増補 大日本地名辞書 上方(大和国、伊賀国、伊勢国、志摩国、紀伊国、淡路国のみ)
吉田東伍
 
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(例)一百〔ト〕申〔セシ〕四月
韻文の引用の時、題の下あるいは作品の後に数字分あけて作者名を字間を大きくあけて記すものがあるが、一字だけあけて、作者名の字間はつめて表記した。作品と作者名との間をあけていないものは一字分あけた。 〕
 
     大和国
 
大和《ヤマト・オホヤマト》国   大和は大和川の上游に在りて一国を成す。四周山を以て囲み平曠肥腴なり、神武天皇|橿原《カシハラ》奠都の後列聖の宮室歴代遷移ありと雖大略此間を出でず、和銅中|平城京《ナラノミヤコ》を造営せられ規制最大なり、延暦中山城に遷都あり猶|南都《ナント》と称しき。此国南方は 畳嶂属嶺綿亘太広し、吉野《ヨシヌ》郡と云ひ本国に隷し其水脈を相すれば吉野|北山《キタヤマ》十津《トツ》の三水の上游にして、一水は横流し(吉野)二水は縦貫す。又東方|宇陀《ウダ》郡は伊賀国と一境を為し、名張《ナバリ》川衆水を集めて北流し山城国に入る。
大和古倭に作る、倭は漢魏人本邦を称したる異名なりと雖、取りて夜万止《ヤマト》の訳に仮りたり。又日本に作る、此地即本邦の都邑なりければ義に因りて訓じたり。神武帝磐余橿原宮に居たまひ神日本磐余彦の号あり、磐余《イハレ》即畝傍山の辺の総名にして倭の古国も此地に限れり。(今高市郡磯城郡蓋山処の義に出づ)後葛城国|闘鶏《ツゲ》国|層富《ソフ》等に及ぼし、地方の総名と為ると倶に亦国朝の大号と為る。孝徳天皇大化改新の比定めて六県と為れり、日本書紀云「大化元年八月、於倭国六県被遣使者、宜造戸籍并校田畝」、書紀集解、引延喜式祈年祭祝詞云「御県に坐皇神前に白、高市葛木十市志貴山辺|曾布《ソフ》と御名は白て、此六県に云々」これなり。国郡制度定まるに及び大倭国は前の六県を分ち十二郡と為し、宇陀吉野字智を之に隷せしめ十五郡なり、延喜式和名抄之に同じ。国郡沿革考云、大倭《オホヤマト》国は聖武天皇天平九年改めて大養徳《オホヤマト》と為し、十九年復旧大倭の字を用ゐ、孝謙天皇天平宝字元年更に改めて大和と為す、続日本紀天平宝字元年五月六月の条に大倭宿禰小東人并見し、十二月に至り大倭宿禰長岡あり、二年二月に至り始て大和国とあり、大和守大伴宿禰稲公云々,而て拾芥抄に「天平勝宝中、改大倭国為大和」と云ふ亦拠となし難きに似たり。和は広韻「戸戈切、順也諧也不堅也不柔也」而も呉音にはワと発唱す、倭は広韻「烏禾切、音渦、前漢地理志云、楽浪海中有倭人分為百余国」又玉篇「於為切音※[火+畏]、説文云、順貌従人委声、詩云周道倭遅」と、然れば和倭は元来異字なり唯釈義に共通の意あり、天平宝字中之に因りて改号ありし者の如し、其音亦相同じ。
 按に釈日本紀開題云、倭字之訓、其解如何。答云、延喜講記説曰、漢書晋灼淳各有注釈、然而惣無明訓、今案諸字書中、又指無訓読。東宮切韻曰、陸法言云、烏和反、東海中女王国、長孫訥言云、荒外国名、薩※[玉+旬]云、又於幾反、順貌。孫※[りっしんべん+面]云、従貌、東海中日本国也。玉篇曰、於為反。説文云、順貌。詩云、又為禾反、国名。(以上)又云、本朝号耶麻止事。弘仁私記序曰、天地剖判、泥湿未乾、是以栖山往来、因多蹤跡、故曰耶麻止、又故謂居住為止、言止住於山也。延喜開題記曰、大倭国草味之始、未有居舍、人民唯拠山而居、仍曰山戸、是留於山之意也。又或説云、開闢之始、土湿而未乾、至于登山、人跡著焉、仍曰山跡。(以上)此に耶麻止は山に止まると云意、又山に跡ありと云意と為すは信拠し難し、山ある処の義なるべしと、或人其説あり、前説にまされるを覚ゆ、又同書云、磐余彦(神武)天皇定天下、至大倭国、王業初成、仍以成王業之地為国号、譬周成王於成周定王業、仍国号周。松屋国名考云、大和之為言、山処也、処猶言地、凡訓地云止古呂者、略云止、古語其例多矣、謂其国外則青山四周、内則為場也、或曰椰麻騰者椰麻知也、知騰音通、乃山内国義、所謂「玉牆内国《タマカキノウチツ》」又「青垣山|隠《コモレル》倭《ヤマト》」等可以徴矣。
大和、十五郡、明治二十九年合郡する所ありて十郡と為る、今奈良県管治、人口五十万、面積東西十里南北二十五里、約二百方里。畿内志によれば和州四十五万石城州二十一万石と云へり、此二州は郡郷の地細分して公武寺社各家の封邑錯雑を極めし所とす。大和は和名抄に於保夜万止と訓ず、然れども大(於保)もと美称に出で常に夜万止とのみ呼ぶ、古事記仁徳帝御歌に夜麻登、万葉集雄略帝御歌に山跡とあり、魏志に邪馬台とあるも之に同じ。○和《ワ》州は大和を修したる者也。
    寄和州高取宰林老丈 伊藤東涯
 千年王気古、百里国風新、襟帯山河国、桑麻衆落春、分憂重良吏、禦侮頼戎臣、何日金峰下、蔭花岸角巾、
 
    添上郡
 
添上《ソフノカミ》郡 大和国東北隅にして旧添下郡と一境の地なり。春日の三笠山中央稍北に峙ち、山東の地は、田原|柳生《ヤギフ》等別に一境を成し、山城相楽郡伊賀名張郡に接す。日本書紀神武帝の巻に層富《ソフ》県あり、(欽明帝の巻に添上郡とあるは追書にして)大化元年大倭六県の一は延喜式に曾布と記し、其後上下に分れたり、続日本紀、元明天皇和銅元年、至春日離宮、詔添上下郡勿出今年調云々。(日本書紀、天武白鳳五年、添下郡あり此頃已に分れたりと知るべし)
和名抄、添上郡、訓曾不乃加美、分郷八あり、今奈良市外十七村と為る、郡役所奈良市に在り。
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那羅山《ナラヤマ》 添上郡奈良|佐保《サホ》及び生駒郡(旧添下)都跡村の北なる丘嶺の総名なり、中にも奈良市の北を奈良坂と云ひ、(相楽郡木津に通ず)佐保村の北を佐保山と云ひ、都跡村の北を歌姫越《ウタヒメゴエ》と云ふ。
日本書紀云、崇神天皇之時、武埴安彦叛、遣大彦与彦国葺撃之、官軍進登那羅山而軍、時軍人屯衆而※[足+(滴−さんずいへん)]※[足+且]《フミナラス》草木、因号其山曰那羅山。神皇正統記云、嵯峨の御代に(弘仁元年)奈良坂の戦ありて後は、朝に兵事といふ事なかりしに、保元より乱れ初めぬるも、時運のくだりぬる姿とぞ覚え侍る。那羅は古書に乃楽又諾楽寧楽に作る事あり、然れども※[足+(滴−さんずいへん)]※[足+且]と云ふより起因すと云ふは信ずべからず、地名に因りて旧事を伝ふるが故に古人往々此種の語あり、惟ふに那羅は樹名楢に出でたるか、万葉集に「ふるころもき馴《ナラ》の山」とよみ楢の字を充てたる所あり。又楢の冠辞をば多く青丹吉《アヲニヨシ》と云へり、青丹は土の名なるべし、又|平山《ナラヤマ》に造るは平均《ナラシ》の訓を仮りたるのみ。
 平山の峰のもみぢばとればちるしぐれの雨し間なくふるらし、〔万葉集〕青丹吉奈良の山なる黒木もち造れるやどはませどあかぬかも、〔同上〕
那良豆比古《ナラツヒコ》神社は奈良町大字奈良坂の西側に在り、旧西福寺境内に属し俗に奈良坂春日杜と曰ふ、延喜式に列す。
補【奈良神社】西福寺境内に在り、奈良坂春日杜と号す、延喜式神名帳曰、添上郡奈良津比古神社、即是也。
 
奈良坂《ナラサカ》 木津村|市《イチノ》阪より十八町、更に南方般若坂|川上《カハカミ》等民家十町許相接して奈良町に達す。(一名|高座《タカクラ》坂また拷問《ガウモン》坂と云ふ)平城坊目考云、奈良坂は慶長以前まで孤村たり、近世繁昌なるを以て在家奈良町につらなる、伊賀路は奈良坂の東北へ行く、俗に平野《ヒラノ》道といふ、盛衰記に平野の笠卒都婆といへるも此東なり。
補【奈良坂】○平城坊目考 当村慶長年前迄孤村たり、近世繁昌なるを以て、在家般若寺町に列る、伊賀路は当郷の北東へ行道なり、俗に平野道といふ、盛衰記に平野の笠卒都婆といへるも此東なり、一条禅閤兼良公藤河記に云、奈良の京を立、般若坂を越、梅谷といふ心冷き所を経て加茂の渉を過て、笠置川に乗船と云々、如件文体、今謂ふ路にあらず、般若坂より梅谷に至る旧道ある事知べし、或旧記云、上古平城朝東国大路非当所、山辺郡竹谿村安保越と称す是也、当郷の通路は上古山州近江北国等に通ずる大路にして、延暦三年遷都以後平安城の行道たるものなり云々。
 
雍良岑《ヨラノミネ》陵 東西の二陵ありて、其東陵は元明天皇の喪所なり、奈良坂の西北三町許に在り.名所図会云、奈良坂春日社の側に函石《ハコイシ》と云者あり、俗に佐保姫神影向石と崇めたり、是則元明帝陵の碑石也、之を此所に移すこと詳ならず、高三尺横巾一尺三寸許、銘曰
 大和国添上郡平城之宮馭宇八洲太上天皇之陵是其所也養老五年歳次辛酉冬十二月癸酉朔十三日乙酉葬此
此銘文は東大寺要録にも載たり、其葬処の南稲荷山に犬石と云者四個あり、隼人の象なるか(聖蹟図志)。此陵は類聚国史、扶桑略記に椎山《ナラヤマ》と為す。続日本紀云、養老五年十月、太上天皇詔曰、厚葬破産、重服傷生、朕甚不敢焉、朕崩之後、宜於大和国添上郡|蔵宝山雍良岑《サホヤマヨラノミネ》造竈火葬、莫改他処、謚号某国某郡朝廷馭宇天皇、流伝後世。又詔曰、其※[車+需]車霊車素薄是用、仍丘体無鑿、就山作竈、芟棘開場、即為喪所、又其地者皆殖常葉之樹、即立刻字碑、十二月太上天皇崩、葬於添上郡椎山陵。小川氏云、雍良峰は火葬所にして後改葬あり故に延喜式に奈保山東陵とあり、改葬は遺詔の本意に非れど後主の厚旨に因り改葬して山陵を起し又謚をも日本根子天津御代豊国成姫と申し、追謚には元明と申す。
雍良《ヨラ》峰西陵は元正天皇の喪所なり、東陵の西二町許弁天山と称す。続日本妃に因れば天平二十年佐保山に火葬し、日本根子高瑞浄足姫と謚し、天平勝宝二年奈保山に改葬し、追謚元正と曰ふ。按に佐保山奈保山の疑は早く本朝世紀にも見ゆ、同書「久安五年、実検山陵之便帰洛陳申云、興福寺上座玄実為造持仏堂、奈保山石少々所引也、聖武天皇山陵者在佐保山、所在奈保山者元正天皇山陵也、所曳之石兆域之外也、東大寺諸司申云、佐保山奈保山是一所異名也、堀頽本願聖武天皇山陵、運取数多大石等者云々、難一決」と古より此種の疑問ありしと見ゆ。扶桑略記には「元明天皇火葬于椎山陵、元正天皇葬佐保山陵」とあり、此椎山は奈良山と訓むべし新撰字鏡に椎字をば奈良之木と注す。※[てへん+叉]此山陵は異説疑難区々にして今断定し難きに似たれど、之を要するに奈良坂の西なる雍良峰を火葬所とし、法華寺の大奈閇小奈閇を奈保山の本陵とする方、稍通じ易きごとし。又犬石(一名七石又隼人石)の事に就き、元明帝陵と佐保山西陵(文武皇后宮子姫)の混乱あり、其説大八洲雑誌に見ゆ。○大八洲雑誌云、隼人石の事まづ石像所在地を考ふるに、其の記載せる所一様ならず。松下見林の説には大奈閉にありと記されたり、前王廟陵記巻上に云、奈保山東陵、平城宮御宇元明天皇、在大和国添上郡、兆城東西三町、南北五町、守戸五烟、或曰、今俗云、大奈閉七疋狐辺、有七立石、石鐫狐、と見えたる是なり。関祖衡並河永等の説には字たいこくにありと記されたり、大和志巻二陵墓の条に云、佐保山西陵、平城朝太皇太后藤原氏宮子、在眉間寺西北陵北六百歩許、呼曰太皇后尾、有巨石彫刻七狐、即天平勝宝六年八月火葬之地、謚曰千尋葛藤高知天宮姫之尊、乃聖武帝母也と見ゆ。蒲生秀実も同所と記されたり、山陵志巻一添上郡の条に云、佐保又有西陵東陵、東陵是聖武皇后藤原氏、西陵是文武皇后藤原氏、文武后之陵、今呼|大黒柴《ダイコクノシバ》、蓋其火葬処云、後尊為太后、大黒其音訛也、其辺有刻石面如狐者七枚、或云狗也非狐、古時隼人職守宮門為狗吠、故臨大喪亦以狗形置梓宮旁云と見えたり。また屋代弘賢が実践せる紀行にも、同所に於て一覧せし事記載せり、道の幸巻中、寛政四年十二月七日の条に云、ひるつかたよりたいこくの芝へ行く、ここは元明天皇御火葬の旧跡なり、この所のならひにて小山を芝といふなり、たいこくとは太后宮といふべきがつゞまりたるなり、このならびに、藤原のみや子の御墓あれば、さはいふとぞ、続日本紀に見えたる遺詔の趣いと掲焉にて竈の跡かすかに残り隼人の像ゑりたる石みつあり、むかしは七ツありしにや、こゝの字を七疋狐ともいふなり、奈良の箱石はこの所に有べきか、誰人のわざにやかしこにうつしぬとぞ云々。以上諸説区々なるが今大沢清臣氏の説を参考するに、此石像は太后宮芝に遺在せし事、また七疋狐と雍良峰と大奈閉山とは各別なるを知るべし。大沢氏の説云、隼人石は法蓮村の内字七疋狐とよべる古墳の上に在り、此地いにしへ佐保山とも那富山とも呼べり、彼佐保山南陵(聖武陵)よりは見渡し四町許西北にあたれる地なり、今は其石四個あり犬石とも云、此犬石の地と雍良峰と大奈閉山とはもとより別地なるを、諸書に一にまがひてこの犬石も雍良岑にありしよしにいはれたるは、土人の物がたりなどを打聴きに記せるものに依りて、其地理に悉しからざりしより起りたる誤にて、この犬石はかの奈保山東陵の雍良峰にも大奈閉山の古墳にももとよりあひあづかれるものならず。(以上)
 
般若寺《ハンニヤジ》 奈良坂の南に在り、寺辺を般若坂又般若野と云ふ。此寺太平記に、元弘元年、大塔宮親王経櫃に潜み賊手を免れ玉ふと為す所なり、又俗説聖武帝御願にて経塔を建てたまふとあれど採るべからず、孝徳天皇御宇白推五年曾我日向子臣の創建にして、後世重興したる者也。
上宮聖徳法王帝説云、曾我日向子臣、字無邪志臣、難波長柄豊崎宮御宇天皇(孝徳)之世、任築紫太宰帥也、甲寅年十月、為天皇不予、起般若寺。三代実録云、貞観五年、般若寺山内十町、令制禁伐木。元亨釈書云、延喜中観賢開和州般若寺、又云、忍性戒講之余、切于興福、募衆縁造丈六文殊大士、今般若寺之像是也。平城坊目考云、般若寺は治承四年重衡に放火せられ、其後文永年中興正菩薩再興して律宗と為す、延徳中又回禄して唯経蔵楼門等を遺したり、寛文年中本堂を造り、元禄の比寺中十三重の石造経塔を修復したるに、金造釈迦仏一体露盤の中より現はれたり、其後故の如く之を収む。
補【般若寺】○平城坊目考 治承四年十二月、平重衡為放火被焚、而後文永年中興正菩薩再興、於是為律宗、延徳二年回禄、漸遺止経蔵楼門等、於是安置文殊大士像於経蔵云々、寛文年中本堂再興、当時現存是なり。〔元亨釈書、略〕三代実録曰、貞観五年九月廿六日乙卯、下知大和国云、添上郡般若寺近側山十町之内、勿令百姓伐損。実録の如くば既に観賢以前の造立なり。元禄年中般若寺十三重石塔婆修覆、爾時閻浮檀金釈迦仏一体、露盤石中より出、於是開帳あり、諸人参詣せしむ、其後如故納之云々。上宮聖徳法王帝説〔裏書〕曾我日向子臣、字無邪志臣、難波長柄豊崎宮御宇天皇之世、任筑紫太宰帥也、甲寅年十月癸卯朔壬子、為天皇不予起般若寺云々、□□京時定額寺云々。
 
般若坂《ハンニヤザカ》 平家物語に、治承四年南都大衆七八千人奈良坂般若路二所の道をほり切掻立逆茂木を引て待掛たる事見え、太平記には延元二年桃井直常般若坂に拠り奥州国司北畠顕家を禦ぐ事を載す。
 
般若野《ハンニヤノ》 平城坊目考云、中世には刑場たり、今亦屠者癩人の住居と為る、十八間戸の東に在り、保元物語に載たる左府頼長公の墓般若野五三昧大道より東入一町余とあるは今東大寺北御門五劫院の東径か、墓は其東に在るべし。又云、笠卒都婆二基あり、一基は表に梵文八字を刻し側に諸行無常の四句偈あり、一基は表に梵文八字を刻し側に如来証涅槃の四句偈あり、旧説曰、是三間卒都婆也、盛衰記、解脱上人貞慶赴于東大寺、亦俊乗上人重源行于笠置寺、両上人相遭平野、於三間卒都婆、而互告合霊夢と。天保年間奈良奉行梶野土佐守給人穂井田忠友此塔の下方に文字を発見し、宋人伊元吉亡母追福の為めに建たるを知る、東大寺法華堂前の石塔も此人の建てし者にて、建久年中の事乎、陳和卿と倶に来朝したる人ならん、盛衰記の三間卒都婆即伊元吉の石塔にや同異詳ならず、頼長墓は北御門の東道の東トリガツボ田の西南畔と云ふ。(坊目遺考)
補【般若野】○平城坊目考 中世には断罪刑戮の場となり、今亦屠者癩人の住居となる、十八間戸の東にあり、北御門の東より北般若寺より東の方にて、京師の鳥部船岡の如し、保元物語に載たる左府頼長公の墓、般若野五三昧より入東一町余とあるは、今北御門五劫院の東径、往昔般若野五三昧に通ふ大道か、夫より東の方に頼長公の屍を埋し地あるべしと考へらる云々。
笠卒都婆 二基 俗高石と云、又三間卒都婆と云、
南一基 面梵字、八字、横面文、諸行無常是生滅法生滅滅已寂滅為楽、以上十六字、
北一基 面梵字如前、横面文、如来証涅槃乗断於生死若有空心聴常得無量楽、以上二十字、今按、是は中川寺の実範営造たるべし、是往年般若野五三昧之惣門乎、盛衰記云、解脱上人は笠置寺を出て東大寺へ行給ふ、俊乗和尚は東大寺を出て笠置寺へ渡り給ふ、両上人平野の三間卒塔婆と云所にて行合て、共に夢の告をかたり、互に涙を流しつゝ、貞慶は俊乗和尚を三礼し、重源は解脱上人を三礼して契て云、云云、一説に曰く、高卒都婆の辺は平野にあらず、平野は爰より七八丁許艮の方なり、此卒都婆に就て故人梅坊善寿云、天保年間奈良奉行梶野土佐守給人穂井田忠友といふ人、此高卒塔婆正面の下の方に文字有を発見し、墨もて紙に摺写して読に、宋人伊元吉亡母追福の為に建し文也、伊元吉母諸共皇国に帰化せしにや、東大寺法華堂の石※[石+登]も此人の建る所なり、建久年中の事乎、陳和卿と倶に南都へ来りし人ならん、然を此卒都婆勤操或は実範の営造なりと云伝、古く名所記に出せしは大成誤りなりといへり。
補【川上】○平城坊目遺考 左府頼長墓は川上村にあり、保元物語云、十四日に奈良へ入れ申しけれども、我が坊は寺中にて人目も慎しとて、近きあたりの小屋に休め奉り、様々に痛はり進らせけれども、終にその日の午の刻計に御事切れにけり、その夜軈て般若野の五三味に納め奉る云々、さる程に二十一日午の刻計に、滝口三人官使一人南都へ赴き、左府の死骸を実検す、云云、その所は大和国添上郡河上村般若野の五三味なり、道より東へ一町計入りて、実成得業が墓の東に新しき墓ありけるを掘発して見れば、骨は未だ相連りて肉少ありけれども、その形とも見分かず、その儘道の辺に打捨てゝ帰りにける。
往昔般若野五三昧の大道は北御門町五劫院の東の道是なり、一丁余東に当り、字トリガ坪といふ処、耕田西南の畔、頼長公の死骸を埋む所なりと考へらる。
 
北山十八間戸《キタヤマジフハチケント》 般若坂の東側の字なり、旧癩人の住宅にて忍性の阿※[もんがまえ+(八/(人+人))]寺を建てたる所也。坊目考云、北山阿[もんがまえ+(八/(人+人))]寺は光明皇后造立の悲田院と相異なり、忍性律師の造営にして般若五三味の地内なり、古石塔あり今分散す。忍性菩薩行状略頌云、仁治元年、修悲田院済乞丐、不堪歩行疥癩人、自負送迎、到北山宿、戒現業、寛元元年先妣十三回、癩宿十八集千人、悉施飲食、勧戒斎。元亨釈書云、奈良坂有癩者、時忍性在西大寺憐之、暁到坂宅、負癩置店市、夕負帰旧舎、坊目考又云「宿老曰一臈、若癩婦令来入、則為新婦、一臈之於妻、以故妻譲二臈、二臈三臈亦准之、譲於其次焉」と、十八宿老ありて癩者を収容したる謂なり。
補【北山】○平城坊目考 当辺は那羅山にて、即ち興福、東大の北山なり、因て斯名を称するのみ。〔鎌倉極楽寺忍性菩薩行状略頌・元亨釈書、略〕阿※[もんがまえ+(八/(人+人))]如来、此にあり、阿※[もんがまえ+(八/(人+人))]寺と号す、伝云、光明皇后造立阿※[もんがまえ+(八/(人+人))]寺也と云、此説妄説にして不然、忍性律師の造営疑なし、団石十基(近年東側の小川破壊して円石二三基埋れたり)大道東側にあり、俗云、若夫れ此石上に蹲居する時は癩者の族類たらしめんと欲すといふて、行人斯石を慄るゝ事砒霜のごとし、因て暫時も当辺に彳む者なし。按に是童蒙の謬説にして取るにたらず、往古般若寺五三昧の石塔分散し、路傍に存するのみ。
 
伴寺《トモデラ》址 一名永隆寺、伴大納言安麿其宅を棄て精舎と為したり、故に伴寺と曰ふ、佐保川の上流東大寺の北に在り、亦般若野の東に接す、安麿は佐保大納言と称し壬申の乱に戦功あり、坊目遺考に伴寺の沿革を載す。
 旧記云、往昔伴寺法師、害岩淵寺之美童、(号伊王殿)於若草山下、而自共殺害焉、於是両寺互為蜂起基、伴寺僧徒、歴若草山麓路、而寄于岩淵、亦岩淵寺大衆越於下道、而至当永隆寺、相互押空寺、令放火、両寺同時回禄令滅亡也、其後有再興云々、彼児与法師之遺骸、葬於若草山西南林下、今云逢火塚是也、東大寺要録曰、伴寺跡、当時東大寺為三昧所、右幕府頼朝石塔左馬頭義朝阿波民部成良藤本権守俊乗上人重源石塔等先年在于念仏堂傍、元禄十六年移改於伴寺山墓所矣。
 
中川寺《ナカノガハデラ》址 般若寺の東二十町、中之川村に在り、中之川は今|東里《ヒガシサト》村に属す、相楽郡小田原浄瑠璃寺と国界を隔て相去る十町に過ぎず、或書に此寺長寛二年款識の古鐘を載す。僧実範初め興福寺に居り相宗を学ぶ、唐招提寺に至り鑑真和尚影堂に就き戒本を得て遂に律を唱ふ、嘗忍辱山に在り採花に因て中川に至り境地の奇勝を見官に奏して伽藍を建て成身院と曰ふ是なり、戒法復世に興る云々。〔元亨釈書東国高僧伝〕
補【中川寺】添上郡○人名辞書 実範は高僧なり、参議藤原顕実の第四子にして、俗を出で興福寺に投じて相宗を学ぶ、一夕夢に招提寺より銅筧を以て清水を中川に通ず、夢覚て以て好相とす、明暁招提寺に赴く、招提は唐の鑑真律師の弘戒の場なり、殿宇荒廃、緇徒寥落、一禿丁田間に耕す、範問ふに真公の影堂を以てす、禿丁曰く、我れ已に比丘に非ずと雖も、嘗て四分の戒本を聴きたり、範大に喜び、遂に影堂に就き、乞ひて戒伝を得、尋で中川寺に帰りて律堂を開く、有志の緇侶翕然として来帰す、是より戒法復た世に興る、初め範忍辱山に在る時、花を採るに因て中川寺に至り、境内の奇勝を見、乃ち官に奏して伽藍を建つ、号して成身院と曰ふ、後に光明山に移りて終ふ、嘗て大経要義七巻を述ぶ、貞慶法師甚だ之を称す(元亨釈書東国高僧伝)○般若寺の東二十町に在りて、今廃址となる。
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奈良《ナラ》 奈良市は春日山の西麓にして、奈良坂以南方二十余町を占め、寺社民宅田野村荘相錯雑す。今奈良県庁此に在り、六千戸二万三千口の数あり。
平城坊目遺考云、今の奈良は旧平城左京の程域内なり、本寺社の封領にて奴婢被官の家居たり、遷都以来春日東大興福に依頼し吐田《ハンダ》より南は興福寺に属し、由留木《ユルキ》より北西は東大寺に属し、寺林より南西は悉元興寺に属す、其余は率川《イサカハ》の森田畑竹薮にて偏に田舎の如し、度々の兵革寺社衰弊し自然民家居地となる、信長公秀吉公治世より寺領杜領多く没収有しより工商の住居軒を並べ繁昌しけるに、大和大納言秀長卿奈良民戸三千四百石の屋地子運上させて家臣井上源五郎定利を町司に置き守護せらる、秀長卿滅亡の後郡山住居の工商此に来住す、是に於て竟に肆廛繁盛町家建続きて国府となる、寛永十一甲戌年閏七月町家の家地子二千四百石余地方屋子四百十一貫余赦免と為り、奈良奉行を置かる。明治維新の初、諸寺社領封を奉還し僧祝分散せるが為め奈良の市区衰頽殊に甚く、家宅半ば廃墟と為る、近年稍蘇息の色あるも、未だ旧に復せずと云ふ。
    平城懐古 梁星巌
 雲端双閼古神京、憶昔春※[風+占]霓旌、囿沼已荒槐柳合、衣冠何在壟墳平、一渓豊草※[口+幼]々鹿、千樹残花※[口+合]々鶯、行尽借香山下路、流泉鳴※[王+(佩−にんべん)]最関情、
    風雨望寧楽 藤井竹外
 半空涌出両浮図、更有伽藍俯九衢、十二帝陵低不見、黒風白雨満南都、
 奈良七重七堂伽藍八重ざくら、 芭蕉 
 八宗をひとつに楢の落ち葉かな、 鳥酔
 誰のぞく奈良のみやこの桐の畑、 千那
   笈の小文云、灌仏の日は奈良にてここかしこに詣で侍るに、鹿の子を産むを見て、此日に於てをかしければ、
 灌仏の日にうまれ逢ふ鹿の子かな 桃青
   又、旧友に分るとて
 鹿の角まづひとふしのわかれかな、 桃青
 しろく候紅葉の外は奈良の町、 鬼貫
奈良は奈良墨漬瓜并に法論味噌|豆腐《カベ》等の名あるに止らず、工芸には彫刻(金木二種)の業古より著る、是造寺造像の要用あれば也、中にも晒布《サラシ》は最広く世に行はる。産業事蹟云、奈良晒は明治維新の比奈良の市上に一年十万匹と云ひ、近年は大に減ぜりとぞ、惟ふに奈良は永禄十年松永が兵※[(豕+豕)/火]に罹り、次で豊臣秀長郡山を治城となせしより奈良の市街衰頽し、商賈生計に困みしより業を織工に転じ、或は近傍の生布を購ひ之を晒して売買せしに基せしならん、殊に寛永以来侯伯士大夫四時の衣服自ら定まりしより、奈良晒は礼服の科となり、其需用又一層多きを加へしを以て、明暦年中奈良奉行初めて尺幅検査の法を施きたり、此に於て橋本町に生布判場即検査所を置く、検査の記録によれば元文元年には生布二十一万八千七百六匹幅狭布一万二千百八十七匹、合二十三万八百九十三匹、天保十三年には十一万五千六百二十匹、明治元年には五万二千百五十匹、同十五年には二万二千二百匹なりと云ふ。
補【奈良】○平城坊目遺考 往古寺社仏閣の領地にして、興福寺、東大寺別院、新元興寺伽藍、新薬師寺、紀寺、率川、渓国眉間寺、般若寺等の境内にて、奴婢被官の家居なり。○今六千戸、二万二千口。
 
正倉院《シヤウサウヰン》 東大寺大仏殿の西南二町、碾磑《テンガイ》門の東に在り。天平勝宝八年孝謙天皇先考聖武の遺物を東大寺に納附し.校倉《アゼクラ》を建て之を蔵せしめらる、之を正倉院と曰ふ。本朝世紀に、康治元年鳥羽法皇東大寺勅封倉御覧の記事あり。
平城坊目遺考云、和銅三年平城の地に遷都ありしより七代の天皇茲に都し玉ひ、桓武天皇延暦三年都を山城国に遷され、爾来此地の伽藍堂塔数回兵※[(豕+豕)/火]にかゝると雖、幸にして正倉院のみ火災を逃れ古器物を千有余年の今日に遺し、本邦美術の淵源と賞讃せられ、世界無比の宝庫なり、間口二十間許奥行六間許、一棟三門の校倉《アゼクラ》にて三稜の材木を井桁の如く組建て、高八間半、扉の前に廊を設け中央に階段を置き瓦葺なり、俗|三倉《ミツクラ》と云ふ是也、御宝物は孝謙天皇及び光明太后が聖武先皇の冥福を祈らん為め東大寺廬舎那仏に御愛器を献納して後世に遺し給ふ所也、東大寺献物帳跋に天平勝宝八年六月二十一日とあり、宝庫も此の時の御創建乎、爾来宝庫の開閉は勅旨に依る、建久四年の開封修繕は源頼朝公の請ふ所なり、この時宝物を綱封倉に移し、明年三月竣功宝器還納、便乗坊重源上人宝庫の錫杖を請ひ勅旨にて与へ給ふ、正応元年十一月前摂政藤原道家公宝物拝覧を聴さる、元中二年八月将軍足利義満公春日祠に詣で宝器拝覧、寛正六年九月将軍足利義教公始めて蘭奢待及紅沈香を截る、天正二年三月勅使開封参議織田信長公拝覧を請ふ又信長公の請に由て藺奢待を截る、慶長七年六月内大臣徳川家康公宝庫修繕且宝器点検を請ふ、明年二月同公大久保小堀を発遣し宝器を油倉に移し修繕を加ふ、明治五年世古宮内少丞勅使と為り宝器点検の事あり、十七年正倉院を宮内省図書寮に属せしめられ十九年修繕を為し門墻を改造す。
 
東大《トウダイ》寺 今奈良市の東北部を占む、その寺域は西|轟橋《トドロキハシ》大路に至り、東|手向山《タムケヤマ》を籠め北般若野に至り南は春日杜域に接す。本寺興立の初め大小の殿舎此間に布かれしも中世以降漸衰頽に就き、徳川氏の時寺禄三千三百石ありしが近年に及び益振はず、唯金仙の大像以下貴重の造功の猶遺存する者ありて世に推称せらる。聖武帝仏法興隆の至願を発したまひ諸国に国分寺を建てさせ給ひしが、天平十三年更に廬舎那大仏の造像を志し、十五年近江紫香楽宮に御し造像の詔を頒ち玉ふ、廿一年平城京東山に大像を鋳、三年にして荘厳成る、実に天平勝宝四年也。大日本仏教史云、大像鋳造の着手は天平十九年九月、(水鏡東鑑)而て其成就は三年の後なり、一代要記※[土+蓋]嚢抄を按ずるに八回の改鋳あり、天平十三年より算すれば前後九年を経、落慶の歳までには実に十二年に及び、世に四聖建立の伽藍と云ふ、蓋本願聖武天皇開基良弁勧進行基導師菩提遷那を菩薩権化の四聖と為す者也。(帝王編年記沙石集)東大寺は創立以降斉衡年中に至り仏頭の自ら墜ちて之を修理したる後、又二回の火災に会ふ、治承四年平氏の兵放火し大殿※[火+毀]け仏頭壊れ、建久六年再興落慶あり後鳥羽天皇臨幸源頼朝監護す僧重源勧進僧栄西幹事たり、永禄十年松永久秀放火、仏像は幾もなく仮に修補したれど殿舎なかりしを、元禄五年金仏をも重ねて修補し尋いでその屋宇を構へぬ、現寺域六万坪華厳宗の大本山也。
補【東大寺】○往時の寺域は西轟橋より東手向山を籠め北般若寺野より春日社興福寺の間に亘り、大小の堂宇其間に満ちたり、中世以降寺運衰へ徳川氏の世には田禄わづかに三千三百余石なり。廬舎那仏興造の縁起は朝野群載に曰ふ、東大寺大仏殿仏前板文、以天平十七歳次乙酉八月廿二日、於大倭国添上郡、奉創同像、天皇専以御袖入土持運、加於御座、然後召集氏々人等、運土築堅御座、以天下十九年歳次丁亥九月廿九日、始奉鋳鎔、以勝宝元年歳次己丑十月廿四日、奉鋳已畢、三箇年八箇度奉鋳御体以天平勝宝四年歳次壬辰三月十四日、始奉塗金、未畢之間、以同年四月九日、儲於大会、奉開眼也、同日奉入大小灌条頂廿六流、呉楽,胡楽、中楽、散楽、高麗楽、珍宝等、金銅廬舎那仏像一躯、結跏趺坐、高五丈三尺五寸、面長一丈六尺、広九尺五寸、肉髻高三尺、眉長五尺四寸五分、目長三尺九寸、鼻長三尺二寸、口長三尺七寸、頤長一尺六寸、耳長八尺五寸、頸長二尺六寸五分、肩径長二丈八尺七寸一分、胸長一丈八尺、腹長一丈三尺、臂長一丈九尺、自肱至腕長一丈五尺、掌長五尺六寸、中指長五尺、脛長二丈三尺八寸五分、膝前径三丈九尺、膝厚七尺、足心一丈三尺、螺形九百六十六箇、高各一尺二寸、径各三尺六寸、胴座高一丈、径六丈八尺、上周廿一丈四尺、基周廿三丈九尺、石座高八尺、上周三十四丈七尺、基周卅九丈五尺、用熟銅七十三万九千五百六十斤、白鑞一万二千六百十八斤、練金一万四百三十六両、水銀五万八千六百二十両、炭廿万六千三百五十六斛、円光一基、高十一丈四尺、広九丈六尺、挟侍菩薩像二躯、並※[土+塞]光高各三丈、面長六尺広五尺、口長二尺一寸、耳長五尺九寸、眉長五尺九寸、目長二尺二寸、鼻下径一尺八寸、云々、大仏師従四位下国土麻呂、大鋳師従五位下高市真国、従五位下高市真麻呂、従五位下柿本男玉、大工従五位下猪名部百世、従五位下益田縄手。
○金燈籠は天平年間の鋳造にして、建久の修補に係る。〔付箋〕
法華堂 桁行五間、梁間八間、礼堂・中堂・本堂を連合し、屋根本瓦葺。
鐘楼 一間四方、単層入母屋、本瓦葺。
廬舎那仏銅座像一躯、日光月光塑像着色立像二躯、不空羂索観音乾漆立像一躯(良弁僧正作)四天王乾漆着色立像二躯(行基菩薩作)金剛密迹二力士乾漆着色立像二躯、石造獅子一双(行基菩薩作)四天王塑造着色立像四躯(止利作)同戒壇院。  
 
大仏殿《ダイブツデン》 東大寺の中堂也、中に金仏廬舎那を置く、殿堂は再度の火に罹り寛永中旧規の寸尺を減縮して之を建つ、其金仏は当初の頭首※[火+毀]壊し後人の補修に係る。朝野群載云、鋳師柿本男玉高市真国高市真麿、大仏師国土麿、鋳料熟銅七十三万九千五百六十斤、白鑞一万二千六百斤、錬金一万四百卅両、水銀五万八千六百両、成像結跏趺坐高五丈三尺五寸、面長一丈六尺広九尺五寸、銅坐高一丈径六丈八尺、石座高八尺基周卅九丈五尺、大仏殿、二重十一間、高二丈六尺、東西二十九丈、広十七尺基砌七尺、○東鑑云、建久六年東大寺供養、法皇(後白河)勅重源上人、去寿永二年令大宋国陳和卿、始奉鋳本仏御頭。坊目遺考云、永禄十年十月、松永三好戦争の兵火に罹りたるを、当国福住(山辺郡福住)住人山田道安富財を抛て仏を修補す、然に大殿焼失後仏体雨露に曝され給ひし事百十余年、龍松院公慶上人大殿再建の志願を発し、五代将軍綱吉公宝永元年再建あり。考古学会雑誌云、現存の大仏は其頭首元禄五年の鋳造にして、右手は寿永二年の鋳造なり、其他所々に修補を加へたれば、天平創造のまゝなる所は、胴体の大部と、蓮座の花片十余枚に過ぎず。
 元禄五年南都大仏供養記曰、仏御頭、永禄年中大殿焼失之時落、山田道安以銅板仮修之、今※[莫/手]其面容、鋳之、鋳物師沼津因幡国重、宮本兵庫正次、仏御身内、以洪材上下縦横支之、依像壊雨漏、材木悉朽、今新修之、
抑この金銅仏造立の当時を回顧するに、天平勝宝元年陸奥の貢金を以て之に塗抹せられしも今や数度の災厄を経ければ蒼然たる色沢わづかに其幽光を弁ふべきのみ、銅鋼座蓮※[くさがんむり/(白+巴)]にも三千大千世界の刻図あり其四十八片中数片は尚天平の旧を存し彫鏤観るべし。又堂前の銅燈籠は大仏同功の作にして、柱に刻文あり、康和寛文両度に修補す。東大寺鋼板詔書、菩薩戒弟子沙弥勝満稽首十方三世諸仏法僧、去天平十三年歳次辛巳、朕発願※[にんべん+爾]、広為蒼生遍求景福、天下諸国各令敬造金光明四天王護国之僧寺、施封五十戸水田十町、又於其寺造七重塔一区、又造法華滅罪之尼寺、施水田十町、所翼天地神祇共相和順、恒将福慶永護国家、開闢已降先帝尊霊、長幸珠林同遊宝刹者、今以天平勝宝五年正月荘厳已畢、施封五千戸、水田一万町云々。(以上節略)
鐘楼は大仏殿の東北に在り、近年特別保護を加へらる、一間四方単層屋根入母屋本瓦葺。天平勝宝四年鋳成の梵鐘一口高一丈三尺六寸径九尺一寸厚八寸、其資料熱銅十万二千斤とぞ、扶桑略記に見ゆ、現在の鐘は延慶元己亥年再鋳の銘あり。
尊勝《ソンシヨウ》院 大仏殿の北に在り、村上帝の勅旨に因り大僧都光智開基、智は東大寺所伝の華厳教を発揚し特に尊勝院を開き一宗の本処と為す、其徒弟分れて東大寺高山寺(北京)の二相承と為り、法脈を後に伝ふ。
講堂址 扶桑略記に拠れば大殿側に講堂厨房食屋等あり今皆亡ぶ、坊目遺考云、講堂址は大殿の後に礎あり、天平勝宝中の建立、本尊五丈の観音なりしが、永禄十年の兵火に滅亡す。
大塔址 朝野群載云、大塔二基、並七重、東塔高二十三丈八寸、西塔二十三丈六尺七寸。坊目遺考云、両塔は天平勝宝五年造立、治承四年回禄、建治元年西塔再興延文五年雷火。補【西塔】○平城坊目遺考 西塔址は小門の東道の北側にあり。朝野群載曰、塔二基、並七重、東塔高二十三丈八尺七寸、西塔高二十三丈六尺七寸、露盤高各八丈八尺二寸、用熟銅七万五千五百二斤五両、白※[金+葛]四百九斤十両、錬金一千五首十両二分云々。天平勝宝五年三月三日造立、治承四甲午年十月廿九日為雷火回禄。異本年代記曰、建治元年二月廿九日、東大寺西塔再興、定日取建立云々、延文五壬寅年七重塔雷火、已後無再建乎。補【尊勝院】尊勝院は正倉院の西にありて、宝庫あり、正倉院参看。○史料叢誌 当院天暦十年三月之記云、尊勝院印者、村上天皇附属光智云々。光智は東大寺別当大僧都に任じ、尊勝院の開基なり、天元二年三月十日入滅、年八十六、この銅印も東大寺に所伝す。
 
