。
石上大臣従駕幸于伊勢国作歌
わぎもこを去来見《イサミ》の山を高《タカ》みかもやまとの見えぬ国遠みかも、〔万葉集〕
川股途中 菊池梅軒
古碑字纔存、停(竹/エ+命の右下、つえたけ)問農者、不知誰氏家、想経千年也、蒼崖知幾仞、脚底白雲生、林動疑人過、老猿負子行、山田防猪柵、巌戸養牛欄、疑是長官過、野人冷眼看、
壱志郡
壱志《イチシ》郡 今一志に作る、飯南郡の北、安濃郡の南也、東は海に至り、西は伊賀宇陀(和州)に至る、雲出《クモヅ》川西南隅の山中より出で、郡中の諸水を併せ海に入る、其河畔近海の地数方里は平夷なるを以て、文禄検地九万石の草高あり、今|久居《ヒサヰ》町外卅八村に分れ、人口十万、面積約卅六万里、郡役所は久居に在り、鉄道は海浜を通ず。
古事記、室秋津島宮(孝安)段「皇兄天押帯日子命者、伊勢壱師君之祖」とありて飯高と其国祖を同くす、其氏人は続紀以下の国史に散見す、又古は此地方を阿邪(言+可)《アサカ》国と称したり、阿坂参考すべし、又続後紀「承和三年橘(山/令)継賜壱志郡空間地一百三十町。」○雲出川の上流|八知《ヤチ》駅より、和州宇陀郡|曽爾《ソニ》に通ふ山路は、仁徳帝の朝より往来の事古史に見ゆ、此上流は宕野《タキノ》郷と称し、北畠氏中世之に拠り、国司職を世襲したり、謂ゆる多気御所是なり。
補【壱志郡】○和名抄郡郷考 拾芥抄、今飯町或壱志とあり。続後紀承和三年七月壱志郡空閑地。治承元年公卿勅使記、一志駅。〇五鈴遺響 文禄検地九万石、元禄検地九万石。 ――――――――――
野《タキノ》卿 和名抄、壱志郡宕野郷、訓多木乃。○本郡の西偏、雲出川上游の山地を総称す、今面積十余方里、多気《タケ》村|八幡《ヤハタ》村伊勢地村|八地《ヤチ》村|家城《イヘキ》村竹原村|八山《ヤツヤマ》村境村下之川村川口村波瀬村佐田村大井村|大三《オホミツ》村等十四に分る。○多芸《タキ》谷又|小倭《コヤマト》郷とも云ふ、多芸は古訓タキなるを或はタケとも唱ふ。
盛衰記云、元暦元年九月、九郎義経は和泉守平信兼が伊勢国滝野と云所に城郭を構て、西海の平家に同意すと聞て軍兵を差遣して是を責。(この滝野は飯南にや又鈴鹿にや)○勢州四家記云、北畠国司は先祖源親房卿、後醍醐天皇に味方せられしより、勢州南方並和州宇陀郡を守護し、一志郡多芸に屋形あり、代々多芸の御所と曰へり。○宗碩佐野渡日記云、泊瀬より伊勢へたちぬ、鞍置馬どもあないして迎のよし曰へり、かく曰ふはすがの野など曰ふあたりなり、夜に入りて多芸へ行きつきぬ、又のあした北畠の少将家は参る、
り、それより急ぎたちて相可と云所に行きぬ。(此に見ゆるすがの野の地名今許ならず、伊賀の山中にやあらん)
補【宕野郷】壱志郡 ○和名抄郡郷考 勢陽雑記、滝野村あり、また高野村といふもあり。盛衰記、伊勢国滝野軍事〔元暦元年八月十一日〕九郎判官義経は和泉守平信兼が伊勢国滝野と云所に城郭を構て、西海の平家に同意すと聞て、軍兵を指遺して是を責。勢州四家記、伊勢の国司は村上の源氏北畠家也、元来は一家なれども武之家也、先祖北畠権大納言源親房卿、後醍醐天皇に味方せられしより勢州南方并和州宇陀郡を守護し、一志郡多芸に屋形あり、代々多芸の御所と云へり。○多気村、八幡村、伊勢地村、八知村、家城村、竹原村、八山村、境村、下之川村、川口村、波瀬村、佐田村、大井村(大須)大三村。
多気《タキ・タケ》 雲出川の源頭、局岳《ツボネタケ》の麓を多気村と曰ふ、下之川《シモノカハ》村其北に接し、西は八幡伊勢地|八知《ヤチ》と一嶺を隔て、南は飯南郡大石川俣谷に至り、東は宇気郷《ウキサト》中郷《ナカサト》に至る、共に山峰を以て相限る、険阻の地なり。北畠顕能此に城き、南朝の藩屏たり、子孫繁衍、世襲して国司と曰ひ、南伊勢五郡大和宇陀郡及志摩熊野皆其制を受く、義兵万六千人、謂ゆる木造田丸大河内|坂内《サカナイ》岩内|藤《ホチ》方大坂阿坂|波瀬《ハゼ》八山の諸氏皆其族也、顕泰(顕能の子)の時に至り南北媾和し、其曽孫政具に至り北伊勢を略定し、長野神戸の族党を樹立す、政具の曽孫具教に至り、織田氏に降附し、後亡ぶ。
多気御所《タキノゴショ》址 多気村、大字|下多気《シモタケ》に城址二所在り、一を霧山と曰ひ、古の塁壁の跡歴々徴すべし、蓋多気府城の要害也、一は字を六田と云ひ、東御所と称す、小丘にして今耕地たり。建武二年、北畠親房の第三子顕能州守に任じ、始めて柵城を此に築き、後多芸御所と称し南朝の藩屏たり、此歳足利尊氏高師秋を州の守護となす、顕能屡々之と戦ひ、又兵を本州及び伊賀大和近江等に出す、顕能嘗て歌を詠ず曰く「いかにして伊勢の浜荻ふく風のをさまりにきと四方に知らせん」と、七世具教に至りて、永禄の初め、大河内城を修理し之に移り、族北畠政成をして代り本城を守らしむ、天正四年、織田信長計を以て具教を三瀬に殺さしむ、政成亦之に死す、北畠氏二百四十有余年、此に至りて亡ぶ、又大字上多気の字馬場と称する民家の辺に、北畠氏館舎の址あり、下多気城址の南に当る、今北畠神社あり、杉樹欝茂し、池あり池畔奇石起伏し、桜樹其間に点植す、寛永二十年、北畠氏の裔孫旧址に一寺を創立し、真善院と称す、後亦廃滅に帰す。〔三国地誌名勝志〕
多芸懐古、北畠氏旧墟、 斎藤拙堂
青山依旧列蛾眉、不似人間陵谷移、春雨牛耕調馬埒、薫風蛙吠放魚池、天何剿絶忠賢裔、世尚珍伝弓剣遣、荒草悽煙陳迹在、蘋繁長薦国司祠。
応仁略記に、足利義視(今出川殿)伊勢へ下向し、生山《オフノヤマ》の国司館に入と云ふ、此生山は詳ならず、多気御所と同異如何、応仁元年北畠教具の時なり。又同書云、今出川義視殿は、伊勢の国へ下向し、北畠国司の館生山と云所あり、十月の初帝都を御出、生の山家へ入申、寂寞の閑居御本懐とおばえたり、則上意として国中半斎の御成敗あり、是は今出川殿御在国を助け申せと云御下知也、爰に当国の守護一色方、今度西方と成て御敵たる間、国の守護有名無実なりし、今の世保孫三郎政康久方の御軍に参りつゝ、奉公の懃役其謂れあって、小国へ強ち入部せり、これによって守護方より半斎の奉行を追執、国中平均に執沙汰す、国司の手無念至極せり、初めは国司の手打勝て世保を追出しけれ共、終には世保打取て半斎奉行を執沙汰す、連々の合戦若干の者討る、在々処々損滅せり、角て生の山家に旅客の栖も、心よりし給ふ閑居にもあらず、公方様より生の山へ御内書あり、帰洛せらる。
補【北畠氏館址】一志郡○伊勢名勝志 上多気村字馬場に在り、多気城址の東南に属す、今耕宅地となれり、北方に北畠神社あり。
補【生山】○応仁略記 今出川殿伊勢の国御下向の事、都の外へ御座所を尋ね申に、伊勢の国国司の館、生山と云所あり、(中略)よって十月の初帝都を御出、伊勢の国司の館生の山家へ入申云々。
丹生俣《ニフマタ》 多気村の尽頭を曰ふ、此地字萩原に五輪塔あり、赤松播摩守満祐の子教康の墓とぞ、教康父子、嘉吉元年其主君を弑し奉り討伐にあひ、教康は北畠国司を依頼して此に隠れしも、国司遂に庇ふ能はず、斬りて其首を京師に伝へたり。〔伊勢名勝志〕補【赤松教康墓】一志郡○伊勢名勝志 丹生俣村萩原にあり、五輪塔あり、教康満祐の子なり、嘉吉元年将軍足利義教を弑し、遁れて本州に来り、国司北畠教具に依らんとす、北畠氏其不義を悪み之を殺し、京都に送る、教康時年十九歳、遺詠あり、曰く「頼む木の陰に嵐の吹くれば春の緑も散果にける」と、是れ其遺体を埋めし所ならん。○今多気村の南究尽□にて、飯高郡と堺す。
伊勢地《イセヂ》 多気村の西、八幡村の北に接す、岩坂峠を踰ゆれば和州宇陀郡曽爾村|神末《カウスヱ》に至るべし、大字|三多気《ミタケ》に真言宗真福院と云寺あり、僧正聖宝の開基と称す、伊勢地の西|太郎生《タラウフ》村は、地勢全く伊賀国に属すれど、今本郡に編入せらる、東鑑に伊賀国六箇山と録せる地なり。〔三国地誌伊勢名勝志〕
補【真福院】一志郡○伊勢名勝志 三多気村に在り、真言宗大宝院末なり、昌泰二年僧聖宝の創立にかゝる、後北畠氏の祈願所たり(寺記)境内桜樹多し(北畠氏の盛時吉野より移植せしものなり)北畠氏亡ぶるの後人の訪ふもの稀なりしが、近時亦世に著るに至ると云ふ。○今伊勢地村、伊賀大和田国境にあり、三多気の西方一嶺を越え太郎生村あり、地域全く両国の間に挿入し、尚伊勢に属す。
八知《ヤチ》 伊勢地の北なる山駅なり、伊勢地の国堺を去る二里余、北|川口《カハグチ》村を去る亦三里余とす。
〇八知の北一里|竹原《タケハラ》村に大字|八手俣《ハテマタ》あり、延喜式、壱志郡|波※[氏/一]《ハテ》神社は此に在り。〔神舐志料〕
八知の西に首岳《カウベタケ》聳ゆ、伊賀種生村に跨る峻嶺なり、其嶺脈境村大字|城立《ジヤウリフ》に藤原千万の城址と云者あり、山上百五十歩許の平坦あり、石窟之に傍ふ、千方の事蹟は、太平記に「天智帝の時藤原の千方、金鬼風鬼水鬼隠形鬼を駆使し、伊賀伊勢を押領し、為めに王化に従ふものなし、因て紀朝雄宣旨を奉じて下り討つ、朝雄一首の歌を詠じ鬼に与へて曰く「草も木も吾が大君の国なればいづくか鬼のすみかなるべき」と鬼之を見て遁れ去り、千方遂に殺さる」と、〔三国地誌伊勢名勝志〕
補【六箇山】一志郡○見東鑑元暦元年、元久元年。○大日本史平賀朝雅伝、元久元年平基度、平盛時等聚兵於伊賀伊勢、襲守護首藤経俊、経俊奔逃、敵虜略二国、奪鈴鹿関、塞八峰山路、拠険遮備、実朝使朝雅将兵討之、朝雅以鈴鹿路塞、由美濃路入伊勢、撃基度於富田斬之、進至安濃、攻破岡貞重塁、又進抵多気、撃荘田佐房走之、虜河田刑部大夫、直赴伊賀、攻盛時於六箇山塁、数日克之。〇三国地志によるに六箇山とは三国に跨る、今名張郡比奈知村、滝之原、比奈知」今一志郡太郎生村多羅生」今宇多郡御杖村神杖」今名張郡国都村奈垣、布生」〔名賀郡六箇山、参照〕
補【藤原千方城址】一志郡○伊勢名称志 城立村字堀の山上に在り、百五十坪許の平地にして雑木繁茂す、石窟あり、俗に将軍宮と称す、千方の事太平記に載す。
家城《イヘキ》 雲出河の両岸に跨る村にして、竹原川口村の間を占む、日本書紀に廬杵《イホキ》に作り、東鑑「文治三年、家城荘地頭常陸六郎」と見ゆ、按に家城とは家《イホ》に似たる石城《イハキ》あるに因むか。古事記伝曰「川を隔て北家城のあたりに、石を畳みて造れる窟ありて、里人夫婦窟と云り、是れ隼別雌女二王の御墓なるべし、其窟の上に塚あり、是下方崩れて内なる岩構への顕れたる者なるべし」云々、然らば二王の御墓成りて後、家城の名起り、仁徳紀に「以二王屍埋于廬杵河辺」と明記しあるは、追書の意にや。○仁徳紀云、隼別皇子、率雌鳥皇女、欲納伊勢神宮而馳、天皇遣吉備品遅部雄(魚+即)、播磨佐伯直阿俄能古、追之至菟田、(今宇陀郡)迫於素珥山、時隠草中、僅得免、急走而越山、雄(魚+即)等急追、及于伊勢|(草冠/將)代《コモシロ》野、而殺之、乃以二王屍埋于廬杵河辺、而復命。((草冠/將)代野と云ふも家城の山野なるべし)又雄略紀云、阿閇臣国見、譖栲幡皇女与|湯人《ユヱ》廬城部連武彦曰、武彦汗皇女、而使任身、武彦之父枳(草冠/呂)喩《キココ》聞此流言、恐禍及身、誘率武彦於廬城河、偽使(廬+鳥)(茲+鳥)没水捕魚、因其不意而打殺之。○書紀通証云、廬杵河即今家城川、有景勝、名|湍門淵《セトフチ》、与河口関隣比、姓氏録曰、五百木部、火明命之後也、今按家城|井生《ヰフ》(今大井村大字井生)二邑相隣、疑井生即湯人之転也。
伊勢名勝志云、瀬戸淵は南家城の雲出川流域に属し、奇石怪岩多し、水には鮎を名産とし、年々遊賞の客あり、津藩主藤堂氏常に之に至りければ、御殿場の字を遺す、寛文四年藤堂の家人山中為綱此地の水理を修治したることあり、文政中郡宰碑を建てゝ其事を記せしも、碑石今逸す。
補【瀬戸淵】一志郡○伊勢名勝志 南家城村字瀬戸広に在り、雲出川の流域に属す、奇石怪岩処々に突起し、両崖杜鵑花多し、又鮎魚を産す、古より勝地を以て名あり、文人騒客杖を曳く者多し、旧領主藤堂氏常に遊賞す、其地を御殿場と称す、寛文四年藤堂高次其臣山中為綱に命じて此水を疏せしむ、為綱百万力を尽して其功を奏す、文政中高橋知周郡宰となり、碑を立て其事蹟を記す、後洪水の為め碑石を逸す。○今家城村、多気谷八知川上の山口にて北流の雲出川、此地にて東折す。
川口《カハグチ》 家城の東に接する山村なり、古は此に関塞ありて和州勢州の通路を監察したり、其東は大井村(大字大仰及井生)とす、皆雲出河に沿ふ、文政八年、下川口村東風呂谷に銅鐸一口を獲たりと云事、古今要覧稿に見ゆ、此地なるべし。○書紀通証云、続紀天平十二年、天皇(聖武)行幸伊勢、到一志郡河口頓宮、謂之関宮也、遣使奉幣帛於大神宮、車駕停御関宮十箇日、河口蓋家城川之口也、今有河口村、又云|岫田《クキタ》関。
くもりなく月もれとてや河口の関の荒垣まどほなるらむ、〔新後撰集〕
河口《カハグチ》のせきの荒垣や関のあらがきや、まもれども、(一段)まもれども、いでて我れねぬや出でてわれ寢ぬや、関の荒垣、(二段)〔催馬楽〕
守りにける岫田《クキタ》のせきを河口のあさきにのみは負せざらなむ、〔源氏物語〕伊勢名勝志云、河口頓宮址は今|王住《ワウスミ》と字する所とも、又医王寺境なりとも云ふ、関址は今与五郎坂と云ふ所也。
天平十二年冬十月、依太宰少弐藤原朝臣広嗣謀叛、発軍幸于伊勢国之時、河口行宮内舎人、大伴宿禰家持作、
河口の野辺にいほりて夜のふれはいもがたもとし思ほゆるかも。〔万葉集〕
補【川口】壱志郡○人類学雑誌 下川口村東風呂谷に文政八年銅鐸一口を獲たること、古今要覧〔稿〕に見ゆ。○聖武東幸の時に川口に頓宮ありし旧地なり。
小倭《コヤマト》 中世の郷名にて、今大井村|大三《オホミツ》村佐田村等を指す如し、雲出川辺にて、北は榊原に至り、南は川口に至る、小倭とは山間の義なり、或は小山戸に作る。
和遅《ワチ》野 績紀 聖武天白王天平十二年 行幸伊勢 猟于和遅野。○此野は川口村より井生《ヰフ》村に亘る、〔伊勢名勝志〕井生は今|大仰《オホノキ》と合併して大井村に改む。
大仰《オホノキ》 雲出川の北岸の大字也、真盛上人(江州西教寺)は此邑の人にて、幼時国司具教に仕ふ、十四歳に及で、遁世、薙髪して比叡に登り、天台律宗を究て世に弘む、今の真盛派是なり、明応四年、伊賀西蓮寺に寂す、五十三歳、上人嘗て国司の暴行を諌止す。〔五鈴遺響〕○勢陽要義云、文明十八年丙午十二月、伊勢国国司発向於山田、悉令退治外宮、社頭迄悉焼払、其以後又明応二年癸巳八月廿二日、礒城責落、山田発向、上人諌書曰、
唯今御神御恐肝要候大神成怒給難翻候仍末御開陣無之由承及候無心元候乍次存分趣申候凡北畠御家公家乍武家御振舞中間大刀被持候事限候云々、
佐田《サタ》 大井村より大三《オホミツ》を経て佐田村|垣内《カイト》に至る、伊賀国阿保へ通ずる別径あり、戦国の頃小倭七党ありて、紀氏其一に列す、今佐田村紀貫之古郷梅と云古跡を伝ふるは、紀党の業なるべし。〔三国地誌伊勢名勝志〕○改正三河後風土記云、小山戸六十六郷とは、郷土ありて小倭衆曰ふ、天正十二年、蒲生氏郷松島城入部の後、小倭衆帰服なかりければ之を責め、口佐田奥佐田の二城を囲まれけれど容易に落城せず、北畠具親扱を入れ調和となる、具親は故国司の門族たりしが、織田信長に怨みありて、伊賀国を切取り、家名再興の志ありしが、其事成らず氏郷の麾下に従ふ、而も本意にあらざりければ、遂に病死して遺跡絶ゆとぞ。(按に、小山戸六十六と云ふときは、多芸谷をすべて含めるにや、如何)
補【紀貫之墓】 一志郡○伊勢名勝志 古郷梅碑、佐田村字門の前にあり、天正の頃小倭七党なるものあり、紀氏の裔にして尤勢威あり、蓋し此等の族祖先の為めに之れを建てしものならん。○今佐田村 垣内を経て伊賀国への通路也、郡の北西境也。
八太《ハタ》卿 和名抄、壱志郡八太郷、訓鉢多。○今|川合《カハアヒ》村(大字八太)高岡村是なり、雲出川の北方に彎曲せる圏内の地を曰ふ、波瀬川南西より来り之を貫き、雲出川に入る。神鳳抄「一志郡八太御厨、又八太御薗」とあり、大字八太と田尻《タシリ》(高岡村)は波瀬川を挟み、郷中の首邑にて、伊賀宇陀への通路之に係る。
十市皇女、参赴於伊勢神宮時、見波多横山巌、吹黄刀自作歌、
河上のゆつ磐村に草むさずつねにもがもなとこ処女にて、〔万葉集〕
略解云、波多横山は今も一志郡に八太里横山と云地有て、大なる岩ども川辺に多しとぞ、延喜式、壱志郡波多神社。○菅笠日記云、三渡《ミワタリ》(松崎村字六軒)より二里、八太と云駅あり、八太河(波瀬川)は板橋なり、渡りて田尻村と云より、漸々山路にかゝりて谷戸《タント》大仰なんど云里過ゆく、大きなる川あり、雲出川の川上とぞいふ、川辺を登り行くあたりの景色いとよし、大きなる岩ほども山にも道にも川の中にもおほくて、所々に淵のあるを見くだしたるいとおそろし、彼吹の刀自歌よめりしも此わたりならんと、県居の大人の曰れしは、実にさもあらんかし。〇八太山|班光《ハンクワウ》寺址、大字八太中野に在り、大誓院と号し、応永年中、北畠国司満雅の修造なりしと云ふも、天正中兵火に罹り、全く亡ぶ。〔伊勢名勝志〕
川併《カハアヒ》神社は延喜式一志郡に列す、今川合村須賀瀬に在りと云ふ、此は八太川宮古川の雲出に合流する所也、東寺文書「承和十二年、伊勢国川合荘」。
補【八太郷】壱志郡○和名抄郡郷考 神名式、波多神社。万葉集一、見波多横山巌作歌、河上乃湯津磐村にくさむさず云々。神鳳鈔、一志郡八太御厨、又八太御薗。上田百樹云、今八太村あり、或書波多とも書り。〔萱笠日記、略〕勢陽雑記、八太村あり、又八田村といふもあり。○今川合村大字八太、雲出川此郷にて彎曲す、渡瀬《ハセ》川南より来り雲出に合す。
八田城址 伊勢名勝志、八田村字城山にあり、古井塁濠の址を存す、今耕地山林たり、往昔三浦義明二代の孫盛時、始めて城を築き之に居り、後大多和氏と改む、盛成の時に及びて正平中州守北畠顕能に属す、天正四年北畠氏亡ぶるに及びて城廃す。○今豊地村大字八田、一志村の南隣。
補【班光寺】 一志郡○伊勢名勝志 八太村字中野に在り、今耕地たり、伝へ云ふ白鳳中僧行基創立し、八太山大誓院と称す、応永年中北畠満雅七堂伽藍を造立し、祈願所となす、天正六年兵燹に罹り焼失す。
青巌《セイガン》寺 川合村大字小山に在り、真宗専修寺末なり、創建は詳ならねど、初め慈恩寺と号し真言なりしを、文明七年、僧了珍中興改宗す、慶安中和歌山藩主の祈願所と為り、地方の名刹に列す。〔伊勢名勝志〕○小山の傍に大字片野あり、北畠国永記云「羽林の母堂、ちかき頃は片野と云所におはしけるを、久くおとづれも申侍らねば、花のころに尋参りけるに小原と云を通り侍る。」〔三国地誌〕
小川《ヲガハ》郷 和名抄、壱志郡小川郷、訓乎加波。○今|中川《ナカガハ》村大字小川あり、其傍を宮古《ミヤコ》川経過す、此水は西南|宇気郷《ウキサト》村大字上小川小原より発し、雲出川に入る、長四里余、其流域|中郷《ナカザト》村|豊地《トヨチ》村も本郷の属地なりけん、延喜式、本郡小川神社見ゆ。
小川郷は即壱志郷にて、壱志駅家は今中川村大字宮古なるべし、参宮図会云、天仁元年斎宮群行の時、宮古の忘井の歌ありて、千載集に出づ、其古跡存す。
別れゆく宮古の方の恋しきにいざ結びてんわすれ井の水、〔千載集〕 斎宮甲斐
続紀、天平十二年、天皇従河口発、到壱志郡宿。延喜式云、凡斎王将入太神宮之時、頓宮者近江国々府甲賀垂水伊勢国鈴鹿壱志総五所、並国司依例営造。〇一志駅は延喜兵部式に市村に作り、東鑑養和元年の条にも見ゆ、之を宮古と曰ふは、多気郡斎宮寮を竹都と呼べ例ならん。○神祇志料云、仁安元年斎王群行に当て、伊賀伊勢在庁官其供給を設けず、或は破輿を以て斎王を迎奉り、或は寮の官武士に傷けらるゝ如き不法甚多し、一志駅に及て宮司は事を勤る事なく、寮頭は御膳を供奉らず、山路又嶮しく御輿行なやむを以て斎王泣悲み給ふに至りき。
補【小川神社】○神祇志料 今南小川村に在り(応永十二年棟札・神名帳考証・神名帳検録)
按、式内牡検録波瀬村歳王権現あり、国永歌集に依て考ふるに、波瀬の室《ウロノ》口より西に入る八手俣街道旧路なり、八手俣に惣杜若宮八幡宮と小河内天王社と二社あり、何れも古社なれば、波(氏/一)神社は此二社の内なるべし。
天花寺《テンケジ》 中川村に属す、大字宮古の南数町に在り、天平年中僧賢憬の草創と伝ふ、元和中和歌山藩主祈願所と為す、又此地廃城あり、松樹茂生し壁濠の地を存す、里人伝へ云ふ往昔薗大納言城を築き之に居る、源実朝の時久我三郎居城す、(裏書国誌に文治中久気二郎領と記す)永享中修理大夫なるもの之に居る、本州の守護船木光俊を攻め利あらずして自殺す、其子主計助北畠政具に仕へ、嘉吉元年本郡曽原の城主となる。
一志《イチシ》 今豊地村と改称す、天花寺の南方に接す、古の一志氏の墟なるべし、大字一志の傍島田古屋舗と云処に古墳あり、往年之を発掘したるに、高幅共に三尺長六尺の石棺を獲、中に金銀環銅鏡土器并に枯骨を納れあるを見たり、里人称して壱師君墓と為す、又近所に黄金塚小塚等数多あり、又字北山口の山腹に兄弟《イトド》塚と云窟、双穴相并ぶ、幅約三尺高九尺中室五坪許、石を積みて之を造る、又島田の西数町|釜生田《カマオタ》(今中郷村)に俚俗四十八塚と云者あり今尚十余塚を存す、皆石をたゝめる古墳なり。〔三国地誌伊勢名勝志〕
一志駅家は宮古村にて、此辺は壱師君の故宅なるべし、相距二十町許、壱師君は郡名の条に引ける如く、孝安天皇の皇兄天押帯日子命に出で、続紀(十三)壱師君族古麿、続後紀(十九)壱志君吉野、三代実録「貞観四年左京人壱志宿禰吉野賜姓大春日朝臣、天足彦国押人命後也」(彦国押人は孝安御諱なり相混同す)又日本後紀、弘仁四年、「令伊勢国壱志郡、貢郡司子妹年十六已上二十已下、容貌端正堪為釆女者一人」(壱志県造遠祖建(此/口)子と云あり阿坂参考せよ)一志の西南|宇気郷《ウキサト》村大字原上小川は、多芸谷国司の御所に通ぜる山の口なり、北畠家の故蹟も多かるべし。
補【壱志君墓】一志郡○伊勢名勝志 島田村字古屋敷に在り、往年発掘して高幅共に三尺長六尺の石棺、金銀環・金管・古鏡皿器及び枯骨一体を得たり、里人称して壱志君の墓となす、未だ拠る所を知らず、近隣又黄金塚と称するものあり。○今豊地村、一志の西隣とす。
補【兄弟塚】○伊勢名勝志 兄弟塚は島田村字北山口山岳の半腹に在り、二窟相并ぶ故に此名あり、口径大約方三尺、中広さ五坪高九尺、石を積て之を作る、構造頗る大なり、蓋し貴族の墳墓ならん、尚小塚の各処に存するあり、今発掘して其址のみ存す。
四十八塚は釜生田村字がん上、大平の山上にあり、元と四十八塚ありしが今僅に十数基を存す、広さは方三尺中広くして拾尺余に至る、四方石を以て之を畳む、各大小あり、村人伝へて往古土人の穴居せし跡なりと云ふ。
補|六代《ロクダイ》墓 一志郡○伸男名勝志 森本村字日川に在り、塔石四尺五寸、幅二尺五寸、表面「唯有一乗法」の五字を刻す、伝へて六代の墓となす。○今中郷村大字森本、豊地村の南方。
民太《ミノタ》郷 和名抄、壱志郡民太郷、訓三乃多。○今阿坂村(大字美農田)米之《ヨネノ》荘村なるべし。延喜式.壱志郡敏太神社と云も此なり、小川郷の東須賀郷の南にして、飯南郡に接し、東は海に至る。
阿坂《アサカ》 此村大阿坂小阿坂の二に分れ、古書に宍往《シシユク》(此/口)鹿国と云者是也。当時壱師君の主帯せる地の総名に通用したり、神鳳抄「一志郡大阿射賀御厨小阿射賀御厨」とあり、其地西山を負ひ東海に至る二里、古事記に猿田毘古神此に居り、漁りして比良夫貝に手を咋はれて死したるやに書成せり、比良夫貝と云は其実人名にや、中川村宮古の傍に大字|平生《ヒラオ》の地名遺れり、神鳳抄一志郡平生御厨とあり。
時まちておつるしぐれの雨やめて朝香の山のもみぢしぬらむ、〔万葉集〕 市原王
浅香城は一に白米《ハクマイ》城と称し、大阿坂に在り、其跡を升形と字す、建武の昔北畠国司顕能の兵を挙げたる時之を起し、爾後其将士を配置す、永禄十二年織田氏の兵来攻し其陥る所と為る。〔参宮図会伊勢名勝志〕
阿射加《アサカ》神社 延喜式、三座并名神大とありて、続後紀、承和二年、奉授阿邪賀大神従五位下、三代実録、貞観元年、授従三位と載す、猿田毘古神并に阿佐鹿《アサカ》伊豆速布留神壱志県造建|(此/口)子《アサコ》を祭る、今其社大阿坂小阿坂二所に并ひ在りて、共に土俗は龍天祠と曰ふ、神殿各三宇あり、何方か本ならん、小阿坂なるは円座薬師と云寺の縁起文に某社は行基の勧請なりと記す、然らば大阿坂を本とすべきか、又一名嬉野社と称す。〔古事記伝参宮図会〕
うれし野とみことのりせし草の原つゝむそでなきふぢばかまかな、〔神祇百首〕 度会元長
古事記云、猿田毘古神、座阿邪(言+可)時為漁、而於比良夫貝其手見咋合、而沈溺海塩、故其沈居底之時、名謂底度久御魂、其海水之都夫多都時、名謂都夫多都御魂、其阿和佐久時、名謂阿和佐久御魂。○倭姫命世記云、大神遷座于阿佐加藤方片樋宮、積年四箇年奉斎、是時阿佐加の弥子に坐て伊豆速布留神百往人五十人者取死、(縦棒4つと横棒)人往人廿人取死、如此伊豆速布留時に倭姫命朝廷に大若子を進上て彼神事を申し者、種々大御手津物彼神進、屋波志々豆目平奉と詔遣下給き、于時其神を阿佐加の山嶺社作定て、其神を夜波志々都米上奉て労祀き。○延暦儀式帳云、大神壱志藤方片樋宮座、其阿佐鹿悪神を平、駅使阿倍大稲彦命、即御供仕奉き、彼時壱志県造等遠祖神建(此/口)子を汝国名何問賜き、白く宍往(此/口)国と白き即神御田并神戸進き。○按に阿邪(言+可)は往時壱志と同く地方の総名なり、其藤方村は今安濃郡へ入る、建(此/口)子が進たる御田と云は、彼の阿射賀御厨にて、民太郷と云ふも御田に因める称なり、敏太神社は神戸の民の祝祭る者なるべし。
浄眼《ジヤウゲン》寺 阿坂の禅刹にして、大空玄虎の開く所なり、玄虎は洞上聯燈録云、虎初め遠州石雲寺崇芝岱に謁す、芝一見即掛塔を許し、命じて蔵典を主らしむる廿年発悟する所あり、一時勢州の浅香に菴居す、隣(左右逆)丘窮谷あり昼夜炎焼熱湯涌出す邑民地獄谷と名く、虎其側に禅座す数日にして大湯自ら熄む、郡守信を発して、浄眼寺を営建し、虎を延て住持せしむ、永正乙丑順世。
余戸《アマベ》郷 和名抄、壱志郡余戸郷。○今|松崎《マツガサキ》村なるべし此地は阿坂の海浜にして、古事記猿田毘古の漁りし給ふ云ふ処ならん、浅湾ありて、土俗之を一志浦と呼ぶ。
伊勢しまや一志の浦のあまだにもかづかぬそでのぬるゝ者かは、〔歌枕名寄〕
三渡《ミワタリ》 六軒《ロツケン》とも称す、今松崎村に属する鉄道車駅也、南は松坂を去ること二里、阿坂山より出る涙《ナミダ》川と云ふ細流あり。
菅笠日記云、三渡の橋のもとより、道は西に分れて、津屋荘と云里を過て、はる/”\と透き野原をわくれば、小川村に至る。
松崎《マツガサキ》 六軒の東を松崎浦と曰ふ、其南を松島と曰ふ、其処に蒲生氏古城址あり。○鴨長明参詣記云、松風のいと寒きに三渡浜にもつきぬ、遠なる入海に向ひて、旅行人の休むに事とへば、遠き道をめぐらじとて、汐のひる間を待はべると答へし、汐ひぬれば、こなたの崎よりかなたの崎へ渡る也、半ば涸ぬれば松が崎と云所を渡りて、汐みちぬれば此らをば得渡らで尚遠く廻りて、市場と云所を渡る、汐干に随ひ、其渡三所にかはれば、三渡りとは云也、
三わたりの磯わの上道なほふかし朝みつしほのからきけふかな。 長明
みわたりの裾に流るゝ涙川袖岡山のしづく也けり、〔歌枕名寄〕
按に三渡は、阿坂山の下より一志浦まで、往時は潮水の干満ありし地と見ゆ、長明記に市場と云は今米之荘村大字市場なるべし、又三渡の北を津屋《ツヤ》荘と云ふも、古の渡津の謂なるペし。
松島《マツガシマ》城址 松崎の東南に在り、天正十二年、九鬼義隆筒井定次等、羽柴氏の命を以て海陸之を攻めたる事あり、当時織田信雄の将滝川雄利の守る所なりき、後蒲生氏郷此に修築し、南勢を鎮圧し十四万石の地を知行したり。初め天正八年、田丸城焼亡し、信雄更に松崎に築かしめ、一名|細頸《ホソクビ》城と曰ふ、五重の天守を揚げたりとぞ、同十二年、氏郷入部し、十六年に至り松坂に移る。〇五鈴遺響云、城址は字を丸之内と称し、天正十八年廃城の後寛永十四年紀州侯御船奉行を此地に置かれ、宝暦三年より之を松坂奉行の兼務に帰せしめらる、仍船手組頭一人与力二人大船頭二人手代水主五十八人を松島に居住せしめ船政に従はしめらる。
補【松島】〇五鈴遺響 今俗松崎と称す。○松島城墟、同処にあり、字を丸の内と称す、天正八年北畠信雄の居城度会郡田丸城焼亡せしにより此地に城を築く、旧名細頸と称す、故に細頸城と名づく、五重の殿守を揚て居せり、天正十六年に到り蒲生氏郷之に移居し、我家松の字を吉祥とすといふ、四五百森を改めて松坂と名づけらる、天正十八年更に松坂より奥州会津に移居せり、其城地も此吉例に倣(方→交)ひて若松城と名づく、寛永十四年紀州侯御船奉行一人を被置、宝暦三年より松坂奉行兼帯せられ、船手の首一人同与力二人大船頭二人、手代水主五十八人松ケ島に居住して之を監掌す。
須可《スカ》郷 須 和名抄、壱志郡須可郷。○今豊田村(大字須賀)中原村(大字須賀領)天白《アマシロ》村(大字曽原)等の地なるべし、松崎村の北に接し、小川郷の東なり。延喜式、一志郡須賀神社今豊田村に属し須賀権現と云ふ。○難太平記云、伊勢の国に蘇我と云所の領家足利基氏の妹婿とかや聞及びし也。○郡郷考云、須可と云は海辺に在る洲処《スカ》の義ならん、此須可郷も地勢しかり、応仁記に須可の積善寺と云名あり、亦此ならん。
曽原《ソハラ》 今|天白《アマシロ》村と改む、松崎の北浦なり 洲原《スハラ》の義ならん此地に塞址あり、北畠国司の臣天花寺氏の居なりきと、又字上之腰に勅使塚或は御門塚と称する古墳あり、養和元年八月祭主大中臣定隆源氏誅滅の勅諚を奉じ、伊勢神宮参詣の途次、病みて卒し、此に葬ると云ふ。〔伊勢名勝志参宮図会〕曽原より北星合浜烏崎等は雲出川の河口にて、一帯の洲渚なり。補【大中臣定隆墓】一志郡○伊勢名勝志 曽原村字上ノ腰に在り、今小祠を建つ、方俗称して勅使塚或は御門塚と云ふ、定隆中臣親能の子なり、養和元年八月勅を奉じ伊勢宗廟に謁し、源氏誅滅の事を祈り、路にして卒す。○今天白村曽原、松崎の北にて海辺也。
星合《ホシアヒ》 今|鵲《カササギ》村と改称す、雲出川の甫岸にて、東は海なり。星合浜と曰ひ、七夕の鵲に取合せて改名したるか、、北岸を烏崎と曰ふ、又星合社とてあり、是は棚機姫を祭るとぞ。〔参宮図会参考〕
伊せのうみ名にあらはれて波枕かはしやすらん星あひの浜、〔歌枕名寄〕 九条内大臣
小野江《ヲノエ》 雲津川南岸の村にして、星合浜の東なり、長明参詣記に「雲出川の早き波をしのぎ小野の古江なんど申名所を過行く」と録したり、然れども多気郡に麻続郷ありて、古江の名所は彼所なるを、此にも擬へたる也。小野江の大字|甚目《ハダメ》に観音堂の旧址と云所あり、此は尾州甚目寺の先蹤とぞ。〔伊勢名勝志〕
補【観音寺】一志郡○伊勢名勝志 甚目村字道亀の田畔に窪地ありて、雑草生茂す、里人之を観音の旧跡と称す、伝へ云ふ、尾張国海東郡甚目村甚目寺の本尊は、往昔本寺にありしと、蓋し同寺は建久中源頼朝の創建なれば、本村にありしは其以前にして、頗る旧寺なりしも古書に徴すべきなければ、考ふるべからず。○今小野江村大字甚目、雲出川の南岸にあり、旧址のみ。
呉部《クレベ》郷 和名抄、壱志郡呉部郷、訓久礼倍。○呉部の名今一志郡になし、疑ふらくは星合小野江などに当るか、多気飯南二郡には東西の黒部村あり、麻続機織《ヲミハトリ》の神民其処に居れる事明白なり、此呉部と云ふも其類にて、星合祠麻続江の此に在るも偶然には非じ、然らば黒部と云ふは即呉部の訛にして、彼呉服部の裔民の住居なりしか、或は呉部とは繰《クル》部ならんと云ふ、蓋古書に繰部の名目なしと雖、呉羽訓覇など云ひ、皆呉部也。
雲津《クモヅ》川 雲出にも作る、源は多芸谷の丹生俣に発し、川上《カハカミ》川を合せ北流、家城村を過ぎ東折し、尚屈折して長野川を容れ、又八太川宮古川を容れ、小野江の東に至り二分し、小鳥洲《コガラス》を挟みて海に入る、長凡十里、国俗北伊勢南伊勢の界を此に定む。
雲つ川せき入てまける苗しろに秋のそらこそかねて見えけれ、〔文治百首〕 俊頼
延元三年、北畠顕家東国の大軍を以て美濃に出で、足利氏の支ふる所となり、転じて伊勢に入る、高師泰追ひ至り、之と雲津川に戦ひたる事太平記難太平記等に見ゆ、其故跡は北岸雲出村大字|伊倉津《イクラツ》なりとも云ふ。〔伊勢名勝志〕桜雲記南方紀伝等に「延元三年二月十四日、伊勢国雲津川阿保川に於て度々合戦、官軍利あらず」と、是役なるべし、阿保川と云は伊賀国にして雲津に沿ひ西上し、佐田村より彼国に踰えたる所を阿保村と曰ふ、○大永の比、此河辺に地変ありし事、宗長手記に見ゆ、曰「長阿は伊勢の固より北地旅行、やう/\雪になるべく驚かれて、大永二年八月十六日に思ひ立ちぬ、雲津川阿野の津のあなた、当国牟楯の堺にて、里の通ひも絶たるやうなり、あなたは関民部大輔(今は隠遁何似斎)こなたは多気より宮原七郎兵衛尉盛孝なり、山田を立ち平尾の一宿のあした、夜をこめて出、辰の刻より雨頻りに降りて、みわたりの舟渡り塩高くみち、風にあひて雲津川又洪水、乗物人多く添られ送りとどけらる、此津十余年以来荒野となりて、四五千軒の家堂塔跡のみ、浅茅蓬が仙、誠に鶏犬はみえず、鳴鴉だに稀なり、析ふし雨風だにおそろし。(此に見ゆる平尾は松坂の北にて、三渡とは即六軒なり、当時沿海の風景を叙する事想像に堪たり)
補【雲津川】○南方巡狩録 桜雲記・南方紀伝等に二月十四日伊勢国雲津川阿保川に於て度々合戦、官兵利なきよしをいひ、大日本史にも官軍雲津川にて師泰が勢と合戦し是を打破るよし太平記を引てしるしたれども、今太平記によるにたしかならず。
烏洲《カラス》 今矢野村と曰ふ、小烏御前祠あるを以て、通俗烏と称す、歌枕名寄に烏崎と云ひ、又雲津崎と曰へり、雲津川之を抱き両分して海に入る、白沙青松勝色の洲浜《スハマ》なり、雲津は其南支星合浜に沿ふ者を新川《シンカハ》と称し、北支伊倉津に向ふ者を本川と称す。
いせ島や月のみふねをこぎて吹く雲つが崎の松のむら立、〔歌枕名寄〕 大中臣親守
雲津路上 梁川星巌
雲津渡口雨濛々、烏浦磯辺落照紅、一紙遠来秋未達、鯉魚吹老鯉魚風、
小鳥《コガラス》祠 土俗小加良須|御前《ゴゼン》と号す、祠畔の風光は住吉に似たりとて、安濃津の人常に遊賞す、祭神は稚日女尊(生田神)なりとも、稲葉神、〔延喜式〕又安濃郡加良比神、〔延喜式〕を移したりとも云へど、皆詳ならず、志摩郡磯部村の栗島坐神に因みあるに似たり。
倭訓栞云、鳥羽に文字を書て高麗より渡せしこと敏達紀に見えたり、新拾遺集に「鳥羽にかく玉づさの心ちして雁なきわたる夕やみのそら」(西行法師)多気窓螢に曰、昔西行からすの杜に参りて、扇をひろへり、烏多くかきたるに「鳥羽の文字よりいはひそめければ」かやうによみける時、虚空に声して「かゝるうたにもあふぎ得しかな」とありしと、此鳥社は今一志郡の海浜にあり。
島抜《シマヌキ》郷 和名抄、壱志郡島抜郷、訓之末沼木。○今雲出村|桃園《モモゾノ》村是なり、大字島貫本郷は雲出に属す、此地は雲出川の北岸にて、神鳳抄、島抜御厨と見ゆ。
木造《キヅクリ》 今|桃園《モモゾノ》村と改む、島抜本郷の西に接す、木造荘は東鑑元暦元年の条に見ゆ、北畠国司顕能の二男顕俊之に城き、国司家の重鎮たり、子孫世襲具康に至り絶ゆ。○野史云、木造俊康、顕俊子也、応永年中叙任、遂至権大納言正二位、二十一年、国司満雅(俊康従兄)挙兵迫足利幕府、俊康不応、却通北勢、与仁木満長土岐持益等伐満雅、応仁三年薨、裔孫復属国司、具康之時、徙日置城。○伊勢名勝志云、木造城址二所、一は字稲垣に在りて、今宅地たり、北畠顕能の二男顕俊城を築き之に居る、子俊康足利氏に仕へ、爵位並に隆高なり、応永二十一年、本宗満雅兵を挙げ先づ本城を攻む、会々俊康京師に在り、家人等防戦城遂に陥る、後足利氏此城を復し再び俊康に与ふ、六代の後俊成に至り、城地堅固ならざるを以て、之を別所に遷す、今耕地草生地となれり、新城址と称するもの是なり、俊茂の孫具康、天正四年本郡戸木城に移り、城遂に廃す。
新家《ニノミ》 今桃園村に属す、木造の西に接す、雲津川の辺、東鑑、文治三年の条、伊勢国新屋荘と云は此か、上古には物部新家連の邑なり。
物部《モノノベ》神社 延喜式、壱志郡に列す、今|新家《ニノミ》に在り、〔五鈴遺響〕蓋物部新家連の祖神なり。日本書紀、「宣化天皇、詔物部大連麁鹿火 宜遣新家連、運新家屯倉之穀于筑紫、脩造官家|郷津《ナノツ》之口」と見ゆ、新家は即|新家屯倉《ニヒノミヤケ》の略也、旧事紀曰「物部竺志連公、新家連等祖」又姓氏録曰「新家直、汗(旁于)麻志足尼命之後」、さて此氏人の伊勢にも移りたる事は、延暦儀式帳「難波長柄(孝徳)朝廷、天下立評時度会山田原立屯倉、新家連阿久多督領とあり、神宮雑事記には度会郡小領家新連公人丸の名見ゆ。
新家より北の方|本村《モトムラ》の辺に桃林多し、花候には満野錦繍を舗くがごとし、此樹は大抵元文年中に培植の業を創め相継ぎて今に至る、二十五町歩三万七千五百株に及ぶと称す、〔伊勢名勝志〕近年之に因みて、村号を桃園と改めたり。
高茶屋《タカチヤヤ》 雲出挑園の北を小森《コモリ》と曰ふ、今高茶屋村と改む、参宮鉄道の車駅あり、津市阿漕車駅を去る南二里とす、古は焼手《ヤキデ》里と曰へる地とぞ、神鳳抄に焼出御厨塩九斗と云は此なり。〔伊勢名勝志〕
うち過る人も煙になれよとやもしほやきての里のまつかぜ、〔夫木集〕 澄心
此村は安濃郡|藤水《フチミツ》村と共に古の壱志神戸ならん、和名抄に郷名見ゆ、神宮雑例集に壱志神戸廿八戸と見ゆ。
小森《コモリ》 小森の大塚と云は古墳なり、面積凡八十八坪、瓢形を為す、土人相伝ふ往年之を発きたる事あり、中に石棺を得たり、縦七八尺横四五尺、側に小棺あり縦四尺横三尺許、棺中には人骨を納むと、近傍字向野山若林山四野山天下山瓦釜山等亦大小三十余の塚あり、村人其一を発きしに石棺より土器朱塊及び刀剣矢鏃の類を得たり、何人の墳なるを知らず、記して後考に供ふ。〔三国地誌伊勢名勝志〕
久居《ヒサヰ》 久井にも作る、一志郡衙の在所にして、小市市街成す、郡の北偏に居り、安濃津市を去る二里に過ぎず、地勢岡陵相連り、南は雲出川に至り、西北は漸く高く、榊原長野の山地に向ふ、風早池邑傍に在り、其水東流二里にして阿漕浦に入る、此池は古の一志池なるべし。
さくら咲むろの山風吹ぬらし一志の池にあまるしらなみ、(新古今集、和州にも同名あり) 定円
池は戸木村に属し、風早明神あり、神祇志料に此社地をヒムタと字せば、即延喜式一志郡敏太社なりと曰へり。○久居は藤堂家の支封にして塞を置かれし所なり、寛文十年、佐渡守高通新墾五万石を分賜せられ、子孫世襲して近年に至る。○久居桃林とは本村《モトムラ》(小戸木)新家一帯の地にて、南方雲出川に至るまで、花時の観覧に佳なり。
補【久居桃】一志郡○伊勢名勝志 小戸木《コベキ》村字若宮新開中島等より本《モト》村の地に亘、雲出川の北辺に属す、寛政中培植する所たり、花時紅白相連なり、瀰望際なく、民屋其中間に点在す、遠近来遊するもの尤も多し、久居の南方に属するを以て、俗呼て久居桃林と称す。
新家《ニノミ》の桃林 新家村字西林、久保、落合、高木等に連る、東西南三面雲出川を繞らす、花候堤上の観恰も錦繍を敷くが如し、概ね元文中植うる所たり、後年培養大約三万七千五百株(反別廿五町)に至る。〔新家桃園参照〕○今久居村 小戸木は本《モト》村に合併す、又新家・木造は別に桃園村と改む。
日置《ヒオキ》郷 和名抄、壱志郡日置郷、訓比於木。○今|戸木《ヘキ》村|本《モト》村(小戸木)久井《ヒサヰ》町等に当る、其西方七栗稲葉榊原等も之に属せるにや。○古事記伝云、日置は和名抄に比岐又比於木と訓めど、古は幣岐なるべし、伊勢にては今も戸木と唱ふ、比於木とあるは後人のさかしら訓にやあらむ。○万寿禅寺記、〔群書類従本〕勢州木造荘日置荘。
補【日置郷】壱志郡○和名抄。○今高岡村大字日置、八太郷の北に接す、雲出川の南岸也、然れども此は本来八太郷にて、式の本郷は今の戸木なり、雲津川の北岸にして久居の辺なり。○本村、戸木村久井町。
戸木《ヘキ》 天正年中、木造具康(一作長政)之に築城して移居す。野史云、具康日置城主也、永禄十二年、与弟雄利作乱、招織田信長兵、此国司北畠具教、遂廃具教、奉信長子信雄為具教嗣、天正十二年信雄封除、具康拠戸木城抗戦、後往岐阜、仕織田秀信、有勇名。○改正三河後風土記云、天正十二年、織田信包津城に在り、蒲生忠三郎氏卿は松が島に入部して、国法を沙汰す、松が島と安濃津との間に戸木《ヘキ》新美《ニノミ》といふ両城ありて、此城主木造左衛門佐長政は織田信雄の味方にて、猶義操を守り籠城せり、抑木造といへるは今に於て七代、国司家の庶流たり、此城南は雲出川川岸岨ち両淵深し、西は伊奈白川水たたへ、谷深く北は深田東は渺々たる広野なるを、所々堀切て柵を組、寄手力責には攻抜がたく、野辺河原高野日置風早宮山所々番兵を置く、数十日にして信雄秀吉和睦とゝのひしかば、長政も戸木の城を開渡し、尾州へ引取しが、後に長政は岐阜中納言秀信卿(三法師丸の事)に仕へ、其後遂に福島左衛門大夫正則が家人となる。
稲葉《イナバ》 此村は戸木の西一里半に在り、長野谷(安濃都)の口にして、西は榊原七栗郷に接す、延喜式壱志郡稲葉神社二座、三代実録、貞観七年、稲葉神授位、此の社は今穂落大明神と曰ふ、蓋大年神を祭る。〔神祇志料〕
七栗《ナナクリ》 今七栗榊原二村に分る、七栗温泉は榊原に属す、戸木の西小倭郷の北にして、北は長野谷(安濃郡)に至る、渓澗は東流して長野川に合し、荘田にて雲出川に入る、西は布引山の峻嶺峙ち、伊賀国と相限る。
荘田《シヤウタ》 今七栗村に属す、長野川(長四里)此に至り、雲出川に合す。元久年中荘田三郎佐房其子師持等の館址あり、東鑑に此人々見ゆ。〔五鈴遺響〕
補【荘田】壱志郡〇五鈴遺響 庄田城址 元久年中庄田三郎佐房、同子息庄田師持等所拠なり、東鑑に多度郡に到て庄田三郎と相戦ふと記すは、恐くは伝写の誤なるべし。
榊原《サカキバラ》 温泉あり、七栗場と称す、枕草子に録せる七くりの湯と云は此ならん、延喜式壱志郡|射山《イヤマ》神社此に在りて、土俗湯大明神と曰ふ、蓋射は湯の転音なり。
一志なるななくりの湯も君がため恋しやまずと聞はものうし、〔夫木集〕
榊原湯は単純温泉にして、無色透明無味無臭なり、常温七十五度、渓畔に涌出す、其涌量は晴雨に関せず、自ら増減あり、津を去る四里、松坂を去る六里、山径車を通ずべし。○赤部谷に古井廃壕の址ありて、榊原氏の故墟とぞ、北勢守護仁木義長の裔清長此に移り、榊原を家号とし、子氏経は北畠国司に属す、其子孫邑を失ひ参河に移り、松平氏に仕ふ、小平太康政に至り、家康を輔け功勲あり、遂に家号を興す。
補【榊原】一志郡○日本外史徳川妃 榊原康政之先同、仁木義長居伊勢榊原邑、其裔徙参河。神鳳抄、坂木御厨。○今榊原村、一志郡の北嶺に間在す、伊賀境也。榊原城址 伊勢名勝志、榊原村字赤部谷に在り、古井濠址等存せり、仁木義長十一代の後裔榊原清長の子氏経城を築き之に居り、北畠氏に属す、北畠氏亡びし後城廃す。
布引《ヌノヒキ》山 榊原の西嶺なり、北は長野峠に接し、峰勢達亘す嶺西は伊賀国阿波郷なり、布引山は長明伊勢記に載す。
あらし吹くかこのはたてのぬきをうすみむら消渡る布引の山、〔歌枕名寄〕 長明
安濃郡
安濃《アノ》郡 或は阿濃に作る、一志郡の北、鈴鹿河芸二郡の南、東は海に至り西は、山嶺を以て伊賀国と相限る、安濃川一郡を貫流し、其末に当り安濃津の城市あり、人烟繁昌、勢州の首都なり。○本郡は東西五里余、南北二里若くは三里に過ぎず、面積十一方里、一市十八村、人口六万七千。
安濃は倭姫命世記に草蔭《クサカゲ》の安濃の国と呼ばれ、中世分れて安東安西に分る、神鳳抄、及び安東郡専当沙汰文〔群書類従本〕共に安東安西を載す、大抵今安濃村の左右を以て相分つ、正保国図に阿濃に作り、文禄国図以後安濃に復す、和名抄、安濃郡、訓安乃、九郷に分つ、文禄検地五万七千石。○安濃氏は三代実録「貞観四年、安濃郡人爪工仲業、賜姓安濃宿禰」とあり、又節用集に安濃をアコギと訓む、郡東の海湾に阿漕浦の名あり。地名の本拠蓋其江湾に在りて、洞穴の状ありしに由る。
補【安濃郡】○和名抄郡郷考 風土記、或阿乃、或曇野、東限建部浦、西限長野岳、南限(山+田)田川、北限狭屋社。倭姫命世記、草蔭乃安濃国。神鳳砂、安東郡安西郡。古老口実伝、安濃東西郡。風土記、安濃津、仁徳天皇三年定三津、其一也、夷方之蛮船、本邦公私之船、湊入之船各来于此、待真風、実挙国之名湊也。竹内直躬東海道記、津之駅に宿る、こゝは旧名あの津なるを、いつのころよりか津とのみいひ来りけん、安濃松原・安濃湊田等はたびたびの地震に沈没して其名のみのこり、あこぎの浦もこのわたりならめど知ものなし。節用集、安濃、アコギと訓めり。〇三代実録、貞観四年七月廿八日、伊勢国安濃郡人右弁官史生正七位上爪工仲業賜姓安濃宿禰、神魂命之後也。〇五鈴遺響、文禄検地五万七千石、元禄検地五万八千石。
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長屋《ナガヤ》郷 和名抄、安渡郡長屋郷、訓奈加也。○長屋の地名今なし、疑ふらくは長野の誤にや、又は長野の旧名にや。
長野《ナガノ》 長野谷は安濃郡の西南に別区を為す、其水南流して雲出川に入る、北に経峰峙立し、西は布引山の脈を延き、山隘を長野峠と曰ひ、伊賀国阿波郷へ通ず、伊賀上野と安濃津の要路なり、此谷今分れて長野高宮の二村と為す。
北長野《キタナガノ》 今長野村に属す、山駅にして長野氏の城墟あり。○伊勢名勝志云、長野城祉は石塁各所に遺り、之に登れば山海歴々たり、延応中工藤祐長(一に祐政に作る)此地に来り長野庄地頭職となる、藤房に至りて国司北畠氏に属す、興国三年、足利氏の将高師秋大兵を発し来り脅す藤房之に従ふ、北畠顕能之を攻む、藤房等奮戦自殺す、子豊藤出奔す、顕能其邑を以て雲林院細野二氏に分ち与ふ、正平七年、足利氏仁木義長に命じ本州の守護とす、乃ち豊藤を嚮導となし、来りて本城を攻め之を取る、(或は云義長の居城は本郡桂畑村字荒井の山上に在りと)兵勢漸く盛んなり、十五年義長南朝に降る、已にして之に背く、後豊藤再び本城を取る工藤氏復興る。勢州軍記云、北伊勢の工藤の一家とは、伊豆国住人工藤左衛門尉藤原祐経の後胤親光、元弘元年初めて安濃郡長野を給ふ、其後足利家に仕て守護の手に属す、延文五年守護仁木右京大夫謀反を企て長野に楯籠り、後数年にて再び将軍の味方に参り、安濃奄芸両郡を給はり、子孫繁昌なり、工藤両家督とは安濃郡長野奄芸郡雲林院家なり、其外一家は安濃郡草生家、同郡家所家、并に安濃郡細野家、同郡分部等、長野の与力となる。○野史云、長野氏、世与北畠国司争封境、永禄之初、祐則請北畠具教二子具祐為家嗣、而親族不相和、以招織田氏兵、分部政寿、請織田氏子信包為長野家嗣、(うがんむり/眞)之別府上野城、具祐逃帰多芸、長野氏亡。千手《センジユ》寺址、長野村大字南長野に在り、今耕圃と為る、五輪石塔散在し、堂宇庭園の址存す、長野氏歴代の菩提所たり、天正四年長野氏亡び、寺亦廃亡す。〔伊勢名勝志〕
義|犬《イヌ》塚 長野村大字|平木《ヒラキ》に在り犬塚と呼び、一石を置き小屋を架す、津藩儒臣阪孝綽詩あり、曰く「慇懃救主心、死首猶飛闘、忠義獣中人、人中翻有獣。」補【千手寺址】安濃郡○伊勢名勝志 南長野村字氷上に在り、今耕圃となれり、近傍に五輪塔散在し、堂字庭園の址存す、往昔僧正海創立す、長野氏歴代の菩提所たり、天正四年十一月長野氏亡ぶるの後廃す。
補【義犬塚】○日本名勝地誌 長野村大字平木字大塚に在り、澗道の左側に没字碑を建てゝ標となす、里人皆恭敬して神となし、屋を作りて之を庇ふ。
桂畑《カツラハタ》 長野村の西、布引山の麓なる大字なり、此なる片麻岩中より、石墨の扁豆状を為して出づるあり、石質上品なれば、産量多からざる由、地学雑誌に見ゆ。
五百野《イホノ》 今|高宮《タカミヤ》村と改む、長野村の東南にして 津市及び久居高茶屋より来る両路は五百野に合し、長野駅を経由して伊賀国に通ず、神鳳抄「五百野御厨廿八町」とある地也。
五首野皇女墓、字宮本に在り、高五尺東西二十三間南北二十間の墳起を見る、古来相伝て皇女墓と為す、蓋景行帝の女にして、伊勢斎王に立ちたまへる皇女の遺跡と云。〔三国地誌伊勢名勝志〕
補【五百野】○神鳳砂 五百野御厨(外宮)七石五斗、二十八丁。
五百野皇女墓 伊勢名勝志、五百野村字宮の本、田間に在り、高五尺、東西二十三間南北二十間方形をなす、芝草之を蔽ふ、古来伝へて皇女の墓とす、命は景行天皇の第七皇女なり、斎宮に立ちたまふ。○今高宮村大字庵野、長野の郷内にて雲津川の上游也。
県県《カタカタ・カタタ》郷 和名抄、安濃郡県々郷、訓加多加多。○今片田村(大字片田)是也、五百野の東、神戸村の西にて、櫛形村も本郷の属なりしならん。五鈴遺響に神鳳抄「安西耶、郡司職田廿二町」とあるを引き、此職田は片田にて、郡家の在所ならむと設けり、今片田は津と長野の間の小駅なり。
補【片田】安濃郡〇五鈴遺響 神鳳妙所載安西郡の条に、「郡司職田廿二丁」と、即和名抄県県郷にして、今片田に訛り、県県・片田音訓近し、是郡家の地、明なり。
長谷《ハセ》寺 片田の北に在り、寺畔樹木鬱蒼として巨岩削立し溪水其間を流る、閑雅愛すべし、今臨済宗を奉ず、本尊観世音、即和州長谷に擬せる也、〔三国地誌伊勢名勝志〕旧長谷置染連の創立にやあらん。
補【長谷寺】安濃郡○伊勢名勝志 長谷村にあり、臨済宗興正寺末なり、僧徳道開基、天平勝宝五年孝謙天皇行幸あり、境内樹木欝々として巨岩削立、溪水其間に流る、幽邃閑雅愛す可し。○今片田村に併入す。
産品《ウブシナ》 今|分部《ワケベ》村に併せ、改めて櫛形と耕す.此地は古へ安濃宿禰爪工氏の邑にて、長谷置始連と云ふも同族なるべし、其産土なれは置染神社ありて鎮座す、天武紀壬申乱の時伊勢の将士の中に、置始連菟の名あり、蓋亦此氏人なり。
置染《オキソメ》神社 延喜式 安濃郡に列す、姓氏録云 「長谷置始連、饒速日命之後、又大椋禰始連、神魂命之後也」○神紙志料云、今産科村に在り、三代実録曰、安濃郡人爪工仲業に姓安濃宿禰を賜ふ、多気窓螢曰「安濃府生兼光は伊勢の人にして、安居多都命廿九世安濃宿禰裔也」之に拠りて考ふるに、安濃宿禰は蓋置始連同族乎。
産品村は平忠盛誕生の地と伝へ、北畠材親卿記には昔忠盛此国の人にて、多度神を信じ壷を賜はり、其家興る由を載す。〔五鈴遺響三国地誌〕
補【平忠盛宅址】安濃郡○伊勢名勝志 産品村に在り、所在詳ならず、里人伝へ言り、刑部卿平忠盛之に誕生と、今本村字産ケ塚に胞衣塚及産池と称する所あり、昔由緒あるに似たり。○今櫛形村大字産品分部の南に接す。
〇五鈴遺響 北畠材親卿記に曰く、昔忠盛の平氏なるは此国の人なり、深く多度の神を信じて一千度の参詣を初められける。
分部《ワケベ》 今櫛形村と改む、片田の北、安濃津の西一里半に在り、此地は長野の支族分部氏の故里とす、分部左京亮光高、其子政寿は上野(奄芸郡)に徙り、江州大溝藩祖と為る。(上野を参看すべし)
英太《アガタ》郷 和名抄、安濃郡英太郷、訓阿加多。○今|神戸《カンベ》村なるべし、大字野田半田などあり片田村の東なり、津市の西南に接す。五鈴遺響之を安濃村に当つれど疑はし、安濃は内田郷に属すれば也、此英田昔安濃県造より神戸として寄せ奉れる地なるべし、神鳳抄、県荘一町五反。
藤方《フヂカタ》 今|垂水《タルミ》村と合併し藤水《フヂミヅ》と改む、古は壱志郡神戸郷の属地と思はる、延喜儀式帳に一志藤方片樋宮に大神遷幸の事見ゆ、日本書紀雄略帝の時、「土師連祖吾笥、進摂津国来狭々村、伊勢国藤形村、贄土師部」とあるも此なり、贄崎の名遺りて東海を藤方浦、又阿漕浦と呼ぶ、倭姫命世記には安濃藤方片樋宮に作る。
さきくさも萌えぬらめやは春きなばわか菜つむべき藤潟の山、〔家集又歌枕名寄〕 曽根好忠
伊勢の海の浦かせ起て藤方や安濃のしほがま雪ふりにける、〔夫木集〕
藤方垂水より小森の辺まで古は焼出《ヤキデ》御厨と曰ひ、塩を神宮へ納めたる里なり、又北畠国司の一族刑部少輔入道慶由此に住み、藤方御所と称したり。〔参宮図会伊勢名勝志〕
補【焼出里】安濃郡○伊勢名勝志 一に焼手里に作る、本部より一志郡雲津川海口の村落を指す、神領記に焼出御厨塩九斗と記す。
うち過ぐる人も煙になれよとや藻塩やきでの里の松風(夫木集) 澄心
○今|藤水《フヂミ》村の垂水・藤方などをも云ふ乎。
加良比《カラヒ》神社址 延喜式、安濃郡に列す、諸書之を以て一志郡矢野村加良洲の神に擬すれど、地界相異す、後世彼処に転徙したるにや。○神祇志科曰、加良比神は蓋贄土師部の祖可美乾飯根命を祭ると、是は日本書紀雄略巻安閑巻に伊勢贄土師あるを、姓氏録に参酌したる説也。書紀通証曰、今藤形村土人言、開掘出古陶器於田野、安閑記曰、伊勢国|来狭々《クササ》登伊贄土師部二邑、此二邑未詳。○按に片樋《カタヒ》加良比は一声の相転のみ、垂水の千年《チトセ》山蓋其旧址か、後世千年山に八幡宮と称して一祠ありしを、寛永九年藤方浦の松原に移建せられ、今の安濃津八幡と為るとぞ。
安濃津八幡《アノツハチマン》宮 今津市八幡町に属す、岩田橋の南二十町、藤方に接比す、参宮図会に此八幡は巽社と称し昔平忠盛卿勧請なりしを、寛永九年藤堂家之を此処へ移し造営ありと云ふ、此祠は藤堂家の祖高山公高虎(又寒松公と云ふ)を配祀し、三百石の祭田を給付したる大祀なりき、此域内に結城塚とて宗広入道道忠の遺跡あり、三国地誌には其事を録せず、五鈴遺響には、此八幡宮は其実道忠の霊を祭ると聞くと曰へるは、高虎と道忠を混同するにや疑ふべし。
結城宗広墓は藤方八幡宮の境内に在り今結城神社を建つ。(度会郡光明寺参考)○御伴之数云、令書曰「結城上総介宗広、元弘延元の世に当り、鞠躬尽力、勤王の志終始不弐、忠烈深く御追感被為在候、阿濃郡藤方村字八幡山者、墳墓のある所にして近く御巡幸の途に接す、因て特旨を以て祭祀料下賜せらる」宗広の墓は、其碑の高さ六尺許、方二尺あり、据石方一丈、高さ六尺、中の段の石これに適ひていと大きなり、外のかこひも石の柵なり漢文の銘あり、文政十一年、藤堂氏にて建られしものにて、いと厳かなり、社も碑と同じ頃に建てたるものゝよしなれど、いと荒れたり、此社はすなわち八幡社のうちにて、松柏其外もくさ/”\の樹ども立茂りて いと物古りたり。(近年祠堂を興し結城《ユフキ》神社と云ふ、別格官幣に列す)○太平記云、延元三年九月の初、勢州大湊より兵船あまた奥州へ下向せしめられしが、結城上野入道(道忠)が乗たる船悪風に放たれて、渺々たる海上にゆられ漂ふ事七日七夜、伊勢の安濃へぞ吹着られ、爰にて十余日を経て後、猶奥州へ下らんとて渡海の順風を待ける処に、俄に重病を受け卒去。
垂水《タルミ》 藤方垂水は津市の南に接し、民戸櫛比す、塔世寺康平年中古文書に垂水里の名を載す、参宮図会に昔垂水広信と云人、後醍醐帝に仕へ、諌言納れたまはざりければ退きて此に耕す、諌争録と云書ありと説く、其諌争録は偽書にて広信と云ふも烏有也。
阿漕《アコギ》 津市の東南面なる藤方浦は、島崎(雲出崎)其南を蔽ひ、湾状を成す、之を阿漕浦と称す、故に其陸岸岩田橋以南の市街をも或は阿漕と呼ぶ、今参宮鉄道の車駅立ち、亦阿漕と曰ふ。○阿漕とは安濃をば詠歌者流の句調整ふる為めに、異様によめるに起る、今専ら贄崎《ニヘサキ》港と呼び、其岩田川口を、津市の泊舟地と為す。
逢ことのあこぎの島に引く鯛の度かさならば人も知らなん、〔古今六帖又歌枕名寄〕 よみ人不知
忘るなよたびをかさねて塩木つむあこぎが浦になれし月影、〔新後拾遺集〕 崇全法師
阿古木草紙と云書に、平盛光の子次盛と云男あり、神宮御贄の禁を犯し、此に綱引したる始末を記す、古き物語ならん、近時之を浄瑠璃曲に演ず。○参宮図会云、阿古木浦|安野《アノ》の松原は、明応の地震に、此津大変あり、彼松原も海水に沈めり、阿古木島の所在も詳ならず。
いせの海あのの松原まつとてもいひし日数になみは越つゝ、〔夫木集〕 為家
阿漕浦 琴春樵
仏燈一点影残蘭、海気吹腥飛雨寒、想得当年如此夜、孤舟提綱上空灘、
阿漕浦 斎藤誠軒
長堤斗入水成湾、子母弄波鴎鷺閑、忽地狂風吹海立、驚涛失却尾州山、
帰棹遙穿潮路雲、五更城鼓掲蓬(竹冠)聞、喬松斜月菅三廟、衰柳残燐平二墳、
阿漕陶器は其初め万古陶の祖弄山の弟子に瑞牙と云ふ者あり、寛保年中、津藩藤堂氏に聘せられ、津に住して陶業を創む別に一家を為す、之を安東焼と云ふ、嘉永年中、松寿亭と号する陶工工夫を費し、真鍮線を以て各種の象眼をなす、故に名けて象眼焼と云ふ、窯は阿漕の地に在り。〔産業事蹟〕
補【贄崎】安濃郡○地誌提要 又阿漕と云ふ、東西十四町南北二十町、深二仞より四仞に至る、東に向ふ。
石田《イハタ》郷 和名抄、安濃郡石田郷、訓伊波田。○今津市岩田川の辺より以南にあたる、津興《ツオキ》阿漕等の地なり。神鳳抄、安西郡岩田御厨とありて、吉野日記に「永享元年、北畠国司満雅兵を挙げしかば、武家より討手差向られ、岩田に合戦あり、国司方敗軍の由」と載す。○岩田川は片田村より発し、津城の西に至り、安濃川と水脈を通じ、仍東流して海に入る、長四里許、古は岩田江と呼び、津城の南を繞り、一面の沼沢なりしとぞ、藤堂家築城以後大に変じたり。
あさぼらけいは田の松は霧こめておぼつかなしやあのの板橋、〔夫木集〕 隆心法師
安濃板橋は即岩田江の架梁なりしならん。
大市《オホイチ》神社は延喜式、安濃郡に見ゆ、今津市岩田町に在りて川松明神と曰ふ。〔三国地誌伊勢名勝志〕○岩田は即古の安濃津にて、泊舟は岩田江にかゝりしと思はる、大市と曰ふも此地貿易の所なりければならん、或は云大市神は村主《スグリ》村妙法寺にあり。
補【石田郷】安濃郡○和名抄郡郷考 神宮雑事記、石田山。神鳳抄、安西郡岩田御厨。応仁記、岩田の円明寺。○今も岩田村あり、今津市となり岩田の大字存す。
補【岩田江】安濃郡○伊勢名勝志 岩田の江は岩田村字桜垣内に在り、今は変じて耕地及提塘等となれり、伝へ云ふ、慶長五年石田三成の兵津城を攻むる時、此の地一面の水沢なりしが、藤堂高虎入城の後大に地形を変換して今の如くなせり。
安濃の板橋 今の岩田橋を云ふ、又大神宮一の御橋と称せるも是橋を云ふならん、〔夫木集、略〕○今岩田川は塔世川(安濃川)の分脈なり。
駅家《ウマヤ》郷 和名抄、安濃郡に見ゆ、今此名なし、蓋岩田の分郷にして、安濃津の中なりけん、後考を俟つ。
伊勢へまかりける途にて、阿野と云所にてあまの家に泊りてよめる、
い勢の海士の苫屋の床の梶枕洗ふさなみに目をさましつる、〔散木集〕
津《ツ》 今津市と曰ふ、即安濃津なり、人口三万、東は贄崎港阿漕浦に臨み、岩田安濃の二水、旧城を挟み市街を横貫す、石田建部二郷の地に跨り、南北二里に及ぶ、西偏を新町《シンマチ》と称し、今別立す、参宮鉄道は西偏を通過し北部|塔世《タフセ》に在るを津駅と云ひ、南部なるを阿漕駅と曰ふ。古の安濃津《アノツ》は駅家郷にして今市の南部の地なるべし、其江湾は即藤方浦阿漕浦に同じと知るべし、明応三年同七年両度の地震にあひ、古今の地勢相異すと云。昔は出羽守平正衡の三男三郎貞衡此に住し、子孫数代知行したる由一書に見ゆ、又平家物語云「清盛未だ安芸守たりしとき伊勢国アノノ津より、舟にて熊野へ参られけるに、大なる鱸の舟に踊り入たりけり」云々、坂士仏伊勢大神宮参詣記云「康永元年十月十日あまりの頃、大神宮参詣の志ありて、安濃津と申す所に行きて侍りし程に、故郷にて聊見侍りし人のとどめ申しゝかば、両三日逗留し侍りぬ、此津は江めぐり、浦遥かにして、往来の舟人の舟に漕ぐ声旅泊の晩の枕に聞えて、荒き波風の音忍びがたく侍りしかばよめる、
風塞ぎいそ屋のまくら夢さめてよそなる波にぬるゝ袖かな。
津城春陰 梁川星巌
鳩喚花梢午末晴、浮烟漠々欲沈城、也知過煖遂成雨、海口忽高春浪声、
早発津城 斎藤拙堂
周道如糸行樹濃、群山初曙見春容、児童牽袂間前路、遙指雲間三子峰、
神鳳抄云、「安濃津御厨御贄里六九十二在家別」〇五鈴遺響云、安濃津は滄海の瀕に在り、江山の産物を交易し、諸州の船を維ぐ、明国の書、武備志に洞津《アナツ》と録せり、豪商富民多し、其市坊は艮位に塔世川を限り、巽位は岩田川を限て、凡て南北三十丁余、民屋二千五百余戸、産物は綟子布、方俗に津綟子と称す。○大八洲遊記云、津旧藤堂侯治所、今置三重県庁、々初在四日市、故云三重、後治於此、猶襲故号、実非三重郡也、市坊八十余、居民二万二千、為一都会、津城楼櫓隍塁、猶依然、此城富田知信所築、知信領六万石、故城梢小、藤堂侯本城在伊賀上野、以此地繁盛、移居此城、領三十二万石。
補【安濃津】〇五鈴遺響 滄海の瀕にあり、山海の産を貨易し、志摩州及尾参州の海舶を纜して海錯産物を交易す、故に其地豪富商民多し。
津城《ツノシロ》址 津市の西偏に在り、城北は安濃川(塔世川とも云)流れ、城南は岩田川繞る、城西を新町《シンマチ》と曰ひ、城東を乙部と曰ふ。天正三年、織田信長其弟信包を安濃津に置き、長野氏に代り地方を制せしむ、文禄元年、豊臣氏信包を去り富田信濃守知信を封ず、(五万石)本城の基因は信包知信の時に在り、慶長五年、京西兵起る、知信城に拠り西軍を拒く、力支克たず城陥る、戦後知信二万石を増賜せられ帰城す、十四年予州板倉(宇和島)に徙封せられ、藤堂和泉守高虎之に代り、本城を領知す、遂に修造して子孫に伝ふ、封凡三十七万石、其五万石を分地して久居藩と曰ふ、高虎は元徳川氏の旧勲に非ず、慶長元和の際家康の知遇を得て、軍国の政に参与し、画策頗尽す、仇て功を以て大禄を給し、井伊に比せらる、俗に東国三十三州の旗頭と号す、藩人は高虎を廟祀して高山公と曰ふ。○野史云、慶長庚子の乱知信は家康に小山に従ふ、上国兵起るに及び、家康知信に謂て曰く、汝先づ帰りて居邑の阿濃津城を保て、青野が原の地は東西の衝に当れり、吾嘗て預め謀るに、事起るときは海路便ならず、汝速に往きて保衛し、以て吾の至るを俟てと、乃ち分部政寿と倶に西上す、時に八月なり、吉田に抵り城主池田輝政に依て舟艦を調へ、将さに海路よりして発せんとす、九鬼氏の兵船と海中に遇ふ、知信克つ可らざるを謀り、軽舸を寄せて詐りて曰く、知信大坂に属せんと欲して城に帰るなりと、乃ち脱るゝことを得て帰る、長束政家津の城を攻めんと欲して発途す、知信の兵船数千艘阿濃津の浜に入るを望み、来りて知信を招く、知信陽に諾し、夜陣営を斫て大に之を破る、二十三日、毛利秀元宍戸隆家吉川広家等諸将と兵三万余を以て来り囲む、明日知信火を放ち西来寺を焚く、余焔町舎に延焼す、敵機に乗じて外郭に登る、知信牙城を出で、殊死して戦ふ、知信の夫人は字喜多忠家の女なり、美にして武あり、軍の急なるを聞き、帯甲単騎にして出づ、鎧冑鮮麗、衆皆目を属す、力戦知信を扶けて入る、敵争ひ逼り二三郭を奪ふ、二十五日昧爽、敵将さに牙城に乗らんとす、知信門を闢きて奮戦す、臣士死する者五百八十人乃入て壁を守る、城殆んど危し、秀元岐阜の急なるを聞き、高野の僧興山をして成ぎを行はしむ、知信遂に城を致して去り、専修寺に入りて剃髪し、遂に高野山に徙る、事平ぎてのち家康知信の労を嘉みし、召して旧封に復し、益すに邑二万石を以てし、併せて七万石を食む。○文政三年、藩主藤堂高兌城内に学校を建立し、儒臣津坂孝綽をして之が督学たらしむ、有造館と称す中に養正寮(童蒙習字の処)時習館(土子講習の処)整暇堂(兵学講習の処)等を設け、又館の四周に演武場二十八区を列置し、騎射剣槍銃拳法等を闔藩の子弟に教授す、爾後人材輩出、列藩の士人又来りて業を、問ふもの多し、廃藩の時之を罷む、斎藤拙堂石川竹崖斎藤誠軒土井贅牙川喜多梅山等皆斯校に従事し、当代に名あり。○御伴之数云、津の公園入口に高山神社といふ県社有、これは藤堂氏世々の祖を祀れる霊社なり、園内さばかり広しとにはあらねど、樹立深う所々に家ども立つらねて、心を尽したり、されど新しくしつらひたるけるにや、見所すくなし、此津の町はいと長やかなる市まちなるが家ども立つづきていと賑はし、昔海なりしを埋めて築出たりとぞ、かれこゝを津となんいへりける、今も行在所願王寺の向ひに築地といふ名残れり。
補【有造館】○史料通信叢誌 有造館は安濃郡津の城内にあり、藩主藤堂高|兌《サハ》儒学を尊重し、人材を陶鎔するに志あり、文化年間始めて経始す、藤堂光寛(「光寛にママ」)津阪孝綽に命じて之を司り、名けて有造館と云ふ、其布置たるや中央に聖廟を安んじ、周囲に二十八区の教場を列し又校外に於て七区(医学、野射、水練、軍螺、一全派北越流、留学舎)の諸流を置く、是に於て寛光を以て兼総教とし、孝綽を以て督学とし、以て学則を定め、文武教師を置き一藩士臣をして文武を錬研せしむ、文政八年石川之(耳+火/衣)を以て督学とす、之(耳+火/衣)学考拠に長じ典故を暗んず、其人となり謹恪持重進士常所あり、学政を掌ること二十年、諸寮秩然事皆条あって紊れず、又高猷の命を奉じて温史を刊行す、当時名儒者拙堂、土井贅牙、川喜多梅山、浅生敷栄等皆校讐の役に与る、藩士の史学之れより大に進む、弘化元年斎藤拙堂を以て督学とす、拙堂和漢を網羅し夙に詩文に長ずるを以て、名天下に高し。
観音寺《クワンノンジ》 今大門町に在り、往昔は今の津興村辺に在りしが、明応三年同七年の地震に、土地海中に沈没せるに依り、今地に移る、慶長五年、兵燹に罹る、藤堂高虎堂宇を修理し、歴世の祈願所たり、寺地市街の衝路に当り、諸人群詣頗る熱鬧を極む、毎歳二月祭事あり鬼押と称す、藤堂氏窪田六大院と云古刹を本寺に合併し、田禄百石を給与したり。
補【観音寺】安濃郡○伊勢名勝志 津大門町に在り、真言宗、和銅二年安濃津浦に漁夫観世音の仏像一躯を網す、時の国司某上奏して一宇を創建す。
建部《タケンベ》郷 和名抄、安濃郡建部郷、訓大介無倍。○今津市の中央都及び北部にあたり、大略岩田川以北|大部田《オホベタ》に至る、謂ゆる乙部中川原塔世下部田大部田等皆之に属するか。
日本紀姓氏録并に出雲風土記に因れば、建部は日本武尊の御名代なり、旧事紀に「物部竺志連公、阿努建部君祖」とあるは即此郷の故族なるべし、神鳳抄建部御厨あり。
補【建部郷】安濃郡〇五鈴遺響 乙部は此遺称なり。○和名抄郡郷考 風土記、或竹戸、公穀四百六十三束、二字六毛田、仮粟二百三十丸、畝田半畝田。今按、出雲風土記宇夜里改後所以号健部者、纏向檜代宮御宇天皇勅、不忘朕子倭健命之御名、健部定給、爾時神門臣古禰健部定給、即健部臣等自古至今猶居此処、故云健部とありて、こゝも同じゆゑよしにてつきけん名なるべし。旧事紀、物部竺志連公阿努建部君祖。残篇風土記、安濃郡東限建部浦。神鳳砂、安西郡、建部御厨。萱生由章云、長野より乙部に至るを建部郷といへり。
乙部《オトベ》 乙部中川原は津城の東なる総名なり、神鳳抄、乙部御厨とありて、中川原に長野党乙部兵庫頭藤政の館址あり。〔五鈴遺響〕応永参宮記云、あのゝ津を過行に橋あり、名を問へばをとめの橋となん申す、
石に立てるあまつをとめの橋柱これも世々へて袖やふりけん、
こよひはくぼ田と申所に着。
西来《サイライ》寺乙部に在り、天台宗真盛派昔は阿漕に在りしを、慶長五年兵火の後、此に移す。○天然寺、同所に在り、浄土宗、慶長中創建、僧露牛開基にして往時は同宗の録司を兼掌したり。
補【西来寺】安濃郡○伊勢名勝志 乙部村字札辻に在り、天台宗、近江西教寺未なり、明応七年の地震に津町悉く家を阿漕浦に遷す時、本寺も同く移る、慶長五年兵燹に罹り旧記什宝を失ふ、六年今の地に再建す、寺に龍女化現の伝説あり。
補【天然寺】安濃郡○伊勢名勝志 乙部村に在り、慶長元年僧露牛創立、藤堂高虎封内の寺院(浄土宗)を支配せしむ、州人因て総統大寺と称す。
願王寺《グワンノウジ》 乙部に在り、天台宗、慶長十四年藩祖藤堂高虎の創立にして、累世の菩提所たりき、堂宇高大なること、勢州屈指の精舎なり。
補【願王寺】安濃郡○伊勢名勝志 乙部村に在り、天台宗、慶長十三年藤堂高虎創立、法号の文字を採り今号に改む、藤堂氏累代の菩提所なり。
三重《ミヘ》県庁 津市大字|下部田《シモベタ》に在り。(安濃川の北塔世の地津車駅の南)、伊勢伊賀志摩三国并に北牟婁郡(旧志摩の地)南牟婁郡(共に今紀伊国の属)を管治す、王政維新の初め、三重郡四日市に三重県庁を置き、後治所を津に徙すも、其旧名に仍る者也。
塔世《タフセ》 今津市に入る、安濃川(一名塔世川)以北の総名なり。五鈴遺響云、塔世は今町家と為り、別に穢人の居を塔世村と呼ぶも、往昔はさにあらず、塔世寺(四天王寺)康平五年の古田文によるも、七百余年来の称する所なり、其古田文は
民部田所
勘注四天王寺領田畠事 字塔世寺
右伊勢国安濃郡
一条一塔卅坪一町十二坪一町十三坪一町(中略、地名と息はるゝ者のみを標出す、欠損多くて全からず)
五条三上岡里 六条三渋見里 八条四百安宅里
三条七八田里 一条五垂水里 九条□加茂里
十九条一黒坂里 廿一条一無涌里 廿二条一忍田里
右依卿宣引勘弘仁十二年天長五年等図帳勘注如件
康平五年五月十三日 少録中原奉任
大丞藤原孝範
補【塔世】安濃郡〇五鈴遺響 塔世は津府城の属邑に今はなれり、塔世の上橋を渉て川岸の巽位に塔世村と称する穢人の居あり、其屠児を指して今はいへども、往昔は今の塔世町万町の辺は都て塔世町なり、神鳳抄異本に土深と記せしは伝写の謬なり、然れども前の康平五年の古田文に四天王寺字は塔世寺の文を填れば、七百有余年称する処なり。
四天王寺《シテンノウジ》 本尊薬師如来、俗説に国分寺なりと云は非なり、鎌倉武家の頃、邑主加藤氏の重興にや、又山之庵と云へば、旧は山頭に在りしか、永享年中禅僧永龍中興す、元亀の比、北畠国永此寺に祈願したる由、国永卿記に見ゆ、文禄三年、織田信包の母堂(即信長の母)津にて逝去し此に葬る、富田氏寺禄五十石を給附し、藤堂氏堂宇を修造す、塔世薬師堂と称す。〇五鈴遺響云、文化二年、塔世寺薬師仏関龕して、詣人に拝せしむ、仏躯の中空虚にして物を容るに似たり、探り見るに一巻軸及び糸巻様の物に坪糸を巻纏するあり、又準尺一本を得たり、其冊子及旧案を披くに、承保四年及び康平五年の古文書あり、其文に薬師仏は僧定(石+疑)物部美沙尾本願に依て、物部吉守服部重孝等此像を造りて仏体中に秘むといふなり、此冊子及旧案は四天王寺に今に蔵せり。
以承保四年二月二日薬師如来御像中納言民部(欠文)内作未作各結名等
一内作物部吉守作本願施主物部美沙尾先所本
願也面末代罷成本願仏菩薩一体
左右故僧定礙至用清時冷之此像造作之
依此為当来大願□勢一々俗名体像御中所納如右
以承保四年二月二日
内作物部吉守 同吉未
来作服重孝 同重清
所司等 上座僧泰円
寺司僧長円
別当大法師
此時(欠文)
願主 寺家御目代僧定礙
按に塔世寺は物部氏安努建部君の創立なるべし、五鈴遺響は承保四年の造立と為せど、康保旧案に弘仁天長の勘註を曰へば、弘仁以前なるやも知るべからず。
部田《ベタ》 大部田下部田等の大字ありて今津市に入る、塔世の北に接し、河芸郡界に在り、大部田近世奄芸郡に隷せる事あり、神鳳抄「安濃郡部田御厨二十八町」。
下部田《シモベタ》 此地藤堂氏の別墅を置きたる所にて、象観亭省耕台など山海の勝景を攬れる所なり、近年転じて公園と為る、三重県庁も下部田に在り。
加藤氏宅址は下部田に在り、字南羽所と曰ふ、明治十年三重県庁舎を建つる時、此旧址は庁内に入る、亀山加藤系図に云、景通二子景貞(一作景清)伊勢国目代職たり、柳馬入道の婿となり某所知を承けたり、景貞の子景員伊豆に住したり、景員の子光員は伊勢道前郡(神領の地)の所職に補せられ、其弟景廉は道前郡所職及伊豆狩野荘の所職を継ぐと、蓋此に居れるならん、土俗或は悪七兵衛景清の宅址と説くあれど信ずべからず。〔伊勢名勝志〕
大部田《オホベタ》 延喜式、安濃郡|小丹《ヲニ》神社は大部田の西岡に在り、土俗大部田を小丹郷と称す。五鈴遺響云、大部田村は往昔には現今の地より十五丁東南の海瀕に居せり、明応七年の地震に、波濤の為め其地海に没して、又四五町東に塩屋と字する地へ移居せり、其後又洪水のとき波濤を患て今の地に移れり、方俗小丹郷又雄丹郷と称して、其塩屋と云処を小丹の塩屋と称す。
補【小丹神社】○神祇志料 今大部田村の西塩屋に在り、浜宮といふ(神名帳検録)
按、一説奄芸郡大部田村の社を以て本社に充つ、未孰れか是を知らず、
○神鳳抄曰、部田御厨二十八町、又内宮部田御厨十石、六九十二月、安の郡に隷せり、式内小丹神社同処にあり、本邑の西の山腹に坐す、生土神なり。
跡部《アトベ》郷 和名抄、安濃郡跡部郷、訓阿止倍。○今安東村なるべし、建部郷の西に接す。五鈴遺響云、一色に跡部の字ありと、今安東村大字一色渋見等あり。
一色《イツシキ》 是れ諸州郡に多き地名なり、蓋|一跡《イツシキ》の訛にして、中世私田私邑の伝領をば、一跡又は跡職と称せるに起因す、其意寺家にて門跡と云ふに同じ。○近世大賈三井家の祖を高利と云ふ高利の父八郎兵衛高俊、高俊の父越後守高安は一色村に住し、津城主富田氏に仕へりとぞ、高俊は慶長元和頃の人なるべし、高利に至り商を営み大に家をおこす。
渋見《シブミ》 今安東村の大字なり、塔世寺康平五年文書に渋見里あり。
青やぎのしぶみの山のうしろ田にのりすりおけと梟の啼く、〔勢陽雑記〕 西行
志夫弥《シブミ》神社は延喜式安濃郡に列す、今渋見八幡宮是なり、古事記に伊邪河宮(開化)の御子「日子坐王子、志夫美宿禰王者佐佐君之祖也」と見ゆ。〔参宮図会神祇志料〕
補【渋見村】安濃郡○伊勢名勝志 此地古より梟多かりしとなん〔勢陽雑記歌、略〕○今安東村大字渋見、安濃津の西北一里。○塔世寺康平年中古文書に渋見里見ゆ。
河路《カウチ》 今南北に分れ、北河内は安東村に属し、南河内は津市に入り新《シン》町と曰ふ、延喜式、安濃津小川内神社は当に此地に在るべし、其嗣は今亡びたるにや、諸書に小川内を雲林院村河内谷に擬したり。
刑部《オシカベ》 今津市の新町に属する大字なり、倭訓栞云、倭名抄郷を名刑部をおさかべと訓せり、允恭紀に忍坂大中姫の御名代として刑部を定むと見えたれば、忍坂部と通ふ、刑罰は推問するより推し考る意にて、斯く訓ぜしにや、或は忍壁にも作る、伊勢の安濃郡刑部村はおしかべと唱ふ、神鳳抄に一町御笥神田四、押加部三十一坪曽与利町と見ゆ。
村主《スグリ》郷 和名抄、安濃郡村主郷、訓須久利。○今|村主《スグリ》村及|明合《アケアヒ》村|辰水《タツミ》村|草谷《クサタニ》村等にあたるか、神鳳抄に村主郷見ゆ、片田村の北、長野村の東にして経峰《キヤウガミネ》の麓なり。(村主は古語スグリと云或は勝字を充てたり)
大市《オホイチ》神社 神祇志料云、今抄法寺の木羽佐間山に在り、妙法寺は山号を大市と云ひ、大市川大市田の字ありて 村名も大市なりしを 後世寺に因みて妙法寺と呼ぶ、(今村主村に属す)分部の西に接す。
補【大市神社】○神祇志料 今妙法寺村木羽佐間山にあり(三重県神社調、参取勢陽雑記・神名帳検録・式内社検録)○今村主村に属す、
按、村中に今猶大市耕地名あり、又大市山妙法寺あり、大市河あり、古へは本村を大市村と云しなりと云り。
経峰《キヤウミネ》 安濃郡の西に崛起す、海を抜くこと七百米突、北は雲林院村、南は長野村に属す、辰水村草谷村其山中に在り。山頂に経塚を築きたるより其名あり、長野党の所為ならん、塞址存す。
登経峰 僧 明了
石磴芳林鍾秀霊、登臨絶頂入無形、荒城空見英雄気、古壊長蔵般若経、雪隔雲霞幽谷白、煙呑宮殿曠原青、躊躇日晩迷樵路、極目茫然向孰聴、
補【経峰】〇五鈴遺響 船山高坐原の西にあり、草生郷の間に跨る高岳なり、絶嶺に大般若経塚あり、古城址あり、某所居の人を〔ママ〕未詳、長野草生の党なるべし。
船山《フナヤマ》 延喜式安濃郡船山神社あり.今辰水村大字船山に伊豆権現と云者此也。
草生《クサオ》 今草谷村と改む船山の東北なり、長野党に草生氏あり、又延喜式、比佐益知神社と云は今草生に在りと、神祇志料に見ゆ。
粟加《アハカ》 今|明合《アケアヒ》村と改む、村主村の北、安濃村の西なり。大字|大塚《オホツカ》に古墳あり、東西六十間南北百二十間、一大丘陵を成す、上に巨石を安置し、土俗は経塚と呼べり。〔三国地誌伊勢名勝志〕
補【皇塚】安濃郡○伊勢名勝志 皇塚一名経塚、大塚村字西山の頂上に在り、東西六十間南北百二十間、一大丘陵をなす、上に大石あり、古墳の形儼然たり。○今明合村字大塚は粟加の隣村とす、安西村の西なり。
内田《ウチタ》郷 和名抄、安濃郡内田卿、訓宇知多。○今安濃村|明合《アケアヒ》村安西村雲林院村等にあたる、安濃に大字|内多《ウチタ》あり、蓋安濃県造の主帯の田園にて、片田英田などと対比の名なるペし。五鈴遺響は安濃駅家も此なりと曰へり、多気窓螢云「昔近衛院の御宇に安濃造桑道と曰ふものあり」と。
阿由太《アユタ》神社は延喜式安濃郡に列す、今|安濃《アノ》に在り、古屋草紙に「吉田兼好法師安濃の社に詣でて、一七日の間に古今和歌集を書写すといふ」も拠なきにあらじ。(五鈴遺響〕
くさかげの安努《アヌ》な行かむと墾りしみち阿努はゆかずてあらくさたちぬ、〔万葉集〕
草蔭の阿野と曰ふは、神宮の古書に見ゆ、莽蒼たる草野の義なるべし、凡て安濃川に沿ひ、津に至る一帯の山野を呼べる者ならん、此川は雲林院の奥、河内谷錫杖岳に発源し、東南流七里、津市の塔世に至り海に入る、故に塔世川の名あり。
補【安濃】〇五鈴遺響 安濃郡家駅舎の地なり、神鳳抄云、郡司職田六反、一本二十六丁に作る、又栗原為元一丁五反、又県庄一丁五反とあり、多気窓螢云、昔近衛院の御時安濃の造桑道は真桑が裔なり云々とあり。
細野《ホソノ》 安濃村大字安濃に在り、長野党細野伊豆守藤光の居址なり、九郎左衛門尉藤敦に至り、城池を修理す、工商来聚し繁富の邑なりき、永禄十一年、織田氏に降り其後亡ぶ、今廃墟より古瓦陶兵具の類を穿出すことあり、〔五鈴遺響〕安濃川の東岸也。○永禄十一年、織田氏兵入北勢、将攻長野氏、先攻細野城、城主九郎善拒不屈、既長野氏亡、雲林院草生中尾諸族皆降、附織田信包。〔野史〕
補【安濃城址】安濃郡〇五鈴遺響 弘治年中長野別符細野より移して細野伊豆守藤光始めてこゝに居る、其後細野九郎左衛門尉藤敦城池を築き、(こざと+皇)を深くし修理して居城せり、永禄十一年小田家へ降り、其後亡ぶ、細野藤教居城の地にして、鎮護のときは工商聚り居して繁富の地なり、古城址より古瓦及陶器兵具等今に鑿出せり。
曽禰《ソネ》 今安濃村に属す、大字安濃の南一里に在り、東鑑及神鳳抄に曽禰荘又曽禰御厨と見ゆ、醍醐寺雑事記「天暦五年、伊勢国曽禰庄」と云も此か。
岡本《ヲカモト》 今|安西《アンサイ》村と改む、東鑑「文治六年、伊勢国岡本御厨」。〇五響遺響云、東鑑、元久元年四月伊勢平氏謀反の条に「於安濃郡攻撃、岡八郎貞重及子息供類」とあり、伊勢軍記に岡氏は即岡本の邑主と曰へり。○岡本の西に大字萩野あり。東鑑「文治二年、伊勢国荻野荘」とあるは萩野の謬にや。
雲林院《ウジヰ》 安濃川の源頭なる村名なり、神鳳抄に「雲林院六町二反半」と記す、五鈴遺響云、旧名美濃夜と曰ふ。美濃夜神社は延喜式安濃郡に載す、今雲林院村美濃川の辺なる、溝淵明神是なりク〔神祇志料〕
五鈴遺響云、雲林院氏は長野工藤氏に出づ、祖出羽より兵部まで歴代十一世の邑主也、北畠物語曰、永禄年中、北勢州の一党工藤両方に分て、関は工藤を亡さむとし、工藤は関家を討んとする故、兵乱不止、或は一党工藤家を攻めて或工藤家一党を劫かす、関方雲林院表に討出合戦数度に及ぶ、永禄十一年滅亡す。○按に雲林院は京都紫野に同名の古刹あり、之と所由あるにや、疑ふらくは雲林院は内院の義にて内田郷中の一区、別納の倉院ありし所なるべし。
河内谷《カウチダニ》 雲林院村の西にして、錫杖岳と経峰との間に介在し、安濃川の水源なり、神祇志料に式内|小川内《コカウチ》神は河内谷の南垣内に在りと云ひ、五鈴遺響に、伊勢新九郎長氏は河内谷の産にて、東国に赴き家を起すと云ふ、共に信じ難し、太だ幽僻の境なれば、近年の新村なるペし。○錫杖《シヤクジヤウ》岳は、北は鈴鹿郡加太村に跨り、西は伊賀国阿波榔を蔽ふ、地方の名山なり。
忍田《オシタ》 雲林院村の北に接す、〔今河芸郡明村に属す〕塞址あり、忍田氏の居にして、忍田美濃守忍田平左衛門尉等の名あり、美濃夜社の棟札に「康和五年癸未、忍田地頭宗重」と記すと云。〔三国地誌名勝志〕
補【忍田城址】奄芸郡○伊勢名勝志 忍田村字城山の丘上に在り、白河天皇の時忍田入道城を築き之に居る、歴世之を襲ぐ、其裔美濃守同平左衛門尉と称す、平左は藤堂氏に仕ふ、安濃郡雲林院村美濃屋神社の棟札に、康和五年癸未六月二十五日忍田地頭宗重と記す、蓋し中世の城主ならん。○今明村忍田。
河芸郡
河芸《カハゲ》郡 明治二十九年|河曲《カハワ》奄芸《アンゲ》二郡を合同し、其地を以て河芸《カハゲ》郡を立つ、東は海、西北は鈴鹿郡、西南は安濃郡に至る、北の少部は三重郡と接す、其鈴鹿川の流末楠村(今三重郡)は地勢本郡に入る、古は河曲郡の地なるべし。○本郡は丘陵に倚り海浜に居る、高峰なし、高野尾|椋本《ムクモト》の諸村は西に延び、鈴鹿安濃二郡の間に突出し、境域整はず。今|白子《シロコ》町神戸町外二十村に分れ、面積約十方里、人口七万あり、郡衙を白子《シロコ》に置く、参宮鉄道は郡の西部を斜断し、一身田に車駅あり、即津と亀山間一線なり、又関西線は川曲《カハワ》村を掠め去るも、車駅を置かず。
按に、地形の当然を論ずれば、河曲郡は鈴鹿に合すべく、奄芸郡は安濃に属すべきに似たり。
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奄芸《アムキ・アンゲ》郡 明治二十九年廃止、河曲郡に合同して河芸郡と為る、白子《シロコ》町以西の地を曰ふ、近時は通俗アンゲと呼べり、中世には安芸《アンゲイ》郡、扇《アフギ》の郡の称あり、文禄検地四万四千石。
和名抄、奄芸郡、訓阿武義、六郷に分つ、拾芥抄に奄治とあるは謬れるなり、此郡も鈴鹿より分れたるにや。
伊勢に侍りける頃都の方より知たる人のもとより、扇にそへておくり侍ける歌の返し、鈴鹿山は扇の郡にあり、
ふりすてゝ越えざらましか鈴鹿山扇のかぜの吹きこまじかは、〔散木奇歌集〕 俊頼
補【奄芸郡】〇五鈴遺響 文禄検地四万四千余石、元禄検地四万四千石。○今方七里、人口四万三千、白子町外十四村。
田井《タヰ》郷 和名抄、奄芸郡田井郷、訓多井。○今高野尾村|椋本《ムコモト》村|明《アキラ》村等なるべし、高野尾の東に字野埼《ノサキ》あり、旧名山田井と曰ひ、延喜式安芸郡|多為《タヰ》神社あり、今御厨八王子と称す。〔参宮図会五鈴遺響〕
高野尾《タカノヲ》 此村は窪田《クボタ》より椋本に至る野中に在り、字|三月田《ミツキダ》の林中に城址と称するは、元久年中、伊勢平氏岡貞重の拠れる所にて、平賀朝雅攻めて貞重を殺す、又正平年中、北畠国司の兵守護土岐氏と此に戦ふ、今百塚野と称す、又高野尾の東なる豊国野《トヨクニノ》に銭掛松と云者ありて、大神宮遙拝所なり、〔名所図会五鈴遺響伊勢名勝志〕
とよく野の末、遥々と限りなく通り行くに、音に聞ゆる武蔵野とても、是には過ぎ侍らずやなど、ながめやりとり/”\に思ひなされて、狂言つづけ侍る、
武きし野に伊勢の豊く野くらぶればなほ此国ぞ末はるかなる、
やうやう浦のけしき、沖も渚も遙に見渡さる、暮れぬれば安濃津につきぬ、〔応永参宮記〕
補【高野尾城址】奄芸郡○伊勢名勝志 高野尾村字三月田に在り、今官林たり、岡定重之に居る、元久元年四月平氏の族乱を作す、定重之に与みし京都守護平賀朝雅の為に攻られ自殺す。
椋本《ムクモト》 椋本は高野尾村の西なる小駅にして、安濃津より鈴鹿関に通ずる路に当る。(南は雲林院村に接す)長唄花の旅云、大竹小竹坂のした、心のたけはつくされぬ、筆捨山の其中を、関にせかるゝ椋本の、むすめ心の一筋に、津の町とほる阿弥陀笠。補【椋本】奄芸郡○安濃津より鈴鹿へ出づる駅路にて、高野尾の西にあり、此地は鈴鹿郡に属するを当然とす。
林《ハヤシ》 今|明《アキラ》村と改む、椋本の北にして栄川(上野村に至り海に入る)の源頑なり、館址あり今耕鋤の地と為る、明応中長野工藤氏の一族祐行之に居り、林を家号とす、子民部行藤孫次兵衛英春等あり、天正年中、津城主織田信包は其子民部信良を此に置きしが後廃す。〔五鈴遺響〕
補【林】奄芸郡〇五鈴遺響 林城は今耕鋤の地となれり、明応年中長野工藤氏の一族林祐行住す、同嗣子民部少輔行藤に至り其嗣次兵衛英春に〔脱文か〕又織田上野介信包、息民部少〔ママ〕信相継て居す、慶長十七年に至て廃せり。
事忌《コトイミ》神社 林村の北に在り、方俗八宝天王と称す。〔五鈴遺響〕参宮図会云、延喜式、奄芸郡事忌神社は坂部村の南東に在り、橋を例禊洲と名づけ、斎王通行の時禊あるを例とす、檎の東田中に斎塚《イミヅカ》あり、橋の東二町許に田間の森之を事忌社と為す、今春日明神と為すは非なり。(此坂部と云は林の北楠原の一名にや)○伊勢国風土記曰伊勢云(云原作久)者伊賀事忌杜坐神出雲神子、出雲建子命、又名伊勢都彦神、又名天櫛王命、此神昔石造城坐於此、於是阿倍志彦神来集、不勝而還却、因以為名也。古風土記逸文抄に、此文を引き事忌は倭姫命世記に参考すれば穴志なるべし、伊賀阿拝郡穴石神社あり、云々)
楠原《クスハラ》 今明村に属し、栄川の上流、其北に居る、鈴鹿街道にあたる小駅なり、神鳳抄「鈴鹿郡楠原片淵御厨七十五町」、応仁記に世保孫三郎政康が与力楠原落城と云事見ゆ。
石山洞楠原に在り、石山と字す岩石列峙し山頂に巨巌あり、両澗の間に跨る、形馬背の如し、方俗呼びて馬背《ウマノセ》と曰ふ、之に上れは北方|鶏足《ケイソク》山鎌岳を望むべく、東は東海を下瞰すべし。〔伊勢名勝志〕
補【楠原】奄芸郡〇五鈴遺響 安濃津より鈴鹿郡関駅に至る京街道の官道に居宿駅なり、平林田野の間に民居す、楠原川駅の南にあり、昼生三宅を経て磯山に至り分派して東海に入れり、神鳳抄云、鈴鹿郡楠原片淵御厨、七十五丁十五石、承久年中は鈴鹿郡に隷せるや。楠原砦址 同処にあり、応仁年中山田長門守重勝住せり、足利将軍に属す。
○此辺林村に志波垣神社あり、延喜式に鈴鹿郡とす、然らば今の明村は古は鈴鹿ならむ、椋本駅も鈴鹿か、地勢同じ。
窪田《クボタ》郷 和名抄、安芸郡窪田郷、訓久保多。○今|大里《オホサト》村及び一身田《イツシンデン》村是なり、高野尾村の南にして安濃郡界に接す、大里村大字窪田存す。○東鑑「文治三年、伊勢国窪田、因幡前司大江広元知行、」神鳳抄「奄芸郡窪田御厨。」参宮図会云、窪田村に馬場町政所堀田内など云字ありて、古寺の廃址も見ゆ。○窪田六大院にて宗長法師発句「すずか山色々になる心かな」、此六大院は藤堂氏にて之を津城下の観音寺へ合併せしめらる。〔宗長手記五鈴遺響〕石積《イハツミ》神社は延喜式奄芸郡に列す、窪田の字石積の地に在り。【五鈴遺響〕
川北《カハキタ》 今|大里《オホサト》村に属す、窪田の北なり、川北氏は長野工藤氏の族にて、正平年中、川北式部は土岐氏と戦ひ、永禄年中には川北久佐衛門と云ひ、織田信長の弟上野介信包を請ふて、長野氏の跡を相続せしめたるは、久佐衛門の力也、のち長野氏北畠国司の家相継ぎ亡ぶ。〔三国地誌伊勢名勝志越後新篇風土記〕○越後新篇風土記、川北文書織田より川北に与へしもの二通を載す、
如兼釣上野介長野之家家督仕着申度望一味之家老連判早速致調処□貴所才覚無油断候云々永禄十二巳八月」国司一類切腹之事滝川三良兵衛密談申附候処貴所指図少茂無相違一人茂不残為遂切腹令満足候以来者本所上野介別而入魂之処貴所分別不過候也天正二戌九月」補【川北】奄芸郡○伊勢名勝志 川北村字東谷に在り、今耕地及山林たり、長野氏の族川北式部少輔之に居る、正平中土岐右馬頭の攻むる所となり、城陥る。○今大里村大字川北。〔川北文書、永禄十二年は八月八日、織田信長(印)川北久左衛門殿。天正二年は九月廿日、以下同〕
一身田《イツシンデン》 本郡の南界に在りて、専修寺の所在地なるを以て、村落殷賑なり、参宮鉄道の車駅なり。南津市に至る一里、北下荘駅に至る二里余とす、西は窪田村に接し、東なる海村を白塚《シラツカ》栗真《クリマ》と曰ふ。一身田の名義は、三代実録元慶二年の条に、荒廃田を勅賜ありて一世に限るを一身田と曰ふ由見ゆ。
大古曽《オホコソ》 今一身田村の大字なり、延喜式奄芸郡|大乃己《オホノコソ》神社は大古曽中野に在りて、見初《ミソメ》大明神と曰ふ、神鳳抄大古層御厨あり。〔五鈴遺響神祇志料〕○大古曽に三間氏の館址あり、是れ文明年中長野工藤氏の党与、三間忠保の居りし所にて、永禄十年親俊の時に至り家亡ぶ、遺子某は専修寺の家従と為る。〔伊勢名勝志三国地誌〕
補【三間忠保城址】奄芸郡○伊勢名勝志 大古曽村宇出口に在り、小丘にして草木繁茂せり、文明中長野氏の臣三間忠保城を築き之に居る、永禄十年親俊の時城陥り戦死して遂に廃す、四子三郎専修寺の家臣となる。〇一身田村大字大古曽。
中山《ナカヤマ》 今|栗真《クリマ》村と改む、白塚村と共に海浜に居る、一身田村東なり、栗真荘とは白子の古名なり、此に徙したる意詳ならず、又白塚は白洲処の訛なるべし。
専|修《ジユ》寺 一身田村に在り、真宗|高田《タカタ》派の本山にして、一に無量寿寺と号し、見真大師一向専修の法統を相承す。此寺初め下野国芳賀郡大内郷高田に創建し高田流又下野流と称す、化導多く東国に行はる、寛正六年、十世真恵上人の時此地に移す、上人は本願寺慧燈大師蓮如と時を同くし、盛に諸国を巡化す、専修寺之より頻に本願寺と競ひしが後梢屈す、十一代応真僧都以後初めて僧綱に補せられ、十六代尭円僧正は京紳花山院の男を以て寺を嗣ぎたるより、爾後は大抵京師高貴の家より子弟を申降す。又本願寺に附随して門跡号を冒し近年挙げられて華族に列し子爵を賜ふ、家号を常磐井と曰ふ、仏殿祖堂以諸宇下巍々たり。
五鈴遺響云、本願寺建立は文永九年、即親鸞聖人入寂より十一年後にして、高田専修寺建立より四十七年以後なり、本願寺祖覚信尼は聖人の息女覚如は尼の子とす、高田三代顕智上人上洛の時、洛東大谷に地を買得し聖人の廟堂を建営し、覚信尼に附与して預たり、覚信自筆の預り状、又覚如上人より高田専空上人へ贈る旧文書、今に当寺に存せり、扨高田流の祖は真仏上人、下野国大内郷の人にて、宗祖親鸞聖人の法弟也、三代顕智氏姓未詳、第四世専空(雲上明覧作三世専恵)は真仏の甥大内氏、第五世定専、第六世空仏、第七世順証、第八世定順、第九世定顕、第十世文恵上人に至り次第相承して大内氏の俗姓なり、貴恵上人中国弘法の願を起して、賀州越前江州等を経歴し、当国に至る、寛正六年下野国より聖人随身の法具真筆の書鈔、其外真影什具等悉く移し、其後寛永年中回禄の事ありしに、稍く建立して諸堂全備せり、南方に溝淵大明神当国雲林院の守護神にして、真恵弘法のとき此処に鎮座せり、又云、十代真恵十一代応真は共に賀州富樫氏の外孫たり、応真初て僧正に任じ四妻あり、京紳飛鳥井家の女を娶り十二代尭恵を生み、又安濃津邑主乙部氏の女を娶り十三代尭真を生み、又尾州犬山邑主織田遠江守の女を娶り十四代尭秀を生む、又松坂城主古田兵部の女を娶り十五代尭朝を生む、十六代尭円は京貴花山院家の男なり。○按に専修寺の門跡号を准許ありしは何の頃にや、本願寺と同時にや、晴豊記云「天正八年六月六日、伊勢一身田門跡内参申入られ、内参之御礼十帖金参両」と、其詳説をきかず。(江戸幕府の時は寺領三百五十石)名高き覚信尼の置文以下旧案数通あり。
「右このしきぢはけんちほうのかひとりしのごほう御ゑひをあんち被申候ながくなじみあるによりてあまにあづけ置申なりしからばたとひかくしんがしそんながくしやうにんにほうかう申候ともたかたの義をそむき候てふかうたるべく候のちのよのために一筆かきまいらせ候穴賢
けんち三ねん十一月七日 あまかくしん判
しんらん上人のいなかの御でしたちのみなかへ」
「右当寺者顕智法師為報忍謝徳令勘進親鸞上人御門弟等以院宣并公書令修造処也爾者於後々末代雖為子孫令相伝管領輩不可違犯彼義也為後日証文如件
正安四年壬寅二月廿二日覚如在判
阿味陀寺専空御房」
「下野国大内庄高田専修寺之事為一向専修念仏道場之本寺自往古至于今受於法流無錯謬義之由申披被下候之間任憲法之沙汰於彼門徒中者混乱無碍光懸類不可有其退治者也仍而聚義之状如件
寛正六年七月二日 慶純 在判」
「下野国専修寺門流之事任先規不可有相違之由天気所候也仍而執達如件
文明九年六月九日 右中将」
「下野国高田専修寺住持職之事
如先々相続義勿論候然ば諸国之末寺諸門徒事任関白下知之旨如往古不可有相違候別而越前国勝慢寺専光寺西光寺専西寺三川国明願寺等可有進退之由 天気所候也仇而執啓如件
天正十三年七月 右中弁」
高田専修寺住持尭信僧正御房」
朝倉始末記云、何の比よりか、高田本願の両寺北国に於て互に法の深浅を争ひ、寺の本末を論じ、毎座讃歎贔負に及びける条、終に鉾(木偏)楯の端と為り、双方已に合戦を挑ける、富樫殿此旨聞給ひ、長享元年十二月、加州に帰り仰けるは、宗旨の深浅は知らねども、開基の前後は分明なり、夫高田は往年親鸞聖人六角堂救世菩薩の告命に依て、坂東修行に趣ける時、嘉禄二年、下野国大内庄高田と云在所にて、始て専傾寺を建立せり、斯て二十年の寒暑を経、其後帰洛あって、弘長二年遷化なり、即大谷に墓構へられ、其後文永九年始て本願寺を造立す、此外藩谷の仏光寺、江州木部の錦織寺、又相州常州にも親鸞一派の寺あり、此等皆御弟子廿四輩の庶流にして、正く聖人開基の地は下野の高田計とかや。富樫記曰、富樫政親妻女は、熱田大宮司友平息女(巴女)を或公家の養子にして、政親に嫁す、長享の乱に彼妻尾州へ帰る、大宮司則ち其息女を勢州高田宗一身田専修寺に嫁す、是故政親彼宗旨信仰の遺志を継候者か、夫より六年目永正三年八月、一身田より勢州尾州三州の諸末寺檀徒を語らひ、桑子の妙泉寺を大将にて、越前へ発向す、北国諸檀徒も一同して越前九頭龍河辺に於て合戦す、此時本願寺方大将備後公昭賢討死す、夫より加州へ打入けるが、又勢州方悉討負、本国に引帰る、夫より卅二年目、天文四年五月十一日、富樫泰高又為一揆自害す、富樫亡び北国は本願寺領となる。
黒田《クロダ》卿 和名抄、奄芸郡黒田郷、訓久呂多。○今黒田村上野村等なるべし、東鑑「文治三年、伊勢国黒田庄」神鳳抄「北黒田南黒田御厨」。
弥尼布理《ミネフリ》神社 延喜式、奄芸郡に列す、今北黒田の稲《イナ》降山に在り、大歳神を祭ると曰ふ、神域博大、密樹渓澗を塞ぎ、嶺上に径ある事五町許、恰平地を行くが如し、峰経《ミネフ》の称あること宜なり。〔参宮図会神祇志料〕
五鈴遺響曰、専修寺真恵上人、文明の比、弘法の為に賀州越前及江州等を経回して当国に至り、黒田村従弟誓祐なる者崇信して、遨て此処に寓せしむ、其後寛正五年今の一身田に専修寺を創建して移住し玉へり、事は高田正統伝後集に載たり。
上野《ウヘノ》 上野は黒田の東にして、海に浜せる大村なり、津を去る二里余、旧名を大別保又別府と曰ひ、其浦を白塚(又白須賀)と云ふ、別保《ベッポ》とは戸令義解に「別里、若不満十戸者、令伍相保、附於大村也」と見ゆ。
古今著聞集、伊勢別保といふ所へ前刑部少輔忠盛朝臣くだりたりけるに、浦人日ごとに綱を引けるに、或日大成魚を得たり、かしらは人の様にて有ながら、歯は細かにて魚にたがはす、口さし出て猿に似たりけり、身はよのつねの魚にて有けるを、三喉ひきいだしたりけるを、二人にてになひたりけるが、尾なほ土におほくひかれてけり、人の近くよりければ、たかくおめくこゑ人の如し、又なみだをながすも人にかはらず、驚きあざみて二喉をば、忠盛朝臣のもとへもて行、一喉を浦人にかへしてければ、浦人みな切くひてけり、さればあへて事なし、其あぢはひことによかりけるとぞ、人魚と云ふなるは、これていの物なるにや。
上野《ウヘノ》城址 廃嘘を城屋敷と呼ぶ、天正中、織田信包長野氏の跡を承け此に入る、本長野覚分部左京亮の居なり、分部は因て中山に徙る、(今栗真村中山の地)信包安濃津に築くに及び、分部之に復す、元和五年更に江州大溝に移封せられ、本城廃す。○野史云、分部氏世為長野氏附庸左京亮光高無子、因養細野藤光二男政寿(或作司光嘉)嗣家、永禄十一年、織田氏兵入北勢、政寿及河北内匠助出降、請織田信包為長野家嗣、(うがんむり+眞)之別府上野城、政寿移居中山城、文禄初年、信包失邑、豊臣秀吉留政寿于上野城、給邑一万石、庚子之乱、政寿受東軍之命、就食邑、城壁浅陋而四隣皆敵、西軍且逼、及棄之投阿濃津城、固其東面西軍攻囲、政寿拒戦被傷、会僧興山来和解両軍、政寿与富田知信避城而去、後録功増邑一万石、元和九年、徙封于近江国大溝、子孫継侯。
尾前《ヲサキ》神社は延喜式、奄芸郡に列す、今上野村大字千里の尾崎浦に在り、土御門と称す。〔五鈴遺響神祇志科〕
補【分部城址】奄芸郡○伊勢名勝志 上野村字城屋敷に在り、元和五年分部光信封を近江大溝に移すに及んで城廃す。〇五鈴遺響 長野分家分部左京亮藤原光高五百騎の将なり、其嗣長子分部左京亮光嘉居城せり、光嘉其後近江州高島郡大溝城、代々給食す。
服部《ハトリ》郷 和名抄、奄芸郡服部郷、訓波止利。○今|天名《アマナ》村|合川《アヒカハ》村是也、上野の西北栄村の西にして、栄川に跨り、鈴鹿郡下荘(昼生村)に隣接す。
服織神社は延喜式、奄芸郡に列す、今天名村大字御薗の八幡山に在り、旧址を一宮波止利森と呼ペり、大永八年の社記あり、栲幡千々姫命を祭ると為す。〔神祇志料〕
三宅《ミヤケ》 今合川村の大字なり、五鈴遺響に三宅村に式内加和良神社あり、方俗八王子と呼ぶと曰ふ、詳ならず。〇三宅の字金堤に、夢窓国師疎石の誕生所と伝ふる墟あり。
五鈴遺響曰、此地は鈴鹿国府に近く、国司所知の別邑なるべし、国司を国師にきゝひがめ、疎石に附会したる也、此地は国鈴鹿府址の南方三里許。
東大寺文書、足利義持教書、
寄附東大寺八幡宮 伊勢国安芸郡徳末名同郡司田職田鈴鹿郡北職田并中臣須賀村事
右所寄附当国也於奉行職者尊乗院僧正光経可被沙汰
其状如件 応永卅一年七月日
此旧案に見ゆる徳末名は、今合川村大字徳末なるべし、中臣は康暦元年足利義満教書に河曲と号すと註したれば今の一宮村大字中戸ならん、川曲村には大字須賀存す。
補【三宅】奄芸郡〇三宅村は古は鈴鹿郡枚田郷の中とも云、すべて三宅・昼生・林などの地は郡界混乱ありしに似たり、然れども地形を按ずるに、是等の地は奄芸郡なるペし、今仮にかく定む。
補【夢窓国師宅址】奄芸郡○伊勢名勝志 産湯井、三宅村字金堤に在り、今耕地たり、伝ヘ言ふ、夢窓此に誕生す、五鈴遺響に云ふ、土人云此地は国司の庁址なりと、此地往昔郡家の在る所にして、即ち国司の別府たり、後人遂に夢窓国師の事を附会せしなりと。○今合川村。
奄芸《アムキ》郷 和名抄、奄芸郡奄芸郷、訓安無木。○栄村是なり、大字|郡山《コホリヤマ》の名遺る、則古郡家の地なるべし、上野村の北、白子町の西にして、栄川(一作坂部川)の末に在り、東は海に至る。
栄《サカエ》川 明《アキラ》村福徳山より発源し、本郡と鈴鹿郡の間を縫ひ、磯山に至り海に入る、長五里。○衣手山は郡山の丘にて栄川の辺なり。〔五鈴遺響〕
ころもでの山のふもとに立つ鹿のうらさびしきはあけぼのの声、〔夫木集〕 顕仲
酒井《サカヰ》神社は延喜式、奄芸郡に列す、今栄川の傍に在り、郡山明神と称す、相伝ふ稲生神を移し奉ると、故に稲生新宮とも曰ふ。〔参宮図会神祇志料〕
横道《ヨコヂ》下神社 延喜式、奄芸郡に列す、今栄村大字の越知《ヲチ》の久礼《クレ》森に在り、蓋服織の下社なり。〔五鈴遺響神祇志科〕
○参宮図会に西行法師の詠なりとて、
木鎌にて稗田を苅れば秋永や稲しほたれて越知子地のさと
木鎌稗田秋永越知子地みな地名とぞ。
磯山《イソヤマ》 今栄村に属す、酒井川此に至り海に入る、白子と上野の中間に位置す。○人類学会雑誌云、近世何れの頃にや、磯山村荒蕪地より銅鐸一口を獲たり、両面共に浮紋にて格子を造り四分画し、其一格子の中に画像種々あり讃岐所出の鉄鐸と画紋相類す、現物は東京博物館に所蔵す。日本紀神代巻「天目一箇命造雑刀斧鉄鐸」又古語拾遺曰「天目一箇命伊勢忌部等祖也」と、参考すべし。
補【磯山】〔人人類学会雑誌所載、銅鐸画像〕
塩屋《シホヤ》郷 和名抄、奄芸郡塩屋郷、訓之保也。○今|白子《シロコ》町|稲生《イナフ》村是なるべし、奄芸郡の北境なり、東は海に至る。
稲生《イナフ》 白子町の西に並ぶ、東国岡《トウコクガヲカ》と云所あり、七尾八谷の景勝ありて、登臨すれば遠山近水の大観絶佳なり。〔伊勢名勝志〕
補【東国岡】奄芸郡○伊勢名勝志 稲生村宇山田に在り、岡陵起伏す、総稔称して東国ケ岡と云ふ、七尾八谷等の勝地其下を繞る、東方内海を望み、遙に三河尾張の海峡に対す、風景絶佳なり。
伊奈富《イナフ》神社 延喜式、奄芸郡に列す、今稲生村の松山に在り、稲生大明神又大宮殿と曰ふ、三座に区分し、殿宇高大也。〔神祇志料〕嘉承二年社司状を摂政右大臣藤原忠実(姓名拠中右記)に致して云、本社四至「西は国府、東梭河、東は白子浜、南は井手橋、北は奄芸川曲の郡界を限り、其地利を以て時節の祭を勤むる事年久し、然るに栗真御庄住人等神田を耕し神民を傷ふの如き濫行尤甚し早く之を停止しめ給へと申しき、忠実即書を庄司に下して非論を止しむ。〔朝野群載〕祭神不詳。
加和良《カワラ》神社 延喜式、奄芸郡に列す、今稲生村字塩屋の高良明神是なり。〔郡郷考神祇志料〕○古事記伝に「筑後国高良玉垂命神社は加和良と唱ふ、甲の古名なり」と説き高良杜は武内宿禰を祭るとも称す、姓氏録河内国塩屋連ありて、武内宿禰男葛城曾都比古の後と載す、因由あるに似たり。
大安寺資財帳曰「奄芸郡城上原四十二町、開十五町末開田代三十七町、四至、東浜、南加和良社并百姓田、西同田、北浜道之限、右飛鳥浄御原御宇天皇、歳次癸酉納賜者、奄芸郡長浜五十町、四至、東海、南沼、西河道、北道之限、右依前律師道慈法師、寺主僧教義等啓白、平城宮御宇天皇、天平十六年歳次甲申納賜者」云云。○按に此城上原と原(マヽ)長浜と曰ふは塩屋郷にて、加和良社の辺なる事明白なり、稲生の東に大字|寺家《ジケ》あり、今白子町に入る、寺家の名は彼大安寺より起れるに非ずや、白子も旧名寺屋と曰ふとぞ、又寺家領の中なりけん。
補【加和良神社】五鈴遺響 式内加和良神社は同処に西の谷あり、方俗八王子と称す、カワラは甲《ヨロヒ》の古名なれば、筑後国高良神社と同社号なり。
白子《シロコ》 旧奄芸郡の北端にして、海浜に民居す、白子町と称し、郡衙を置かる、津市を去る四里、神戸町を去る二里。○参宮図会云、白子は本名|寺屋《テラヤ》村、磯山の北半里、人家一千軒、繁昌の湊なり、素麺染形紙を名産とす、又此里の習俗妊婦も帯を加へず、昔は伊勢平氏の家子に白子党あり、冶承四年宇治橋の合戦に「白子党の兵共、赤印を附ながら、水に流され網代にかゝりける由」盛衰記乎語等に載せたり。
月かげと白子の浜のしら貝はなみもひとつに見え分ぬかな、〔家集〕 凡河内躬恒
観音《クワンノン》寺 白子町大字|寺家《ジケ》に在りて、地方の名藍なり、参詣者多し、庭中に不断桜の老木あり、相伝ふ此桜嘗称徳天皇の叡聞に達し、之を宮中に移されしが、一夜にして枯衰しければ、御製一首を添へ返し給はる、
誓ありていつもさくらの花なれば見る人さへも常磐なるべし
云々、此縁起は信ずべからずと雖、宗祇法師の句に「冬の花かみ世もきかず桜かな」と曰へり、亦久しき事なるべし。○本寺の地主神は延喜式奄芸郡|比佐豆知《ヒサツチ》神社是なり、寺は其供僧なりしならん。(前項寺家を参考すべし)
補【観音寺】奄芸郡○伊勢名勝志 不断桜、寺家村に在り、不断桜称徳天皇の叡聞に達し、之を南庭に移し栽られしに一夜にして枯衰す、因て御製一首を添へ本寺に返し給ふ、此樹猶存し本尊観音と共に頗る世に名あり。〔御製、略〕○縁起信ずべからず。〔宗祇の句、花の字を消して傍に「さくは」と記す〕
栗真《クルマ》 東鑑「文治三年、伊勢国栗真荘、因幡前司大江広元知行」又太平記「元弘二年、大塔宮を得取りたらん者には、伊勢車間荘を授けん由」の事ありしと載す、応仁記には「国司北畠設具は世保政康を伐たん為め、栗真荘のうち白子へ着陣」と記す。按に栗真は本郡中世数郷にわたれる荘田なるべし、延喜式、奄芸郡久留真神社あり、今白子町に之を祭るを見れば、此社を本拠とすべし、海道記に車の里見ゆ、
立わかれひとり車のいなむしろ旅寐の中のたびぞかなしき。
再考、久留真は呉羽の訛にて、服部と相因む者に非ずや呉部郷黒部村の条を参考すべし。倭訓栞云、久留真神社は、久留真《クルマ》やがて呉津女の義ならん、即雄略紀にいふ伊勢衣縫の祖なる弟姫を祀るなるべし、淡路国にも伊勢久留真神社あり、伴氏云、桑名郡訓覇郷は久留倍と註す、壱志郡呉部と同じ義なるべし、又久留倍木と云語は今も車木《クルメキ》と称し、(糸+參)車をいふ、和名抄及び万葉集に見ゆ、安芸国の郷名には訓(不/貝)に作る。
晴右記、永禄十年十一月十三日の案文云、
仕丁共罷下候間被仰出候乃栗真荘御公用之儀近年御無沙汰之段国錯乱に附而無是非候然者此比静謐之儀候条急度被申附可然候(中略)
河北内匠助殿 斎藤左衛門尉殿 御宿所
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河曲《カハワ》郡 明治二十九年廃停せられ、奄芸郡と合し、其地を以て河芸郡と為す、郡名は鈴鹿河の曲隈に在れば斯の如し、延暦儀式帳に、河曲鈴鹿小山宮と曰ふは、鈴鹿郡川俣の地なり、天武紀壬申乱の条に「伊勢国司三宅連石床、発五百軍、塞鈴鹿山道、車駕到河曲坂下、而日暮也」とあるは今川曲村大字|山辺《ヤマベ》なるべし、東鑑、文治三年の条にも、伊勢国河曲村あり、文禄検地三万三千石、神戸町を首邑と為す。
和名抄、河曲郡、訓加波和、八郷に分つ、鈴鹿川の末なる楠《クス》村は今三重郡に属するも、古は本郡海部郷の中ならん。
補【河曲郡】〇五鈴遺響 今かわ郡とよむ、文禄検地三万三千石、元禄検地三万二千石。○今三方里、人口二万二千、神戸町外六村。
深田《フカタ》郷 和名抄、河曲郡深田卿、訓布加多。○今若松村なるべし、大字北若松の深田と云地に延喜式河曲郡|深田《フカタ》神社在る由.神祇志料に見ゆ。
若松《ワカマツ》 白子町の北、玉垣村の東にて、其海浜を若松原《ワカノマツバラ》と称す、大字南若松の恵花山は、元久元年、伊勢平氏の余党三浦盛時の拠れる所にて、平賀朝雅に攻滅せらる。〔五鈴遺響伊勢名勝志〕
天平十二年十月、いせの国にみゆきし玉ひける時、
妹に恋吾乃松原見わたせばしほひのかたに田鶴なきわたる、〔万葉集及新古今集〕 聖武天皇
伊勢しまや汐干のかたのあさなぎに霞にまがふわがの松原、〔新古今集〕