二月《ニングワツ・ニグワツ》堂《ダウ》 東大寺二世実忠開基、(大仏殿東北四町)毎年二月法会あり、本名羂索院と云ふ、治承の兵火を免れ寛文七年回禄し九年再造す、西向して高地に倚り佳景なり、北に長廊を架す。
遠敷《ヲニフ》祠并に若狭並は堂側に在り。元亨釈書云、実忠、良弁之徒也、嘗遊摂州難波津、獲十一面大悲像、(長七寸駕閼加器)建羂索院安之、忠毎歳二月対像修兜率軌、始天平勝宝至大同四年、俗号二月法、至今不絶、初忠修法時、若州遠敷明神、託曰願献閼伽水、忽涌甘泉。
 
三月《サングワツ》堂 法華堂なり、明治卅一年堂構仏像ともに特別保護法に与かる、桁行五間梁間八間礼堂中堂本堂を連合して一構を成す、瓦葺也。仏像は本尊不空羂索観音立像一躯脇侍※[土+念]像二躯四天王乾漆立像四躯を最霊と為し不動弁天地蔵吉祥等の像あり、後面に※[土+念]像執金剛神を祀る、本堂一に金鐘《コンシヤウ》寺と曰ふ、釈書の金熟に同じ蓋良弁の一|字《アザナ》にして、本堂は東大寺に先だち造立し天平五年と称す。拾芥抄に東大寺千手観音道基上人とあるは、今の本尊なるべし。釈書云、添上郡有寺曰金鐘、優婆塞金熟居焉、故名之、持一執金剛像、以縄繋脛捉之、念修昼夜不休、一夜像脛放光照宮、聖武天皇驚怪、勅尋光至此、中使以聞,及召金熟間、欲求何事、奏曰求得度、勅許之、四時供給、時人号金熟菩薩、天皇亦以此地為勝区、鋳大像。三月堂の西に四月堂あり、治安三年の造営本尊普賢菩薩なり。
 
千手《センジユ》院 三月堂の乾に在り、初め当院は若草山千手谷に在り、元禄年中此に移す、当院の住侶鍛工を善くする者あり、堀河天皇御宇に千手院行信始て長刀を造り、爾後数世其業を伝へ、千手鍛冶と称す。
 
東南院《トウナンヰン》 大仏殿の南に在り、東大寺々務の住房と為す、古教三輪の法脈を伝へ世々尊勝院と相並び幹事たり。諸門跡譜云、南都東大寺東南院開基聖宝尊師、葛野王息也、十六歳投真雅僧都得度、挙三論于元興寺願暁及円宗、受唯識于東大寺平仁、又華厳于同寺玄栄、延喜九寂七十八。
 
南大門《ナンダイモン》は大仏殿の正門なり、五間三戸楼門造瓦葺、(特別保護法に与る)正治元年再造。力士は仏工運慶快慶の刀に成る。又石造獅子一双あり、行基の作と伝ふ、実は建久年中宋人陳和卿の徒の作なり。  
 
水門《スヰモン》は南大門の西北を云ふ、今門亡び地字と為る、水谷川《ミヅヤカハ》の流之を過ぎ、佐保川へ入る。東大寺別当次第云嘉吉元年、自興福寺押寄令破却西室房、言語同断悪行儀也、又嘉吉二年彼坊築地相残を継添る処、又自興福寺令下知七郷人、皆悉打こらし了、文安四年相当春日社造替之間、可相懸当郷棟別之由有其沙汰、寺中構要害、九月十四日未明寄来、国分門の板を伐破り乱入、南大門同切破責入、寺中打死の僧五人、凡一寺頓滅両宗離散、中々不及記之。
西大門址は水門の北にして雲井《クモヰ》坂に在り、坊目遺考云、西大門は国分《コクブ》門とも云、金光明四天王護国之寺と題額し本州の国分寺たるが故也、門廃し額は本寺に存す。景清門《カゲキヨモン》は正倉院尊勝院の西に在り、門前の民家八町を手貝《テカイ》と曰ふ。坊目考云、尋尊僧正七大寺巡礼記曰、天平之朝、瑪瑙|輾磑《テンガイ》在東大寺食堂厨屋、是高麗国所貢也、謂其西門曰輾磑。東鑑曰、建久六年、陣和卿鞍一口、為手掻会之移鞍、此地は永禄十年松永三好合戦のみぎり坊舎悉焦土となり、後町家と為る、俗に景清門と云、建久六年大仏供養の時悪七兵衛景清此門に隠れ頼朝公を窺ひ秩父重忠に搦取られしと、強ち妄説とも云ひ難し、鎌倉志は長門本平家物語を引て之を証せり、又謡曲に作るも是によるものなり。按ずるに輾磑門前の西路は法華寺西大寺に直達す、是平城古京一条南路の旧線なり、又南方雲井坂より春日大鳥居を経て紀寺へ通ずるは左京六坊大路の旧線なり。
 
雑司《ザフシ》 正倉院尊勝院の北を雑司と字す、寺家雑司の宅の謂なり、北門ありし所なれば亦|北御門《キタミカド》と称す。
補【東南院】東南院は寺務の住坊にして、貞観七年聖宝僧正之を開く。○諸門跡譜 東南院、南都東大寺、聖宝尊師、醍醐寺又東南院開基、兵部大輔葛野王息、大友皇子孫、天智帝彦、十六歳投真雅僧正得度、学三論于元興寺願暁及円宗、唯識東大寺平仁、華厳同寺玄栄、又謁金剛峰寺真然受密教、復従源仁益得奥秘、延喜九七六入寂、七十八歳。
補【千手院】○平城坊目遺考 千手院は若草山西麓にあり、当初東大寺別院本尊観世音は元禄年間移安法華堂(三月堂)乾隅是なり。
千手院鍛冶居宅址 千手院谷に在り、往古当寺護僧鍛冶を好、故に千手院と号す、当寺興廃詳ならず、堀河天皇御宇千手院住僧而始作長刀、是千手院流之始祖行信と云。
補【南大門】正治元年の再建にして、力士は湛慶運慶の合作にして絶妙の作と称す。六代運慶建久三年東大寺南大門二王の中左方一体を造る、其の右方の一休は七代湛慶の作に係る、少しく左方に劣るの観あり、本邦無数の二王像中之を以て最も傑大の名作とす、只惜むらくは其足部の短小なる、全身の権衡に副はざること是なり、この他運慶の作甚だ多し。
〔付箋〕東大寺南大門、五間三戸楼門、本瓦葺。
賢却経紙本墨書巻物一巻、大※[田+比]婆裟論紙本墨書巻物一巻、香家大師像絹本着色掛軸一幅、奈良県奈良町東大寺。
補【水門】○東大寺別当次第 〔募吉元年七月〕廿九日自興福寺押寄、令破却西室坊放火了、次日(八月一日)又寄来、西室僧坊、如意坊、案坊、寂相坊、北室宝蔵院、密乗坊五ケ所又破却、言語道断悪行儀也、又嘉吉二年三月、彼坊跡築地相残をつき添る処に、又自興福寺令下知、当寺七郷人皆悉打こらし了、以非理非法義居此職之旨冥見の御とがめか、希代云々、文安四年相当春日社造替之間、可相懸当郷棟別之由有其沙汰、仍八月廿日寺内棟別可執給之由、自興福寺雖評定色々、寺中寺外棟別以敬信之儀可執進之由返牒了処、此趣背先例間可発向当寺之由令風聞、仍老可塞之由、云々、然間寺中寺々構要害畢、同九月十四日未明寄来、国分門の脇壁の板を伐り破て乱入、南水門同切破責人之間、無勢多勢の責難遁之間、思々心々引退、寺中打死の寺僧五人、云々、ゆはかれなどする者数を不知、相残衆は皆離山了、破却在所深井坊、法蔵院、密乗坊、円祥坊也、東南院は門ばかり少切り、尊勝院在所菩薩院は如灯爐なり了、自余坊は少々雖破損大事なし、大仏殿御前東松切之西の方松、尊勝院発向之時切之畢、凡一寺頓滅、両宗離寺、中々不及記之。
補【手貝】○平城坊目考 手貝町は八町の惣号也、〔七大寺巡礼記、略〕或転磑、今俗云石臼是なり、〔束鑑、略〕以之考る時は手掻の文字、既に建久年用之、近世の説に非る事分明なり、手貝又天貝の俗字取るにたらず、永禄十年松永三好合戦兵火のみぎん、坊舎悉焦土となれり、於是町家となる。
手掻門 俗景清門と云、建久年大仏供養の砌、景清此門にかくれ居て頼朝を窺しに、秩父重忠其異相を恠んで搦させられしと云、是しかしながら強て妄説ともいひがたし、梶原景時和田党随兵を率て門々を固と東鑑に見えたり、是等を混じたるものか。
補【景清辻】○平城坊目考 勝願院町は小名景清辻子と号す、往古一寺存す、勝願院と名づく、本尊地蔵立像五尺余の木仏、錫杖の柄に弓の鉾を用ゐ、里俗云、往古悪七兵衛景清当所に隠れ棲む、而後東大寺大仏供養の日窃に右大将頼朝公を窺ふ、其事露顕して警固の武衛にに搦られて鎌倉に下向せしむ云々、鎌倉志長門本平家物語を引て之を証す、彼を以て此を考るときは、大仏供養の日南都において捕るゝ処分明なり、其前当所に隠れ棲む所、是亦謂なきにあらず、手掻景清門の里諺、又謡曲に作る処、皆是によるものあり。
 
戒壇院《カイダンヰン》 大仏殿の西二町.水門の北岡上に在り。安置の四天王は着色塑像四躯、近年国宝簿に登録せらる。戒壇は聖武天皇唐憎鑑真を請じ創立あり、後世再三火に罹り享保十六年江戸霊雲寺恵光の重興する者今の構造是也、堂中土壇二層高八尺東西五間南北四間、本邦最旧唯一の芳址と為す。鑑真東征伝云、天平勝宝六年入京、詔曰、大徳和上遠渉滄波、来投此国、誠副朕意、朕造東大寺経十余年、欲立戒壇伝受戒律、自今以後一任大和上。釈書云、鑑真館東大寺、奉勅於大殿西構戒壇院、上皇(聖式)受菩薩戒、皇帝(孝謙)皇太后(光明)以下同受、又云、空海延暦十有四年、登東大寺壇受具足戒、乃仏前誓曰、三乗十二部我心有疑未能決択、願垂加祐示我正法、夢中有人告曰、有大経巻名大※[田+比]廬遮那神変加持、是真秘法也、後尋求諸所、適於久米道場得此経。七大寺巡礼記云、戒壇院、南向五間四面、安六重金銅塔、(高一丈五尺許)置壇上中心、是受戒会本尊也、壇下埋聖武天皇御骨、夫天竺紙園精舎戒壇、埋釈迦仏鬚爪、准彼例。日本紀略云、昌泰二年十一月、太上法皇(宇多)於東大寺、登壇受戒、令右大弁紀長谷雄作戒牒文。(寛和二年円融上皇御受戒の次第は専書あり、後世に伝ふ、記事詳備也、其後は鳥羽後白河両皇の登壇あり、鳥羽法皇の記事は本朝世紀に見ゆ)円融院御受戒記云、寛和二年三月、自仁和寺御車、到東大寺、於西面中門外、下御車、門内東南二丈許、有一堆処、掃部所舗小筵一枚、其上供御半畳、法皇着之、向巽三礼、観者攪涙詢之、長老曰、本願聖主礼寺護法之処也、(中略)法皇経覧寺内、※[さんずいへん+自]于覧大炊屋、米十五石一甑炊之、数十人用轆轤下甑、※[(十の縦棒の左右に口)/わがんむり/貝]※[秋/金]者廿人許、頽飯納槽、以樋引水洗飯也、侍臣曰偉哉大哉、此寺草創之後、堂閣屋舎、頽毀有年矣、今僧正寛朝自為別当、以致修繕、土木之功温故、赭堊之飾知新。本朝世紀云、康治元年、法皇従白河殿御幸宇治、小松殿下向東大寺、着御西中門前、(号碾磑)脱御車即下、御門中堂巽角有一堆、号礼拝墓、其上舗小筵、昔本願聖式天皇、於此墓上、遥拝大仏相、次円融法皇亦如此、今日臨幸戒壇、自西廊北脇門人御、次和尚(二品覚法々親王)等着袈裟、法皇入御堂内、沙弥戒座、御手持衣鉢、登壇、繞中央銅塔、作法如常。
    南都客中 鱸松塘
 客路花飛争送人、暮雲喬木故都春、荒陵草棘衣冠尽、祇有金僊閲劫塵、
 むしぼしや甥の僧訪ふ東大寺、 蕪村
    二月堂
 水とりやこもりの僧の沓の音、 芭蕉
 南大門たてこまれてや鹿の声、 正秀
 大仏の眠るものならおぼろ月、 鳥酔
 
手向山八幡《タムケヤマハチマン》宮 東大寺の東五町に在り、即東大寺の鎮守神にして聖武天皇の御願、宇佐より遷奉る。初め天皇造仏の発願ありしに八幡神々教あり禰宜大神社女主神大神田麿之を奏す、乃之を迎奉り新に宮殿を梨原《ナシハラ》に設け、尋で天皇神輿と倶に東大寺に行幸し大仏を拝し、終に寺中に奉祀す、天平勝宝元年十二月とす、左大臣橘諸兄宣命を伝へて曰く、
 天皇が御命にませまをしたまへと申さく、去辰年河内国大県郡の知識寺に坐す廬遮那仏を礼奉て則朕も造り奉らんと思ども得成さざりし間に豊前国字佐郡に坐す広幡の大神に申賜へと勅はく、神我天神地祇を率ゐいざなひて必成奉らむ事だつにあらず銅の湯を水と為我身を草木土に交へて障る事なく為さむと勅たまひながら成りぬれば歓しみ貴みなも念ほしめす云々。〔続日本紀〕
永仁二年東大寺衆徒朝廷に訴ふる所あり、神輿を奉じて京に入る、此後しば/\此事ありて公家を驚かしめき。近年之を手向山社と称するは手向山其東にあるを以て也。
補【手向山八幡宮】○神祇志料 東大寺八幡神、今添上郡東大寺域内にあり(大和志)宇佐八幡を遷祭る、蓋聖武天皇の御願也(参取続日本紀・神皇正統記)孝謙天皇勝宝元年十一月己酉、神教に従て宇佐八幡神を平群郡に迎奉り、新に宮殿を梨原宮に設け、尋で天皇太上天皇太后並に神輿と共に行幸して東大寺の仏を拝給ひ、終に之を寺中に遷し祭り、以て東大寺の鎮守とす、(続日本紀、参取帝王編年記・神皇正統記)土御門天皇建仁三年十一月庚寅、使を遣して幣を奉りき、奉幣蓋此に始る(明月記)伏見天皇永仁二年七月辛酉本寺僧徒神人、神輿三基を振て禁中に至り事を訴ふ、壬戊、神輿を東寺金堂に入れしむ(興福寺略年代記・帝王編年記・園太暦康永三年)此後僧徒神輿を捧げ事を訴ふる時は、朝廷又神威を畏て恒例の朝儀を廃給ふ事屡なりき(園太暦大要)凡そ其祭九月三日を用ふ、(奈良県神社取調書)
 
若草山《ワカクサヤマ》 東大寺の東にあり、春日山の北尾の一嶺なり、又|手向《タムケ》山とも曰ふ、古名|鶯山《ウグヒスヤマ》なり、小芝生の山にして翠氈を被る如く、形状亦温籍なり、春焼の痕殊に雅趣多く、宛然たる土佐家の図様也。
 今も猶妻やこもれる春日野の若草山にうぐひすの鳴く、〔夫木集〕 中務卿親王
 鶯の春になるらし春日山かすみたなびく夜目に見れども、〔万葉集〕
 すだつともみえぬものから鶯の山のいろ/\ふみも見るかな、〔うつぼ物語〕
類字名所外集云、うつぼ物語の梅花笠の段は、藤氏の大臣春日詣して人々題を得てよめるなれば、其鶯山は春日に在りと知らる。
鶯山に古墳あり鴬塚と云ふ、或は之を以て大山守皇子の墓と為す。坊目考云、在原業平、平《タヒラ》の京より奈良へ女をぬすみ具しける程に、之を取返さんとて尋ねられしに女の歌に、
 むさし野はけふはな焼きそ若草のつまもこもれり我もこもれり、
此歌伊勢物語には武蔵野といひ古今集には春日野に作る、歌の意を考ふるに当時此野山を春焼したる事明なり、又若草の山名は此歌に因みしたるなり、此山往古より毎年春の比之を焼くを例とす、近代には奈良奉行所の吏員東大興福の両寺務役僧立会して焼きたり。(春日野は手向山八幡宮以南を称す、武蔵野同所なり。)
飯盛《イヒモリ》山は若草山の高処飯を盛りたる状あれば名づく。続日本紀云、宝亀元年、破却西大寺東塔心礎、其石大方一丈余、厚九尺、東大寺以東飯盛之石也。
 
内侍原《ナイシハラ》 今奈良に属し内侍原町と云ふ、平城京二条大路に当る。坊目考云、東大寺八幡の行宮古跡あり、続日本紀、天平勝宝元年、迎八幡神於平群郡、是日入京、即於宮南梨原宮、造新殿以為神宮、請僧四十口悔過七日と、後歴代春日祭勅使着御の地なり、再考、昔春日祭勅使途中は淀より相楽郡を歴て法華寺道に来り、不退寺前を過て二条大路より当所に着、往還亦同じ、続日本紀なる梨原神宮とあるは今の奈良内侍原にあらざるべし。太平記に元弘元年内侍原法眼は武家方に与し、大塔宮を般若寺に襲ひたる事見ゆ、孰れかの寺司なるべし。○正平六年正月、直義入道は八幡山に陣取り諸方の合図をまたれけるうち、知久四郎左衛門尉に千五百余騎をさしそへ内侍原法眼好専を殺して参るべしと下知せらる、好専は去年直義入道都を落たりし時おのが家に隠し置まゐらせしかど、直義専好を疑ひ再びこゝを忍び出給ひし事あるにより、今は八幡山に至り直義入道に陳謝せばやとおもひし所に、天亡の期や至りけん終に殺されけるは不便なりける事どもなり。〔天正本太平記〕
 
奈良奉行所《ナラブギヤウシヨ》址 東大寺国分門の西四町に在り、徳川氏の時奉行職(一員)を置き与力七騎同心三十人を属せしめ、幕府直隷の市政を布きたり、明治元年停廃す。(慶長五年大久保長安初任以来の事とすと云へり)
包永《カネナガ》は今町名と為る、奈良剣工の家名なり、初代包永は弘安比の人なり手掻《テガイ》門の西に居るを以て手掻包永と称す、二代平四郎包永以下数代名匠の誉あり。補【押小路】○平城坊目考 俗に延乗坊筋と称す、延乗坊は興福寺窪転経院の旧名なり、因て時の俗北門を延乗坊の門といふ、実名悲田門なり、按ずるに当押小路往年北方推山に通ずる小路にして、推小路と称せるを後世転じて押と作るもの乎、先年に至て猶小路ありて、西包永町に通ず、御代官屋敷造営之砌、件の小路を廃して役所となるものか。
南都名物記云、手掻包永が跡を包永町と号す、貞和年中の者なり、伝いふ、文珠包永は祖を木村平三郎包利と称す、天福中に和州南都手掻に居り、鍛冶を好て而して莫妙を伝へ、業を平四郎包永に伝ふ、弘長中の人なり、平四郎之を四郎左衛門包永に伝ふ云々。
 
春日《カスガ》郷 和名抄、添上郡春日郷。今奈良町是なり、万葉集借香に作る、但その南部なる紀辻紀寺辺は大宅郷の中なりけん。
冠辞考云、日本書紀(武烈巻)に播屡比能簡須我《ハルヒノカスガ》の句あり、又万葉集に春日乎春日山《ハルヒヲカスガノヤマ》の句あり、此は春の日の霞むと云ひかけつ、文字春日も其義に因る。古事記伝云、開化紀に遷都于春日、春日此云箇酒鵝と、又継体紀に播屡比能可須我能倶須爾などあり、此地名の起の事姓氏録に見えたれど疑はし、其詞に彼大春日氏の先祖仁徳天皇の御代に糟を以て垣にせしに因て糟垣臣と号たまへるを後に春日臣に改むとあり、然れども此より先綏靖紀に既に春日県主あり、古事記孝昭天皇の御子天押帯日子命者春日臣之祖也とあるも、春日もとより正しく地名なるべし云々。
補【春日】神名式春日神社、又春日祭神四坐、頭注、神護景雲二年垂跡於大倭国添上都三笠山。〔古事記伝、略〕東大寺古文書、春日村。名跡幽考、今世添上郡春日の境地にかぎりて奈良といへり、古へは添上添下の郡ともに奈良にこそ侍らめ。
 
春日山《カスガヤマ》 春日郷の東に峙ち一邑の主山なり、古より神霊の宅と為し厳に伐採を禁じ御笠山《ミカサヤマ》と称す、一山鬱蒼として頗佳色あり、抽海凡五〇〇米突(奈良町凡八〇米突)北は若草山南は高円山左右に脇侍する者の如し。続日本後紀云、承和八年、命倭国国郡司、禁春日大神々山内狩猟伐木。
 物おもひかくろひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり、〔万葉集〕
又万葉集に長歌「春日《ハルヒ》を春日《カスガ》の山の高座《タカクラ》の御笠の山に」とあるは、春日山の西峰(今春日大宮東嶺なり)を特に御笠と名づけしか。
 
三笠山《ミカサヤマ》 顕注密勘云、春日山に三笠山とてひき下りて小き山に春日社おはします、春日山は総名なり、三笠山は別名也。冠辞考云、万葉集に高※[木+安]《タカクラ》の三笠山とあるは、即位朝賀の時など大極殿に高御座を飾て天皇のおはします上に御蓋《ミカサ》のあれば御笠山は此語を冠らせたり、又「大王《オホキミ》の御笠山」「君の服《キル》三笠山」とあるは日蓋の意なるべし。今按ふに此山笠もて覆ふがごとき状あれば原名は起れるならん、中世三笠山と云語を近衛大将の別号とす、八雲御抄俊頼秘抄等に見ゆ、是はいかなる故にや。
 青うな原ふりさけ見れば春日なるみかさの山に出し月かも、〔土佐日記、阿倍仲麿〕
 名のみして山はみかさもなかりけり朝日夕日のさすを云かも、〔拾遺集〕 紀貫之
   三笠山下有懐阿倍仲麿 梁星巌
 風華想見晁常侍、皇国諸生唐客卿、山色依然三笠在、一輪明月古今情、
   歌人は居ながら入唐す
 秋の月人の国までひかりけり 鬼貫
羽買《ハカヒ》山詳ならず、翼の義なれば、春日山左右の一峰なるべし、万葉集に見ゆ、 春日なる羽賀の山ゆ猿帆《サホ》の内へ鳴き往くなるはたが喚子鳥。
 
香山《カウセン》 春日山の南半腹に坦処あり、旧香山寺天地院に在り、故に今尚其堂存し、延喜式|鳴雷《ナルイカヅチ》社あり、岩井川の源は此山より発す。此香山は古名|香土《カクツチ》山ならん、神代巻に香土神鳴雷神など云ふ名あり想ふべし、鳴雷社今|神鳴《カミナリ》宮と呼ぶ。
 
香山寺《カウセンジ》址 坊目遺考云、今春日|水谷《ミヅヤ》社の水船銘に曰く西金堂長尾水船文和二年三月日置云々と、此は香山寺の遺物ならん。香山寺跡は春日山の絶頂より南に在り、天喜五年焼亡す、天平勝宝の古図に春日山頂の巽、岩井川水源の上に香山堂を記す、今も坂道に石仏敗瓦の遺りたるあり。続日本紀云、天平勝宝元年五月、勅崇福寺香山寺薬師寺建興寺法華寺、四時各施二百疋。大和志云、天地《テンチ》院在八幡山東、一名上堂又銀堂今亡。扶桑略記云、治安三年十月十八日、入道前大相国(道長)早旦奉礼大仏、又寺内東去五六町山上有堂、謂之|銀《ギン》堂、堂中安銀丈六廬舎那仏像、破損殊甚、銀像過半為賊穿取云々。
 
春日率川宮《カスガイサガハノミヤ》址 開化天皇の皇居なり、古事記伊邪河宮に作り、日本書紀に「遷都於春日之地是謂率川宮」とある是也。坊目遺考云、春日野々田の東端|浮雲《ウキグモ》宮の辺より南は率川に近き所まで皆旧都の跡にて、後世春日大宮又四恩院等の境域と為り、地相変更したり、按ずるに率川宮址は野田の東なり、率川陵は油坂に在りて相去る事十八町に及ぶ。書紀通証は和漢三才図会に拠り、率川社即皇居と為せり能登《ノト》川は率川の別名、春日杜辺より出でて高畠紀寺を過ぎ猿沢池に入る。
 能登川のみなそこさへに照るまでに三笠の山は咲にけるかも、〔万葉集〕
 
水谷《ミヅヤ》川 宜寸川《ヨシキガハ》と称す、春日神宮の北界を流れ東大寺の南を過ぎ末は佐保川へ注ぐ、
 わぎもこに衣|借香《カスガ》の宜寸河よしもあらぬかいもが目を見む、〔万葉集〕
 
春日《カスガ》神社 春日山の下に在り、社殿南面し本殿拝殿楼門前殿等廻廊之を纔り一区を為す。延喜式に春日祭神四座とある者是なり、藤原氏の氏神にして興福寺の鎮守たり、現在の殿宇は慶長十七年修造す、明治四年官幣大社に列す。
春日若宮は長保五年本殿二三之間に現れたまひ、長承四年別殿を起し之に鎮座す。〔坊目遺考〕酒殿《サカドノ》は祭時醸酒の処なり、続日本紀「天平勝宝二年、行幸春日酒殿」とあるも此か。拝殿の歌仙色紙は後光明帝宸筆を加へ玉ふ者とす、又社蔵の伎楽面舞衣中に稀世の名物あり、又刻像の佳なる者は天燈鬼龍燈鬼二躯あり。
神紙志科云、春日祭神四座、今春日郷三笠山の麓にあり〔大和志和爾雅国華万葉記〕第一殿常陸|鹿島《カシマ》に坐|健甕槌《タケミカヅチノ》命、第二殿下総|香取《カトリ》に坐|伊波比主《イハヒヌシ》命、第三殿河内枚岡に坐|天児屋根《アマツコヤネノ》命、第四殿|比売《ヒメ》神を祀る、〔文徳実録延喜式帝王編年記〕
 按、編年記比売神は伊勢相殿にして伊勢大神宮より遷御といひ、神名秘書之を栲幡千々姫とするを以て後世遂に伊勢大神を配せ祭ると云ふに至れり、然れど文徳実録延喜式に正しく比売神とのみあるに拠時は蓋天児屋根命の比売神にして、伊勢相殿の神にあらざる事著し、
初元明天皇和銅二年、右大臣藤原不比等〔官姓拠続日本紀〕鹿島神を氏神と崇めて、天皇及皇后の御為に近く春日の三笠山に移し奉り、地名に依て明日が神と申す。〔大鏡及裏書神宮雑例集色葉字類鈔〕
 按、編年記春日験記春日社記諸神記等の書並に景雲二年を以て始としつれど、天平十二年大中臣清麿此神を摂津寿久山に移祭る事雑例集字類鈔に見え、神護元年封戸を寄す由、新抄格勅符に載たる者と合はず、故に今之を取らず、
称徳天皇神護元年鹿島社の二十戸を割て之を寄し、〔新抄格勅符〕神護景雲二年十一月春日神殿造り畢るを以て香取神枚岡神比売神を合祭り、春日四所明神と云き、〔帝王編年記一代要記大鏡裏書春日験記色葉芋類鈔、神殿造畢拠春日社記諸神記〕
 按、和銅中既に鹿島神を祭る時神殿ありし事著きを後三座を配祭るに就て殊に改造ありしなるべし、宇佐託宣集に(引春日杜注進状)左大臣藤原永手春日大明神を三笠山に勧請奉ると云るは三座の神を祭りし事にやあらむ、附て後考を侯つ、
其後外戚の権甚盛なるに及て春日神尤も顕る、延暦三十年常陸国鹿島下総国鹿島神封の調庸布千四百端麻六百斤紙六百張を毎年の祭料に充て、前に割く所の二十戸を鹿島に還し納め、〔新抄格勅府〕嘉祥三年建御賀豆智神伊波此主命を正一位に天児屋根命を従一位に比売神を正四位に陞めらる、〔文徳実録〕貞観元年二月丙申祭を行ふ此より二月十一月申日を以て恒例とす、〔三代実録貞観儀式〕一条天皇永祚元年行幸あり、春日御詣此に始る、〔兵範記日本紀略〕寛治の比より興福寺憎徒動もすれば神民数千人を率て桙神木に鏡を懸け春日神体と称へて京に入り事を訴ふ、其暴横尤甚し、〔本朝世紀百練抄〕蓋藤原氏春日神を崇めしより斎女を置き皇室の斎院あるに擬ひ、神封を寄し祭料を班つの多き事亦伊勢大神宮を除く外天下諸社比すべき者なし、中葉以来関白の詣に公卿上官多く之に従ふ、儀衛の盛なる又知るべきのみ、其祭は賀茂祭に異なることなし、建武以後稍衰ふ、奉仕の神人大中臣中臣二氏あり、中臣は中臣殖栗連時風秀行の喬にして、其族修行正預神宮預等に任され大中臣の族は神主に任さると云、近代神官凡百七十余戸あり(以上)
春日の糜鹿と燈籠は詣人の奇談と為す所なり、鹿は古より神便と号し之を殺傷するを禁じ、今囿を設けて之を飼養す、燈籠は石燈凡一千八百基春日野登大路より社前路傍に配置す、銅製の者之に雑る、掛燈は本社内に弔垂す鋼鉄種々あり、凡一千其形状亦一ならず中に鉄製文亀三年の銘ある者、銅製には元亨三年康暦二年等を最旧と為す。
春日は摂関家の氏神にして、中世八幡は武家幕府の崇奉厚かりしより此二神を以て伊勢大神宮に亜等せしめ三社の称あり、春日験記に此権現は慈悲万行菩薩と自称したまへる由の託宣あり、貞治四年足利義詮春日社造替に際し海内諸国に令し棟別拾文の課銭を発したる如き亦其盛威を見るべし、該文書本社に現存すと云〔史料叢志〕坊目考云、奈良は往昔七郷に分ち刀禰《トネ》七人ありて政法を沙汰し、春日供奉人と称する事不審なり、実暁僧都七郷記を按ずるに享禄中興福寺奴婢武頼以下七人各分七郷掌人夫伝馬等とあり、刀禰は此末孫か、南都の衆動もすれば春日供奉人の裔と称するも是れ今を見て古を知らず、抑春日神は神護景雲二年に来りますと雖も其体尚微なり、清和天皇貞観以後やや威厳なり、往時東大寺八幡大神は殊に荘厳にして其委は国史に見ゆ、後世東大寺八幡衰へ其供奉奴婢の族も皆春日を冒せるがごとし。坊目遺考云、餅飯殿町を、大宿所《オホシユクシヨ》と云、古書に曰く当所其先号蕗畠榔、其後因調進餅飯供御於春日興福寺名餅飯殿、所謂遍照院是也、春日若宮御祭礼保延二年始被行之、爰建武年天下争乱以来大和侍盛威、而或兼行興福寺衆徒春日祭礼願主等、若事春日大明神、而実者欲振己威権焉、於此各兼興福寺寺家竟若宮祭礼弓馬料米等神物、悉為大和武士下知矣、於此以当遍昭院為大和武士神事斎場、号大宿所、然慶長年中十市筒井等大家自滅亡、大和武士悉衰微、而末裔僅令相続至于今、毎年祭礼勤仕不怠云々。坊目考又云、春日祭の時大宿所に雉子兎狸塩鯛酒等を調へ春日の大宮へ献ず、此掛物並に仮殿用材は宝暦八年江戸公儀より制令あり、仮屋材木并雉千二百狸二百二十兎二百二十は先規の如く毎歳大和一国中にて勤仕すべしと。
榎本《エノモト》杜は春日本社の東に在り、春日山地主神と曰ふ、神祇志科云、天平勝宝八歳東大寺図に御蓋山の下に神地と云処あり、当時未だ四座神を祭らず、然らば謂はゆる神地は即地主杜にて、延喜式春日神社なること明けし。
天乃石吸《アメノイハスヒ》神社は延喜式に列す、神祇志料云、春日本社の巽に在り春日摂社四所の一なり。
浮雲《ウキグモ》社は春日の摂社にして鹿島神垂跡の地と云、或は之を以て延喜式大和日向神社に充つ、
 鹿島より鹿《カセギ》に乗りて春日なる三笠のやまにうきくもの宮、〔春雨鈔〕
或云、日向《ヒムカ》は東《ヒガシ》と同訓にして鹿島社東国より大和に垂跡したまふを以て此名あるか、又云、将軍武日向八綱田を祭るか、姓氏録に倭日向八綱田命とあり。
補【春日社】○奈良県名勝志 亦た燈籠甚だ多く二千七百七十七、内蝉燈籠、抽燈籠、雲朴燈籠、臥鹿燈籠等は最著名の者たり、社中所蔵の優等品は天燈鬼一体、龍燈鬼一体、以下伎楽面、舞衣数十点。
○続紀天平勝宝二年〔二月乙亥)幸春日酒殿。酒殿尚存す、祭時酒を醸す処也。
春日若宮 〔神祇志科〕旧添上郡春日社二三殿の間にあり、崇徳天皇保延元年始て之を遷祭る(興福寺略年代記・諸杜根元記・諸神記)今春日正殿の南百五十余歩にあり(大和志)二年九月壬午始て祭を行ふ(一代要記)四条天皇嘉禎二年己丑、勅使をして内蔵寮官幣を奉る(百錬砂・春日社司祐茂記・諸杜根元記)後定めて永式とす(祐茂記・諸杜根元記)後伏見天皇正安三年十月乙卯、神鏡十面盗の為に奪去られ、十二月丁巳社に還り給ひき(参取続吉記・春日験記・興福寺略年代記)毎年九月十七日を以て祭日とす。
春日社 〔神祇志料〕桓武天皇延暦二十年九月壬午、香取鹿島神封の調布千四百端、麻六百斤、紙六百張を毎年の祭料に充て、天平神護中寄し奉る神封を鹿島に還し納め(新抄格勅符)仁明天皇承和八年三月壬申朔、郡司に勅して神山の内獣を猟し木を伐事を停め給ひ、(続日本後紀)文徳天皇嘉祥三年九月己丑、参議藤原朝臣助をして神財を奉り、建御賀豆智神、伊波比主命を正一位に、天児屋根命を従一位に、比売神を正四位上の御|冠《カガフリ》に上給ひき、前に御祈の事ありしを以て也、(文徳実録)清和天皇天安二年十一月庚申、春日祭を停め、貞観元年二月丙申、申祭を行ふ事常の如し(三代実録)
 按、春日杜記・諸神記・公事根源に云、春日祭嘉祥三年に起る、或は貞観元年十一月とす、然れど文徳実録・三代実録を考ふるに、嘉祥は神階を授くるの始にして祭の始にあらず、且天安に祭を停るの文あるときは貞観を始とするもの恐らくは誤れり、蓋其恒例たるもの或は是年十一月九日にか、姑附て考に備ふ
此後二月十一月上申日を似て恒例の祭日とす(貞観儀式・延喜式)八年十二月丙申、藤原朝臣須恵子を以て春日及大原野神の斎女とし十年閏十二月庚寅、勅して大和国騎兵四十人執杖士廿人を差充て、斎女社に参る時の威儀に備へしめ、其春祭には予め国郡司各二人相共に祇承るべく制給ひ、十三年六月丁丑、新鋳銅印を斎院に充しむ、陽成天皇元慶六年十月甲子、是よりさき毎年春秋祭日、興福寺をして走馬の埒を結作り、且其塵穢を掃除しめき、然るに此歳寺家奏上に依て、大和国をして之を造しめ、八年八月甲寅、新に神琴二面を造て神社に充つ、景雲二年十一月九日に充る所の神琴損ふを以て也(三代実録)醍醐天皇延喜の制並に名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預る、春冬二時香取鹿島神封を割て祭料に充ること延暦の制に従ひ、其雑給料は所司各之を供ふ、凡そ神主物忌各一人、預神部弾琴|守神殿《カムトノモリ》仕丁各二人、膳部《カシハデ》八人、卜部二人を置て之に仕奉らしむ(延喜式)朱雀天皇天慶二年十一月壬午、承平中皇太后の病を祈りし報賽に幣帛走馬神宝を奉り(日本世紀)円融天皇天元五年七月丁酉音楽走馬を発遣し(日本紀略)一条天皇永祚元年三月癸卯行幸し給ふ、春日行幸此に始まる(兵範記・日本紀略・小右記・一代要記・歴代皇紀・濫觴砂)正暦五年四月戊申、中臣氏人をして疫癘火災の為に幣帛を奉り(本朝世紀、参取日本紀略)寛弘七年閏二月己末、明年三合厄に当ると云を以て祈年穀使に附て神宝東遊を副奉り(日本紀略・百錬砂・大鏡裏書)後一条天皇治安元年十月丙辰、天皇皇太后と共に行幸して添上郡を寄し奉り(日本紀略・栄華物語・大鏡裏書)堀河天皇寛治七年三月丁酉、上皇春日社に奉じ給ふ、関白藤原師実以下公卿悉く従ふ、其花美を尽すこと尤甚し(扶桑略記)十月発酉、神山屡恠あるを以て使を遣し幣を奉り(百錬抄・中右記)鳥羽天皇元永二年五月壬午朔、伊賀国神領を収む、唯壬生野庄は昔に依て若宮常燈料に充つ、若宮の神祟あるを以て也(中右記)崇徳天皇保延三年二月壬寅、興福寺僧徒七千余人、春日御体を捧げて勧学院に入て事を訴ふ(百錬砂)初め寛治より後、僧徒等動もすれば神民数千人を率て桙神木に鏡数枚を懸け、春日神体と称へて京に入り事を訴ふ、其横暴甚だしかりき(本朝世紀・扶桑略記・百錬砂)近衛天皇久安三年二月丙辰大和に行幸して春日祭大名神四座を祭り(台記)四条天皇嘉禎二年十一月壬午、参議藤原朝臣宗平散位惟宗朝臣盛基等をして幣帛を奉らしむ(春日社司祐茂記)凡そ春日奉幣使は旧制内蔵寮助五位一人を用ふ(延喜式・江家次第)元暦元年勅して四位を用ひ(玉海)此に至て殊に神威を増し、宿祷を賽し給ふ為に三位已上を使とし、兼て若宮祭に官幣を奉るべく制給ひき(祐茂記・百錬砂)仁治二年三月乙卯、鹿島社火あるを以て幣を奉り(東鑑・百錬砂)後宇多天皇建治三年正月蒙古の事に依て本社御祈を行ひ(興福寺略年代記)弘安四年十月丙申、興福寺憎神木を捧て稲荷杜に至り、石清水神人等本社神人を傷く事を訴ふ(一代要記・歴代皇紀・百錬砂)伏見天皇永仁三年十二月庚申、太上法皇臨幸し、七日参籠ありて臨時の神楽を行ひ(興福寺略年代記)正応三年二月癸未、後深草院の御願に依て始て臨時祭を行ふ(園太暦康永三年、月日拠春日杜記・諸社根元記)嘉元中に及て四月上申日を式日とし後或は秋冬の季に之を行はる(園太暦康永三年)後二条天皇正安三年十月乙卯、四社神鏡各二面、若宮正体神鏡十面を失ふ、十二月壬辰神殿に還し奉り(古続記・春日験記・興福寺略年代記)嘉元元年六月丙辰、神厨火災あるを以て四社の御体を若宮に移奉る、此時第四殿神鏡を失ふ事を奏す、朝廷使を遣し宝蔵の神鏡一面を以て御簾に懸奉りき、二年十月甲辰、勅願に依て公卿をLて神楽を行はしめ(興福寺略年代記)後村上天皇興国二年七月、北主光明院河内国楠葉関を本社造営料に充しめ給ひき(春日社司祐植記)蓋藤原氏春日神を崇め奉りしより斎女を置て賀茂斎院に擬ひ、神封を寄し祭科を班つの多き事、伊勢大神宮を除くの外、天下諸社又比類べきものなし、延暦中都を遷すに及て私に大原野社を設け、又吉田社を建て、合せて之を氏三社といふ、皆藤原氏権を専にするの政に出づ、中葉以来、関白春日詣公卿上官多く之に従ふ時は、其儀衛の盛なる事又知るべきのみ(斟酌三代実録・延喜式・大鏡及裏書・日本紀略・百錬砂大意)
凡そ春日祭儀、貞観中之を定む、祭に先つて預め陰陽寮をして祓の日時方地を択ばしめ、所司幄を河頭に立つ、祓日斎女車に駕て祓所に向ふ、時に左右京兵士各一人白杖を執て道の左右にあり、次坊令官人各一人、次六位左右各二人、五位各一人、院別当道中央に在て之に次ぐ、次左右衛門火長五人各道左右にあり、次門部左右兵衛左右近衛各一人、次に斎女の車中路にあり、車従左右各八人、小童左右各一人、並に褐衫を着く、走孺左右各二人紫裔濃を着く、執屏※[糸+散]執翳左右各一人並に退紅染衫を着て之に従ふ、次院司陪従各左右にあり、清櫃韓櫃一荷、女別当車、宣旨車、膳物禄物韓櫃六荷、次に陪従女車六両、童女車一両之に次ぐ、山城国司五位六位各一人、郡司等を率て京極大路に候ひ、引道て祓所に至る、弁史生官掌各一人、所司を率て事を行ひ、中臣麻を供ひ、宮主祓詞を読了て禄を賜ふ事差あり、訖て本院に還る、祭前二日神紙官一人、神主神琴師神部卜部等を率ゐ、掃部官人掃部を率ゐ、内膳官は膳部仕丁仕女等を率て社に向ひ事を行ふ、前一日鶏鳴斎女車に駕て社に参る(其儀大抵祓日に同じ)大和国界に至る時、大和国司山城国司に代て祇承り、佐保頓舎に至て宿りす、是間外記史供奉諸司と社西方に供神物を弁備《トトノ》ふ、祭日平旦、神紙官人物忌童女を率て神殿を掃ひ、神部等神殿を装ひ、神宝を殿頭及垣辺に立つ、大臣已下及六位藤原氏人次々に座に就く、即斎女頓舎より輦に駕り社に参る、其儀郡司二人道の中央に在て前行し、六位無位国司各一人、歩兵左右各十人、騎兵各廿人、内蔵寮中宮春宮及院の幣帛之に次ぐ、春宮中宮の走馬並に左右各一騎、近衛走馬各六騎、次に馬寮五位及近衛官各一人、次に中宮使内蔵官人院司、次に左右衛門門部及左右兵衛並各一人、次に斎女輦車中路にあり、輦前に左右近衛各一人、松担丁各五人、輦の左右前後陪従走孺等若干、執屏※[糸+散]執翳執笠左右各一人、駕馬女各四人、駕馬童各二人、清器韓櫃之に次ぐ、次に厠人掃部及院司左右各一人、陪従左右各三人、膳物服物等韓櫃十荷、次に内侍及女別当童女の車之に従ふ、輦車社の西方北門に至て前行大夫以下馬より下りて列り立ち、陪従女車を下り行障を執て輦下に候ふ、既にして斎女輦を下り門内座に就く、内侍以下みな座に着く、爰に内蔵頭幣を門外棚上に置く、内侍以下神殿に進て供神物を検校《ミサダ》む、斎女神態衣を服入て座に就く、内蔵頭幣を執り瑞垣の前棚上に置き両段再拝、了て退出、二宮使亦此の如し、次に氏人諸家使各幣を執り入て下棚に置き、並に両段再拝、訖て退出、神部四人内蔵幣を物忌に授けて神殿に納め、各食薦を殿前に敷く、氏人五位神饌机を舁き、東殿を首として之を列ぬ、神部酒樽を舁入れ、神酒一樽を一二殿の間に、一樽を三四殿の間に立て机を相配ふ、社醸酒四缶を中重に立て殿毎に之を備ふ、内侍以下入て饌の蓋を開き、酒を酌て殿毎に一宿酒社酒各一坏を奠り、訖て殿前座に就く、次に大臣已下朝使氏人又座に就く、近衛少将馬寮頭神馬四匹走馬八匹を神前に引列ぬ、時に神主木綿鬘して座に就き、両段再拝手を拍つ事四段、祝詞を奏す、大臣朝使各手を拍て再拝(祝詞以下拠江家次第)了て各直会殿座に就く、神部散祭を行ふ、次に馬寮神馬を率き社を廻る事八度、近衛少将官人を率て東舞し、諸司に御膳を給ふの後、神祇副琴師笛工を召し座に就しむ、即各物の音を調せ、神主及祐氏人等次々に和舞し、酒三行、了て斎女還て西門の座に就き、服を釈て頓舎に還る、導従初の如し、其後外記五位六位参文を大臣に進め禄を賜ふ事差あり、大臣已下即馬場に出て御馬を馳しむ、其冬祭の儀も此の如し、唯斎女社に参る事なきのみ(貞観儀式)此日関白又無位氏人を遣して神馬を奉る(年中行事秘鈔)其祭儀の盛なる事賀茂祭に異ることなし、後醍醐帝建武中に至て其儀稍衰ふ(建武年中行事)今猶春冬二時の祭毎に稲垣に榊を指飾り、酒殿の醸酒を神殿に備ふ(春日社年中行事)凡そ神社に仕ふるもの大中臣、中臣二氏あり、中臣は鹿島神の神駕に従奉りし中臣殖栗連時風秀行の裔にして、其族修行正預権預加任預神宮預権預次預新預等に任され、大中臣の族は神主権神主新権神主に補任さる(続南行雑録、参取春日社記)其他神官凡そ百七十余戸あり(大和志)凡そ春日摂社多し
隼明神は内院に、角振明神は中院に、榎木明神は外院にあり(春日社記・諸杜根元記)古へは春日山にあり、之を地主神とす、故に春日社に詣づる者必先この社に詣づといふ(神祇志考引社記)酒殿神祠、竃殿神祠並に外院にあり(大和志)孝謙天皇天平勝宝二年二月乙亥、春日酒殿に幸し給ふ、即此也(続日本紀)赤穂神社 今南都高畑神坊町にあり、春日若宮神之坊社といふ(大和志・名所図会)○慶長十七年徳川氏修造。
補【春日社燈籠】○史料叢誌に曰く、弘化二年調ぶる処に拠れば、石灯呂、千七百廿一基、金灯呂 六基、木灯呂 八基、金釣灯呂 千九十七鑓、木釣灯呂 二十一鎚 計二千八百五十三個ありて、石灯呂には
 元亨三癸亥年十一月吉日     施主敬白
 康暦二年九月 日          銘不見
 応永二十八年丑季六月十一日  沙弥藤厚常建
 永享十年十一月 日        金春太夫坐中
とあるを最古とし、鉄灯呂には 
 文亀三年癸正月廿六日      惣珠院
最古物也
補【春日若宮】○平城坊目遺考 天押雲命或は五所王子、又瓊々杵尊を祭ると云ふ、信じがたし、長保五年三月三日、春日社二三の御殿の間に現れ給ひしを、中臣是忠三の御殿に移し奉り、百三十年を経て長承四年中臣祐房別に神殿を造営し鎮座し奉る、是今の若宮なり崇徳院御宇天下飢饉疫癘三年打続き、人民大に悩死するもの道路に充満す、時の関白法性寺忠通公、天下泰平五穀豊饒万民快楽の為、保延三丁巳の年、春日若宮を御旅所へ出御なし奉り、以来毎九月十七日祭礼行はる、慶長三年より以後明治初年まで毎十一月廿七日を以て例祭たり、明治八年より十二月十七日を以て祭礼を行ふ、以降恒例となる。
拝殿の歌仙は後光明院の宸筆なり、歌は其家々に書せられたるを此拝殿へ納めしなり。○慶長十七年修造。
補【春日刀禰】○平城坊目考 往昔南都七郷使刀禰七人沙汰之、今按ずるに、春日明神供奉人と称するもの不審あり、実暁僧正七郷記を按ずるに、享禄年中興福寺奴婢武頼、武久、為延、友光、友長、武行、武次、武房、行延、為次各分七郷而掌人夫伝馬等、称刀禰者此末孫乎、謡初両乞等之下地職、預所奴婢仕丁有拠也、凡そ中古まで六位以下の人をとねとはいへり、爰にはいやしき人をいふにや、刀禰、庭訓往来にあり、村々の庄屋体の者を云、村長の下役なりと云々、凡そ南都の衆俗、動もすれば春日明神供奉人の末裔と称する者若干あり、是現を見て古を知らず、春日社神護景雲二年神幸といへども、其体微隠にして官社官幣に及ばず、清和帝貞観年中以降、逐日神威厳密なり、亦東大寺八幡大神天平勝宝元年宇佐より神幸、其行荘厳華にして五位十人散位二十人、六衛府舎人各廿人、請憎四十口、迎自平群、※[#のごめへん/女]見国史、然ども後世東大寺八幡宮神威不盛、故八幡供奉人末孫乃奴婢族等大概春日供奉の末裔と称するもの多し、微を悪みて繁を好むは人欲の恒にして佞に近し、察せずんばあるべからず。○祭日の前夜、餅飯殿町大宿所の庭に掛置たる雉子兎狸塩鯛酒樽を春日大宮若宮へ献ず、此掛物仮宮用木につき、江戸表より達の写あり、
     覚
 春日祭礼御旅所仮屋之材木并雉千二百、狸二百二十兎二百二十、如先規毎歳為大和一国中相勤候様堅可被申付もの也
   宝暦八寅七月         隠岐 印
                     右近 印
                     伯耆 印
                     左衛門印
                     相模 印
    山岡五郎作殿 春日役者中
 
春日野《カスガノ》 興福寺東なる大鳥居より以東、東大寺以南の平岡を春日野と為す。其南方低地を高畠《タカバタケ》と云ふ、春日神官の宅多し。
 春日野に朝居る雲のしく/\にわれは恋ます月に日にけに、〔万葉集〕 大伴像見
 春日野の雪間を分て生出でくる草のはつかに見えし君はも、〔古今集〕 壬生忠岑
武蔵《ムサシ》野は春日野の別名なり、武蔵塚あるを以てなり。
 武さし野はけふはな焼きそ若草の夫もこもれり我もこもれり、〔伊勢物語〕
武蔵塚は登大路《ノボリオホヂ》(春日社道)と東大寺南大門路の十字辻の艮に在り、小玉《コダマ》塚と云者もあり。
飛火《トブヒ》野 飛火は烽燧なり、類聚国史云、和銅三年始置大和国春日蜂火以通平城これなり、烽人を野守と呼べり。
 かすが野のとぶひの野守出でて見よ今幾日ありて若菜つみてん、〔古今集〕
 
奈良《ナラ》博物館 本館は春日野大鳥居北東に在り、近年の創置にて洋式の建築なり、大倭古京の美術妙技を蒐集して其保存を謀り且公益を起さんが為めに計画せらる、東京京都と并せて三所の其一館なり。
補【奈良博物館】○京華要誌 帝国奈良博物館は春日大鳥居の北東にあり、近時の創設にかゝり、巍然たる洋館にして工事既に成功を告ぐ、開館の日は大和一国千年以上の古美術品を集め、之を永久に保有して、国宝の保存万全に至るべし。
 
興福寺《コウフクジ》 奈良市の中央に在り、即ち平城左京三条七坊にあたる、藤原氏の氏寺にして、大織冠鎌足創建、初め山背国山科の陶原《スヱハラ》に在り、故に山階《ヤマシナ》寺とも云へり、斉明帝三年歳次丁巳の事と為す。天武帝元年歳次壬申之を大倭国飛鳥の厩坂に移し法光寺と号す、元明帝平城造都に及び鎌足の子不比等和銅三年更に春日に移す、乃興福寺改称す、続紀興福寺憎の仁明天皇四十の御賀を申す詞に「旅人に宿春日なる山階の仏聖」とつづけたり。鎌足嘗て疾あり維摩経講会を修して愈ゆ、因て陶原宅を捨て、精舎と為し、銀造長二寸の釈迦仏を奉ず、後之を丈六像の首に納め興福寺本尊と為し、又維摩会を恒例の大修法と為す。〔帝王編年記扶桑略記伊呂波字類抄興福寺縁起史徴〕延喜式云、凡興福寺維摩会施料、調綿六百七屯毎年送彼寺会、十月十日始十六日終、其聴衆僧綱簡定、先経藤原氏長者定之。興福寺は慈訓法師寺務以降法相宗を奉じ、今法隆薬師二寺と并び三大本山たり。夫の法相は南都六宗中勢力卓絶の教門なりしが、近世藤氏衰へ寺門振はざるより宗風漸熄み、戦国の末葉南都兵乱以後愈萎弊す、明治維新に及び春日神を本寺より分離せしめ、寺禄三千余石を収公し僧侶を還俗せしむ、其僧侶は大乗一乗の両門跡以下、塔頭諸坊(院家と称したり)の住持大略京師公家(堂上方と称したり)の子弟なりしを以て、特恩を以て華族に列せしめられ、其後松園(大乗院)水谷川(一乗院)以下二十余家に子爵を賜ふ、今俗云ふ所の還俗華族是なり、而て本寺の廃頽此際を以て極まり殆ど墟土と為る、十数年を経て再興の説起り、幸にして全滅の厄運を免ると雖、旧面目十が一を保つに過ぎず、土人云、五重大塔の如き一時銅鉄商の手に帰し無風の日を相し将に一炬に附して崩壊せられ其金属具を灰中に収めんとせし事ありと。坊目遺考云、興福寺明治維新の際僧侶還俗し、春日杜へ奉仕するに当り、伝来の仏像経巻古書画類多く散失し、食堂を破却し門垣を撤去し、官衙公園を置かれたり、甚きは金堂を掃除して庁舎(堺県出張所)に充てられしこと数年実に歎ずべき限なりき、近年藤氏の華族相謀り興福会を起し寺門維持の途を求め、明治二十一年金堂を復し荘厳を加へ諸仏を還置す。仏像の事は各堂に見ゆ、古書画の稀品は二天王像絹本掛軸二幅、慈恩大師像絹本掛幅一幅、(以上国宝)住吉慶恩筆法相秘事図巻等尚存す。(集古十種に当時勧善院神亀四年鋳鐘の銘を載す)
中世以降本寺々務は大乗一乗の二院交代之に任じたりしが、争論しば/\起り、徳川幕府の裁断を請へる事あり、明治維新両院廃絶す。元亨釈書云、慈訓初事興福寺良敏玄※[#日+方]二師、学法相、後入唐謁賢首国師法蔵、※[(稟−禾)/示]華巌深旨、帰来付良弁、建賢首宗、称徳帝貴之為僧都、宝字元年為興福寺主務、此職自訓始。続日本紀云、天平宝字元年、紫微内相藤原朝臣仲麿等言、緬尋古記、淡海大津宮御宇皇帝、(天智)天縦聖君、聡明睿主、考正制度、創立章程、于時功田一百町賜臣曾祖藤原内大臣、(鎌足)褒励壱匡宇内之続、世々不絶、伝至子今、今有山階寺維摩会者、是内大臣之所起也、伏願以此功田永施其寺、助維摩会、弥令興隆、遂令内大臣之洪業、与天地而長伝、勅報曰、宜告所司令施行。
西金堂は今本寺大殿と為す者是也、即藤原不比等及光明皇后造立の所にして現在殿宇は文政二年重修す。本尊釈迦如来(長半丈六)脇士薬上薬王を安置す、其他弥勒菩薩(木造座像)六祖(木像座像)四天王(立像四体)無尽畏妙※[車+童]世親無着等の諸像あり、是等蓋平城朝の古製に非ずと雖、藤氏の盛時儀軌に因り抜術を尽して造進せる者也、又板面に刻める十二神将十二枚あり、頗る古樸の製とぞ、其他名高き泗浜磬華原鼓ありて唐国の将来品とす。元亨釈書云、和銅三年、藤公不比等営興福寺大殿、其像者大織冠誅蘇我入鹿時、所誓刻之丈六釈迦及二菩薩也、又云、光明皇后、天平六年、薦先妣橘氏於興福寺、建西金堂安釈迦十弟子神王等像、荘麗妙絶。
南大門址 西金堂の南に在り、享保二年焼失後再営なし。往時は毎年二月此に散楽を興行す、薪能の神事と称す。坊目遺考云、薪能は弘仁十二年両金堂に花を飾り舞楽を為し擁護神に供養し夜を以て昼に継ぎ薪を焚きたるに起因し、後南大門に於て此修法あり、寛文二年幕府制令あり今春《コンパル》宝生金剛三座の猿楽に命じ、料米毎年五百石を給せられき。按ずるに奈良猿楽は古の伎楽の流にして、興福寺の盛なるや其寺戸独其技を伝ふ、竹田氏信(法名禅竹)其業を継ぎ能楽謡曲を改作し一家を成し金春太夫と称す、其徒弟分れて宝生金剛と為る。坊目考云、金春氏は高天《タカマ》町に住し禄五百石を賜はる、或は竹田氏又円満井座と号す、其祖先は山城狛里に住す、織田信長治世の時より奈良に徙居す。竹田氏信は服部清次(観世太夫祖)と同時の人也、其女を観世元清に嫁す、并に足利義満治世の比とす。(旧門の金剛密迹力士二躯(仏師康運作)寺中に蔵す)
東金堂は西金堂の東南二町に在り、神亀三年聖武天皇元正大上皇の為めに病を祈り薬師堂を建つと云者即是也。〔帝王編年記元亨釈書〕今の堂宇は応永二十二年重興す、七間四面単層屋根四注本瓦葺明治卅一年五重塔と同く特別保護法に与る。本尊金銅薬師如来は応永の改鋳なれど古容を模したる者か、又往時は新羅国の貢仏此に在りき、釈書云、敏達帝八年、新羅国貢釈迦像、〔日本書紀曰、新羅進調并献仏像等〕上宮太子奏曰、此像其霊崇之則鎖災受福、蔑之則招※[くさがんむり+【(災−火)/田】]縮寿、帝聞之敬崇供養、今見在興福寺東金堂。金堂に定朝作十二神将運慶作維摩文殊(并着色座像)等あり、其維摩文珠は天下無比の神品と称せられ、仁王力士の作と倶に鑑賞家の嘖々賞して止まざる所也、国宝に列す。
五重塔は東金堂の南西数歩に建つ、本藤原皇后光明子御願天平二年創建、応永二十六年再営す、高十五丈一尺。
補【興福寺】抑興福寺は和銅三年創建以来、出火或は雷火兵火等の災害に罹り、焦滅する所の金銅木塑漆之仏体、及画像、経巻等挙て数ふべからず、明治皇政復古の際、当山は当初より春日社へ奉仕の寺たるに依て、寺禄奉還、僧侶蓄髪して春日社へ神勤す、此時に当り寺院伝来の仏像経巻、古書類に至る迄数多散失し、加之食堂を破却し、境内四囲の築塀を倒し、南大門跡石壇を取崩し、神武天皇遥拝所を設け、塔中頽廃、金堂の仏像を他に移し、清浄の梵宮変じて堺県出張所或は警察署となり、罪人を糾弾し、又郡衙となり、実に可歎の限なり、然に近年藤氏の貴族相謀り興福会を組織し、伽藍保存の基本を起し、金堂を修造し、如元浄刺となし、明治廿一年四月十三日、十四日遷仏供養の大法会を執行す。 住吉慶恩筆法相秘事図、二天王像絹本淡彩掛軸二幅、慈恩大師像絹本着色掛軸一幅。
補【薪能】○平城坊目遺考 薪能は弘仁十二年興福寺東金西金両堂にて、数多の花を飾り擁護神を供養す、此法会昼夜の別なく薪を焚、唐人西金堂の前にて舞を奏す、其後清和天皇貞観六年より五ケ年間供養を廃す、同十年大風雨木を折、雷声山を裂く如く、西金堂の前土陥り穴あき、此穴南大門の芝に抜け通る、爰に於て大衆驚き詮議して擁護神の咎めならんと、法会を南大門に移して行ふ、今春氏の先祖、山城国薪に住す、毎二月南都に来て猿楽す、因て是を薪の能といふとぞ。
     薪神事能に付達の写
 於春日二月薪神事能料米三百石并霜月為祭礼役同料米弐百石、都合五百石事
今春宝生金剛此三座之内二座宛毎年神事能相勤、役者共年々納之以猿楽、配当米之内被下畢、此旨興福寺役者之出家へ可被伝達者也
   寛文二寅六月七日       美濃
                      豊後
    中坊美作守殿
補【高天】○平城坊目考 高天町に代々金春氏居る、秦安盛号金春光太郎(是金春氏之祖乎)至于今凡五十余代之子孫無断絶云々、亦号竹田氏、別号円満井、累世相伝之奇宝高貴より賜領の異物等不可勝計、先年城州薪村に住居す、其後相楽郡狛里に住す、信長公御治世の之時、当所に徙居、太閤秀吉公所賜之座舗舞台于今存す、御当家東照大権現君領地五百石、中ノ川村におゐて賜之、
今春氏信 姓武田、称式部、後号禅竹、秦氏の後也、作六十六曲。
 
南円堂《ナンヱンダウ》 西金堂の南西に在り、西国巡礼第九番札所にして参詣者多し、寛政元年再建、八角宝珠形の堂宇にて、本尊羂索観音なり、〔平安通志云、南円堂不空羂索は文治四年四天王并に六祖の像と同く法橋康慶の作なりと寺説に伝ふ〕仏前の銅造燈台一基、今国宝に列す。江談抄云、閑院大臣始南円堂、房前(閑院冬嗣曾祖父也)手自作南円堂不空羂索並四天王。釈書云、弘仁四年藤冬嗣建南円堂、安不空羂索並四天王、荘麓殊特、世伝爾時藤氏寝微、冬嗣営構願栄家族、果藤氏益茂。
 補陀落の南の岸に堂たてゝいまぞさかえむ北の藤なみ、〔新古今集〕〔旧本、閑院大臣。新古今、春日明神〕
興福寺縁起〔昌泰三年録〕云、法華会、右会於南円堂所行也、弘仁八年閑院贈太政大臣太閤、奉為先考長岡相府名内丸所始行、料米七十三石、以鹿田(備前)地子所用也。古京遺文云、南円堂銅燈台六方、銘亦六版、末二版逸失今、所存四版耳、藤原朝臣名諱不可知、或謂冬嗣公非是、
 弘仁七載歳次景申伊予権守正四位下藤原朝臣公等追遵先考之遺敬志造銅燈台一所心不乗麗器期於撲慧景伝而不窮慈光燭而無外遺教経云燈有明明命也燈延命譬喩経云為仏燃燈後世得天眼不冥処普広経云燈供養照諸幽冥苦病衆生蒙此光明縁此福徳皆得休息然則上天下地匪日不明向晦入冥匪大不照是故以斯功徳奉※[立+羽]先霊七覚如遠一念孔邇庶幾有心有色并超於九横無小無大共※[益+蜀]於八苦昔光明菩薩燃燈説咒善楽如来供油上仏居今望古豈不美哉式標良因貽厥来者云大雄降化応物開神三乗分轍六度成津百非洗蕩万善惟新更昇※[りっしんべん+刀]利示以崇親、(其一)薫修福(下闕)。
 
北円堂《ホクヱンダウ》 南円堂の北に在り、八角宝珠形単層瓦葺の一宇なり、中に定朝作釈迦座像を安置す、今三重塔と同く特別保護法に与る。扶桑略記、養老五年、天皇并太上天皇同勅、為右大臣淡海公周忌法事、興福寺内建北円堂、安置※[土+念]弥勒像四天王像。按に北円堂は爾後重修の事ありて、一書には此堂文治四年又応永六年の上棟と為す者あれど信ずべからず、〔坊目遺考〕京華要誌は永承三年造立と為す。
三重塔は南円堂の傍に在り、康治二年待賢門院藤原皇后靖子の御願に成る。〔坊目遺考〕
悲田施薬《ヒデンセヤク》両院址 近代悲田院の名は城戸《キド》町に在れど、是れ中世此に移したるにて、古は興福寺の中に属し其北に在り、施薬院も同所か。山階寺流記云、山階寺北門名悲田、門前町四町、為病苦孤独之徒、為労養也○元亨釈書続日本紀を按ずるに此二院は養老七年の勅建にして、光明皇后浴室を建て千人の垢を去りたまへる所なり、其阿閃仏放光の奇談は信ずべからずと雖、両院建立皇后施行の事は疑ふべきに非ず、続日本紀石上宅嗣芸亭を置きたるも此か。
芸事《ウンテイ》址 続日本紀云、天応元年石上宅嗣薨、捨其旧宅以為阿※[もんがまえ+(八/(人+人))]寺、寺内一隅特置外典之院、名曰芸亭、如有好学之徒欲就閲者、恣聴之、仍記条式以貽於後、日本後紀云、弘仁六年宅嗣礼待周厚、屈芸亭院、数年之間、博究群書、中朝群彦皆以為、釈道融御船王之不若也。此芸亭は興福寺の阿閃《アセン》堂と同異詳ならねど、同名に因みて此に掲ぐと云のみ。
八重《ヤヘ》桜 興福寺々内の桜種なり、一条天皇の時上東門院此桜花を山城の京に召されしに女房伊勢大輔は「今日九重の」歌を献じたる事世の※[ぎょうにんべん+扁]く知る所なり、其百株の今日に存すべきにはあらねど、種を継ぎて尚名花を伝ふ。〔伊賀国|花垣《ハナガキ》参照〕
浅茅原《アサヂハラ》公園 興福寺東金堂及び其以東大鳥居の辺、近年拓きて公園と為し、衆庶の遊楽所に供す。
 
一乗院《イチジヨウヰン》址 興福寺々務門跡にして、近年廃して奈良裁判所の敷地と為る、本寺の北に在り。諸門跡譜云、一乗院、定昭大僧都開創、(興福寺金剛峰寺別当東者長者密顕両宗兼学)小一条左大臣伊尹公男也、永観元年寂、七十八歳。按ずるに定昭以来数世信円僧正の時一乗大乗両院を兼帯し、其徒弟良円一乗院を譲附せられ、法務相承して尊覚法親王(後陽成天皇十子)以後真敬尊昭尊映尊誠尊応の五法親王入嗣ありき。(後醍醐帝子玄円親王も入院法務を執り玉へり)
 
奈良《ナラ》県庁 興福寺の北にして旧本寺食堂の址なり、明治の初め奈良県を置かれ此に営造す其後県廃し堺県に隷し、又大坂府に隷し、明治廿年十二月奈良県再置ありて大和一国を管治す。
 
菩提院《ボダイヰン》 興福寺の東南に在り、天平中玄※[日+方]僧正創立、応永の頃破壊し天正八庚辰年修繕す、大御堂と云、里俗|十三鐘《ジフサンガネ》ともいふ、本尊無量寿仏にて、その側に観世音菩薩を厨子に安置す児観音といふ、俗伝昔十三の児童鹿を殺し此境内にて石子詰にせしと云は妄説信ずべからず、又当寺の梵鐘を十三鐘といふはむかし暁七ツ時と六ツ時との間に此鐘を撞き其音を聞て塔中の雛僧春日社に往て修行する事ありしより十三鐘と号けしとぞ。〔坊目考〕
 
大乗院《ダイジヨウヰン》址 興福寺々務門跡にして、近年廃し学校敷地と為る、菩提院の南に在り。諸門跡譜云、大乗院隆禅大僧都初祖、(長谷寺大安寺別当)康和二年寂、六十三歳。按ずるに大乗院三世尋範は京極摂政師実の子にして四世信円は(菩提山寺内山本願又長谷寺金峰山寺別当)法性寺摂政忠通の子たり、大乗院権勢此より興福寺を傾けたり、信円又一乗院を兼帯し一乗を良円僧正に附し大乗を実尊に附したり、後世両院交々主務に就く事となりぬ。本院は鬼園山の傍に在り、泉石の構造頗佳麗にして南都第一の美観と称せられたり、今廃して荒蕪に帰す。鬼園《ヲニソノ》山一名安積山《アサカヤマ》。
補【大乗院門跡】今飛鳥学校の地なり、当家復古維新の後復飾、華族松園といふ、当院境内の林泉、山あり池あり花木あり、奇巌老樹、山頂を鬼園山と云、観音堂、稲荷社、池頭に茶室あり、四時の佳景頗雅趣あり、実に此地第一の美観なり、惜哉明治維新の後、建物破壊樹木伐切、巌石散乱其形を失ふ、誰人か歎惜に堪ざらん。
 
高畠《タカバタケ》 春日野の南方低地にして、紀寺《キデラ》の東を曰ふ。此地多くは春日神官の邸宅なりしが、近年荒蕪に帰す。
赤穂《アカホ》神社は高畠字上之坊に在り延喜式に列す。天神社は高畠字天満町に在り、続日本紀に見ゆ、曰養老元年、遣唐使祠神紙于|蓋《カサ》山南、宝亀八年、遣唐使拝天地神祇于春日山下、去年風波不調、不得渡海、使人亦頻相替、至是副使小野石根重修祭礼。(遣唐留学生阿倍仲麿が彼地に御笠山の詠ある事想ふべし、)
補【高畑】○奈良県名勝志 赤穂神社、奈良町大字高畑字上之坊に在り。天神社、奈良町大字高畑字北天満町に在り〔続紀養老元年二月壬申、同宝亀八年二月戊子略〕
 
新薬師寺《シンヤクシジ》 高畠|井之上《ヰノカミ》町に在り、東大寺に属し旧寺禄百石、一名|香《カウ》薬師寺と曰ふ。明治卅一年本堂一宇桁行七間梁間五間単層屋根入母屋本瓦葺は特別保護法に与り、其十二神将(塑像着色十二躯)仏涅槃図(絹本着色掛軸一幅)は国宝と為る。坊目考云、本尊薬師は行基作と云ふ、土仏十二神将は岩淵《イハブチ》寺廃亡以後当堂に安置せるなり、続日本紀云、孝謙帝天平勝宝三年詔曰、頃者太上天皇(聖武)枕席不穏、由是七日間屈請四十九賢僧於新薬師寺、依続命之法、設斎行之、仰願聖体平復、宝祚長久云々、当寺建立年月は諸書に載せず、相伝ふ東大寺大仏殿造木を以て(足代木)当寺本堂を営造す云々、当寺本堂は天平以降曾て火災なし、甚希有之旧所也云々、不空院も井之上町にあり、律宗西大寺派寺領廿石、本尊は不空羂索観世音、本堂は八角宝形なり、俚諺に曰、弘仁年間南円堂建立之時試所造之、然者空海所経営乎、当院者律師円晴之住坊也云々、窃にいふ古へより東大寺と興福寺動もすれば闘諍を事として兵革に及ぶ、於是今日東大寺の末寺たりといへども明日又興福寺の末寺たり、唯ときの剛強猛威に随ひて倶に本末法範の礼なし、新薬師寺不空院の両寺偶堂廟兵革破却の災難にあはずして数百年を歴る事、未曾有の霊場なり、可貴もの乎、又閼伽井町あり、続日本紀云、宝亀十一年、大雷災於京中数寺、新薬師寺西塔、葛城寺塔并金堂等皆焼燼焉云々、按ずるに新薬師寺西塔は此辺なるべき乎、当郷の南野辺を鬼界《キカイ》が島《シマ》と称す、当郷東に吉備塚あり、土俗吉備|垣外《ガイト》と称す鬼界は吉備垣の訛か。
補【新薬師寺】本薬師堂往古より勧修坊の支配地なり、勧修と俊寛と音相似たり、於是勧修坊一代の住侶の石像を以て竟に俊寛の像形とするも此か、亦吉備塚、当郷東に在り、俗某所を謂て吉備垣外といふ、吉備垣外と鬼界亦音声相近し、土俗又鬼界とするも此か、猶考ふべし、俗に新薬師寺の鐘を元興寺鐘なりと謂ふは非なり、本元興寺の鐘か、本元興寺跡は今の肘塚辺なりと。仏涅槃図絹本着色掛軸一幅、十二神将塑造着色立像十二躯(止利作)
 
紀寺《キデラ》 高畠の西南を紀寺郷と呼ぶ、紀寺※[王+漣]城寺あればなり。坊目考云、紀寺縁起曰、行基菩薩開基号※[王+漣]城寺、其後紀有常為再興、仍称紀寺焉云々、続日本紀云、淡路廃帝天平宝字八年、従二位文室真人浄三等奏言、検紀寺遠年資財帳、放紀寺奴益人等七十六人従良云々、これを以て考ふる時は天平年間既に紀寺と称して※[王+漣]城寺の名あらず、然れど世俗紀有常再興に依て紀寺と称すと云ふは非なり、有常清和陽成帝の御宇の人にして再興においては拠あり、当寺は元来興福寺末なりしに近代誓願寺(浄土宗)門徒となり、享保中住侶罪を犯し一寺破滅す。
補【紀寺】○平城坊目考 享禄年間七郷記及天正年間地子帳に紀寺郷を載せず、往古新元興寺亦は紀寺の奴僕等居住して町屋あらざる故なり、
崇道天皇神社 当郷にあり、往古、※[王+漣]城寺鎮守なり、霊安寺縁起云、奈良南里紀寺天皇崇道天皇なり、彼寺は紀有常建立之寺也云々。
 
補|氷室《ヒムロ》神社 ○平城坊目遺考 登大路の北側にあり、神主家旧記曰、昔氷室神社在于吉城川上也、高橋神社是也、神階正三位、建保五年遷宮於当氷室敷地、左近府生大神弘為祭主云々。   
 春日野の古き氷室の跡見るも岩のけしきはなほぞ冷《スズ》しき (夫木集)
此歌は水谷川上氷室の跡を見て読れしならん。
 
猿沢池《サルサハノイケ》 興福寺の南崖下、登大路《ノボリオホヂ》北側に在り、率川《イサカハ》の水を湛ふる者也、或云|狭澗《ササハ》の義なり、僧徒之を天竺国※[けものへん+彌]※[けものへん+侯]池に擬し改作す、但本国古言良行音を加減するは常の事也大和物語云、昔奈良の帝に仕奉りける采女あり、帝めしけるが後復召さゞりければ限なく心うしと思ひ、池に身を投てけり、帝は、
 猿沢の池もつらしなわぎもこが玉もかづかば水ぞひなまし
と詠給ひ、墓せさせ玉ふ。元要記云、猿沢采女、河内国平岡人、其嗣権中納言良世(閑院八男)建立、興南院僧正快祐勧請。
樽井《タルヰ》町は猿沢池の西畔を云ふ、旧興福寺興南院の域にあたる、天正慶長以後民家となる橋本町も同じ。
補【樽井】○平城坊目考 当町は樽井或作垂井、亦作足井、南側計り片町にて、各駅宿なり、昔は興南院の境内にして、古へ民家なし、享禄七郷記に樽井町載せず、又天正慶長の間在家となること分明なり。
采女神社は東の端にあり、元要記曰、采女古郷者河内国平岡人云々、権中納言藤原朝臣良世(閑院左大臣冬嗣八男)卿建立、興南院権僧正快祐勧請云々、里俗云、采女猿沢に身を投死す、池を恨るに仍て杜を西向に建と云、是童蒙の妄説なり、此地興南院境内にて、其東の限に当社を建つものなり、後世在家となるに及で新に東に口を開き鳥居を建るものなり。
補【橋本町】○興南院旧跡にして南方に率川あり、小橋を架す、里翁云、東を興南院と云ひ、西方を西南院といふ、善法堂は西南院の境内なりと云々。御巡礼記云、建久二年辛亥十月廿九日、奈良城春日里御下向、御宿所は橋本之興南院着御云々(御巡礼記は後鳥羽院なり
 
興南院《コウナンヰン》址 坊目考云、興南院の南に率川流れ橘を架す、興南院の西には善法堂ありき、後鳥羽院御巡礼記曰、建久二年十月、奈良城春日里御下向、御宿所橋本之興南院着御。山階寺流記云、天平記曰、佐努作波池西瓦屋一区。
 
元林院《グワンリンヰン》址 坊目考云、元林院は天文元年土一揆のために廃亡せしめ後町家と為る、山階寺流記「四至延暦記曰南元興寺北小道」とあるは此辺を曰ふ乎、俗に絵屋《ヱヤ》町と云ふ、往年春日絵所芝宅間住吉粟田口等当坊に住し、近世まで猶仏画師三四家存せり。
補【春日画所】○平城坊目考 元林院は元興寺の北院龍華院之一坊也、天文元年土一揆のために廃亡せしめ天文永禄の年間在家となる、山階寺流記曰、南花園四坊在池一堤、天平記云、名努作彼池、又云、西瓦屋一区云々、是元林院之已往か、同記云、山階寺四至延暦記云、南元興寺北小道云々と、此辺を謂ふ乎、当郷を俗絵屋町と云、往年春日絵所(芝、宅間、住吉、粟田口)当坊に住す、近世まで猶仏画師三四家有せり。○人名辞書 本朝画史に曰く、宅摩、住吉、粟田口、芝の四人は皆な春日の画所なり、共に南都に住して世世仏像を写すを業とすと。
 