延喜式、河曲郡|貴志《キシ》神社、今若松村大字岸岡に在り、十九所権現と曰ふ、小川《ヲガハ》神社は大字南若松の春日明神是也とぞ。〔神祇志料五鈴遺響〕
補【吾乃松原】河曲郡〇五鈴遺響 天平十二年十二月聖武帝藤原広嗣の乱を避て潜幸の時、こゝに行宮あり、
御製万葉に載す、又事は続日本紀に詳なり〔十二年十一月〕万葉六
妹爾恋吾乃松原見渡者潮干乃潟爾多頭鳴渡
此製作により今も田鶴の浜を名に冒せるなるべし、新古今集詞書〔略〕
補【若松城址】河曲郡○伊勢名勝志 南若松村字恵花山に在り、今耕地たり、三浦盛時之に居り、若菜五郎富田基度等と平氏の余党を募り乱を作す、元久元年四月京都守護平賀朝雅討ちて平ぐ、盛時誅に服し城遂に廃す(東鑑に見ゆ)○今若松村。
神戸《カムベ》郷 和名抄、河曲郡神戸郷。○今神戸町及び飯野村玉垣村なるべし、深田郷若松村の西北にして、川曲村の南なり、西は鈴鹿郡|枚田《ヒラタ》村に隣比す。
玉垣《タマガキ》 若松の西神戸の南なる村なり、神鳳抄、河曲郡玉垣御厨此なり。延喜式|弥都加伎《ミツカキ》神社を鎮守とす、此社は方俗|土御前《ツチノゴゼ》と称し、神城広大之を囲むに(こざと+皇)地を以てす、〔参宮図会神祇志科〕蓋土師社と相因む所ある者也。
補【弥都加伎神社】○神祇志科 今玉垣村にあり、土御前神社と云(神名帳考証・式内社検録)
按、検録に云、社城広博尋常の小社の地形にあらず、社殿の廻りに(こざと+皇)を掘たる体、他社に比類なし
○其水垣の如く廻れるを以て水垣の名を負りと云伝ふと云り。
土師《ハシ》 今玉垣村に属す、大字|柳《ヤナギ》と相接比す、土俗波世と呼ぶ、延喜式土師神社は此に在り、大一大宝天皇と云ふ、此地は伊勢壷又瓶子と曰へる土器を出せる所とぞ。〔五鈴遺響神祇志科〕
補【伊勢壷】〇五鈴遺響 旧昔河曲郡土師村より陶工造り出す、今其業廃せり、是を伊勢壷或は伊勢瓶子と称す、源平盛衰記に伊勢平氏は酢瓶なりと、五節の夜諷曲ありたるは此謂なり、
題梅法師詩 一休禅師
五月黄梅没落時 起青道心成法師 欲問疎影横斜古 伊勢壷底(日+吾)皺眉
矢椅《ヤバシ・ヤバセ》 土師の西なる大字にて、今玉垣村に属す、延喜式、矢椅神社此に在り、今八王子と曰ふ。〔五鈴遺響〕
神戸《カンベ》 今神戸町と曰ふ、延暦儀式帳神宮雑例集等に河曲神戸三十八戸など見ゆ、神宮雑事記には冶暦三年河曲神戸預大鹿武則と云人あり、神館址は大字石橋にあり、神明社存す。
延喜式、河曲郡|高市《タカイチ》神社は今神明社内に合祀す、旧址は十日市場の南東とぞ同|飯野《イヒノ》神社亦神明社内に合祀す、旧址は飯野村|西条《ニシデウ》に在りとぞ、〔神祇志料〕五鈴遺響、古の神戸邑は今の西条にて、弘治年中、其東に築城ありしより、地勢変ずと、西条は近年飯野村と改め別立す。
補【神戸】〇五鈴遺響 今の神戸市街は弘治年中築城後の邑なり、古の神戸は今の飯野村西条なり。
補【飯野神社】○神祇志料 今神戸村石橋町神館神明社に合祭る、旧址は飯野郡西条村にあり(西条玉田氏系譜・式内杜検録)○古の神戸村は今の西条村なり。
神戸《カンベ》城址 神戸は古城二所あり、一は神戸町今|本多《ホンダ》と字する廃墟にて、一は飯野村|西条《ニシデウ》に在り|沢《サハ》城と曰ふ。廃城本多と字するは、近世享保以降、本多伊予守の居城なりければ也。天正年中、織田信長本国を略し、三七信孝を以て神戸友盛の養嗣と為し、将士を之に属せしむ、既にして信孝敗死し、北畠信雄神戸を以て滝川三郎兵衛雄利に与へたり。野史云、雄利一名勝雅、木造具政二男也、初為僧住于現常院、智勇好武、見北畠国司氏衰、謀与兄木造具康、窃通織田信長、永禄十二年、還俗乞信長将滝川一益冒其氏号、天正十三年、北畠信雄与羽柴秀吉有隙、雄利属信雄、為守松島城、十八年、信雄失封、秀吉乃召雄利賜名勝雅、食邑三万石、庚子之役、党石田三成、軍敗籍没。○伊勢名勝志云、神戸城今遺址を存す、初め関実治の子盛澄(又実重に作る)本郡沢城を築き之に居る、四世具盛に至り本城を築き移り居る、(一説七世友盛築く所とす、今神戸録神戸家略伝に従ふ)友盛の時に至りて、永禄中関氏諸族と、長野工藤氏の兵を三重郡塩浜に迎へ撃ち之を破り、威武大に振ふ、十年織田信長其三子信孝を以て友盛の嗣となし、北郡を鎮ぜしめ、友盛を沢城に置く、信孝城郭を修造す、天正十年、信孝信雄と隙あり、信雄の臣林与五郎攻めて之を取り、神戸与五郎と称す、十二年、与五郎尾張に奔る、後生駒親正水野忠重滝川雄利等諸氏交々代りて之に居る、慶長五年、代官水野九右衛門之を支配す、六年一柳直盛此城邑に封ぜらる、寛永十三年伊予西条城に移り、代官佐野平兵衛代りて之を支配す、慶安四年、石川総長封を此に受く、総茂の時に至りて、享保十七年常陸下館に移る、本多忠統之に代る、明治二年版籍を奉還し城廃す。○龍光寺は神戸の古刹なり、臨済宗、悦叟大折和尚開基、後花園天皇の勅願所なり。〔参宮図会五鈴遺響〕
沢城《サハシロ》址 飯野村大字西条に在り、字|城掛《シロカヽリ》と荒堀《アレホリ》の間なり、遺址わづかに弁ずべし、正平二十二年関盛澄此に築き、子孫世豪族たり、神戸氏と称す、具盛の時今の神戸城を改築す、弘治中の事なり。〔五鈴遺響伊勢名勝志〕○応仁記云、応仁二年、今出川義視公は、土岐の世保孫三郎政康上意に違背の条、北畠国司へ被仰出、御退治無異義也、国司は栗真の荘のうち白子へ着陣、五月廿八日、世保本城上箕田林崎并外城柳若松同時に被責落、同廿九日、世保が与力楠原城落也、世保は当時関豊前守盛元を頼み、其婿なりしが、神部と申在所にして国司群勢之を亡ぼす、最後尋常に働きて陣屋に火懸て、生年卅四歳腹切けり。(世保は美濃土岐氏の一族当時本州の守護なり)
阿自賀《アジカ》神社は延喜式、河曲郡に列す、今川曲村大字須賀八幡宮なりとも、又飯野村大字|安塚《ヤスヅカ》の飛鳥明神なりとも云へり。〔五玲遺響神祇志料〕
補【阿自賀神社】○神祇志料 今安塚村にあり、旧は飛鳥森にありしを後今の地に移す(式内社検録)○飯野村。
補【世保】○応仁記〔重出〕〔応仁二年五月、今出川義視〕土岐世保違背上意之条国司へ被仰出、御退治無異儀也、同廿六日須可より木造荘北山の東明寺へ御成、同十日美濃国斎藤持是院妙椿御馬(青毛)進上、同十八日世保為退治国司木造迄同廿八日進発、北方柳若松にて矢合在(中略)廿六日国司栗真庄のうち白子へ着陣、同廿八日世保本城上箕田、林崎并外城柳若松同時に被責落、同廿九日、世保与力楠原城落也(中略)伊勢国神戸と申在所にして国司群勢世保を亡ぼす、最後尋常に働きて陣屋に火懸て生年二十四歳腹切けり。○世保孫三郎政康は土岐の一族、当時公方方の守護代は故一色の被官石川佐渡守入道道頓其子親貞なり、政康は関豊前守盛元を頼み、其婿たり。○世保は本来東美濃の地名なり。
箕田《ミダ》 今林崎堀江を併せ箕田村と曰ふ、神戸町の東にて、若松村の北なり。神鳳抄「河曲郡箕田安田御厨」と載せたり、応仁記に世保孫三郎政康が本城は上箕田に在りと記し、古屋草紙に応永年中足利幕府より土岐世保を以て本州守護代に任じ、若松を領知せしむる由載す、土岐持頼を指すか、政康に至り北畠国司に攻滅せらる。久久志弥《ククシミ》神社は箕田村大字下箕田に在り、福住明神と云ふ、延喜式河曲郡に列す。〔神祇志料〕○神鳳抄「河曲郡南堀殖永恒名廿三町」と南堀殖は即箕川村大字堀江にあたる、永恒其小名なるべし。
補【土岐城址】河曲郡○伊勢名勝志 上箕田村に在り、今詳ならず、古屋草紙に応永中足利義満将軍の沙汰として本州守護代に土岐世保を任じて若松を領す云々。○世保持頼を云ふ、美濃土岐の一族なり。○今箕田村。
補【永恒】〇五鈴遺響 神鳳抄「南堀殖永恒名、二十三丁余、三石」今考ふるに永恒はナゴウなり、堀江と永恒は旧と一邑にして、後世分割たるなるべし。
林崎《ハヤシザキ》 今箕田村大字林崎是なり、神鳳抄、奄芸郡林前御厨とあるは不審なり、又東鑑文治六年の条「林崎御厨事、為平家与党人家富田家資跡、雖加没官註文、就大神宮訴申之、不可付地頭之旨被下院宣之間、今日有沙汰所被停止、宇佐美平次実正知行也。和名抄、河曲郡|加美《カミ》郷|資母《シモ》郷あり、按に神戸の箕田の上下二郷の義にて、今箕田村なるべし。
海部《アマベ》郷 和名抄、河曲郡海部郷○今此名亡ぶ、蓋|一宮《イチノミヤ》村大字|長太《ナゴ》及三重郡楠村なるべし、鈴鹿川の入海処にて、海部の邑里なりしならん。
長太《ナゴホ》 今一宮村に属す、鈴鹿川の南畔にして、東は海に臨む、古は此浦を津島と呼び、伊勢海を尾州へ渡りたる所とす、近世は此渡津を航する者少し。〔五鈴遺響参宮図会〕
舟人の津島のわたり波たかみすぎわづらふや此世なるらん、〔夫木集〕 中務郷親王
伊勢人はひがこととけり津島より甲斐川行けば泉のの原、〔歌枕名寄〕 鴨 長 明
長明歌は実践のものなるべし、今長太の西に甲斐川(枚田村大字)和泉(井田川村大字)の地名遺り、鈴鹿街道に当り、路程符合す。○又按に大安寺資財帳「河曲郡牛屋窪二十町、四至、東鳥沼橋、北南岡、西|棒迫《スギサコ》之限、右平城宮御宇天皇、天平十六年納賜者」と見ゆ、棒は方俗須岐と訓む、今棒宮は北長太に在り、即牛屋窪と云ふも此地なるべし、桑滄の変ありしにや。
補【長太】河曲郡〇五鈴遺響 池田村の東にあり、俗ナゴと転訛す、本邑は東海の瀕に民居す、或云、此処を津島の渉りと称す、一説あり。
須岐《スギ》神社 延喜式、河曲に列す、今北長太の棒《スギ》宮八王子と云者是なり天和三年棟札に杉野氏四人の名を記したり、〔神祇志料〕須岐即椙にて、古の浮宝の材なり、度会郡舟木村にも棒屋《ボウヤ》神あり、又延喜式河曲郡大木神は棒宮の東に在り。
補【須伎神社】○神愚志料 今北長太村にあり、棒宮と云ひ、八王子と云ふ即是也(天和三年棟札・式社実践記)
按、棟札の裏に杉野善兵衛など同姓四人の名を記したる杉野を今はぼうの宮と唱ふれど、棒宮即すぎの宮なるを以て、本社の証とすべし
〔長太の棒迫及び坂手国生神社、参照〕
大木《オホキ》神社 長太《ナゴ》須岐神社の東にあり、古事記云「神八井耳命者、意富臣伊勢舟木直之祖也」と、此は舟木直姓の氏人等の祀たる処と云べし、然れども今閲するに此社域は旧に非ず、旧墟は此堀江村の西、今の大木神社より南位五丁、一株の老樟樹あり、字をばアヲ木と称す、憶ふに青木大木通訓す、是旧神社の址なり。〔五鈴遺響〕
中跡《ナカト》郷 和名抄、河曲郡中跡郷、訓奈加止。○今一宮村大字中戸あり、長太《ナゴ》の西に接す、東鑑、文治三年の条に伊勢国中跡庄見ゆ、又延喜式奈加等神社あり、神祇志料云、蓋中跡直の祖、天椹野命を祭る。
一宮《イチノミヤ》 中戸の椿岳《ツバキダケ》の麓に在り、即奈加等神なり、式内都波岐神を合祀す、一宮と云は一郡の最たる意ならん。
補【都波岐神社】○神祇志料 今北長太村八王子祠の相殿に祭る津萩大明神是也(式内社検録)
按、旧址は八王子祠の北四十間許畑中なる小路塚にあり、小路或は老翁《オホヂ》・大木に作るは誤れり。
高岡《タカヲカ》 今一宮村に属す、中戸の西に在り、延喜式、高岡神社は観音堂の東なる小祀是なりとぞ。〔五鈴遺響〕○高岡の茶山は塞址にて、塁礎の址存す、永禄の比、神戸氏の家臣山路弾正の居とぞ。〔伊勢名勝志〕○伊勢四家記曰、永禄十一年、信長卿勢州発向あり、北勢諸侍何も不残相従ふ、信長又高岡の城を囲み神戸蔵人大夫と和睦す、神戸には女子一人ありて男子なし、信長の三男三七殿十一歳の時養子に遣さる、神戸家信長へ一味に依て、峰国府鹿伏兎稲生家以下も信長に従ひぬ。
補【高岡城址】河曲郡○伊勢名勝志 〔重出〕高岡城、高岡村字茶山に在り、南高岡川に臨む、石塁礎石及諸士邸址等尚存す、永禄中神戸友盛の臣山路弾正忠城を築き、之に居る。
川部《カハベ》郷 和名抄、河曲郡川部郷。○今川曲村是也、鈴鹿川の南北に跨る、大字|山辺《ヤマベ》あり、川部と云は山部の謬にや、又延喜式河曲郡川神社ありて、五鈴遺響は之を本村大字川田に在りと曰へり、然らば南岸を川部郷、北岸を駅家郷と為すか。
河曲《カハワ》 延喜式「伝馬、河曲五疋」とありて、和名抄に駅家郷と標す、「天武天皇元年、到河曲坂下而日暮也」と云は此なるべし、即今の大字山辺にて、持統天皇再度の行幸の時、行宮を起したまへるも亦此地とす。
補【河曲坂】○天武紀 国司守三宅連石床云々、発五百軍塞鈴鹿山道、到河曲坂下而日暮也。〇五鈴遺響 河曲坂は鈴鹿郡河崎村なるペし。○今按、河崎に当てたるは穏ならず、河曲駅家なるべし、河曲村河田に川神社(式内)あり、此辺ならん、神鳳抄「河曲神田 (内宮五石、外宮三石)」見ゆ。
山辺《ヤマベ》行宮址 山辺は鈴鹿川の北岸にして、右薬師師《イシヤクシ》村の東南凡十三町、此に歌仙山部赤人の棲所跡と称し東西百間南北八十間許、老松並び立つ、(此村には古墳と思はるゝ者あり)日本後紀纂に、延暦十二年、山辺真人春日罪覚れ逃れりしを、伊勢国より捕へて以聞したる事を載す、此人此に隠れたるにや。〔五鈴遺響伊勢名勝志東海道図会〕
神風の伊勢の国は、国見ればしも、山見れば高く貴し、河見ればさやけく清し、水門なす海もまひろし、見渡しの島の名高し、此処をしもまぐはしみかも、掛巻も文に恐き、山辺《ヤマベ》の五十師《イシ》の原に、内日さす大宮つかへ、朝日なすまぐはしも、夕日なす浦|細《グハ》しも、春山のしなひ盛りて、秋山の色なつかしき、百磯城の大宮人は、天地と日月と共に、万代にもが、〔万葉集〕
略解云、此歌、持統天皇伊勢に幸きましゝ折の、行宮のさまをよめりと見ゆ、今山辺村に赤人の屋敷跡と後人の附会せし処ぞ、其行宮の処なるべき、さて其山辺村はマリガ野と云野の東のはづれの、俄に下りたるきはの低き処なる故に、東の方より見れば、小山の麓なり、されば反歌にも山とよめり、
山辺の五十師の御井は自ら成れる錦をはれる山かも、
和銅五年夏、遣長田王子伊勢時、山辺御井作歌、
山辺の御井を見がてり神風の伊勢をとめども相見つるかも、〔万葉集〕
又云、此御井は山辺村今二つの井有て、一は水かれずしてあり、貝原益軒東国紀行にも山辺御井の事見ゆ。〇五十師の原と云は、石薬師村まで及ぼせる名なるべし。
補【山辺真人寓所址】河曲郡○伊勢名勝志 所在詳ならず、蓋し本郡山辺村ならん、日本後紀纂に延暦十二年八月丁卯、山辺真人春日 佐伯宿禰成人を謀殺す、明日事覚る、逃れて伊賀に隠る、桓武天皇宸怒あり、天下に募り求む、後伊勢国より之を捕へて以聞す、蓋し其の産地なるを以て此に来りしならん。○山辺村には古墳と思はるゝものあり。○今河曲村大字山辺。
国分《コクブ》 今川曲村の大字也、山辺の東北に接す.国分寺は今浄土宗を奉じ、常慶山と号す、〔東海道図会〕蓋僧寺なり、飯高の伊勢寺を参考すべし。大鹿三宅神社は今国分の大鹿《オホカ》山に在り、天神と称す、延喜式に列し、神宮雑書に「建久三年、大鹿村号 国分寺領」と見ゆれば、村名旧大鹿、蓋伊勢大鹿首の祖神なり、社畔土中より古瓦を出す。〔五鈴遺響神祇志料〕○敏達紀曰、采女 伊勢大鹿首小熊女、曰菟名子夫人、生太娘皇女与糠手姫皇女。姓氏録曰、大鹿首、津速魂命三世孫、天児屋根命之後也。○古事記伝云、大鹿首は伊勢より出たる姓なり、続紀(十七)伊勢大鹿首、又(廿三廿四)大鹿臣子虫、神宮雑事記、治暦三年、河曲神戸預 大鹿武則、東鑑、伊勢国大鹿俊光、大鹿兼重、大鹿国忠など云人見ゆ。
鬼太《キタ》神社は延喜式、河曲郡に列す、今川曲村大字|木田《キタ》の八王子是なり。補【大鹿三宅神社】○神祇志料 今国分村天神山にある天神蓋是也(式内社検録)
按、本書引神宮雑書に建久三年注進状当御国内大鹿村を国分寺領と号すとあれば、当村大鹿村を廃て国分村と唱ふる事知べし
蓋伊勢大鹿首の祖天児屋根命を祀る(古事記・日本紀・神宮雑事記・東鑑)
2003.10.12(日)午後6時30分、伊勢国入力終了
志摩国
志摩《シマ》国 伊勢の南に在りて、伊勢島《イセシマ》の称あり、地脈海表に盤曲し、島嶼港澳雑然として碁布す、土壌偏少なりと雖、江湾極めて多し、船舶必由の所たり。旧答志英廣の二郡ありて、其西界は熊野浦楯崎に至りしが、後世紀伊牟婁郡伊勢度会郡の侵す所と為り、国土大半を失ふ、即其東偏剰地に二郡の名を立てしも、明治二十九年、更に合同して志摩郡と曰ふ、志摩の国号分域此に至り亡ぶと謂ふべし。志摩古来修して志州とも曰ふ。
今志摩郡、東西凡三里南北凡七里、面積約二十方里、然れども其以西度会郡|東宮《トウグウ》浦より北牟婁郡長島尾鷲南牟婁郡賀田浦までを測らば、東北より西南に走せ、延長二十五里、幅約三里、面積は六十方里に上るべし、即志摩の古国境なり。地理を考察するに、朝熊山の山脈西南に走り龍泉山東宮山荷坂峠と為り、大台原に至り高崇を極め、其南界は八鬼山、楯崎に断ゆ、此等沿海一帯の地十七里は古の志摩国たるべし。(例証は各郷浦の下に出せば此に省く)○志摩は国郡の境界変遷しばしばなりしに由り、種々の臆想を被れり、書紀通証云「按続日本紀、分志摩国塔志郡、始置佐芸郡、此郡今即亡、或曰、志摩本在伊勢参河之間、歴世已久、而為海水所淪没、後来割伊勢東偏為一国也」和訓栞云「志摩は島之義也、続後紀に伊勢国答志郡と見え、伊勢島など云へり、或は此島古は伊勢三河の中間に在りしが、淪没せられて後、伊勢の東辺を割きたりと、地形を見察するに、さもありぬべし、畔乗《アノリ》の辺伊雑の浦に数千尋の海底に鳥居のありし物語も証とするに足れり」と然れども佐芸郡は英廣郡の旧名にして、島の国と云ふは、島々崎々の多かるに 名づけたるなれば、左のみ臆想を労すべきに非ず、又淪没と云事は徴証なければ、人間歴史に要なし、何の世の変にや。志摩(和名抄、訓之万)は古事記神代巻伊勢の※[けものへん+爰]田彦及猿女の条に、島之「速贄《ハヤニヘ》」と云事あり、本居氏云「島は志摩国なり、此国は御食津国の中にも、殊に御贄を献れりし国にて、万葉集に
御食津国志摩の海部ならし真熊野《マクマノ》の小船にのりておきへ漕ぐ見ゆ、
とあり、三代実録「元慶六年、志摩国年貢御贄、四百三十一荷、令近江伊賀伊勢等国、駅伝貢進」亦延喜式其他にも志摩の御贄後世まで断えざりし様見ゆ。○志摩は海湾の天成、すでに漁人の居に適ふ、鱗介の産最饒なり、延喜式曰「内膳司、高橋朝臣一人任之、執鰒汁漬」、職原抄に「志摩国、高橋氏為内膳正者任之、仍他人不任之」と高橋氏は膳職兼島司たりしを見るべし、続日本紀「文武天皇元年、直広肆高橋朝臣島麿為伊勢守、神護景雲二年、敢磯部忍国為志摩守」など云ふは、志摩は本伊勢国の管地にして、敢臣は高檎氏同族なれば、謂ゆる膳職の干係を知るに足る。○志摩国造は、国造本紀に「島津国造、志賀高穴穂(成務)朝、出雲臣祖佐比禰足尼孫、出雲笠夜命、定賜国造」とあり、此島津は万葉集の詞に「伊勢の海の蜑の志摩津」と見ゆる如く、島人と云義にて、古は斯る称もありけん、其出雲氏の子孫と云は、即伊勢都彦の一族たるを知る、伊勢風土記逸文及倭姫命世記に、出雲神子伊勢都彦と云が、旧伊勢国主にて、神武天皇の時避去したる由を記す、然れども此国造は遷替あり、初め出雲臣なりし者絶えて、高橋臣之に代りたるか、日本書紀「持統天皇六年、賜伊勢志摩国造等冠位」とあるは高橋氏ならん、又文武天皇、国郡の制置を為し給へる時は、志摩は答志一郡と定め、国は廃停せられ伊勢へ入りしかど、養老三年答志佐芸二郡と定め、旧に依て志摩国立つ、然れど偏少の域なれば、猶伊勢島の称を失はず、視て伊勢の属邑の如し、亦自然の勢なるべし。○志摩は田土の乏しき事、続紀「神亀二年、以伊勢尾張二国田、始班給志摩国百姓口分」又延喜式「凡志摩国司、不充事力、其職田五町、以伊勢国給之、又公廨科、用尾張縁海郡正税穀給」などありて、口分田府庫穀共に自給する能はざりし状を知るべし。(明治の初、伊勢国草高七十万石の田に、人口六十万あり、志摩は草高二万石、人口五万に及ぶ、其比例亦参考に資すべし)○志摩の海産鰒を推して上味と為す、延喜式「志摩国御厨、鮮鰒螺」延暦儀式帳「志摩国神戸百姓、供進鮮鮑螺等御贄」とあり、朝家と神宮に並進したる也、後世熨鮑と称するは延喜式に蒸鰒と云者なるべし、世に伊勢海人の採る所と為すも、実は志摩の産なり、和名抄「鮑一名鰒、阿波比」
伊勢のあまの朝な夕なにかづくとふあはびの貝のかた思ひにして、〔万葉集〕伊勢の海の蜑の志摩津があはびだまとりて後かも恋のしげけん、〔同上〕
日本書紀に阿波寐之羅陀魔《アハビシラタマ》とあるを、私記に真珠と釈す、即|阿古也《アコヤ》玉一名志摩白玉と云者是也。(此に志摩津と云は志摩人の謂にて、国造本紀に志摩国を島津に作る)。志摩は中世伊勢国司北畠家の下知に属し、豪族橘氏は鳥羽に居り、九鬼氏は波切に居り、皆之に依頼す、橘氏相伝て宗忠に至り嗣なし、鳥羽を以て女婿九鬼嘉隆に譲与す、永禄の末北畠氏亡び、嘉隆織田信長に属す、天正十年、紀伊新宮城主堀内氏善来侵し、長島浦に至り、是より長島以東は牟婁郡に入る、其浜島以西長島に至る諸浦の度会郡に割入したるも其比か、詳ならず。○本編は北牟婁郡(今紀伊国に属し而も三重県治也)及び度会郡の数村、旧志摩国に属せる方域は、志摩郡の次に出す。
補【志摩国】○和名抄郡卿考 名義考、風土記志摩為伊勢島之意也、故地出海中之島也、後為国名、こは国体によりて号けたるなるべし、此国答志崎は海中にさし出て三河国いらこが島と対ひ合ひたれば、島の国ともいふべきさま也。和訓莱、島の義也、続後紀伊勢答志郡と見えたり、よて伊勢島などいへり、或は伊勢三河の中間にありしが海の為に淪没せられて後、伊勢の東辺を割て志摩国とすといへるも、地形を見察するにさもありぬべし、畔《ア》乗の辺伊勢浦に数千尋の海底に鳥居のありし物語も証とするにたれり。国造本紀、島津国造。倭姫命世記、島国。神鳳抄、志摩国道後とあるは英虞郡の方をさすならむ、国の奥方を云也。国府在英虞郡、行程上六日下三日(主計式行程同)管二、田百二十四町九十四歩、粒惣千七百斛、正籾千二百石、救急料五百石。拾芥抄、田四千九百十七町。和訓栞、本稲何ほど雑稲何ほどと見えて、諸国は正税公廨各別にす、志摩国には田何ほど、穂何ほど、正籾何ほど、救急料何ほどと記せりとあるは、こゝをさせるなるべし。類聚国史聖武天皇十七年十一月、制諸国公廨、志摩国壱万束。志陽誌、二郡云々、巡行其五十六村、則通程廿一里十八丁余也、此内所舟行十余里也。
○国郡沿革考 現今志摩の地田圃合せて一千七百五十八町に過ぎず、此の如き※[衣+扁]狭の地を建て一国となす事太だ疑ふべしとなす、因て史誌を考へ古郷を徴し、其州境の大変革あるを知れり、和名抄に曰く、田百二十四町、拾芥抄に曰く、田四千九百十七町、蓋し和名抄百字の上一千五の字を脱せるなるべし、今其地勢を按ずるに、朝熊山の山脈西南に奔り東宮山に至り、自ら伊勢の地と限り、以て今の紀伊の牟婁郡八鬼山に至る、(今志摩の西境より此に至る凡そ十七里余)此古の志摩国たる事疑を容るゝ可からず。
志摩郡
志摩《シマ》郡 明治二十九年、志摩国答志、英虞二郡を合併し、志摩郡と為す、面積約二十方里、人口六万、鳥羽町外二十二村に分つ、郡衙を鳥羽に置く、度会郡南海面の四村は旧志摩国の属地にして、形勢相聯接すれば、本編之を此郡下に繋く、皆三重県治に属す。 ――――――――――
答志《タフシ》郡 明治二十九年廃して英虞郡に併せ、志摩郡と為す。英虞答志は本来志摩国の別名なり、神功紀に吾《アコ》田節《タブシ》之|淡郡《アハノクニ》と云語ありて、淡郡は延喜式粟島に作り、即答志郡伊雑郷に在り、国郡制置の初め、志摩国を答志郡と改めらる、養老三年、塔志郡五郷を分ち佐芸郡を置く、(佐芸後改めて英虞と為す)和名抄六郷に分ちたれど、和具郷は英虞に入るべきに似たれば、五郷なり後世度会郡伊気郷を併せたれば、西北隅の地、又境界の変あり。○志摩伊勢国界の争論は、続日本紀の往時に在りて、伊気郷の去就は之に源因す、其天平宝字三年紀に曰く「去天平勝宝五年、遣左大弁紀飯麿、限伊勢大神宮之界、樹標已畢、而 伊勢志摩両国相争、於是遷|尾垂《ヲタル》剰※[(賤−貝)+りっとう)於|葦淵《アシフチ》遣武部卿巨勢関麿神祇大副中臣毛人少副忌部※[此/口]麿等、奉幣帛於神宮」と此尾垂垂※[(賤−貝)+りっとう)葦淵共に今其所を失す、〔原書尾垂作扈乗〕延暦大神宮儀式帳云「四至神界、以東尾垂峰等為山堺」と蓋尾垂葦淵は神界の東方なる伊気郷に在り、其郷の東西両限たる事、以て推知すべし。○志摩旧地考云、伊勢光明寺康保三年文書に、答志郡少領島実雄あり、安和二年郡判に、大領島直あり、長徳二年文書に、答志郡司島直福あり。
伊気《イケ》郷 和名抄、伊勢国度会郡伊気郷、訓伊介。○今鳥羽町にあたる、伊気浦の名は、大字堅神に存す、北に伊気浦を抱き、東は鳥羽浦に臨み、西は和合山を以て度会郡東二見村と相限る、南は加茂村(古神戸郷)に至る。続日本紀、天平宝字三年、勢志両国が国堺を争へるは即本郷の地にして、尾垂※[(賤−貝)+りっとう)と云ふは西堺和合山の関塞に当り、葦淵と云ふは鳥羽浦町江浜にや、後の考定を待つ。
池浦《イケウラ》 東二見《ヒガシフタミ》村神前を口と為し、南方へ湾入する三十町、岸頭の民家を竪神《タテカミ》と曰ふ、東方は小浜の半島を以て鳥羽浦と隔離す、青山白水錯落して景を成す、海湾風波穏にして池の如くなれば名づけしならん。行嚢抄云、松下《マツシタ》村(東二見)の東の山の中へ入たる海を、伊気浦と云、冬月鮪を取所にて、里俗いけすの浦と云。○倭姫命世記云、其塩淡満溢浦名を伊気と号、其処に参相て御饗奉て淡海子神と号て社定給き。○延暦儀式帳延喜神名帳ともに度会郡粟皇子神社あり、又神宮雑例集に度会郡二宮御領伊介浮島御厨あり、(神鳳抄にも見ゆ)此等の遺跡は大字竪神に属すべし。
松にふく伊気の浦かぜわたるらん波にたゞよふ浮島の山、〔夫木集〕
浮島は凡河内躬恒家集、延喜十七年伊勢斎宮御屏風の題詠にも載せたり、伊気浦の水心に一岩あり、中洲と曰ふ之を指すか。
補【浮島厨】度会郡○伊勢名勝志 今詳ならず、或は松下村海辺にありと云ひ、又伊気浦の淡良支《アハラギ》の海中にある孤島なりと云ふ、神宮雑例集に度会郡二宮御領の内浮島御厨を載す、然れども洋中孤島民なく御厨を供すべきの理なし、前説或は是ならん。
小浜《ヲハマ》 今鳥羽町の大字と為る、鳥羽湾の北西部に臨み、半島状の頸地に居る、其背は即伊気浦なり、神鳳抄、志摩国|越《ヲ》浜とありて、伊介と注せり。○志陽略誌云、小浜村、在竪神村東北、鳥羽以北二十一町也、諸国転漕之船、多繋海岸。神都名勝誌云、小浜の港と云は、東西凡壱丁余、南北凡弐丁あり、船舶の繋泊する所をば森下《モリシタ》と称す、東は答志島に対せり、其中に介して日向《ヒナタ》と云ふ危礁あり、其間を大関と云ふ、北五十間許を小関と云ふ潮水恰激箭の如し、天文年中小浜将監真宗、此に砦を築き、北畠国司家の要塞たることあり、かくて真宗より五代景隆に至る比まで、此所に住み居たり、永禄十二年、九鬼大隈守嘉隆織田家に通じ、鳥羽の兵を合せて来り攻む、景隆援を千賀志摩守に乞ひ防ぎ戦ひしかども、衆寡敵せず、終に三河国に逃る。○史学雑誌云、甲陽軍鑑に載する海賊衆の内、小浜左衛門尉景隆と向井伊兵衛政勝の父伊賀守正重は、もと伊勢の北畠家の臣なりしが、並に信玄に仕へ、水軍に練達するを以て、船将となれり、武田氏亡びて、徳川氏に仕へ、仍ほ水軍を掌り、向井氏の如きは歴世御船手頭たり、是は南朝の時より北畠家の仕込にて、国人海船に熟したれば、向井小浜両氏の武田徳川二代の船将となるも、原因ある事なり。(向井は今北牟婁郡尾鷲港に此大字あり、向井氏の故里か)
音たかく小浜のなみぞきこゆなる貝たち寄する風ぞ吹らし、
三国地誌云、小浜貝寄の詠は、旧く斎宮貝合集に見ゆ、今も三月三日、鳥羽浦に貝寄と云事あり、此日は潮干にあたり、種々の貝は沖より辺に吹寄せ、男女群集して之を採る。
鳥羽《トバ》 今鳥羽町と称す、志摩の都会にして、東海の要津なり、山田(伊勢)の東三里、港湾を鳥羽浦と云ふ、前面に答志島菅島等ありて外洋を屏障し、停泊最安穏なり。此地は熊野浦遠州灘の中間に位置し、且伊勢海の門戸たり、実に東海の要枢と謂ふべし、外洋時々悪風険浪の生ずるありて、往来の船舶之を懼る者、皆鳥羽に入りて難を避く、故に天候虞あれば、不時の客船多し、然れども港内狭少、もと多数の碇撃に勝へず、且軍防上東海の必争地たるを以て、今宮家制定して、海軍要港と為し、造船製鉄蔵炭の設備を置く、人口五千。○近年鳥羽藩士近藤真琴、海軍の振興を志望し、徳川幕府明治政府公私諸種の務に従ひ、最も心を海人《シーマン》養成に尽す、東京に攻玉社を創め、船員学業の場圃と為したり、亦一世の奇材なり。鳥羽湾は鳥羽小浜の陸岸を西界とし、答志島を北側とし、菅島坂手島を南側とし、菅島の東北角に白崎燈台ありて、入船の望標と為る、東西二海里、南北狭くして其三分の一に過ぎず、小浜答志間、及び菅島坂手間に狭水道あり、潮勢急激なり、外洋は白崎の東北凡三海里に神島あり、神島の東北二海里にして参河伊良胡崎に至る、此両崎間を伊勢海水道と為す、是等一帯の東方は大洋にして、遠州熊野両灘の交界と為す。
三国地誌云、鳥羽は千家甍を並べ、幅湊の船軸艫相接ぎ人物の会集、浪華に亜ぐと云ふ。志摩旧地考云、鳥羽は泊の義ならん、神鳳抄「答志郡|泊浦《トマノウラ》御厨」(神宮雑例集同之)是ならむ、光明寺古文書「建武四年、泊浦小里住、兵衛太郎」と云者あり、又文明年中の文書には「泊大里、泊民部少輔」の名あり、其頃未だ鳥羽に改めざりし也、今に大里《オサト》小里の字は遣れり。
鳥羽※[奥/山] 菅茶山
麓※[言+焦]花外竹枝声、短艇何辺載妓行、曲浦湾碕小平遠、不知島背是鵬程、
舟船収澳※[たけがんむり+族]危檣、鳥羽城頭正夕陽、颶母横空雲気悪、孤鴎飛滅大東洋、
鳥羽 塩田随斎
渺漫碧海繞青山、校雨量晴何日閑、一片布帆天外白、城中少婦望郎還、
補【鳥羽】○神都名勝誌 本港は吾が邦東部の要津にて常に頁舶商船の碇泊する所なり、古くは泊浦と称せしを何の頃にか鳥羽と改めたり、神宮雑例集及神風抄に泊浦御厨と見え、万葉集には飛幡《トバ》浦に作れり。
大里 鳥羽町の大字なり、市街二筋相通り旅店娼楼軒を並べて頗繁昌せり、光明寺旧蔵建武四年六月の文書に泊浦大里住故藤内左衛門入道など見えて、いと古き地名なり。
○日本教育史資料 近藤真琴は志州鳥羽藩主稲垣家の藩士なり、安政元年岸和田医官高松譲庵に就きて文典窮理書を学ぶ、安政五年正月村田蔵六(故兵部大輔大村益次郎)の塾に通学し、専ら和蘭の兵書を学ぶ、文久二年旧主の命を以て其邑志摩国鳥羽に至り、山水を見て感ずる所あり、是に於て海軍航海に志す、同三年正月江戸に帰り矢田堀景蔵荒井郁之助に就きて航海術を学ぶ、是歳、幕府の軍艦操練所に通学す、十二月幕府の軍艦操練組出役となり、航海術教授の事を掌る、明治元年藩主に従て国に就く、翌年十月兵部省の召に応じて出京、海軍中佐となる、明治四年三月芝新銭座町慶応義塾の家作を福沢諭吉より譲られ私校となす、同十二年芝神明町に移し、商船黌と称す、又攻玉社といふ、同十四年八月廿日郷里志摩国鳥羽に商船分黌を設け、本社商〔脱文〕
補【鳥羽港】○京華要誌 稲垣氏の旧城下にして造船所海軍石炭倉庫等あり、港内水深く湾口には燈台の設あり、東西往来の船舶風涛を此地に避く、東海無二の良港なり。
旧城址 日和山と相対峠する丘上にあり、港内を瞰下して風景亦佳なり、旧と九鬼義隆の築きしものなり、現今海軍省附属地となれり、其他寺院には常安寺あり、十年西南の役天皇陛下御上陸の際、行在所に充てらる。○関原合戦図志 九鬼義隆は志摩を領し、其地の海中に斗出したる半島なるを以て、従来海上の兵事に慣れ、曾て数奇功を奏せり、此役西軍に応じ兵艦を出して尾張三河等の海岸を劫涼し、糧を美濃に送る、其径路は桑名より川舟にて揖斐川を溯り、大垣に入りしものゝ如し、又東の海路より西向する者を抑留せんとせり、然るに義隆の子守隆は此役東軍に属し、父子志摩に戦へり。
鳥羽《トバ》城址 今海軍省の営地と為る、天正年中、九鬼右馬允嘉隆の造修にして、子守隆に伝へ、寛永十一年、摂州有馬郡へ転封せられ、内藤志摩守忠重之に代る、其曾孫忠勝、延宝九年収公せられ、爾後土井利益松平乗邑板倉重治松平光慈等の賜邑と為り、享保十年、稲垣摂津守昭賢城主と為り、封三万石、世襲して明治の初年に至る。○相伝ふ、鳥羽は保元平治の比より橘氏代々之を領知し、永正年中、次郎宗忠に至るまで連綿たり、世に泊殿と称す、宗忠嗣子なかりければ、其婿九鬼嘉隆に譲与す、橘氏の宅址即鳥羽城なり、又其北岩崎に橘氏の砦址あり。〔志陽略志三国地誌〕○九鬼嘉隆は織田氏に属し水軍の将たり、大坂攻撃の比、海賊船を以て南海中国の軍船を破り、又豊臣氏に随ひ征韓の外役に赴けり、慶長五年東西兵起るや、義隆西軍に通じ、子守隆徳川公に従ふて東行す、已にして義隆船を出して尾張参河の海岸を劫掠し、糧を大垣城に送る、又海上を警邏し敵船を支ふ、尋で鳥羽を以て新宮城主堀内氏に托附し、田丸岩出の城を攻め克たず、守隆東軍の命を以て、帰り其父を招く、義隆肯はず、守隆|畔乗《アノリ》に陣L、西軍の戦艦を支ふ、嘉隆又至り遂に交戦に見る、已にして関原の軍決す、義隆懼れて紀州新宮浦に奔る、守隆南勢五郡の恩賜を致して、父死を贖はんと請ふ、允されて嘉隆を桃取村に安置す、幾もなく義隆自殺す。
補【砦山】答志郡〇三国地誌 鳥羽の北岩崎にあり、橘宗忠之に拠る。
常安《ジヤウアン》寺 筧《カケヒ》山に在り、九鬼長門守守隆の本願にして、亡父追吊修福の為めに建立す、延宝三年、九鬼季隆墓塔を重修す、鳥羽の大伽藍なり、明治十年、至尊軍艦に御し東海航過の次に寄泊せられ、寺を以て行在に充てられたり。○吉祥寺、此寺は初め岩崎の茶臼山に在り、橘氏(泊浦故主)の菩提所たり、延宝年中移造す。
補【常安寺】答志郡〇三国地誌 鳥羽に在り、九鬼義隆の冥福の為、其男長門守守隆の本顧なり、筧山を附す、延宝三年九鬼季隆黄黄檗に請うて塔の銘を勒す、九鬼家系一巻此に蔵す。
補【吉祥寺】答志郡〇三国地誌 鳥羽に在り、旧岩崎茶臼山にあり、延宝七年此処に移す、次郎橘宗忠牌子あり。
日和《ヒヨリ》山 鳥羽の北西に吃立する一丘なり、高七八十間に過ぎざるも、眼界極めて広く、島嶼縦横に列して、参河尾張の海山をも并せ収め、風光奥州松島に比すべし、而も其秋晴の日、遠く富士峰及び甲信の峻嶺を望むに至りては、奇観中の奇と云ふ。○凡東海転漕の舟は、熊野浦より此に至り、更に七〇里の長灘を経て、豆州下田港に入る、其間繋泊の便所を欠く、故に鳥羽に次る時、善く陰晴険易をト定し後解纜す、故に舟人多く此丘に上り、天象を察し、開洋の遅速を議すと云ふ。
補【日和山】○地学雑誌 日和山は鳥羽町の北方に位する僅に百六十米の丘陵に過ざるも、答志・菅・坂手等の海島を始め数十の小島眼前に散布し、伊勢湾を隔てて知多半島・伊良子崎より富士・八ツ岳・駒ヶ岳等の諸峰をも遙に望むを得べし、松島は日本三景の一と称するも、之に如かざるべしと云。〇三国地誌 鳥羽の北、絶頂に至ること三町余、土俗常に此山に登て天象を察し、風雨の変異海洋の険易を卜す、船客開帆の遅速皆其説に頼る、故に名づくと云。
答志《タフシ》郷 和名抄、答志郡答志郷。○今答志《タフシ》村及|坂手《サカテ》村|神島《カミシマ》村菅島村等是なり、鳥羽の東に在り、海中羅列の島嶼より成る、答志島最大なるを以て、島名より転じて郷名郡名に移る。
答志《タフシ》島 小浜の東北に在り、延長二里、鳥羽湾の北側を成す、幅数町に過ぎず、西の部落を桃取《モモトリ》と曰ひ、東の村を答志崎と曰ふ、続日本後紀「承和七年、以在志摩国答志島、賜無位常康親王」とあるは此也、東鑑、文治六年の条にも答志島見ゆ。 いせのたふしと申島には、碁石白の限り侍る浜にて黒は一もまじらず、向てすが島と申は、黒の限り侍るなり、
すがしまやたふしの碁いしわけかへて黒白まぜよ浦の浜かぜ、〔山家集〕 西行
磯等崎《イソラガサキ》 桃取磯を云ふ、其小浜日向礁に対する岬を柴前《シバサキ》と称す、北西には数町を隔て阿波羅岐《アハラギ》の諸礁列布す。
いそらが崎に鯛つるあまも鯛釣あまも(末)わぎも子が為と鯛つる海士も鯛釣海士も(本)伊勢島の蜑の刀根等が焚く火の気、おけおけ、〔催馬楽〕
みさご居るいそらが崎にあさりせるあまの見るめは猶もとめけり、〔六百番歌合〕 中宮権大夫
三国地誌云、志摩の潜女は延喜式に見え、伊勢海人と云ふに同じ、今鮑取と云ふは、相差《アフサス》の近里の婦女其事を習て業とする者多し。
阿波羅岐《アハラギ》島 答志島の西に列する礁なり、東二見村|神前《カンザキ》の東北十余町より起り、八礁相連り五十町許、伊気浦及び小浜海峡の北を掩蔽す、又淡羅毛と云ふ。○倭姫命世記曰「従柴前以西之海中在七箇島、従其以南海、塩淡く有き、其島を淡良伎島号き、」神宮雑例集曰「正月六日、内宮御饌科奉取、祝部向阿波羅岐、若布苔進本宮」。延暦儀式帳に「神界四至、北|比奈多《ヒナタ》島(今小浜の北日向島)志婆前(今答志島西角柴崎)阿婆良岐島|都久毛《ツクモ》島小島、為海界」と見ゆ、此なるべし。 あはらげの島はなゝしまその中に気なし加へて八島なりけり、〔夫木集〕
或は云、伊介の浮島御厨と云ふは、彼|竪神《タテカミ》の内浦に非ず、此外浦なるべし、浮島の名、列礁の一所に遺る。
補【淡良岐島】○神都名勝誌 神前より海上二十町許艮にあり、俗に飛島と云ふ、無人島なり、伊介の郷に属す。○此島皇大神宮の東の神界なること神宮雑例集に見えたり、七箇を統一して一島とす、大小相並びて東西に参列せり、その様さながら描きなせるが如し、実に奇観なり、夫木抄に載せたる歌は屋島(一名、浮島)を加へて其数に入れしなるべし。
手節崎《タフシノサキ》 答志島の東端にして、今黒崎とも曰ふ、漁戸数十あり、岬端に大築見小築見と号する礁あり、築見の東一海里余にして神島に至る、即伊勢海水道の西口なり。
幸于伊勢国時、留京柿本人麿作歌、
釧つく手節の時にいまもかも大宮人のたま藻かるらむ〔万葉集〕
神島《カミシマ》 海中に孤懸し、地全く岩嶼なれば穀蔬を生ぜず、島人魚介を以て常食とす、此湖は神宮雑例集に歌島《カシマ》に作る者是也。○日本水路志云、伊良湖崎の西南方凡二海里半にありて、伊勢海口の中央に峙立し、島峰赤色を呈す、南北の長さ凡七縺半、濶さ六鏈、其東側峻崖より高聳して、高さ五八七呎に達す、各方より島頂を望むに、極めて顕著なり、又松樹疎立し、四面険絶、泊船の地なし、又島の四周は海底険悪にして近づく可らず、北側に一小村あり、島北は即ち伊良湖水道にして、潮水奔流す。
菅島《スガシマ》 答志島の南に在りて、鳥羽湾の南側を成す、西は坂手安楽二島を隔て、鳥羽町に向ふ、東西一里、南北は減削す、南は鏡浦に対す。神鳳抄、須賀島に作り、東鑑、建久元年の条に「菅島、伊勢本宮御領」とあり。○山家集に菅島の鳥浜、夏身浦の吟詠あり、「からす崎のはまの小石とおもふかな白にまじらぬすが島の黒」。
すがしまや夏見の浦によるなみのあひだもおきてわれ思はなくに、〔万葉集〕
日本水路志云、菅島の燈台は、島の東北角白崎に設置す、晴天光達十五海里、神島より菅島に至る間には、数多の岩礁列布し、且潮流強きを以て舟人甚之を恐る。○海運記云、河村瑞賢建議、志摩の鳥羽港口、菅島附近数十里の間、巨石波底に盤結し、運船常に風雨昏黒の時に於て往々抵触破砕す、乞ふ島上の山崖に就て、毎夜の烽火をあげ、航海者をして方所を弁認し、以て廻避を得せしめむと、乃菅島に烽火を置く。
坂手島《サカテシマ》 今坂手村と云ふ、菅島の西、鳥羽町の東に当り、鳥羽湾の南偏に在り、方数町の低洲なれど、漁家船戸多し、一名千貫島と称す、相伝ふ、往時泊浦の邑主橘氏、入港の舟に収斂して、帆別銭一千貫文を数へたる故跡とぞ、神宮雑例集、志摩|酒滝《サカタキ》島と云あり、即坂手にあたるか。〔三国地誌神都名勝誌〕○万葉集、佐堤《サテ》の崎と云は此島なるべし、網児山吾児浦は答志崎泊浦同処なりと思はるれば也。 網児の山いほへかくせる佐堤の崎さてはへし子の夢にし見ゆる、〔万葉集〕 市原王
補【千貫島】答志郡〇三国地誌 坂手村にあり、伝云ふ旧領主橘宗忠の時取手山に於て取斂する所の帆別銭一千貫を以て供仏施僧す、是を報徳会と云、此地其会場なり、故に名く。○坂手島(坂手村)万葉集佐堤乃崎。○神都名勝誌 雑例集に酒滝島とあるは是ならん。
阿胡浦《アゴノウラ》 鳥羽浦の異名なるべし、日本書紀万葉集を合考するに、持統天皇阿胡浦の行宮に臨幸あり、柿本人麿の詠歌に手節崎|五十等児島《イラゴノシマ》嗚呼児浦《アゴノウラ》を読入たり、又市原王の吟に「網児の山五百重かくせる佐堤の崎」の句あり、手節崎は答志島に在り、佐堤崎は坂手島に在るぺければ阿胡浦は鳥羽浦なること推断すべし、殊に参河国なる五十等児を詠じたるにて、此地たる事明瞭なり。三国地誌に「持統帝阿胡行宮址詳ならず、阿胡山は甲賀《カフガ》村に在り」と、甲賀は英虞国府の在所なれど、五十等児と相対する地に非ず、且神功紀に「吾《アゴ》田節《タフシ》の粟郡《アハノクニ》」の語あれば、吾《アゴ》と田節《タフシ》は別立の名称に非ず、佐芸郡を後世英虞と改めたるより、古の阿胡を英虞郡に求むるは不当なりとす。○持統紀、六年、行幸志摩、御阿胡行宮時、進贄者、紀伊国牟婁郡人阿古志海部河瀬麿等兄弟三戸、復十年調役雑※[にんべん+(徭−ぎょうにんべん)]、復免挟抄八人今年調役。
幸于伊勢国時、留京、柿本人麿作歌、
鳴呼児《アゴ》の浦に舟のりすらんをとめらが珠裳のすそに汐満つらむか、〔万葉集〕波賀地《ハカチ》浜は今詳ならず、山家集に見ゆ、蓋鳥羽浦答志島の地なり。
いらこ崎にかつを釣舟ならび浮てはかちの浪に浮びてぞよる、〔山家集〕
補【阿古也玉】○延喜式 民部式、志摩国白玉千顆、内蔵寮式、白玉一千丸、志摩国所進。 伊勢の海のあまの島津があはび玉取て後もか恋のしげけむ(万葉集)
武烈紀に「婀波寐之羅陀魔」とあるを真珠と私記に釈す、蝮より出づる所の者最上品なればなり、一名阿古屋玉と云ふ、世に伊勢尾張より産すと称すれど志摩を以て大なりとせる也、延喜式に照らして知る、
沖つ島い行きわたりてかづくちふ腹珠もが包みてやらむ(万葉集)
神戸《カムベ》郷 和名抄、答志郡神戸郷。○今加茂村是なり、鳥羽町の南なる朝熊|青峰《アヲミネ》両山の麓に居る、延喜式に鴨部《カモベ》に作る。
加茂《カモ》 鳥羽の南数町、鳥羽の支湾、浅水の頭に舟津《フナツ》と云民家あり、即加茂本郷と称し、延喜式「志摩国、鴨部、駅馬四疋」と云地は此とぞ、加茂明神あり、舟津の南谷には河内松尾等の大字ありて、山峰之を環繞す、中にも西境朝熊山(度会郡に詳にす)南境青峰山を高峻と為す。
虚空蔵《コクザウ》寺 加茂郷河内に在り、円珠山と号し、本尊菩薩は弘法大師の刻と云ふ、本堂の東に飛泉あり、又起雲吐虹の二大石相対す、最勝景の境なり、貞治年間、雲海上人と云僧此に万座の護摩を修し、求聞持法を行ひ、遂に入定したりとぞ。〔三国地誌〕寺の西嶺は即朝熊山なり。
補【虚空蔵寺】答志郡〇三国地誌 河内村に在り、旧円珠山と号す、天長三年空海開基、本尊虚空蔵、則自刻かと云、堂山頂にあり、傍に伽藍神とて弁才天迦利諦母□崖の三坐あり、堂東に飛泉あり、其他に雲根石及虹起石あり、吃立して相対ふ、其の石雲を起し虹を吐く、故に此名ありと云、貞治年間雲海上人此山上に於て万座の護摩を修し、求聞持の法を行ひ、然後入定すと云、凡そ本国第三の山峰にして、最大の景勝也。○今加茂村。
青峰《アヲネガミネ》 加茂村大字松尾の南嶺なり、標高六百米突、志州第一の絶嶺とす、山南は磯部村的矢村とす。
遊志州作 随斎
青峰絶頂俯蒼茫、山尽天空海色長、何数雲夢呑八九、寸眸下瞰大東洋、(青峰) 屈曲山蹊上碧岑、遙船葉散海中心、春天※[雲+愛]※[雲+逮]陰晴変、島樹汀煙浅又深、(塩屋嶺)
苧浦《ヲノウラ》 今加茂村大字安楽島及び鏡浦村是なり、加茂村の東にして北に菅島あり、海水湾入して西北鳥羽湾と水路を通ず。東鑑、文治元年、於志摩国麻生浦、加藤太光員郎従等、搦取平氏家人上総介忠清法師、伝京師。
安楽島《アラジマ》 今加茂村に属す。鳥羽の東なる半島状の地なり、東北は坂手島菅島の間に狭水道を通ず、民家は東面に在り。〇三国地誌云、一書荒島に作る、加布良胡崎あり、延暦儀式帳に赤崎加布良胡神と云ひ、和論語に志摩大明神安楽島に坐す、前の海を加村子の瀬渡と云ふなど見ゆ、此瀬渡即菅島荒年の間也又云、荒島に「蒔かず麻」と云野草あり、万集集の桜麻と云は是ならん、
さくら麻のをふの下草つゆしあればあかしていゆけはははしるとも
古今集、伊勢歌、をの浦の地名あり、顕注密勘曰「麻生浦なり、志摩国にして、斎宮御荘、献梨之処」云々、今|浦《ウラ》村に片枝梨《カタエナシ》神社あり、梨樹は亡し。
麻生の浦にかたえさしおほひなる梨のなるもならずもねて語らはん、〔古今集〕
伊可《イシカ》郷 和名抄、答志郡伊可郷。郡郷考云、神鳳抄、志摩国伊志賀御厨あり、伊可は志の字を省きたるなるべし。○今鏡浦村大字石鏡あり、其海中岸を距る数百間に石鏡《イジカ》と云奇岩あり、之に因り旧麻生浦を改めて鏡浦と称す、本郷の地は鏡浦長岡の二村の域に当る。
国崎《クサキ》 今|長岡《ナガヲカ》村と改称す、東は外洋に面し、海岸暗礁多し、国崎|相差《アフサス》の二大字に分る、相差の南岬を菅崎と曰ふ、的矢湾口の北角に当る。○国崎相差は潜女の名所にして、之を伊勢蜑と称し、伊勢神宮へ年々鮑を進献する事、三国地誌に見ゆ。倭姫命世記曰「島国国崎島鵜|倉《クラ》慥柄《タシカラ》等島に朝御饌と詔て由貴潜女《ユキノカヅキ》等定給」神宮雑例集|国碕《クサキ》神戸に作る。○大日本史に太平記を援きて云「伊勢国国埼神戸、有僧円成、謁大神宮、獲宝剣、齎造藤原資明、納之于宮、藤原経顕諌之、光明院従之、還其剣而納之平野杜。」
補【国崎】○倭姫命世記〔重出〕曰、幸行島国崎島ニ、朝御気夕御気卜詔而、湯貴潜女等定給テ。太平記曰、伊勢国国崎神戸(神宮雑例集云、国崎本神戸)按、倭姫命此島に赴き給ふ時、朝夕の御饌を貢がしむるの旧例に依て、今に至て毎年三祭礼の時、石決明・栄螺の類を神宮へ進献すと云。
的屋《マトヤ》 今的矢村と曰ふ、長岡磯部二村の間にして、港湾あるを以て小市邑を成す、神鳳抄、的屋御厨。
暮抵的箭港 随斎
燈影依微暮靄横、便風直向海門行、扁舟着岸月光白、誤蹈軽波驀有声、
的矢湾、東向し、其南角安乗埼と北角菅埼との間幅凡六鏈半なり、大船の最好錨地は、偏北風の時には、港の北部畔蛸村の前に於て、安乗埼燈台を南東に望みて泊す、小船の避泊地は処々にありといへども、就中的矢村落の南面を第一とす、即|渡鹿野《ワタカノ》島ありて、其錨地の南方を塞ぎ、的失浦を包む、此湾は尚西方に屈折すること凡二海里半にして、広濶なる浅き鹹湖と為る。〔日本水路志〕
補【的矢】答志郡○地誌提要 南に渡鹿野島あり、菅崎灯明台岬を以て海門となす、海口より港に至る凡そ一里余、東西九町南北四町、深六仞四尺余、東少南に向ふ。
安乗港 同上湾内の南方にあり、東西七町南北三町余、深三仞より五仞に至る、正北に向ふ。〔安乗、参照〕
〔随斎、「塩田随斎、名華、字土鄂、伊賀人」〕
千賀《センガ》 千賀《センガ》畔蛸《アタコ》二村は、今長岡村に属すれど、的矢湾に臨み安乗村と相対す、北に青峰の嶺脈を負ひ、海水亦深きを以て、巨艦の風涛を避けて入泊することあり。
伊雑《イザハ》郷 和名抄、答志郡伊雑郷。○伊雑本書伊椎に作る、延暦儀式帳「答志郡伊雑村」と云ふによりて改む、伊雑に上下の両郷あれば、本郷は下郷に当るべし、今磯部村の南部大字下之郷|穴川《アナカハ》坂崎及的矢村等なるべし。
的矢湾の一支、西に斗入して鹹湖と為る、伊雑潟と曰ふ下之郷穴川坂崎等を繞る、上之郷は其北方高地にして、青峰の南麓なり。○坂崎は永承五年旧案に「答志郡坂崎東磯地并塩田解文」あり、〔三国地誌〕坂崎より東に踰ゆれば、国府村、南に踰ゆれば鵜方村、共に旧英虞郡の域なり。
磯部《イソベ》郷 和名抄、答志郡駅家郷、延喜式、志摩国磯部駅馬四疋。今磯部村大字上之郷沓掛の辺に当る、即伊雑の上郷にて、沓掛《クツカケ》と云は駅舎の旧地たるべし、延暦儀式帳「伊雑宮一院、在志摩国答志郡伊雑村、大神宮相去八十三里」と此宮は今大字上之郷に在りて、宇治内宮神城を距る二里余とす、八十三里(六町一里)は過長の疑あり、蓋八は凡字の誤か。
伊雑宮《イサハノミヤ》 今磯部村上之郷に在り、官幣に列す、高宮と称し、又一宮と曰ふ、天照大神の遙宮にして、倭姫命初めて之を祭り、神功皇后、筑紫軍中に神教を請ひ給ふ時「幡荻穂に出る吾は尾田《ヲタ》の吾田節《アタフシ》の淡郡《アハノクニ》神」と名宣らせ給ふ、蓋大神の妹稚日女尊を祭る、即武庫の生田《イクタ》に祝奉る神也、後世巫祝の徒往々異説あり。延宝中、本宮の神主某僧大潮と謀り、旧事大成経を贋造し、一世の視聴を駭したることあり。
倭姫命世記云、伊雑宮一坐、初め垂仁天皇御世、鳥声高く聞え昼夜止まず囂しかりき、倭姫命此異しと宣て大幡主命等を使に差遣して、其を見せしめ給ふに、「島国《シマノクニ》伊雑方上《イサハカタノヘ》の葦原の中に、本は一本にして、末は千穂茂り生たる稲あ り、其稲を白真名鶴咋持廻りつゝ鳴つる」由返申す、時に倭姫命「事間はぬ鳥すら神田作りて皇大神に奉る物を」と詔給て、物忌始給ひ、伊佐波登美神をして其稲を抜穗に抜しめて、大神の御前に懸久真《カケクマ》に懸奉り又乙姫に其稲もて清酒作らしめ御饌に奉り始き、仍て其地を乎田《ヲタ》と号て、即伊佐波登美神神宮を造り奉り、後神教あるを以て玉柱屋姫命を配祭る、(神教已下拠鎮座伝記)玉柱屋姫は天牟羅雲命裔、天日別命(伊勢国造)の女なり。○延暦儀式帳云、伊雑宮一院、称天照大神遙宮、御形鏡座。延喜式云、伊雑宮一座「伊勢皇大神宮遙宮、在志摩国答志郡、去大神宮南凡十三里、(凡原作八)又云、答志郡粟島坐、伊射波神社二座、並大。○按に伊雑宮は粟島《アハシマ》の乎田《ヲタ》(倭姫命世記一作千田)と云地なり、同処に神乎多乃御子社あるに参考せば明白なり、神功皇后筑紫の神教亦之に因りて徴すべし、又伊雑宮一座二座の相異あるは、配祀を数ふると否とに関す。
神祇志科云、伊雑宮、大同元年神封二戸を充奉り、〔新抄格勅符〕祈年神嘗の祭に預り、内人二人物忌父各一人を置く、〔延喜式〕大神宮別宮七処の一也、〔神名略記〕後世蓋玉柱屋姫命を相殿に配祭る、〔倭姫命世記元享三年記〕養和元年正月、熊野堪増の徒志摩国に濫入り、伊雑宮を破り神宝を奪ふを以て、禰宜成長等御体を内宮に移奉り、之を鎌倉に訴ふ、文治三年、将軍源頼朝弟義経追捕の祈に依て、神馬を奉らしむ、〔東鑑〕承久元年、朝廷大神宮別宮伊雑宮の御体を本宮に移す事を議せらる、熊野悪徒等島々を乱るに依てなり。〔百錬砂〕
補【伊雑宮】○伊雑宮は磯部上郷に在り、大歳宮は磯部恵利原に在り。〇三国地誌 延暦儀式帳曰、伊雑宮一院(在志摩国答志郡伊雑村、大神宮相去八十三里)称天照太神遙宮、御形鏡坐。○倭姫金世記曰、伊雑宮一座(天牟羅雲命裔、天日別命子、玉桙屋命是也、形鏡坐。○御鎮座伝記同之)○或は一座とし或は二座とす、度会神宮の考証あり、本祀伊佐波登美命にして玉柱屋姫命を従祀するの考あり、上古の事体考ふべからずと雖、理或は然らん。
粟島大歳《アハシマオホトシ》宮 伊雑宮同処に在り、大歳宮又|穗落《ホオトシ》宮と称す。延喜式「答志郡粟島坐神乎多乃御子神社」是なり、倭姫命白鶴の稲を咋持ち田作りて天照大神に供奉るを看給ひ、其真鳥を称号して大歳神と云ひ、伊雑の乎田に祝奉る由縁、詳に世記に載せたり、大同元年粟島神に志摩地二戸を封奉る。〔新抄格勅符〕
補【粟島大歳宮】○神祇志料 粟島坐神乎多乃御子神社、
按、伊勢神宮注進状、伊射波神社同域旧社址あり、蓋本社なり、又按倭姫命世記手多、疑くは千多に作るべし
蓋大歳神を祭る、大同元年粟島神に志摩地二戸を以て封戸に寄せ奉る(新抄格勅符)
安国寺《アンコクジ》 磯部村大字|沓掛《クツカケ》に在り、安国と云は足利氏毎国配置の浄刹なり。○沓掛は上之郷の北、青峰の下にして、北は加茂村旧鴨部駅に通ず、此地は古の磯部駅舍の址なるべし。
逢坂《アフサカ》山 逢坂山は、磯部村上之郷より恵利原を経て、西北宇治内宮に至る通路にあたる、上之郷より凡一里半にして 分水界に至り更に神路山御料林を経て、神苑に達す、又一里半と云ふ。○逢坂の麓、路を去る三町許に、鸚鵡岩と云者あり、高十七間、横七十間、善く音響を反射し、石のもの云ふに似たり、土俗カケイシと呼ぶ、又逢坂の頂に近く水穴風穴の二洞あり、水穴(距路二町在左谷)土俗滝祭窩と名づけ、奇石重畳、相抱擁して猛獣の口を開くが如し、清流清淙として其中より奔出す、燭を照らし之れに入れば、凡六丈にして一瀑布の在るあり、風穴と云は(距路三町在右谷)岩石の状略相同じ、口を北面に開く、之に入れば中更に数所の支洞あり、或は狭く或は大に、延長三百余尺とぞ。〔神都名勝誌〕蓋石鍾乳洞なり。
石辺山中 随齋
雲煙漠々晩山稠、雪作氷花結樹頭、点々石※[石+工]行不尽、四十八曲乱渓流、
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英虞《アゴ》郡 明治二十九年廃し、其地を答志郡に併せ、志摩郡の新号を立つ、和名抄阿呉と註し、八郷に分つ、其答志郡和具郷も本郡の属と思はるれば、都べて九郷とす。○初め養老三年答志郡五郷を分ち佐芸《サキ》郡を置く、後沿革して之を英虞に改む、其改号の事史書に所見なし、延喜式和名抄以下に英虞の名著る、之より先き持統天皇六年阿胡行宮に臨幸の事あり、然れども当時の阿胡は答志島坂手島の辺を指し、後の鳥羽なるに似たり、(阿胡浦参考すべし)後世その名を仮り郡号を立てしのみ。国郡沿革考云、佐芸郡改称のこと史に見えず、然れども答志郡を割きし地は、英虞郡之に充つべき者なし、且今も波切《ナキリ》以南の半島を、猶崎志摩と呼ぶは土人の旧習なり。○本郡の西部、十中の七は後世牟婁度会二郡に入り近世は浜島村以東方三四里の地を剰せるのみ、即和名抄、甲賀郷名錐郷和具郷等なり、其他船越道潟芳草の三郷は度会郡に併せられ、二色郷は北牟婁郡と為り、神戸余戸の二郷は其実地を失ふ、本編は便宜の為め、其旧地を志摩郡の次に列記すべし。
補【英虞郡】○持統天皇六年五月庚午御阿胡行宮。按、佐芸郡改称の事史に見えず、然れども塔志郡を割きし地此郡の外之に充つべきなし、且名切村以南の半島、今猶土人之を先志摩と云ふ、是佐芸の遺名ならん、之を以て考るに後阿胡宮を以て国府となし、因て郡名を改めしならん。○英虞の名は御座島の和具村より起るか、此郡の西方大半は今度会牟婁の二郡となる、波切甲賀二郷存す。
安乗《アノリ》 今安乗村と云ふ、的矢湾の東南岸に居り、其東は大洋に向ふ、燈台あり的矢湾口の南角に当る。此地は国府村の東北に突出する長四十町許の岬角にして、的矢湾の屏障を成す者也、船舶は的屋千賀浦に入泊す。○安乗旧畔乗に作る、台記、久寿元年内膳預|畔乗《アノリ》御厨と、大神宮伊雑神戸相論の事見ゆ。此地は慶長五年東西戦乱の際、鳥羽城主九鬼父子対陣にあたり、子守隆の陣処也、徳川幕府の時、貢穀転漕の一泊所と定め、条目を頒布せられ寄船多し、志州四港の一なり。〔三国地誌〕○野史云、九鬼守隆、慶長五年不得人鳥羽、修繕畔乗塞拠之、聞氏家行広(桑名城主)迎兵艦、出兵奪之、家康賞其功、約賜南勢五郡。
※[てへん+欣]舞如塵万石舟、盲風怪雨撲檣頭、東西不弁乾坤黒、一点星燈是志州、 百尺懸崖震万雷、巨巌如撼雪濤推、纔沿裡海平如席、帰港漁舟棹月来、 随斎
国府《コフ》 磯部村の東、安乗村の南に在り、東は大洋に面ふ、和名抄、「志摩国府、在英虞郡、行程上六日下三日」〇三国地誌云、国分寺山此村に在り、上に堡址を見る、是は三浦新肋の拠る所にて、新助は豆州の士、三浦四品義同の季子とぞ。(永正中三浦氏亡び其族渡来せるか、又伊勢平氏の一党に夙く三浦族あり)按に此地は海上荒茫の沙岸にして、最も僻土なり然れども其|国分《コクブ》寺址を残すに止らず、土俗コフと称するは、古の府庁在所たるを徴すべし。蓋和名抄甲賀郷に属す、三国地誌は阿胡山の称は甲賀郷に存すと云ひ国郡考は阿胡行宮に就き英虞国府を定めたるならんと云ふ。(日本後紀、大同四年、始遷志摩国国分二寺僧尼安置伊勢国国分寺)
補【国府】答志郡〇三国地誌 和名抄英虞郡国府とす、今本郡に属す、其沿革の詳なるをしらず。○安乗甲賀二村の間に国分浦あり。
○英虞郡甲賀郷にあり、和名抄、国府在英虞郡、行程上六日、下三日。今国府村答志郡に属す、是古英虞郡の地にして、後郡界変遷せしなり。○延喜式、近国下国。
補【国分寺】○国府村。〇三国地誌 国分寺山の西に堡あり、三浦新助之に拠る、新助は伊豆国士三浦四品義同の季子。
甲賀《カフガ》郷 和名抄、英虞郡甲賀郷。○今甲賀村国府村安乗村等にあたる、南は波切村に至り、東に海洋を抱く、神宮雑例集云「志摩国甲賀村神田」。
名錐《ナキリ》郷 和名抄、英虞郡名錐郷。○今|波切《ナキリ》村|立神《タチカミ》村|三和《ミワ》村船越村等是なり、甲賀郷の南に接し、西南は船越の地峡を以て御座半島(即崎志摩)に接続し、東に外洋を控へ西に御座湾を抱く。
波切《ナキリ》 今波切《ナキリ》村と呼ぶ、志州東南隅に当り大王崎に倚り小港を作る、然れども海面険悪、航走に難んずる所なれば、静和の日小舟に非れば出入するなしと云ふ。神風抄名切に作り、東鑑|菜切島《ナキリシマ》に作る、東鑑曰「治承五年正月、関東健士、平家所遣伊豆江四郎、警固志摩国、今日熊野山衆徒、競集菜切島、襲江四郎之間、郎従多疵敗走」と、又戟国の世に九鬼氏此地に来住し、砦を起し船を造り、遂に海上に雄張す、此地は熊野灘の東堺にて、北に折れて遠州洋に接す、東海の一要害なり。〇三国地誌云、九鬼氏は其先熊野法師湛増より出て、九鬼村(北牟婁郡)に住したり、孫次郎隆義始て波切村に来り砦を構へて之に拠る、隆義五世の孫義隆、永禄十二年、織田氏に属し、勢州合戦の時、船将を以て武功あり、遂に加茂五郷磯部九郷を略取し、鳥羽に移り大隅守と称す。○野史及続日本史云、九鬼嘉隆八世祖隆長、戦与七島人克之、奪波切名田畔名立神等地、高祖泰隆、援北畠氏、与山田神官戦破之、受二見郷地、兄浄隆継家、七島人併兵来攻、浄隆会疾而死、子澄隆嗣、年尚弱、義隆以叔父輔之、澄隆又死、義隆承祀、義隆初称右馬允、撃破七島悉降之、七島者石川(石鏡)相差和具小鹿(越賀)荒島甲賀浜島是也。 聖人峰下千山低、大王礁外万里迷、咋宵投宿知何処、浦雲隔在夕陽西、
島雲消尽放春晴、波載厳頭鴉乱鳴、東海日升金閃※[火+樂]、遙山白雪半天明、 随斎
大王《ダイワウ》崎 波切大鼻と称す、※[山+(讒−言)]岩東南に突出する凡一百五十間、西南斜に麦崎に対し、相距る凡三海里、北は安乗崎を去る凡五海里とす、崎東三鏈半に大王岩あり、高十九呎、海底険悪なるを以て、半海里以内は近くべからず、名田《ナツタ》は波切の北に接す、今三和村と改む。船越《フナコシ》は波切の西に在り、御座湾と大洋両面に臨み、崎志摩半島の頸に居る、都て船越と云名は地峡に命ぜらるゝを例とす、古人刳船を負ふて左右の江湾に移越したるに因るにや。
補【大王崎】英虞郡○地誌提要 又大鼻と云ふ、波切村※[山+(讒−言)]巌東南に突出する二町三十二間、其東六町を距り大王岩あり、航客の尤注意すべき所なり。
立神《タチカミ》 船越の北なる村にて神鳳抄にも見ゆ、鵜方村と共に御座湾の奥に居り、山海分裂、欠者浦と為り、張者岬と為り、凸者は島と為り、凹者は江と為り、状態紛雑を極む、高処に倚りて願望、亦州の一景なり。
補【立神】英虞郡○神鳳抄、答志郡立神御厨。○今立神村。
和具《ワグ》郷 和名抄、答志郡和具郷。○和名抄には和具を答志郡に属せしめたれど、和具村今崎志摩に在りて、此辺郷名を欠けば、和名抄の謬なること著し、故に今改む、神鳳抄に和具見ゆ。
崎志摩《サキシマ》 今御座|越賀《コシガ》和具|布施田《フセタ》片田の五村に分る、此地は東西三里南北里に満たず、波切の西南に横はる一島なり、唯船越村に於て幅数町の頸地ありて、之に接続す、北面を洗ふ海水は御座崎より彎人するを以て、或は御座半島と曰ふ。○人類学会雑誌云、和具は志摩南端に在る半島、俗にサキンマと云ふ処の中央にあり、純粋の漁村にて人家六百許り魚類を捕ふることは、志摩国第一等と云ふ、蜑女に二種あり、第一種は三四尋まで入るものにて、此等は十数人隊をなして一所に行き、各自に一個の大桶を浮べ獲物を之に入れ又之に取りつきて休む、第二種は十尋乃至十二尋にも入るものにて、是は真の蜑女なり、夫婦にて一舟に乗り、婦は水に入りて生き物を拾ひ、夫は櫓を漕ぎ又ひしにて魚を刺し取る、此等は年中水に入るが業にて、厳寒にも休まずと云へり。
片田(神鳳抄片田御厨)布施田二村の間には麦崎突出し、其南海は危礁乱立す、和具越賀御座の諸村次々に列す、越賀《コシガ》は 今エツガと訓む者あり、志州四港の一所なれど良泊に非ず、其背に金毘羅山聳ゆ。
補【越賀】英虞郡○神鳳抄、答志郡越賀御厨。〇三国地誌、又四津の一也。
麦崎《ムギザキ》 日本水路志云、麦崎は御座崎の東方五海里許、大王崎の南西風三海里にある一斗出角にして、奇形なる一叢林あり、高七十呎、岩灘多く海底険悪なり、麦崎の西南二嶼あり、此二嶼の四方は長礁奇岩散布し、海浪之に激して飛散す、是れ大王崎附近の強潮が波涛を誘起するに因る也、最著明にして礁帯の白浪を吐くもの七箇あり、之を鳴神礁といふ、又神の島は土俗オカメと云、鳴神礁の南なる一岩礁にして、半潮に露出す、海浪常に之に激して飛散す。
御座《ゴザ》 崎志摩の西端なる村なり、節用集伊勢国に御座島《ゴザシマ》郡の名を挙げたるは、本村に因りて崎志摩を指せる私称なるべし、御座湾は浜島湾の東支にして、深入五海里、幅三海里に上る、許多の浅澳岬埼ありて、島嶼岩礁之に雑る、船舶の泊地に適せず。○御座崎は浜島湾の東角にして、御座湾の南角を成す、鬱蒼たる石崖にして、其左右に沙磧の洲浜あり、東に金毘羅山を負ひ、遠望各方極て顕著なり、白良《シララ》浜と号する由、三国地誌に見ゆ。
波よする白良の浜のからす貝ひろひやすくもおもほゆるかな、〔山家集〕
鵜方《ウカタ》 磯部村の南にして、御座湾の浅襖に臨む、東南は立神村に至り、山海の形状、分裂して摸索に苦む、神鳳抄、鵜方御厨と云者此なり。○按ずるに和名抄英虞郡神戸余戸の二郷今其処を知らず、鵜方浜島の古郷名は当に其一に居るべし。
浜島《ハマシマ》 鵜方村の西にして、今志摩郡の西隈と為す、浜島村と云ふ、浜島港は中央に在り、御座崎と相対し南北相距る一海里半、其北なる大字迫子、西なる南張《ナンバリ》共に神鳳抄に載す。〇三国地誌云、浜島港は志州四箇津の一にして、水深十仞、風涛の日と雖、港中の繋泊船は覆没の患なしと称す。
浜島渡 随斎
島嶼※[(營−呂)/糸]環浦口廻、海門中断一天開、紫瀾纔砕白波立、百道驚風捲雪来、
女郎揺櫓載洪濤、奔沫翻珠濺客袍、南紀山遙滄海濶、宝陀峰雪刺天高、
蜑戸鮫人聚作家、層崖疊※[山+章]接平沙、春風微※[山+肖]南州路、開遍山茶樹々花
浜島湾は南に開き、田曾崎を西角とし、御座崎を東角とし、濶三海里、浜島港は其東北隅に位置し、浦口に閂洲あれども、善く各方の風を避け、小船の錨泊に可なり、湾勢尚東に向ふて深入し、許多の浅澳ありと雖、暗礁散布して船を行るに危険なり。
補【浜島】英虞郡○神鳳抄、迫子村、今浜島に属す。○日本水路志 西北に向ひ濶一里、港勢数海里東方に深入し、許多の浅澳ありと雖、島嶼暗岩散布し、船舶を行るに困難なり。浜島浦は北岸に位置し、よく各方の風を避け小船の錨泊に可なり、然れども浦口に閂洲あり。南角御座岬は鬱蒼たる石崖角にして、高さ三六〇呎、其東方金毘羅山は高さ四一四呎にして、頂上に一叢林あり、各方より望むに極めて顕著なり、北角は田曾崎にして御座埼と斜に相対す。
補【南張】英虞郡○神鳳抄、奈波利御厨。〇三国地誌 此地は志摩の南極にして、眺望茫洋その涯を知らず、南へ張るの義にてかく名づけられしか。○今南張以西を度会郡とす。〔随斎、「塩田随斎、名華、字士鄂、伊賀人」〕
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船越《フナコシ》郷 和名抄、英虞郡船越郷。○今|五箇所《ゴカシヨ》村(大字舟越)神原《カンハラ》村|穗原《ホノハラ》村|宿田曾《シユクタソ》村是なり、度会郡に属し、東は志摩郡浜島村に至り、北は沼木村、西は一之瀬村中島村に堺し、皆限るに山嶺を以てし、南は大洋に向ひ、中に五箇所湾を抱く。船越の名は今五箇所村に属し、中津浜と云半島を前にし、其頸部に居る、凡古人船越を以て地頸に命名せる例諸方に多し。神鳳抄、志摩国船越御厨。
補【船越郷】英虞郡○和名抄郡郷考 神鳳抄志摩国船越御厨。年中行事、船越。志陽誌、船越村。民部省図帳、船越浦公穀二千九十八束、仮粟千七百四十丸、円位上人結夏之庵旧在于此、号西行洞。○宿、田曾村、神原村、穂原村、南海村。
五箇所《ゴカシヨ》 今五箇所村と曰ふ。五箇所浦の主邑にして、北に龍泉山峙つ。(三八〇米突)○日本水路志、五箇所湾は田曾埼相賀埼の間に在り、口幅大凡一海里、偏北に入ること四海里、中央に於て三支に分る、其西方の二支は澳口を共にし、西南と北々西とに入る、東方の一支は北と東に曲入し、狭き舟越半島を挟みて、西支と相隔つ、各支内又小澳多し、五箇所村は東支の東澳是なり、本湾の好錨地は、西支の迫間《ハザマ》村附近礫浦を第一とす、此処能く各方の風を遮断す、他の支澳は南方より強浪来ること多きを以て、碇泊に便ならず。五箇所村字城山に塞址あり、雑木茂生し、櫓楼濠塁古井の跡を遺す、古老伝へ云、中世愛洲氏之に居る、天正年中重明の時、北畠国司具教に攻滅せらると。〔五鈴遺響三国地誌〕因て按ずるに五箇所東宮古和の諸浦、英虞郡を離れて、度会郡に入るは、此時にやあらん。田曾《タソ》は五箇所湾の東角にして、東は御座崎に対す、田曾宿の二浦は今併せて宿田曾村と曰ふ、前に桂島と名くる小嶼横はる。
佐々良《ササラ》は今|礫《サザレ》浦に作り、村名を南海《ミナミ》に改む、神鳳抄、「志摩国佐々良御厨」此なり、水深七八尋、船舶の来泊あり、土俗フクラと称す、フクラの南|相賀《アフカ》に赤石鼻あり、田曾埼に対向す、一名|里前《サトマヘ》崎と曰ふ、神鳳抄「志摩国相可御厨」。○佐々良浦の西嶺は尾を南方に延き、慥柄湾の東側を蔽ふ。補【五箇所湾】度会郡○地誌提要 田曾浦と相賀村の赤石鼻と相対し、正南に向ひ湾をなす、相距る凡そ三十町、東西凡そ一里、南北一里二十五町、湾の極北五箇所浦あり、東西五町南北十二町、深四仞より十仞、南に向ふ。迫間浦 港の西方にあり、東西十八町南北七町、深六仞より十仞に至る。下津浦 同湾東北にあり、東西十二町南北四町、深五仞西に向ふ、港西七日島あり、周囲廿一町。
○日本水路志 田曾崎と相賀の里前崎との間にあり、港内村落多く、且港背には龍泉山あり、高さ一二八〇呎、童山にして著明なり 。
補【愛洲城址】度会郡○伊勢名勝志 五カ所浦字城山に在り、平坦にして雑木茂生し、天守台濠塁古井の址を存す、古老伝へ云ふ、中世愛洲氏之に居る、重明の時北畠具教と戦ひ、天正中城陥る。
補【南海】○神都名勝誌 南海村は大字迫間浦・相賀浦・礫浦の総称なり、旧志摩国なりき、今は度会郡に属せり、村名今代に立つ。○迫間《ハサマ》 内瀬の南にあり、海岸深さ七八尋あり、船舶の碇泊に便なり、土俗フクラといふ、又礫湾ともいふ、神鳳抄佐々良御厨なり。○相賀《アフガ》は礫の西南にあり、旧記に相可と書けり、神鳳抄相可御厨。
道潟《ミチカタ》郷 和名抄、英虞郡道潟郷。○潟本書浮に作る、後世|道方《ミチカタ》村あり、又神鳳抄、志摩国道方の名あるに因り之を正す。〔三国地誌紀伊続風土記〕○今度会郡中島村鵜倉村是なり、東は船越郷、西は芳草郷に至り北は東宮山を以て一之瀬村と相限る、道方と云ふ大字は中島村に属す。
補【道潟郷】英虞郡○和名抄郡郷考 上田百樹云、〔道浮〕道潟の誤か。○今按、神鳳抄志摩国道方とあり、又道行といふあり、行《ユキ》浮《ウキ》言通へばそこにはあらぬか、今伊勢国度会郡の村名に見ゆ、此辺元志摩国なり、後伊勢度会郡となれり、神鳳抄には道後と云所もあり、是も字形似たり。○今度会郡中島村大字道方、鵜倉村。
慥柄《タシカラ》 中島村の西に接し、今鵜倉村と改む、慥柄湾は贄島其西角を成し、筆島其東角を成し阿曾(中島村)慥柄の小港あれど、佳泊に非ず、一名贄浦と云ふ、○神都名勝誌云、慥柄浦は道方郷にして、倭姫命世記并に神宮雑例集に鵜倉の慥柄島とあり、国崎と同く皇大神宮朝夕の御饌御贄処と定められし旧蹟也、今に其の神戸社存せり、又皇大神宮儀式帳に神宮の四至南の遠界は鵜椋嵩を限るとあり、慥柄の西に大山と称する山あり、是鵜椋嵩ならむか、其の山の東に連絡せる小山を今に宇久良山といふ。
補【慥柄】○神都名勝誌 道方の西にあり、大同本紀・神宮雑例集等に見ゆ。
贄浦《ニヘノウラ》 旧慥柄湾の別名なり、今湾中一港の名と為る阿曾浦の西、大石鼻の陰なる小泊処を云ふ。神都名勝誌曰、贄浦は南海船舶の上下する者、必此に潮がかりするを以て、酒家妓楼軒をつらね頗殷賑なり。亦湾曲には牧島雀島などありて、風光謂はむ方なし。○古事記伝云、錦浦(今北牟婁郡)より今道五里計東に牛島と云あり、其十町計海中に、大石と云ていと大なる石あり、白橿原宮御宇天皇御歌に「加牟加是能伊勢能宇実能意斐志爾波比母登富呂布志多陀美」云々とあるは此地とぞ、凡て上代には由もなき他国の事を引出しよめることばなし、彼錦浦までも天皇幸行しかば、其時に親しく看そなはして、御目に附たりしかば、後に念出られつるなり、今も其意斐志に細螺《シタダミ》多く生附《ハヒツケ》けりと。(此説附会ならん)
東宮《トウグウ》 今鵜倉村に属す、旧|土貢《トク》島と云ふ、贄浦の西にして、別に一浦を為す(今|奈屋浦《ナヤウラ》とも称す)北に東宮山を負ふ.即鵜椋嵩にして 高凡五百米突、浦口は半島と方座崎を以て両角と為す。○日本水路志云、奈屋浦は慥柄の西にある一湾なり、湾口濶さ一海里、贄島に由て慥柄浦口と相隣す、此湾は湾入二海里半にして、狭窄なる二支に分る、一は北々東に向ひ、湾首に奈屋村あり、一は北々西に向ひ湾首に神前《カンザキ》浦河内浦あり、(吉津村)奈屋浦湾内小嶼多く皆※[こざとへん+走]界なり 。
神都名勝誌云、東宮の村社は土俗へンバイの森といふ、此の社に大なる石の鳥居あり、寛文三年河村瑞賢奉建したりといふ、明の帰化人陳元※[斌/貝]の銘を刻せり、河村瑞賢は東宮浦に生れ、経済の大才を展べて、名声を当代に馳せ、功利の後世に垂るゝ者あり、江戸に歿し鎌倉建長寺金剛院址に葬る、紀府講官榊原玄暉其墓※[石+曷]を序銘す、其文中に曰く、
君諱義通、元和四年生於勢州度会郡東宮荘、生而穎悟有気、年始十三往江都、偶儻不羈、日与都下少年游、人未有知之者也、既冠称十右衛門、其用才能施之治生、居無幾致富、以貲雄一世、而未嘗急近功小利、争錐刀之末矣、人亦莫能窺其以何才而然也、当時権要皆以為材、而未乃用焉、寛文中始挙、掌奥羽等州漕運事、巡視東山北陸山陰西海山陽東海等、義※[しんにょう+堯]沿海地方、風梳雨沐、跋渉殆乎万里、籌策処置、巨細悉備、官糧若干、無升斗沈流、※[(聲−耳)/缶]達于江都、某所施設、以為有司之法也、大君嘉賞、賜黄金三千両、延宝天和之間、摂河二州之民、※[さんずい+存]苦水息、天和癸亥三月、少国老稲葉某奉命、巡視河道、以求※[さんずい+(叡−又)]治之策、君亦従之、呈其所見、既而竣功之議定、九月君奉差、専掌工役事、貞享改元、其二月起役、疏※[さんずい+(叡−又)]築鑿、各有条理、要之※[さんずい+(叡−又)]壅導滞、便河水直達于海而已矣、苦心焦労、五年而河功始完、水患既平、実貞享四年五月也、元禄二年、専管各所山場、開採金銀礦、煎弁奥州豆州等坑、四年移病解事、十一年賜禄百五十俵、令聴少国老指揮、時年八十、先是帰仏参禅、自称法名曰瑞賢、至是更称平太夫、奉命菅守摂河等州河功、蓋前年余功猶有可治者也、十二年河功畢、三月帰江都復命、此日※[まだれ+陰]其一子見之、六月十六日、以疾終于正寝、享年八十二、君為人剛毅方重、外威厳内淵雅、慕古人非常之功、視世俗屑々、君無一足為者、慨然有志軍国之略、而無時施之矣、若夫身起市井、致富巨万、終獲食禄、時人雖極為栄、而非君之志也。
参宮図会云、土貢島《トクノシマ》俗にとうくと云、昔此島より柏葉を神宮にささげ、柏流しと云事|風宮《カゼノミヤ》に行はれ、其葉の流るるは吉、沈むは凶と判じたり。神都名勝誌云、東宮は旧記に土貢或は土具外具と書けり、此地に神役人十家ありて、毎年神嘗祭の節、両神宮へ秘密物(土の団子を三角栢の葉に包み賢木の枝に掛たる者也)を貢献する古例ありて、其料として和歌山藩領の時は、田十石の高を充て給はりき。
思ふこと土貢の御島のながかしは長くぞたのむしげきめぐみを、〔壬二集〕 寂阿〔未詳〕
古事記伝云「仁徳天皇の大后、豊楽《トヨノアカリ》したまはんとして、御綱《ミツナ》柏を採りに木国《キノクニ》に幸行まし、其還ります時、難波碕に其葉を散て、故|柏済《カシハノワタリ》と云ふ、記紀并に見ゆ、鴨長明伊勢記曰「此国に三角柏と云者あり、小侍従が歌に
神風や三つのかしはに問ふことの沈むに浮くは涙なりけり、
とよめり、是にて占ふ事あるにや、この度人に尋ぬれど聞及ばぬよし、云々、今の世には志摩国とくの島と云処に、木の上に蔓の様にて生たるを、昇りて伐り下すに、其蔓ひらに伏すを取らず、竪さまに落たる計り取る、神宮の祭に奉る物なりと、或人の許より贈れるに、柏の様にて、広三四寸長三尺計り、誠に常の草木の葉には似ずとあり、袖中抄曰、俊頼詠に
神風や三つのかしはに事問ふて立つを真袖に包みてぞ来る、
私云、伊勢大神宮に三つの柏を取て占ふ事あり、投るに立つは叶ひ、立ぬは叶はぬ也此故に逢ふ事を占ふに、立てば取て袖に包みて悦ぶ也。」明徳記〔古事類苑所引〕伊勢神宮の祭礼に、三角《ミツヌ》の柏葉《カシハ》の盃とて、二見の東なるササラ島と云所にて、柏の葉を取事あり、此島険阻にして通路なく、高塩の絶たる時島陰に船を浮めて、此柏の葉を浪の上へ苅落し、其神杯になるべきは必浮ぶ、是を柏の神と号す。
補【東宮】○神都名勝誌 河村瑞賢故墟、瑞賢は此地に生る、若き時江戸に遊びて千辛万苦を嘗め、終に名声を天下に轟かせり、履歴の大概は左の碑文に譲る。
芳草《ハウザ》郷 和名抄、英虞郡芳草郷。○今度会郡津島村(大字方坐)吉津村(大字神前)是なり、西は二色郷長島駅等にして、北牟婁郡に属す、北は滝原村大内山村と山脈を以て相限る。
補【芳草郷】英虞郡○和名抄郡郷考 上田百樹云、ハウサと訓か、伊勢国度会郡に方坐浦、異本に方坐竈と有、同処なるべし、此辺も古へは志摩国の地也。
吉津《ヨシツ》 今吉津村は河内神前等の大字ありて、神前は小駅を為す。神鳳抄、「志摩国、吉津御厨」東寺百合文書「正和三年、七条院領、吉津御厨」。○拾玉集云、「神宮之中、礼典之間、為永例者、長柏謂之三角柏、件柏者、志摩国吉津島土貢島内、在山中生木上也、吉津島、風土記曰、昔行基菩薩、請南天竺婆羅門僧正仏哲、植三角柏、為大神宮御園、天平九年也」云云。
補【吉津】英虞郡○神鳳抄、吉津御厨。〇三角柏伝記に吉津院と云ふ古刹ありとあれど詳ならずと、三国地誌に見ゆ(度会郡吉津村神前)○今島津村大字方座、吉津村大字神前。
方坐《ハウザ》浦 今島津村、大字方坐、東宮奈屋浦の西、古和浦の東也、神前駅の南数町に在り。日本水路志云、此浦は浦口濶凡半海里、狭窄なる二支湾あり、其東湾首に方坐村あり、泊舟に危険なれど、水深くして而も狭きに過ぎ、錨地に適せず。
古和《コワ》 今|島津《シマツ》と改む、吉津村神前の西一里にして北牟婁郡錦村を去る二里。○日本水路志云、古和浦は方坐の西二海里、浦口九鏈、偏北に向ふこと一海里にして、濶さ四縺と二鏈との二支に分かる、二支倶に一小村なり、東支は古和浦にて、北東に向ふこと八鏈潤さ平均二鏈、中央に一小岩あり、岩上に廟宇あり、西支は西北西に向ひ浦中水深しと雖狭きに過ぎ、勧むべきの錨地に非ず、船隻若し此に泊せんとせば、西支の湾首を択むべし。
北牟婁郡
北牟婁《キタムロ》郡 伊勢国度会多気郡の南、大台原山の東面なり、南は紀伊国南牟婁郡に接す、旧志摩英虞郡二色郷の地にして、天正十年、新宮城主堀内氏善略取して、牟婁郡に併入す、和歌山藩治の時、之れに因り奥熊野浦と総称す、近年牟婁郡を分割し、其南牟婁北牟婁は之れを三重県治に属せしめらる。地を按ずるに、南牟婁は本|有馬村《アリマノムラ》と称し、其形勢紀伊に属するを当然とす、故に本編は唯北牟婁を取り、志摩国の下に係くと云爾。
本郡は荷坂峠を以て度会郡に通じ、西南に走る事十里、八鬼山に至り南牟婁郡に連る、大台原其背に盤踞し、大杉谷(多気郡)北山郷(大和国吉野郡)は山嶺相限る、前面は熊野洋にして、東に崎志摩を望むべし。山高く水深しと雖、田土に乏し、鱗介竹木の産を以て生計を資く。港湾多しと雖尾鷲の外大邑なし、今一町九村人口三万、郡衙を尾鷲に置く。○三国地誌云、節用集伊勢国二色郡と云は、和名抄志摩国二色郷に当るべし。
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補【北牟婁郡】○新宮より以東の地は今三重県に属す、其地大半は古の志摩国なれども、有馬村木本浦の辺は旧来紀伊国たり、天正十年新宮城の堀内氏喜長島城を取るに及び、其以南の地を紀伊国に併す。
二色《ニシキ》郷 和名抄、英虞郡二色郷。○今|錦《ニシキ》村北牟婁郡の東端に存す、二色は本広く南牟婁郡の辺まで被むれる名なるべし、神武天皇の舟師到着せる荒坂津丹敷浦は、南牟婁郡楯崎の西に存すれば也、因て按ずるに和名抄英虞郡二色郷は、彼丹敷浦の一部にして、志摩に入れる者を曰ふ、又英虞郡余戸郷あり、蓋二色の剰余にして、此二郷今の北牟婁郡ならん、中世志摩錦御厨と云ふは、即今の錦村長島村二郷村等に当る如し。補【二色郷】英虞郡○和名抄郡郷考 名紀名勝志、長島庄長島村東一里許有長八九丁許浦、後拾遺集道明法師〔歌、後出、略〕此処もとは志摩国なり、今紀州に属す(河社にも後拾遺集なる道明法師の歌を挙て、神武紀紀伊国荒坂津を亦名丹敷浦とあれば、そこなるべしといへり、節用集丹敷浦とあり)神鳳抄、錦御厨。山家集、伊勢のいそのへちの錦の島に磯曲の紅葉のちりけるを見て「波にしく紅葉のいろをあらふゆゑ錦の島といふにやあるらん」。名蹟考、錦浦本志摩国英虞郡にあり、今は紀州に属す、然れども其地を島方と称す、島方は志摩方の義なり、伊勢のへちの錦の島、此浦の島なるべし、熊野よりゆく海浜の島にて伊勢につづけり。行嚢抄、錦浦船路の右に有、前にちひさきは袖師の浦と云小島也。
荷坂《ニサカ》峠 錦村の北に聳ゆ、抜海五百米突に及び、東宮山(古鵜椋嵩)と大台原の中間なる山隘なり、延暦儀式帳に大神宮の神界を記し、南は志摩国鵜椋嵩錦山坂と曰ふ、其錦山坂即此なり、今荷坂と呼び、其下に二郷《ニガウ》あるは、贄の謬りにや、即度会郡北牟婁郡の交界にて、札所順札街道之に係る。
錦《ニシキ》 今錦村、旧錦浦と云ふを以て、諸書に山家集に「伊勢の辺地《ヘチ》の錦の島」と云ふを此に充つ、南牟婁郡荒坂村も二木島の名を遺せば何地を真と為すべきや、紀州名蹟考云、錦浦を島方とも称す、志摩方の義なり「伊勢のへちの錦の島」と云も此なるべし、伊勢につづけば也と。○按ずるに、神鳳抄「志摩国錦御厨」又東寺文書「正和三年、七条院領、錦島御厨」あり、前者は此にて、後者は二木島なるべし、同名なれど両地相異と知るべし。日本水路志、古和浦より錦浦に至る間は、海岸三海里半、幾んど直条の岩崖にして、海に面し山脈険聳、頗高く、樹木鬱然たり、錦浦は長さ八鍵、其附近及錨地倶に危険多く、船舶に無用の地なり。
補【錦浦】〇三十三所名所図会 錦浦は長島の東一里許にあり、浦の長さ八九丁許、札所街道にはあらず、此地元は志摩国なりと云へり、今は紀州に属す。
錦の浦といふ所にて
名に高き錦の浦をきて見れば潜かぬあまは少なかりけり(後拾遺集) 道命法師
長島《ナガシマ》 長島村は度会郡|大内山《オホウチ》荷坂峠の南なり小駅にして、泊船の浦あり、長浦と云ふ、二郷村|赤羽《アカハ》村錦村等之を繞る。紀伊続風土記云、長島御厨は木本荘司文書に見え、本志摩国なり、天正中、新宮城主堀内安房守氏善、北侵して長島城を取りたるより、後永く牟婁郡に属す。三十三所図会云、長島浦は札所街道の宿にして、商家旅駕屋乏しからず、原来海浜なれば漁師の家多く、平日に綱曳鈎を垂れて活業とし、殊に鰹節を数多製する故に、家毎の軒に、竹簾をのべて、鰹の肉を乾し或は磨き又は削るもありて往来の左右せきまでに並べたり、諸国に於て熊野節と称ふるは、此辺より出るなるべし。○日本水路志云、長浦の海面に一島あり、大《オホ》島と名づけ、南北長三鏈潤一鏈、其樹頂高三四〇呎にして、海方より望めば著明也、佐波留島は大島の頂より南東にある黒岩なり、大島頂の北微西二海里に長《ナガ》浦あり、四季小船の好錨地とす、然れども大船に在ては南風を避くること難し、此湾に近づくに当て遠く海方より望むときは、険岩の散点するもの多きが如しと雖も、皆許多の小嶼にして遠く離れて航過せば、敢て危険ならず、湾の北浜は礫瀕より成り、其西側に長島、二郷の二村あり、二村の間一河口あり、此河の流通せる渓谷は能く耕種を施し、各側の山は高くして樹木鬱蒼たり。補【長島】○紀伊風土記 紀伊国牟婁郡の東北曾根庄東|古本《コノモト》長島の地、古志摩国に属す、天正中新宮の堀内安房守氏喜、長島城を取りしより後永く紀伊に属すと云、相賀庄古本村庄司氏の所蔵古文書数通を引て拠とす。
○紀伊続風土記 長島御厨等の事、木本古文書に見ゆ、此地今牟婁郡に属するも天正以前迄志摩国也。
島勝《シマカツ》 長島浦の南四海里、引本《ヒキモト》浦の東なる半島地に在り、長島々勝の間、陸岸に近接して鈴島及び五六の岩嶼あり、島勝は今引本村に属す、此半島は尾鷲湾及引本浦の屏障を成す者也、須賀利浦は島勝浦と表裏して、其南面に在り。
日本水路志云、長島浦大島の西南西三海里半に島勝浦あり、一小半島の北岸に居る、小船は偏西風の間、茲に避泊するを常とす、湾内二澳あり、南澳は濶さ僅に二錘、岸傍に村落あり島勝と云ふ、北澳は東方に開き砂浜なり、二又埼は島勝浦の東方凡一海里に在り、埼頭北東に向ひ、二支に分れ其東一鏈半に二岩嶼あり、其形秀抜なるを以て認め易し、其高さ略ぼ相同ふして、低潮には此二嶼幾んど相連接す、海底険悪なり。
須賀利《スカリ》 今引本村にに属す。○産業事蹟云 須賀利浦は漁村也、其捕鮪の網は湾中に於て立切り、魚を要所に駆逐して捕ふ、一般普通の法にあらず、而して又捕網と称する敷綱を入れて捕ふ、此等の漁法を発明せしは文政五年の事にして、同浦芝田吉之丞と云ふ人なり、又同郡矢口浦の鮪漁は其網の構造須賀利浦に同じ、該地の創業は浜中藤兵衛に起る、実に寛政十一年なり。日本水路志云、須賀利浦及び本須賀利浦、此二浦は尾鷲湾の北浜にあり、倶に狭窄にして水深し、島勝と同半島に在り、須賀利浦は能く諸風を拒ぐを以て、和船は村落前面の岸に接して滞泊す、然れども大船を容るべからず、其東方寺島埼の本須賀利浦は、須賀利浦の如く水深からずと雖、不便利且避泊に適せず。
引本《ヒキモト》 長島村の南三里、相賀村の東に接す、港湾太佳なり、浦の北東極を大字矢口と云ふ、島勝半島の頸部に当る、又浦の西相賀村との間に一小湖あり、大台原山より出づる諸渓澗之に匯集す。○引本は旧相賀荘に属し粉本《コノモト》浦と曰ふ、木本荘司氏古文書、寛喜三年、志摩国木本御厨は此なるべし、南牟婁郡の木本浦に相分たんが為め、東木本とも曰へり。
三十三所図会云、船津より粉本に至る、此地は入海の船着にて、人家多くして繁昌なり、河岸に蛤蜊石の観音堂と云があり、尚南には間越峠に岩船地蔵堂あり、左の峰に天狗の岩屋あり、之を廻りて尾鷲浦へ出づる路あり。日本水路志云、引本浦は其大さ尾鷲浦に次ぎ湾の北部にあり、尾鷲浦口より北々西に向ふこと一海里夫より北東に折入すること二海里、到る処水深し、湾首矢口村落附近に向ひ、漸次に水深を減じ、八尋の処に全く諸風を遮隔せる好錨地あり、又此の浦の西側曲処にある引本村落の東面は、岸に近く水深く大船を泊すべし、其西に河あり、銚子川と曰ふ、河口より半里以上端舟を行るべし、河口を上る凡半里にして左岸に台石湖に入るの口門あり、銚子川は渓間を曲折流通し、各側の山は樹木密生し高且険にして、山下は耕圃あり。
補【木本】○紀伊続風土記 木本の庄司氏の古文書に因れば寛喜三年志摩国木本御厨とあり。○今北牟婁郡。
相賀《アフカ》 今相賀船津引本の三村に分る、旧相賀荘と称す。木本文書、弘安九年、志摩国合賀御厨と云もの此なり。
船津《ふなつ》山相賀の北に在り、即大台原山の支峰にして、其陰は勢州宮川の源、大杉谷なり、船津村より大台原に登陟するは、西方三里余、無双の峻嶺絶壑なり。
補【相可】○紀伊続風土記 木本古文書に拠れば、弘安九年志摩国合賀御厨とあり、相賀庄は船津、中里、小浦(引本浦に接す)をも総称す。○今北牟婁郡。
尾鷲《ヲハセ》 今尾鷲町と云ふ、相賀引本の南一里に在り、北牟婁郡衛の所在にして、戸数一千、熊野洋上の一要津なり、三重県津市を距る三十里。○尾鷲は大台原山の南麓にして、西は北山郷(和州吉野郡)峰巒を抑へ、東大海に向ひて放つ、謂ゆる山大に海濶く、鱗介竹木の産、饒富の地たり、中にも尾鷲浦の傍|蔵谷《クラタニ》の江南竹は、和歌山藩主の移植せる者にして、地方第一の良林と称す。〇三十三所図会云、尾鷲は古本(引本)より行程一里半、亦舟着の津にて、工商の家列ぶ、近隣に比ひなき繁華なり、此より矢之浜を経て、南は八鬼山にかゝる也。
日本水路志云、此湾は多樹の高山之を繞り、九木埼と寺島埼との間にあり、湾口濶さ四海里、深入四海里半、湾内四支に分る、尾鷲、引本、矢口、須賀利と曰ふ、尾鷲引本の外は和船の泊地に過ぎず、凡此湾は夏時は驟雨多く、冬時は温和にして氷雪稀なり、尾鷲浦は西南にあり、四支中最大也、門口東に開く、其浦内水深は湾首長沙浜の北端にある尾鷲村落の方に向ひ漸次減少す。
八鬼山《ヤキヤマ》 尾鷲の南に在りて、今北牟婁郡の南界をここに限る、旧志摩国と紀伊国の境は八鬼山の南四里、荒坂村楯崎なりと云ふ、或は然らん、九鬼村は八鬼山の東浦にして、本郡に属す。三十三所図会云、九鬼村の西北に松本浦あり、中古|行野《ユキノ》浦の民屋を此所に移して、今は行野と云ふ、相伝此地は釈陽勝仙法を修したる熊野山松本の峰にて、陽勝叡山の旧友に逢て談話して去りしと元亨釈書に云へるは此浦の西八鬼山か、八鬼《ヤキ》山は上り五十町下り四十五丁、山路嶮岨也、月輪寺と云は嶺より一町北方にあり、本尊三宝荒神、尾鷲より此所迄七十五丁、是より三木浦へ七十五町、新宮へ十二里半。
九鬼《クキ》 此村|行《ユキ》野を併す八鬼山の東麓にして、尾鷲の東南三里、其南は南牟婁郡北|輪内《ワウチ》村幹浦に接す幹崎を以て海上の交界点と為す。○九鬼浦は波切鳥羽の城主九鬼氏の故里なり。
九木埼は、尾鷲湾の南角なる高崖角にして、高さ七四八尺(口偏)、上に一小樹林あり、其内方に鬱蒼たる樹峰あり高さ一三五〇呎、是より山巒西方に蜒蜿して、八鬼山の山脊及び尾鷲湾上の高き山脊と相連なる、海岸は二三の露岩あり、三木崎と九木埼との間、海岸に湾を成す、其北湾を九木浦と曰ふ、湾入小海里半、湾首に於て距浜凡一鏈半、水深十二尋の処を小船錨地とす、其狭口は濶さ一鏈、中界の水深八十尋乃至八十五尋、和船は多く此に泊す。(日本水路志〕
補【九鬼】○人名辞書 九鬼嘉隆は姓は藤原氏、其の先は紀伊熊野九鬼の人、因て族称とす、八世の祖隆良志摩英虞郡に到り石川七島人と戦ひ之に克ち、波切・名田畔名・立神等の地を奪ふ、高祖泰隆始て伊賀の内田城を築き、北畠氏を援けて山田の神官と戦ひ之を破る、国司賞して二見七郷の地を授く、兄浄隆家を継ぐ、相差・和具・小鹿・荒島・甲賀・浜島・国府の七島人北畠氏に依り、兵を併せて来り攻む、浄隆拒戦して撓まず、会々疾て死す、子澄隆嗣ぐ、年尚弱し、嘉隆之を輔く、防禦日を経て勢遂に屈し、朝熊岳に走り復兵を復して城邑を取る、幾くもなくして澄隆死す、嘉隆其祀を承く、嘉隆初右馬允と称す、籌を運らして七島人を降し志摩を全有し、鳥羽城に居り大隅守と称す。
紀伊国
紀伊《キ・キイ》国 北は和泉河内と葛城《カツラギ》、雄之山《ヲノヤマ》の脈を以て相限り、東は大和伊勢に至り、南西は海洋に対ふ。地勢大別して熊野浦、高野山《カウヤサン》の二域に分つべし。熊野浦は牟婁、日高の地方にして、高峰大山を北に負ひ衆水皆南に向ひて海に入る。高野山は有田、海草《カイサウ》、那賀、伊都の地方にして紀之川|阿瀬《アセ》川の二水西流し、野山《ヤサン》は其間に吃立し水畔平夷の地多し。故に云ふ、紀州西北衍沃、東南幽僻、海浜広斥にして魚介に富み且柑橙の産饒なりと、其良材の産あるは即木国の名を負ふ所以也。○紀伊は国形箕舌の如く、沿海の汀線一百五十里、海道七十余里と称す、横幅は狭処凡九里広処十四里、面積三百八十方里。今海草、那賀、伊都、有田 日高、西牟婁、東牟婁、南牟婁、北牟婁の九郡に分る、其南牟婁北牟婁は三重県治に属し、自余は皆和歌山県に隷す、人口六十万、紀州《キシウ》とも曰ふ。
紀伊は木国《キノクニ》の義なり、日本紀神代巻に「素盞嗚尊之子、号曰五十猛命、妹大屋津姫命、次抓津姫命、凡此三神、亦能分布木種、即奉渡於紀伊国也」と、故に古書紀国にも作る、伊は添字にて発声せずして可なり、地名此例多し。国造本紀に拠れば古へ紀国造、熊野国造の二家あり、而て紀国造に宇治彦と荒河刀弁の二流ありしに似たり、宇治氏は武内宿禰の外戚にして其家大に興る、以て今日に伝統す。荒河刀弁は後世聞ゆるなし。また記紀二典并に旧事紀古語拾遺を合考するに、出雲の素盞嗚尊の諸裔神夙に本州に往来したまひ、伊弉册尊の旧跡亦熊野浦に遺る、延喜式本州所載の明神大祀は大略出雲の諸神に係る、紀雲二州親密の交渉あるを知る可し。而て神武帝の時に名草戸畔あり、崇神帝の時荒河刀弁あり、並に女子の家刀自にや、此女家恐らくは往時出雲の諸神に結べる一流ならん。○延喜式、和名抄、紀伊国七郡、南海道に隷す、然れども続紀「養老三年、始置接察使、五年、紀伊隷大和国守焉」と云ふことあれば天武文武の両朝に南海道に隷属せしめられし後、一時は畿内に改属せし事もありしに似たり、地形より論ずれば之を南海とも云ふべく、亦畿内と為すも可なり、而て仲哀天皇の紀に「巡狩南国、至紀伊国、而居于徳勒津宮」とあるを想へば、本国を南海道に隷するも由来久しと云ふべし。 ○孝徳帝大化改新の発令ありし時、紀国の兄山《セノヤマ》を以て畿内の南限と為したまふ、兄山は伊都郡の西界に在り、当時伊都郡は大和国吉野郡に属したるか、不審。又戦国の比熊野新宮の堀内氏志摩国の地を侵略したるより、後世|荷坂《ノサカ》峠以西を牟婁郡に属せしむ、今の北牟婁郡即此侵地なり。本篇は地理の自然に従ひて北牟婁を志摩国に係属せしむ。
名草郡在国府。
補【紀伊国】○和名抄郡郷考 正濫抄、きいなれどもきとのみよむを習ひとす、五十猛神より八十木種を天下にまきほどこしたまへり、此神のまします国なる故に木国といふ、伊は紀の韻なれば音便にそへたり、これも国郡等の名好字をもて二字に限りて名づくべきよし元明天皇の御時勅ありしによりてなり、山城国紀伊郡も和名岐とのみ注せり。今按、和訓栞木国と書たるを和銅年間に好字を用ゐさせられしよりかくは書く也といへれど、欽明紀十七年十月紀国置海部屯倉ともあれば、和銅よりさきに紀の字は用ひられしなるべし。国造本紀、紀伊国造。旧事本紀、建田背命母紀伊国造智名曽妹中名草姫。字類抄、紀伊国三十六郷と有、(今按、今此抄五十三郷あり)、国府在名草郡、行程上四日下二日(主計式行程同)管七(官用同)田七千百九十八町五段百歩、正公各十七万五千束、本稲四十六万八千八百十八束、雑稲十一万八千十八束(拾芥抄、田七千百十九町。主税式正公同)
○名所図会 東大寺所蔵の天平二年紀伊国収納大税并神税解状に因れば、合七郷の定大税稲穀四万五千余石にして、其二万五千石は不動倉、二万石は動倉なり。
紀伊《キイ》水道 凡紀伊の海洋は、南方は熊野浦にして之を熊野洋又紀州灘と云ふ、西方は四国と相対し之を紀伊水道と名づく、其狭隘部淡路島に対する所を紀淡《キタン》海峡と云ふ、即|友島《トモガシマ》瀬戸なり。○水路志云、紀伊水道は四国の東岸と紀伊の西岸との間にあり、日の御埼と蒲生田埼とを以て其外口を成し、夫より淡路島に至る迄其長さ約二十海里幅十六海里乃至二十五海里なり、紀伊水道より内海に入るの好航路は友島水道なりとす、若大阪或兵庫に行くべき用なき時は、鳴門を取るは捷径にして前航路より近きこと三十五海里なりと雖、最好の時機に投ずるにあらざれば決して之を取るべからずと云ふ、此水道に於ては豊後水道と同様にて屡々強き北風あり、而して紀伊海岸近傍に於ては地風多く、時として山(風+炎)来る。
紀州木綿○此国古は「麻もよし」の冠辞ありて、続紀「大宝三年、紀伊国、奈我名草二郡の布調を停め糸を献ぜしむ」とあり、延喜式には絹綿の両種并に紙麻の国産を載たり、近世は河泉二州と同く木綿の業盛大なり、文派|禰留《ネル》皆其流なり。○名所図会云、木綿は当国第一の名産にして、他に比類なし、諸所の村秋季には宛も雪景の如し、当国に麻もよしと詠じたる歌数多見えたり、古は麻を多く作り出せるならん、今は其のさたなし、専ら木綿を作ることにはなりぬ、麻綿は同じ同じ物類にて土地の気候に応ずるなるべし、又近き頃は文派を織る、此木綿は宝暦七年に起る、和歌山城下の足袋職の踏皮地を織りたるより始るなり。○産業事蹟云、明治四年、中之島人畠山某和歌山藩兵の被服に供せる小倉織の端切截余を文派織の毛に掻き、種々の工夫を経て、舶来フランネルに疑似する者を成すを得たり、乃翌年より其方法を市中の織工に伝へ盛に之を製す、号して紀州ネル又綿禰留と云ふ、今年額百数十万円の価ありと云。
紀州蜜柑○蜜柑の産地各所にあれども、其風味出額を比すれば紀州を推して海内第一とす、此果実は原来本地の産に非ず、天正二年の比、有田郡|糸我《イトガ》庄中番村の人、肥後の八代より苗木(温州橘なるべし)を求め得て之を栽植せしより、漸次各地に繁植し、遂に今日の如き著名の物産となる、近時の調査に依れば柑橘圃の段別千百五十町歩、産出額百八九十万箱の多きに登り、其の最産出の多きは有田郡、之に亜ぐは海部郡なりとす。天正の頃に温州蜜柑本邦周防にありしにや、大内家に之を進献せる古文書、新編武蔵風土記に見ゆ。〔産業事蹟〕
春興 祇南海
宗藩雄府吃如桓、表裡山形龍虎盤、江漢于今南国紀、金湯自古大邦翰、炎洲翡翠巣珠樹、海珊瑚払釣竿、 更有蓬莱称仙窟、鬱葱佳気五雲蟠、
六鼈涌処是蓬莱、徐福当年酔不回、十二楼台空縹渺、五千童女何在哉、瓊笈銀題石室邃、金芝玉蘂紫雲堆、嘗説三山在海外、海外無人駕鶴来、
補【紀州ネル】○産業事蹟〔重出〕畠山義信といふ人、名草郡中の島村に任し、明治四年廃藩置県の際和歌山藩兵の服地に充用せし小倉織の端切裁余のものを紋羽製造場に托して毛を掻かしめ、是より百方工夫を凝らし機具を造り、工女を雇ひ洋糸を経とし和糸を緯とし織成し、毛を掻かしめたるに果して舶来フラネルに類する織物を得たり、実に明治五年二月なり、之を綿フラネルの初とす、爾来各鎮台の兵服地に採用する所となり、販路大に拡張す、方今に至りて内国一般に販路を開き、其産額も莫大なり、即明治二十年の製造代価は百九万三千七百八十二円、同二十一年八百二万六千七百六十円なりしと云ふ。
海草郡
海草《カイサウ》郡 明治二十九年、海部名草の二郡を合同して海草の名を立つ、和歌山市中央に居り市制を布く、爾余四十二村人口十三万、衙処を宮村の秋月に置く。○名草海部は本来一境なれば古は名草を総名とし、其沿海の地区加太|(女+鋒の旁)家《ミヤケ》浜中等を割き海部郡と為したるのみ、故に延喜式神祇の条に海部郡の社をも名草に係けたり、近年合併の際之を名草の旧に復せずして、漫に不熟無稽の名を命じたるは陋なりと謂ふべし。
名草《ナグサ》郡 明治二十九年廃して其地域は海草郡に入る、名草は倭名抄奈久佐と注し、郷名錯乱ありて之を詳にし難しと雖二十余郷あり、即苑部、直川、野応、大屋、島、日前、国懸、大田、有真、大宅、忌部、荒賀、須佐、伊太杵曾、津麻、旦来、大野、断金、誰戸等なり、而て神戸と称する神封之に混同し、郷の分域太だ明瞭を欠く、例せば国懸郷と日前神戸郷の如き神社の所在より推せば二郷一地なれど、日前神戸は別に隔離の地に在りしやと疑はる。延喜式に「紀伊国、名草、為神郡」とあれば之を伊勢の度会郡に比視して政治おのづから他に異なりしを知る、天照大神の前霊鎮座の処なれば也。
日本書紀神武天皇東征の時「軍至名草邑、誅名草戸畔者」とあり、(名草山竈山陵参考すべし)旧事紀云「素盞鳴命六世孫、豊御気主命娶紀伊名草姫為妻、生児大御気主命又建田背命、母紀国造智名曽妹中名草姫」と。名草戸畔は蓋当時占国の女酋にして、即出雲の諸神の姻戚たり、凡出雲の諸神の紀伊国を開きたまへる事は国名の下に注する如し。又神武帝天道根命を以て国造と為したまへるより子孫世襲し、其国郡制度を定められし後は大領に兼補せらるゝ者あり、聖武紀「神亀元年、幸玉津島、造離宮、名草郡大領紀直摩祖為国造」と見ゆ、後世に至るまで一州の名家たり。
補【名草郡】○和名抄郡郷考 国府、神武紀戊午年六月軍至名草邑誅名草戸畔者。紀伊国神名帳 名草郡従四位上名草姫大神、同名草彦大神。旧事紀、紀伊国造智奈曾妹中名草姫。民部式、紀伊国名草云々等郡為神郡。倭姫命世記、木乃国名草浜宮。国図、当郡を東西にわけたり。紀氏系図曰、賜紀朝臣姓由来、大初大臣武内宿禰命、景行天皇御宇九年於紀伊国名草郡宇治郷誕生、仇以紀字為氏姓。紀伊国造系図、大名草比古子に宇遅比古と云人あり、今も宇治郷鷺森あり。紀伊国名所図会、名義末思ひ得ず、国造系図を按に、紀伊国第一天の道根第二比古麻第三鬼刀禰第四久志多麻第五大名草比古と序書たり、この名草彦の名も郡名によれる名なるべし。
○古語拾遺云、神武天皇達都檀原、経営帝宅、仍令富命率手置帆負、彦狭知二神孫、以斎斧斎組始採山村構立正殿(中略)其裔今在紀伊国名草郡御木麁香二郷。和名抄忌部郷あり、今井辺村即御木の地、荒賀郷あり、今墨田村麁香あり、即麁香の地なり。
海部《アマ・アマリ》郡 明治二十九年廃して其地域は海草郡に入る。和名抄、海部郡四郷に分ち阿未と注す、仲文集に阿末利と読めり。正保国図海士に作れり、此一郡は本欽明天皇名草の浜に海部屯倉を置きたまふに起因し、後建てゝ郡と為るも名草郡の海角三処を分割したるなれば、境域整合せず。即余戸賀太二郷は紀之川の北なる雄山の海角とす、蜂家郷は即屯倉の他にして雑賀埼に在り、浜中郷は更に和歌浦の南に隔絶し大埼に在り、故に後世二郡の境界変易すること数々なりき。又近世日高郡の海部に南海士郡の私称ありしも本郡に関与せず。
延喜式云、践祚大嘗祭、「凡応供神御由加物器料者、差卜部三人、遣三国、紀伊国所献、薄鰒四連生鰒生螺各六籠、都志毛古毛各六籠、螺貝焼塩十顆、並令賀多潜女十人量程採備」と、此海産の献備は古の海部屯倉の民の所職にして、祭政の一要事と為したる者ならん。 ――――――――――
紀之川《キノカハ》 紀伊川又木川に作る、上游は即吉野川(和州)にして大台原及高見山に発源し、西流十数里にして本州伊都郡に来り始て木川《キノカハ》と称す。高野山より出る丹生《ニフ》川|野上《ノシヤウ》川を容れ、那賀海草二郡を貫流し数堰を分ち、和歌山市の西北に至り海に入る、長三十里。川口より州界に至る十三里、舟輯は仍其東|五条《ゴデウ》に通ず、凡十四里。吉野山中の木材は筏に組みて流下し、紀之川口に至り更に大舶に積替以て遠地に送致すと云ふ。○紀之川は往時和歌山市の東部に支脈を分ち南流二里和歌浦に注ぐ、今の雑賀川と云ふ溝渠は其遺線なり、又豊臣氏の南征に方り紀之川を岩出郷に塞ぎ之を太田城に浸灌せしめし事あり、今の六箇堰の流なり。近世南岸の堤防を完堅にし洪水の害を除く、河口変遷の事は尚其地辺に述ぶる所あり。
春たけて紀の川しろく流るめり吉野の奥に花やちるらん、〔夫木集〕 平泰時
入紀 頼山陽
幾樹青松夾路堆、遙看城蝶蝶(土偏)樹間開、沙川溶々人呼渡、此水知従芳野来、
余戸《アマリ》郷 和名抄、海部郡余戸郷、○今貴志村|木本《キノモト》村等の地なり、刊本余を全に誤る、蓋|余戸《アマベ》は海部《アマ》と同義にして訛りて阿麻利とも曰へるに似たり、故に仲文集「紀の国のこほりどもよめる、いと、なか、なくさ、あまり、ありた、ひたか、むろ、
いとなかきよはなくさますあまりありたえすひたかんむろにすまはや。
此に古言|海部《アマ》と余戸と同訓にて余餘亦俗相通也、貴志は天平神護元年海部郡岸村行宮の地にして、木本村は旧大安寺領なれば八幡宮あり。其海崖を紀伊浜と称したり、今の松江村なるべし、紀之川の北岸なり。
貴志《キシ》 和歌山市の北一里、東は楠見《クスミ》村に至り西は木本村に至る、北は男之山の脈を負へり。○名所図会云、貴志庄|栄谷《サカエダニ》の猿引貴志氏あり、家系に云其先は小山判官政氏より出て、当国に住すること既に久し、先代浅野紀伊守|幸長《ユキナガ》のときゆゑありて国中に命じてあまたのさるひきをかれが配下に属しむといふ。猿引は東鑑「寛元三年四月、左馬頭入道正義、自美作国領所、称将来之由、献猿於御所、彼猿舞踏如人倫」など見ゆ、古より此業ありし也。
岸村行宮《キシムラノカリミヤ》址 続紀、天平神護元年、行幸紀伊国、到玉津島、還到海部郡岸村行宮。○岸村今|貴志庄《キシノシヤウ》といふこれなり、しかるに其ところさだかならず、或曰いにしへより土人|栄谷《サカエダニ》の行宮といへることを口実とすれば此ところなるべし、此村の田にみかどと字するところあり、おそらくはこれならんか、なほかんがふべし。〔名所図会〕今貴志村大字栄谷。
補【貴志】海士郡○名所図会 貴志庄栄谷村あり。○日本猿引の棟梁なり。
紀伊浜《キノハマ》 今木本村の南大字小屋并に|松江《マツエ》村の磯なるべし、正応二年揚浅党結番次第に「十番、他門、六十谷(今有功村六十谷)紀伊浜」とあり。永承三年関白頼通高野詣記の玉津島遊覧のつづきに「末剋、還御御船、贅殿供御湯漬、国司献檜破子荷、申剋於木浜、御御馬、自笠道山令通給、秉燭海浜伴月、亥剋之終、着御日根御宿、国司御儲如例」と見ゆ、此路程は紀之川を渉り木浜より貴志村大字梅原の奥なる三笠《ミカサ》谷を踰えて、泉州深日浦淡輪浦を経過せしと思はる、男之山を越ゆるに此を最平易となせばならん。又賀茂文書に寛治四年御厨八所の一を紀伊国紀伊浜と為す当時其神領なりしと見ゆ。
野崎《ノザキ》 貴志村の南に接し、紀之川の北岸なる一村なり、大字北島は和歌山市と水を隔てゝ相対し長橋を架す、加太浦より泉州谷川深日淡輪等に通ずる便道なり。紀之川は北島の西南二十町にして海洋に入る。
詠懐 祇 南 海
楚天一望海雲敖(ぎょうにんべん)、南客秋深未得帰、弱水月明鴻雁泊、松江霜落蓴鱸肥、家曾白洲前住、身仍青山雲外依、借問故人誰得在、蘆花零落旧釣磯、
補【北島】海士郡○名所図会 北島の渉《ワタ》しは西国順拝四国遍礼の徒、若山より加太淡島社、大川浦円光大師に詣るも、又は和泉路へ越ゆるもみなわたる川也、是則紀の川の末にして、海にいたることわづかに廿丁余を隔てたり。○今野崎村。
総持寺《ソウヂジ》 野崎村大字|梶取《カンドリ》に在り、浄土宗西山派の一檀林也、宝徳二年開基、明秀光雲上人、赤松播磨守則村の息信濃守範資が第二の子なり、後奈良院正親町院の両帝しきりに勅願の綸旨たまひて官寺に命ぜらる、しかのみならず代々国主の喜捨ときとして絶えたることなし、宗風の光輝日々にあきらかなり。〔名所図会〕
補【総持寺】海士郡○名所図会 梶取村にあり、浄土宗西山派の檀林七ケ寺の其一也、末寺八十余ケ寺にして枝末合して二百八十余ケ寺あり、宝徳二年の建立にして、開祖は明秀光雲上人。
木本《キノモト》 今木本村|西脇野《ニシワキノ》村の二と為る、蓋紀伊浜の本村の義にして中世は東庄西庄の二に分る、西脇野郎西庄なり。貴志村の西、加太《カダ》村の東南にして海湾に臨む、其西角を田倉《タクラ》崎と曰ふ。○名所図会云、木本村は古へ堺浦と曰ふ、惣じて海浜には往々あることながら此地昔は遠浅の海なるが、その干潟に墾田して民戸も建つゞきて、遂に村里となれるなり。
紀の海のさかひの浦の沖つ藻をはるのひぐらしかづく海部人、〔夫木集〕 律師頼尚
按に貴志村に栄谷あり、木本村に堺浦あり、もと同語にて酒部の義にや、府中の酒部を参考すべし。又西脇野村大字磯脇は万葉集に磯浦とよめる地なりとぞ、
磯のうらに来よる白波返りつゝ過ぎがてぬれば岸(マヽ)にたゆたへ、〔万葉集〕
木本は大安寺資財帳に木本郷と記し「紀伊国、木本郷葦原佰漆拾町、四至東川、西百姓熱田、南松原、北山之限、右飛鳥浄御原宮御宇天皇歳次癸酉納賜者」とあり。中世は湯浅党の拠有にして正応二年結番次第に「十四番、他門、木本東庄、十五番、同、西庄」とあるは此なるべし。然るに牟婁郡にも木本浦あり亦湯浅党の拠有と説く者あり、按に木本の名は此なるを本とし熊野浦へは後世移したるならん。(牟婁の木本《キノモト》参考すべし)
木本《キノモト》八幡宮 西庄《ニシノシヤウ》(今西脇野村)に在り、神功皇后韓国征伐の帰途、武内宿禰に命じ皇子(応神天皇)を奉じて横に南海を渡り、此に至り船を泊て上陸したまへる遺跡とぞ。続風土記云、木本庄は上古紀之川の海口にして、東南今の湊村の地と相対して湾曲の海津なり、日本書紀に紀伊水門とあるは此海口を云ふ、後沙浜を海面に起して広野西南に開けたり、且紀之川の委口しばしば変遷し、雑賀の方へ移りたる事あるより、薮沢悉開けて今の姿と為る、木本八幡宮の社伝に 「武内宿禰、乃奉命、横出南海、泊紀伊水門、遂上陸而造頓宮、姑駐蹕、因名此地、曰志婆斯之原」と曰へり。○按に此社は大安寺八幡宮を勧請したる者ならん、応神駐蹕の遺跡と云ふは疑はし、日高郡衣奈八幡宮を参考すべし。今木本八幡宮に嘉慶応永永享の間、平氏盛、前豊前守基盛、中務丞盛直等の古帖を蔵む、又文久元年孝明天皇御願の旨ありて、正一位を授け宝鏡を進奉したまふ。明治二十九年征清紀念碑を域内に建つ、碑銘に「昔者神后振旅入紀、駐蹕茲士載営壇※[田+寺]、奉祀千載至今靡弛云々」の句ありとぞ。〔名勝地志〕
田倉《タクラ》埼 木本村の西方に突出し、南は浦初《ウラノハツ》島に対し東に斗入する和歌山湾の北角を為す。万葉集略解に飽等《アクラ》は今加太庄の西に在りとあるは、即田倉なるべし、古今の転訛にや。
木の国の飽等の浜の忘れ貝我はわすれずとしはふれども、〔万葉集〕網引する海子《アマ》とや見らむ飽浦のきよき荒磯見にこし吾を、〔同上〕
日本水路志云、田倉埼は友島水道口の東角にして埼傍浅水なり、一里を離れて航す可し、加太浦は田倉埼の北にある一湾にして、其中央水深四尋乃至六尋の処に錨地ありて、南側に波止場あり好上陸処なり。
賀太《カダ》郷 和名抄、海部郡賀太郷。○今加太村なり、木本村の西北に接し葛城山男之山の脈の西端に在り、余勢海に入り山及島と為る。淡路国と相対し相去る四海里許、即大阪湾和泉灘(茅渟海)の南隘にして無双の要衝なり、近年此に防備の築塞を修成せらる。補【加太郷】海部郡○和名抄郡郷考 続紀大宝二年正月始置紀伊国賀陀駅家。諸州巡覧記、かだは民家千軒有といふ、富人多し、此辺名草郡なり、かだの先に淡島あり、是にも民家多し、かだと淡島は民家続けり、淡島大明神の社あり、大ならず、此社は少彦名命なり云云、此所は和泉山よりつゞきたる出崎なり。神名式名草郡に加太神社あり。名勝志、加太庄加太村等あり。後妃天長二年十二月慶雲見於紀伊国海部郡賀大村。霊異記、蚊田。兵部式、賀太駅馬八疋。神祇式、賀多潜女十人。村名帳、加太村。南紀名勝志及国図に加陀村とかけり。国人云、浜中の賀太は太字清音、又名草の賀太は濁音に呼、賀大両処にありといへり。
加太《カダ》 続紀、大宝二年、始置紀伊国、賀陀駅家、また後紀「天長二年、慶雲見於紀伊国海部郡、賀多村伴島」とあり。延喜式に賀太駅馬八疋、又賀多潜女十人など見え、霊異記に蚊田に作る、太は濁りてよむべし。○諸州巡覧記云、加太は民家千軒ありといふ、富人多し、加太と淡島は民家つづけり、淡島大明神の杜あり少彦名命なり、此所は和泉の山よりつづきたる出崎なり。○名所図会云、加太浦は海路の咽喉にして、諸国廻船の上下必此に汐掛りする所也、市店軒を連ね海には二つの島ありて友が島と云ふ、南なるを沖《オキ》の島北なるを池《ヂ》島といふ、沖の島の瀬戸を西の渡また由良《ユラ》の渡ともいふ、淡州の由良《ユラ》に対せし島なればかくいふなるべし、所謂和歌者流の名所とする地にはあらず、地《ヂ》のしまと沖《オキ》の島の間を中渡《ナカト》といふ、また北なる地潟に近きを牛《ウシ》ケ首《クビ》の瀬戸といふ風光佳勝に至ては先哲の諷詠に形見《カタミ》浦とつらねたり。
藻苅舟おきこぎ来らし妹が島形見の浦にたづかげぞ見ゆ、〔万葉集〕塩気立つ荒磯には在れど往く水の過ぎにし妹がかたみとぞ来し、〔同上〕其名のみ形見の浦の友千どりあとを忍ばぬときのまもなし、〔玉葉集〕 前関白
紀国屋文左衛門は幼字文吉、五十嵐氏、紀州加田浦の人、或は曰ふ熊野の人と、気宇快濶にして頗奇略あり、紀州は多く柑子を芸ゑ、以て租税に充て、毎歳船載して之を三都に鬻ぐ、一年東洋風浪大に作り、四方の海舶皆風を怖れて敢て発せず、文左一行十有九人、皆凶服を著け預め必死を期す、舶飛び帆怒り転瞬百里、一昼夜にして江戸に達す、都商欣迎して以て神助の致す所となす、文左乃ち価を定め柑子を売る、利市万倍、一朝にして五万金を獲たり、又上国原と塩収の鮭魚に乏し、即十万尾を買ひ又船載して之を京摂の諸国に鬻ぐ、幾もなくて富一郷に甲たり、遂に江戸に移り、享保中年六十余にして死す。〔本朝虞初新志〕
補【磯浦】海士郡○名所図会 石浦今は磯脇といふ、海浜にして蒼樹汐風にもまれて、枝々風流にたわめるよそほひ有、弥生の比には岩つゝじの花咲初め、初夏には卯の花咲乱る。
淡島《アハシマ》神社 延喜式.加太神社名草郡に列す、海部は旧名草の分地なれば前籍に因れる也、今加太村に在り、淡島明神と称す。初め伴島の神島に鎮坐したり、後世神社道者流之を伯耆国粟島の少彦名命に引当るは誤れるなり、蓋賀太潜女の氏神のみ。俗説弁云、粟島神社加太村の西南に在り、古は友島の小島手と云所に鎮座、後此所に移す云、俗説に粟島大明神は女体なる故に婦人の病を守り給ふ、是住吉大明神の妃也、帯下の病に因て陽神疎みて粟島に流し給へり、此故に婦人の病を祈る必感応有と云へり、白井宗因曰粟島明神女体に非ず、高皇産霊尊の子少彦名命也、神代巻に大己貴命少彦名命心を並せ天下を経営し、或は成る所もあり或は成らざる所もありとて、淡島に至り給ふと記せり。○按に少名彦の居れる粟島は、日本紀に伯耆国相見郡と注したれば木国の淡島と相混乱すべからず。此淡島は古事記に見え神代紀には淡州に作る、其考証は下条に見ゆるごとし。本社は今四座を祭り、本国神名帳に海部郡坐従四位上粟島大明神と録す、摂社|中言《ナカコト》神は俗に結縁神と称す、四座は今少名彦名神、月読神、大己貴神、神功皇后とぞ。又古来の伝説に粟島神は婦女の守りを誓はせ給ふと云ひ、論者因りて曰く神功皇后嘗て少名彦の雛形を祭り、阿末加豆と名づけたまふ、是れ本朝雛祭の濫觴にして、粟島神の婦女を守らせ玉ふ所以と、皆疑なきに非ず。延暦八年職判住吉大社解状に拠れば、粟島は小島《こじま》辛島《カラシマ》錦刀島《ニシキノトシマ》と共に住吉御厨たり、
奉寄木小島辛島粟島錦刀島御厨本縁起
右昔気長帯姫皇后御宇依大神御願所奉寄朝食夕食御膳所御厨也
と見ゆ、此小島辛島錦刀島は詳ならねど、本国の中なることは木字を冠せるにて知るべく、旧説粟島神は住吉大神の妃にましますと伝ふるも、住吉御厨なりければ附会せる者の如し。之を要するに粟島神は加太の潜女の祭れる者なれば、婦女擁護め談あるのみ、爾余の事は信拠に足らず。
海南竹枝 祇南海
郎報帰期在月前、探得神籤整金鈿、斜陽淡島布帆影、不是房船是薩船、
加田竹枝 久野玉城
落浦千帆夕陽高、瓜皮売酒転軽※[竹/高]、蛾眉一点初三月、占得春晴不起濤、
伽佗寺《カダジ》 加太村の背なる高地に在り。名所図会云、葛城山修行の壇場にて、役小角開基、僧坊甍をみがきて巍々然たりしに天正兵火に烏有となる、然りといへ共、毎年三月には三百余の行者諸国より集り来りて、友ケ島《トモガシマ》をはじめ当境にある所の行所のこりなく修法す、されば聖議院宮三宝院門主南山御傾行の砌、かならず当院に入御ならせ玉ふ旧例にして、是当院を葛嶺一の宿とする所以なり。
友島《トモガシマ》 或は苫《トマ》島と曰ふ、類聚国史に伴《トモ》島と記せり。其加太浦に近接せるを地鳥と呼ぶ、加太の北|城《ジヤウ》が埼|深山《ミヤマ》より距離九町、地鳥の西に虎《トラ》島と呼ぶ一岩嶼ありて、沖島《オキノシマ》は更に其西南に在り。近年紀淡海峡の防備を此に修められ、附近の海陸は警戒の法令を布かる。○名所図会云、鞆島《トモガシマ》古名|妹《イモ》がしま地《ヂ》しま沖しまの外に神《カウ》島を加へてすべて三島なり、古しへ伝へて神仙の幽栖とし敢て窺ひ探るもの一人もあることなし、嘗て役の角仙足跡を著しより、遂に修験道の行所となれり。○日本水路志云、友島水道は淡路の南東角(由良生石鼻)と紀伊の北西端(加太崎)との間にして、沖島と地島とを以て三水道に分割せり。其西水道は由良瀬戸と称し其濶二海里然れども由良大砲台より半里間は沙堆あり、沖島の南西部より三鏈間は礁脈あり、中水道は中瀬戸と称し潤さ一鏈に過ぎずして浅灘あり、其東水道は加太瀬戸と称す、又友ケ島燈台は沖島西端山上に設置す、晴天光達十七海里。
類聚国史、祥瑞部云、天長三年慶雲見於海部郡賀多村伴島上、右大臣藤原緒嗣等言、孫子瑞応図曰、慶雲太平之応也、夫島名聖諱、(淳仁帝諱大伴)表一人之有慶、斯実曠古之所稀有。○紀藩文学、川合春川友島記云、友島、多怪岩危石奇卉異草、古伝以為神仙窟宅、役小角修道所也、島三断而浮、曰地島、曰沖島、曰神島、謂之地島者、以距海岸不遠也、周廻可十里、樹唯松、※[草冠/翁]蔚蒙※[草冠/龍]、潮気起下、則見一片青翠、冲天而懸、沖島在其坤位、二島相距間甚狭、故潮水撃怒、雷震百里、海波之険、舟人比諸鳴門、地島沖島為張巽勢、若双眉、然神島側居西海、為眉上一点、池島有牛首赤砂嘴之諸勝、然無大異観、其寄絶特在沖島、望之波間、如※[奇+欠]檣者、為虎原、一片石三十仞、其広三之一半以下、累々乎為凹字、為積環、踰以登則、可以容足跟、石面彫作「友島五所、禁殺生積悪、観念窟、序品窟、閼伽井、深蛇池、剣池」等字、是国初南龍公命李衡正所書也、字大可三尺、亦一奇観也、少下左畔有穴、径可二尺、懸而下、得観念窟、々広可二丈、有碑在其中、道晃親王所書、筆力勁古、西北嚮有口、揆爾為巨獣喙、窟外有道、由崖而作之、崖之北畔、上下為破裂状者、曰※[門/規]《ノゾキ》、怒涛噴雨、水囓所致也、南下一百五十歩許、大石※[草冠/(束+のぶん)]々、林立海中、移舟上岸、援葛蔓上十尋、巨霊一※[辟/手]裂者、為序品窟、其広方可容人、※[奇+欠]仄以入、則恢々乎有余地、熊径而上、鶴啄而下、稍出窟後、計可六十尺、西南匝山、一百二十歩許、得|満越《ミツコシ》地形島中最卑、故前後※[さんずい+訊の旁]潮満、則舟可越山、所以有満越之名、一小山突起、如駝背、東北歴指摂之諸山、南下得閼加井、々陥今有碑記耳、自閼加井達于神島、二里而近、舟泛島之西辺而行、危石峭立、磊塊万状、攬幽之頃、応接不暇、神島周廻三百歩許、其西南※[山/令]蔚、剣池在艮位、土人伝言、少彦名神祠、故在于此、南行一里、得蛇潭、壑谷所注、湛為潭、過円山、東北転、倚累出海中者、為海獺瀬、是為友島南界、東折百許歩、得道鳳埼、山勢趨海、波底皆石、東北二百歩、得女浜、比之道鳳、石亦不峭、有牧馬場、乃上舟北行、一里得蒲浦、有深蛇池、径百許歩、古老言、友島一曰|妹《イモ》島者、以神功皇后謂之乎、今少彦名祠、合祀皇后、或曰以二鳥為妹兄也、寛政戊午冬、奉命遊于友島、紀事以上。
補【友島】海草郡○和歌山県地誌史談概要 加太村の西方加太海峡を隔てゝ一の島嶼あり、地の島といふ、其の西方に立てる沖の島及び附属の二小嶼と共に友が島、又苫が島と称す、遙に淡路島と相対して茅渟の海の南を扼せり、沖の島には灯台の設あり、近年また砲台を築く、加太村の深山砲台と共に護国の要害たり。
友島加太峡 地誌提要、海部郡加太と友島の間距離九町長六町あり、友島俗に苫島に作る、二島に分る、地島、加太浦、城崎の西六町にあり、灯台 地島の東端、御影石造、高二十丈八尺、灯光不動白色、照射九里に達す。
淡島《アハシマ》 古事記云、伊邪那岐命伊邪邪美命、於淤能碁呂島天降坐、而立八尋殿、於是生子水蛭子、此子者入葦船而流去、次生淡島、是亦不入子之例。○日本書紀には同事を記し淡洲に作り、又「以淡路洲淡洲為胞」ともあり、又水蛭子を蛭児に作る。是は二神の国土を修理固成したまへる旧事なれば人間歴史の理法を以て律すべからずと雖、淤能碁呂島は今の沼島にして淡島は友島に当ること仁徳帝の御製に徴拠すべし、之を要するに友島古名淡島なるや疑なし。
古事記云、仁徳天皇欲見淡道島、而幸行之時、
坐淡道島遙望歌曰
おしてるや、邪爾波のさきよ、いでたちて、わがくにみれば、阿波志摩、淤能碁呂志摩、阿遅摩佐能志摩もみゆ、佐気都志摩みゆ、淡路の沼《ヌ》島の条を参考すべし、此歌は由良海峡にて詠み給へるならん。
苑部《ソノベ》郷 和名抄、名草郡苑部郷。○今|有功《イサヲ》村|楠見《クスミ》村なるべし、余戸郷の東に連る、有功村に大字|園部《ソノベ》有。
源平盛衰記云、寿永二年紀の国の住人園部兵衛重茂も源氏に志ありけるが、淡路の安摩六郎は能登殿に追返されて和泉の国吹飯浦に着きたるときゝて、一つに成りて上洛すべしと聞えければ、能登守教経紀伊路へ押渡り、薗部が館へ攻入て散々に追払ひ、二十六人が首をきり福原へ進らする。○薗部氏の館址は、今一楽寺といふ浄土宗の地と為る。
補【苑部郷】名草郡○和名抄郡郷考 姓氏録右京皇別園部多朝臣同祖神八井耳之後也。盛衰記、紀伊国住人園部兵衛重|茂《モチ》も源氏に志有けるが。名勝志、山路庄園部村。国図、薗部村。村名帳、薗部村とかけり。
補【園部】名草郡○寿永二年源氏の味方として平家と福良吹飯に戦ひたる水軍の園部と云ふは紀州なれば、名草郡園部村を本拠とす、船所村楫取村など其水軍の部所とす。
伊達《イダテ》神社 園部に在り、続日本後紀文徳実録等に授位の事見え、延喜式に名草郡に列し名神大と注したり、蓋五十猛神を祭る、即|伊太祁曾《イタケソ》神社に同じ。日本書紀に「所以称五十猛命、為有功之神、即紀伊国所坐大神也」と載せ、古事記伝に伊太祁曾は五十猛《イタケ》有功《イサヲ》に同じ、佐袁を切れば曾と為ると弁ず。按に五十猛命は或は園神又園韓神と号し、郷名苑部は楢神戸と云ふごとし、三代実録清和帝即位の初めに紀伊国に勅使して園韓神日前国懸大神に宿祷を賽給ふ事見ゆ、又播磨風土記に伊太代又因達の大神と録したり。日本書紀に此神妹大屋津姫都麻津姫と共に紀伊国に来ります事を載せ、初め此三神をば本社に祭れるごとし、大宝年中三神を三所に分遷する由は続紀に見ゆ。○近年此郷を有功村と改称したるも、伊達神の徳に因める者なるべし。
伊也土《イヤト》神社今|有功《イサヲ》村大字|六十谷《ムソタニ》に在り、大弥彦《オホヤヒコ》神と云ふ、紀伊国神名帳に従五位下伊也土神と載す、蓋古事記に見ゆる大屋毘古神を祭る。記云、八十神、欲殺大穴牟遅神、爾其御祖命、取出活、告其子言、汝有此間者、為八十神所滅、乃速遣於木国之大屋毘古神之御所。○按に名所図会に此神は越後国伊也比古神社と同神にやと疑へるも参考すべし、旧事紀には五十猛命即伊達神は亦名を大屋彦神といふと為せり、又下なる嶋滝伊久比売も伊也比売の誤にあらずや。○伊久比売神社は延喜式名草郡に列す、今楠見村大字市小路に在りと云。〔名所図会〕
六十谷《ムソタニ》 今有功村の大字なり、正応二年湯浅党結番次第に「十番、他門、六十谷、紀伊浜」とあれば往時郷士の在住を知るべし、六十谷彦七定尚は建武元年飯盛山に籠り、官軍の追討を被り敗滅す。飯盛は此地の北嶺にて、泉州深日の上方に聳ゆ、深日飯盛山を参照すべし。○有功村の山中なる鳴滝の渓は、奇岩恠石の間に楓樹多く、秋後霜に染むときは遊賞の士女群をなせり、また六十谷大同寺は南叡山法華院と称し延暦寺の子院なるが近世痛く衰へたり、両界八万四千の如来とて泥土より成れる仏像あり、皆掌中に握るべし、土俗握りほとけと曰ふ、縁起明白ならねど古精舎たるべし。
直川《ナフカハ》郷 和名抄、名草郡直川郷。○今|直川《ノオガハ》村存す、有功村の東紀伊村の西なり、府中紀伊村も此郷内なりしならん。
大福《ダイフク》山 直川村の上方にして葛城山脈の一峰なり、名所図会云、直川|千手《センジユ》寺は役氏開創、暮城四十九院の其一たり、山を大福《ダイフク》と称し本尊をもつて寺を千手と号せり、其後|由良《ユラ》の興国寺《コウコクジ》の開祖法燈国師、法弟龍実上人に附命し、移して禅宗の浄刹とす、僧坊都て十有二舎、諸堂巍々然たりしが、天正の兵火に罹つて一時に灰燼となれり、終に天和年中日蓮宗の高徳日忠上人を請して中興の開祖とし、寺号を改て本恵寺《ホンヱジ》と云ひ法華宗とはなれり。籤《セン》法岳は大福山弁天窟より北に登る五十町、又修験行所也、岩石嵯峨たり。
補【千手寺】名草郡○名所図会 直川村千手川の西にあり、抑当山は役優婆塞の開基真言秘密の霊場にして、〔脱文〕
補【籤法岳】名草郡○名所図会 大福山弁才天の窟より北すること五十町にあり、是又同じく葛城の山脈にして修験道の行所なり、峻巌嵯峨として登攀頗る苦めり、最高頂にいたれば古松※[草冠/翁]蔚たる中に児《チゴ》の松といふあり、これ則谷行といふ謡曲に作りたる松若丸の故跡なり。
○直川助太夫 散位紀朝臣の末葉、同村の農家にあり、国判連署の士の其一にして、次下犬楠丸の条に見ゆ。
○直川村。
府中《フチユウ》 今紀伊村と改む、直川村の東なる寒邑なり、即古代国府の在所とす、府中神社并に総社明神を遺す、総社は大字田井の北村に在り。延喜式、紀伊、上近国、管七郡。和名抄云、国府、在名草郡、行程上四日下二日。
補【歯観音】名草郡○名所図会 府中村にあり、是則いにしへ聖武天皇の御后光明皇后の草創ありし円上寺の本尊なりと云、彼円上寺もとは同村の西茶臼山にありしが、応仁の兵火に焦土となる。
府中《フチユウ》神社 名所図会云、府中宮を白鳥《シラトリ》宮とも称す、土俗聖天宮ともいふは其謂れを知らず、府中庄府中村の東に在り。三代実録に曰「貞観十七年、奉授紀伊国従五位下府中神、授従五上云々」と、太平記剣巻に曰、「日本式尊終にうせ玉ひけるに、白鳥となつて南をさしてとび、紀伊国名草郡にしばらく落とまりけるが、此所も悪しくや覚しけんまた東国へとびかへり、尾張国|松子島《マツコジマ》にぞ留る」云々、されば其故跡を斎しにや。
田屋《タヤ》 府中の南に在り、今紀伊村の大字と為る。続風土記云、田屋村森氏は忌部宿禰の裔孫にて、古より伝へし文書多く逸せしも、今存するものは建久三年解状等数通と、古へ当家より建立せし村中正法寺の縁起、又享徳三年の文書并に永禄九年位牌免の書置、慶長十二年田屋村宮座の事及び坐席の装束の式など記せるものあり、又永仁六年安楽寺の別当祐聖
が記せる田券あり、安楽寺は村中に存す。
補【田屋】名草郡○史料叢話 田屋村に忌部宿禰の裔孫旧宅あり、今は森氏と名のる、上古より伝へし古書どもあり。
補【総社明神】名草郡○名所図会 田井荘北むらにあり、祭る所の神つまびらかならず。○田井執行大夫散位中臣朝臣の末葉は同村の農家にあり。
酒部《サカベ》 今府中の小字に遣ると云ふ。続風土記云、田屋の忌部氏、永仁六年文書に国請田酒部浦と云ふ言あり、按に酒部は古事記景行天皇段に「神櫛王者、木国之酒部阿比古、宇陀酒部之祖」とありて天武天皇紀に「紀酒人直、賜姓日連」と見、え、酒を造る部の居し地なるより地名となりしなり、そは伊勢国人の蔵せる貞観三年本国の田券に「名草郡直川卿、酒部村」とありて田数を記せる奥に国司以下の証判あり。
野応《ノ》郷 和名抄、名草郡野応郷。○今山口村の大字西村藤田の辺なるべし、霊異記に名草郡能応里と見ゆ、名義は野にて応は添声に過ぎざるべし。南は大屋郷、西は直川郷、東は那賀郡也。
山口《ヤマグチ》 一駅所にして、西村と曰ひ、泉州街道中山の下に在り、古は野応里と曰ふ。〔名所図会〕○大日本史云、大館氏清、居伊賀関岡城、橋本正高挙兵于紀伊、足利義満遠山名義理細川頼元攻之、正高請援氏清、乃率兵撃義理等于山口山中、卻之。
駅家《ウマヤ》郷は蓋野応の古駅にして、今山口村大字滝畑なるべし、中山と称し紀泉の山隘にして白鳥関址あり、平治元年平清盛平重盛熊野詣の帰途|鬼《キ》の中山《ナカヤマ》にて六波羅の使者に会ふと彼物語に見ゆるも此なり、男《ヲ》中山とも云ふ。
名所図会云、中山の王子社は今山口庄滝畑村にある小祠なり、すべて熊野参詣の道九十余所の王子と称するも、或は修禊をなし給ひ或は遙拝をなしたまふ所の地にして、畢竟其時々たつるところの神祠ののこれるなり、是を王子と称するものは熊野《クマノ》の大神の御子と准へ奉りての名なるべし、定家卿熊野道間記云(建仁元年)払暁出道、参|信達一之瀬王子《シンタチイチノセワウジ》、又扮坂中祓、次参地蔵堂王子、次参|宇羽目《ウハメノ》王子、次参|中山《ナカヤマ》王子云々。又平家物がたり清盛熊野詣の条に云、和泉と紀伊の国のさかひなるを中山にて、云々。
雄之山《ヲノヤマ》 男之山又袁山などにも作る、葛城の脈にして紀伊の北界を成すを総称して雄之山と曰ふ、故に山北に和名抄呼唹郷あり、山南に日本紀雄之水門(古事記男之水門)あり。○雄山は今専中山を指す、其山隘は葛城山脈の内にありて阪路甚だ険ならず官道なり、雄の山の西に雲山《ウンセン》峰あり又雨の森と称す、葛城連峰中最高峰の一にして近海渡航の指針となる。
白鳥関《シラトリノセキ》址 此塞は又紀伊関といふ、中山の南大字|湯屋谷《ユヤタニ》に在り。名所図会云、紀関は和泉国より当国へ越ゆる雄山の南の麓なる山口庄湯屋谷より東一町をいふ、某所に今に関守の子孫と称する民家あり、関はもと大化二年関塞防人を置とあれば、其時の事か、今考ふべからず、うつぼ物語には此関名見ゆ。袖中抄云「たつか弓とは紀伊国の風土記を考るに弓のとつかを大にする也、それは紀伊の国の雄山《ヲノヤマ》のせき守が持弓なりとぞいへる」云々、又今昔物語に、紀伊に住ける男の妻、弓と化りて身をかくせる一語を載す。○按に、白鳥の関の手束弓の故事は、今昔物語詞林采葉俊秘抄等に見ゆ、大意云「昔男あり女を深く愛惜しけるに、其女一夕形影を隠しけるに、男驚き夢かと計りに見しに、枕上に手束弓たてり、即弓をば女の遺せるかたみと為し、身を放たず月日を経ぬ、此弓後に白き鳥になりて飛び去りにけり、男其跡尋ねて行きしに、鳥又化して人と為り『朝もよひ紀之川ゆすり行水のいつさやむさやいるさやむさや』とよみたりけるとぞ」
吾背子が跡履み求めおひゆかば木の関守いとどめなむかも、〔万葉集〕 金村
引とめよ紀のせきもりがたつか弓春のわかれをたちや返ると、〔壬二集〕 家降
せきもりの紙子もむ矢かたつかゆみ、 其角
按に府中神社を白鳥宮と云ふも此紀関守の故事に因るならん、太平記剣巻の説牽強にちかし。
思ふにはちぎりも何にかあさもよひ紀の川上の白鳥の開、〔夫木集〕 長明
大屋《オホヤ》郷 和名抄、名草郡大屋郷、又大屋神戸郷。○今|川永《カハナガ》村是なり、大屋都比売神社あり、宇田森と曰ふ。山口村の南、紀之川の北岸なり、東は那賀郡に至る。
補【大屋郷】名草郡○和名抄郡郷考 神名式、大屋都比売神社。同頭注、大屋姫五十猛命妹。名勝志、名草郡大屋大明神杜、平田庄宇田の森、村の東北一町許にあり、本国神名帳従一位大屋神。万葉集九、大屋野に竹葉かりしき云々、また大跡《ヤマト》庭聞往歟大家野之(鈴屋翁云、我は家の誤なり)○今川永村大字田森。
大屋都比売《オホヤツヒメ》神社 延喜式名草郡の名神大社なり、今川永村大字宇田森鎮坐。○日本書紀云、素戔嗚尊之子、号曰五十猛命、妹大屋津姫命、次※[手偏+爪]津姫命、凡三神亦能分布木種、即奉渡於紀伊国也。按に此神等の此国へ渡御ありしは即木国の開基とも云ふべく、太古の事なるべければ今詳にし難し、初めは苑部の伊達社に鎮坐せしにや、続紀「大宝二年、分遣伊太祁曾、大屋都比売、都麻都比売三神社」と載せたり、新抄格勅符に大同元年大屋都姫へ神封七戸を寄せたまふと記す。
永穂《ナンゴホ》 土俗ナンゴと呼ぶ、即川辺村に合同して今川永村と云ふ。○足利方の当国守護たりし山名修理義理塁跡、永穂の西に在り、是より西南に※[こざとへん+皇]の跡ありしかど宝永年中墾田となれり、又是より東三町に二十五本|松畷《マツナハテ》と云有り、往昔の戦場なりとかや、事跡は大野城址の条下にみえたり。〔名所図会〕
補【永穂】名草郡○名所図会 山名修理大夫義理塁跡は永穂村少し西。○永穂中小太夫散位藤原朝臣の末葉は当村の農家にあり、国判連署の士の一なり。○今川永村。
川辺《カハナベ》 永穂の東に接す、日本書紀「安閑天皇二年、置紀国経湍河辺屯倉」と、河辺やがて此にて、経湍《フセ》は紀之川を隔てゝ相対ふ、和佐村布施屋是なり。○川辺は小字川辺中村の二に分れ、川辺王子中村王子の二祠あり、熊野参道の九十九王子の其一なり。中世紀伊国府出仕の郷士ありて、国判連署と称す、直川の助太夫紀朝臣、中村の三郎太夫秦宿禰、永穂の中小太夫藤原朝臣と云類なり、署名の古文書往々にして存す。〔名所図会〕
補【川辺】名草郡○名所図会 川辺王子社は川辺村の東にあり、九十九王子其一にして御幸記にいでたり、中村王子社は川辺王子社の東にあり、同じく御幸記に見ゆ、承安元弘の間荘内の地頭職に中村三郎太夫散位秦宿禰と云者あり。
和佐《ワサ》 旧庄名にて、今和佐西和佐の二村に分る、妃之川の南岸、東は那賀郡に至り西南は山東庄宮村に至り、広衍の地なり。古郷名を知らず、蓋神戸散在して諸社に分属したるならん。
布施屋《フセヤ》 和佐村の大字なり、紀之川に近し。南山巡狩録に正平六年、紀伊国布施屋郷地頭職を二見太左衛門太夫に下賜ふと〔東南院古文書〕あるは此なり。又日本書紀「安閑天皇二年、置紀国経湍屯倉、注、経此云俯矣」と云ふは、経湍《フセ》即ち此にて、往時紀之川を此にて渡津として往来し、正倉をも置かれしならん、同時に定められたる河辺屯倉も経湍の対岸地なり。
和佐山《ワサヤマ》 和佐村の南嶺にして、嶺南は山東庄|最初峰《サイショガミネ》と相去る一里余、延文四年の陣場なり。○太平記、龍門山軍の条云、四条中納言隆俊、三千騎紀伊国最初が峰に陣を取ておはす由聞えければ、畠山入道道誓が舎弟尾張守義深を大将にて、白旗一揆平一揆|諏訪祝部《スハノハフリ》千葉の一揆相原が一類彼此都合三万余騎、最初が峰へ差向らる、此勢則敵陣に相対したる和佐山に打上りて、屏塗櫓を構たる間、宮方の大将塩谷伊勢守其勢を引き龍門山にぞ籠りける云々。○名所図会云、下和佐の慈光寺は真言律宗にて、古は和佐山の観音寺と号せしを、寛文年中今の名にあらたむ、和佐八幡宮の別当にして、元弘建武の兵燹に懸りて廃頽しかたばかりの本堂のみ残りしが、寛文のころ中興、林泉幽邃にして頗る風流の賞をむさぼるにたれり。高積《タカツミ》神社は延喜式名草郡高積比古高積比売の二社是也、今和佐村大字|禰宜《ネギ》の和佐山の巓に在りて、嵩《タケ》の明神と云ふ者是なり、高積は嵩主《タケモチ》の義なるべし、○名所図会云、禰宜村の歓喜寺は高御前《タケノゴゼン》の別当にて、由良興国寺に属す、初は真言宗なりしを臨済の正流に変ぜられ、続きて兵火に古記録すべて焼亡すといへども、なほ寄附状乱妨制禁状等数通を存せり。
岩橋《イハハシ》 栗栖村と相接し、近年合同して西和佐村と号す、岩橋は旧|湯橋《ユハシ》に作り東鑑文治六年の条に此名出でたり、又国府の国判連署の郷土に湯橋新太夫秦宿禰の名あり、建武四年古文書に栗栖犬楠丸と云郷士あり。○車谷は岩橋の西南の地也、古碑石あり何の為に建てし者なるを知らず、字多くは磨滅し唯天平宝字三年の六字のみ見えて其余は読べからず、好古の士幸に稽へ徴さば、古記の闕を補ふにたらん、土俗つま山ともいふ、此山において往々陶器をほり出す事あり云々。〔名所図会〕
補【湯橋】○名所図会 栗栖村に接す、古国判連署の郷士に湯橋新太夫宿禰あり、今岩橋と云〔東鑑、略〕古堂の跡にカヤン堂とてあり、土人以て苅萱の故事となす。○今西和佐村。
車谷 鳴神村領と岩橋領との堺にあり、此地平坦にしてやゝ広濶なり、碑石あり、何のためにたつる所なるや。
島《シマ》郷 和名抄、名草郡島神戸郷。○今|中之島《ナカノシマ》村四箇郷村(松島)に当るべし、西和佐村の西北に接し紀之川の南和歌山市の東北に接す、河水煢(中が糸)※[さんずい+回]の地にして実に島と名づくべき也。按に古は紀之川本郷の西に滞渟して南は和歌浦に通じ、西に雄氷門を開きたり、雑賀崎吹上?は外洋と内湾の隔障を為したり、近世和歌山築城の後地形一変す。
志磨神社は延喜式名草郡の名神大祀なり、続日本後紀三代実録に紀伊国志摩神授位の事見ゆ。此社は雑賀一揆の兵乱に痛く敗頽し今中之島村に纔に存す、厳島明神と称ふる者是也。〔名所図会〕
妙見《メウケン》寺 中之島の明見寺は旧楠見村市小路に在り、妙見堂と云ひ、其妙見菩薩は即市小路に鎮ります伊久比売神の御正体にませば、本地仏とはなし奉れり、然るに寺も幾程なく天正の兵火に烏有となりて、寺号のみを存して荒蕪、茲に享保十四年国君之を中興し、五大尊の霊像を寄附せられ、祈願所に命ぜらる。〔名所図会〕
徳勒津《トコロツ》 古の雄之水門に臨める津頭にして、中世|※[草冠/解]津《トコロツ》郷と称し今中之島村の東に字を存す、四箇郷《シカガウ》村大字|新在家《シンザイケ》に属す。日本書紀云、仲哀天皇、巡狩南国、而従駕二三卿大夫、及官人数百、而軽行之、至紀伊国、而居于徳勒津宮、熊襲叛之、不朝貢、天皇於是将討熊襲国、則自徳勒津発之、浮海而幸穴門云々。○国郡沿革考云、徳勒津は今の新在家なり、国造家建徳二年旧記に※[草冠/解]津《トコロツ》郷とある者是なり。名所図会云、徳勒津は新在家の東北三町許に旧名を存す、日前宮嘉禎年間の文書に|※[草冠/解]津とあり、天正十三年豊臣氏太田城水攻めの砌居民流亡して其遺墟を失ふと雖、今尚田野の字に呼ぶ所あり、又土人に得津の家号を唱ふるものあり。万葉の遠津は徳勒津の訛か。
あられふる遠津《トホツ》大浦によする浪よしもよすとも憎からなくに、〔万葉集〕
日前《ヒノクマ》郷 和名抄、名草郡日前神戸郷。○今宮村大字|秋月《アキツキ》なり、下なる国懸郷も此なるべし。
国懸《クニカヽス》郷 和名抄、名草郡国懸郷。○今宮村大字秋月なり、日前国懸の二神社此に在りて、紀国造之に奉仕し、本州の大祠とす。
秋月《アキヅキ》 日前宮《ニチゼングウ》の門前なる駅舎にして、今宮村と改め海草郡衙を此に置かる、和歌山市の東一里。○日前宮は宮郷秋月村の西北半町許に在り、代々紀氏国造社務たり、天道根命の裔なりとぞ、今華族に列し男爵を賜ふ。
名草山とるるやさか木のつきもせず神の葉しげきひのくまの宮、〔風雅集〕 紀俊文朝臣
日前国懸宮《ヒノクマクニカヽスノミヤ・ニチゼンコクケングウ》 今官幣大社に班し、宮村大字秋月に在り、二社一境にして俗に爾知膳牟と唱へ奉る。日本書紀、「朱鳥元年天武天皇病、奉幣於居紀伊国懸神」また「持統天皇六年、将遷都、遣使者奉幣于四所、伊勢大倭住吉紀伊大神、告新宮」などにて朝家崇拝の特に大なるを知るべし、延喜式二社並に名神大と注したり。新抄格勅符二社神封一百十六戸、又中右記に「寛治五年十二月、上卿参陣、択申日前国懸社遷宮日時」と見え、東鑑「暦仁元年、紀伊国日前宮、営作事成功、而可造畢之旨、被宣下」などとも見え、暦世厳重なる儀を備へしを知る。天正年中国造家豊臣氏の旨に忤ふ所ありて太田《オホタ》の水責と為り、神宮兵禍に罹る、徳川氏入国の初南龍公頼宣両宮を再興して稍面目を復し、以て今に至るとぞ。
名ぐさやま峰もる月のかげよりも御影ぞたかき日の前の宮、〔家集〕紀俊長 かしこさは伊勢の神垣へだてなく此もあまてる日のくまの宮、〔家集〕平宣長
書紀通証云、日前国懸、両社同地、左為日前、右為国懸、以日御像、為日前大神、以日矛為国懸大神、崇神天皇時、使天道根命、祭二神宝於此云、野府記曰、鏡三面、伊勢大神、紀伊国日前国懸。○両宮の由来は日本書紀古語拾遺及釈日本紀に参考すべし、今便に依り神祇志料を援くべし。曰、日前神社は天祖天照大神の前の御霊|日矛《ヒホコ》を祭る、国懸神社は大神の前の御霊日鏡を祭る、之を紀伊坐大神と申奉る、上古天照大神天石窟に隠り坐し時、思兼神思慮りて大神の象を図造りて招祷奉るべしと白して、石凝姥命を冶工とし天香山の金を採て日矛を作らしめ、又真名鹿の皮を全剥に剥て天羽鞴を造り、日像鏡を鋳しむ、初度鋳たる鏡少しく神等の意に合はず、次度に鋳たる鏡其状明麗、故其鏡を五百箇真坂樹に懸て大神を招出し奉りき、〔日本書紀、参取古語拾遺〕其初度に鋳たる一鏡は国懸大神に坐り、〔日本書紀、古語拾遺、大倭本紀、明文鈔〕爰に皇御孫命《スメミマノミコト》天降り坐時、天祖の詔以てその御霊を護斎《イハヒ》鏡として天璽の神宝と共に副降し賜ひき、〔日本書紀、大倭本紀〕蓋此後世々二神を大殿に斎奉り、垂仁天皇御世に及て名草宮に崇奉りき。{参酌古語拾遺、大倭本紀、小右記大要、垂仁以下拠国造系図〕 按、日本書紀一説石凝姥を冶工とし、天香山の金を取りて日矛を作る、是即紀伊国に所坐日前神也とあり、古語拾遺には初度に鋳る所の鏡は日前神也と見えて、其説異なるに似たれど、日前国懸両大神もと同体の神にますを以て、其霊形の事を語り伝へしが、彼と此と混ひたるのみなり、故日前神の神体は書紀一説により、国懸神の神体は大倭本紀によれり、文古語拾遺に拠れば崇神天皇鏡剣を摸し給ひて、神物をば笠縫邑に移し奉り、遂に伊勢に斎奉りき、此時本社の神鏡も共に天照大神御霊に附添て宮中に斎奉りしを、同じく摸造りし也、小右記に天徳四年の災を記せる村上御記を引て、鏡三面其一は伊勢大神、其一は紀伊国大神、其一は真形破損せずとあるは穴師大神と聞ゆれば、三面共に摸造ありし事も、大殿に斎奉られし事も知られたり、又釈紀に引ける大同元年大神宮本紀倭姫命世記に崇神御世豊鋤入姫命大神を戴奉り、宮処を求給ふ時、木の国奈久佐浜宮に三年斎奉るとあるに拠て考ふるに、疑らくは此時二柱の神体をば名草宮に留め奉りて、永く鎮り坐しめ給ひしにやあらむ、又按、国造系図に神社旧毛見郷舟着浦の山上にありしを、垂仁天皇十六年国造大名草比古命に神教あるを以て今地に遷し奉れりと云へり。(以上神祇志料)○名所図会云、日前国懸両宮御神体の事、その説区々なれど、釈日本紀に引ける大倭本紀の伝最正しく聞ゆ、国造家暦応の款状と合せ考ふべし。大倭本紀「一書曰、天皇(邇々芸命を申す)天降来之時、共副護斎鏡三面、子鈴一合也」本書註に云、「一鏡者天照大神之御霊、名天懸大神也、(日前宮御霊是なり)一鏡者天照大神之前御霊、名国懸大神、(国懸宮の御霊日矛是也、日矛を直に鏡と云へる証は、旧事紀に令鋳造日矛此鏡少不合意とあり)今紀伊国名草宮崇敬解祭大神也、(今両宮の地是也)一鏡及子鈴者、天皇|御食津《ミケツ》神、朝夕御食、夜護日護、斎奉大神、今之巻向穴師社宮、所坐解祭《マセマツル》大神也」とあれば、天懸国懸と対へて称へ奉れる御名なり、又国造家に伝れる暦応三年の両神宮款状の草案に「謹考古実、日前国懸之両宮者、天照皇神之前霊也、和光早卜南海之月、崇敬年旧、尊貌亦留北闕之雲、霊験日新也」と見えたれば、此文を証として釈記の註に一の鏡者天照大神之御霊とあるも、前の字を補ふべきにや、猶考ふ可し。
今按に、日前国懸の大神は共に天照大神の御霊として斎奉らるゝは上の如くなれど、其日矛と云は矛にて鏡に非ずと古事記伝に見え、古史伝には日矛と云は其矛に着け奉る鏡なれば、即此に日矛と称へたるなりと弁ぜり。
紀国造家は古より日前国懸大神に奉仕し、連綿たる名戸なり、今華族に列し男爵を授けらる。其家譜云、「天道根命、神武天皇、以当国賜于天道根命、初自補国造職、奉仕于両大神」と、書紀云「景行天皇三年、屋主忍男武雄心命、娶紀直遠祖菟道彦之女影媛、生武内宿禰」と、古事記云、「比古布都押之信金、又娶木国造之祖宇豆比古之妹、山下影日売、生子建内宿禰」と、家譜云、宇遅比古、天道根命六世孫云々。○古事記伝云、国造本紀、紀伊国造、橿原朝御世、神皇産霊命五世孫、天道根命定賜国造。姓氏録、河内神別、紀直、神魂命五世孫天道根命之後也、和泉国、神別、紀直、神魂命子御食持命之後也、又神功紀に紀直豊耳とあり、敏達紀に紀国造押勝とあり、国造と直とは同氏也。又続紀、神亀元年、紀伊国名草郡大領、紀直摩祖為国造。天平元年、紀直豊島、為紀伊国造。延暦九年、紀直五百友、為紀伊国造。又続後紀承和二年、三代実録貞観五年紀直氏の人に宿禰の姓を賜しこと見えたり、続後紀「嘉祥二年、紀伊守伴宿禰龍男、与国造紀宿禰高継不※[立心偏+匡の中が夾]」云々と見えたり、貞観儀式に出雲国造と紀伊国造とを任《ヨサ》す式を載られたり、他国造と此家の殊なる由は殊なる大神を斎《ツキキ》祭る故なるべし、此国造は日前国懸二大神の祠官にて、今に至るまで此氏相続て紀国造と称ふ、其系図を見るに、天道根命を始祖として日前国懸両大神天降坐の時御従奉仕と記せり。○国造本紀考云、紀伊国造系図を按るに、天元年中国造奉世男子なくして、国守紀行義に職を譲る、行義より卅四世慶俊の時又子なく、藤原氏飛鳥井三冬を養子とす文化年中の事なり、されば此国造家神別絶えて皇別の系となり、又藤氏となれる也。
大田《オホタ》郷 和名抄、名草郡大田郷。○今宮村大字大田是なり、秋月の西にして和歌山市の郊外に当る。 播磨風土記云、昔|呉勝《クレノマサ》従韓国度来、始到紀伊国名草郡大田村、其後分来移到於摂津三島、賀美郡大田村、又遷来於此、是本紀伊国大田以為名也。
大田《オホタ》城址 大田村の東南、田野の中に其跡わづかにのこる、紀国造家の要害にして天正十三年豊臣氏の軍に囲まれし所也。○紀国造家旧記に曰、当境は往昔より一円宮郷とす、しかるに応仁文明の比、諸国蜂起の徒地を略し城を屠ること世の常なれば、時の国造俊連朝臣神領の蠹食せられんことを恐れ、延徳年中、所々に城郭を築きて、防禦にそなへらる、所謂秋月の城には飯垣《イヒガキ》周防守、忌部《インベ》山の城には村垣《ムラガキ》因幡守、三葛郷《ミカツラガウ》の城には田所平左衛門を置てまもらしむ、而して当所は国造家の居城たり、其後天正の始|雑賀《サイガ》の郷士雑賀孫市なるもの、小宅《ヲヤケ》郷の西|蔵六《ザウロク》の芝中野畠の地を争ふをもつて、合戦におよぶことしばしばなり、天正十二年国造忠雄秀吉の兵威に抗し、泉州|岸和田《キシノワダ》に発向し合戦におよぶ、秀吉これを深くふくみて同十三年三月当国に乱入し、根来《ネゴロ》寺を焼亡し、つゞいて大田城を水攻にし、音浦《オトウラ》山のふもとより、日前宮《ニチゼングウ》の森中を西へ、北は八軒屋の川岸へすべて土堤を築廻し、紀《キ》の川を※[しんにょう+激の旁]入れ、岩出《イハデ》より宮井《ミヤヰ》川|小倉井《ヲグラヰ》川へ落せば、陸地はみるがうちにあたかも漫々たる湖水のごとく成りぬ、是則四月朔日のことにして、住僧永意は国造忠雄と共に難を避けて、高野山に入る云々。
妙幢《メウドウ》寺 大田の西南に在りて夢野妙幢寺と呼ばる、枕草紙春曙抄に謂ふ所は、妙幢菩薩は夢の吉凶をつかさどるぼさつなり、恋しき人をゆめにみんとおもふときは此菩薩の御名をとなへ、夜の衣をかへしていぬるときはかならずゆめに見ゆるなり、うたに「いとせめて恋しきときはぬばたまのよるのころもをかへしてぞきる」と云々、こゝをもて世人夢の妙幢と称す。〔名所図会〕
有真《アリマ》郷 和名抄、名草郡有真郷、○今|鳴神《ナルカミ》村なり宮村の東南に接す。此村に鳴神音神と香都知《カグツチ》神鎮座するは熊野浦有馬村に伊弉冊尊の遺跡あるに合せ考ふれば、鳴神音神も香都知も冊尊火神を生みたまふ時現れたまへる御子なるや明白なり、神代巻の古語に因り出雲より移せる霊蹟なるべし。
鳴神《ナルカミ》社 此祠鳴神山下に在りて其東北三町に音《オト》神社あり其地を有馬と字す、香都知神社は鳴神と相距る二町、並に延喜式に列すれど、鳴神は名神大社にして、音神は堅真音神社に作れり、紀伊国神名帳には有馬音大神と曰ふ、有真郷の東南は忌部郷にて熊野浦にも有馬忌部(今南牟婁郡有井村)の二村相接在するに同じ、按に有馬の里人が花を以て神を祭り又鼓吹幡旗もて歌舞すと云ふも皆忌部の風俗にて、其氏人が楯矛を造るも吉凶の礼相通用したるか。上古天祖天窟に坐す時、紀伊国忌部祖彦狭知命讃岐忌部祖手置帆負命と共に種々の神宝矛楯を造り仕奉りき、其裔孫名草郡御木麁香二郷に在り、〔古語拾遺〕後世に及て鳴神の祝また氏人等なほ大嘗会の楯矛を造り奉るは即其事の本也。〔康富記永享大嘗会記〕
人類学雑誌、鳴神村字岩壷に貝殻畑あり、疑もなく鹹水産の貝塚とす、此岩壺の地たる和歌山市を東に距る一里、和佐山の西麓に連る一丘地にして前は宮郷の村落諸方に散在し、此は遠く紀の川を隔てゝ葛城山脈を望む、今や海辺を距る殆んど一里半余、桑滄の変実に驚くに堪へたり。○按に宮村宮前村四箇郷村など和歌山市の東郊は、往時紀之川と和歌浦の間なる入江にて、河水の流勢は或は南し或西し桑滄の変ありしや明かなり、然れども歴史上の古代には早く已に卑低の陸地たりしならん。
補【堅真神社】○神祇志料 按、本書音字を脱せり、今本書異本三代実録紀伊国神名帳に拠て之を補ふ、又按、紀伊国神名帳堅を有に作り、倭名砂又有馬郷みえ、神社今有馬村に在る時は、堅は有の訛か、恐らくは有肩の字体相似て肩堅音訓相通ふを以て、此謬誤あるか、然れども三代実録みな堅と作る時は輒く改難し、姑附て考に備ふ
今神宮上郷有馬村鳴神山の麓にあり(陽国名跡志・紀伊神社記・紀伊名所図会)
按、本村に神社の御手洗池あり、其地に音浦山・音浦川あり、蓋堅真音の音は是に由て起るに似たり、姑附て考に備ふ
音明神と云ふ(国造旧記)清和天皇貞観元年五月辛巳正六位上堅真音神に従五位上を賜ひ、七年五月丁酉詔して官杜に列せしめ、八年閏三月戊午従四位下を授く(三代実録)
大宅《オホヤケ》郷 和名抄、名草郡大宅郷、○今|宮前《ミヤサキ》村なるべし、宮村の南に接し雑賀川の東に沿ふ、岡崎村の西に在り、大字|手平《テビラ》は古名大宅なる由名所図会に見ゆ。
補【大宅郷】名草郡○和名抄郡郷考 国図に小宅村あり、土人云、此小宅は日高郡なりといへり。紀路歌枕上大野家は大岡庄の内に在、宗紙国分に美濃の名所に出せり、但諸書当国に入る、猶決めがたしとあり。
忌部《イムベ》郷 和名抄、名草郡忌部郷、○今岡崎村にて、大字井辺は即忌部の訛れるなり、荒賀郷と云も近接地にして今岡崎村に外ならじ、紀伊国忌部の本居なり、かの御木《ミキ》郷と曰ふも此か。
補【忌部郷】名草郡○和名抄郡郷考 古語拾遺、高皇産霊所生之云々、男名曰天大玉命、太玉命所率神名曰云云彦狭知命、注紀伊国忌部祖也。続紀宝亀十年六月紀伊国名草郡人外少初位下神奴百継等言、己等祖父忌部支波美自午年至大宝二年之藉、並注忌部、而和銅元年造藉之日拠居里名注姓神奴、望請従本改正者、許之。兵庫式、大嘗会新造戟八竿、紀伊国忌部氏造。本国神名帳、名草郡従四位上香郁知神在忌部嶋雷村田中。今按、国図伊戸村あり、これか。名所図会、今井辺といふといへり。
○名所図会、建武四年尊氏沙汰状に栗栖大楠丸領、知紀伊国岡崎荘云々。今小手穂辺の五村を岡崎荘と云。○今岡崎村大字井辺。
荒賀《アラカ》郷 和名抄、名草郡荒賀郷、○原書八荒賀に作る、八は竄入に似たり故に刪る、忌部氏の本居にて謂ゆる麁香郷なり。古語拾遺云、神武天皇、建都橿原、経営帝宅、仍令天富命、率手置帆負彦狭知二神之孫、以斎斧斎※[金+且]、始採山材、構立|正殿《ミアラカ》、故其裔今在紀伊国名草郡御木麁香二郷、採材、斎部所居、謂之御木、造殿斎部所居謂之麁鹿。○続紀、「宝亀十年、紀伊国名草郡人、外初位下神奴百継等言、己等祖父忌部支波美、自午年至大宝二年之籍、並注忌部、而和銅元年造籍之日、拠居里名注神奴、望講従本改正者、許之」と、この神奴《カウヌ》と云ふ居里名とあるは今岡崎村大字|神前《カウサキ》あり此なるべし。又延喜式云、践祚大嘗祭、宮南北門所建、戟八竿、各長一丈八尺、左右衛門府申官、令兵庫寮依様造備、紀伊国忌部氏造之。○姓氏録云、右京神別、斎部宿禰、天太玉命之後也。古語拾遺曰、天太玉命、所率神名、曰彦狭知手置帆負。
名所図会云、井辺《ヰンベ》村の忌部里神社を土俗東御前と云ひ、大衣《オホキヌ》笠持神社を土俗西御前と云ふ、並に忌部の祖神なり、小手穂の満願寺は鳥羽上皇駐輿の址にて、熊野御幸記に載す。○新編会津風土記、加須屋氏文書に井上《ヰンベ》庄と云も忌部ならん。
「綱封寺住持正仲書記申 紀伊国井上新荘(号立野)公文職田畠山野并当寺敷地散在以下事云々
応永十四年五月」
山東《サンドウ》 旧庄名にて今東山東西山東の二村に分る、和佐の南忌部の東なる山村にして、那賀郡野上郷と最初峰の山脈を以て相分つ、源平盛衰記に山[マヽ]藤とある此なり。
須佐《スサ》郷 和名抄 名草郡 須佐神戸郷、○今|西山東《ニシサンドウ》村大字須佐存す、蓋延喜式在田郡須佐神社の神封にして、紀伊国神名帳に名草那須佐大神と載するは此地に祭れるならん。
補【須佐神戸郷】名草郡○源平盛衰記〔元暦元年維盛入道熊野詣〕此より熊野参詣の志ありとて修行者の様に出立給ければ、如何にも成給はん様を見奉らんとて時頼入道も御伴申て参けり、紀国三藤(山東なるべし)と云所へ出給ひ、藤代王子に参り、暫らく法施を奉り給ふ、所願成就と祈誓して峠に上絵へば、眺望殊に勝れたり、霞籠めたる春の空、日数は雲井を隔つれど、妻子の事を思出て、故郷の方を見渡して、涙のこりをぞかき給ふ。
伊太杵曾《イタキソ》郷 和名抄、名草郡伊太杵曾郷、○今西山東村大字伊太祁曾存す、須佐郷の東に接す、和名抄此下に神戸卿あるは伊太祁曽の封邑なるべし。
補【伊太杵曾郷】名草郡○和名抄郡郷考 村名帳、伊太杵曾村。神名式、伊太祁曾神社。名勝志、山東庄、伊太祁曾村の西北一里許にあり、中は五十猛、左は大屋津姫、右は秋津姫也、日本紀に出たり、和銅・正平・承久・明応年中の綸旨あり、この内和銅のは紛失して外に綸旨一通年号なし、其外文安・寛喜・正応・延元の奉書あり、延元の奉書当国一宮伊太祁曾と有、本国神名帳に正一位勲八等伊太祁曾神社。続紀大宝元年〔二年の誤り〕二月己末、分遷伊太祁曾、大屋津比売、都麻都比売三神社。正濫抄、素戔嗚尊の御子五十猛命のまします社の名なり、此につきて按ずるに、伊太祁曾は五十猛の仮名なるにや、然らば五十はいとのみよむべし、曾は魯の字を書あやまるか、魯の呉音ルか、日本紀に遙々を波魯ばろと書り、祁は万葉にケとのみ用ひてキと用ゐたる事なし、太も濁音ならば陀の字などを用ふべし、続日本紀・文徳実録・延喜式・和名抄一同に伊太祁曾とかゝれ、今もいたきそといふ、一犬吠虚万犬吠実といふ風情にて、むかしの一の誤りを伝へたるなり。図会云、今伊太杵曾村は伊太杵曾神社の地をいふ。
伊太祁曾《イタケソ》神社 今国幣中杜に列し、神域山峰を籠絡し社殿亦広麗なり。延喜式名神大と注し、五十猛命を祭る。和名抄郡郷考云、伊太祁曾社は相殿に大屋津姫都麻津姫を祭り、正平承久明応の綸旨を所蔵し、文安寛喜正応延元の奉書あり、其延元の奉書に当国一宮伊太祁曾と記したり。○日本紀云、初五十猛命、天降之時、多将樹種而下、然不植韓地、尽以持帰、遂始自筑紫、凡大八洲国之内、莫不播植者、而成青山焉、所以称五十猛命、為有功之神、即紀伊国所坐大神是也。按に此神は妹二神と共に紀伊国に来巡の事は書紀に明記し、初め其社は苑部郷伊達神社なりしを、大宝年中三所に分遷ありし者の如し、今の宮郷より移すと云は疑はし。○神祇志料云、伊太祁曾神社に坐三柱の神は即紀伊国造が斎祀る神等也、〔続日本紀、参取旧事本紀等〕初三柱の社共に宮殿を同して宮郷に鎮り坐しを、垂仁天皇の御世日前国懸大神を斎祀るに及て即今の地に遷り給ひ、〔伊太祁曽社伝〕大宝二年紀伊国伊太祁曽大屋都此売、都麻都比売三神社を分遷し奉る、〔続日本紀〕大同元年、是よりさき伊太祁神に奉る神封五十四戸に十二戸を加奉る。〔新抄格勅符〕
薬王《ヤクワウ》寺趾 伊太祁曾の南数町、大字境原に在り。紀斎名曰、紀伊州名草郡、有一道場、曰薬王寺、行基菩薩昔所建立也、聖跡雖旧、風物惟新、前有日月星之水、後有黄纐纈之林、有草堂有茅屋、有経蔵有鐘楼、有茶園有薬園、又日本霊異記曰く、聖武天皇の御宇に紀伊国名草郡|桜《サクラ》村の物部麻呂塩舂と云者、薬王寺の楽料米を借りて酒をつくりて売る、麻呂卒して後一ツの牡犢きたりて薬王寺にいりて塔の下に伏す、寺の者怪みて追出せども又来りて去らず、いか成者の牛ぞと方々に尋問ふに知る人なし、此故に寺に飼置てつかへり、五年にあたる時、薬王寺の旦那岡田村の石人が夢に、牡牛来りて曰我をしり玉ふやと、石人答てしらずといふ、彼牛膝を屈て涙をながし我は桜村にありし物部麻呂なり云々、星霜累りて頽廃し仏堂の址は田野の字となり古瓦礎は所々に見えて、青苔厚く満地の落花は春寂々としていと淋し。〔名所図会〕
津麻《ツマ》郷 和名わ 名草郡津麻郷、○今東山東村なるべし、大字|平尾《ヒラヲ》に都麻神社あり、和名抄本郷の次に神戸郷あるは都麻の神戸なるべし。
都麻都比売《ツマツヒメ》神社 東山東村大字平尾に在り、新抄格勅符に大同元年神封七戸を充て奉る、延喜式名神大と註す、此神鎮座の縁起は伊太祁曾神社伊達神社等参考せば明白なり、紀伊国開創の名神とす。
明王寺《ミヤウワウジ》 今東山東村の大字と為る、旧精舎の名なり、矢田池の西にして大字|塩谷《シホノタニ》に近接す。名所図会云、矢田の明王は開基覚?上人、古より当庄|伊太祁曽《イタキソ》大神の奥の院として、供僧の輩当村に住し、神仏一如のことわりこゝにあらはれて、一方の大巨刹なりしも、天正十三年三月、根来寺の火と共に灰燼し、今僅に其遺跡存するのみ。
最初峰《サイシヨガミネ》 東山東村の東に在り、正平十五年(延文五年)四条大納言隆俊此に陣し、合戦の事大平記龍門山軍の条に見ゆ、当時の守護代塩谷某は本村大字|塩谷《シホノタニ》の郷士なるべし。
和歌山《ワカヤマ》 今市制を布く、人口六万、紀之川の南岸に倚り、海浜の民家は自立して湊《ミナト》村と曰ふ。大阪を距る十七里、本州の都会にて工商の業頗盛大なり、徳川氏の時親藩を此に封し五十五万五千石を附与して南国の鎮と為したるより士庶大に集り、今に至るも県庁兵営諸官衙此に在り。鉄道は北泉州尾崎より来る者、東和州五条より来る者共に此に会す。
和歌山市は雑賀川(紀之川支流和歌浦注ぐもの)に跨り、南は雑賀埼に連る、旧名草郡に依属す、古の雄之水門吹上浜の地に当る。天正十三年豊臣秀吉本州を平定し族秀長(大和大納言)に加封す、乃其将桑山修理亮重晴(果報院法師)をして吹上《フキアゲ》の岡に築かしめ、地方を守備せしめたり。文禄三年秀長の嗣秀俊薨す、慶長五年東西軍起る時重晴諸孫と和歌山を守り東軍に応ず、戦後重晴和州布施に移封せられ、(封一万六千石)浅野紀伊守幸長之に代り入部す封四十万石。幸長大に城市を築き面目一新す、二十余年を経て浅野氏安芸に移り、徳川常陸介頼宣入部あり、頼宣即紀州大納言南龍公にして尚武崇文の賢侯也。○和歌山は或は若山《ワカヤマ》に作る、此名は吹上築城の後和歌浦に対して起れる者ならん。
補【和歌山大橋】○名所図会 雑賀川に架れり、一に曰くモクヅ川とも云ふ、此処は勢州路、熊野路の咽喉にして行人常に繁く、西は和歌吹上の往還なり、其※[口+區]唖宛も楽戸の善方斉しく合せて奏するに似て、誠に繁華の地と云ふべし。
補【寄合橋】○名所図会 内町より湊へ架す当津の眼目街道の咽喉にして、金城の北辺に在り、橋下は出船入船の絶ふるなし。
補【時習館】○名所図会、学校、和歌山市寄合橋の西詰に在り、時習館と号す、天明七年藩侯の建立なり、士民の子弟を教育〔脱文〕補【駿河屋】○本の字饅頭 駿河町駿河屋にて製す、当家氏を岡本と云ふ、其祖山城国伏見の産にして古来より菓子の製を伝へて※[手偏+晉]紳家に調進す、慶長元和の頃駿河国に転居し、又若山に出店す、其後京大坂南都名古屋にも出店し、今六箇所に分れて同製を鬻ぐ、菓子形数千品ありと雖も、本《ホンノ》字の焼印あるは慶元以前よりの形なりと云ふ、焼饅頭の始なる可し。
補【昌平河岸】○湊の地東の片町にて南北に通ず、もとは湊片原と云ふ、文化年中今の名に改め、文政年中分ちて三町とす、外※[こざとへん+皇]」に添へる片側寄合橋の詰まで千店を建列ね、夜店ありていと賑はし。
和歌山城《ワカヤマノシロ》 市の中央特起の岡阜に依りて築き、雑賀川の水を其東に引き塁壕重畳す、今旅団の兵営に充てらるゝは即其内郭なり。○名所図会云、若山の府城は市街の中に聳ちて、四面の曲輪は八重垣を成し、岡山南に連りて、年経る松の木立※[草冠/翁]欝として、或は龍の蟠れるが如く或は虎の踞るが如し、木川《キノカハ》東より流れ北に繞り長峰北山は影面に畳なはり背面に連り、那賀名草の田面千代八千代は一目に見渡されて竃の煙賑はし、古音羽柴氏の築きしより浅野氏の時を経、元和以降更に内外の廓いと厳かに備はりつゝ城※[さんずい+皇]の水常に湛へ、万世に易るまじき鎮となれば誰かは仰ぎ尊まざらん。○徳川氏の時紀伊と南伊勢は和歌山藩主の支配下に在りて、傅相は田辺《タナベ》城主安藤氏、新宮城主水野氏なり、田丸《タマル》城は久野氏之を守り、南勢を控制したり。
登城楼 菊池梅軒
龍祖曾従遷此州、爾来経歴幾春秋、紀泉海抱峰巒走、阿淡山連溟渤浮、基業一朝寧望漢、本支百世尚懐周、陣図不問指其掌、豪気臨風興自※[しんにょう+酉]、
紀藩書感 頼山陽
藩府形便接鎮台、吾公昔日剪萵莱、山分畿甸逶※[しんにょう+施の旁]遠、海擁西南※[さんずい+そう莽]※[さんずい+晃]開、平蔡功勲憑胤氏、※[歿の偏+壹]殷戈戟馘廉来移封二百星霜変、誰識孤臣頭数回、
はろ/”\と和歌の浦わのいそ山につきのよろしきわかやまの御城、 本居宣長
和歌山《ワカヤマ》県庁 西汀《ニシミギハ》町に在り、紀伊国七郡を管治す、人口六十余万と云。
字治《ウヂ》 和歌山市の東北部の総名なり、一説此地は古史に見ゆる名草郡宇治里ならんと云ふ、然れども紀三井寺の南にも内原《ウチハラ》の名遺り、彼地即史上の旧跡なるべし、此なるは霊異記木国字治大伴連、又三代実録、貞観六年名草郡大伴連宅子などの故墟なるべし。○名所図会云、宇治古書に散見し或は菟道に作り、古は此辺の総名なりき、後世分れて鷺森、七日市、六日市の三村となり釘貫《クギヌキ》徳田木《トクタギ》四日市等の小名ありとか、(昔佐武伊賀守と云ふ人あり其父を元昌と云ひ、室町家に仕へ永禄年中軍功ありて鷺森釘貫の地二千石賜ふと云へり)慶長の頃宇治村鷺森村と二村になり、其後府下に属して、二村の地を割て内町を商戸とし、宇治を士邸とす、内町は方今城下最殷賑の街と為る。○釘貫《クギヌキ》里は府城の北、今内郭となれる地を旧釘貫村と云ひしとぞ、天正年中府城を築くに及びて郭外に移し市※[廛+おおざと]を開かしむ、今北町と云、釘貫の名は木工の釘抜より起れるにはあらざる可し、古書に柵を釘貫と云へることあれば此地も関塞などありしにや。〔名所図会〕
補【宇治】○名所図会 宇治は若山本町の東にあるを東宇治とし、西にあるを西宇治とす、宇治の名日本紀に紀直遠祖菟道彦、霊異記に宇治大伴連等の名皆此地名より出づ、上古は此辺の総名なり。産物、※[魚+留]《イナ》、湊川を上品とし、若川之に次ぐ。
○日本霊異記曰、吉野山有一山寺、名号海部峰也、帝姫阿倍天皇御世、有一大僧、住彼山寺、精懃修道、疲身弱力、不得起居、念欲食魚、語弟子言、我欲※[口+敢]魚、汝求養我、弟子受師語、至於紀伊国海辺、買鮮※[魚+留]八隻、納小櫃而帰上。
鷺森《サギノモリ》 今宇治の西を鷺森と曰ふ、鷺森神社あり即延喜式名草郡|朝椋《アサクラ》神社と云ものにして、今国津明神と称す。〔神紙志科名所図会〕一説旧名兎森なりとも、又難波生玉の鵲森の名を取りたりとも云ふ、天正八年本願寺光佐(顕如上人)生玉の石山城を退去し此に移り道場を建つ、即鷺森御坊と号す。
鷺森《サギノモリ》別院 鷺森御坊、今真宗西派に属す、本堂十七間四面、集会所茶所及門廡鐘鼓楼など備りて広大の建築なり、享保十年の再修と云ふ。○名所図会云、当御坊は顕如上人草創にして、当時門徒鈴木孫六(又雑賀孫市)栄谷《サカエダニ》八幡宮の祠に秘置る霊像を移し之を安んず、則今の本尊是也、此道場は天正の石山合戦ののち宗門開運の旧跡なれば、真宗に於て南岳関南第一の霊地と称す、鷺森の陣場踊は大馴《オホナラ》しとて今に至るも之を伝へ其縁起あり、彼天正八年石山本願寺顕如上人子息教如上人(光寿)と共に退城、やがて紀州下向、雑賀の門徒、鷺森に別業を構へ、是に迎へまゐらせ、此所を仮の御坊と定め、さて門徒には土橋平治郎を始とし鈴木孫市、岡本三郎太夫、島本仁左衛門、佐久間休右衛門其余我も/\と馳せ加る云々。○按に光佐鷺森退去の後其子光寿抗敵の謀あり、織田氏の兵尚攻滅の志あり、信長薨去して秀吉に至り初て本願寺と和親を厚くす、天正十三年紀州平定の後光佐は大坂中島に還り、尋で京師六条に本願寺を起せる也、又鷺森別院の東隣長覚寺は近時東派の別院と為り殿堂をば営造せり。
晴豊記云、天正十年正月、雑賀本願寺より御使下向少進来候、廿二日、少進御使罷上候、安土前右府事外気色能候て罷上候間、法橋当官法印に被成候て可然由余申也、尤被仰也、廿三日雑賀物共下候也、見やげ給候、門跡に扇いた物、こうもん(興門にて興正寺をいふ)に扇云々、二月六日、雑賀にて去廿三日土橋を孫一打也、それにより門跡めいわくようじん申され候、信長人数を孫一申請也、門跡警固として野々村三十郎を被越申候。
雄之水門《ヲノミナト》 日本書紀云、五瀬命矢瘡痛甚、乃撫剣而雄詰之曰、慨哉大丈夫、破傷於虜手、将不報而死耶、時人因号其処、曰雄之水門。○書紀通証云、熊野竹坊説、名草郡|弱山《ワカヤマ》有|雄町《ヲノマチ》、距竃山(五瀬命墓)三里許。
つねならぬ世雄のみなとかうらむらん人の心の定めなきをば、〔夫木集〕
古事記云、於|日下《クサカ》之|蓼津《タデツ》戦之時、五瀬命於御手、負登美毘古之痛矢串、回幸従|血沼《チヌ》、到紀国之|男《ヲ》之水門、而詔、負賤奴之手乎死、為男建而崩、改号其水門、謂男水門也。○古事記伝に男水門は和名抄日根郡呼唹郷なるべしとあるは固より誤れり、今和歌山市の西北部に小野町湊村の名称あるを拠と為すべし、寛文年中此に石碑を建て、故跡を標示したる事ありとぞ。名所図会に「雄水門は今地形大に変ず、亦|遠《トホ》湊と云へり、今日の如き港湾は元弘年間の津浪にて出来たりといふ、往昔は紀の川名草山の麓の方へ流れ、今安原荘の辺までは入江にてありけり、其証は今も彼の近所村々に、古の浦浜の名の残れる所処々に在り、此地往昔は茅渟山《チヌノヤマ》城水門《キノミナト》、又は山の井の水門とも云ふよし日本書紀に見えたり」云々、此山城山井をも紀之川口に充つるは牽強なり、泉州の呼唹郷にこそ山城水門を求むべけれ。○又按に万葉集に|遠津大浦《ヲツオホウラ》又|遠津大浜《ヲツオホハマ》の名あり、遠津即男水門なるべし、遠字止保と訓むものあれど止保津の地あることを聞かず。(徳勒津を参照)
霰ふる遠《ヲ》津大浦によする浪よしも寄すともにくからなくに、〔万葉集〕山こえて遠津之(大の誤ならん)浜の岩つゝじわが来る迄に含みてありまて、〔同上〕
大八洲遊記云、水門社傍有一松、繞以籬、伝云神武帝皇兄、五瀬命、為雄詰処、今称此坊曰小野町、雄、小野国訓相通、此地古之紀伊河口、所謂雄水門者、今則抄淤堆積為平地。雄芝碑銘曰、(今小野町港神社域内に建つ)
海部郡宇治港、昔建顕国社、合祭蛭児神、余生此郷、嘗聞、此地蓋五瀬命雄詰而薨之処、因名男之芝、社辺開阡陌也、名曰雄之町、(中略)今告嗣官邑長、別立一区、封土蕃草、石以局焉、余故勒片石、以寿于無疆。寛文九己酉歳六月二十二日、梅渓李全直建之并書。(韓人李真栄之子)
和歌山《ワカヤマ》港 紀伊之川口は雑賀埼の北方二海里にあり、川口の上流二里半、左堤上に孤立せる一小山は和歌山にして、其山頂に旧城あり、海方より望むに顕著なり、城下は市街にして人口凡六万余、此川口に閂洲あり、其附近浅水地拡延するを以て雑賀埼より田倉埼迄の彎岸は船皆之を避く。
名所図会云、和歌山の川口築地は、南は大雁木塘より南は城山の塘に至る間也、天保七年五穀熟らず、賤民餓に及ぶもの多し、官此を憂へて川さらひの挙あり、窮民をして土砂を堀せ地を築かしめ、其用度を与へて餓を救はしむ此挙五月中旬より始めて九月上旬に至り、人数は老若男女総て日々数千人に及べり、築地の広袤南北八町許東西一町、漸く宅を築き魚市の場とし、河海の運送も以前に倍せり。
吹上《フキアゲ》 和歌山市の西南部より雑賀村に至る辺の古名なり、今の和歌山城は即吹上嶺と呼べる地なるべし、吹上とは海面又野の面より風の吹上ぐる原野の謂ならん。○名所図会云、吹上は今府城の西にて名所なれど今は昔の悌なく、衛士甍を連て出る月も家より出て家に入るの風情とは変りぬ、清少納言枕草紙に云「浜は吹上の浜」後拾遺集「都にて吹上の浜を人問はゞけふ見るばかりいかゞ語らん」懐円法師、新古今集「浦風に吹上の浜の浜千鳥波立くらし夜半に鳴なり」新古今集「月ぞすむたれかはこゝにきの国や吹上の千鳥独なくなり」摂政太政大臣。○吹上は字津穂物語に吹上巻ありて、此地の雅興を筆麗しく物したり、是は小説なれど参考すべし、座主熊野紀行に云「紀の国の吹上の浜にとまれる、月最と面白し、此の浜は天人常に降りて遊ぶと云ひ伝へたる所なり」又四条大納言公任卿集に云「吹上の浜に至りぬ、風のいさごをふき上ぐれば霞のたなびく様あり、実に名に違はぬ所なり」。
時しあればさくらとぞ思ふ春風の吹上の浜に立るしらなみ、〔新勅撰集〕 家隆
秋の夜を吹上の根の木がらしに横雲知らぬ山の端のつき、〔玉吟集〕 家隆
近世吹上の或地に吉野の桜を移植したる時祇南海の詠とて人の伝ふるは、
けふことによしののさくら春風に名を吹上の浜に見るかな。
宇津保は小説なれど当時の風情景致を想ふに足る、中に云「室《ムロ》の郡に神南備《カンナビ》の種松と云ふ長者、たゞ今国の政事人にて吹上の浜のわたりに、ひろくおもしろき所を、えらびもとめて、金ごむるりのおほ殿を作りみがき、四めん八町のうちにみへのかきをし、三のつい地をすへたり」云々、又藤井宮の事は「藤井宮とて大なる巌のほとりに、五葉|百尺《モヽキ》ばかりある小河に臨みたるにおもしろき藤木毎にかヽりて只今さかりなり、木の下の砂を敷きたること麗はしう高き檜皮の殿三ツ建あり」云々。名所図会に藤井宮と云は今の弁天山の趣に似たりと説けり、又吹上菊と云は寛平年中の題詠に上る、古今集云
寛平の御時せられける菊合に、洲浜を造りて菊の花を植たりけるに、加へたりける 秋風の吹上にたてる白菊は花かあらぬかなみのよするか、 菅原朝臣
吹上祠は字津保物語にも見ゆ、今吹上なる和歌浦路の傍大島某の邸に老松あり、之を吹上宮跡なりと云。〔名所図会〕山家集云、
道より大雨風吹て興なく成にけり、去りとてはとて吹上に行き着たりけれども、見所なき様にて杜にこしかきすゑて、思ふにも似ざりけり、
天くだる名を吹上の神ならば雲はれのきてひかりあらはせ、
かく書附たりければ、やがて西の風吹かはりて忽に空はれうら/\と日なりにけり、末の世なれど心ざし至りぬることにはしるしあらたなることを、人々に申つゝ信起して、吹上より和歌の浦おもふやうに見て帰られける、云々。
白波を吹上の浜と見ゆるかな網師《アミシ》の岡にふれる白雪、〔夫木集〕
網師岡は吹上岡の事にや、片岡(今岡町村と云)の事にや詳ならず、吹上浜は一名吹飯浜と曰ふ、泉州にも同名の浦ありて勝地吐懐編には一地両国にかヽれるにやと疑へど、同名二所各別とすべし。○冠辞考云「天つ風吹日の浦にゐるたづのなどか雲井に帰らざるべき」、此歌清正家集の詞に「紀の守になりて、まだ殿上もかへりせで」と有、又大和物語に「右京のかみ宗于の君云々、亭子の帝に紀国より石つきたるみるをなむ奉られけるを題にて、人々歌よみける、右京のかみ、沖つ風吹飯の浦に立波のなごりにさへや我はしづまむ」是によれば紀伊国なりと知らる。
補【藤井苫】○名所図会 事はうつほ物語に見えたり、今府城の南弁天山と云ふあり、其あたりを云ふか、又同書に見へたる大井戸町の辺なるか、うつぼ物語吹上の巻に云ふ。
広沢池旧地 大井戸町の東なる田畑は古の池なりと云ふ、此処は何の頃よりか埋れ果て、芋の葉におく露ならでは目やどすべきかたもなく
おのづから月宿るべきひまもなく池に蓮の花さきにけり (山家集) 西行
紀のうみの浪につゞかぬ広沢も月のみなみは山の端もなし (草根集) 正徹
補【愛宕山】○名所図会 和歌山の南郊七八丁にして此地の松すべて其根高くあらはれて、つゝ松かめ川相曳等の名ありて、奇異なる事いふばかりなし、古歌に「津の国ののしくのあたり来てみれば松はねみ《ママ》にあらはれにけり」と云は、所をご《ママ》にしることなし、今はこゝの根あがりまつの上に名高し、府城のあたりよりこゝまでを吹上といふ。円珠院瑞雲寺 和歌浦街道松原の東にあり、愛宕権現山上に安ず、寛永年中の草創なり、風景よろし。
片岡《カタヲカ》 続日本紀云、神護景雲三年、陸奥国牡鹿郡俘囚、大伴部押人言、伝聞押人等本是紀伊国名草郡片岡里人也、云々。名所図会云、和歌山市の南に接続して岡山、岡嶺、岡町、岡の谷、丘の宮等あれば凡て此の辺を云ふなるべし、続日本紀玉津島両所に頓宮を営み岡の東に離宮を造ると見えたるもこの片岡の里を云ふか、今は定りて指す所なし。
岡宮《ヲカノミヤ》今岡町村字岡之谷に在り、即延喜式名草郡|刺田《サスダ》比占神社なり、古事記伝神祇志料に刺田は刺国の謬にて大国主神の母刺国若姫の父刺国大神を祭るならんと論ぜり、土俗は国栖《クズ》大明神と号したるを元禄年中卜部家の勘文に拠り復古して刺田杜と云ふとぞ。〔名勝地志〕
弁天山《ベンテンヤマ》 岡町に在り、近年開きて公園と為し、或は天妃山《テンヒザン》と呼ぶ、山頂に古来弁財天を祀るを以てなり。園記云、岡公園、弁天山旧址也、初元和中徳川頼宣、封於紀伊也、諸士第宅、環繞山麓、而弁天山、秀乎其中、一登焉則、城内可俯視也、以故藩制不許登臨、維新以降、第宅頽敗、鞠為茂草、而弁天山、草樹弥茂矣、明治十三年、旧藩主徳川茂承、県令神山郡廉諸人、憑吊従軍殉難者、為建碑於此、相地興工、草樹去而奇石出、灌莽除而清泉迸、尋於山下、設亭樹、以為遊息之所、二十七年始請官以為公園、地在岡山之東、国史云、聖武天皇、神亀元年、幸玉津島、造離宮於岡東、蓋斯地也、命曰岡公園、翌年於巓、建我県討清軍人記念之標云々。弁天山の西麓に松生院《シヤウシヤウヰン》あり、此寺は蘆辺寺《アシベデラ》とも称し、其寺伝に旧讃州八島浦に在り、乾元元年本尊不動明王の霊告有つて当国和歌山蘆辺の浦に堂宇を移し、今の寺号に改む、尋で天正の兵乱に暫く名草郡山東の荘黒岩村に移りしが、浅野紀伊守幸長入国の砌り当所に移転すと、仏像堂宇古色を遺し、探訪の客多し。○吹上の辺に護念寺、光明寺等あり。禅林寺は和歌山市の南端|原見《ハラミ》坂の北に在り、臨済禅を奉じ創開を伝へず、浅野氏在城の時の菩提所にして、寛永九年徳川氏僧夾山をして重修せしむ。○感応寺は禅林寺に隣る、元和年中僧日陽徳川氏に随従し、駿河より移り之を建つ、法華宗を奉ず、旧名要行寺、南龍公の母蔭山氏(養珠院)の祈額所なり。
補【光明寺】○名所図会 塩屋村に在り、禅宗黄檗派、当山は開基円通禅師、元禄七年の造建なり、禅師諱は道成、当時熊野の人にして黄檗山第四世支那独湛和尚の上足にして道高く徳広く、声誉一時に飛揚せり、前亜相頼宣卿其芳徳を聞しめされ、是を城中に致さんとて近臣をして迎へしめたまふに、師則一句の偈を口占して之を謝す、其偈に曰く、
僧窓深鎖謝※[夕/寅]縁 不測卑名到貴筵 清代只今湖海静 莫驚野水白鴎眠
斯くて師遂に三大誓の額を満、当寺を草創ありける、後元禄十五年城中に往て陞座問答をぞ勤め給ふ、精しくは円通語録に見へたり。
報恩寺《ハウオンジ》 和歌山市の南|吹上《フキアゲ》の仙境《センキヤウ》山に在り、法華宗の大坊なり。南龍公夫人加藤氏(清正公の女)の墓所にして、瑶林院と号す。寛文年中二世大納言光貞の建立する所なり、開基僧日順、堂塔宏麗なり。
和歌道《ワカミチ》 和歌山市より南して和歌浦に至る一里、其西は吹上浜にして東に片岡あり、今直道を通じ行樹翠を交へたり、然れども直道は元和以後の造築にして、古路は其以西に係れるに似たり。名所図会に永承三年十月関白頼通の高野詣を引き、之に注釈して古路の次第を説く、
曰十八日晴、所々饗饌了、令立御宿給之間、召国司定家、(此人伝不詳、名草郡薬勝寺に下せる治暦の官符に拠るに、永承二年本国の守に任じ同五年任を解たり)賜御馬一匹、鴇毛、方棹華船、迄于木御川尻、令下給、(川上より船に召して今の八幡の辺にて上陸されしなるべし)此行路之便、為御覧吹上浜和歌浦也、巳剋之終、着御湊口、(此湊口と云ふは大抵今の宇治より湊のほとりを云なる可し)御馬並人々馬共、遅将来間、光景欲傾、極興難抑、仍先召国司陪従、近辺所在之馬、各宛騎用、先御覧吹上浜、朱紫比袖、尊卑争行、干時蒼海渺※[しんにょう+貌]、晴砂崔嵬、如登天山、似向葱嶺、(湊より今福《イマフク》村を過ぎ西浜村関戸村の渡りを通らせ給へるとなん、此辺は一面の砂浜にて高きは山の如く卑きは谷の如く、夫より高松のわたりへ出て松原へかゝらる)頃之経雑賀松原、(公任卿集になりあひの松原と見ゆる是なり)令向和哥浦給、翠松傾蓋、白浪洗蹄、(是和哥浦に至りて海辺の境にある松原を経て浜辺に出らるゝなり、翠松傾蓋白浪洗蹄は公任卿の集に翠の松小暗き中より白浪の起るも見通さると云へると一つなり)毎見風流之飾地勢、弥感土宜之稟天然、猶指点吹上浜和哥浦、雖山辺之説、柿本之詞、合此地亦難矣、加之按轡扣鞍、争拾色々貝之輩、已不別老若、各任志之及、乗興之余、殆忘日暮云々。
古今地形の変易と風致の異同を考ふるに足る、又源平盛衰記に平維盛讃州八島より脱走して高野へ上る路程を記して曰く「中将維盛は与三兵衛尉垂景と石童丸と云童、又船に心得たるものとて武里《タケサト》と申舎人此三人を具したまひ、しのぴつゝ八しまの館を出て、阿波のくに由木浦《ユキノウラ》にぞつきたまふ、さても御船にのりうつりたまひ、音にきく阿波の鳴戸の沖をこぎわたり、紀伊路《キノヂ》をさして楫をとる、こゝはいづこなるらんと尋たまへば、名にしおふ紀伊国和歌のうらとぞ聞たまふ、夫よりしらゝの浜のまさごにふきあげのうらの浜ちどり、日前国懸《ニチゼンコクケン》の古木のもり、面しろかりける云々。
春海 野呂松蘆
畳波如箪碧連天、一髪青山日落辺、莫足伊丹運醸舶、数帆依約度春煙、
補【和歌道】○名所図会 和歌道は湊の東にあり、南北に通ず、府下より和歌浦に至る本道なれば名とす、此辺惣名を吹上と云ふ、是より新堀を経て高松に至る、此道は元和以後開かれし所にて、列松道を挾める直道なり、古道は是より西にして、地勢大に変ぜり、永承三年関白頼通公高野参詣の帰路、和歌浦遊覧の記古道のさまを知るに足る。
※[女+蜂の旁]家《ミヤケ》郷 和名抄、海部郡※[女+蜂の旁]家郷、○今|雑賀《サイガ》村|和歌《ワカ》村なるべし、※[女+蜂の旁]家を美也計と訓むべき由は国邑志云「按字書※[女+蜂の旁]同娃、美女呉楚之間謂好曰娃、蓋訓美也比、則※[女+蜂の旁]家美也計也、同屯倉、欽明紀十七年、紀国置海部屯倉、則是」と、まことに善く説かれたり、郡郷考に烽家の誤ならんと云ふは従ふべからず、和歌村妙見山ありて今に至るも行宮望海楼遺址を伝ふ、蓋屯倉を訛りて妙見と為し、仏祠を置く者のみ。
補【※[女+蜂の旁]家郷】海部郡○和名抄郡郷考 按、上の賀太の下に引たる続妃の文によるときは部は駅の誤なるべし。※[女+蜂の旁]家訓じがたし、烽家の誤か、肥前と豊後との風土記に烽幾所と記せり、軍防令曰凡置烽皆相去四十里云々、凡烽置長二人、謂縦一国有一烽者。兵部式凡太宰所部国放烽者明知使船不問客主挙烽一炬云々といへり。○又按に、駅家を誤か、文武紀賀陀駅家、兵部式賀太駅見ゆ、此二つの考への中なるべし。
雑賀《サヒガ・サイガ》 和歌山市の南に連り、其東部を和歌村と為し西部を雑賀埼村と曰ふ、今|宇須《ウス》、西浜、関戸、塩屋《シホヤ》を合同して雑賀村と為す、都合三村也。中世雑賀庄(東鑑建長三年)と曰ひ、万葉集に狭日鹿浦《サヒガノウラ》丈左日鹿野と曰へる即此なり。
補【真光寺】○和歌山市の新中通四丁目に在り、真宗興正寺派に属す。○名所図会 当院は初泉州日根郡海生寺浦にありて嘉祥寺と号し、密宗の大伽藍なりしが、真宗を奉じて天文年中証如上人雑賀の荘宇須村に於て真光寺一宇を新建す、日根郡嘉祥寺当国海部郡宇須村真光寺とも当寺の掛所にして、遂に真宗の仏場となり瓜葛連綿として良く法灯をかゞやかせり。
雑賀《サヒガ》川 和歌山市宇治より和歌浦に通ずる溝渠、良二里、一名和歌川と云ふ、古は紀之川の幹河此水道に傾注したる事ありと云ふ。
雉賀諸塞址○雑賀荘は中世海部名草両郡に捗り、郷士団結して雑賀の三搦と云へり、戦国の比は本願寺門徒と為り武力を競ふ。天正五年織田氏石山本願寺攻撃の際、先づ雑賀の援を絶たしめんと欲し大挙して雄之山紀之川に至る、雑賀党は江海の要害を固うし之を防ぐ、党魁鈴木孫市其克たざるを慮り降を請ひ、本願寺に援兵せざるを誓ひ事平ぐ、然れども尚本願寺を庇保し天正八年門跡光佐石山を退去し雑賀党に依頼して鷺杜に移る、或書に当時織田氏より雑賀門徒に与へし古簡を載す。
今度本願寺門跡光佐赦免候上者紀州雑賀并組中諸宗同前相容訖此時別而可励忠節然為誰一人至大坂不可相通万一大坂相残之輩有之者則呼越通路等堅可相留若令相違者可為曲事候也
五月廿三日
名所図会云、雑賀の鈴木氏館址は養珠寺山の尾埼なり、天正年中雑賀陣場踊由来の書に云ふ、当時雑賀方には弥勒寺山を根城の要害と定め、小雑賀の上下名草浜、玉津島の辺の河中に桶壺の類を埋め、人馬の足をなやまさんと備へ、北は吹上の峰にとりでをかまへ、雑賀川へは紀の川の水をせきいれ、原見坂より宇須山東禅山の砦は鈴木孫一これを守る、左右なく一戦に勝利を得、ふたゝび世運をひらくべしとて、あたかも物ぐるひのくるへるごとく、刀脇差を※[竹/作]とし、弓鳥銃をうちふつて、指ものをさしかざし、関戸村なる矢宮《ヤノミヤ》の広前にをどりつれてよろこびしは、理りせめていさましく、かゝる吉例なれば、雑賀踊と名づく云々。
雑賀鉢と云ふ冑の名古書に見ゆ、此地の製作なるべし、続日本紀、養老六年の条に「紀伊国、韓鍛冶、杭田鎧作名床等、合七十一戸、雖姓渉雑工、而尋要本源、元来不預雉戸之色、因除其号、並従公戸」と見ゆ、此韓鍛冶の遺風にやあらん。〔名所図会〕
補【紀伊鍛冶】○名所図会 続日本紀養老六年三月、紀伊国韓鍛冶杭田、鎧作名床等合七十一戸、雖姓渉雑工、而尋要本源、元来不預雑戸之色、因除其号、並従公戸。
雑賀鉢 胃に雑賀鉢と云ふがあり、雑賀は本国の古き地名なれば、名草海部二郡にわたれる雑賀荘の内にて制せしにや、今詳ならず、暫く此に書して後の考を待つ。
雑賀《サヒガ》崎 雑賀村西浜の南なる村名にして、鷹巣《タカノス》の岬角あるに因り此称起る。和歌浦の北角にして、南は大崎に対し日方内海浦の口を成す、古の狭日鹿《サヒガ》浦と云も此なるべし。
木の国の狭日鹿の浦にいで見れば海人のともし火波間より見ゆ、〔万葉集〕
鷹巣岬は怪岩乱礁争ひ立ち、空洞石壁の奇、海風樹色の景致ほとんど神仙遊会の境に幾しとぞ。
和歌《ワカ》 雑賀崎村の東に連り、雑賀川の西なる村落なり、南面して海湾を控へ、中央に一条の沙嘴あり、長二十町以て和歌浦の内湾外湾を分つ、内湾は東に在りて其東岸に紀三井寺の大伽藍立てり。和歌は続日本紀、「神亀元年、聖武天皇詔、改|弱浜《ワカノハマ》名為|明光《アカ》浦、宜置守戸、勿令荒穢」とある勝地なり、和歌と安可は音通にして、伊勢にも筑前にも同名の地ありて和安相通ぜり、又称美して真若《マワカ》とも詠めり。
衣での真若の浦のまなこ地のまなくときなくわがこふらくは、〔万葉集〕
雪つもるわかの松原ふりにけり幾世経ぬらん玉津しま守、〔続後拾遺集〕
秋日遊明光浦 祇南海
東南山水美、末有若明光、惜乎数千載、奇語無一章、吾今傲雲月、斗酒捜枯腸、安得李太白、百篇共商量、
遊和歌浦 服蘇門
壮遊南海上、秋色満※[草冠+兼]葭、風捲松根露、潮来鶴影斜、漁村舟作市、神島玉為沙、更見宗藩地、煙霞幾万家、
妙見山《メウケンヤマ》 和歌村に在り、和歌山市の南一里山上に妙見堂あり、菩薩を祭る。此地一座の丘陵、即古の屯倉址にして、美也計を妙見に転じたる者とす。蓋聖武天皇望海楼行宮の遺墟にして、左日鹿野と云ふも此辺の一名なりし也。伽羅《キヤラ》石産するを以て伽羅山と曰ふ、土人|殿山《トノヤマ》と曰ふ、天保中藩主|奠供山《テンクウサン》碑を樹つ。続日本紀云、神亀元年十月、天皇幸紀伊国、癸巳行至都賀郡玉垣頓宮、甲午至海部郡玉津島頓宮、留十余日、戊戌造離宮於岡東、海部直士形進位二階、詔曰登山望海、此間最好、不労遠行、足以遊覧、故改弱浜名、為明光浦、宜置守戸、勿令荒穢、春秋二時、差遣官人、奠祭云々。又天平神護元年、天皇行幸紀伊、遂至玉津島、御南浜|望海《バウカイ》楼、奏雅楽雑伎、権置市廛、使従官及当国百姓、為交関云々。○又日本後紀、延暦二十三年十月王子、幸紀伊国王出島、癸丑上御船遊覧、国造紀直豊成等奉献.詔曰此月波閑時爾之天国風御覧須時止奈毛常毛開所行須今御坐所乎御覧爾磯島毛奇麗久海瀲毛清晏爾之天御意母於多比爾御坐坐云々、甲寅自雄山道、還日根行宮。○又万葉集云
神亀元年甲子冬十月五日、幸于紀伊国時、山部宿禰赤人作歌一首、
安見ししわが大王の外つ宮と、仕奉れる左日鹿野の、背上《ソガヒ》に見ゆる奥つ島、きよき渚に風ふけば、白浪さわぎ潮干れば、玉藻刈つゝ神代より、しかぞ尊き玉津島山、
登妙見山、按称徳帝神護元年、幸明光浦、詣玉津島、御望海楼、奏歌舞雑伎、今妙見山、乃是望海楼遺址、 祇南海
塩海蜃楼何処求、玉津島北石巌頭、翠華不返烟波渺、沙辺雲帆神護秋、
養珠寺《ヤウジユジ》 妙見山下に在り僧日護開基、承応三年藩主南龍公創建して生母蔭山氏の墓所と為す者とす、其の宝塔は玉出島に在り。
玉出島《タマヅシマ》 和歌村の南なる妹背山の旧名なるべし、山部赤人の歌に奥津《オキツ》島とも玉津島山とも云ふ是なり。神亀元年行幸の時「詔曰、春秋二時、差遣官人、奠祭玉津島之神、明光浦之霊」と、又日本後紀「延暦二十三年十月、幸紀伊国玉出島、」三代実録、「元慶五年、紀伊国玉津島神授位」など見ゆ。此神は中世より衣通姫(允恭帝妃)を祭ると云ふは如何なる故にや、契沖法師の説あり最聴くべし。続紀、神亀元年、明光浦行幸の条に「忍海手人大海等、兄弟六人、除手人名、従外祖父、外従五位上津守連通姫」とあり、此痛姫の姫は姓の誤にて、通は人名なり、比津守連通養老七年授位の事同書に見ゆ、然るを後世の人通姫を人名と誤りて、玉津島神は通姫なり、即衣通姫命などと唱へしならん。又玉出島は摂州住吉浦にも其名ありて、上代の人の霊境を崇むる称なるべし、然るに袋草紙云、津守国基住吉社浄土寺建立の時壇の石を採らむとて紀伊国和歌浦に至る、玉津島の神あり処の者語て曰、此地の景おもしろきによりて衣通姫神と現れ跡を垂れ給ふと申ける、云々。衣通姫説は此袋草紙に起る、又按に玉出とは玉石などの奇異なる者の顕れ出づる義にや、今も伽羅石妹※[女+夫]石と云ふもの和歌浦の名物なり。(住吉の玉出島岩出森を参考すべし)○名所図会云、或書に北畠准后曰光孝帝御悩ありし時、帝の御夢に赤きはかま着たる女房御枕に立て「立かへり又も此世に跡たれん其名うれしき和歌の浦波」と、此歌を誦しければ帝御夢の中に、誰人にてましますぞとたづねさせ玉ひければ、我は衣通姫なりと答へたり云々、しかれども字津保《ウツボ》物語吹上の巻に「年を経て浪のよるてふ玉の緒にぬきとゞめなん玉いづるしま」主之君「おぼつかな立寄浪のなかりせばたまいづる島といかでしらまし」侍従とあるのみ、続日本紀を按ずるに「奠祭玉津島之神明光浦之霊」といへるは何の神といふことを記さゞれども、東野州の書に「玉津島には社一つもなく唯漫々たる海のはたに古松一本横たはれり、これを玉津島の垂跡のしるしとするなり」と云へり、袋草紙に津守国基採石に来りし時は神社ありと云ふに思合すれば、中頃は社頭荒廃して断絶したる者なり、近世国祖南龍公新玉津島再興あり。
玉津島見れども飽かずいかにして裹みもてゆかむ見ぬ人の為め、〔万葉集〕玉つしま能く見てよく坐せあをによし奈良なる人の待問はばいかに、〔同上)玉つしま岩根のすゝき穂にいでて招けばかへる和歌の浦波、〔夫木集〕 源兼昌
此岩嶼は中世祠宇断絶し、近世は更に嶼北の陸岸に新玉津島を建てらる、而て嶼上には養珠寺の多宝塔を置く、慶安二年の事にして徳川頼宣の供養する所也。○名所図会云、妹※[女+夫]山多宝塔は、慶安二年東照公卅三回の追福として御宸翰の題目を染させ、ならびに公卿百官の所書題目石部数二十一万を宝塔の下に収たまふ、此地いもせ山と云は造塔の時雌雄の二石を得たりとて改められし也、已前は杜鵑山《ホトヽギスヤマ》又弁天島と呼び、相州絵島江州竹生島などに比せり、島は伽羅山にならひて石質相同く、往昔は今の和歌出じまてふものもなく、此ほとり一面の入海にてありしにや、其石面浪にされて伽羅の木理に似たればとてかくはいふなり、国祖君御造営より、三の橋をわたし山のめぐりは石を畳み山上には宝塔高く聳え、山水絶妙言語に絶たり。
明光浦 菊池渓琴
水畔楼台映落霞、石欄人影過橋斜、伽羅山上簾繊雨、飛湿仙蛾廟裡花、
玉津島《タマツシマ》神社 此神は山部赤人の歌に「神代よりしかぞ尊き玉津島山」とありて、江中の孤嶼に鎮坐せしならん、今嶼の北なる陸岸に小祠を見るは寛文中輿の時よりの事なるべし、社蔵宸翰の中に後西院上皇の御製、
寛文四年六月朔、玉津島奉納、詠浦霞
おもふにぞ霞もはれて玉つ島光にあたる和歌の浦人。
神祇志料云、此神蓋稚日女尊を祭る、〔日本書紀本社伝説〕此神息長帯姫命の新羅を征け給ふ時大に霊威を顕し給ひき、〔日本書紀〕聖武天皇神亀元年勅して春秋二時官人を遣して玉津島神明光浦の霊を奠祭らしむ、是よりさき天皇此地に幸し山川の眺望を愛給へるを以て也。〔続日本紀〕
和歌東照宮《ワカノトウセウグウ》 玉津島の北なる伽羅山(一名おぼろ山)の西につづける岡上に在り、旧時和歌山藩奉祀の祠壇なるを以て崇敬他に異なりしが、近年供僧坊(天曜寺)及三重塔を撤去し頗旧観を失ふ、然れども俗謡に「一に権現、二に玉津島、三にさがりし松、四にしほがまよ」と曰ふごとく、和歌浦名所の中に金碧の目を驚すもの、尚此権現祠を推すべし。○名所図会云、和歌浦東照権現は別当和歌山天曜寺雲蓋院、天台宗にして本尊薬師如来を奉安す、三重の浮図あり、元和六年の御造営にして、麓より山上に至りて石※[敬/木]左右に立ならび、朱の玉垣奥深く、林巒の積翠に映帯して一段の幽邃を醸し、神威おのづから厳にをがまれ玉ふ、宝殿は山上に建てり。○東照宮の岡下に南龍《ナンリユウ》神社あり、明治八年創建す碑記あり、前和歌山藩知事徳川茂承撰。曰元和五年、我始祖源頼宣公、従駿河移封紀伊、紀伊京畿之咽喉、国家之要鎮、時承干戈之余、民未聊生、公養士撫民、奮然以天下安危、自任者五十年、藩屏之基、於是而立、爾来奕世二百年、及慶応三年、幕府奉還政権、王政復古、而明治二年、茂承奉還版籍、七年和歌山県士族、相共謀曰、旧藩祖、積徳累業、風化所出、永世不可忘也、上請建社祀之、是歳十一月見允、乃相地於和歌浦、争措財鳩工、茂承恐重労衆力、出私資助之、至八年十一月、社宇落成、社之為地、旧藩時公原廟所在、東隣東照宮、西接天満社、山水之勝、輪奐之美、粲然相映、云々。〇天満《テンマン》宮は東照宮の西に並ぶ縁起詳ならず。名所図会云、当社は三聖廟の一にして、筑紫の宰府京都の北野と和歌浦是也、既に西上人が撰集妙にも載られたり、天正の兵火に社頭すべて烏有となりしが、尋で慶長十一年、浅野左京太夫季長ふたゝぴこれを新にし、元和七年、国祖君当山において東照廟を創建なしたまふ砌り、当社をもて地主とし、神威を光耀玉へり云々。
熊野の権現は、名草の浜にぞおりたまふ、和歌の浦にしましませば、年はゆけどもわか王子、(梁塵秘抄口伝集〕
和歌浦《ワカノウラ》 雑賀埼より毛見埼まで 和歌村紀三井寺村の江湾を云ふ。一に明光浦《アカノウラ》に作ること和歌の条に見ゆるごとし、和歌村の南に沙嘴あり南に延伸する二十町|出島《デジマ》と呼ぶ、天橋立三穂松原などと地形を同うす。此洲の東小江湾にして和歌川(紀之川の分派なり)之に注ぎ出島浦と呼ぶ、往時は紀之川の幹流之に傾入し、湾面広かりしと云ふ、一説紀之川之に入りし比は出島なかりしと云ふは信ずべからず、和歌浦に入江の別在したる状は古歌にて明白なり、又出島は往時単に松原《マツバラ》と云ひし者也。
若の浦にしほみち来れば滷を無み葦辺をさしてたづ鳴渡る、〔万葉集〕 山部赤人
和歌の浦に白浪たちておきつ風さむき夕はやまとし思ほゆ、〔同上〕
わかの浦にて種まく翁を見て
若のうらにたねまく賤ぞあはれなりかり穂の程もありがたき世に、〔家集〕 行尊
若の浦を松の葉ごしにながむれば木末によするあまの釣舟、〔新古今集〕 寂蓮
和歌の浦や入江のあしのしもの鶴かゝる光りにあはんとや見し、〔新千載集〕 家隆
玉津島入江こぎいづるいづた舟五度あひぬ神やうくらん、〔新続古今集〕 頓阿
にごりなき玉津島江の小松原あらはに千代のかけて見えける、〔良玉集〕 相摸
夕なぎの春日の汐はしづかにてかすみに遠き和歌の松原、〔夫木集〕 中務卿親王
和歌の浦あまの塩屋に烟たてかすみの間より花ぞにほひし、〔夫木集〕 行尊
題和歌浦図 蛻巌
明光浦上秋、風渚水煙収、玄鶴常清唳、飛過蘆荻洲、
和歌舟中所見 渓琴
仙蛾宮畔碧雲閑、帆落楼姿塔影間、靄気沈々天近雨、蛾眉帯睡淡州山、
出島の松原は今は斬伐せらるれど、古の状景想ふべし、塩屋は雑賀村の大字に残れり、又葦辺の干潟と云ふべき入江の東南辺は近世大半変じて田土と為る。南龍公遺事云、布引村(今紀三井寺村)はもと砂磧なり、公地形を見て開墾せしめらる、因て出島浦の洲渚を増築し激浪を避けしめ、終に一村落を成す、有司又和歌浦の開墾すべき者を図にして以聞す、公曰く小利を営まん為めに名山水を毀つべからず。○南遊紀行云、和歌浦は東照宮上に立たまふ、宮づくり大にして甚美麗なり、神領多し、僧舎六坊あり、是よりわかのうらを望めば、其景すぐれたり、今日は此辺桜盛に咲きて、光景もいとまされり、蘆辺の田鶴など詠ぜし処は東照宮の下天神の鳥居の有ところなるべしといふ、和歌浦にしほみちくれば片をなみと古歌によめるはしほみち来れば潟なくなるといふ意なり、此浦の佳景聞しにまさりて目をおどろかせり。○名所図会云、和歌浦は名立る勝地にして、東西廿余町、浜松の色濃くあしべの田鶴波間のちどり、江水は洋々たり、東方には名草山《ナグサヤマ》金剛宝寺、東南には生石《オヒイシ》が峰つらなりて、藤白《フヂシロ》の御坂翠巒たかくそぴえ、其麓には冷水浦《シミヅウラ》塩津浦《シホツウラ》のみなと賑はしく、西南は蒼海漫々として、うらの初島《ハツシマ》、あら磯にみるめかるわらは、千尋の底にあはびとる海士、潮汲むしづのめ、みな世をわたる業くれさま/”\にして、いづれか哀れならざるはなし。紹述文集曰、自府城西南行一里計、而有裹海、有小島、倚巌上、有亭子、可以観海、榜曰妹背山、遂詣玉津島祠、而観和歌浦、廻十余里、西面稍南、長岡連阜、左右環擁、地島澳島峙于南、姥島雑賀崎、突乎北、一碧万頃、海南壮観極於此矣。○大八洲遊記云、明光浦、島嶼聳立、翠色連空、浦後山嘴、遙露檐角、為東照公社、其隣村家属、平田渺漫、環以和歌川、景色明媚、斎藤拙堂嘗遊此地、極口称揚、頼山陽不取此勝、纔々費弁解。
明光浦 祇南海
風鳴江葦夜漫々、神女不還秋月団、二十五絃空雁影、霜華如夢水雲寒、
明光浦 藤井竹外
上下明光水与天、天低水尽西南間、一帆不動午風静、青点洋心何処山、
棹歌 菊池渓琴
九老峰南水若天、一帆風力破長煙、新潮送月依々去、直到神娥古廟前、
蘆花夢覚水禽啼、漠々秋潮望転迷、五両軽帆漁老樣、長風吹落夕陽西、
紀三井寺《キミヰデラ》 和歌浦の東岸、名草山の西端に在り。今寺辺の諸村|三葛《ミカツラ》布引毛見内原等を合同して紀三井寺村と称す。和歌村と出島浦雑賀川を隔てゝ相望み、和歌山市の南五十町。
金剛宝寺《コンガウハウジ》護国院は即紀三井寺の法号なり、石磴二百余級を躋り山門に達す、山門は鐘楼と同く為光法師創建の旧制と云ふ、本堂十一間四面宝暦三年重修、傍に二層塔あり文明四年重修、開山堂大師堂観音堂及び住僧の坊舎羅列し壮麗の精舎なり、真言宗を奉じ、宝亀八年唐僧為光の開く所とす、近年本尊十一面観音木造立像以下三※[身+區]は国宝に登録せらる、即為光法師の遺作なりと云ふ。○名所図会云、金剛宝寺は名草山にあり、本尊大士は為光上人一刀三礼の作、宝亀中開基とす、西国巡拝第二番の札所なり、鐘楼堂は本堂の前にあり其龍宮よりおくるところの梵鐘は所在をしらず、楼閣翠徴をぬきんで丹青波瀾に俯し雲樹に映発しては、天台の霞蒸るかと疑はる、寺中に三所の霊水あるに依り三井の号あり。○羅山集云、紀州三井寺置観音、世伝、昔有一僧、常信観音、住此処、一旦龍神来請僧、乃倶入水府、及其帰、有一梵鐘、出海畔、繋布於松、連之於鐘、追以牽之、所謂布引松、是其縁也。
遊紀三井山 祇南海
天下三十三福地、此山亦是古霊場、潮音和梵蓮洋濶、林樹起病花雨香、林樹起痾花雨香、昌国一燈伝聖焔、翠屏三井譲清涼、威神巍々金剛窟、幸闡光明秘密蔵、(注云、補陀落山、在昌国懸海中、其八景中有洛伽燈火蓮洋古渡、天台翠屏山有三井、山有薬樹、伝是自龍宮来、徃歳本堂啓龕結衆縁)
紀三井寺 祇南海
潮撲山門飛閣重、丹梯客過響吟※[竹/エ+命の右下]、亦当海岸孤絶処、況是蓬莱第二峰(原注、礼山凡卅三所、熊峰為第一、以此地為第二、蓬莱指熊峰云)海献聖燈蔵宝気、山称名草採芝蹤、惜他千載少題咏、酔筆為揮満壁龍、
紀三井寺 藤井竹外
舟近南方小補陀、遊人斉仰碧嵯峨、一痕月印水心夕、若箇松嶺鶴唳多、
登名草山 久野玉城
霊区此処是滄瀛百級石壇受履声、潮打宝欄天水碧、一行鳴鶴過江城、
見あぐればさくら仕舞て紀三井寺 桃青
名草山《ナグサヤマ》 紀三井寺の上方、和田村(今三田村)安原《ヤスハラ》村の間に特起する所の孤嶺を云ふならん、即名草郡の本拠は此なるべけれど、和名抄此に充つべき郷名なし、蓋神戸なればか、名草浜宮の四社は紀三井寺の南|毛見浦《ケミノウラ》に在り、紀伊国神名帳に載する名草彦名草姫の社も寺東安原村に在り、神武紀なる名草邑と云も此間に外ならじ。
名草山ことしありけり吾恋の千重の一重も名草まなくに、〔万葉集〕数しらず身よりあまれるおもひには名草の浜の貝もなきかな、〔字津穂物語〕
名草浜宮《ナグサノハマミヤ》址 紀三井寺村大字|毛見《ケミ》浦に在り、毛見は和歌浦の南界にして出島の沙嘴と相対す、名草浜の北なる布引浦に外ならず、近世墾田して旧形を失ふ、即和歌浦の東辺と知るべし。浜宮は崇神天皇の時、天照大神を暫し斎祀れる所にして、大神は其霊鏡を伊勢に移し奉ると雖、其前霊なる日矛鏡三面を此に残し奉りぬ、後之を今の宮郷に移し日前国懸大神と申す。倭姫命世記云「崇神天皇五十一年、大神遷木乃国奈久佐浜宮、積三年之間奉斎、于時紀国造、進舎人紀麻呂等、地口御田矣」と、日前国懸宮の条を参考すべし。○按に毛見は此辺の別名にて紀三井の寺名も本は毛見《ケミ》なるべし、江州園城寺に比擬して紀三井に作るは後世の附会に出づ。(国造家譜云、毛見郷琴浦)
しほたるゝわがみのかたはつれなくて琴浦にこそ煙立ちけれ、〔後拾遺集〕 道命法師
うち出でゝ玉津島よりながむればみどり立そふ布曳の松、〔太閤記〕 太閤秀吉
毛見浦を一名琴の浦と曰ふ、和歌浦の南にて、丹州天橋立に比せば切戸と云ふべき地形なり。布引《ヌノビキ》の松原は紀三井寺の鐘の縁記に見ゆ。東涯文集云、布曳海、浅沙舟膠、以手掬泥、必得二三蜆子、凡此間、浜海之地、多有※[鹹の左]田、堆沙作堤、塁石煮塩。
補【琴の浦】海士郡○名所図会 毛見崎より舟尾までをいへり、此地の沙石のこらず紫白にして他のいろなし、こゝをあるくに自然と琴の音あり、よつて此名ありと。○紀三井寺村。
内原《ウチハラ》 紀三井寺の南に接し、古は熊野参道の一駅なり。長秋記云、長承三年二月五日、於内原借舎、有昼食事、元儀|藤代《フヂシロ》也、然而依日高過之、於是有此事也、過雄山間遇法眼行寛云々。人車記云、仁平二年、今度御熊野詣、毎事不吉、御上道、於内原御宿、夜中御屋形焼亡、御樋殿燈附油草云々。
補【内原】海部郡○名所図会 内原駅、若山吹屋町南端なる一里塚より手平《テビラ》、中島、紀三井寺などの数村を経てこゝに至る、行程一里余なり、〔長秋記、略〕此条、白河帝熊野より遷幸し主へるに扈従して筆録せるなり、古考、三山香火の盛なる参詣の夥しき、今その一端を見るに足れり〔人車記、略〕○今紀三井寺村。
宇治《ウヂ》 此名今亡びたり、名草山の辺にて紀三井寺村大字内原は正しく宇治原の義なるべし、内原の東北に接する安原村に宇治彦の古跡あり、即紀国造の本居なりと知るべし。古事記伝云、紀国造系図を考ふるに第一天道根、第二比古麻、第三鬼刀禰、第四久志多麻、第五大名草比古、第六宇遅比古と序たり、今和歌山の宇治と云ふ所あり、此によれる名なるべし。○按に宇治は和歌山市にも在れど、名草山こそ本拠なれ、古事記、境原宮(孝元)段云、御子比古布都押之信命、娶木国造之祖、字豆比古之妹、山下影比売、生子建内宿禰。日本書紀云、孝元天皇皇子、彦太忍信命、是武内宿禰之祖父也、景行天皇、卜幸于紀伊国、将祭祀群神祇、而不吉、乃車駕止之、遣屋王忍男武雄心命(一云武猪心)令祭、爰屋主忍男武雄心命詣之、居于阿備柏原、而祭祀神祇、仍住九年、則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛、生武内宿禰、と、記紀は武内宿禰の父祖を述ぶるに相異あれど、其母は宇豆比占即菟道彦の女と為すは同一なり。
阿備《アビ》 今安原村大字相坂松原などの古名なるべし、紀三井寺の東一里、山東《サンドウ》庄に接す、宇治彦の放墟なり。 ○名所図会云、武内誕生井は松原《マツバラ》村のうち柏原《カシハバラ》といふ、方十間ばかり松林ありて、其中に有り、側に碑を立てこれを標す、相坂《サウサカ》村八幡宮社司これを支配す、八幡宮の社伝云「武内宿禰、懐皇子、泊紀港、遷幸于|江南《エナ》郷、興行宮居之、随情出遊之、興離宮阿備柏原西岡」云々、今尚杜をさること五町ばかり東南に安備柏原《アビノカシハヾラ》といへるは、則武内宿禰降誕の地にして上古は宿禰の親族あまたこゝにおはしまし、皇子隠しまゐらせんには最上の所なるべし、又御鎮座本記にも当社は御行宮の跡なるよし記せれば、かた/”\うたがひなきものをや、此余|那賀《ナカ》郡に志野《シノ》村あり小竹宮《シノノミヤ》の地なりといふ、また伊都《イトノ》郡に天《アマ》の祝《ハフリ》の旧名あり、また日高《ヒタカ》郡に薗村《ソノムラ》八幡宮あり、皇子の行宮の遺跡なりといふ。名草《ナグサ》神社は安原《ヤスハラ》大字吉原に在り、紀伊国神名帳名草郡名草彦名草姫と云ふ者是なり、今|中言《ナカコト》神社と号す。凡郡内諸処|中言《ナカコト》社妙見宮と云ふは皆名草神を勧請するものとぞ、〔名所図会〕名草郡の条を参考すべし。
和田《ワダ》 安原村の西、紀三井寺村大字|三葛《ミカツラ》宮の東、宮前村の南なり、名草山の北麓とす。今坂田|田尻《タジリ》と合同して三田《サンダ》村と改む。
阪田寺《サカタデラ》 大雲院了法寺と称す。名所図会云、坂田寺は天台宗の高識行善上人の開基にて、古は浄土寺と号し、中葉以降度々の兵乱に荒廃、寛文六年に至り重興す、或説に行善上人は.元慶仁和の頃の人なりとあり、国造家の旧記のおもむき是とおなじ、そのかみ此辺はみな日前宮の神領にて、数十町の田園を国造家より寄附ありし事彼家の旧記にあり。
静火《シヅヒ》神社 延喜式名草郡の名神大祀たり、続日本後紀、文徳実録、三代実録等に授位の事を載せ、鳴神村の鳴神音神等と相因み火神を斎祭れる也。○和田村の北に鎮火社あり、其辺に鎮火坪《シヅヒツボ》と云ふ字を遺す。〔名所図会〕
竈山《カマヤマ》神社 三田《サンタ》村大字和田に在り、延吉式名草郡竈山神杜と録し、神武天皇の皇兄彦五瀬命を祭る、近年祠宇を改修し官幣中杜に列す、和歌山市の東南二里。○古事記伝云、此社は竈山明神とて和田村の西南三町許に在り、近世は国の殿より年毎に使をも遺はさせ給ふ。神紙志料云、此社は旧雄水門今の湊町に在り、後和田村に移したり。
竈山《カマヤマ》陵 延喜式、竈山墓、彦五瀬命、在紀伊国名草郡、兆城東西一町南北二町、守戸三煙。○日本書紀云、神武天皇、与長髄彦、会戦於孔舎衙坂、有流矢、中五瀬命肱脛、天皇引軍還到于紀伊国竈山、而五瀬命薨于軍、因葬竈山焉。○古事記伝云、竈山の御陵の斯く後世まで式にも載せ、毎年御幣を奉り賜へるを以ても、此命は天津日嗣にましけるが、早く崩坐し故に神武帝の其後を嗣ぎたまひしことしるし、若押なべての皇子に坐まさんには然る事あるべからず、凡上代の皇子たるの御墓の中に諸陵式に載るは五十瓊入彦命、日本式尊、菟道稚郎子などの外は例なし、今和田の竈山明神の近地に丸山と云て大なる塚あり、もの旧たる大樹とも生繁れり、是や御陵ならん。
雄たけぴのかみ世の御声おもほえて嵐はげしき竈山の松、 本居宣長
今按に竈山神社は旧雄水門(今和歌山市の西北なる湊町)に在りと云ふ一説は、竈山と水門は一処なりと為すものにして、当年征陣の跡を追考するに疑多し、抑皇軍は孔舎衙坂の敗後血沼に舟を泛べ雄水門に至り、此に上陸ありて名草戸畔を誅殺したまへり、当時彦五瀬命は已に痛手を負ひたまへど、舟にて崩御なく、雄水門より進軍竈山までの間にて事切れに及べるならん、而て名草戸畔の誅せらるゝも此間の事なるべし、然らば雄水門は竈山と相去る二里、混同すべきものに非ず。○又按に神武天皇名草より熊野に進軍したまへる征路は海船に倚りたまへる状明白の事なれど、別に陸路をも取り給へるにや、牟婁郡荒坂津狭野などを参考すべし。又天皇の名草刀畔を此地に撃ち尚紀之川を溯りて大和国に入りたまはざりしは、当時否塞して通じ難き事情のありければならん、孔舎衙と云ひ名草と云ひ、大和進入の便路たるは勿論なるに、此をば得進み給はざりしは、当時非常の形勢を想ひ知らる。
旦来《アツソ・アサコ》郷 和名抄、名草郡旦来卿、○今|亀川《カメカハ》村なり、大字旦来あり、安原村の東に接す。和名抄郡郷考云、旦来は但馬国朝来郡を安佐古と訓むを考ふるに、亦安佐古なるべし、和爾雅に旦来氏をアツソと訓み、今紀州には旦来村ありてアツソと呼ぶはつめて云ふ者也。旦来八幡宮は、畠山尾張守義深が寄附状には兵乱の余荒廃におよべるよしみえて、神器の紛失をくはしく載たればわづかに其昔のさかんなりしを想像にたよりあり、又古簡中云「正平八年二月、彼八人衆、打入山口河辺、致種々乱妨之処、行向武家杉原手、即日被誅伐、被懸其首於旦来山峰」。
多田《オホタ》 旦来村大字、此地に三上院千光寺と云ふ古刹の址あり、近衛天皇の伯父某上人の住院なりとて三上御庄官公文左近衛府生秦某の古簡を伝ふ、〔名所図会〕按に三上庄は旦来郷大野郷に渉れる御庄にて、近衛天皇々妹八条女院の領知なりし事、東鑑に見ゆ。○又|多田《オホタ》妙台寺は、伊賀國平田貞継の枝族に大橋太郎左衛門尉通貞といへるもの、文治二年鎌倉に召捕れ終に其罪を宥められ、これ偏に大乗妙典の利益なりとて、ともに読誦おこたることなく、嫡子貞昭、日朗上人鎌倉|比企《ヒキ》の谷《ヤツ》におはしけるよし聞しかば、終に文永二年鎌倉にくだり上人に謁し、当国にかへり妙体《メウタイ》寺を修造し、体の字をあらためて妙台寺とぞ号しけり、当国一宗の権輿とす。〔名所図会〕
補【千光寺】名草郡○名所図会 おほた村にあり、三上《ミカミ》院と号す、土人四ツ石といふ、こゝは人皇七十六代近衛院の御伯父御出家あらせられ、こゝにはじめて住職したまふ、いにしへの塔舎礎石といふ、今に堂のまへ、門前、大門の字あり。○湛慶上人|初住《シヨヂヨ》寺 三上御庄官公文云々、元暦二年七月十二日 左近衛府生泰判。○亀川村、大野村。
大野《オホノ》郷 和名抄、名草郡大野郷、○今大野村と曰ふ、亀川村の南、日方村の東なり、巽村も此郷のなり。日方村の辺も郷名を欠けど詳にし難し、中世は日方、藤白、黒江《クロエ》皆大野庄に摂せられ、守護職の在所たり。
大野《オホノ》城址 大野村大字野中に在り、日方村の東南数町、山峰の上に拠る、今矢倉跡最高く、二丸の跡に礎石多し、当城を築し時代つまびらかならず、建武の年間には浅間入道沙弥覚心在城し、延元の比子忠成なり、正平九年よりは細川淡路守完茂これを領し、至徳年中より明徳の此までは山名修理大夫義理居城せらる、同氏清岡幸満反逆し内野《ウチノ》合戦よりして山名一族亡びたり、乃ち明徳記曰「山名修理は我身は大野《オホノ》に有ながら、舎弟草山駿河守に美作勢を指副て都合其勢七百余騎、雄《ヲ》の山の切所を切塞ぎ雨《アメ》山|土丸《ツチマル》に楯龍て討手の敵を待懸たり」と是なり、義理亡びて大内周防介義弘に当国を賜ひしかば、義弘の臣平井豊後守守護代として大野に在城す、尋で義弘亦亡び畠山基国の分国と為り、其家宰遊佐某守護代として大野に来住し、子孫世襲して天正中に至る、館舎は藤白浦に在りしと云ふ。〔名所図会名勝地志〕
三上《ミカミ》 大野村春日明神の峰を今三上山と曰ふ、中世三上院三上庄と曰ふは此神領より起れるにや。春日祠は大野村の生土神にて供僧金剛院あり、三上庄は東鑑に見ゆ。建久元年「御随身左府生秦兼平、去比進使者、是八条院領、紀伊国三上庄者、兼平譜代相伝地也、而自関東所被走補之地頭、豊島権守有経、於事対※[木+旱]抑留乃貢、早可蒙恩裁之由訴申」と、多田《ヲホタ》の千光寺参看すべし。
補【三上山】海士郡○名所図会 春日山をいふ。
春日神社 三上山にあり、大野郷の土生神にして本地堂本尊釈迦仏、衣笠山金剛院神宮寺、当御神をあやまつて南都春日大神と称するは非なり、此御神は孝昭天皇の皇子天足彦国押大命云々、大春日朝臣等所祭祖廟なり、当社鎮座よりこゝに十番頭の者守護し奉る、其十員は三上、稲井、田島、坂本、石《イハ》倉、尾崎、井口、宇野辺、中山、藤田これ十人なり、元弘二年の春大塔宮護良親王南都般若寺より熊野路へ落させたまふとき守護し奉ること増鏡に見ゆ。○城址は当社より北一町、この春日山にのぼりて堀あけ、城を築き居り給ひしと云々。
三滝別所《ミタキベツシヨ》 今|巽《タツミ》村と改む、大野村の巽に在り。名所図会云、三滝別所は西行法師撰集抄に三滝上人の庵と記し、近衛天皇の伯父湛慶上人久寿二乙亥年の開創、待賢門院の御願所なり、則境内八町四面標石あり、星霜漸かさなりて遂に応仁の兵乱に及び又天正年中兵燹の後わづかに一堂をのみ存す、「奉譲渡別所之山地壱処事、在紀伊三上院重野郷奥山中、字三滝別所願成寺、四至、東限峰道、西限衣笠山、南限滝上黒山終、北限自大野界迄千古田口寿永二年正月。」
黒江《クロエ》 日方の北に接する海村にして、紀三井寺村の南に当り阪路を隔つ。黒江の海を万葉集久漏牛潟に充つる説は信なるべし、略解には「黒牛は今黒瀬と云ふ、名草郡なりしが今海部郡に入る」と、蓋此地のみ。
大宝元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇、幸紀伊国時歌、
黒牛方塩干の浦をくれなゐの玉もすそひきゆくはたが妻、〔万葉集〕黒牛の海くれなゐにほふもゝ磯城の大宮人しあさりすらしも、〔同上〕
名所図会云、黒江浦は今専ら渋地椀を拵へるを業とし、西国関東の遠まで商ふ、海陸の便よく、工商軒をつらねて錐を立る間もなく、はんじやう富饒の地なり。○貿易備考云、黒江塗と云漆器は寛永年間漆工某(按ずるに天正十三年当国根来寺廃滅し、僧徒四方に解散す、其※[鬚の下が休]漆に巧なる者此地に来て起業せしもの、裔なる可し)始て渋地椀を製し、続て析敷及び日用の什器を作て之を販売す、乃土人※[人偏+效]ふて之を造る、歳月を経て其業漸く盛なり、天保十年、国主徳川氏は仁井田好古等をして、黒江村戸口の概略を検ぜしめしに、戸数一千三百余人口四千五百余なり、其他諸国より来て賃傭する者二千人なりしと云ふ、寛永年間此地の戸口を検ぜしに甚だ鮮少なりしに、漆工の業起てより人口歳月に増殖して殆ど七千の多きに至る、安政五年外交の開けしより以来黒江の漆工等又外国人の時好に適する蒔絵の漆器を製す、其業益盛なり。
日方《ヒカタ》 黒江の南に接する海駅なり、和歌山市の南二里半、湯浅の北四里半、海湾を西に受く。此湾は毛見埼を北角とし冷水《シミヅ》埼を南角とし、東へ入る二海里横は棉減す、黒江日方名高藤白の諸村其岸上に列す、西北は和歌浦にして西南隣に塩津浦あり。
くるゝ間に鱸つるらし夕汐の干潟の浦にあまの袖見ゆ、〔玉葉集〕
名所図会云、日方浦は往昔其名のごとく遠浅なる塩干の潟にして、家居もなくして北の山ぎはを通路せしとなり、元弘元年の地震よりして陸となり、いつとなく市店出来せしより、あるひは大船をつくりて北海東海にかよひ、万物を積み交易してその利倍を得るもの多し。○又云、井松原《ヰマツバラ》は日方浦に在り、相伝ふ天正五年大野庄郷士十番頭、織田信長公へ内通して計略をなすゆゑに、鈴木孫市をはじめとし愛洲《アイズ》、玉置《タマキ》、湯川《ユカハ》、白樫《シラガシ》、橋本、花光《ハナミツ》、冬川《フユカハ》、崎山、則岡《ノリヲカ》、神保《ジンボ》、花田、矢船、貴志《キシ》、竹中、川島その外口六郡の郷士のこらず孫市にみかたす、稲井《イナヰ》、岡本のかたには坂本、田しま、藤田、宇野辺、井口、尾崎、羽坂《ハサカ》そのほか舟津《フナツ》、井田近村の百姓等一味しく今市にたむろをかまへ、名高がたには川よりみなみに砦をすゑて井松原にて一戦す、戦死のともがら敵味方合して二百余人、八月十六日未の刻と日方のうら永正寺の過去帳にしるしたりと、是は石山本願寺合戦の余波と知らる。
補【日方】海士郡○名所図会 今日方浦と書す、この地は往昔遠干潟にて〔脱文〕
くるゝまにすゞき釣るらし夕汐の干潟の浦にあまの袖みゆ(玉葉集) 前大納言為家
のどかなる春のひがたの浦波に鯛釣る小舟けふも出づらし(夫木集) 宗尊親王
名高《ナタカ》 名高浦藤白浦今合同して内海《ウチミ》村と曰ふ、日方村の南に接す、或は中田浦と曰ふ、小字名方あり。
木の海の名高の浦によるなみの音高みかも相はぬ子故に、〔万葉集〕紫の名高の浦のまなこ地に袖のみ触れていねずかなりなむ、〔同上〕
略解云、名高浦に紫川《ムラサキカハ》と云細流あり、名高は名方ともいひて、黒牛につゞける邑なり、紫は枕辞にあらず。○名所図会云、日方浦の南に接するを名方と云ひ、其南に接するを名高と云、国造家旧記に「崇神大皇五十四年、天照大神、吉備名方浜宮に遷座し給ふ事」を記せり、此吉備とは山陽道の三備にはあらで、此地の大名《オホナ》なりしが、後世其名廃れたるなるべし、されど里伝に聊徴すべき事もあれば、遷座の地は今の藺引《ヰビキノ》森にて古は浜の宮とも云ひしなるべし、又倭姫命世記には名草浜宮より吉備国名方浜宮遷るとあり、此吉備国と云も三備の地にはあらで名草の内と知るべし。
藤白《フヂシロ》 今名高浦に合併して内海《ウチミ》村と曰ふ、藤白浦其東を鳥居《トリヰ》と呼び、西を冷水《シミヅ》と称ふ、南は藤白坂の嶺にして東は三上山に連る、中世足利方の守護職は大野庄に治所を置き、藤白に館舎を設けたり、鈴木亀井など云郷土の末裔今に此地に住し、種々の伝説あり。
紀伊の藤白を通りける比、此所に三郎重家の末今にありと聞およびぬれば尋入、
炭がまやすずき亀井が軒の松、 其角
書紀通証云、古昔、紀州熊野山中、藤白、出名墨、見新続古今集、古今著聞集、尊円法親王記等、今猶熊野山中出松煙云。○按に書紀通証藤白を熊野と為すは疑はし、藤白墨は今は此地に製せざれど其伝説あり、然れども斉明紀に有馬皇子の薨去せられし藤白坂は日高郡岩代浜にありて、熊野に接近する地にも藤白と云ふ名ありしに似たり。又播磨風土記に出づる管川藤代峰は高野山の辺にて、之と相異なり。
太宝元年、太上天皇大行天皇、幸紀伊国時歌、
藤白の三坂をこゆと白たへの我ころも手はぬれにけるかも、〔万葉集〕藤しろや御坂をこえて見わたせばかすみもやらぬ吹上の浜、〔続後撰集〕逢事を松にかけたる藤白の墨の名しるき楮のたまづさ、〔為重家集〕
補【藤白】○日尊者南族、亦不詳、其属文明二年春奉小倉宮猶子教尊弟某起兵、紀伊越智惟政首応之、進抵藤白、畠山義長発兵攻日尊、於南都殺之。
〔其角句、略〕亀井六郎旧宅址は同所の北にあり。