三条《サンデウ》 春日登大路の末にして古京三条大路の遺街なり、油坂《アブラサカ》郷とも称し興福寺の西に接す。今奈良鉄道の車駅なり。
坊目考云、三条、今に至まで此大路直にして遠長なり、山階寺流記曰、天平記云、山階寺在左京三条六坊云々、南京里諺に、春日明神と親鸞派門徒とは不和なりと称す、今按ずるに天文元年七月南都土一揆、大概親鸞派門徒にして興福寺と町人等と大に合戦に及ぶ、今に土一揆調伏の法春日において有之とぞ、是に於て一向宗門は明神悪み給ふとなり、天文年中以後此宗徒南都に稀少にして浄土真宗の道場もこれあらず、天正慶長に至り本願寺光佐三条に道場浄教寺専念寺建つ、異本合運図(興福寺某院所蔵本)寛永十九年、六条門跡春日社参詣、近衛殿以為御縁者而令和興福寺也云々、於是近世逐年法威盛にして、梵宇厳重なり。
 
林小路《ハヤシコジ》 坊目考云、山階寺流記に、西敬田門、宝字記云、西菓園在三条六坊と、かの菓園有を以て後世林小路と称する乎、又或記に先年饅頭屋宗仁(号方生斎)当町に住居す、宗仁者天正年中の人にて林氏は中華林和靖末裔也、林浄因建仁寺龍山禅師自宋帰朝の時相従て来、後南都に住して饅頭を製造す、是奈良饅頭の始祖なり、子孫宗仁相続して当郷において家業とす、於是林の字を饅頭の中央毎に点印す、其住所を林小路と名くと云、彼宗仁連歌を好み歌学を能し源氏物語抄を編録し、林逸抄と号す、俗饅頭屋本といふ、亦初て節用集を撰す、是本朝俗字要文集の原始也。
円証《ヱンシヨウ》寺 坊目考云、是筒井順昭法印の別荘にて天文廿年法印当所に卒す、(爾時長子順慶三歳なり)然るに松永久秀筒井家の隙を窺ふを以、老臣等順昭の病卒覆密して他に露さず、而後筒井村に葬る、於是当町別業を律院菩提所として円証寺と号す。又云|角振《ツヌフリ》町は平城京角振隼神の社地にて延暦遷都後尚之を祭る、盲《メナシ》黙阿弥といふ者往年当町|隼人《ハヤブサ》明神の辺に住居す、爾後筒井順昭円証寺において病卒、家子等敵を欺かんが為に黙阿弥をして順昭が病床に代らしめつゝ、順昭存命の如く崇敬す、是平素音声面貌の順昭に似たるを以てなり、後兵事止み露顕して順昭を葬り、黙阿弥を彼旧宅に帰らしむ、於是時の人諺に事をなして元に復る事を謂て元の黙阿弥といふ是言縁なり、大和軍伝に此事を載す。
 
椿井《ツバヰ》 坊目考云、椿井町に天正十三年国主羽柴氏の別業あり、奉行人井上源五郎定利住舎なり、慶長五年江戸より大久保石見守長安出役まで此所官衙なり、又之より先天文元年土一揆の富人橋屋主殿豊冬住居す、南都土一揆の張本なり、異本合運并大和軍伝記曰、後奈良院天文元年七月十七日、南都土一揆蜂起合戦、興福寺衆徒悉不能防、而落行高取城、寺院各坊舎兵火矣、一揆大将橘屋主殿豊冬及雁金屋民部国之蔵屋兵衛正共此三人張本也、同年八月七日衆徒為出頭、亡一揆、屠焼民屋、豊冬於大安寺、八月七日小田切春次相戦、高田亦太郎清之指違討死、国之八月七日於肘塚、為大学利元討死、民部郎徒五十余輩双枕討死云々、蔵屋兵衛正共諸家之妻子守護而在於南都、両張本死後集残兵欲為弔軍、爾時両御門主扱之、八月十五日双方和平、彼一揆之輩大方親鸞派為宗旨。
補【林】○平城坊目考 山階寺流記曰、西敬田門、宝字記云、西菓園二坊在三条六坊、在園地二坊、宝字元年十月六日依勤施納也云々。今此説を以考ふるときは、当郷三条六条坊に当る乎。
補【角振】○平城坊目考 角振町は角振明神の地なり、角振早ぶさの社は遷都のとき遷して平安にあり。
 
春日率河坂本《カスガイサカハサカモト》陵 開化天皇の御陵なり、三条通油坂の北側林小路に在り、陵東に漢国《カンコク》社あり。本陵は民屋の間に介し念仏寺の寺境に属したることありしが、近年修治せしめらる。延喜式云、春日率川坂上陵、〔日本書紀作坂本陵〕春日率川宮御宇開化天皇、在添上郡、兆城東西五段南北五段、以在京戸十煙、毎年差充令守。
漢国《カラクニ》社は開化陵の東に在り、町名をも漢国《カンコク》と云ふ異邦人の遺墟なるべし。
 
率川《イサカハ》 此川は春日山より出で能登川又狭井川とも称す、俗に子守《コモリ》川とも云、子守社側を流るればなり、西流して大安寺西に至り(左京六条二坊)佐保《サホ》川に合す。
 はねかづら今する妹をうらわかみいさ率河の音のさやけさ、〔万葉集〕
延喜式に大和国京南荘、并率川荘墾田、とあるは今此地方(城戸村三条村)を云か。
伝香寺は率川に在り、律宗招提寺末、天正二年筒井氏母芳秀宗尼建立、泉奘和尚開基、(今川義元二男云)禅尼順庵定次三代其他一族の墓あり、旧寺領百石。
補【率川】俗に子守川と称す、子守杜あればなり、其源紀井社南溪より出て、鷺原(狭井原か)菩提谷を経て猿沢の東南西を廻り、橋本、椿井を過て佐保川の下流に入る。
伝香寺 ○平城坊目考 伝香寺は律宗招提寺末寺にて寺領百石、筒井順慶菩提所なり、天正二年順慶之母堂芳秀宗英大禅尼発志願、為武運栄久建立一律院於率川之地、招提寺長老泉奘和尚開基、今川駿河守源義元之次男なり、芳秀禅尼順慶及侍従定次、子息順定等筒井一族石碑あり。
〔所属未詳〕
   和州路上 頼山陽
 下市平橋路幾叉 法隆寺遠接当麻 行人買酔和州路 満野東風黄葉花
 
率川《イサカハ》神社 今子守社と云ふ、往時は大祀にして率川坐大神御子神と称し、大宝令に三枝祭著れ、文徳天皇仁寿二年授位、延喜式、率川杜三座とあり、後世衰へ子守《コモリ》神と曰ふ、御子神と云へるを訛れる乎。此地蓋神武皇后伊須気余理媛の家址と云ふ、古事記云、伊須気余理比売命之家、在狭井河之上、天皇幸焉、一宿御寝坐也、其河謂佐章河由者、於其河辺山由理草多在、故号也、山由理本名云佐章也、比売命歌
 佐章がはよくもたちわたり畝傍山このはさやぎぬかぜふかむとす。
神祇志科云、率川杜は又|三枝《サキクサ》明神と云ふ、〔春日社記〕伝云ふ推古天皇御世大神君白堤始て神社を春日率川邑に建て、姫蹈鞴五十鈴媛《ヒメダタライスズヒメノ》命を斎祭る、之を大神御子神といふ、元正天皇養老中藤原朝臣不比等狭井子守二神を配祭る、狭井は大物主命、子守は玉櫛姫なり、(大倭注進状引大神氏家牒大三輪社鎮座次第)玉櫛姫は三島|溝※[木+厥]耳《ミゾクヒミヽノ》神の子、又三島|溝※[木+(織−糸)]《ミゾクヒ》姫といひ、亦勢夜陀多良比売といふ、〔日本書紀古事記〕初美和の大物主神勢夜陀多良比売に娶て生坐る御子、姫蹈鞴五十鈴姫命〔名拠日本書紀〕始名|富登多々良伊須々岐《ホトタヽライスズキ》此売命、後改て比売多々良伊須気余理比売と申す、文武帝大宝令、毎年四月三枝祭を行ふ、三枝華もて厳く酒樽を飾り祭るは蓋古の遺風也、〔令義解〕又麁霊和霊祭と云ふ、〔令集解〕其大神族類の神なるを以て大神氏宗之に供奉る、〔令集解釈日本紀〕光孝天皇の御世勅旨田八十町を寄し奉れり。〔年中行事秘抄〕
率川阿波《イサカハアハ》神社址 坊目考云、延喜式、率川阿波神社は西城戸《ニシノキド》に旧跡あり、天文兵乱に廃亡し今幽微にして知人なし、神祇志料云、大倭神社注進状に拠れば之を三枝御子社と称せりと。
 かがみなす吾見し君を阿婆の野の花たちばなの珠にひろひつ、〔万葉集〕
書紀通証云、皇極天皇三年謡歌「鳥智可柁能(遠方也)阿婆努能枳々始(禾野雉子也)」延喜式、率川阿波神社。
城戸《キド》は木戸郷とも云ふ中世奈良七郷の一なり、南方の極にして往時柵門ありしとぞ。
補【狭井川】○平城坊目考 元要記云、神亀二年七朝宮門建立、七星配当、今御門破軍星、面足惶根尊、杏木殖云々、今道祖神社是、其遺跡乎、天正二年地子帳、今御門町と記す、然る時は天文永禄の頃在家となるもの乎。愚案、神亀二年七星配当、有疑、本邦天文暦道吉備真備公而後備悉之所也。
道祖神杜一座 又幸の神と号す、里俗塞の神と称して毎年八月七日祭礼、供物菓菜を以て※[たけがんむり+塞]目貌を作りて献ず、※[たけがんむり+塞]と幸と和訓同じきに因て神号を誤る、正さずんばあるべからず、率川は当郷の北端を流る、率川は西方を伊謝川.東方を狭井川と号す(今菩提川と云ふ)狭井川神たるペき乎。
補【城戸】○平城坊目考 七郷南の惣門此辺に有て、名けて木戸と曰ふ、後城の字に作る、柵門を謂て木戸といふが故なり。○悲田院あり、按ずるに山階寺流記曰、北門名悲田門、前四町為病苦孤独之所住為労養也云々。悲田院往昔在興福寺北面、何の世此所に移すといふ事をしらず。○率川阿波杜 旧迹あり、天文元年の大乱に廃亡す、今旧跡幽微にして知る人なし。
 
元興寺《グワンゴウジ》址 芝新屋《シバシンヤ》町に在り、古の新元興寺の中門堂大塔婆観音堂等近代まで存せり、之を元興寺と曰ひ、寺領五十石、安政六年大塔観音堂焼失し(先に中門堂又亡び)全く廃墟と為る。大塔は高二十四丈、天平宝字中恵美押勝造進と伝へしが今断礎を見るのみ。
 
新元興寺《シングワンゴウジ》址 新元興寺は坊目考に左京五条四坊に当る如しと云ふも疑はし、四坊大路は大安寺東にて今田野と為る、山階寺流記に山階寺は三条七坊に在りと云ふより推せば、新元興寺は五条七坊なり。坊目考云、中辻町及廊坂(籠の坂に同じ)七軒町辺は往古の五条大路、即|京終《キヤウバテ》町東西の通りにて新元興寺南大門前東西大路是也、籠の坂といふは元興寺伽藍の跡にて廊の辻子ともいひしなるべし、宝徳三年十月廿日諸堂南大門回廊倶に焼亡せしなり、西門旧地は東木辻町にあり、花園は往古元興寺の僧坊の椿の実の油を燈火に燃す其原料の椿数多ありし花園也、按に椿を殖しは今の花園町より南へ京終町東へ広き花園なるべし、建久年間屋敷券文に「在添上郡元興寺南大門前南口字花園」とあり、元興寺中門堂懸板記録、延慶四年二月二十二日の文にも添上郡元興寺南大門前南口字花園とあり、元興寺古図を観るに東は鬼園山より南ヘ直径紀寺迄、西は下御門通を南へ京終迄、南は京終及七軒町紀寺迄、北は鬼園山より(東西)寺林町を下御門迄を平城左京五条四坊内と云、今存する所の小塔院極楽院十輪院金体寺は往昔新元興寺境内に属す。又云、当寺縁起異説繁多にして或は時代年歴を謬伝する事甚し、続日本紀曰、元正天皇養老二年秋八月甲寅、遷法興寺於新京、号新元興寺、是今謂ふ元興寺にてこれは中門堂と号す、金堂大門廻廊等今謂ふ所の元興寺町以南にあり、悉回禄せしむ、異本合運図曰、後花園院宝徳三年、南都小塔院為馬借炎上、同余烟元興寺金堂極楽坊禅定院等焼云々、然ば宝徳年間廃壊せしむるの上、尚其後天文年中沢蔵軒乱妨或は土一揆の兵火等に廃地となりて原野の如く荒芝生る処なり、天正文禄年間漸民家となり於是芝の新屋町と号すものとす、又中世より東大寺興福寺動もすれば合戦闘争に及び互に法威に乗じ元興寺を奪て末寺とせり、元禄五年当寺観音開帳あり、爾時延喜通宝銅銭十枚観音の花瓶の中にあり、此を以て考ふる時は天平年間造立以降中門堂大塔火災なかりし証たるべし、宝永四年地震に中門堂破壊し、安政六年火災大塔亡ぶ。
新元興寺は又|飛鳥《アスカ》寺と曰ふ、初め蘇我馬子之を飛鳥に創建したれば也。類聚三代格に「元興寺、此寺者仏法元興之場、聖教最初之地也、去和銅三年、帝都遷平城之日諸寺随移、件寺独留、更造新寺、備其不移間、所謂本元興寺是也」と、本元興寺に後れて移されたる者也。
  詠元興寺里歌
 ふる里の飛鳥はあれど青丹よし平城の明日香《アスカ》を見らくしよしも、〔万葉集〕 大伴坂上郎女
 
禅院《ゼンヰン》址 続日本紀云、元興寺、道昭和尚物化之後、遷都平城也、和尚弟子等奏聞、徙禅院於新京、今平城左京禅院是也、此院多有経論、書迹楷好、不錯誤、皆和上所将来者也。坊目考云、今十輪院南側後なる公納堂町の遺迹を云ふか。(禅定院禅院同一ならん)
薬師堂址 今薬師堂町と云ふ、亦新元興寺に属せる者乎、御霊社あり其鎮守神なり、又新元興寺に白山権現社あり今に存す、按ずるに道昭弟子泰澄加賀国に至り白山神を拝す、此も泰澄の建てたる者乎。〔坊目考〕
小塔《セウタフ》院址 今西新屋町と曰ふ、即小塔院址なり、護命僧都の住房なりき。(坊目考)
 
高坊《タカバウ》址 横佩大臣藤豊成の石塔あり、高坊は蓋豊成の菩提所なり、永禄中心前法師此に住しけるに、松永氏の兵其石を徴収しければ、心前松永氏へ書送る、
 引のこすあきや花さく石の竹
因りて其事を停めたりと伝ふ。〔坊目考〕
 
中院《チユウヰン》 坊目考云、中院は新元興寺の中央なれば乎、今町名と為り猶極楽院あり即中院の跡を伝承せる也、智光大法師伝記云「智光、幼名麻福田丸、爾時有猛者、(猛者富人今曰長者)而存一美女、麻福恋之、娘不捨其思情、而令習文筆或仏経、竟為僧形修行焉、未遂情慾、而女子死、於是麻福発菩提心、行篤実」と、智光は河内国の人なり家地は和泉国泉南郡稲葉村にあり、行基菩薩の弟子となり極楽院に住し、師に先達て入寂す、今西大寺に属し田禄百石、律宗を奉ず。
補【新元輿寺】〔前文未詳〕続日本紀〔文武天皇四年三月己未〕道昭和尚物化、天皇甚悼惜之、遣使即弔※[貝+(甫/寸)]之、和尚河内国丹比郡人也、云々、時年七十有二、弟子等奉遺教、火葬於栗原、天下火葬従此而始也、云々、後遷都平城也、和尚弟及弟子等奏聞、徙建禅院於新京、今平城右京禅院是也、此院多有経論、書迹楷好、並不錯誤、皆和上之所将来者也。今按ずるに十輪院南側後にあり、亦大乗院の艮方にあり、是等往年禅院跡なり、今公納堂町の遺迹と謂ふもの、本尊阿弥陀仏今猶存す、舞楽人の家数多あり、是元興寺の余計なり。
補【薬師堂】薬師堂町も新元興寺の古地にして、薬師堂即其遺跡なり、永禄天正年間在家建もの乎、今御霊八所神社あり、鎮守なり。○白山権現杜 元興寺鎮守にして僧泰澄之を勧請する乎。元亨釈書曰、白山明神者泰澄法師、養老元年四月一日登於加賀国白山、而拝神霊云々、白山権現是也。按ずるに泰澄は初道昭の弟子にして、後平城の京に来て毎に元興寺に居する乎、於是白山明神の祠を建て鎮守神とする者、拠あり。
高坊 有横佩右大臣従一位豊成公廟所、永禄年中連歌師心前法師居於当坊、爾時松永霜台久秀築多門城、於是乱妨古墓之石塔婆、将使兵士奪豊成碑、心前述連歌之発句而贈久秀、久秀亦好連歌、因竟停其事云々
  引のこす秋や花咲石の竹 心前
按ずるに当坊は往年新元興寺の一院にして、右大臣の菩提所あるべし、葬所たるにおいては所見なし。
西之新屋敷は往古新元興寺の内に小塔院の地なり、按ずるに享禄年中七郷記当町を載す、享禄年間末寺院現在して俗家にあらざるが故なり、小塔院は護命僧都の住坊なり、今は終に小堂一宇、小門等残れるのみ。
補【中院】○平城坊目考 享禄七郷記及天正年地子帳不見中院郷、是寺院天正年猶存故也、文禄年間為在家乎中院は新元興寺の中院にして、今猶極楽院あり、今按ずるに中門堂(今元輿寺観音堂)南方にあり、禅定院(今大乗院御殿)東の方にあり、西光院南室北室、吉祥堂等西方にあり、仙光院北に在て極楽坊中央にあり、故に中院と号する乎、極楽院律宗、寺領百石、西大寺末寺。
補【不審辻】○平城坊目考 里諺云、上古元興寺に鬼魅あり、東山より出で、之に因て其山を謂て鬼園山といふ、於是不思議ケ辻子と名く、是其濫觴なりと云々。古翁曰、先年南都童俗卜事必聞辻占定之、是時之風俗、而多為其街語占是(是神国古風乎)時人亦為鶴福院之辻、所謂有其験、而大概毎夜立聞人於此街。
 
十輪《ジフリン》院 坊目考云、亦新元興寺の別院にして南光院とも云へり、境内に古雅なる石仏多し、経蔵は空虚なれど扉の両面に四天王を画き床下石台に十六善神を刻む、(此経蔵は謂ゆる校倉造りにて、明治十五年東京上野の博物館へ移し建つ)近代此地を割きて興善《コウゼン》寺を建立す、朝野魚養の墳あり墳前に没字碑あり、魚養は天平年中の人、書札を善くす、七大寺の額榜を題せりと云、続日本紀に下忍海原連魚養とありて、宇治拾遺には遣唐便彼地にて妻を設けて生みけるが帰朝したる也と曰ふ。
井上《ヰノウヘ》 坊目考云、往時新元興本元興両寺の間にあたり今井上町と云ふ、按ずるに光仁天皇々后を井上内親王(聖武皇女)と申し奉る、内親王事を以て幽囚にあひ薨去の後宇智郡霊安寺に祀らる、今此他にも御霊杜あり、井上内親王を祭る、薬師堂御霊是也。補【十輪院】○平城坊目考 興善寺は旧名奥の寺と号す、元来十輪院の境内として石仏の三尊あり、近世傍に草庵を建て浄土法師住居す、其後壇越逐日繁多にして墓所を構へ、此に葬る、竟に十輪院と当寺と争論に及び当寺の利潤となりて其境界を定む、爾時魚養墳、当寺地内となる、仍て又替地をして南方に与へしめ、魚養墳を十輪院に徙さしめ、其後慶長年中智積院末寺となりて本堂を建立す。○十輪院は新元興寺の別院南光院跡是なり、魚養の古墳あり、魚養は天平年間の人にて即東大寺国分門の銘額を書写す、古老云、永禄天正年間、兵士悪党等当院を乱暴して、経巻を奪ひ、これを縄に撚て軍用の兵器等を束縛す、是に於て古経及び仏書悉滅亡して、今経蔵空しく存す、経蔵の扉の両面四天王像を画き、床下石台十六善神の像を刻む、境内に古雅なる石仏多し、
魚養墳は塚の前面左右碑文あり、西の方磨滅して文字不見、南都旧記云、当辺は南光院、是元興寺道昭和尚の住坊云々。蓋し道昭は本元興寺に入寂、滅後十有七年に及て平城左京禅院を遷建、南光院は其一院なり、何年廃壊たる事を知らず、疑らくは沢蔵軒の兵革乎。補【井上】○平城坊目考 井上町、当坊往古本元興寺と新元興寺との中間なり、井上の名目異説繁多にして未詳、宝徳三年十月元興寺金堂其外悉回禄、疑らくは其後為在家乎、里諺云、古井東側商家の裏にあり、且井上の濫觴なり、而往年此井路傍にあり、毎年暑月に至て、里俗井辺に出て納涼をなす、遇々時宗の遊行僧招きて長き板を井上に渡して説教者の坐とす、其上にして音曲等をなす、長歌念仏なり、聴聞の族井の廻に列坐して、慰めて避暑て歓楽す、亦青銅百銭を布施とす、往々郷例となる、是俗に井上町と号すと云々、按ずるに件の説、是に非らず、既に享禄二年七郷記井上郷あり、歌説経は近世宝永正徳以後の風流なり、附会して井上の濫觴と称す、妄説なり、続日本妃曰、光仁天皇宝亀三年三月癸未、皇后井上内親王坐巫蠱廃、宝亀四年十月辛酉、初井上内親王坐巫蠱廃、後復厭魅難波内親王、是日詔幽内親王及他戸王子大和国宇智郡没官之宅云々。或云、井上皇后宝亀三年廃后之後籠居当所、今謂当町東方避地、曰籠屋敷、称籠之坂、地不遠南西、龍居址有拠、其後御霊神社在当地、而後遷祭於今之薬師堂町御霊之地也云々。
 
本元興寺《ホングワンゴウジ》址 新元興寺の西南、大安寺の東に接して建立ありし者か、木辻村の西南京終村の耕田に葛城《カツラギ》の字存すと坊目考に見ゆ、本元興一名葛城寺又豊浦寺と曰へり、六条大路は大安寺の南路にして故径存す、其四坊にや七坊にや疑惑多し、後の考正をまつと云ふのみ。
続日本紀云、元正天皇霊亀二年五月、始徙建元興寺于左京六条四坊。本元興寺縁起余篇云、(坊目考所引)霊亀二年遷豊浦寺、於平城左京四坊、爾来称豊浦寺曰本元興寺、墾地七百三十二町。続日本紀云、光仁天皇宝亀十一年、大雷災於京中数寺、其新薬師寺西塔葛城寺塔并金堂皆焼燼焉。本元興寺縁起余篇云、光孝天皇仁和三年十二月、本堂一宇無残払地焼亡。本元興寺は仁和焼亡以後再営なかりし如し、続日本紀宝亀元年の童謡に豊浦寺の西なるやとよめるも此寺なり、三代実録に「建興《コンゴウ》寺、是宗我稲目宿禰之所建也、又推古天皇之旧宮也、元号豊浦、故為寺名」云々、東大寺要録、天平勝宝元年官符、元興寺(飛鳥寺)右寺二千町、新薬師寺建興寺(豊浦寺)右寺別五百町など見ゆ。三代実録、貞観五年勅以新銭一千貫文鉄一千廷施入諸大寺、東大寺興福寺元興寺大安寺薬師寺西大寺各銭首貫、鉄百廷、延暦寺新薬師寺各銭三十貫鉄三十廷、豊浦寺本元興寺招提寺天王寺崇福寺知識寺各銭二十貫、鉄二十廷、梵釈寺比叡西塔院東寺西寺各銭十五貫、鉄十五廷。
 葛城や豊浦の寺のあきの月西になるまでかげをこそ見れ、〔続古今集〕 源具氏
此寺は飛鳥の豊浦より移されたり、而て一号葛城とあるは上宮法王重興して之を葛城臣(蘇我氏)に附せらるれば也。
補【本元輿寺】○平城坊目遺考 当寺往昔地形を考ふるに、東は中辻町辻より南岩井川に至、西は綿町辺より西へ郡山道大安寺字長池辺迄、夫より南へ岩井川迄直経乎。続日本紀曰、元正天皇霊亀二年五月辛卯、始徙建元興寺于左京六条四坊。是本元興寺なり、豊浦寺、葛城寺といひしも本元興寺の名なり。
葛城寺址 木辻村西南京終領耕田中に在りといふ。仁和三年丁未十二月晦日、本堂一宇無残払地焼亡、後再興あらざるか、肘塚水田の中に本元興寺は六条より四条まで、新元興寺は四条より三条迄。
 
肘塚《カヒナヅカ》 奈良市の南限にて肘塚村と云ふ、玄※[日+方]法師の肘塚あり。坊目考云、玄※[日+方]は天平中筑紫に虐死す、疑らくは骨肉破壊散乱して全からず、弟子集之て火葬せしめ其枯骨を採て平城旧坊に贈る、亦当所の弟子或は法侶等※[日+方]が妖死と憐哀て元興々福東大等に葬か、天文年中土一揆の記曰、一揆の張本雁金屋民部国之手勢百余人肘塚郷に殿して防戦、終に越智大学利元の為に討たる。
補【頭塔】○平城坊目考 頭塔町之記云、天平年中筑紫観音寺玄※[日+方]僧正為広嗣霊被抓虚空、翌年六月十八日枯独髏落興福寺、其後築塔于此所云々、按、落枯独髏於平城之事、国史所不載、元亨釈書※[日+方]頭落興福寺唐院云々、源平盛衰記落西金堂前、彼是異説多、玄※[日+方]為雷火所害而後門弟子拾骨、贈興福寺唐院、於是葬於当寺、号頭塔者乎、草堂一宇塔傍にあり、賢聖院と号すと云々。
 
木辻《キツジ》 坊目考云、鳴川《ナルカハ》東西通を木辻と云ふ、往年鳴川郷と呼び、今游女艶里となる、古老曰、往年無在家、有草堂今の称念寺是なり、路頭に一大樹有て木辻と称す是其濫觴なり、慶長年間民家二三宇を造て茶店とす、潜に夜発の族を置く、而後在家軒を列ね真に傾城町となる云々、享禄年中七郷記、天正年間地子帳等に木辻町見えず、是慶長年中以来町屋となる処分明なり。
 
京終《キヤウバテ》 木辻の南にて、奈良市の南限の意なり、古京六条坊門に当る如し。延喜式大和国京南荘并率川荘とあるは此地にして、往時は京南と曰へるならん。
     ――――――――――
猶中《ナホナカ》郷 和名抄、添上郡猶中郷。奈保山佐保山附近の地にして、今佐保村及び奈良坂村に渉る、猶は直山|那富《ナホ》山などの奈保に同じ 其中里の謂なるべし。奈保山佐保山は一地異名の看あれど、佐保は本来水名より起りて山名に転ぜるごとし。
 
佐保《サホ》 今佐保村は添上郡西北部を籠め法華寺法蓮の二大字に分る、佐保川あり奈良坂の東より発源し水谷川率川岩井川等を併せ南流して南方の諸水と匯して大川《オホカハ》と曰ふ、即大和川の上游なり。宣胤卿記、明応六年殿下伝領荘園の一所を大和国佐保殿とあり、今狭岡神社の辺なり、又本朝世紀、康和五年右大臣興福寺下向の時佐保殿に着到の事見ゆ。
   設飲饌以饗長官佐為王、未及日斜王既還帰、於時益人怜惜不厭之帰、仍作此歌、
 おもほえず来ませし君を佐保川のかはづきかせずかへしつるかも、〔万葉集〕 ※[木+安]作村主
   詠柳
 打のばる棹のかはらのあをやぎは今は春べとなりにけるかも、〔万葉集〕
佐保山は一に棹山又蔵宝山に作り、那羅山の中に属す、其北嶺を雍良峰と曰ふ、南を眉間寺山と曰ふ、其西に興福院不退寺あり、又奈保山陵あり。
 佐保山をおほに見しかど今みれば山なつかしも風吹くなゆめ、〔万葉集〕
佐保姫宮は佐保村法蓮の東に在り。古事記伝云、後世秋の歌には立田姫をよみ、春の歌には佐保姫をよむ、是奈良の京の頃より言出たるべし、立田は京の西に在りて立田姫と申神あるに対ひ、佐保は東に在るを以て設けたるならん、西三条公高野山参詣記に佐保姫社に参りしとあり。○按ふに古は佐保は大邑にして、古事記率川宮(開化)段云、御子日子坐王、娶春日建国勝戸売之女、名沙本之大闇見戸売、生子沙本毘古王、次袁邪本王、次沙本毘売亦名佐波遅毘売、此為伊久米天皇之后、この沙本毘古王書紀には狭穂彦王とありて、垂仁帝(伊久米天皇)の御宇に謀叛の事あり、袁沙本は日本書紀武烈天皇の歌にも、
 春日の箇須我を過ぎつま籠もる鳴佐※[なべぶた/臼最後の画中で切れる/衣のなべぶたなし]を過ぎ
とあり、大小の佐保何地を指すや明了を欠く、法華寺の東南佐保川北畔に丘墳五六凸起して存す、古代の墓なるべし。
 
法蓮《ホフレン》 佐保村の東部にして、佐保川の北なり、其東西路即左京一条南路なり。春日の香山寺天地院天喜年中焼亡後其名跡を此に伝へ、僧法蓮住居したるより此名起ると云ふ、今閻魔堂其遺址か。
釈書云、法蓮、奥州人居興福寺、後帰郷持法華、同郡人有光勝者、住元興寺、亦帰里、道交和睦。土俗法蓮綿と云ふは本朝本綿最初此地に種子を伝へ、後他境遠国に及ぼす、当村根本の地と称すと、其説明了を欠く。〔坊目考〕
補【法蓮】○平城坊目遺考 当地は松永久秀多門城没落後人家建連ね、新在家出屋敷とす、其後繁盛して今の村落となれりとぞ、旧名を広岡といふ、法蓮寺は、天地院の号にて、則和銅年春日山の奥高山半腹の地に行基菩薩の建る所、天喜元年九月焼失、其余堂を此に移し法蓮寺と号せしより、後に町名となりしならんか。○平城坊目考 北法蓮町は当郷南に佐保川(俗云法蓮川)あり、北は佐保山御陵の麓に至り、東は眉間寺前川岸に及ぶ、法蓮法師の住居所たり、〔元亨釈書、略〕当村闇魔堂其遺跡か、不詳、高倉院安徳帝より以往乎、古老伝云、本朝木綿といふもの、上古其種唐土より渡て初て当辺に殖て往々近里に弘るといへども、曾て他邦に不知之、其後年経て漸く隣国に伝り、亦荏荏遠国に及び、これを殖る事逐年増長し、其能をしつて※[糸+壬]織して木綿布と云ひ、亦木綿を謂て法蓮綿といふ、当郷其根本の地といへども今旧名を失ひ、却而他国遠境に此名残る、既に東都及近国今に至て法蓮綿と称するもの此来由なりと云々。
 
佐保山《サホヤマ》陵 法蓮の北|眉間《ミケン》寺山に在り、即左京一条南路北五坊大路の衝にあたるか、聖武天皇の御陵なり。初め眉間寺を兆域内に造り、永禄年中松永弾正少弼久秀此に築城し御陵其中に在りしが、猶|御陵森《ミサキモリ》と称し毀壊を免る。文久二年眉間寺を山下に移し御陵を修治せらる。延喜式云、佐保山南陵、平城宮御宇勝宝感神聖武天皇、在添上郡兆城東四段西七町南北七町。
佐保山東陵 聖武皇后藤原光明子(不比等女)の御陵なり、延喜式に列す。聖武陵の東北にて、老松生じて南陵と相対す。〔名所図会陵墓一隅抄〕
佐保《サホ》山西陵 文武皇后藤原宮子姫(不比等女)の御陵なり、延喜式に列す。聖武陵の西北|大黒芝《ダイコクシバ》と称する地蓋其火葬所にして又山陵ならん。〔陵墓一隅抄〕今稲荷山とも呼び、七疋狐又犬石と呼ぶ、隼人像石四個陵上に置かる、雍良峰陵の条を参考すべし。那富《ナホ》山墓は聖武天皇の皇子基親王の葬所とす、近く南陵の西北に在り。(陵墓一隅抄)按に那富山は奈保山直山に同じ、即元明元正と其陵号を一にす、古へより佐保山奈保山又椎山は差別なかりしにや、不審。
椎岡《ナラヲカ》墓は藤原不比等の墓なり延喜式に見ゆ。眉間寺の西に在り佐保山西陵と相并ぶ、〔陵墓一隅抄京華要誌〕椎は楢と同訓なり。隅山《スミヤマ》墓は藤原房前の墓にて、今杉山と号し老松三株雑樹茂生す、椎岡同所なり、隅山墓類聚国史に見ゆ。〔県名勝志〕
 
眉間寺《ミケンジ》址 佐保南陵の兆域内、其眉間に在りて、寝園看侍の僧なりき。坊目遺考云、和州寺社記、崩御奉葬の後其傍に本寺を建つ、眺望山と号し、仏殿宝塔鐘楼庫裡等ありしと、文久二年之を撤去し山下に移し、其後数年悉皆廃亡す。元亨釈書云、道寂居元興寺、移住眉間寺、其寺主有旧好、嘗作一磔手半観音像一千躯、未畢寂、戮力而成、又鋳洪鐘三、捨東大長谷金峰三寺。
補【眉間寺】○平城坊目遺考 眉間寺址は佐保村大字法蓮、佐保南陵内に在り、眺望山と号す、本堂多宝塔、鐘楼庫裏等の址は今御陵御構内半腹に在り、和州社寺記曰、眉間寺は天平勝宝八年丙申五月二日聖武天皇御年五十六歳にして崩御し給ひ、此所に奉葬、傍に寺を建、眉間寺と号すと云々(松永築城時御陵構内に在り)当寺文久年帝陵御修繕に付、宝塔破却、本堂庫裏を壇下に移す、皇政復古後滅亡。
 
多門城《タモンノシロ》址 佐保山に在り、南陵東陵を籠め佐保川を前にし般若坂を背にす。永禄十年大和河内国主松永久秀之に城き、以て南都を圧す、石築壮固一時に冠絶す。天正元年久秀の子久通城を以て織田氏に降附す、織田氏山岡景友を置く、後幾もなく廃し其旧材は蓋郡山城に移すと云ふ。久秀永禄の初め三好長慶に仕へ大淀に戟ひ大和を※[ぎょうにんべん+旬]へ功あり遂に州内を平定し、乃信貴山に城き天主楼を起す、兵馬強盛なり、八年久秀足利義輝を弑す亦三好党と隙あり、十年六月佐保山に築き門郭を修め士卒をして之に栖息せしむ、海内築城の規矩之より一変す、称して多門造と曰ふ、当時久秀の属邑逢坂の岡国高、古市の古市景治、高山広瀬の菅田豊春、片岡の岩成春之、平野の森正友、狭山の森正次、高槻の入江盛重等各其地を守備す、是年十月松永三好の兵大に奈良に戦ひ大仏殿を焼く、筒井氏久秀に服せず屡兵を出して相戦ふ、天正五年久秀敗死す。
補【多門】○平城坊目考 多門町は佐保川の北涯、佐保山南陵の東より同東陵の前を云、原縁は天正年松永弾正久秀佐保山に塁を築て出張し、久秀常に信貴山多聞天を信仰す、因て佐保山の塁を多門と名づく、其塁郭の下に家屋を建るを以て当地の名となりしなり、此地往古川上村の内にてありき。
補|称名《シヨウミヤウ》寺 ○平城坊目考 当寺は往古興福寺の別院なり、興北寺と号す、本尊聖観音今に存す、中世浄土宗たり、慶長七年寺領三十石、御朱印頂戴すと云々。地蔵石像千体仏 本堂の東に有り。貞享年当寺住侶造立、但南都者往古より寺院数多郷中に在り、永禄年松永久秀多門城を築く、爾時古墳碑石等を破却して軍用の愁礎とす、而後落城に及ぶ、於是石仏石塔婆片々として郷間俗家に分散し、溝渠路頭にあり、当寺長老其仏石を集て以て造立せしむるもの也、清泉井在方丈、名珠光井、手水石鉢是又存庭上云々。補|珠光庵《シユクワウアン》 ○人名辞書 珠光は茶家の祖なり、少き時南都の称名寺の僧となる、年三十の頃紫野大徳寺に至り、業を一休和尚に受けて自己の必要を究明し、数寄の妙術に至る、偶々将軍足利義政、光を賞し命じて還俗して草庵を三条の辺に造らしめ、珠光庵主の四字を自書せる額を賜ふ、光唯一鐺を貯へ、或は※[米+参]を和して自ら喫し、或は茶を煎じて賓友を会し、和歌を以て自ら娯しむ、是に於て時人争ひ来りて交を締ぶ、其の党特に多し、本朝茶道の宗匠と称する者は実に光より始まる、光が遺愛の書画及び玩好の具、後人千金を以て之を争ふと云ふ、文亀二年五月十五日歿す、年八十一、大徳寺中真珠庵に葬る、其室四顧四筵の外半筵を加へ、以て茶席を為す、世人其の風雅を募ふ、名四方に振ふと、珠光又画を真能に学びて之を好くせり(野史、茶人系伝全集)
補|野田《ノダ》 ○平城坊目考 茶人権太夫跡あり、権太夫は春日禰宜にして、平日茶を好て佳名あり、小堀遠州公及片桐石川公等茗交来訪ありと云々、当初造所の曲木門今猶存す。長闇堂記に曰く、我庭前七尺の堂の起は東大寺大仏再興のひじり俊乗上人の影堂を中井大和守改めかへられし其古き堂おもしろきものなれば其人に申請て前栽の中に移しつくろひて、茶所に用ひたり、堂の内わづかに方七尺、其内に炉を入、床有、押入あり、水屋ありて茶具を取入、床に花掛物して、押入床を持仏堂にかまへ、阿弥陀の木像を安置し、客に茶湯を出せどもせばき事なし、鴨の長明は維摩の方丈をまなびて隠居し、人にまじはらざるを楽しみ、只一すらに弥陀を願へり、我堂は方丈にたらずといへどもあまたの人を入て茶湯せしなれば、浄名居士の獅子の座にはかなへりとぞ思ふ、何ぞ長明を求んや、但し弥陀の本仏の幸に便乗の古堂なれば、似合しくおもひて安置すといへども、我更に弥陀を願んとにはあらず、云々、維時寛永十七辰秋、久保権太夫藤原利世。此長閣堂数寄屋後に角振町岡田寛斎買求め、貞享年龍松院公慶上人大仏再興之時、彼七尺堂を上人に贈る処、下部共古珍物を不知、薪となせしとぞ。
 
興福《コウフク》院 法蓮の西、佐保山の中央に在り、和気氏弘文院の遺名と称す、初め右京三条(今都跡村大字興福院)に在り、徳川家光寺封二百石を給し小堀遠州宗甫をして此に徙建せしむ、寛永年中の事也。
狭岡《サヲカ》神社 狭穂岡の神なり、興福院不退寺の間字|佐保殿《サホデン》霊山に在り、此神は文徳実録仁寿二年授位あり、延喜式には八座とあり、率川神の苗裔神にやあらん。
 
不退寺《フタイジ》 興福院の西十町許左京一条北路二坊大路と想はるる地なり、佐保殿と字す、不退寺は平城帝の皇子女協力建立の貴刹にして、在原寺とも称す。在原氏皇子阿保親王に出づ、今は荒衰にして纔に草堂一宇を存するのみ。三代実録貞観二年云、高岳親王為僧、貞観初表請、以大同四年所賜上毛叡努石上内親王等平城水田五十五町余、還施不退超昇二寺許之。(取意)
 形ばかり其名ごりとて在原のむかしの跡を見るもなつかし、〔玉葉集〕 為子
 