藤白《フヂシロ》若一《ワカイチ・ニヤクイチ》王子《ワウジ》社 熊野参道の中に著名なる王子嗣なり、大字鳥居は本社の門前なれば也。源平盛衰記、乎維盛高野を出る条云、三上《ミカミ》といふ所へ出たまひ、藤白《フヂシロ》の王子にまゐりしばし法施をたてまつりたまふ、此上に登りて海上を眺望すれば、千帆眼にさえぎり風光斜ならずして、春の日の傾くことをしらず。○建仁元年御幸記に藤代王子和歌会の事を記し、中に「海辺冬月」
浦さむく八十島かけてよる浪を吹上の月に秋風ぞ吹く 後鳥羽院
千早ふる君が千とせを松の葉にかゝりてさける藤白の神。〔名寄〕 安芸
冷水《シミヅ》 藤白浦の西に接したる漁村なり、真宗了賢寺は清水御坊と云。阿弥陀仏裏書曰「方便法身尊形、大谷本願寺、釈蓮如判、延徳四年壬子十月廿三日、紀伊国名草郡清水道場常住物也、願主釈了賢」と。此寺は紀州にて本願寺門徒第一の旧跡と推すべきもの也。
藤白坂《フヂシロザカ》 藤白より南、上下十八町にして加茂村橘本に至るべし、坂路北面の眺望絶佳なり、頂上に延命院地蔵峰寺と云ふ一宇あり。名所図会云、此寺永享以降の古文書を所蔵す、藤白地蔵堂と云ひ、石像の地像尊なり、背面に銘を勒して元亨三年云々とありとぞ、御所芝は地蔵堂の西半町許にありて今は纔なる平地なり、今も聖護院宮御入峰の時毎に此所にて御休息あり、歴代御幸の度毎に駐蹕ありし遺址なるべし、此外御所が谷、御所の平、御所の井等の名所々に残れるもみな同じ、此地熊野参路第一の美景なり、其勝※[既/木]をいはむに、まづ明光の奇勝累々として眼下に集まり、宛も一盆の仮山の如く、すべて葛城嶺より以南の地形、山河の※[螢の虫が糸]曲たる、村落の碁布せる、坐して一々に指点すべし、西は滄海漫々として淡阿の蒼翠雲浪の間につらなる、沙鳥風帆一として奇ならざるはなし、峠より少し南の坂に巌あり、欠きとりて温石とす、色青黒く其質甚堅からず、延喜式「典薬式云、紀伊国温石」と、蓋是物ならん。
補【藤白坂】○藤白峠 名草海部の堺なり、坂道十八町、比類なき眺望なり。○地蔵峰寺 峠にあり、藤白山延命院といふ、天台宗なり、永享十年以下の文書を蔵す、寺領若干。
御所野《ゴシヨノ》 今詳ならず、即藤白峠の御所芝に外ならざるべし、平家物語云、「丹波侍従忠房は八島をおちて、紀伊の国の住人湯浅権守宗重がもとに隠居給へり、鎌倉殿聞召て阿波の民部大夫成良に仰て責らる、成良紀伊国に御所野と云所に陣を取てひかへたり」云々、有田郡岩村を参考すべし。
浜中《ハマナカ》郷 和名抄、海部郡浜中郷。○今浜中村、加茂村、仁義《ジンギ》村、大崎村、塩津村、椒《ハジカミ》村の六に分る、中世は庄名に呼び又加茂谷と称したり。東北は藤白、三上の山脈に限り、南は有田郡と頂界を以て相分れ、西に大崎湾を抱きて自ら一区を為す、霊異記に仁嗜《ジギ》之浜中村と云ふ是也。
補【浜中郷】海部郡○名所図会 今云ふ加茂谷の稔名なりしなるべし、然るに霊異記に又海部郡.仁嗜之浜中郷とあり、此に拠れば仁嗜の方浜中よりも大名なりしさまなり。
加茂《カモ》 藤白坂の南麓に加茂川あり、依て加茂谷の名あり、今橋本沓掛の辺を加茂村と称す。橘本《タチバナモト》 の西小松原に館址あり、高廿間許の小山にして三方に堀切の跡あり、東は加茂川に臨めり、加茂氏は中世此地の領主なり。当村中尾某が蔵せる文書に拠るに、初は南朝に奉仕し後畠山氏に従ひし人と思はる、天正年中に至り家亡ぶ。〔名所図会〕
補【加茂谷】海部郡○名所図会 藤代峠を以て名草海部二郡の堺とす、海部郡の地は三裂して三所に区別す、此地も其一区にして総名を加茂谷と云ふ、藤代峠より南二十八ケ村にして仁義浜中二庄に分る、庄名尤占し、名義下に詳にす。○加茂川に土矯を架す、橘本村にあり。加茂駅 橘本市坪の二村を駅所とす、内原駅より二里。○産物蜜柑 郷中諸村蜜柑を植ゑて産業の助とす、其味在田郡の産に次ぐ、
自是江南橘柚郷 耕漁同利満山霜 千筐万嚢年々緑 笑投蟠桃千歳香(南海詩集)
岩屋山《イハヤサン》 藤白峠に接し、福勝寺と云ふ密教の精舎あり、勝地也、裏見滝は福勝寺の境内にあり、此所大巌峨々として屹立し其下嘘然として窟を為す、深四間許、巌上より飛流懸瀉して簷溜の如し、窟中より滝の背面を望むを以て南龍公嘗て裏見滝と名づけ給ふとぞ、傍に老杉古楓欝然として幽趣かぎりなし、石鐘乳窟中より出づと云ふ。
補【岩屋山福勝寺】 〔名所図会〕、本道より二町ばかり右にあり、真言宗古義、本堂の内に四天王の像あり。木村先生祠 大窪村産土神の境内にありしに今祀す、元和の頃の郡吏木村八郎太夫といふ人の一霊を祀ると云ふ。
蕪坂《カブラザカ》 加茂村の南、大字沓掛に在り、有田郡界に当る蕪坂王子社は御幸記に載せたり、或云万葉集、
木の国の昔弓雄の響《カブラ》矢もち鹿子とりなぴけ坂のへにぞある
は此坂の典故なるべしと。
補【蕪坂】 〔名所図会〕、沓掛村にあり、或云、万葉集に「木国之昔弓雄之響矢用鹿取靡坂上爾曾安留」とあるに因るに、鏑もて鹿を射し坂なれば鏑坂と名づけしにやといへり〔頭書〕御幸記に蕪坂王子。○加茂氏城址 橘本土橋より八丁許西小松原村にあり。
仁嗜《ジギ・ジンギ》 後世仁義と改め浜中と并称して庄名と為せど、霊異記に仁嗜之浜中村とあれば初めは大名なりしと思はる。今橘本の東なる引尾の辺を仁義村と称す、立神《タテガミ》社あり、加茂の名は此神より起るにやあらん。名所図会云、立神社は加茂川の源にて社の側に奇しき巌ならび立てるを指して立神と称ふ、其巌一は高さ六丈余横八間許厚さ一丈許、巍々として将に仆れんとするが如し、西の端突出て鳥※[嘴の旁]のものを啄むに似たり、一は高さ少し劣れりといへども双立抗衡の勢あり、巌を立神とたゝへて祀れるためし本国及び諸国に多し、出雲風土記に神名樋山に石神ありて旱に雨を乞へば必零らしむと見えたるに同じ、古風の遺れるなるべし、樗[#木偏なし]祭の踊歌あり、曰く
きよき水上たづねきてィャ加もの宮居に参るなり。○ちやふやふりくるあめのあしィャ御世もをさまるみつぎもの。○たのむしるしをみなづきのィャそらもひとつにあめがした。○杉の木蔭で月みればィャしばしくもりて雨が降る。
長保寺《チヤウハウジ》 浜中郷|上村《カミムラ》に在り、上村は今|下津浦《シモツウラ》と合同して浜中村と改む、橘本の西一里とす。此寺は長保年中の創建と号し、天台の精舎なり、寛文十一年国主南龍公薨去、即長保寺に就き塋城を定め、爾来藩主累代の墓所と為す。堂塔諸像頗古雅にして、往時の遺風を観るべし。○名所図会云、長保寺本堂七間、本尊釈迦如来なり、右多宝塔、東護摩堂、左横食堂、左阿弥陀堂及鐘楼堂あり、大門金剛力士あり古色尋常ならず、僧坊陽照院と云、寺伝に云、此寺一条院の勅願所にして長保年中の草創なり、故に寺号とす、開基は慈覚大師の門徒なり、其後応永年中にいたりて真言宗に改め、七堂伽藍子院十二箇所ありしに、衰乱の世子院半ば廃絶し、綸旨院宣の頬も次第に紛失して、一も遺るものなしといふ、寛文六年更に天台宗に復る、大門の額に慶徳山長保寺と書し、裏に応永廿四年六月一日妙法院宮御筆とありしとぞ、然れば今の堂舎は応永再建の儘なるべし、棟宇矮狭にして彫鏤も飾少なしといへども、規則朴質にして古色余りあり。○名勝地誌云、長保寺は和歌山より五里半、塩津浦の南に当る、開基僧性空、堂塔は延慶四年重修、仁王門嘉慶二年重修す、鐘楼弥陀の二堂は近年倒壊す、寺域一万七千歩、古木葱然たり。
長保寺 永田平庵
山頭孤殿在、造建是何朝、空廟蒼苔鎖、断碑古心揺、湿衣春靄起、注月暮江遙、四顧傷神処、老僧独寂蓼、
才坂《サイサカ》 長保寺の南にて、蕪坂に並びて有田郡の堺也。万葉集の小為手山をさゐでの山と訓む、其さゐで坂を訛りて才坂といへるなるべし、万葉集古本にヲステノヤマと訓みて本国の名所とし、略解に緒捨山牟婁郡にありといへれど、今の蕉坂つゞきの山ならざれば安太へゆくと云ふ詞に合はず。
安太へゆく小為手の山の真木の葉も久く見ねばこけむしにけり、〔万葉集〕白玉の姨捨山の月影にみだれてみがく真木のしたつゆ、〔続後拾遺集〕
大崎《オホサキ》 加茂村の西を大崎村と云ふ、藤白長峰の脈西に延びて海中に人り荒埼の岬角を為す、角端に岩嶼あり、荒埼の北面は和歌浦にして、雑賀崎と相去る四海里、大崎湾は崎の南東に斗入す。水路志云、湾の北側の大埼浦又は湾頭の下津浦に各々小船錨地あり、此湾口南角荒埼の南々東一鏈に一岩礁あり、湾の南角は高さ四〇〇呎にて観音崎と曰ふ、浦初島に接す、云々。
塩津《シホツ》 荒埼の東一里、北面して小湾を為すを塩津浦と云ふ、今塩津村と改む、和歌浦の直南四海里許、航渡の便多し。東は藤白浦に連り、一里を隔つ。
神《カム》 大崎の辺の総名なり、加茂と云ふも古言相通なり。名所図会云、大崎は海面に突出て其内湾曲をなしきよき湊なり、因て村中船宿を業とするものあり、万葉集に曰く、 大埼乃神之小浜者《オホサキノカミノヲハマハ》雖小百船人毛過迩云草国
按ずるに、此歌「天平十年、石上乙麿卿、配土佐国時」の反歌なり、始の長歌に待乳山に還り来ぬかもといふ句あり、待乳山は大和紀伊の堺なれば、本国より渡海せしが如し、然らば此地を過ぎし時の歌とも云ふべし、又|白木浜《シラキノハマ》は大埼浦の南一町許の瀬をいふ、八雲御抄は白木浜を本国の名所とするは此地をいへるか、万葉集に曰く
塩満者如何将為跡香|方便海之神我手渡《カタノウミノカムガテワタル》海部未通女等
此歌の前後玉津浦を詠ずるが、其他本国の名所の歌を載せたれば、方便海も亦本国の地名なるべけれど、方便の字訓みがたし、今按ずるに大埼の神の小浜といひ、方便海の神が手と云ひ、又此歌の下に神が前荒石も見えずと詠みたり、神は必定地名なるべし、又同集に神之渡神之門など見えたるも同所か、然らば神はカムを訓みて此地の総名加茂谷の加茂と同義ならん、暫くここに挙て後の考をまつと云ふ。又大埼浦の中の方海浜を白上磯と云ふ、某所に白き大巌あり、昔紀伊の石帯と称して五位以上の革帯の飾に用ゐたる石なり、又大崎の白石も石質純白なれども、水晶の如くには瑩徹せず石帯の事延喜式和名抄に見ゆ。
椒《ハジカミ》 浜中村の西、大埼湾の西南なる高崖に在り、西面して海に臨み、南は有田川の河口に連る。海に浦初島《ウラノハツシマ》と呼ぶ二岩嶼横はる。霊異記云、
長屋親王、服薬自害、天皇勅、親王骨流于土佐国、時其国百姓多死云、百姓患之、而解官言、依親王気、国内可皆死亡、天皇聞之、為近皇都、置于紀伊国海部郡椒村〔抄〕奥島。
名所図会云、左大臣長屋王の旧跡今詳ならず。按に今薑をのみはじかみと云ふも、和名抄に蜀椒を「奈流波自加美」薑を「久礼之波之加美」とよみてともにはじかみの名あり、然れども椒のかた専なりしかば、霊異記にも此村の名に椒の文字を用ゐしなるべし、此村西福寺の廃址に薬師堂一宇を存す、農民肋四郎といふ者西福寺の古文書数通を蔵む、文書に拠るに此地京仁和寺宝蓮院の領なり、仁和寺法堂記に寺領四五処とある其一なるべし、当寺嘉暦元年|海《アマ》又四郎入道大空を別当職に補す、夫より重代相伝せし事又文書に見えたり。
浦初島《ウラノハツシマ》 椒村の海上七八町、地島沖島の二あり、島の廻り各三十町許。地島の西面に紫色の岩石聳立し稜々たる観あり、沖島の東端にも紫石露出す、盆石庭石に供すべしとて採取せらる。此島蔭は泊舟して諸風を避くべければ常に帆檣の蔟がる所なり、初島は泊島の義たるべし。
紀のうみや沖つなみまのくもはれて雪に残れる浦の初島、〔新続古今集〕
補【浦初島】○地島 椒村より七八町西海中にあり、沖の島に対へて地の島或は辺つ島と云ふ、島の廻り二十町余、南北に長し、南の端削壁の如くにして松樹蒼々たり、西方に平田一町半許あり、其北紫石稜々として美観なり。○沖の島 地島の西海上十一町許にあり、島の中篠と茅とにして樹木一株もなし、此島東西に長し、東の端又紫石多し、若山府下にて庭石に用ゐて大に賞玩す。
左大臣長屋王墓 沖島にありしといひ伝ふれども、其旧蹟詳ならず、〔霊異記、略〕
断金《タキ》郷 和名抄、名草郡断金郷、○今詳ならず、タキとよむべきか。
誰戸《アタベ・タカベ》郷 和名抄、名草郡誰戸郷、○今詳ならず、万葉集略解に阿多部とよむべきかと曰へり。
那賀郡
那賀郡《ナガ・ナンガ》 海草郡の東に接し紀之川の流域なり、其東は伊都郡に至り北は葛城山(古名雄之山)の脈を以て和泉国と相限り、南は生石《オヒシ》峰|毛原《ケハラ》山の脈を以て有田郡と相限る。東西凡七里、紀之川北偏を貫流し、龍門山南偏に聳え高野山と相並ぶ。野上川《ノカミガハ》は高野山の西谷|天野《アマノ》より発源し龍門の南西二面を環繞して紀之川に入る、長十二里。○今村数三十六、人口九万、郡衙は岩出村|清水《シミヅ》駅に在り。
和名抄「都賀郡、賀音如鵝」とありて、続紀「大宝三年、令紀伊国奈我名草二郡、停布調献糸」とあり。蓋郡名は奈に本きたる者にして賀は助辞ならん、猶筑前の儺を那珂郡と定めらるゝ如し、今土俗ナンガと唱ふ。又和名抄郷は七に分ち、荒川郷と云ふあり、崇神帝妃|遠津《ヲツ》年魚目目微媛の生邑とぞ、又其旧地たるを想ふべし。
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埴埼《ハニサキ》郷 和名抄、那賀郡埴埼郷。○今|小倉《コクラ》村なるべし、大字|吐前《ハンザキ》存す。北は紀之川、西は和佐村(海草郡)東南は貴志《キシ》村なり。
吐前《ハンザキ》 小倉《ヲグラ》村大字吐前の王子社は、建仁元年熊野山御幸記に見ゆる吐前王子なりと。浄土宗光恩寺は禿翁上人信誉の開基にて、同宗高僧伝に小倉光恩寺信誉の事見ゆ、天正中の人なり。○吉水院文書、建武元年小倉庄。〔庄園考〕
補【吐前王子社】那賀郡○名所図会 吐前村北一町にあり、建仁元年熊野山御幸記に見ゆ。○炮術家津田監物|算長《カズナガ》宅 同村にあり、河州交野郡津田城主津田周防守正信が長男にして、当国小倉の庄を領してこの地に住居せり。
補【光恩寺】那賀郡○名所図会 小倉庄吐前村東にあり、浄土宗、天正年間信誉上人字は恵伝、一名は禿翁の開基にして、則俗姓は三河国松平の出生、浄土、本朝高僧伝に小倉光恩寺信誉上人の伝あり。
三毛《ミケ》 小倉村大字新庄、蔵王《ザワウ》山の下に御木森《ミケノモリ》と云ふ社あり忌部氏の本居御木郷にやあらん、海草郡忌部郷を参照すべし。其東に大字三宅あり、小倉と云ふも此森の別名より出でて庄名と為りたるならん、今は村名に転じたり。三毛の西より紀之川の水を堰入れて和佐村より和歌山市の方へ溝を通す、長四里|六箇堰《ロクカセキ》と称し、天保年中垂修す、按に天正十三年太田城水攻の時も此水脈に依れり。
補【御木森神社】都賀郡○名所図会 三毛村の西にあり、按ずるに三毛も御木も語同じ、小倉新庄の蔵王山の下にあり、祀神太玉命・手置帆負神。
神戸《カムベ・カウド》郷 和名抄、那賀郡神戸郷。○今中貴志村大字|神戸《カウド》あり、此郷は中世|貴志《キシ》庄と称したる地なるべし、十四村、近年合同して中貴志村西貴志村東貴志村|調月《チカヅキ》材|丸栖《マルス》村等と為す、野上川の両岸に渉り、北は荒川埴埼の二郷に接す。
貴志《キシ》 中世の庄名にして今も西貴志村に大字|岸宮《キシノミヤ》あり、東貴志村に大字岸小野あり。生土神を国主《クニヌシ》社と云ひ、中貴志村大字|国主《クニヌシ》にあり、此社は峭岩深淵の側に鎮座し一勝境なり、毎年祭礼に供膳を社頭及淵上に備ふ、之を貴志の大飯といひ一種の土俗なり。○中世本国名草郡の豪兵に貴志氏あり、此地其属邑なりしなるべし、又有田郡に移住したるにや、彼地に館址を伝ふ。名所図会云、尼寺《アマデラ》(今中貴志村大字)の北に白岩谷と云ふは、夫婦石烏帽子石だたみ石など各形によつて名を設け、最奇観なり、土人之を蜘蛛石などよぴて、怪談紛々たり。
補【国主神社】那賀郡○名所図会 国主村にあり、貴志庄十四ケ村の土生神なり。深淵《シンエン》は同神前にあり、国主神社の祭礼ごとに神供を神前及此淵へ捧ぐ、土人是を貴志の大飯《オホメシ》といふ、高野山寺領より一本、貴志の庄より二本これを調進す。烏帽子岩・鞍掛岩ともに深淵のかたはらにあり。国主院、薬師寺の別当なり。
調月《チカヅキ》 東貴志村の北なる一村にて、安楽川村の西に当る。此村|大歳《オホトシ》社の鐘は音律にかなふと云ひ銘に紀州吉仲御庄大歳宮鐘也、建治参年丁丑九月十四日、大工河内国平重永とあり、此宮の傍に大日寺といふ寺あり、大日堂の丸瓦古色あり蝶と月を摸したるは調月《テウヅキ》の村名を紋様に依りて写し出せるなるべしと、名所図会に説けり。
野上《ノガミ・ノジヤウ》川《ガハ》 高野の西谷より発し二源あり、一は大門《ダイモン》口の湯川細川の渓水にして、西南流|長谷《ハセ》宮《ミヤ》毛原宮を過ぎ七里にして天野川に会ふ。天野川は天野村より出て真国宮|志賀野《シガノ》を過ぎ二流相会す、即野上川と為り北に屈折し、貴志庄を貫き安楽川の西方|丸栖《マルス》村の東にて紀の川に落合ふ。○盆石は野上川の奥の谷より出る、こゝの石質堅く色青黒く其形さま/”\あれど、大体富士峰のごとく成もの多し、かならず白色あつて白雲のごとく残雪に似たり最愛すべし。
野上《ノガミ》 旧庄号なり、今東野上村(動木駅)北野上村南野上村中野上村|小川《ヲガハ》村の五と為る。即野上川の両岸に渉り、貴志庄の南なる山中に在り、野上党は山東貴志と并び太平記に載せらる。
補|法然《ホフネン》寺 那賀郡○名所図会 沖野々村にあり、浄土宗。九品《クホン》寺は九品寺にあり、法然寺に属す、古へは仏刹厳重たり、年久しく廃せり。
動木《トヾロキ》 今東野上村と改む、野上庄の大邑にして、其西大字小畑に野上八幡宮あり。和歌山市より東南(山東庄を経て)五里に当り、高野山并に龍神に赴く間道之に係る。○名所図会云、野上八幡は一庄廿四村の生土神にて、山林かうがうしき大社也、多宝塔本地堂等を備ふ、其鰐口の銘に「永禄七年甲子八月十五日本願江州真賢上人敬白紀州那賀郡野上郷八幡宮鰐口」と刻む、八幡託宣記の奥書に「至徳改元甲子霜月初卯日誌之嘉慶三年三月九日書之別峰叟判」と、当社の草創を尋ぬるに、野上荘は往年|石清水《イハシミヅ》八幡宮の神領なりしかば、阿波の国司に勅して此地に別宮を造営せさせ給ひ、大神を勧請し神領の鎮守と崇敬して、神官|供僧《クソウ》番頭《バントウ》沙汰人《サタニン》職事《シキジ》追補使《ツイホシ》図使《ヅシ》公文《クモン》田所《タドコロ》下司《ゲス》等の職皆男山より補任して神事祭式他に異なりしとなん、建治年間此荘の下司に木工助入道信智といふものあり、其女と嫁と二人同時に重病に罹る、其比海士郡由良にて大徳の聞え高き法燈国師(山地房覚心といふ)を請じて加持せさせければ、大菩薩種々の託宣ありて二女ともに程なく本快せしこと託宣記に詳なり。沙石集に「建治二年の比紀州にして八幡大菩薩の御託宣のありけるにも、世に在る人は我身を思ひ妻子を思ふ兎に角に物を思ふが罪にてあるなり、片時も物を思はぬが目出度事にあるなり」云々。此時のことなるべし。
延久四年太政官牒(石清水文書)
紀伊国都賀郡字野上荘河南田参拾弐町壱段
四至 東限佐々小河并星河 南限津介乃高岑并在田郡 西限玉乃河并名草郡 北限鷹栖蓮華宮堺
壱図壱里拾肆坪弐段(中略)別院金剛遍寺金剛宣寺田野上弐図壱里漆圭肆段(中略)
右治安二年国司牒彼宮寺状云件庄宮寺建立之後為根本庄以地利充用毎年行幸於下院奉修放生大会御服也云々。
補【野上】那賀郡○名所図会〔重出〕野上八幡宮は野上庄小畑村に在り、例祭八月十五日、庄中二十四ケ村の産土神と称して境内山林神々しく、近郷の大社なり。
補【動木】○簀子橋〔名所図会〕動木村に在り、有田日高龍神等に通ずる街道なり、橋の西詰を北に過るは高野釜滝に詣ずる往還なり。
小川《ヲガハ》 動木駅の南に一郷を成すを小川村と曰ふ。南嶺は即有田郡|生石《オヒイシ》峰にして大字中田より登る二十町、其絶頂の笠石は囲五十間蒼黒にして白紋を生じ、太だ怪異の看あり。
望生石峰 自寛斎
遮断南天高且団、三春余雪望中寒、礼容本向何人是、雲作衣裳石作冠、
補【小川郷】 〔名所図会〕〔重出〕野上郷の東南の方に在りて六箇村に分る、南は生石《オヒイシ》峰をへだてゝ有田郡に隣れり。○笠石 中田村より登り二十町、生石峰の頂に在り、那賀有田の郡界なり、其石廻り五十間余、黒色にて所々に白紋あり。
神野《カウノ》 野上庄の東に接するを神野庄と曰ふ、今上神野下神野の二村に分る、下神野《シモカウノ》の大字|市場《イチバ》を首邑とす、動木駅の東一里にて、古刹あり満福寺と云ふ、寺鐘の銘云、
満福寺
紀伊国那賀郡高野山 寺領内神野庄
正平十三年戊戊九月三日 願主放阿弥
此寺相伝、宝亀元年唐の青龍寺の威光(或は為光と書す)上人の開基にして、旧は神野寺といふ、威光上人の名は拾芥抄に見えたるのみにて伝記あらざれども、古文書等に拠れば本国にて寺院を造立せし始祖ともいふべし。〔名所図会〕
猿川《サルカハ》 神野庄の東に接す、猿河郷の名古文書に見ゆ、今猿川村と云ふ。○猿河郷田村に|国※[不/見]《クニマギ》氏と云ふ旧家あり、国※[不/見]は姓氏録巻末に附せる二十一氏の一にて、鞆淵村にも国※[不/見]守近と云人の文書ありとぞ、蓋此山中の著氏なり。東寺文書に「延喜十七年、陽成院判官代、散位正六位上国※[不/見]伊美吉吉宗」の名出づ。〔名所図会史料通信叢誌〕○今按に国※[不/見]はクルベキと訓むべし。(田中村大字久留壁)
天暦元年丁未開発田□□合一所 在紀伊国那賀郡猿河郷
四至 限東三頭毛無原峰大道二重石向原登□□
岩限南阿世河北高峰
限西青□□□峰登万河峰
限北真国□□
右国※[不/見]福成分譲嫡子福富又譲与猿川地主職事四至在本券右件地主職者宗家先祖相伝之所領也而間永処分宗吉畢不可有他妨之状如件
万寿二年 月 日 国※[不/見]宗家 判
此に限北真国とあるは、今の真国《マクニ》村に当るべし。
補【猿河】○史料叢誌 和歌山より高野山に詣るに志賀谷筋といふ一路あり、此谷に田村といふあり、旧家はもと国※[不/見]氏にて、国※[不/見]は姓氏録巻末に附する二十一氏の一なり、友淵郷にも国※[不/見]守近の文書あり、然らば国※[不/見]は此辺の著氏なりしものか〔古文書、略〕因にいふ、京都東寺古文書に延喜十七年の券文に陽成院判官代散位正六位上国※[不/見]伊美吉吉宗といふ人見えたり。
毛原《ケハラ》 今長谷と合して長谷毛原《ハセケハラ》村と曰ふ。猿川村の東北に連り、猿河郷国※[不/見]氏古文書に毛無原《ケムハラ》とあるは蓋此なり。
毛原宮《ケハラミヤ》 同名の大字に在り、動木《トヾロキ》駅の東凡四里とす。此祠は丹生大明神を祭る、高野山御手印縁起に犬甘籬津姫社と云ふ者是なり。○名所図会云、毛原宮所蔵鰐口銘云「紀州有田郡湯浅庄多村神国寺奉施入願主家元敬白応永三十年臘月廿三日」と、又毛原宮の立石と云は渓流の中央に在り奇石なり、昔し狩場明神神供の為に此に猟す、其時大猪出でて、明神をめがけて走り来る、明神此立石の上に登りて、遂に猪を射留めたりと云伝ふ、是に依りて谷に犬飼谷といふもあり、丹生系図に拠るに犬黒比といふ人の霊を祭れるなり、其延暦系図「三野国在牟毛津と云人の児犬黒比と云者、彼御犬一伴率引て弓箆を手取持、大御神坐|阿帝《アテ》川の下|長谷《ハセ》川原に犬甘の神と云名得て石神と成て在今」云々、(此に阿帝川とあれど、此谷は野上川なり、不審)また毛原宮の西に朝日寺といふあり、梵鐘一口其銘云
紀伊国那賀郡毛原郷 朝日寺鐘
弘安八年乙酉二月二十二日 東大寺鋳物師大工山川助永
補【長谷毛原】那賀郡○名所図会 朝日寺、西村に在り、本尊大日如来(吉仏なれども作詳ならず)梵鐘一口。○丹生高野両大明神 毛原宮村に在り、郷中の産土神なり、御手印縁起に犬甘籬津姫の社と見へたり、鰐口(末社八王子の祠前に掲ぐる所なり)
長谷宮《ハセミヤ》 毛原宮の東北一里半、高野の西口大門谷に接す、大門まで凡二里半。此宮は丹生《タンシヤウ》明神を祭り、土俗楮皮《タクカハ》森と呼び、古鐘あり、銘云、 高野山延寿院 奉施入鐘一口
為僧照禅僧聖庵源時房尼妙法 兼法界衆也
安元二年二月六日
勧進入唐三度聖人重源
願主 尼 大覚
真国《マクニ》 動木《トヾロキ》駅の東北、志賀野《シガノ》村を経て二里半にしし真国宮《マクニミヤ》あり、天野川の谷にして鞆淵|細野《ホソノ》真国志賀野の四村相連り、龍門山南の一渓を占め、四里余に渉る。○真国は猿川の万寿年中国※[不/見]氏文書に見ゆ、宮は即天野の丹生明神を勧請せる也。
鞆淵《トモブチ》 真国村の東北三里を鞆淵村と云ふ 伊都郡天野村の西に連接す、大字上中下の三番あり。○名所図会云、友淵八幡宮は上番《カミバン》に在り、山中といへど、由緒ある社なり、所蔵の神輿一基は安貞二年山城国男山八幡宮より贈る処にして、其時の添状今楢存す、神輿の粧を見るに、上はこと/”\く滅金にて菊の花葉を鏤め、下には種々の飾物をかけ、又四面に鏡六面づつを掛く、轅も滅金にて包めりすべて稠密なり、又緋のかけづなも美麗なり、数百年の古物なれば処々破損せしに依りて往年修造す、重さ百二十貫目あり希代の神輿といふべし、又宝剣二振古写経及宇佐八幡宮絵縁起あり、絵詞の書体古風の文字多し、絵はすべて彩色を用ひず甚だ古雅なり、是又貞安二年に石清水より納むる処か。○石清水文書、延久四年官牒云、紀伊国那賀郡鞆淵薗、水田拾参町、寛弘五年宮寺牒国衙状、陳免田勘□之旨、不載御薗之根源、然而其後代々国司所免判来也。
麻生津《ヲフツ》 鞆淵《トモブチ》村の北二里、其間に飯盛《イヒモリ》山あり、紀之川南岸にして高野山に登る山口也、大門《ダイモン》まで凡五里、和歌山或は粉川より高野詣の使道とす。崇神帝妃は本国造荒川刀弁の女にて名を遠津年魚目目微比売と申す、遠津《ヲツ》は訛りて麻生津と為れるならん、此村の西は即荒川郷なり。
補【麻生津】那賀郡○名所図会 麻生津庄西の脇村の南に在り、織田右府高野を攻る時、篠源右衛門野山僧徒とともに此山に籠ると云ふ、鎌倉谷、同村の坤位に〔脱文〕
飯盛山《イヒモリヤマ》 麻生津村の南に聳え、龍門山の東に并ぶ、其高さ梢低下なり。山下大字西脇に塞址ありて、天正中織田氏の兵高野に向ふ時僧徒之に拠り拒ぎたりと。又山上に飯盛城址と伝ふるあり、一説建武元年凶徒此に籠り官軍并に野山の大衆に攻破せらると云ふ、泉州淡輪の南(紀州界)なる飯盛山を参考すべし、今両所并存して疑をつたふ。麻生津村坤位なる西脇より鎌倉《カマクラ》谷の危嶮を経ること百歩にして、積翠重畳、路断続するところ、巽方一里許が程を桂《カツラ》谷といふ、既に絶頂に至らんとする処忽ち二箇の喬木あり、雌桂は大幹已に朽て粗其形を存する者数囲、根底より蘖を生じ一叢数幹に分る、雄桂の大さ雌桂に一倍して同根十四五幹に分立し、合せて其囲凡十丈許、笙管一※[夸+包]に聚るが如く天籟颯々として暗に律呂の音を落す。〔名所図会〕
補【飯盛山】那賀郡○名所図会 龍門山の東に在り、麻生津庄の南に聳て其高さ龍門山に少しく譲る、山上に城跡あり、建武元年三月北条高時の余類等、鎌倉を襲ふに利あらず、四月高時の一族此山に城柵を構ふ、楠正成勅を奉じて是を誅すといへり。
龍門山《リユウモンザン》 麻生津村の西南に当り、飯盛山の西に並び、安楽川庄を前にし野上の奥谷を後にす、山容富士に似たるを以て、紀州富士の称あり。山下に勝神《カツカミ》村(今龍門村)あるを以て勝神山《カツカミヤマ》とも呼ぶ、此山延文五年の古戟場なり。
名所図会云、龍門山は絶頂に無塵《チリナシ》池あり、其傍に仙人石あり、山頗高峻、上碧落を摩し下曠野を圧す、百峰其膝下に連り、たとへば童子輩の大人を揖するが如く府下より之を望むに、其形宛も富岳に似たり、或は紀州富士といふ、諸国より若山の湊に来泊するもの必ず海上の標的にすとぞ、半腹に勝上村あり、村より登ること半里許り、嶺に至りて四望すれば、無辺の山海眸に入るべし。太平記に曰く、四条中納言隆俊は紀伊国の勢三千余騎を率して、紀伊国|最初《サイシヨ》が峰に陣を取て在よし聞ければ、延文四年四月三日、畠山入道道誓が舎弟尾張守義深を大将にて白旗一揆平一揆諏訪祝部干葉の一族杉原が一類かれこれ都合三万余騎最初が峰へ指向らる。此勢和佐山にうち上りて塀を塗り櫓をかきける間、宮方の侍大将塩谷伊勢守其兵を引具して最初が峰に引退き龍門山にぞ籠りける。畠山之を見て追ひかけ馳向ふ、彼龍門山と申は岩龍頷に重りて路羊腸を繞り、峰は松柏深ければ嵐も鬨の声をそへ、下には小篠茂りて露に馬蹄を立てかねたり、されども麓まで下合ふ敵なければ坂中まで駆上り一段平なる所に息ふ処に、軽々としたる一枚楯にうつぼ引き附たる野伏共千余人、東西の尾埼へ立渡り散々に射る。畠山が執事遊佐勘解由左衛門三百余騎僅なる谷底に控へたる故如何せんとする所に、塩谷《シホノタニ》伊勢守と名のりて真前に進めば野上山東貴志山本恩地|牲河《ニヘカハ》志宇津|禿《カムロ》の兵共二千余騎かゝりたりける。敵なじかは一足も支ふべき三十余町ぞ逃げたりける。塩谷は余りに長追して岩埼より転び落ち討たれけり。斯くて紀州の軍に寄手若干討たれ今は和佐山の陣も怺へ難しとありければ、新手を副へて畠山に力をつけよとて、同四月十一日畠山式部大輔今河伊予守芳賀伊賀守など其勢七千余騎重ねて紀伊路へぞ向けられける。四条中納言は此由聞えしかば猶もとの陣にてや戦ふ、平場に進み懸合にする、と評定ありけるに、湯川庄司心替りして後に旗を挙げ熊野路よりかゝるとも披露し、船を汰へて田辺より上るとも聞えければ、此陣かくては如何あるべきと按じ煩ひておはしけるを見て、大手の一の木戸を堅めたる越智降人になりて芳賀が方へ出たりける。さらでだに猛き清党少も滞るべき、龍門の麓へ打寄せ楯をもつかず矢をも射ず抜連れて攻上りける程に、さしもの兵と聞えし恩地牲河貴志湯浅田辺別当山本判官半時も支へず、龍門の陣を落されて、阿瀬川の城へぞこもりける。○按に今安楽川村市場駅の南東にあたり、塞址と思はるゝ者あり、即四条中納言の陣址なるべし、龍門山の西の尾埼とす。又此辺に塩塚《シホヅカ》馬塚など云ふ当年の戟死者の墓ありて、塩塚は彼紀伊守護代山東庄の住人塩谷のしるしなるべしと云、〔名所図会名勝地志〕最初峰は海草郡和佐村にて、相去る三里。
善通寺は龍門の麓|荒見《アラミ》に在り、当寺旧は龍門庵禅頭寺といひしに、応永二年喜多某の祖先運勝居士といふ人、愚中大通禅師を平安より此地に請じて爰に卜居せしむ、よりて愚中※[草冠/奄]と号す。〔名所図会〕
補【勝神山】那賀郡○和歌山県管内地誌 郡の中央に突起する高山を龍門山と云ふ、山形富士山に類するを以て紀州富士と称し、又其半腹なる一部落の名を取て勝神山の名あり、飯盛麻生津の諸山其東に延且し、高野山と相連る。
補【龍門山】○地誌提要一名勝神山、那賀郡勝神村より一里十三町、形似を以て紀州富士の称あり。因にいふ、劉文翼名は維翰、宮瀬氏にして漢の献帝の後なり、故ありて此山の下に住めり、因て龍門と号す、後東都に往き帷を垂れて教授す、時に服南郭詩文を以て都下に鳴る、龍門名之に亜ぐ。○古城墟 山の半腹にから堀のかたちのこれり。○名所図会 最初ケ峰城址 新田村より南にのぼること十三丁、頂平かにして周回三丁許、礎石一つ堀切の跡に猶存す、龍門山の西につらなる。龍門山 絶頂に無塵《チリナシ》池あり、其傍に仙人の石榻あり、郡中第一の峻嶺にして〔脱文〕
奥安楽川《オクアラカハ》 龍門山の西南麓の谷なり、今奥安楽川村と云ひ大字黒川大原などあり。其谷口に御船《ミフネ》明神あり、安楽川庄の氏神とぞ、其地をば神田と呼ぶ、安楽川市場の南数町。名所図会云、御船明神湯釜銘に「安楽川荘三船御宝前御湯釜永正十一年甲戊九月吉日□□敬白」〇三代実録、貞観三年、授紀伊国正六位上御船神従五位下。
安楽川《アラカハ》 旧荒川に作り、郷名又庄名とす。貴志庄の東にて龍門山の下なり、大字市場元村をば本拠とす、市場の南東に延文四年龍門合戦の跡、又御舟明神の社などあり。○名所図会に拠れば安楽川庄なる市場村の五輪の石塔は宝永年中の建立なれど、是は美福門院の墓なり、修禅尼寺ありて女院の遺跡を表す。女院は鳥羽院の天皇の后にて、此に隠栖したまひて終に崩御したまふと云ふ、按ずるに荒川郷は女院の湯沐邑なり、古文書に見ゆ、当時吉仲庄とも称したり。
院庁下 荒川莊官等可令早任鳥羽院御使盛弘長承三年停止田仲荘吉仲両荘相論当荘四至内領地事四至 東限檜橋峰并黒川 南限高原并多須木峰 西限尼岡中心并透谷 北限牛景淵并紀陀淵
右彼荘今月日解状※[人偏+稱の旁]謹案旧貫御荘建立之後既雖及数十年全無比牢籠之人然間故鳥羽令崩御之後即恣押取当御荘内為彼田仲荘領之条其理豈可然哉任御使盛弘注文四至停止田仲吉仲両荘異論可為美福門院領状所仰如件荘官宜承知依件行之敢不可違失故下 平治元年五月廿八日
田仲《タナカ》荘は紀之川の北岸にて、今田中村と曰ふ、此地と相対向するなり。
補【御舟島】○神祇志料 御船神、今那賀郡荒川庄神田村に在り、所謂御船島神事の地是也(陽国名跡志・紀伊社略記)御船大神と云ふ(紀伊神名帳)清和天皇貞観三年六月甲戊、正六位上御船神に従五位下を授く、(三代実録)凡そ毎年九月十六日新宮の祭神輿を船に乗せて此島を廻るを例とす(陽国名跡志)
御船明神社 神田村に在り、庄中の氏神にして社殿美麗なり。○市場村 荒川荘中の街道にて旅舎多し、上野村より六丁許り艮の方、市場の境に五輪の塔あり、宝永年中の建立なり、美福門院の故跡とす。
荒川《アラカハ》郷 和名抄、那賀郡荒川郷。○今安楽川村|龍門《リユウモン》村|麻生津《ヲフツ》村等なり、北は紀之川を帯び、西南は貴志村(古神戸郷)に接す。
日本書紀云、崇神天皇妃、紀伊国荒河刀畔女、遠津《ヲツ》年魚眼眼妙媛、生豊城入彦金豊鋤入姫命。古事記水垣宮段云、天皇娶木国造、名荒川刀弁之女、遠津年魚目目微比売。旧事本紀云、伊香色雄命子、大新川命、珠城宮御宇天皇御世元為大臣、次賜物都連公姓、則改為大連、紀伊荒川戸※[人偏+卑]女、中日女為妻、生四男。○名所図会云、荒川刀畔と云は上古荒川郷の辺を領せし人なるべし、木国造とあるを以て今の国造家の祖とすれども系図には見えず、別の著姓なりしならん、居宅の地今詳ならず、郷の東に接ぎて川辺に麻生津《ヲフツ》と云ふ郷あり、麻生津は遠津と音近きを以て転訛せしならん。此辺の川に鮎を名産とす、戸弁の眸眼のうるはしきことを、其遠津の鮎の目の美きにたとへ云へるなるべし。又云、古の制諸国に軍団あり紀伊の団の遺址今知り難し、按に那賀郡荒川郷に段《ダン》村あり是古荒川団と云ひて、大伴氏等の兵士武を講ぜし一所なりしが、通音を以て段村と改めたるなる可し、抑武事は天忍日命を以て始とす、其裔大伴佐伯の二氏に分る、本国上古大伴氏の徒名草那賀二郡に充満せしかば、式事盛なりけん事知る可し、其一二を云はば敏達天皇の御世に宇治大伴連あり、宝亀年中に大伴孔子古其子船主其子益継其子貞宗等あり、降りて元弘年中の文書に和佐又次郎大伴実村、小倉孫十郎大伴兼綱等見えたり、袖中抄に遣唐使大伴宿禰佐手麿記と云を引て、天平勝宝二年紀伊国に帰着すと云へり、是も亦本国の人なる可し、又雄略の御世新羅征伐に大伴談連及|紀岡前来目《キノヲカサキクメ》連力戦せし事を載す、岡前連は今名草郡岡の郷の人なるべければ、談連も本国より出し人にやあらん、古本姓氏録に大伴大田宿禰は「天押日命十一世孫談連之後也」とありて、大田は和名抄名草郡の郷名に見えたれば、本国の地名より起れる氏なるべく覚ゆればなり。○今按に段は安楽川村の大字なり、彼の大伴談連は多牟とよむにや、又加多理とよむにや多牟ならば即此地に因みありとも謂ふべし。
補【荒川団】○名所図会 古の制、諸国に軍団を建て、各其地名を以て其の団と云へり、本国に団と唱へし地今知り難し、段村あり。
山崎《ヤマザキ》郷 和名抄、那賀郡ヤマザキ郷。〇今山崎村|根来《ネゴロ》村なるべし。南は紀之川、西は山口村(海草郡)北は根来山を以て泉州と相限り、東は岩出村に至る。近世は庄名に呼び山埼庄根来坂本村など云へり。東寺文書、承和十三年田券那賀郡司解に、
合弐拾漆町参段陸拾貫 並在山前郷狛村大緑野並萩僚村野田等
墾田一町三段六十貫
荒野田十町 四至東至道西至山路南至駅路北至栗林黒谷池山十町 四至東至松尾路西至法師峰南至山路北至横岑云々
とあるも本郷の地なるべし、狛萩原等の字詳ならず。
根来《ネゴロ》 那賀郡の西北、葛城山脈の中なる山村なり。大伝法院と云へる真言宗の大道場あり、往時盛強を極めたるを以て根来の名世に著る、寺門の駅舎は西坂本東坂本の二大字に分れ、旧時の繁昌を想はしむ。○名所図会云、粉川寺より巡礼せば東坂本根来山の入口に、阿弥陀仏の碑あり天正十一年とあり、西坂本入口にも同じ阿弥陀仏の碑あり天文二年とあり、其他根来山中に古碑多し、逍遙院内府記「鶯のなくねごろなる日頃かな」とよまれたり。
至根来寺 久坂玄機
満袖春風入紀伊、自嗤長剣傲清時、道傍碑表根来寺、想得当年悪法師、
中古根来寺の繁昌なりし時、山内の院々又谷々或は西坂本等にて朱塗の椀折敷を製す、今播州の書写塗と並び賞する根来の膳椀是なり、居尻《イトゾコ》等に天文天正年間の銘殊に多し、いつの頃より製せしや詳ならず。又根来彫は硯箱或根附に多し古拙にして愛玩すべし、其製今絶えたり。〔名所図会〕
補【根来山】那賀郡○名所図会 山崎庄坂本村の東北にあり、西坂本は和歌山より詣し、東坂本は粉河より詣するなり、双方共旅舎あり。
鴛鴦川 東坂本の北にあたりて葛城渓間に押川村あり、其溪流は鴛鴦川といふ、此地層巒環合して蘚滑かに蹊狭く、実に幽僻の地なり、巌畔瀑布あり、其下碧潭あり、鴛鴛ケ淵といふ、堀川〔次郎〕百首「夜をさむみ岩波たかき山川につがはぬをしのすだくなる哉」「をし鳥のくぐる岩根のうす氷けさや上毛にとぢかさぬらむ」○古碑二基 同所不動堂の側にあり、古へ葛城修行者の建たりとぞ、銘、建徳二年霜月廿四日大願主庭堅。○白鬚党 押川村の東今畑村に六右衛門といふ者あり、白鬚党といふ。
根来寺《ネゴロデラ》 大伝法院《ダイデンポフヰン》と称す、真言宗新義派の総本山なり、根来村の山上に在り。衆峰四囲して寺畔に凹地あり、其水南流して岩出村に至り紀之川に注ぐ長二里。其地幽僻と為すべからずと雖、亦練行の一勝境たるべし。
根来寺の堂塔は天正十三年豊臣氏の兵に焚毀せられ一山大に衰ふ、開祖覚鑁初め高野山に在り、卓立の見識時衆に容れられず鳥羽上皇に依り勅旨を得、此地に構営して一義を立つ大治五年の事とす。爾後法風振起、戦国の際に及び僧兵の強項根来を推して第一と為す、遂に武家の抜く所と為る、然れども徳川氏の初世に当り学頭小池坊は和州長谷に移り、智積院は京都東山に移り、承緒を墜さず新義を広布し、今に密教の一宗門とす。覚鑁は元禄年中謚号を賜り興教大師と曰ふ。○大伝法院の大塔(二層高三十八間基方八間)并に伝法堂(方十二間高二十八間重閣を成す)は天正の兵火を免れし者にして、蓋天文中の建築と云ふ、不動堂(八角宝形造りにして方三間)は大治中の遺構と云ふ、僧房は書院と称し最広大なり、光明堂聖天堂護摩堂等と相連接す、其他大師堂求聞持堂大聖院大門等の十数宇ありて布置す、寺蔵根来形と称する釜は世の工芸家の歎称する所なり。○名所図会云、初め寛治年中此に修験者あり一宇を建て興福寺と云へり、興教大師覚鑁上人之を転じて大伝法院を建てらる、本尊大日長一丈八尺、烏瑟に鳥羽上皇の御髪をこめらる、左金剛薩※[土+垂]長一丈六尺、待賢門院の頭髪を座下に蔵たてまつる、右尊勝仏頂長一丈六尺、花趺に美福門院の御髪をこめたてまつるとぞ。抑当山の本願興教大師初根来山に伽藍を建んと欲し、先一祠を岩手の庄に営立して、三部権現と崇め奉る、大治五年花蔵王院聖慧法親王高野山に詣でたまふとき、営興日あらずして成り、丈六の尊勝仏頂を安置し学侶三十六口を置、後に小伝法院といふこれなり、されども狭隘にして、大会を行ひ難ければ、更に奏して大伝法院をたてらる、其十月伝法密厳同日に落慶し此日上皇臨幸したまひ夜に入て大伝法院にてはじめて伝法大会をおこなふ、荘園七所、石手《イハテ》、弘田《ヒロタ》、山崎、岡田、山東《サンドウ》、相賀《アフガ》、志富田《シフタ》、又別に遠州|初倉《ハツクラ》の庄を曼茶羅供の用度に賜ふ、長承三年冬十二月、上皇詔して「伝法院の座主かねて金剛峰寺の座主たるべしと云々」、金剛峰寺の徒衆嫉妬やまざれば根来《ネゴロ》に円明寺を創建し、上皇命あり御願寺としたまふ、是より仏塔神祠経蔵僧坊等数十区を造置かる。○西行上人撰集抄云、近頃高野山に覚鑁《ガクバン》上人とてやむごとなきひじりおはしけり、真言宗をさとりきはめて、一印頓成の春の花にほひを寂莫の霞の衣に移し、禅心合掌の秋の月はひかりを無垢の心のうちにてらして、弘法大師の昔の跡をおいて伝法院といふ所をたて、龍花三会のあかつきをまちて入定したまへりけるとかや、(中略)大衆きゝて我山にいかなる行徳のあるものなりとも、いかで大師の御まねをしては侍るべき、いざ彼覚鑁の入定さまさんと議して俄によせにけり、覚鑁の門徒ふせぐべき力なくて、本寺の僧入定のところに乱入て見るに不動尊二体おはしましけり、一体は鴬鑁の日ごろの本尊の不動にて、今ひとつは聖の化したると覚ゆ、但しいづれと見わきがたし、いかがすべきとためらひけるに、ある僧の一体の不動をさぐり奉り侍れば、少しあたゝかにおはしければ、これぞ覚鑁よとて、太刀にてきりけれども露きれざりけるを、何かはとていたくきる程に、覚鑁定さめてつゐにきられたまへり、其後覚鑁こは心にもまかせぬわざかな、我此所にすまじとて、紀伊国根来といふ処に庵を結びておはしけるが、四十九といひける十二月十二日おん往生の素懐をとげたまへりとなん、偖も書置たまへる言ばの中に、禅三昧のときわれを謗し我をうちたりしとも、がうをすべてそばめかれがれにおもふことなし、信謗同く利せんとこそかき置れけれ。実隆高野詣日記云、根来に至り、輿ながら大門の内まで乗りたりし、後にきけばおるべかりし所になむ、斯くてすぐに諸堂巡礼し侍り、本堂伝法院にて思ひつづけ侍りし、
高野山わかれてこしも殊更に法を伝へむ世々の為にも
錐もみ不動を拝見して、
動きなき身を分けてける姿ぞと血の涙をぞ流してぞ見る。
図会又云、根来の両学頭を妙音院知積院と曰へり、近代に至り妙音院和州長谷寺に移し小池坊《セウチバウ》と云ふ、智積院京師東山に移す、或云頼瑜法印学頭たるとき天朝に奏し奉りて、正応元年伝法密巌二基をあけて高野より根来山に引うつす、このとき伝法院方の大衆こと/”\くきたるによりて、根来寺大に繁栄するなり、しかるに建武以来二百余年世間静ならず、軍卒の狼藉乱妨甚しかりければ、行人の徒甲冑をちやくし兵仗を操りて山寺を守護す、然るに大坂の命に従はざるに依て、天正十三年三月廿一日、神社仏閣作坊等すべて二千七百余宇一時に灰燼となりぬ、慶長のころ、国主浅野左京大夫命じて根来山の四至榜示を正し山林濫伐を禁止す、されど行人等割拠血腥の固執いまだ除かず、数年山中穏ならざりければ、明暦元年国君の命にて行人等を逐ひはらひ、蓮華律乗両院をもて両学頭と定められ、六十石を寄て僧厨を資け給ふ、まことに根嶺再興は此君の力に依れり。〔名所図会〕○仏者にて高野を野山と云ふに対し、根来をば根嶺《コンレイ》と云ふ。又根来焼亡の事は、豊鑑、天正十三年の春秀吉軍を紀伊国にむけ給ふ、三月廿一日秀吉根来に移り給ふ、寺々はみな明けうせ僧俄に落行きたりと覚えて御器以下取散じて置けり、兵ども寺々に入みちて是を取したゝめなどす、申の刻ばかりに何の寺ならむ火出てほのほ空にあがり兵どもあわて騒ぎ物具やう/\携てにげ出けり、軒を重ねて作りこみたる寺どもなれば一も残はなかりけり、秀吉宿所せんしき坊にも火掛ければ、上の山へにげあがり給ふ、明る日の辰のをはりまでもえあひけり、かくばん上人いとなみし大伝法院計ぞのこりし也、この時粉川もともに焼れけり。
名所図会云、根来の奥|今畑《イマハタ》と云地に白鬚党高山氏と云ふあり、党の元祖は江州なる佐々木三郎秀義より六代高山六郎実信の曾孫を又右衛門義員と云ふ、此人初めて茲に住して数代の間武名あれども、其子孫編戸の民となる、白鬚明神は其家族の祀る所にして昔近江国より観請す、元弘建武の文書には村名を芋畑としるし、永徳の文書には今畑と記せり。
新田義貞以下凶徒誅伐之事所被下将軍家之御教書也於于御方致軍忠者可行恩賞之状如件 建武三年十月十七日 源国清判
補【根来寺】○人名辞書 久坂玄機世々医を以て長門侯に仕ふ、人となり※[人偏+周]儻にして群を超え、嘗て節を折りて洋文を読み、書数十種を訳す、事多く大砲銃隊の事に係れり、其の上国に周遊するや紀伊に遊ぶ、途に石表あり、刻して根来寺の路とす、会々一農夫あり、其の長剣を帯ぶるを異み問て日く、腰間何等の大物ぞ、乃ち撃剣先生なるかと、真〔玄機〕嗤て曰く、是れ活人剣なり、汝以て根来法師の亜流となす耶と、乃ち詩を作りて曰く、満袖春風入紀伊、自嗤長剣傲清時、道傍碑表根来寺、想得当年悪法師。
荒田《アラタ》神社 延喜式那賀郡荒田神社二座、今根来大字森に在り西坂本の南に接す。此社は応神皇女荒田郎女と縁由あるに似たり、日本書紀に依れば御母は仲姫にて古事記には木之荒田郎女に作る。○森村は荒田森の義なるべし、中世は広田庄と呼びて根来寺領たりき、岩出大宮の熱田明神と云ふは蓋此神にて、荒田を熱田に訛れるにや。
白山《ハクサン》神社は根来山|東坂本《ヒガシサカモト》の傍、大池(今上岩出村)に在り。此社内に古碑一基銘「正平十四年十一月八日」書体甚古雅なり、伝云長承一一年覚鑁上人越前国白山権現を勧請し社領を寄附し社殿荘麗なりしを、根来寺とともに衰へたり、祭礼の旧蹤今も根来山中所々にありて古のさま想像すべし。〔名所図会〕
水栖《ミヅス》 今|上岩出《カミイハデ》村と云ふ、根来山の麓にて東坂本大池国分|荊本《イバラノモト》の諸大字あり。荊本は往時根来の市場にて古市辻の名を遺す、岩出駅と根来寺の中間に在り。
小伝法院《セウデンポフヰン》 水栖に在り大日寺と称し根来山の別院にして即覚鑁遺址也。泉水塚其門前にあり、覚鑁上人の母堂妙海禅尼火葬の地なり、もとは塚の四方に水をめぐらしゝ故に泉水塚といひしが今は水なし。寺伝云、肥前国|府知津《フチツ》荘総追捕使伊佐平次兼元の妻橘氏は覚鑁上人の母なり、上人根来を創造すときゝて来れども根来は女人結界の地にして上人の密室に入がたければ、上人すなはち此処に庵を結び円寂の後其他を浄刹とし堂宇甍をならべしを、天正の兵火に消はてゝ今は露のかたみを残せり、西方《サイハウ》寺と云も同山麓にあり、真言宗古義、勧修寺に属す、伝へ云ふ役優婆塞弘法大師等留錫の宝刹にして、天正乱後廃せしを、元文五年名草郡出水村の廃寺号を乞受て再建す、近年又修営して堂舎壮麗なること郡中に類なし、什物木像画像等の古仏多し。〔名所図会〕
国分《コクブ》 今|上岩出《カミイハデ》村の大字なり、原国分寺の所在にして、其僧寺は廃し尼寺独法燈を伝ふ。○国分僧寺址は岩手駅の艮十町 塔芝《タフノシバ》と云、方一丁許の芝生なり、いにしへ勝地を簡定して建る所の国分金光明寺の廃跡なり、今は弥勒堂大門鎮守拝殿等の跡のみ纔に残れり、中にも大塔の礎石依然としてあり、梵唄響絶て牧笛声起り荒土の悲景説くべからず、此あたり布目ある瓦礫の散乱するを見て当時を想像すべし。延喜主税式云、紀伊国分寺料二万束。三代実録云、元慶三年二月、紀伊国金光明寺火、堂塔坊舎悉成灰燼。また国分尼寺は僧寺の東に在り、今は転じて真言宗を奉じ医王院と称す、天平の草創にして国分僧寺に相対し法華滅罪寺と号し、巍然たる霊区なりしに、中世棟宇大に傾※[土+己]し多くの星霜を経たり、慶長年中土人等高僧を請じて其廃を興し殿堂門※[まだれ+無]煥然として一新す。続日本紀曰、神護景雲元年、那賀郡大領外正六位上日置毘登弟弓、稲一万束、献於当国国分寺、授従五位下。
補【国分寺】那賀郡○紀伊名所図会 塔の芝、岩手駅を去ること艮方十町許、西国分寺田畝の間に在て〔脱文〕○医王院国分寺 東国分村にあり、真言宗、当寺は天平年中の草創也。
国分金光明寺のあれたるあたりを過とて
春さればひばりさへづる野となりてとなへし法の声もきこえず 旨麿
七堂の礎はありすみれ草 風環
岩出《イハデ》 岩出村は大字|清水《シミズ》を以て駅所とし、今本郡衙を置かる。和歌山市の東四里、紀之川の北岸に臨む、歌名所なる岩手里は此なりと云ふ、摂津国にも同地名あり。
思ふことをいかに忍びし誰が世より岩手の里と名をとゞむらん、〔玉葉集〕 三位 為子
咲ぬとはいはでの里のいはねどもよそまでしるく匂ふ梅かな、〔夫木集〕 左中将基氏
中世には岩手庄と呼び、八雲御抄宗祇国分等には岩手里を紀伊国としたり。
岩出神社は岩出駅の西に在り大宮と号す。名所図会云、岩手大宮は境内広豁にして所祭二座なり、其熱田明神と云は日本武尊を尾張国より勧請し、三部大権現は興教大師(覚鑁上人)高野山に在りし時、紀川辺を過ぐるに岩手荘の契券を得たり、券主尋来り岩手荘を上人に寄附し其志願を助けむとて自ら請て下司職となりぬ(法綱集并に元亨釈書にも此事見え、法網集和解を按ずるに券主重て簡を添ふ其略に云「件村、平為里先祖相伝之私領也、奉為高野山正学坊上人覚鑁伝法供料、乃至代々可勤仕之状如件、大治元年丙午七月日平為里判」)かくて大治元年根来山に伽藍を創せんとして先当社を建て、次に六十余座の神を勧請して根来寺の鎮護とせりとぞ。
補【岩手】那賀郡○紀伊名所図会 岩手大宮、岩手庄宮村紀川の北岸にあり、岩手庄十ケ村の氏神なり。〇六箇堰 堰口清水村の南岸にあり、紀川を堰て数万石の田畠に灌ぐ、此堰口もと二十間ばかり下にありしを、屡洪水のために破潰せるをもて、天保六年十一月官許を得て今の堰口に改む、此地下※[山/品]石にして容易く掘抜こと能はず、因て数万の人夫を以て※[山/品]石凡そ十五間ばかり穿ちて堰口とし、遂に万代不易の大堰とす。○岩手里 八雲御抄・宗紙国分・勅撰名所集・藻塩草等に本国の名所とす、岩手庄中をいふなるべし〔玉葉集、略〕○岩手駅 若山より四里、当駅より名手へ三里、元和年中伝馬所とす。○古市辻 荊木村領にて四つ辻の処を云ふ、此地下は曾屋金屋よりつゞき粉川道なり、根来繁栄の頃毎朝市ありし所故に古市といふ、東西南北道しるべ石を建てたり。○小伝法院大日寺は水栖村にあり。
田中《タナカ》 旧田中庄と云ひ、岩出の東に接し北は池田庄なり。今村名に転じ大字井坂上野|打田《ウツタ》等あり、安楽川村と紀之川を隔てゝ相対ふ。
山王権現、大字打田に在り、田中庄延暦寺領たりし時勧請したり、一庄の鎮守なり。名所図会云、花野《ケヤ》に常楽寺あり昔は比叡山の領地なりし時、此寺より二丁ばかり西に七堂伽藍あり恵福山観音寺と号す、中頃伽藍退転して当寺の南に遷す其地今観書跡といふ、其後又破壊に及びしかば之を併す。源平盛衰記云、堀河院御宇嘉保二年、山門の衆徒等解状を捧て※[口+傲の旁]訴しければ、時の関白師通公夢もうつゝも山王の御祟恐ろしく思召ける程に、御頭のきはにあしき瘡出来させ御祈ありて愈させ給ひければ、紀伊国田中荘は殿下の渡り庄なりけれども八王子に御寄附あり、是に因て問答講とて今に退転なし云々。○東鑑寿永三年条云、有尾藤太知宣者、此間属木曾朝臣(義仲)而内々任御気色、参向関東武衛(頼朝)云々、今日直令問子細給、信濃国中野御牧紀伊国田中池田両庄令知行之旨申之、以何由緒令伝領哉之由被尋下、自先祖秀郷朝臣之時、次第承継処、平治乱逆之刻、於左典厩御方、牢籠之後得替、就愁申之、田中庄者、去年八月、木曾殿賜御下文之由中之、召出彼下文覧之、仍知行不可有相違之旨、被仰出云々。田中井戸址とて、此村の大字|窪《クボ》に草の生ひて沢の如く見ゆる処あり、催馬楽に 「田中の井戸にひかれる田葱《タナギ》摘め云々」松葉抄藻塩草に田中井を紀伊の名所としたり。
田中村大字|竹房《タケブサ》は古名|神崎《カンザキ》と云へり、今神崎山放光寺龍歳院とて真言古義の寺あり。元亨釈書云、釈明算姓佐藤氏紀州神崎人、年十一、登高野山、翌歳薙染、随成尊法師、学秘密法、初金剛峰寺自従営構之始、至此已二百余歳、院宇廃頽密学疎荒、算慨念持明之宗依正倶替、苦修励学、度邁倫儔、未終十年、両部職位諸尊※[車+兀]儀無不貫穿、南嶺密乗再興者、世推力於算、嘉承元年寂、年八十六。又高野山往生伝云、検校阿闍梨良禅、紀州那賀郡神崎人也、俗姓坂上氏云々、永承三年戌子誕生、其後随中院阿闍梨明算受両界濯頂、保延五年化、歳九十二。
補【田中】都賀郡○名所図会 三《ミツ》塚、田中庄下井坂村にあり、鼎足して田畝の中に小丘をなす。○羊の宮 中井坂村往還の北にあり、六ケ村の氏神なり、境内広し、社殿備れり。○常楽寺 花野村にあり。○田中井戸 松葉集・藻塩草等に当国の名所とす、窪村の東北五丁許に草など生ひて沢の如くにみゆる処あり、其深き事甚し、泉の埋れたる体なり、土人是をさして田中井の旧地とす、又この西に福井といふあり、是を田中井とも云ふ、皆誤なり。
井坂《ヰサカ》 田中村の西を大字井坂と云ふ、鏡守神を羊宮《ヒツジノミヤ》と号けたり。○此地(下井坂)に三塚《ミツヾカ》と云者田畝の中に鼎立す、其一を八幡塚といふ塚上に松の大樹あり、一は芝山にて北面をあばきたり、其内を窺ふに四方に石を積あげ巨石もて其覆とし広さ丈四方許、今は乞児の居とす、一は大に発きて塚の形なし、並に古人の墳墓にして郡中所々にあるものと其形皆同じ。〔名所図会〕
久留壁《クルベキ》 田中村大字にて、或は辺土に作る、何の義に由るを知らず。猿川村の国※[爪/見]氏は今クニマギと呼ぶも古訓はクルベキなるべし、和名抄郷名訓※[爪/見]と云者あり。○名所図会云、辺土《クルベキ》の村人は行基法師の弟子聖どもの末なりとて、其由緒を伝ふ、浅野侯の時までは諸役御免なりしとぞ、今猶古文書をもてり事しげければ略きつ、辺土の文字を以てくるべきとよむこと詳ならず、清少納言枕草紙に森はくるべきの森とありて、八雲御抄に国しれずとあり、或はこの村の事にや、此村にある極楽寺は什物多し、古の安国寺の旧物と云へり、五十三人碑一基銘「天正二甲申六月五日」相伝ふ田中庄と高野領と山論の時粉川庄より加勢五十四人を出し裏責をせんとす、折しも紀川大水にて兵船を乗りしづめ溺死せしを回向すといふ。安国寺同村にあり、今退転して天連山実勝寺といふ、左衛門督源直義朝臣、暦応二年天下各州に安国寺を創めん事を奏し、即高僧碩徳を請して開山とし、或は古寺を再営して国家鎮護の霊場とせられし所とぞ。〔名所図会〕
那賀《ナガ》郷 和名抄、那賀郡部賀郷、○今池田村田中村岩出村上岩出村等なるべし、倭名抄に賀を鵞と訓み濁るべしと云へり蓋中間の義にあらず、又長の義にあらずして別に所由ありと思はる。続紀、神護景雲元年、紀伊国那賀郡大領日置※[田+比]登弟弓とある人は本郷の住なるべし。
池田《イケダ》 中世は庄号なり、今村名に転ず、田中村の北に接し根来上岩出二村の東南に並ぶ。山中に海神池あり、其水を引きて田野に灌漑す、故に池田の名あり。
補【池田】那賀郡○名所図会 大磯虎車塚、北大井村にあり、今こぼちて塚の形なし、小き石仏を安ず、大磯の虎尼となり熊野に詣る道峰村といふ処に来り、俄に病て死す、土人あはれなる事に思ひ其骸を乗り来りし車とともに葬て塚とし、車塚と名づくとかや。○春日社、中三谷村の北春日山の半腹にあり、池田庄中の産土神なり、当社は明恵上人村中金剛寺に住せし時、南都の三笠山より請じ奉る御神なり〔太平記、略〕○大日本史 尾藤知広玄孫知信徙居紀伊池田、為池田氏(紀伊池田城、東鑑)
○神祇志料 浦上国津姫神、今那賀郡池田庄神領村にあり(陽国名跡志・紀伊神社略記)之を浦上国津姫大神といふ(紀伊神名帳)光孝天皇仁和元年十二月己卯正六位上浦上国津姫神に従五位下を授く(三代実録)〔海神社・北大井、参照〕
海神《ウナカミ》社 池田村の北、海神池の傍に在り、大字を神領と云ふ、海神は一に浦上《ウラカミ》に作る。○名所図会云、海神杜の太刀は粉河国次作、銘に「明応癸丑八月吉日作紀州池田庄海神前国次」とあり。延喜式神名帳云、紀伊国都賀郡海神社。三代実録云、仁和元年、授紀伊国正六位上浦上国津姫神従五位下。社伝にいはく浦上国津姫神初和泉国の海中より現はれ給ふ、中世兵乱社地さへ荒わたりしを、慶安二年に至りて境内殺生禁札を給はり更に大社のかたち備はれりと云へり。粉川霊験記云、藤原奉成は大和国佐保の住人なり、笠置の解脱上人の勧に千日干反の観音の宝号を念ず、生年十一歳より当国池田庄に移り住むと。選集抄には那賀郡ぬかうたと云所に、紀四郎奉成といふ農夫ありと記し、小異也、按に尾藤氏は此奉成と別族か、同族か、中三谷《ナカミタニ》の金剛寺は明恵上人開基尾藤太知宣の建つる所なり。氏族志云(大日本史)「尾藤知広、玄孫知信、徙居紀伊国池田、為池田氏」と、知宣の事田中村を参考すべし。○中三谷の春日明神亦明恵上人の勧請と云ふ、太平記に此神域に合戦の事、南方蜂起の条云、
根来大衆はか様に味方の落行をも知らず、与力同心の兵相集て三百人紀伊国|春日《カスガ》山の城に楯籠り、二つ引両の旗一流打立て居たりけるを、恩地牲川三千余騎にて押よせ、城の四方を取巻て一人も余さず討ちにけり。
【海神社】那賀郡〇名所図会 神領村にあり、池田庄十六ケ村の産神なり、神宝太刀二振は粉〔脱文〕
神垣村海神の御社の二俣に覚えたる松を見て
神と君とつかゆく御代を二本に見するしるしの松ぞ木高き 本居大平
○海神池 海神社の後にあり、田園数万町に濯ぐ。
金剛寺 三谷村にあり、本尊愛染明王、貞応年中明恵上人の草創にして、俵藤太秀郷碑あり、秀郷此地を領せし故、没後此碑をたて、供養すといふ、銘文詳ならず、東鑑云、寿永三年甲辰二月廿一日庚辰、有尾藤大知宣者、此間属義仲朝臣而内々任御気色参向関東武衛、今日直令問子細給、信濃国中野御牧紀伊国田中池田両荘令知行之旨申之、以何由緒令伝領哉之由被尋下、自先祖秀郷朝臣之時次第承継処、平治乱逆之刻、於左典厩御方牢龍之後得替就愁申之、田中荘者去年八月木曾殿賜御下文之由申之、召出彼御下文覧之、仍知行不可有相違之旨被仰出云々、
○藤原奉成故居 池田庄中を求むるに其跡詳ならず、粉川霊験記に云〔記、略〕
北大井《キタオホヰ》 池田村の大字なり、村中の駅所とす、車塚と云者あり、土俗相川大磯の虎女熊野詣の途中此にて死し、其車とともに葬ると曰ふ、尚古代の墳墓なるべし。
福琳寺《フクリンジ》 池田村大字|豊田《トヨタ》に在り、今真言宗。寺伝に古の慈氏寺なりと云ふ、寛仁二年再興、下総国平忠常謀叛の時凶徒調伏の御祈をせさせられ勅願所に列したり、金岡山と号す。〔名所図会〕○慈氏寺の事は霊異記に出て、元亨釈書之に因り寺像志に述べて曰く、紀州那珂郡慈氏寺、仏像経年臂落、沙弥信行居寺執役、見像臂堕、以糸縛着其頸、宝亀二年行在殿内、夜半聞悲吟声、其音妙細、言痛哉痛哉、行巡殿尋求無人、累夕如是、行恠熟聞趁声所、先所縛之像也、乃呼沙門豊慶見之、二人歎異、勠力畢工。補【福琳寺】○名所図会 金岡山福琳寺、豊田村にあり、真言宗、本尊釈迦如来(春日の作)縁起略云、当寺は霊異記に見えたる慈氏寺にして、其後寛仁二年伽藍再興し勅願所となし給ふ、長元元年下総国平忠道謀反せし時、平直方中原成道を遣はして是を征し給ふ、官軍利あらず、同四年源頼信に勅して再討せしむ、其日当寺に於て敵徒調伏を祈らせ給ふ、逆徒速に滅亡しければ、叡感更にあさからず。
寄題紀陽福林寺 寺安 後一条帝聖影相伝其所創建也 荒川景元
曾駐鸞輿宝樹林 白雲芳草跡沈々 流風千載末消尽
猶有聖真留到今
福門《フケト》郷 和名抄、那賀郡福門郷。○今長田村大字|深田《フケダ》あり、蓋長田粉河の二村に渉れるものならん。東は名手郷に至り、西は那賀郷に至る。
長田《ナガタ》 旧庄名、今村号に転ず、粉河村の西に並ぶ(名所図会云、長田庄別所の観音寺は世に長田観音と呼ぶ霊仏なり、如意山蓮華院と云ふ、三重塔は近年建立にして壮麗なり、塔上に登るに眺望よし、初め元和年中、薩州の沙門道誉小堂を営み側に僧房を築き、寛文年間、国君其地に巡遊し、今の境地に移させ、水田若干を寄せ再興の志を励し給ひしより、一伽藍の場となれり。
風森《カゼノモリ》 長田村大字島に在り、長田庄の生土神なり。或は風市森と呼ぶ、粉川寺縁起に河内渋川郡馬馳市佐太夫の歌に風いちのもりとよめり、粉川八景詞に
粉川寺の西南十八町ばかりにあり、官符に「西限風杜」といへる是なり、伝へて粉川の地主神なりといへり、境内緑竹生しげり松老い桜栄えたり、南に馬場あり紀川横に近く流れ左右に水田陸田町をなし、北に駅路あり、其のかみ風市村と云へる是也、河州の長者粉河寺を尋ねし所とぞ「はやたつの子の川浪もしるしあれや松はこたふる風市の森」
粉川にまうでつきて、風の森と云所にて、
、、、、、、、、あたりはあだなれといかに散るらん吹風のもり、〔家集〕 大納言公任
志野《シノ》 今長田村に属す、其北部にして南北の二大字に分る。桜池は北志野にあり志野谷の水を受く、堤長石五十間近郷の大池なり、慶安三年の春、官命ありて字桜田といふ地より造作にかゝり三ケ年を経て功畢るとなむ、又|小竹行宮《シヌノカリミヤ》旧跡は定めて北志野南志野の中にありしならんも今其跡詳ならず、或は産土の神地は其跡にて、東屋御前は則神功皇后を祀るともいふ、神功皇后、三韓を征伐して帰り給ふ時、南方紀伊国に詣まし、日高にて太子(応神天皇)にあひ給ひ小竹宮《シヌノミヤ》に遷りましぬ、此時にあたりて昼暗きこと夜の如し、紀直|祖豊耳《オヤトヨミヽ》命是は阿豆那比《アヅナヒ》の罪とて、此地の神に仕ふる小竹祝と、是より東南の方三里天野社に仕ふる天野祝と死にければ合せ葬りし事侍りきと委曲に奏しけり、即其墓を開かせ改めて各異処に埋ませ給ひしより、日影きら/\しく照りて夜昼の別ちありければ、皇后甚く悦び給ひて、こゝより大木峠を越給ひ和泉の方に赴き給ひけりとなん、此事日本紀及古老の伝へなどによれり、東屋峰は葛城山の一峰にて桜池の乾に当る東屋《アヅマヤ》の北に千葉岳そぴゆ。〔名所図会〕
志野より葛城山を横ぎり泉州に出づる山路を薦坂《コモサカ》峠と曰ひ金剛童子嗣あり、即大井関川の源なる大木村犬鳴山の往還にして峠に大松数株あり、此蔭より遠望するに、上は龍門山より下は阿淡の島嶼まで眼下にあり、就中木川の長流連綿として帰する水色いはん方なし。
補【志野】那賀郡○名所図会 薦坂峠、金剛童子嗣あり、郡中より和泉大木村を経て貝塚に出る。風森大明神社、島村にあり、長田庄六ケ村の氏神なり
粉川にまうでつきて風のもりといふ所に
いとこへも花のあたりはあだなれといかに散るらん吹風のもり (公任卿集) 大納言公任
うらみじな風の森なる桜花さこそあだなる宮にさくとも(夫木集) 鷹司院按察司
はやたつのこの川浪もしるしあれや松はこたふる風市の森
はやたつは水の事なりと八雲御抄に見ゆ、此歌河内国渋河郡馬馳市佐太夫|忠(マヽ)歌とて三国伝記に載たり、粉川八景詞書云。〔風森、参照〕
粉河《コガハ》 長田村の東にして、一渓に沿ひて村を成す。大伴氏建立の古伽藍あり、世に聞ゆる所也、古名|鎌垣《カマガキ》村と曰ふ。
名所図会云、中山《ナカヤマ》に西方院中山寺あり、粉川寺本願大伴孔子古の裔方庶建立の氏寺にて古は諸堂盛大なりしとぞ、当時の丸瓦一枚今に残せり、其巴のところに凸文あり。又大伴船主故居は中山の東にあり、粉河寺の西南にあたる、船主は孔子古の子にして粉河寺の縁起に見ゆ、故居の南半丁許に古墳あり近来石※[土+郭]を発て田畑とす、是船主の墳ならむと云へり。又伴益継故居は其地詳ならず、益継は孔子古の裔にして貞観年中の人、初て粉河寺の俗別当となる是を最初の長者と云ふ、其子山雄貞宗等あり、凡孔子古の後裔数十戸にわかれ今猶多く存す、本国の名家といふべし。三代実録云、貞観十四年、紀伊国那賀郡人、左少史正六位上伴連貞宗、父正六位上伴連益継等、改本貫隷右京。之より先に続後紀「嘉承二年、紀伊守伴宿禰龍男、与国造紀宿禰高継不※[立心偏+篋の下]」などとも見ゆ。(荒川村を参看すべし)
補【粉川】那賀郡○名所図会 西方院中山寺、中山村にあり、当寺は粉河寺の本願、大伴孔子古の居宅址あり。○粉河団扇は和歌浦芦柄を佳品とす、其形あふひ形、茄子形の二種なり、「夏をさへうちわすれてぞくらすべきわかの浦風手にまかせては」中院通茂公。○鋳物師範頭左兵衛。○頼通公高野詣記 妹山※[女+夫]山云々、其西不経幾程※[斬/足]之止御船(自岸辺迄大門十余町)更令参粉河寺、頃之出御於便所移御御船、国司献菓酒等、着御市御宿。
○紙王舞田 相伝ふ、紙王はもと粉河の産なり、其親罪ありて囚となりぬと聞きて、祇王都より下り、親の囚れて牢獄の内に居るさまを立聞せしより其地を今に牢の内といひ、立聞といふ、又牢を守るものに親の対面のことを乞ふて歌舞をなし、所を今に舞田といふ、此事籠祇王といふ謡曲に見ゆ。
誓度寺《セイドジ》址 粉河村大字中山に在り、昔粉河寺に十学生とて仏経の源義を研究する僧十人ありしが、寺中に学問所を建て誓度院と号けてともに会集せり、其後粉川寺大門建立供養の時、由良の法燈国師を導師として当所に請じけるに、釈門興隆の功多かりしかば、報謝の為にかの十学生ども当院を国師に附与せしより、其弟子至一上人永享二年其院を猪垣に移す、足利義教公帰依浅からず、大慈山誓度寺と山号を賜ひ、寺領も若干ありしかども、星霜移りて終に廃頽せり、然れども建長年中より明応の頃までの綸旨下文等の類凡て五十通余、又什物もあまたありて、今は由良興国寺に蔵む。至一上人は鎌垣庄西河原村の人、北田三郎太夫といふ者の孫なり。〔名所図会〕
粉河は古より金工の名匠あり。名所図会云、鋳物師範頭左兵衛の元祖は吹井福芳は、弘法大師請来の仏器を此地にて鋳し家なり、今は故ありて福井と改む、又蜂屋といふもあり、其祖源頼勝南都東大寺大仏像を鋳たり、四代孫俊勝弘法大師高野山草創の此より此地に移住すとぞ、又刀鍛冶国次は本国諸社の神宝に有銘の作多し、中に明応の年号の物あり、其伝統詳ならず。○粉河の大衆は高野根来に亜げる強盛者なりき、故に往往闘争に与れり。寛正四年六月、畠山尾張守政長畠山右衛門佐義就粉河辺にて戟ふ事数回にして、義就衆に敵すること能はず既に自殺せんとす、湯浅次郎自ら義就と称し其鎧を着しこれに代りて戦死し、中村将監等三十人皆死す、義就纔かに免れて岡の城を保つと云へり、是より先建徳元年に宇都宮氏綱敗軍して粉河に退く事南朝紀伝にあり、天正十三年豊臣氏の軍南下の時、粉河寺其焚く所と為る。
粉河寺《コガハデラ》 粉河村|風猛《カザラキ》山の麓に在り施音寺《セオンジ》と曰ひ、天台宗を奉じ、枕草子に「寺は石山粉河滋賀」と記され、札所第三番、古今不易の名藍なり。○粉河詠歌は「父母のめぐみもふかき粉河寺ほとけのちかひたのもしの身や」観音堂十五間十四間、※[土+蓋]嚢抄には七間四面の堂なりと見えたり、今の堂は享保年中の再建なり。本尊等身千手観音は童男行者の作なりと、本堂の側に千手堂六角堂行者堂丈六堂など相並び一区を成す、中門の外に出現池あり、池中に童男堂あり、常念仏堂|御池坊《オイケバウ》其側にあり。御池坊は当山の貫主の住所とす、又律院あり十禅院と曰ふ、鎮守明神は大門の内に在り、門外は即駅舎なり。
粉川寺の縁起は元亨釈書寺像志「粉河寺者、宝亀元年建、故老伝云、紀州那賀郡有猟者、姓大伴名|孔子古《クジコ》、常棲山谷、屏身樹上、夜窺猪鹿而射、一夕山中有光、大如笠、伴氏驚怖疑恠、即下樹欲見光処、進去髣髴無定所、如是現光三四夜、伴氏熟看、乃知其地、猛省曰吾非宿縁、争逢瑞光、便就光処結庵、又思安得仏像営精舎、居未幾有一童子乞宿、伴家許之、童悦曰家主有何所須、我願加助報宿託恩、伴氏語瑞光事、曰我此地思安仏像、末得仏工耳、童曰我是拙工、家主若許願効小伎、伴氏大悦曰我刻像有二願、一為法界有情、二我息任奥州吏、途路夐遼、願安穏還郷、伴氏延童見菴所、童曰我於此菴中一七日刻像、其間願莫来見、功畢吾往告、伴氏諾、童入庵閉戸、至第八暁聞叩門声、伴氏出見無人、乃詣庵、金色観世音像千臂厳如、而不見童、伴氏喜恠、自此投弓矢、供像精修、其後渋河郡有佐太夫者、一子沈痾、万医拱手、一日童子来舎、太夫語病子事、童曰我試呪之、即詣大悲陀羅尼、病立愈、父母大喜賂童、童不受唯取一箸筒而出、太夫送門曰、恩意深不知謝、所住何処、屡通音問、答曰我住紀州那賀郡風市村粉河寺、語已辞去、不幾太夫牽婦子向彼、至風市村、無粉河寺者、※[足+知]※[足+厨]顧視、傍有一澗亘東西、沿流而下、河水甚白如粉※[將/水]、見林中有一宇、閉戸無人、便思念恐是与未決、偶日已没、体労疲、開戸而入、無火燭、雖不見像、以其仏宇、採花置几而巳、衆人共困睡、中夜像前、燈盞自然点火、堂内赫奕、太夫驚起見之、千手大悲宛然近看、童所取箸筒、挂施無畏之臂也、即知童子此像之応化、感嘆敬礼、並告四来、於是伊都郡渋田村富家寡婦聞此事、捨住宅改精舎、爾来霊応日新」と。又寺蔵の粉川縁起一巻は草創より寿永まで霊験十三箇条を書す、尋常の寺院の縁起とは異にして古書に徴する事多く、世に珍らしき縁起なり、古写本の奥書に「応永十九年十一月十三日依法水院僧都長算所望於三条坊門室町扇屋書写本勘解由小路入道義将御誂云云」とあり、元亨釈書以呂波字類抄※[土+蓋]嚢抄玉葉集風雅集其外古書に当寺の事を記するもの皆此書によれり、延喜式に「紀伊国止税云々祐河寺料四百束」と載するは祐は枯の誤りなるべし。○名所図会云、昔保元の比にや御地の住僧と一山の衆憎と争論ありし時、仏像を携て由良の湊に安置し、其後三百三十三年を経て文明十八年に夢想ありて旧の如く迎へ奉る、又後白河法皇は当寺に蔵れる三尺の尊像を移して京都卅三間堂の側の千手堂の中尊とし給へり、摂関家も亦信仰厚く永承三年には宇治殿、永保元年には京極殿、康治三年には富家殿、又応永廿八年足利義持公、永享三年には足利義教公など御台所と共に香華を取り給ふ、都鄙の士庶の群参はいふもさらなり、堂塔も其数凡て五百有余宇に及びしと、天正年中豊太閤の大挙に至りて皆一時の焦土となりしとなん、慶長以後天下治平に属して廃を起し絶を継ぎ輪奐の美古に加ふ、実に盛なる霊場といふべし、坊舎二十二箇所に及ぶ、御池坊出現池の西にあり、一山の頭坊にして宝暦四年高百石を寄附せらる。
太政官符紀伊国司
応免除粉河寺所領鎌垣東西村四至内雑役等事
在那賀郡
四至 東限椎尾水無川弁財天南限南山峰
西限風杜柴尾門川弁天北限横峰
右得彼寺永延二年十月廿日解稱(人偏)謹案旧記此地白粉流水時現神変之相点処而発願結柴而構庵末及力功顕紫磨金之尊像以之号自然仏矣大伴連公孔子古宝亀年中所奉造也云々
正暦二年十一月廿八日
永承三年宇治殿頼通高野詣記云、妹山※[女+夫]山云々、其西不経幾程、※[斬/足]之止御船、自岸辺迄于粉川寺大門十余町、更令参寺、頃之出御於便所、移御御船、国司献菓酒等、着御市御宿。(市は荒川郷の市場にや)源平盛衰記、三位中将平維盛は此次に粉河寺へぞ参られける、此寺は大伴小手と云し人、我朝の補陀落は是なりとて甍を結べる所なり、去治承の比小松殿熊野参詣の次に彼寺に参り給ひたりけるに書置給へる打札あり、今一度父の手跡を見給はんと思ひ出給ひけり、彼札を御覧ずれば落涙に墨消て文字の貌は見えねども、重盛といふ字ばかりは彫て墨を入れたれば、有しながらに替らねば泣泣是をぞ見給ひける。沙石集云、相知たる人の子息の児、粉川寺にて身まかりて後彼母のもとに使けるものの夢に見けるは、清き川の流れたるほとりに秋草の花の色々に咲みだれて、よろづ物さびしくわりなき気色せる叢の中に、彼児の声ばかりしてうち泳じける、
別れ路の中に流るゝ泪川袖のみひぢてあふよしもなし。
玉葉集云、
ひとの子のそこの心のにごれるはおやのながれのすまぬとぞ知れ、
此歌おなじ寺の別当なりける僧不調なりける事ありてかの寺にもすまずなりて侍りけるが、年へて後熊野にまうづとて粉河寺の前を通けるとき、ふしをがみて涙をながして、
見るたびに袖をぬらして通るかなおやのながれのこかはとおもへば
とよみて侍けるに、仏の御返しとて夢に見えけるとなむ。風雅集云、「ふたらくのうみを渡れる者なれば見る目に更に惜からぬ哉」これは長治の比、ある人目しひたる子をあひぐして粉河寺にまうで、彼子をひざにすゑてよくよくいのり申とて「補陀落の海におふなる物なれば子のみる目をばたまへとぞおもふ」とおもひつつぞまどろみたりける夢に観音のしめし給ひけるとなむ。○雪玉集云、粉川に詣で侍れば堂の様など荘厳巍巍として殊勝極りなくなん、本尊は十一面の千手観音となん、額の文字施音の二字は常の文字にて寺といふ一字なん古文字に侍る、誰人の筆に侍るか、すぐれたる見ものに侍る。
風猛山《カザラキヤマ》は粉川寺の後にて葛城山の一峰の尾と知るべし、玉葉集云「花衣かざらき山に色替て紅葉の外に月をながめよ」此歌は素意法師いまだ出家し侍らざりけるとき、粉河の観音にまうで発心してやがてこもり侍りて、いづれの所にてか出家し、いづくにてか仏法修行して往生をとげ侍るべきと、いのり申けるに、内陣よりかくしめし給ひけるとなん。
補【粉川寺】那賀郡〇三十三所名所図会 粉川寺縁起一巻は宝亀元年の草創の事を記し、貞観年中より寿永年中迄の霊験三十三ケ条を書す、古写本の奥書に「応永十九年十一月十三日、依法水院僧都長算所望、於三条坊門室町扇屋書」写本は「勘解由小路入道義将御誂云云」尋常の寺院の縁起とは異にして、古書に徴する事多く、世に珍らしき縁起なり、又詠歌「父母の恵みも深き粉川寺仏のちかひ頼もしきかな」按ずるに父母の慈悲の深きこと須弥山も及ばず、滄海も尚ほ浅しとす、されば古歌にも「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に迷ひぬるかな」と詠じし如く、何れの人か子を憐まざらんや、是をこそ恵も深きと詠めり、観音の利益も皆父母の子を慈むが如し、普門品云、応諸方所弘誓深如海云々、則下の句の仏の誓ひと云へるに思ひ合す可し、法華経云、三界之中衆生悉吾子也と説き給ふ。○遠岡山 粉河寺の境内にあり、藤堂氏居城の跡なり、跡、東西一丁南北十間許。○陽山 粉河村内にあり、寛文年中国侯の別館を営ませ給へるところなり。
○風猛山 粉河寺の後にあり、八景詞云、山を風猛と号す、当郡の名所なり「花衣かざらき山に色かへて」と紀の入道素意にしめし給へる本尊の和歌あり、又はふだらくといふ、補陀は観音の浄土なり、西天光明国の南の海中に高山ありて、海岸孤絶山と名づく、
花衣かざらぎ山に色かへてもみぢのほかに月をながめよ
〔詞書き、略。一本「もみぢのほらに」〕
中津川《ナカツガハ》 粉川寺の北に連り山中の里なり、今粉川村に属す。阿弥陀堂ありて文安年中以下護摩修行の札を納む、棟木には「永徳元年辛酉三月修理上棟、執筆権少僧都寛祐、村人等、若江光正若江重広安部重正深禰宗久藤原有末」と書し、鰐口には嘉吉年中の銘あり、屋上の鬼瓦は四隅に二枚づつ重ね其形各異にして或は怒或は傲、尋常の物に非ず、されど結構大に古て落甍の秋になん/\とす、即葛城修行の山伏の壇場とす。〔名所図会〕粉河八景詞云、
かつらぎは本和州にあり、山今長くして紀の粟島といふ所につヾけり、是をすべて葛城といふ、処々に役の小角修練の名跡あり、粉河寺の後につゞきて峻乎としてそばだてるは葛城の横嶺なり、官符にいへる北限横嶺とはこれなり、「春花秋葉好風色、都映金園宝樹来」と謂ふべけれ云々。
鎌垣《カマガキ》 粉川村の古名なること寺蔵の官符に見ゆ。名所図会云、鎌垣船とは古へ紀之川の通船なるべし。「延喜民部式云、年料別具雑物、紀伊国鎌垣船九隻」又行宮址は粉川村の東畑の中にあり、今は少しの形ばかり残れり。続日本紀云、天平神護元年冬十月甲戊、進到紀伊国伊都郡、十八日乙亥到鎌垣行宮、通夜雨堕。又|玉垣勾《タマガキマガリ》頓宮址、鎌垣の行宮より十丁許東北、井田村の南にあり、中古其地に寺を建て玉垣寺《タマガキデラ》といふ、今玉垣庵とて小庵あり。続日本紀云、神亀元年冬十月辛卯、天皇幸紀伊国、癸巳行至紀伊国那賀郡玉垣勾頓宮。
名手《ナテ》郷 和名抄、那賀郡名手郷。○名手は刊本右手に作る。郡郷考云、高野山元久文書に荒川名手長柄大野指理大谷山田村主と列ね、早く保元の比のものに指里大谷名手庄と連ねたれば、右は名の誤にて今の名手庄なるべくおぼゆ、名義末考。○今|名手《ナデ》村王子村|狩宿《カリシユク》村川原村上名手村等なるべし、名手市場を駅舎とす。岩出の東四里、橋本の西五里、那賀郡の東界也。
補【名手庄】那賀郡○和名抄郡郷考 加納諸平云、今岩出庄いと広ければ、右は石の誤にて、石手にやとおもへど、又名手庄もいと広く、高野山元久文書に〔中略〕以上三郷やゝ古くより高野山領地となり、天正以降国領となれり。○名手川 粉川正暦官符には水無瀬川と見ゆ、源葛領より出て丹生谷村西芝等を経て富士崎に至りて紀川に入る。○名手大明神杜 穴伏村にあり、俗に六社明神と云ふ、名手庄十一ケ村の産土神にて境内広豁なり、中央に狩場明神の影向石あり。
富士埼《フジサキ》 王子《ワウジ》村の紀之川の岸に在り、此辺より南に渡れば麻生津村に至り、高野山の西口に通ず。名手川は粉川寺正暦官符に水無瀬川と曰ひ、川原村の山中より出て狩宿を経て富士埼に注ぐ細流なり。○埼辺、怪石壁立し、巌頭松樹多く、偃蓋凌霄、根を結び枝を接へて淵にのぞみ蒼翠掬すべし、東南に孤島あり長さ百歩許、碧岸白砂奇勝かぎりなし、島の側に富士石とて川中に特起せる奇石あり、紀川の長流舟中の美景此間を最第一とす。〔名所図会〕
名手神社は名手村の東大字|穴伏《アナフシ》に在り、俗に六杜明神と曰ふ。境内広くして狩場明神の影向石あり、紀国造補任の帰路当社に詣ずるを古例とするとぞ。穴伏川は又静川といふ或は志津川と書す、源葛城山三国岳より出で伊都郡四郷谷を経て穴伏村にて紀川に入る、両郡の堺なり六伏村に此川を堰て田園にそゝぐを龍口の堰と云ふ。古代国造譲補記云、
暦応三年八月廿九日、為丹生社志津川御解除、経|雄山川辺《ヲノヤマカハベ》著粉川宿、九月一日、燭秉時刻、有志津川御祓(のぎへん)、新上於川西、向巽方御座、祓(のぎへん)後流鮭。
葛城山《カツラギサン》 名手村の北方に於て三国岳と云ふは、葛城山の一峰にして紀伊と河泉の交界に当るを以て此名あり、北に延くものは七越槙尾の諸嶺と為る。凡此山は紀伊と大和河内の交界なる金剛山高天の峰より西に伸び、加太の田倉埼に至る十五里余、一条の横嶺を成して紀之川の流に沿へり、古名|※[口+袁]之山《ヲノヤマ》と呼ぶ。
伊都郡
伊都《イト》郡 紀之川の流域にして那賀郡の東に在り、北は葛城山|岩湧山《イハワキサン》の脈を以て和泉河内両国に界し、東は大和国字智郡に至り、南は十津川郷(大和吉野郡)及阿瀬川郷(有田郡)に至る。紀之川郡の北偏を貫流し、南偏に高野山蟠踞す。郡城東西凡五里南北凡六里、今二十二村に分れ人口六万、郡衙は橋本村に在り。
伊勢は又伊刀に作る、蓋|伊都部《イトシベ》の旧邑なり、「垂仁天皇皇子、伊登志和気王因無子而為子代、定伊都部」と古事記に見ゆ。日本書紀は伊登志和気王を胆武別命に作り、旧事紀は五十建石別命と曰ふ。○天武紀、八年、紀伊国伊刀郡、貢芝草、其状似菌茎、長一尺其蓋二囲、○和名抄、伊都郡五郷に分つ、或云都字は古書大抵ツに仮る、此にトに仮れる也と、霊異記にも伊刀郡と載せたり。筑前には怡土郡に作るも同く伊都部なるべし。 ――――――――――
桑原《クハハラ》郷 和名抄、伊都郡桑原郷。○今詳ならず、疑ふらくは笠田村|大谷《オホタニ》村等郡の西偏の地なるべし。霊異記に伊刀郡桑原狭屋寺と云者あり、笠田村大字|佐野《サノ》は古の狭屋の地にや。(山田村を参看せよ)
笠田《カサタ》 旧庄名にて又|加勢田《カセタ》※[てへん+上/下]田に作る。史徴墨宝考証云、神護寺縁起、寿永元年十一月、法皇蓮華王院御幸、翌年十月紀伊国|※[てへん+上/下]田《カセタ》荘を寄進せしめらる。○加勢田庄は今笠田村と改む、紀之川の北岸にして那賀郡|名手《ナデ》村の東に連る、背山萩原中村東村佐野等の大字あり。補【※[てへん+上/下]田】○史徴墨宝考証〔重出〕神護寺縁起に寿永元年十一月廿一日、法皇蓮華王院御幸の時参謁し、二年十月十八日紀伊※[てへん+上/下]田荘寄進等の事を記す。○今笠田村。
背山《セヤマ》 今笠田村の大字なり、一に兄《セ》山に作る。孝徳天皇大化改新の際畿内の境域を分ち、兄山を以て南界と為さる、当時伊都郡は大倭国に属せしめられたるに似たり、書紀云「南自紀伊兄山以来、為畿内」と猶考ふべし。古歌に妹背《イモセ》山とよめるも此地なれど、大和吉野郡にも同名を存し、古来二所并びに世に著る。或云吉野なるは妹山にて紀伊なるは兄山なるを、いづれも妹兄山の称を冠らせて詠歌したるならんと、二所相参考すべし。
麻ごろも着ればなつかし木の国の妹背の山に麻まくわぎも、〔万葉集〕
わぎも子に吾恋行けばともしくも並び居るかも妹と勢の山、〔同上〕
名所図会云、※[女+夫]山は背山村に在り今鉢伏山と云也、妹山その対岸|渋田《シブタ》村に在りて今長者屋敷と云ふ、両山の間なる紀之川の中に一岩あり孤舟の状あり舟岡島と呼ぶ、島中に弁財天社あり老松奇岩の勝景あり、或説妹※[女+夫]山は吉野と為すは甚き誤なり 地形此地両山の間岸相迫り唯一条の流を通す、大化年中詔して爰を邦畿の南の限と定め給ふ、兄《セ》山は狭き山の義にして地形より起れる名なる可きを、史に兄《セ》山と書けるは仮字なるべし、是に対する川南の山を妹《イモ》山と称しとり/”\風詠せしに依りて妹※[女+夫]山の名普ねく天下に聞えたり、何れの世にかあらん此わたりに雛子長者と云へる富豪の者ありけり、妹山の形なだらかにして風量よきを賞し、山を平らげ玉楼を構へ糸竹管絃の遊びをなしければ、いつとなく長者屋敷と呼びなして遂に妹山の名を失ひ、※[女+夫]山も亦山足をきり開きて今の官道とせしより妹※[女+夫]《イモセ》の姿大に変転せりとぞ、又近世妹《女+夫》山と云ふ俳優に雛鳥と云ふ姫の妹山に逍遙することあり、こは長者の名雛子と云ふに本づけるものならんとぞ。
袖中抄云、顕昭云、いもせの山とは紀伊国にあり、吉野川を隔てゝ妹の山背の山とてふたつの山あるなり、昔いもとせうとゝ河をへだてゝ中の界を論じけり、つひに妹かちてせの山の方近く掘りて吉野川をばながしたりといへり、かのいもとせうとこの二つの山の中に小山あり、それをいもせ山といふとぞ。
按此説信じ難しと雖ども古き俚諺なる可し、実に妹山と舟岡山の中間掘わりたるさまに見ゆ。
頼通高野詣記云、十七日壬午天晴、辰刻供御膳所之饗饌了、令立宿給之間、国司艤革船於河辺、令候気候、殊有許容、忽以移御、爰解錦纜而漸櫂、妹山※[女+夫]山之紅葉浮沈、忍珠簾而閑望、斜岸遠岸之青苔展菌、或有碧潭之湛々 、或有白沙之漠々、奇巌怪石繞之、参差古松老杉亦又雑挿、凡毎所无不驚眼、毎物莫不発興、其西不経幾程、※[斬/足]之止御船 。(永承三年十月)
江吏部集、妹背山下卜居 大江匡衡
一従山脚卜林泉、慶事無侵正澹然、蘿帳月前開鏡匣、松窓風底撫琴絃、陽台暁夢雲相似、女几春心水自伝、万歳藤為随手杖、携来乗 興弄潺湲、
補【妹※[女+夫]山】伊都郡○紀伊国名所図会 妹山は渋田村にあり、今長者屋敷と云ふ、※[女+夫]山は背山村にあり、今鉢伏山と云ふ、紀川を隔て、相対せり、或説に大和国に妹※[女+夫]山ありと云ふ、甚誤なり、両山の際大に迫りて唯だ一条の流れを通ず。
舟岡島 妹※[女+夫]山の中間大川の中にある□島を云ふ、其形舟に似たり、因て名とす、北方古道の辺より望むに妹山と一山の如し、川上に此島の両方を往来す、島の中に弁財天の社あり、松樹多く奇巌あり。
萩原《ハギハラ》 今笠田村の大字にして背山の東に接す、古駅なり。日本後紀云「弘仁二年、廃紀伊国萩原名草賀太三駅、以不要也。三年、更置萩原駅」と又、延喜式「紀伊国駅馬、萩原八匹」とある此也。
補【萩原】○名所図会云、萩原の古駅、今萩原村と云ふ、往還より少し北にあり、粉川より名手庄丹生谷村西の山馬|宿《ヤド》を経て背山の北手を越て当村に出るを古道とす、延喜式云、紀伊国駅馬、萩原八匹。日本後紀云、弘仁二年八月丁丑、廃紀伊国萩原、名草、賀太三駅、以不要也、同三年四月丁未、廃紀伊国名草駅、更置萩原駅。
宝来山《ハウライサン》 名所図会云、萩原村宝来山大明神は加勢庄の本居神にして、大永年中仙人翁と云者家豪富にして当社を尊敬し宸筆の額をたまはり、正一位勲八等日本第一大福田宝来山大明神と顕したまふ、又当社に文覚上人の画像あり、上人寿永年中当庄を後白河院より布施を受られて賜はりしとぞ、文覚偃と呼ぶ養水なほ遺れり、上人の造りし者とぞ、仙人翁に賜りし綸旨は高野山巴陵院に所蔵す、
下綸旨於我国紀州伊都郡
高野山禁裏御宿坊之事小田原御所坊也並唐船高麗琉球船祈祷守可任先例候次下山天野御宿御殿役人参内仙人翁是吉也兼又三宮青蓮院有去子細高野住山之時是吉種々忠節無比類候由門跡一同奏上叡感之余紀州泉州堺南北僧侶俗官位之御代官永可伝家者也
大永五年八月廿七日 右大弁
参内仙人翁是吉
今按、仙人翁の事頗異むべし、宝来山と云は各所にて古墳を指すことあり、此なるは古の伊登志別王などの遺址にあらずや。
補【宝来山大明神杜】○名所図会云、萩原村にあり、加勢田庄中の本居《ウブスナ》神なり、文覚の像古画なり、後白河上皇此地を山城国高雄山神護寺の領に布施したまへりと、後大永年間加勢田仙人翁是吉といふ豪富の者ありて、大いに当社を尊敬して、同五年忝くも後柏原帝の宸筆の額を給はりて、正一位勲八等日本第一大福田宝来山大明神と書せさせ給ふ。
文覚堰 同村領山手にあり、寿永年中文覚上人の掘る所なり。
揖理《イフリ》郷 和名抄、伊都郡揖理郷。○今|妙寺《メウジ》村大字|飯降《イヒフリ》と云は此遺称なり、萩原古駅の東に連る、揖理は刊本指に作る。○和名抄郡郷考云、高野山御影堂文書、元久年間以下のものに指里と云村名多く見え、指は※[手偏+巴/日]の略字にて即揖の古体なり、イフリと訓べし、今飯降に作り|名倉《ナクラ》妙寺の間に村名遺る。名義不詳。
妙寺《メウジ》 妙寺は今村名にて、吉野和歌山間の一駅なり。橋本駅の西三里にして、和歌山を去る凡九里。
村主《スグリ》郷 和名抄、伊都郡村主郷。○和名抄郡郷考云、此郷今廃せれど山田村に村主と云家ありと聞けり、此辺の大名なりしが早く廃したるなるべし、高野山御影堂元久の文書に山田村主両庄事云々と見え、其外にも山田村主と相つづけたり。○按に今の山田《ヤマダ》応其《オウゴ》岸上《キシカミ》の諸村なるべし。
小田《ヲダ》神社は延喜式伊都郡に列す、旧祠は廃絶し元和年中石のほくらを建てゝ今小田村に在りと。〔名所図会〕小田は今|応其《オウゴ》と改む、応其は高野山木食聖の名僧なり、所因あることなるべし。
山田《ヤマダ》 旧庄名なり、今村名と為り出塔《デタフ》神野々等の大字あり。○名所図会云、神野野《カウノノ》村の坤に桑原てふ字ありて、其辺に狭屋《サヤ》寺屋敷と云ふあり又大門と云ふ字あり、大門と云ふ地に一大礎石有せり、那賀郡塔の芝にある者と同様なり、此辺の田畝に古瓦多し或は佐野《サヤ》村の地に此寺ありしと云ふ、今決し難し。 霊異記云、聖武天皇の御代、紀伊国伊刀郡桑原狭屋寺の尼等、発願して彼寺に於て法事を備へ、奈良の右京の薬師寺の僧題恵禅師を請じて十一面観音を祈念して悔過をなしけり、時にかの里にひとりのさかしら男あり、姓を文忌寸字を上田三郎と云、(川南に上田郷あり即そこの人なる可し)天骨邪見にして三宝を信ぜず、上毛野公大椅の女を妻にもつ、(按に上野は真土山のふもとに上野《カウヅケ》村あり上田郷より一里許あり上毛野公も其地の人なる可し)妻夫の留守に一日一夜八斎戒を受け、彼寺に参じて群の中に居たり云云。補【山田】伊都郡○名所図会 桑原狭屋寺旧跡は神野々村の坤、田地の字に桑原と云ふあり、其辺にサヤ寺〔脱文〕銭坂城墟 出塔村にあり、廻り六町、西は平地に連なり、東南北は高さ九間ばかり。〔出塔、参照〕
出塔《デタフ》 今山田村の大字なり、橋本村の西北一里許。日本後紀云「延暦廿四年五月、遣修行伝燈法師位聴福、於紀伊国伊都郡、立三重塔、為聖窮平善也」とありて出塔は大塔《ダイタフ》の訛に非ずや。〇三重塔墟は其地詳ならず、出塔《デタフ》村に高さ六尺五寸横一尺四寸許の
五重石塔あり是三重塔の基跡にて、後人五重小塔をば立てたるかと云へり、覚束なし。〔名所図会〕
銭坂《ゼニサカ》城址は出塔に在り、廻り六町許、西は険なけれど東南北三面は高五六丈の崖を為す、即南北朝の際官軍に応じたる生地《オフチ》氏(一作恩地)の遺墟とす、生地氏の事は相賀及び学文路《カムロ》村を参考すべし。
相賀《アフガ》 庄名にして今橋本村紀見村に当る、相賀駅は大字|東家《トウケ》市脇に在りしなり。河内国界|紀伊見峠《キノミタウゲ》の南七十町、京大阪より高野詣の路、此にて吉野和歌山街道に会ふ。○名所図会云、東家は橋本駅と接続し旅舎多し、甘露寺親長卿記に合賀宿とあるは是なるべし、紀之川の北岸にして渡津を踰ゆれば清水学文路を経て高野《カウヤ》へ上るべし、古書に峠川と云ふ。○室町殿日記云、寄衆奇妙之事、信長公高野山討手の大将に松山城主一万六千にて押よせ、峠川のこなたの宿より陣取りて本陣は谷うちと云処にすへたり。
補【相賀】伊都郡○名所図会 市御借屋旧址は市脇村領にありしならん、其地今詳ならず。○今橋本村。
相賀駅 那賀郡名手駅より四里、東家、寺脇、古佐田、妻、□瀬の五村より人馬を出す、東家及び橋本に伝馬所あり。○今昔物語第二十一〔未詳〕紀伊国清澄値盗人語〔略、市脇、参照〕
補【坂上基澄墳】市脇医王寺の西十歩許にあり、基澄は牲川《ニヘカハ》氏の祖、四条院の御宇の人にして北条に属せり。
補【東家】○寺脇村の東に接す、紀伊見峠より七十丁ばかり、京大坂及び北方の諸国より紀伊見峠を経て高野に詣ずるもの皆爰を過る、故に茶店旅舎多し、甘露寺親永卿の記に合加《アフガ》宿とあるは是なるべし。
東家渡口 川南清水寺に往来す、高野街道なり。〔室町殿日記、略〕
市脇《イチワキ》 東家の西に接する大字なり、古の市駅ならん。永承三年関白頼通高野参詣記云、「十月十三日、着御紀伊国市御借屋、民部卿所領辺、去※[口+袁]唹山之南卅許町、木御川之北不経幾、占樹木朦朧泉石幽奇之地」と此なり。○市脇薬王寺に坂上基澄の墓と伝ふる者あり、基澄は伊都郡の豪族にて今昔物語に「紀伊国伊都郡に坂上清澄と云者兵の道に極めて緩び無かりけりと」と曰ふ、其氏人なり。
名所図会云、坂上基澄は四条院比の人也、市脇の窟は高一丈許南方を壊つ、内空虚にして方一丈計左右石を畳み後と上とは全石を以 て覆ふ、旧其傍に五輪の石塔ありて銘に 「永仁二年正月廿八日孝子坂上長澄敬白」と書せり、長澄は基澄の子にして建治永仁の頃 名あり、銘近年磨滅して石塔を寺の門前に移せり、按に墳墓の制斯の如きもの諸国に多しと雖も、大抵墳主の名を失せるを、好古の者上古其地に縁ありし人の墓所に附会するを例とす。
市脇の薬師院|妙楽《メウラク》寺は高野大師空海の姪如一尼の住址と伝へり、天正九年兵乱に焼失し寺宝今は少けれど、弘安元年興正菩薩の書二冊、元中元年田地寄附状等尚遣れる由名所図会に見ゆ。又文明五年の勧進啓白状を蔵す
請殊蒙十方檀那合力早果一寺再興大願遂仏閣塔婆等造営子細状
右紀伊国伊都郡高野山麓相賀荘妙楽寺者西大寺末流三十四箇所之随一東方教主薬師如来安置之霊場也云云抑寺之為体東者吉野之山桜供花於医王之前南高野峰月挑光於本尊之燈西妹背之川浪鳴声仏壇之磬北者葛城之山雪添色於堂舎之妝足則自然所得之勝境也爰永仁六年之比依興正菩薩之皈依被成御祈之願所云々
文明五年発巳三月廿一日 勧進沙門悟阿敬白
補【妙楽寺】○丹生山薬師院妙楽寺、寺脇村街道の北にあり、寺伝云、当寺は昔弘法大師の姪如一尼の居せし所にして、嵯峨天皇の勅願寺とし給ふ云々、天正九年織田公の高野攻の時、衆徒の為めに焼払はれ、古物又多くは焼失〔墨消に弘安〕元年勧心寺より来る西大寺の興正菩薩の書二冊、元中元年田地寄付状等、今僅に存す。
大我野《オホガノ》 相賀野に同じ、古今の転訛なり。万葉集「大宝元年辛丑冬十月、太上天皇(持統)大行天皇(文武)幸紀伊国時歌十三首」の中に
山跡にはきこえも往くか大我野のさゝ葉かりしき廬せりとは、
補【大我野】○相賀庄二十六箇村の内市脇、東家、寺脇三ケ村の田地の字に相賀台といふ曠野あり、これ古の大我野なるべし、相賀と書せるは音近きを以て誤れるなるべし〔万葉集九詞書歌、略〕
橋本《ハシモト》 東家と連接し其東に在り、市街を為し郡中の小繁華なり、和州五条(宇智郡)を距る二里半、和歌山を去る十二里、鉄道車駅にして水陸の便利あり。○橋本町は天正年中高野山木食上人|応其《オウゴ》の開きたる所、古の相賀駅を継ぎたる也。当時紀之川に長橋を架し高野往来の渡津と為したる故に此名あり、但其橋は三年許にて大水に圧し破られ、其後は専ら船にて之を渡したり。応其寺は天正十六年架橋の時創建せし者にて、上人贈答の文書を留存す。
橋本より和歌山に往来する舟を川上《カハカミ》船と呼び、一日にして下るべし、木材貨物の運送頗盛大なり。○橋本町の東に大字|古佐田《コサダ》妻村あり、古佐田には一大古墳あり誰人にや詳ならず、妻《ツマ》村は古の妻杜の所在地なり、万葉集に其歌ありて一書に坂上忌寸人長の作とぞ。
城《キ》の国にやまずかよはむ妻の杜つまよしこせね妻と言ひながら、
陵山記云、橋本里より北の方三町許に陵山《ミサヽギヤマ》とよぶ小山あり、松柏など暗き迄生繁り正南に石壇あり、其西おもてに 庚申寺と云ふ寺あれば、こゝに通ふたよりにやあらん今は西の方に道を開きたり、其より数十歩にして高さ七尋ばかり周り二町許り の円く築きたる塚ありて、幅二間許の湟を環せり、其あたりにて曲玉管玉なんど拾ひし人もありとか、此塚総て敷間もなく石を畳め るが上に、苔衣厚く重ね頂少し窪にして小祠あるを里人は庚申《カウシン》の祠なりと云へども寛永年間の記には御車埼《ミシヤザキ》の宮と記せり、御車埼はみさゝぎの訛にて里人陵の字を知らずして漫に充たるなるべし、其窪めるあたりを踏めばとどろとどろと打響くさま、うつろなりと覚しきは、棺を納め大石を畳みて覆へるなるべし、かく厳しく築きたるは大かたの塚にはあらざる可し、或さかし人は紀古佐実朝臣の墓ならんと云ふ、そは紀伊国を紀氏の拠とし、此地を古佐田《コサダ》村と云へば古佐美田《コサミタ》の美《ミ》を省けるにやと云ふ説なり、いと諾ひがたし、又或る里人は中昔の比此あたりに坂上《サカノウヘ》へ氏多ければ其 遠祖即|阿知使主《アチノオミ》などの墓にやと云へれど、古き墳は国々にいと多かるを
是彼と見つれど、人臣の墓にかばかり兆域の大なるは見えず、云々。〔名所国会〕
補【橋本】○松ケ橋を隔てゝ東家に対す、往昔高野山応其上人此町を開きて紀川に長橋を架して橋本町と名く、其橋三年許を経て大水の為に圧流さる、以後船を以て川南に往来す、是を橋本橋と云ふ。
川上船 橋本町より出す、公私運送の荷物常に往来す、之を川上船と云ふ、又旅人の便船あり、皆一日にして府下《ワカヤマ》に達す、春の頃は伊勢参宮より大和の勝地を経て或は高野或は粉川或は根来、或は紀三井寺に出るもの絡繹して絶えず、必宿をこゝに投ず、実に運送輻輳の地と云ふべし、
九月十三夜橋本の里に宿りて
よしの川河音清くなが月の月も流れてうつるさやけさ 本居大平
補【応其寺】○橋本町にあり、中興山普門院と号す、真言宗古義、高野山興山寺に属す、木食応其上人の開基なり、本尊十一面観音、稽主勲の作、天正十六年本願上人修補して木食上人に寄進し、当寺の本堂へ安置せしむること、本願上人の添書に見えたり、応其上人書簡、堀尾吉晴より上人に贈る書簡等あり。陵山 古佐田村北一丁許にあり。
補【妻森】○妻村にありし森なる可し、妻村は大和街道にて、上古の御幸道なり、万葉九「城国爾不止将往来|妻杜《ツマノモリ》妻依来西尼妻常言長柄(一云、嬬賜爾毛嬬云長柄)右一首、或云坂上忌寸人長作。
紀見嶺《キノミタウゲ》 橋本村の北に横亘す、即葛城山の脈にして東は金剛山に至り、西は岩涌山蔵王峠(飯降より河州滝畑に踰ゆ)七越山に連る。嶺陰は南河内郡にして嶺上より天見村を経て三日市駅まで二里余、橋本東家までも同距離とす。今嶺下の柱本細川胡麻生等を合併して紀見《キミ》村と称す、其|胡麻生《ゴマフ》に牲川《ニヘカハ》氏の宅址あり。○長禄記云、寛正四年四月十五日、岳山及落城了、畠山義就以下落人は木実峠にて一首かくなん、
うき落る木のみ峠の行末は知らずばげにも道理なりけりと打詠じて、牲川さうかの里を過ぎをいちが城に着ぬ、(生地なるべし)五月岡の城に入る、其後畠山政長より菖蒲谷長山なんとに陣取り、六月粉川合戟、義就北山へ没落す。
葛城《カツラギ》連峰の中此処最も卑くして平易なれば北方の諸州より本国に入る通路とす、河内国錦部郡|天見村《アマミムラ》に接せり、昔諸帝高野山に行幸し給へるも皆此峠を越させたまふ。永承年中関白頼通公御参詣の記に※[口+袁]唹山《ヲノヤマ》を越るよし見えたるも猶此路なり、※[口+袁]唹山は葛城続きの北山の惣名なれば茲をもしか云へる事他にも証あり、斯くて南山登詣の緇素年々歳々に多きを以ていつの頃よりか山嶽に茶店を開き客舎を建つらねしかば、酒旗春風に靡きにくからぬ袖にて往来の旅人を招くもある可し、又嶺の下なる胡麻生の大崎に牲川《ニヘカハ》氏宅址あり、牲川或は贄河に作り本郡の一豪族なりき、其祖を多々良《タヽラ》五郎義春と云ふ、治承年間源頼朝公に仕へ伊豆国|江川莊《アガハシヤウ》を領す、其四世の孫を太郎重範と云ふ承久乱に領地を本国に受け那賀郡野上郷に住し、楠正成の祖父掃部頭盛仲が女を娶りて三子を産む嫡子を野上《ノガミ》孫三郎頼重と云ひ、次男を牲川三郎右衛門頼俊と云ひ、三男を江川左衛門重幸と云ひ皆官軍に属し、多々良三家と称す、頼俊屡軍功を顕はすと雖ども南朝遂に衰へしかば十津川郷に遁る、頼俊が子孫守護畠山尾張守の旗下となり城を細川村|長藪《ナガヤブ》に築き、豊太閤に敵して遂に討死す、〔名所図会〕
補【紀伊見】伊都郡○名所図会 紀伊見《キイミ》峠は東家村より七十町許、是より河内国三日市まで二里。
補【牡川氏宅址】○胡麻生村の内大崎と云ふ処にあり、牡川氏は生地《オヒヂ》氏と並び称せられて、楠公の旗下に属し事蹟多し(軍記類、贄川と記す)
補【長薮城址】○細川上村にあり、文明年中牲川義春始て此城を築く、或は云ふ隅田《スダ》一族の本城にして、一族中年老の土此に築城す云々、永禄年中松永弾正の為めに責抜かれて〔脱文〕
隅田《スダ》 角太又須田に作る、橋本村の東にして郡の極界なり。真土《マツチ》山を以て和州字智郡と相限る、旧庄名にて二十余村に分る、今隅田村と為る。(真土山は字智郡に出せり、参考すべし)
中古此地の膏族を隅田党と曰ふ、太平記に楠正成と合戦したる隅田高橋は即是なり、高橋の名は大字|中下《チユウゲ》に残れり。平家物語に高橋判官長綱と云ふは又此氏人なるべしとぞ、大字兵庫に氏寺あり護国寺と云ふ、近年林中より古石塔の五輪百四五十基を発見したりしに、正平元中明徳応永天文延徳永正天正等の年号ある者之に交れりと云。
名所図会云、隅田党は紀之川の南北二十一村に散在し名家の裔とて古文書古器等を蔵す。両六波羅の頃より南北朝の時に至り荘中を分割して押領し、或は南朝に仕へ或は北朝に従ひ屡々軍功を顕はす。一族の陣幕各瞿麦を紋所とす、太平記に見えたる須田《スダ》高橋の姓皆一族なり。天文廿三年一族の氏寺|利生護国寺《リシヤウゴコクジ》にて誓紙の交名三十一人あり、永禄天正の頃には廿五人の名顕れたり、生地《オフヂ》牲川|根来《ネゴロ》湯川《ユガハ》等に同じく軍事を専にし守護畠山氏に属す、畠山滅亡の後は織田公に属せり。元和封初の比廿五人の中より十五人を召出されて隅田組と称す、葛原平兵衛所蔵の文書一二を左に載す
楠木兵衛正成事押寄隅田庄之時度々及合戦数十人兇徒討留云々殊神妙也依執達如件
正慶元年十月五日 左近将監花押
越後守 花押
須田一族中
依大塔宮并楠木兵衛尉正成事自関東尾藤弾正左衛門尉所上洛也有可被仰付之子細不廻時刻可被上洛仇執達如件
正慶元年十二月十九日 左近将監花押
越後守 花押
隅田一族中
正平二年楠正行岸和田助氏を召具し隅田城を攻めたること助氏申状に見え、南山巡狩録に載せたり。○隅田八幡宮は本郡の名祠なり、供僧を置き殿屋壮麗他の諸村に比す可らず。什宝古鏡一面あり、相伝へて神功皇后韓国より収め給ふものと云ふ、其古鑑を観るに径五寸三分蒼然たる青緑の銅にて黄色を含む、縁薄く背面の紋奇工稠密にして文字すべて四十九字あり、古体にして読むべからず、按ずるに鉄網珊瑚云「漢用小篆隷書、三国用隷書」とあり此書体篆の如きあり亦隷の如きあり又楷の如きもありて、昔年筑前国怡土都郡三雲村にて土中より掘出しものと形状よく似たり、漢魏の古物なること自明なり、然るときは寺憎伝ふる所古伝ならんか。又宋板三国志に船三艘に鏡をつみて皇国に贈りしことありと或《アルヒト》云へり、その一面にや、二千年に垂として全体を存せること奇珍と云ふ可し、本州古器之を最第一とす。又当社の創草詳ならず、何れの御代より石清水の領となれるにか、当社を隅田の別宮と称し男山より政所を置れて、鳥羽天皇の保安年中隅田党の中藤原忠村と云ふ人をして当社の別当職に補せられ、其裔連綿として此職に任ぜられき。
石清水文書延久四年官牒云
紀伊国伊都郡字隅田庄水田弐拾玖町
石本寺注文云件庄大入道大相国建立一条院三昧堂四季懺法等料者勘所進文書依去寛和二年七月牒状国司奉免云々
補【真土山】伊都郡○名所図会 隅田《スミダ》川は紀川隅田庄を流るゝ間を云ふ、万葉に隅田川原とよめる即是也、或は今の堺川なりと云ふ説あれども、堺川は真土川とよめる川にて隅田川にあらず、譬へば紀川を妹背山の間にてはいもせ川と云ふが如し。〔大和宇智郡真土山、参照〕
補【隅田】伊都郡○名所図会 隅田の一族は隅田庄川南、川北に亘りて二十一ケ村の中に、隅田組とて十五家あり、各名家の末裔にて〔脱文〕
南山巡狩録、正平二年楠正行朝臣岸和田蔵人助氏を召具し、紀伊国隅田城を攻む(岸和田助氏申状)
隅田党の墳墓 紀州伊都郡隅田村は旧と隅田庄と称し南北朝の頃より隅田党の一族とて、著姓数家あり、然るに其墳墓は何れも三百年来のものゝみにて家系と相副はざりしに、今回大字下兵庫護国寺所有の山林より五輪塔百四五十基を発見せり、中に正平、元中、明徳、応永、天文、延徳、永正、天正等五百年外の年号を散見せり、元来護国寺は行基菩薩の開基に係り、古来一族の帰依浅からず、今尚霊牌の存するもの少なからずといふ。
補【高橋】○中下村の西北大和街道の小流に架す、此辺人家あり、字を高橋と云、太平記に隅田高僑と見えたる高橋氏は旧と此地より出でたる人なりと云、又平家物語に高橋判官長綱と云ふ人あり、其人も此地の産なりと云へども明証なし、川辺に高橋判官八重椿とて珍らしき椿樹一株あり。
補【隅田八幡宮】○雲井村にあり、隅田庄十六ケ村の産生《ウブスナ》神にて、社頚の壮麗他の宮の比す可きにあらず、什宝古鏡一面、寺僧伝へて神功皇后三韓を征し給へる時かの土の人皇后に献れる鏡と云ふ、其文書録〔脱文〕
賀美《カミ》郷 和名抄、伊都那賀美郷。○蓋隅田村橋本村|恋野《コヒノ》村などに当る、紀之川の上方なれば也。
恋野《コヒノ》 隅田村の南岸を曰ふ。此村は東は和州字智郡に接し甫嶺は富貴村にして、謂ゆる管川《ツヽカ》の藤代峰なり。
富貴《フキ》 高野山の東谷にして今|筒香《ツヽカ》村を併す。東南は和州賀名生郷十津川郷に至り、北は恋野村に至る、幽僻の山村なり。○名所図会云、富貴郷に享保中|名迫《ナザコ》伊光と云ふものあり、其比凶年打続き此地の人逃亡して、五十余戸空屋となれる時、猪鹿山林田圃に充満して残れるものも皆亡滅せんとするを悲しみ高野山に訴へて末進若干を免され、農事を肋け十年の間に旧の如き村となれり、其時本藩に願ひ鉄砲の上手を頼みて八ケ年の間に千百六十一の猪鹿を打取りしとぞ、享保十年生ながら祠を建て、其人を祭り名迫明神と称す。
管川《ツヽカ》 今筒香に作る、丹生川《ニフカハ》の源にして、高野山の東北を繞り九度山に至り紀之川に注入す、長凡七里。
補【管川】○神紙志料 神功皇后征韓凱旋の時、※[さんずい+文]売神の教に依て其神を美奴売浦に祝祭り、神船を奉り給ひ(摂津風土記)又其の爾保津比売命をば紀伊国管川藤代の峰に鎮奉りき(播磨風土記)
土人伝説に丹生神社、古へは藤代峰に在りしを後今の地に遷せるなり、さて藤代峰は今水呑峰、石堂峰、粒岳などゝ云て、富貴・筒香・大和等の界の高峰を云へり、管川は今筒香と訛り呼ぶ。
藤代峰《フヂシロノタケ》 富貴《フキ》村大字筒香の東山にして、和州十津川郷|天《テン》之川辻に連接す。神祇志科云、伊都郡丹生神社古へは藤代峰に在りしを後|天野《アマノ》村に移せるなりとぞ、昔は息長帯比売命(神功皇后)の新羅国を平服給はむとして播磨国に下坐て諸神に祷奉る時に、爾保都比売命即国造石坂比売命に教て詔く能我前を冶奉らば我善き験を出して比々良木の八尋桙|根底不附《ネソコツカヌ》国、越売《ヲトメ》の眉引《マユヒキ》国、玉匣|賀々益《カガヤク》国、若尻有|宝《タカラノ》国、(按若尻一本或作苫尻)白衾《タクフスマ》新羅《シラギノ》国を丹浪以て平賜はむ、如此教給ひて赤土を出し給ひき、故其土を天之逆桙に塗り神舟の艫舳に建て又御舟裳及御軍の冑を染め、又海水を攪濁して渡り坐時に、底潜る魚も高飛鳥も前に遮らず新羅を平服《コトムケ》給ひき、其神功威烈尤盛なり、故れ還上り坐て此神を管川の藤代の峰に鎮め奉りき。〔播磨風土記〕
学文路《カムロ》 或は禿に作る、高野山の北にして紀之川南岸に沿ふ。東は恋野村、西は九度山《クドヤマ》村に至る、大字清水は北岸なる橋本の駅市と相対し大和河内街道より高野詣する者は皆此を渡津とす、故に清水より西学文路駅を経て河根《カネ》村不動坂を登るを京口と呼ぶ、又清水より直に南方に撃ぢ黒川を経て千手谷に入るを大和口と呼ぶ、并に高野山七口の一なり。
名所図会云、清水西行堂は円位上人の栖址とぞ、堂内に背上包を負へる七寸許の像を置く、 西行の草履もかゝれ松のつゆ、 芭蕉
衣懸桜は堂の前に在り、按に太平記光厳法皇御臨幸の条に云、日を経て紀伊川を渡らせ給ひけるとき、橋柱朽て見るも危き柴橋あり、橋の半に立ち迷ひておはするを、武士七八人跡より来りけるが、「此なる僧の臆病なる見度もなさよ、是ほど急ぐ道のひとつ橋を渡らばとく渡れかし、さなくば後にわたれかし」とて押のけ進らせける程に、法皇橋の上より押落され水に沈ませたまひにけり、順覚あら浅ましやとて、衣着ながら飛入て引起しまゐらせたれば、御膝は岩のかどに当りて血になり、御衣は水に漬りてしぼり得ず、なく/\傍なる辻堂へ入れ進らせて、御衣を脱替させ進らせけり、古もかゝる事やあるべきと、君臣ともに捨る世をさすがに思召出ければ、涙のかゝる御袖はぬれてほすべきひまもなし云々、此御危難の所は衣懸桜を其故跡とするにやあらん。
補【学文路】伊都郡○名所図会 地蔵堂、清水村に在り、此堂より山上まで六地蔵とて六体あり、其の一なり、西行上人像 堂内に安んず、坐像にして背後に包を負へり、長七寸許り、西行此地にすみしといふ。
西行の草鞋もかゝれ松の露 芭蕉
此村旅舎多し、玉屋与次兵衛といふ臥房繁昌す、苅萱道心の因縁ある家なりとぞ、是より河根《カネ》村まで一里、坂路嶮なり。物狂石、学文路村内左側に在り、石上に小堂を安んず、禿物狂といふ謡曲に出づ。
生地《オフチ》城址 学文路村大字清水の南なる畑山に在り。大日本史云「天授六年、高野政所(姓名欠)隅田某等、与山名氏清戦于紀伊敗走、氏清陥生地城」と此なるべし。
名所図会云、伊都郡の名家|生地《オフチ》(又恩地)の祖、坂上忌寸朝澄、承久年中采地を本国に受て相賀の荘を領し、城を禿《カムロ》村の東岡に築き畑《ハタ》山と名く、其孫を尹澄《コレズミ》と云ふ、北条氏未だ盛なりし頃郡司と称して威権を専らにす、楠正成朝臣妹を以て是に娶せ交を厚くす、其著姓なる事知る可し、尹澄即ち楠公の旗下に属し南朝に奉仕す、其比より姓を生地と改む、尹澄の子を安澄と云ふ、父に従ひて千剣破赤坂《チハヤアカサカ》等に屡戦功ありと雖も、南方微運にして正成正行の二将も打続きて討死せられしかば、安澄も時の至らざるを歎きて故郷に帰る、其孫を俊澄と云ふ、本国の守護畠山基国に属して義満将軍より旧領安堵の御教書を給はり、永享の初畑山の城を出塔《デタフ》に移す之を生地中興の祖とす。俊澄七代の孫を新右衛門吉澄と云ふ、天正二年畠山滅亡の後織田家に属し、慶長五年関原の役に討死すと云。
苅萱《カルカヤ》堂 学文路村の駅所に在り、殿堂備具す。此辺旅舎多し、又|禿物狂《カムロモノグルヒ》と題す謡曲の故跡とて路傍に石上小祠を置く所あり。清水より此まで一里、此より河根まで一里、坂路嶮なり。○苅萱の一話は世に鳴る事なれど、異説区々なり、法燈国師年譜及宝簡集にも載する所あり、苅萱道心といへるは、筑紫博多の守護職加藤兵衛尉繁昌の子なり、父繁昌石堂川の辺にて地蔵菩薩の宝珠の石を賜はりてより其妻懐妊し、生れし男子即左衛門尉繁氏と号す(幼名を石堂丸と名付て、苅萱の関におはしければ世人苅萱道心といふ)剃髪染衣の身となり等阿法師と名く、永万元年の春高野山に登りて隠家を営み居るに、妻千里の前繁氏の行へを尋ねて播磨国に来り、明石の大山《タイサン》寺にて出産ありし男子に、父の幼名を与へて石堂丸と名づけ、十四歳の時母諸共に父繁氏を尋ねて此里に来り、朝の露と消失られしを、石堂丸は母の墓所に供給し、仁安元年の秋法師に尋ね逢ひしが、法師は我父なりとはいはねども、出離の要を説て未来永劫の値遇を誓ひたまひ是こそ真実の孝心ならめと説示さるゝ理に伏し、即ち等阿法師の弟子となり信生法師と号す云々。
補【苅菅堂】同村に在り、堂宇備はれり、古画の塀風を蔵む、苅萱道心異伝あり、法燈円師年譜及宝簡集等にも見へたり、今世人のいふ所に従ひて別に論ぜず。
河根《カネ》 高野山の北谷にして、富貴村より西北流する丹生川の谷なり、之に千石《センゴク》橋を架す、高野詣の京口にあたるを以て大橋と称す、橋の辺即河根村なり。
称名院右府高野詣日記云、三月三日くだりつゝ見れば麓なるか禰川、昨日はわたりしにけふは橋打渡してきづきけり、水村山郭酒旗風の姿、杏艶桃嬌奪晩霞、所々のうららかさも心地よげなり、節句のさかづきよび出して各々祝ひけり。
補【河根村】此所谷間にて薬研の底の如し、旅舎多し、是より神谷まで一里。千石橋 河根河に架す、長さ十八間幅三間、欄干あり柱なし、寛永年中播州明石城主再造、此橋深山中にてはめづらしき橋なれば、土俗大橋或は一橋などいふ、又修理所なる故其の費をはかりて千石橋ともいふとぞ。
神谷《カミヤ》 河根村より登り一里を神谷辻と曰ふ、九度山村慈尊院より登る間道も此に至り京口(即不動坂口)に会ふ、此辻より更に登ること一里をば不動坂と曰ふ。
不動坂《フドウザカ》の上には不動堂あり、之を登るに坂路盤廻して行くもかへるが如し、且往古より斧斤林に入ることを許さざれば只古柏老杉のみ蔚々として錐を立つべき地なく、遠く之を望めば山の形象俗に所謂釈迦頭の如し、即山上の霊境なり。坂路なる花折《ハナヲリ》は女人堂より下に在り、参詣の諸客此所にて花を折て大師に捧るもあり、又「折りとれば手ぶさにけがるたちながら三世の仏に花たて奉る」と謡ひて過るもあり。女人堂は高野七口皆之あるも京口最大なり、詣山の女人を此に留めたる也。不動堂より金剛峰寺大塔は路十町に過ぎず、保延六年密厳院覚鑁上人(興教大師とおくり名す)弘法大師に擬して入定せんとす、大衆大師の徳を奪はんことを恐れ鑁師を襲ふ、鑁師馳せて此堂に入り全身変じて不動明王となる、大衆等権実弁じ難し、試に錐を膝上に揉む、鑁師の変身血出ずして却て御作の不動紅血迸り出づ、因て錐揉不動といふ、其後鑁師出奔して根来山に赴き弘布に従事せりとぞ。
補【神谷辻】茶店軒を双ぶ、入口に慈尊院辻、横尾道あり、客舎数戸あり、深谷に臨み石を築き木を架して家を造る。
補【不動坂】○名所図会 不動坂の谷川に架(ママ)す、是より山上までを不動坂といふ、七曲とて路盤廻して行。女人堂は諸国より参詣の女人投宿する所なり、七口各堂ありと雖も此堂最大なり。不動堂、大塔まで凡そ十町許、是より下る故不動口といふ。
九度山《クドヤマ》 高野山の北谷にして、学文路河根二村の西に並べる村なり、大字九度山慈尊院|古沢《フルサハ》等あり、其九度山慈尊院は紀之川の岸に近く丹生川を挟みて居る、古沢は慈尊院より大門口に至る渓澗にして長三里に渉る。○久度山善名称院は寛保元年大安上人真田氏の故宅を転じて精舎と為したる也、昌幸父子武勇の名誉世に馳するを以て往訪の客亦多しとぞ。
善名称院は九度山村にあり、土人伝云、真田安房守昌幸并に左衛門尉幸村閑居の地なり、慶長年中昌幸此地に死す、葬地今尚ほ堂前に※[人偏+厳]然として宝篋印塔を建たり、傍に幸村の石像あり、幸村討死の後に土人等寺となして善名称院と云ふとぞ、然れば今に真田屋敷の名を存す、土人又云、真田氏閑居の時|組紐《クミヒモ》を製りて販く、是今の真田紐の濫觴なりと。〔名所図会〕
補【九度山】○名所図会 高野山の大門口なり、慈尊院村 名倉村より当村迄川を隔て五丁、是より丁石道を登る。○慈尊院 慈尊院村にあり、万年山と号す、大師の母公将来三会の晩を期し、爰に※[人偏+厳]然として世に長く結縁利生したまふ故に、此寺を結縁寺とも云ふ、二重塔は拝堂の西にあり、本尊大日如来也。
慈尊院《ジソンヰン》 同名の大字に在り、今久度山村に属す。高野山の古の登山口に当り、金剛峰寺の政所を置ける地なり、故に下《ゲ》院の名あり。近世に及び此登山路を尋ぬる者少く、大抵学文絡の京口、又は麻生津の和歌山口より入る。
名所図会云、慈尊院は高野大師の母公の遺跡にて、三会の暁を期せんとて長く此に結縁せしめ給ふ、故に結縁寺とも云ふ、二重宝塔に本尊大日如来を安置せらる、此塔弘仁年中大師創造なり、後炎上して田所《タドコロ》某再建す、又天文の洪水に流亡し又再造せり、初め弘仁年中大師南山を開き此所を政所《マンドコロ》と名け、陪従の者に命じて一山の貢物雑事等出納の事を司らしめ給ふ、大師の世に山上山下堂塔住妨多かる中に下院《ゲヰン》と云ふは是なり。承和元年母公讃州より大師を慕ひて爰に来り暫く山棲の地とす、明年二月五日入寂し給ひしかば全身を廟窟に藏し奉り、夫より慈尊院を通称とす。
慈尊院宝塔の側に町率都婆あり、此より高野の山上《サンジヤウ》大門(即寺域を曰ふ)まで一百八十町、南に向ふて攀づ、坂路なれど甚険ならず、文永年間建立の標石毎一町に之あり町石《チヤウイシ》と呼ぶ、故に町石道の称あり、字矢立の地に麻生津《ヲフツ》口の山路と相会ひ、更に五十八町にして大門に達す。抑至尊の高野御幸は字多法皇(昌泰三年)白河法皇(寛治二年同五年大治二年以上三度)鳥羽法皇(天治元年大治二年長承元年以上三度)後宇多法皇(正和二年)後醍醐天皇(延元三年)光厳上皇(観応三年)等数度の前蹤ありて、皆慈尊院より登らせ、或は此より殊に下乗させ絵ひ、町毎に御持念ありて、玉歩を進めさせけるもありとぞ。
正和二年法皇高野山に御幸侍りし時、世々の跡に越えて山のほど御輿にも召されざりしかば、思ひつゞけ侍りける、
高野山みゆきの跡はおほけれどまことの道は今ぞ見えける、〔続千載集〕 僧正道順
町率都婆は文永二年覚教阿闍梨の石もて改造せる者にて、施主の名を刻し、中には尊貴の方々まで彫附奉り今に遺存する者尚多し。
大門《ダイモン》は即金剛峰寺の惣門にて西向す、故に西口とも云ふ、側に女人《ニヨニン》堂あり、此女人禁制の事は古来の山法なれど近年廃す。○沙石集云、一条院の御時にや、時の摂政御堂関白道長の御女二歳にならせ給ひけるが、后にも立らんと思食してかしづき給ひける程に、少し悩みて俄に息絶給ひぬ、余りに悲しく思ひ給ひけるまゝに、いかにして助けんと思ひめぐらし給ふに、高野の大御室こそ頼もしくおはすれとて、錦の袋に姫君を入れて我御頸にかけて高野山へ馳せ登りて事の子細を申し入れ給ひければ、幼くはおはせども女人なれば惣門の内へは入れたまふまじとて、五古《ゴコ》ばかりを以て門の外に加持し給ひければ、蘇生して遂に后に立たせ給ひけり、上東門院の女院是れなりとなん。
補【町卒都婆】〇二重塔の南路傍にあり、是より高野山壇上迄百八十町なり、帝王当所の下乗の檄より主の御輿を下りさせ給ひ、町毎に懇ろに御持念拝礼あり村玉歩を進めさせ給へりとぞ。○町卒都婆は文永二年覚敦(左学)阿閣梨、石を以て改造す、施主は後嵯峨天皇を始め奉り列国の貴賤皆其姓名を※[金+雋]付て、山麓慈尊院より高野山壇上まで百八十丁の間之を建つ。
高野山《カウヤサン・タカノヤマ》 伊都郡の南偏に蟠踞する山嶺にして、横亘数里。其山上を今|高野《タカノ》村と曰ふ、稍平夷にして金剛峰寺の寺域なり、弘仁七年僧空海(即弘法大師)上表して此四面高嶺平原幽地の所に相し以て禅院を立て、遂に四方七里を結界し高野の山中と為す、後沿革して今に至り、真言宗の霊場たり。○大八洲遊記云、高野老檜満山、森欝殆不見※[日+(山/義)]影、登尽得平地、所謂金剛峰寺、寺域六十七万五千坪、周回十三里、真為海内巨刹、寺院諸房凡七百余、市廛開舗、百貨湊集、別為一天地。
高野は初め天野祝が祭れる丹生神の領知にして高野社ありしを、空海之に就き聞きて修禅場と為せる也。姓氏録に「和泉国神別、高野、大名草命之後也」と載す、名草は紀伊の地名なれば此なる氏人にや。神社考云、紀州丹生明神者、弘仁七年空海師、求勝地、上高野、巌巒※[山+酋]※[山+卒]、林木榛蕪、不知所之、時婦人出来、曰妾者山神也、夙負殺罪苦、処幽陰、思帰真乗、未逢其人、今師到此、妾之幸也、此山方数百里、願施師懺罪、乃導海至山下平坦所、曰是福地也、営構於此、初海入唐帰朝、泛舶之日、手執三鈷杵、祈願曰、密教入日域、渡此杵先占霊区、便擲之、今其杵懸松在此、於是知神女之言不虚、便奏建金剛峰寺、神女者母生明神也」と、而て性霊集に載する弘仁七年上表には
抄門空海言、山高則雲雨潤物、水積則魚龍産化、是故耆闍峻嶺、能仁之迹不休、孤岸奇峰、観世之蹤相続、尋其所由、地勢自爾、又有台嶺五寺、禅客比肩、天山一院、定侶連袂、是則国之宝民之梁也、伏惟、我朝歴代皇帝、留心仏法、金刹銀台櫛比朝野、談義龍象毎寺成林、法之興隆於是足矣、但恨高山深嶺、乏四禅客、幽薮窮巌、希入定賓、実是禅教未伝、住処不相応之所致也、而今准禅経説、深山平地、尤宜修禅、空海少年日、好渉覧山水、自吉野南行一日、更向西去両日程、有平原幽地、名曰高野、計当紀伊国伊都郡南、四面高嶺、人蹤絶蹟、今思上奉為国家、下為諸修行者、芟夷荒藪、聊建立修禅一院、経中有誡、山河地水、悉是国王之有也、若比丘受用他不許物、即犯盗罪者、加之、法之興廃、悉繋天心、若大若小、不敢自由、望請蒙賜披空地、早遂小願云々。史徴墨宝考証云、高野山はもと社地なる事は丹生大明神告門に「品田天皇、依奉給神界、東至丹生川、西至星川並神勾、南至阿諦河南横峰、北至吉野川」と見え空海自筆の遺告に「皇命給家地、以万許町、南限南海、北限日本河、東限大日本国、西限応神山谷也」(日本河は和州吉野川にて、大日本は即大和を云ふと知るべし)と録せり、弘仁七年の上表に無主の空地かの如く見ゆるも、真に非ず。○按に大師遺告の「南限南海」と云は山南の空山を熊野捕まで占断したる心にや、不審とす、応神山谷とは天野の星山星川にや、又大師誥記には「弘仁七年、嵯峨帝賜官符曰、空地一処、在伊都以南深山中、曰高野、四至四方高山、東限丹生川上峰、南限当川南長峰、西限応神山、北限紀伊川南峰」と曰ひ最明白也、其東限は即管川藤代峰のことなるべし。三代実録、貞観十八年、金剛峰寺水陸田三十八町、在紀伊国伊都那賀名草牟婁四郡、勅免其祖、永為寺田。延喜式、金剛峰寺料、五千六百十六束、同寺燈分并仏聖料二千八百束、修功徳料米十斛、油一斛、以紀伊国正税弁備、国司検校、運送寺家など見ゆるは王朝の事なり、其後荘園の寄進の事多し今一々に備録する能はず、天正年中織田氏の兵を被り一山危殆なりしが、木食応其の周旋により免るゝ所あり、豊臣氏より吉野川以南の山野田宅二万一千石高を検録附与せられ、明治維新に至り寺禄の改正に会ひ、又時勢の変に随ひ近年頗衰色ありとぞ。高野山修して野山《ヤサン》とも云ふ。
名所図会云、此高野山と云ふは、高山の頂上に平原曠野あるを以てなる可し、其創開の時に当りて、二神の出現双犬の前導し、飛鈷の松梢に掛り、宝剣の地上に跳れる抔、皆大師行徳の至る処、凡俗の得て思議すべきものにあらず、其後世々の法皇聖帝以下運歩の労を厭ひ給はず登嶺有し事載て記籍に顕然たり、今山上に在処の坊舎総じて一千許にして結構奇麗言語の及ぶ処にあらず、(坊舎屋上悉く檜皮を以て葺けり、古は瓦にても葺きしにや、頓阿法師登山のときの歌に「瓦には松さへおひて古寺の苔のむしろも法ぞしくらむ」とあり)真雅僧正当山図記に、径途廻々として※[足+齊]る事三十里、山岳畳々として屏する事千万郷、周匝せる連峰は法身の花台を表し、正平なる幽原化仏の浄土に類す、悪獣毒虫も斯に趣けば曾て害心なし、煩悩即菩提の理観つ可し、深谷高峰も之を経れば亦嶮難なし、生死即寂静の道察す可し、纔に影を指者は往因を悦ぶ可く、黙して止むる者は前業を恨む可し云々。○金剛峰寺々城を山上《サンジヤウ》と曰ふ、壇場西に在り、奥院東に在り、支院諸房数百宇之を纔り各渓澗に区処し、某谷と呼ぶ。山上は東西五十町南北二十町、低窪あり無塵池と称し、水流れて西北に下り不動谷川と為り丹生川に落合ふ、故に山上の大勢稍凹地をなして峰巒之を囲む、八葉《ハチエフ》峰の名あり。登路は数条あれど大門口(西口又矢立口)を正路とし、慈尊院若くは麻生津に通ず、不動坂口は副路にして学文路に通ず、其余南は大滝相浦等有田川の源より登る者なり、東口は十津川郷より来る、俗に七口と云ふも時宜により一定せず。〇八葉峰に内外の別あり、大塔の四隅に繞り望まるゝを内八葉と曰ふ壇場奥院の四外を囲むを外八葉《ソトハチエフ》とは名づけぬ。姑射山、摩尼山、楊柳山、転軸山、小塔峰、金剛峰、山王峰、遍照峰、(以上内八乗)虎峰、剣峰、小塔峰、神応峰、山王峰、今来《イマキノ》峰、遍照峰、業峰《ワザガミネ》(以上外八葉)性霊集高野結界啓白文に曰く「沙門遍照金剛敬白、十方諸仏云々、所有東西南北羅上下七里之中、一切悪神等皆出去我結界、所有一切善鬼神等、有利益者、随意而住」と、この七里結界は高野山四至の大略を云ふならん。○名所図会云、高野山大塔の四方四隅に遶れる峰を内の八葉といひ、壇場奥院の外に聳ゆるを外の八葉といふ、凡山上稍凹やかにして彼八葉の峰四方に周り、木立いと暗く生ひしげり、うき霧濛朧として満渡りて晴れみ曇りみ四のとき定まれる事なし、されば正月二月も冬にかはらず冴えわたり、やう/\三月の未四月のはじめに桜は吉野初瀬の色におくれず、極楽浄土の七重の玉樹眼のあたりなり、郭公はおのが五月の時を違へずしばしば声ふり出で、五月雨暗き槙の雫にきほひつゝ、黄泉路よりの言伝を談るに似たり、さればにや其鳥の落し文といふ諺もあり、古歌に
ほとゝぎす初声よりも待るなり高野の山の暁の空、
土さくる六月七月も暑いと薄く麻衣を着る事なく、老僧などは綿入の衣を重ねて着るもあり、夕づけても蚊の名のり絶えて聞えず、宵ながら明行く月影もそぞろに身にしむ心地して、起ふし甚安ければ暑を避くる為に来り遊ぶ風流男も多かり、八月ばかりよりは霜うちさやぎて谷々の鹿の声いと悲しく、一夜宿かる旅人もうき世の夢を覚して暁の袖を絞るめり、紅葉いととくそめわたして墨染の袖にみだれ、雪は秋の末より降そめて十月の頃にも動もすれば道を埋み、十一月より後は常に三尺許の深にて、高き履子を著き雪浴衣といふものうち着て法師たちの行かふさまあやしむべし、鉄塔彫楼などは一遍の白玉界といふべく「降る雪のつもればいとゞ高野山うき世の道やへだてはつらむ」とよまれたるも実に左こそと思はるゝ也。此山に雑事登りと云ふことあり、早蕨の春より茸狩の秋かけて四季をり/\の供物は山童の来りひさぐを待とりて是を買ふと雖、山上には一区の畝田もあらざれば、一ひらの青物も自由ならず、されば四方の麓の村々より四時の野菜なにくれとなくとり集めて、おのがさま/”\苞にひきゆひ小附の花の色香さへわれ劣らじと暑寒をいとはず、かの嶮峻山路を攀て大師の廟前にさゝげ、帰依の寺院に贈るを雑事登といふ、此事怠る年は其家必らず凶事ありといひ習せり、又口々の村々に雑事懸《ザフジカケ》といふものを造りて、春の若菜より始めて種々の花などもそれに懸てのきに釣り垣にくゝり置けば、供米を運ぶ馬男《マゴ》薪を負へる山賤など、早く見つけて重荷にそへつゝ上ること一日も絶ゆることなし、すべて何にまれ一苞を荷に添へざれば道の間にて禍を受ることありとぞ、是れ全く大師千載の威霊によれり、里人法徳に懐くこと此の如くなれば、寺々の庫裏には常に青物の山をなして専ら賓客を饗すになん。
おとなしきしぐれをきくや高野山、鬼貫
雲のみね欝々としてたにの坊、 淡々
ほろ/\となく山鳥やきりの玉 蕪村
稲妻や座禅のこゝろひきて見る、 也有
枕草紙云、てらはたかの、こうほふ大師の御すみかなるがあはれなるなり、
晩秋高野山言志 藤原敦光
雲崛容身宿善催、此時投歩払塵埃、群生世父多慈愛、五代国師富弁才、後素写顔今駐像、真丹求法昔浮杯、九流智水尋源決、三密教門占処開、鳳藻遺文垂露妙、龍華嘉会幾霜廻、幽林路窄攀紅葉、絶澗梯危踏翠苔、妖艶妹山繊黛遠、老衰祖木厚皮摧、(此山之傍有一山、号妹山、又山中有一樹、枝条摧折、其大十囲、相伝曰此樹者大師所息、後人無剪、)千峰月色秋看雪、百谷泉声夜聴雷、俗骨縦無交紫府、仏恩必有導蓮台、非栄非寵非名利、偏為当生得道来、〔日本詩選〕
登高野山 落合及石
不待飄揺挟羽仙、寒(下足)裳直入大羅天、老林盤地蔵千刹、峻岳摩空拆八蓮、拝仏入躋何鑁界、焚香僧誦貝多篇、疑看放手金剛閃、爛々松梢白日懸、
高野山夜起 広瀬梅※[土+敦]
無風杉櫓忽成声、知是空中天狗行、一万僧徒斉入定、峰雲澗月夜三更、
高野にまうで侍ける時、山路にてよみ侍ける、
跡たえて世をのがるべき道なれや岩さへ苔のころもきにけり、〔千載集〕 仁和寺法親王守覚
高野山あかつき遠くまつの戸にひかりをのこす法のともし火、〔新葉集〕 法親王深勝
実隆高野詣日記云、高野山十八町の坂は、一里の遠き所どもありて、俗に結解なしとかや云ふとて、戯に
雨げとは見つつも出でて濡れにけりけつげなしなる今日の道かな、
かくて山中に至りて、雨風はなはだし、からうじて御山にのぼりつきて、人々休みぬる程に、郭公の頻に聞えしかば、
高野山仏法僧の声をこそ待つべき空に鳴杜鵑、
翌日草鞋をつけて諸堂順礼、大塔は造作あらましなり、金堂は形の如く取建てたる様なるが、三鈷の松も昔のは焼けて、其種生とていがきめぐらしたるを見て、
今は其まつ暁や近からむ千年ふる木も生かはりけり、
補【高野山】○名所図会 高野山金剛峰寺又南山と云ふ、伊都郡の東南に峠ち、※[草冠/弗]欝として杉槙八面を囲み、半天別に一界をなし、天下無双の名区にして、往昔開祖大師霊境を※[爪/見]め周ねく天下を廻り給ひ、此地に知る所なしとて入唐帰朝の後(御年四十三歳)帝許を蒙り、修禅入定の地となし給へる霊場也〔性霊集、略〕
贈南山智上人一首 淡 三 船
(葛野王孫、官刑部卿、三船延暦年中奉勅検定歴朝聖主謚号、又撰懐風藻)
独居窺巷側 知己在幽山 得意千年桂 同香四海蘭 野人披※[草冠+辟]衲 朝隠忘衣冠 副思何処所 遠在白雲端
高野にまゐりてよみ侍りける
あかつきを高野の山にまつほどやこけの下にも有明の月(千載集) 寂蓮法師
領地 其広狭屡々沿革ありと雖も、今領する処紀川の南二万千石余と云ふ、大師誥記云、弘仁七年嵯峨帝賜官符曰〔略〕三代実録云、清和天皇貞観十八年秋七月廿二日丁酉〔略〕延喜式主税式云〔略〕山上十楽(明恵上人伝略記所載)聞法結縁如意楽、道路清浄広大楽、沐浴身体随意楽、上水下水自在楽、焼大不断常住楽、遠離俗家不知楽、官家不雑無畏楽、香華不退供養楽、出家所住無上楽、
登山《トウザン》七路〔大門口、不動坂口、大滝口、龍神口、大峰口 黒河口、相浦口〕名所図会云、七口共に女人堂あり、堂より上には女人入る事を禁ず。○大門口 又西口と云ひ、失立口・麻生津《ヲフヅ》・若山口とも云ふ、矢立より大門まで五十八町、此道当山西方の入口なり、慈尊院の廟を拝し坤に向ひて攀登る、これ忝くも帝王の臨幸し給へる道にして、山路迂回なれども嶮ならず、文永年間の町石今猶依然として町毎に存す、故に町石道と云ふ、府下より登るものは麻生津峠より志賀の郷を経て矢立にて此道と会し大門に入る、故に若山口の名もあり。○不動坂口 又京口とも云ふ、一心院谷にあり、小田原谷にて大門口より入るものとあり、神谷辻迄五十町、此道当山正北の入口にして、京大坂より紀伊見峠を越えて来るものと、大和路より待乳峠を越えて来るものと清水《シミヅ》村二軒茶屋にて合ひ、学文路を経てこの道より登詣するもの十に八九なり。○大滝口 又熊野口と云ふ、小田原谷に通ず、此道当山東南の入口なり、熊野の本宮に詣し、夫より絶嶮の深山幽谷を経て凡そ十五里にして高野に至る。○龍神口 又湯川口と云ふ、保《ヤス》田口或は簗瀬《ヤナセ》口とも云ふ、大門の左に通ず、龍神より十三里余、此道当山坤方の入口にして、日高郡龍神より来ると、有田郡山保田より来ると新村にて合して大門に入る。○大峰口 又東口と云ひ野川口とも云ふ、蓮花谷に通ず、大峰より凡そ十五里、此道当山東方の入口にして、大峰山上より泥《トロ》川に下り天の川を経て天狗木より入る、俗此道筋を七度半道と云ふ、一度此通より登詣すれば其功徳七度半にあたるとぞ。○黒河口 或は大和口とも云ふ、千手院谷にあり、女人堂より黒河村迄五十余町、野平《ノタヒラ》村まで百二十余町、橋本辺よりの近道なり、此道当山艮方の入口にして、黒河村より来ると野平村より来ると粉撞《コツキ》峠にて二路合して千手院谷に入る。○相浦口 南谷にあり、相浦まで四十余町、此道当山南北の入口にして、相浦郷より登詣す。
金剛峰寺《コンガウブジ》 高野山の山上に在り、真言宗古義派大本山なり、支院末寺の山谷間に在る者数十、之を総摂して金剛峰寺と曰ふ。区分して壇場《ダンジヤウ》(即大塔)奥院《オクノヰン》(即大師廟)の二と為し、諸山谷を之に附属せしむ、惣て某谷の称あり。谷とはいへども平地にて渓間にはあらず、その谷々の内に子称あり、西院谷《サイヰンダニ》
(祓川《ハラヒガハ》、湯屋谷《ユヤノタニ》)南《ミナミ》谷(照岡《セウノヲカ》)谷上《タニカミ》、本中院《ホンチユウヰン》谷、小田原房《ヲダハラバウ》谷(西光院《サイクワウヰン》谷、上壇《ウヘダン》、実相院《ジツサウヰン》谷、浄土院《ジヤウドヰン》谷、湯屋《ユヤノ》谷、向壇《ムカヒダン》)往生院《ワウジヤウヰン》谷(往生峰《ワウジヤウガミネ》、西《ニシ》谷、北《キタ》谷)蓮華《レンゲ》谷(宝幢院《ハウトウヰン》谷、花折《ハナヲリ》谷、清浄心院《シヤウ/”\シンヰン》谷)一心院《イツシンヰン》谷、五之室《ゴノムロ》谷(光台院《クワウダイヰン》谷、千手《シンジユ》院谷(六坊小路)等の十谷を以て其大綱とす。大門《ダイモン》は山上の西口に当る、(建坪百二十坪)安置の金剛力士仏師康意の作、宝永二年供養す、当山の惣門にして銅甍高き事十丈余、雲外の岫に湧出して先法界の荘厳を視す。往昔大師花表を建て西方の門となしたまへるを、寛喜二年改めて楼門とす、元禄元年にいたり祝融氏の災ありて悉焦土せるを以て、十三年より経始して宝永二年に落慶す、今存する所これなり。是より内を山上《サンジヤウ》といふ、伽藍坊舎透間もなく立双ぶ、大門より大塔まで凡十五町。大塔《ダイタフ》は即高野山の中央にして、弘法大師ここに宝塔を建て、真然之を継ぎ規模を成したる所也、元亨釈書曰、真然弘法甥也、法臨入定、語然曰、我以此山付汝、々其励志営構、為鎮護之霊区、真言之教場、汝其※[日/助]乎、蓋金剛峰寺此時未成、故有此遺訓、然尽心於営造、以故高野之峰、為然之門流。 ○高野の堂塔は旧構廃頽、近世寛永元文の比逐年に重修する所ありしが、天保十四年失火大塔以下東塔金堂影堂等山切焚滅し、宝庫は独災を免れたり、爾後修造の功今に至るも完きを得ず、其多宝塔は方十六間高十六丈、再建の構営未だ終らず。此塔婆は弘仁十年大師の始めて置ける者、其十六丈は蓋南天の鉄塔に擬す、二層の画甍は霞の際に挿み、九輪の金塔は雲の表に聳えたり。太平記光厳院法皇高野御登臨の条に云、
正平七年の頃窃に詣で給ひけるが、山また山、水また水、登臨いづれの日か尽さむと、身力つかれておぼしめさるゝにも、先年大覚寺法皇のこの山に御幸なりしに、奉供の卿相雲客諸共に一歩に三度の礼拝をして頭を地につけまことをいたされけるもありがたかりける御願かな、我在位の代静なりせばなどか其芳躅をふまざらんとおぼし召准へらる、さて御山にも御着ありしかば、大塔の扉開せて両界の蔓陀羅を御拝見あれば、胎蔵界七百余尊金剛五百余尊をば入道太政大臣清盛公手づから書きたる尊容なり、さしも積悪の浄海いかなる宿善に催されかゝる善根をなしけむ、六大無※[石+疑]の月はるゝ時ありて、四曼相即花さくべき春をまちけり、さてはこれもひたすらなる悪にてはなかりけるよと、今爰に思召しゝらせたまふ。
清盛建立の事は平家物語に云「清盛公未だ安芸守たりし時、安芸国を以て高野の大塔修理せられけるに、渡辺の遠藤六郎頼方を雑掌に附られて、六年に修理畢りぬ」と又東鑑文治二年の条に「仙洞御願、為被宥平家怨霊、於高野山、被建立大塔」と見ゆるは何の塔婆に当るにや。○金堂は一名御願堂と云ふ、本尊薬師如来丈六の坐像なり、(高野開闢の地鎮の本尊仏といふ)不動明王降三世明王(長各七尺二寸)金剛薩※[土+垂]金剛王普賢延命虚空蔵(長各八尺五寸)弘仁十年嵯峨天皇の御願によりて創する処の二重の高閣にして、都卒内院の四十九重の摩尼殿を現し、鎮守明神の託宣に、都卒の浄土に往生する者の集会所なりと示し給へりとか。(万延元年に重修する所也、二層の高閣、方十三間高二十五間にて大塔と相并ぶ)
仏生日上高野金堂 川合衡
十里清風鈴鐸流、登臨巨刹俯神丘、半地縁畳蟠龍窟、五色雲囲孔雀楼、霊鳥呼名来樹上、宝花供仏発渓頭、小僧結文頭如雪、閑転法輪白日悠、
仁和法親王将登高野山、途経浪華以奉呈、
篠崎小竹
大師伝旧跡、法駕入名山、風景秋冬際、津梁畿甸間、霊場紅樹媚、仙梵白雲閑、載筆群臣在、応題叡製還、
濯頂堂准※[月+※[氏/一]]堂三味堂孔雀堂等は天保の災後重修に就く、其他著名なる塔堂を挙ぐれば、○御影堂は海大師在世の時実恵大徳建立し大師持念したまへる所の道場なり、故に念誦堂といふ、其画影は真如親王の御筆にして、即大師自眼睛を点じたまふ所なり。堂前に三鈷松あり、大師入唐の時、かの唐土明州の津にて密教相応の地に留るべしと誓ひて投げたまへる三鈷、碧落に冲り万里の滄波を飛こえて終にこの松柏に留まれりとぞ。○鐘楼は世俗高野四郎といふ、此鐘重さ九千九百八十一斤廿一両一分白錫一千九百六十一両二分を以て鋳る処なり、性霊集によるに原は大師の鋳造し給ふ所なりしが、大永元年の火に焼亡し、今懸る者天文十六年に鋳造す。○西塔は高九丈、光孝天皇の勅により大師の素願を継ぎ真然僧正の創むる所なり、数百年を数て破壊に及びけるとき、鳥羽院御幸ありて大治二年落慶供養、今に現存す。〇六角堂は本尊釈迦如来四天王深沙大将執金剛神ともに安阿弥の作なり、平治年中鳥羽上皇の御為に美福門院の建たまふ所にて、紺紙金泥の一切経を納め奉る、表題は尽く女院の御親筆なり、且本州荒川の庄を寄附して燈料となし給ふ故に荒川経蔵ともいふ。○大会堂《タイヱダウ》は一に蓮華乗院といふ、又略して会堂といふ、鳥羽院の御為に安元元年五辻斎院内親王東別所に建立したまふを、治承元年爰に移し、佐藤兵衛尉憲清(西行)是を奉行す、且この堂長日御談義料として処々の庄園を寄られ、其綸旨教書等数通納めて宝庫にありとぞ。○東塔は本尊尊勝仏頂不動降三世、白河院の御願にして等身の尊勝仏頂を安置すといふ。○勧学院は壇場蓮池の側にあり、此院に於て毎年八月廿一日より十日の間学業を試む、文禄年中徳川家康登山のとき此会の事を具に聞召して、往昔天平延暦の頃勅有て定められし度科及第の旧風唯この山に残れる者か、尤も殊勝の事なりとのたまひけるとぞ。
天野宮丹生《アマノノミヤニフ》大明神は大塔の西|御社山《オヤシロヤマ》に在り、即高野山の鎮守地主社にて、二殿相並ぶ北は丹生津姫南は高野大神にて天野村丹生都神社の別宮也、一名|狩場《カリバ》明神と申す、或は云ふ興然伝に天野一宮|丹生《タンジヤウ》女形本地は大日、二宮高野男形薬師、丹生氏覚日房伝に一宮本地胎蔵大日女体なり、二宮本地金界大日俗体なりと。〔史徴墨宝考証〕○祈親上人当山の荒廃を歎きて、天野宮に祈念し夢告を受けたる歌一首風雅集に収めたり、祈親は元亨釈書云、「高野山、大師定後八十余年、廃毀尤甚、親見之、委身修営、不幾榛棘復輪奐、金剛峰之再興者、実親之力也」と。又当山古文書云
金剛峰寺鎮守天野宮八講理趣三昧並神事等用途米事合拾参斛者以備後国大日御庄所令御寄進也
和勝元年六月廿五日 僧鑁阿
按ずるに鑁阿は法花坊と号す足利義兼朝臣の法名なりとも云ふ、異年号尤も多しといへども和勝の文字他に見らるゝものなし、建久五年七月の文書に天野八講理趣三昧配当と記す、是に因るに文治の末か若は建久のはじめ頃ならんといへり、今按ずるに建久改元の比和勝と改むべき流言などありしを誠とこゝろえてかゝれたるならん、但建久は四月の改元なるに六月とあるはいまだ誠の改元をしらざりし間の事なるべし、百練抄に「承安二年壬辰十二月近日諸国称有改元之由、被誡仰、其号泰平元年云々」とあるをも思ひ合すべし。〔名所図会〕
金剛峰寺宝庫は御影堂の後に在り、大師飛行三鈷杵并に螺細蒔絵小櫃は今国宝に列せらる、其他大師入唐請来の道具、真蹟手印の縁起、綸旨院宣御教書大臣以下諸名家高僧の墨跡にいたるまで蔵せざるはなし、中にも
新院欲有人御堂山之処衆徒依支申無其儀之由注進之条殊以神妙向後於御方致忠節有祈祷之精誠者殊可令興隆当山状如件
建武四年正月四日 尊氏判
高野山衆徒中
是れ武家の教書なり、同時に
敬白 立願事
一天野社就垂迹本地可奉甚深法楽事
一行幸高野山可興密宗事
一為当山仏法紹隆与寺領可寄田地事
右条々天下静謐之時可早遂之状如件
延元元年十二月廿九日 天子尊治敬白
此宸簡小き紙に書させ給へり、包紙に吉野御牢居より御願文とあり、天子の二字宸簡にその例あるを聞かず、此年尊氏光明帝を立て後醍醐天皇を私に廃帝と称す、此時にあたりて世人或は此帝の天皇なることをしらざるものあり、故に此二字を書させ給へるなるべし、其御世のあぢきなさを察すべし。〔名所図会〕 ○金剛峰寺の法宝五大明王画像は高祖大師の監造にして真言教の本宗なり。真済上人筆大師影像勒操影像、又鳥羽僧正筆大威徳明王像并に著名の作なり、近年国宝に登録せるは不動明王木像(智証大師作立像親王院)地蔵菩薩木像(成蓮院)八大童子一躯(木造立像不動院)運慶作弥陀一躯(木造立像清浄心院)狩場明神像一軸(絹本着色弘法筆龍光院)薬師十二神将一幅(絹本着色恵心筆桜池院)文殊一幅珍海筆(無量寿院)不動明王一幅(智証大師筆絹本明王院)等なり。
補【金剛峰寺】○紀伊名所図会 大門西に向ひて建つ、大塔まで十五町。東塔より西塔に至る二町の間総て壇場といふ、山上山下第一の大伽藍なり、山上桜多しといへども此場の春色を魁とす、故に古人の風詠も多し。金堂 右は御願堂といふ、本尊薬師如来、丈六坐像、当山開闢のとき地鎮の本尊なり。
青巌寺《セイガンジ》 即金剛峰寺貰主の住所なり、小田原谷に在り。旧真然上人の廟所なりしを文禄二年豊臣太閤木食興山上人応其に謀り更に営造を為し、太閤母公青山巌尼の菩提所に充つ。応其は非凡の器にして太閤の鑑識に因り一山の中興を任せられ、文禄慶長の間道俗の事に尽力し世に畏敬せらる。寛永五年寺背に東照宮を建て経蔵を起し、奥州平泉の鎮守将軍藤原秀衡が寄附せる経巻を収めたり。青巌寺に豊太閤登山の殿舎あり、勅使門を備へ広麗を極めたりと云も大保十四年の火に蕩燼し、元治元年再修して寺主の坊と為す。豊臣秀次は文禄二年応其を頼み此寺に入り、肋命の周旋未だ果さざるに自刃す、其室を柳之間と呼び今に遺存すと云。○史学会雑誌云、木食応其は一個の武人にて始め越智阿波守に仕て屡勇名を顕はせしが、主家滅するに及び弓を折り髪を薙ぎて高野山に入り錬行すること十三年に及べり、是則木食の名ある所以なり。秀吉の高野山を伐んとするや山僧計の出る所を知らず、応其出でて請ふ所あり高野山兵禍を免る、是より終に秀吉公の寵用を得たり。常に興隆を以て我任となし、文禄慶長の間堂塔の荒廃を再興すること八十余宇大仏殿を初とし東寺の金堂五重塔、醍醐の金堂、嵯峨の釈迦堂等の如きは其大なるものなり。関原役後高野を去り江州飯道寺に住す、死したる年月闕けて伝はらざれど蓋し慶長六七年のころなるべし。○江戸幕府の時野山を三方に分ち、学侶方百八十三院、青巌寺法務たり知行一千石、行人方二百八十坊、興山寺法務たり、知行千七百石、聖方三十六坊、大徳院検校たり。
名所図会云、東別所(小田原谷)と云は壇上の東二丁許に当れり、城州小田原教快上人の住せし地なるを以て号くと云ふ、発心集に見ゆ。文禄雑記云、豊太閤文禄三年三月五日登山せられ新作十番の内高野参詣の謡一軸に金印を押して賜はり、青巌寺に於て御能ありしと。金剛三昧院に尊氏将軍南無釈迦仏全身舎利の霊夢を感ぜられしによりて、彼字を仮名に分ちて題とし公家武家の内にて歌に名を得たる人々并和歌四天王と聞ゆる四人に命じて、短冊百二十枚詠ぜしめ給ひ、題辞は光明院の勅筆を染給へるを当院に蔵す。
中院《チユウヰン》○壇場の艮を本中院谷と曰ふ、祖師最初の修禅中院あるを以て本中院谷といふと。瑜祇塔は龍光院境内にあり、金剛峰宝楼閣瑜祇塔と称す、又大塔に対して小塔と云、貞観年中創する所にして五峰八柱の構四九三十六の数、妙巧精絶殆鬼工のごとし、金剛峰寺称号の権輿、深秘大塔并に此塔にあり、四柱に九尊づつ八柱に八大菩薩及び八祖等並に会理僧都の画く所なり。爾後数度の興廃あり寛永三年直江山城守の後室これを再興せるも、文化六年の火に災せられしを近時又造営す。○本中院谷の路側に福島氏寄進の鐘楼あり、洪鐘の銘文は仮字交にて「南山高野金剛峰寺は大師草創より此方密教さかりにして」云々元和四年又「福島宰相日翁正印大居士在世の時洪鐘を鋳て万世に残す寛永七年災にかゝる孝子福市丞正利こゝろざしをつぐ寛永十二年」云々の款識あり。
頓阿法師高野日記に云ふ、
大師この山の図をかゝせ給ひて法性院の坊にあり、大師この山をきり開かせ給ひて堂たてさせ給ふに、此道のたくみ文字の事をしらねば印合す可きことわりもなしとて、以呂波の四十八字を教させ給ひしより、末の世の人のたすけにもなりぬと聞え侍りしかば、さらばとおもひていろはを冠に置て四十八首を綴りて影前に供ふ。
按ずるに空海のいろはを製せし事、内膳正伸雄が詩に「字母弘三乗真言演四句」と見えたるよりはじめて其証古書に多し。
謁海上人 内膳正仲雄
道者良雖衆、勝会不易遇、寝興思馬鳴、俯仰謁龍樹、一得遭吾師、帰貪□寓住、飛龍馴道服、動植潤慈※[さんずい+豆+寸]、字母弘三乗、真言演四句、石泉洗鉢童、鑪炭煎茶孺、眺矚存閑静、栖遅忌劇務、宝※[巾+童]払雲日、香刺干烟霧、瓶口挿時花、瓷心盛野芋、磬嶋員梵徹、鐘響老僧聚、流覧竺乾経、観釈子流賦、受持濯頂法、頓人一如趣、
一心院谷に不動明王堂あり、建久九年八条女院御願、行勝上人開基の一宇なり、梁間六間桁行五間半の構造にして、当時の遺作※[人偏+厳]然、山内第一の古建築とぞ。
菩提心院陵は鳥羽皇后美福門院藤原得子の納骨塔なり。往生院谷菩提心院の東北一町に在り、皇后の弟備後守時通遺旨により御骨を首にかけて高野に登ること世継物語に詳なり、今兆域三百八十歩。
美福門院かくれたまひてのち、高野のみやまに納め奉りけるよし消息して侍りけるによめる、
おくれ居て思ひやるこそ悲しけれ高野の山のけふの御幸は、〔続古今集〕 俊 成
弁天岳は谷上《タニカミ》谷に在り、登ること八町にして絶頂に至る、蓋高野の第一峰にして抜海三千尺に及ぶ可しと云ふ。西望すれば阿波の海山を見る、山渓の水は南に流れ奥院の玉川を容れ屈曲して西流す花園村に至り大滝と為る、即|阿諦川《アテガハ》(有田川)の源と知るべし。
補【青巌寺】○紀伊名所図会 小田原谷、○東照宮、奥山寺後の山上にあり、一切経蔵、奥州秀衡旧当山に寄附せし紺紙金泥の一切経今爰に納むと云ふ、寛永五年造立、其地は奥山寺背に峙ち眺望のおよぶ所、万樹翠を凝らして南峰を繞り、両壇甍を並らべて西空に聳ゆ、春花秋月時として佳ならざるはなし、実に南山の勝地なり。
補【菩提心院】○紀伊名所図会 往生院谷にあり。○美福門院御墓 菩提心院の東北一町ばかりにあり〔続古今集、略〕備後守時通、美福門院の御遺骨を首にかけて高野山に登ること、くはしく世継物語に見えたり。
奥院《オクノヰン》 蓮花谷の東を奥院谷とす。千載の老杉百丈の古檜欝蒼として蔭を結び纔に日影を窺ふ、只清泉瀝々天風※[風+叟]々として幽邃寂莫塵寰を隔つること弥達し。其入口なる渓梁をば一之橋又は大橋といふ、師廟まで十八丁、道の左右に公家武家をはじめて浮屠氏は更なり海内の諸名家農商の男女俳伶の類まで其碑碣累々として幾千万と云ふ数を知らず、各院之を守護して香華を捧げ菩提を弔ふ事怠なし、就中一番石塔の如き高大眼を驚かすあり、朝鮮役士の碑の如き武夫を慷慨せしむるあり、本阿弥の六石塔、親鸞上人の碑の如き、制作の甚奇なるあり、其趣種々なりといへども皆高祖大師と共に三会の暁を期すといひ、深き因縁ある事ならん。性霊集高野結界の文云、
沙門遍照金剛敬白、此道場者、普以五類諸天、及地水火風空、五大諸神、並此朝開闢以来、皇帝皇后等尊霊、一切天神地祇、為檀主、伏乞一切冥霊、昼夜擁護、助果此願、
太平記、光厳法皇即奥の院へ御参詣ありて、大師御入定の室の戸をひらかせたまへば.嶺松風をふくみて瑜伽上乗の理をあらはし、山花雲をこめて赤肉中台の相を秘す、前仏の化緑は過ぬれども五時の説今耳にあるかと覚ゆ、慈尊の出世は遥なれども三会のよそほひ既に眼に遮るが如し、三日まで奥院に御通夜ありて、暁立出させ玉ふに一首の御製あり、
たかの山まよひの雲もさむるやと其暁をまたぬ夜ぞなき。
一番石塔と云は、高三丈趺石二間四方、駿河亜槐公忠長、其母崇源院(徳川秀忠夫人)の為めに建てたる也。芭蕉翁石塔は「父母のしきりに恋し雉子の声」と題し、石蔭に蓼大の文あり。
卵塔のとりゐや実にも神無月、 其角
花を見た顏をなかすや奥の院、 野坡
高野の奥院へまゐり侍りける時、
世をすてゝすまれぬ身こそかなしけれかゝる深山の跡を見ながら、〔続古今集〕 前太政大臣
島津家朝鮮陣弔霊の碑は長七尺幅二尺二寸余厚七寸許の小石なれど、世に名だかきほまれを留む。
慶長二年八月十五日於全羅道南原表大明国軍兵数千騎被討捕之内至当手前四百二十人伐果畢
同十月朔日於慶尚街泗川表大明人四万余兵撃亡畢為高麗国在陣之間敵味方闘死軍兵皆令入仏道也
右於度々戰場味方士卒当弓箭刀仗被討者三千余人海陸之間横死病死之輩具難記矣
薩州島津兵庫頭藤原朝臣義弘建之
慶長第四己亥六月上澣同子息 忠恒
石文の昔おもへば後の世のしるしぞ朽ぬ鋒すぎのもと 伊達千広
奥御室《オクノオムロ》址○此御室は仁和寺性信法親王の始めたまふ所とぞ、覚法覚性御中興ありて性助も入らせ給へり、何の世より絶えしにや。
冬のころ、入道法親王高野にこもりて侍りけるに、おくりたまひける、
ふる雪は谷のとぼそをうづむとも三世のほとけの月や照らさん、 崇徳院
同かへし
てらすなるみよの仏のあさひにはふる雪よりも罪やきゆらむ。〔千載集〕 覚性法親王
入道二品親王高野にこもり侍りけるころつかはしける、
いかばかり高野の奥のしぐるらむ都は雲のはるゝまもなし、 宗尊親王
同返し
しぐるらむみやこの空におもひ知れ高野は雪の雲ぞかさなる、〔続拾遺集〕 法親王性助
燈龍堂は即大師廟の礼堂也、又拝殿といふ、真然僧正の創造にて、治安年間禅定殿下道長公再造し給ふ、其後鳥羽帝初めて常燈を献じたまひしより、燈籠堂の名起れり。そも/\燈明の功徳内典に其説見え、大師入定の後祈親上人燧を纉て一燈を挑ぐ、高野明神是を悦ばせ給ひ形現して上人に和歌をしめし給ふ、
我あらばよもきえはてじ高野山高きみのりの法のともしぴ、〔統古今集〕
かの上人の挑げしと云ふ火をば後世持経燈といふ、又白河法皇御幸御手自一燈を挑げ給ふ、かの持経燈に対する一燈即これとぞ。納骨所は大師廟の右方に一宇を建置く八角造の堂なり、今ある所は元和年中の造立なり、虎関が元亨釈書に国俗亡人の骨を以て高野山に定むるは弘法大師の龍花三会の大定に伴はむ為めと見えたり。又大師廟の左方に経蔵あり石田治部少輔三成の奉進する所、高麗版大蔵経を収む。廟前玉川の彼岸に近代王室の御宝塔数基たゝせたまへり。此地は摩尼峰北に聳へ、東に楊柳、西に転軸、南に姑射相対峙し、林中に霊鳥栖み、心のすめる幽境なり。
遺骨をおさめさせ給ふとて、
高野山おろすあらしのはげしくもこのははのこれ後の世までも、〔室町殿物語〕
仏宝僧鳥はこの山の名物也、其雄は鳩に似て痩せ尾の端黒く嘴細く脚とゝもに赤色なり、鳴く声「ブッポウソウ」といふ、契沖阿闍梨のいはく仏法僧鳥のなくやうは仏法とさやかにふたこゑ三こゑなきて後にひきて僧となくとなむ。高野詣日記(実隆卿)奥院へ詣づる路すがら、聞置きしにも、想ひやりしにも過ぎたるあはれさ、ありがたさになむ、御廟の前の今度供養の堂、燈明其数限なく光り耀きて得も云はれず、内より下賜はりし御爪のきれを納め、此御為に卒塔婆立てさせ、其外人々の髪をさめ、みづからの年頃落たる歯どもをも納め奉る〔雪玉集〕
弘法大師廟は奥院の正寝ともいふべし、仏者は禅定洞と云ひ歌には苔の窟とよむ、南面して宝形造り質素の一宇なり。相伝ふ大師三密の加持力を以て奄然入定し尚龍華三会の暁をまちて今に現然たりと、元亨釈書曰、承和二年、海在金剛峰寺、三月廿一日結跏趺坐、作毘盧印、泊然入定、先七日、共諸弟子、念弥勒宝号、至此日瞑目気絶、蓋持定身待龍華也、年六十二、門人為七七忌、其間鬚髪生身休暖、経五旬、諸徒剃髪整衣、斂身畳石造壇、立率兜婆其上、定後四日、上勅内舎人、弔之曰、
真言洪匠、密教宗師、邦家憑其護持、動植荷其摂念、豈図※[山+奄]※[山+茲]末逼、無常遽侵、仁舟廃棹、弱喪失帰、嗟呼哀哉、禅関僻左、凶問晩伝、不能使者奔走、相助荼毘、言之為恨、悵恨曷已、思付旧窟、悲凉可料、今者遥寄単言、弔之、著緑弟子、入室桑門、悽愴奈何、兼以達旨、(続日本後紀承和二年の条に見ゆ)
空海師入定の後七十年、醍醐天皇の御宇、寛平法皇及び僧正観賢の奏聞によりて弘法大師の謚号を賜ふ、その詔書に曰く「琴絃已絶、遺音更清、蘭叢雖凋、余芳猶播、故大僧正法師大和尚位空海、消疲煩悩、抛卻驕貪、全三十七品之修行、去九十六種邪見、既而仏日西沒、渡溟海而仰余輝、法水東流、通陵谷而導清浪、受密語者多満山林、習真趣者自成淵薮、況太上法皇、既味其道、追憶其人、誠雖浮天之洪涛、何忘積石之源本、宜加崇※[食+芳]之典、謚号弘法大師。○釈書又曰、延喜二十一年、上夢弘法大師、奏曰我衣弊朽、願忝宸恵、覚後送紫衣一襲於野山、観賢中選、入山啓定扉、如隔雲霧、不看儀容、賢作礼黙祈、須叟真儀漸見、猶如霧斂月影、賢謂衆曰、我猶見難臭、況下我者哉、後世浮矯者、不容易見、恐疑謗、胥議重石固封焉。
宋高僧伝云、(瑜伽密教二祖不空灌頂国師伝)不空弟子、有慧果者、元和中日本空海入中国、従果学、帰国盛行其道、鎧庵曰、自金剛智諸師、為末代機縁、有宜密教者、故東伝此道、以名一家、然嗣其後者、功効寝微、唐末乱離、経疎銷毀、今其法盛行於日本、而吾邦所謂瑜伽者、但存法事耳。
ありがたきたからの山のいはかげに大師は今もおはしますなる、〔拾玉集〕 慈鎮
〔補注、右の歌未詳〕
贈綿空法師 弘仁帝
問僧久住雲中嶺、遥想深山春尚寒、松柏斜知甚静黙、烟霞不解幾年滄(にすい)、禅関近日消息断、京邑如今花柳寛、菩薩莫嫌此軽贈、為救施者世間難、
南山中、新羅道者見過、 弘法大師
吾住此山不記春、空観雲日不観人、新羅道者幽尋意、持錫飛来恰如神、
補【奥院】○今の御廟は村上天皇の御宇(入定後百四十年)に雅真大徳の再造する所なり、相伝ふ嘉吉年間一休和尚登山のとき奥院にて「弘法は虚空の定にもいりもせでこゝろせまくも穴にいるかな」と詠ぜられしかば、廟中に声ありて「いりぬれば虚空も定もなきものを心せまくも空と見るかな」と答へたまへしかば、和尚感佩してかへられしとぞ。
御廟一に禅定が洞といふ、歌には岩の室・苔の洞などよめり、南面にして宝形造なり、総て文彩を施さず、素質の結構隠然として古檜老杉の際に拝まれさせたまふ、拝参の人粛々として容を改め、忽に塵累を脱却して上品浄土にいたる思ひをなすべし、承和二年三月十五日大師告て曰く、吾去天長九年十一月十二日より穀味を厭ひ、専ら座禅を好む、皆令法久住の勝計末世の弟子等が為なり、方に今諸の弟子諦かに聞け、吾生期今幾程ならず、汝等よく住して教法を守るべし、吾人滅の期今月廿一日寅刻なるべしと、果して三月廿一日寅剋結跏趺坐して大日の定印を結び、奄然として入定し給ふ、廿五日仁明帝勅使を以て※[貝+專]を賜り、太上天皇(嵯峨)院使を以て弔書を賜ふ。
玉川《タマガハ》 奥院大師廟の側を流るゝ細澗にして、有田郡阿諦川の源なり。或は風雅集の詞に拠り此水に毒虫ありとて、即一之橋の東二町許なる※[さんずい+于]溝に引き当てたり。○或書に云、風雅集の大師の歌の前書は誤れり、蓋作者の本意は参詣する人に高野の奥へ登りなば、其山の清き流れを汲み給へ、是れ則ち秘密の瑜伽の余りなりと語りて、其登るに臨み殊によみてつかはしたるならん、一首の意味はこの物語りしぬる言を忘れても、正しく登りなば汲み給ふらんと心をこめたる也云々。又或人の句に「忘れては医者も手を出すぬるみ哉」。
高野の奥の院へ参る道に、玉川と云川の水上に毒虫の多かりければ、此ながれを飲むまじきよしを示しおきて、のちよみ侍る、 わすれても汲みやしつらむ旅人のたかのの奥のたまがはの水、〔風雅集〕 弘法大師
名所図会云、高野山宝庫の文書中に元中二年太上天皇の御祈願状あり、云
敬白 発願事
右今度之雌雄如思者殊可致報賽之誠之状如件
元中二年九月十日 太上天皇寛成
按ずるに寛成王は南方後亀山帝の同腹皇兄にまし/\て、正平廿三年東宮にたち給、天授の末辞して太上天皇と称せられ給ふ、後紀州玉河の山中に御籠居あり、よりて玉川宮と号すといへり、本国に玉川と云ふ郷名なし、所謂高野の奥の玉川の事にて、奥院より東の山村にまし/\けるなるべし。○今按に長慶帝の玉川御座所は、奥院の東なる西峰《ニシガミネ》平原東又|杖藪《ツエガヤブ》など丹生川上の村落にや、富貴村管川と相接す。史徴墨宝考証、長慶帝玉川宮は高野山の背に当り、于今御在所の遺蹟を伝へたり、長慶の字は遺令詔の奉号に似ず、文明本紹選録朱書に長慶寺とあり、嵯峨天龍寺の塔頭に長慶寺ありしと云へば、南北合一の後後亀山帝と共に嵯峨に御座し、崩後此寺に荼毘納骨し、因て謚号となしたるならん。
花園《ハナゾノ》 高野山の南谷にして、有田郡阿瀬川の源なり、東西三里に余る、旧花園荘と呼び十三村に分れしが、今合同す。高野山の古結界四至の文書に南は当川《アテガハ》横峰に至ると云へり、此を指すなり、当川即阿瀬川に同じ。
補【花園】○紀伊続風土記云、花園庄十三村、往古は在田部の地にして英多郷の内なり、高野の領なりしより伊都郡に属せしなるべし、正保図有田に作り、天保図に至り在田に改む。
大滝《オホタキ》 同名の大字に在り、高野|弁天《ベンテン》岳の一之滝の水|隠所川《オソカハ》と為り奥院を経て此に至り、瀑布と為るなり。○大滝は野山の南にして相去る五十町、東南は十津川郷に通じ西は山保田郷に通じ南は龍神熊野に連り、山嶺重畳すと雖信徒行者の来往を見る所也。新子《アタラシ》は大滝の西二里同く花園村の大字にして、有田郡|八幡《ヤハタ》村|清水《シミヅ》駅を去る五里。名所図会云、此に珍きは古写大般若経六百巻を新村氏神の境内観音堂内に納む、経箱の蓋に大福寺永享己未林鐘吉日と銘ありて経本には天平勝宝延喜・寛和長徳万寿延久永保永久大治天承保延建長弘長延文永享宝徳等の奥書あり。
天野《アマノ》 高野山の西谷にして野上川(那賀郡)の源なり。西北|星山《ホシヤマ》の脈を以て見好《ミヨシ》村(旧渋田)と相限り峰巒環合の中にあり、天野祝の名は神功皇后紀に載せ、上古より丹生都神を奉じて本州の豪家たり、其先祖を国主神と云ひ、品太天皇の比に、阿牟田の女を紀直豊耳に嫁せしめしより、其子を以て丹生祝と為し、子孫相続すと。
丹生都比女《ニフツヒメ》神社 延喜式伊都郡に列し名神大社なり、空海高野を開く時此神化現して犬と為り海を導きたまひ狩場《カリバ》明神と称へ奉るとぞ。按に此神初め高野山東丹生川の源管川藤代峰に座す、今富貴村なるべし、播磨風土記〔逸文〕、息長足日女命、欲平新羅国下坐之時、祷於衆神、爾時国堅大神之子、爾保都比売命、著国造石坂比売命、教曰、好治奉我前者、我爾出善験、而比比良木八尋桙根底不附国、越売眉引国、玉匣賀賀益国、薦枕有宝国、白衾新羅国矣、以丹浪而将平伏賜、如此教賜、於此出賜赤土、其土塗天之逆桙、建神舟之艫舳、又染御舟裳及御軍之着衣、又撹濁海水渡賜之時、底潜魚及高飛鳥等、不往来不遮前、如是而平伏新羅、已訖還上、乃鎮奉其神於紀伊国管川藤代之峰、〔釈日本紀〕或は疑ふ、今見好村|星川《ホシカハ》即管川にて星山は藤代峰にや、此社は其星山の東に在り星《ホシ》古名ツツと曰へり。○丹生都神今天野宮と呼び、金剛峰寺にては専ら丹生《タンジヤウ》と曰ひ地主鎮守と為す。高野山西口|志賀《シガ》駅(大門を去る二里今天野村に属す)の北一里に神域あり、老樹森々として池水洋々、華表楼門巍々平たり、殿堂は四座に分ち別に八幡宮あり。社伝に品田天皇(即八幡大神)親ら丹生大神を祭りたまへりとて告門を遺しつたふ。其中に云「品田天皇、依奉給神界、東至丹生川、西至星川並神勾、南至阿諦河南横峰、北吉野川」。
名所図会云、天野四所明神は高野一山の鎮守にして、其一宮は延喜式には伊都郡丹生都比女神杜とあり、「三代実録云、貞親元年紀伊国従五位下勲八等丹生津比売神授従四位下。山史云、寛平九年、鎮守大明神被授従三位。淳方勘状云、天暦六年、奉増一階、又云、承暦五年又被奉増一階、永治元年奉増一階。百錬砂云、寿永二年、紀伊国丹生高野神奉加一階。宝簡集云、寿永二年勅正二位丹生明神今奉授従一位」と、二宮高野御子は天野祝の遠祖にして彼|比売《ヒメ》大神いまだ此地に鎮座しいまさざりし以前は天野祝専ら此神に奉仕せしにぞあらん、此二神は大師開山の時より密教擁護の御誓ひ浅からず屡ば出現ましまして山上の弘隆を守護したまふ、三宮気比大神を正応官符には三宮蟻通明神と云ふは一名にや、(蟻通宮は和泉にあり気比宮は越前なり)四宮は厳島明神なり、後の二座勧請は承元年中行勝上人の時とぞ。○按に此に気比厳島の二座配祀の事は、平家物語に清盛高野大塔建立の時「大師の告に、越前の気比の宮と安芸の厳島は両界の垂跡にて候が、気比は栄えたれども厳島はなきが如くに荒れ果て候が、あはれ同く修せさせ給へかし」とあるに基因する如し。弘法が此神を地主と為せる事は今昔物語云「弘法大師、始建高野山語、今は昔、大師老に臨み給程に、我唐にして擲げし所の三鈷落たらん所を尋ねむと思ひて、弘仁七年大和国字智郡に至り一人の猟人に会ぬ、其形面赤くして長八尺計也、青色の小袖を着せり、骨高く筋太し弓箭を以て身に帯し、大小二の黒き犬を具せり、此人大師を見て曰く我は是南山の犬飼なり、三鈷の所を知れりとて犬を放ち走らしむるの間、犬も人も忽失せぬ、大師夫より紀伊国大河の辺に宿しぬ、此に一人の山人に会ひ問給に、此より南に平原沢あり是其所也と、相具して行く間、密に語て曰く我は此山の主也、速に此領地可奉と、山の中百町計入ぬ、山の中は正しく鉢を伏たる如くにて、廻に峰々立登り、檜の謂む方なく大なる竹の様に生並たり、其中の檜の上に三鈷被打立、是即大師禅定の霊場と知れぬ、彼山人丹生明神となむ申す、犬飼をば高野明神となむ申す」云々、この趣にて弘法が丹生神の山野を附与せられて、寺塔を興したる次第明白なりとす。○丹生大明神告門云、紀伊国伊都郡|奄太《アムタ》村の石口《イシグチ》に天降まして、大御名を伊佐奈岐伊佐奈美の命の御児丹生津比※[口+羊](中略)川上|水分《ミクマリ》の峰に上りまして国かゝし給ひ、下りまして十市《トヲチ》の郡ヽヽに忌杖刺給ひ、品太の天皇御門代田五百代奉り給ふ、下り坐て巨勢丹生《コセノニフ》に忌杖刺給ひ下りまして、字智郡|布々岐丹生《フフキノニフ》に忌杖刺給ひ、下りまして伊都郡|町梨《マチナシ》の御戸代に(十四図一里一坪同二坪同三坪員八段)御田作給ひ下りまして波多倍家多《ハタヘノイヘタ》村の字堪梨と云田(十五図二里坪二百十六歩同里五坪二段六十歩)并に天沼田云(十五図一里耕二坪三百十八歩同里卅三坪四段二百七十二歩同里卅四坪三段)御田作給ひ、下りまして豊の明り仕へまつりて上りまして伊勢都美《イセツミ》に坐します、
(奄太《アムタ》は慈尊院村の旧号なり石口滝あり、三谷村酒殿神社の西南に当り丹生明神根本垂跡の地とて榊山とも称す。川上は吉野山なるべし、十市郡も大和国なり。字智郡布々貴は今伊都郡の富貴《フキ》村にや、昔は字智郡に属せしか。町梨は今|入郷《ニフガウ》村にや、図と云は条里の条に同じ、波多倍家多は今の大野村の辺なるべし。)
上りまして巨佐布《コサフ》の所に忌杖刺給ひ下りまして、小都知《コツチ》之峰に坐し上りまして、天野原《アマノハラ》に忌杖刺給ひ、下りまして長谷《ハセ》原に忌杖刺給ひ、下りまして神野麻国《カウノヽマクニ》に忌杖刺給ひ、下りまして那賀郡|松門《マツト》の所に大坐し、下りまして安梨諦夏瀬《アリタナツセ》の丹生に忌杖刺給ひ、下りまし日高郡の丹生に忌杖刺給ひ、返りまして那賀郡|赤穂《アカホ》山の布気《フケ》と云所に大坐して、品田天皇奉り拾物は淡路国三腹郡白犬一伴、紀伊同大黒小黒一伴、此口代に赤穂村の布気田千代、美野国の三津柏又浜木綿奉り給ふ、遷りまして名手《ナテ》村の丹生の屋の所に夜殿に大坐し、遷りまして伊都郡|佐夜久《サヤク》の宮に大坐し、然而|渋田《シブタ》村の御戸代作り給ひて、神賀奈淵《カンガナフチ》に豊明仕へ奉り、則天野原に上り坐す。
(巨佐布は伊都郡古佐布村也、小都知峰は天野神祠の後に小粒が峰あり是にや、天野原即社地とす。長谷、麻国、神野等はみな今庄名に遺る、松門は今猿川庄田村の艮一里余、友淵庄界の山上に松戸ありとぞ。夏瀬は田殿《タドノ》庄出村に夏瀬森存す、江川は真妻《マツマ》山の麓なり。赤穂山布気田は今赤尾村にあり、又深田村あり。)
この丹生祝詞は古風土記と対比すべき古語なり、此に引く所は地名関与の条のみとす。又此祝詞に拠れば丹生神は正しく女神におはし、皇典講演に栗田氏の挙げたる「天野社伝曰、丹生大明神者、天照大神之御妹、稚日女尊也。高野山所蔵、長承二年官符、高野山王大明神、天照大神御妹也」に拠るも女神とすべし。然るに今昔物語以下の丹生明神を説く、皆山人の化現とせば、女神と云ふこと疑なきに非ず。殊に延暦八年職判住吉大社宮司解状には丹生神を住吉同体と為す、
紀伊国伊都郡丹生川上社、天手力男意気続流住吉大神右毒満九国領、不令貢調時、文忌寸材満、調伏祈請、祭御神社、子孫伝為氏神。
天手力男意気続流《アメノタヂカラヲオケツヾクル》神と云ふは他に見えざる名なり、意気とは大食にて、御膳の義ならん。抑稚日女尊は紀州にては和歌浦に玉津島神と呼ばれ、摂州にて生田《イクタ》神と呼ばれ、志州には粟島《アハシマ》坐|伊射波《イザハ》神と呼ばる、当国加太浦の淡島も同神にやと疑はる、神功皇后征韓の時威力を顕示したまへるより論ずれば住吉神と同功とも謂はんか。されば女神ながら武勇の徳さへましませる事想ふべし、住吉解状に之を住吉神と混同せるは某所以なきにしもあらず、尚考覈するところあるべし。文忌寸と云は天野祝と同家を指すにや、又疑なきに非ず。○名所図会云、丹生一麻呂《タンシヤウカツマロ》の家は社地の坤に在り、大別器とて自器に非ざれば飲食せず、旅行にも家僕に器を負するを例とす。日本紀に天野祝と見え、神代より子孫連綿として希代の旧家なり、古文書数百通を蔵す、惣神主殿と呼ぶ。(天野社所蔵の銀銅蛭巻太刀兵庫太刀并に今国宝に列す)
去閏四月廿一日天野社群烏悉去只一双之外不見社頭其上同日|三谷酒殿《ミタニサカドノ》(明神御幸時御出之処)御戸自然開同暁自彼社有神馬鈴音指西而去之由神主常家等注申候去弘安四年夏頃抽懇祈候所感応掲焉間依為佳例言上如件祐信恐惶謹言
七月十六日 校検法橋祐信状
秋田城介殿
按に丹生《ニフ》の天野祝の家は家譜に「豊耳命娶|国主《クニス》神女児阿牟田戸自生児、小牟久君が児等、伊都郡に侍る丹生真人の大丹生直、丹生祝、丹生相見、神奴等三姓の始め」云々と載せ、紀国造と同祖の旧姓也、天野社記に拠れば、小牟久は品太天皇の時の人とす、国主は国栖栗栖と同言也。
日本書紀云、神功皇后時、昼暗如夜、紀直祖豊耳曰、是怪何由矣、時有一老父曰、是謂阿豆那比之罪也、問何謂家、曰二社祝者共合葬歟、因以令推問巷里、果小竹祝与天野祝合葬焉、更異処以埋之、則日※[日+軍]炳燿。
天野杜の西南四町に西行堂とて近年まで故跡を伝へり。上人暫らく山上及此地に在りて密教を修す、故に高野の風詠尤多し、妻室並に娘も亦尼となりて此地に居たること撰集抄西行物語発心集等に見ゆ。山家集に待賢門院の中納言局小倉を捨て高野の麓天野に住ける頃、同じ院の師の局尋ね来ること見えたり。
西行法師のりきよと云ひし時の妻、尼となりて天野にすまれし跡とて、今猶草庵あり、秋のころなれば、
なく虫の草にやつれて幾秋かあまのにのこる露のやどりぞ、 似雲
有王丸墓とて天野の社の西一町ばかりに在り、源平盛衰記に法勝寺執行俊寛流島せられて死せるに、其娘之をきゝ出家せんとて従者有王丸に具し高野の麓天野の別所といふ山寺に入り、有王は俊寛の骨を奥院に納めたる由載せたり、後此にて死したるならん。〔名勝地志〕平家物語には俊寛の姫は十二の年に尼になり、奈良の法花寺に行すまし、有王は高野へのぼり蓮花谷にて法師になり主の後世をぞ弔ひけると記す。
渋田《シブタ》 今|星川《ホシカハ》日高《ヒダカ》三谷の諸村を合併して見好《ミヨシ》村と云ふ。天野村の西北に在りて一嶺を隔て、紀之川の南岸|麻生津《ヲフツ》村の東なり。渋田は粉川寺縁起に渋田大刀自と云者ありて屋舎を転じて彼精舎と為せりと録す。史徴墨宝考証に高野領円位法師古文書に設他荘に日前宮樽風木を伐る事を載せたりとあるも、設他即渋田の訛ならん。
星川《ホシカハ》 丹生告門の詞に 「神界西は星川並に神勾に至る」とあり、神勾は詳ならねど、星川は渋田の南に大字を遺したり。高野山の大師遺告に寺界は西応神山谷を限ると云も即星川の事なるべし、按に此星川の上方に星山と呼び大字に遺る、即天野丹生都神社の背なり。播摩風土記に紀伊国管川藤代之峰と云ふは此か、星は古訓都々と云へり。
神戸《カンベ》郷 和名抄、伊都郡神戸郷。○蓋天野の丹生の神戸なるべければ、今の天野村見好村などに当る。
有田郡
有田《アリタ》郡 旧|在田《アリタ》に作る、北は海草那賀に至り東は高野山(伊都郡)南は日高に至る西は海なり。在田川高野山より発し海に入る、東西凡十里南北凡三里、今二十一村に分れ人口七万、郡衙は湯浅に在り。土産柑子は世に謂ふ所の紀州蜜柑也。
有田は安諦《アテ》の改称なり、続紀、大宝三年、令紀伊国|阿提《アテ》郡献銀也、天平三年、紀伊国阿底郡海水変如血色、日本後紀、大同元年七月、改紀伊国安諦郡、為在田郡、以詞渉天皇諱也。(天皇諱安殿)万葉集には足代に作る、続後紀「承和十五年、在田郡為上郡、以戸口増益課丁多数」而て倭名抄、在田郡訓阿利太五郷に分つ、五郷は承和以前の数なるべし。又在田有田中世以降通用したり。○名所図会云、続後紀に在田郡は上郡とあれば戸令に照すに十二郷以上ならざるべからず、和名抄わづかに五郷とす脱名せるか、又仁寿四年、東寺の真済大徳が在田郡新田并家地畠地買得立券に「和佐村丹生村大豆田村吉備郷之小島村野村栗栖村」等の名あり、(その丹生は生石村に存し小島は藤並村に存し野村は宮崎村に存す、和佐大豆田栗栖は詳ならず)云々。在田《アリタ》蜜柑○元亨釈書、高弁伝云「弁姓平氏、紀州在田郡人、二親詣仏祠求子、母夢有人授柑子、尋而有孕焉」と、当時此地早く柑子の植樹ありしを想ふべし。按、和訓栞云、甘子は続日本妃に見え、性霊集に大柑子小柑子ありて其大柑子は今の蜜柑なり、かうじと呼ぶ、続紀「神亀二年、初甘子従唐国来、中務少丞佐昧虫麻呂、先殖其種結子」と延喜式には内膳寮園地に小柑子四十株と載せ、三代実録仁和二年太宰府例貢小柑子の事あり、江家次第明月記宇治拾遺には大柑子の名見ゆ、蜜柑の名は後世の事なり、永享日記云「永享七年十一月、霊光院献蜜柑」と、蓋蜜柑は大柑子の別種にて、後世支那より舶載したるか。○大八洲遊記云、柑園皆拠山、甃石為防、形如塁壁、種柑其中、其下亦※[人偏+效]之、層累相属、以至平地、有田一郡、環以山阜、毎山皆然、或有性似批把者、紀柑聞於天下、而柑之美、此郡為第一、毎年鬻之四方、得四十万金云、其盛可知矣、南龍公時、始命種柑、至今日其盛如此、英主所為、真可仰也。○名所図会云、相伝ふ天正中肥後八代より乳柑を得、糸鹿荘にうゑたりしに、勝れて気味甘美なれば、近郷の村々にも相競ひて接樹せしとぞ、今は在田郡中延袤数里の間に、数万株の乳柑茂林をなして最大の産物とはなりぬ、初の頃は籠数も少なく、京坂等へ小船にて積送せり、寛永十一年、四百籠ばかり大船に積てはじめて江戸へ送りたりしに、かの所にて大に之を賞玩す、それより年々盛になり、明暦三年、鎌倉河岸にて商売の地を賜ひ、今に至りては在田郡より百万籠余海士郡加茂谷より十万籠余、年々諸国へ送り下すといへり、すべて北湊地島にて海舶へ積入るなり。
安諦 渓琴
千古何人闢草莱、村墟掌大樹如苔、群山兀々皆平俗、不見双蛾入眼来、 奇峰霊岳空神秀、人住荒烟瘴雨間、千古漁樵唱和外、曾無一個答青山、
海気朝通万戸煙、群山繚繞擁平田、居民尚仰龍公沢、橘柚霜香三百年、
――――――――――
補【在田郡】○和名抄郡郷考 持統紀三年八月阿提。続紀大宝三年五月阿提云々、三郡献銀也。同紀天平三年六月紀伊国阿※[氏/一]郡。紀伊国神名帳、有田郷。万葉集七、足代《アテ》過て糸鹿山。霊異記、安諦郡之荒田村。後紀大同元年七月改紀伊国安諦郡為在田郷、以詞渉天皇諱也。秉燭談云、平城天皇御諱を安殿と云、ヤストノとよむは誤なり、アデとよむべし、紀伊の在田もとは安諦也。○今按、続紀大宝三年五月阿提に作る、同紀天平三年六月阿※[氏/一]に作る、しかれば今の在田郡昔はアテと云て字阿提・阿※[氏/一]・安諦に作りしに諱をさけて在田と云へるなり。続後紀承和十五年五月、紀伊国在田郡為上郡以戸口増益課丁多数也。
奈耆《ナギ》郷 和名抄、在田郡奈耆郷。○原書奈郷に作る、郷名二字の定則より考ふるも脱字必定なり、書紀通証は奈耆なるべしと云ふ 今之に従ふ。日本書紀、持統天皇三年、禁断漁猟、於紀伊国阿提郡那耆野、二万頃云々。
按に奈耆郷は今の宮崎村|田栖川《タスカハ》村に当る如し。宮崎村大字野村あり、其南は一嶺を成し田栖川村に連り一面の曠野なり、糸我山の西にして半面は海湾に臨めり。仁寿四年東寺真済大徳田券(名所図会所引用)在田郡野村栗栖林ありて、栗栖は即田栖川村大字栖原なるべし栗栖神あり、又春日権現験記に、明恵上人紀伊国白上と云所に在しけるに、梛氏女と云が神託を蒙り上人の渡宋を停めたる由を載す、梛は即奈耆に同じければ当時郷名は亡びたるも、土着人の家号に此名の遺れるを知る。
補【那耆野】○持統天皇三年八月丙申〔略〕按に和名抄在田郡奈郷あり、蓋衣奈郷の誤なるべし、後海部郡に入(明治十一年之を日高郡に属す)即那耆野の地なるべし。
宮崎《ミヤザキ》 在田川の末を宮埼と称す。海角の東北七村を宮崎荘と呼びたるに因み、今合同して宮崎村と曰ふ。民家は河の両岸に散在し大字箕島北湊を首邑とす、北は海草郡|椒《ハジカミ》浜に接す。
補【宮崎】在田郡○名所図会 宮崎荘、保田庄の西にあり、七ケ村を総ぶ、応徳三年の文書に宮前庄と見ゆ。○箕島 在田川の海口にして人家多し、諸国廻船の商賈群居す。○北湊 箕島村の西に接して在田川の海口にあり。○史徴墨宝考証、天正元年十一月足利義昭宮崎に如く、遂に鞆津(備後)へ走る。
○産物椶櫚皮 山の保田庄中諸村多く椶櫚をうゑて春秋其皮を剥ぎて諸国に鬻ぐ、年々の利益さがらず、肉桂に亜ぐの産物なり。
箕島《ミノシマ》 在田川の海口にして人家多し、北湊《キタミナト》は其西端に在り、諸国廻船の商賈群居する所也。○名所図会云、北湊の海口西端に坡塘を築き小船を入る便とす、秋冬の比に至れば郡中産物の蜜柑各所より川船に積下す数万籠山岳の如し、皆此坡塘に積み置きて又小船にて瀬とりし、地鳥にかゝれる大船につみて江戸へ運送す、此地北の方は海部郡椒村と界を接す、故に旧は南椒村ともいへり。○北湊は郡内物産を輸出する所なり、其の東に接する箕島は戸口稠密にして小市街を為し、郡中の一名邑たり。田中善吉は箕島の農なり。字を孝敦といふ、夙に殖産の志に篤く多年櫨樹の培養に力を竭し、遂に郡中の一大物産をなすに至れり、後人其の徳を慕ひ安永年間祠を建てゝ之を祠り田中神社と称す。〔県史談〕
宮埼○名所図会云、北湊の西南に突出す、此地長流蕩蕩とし海に入る所、其北岸に箕島の村舎数百戸水に臨み南岸は山崖隆然たり、龍が浜雌の浦雄の浦等山足にならび列り、※[しんにょう+委]※[しんにょう+麗]として正西に走りて長く海中に突出せり、故に其岬を呼びて宮崎のはなといへり、西面の海岸青壁峨々として駑波水烟の中に聳え、恰も斧もて劈に似たり。○水路志云、湯浅湾の北角なる宮埼は※[こざとへん+走]険の半島にして、高二二〇呎、東方は山脈高起し一、五〇〇呎以上となる、此埼の北東方約一里に有田川あり、小形の和船にて泝航し得可し、又埼の近傍は深水にして、西北二海里に浦初島地鳥と云ふ二嶼あり。
浄妙寺《ジヤウメウジ》 宮崎村大字|小豆《アヅキ》島に在り、臨済宗にて薬師堂多宝塔は古伽藍の遺物なる由、詳に名所図会に載す。曰く薬師堂須弥壇は青貝の蒔画古雅なり、仏像十二神四天王日月二菩薩を安置す皆春日仏師作とぞ、多宝塔一基飛騨工匠作と云ふ、塔中に十王并に八祖成道の絵図あり、七宝荘厳の采色古色あり、惜むべきは近世の住僧諸人の礼拝群集して喧きを厭ひ洗ひ去りしとて、采色尽く漫※[さんずい+患]し今は唯采色の跡彷彿と残れり、塔の柱など総て黒漆磨滅して自ら断紋を生じたり、五智如来も又春日の作といひ伝へたり、又古伽藍の仏像火災に取出せしにや、面貌手足支離の像を塔中に安置したり。当寺は大同元年平城天皇御母乙牟漏皇后の御建立にして、開山は唐僧如宝和尚といふ、七堂伽藍の古刹なり、(或は阿波の尼西阿弥といふ者の建立と云ふ)湯浅氏の兵乱に堂舎及縁起記録等残らず燼焚し、薬師堂多宝塔は奥院にて山林茂れる中にあれば終に其災厄を免れしといふ、即今の薬師堂多宝塔なり。元和年中国君深く其頽廃を歎かせ給ひ、若山吹上寺開山圭瑞和尚に此寺を賜ひ堂塔を修復したまふ。○此※[髪の友が休]乾漆螺鈿須弥壇、今国宝に列す。
野村《ノムラ》 日本書紀持統天皇の時禁野と定められし那耆野は此なるべしとも云ふ、今宮崎村に属し小豆《アヅキ》島の東にして保《ヤス》田村に近接す、宮崎氏の城墟あり。○名所図会云、宮崎城址、野村の内|生殿《オヒトノ》に城の内と唱ふる所方一町許あり、宮崎氏の事南北間の軍記に見えず、(太平記に六波羅の残兵番馬の辻堂にて自殺せし人名に宮崎三郎同太郎次郎等の名あり、此地の人にはあらざるか)土人の伝に嘉応元年田辺別当湛全の弟左衛門定範この地を領し、城を野村に築き子孫宮崎氏と称すといへり、(尊卑分脈に湛増の子に湛全あり、承久の乱に誅せらると見えたるは法印快実の誤なりければ、別当湛全の名おぼつかなし、又嘉応は承久より五六十年も前にして時代もたがへり)按ずるに応徳年中より此地に那智山の神田あれば、那智より社家の苗裔を地頭に置たるなるべし、その子孫近境を併せ神社仏寺などを創建せしならん、其後隠岐守定之の時にいたりて豊臣氏のために没落せしとぞ、大永年中此地に合戦ありし事古文書に見ゆ、又応徳三年文書に宮前庄と云ふ。○史徴墨宝考証に、天正元年十一月、足利将軍義昭紀州宮崎に如き、遂に備後鞆輌津へ走ると云は此地より発船したる事なるべし、即宮崎隠岐守定之の時なり。
在田川《アリタガハ》 源を高野山の南澗に発し蟠屈して尚西に向ふ、石垣村松原に至り瀑をなし、以下緩流に就き北港に至り海に入る、長凡二十二里。松原瀑以下は舟楫を通ず凡五里。
両岸霜楓一葉舟、画図難写満川秋、急湍飛沫夜来雨、魚自黄柑影裡流、 小出元明
露湿吟蓑薬草芬、纔過一水暁煙分、青山漠々疎鐘遠、王子祠前竹似雲、 菊池保定
世をいとふ心ばかりは在田川岩にくだけてすみぞわづらふ、〔拾遺集〕 僧正慈鎮
按ずるに在田の名他国にもあれど、此僧正熊野詣などの時の述懐の歌ななるべければこゝに載す。
水源は高野山におこり大瀧となりて花園庄に落ち、当郡山保田石垣両荘の諸渓合流し田殿糸我宮原保田宮崎等の諸荘を貫き海に入る、川の流総て廿里余、安諦《アテ》川は丹生の告門《ノリト》に見ゆ、又星尾神光寺弘長二年の文書に、あての堤を限ると見えたるあても此川なり、郡名改りし後も川は猶古名を存せり。〔名所図会〕
補【在田川】○地誌提要 源を伊都郡高野山に発し、西流松原村に至り瀑をなし、宮崎荘北湊村に至り海に入る、長二十七里十八町、濶五十間、松原村まで舟楫を通ず、凡そ五里。
須佐《スサ》郷 和名抄、在田郡須佐郷。○今|保田《ヤスダ》村糸我村是なり。宮崎村の東、藤並村の西にして、北は在田川、南は糸我山に至る、須佐神社あり。
須佐《スサ》神社 保田村大字|千田《チダ》の南、中山の腰に在り、神域方四町許、土俗剣難除の神と称し崇敬あつし。三代実録、貞観元年、奉授紀伊国従五位下須佐神従五位上、延喜式「有田郡須佐神社、名神大月次新嘗」とある是也、本国神名帳には有田郡従一位須佐大神と載す。
朝もよし木路のしげやま分けそめて木種まきけん神をしおもほゆ、 本居宣長
名所図会云、此社其名の如く素戔嗚尊を祭る、即伊太祈曾神の父神なり。須佐伊太祈曾二社の神戸は、和名抄名草郡に在り、今猶須佐上下二村に分れて素戔嗚命を祀れり、又日高郡富安荘にも当社と伊太祈曾との神田ありし事、并に当庄の内にて田二町伊太祈曾の神田なりし事ども久安年中の文書(今伊太祈曾神社庫蔵)にみえたり、是等皆父子の大神の親しみ給へる縁故にこそありけめ、又須佐の郷名廃して保田荘といへるもやゝ旧き事とおぼしくて、明恵伝記建仁元年の条に紀州保田荘中の須佐明神の使者と云ふ者夢中に来れる事を載たり、其後天正七年豊臣氏この地を略せし時、湯浅の地頭白樫左衛門尉実房内応をなし、神祠を毀壊す、其後修造して今の如し。
保田《ヤスダ》 旧荘名なり、今村名と為り大字|千田《チダ》星尾辻堂等あり。保田庄は建仁嘉禎弘長等の文書に見えたり、弘長のものには地頭左衛門尉宗業とあり、正応二年湯浅党結番次第にも保田荘載せたり、即湯浅一族なるを知るべし。今|辻堂《ツジダウ》に城址ありて保田荘司貴志掃部助宗朝の跡と伝ふ、〔名所図会〕南山巡狩録、興国四年貴志御房丸と云も保田庄司ならん、又太平記に楠正成少時紀州の安田を討ち之を平げし事を載す。楠木合戦注文の「正慶元十二月日為楠木被取籠湯浅党交名」の中に安田次郎兵衛尉重顕、阿天河孫六入道定仏などあり。或書に千田《チダ》の耕地より銅鐸を掘出したる事あり、高一尺六寸五分なりしと。
保田道中 菊池渓琴
数里林踰晩、高歌携牛還、東風猶料※[山+肖]、野水自湲潺、海気連春駅、谿雲欲奪山、帰禽翼応倦、飛入翠微間、
星尾寺《ホシノヲデラ》 保田村大字|星尾《ホシノヲ》に在り。弘長二年保田庄地頭左衛門尉宗業の寄附状には「保田荘内、星尾の屋敷をさりて三宝に寄進する所の四至境事 東限糸我荘境、西限桑原田之西、南限中山峰分、北限在田川北端、上は糸我宮原荘ざかひ、下は西のさかひのすゑまですぐにとほして境とす、此内山川東西八町三段南北九町二段栂尾の上人の御遺跡たるうへに、かたじけなくも春日大明神御影向の所なり、仍て相伝の屋敷をさりて仏神に寄進する事已に廿年を経畢ぬ」云々とあり、興立の縁起を知るに足る、爾後星尾寺と号し六坊を備へしが天正の兵火に亡び、今は神光寺の一坊を遺すのみ。謂ふ所の春日明神影向の跡には社を建て卒塔婆を置き「法恵菩薩、建仁二年癸亥正月廿九日、春日大明神御託宣之処」と表題す。〔名所国会〕
糸我《イトガ》 保田村の東北に接し在田川に臨み、南嶺を糸我山と曰ふ湯浅の通路なり。東鑑、天福元年紀伊国糸我庄とあり湯浅結番次第にも見ゆ、即庄名なりしが今村名に転じたり。
補【糸我】 在田郡○名所図会 糸我荘、三ケ村を総ぶ、熊野路にて在田川の両岸にあるを中番と云ふ。
雲雀山得生寺〔※[倉+鳥]山、参照〕中番村にあり、当麻寺享禄縁起に右大臣豊成公の姫君十四歳の時、継母の讒によりて葛城山の地獄〔脱文〕元亨釈書当麻寺の条下に僕射藤の横佩が女のために仏尼蓮茎の糸にて曼陀羅を織ることはのせたれども、其余の事は不見、什物に曼陀羅古画大幅あり、采画精細にして真に生気あり、又縉紳家中将姫の故事を詠ずる歌ども多し。○糸我山、中番村より湯浅庄吉川村へこゆる官道の山を云ふ、村より峠まで十四町ばかり、源平盛衰記に云〔略〕
※[倉+鳥]山《ヒバリヤマ》 雲雀山|得生寺《トクシヤウジ》は糸我村大字中番に在り、右大臣藤原豊成の女中将姫其家人春時に扶助せられ建立せる遺跡とぞ。什宝曼陀羅の大幅あり、絵画太だ精細なり。名所図会云、当麻寺享禄縁起に豊成公の姫十歳の時継母の讒により葛城山の深谷に捨てられ、又武士某に命じて更に紀州在田郡※[倉+鳥]山の麓に誘はせ、ひそかに是を害せしむ、武士罪なきを哀れみ命を助け其地に柴庵を結び、忍びて養育すとあり。糸我山の東北に聳えたる山峰を寺伝には※[倉+鳥]山と云ふ也、一説には雲雀山を大和宇陀郡ともせり、そはともあれ当麻寺縁起と当寺の伝とに因るに、当寺は中将姫の屏居の地ぞといふも古き伝へならんかし。○謡曲、雲雀山云、とにもかくにも、故里のよそめになりて葛城や、高間の山の峰つづき、此に紀の路の境なる、雲雀山に隠れ居て、霞の網にかゝり、目路もなき谷陰の、鵙の草ぐきならぬ身の云々。
糸鹿山《イトガヤマ》 糸我山は万葉集に糸鹿に作り、糸我村の南嶺にして湯浅に踰ゆべし、古は之を以て熊野街道としたり、今稍其東に移れり。
足代《アテ》すぎて糸鹿の山のさくらばな散らずもあらなむ還りくるまで、〔万葉集〕
足代は即安諦なるが、河名として此によみしか、又|英多《アガタ》郷をば斯く指せるか詳ならず。源平盛衰記に名だかき逸話あり、
白河院熊野御参詣あり、平忠盛北面にて供奉せり、糸鹿山を越給けるに、道の傍に薯蕷の蔓枝に懸り、零余子玉を通らねて生下る、いと面白く叡覧ありければ、忠盛を召してあの枝折て進せよと仰す、忠盛|零余子《ヌカゴ》の枝折進するとて仰下し給ひし女房平産してをの子ならば汝が子とせよと勅定を蒙りき、年を経ぬれば若し思召忘れ給ふ御事もや、次を以て驚奏せんと思ひて一句の連歌を仕る「這程にいもがぬか子は成りにけり」是を捧げたり、白河院打うなづかせ御座して「たゞもりとりてやしなひにせよ」と附させ御座けり云々。
吉備《キビ》郷 和名抄、在田郡吉備郷。○今藤並村是なり、須佐郷の東なり。霊異記に安諦郡吉備郷あり、又倭姫命世記に天照大神吉備名方浜に頓宮の時吉備国造より采女吉備津比売を進らせたる事を載す。名所図会云、藤並庄下津野村に吉備野あり、又石垣庄の内庄村の北川に吉備の淵といふもあり、其傍に吉備の井といふものあり、皆古名の残れるにて郷名は既に廃れたり、田殿の庄長田村に国主《クズ》の神社あり、元文五年吉備名方浜宮と云碑を建て又吉備野にも同じ碑を建たるは吉備郷の名に依れるなれども、名方浜宮は名草郡にあれば、此地たるべからず。
東寺文書、真済大徳が仁寿四年の売得田券に、
家地一町二段 在吉備郷 直稲伍佰伍拾束
一所二段 在丹生村 直百五十束
一所一町 在野村 四至東至栗林畠南至紀臣波白女地西至古垣并栗栖林北至野田大溝 直稲四百束
畠一町 在吉備郷小島村 四至東至於比寺地南至神奴知島地西至紀朝臣並倉地北至大溝 直稲三百束
今藤並村に大字|小島《コジマ》存す、丹生は生石村に入り、野村は宮崎村に入る、和名抄の郷域と并せ考ふべし。
藤並《フヂナミ》 今荘名を転じて村名と為す、糸我の東にして田殿庄の南、石垣庄の西なり。正応二年湯浅党結番次第に他門藤並庄と録したり、又花営三代記云「永和五年二月九日、山名修理大夫同陸奥前司伊与守、打入紀州藤波之間、湯浅城没落」と是は南朝天授五年山名義理乱入して官軍を打亡ぼせる也。
宗祇法師誕生地は下津野村小名吉備野に在り、応永廿八年此地に生る、父は伎楽師なり。(吉傭野は昔し伎楽師の居所なりしにや、今に至るまで隣邑歯せず)宗紙生れて性風流を好み少より伎楽を廃てゝ学ばず、一律院に入て薙髪し専ら志を和歌連歌に寄す、連歌は永享文明の間尤盛なるが中に十住心院の心敬世に聞えしかば、宗祇本国を去て心敬に年頃親灸し、遂に一家をなし花の本の宗匠と称し、貴族公子等交を結べり。花の本の名は後嵯峨院の御時、毘沙門堂法勝寺鷲の尾等の花下にて春ころに連歌興行せしより、花本の好士と称して地下に名を得たる人多かりけり、されば後世遂に地下宗匠の美称とはなれり。当時宗紙の名天聴に達し勅して参内せしめ給ひ俗姓を尋ねさせ給ひしかば、卑賤の身なることを憚りて湯川政春が族なるよしを勅答す、湯川は本国の著姓にて政春は宗祇が門下なれば仮初にかくは申せしなり、後政春に此事を語りければ政春が面目なりとて深く悦びしより遂に湯川氏を冒せりとぞ、後東国に行脚して箱根山に卒し駿州に葬る。
英多《アガタ》郷 和名抄、在田郡英多郷。○今宮原村田殿村なるべし。英多は上田《アガタ》の義にて御県の謂なり、此地を古は荒田《アラタ》とも安田《アタ》とも呼びしに似たり、其説下に見ゆるごとし。○英多郷和名抄に見えたれど今は廃せり、又訓註欠たり、按ずるに英多は元県の義なり又|荒田《アラタ》皇女は日本紀応神天皇二年に見えたり、古事記には木之荒田郎女《キノアラタイラツメ》と書したれば荒田は本国の地名なる事疑なし、按ずるに霊異記に見えたる安諦郡荒田村と同所にて此皇女を封じ玉へるなるべし、然らば荒田は宮原荘などの古名にて此皇女の宮ありしより宮原の称起れるならむ。〔名所図会〕 ○万葉集に「安田部去小為手の山の真木の葉も久しく見ねばこけむしにけり」と云歌ありて、前後数首を参考するに紀伊国なる事疑なし。略解は「アタヘユクヲステ」と訓みて曰く在田郡英多郷即安田なり、へはえの如く読むべし、又名草郡|誰戸《アタヘ》郷あり其処にや、牟婁郡に今も緒捨山あり云々。小為手村はサヰテと訓むべく、今浜中村大字小畑に才《サイ》坂ありて宮原村へ通ふ山径とぞ。
宮原《ミヤバラ》 宮崎村の東に在り、北は蕪坂を以て加茂村(海草郡)に堺し、南は在田川に臨み、東は即田殿村なり。名所図会云、宮原は加茂谷より一里半|道《ダウ》村南村をば駅所とす、此地より在田川を渡りて中番村に至り糸我山を越ゆるを熊野道とす。姓氏録、右京諸蕃に宮原宿禰あり、此地より出でたる人にあらずや。康正二年造内裏段銭并国役引付云、五貫文畠山兵都少輔殿紀州宮原段銭とあり、又一本明恵伝云「元久元年良貞逝去了、彼中陰間、居住官原貞宗宅」とあれば湯浅一党なるべし、正応二年湯浅党結番次第に他門宮原荘とあり。
補【宮原荘】在田郡○名所図会 蕪坂を以て海部郡加茂谷の堺とし、六ケ村を総ぶ。○蕪坂王子杜 蕪坂の上にあり、御幸記に見ゆ。○玉坂 霊異記に見え、これ〔脱文〕○宮原駅 加茂谷より一里半、道村・南村・滝川原村と駅所〔脱文か〕
岩村《イハムラ・イハムロ》 岩村城址は名所図会云、今岩室の城跡と呼び、宮原道村の辰巳の方にて東村の岡の上に在り、麓より城跡迄登十町許あり、寛永雑記に云ふ畠山卜山の三男小太郎政氏始めて此城を築て政氏長男政国政能三代是に居る、政能是を滝川原に移すとあり、按ずるに此より先湯浅氏の築きし岩むらと云ふ城あり、この山巌むらがりて実に石むらといふべき形勢なればむろはむらの訛なるべし、一本平家物語云(寿永四年)小松殿御子息六人おはしけるも、爰かしこにて誅せられさせ給ひて、末の子丹波の侍従忠房とておはしけるが、讃岐国八島の戦に落て行方もしらざりけるが、紀伊国の住人湯浅権守宗重が許に隠居給へり、平家の侍越中の次郎兵衛尉盛次悪七兵衛景清などもつきたりけり、鎌倉殿聞召て阿波の民部大夫成良に仰て責らる、成良紀伊国に越て御所野(今詳ならず石垣の御霊野にや)といふ所に陣を取てひかへたり、此上熊野別当湛増法眼に仰て責らる、湯浅には究寛の城あり、岡村(今不詳)岩野(今詳ならず石垣庄に岩野川と云ふ所あり、嘉禎の四年の文書に見ゆ、合考すべし)岩村の城に五百余人楯籠る、此外湯浅が家の子郎等数をしらず中にも湯浅が甥神崎尾藤太(神崎は名草郡神崎村にや、又那賀郡竹房村も旧は神崎といへりしとぞ、東鑑に紀伊国田中池田両所を知行せし尾藤太知宣といふ人あり、同人にや)舎弟尾藤次婿に藤浪の十郎(湯浅系図に見えたる藤並十郎親なり)其養子に泉源太源三兄弟岩殿三郎宗賢など云ふ一人当千の人歩ども楯籠たる間、たやすく責落しがたし、湛増の頼切たる侍須々木五郎左衛門允(鈴木は熊野の著姓なり)以下多く討れにけり。(御所野は藤白に在るべし)
秦里《ハタノサト》 今宮原村大字畑是なり、蕪坂の下にて大字道村の北に接す霊異記に見ゆ。名所図会云、安諦の玉坂は霊異記に見ゆれども今詳ならず、道村の戌の方二十町許に海部郡と堺せる峠を小原越ともほけとう越ともいふ、ほけとうは宝篋印塔の訛なり、峠の西側に小庵ありて石地蔵を安ず是古の石寺の古事によりて後人の建し堂ならんか、霊異記に云
紀伊国海部郷、仁嗜之浜中村、海部与安諦通而往還、山有山道号曰玉坂也、従浜中指正南、而踰到乎秦里、当里小子入山拾薪、其山道側、戯遊木刻、以為仏像、累石為塔、以戯刻仏而居石寺、時々戯遊、白壁天皇之世、愚夫以斧※[急の上+ぼくにょう]破、棄之云々。
田殿《タドノ》 宮原村の東、生石村の西、在田川の両岸に跨り、南は藤並村に接す、旧は庄名にして御幸記及弘安正応等の古文書に見ゆ。大字|尾村《ヲムラ》に崎山氏と云旧家あり、湯浅党宗光の後裔にて、正応二年結番次第に「第一番田殿庄下方十六番田殿庄上方」とあるは是也、古文書を所蔵す。〔名所図会〕
補【田殿】在田郡○名所図会 田殿庄、十三ケ村を総ぶ、糸我の庄の東に在り、庄の名御幸記及び弘安・正応等の文書に多く見えたり。
○名所図会、湯浅入道宗重法師跡本在京結番事、次第不同、一番田殿荘下方、二番他門田仲荘、三番糸我荘、四番石垣河北荘、五番浜仲荘、六番他門宮原荘、七番石垣河南、八番湯浅荘、九番同荘多須原、十番他門六十谷紀伊浜、十一番芳養荘東西、十二番保田荘、十三番阿弖河莊上下、十四番他門木本東荘、十五番同西荘、十六番田殿荘上方、十七番他門藤並荘
右守結番次第無惰怠可被勤仕之状如件
正応二年十二月 日
内崎山《ウチサキヤマ》 田殿村大字|井口《ヰノクチ》に在り、今小庵を存するのみ、明恵上人高弁の古跡なり。元亨釈書云、高弁姓平氏、紀州在田郡人、二親詣仏嗣求子、母夢有人授柑子、尋而有孕焉、承安三年生、九歳父母継亡、従高尾文覚、読倶舎頌、不旬日便能誦、十許歳早事遊学、聞密乗於尊実、習雑事於景雅、附尊印学悉曇、十六就文覚剃落、東大寺有聖詮者、善賢首宗、請益日新、自爾止于北山栂尾、盛唱賢首宗、多所著述、承元二年還紀州、於内崎山創伽藍、四年又帰栂尾寂。(歓喜寺を参考すべし)
補【内崎山】井口村に在り、明恵上人の旧跡にて、山上に小庵を存す、近世四国八十八ケ所の拝所を作れり、元亨釈書明恵伝云、承元二年上人還紀州、於内崎山創伽藍。
崎山氏 世々中村に住す、湯浅宗光の後といふ、元暦以来の文書の古写数通を蔵む。
石垣《イシガキ》 中世の荘名にて、田殿藤並二庄の東にて四十四村あり、丹生氏文に石垣と云は此なるべし、湯浅党結番次第には河北庄河南庄の二に分ち、後畠山氏の邑と為る。今石垣|御霊《ゴリヤウ》生石《ウブイシ》五西月《ゴニシツキ》鳥屋城《トヤジヤウ》岩倉の六村と為る、金屋《カナヤ》市場(今鳥屋城村)は在田川の右岸に在りて、此一荘の首邑なり。
在田肉桂は石垣庄中に最多し、此樹は蜜柑に亜げる産物也。昔何の世にか市場村辺に鳥の糞より生じたる香木やゝ生たちたるを、土人仮初に皮を剥ぎて鬻ぎて若干の価を得、始めて肉柱の利益あるを覚り、其根の製法をも習ひ得たり、文化の頃より近郷にも多く培養して遂に一種の産物となれり、文政の末より天保に至りては山腰を開墾し地を争ひて植ゑ、一時に千万株を倒して諸方に運送せしかば価やゝ下落し、是よりして以前に較れば其益少しといへども大抵年々万金に及ぶといふ、其製法を問ふに年々三四月木の芽を出す頃に十年以上十五年許り経たる幹を倒して、悉く根を切り水に浸して土を去り婦女等槌を持て擣ち叩き皮を剥ぐといふ、山野処々に之あり香気烈し。
大乗寺《ダイジヨウジ》 金屋山新の西、御霊村大字|徳田《トクタ》に在り、此辺御霊野の古名あり、之に因み近年庄村徳田等を合同し御霊《ゴリヤウ》村と改む。大乗寺は浄土宗鎮西派の名藍にして、堂字は寛延三年再修す、寺中に陀祇尼天祠あり。○大乗寺開基法山上人初め金戒光明寺に住し黒谷の法流をうけ一世に名あり、永禄十二年熊野詣して在田郡宮原郷に錫を留め其宗風を弘めたりしに、領主畠山尚政此地鳥屋に居住し、当寺を建立、即上人を請ふて石垣庄中の真言宗を改宗させ或は廃寺を修理して其末寺とせしかば、今に至りても庄中三十二箇末寺あり、当寺旧は源性寺といひしに正徳六年故ありて今の名に改めたり。〔名所図会〕
補【徳田】有田郡○和歌山県管内地誌略 金屋徳田は大部落にして湯浅の東北殆ど二里にあり、有田川を隔てて相対す、徳田の大乗寺は有名の古刹なり。
大乗寺 下徳田村に在り、開基金戒光明寺法山上人は洛東黒谷の一世にて、法流に名あり、永禄十二年熊野詣して、当郡宮原の郷に錫を留め其宗門を弘めんとす。
鳥屋《トヤ》 今金屋市場中野中井原等を合同して鳥屋城《トヤジヤウ》村と云ふ、古の石垣河北庄にて旧湯浅党の領邑なるべし。南北乱以後は守護職畠山氏の奪ふ所と為る、
鳥屋城址は中井原村の東に在り、麓より登ること十八町許、本丸二の丸三の丸の跡あり、花営三代記云「永和五年二月十一日、差遣軍勢於石垣城之処、凶徒没落之由」云々と、旧南軍の築きしものなるべけれども、朝南暮北と定めなく移り変りしなるべし。花営三代記に拠るに山名義理が為に陥られて遂に武家の有となれるならん、其後畠山左京大夫満国(基国弟)是を保ち世々畠山氏の持城となりしに、大正年中豊臣太閤の為に落城せり、武徳編年集成にも石垣鳥屋の城主神保云云降参すと見えたり、神保は畠山の家人なり。〔名所図会〕
如意輪寺《ニヨイリンジ》、中野にあり、相伝ふ国主畠山氏城主神保氏当寺を以て菩提所とし、多く寺領を寄附ありしに、天正十三年両家滅亡の時其兵燹に罹りて諸堂尽く焼亡し、縁起旧記宝物まで皆灰燼となる、偶仏像の兵火を免れしを今堂中に安んず、畠山氏並に神保氏の位牌又石塔多くあり。什物に畠山植長朝鮮の役に得て当寺に寄する処の弥勒の画曼荼羅の図あり隆慶二年の跋文あり。〔名所図会〕
糸野《イトノ》 今|生石《ウブイシ》村と改む、鳥屋城村の北、田殿村の東にして生石川東より来り此にて在田川に会ふ。○名所図会云、延享三牛糸野村八部山|成道《ジヤウダウ》寺の境内に梵鐘を掘出す、文明十八年に鋳る所の鐘なり、又天文九年の涅槃会の由来記を蔵む、又明恵行状記に建仁元年湯浅宗光糸野館の内成道寺の後に両三人草庵を結びて上人を召請し、宗光の妻の病を加持したることども量荼羅供養の事等を載せたり。○糸野より名草郡別所谷に超ゆる嵬※[山/我]たる山腰に傍ひ、巌を穿ち石を削り辛くして小径を開通する所を岩戸関と云ふ、行人魚貫してこゝを過るに一帯の渓流※[さんずい+析]瀝として脚下に鳴る、幽韻限りなき地なり。
生石峰《オヒシミネ》 の 金屋駅の北東二里、山勢東西に亘る、山下の村落今合同して五西月《サシキ》村と云ふ。
秀餐楼集 垣内渓琴
傑石俊巌久所聞、如今看怪出神斤、亭々雲起三千丈、半是青苔半是雲、
生石の峻峰は延坂の滝の上方にして、山谷太だ雄渾なり、虎の壑に踞るに似たり、頂上に笠石と称する十二三間許の巨巌あり、那賀郡と在田郡の郡界にあたる、半腹に奇岩数多ありて雨後には処々に懸泉を成し頗壮観なり。
次之滝《ツギノタキ》 生石峰の下|延坂《ノベサカ》にあり、高七十五尋といひ伝ふ、熊野那智の大瀑の外当国に比類なし、銚子口の上十間計は岩の上を斜に流れ落て深淵を為せり。○或云次滝の末を早月《サツキ》川と曰ふと、五西月《サツキ》の名は之に因むか、後の補正をまつ。〇五西月村大字本堂に観音院興善寺あり、生石山と号す、永享二年の銘ある鰐口一口あり。
吉原《ヨシハラ》 今石垣村と云は此なり、金屋駅の南にして徳田大乗寺の東なり、在田村の左岸に居る。観喜寺は水を隔てゝ相対ふ。○石垣尾神社は即吉原村に在り、登ること三町許にしていとものふりたる社地なり、社地の後巨巌列峠して垣墻の如くなるより神号とせしなるべければ、直に石神を祀れるにてもあるべし、然らば庄名の石垣も此より起けるならむ。
歓喜寺《クワンキジ》 今石垣村の大字と為る、観喜寺は聖衆来迎山と称し高弁の上足義林房建立の精舎なりしが、後世衰頽して今わづかに草堂を存し、宗風改替して遺響絶ゆ。○名所図会云、観喜寺、上品堂は峰に在り中品堂は南に在り下品堂は本堂の側に在り、不動堂は中央の山に在り、所蔵の文書に建長七年妙門喜海寄附状、永仁六年沙門西仏寄進状、明徳三年寺領証文、永仁二年地頭源松石丸寄進状、建治三年宗弁浄林房へ遺言の書、長禄三年醸状等ありて古は梵宇も多く今の客殿の地は昔の金堂宝塔の跡なりとぞ、永録の頃浄土宗と為る。八所遺跡記に曰、石垣吉原の観喜寺は明恵上人誕生の処なり、義林房宣陽門院に子細を申入れ、此地を以て別納不輸の地として一堂を建立し観喜寺と号く、湯浅宗光の三男左衛門尉宗氏上人の遺徳を敬重し同心合力して土木の功を営む云々。明恵上人は父を平七武者重国といふ、母は湯浅宗重の女なり、承安二年吉原村の邸宅に於て此上人を生みけるとぞ、祝髪具戒し名を成弁と呼びたりしが後に高弁と改めけり、建久年中華厳宗興隆の事にて学徒等争論を起し、高雄山騒がしかりければ故郷に帰り須原村の後背なる白神峰に脩禅苦行の草庵を結び、誓にとて右の耳を割落して仏に供し、更に又石垣庄の山奥なる筏立といへる処に移住しけり、こは上人の叔父なる湯浅宗光が請申によれりとぞ、建永年中後鳥羽上皇院宣ありて新に栂尾一山を上人に賜ひて高山寺と号し、興隆華厳の一大浄刹とはなりぬ云々。○歓喜寺の東十余町、大字松原は在田川の上游下游の支界にして、水流此にて急湍をなす、之を松原滝と曰ふ。歓喜寺の恵心作弥陀木造立像一躯、又宮原村広利寺の十一面観音木造立像一躯、田殿村浄教寺の仏涅槃図絹本着色掛軸一幅、并に明治三十一年国宝に登録せられたり。
白馬岳《シラマダケ》 石垣村の東南より阿瀬川庄に山中に亘る大山なり、西に延ける余脈は鹿背《シシガセ》峠と為る、即有田日高の郡界を成す者なり。石垣村大字修理川より登路あり。
鈍白滝《ドシロノタキ》 石垣村大字宇井苔に在り、即|白馬《シラマ》山中に属す、高三十間二層に落下し、頗る壮観なりと云ふ。
岩倉《イハクラ》 石垣村の東、在田川の右岸に在り、粟生《アハフ》岩川《イハノカハ》立石の諸村を合同し今岩倉村と曰ふ。○岩倉明神は粟生村に在り、在田川の中流砥柱に似たる大岩是也、高六丈水勢之に激し奔流と為る、岸狭ばまり石出て風光はなはだ奇麗なり、蓋在田川の幽致此を推して第一と為す。
阿瀬《アセ》 これ国造本紀に「以天道根命為紀伊国造、即紀伊阿瀬直祖」(本書阿を河に誤る)と載する山谷也、在田川の上游、或は安諦と云ふ、今安諦村(押手)八幡《ヤハタ》村城山村|五《ゴ》村の四村に分る。或云在田川の発源地花園村は旧阿瀬川庄の中なりしを、後世伊都郡へ入れるならんと、中世は金剛峰寺領なりけるが文覚上人の知行となり又湯浅氏の手に帰せるより阿瀬川氏起る。
山保田《ヤマヤスダ》 名所図会云、山保田庄は石垣庄の東二十六村を総べ、郡の東辺にて東は伊都郡花園庄及び大和国吉野郡に堺す、四方山岳環擁して村落多くは川の左右に傍ひ或は谷々に別れたり、下流の保田庄に対して山保田といふ、古名は阿弖川《アテガハ》荘なり。東鑑に
元暦元年、紀伊国阿弖川庄者、大師御手印官符内之庄也、而今日自寂楽寺致濫妨、早停止彼妨、如旧可為、金剛峰寺領云々、又承久四年、湯浅兵衛尉※[人偏+稱の旁]得上人譲状、望申安堵御下文、宗光為御家人、有功之間、準新恩充給之旨、被成政所下文、
かくていつの頃よりか湯浅氏をして此地の地頭とせしむ、又建久八年僧文覚も此地の下司職となり、後場浅兵衛宗光に譲れり、事詳に高野山文書に見えたり。
丹生《ニフ》神社は日物川《ヒモノガハ》村に在り、大永八年戊子修造の棟札あり、其文に「奉棟上丹生四所大明神御地頚高野山奥院衆十二仁御宿老」とあり、又当社古写の大般若経三百巻を蔵む、全部六百巻を当村及大谷二川三村に二百巻づつ分ち蔵むといふ、第十七巻の未に「此経者是書写沙門行心一切経内也而為結縁釈尊寺住経尊之奉書帙也」とあり、又年号を書す寛治六年庚午十二月とあり、いづれの巻も此時のものなり。〔名所図会〕○日物川は今城山と改称す、楠本駅の南一里にて岩倉村の東なり。
楠本《クスモト》 今八幡村に属す、金屋駅より東三丁に在り、清水まで一里半を隔つ。北は一嶺を踰ゆれば那賀郡野上郷動木駅まで二里とす。
清水《シミヅ》 今|八幡《ヤハタ》村と改む、石清水八幡宮を鎮守とし其山上に阿瀬川氏の城址あり、八幡山と呼ぶ。○清水は土俗|寺原《テラハラ》と呼び、山保田庄中には此辺をば開けたる地と為すべし。按に丹生氏文に石床石清水|当川《アテカハ》など見ゆ、石清水は此なり、後世八幡宮を勧請したるも因む所あり、当川を阿瀬川と訛ることは、既に万寿二年那賀郡猿河郷の処分状に阿瀬川と見えたり、はた中古より下流は在田川と称ふれども上流は猶古名の阿弖川又阿瀬川ともいへる事古文書にも多し。〔名所図会〕
阿瀬川城《アセガハノシロ》址 今八幡山是なり、湯川南より来り山下にて在田川に会ふ、創築の事詳ならず、されど中世湯浅氏此庄の地頭にして、其裔孫六入道定仏元弘年中(一云元徳年中)河内国赤坂を守護せし時、所領紀伊国阿瀬川より人夫五六百人に兵粮持せて夜中に城へ入れむとせしを、楠氏に奪ひ取られ遂に南朝に降り、延文四年龍門山の敗軍に四条中納言隆俊卿及恩地牲川貴志田辺別当山本判官等と共に此城に引籠る事太平記に見えたれば其頃築きしなるべし。○残桜記に、文安元年後村上院第六皇子、上野太守説成親王の御子に前円満院門主大僧正円悟(或は円胤)法王と申ておはしけるが、還俗して義有王と名のり給ひ尊秀王を助けて大和河内和泉わたりの浪人をかたられて、是も吉野の山奥に接きたる紀伊国牟婁郡北山(尊秀王の御在所の北山に接きたる地と聞ゆ)といふ処に座まして御旗を挙げ玉へり、(南方紀伝に忠義王のごとく記せるは誤なり)やがて同国八幡城にたてこもり給ふ、武家大に驚き管領畠山持国入道等に下知して八幡城を攻させけり、城兵ども防ぎかねて其城をすて、頓て同国湯浅城にぞ立籠り給ひけりと見えたる八幡城も此城なるべし、牟婁郡北山を去ること達しといへども、此地東は大和国吉野郡と区域を接し山脈日高牟婁の両郡の地に連りたれば、各郡の士民間道を忍びて窃に志を南方に通じ宮を奉じ恢復を図りしなるべし、されど義有王の在しける北山といへるもおほらかなる書しざまなれば、実は牟婁日高在田の山村何処とも詳には知りがたし。○南朝遺史云、文安三年義有王兵を挙げて阿瀬川の城を堅固に構へ、敵に足を留めきせじと軍配を廻らし、鋭く討て出で馳せかゝり敵を寄せ付けず、足利勢度々の戦ひに敗をとる而已、散乱辟易して悉く敗れ漸々にして粉川寺(紀伊都賀郡)へ逃げ籠る、遂に足利勢阿勢川の城を囲み湯浅合戦となり城陥り王以下みな死す。○氏族志云、紀氏之族、有湯浅氏、平治之乱、湯浅宗重隷平宗盛、其子兵衛尉宗光、源実朝命賜阿瀬河地頭職、〔東鑑、平治物語、源平盛衰記、湯浅系図、仁和寺日次記〕故又曰阿瀬河氏、後醍醐帝時、阿瀬河入道定仏、従楠木正成勤王。〔太平記〕○名所図会云、土人伝曰湯浅権守宗重の後裔を保田三助友宗といふ、河内国高屋城主畠山秋高に属してこの城に居す、成時三助高屋に出仕せる留守に乗じ一揆起り此城を襲ふ、湯川直春双方を和解し一端事は静るといへども、三助宿憤の余天正十一年四月十日一揆の巨魁六十三人を誅す、その子弟是を憤り高野の僧徒を誘ひて此城を囲み大に戦闘ありしとぞ、後幾もなく豊臣氏の南征あり阿瀬河氏も絶ゆ。
湯川《ユカハ》 清水の東南を湯川谷と云ふ、二村に分る、今并に八幡村に属す。東界の山を日光山と曰ひ、之を以て十津川郷に相限る、其峻峰を白口峰と呼ぶ、日光明神は其南峰に在り。城森《ジヤウガモリ》山は湯川より日高郡龍神山地へ踰ゆる山径に当る、登り七十町にして札の辻といふに至る、即二郡の傍示処なり、高峻と雖温泉来往の人之を過ぐる者多し、祇南海龍泉紀行に曰く、
城森、山最高路最険、斗折※[虫+也]行※[手偏+門]羅而登、登九里始里山椒、風吹鬚髪、不可久憩、南下九里云々、
補【湯川】○源は大和国堺上湯川村領より流出て、下湯川・湯子川の二村を経て清水に至りて在田川に合流す。○温泉 湯子川の渓流にいさゝかわき出るを温めて浴すと云ふ、湯子は湯川の仮字なり、上湯川村に小松弥助といふ旧家あり、家伝にむかし小松中将維盛卿熊野にて入水と偽り、日高郡龍神村の奥杉谷の山中に蟄居し、後子孫この地に移り此地を領す。○日光神社 上湯川村の高山にあり、郡の東隅の高嶺を白口峰といふ、其南に一の峰巒崛起して、松柏※[草冠/翁]欝たる中に此社を祀れり。○城が森越は日高郡龍神へ越る道にして、下湯川の福井より※[足+齊]る事七十町にして札の辻といふに至る此を二郡の堺とす、此山高嶺なりといへども温泉への達絡なるを以て、尋常の山径に此すればやゝ広し。
押手《オホシデ・オシテ》 今|安諦《アテ》村と改む、清水駅の東北三豊なり、更に一里にして花園村に至り、又三里にして高野山に達す。丹生神社あり、板に刻める神体を納め、背に永享三年の願書あり。名所図会云、押手は土人|大志伝《オホシデ》と唱ふ、志伝と云大樹ありと、是は四手柳一名四手桜と云ふ喬木なるべし。
補【押手】在田郡○名所図会 志伝《シデ》乃木、押手村の入口にあり、一抱ばかりの樹なり、村名の押手をば土人おほしでと唱ふ、即この木によりて起れるなり、然るに或人万葉集に見えたる小為手山ををしでの山とよみ、此地ならんといへるは誤なり、押手村より東北を伊都郡柳瀬・那賀郡毛原の堺とす。○丹生神社 押手村にあり、本社二社とも神体を板に画けり、板の裏書あり、左に載す、社僧立福寺境内にあり、
右造立意趣者、願主現当二世諸願成就、皆令満足為也、相模国住人比丘詳□永享三年二月十六日
○今安諦村。
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吉川《ヨシカハ》 糸我山の南に在る村名也、今|田村《タムラ》栖原と合同し田栖川《タスカハ》の村号を立つ、無稽の名称と謂ふべし。○南山巡狩録云、畠山家譜、興国四年紀伊国の官軍玉置庄司貞頼いかなる所存やありけん、畠山国清に就て尊氏に降参せむと申程に、同国千佳名遠江式部大夫道倫が跡を貞頼にあたへられける、然るに幾程なく尊氏を叛きける故に畠山是をいかり貞頼を攻めむとす、是をきゝ湯浅八郎左衛門貴志御房丸恩地下野守等貞頼の後詰をなし吉川表にて合戦に及び、大に畠山が勢を打破ると云。(貴志氏は保田庄司なり)○吉川は一名|逆《サカサマ》川と曰ふ、本郡は流水の大勢皆西に向ふも此地の水は東に向ひ転析して湯浅浦に注ぐ、細流なれど熊野街道糸我山の下なれば古より其名著れ、後鳥羽院御幸記に載す。
きゝわたる名さへうらめし熊野路や逆川の瀬をいかにせむ、〔夫木集〕 民部卿為家
栖原《スハラ》 今田栖川村の大字なり、宮埼の海角を去る東へ二里、湯浅湾に臨む。蓋古の那耆野《ナギノ》の中にして栗栖村とも呼べる地なり。(那耆野参照すべし)湊浅党籍番次第に湯浅荘多須原と記す、多は今田栖川村.大字田村にして、栖原の西に接す。補【栖原】○名所図会 田村の谷々に蜜柑と交〔ママ〕へて植ゑたり、味極めてよし、和歌山を始め京摂或は四国中国に運送する事年々三万籠に余ると云ふ。
田村《タムラ》 名所図会云、湯浅宗重の九男森九郎景基は田村須原等の領主なりし事古文書に見ゆ、国主《クニシ》神社在り。
国主《クニシ》神社 田村に在り、蓋国主は栗栖の訛なり、湯浅村|顕国《アキクニ》神社(田中の地に鎮座)も此神を勧請せるにて国津《クニツ》神とも唱ふ、国津の祭礼は湯浅庄の一盛観なりと云ふ。
九月南中察土神、青龍白虎画旗新、満路紅塵玉總(馬偏)躍、万人争見鉄衣人、 菊池 渓琴
名所図会云、国主《クニシ》神社は古くより久授呂《クズロ》宮と云ひつたふ、久授は国栖《クズ》にて呂は助語なるべし、寛文中の古記に上古吉野の国栖入来りて此地に祀る所と云へり。○按に国主栗栖国栖の三語は古人相通じて同義となせるごとし、続紀「天平神護元年、名草郡大領紀直国栖」と云ふは「紀伊国神名帳、名草郡、正一位紀氏栗栖大神」と相因む所あらん、又栖原は栗栖原の略名にやとの按を那耆郷の下に出せり、国柄は必しも吉野に限るべからず、丹生家譜并に天野社記に国主神の名多く見え、謂ゆる地主神也。 海上書感 渓琴
熊海南折風涛悪、雷雨日夜驚鮫鰐、舟子船郎伏無声、孤客欲度膽先落、空洋望断摩秋眸、豫山超々天未緑、
登古碧楼 藻琴
天外数峰遥翠空、新秋海気拭青銅、鳴門晴落千帆影、木園秋生万樹風、明晦景帰詩筆下、登臨感在酒盃中、故人寂莫半黄土、隔水幽蘿古梵宮、
補【顕国神社】湯浅村の田中にあり、当社はいつの世にか栖原田村の国津神を勧請せし者なり、毎年祭札九月、馳馬あり、頗る盛観なり。
○紀州湯浅には上部侏羅層の植物化石を産す(白堊、下部植物化石)○貝化石 西広村巽の山にあり、蛤の化石多く、螺の化石少し、色理堅※[車+而/大]同じからず。
白上《シラカミ》 栖原山の一名にして、磯をも白神磯と呼べりとぞ。春日権現験記に、明恵上人紀伊国白上と云所に在しけるに、梛氏女と云もの建仁二年上人の渡来を停止せしめん為に、大明神の託宣を蒙る事を載す。
補【白上】○万葉集〔九〕大宝元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇幸紀伊国時歌
湯羅乃前塩乾爾祁良志白神之礒浦箕乎敢而※[手偏+旁]動
按に古牟婁温泉御幸道は、今の糸鹿山の官道より西に〔脱文〕
施無畏寺《セムヰジ》 白上《シラカミ》山下、即栖原浦に在り、真言宗栂尾高山寺に属し明恵上人の開基、由緒明白の精舎なり、建久六年創始とぞ。○明恵上人伝云、建久六年の秋衆中の交を辞して高尾山をば出て、聖経を負ひ仏像を荷ひて紀州に下向して湯浅の栖原村|白上峰《シラカミノミネ》に一宇の草庵を構へて心住す、其山の様、峰巒は※[山/及]※[山/業]として、碧石聳え、前は西海に対し、雲涛渺茫として眼界窮め難し。 当寺は明恵上人練行せし白上峰の麓にて「当初森の九郎景基此地を卜して一堂を建立し、上人を屈請して供養の梵蓮を巣原浦に展べ、上人の滅後に弟子高信彼の影像を安置し奉り、并に三部華厳光明真言を施入し義林房に田一処を寄付す」と八所遺跡紀に見えたり。僧坊は堂舎の下にありて西南の海に面し、毛無苅藻の島々は手にも取る可く、鷹島黒島は稍々離れて共に此霊場の佳景を加へ、浪の響き松の声馴れ更に懐旧の情を起せり、又藤原景基が寄付状に、郡中一門四十九員交名を書連ねて上人加判せる寛喜三年の文書、及び遺物の宝剣五鈷等皆尋常の物ならず、其他古証文古券数百通を蔵したれば好古の一助ともなりて、文雅風景兼備の精舎なり。〔名所図会〕
楢原は紀州豪富の淵叢にして、皆是れ陶朱※[獣偏+奇]頓の徒なり、されども所謂江戸棚持なれば、売買貨殖の産業は彼地にて営々し、此には之を見ず、故に邑中第宅の美麗人目を驚すも、却て瀟洒として市気なきを怪むと云ふ。
霞峰新製釣舟、命曰随鴎、※[しんにょう+激の旁]余同泛栖浅之間、是日也風烟清美、海山如笑、予乃倣張志和詞、聊嘱蕪辞、以代四時棹謳云、 海 荘
春江日清柳花飛、一※[舟+可]随流猶未帰、漁歌遠村笛微、水風吹上緑蓑衣、雨笠烟蓑随白鴎、桃花夾岸水如油、酒盈※[木+蓋]魚上鉤、不須和夢説滄洲、白神山下黒雲開、蒼※[骨+鳥]州前白雨来、風料※[山+肖]浪喧※[兀+豕]、鳴門潮勢雪為堆、孤舟風露湿雲巾、緑酒黄柑魚似銀、張志和賀李真、江山自古属閑人、
温笠《ユカサ》郷 和名抄、在田郡温笠卿.○今湯浅村広村等に当る、延喜式には温笠駅馬八疋とあり、当時此より阿波国へ官使の航路ありしにや。後世は温笠を湯浅に訛る、御幸記〔後鳥羽院熊野詣〕云、湯浅入江辺、松原之勝景、奇特也。
補【温笠郷】在田郡○和名抄。○今湯浅村、広村、南広村、津木村。