阿保山《アホヤマ》 不退寺の岡陵なるペし、平城皇子に阿保の御名あるも之に因る、阿保は或は穴太に作る本伊賀国の地名なり、古事記、垂仁の皇子に伊許婆夜和気王ありて沙本穴太部之別祖と曰ふ、沙本即佐保なれば彼国より此に移れる阿保氏ありて阿保山の号は出たる也。
 阿保山のさくらの花はけふもかも散りみだるらむ見る人なしに、〔万葉集〕
 
法華寺《ホツケジ》 佐保村大字法華寺に在り。寺前東の方法蓮より東大寺景清門に通ずる一径は右京一条南路にして、南の方佐保川に沿ふ田径は左京一坊大路なり、而て本寺は旧宮城境内に属したる如し。今律宗を奉じ、貴族尼公住職し門跡と号す。
栄華物語江談抄には当寺は大織冠鎌足造立と為す、然れども扶桑略記は文武太后宮子媛の宮を棄て、法華寺と為すとありて後説信にちかし、即天平十三年毎国僧寺尼寺を置くの詔ありし際に在りしか、続日本紀、天平感宝元年、大倭国法華寺墾田一千町、又天平宝字六年、太上天皇(型式)御法華寺など見ゆ。東大寺を総国分僧寺と為すに準じ本寺は総国分尼寺なり、延喜式云、凡大和国国分二寺者便以東大寺為僧寺、以法華寺為尼寺。明治卅一年、十一面観音(木造立像)一躯国宝に列せり、仏堂殿舎は頽破の看なきに非ず。
 
海龍王寺《カイリユウワウジ》 法華寺の東傍に在り。寺蔵毘抄門天像(絹本着色)一幅今国宝に列す、本寺も光明皇后天平中の創建と云、縁起未詳。海龍王寺と法華寺の間を宮垣と字す、即平安宮の遺名にして二寺の間に左京一坊大路ありて宮の内外を分ちし者の如し、又続日本紀天平十年施|隅《スミ》院百戸とあり、隅院即海龍王寺なるべし、当時皇居の東北隅にあたれば也。扶桑略記、天平神護二年、奉請隅寺毘沙門像所現舎利於法花寺、簡点氏々年壮有容貌者二百人、捧持種々幡蓋行列前後、某所着衣服金銀朱紫恣聴之。海龍王寺今西大寺に依属し本堂西金堂の二宇を存す、寺蔵に興正菩薩嘉禎年中所造五層塔模型あり、下壇方八尺壇上より露盤に至る十尺三寸余、今九輪を欠くも以て古代建築の手法を観るべし、蓋亦平城朝以往の様式とぞ。大和志云、海龍王寺、一名|脇寺《ワキデラ》、寺僧兼任大安寺寺務職、其大安寺縁起亦有於斯。
                    
字奈太理《ウナタリ》神社 法華寺の宮垣《ミヤガイ》に在り、高御魂神を祭る、三代実録に法華寺薦枕高御産栖日神と録し、延喜式大社に列す、之より先き持統天皇六年新羅調物を菟名足社に奉りたる事日本書紀に載せたり、古の霊社たるや想ふべし。
 神紙志料云、佐保川は法華寺の東南を過ぎ薦枕《コモマクラ》川の名あり、古は本社其川の辺に在り故に薦枕神と呼ぶか、藺笠滴曰、検地帳に佐保殿村法華寺村の間に田地の名に雨多利と書るが今然呼処あるは、古の字奈多利の遺名也、然るを貞観以後神名に法華寺を冠らせ唱ふるは当時仏法盛なりし時此神社を其守護神など云し事のありしより起れるなるべし、長門本平家物語に治承合戟の時平重衡法華寺鳥居の前に打立と云事見えたり、証とすべし。今按ずるに鳥居は古へ寺門にも社前にも同く建てたり、平語の鳥居は法華寺寺門ならん。
 
奈保山《ナホヤマ》陵 佐保村法華寺の北に二山陵あり、磐之媛陵の東南に接し大奈閉《オホナベ》小奈閉と称す。高墳深溝、平城朝時代の他陵に異なり、其制垂仁成務の御陵に比すべし、故に論者或は之を以て奈保山陵に非ずと為す、然れども尚疑なきにあらねば暫之を以て此に繋ぐ。山陵志云、奈保、佐保之西、所謂平城旧都北郊也、距今奈良西十八町、法華寺是皇居祉也、其北今呼在東者為大奈閉元明東陵也、在西者為小奈閉元正西陵也、奈閉奈保之訛也、大小以前後之世次言之也。(東陵南北二百間東西百四十間、西陵稍小なり)延喜式云、奈保山東陵、平城宮御宇元明天皇、在添上郡兆城東西三町南北五町。又云、奈保山西陵、平城宮御宇浮足姫天皇、在添上郡兆城東西三町南北五町。按に続紀には直山《ナホヤマ》陵に作り、二帝の改葬は必定此なるべし、扶桑略記に養老四年元明天皇火葬の条下に「陵高三丈方三町也、自此以後不作高陵」と注したるは直山改葬の御陵を指せるならん。
 
那羅《ナラ》山墓 大奈閉の東五町佐保山中に古墳あり、峰に倚り築成し、円塚なり、土俗大山守皇子墓と為す。日本書紀云、大山守皇子死于菟道、葬于那羅山。  
 
平城京《ナラノミヤコ・ヘイゼイキヤウ》址 平城は一に寧楽《ナラ》に作る、按に此京は添上添下(今生駒郡)の二郡に跨り、条坊を区画し宮殿寺塔公私の宅舎を其間に布置せらる、其条坊の跡今に故径を存する者多く、之を寺塔の位置宮殿の廃墟に参考せば其大略を弁知すべし。古図平城京九条の横衢を置き中央縦街を朱雀大路と為し左京両京に分ち各四坊と為すと云ふ、然れども霊異記に左京六条五坊の名を載せ、群書類従本の興福寺縁起に「寺家一院、在左京三条七坊」とありて、坊目遺考にも、山階寺流記を援き左京三条七坊と曰へり、七坊とは東京極の外なる坊目なれど、又固より当然の名なり。されば古京の東堺(左京七坊大路)は今奈良町手貝雲井坂より大鳥居に通ずる大路是なり、東大寺春日社は七坊以外にして興福寺は七坊に属す。西京極(左京西坊大路)は今生駒郡伏見西大寺菅原寺の西に在るべし、故径廃亡す。又一条北路は伏見村西大寺北垣に并行し東の方佐保村法華寺まで故径存す。一条南路は法華寺南垣に并行し東の方東大寺手貝門(景清門)まで一線直通す。九条大路は添上郡辰市村九条より生駒郡郡山町九条に向ひ廃道断続す。其他
 左京二坊大路は三条以南に於て大安寺村の南に傍ひて存す、左京一坊大路は三条南北に於て佐保川西畔に傍ひて存す、朱雀大路は滅して跡なし、左京一坊大路は都跡村佐紀の南に微く存す、右京二坊大路は佐紀の西より南方一路洞通し、斉音寺三条六条等を経て郡山町九条に至る号して佐紀大路と曰ふ、右京三坊大路は伏見村垂仁陵南より六条七条九条まで廃径依然たり、其九条民家の間に辻あり縦横の交叉を為す。二条大路は奈良町以西今屈折すと雖伏見村菅原に至るまで猶存在を徴すべし、三条大路は春日大宮登大路と相通じ伏見村垂仁陵の辺まで儼然たる坦道あり、(三条坊門も奈良町より佐保川畔まで存在す)四条大路五条大路は左京奈良町に故径あり、右京には亡び招提寺の南に五条の大字を存す、六条大路は左京三坊大安寺南より右京三坊薬師寺北に至るまで存し、薬師寺の北に六条の大字存す、七条大路は廃滅し右京三坊に七条の大字を存するのみ、八条大路は廃滅し左京二坊八条の大字を存するのみ。
平城京東西市の名は万葉集に詠歌あり、東市は今辰市其址なるべし、
 酉の市にただひとり出て目ならべず買へりし絹の商じこりかも、東の市の殖木のこだるまであはず久しみうべこひにけり、〔万葉集〕白金の目貫の大刀をさげはきて奈良の都をねるは誰子ぞ、〔拾遺集神楽歌〕
続紀云、元明天皇、和銅元年春二月、詔曰、朕祇奉上玄、君臨宇内、以菲薄之徳、処紫宮之尊、常以為作之者労、居之者逸、遷都之事、必未遑也、而王公大臣成言、往古已降、至于近代、揆日瞻星、起宮室之基、卜世相土、建帝皇之邑、定永鼎之基、固無窮之業斯在、衆議難忍、詞情深切、然別京師者、百官之府四海所帰、唯朕一人独逸予、苟利於物、其可達乎、昔般王五遷受中興之号、周后三定致太平之称、安以遷其久安宅、方今平城之地、四禽叶図三山作鎮、亀筮並従、宜建都邑、宜其営構、資須随事条奏、亦待秋収後、今作路橋、子来之義、勿致労擾、制度之宜、合後不加、秋九月巡幸平城、観其地形、至春日宮、大倭国添上下二郡、勿出今年調、車駕遷宮、以正四位阿倍宿奈麿従四位多治比池守、為造平城宮司長官。二年秋九月車駕巡撫新京百姓焉、三年春三月始遷都於平城。四年九月勅、頃聞国役民労於造都、奔已猶多、雖禁不止、今宮垣未成、防守不備、宜権立軍営禁守兵庫、五年正月、詔諸国役民還郷之日、国司等宜勤加撫養。又云、聖武天皇天平十二年十二月、遷都于山背恭仁宮、十三年移平城二市於恭仁。
   天平十六年傷惜寧楽京荒墟作歌
 くれなゐに深くそめにしこころかも寧楽の京師に年の歴ぬべき、〔万葉集〕
 世の中を常なき物と今ぞしる平城の京師の移ろふ見れば、〔同上〕
続日本紀云、天平十六年正月詔、喚会百官於朝堂、問曰恭仁難波二京、何定為都、又就市問市人、皆願以恭仁京為都、但有願難波者一人、願平城者一人。二月天皇行幸難波宮、勅云今以難波宮定為皇都、宜知此、京戸百姓任意往来。十七年四月甲賀宮山火、五月地震、太政官召諸司官人等、問以何処為京、皆言可都平城、四大寺衆僧又曰、可以平城為都、地震連日不止。甲子令掃除平城宮、時諸寺衆僧率浄人童子等、争来会集、百姓亦尽出里無居人、以時当農要、慰労而還。丁卯読経於平城宮、是日市人徙於平城、暁夜争行相接無絶。戊辰甲賀宮山火未滅、仍令収官物、是日行幸平城、以中宮院為御在所。乙亥親臨松林倉廩、賜陪従人等穀。六月樹宮門之大楯、八月行幸難波宮、九月還到平城、十二月運恭仁宮兵器於平城。
平城は和銅三年より延暦三年まで八代七十七年の皇都也、其間聖武帝天平年中恭仁甲賀(紫香楽)難波の造京ありしも皆久しからずして回駕せられ、此際平城は別都と為り一時哀運に就きしかど、暫にして東大寺西大寺等の造営ありしを観れば尚盛大を失はず。延暦遷都後は離宮ありて之を修め平城帝入御の後は全く廃絶したる者に似たり。三代実録云、貞観六年、大和国言、平城旧京、其東添上郡西添下郡、和銅三年遷自古京、(高市郡飛鳥藤原)都於平城、於是両郡自為都邑、延暦七年(日本紀略三年)遷都長岡、其後七十七年、都城道路変為田畝、内蔵寮田百六十町、其外私窃墾開、往々有数。類聚国史云、延暦十七年勅、平城旧都、元来多寺、僧尼猥多、濫行屡聞、宜令国守、便加検察。
 古里となりにしならの都にも色はかはらず花はさきけり、〔古今集〕 平城帝
 道しばの霜よの月をふみならしふりにし都あれにけらしな〔夫木集〕 三条右大臣
補【平城京】○平安通志 延暦十七年七月廿八日勅、南都崇仏の弊殆仏刹の巣窟となる、帝嘗て之を憂ふ、藤原園人時に大和守を兼ね、奏して検察を加へむと請ふ、勅して奏に依らしむ、平城旧都元来多寺、僧尼猥多、濫行屡聞、宜令正五位下右京大夫兼大和守藤原朝臣園人便加検察(類聚国史)和銅元年秋九月戊寅、巡幸平城観其地形、三年春三月辛酉、始遷都於平城。桓武天皇都を山背に定めし後猶都邑たり、中世之を奈良と称す。貞観六年十一月七日庚寅、先是大和国言、平城旧京、其東添上郡、西添下郡、和銅三年遷自古京、都於平城、於是両郡自為都邑、延暦七年遷都長岡、其後七十七年、都城道路、変為田畝、内蔵寮田百六十町、其外私窃墾開、往々有数、望請収公、令輸其租、許之。是より先、聖武天皇九年大和を改て大養徳となし、十九年旧に復して大和と称す。天平九年十二月丙寅、改大倭国為大養徳国。同十九年三月辛卯、改大養徳国、依旧為大倭国。孝謙天皇天平宝字元年大倭を改て大和国となす。
 
平城宮《ナラノミヤ》址 宮城は二条以北東西一条大路の間に在り、今法華寺(添上郡佐保村)の西南|楊梅《ヤマモモ》陵(今生駒郡都跡村超昇寺)の南にあたる、墾破して田圃と為り廃墟明認すべからず。続日本紀云、天平十五年、始運平城器仗、収置於恭仁宮、壊平城大極殿并歩廊、遷造於恭仁宮。又云、天平十七年五月、行幸平城、以中宮院為御在所、旧皇后宮、為宮寺也、諸司百官各帰本曹。又云、二十一年六月、天皇遷御薬師寺宮、為御在所、七月皇太子受禅即位於大極殿、十月庚午行幸河内国智識寺、以茨田宿禰女之宅為行宮、丙子車駕還大郡宮、十一月於南薬園新宮大嘗。天平勝宝二年正月朔、天皇御大安殿受朝、是日車駕還大郡宮、賜宴、又於薬園宮、給饗焉、二月天皇従大郡宮移御薬師寺宮、五月於中宮安殿請僧一百講経。三年正月、天皇御大極殿南院、賜宴。五年正月、天皇御中務南院賜宴。六年正月、天皇御東院賜宴、七月太皇太后(光明子)崩於中宮。天平宝字元年五月、移御田村宮為改修大宮也。六年太上皇(孝謙)自保良宮還平城宮、天皇(淳仁)御于中宮院、太上皇御于法華寺。按に平城宮は天平十三年一旦毀壊せられ、大極殿を恭仁へ運致せられしが、十七年復都せられ、皇居は此際造営なかりしも年を逐ひて諸宮殿起る、中宮院は光明皇后の法華寺即宮寺なるべし、薬園宮大郡宮は添下郡郡山に在りしと云ふ、南院東院などは大内裡に在りしならん。
 
田村宮《タムラノミヤ》址 続紀云、天平勝宝八歳四月、大納言仲麿招大炊王居於田村第、天皇詔、迎王立為皇太子、五月天皇移御田村宮、為改修大宮也、六月山背王告橘奈良麻呂傭兵器謀囲田村宮。按に田村は京中の地なれど今詳ならず、東大寺要録、(長徳四年注文)「平城田村地二町四段二百卅八歩、四条二坊十二坪、(一町二段百廿四歩)五条二坊九坪、(一町二段百廿四歩)」此証文にて大略を弁知すべし、続紀「光仁天皇宝亀六年、置酒田村故宮」と云ふも此なり。
 
田村《タムラ》 万葉集云、大伴宿奈麿卿、居田村里。姓氏録云、左京皇別吉田連、大春日朝臣同祖、彦国葺之後也、昔御間城天皇御代、任那国奏請将軍、天皇令彦国葺孫塩乗津彦鎮守、彼俗称宰為吉、故謂其苗裔之姓為吉氏、従五位下知須等、家居奈良京田村里間、仍謚聖武天皇神亀元年賜吉田連姓、(吉本姓也田取居地名也)弘仁二年改宿禰姓。
 青丹吉寧楽の京師はさくはなのにほふがごとくいまさかりなり〔万葉集〕藤浪の花はさかりになりにけり平城の京をおもほすや君、〔同上〕あをによし寧楽の家には万世にわれもかよはむわするとおもふな、〔同上〕海原を八十島かくり来ぬれども奈良のみやこはわすれかねつも、〔同上〕なつきにし奈良の京の荒ゆけばいでたつことになげきしまさる、〔同上〕
   寧楽懐古 太宰春台
 南都茫々古帝城、三条九陌自縦横、籍田麦秀農人度、馳道蓬生売客行、細柳低垂常惹恨、閑花歴乱竟無情、千年陳述唯蘭若、日暮※[口+幼]々野鹿鳴、
   和州道中 梁星巌
 古道六七里、春風三両村、花残宮女面、鳥喚帝王魂、
大同帝の修造せられし平城宮は、後の超昇寺なるべし、彼条を参考すべし。又按に扶桑略記、昌泰元年寛平上皇遊幸の条云、早朝進発※[木+王]道過法華寺、礼仏給綿、上皇出入往反、巡覧寺中、毎見破壊之堂舎、弾指歎息、出寺門至旧宮重閣門所、路傍有※[酉+豊]果子、群臣任意飲喫、或曰此物大安寺別当僧所相待也、云々と、此の旧宮と云は即平城宮にして重閣門とは羅城門の事なるべし。
 
大安寺《ダイアンジ》 大安寺今寺廃し村名と為る、奈良市の西南にして大字大安寺|柏木《カシハギ》八条の三に分る、其大安寺址は六条坊三(左京)にあたる、霊異記に「楢磐島者、諾楽左京六条五坊人也、居住于大安寺之西里」とあるも五坊は東里なるべし。中央に杉山《スギヤマ》墓あり、大山陵にして其制雄略時代以前の者の如し、誰の古墳にや詳ならず、大安寺の東西路は右京六条の六条大路にして、其斜に郡山町に通ずる径を大安寺堤と云ふ、佐保川に沿ふ。
補【大安寺】○大和町村誌集 大安寺址、和銅三年大官大寺を此に移転、称改めて大安寺としたる遺址なり、隅山墓あり、俗に杉山の墓と称す。
補【隅山墓】添上郡○奈良県名勝志 佐保村大字法蓮に在り、境内反別八反二畝二十歩、墓上雑樹繁茂、中に古松三株あり、俗に之を杉山の墓と呼ぶ、嵯峨天皇弘仁四年癸巳十二月、勅して云く、太政大臣正一位藤原朝臣隅山村の墓地、百姓をして侵伐せしむること勿れとは、蓋是なり、○房前なるべし〔日本紀略弘仁四年十二月癸巳、勅、在大和国添上郡隅山村贈大政大臣正一位藤原朝臣墓地、東西八町南北二町、勿令百姓侵伐〕
 
大安寺《ダイアンジ》址 大安寺は初め熊凝《クマゴリ》平群郷に建て、百済(広瀬郡)に移し大寺と云ふ、高市に移し大官大寺と号す。和銅三年元明天皇詔して新京に移し明年供養法会あり、〔大安寺縁起帝王編年記〕聖武天皇天平元年道慈律師の議に因り改造し唐国西明寺に模す、天皇亦多く封禄を給し東大西大に対し南大寺と称せしむ。(大安寺縁起)後世漸を以て衰微し、今纔に其墟を弁ずるのみ、近代海龍王寺僧本寺職を兼ねしと曰へば、海龍王寺所造の塔婆模型は名高き都率天の遺影にやあらん。大和志云、大安寺又呼大寺、万葉集「相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後辺に額づくがごと」即此、今護摩堂地蔵八幡神僅存。続日本紀云、天平九年、律師道慈言、奉勅住此大安寺、修造以来、於此伽藍、恐有災事、私請浄行僧等、毎年令転大般若経、伏願護寺鎮国、永為恒例、勅許之。書紀通証云、三代実録曰、聖武天皇降詔、遷立高市大官寺平城、号大安寺、東斎随筆曰、大安寺、天平元年道慈律師、因先帝遺詔道立之、模唐西明寺結構、模造之。大鏡云、昔都率天の一院を天竺の祇園精舎に写し作り、天竺の祇園精舎をもろこしの西明寺に移してつくり、もろこし西明寺の一院をこのみかどは大安寺にうつさしめ給へる也。群書類従本婆羅門僧正碑云、僧正諱菩提僊那、姓婆羅門也、本郷風範、難可縷言、冒険経遠、遂到大唐、唐国道俗、仰其徽猷、崇敬甚厚、于時聖朝通好、発使唐国、倭人丹治比真人広成、学問僧理鏡、仰其芳誉、要請東帰、僧正感其懇志、無所辞請、以大唐開元十八年十二月十三日、与同伴林邑僧仏徹、唐国僧道※[王+(叡-又)]、随船泛海、以天平八年五月十八日、得到筑紫太宰府、八月八日到於摂津国治下、前僧正大徳行基、智煥心燈、定凝意水、扇英風於忍土、演妙化於季運、聞僧正来儀、嘆未曾有、主客相謁、如旧相知、白首如新、傾蓋如旧、於是見矣、乃嘱同法緇侶云、原夫開闢以来、雖時経百王世更万載、未有葱石梵英、印度聖種、梯山航海弘化聖朝、而今聖徳作而異人至、昌運起而大化隆、非但諸仏悲願之感、抑亦聖朝崇法之応也、送入京華、皇上大喜、仍勅住大安寺、供給隆厚、僧正諷誦華厳経、以為心要、尤善咒術、弟子承習、至今伝之、以天平勝宝二年有勅、崇為僧正、大法申斯紹隆、群生以之回向、雖道迹末彰、而時英咸謂、已階聖果、但夜※[睿/土]貿遷、閻浮業謝、以天平宝字四年歳次庚子、二月二十五日夜半、合掌向西、辞色不乱、如入禅楽、奄爾遷化、即以同年三月二日、闍維於登美山右僕射林、春秋五十七。釈書云、勒操、就大安寺善議(道慈法嗣)稟三論之学、弘仁中於紫宸殿集諸宗碩徳各堅義、以操為坐主、操尊三論為君父、斥法相為臣子、上賞弁論加僧都、兼管東大寺。扶桑略記云、延暦十六年、最澄和尚書写一切経論疏、比叡山院、本自無備、仍行向平城故京、於大安寺別院龍淵寺、営成此顧、七大寺衆憎傾鉢添供、捨功成巻、大小経律論二千余巻。又云長和六年大安寺焼亡、所遺塔婆也。
高橋《タカハシ》は大安寺村八条の古名か、延喜式高橋神社在り、薦枕川の東にあたる。 
辰市《タツノイチ》 辰市村は大安寺村の南に接す、東九条杏の大字あり、即左京九条二坊三坊四坊等の地なり。古京の辰の方位に当り市を立てて交易せる町にやあらん、中世には専ら辰市荘と云へり、辰市明神あり、東大寺要録(長徳四年注文)京八条市と云も此か。 無き名のみ辰の市とはさわげどもいさまだ人を売るよしもなし、〔拾遺集〕 人麿
売間《ウルマ》清水は東九条に古跡をつたふ。
 辰の市売間のしみずすずしくてけふはかひある心地こそすれ、〔散木集〕
英俊日記云、永正二年、就去年徳政之義、大安寺辰市美濃庄、対寺致緩怠之間、奈良六方衆下向被放火候、筒井衆西脇衆少々被出候。(美濃は辰市の南にて今|平和《ヒラワ》村に属す)
 
大宅《オホヤケ》郷 和名抄、添上郡大宅郷。春日郷に連接し、今奈良町南部并に東市《ヒガシイチ》村白毫寺及び大安寺村等なるべし。白毫寺鎖守神を宅春日《ヤケカスガ》と称するは古名の遣れる也。古事記云、押人命(孝安帝)者治天下也、兄天押帯日子命者、春日臣大宅臣之祖也。姓氏録云、大和神別、大家臣、大中臣同祖津速魂命之後也。東大寺奴婢籍帳云、大和国添上郡大宅郷、戸主大宅朝臣可是麿。日本書紀、武烈巻の歌詞に、
 ものさはに於※[なべぶた/臼/衣]野該すぎはるひのかすがをすぎ
の句あり、冠辞考云、官家は物|多《サハ》なれば公と云意にて云かけたり。史料通信叢志云、大宅郷は後世東大寺の領荘と為る、志に「大宅寺、在白毫寺村西、難波皇子所建、仍号皇子寺、事見巡礼記」とあるに依り、其書を閲するに「大宅寺、号難波皇子寺、堂塔少々相残、今在之者也」と見ゆ、大乗院領段銭日記(享徳二年)「大宅寺庄、下司山村、給主古市」と載す。
 
岩淵寺《イハブチデラ》址 春日山の南、高円山の反腹なり、勅操僧都の開基にして中世伴寺の衆徒と喝食雛僧の事より争を為し、両寺相闘ひ互いに放火して滅亡すとぞ、其塑造十二神将ほ今新薬師寺に秘蔵せり。坊目遺考云、岩淵寺址は白毫寺より凡十五町許東南、字|伽藍坊《ガランバウ》と云所に在り、地形を視るに南向なり、世人或は滝坂の路傍と為せど滝坂には伽藍跡と覚しき地を見ず、水は鹿野苑(東市村大字)へ降り岩井川と云ひ佐保川に合す、故に滝坂の北に香山堂の遺址あれど、其南には十五町山中に入り岩淵寺跡ありと為すべし。
補【岩淵寺】○平城妨目遺考 岩淵寺址は白毫寺より凡そ十五丁許東南、字ガランボと云所に在り、地形を視るに此寺南向にてありしや、是より北の方滝坂へ出る道あれども、難路なるべし、然るを世人岩淵寺は滝坂道より北或は南なりと喋々すれども、滝坂道の近傍左右に立入、伽藍跡と覚しき地勢を見ず、久代岩淵寺伽藍坊舎ありて、大衆蜂起の事ありて、小寺にあらず、其頃滝坂辺より南へ越ゆる道ありしなるべし、地勢南降、水は鹿野園の方へ落、下流岩淵川となる(今、岩井川)岩淵寺は鹿野園白毫寺の方より登るは本道ならんか、是を以て考ふるに、滝坂道より北は香山堂の遺址南へ十五町入て岩淵寺の跡なり。○京華要誌 岩淵寺の十二神将は今新薬師寺に移さる、其像は考古家称して無双の妙巧に成ると云ふ者也。○石淵寺は其址高円山の東に残る、何の世にや当時の□天地院の稚子(喝食抄弥)を奪ふたるより、僧寺間の争闘となり、遂に勒操僧都の遺跡も一朝にして兵火に罹る、稚子塚は若草山の西に在りて、今も燐火出でて、俗に逢火と名づくとぞ。
 
高円《タカマト》山 春日山の南に在り、白毫寺の上方なり。白毫寺《ビヤクガウジ》(東市村大字)に閻魔堂あり寺墟なるべし縁起詳ならず、岩淵寺と同く勒操開基と称せり。(此地に天武皇子志貴親王の家ありし如し)
    霊亀元年志貴親王薨時作歌
 梓弓手に取持て、ますらをのさつ矢たばさみ、立向ふ高円山に、春野やく野火と見るまで、燎る火をいかがと問ば、玉梓の道ゆく人の、泣く涙云々、〔万葉集〕
 高円の野辺の秋はぎいたづらにさきてちるかも見る人なしに、〔同上〕
 
春日《カスガ》高円離宮址 続日本紀、和銅元年、同五年春日離宮行幸の事あり、後世|尾上宮《ヲノヘノミヤ》と云ふ皆是なるべし、古市の東方高円山の下に宮址ありと云ふ。〔名所図会〕
   天平十一年己卯、天皇遊※[けものへん+葛]高円野之時、小獣泄走堵里之中、於是適値勇士而見獲、即以此獣、献上御在所歌。
 丈夫の高円山にせめたれば里に下りけるむささびぞこれ、〔万葉集〕 坂上郎女
 夕ぐれのころも手すずし高まとの尾上の宮の秋の初風、〔金塊集〕 鎌倉右大臣
続日本紀云、天平宝字四年、石川朝臣広成、賜姓高円朝臣。姓氏録云、高円朝臣、出自広世也、元就母氏為石川。
 
鹿野苑《ロクヤヲン》 今東市村の大字なり、寺墟なるべし、昔梵福寺と云ふ者ありきと。鉢伏山《ハチフセヤマ》あり、春日烽火即此なりとぞ。※[けものへん+葛]高野《カリタカノ》あり、姓氏録云、右京諸蕃、雁高宿禰、出自百済国貴主王也。
 ※[けものへん+葛]高の高円山をたかみかもいでくる月の遅くてるらむ、〔万葉集〕 坂上郎女
鉢伏八幡宮は延喜式|宅布世《イヘフセ》神社なるべし、宅を伏せたる如き山あれば地名に因れる社号なり、書紀通証に之を多寄波世《タキハセ》と訓みて竹葉瀬君の関係に充てたるは採るべからず。
補【多奇波世】○奈良県名勝志 宅布世神社、東市村大字鉢伏字城の下に在り、境内二百四十坪、里人八幡宮と称す、姓氏録に曰く、豊城入彦五世の孫多寄波世君と。〔姓氏録、住吉朝臣条〕
 
八島《ヤシマ》郷 和名抄、添上郡八島郷、訓也之末。今東市村に大字八島あり、明治《メイヂ》村|平和《ヒラワ》村も此郷内にや。
島田《シマダ》神社は八島山の西麓にあり、延喜式に列す。姓氏録云、島田臣、神八井耳命之後也。古市の石立《イハタツ》神社参考すべし。
 
八島《ヤシマ》陵 桓武皇太弟早良親王の墓なり。親王延暦四年罪あり淡路に配流せられ途にして卒したまふ、追号して崇道天皇と曰ひ、山陵を八島に営み八島寺を建てらる。扶桑略記に山階に八島寺を建つとあるは不審なり、今寺廃し廟存す。延喜式云、八島陵、崇道天皇、在添上郡兆城東西五町南北四町。陵墓一隅抄云、八島陵は八島に廟存すれど、陵地を失へり。
 
古市《フルイチ》 古市は八島郷の首里なり、今|東市《ヒガシイチ》と改む、元和五年藤堂家(伊勢津藩)陣屋を此に築き、散在の領村を管治せり、明治四年停廃す。
穴次《アナツキ》神社は延喜式に列す、今古市の井栗に在り。石立命神社は延喜式御前杜原石立命に作る、(一本杜を社に作り一本原字なし)今古市に在りて御前石立《ミサキイハタツ》明神と称す。延喜式に添上郡内本社の外に天乃石立神社又五百立神社あり、大和志に前者は柳生村(小柳生岩戸谷)に在り、後者は東大寺(五百余社)に在りと云ふ、蓋以上三社一類の神にして島田臣同祖の氏神ならん、即神八井耳命の孫建五百健命并に健磐龍命を祭ると云ふ説採るべし。
 神祇志料云、神八井耳命島田臣科野国造阿蘇国造等の祖也、旧事紀国造本紀神八井耳命孫建五百健命を科野国造とする事みえ、神名帳肥後阿蘇郡健磐龍神社あり、阿蘇系図に神八井耳命の子とす、之に拠らば五百立は五百健に石立は磐龍に音通へり、且上に島田神社あるは或は神八井耳命を祀り、二社は即建五百健命健磐龍命を祀れるにやあらむ、然れども未だ明証を得ず、故今附て考に備ふ。
 
稗田《ヒタ》 八島の西に在り、今平和と改む、大字稗田存す。日本書紀、壬申乱の条に、大伴吹負稗田に至り近江の軍来るを聞き乃楽山に赴くと云も此なるべし。又延喜式売田神社あり、書紀通証に古事記※[言+音]唱者稗田阿礼は此里人なるべしと曰へり。大八洲会雑誌云
 稗田阿礼は天※[金+田]女命の子孫なる事は、弘仁私記序に「先是浄御原天皇御宇之日、有舎人、姓稗田、名阿礼、云々」とある本註に阿礼天※[金+田]女命後也と見え、また斎部氏家牒にも「阿礼者、宇治土公庶流、天※[金+田]女命之末葉也」とあるにて知られたり。稗田氏の猿女君なる由は、西宮記に「猿女依縫殿寮解、内侍奏補之」とある裏書に「貢猿女事、弘仁四年十月廿八日、猿女公氏之女一人、進縫殿寮、延喜廿年十月十四日、昨尚侍令奏、縫殿寮申、以※[くさがんむり+稗]田福貞子、請為※[くさがんむり+稗]田海子死闕替云、天暦九年正月廿五日、右大臣令奏、縫殿寮申、被給官符於大和近江国氏人、令差進猿女三人死闕替云、」と見えたるにて知らる。さて稗田とは、住所の地名を負へるにぞありける、其は神名式なる大和国添上郡売田神社を、今本にヒメタとあり、大和志に「在稗田村今称三社明神」と、元は比売田と有りけむを脱せしなるべく、此猿女君の代々領居し地なるから、其遠祖を祭れるなるべし。又式に、近江国伊香郡売比田神社も、今本にヒメタと訓み、古本に比売田とあり、此も※[金+田]女命を祭れるか近江国にも猿女の養田ありし事、類聚国史また三代格に見ゆ。
此稗田氏もと葛城郡巨勢より出でし者に似たり、又大同類聚神遺方に「佐野辺《サノヘ》薬大和国添上売田主之家」と見ゆと、或人曰へり。姓氏録、※[くさがんむり+稗]田《ヒタ》朝臣斐大臣同氏、巨勢雄柄宿禰四世孫稲茂臣之後、男荒人謚皇極大皇御世、佃葛城長田、其地野上漑水難、至荒人能解機術、始作長※[木+威]灌田、天皇大悦賜※[木+威]田臣姓。
 
三椅《ミハシ》 今平和村大字三橋と云ふ、稗田の東に在り。続日本紀云、元明天皇和銅七年十二月、新羅使入京、迎諸三橋。
永井《ナガヰ》 今明治村と改む、東市村の西平和村の東なり、中世は永井荘と称す。八雲御抄云、永井里、大和国。又摂津国に同名あり。
補【三椅《ミハシ》】○大和町村誌 三椅村は椅今橋に作る、和銅七年十二月新羅使入京、諸を此に迎ふ、今比田に合して平和村と曰ふ。
 
清澄《キヨスミ》 八島郷の東南を清澄荘と称す、今|五箇谷《ゴカタニ》村と改む。菩提山寺虚空蔵寺興隆寺など古刹あり、清澄池は大字高樋に在り万葉集に見ゆ、東大寺要録(長徳四年注文)添上郡清澄荘田廿七町。
 吾こころ清隅のいけの池のそこわれはおもはずただにあふまで、〔万葉集〕
本朝世紀云、久安五年、(東大寺与薬師寺有企合戦事、尋其由緒、東大寺領清澄庄、与薬師寺領薬園庄接境之間、清澄庄住人等寄住薬師寺領、不随寺家所勘之故也。
虚空蔵《コクザウ》寺は五箇谷村の南にして、和爾に近し、弘仁寺と号す、東大寺に属し小野氏創立、弘法大師開基、聖宝僧正管領と云ふ、東大寺縁起に見ゆ。
菩提山《ボダイサン》は五箇谷村の北に在り、満山松杉檜椚茂生す、正暦《シヤウリヤク》寺あり真言宗、正暦三年僧兼俊開基、建保年中僧信円中興す、龍華樹院と号す。本尊薬師如来寛永の炎上に猛火の間に在りて免れしと云ふ、堂塔諸宇相排比し亦一名藍なり。
 
大岡《オホヲカ》郷 和名抄、添上郡大岡郷。此郷今詳ならず、蓋五箇谷村櫟本村にあたる、古の和珥分れて大岡山村の二卿と為れるか。
 
和珥 今|櫟本《イチヒモト》村是なり、大字和爾存す。和珥池は帯解《オビトケ》村大字池田に在り、和爾下神社は治道《チダウ》村に在り、古へ大邑広地なりしを知るべし。和珥氏は春日氏小野氏同祖、孝昭天皇に出でて大和山城近江摂津等に類族繁延せり。日本書紀云、天足彦国押人命(孝昭皇子)此和珥臣等始祖也。古事記云、開化天皇、娶|丸邇《ワニ》臣之祖日子国意祁都命之妹、生日子坐王。姓氏録云、左京皇別、和邇部宿禰、彦|姥津《オケツ》命四世孫矢田宿禰之後也。又和邇部、天足彦国押人命三世孫彦国葺命之後也。和珥氏分派の後は本地の人々春日の名を冠したる如し、日本書紀雄略巻に春日和珥臣あり、姓氏録に摂津皇別和邇部、大春日朝臣同祖天足国忍人命之後也と見ゆ。又異姓あり、姓氏録云、大和地祇、和仁、古大国主六世孫阿大賀田須命之後也。
 
和珥坂《ワニサカ》 和珥所在の坂なり、謂ゆる武※[金+(繰-糸)]坂《タケスキサカ》に同じきか。日本紀神武天皇中州平定の条に「層富県、和珥坂下、有居勢祝」とあり、祝《ハフリ》蓋凶猛に譬ふ、古語拾遺曰「天十握剣、其名天羽々斬、古語大蛇、謂之羽々云々」祝は蓋羽々人の謂なり、葬人と言相通ずれど異義にて、居勢《コセ》は地名なり。古事記応神帝の御歌に「伊知比韋の和邇佐の邇を」の句あり、本居氏云、櫟井の和爾坂の土の義なり、櫟井和爾同地なり、此辺昔は黛に好き土の殊に此地より出しなるべしと。按ずるに稗田の条に引ける神遺方佐野辺薬は即佐野邇《サヌニ》の誤たるべし、邇は赤土即丹也。
 
武※[金+(繰-糸)]坂《タケスキサカ》 日本書紀云、崇神天皇、遣大彦命与和珥臣遠祖彦国葺、向山背、撃埴安彦、爰以忌※[分/瓦]鎮座於和珥武※[金+(繰-糸)]坂、則率精兵進、登那羅山而軍。書紀通証に武※[金+(繰-糸)]坂金※[金+且]岡同処と為せど徴なきに似たり、金※[金+且]岡は古事記雄略巻に見ゆ「曰天皇幸行春日之時、媛女逢道、即見辛行而逃隠岡辺、改作御歌曰。
 をとめのいかくるをかを加那須岐もいほちもがもすきはぬるもの
故号其岡謂金※[金+且]岡也。
和爾《ワニ》坐赤坂比古神社は今櫟本村大字和爾の天王社是なり、赤坂は坂上の土赤ければ云ふか、蓋和珥氏の祖神なり。神紙志料云、和爾神又丸神に作り、天平二年神戸租稲一余米を充てられし事正倉院文書に見ゆ、延喜の制大社に列す。
 
山村《ヤマムラ》郷 和名抄、添上郡山村郷、訓也末無良。今|帯解《オビトケ》村是なり、古の和珥の地に属す、昔は豊邑なりけるにや、其名夙に著る。日本書紀云、欽明天皇元年、百済人己知部投化、置倭国山村、今山村己知部之先也。姓氏録云、大和諸蕃山村忌寸、己智同祖古礼公之後也、己智出自秦太子胡苑也。霊異記云、添上郡山村中里。今昔物語云、添上郡山村里住人。
   幸行山村之時歌二首〔万葉集〕
 あし引の山行きしかば山人のわれにえしめしやまづとぞこれ、 聖武天皇
 あし引の山にゆきけむ山人のこころも知らず山ひとやたれ、 舎人親王
円照寺《エンセウジ》は山村《ヤマムラ》御所と号す、後水尾太上皇の女深如海法尼の開創にして後四世相継ぎて皇女入室あり、其御墓存す、旧寺領三百石。
和珥《ワニ》池は帯解村大字池田に在り、越田《コセタ》池蓋是なり、神武天皇紀に見ゆる和珥坂の居勢とある亦此地なり。古事記仁徳帝の時に和邇池を作るとあり、日本書紀にも推古帝十一年和珥池を作ると載せらる。書紀通証云、添上郡和珥池、在池田村、一名光台寺池。大和町村誌云、池田村に天武皇子池田王宅址あり。
 
越田《コセタ》 帯解村田中池田などの地の古名なるべし。日本後紀云弘仁元年、太上皇赴東国、至大和国添上郡越田村、即聞甲兵遮前、乃旋宮。霊異記云、諾楽京池田池南、蓼原《タデハラ》里中、蓼原堂在薬師如来木像、当帝姫阿陪天皇(元明)之御代、其村有二盲女、帰敬薬師、現得明眼。田中村に廃隆興寺址あり、又田中大臣藤原仲麿の宅址あり。〔大和町村誌〕
 
帯解《オビトケ》 和珥の今市を云ふ近年寺号に因り村名を立つ、山村田中池田等之に属す。帯解寺は本尊地蔵菩薩、相伝ふ文徳皇后藤明子(染殿后)懐胎の時御祈あり報賽のために寺塔造立、後世因りて帯解寺と称すと、〔名所図会〕詣人多く至り、今に門前常に市を成す。
補【太祝詞《フトノリト》神社】○神祇志料 太祝詞神社、今森本村にあり、森神社といふ(奈良県神社取調書)
 按、式社私考に坊目考に云、東新在家村にありしか、何世廃たる事を知らず、今社址とおぼしき処に木株の朽たる有しのみと云り、又大和志にも在所未詳とあるを、取調書にかく云るいぶかし、附て考に備ふ
蓋天香山坐櫛真智命の子大詔戸命を祀る(参取、釈日本紀引亀兆伝・延喜式)
 按、亀兆伝に大詔戸神の事を天按持神の女、天香山池に住む、亀津比女命、今天津詔戸大詔戸命といふとある天按持は天櫛待の誤にて天櫛真智命と聞え、太諮戸命は其子神なること著しければ、其系を取て記せれど、亀津比女の名又亀との事は疑はしきに似たり、故に今取らず
称徳天皇天平神護元年神封一戸を充奉り(新抄格勅符)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預る(延喜式)
 
櫟本《イチヒノモト・イチノモト》 此の村は山辺郡石上村(今山辺村と曰ふ)に接し、小駅市なり、柿本《カキノモト》寺歌塚の旧跡あり。東大寺要録(長徳四年注文)添上郡櫟本荘。顕昭法師人丸勘文云、藤原清輔嘗過大和、聞故老言、添上郡石上寺傍有祠号治道社、祠辺寺号柿本寺、是人丸所建也、祠前小塚名人丸墓、寺礎僅存、墓高四尺許、因建卒都婆。長明無名抄云、人丸墓は大和に在り、初瀬へ参る道なり、人丸塚と云て尋るに知れる人なし、彼所には歌塚と云なる。家隆卿柿本講式云、大和国添上郡石上寺のほとり、治道《ハルミチ》の森の中に一の草堂を建て、爰に柿本を葬る。按ずるに人麿墓は石見国にも在り、孰か是なるを知らず、然れども此地柿本氏の邑たりし事信ずべし、姓氏録、大和皇別柿下朝臣、大春日朝臣同祖、天足彦国押人命之後也、敏達天皇御世、依家門有柿樹、為柿本臣氏、此柿下氏の家は是地なるや明なり。
 
高橋《タカハシ》 神祇志料云 一説延喜式高橋神社は今八条に在れど櫟本の高階と云地を旧境とす、日本書紀の歌に石上布留を過て薦枕高橋を過ぎとある地理よく符へり。日本書紀云、崇神天皇、以高橋邑人活日、為大神之掌酒。旧事紀云、宇摩志麻治命十三世孫物部建彦連公、高橋連等祖。日本書紀、雄略皇女春日大娘、更名高橋皇女。
 
櫟井《イチヒヰ》 櫟本村の西に在り、今横田村と合し治道《チダウ》村と称す。和珥櫟井は昔同族の一地を分ちたる称なり、古事記云、天押足日子命者、壱比韋臣之祖也。姓氏録云、左京皇別櫟井臣、和爾部同祖彦姥津命之後也。古事記応神天皇の御歌に「伊知比韋の和邇坂の土を」とあり、又允恭記に「衣通郎姫、従烏賊津使主而来、到倭春日食于櫟井上、弟姫親賜酒于使主、慰其意」と載せたり。
和爾下神社は横田に在り下|治道《ハルミチ》天王と称す、上治道天王は櫟本村に在り、〔大和志〕蓋和珥壱比韋氏等の祖神なり、延喜式に列せり。治道と云も古地名ならん。
 刺なべに湯わかせ子ども櫟津の檜橋よりこむ狐にあむさむ、〔万葉集〕
補【和爾下神社】○神祇志料 和爾下神社二坐、今一座は上治道天王といふ、和爾村の南櫟本村にあり、一座は下治道天王といふ、横田村にあり(大和志・神名帳考証・名所図会)蓋和珥臣の祖天押足日子命、大倭帯彦国押人命を祭る(日本書紀・姓氏録大要)凡そ毎年八月十三日祭を行ふ、神官櫟井氏、其神裔也(奈良県神社取調書)
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楊生《ヤギフ》郷 和名抄、添上郡楊生郷、訓也木布。楊生は三代実録貞観元年養父に作り、後世柳生に作る。今大柳生村柳生村|東山《ヒガシヤマ》村(大柳生の東)月瀬《ツキガセ》村(東山の東)東里村(大柳生の西春日山東)狭川《サカハ》村(柳生の西)等に分る。
 
大柳生《オホヤギフ》 楊生郷の中央にして山口神社あり、文徳実録楊生山口神、三代実録養父山口神とありて延喜式に列せり。
 
忍辱施《ニニクセ》 今大柳生村の大字なり、忍辱施は元寺号ににて楊生山中の練若なりしが、後世衰へ城州東山(鹿谷《シシダニ》)の円成寺《ヱンジヤウジ》をば此に移し、忍辱施寺の遺跡を并せ伝へしむ、今真言宗を奉じ、正堂護摩堂多宝塔昭堂等あり、幽邃閑寂の浄刹也。寺伝に忍辱施寺は聖武帝本願、唐僧虚滝開基、律師実範中興とぞ。
 
柳生《ヤギフ》 陣屋ありて今に地方の首村たり。柳生但馬守宗矩は本邑の人にして撃剣を善くし、徳川家光に仕へ封侯の班に列す、采地一万石を賜はり寛永十九年陣屋を本村に置く、近年に至るまで持続す。
広岡《ヒロヲカ》 東大寺要録云、普光寺、又云広岡寺、右寺在添上郡、奉為平城後太上天皇、以天平勝宝五年八月、正二位広岡夫人公所建立也。(今狭川村大字広岡)
 
月瀬《ツキノセ・ツキガセ》 柳生の東一里を月瀬村と云ふ、(奈良を去る凡三里半)梅花を以て著る、大和伊賀及山城(相楽郡)の交界地にして月瀬村大字尾山桃香野最佳なり、波多野村(山辺郡)大字嵩|獺瀬《ウソセ》広瀬并に花垣村(名賀郡)大字沼田白樫等交錯して名張川(一名|差月《サツキ》川)を挟む、山際水涯皆梅を植ゑ、世に月瀬の梅渓と曰ふ。此諸村は山中に僻在し梅実を採り染料と為し以て活計を為す、文政中時の領主藤堂家(津藩)の儒生斎藤拙堂遊記を草し其勝絶を激賞す、此より名海内に伝へ年々遊賞の客之を訪ふと云ふ。蔵玉和歌集に、春日神社常陸より勧請の時、伊賀より月瀬里に移り遂に御笠山に垂跡したまふと記す、差月《サツキ》川は山城(相楽郡)大河原村に至り泉河と為る。
拙堂梅渓遊記云、何の地か梅無らん何の郷か山水無らんや、唯和州の梅渓、花山水を挟んで而して奇、山水花を得て而して麗、天下の絶勝たり、然れども地州の東陬に在り、頗ぶる幽僻にして旧と造り観る者罕れに名甚だ顕はれず、顕はれしは我伊人より始まりしと云ふ、渓傍に種梅を業と為す者凡そ十村、曰く石打曰く尾山曰く長引曰く桃野曰く月瀬曰く嵩曰く獺瀬曰く広瀬和州に属す、曰く白樫曰く治田伊州に属し我上野城南三里許に在り、旧志を按ずるに月瀬諸村多くは伊に属し、伊人道ふ昔戦国の際豪強相奪ひ此地始めて和に属すと、今其地勢を審にするに上野城に近く山脈相通ず理固より応に然るべし、故に和人の来る常に少なく而して四五十年伊人毎に往て観る焉、渓の勝是に於て乎顕はる矣、十村の梅幾万株なるを知らず然れども尽くは谿に臨まず、谿に臨む者最も清絶と為す、谿源を和の宇陀に発し此に到る広さ殆んど百歩、尾山其北岸に在り嵩月瀬桃野其南岸に在り、危峰層巌簇々其間に錯立し、梅之れが経となり而して梅之が緯と為り、水竹之に点綴す。大八洲遊記云、月瀬は怪石紛錯して、梅と駢立雄を争ふ、河心亦※[山+(纔-糸)]石竦時す、流石を噛み驚奔怒号す、拙堂遊記唯梅花を賞して水石に及ばず、山陽句に云ふ渓山玉絶瑕と其実を得たり、此地本乾梅子を晒し烏梅と為し之を染工に鬻げり、近年西洋紅染に圧せられ其価大減し、三十貫纔に二円、(旧価二十両)故に斬伐以て薪と為す者あり、後年或は鋤して麦畦と為るも知るべからざる也。
   月瀬 頼山陽
 両山相蹙一渓明、路断游人呼渡行、水与梅花争隙地、倒涵万玉影斜陽、
   観梅月瀬村、村属和州、一水貫山而下、凡二十余里、山嶺水涯、巌曲洞口、目之所向、無不看梅花、莫測其幾万株、実天下奇観、惜地僻罕観者、
                梁川星巌
 衝破春寒暁出城、東風剪々弄衣軽、漫山匝水二十里、尽日梅花香裡行、
瞑煙濃抹水東西、寒圧梅花万玉低、鐘磐数声知有寺、山岩一色欲無蹊、酒将醒処風吹帽、雲忽開時月落渓、怪得※[糸+賓]紛瓊屑乱、梢頭和影鶴来栖、
 
桃香野《モモカノ》 梅渓遊記云、舟中既に尾上諸谷を覧る、又西して桃野を観んと欲す、纔に棹を転ずれば則北岸に未だ見ざる所の山突兀として躍り出づ、樹石雑焉、蚌龍虎豹、譎詭夭矯、一石有り人の冠して而して立つ如し烏帽子巌と曰ふ、水益々駛く、激※[てへん+(甫/寸)]※[石+畏]※[石+壘]、仰ぎ見れば桃野前に在り、地勢※[こざとへん+走]絶、黄芽数家縹渺として梅花爛※[火+曼]の間に現出し、瑤宮※[王+(橘−木)]闕の白雲中に在るが如く、望むべく而して即く可からざる也、[たけがんむり+高]夫云ふ此渓夏月毎に躑躅花開き、水変じて猩血色を作す、亦奇絶なり、故に名づけて躑躅川と為す也と。
補【月瀬山】添上郡○地誌提要 差月川より凡そ拾町、梅花を以て著る、梅林凡そ三拾町。  月瀬観梅 張紅蘭
 山雲篩白界斜陽 万玉※[(斂−ぼくにょう)+欠]容如譲光 与雪相争応不屑 待他月姉闘明粧
補【尾山】○梅渓遊記(斎藤拙堂)一目千本は尾山谷八谷の一也、花最も饒し、故に此名有り、蓋し芳野の桜谷に比すと云ふ、尾山の梅谷を以て量る、八谷各数百千樹、真福其極西に在り、其下を初谷と為す、名を敞谷と曰ふ、第二を鹿飛と曰ひ、第三を捜窪と曰ふ、其上に天狗巌有り、羽客の※[てへん+妻]止する所と謂ふ、第四を祝谷と曰ひ、第五を菖蒲谷と曰ひ、第六を杉谷と曰ふ、第七は即ち一目千本、第八を大谷と曰ふ、土人曰く、尾山一村にして上熟には乾梅二百駄を待、毎駄壱料伍斗、重さ弐陌斤なり、此間十余村を併せば中熟にして大抵千四百駄を得、上熟なれば二千駄なり、毎駄の価銀玖什銭、或は陌銭と云ふと、蓋し地既に※[土+堯]埆耕すべからず、此を以て穀に当つ、実熟するに及んで採乾し、京都の染肆に送る、獲銭万石の入に減ぜず、亦山中の経済也。
 
波多野《ハタノ》 この一村は月瀬の東南に接す、今山辺郡に属すれど古は添上郡中なり、蓋亦楊生郷の別にして闘鶏《ツゲ》国の旧域なるべし、東は伊賀国と名張川を以て相隔て山中幽僻の地也。
波多野の首部を中峰山《ナカミネヤマ》と云ふ横山神社あり、延喜式添上郡神波多神社即是なり、〔大和志県名勝志〕大字春日に春日神社あり、又延喜式添上郡の一社にあたる。 
田原《タハラ》陵 光仁天皇并に御父施基皇子の御陵なり、田原村大字|日笠《ヒカサ》并に矢田原に在り、東西を以て相別つ。
田原東陵 延喜式云、田原東陵、平城宮御宇天宗高紹天皇、(光仁)在添上郡兆城東西八町南北九町。山陵志云、田原別為二村、今東田原村之東有古墳、曰王墓、此即東陵也。光仁帝初め広岡山に葬り、復田原に改葬す、東田原の北に広岡の字あり。〔名所図会〕
田原西陵 延喜式云、田原西陵、春日宮御宇、(田原)天皇在添上郡兆城東西九町南北九町。陵墓一隅抄云。田原村矢田原の西に在り。山陵志云、西田原村有古墳、呼為|君之平《キミノヒラ》此也。
 
山辺《ヤマノベ》郷 和名抄、添上郡山辺郷。今の田原村蓋是なり、山辺郡山中の地、謂ゆる旧闘鶏国と相接す。惟ふに本郡楊生郷山辺郷及び山辺郡都介郷星川郷等は大和平原地の山背に在り別に一区を成す、昔闘鶏国の建置ありしも以ありと謂ふべし。
 
    生駒郡
 
生駒《イコマ》郡 明治廿九年添下平群の二郡を合併し生駒郡と曰ふ、生駒は本州西界の大嶺にして古より著る、郡名之に因る。郡衙は郡山町に在り十八村を管治す。添上平群は本来郡界交錯して、大抵南方を平群と為し北方を添下と為せり、国郡制置以前に在りては倶に層富県に属せり。生駒郡は山嶺を以て河内に堺す、生駒山|暗峠《クラガリタウゲ》信貴山等相並び、生駒川其下を流る、富小川其東に在り.、秋篠川更に其東に在り、佐保川添上郡より来り秋篠富生駒の三水を併せ立田川と為る、以て南界を限る、北方は一帯の高陵にして水脈に従ひて南下す。
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添下《ソフノシモ》郡 和名抄、延喜式、添下郡、訓曾不乃之毛。日本書紀「白鳳五年、倭国添下郡、鰐積善事、頁瑞鶏、其冠似海石榴華」とあれば、天武帝以前の分郡なり。本郡東部は平城京右京の地にして今|都跡《ミアト》村近傍是なり、延暦以後廃都と為ると雖、西大寺招提寺薬師寺の名藍尚存し、和名抄四郷に分つ、或は添大郡と曰へり。
 
秋篠《アキシノ》 今|平城《ヘイジャウ》村と改む、平城京西北隅の渓澗にあたる、潤水は押熊《オシクマ》山より発源し、南流右京三坊の墟を貫き、佐保川へ入り、郡山の東に於て大橋川と称す。秋篠は歌に外山《トヤマ》の里と詠ず、外山とは高嶺の外周に居る山を云ふ、秋篠の西に生駒山あり。
 秋しのや外山の里やしぐるらん伊駒の岳に雲のかかれる、〔新古今集〕 西行法師
 朝日さす生駒の岳はあらはれて霧たちこむるあき篠の里、〔玉葉集〕 参議実俊
続日本紀云、延暦元年、土師宿禰安人等言、臣等遠粗野見宿禰、造作物象、以代殉人、垂裕後昆、生民頼之、而其後子孫、動預凶儀、尋念祖業、意不在茲、是以土師宿禰古人等、前年因居地名改姓菅原、望請安人等改為秋篠、詔許之。姓氏録云、和泉神別土師宿禰、秋篠朝臣同祖天穂日命十四世孫野見宿禰後也、右京神別秋篠朝臣、土師朝臣同祖、乾飯根命七世孫大保慶連之後也。秋篠氏は桓武帝外戚家の姻類にして、秋篠寺即其氏寺なりしならん。
 
秋篠寺《アキシヌデラ。シウゼウジ》 平城村大字秋篠に在り。寺伝に光仁天皇宝亀十一年善珠法師(元興寺元※[日+方]徒)創建と云ふ、是歳勅封一百戸秋篠寺の事、続日本紀に載せたり、続紀弘仁三年又一百戸の施入あり。中世以後衰頽し、醍醐三宝院に属し修験道場と為る、幸にして講堂一宇(保延中再営)存在し古仏像を置く。技芸天木造立像一躯運慶作、梵天木造一躯安阿弥作、救脱菩薩木造立像一躯以上は明治卅一年国宝に列す、其他薬師十二神将等の妙作あり。
 
押熊《オシクマ》 平城《ヘイジヤウ》村大字押熊は秋篠川の源にして、北方は山城国相楽郡と一丘を隔つのみ。仲哀天皇の※[鹿/弭]坂忍熊二皇子の乳部此地に在りしか、書紀通証云押熊村に押熊祠あり、鹿畑村に※[鹿/弭]坂祠ありと、鹿畑《シカハタ》は押熊の北に接す古は鹿子《カコ》坂と云へる者にや。
 
狭城楯列池上《サキタテナミノイケノヘ》陵 神功皇后の御陵なり、佐紀の郷|縦列《タテナミ》の池の辺に在り、(今五杜神八幡宮北)今池なし、山陵《ミササキ》村(平城村大字)の北に当り御陵山《ミササキヤマ》と称す、丘に倚り南面す、瓢形(長径二百間)周壕あり、其北方欠け東方は損す、秋篠寺の東八町也。日本紀、気長足姫尊葬狭城盾列陵。延喜式、狭城楯列池上陵、磐余椎桜宮御宇天皇、在添下郡兆城東西二町南北二町。類聚国史、仁明天皇承和十年四月、去三月十八日有奇異、捜検図録、有二盾並山陵、北則神功皇后、南則成務天皇、世人相伝以南陵為神功之陵、偏依是口伝、毎有神功之祟、空謝成務之陵、先年縁神功之崇、所作弓剣之類誤進成務陵、今日改奉於神功陵。八幡愚童訓云、神功皇后稚桜宮にて崩御なし給ふ、天下涙をば袖のしがらみせきあへず、さてしも有可きならねば葬礼の儀式調て秋篠山陵に納め奉る、異国蜂起の時は此山陵官幣奉り祈申させ給ふ也、則是当社(宇佐八幡)にて東御前大多羅志女の御事也。
補【秋篠】○八幡愚童訓〔重出〕皇后息長足宿禰女にして開化天皇五世孫、御母儀者城高額姫也、卅二年御年即帝位、治天六十九年をへて一百〔ト〕申〔セシ〕四月十七日大和国十市郡磐余稚桜宮ニテ崩御なり給ふ、天下涙をば袖のしがらみせき不敢、折知顔時鳥彼方此方鳴渡、そよや月雲隠しは是も別を忍とや、花橘匂、馴昔袖香何思連つつ、さてしも可有ならねば葬礼の儀式を調て、大和国秋篠山陵奉納、異国蜂起時は此山陵奉官幣祈申させ給也、則是当社には東御前大多羅志女御事也、神亀元年筑前国若椙山香椎宮造、崇聖母大菩薩給へり。
 
狭城盾列池後《サキタテナミノイケジリ》陵 成務天皇の御陵なり、池上陵の南四町に在り。瓢形周濠長径百二十間横幅八十間許、高野山陵其南に接す。和州巡覧記云、成務御陵は石塚と云近年(享保以前)本多内記正勝郡山城を領し給ふ頃、里人此に石を掘取り石棺に掘当り棺を披て見れば大刀短刀鏡などあり、本多氏之を聞き元の如く土を封ずべしと命ぜらる。日本書紀云、稚足彦天皇、葬于狭城盾列陵。延喜式云、狭城盾列池後陵、志賀高穴穂宮御宇天皇、在添下郡兆城東西一町南北三町。本陵は池上陵を参考すべし、此二陵は式の兆域よりも現存陵形過大なり、疑ふべし。(楯列池は今山陵の民家の辺か、不審)
 
狭木寺間《サキテラマ》陵 垂仁皇后日葉酢姫の御陵なり、盾列池後陵の東に接す、瓢形岡濠其大相似たり。本陵の東に方り古荒墳四所あり、一は東北一町許円塚(丘上に在り)と為す、他は東小池を隔てて相集り、円塚一瓢塚二なり。日本書紀云、垂仁皇后日葉酢媛命薨、野見宿補領土部等、取埴以造作人馬及種々物形、献于天皇曰、自今以後以是土物更易生人、樹於陵墓、仍号是土物謂埴輪、天皇大喜、下命曰、自今以後樹是土物、無傷人焉。古事記云、比婆須比売命者、葬狭木之寺間陵。同伝曰、寺間は他書に見えず今も聞えず、続紀に大和国人従七位下寺間臣大虫等四人賜姓大屋朝臣とあるは此地より出でつらむ、此は寺と云ものありて後の地名なるを古に及して云るなるべし。本陵の東に南北相并び四池あり、山陵志之を以て盾列池と為す、即ち池東の古陵を以て神功成務と為す者の如し。
 
高野《タカノ》陵 孝謙称徳天皇の御陵なり、今狭城盾列池後陵の南に接する者を以て之に充つ、陵制卑小なれど高塚と称し周濠存す。陵墓一隅抄云、西大寺東北古墳是也、史曰以鈴鹿王旧宅為山陵。(一説)山陵志云、成務陵、其東南神功陵、西北孝謙陵也、在高野。(一説)続日本紀云、神護景雲四年、故鈴鹿王旧宅為山陵、葬高野天皇於添下郡佐貴郷高野山陵。延喜式云、高野陵、平城宮御宇天皇、在添下郡兆城東西五町南北三町。按に西大寺は高野寺と称し今に至るも変ぜず、高野は本彼地の名にして天皇の別号なり、今の陵域と相距る事八町、陵墓一隅抄西大寺東北と云者今陵に同じきか疑惑多し。西大寺資財流記云、西大寺、居地参拾壱町、在右京一条三四坊、東限佐貴路、除東北角喪儀寮、南限一条南路、西限京極、除山陵八町、北限京極路。
 みわたせば高野の野辺のうつき原みな白妙にさきにけらしな、〔万葉集〕〔未詳〕
 
歌姫《ウタヒメ》 古京の北郊、那羅山の麓にして佐紀池の北なる民村なり。(今平城村大字)歌姫より那羅山を踰ゆるに二路あり、一は相楽郡木津へ一は同郡相楽へ出づべし、歌姫越と称す。古は奈良坂とも云ひ今奈良町の奈良坂と同名異地なり、平城京の世には春日奈良坂よりも此佐紀奈良坂の方通衢たりしか、平家物語治承四年平家南都責入の時、大衆は奈良坂般若坂両所を防ぎけるに、平重衡之を破り法華寺へ入と云ふは、奈良坂即歌姫越を云へり。
   寧楽山作歌
 佐保過ぎて寧楽の手祭《タムケ》に置くぬさはいもをめかれず相見しめとぞ、〔万葉集〕 長屋王
歌姫民家の西二町許圃中に瓢形の古墳あり。
坂上《サカノウヘ》 歌姫の古名ならずや、大伴坂上大娘の居地とす、万葉集云、坂上大嬢、是右大弁大伴宿奈麿卿之女也、卿居田村里、但大嬢居坂上里、仍曰坂上大嬢。又坂上氏あり、刈田田村の二将軍の居地即此なるべし居に依り氏を命ずるは古の法なり。姓氏録云、右京諸蕃坂上大宿禰、出自後漠霊帝男延王也。田村里と云ふも近地なるべし、平城京址参考すべし。
坂上墓 歌姫の東南四町狭城池の北畔に在り、高大無比の古陵なり、平地に就き築成、前方後円周濠二重、凸起瓢形を為す、縦二百間横百三十間蓋仁徳皇后磐之媛陵と云。日本書紀磐之姫命、葬于那羅山。延喜式云、平城坂上墓、磐之嬢、在添上郡兆城東西一町南北一町、令楯列池上陵戸兼守。坂上墓式の明文は現在の陵形に合せず疑はし、又本陵の東北に古墳円塚二所、東南小奈閉陵の間に円塚二所、南方狭城池畔に円塚三所あり、小奈閉は添上郡佐保に属すれば本陵辺も添上郡の地たりし事ありしか、土俗ヒシヤケ山と呼ぶ。
 
狭城池《サキノイケ》 古京の北郊、宮城の北数町に方る。小奈閉山(添上郡佐保村)の西、楊梅陵(添下郡都跡村大字佐紀)の東也、法華寺は池南に在り、方二百間土俗|水上《ミナカミ》池と云、日本書紀「垂仁天皇作倭狭城池迹見池」是なり。迹見池詳ならず、続日本妃聖武天皇「神亀五年三月、御鳥池塘、宴五位已上、召文人令賦曲水之詩」とあり、鳥《トリ》池亦同じきか、宮北狭城池の附近にありし者ならん。
 
楊梅《ヤマモモ》陵 平城天皇の御陵なり、今都跡村大字佐紀超昇寺と字する地に在り、土俗|禰知《ネチ》山と称す。〔陵墓一隅抄〕延喜式云、楊梅陵、平城宮御宇日本根子推国彦天皇、在添上郡兆城南北四町東西二町。本域古は添上郡に属せりと云ふ事不審なり、狭城池の西なれば添下郡たる事明なり、又楊梅天神杜は添上郡法華寺に在り、然りと雖此超昇寺の遺墟にして即楊梅宮の古跡たるべければ、御陵疑を挟むべきに非ず。(御陵の字を常福寺とも云ふ、常福も超昇同縁起の廃墟か、)
 
楊梅《ヤマモモ》宮址 続日本紀云、光仁天皇宝亀三年、彗星見南方、屈僧一百口、設斎於楊梅宮。八年 山楊梅宮南池生蓮一茎二花此宮蓋孝謙帝の内裡にして延暦遷都後まで存在し平城帝も御したまひ、後超昇寺と為れるならん、超昇寺は平城皇子真如(廃太子高岳)創建なり。
 
超昇寺《テウシヨウジ》址 寺址は狭城弛の西に在り楊梅宮址に同じ。僧綱補任云、壱演僧正、謚慈済修行者、右京人大中臣氏、父備中持麿也、在俗内舎人、名正棟、承和二年出家入道、一生間誦持金剛般若、未有退転、時藤良房重病、壱演披巻未至軸之間、病即愈、為超昇寺座主、依本願真如親王之弟子也。元亨釈書云、清海入超勝寺精勤、一日香煙之中弥陀像現、其長五六寸、海感喜便取像、奉安今尚在焉。○名所図会云、超昇寺念仏堂は天正の頃兵火に罹り焼亡す。
 扶桑略記云、天慶五年、在唐僧中※[王+(觀−見)]申状称、前春宮坊無品高丘親王、先過震且、欲度流沙、風聞到羅越国、逆旅遷化云々、親王者平城太上天皇之第三子、去大同五年廃皇太子、親王帰命覚路、混形沙門、名曰真如、往東大寺、心自為真言宗義、師資相伝、猶有不通、凡在此間難可質疑、若求入唐、了悟幽旨、乃至庶幾、尋訪天竺、貞観三年上表曰、真如出家以降四十余年、而一事未遂、所願跋諸国之山林、渇仰斗薮之勝跡、勅依請、即便下知山陰山陽南海等諸道、所到安置供養、四年奏請擬入西唐、適被可許、乃乗一舶渡海、彼之道俗、甚見珍敬、親王遍詢衆徳、※[石+疑]碍難決、送書律師道詮曰、漠家論学、無及吾師、至于真言、有足共言焉、親王遂錫杖就路、身殞瀬中途。
賀陽豊年墓は楊梅陵下に在りと云ふも今詳ならず。
後紀云、賀陽豊年、該精経史、射策甲科、秉操守義、無所屈撓、自非知己、不好造接、大納言石上宅嗣、礼待周厚、屈芸亭院、延暦年中任東宮学士、及践酢、拝式部大輔、既而女謁屡進、英賢見預、厥後天皇不予、伝位上(嵯峨)嗣、遷御平城、不預追従、猶守本職、及于後乱、自※[(揖−てへん)+戈]辞退、今上惜其宏材、任播磨守、在任三年、移病入京、臥于宇治之別業、昔仁徳天皇与宇治稚郎相譲之事、具著国典、故老亦語風俗、病裡聞之、追感不已、託左大臣、(藤冬嗣)慕為地下之臣、弘仁六年卒日、有勅葬陵下、贈正四位下、以崇国華也、時人猶謂天爵有余人爵不足。
日本逸史、大同四年十一月、於摂津国豊島為奈等野、及平城旧都、占太上天皇宮地、庚寅遣右兵衛督藤原仲成、造平城宮、戊戌令畿内諸国、雇工及夫二千五百人、以造平城宮也。五年九月依太上天皇命、擬遷都於平城、正三位坂上田村麿従四位藤原冬嗣等為造宮使、丁未縁遷都事、人心騒動、仍遣使鎮固伊勢近江美濃等三国府並故関、繋藤原仲成於右兵衛府、詔曰云々。弘仁二年勅、開平城宮諸衛官人等、出入任意、不勤宿衛、宜直彼参議加督寮焉。〔類聚国史日本紀略〕按に平城宮址は超昇寺なるべし、是平城帝の御子高岳親王の本願なればなり、扶桑略記、元慶二年の条に「修行伝燈賢大法師位真如本願超昇寺」と録す。又続日本後紀云「承和二年、旧宮処、水陸地卅余町、永賜高岳親王、親王者天推国高彦天皇第三子也、大同年末、少登儲弐、世人号曰蹲居太子、遂遭時変、失位落髪」と見ゆ、以て傍証と為すべし。又親王の皇孫の事は三代実録「元慶三年勅、無品高岳親王入唐之後、男正五位下在原朝臣安貞等、請被返収親王封邑、朝家思其遺愛、不忍聴許、如今年紀徒積、帰来無期、宜仰所司令允安貞往日之請焉」とあるにて、其情実を推知すべし。
 
佐紀《サキ》郷 和名抄、添下郡佐紀郷。古書狭木狭城佐貴等に作る、平城京西北部、今|平城《ヘイジヤウ》村及都跡《ミアト》村(大字佐紀)伏見《フシミ》村にあたる、山陵志云、狭城崎也、言山阜陬※[山+禺]、今超昇寺西北、為|山陵《ミササイ》村、実是山阜陬※[山+禺]、而有四池、皆南北縦列、里老相伝故七池、其三曰作田、所謂盾列池、即縦列池也。霊異記に「犬養宿禰真老者、居住諾楽京活目陵北之佐岐村」と見ゆ、活目陵は即菅原伏見陵なれば伏見村も本郷に属せるに似たり、但今の都跡村五条以南は村国郷なるべし。
補【佐紀】続紀神護景雲三年八月、葬高野天皇於大和国添下郡佐貴郷高野山陵。諸陵式、狭城盾列池後陵、志賀高穴穂宮御宇成務天皇在大和国添下郡、兆城東西一町南北三町、守戸五烟。神名式、佐貴神社。大和志、佐紀郷已廃、存超昇寺常福寺二村。万葉集、咲野。霊異記、犬養宿禰真老者居住諾楽京活目陵北之佐岐村。古事記、沙紀之多他那美。前皇廟陵記、狭城郷名続紀作佐貴、在奈良西超昇寺戌亥、盾列池今没、薬師寺其跡云。諸陵周垣成就記、狭城盾列の池と申所未詳。山陵志、狭城崎也、言山阜陬※[山+禺]、今超昇寺西北為|山陵《ミササイ》村、実是山阜陬※[山+禺]而有四池焉、池皆南北縦列、里老相伝、故七池、其三已作田、所謂盾列池即縦列池也、盾縦音借也。類字名所集、佐幾野、未勘。〔和名抄郡郷考〕風雅集、春山のさきののすすきかきわけてつめる若菜にあは雪ぞふる、藤原基俊。勝地吐懐編、これは万葉第八に、春山の開《サキ》の乎烏里に春《ワカ》菜摘妹之白紐見九四与四門、このうたを取用たる也、大和国添下郡に佐幾といふ所あり、日本紀に狭城とあり、そこにや。旧跡幽考、佐紀山はうたひめ村の西にあり、此山ならよりみゆる、それを佐紀山といふよし八雲御抄に見えたり万葉十、春日なる三笠の山に月も出ぬかも佐紀山にさける桜の花のみゆべく、佐紀池は俗に水上の池といふ、誉田八幡縁起曰、神功皇后池上にはうぶり奉ると云々、もしくは池上の池といふべきを水上の池とあやまりていふにや、狭城池は垂仁紀三十五年十月作倭狭城池と見えたり、又楯波池ともいふ、続紀神亀四年六月従楯波池飄風忽来吹折南苑樹二株、即化成雉とあり。〔同上〕
 
盾列弛《タテナミノイケ》 盾列は古事記に多他那美に作る、(前皇廟陵記云、楯列池、今没、薬師寺其跡云)続日本紀云、神亀四年五月、従楯波池、飄風忽来、吹折南苑(平城宮皇居)樹二株、即化成雉。盾列池は今尋ぬべからず、神功成務二陵の間に在りしならん、而も南北に縦列せりと云ふ、山陵志は今狭木寺間陵と定むる者の東に南北に遺存する四池是なりと論断す、後考を俟つ。
 春日なる三笠の山に月も出ぬかも佐紀山にさける桜の花の見ゆべく、〔万葉集〕
旧跡幽考云、佐紀山は歌姫村の西にあり、此山奈良より見ゆ、それを佐紀山と云由、八雲御抄に見えたり。万葉集に「女へし咲野に生る白つつじ」又「かきつばた開沢《サキサハ》に生る菅根の」などあるは皆此地なり。
佐紀宮址 万葉集、長皇子与志貴皇子(並天武皇子)於佐紀宮倶宴歌、
 秋さらば今も見るごと妻恋に鹿鳴かむ山ぞ高野原のうへ。
高野は佐紀の諸山陵の辺を云ふ、佐紀神社は延喜式に列す、今都跡村大字佐紀字超昇寺に在り、大宮と曰ふ。
 
西大寺《サイダイジ》 今伏見村大字サイダイジに在り、蓋其旧域は古京右京一条三坊四坊に当る、後世西偏に移るもののごとし天平神護元年孝謙天皇創建僧常騰開基にして高野寺《タカノデラ》と称す。〔類聚国史拾芥抄元亨釈書〕嘉禎二年僧思円(興正菩薩叡尊)中興して法弟に附与し、爾来戒律宗の大道場なり、殿堂は近世の重興なりと雖、猶宏大の遺制を存す、中堂愛染堂観音堂等あり。思円は忍性律師とも称し行徳一世に高く、公武の帰依最厚かりき、其鎌倉の恩命に依り西大寺多田院等を管治したる由は多田院古文書に徴すべし、蒙古来寇の時勅旨を奉じ男山八幡宮に詣り愛染明王を祈りて異賊降伏の修法を為す、今此寺に愛染堂あるは其故習に出づ、思円墓も本寺に在り、奥院と称す。
 さりともと西の大寺たのむかなそなたの願ともしからじと〔夫木集〕
扶桑略記、天平神護元年、高野天皇造西大寺、供養七尺金銅四天王像、神護景雲三年、天皇奉造西大寺弥勒浄土、在添下郡平城宮右京一条三坊、四年破却西大寺東塔心礎、其石大一丈余厚一丈余、東大寺之東飯盛山之石也、天皇不※[余/心]卜之、破石為祟、即復捨浄地、不令人馬践之、今其寺内東南隅、数十片破石是。続日本紀云、神護景雲元年、幸西大寺法院、令文士賦曲水。元亨釈書云、西大寺者、天平神護元年称徳帝建、鋳四天王銅像長七尺、三像已成、只増長天一像不成、改鋳六度遂不就、至第七度、帝親幸冶処、誓言朕若因是功勲、来世転女身成仏道、手攪熟銅無傷損、而像成矣、若不然、手爛像不成、便以玉手攪洋銅、御手無傷、像便成。〔扶桑略記少異〕興正菩薩伝云、伝燈大法師位叡尊者、一天四海之大導師、濁世末代之生身仏也、以済度衆生為己任、以大悲闡提為我願、故号興正菩薩矣。(正安二年院宣)
補【破石清水】○平城坊目考 続日本紀曰、宝亀元年二月丙辰、破却西大寺東塔心礎、其石大方一丈余、厚九尺、東大寺以東、飯盛山之石也、初以数千人引之、日去数歩、時復或鳴、於是益人夫、九日乃至、即加削刻築基已畢、時巫※[巫+見]之徒、動以石祟為言、於是積柴焼之、灌以三十余斛酒、片々破却、棄於道路、後月余日、天皇不※[余+心]、卜之破石為祟、即復捨置浄地、不令人馬践之、今其寺内東南隅数十片破石是也。○伝云、清水郷破石町等上古西大寺之領地、而塔礎破却之三十余石酒、則汲於此清水醸酒於是称破石清水、是亦南都造酒之濫觴也。
 
菅原《スガハラ》 今伏見村及都跡村の中にして、平城京右京三条南北の地なり、和名抄に見えず佐紀郷に属せしめたるか不審なり。菅原伏見の二陵は別目あり。日本書紀「推古天皇十四年、造菅原池」続日本紀「元明天皇和銅元年、行幸菅原」などあり、菅原氏の故里にして其祖廟あり。
 
菅原《スガハラ》神社 延喜式、添下郡菅原神社、今伏見村大字菅原に在り、右京三条四坊にあたる、土師宿補の祖廟なり。続日本紀、天応元年、土師宿禰古人道長等言、土師之先出自天穂日命、其十四世孫名曰野見宿禰、昔纏向珠城宮御宇垂仁天皇世、古風尚存、葬礼無節、毎有凶事、例多殉埋、于時皇后薨、野見宿禰進奏、率土師三百余人、自領取埴、造諸物象進之、式観祖業、吉凶相半、若其諱辰掌凶、祭日預吉、如此供奉、允合通途、今則不然、専預凶儀、尋念祖業意不在茲、望請因居地名、改土師以為菅原姓、勅依請許之。 いざここに我世は経なん菅原や伏見の里のあれまくもをし、〔古今集〕
 
菅原《スガハラ》寺 菅原神社の西南に接す、今荒敗して堂宇纔に存す、天平二十一年行基僧正菅原寺に入寂の事続日本紀に見ゆ。扶桑略記、天平廿一年正月十四日、於平城中島宮、請大僧正行基、太上天皇受菩薩戒、名勝満、中宮受戒、名徳満、皇后受戒、名万福、即日改大僧正、名曰大菩薩、私云太上天皇者誰人哉、若是書違歟、二月二日、行基菩薩、於菅原寺東南院、右脇而臥、身心安穏、如入禅定遷化、春秋八十歳、最後遺誠云、弟子光信法師為世眼、我之所造卅九院、悉附属汝、又諷弟子等云、口虎破身、舌剣断身、汝等慎口業、塞口令如鼻。行基の連歌とて新勅撰集、続後撰集に見ゆるは
 法の月久しくもがなと思へども小夜ふけにけり光かくしつ、  又、仮そめの宿かる我ぞ今更にものな思ひそほとけとぞなれ、
扶桑略記云、延暦四年、皇太子早良親王将被廃、時馳使諸寺、令修白業、諸寺拒而不納、後乃到菅原寺、爰興福寺沙門善珠、含悲出迎、灑涙礼仏訖曰、前世残業今来成害、此生絶讎、更勿結怨、使者還報、親王憂裡為歓云、自披忍辱之衣、不怕逆鱗之怒、其後親王亡霊、屡悩於皇太子、(平城帝)善珠乃祈請云、乞用小僧之言、勿致悩乱之苦、説無相之理、其病立除、十六年僧正善珠卒、皇太子図其形像、置秋篠寺。
 