湯浅《ユアサ》湾 水路志云、此湾白埼と宮埼の間にあり、湾勢は其両側順次に狭縮して湾首に至り湯浅浦となる、浦中水深七尋乃至八尋、泥底の処を錨地とす、西微南より来る風の外能く各方の風を防ぐ、湾首沙浜の南端小村落の附近に一防波堤あり、広浦と称する一浅澳を形造り和船の繋泊地となる、鷹島|苅藻《カルモ》島及二三の岩ありて湾面を掩ふ。
明恵上人伝云、当初上人一の島に遊び給ふ其名を苅磨と云ふ、月に伴ひて船に乗り風に任せて島に渡る、無情の漁父釣客、遊覧の興を催さずと雖、歴緑対境して其心をすゝめざるはなし、此島は東西長く南北短し、陸地より一里許を隔て海中に峙てり、又南二十町許を去りて鷹島久札島あり、西方は海畔大虚と連れり、西天の境隔なければ恋慕の思を通ずるに便あり、大人と道忠僧都并に嘉海と三人相共に彼の島に渡り、南端の西面の洞に纔に数枚の板を差掛けて、仮りに草庵に擬す、西に向ひて釈迦像一軸を懸け奉る云々。
湯浅《ユアサ》 同名の湾頭に在り、郡中の大村にして今郡衙を置く。南は広村と云ひ人家相櫛比す、和歌山を去る十一里半、熊野街道の衝に当る、旧字温笠に作る。○湯浅は広浦を港泊と為し商賈富豪多し、戸数二千紀州の盛邑なり。醤油醸戸あり、世に湯浅醤油と称し遠国に運送販与す。
湯浅駅は熊野路の咽喉に居り市部旅舎軒を連ね往来常に絡繹たり、海辺は遠近の商舶風に従て出入、蜑戸の漁艇は艫声※[口+伊]※[口+軋]として更に間断なし、実に海陸輻輳の地と云ふ可し、昔湯浅氏此地に居し頃、甲冑の良工ありて其四方に聞えしことゝも古書に見え、もとより尋常の村落にはあらず、況んや天正年中海浜に石垣を築き入江の松原を開きしより以来商賈市街をなして千戸に及び、遂に郡中の都会とはなれり、故に建保建仁の頃和歌の御会ありし行宮、元久元年に涅槃会を修せし宗景入道が石崎の館など市街の塵に埋没して今これを尋ぬるに由なし。〔名所図会〕○異制庭訓往来云、鎧者※[金+瞿]縄形剣首竹角等、一向違古体、宗当世様、召寄紀伊国湯浅、乃至洛陽辺、聞候物具細工共、自核調至為立、随分認手砕心、所結構也。太平記西院本、主上山門臨幸条云、湯浅荘司進出て申けるは、威毛こそ好み候はね共、我等が手づからため拵て候物具をば、如何なる筑紫の八郎殿も左右なくうらかへする程の事はよも候はじ云々。
建保四年八月廿日五首、御熊野詣路次当座和歌、湯浅宿、(録一)
おなじ秋のたか里に先詠むらん高き峰よりいづる月かげ、〔御集〕 後鳥羽院
深専寺《シンセンジ》○宝徳年中明秀上人草創、湯浅の邑主白樫左衛門尉法名秀月宗悦の建立とぞ。平賀鳩渓の物類品隲に、湯浅深専寺|膽八樹《ヅクノキ・ホルトノキ》の大木あり、高七八丈囲一丈七尺と見えたるは、今尚枝葉繁茂せり。
薫籠火老麝煙乾、柳外軽風吹不寒、深専寺畦人如海、満院香雲拝涅槃、 垣内 霞峰
浅浦詞 垣内渓琴
軽雨初晴微月浮、西台寺畔緑蘋洲、春漁上鉤春潮緩、好載阿矯進細舟、三郎両祠漁人居、二月春江潮上初、生石東風猶送雪、家々争罟膾残魚、(生石山名)酒罷江楼日末斜、嬉春正属野僧家、香囲粉陣帯歌過、護国山頭花似霞、一曲繁絃標有梅、唱得街頭去復来、蝶思蜂情狂苦海、龍麝香滑漆雲頽、(標有梅、士女中元踏歌中詞)安諦吉利一郡柑、千船峨々積青籃、到日都人応相語、載釆霜気満雲帆、舟子船郎水上扉、朝来暮去約幽期、海煙不隔繁華夢、争唱浪華新竹枝、
補【湯浅】○名所図会 湯浅荘七ケ村を総ぶ、其中吉川・湯浅の二村官道にあり。○吉川村 糸鹿山の南の麓にして、村中を貫き官道を通す、此村旧|逆《サカサ》村と云ひしに後世唱を忌みて吉川と改む、施無畏寺蔵正平九年の文書に見ゆ、郡中の川皆東より西に走るに、特に此川西より東に流るゝを以てサカサマ川と云へり、御幸記に水逆に流河と云へる、即是なり。〔吉川、参照〕
湯浅館《ユアサノタテ》址 鍛冶屋町の北に殿屋敷と云地あり、此墟は即湯浅氏累代の故居にして、石崎館と云者か。湯浅氏は大日本史氏族志には紀氏の族と為す、中世以後は藤原姓を冒称し紀伊国の名家たりき、源平争奪の際に権守宗重あり家声之より大なり、南北朝の時愈著る、已にして衰へ山名畠山入国以後屈して振はず、文安中南朝の皇孫を此地に奉じ兵を挙げしが克たず、皇孫以下戦歿し湯浅氏遂に散亡す、畠山氏其邑を収め其家人白樫某を置く、天正十三年豊臣氏の南征するや白樫の裔孫尚在りしと云ふ。○史学雑誌云、湯浅氏は紀州在田郡に住居しける土豪にて、鎌倉時代以前には極めて微々たる地侍なりしが如し、然るに治承寿永乱に宗重源頼朝に党し勲功あり、又義経出奔の際にも其節を変せず、是を以て頼朝に信任せられ漸く家門を興せり、湯浅氏の史に顕はるゝは此時を以て始とす、崎山文書に其証歴々たり、湯浅系図にも宗重を以て始祖とし姓氏不詳とさへ記せり、紀伊国続風土記に「源頼光の末孫に安田荘の地頭職忠宗の子権頭宗重、湯浅城(今有田郡青木村に城址あり)に居るを以て湯浅を取り氏とす、荘名は阿弖川の阿弖の転訛なる安田《アタ》を誤読してヤスタとし、之に保田の二字を填充したるなり」との説あれど、正応二年十二月宗重跡在京結番次第にも保田荘と阿弖川上下荘を並挙げ、又鎌倉時代の公文に拠れば湯浅総領は藤原氏なり、是又以て如何あらん。之を要するに阿弖川荘(又阿底川安世川に作る)は弘法大師以来鎌倉時代を通じて金剛峰寺の本所領にて、宝簡集に明かなり、文覚上人之を湯浅宗光(湯浅総系図に拠れば宗重四男にあたる)に譲与してより湯浅氏は高野領世襲地頭の家と為りしなり云々。名所図会云、紀州湯浅氏は藤原を姓とす、諸藤氏の内何れより分れたるを知らず、世々此地に居して武勇を以て称せらる、康和元年藤原宗長と云ふ人始めて粉川寺の縁起に顕ると雖、其後平治年間権守宗重の名天下に聞ゆるを以て皆宗重を祖とす、宗重の子孫蕃殖して数十家に分る、寛喜三年郡中一族の連署に五十人許の姓名を載せたるにても其盛なる事を概見すべし、鎌倉以降北条氏執権の時にも、此一家一門京都の辻固をなして朝廷を警固せり、(太平記評判に、伝云頼朝の代より大番役に準へて、西国より京中の辻々四十八箇所へ篝を立て一篝の役人数五百人なり、紀伊千人とあり、)南北の兵乱に孫六入道定仏の名あり、今藤並の崎山某が家に古系図古文書を多く伝ふ、中にも奇珍なるは、
湯浅の入道と申候者は文覚坊に就きて素より志し候者にて候なり定めて斯様の時は紀の国なんどにぞ候らん御使を遣はして京へ召して安堵すべき由仰せ含めてめしも遣はせ給ふ可く候又はだうせうのおんばうなんど尋ねまゐらせておはしまさば斯様に湯浅の入道が事をば鎌倉殿より仰せられて候と披露し申し給ふ可く湯浅入道にも文覚坊の申させ給へばはうしんある可き由候など披露し給ふ可く候恐々
元暦元年二月四日 在御判(頼朝)
九 郎 殿
追申返々も湯浅入道をば如何に申共打せ給ふべからずいと惜しく仕給ふ可く候也
湯浅城《ユアサノシロ》址 湯浅村の東|青木山《アヲキヤマ》に在り、湯浅権守宗重の所築とぞ。平家物語一本に、小松殿(重盛卿)の子息の一人丹波侍従忠房八島の戦より身を脱して湯浅に隠れしに、鎌倉殿より阿波の民部田内成良に討手を命ぜられし事を載す。宗重は当所こそ平家方なれ、八島合戦の頃は已に源氏に帰附したりと信ぜらる、不審の事なりと謂ふべし。(岩村参考すべし)○外史云、後村上天皇子泰成、生円胤、為円満院僧正、蓄髪更名義有、嘉吉三年、楠二郎之弟某、奉義有起兵、拠八幡、迎撃畠山氏兵、大破之、細川氏来攻、楠氏不利、退入紀伊、拠湯浅城、文安四年冬、畠山氏将遊佐来攻、城終陥、義有遇害、楠某死之。(阿瀬川庄清水八幡の条項を参考すべし、義有王の始末異説多し)残桜記云、文安元年八月、管領畠山持国入道紀伊の国人等に下知して宮の八幡城を攻させけり、城兵ども防ぎ兼て其城を棄て、頓て同国湯浅の城にぞ楯籠り給ひける。○又之より先き南朝天授元年に当り、宮方湯浅没落の件あり、此頃より湯浅氏は衰へ遂に南朝と最期を同くしたるごとし、
花営三代記云、永和元年九月廿五日、紀伊国所楯籠之宮方没落之間、翌日守護人已下攻入在田郡(湯浅等)之間、所々宮方城没落云々。十一月五日夜、紀伊国大将細川兵部大輔使者到来、去二日凶徒打取之間、合戦大将引籠移云々。
別所《ベツシヨ》 湯浅村の東|青木山《アヲキヤマ》の南を云ふ、後白河天皇勅願所満額寺の旧址あり、満願寺は法性寺に属せる山寂楽寺と云者と同じかるべしと。別所とは寺院所在の別境を指す、諸州に其例多し。
護国山満願寺は後白河院の勅願所にして、光秀上人の開基なり、昔は七堂伽藍三十六坊ありしに、天正の頃高野山の僧木食興山上人豊太閤に乞ひて、本堂は山城国醍醐へ、本尊は高野山、二王は熊野那智山へ引移せりと云ふ、今纔に堂舎あるのみなり。奥の院を別所山薬師院勝楽寺と云ふ、頽廃の後浄土宗となる。今按ずるに正応二年法性寺末寺在田郡寂楽寺と高野山と阿弖川庄を争ひ関東に訴へし事あり、所謂寂楽寺は此寺の事ならんか、当寺より勝楽寺の辺に堂塔の名二十許田地の字に残れり。〔名所図会〕
広《ヒロ》 旧庄名にて、東鑑文治二年の条に 「紀伊国広由良荘、蓮花王院領」とあり。(由良は日高郡なり)今広村南広村津木村の三に分れ、広村は即広浦と云ひ湯浅湾の埠頭なり。安政元年十一月地大に震ひ、広村の全土殆んど破壊し、水退くと雖ども人心※[さんずい+匈]々、邑人浜口梧陵同族吉右衛門と謀り官に白して自ら費を出して堤防を造る、其の長さ凡そ十五町横八間なり、其他梧陵の率先して業を導き利を興し、或は橋梁を修し、或は道路を治する等、一にして足らずと云ふ。
江隈竹枝詞 渓 琴
南岸垂楊北岸花、春流一帯媚紅霞、絃歌細々微風砕、鴉子津頭売酒家、鰐魚風起片帆低、日落孤礁海鹿啼、潮信如斯郎莫渡、就中嶮悪是白犀、江隈十月欲氷時、魚少寒宵上網遅、江柳煙衰痩難掩、江郎生計細如糸、風光入眼忽鎖神、紙幟紗燈出閭門、白首翁媼揮涙立、倩僧臨水祭冥孫、
補【広】○名所図会 広荘は湯浅の荘の南にありて十六ケ村を総ぶ、広の名東鑑文治二年の条に見ゆ。広川は源津木谷の奥より流出て諸村を経て広・湯浅二村の堺をなして海に入る、南峰を広とす、広村も亦市街をなして尋常の村落にあらず、或書に永禄年中畠山紀伊守高政、紀泉の諸卒を率ひて河州飯盛を攻むるとて、広浦より兵船出帆すと云へり。
広城《ヒロノシロ》址 村東に在り土俗|高城《タカシロ》と呼ぶ、畠山氏の築く所なり。永禄中、畠山高政広村に居ること阿州将裔記に見ゆ。同書に曰く、畠山右衛門督高政、前将軍の時より牢人して紀州広といふ所に居けるを、義輝将軍より密かに免状をさしつかはし、三好実休を可討由被仰付、高政と細川三好家は年来の讎敵なるゆゑ也。高政畏て紀州諸侍熊野根来までかりもよほし其勢一万五千余騎、永禄三年二月下旬に紀州を立て先泉州岸和田の城を攻、是は阿州より実休をおびき出すべきとの謀なり。岸和田の城は実休上洛中やどりの城、舎弟安宅摂津守をこめ置けり、案の如く此由を聞つけて阿州より実休人数を引つれ後巻仕る。さて久米田といふ所にて一戦に打負、同年三月五日に実休自害す、依之高政忽に運を開けり云々。
秋日登薬師寺、々畠山之故址也、 渓琴
偶過山氏址、風日属荒涼、蔓草封遺塁、帰雲擁山房、樵歌雑鳥哢、牛笛送残陽、無限登臨感、茫々入酒腸、
応永六年、畠山基固朝臣当国を領し、名草郡大野城を築き、遊佐豊後守入道同民部を守護代とす、其後此城を築きて本城とす。{郡中、石垣鳥屋が城宮原岩室、名草郡岡城同大野城等を附城とすと云へり)基国朝臣五世の嫡男尚順入道(卜山)明応年中より天文年中まで此城に居す、天文三年、湯川直光勘気を蒙りしを恨みて、南部の浪士をかたらひ火をかく、卜山は船にて淡州|須本《スモト》浦光明寺に奔ると云ふ、永禄の比は紀伊守高政此に居りき。〔名所図会〕
広八幡宮は大字中野に在り、応永年中梅本覚言勧請、覚言は畠山氏の家人ならん。社畔に造陶の窯あり、文政十年より此業を創め磁器を造る。○養源寺は広村の北に在り、日蓮宗を奉じ、宝永四年有徳公(吉宗将軍)潜藩の比当寺の大黒天を拝し堂宇の修造あり、因りて出世大黒と称す、此像は日蓮題字大蔵卿法印某の画なり、近世肥後の海船画幅を獲て帰航の時風浪に会ひ之を広浦に留めて去れる者とぞ。
名所図会云、広八幡宮の棟札に依るに天文以前は此地門部家などの御領なりしに、天文の頃より湯川氏此地を領して始めて別当寺を置きたり、天正十三年豊臣氏南伐の時兵燹に罷り社領も亦没収せらる、慶長六年浅野氏社領十石を寄せらる、神庫に蔵むる所古写の紺紙金泥の法華経及び大般若経の古写六百巻あり、巻末に康暦永徳至徳等の年号を記す。
広村の西南に貝の化石を産す、蛤螺等に類せる者なり、色理竪軟種々ありて同じからず。地学雑誌に湯浅に朱蘿層の植物化石を産すとあるも、此地の事とす。
補【広八幡宮】○名所図会 中野村にあり、応永の頃此地の土豪梅本覚言と云ふ者あり、其領せし地を神地となして社を遷し奉ると云、応永二十年癸巳二月造営の棟札あり、此時始て此地に遷せるなるべし。
男山陶器場 広八幡宮の境内に蟠りて東西百間、南北五十間の地を陶器場とす、此地当庄井関村の産利兵衛と云者発願し、文政十年十一月廿五日官許ありて陶器を製せしより年々隆になれり、磁器の質は伊満利焼の陶に似たり、近郷庚申山の石を以て製すと云ふ。
補【養源寺】○名所図会 広村の北端にあり、法華宗不施派なり、当寺の大黒天は大蔵卿法印某の画にして、祖師日蓮の讃したる一軸なり、其由来は二百年許以前肥後国の廻船難風に遭ひて殆ど覆らんとせし時、舟中に此像を持てる者ありて一身に祈念せしに、難なく広浦に着しぬ、水主等当寺に来りて此事を語り、大黒天の此地に留らんとする意ある故ならんとて、当寺に納むと云ふ、有徳大君御潜藩の旧、宝永四年此像と御覧あり、本堂及び諸宇を建てしめ給ふ、是今の堂舎なり、斯くて将軍の台位を践せ給へりとて、世に出世大黒と称へて遠近の人々尊崇大かたならず。
鷹島《タカシマ》 湯浅湾の中央、稍南に在り、周回三十町、西広埼より二十五町、船を寄すべき泊所あり、地浦と呼び能く北風を防ぐ、西面を堂浦と云ふ、明恵上人結庵の古跡あり。(湯浅湾を参照すべし)
われさりてのちに忍ばん人なくば飛てかへりね鷹島の石、〔玉葉集〕 高弁 上人
補【鷹島】○名所図会 西広村の地|方《カタ》より二十五町にあり、島中に地浦と云ふ湊あり、北風の時に船繋す、西面を堂浦と云ふ、明恵上人建立の観世音堂の跡あり〔玉葉集、略〕
鹿瀬山《シシガセヤマ》 広村(在田郡)と内原村(日高郡)の界嶺なり。相伝ふ昔は鹿瀬庄司ありて熊野八庄司の一なり、其地は即広村なりと。
鹿瀬山は広村より一里許にして頂に至る、一名井関山と云ふと。元亨釈書には肉背山に作る、曰釈円善遊熊野、於肉背山卒、其後沙門壱睿、行宿山中、中夜聞誦経、天明無人、傍有骸骨、口中有舌如紅蓮、曰我生平起堅誓、誦法華六万部、存日纔半数而天、願力不抜、尚謂経耳云々。○名所図会云、井関八郎(道命法師)は此地の人なるべし、又壱睿法華壇は峠の艮に碑を立て古跡をつたへり。
流れいづるなみだばかりをさきだてゝ井せきの山をけふ越ゆるかな、〔新続古今集〕 道命 法師
玉海云、治承四年九月三日、伝聞、熊野権別当湛増叛謀、人家数千、鹿瀬以南併椋領了。又五年九月廿八日伝聞、熊野法師一同叛了、切塞鹿背山。○大八洲遊記云、天正十三年、豊臣氏南伐紀、湯川直春、与熊野諸家合兵、拠此険拒北軍、北軍諸将、夜窃乗船、出其背、直攻直春居城小松原陥之、直春軍背顧不戰而潰云、近年大加脩治、而不能通車、嶺路険難、似陟鹿背、故名。
宿鹿菅山下 祇南海
昨夜雨※[竹/逢]鉛海煙、峰廻路転上青天、江山未許還家夢、才過波濤又石泉、
補【鹿瀬】○名所図会 鹿瀬庄司は熊野八庄司の一と云ひ伝ふ、今鹿ケ瀬あり、荘とは広荘にやあらん。
鹿瀬山 在田日高の二郡の境なり、坂道欝莽たり、峠まで躋ること二十一町〔南海集、宿鹿背山下、祇園源瑜詩、略〕
松廬遺稿 野呂隆訓
夢入梅花憶旧遊 吟装更逐冷雲流 春風可笑客衣敝 孤剣又過鹿背岡
井関山 鹿瀬山の一名なるべし〔新続古今集、略〕今按、名蹟考に此人〔道命法師〕熊野へ参りし人なれば其時読けるならんと云へり。
鹿背城址 峠の茶屋より西の方数歩にあり、海部郡衣奈・由良の海湾眸中に入り、在田日高の地も大半遠望すべし〔玉海、略〕(詳には熊野別当次第の末に見えたり)
法華壇 鹿瀬峠の艮一町余にあり、旧地今畑となり、碑を立て表せり〔元亨釈書、略〕
日高郡
日高《ヒタカ》郡 北は在田郡、東は西牟婁郡及和州十津川郷に至る、西南二面は海洋を控へ、紀伊水道と熊野灘の交界を日御埼(比井埼)と曰ふ、日高川は郡の中央に盤旋し、御坊《ゴバウ》村に至り海に入る、村落田野は皆水に沿ひ平地ある少し、南北凡七里東西凡十一里。○今人口十万、三十七村に分れ、衙を御坊に置く。日本書紀云「神功皇后、自新羅還之、向京、聞忍熊王起師以待之、南詣紀伊国、会太子於日高」と、此日高行宮の遺跡は衣奈《エナ》村に之を伝へり。続紀「大宝三年、令紀伊国、阿提飯高牟漏三郡、献銀也」と此|飯高《イヒタカ》亦日高に同じ。統紀、天平宝字八年の条には氷高評に作る。和名抄、日高郡訓比太加、六郷に分つ。南北乱の比より湯川氏本郡の豪族を以て四隣を威摂したりしが天正十三年亡滅す。
補【日高郡】○和名抄郡郷考 今按、続紀大宝三年五月令紀伊国奈加名草二郡停布調献糸、但阿提飯高牟婁三郡献銀也、当時飯高と唱へしを後に日高と改たまりたるかとおもへども、神功紀に会太子於日高とあれば、日高もいたく旧し。続紀天平宝字八年七月伏奉去年十二月十日紀寺奴益人等訴云、紀袁祁之女粳売嫁木国氷高評人内原直牟羅、生児身売狛売二人(今按かくある評は郡にて、即ち日高郡を氷高とも書たるなるべし)
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余戸《アマベ》卿 和名抄日高郡余戸卿。○余字餘の俗通にて版本に全に作る、非なり、今|南海部《ミナミカイブ》と曰ひ六村に分る。近世は南海部郡と称し衣奈由良二荘に分ちたる事もありき、名草の北海部に対比したる也、白埼日御埼の間なる海村なり。
補【南海部】○名所図会 在田日高両郡の間に挟まれ、衣奈・由良二庄に分る、海部三庄の一なり、此地南に去ること最も遠きを以て、今は日高郡に属して俗に南海部と云ふ。
衣奈《エナ》 白埼《シロサキ》の北にして、湯浅村(有田郡)の西南に連る。衣奈|小引《ヲビキ》の二浦に分れ、海上に黒島と云ふ岩嶼あり。此地は応神天皇尚孩提にまします時、武内宿禰抱き奉り南海を横絶して着船したまへる日高行宮の旧跡とす、衣奈は胞衣《エナ》の義にや、筑前国に字※[さんずい+彌]八幡宮あり、江奈八幡宮と相対比すべし。
衣奈八幡宮《エナハチマングウ》 衣奈村大字衣奈浦の岡上に在り。応神天皇武内宿禰に抱かれたまひ筑紫より南海土佐沖を横絶し着船したまへる日高行宮即此也。日本書紀云、神功皇后、自新羅還之向京、聞忍熊王起師以待之、命武内宿禰、懐皇子(応神)横出南海、泊於紀伊水門、皇后南詣紀伊国、会太子於日高。○按に古書紀伊水門は紀川口に徳勒津と云ふに同じかるべしとも曰へり、而て此に紀伊水門とあるは日高の由良港なるべし、続風土記には海部郡の木本《キノモト》八幡宮を天皇来泊の紀伊水門(即徳勒津)の古跡と為す、不審。○名所図会云、古老伝曰、昔応神天皇の御船当郡大引浦に着し、夫より上陸し給ひて此地に行宮を建て、しばし坐しければ、土人尊びて其遺址に神宮を作り、後世衣奈御園の八幡宮と尊崇奉る、尋常勧請の社地とは類を異にす、衣奈八幡宮縁起は花山院明魏大徳(長親卿)の詞書にして画様亦非凡の絵巻なり、応永九年の所造にて当社に蔵む。
延久四年太政官牒〔石清水文書〕
海部郡 字衣奈薗 水田肆町陸段
石本寺注文云件薗五月五日御供和布并放生大会柱松所勤仕也者勤所進文書云去天元四年国司判状免除件治田壱町弐段余官物租税者其後代々国司肆町已下随見作勘免云々
黒島《クロシマ》 衣奈浦の沖十町許、周回三十町、湯浅浦の高島と相対す。明恵伝記に苅藻島より南に久礼島ありと云へるは此を指せる也、南面に舟を容るべき洞窟ありて深四十仞、中に一石立つ仏《ホトケ》石又チヨボ石と云、大人の長揖する状あり。又衣奈浦の陸岸に十九島《ツヅシマ》と呼ぶ危礁あり、水中聳立研山の趣を備ふ、蓬莱と号す。
補【黒島】○衣奈浦より十町余の海中にありて、有田郡の鷹島に対せり、周廻三十町許にして樹木欝茂せり、明恵伝記に苅藻島より南に久礼島ありと云へるは此島を指せるなり
仏《ホトケ》石 黒島にあり、島の南面に巌窟ありて、窟中の巌欠のこりて其形人の立てるが如し、土人仏石又はチヨボとも云ふ、窟中まで亦通ず、
戸津井浦 海面に聳然として宛も研山の趣きを具ふる者之を十九《ツヅ》島と云へり、東南は地方に接し、其間断相狭まりて纔に一溝隔るに似、一躍せば踰べくおぼゆ、されども満潮の時は通船快く茲を往来す。
白崎《シロサキ》 衣奈村大字小引浦の西南に突出するを白埼と言ふ、崎南に大引浦あり、今白崎村と改む。○水路志云、白埼は由良港の西隣、大引浦の北角にして石灰石より成り雪白色を呈す、故に此名あり、海瀬島《アシカジマ》は碕西四鏈の処に在り。
大宝元年辛丑冬十月、太上天皇(持統)大行天皇幸紀伊国時歌、
白崎は幸きくありまて大船にまかぢしじぬきまたかへり見む、〔万葉集〕湯羅《ユラ》の前《サキ》しほひにけらし白神の磯の浦みをあへてこぎとよむ、〔同上〕
按に万葉集湯羅の前なる白神の磯とあるは即白埼なり、埼端と海瀬島(一座の岩礁)間は航走自在なり。○名所図会云、白崎は大引《オホビキ》浦の西北に在り、雪の色を奪ひて海原にさし出でたる真白の巌むらはしも、二十丈にもあまりて高く聳え、大宝の昔人の又かへり見んと契りてこぎ、いにし跡も恋しきに、いつよりか住馴けん厳に群がれる猿ぞ沖行く船を呼び、島陰に眠るあしかは梶の音に夢をさませり。松廬遺稿云、
白埼、万葉集既有什、其名旧矣、在日高西界、山足入海、可三四里、巨巌競聳、攅立累畳、奇態万状、下有石穴、中敷千席、其深匪測、時有鈴声、而似巫奏、故土人名以巫舞洞、蓋水石相激、而為異響已。
由良《ユラ》 白崎村の東南に接し、一湾を抱ける海村なり。大字里村畑村門前阿戸等あり、里《サト》を本拠とす、古書に湯羅に作り大宝元年至尊遊幸の処なり、東鑑、文治二年蓮華壬院領紀伊国由良荘とあり。港湾は良好にして紀伊水道の一要地なり。○水路志云、此港は日の御埼の北方凡四里にあり、其幅四鏈乃至七鏈、湾入大約二海里、而して蟻島(二五〇呎)と称する尖峰島と港門の南方角小浦附近にある広濶なる露出礁(一のハヘ)ありて港口を蔽ふ、然れども西至南西の強風に暴露す、港頭に一大村落あり由良及び阿戸と曰ふ、茲に暴風標あり、此港の北側に吹井浦あり、又小澳なり。
大宝元年太上天皇(持統)行幸時作歌
朝びらきこぎいでて我は湯羅の前釣するあまを見てかへりこむ、〔万葉集〕
妹がため玉を拾ふと木のくにの湯等の三崎に此日くらしつ、〔同上〕
仲秋賞月于由良港 菊池 渓琴
風払蘭※[木+堯]玉霜寒、洞簫声絶水雲間、杳々仙鶴尋何処、月白関南第一山、
由良崎と云は良由港の北角|神谷《カミヤ》埼なるべし、埼頭に一岩嶼あり蟻之島《アリノシマ》と南北相対す。○名所図会云、由良の里は横浜とも云ふ、其西左右岬三十町余海面にさし出で、径りは大凡二十町に及べり、其形勢誓へば牛の双角を張に似たり、由良渓川の小流潺湲として東より来りて此間に瀉注す。○古歌に由良の門とよめるは紀伊と淡路両所あり、又丹後にもあり、同名異所と知るべし、皆海部の住宅なり、本来何の義にや。補【湯等三崎】○万葉七、為妹玉乎拾跡木国之|湯等《ユラ》乃三埼二此日鞍四通。○古事記伝云、由良の戸を紀の国と心得てよめる歌多し、由良湊は淡路なり、又丹後にもあり、紀国には万葉に崎とこそよみたれ、戸とよめることなし。
興国寺《コウコクジ》 由良村大字|門前《モンゼン》に在り、衣奈浦東廿四町、由良浦北十八町、臨済宗、妙心寺末法灯派の名藍なり、山谷の幽遠を占め、仏殿祖堂法蔵鐘楼地蔵堂大門等相列す。○名所図会云、法燈国師名は覚心、号を心地と云ふ。鎌倉実朝公或夜の夢に吾前生は宋の温州雁蕩山に夙因ありて、其功力を以て日本の将軍となれりと見て、近臣葛山五郎景倫に命じて入宋せしめんとす、偶ま将軍薨ず、景倫歎の余剃髪して願性と称し、高野山に登り金剛三味院に住して将軍の菩提を弔ふ、二位の尼此旨を聞て由良の庄地頭職を下し賜ふ、承久三年始て此地に来り、安貞元年当寺を建立し実朝の石塔を建て、明恵上人を請じ西方と云ふ寺号を授る。由良の庄領家方は修明門院(後鳥羽院皇后)の御領なれば、御代官の伊王左衛門能茂入道西蓮も願性と心を同くして所領の地若干を当寺に寄せ、御菩提所とす。願性兼て法灯国師入宋の志あるを知りて、彼将軍の分骨を雁蕩山に納めんことを託す、師之れを諾ひて、宝治三年二月此地より船を発し、博多津より商舶に附て宋国に到り、径山《キンザン》に寓止し一宇の堂を建て将軍の遺骨を等身観音の肚内に安ず、又無門和尚に禅意を問ひ、首尾六年を径て帰朝、鷲峰興国寺と名づく。戦国の乱に寺塔大に荒廃せしが、慶長年中浅野氏若山龍源寺主天叔と云ふ僧に命じて堂塔を中興せしめ、本領若干を寄附せしより法燈の霊光再び世に輝きて、仏殿諸堂年を追て備はり、当国の大禅剃となれり。又云、当寺に国師遺書あり、昔無門禅師「心即是仏、仏即是心、心仏如此、亘古亘今」と云ふ偈を以て国師に授く、国師常に之を以て人に示されける故に、今世に伝ふる墨蹟みな此偈にあらざるはなし、其他寺中に和漢古書画数百幅あり、名品尤も多しと、又那賀郡誓度寺に伝ふる所の文書什宝をも納めたり、誓度寺は那賀郡粉河庄猪垣村にあり、其寺廃す、故に什宝を当寺に移す。
普化谷《フケダニ》 寺の後にあり、又風呂地とも云ふ。法灯国師帰朝の時法普国佐理正宗恕と云ふ四居士を従へ帰り、浴室を掌らしめて此谷に居らしむ、四居士は所謂普化諸宗派の虚無僧の濫觴にして、其徒弟相継ぎて住せしに天正兵火の後諸国に離散して今は普化谷の名のみ残る。按に虚鐸伝記に国師宋にありし時、普化禅師十六世の孫長参に虚鐸(尺八)一曲を授かり、帰朝の後弟子寄竹に伝ふ、又国佐理正法普宗恕の四居士も此管を学べり、後年寄竹行脚の志を以て此地を去り道路の家毎に此音を発して世人に知らしめしより普化宗起るとぞ。近世宗門の本寺数所ありて、勤(旁斤)詮派括惣派寄竹派小菊派小笹派梅地派諸派に分れたるが中に、洛東の明暗寺は当寺の末寺にして、其寺を嗣ぐもの必ず当寺に来りて受戒せるは此由縁に依るなり。又按に虚無僧の字、勧進聖歌合には薦僧と書し、判詞に「薦僧の三味、紙きぬ肩にかけ面桶腰に付け、貴賤の門戸に依りて尺八吹く外には別の業なきものにや云々」とあり、七十一番職人尽歌合等に暮露と見えたるも亦薦僧なり。元亨釈書云、覚心姓常澄氏、信州神林県人、建長之初、泛舶蹈宋域、従霊洞仏眼、六年帰朝、隠高野之故居、弘安中、文応上皇、詔居城東勝林寺、(今南禅寺)後潜帰紀州、鷲峰元多妖魅、有渉境者必遭惑乱、心居干此屡見怪異、一々降摂、自爾魅事息、正応四年、晴空大雷墜鷲峰之東※[山+章]、怪至雷所、有一顆宝珠、心乃埋珠鎮山門。始心遊鷲峰、楽其絶勝、営構梵宇、名曰西方寺、栖此四十余歳、化被南紀、詣熊野者取路之近必札謁、不則為虚行云。永仁六年逝、寿九十二、勅謚法燈禅師。○皇年代略記、文和二年八月、於河州行宮、上皇(光巌)御落飾、延文元年、於河州離宮、由良覚明和尚奉令着弾衣。(按に此に河州離宮とあるは、天野行在なるべし、覚明は南北両朝の帰敬を得たる英傑にして、泉州に大雄寺を起せり)
比井崎《ヒヰザキ》 由良湊の西南、日御埼に至る諸浦、今合同して比井埼村と曰ふ。方杭《カタクイ》浦小浦津久野浦比井浦産湯浦阿尾浦等に分る、蓋比井は日の訛なるべし、比井浦は小浦埼の東南に在り、阿尾浦は更に其南に在りて港湾は阿尾埼と小浦埼を口角とし、南北一海里余東西は梢減じ小港数支あり。○産湯《ウブユ》浦は衣奈八幡宮に因み、皇子湯沐を為したまふ所と伝ふ。小浦《コウラ》は小港なれども最良泊と云ふ、港口西南に開く。
名所図会云、比井阿尾などは三尾荘に属し数村あり、比井の湊は西北小浦湊と磯山を境し、比井唐子の二村湾に沿ふて家居を並ぶ、此浦は暴風何方より吹来るとも障りなく又潮の干満にも拘らず、大船常に入来り繁栄の湊なり、此辺の諸村は凡て廻船の船頭水主等を職として常に四方に出でて航游す、故に或は風波のために海外に漂流し又は洋中に溺死するもの古より少からずと云ふ、或人の詠に
みつぎもの運ぶ小舟や寄来らし唐子の浦の蛋のさへづり、
若一王子社は比井浦にあり、宝暦七年修理の時、境内にて土器を掘り出したるに、中に銅の筒あり頓写の法華経八巻を納め、其跋に保元三年戊寅とありとぞ。○榕樹は比井の海辺に多し土俗あふぎの木と呼ぶ。此樹大なる者は高さ数十尺周囲数抱に及ぶ、葉は冬青に似て夏に至り花なくして実を結ぶ其形|無花果《イチヂク》に似たり採りて食ふべし、年を経るものは其枝条に糸の如き嗽(女偏)条を生じ重々として下降し、末梢終に地に達し土に入りて根を成す、更に此より萠蘖を生じ一樹となる。此樹薩摩にありては方言あかうと曰ふ、又此樹に菌を生ず、土俗之をあふぎたけと云ふ味美なり但其材は薪にもならず他の用途あるを聞かず、謂はゆる散木なり、故に近年伐り捨てらるゝもの多し。〔名所図会〕拙堂南遊志云、紀中及薩州有榕樹、皆為暖地故也、柳子厚柳州二月詩云「榕葉滿庭鶯乱啼」記地異也、乃知紀薩風土、略与西土嶺南同。
日御埼《ヒノミサキ》 又比井埼と曰ふ、阿尾《アヲ》浦の西南三十町。埼端の高地を日山《ヒノヤマ》と呼ぶ、往にして王朝の盛時に烽火を置きし址ならん、今燈台を設置せらる、其下なる磯辺に屈岩《カヾミイハ》あり人の拝屈する状を成す、此海風浪険悪古は風早浜と曰ふ。
大宝元年太上天皇(持統)幸紀伊国時歌
風早《カザハヤ》の浜の白浪いたづらにこゝにより来る見る人なしに、〔万葉集〕○此歌、原書風莫之浜とあり、
水路志云、日御崎、紀伊水道外口の東角にして、著しく突出せる一大岬なり。埼の外端に位する日の山は高さ六七五呎滑面の斜坡より成る、此埼は陸界なれども其南方の湾より潮流奔出して破浪を翻す、北風に会すれば殊に甚しとす。此埼と田辺湾との間なる凡十九海里の海岸は稍々南東に向ふと雖ども、此埼と市江埼との一直線より湾入すること二海里乃至四海里なり、此浜岸は一条の低地にして処々に小山散在し、又内地には数高山あり。日御埼燈台は埼上に設置す、水面上二六〇呎、晴夜光達二十海里。
名所図会云、堤中納言物語に「かまと山と日のみさきとの絶間にまれ云々」と、按に阿波国由幾泊と云所に竈の御崎あり、海を隔てゝ此日高の御崎に向ふ、之を物語に曰へるならん、戯に設けたるには非ず。日の御崎は三尾浦より坤の方坂道二十三町に在り、遠見の船番所を置かる、岬角宛然長鯨の波間に游泳するもの西に向ふて走るの状をなす、熊野の御崎土佐の御崎(足摺と云ふ)と三方鼎足の勢を成し、共に風涛険悪の処なれば舟師等之を懼るゝこと尤甚し、古へは天子牟婁の行幸にも御舟を由良湊に止め、陸路を取りて南巡したまへるも、此海岬を避けたまへるなるべし。
補【日御崎】日高郡○名所図会 三尾より坤の方坂道二十三町にして此に至る、遠見の船番所あり、此岬角は宛も長鯨〔脱文〕日の御埼灯台は埼上に設置す、灯高は水面二六一呎、晴天光達二十海里。
三尾《ミヲ》 日御崎の東北陰に在り 三尾浦と呼び今三尾尾村と曰ふ。古は三穂浦に作り、其名夙に著る、御坊村の西二里。
風早の三穂の浦わをこぐ舟のふな人さわぐ浪立つらしも、〔万葉集〕
三穂石室《ミホノイハヤ》 名所図会云、三穂は今三尾と書く、此浦の浪打こゆる岩群ある所をあさはいと字す、即|風早《カザハヤ》の名の遺れるなり。三穂の石室は浦の後磯《ウシロイソ》と云処に大屈あり是也。其石窟は深さ十六間幅五六間高さ七八間より十二三間もあるべし、海上に南面して磯辺に小大の巌むら重れり。此窟海面に臨み迫ると雖も敢て風濤衝突の患なし、上古はいかゞあらん今考がたけれども、現に三尾の名を存しかゝる巌穴あれば万葉集に見えたるは此地なるべし。かの歌どもは船中より見てよめりとおぼし、上にいへる風早の浜の白浪なども合考べし、近来乞食のすみかとせしより土人等清めて窟の口に志米縄を懸たり、又窟より西にヌケ穴といふもあり、形有田郡苅磨島に似たり。○古事記伝云、三穂石室は紀伊にも出雲にもあり凡紀伊と出雲とは相通へる事多し、此三穂も出雲より移れる名にて故ありけん、万葉集巻三
大汝小彦名のいましけむ志都《シヅ》の石室は幾世経にけむ、
又巻三「博通法師、往紀伊国、見三穂石室作」とあるは錯乱にて、久米若子の坐せしは播磨国なり、
博通法師往紀伊国三穂石室作
はたすゝき久米の若子がいましける三穂の石室は見れどあかぬかも、〔万葉集〕常磐なす石室は今もありけれど住ける人ぞ常なかりける、〔同上〕
万葉集略解云、弘計皇子は来目雅子と名を改めたまひ播磨国にて其侍臣余邪郡便主の縮見石室に死せたる事あり、之をば紀伊国にても云伝て斯くよめるにや、又皇子と此歌なる稚子は異人にや。○名所図会云、万葉集なる「風早の美保の浦わの白つゝじ見れどもさぶし亡き人思へば」と云歌は三標石室久米若子の事を懐へる作なり。
和田《ワダ》 三尾村の東に接す、御坊村の西一里、和田浦と云ひ、今和田村字本脇に御埼大明神あり。此社は三代実録に載する三前神なりと云ふ、然れど三前は真熊《マクマ》とも訓むべければ、新宮早玉神を三前神と呼べるやの疑あり。
三埼《ミサキ》神社 名所図会云、和田浦は中古熊野本宮の神領にて小字本脇に御埼神あり、三代実録「貞観十七年、授紀伊国正六位上三前神従五位下」と。社家の伝に此神は上古より鎮座し給ひて日御埼を守ります故に御埼を過る者必奉幣す、神主を塩埼氏と曰ふ、正平十年の古文書に塩崎小山一族衆中と其名をしるす。○按に熊野本宮神主は和田を家号とし、延喜式牟婁郡海神社と云ふあり、こは那智村浜宮と思はるれど潮岬串本浦にも海神社ありと云、然らば其三座とあるは一座は日高郡和田浦にあらずや。
補【和田】日高郡○名所図会 小池荘、三尾庄の東南に在り、四ケ村を総ぶ、中古熊野本宮の神領なり。
御埼大明神社 和田浦の小名本脇に在り、三代実録貞観十七年十月十日、授紀伊国正六位上三前神従五位下。社家伝に当社は上古より鎮座し給ひて、日の御崎を守護し給ふ御神に坐して、日の御埼を過るものは必ず奉幣す、神主を塩崎氏と曰ふ。
別里《ワケノサト》 和田浦《ワダノウラ》か。霊異記云、刑罰賤沙弥乞食、以現得頓悪死報緑、第三十三曰、紀直吉足は紀伊国日高郡別里椅家長公なり、性悪くして因果を信ぜず、延暦五年伊勢沙弥とて薬師経十二夜叉神の名を誦して里を歴て食を乞ふあり、家長遂ひ捕へ大石を以て其頭にあてゝ神咒を強ゆ、家長即地に倒れて死す云々。(小字|本脇《ホンワキ》あり)
和田浦は巨巌碧波の底に潜まり立るを以て、冬の頃より春をかけて千万の鮫群をなし聚り来り、海潮為めに色を変ず、之を漁ること大凡一日に五六千を常とし、多き時は十万余にも至るとぞ。〔名所図会〕
志賀《シガ》 今小池村に合し、志賀村と曰ふ。志賀小池は中世の荘号なり、和田浦の北、高家の南にて、比井崎村の東也。
名所図会云、熊野本宮大永年中神領覚書に志賀四十貫とあり、小池荘二尾山は和田浦塩崎氏正平十年文書に見ゆ。又云、志賀荘|久志《クシ》村に浄安寺あり、当寺は徳本行者を以て開祖とす、行者は宝暦八年を以て此地に生れ、其行徳たる近世緇林に稀なることありて、奇特の談紛々として人口に膾炙す、今も其一流を承くる木食無言の行者世に絶えず。補【志賀】日高郡○名所図会 原谷駅の西に在り、五村を総ぶ、熊野本宮神領大永の覚書に志賀四十貫とある是也、
二尾山 今の入山村なるべし、古文書に左の如くあり、
紀伊国小池荘半分事、於二尾山半分落居、以前者不可道行之由、所有其沙汰也、可令存知之旨被仰下之状如件
正平十年五月十三日 左中弁 (花押)
塩崎小山一族衆中
内原《ウチハラ》郷 和名抄、日高郡内原郷。○今東内原村西内原村及志賀村なるべし。続紀云、天平宝字八年、従二位文室真人浄三等奏曰、紀寺奴益人等七十六人訴云、紀袁祁臣女梗(米偏)売、嫁本国氷高評人内原直牟羅、生児身売狛売及長袁祁、令寄食紀寺、至庚寅歳編戸、入奴碑籍、其族益人等告訴、積年不理云々。○名所図会云、和名抄坂本内厚郷、厚は原の誤なり、此郷今廃せりと雖、原谷村の里神社及鍵掛社慶長の棟札に本願政所内原喜左衛尉と云ふ人あり、又内のはたといふ地名あり、原谷もやがて内原谷の略なるべし、此辺の郷名なること知るべきなり。
原谷《ハラタニ》 在田郡界|鹿瀬《シシカセ》峠の下にて、小駅なり。今萩原を合同し東内原村と曰ふ、御坊の北三里。○原谷駅は鹿瀬山の麓、谷の内北より東に曲りて長さ五十丁余の間に村居散在せり、故に里人の語に原八十町の唱ありとぞ、御所谷《ゴシヨダニ》は原谷村の艮廿二三町鹿瀬山の西十四五町に在り、後鳥羽院熊野御幸の頓宮址とぞ、鍵掛《カギカケ》王子社即鹿瀬山の麓に在り、御幸記に「鹿瀬山を越て参沓かけ王子」とあり此社なるべし、又|内畑《ハタ》王子社は萩原村の小名内の畑に在り、旧時は熊野の古道にありしを後世今の地にうつす、御幸記に「内のはたの王子」と見えたり、又た槌王子とも云ふ、又高家王子社は小名東光寺に在り、高家村に接せり故に古は高家王子といひ今は東光寺王子又は若一王子の社ともいふなり、盛衰記に云く権亮維盛は蕪坂《カブラサカ》をうち下り、鹿か瀬山を越過て、高家の王子を伏拝み、日数漸く経る程に、千里の浜も近付けり。〔名所図会〕
萩原《ハギハラ》 原谷の南に在り、今東内原村大字萩原。○名所図会云、八雲御抄藻塩草等に萩原を本国の名所とするは此地なるべし、新千載集に定家卿「萩原や野辺より野辺にうつり行く衣にしたふ露の月形」按に御幸記、切目王子御会の条に野径月明の電ありて、歌欠たり、恐らくは此歌なるべし、彼御幸記云「次出柴原、又過野、萩薄遥靡、眺望甚幽、此辺高家云々」此文に依るに此辺萩多かりしより村の名となれること知るべし。
高家《タカヘ》 今小中村と合同し西内原村と改む、志賀村の北に接す。○小中《ヲナカ》村若一王子権現社は明応以下の棟札数多あり、天保十三年冬、池堤を築く時社地の土を運ぶ者、思はず古墳に掘り当りしに、穴中には骨壷及び土器曲玉管石多くあり大小長短均からず、又剣矛鏃などもありしかど皆錆て用ゐ難かりしと云ふ、傍に同形の塚ありしも同じく発かれたり、社殿の下も同形の塚なるに似たり、上古の墳に架して造れる祠なり。〔名所図会〕
財部《タカラ》郷 和名抄、日高郡財部郷。○今湯川村(大字財部)御坊村及藤田村矢田村等なるべし。中古は園荘の称あり、日高川の西岸にして郡中の富邑なり。○名所図会、財部《タカラベ》村は宝とも書し新宮の建暦古文書に薗宝郷とあり、続日本紀大宝三年飯高郡をして銀を献らしめたまへり、此辺其銀宝を鑿しものの居所なるにより財部の名あるや猶考ふべし。
湯川《ユガハ》 近年小松原|富安《トミヤス》丸山財部の四村を同して湯川村と曰ふ、実に中世湯川氏の廃墟なり。御坊の北、矢田(道成寺)の西南にて、熊野街道之に係る。補【湯川】日高郡○名所図会 富安荘、高家庄の東に在り、古の財部にして四ケ村を総ぶ。富安王子社 出童子とも称す、御幸記の田藤次の王子なり。
古墳上富安村の西山の半腹に在り、大谷にて築立てたり、入口は三角の穴にて僅に一人を容るゝべし。
道成寺遺 富安王子牡の前熊野官道より左折するを道成寺道とす、傍に石をうゑて是をしるせり、是より道成寺まで八丁なり。
富安《トミヤス》 湯川四村は旧富安荘と称す、大字富安は萩原の東に小松原の北なり。富安王子は御幸記に田藤次《デントウジ》王子と云者也、上富安の西山半腹に古墳一所あり、大石にて築立て入口あらはれ人を容るべし。〔名所図会〕
鳳生寺は富安の西小谷に在り、禅宗にて恵解《ヱゲ》の鳳生寺といふ、湯川氏の七世天養居士の建立、箕外和尚の開基、湯川氏の時は近郷熊野村に寺領ありしと云ふ、仏殿のかたへに湯川直光の木像を安ず、慶長の文書にゑけ永宅老とあり。
小松原《コマツバラ》 原谷駅より二里、家居多く簷をつらねたり。即御幸記に云「小松原御宿、御所辺、四宿の処已無之、国之沙汰、人成敗、献之仮屋乏少之間、無縁者不入其員、占小宅立簡、此御所有水練便宜、臨深淵、構御所」と此地なり。又湯川氏宅址は駅乾田中に在り、近年古瓦并に櫛笄の類を掘出せり、鬼瓦は今村中法林寺に蔵む、法林寺亦湯川氏の所創なり。
湯川城《ユカハノシロ》址 湯川村大字丸山に在り、丸山は大字財部と接比し小松原の西にて御坊町の北一里とす、古城は亀山と云。○名所図会云、亀山城跡は官道の西方に特起して丸山村の中央にある山なり、故に丸山ともいふ、湯川氏の築きし城地にして残塁所々に今猶存せり。湯川実記に拠れば其先は甲斐源氏武田家より出づ、元祖を悪三郎信忠といふ、弘安の頃にやありけん、罪ありて熊野湯川に遠流せらる、(湯川は今|道《ドウ》の湯川村といふ)是より芳養《ハヤ》の内梅といふ所に居住す、三郎の孫孫六信有勇力人に勝れ、南北朝の時熊野八庄司の其一人なり、軍功の賞によりて在田日高二郡をも併せ領し、本国の旗頭となりて此山に城くと云ふ、孫太郎より九世某、箕外を請じて鳳生寺を建つ、永正十九年に死す(康正元年造内裏段銭引付に湯川中務少輔とあるは此人はなるべし)其子政春山呂内少輔に任ず、連歌に長じて宗祇を師友とし、居地の傍に嘉辰堂を建て連歌の会をなせりといふ、政春の子直光は民部少輔に任ず、永禄年中、畠山高政が前軍を率ゐて三好実休と戦ひ、河内国教興寺の陣に敗死す、直光の子を直春といふ、豊臣太閤本国征伐の時、豪族悉く降参せりと雖、直春独り之を拒み、其女甥玉置氏を味方に招かんとす、玉置氏従はず、直春兵二百余人を以て和佐の城(玉置氏の居城)を囲む、玉置氏驚きて湯浅の白樫氏石垣の神保氏と共に事の急を太閤に告ぐ、京軍海陸を掩ひて至りしかば直春牟婁郡に走り、翌年出て降り殺され、湯川氏亡ぶ。又湯川の庄司は湯川の実記に依れば孫太郎といひし人なるべけれども、太平記等に名を記さざれば考ふべき由なし、太平記、南方蜂起条に「熊野には湯川の庄司将軍方になりて鹿が瀬|蕪坂《カブラザカ》の後に陣を取て、阿瀬川入道定仏が城を責めんとしけるを、阿瀬川入道山本判官田辺別当二千余騎にて押寄四角八方へ追散して、三百三十三人の首を取り、田辺の宿にぞ懸たりける、湯川庄司が宿の前に作者芋瀬の庄司と書て、
宮がたの鴨頭になりしゆの川も都に入て何の香もせず」。
因に云ふ、此歌湯の川を柚の皮に比喩したるなり、又精進魚類物語に柚の皮庄司と見えたるも同じ、鴨頭は方言にて所謂吸口又上置などいふに同じ、芋の上置に柚の皮を用ひたる義にとりなしたるなり。抑湯川氏は(政春直光直春)其三世以前の名伝はらず、湯川実記或は落城記といへる書あれども、近世の物と見えて信用し難き事多し、されど又た他の証すべき事なければ暫らく之を引用す。
御坊《ゴバウ》 今御坊村は園浦名屋浦島村を合せたり、古の園郷にして、日高川原谷川の相合して海に注ぐ処に在り。郡中の大村にして市街を成す、海舶は日高川口に来泊し、大船は浜瀬浦に掛る、和歌山へ十八里、田辺へ八里、郡衙の在所也。○御坊の称は本願寺別院在るを以てなり、古は園浦を総名とし、船津と呼べる所なるべし。名所図会云、此地本願寺御坊あるを以て村をも御坊と名づく、島村|園浦《ソノウラ》等に接して民屋軒を連ね市街をなし、郡中にては此辺を繁昌の地とす、
寺伝に曰く、湯川民部少輔直光、摂州江口にて三好長慶と戦ひて敗北せし時、本願寺証如上人直光が軍を助けて騎馬三十人を副へて小松原の城に帰らしむ、直光其恩を謝せん為めに天文元年郡中吉原村(園浦の西にて今の松見寺の地なり)に一宇の堂を建立し、霊夢に依りて在田郡星尾寺の弥陀仏を安置し、二男治部少輔信春入道祐存を住僧として真宗を唱へ本願寺に随順せしかば、上人自身の肖像幅を贈りて是を賞す、裏書に「本願寺釈証如判釈顕如判天正三年乙亥三月九日書之証如上人真影紀州日田河郡吉原坊舎堂什物」とありて今も存せり、後来直春吉原浦より園浦の古寺の内に遷し、文禄四年此地にうつすといへり、日高御坊と称す。
〔熊野新宮古文書〕 召使藤井近里
院庁下 紀伊国在庁官人等
可早任□寄文并国司庁宣等為熊野新宮領便与国使
相共堺四至打榜示令立券言上|薗宝《ソノノタカラ》郷壹台処事
在管日高郡内
四至東限泉水際西限田井船津出井南限甘田亀石富島北限蒼柱九寸水際彼郷所当永命注文定佰玖給斛内新宮陸斛禰宜給本宮二拾料三昧僧給那智拾二斛社壇承仕等給如此可宛置也於残拾斛者一院御幸小松原御宿大※[米+良]料也云々
建暦二年 月 日
〔石清水古文書〕 延久四年太政官牒
紀伊国日高郡字薗財庄
右本寺注文云件御荘并切目薗共宮寺御領也而停切目薗偏免除薗財庄者勘所進文書去長元八年紀広明等以私公験為滅罪生善施入者其後長暦二年国司任施入之状堺四至免判但荒田参拾町畠弐拾町塩浜等云々
浜瀬《ハマノセ》 御坊村の西南、(原谷川をへだつ)日高河口に接し、海洋を控へ、今吉原浦田井村と合同して松原《マツバラ》村と改む。水路志云、浜瀬浦日高川口東西沙浜の前面にして、距浜凡半海里、水深四尋乃至九尋の処に錨地あり、此沿浜は該河口附近より西方に至るに従ひ水較々深く浜も亦較々※[こざとへん+走]なり、日高川口の西角附近には長沙嘴あり、又東浜塩屋浦の附近に二三の礁脉あるが故に五〇〇石以上の船は入るべからず、一〇〇石内外の和船は泝航し天田村園浦名屋浦等に入ると云ふ。
日高川《ヒタカガハ》 本郡の東界|龍神《リユウジン》村|鉾尖《ホコサキ》岳に発し、西南に向ひ屈曲蛇行す(支源は安堵峰の北なる上山路村に発す)凡二十五里、下流七里は舟楫を通ず、旧説五十里と云ふは過長なり。○日高川の上流は山路川上の二荘に分れ、激喘奔流其間に※[虫+廷]※[虫+宛]す、今龍神|寒川《サムカハ》上山路《カミヤマヂ》中山路下山路川中川上船着|早蘇《ハヤソ》丹生《ニフ》の十村に分る。名所図会云、日高川は昔時官道小松原の辺にて渡津ありと見ゆ、今は御坊村名屋浦より塩屋浦|天田《アマタ》へ渡航す、即天田渡といふ、水源は山地庄大和国界及在田日高二郡の堺の山中より発して塩屋浦にて海に入る、港口より大和国界の源まで陸地は廿里許といへども、河辺は四十八里といふ、其屈曲多きこと知るべし。道成寺縁起云
日高川便船にて渡りぬ、安珍舟渡しにいふ様、かゝる者の只今追て来るべし、定めて此船に乗らんといはんずらん、穴賢々々のせたまふなといひけり、此僧はいそぎ逃げけり、あむの如く姫一人来りて渡せと申けれども、船渡しわたさず、其時衣を脱捨て大毒蛇と成りて此川をば渡りけり。
○日高潮は霊異記に見えたり、潮はみなとゝ訓むべし、此海口変遷詳にしがたければ姑くこゝに載す、同書考証に潮は湖なるべしと。霊異記云、
紀伊国日高郡潮に紀万侶朝臣といふ人ありけり、網を結びて魚を捕る事を業とす、同国安諦郡吉備郷の人紀巨馬養と、海部郡浜中郷の人中臣連祖父麿と二人萬侶朝臣に傭賃はれて年の價を受くるに、此人昼夜のわかちなく二人を苦行駈使して、網を引かせ魚を捕らせけり、然るに宝亀六年六月六日天卒に風だち夕だち降りしきりて、湊に大水漲川上より雑木流出しかば、二人は此木を取りて桴に編み共にうち乗りて往かむとするに、水勢はげしくて忽縄絶えて筏とけ離れ漢を過て海に入しかば、各一木にすがりて漂流しけり云々。
藤井《フヂヰ》 今吉田村と相合せ藤田と改む、湯川村の北、矢田村の南にて日高川の西岸也。名所図会云、日高名産|紡糸《カセイト》は多く藤井の舗行にて積出して京都へ送る、製品特佳なれば本座紡と称美す。
補【藤井】日高郡○名所図会〔重出〕日高郡藤井の舗行より盛に紡糸を積出す、紡糸は国中の名産にして諸都より競ひ出せど、日高郡の製品特に佳なるを以て、京師にても本座紡と称美す。
矢田《ヤダ》 富安の東、藤井の北を矢田荘と曰ひ、数邑あり、今合同して矢田村と呼ぶ。道成寺の伽藍は大字|土生《ハブ》に在り。○名所図会云、軍器考に正平韋と云ふ物異国より来れども又南朝の朝廷にて染させられしを、嘉慶の比鹿苑院公方(義満)紀伊国矢田荘より其板あまた進ぜられしとも云ふ、当時此荘内に造革せるなるべし、されど今其事跡詳かならず。
補【矢田】日高郡○名所図会 矢田荘は富安庄の東にありて六ケ村を稔ぶ、庄名は正平十四年道成寺の鐘銘に見えたり。
道成寺《ダウジヤウジ》 矢田村大字|土生《ハブ》に在り、御坊の北四十町、天台宗を奉じ、天音山千手院と号す、阜上に堂舎排列蕩々たり。本堂(十間半九間半)後堂釈迦堂護摩堂念仏堂十王堂三重塔楼門の諸宇なり、僧舎は古へ十六坊と云ふ中世没倒となり慶長六年浅野家の時更に寺禄を定めらる、本堂古瓦に天授享禄などの年号あり其比の修造なるべし、爾余の諸宇は元禄比の重修と云ふ。
此寺は其名広く聞え、殊に熊野参詣西国順拝の徒訪はざる者なし、寺伝に文武天皇の勅願所にて紀大臣道成奉行して建立すと云ふも、道成の事は徴証も之なし。本尊は日本創出の千手千眼大聖菩薩、義淵僧正の作とぞ、正平中鋳造の寺鐘は、天正の兵乱に京軍の収むる所と為り、転伝して今京都妙満寺に帰す。其銘云、
聞鐘声智慧長菩提生煩悩軽離地獄出火坑願成仏度衆生天長地久 御願円満 聖明斉日月 叡算等乾坤 八方歌有道之君 四海楽無為之化
紀伊州日高郡矢田荘
文武天皇勅願道成寺冶鋳鐘
勧進比丘 瑞光別当法眼定秀
檀那源万寿丸并吉田源頼秀 合力諸檀男女
大工 山田道願 小工 大夫守長 正平十四年己亥三月十一日
又屋上鬼瓦の銘云、(吉田《ヨシダ》は今藤井村と合同し藤田村と改む是也)
一方大檀那吉田源蔵人頼秀二男源金毘羅丸 天授二二戊午年春月造
吉田氏は蓋当時矢田荘の豪家なり。道成寺縁起絵詞二巻は寺の重宝なり、書は後小松院の宸翰にて画は土佐画所光興の筆と伝ふ、詞は古雅にし絵も亦中世のさまを想見するに足る、天正元年足利将軍義昭の署名を其巻尾に加へたり。○法華験記今昔物語元亨釈書及当寺縁起に見える安珍法師の伝は世に異説多けれど、其大略に曰ふ、昔延長六年八月の頃、奥州より見目よき僧の熊野詣するあり、牟婁郡|真砂《マサゴ》里の清次の庄司と云ふもの、家に宿す、其家の娵(世に其娵女の名を清姫と伝ふは清次の女なればならむ)彼僧に懸想し夜半計に臥処に至り迫りて婦とならむとす、僧驚きて固辞すと雖も聴さざれば、参詣の宿願を遂げて後其志に従ふべしと言ひなだめ置き、安珍その帰路に及び家の門前を走りて過ぬ、娵覚りて恨を生じ身を大蛇に化し逐ひ来りければ、安珍当寺に入り救を求む、衆徒即寺鐘の中に身を匿さしめしに、彼蛇鐘に纏ひて忽に火焔燃上り蛇は其形をかくしぬ、衆徒之を見て安珍を出したるに唯骸骨のみ鐘の下にとゞまれりとぞ、扠此の道成寺安珍清姫の事は謡曲にも造り世に鳴渡れり、清人徐※[草冠/保]光の中山伝信録に琉球国楽伎を記して鐘魔の一事あり、是れ琉球人が道成寺の鐘の謡曲を彼地に伝へ擬作せるものならむ云々。〔名所図会〕本堂の傍に入相《イリアヒ》桜と云老木あり、枝条広く地を被覆して四十間の庭面を庇ふ。又三重塔の傍に安珍塚あり、古の鐘楼の址ならん、享保七年似雲法師之を弔ひて
おそろしな胸のおもひにわきかへりまどひし鐘も湯とやなりけん、 似雲
道成寺 拙堂
簫(草冠)寺千年拠峻岡、埋沙欠瓦色猶蒼、春風好在老桜樹、花撲客衣吹古香、
補【道成寺】○桜樹 本堂の傍に桜の大樹あり、枝条広く地を被覆して四十間の庭面を庇ふ。○安珍塚 三重塔の傍に古の鐘を置きたる所ならむ、年並草に「享保七年道成寺にて、似雲、歌略〕○清姫塚 寺を去ること一町計りの野中に蛇塚と称するあり、是也。
川上《カハカミ》 日高川の上游を総べて川上荘と曰ふ、又|山池《サンチ》川上寒川の三荘に分ち、中世には玉置氏の領邑なり。○名所図会云、川上荘、五十二村を総ぶ、其地山中にして東西七里南北四里に余る、康正二年造内 段銭并国役引付に
五貫文玉置民部少輔 紀州川上荘
とあり、即ち玉置氏の領邑なりしを知る。(今丹生早蘇舟着川上川中龍神寒川上山路中山路下山路)
丹生《ニフ》 今和佐|山野《サンヤ》江川等を合同し丹生村と曰ふ、矢田村の東日高川の左岸に在り。名所図会云、和佐《ワサ》村に玉置氏の故居あり土居《ドヰ》と字す、玉置氏は家系詳ならず、或は云ふ平中将資盛の後にして資盛伊勢の蔦野に居りしが、寿永の乱に逢ひ其子蔦野十郎資平熊野の山中に匿れ玉置山の社人となる、承久以後に及び鎌倉の家人となり八十五町の荘を領し玉置氏を名のる、五世孫盛高は大塔宮の熊野に入りたまふ時拒み戦へる由太平記に見ゆ。玉置庄司盛高子なかりしかば左衛門尉藤直光は女縁を以て其養嗣となり玉置を冒す、三子あり一子は玉置山別当となり二子は山地荘の東村に移りしが当時川上釆女と云ふものありしを襲ひ殺して其所領を略有し、一人は川上の和佐に居を占め一人は山地の鶴城に留まる、康永元年の古文書に玉置庄司貞頼といふものあり、武家方に似たり、天正中に玉置氏亡ぶ、大膳亮直和と称し湯川直春の女を娶りたる人の時也とぞ。
真妻《マツマ》山 名所図会云、川上荘|山野《サンヤ》村大滝川の南にあたり真妻てう高山聳ゆ、山上に観音堂あり、
丹生告詞の文に日高郡江川之丹生とあるは此地ならむ。抑此山は当郡の鎮山にして江川《エカハ》の源なり、其南麓(切目荘松原村)に真妻神社あり、社伝に丹生の姫神なりと云ひ、凡切目川上の二荘は悉く丹生真妻の二神を祭る、丹生神社は和佐村にあり。
矢筈岳《ヤハズダケ》 真妻山の東に連り、田尻村(今川中村)の上方に聳ゆ。南は切目谷にして本郡の中央に当る、峰巒重畳し日高の重鎮と称す形容仰ぐべし。山中に鷲川の滝あり、加納諸平の詠に「あら鷲のあまぐもはぶく風早み岩切る滝の音とよむ也」とあるは此山とぞ、清冷山《セイレイサン》は矢筈の北に接す。
補【矢筈岳】日高郡○名所図会 郡中高嶺の一にして山巒重畳せる中に抜出せり。○鷲川瀑布 田尻村より南山中に入ること半里許に在り、高さ二十丈。
船着《フナツキ》 矢田村の東北二里、日高川の右岸に在り旧舟津に作る。凡日高の山中は此地より上へは舟楫を行り難し、上游五所の滝ありて纔に滝舟を以て行くべし、滝舟とは細き小舟にして炭薪を積み険を冒して急灘奔湍を航するものなり、滝舟と川船常に此に湊会して上下の運送を便す、故に船津とは名づけぬ。〔名所図会〕大字|高津尾《タカツヲ》に炭酸泉あり。
初湯川《ウブユカハ》 今川上村と改む、舟着村の東三里、北は白馬岳の連峰横亘数里に及び、地勢最険峻なり。神場に鉱泉(炭酸性)一所あり。
神場《カンバ》 初湯川の神場温泉は日高川の右岸にして北には白馬《シロマ》岳の高嶺あり、有田郡に通ずる山径わづかにあり、山谷の環合四抱せる間に掌大の余地を卜して浴室を構へたり、其始を問ふに正徳年間に愛河《アタヒガハ》の遍照寺の僧順栄といふ者始めて此地の岳間の水に硫黄の気あるを見て汲とりて湯とし、新に浴室をも建そへたりとぞ。〔名所図会〕
阿田木《アタキ》権現は初湯川の西、大字皆瀬に在り。○名所図会云、此社建保縁起奥書に「元弘四年二月五日於高家東光寺辺馳悪筆了云々」とあれども文中を考ふるに建保四年に書るを写し改めたるなり、中に云ふ、熊野大神出雲より新宮に遷座の複数世を経て、延喜廿二年日高川の上阿田木原にうつりたまふ。
補【神場】日高郡○名所図会 神場温泉、上初湯川の領にて字を神場といふ、在田郡より山路を経て此地に至る、二渓の間に在りて北は白馬《シラマ》の高嶺より山巒連絡として〔脱文〕
寒川《サブカハ》 初湯川の東を寒川荘と云ふ、十四村今寒川村と称す。大字串本は初湯川の南岸に在り。串本《クシトモ》の大滝は日高川の幹流に在り、長一町許の間激湍急流にして筏をも通ぜず、故に傍の巌を穿ちこゝを通ずるなり。天婆伊《テバイ》の滝とは激流断岸の間を流れ水石相搏ち飛沫雪を巻に似たり、筏師のこゝを乗下る死生実に瞬息の間に懸けりと云べし、荘子に所謂能忘水者にあらざればいかで此危険を凌ぎ得むや云々。〔名所図会〕
山路《ヤマヂ・サンヂ》 旧|山地《サンチ》荘と云ひ数十村に分れしが、今上山路(大字西村東村)中山路(大字柳瀬)下山路 (大字甲斐川)の三村と為る。北は寒川龍神の二村と相連り、東は安堵峰の高嶺を似て熊野十津川の三郷と相限り、南西は山を以て切目|南部《ミナベ》二郷と相限る、東西七里南北二里。○山地《サンチ》氏は玉置の一族にて其宅址は東村(上山路)に在り、按に元弘の比は玉置荘司盛高あり、大塔宮の熊野へ入りたまふ時盛高は武家方として宮を拒みて戦へる事太平記に明かなり、盛高子なし左衛門尉藤直光を以て家督として所領を譲る直光三子あり長子は玉置山の別当職を受けつぎ、次男三男は日高郡川上荘同郡山地荘の二所を略有して別当となる、天正年中に亡びしか。
龍神《リユウジン》 山路村の北にして、鉾尖《ホコサキ》白馬《シラマ》の二岳の間に在り。東は十津川郷北は有田郡に至る、渓澗は南流山路村に向ふ、即日高川の源なり。湯山《ユノヤマ》の崖下に炭酸泉涌出す、浴場を造り六槽を置く、無臭無味の清泉にして温一百零二度太だ明潔なり、旅舎十余戸あり亦空山中の一楽地なり。西南御坊村より十九里、南田辺より十里。○祇南海龍泉紀行云、 泉之土甚狭、居民十余家、高下其丘居焉、両山為峡、隠蔽日月、非停午不見※[日/処(旁はト)/口]、山多丁香花、清香襲人、又多瓜薮、居人※[日+麗]根、造粉以売、渓中游魚数品、※[魚+條]魚尤美。
名所図会云、日高の川上の極処、東西二里南北五里に余れる山中に、二三十町づゝを隔てゝ八所に家あるをすべて龍神と云、其南端湯本の里は山ふところに似げなく、湯あみの人の旅合すきまなく建つらねたれば、自ら此処の名となりて龍神の湯と云、特に楊梅瘡には奇功あり、故にかゝる深山なれども峰を超え谷を渡りて、国々より来る人四時絶間なく、春秋は殊に賑し、扠此温泉の事古書に見えず、玉海に文治二年十月十日の文に「長光朝臣、日来為湯治、下向紀伊国所知、今月三日於高野、忽出家入道、今日示送此由、誠哀事也」と見えたり、此地高野山へは便なれども当国所々に湯あればいづことも定めがたし、土人の伝に此湯在田郡山の保田庄上湯川村の湯の平といふ所に涌出しに、いつの頃よりか転じて此地に涌き出て、元和の頃に至りて初めて功験顕はれしかば、国主命ありて浴屋を作らしめらると。
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岩淵《イハフチ》郷 和名抄、日高郡岩淵郷。○今野口村塩屋村等なり、野口に大字|岩内《イハウチ》あり岩淵の訛なり。日高川の東岸にして財部郷と相対比し、南は海に至る、御幸記云「渡河参いはうち王子」此なり。
補【岩淵】日高郡○名所図会 石淵郷、和名抄に出づ、今廃して詳ならず、日高川の南岸に岩内村あり、岩ぶちの訛なるべし。御幸記云、渡河参イハウチ王子。
野口《ノグチ》 今|熊野《ユヤ》岩内の二村を野口に并す、湯川村と河を隔て南は塩屋村に至る。
熊野《ユヤ》 名所図会云、熊野の権現祠内に往年村民径寸余の白玉二顆古鏡二面太刀等を発掘したる事あり、此社の神楽歌寛文十年に記したる者にて古辞と思はれ、考按の料に供ふべし。
熊野《ユヤ》権現神楽歌
はつ王子の峰の細道ほそくとも、オヽ細くともつれだにゆかば車路とせう。はつ王子の峰の道こそおはしませ、オヽおはしませ春吹上のほでのさむきに。東山かいろうの峰におぼれ出、オヽおばれいで外山に落るちやうの早さよ。奥山や大峰杉にそなれいで、オヽそなれいで峰なる花を折くたすとよ。朝日さす夕日かがやく熊野山、オヽいづれもだけに雲やかからん。
(按ずるにいづれもだけはいつものたけを訛れるにて出雲の熊野によしある事か)
筑紫舟登ると開けばべに附て、オヽ紅粉つけて歯黒めされて出てすきあう。やつた王子を宮とは申せども西は海、オヽ西は海東は渚御前まします。鷹の子はいづくか住所《スミカ》丹生の山、オヽ丹生の山今おり居所は耳鳴の宮。まうたちは揃ゆるをりは深山なる、オヽ深山なる大黒小黒もをしからず。日の御子は日の山からぞおはします、オヽおはします帯釼ときて今ぞまします。
補【熊野】日高郡○名所図会 熊野権現社、岩内庄熊野村にあり、往年境内にて村民一寸余の白玉二顆、古鏡二面、大刀長刀諸器物等を掘出したる事あり、祭日神楽歌(寛文十年に書せるものにて、今は此歌を唱へず)
塩屋《シホヤ》 日高川の河口其東岸を塩屋浦|天田《アマダ》村と曰ふ、今塩屋村と改む、御坊町の南に在り。此浦より切目峠を踰え田辺に至る凡七里海に沿ふて行くべし。道成寺緑起に塩田の図あり、詞に「此は塩屋といふ所」と云へれば其頃には塩をやきし知る、王子杜は北塩屋に在り。
白河法皇熊野へまゐらせ給ひて、御供の人塩屋の王子にて歌よみ侍ける時、
思ふこと汲みてかなふる神なれば塩屋にあとをたるる也けり、〔千載集〕 後二条内大臣
塩屋浦に権現磯と云所あり、浦南に鰹《カツヲ》島浮び(海上十二町に在り草木生ぜず)遥に日御埼を望む景色佳なり、此に磯の岩頭に松ありて権現松と呼び熊野大神の跡と云。按に建暦文書、薗宝郷南は甘田亀石富島を限るとあり、甘田は今大田と書し亀石は近頃まで海口に亀の形ある巌ありしに土沙に埋没せしといふ、然して富島の名は知るものなしと雖も、甘田亀石に接せる地に似たれば此磯辺の事にもあらんか、且此磯もとは離れ島なりしともいひ伝ふるなればかた/”\拠あり、然る時は人車記に見えたる富島御宿も亦此地の事にやあらん。
補【塩屋】日高郡○名所図会 塩屋王子祠、北塩屋に属して、境内に御所の芝といふ所あり、後鳥羽院の行在所の跡といふ、大塔宮熊野に潜行し給ひし時、此所にて一宿したまひしとぞ。〔千載集、略〕○権現磯 南塩屋浦の海浜を云ふ、此地鹿背峠より日の岬にいたるまでの連山海面に横はり、日高川の海口と尾崎とを左右に擁し、鰹島中央に浮びたる、磯の山巌頭にけしきある松の一株立たるを権現松といひて、熊野神宮の跡と云ふ。○鰹島 同浦尾崎より海上十二丁にあり、大なる巌にて草木生ぜず。
名田《ナタ》 塩屋の東南なる野島上野浦井を土俗灘と呼ぶ、今合同して名田村と曰ふ、即海洋に因める名也。
野島《ノシマ》 塩屋の南に連る村落なり。名所図会云、野島浦の草履塚は、道成寺縁起に女の草履を脱すつる図あるより、好事のもの標せしと云ふ、又山臥塚は草履塚の辺より打つヾきて古塚十三累々として上に小さき五輪を建てたり、古老の伝に、むかL出羽国羽黒山の山臥熊野に詣んとて此の地を過けるに、阿波国海賊あまた上陸して、其山臥を尽く殺害して旅用の資財を奪ひとりぬ、里人十三人の屍を分ちて葬り、又海賊等をうち亡し山臥のために仇を報ひ.其賊等の尸を合葬したるを千人塚と云ふ、此地の海上阿波国鍬八丁といふ所に向へり、其地にあたりて折々陰火もゆる事あるは海賊等の亡念なりと。熊野遊記には、天正年中和泉国淡輪村梶原一党海賊になりて、此事に及びしと云へり、何れか是なるを知らず。
万葉集名所考云、日高郡塩屋浦の南に野島里と云あり、其処の海辺を阿胡禰《アコネ》浦と云て、貝多く寄り集る処なりとぞ。
あが欲りし子島は見しをそこふかき阿胡根の浦の珠ぞひろはぬ、〔万葉集〕
補【祓戸】日高郡○名所図会 野島村の字にて南塩屋六丁にあり。○清姫草履塚 祓戸の畑中にあり、清姫の草履塚といふ標石を建てたり。
上野《ウヘノ》 名田村大字野島の東南なり。続古今集云、熊野に詣で侍りける時上野にてよみ侍りける、入道前太政大臣
昔見し野原はさととなりにけり数そふ民のほどぞ知らるゝ。
いく汐か由良のみなとをこぎ出でぬ上野の鹿のとよむなり、〔夫木集〕 覚講 法師
由良のみなとは上野より西北にてやゝ隔たり、此歌熊野詣の時由良より田辺などに渡海する舟中にてよめるなるべし、昔海陸とも参詣の多かりし事は、由良興国寺縁起の奥書にも見えたるを、此歌と併せ見て、その実をしるべし、又此浦辺の里をば近郷のもの灘といふ、灘の塩屋は摂津国の名所とのみ定めたれど、正治の御幸の時、切目の御会に海辺晩眺望と題にて「漁火の光にかはる煙かな灘の塩屋の夕ぐれの空」と家隆脚の咏じたまへるは、この灘塩屋なれば、摂津国の灘とは同名異所にこそありけれ。〔名所図会〕
印南《イナミ》 名田村の東なり、今印南村|稲原《イナハラ》村の二と為る。南に小海湾を控へ駅舎なり、御坊を去る三里、田辺を去る五里。
紀州印南本郷地頭職事所宛行也云々、応永六年刊(義持)小山八郡殿。〔名所図会、小山氏蔵書〕
補【印南】日高郡○名所図会 印南荘、上野庄の東にあり、六ケ村を総ぶ。印南駅、小松原駅より三里、印南浦といふ、印南川の海口小湾中の駅所にて、旅含も多し。
南海集
枕上郷心語短※[敬/木] 風凄蘆荻入江声 愁人不向蓬窓聴 争識満湘夜雨情、
小山氏蔵文書
紀州印南本郷地頭職事所宛行也、守先例可致沙汰之状如件
応永六年十一月十五日 (判)義持
小山 八郎殿
切目《キリベ・キリメ》 印南の東に接し切目切目川|真妻《マツマ》の三村に分る、切目川に沿ふ。切目は古書或は殺目切部に作る。
古の切目駅は即切目村にて、今西野地島田の二大字に分れ、切目川の末にて、南は海に臨む。平治物語云
平治元年十二月十日の暁、六波羅より立し早馬切目の宿にて追付たり、大弐清盛は熊野参詣を遂げずして切目の宿より馳上る。(愚管抄切目を田辺に作る)
名所図会云、扶桑略記に「延喜七年、法皇熊野行幸切尾の湊より舟に御す」とあれども今其所在を失へり、按ずるに、切目川の海口の西のかたにさし出たる切目崎を切尾と云ひて、其辺に湊ありしか、尾は則尾崎といへるに同じ。
五体王子《ゴタイワウジ》社 熊野大神の裔社なり、五体と云は五男神を祭る故なるべし、切目王子と称し古より名高し、字西野地に在り。凡熊野王子は諸処数おほしと雖、切目王子最著る、天正中兵火に罹り神宝焼失す、寛文二年和歌山藩侯より殿宇修造ありて神木の梛と楓を植ゑしめらる、長寛勘文に載する熊野縁起に、大神当国に垂跡の初め先づ切目の玉名木の淵にあらはれ給ふとありて、即梛を神木と為す、(漢名竹柏又水葱)平家物語に「切目王子のなぎのはを稲荷の社の杉の葉にとり重ね」と曰へるも好対比なるべし。
保元物語云、後鳥羽法王日ごろの御参詣には、天長地久に事よせて切めの王子のなぎの葉を百度千度かざさんと思し召しに、今は三つの山の御幣もこれを限りと思し召云々。平家物語云、通憲宿願に依り熊野へ参りけり、切部王子御前にて相人に行逢たり、通憲に見て相して、御辺は諸道の才人哉、但寸首剣のさきに懸りて露命を草上にさらすといふ、如何して遁るべきといふに、いざ出家してや遁れんずらんとぞいふ、さてこそ出家して少納言入道信西とぞ云ける。
御所跡は切目王子の社地の艮にあり、後鳥羽院熊野御幸に正治二年十二月三日此御所にて歌の御会ありし事、新古今集雑部に「熊野にまうで侍しついでに切目宿にて海辺晩望と云へる事をおのこどもつかうまつりしに」と見えたる是なり、件の御幸の記に云、
参切部王子、入宿所、最狭小、海人平屋也、御所前也。羈中聞波、野径月明。うちも寝ぬとまやに浪のよるの声たれをと松の風ならねども云々、於此宿所、塩垢離カケ、眺望海、非甚雨者、可有興所也、病気不快、寒風吹枕云々。
寄題切目王子宮 祇源瑜
蓬莱之山海中峙、六鼇贔負潮噬趾、王府銀台知多少、五雲玲※[土+龍]金霞紫、切目神殿第幾宮、不老貝闕何歳起、貝闕窈窕吃双桓、碧磴青蘿水寒葱、(水葱樹名在熊峰) 療褐梅泉天淵漿、万古宝燈金鷲丹、南山往々金丹穴、伝是群仙所窟盤、紺穹銀月秋如水、芝蓋※[風+炎]輪駕六鸞、帝子降来山之阿、風※[風+叟]々兮珮珊々、?鼓雲傲(王偏)神方楽、玉醴※[草冠/惠]肴藉芳蘭、憶昔元弘草昧年、豺虎※[虫+冉]※[虫+炎]鯨鯢羶、王家南狩烟塵昏、誰知神光照九乾、宮前夢回太白高、龍飛日月錦旌懸、上皇亦曾駐仙蹕、羽従森々星冕※[草冠/市]、宸筵歌奏鳳来聴、咨嗟天南富風物、天南風物天下奇、済勝探討究者誰、孫綽天台空有賦、馬遷禹穴跡難追、欲問仙宮吾老矣、極目雲海波一鴟、
名所図会云、切目王子社の東大鼓屋敷と云に大塔宮祠あり、按ずるに天正本太平記に「宮は兎角して大峰禅定の秘所池の峰を上り転法輪の岳を過て十津河に着き給ふ」云々といへり、秘所池の峰転法輪の岳いま詳ならず、其他切目より十津川までの路次委しく書せるものなく、土人の口碑も区々にして往々旧跡と唱ふる所迂回にして便道の地にあらず。
太平記、熊野落の条に、般若寺を御出有て熊野の方へぞ落させ給ひける、(按ふに元弘二年九月廿九日笠置落城の後、ほどもなく落させ給ふさまなれど月日詳ならず)宮を始奉りて御供の者供皆柿の衣に笈を掛け、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ見せ切目の皇子に着き給ふ、其夜は叢祠の露の御袖を片敷きて通夜祈り申させ給ひ、未明に御悦の奉幣を捧げ頓て十津川を尋てぞ分け入らせ給ひける、其道の程三十里の間には絶えて人里もなければ云々。
切目川《キリメガハ》 矢筈岳真妻山の間より発源し、南流七里にして海に入る。真妻村は其上游に在り、大字小原より山地荘柳瀬又は南部荘本庄へ通ずる山径あり。○切目川村大字|古屋《フルヤ》と云は古へ花山院熊野御詣の通路にや、切目山の北なり。
雨のふる日もりける所を御覧じて
年経たるやどを古屋といふことは雨のたまらぬ名にこそあるかな、〔玉葉集〕 花山院
又按に万葉集に「虎にのり古屋を越えて青淵に鮫龍とりこむ剣太刀もが」の詠あり、此古屋と云も此にや、典故屠龍の談ありしにやと想はるれど徴証なし。
殺目山《キリメヤマ》 島田《シマダ》より東に一嶺あり、南方に突出し海角を為す切目埼と云ふ。日御の埼東南十海里に在り、山路を中山《ナカヤマ》と呼びて岩代村に通ず、熊野街道一名所也.
殺目山《キリメヤマ》ゆきかふみちのあさがすみほのかにだにや妹にあはざらむ、〔万葉集〕
きりめやまをちのもみぢ葉ちりはてゝなほ色のこすあけの玉垣、 右大将通親
通親の切目王子の詠歌は世に伝ふる切目王子懐紙の中に在り。〔名所図会〕
岩代《イハシロ》 切目山の東|南部《ミナベ》村の西に在り、今東岩代西岩代の二大字に分れ、其海浜を千里浜と称す。○日本書紀、斉明天皇四年、幸紀温湯、有間皇子、与留守官蘇我赤兄、謀用兵、然知相之不祥、倶盟而止、夜半赤兄、捉皇子、送紀温湯、絞於藤白坂。按に藤白は磐白《イハシロ》の謬ならん、万葉集有間皇子自傷の詠に参考すべし。
有間皇子、自傷結松枝歌、
磐白の浜松が枝をひきむすびまさきくあればまた還り見む、〔万葉集〕
中皇子命、往于紀伊温泉之時、御歌二首、
君が世もわがよも知らむ磐代の岡のかやねをいざや結びてな、わがせこはかり廬つくらすかやなくば小松が下の草をからさね、〔万葉集〕
磐白の松は今も海岸の磯馴の中に一老株ありて、土人之をさして結松《ムスビノマツ》と呼ぶ。
いはしろの野中に立てるむすび松こゝろもとけず古へおもほゆ、後みむと君がむすべる磐代の子松がうれをまた見けむかも、〔万葉集〕
たのみこししるしもいかゞいは代の野中の松に結ぶ恨を、〔御集〕 後鳥羽院
近年の人は石代といふ所のあるとはしらで、うせたる人の墓なり、結松と云はしるしに植たる木なり、されば祝所にてはよむまじきよしを云は僻事にや。〔無名抄〕
名所図会云、松を結ぶ事は万葉集に「たまきはる命はしらず松が枝とむすぶ心はながくとぞ思ふ」とあるが如く命の長く千とせも変るまじき事を、神にいのりて結ぶ古の風俗なるべし、同集に「八千種の花はうつろふ常磐なるまつのさ枝を我は結ばん」とよめるも同意に聞え、即有馬皇子も彼謀反あらはれて牟婁湯の行在所(今湯崎)に召るゝ時、此地を過給ふとて結びおき給ひしなり、此地今はさしたる巌もなけれど、海底はことごとく巌なれば、古は海浜すべて巌なりしが漸く欠て海底に残れるなるべし、さて巌多き地なれば磐代と号つけたるに、その巌の堅きに肖んとて松を結び草を結び給へるなるべし。
巌城結松 那波道円
別離雖惜事皆空、綰柳結松情自同、馬上※[口+我]詩猶吊古、寥々一樹立秋風、
又平家物語の、元暦元年平維盛熊野落の条に、藤代の王子を初として王子王子をふし拝みまゐり玉ふ程に、千里の浜の北岩代の王子の御前にて狩装束したる者七八騎が程行あひ給ふ程に、是は当国の住人湯浅権守宗重が子に湯浅七郎兵衛宗光といふものなり云々。
補【岩代】日高郡○名所図会 岩代荘、岩代村東西二村を総ぶ、古歌に岩代とよめるはみな此地なり。○磐代岡海辺によれる方なるべし、万葉集の歌によるに此地に行宮ありしなるべし〔万葉集、略〕○袖中抄 顕昭云、いはしろは紀伊国にある所の名なり、結び松と云は孝徳天皇の皇子に有馬皇子と申みこ、後岡本宮御宇天皇代(斎明天皇)かの所におはして自傷結松枝歌「いはしろの浜松が枝を引き結び真幸くあらばまたかへりみむ」此歌より事おこりて、いはしろの浜松といふ。
千里《センリノ・チサト》浜《ハマ》 磐白の浜を曰ふ、訓智佐止又字音にても唱ふ。南部目津崎まで大低十二三町の間の海浜を今千里浜といへども、古は岩代より南部まで浦づたひする間をもおほらかにいへるなるべし。大鏡云、
花山院の御出家の本意あり、いみじう行はせ給ひ修行せさせ給はぬ所なし、されば熊野の道に千里の浜といふ所にて御心地そこなはせ給へれば、浜づらに石のあるを御枕にて云々、
旅のそら夜半の烟とのぼりなば蜑のもしほ火たくかとや見む。
太平記云、「元弘元年七月三日、大地震ありて紀伊国千里浜の遠干潟俄に陸地となる事二十余町」と此地に妖変ありければ形勢も古今の相異あるべし、清少納言云、千里の浜こそ広くおもひやらるれ云々。
末とほき千里のはまに日はくれて秋風おくる岩代のもり、〔夫木集〕
名所図会云、千里浜に珊瑚の砕たるが砂に入りまじり奇石異貝多し、昔此浜より※[石+(而/大)]石《サザレ》と云名物出でて都にて之を賞玩ありし事伊勢物語に見ゆ、其石は後世転伝して今安芸国福王寺に蔵すとぞ。和訓栞にも其説を述べたり。
むかし山科のぜんしの皇子の宮に滝おとし水はしらせなどしておもしろくつくられたるにまうで云々、三条の大みゆきせし時、紀の国の千里の浜に在けるいとおもしろしき石たてまつりき、大みゆきの後たてまつれりしかば、ある人の御廂子の前の溝にすゑたりしをたてまつらむとのたまひて、随身舎人してとりにつかはす、この石聞しよりみるはまされり、これをたゞにたてまつらばすゞろなるべしとて、人々歌よませ給ふ云々。〔伊勢物語〕補【千里浜】日高郡○名所図会 熊野の古道なり、土人字音に千里とも云ふ、東岩代村領の堺より〔脱文〕○千尋浜 又千色浜とも見ゆ、共に今詳ならず、浜のひろきを云へるなるべけれど、いつの頃よりか千里の浜の一名の如くいひ伝へたり。
南部《ミナベ》郷 和名抄、日高郡南部郷。○今南部村上南部村及岩代村等なるべし、中世は御南部《ミナベ》荘と曰ふ。史徴墨宝考証、治承五年、五辻女院より西行上人建立の高野山蓮花乗院へ寄進、御南部庄南部本荘新荘又南部荘山内村などともあり。(南部村大字山内上南部村大字本庄)○古事記開化天皇の御子に「豊波豆羅和気王者、御名部造之祖」とあり、本郷は此御名代の地なるべし。
大宝元年十月、太上天皇(持統)大行天皇、幸紀伊国時歌、
三名部の浦しほなみちそね鹿島なる釣する海人を見てかへりこむ、〔万葉集〕
名所図会云、南部の駅舎は印南の東三里、田辺へは二里、今山内気佐藤南道北道等市街をなせるをすべて南部といふ、商賈多し。芝村安養寺は昔恵心院源信僧都住して七堂伽藍の地なりと云ふ、天正年中旧記縁起等皆燼滅し其後真言宗となる、近年境内より勾玉瑠理玉鏃石金環瓦器等を掘り出し、又文永十年の石碑数基を掘出す、文字磨滅して読むべからず、唯「為先考往生極楽御造立比丘尼持運文永十年十二月日」等の文字のみあり。○今昔物語云、
今昔、天王寺に住む僧有りけり、名をば道公といふ、熊野に詣で紀伊国の美奈部郷の海辺を行く程に日暮れぬ、然れば某所に大なる樹の本に宿す、夜あけぬれば樹の本を廻り見るに、道祖神の形を造りたる有り、其形旧り朽て多くの年を経たりと見ゆ、男の形のみありて女の形はなし、前に板に書たる絵馬あり足の所破れたり、道公其絵馬の足の処の破たるを糸を以て綴り本の如く置きつ、道公其日留て尚樹の本にあり、夜半計に年老たる翁来れり誰人と不知、道公に向て拝して云く、昨日の駄の足を療治し給へるに依て行疫神を乗せ送りぬ、尚草木の枝を以て小き柴の船を造て我木像を乗せて海の上に浮べて給へと云て、掻消つ様に失せぬ、道公道祖の言に随て忽に船を造りて海の上に放ち浮ぶ、其時に風不立波不動して柴船南を指して走り去るとなん語り伝へたる。
補【南部】日高郡○名所図会 南部荘、岩代庄の東にありて二十八ケ村を総ぶ。南部郷、即今の南部庄の地なるべし。南部駅、印南より三里当庄の内にて〔脱文〕
渓琴山房詩 垣内保定
林谷山人余旧交也、乙未冬日邂逅浪華市、携帰南紀寓浅浦之古碧桜者数月、今茲二月将帰東都、余贐瓜渓石数枚、且係以七言長句 山人不談上古事、雲飛烟滅五千年、山人不談今時事、浄名世利太紛然、酔郷之外更何有、一条只余山水縁、天下山水無不遊、青牛白鹿見群仙、日暮長風吹巾※[巾+責]、飄々袖得万峰碧、行李粛然殊不俗、一檐清玩竹与石、竹兄石弟共無蓋、喚作山水同遊※[山/客]、熊城秋風馬関風、幾所羈愁対渠酌、我是十年旧相知、旗亭重遇雨情適、千山万水相携帰、浅涌春風回柳色、半瓢独酒数来往、愧無玉単照瑶席、贈以瓜渓石数※[口中に拳]、山人愛石如趙璧、謝云縦之去関左安石排竹築園宅、笑指芙蓉跨帰鞍、別後風流可得聞、他時対石若相憶、彷彿七十二峰雲、〔瓜渓参照〕
埴田《ハネタ》 今南部村の大字にて駅舎の南に在り、梅林多し、海浜沙嘴あり埴《ハネ》埼と呼び、之を去る八町に一岩嶼あり鹿島《カシマ》と呼ぶ。往古は埼端より島まで干潮の候に徒渉したりとなん、嶼上に樹木叢生し神祠あり。
補【鹿島】○埴田村の坤海上八町にあり、奇山巌累々として巌上□樹欝然として三の森をなし、明神の社ありて、人家はなし、毎年八九月の頃釣を垂るゝもの多し、此島の椎の実大にして味よし〔万葉集、略〕此歌の言を按ずるに、往古は干潮には南部より陸にて往来せしならん、今も羽根崎よりはいと近し。
補【埴田梅林】○往来の左右及一樹尽く梅林にして、花候には香気山野に満たり、実は梅干として江戸に送るといふ。
本荘《ホンジヤウ》 今|上南部《カミミナベ》村と云ふ、大字西本庄に祇園御霊社あり、南部庄の大社にして供僧は安養寺なりき、明応文安永正以下の棟札あり。
瓜渓《ウリタニ》 南部川の一渓にして西本荘に近し、渓中に盆石を産す漫に採る事を免さず。本国塩石を産する所は此渓と牟婁郡古屋谷と二所にして、古屋《フルヤ》谷の方世に名高く聞えたれば此谷の石をも或は古屋谷の産とす、然れども石質品位少く異なれり、古屋谷の方は山峰尖りて黒色多く、此谷の方はなだらかにして青色のもの多し、然れども共に奇態万状にして好事家の把玩に充つるは一なり、渓琴山房集に林谷山人へ瓜渓石を贐する詩あり「他時対石若相憶彷彿七十二峰雲」。
瓜谿 渓琴
遠認洞天霞、来入洞天花、此中与世別、従古自桑麻、半畝闢草莱、結茅構自屋、山重出花去、下澗飲黄犢、
南部《ミナベ》川 清川村の東|虎峰《トラガミネ》の山中より発し、西南流して南部村に至り海に入る、長凡七里。○清川《キヨカハ》村は南部駅の北四里に在り、北嶺を踰え一里余にして山地荘柳瀬に至る、龍神温泉に赴く山径なり。
清水《シミヅ》郷 和名抄、日高郡清水郷。○今詳ならず、印南切目の辺郷名を欠けば或はそこなるべしと云も徴拠なし。
西牟婁郡
牟婁《ムロ》郡 西は日高郡に至り、北は十津川北山両郷(大和吉野郡)に接し、東北隅は志摩(北牟婁郡)に連り、南方は洋海に臨む。東西凡二十里南北凡十里、地界広遠、紀伊に属すと雖亦一州の大あり、古は熊野国と称せり。○牟婁郡今東西南北の四に分る、然れども其北牟婁は旧志摩国の城内にして、今三重県治に属するを以て志摩の下に繋けたり。南牟婁は地勢東牟婁の一部半面を成し、三重県治に属すと云と雖、山海の形状当に彼を離れて此に隷すべきを以て、本篇東南二郡を混同したり。
和名抄、牟婁郡、訓牟呂、五郷に分つ。続日本紀「大宝元年、車駕至|武漏《ムロ》温泉。三年、牟漏郡献銀」と見ゆ、蓋牟婁は郷名に出て今|瀬戸鉛山《セトカナヤマ》を本拠とす。(温泉鉱坑并存)万葉集「紀伊国之|室之江《ムロノエ》」の名見ゆ。
紀の国のむろの郡に行くひとは風のさむさもおもひ知られし、又、紀の国の室の郡に行ながら君と衾のなきぞ悲しき、〔大和物語〕補【武漏郡】○和名抄郡郷考 斉明紀三年九月往牟婁温泉。天武紀十四年牟婁湯泉没而不出。続紀大宝元年九月天皇幸紀伊国、冬十月車駕到武漏温泉。続紀天平勝宝六年正月牟漏埼。紀伊国造系図小乙牟婁と云人有。
○南境を熊野と称す、神武天皇神邑に幸し遂に海を渡りて荒坂津に至り、丹敷戸畔を誅す、牟婁は始て斉明天皇紀に見ゆ、又武漏・牟漏に作る。
神武天皇紀 戊午年六月、遂越狭野而到熊野神邑、且登天盤楯、仍引軍漸進、海中卒遇暴風、皇舟漂蕩(中略)天皇独、与皇子手研耳命、帥軍而進、至熊野荒坂津(亦名丹敷浦)因誅丹敷戸畔。按に狭野今佐野村あり、丹敷浦は和名抄志摩国二色郷あり、今錦浦存す。斉明天皇三年九月、有馬皇子性黠、陽狂云々、往牟婁温湯云々。持統天皇六年五月紀伊国牟婁郡人阿古志海部河瀬麻呂等云々。〔続紀〕大宝元年冬十月丁末、車駕至武漏温泉。牟漏は大宝三年〔五月〕に見ゆ。
郡の東南曽根荘逢川以東の地、古へ志摩国英虞郡に属す、天正中此郡に入(事は志摩国に詳なり)
熊野《クマノ》 今牟婁郡を云ふ、古は熊野《クマヌ》国と称す。国造本紀云、熊野国造、志賀高穴穂朝(成務)御世、饒速日命五世孫大阿斗足尼定賜。姓氏録云、熊野連、阿刀連同祖饒速日命孫味饒田命之後也。○神武天皇東征の時、海路此地に到り軍を分ち伊勢を平げしめ、親ら険を踰えて吉野に進みたまふ、紀記二典及伊勢風土記逸文に徴すべし。古事記伝云「神倭伊波礼毘古命、回幸到熊野村之時、大熊出、髣髴即失」此熊野の名は大熊の故事より起れるか、又出雲国熊野より移せるか、定め難し、南紀名勝志云「すべて牟婁一郡を熊野《クマノ》と云ひ、新宮の旧紀に昔大熊出たるにより熊野と曰ふとあれど受け難し」。按に神代巻に「紀伊国熊野之有馬村」とあり、伊弉冊尊の遺跡を留むる所なれば其旧地なる事は想ふべし、彼大熊の出でしと云も当時神祇を祝祭せる部民ありて皇師に対敵したるを譬喩せる者のごとし、即熊野の神人《カミタチ》は伊弉冊素戔嗚二尊の昔より起れるを知るべし、謂ゆる神と人との混同せる旧事を伝ふる也。名所図会に熊野神は出雲より移り来ると断定したり、故跡地名も出雲と同じき者多し、凡て出雲を本国とすべきか。○熊野八庄司と云事は太平記に見ゆ、中世八箇の荘に分裂したるか、今俗口熊野奥熊野の名あり、口とは西牟婁郡にして奥とは東牟婁郡也。又|三熊野《ミクマヌ》と云ふ三は真の義なり、美称にて吉野を三吉野と云に同じ。(三前郷を参考すべし)熊野《クマノ》は沿海四十里、江湾屈曲して漁猟に利あり、山中は大岳高峰其雄峻を競ひ木村に富む、海山の形勢最盛なり、而て南方は森々たる烟波直に大洋の航道に当り、潮流の近く之を過ぐるありて古より殊域の人物来帰の門戸と号す。○外交志稿云、孝昭帝の時南蛮船熊野浦に来る、たまたま悪風にあひ船壊れ免るゝを得る者僅に七人、三人船を造り本国に還る、四人留て我民となり熊野祠に奉事す、子孫繁昌して遂に新宮氏と称す、或は以て秦人徐市の党となす、紀伊続風土記に曰く、天保中我儒官仁井田好古秦徐福の碑文を撰び之を熊野に建つ、中に長寛勘文引く所熊野社記を挙げ、曰く往昔甲寅年天台山王子信の旧跡なり、又曰く漢司符将軍嫡子真俊権現を榎本に勧請す、又曰く孝昭天皇の時南蠻江賓主船に乗じ来ると、此数説同じからずと雖其殊域の人たるは一なり云々。熊野は名神霊仏の在るありて、古より四方往詣する者頗多し、俗に伊勢熊野を并称して順札参拝の第一と為す。熊野街道は東北伊勢に通じ、新宮那智を熊野の中心とし、北は本宮を経て十津川を溯り吉野大和路に出づべし、西は田辺を経て和歌山に出づ紀州路即是なり。〇三十三所図会云、熊野の西路は大辺地中辺地の二あり、大辺地は海岸の街道也、中辺地は山路の街道也、其那智浜の宮より那智山に登り大雲鳥坂を越て本宮に至り、三越嶺|野中《ノナカ》近露を過て田辺に出づ、行程凡二十一里是を中辺地《ナカヘチ》通と云ふ、順礼道者多く此通を本道とす、其那智浜宮より左へ取て浦神|古座《コザ》を過て田辺に出づる行程凡三十里許、之を大辺地《オホヘチ》通といふ也。又雍州府志曰、往昔役行者入峰の路を慕ひ、年毎に熊野より葛城の大峰に入て吉野に出づ、之を順の峰入といふ。然るに聖宝吉野山より大峰山の後に入り遂に熊野に出づ、之を逆の峰入といふ云々。春秋の峰入は春を順の峰入といひ本山方聖護院之を勤む、秋を逆の峰入といひ当山方三宝院之を勤む、故に聖護院峰入の節は中辺地を通行し、三宝院峰入には大辺地を通らせ給ふ。
熊野浦《クマノウラ》 此名は熊野海面の総号なれば、牟婁郡の沿岸を指すや明なり、然ば海上の形状を按ふに潮岬大島を中心とし海岸は其東北と西北に向ふて延伸す。其東北は志摩郡麥崎に至る直径七十余海里、其西北は日高郡日御崎に至る直径五十海里許、并に熊野浦と称すべし。即西は紀伊水道に至り東は遠州洋伊勢海の交界に接す、然れども世俗謂ふ所は多く其東北面|潮岬《シホノミサキ》より楯崎《タテガサキ》の海岸を指す。熊野浦古言三熊野浦と曰ふ。
三熊野《ミクマヌ》の浦のはまゆふもゝへなす心はおもへどたゞにあはぬ鴨、〔万葉集〕御食つ国志摩の海部ならし真熊野の小舟に乗りて沖辺漕ぐ見ゆ、〔万葉集〕三くまのの浜木綿生る浦さびてひとなみ/\に年ぞ重ぬる、〔山家集〕浜木綿は浜莱とも云ふ、芭蕉に似たる茎にて葉は万年青に似たり、花は四手を幣にかけたる様あり、故に名づく)
神武天皇御兄弟と熊野浦に漂はせ給ふ時、稲飯命歎きて曰く「嗟呼、吾祖は天神、母は海神、如何ぞ我を陸に厄《タシナ》め、又海に厄めたまふや」と言たまひ海に入て鋤持《サビモチ》神と為る、三毛入野命亦恨て曰く「我母及姨並に是海神、いかんぞ波瀾を起して溺すや」と言て浪の花を踏て常世《トコヨ》の郷に往ましぬ云々。〔日本書紀古事記〕熊野船及熊野海賊の事は東鑑太平記等に散見す、其起因沿革は貴重の史料なるべし、本篇所々に注すれど詳ならざる所多し。○産業事蹟云、熊野捕鯨は世に聞ゆる所也、相伝ふ斯業権與は古昔にありて、彼の徐福が当時秦の殃を避け遠く日本に航し、紀州熊野浦に着し始めて此地に於て捕鯨の業を行ひ、是より後漸く本邦各地に伝播するに至れりと称す、此説果して実ならば捕鯨業は奏代徐氏の遺法にして、我邦に於ては紀州熊野浦を以て開始とするは全く謂れなきにあらず、而して其捕鯨の歌は「大島原からよせくるつち(槌鯨)を二十艘秦氏がさしてとる」本邦に於て秦姓を冒す者は総て秦民の末族と言ひ伝へり、然れば徐氏も秦の人なれば此歌中の秦氏とは或は徐氏のことを云ひしものならんか、之を詳にするに由なし。近世捕鯨の術は慶長十七年に起る、太地《タイチ》浦及び三輪崎|古座《コザ》の三所に漁戸あり五組となり鈷撃を以て漁業を営みしが、当時丹後国入江に藁網を以て稀に捕鯨する者を伝聞し其術を研究する者あり、遂に延宝五年に至りて苧網を発明し以て捕獲を試みしに、頗る便利にして捕獲多きを以て、刺鈷手之が為めに衰へたり、是に於て漁者一般太地角右衛門の網組に合併して尚ほ角右衛門其主長たり、享保三年に至り和歌山藩より其業を直轄し、又新宮藩主水野家及び其他より資金を下したり、現今諸浦村民の共同経営とす。(太地を参考すべし)〇三十三所図会云、三熊野浦とは楯が崎より塩見崎迄とぞ。歌枕抄曰、仙覚抄に三熊野に浦の浜ゆふと読たるは伊勢国なりと云ふ説に付きて、三熊野に浜ゆふと読たる歌を収めて伊勢の名所に立たる本あり、此説尚ほ覚束なし、此名所に限らず伊勢紀伊国の名所混乱多し、万葉に「幸于紀伊国之時」とあるを異本に「幸于伊勢国之時」と書たるの本あるよし、斯様の義によりて相違の説とも之れあるかとも見ゆ、又熊野土俗の説に新宮より北楯が崎と云所より長島と云ふまで今は紀州の内になりたれど、往昔は右の楯ケ崎よりあなたは伊勢国なりと云へば国境古今の相違もあり、童蒙抄の説に「大饗の時、鳥の足を包む料に伊勢国三熊野浦へ浜ゆふを召す」と云へり、両国にわたる名なるべし。(此に伊勢と云ふは即志摩のみ)
熊野浦の航道は、海客熊野洋と称し、危険の懼多し、是れ全く潮流の進退に由ると聞こゆ、其険所は大島|潮岬《シホミサキ》を焼点とす。地学雑誌云、近年横浜と神戸との間に於て汽船の沈没せしもの甚だ多く、明治十九年土耳古軍艦エルトグロー号の如き最も世に伝へらる。抑黒潮の限界即幅と其速力とは大に支那海の信風に左右せらるれども、其方向に至りては太平洋の暴風の為めに著しき影響を受くるものなり、大気の有様に異状なきときは黒潮は大隅海峡を通過して大島(紀州)を掠めて幾ど直線に神子元島に向て流れ、黒潮北界の内側には必ず判然たる二条の水体あり、其一は黒潮に接するものにして常に運動せず、而して一日本を圍繞せる潮帯の一部分なり、此潮帯と日本海流との間にある水体は通例静止すと雖、時としては黒潮と反対に走ることあり、此水体の幅は風の方向及強弱に従て変化するものにして、風南方及東より吹くときは浜岸の方に流れて終に潮流と混じて該海岸に沿ひ非常に高く且強き潮汐を惹起す、而して其時の天気は一般に密高なり、此の恐るべき向岸流あるときは汽船は十六時間に十六里浜岸の方に推し流され、大島を右舷に認めずして却て之を左舷数点に見ること屡々之あり、此地を航せんと欲するの船長は心に銘記し、能く注意警戒して、針路を定めざるべからず。
伊勢島やあらき浜辺の浦づたひ紀のうみかけてみつる月影、〔続古今集〕
熊野舟《クマヌブネ》は古より其名ありて、一種の船制を成しゝごとし。○日本紀、神代巻、熊野|諸手船《モロタフネ》亦名天鴒船天鳥船。釈云、伊予国風土記曰、野間郡熊野峰、所名熊野由者、昔時熊野止船設比、至今石成在、因謂熊野本也。播磨国風土記曰、明石駅家者、高津宮天皇之御世、伐楠造舟、其迅如飛、一※[楫+戈]去越七浪、仍号速鳥。按之鴒船者、速鳥之義、速迅之謂也。○万葉集名所考云、熊野舟と云は船の名なり。島隠の歌は播磨にてよめる者にて、御食国の歌も伊勢にてよまれたるなれば早船の類なるべしとも曰へり。按に今も熊野浦の鯨漁船は種々に綵りて花形など画けるとぞ、土佐などにても鯨とる舶は皆さやうにして余の舶に異なれり。上古より熊野にては然る様にせし事か、さらば其様にならひて造れる船を何国のにても熊野とぞ云けむ、なほ考べし。
浦まこぐ熊野舟はてめづらしくかけておもはぬ月も日もなし、〔万葉集〕島がくりわがこぎくればともしかも倭へのぼる真熊野の舟、〔同上〕
読梧渓師熊中吟、有句云「英雄跡入乱山遠」雄麗可喜、蓋記大塔王之事也、同游屈指尚末十年、而師已帰浄土、感愴不堪、抽毫作長句、 渓琴
太古神皇立国本、龍車鸞駕度重※[山+獻]、爾来日出幾千年、旌旗不動千曳偃、何物妖※[髪ノ上/几]盗玉反、天歩艱難挽不返、翠華西巡日月愁 絶島海煙※[さんずい+宛]龍袞、一朝老龍怒赫々、龍子報国勢屯※[寒の中が足]、恨殺骨肉餌豺狼、竟放凶焔天地満、年遠跡遥何処求、切目祠前老檜秋、梧渓師丘壑之隠、錫鉢相伴訪久悠、吾亦南朝忠義孫、両条精鉄珮旧恩、布衣久仰乃祖績、空将吟筆慰先魂、鉄笛声震大瀑晩、魑魅屏気魍魎遯、白雲飛尽天風高、英雄跡入乱山遠、
熊中雑詩 渓 琴
間君目何年、来住万山裡、肅寺存古鐘、村民蔵旧史、我亦脱世塵、好随赤松子、此言何日遂、相対暮山紫。 堂々予章木、半壁拠南州、剣璽已帰北、末忘新大讎、或惜風雲際、豈曰無良籌、徒伝射鵬技、子孫捕海鰌。
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西牟婁《ニシムロ》郡 牟婁郡の西部にして、西北は日高郡に至り、南方は皆海、東は即東牟婁郡なり。田辺《タナベ》を都会とす、郡の西偏に在り、古の牟婁郷の地と云ふ。本郡は口熊野《クチクマノ》と称し大塔峰を以て奥熊野と相限る、水脈之に従ひ西南に傾注す。○今田辺町に衙を置き、四十一村を管治す。(其串本浦潮岬等は地勢全く東牟婁に入る、故に本篇は彼に繋けり、)
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牟婁《ムロ》郷 倭名抄、牟婁郡牟婁郷、訓無呂。○今田辺町瀬戸鉛山村附近の地なるべし。日本書紀、斉明天武の紀に牟婁温泉の事を載せ、続日本妃に武漏温泉、牟漏銀山、牟漏埼着船の事を載す、皆今の瀬戸鉛山の地に在り。
芳養《ハヤ》 田辺町の西一里に下芳養《シモハヤ》村あり、芳養川此にて海に注ぐ長四里其上游に上芳養中芳養の二村あり。東郡の西界にして日高郡南部村に接す、正応二年湯浅党結番次第に「十一番芳養庄東西」とあり、湯浅党散亡ののち康正二年造内裡記に 「参拾貫文、湯河安房入道殿紀州芳養荘所々段銭」とある此なり。湯川氏泊城址は下芳養村に在り、天正十三年豊臣氏を拒みたる所なり。○天正十三年湯川直春京軍に打破られ、芳養|泊城《トマリノシロ》に逃れ、又龍神近露山に保《ツボ》み塩見峠に奮戦せしかば、京軍死傷するもの数を知らず、遂に田辺の城に引退き、兵を分ちて一瀬城を囲む、両陣相対する事一月余り、京軍山谷嶮※[山+獻]にして進退自由ならざるに苦み、遂に和睦して旋へる、翌年豊太閤の命に依りて本領を安堵し其族三百人を率ゐ和州郡山の城に参観す、豊秀長直春を旅舎に毒殺す、其臣湊右京逃れ還りて泊の城を攻て戦死す。
延久四年太政官牒〔石清水文書〕
紀伊国牟婁郡 字出立荘
右勘所進文書天徳二年仏子幡助等連署堺四至施入御寺其後寛弘五年郡符云免除出立庄寄人臨時雑熟并庄田任坪付又長元五年免除荒熱并弐拾町余者国司注文云件芳益庄前司良宗任所立也無指官省符在起請以前云々
送槃澗居士、遊于芳養 渓琴
槃澗居士痩似仙、平生斗酒聳吟肩、二月海南韶華早、夢入梅花記昔年、熊山有山名芳養、白雲翠竹八九橡、居士恍惚不能持、又向枕頭掛酒銭、十里五里春山路、竹外一枝已可憐、独木橋危路始転、詩碑抱渇掬清泉、林巒漸尽平野遠、軽雨方晴緑満川、昏到夢裡梅花処、白雲翠竹両依然、曲浦断岸相映帯、花皆漠々和暮煙、乍見微月林端動、美人独立暗香辺、老鶴無声春賑々、素娥下窺影妍々、宛撒真珠三万斛、莫是山昆山種玉田、不見林下趙師雄、世人漫説夢中縁、何似詩豪槃澗子、帰来嚢有万首篇、
田辺《タナベ》 今田辺町と云ふ、北に山を負ひ南は港湾に臨む、西谷《ニシタニ》湊の二村之に接比す。田辺湾は瀬戸埼|鉛山《カナヤマ》其南方を塞ぎ、港口西に向ひ岩嶼碁布して括嚢の如し。商船来泊、交易大なり、推して熊野浦第一の盛邑と為し、水陸の要に居る。○大八洲遊記云、田辺、湾環為良港、船舶下※[石+丁]、帆檣林立、史言、正平中脇屋義助至田辺、従三百余艘、達淡路武島是也、旧安藤侯所治、官民七千四百、於熊野最為繁盛、故城枕海、礁楼睥睨、皆已撤去、纔存塁右耳。〇三十三所図会云、田辺城下熊野路の街道大辺地中辺地の両道の落合にして、順礼の徒は遥々熊野路の嶮岨を棲ぎ漸々に此地に出づるを歓び、山祝とて旅駕屋に於て餅を搗き旅駕屋の賑ひ甚勇まし。
牟婁港《ムロノミナト》 田辺港の古名なり.廬主集なる熊野詣の紀行中に云「其夜むろのみなとにとまりぬ、しぐれいそがしうふるに(中略)御山につく程に、木の本に手向の神多かれば、水飲にとまる」云々其路程より推すも明白なり。蓋牟婁は室の義にて湾形より出たる名なり。郷名同唱考云、牟婁は大和の郷名紀伊の郡名又郷名也、大和は御室村もあれば神舎によれるにや紀伊は続風土記に海津の舘舎《ムロツミ》あるより起れるか、又は温暖の義にして其地の暖なるより起れる称ならむ、大和物語に「きの国のむろの郡にゆく人は風の寒さも思ひしられじ」とあるを引けり、按ふに牟婁は熊野の神の鎮り坐を以て御室の義をとれるにはあらざるか、なほよく考ふべし、この他諸国に室原室津室野などは室の如き形勢によりて名けしものなるべし。
田辺城《タナベノシロ》址 海に臨み秋津川の下流に在り、徳川氏和歌山侯の家宰安藤氏に附与し三万八千石を給す、乃祖安藤帯刀直次元和五年入部、子孫世襲して近時に至る、今毀壊す。○按に田辺は南北朝の頃湯川氏の所領なり、天正十四年湯川氏亡び豊臣氏杉若某を田辺に置く、慶長五年杉若主殿肋西軍に属し封土三万右沒収せられ、本国は挙げて浅野氏に給せられ、尋で徳川氏に帰す。一書云、田辺城は慶長八年浅野殿|上山《カミノヤマ》より洲崎に移され、同十年暴浪にて破壊し翌年改造あり浅野左衛門佐之に居る云々。
鳥合《トリアハセ》宮王子 此社は田辺の東南、港村大字神田に在り、土俗|鳥合《トアリアハセ》宮と曰ひ、旧田辺社と称す、蓋熊野連の一族、田部《タナベ》連〔姓氏録〕の祖神なり、後世新熊野権現と改む、別当湛増湛誉等、当時熊野党の魁帥たり。○源平合戦の時、熊野別当湛増法眼は頼朝には外戚の姨聟なりと雖、爾来平家安穏の祈祷いたしけるが又今更に平家を捨てんことも昔の好を忘るゝに似たりと、進退思ひ煩ひつゝ、神明の冥覧に任すべしとて、文治元年田部の新宮にて臨時の御神楽を始む、神明巫女に託して曰く白鳩は白旗に付くと、湛増猶之を信ぜず、御前にて赤きは平家白きは源氏とて七番の鶏を合せけるに、赤鶏白鶏を見て一番も番ず逃にけり、此上はとて、熊野三山|金峰《キンブ》吉野|十津《トツ》川の兵どもを語らひ聚め、若一王寺の御正体を下し奉り、榊の枝に※[食+芳]り付け、旗の紋楯の面には金剛童子を画に顕はし、兵船二百余艘を調へて紀伊国田部の湊より漕渡り源氏に加る。〔源平盛衰記〕○熊野別当湛増は平家重恩の身なりしが、何としてか聞きいだしけん、新宮十郎義盛こそ高倉宮の令旨賜ひ既に謀坂を起すなれ、那智新宮の者どもは定めて源氏の方人をせんずらん、湛増は平家の御恩を天山に蒙りたればいかでか反き奉るべき、一矢射かけて其後都へ仔細申さんとて、ひたかぶと一千余人新宮の港へ発向す、新宮には鳥居の法眼高房の法眼、侍には字井鈴木水屋亀の甲、那智には執行法眼以下其勢一千五百余人鬨つくりて矢合し、源氏の方にはとこそ射れ平家の方にはかくこそ射れと三日の程戦ひたれ、去れどもおほえの法眼湛増は家子郎等多くうたせ我身手負ひなく/\本宮へこそ還りけれ。〔平家物語〕按に此に本宮大江法眼と田辺別当湛増を混乱する如し。〇三十三所図会云、田部別当職湛増の後裔は今尚此地に有りて本願院と号す、当社鳥居の外右の傍に在り、按に熊野別当教真が妻は為義が女郎臥が女|鶴原《タヅハラ》が女房にして其子五人本宮新宮那智岩田田辺五ケ所に分ち、湛増は田辺の別当たりしよしは剣の巻にも記たり、又此人々が源氏に加担したる証跡は、百錬抄に「治承四年十月六日、熊野別当湛増謀反、彼山の常住寺等に仰せて追討す可きの由宣下」とあり、玉海には九月三日とす、何れか是なる哉、疑らくは九月に謀反の事聞えて、十月に追討の宣下ありしにやあらん、盛衰記に湛増鳥合せを為して決心し、初て壇浦へ赴きし由記せども、是も又違へり、東鑑に「元暦二年二月廿一日、義経主既渡阿波国、熊野別当湛増、為合力源氏同渡之由、今日風聞洛中」斯れば平家屋島に在し程なり、是等の説による時は、治承の時既に謀反の色顕はれたり、其時源氏は未だ朝敵なり夫すら此山の常住寺制し兼ねたるを、文治に至りていかで両端の志あるべきや。○太平記云、小豆島すでに宮方となり四国の通路開きぬとて、脇屋刑部卿義助は暦応三年四月一日、勅命を蒙りて四国西国の大将を奉りて下向とぞ聞えし、紀伊の路に懸り通られけるに、先づ高野山に詣で千里の浜を打ち過ぎて田辺の宿に逗留し渡海の船を汰へ給ふに、熊野の新宮別当湛誉湯浅入道定仏山本判官東四郎西四郎以下の熊野人ども出迎ふ、かくて順風になりにければ熊野人ども兵船三百余艘調へ立て淡路の武島へ送り奉る。
海蔵寺《カイザウジ》 田辺町の東に在り、慈航山天授院と称し臨済宗を奉ず。文化年中南部浜の漂着木材を採り重修し、大殿広厦綸奐の美を尽し其奇異の木材海内無双の名ありき、近年失火して烏有に帰す、再修すれど旧時に比せず。
補【海蔵寺】〇三十三所図会 慈航山海蔵寺、天授院と号す、済家禅宗なり、田辺の町の東にあり、天授院は文化年中当国南部の浜に漂流せし異邦の一木を以て造る所なり、其広大なる事は言も更なり、木理の光景又は?痕の景色等同じからず風流なる事、海内無双の奇観と云ふ可し、尤公より賜はる所にして、則ち先住の造作なり、凡そ座敷鴨居、床の間床脇、天井欄間を初め茶室の構へ爐縁に至るまで一木にて作るものなり、就中大にして目に立つものは凡そ五間半に、幅間半の板縁作目継目一箇もなし、是にて一木の長さ大なることを察す、又小なるに至ては額縁力架手巾懸等の小道具を製す、桁行七開梁行三間半あり。
蓼戸鉛山《セトカナヤマ》 旧瀬戸浦湯崎鉛山村とて一地三名なりしを、土俗の習に従ひ今瀬戸館山村と定めらる。田辺の南二里、海中突出の一大崖角なり。東は富田村に至る、西方に瀬戸埼鉛山崎の二岬あり。○田辺より瀬戸船山に赴く陸路三里迂遠なり、田辺湾を横絶せば舟航最便なり、江上の景色頗佳なり。
補【瀬戸】〇三十三所図会 藤九郎盛長祠は瀬戸村にあり、安達藤九郎盛長の霊を祭る、霊験著しと云、盛長の墳は神主の境内にあり。
冬来てもまだ降りそめぬ雪の色に同じ白良の浜の月かげ (夫木集) 源宗長
○斥候《モノミ》桜 瀬戸の浦の海中沈島に在り、山上に高さ丈余の楼を築く、樹木其周を囲り、田辺の藩士交代して之を鎮り、異国の来船を諜るよし。
補【鉛山】〇三十三所図会 鉛山浦は湯崎浦とも云、白良の浜に続きて坂あり、是を登れば湯崎にして入湯人の宿屋多し、其余商家漁師の家等岸に添ひて家造りす、四時共に入湯の人間断なく、至て繁昌の地なり、湯の場所数多あり、各々其功能を分てり、古へ天皇御幸ましませし牟婁の温湯といへるは此地なりとぞ、頗る風景の勝地なり。
瀬戸浦《セトウラ》 村の北部にて、瀬戸埼沈島烟島等其北に在り、田辺湾の南方を塞ぐ。〇三十三所図会云、瀬戸浦に安達藤九郎盛長霊社あり、其墓と称する者もあり、社記曰盛長は鎌倉に仕へしに無実の罪を蒙り、紀州瀬戸の浦に配流せらる、されども数年の勤功に依りて嫡男景盛に本領安堵の御教書を賜はる、盛長は瀬戸の浦に年を経て富田の庄川村に遊び終に正治二年に卒す云々と。白良の浜は瀬戸村より湯崎村に至る間にあり、此浜の砂極めて白し、銀沙歩と名く。建仁元年十月熊野御幸の時滝尻王子社和哥に白良浜の題あり 冬きてもまた降初めぬ雪の色に同じ白らの浜の月影。紀のくにの紀の国の、ヤしらゝの浜にましらゝの浜におり居る鴎、ハレその玉もてこ、〔催馬楽、紀国〕
重浴鉛山泉 南海
泉騰金宝気、山孕水精苗、日月西東海、風雷旦暮潮、二竪跡已遁、三山路不遥、新知同病客、傾蓋便相遨、
鉛山七境詩(祇南海)曰、銀沙歩在浦東、北口有七礦山、一峰只白沙、望之如鎔銀、山下一帯、細沙如雪、
一望銀沙地、海潮洗更白、秋霜長不消、夏雲亦盈尺、不見限鴎鷺、唯看数篆跡、
補【江面浦】〇三十三所図会 湯崎の温泉に至るには田辺の浜より日毎に通ふ船ありて、其便至って自由なり、凡そ入海の行程一里許り、僅かに一時の間に江面浦に着す、夫より湯崎村まで半里にたらず。○磯間浦は田辺の庄神子浜村西南三町許にあり。○神島 田辺の庄新庄村の内にして、形見の浦の西南海上廿五丁許にあり、周九丁余と云、土人かしまとも云。
月余美能比可里乎伎欲美神島乃伊素未乃字良由船出須和礼者 (万葉集)
紀路歌枕抄・名勝略誌等に此地とす、然るに略解には備中国なるべしと云、是非を知らず。
牟婁温泉《ムロノイデユ》 日本書紀、斉明天皇三年、有間皇子、往牟婁温湯、偽療病、来讃国体勢、曰纔観彼地、病自※[益+蜀]消、天皇聞悦、思欲往観。四年、辛紀温湯。天武天皇十三年、地大震、十四年、紀伊国司言、牟婁温泉没、而不出也。続日本紀、大宝元年行幸紀伊、遂至武漏温泉。○今瀬戸鉛山村字湯埼に在り、此海上斗出の山崖にして数涌泉あり、沙中所々温を覚ゆる者あり、海底亦涌出の所あるを見るべし、皆炭酸泉なり、其浴場六所客舎三十戸頗殷賑なり。○埼之湯無色無臭味軟甘にして且鹹し、炭酸量百中三奇零二二を含み游離并半包合二奇零三五に及ぶ、温百三十六度。浜之湯は泉色少濁、温百六度。元之湯、(温八十二度)屋形揚(温百二十二度)礦湯(温百九度)疝気湯(温百廿二度)皆無色無臭とす。〔鉱泉志〕○大八洲遊記云、元湯、巨巌自然為槽形、温泉沸出、崎揚、巌凹尤大、長二丈半余、帽或三尺、深三四尺、出於造物神工、不仮人力、所謂金掖泉石槽也、今烟戸八十余、有鉛礦故云鉛山、徳川氏時専以鑿鉛為業、以礦脈入海底廃業、今則以漁業及湯泉為生活云。○牟婁温泉碑は村内全徳寺門前に在り、天保中建つる所なり、其略曰
海内温泉不可勝数、其最顕於古者莫先於予之熟田津、摂之有間、紀之牟漏、々々温泉頗多、其有名者二焉、曰湯埼曰湯峰、古史所紀乏言紀温湯、不斥其地、故世或疑焉、書紀斉明天皇、四年冬十月、帝幸紀温湯、先是有馬王子、来浴牟漏温湯、帰奏曰、其地勝絶、纔渉其鏡、病自※[益+蜀]消、帝聞之、南巡之意決焉、帝之幸也、皇太子亦従焉、此即 天智帝也、又書紀云、持統天皇四年九月、天皇幸紀伊、又続紀云、文武天皇、大宝元年九月、太上天皇、幸紀伊国、冬十月、車駕至武漏温泉、蓋此時二聖相偕幸焉、則持統帝乃併前両回、万葉集所載亦足以徴矣、然則此地、温泉之美、海岳之勝、所称於古者、其将奚疑、今村中相伝称、御船谷御幸芝者、臨幸之遺跡云、蓋茲地横出於瀛海中、偃騫(馬が足)蟠窟、如臥龍奔蛇、北与田辺城相対、面勢海湾、々大十有余里、其間蒼嶺秀壁之削立、曲浦長洲之聯亘、漁村之点綴、島嶼之碁散、異態詭状、不可縷形、憑高望之、恍加入仙都、其遠望削、峻岳畳峰、濃淡分彩、聳抜於雲表、大瀛万里、渺無際涯、賈帆商舶、往来出没於風涛雲烟之中者、一挙目而足矣、誠海南之壮観也、有間王※[益+蜀]病之言不虚云々。鉛山七境詩曰、境多湯泉、各有名号、礦泉、碕泉、尤清潔可入、曰之金液泉、「天地有洪爐、金宝揚其精、万古石巌曲、?々清且鳴、非※[支+羽]起吾痾、併茲濯塵纓、」行宮址、在碕泉上、相伝白河帝嘗浴此、留輦処、「憶昔温泉上、行宮有古台、絃管空松韻、玉甃石苔、泉声猶望幸、翠華帰去来、」芝雲石、在浦西南磯頭、形如芝、亦似雲、俗謂之千畳岩、「磯頭一片石、万人可以居、芝雲相襞積、五色挿芙渠、不知渦姫氏、非是補天余、」避難渡、「乾設坤開八百洲、先朝遊予有仙丘、石門一穴断還続、危嶼三窓凝不流、境似桃源犬疑客、浪通蓬島鶴随舟、蘭※[木+堯]谷与看不尽、安得丹青附虎頭、」
ましららの浜の走り湯浦さびて今はみゆきのかげもうつらず、〔夫木集〕 仲実
補【湯崎】〇三十三所図会 御幸の芝は崎の湯の上山の方にあり、往昔白河帝此温泉に浴し給ふ時、行宮を営みし所なりとぞ。千畳磐は西南の海岸にあり、千畳敷とも云、数十丈の大磐石にして、其形恰かも雲の如く霊芝の如し、南海先生之を芝雲石と名づく、奇観双びなし。湯崎温泉碑 村中金徳寺の門前にあり、天保年間に建し所にして、碑文は仁井田氏の撰なり〔碑文、略〕
鉛山《カナヤマ》 和歌山藩の初代の比に、湯埼山に開鉱し、採鉛の業一時に盛なりしと云ふ、今は廃坑に帰す。按に続日本紀、大宝三年、牟漏郡献銀の事を録す、此地の所産なるべし。.
鉛山浦 祇南海
鉛山之浦何※[虫+壇の旁]蜒、金宝精華不後天、自古青州倶緑石、于今赤岸接銀川、巌々旧礦穿丹穴、歩々※[日+宣]泉吐紫烟、借問年々釆浴者、何人為遇騎羊仙、
鉛山即事 祇 師授
茅屋窮山百事貧、蟲声秋冷枕頭親、一渓暗水愁辺雨、半壁残燈夢裡人、樗散形骸空白骨、羊腸岐路総紅塵、明時未試鉛刀割、頼与老農欲卜隣、
鉛山埼は浦南に突出し瀬戸碕と相并ぶ、牟婁埼と云も此なるべし。続日本紀、天平勝宝五年十二月、入唐副使吉備真備船、来着益久島、自益久島進発、六年正月、漂着紀伊国牟漏埼。
秋津《アキツ》 田辺町の北に上秋津下秋津秋津川稲成の四村あり会津《アヒヅ》川の谷を占めたり。河は長四里余、西南流して田辺町に至り海に入る。○稲成《イナナリ》村に蝦※[虫+莫]岩といふ一奇あり、大三四丈許形状相類す故に名づく、其前に観音洞あり広十歩許中に仏を安置す、猶秋津の山中種々の形状を成せる岩石多しと云。
見渡せばきり目の山もかすみつゝ秋津の里は春めきにけり、〔夫木集〕
秋津野は吉野郡に在り同名異地なり、一説万葉集なる人国山岩倉山は此秋津里に在りと、随駕の人々の詠じたるにや。
常ならぬ人国山の秋津野のかきつばたをし夢に見しかも、〔万葉集〕石倉の小野ゆ秋津にたちわたる雲にしもあれや時をしまたむ、〔万葉集〕
人国山は秋津村の西|万呂《マロ》村に在り、岩倉山の号は下秋津村宝満寺に遺る。〔三十三所図会〕
補【秋津】〇三十三所図会 〔万葉集、略〕人国山は万呂村に在り。秋津野は秋津村の東の方に見ゆる野をいふよし、方八丁ばかりの野なり、今は田地となれりといふ。岩倉山も秋津村に在り、即ち東山の峰をいふ〔万葉集、略〕岩倉山宝満寺は下秋津村に在り、田辺より凡そ北十八丁許に在り。
三栖《ミス》 田辺町の北東三里、本宮に赴く通路にて小駅なり。此路は即|中辺《ナカヘチ》と称し塩見峠近露三越峠を経て本宮に達す。
熊野へ参りけるに、やがみの王子の花面白かりければ、社に書附ける、
待ちきつる八上のさくら咲にけりあらくおろすな三栖の山風、〔山家集〕
塩見《シホミ》峠 三栖村の東なる横嶺にして、之を踰ゆれば栗栖川村なり。〇三十三所図会云、凡新宮田辺の間中辺廿里海潮を見る事なく、往還の前後左右共に連山峨々と聳え山深く道狭くして頗る難所の坂路のみなり、然るに漸く此地に来りて始めて道の平なるを踏み、既に峠に至りて西に向へば大海※[水三つ]漫として絶景言ふ可らず、されば熊野の奥より出で始めて海潮を見るを以て峠の名を潮見阪と云ふ。
栗栖《クルス》郷 和名抄、牟婁郡栗栖郷。○今栗栖川村及三栖村近野村などに当るべし、田辺本宮の間なる山村なり。
栗栖川《クルスガハ》 塩見峠の西麓にて富田川の上游なり、今村名にして又駅名なり。往時は塩見峠にかゝらず澗に沿ふて南下し、石船《イシフネ》真砂《マサゴ》市之瀬岩田などを経て田辺に通じたる別径もありし也。石振王子(今栗栖川村大字石舟)真砂長者(今栗栖川村大字真砂)の事古書に見ゆ。○道成寺縁起に熊野真砂荘司清次の女|清《キヨ》姫妄執の談を載す。
三熊野の石ふり川の早くより願ひをみつのやしろなりけり、〔夫木集〕 平忠盛
安堵峰《アンドガミネ》 栗栖川の北四里に在る大岳なり。和田峰|虎峰《トラガミネ》と相並び、嶺陰は日高郡|山路《ヤマヂ》龍神《リユウジン》の谷なり、栗栖川之に発源し岩田川又富田川と云ふ、南流十里余にして海に入る。
近露《チカツユ》 栗栖川村の東に一嶺を隔つ、今|野長《ノナガ》村と合併し近野《チカノ》村と改む、本宮三越峠の西麓とす、(本宮を去る四里田辺を去る七里)日置川の上游にして河口を去る十余里、四方絶険の邑なり。天正十三年湯川氏京軍に蹙められ近露に保《ツボ》み、山路《ヤマヂ》龍神を擁護せんとしたるも果さずして出降る。
参考本盛衰記、康頼法師熊野詣の祝言の条云、鹿瀬蕪坂重点高原滝尻と志し、谷川を渡れば岩田川に准へ、近津井湯河音無の滝云々。此なる地名、重点高原など云ふは今詳ならず。○近露氏は野長瀬《ノナカセ》とも称し山中の一豪族なり、後湯川氏に属し天正中に至り家衰ふ。○南朝遺史云、尊雅王は市川宮と称す、小倉宮(後亀山帝皇子実仁)第四王子、則ち尊義王の弟とあり、或は尊義王の王子とあり。紀伊国続風土記に残桜記を引て曰く、尊義王の第三の皇子尊雅王母は色川左衛門尉平盛氏と云ふ強族の女とも云へり、西牟婁郡色河郷の家譜に盛氏の女後村上天皇に奉るとあるも、尊雅王の母とは見えず。又紀伊国西牟婁郡近露村に野長瀬の荘司の孫胤あり、此家の家譜に六郎盛矩の女とある所に尊雅王とあり、盛矩は小倉の宮に奉仕伊勢国司左中将満雅と共に討死とあり、野長瀬荘司は吉野十津川郷中古分裂し今十二村郷と云所の野長瀬村の人なり紀州近露村を領す。○按に野中瀬は今近野村大字野中なり、之を吉野郡十津川郷に求むるは誤れるのみ。太平記云、紀伊国の住人野長瀬六郎同七郎其勢三千余騎にて大塔宮の御迎に参る、是を見て玉置が勢五百余騎叶はじとや思ひけん楯を捨て旗を巻きて、忽に四角八方へ逃げ散りぬ、其後野長瀬申しけるは、昨日の昼ほどに年拾四五ばかりに候ひし童の名をば老松といへりと名のりて、大塔宮明日十津河を御出ありて小原へ御通りあらんずると觸れ廻り候云々。
岩田《イハタ》 田辺町の東二里、富田川の中游に在り。此村今は通路に当らねど往時は田辺より此に出て、澗を泝り市之瀬鮎川を経て栗栖川に至り本宮に向へりと思はる、即|中辺《ナカヘチ》街道の別路とす。岩田村の南一里|朝来《アツソ》村は今大辺街道の路頭に当る。
岩田川渡る心のふかければ神もあはれとおもはざらめや、〔続拾遺集〕 花山院
源平盛衰記云、三位中将維盛入道は高野《カウヤ》より熊野に向はせ、日数経て岩田川に着給ひ、一の瀬に垢離をかき給ふ、我都に留め置きし妻子の事露思ひ忘るゝ隙なければ、さこそ罪深くあらめ、一度此川を渡る者無始の罪業悉く滅すなれば、今は愛執煩悩の垢もすゝぎぬらんと頼もし気に仰られて、 岩田川誓の船に棹さして沈む我身も浮びぬる哉
と詠じ給ひて、父小松大臣の御熊野詣の悦の道に、兄弟此河水浴み戯れて上りたりしに、権現に祈申ことあり浄衣脱替べからず御感応ありとて、是より重ねて奉幣ありし事思出給ひても、脆きは落る涙なり云々。
朝来《アツソ》 田辺町の東二里余、富田浦まで二里余。此村の名朝来に作り阿都素とよむこと不審。
富田《トンダ》 瀬戸鉛山の東に連り、鉛山崎と市江崎の間一湾を成す、沿岸三里許之を富田浦と呼ぶ。今東西南北の四村に分る、即大辺街道の西界に当る。富田駅は東富田村に属し、田辺町より此に至る四里余。
富田川《トンダガハ》 安堵峰より発し南流、栗栖川岩田川等の称あり、富田浦に注ぐを以て、今富田川と曰ふ、長十里。
斎藤拙堂南遊志云、従田辺到三山、有両路、北由三栖入山路者、曰中辺地、香客皆就焉、南由富田沿海岸者曰大辺地、除吏役土人外、少経過者、故無酒茶店、無逆旅家、就村長若土豪之家、弁宿食、富田村頗富庶、不愧地名、有草堂寺、殿閣頗壮、上嶺険殊甚、三里入麓、有水簾亦壮、流為潤水、沿路回繞、或左或右、掲※[まだれ+萬]三十余処、得蹟川、無復一滴水、蓋下為※[さんずい+伏]流也。
市江埼《イチエノサキ》 東富田村大字|朝来帰《アサラギ》に在り、此地単純温泉あり、(温八十度)椿湯と称す。○市江崎より潮岬までの浦は僻陬の極にて、大辺路《オホヘチヂ》之に通じ、険阻最多し、山海并に高深なり。
日本水路志云、潮岬より市江埼に至る凡二十一海里間の海岸は、一帯に高山の脚下なり、※[こざとへん+歩]界にして西北西に向走す、市江埼より一折して北西北に屈し二十五海里日御崎に至る、其間に田辺港あり。
日置《ヒキ》 富田浦の東南二里を日置浦と曰ふ、日置川之に注ぐ。浦の南角を安宅《アタキ》埼と曰ふ、東は周参見《スサミ》浦に至る。
補【日置】西牟婁郡○日置川は近露の山中より日置浦・安宅埼へ注ぎ海に入る、日置は小市なり、安宅崎は市江埼の東南にあたり小嶼あり、航海の一望標たり。○日置の谷は今日置村、三舞村(安居)川添村(市鹿野)大都賀村、三川村(合川)豊原村、近野村(近露)富里村(平瀬)。
安宅《アタキ》 今日置村に属す、熊野海賊船の一魁師安宅氏の故墟なり。○史学雑誌、和訓栞に「舟にあたけ丸といふも安宅丸とかけれど仇気の意にや、あたけの大舶とも見えたり、龍頭つくりのよしいひ伝へり」とありいかゞあるべき、牟婁郡安宅村は外海に面し風波荒きゆゑ、その舟艦堅牢高大にして他所の船に異なるを以て遂に大船の名と為すか、
徴古雑抄(紀伊国牟婁郡安宅庄安宅村安宅新介所蔵)
淡路国沼島以下海賊退治事早廻籌策可致忠節之状如件
観応九年六月三日 (華押)(義詮)
安宅一族中
右の文書は又南狩遺文紀伊国続風土記等に載す、安宅氏は続風土記に拠れば橘姓にして居地の名を以て氏とす、南北の間に頼藤と云ふ人あり、観応元年足利義詮(続風土記に尊氏とあるは誤なり)頼藤の一族に命じて淡路の海賊を防ぐ為に同国由良に居住せしむ、其後頼藤北朝に背き正平十四年南朝より備後守に任ぜられ、周参見氏と共に命を受けて阿波を討ち、同十七年同国の内南方の地を賜はる、其家今に綸旨教書等を蔵せり。
日置川《ヒキガハ》 近露の北安堵峰の東より発源し、南流大塔峰の西に発せる諸水を併せ日置浦に注ぐ、長凡十二里。○日置川の山谷は広大の地を占め、今|三舞《ミマヒ》(安居)川添(市鹿野)玉川《タマガハ》村(合川)豊原《トヨハラ》(熊野)近野(近露)富里(平瀬)等六村と為る。
安居《アゴ》 今|三舞《ミマヒ》村と改む、日置浦の上流凡二里に在り。大字向平に炭酸泉あり。温九十三度。
合川《ガノカハ》 日置川の上游に在り、海を去る七里許、此より下游は舟筏を通す、今|三川《ミカハ》村と改む。
古屋《フルヤ》 合川の南なる一澗にして俗に古屋谷と曰ひ、蒼※[黒+幼]の奇石を産す採りて盆中卓上の珍と為す、一拳の大と雖、峰巒渓泉の趣を備へ風雅の客の尚ぶ所也、古屋石と呼ぶ。熊野《ユヤ》は合川の東北二里余、今豊原村と改む、大瀑布あり百間滝と号す高六十丈幅二間、那智に比すべし、然れども険絶の地なるを以て訪者少し。其東一里大字|木守《コモリ》に三階滝あり、其東方に大塔峰盤据す。
周参見《スサミ》 日置村の東一里許、南に小港を控へ大辺《オホヘチ》の一駅なり、江住《エスミ》駅を去ること三里。○周参見の東は串本浦潮岬まで八里、江住|和深《ワフカ》田並《タナミ》の諸浦に分るれど総称して和深山とも称す、口和深の大字は周参見村に属す。
補【周参見】牟婁郡○史学雑誌 正平十四年安宅氏周参見氏共に南朝の命を承けて阿波を討ちたることあり。
江住《エスミ》 江住浦和深村の西一里半に在り、今江住村と云ふ。田並《タナミ》浦(今田並村)は更に和深の東二里にして、串本浦に至るは尚二里の行程あり。
身のうさをおもふ泪はわふか山なげきにかゝるしぐれなりけり、〔歌枕名奇〕
東牟婁郡 南牟婁郡附
東牟婁《ヒガシムロ》郡 西は西牟婁郡に至り、東は南牟婁郡に至る。十津北山の二川和州吉野郡より来り本郡に入り相会す、之を熊野川と曰ふ、新宮に至り海に注ぐを以て新宮川の名あり。今本郡は一町二十九村(北山を除く)人口七万、郡衙は新宮町に在り。東牟婁は熊野の奥区にして奥熊野《オククマノ》と称す、山高く谷深く水遠く海広し、郡中大別して本宮那智古座及新宮の四部に分つべし、而て其新宮は七里浜(今南牟婁郡)と部分を同くすべし、大島は古座《コザ》浦に在り潮岬と相並び熊野洋の南角を為す。
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神戸《カンベ》郷 和名抄、牟婁郡神戸郷。○今本宮村に当るべし。神武紀に「越狭野、到熊野神邑」とあるは之と異なり、此に神邑と云は即新宮に当る、即|三前《ミクマノ》郷とす。神戸郷は山中にて音無里《オトナシノサト》是なり。
本宮《ホングウ》 熊野坐《クマヌニマス》神社此に在るを今本宮村と曰ふ。熊野川の左岸にして、新宮を去る事水程九里陸路七里。〇三十三所図会云、本宮は田辺城下より三超嶺を経て行程凡十三里半、市街は工商の家ども軒を列ね交易に隙なく、且社職御師の宅若干ありて国々を定めて支配の社家夫々旅客を一宿せしむ、所謂伊勢の御師にひとし、御祓(のぎへん)午王宝印等をも御師より出す、又町宿の類は音無橋より北に多し、至て繁昌の地なり。○明治二十二年十津川新宮川筋大洪水、熊野山中其害を免れし所少く、本宮の如き神殿民戸皆流亡し、旧態を一掃したりと云ふ。
熊野坐《クマヌニマス》神社 今国幣中社に列す、熊野本宮|証誠殿《シヨウジヤウデン》と称す、新宮那智を并せて三山《サンザン》と云ふ。明治廿二年洪水、神殿破壊し石宝殿二所を留むる外一切蕩尽し、爾後之を祓戸《ハラヒド》に移し再興し四殿を建つ。第一殿熊野牟須毘神(即伊弉冊尊)第二殿速玉男神、第三殿家都御子《ケツミコ》神(素戔嗚尊)第四殿伊勢大神とぞ、往時は之を上四社とし中四社下四社あり皆石宝殿の制にて都て十二社《ジフニシヤ》を祀れり、社蔵には建仁御幸記同御幸略記等あり。〔名勝地志〕〇三十三所図会云、熊野本宮は音無川の上に在り、古は音無里と曰ふ、社領千石高なり、十二社并び立給ふ、其礼殿は往時桁行二十八間梁行十三間にして大木の丸柱を以て造る、桂員百廿九本にて大和大納言秀長卿建立と云ふ、然るに明和七寅年回禄にかゝりて炎上す、其後再興なし今は仮りに小礼殿を営す、則ち其旧跡は小礼殿の後に在りて、俗に千畳じきの跡といふ、例年正月|牛王《ゴワウ》宝印神事此殿に於て行はる、回廊は六十間四足門三方に秀で彫物美を尽せり、南門の前に流れて大河あり、参詣の男女此より船に乗て新宮に至る(歩行七里半)船路九里八丁の急流なり、水流遥なりと雖一時の間に至る、按に熊野権現は諸書に載する事区々にして極らず、都て三山ともに各十二所を以て天神七代地神五代の神を祭る、故に日本第一宮と号す、是神道の秘する所なり、猥りに筆すべからずその恐なきに非らず云云と霊験記に見ゆ、往昔帝王御幸の事は平城天皇清和上皇宇多法皇花山上皇白川上皇堀川院鳥羽法皇後白河上皇後鳥羽上皇土御門上皇亀山上皇等にして、就中後白河法皇は三十四度詣でさせ給ふ。○神社考云、伊弉諾尊、与伊弉冊尊盟之、乃所唾之神、号曰速玉之男、次掃之神、号泉津事解之男、凡二神矣、今按速玉之男事解之男伊弉冊尊是熊野三所権現也、古今皇代図云崇神天皇六十五年、始建熊野本宮、景行天皇五十八年、建熊野新宮。○書紀通証云、熊野十二前、并祀天神七代地神五代、垂跡紀所謂五体王子四社明神是也、或称日本第一宮、大中臣日記曰、熊野権現、孝昭天皇廿五年出現。長寛勘文熊野権現垂跡縁起云、庚寅の年|石多《イハタ》河の南、河内の住人熊野部千与定と云犬飼、猪長一丈五尺なるを射、跡迫尋て石多河を上行、犬猪の跡を聞て行に、大湯原に行て件猪の一位の木の本に死伏せり、宍を取て食、件木下に一宿を経て、木末の月を見附て問申さく、何ぞ月虚空を離て木末に御坐と申に、月犬飼に答仰て云、我をば熊野三所権現とぞ申、一社を証誠大菩薩と申、今二枚の月をば両所権現となむ申と仰給ふ。
忘るなよ雲はみやこをへだつともなれて久き三熊野の月、〔玉葉集〕 後白河院
はる/”\とさしかき峰を分すぎて音無川をけふ見つるかな、〔夫木集〕 後 鳥羽 院
恋わびぬ音をだになかむ声たてていづこなるらむ音無の里、〔拾遺集〕
日本書紀云「素盞鳴尊、居熊成峰、而遂入於根国者矣」とありて本居氏は熊成は熊野なり、ナスを切ればヌと為ると曰へり、蓋出雲国熊成の名をば彼より移り来ませる神人《カミタチ》の共に此に移し給へるならん、神式帝東征以前の事なり。神武帝の時に神邑熊野村と云は今の新宮《シングウ》なり、後に及び山中にも之を祭り、熊野坐神社の名之に帰せるより従ふて本宮と為すのみ。水鏡帝王編年記等本宮鎮座は崇神帝の時など曰ふは疑あり、採り難きに似たり、又謂ゆる五体王子八王子など、熊野にて王子と云は、皆素戔嗚尊の五男三女の神にあたるごとし。○神祇志料云、熊野坐《クマヌニマス》神社、今那智山の西北七里、大字原に在り、蓋出雲の熊野大神建速素戔鳴命を遷祭る、〔日本書紀延喜式参酌長寛勘文大意〕之を家都《ケツ》御子大神といふ、〔新※[金+少]格勅符紀伊国神名帳〕 按家都御子大神を素盞鳴尊と申す由は、神代巻一書に素盞嶋尊韓国に降り坐て種々の木種を殖生し其用ふべき法を定め、又其※[口+敢]ふべき八十木種をも播生し給ふ御功ますを以て、出雲にては熊野大神櫛御気野命と称へ奉りしにて、櫛御気野は奇御木主《クシミケヌシ》の儀なる事著く、又其御子五十猛命大屋津媛命※[手偏+爪]津姫命の三神も能木種を分布し給ふを以て、紀伊国に渡し奉り樹木の暢茂れる事も他国に勝るを以て木国と名け、後に熊野神も出雲より遷し奉りてこの国にては家都御子大神と称せり、家都御子とも家都美御子とも申すは木津《ケツ》の御子にて御子は同殿にます伊弉冉尊の御子と云義なれば、櫛御気野命と其意異なる事なきを知るべし、本宮の伝説に家都御子大神に伊弉諾尊伊弉冉尊二神を合せて第一殿の証誠《シヨウジヤウ》殿に祭り、熊野夫須美大神御子速玉大神を第二殿に祭るとある伊弉諾尊伊弉冉尊二神は後人の附会なるべし、其は夫須美大神は卜部兼隆の諸社大事に結宮は女体とみえ、今も現に熊野神伊弉冉尊なるべく思はれ、はた此神ありては重複なるが上に国内神名帳に家都御子大神熊野夫須美大神御子速玉大神と記せる順序の社伝と同じきにて、三神の外に別神を祭るべき由なき事著ければ也、而るを世に夫須美神を※[木+豫]樟日命を音近きを以て熊野※[木+豫]樟日命なりと云説も聞ゆれど、さては自余二神の御子とあるをいかにとも云べき由なき也。
貞観元年熊野大神従二位を加へ、延喜七年字多法皇熊野山に幸し給ひ熊野早玉神に従一位、熊野坐神に正二位を加ふ〔日本紀略長寛勘文〕熊野行幸此に始る、〔熊野略記濫觴抄〕延喜式熊野坐神名神大に列す、天慶三年二座並に正一位を授奉る、承平中海賊の事を祈りし報賽也。〔長寛勘文〕白河天皇応徳二年中納言平清盛を遣して宸筆宣命及神宝を奉り、又大神宮に准て御拝せさせ給ひき、寛治四年白河上皇熊野山に幸して百余町地を三山に寄し、〔百錬砂帝王編年記一代要記〕元永二年上皇又紀伊阿波讃岐伊予土佐五国の地各十烟を奉りき、〔中右記〕此後朝廷此神を崇奉りしより鳥羽後鳥羽上皇相継て屡本社に詣給ひしを以て之を御熊野詣と申したりき。〔百錬紗扶桑略記中右記東鑑中資王記明月記〕長寛元年群臣に勅して伊勢熊野同神なるや否を議《マヲ》さしめ給ふ、時に刑部卿藤原範兼大外記博士中原師光等謂らく日本書紀に伊弉冉尊を紀伊熊野の有馬村に葬ると云り、是即熊野神にして実に天照大神の御母なる時は、熊野伊勢其名異なれども其実相同じと云ひ、或は本宮は伊勢内宮、新宮は外宮、那智は荒祭宮に同じ、或は熊野霊神は熊野※[木+豫]樟日命也、熊野高倉下命也、早玉社は伊弉冉尊也と奏しき、太政大臣藤原伊通(姓名拠公卿補任)議しけらく、国史延喜式を按ふるに※[木+豫]樟日命は素盞鳴尊の子、高倉下は神武天皇の侍臣、速玉之男は伊弉冉尊の子也、大神宮同体の神にあらず、古語拾遺曰 「天照大神は惟祖惟宗にして尊き事二つなく、自余諸神は乃子乃臣なれば之に抗すべからず」日本紀私記に「天照大神は是諸神の最貴也」延喜御記に「大神宮と豊受宮と君臣の如し」と云り、豊受宮猶然り、況や他神をやと奏しき。〔長寛勘文〕寛元四年覚仁法親王を以て熊野三山検校とす、熊野検校此に始る、〔葉黄記皇胤紹運録〕蓋中世以来僧徒専ら神事を掌りしより本社を号て証誠殿とし、末社の神を合せて十二所権現と云ふが如きに至りき、其事尤妄なり、〔参酌熊野文書熊野社伝僧官補任廬主江談※[金+少]大意〕御醍醐天皇元亨元年、護良親王兵を挙て熊野に至り坐す時、熊野神に祈りけらく「両所権現は是伊弉諾尊伊弉冉尊に坐せり、(此両所権現と云は当時の謬伝已に然り)今上其苗裔として大陽浮雲の為に隠さるゝ事神鑑空しきに似たり、神若し神たらば君何を君たらざらん」と果して神教を得て十津川に入る事を得たりき、〔太平記〕其神主本宮に仕ふる者を和田氏と云ふ、実に熊野連姓也。○按に熊野三山検校は覚仁法親王に始る、後鳥羽皇子也、近世は此職聖護院の兼帯に帰す、而て覚仁の名は聖議院法系の中に見えず。○熊野牛王《クマノゴワウ》と云は権現の護符にて、又烏の牛王と称す符文烏影に似たる奇字を載せたる者なれば也、又一説牛王とは璽の俗字※[尓/王]を誤りて尓王と思ひ違る也と。又倭訓栞云、熊野山より牛王宝印を出す、宝印の事は牛王守護神咒経に見ゆ、巫祝之に依りて神符と為す、或は牛王の二字は生土の義ありと云は拙し、宝印に烏点を用るは烏を熊野の神使とする故也、其裡書起請の誓文の事は夙に源平盛衰記に見えたり。抑烏を熊野の神使とする俗習は、彼の神武帝東征の時にも八咫烏の奇瑞ありし事古史に載せらる、定めて縁起のあることならん。
熊野路次、滝尻宿即事、 藤原信西
幽奇霊窟号熊野、一※[そうにょう+軫の旁]水無塵垢襟、月下嵐前摸拝思、当来現世利生心、石門松老攀煙過、巌戸泉寒叩凍※[甚+斗]、本地即知西土主、毎憑引□涙難禁、〔本朝無題詩集〕
熊中雑詩 渓琴
神聖跡自悶、巌洞幽花芳、百世弓弦直、三山鼎足分、波開鯨鰐国、壑養龍蛇雲、長護王孫剣、樵家説旧勲。扶桑鬱々歳三千、日出乾坤万里全、世遠相将伝板籍、時晴風雨護山川、天壇夜静鬼神肅、岳廟秋高日月懸、満地甘棠尚堪拝、遥々鸞鶴入長煙。
天手力雄《アマノタヂカラヲ》神社は延喜式に列し、文徳実録「斉衡二年、以紀伊国天手力雄神、預於官杜」とある是也。今本宮域内に在りて御戸開神と曰ふ。〔神祇志料〕
三越《ミコシ》 今|伏拝《フシオガミ》一本松等と合同し三里《ミサト》村と改む、本宮村の西北に接し果無《ハテナシ》山(十津川郷に界す)三越山の下に在り。三越峠は西牟婁郡近露に通ずる山隘にて、口熊野と奥熊野の交界なり。盛衰記に「高原の峰吹く風に身を任せ、三越の嶺を越えたまふ」など曰へり。
雲の居る三越岩かみこえん日もそふる心をかゝれとぞ思ふ、〔家集〕 俊頼
発心門《ホツシンモン》址○熊野本宮の惣門なりしが、後世廃し今尚|三越《ミコシ》に礎をのこす、明月記に定家卿発心門に詩を題せる由載せたり、
書発心門柱 藤原定家
恵日光前懺罪根、大悲道上発心門、南山月下結縁力、西刹雲中吊旅魂。
うれしくも神のちかひをしるべにて心をおこす門に入りぬる、〔千載集〕 経房
補【三越】〇三十三所図会 三越川は三越村に在り、街道の右の谷合を流る、音無川の水上なり。
発心門古址 三越村に在り、本宮の惣門にてありしよし、今尚礎石多く存せり。定家明月記曰、十五日午時計着発心門、宿南無房宅、此門柱始書詩一首、〔詩、略〕是より三越嶺すぐれば近露なり。〇三越嶺、奥熊野といひ、是より西を口熊野と云。
湯峰《ユノミネ》 今|四《ヨ》村と改称す、本宮の西南一里に及ばず、温泉あるを以て此名あり。
湯之峠鉱泉は三所あり、光明《クワウミヤウ》湯は硫黄泉にして無色透明、水素臭を帯び軟甘味あり、温百六十八度、玉湯は炭酸泉にして無臭無味なり温百八十六度、小栗《ヲグリ》湯は塩類泉にして無臭鹹味あり温百八十八度、共に水崖に涌出す、浴場五所に分れ清潔広濶なり、旅舎客楼十余戸頗繁盛なり。〔鉱泉誌〕此温泉は蓋熊野本宮の管理に成る、初め東光寺を置き之を掌らしめ、天仁元年鳥羽天皇勅願として此に二重の宝塔を起さしめらる、近年東光寺廃し宝塔亦毀壊せらる。〇三十三所図会云、湯峰は幽谷にては無双の勝地、浴室数多あり、きはめて熱湯なり、入湯客の旅舎は凡そ十六軒、座敷奇麗にして客のもてなし叮※[口+寧]也、伝へ言ふ往昔は湯壷は遥の峰に在りて東光寺とへだたりしが、後世温泉湧出の口もかはり、且繁栄にしたがひ今の如く構をつくり自由をなせり、又|河揚《カハノユ》と云事あり、是は澗水のながれの底より所々に温泉の涌き出づ、何れも河原の石を穿ちて湯壷とす、凡四五ケ所あり、水多く交れば温ならず、又水嵩増る時は埋れて其所を失ふとぞ。
熊野路や雪の中にも沸かへる湯の峰かすむ冬の山かぜ、〔草根集〕 正徹
東光寺《トウクワウジ》 近年一旦廃し三間四面高三丈二層の塔は毀壊の災に会ふ、信徒又相謀り寺名再興し薬師堂を以て本寺に充つ。内陣本尊は長二丈一尺の巨像なりと云も、胸部以下は地中に埋没し其上部に無数の竅ありて湯花《ユノハナ》の之に附着す、蓋自然の岩石にして往時仏胸より温泉沸き出でたりと、龕扉は菩薩の彩画、兆殿司の筆とぞ、豊臣氏本堂修繕の後和歌山藩世其資料を給したり。〇三十三所図会云、薬王山瑠璃光如来長七尺余座像、長五尺をあらはす、温泉の湯花にて自然と成所といふ、胸の辺に穴あり、古は此所より温泉涌出せしとぞ、故に尊像は地上よりのべつづけなり、又多宝塔は本尊釈迦仏並に文珠普賢を安ず春日の作といふ、内陣四面の板壁には六祖大師の像を図す、伝云飛騨内匠の造る所なり後鳥羽院の御建立と聞ゆ、什宝には平相国清盛書写の菩薩戒羯磨文一巻(紺紙金銀の泥一行づヽ交書)。○又云、一遍上人名号石は湯峰川の橋の向に在り、凡一丈余の磐石なり、土人之を爪書《ツメガキ》の名号と称す、石面に勒して曰く、
南無阿弥陀仏
熊野三所権現十万本卒塔婆并百万遍念仏書写畢乃至法界衆成所願也 正平廿年八月十五日 勧進仏子敬白
請川《ウケガハ》 四《ヨ》村の東南に在りて一村を成す、本宮の南一里許、大塔峰雲取山等其南方を限り、山中方数里の広あり。七越峰と云も此間に在りしならん。
立のばる月のあたりに雲消えて光りかさぬる七越のみね、〔山家集〕
請川は又筌川に作り、同名の水あり大塔《オホタフ》峰に発源し東北流四里、大字請川に至り熊野川に入る。○大字|皆瀬川《ミナセガハ》に硫黄泉あり、(湯峰南一里余)文禄中創見、温石五十八度、大塔川の岸に在り寄合数戸あり。
大塔《オホタフ》峰 請川村の西南に盤据す、頂点三千八百七十尺、熊野第一の峻嶺なりと云。北は法師峰より三越峠連り、東は雲取山那智山に至り、西南は山勢澗脈紛雑を極め、古座川日置川の水源を為す。凡大塔峰は土俗相伝へ「山根蟠亘、広袤十里に亘り、渓行五六里、山頂二峰に分るゝを見る」と云ふ、過大の言に似たり。
補【大塔峰】○地誌提要 牟婁郡木守村の東にあり、渓行五六里にして其麓に至る、山頂二峰に分れ北を一の森と云、南を二の森と云、州中第一の峻嶺にして其嶺を窮むる能はず、山根蟠亘広袤殆十里に亘る、其西脈北に法師峰、南に入道峰あり、皆山下より凡そ二里、又三日峰、岳峰あり。
小口《コグチ》 請川《ウケガハ》の南にて大雲取小雲取二山の間に在り、日足《ヒタリ》村と一谷を成す。小口川東流四里、熊野川に入る。雲鳥や志古の山路はさておきつ小口河原のさびしかりける、〔山家集〕
志古山とは今の小雲鳥山《コクモトリヤマ》なり、〔三十三所図会〕日足《ヒタリ》は熊野川の畔にて山駅なり、本宮新宮の中間に当る。
補【小口】○小口河原は大雲取の谷なり、〔霊鳥や志古の山路は云々の歌、山家集その他に見えず〕歌にをぐち河原とよめり、今は小口村といふ、志古の山は志古村に在り、小雲鳥阪といへる山は則ち志古山なりといふ、雲鳥は雲鳥阪の事なり。
九重《クヂユウ》 今|宮井《ミヤヰ》村を併す、玉置山の南にて本宮の東に在り。北山川十津川(熊野川幹流)の交会所は其北岸に在り。○地学雑誌云、熊野の宮井村に産出する石炭は北山及び十津二川の合流する所に、僅少の傾角をなして粘頁岩中に介在し、其厚さ四尺ありて良質の無煙炭を出すと云ふ。
玉置山《タマキサン》の瀞渓《ドロタニ》の奇勝は、本篇之を和州吉野郡に繋たりと雖、此にも再録すべし。瀞は俗にドロ八町と称す、近年大洪水の後稍毀損を被るとも云ふ。○大八洲遊記云、北山川、岸濶与熊野川(十津川幹流)相若、水稍浅極清冷、水底魂石平鋪、湍激※[耳+舌]耳、両涯碵礫、層堆為渚、無復沙土、二棹人、一引百丈、沿岸而上、尻高於頭、如飢鶴伏喙、一人樟舟、毎遇急瀬、棹人亦入水、推之、猶輓夫於車、泝流二里余、両崖絶、水渚亦断、己而至玉置口、是為瀞谿。○探奇小録云、小航北山川を泝り洞谷に至る、一棹崖を廻れば則ち渓口峻崖数尋屹立して門を作す、門内は左右壁石直立千尺、頂に稚松雑木を戴き一撮土無き者の如し、水は則ち深緑色にして巨巌底を作すに似たり、而して深さ数十尋測る可らざる也、漾々として流れず、舟子櫓を按じ緩々として進む、崖壁幾曲、観曲に随ひて改まり、崖岩尽く奇なり、其最も奇なる者右崖にして趺石蛭岩等なり。
熊野川《クマノガハ》 又|新宮川《シングウガハ》と曰ふ、源を吉野大峰に発し十津川と曰ふ。牟婁郡に入り北山川を合せ漸く巨流と為り、筌川《ウケガハ》小口川和気川大野川等の諸澗を容れ蜿蜒營(中は糸)廻して新宮に至り海に入る長三十五里。其河口より郡界に至る十二里は舟棹を通すべし、明治二十二年十津川大洪水、やまつなみを起し沿川一帯非常の災変を見たり。○熊野川には上り船ありて本宮に至る、航路九里八町、両岸頗る絶景なり、然れども那智山に参詣の輩は順路の勝手よからず陸路を行べし、又吉野より十津川に出て果なし越を経て本宮に参る者は本宮より舟にて南新宮に下るべし。〔三十三所図会〕○本宮より舟を下せば宮井に至る、両岸は屡巒起伏して水と共に東走し、左に請川右に敷屋《シキヤ》の村落あり、屏風島を過れば綱代淵あり巨岩淵に臨み奇嶮眼を愕す、宮井に至れば長流来会、※[さんずい+方]々然として洪なり。〔名勝地志〕大八洲遊記云、熊野川之舟、新宮距宮井五星、両岸奇巌怪石、往々在焉、或如巨人、或似浮図、或為巻絹帛状、形状不一、岸上諸山、間有石骨迸出者、与青※[山+章]畳翠、輝映如画、或有瀑布、隠見於老樹蔽蔭間、如白蛇下飲澗。熊野遊記云、和気村(日足村)石崖流曼、与上游異観、既左嶺率然而起、怪巌森々、立者側者、若将翔者、若将走者、若神握蛇者、若六首八臂者、且怒且狂、奇形異状、山海王会、不按図而目撃慄然、右方蒼壁数仞、葛※[草冠+櫑の旁]※[西/早]焉、走数十歩許、古松挿岩隙、有飛泉、至瀬原村、左山点布黒白、縦横有法、宛然石陣哉、流稍濶、山益潤、舟行緩、目得少間、乍見※[手偏+賛]峰若指、曲岸温麗、複上流之所未覩也、左曰大伴埼、右岸斧劈片々相倚、植髪于頂、乃新宮山之背也。
新宮に詣給とて熊野川にて
くまのがは下す早瀬のみなれ棹さすがみなれぬ波の通路、〔新古今集〕 後鳥羽院
熊の川せぎりにわたす杉舟のへなみに袖のぬれにけるかな、〔続古今集〕 後嵯峨院
補【熊野】〇三十三所名所図会南紀名勝略誌曰、新宮の庄に上熊野村・中熊野村・下熊野村あり、今の新宮村と云ふも原は熊野村の内なれども、新宮大神鎮座以後所の名とせるか、諸書に熊野村と云へるは此所なる可し云々。〇三熊野又は御熊野とも云ふ、尊神鎮座の地なるを以て御熊野と称するとも、俗に伊勢を御伊勢と云ふが如しとぞ。
○人名辞書 藤原資名は権大納言俊光の子、権中納言資明の兄なり、後伏見法皇の時深く眷遇せらる、光厳院位に京師に即くに及び、資名最も寵任せられて其枢要を管す、三月天下の義軍並び起りて京師に進入す、資名及び弟資明遽かに光厳院を促し、後伏見花園両上皇を奉じて東に奔る、近江番馬に至る、従兵大に潰ゆ、資名光厳院の腹心たるを以て、罪を脱するを得ざるを懼れ、髪を削りて遁れ、屏匿すること数年、会々足利尊氏の乱起る、初め熊野別当通有、素と資名と善し、尊氏西に奔るに及び、師に名なきを患ひ、持明院を立て、帝となし、両主の争奪を以て辞となすの議あり、乃ち道有を京師に遣して其の意を資名に通ず、資名便ち廃主の宣を請ひ、僧賢俊をして齎らして尊氏に賜はしむ、尊氏遂に鎮西の兵を率ひ長駆して京師に入り、東寺に拠りて営となす、帝延暦寺に幸す、資名便ち法皇光厳院を以て尊氏に東寺に帰す、是に於て皇統両立し、天下遂に分れて南北となる(大日本史)
○日本戦史 大阪の役に熊野の僧竹坊独り東軍に属するを以て、之に悉く三山の僧徒大阪に党せし者の邑を与ふ。
三前《ミクマ》郷 和名抄、牟婁郡三前郷。○今新宮町三輪崎村及其附近に当る。三代実録貞観十七年十月の条に紀伊国三前神とあるも即熊野神なるべし、三は古言真の義にて美称の辞也、神武紀熊野|神《ミワ》邑とある亦此なり。○南紀名勝志云、新宮荘に上熊野中熊野下熊野の三村ありて今新宮と云ふ、原は熊野村の中なれど新宮大神鎮坐あれば後世かく云ふ、諸書に熊野村と云へるは即此所なるべし。
補【三前郷】牟婁郡○和名抄郡郷考 前をクマと訓例は既に上件の日前また万葉集十三、道|前《クマ》八十|阿《クマ》毎云々、又諸陵式に曰、檜隈大内陵藤原宮御宇持統天皇合葬檜前大内、陵戸更不重充、又檜前安古岡上陵云々、また備後郡名沼隈、奴乃久万。神名式|沼名前《ヌナクマ》に作るなど証すべし。拾遺集に「みくまのゝうらの浜ゆふ百重なる心には思へどたゞにあはぬかも」其外歌おほし。南紀名勝志新宮の庄に上熊野中熊野下熊野あり、今の新宮村といふも元は熊野邑のうちなれども、新宮大神鎮座以後の名とせるか、諸書熊野村といへるは此所なるべし、すべて牟婁一郡を熊野といへるは新宮熊野村に因て云とみえたり、新宮の旧記昔大熊出たるによりて熊野といふとあり、此ことうけがたし。神代紀紀伊国熊野之有馬村。古事記神武段云、熊野村。神名式、牟婁郡熊野坐神社。国造本紀、熊野国造。三代実録貞観十七年三前国神。紀伊国神名帳、日高郡に正三位御崎大神あり(此社は日比御崎にありといへり)牟婁一郡図に潮之水崎と云あり、つき出たる島崎なり。神代紀、熊野之御崎。○今神宮村及三輪崎村、那智村の辺なるべし。
新宮《シングウ》 熊野川の未、七里浜《シチリノハマ》の南部に在り。旧荘名なれど今は新宮町と曰ふ、紀南の一都会にして和歌山を去る五十七里、郡衙を置かる。
参考本盛衰記云、文覚上人は渡辺より舟に乗り、住吉玉津島をよそに見て、由良湊、田部の沖、新宮浦に船を着、熊野山を伏拝、南海道より漕廻て、遠江の国名田沖にぞ浮たる。○水路志、新宮は此近海の和船貿易の大市場にして、其貿易品は重に平底舟にて、熊野川より落し来る木材及下等の石炭を輸出す。川口北角附近に高さ十五呎の数小岩あるを以て認め易し、川口より入ること一海里半にして南岸に新宮の大邑あり、邑の前面に位する新宮城は今や敗壊に属すと雖海面より望めば樹間に白壁を現じ極めて顕著なり。その他の望標、三輪埼は熊野川の南西方二三/四(二か四分の三のこと)海里にある岩角にして礫浜の南端なり、凡二鏈の間は危石険岩あり、而して内方の山脈は高さ三、〇〇〇呎以上に達する。
新宮は熊野党の木拠にして、社人僧徒の神威に頼り舟師を養ひ以て一方に雄視せる故墟なり、慶長五年邑主堀内氏西軍に与し敗亡したるより積勢抜かる、即新宮城は和歌山藩主の属鎮と為り浅野氏に帰し浅野右近忠吉之に居る、元和五年徳川氏に転帰し其家宰水野出雲守重仲に附せられ封三万五千石を分ち之に鎮ぜしめたり。〇三十三所図会云、堀内氏は世新宮の人なり、其先は熊野別当湛静に出づると云ふ、豊臣氏の時に新宮城に依て固守す、後に豊臣氏に臣たり、慶長庚子の乱に国除せらる、当今城下は新宮権現を始め霊地多く、殊更運送便宜の湊なるが故に、商家工家軒を並べて賑はしく、熊野中無双の一都会なり、城は社頭の東なり、舟着湊は新宮の町より東十町許にあり、朝夕商舟出入して交易し頗る繁華の浜也。○史料通信叢話云、熊野炭は近世著名の物産にして官業なりき、今は人民の私営也、販路は江戸に出すもの八分、其他は皆大阪及近国の需用に充つと云、抑旧藩御仕入方役所は奥熊野に三箇所ありて、専ら炭を製し之を販売することを掌り、当時製炭は一切藩の専売品にして私に之を輸出するを許ざず、其仕入手続は受負人を命じ製造の事を任す、又江戸には炭蔵役所ありて互に其気脈を通じ過漕販売の事を力めしめたりと。
熊中雑詩 渓 琴
九里蜿※[虫+延]尽、北顧翠螺堆、海城龍気※[門+必]、雲路鵬程開、地勢人煙密、舟帆賈客来、旗亭酒可飲、坐到夕陽頽。天風吹短髪、飛楼接太虚、海雲茫無際、万里送龍腥、空水不※[石+疑]眼、下瞰南極星、此景已※[しんにょう+貌]矣、仙夢入杳冥。
補【新宮】〇三十三所名所図会 熊野新宮の門前は新宮の町家なり、社僧金剛寺は鳥居の傍にあり。○御船庫は本社の右の傍にあり、延喜式神名帳に熊野速玉神社と云へるは、則ち当神宮の事なりとぞ、例祭九月十五日船に乗せ奉り数十艘渡御を供奉す、即ち神輿を島に移し、翌日遷幸あり。御船島とは本社の西北六丁許にあり、例祭神輿を爰に遷す、
飛鳥《アスカ》神社 新宮の北上熊野村にあり、新宮の町より十町許東にあり。○宮戸神社は中熊野村の東北一町許川辺にあり、俗に蓬莱山と云、祭神|泉守《ヨモツ》道神なりと云、此所は泉守平板の〔脱文〕
新宮城《シングウノシロ》址 新宮町の東に在り、天正年中堀内氏善の築く所也。兵家茶話云、天文中熊野別当堪静の裔孫堀内氏虎熊野の諸邑を脅制し新宮に居る、其子氏善北畠氏を破り志摩を侵し、後庚子の乱に除国せらる。野史云、堀内氏善、或作重俊、称安房守、関白秀吉徇南海也、氏善拠新宮城、防戦不屈、遂請和降之、文禄二年、率兵八百五十、従征韓軍有功、慶長庚子之役、軍敗屏居、後慶長十九年入大坂城、子重朝氏久皆与之、重朝募故旧侵掠郡邑、已而大坂城陥、徳川氏赦之、居于京師。○大八洲遊記云、新宮城、即水野侯所築、因阜、塁壁皆畳石、抜地数十丈、城櫓睥睨、皆已毀撤、其址北枕熊野川、河川環城入海、河北削峰岫、蜿※[虫+延]起伏、沿海連伊勢、西瞰新宮坊市、煙火三千、楼閣参差、其背則神倉諸山、聳立排空、引尾南走、南則岡阜※[こざとへん+皮]陀、東則平疇桑麻、廬舎蔭映、※[しんにょう+堯]以蒼溟、海天渺々、極目無際、舟帆出没、登覧之美、在明光浦之上。
新宮古館址○新宮町字下熊野に在り、六条判官為義の季子十郎行家が居とぞ、行家は前名義盛と云ふ。〔三十三所図会〕按に当時熊野別当は源氏に結托し、熊野悪僧蜂起の事玉海東鑑等に散見す、古館とは即別当坊の要害ならん。○源平盛衰記高倉宮令旨使節の条に云、抑も令旨の御使誰か勤むべきと仰ければ、三位入道頼政申けるは新宮十郎義盛折節在京に侍れば召されたしとありて、即ち十郎畏まつて曰く、平治年中より新宮に隠れ籠りて、如何して素懐を遂げて再び家門の耻を清めんと存する所に、今厳命を蒙る条然しながら身の幸ひに侍ると申せば、当座に蔵人になされ、義盛を改名して行家と名乗る、治承四年三月九日令旨を給て藤笈を肩に掛け柿の衣に装束して、熊野にて見習ひたれば山伏の学をして海道に係つて下りけり、此事隠すと雖国内通計の事なれば、平家の祈の師に本宮大江法眼之を聞き、新宮十郎こそ高倉宮の令旨を給はり東国に下り平家を亡さんとするなるが、那智新宮大衆等源氏の方人せんとて用意ありけれ、いざや推寄滅さんとて三千余騎舟に乗て新宮の渚へ押よせけり、新宮邪智の大衆此事をきゝて那智の執行正寺司権寺司羅※[目+侯]羅法橋高坊の法眼等同心して大衆二千余人新宮の渚に陣を取る、一日一夜火の出るほどこそ戦ひたれ、されども大江の法眼軍に負て退きけり云々。(田辺の鳥合宮の条を参考すべし)
丹鶴山|東仙寺《トウセンジ》は新宮村にあり、伝云六条判官為義の息女鳥居の禅尼の建立のよし。按に六条判官為義が女は鶴原とて熊野別当教真が妻なり、老後剃髪して鳥居の禅尼と号せしなるべし.則ち田辺別当湛増も此教真の五男にて源氏に与党す、無量寿寺は比丘尼寺なり、開基詳ならず、什物法灯国師の画像賛は法灯の自筆と言へり、仏涅槃の画像唐画の由筆者知らず。〔三十三所図会〕盛衰記云、源為義は熊野にも女房あり、娘をばたつたはらの女房とぞ申ける、白河院熊野御参詣の時、此の山には別当ありや、と御尋ありけるに、こゝに、ウヰ スズキ党と申すは、権現、摩伽陀国より我朝へ飛渡給し時、左右の翅と為てわたりし者なるに依て、熊野をば我ままに管領して、又人なくぞ振舞けるが、折しも権現の御前に花備て籠りたる山臥教真を別当になすべき由、すずき計らひ申ける、別当は重代すべき者なり、聖にて叶ふべからず、妻を合よとて為義が娘たつたはらの女房よかるべしとて教真にぞ合ける、其後洛中騒動ありける時、教真常住の客僧山内の悪党等上下を嫌はず催立て、一万余騎の勢にて都に上る。参考本云、按教真即湛快也、而系図無堪快号教真之交、可疑、又湛快子湛増也、而系図曰湛増実源為義子也。
熊野速玉《クマヌハヤタマ》神社 謂ゆる新宮権現なり、往時は社殿宏麗にして三山の第一に推されしが、明治維新領幣の列に入らず。同十六年火災に会ひ一山灰燼と為りぬ、神輿庫宝蔵等幸にして難を免れたり、故に神輿一基神事用船一隻其他神宝類廿六種は美術工芸品の目を以て明治卅一年国宝簿に登録す、殊に夫須美神(木造着色)坐像一躯伊邪那美神(木造着色)坐像一躯は同時に国宝に入る、猶著名なるは古鞍并輿鐙一具御剣二口鉾四本弓矢平胡※[竹冠/録]等また鏡手函櫛笥の類、中古近古の帝王将相の家より進献せしめたる者多し、古簡は土御門天皇の詠進和歌三巻を初め文書数十通あり。
熊野新宮にてよみ侍る
天降る神や願をみつしほのみなとにちかきちぎのかたそぎ、〔玉葉集〕 中原師光
後鳥羽院熊野にまゐらせ給ひける時、新宮の御会に庭上冬菊と云をよめる
露おかぬ南の海の浜びさしひさしく残るあきのしらぎく、〔拾遺愚草〕 藤原定家
山の尾にこれをさしてか御舟島神の泊りにことよさしけん、〔廬主集熊野詣記〕
新宮祭は例年九月十五日、神輿を船にのせ海上渡御ありて、御船《ミフネ》島とて磯辺の小嶼に移し奉り、翌日還御なり。
みくまのの浦輪に見ゆる御舟島神の御幸に漕ぎまはる也、〔藻塩革〕 少将内侍
神祇志料云、熊野早玉神社(延喜式名神大)新抄格勅符早を速に作る、今新宮庄熊野村の海浜に在り、〔南紀名勝志陽国名跡志〕蓋出雲の速玉神同神にして伊弉諾尊の御子速玉之男神を祭る、〔延喜式釈日本紀長寛勘文日本紀纂疏〕故仍て御子早玉大神と云ふ、〔紀伊国神名帳〕景行天皇御世始て神社を建つ、所謂新宮即是也、〔帝王編年記皇年代略記熊野略記〕天平神護二年、神封四戸を速玉神に充て奉る。○按に此新宮は、延喜七年字多法皇熊野山に幸し給ひ早玉神に従一位を加ふ、熊野行幸此に始る、天慶三年正一位を授け奉る、白河天皇応徳二年早玉神遷宮あり、勅使権中納言平清盛を遣され宸筆宣命を奉り、又大神宮に准じて御拝せさせ玉ふ等熊野坐神と同格の社なり。三代実録貞観十七年紀伊国三前神授従五位下と云も早玉社ならん、延喜七年早玉神従一位熊野座神正二位とあり而て之を新宮と称するは不審なり、此地は神武紀にも神邑熊野村とあれば当時既に早玉社の在りしを思ふ可し、蓋此新本の称は中世無識の輩の牽強より遂には世の公称に移れるならん。早玉男神は書紀「一書曰、伊弉冊尊、至黄泉、将出還、亦※[斬/心]焉、乃所唾之神、号曰速玉之男、次掃之神、号泉津事解之男」とありて蓋不浄を掃ひ清むる神霊なり。
熊野は往時本宮新宮那智田辺等の大邑には皆社務寺役に参与する豪族ありて、神仏奉仕の業と俗事とを兼しは中世の習なりき、之を熊野党と称す。治承文治中の本宮別当行明、建武年中の本宮別当道有、大坂乱の本宮別当竹坊等皆軍国の興敗に関係したり、中にも新宮三党と云は字井《ウヰ》鈴木榎本の三家なりき。○扶桑略記、永保二年、熊野山犯来大衆、三百余人、荷負新宮那智御体御輿、来集粟田山、(京都東山)暫安御輿於其山口、大衆参入公家、訴尾張国館人殺大衆等之状也云々。○大日本史氏族志、穂積氏、其族居紀伊者、有榎本宇井鵜殿鈴木等氏、(鈴木系図)鈴木氏祖曰重基、重基二十六世孫、曰重家重清、重清称亀井六郎、与重家倶従源義経。
飛鳥《アスカ》神社 新宮摂社にして字|上熊野《カミクマノ》に在り。相伝ふ早玉神初め切部山王那木の淵に天降り、次に神倉山《カンノクラヤマ》に移り、次に何須賀森に移り、景行帝の御宇に今新宮の地に移し奉ると、長寛勘文熊野略記に見ゆ。○今阿須賀神社神宝類十四種美術工芸品として国宝簿に録せらる。○平家物語云、三位入道維盛、新宮へ参られ神《カン》の座《クラ》を拝み給ふに岩礁たかく聳えて嵐妄想の夢を破り、龍水清く流れて塵埃の垢をすゝぐらんとも覚えたり、飛鳥の社伏拝み、佐野の松原さし過ぎて、那智の御山に参り給ふ。
神倉山《カンノクラヤマ》 速玉牡より甫七町許、磴道を蹈み之に登る凡二百尺。山頂に巨石あり、謂ゆる天磐盾《アマノイハタテ》是なり、熊野早玉神の旧座所也。〇三十三所図会云、神倉山権現は古より魔所なりとて申の刻を限りて登山を禁ず、俗に新宮の奥の院と云、或は龍蔵《リユウザウ》権現と称す、額に曰く日本第一熊野根本神蔵権現と、本社は巽に向ひ山腹の岩磐を以て神座とし、其前に建架けたる桟造りなり、此欄干より近く臨めば新宮の城下の街衢縦横に連なり、遠くは東南の蒼海一望にして絶景なり、又相伝ふ神蔵山は古神武帝の御時、武甕雷神|※[音+師の旁]霊《フツミタマ》の宝剣を下し給へる、高倉下命の庫の址なり、故に神倉と号すとぞ、委くは日本紀に見えたり。○神武紀云「到熊野神邑、且登天磐盾、仍引軍、漸進海中」と盾は一本舟に作る。釈紀云、天者例文、磐者堅磐之義、盾者干櫓之属、然則舟中所奉安之大楯也。されば天磐盾といふ者は岩石の義にあらざるに似たり、今是非を詳にせず、平家物語には神座《カンノクラ》に作り、熊野新宮の所在と為せり、天磐盾と云ふも畢竟神の座所を指して石にも楯にも比喩せる者か。○古事記云、廻幸到熊野村之時、大熊髪出入即失、天神御子忽為遠延、(遠延即瘁※[やまいだれ+莫])及御軍皆遠延而伏、此時熊野之高倉下、齎一横刀、到於天神御子、伏地而献之時、天神御子即寤起、其熊野山荒神、自為切仆。
按に古事記序に「化熊出爪、天剣獲於高倉」の句ありて本居氏は爪は山の誤かと曰へり、而て「到熊野村之時、大熊髪出入即失」の文段は本居氏髪は従山の誤ならんと云ひ、山田以文校本には「卜部兼隆所撰神書曰、日本紀作髣髴按書紀無此文恐指古事記」と注し近刊本には拇尾山所蔵熊野縁起所引此記文亦作髣髴と曰ふ、又天孫本紀には「磐余彦尊、発自西州、親帥船軍、東征之時、往々逆命者、蜂起末伏、前到熊野邑、悪神吐毒、人物咸瘁爰高倉下命、在此邑中云々、饒速日命児、天香語山命、亦名高倉下命」と見ゆ。
三熊野の神倉山の石だたみのぼりはてゝも猶いのるかな、〔続古今集〕 前太政大臣
神倉山、攀登四町、有巨石、大四五丈、形如蝦※[虫+莫]、其旁巨石差小者、三四相倚、兀立為洞形、旧拠石有高倉下祠、頽朽不存半椽、神武帝紀、到熊野神邑、且登天磐盾、磐盾即此山也。〔大八洲遊記〕
徐福塚《ジヨフクヅカ》 新宮城東の海岸なる田間に在り、老樟二株、其下に石あり、秦徐福之墓と刻む、之を距る三町許の地に小※[土+龍]七あり、亦徐福の徒の墳と伝ふ。〇三十三所図会云、徐福墓上熊野地村飛鳥社より五町許西南にあり、国君南龍院殿しるしの碑を建給ふ書は李梅渓なり、墳の上に樹木二三本あり之を蔽ふ。南紀名勝略記云、徐福祠、新宮庄熊野村の西南にあり、今岡なし土人其処を楠薮と云ふ、順礼細見に、新宮の下馬より十六町東、徐福祠あり世俗蓬莱山と云ふとあり、ともに此処を指して云へるなる可し。絶海録、蕉堅稿云、洪武九年、太祖高皇帝召見、至板房、指日本図、顧問海邦遺跡熊野祠、
熊野峰前徐福祠、満山薬草雨余肥、祇今海上波涛穏、万里好風須早帰、 御製賜和 熊野峰前血食祠、松根琥珀也応肥、昔時徐福求仙薬、直至如今竟不帰。
按、和漢合運に孝霊天皇七十二年秦徐福来との事を載せたるは、史記後漢書及神皇正統記等に始皇仙方を好み徐福をして蓬莱神仙を求めしむと曰へるを雑採して其年代を推したるならん。続西遊記云、徐福童男女五百人を率て蓬莱山を尋て熊野に至り、土着耕作し童子を養育して子孫まで熊野の長となりて繁昌せりと云伝ふ、其着船の磯は新宮の東六七里去て阿多須浦なりとぞ。○西州投化紀云、徐福、又作徐市、按※[王+郎]邪代酔編云、市乃古※[業の上/甫+祓の旁]字、非両人也、秦始皇遣徐福、将童男女三千人、資之五穀種々百工、入海求蓬莱神仙、不得、徐福畏誅、不敢還、〔史記後漢書呉志按義楚六帖作五百童女〕孝霊帝七十二年、遂来帰為氓。〔和漢合運海東諸国記〕按、史記曰、得平原広沢、止王不来、後漢書呉志為夷洲※[鍋ぶた/興の上/宜]洲、図書編別載徐福島、然義楚六帖欧陽全集太平御覧羅山集世法録等書、指為日本之地、今従之、劉氏鴻書南朝平攘録、以日本為福之後、妄矣、徐福居紀伊、其地名徐家村、其塚在熊野山下。〔海東諸国記海国見聞録〕○拙堂南遊志云、古来談者、以熊野為蓬莱、凡海内称蓬莱者非一、富士熱田厳島、併熊野為四所、就中熊野較為有拠、按元呉莱有聴客話熊野徐市廟七言古詩、其首云 「太瀛海岸古紀州、山石万仞挿海流、徐市求仙乃得死、紫芝老尽令人愁」見淵穎集。
過徐福墓 海荘
重男女去竟無聞、海上茫々五色雲、今日泰西種人策、二千年前已有君、
熊中吟 海荘
汗漫不期処、飄※[瑶の旁+風]任杖策、吟眼無塵土、壮懐撫盤石、澗路遠杳々、泉声聞清激、敲巌戞然嘯、豪気驚木客、危桟懸※[山+纔の旁]巌、捫羅攀翠壁、上有千年洞、雲華鐘乳碧、服之忘朝飢、追随化人蹟、古刹何処住、疎鐘破幽寂、渡水従樵者、欲去寒山夕、山下款柴門、道人氷雪顔、飲我松花酒、芳冽非人間、一酔眠石牀、不覚雲影寒、初疑玉佩響、清露落林端、
補【徐福祠】○外交志稿 天授二年(明太祖洪武九年)僧中津明より帰る、中津字は妙佐汝霖と号す、一号は絶海、明に在る九年、是歳明壬(太祖)英武楼に召見して法要を問ふ、秦対旨二称ふ、明主日本の国を指して海邦の遺跡熊野の古祠を問ひ、勅して詩を賦せしめ明王和を賜ふ、衆以て栄となす、按ずるに蕉堅稿に其唱和の作を載て曰、〔詩、略〕
三輪崎《ミワサキ・ミワガサキ》 新宮の南なる一村なり、海湾を抱き東南に開く、同名の岬角を以て新宮港七里浜と相隔離す。今三輪崎の辺を佐野庄とも呼び三輪崎の西南に接し大字佐野の名遺る。万葉集に神之崎狭野のわたりと曰ふも此なり、神字を三輪に仮れるは三輪神(大和国)に因由すれど別に義理あるに非ず、本義は水※[さんずい+回]なるべし。
佐野《サノ》 今三輪崎村の大字に遺る。神武紀云、皇軍至名草邑、則誅名草戸畔者、遂越狭野、而到熊野神邑、且登天磐舟(舟一本作※[にんべん+有]神倉山参看)仍引軍、漸進海中、卒遇暴風、皇船漂蕩、而進至熊野荒坂津。○按に狭野《サヌ》は神武天皇々師進撃の路程を推定する中枢と謂ふべし、荒坂津丹敷浦は佐野神倉山の以東に在るべき事以て証明するに足らん、一説荒坂津は佐野以西の那智浦に在りと云者信拠し難し。
くるしくもふりくるあめか神之崎《ミワガサキ》狭野《サノ》のわたりにひともあらなくに、〔万葉集〕
三輪の埼荒磯も見えずなみたちぬいづくゆ行かむよき道はなし、〔万葉集〕
忘れずよ松のはごしに波かけて夜ふかくいでし佐野のつきかげ、〔夫木集〕 後鳥羽院
三十三所図会云、三輪崎村は御手洗坂の下なる浦里なり、新宮より此所まで行程一里、鯨突の漁場にして、鯨舟数艘あり、此より佐野の辺、海上遥にして際もなし、所謂風景の地なり。○大八洲游記云、佐野小聚落也、神武帝紀所謂、越狭野至神邑、蓋此地也、浜海小礫堆畳、大如碁子、黒白相間、最可愛也、世呼為那智黒石者是也。○那智黒石は那智の滝より産するものにあらず、滝を離るゝ東へ殆ど二里余なる宇久井王子川(小渓流なり)の河口の両傍より産するものにして、河口より西の地は産出少く、王子川の東佐野村の海岸最夥く顕はる、地盤は悉く那智黒及び円石にて、海岸漸々と海水に洗はれ以て之を曝露するものなり。〔地学雑誌〕佐野荘は東鑑に見ゆ 「貞応元年、以鳥井禅尼所領紀伊国佐野荘地頭職、尼一期之後、子息良詮法橋可相伝之由被仰、彼禅尼者六条廷尉禅門妹、故右幕下之姨母也。(新宮東仙寺を参看)○神代巻一書曰、狭野尊、亦号神日本磐余彦尊、所称狭野者、是年少時之号也、後撥平天下、掩有八洲、改号神日本云々。按に狭野とは此地にも合へど偶然の事のみ、若くは筑紫の地名にて年少の頃の御名に負せ玉へる也。
補【狭野】〇三十三所名所図会 日本紀神武巻曰、遂に狭野を越て熊野神邑に至る云々、〔万葉集、苦毛零来雨可云々、略〕略解に云、みわが崎と云は紀伊国牟漏郡にて新宮より那智へ行道の海辺なり、新宮より今の道一里半許あり、其続きに佐野村あり。古歌に「三輪が崎夕汐させば村千鳥佐野の渡りに声うつるなり」〇一説に三輪ケ崎は大和又は近江に入たり、然れども夕汐さすとは有まじく、此歌に取りては紀伊国の佐野三輪ケ崎最も相叶ひたるにや、又万葉に「三輪のさき荒磯も見へず浪たちぬいづくゆゆかんよき道はなし」此歌又荒磯とあれば、熊野路なり。○佐野松原 佐野村の街道の左右松林なり。
宇久井《ウクヰ》 宇久井は佐野の東なる海村にして、東方に突出し那智浦の北を蔽ふ。大字|狗子川《クシノカハ》は即那智浦の北側を成し、一岩嶼あり山梨島と曰ふ、平維盛入水の故跡とぞ、不審。又一説此浦を丹敷浦と曰ひ荒坂は即|狗子《クジ》坂の古名なりと。
三十三所図会云、宇久井村の西に坂あり小鯨《コクヂ》峠|大鯨《オホクヂ》峠と云、那智浦は鯨を漁する地にして、三輪が崎|太地崎《タイチサキ》など専ら之を業とす、故に鯨の名を称る者ならん、白菊の浜は大くぢ坂を下りて小湾あり、此磯に打よする髪潮恰かも雪を積が如し、水烟旅人の衣裳を湿す、丹敷《ニシキ》の浦とも云、日本紀に荒坂の津と云へるは、此所の事なりとぞ、浜之宮まで一里許。
那智浦《ナチノウラ》 三輪崎を北角とし宇久井崎を中にし太地崎《タイチサキ》に至る沿海を曰ふ、一名丹敷浦、又赤色浦と云ふ。宇久井|浜之宮《ハマノミヤ》勝浦太地等小湾港其間に布く。那智黒石は宇久井佐野の磯に産し、那智川は浜之宮にて浦に注ぐ。
平家物語源平盛衰記并に維盛入水の事を述ぶ、平語云、熊野御山の参詣事故なく遂げ、浜の宮王子の御前より一葉の舟に竿さし、遥の沖に成りの島といふ所ありき、それに漕寄せ岸にあがり松を削り書き附られける「祖父太政大臣平朝臣清盛公法名浄海、親父内大臣左大将重盛公法名浄蓮、三位中将維盛法名浄円年二十七才、寿永二年三月二十八日於那智之沖入水」と、又舟に乗り沖へ漕出高声に念仏百遍計り唱へ給ひ、南無と唱ふる声共に海にぞ飛入給ひける、重景石童丸と云両人の童もつゞきて海にぞ沈みける。又源平盛衰記云、小松の三位入道維盛卿は浜の宮の王子の御前より一葉の舟に棹さして万里の浪にぞ浮び給ふ、遥の沖に小島あり金島とぞ申ける、彼島に上りて松の木を削りつゝ自ら名籍を書き給ひけり「平家の嫡々正統小松内大臣重盛公の子息権亮三位中将維盛入道、讃岐屋島の戦場を出でて三所権現の順礼を遂げ那智の浦にて入水し畢ぬ、元暦元年三月廿八日生年二十七」と書給ひ奥に一首を遺されけり「生れては終に死てふ事のみぞ定なき世に定めありける」。 右近衛中将維盛熊野浦にて失せにけるよし聞きてよみ侍る、
かなしくもかゝるうき目をみくまのの浦わの浪に身をぞ沈むる、〔風雅集〕 建礼門院右京大夫
按に那智山の奥なる色川村に、維盛は入水といつはり色川谷に匿れたりと伝ふ、不審なれど世にはかゝる説は多きものなり。
補【那智浦】〇三十三所名所図会 宇久井村を過ぎて坂あり、小|鰌嶺《クヂラタウゲ》・大鰌嶺あり。
浜宮《ハマノミヤ》 那智村大字浜之宮に在り、浜之宮は大字|天満《テマ》と接し那智川の入海処にて那智浦の中心なり、那智浦は大雲取山より発源し此に至る、長凡三里。○浜宮神社は渚森と称す、其境内に若宮あり、神武天皇の頓宮址と称し、又錦宮は丹敷戸畔を祭ると云。〔名勝地志〕
よもすがら沖の鈴かも羽ぶりして渚の宮にきねつづみうつ、〔夫木集〕 仲正
むらしぐれいくしほ染めてわたつみの渚のもりは色に出らん、〔続古今集〕 衣笠大臣
渚の地名は河内国交野にもあり、又和州香久山に啼沢杜《ナキサハノモリ》あり、之と混ずべからず。○按に浜宮三座は今天照大神彦火出見尊大山祇尊を祭ると云も、古は唯王子権現と曰へり、源平盛衰記に明なり。而て続古今集「わたつみの渚の杜」と云に就き再考するに本社は延喜式牟婁郡海神杜三座とある者是乎、(神祇志料に海神は串本浦に在りと為す)神武帝東征の舟師此に着船し因て海神の祝祭あるにあらずや、不審。
補【浜宮】〇三十三所名所図会 浜の宮は那智の庄浜宮村にあり、宇久井の浦より此地まで行程一里なり、渚の宮とも云ふ、街道の傍なり、盛衰記には浜の宮の王子の御前より一葉の舟に棹さしてとある、是なり。○丹敷戸畔社は本社の左にあり、石造の小祠なり。〔夫木集、略〕○渚の森 浜の宮の境内の森を云ふと紀路名所紀に見えたり〔続古今集、略〕○紀路歌枕抄曰、牟婁郡那智の浜辺の宮と云ふあり、此宮を哭沢森と云ふ可きか、井蛙抄には哭沢杜・渚森ともに紀伊国なり、若同所か云々、なき沢とあるを渚の森と仮名の書誤にても有べくや、決し難し、但し藻塩草の説に依らば、渚の宮は那智の浜の宮なるべし、哭沢森覚束なし、若又浜の宮哭沢女命ならばさも有なん、此事知る人なし云。
按るに当社の祭神詳ならず、只だ王子権現と称し、若くは哭沢女命とは有まじき哉、此神は伊弉冊尊化去ますの時、伊弉諾尊歎かせ給ふ其涙落て神となる、其名を哭沢女命と名くと日本紀に見へたれば、則ち伊弉諾尊の王子と云ふ可し、されば熊野の末社として王子の社と号すれば、是等の儀に依るならんか、万葉集に哭沢の杜《モリ》にみわすゑと詠れたるは、大和国香山の哭沢の社の事なるよし、略儀に見えたり。
補陀落寺《ブダラクジ》 浜宮《ハマミヤ》の側に在り、天台宗、白華山と号す。本尊千手観音は無双の霊仏と称し、※[木+眉]上に日本第一補陀落山寺と題額し、五間四面宝形造、文化四年再修、旧浜宮の供僧なり。○按に補陀落山は仏典に出て天竺に在り、支那東海の絶島に其名を移し、亦補陀山と曰ふ、此なるは再三其称を擬したるにて、元亨釈書に「慧萼、斉衡初入支那登五台、感観世音像、抱以帰本邦、舶過補陀之海、萼結廬海嶋、以奉像、成宝坊、号補陀落山寺」とあるに因めるに似たり。
東鑑「天福元年、熊野那智浦、有渡于補陀落山之者、号智定房、下河辺六郎行秀法師也云々」とありて本寺の創建は智定にやあらん。冥応集には東鑑に拠り増補して説を為したり、曰く貞永二年五月の末、紀州糸我の荘より一封の書を武蔵守平泰時に奉る、昔右大将頼朝卿那須野の御狩の時、下河辺行秀は面目を失ふ事ありて、出家して智定房と名を改め、那智の浦より舟に乗りて、南海補陀落山にぞ渡りける、其用意は屋形舟に人りて後に外より戸を釘づけにし四方に窓もなし食物には栗栢を少しづつ命をたすけ、一心に法華を読誦して、三十余日にして到り着きぬ、岸に上りて山の姿を拝みめぐるに、山径危く険しく岩谷幽邃なり、山の頂きに池あり大河を流して山を巡りて海に入る、池のほとりに石の天宮あり、観世音菩薩遊行し給ふ所なり、智定房比山に五十余日留りて又舟に乗りて熊野にかへりつゝ、同宿の沙門に書をあつらへ、武蔵守の在俗の時の弓馬の友にて候ひしとて、出家以後の事どもを具に記して奉りぬ、哀れなりける事ども多かりけり云々。
当寺の僧、往古は補陀洛山に渡るとて新しく船を造り、二三日の食物を貯へ、風に任せて南海へ放ちやる、是は観音の道場へ生ながら至ると云へりと、中古より此事廃せり、只今も補陀落寺の住持遷化の時、死骸を舟にのせ此浦の沖に捨るなり、是を補陀洛渡海と云ふ。〔南紀名勝略誌〕
那智山の詠歌にも「補陀落や」と云ふは、此山海を総べて、彼の普陀に擬したる也。
補【補陀落寺】○西国三十三所図会 補陀蒲寺は那智の浜の宮の傍にあり、天台宗にして浜宮を守護す、〔南紀名勝略志、略〕冥応集に見ゆ、按ずるに西域記及び経所説の補陀落山は南天竺にありて光明山といひ、日照山或るは金剛輪又は孤絶山と号く、此智定坊の渡りしは、昔文徳天皇の御宇慧萼法師漂流して補陀落山に到り、海辺に庵を結びて住居し、終に伽藍を営み観音を安置し、補陀落山寺と号するものなり、震旦の東南の海島なり、日本よりは海路凡そ三百里許にして、最近き所なりとぞ。
那智山《ナチサン》 那智村大字|天満《テマ》の西北に当る、大字|市野々《イチノノ》に属し大雪取《オホクモトリ》妙法の二峰を以て高峻と為す。山中に熊野夫須美神杜あり、即那智権現又|飛滝《ヒロウ》権現と称し、熊野三所の其一に居る。
那智《ナチ》神社 那智村天満の西北一里、大字市野々に在り、今熊野|夫須美《フスミ》神と曰ふ。十二所拝殿神庫楼門等皆備れり 嘉永四年の重修なり 大飛瀑を去る凡六町、社畔に青岸渡寺《セイガントジ》あり即本社旧供僧なり。○南紀名勝略誌云、那智山権現の創建何の代といふこと詳ならず、延喜式に本宮新宮を載せて那智を載ず、又本宮新宮に禰宜祝部ありて、那智は沙抄門優婆塞のみ、然れば後世浮屠氏観音安置の後|飛滝《ヒロウ》を観請し奉るか、又那智旧記に僧裸形はじめて建立し、其後空勝朗善等つづきて十二所の神殿を造立すといふ。○神祇志料云、那智神、今牟婁郡那智山に在り、那智権現と云ふ、〔南紀名勝志〕蓋熊野坐神の御祖伊邪那美命を祀る。〔参酌日本書紀諸社大事〕之を熊野牟須美大神と申す、〔新抄格勅符紀伊国神名帳〕後世本宮新宮那智を合せて三山と云ふ、〔帝王編年記〕又熊野三所と云ひ、〔江談※[金+少]諸神記〕寛喜二年、那智の遷宮に依て、院庁より神宝を献る即是也。〔百錬紗〕○平家物語云、那智の御山に参り給ふに、三重に漲り落る滝の水数千丈までよぢのぼり、観音の霊像は岩の上に現れて補陀落山ともいひつべし、霞の底に法華読誦の声聞ゆ、霊鷺《リヤウジユ》山とも申しつべし、抑権現当山に跡を垂れましてより以来、貴賎上下利生に預らずと云ことなし。○盛衰記云、康頼法師、我身の能には今様こそ第一と思侍れとて「仏の方便なりければ神祇の威光たのもしや※[手偏+口]けば必響あり抑げば定て花ぞ咲く」と三偏唱て歌ひつゝ、先は証誠殿に手向奉り、二度三度は結《ムスビ》早玉に奉るとて、心を澄まし歌ひける。
青岸渡寺《セイガントジ》 那智観音堂と称し、夫婦美神社と相並ぶ、天台宗を奉じ、西国順札二十三番札所の第一なり、旧那智権現の供僧なりしが近年分離す。大堂十三間四面、天正十八年豊臣秀長の重修にして、鐘楼宝蔵等之に傍ふ。按に平家物語に観音は滝の下岩の上に在りと為すは滝本堂の事なり、当時彼堂の仏を本尊としたるならん、大堂はなかりしにや。〇三十三所図会云、青岸渡寺は社僧坊中数多あり、天台真言両派あり、孰も妻帯なり、順礼の道者を宿せしむ。本尊如意輪観世音菩薩は長一丈二臂の座像なり、開基は裸形仙人と云、相伝ふ在昔小船風に吹はなたれ熊野の浦に漂ひ着く、船中に居るもの七人、六人は本国に帰り、一人住る之を裸形といふ。冥応集曰、是れ天竺の沙門ならん、裸にして而かも袈裟を掛ける故視て裸形上人といへるならん、始は神蔵《カンノクラ》に在て練行の功を積み、夫より那智山に登り、或時滝壷より八寸の尊像を感得す、依て柴の庵を結んで安置し、勤行怠ることなし、其頃は仏法未だ本朝に伝はらざれば、世に知るものなし、裸形入滅して後此事世に顕はれ、時の天子叡感斜ならず、本堂を建立し給ひ長一丈の座像の如意輪を造り、裸形感得の尊像を胸の中に納め奉るとぞ。霊験真抄曰、那智山の体たるや、補陀落《フダラク》山の東門、惣じて三山十二の玉の垣、悉く八万四千の霊光堆かし、是を以て神験疑はず谷の響に応ずるが如し、仏力限なく月の水に移るが如し云々。又順礼歌に「補陀落や岸うつ浪は三熊のゝ那智の御山に響く滝津瀬」按に補陀落とは観音の浄土なり、花厳経曰「於此南方、有山名補陀落迦、彼有菩薩、名観自在云々」此補陀落山の岸に打よする浪の音は歴劫不思議と聞えて聴ものよく諸々の苦を滅せり、其岸うつ波も吾朝の那智の瀧の水の音も、同じく妙音微妙の響なりとの心なり、畢竟は那智の御山は本朝の補陀落山観音の浄土なりといふ義なるべし。昔は那智山に歌比丘尼と云者あり、諸国に勧化して熊野比丘尼と呼ばれ、近世まで有りし也。○塩尻云、那智の勧進比丘尼は山臥を夫として諸歌曲を以て勤進す、近世東都には色を売る比丘尼数千人ありて多く修料を贈る事故、一山富て豊なりとぞ、熊野びくにとて文庫に牛王をいれて地獄の絵解をして処々修行しけるが、いつしか遊女と伍を同じくしけるなり。○残口記云、歌比丘尼、昔は脇ばさみし文匣に巻物入て、地獄の画説きして不産女の哀れを泣かする業をし、年ごもりの戻りに烏午王《カラスゴワウ》を配りて熊野権現の事ぶれめきたりしが、いつのほどよりか隠しおしろい、薄紅つけて、つけ※[髪/兵]帽子に帯はゞ広くなりぬ。○東海道名所記云、歌比丘尼唱歌は聞もわけらず、唯ああああと引く計也、びんざさらにのせて歌ふ、緑の眉ほそく薄化粧して、歯は雪よりも白く、黒き帽子にて頭をあじにつつむ。
西国順礼札所《サイコクジユンレイフダシヨ》 此札所三十三番は那智山補陀落寺を第一として、其順路は伊勢神宮の後路を西に取り熊野を経由し京畿の霊仏を巡拝する者とす。近世其三十三所といふは紀州三所泉州一所河州一所和州四所城州八所丹波一所摂州三所播州三所丹後一所若州一所江州六所美濃一所とす。〇三十三所図会云、冥応集曰、巡礼の権輿は徳道上人なり、摂州|中山寺《ナカヤマデラ》を第一とす、其後中絶せるを花山法皇と河内石川寺の仏眼上人、書写山の性空上人と弁光僧正、共に絶たるを継ぎ巡礼し給ふ、其時に那智を第一番とし給ふ云々。されば徳道を順礼の草創とし、花山法皇潤色し給ふ、故に法皇を中興開山と称するか。又拾芥抄に云る三十三所の霊場は古今異同あり、一書云、三十三所の権輿は花山法皇より発し、後花園帝の御宇、永享三年の頃より始まると、按ふに法皇のはじめさせ給ひしより、又中絶して永享の頃までは盛に巡らざりしなるべし、閑田次筆曰、三十三所を今西国と呼ぶは、原東国の人の言なるべし、道のついで東国の方より上り、伊勢両宮に詣で八鬼《ヤキ》山を超えて熊野に至り、国々を経て近江の長命寺観音寺、美濃の谷汲に終りて東国の故郷に帰るは次第順路なり、されば其二番|紀三井寺《キミヰデラ》の歌に「故郷をはる/”\こゝに紀三井寺花の都も近くなるらん」といへるは関東の人にはあひて、中国の地の人の為には聞えず、一説に関東にては老若に拘らず既に巡礼したる者を上座に列ね、未だ巡礼せざる者をば下座に居らしむと言へり、故に郡鄙遠近皆巡礼せりと。○日本社会事彙云、西国順礼と云ふは三十三所の観音を巡り詣づる者にて、回国の路すがら、人の門戸に立ちて詠歌をとなへ、物を乞ふなり、其始めは古きことにて嬉遊笑覧に曰、花山院御発心の後国々を御修行ありし是ぞ始めなるべき、新拾遺集に修行せさせ給ひける時、粉河の観音にて御札にかゝせ給ひける御歌、花山院御製「むかしより風にしられぬともし火の光そはるゝ後の世のやみ」、又千載集に、三十三所の観音をがみ奉らむとて所々まゐり侍りける時、みの、谷汲にて油の出るを見て、よみはべりける、前大僧正覚忠「世を照す仏のしるし有ければまだ灯火も消ぬなりけり」卅三所も異同あり、拾芥抄に卅三所を挙て或人の本と校合するに合点廿二個所はあひ、廿一所は異なるよし見えて、もし同所異名かはた又有異説かとあり、そは同所異名のやうにおもはるゝもあれど、もとより異なるもあるペし、後に廃したる寺などある故なり、其内しめぢがはらの歌は新古今雑に観音の御歌とて出づ、嵯峨の歌は「鷲の山再びかげのうつりきてさがのゝ露に有明の月」続古今に出て寂蓮の歌なり、その余はいとふつゝかなる口ずさみとみゆ。○按に順礼修行は、戦国以来幕府封建の世には諸国山川道路の交通あしかりしのみに非ず、関塞の設け城府の備へ皆旅行に善からざれば、志ある人も止むなく身を順礼に粧へるもありけん、霊場巡拝の真意一つにもあらざりしか、今世に及び痛く衷へ、殆ど絶ゆるに似たり。
那智滝《ナチノタキ》 那智山に在り、青岸渡寺より上方六町、此山中には瀑布数多ありて、四十八所と号すれど、其大瀑は一之滝《イチノタキ》是なり、高八十四丈幅三間 雄偉にして美麗、嬌々として龍の雲霄を排するが如く、雷撃震動、※[さんずい+匈]涌変転して山谷皆鳴ると云ふ。〔名勝地志〕○続西遊記云、那智の滝の事は幼時より聞居たるが、かやうにも有べしと思ひしには似もよらず、格別の異なり、滝の全体を譬へ云はゞ力士の荒たるが如く怖くて眼留めて見ん事なるまじと思ひ居しに、今見るに左はなくて其趣き美人の羅衣を着て立たる如き者也、滝の落る処は一枚の岩にて壁を作りたるが如し、其石壁の横幅五町も十町もあり、程よく木生へて空は誠に天より水の落る心地すれども、水の幅は殊の外狭く大抵幅一間許に見ゆれど、遠き所なれば二三間もあるべし、高さは直下五六十間と見ゆ、上の方は水筋通りて見ゆれど下方は石面に水砕けて霧となりて飛散し、其みごとなる事言尽すべからず、下には大石多けれど滝壷と云べき淵なし、其音も甚しからず、滝に近よるも神気の遠々しくなる様にはあらず、文覚上人の荒行も虚言にはあらじと見ゆ、世の人の高二百間幅三十間など云は賞美に過て実を失へる也。○文覚那智荒行の事は平家物語に見ゆ、之より先き花山法皇の那智修行あり、(神社考云、華山法皇、入那智山、不出三年、其精修励苦行者、皆取法法皇、置宝珠于岩屋、納念珠于千手院、以為地鎮、苦行上首、伝之至今、九穴海貝一枚、沈於滝底、俗曰、食九穴貝者、永年不老、飲滝得延齢、)元亨釈書によれば法皇已前仲算真義等此に講誦したり、当時滝下に堂宇ありし如し、曰「仲算、安和二年、於熊野山那智滝下、講※[般/木]若心経、忽現千手千眼之像、講已、昇岩上、自此不見、唯遺草鞋云。又曰、真義、詣紀州那智山、乃到滝下、講※[般/木]若心緒、私念、神若欲講、乞見祥異、于時滝水逆流、衆人無不歎、正暦二年為僧正」と。按に那智山寺千手院は謂ゆる滝本堂にて今廃す、後世青岸渡寺如意輪堂を以て本寺と為し、裸行仙人開基などと附会したるならん。
石ばしるたきにまがひて那智の山高根を見れば花の白雲、〔夫木集〕 花 山 院
那智のやま雲居に見ゆる岩根より千ひろにかゝる滝の白糸、〔夫木集〕 光明峰寺摂政
那智のたきの有様かたりしを
三くまのの那知の御山に引くしめの打はへてのみ落る滝かな、〔金塊集〕 鎌倉右大臣
久かたの天の川瀬もあせぬらんくもより落る那ちの大たき 西田直養
三十三所図会云、此滝三重に落下る、凡百丈横巾凡八間ばかり、壁の如く立たる巌崖より落る光景、綿を繰り出す如く雪の吹く如し、滝道の傍に卒堵婆あり高六尺木以て造る、之は其模にして真の辛堵婆は宝蔵に納むといふ、其の牌面の文に曰く「太上天皇恒仁(弘安四年二月晦日)初度」と、按ずるに是より先き後白河法皇参詣の時にも滝本に卒堵婆を立させ、「智証門人阿闍滝雲坊行真」と書かせ給ふよし源平盛衰記に見えたり。
滝下《タキモト》千手堂址は安和二年僧仲算開基にして真義範俊等の修法したる所なり、即那智山寺是なり。後世青岸渡寺起り彼如意輪堂を本寺と定めたり、近年此堂廃頽し千手像は青岸渡寺へ移す。又一之滝の上に不動堂ありしが是亦廃す。〇三十三所図会云、一之滝の上に剣淵《ケンガフチ》あり、滝禅定とて身を清めて之に上る、不動堂并に花山法皇の御庵址と云ふあり、少平地にて挟筥石と云此なり。
花山院の御庵室のあとの侍ける前に、桜の木の侍りけるを見て「木の下を栖家とすればおのづから花みる人になりぬべきかな」とよませ給ひけん事思出られて、
木のもとに住けん跡をみつるかな那智の高根の花をたづねて、〔山家集〕
二之滝は不動堂より四丁半許に在り、高凡三十間或は三十丈ともいふ、其流れ岩に当て摧け散る光景尤も奇なり。西行山家集に「那智に籠りて滝に入堂し侍りけるに、此上に一二の滝おはします、夫へまゐるなりと申す住僧の侍けるに、ぐして参りけり、花や咲ぬらんと尋ねまほしかりける折ふしにて、便ある心地して分まつりたり、二の滝のもとへ来りつきたり、如意輪の滝となん申すと聞て拝みければ、少し打傾きたるやうに流れ下りて、たふとく覚えたり云云」三之滝は高さ凡そ十間余、二之滝より五丁余奥に在り、其勢二の滝にかはらず又一奇とすべし」(西行は之を三重滝とよめり。)
三重の滝を拝けるに、三業の罪もすゝがるゝ心地しければ、
身につもることばの罪も洗はれて心すみぬる三重《サンヂユウ》のたき、〔山家集〕
贈幽芳禅師 菊池渓琴
清晨入熊山、凌雲観飛瀑、蓬峰七十二、洞天三十六、羽人任去留、雲車自往復、攀頭不可窮、還憩大岳麓、一笑訪芳公、巌花発幽馥、採之日已※[日+薫]、手払遺蕊宿、蘭若何宏麗、異材開華屋、維昔結構初、龍女献嘉木、空公大神通、群霊肋威福、霊蹟于今故依然、白鹿銜花青牛眼、明月遥想蒼海前、※[足+攝の旁]影俳徊万松辺、芳公牽我衣、要我賦真篇、青牛白鹿如有知、澗辺頑石余解禅、天字寥々山壑寂、聴我鉄笛弄遊仙、
補【千手堂】○千手堂 滝本に在り、昔醍醐寺の範俊永保年中窃に都を出で、那智山に至り、千日籠りを発願し、愛染の法を修しければ、壇上に如意宝珠出現す、精修いよいよ懇誠也、已にして七百十日に満ずる時、勅に依って帰京す、之に依て苦行の僧七百十日を期とし修練終るなりと名勝略志に見ゆ。
文覚の滝 一の滝の下流に在り、文覚の荒行せしは此滝なりといふ、又蛇の淵ともいふ。 那智の山はるかに落つる滝津せにすゝぐ心の塵も残らじ (続古今集) 式乾門院御匣
雲消ゆる那智の高ねに月たけて光をぬける滝のしら糸(山家集) 西行
山深し雲より落る滝津瀬のあたりの空は晴るゝ日もなし (草庵集) 頓阿
大雲取山《オホクモトリヤマ》 那智滝の上方にて、抜海一千米突。邪智山の北峰なり、峰陰は小口《コグチ》村とす、此峰は上下二百町と称し、山径頗険難なり。○人名辞書云、野呂介石は紀州の画師なり、曽て黄一峰の天池赤壁の図を観て一本を模写し、のち其筆意に倣ひ遂に一品の高致を得、介石晩年熊野に到り其峰巒谿谷を歴覧して専ら其自然の山水を法とす、云く「要知此叟師伝処、曽泝熊谿五十回」と、那智山の深処は古来到り極むる者なし、介石一の修験者と謀り米塩及び食器を背に負ひ、手に苧縄を携へ行々縄を以て木に懸け、巌石を攣ぢ絶壁に登り危谿を渉り七日七夜にして終に通覧を遂ぐと云ふ、文政十一年を以て卒す年八十二。
妙法山《メウホフサン》 那智山の南嶺にして抜海凡七百六十米突。西南は色川谷《イロカハダニ》なり、元亨釈書に「僧覚心、登熊野妙法山、青天忽星、祥雲下覆」云々とある此なるべし、覚心は由良興国寺の開基也。
阿弥陀寺妙法山に在り、青岸渡寺を距る西南二十五町、寺伝云、応照中興と、応照那智山に居り法華を稱し焼身往生したる事東国高僧伝に見ゆ。〇三十三所図会云、阿弥陀寺は奥院を樒《シキミ》山と曰ふ、当寺は本尊釈迦如来長三尺余の木仏なり、大宝三年癸卯の春、唐土天台山蓮寂大士之を造りて渡したりとぞ、其後弘仁年間応照上人此山に上り釈尊を拝し、堂舎を起す、其後破壊に及び近世耕玉和尚来往し、仏殿僧坊以下境内の結構を再興す、門外より向ふを望めば南海渺々窮むべからず、眼下には浜の宮浦の森宇久井勝浦森の浦太地の端、遠くは浦神より太洋往来の廻船、恰も粟を散らすに等しく、風景言語に絶す。
補【妙法山】○妙法山阿弥陀寺は那智山より廿五丁上に在り、開基は弘法大師にして真言宗なり、然るに中興当時の耕玉和尚は禅宗なるを以て、今則ち禅宗に改む。
眺望亭 此地を月見が原と云ふ、傍に標木ありて十万国土月見原と記す、邦君海上を眺望し給ふ所なりとぞ。
樒山最乗峰 当寺奥の院にして十万浄土と云ふ也、本尊は釈迦牟〔脱文〕
勝浦《カツウラ》 那智村|天満《テマ》の南に接し、太地湾の北支港なり、温泉あり。○鉱泉志云、赤島《アカシマ》硫黄泉は勝浦に在り、陸岸通路なきを以て舟を棹し之に往来す、豊永年中地震泉滴れ、明治五年より再興す。又勝浦の西字湯川の三鉱泉あり、単純泉塩類泉硫黄泉にて、是等はすべて常温百度内外に在り。
勝浦港は那知浜の南に隣り、浦口に中島なる一小嶼を控へ東方は長さ一海里潤さ一鏈の長角を擁するを以て安穏に泊し得べき小港なり、凡此長角の東側は高黒崖にて高さ二七八呎乃至百六十呎あり、この高黒崖と勝浦近傍幾多の尖岩尖峰は容易に航者の眼に入るべし、是れ此近境に於て一も類似のものなき故なり、港内は水深三尋乃至六尋にして泥底なり、港の北側に一村あり、東浜に二温泉あり能く僂麻知斯を治す浴客多し。〔水路志〕
補【勝浦】○大八洲遊記 浦中有一島、云赤島、温泉沸、近年所開置舟可往、温泉清※[さんずい+散]、味少苦臭、詫為関西第一、最宜僂麻質拘攣関節強直及皮膚病云、
太地《タイチ》 勝浦の南二海里許に太地村あり、海湾は東北に向ひ北支港は即勝浦なり、西支港は森浦《モリウラ》と曰ふ。太地浦は森浦の東に並ぶ、浦中に一岩嶼あり、太地埼は浦の東屏を成し北に突出する一大高角にして那智浦の南角に当れり。○太地高角の北端、相距東方一鏈半の間は数多の小岩出没し、埼の西方には二湾あれども共に岩礁多くして泊船に適せず。〔水路志〕三十三所図会云、太地浦は一村皆漁夫にて鯨を捕ふるを産業とす、其豪家を和田何某と云漁師千人を従へ漁舟数百艘を持てり、岬の端には遠望の小屋ありて平生望遠鏡を以て海上を候ふ、一朝事あり相図をなすときは舟速きこと箭の如くに集まり、槍を空中に抛てば翻り下りて鯨を刺す、小さき矛の如きものを鈷《モリ》といふ、凡そ鯨に種々あり性好んで鰯を嗜み諸魚に敵せず、冬は北より南に行き春は南より北に去る、肥前五島平戸辺は節分の前後を盛とす、紀州熊野浦は仲冬を盛とす。捕鯨業考云、大和本草の説には、我古へは鯨を弓にて射て取ると云へり、然るに鯨記によれば「元亀年中、参河国内海の者、船七八艘にて初て鋒にて突取り、其後丹後但馬の辺にも三河の者行て取りしかども、利無して止む、文禄の初めに至り、紀州尾佐津或は熊野辺にて取る」と記せり、又或書には「慶長十一年に、紀州牟婁郡太地浦の和田金右衛門なるもの、与平次と云へるを羽差とし創めて鯨を捕へたり」と、土佐軍記に「吾川郡浦戸に於て鯨を捕獲し、時の国主長曽我部元親より豊臣太閤へ丸ながら之を献じ、且其捕術をも上言して賞誉を受しことあり、是れ実に天正十九年正月晦日なり」と云へり、鯨記云ふ所の文禄に先つ三四年なり、又和名抄に土佐幡多郡に鯨野郷と云へる所ありと記せり、今の伊佐村なり、伊佐は鯨の古名なれば或は此国に古く鯨猟ありしにや、九州の鯨猟は是れ全く紀州より伝りし如し、鯨記に「元和二年、西国にて初て取りしより、寛永年中に至りては、鯨組とて彼しこの島爰の浦に、人数を構へ場所を定て突取ことになり、明暦万治の頃いよ/\盛にして、七十三組まで組を立て取りし」と云へり、然るに大和本草に「慶長年中筑紫諸浦の漁人、始てほこを以て突て取りし」とあり、又勇魚取絵詞跋を見るに「或説に、明応のころまでは紀伊の熊野の漁人、壱岐の潮津の浦にくだりゐて、鯨捕をなりわひとし、そこの鎮守に夷三郎殿の社をいつきまつれるより、所の名をえびすの浦とよぶ、これたぐひなき鯨網場なるを、後に肥前大村の漁人深沢の某(鯨史稿云ふ所の深沢義太夫ならん)その業を受つたへ、遂に網組出の術をはじめ、寛文延宝の頃になりて弘く行はれて、網組を出す処おほくなりたれど、今は生月《イケツキ》島の益富に肩をならぶる者なし」と云へり、此説は大に前の疑問を確むるものにして、抑も紀州の鯨猟は其営業の体面を整へたるは、或は鯨記等の云ふ所の如くなるべきも、鯨を捕へ始めたるは長享延徳以前の事なるべし、何となれば此書云ふ所の明応は三河国の捕鯨(元亀年間)に先だつこと凡そ七十余年なり、要するに紀州は捕鯨業の元祖にして、其起原遠く上代にやあらん。(神武帝の御歌にいすくはしくぢらさやりの句あり、是は熊野より宇陀へ打入りたまへる頃の御詠と聞こゆ、当時已に捕鯨の事ありしを想ふに足る)
熊中雑詩 渓琴
迢遞海上山、蒼然落日寒、風帆※[骨+鳥]沒処、空水只森漫、途逢屠鯨客、籃肉大於盤、高揖如旧識、言語挟狂瀾、
熊野浦雑詩 拙堂
※[土+甫]頭日夜望郎還、起倚欄干飯熟前、煙霧冥濛天末曙 白帆隠見蜜柑船。 一隻鯨魚澗七郷、漁夫誇獲気場々、窮冬亦已作正月、酔舞酣歌人欲狂。
岡田《ヲカダ》郷 和名抄、牟婁郡岡田郷。○今詳ならず、推定を以て之を言はゞ太田村|下里《シモサト》村などにあたるか、太田川の谷にて上游を色川と曰ふ、太田岡田相ちなまざるにもあらず。
太田《オホタ》 今上太田下太田下里の三村に分る、近世は太田郷と曰へり、色川《イロカハ》は那智山の西陰より発し浦神《ウラカミ》湾に入る長四里、太田川と称す。
下里《シモサト》 太田郷の下里の謂なるべし、太田川此にて浦神湾に入る、太地村の西二里に在り。大字浦神は湾首に居る、此湾は玉浦《タマノウラ》と呼び歌枕の名所なり、万葉集名所考には那知山下の粉白浦と云ふ。
紀伊国作歌
吾恋る妹はあはさず玉の浦に衣かたしきひとりかもねむ、〔万葉集〕あり磯よりもましてしのぶか玉の浦離小島の夢にし見ゆる、〔同上〕
浦神《ウラカミ》 水路志云、此港は大島|樫野埼《カシノサキ》の北東凡六海里半にあり、入港の際は港の南口角より東北東凡半海里の間に斗出せる一連の岩嘴を避くるに注意すべし、岩中高き者は三十呎に上り立石と呼ぶ、或は水面下に伏するあり、港は西南西に彎入すること一海里、港小なれども、水深四五尋底質硬泥の処は最好の避泊地なり、但し汽船の避泊に最適すと雖、幅僅に一/四里に過ぎざるを以て帆船は入港に困難なり、何となれば港外は順風なるも港口に於ては港頭渓谷の方向より直に海方に吹出す所の風屡起るが故なり。
色川《イロカハ》 太田川の上游にて今色川村と曰ふ、那智山の西陰なり。大字口色川は那智滝の内西一里半。
熊中雑詩 渓琴
長歌携幽侶、行々摘秋蘭、渓窮碧巌折、独木架驚湍、凛乎不可留、無風膽自寒、去訪平氏孫、山深世情寛、茅屋両三寒、尚存古衣冠、
大日本史云、平維盛、至熊野乗舟、浮那知海、佯為赴海死、匿牟漏郡藤縄、子孫逐為士人貢香那知、因名其地曰香※[口+樛の旁]、小松氏色川氏其裔也。又氏族志云、維盛、右近衛中将、西海之役、逃至紀伊熊野、佯為投海死者、匿居牟漏山中、有子孫為土人、曰小松氏、色川氏。〔源平盛衰記、色川家譜、参取熊野人口碑〕
古座《コザ》 下里村の西二里余、同名の河口に在り。古座浦と称し南海には大島及黒島等の岩嶼あり、今二村に分れ東岸を古座村と呼び西岸を西向《ニシムカヒ》村と呼ぶ、西南|串本《クシモトムラ》対に至る二里。○水路志云、浦神港の南西方凡六海里に古座河口あり、其東岸に一小邑あり古座浦と曰ふ、河口に移動閂州あれども其水道は両側概して破浪あるを以て弁別し易く、小形の和船は常に之を用ゆ、又小船に在ては颶風を凌ぐに最好の処とす、此古座浦は鯨猟の地なりと云ふ、黒島は古座河口の南六鏈にあり、欝樹繁茂黒色を呈し、大島は更に其南二海里に在り。
古座川《コザガハ》 大塔峰の東南、七川《シチカハ》村大字松根の山中より発し佐本谷|小川《コガハ》谷の諸水を併せ屈曲して古座浦に注ぐ、長凡十里。沿渓の村落は今明神|三尾川《ミヲカハ》小川|佐本《サモト》の四村に分る、三尾川村大字大川以下は小舟を通ず凡六里。○古座浦より西行二里、川口駅は 明神《ミヤウジン》村に属し小川谷の口なり、尚泝ること二里余大字相瀬に一枚岩と云奇境あり、壁立高百七十間幅二百六十間、往々訪尋の客ありと云。○大八洲遊記云、古座川上流有奇巌、在藍瀬村、壁立二百仞、濶亦如之、挿脚江中、非舟不能造、其色如紫鉄、壁面不生草木、如仰見、堅城鉄壁、絶巓松樹扶疎、土人呼曰一枚岩、往年斉藤拙堂、撰雅名、為斉雲巌。
大島《オホシマ》 古座浦の南、串本浦の東にして、潮崎は其西に相並ぶ、紀南の極界に在り。今一海島称して大島村と曰ふ、港泊は島の西岸串本浦と相対す、相去る一海里許。水路志云、大島は東西凡三海里半、幅凡一三/四海里、島形岸線倶に乱れ、谷間は樹木繁茂し其他は耕圃多し、島の平頂は北部にありて高さ五三五呎なり、島内三村あり大島浦|樫野《カシノ》浦|須江《スエ》浦と曰ふ、人口凡一、七二〇余農漁に従事す。大島港は西北岸にあり、樫野崎燈台は大島東角に設置す、海面上一三〇呎にして晴天光達十七海里半。○樫野浦に土耳其国軍艦埃耳土虞羅耳遭難之碑を建つ、明治二十三年九月土国特派大使海軍少将阿斯曼巴西亜一行の非命を哀悼する者也。碑文大意曰、使事既畢、陛辞還国、九月十六日夜、過熊野海、遇颶風起、檣折※[楫+戈]摧、熊野海自古称絶険、多築燈台、標識航路、此夜霧雨晦暗、咫尺不弁、加以艦内機関失其用、竟触暗礁、艦遂覆没、公使以下六百五十人皆溺、艦長亜犂陪亦死、獲免者僅六十九人、鳴呼悲惨矣哉、其地実為樫野埼、埼角有燈台、守者末覚知、遽有被髪徒跣者、相踵而来、言語不通、皆負疵傷、既而知土国軍艦覆没也、発軽舸収遺骸於乱礁怒涛間、※[やまいだれ+(夾/土)]之於燈台西南原上云々。
大島《オホシマ》港 港泊は大島と潮岬東側の間にあり 安且便なる錨地なり。凡大島の南西側の錨地は全く諸風を遮隔すと雖水頗探し、故に和船は大島浦を以て風待の最好処とす、島岸には大島村あり、陸岸串本の大邑は沿岸貿易の物品に富む、近地は樹山或は耕種せる渓谷あり、港の北部に一列の奇岩《ハシクヒ》あり、高さ十五呎乃至七十呎にして橋杭村東方の浜より半里の間南に斗出し、多少は北東を保障すと雖、此列岩の間は水深くして、充分の防波とならず。〔水路志〕
串本《クシモト》 古座浦の西南、潮岬半島の地頸に居る、港泊は東面に在りて大島港即是なり、串本村今西牟婁郡に隷すれど地勢は当然東牟婁に入る、潮岬村富二橋村等三村之に同じ。
串本浦は人口二千、一海駅なり、東に大島港あり又西に二色《ニシキ》浦あり、(今富二橋村大字二色)背腹海水を受く。○神祇志料云、延喜式牟婁郡海神社三座、串太浦に在り、神主を津守氏と曰ふ、新宮の祭に此社より魚味を備ふと、串太は即串本か。拙堂南遊志云、経|二部《ニブ》二色《ニシキ》両嶺、達串本、宿無量禅寺、殿堂宏麗、不類僻境、障壁皆貼応挙蘆雪之画、人物動植並皆生動。
橋杭《ハシグヒ》浦 串本村の東北数町、岩石橋柱の状を成す。○大八洲遊記云、橋杭浦、沿岸巌石、高者廿余丈、低者三四丈、並立海中、形如紫筍、※[直三つ]石朝天、其間相距八九丈、凡十七八柱、呼為橋杭石。拙堂南遊志云、橋杭浦口、奇巌羅列、三十余座、如瑶※[竹冠+参]如玉笏、如圭之植、如魚之立、如倚天之剣、如書空之筆、不可悉状、雖大小長短不斉、亦皆抜地峭立、類西土所云砥柱者、土人名此浦為橋杭、杭即柱、所名之意乃同、外有大島擁之、布帆行島巌之間、布置已妙、点綴又工、可謂天然好画図矣。
潮岬《シホノミサキ》 串本の南なる半島地を潮岬村と曰ふ、民家は上野浦出雲浦の二処に分る、東西一里南北半里許。西南角を潮埼と云ふ、一に塩見埼に作る。東角出雲埼は大島の須江埼津屋島と相対す。○続日本紀云「天平勝宝五年十二月、入唐副使吉備真備船、来着益久島、自是之後進発、六年正月、漂着紀伊国牟漏崎」とあり牟漏崎とは此か、又牟婁郡鉛山岬を指すにや。○史学雑誌云、南朝旧記所載、日高郡色川氏文書云 「□□□□□延元元年三月七日自□□□□□□催之馳参御方同□□□一木戸泰□那智致合戦之処色河一族等廿□□□年同五月十四五両日押寄浜宮佐野同廿七日致新宮山合戦之処尊氏之一族等石堂□□□義慶下熊野法眼以下凶徒等取乗数百艘之船塩崎通落行之間兵船乗奇五六日致合戦畢此等次第不可□□下略、延元元年七月日平盛氏判」とあり、其年三月朔日は尊氏兄弟筑前に逃下り、多々良浜に必死の合戦して菊池阿蘇等の兵を破りし比なり。(石堂義慶と云は石堂少輔四郎秀慶入道義房と同異如何)
潮岬は日本本州の最南角にして、大島港の西側を成せる平頂高角半島の南西端なり、凡此高角の浜辺は小嶼離岩布列し離岩は高潮界より遠距離の処に於て干出するものあり、岬の附近は漲潮落潮倶に強き競潮及大湍潮あり、而して漲潮の時を殊に強烈とす、又偏東颱の後は大濤※[さんずい+匈]湧して岬周を打ち来る、燈台岬頭に設置す、白色円形石造にして第一等不動白色を顕し、明弧は西一/二北より北を経て南東に至る、燈高は基礎上六十三呎海面上一六三呎にして晴天光達二十海里。〔水路志〕
望海 広瀬旭荘
濤頭起立入雲間、不見青山見雪山、此是蜻※[虫+廷]洲尽処、漁舟一々破天還、
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南牟婁《ミナミムロ》郡 今三重県治に属すと雖、地勢全く東牟婁郡に倚り、其東半面を成す。故に本
篇之を東牟婁郡に并ふ。此郡は衙を木本《キノモト》町に置き十八村を管治す、其|新鹿《アタシカ》阿田輪等九村は熊野浦に臨み尾呂志(上野)神川(神上)等九村は熊野川の東岸に列す、人口五万許。北界|八鬼《ヤキ》山は登降三里の絶険なり、伊勢路は八鬼山を通ずるを古道とし、其西|矢之川《ヤノカハ》峠を踰ゆるを新道とす。凡新宮
町より木之本に至る七里、木之本より尾鷲《ヲワセ》駅(北牟婁郡)に至る六里、即伊勢路也
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輪内《ワウチ》 八鬼山の南、曾根峠の北に一海湾を抱く之を輪内浦と曰ふ今北輪内村南輪内村の二と為る、即|賀田《カダ》湾なり。三木浦は北輪内に属し、賀田浦曾根浦は南輪内に属す。
三木《ミキ》 三十三所図会云、八木山の麓なり、此地入海の船着にして、商家旅駕屋立列なりいと賑はしき地なり、是より曾根に至る山路二里、其中間に加田村と云へる浦里あり、又此二木浦より曾根に至るに入海一里の舟渡あり、陸路二里の山道を一里の渡りにて容易いたるべし所謂弓と弦の如し、内湾を輪内と云ふ、山家集に曰く「年経たる浦のあま人ことゝはん波をかづきて幾世過にき」とかゝる所をよめるならん。
賀田《カダ》 水路志、賀田湾は神須埼と三木埼の間にあり、彎入三海里三支に分る、束支を三木浦と曰ひ、西支を阿須賀浦と曰ひ、北支を三木里《ミキサト》浦と曰ふ、西支の錨地は能く諸風を障ふ、此湾は樹木欝蒼たる高山脈之を囲み、湾首の上に聳ゆる諸山は高さ二、五二〇呎とす。
荒坂《アラサカ》 今二木島浦|甫母《ホボ》浦須野浦を合同して荒坂村と曰ふ、輪内の南、新鹿の北にて一湾を成す、三木島浦と曰ふ。荒坂と云は神武天皇紀に見え、新鹿蓋其遺唱にや、今相隣比するを以て荒坂の旧名を此に建てたるならん、不審。
楯埼《タテガサキ》 荒坂村東方に在り、須野浦|神須崎《カンスサキ》の南に突出し、土俗相伝ふ昔は伊勢(即志摩)紀伊の国界を此に分ちたりと。
うつ波にみちくる汐のたゝかふを楯がさきとは云ふべかりける、〔家集〕 増基
二木島浦《ニシキシマウラ》 今荒坂村と改む、輪内曾根浦の界嶺を曾根峠又甫母峠と曰ふ、甫母浦は荒坂村の大字なり。二木島は蓋丹敷戸畔の故墟にして、丹敷浦と云即此なり。〇三十三所図会云、二木島の浦は甫母峠の南なり、入海の舟着にて繁昌の地なり、村中に川あり往昔此|愛《アイ》川の東は志州英廣郡なり、又橋より西は紀州牟婁郡なり、故に今尚|英虞子《アゴシ》神社|牟妻子《ムロシ》神社あり是其証なり、楯ケ崎を以て勢紀の界なりしと云へるも、疑らくは志摩の国境ならん。○水路志云、楯崎は神須崎(賀田)の南西凡一海里半にある崎※[山+區]険崖の山嘴にして、高さ五八六呎甚顕著なり、二木島浦は楯崎と笹野島の間の一湾なり、水深くして錨泊に適せず、湾岸に二小村あり和船は西隅の海堤に接近して繋泊す。丹敷荒坂の名は日本書紀神武天皇東征の条に見ゆ、曰「進至熊野荒坂津、因誅丹敷戸畔者、注亦名丹敷浦」と浦一本洋又津に作る、河社云、後拾遺集道命法師「名にたかき錦の浦を来て見ればかづかぬあまはすくなかりけり」是は神武妃荒坂津亦名|丹敷《ニシキ》浦と云ふ、そこなるべし。○山家集云、伊勢の辺《ヘチ》の錦の島に(新古今集磯のへちの方に修行し侍り)磯輪の紅葉の散けるを、
波にしてもみぢの色をあらふ故錦の島と云ふにやありけん、
按に和名抄志摩国二色郷あり、今北牟婁郡錦浦あり、丹敷の名は此熊野浦一帯の総名にも使用したる如し、那智浦並串本浦の傍にも二色浦の名あり。書紀通証云「今那智浦之浜宮、有小祠、伝言祭丹敷戸畔」と、然れども丹敷の本拠は必定二木島にして、新鹿村と相隣比するは荒坂津の亦名たるを徴すべし。今又二木島甫母浦に稲敷命三毛入野命の祠ありと云も附会にあらざる如し。(丹敷浦の事は三輪崎及宇久井那智浦参考すべし)
神武紀云、天皇遂越狭野、到熊野神邑、且登天磐舟、(舟集解本原書作盾)仍引軍、漸進海中、卒遇暴風、皇舟漂蕩、時稲飯命相歎曰、嗟乎我祖則天神、母則海神、如何厄我於陸、厄我於海乎、言訖乃抜剣入海、三毛入野命亦恨之曰、我母及姨、並是海神、何為起波瀾、以灌溺乎、則蹈浪秀、往乎常世郷矣、(中略)天皇独与皇子手研耳命、帥軍而進、至熊野荒坂津。
補【二木島】牟婁郡〇三十三所名所図会 甫母《ホボ》峠俗に曽根太郎坂・曽根次郎坂と云ふ、尤坂二つあるにはあらず、峠より村の領分を分つ故に斯は云ふなり、又此峠を甫母峠と云ふは、此山下に甫母の浦と云へる浦里あれば〔脱文〕○今荒坂村。河社云、後拾遺集道命法師「名に高き錦の浦をきて見れば潜かぬあまは少なかりけり」是は神武紀荒坂津亦名丹敷浦と云ふそこなるべし。
錦島 〔山家集、略〕三国地志、節用集に伊勢国二色郷とあるは志摩二色郷なるべくは、山家集なるも志摩とす、辺《ヘチ》の錦島とあり。
辺《ヘチノ》岩屋 新古今「磯のへちの方に修行し侍りけるに」〔巻十大僧正行尊歌詞書〕今昔物語、雲浄と云持経者熊野に詣でゝ志摩国を過るに、日暮れ大海の辺に岩の洞あるに宿りけるに大蛇出づ云々。三国地志、是は錦島に在りと云ふも詳ならず。
新鹿《アタシカ・アラシカ》 二木島の西に並べる浦にて亦一湾を成す、相去る一里、中間を狼坂《オホカミザカ》と曰ふ。新鹿村より大泊浦を経て木本町に至る二里、此地即神武紀「皇舟進至熊野荒坂津、因誅丹敷戸畔」とある所ならん、後世|新鹿《アラシカ》に作り今阿多志鹿と云は転訛なるべし、又大字|波田須《ハタス》あり、個は泊洲《ハテス》の義かと、並に未詳。
続西遊記云、秦人徐福祠は新宮にあり、其徐福の船より初て陸にあがりし地は新宮より六七里東にて、波多須村と云所なり、此所の古老の言伝に、徐福十二月晦日波多須村の矢賀の磯へ着船して、此辺に暫く住居し、後に本宮新宮那智の方へ移り住めり、波多須の矢賀の丸山と云所に蓬莱山と云楠ありて、小き祠もありしに、三十年許以前の洪水に楠も祠も流れ失せぬ。○按に徐福の事は疑はしけど、漂着人の故事を伝ふるや明なり、蓬莱山と云は古墳の謂なり、其例多し。
水路志云、新鹿浦、高隆之を囲繞し、南を除く外能く諸風を保障す、湾首新鹿村あり、東浜の渓首に亦一小村あり、南東角附近に小嶼あり箕曲鼻と曰ふ高さ凡一〇〇呎又西側に獅子島あり長さ一鏈高さ五十五呎。
大泊《オホトマリ》 大泊古泊の二浦は一湾に相並び、今|木本《キノモト》町に属す。浦上に比音《ヒオン》山清水寺と号する観音堂あり、蓋京都清水音羽の精舎に擬したる者也、正徳天保両度の修造を経、今二間の仮堂六間の拝堂あり、岩洞に倚り建造す。按に、今昔物語に 「雲浄と云持経者、熊野に詣でて志摩の国を過るに、日暮れ大海の辺に岩の洞あるに宿りけるに大蛇出づ」云々とあり、此堂それらの遺跡なるべし。〇三十三所図会云、大泊清水寺は浦の山上に在り、寺南三町許山の半腹に滝あり高三十間、又木本峠は大泊村より上る、鬼が城は木の本峠の東の岬にあり、峠よりは見えず、船に乗りて見物すべし、岩屋は波打際より凡二丈五尺余上り平地あり、夫より又八尺ばかり上に二十畳ばかりの平地あり、夷賊の輩蟄居し事もありなんと覚え、魔見《マミル》が島は木の本峠より左の沖の方に見える巨巌なり、清水寺の縁起に見えたり。
水路志、大泊湾は猪の鼻とイジマ鼻との間にあり、湾内其東側附近に箱島と称する一小岩あり高さ廿五呎、此湾は南に開き絶えて危険物なし、小船は湾の中央水深凡八尋泥底にして、箱島とマミルが島の北端とを一線に望み箱島を距る二鏈半各側の浜を距る凡同距離の処に於て、偏北風の時避泊し得べし、イジマ鼻より熊野川に至る十海里間は一帯の礫浜なり。
木本《キノモト》 今木本町と曰ふ、和歌山藩治の時代官所を置かれたるに沿襲し、猶郡衙を置き三重県に属す。(安濃津へ四十一里和歌山へ六十四里)木本より新宮に至る七里は一条の磯浜にして、熊野浦の沿岸中奇異の形状を為す所也。木本より北に保色《ホイロ》山あり、北山郷(大和)と相接比し南朝の古跡を伝ふ。
氏族志云、崇徳帝時、有紀伊牟婁郡人息長常貞、任木本御厨検校職、子孫或為荘司職、其後為荘司氏。〔紀伊荘司氏文書〕○史学雑誌云、
大将軍一見状
湯浅木本新左衛門尉完元申飯盛城為凶徒対治大将軍御発向当所之後今年正月晦日紀州張本人六十谷彦七定向討取之畢此条遂御実検畢云々
建武二年二月一日 左衛門尉宗元
進上御奉行所 承了御判
湯浅木本氏の領知は何処にありしや確知し難きも、多分牟婁郡木本郷なるべし、木本郷は木本浦《キノモトウラ》大泊村古泊浦波田須村新鹿村遊木浦の六村より成り、沿海の漁村にて旧と新宮の所領なりしならんとの説あれば、木本氏は旧と新宮領の地頭なりしやも斗り難し、湯浅宗家の起りしも漁村にて其兵の精鋭なりしは熊野灘の怒涛に膽気を養へる漁民より成ればならん。(海草郡木本参考すべし)
補【木本】○木本湊峠を下りて此地に至る、東南を受けたる便宜の舟着なるが故に、職家商家旅駕屋漁師なんど打交り人家立列り、万端に足りて豊饒なり。
有馬《アリマ》 木本の南一里今|井戸《ヰノヘ》と合同し有井《アリヰ》村と改む、神代の名蹟有馬の花窟は木本有馬二村の中間に在り。〇三十三所図会云、木本以南有馬阿田和の浦俗に七里《シチリ》の御浜と云ふ。新宮に到る街道にして、右の方は並木の松連り、左は東南の蒼海炒々として白浪磯に打寄せ、向ふに新宮の岬を見渡し風景言語に絶す、此浜辺は一円に碁石のみにして則ち那智黒と称するものなる可し。
心ある有馬の浦のうら風につきて木の葉も残らざりけり、〔家集〕 増基
補【有馬】○神祇志料 大佐神 按、三代実録佐を位に作る、然れども紀伊神名帳大佐神とあり、今も大佐神社ある時は位は佐の訛なる事著し、故に今之を訂せり今牟婁郡有馬庄井上村にあり(紀伊神社略紀)清和天皇貞観十七年十二月丙子、正六位上大佐神に従五位下を授く(三代実録)
花窟《ハナノイハヤ》 有馬の北に在り、大岩高凡百七十尺幅凡百八十尺、峨然海岸に吃立す。岩下に小祠を置き大神を祭る、毎年十月五色の菊花を岩に懸けたる注連縄に挿み之を飾る、則ち上世よりの慣例とぞ。
神祭る花の時にやなりぬらん有馬のむらにかくるゆふして、〔夫木集〕 光俊
紀の国のありまの村にます神のたむくる花は散らじとぞ思ふ、〔夫木集〕
みくまのの御浜によする夕浪は花のいはやのこれぞ白木綿、〔山家集〕
三十三所図会云、七里浜有馬村の花窟は日本紀所謂伊弉冊尊を葬り奉りし所なりしとぞ、例年此巨巌の上より浜松の梢に注連縄を引渡し、縄を以て旗を作り是に付る、祭礼は二月十月の二日にして、神官始め村中の男女花を備ふること恰も丘の如し、是神代よりの風なりと、故に花の窟と云ふなる可し、尤窟と称すれども岩窟の類にあらず、只だ高さ二十四五間斗りの巨巌なり、然れども此地に神の鎮まりましますに依り則ち此磐を以て御屋と崇むれば磐屋と称するならんか、王子岩屋は花の岩窟に対ふ、此所は大神軻遇突智を葬る地と云、伊弉冊尊化去ます時伊弉諾尊十握の剣を以て軻遇突智を斬給よし神代紀に見ゆ。拙堂南遊志云、有馬村遇一層巌、高数十丈、循巌而行、得一華表、而入、有石遮欄、為伊弉冊尊陵、号曰花窟、々在巌根、巌面作髑髏皴、其巓状甚奇異、如怒※[獣偏+貌の旁]※[てへん+欣]吻、其東側面石韋被之、翠情可愛、蓋太古諸神皆住天上、至諾冊二尊、生国土遂降居焉、人間有陵墓、実以此為始、万古遺跡、如神在、拝脆而去、此間地徙入洋海、高浪蹴岸而至、過者往々為浪所巻去云、数町為木本浦。○日本紀、神代巻一書曰、伊弉冊尊生火神(軻遇突智)時、被灼而神退去矣、故葬於紀伊国熊野之有馬村焉、土俗祭此神之魂者、花時亦以花祭、又用鼓吹幡旗、歌舞而祭矣。○書紀通証云、那智三巻書曰、有馬村有産田宮。今按聞之新宮人、合祭冊尊火神也、云花窟、海浜突出、大巌壁也。松下見林曰、有馬村産田宮、乃冊尊神退之地、東有隠窟、亦曰産立窟、又窟曰花葬冊尊処也、暮春以縄作花及幡旗形、囲繞於窟、歓舞祭之、蓋神代遺法也。○按に産田産立は産処《ウブト》の義なるべし、古俗海浜に産屋を建てたりと見ゆ。古事記云「伊邪那美神者、葬出雲国与伯枝国界、比波之山也」とありて旧事紀亦同じ、書紀と所伝を異にす、是れ神道家の大疑とする所也。凡て紀伊と出雲は并に熊野の地名ありて神社亦同名の者多し、此両国南北相距れりと雖太古の神人は密邇の関係を為したる所とす。(海草郡有真郷鳴神を参看)大佐神社〇三代実録、貞観十七年、紀伊国大佐神授位。神祇志料云、今有馬荘|井上《ヰノヘ》村に在り、井上は蓋|忌部《イムベ》の訛なり。
阿田和《アタワ》 木本の南四里、新宮の東二里余、七里浜の中なる一村なり。阿田和の北一里に市木《イチキ》村あり、又阿田和川の上游に上野村ありて今|尾呂志《ヲロシ》と改む、共に地方の大邑なり。
鵜殿《ウドノ》 今宇和野村と改む、熊野川七里浜の辺に在り、南岸は新宮町なり。熊野新宮党鈴木氏に鵜殿と云一家あり、此に起れる者なるべし。
口北山《クチノキタヤマ》 大和吉野郡北山郷の一部なり、其本部に属する者は入鹿《イルカ》村|西山《ニシヤマ》村|神川《カミカハ》村|五郷《イサト》村|飛鳥《アスカ》村の五村に分る、北山川の左岸にして神上《カウノウヘ》を以て首里と為す、俗に口北山郷と云。
神上《カウノウヘ》 北山郷に属し今改称して神川村と曰ふ、保色《ホイロ》山其東を蔽ひ、水本浦に至る三里。残桜記に「北山宮尊雅王は、吉野郡なる北山郷|高野上《カウノウヘ》の高福寺に遁れましけるが、御創の悩重りて云々」南方紀伝には「南帝御手を負はせ給ひ、高福寺に遷幸、則崩御」と見ゆ、此なるべし。
興福寺《コウフクジ》は神上の東二里、飛鳥村大字神山に在り。尊雅王の墓なりとて石の小宝殿及像あり、寺中の神牌高福院殿南天皇都正位尊儀と記す、寺号は光福又高福に作る。〔名勝地志〕○南朝通史云、尊雅王は口殿《クチノトノ》と号し給ふ、口北山荘の謂にて紀伊国の北山を口の荘と称す、霊牌今紀伊国南牟婁郡神の山村光福寺に祭れり、墓は光福寺より凡三十町経て寺谷村と云ふ所に在り、此塚風土記にも赤松塚赤松屋敷などと口に伝ふるは其頃武家の世を畏れ称を変じて云ひなしたるものならん。○大日本史云、嘉吉三年、前権大納言藤原有光、起兵入禁中、取神璽宝剣、擁王子万寿寺僧金蔵主者、拠延暦寺敗死、棄宝剣於清水寺傍、吉野遺民奉神璽、擁王子二人拠吉野。注曰、吉野高峰福源寺、有一古碑、曰一宮自天親王、二宮忠義大禅定門。紀伊色川氏所蔵文書曰、色川郷先皇旧地、其龍孫既幸大河内行宮、宜速赴錦幡之下。(この高峰福源寺と云は高福寺と異なるべきか、北山龍川寺の事にや、再考すべし)
淡路国
淡路《アハヂ》国 瀬戸内海の東に横たはり、四至皆海、淡路島と曰ふ。其三方は海峡を成す、北は播磨に対し明石瀬戸と云ひ、西南は阿波に対し鳴門瀬戸と云ひ、東南は紀伊に対し由良瀬戸と云ふ、故に其海洋は東北に在りては大阪海湾(茅渟海又和泉灘をも総べて云ふ)なり、西北面は播磨灘なり、南方は沼島灘にして今紀伊水道と称す。〇一洲一国、山川巨大ならずと雖、嶺頭海陬皆卜居すべく、号して魚稲の郷と曰ふ、面積三十六方里、今二郡に分ち、人口凡十九万。
淡路は又淡道に作る、蓋阿波に至る途上の島なれば此名あり、和名抄阿波知と注す、此島所々に伊弉諾伊弉冊二神の古跡を伝へ、其名は神代巻に著る。応神仁徳の諸帝屡遊幸ありて御原《ミハラ》を置き、又海部をして魚味を進貢せしめ、紀伊伊勢若狭等と并称せられ御食津《ミケツ》国と曰へり。万葉集に「御調都国《ミケツクニ》、日々の御調《ミツギ》と、淡路の野島の海子《アマ》」など続けたり、応神紀云、淡路島、是島者横海、在難波之西、峰巌紛錯、陵谷相続、芳草※[草冠/會]蔚、長瀾潺湲、亦糜鹿鳧雁、多在其島、故乗輿屡遊之と、仁徳履中允恭の御幸は其紀に載す。延喜式、淡路国調完一千斤、雑魚一千三百斤、自余輸塩、中男作物雑鮨など見ゆ、完は宍に同じ、謂ゆる糜鹿鳧雁の調を指す、即御原の貢進なり。○淡路常磐草云、淡路は南海道に属し、畿内を左にす、四国を右にし、此一島実に大八洲の中央に位せり、日月の照す所其よろしきにかなひて、寒暑酷烈ならず、土暖に水清く、庶物生を安くす、瑞穂の国の開闢しも此国よりぞはじめをなせりとぞ、神代巻曰「伊弉諾尊伊弉冊尊|※[石+殷]馭廬《オヌゴロ》島に降りまして、共為夫婦《ミトノマグハヒ》して洲国を産むとおほす、産時にいたりて先淡路洲をもて胞とす、意に快ざる処あり、この故に吾耻《アハヂ》洲といふなり、其一書曰、大日本秋津洲を産たまひ、次に淡路洲をうむ、又曰、おのごろ島を以て胞として、淡路洲をうむ、」諸説多くあれど省きてしるさず、洲を生たまふといふ理などもこゝには漏らしつ、吾耻の説は釈日本紀に拠る、古事記曰、淡島是不入子之例、改更狭合生子、淡道之穂之狭別《アハヂノホノサワケ》島。○按に淡島を穂之狭島とも称へしは、一説穂之狭別は島主の名なるべしと云ふ。応神紀の御詠に「阿波泥辞摩いやふたならび、阿豆棋辞摩(小豆島)いやふたならび、よろしき島島云々」の句あり、眺望の佳かりしこと、夙に世に著る。
難波がた塩干にたちて見渡せば淡路の島にたづわたるみゆ、〔万葉集〕住の江の岸に向へる淡路しまあはれと君を言はぬ日はなし、〔同上〕わぎもこを行きて早見む安波治之麻くもゐにみえぬいへづくらしも、〔同上〕わたつみのかざしにさせる白妙の波もてゆへる淡路しま山、〔古今集〕大塩やあはぢの瀬戸のふきわけにのぼりくだりのかたほかくなり、〔堀川百首〕淡路潟いそわの千鳥声しげしせとの夕風さえまさる夜は、〔山家集〕源氏物語云、(明石巻)たゞ目の前に見やらるゝは淡路島なりけり、阿波門はるかになど、のたまひし、「阿波門みるあはぢの島のあはれさへ残るくまなくすめる夜の月」、
淡路の国造は旧事本紀に難波高津朝(仁徳)御世、神皇産霊尊九世孫、矢口足尼、定腸国造とあり、矢口の氏姓は他に見えず、姓氏録に朝臣あれど「宗我稲目宿禰の後」なれば時代合はず。延喜式に大嘗会の由加物器料は路路国阿波国にて、当国凡直氏一人、着木綿鬘、執賢木、引導」とあり、凡《オフシ》直は蓋|凡海《オフシアマ》直同族にて、即国造家ならん。凡海直は姓氏録「右京神別地祇、凡海連、海神男穂高見命之後也、又、摂津神別地紙、凡海連、安曇宿禰同祖綿積命六世孫小栲梨命之末也」とある者皆同族か、阿波の凡直氏は板野名方阿波の三郡に住居したること、続紀神護景雲元年の条に見ゆ、淡路の海人は、御原野島の野人最盛大にして日本紀に出づ、而て海人を統率するは凡海氏の世職なる事古史に明なれば、淡路国造の家系略推断すべし。和名抄を按ずるに三原郡阿万郷ありて、今の阿万村を本拠とすれど、由良沼島福良より三原湊までも兼摂せる郷名なるが如し。中世にも阿万氏当国の豪家たること、平家物語太平記にて明白なり、殊に国分寺仏像銘、暦応三年のものに大施主海氏女と記す、争乱の世には此海氏海賊衆に変じ、足利幕府の時尚強項の名あり、後天正年中に至り海部の裔末全く散亡したるごとし。○東鑑に拠れば鎌府の初め、佐々木経高横山時兼当国の守護職を賜はり、後長沼宗政之に代る、又加治氏あり蓋佐々木の庶流か。建武以後細川氏の領国と為る、而も幕府は其海部を制圧せんが為め、安宅頼藤を熊野浦より招き由良に居く、安宅氏是より淡路海賊衆の魁帥たり。細川屋形は師氏(頼春の弟)州守に任じ、子孫世襲六世尚春に至り、三好党に弑せられ、一州騒擾、天文の末、三好長慶の弟冬康安宅姓を冒し、由良城に拠り州守と為る、天正九年、子貴康織田氏の軍に降る。後仙石秀久(洲本城)脇坂安治(同上)加藤嘉明(志知城)池田忠雄(由良城)等かはる/”\本州に封ぜられて船手を領す。元和元年全州を以て蜂須賀至鎮(阿波徳島城)に加封せられしより、其臣稲田氏を洲本に置き城代と為す、以て明治維新に至る。
武庫の浦をこぎたむ小舟粟島をそがひに見つつともしき小舟、〔万葉集〕粟島にこぎわたらむとおもへども赤石の門浪いまださわげり、〔同上〕
万葉集に粟島《アハシマ》とよめる歌多し、仙覚抄に 「讃岐国屋島、北去百歩許、有島名曰阿波島」と注すれど、武庫赤石と相対せる地に非ず、紀伊の友島も古名淡島と称へりと雖、此歌と地理合はず、粟島即淡路島の一名として詠めるにや、又絵島などの別名にやあらん。○淡路之を修して淡州とも云ふ。
補【淡路国】○和名抄郡郷考 正濫抄、名付たる心は吾恥なり、陰陽二神大国をうまんと思しめしけるに小国なりければ、我恥なりと思しめす故の名なり、旧事紀に見えたり。今按、古事記伝云、書紀応神天皇大御歌に阿波泥辞摩《アハヂシマ》とあり、名の義は阿波国へ渡る海原にある島なるよし也。南北十三里、東西八里。諸国採薬記、淡路国東西七里三十町南北十三里二町、村数二百十八箇村。国造本紀、淡道国造。国府在三原郡、行程上四日下二日(主計式行程同)管二(官用同)田二千六百五十町九段百六十歩、正三万五千束、公四万五千束、本頴十二万千八百束、雑穎四万六千八百束。拾芥抄田二千八百七十町。主税式正同、公四万五千束。続紀天平十七年十一月制諸国公※[まだれ+解]、淡路三万束。本朝文粋源順云、淡路国名雖一国実纔二郡。○今三十六方里。○吾恥 旧事紀曰、先淡路洲を産て胞としたまふみこころの快さのゆへに淡路洲と云ふ、淡路とは吾恥なり、今按にあはあれなり、古語にわれをあれといふ、あはちとなづくることは、あれはづかしの意なり。○御食向淡路、万葉集に出たり、下に出すが如し、枕詞燭明抄曰、御食向淡路とは此島の海士魚取て天子の御食に持向ひ奉る事、仁徳帝紀にあり。○御食津国 万葉集に出でたり、今按るに御食向淡路といふにおなじ。○日本紀(巻十)応神天皇紀曰、淡路島は海に横はりて難波の西にあり、峰巌紛ひ錯りて陵谷相続き、芳草※[草冠/會]蔚り長瀾潺湲る、また糜鹿鳧雁多くその島にあり。今按るに、この国は滄海の中にありて山川秀美なり、住吉の松間浪花の浦頭よりも遠く望むに、煙雨風雪の景朝に変り夕べに改りて、誠にあやしきものなるべし。○万葉集巻三、覊旅歌「海若者霊寸物香淡路島中爾立置而白浪乎伊与爾回之座待月開乃門従者暮去者塩乎令満明去者塩乎令干塩左為能浪乎恐美淡路島磯隠居而何時鴨此夜乃将明跡待従爾云々」同七「難波方塩干丹立而見渡者淡路島爾多豆渡所見」「荒磯超浪乎恐見淡路島不見哉将過幾許近乎」金葉集「あはぢ島かよふ千鳥のなくこゑにいくよね覚ぬ須磨の関もり」新古今集「春といへばかすみにけりなきのふまで波間に見えしあはぢ島山」同「秋深きあはぢの島のありあけにかたぶく月をおくる浦風」続拾遺集「浦とほき難波の春の夕なぎに入日かすめる淡路島山」新後拾遺集「あはぢがた迫門の追風吹きそひてやがて鳴門にかゝる舟人」〔未詳〕「あはぢしまとわたる雁の秋風に声を帆にあぐる浪の遠方」〔未詳〕「淡路潟まつ吹く風のおろすかときけば磯辺に秋佐なくなり」壬二集「淡路しま難波をかけて見渡せば波のいろはの葦手なりけり」〔未詳〕「住吉の沖をふかめて立霧に沈み出ぬる淡路しまやま」〔未詳〕「借我《カスガ》山|岑漕《ミネコグ》舟|濃《ノ》薬師|寺《デラ》淡路島|農犂倍良《カラスキノヘラ》」〔未詳〕
津名郡
津名《ツナ》郡 淡路国の北東部にして、土俗|上郡《カミゴホリ》とも称す、東は由良海峡大阪海湾に臨み、北は明
石海峡に至る、西は播磨灘なり、南は三原郡に接す、今四町二十九村に分れ、郡衙を洲本《スモト》に置く。
和名抄、津名郡、訓豆奈、十郷に分つ、後世其二郷は三原郡に移属す。淡路常磐草云、津名郡を土俗上郡といふは、京畿に近ければ也、三原を下郡と云に対へて称する也、広田郷と養宜郷(三原郡)との間、南北に亘りて山を隔つる故に、古は広田以東を津名としたり中世以来広田加茂の二郷を三原に隷せしむるは古制にあらず。
旧事本紀(天孫本紀)火明尊十三世孫、金田屋野姫命、嫁甥品陀真若王、生三女王、誉田天皇並為后妃、其弟姫命生淡路三原皇女、次兎野皇女と、此兎野皇女は津名の地名を負はせ給ふに非ずや、ツナ・ツヌ音便相通ず。○津名は本郷名にて和名抄に津名郷あり、今岩屋の辺の称也、後世郡名にのみ遣れり。本郡には、伊弉諾神の古跡あり、又由良明石両瀬戸の隘口を扼するを以て、松帆浦|由良湊《ユラノト》岩屋絵島などの勝景夙に世に著る。和訓莱云、淡路の津名社は伊弉諾神を祭る、大同類衆方に淡路薬は津名社司中臣好根の伝なりと曰へり。
補【津名郡】○和名抄郡郷考 神名式、淡路伊佐奈伎神社。和訓莱、淡路国津名社は式なる淡路伊佐奈伎神社これなり、大同類衆方に淡路薬は津名神司中臣好根之伝文載といへり。一宮記、伊佐奈伎神社(号多賀社)淡路津名郡。淡路国常磐草云、国の東北にあり、津名を上郡といふは京畿に近ければなり、三原を下郡といふに対へて称する也、広田郷と養宜郷との間南北に亘りて山を隔つる故、広田以東を津名とし、養宜以西を三原とすること成務の古規にあへり、中世以来広田加茂二郡を三原に隷するは古制にあらざるなり。
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津名《ツナ》郷 和名抄、津名郡津名郷。○後世津名の郷里なし、淡路常磐草に鳥飼《トリカヒ》村の海辺に角川《ツヌカハ》の名遣る、角は津名の転じたるかと注すれど詳ならず、又由良湊は郷名を欠く、即津名郷かとも曰へり。今按ふに本郷は郡号の起因他にて、津名郡の眼目の位置に居りしならん、故に之を由良に擬するも故なきに非ず、然れども岩屋野島等明石海峡に面へる地、亦郷名を欠き、而も勝景著名の漁村とす、蓋津名の郷は此に外ならじ、由良福良等は阿万郷の属にして、淡路海部の邑のみ、尚由良の条を参考すべし。
松尾埼《マツヲノサキ》 岩屋村の西北、字江崎に属す、淡路島の北端にして、明石海峡の南角を成す、北岸明石地を距る二海里許。○松尾は旧名松帆と云ひ、瀕海の総名を松帆浦と称す、今砲※[土+敦]の備あり。
松帆浦《マツホノウラ》 常磐草云、岩屋浦に今松尾崎と云海角あり、西州上下の船舶常に寄泊して風をまつ、其磯山に生ひつらなれる松の緑、波にうつりて清く、須磨明石目前にありて風景美しき処なり、松尾の尾は帆の訛なり、此処の名にとりて惣名に被らしめ、岩屋浦松帆の浦とも云ふなり、松尾崎の西に並びて江崎村あるも、江は絵の転訛にて、絵島が崎の略称なるべし、万葉集に神亀三年幸於播磨国|印南《イナミ》野時作歌、笠朝臣金村、
名寸隅《ナキスミ》の船瀬ゆ見ゆる、淡路島、松帆浦に、朝なぎに玉藻苅つゝ、ゆふなぎに藻塩やきつゝ、海未通女あはとはきけど、見にゆかむよしのなければ、丈夫のこころはなしに、手弱女の念ひたわみて、たちどまり吾はぞ恋る、舟梶をなみ、
此の歌の意は松帆の浦に往て見ざるは恨めし、此故に恋慕ふ事やまずと也、新勅撰集に藤原定家「こぬひとをまつほの浦の夕なぎに焼やもしほの身もこがれつゝ」。天正十五年細川幽斎道之記に「高砂の浦より松ほの浦見物せんとて、七月廿二日のあかつき、夜船こがせてゆくに、あかしのあたり進風をかたほにかけて、はる/”\とあはぢ島によりて「行船の追風きほふあかしがた片帆に月をそむけてぞみる」さて松帆の浦近くなれば、舟をよせて見るに、明石がたの月波に浮びてみえけるに、「あらし吹きまつほの浦の霧はれて浪よりしらむ有明の月」。又按ずるに三原郡湊浦近きあたりを俗に松帆浦と称す、故に国人今松帆浦といふ名処は三原郡にありと為すは誤れり、抑松帆の浦をば和歌によみ始めたる人は笠金村朝臣なり、岩屋なる松帆の浦は往来の舟人の常に行通ふ処にて、其名高く聞ゆれば、印南野の道中明石潟より遠く望みて※[口+粛]詠せしなり、三原郡は遠くして目路の及ぶ処にあらず、二位法印玄旨も岩屋の浦辺にて松帆の浦と詠玉へり、証とすべし、或曰、三原郡の江尻塩浜高屋などの地には、近世まで※[歯+差]戸多くして塩を焼く、和歌に藻塩焼とよめれば松帆浦は三原郡なるべし、岩屋浦には塩やく海人なければ古詠に合はずと、此説非なり、藻塩焼と云ふは、海浜に寄り来る藻を焼て灰となし、たれて塩とするをいふ、古は岩屋の海人も其わざをなせるなるべし、今も海浜にある沙藻を藻塩といひて、乾し焼て籃に盛り、潮水を湧て其水を鍋にて煮れば塩となると云へり、今阿讃播備等の諸州に塩浜多く開き白塩を買求めには容易なれば、いづくにも藻塩たるゝ海人もなく、松帆の浦にも今は藻塩やかずなりにき、俗説弁に曰、苔衣は四巻本にて其抄本を松帆物語と名づく、苔衣云、昔侍従君と云美童、岩倉の宰相法師といふ者と男色の睦あり、時の相国の子侍従君を懸想しけれども聞入れざりしかば、宰相法師を淡路国松帆浦に流す、法師此浦にて病出して「くやしきはやがて消ゆべきうき身ともしらぬわかれの道芝の露」とよみ置きて空しくなる、其後侍従君松帆浦に尋下りて「おくれじの心もしらでほどとほく苔の下にも我をまつらむ」とよみしなり。
江埼《エサキ》 松尾埼の西南に隣接する海崖の名なり、燈台の設ありて播磨洋より明石海峡に入る航路を標識す、燈高は海面上一五八呎、晴夜光達十八海里半。
岩屋《イハヤ》 今岩屋町といふ、松尾埼の東南半里、仮屋浦(今釆馬村)の北二里半、明石海峡の東口なる南側に在り、海峡通過の帆船多く来集す。○播磨風土記云、「息長帯日売命(神功)度行於韓国之時、船宿淡路石屋之時、風雨大起、苫編《トマミ》首祖大仲子、以苫作屋」 と、石屋《イハヤ》即この岩屋浦なるべし、又人類学会雑誌に此浦に古塚二所あり、近年開墾の際曲玉と徳利様の陶器を得たり、其一所は石廓崩壊して唯形状のみを遺せり云々と記す、岩屋の名は蓋古墳墓の石屋に因む。(下に明神の窟と云あり参考)常磐草云、岩屋浦は州の北極にて、須磨明石に対ふ、延喜式石屋に作る、大なる石窟あるに因れり、絵島の浦松帆の浦などいふも此浦の異名なり、此浦に漁戸多くして海の深き処にも鉄叉《カナツキ》を差おろし、魚を見ずして突とるを盲突《メクラヅキ》と云、魚多き故なるべし、又岩屋の海に別当《ベツタウ》汐とて和泉の堺浦へゆく潮条あり、潮勢強くして此潮に入たる舟は、梶の力及ばずして一かたに引れゆく也、別当潮と云ふは此浦に寺あり別当坊と云ふ、昔其寺に猛狗ありて日々に堺にゆく、此大海を渡らんとするに、先渚にて木を流し試みて堺の方に流るゝをよき汐時と知りて、槎に乗てその一潮に渡りしとなり、太閤記の八物語に、播磨灘にして其風をうけ、帆の開合を以て、別当汐の彼のうね/\を見わけ、云々とあるは此事也。○又云、古は岩屋の烽と云事あり、岩屋浦は須磨明石への渡口にて、淡路の迫門にのぞめば、其渡航のために岩屋浦にて火を焚く事あり、之を飛火を立つとも、しるしの煙を揚ぐるとも云、続日本後紀、承和十二年八月、淡路国、明石浜、始置船并渡子、以備往遭、(延喜式に載する官道は、紀伊国加太より由良へ渡る、然らば此なる石屋より須磨明石の渡りは副線別路也)又袖中抄云、須磨と岩屋は渡りにてあるに、淡路へ下るいそぎの便船のなければ、すまの浦にて火をたくなり、これに淡路の岩屋の浜に火をたきてあはするなり、さてむかへぶねをつかはすとぞ申す、其火たくを北飛火たつと云、又火あぐとも云なり、夫木集、故六条左京兆顕輔、淡路といふ女のもとへ遣す歌「いかにせむ飛火も今は立詫ぬ声もかよはぬあはぢ島山」新勅撰集、前内大臣「淡路島しるしの煙見せわびて霞をいとふはるの舟人」正治百首、寂蓮法師「淡路島かよふしるべもたつけぶり霞にまがふ須磨の明ぼの」○又云、岩屋浦の黄砂は庭砌に舗くによろし、岩屋礫の名あり、すべて此海山に大小の石材多し、神功紀に二王子淡路島の石を取り播磨にて山陵を造りたまふ事見ゆ、今も明石に荒陵遣れり、土人は伝へ言ふ、岩屋の五色石にて築かれければ、五色塚と称ふとなん。
補【岩屋】○淡路常磐草 道範上人紀行曰、仁治四年仲春二日の暮方淡路の石屋に着て巡覧す。
烽 岩屋の浦は須磨明石への渡口なり、岩屋の迫門、淡路の迫門などといふなり、渡りのために岩屋の浜にて火をたくを飛火たつといふ、しるしの煙ともいふなり、続日本後紀(巻八)仁明天皇承和十二年八月辛巳、淡路国明石浜、始置船并渡子、以備往還。袖中抄(巻八)曰、摂津国のすまと淡路の岩屋といふところとは渡りなり、こゝに烽火をあぐ云々。○因に記す、烽は渡口のみならずむかしは処々に烽を置たり、今も諸州に烽を置処あるなり、軍防令曰、烽を置くは相去ること四十里(今の四里許)烽長二人を置て検校せしむ、烽子四人を配す、凡そ烽は昼夜時を分て候ひ望む、烽を放つべきには昼は烽を放、夜は火を放つ、前の烽応へざれば脚力を差してその処由を同〔脱文〕
石屋《イハヤ》神社 岩屋浦給島の南に在り、土俗|天地《テンチ》明神と称す、又絵島明神とも曰ふ、延喜式津名郡石屋神社是なり。常磐草云、天地明神は式の石屋神にて、其何神と云ことを注せず、後世より之を定め難かるべし、能因歌枕に淡路国いはやの社といへるは是なり。
明神《ミヤウジン》窟○常磐草云、絵島を去る五十歩許、天地明神の北の海辺に在り、古城山の崖下なり、此石窟旧は甚広かりしを、城を築く時、窟を切たてゝ、今残る処の岩窟、斯く狭くなりたりと云、惜き事なり、石窟の中に小祠あり、土人は石楠《イハクス》尊といふ、いぶかし、或説に石窟は伊弉諾尊隠れませる幽宮なりといふ、因て按るに、旧事記に幽宮を淡路洲に構りて隠れますといひ、亦淡路の多賀に座すといふ、日本紀にも幽宮と日之少宮《ヒノワカミヤ》とを分て挙たれば、日之少宮を多賀とし、幽宮を石窟に擬していふにや、石窟近き海浜に石磯ある処を鉾《ホコ》島鶺鴒島などいふ、是は石窟の口を切穿ちたるが残りたる巌石なるべし、瓊矛を指下してといひ、交通を鶺鴒に学ぶなどいふ神代のふる事を以て、岩島の名とせるなり、別当坊同浦に在り、真言宗、寛永中|養宜《ヤギ》山中にて古き金口を掘出す、銘に岩屋別当と見え、今此寺に納む。○按に岩屋神社を淡路之幽宮に比擬するは誤れり、彼日之少宮は出雲なれば、淡路幽宮は多賀に外ならじ、而て岩屋神を蛭子命と云ふは、却て理由あるが如し、日本紀に蛭子を磐樟船に乗せて放たれし事を録し、蛭子は紀州加太浦の淡州《アハシマ》にも祭られ、岩屋浦にも粟島と云ふ一島の在りしこと、万葉集に見ゆるに非ずや「武庫の浦をこぎたむ小舟粟島をそがひに見つゝ」又「粟島にこぎわたらむと思へども赤石の門浪」云々、
又
百つたふ八十の島わをこぎくれど粟の小島は見れどあかぬかも
などあるは、此浦の絵島大和島などに当ると思はる、仙覚抄に見ゆる讃岐の阿波島は、又此と相異なるものとす。常磐草云、続古事談曰、六角堂の如意輪観音は、淡路国いはやの海にから櫃に入て鎖子さして打よせられたりけるを、聖徳太子あけて御覧じて、本尊とし給ひける云々、今岩屋浦に観音堂あり、開鏡山と号し、渓澗を攀躋すること三十町許也、観音堂のある処より山頂に登りて眺望すれば、松屋崎より須磨明石見えわたりて、海山の景気よし、岩屋の後山、潔浄にして水精葡萄石を生ず。又岩屋古城蹟は同じ浦の南にあり、伝説に安宅紀伊守岩屋浦に居れりといふ、南海記に由良の安宅氏より岩屋の城を持とあり、此城を守れるなるべし、後太平記曰、天正元年、将軍義昭信長と隙あり、義明備後へ下りぬ、毛利其命に応じて軍を率て上京せんとす、此時畿内中国の兵招きに応ずる者多し、丹地太郎兵衛尉、神野加賀守、小林民部少輔三百余兵を率て淡路岩屋城に攻入、これを取て将軍及門跡を援けて大坂に兵粮など籠たり云々、丹地等は毛利方の兵将にて、此時も岩屋は安宅氏の居城なるべし、天正九年織田家の将羽柴秀吉池田之助淡路を征略し、安宅氏之に降りぬ云々、城跡の字を三対山《ミツエヤマ》と曰ふ。
絵島《ヱジマ》 岩屋町の東端なる岩崖の名なり。水路志云、松尾崎の南東の一海里半許に、岩屋の二小半島あり、一を絵島といひ、高四十七呎、一を大和《ヤマト》島といひ、高四十呎、大和島は樹林に掩はれ、北西或南東より望めば顕然離島の如し、岩屋浦は南より西を廻り北西に至るの間の諸風を避くべき好錨地あり。○絵島は高九間半、周四十間、艮の方に六十間許の平場あり、頂上に宝筐印塔一基を安置す、此島ささやかなれど、土砂の色沢光輝あり、赤壁蒼崖、筆を以て画き成せるごとし。〔史料通信叢話〕按ふに、此巌に赤き所、黄なる所、黒き所ありて、之を浪に洗はれて種々の画文を成し、老松之に生じたり、奇状いふばかりなし。〔名勝地志〕
常磐草云、絵島と云は岩屋天地明神の磯辺につゞける一塊の丹石にして、之を望めば赤珠のあまた凝り聚まれる者のごとし、其石紋自ら人物鳥花の象ありて、彫がごとく絵くがごとく、玲瓏として愛す可し、海より寄せくる波に石面を磨して、画文を成したるにや、又島の頂には一石塔を置けり、何人の所為なりや知らず、緑樹数株あり、崖壁直峭にして攀登りがたし、島の磐根は平かにして、席を設たるごとく、海潮に臨て潔し、雪月の時尤賞遊すべし、日本奇跡考に、播磨海渚の石絵あり故に絵島と云ふと、按ずるに播磨は淡路の訛なり、播磨に家島あるを誤て、ゑじまと呼ぶ、混ずること勿れ、平家物語「福原の新都にある人々、名処の月を見むとて、須磨明石を経て、淡路の灘をわたり、絵島が磯の月を見る」選集抄「むかし行平中納言といふ人いまそかりける、身にあやまつ事侍りて、須磨の浦に流されて、もしほたれつゝ浦づたひしありき侍りしに、絵島の浦にてかづきするあま人の中に、世の心に止まり侍りけるにたより給ひて、いづくにやすみぬる人にかと尋給ふに、此海人とりあへず「白波のよする渚に世をすごす海士の子なればやどもさだめず」とよみてまぎれぬ、中納言いとゞかなしうおぼえて、涙もかきあへ給はずとなん、なみのよるひるかづきして、月やどれとはぬれねども、心ありけるたもとかな、波になみしく袖の上には、月をかさねてなれし面影、そのぬれ衣をかたしきて、船の中にて世をおくる海人の中にも、かゝるなさけあるたぐひも侍りけると思ひて、特にあはれに侍る歌げにゆうに侍り」按ずるに本朝列女伝にも此事を載せて絵島を播磨とせるは非なり、岩屋を絵島の浦とも云なり、千載集、前参議親隆「はりまがた須磨の月よみ空さえて絵島が磯に雪ふりにけり」新勅撰集、後徳大寺左大臣「湊山とことはにふく潮風にゑじまの松は波やかくらむ」玉葉集、羈旅、藤原資隆朝臣、しほのゆあみに淡路の方へまかりけるに、扇つかはし遣る中に、絵もかゝぬ扇のかたつまに書付侍ける、前左兵衛督惟方「帰り釆てとふ人あらば見すばかり絵島をこれにうつせとぞ思ふ」(按ずるに塩湯ありし処も此浦なるべしや)幽斎紀行、絵島といふ磯を見るに、山のかさなりてしまあれば「幾重とも波路はるかにたゝみなす山や誠のゑじまなるらむ」、源重鎮公発句「松に雪白きを後の絵じま哉」。○大和島《ヤマトシマ》は同じ浦、絵島の南、石屋神社の祠前にあり、大絵島とも称す、此島神霊の棲息する処と云ひて、島上に登る人なし、万葉集「あまざかるひなのながぢをこえくればあかしのとより大和島みゆ」此歌は袖中抄には長途郷を懐ひて明石に至り忽大和の遠山を見て故郷の近きを喜ぶ也と注したり、新勅撰集、旅、土御門院御製「あかしがた大和島根もみえざりしかきくもりにし旅のなみだに」此御歌には明石潟大和島ねとつゞけさせ給へば、淡路の倭島なるべきにや、土御門院さすらへさせ給ふ時、明石潟の舟中にて、此あたりの地名を舟子に問知り給ひて、よませられけるにや、且は其名によりて、畿内の遥峰ども願望して、郷思を述させ給ひしにもあるべし、憂憤の余情感慨多し。○道範上人紀行云、仁治四年仲春二日の暮方、淡路の石屋に着きて巡覧するに、青岩の形、緑松の粧、碧潭の色、晩風の声、其感に不堪、愁緒を忘れたり、偖絵島の明神に詣して、法施法楽の暇にかくなむ、「見るばかりいかにかたらむゑじまがたむべなり神も此に住ます」。○按に絵島は胞島の義にて、古の謂ゆる※[石+殷]馭廬島なるペしと云説多し、古事記伝には書紀に「以※[石+殷]瀑廬島為胞」とあるに因るかと説く、石屋神社も伊弉諾神の霊蹤に似たれば、胞島の説も棄て難けれど、神代の事なれば尋常の理義のみにて推量すべからず、今之を闕くも可矣、但仁徳帝の御製に入れる淤能碁呂志摩は、由良の西南なる沼島たるべし。