伏見《フシミ》 伏見村は今総名となり、菅原其小名となる、古に反す。此地名義は臥身の人あるを以てと為せど附会の語なり、釈書云、伏見翁者不知何許人、或曰竺土来、翁臥平城菅原寺側崗、三年不起又不言、人呼為唖者、天平八年、行基迎婆羅門僧菩提、帰於菅原寺設供、三人甚歓、其臥所因名臥身云々。
   大和におやありてかよひける人、後におやなくなりければ(中略)伏見にて、
 名に立ちてふしみの里といふことはもみぢを床にしけばなりけり、〔家集〕 伊勢
 菅原やふし見のくれに見わたせばかすみにまがふをはつせの山、〔後撰集〕
〔補注、伊勢集の歌の詞書、中略までは別の歌の詞書〕
 
菅原伏見《スガハラフシミ》西陵 安康天皇御陵なり、伏見村菅原の西六町大字|宝来《ハウライ》に在り、丘に倚り之を構ふ其形完からず。山陵志云、垂仁陵(伏見東陵)西数町、有呼為西蓬莱山、今已犂為田堆、其溝未埋、若半月然、与東陵屹乎相望也、呼保天堂、安康御名穴穂、保天堂即穂天皇訛也。延喜式、菅原伏見西陵、石上穴穂宮御宇天皇、在添下郡兆城東西二町南北三町。扶桑略記云、菅原伏見西陵、高三丈方二町。
 
菅原伏見《スガハラフシミ》東陵 垂仁天皇の御陵なり、伏見村大字|平松《ヒラマツ》の東に在り、巍祇々たる山陵なり、深壕高陵、長径百五十間短径百二十間、俗に蓬莱《ホウライ》山と云ふ。日本書紀、活目入彦五十狭茅天皇、葬於菅原伏見陵。古事記、伊久米伊理毘古伊佐知命天皇御陵、在菅原之|御立《ミタチ》野中也。延喜式云、菅原伏見東陵、垂仁天皇、在添下郡兆城東西二町南北二町。続日本紀云、櫛見《フシミ》山活目入日子伊佐知天皇之陵也、霊亀元年充守陵三戸。書紀又云、活目入彦天皇崩之明年、田道間守至自常世国、不得復命、乃向天皇陵叫哭而自死之。山陵志云、蓬莱山陵、北円塚、豈田道間守墓歟。
   過蓬莱島、在宝来村 藤本田居
 ※[王+其]樹隔池珠翠開、彩雲高擁小蓬莱、時聞天際風箏響、疑是群仙駕鶴来、
平松《ヒラマツ》は蓬莱山陵の西なる民家なり。姓氏録云、右京諸蕃平松連、広階同祖魏陳思王之後也。垂仁帝陵の北西三条路北側に古墳あり、上に一祠あり、山陵志には田道間守《タヂマモリ》墓と疑へど、大和志には之を以て新田部《ニタベ》親王(天武皇子)墓と為せり、字兵庫山と曰ふ、名所図会、安康陵と為す。
 
斉音寺《サイオンジ》 大和志云、斉恩廃寺、在斉音寺村、延暦十一年、聴捨故入唐大使藤原清河宅為寺、号曰斉恩院、即此、清河増太政大臣房前第四子也、勝宝五年奉使入唐、礼畢還日、偶遇海運、漂到※[馬+(觀-見)]州、時州人叛、通船被害、清河僅以身免、遂不帰、後十余年薨於唐国、宝亀十年贈従二位。斉音寺村、右京三条三坊に位置す、佐紀大路この民家を貫通す。
 
招提寺《セウダイジ》 唐招提寺《タウセウダイジ》とも云ふ都跡村大字五条に在り、右京五条三坊にあたる。天平宝字三年唐僧鑑真の創建せる所、新田部親王の旧宅と云ふ、諸殿堂経像多く伝へて今に依然たり、戒律宗の本山にして覚盛(大悲菩薩)中興す。其宗風は後世振はずと雖、南都七大寺中、典雅幽深、千古の風色を伝ふる者、法隆寺以外此宝坊あるのみ。
   贈日東鑑禅師 唐司空図
 故国無心度海潮、老禅方丈倚中条、夜深雨絶松堂静、一点飛螢照寂寥、〔異称日本伝〕金堂(七間四面屋根四注本瓦葺)今特別保護を加へらる、本尊廬遮那坐像(夾紵乾漆造)後光千体背画二千仏の製にして世上無比の妙相なり。講堂は平城京八省院朝集殿を移建したる者にして当代の朝廷を想見するに足る、鴟尾の款識に元亨三年改葺の由見ゆ。其東に鼓楼東室舎利殿経蔵宝蔵あり開山堂其北に在り、皆往時開創の際に起す所也。戒壇堂は西に在り、近年焼失して堂址を存するのみ。
扶桑略記云、天平宝字三年、鑑真和尚奉為聖武皇帝招提寺所創建也、金堂一宇少僧都唐如宝所建立也、安置慮舎那丈六像一躯、講堂一宇平城朝集殿施入也、安置丈六弥勒像脇侍菩薩像、経蔵一基、鐘楼一基、食堂一宇、羂索堂一宇。元亨釈書云、鑑真唐国楊州人、天平勝宝六年来朝、勅館東大寺、奉聖武上皇詔、於東大寺構戒壇、上皇受菩薩戒、勅賜皇子開府儀同三司田部旧宅、天平宝字七年化、初本朝大蔵経論、多烏焉之誤、及真之至、勅加整勘、真失明而多所※[言+音]誦、数下雌黄、又諸薬物、此方不知真偽、真以鼻別之、一無錯誤。又云、招提寺者、天平宝字三年、鑑真法師薦聖武上皇所創也、初以皇子旧宅賜真、逮上皇崩成宝坊、諸公卿及沙門等共営、大殿者唐僧如宝建、安丈六廬舎那像、講堂者捨平城宮而成、弥勒及二菩薩脇士、唐法力所造也、食堂者藤仲公捨家屋、(食堂今亡)経蔵者唐義静造之、納仏舎利半合及菩薩経律論一切宝物、羂索堂者藤清河施屋、安金色像并八部神衆、又賢※[土+景]法師為国家書大蔵四千二百巻※[まだれ+支]之。延喜式云、凡招堤寺、安居講師、以当寺浄行憎、次第請用。本朝高僧伝云、従鑑真和尚肇律儀、東西二壇専行別受、歴数世而戒師不続、招提之不振四百五十年、至如来之浄戒委※[田+犬]畝之残僧、盛公以間出之時、奮然拠文自誓受戒、非不絆而用規矩乎、始雖孔艱、卒若易然、大開招提中興之業、亦所謂蒙傑之士也。
   初謁大和上 沙門普照
 摩騰遊漢闕、僧会入呉宮、豈若真和上、含章渡海東、禅林戒網密、慧苑覚花豊、欲識玄津路、緇門得妙工、〔唐大和上東征伝〕
   傷大和上伝燈逝 釈思託
 上徳乗杯渡、金人道已東、戒香余散馥、慧炬復流風、月隠帰霊鷲、珠逃入梵宮、神飛生死表、遺教法門中、〔同上〕
 
赤膚《アカハダ》山 招提寺の西に在り、禿山にして不毛の赤土なり、神武帝の時波※[口+多]岳岬に賊名は新城戸畔と云者あり、波※[口+多]岳《ハタノヲカ》岬即此也と。〔書紀通証大和志〕
 もみぢする赤はだ山を秋ゆけば下照るばかり錦織りつつ、〔夫木集〕 顕仲
 
勝間田池《カツマタノイケ》 都跡村大字六条|砂村《スナムラ》の池を云か、薬師寺の東に在り。
 かつまたの池は我知る蓮なししか云君がひげなきがごと、原注云、右或人聞之曰、新田部親王出遊于堵裡、御見勝間田之池、感緒御心之中、還自彼池、不忍憐愛、於時語婦人曰、今日遊行、見勝間田池云々。〔万葉集〕
勝地吐懐篇頭注云、按に此親王大髭ましませば戯に打かへてよめるなり、薬師寺の傍にて近きころ田の中より勝間田池の断碑を掘出せしが、文字はよみがたかりしとかや、其田猶池のかたちを存せりとぞ。
   物へまかりける道に、昔のかつまたの池とて、家居跡計りみえけるに、
 くちたてる家ゐなかりせばかつまたの昔の池と誰か知らまし、〔良玉集〕 道済
 
薬師寺《ヤクシジ》 都跡村大字六条|砂村《スナムラ》に在り、右京七条三坊にあたる、法相宗大本山なり。天武帝御願にして初め高市郡藤原宮に創立し、元正天皇の朝に平城右京に移し、聖武天皇天平年中造営成る。今金堂六層塔東院堂等存す、講堂西院等は亡びたり。金堂、本尊薬師如来は石壇(長五丈四尺幅一丈二尺)の上に安置す、金銅立像、脇士日光月光すべて三尊なり、黒紫※[黒+幼]然光沢掬すべし、寺伝に養老中行基菩薩鋳と云ふ、然れども藤原宮造成なるやも知るべからず雄麗壮固の作なり、聖観音銅造立像一躯寺伝に孝徳天皇御願と云ふ、其他夜叉神一躯十一面観音(木作立像)一躯皆霊仏なり吉祥天画幅(絹本着色)は世上多く模写して之を伝ふ。又名だかき仏足石あり、堅石盤状を成す、上面平滑にして足※[足+庶]を刻む、縦二尺玉寸横三尺三寸、足※[足+責]石の後に歌碑樹立す、高六尺広一尺五寸厚二寸、正面に和歌を鐫れり。本寺は七大寺の随一にして至貴の宝刹なりしが、平安遷都の後漸く振はず、近時に及び愈挙らず、唯其災余の諸仏大塔等の、往時を徴証するに無比の好拠を為すあるのみ、史学者が大塔※[木+察]柱銘に依り壬申の即位建元を証する如き是也。本朝世記云「久安三年薬師寺最勝会、勅使不下向、五百余年大会、今年初勅使不下向之由、法印隆覚所申也、被尋子細之処、依院御定免除也」と、本寺の衰に就けるは此比よりの事ならん。一代要記、元亨釈書云、天平二年起東塔于薬師寺。続日本紀云、天平四年、以栗田人上為造薬師寺大夫、天平感宝元年、定諸寺墾田地、限薬師寺一千町、天平感宝元年、聖武天皇遷御薬師寺、譲位皇太子、天平勝宝二年、移御薬師寺宮。按ずるに薬師寺は聖武孝謙の朝に落成し至尊之に御したまふ、殿舎の備具したる事想ふべきも其規模詳ならず。濫觴抄に「薬師寺、土木之功熟于三帝、日月之営、送於五代」とあるは三帝天武持統文武にして、五代は元明元正聖武孝謙淳仁なるべし。扶桑略記云、天武天皇九年庚辰、因皇后病、造薬師寺、舗金未遂、始鋳仏於飛鳥浄原之朝、畢造寺於養馬藤原之宮、土木之功熟於三帝、(天武持統元明)日月之営送於五代、(又加文武飯高)為憲記曰、薬師寺、清御原天皇之師、僧祚蓮入定、見龍宮様習作也、宝塔二基各三重有裳階高十一丈五尺、縦広三丈五尺、両塔内安置釈迦如来八相成道形、金堂一宇二重閣五間四面長七丈八尺広四丈五尺柱高一丈九尺、仏壇長三丈三尺高一尺八寸安置丈六金銅須弥座薬師像一躯左右脇士日光遍照菩薩月光遍照菩薩各一、已上持統天皇奉造座者也、又観世音菩薩像二体、又帳外壇下仏前並左右造立綵色十二薬叉大将像高各七尺五寸、南大門五間二重居獅子力士、中門五間立二王像并夜叉形天及座形鬼等、講堂一宇重閣七間安置繍仏像一帳、為天武天皇奉造者也、食堂一宇九間四面、経楼一宇、鐘楼一宇、懸百済国王処献鴻鐘一口也、西院安置弥勒浄土障子。
六層塔は薬師寺東塔なり、三層塔婆なれど毎層裳階あれば俗に六層と曰ふ、天平二年造立、遺構儼然たり。塔頂九輪※[木+察]柱の下に銘あり、寺伝に舎人親王の撰文と曰ふ、蓋藤原より移建して其旧を変ぜざる者か。(藤原の造宮は持統帝の時也)寛元元年薬師寺縁起云、天武天皇即位八年庚辰十一月、皇后不※[余/心]、巫医不験、因之為除病延命、発奉鋳丈六薬師仏像之願、爰霊験有感、皇后病愈、天皇大感、已鋳金銅之像、舗金未畢、以十四年崩於明香清原、以戊子年十一月、葬給於高市大内山陵、皇后嗣即帝位、是持統天皇也、為遂太上天皇前緒、高市郡建寺、安置仏像経論寺、本薬師寺是也、即塔露盤銘之文云「維清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳建子之月以中宮不※[余/心]創此伽藍而舗金未遂龍駕騰仙太上天皇奉遵前緒遂成斯業照先皇之弘誓光後帝之玄功道済群生業伝曠劫式於高※[足+蜀]敢勤貞金巍々蕩々薬師如来大発誓願広運慈哀※[けものへん+奇]※[けものへん+與]聖王仰延冥助爰傍※[食+芳]霊宇厳調御亭々宝刹寂々法城福崇億劫慶溢万令」
仏足石は金堂西南の小宇に安置す、高一尺八寸余、上面縦二尺五寸許横三尺余、その上面に足※[足+庶]を刻む長凡一尺六寸、石の四側に銘文及び仏像を刻む、石面凹凸にして字画明白ならず又磨※[さんずいへん+おおざとへん+力]あり補刻あり、今古京遺文并に考古学会雑誌に参照し其文を挙ぐ、
 釈迦牟尼仏跡図
 案西域伝云今摩褐※[こざとへん+(施-方)]国昔阿育王方精舎中有一大石有仏跡各長一尺八寸広六寸輪相華文十指各異是仏欲涅槃北趣拘尸南望王城足所蹈処近為金耳国商迦王不信正法毀壊仏跡鑿已還生文彩如故又損於河中尋復本処今現図写所在流布観仏三昧経云若人見仏足跡内心(一曰而心)敬重无量衆罪由之而滅(一曰由共亡滅)今□倶□非有幸之所致乎又北印度烏仗那国東北二百六十里人大山有龍泉河源春夏含凍晨夕飛雪有暴悪龍常雨水災如来往化令金剛神以杵撃暴龍聞心怖(一曰暴龍出伏)帰依於仏恐悪心起留跡示之於泉南大石上現其□跡随心浅深量有長短今丘慈国城北四十里寺仏堂□中玉石之上亦有仏跡斎日放光道俗至時同住慶修観仏三昧経仏在世時若有衆生見仏行者及見千輻輪相即除千劫極重悪罪仏去世後想仏行者亦除干劫極重悪業雖不想行見仏迹者見像行者歩歩之中(一曰無之中)亦除千劫極量悪業観如来足下平満不容一毛足下千輻輪相※[(土/わかんむり/系)+殳]※[車+罔]具足魚鱗相次金剛杵相足※[足+艮]亦有梵王頂相衆義之相不異諸(一曰不遇諸悪)是為休祥大唐倭人王玄策向中天竺□□国中(一曰磨□□国中)転法輪□因見跡(一曰回見跡)得転写搭是第一本日本使人黄書本実向大唐国於普光寺得転写搭是第二本其本在右京四条□坊禅院向禅院壇披見神跡敬転写搭是第三本従天平勝宝五年歳次発巳七月十五日尽二十七日并一十三箇日作了壇主従三位智奴王天平勝宝四年歳次壬辰九月七日改之写成文室真人智努画師越田安万(一曰安方)書写画石手□□□※[「手□□□」の左に「〔作主□□ィ〕」と傍注]呂人足※[#匠を□で囲む]仕奉□□□人
□□□(一曰至心発)願為亡夫人従四位下茨田郡主法名良式敬写釈迦如来神跡伏願夫人之霊駕高※[「高」に「・(ナシ イ)」の傍注]遊入无勝之妙邦受※[「受」を□で囲む]□□□□之聖□永脱有漏高証无為同霑三界共契一真
  諸行无常 諸法无我 涅槃寂静
   知識家口男女大小」三国真人浄足 (囲外題名)
古京遺文云、禅院、道昭所建、初在飛鳥、後移平城、智努王、天武天皇之孫、父一品長親王、天平勝宝四年賜文屋真人姓、天平宝字五年改名浄三、是記、石質頑堅、不得深刻、文字隠晦、多不可読、又高卑拗※[土+突]、刻随其勢、是以世罕有榻本、余親至西京、経七日之久、精撫一本、纔得釈之、其方囲下方二題字、埋在塵土中、余磨※[沙/手]得之、前人所未嘗見也、三国浄足無攷。又云、仏足石歌碑、在仏足石之後、所鐫歌廿一首、其十七首、咏賛仏蹟、四首呵責生死、碑嘗罹火災、以故四辺有剥脱者、中亦有磨※[さんずいへん+こざとへん+力]不存者、有後人補刻者、第二首拾遺和歌集載之云、光明皇后自書于山階寺仏蹟、按拾遺集山階寺者、恐伝聞之誤。考古学会雑誌云、仏足石歌碑、文字古雅雄健にして我邦金石文中の上乗なるものなり、智努王は天武帝の孫なれば其縁にて仏足石を薬師寺に建て、又此歌碑を置きしならん、拾遺集光明皇后山階寺の仏蹟に題せられたりと云歌は、本寺仏蹟歌碑の第二首と詞句相捗る所あれど、全く異章とす。今按に仏足石歌碑の第一首に
 美阿止都久留伊志乃比鼻伎波阿米爾伊大利都知佐閉由須礼知々波々賀多米爾  毛呂比止乃多米爾
とあるは当時刻神跡の斧声に感じて父母菩提の至願を咏ぜる也、智努王の亡夫人の事と相渉らず、疑ふべし、又仏足石の智努王銘文の囲外に「知識云々三国真人浄足」の題名あり、因て謂ふ浄足は即建碑者にして、父母菩提の為めに智努王の転搭本并に其序詞願文を一石に刻み、又歌碑を其傍に置けるにやと、万葉集に三国人足といふ作者あり、年代を推せば浄足もしくは其子などにやあらん。
補【薬師寺】○〔薬師寺縁起、略〕寛元元年発卯初秋上旬□写之云々、右薬師寺縁起以塔※[木+察]柱銘摺本校合了。〔付箋〕薬師如来金銅立像一躯(行基菩薩作)同脇士日光月光仏金銅立像二躯(行基菩薩作)聖観青銅立像一躯、仏足跡碑一基、仏足跡一基、十一面観音木造像一躯、吉祥天像絹本着色板装一幀。三重塔、三層塔婆毎層裳階あり、本瓦葺き。
 
羅城《ライセイ・ラセイ》門《モン》址 平城京朱雀大路の南大門なり、今郡山町大字九条の東に在り。大和志に耕田の礎石羅城門の銘ある者を得たり、此所を来生《ライセイ》と字すと云。続紀、天平十七年|※[さんずいへん+(樗-木)]《アマゴヒス》于羅城門。九条は郡山町の北にして、東は添上郡辰市村東九条に通ずる故道存す、即古京の南限なり。 
鳥見《トミ》郷 和名抄.添下郡鳥貝郷、訓止利加比。和名抄見を貝に誤り従て加比と訓めり、富小川の上游にして今北倭村富雄村と曰ふ。続紀和銅七年の条に登美箭田二郷とありて、和名抄又矢田郷あり。日本書紀、神武天皇長髄彦を撃ちたまふ条に「有金色霊鵄、飛来止于皇弓弭、其鵄光※[日+華]煌状如流電、由是長髄彦軍卒昏迷眩、不復力戦、長髄《ナガスネ》是邑之本号焉、因亦為人名、及皇軍之得鵄瑞也、時人仍号鵄邑、今云鳥見是訛也」と述ぶ。今按に鵄瑞あるが故に其地を鵄邑と云ひ後鳥見に訛ると為すは事因顛倒なるべし、鳥見は長髄彦の本邑にして此地蓋是なり、磯城郡にも鳥見と名くる地あれど彼の鳥見は皇師の長髄彦を破れる地にて、同名異地とす。神武天皇初め河内固より生駒山を踰えんとして長髄彦に会戦したまふ、長髄彦の生駒山下層富県に占拠したる事推論すべし。長髄も邑名にて鳥見の別称たるべし、其邑主をば長髄彦と云ふ。皇師は更に熊野吉野の方面より進入し磯城に賊軍を撃破したり以て大勢を観るべし。
 
補〔鳥貝〕 ○止利加比、今按、此郷名ふるくは鳥見とありけんを後に鳥貝と改められしか、または字形の似たるによりてはやく誤りたるにもあるべし、そは神武紀戊午十二月、皇師撃長髄彦、連戦不能取勝、時忽然天陰而雨氷、乃有金色霊鵄、飛来止皇弓之弭、其鵄光※[日+華]※[火+(日/立)]状如流電、由是長髄彦軍卒皆迷眩不復力戦、長髄彦是邑之本号焉、因亦以為人名、及皇軍之得鵄瑞也、時人仍号鵄邑、今云鳥見、是訛也とあるにておもふべし、さて矢田の郷名も皇弓弭云々によしありげに聞えたり、また垂仁紀二十五年作倭狭城及迹見池、万葉八、衛門大尉大伴宿禰稲公跡見庄作歌、いめたてて跡見の岳辺のなでしこの花ふさたをりわれはもちいなむならぴとのため、続紀和銅七年十一月登美箭田二郷云々、神名式に添下郡登弥神社などみなトミとよべり、古事記伝に鳥甘部の件に此鳥貝をも引て大和国添下郡鳥貝郷あり此外にも鳥養てふ地是彼此ありといはれたるはたがへり、但外の国々なるは鳥養の義なり。
 
白庭山《シラニハヤマ》 旧事紀云、饒速日尊、従河内国川上※[口+孝]峰遷坐於大和国鳥見白庭山、便娶長髄彦妹。※[口+孝]峰は河州北河内郡天之川の上、生駒山の北嶺なり、即大和生駒川の上とす。〔大和志河内志〕白庭山は富小川の畔にして、延喜式登弥神社の地か。姓氏録に拠れば鳥見姓は饒速日命の裔にして、長髄彦は其外戚に当る。史料通信叢誌云、春日若宮嘉禎二年文書に拠るに今の磐船越をば上鳥見路《カウツトミヂ》と曰ふ、饒速日命を斂めし白庭は北倭村大字上《カミ》の真弓山《マユミサン》長弓寺の辺に在りて弓塚《ユミヅカ》と称す。
 
高山《タカヤマ》 今北倭村と改む、富小川の源にして東は山城相楽綴喜二郡の地にて西は河州北河内郡なり、北界を榜示《ハウジ》と云、北河内郡岩船村に通ずべし、竜王山あり、即富小川の濫觴とす。
高山八幡宮は天平感宝元年宇佐八幡を東大寺に迎ふる時、神輿平群郡に次すと云事続日本紀に見ゆ即此なりと。〔県名勝志〕添下平群は郡相異すれど此地榜示ありて古道之に係る事明白なれば、平群は添下を錯記したる者か。
伊射奈岐神社は三代実録貞観元年伊射奈岐神授位、延喜式添下郡の大社なり。今北倭村大字上村字古川に在り、天王社と称す。〔大和志県名勝志〕
 
添《ソフ》 添は古書に層富とも記し、添上下平群にわたる大名なりと雖、其本拠は鳥見に在り、添御県神社は今富雄村に属す是也、続日本紀に「天平神護元年、添下郡人大初位上県主石前、賜姓添県主」とあるも添の本拠は此と為すの一証たるべし。
添御県坐神社は富雄村大字三碓字下条に在り。姓氏録云、大和神別添県主、注出自津速魂命男武乳遺命也、旧事紀之に同じ。神祇志科云、添御県坐《ソフノミアガタニマス》神社今鳥見荘三碓村にあり、〔大和志〕祈年祭六県神の一也、〔延喜式〕聖武天皇天平二年神戸粗稲一百七十二束を以て祭祀雑料に充て〔東大寺正倉院文書〕平城天皇大同元年神封二戸を寄奉り〔新抄格勅符〕延喜式添下郡の大社に列す。
 
富雄《トミヲ》 古の鳥見郷の中村なり、近年改称す、富小川《トミノヲガハ》に因めるならん。伏見村より西へ生駒山暗峠の通路之に係る、即奈良町三条より大坂に通ふ者なり。
補【富雄】添下郡○奈良県名勝志 贈皇后藤原氏河上陵、所在未詳、或は云ふ、富雄村大字大和田字丸山の東北隅に在りと、贈皇后は淳和天皇の御母なり、延喜式に大和国添下郡にありと曰ふは即是か。
僧婆羅門墓 富雄村大字中、霊山寺の境内にあり、石塔高四尺許、伝へて門の墓とす、寺伝に云ふ、門行基と倶に勝地をたづね此に至り寺を建つと。
 
霊山寺《リヤウセンジ》 中村の西に在り鼻高山と号す、富小川其北を流る。婆羅門僧正菩提僊那の墓あり、又宝塔一基あり弘安六年建立す、本寺は寺伝天平勝宝八年行基僊那の相謀り創建したる所也と云、両僧の事は釈書に所説あり。〔県名勝志京華要誌〕扶桑略記に「天平十八年天竺婆羅門僧正菩提始来本朝、勅令巡礼諸寺、至大安寺東僧坊南端小子坊留任、後尋処給官額、曰菩提僧正院」と載せ、又「宝亀四年勅、散大僧正行基法師修行之院、惣卅余処、其六院未預施例、宜大和国菩提登美生駒、河内国石凝、和泉国高渚五院、各捨当郡田三町、河内国山埼院一町」とあり此菩提院と云は大安寺にて登美院と云ふは霊山寺なるべし。(大安寺址を参照)
河上《カハカミ》墓 延喜式云、河上陵、贈皇后藤原氏、在添下郡兆城東西四町南北四町。本陵は淳和御母、桓武皇后旅子(百川女)なり、陵墓一隅抄は都跡村大字砂村の坤三町許字茶臼山是ならんと云、而て奈良県名勝志は富雄村大字大和田字丸山に在りと為す、孰れか是非詳ならず、大和田丸山は中村の南三町許、富小川の畔なり、聖蹟図誌云、丸山の南に茶碓山と云丘ありて古祭器の破片出づ。
王龍寺《ワウリユウジ》 富雄村大字|二名《フタナ》に在り、林壑深邃にして怪岩峙立す、寺背の一岩に観音不動二像を刻す高一丈五尺、其傍に銘を勒し建武丙子三年二月十二日大願主僧千貫行人僧千歳云々と曰ふ。〔名勝地誌〕
登弥《トミ》神社 延喜式添下郡登弥神社、今富雄村大字石木字|木島《コノシマ》に在り、(郡山町九条の西十五町)登美連の祖神を祭る。姓氏録云、登美連、饒速日命六世孫伊香色雄命之後也。旧事紀云、饒速日尊、遷座於鳥見白庭山、便娶長髄彦妹御炊屋姫、誕生宇麻志麻治。鳥見岡は登弥社より東南郡山城址に連接する山岡是なるべし、万葉集|茂岡《シゲヲカ》と云ふも同所か。
   紀朝臣鹿人、至大伴宿禰稲公跡見荘、作歌、
 射目たてて跡見の岳べのなでしこの花総た折り吾はもちいなむ寧楽為め、〔万葉集〕紀朝臣鹿人見茂崗松樹歌、茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の樹のとしの知らなく、〔同上〕
大和軍記云、松永久秀は志貴と多門の両城を掛持に被仕其間五里半計に小泉郡山龍の市の城あり、久秀は郡山の少北にカウノシマと申処の山につなぎの城を構へ押通され候、○按に大和軍記カウノシマと云は登美社の木島《コノシマ》なるべし地形合ふ。
 
矢田《ヤタ》郷 和名抄、添下郡矢田郷。今矢田村片桐村是なり、富小川の西に在り。続日本紀に養老七年始築矢田池とあるも此なるべし、和銅七年の条には登美箭田二郷と見ゆ、旧事紀に拠れば白庭邑と云へるも此地なるべし、白庭山別見す。
 八田の野の浅茅いろづく有乳《アラチ》山みねのあわ雪さむくふるらし、〔万葉集〕
略解云有乳山は越前なり、都近き矢田野の秋げしきを見て越路の山を思ひ出してよめる也。 
矢田《ヤタ》神社 延喜式、添下郡矢田坐久志玉比古神社二坐、今矢田村横山に在り。新抄格勅符、大同元年矢田神奉寄二戸。三代実録、貞観元年矢田久志玉比古神授位。神祇志料云、矢田神は今矢落明神と云、蓋矢田部氏の祖神櫛玉餞速日命及妃御炊屋媛なり。旧事紀天孫本紀云、櫛玉饒速日尊、稟天神御祖詔、乗天磐船、而天降坐於河内国河上※[口+孝]峰、則遷座於大倭国鳥見白庭山、便娶長髄彦妹御炊屋姫為妃、誕生宇麻志麻治命矣、未産之時、饒速日尊既神殞去坐矢、高皇産霊尊、使速※[風+包]命将上其神屍骸於天上斂竟矣、饒速日尊、以夢教於妻御炊屋姫云、神衣帯手貫三物、葬斂於登美白庭邑、以此為墓者也。
補【矢田神社】○神祇志料 矢田坐久志玉比古神社二座、今矢田村にあり、矢落明神と云ふ(神名帳考証・大和志)久志玉姫命を祀る(延喜式、参取本社伝記)蓋矢田部氏の祖神櫛玉餞速日命及妃三炊屋媛也(新撰姓氏録・日本書紀・旧事本紀)平城天皇大同元年大和地二戸を矢田神に寄し(新抄格勅符)清和天皇貞親元年正月甲申、従五位下矢田久志玉比古神に従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制並に大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ毎年三月八月午日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
八田寺《ヤタデラ》 矢田村の西、山中に在り、金剛山寺と称す、寛元四年款識の古鐘に矢田寺と見ゆ。殿堂古雅、天武天皇八年智通法師開基とぞ。〔県名勝志〕扶桑略記云、宝亀十年、弘耀法師為大僧都、弘耀住薬師寺、通論達経、決択去疑、送辞所帯、入矢田寺、修摂其心、帰乎遷寂。元亨釈書云、満米居和州金剛山寺、(八田寺)野諌議篁展弟子礼、亦不測人也、身列朝班、而神※[王+炎]宮、※[王+炎]王因篁延満米、受菩薩戒、米因請見地獄、往阿鼻城、地蔵菩薩代衆受苦、満米自陰府帰、招良工刻獄中地蔵相、安于寺、或曰米本名満慶、得※[王+炎]宮米改名。通は斉明帝朝に入唐し、玄奘窺基に就き学び、帰朝して大倭国に観音寺を開き僧正に任ず〔日本書紀僧綱補任元亨釈書〕観音寺は郡山町に其字を存す。
東明寺 金剛山寺の北八町に在り、寺伝に持統帝七年舎人親王建と云、鍋倉山と号す。〔名所図会県名勝志〕
 
松尾寺《マツノヲデラ》 金剛山寺の南十八町、大字山田に在り、養老二年憎永業建立、舎人親王の御願なり、寺後に親王の墓ありと云。〔名所図会〕大和志云、松尾寺、号補陀落山、有正堂三層塔僧院十区、延喜式曰、松尾寺料二千八百束、即此。
 
小泉《コイヅミ》 今|片桐《カタギリ》村と改称す、富小川の西畔、郡山を距ること一里、松尾寺を去ること廿四町、小駅なり。元和中片桐貞隆本地一万石を封ぜられ、陣屋を置きたり、維新に至るまで存す。小泉庚申堂は縁起詳ならず、賽者多し。
赤檮《イチヒ》墓 赤檮は迹見首《トミノオビト》にして、聖徳太子に随ひて物部守屋を射殺したり.其墓と伝ふる者小泉に在り、高約二丈周回二町許〔日本書紀県名勝志〕此地赤檮墓の外に山寺墓あり、誰たるを詳にせず、高約三丈周回三町許。〔県名勝志〕
補【小泉】添下郡○奈良県名勝志 秦川勝墓 片桐村大字小泉の西北に山の寺と称する小丘あり、高約三丈、周回三町許、伝へて秦川勝の墓とす、信否を知らず。
赤檮《イチヒ》墓 同村同大字にあり、高約二丈、周回二町許、姓は迹見、名は赤梼、厩戸皇子に随て物部守屋大連を射殺したるものなり。
 
村国《ムラクニ》郷 和名抄、添下郡村国郷。今郡山町筒井村にあたる如し、延喜式村国墓は郡山の南に在りと云。〔陵墓一隅抄〕
村国《ムラクニ》墓 延喜式、村国墓贈正一位安部命婦、在添下郡兆城東西四町南北五町。安部命婦は藤良継夫人、平城嵯峨二皇の外祖母也、或は云|新木《ニヒキ》の丸山是なりと、路傍にして(新木民家の西北、郡山城址の南)田中社の北四町に当る、信否詳ならず。 
新城《ニヒキ》 今郡山町大字|新木《ニヒキ》是なり。日本書紀云、神武天皇之時、層富県波※[口+多]丘岬、有|新城戸畔《ニヒキトベ》者、恃其勇力不肯来庭。この新城戸畔は当時此他の女酋なりし如し。
新城《ニヒキ》宮址 日本書紀云、天武天皇白鳳五年、将都新城而限内田薗者、不問公私、皆不耕悉荒、遂不都矣、十一年幸于新城。続日本紀云、光仁天皇宝亀五年、行幸新城宮。 
薬園《ヤクヲン》宮址 名勝地誌云、薬園八幡宮今郡山材木町に在り、此社初め市街の北に在り、即薬園宮の遺跡なりき(続日本紀云「孝謙天皇、天平勝宝元年十一月、大嘗於南薬園新宮」また東大寺要録云、(長徳四年注文)定諸荘田、薬園宮内田地十三町四段、存大和国添下郡。
 
大郡《オホコホリ》宮址 続日本紀、天平二十一年十月庚午、行幸河内国智識寺、丙子車駕還大郡宮、天平勝宝二年正月朔、天皇御大安殿受朝、是日車駕還大郡宮賜宴、又於薬園宮給饗焉、二月天皇従大郡宮移御薬師寺宮。大郡は添下の号なるべし、摂津国東生西成の二郡相并び其東生郡を大郡と号せる例なり。続紀に見ゆる孝謙帝の大郡宮は今其遺址を伝へねど、薬園宮と相接近したりとおもはれ、且郡山の名は即大都の郡家なるべければ之を此にかかぐと云のみ。
 
殖槻《ウヱツキ》 郡山町の中なるべし、神楽歌に「殖槻や田中の森」の句あり、田中村(今片桐村に合す)は郡山の西南に接す。名所図会云、郡山に殖槻八幡宮あり、傍に観音堂あり此を殖槻森と云。冠辞考云、万葉長歌に「春されば殖槻於《ウヱツキノヘ》の遠つ人待ちし下道ゆ登らして国見あそばむ」とあり、殖槻於は殖槻てふ所の山の上を云ふ。
 殖槻や田中のもりやもりやてふ、笠の浅茅が原に、(本)我を置きて二妻とるやとるなてふ、笠の浅茅が原に、(末)〔神楽歌〕
 
殖槻《ウヱツキ》寺址 郡山観音寺蓋是なり、僧正智通之を開く、天武朝の比なり。〔元亨釈書〕初例抄云、慶雲四年開維摩会於厩坂寺、講師観智也、新羅国僧、和銅中移于植槻寺、五年移于興福寺。(植一作※[木+而])今昔物語に大和固敷下郡殖槻寺とあるは、敷字添の誤なるべし。大和志云、和銅二年、釈浄蓮、修維摩会、于植槻道場。
 
郡山《コホリヤマ》 今郡山町と云ふ、生駒郡役所在り、天正中より当國の鎮城を此に置き大邑と為る。城墟は西部に倚り市街は其東に居る、戸数二千、殷賑奈良に亜ぐ、鉄道車駅あり、市民は多く綿布を織造す。
補【郡山】○奈良県名勝志 添下郡の東南部に在て、柳沢氏の旧城下たり、市街縦横、商況殷繁、戸数二千余、近来木綿を業とするもの多し、奈良に亜ぎて本州第二の都会たり。 
郡山城《コホリヤマノシロ》址 郡山城は内郭南北五町東西六町、石壁塁濠を以て区分して数塞と為す、外郭は南北十二町東西十五町、内郭を抱き外濠を繞らす、其北西南三周は士卒の宅址今皆荒敗す、東部のみ商工の家旧に依る、城西は一座の小丘北方に連亘す。
郡山城は小田切宮内少春次初て築くと云、〔大和志〕天正十三年豊臣秀吉舎弟秀長を大和紀伊和泉三州に封じ郡山に築き筒井城を毀たしむ、〔大和軍記〕秀長秀俊二世にして家絶え、文禄四年増田長盛に賜ふ、食禄二十万石。慶長五年関原戦後江戸の命を以て藤堂高虎之を収む、元和元年大坂兵起る伊賀国主筒井定次兵を以て郡山城を守る、大坂軍撃ちて郡山を略取す、既にして大坂敗れ水野日向守勝成功を以て本城を賜へり。爾後の交替は元和五年松平下総守清国、寛永十六年本多大内記政勝其子政長、延宝七年本多下野守忠泰(五代相続)享保九年柳沢甲斐守吉里以来世襲して明治の初に至る、封土十五万石。
   和州路上 頼山陽
 小市平横路幾叉、法隆寺遠接当麻、行人買酔和州路、満野東風黄菜花、
 菜の花の中に城あり郡やま、 其角
補【郡山城】○史料叢書 凡主人の罪に遭へる時、其家土籠城して天下の御敵になりたる事ついになし、但し慶長五庚子の年、和州郡山の城を増田右衛門尉長盛より渡辺勘兵衛と云者に預けおかれしに、江戸一統の後増田は奥州へ流罪也、城は藤堂和泉守高虎に請取可申様にとて郡山へ取かけらるる所に、勘兵衛申すは、右衛門尉手判を見申さずば渡し申間数と申に付、いそぎ大坂へ使をつかはし右衛門尉手判をとり勘兵衛に見するにより、無相違城を渡しけるなり。
補【郡山学校】○日本教育史資料 享保年中創立、総稽古所と称す、天保六年位置を転じ校舎を改造、尚総稽古所と唱ふ、初め城南字五左門坂に設立す、天保六年城坤字大織冠に移転す、享保九年故松平甲斐守吉里甲斐固より郡山城に移る、吉里夙に志を文武に寄せ、総稽古所を創立し、自ら率先となり、藩士をして両道を研磨せしむ、其後二世相承け、文化八年嫡子故甲斐守保泰世を嗣ぐや、保泰性質尤文武を嗜み、殊に儒学を尊崇す、天保六年総稽古所を便宜の地位に移し、之を新築改良し、且藩制を改革し、冗費を省き、藩主は勿論士卒に至るまで衣食住等の制度を設け、専ら奢侈の風を戒め、学費を増加し、藩士碩学なる藤井友作を儒官となし、自ら奮て学事を拡張す、明治二年版籍返上。
 
田中《タナカ》 郡山の西南十町許を田中村と云、(今片桐村に属す)田中社あり。古事記云、天津彦根命者、倭田中直等之祖也。古事記伝云、書紀舒明八年の所に田中宮とあるも、三代実録貞観七年大和国田中神とあるも同地なるべし高市郡か、田中村あり、又神楽歌に殖槻や田中の森とあるは添下郡なり。
 