補【胞島】○史料叢誌に曰く、岩屋浦海中画島あり、一に胞島といふ、直立九間半、周四十間余、艮の方に南北十間東西十二間の平場あり、此島地底に金気充て土砂光輝あり、赤壁筆を以て画けるが如きなり、頂上に石塔あり、高二尺許り、村老は兵庫の築島なりし時松王小児衆人の人柱に替りて海底に沒せし墓なりと云、又允恭天皇の時海底の大蝮かづきあげし男狭磯《ヲサシ》が塔なりといふ、ともに証を見ず、塔は宝筐印塔といふ制式なり。
野島《ヌジマ・ノジマ》 今野島村と云ふ、岩屋の西なる海村なり、播磨潟に向ひ富島《トシマ》浅野の諸村と相連り、明石海峡の内側南辺に在り。常磐草云、野島は蟇浦《ヒキウラ》村の海辺なり、里人の曰、むかしは一二町も澳へ出て、高く平らかなる野あり、波に崩れて今はなし、古松の村立る汀を野島といふ也、薬師堂あり、野島の薬師と云ふ、富島の条に見ゆる如く、昔は海浜に堤防を築て舟を泊る処広く、西州往来の客船要津とせしなるべし、風波に土石壊れて、後修理する事を得ず、明石高砂なども近く見わたされて、景よき処なり、野島に ※[足+僕の旁]《ミヅカキ》ある鶉多しといへども、此程に見えずとぞ、又或説に野島は沼島の事也、乃と奴と通ずる故也と、此説然るべからず、万葉に辛荷島を過る時赤人の歌に「あはぢの野しまも過ぎ、いなづまからにの島の、島間ゆ」とよめるは淡路の北、野島を過て播磨に有といふ辛荷の島とつゞけたる方、次序宜し、南方の沼島路より過たるやうには聞えず、然れば蟇《ヒキ》の浦なる野島正当なるべし、又夢野の鹿の野島に通へるふる事も、夢野は兵庫のうしろといへば、明石の海を渡るは一里にもたらぬ処にて、およぎつくほどの間なれば、さも有べし、野島の海に鹿の瀬と名づけたる浅瀬も、此故事によれりと思はる。(摂州夢野を参考すべし)○野島村或は仁井《ニヰ》村と曰ふ、(旧名蟇浦と云)大字仁井あり。
珠藻刈る敏馬《ミヌメ》を過ぎて夏草の野島の崎に舟ちかづきぬ、〔万葉集〕珠藻刈る処女《ヲトメ》をすぎて夏草の野島が崎にいほりすあれは、〔同上〕粟路の野島の前《サキ》の浜風に妹がむすべる紐ふきかへす、〔同上〕
風吹けば波にや床のあれぬらん野島が崎に鶉鳴くなり、〔建保百首〕 家陸
地学雑誌云、絵島野島及楠本(浦村)の地に夥多の介化石を埋蔵す、其種属は皆第三紀に当り、陸近き浅海に栖息せる貝類とす。
補【鹿瀬】○蟇浦及机の沖の海中にある浅瀬の名也、漁人棘※[髪?]魚《タヒ》を網して此瀬にて取也、鹿瀬とは摂津風土記の説によりて海の瀬に名づけしなるべし、
打なびく野島が崎の夏草よ夕浪かけて浦風ぞふく(新続古今集) 中務宗尊親王
来馬《クルマ》郷 和名抄、津名郡来馬郷、訓久留万。○今来馬村浦村釜口村などなり、来馬村には大字久留麻の名現存す、茅渟海 (大阪海湾)に臨み、岩屋(津名郷)と志筑の間に居る。○延喜式、津名郡伊勢久留麻神社は今大字久留麻に在り、土俗伊勢明神と曰ふ、按に伊勢の奄芸郡に久留真神社ありて、服部《ハトリ》呉部《クレベ》の徒の氏神なりしと思はる、此なるも其部民の移住して更に伊勢神と称へたるならん。
偵屋《カリヤ》浦 今来馬村の大字なり、岩屋町の南二里半、志筑町の北三里半とす、小駅にて、西は一嶺を隔てゝ野島|富島《トシマ》に至る各二里。○浦《ウラ》村は仮屋の北に一村を成す。
釜 口《カマグチ》 来馬村仮屋浦の南一里、海洋は東南に開く、背に妙見山《メウケンヤマ》あり、常隆寺山と相接す。○常磐草云、釜口村は土俗三立崎庄といふ、法華宗(本能寺末)妙勝寺と号する一院あり、相伝ふ昔足利尊氏西国に赴く時、舟を此浦に泊て寺に詣で、太刀一腰を寄進したりと、建武三年二月の兵庫発船の時の事にや、又寺什古簡一通あり、
此城妙勝寺御祈祷弥可被致精誠候恐々謹言
十二月十日 尚春(判)
此牘を按ずるに尚春は細川淡路守源尚春なるべし、淡路守護養宜大土居の主、第六世を成春と云、文明十七年卒去す、尚春は成春の子なるべし、明応中成相社の棟札に淡路守尚春とあり、其頃より三好一族五畿内南海近国に威を振ふて、淡路の地士も皆三好に従属す、故に尚春その寇を避け出奔し釜口に龍城せしなるべし。
佐野《サノ》 釜口の南一里、常隆寺山の南東なる海村なり、南一里にして生穂《ナマリホ》村に至るべし、志筑町は更に生穂の南一里許にあたる。賀茂社文書、寿永三年、神領佐野生穂庄。
生穂《ナマリホ》 中右記云、賀茂上社司申、被領淡路国生穂庄、為官使友兼国司目代国之等、被滅亡、件庄、先年依毎日供御有宣旨被立、而後国司移立他郷、今推渡本郷、投棄神宝、破損神殿也。
富島《トシマ》 今富島村と云ふ、野島村の南、浅野村の北、播磨潟に向ふ。○常磐草云、富島は机浦の北に在り、按に播州魚住泊より、津国大和田泊(今の兵庫)まで一日行の間に船を泊むべき処少し、東南の風あらき時岩屋の迫門《セト》乗過しがたき時には、富島野島などに舟を泊めて、風を得べき処也、この故にむかしは富島野島の海辺に堤防を築きて、船を泊る処の入江となせしなるべし、因て築江《ツクエ》と名づけたるを、机と訓通ずる故に、後世省文を以て机と書替たるなるべし、其堤防いつの世にか風波に破れて、富島野島の名のみ遺れる事、譬へば大和田の泊破壊して築島の名存するが如し、再興修覆して舟人の漂没を救はば、大なる仁恩なるべし。○今|机浦《ツクエウラ》の名亡ぶ、野島より富島村浅野村育波村の辺、室津《ムロツ》村までの総名なるべし。
風早みとしまが崎をこぎゆけば夕波千鳥たちゐ鳴なり、〔金葉集〕神祇伯顕仲 あなし吹くとしまが崎の入汐に友なしちどり月になくなり、〔夫木集又正治百首〕喜多院守覚法親王。
補【机浦】津名郡○机は築江の転じたるにや、又此あたりの浦辺にて壷を縄に聯ねて海潮に沈む、これを蛸壷といふ、時を移して引挙れば壷ごとに章魚一頭を得るなり、日に乾して鮑章魚《ヒタコ》とす、此処の比目魚《カレヒ》味美なり、小なるを鮑として木葉鰈といふ、又近里より多く駒を出す、当州に産する駒は蹄硬くして沓を着ることなし、又|文机《フツクエ》といふ地名あり。
浅野《アサノ》 今浅野村と云ふ、富島村の南育波村の東なり、浅野は万葉集に見え、古人の舟を野島の築江などに寄せたる頃に賞詠せられたる名所なり、今も浅野村の上方十町許、渓澗に一飛泉あり、紅葉《モミヂ》滝と呼ぶ、即常隆寺山の西面とす、滝高凡五丈。
海若《ワタツミ》はあやしき者か、淡路島中に立置て、白浪をいよにめぐらし、ゐ待ち月|開《アカシ》の戸ゆは、ゆふされば塩をみたしめ、あけされば塩をほさしめ、塩さゐの浪をかしこみ、派路島磯かくり居て、いつしかも此夜あけんと、待からに寐のねがてねば、滝の上の浅野の雉、あけぬとしたちどよむらし、いざ子どもあへて漕ぎ出む、にはも静けし、〔万葉集〕
常磐革云、斗之内《トノチ》(今浅野村大字)は十市の訛なるべし、能因歌枕に淡路国とをちの池とあり、此池は今|斗之内《トノチ》妙応寺の池などにや、又此地机南の字あり、机浦の南と云心なるべし、机南に馬塚鞍壕など云古墳あり、土俗奇怪の説を伝ふ。
補【浅野滝】○淡路常磐草 万葉集巻三覊旅歌に見ゆ、
滝の上の浅野の原のあさみどり空にかすみて春雨ぞ降る(続後拾遺集) 藤原隆祐朝臣
萌えいづる春も浅野の若草にかくれもはてずきぎす鳴くなり 左兵衛督基氏
紅葉滝 同じ村の西浜にあり、高四五丈ばかりありとなん、かえでのもみぢ滝の上にある故に名とすとぞ。
机南村 此あたりの村里を俗に机の庄といふ。
馬墓・鞍塚 ともに机南村にあり、野老の説に云、むかし播磨の猟者猪を逐て海をわたり、先山に入り其騎ところの馬こゝに斃れたるを蔵めたる塚なりと云伝ふ、尤奇怪の談なり。
常隆寺《ジヤウリユウジ》 浅野村の南なる字久野々の栗村山に在り、(一説此寺は野島村大字仁井に属すと)廃帝院と号し、仁王門仏殿 (本尊観音大士)大師堂行者等あり、蓋早良皇太子(謚崇道天皇)の霊安寺の址とす、寺の高峰は抜海凡五首米突、東西の海洋南北の峰嶺を見はるかし、眺望頗広し、常隆寺山と称す。○常磐草云、常隆寺は久野々村栗村山に在り、大伽藍の旧跡にて、棟札諸堂の磯石など残れり、此寺住持の僧なし、十七区の末院より供養勤行す、今観音堂に千手十一面の像を安置す、桓武天皇御宇勅創し玉ふ、日本後紀に「桓武天皇延暦二十四年、勅して崇道天皇のために、寺を淡路国に建玉ふ」按るに郡家郷にある早良太子の山陵の地も育波郷に近ければ、その勅建の寺はこの常隆寺なる事疑ふべからず。○類聚国史日本逸史云、延暦二十四年、正月、聖体不予也、奉為崇道天皇、建寺於淡路国、四月、令諸国奉為崇道天皇、建小倉、納正税四十束、並預国忌及奉幣之例、謝怨霊也。大日本史云、皇太子早良、流于淡路、途死、載屍葬之淡路、後人多疫死、迎遺骸、蔵于大和八島、追号曰崇道天皇、墓称山陵、帝(桓武)違予、創霊安寺於淡路。(早良皇太子の淡路の山陵は、多賀村の大字河合に在り)
育波《イクハ》卿 和名抄、津名郡育波郷、訓以久波。○今育波村|室津《ムロツ》村浅野村等なるべし、即机浦とも称する海村にて、常隆寺山の西北麓とす、播磨洋に臨み、南は郡家郷に至る、相去る二里。○古事記、境原宮(孝元)段「建内宿爾之子、葛城長江曾都毘古者、的臣等之祖也」と見え、仁徳紀に、的臣の祖盾人宿禰は、鉄的を射貫きたる功によりて、的戸田宿禰の名を賜へる由を録す、延喜式尾張国には伊久波神社あり、此なる育汲郷も的氏の住居などにやあらん。
淡路のいくはの里と云ところののらを過るに、はぎのしげくおもしろきに、露おきたるを見て、
小萩原わけつる程にぬれにけりいくばくかりに置ける露ぞも、〔橘為仲家集〕
南海記曰、永正十五年、大内義興周防に還る、近年細川家臣淡路の伊久志摩守、淡路の渡にて西国より運輸の軍資を奪しかば、義興帰るさにこれを攻取、按るに伊久は伊久波の訛か、伊久波を以て称号とせしにやととはる。〔常磐草〕○今育波村と室津《ムロツ》村は東西接比の民家なり、鹿瀬の浅海を西北凡五海里に視るべし、瀬戸内航走の大鑑巨舶は皆鹿瀬の西辺を過ぐと云ふ、此に室津と云も古は瀬戸内の海駅の一所なれば、其名を負ふならん。
郡家《グウケ》郷 和名抄、津名郡郡家郷、訓久宇希。○今郡家村有す、多賀村大町村|江井《エヰ》村尼崎村など皆本郷の隷属なりしならん、津名郡の大邑なり、志筑郷と表裡を成して播磨洋に臨む。郡郷考に淡路の郡家はミヤケとも呼びたる由を載す、按に此地は崇道帝陵の所在にて、小倉を建置かれて正税を納め、以て怨霊に謝し奉れること国史に見ゆ、ミヤケとは其税倉の遺名にやあらん、今はグンケ村と呼ぶ。
補【郡家郷】津名郡○和名抄郡郷考 仲野安雄云、郷廃れて郡家・浜郡家・中村などの名遺れり、郡家川といふもあり。赤松記、田村能登守と申人の館、郡家と申処に御座候而。村名帳、津名郡郡家郷郡家浜村、郡家中村。国図云、郡家旧名宮家、此郷中に一宮伊弉諾神社ありといへり、此郡旧名|宮家《ミヤケ》と云ひしはさることなり。○常磐革、古邸址 同じ郡家中村にあり、田村氏世々居住すと云ふ、按ずるに田村は足利家士なりしが三好氏当州を侵略せし後三好に属したるか、天正九年羽柴秀吉征伐の時家廃せしなるべし。江井浦 港中広からねども往来の舟の泊る処なり、多く諸魚を漁る、※[魚+章]魚あり、腹に白糠の如き物あり、飯蛸といふ、此浦に藩侯の行邸あり。
郡家《グンケ》 今の郡家村は旧中村浜村と呼び、郷中の衆水之に会集して海に入る、東は多賀村に接し、西は江井村を望み、土地稍平衡なり、志筑町へ二里、都志町へ二里半。○常磐草云、郡家中村は田村某の食邑なりしとぞ、赤松記に、田村能登守と申人の館は、郡家に在りと載す、田村氏は天正中に廃亡したるならん。
江井《エヰ》 郡家村の西に接する小湾を江井浦と云ふ、湾勢北に開き、江井崎其一方を塞ぎ、帆船の寄泊に宜し、今江井村と云ふ、垂井柳沢の二大字に分る。此海浜は漁猟の利多く、殊に蛸壷を以て※[魚+章]を捕ふること盛なり、一種飯※[魚+章]と云ものあり、往時は此に徳島侯蜂須賀氏の行邸を置かれしことあり。○常磐草云、柳沢《ヤナギサハ》に延喜式|石《イハ》神社あり、奇異なる石を安置す、土人誤りて時平大臣《シヘイダイジン》社と呼ぶ、時平と云こと何の謂なるか、詳にし難し。
補【石神】津名郡○淡路草に云ふ、柳沢村にある式内なり、奇異の神石あり、祭る、土人此社を誤て時平大臣と云、大に非なり、此奇石豊石の名に応じ、神代よりの鎮座と見えたり、鮎原社に詣でず、縁組せざるは蓋此土地昔時平大臣の領地たるか、此事証跡なしと云へども、時平を祭る事ども又証文なし。
多賀《タガ》 今|河合《カハヒ》村|井谷《ヰタニ》村を合同して多賀村と云ふ、大字多賀には伊佐奈岐神社あり、当国の一宮にして、即国幣小社に列す。○按に淡路の多賀の名は、古事記に載せられしを、後世之を淡海の多賀と混乱するは、路を海に誤れるに因る。補【多賀】津名郡○常磐草 多賀村、村に多賀社あり、神宅とも云、旧事紀に淡路の多賀あれば、古よりの地名なるべし。
淡路伊佐奈岐《アハヂイザナギ》神社 今|多賀《タガ》大明神と云ふ是也。神祇志料云、伊弉諾尊を祭る、上古伊弉諾尊天下を修固め給ふ始めに、先淡路島を生成し、次に群神を生坐て、神功既畢る時に、幽宮を淡路之洲に構りて、長く鎮り坐き、〔日本書紀参取古事記〕故之を島神と云ひ、〔釈日本紀〕其津名郡に坐を以て、津名神とも申しき、大同元年、神封十三戸を充奉り、〔新砂格勅符〕貞観元年、無品勲八等伊佐奈岐命に一品を授奉り、〔三代実録〕延喜の制、名神大社に列らしむ、〔延喜式〕元久二年、本国東神代八木両郷荒野十町を以て一二宮法華桜両全の舞楽料田に充つ。〔常磐草引護国寺所蔵文書〕○常磐草云、或説に岩屋浦絵島の石屋神社も、伊弉諾尊にして幽宮の遺址なりといふ、又或説に式に載たる近江国犬上郡多賀神社は伊弉諾尊にして、日之少宮といふ、因て思ふに是みな後人の臆説なるべけれども、近江の多賀は古へ淡路の多賀伊佐奈岐神を移せるなるべし、然れば淡路の多賀社を日少宮といはんこと宜なり、又石屋神社も石窟あれば、之を幽宮に擬せんこと其拠なきにあらじ。
書紀神代巻云、伊弉諾尊、神功既畢、構幽宮於淡路之洲、寂然長隠者矣。旧事本紀云、伊弉諾尊、功既至矣、徳亦大矣、登天留宅於日之少宮、復霊運当遷、是以構幽宮於淡路之洲、寂然長隠、亦座淡海之多賀者矣。○按に旧事紀の「亦座淡海之多賀者矣」の九字は、後人の古事記に拠りて補へる者ならん、而て古事記に「伊邪那岐大神者、淡海之多賀也」の文ありて、応永年間古写の伊勢本には淡海を淡路に作ると云ふ、蓋其淡路に作るは真本にして、淡海と云は誤れるのみ、旧事紀の之を竄入せしは特に採るべからず、然れども釈日本紀已に幽宮を淡路とし、少宮を淡海とす、因襲する所久しと謂ふべし、釈紀に幽宮の解をなして云「大八洲既立、何故終隠不充子数之洲哉、曰、凡人終始可同、神道然、此淡路之洲者、是最初生出者也、故亦終隠、或説、君者陽也、陽方者正南也、今此洲正在南方、是人君之本住也、故殊隠此洲耳、神名帳曰淡路伊佐奈岐神社」と、此解釈は理説に流るゝも猶聴くべし、日之少宮の解に至りては曰「少宮是東北之地也、是則少陽之宮也、日者盛在東方、若少北則是少陰之地也、又謂之日隅宮、以其在東北隅也、即近江国犬上郡多賀之宮正値此方也、然則此云少宮者、非謂在天上也」と牽強も亦甚し、少宮《ワカミヤ》に東北の義理の在らんやうなし、古事記に淡海淡路の誤ありしより、斯る附会の起れるのみ、近江の多賀は犬上氏の氏神にて、伊弉諾神には関係なきが如し、唯其中世以来久年の誤謬なれば、今にして論述せんも頗其判定に苦む所多し。○履仲紀に、淡路島に居る伊弉諾神の神託の事見え、允恭紀に、淡路の島神の髪卜の事見ゆ、釈紀に引ける天書には「允恭天皇、行幸淡路、祠伊弉諾大神」と録したり、上古に在りて此神の威霊の程想ふべし、近江の多何神の事は上古に聞ゆる所なし、且日之少宮と云ひ、日隅宮と云ふは、共に出雲に在るが如し、今之を江州に求むるは、太だ因由に乏し。
補【伊佐奈岐神社】多賀村にあり、一宮多賀社といふ、古は宮中名神祭及祈年国幣に預り給ふ事式に見えたり、三代実録曰、清和天皇貞親元年正月廿七日、京畿七道諸神、進階及新叙、惣二百六十七社、奉授淡路国旡品勲八等伊佐那岐命一品。石屋社も石窟ある処なれば、幽宮に擬せん事拠なきにあらじ、釈日本紀(巻八)引天書曰、允恭天皇十四年行幸淡路、祠伊弉諾大神。
淡路高島《アハヂタカシマ》陵 崇道天皇(皇太子早良)の御陵なり、今高島の字あり、故に私に高島と称し、以て淳仁天皇陵に別異せしむ。多賀村大字川合に在り、多賀社の東南五町許、一座の円丘にして、往年まで牛頭天王の祠を置けりと云ふ、河合《カハヒ》は旧|川井《カハヰ》に作る。○常磐草云、川井は川堰の義なるべし、崇道天皇、山陵は下川井にあり、俗に高島と称す、松の生たる円山なり、里人淡路廃帝の陵と称して、毎年正月九日八月九日に神祭をなす、西峰翁前王廟陵記を著していへらく「淡路陵、或曰在神宅之東二十町許」と記せり、神宅は多賀一宮の地を云、陵の松ある処に近し是は里巷の説を聞てかくしるしたれど、俗伝の誤なり、証とすべからず、早良皇太子の陵は国史に地名をしるさずといへども、津名郡にて陵戸を付せられたれば、川井にある古陵なる事疑ふべからず、水鏡に云「早良太子をあはぢの国へながしたてまつり給ひしに、山崎にてうせされ給ひにき」日本後紀、延暦十一年、諸陵頭調便王等を淡路国に遺し、令して其の親王(早良太子)を葬る守冢一烟、兼て随近の郡司その事を専当して、警衛を存せず、祟あることをいたせり、今より以後塚下に※[こざとへん+皇]を置て、濫に穢しむることなかれと、延暦十七年、勅使参議五首枝を淡路国に遣して、早良親王の骨を迎て大和国八島陵に収め葬る、近年親王祟によつて、世の人多く病み亡ぶればなり、是よりさき二度勅使を遣しけれど、神の祟止まず、風波官船を衝盪して漂没せしむ、十九年詔して曰、朕思ふところあり、故皇太子早良親王を崇道天皇と追称し、其墓を山陵と称すべしと、丹波守大伴是成をして陰陽師衆僧を率しめ山陵に鎮衛せしめ、津名郡戸二煙を分て崇道天皇の陵を守らしむ、少納言従五位下稲成主等をして、追尊の事をもて崇道天皇の陵に告しめ玉ふ、二十四年、勅して崇道天皇のために寺を淡路国に建て玉ふ、諸国に令して崇道天皇のために小倉を建て、正税三十束を納しむ、並に国忌奉幣の例に預る、是怨霊を謝するためなり。
都志《ツシ》郷 和名抄 津名郡都志郷 訓豆之。○今都志村山田村鮎原村(河上)広石村鳥飼村及び堺村(堺村今三原郡に隷す)などなるべし、郡家郷の南に接し、先山の西北に当る、一面は播磨洋に対へり。○郡郷考に都志は出石《イツシ》の伊を略せしならん、天日槍の出石刀子に因みあるかと論ず、按に垂仁紀に天皇淡路島の出浅邑を天日槍に賜ふとも見ゆ、常磐草に拠れば出石刀子の故事は生石神社に伝へ、出浅の地名は但馬国に出石《イヅシ》と云ふに同じ、然れば都志郷も、亦出石刀子に因由なしと謂ふべからず。
龍宝《リユウハウ》寺は都志村の東なる葛尾山に在り、堂宇には不動明王を祀る、文安の比慶蓮法師の開基とぞ。○常磐草云、淡島随筆曰、慶蓮、淡路津名郡人也、壮年為僧、文安年中修密法于葛尾山、及初七夜、而感龍燈、号龍燈山龍宝寺、今龍宝寺に加藤義明より山林寄附之証文あり、(天正十六年十二月)「都志之内龍宝寺之事、近年令破壊処、盛秀法印依再興建造畢、最神妙候、然者山林竹木畠等、令寄附候条、全可被仰付候事、専一候、仇如件、堀部市右衛門尉。
河上《カハカミ》 都志村の海浜を東に去る一里許は河上と曰ふ、今鮎原村と改称す、志筑町多賀村を去る各三里許、広石村まで一里、山間の小駅なり、鮎原神社あり。○常磐草云、延喜式曰、津名郡河上神社と、按ずるに河上の名久しく廃して知る人なし、然りといへども鮎原《アユノハラ》天神の社地、都志河上にありて、山により流に臨みて、水土潔浄にして、松杉老蒼の色を呈す、天神は地祇に対して称するなり、世俗には天神といへば多くは菅神の事とのみ覚えて、当社をも天満天神と称す。
烏飼《トリカヒ》 鳥飼浦(今鳥飼村とす)は都志浦と三腹湊の間に在り、鳥飼川は先山の西に発源し、西流二里にして海に入る、広石《ヒロイシ》村堺村は鳥飼の東に在り、同く一溪に屠る、堺村は三原津名二郡界の義にや、今三原郡に隷す。常磐草云、烏飼浜、此あたりの村里を鳥飼庄と称す、昔鳥養部を置し処にや、船瀬浜、仏崎同じ処也、此磯の砂石明潔にして、五色あり、庭中に撤し、又は砕て盆石の鋪石とす、他処にも黒白の砂石多けれども、此処砂殊によし。○地学雑誌云、松帆浦より鳥飼浜の辺に、光沢五色の磧礫、波打際に堆積せり、這般の磧礫は、海に迫り断崖を成せる第三紀新層の粗造質蛮岩、海波の盪撃にあたり砕けたるなり。
志筑《シツキ》郷 和名抄、津名郡志筑郷。○今志筑町|中田《ナカダ》村|生穂《ナマリホ》村等の地なるべし、郡家郷の東安平郷の北にして、茅渟海に臨む。常磐草云、志筑は津名郡の東海岸なり、和名抄一本訓みて志都奈とあるは不審、奈は支の誤なるべし。
志筑《シツキ》浦 今志筑町と云ふ、洲本の北三里、淡州東岸の一海駅なり。阿州将裔記云、足利義冬は、母もろともに、天文三年、四国へ心ざし下りまひしが、先淡州志筑の浦に、暫く住ひし給ひしを、細川讃岐守より迎船をさし遣し、義冬を阿州へ招き、平島《ヒラシマ》に居置かる。○延喜式、志筑神社は志筑町の字|田井《タヰ》に在り、今天神と称す。
安平《アヘカ》郷 和名抄、津名郡平安郷、訓阿恵加。○按に本書刊本平安に作れど、高山寺本安乎と録す、常磐草云、平安は今安呼に作る、安呼下村の名を存す、戰国の頃安宅氏の邑なりき、安呼下の窟と云ふ岩洞には不動尊を祀る。郡郷考云、今阿部加浦、安呼下村と云ふは平安なるべし。○今|安乎《アヘカ》塩田村|中川原《ナカガハラ》村などに当る、先山の東北麓に居り、茅淳海に臨む。
安 乎《アヘカ》 旧阿部加、又は実呼下に作る 和名高山寺本にも平を乎に誤る、平をヘカに仮借するは、相をサガに仮るに同じ。人類学会雑誌云、津名郡にて塚穴の最多く存在するは、安乎地方なり、現に二十余所を見ると云へり、次は室津机浦の地方とす。
補【市原】津名郡○淡路常磐草 湯谷、市原村にあり、清水あり、此処昔は七堂伽藍の跡にて医王山湧水寺と云伝ふ、近き処に谷坊、御門谷、善応寺、閼加水、堂岡、三宝寺などいふ処あり、今薬師堂あり、行基作と云ふ、按るに湯谷は堰谷の訛なるべし、俗にゐを訛りてゆと唱ふるによれり、王子窪日村にあり、按るに凡直氏の居処なるべし、王子凡音訓通ずる故に訛るか、延喜式大嘗祭云、由加物器料、淡路国所造云々、追訖使当国凡直氏一人着木綿鬘執賢木引導。右三木田安坂市原三村は賀茂郷なるべきにや、賀茂郷今多くは三原郡に隷する故に隣並なるをもて、安乎郷の末に収むるのみ。
塩田《シホダ》 安乎村の北十余町を塩田浦と云ふ.(今塩田村)字|下司《ゲス》に覚王寺と云古剃あり。常磐草云、覚王寺五智如来は、寺伝聖武の勅創、行基の開基と云、又建久七年大永七年再興の化疏あり、此寺久しく廃せるを元禄中高岩比丘興建して律院となす、俗に赤堂《アカンダウ》と云ふ。
物部《モノベ》郷 和名抄、津名郡物部郷、訓毛乃倍。○今物部村|潮《ウシホ》村洲本町|千草《チグサ》等に当る、西は加茂郷に至り、東は海湾を抱く、洲本川之に会注す。物部村、は今洲本城址に接し、上下の二部に分れ、物部太郎と称ふる池塘あり、潮村は洲本川の北岸に居る。○常磐草云、兆殿司と云は物部郷より出たる画僧なり、何村の産にや、淡島随筆曰、明兆父は大神氏、淡州物部郷の産なり、父卒去して母惟り存す、廿歳にして至孝なり、母に贈る処の画軸南明院にあり、天文中、東福寺住持澎(さんずいなし)叔仙和尚もまた明兆像に賛して曰「慧峰兆上人者、日本開国最初淡州人、天賦真率、頗少人情、愛画入於神、丹青得其妙焉、兆公世寿三十二、永徳二年壬戌夏六月十八日寂」按るに大道一以禅師三原郡安国寺に寓する時、其師資となれるにや。
洲本《スモト》 今洲本町と云ふ、戸数二千、推して淡州の都会と為す、広田加茂|筑狭《ツキサ》の諸水此地に帰注し、直に海に入る、洲本川と曰ふ、(長四里許)市街は其南岸に布置す、港湾は、宮埼東方に張ること二三町、以て南を蔽塞するに過ぎず、日々船舶の出入あり、大阪神戸の交通最繁し。津名郡役所は市中に置かる、福良町を去る六里、市村(三原郡役所)を去る四里半、岩屋を去る九里とす、神戸港に至るは凡二十五海里と云ふ。(洲本一に須本に作る)
常磐草云、洲本府は物部郷に属せりとぞ、地形を按ずるに南は乙隈山高隈山曲田山に続き、東は海浜に至り、西北は物部川を環らして、其流海に入る、中聞壕門台の東を内町といひ、西を外町といふ、十八町の坊名あり、寛永中由良の政府をこゝに移してより以来、士民富庶なり。○洲本は近世稲田氏の邑にして、淡路の府城なりき、明治維新の際に廃城と為る、稲田氏は本蜂須賀家の附庸にして、家老の列に班すと雖、特に洲本城を賜与し、二万石を給附せらる、故に民を治め士を養ふ、自ら別に封土あるものゝ如し、本藩の士或は之を猜む、稲田邦植は戊辰の始め別に洲本兵を出して官軍に属し、大総督を護衛し頗る功あり、徳島人益々之を忌て曰く、稲田独立を図らむとす、今日にして之を絶たずんば、後日悔ゆるも及ぶ事なしと、平瀬満忠大村純安等十余人首謀たり、翌年五月十五日、其党百余人を率ゐて須本を犯し城を焼く、藩内大に騒擾す、朝廷即ち其の情状を審糾せしめ、八月に至て悉く其主謀者を斬に処し、其党を禁治す、邦植尋で旧臣を率ゐて北海道へ移住す。
洲本《スモト》城址 市街の南、高隈山の尾に在り、塁壕の形状猶按ふべし。此地は大永年中安宅氏の一族始めて築塞したる所とぞ、安澄秘録云、大永六年に安宅隠岐守治興と云人始て此山に城を築き、嫡男河内守冬一相続て居す、時に天正九年十一月織田信長の将として其臣羽柴筑前守秀吉、淡路退治ありし時、安宅の一門皆降参し、城を開き渡したりと聞ゆ。常磐草云、洲本城は国主(蜂須賀氏)の殿舎、国老稲田氏の第宅たてつゞき、山上山下に楼台多し、石壁池壕の設をなして、諸士の宅は内外の坊間に布く、布政吏務の官邸少なからず、此城もと由良の安宅氏の族人居住せしを、天正九年安宅河内守織田公に帰降せし後、同十年仙石秀久に賜ひて居住す、同十三年乙酉より慶長五年までは、脇坂安治居す、封地四万八千石といふ、(此時加藤氏は志知城に居る)安治の時、城塁を再修し、元和元年先太守公へ当州を加賜有し後、寛永中興源院公の時、家老稲田氏長谷川某に命じて本城を経営し玉ひ、石壁既に成ぬ、此時東都一国一城の命ありて此事止ぬ、然るに此城西州要路の地なれば、石壁を壊る事無らしむ、唯楼櫓を設ざるのみ。
常磐草云、洲本八幡宮は物部郷の鎮守神なり、供僧坊あり、津田と云ふは洲本の南部の字なり、津田の小路谷は隠江《コモエ》浦とも称し、由良浦を望みて風景よろしき磯辺なり、津田の岡山に安覚寺と云ふ真言宗の一院あり、寺記曰、一条院永祚中、藤腹兼家の族、藤原成家淡路国司代たりし時、此寺を創立す、薬師像は行基作、二王は運慶作、寛弘上人此寺を再建すと、按ずるに道範道の記に「淡路に配流の人は炬口にとゞまると侍る」と、其時此寺に入りしにや。
補【洲本】津名郡○淡路常磐草 八幡神祠 同じく城辺にあり、物部郷より祭る所なり、当州村里に八幡祠甚多し、源氏の奉伺する神なる故に、鎌倉の世以来諸州に祭る所多しといふ。○龍宝院 同じく八幡社側にありて祭事に与る、旧名常楽寺と云、真言宗大覚寺の末刹なり、近古本寺を定むべき令ありて、これを他州に求むといふ、一州の寺院多くかくの如し。○津田村は洲本城市に相交りて村居す、隠江(薦江とも)津田の支落小路谷にあり、洲本城山南の海浜にて風景あり、海中に貽磯あり、遊人釣魚の処とす、此処に瓦工ありて屋瓦陶水槽を多く出す。
○産業事蹟 高田屋嘉兵衛は淡路志本の産なり、少うして大志あり、諸弟を将ゐ去て摂津兵庫に之く、拮居産を治め、巨船を造り、奇貨を転漕し松前に商す、寛政中幕府の募に応じ悦読禄夫《エトロフ》島に到る、其地極めて曠※[しんにょう+貌]にして井邑稀疎なり、夷民半は穴居し飲食割烹の器なし、初めてエトロフに航し漁場を開くこと十七所、後魯西亜の事起り困阨倶に至れりと雖も、嘉兵衛忍耐誠実死を以て自ら期し、終に彼我二政府の間を解し、其偉行大義を全くせしは、亦世の普く欽称する所なり、晩に郷里に老ゆ、嘗て塩屋浦の港を過ぐ、土人港浅くして大船を容るゝに足らざるを憂ふ、義兵衛乃ち地形を巡視し、官に白し、自ら千金を出して修築す、有力の者之を聞き争うて金を出し之を助く、港已に成る、畳石吃然たり、船舶日に輻輳す、今に至り人其の功を称すと云ふ。
炬口《タケノクチ》 今|潮《ウシホ》村と改む、男山八幡宮、元暦二年文書に炬口庄と載せ、近世は塩屋村とも曰へり、洲本川の北にして、洲本湾の西北辺に在り。道範上人紀行「仁治四年仲春四日、石屋を立て炬口に至る、海路七里余、西は淡路島、そひゆけば奇岩長汀山水涓涓たり、東は千里青山霞こめたり、眺望の末にあたりて、南のかたに高野山ほの見えたりしに、山門寺中の事など思ひやられ、あはれに覚えて」云々と、当時洲本は未だ海駅を成さず、炬口を埠頭と為したるか。○常磐草云、炬口浦は海辺の磯馴松愛づべし、炬口の城跡は西北の山に在り、安宅氏居城すといひ伝ふ、一説に大永の頃安宅二郎三郎入道、一説に安宅監物、一説に安宅甚太郎といふ、按るに甚太郎は信長記にも出たり、由良安宅の氏族なるべし、天正年中に亡ぶ。
補【炬口】○塩屋村 洲本の北の川向なり、中浜のあたりに塩坪をつくりて釜にて塩を煮る、今塩を焼もの少なし。○塩屋川 桑間河物部川宇山に至て合流し、塩屋洲本の間を流れて海に入る。○西来寺 塩屋村にあり、真言宗(仁和寺末)阿弥陀、観音、勢至像、恵心作といふ、垂糸桜見るに堪たり、此寺旧は禅剃にて西来と名けしにや。○炬口浦 海辺の沙松愛すべし。○炬口城跡 同じ浦の西北の山にあり。
築狭《ツクサ》 今|千草《チグサ》村と改称す、洲本町の南一里、柏原山の麓に在り、日本紀に見ゆる出浅《イヅサ》邑の地かとも云ふ。○常磐草云、千草は物部の南也、延喜式には築狭に作る、竹原上田原など云支落あり、猪鼻山古塁は同村西南にあり、大河内とも云ふ、安宅氏の居城とも云ひ伝ふ、由良安宅の氏族なるべし、遠き山間に上人と云石塔あり、文字磨滅す、天正三年七月の字ありと、築狭神社も同村にあり、祈年国幣に預る神なり、今諏訪明神と称し、紅葉が杜といふとぞ、八幡神祠亦同村にあり、金口銘曰 「奉掛筑佐郷八幡宮宝前施入金口一面事延慶二乙酉年平氏初若女敬白」里民此社を上の社といひ、築狭社を下の社といふ。
出浅《イヅサ》 垂仁紀に天皇淡路島出浅邑を天日槍に賜へる由を載す、出浅は伊豆佐と訓むべし、今出浅の地名本州になし、(一説伊佐々とよむべしと)或は云ふ都志郷は伊豆志の上略ならんと、按に出浅を上略せば豆佐と為る、延喜式築狭は豆佐によむべきにや、此築狭は由良の西北に隣り生石神社と相近ければ、天日槍と相因むことなしと云べからず、且築狭は物部郷に属し、日槍将来の宝器をば、物部氏奉祀の石上《イソノカミ》神府に蔵め給へることもあれば、其故なきにもあらざるべし、生石神社を参看すべし。(日本紀原書には、淡路の宍粟播磨の出浅と為す、是れ宍粟の地は播磨にて、出浅は淡路なるを倒置せる也)
柏原山《カシハラヤマ》 千草村の南一里、由良町の西一里半、上灘村の背に聳ゆ、直立五百七十米突、西は譲葉山に連接し、淡州の南方に山脈を成す。○常磐草云、柏原山は千草の奥にあり、高山にして由良上灘、海山遠望の景よし、昔は深樹良材多しといふ、今も里人の農歌に「由良の湊に唐船造る橿原山の鋸の音」と諷ふ。
由良《ユラ》淡今由良町と云ふ、淡州の東南角に当り、紀淡海峡の西側に居る、其|友島《トモガシマ》と由良の間なる水道を由良海峡とも称す、今要塞の設備ありて、南海の鎮鑰と為さる。○水路志云、由良港は友島水道の西側に在り、前面に沙礫より成れる低島(長一海里半)横はり、恰も長大の波戸の如し、以て此港界を成す、此低島には潅木之を蔽ひ、北角に高さ一二六呎の峻山あり、南角に砲台あり、港の南と北に各挟口あり、北口は新川口と称し、大低潮に水深十呎乃至十一呎、其幅半鏈なり、其南口は今川口と称し、最も狭く、水深二乃至三呎なり、其港内最濶部も幅半里に過ぎず。○由良海峡は最狭部三十町許とぞ、又由良港は其内港の水浅きを以て、低島の北なる天川浦に泊舟する者多し、由良戸《ユラノト》の名は応神天皇の御詠に入り、又生石神の古跡あり、其古今不易の形勝想ふべし。
応神紀云、官船枯野者、伊豆国所貢之船也、是朽之不堪用、然久為官用、功不可忘、何其船名勿絶、而得伝後葉焉、令有司取其船材為薪、而焼塩、於是得五百籠塩、則施之周賜諸国、因令造船、是以諸国一時貢上五百船、悉集於武庫水門、初枯野船為薪、有余燼則奇、其不燼而献之、天皇異之、令作琴、其音※[金+堅]※[金+將]、而遠聴、是時天皇歌之曰、〔釈紀〕
詞羅怒をしほにやきしが、あまりことにつくり、かきひくや由羅能斗の、(由羅之戸也紀伊国之湊也)なかのいくりに、(中の石に)ふれたつな、(触れ立つ勿)つぬきの(剣の)さやさや。(按に由羅の戸を釈紀に紀伊とすれど疑はし、由良には出石刀子の古跡あれば、淡路の由良たるを知るべし)
常磐草云、由良浦は洲本府城の南三里、紀伊国加太浦を去る海程三里なり、長汀海に出て、港中広く、諸州の海舶来り泊る者多し、国君の邸あり、漁家商家軒を並ぶ、洲崎の青松、伴《トモ》島の緑螺掬すべし、伴島は是より一里沖にあり、紀伊国に隷く、東鑑云「元暦元年、池大納言之領、如元為彼家之管領、由良荘(淡路)等十七所」と、此池大納言は平頼盛なるべし、延喜式に由良駅と記し、加太より渡海して大野福良二駅を経由して、阿波に向ふ路程なり、即南海道是なり、釈日本紀に、淡路紀伊両国之境由理駅など見ゆるは、理は良の訛なるべし、又続日本後紀、承和十一年、淡路国言、他国漁人等三千余人、?(もたらす)王臣家牒、群集浜浦、冤凌土民、伐損山林、雲集霧散、濫悪不休、又官舎駅家、皆在海辺、而接居波間、譬猶魚鱗、縦有火災、可難撲滅、勤加禁断、国力不足、請官符、皆悉禁制、など見ゆ、此官舎駅家などあるも、由良の地勢に合ふごとし。○又云、延喜式に由良湊神社列せり、今由良に八幡宮あり、社説曰、末社に東御前西御前荒神天神社伊勢大神宮とて五社あり、その天神社大神宮二社は中頃より絶たり、八幡宮の摂社に王子権現の社あり、八幡宮勧請の後王子の社は古よりの産土の神なりとて、八幡宮の摂社に加へたりといひ伝ふ、此王子社即湊神社なるべし。
由良城《ユラノシロ》址 二所あり、一は古城山とす、安宅氏の墟也、一は成山《ナリヤマ》と称す、池田氏の墟なり、安宅氏は紀州熊野浦安宅の一党にして、観応年中足利氏の命を以て、淡路の海賊を討ち、遂に由良に拠る、族党繁衍して、岩屋洲本炬口|安乎《アヘカ》湊(三原《(ママ)》郡)等を略有し、淡州の豪家と為る、謂ゆる海賊衆なり三好氏の来り鎮するに及び、其下風に就けりと云ふ。○常磐草云、古城山は今陸田となれり、浦人の伝説には、文正の頃安宅甚五郎居城すと云ふ、安宅氏数世の後摂津守冬康、其家を続しより、三好氏の一族となりて、天正九年にいたりて、織田公に降服せしと見えたり、其の間事委しく知れず、凡両郡の中に、古城跡と云処多し、皆建武年中以来室町の代に、海内分崩せしより村里の地士、塁壁を構へてその侵凌を防ぎ、諸郷を掠略せしなるべし、織田信長家譜曰、淡路安宅野口は三好の族なり、三好実休の弟摂津守冬康、安宅本家を続ぐ云々、成山は浦の東北に在り、慶長中、池田氏の築ける府城跡なり、按に、慶長五年、池田輝政播州にて当国を兼領せられ、十八年三男松平宮内少輔忠雄に分ち領せしむ、当国六万三千石なり、忠雄一とせ此城に居住有りしといふ、元和元年、蜂須賀先侯淡路を加賜し給ひしより、府城を洲本に移さる、又云、慶長十五年池田輝政に播磨備前淡路三国を封与せられ、此時末子宮内少輔忠雄に淡路を譲られ、岩屋浦の古城を補修し、爰に家臣をこめ置けれども、十七年由良の成山に城を築き、岩屋より引移られたり、池田氏国を領する事渾て五年なり、元和元年蜂須賀氏当国一円に拝領、是より由良府を以て官所とする事凡十七年、寛永八年の頃洲本城経営あり、由良府を洲本へ引移し、十九年一国山城の掟ありて、由良城廃す。○日本戦史、大坂役云、慶長十九年の冬、淡路浪人篠田某来て大坂城中に在り、淡路人民の心を大坂に帰する多きを以て、池田氏の由良城を抜き、由良岩屋に番船を置き、四国九州の輸送船を抑留すべしと告げ、船五十艘を蟻し、将に発せむとす、大野治長大に驚き曰く、妄に兵を挙げ、若し利あらざれば兵気を挫折せむと、急に其船を※[火+毀]かしめしが、治長後に至て大に悔ゆ。
生石埼《オヒシザキ》 由良の南数町、淡州の東南端なる岬角なり、埼背の山を佐比山と云ふ、みな柏原山の尾なり、此地は蓋天日槍の裔孫の占居したる所にして、生石社其古跡を伝ふ。(生石又御石に作る)
生石《イヅシ》神社 神祇志料云.此神今由良浦佐※[田+比]山の生石崎に在り、生石明神と云ふ〔淡路常磐草国史見在社取調帳〕蓋新羅王子天日槍命を祀る、出石刀子《イヅシノカタナ》を以て霊形とす、初垂仁天皇御世、天日槍始て渡参来し時、天皇詔して淡路島|出浅《イヅサノ》邑を賜ふて之に居しむ、此後其曾孫清彦に仰せて、彼天日槍が持来れる神宝数種を献らしめて、神府に蔵め給ひたりしに、出石刀子自ら失ぬ、故清彦に問しむるに、昨夕其刀子自然に臣家に至《キ》つるを、今朝失ぬと奏す、天皇※[立心偏+皇]恐まして、又更に※[爪/見]め給はざりき、此後出石刀子自然に淡路島に至れるを、島人神なりと謂て、祠を立て之を祀りき、〔日本書紀〕即今生石社是也。〔釈日本紀〕○常磐草云、生石社は由良浦佐比山の下、生石崎の海浜に在り、釈日本紀云、出石刀子、至于淡路島立祠、淡路国例式曰、正月九日国内諸神奉朔幣事、正六位上生石社、先師説曰、生石可読之伊豆志也、云々、然則淡洲出石社、雖不載式、生石社鎮坐為是之条、国例式炳焉也、按ずるに生石《オイシ》は御出石《オイツシ》の急呼なるべし、御出石生石同訓なり、又今此生石崎の西にあるは、即生石明神の社なり、其東四五丈計に新社あり、是は三好の家士を祭る社なりといふ、これを混ずることなかれ、生石崎の辺を佐比《サビ》山といふ、思ふに是はむかし出石の神剣を祭れる社なれば、韓※[金+且]《カラサビ》の剣ある処なりとて、佐比山と命けしなるべし、神代巻には蛇韓鋤之剣と云名あり、神武紀には、「抜剣入海、化為鋤持神」と云事もあり、古は剣を鋤とも※[金+且]とも云へる也、今御石権現社、同処生石社の東にあり、三好記曰、淡州由良湊の西、御石《オイシ》崎、近年海上物騒しく、潮の光渡る事夕陽の沈めるが如く、海底の鳴事百千車を轟すが如し、漸もすれば往来の舟に風波の悩をなし、破損する事も数を知らず、浦の漁夫ども是を苦しむ事云ばかりなし、其由来を尋ぬるに、先年阿波の屋形細川殿御代に、弓箭数多調させ玉はんため、大館主膳正有光といふ侍を、和泉の堺へ遺し玉ふ、有光思ひの儘に兵器を調へ、急ぎ舟に乗て順風に帆をあげ、泉州谷川表を吹かれ下る処、和泉の谷輪の海賊、淡州諏本の海賊舟共、主膳が船を目がけ付来て、御舟へ物申むとし、又紀州田辺雑賀の海賊舟数十艘馳来て、遂に主膳が舟を奪ふ、又近年三好実休より桑村隼人亮といふ侍を、堺へ兵具調へに遣はし給ふ処にくだんの御石崎表にて、海賊舟数十艘付来て、隼人亮も討死す、是より猶騒しく成て、往来の舟共に風波の悩をなす事やむ時なし、故に実休の仰として、尊き艘数十人供養して六万巻の陀羅尼を誦し、亡し侍共を権現に祀賜ひてより、今に至るまで此海静まり、往来の舟に障なきとぞ聞えし。
上灘《カミナダ》 由良の西南二里、柏原山の南にして海洋に面ふ、西南|下灘《シモナダ》と連接し、海崖一帯凡六里、彎曲する所なし、沼島灘の謂なるべし。○常磐草云、柏原山の南、中津川相川畑田三村を上灘といふ、津名郡に隷す、畑田後の嶺を越れば広田郷鮎屋村に出るなり、古へ広田郷は津名郡に隷く、故に此三村も其昔より津名郡に属するなるべし、上下灘ともに其村田畠少し、居民山に入薪を伐て生業とす、山に猪鹿※[獣偏+侯]多し。○按、由良郷は和名抄に之を欠き、下灘上灘沼島阿万福良等は和名抄三原郡阿万郷の名を以て摂したるか、阿万は即|海部《アマベ》にて、由良より福良まで、皆此部落なりしならん。
賀茂《カモ》郷 和名抄、津名郡賀茂郷。○今三原郡加茂村大野村是なり、何の世よりか三原郡に隷せしむ、此地は物部郷と接比し、地形全く三原に属せず。○常磐草云、賀茂は今郷廃して上下の加茂村ありて、延喜式、津名郡賀茂神社は上加茂に在り、山城国加茂の旧記に、欽明天皇の時、諸国に神田各一処を置かせ給ふと云へば、此は淡路にて、其神田の在りし所にや。参考本盛衰記云、淡路冠者は、為義が四男左衛門尉頼賢が子、掃部冠者は、同五男掃部助頼仲が子也、当国住人両人の下知に随ければ、讃岐国在庁も、同く之に靡き附く、平家より攻寄せ、二人を討取、百三十二人切殺、按、系図、為義第十一子、有淡路冠者義秀、或作義久、第十二子、有加茂冠者義嗣、或云近是。刊本平家物語云、元暦元年、四国の人々平家に叛く、淡路には、源氏二人ありと聞え、故六条判官為義の末子、加茂冠者義嗣、淡路冠者義久と聞えしを大将に頼て、城郭を構へ待所に、能登守殿押寄て、散々に責玉へば、加茂冠者討死す。〇加茂冠者と云は、此地の名を苗字とせるならん、又俗曲に「むすめ遣るなら加茂へやりなされ、加茂は田所米所」と曰ふとぞ、地理の一端を徴するに足らん。
大野《オホノ》 賀茂卿の中なりしならん、加茂村の西に並ぶ、延喜式に「淡路国駅馬、由良大野福良各五疋」と云ふは此なるべし。常磐草云、由良より内田千草物部宇原を経て、大野に至る、行程三里、大野より広田養宜国衙を経て、福良に至る、行程四里。
先山《センザン》 加茂村の西北に聳ゆ、此山本島の中央に居り、一州の鎮と称せり、古名|三上山《ミカミヤマ》と曰ひ、山中に千光寺あり、麓より登坂十八町にして、千光寺に至る。
千光寺《センクワウジ》 常磐草云、先山千光寺の東峰を三上岳と称す、三上は即先山の旧名なるべし、千光寺は寺領五十石、観音堂三層塔祖堂経蔵鐘楼二王門護摩堂等あり、鎮守神には諾冊二尊を祭る、即三上社ならん、先山鐘銘「淡路国日本最初先山之鐘也、云々、弘安六歳次癸未、二月十八日鋳之、大工貞弘、本願主忍阿弥陀仏、当本願主別当忍聖、助成沙弥妙徳、比丘尼西阿弥陀仏、当国一乱之時、此鐘既可下売定畢、爰安宅秀興買留、奉寄進所也、永正十六年己卯六月日」。
広田《ヒロタ》郷 和名抄、津名郡広田郷。○今三原郡広田村是なり、広田の西に、洲本河と三原河の分水嶺あり、古郡界は之に因れり、後世之に従はずして、広田賀茂を三原郡に入れしは、地勢に協はず。東鑑に、本郷を摂州広田神の封邑にせられし事見ゆ、本来此地広田神領なりしを、元暦中復寄附ありしにや、広田村に今八幡宮と称するは、蓋広田神の※[まだれ/寺]なるべし。
常磐草云、広田郷養宜郷は山を隔てゝ分界す、古は広田郷の津名郡に隷けること宜なり、東鑑、元暦元年、淡路広田庄を摂津国広田社へ寄進せらると見ゆ、是は平家追討の軍中祈祷の為なり、然るに広田郷八幡宮へ寄進せし事と意得る人あり、又|岸河《キシカハ》神社は本郷の字岸河にあり、今山王権現と称す、延喜式、津名郡岸河神社。○又云、広田郷徳原の堂丸と云畑中より、古器を掘出す、宝鐸に似て口平にして、高は一尺余、全体唐銅にて、穴八つ有、手にて持べき処もあり、青錆を生じ重さ七百目、差亘し五寸余、横亘り九寸程、すこし偏平なりき、享和二年の事とぞ。鮎屋《アユヤ》滝は、広田村の南に在り、又浅野滝と呼ぶ、爆布高五丈、万葉集に見ゆる浅野の滝は此に非ず。
補【広田郷】津名郡○和名抄郡郷考 東鑑文治六年四月広田郷。仲野安雄云、今三原郡に隷て郷廃し、広田宮村等の名遺れり、古へ山海を隔てゝ国郡を置給ひしに広田郷と養宜郷とは一山嶺を隔て、両郡の分堺の勢あり、広田の津名郡なりしこと宜なり、東鑑寿永三年四月淡路国広田庄(今按、当時専ら広田庄といひしにはあらざるなり、東鑑文治六年の四月に至りて広田郷ともあるをや)広田宮、村郷の西山下にあり、八幡宮ある故に名づく、むかしは駅次は広田大野より物部郷を経て由良に至る、今は大野を経ずして広田中条より加茂郷を経て物部に行なり。村名帳、津名郡広田郷広田村。○同書、今属三原郡。
三原郡
三原《ミハラ》郡 淡路国の南西部にして、土俗下郡とも称す、西は播磨灘及び鳴門海峡に臨み、南は紀伊水道の海浪に浸さる、沼島其洋中に在り、東北は津名郡に接す。今一町二十村に分れ、人口七万、郡衙を市村に置く。和名抄、三原郡美波良と注し、七郷に分つ、後世津名郡の賀茂広田の二郷之に帰す。淡路常磐草云、淡路は大抵其上郡に山谷多きも、下郡は平原広く、水皆西流す、三原の名義は御原なるべし、応神仁徳履仲允恭諸帝の行幸ありて、遊猟したまへる所なれば也。(常磐草に、蝮部を援き、三原部と訓みたるは誤れり)○応神紀に 「妃弟姫、生淡路御原皇女」とあるを、古事記には三腹に作り、旧事紀には三原に作る、此地の名をば負はせ給ふ、又応神妃に「兄媛、吉備臣祖御友別之妹也、請省親聴之、仍喚淡路御原海人八十人、為水手、送于吉備」と録す。御原海人は和名抄三原郡阿万郷の名を遺す、淡路海人の中にも殊に強大なる部民にて、由良沼島福良一帯の海人は之に隷属したるにやあらん、海部海賊の事、淡路国の条下に録する所あり。
補【三原郡】○和名抄郡郷考 淡路国常磐草云、三原郡は国の西にありて下郡と称す、大抵上郡は山谷多く水東流し、下郡は平原多く水西流す、古事記に水歯別天皇のために蝮部《ミハラベ》を定め、品陀天呈の皇女を淡路三腹郎女と名付給ふも、皆此地名なり、日本紀には御原に作れり、三腹・蝮・御原ともに三原なり、蝮を美波良と訓ずるは波美の古語なるべし、波美は他蛇に替りて腹大なれば、みかはらといふを約めてみはらと古語に云しなるべし、三原と語の通へるをもて仮用ひたるなり、安雄おもふに郡郷の名義今考てしられざること多く、強て解べきにあらねども、古は此国を遊猟の地として応仁・履中・允恭の天皇も行幸し給ふ、されば天子の遊行して止り給ふ所を御原と名づけぬるより郡の名ともなりしにや、御猟野の原の道なるべし、日本紀に御原と書きしは正字にて語の通ずれば、後世三原と書しなるべし。寛知集、三原郡百十二村。上田百樹云、村名帳三原郡市村は旧名国府の市有国衙跡といへり、又同郡に国衙村も見ゆ。常磐草云、府中は小榎並村に有、是より十一ケ所村市村の間二三町許、共に古の国府の地なるべし、市村は旧は国府市と云、国司館は国府市の中に国衙と云処あり、是国司館の故址なるべし、又云、国衙村は地頭方村と並べり、按に国府を国衙とも云、古への国府は市榎並の地なり、此所は武家の世となりて国府廃しぬる頃より国衙の官人を置たる処なるべし、養宜郷の条に曰、八木の屋形の故址は中八木村にあり、大土居と云なり、第地東西南北百二十間許なり。○今按るに源頼朝卿鎌倉に幕府を開きて諸国に守護職置れしなり、淡路国守護職をば養宜の第地に置れしとみえたり、古の国府は此時より衰微して終には廃せしなるべし、それより養宜の地国府の如く有しならむ、さればにや道範法師が仁治四年紀行にも養宜国府と書たり、是は頼朝将軍の時なり、佐々木氏・横山氏・小笠原氏の人々も守護としてこの養宜の第に居たるなるべし、小笠原の後は細川氏世々此所に居たるなりと見ゆ。
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養宜《ヤギ》郷 和名抄、三原郡養宜郷、訓夜木。○今|八木《ヤギ》村是なり、東は広田村(古の津名郡広田郷)と一嶺を隔て、西は市村へ古の三原神稲郷)と連接す、武家執政の頃、国府を此地に置かれ、八木府と称せりとぞ。
八木《ヤギ》館址 常磐草云、八木の館《ヤカタ》址は中八木《ナカヤギ》に在り、大土居《オホドヰ》と称し、(東西六十歩南北百二十歩許あり)四方に築地壕を回らせり、上八木の一の瀬といふ処より、壕の水を引たる溝形今にあり、塁塹の内は今麦圃となりて、薬師の小堂あり、近世中八木の戒壇の森より移し来ると云ふ、堂傍に奇石堆塁す、蓋仮山などの遣れる跡なるべし、壕外の西にも築墻を環らせる一第地あり、小山田氏の宅地と云伝ふ、或は東西に両臣の第ありて、邸主を輔佐す、里民の農歌に「月は東に昴《スマル》は西に邸主は正中《マンナカ》に」と諷ふはこの事なりとぞ、両臣を月昴に比したるなるべし、按ずるに源右大将鎌倉に幕府を開きてより、諸国に守護職を置く、養宜の邸も一国の守護所なりき、仁治四年(今年寛元と改定す)僧道範紀行(南海流浪記)に、船を下て陸地三里行て、淡路国府|八木《ヤギ》に至りと載す、是は北条経時執権の頃にて、之より先に守護所起る、此時朝廷の政令行はれず、古の国府は倍々衰廃して、義宜の地新府の如く有しなるべし、当時小笠原の氏族守護たるにや、已にして足利氏興りて南北戦争の世とはなれり、興国二年(北朝暦応三年)新田義助南朝勅を奉じて、細川頼春伊予の官軍を征せん為に、伊予に向へり、淡路の兵もこれに従ふ、蓋細川師氏の淡路へ入国は今年にやあらん、淡路の守護、養宜館第一世は細川淡路守師氏なり、尊氏将軍治世の初め、細川和氏頼春兄弟、阿波淡路讃岐伊予四国を管領して、阿波讃岐に居れり、其弟淡路守師氏命を受て淡路に来る、賀集山古記を検するに、師氏入国のはじめ、賀集八幡神庫の鏑箭を乞請て、矢合の軍に捷を得たり、これより養宜の故館を守りて、一国の守護職となり、領家地頭も細川の命に従ひけらし、師氏入国は暦応三年のころなるべし、室町幕府の館号は名家にあらざれば免されずといふ、師氏も細川の高族なれば、免されて養宜の屋形と称せるなり、暦応三年より永正四年、七主尚春まで都て百六十八年に及べり、これより後、姜宜細川の家は絶て、国人皆三好に従属せしなるべし、抑細川頼之四国の管轄執事の重職となりて義満将軍を輔佐せしより、嫡流は相続て管領となりて京都に居る、是を上の屋形と云ふ、頼之の弟詮春は阿波国勝瑞に居る、是を下の屋形といふ、世々相嗣ぎ凡五畿内四国等十余国細川の管属となりて威柄天下に振ふ、故にその支流皆権要に居れり、淡路屋形もその別派右族なれば門戸最高かりしと聞ゆ、阿波屋形はこの後四十年を経て、天文の末に三好が為に廃絶せしなるべし。
補【八木国府】三原郡○常磐草 養宜故邸、中八木にあり、大土居と称す、邸地東西六十歩、南北百二十歩許。
補【中八木】○淡路草 農歌に「月は東に昴は西に、御館さまは中央に」とあるは、中八木村大土居繁昌の時の唱歌也、中央の主を日に比し、東西の英臣を月昴に比せし也、今も古城の東に次郎が土居、弥五郎が原、西に岩見土居小山土居、など云地あり、「伊之助殿は今帰りぞや若宮殿に鈴の音」中八木細川氏の家老安田伊之助正明、上八木村の城にあり、八木に出仕の帰るさ必若宮に詣たり、故に此唱歌あり、城跡の南六七町許に若宮の小祠今にあり。
安国《アンコク》寺址 今八木村の南に在り、大久保の寺山と云所是也。常磐草云、大久保の安国寺山は、国主細川淡路守氏春、大道禅師を招て創建せし処なり、池傍の平地に門の蹟あり、仏殿祖堂僧堂等の跡、山谷の間に遺れり、是棲賢山安国寺の故址なり、八木川の上流にあたる、扶桑禅林僧宝伝、無徳至孝禅師伝曰、古山源公(左武衛)常言、安国利民莫如仏乗、乃令天下各州建安国寺、按ずるに、古山は左兵衛督源直義、法名慧源、号古山、尊氏の弟なり、蕉堅稿曰、悦雲怡首座、住淡州棲賢、路人望塵而膜拝、邦君負弩以前駆、眷茲霊踪、鬱為古国、天神七代、地神五代、孰窮造化之元、象法千年、末法万年、自任宗教之重、弾冠胥慶、秣馬相従。
笶原《ノハラ》 八木村の西を徳野又野原と呼ぶ、今大字笶原と称し、延喜式、三原郡美原神社あり、笶は玉篇に式氏切俗矢字とあれど、和名抄、讃岐香川郡笶原を乃波原と訓むを見れば、邦俗箆と笶を同義に使用せり。○常磐草云、八雲御抄に「あはぢのややはらのしのを矢にはくと」などあり、是は万葉集「淡海之哉八橋の小竹を矢にはかで」とあるを訛れる句ならん。
補【野原】三原郡○常磐草 笶原神社、徳野にあり、延喜式曰、三原郡笶原神社、按るに美原は乃波良とよむべし、笶は玉篇に式氏切、俗矢字也とあれども、我邦にて笶と※[竹/幹]と通じて用ると見えたり、源順和名抄に讃岐国香川郡笶原、和名乃波良とあり、八雲御抄「あはぢのややはらのしのをやにはく」といへり、按ずるにやはらばのはらなるべし、今の野原村なり、式に笶原に作る、笶と箆と古訓通ずる事前にしるせり、矢箆を出せる処にてのはらの名を得たるなるべし、又按ずるに「あはぢのややはらのしのをやにはく」といふ詞、いぶかし、万葉集七「近海之哉八橋乃小竹乎不造矢而《アフミノヤヤバセノシノヲヤニハカデ》信有得哉恋敷鬼乎」此歌を写し訛れるにや、淡海を淡路とし、八橋を笶原となせるにやとおぼし。
天野《アマノ》 八木村の西南を今天野と曰ふ、天野神社は成相寺《ジヤウサウジ》の鎮守にて、旧対馬廻村と称したり、又|成相谷《ナラヒダニ》と曰ふ。○常磐草云、成相《ナラヒ》寺は、相伝ふ仁治年中高野山の僧実弘法師淡路国に配流の時、高野山を摸して堂宇を成相谷に建て、擁護山|成相《ナラヒ》寺と号すと云、寺に成相伽藍の古図一舗あり、昔は金堂大塔大門中門護摩堂釈迦堂大日堂聖天堂祖師影堂などありて、今も礎石遺れり、堺内も最広かりしとぞ、後山に鎮守祠あり、緑林陰森たり、前は成相河蛇磨石に板橋を架す、西北界の鳥居まで十八町とす、界内すべて方十八町と称す、成相寺中世衰頽せしを、乗源法師再興し、文明の頃信秀和尚、明応の頃賢秀僧都住持す、文明二年七月、請三原郡成相寺鎮守回廊之上葺、且満寺内之紹隆状略曰、爰当寺者実弘上人之建立、乗源和尚之再興也、本尊有薬師如来、鎮守者熊野金峰天野明神、社壇並甍、然去宝徳三年災上、仍雖有立柱之企、未遂上葺功、雖有再興志、敢无造畢、依之請十方之助縁、云々、今薬師本堂及大日堂成相院鐘楼大門中門あり、大門は河向ひ板橋を距ること六十間にあり、中門は板橋の東にあり、林中に菩提樹多し、旧実弘上人種を持来りて植るといふ、奥院の址は谷奥にあり、往生谷と称す、高野奥院に摸したる処と云、野峰名徳伝曰、実弘、号定月房、不知何許之人、少登当山、纉仰年尚矣、住悉地院、有嘉声、与道範善、禅話常忘坐、仁治四年春、由根嶺之事、配流淡州、年不幾滅、屡有霊異、州人相欽、立路寝(廟也)而奉焉、号実弘宮、若有祈者則無不応焉、按ずるに実弘は飯山寺《イヒヤマデラ》に終焉せり、飯山寺は今宝光寺と云ひ、大伽藍の遺址を存す、又云、成相寺の天野四処明神は即鎮守にして、実弘上人の祠る所也、古き棟札に「今度当国大守淡路守源朝臣尚春、為御願、三社御宝殿令修造云々」と記す、又寺界内蛇磨川の辺の民家に、石の湯釜と称する石盤あり、径五尺、応永廿三年云々の銘を勒す。
補【成相寺】三原郡○常磐草 馬廻村成相谷にあり、伝云〔脱文〕祈者則無不応焉、按ずるに道範讃岐へ配流の紀行曰「二月二日淡路の石屋に着、四月石屋を立て炬口に至る、同日船よりおりて陸行三里、淡路の養宜の国府に至り、中一日をへだて岩屋の宿迄はあはぢに配流の人同道、たがひに世出世の事などかたりてなぐさむる事あり、件の人は炬口にとゞまりぬ」とあるは実弘上人の事なり、実弘は飯山寺にて終られたり。天野祠、同じく成相寺界内にあり、按るに四処明神は高野山に準じて実弘の祠にて、鎮守とするなり、古き棟札あり、曰、当社御上葺開山以後相当第四度、今度当国大守淡路守源朝臣尚春為御願、三社御宝殿令修造給者也、殊者若宮殿者直々為御願御上葺御沙汰候也、大工天王寺雲州翁藤原光則、以前両度は槙瓦葺、今度は檜皮葺、明応□□□(文字不見)院主影仙院住持賢秀。
石盤 蛇磨川の向に人家の門前にあり、石盤径五尺余、厚一尺許、文を彫て曰、応永廿三内申五月十三日、大願主院主感春七十回とあり、今石の湯釜と称す、釜の形の如し、盥※[口+漱の旁]の為に設けたるか、異様の物なり、此処方丈の蹟といひ伝ふ。屏風石 成相寺より十八町奥にあり、懸崖あり。
補【飯山寺】三原郡○常磐草飯山、飯山寺村熊野社の後山形円にして飯を盛たるが如し、因て名づく、宝光寺は即飯山寺の遺址なり、此寺むかし八院あり、今宝光寺一院のみ遺れり、又金堂浴室の跡あり、賀集山の記に飯山寺御堂供善とて舞楽の法会ありし事見えたり、此隣村に大小の古仏像多し、みな此寺の像なるべし、成相寺の僧実弘此寺にも住りといふ、又大なる錫杖あり、弘安年中香鑁上人持たる由銘あり、実弘上人の墓此村にあり、奥河内村、此村の内竹生谷といふ処に小石室あり、古へ穴居の跡なるが、口河内人家の間其余処々の村里に多し、氷雨を避しと云ふ、俗説皆此たぐひなり。
神稲《クマシロ》郷 和名抄、三原郡神稲郷、訓久万之呂。○今市村神代村に当るべし。養宜郷の西、榎列郷の南にして、福良阿万の東北に当る。○神稲は本久万之禰と訓むべきを、転じて久万之呂とも曰へるならん、和名抄「精米(久万之禰)離騒経注※[米+胥]精米所以享神也」とあり、和訓栞云、※[米+揖の旁]米は久万之禰、今姓に神代と書り、新猿楽記に熊米に作り、又※[米+胥]字をも訓む、久万は奠の義なりと、按に常磐草に神稲を斯く訓むは、供米代(即供田)の義ならんと云ふは穏ならず。
市《イチ》 八木の西一里を市村と曰ふ、神代村と連接し、三原郡の中央に位置し、一小駅市を成す、即古の国府の市なり、今三原郡衙の在所とす、福良を去ること二里、湊(三原湊)を去ること二里、譲葉山は其南方に聳ゆ。
補【市村】○府中 小榎並に有、十一箇処市、三条迄共に古の国府の地なるべし、故に府中と称するならん、御料井同じく村西にあり、水甚清し、昔し国府館抔の料に汲し故に御料と云にや、下流志知川に入る。○市村、旧国貯の市といふ、古の国府の地なり、国司館址、市村の中に地名国衙といふ所あり、是国司館の故址なるべし、古は諸国に国司を下して国司に居れり、国司の居第を御館といふ、賀集山所蔵の元久中の庁宣に、留主処に宣すとあれば、其頃までは国司館の留守処ありしにや、武家より守護所を置てより国府は漸停廃せしなるべし、国学医官なども国衙の近き処にあるべきなり。夷社、同じく市場にあり、社領若干、夷社は事代主神を祭たるにや、むかしは毎月三日・八日・十三日・十八日・廿三日・廿八日六度づつ市を立て物を売たりといふ。
匡府《コフ》址 常磐草云、淡州府中の遺名は小榎並《コエナミ》村に在れど、此より十一箇所市村の辺、二三町が間、皆国府の古跡なるべし、市村はもと国府市と云ひ国司館は市村の中に国衙と云字を遺せり、又|学野原《ガクノハラ》と云字あり、謂ゆる国学を府中に置かれたる其廃墟たるべし、又市村の西数町にして別に国衙村あり、是は後世彼処にも移したる事のありし故とぞ。○和名抄、淡路国府、在三原郡、行程上四日下二日海路六日。○今昔物語、将門純友伏誅の語中に曰ふ、藤原純友は伊予讃岐阿波淡路をかすめけるが、阿波介藤原国風と合戦す、国風敗軍して警固便坂上敏基とゝもに阿波国を出で、淡路国にゆく、純友国府に入て放火し、公私の財物をうばひとる、国風此事を言上し、二箇月を経て、人数を催し、讃岐に還り、官軍の到来をまつ。○常磐草云、賀集山古記に、元久中の庁宣は留守所に宣すとあれば、其頃迄国府に官吏存在せしにや、又云、市村に夷社あり市の神とぞ、按に市を立て有無を交易するは古よりの良法なり、此法廃れて今は城市にのみ売買す、藻塩草に市場に祭る神を市姫といふとあり、此社も旧は市姫にや、今十二月廿八日士女輻輳して、厄私とて市餅を買ひ、身を摩てこれを捨去る、祓除の遺意にや、市餅を買ふ事は昔よりある事か、山槐記に、治承三年四月六日、東宮(安徳)御五十日也、早旦市餅を買しむとあり。○国学古址は三条《サンデウ》村に学《ガク》が原といふ処あり、是国学の跡なるべし、古は学校を国府に立て、其国司をして監せしむ、六十二国二島多※[示+執]島に至るまでみなしかり、博士権博士明法博士など、年秩を交替せり。○惣社《ソウジヤ》は十一箇所村にあり、総社十一明神と称す、古へ式杜の祈年祭に、国幣を奉る時は、国守以下散斎致斎して祭に会し、幣を斑つ事延喜式文に見えたり、淡路国の式社大社二座小社十一座国中に散在す、故に吏務の国司祭の時各社にいたりて奉幣する事難し、唯大社二座に於ては自其祭に会せざるを得ず、因て余の小社十一座を国府の中に祭場を造りて、国司其祭に会して幣を班つこととす、各処の十一座を一社にいはふ故に惣社とはいふなり、天正二甲成年、十一箇所多宝坊伝説を記す、「第一天照大神、第二(左東)伊弉諾尊(右西)伊弉冊尊、第三(左)月読尊(岩屋)第四(左)蛭子(湊明神)第五(右)素戔嗚尊(野原)第六(左)淡路廃帝(野辺宮)第七(左)扇貴官(国府八幡応神天皇)第八杉尾明神(二宮峰本)第九掃守氏明神宮造、第十久斗明神宮造、第十一守宮荒入神云々、殿舎茅を以て葺き、社座十一各扉を設く、其製古雅なり、野辺《ノベ》宮、同じく惣社の東に小祠あり、淡路廃帝を祭ると云ふ、界内七百歩計ありて竹樹生ひたり、按ずるに是又惣社の界内なるべきにや、或は廃帝淡路に配流し玉ふ時、国府の側なれば幽居まします一院のありし処にて、其処に祠を立て祭れるにもあるべし、国史に明証なければ、其事知りがたし。○今按に、山陵志に野田宮と云は、即野辺と云ふもの是なるべし、然れども野辺宮には山陵の形状なしと云へば、此は廃帝の御したまへる院宇の址にして、後世追祀して宮と云ふ者か。山陵志云、三原是国府所在、廃帝以孝謙之雄猜、降対淡路公、而幽于其府、既而公不堪憤、踰垣而逃、国守佐伯助掾高野並不等率兵邀之、公還、厥翌暴崩、則其葬当去府不遠、府址今距洲本之治、西南可三里、曰市村、其中称国司館址、此也、乃其西可三町、有古墳在焉、其方二十歩、森如也、廃帝陵即此、而其祠曰野田宮、在旁焉。○按に常磐草は市村及其大字三条十一箇所を榎列郷の属とせしは、疑はし、榎列は志知村などを籠め其北を総べ、神稲は其南にて市村并に国府址は正しく神稲の郷中なるべし。
国分《コクブ》寺 市村の北数町|※[竹/矢]原《ノハラ》に国分寺存す、是は僧寺にして、尼寺は北新庄と字する地に、纔に廃址を伝ふとぞ。○常磐草云、国分寺は其僧寺尚存すれど、尼寺は一小堂を遺すのみ、其地界相接近す、国分僧寺は大永年中沙門俊泉之を再興し、後三原浦に水定に入り終りたる事あり、其後寺塔朽損し、唯仏像と礎石とのみ残り、正保の頃僅に一院ありて、僧快尊住し、大像を草堂に置く、寛文五年僧照蓮新寺を建て住す、貞享元年本堂を建立して古像を安置す、丈六釈迦の像中に記あり、「曰淡州国分寺、本尊釈迦像一体、敬白、暦応三年歳次庚辰、三月手斧始、同四月廿七日庚戊、本開眼、四年歳次辛巳、六月廿五日辛未、御安座、祈祷聖人僧乗□(式円房同寺住)大願主僧盛尊(尊忍房当寺住)大施主海氏女、大仏師兵部法橋僧命円(観地房昔者洛陽住今者阿州名西庄第十蓮福寺住)結縁細工番匠僧流泉(戒忍房入太□光寺住)僧盛弘(良忍房上田八幡住)僧重信(性円房当寺承仕)信心結縁衆僧□□(道賢房阿州名西庄中島郷延福寺僧)平光久、治部允藤原近宝□□□僧禅尊若盤□□□」と文字所々滅却するは誠に惜むべき事なり、大永五年乙酉、沙門俊泉、淡州国分寺本堂再興勧進疏一巻あり、其略に曰「聖武皇帝於六十六箇国、建立国分寺、本尊一丈六尺座像釈迦、行基菩薩之作也、本堂五間四面之伽藍、荘厳巍々、世及澆季、寺社供料墜落、仏閣朽損、爰六十六部之聖某、至于此、歎伽藍之敗壊、有志興復、於是勧進云々、大永五年沙門俊泉敬白」按ずるに今大日堂のある処は、日本後紀に所謂所納金光明経七重塔の址なりと云ふ。○延喜式、淡路国国分寺料、五千束、又東鑑、建久四年七月、横山権守時広、引一疋異馬、参営中将軍覧之、有其足九、前足五後四、是出来于所領淡路国国分寺辺之由、又霊異記に、宝亀六年、紀伊の人紀臣馬養、淡路国の南田野浦《ナタノウラ》に漂着して、国分寺に入り、僧と為れる奇縁を録したり。
補【国分寺】三原郡○常磐草 廃国分尼寺、北新庄□尼寺と称す、小堂に薬師像を安ず、此地国分僧寺に近し、国分寺尚存す、寺説曰、大永中沙門俊泉再興して、其後松帆浦にて水定に入りて終るといふ、而後国分寺朽損久し。東鑑建久四年癸丑七月、横山権守時広引一疋異馬参営中、将軍覧之、有其足九(前足五後四)是出来于所領淡路国国分寺辺之由云々。按ずるに国分寺中に龍馬石と名づけたる石あり、九足馬出て後に石に名づけたるか、馬蹄に似たる石紋ありとぞ。
神代《クマシロ》 市村の西南に接し、賀集村の北なり、大字地頭方は今|神稲《クマシネ》とも称し、神代寺《クマシロジ》と云古剃あり、其西に接して大字|国衙《コクガ》あり即和名抄神稲郷の一部なり。続紀「神護景雲二年三月、高向朝臣家主言、淡路国神本駅家、行程殊近、乞従停却詔許之」と見ゆ、一説神本は神代の誤にやとも云へど、幡多村に現に神本寺《シンホンジ》の名遺れば、神本駅は幡多郷にて、三輪毛登と訓むごとし。
国衙《コクガ》 今神代村に大字国衙あり.武家執権以来古国府おのづから廃し、荘園諸国に満ちたるより、領家地頸の吏務のみ盛なり、此国衙は其領家地頭の邸地とぞ。常磐草云、武家より守護職を置きしより、北条氏の時に至り、諸国の古国府はみな漸く廃したり、此時国衙村に新宮府を置て、領家の庄園の事を掌らせけるを、国衙と称せしなり、此村に領家の地名あるも、此故なり、地頭方《ヂトウガタ》村此村に隣れり、公家を領家と云ひ領家方地頭方と公武を分けて、役所を置るなり、今三原郡中の神祭饗座の名に、領家座地頭方座あり、武家守護以来の名目なり、これを俗にジヤウケと呼ぶは領家の転訛也。○久度《クド》神社、国衙の支邑久度ににあり、三代実録に見え、又延貴式に列せり。
上田《ウヘダ》 今神代村の南に大字上田あり、譲葉山の麓にして、旧は社家村とも称し、上田寺の廃址在り、上田寺は賀集八幡宮の古記に見ゆ。
賀集《カシヲ》郷 和名抄、三原郡賀集郷、訓加之乎。○今|賀集《カシフ》村是なり、神稲郷の西南、阿万郷の東北に在り、按ふに賀集は和名抄に加之乎と註するを見れば、名義橿尾なり、後世文字に因りて加之不と呼ぶは訛れる也、南海流浪記に「賀集をたちて、由羅に至る七里」などと見ゆ、淡路廃帝の山陵、又忌部八幡宮などあり、西は福良浦阿万浦に接す。忌部は蓋延喜式の凡直に同じ。
賀集八幡《ガシフハチマン》宮 賀集村大字八幡に在り、八幡は旧名忌部《イムベ》と曰ふ、国衙の西一里、南辺寺山の南にして、福良に通ずる国道の傍に居る。○常磐草云、忌部は八幡村の旧名なるべし、八幡宮は寛永の比国主より再建あり、社領を附せらる、抑八幡は源家の氏神なれば、鎌倉幕肝に尊崇ありしより、諸国之に倣ひて、武家守護職の入部の初め、此にその宮を営建せしなるべし、養宜細川屋形にいたりて、特に当社を崇敬ありしと見えたり、当国八幡祠の始は当社なるべし、当社の古図一幅あり、本社摂社拝殿舞殿長床護摩堂多宝塔二王堂神宮寺僧坊十四区許あり、礎石遺る、今本殿摂社拝殿鐘楼二王門等あり、近世馳道の左右に桜を植て、花の時尤壮観なり、賀集山古記に、細川師氏入国の時、当社に祈願し、鏑箭を申おろして、矢合に捷を得たり、因て宇原兵衛入道が遺跡を寄附せらる、その後修理料僧坊料楽料斎料等の田地を寄せらる、毎年神馬太刀等を献ぜらるゝ事見えたり、貞和より元亀年中までの古文書多し、護国《ゴコク》寺は同じく社側にあり、真言宗、八幡の社僧なり、昔は僧坊料田十四町、修理料八町、楽料三十町、斎料五町、一切経会料等ありし事文明中の文書に見えたり、当寺に什宝多し、大日像(宝塔本尊)弘法作、不動(護摩堂)智証大師作、毘沙門(経蔵)智証作、阿弥陀(本堂)行教作といふ、十六書神画像唐絵、五大尊画像、また尊勝曼多羅あり、八幡大神辰筆といふ、画側に金字の賛あり曰「八幡震金毛、九尊画銀絹、是卍歳霊宝、密蔵秘中尊、釈行教」花押あり、賀集山古文書の中に 「淡路国諸寺諸山供養注文、賀集供養、弓弦葉供養、千光寺供養、志筑天神供養、広田金屋供養、安養寺供養、上田堂供養、飯山寺御堂供養、一宮毎年一切経供養如是、二宮毎年法会式如是、賀集八幡宮毎年一切経供養、有賀集八幡宮楽頭、国中の楽頭にて候を、安国寺一切経供養の為め別の伶人をめされ候ほどに、如形目安進上仕る」とあり、又文明元年六月、陣夫を免さんことを請ふ状にも「賀集神宮寺大破に及、造営を企んとするに、毎月一人陣夫を出す放、一山迷惑なり」云々、文明二年、護国寺結番定書あり「一番野田村高萩村寺方正井殿下稔殿、二番西山村西田殿河田殿、三番法華寺村牛内村久米殿伯耆殿土居殿、四番鍛冶屋村中村西殿粟井殿北島殿、五番忌部村立河瀬村賀集殿、六番福良」とあり、又寄進状多し、応永四年加集庄高陛親忠、同年中村氏成、同六年(地頭方領家方)粟井太郎右衛門入道(本家方)肥田弥三郎政俊藤原親氏近藤孫四郎、同七年(地頭方)政氏、同年南条春時、同七年平々四郎、同十八年近藤次郎左衛門入道浄灯、長禄二年加集美濃守公文粟井千若九近藤助四郎秀吉福良蔵人太夫政貴久米四郎左衛門入道々珍吉川民部丞経信海老名加賀入道々昌帯刀先生親経右近太夫将監親重兵部太夫道隆、同廿九年久米四郎右衛門尉家守、文正元年福良勘解由左衛門政幸、文明三年加集美濃守高陛安親などの判物なり。
南辺《ナンペン》寺地蔵堂は賀集八幡宮の北に特起する峰に在り、山容遠近より視望すべし、標高二百六十米突、山の北麓を志知村とす。
淡路《アハヂ》陵 淳仁天皇(淡路廃帝と云ふ)の御陵なり、賀集村字中村に在り、天王森と称し、今山陵高七間、東西二百間、南北七十間許、制定して兆域と為さる。延喜式、淡路陵、廃帝、在淡路国三原郡、兆城東西六町守戸一煙。○常磐草云、天王森或は柏尾森とも云ふ、山陵周廻三百七十間許、其東は山に添ひ池あり、界内に天王社あり、別に修験僧の寺あり、社南に当り高場と呼ぶ処、則ち尊櫃を蔵め奉るならん、上には緑樹茂れり、一説に野辺宮の地を廃帝陵と云ひ習はせど、山陵に擬すべき形さへ無し、宝亀三年改葬の事国史に明記せば、其造陵おろそかに非ず、而も今三原郡中に山陵と云ふべき者、賀集中村の天王森のみ、山を築き※[こざとへんn皇]を穿てる形状、真に陵墓の古制によく合へり、又前王廟陵記に、津名郡多賀の神宅の東と録せるは、崇道天皇と混乱したる説なり、又按ずるに此遺陵今天王森と称し、土俗牛頭天王の祠なりと心得居るは、中世諸陵寮廃して陵戸絶え、其名を亡ぼしたれば也。
淡路墓○淳仁帝の母、山背子の墓なり、上総守当麻真人の女とす、帝陵の南六七町、字鍛冶屋の馬目《ウマノメ》と称する塚是なり。延喜式、淡路墓、当麻氏、在淡路国三原郡、兆城東西二町南北二町、守戸正丁五人。○大日本史、天平宝字八年、太上天皇遣兵、囲中宮院、廃帝、帝※[立心偏+皇]遽、与所生当麻氏、至小子門、乗以駅馬、衛送配所、幽之一院、廃帝不堪憤、踰垣而逃、国守佐伯助率兵※[しんにょう+激の旁]之、其翌暴崩、宝亀三年、遣三方王於淡路、改葬、設斎度僧、永修功徳、九年、勅廃帝墓、称山陵、所生当麻氏墓、称御墓。
補【淡路陵】 三原郡○常磐草 賀集中村にあり、今天王森と称す、或は杉尾森ともいふといへり、山陵周廻三百七十間許、その東面は山にそひて池あり、界内に廃天皇の神社あり、神宮寺あり、修験の僧これに住す、社南に高処あり高場といふ、則尊櫃を蔵め奉る処なるべし、丘陵緑樹茂る、延喜諸陵寮式曰、淡路陵、廃帝、在淡路国三原郡、兆域東西六町南北六町、守戸一烟(遠陵)、保元物語曰、彼処は淡路国と聞召せば、大炊廃帝の遷されて思に堪へず、幾程なく失せ給ひけん島にこそと、昔はよそに聞召ししかども、今は御身の上に思召すこそあはれなれ。
按ずるに淡路陵は野辺宮の地と土俗のいひならはしたる説もあれど、其地には山陵ともいふべき形もなし、凡そ此前後の天子みな山陵あらざるはなし、惟り廃帝のみ山陵なかるべきや、殊に光仁天皇宝亀三年に至りて八年を経て改め葬らせ給ひ、其後山陵と称させ給へば、おろそかなるべきにあらず、凡そ三原郡中に山陵といふべき処なし、賀集なる天王丘に山を築き※[こざとへん+皇]を穿てるかたち、陵墓の古制によく合へり、此地必淡路陵なる事、地形を見て知るべし、疑ふべからず、又前王廟陵記に神宅の東といふ説は既に弁ず、茲に贅せず。
淡路天皇祠 同じく天王森の丘上にあり、今牛頭天王と称す、按ずるに淡路廃天皇の陵なるを以て天王森と呼来りし也、天王森転訛して牛頭天王となれるなり、諸陵寮廃してより陵戸もなく御陵を司る人なき故に、後世名実を失ひたるを知べし、此御社は淡路天皇を祭り奉るなり。当麻氏御墓 鍛冶屋村と筒井村の境むま目にあり、この馬目といふ小丘は天王の森より五六町も南にあり、丘下に池あり、廃帝の陵に近き処なり、御母の御墓是なるべし。
榎列《エナミ》郷 和名抄、三原郡榎列郷、訓江奈美。○今榎列村の大字榎列及び志知村是なり、榎列は江の辺に並み続く里の心にて、三原川の江に副へる地なり、北岸は幡多郷にして、今の榎列村は幡多郷を合同す。○此郷は神稲郷の北に接し、字小榎並に市中の称あるを以て、常磐草には市村三条十一箇所などの地も本郷の属なりと判定せらる、今之を採らず。
補【榎列】三原郡○常磐草 此郷及近郷にわたりて放鷹の禁野とす、鸛鶴鳧雁のたぐひ多し。屯倉故址、大榎並並支邑三宅あり、古へ国府の官衙に近き処なれば、屯倉を置れしなるべし、日本紀曰、仲哀天皇二年二月定淡路屯倉。続日本紀曰、聖武天皇天平十七年十一月制諸国公※[まだれ+解]、淡路三万束。
三宅《ミヤケ》 今榎列村大字横列の中なる大榎並に三宅の名あり、日本紀に、仲哀天皇淡路屯倉を定めたまふ由を載せたるは、其遺跡蓋此とす、応神仁徳履中の諸帝の此地に行幸ありて、御原を立てたまへるは、亦此屯倉に起因せる事ならん。常磐草に榎並は蜂須賀氏の時、放鷹の禁野たり、鸛鶴鳧雁の類多しとあるも、古来此地遊猟の勝境たるを証明するに足る。応神妃云、天皇狩于淡路島、是島者、峰巌紛錯、陵谷相続、芳草※[草冠/會]蔚、長瀾潺湲、亦糜鹿鳧雁多在、故乗輿屡遊之。
志知《シチ》 市村榎列村の西を今志知村と云ふ、古の榎列郷の属地なるべし。中世に当り、郷士野口氏之に居り、松本城を築き、天正の末まで其家相続し、加藤嘉明に帰附す、嘉明は天正十三年に此地に封ぜられ、海部の士民を領して、豊臣氏の水軍たり、慶長二年、嘉明伊予へ移り、後数年にして志知の城塞廃す。三原湊は志知の北に接す、今湊村と曰ふもの是なり。
常磐草云、志知は庄号なり、松本村の伊勢明神棟札曰「天正四丙子年仲冬日、野口孫五郎長宗建立」と志知城、即松本城の跡も同村にあり、城台方一町許、四方壕あり、第二の壕は田となり、東は松本河、西は鑪河なり、按るに菅氏代々志知庄に居して、後野口と改称せしと聞ゆ、太平記を考るに、延元元年、後醍醐天皇再び叡山に遷幸し玉ひ、義貞京を攻めたる時、阿万志知の人々山門に至り、阿弥陀が峰に陣取たりしが、細川卿律師に打負て退きぬ、延元三年、吉野先帝崩御し玉ふ、青野執行吉水法師宗信曰く世の危を見て命を軽ぜん官軍は云々、淡路に阿間志知云々、義心鉄石の如にして一度も変せぬ者共なり、暦応三年、脇屋義助南朝の勅を奉じて伊予に下向の時も、阿万志知の一族武島より船を浮べて、備前の児島へ至りしとぞ、其頃細川師氏下向して、淡路の官軍を撃ち守護職となりしより、志知も細川に服従せしなるべし、此時も野口氏なりけむ、細川氏衰弱に及んで、野口氏も三好の族となりしなり、将軍家譜曰「淡路安宅野口等、三好一族也.実休弟冬長、続野口家」、南海記曰、阿波撫養住人篠原目遁、信長の四国を征せんといふを聞て、羽柴秀吉に和親を乞ふ、是より先き淡路の諸将等も音信を姫路に通じて親和せり、思ふに此時孫五郎長宗も秀吉に帰服せしなるべし、土人の伝説に秀吉由良攻の時は長宗嚮導せしとなり、天正十三年、加藤嘉明志知城に入、此時食禄一万八千石、文禄元年秀吉朝鮮を征す、三月諸軍渡海す、此時左馬助嘉明は其兵七百五十人、志知城南の郭外蜷瀬にて船を造り、行装既に成て其軍を発すと、或は云ふ本知六万二千九百石なるべし、慶長二年、加増十万石にて、伊予松山城へ移封あり、加藤の後代官三宅丹波守暫く志知城に入るといふ、又慶長六年、石河紀伊守志知城の石壁を破て、感応堂を築きしとぞ、
殿さまござりや百姓の弱り、松本日雇のさまを見よ、
是は嘉明入部して松本に来住し課役を加へし時の俗謡なるべし、又
志知の御城は夜半に落る、粟原山に陣ひらき、
是は志知の野口氏京勢に追落されたるをよめるなり、粟原山は神代の南、上田の塞とぞ、又志知の光明寺には畠山卜山の墓ありと云ふ、小五輪の石塔三四あれど、今詳にし難し、按に志知の野口氏は游佐氏の一族なれば、卜山来寓せられしなるべし、「畠山卜山、名尚順、畠山政長子、老而号卜山、避於紀州|比呂《ヒロ》城、享禄中、湯川荘司直光為乱、卜山避於淡州、客死光明寺云々」と一書に載せたり、又声明寺に曼陀羅三舗あり、唐画といひ伝ふれども、左には非ず、背書に天文十七年新に図画して、西神代の三社に寄附すとあり、開眼道師は国分寺の鏡智院主、施主中島村篠坊云々とあり、古繞鉢あり、朝鮮製なるべし、文禄の役の獲物にや。
補【松本】○淡路草 「殿様ござりや百姓の弱り、松本日雇のさまを観よ」志知松本野口落城し加藤左馬助嘉明なる人、信長公の命を受けて松本城に来る時の唱歌也。○常磐草 松本・鑪・志知北三村を志知庄と称す、
伊勢明神杜 松本に在、社領若干、祠中に棟札あり、曰、天正四丙子年仲冬日野口孫五郎長宗建立とあり、相伝ふ、文禄中朝鮮の役加藤嘉明出軍渡海の首途、当社に詣でて功名を祈る、若し立功あらば食禄三分の一を献じて報賽せんと。志知城蹟、同〔脱文〕○畠山卜山墓、光明寺なり、墓碑などありやと寺僧に問ふに答曰、天文の頃の五輪小石塔三四あれども、卜山の碑見えず、按ずるに〔脱文〕声明寺、真言宗、此寺は明山長寿院を移すと云ふ、聖観音の古像あり、涅槃像古画あり、又五大尊金胎曼多羅三舗は唐絵と。
片田《カタダ》 今志知村の大字なり、此地には古より土器を造る。常磐草に「延喜式、淡路国所造、御由加物」と云ふことあり、土器は其由加の遺俗なるべしと説く、式云「践祚大嘗会、凡応供神、御由加物、器料者、差卜部三人、遺三国云々、淡路国所造※[分/瓦]二十口、比良加一百口、※[土+甘]二百口、造訖、使当国凡直氏一人、着木綿鬘、執賢木引導」と此凡直氏と云は、凡海直にて、淡路の海部の長などにやあらん。
補【片田】○常磐草 由可物、祭に用る器物などの事なり、大嘗祭料のために此国より調進せしめし也、※[分/瓦]ひらか※[土+甘]などはみな土器の類にて、神供を盛る器なり、今も片田村に土器作るものあり、むかし平賀など作りし遺俗なるべし、〔貞観儀式、略〕
幡多《ハタ》郷 和名抄、三原郡幡多郷、訓波多。今榎列村の中大字幡多并に掃守の地なるべし、淡路二宮大和国魂神社此に在り。
補【八太】三原郡○常磐草 神本寺、八太村、真言宗、地名を寺に名づくるなり。神本駅、同じ村の中の古名なるべし、今も神本と称す。〔続紀、略〕按ずるに古へは大野駅より神本駅に至り国府(榎並市村)を経て福良駅家に行しなるべし、大野福良の間にあれば行程近くして無益なりとて神本駅を停められしなるべし。
神本《ミワノモト》 幡多郷の一名なるべし、即大和国魂神の坐します地なれば此称あり、三輪本とよむべきにや、今も神本《シンホン》と名づくる密宗の一院あり。続紀、神護景雲元年三月、南海道使高向朝臣家主言、淡路国神本駅家、行程殊近、乞従停却、詔許之。
二宮《ニノミヤ》 延喜式名神大に列する大和国魂神社是なり、幡多山に鎮坐す、大和国より移したるべけれど、事由詳ならず。常磐草云、文徳実録曰、仁寿元年詔、以淡路国大和大国魂神、列於官社。和論語、神明篇曰「淡路国、大和国魂大明神託曰、もろ人の悪を身になすをば、人是を誅し、悪を心におもふものをば神明是を誅するなり」此社に毎年春季遠近の士民群集し、宴遊して桜花を賞す、是を二宮の桜会といふ、むかしは舞楽などありて、盛なる祭礼ありしと見えたり、此事賀集山の古記に見ゆ、又賀集山護国寺に蔵る処の元久の庁宣に、一二の宮法華桜両会の舞楽料田を寄らるゝ事見えたり、此桜会の事なるべし、又此社に古鉄印一枚を蔵む、文に大和社印と曰ふ、此印近世土中に得たりと、又社説に伊弉諾伊冊両神を祭る、故に二宮と云ふと伝ふ、此説大に誤れり、二宮とは多賀宮を一とし、此宮を其序第二とせるのみ、延喜主税式には、淡路国大和大国魂神祭料八百束とあるを見れば、崇奉の殊に厚くましますを知る、又社家の説に幡多山を鼻子山と呼ぶ、鼻子をばハナコと訓むはわろし、ウヒコと訓むべし、釈空海大和州益田池碑に「粤有益田池、両尊鼻子之洲」とあり、鼻は始端の義あり、故に初子と云ふに同じ、此に大和《ヤマト》の異名とす、二宮界内の観音堂を鼻子観音と唱ふ、又猿楽の淡路といふ謡あり、その説に「二宮とは一二の謂にあらず、伊弉諾伊弉冊二神にてましませば、二神の宮といふべきを、二宮と云ふなり、当地は日本第一の宮也、二柱の神淡路島にありて、大八洲を作り、草木万物を出生し、日神月神蛭子素盞嗚皆此島に降誕あり、かゝる皇子達に御世を譲りて、譲葉の権現とあらはれ玉ふ、又うば玉のわが黒髪も乱れずに、結び定めよさよの手枕と詠しも、当社の神詠也」と、猿楽の謡は足利の衰世に起りたる俗楽にて、其詞は滑稽の釈子抔の妄作したるものなれば、証とすべからず。
補【二宮】○鼻子山観音堂 同じく社の境内にあり。
大和国魂神社 同じ村秦山にあり、二宮と称す、封田若干、国君より殿舎を営建し給ふ、此神は式内名神大社にて、むかしは宮中名神祭及び祈年国幣に預り給ふなり、今社司の説に、当社に祭る処は伊弉諾伊弉冊尊の両神なり、故に二の宮といふと。按ずるに此説大に非なり、又猿楽のうたひものに淡路といふものに拠れるものか。
※[石+殷]馭廬島《オヌゴロジマ》社 二宮の畔なる田中に在り、蓋神代の旧事を沼島に伝へしを、後世二宮の社家の此地に移したる也。○常磐草云、自凝島社は円行寺河の側なり、円山の小丘にあり、青松の茂林に小社立り、伊弉諾伊弉冊尊を祭るといふ、按るに※[石+殷]馭廬島をこの円山に移せるなり、彼島の事は沼島の条に委し、神代の事を以て名づけたる処、此あたりに多し、天浮橋、豊蘆原、鼻子山の類皆此例なり。○大八洲遊記云、淡之三原幡多村、有一阜、高五六丈、周回百四五十間、上有一小社、土人伝為※[石+殷]馭廬島、即伊弉諾冊二神開創之地、神州地名之起原、是為大初也、長松離立、別無雉木、四面皆木田、其南有幡多川、水涸磧礫為堆、西距海半里余、此際平田渺渺、土人曰往古阜外則海也、後世埋為田※[月+垂?]、故今則一小阜、已非島嶼也、故後人或疑以為非是、以本国南沼島当之、或以絵島為是。
掃守《カモリ》 幡多の西北に在り、今榎列村の大字とす、掃部にも作る、和名抄河内国にも此郷名あり、彼地より移せる名にや、古語拾遺に、掃守連の遠祖|天忍人《アメノオシヒト》命の故事を載す、延喜式に淡路の凡直氏と云ふは、蓋掃守の族にて、海人の長ならん。
倭文《シドリ》郷 和名抄、三原郡倭文郷、訓志止里。○今倭文村松帆村なるべし、幡多榎並両郷の北にて、津名郡界に至る。
かちん帷子は掃守衆の衣裳よ、赤い手拭は倭文衆よ、
常磐草云、此謡は往時船越など云ふ武士の横行せる頃のものなるべし、船越氏の館址は庄田に在り。
庄田《シヤウダ》 今倭文の大字にて、先山の西麓に在り、倭文郷の大邑なり。常磐草云、委文八幡は庄田に在り、土人は其拝殿飛騨工立たりといふ、謬伝なるべし、委文八幡宮の拝殿及御供屋の瓦に彫刻したる記あり曰「諸社造営、大工五郎左衛門光弘小工天王寺より二人下る、本願加地左京之進、同加地六郎兵衛、坊主権少僧都慶信、天文八年三月」とあり、船越氏廃邸は同じく村の西にあり、壕築墻の跡残て大なる屋敷也、大土居と云ひ今田と成れり、伝説に曰、船越氏は駿河国の人也、委文荘を領して下向し、慶野浦に着船して、其浦人を嚮導とし、先領主を討果して、自ら領知せしとぞ、因りて按るに、文明中細川成春守護の時、藤原親秀領主なる事感応堂鐘銘に見えたり、永正年中の記に、委文荘感応堂とあれば、親秀は委文庄の領主なるべし、然れば親秀の子孫此庄に存しを、船越氏の為に滅たるにや、船越氏は天文の頃と云伝説も有れば、三好家に属して委文庄を掠奪せしにや、三好は大永の頃より国権を握り、天文の末には阿波屋形養宜屋形を弑せり、此時代の事か、船越氏初代は左衛門尉か、此人大蛇を射其害を除くとぞ、其子一花、一花の子彦之進、彦之進の子五郎右衛門まで、連綿として倭文一庄の主にて、五郎右衛門豊太閤に仕ふと伝へり、蛇の事は故事因縁及砕玉話などにも載たれ共、其説少しく異なり、里人曰、船越邸の近処に、寛文中方二尺の蛇骨を掘出し、加地氏宅にも五六斤許の蛇骨出で、共に今洲本官府に蔵むといふ、按ずるに此の大蛇は※[虫+冉]蛇白花蛇などの類にやありけん、蛇骨を掘出せりと云は疑らくは蛇の蛻骨にては有まじ、菅生といふ谷河の石なるべし、形似たるを以て蛇骨龍骨など云ひ、処々にある物にて、金瘡の血を止る薬也。○又云、加地氏の邸址も庄田村に在り、最広大也、加地日向同石見など云人の故第と伝ふ、天文中の瓦記に左京進六郎兵衛とあるも、その子孫といふ、今も加地氏世々故邸に家す。是亦その孫裔なるよし、或は加地納両氏は船越の老臣なりと説くも、未だ従ふべからず、嘗て東鑑を検するに建久建武より文応弘長までの間に、加地氏の事蹟間断なく載たり、彼越後国加地庄の事も彼書に見えたり、委文の加地も其氏族なるべし、船越氏を文治二年船越三郎等狐崎にて梶原景時と戦て功あり、建長二年船越右馬允あり、皆東国にて名ある士と見えたれば、鎌倉の代又は室町の時よりも、委文郷の采地に来住せし事あるべし、伝説分明ならねば、其履歴知りがたし、当国守護細川氏衰廃せしより、諸氏皆三好氏に服従し、織田家の時船越は羽柴氏に帰降し、加地は此郷に留止せしか。
松帆《マツホ》 今|飼飯野《ケヒノ》の近傍を松帆村と称し、其海を松帆浦と云ふ、湊村の北、倭文村の西にして、三原川の右岸に在り、飼飯野は旧慶野に作る、蓋古の御原の禁野の一にして、飼野《カヒヌ》の訛なり、瑞井宮の旧跡を伝ふ。
輔【笥飯野】三原郡○常磐草 慶野村、景野の転じたるか、松原の勝景によりて名付たるを、後人景を慶に改たるなるべし。
見阿弥池 同じ村にあり、願海寺の後にある小丘を阿弥陀峰と云、日光寺の奥院と称す、丘上に阿弥陀古銅像一躯を露立す、聖徳太子作と云伝ふ、その丘下の小池を見阿弥池と云、池上の仏像の影池水に移る故名けしなるべし。
古津路村は上津浦の転訛なるべし、津井村の海浜に中津浦・端津浦といふ処あるを以て思ふに、津浦の海浜にて浦人の釣魚する処を三に分ちて上中下とするに、此村の海浜上に当れるなるべし。
感応堂《カンノウダウ》 松尾山感応寺と称し、飼飯の松原に在り、勝景の境なり。○常磐草云、慶野《ケイノ》の海浜、その地広平にして江を引き海に臨み、千松翠を積て、風を呼び濤を起す、江頭の台上に大悲閣を架して、雪月に攀躋すれば空を凌ぐが如し、絶妙の佳境なり、近世の人此地を松帆の浦と称す、州人も皆名所の松帆浦は此地と思へり、古人の詠吟せしは岩屋にあるを正とすべし、此地を松帆と称する事は委文郷松尾山より感応寺を移し来りしより、後の人の誤り呼べるなるべし、源光隆君此浦に来遊せさせ給ひて 「沖津波緑を帯て木のもとによする松帆のうらの初春」と、感応寺は台樹の上にあり、国君より営建し給ふ、聖観音の古像を安措す、毎年六月十六日の夜、民俗聚会して商賈市を為す、叶堂の市といふ、或は十七夜会ともいふなり、此堂の旧地は委文郷土井村の東山にありとぞ、永正五戊辰年、感応堂再興化疏曰「三原郡委文庄松尾山、感応堂安聖観音」云々、古鐘一口あり、伝説に此鐘中ごろ播磨国の山寺へ盗取けるが、後に還ると云ふ、二の銘あり新山寺とあるは播磨の寺号にや、鐘に彫刻して曰「淡州三原郡松尾浦感応堂推鐘、天下泰平、国士安静、御守護源成春、領主藤原親秀、大工安坂藤原貞吉、本願慶範妙鎮尼、請取藤原貞次藤原有友、文明七年乙末九月廿六日」按るに三原郡の下、松尾浦とある小書三字は後に彫添たる様に見ゆるなり、源成春は養宜邸の第六世細川淡路守なり、領主は委文庄の領主なるべし、又小銘あり曰「新山寺鐘、大工山里藤原宗家、願主藤之坊性俊、院主祐源、天文三年甲午九月十八日」慶長六年、石河紀伊守光遠観音堂を北の松原へ退け移して、其跡に塁壁を築く、其後紀伊守卒し、同八年本堂を故址へかへされ再興すと、俚歌に
感応堂の城は緯なし機よたてこしらへて居りもせず、
文禄元年、志知の加藤氏予州へ移封し、其跡へ豊臣家の代官三宅丹波守石川紀伊守など来り、三宅は志知に居り、石川は感応堂の地船手の便よしとて、寺を除き去らしめ、志知の石塁を運送し来り、築城したり、而も間なくして廃嘘と為る、俚謡に見ゆる所は、蓋之を詠ぜるなり。
飼飯《ケヒ》 今松帆村に大字笥飯野あり、或は慶野に作る、飼飯海の名は万葉集に見ゆ、万葉名所考云、飼飯は飼は笥の誤にやと思ふ人あれど、誤字とは云ひ難し、集中に飼飯を気比と訓むべきもの三所あり、畜類を飼ふ料を古へ飼飯とぞ云ひけむ、カヒの切キなるをケに転じてケヒと云るなるべし、畜類をケモノと云ふも、飼物の義なるを思ひ合すべし。 飼飯の海の庭よくあらしかりごものみだれいづ見ゆ海人の釣船、〔万葉集〕
是は淡路の飼飯野の海なるべし、越前の気比浦としてはさらによしなし。○按に、応神紀に淡路は糜鹿鳧雁の多き由を載せ、延喜式に調宍一千斤と録す、蓋此鳥畜は御原の飼飯野に牧養せる者にして、飼飯野の北に鳥飼村の名あるも皆之に起因するごとし。
瑞井《ミヅヰノ》宮 又|産宮《ウブミヤ》と云ふ、今松帆村大字瑞井の櫟田に在り、寛文中、国主蜂須賀家より営造して古跡を伝ふ、社傍に清泉あり、産池《ウブイケ》又|穢池《ヨゴレノイケ》と云ふ、土俗孕婦此池の苔を捕り服すれば、産時安泰なりと称し、安産の祈を為す人多し。○常磐草云、古事記に曰く「師木津日子玉手見命、河股※[田+比]売の兄殿延の女、阿久斗比売を娶りて、師木津日子命を生み、此命の一子和知都美命は、淡道の御井宮に坐す」と、按ずるに玉手見命は安寧天皇也、御井宮は瑞井宮と同じかるべし、又姓氏録に反正帝の御誕生の事を記す曰「皇子瑞歯別尊、誕生淡路宮之時、淡路之瑞井水奉灌御湯、于時再校花飛入御湯※[分/瓦]中、色鳴宿禰、称天神寿詞、奉号曰名治比瑞歯別命、乃定多治部、諸国為皇子湯沐邑」云々、此産宮は其古跡にや、当時淡路宮に御坐まし、淡路の瑞井の水を汲てあみせ奉りし也、又和知都美命御井宮に坐すとあるも、瑞井と同じかるべければ、此地なるべし、淡路三原皇女もこゝにて生れ玉ひければ、かくは名づき玉へるにや、思ふに上古の天皇淡路を遊猟の地として行幸などありしかば、安寧懿徳の頃よりも此処に行宮を建置せられて、淡路の宮御井の宮など名づけ給へるにやあらん、その頃の天子行幸の事国史にも見え侍らねども、史の闕略もあるなれば、量り知るべからず、応神より仁徳履中允恭の行幸は、古史にも見えたり、その后妃なども御駕に従ひ、又はよし有て此行宮に来り住せ給ふ事なきにもあらじ、今の産宮と云ふは淡路宮の故址なるべきか、又淡路之瑞井は今江尻の潮清水(一名松本水)と云もの是ならん、老楠のうつほ木、径六尺深七尺なるものを以て、井筒となせり、むかしは此あたり迄潮の漲り入し也、醴泉その中に涌出るゆゑ、潮清水といふと、その井の傍に北潟渓に架たる※[土+巳]あり、高橋と云ふ、此※[土+巳]を渡りて産宮へ通路近し、古史に淡路島清水淡路瑞井と称するは此水なるべし、古事記曰、仁徳帝の御世免寸河の西に高樹あり、其樹の影旦日にあたりては淡路島に逮び、夕日に当ては高安山を越えたり、故に御樹を切て船に作る、甚捷行舟なり、其船の名を枯野といふ、旦夕淡路島の寒泉を酌て大御水を献る。○按に淡路に天子遊幸の行宮の在りしことは明白なれど、淡路宮又淡道営と記せる中に、丹治比《タヂヒ》宮と訓むべき者有り、古事記、淡道之御井宮、姓氏録、淡路宮、又反正紀、天皇初生于淡路宮、有井曰瑞井、則汲之洗太子、時多遅花落有于井中、因為太子名也、多遅花者今虎杖花也、とある淡路《タヂ》宮は皆河内の丹治比の地なるべし、但し其供御の水産湯の水を淡路島より汲取ることは、仁徳紀姓氏録にも見え、古代の習として島の水を愛て尊みしは、別に因由あるにや。小川氏云、淡道島の水と云は神代巻に「以淡路島為胞」といふこともありて、伊弉諾尊の鎮り坐すが故に、古人は産水御水に此島の水をば汲みしにやあらん。
補【瑞井宮】三原郡○古事記(下巻)大雀命天皇(仁徳)葛城の曽都※[田+比]古の女石之日売命を娶りて蝮之《タヂヒノ》水歯別命を生む、また水歯別命の御名代として定蝮部。首書曰、蝮訓美波良、淡路国三原郡也。思ふに此宮は反正天皇の産地なるべし。産宮の地は淡路の宮の故址なるべき也。○瑞井 江尻浦の田間にあり、潮清水とも松本の水ともいふ。
江善寺《コウゼンジ》 今松帆村大字|七江《ナヽエ》の江尻に在り、浄土宗也、一碑あり三十余人の法名を彫て、文禄元年七月七日高麗陣打死衆と勒す、按ずるに是豊臣氏朝鮮の役、加藤嘉明に従行して戦死したる人々なり、又薬師画像一幅、金泥傍書して曰「嘉靖乙丑正月日惟我聖烈□大王」云々の字あり、全文磨消して見えず、文禄の役兵卒の剽掠し来りて、江善寺に蔵むと、又涅槃像一幀、彩色鮮明なり、共に韓国の製作なるべし。
三原湊《ミハラノミナト》 今湊村と云ふ、三原川の委口にして、西北に開く、即播磨洋なり。此江湾東北は松帆鳥飼の浜に至り、西は津井村の雁来埼に至る.広さ二海里、北風を遮る者なし、然れども帆船の寄泊するもの多く、古より湊村の名を負たり。
淡路の国のみはらの湊と云所にて、月のあかきに、
宮古にて見しにおとらぬ月なれやもしほの煙たちまがふとも、〔橘為仲家集〕
延喜式、三原郡|湊口《ミナトグチ》神社は今この村にあり、三代実録、貞観元年、淡路国湊口神授位の事あり。○常磐草云、長寛勘文曰「天慶三年二月、有諸社位記請印事、去承平五年依海賊事、被祈申十二社位記也、正四位下湊口神社」、按るに朱雀院承平四年より、山陽南海に海賊起り、官兵に命じて捕しめらる、同六年、海賊の大将藤原純友伊予国に起りて、阿波淡路などを掠め、阿波介藤原国風も敗軍して淡路国に来りしなり、溝口神に祈られしは、此間の事なるべし。〇三原川は先山譲葉山の諸澗を源と為し、数派の細流相会して此名を負ふ、其流の長さ四里に上るものなし。
湊村の西字登立に翁媼石と号する奇状の岩あり、浜に吃立す、又地学雑誌云、砂石の薄層と累重する頁岩は、湊村の海瀕に露れ、岩体中に異様なる甲介の遺骸を留む、其状態鸚鵡貝に似て、牛角を屈巻したるが如き貝殻を有せり、之をアンモン貝と云ふ、現今は絶種なれども、中生界に在ては底深き海中に群居せし軟体動物なり。
補【三原湊】三原郡○常磐草 湊里村、花の木の森、花の木の岡、小河などあり。湊口神社、同村にあり、むかしは祈年国幣に預り給ふ神社なり、三代実録清和天皇貞観元年十二月十四日、授淡路国正六位上湊口神従五位下。同元慶八年九月廿一日、授淡路国従五位下湊口神従五位上。〔長寛勘文、略〕
補【湊村】○地学雑誌 世に和泉石と唱へ京坂地方にありて建築の用に供する石材は、天野・野田・福井等の諸村に在て青石と称す、斯る砂石の滞層と累畳せる厚き頁岩の三原河口に近き湊村の海瀕に露る、〔脱文〕
湊浦 三原郡中の水みなとの海に帰す、当郡の港口にて海舶の寄り来る処なり。翁媼石 湊浦の支村登立の海浜に対ひ立てり、其形のよく似たれば名づくるなり。
伊加利《イカリ》 湊村の西南二里、阿那賀浦の北なる山村なり、渓水は北流して津井浦に至り海に入る、長二里、此村に近世民平焼《ミンヘイヤキ》と号する陶器を製す、往々古雅の製造ありて、世に推称せられ、専ら淡路焼と曰ふ。
常磐草云、伊加利村は或は猪狩に作る、八幡宮あり、上梁文曰「永正元年壬申四月、伊加梨庄八幡宮再興」と又大般若経奥書曰「至徳二年十月廿五日、以葛原八幡宮御本一校了」と此村に新羅谷并に大唐原と云ふ字あり、古へ投化の藩人の居たる所なるべし、又晴明塚と云ものあり。
補【伊加利】三原郡○常磐草 大人足跡二あり、一は大唐原にありて田となる、一は村西にありて池となる、皆形似たるを以て名けけらし。晴明塚 村の北にあり、安倍氏が封じたる所といへど謬伝なるべし。
阿那賀浦《アナガウラ》 阿那の浦の義なるべし、今阿那賀村と号す、小港洞穴の状あり、福良村の西一里、山嶺を隔てゝ相並ぶ、鳴門海峡の北口東岸に当る、海峡の隘処の東北二海里、奔潮激浪一望の中に帰す。凡鳴門の渡航は、南風急甚なる時は、福良撫養の間行走し難きを以て、阿部賀浦より撫養の北泊に向ひて渡ると云ふ。
常磐草云、阿那賀浦は南風の時鳴門の渡口と為す、阿那賀砦跡は浦の東南岡に在り、相伝ふ邑主武田山城守、其子彦五郎、彦五郎の子弾正といひ、天正年中、阿那賀浦の領主家絶ゆと、鎧崎は港口の西岬にて、其状腰甲に似たり、伊比島は港の東南を塞ぐ、阿那賀浦の北十余町にして、草香浦の字あり、丸山碕西方に突出し、其陽に泊船の便地を見るべし。
補【阿那賀浦】三原郡○常磐草 綱長の仮字なるべし。(中略)北の海浜に二島あり、一は園山と云ふ、一は沖の島と云ふ、其北に鵜巣といふ海中の平山※[山/品]あり、丸山は諸船の泊る処なり、後山に屏風岩と云ふ懸崖あり。
福良《フクラ》 今福良町と云ふ、淡州の西南海、鳴門海峡の南口東岸に在り。港湾東西十町、南北十二町、形括嚢の如し、延喜式に福良駅と記し、古来南海道の官道之に係り、由良と相対比すべし、今人口五千船舶の出入繁多なり。○水路志云、福良は湾口内直に最良錨地あり、水深七尋泥底にして錨抓き善し、湾の西北側に二嶼あり、一を煙島と曰ひ円錐形にして、密樹之を掩ふ、一を洲崎と曰ふ、砂洲なり。
常磐草云、福良浦は港広くして、前後の山相対ひ、烟島洲崎島其中に浮び、湾容湖水の如し、商家漁戸数坊あり、船舶来集す、阿州撫養浦を距ること三里、即鳴門の瀬戸の渡口なり、延喜式福良駅、今も浦の東に馬宿と称する地あり、駅家の故址なるべし、煙島には宗形三女神を祝祭る、浦の西字吹上なる蛇鰭は磯浄く埼長き白浜なり、龍蛇の水に浮べる如し、洲崎に連接する勢あり、松樹列立て天の梯立など想像らる、新羅浦は西の浜辺にある地名なり、古へ帰化の韓人を居きし地なる可し。
又云、鶴島は古塁の跡なり、浦の西南に在り、元暦元年源氏要害を構へし処と云伝ふ、平家物語に曰「平家一の谷へ渡り給て後は、四国の者ども随奉らず、中にも阿波讃岐の在庁など、皆平家を背き、源氏に心を通はしけるが、門脇中納言敦盛、越前三位通盛、能登守教経父子三人、備前国下津井に在すと聞て、兵船十余艘にてぞ寄たりける、能登守大に怒て、昨日今日迄我等が馬の草剪たる奴原が、何しか契を変ずるにこそ有んなれ、其義ならば一人も洩らすな、討てやとて、小船共押浮べて追れければ、四国の者共人目ばかりに矢一射て除《ノカ》んとこそ思ひしに、能登殿に余りに手痛く攻立られて、叶はじとや思ひけむ、遠負にて引退き、淡路国福良の泊に着にけり、其国に、源氏二人ありけり、故六条判官為義が末子、加茂冠者義嗣、淡路冠者義久と聞えしを、大将に頼て城郭を構へて待処に、能登守殿押寄て散々に責玉へば、加茂冠者討死す、淡路冠者は痛手負て虜にこそせられけれ、残り留て防矢射ける者共、百三十余人が首斬懸させ、討手の交名記して福原へこそ参られけり。」鎌倉実記に、琵琶法師伝を引きて曰「阿波讃岐淡路在庁の中、五条太郎菅原定美は讃岐に居り、飽浦三郎元信は淡路に居り、安部左五郎時住、宇留島十郎元有は阿波に居り、大宮蔵人実春は淡路国松帆に居り、是みな平氏に背く者なり、」又曰「淡路国人安摩六郎宗益も平家に背けり」又曰「小松平重盛、嘗て鞆浦より和田御崎に赴く時、船を淡路に繋たり、淡路冠者雑餉を供ふ、重盛之を賞して福浦上樹里百町を冠者に賜ふ、大宮蔵人実春も亦義久が弟なり」云々、按ずるに鶴島の塁址の履歴詳ならず、思ふに足利争乱の世に福良氏の人など防禦に備へたる処にても有るべし、福良氏は福良に居住の郷士と聞ゆ、嘉吉中に福良石見あり、長禄に福良蔵人大夫政貴あり、文正に福良勘解由左衛門政幸あり、賀集山古記に見ゆ。
補【福良】三原郡○常磐草 洲崎 同じく煙嶼と並びて港中の砂洲なり、白砂蒼松其奇愛すべし、里人古詠を伝ふ「あはれげに君に見せばやあはぢなるふくらのすさきの浪の松ばら」
○刈藻島 同じく刈藻の海辺にあり、又潜岩とて大石の中に覈路ありて、人馬往反の径とする処磯辺にあり。
鳴門埼《ナルトサキ》 福良町の西五十町に在り、岬勢蜿※[虫+廷]、海中に突進すること二十町、以て鳴門海峡の隘口を扼す、阿波の孫埼と相距る十町に過ぎず。○常磐草云、鳴門埼は直に瀬戸に臨む、瀬戸の中心の礁を中瀬と称す、潮汐生ずれば浪たち起りて、海面ひたしろく、船を通ぜず、潮和を渡平なるに及で、海人小船指出して、藻刈釣する者多し、磯曲に巉岩奇石畳み列りて、尤奇絶なり、磯辺に海藻貝螺多し、裙帯菜最佳、著聞集に「鳴門はよき女《メ》の上る処」とあり、阿波の方によりて飛島裸島網干島など其海中にあり、大毛の孫埼、里の蟹の磯崎、目下にあり、南を望めば阿波椿泊の湯島紀伊の日御崎、北は讃岐路小豆島など見ゆ、凡鳴門は潮の差引強くして、汐時他処にかはれり、古書に淡路の鳴門ともいふ、著聞集曰「篳篥師用光、南海道に発向の時、海賊にあひたり、用光を既にころさんとする時、海賊に向て曰、我久しく篳篥を以て朝につかへ、世にゆるされたり、今いふかひなく害されむとす、是宿業のしからしむるなり、しばらくの命えさせよ、一曲の雅声をふかんといへば、海賊ぬける大刀をおさへて吹かせり、用光最後のつとめと思て、泣々臨み調子吹にけり、其時なさけなき群賊も感涙をたれて用光をゆるしてけり、剰へ淡路の南流止《ナルト》迄送りてけり。〇四国北国動座記云、大将豊臣秀長、於淡路福良、艤船揃人数、欲渡鳴門、大船六百艘、小船三百艘、諸勢一度相叶塩時、盪出鳴門沖、譬如千行鴻雁翔天、即時従福良押着阿州土佐泊、五里也。
淡路がた瀬戸の追風吹そひてやがて鳴門にかゝる舟人、〔新後拾遺集〕あはぢ島ゆきあふ瀬戸の汐さきに安くもわたる友千鳥かな、〔夫木集〕
行者岳は鳴門埼の背なる高嶺なり、峰勢東は南辺寺山に連り、絶壁海に臨めり、絶頂に行者堂あり、相伝へて曰、役小角鬼神を駆使して此岳に来り、鳴門の海逆浪険にして舟人の艱めるを見て、阿淡の間を陸道とせんとて祈りけるに、珠数を貫ける緒の絶えて、飛び散りければ、其大願も成らざりきと、葛城山の故事に依傲せる談柄なり。
阿万《アマ》郷 和名抄、三原郡阿万郷。○今阿万村北阿万村存す、福良町賀集村の南なり、按に淡路の海部の事は古書に散見し、強大の部民なり、阿万郷は蓋其本拠にして、福良下灘上灘沼島由良等、郷名を欠ける皆阿万の隷属なるべし、淡路国の条下を参考すべし。
阿万本庄《アマホンンジヤウ》 今阿万村と曰ふ、其南浜は鳴門海峡の東側を成し、北に押登埼あり、南に潮埼ありて、弧状の湾を抱く。○常磐草云、阿万庄は昔より武人の住居せる処にて、太平記に阿万志知の人々抔とあり、阿万六郎などもこゝに住せしにや、平家物語曰「阿波国人安摩六郎忠景、是も平家を背て源氏に志を通じけるが、大船二艘に兵※[米+良]米積、物具入、都を指て上りけるを、能登殿福原にて此由を聞き玉ひて、取追ひければ、安摩六郎叶はじとや思けむ、和泉国吹飯浦に楯籠る。」○又云、阿万八幡宮は阿万郷の総社にて、本庄の亀岡に在りて名を鶴岡に比す、社地も亦亀甲玄武の象あり、神庫に奉納の仏経多し、十部百九十一巻一函に入れ、函に記して曰「元亨四年甲子五月十五日奉入之、顧主淡路大夫判官入道沙弥恵建」とあり、又三部紺紙金泥一函に入れ函に記して曰「永享八年内辰卯月、奉寄捨阿万本庄八幡宮、沼島住人梶原越前守平俊景」とあり、丈大般若経函には記して曰「宝徳二年庚午卯月、願主藤原久長、椚田守長、宥実宥伝」とあり。
補【本荘】三原郡○常磐草 亀岡山八幡祠は本庄にあり、社領若干、阿万郷中の祭る処なり、武家の世以来領主地頭の士、鎌倉鶴岡に模倣して亀岡と名づけたるなり。
稲田《イナダ》 今北阿万村の大字なり、淡路焼の竃元は此に在り。一書云、淡路焼は加集※[王+民]平の創意なり、文政十二年製陶を志して黄色青色の釉を発明し、天保五年京都に赴き陶工尾形周平を伴ひ帰り、共に陶事を研究し、資産を尽て之を勉む、遂に邑主稲田氏の聞く所となり、官窯を起し其業初めて成る、近時益盛大に赴き、※[王+民]平焼の名広く世に聞ゆ。
補【稲田】三原郡○産業事蹟 稲田村の特産にして加集※[王+民]乎の創起する所たり、※[王+民]平醤油醸造を業とせしを、文政十二年本業を廃し、製陶の事を創め〔脱文〕
下灘《シモナダ》 今灘村と曰ふ、本来上灘に対して下灘の称を正とす。阿万賀集の南に一嶺を離て、沼島に向へる一帯の海岸、長五里許の汀浦なり、汀線湾曲なく峰嶺険峻なり、中にも譲葉山最雄大とす。
補【下灘】三原郡○常磐草 潮崎仁比村にあり、阿万東村の間の海へ出でたるみさきなり、按ずるに山家集に出たる汐崎なるべし、西行法師淡路の南の海辺を経過せしこと撰集抄に見えたり、其時の詠なるべし
小鯛ひくあみの浮け縄よりめぐりうきしわざな〔すイ〕る汐崎の浦(山家集)
芳野浦 即吉野なり、按ずるに撰集抄に藤野浦とある藤の字は芳の訛。○日本霊異記〔下廿五〕紀臣馬養は紀伊国安諦郡吉備郷の人なり、中臣連祖父麻呂は海部郡浜中郷の人なり、共に漁を以て業とす、宝亀六年六月六日強風ふき二人共に海に入る、五日を経て淡路国の南田野浦に着く、世を遁れ僧とならむとて淡路国分寺に入て僧となる云々。田野浦は福戸良港口の東の海辺を田尻といふ、阿万吹上の内也、又吹上に並びて塩屋村あり、支村を佐野と云ふ、田野は佐野の訛にてもあるべし、塩屋の旧名佐野なるべし。〔芳野浦・南田浦参照〕
潮埼《シホノサキ》 下灘の大字にして、同名の岬角あり、淡州の南西端にして、鳴門海峡の南口の東角に当る、阿州の.里浦《サトノウラ》埼に対す。○常磐草云、潮崎は山家集に詠あり、西行法師、淡路の南の海辺を経廻せしこと、撰集妙に見ゆれば、其時の咏吟なるべし。
小網引く網のうけ縄よりめぐりうきしわざなる汐崎の浦。
芳野浦《ヨシノウラ》 下灘の大字にして、譲葉山の下に在り、撰集抄に藤野浦と云ふは、藤は芳の誤ならんとぞ。○撰集抄云、往にし比、淡路の国に暫く徘徊し侍りし事ありしかば、其国見ありき侍りしに、藤の浦と云処侍り、前は南向の海、湧々としてきはもなし、後は北山けんそにして、おぼろげにも、人のかよふ浦にも侍らず、しかあれども藤野と云ふ名の、何となくむつまじく覚えて侍りしかば、たどる/\罷りて侍りしに、あやしくあさましき庵の、やぶれ残る侍り、めづらかに覚えて見侍りしかば、庵の主は見え玉はず、黒染の袈裟と硯とばかり見え侍る、傍なる板に北嶺禅閤大僧正明雲室也と被書付侍、さては此処に住玉ふ事のおはしけるよと、哀れに賢くおぼえて、すずろに涙の落ち侍りき、其日の傾まで侍りしに、夕に成て僧正山の上よりいまそかり、山桜の花をなむ手折玉ひて、下りたまへり、こはいかにとよ、何として尋いたりたるぞや、都の方に何わざの事の葉か侍らむとこそ、思とりたれとの玉ひしに、御返事申すまでにもおよばず、随喜の涙をせきかねて侍る、其夜は御庵の傍に侍て、何となく述懐ども申出で互に袖をしぼりて、さて有べきにも侍らざりしかば、泣々別れ奉りき。
譲葉山《ユヅルハヤマ》 又諭鶴羽山に作る、下灘村大字芳野の北に聳え、市村神代村の南に当る、標高凡三百米突。何の世よりか熊野山十二所の明神を勧請し、号して弓絃棄権現と曰ふ、謡曲淡路にも載せたり。○常磐草云、譲葉は南海に臨める高峰にして、山に譲葉権現杜あり、国君より営建の所なり、賀集山古記に弓絃葉供養とて、舞楽の法会ありし事見えたり、昔は譲葉の頭とて大響ありし事などいひ伝ふ、大永六年、沙門有尊の諭鶴羽山再興募縁疏曰「淡州諭鶴羽山、元曰多々横峰、人王九代之時、天竺摩迦陀国神、乗鶴羽来山止、因名論鶴羽山権現、天智朝、播日本無双之嘉名、天暦之年、振夷狄降伏之霊威」云々、天正二年丙子、諭鶴羽山証文曰「証誠大菩薩(一社二間一面)二所両権現(一社三間一面)三若宮王子(一社二間一面)四五体王子(一社五間二面)五四処明神(一社四間二面)六満山護法(一社)七地主神(一社)八護法神(一社)九常行堂(一宇三間四面)十経堂(一宇三間四面)十一長床(一宇七間四面)十一舞殿(一宇五間四面)十三鐘楼(一宇二蓋)十四大門(一宇二蓋)十五三面回廊下渡廓、十六不断如法道場(一宇三間四面)十七金堂(一宇三間四面)十七金堂(一宇七間四面)十八湯室(一宇三間四面)已巳上十八宇」按ずるに諸社道場みな廃して、今本社拝殿遺る、界内に古石碑ありと雖、文字漫滅して読むべからず。
南田野浦《ナダノウラ》 日本霊異記に、宝亀六年、紀伊国安諦郡、吉備郷の人紀臣馬養海中にて風に逢ひ、舟淡路国の南田野浦に着くと云事を録す、南田は灘にて、灘之浦なるべし。
沼島《ヌマシマ》 三原郡に属し、灘村の海上に在り、周廻二里、西北に小湾ありて下灘に対す、距離三海里許、渺乎たる孤島なれども、古より漁民栖止し、履中紀に淡路野島海人と見ゆ、今も沼島千軒と称し、行舟猟魚を善くし、沼島村と云ふ、民戸二百。○此島は古書に野島《ノシマ》又|武島《ムシマ》にも作り、相伝へて、※[石+殷]馭廬《オヌゴロ》島即此と為す。
常磐草云、沼島は西北面に漁家群を成す、其|泊浦《トマリウラ》と云ふ地即泊舟の所にして、南浦を流河と云ふ、此島の海人等、或は伊勢の海対馬の海に行て釣魚するものあり、沼島を太平記に武島と書るは、沼武音訓近きを以て訛れるなり、紀貫之土佐日記に「阿波のみとをわたりて、とらうのときばかりにぬしまといふところをすぎて」とあるは、即此地なり、万葉集に野島の碕と詠めるは津名郡の野島浜なれど「淡路の野島《ヌシマ》の海子(巻六)又、あはぢの野島もすぎ」云々など皆此沼島なるべし。
朝なぎに梶の音きこゆみけつ国野島の海子の船にしあるらし、〔万葉集〕あがほりし野島は見せつそこふかき阿胡根の浦の珠ぞひろはね、〔同上〕
又云、沼島の南の磯に平波倍《ヒラハヘ》と云ふ岩礁あり、長四十丈、広十五丈、石面平垣なり、毎年六月三日海神を此※[山/品]上にて祭る、神楽続経あり、磯に差出たる石を方言に波倍といふ。上立神《カミタテガミ》、平波倍の北の磯の海中にある石の名なり高給四丈余の奇石なり、直立柱の如し。下立神《シモタテガミ》平波倍の西南の磯の海中にありて、高七丈許の石なり、柱の如く挺立す、屏風岩は壁立し屏障の如く、仏堂岩は半腹に緑青を生じ、画彩するものに似たり、其下に洞穴あり、其余、島の四方に種々の岩、種々の波倍あり、中にも鏡石は方丈許の白石、滑にして鏡の如し、その浜辺を鏡浦といふ、又温石溪間にあり、焼て痛処をあたゝめ、彫て硯とし、炉とし、石印とす、又氷柱石あり形相似たり。
同書又云、此島太平記に武島《ムシマ》と記し、尊良親王の御息所の漂流したまふ始末あり、島人も御息所は大寺と云一院に住はせ給ふと伝ふ、其大寺は今廃す、太平記曰「御息所の御船に乗ける水主、船を漕寄て淡路の武島と云ふ処へ漕着奉る、此島の体たらく、回り一里に足らぬ処にて、釣する海士の家ならでは、住人もなき島なれば、隙あばらなる葦の屋の、憂節滋き栖に入進せ、波の立ゐに御袖をしぼりつゝ、今年は此にて暮し給ふ、明る年諸国軍起て、六波羅鎌倉九国北国の敵亡びたりしかば、先帝は隠岐より還幸、一宮は土佐の畑より都へ帰り入らせ給ふ、一宮は唯御息所の今世に坐ぬ事を歎思食ける処に、淡路の武島にいまだ生て御座有と聞えければ、忽御迎を下され、都へ帰り上らせ給ふ、かくて又中一年ありて、一宮は越前にて御自害あり、御息所は御思ひのつもりやに、御中陰の日数いまだ終らざるにはかなくならせ給ふ」云々とあり、按ずるに増鏡の説にては、御息所は宮にさき立ちて死し玉へり、然れば太平記は妄説なり。○又云、沼島の館址は今は多く畠と為る、太平記曰「脇屋刑部卿義肋、暦応三年四月、南朝の勅命を蒙り、四国西国の大将を奉て、伊予国に下向す、紀州田辺宿より熊野人ども兵船を調へ、淡路の武島へ送奉る、爰には安間志知小笠原の一族共、元来宮方にて城を構へて居たりしかば、様々の酒肴引出物を尽して、三百余艘の船を構へて、傭前児島へ送奉る」云々、此頃沼島にも城柵の設ありしにや、沼島の館主は梶原氏と称せり、加集山古記に梶原平次郎と見ゆるは、細川国主の時の人なり、阿万八幡宮の経函に永享中の人とて、沼島住人梶原越前守平俊景と銘記したり、梶原氏永正の頃は三好に与力し、天文中には梶原景時、天正中には梶原秀景、沼島の領主なりしことは、沼島八幡宮の棟札に明証あり、天正九年、京勢当国略有の頃、梶原氏も亡びしなり。○予章記云、正平二十二年十月、伊予牢人河野通直、已に鎮西に於て更部親王に従ひ奉り、豊前小倉に於て策を為し、淡路の沼島へ上向す、小笠原海賊の一族、多年南方なれば之に依らんとて也、此時の船人数は村上長門守以下、屋代島(周防)より取乗て、如和牟須岐両島並に新居津倉淵(伊予)を焼払、沼島に上着し、相尋ぬる所、小笠原一族多年の功を捨て、将軍方へ参じ、僅に四十余日也、細川殿管領として籌策に依て楠正儀同く降参せりとぞ、通直も力に及ばず罷下る。(小笠原と梶原氏異同を詳にせず)管領記云、大永元年三月、公方義植細川高国とおん中不和になり、京を出でさせ給ひ、淡路の武島へ御渡海ありければ、京には若君義晴播州より上洛あり云々。陰徳太平記云、足利公方義植公、大永元年、潜かに都を出給ふ、泉州境の南庄に暫くの程御座を居ゑられければ、四国の武士馳集て警衛し淡州に渡海有て、或幽僻の地に菟裘の処を相て、黒木作の御殿を建られ、其後如何思召れけん、阿波国に漕渡らせ、纜を暫鳴門の磯辺に繋ぎたるに、如何なる者の所為にや有けん、一首の狂歌を書て磯辺にぞ立たりける、
たそや此鳴門の沖に御所めくは泊り定めぬ流れ公方か
補【沼島】三原郡○常磐草 按ずるに立神と称し来れる意を考るに、是又神代紀の言に「便以※[石+殷]馭廬島為国中之柱、而陽神左旋陰神右旋、分巡回柱」又一書に曰、「二神降居彼島、化作八尋之殿、又化竪天柱云々、即将巡天柱」よりて名づけたるにや。屏風巌、縦横数十丈の石崖屏風を立たるが如し、仏堂或は金華※[山+品]とも云ふ、半腹に緑青を生じて画彩するが如し、崖下を岸の海と称す、洞穴ありて水深し、其余島の前後に大小の奇岩数へがたし、烏帽子岩、蟇波恵・具足波恵・籠波恵・薬研波恵・屋形波恵、形似を以ていひ、赤波恵・麹塵波恵・青波恵は色に因む。
○万葉集三覊(馬は奇)旅歌柿本朝臣人麻呂「三津崎|浪矣畏《ナミヲカシコミ》隠江乃|舟公宣奴島爾《フネナルキミガノラスノジマニ》」按ずるに三津崎は摂津にあり、隠江は曲江なり、御津乃崎の波のあらきを凌ぎて隠江の舟こぎ出でつゝ奴島にや君が行らんいとほしと、旅行を慰めたるなり、今沼島と称するは即おのころ島なり日本紀曰、伊弉諾尊伊冊尊天浮橋の上に立して共に計りて曰、底下に国なからむやと宣ひて、すなはち天の瓊矛をもて指下して探り給ひしかば、こゝに滄海を獲給ひき、その鋒より滴瀝れる潮凝て、一の島となれり、これを名づけて※[石+殷]馭廬島といふ、二神こゝに彼島に降居して、すなはち共為夫婦して州土を産んとおぼす、すなはち※[石+殷]馭廬島をもて国の中の柱として陽神は左より旋り、陰神は右より旋りて同じく一面に会ひ給ひき、按ずるに瓊矛は神代巻小註に、瓊玉なり此を努と云ふとあり、努の呉音ヌなり、古事記には沼矛と書たり、とほことよむは誤なり、古はおのごろじまといひしを、沼矛の滴凝りてなれる島なりといふ説を取てぬほこの島といふべきを、省きてぬしまと後世に名づけしなるべし、釈日本紀引公望私記曰、問、此島有何意名之乎、答、是自凝之島也、猶言自凝也、今見在淡路島西南角小島、是也、云俗猶存其名。按ずるに西南の角といふ説多く、たがはず、沼島は国の南にあり、俗猶有其名とあれば、公望の頃まではおのごろ島をよく知りたる人ありしなり、釈紀又曰、或説今在淡路国東由良駅下。按ずるに由良駅延喜式に出でたり、南海道の渡口にて紀伊国に近し、由良駅の下五里許西に沼島あり。
○按ずるに阿万志知の人々始て沼島に塁柵を構へけるにや、又賀集山にある細川の時の名簿の中に梶原平次郎あり、梶原氏は沼島に居住せしなるペし、永享中沼島住人梶原越前守平俊景あり、阿万八幡へ納経の筥の記に見えたり、大永享禄に至て三好氏兵権を握りて威名を振ひ、永正の頃養宜の細川氏をも殺害せしと聞ゆ、阿万の細川も梶原氏の為に害に遭ひしといふも、其頃の事なるべし、梶原氏も三好に与〔脱文〕
※[石+殷]馭廬《オヌゴロ》島 沼島の古名なり、仁徳帝の御詠に入り、其所指を知るを得、神代巻に見ゆる※[石+殷]馭廬島も亦推して此と為すを得べしと雖、太古の事なれば、必しも究めず。
古事記云、仁徳天皇、欲見淡道島、而幸行之時、坐淡道島、遥望歌曰、
おしてるや、那爾彼の碕よ、いでたちて、わがくにみれば、阿波志摩、※[さんずい+於]能碁呂《オノゴロ》志摩、阿遅摩佐《アヂマサ》の志摩もみゆ、佐気都志摩みゆ、
常磐草云、淡路と紀伊の中間に伴《トモ》島あり、伴島の東の陸岸、浜辺に海部郡加太の淡島社あり、然れば伴島の旧名淡島なるべし、此御歌難波の崎より出立玉ひて、伴島より沼島をかけて見わたし玉ひ、其余の島々を眺望給ふ意なり、伴島沼島の間近くみわたさるゝ処なり、釈契沖が厚顔抄にあぢまさのしま、日本妃の人名に檳榔をあぢまさと点せり、檳榔島の名今聞えず、名を変じたるなるべし、さきつしま此島亦詳ならずとあり、按ずるに崎々島々の意にや。○今按ふに、阿波志摩を伴島と為し、※[さんずい+於]能碁呂志摩を沼島と為すは至当の説なるべし。佐気都志摩はさきなる島の意にて、此と指す所はなけれど、紀伊阿波の海なる島々ならん、殊に阿波の湯島《ユシマ》は沼島の南に当る、或は是島なるべし。檳榔は※[木+容]樹などと同く、紀伊阿波土佐日向などの南海岸に生長すべき樹種とす、今は紀伊阿波の暖地にも、檳榔の存在を聞かざるは、中世絶種したるにやあらん、※[木+容]樹は後に遺れり。
古事記云、天神詔伊邪那岐命伊邪那美命、賜天沼矛、故二柱神立天浮橋、而指下其沼矛、以画者、塩許袁呂許袁呂爾画鳴而、引上時、自其矛末垂落塩之、累積成島、是|※[さんずい+於]能碁呂《オノゴロ》島、於其島天降坐、而立八尋殿。○神代紀云、二尊、立於天浮橋之上、共計曰、底下豈無国歟、廼以天瓊矛、指下而探之、滴瀝之潮凝成一島、名之曰※[石+殷]馭廬島、便以彼島、為国中之柱、生大八洲。○釈紀云※[石+殷]馭廬島、有何意名之哉、是自凝之島也、今見在、淡路島西南角、小島是也、或説、今在淡路国東、由良駅下、或説云、淡路紀伊両国之境、由理駅之西方小島云云、彼淡路坤方小島、于今得此号也、〔弘仁私記〕又云、古説、天神所賜瓊矛、既探得島、即以矛衝立此島、為国柱、化為小山也。〔弘仁私記〕
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鹿子湊《カコノミナト》 今詳ならず、古風土記に見ゆ、鹿子水手相通ず、蓋淡路海部の住所にして、三原湊を指せるにや。淡路風土記云、応神天皇、淡路島遊猟時、海上大鹿浮来、則人也、天皇召左右詔間、答曰我是日向国諸県郡牛也、角鹿皮着、而年老、雖下与仕、尚以莫忘天恩、仍我女髪長姫貢也、仍令榜御舟矣、因之此湊曰鹿子湊。〔由阿詞林采葉※[金+少]〕○此事は応神紀には播磨の鹿子湊とす。
淡路島 新井 君美
万歳幽宮悶、孤洲積水回、風雲天柱壮、煙霧海門開、樹色波間動、潮声月裡来、蒼梧南狩後、落日望中哀、
河内国
河内《カハチ・カフチ》 国 彊城東は大和西は摂津和泉南は紀伊北は山城に至り、東西凡四里南北凡十三里、峰巒東南を擁し淀川西北に繞り大和川其中央を貫き、土壌膏沃なり、北河内中河内両郡は水の利害最も厚し、築堤疏流の工役古来屡之あり、地形の変革亦多し。○延喜式、和名抄、河内国、訓加不知、十四郡なり、後世|丹比《タチヒ》郡を丹南丹北に分ち、又丹北より八上《ヤカミ》を分つ、故に拾芥抄十五郎と為し、正保図十六郡と為す。近代は二十六万国の封国と称せり。明治廿九年諸郡を廃し南河内中河内北河内の三を更置す、面積四十三方里人口三十万、大阪府の管治に帰す。○河内は修辞して河州《カシウ》又内州と曰ふ。
河内古|凡《オホシ》川内と称し国造あり、其本居蓋今中河内の地なり。古事記云、天津日子根命者、凡川内国造之祖世。日本紀云、天津彦根命、凡河内直祖也。国造本紀云、磐余尊(神武)以彦己蘇根命、為凡河内国造、即凡河内忌寸祖。又云、橿原朝、以彦己曾保理命、為凡河内国造。○安閑記に大河内《オホシカフチ》に作り、欽明紀に加不至と注せる所あり。通証云、凡河内也、以皇都在和州、而大河繞州西北、故名、古事記伝云、河内は倭名抄加不知とあり、加波宇知の波字を切めたる也、今加波知と云は訛也。按に凡河内とは凡字に大小対比の義あるにや、又凡とは恩智《オンチ》と同語にして地名を冠らせし称号にや、詳ならず。一説凡とは押し統ぶる義にて、河内の
元正天皇の時三郡(即茅渟県の地)を割て和泉監を置く、神護景雲三年由義別宮を都と為し国を改め職と為されしが、幾もなく旧に復す。続日本紀、称徳天皇神護景雲三年十月詔、以由義宮(志紀郡)為西京、河内国為河内職。光仁天皇宝亀元年八月、河内職復為河内国。
河内|綿布《木綿》は世上其名あり、然れども是れ草綿耕織以来の事なれば、其盛興は近世の事なるべし。古は此国染織を以て著る、万葉集に河内女《カハチメ》の称出て、女巧の起る其久きを徴すべし。延喜式云、中宮御服※[糸n兼]六百疋料、白糸一千五百絢色糸三百絢、右年料、附河内回、依件雇織、其庸功者、用商布一千八百段充給。
河内女の手染の糸をくりかへし片糸にあれど絶むと念へや 〔万葉集〕
補【河内木綿】○地誌提要 ○白木綿、俗に河内木綿と称す、茨田、若江、高安、錦部四郡諸村より出づ、〇三宅縞木綿、丹北郡三宅村より出づ、凡そ当国は東南高く西北低し、万水南より西北に流る、故に土人南を上といひ、北を下と云ふ、風俗素樸淳厚にして奢麗を好まず、稼穡を力め尚古の風を存す、婦は綿布を織て恒産とす、是を世に河内木綿と云ふ、縞を則ち河内縞と云ふ、地性頗る強し、所謂上地の名物なり。
補【椎名紬】○社会事彙 貞丈雑記云、しゐな紬といふ物は椎名といふ所より出づる紬なり、椎名は河内国にあるか。〔未詳〕
北河内郡
北河内《キタカハチ》郡 明治廿九年|讃良《ササラ》茨田《マツタ》交野《カタノ》の三郡を合同して北河内郡と為す、凡三十一村二町(枚方守口)郡衙は枚方に在り。東南は洞峠龍王山飯盛山等(男山より生駒山に連接)一帯の高地にして、山背は山城大和なり。西北淀河を以て摂津三島郡に界し、樟葉より守口まで凡六里沿水の地卑湿を免れず。其西部(旧茨田郡)は往時山城川大和川交衝の点にあたり、※[さんずい+于]沢渺々として大坂城の東を繞りぬ、近世治水の功わづかに旧態を変ずと雖、歳時汎濫の患あり。南は中河内郡に接す。○本郡は古へ茨田の地なり、中世三郡に分れ、今復一に帰す。大坂洪水志云、淀河の水利は摂河二州の安危に係る、昔貞享年中、徳川幕府修治の策を施し、滞を導き阻を鑿つ、而も後世仍水患を免れず、享和二年六月、点野(今牧野村)の堤防を決し、茨田讃良若江の諸郡、汎濫して海を生ず、枚方以西の河身は為に滴れ、運漕の舟は潰水の上を走れり、其歳十一月始めて復旧したりと、明治十八年六月、淫雨止まず、十七日淀河暴漲し、枚方伊加賀堤を決潰し、奔流滔々として讃良を過ぎ忽ち摂州東成郡に入る、寝屋川の堤防其激衝に当り、吏民奔走東成郡野田の堤を截り、潰水を本流に復せしむ、二十日の午後に至り湛水稍滅するを見る、下旬に至り雨尚止まず、伊加賀の決所築塞功に垂んとして、二十八日更に大破す、寝屋川の拒障も潰水に没し、濁浪渺茫、中河内《ナカヽハチ》の諸郡村を呑み、東成西成皆波底と為る、七月二日、大坂市街は三十余橋一時に没落し、街上の水深屋に達す、又淀河右岸も島上郡に決潰し、鉄道線以南の村落浸水に会ふ、当時河源の琵琶湖に於て六尺五寸の増量、大坂に於て十一尺八分の増量を見たりき。
底本には誤植と思われるものが相当数ありますが、あえてそのままにしました。
底本に付されていた正誤表によって本文を訂正しました。
底本:「増補 大日本地名辞書 第二巻 上方」冨山房
1900年3月31日初版発行
1969年12月28日増補版発行
1975年12月10日同三版発行
2004.6.5(土)午前9時40分、淡路入力終了
2009.11.13(木)午後9時25分、微修正