筒井《ツツヰ》 郡山の南二十四町許、筒井村と云ふ。村中に筒井氏の墟、一古井あり。筒井氏は其先詳ならず、興福寺の盛なるや其寺役に服し、郡邑を略す。坊目遺考、春日勤番次第に乾氏大神姓添下郡十二万石居城筒井村とあり。永禄天正中筒井順慶武略あり松永久秀と争衡し後織田氏に属す。細川両家記云、永録十年松永方へ尾張の衆二万許相添大和へ手遣則筒井|平城《ヒラシロ》は被明退候なり、同く井出城に被懸あまた討取。或は云筒井順慶|布施《フセ》に新城を築く、今郡山に址存すと、天正十三年順慶の子定次伊賀国へ移封、後除封せらる。大和軍記云、先祖は近衛の家より出候由にて、順慶の親は順興と申候出家にて候、器量の人にて還俗、武威を振ひ添下郡筒井と云所に平城を築き、只今の六万石程の知行候、然る処松永殿筒井を可討覚悟にて法隆寺まで被打出候を、順慶も筒井より廿町計も西栴檀の森と申所まで被出向、先手は島左近松倉右近両人にて並松と申処まで互に掛向ひ軍始り、筒井敗軍直に字多郡秋山へ落候、其後順慶龍の市の井出十郎に心を合せ、松永彼城を取詰られ候処に、順慶は十市越智両人引具し、山伝に龍の市の東へ参られ、掛向合戟、松永敗軍。興福寺英俊法印日記、永正二年国衆大名の交名中に筒井良寂房唄腎と云人あり、又永正三年七月、法隆寺禅学両座喧嘩、両方諸勢雖出、筒井成敗而先引勢了、同年八月、京勢沢蔵軒西大寺辺陣替、秋篠宝来自焼、超昇等は※[口+愛]になる、郡山西京以下自焼、筒井井摩城城没落、当国大略武家知行也、十六日筒井自東山|内山《ウチヤマ》際出頭、北方一揆令蜂起了、依之京衆通路今日留了、古市山村以下惣以焼払。
菅田《スガタ》神社は筒井村に在り、延喜式比売神社是なり、姿池の側に在り。〔県名勝志〕筒井の東南八条字一夜松に延喜式菅田神社あり之に異なれど亦同類の祀なり、姓氏録云、菅田首、天之久斯麻比止都命之後也。
 をとめ子がすがたの池のはちす葉は心よげにも花さきにけり、〔堀川百首〕 師頼
補【筒井】○人名辞書 筒井順慶、姓は藤原氏、遠祖順快興福寺に属して筒井荘に居る、因て之を氏とす、順快の子順永、郡邑を蚕食し、始めて筒井に城く、子孫皆円順僧位を受く、而して干戈に従事す、足利氏の季世国乱る、順慶の祖順昭、土冦を平げ、地境を拓延して以て自ら封ず、父順政(一説に順慶は順昭の子と)其の後を承け、順政卒して順慶家を嗣ぎ六三郎と称す、初めの名は藤政或は藤勝と曰ふ、年猶幼なり、国人或は叛きて松永久秀に属す、永禄八年十二月筒井を去りて布施城に徙る、順慶胆略あり、郡邑を略す、織田信長久秀をして筒井を伐たしむ、久秀信長に叛く、順慶謀て兵を久秀が信貴城中に入れ、内外夾み攻む、久秀自殺す、信長大和を以て順慶を封ず。
補【菅田神社】○神紙志料 菅田比売神社二座、醍醐天皇延喜の制、祈年祭鍬靭の幣に預る(延喜式)
 按、古事記・姓氏録天津彦根命の裔、往々大和に住者あり、且下に菅田神社あるを思ふに、菅田比売は蓋菅田首の祖神天乃目一命の比売神を主として二座を祭れるならむ、然れど明徴なし、附て後考を俟つ
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平群《ヘグリ》郡 延喜式、和名抄、平群郡、訓倍久里。生駒谷《イコマダニ》及び富小川《トミノヲガハ》の末流辺を指す、今龍田村外九村に分れ明治廿九年生駒郡と改む。国郡沿革考云、平群は蓋古|層富《ソホ》の地に属せしなるべし、平群の名は始て景行天皇紀に出づ「幣遇利の山のしらかしが枝を」。天武天皇紀に倭国|飽波《アクナミ》郡とあるも此郡の初称か、抑又追書の誤れるか、和名抄、平群郡飽波郷あり。
 
額田《ヌカタ》郷 和名抄、平群郡額田郷、訓奴加多。今平端村本多村なり、大字|額田部《ヌカタベ》あり、東は山辺郡二階堂村に接し北は筒井村(旧添下郡)南に佐保川あり、古名熊凝と云ふ地是也。日本書紀云、千熊長彦者額田部槻本首等之始祖也。〔神功紀〕今本多村に大字|椎木《シキ》あり槻の訛か。又仁賢紀云、日鷹吉師還自高麗、献工匠須流枳奴流枳等、今倭国山辺郡額田邑|孰皮《カハシ》是其後也。書紀通証云、今山辺郡嘉幡村(今二階堂)西十町許有皮工邑、隣平群郡額田部村、孰熟本字。姓氏録云、大和諸蕃額田村主、出自呉国人天国(一作呉)古也。(福亮智蔵道慈の三僧は此郷人歟)
 
熊凝《クマノコリ》 日本書紀云、神功皇后撃忍熊王時、有熊之凝着、為忍熊汪軍之先鋒、注熊之凝者|葛野城《カドノキ》首之祖也。(今平端村大字|柏木《カシノキ》あり蓋葛野城の訛なり、佐保川に瀕す)、姓氏録云、熊凝朝臣、神饒速日命孫味瓊杵日命之後也。古熊凝寺と云者あり、今額安寺は其址なるべし。三代実録云、昔日聖徳太子、建平群郡熊凝道場、飛鳥岡本天皇(舒明)遷建十市郡百済川辺、号曰百済大寺。(熊凝精舎の事太子伝暦并に大安寺縁起にも見ゆ)
 
額安寺《ガクアンジ》 平端村大字額田部に在り、推古帝御宇上宮太子熊凝村に一精舎建てたまふ即是なり、玉林抄に、推古帝造立、薬師堂額安寺と云。〔名所図会〕大安寺伽藍縁起流記資財帳云、初飛鳥岡基宮御宇天皇(舒明)之未登極、号曰田村皇子、上宮皇子命謂田村皇子曰、愛哉善哉汝姪男、自来問吾病矣、故以熊凝寺付汝、大王及継治天下、歳次己亥春二月、於百済川側建。元亨釈書云、大安寺者、推古二十五年、太子豊聡、入定見来世皇運、出奏曰、季葉多艱、乞建寺鎮之、乃営熊凝精舎、舒明十一年移之百済河側。
大島嶺《オホシマノネ》 額田郷は平野の間に隆起して一丘を成す、万葉集、大島嶺と云は此か、或は立野の島山を大島と云ふにや、今詳ならず。
   近江大津宮御宇天皇賜鏡王女御歌
 妹が家もつぎて見ましを山跡なる大島嶺に家も有らましを、〔万葉集〕
略解云、鏡女王は額田女王の姉にて平群郡額田郷に同く住給へるなるべし、天智天皇近江へ遷ませし後も女王は大和に居給ひし故にかくは読給ふ、大島嶺も平群郡に在るべし。
 
飽波《アクナミ》郷 和名抄、平群郡飽波郷、訓阿久奈美。今の安堵《アンド》村なり、佐保川富小川其西南に相合す。日本書紀「天武天皇白鳳五年、倭国飽波郡言、雌鳥化雄」と、当時平群を飽汲の郡と云へる事有りしに似たり。東寺文書、正和三年、七条院領安堵荘。
 
飽波宮《アクナミノミヤ》址 飽波常楽寺あり、是れ宮址にあらずや。続日本紀、称徳天皇、神護景雲元年四月、幸飽浪宮。〔大安寺縁起云、聖徳太子、薨于飽浪宮〕、常楽寺《ジヤウラクジ》は安堵村の東安堵に在り、寺伝云、山背大兄王建立。
飽波安堵の北に高安《タカヤス》村あり、(今富郷村に属す)延喜式大野墓は高安の古墳是也と云、〔陵墓一隅抄〕大野墓、太皇太后之先大枝氏、在平群郡、兆城東西六町南北四町。(大技氏は桓武御母山城国大枝陵高野新笠の先なり)
 
富小川《トミノヲガハ》 生駒郡の北界、北倭村高山より発源し南流五里にして佐保川に合し、大和川(立田川)と為る。此川鳥見の地をすぐれば富小川と云ふ、又|斑鳩《イカルガ》を過ぐるを以て斑鳩寺を詠ずるに此水を援く事典故あり。
 斑鳩やとみの小川の流れこそ絶えぬ御法の始なりけり、〔新千載集〕いかるがや富の小川の絶えばこそ我大きみの御名を忘れめ、〔拾遺集〕
上宮聖徳法王帝説云、上宮薨時、巨勢三大夫歌、
 いかるがの止美のをがはのたえばこそわがおほきみのみなわすらえめ、
補【富緒川】○上宮聖徳法王帝説 「伊我留我乃止美能井乃美豆伊加奈久爾多義※[氏/一]麻之母乃止美乃井乃井能美豆」是歌者、膳夫人臥病将臨没時乞水、然聖王不許、遂夫人卒也、即聖王誅(誄歟)而詠是歌、即其証也、但銘文意、顕夫人卒日也、不注聖王薨年月也、云々、上宮薨時、巨勢三杖大夫歌、「伊加留我乃止美能乎何波乃多叡波許曽和何於保支美乃弥奈和須良叡米」美加弥乎須多婆佐美夜麻乃阿遅加気爾比止乃麻乎之志和何於保支美波母」伊加留我乃己能加支夜麻乃佐加留木乃蘇良奈留許等乎支美爾麻乎佐奈」〔夜摩郷、参照〕
 
夜摩《ヤマ》郷 和名抄、平群郡夜摩郷。今法隆寺村|富郷《トミガウ》村是なり。玉林抄に引ける法琳寺資財帳夜摩郷法琳寺とありて、法琳寺後世法輪寺と改め富郷村に在り、此郷は一に鵤《イカルガ》と云ふ。夜摩は旧称|山部《ヤマベ》にや西辺に山を負ふ。続日本紀云、「延暦四年詔、自今以後宜改避先帝御名朕之諱、於是改白髪部為真髪部、山部為山」と、山即二字に修せば夜摩なり。姓氏録云「大和皇別山公、内臣同祖、味内宿禰之後也」と。又東文氏の族に山口直ありて、氏族志云「応神帝時、阿智使主、率十七姓県人口帰化、分居諸国、雄略帝時、詔衆漢部、定其伴造賜姓曰直、以其居皇城東、故称東漠直、又倭漠直、阿智生都賀、都賀生三子、山木志努爾波伎、子孫分為数十氏、而志努之後坂上氏最著、〔参取日本書紀続日本紀令義解坂上系図〕文氏出自爾波伎、即東文氏也、初曰漢書直、孝徳帝時、有漢山口直大口、法隆寺二天像光背記、作山口大口費、即是人也」と見ゆるも此辺を故墟とするか、不審。
法王帝説の詠歌、巨勢三杖大夫が上宮薨去を傷む作に
多婆佐美《タバサミ》山|己能加支《コノカキ》山あり、法隆寺北に在る者なるべし、
 美加弥乎須多婆佐美夜摩乃阿遅加気爾比止乃麻乎之志和何於保支美波母、
 伊加留我乃己能加支夜麻乃佐可留木乃蘇良奈留許等乎支美爾麻乎佐奈、
竹林殿《タケハヤシドノ》址 春日神の影向所なり、大和志に今飽波郷安堵村に在りと云ふは此より彼郷へ転ぜしめたるか。春日権現記目録云、大和国平群郡夜摩郷に一霊地あり、竹林殿と号す、春日大明神御影向の所也、昔し右馬允藤原光弘、広瀬郡吉南殿といふ所に住けり、大和河の北の辺を見れば夜々光る所あり、貴女この所におはして子孫繁昌すべき所なりとの給、如何なる人何れの所より来給にかと光弘申ければ、
 我宿はみやこのみなみしかのすむ三笠の山のうき雲のみや
かくおほせられて見え給はず、光弘夢想によりて、天暦(村上)二年二月廿五日始めて土木をかまへて、天皇に奏聞して同年六月十六日より此処にすむ。法隆寺の南は大和川広瀬郡なり、吉南殿今詳ならず。
補【夜摩郷】○和名抄郡郷考 夜麻、春日験記大和国平群郡夜摩郷に一の霊地あり、竹林殿と号す、春日大明神の御影向の所なり。○名蹟幽考 引玉林抄云、法琳寺資財雑物録云、法琳寺東限法起寺界、南限鹿田池堤、北限氷室池堤、西限板垣峰、在平群郡夜摩郷、右寺斯奉為小治田宮御宇天皇御代、歳次壬午年、上宮太子起居不安、于時太子願平復、即男山背大兄王并由義王等始立此寺也、所以高橋朝臣預寺事者、膳三穂娘為太子妃矣、太子薨後以妣為檀越、今斯高橋朝臣等三穂娘之苗裔也、維于時延長六年歳次戊子、三百一十歳云々。 
岡本《ヲカモト》 今|富郷《トミサト》村大字三井の東に字存す、法起寺あり、此寺は霊異記に鵤村岡本尼寺とある者にして、法隆寺を太子伝暦に鵤僧寺と呼ぶに対せる称なり。
岡本宮址は今法起寺即是なり。日本書紀云、推古天皇十四年、皇太子講法華経於岡本宮。法王帝説云、太子起七寺、其一曰|池後《イケジリ》寺。
 
法起《ホフキ・ホツキ》寺《ジ》 法隆寺の東北凡十二町、(大日本仏教史は法隆寺資材帳を引き池後尼寺推古帝十五年建立す法起寺是也と)岡本池の南に在り、草堂一宇三層塔婆一基存す、即聖徳太子の宮址にして、其三重塔は太子造営当年の制を観る、(今時別保護を加へらる)法輪寺と同く法隆寺に属す。霊異記云、観音銅像反化鷺形示奇表縁第十七、大倭国平群郡鵤村岡本尼寺、観音銅像有十二体、昔少墾田宮御宇天皇世、上宮皇太子所住宮也、太子発誓願以宮成尼寺者也、聖武天皇世、彼銅像六体盗人所取、尋求无得、経数日月、平群駅西方有小池、夏六月、彼辺有牧牛童男等、見之、池中有聊木頭、頭上居鷺、指取牽上見、観音銅像、頼観音像、名菩薩池。
 池神の力士舞かも白鷺の桙くひもちてとびわたるらむ、〔万葉集〕
 
三井《ミヰ》 富郷村大字三井、法隆寺の北に接す、法王帝説に富の井の歌あり、蓋此地に泉あるを以て此名あり。法王帝説云、膳夫人(三穂姫)臥病而将臨歿、時乞水、然聖王不許、遂夫人卒也、即聖王誄而詠是歌、
 伊我留我乃止美乃井能美豆伊加奈久爾多義※[氏/一]麻之母刀止美乃井能美豆。
 
法輪寺《ホフリンジ》 古は法琳寺に作る、今真言宗東寺に依属し、法隆寺の北八町に三重塔及妙見堂存す是なり。山背大兄の創立、上宮妃謄三穂姫の御願なり、塔婆は当時の遺構とす。(今特別保護を加へらる、又百済国将来の木造観音一体を伝ふ)玉林抄云、法琳寺資財雑物録曰、法琳寺、東限法起寺界、南限鹿田池堤、北限氷室池堤、西限板垣峰、在平群郡夜摩郷、右寺斯奉為小治田宮御宇天皇御代、歳次壬午年、上宮太子起居不安、于時太子願平復、即男山背大兄王并由義王等始立此寺也、所以高橋朝臣預寺事者、膳三穂娘為太子妃矣、太子薨後以妣為檀越、今斯高橋朝臣等三穂娘之苗裔也。法隆寺目録抄云、当上宮王院北去十町許、有寺名三井寺、亦名法林寺、有金堂講堂大塔食堂、建立之様似法隆寺、推古天皇年中所建云、百済開法師円明法師下氷新物等三人合造此寺云々、奉為聖徳太子、山背大兄王建立云々、然則下氷新物者即大兄王歟。駒場は法論寺の東南二町に在り、岡野原とも称し、広大の古墳なり、土俗之を以て聖徳太子の騎乗烏斑を埋葬したる者と為し駒塚と呼ぶ、然れども太子伝補闕記に馬墓は中宮寺南に在りと為す、此古墳と相異なり。
補【法輪寺】〔付箋〕推古帝二十一年聖徳太子の御創立三十一年より三年間を以て七堂伽藍悉く成り、後世荒廃して今の姿となれり、三重塔は千二百年前建立の儘現有す。
三重塔 三層塔婆、本瓦葺、同宮郷村法輸寺境内。
 
斑鳩《イカルガ》 霊異記には鵤村に作る、即夜摩郷也、此雄略紀に初出し、聖徳太子宮室を此地に起し諸寺并建ありければ仏法興隆の聖地と為り、今に一千三百年天下無比の霊場とす。
 限りありし鶴の林のかたみをば留めて置けるいかるがの里、〔夫木集〕 殷富門院大輔因可《ヨルカ》池は法隆寺内の一池を云ふか、詳ならず。
 斑鳩の因可の池のよろしくも君を言はねば念ひぞ吾する、〔万葉集〕いかるがやよるかの池は氷れども富の小川ぞながれ絶せぬ、〔夫木集〕
 
斑鳩宮《イカルガノミヤ》址 日本書紀云、推古天皇九年、厩戸皇太子初興宮室于斑鳩、十四年天皇播磨国水田百町、施于皇太子、因以納于斑鳩寺。又云、皇極天皇二年、蘇我臣入鹿遺小徳巨勢徳太臣等、掩山背大兄王等斑鳩、王取馬骨投置内寝、逃出隠胆駒山、徳太臣等焼斑鳩宮、三輪文屋君従大兄王勧曰、請移向於|深草《フカクサ》屯倉、王不従、自山還入斑鳩寺、軍将等即以兵囲寺、王使謂之曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之、然由一身之故不欲傷残百姓、是以吾之一身賜於入鹿、終与子弟妃妾、一時自経倶死也、于時五色幡蓋種々伎楽照灼於空、臨垂於寺、衆人仰観称嘆、遂指示於入鹿、変為黒雲、由是入鹿不能得見。斑鳩宮は即法隆寺東院夢殿なりと云、又蘆垣宮あり、同異詳ならず。
蘆垣宮《アシガキノミヤ》址 蘆垣は聖徳太子崩御の宮殿にして、法隆寺古今目録抄に見ゆ、今法隆寺より巽方五六町許俗に神屋《カミヤ》と云ふ所是なり。〔名所図会〕按ずるに神屋は上宮の転訛なり、一説聖徳崩御は飽波宮とも云へり。
 
北岡《キタヲカ》墓 延喜式云、北岡墓、山背大兄王、在平群郡兆域三町南北二町。大和志云、北岡墓上、有寺、曰法積寺、四畔田丘五所。玉葉集に見ゆる太子御廟は北岡墓にあらずや、法隆寺の丑位に当り即北方なり。
   太子の御廟に詣でてよめる
 消にしをうしと許りは御墓山さきだつ雲の行衛しらせよ、〔玉葉集〕 花山院入道前右大臣
 
中宮寺《チユウグウジ》 法隆寺村に在り、法隆に属すと雖近代は斑鳩御所と称し、尼宮門跡の一に列し皇族女僧入寺したまへり。寺宝天寿国曼荼羅図〔刺繍掛軸一幅〕如意輪像〔木造一躯〕今国宝に登録せられたり。
天寿国曼荼羅は間人太后聖徳法王薨去の後、橘大女郎の志願に因り太后法王の為めに推古天皇勅して諸采女をして之を織らしめ玉ふ、令者画工の名は曼荼羅の題詞に見ゆ、又本寺の建立は推古天皇十五年、太子七寺の一なり、中宮尼寺と号す。〔法隆寺資財帳法王帝説〕古今目録抄云、中宮寺者、太子母穴穂部皇女之宮也、而新成寺名鵤尼寺、又裏書云、中宮寺者、葦垣宮岡本宮鵤宮三箇宮之中、故云中宮又云中宮寺、太子生年十六歳丁未、依母妃詔、御手寺塔刹柱立、斑鳩寺始造之。旧跡幽考云、中宮寺は文永年中河州西林寺日浄上人再興、又其後西大寺思円上人重修ありて尼僧を寺主とせらる、当院に天寿国曼荼羅ありて、荘厳微妙瑞応つねならず。考古学会雑誌云、天寿国曼荼羅は新古の二種あり、其古繍帳は今亡び、断片を舗綴して方三尺に満たざる一軸と為す、人物宮殿亀甲銘文等わづかに其旧様を観るべし、新曼陀羅は建治元年の模造なり、新曼荼羅(裏書あり)并に太子伝聖誉抄に拠るに、此繍帳は二帳にして黄紫の両絹各長一丈六尺とす、人物仏像鬼形等五六十、亀形百箇を繍ひ、又亀甲に各四字づつの銘文を繍ひ、当初は法隆寺の宝蔵に置かれたり、安置後六百五十余年(文永十一年)比丘尼信如中宮寺修造の願を発し、法隆寺に古曼陀羅二帳を得たり、即此繍帳なりき、信如其朽敗を傷み京師に詣り衆人を勧募し翌年模造の功を畢る、其銘文の点読者は花山院中納言藤原諸継と園城寺大僧都定円なりし事も新曼陀羅裏書に徴すべし。其亀甲銘文曰
 斯帰斯麻宮治天下天皇名阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等娶巷奇大臣伊奈米足尼女名吉多斯比弥乃弥己等為太后生名多至波奈等己比乃弥己等妹名等己弥居加斯支移比弥乃弥己等復娶太后弟名乎阿尼乃弥己等為后生名孔部間人公主斯帰斯麻天皇之子名※[くさがんむり/(豕+生)]奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等娶庶妹等己弥居加斯支移比弥乃弥己等為太后坐乎沙多宮治天下生名尾治王多至波奈等己比乃弥己等娶庶妹名孔部間人公主為太后坐涜辺宮治天下生名等己乃弥弥乃弥己等娶尾張大王之女多至波奈大女郎為后歳在辛巳十二月廿日発酉日入孔部間大女王崩明年二月廿二日甲戌夜半太子崩于時多至波奈大女郎悲哀嘆息白畏天皇前曰顧之雖恐懐心難止使我大王与母王如期従遊痛酷無比我大王所告世間虚仮唯仏是真玩味其法謂我大王応生於天寿国之中而彼国之形眼所難看※[りっしんべん+希]因図像欲覩大王往生之状天皇聞之悽然告白有一我子所啓誠以為然勅諸采女等造繍帳二帳画者東漢末賢高麗加西溢又漢奴加己利令者椋部蓁久麻
  右在法隆寺蔵、繍帳二帳縫著亀背上文字者也、更々不知者云.天寿国者猶云天耳。〔法王帝説〕
長大墓《ナガノオホハカ》 上宮太子伝輔闕記云、庚午四十七年四月卅日、夜半有災斑鳩寺、太子馬其毛烏斑、太子馭之凌空※[足+(攝-手偏)]雲、能※[食+芳]四足、東登|輔時《フジ》岳、三日而還、北遊|高志《コシ》之州、二日而還、太子欲臨看之地、此馬奉駕、辛巳四十八年十二月廿二日斃、太子愴之、造墓葬墓、今中宮寺南、長大墓是也。補闕記の干支紀年疑はし、又長大墓は今土俗駒塚と云者と同異詳ならず。
補【中宮寺】○上宮聖徳法皇帝説 太子起七寺、四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺(并彼宮賜川勝秦公)池尻寺、葛木寺(賜葛木臣)戊午年四月十五日小治田天皇請上宮王、令講勝鬘経、其儀如僧也、諸王公主及臣連公民信受無不嘉也、三箇日之内講説訖也。云云、明年二月廿二日甲戌夜半、太子崩、于時多至波奈大女郎悲哀嘆息白、畏天(皇前曰、啓)之雖恐、懐心難止、使我大王与母王如期従遊、痛酷無比、我大王所告、世間虚仮、唯仏是真、玩味其法、謂、我大王応生於天寿国之中、而彼国之形、眼所難看、※[りっしんべん+希]因図像、欲観大王往生之状、天皇聞之、悽然一告曰、有一我子所啓、誠以為然、勅諸采女等、造繍帷二帳、画者東漢末賢高麗加西溢、又漠奴己利、令者椋部蓁久麻、
 右在法隆寺蔵繍帳二張縫著亀背上文字也、更々不知者云々、
(天寿国者猶云天耳、天皇聞之者又小治田天皇也)○人名辞書 太子建る所の寺を四天王、法隆、中宮、橘樹、蜂岡、池尻、葛城、元興、日向、定林、法興と曰ふ、著はす所、勝鬘、維摩、法華経疏あり、号して上宮疎と曰ふ、皆な深義を得と云、
天寿国曼荼羅図刺繍掛幅一幅、如意輪観音木造半※[足+加]像一躯、○尼宮、斑鳩御所。補【長大墓】○上宮聖徳太子伝補闕記 庚午〔四十七〕年四月卅日夜半、有災斑鳩寺、太子謂夫人膳大郎女曰、汝我意触事不違、吾得汝者我之幸大、思群臣預知而召之、一事已上、太子所念、咸預識之、加太子馬其毛烏斑、太子馭之、凌空※[足+其]雲、能餝四足、東登輔時岳、三日而還、北遊高志之州、二日而還、太子欲臨看之地、此馬奉駕、三四五六日、莫処不詣、云々、辛巳(四十八)年十二月廿二日先太子愴之、造墓葬墓、今中宮寺南長大墓是也。
 
法隆寺《ホフリユウジ》 斑鳩寺是なり、推古天皇十五年建立、或は伊河留我|本寺《ホンジ》〔法隆寺資財帳〕鵤僧寺《イカルガソウジ》〔太子伝暦〕に作る。聖徳太子山背大兄王一族薨去の跡なるを以て現身往生所寺とも云。〔太子伝通要〕本寺は天智帝八年九年連に災あり、一屋を余さざりしが、元明天皇和銅年中興復設斎あり、〔日本書紀続紀〕蓋智蔵法師(熊凝福亮の子也其徒額田道慈亦名僧たり)在住の日にして再興は其力ならん、智歳三論宗を主張し其徒弟に及び法相を兼学せり、故に本寺は今に法相宗大本山たり。(三論は後世亡ぶ)寺域凡二万三千歩、大小の建築之に満つ、中にも金堂五重塔中門は元明朝再興の者にして、雄大絶倫と称す。本寺は其建築に於て推古朝の典型を遺し、法宝に於ては隋唐三韓の光明を伝ふ、識者推重して止む能はざる所也。近年寺門衰弊、頗維持に苦みしも、王室及び政府の保護種々なれば、富の小川の法水げに絶えずして永く後世に流れんかし。好古叢志云、天智紀八年の条に「是冬、災斑鳩寺」と見え、九年には「夏四月壬申、夜半之後、災法隆寺、一屋無余」と見ゆれば今存在の伽藍は推古朝の旧物にあらず、古今目録抄に金堂内の壁画を指して「此堂内壁、有四仏浄土絵、鳥云絵師画之」とあれど天智朝に焼失せば鳥仏師(推古朝の人)画けるには非ず、七大寺年表に「法隆寺、和銅元年、依詔作」とあり、又以呂波字類抄に「法隆寺、七大寺内、和銅年中建立」と載せ、続紀、元明天皇和銅八年六月、設斎於弘福法隆二寺とも見ゆ。南大門 正門なり、永享十一年再建す、中門の南百聞許に在り。
中門 四間二戸の楼門制なり、楼上に孝謙帝勅願と称する百万塔数百基を置く、左右金剛密迹の二像は塑造彩色、形貌太奇偉なり。中門は廻廊と接続し、鐘楼鼓楼講堂と相連り方形を為す、其中庭に金堂大塔相并ぶ、故に俗言に中門は口、鐘鼓楼は双耳、講堂は髻、金堂大塔は両眼の如し、廻廊は其輪廓を為すと曰ふ、此一構即本寺の中院なり。
金堂 中庭東方に位置す、五間四方重層にして裳階あり、(屋根入母屋本瓦葺)今尺高五丈八尺五寸東西十二間四尺南北十一間、石灰壇の上に建つ、形状最壮麗なり。堂内は外陣壁上十二間に四仏浄土図及菩薩諸像を絵画す、又貫木の壁には羅漢像天井の板には蓮花を描写す、今剥削の余と雖五彩燦乎たり。また内陣土壇の本尊釈迦如来金銅坐像、(長二尺八寸七分)脇士薬王薬上金銅立像、(各長二尺七寸)本尊背に銘を勒す、造仏の所由を記す、法王帝説云、
 法興元世一年歳次辛巳十二月鬼前大后崩明年正月廿二日上宮法王枕病弗※[余/心]于食王后仍以労疾並著於床時王后王子等及与国臣深懐愁毒共相発願仰依三宝当造釈像尺寸王身蒙此額力転病延寿安住世間若是定業以背世者往登浄土早昇妙果二月廿一日癸酉王后即世翌日法王登※[しんにょう+(瑕−王)]癸未年三月中如願敬造釈迦尊像并挟侍及荘厳具竟乗斯微福信道知識現在安穏出生入死随奉三主紹隆三宝遂共彼岸普遍六道法界含識得脱苦縁同趣菩提使司馬鞍首止利仏師造
 右法隆寺金堂坐釈迦仏光後銘文如件、今私云、是正面中台仏云々、
 同書釈曰、法興元世一年、此能不知也、但案帝紀云、小治田天皇之世、東宮厩戸豊聡耳命、大臣宗我馬子宿禰、共平章而建立三宝、始興大寺、故曰法興元世也、此即銘云法興元世一年也、後見人若可疑年号、此不然也、然則言一年字、其意難見、然所見者、聖王母穴太部王薨逝辛巳年者、即小治田天皇御世、故即指其年、故云一年、其無異趣、鬼前大后者、即聖王母穴太部間人王也、云鬼前者此神也、何故言神前皇后者、此皇后同母弟長谷部天皇、石寸神前宮治天下、若疑其姉穴太部王、即其宮坐、故称神前皇后也。(法輿元は三字建元にて世一は三十一なり即推古帝二十九年也と知るべし)
東壇仏は本尊薬師如来、金銅坐像、脇士日光月光、金銅立像なり、其背に本寺造立の縁起を刻す、
 池辺大宮治天下天皇大御身労賜時歳次丙午年召於大王天皇与太子而誓願賜我大御病大平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然当時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉
  法王帝説云、右法隆寺金堂坐薬師像光後銘文、師寺造始緑由也、今私云東壇仏也、
按ずるに池辺宮天皇は用明帝、小治田宮天皇は推古帝也、聖徳太子は用明第一男にして丁卯は即推古十五年にあたる、本寺創建の歳次也、古今目録抄に拠れば薬師は金堂最初の本尊と曰へり、即是也。西壇は本尊弥陀座像、脇士観音勢至とす、此金銅の三尊は元明帝の本願なりしを中世盗に遇ひ貞永元年再造したる者とぞ。又土壇の四隅に天王の像あり、製作全く諸本尊に同じ、然れども其一体西方天の銘に「山口大口費上而次木開二人作也」とあれば.孝徳「白雉元年、是歳漢山口直大口、奉詔刻千仏像」と云に参考して当時の造立なりしを知る。此他壇上に吉祥天多聞天観音等数躯あり。古京遺文云、
  観世音菩薩造像記、
 歳次丙寅年正月生十八日記高屋大夫為分韓婦夫人名麻古顛南无頂礼作奏也
  右金銅二臂如意輪像、蔵在大和国法隆寺綱封庫、記在其座下、按丙寅推古天皇十四年也、正月生十八日、謂正月月始見之後第十八日也、当時未用暦日、非因月之明晦、英知毎月之更改、故以月初見於西方為朔、訓朔為月立者以是故也、猶尚書哉生明、其復雖行暦法、無辺鄙猶認月見数日、故天智天皇十年十一月紀、対馬国司上言云、月生二日、是足以見古時素模之風也、高屋大夫名諱今不可知、凡金石文之伝于今日者、不有先於是者、両前人所未見、余客歳(文化中)西遊始得遇之、亦何幸耶。
金堂には壇上又二箇の厨子あり、一は玉虫《タマムシ》厨子と称し、一は橘夫人念持厨子と伝ふ、共に古雅の造巧に成り往代の規模形式を遺せる宝龕とす。○考古学会雑誌云、凡法隆寺の建築は彼の金堂塔婆中門の三宇が相并びて※[にんべん+厳]存し、吾人推論して之を推古式と名づくと雖、亦確然たる憑拠に乏し、此際別に玉虫厨子の在るありて吾人の判断を確実ならしむ。厨子は台座広さ四尺五寸高一尺、須弥座高三尺一寸、其上に宮殿を置く、殿の高さ屋上の鴟尾まで三尺六寸とす、古今目録抄に「推古天皇御厨子、腰細也、以玉虫羽以銅彫透、唐草下臥之」と、諸家考証して推古帝の朝百済工人の所造と為す、今其宮殿の手法を按ずるに殆ど金堂塔婆の諸宇と相符合し、一見して当代建築の模型に接する思あり、洵に天下無比の貴宝たり、斯製作は百済人の手に成りしこと明白にして、毫も本邦上古伝来の芸術に関与する所なし、又其掻飾の著しく西域乃至希臘の趣味を含有せることをも観察し得べし。橘夫人三千代厨子は古今目録抄に「厨子、黒漆須弥座、光明皇后之母橘夫人所造也、内在弥陀三尊、以金銅敷地、作波文、中生蓮花三本」と見ゆ、其屋蓋今逸失し、古作の天蓋を以て之に充つ。
五重塔 金堂と相并び其西に時つ、高十一丈五尺方四丈八尺九寸、現身往生所《ゲンシンワウジヤウシヨ》寺と称し山背大兄王一族同時に此に薨去ありと伝ふ。塔内須弥山を造り諸仏菩薩羅漢を配置す、其製奇古なり、俗に泣仏と称し日本支那天竺三国の土を将て塑型すと云。補闕伝記大兄王の惨禍を記して曰く、癸卯年十小月十一日、宗我大臣発悪逆、太子子孫男女廿三王、同被害、初山代王等皆入山中、経六箇日、入斑鳩寺塔内、立大誓願曰、吾暗三明之智、未識因果之理、然以仏言推之、吾等宿業于今可賽、吾捨五濁之身、施八逆之臣、願魂遊蒼旻之上、陰入于浄土之蓮、フ香炉大誓、香気郁烈、上通雲天上、三道現種々仙人之形、種々伎楽之形、種々天女之形、種々六畜之形、向西飛去、光明※[火+玄]燿、天華零散、音楽妙響、時人仰看、遙加敬礼、当是時諸王共絶、諸人皆歎未曾有曰、王等霊魂天人迎去而滅、賊臣等、目唯看黒雲微雷掩于寺上。扶桑略記云、蘇我入鹿、積悪年深、皇極天皇四年六月、召入鹿入大極殿、中大兄皇子、以剣撃入鹿肩、入鹿□□□、中大兄皇子奏之、入鹿尽皇子将傾天、意指殺山背大兄王等事也、遂令誅入鹿、是日中大兄皇子、即入法隆寺、為城而備、爰大臣蝦夷大怒、焼天皇記并国記珍宝等自殺、堕大鬼道、蘇我門家一旦残滅矣。好古叢志云、法隆寺塔婆内の塑像は古書に※[土+(攝-手偏)]と曰ふ、蓋和銅年中の製にて今百余個あり、大は三尺二寸より小は六七寸とす、本寺資材帳云、塔本肆面具※[土+(攝-手偏)]、一具涅槃像土、一具弥勒仏像土、一具唯摩請像土、一具分舎利土、右和銅四年歳次辛亥寺遺者。(字鏡集※[土+(攝-手偏)]モタヒ)太子伝私記云、塔者五層塔婆也、又在裳階、板也、毎層四面皆板、書景勝所説四種龍王之名、外陣連子、内陣壁也、其内、南面弥勒曼荼羅、脇士在、法薗林大妙相二王二天等眷属一々御坐、西面釈迦之荼毘所、即金棺上積木出炎、(中略)北面菩薩像、涅槃像、皆悲愍相、東面浄名文殊不二法門之所、惣此塔者現身往生御塔云也、太子御入滅後、廿二年十二月十六日朝、廿五人諸王子等一時飛行西方、故云、此塔心柱本、仏舎利六粒鬚髪六毛納籠、表利六道衆生之相、即塔内作地獄衆生等形給、(以上)さて此像は大小取々にて後世の補欠ありて、元禄年中に瓦師して其欠損を補ふたることあり、其後も補へり、其諸像の中に国王大臣在家衆などと云ふ者は、天竺の衣冠風俗にあらずして、本朝の古風俗を徴すべき者のごとし。講堂 東西十三丈四尺南北七丈七尺、延長年間旧堂雷火し正暦元年山城国法性寺普明院を移す、今堂是なりとぞ、東西の鐘鼓楼も其比の改造か。上之堂《カミノダウ》は講堂の北に孤立す、舎人親王本願、旧堂傾倒、慶長元年改造す。〔京華要誌〕
西円堂《サイヱンダウ》 俗に峰薬師《ミネノヤクシ》と称す、西方の丘上に在り、橘夫人(聖徳太子妃にや又光明皇后の母にや)本願と称す、本尊薬師如来(長八尺)十二神将(各長二尺五寸)仏師運慶作と云ふ。
聖霊《シヤウリヤウ》院 中院の東に接す、聖徳太子の影殿なり、本尊三十五歳坐像(長二尺七寸)脇侍山背大兄王殖栗王子茨田王子恵慈法師等なり。〔京華要誌、保元二年建〕綱封倉は聖霊院の東に在り、校倉造一棟、本寺の宝庫なり、太子の遺物を主と為し数十点の法宝を納る、稀世の珍品あり。食堂は聖霊院の東に接す、本尊薬師如来以下数多の塑像あり。
補【法隆寺】
○京華要誌 法隆寺は実に二千二百余年前の古刺に係り、我国最旧最大なる仏法の霊場なり。
南大門 永享十一年再建(京華要誌)
中門 南大門より入りて正北に進み中門に至る、創立のまま存在せるものにて、二重屋根なり、建築古風にして一種特色あり、建築学者の模範とするものなり、楼上に孝謙帝勅願の百万塔あり、今尚ほ数千基を残す、楼下左右に赤黒の金剛密迹二力士の立像を安ず、泥像にして鳥仏師の作と云ふ、相貌雄偉、眼光烱々として生けるが如し。〔付箋〕四門二戸、梁間三間、本瓦葺。
金堂 中門の内第一位にあり、創立の儘有せり、二重閣にして瓦葺なり、高五丈八尺五寸、東西十二間四尺八寸、南北拾一間、塗灰壇の上に建築せり、結構素朴にして屋形の奇趣ある、後世建築中に見ざるものにして、又建築家の嘖々する所なり、内部は分て内陣外陣とせり、内陣に著名なる壁画あり、四仏浄土の景及び菩薩の立像を画き、別に貫木の壁には羅漢、天井裏板には蓮花を画く、五彩燦然として人目を驚かす、本尊は金銅釈迦如来の坐像にして長二尺八寸七分、脇士は金銅薬王薬上二尊、長各二尺七寸、共々鳥仏師の鋳造に係り、本尊の後背に銘あり、法興元世一年歳次辛巳云々と、東の間の本尊は金銅薬師仏にて、脇士は日光月光なり、高鳥仏の作にして、当時彫刻の風を窺ふべきものなり、薬師仏の後背に銘あり、此仏像及び法隆寺建立の由来を記せり、西の間の本尊阿弥陀の旧仏体は鳥仏師なりしが、盗難にて紛失し、現今の分は大仏師康勝の作にて、脇士は観音勢至なり、又堂内には玉虫の厨子あり、密陀絵精妙の称あり。〔付箋〕五間四方、重層、裳階あり、屋根入母屋、本瓦葺。
五重の塔 金堂の西に吃立し、創立の儘に保存せらる、高十一丈五尺、方八間九寸、和銅年間大修理をなし、後元禄九年徳川桂昌院又大修理を加へしものなり、金堂中門等と同じく建築学上著名のものなり、塔の内面には日本支那天竺三国の土を以て作りたる須弥山ありて、其内に文殊菩薩、維摩居士、弥勒菩薩、釈迦如来、涅槃化菩薩、羅漢等五十余体を安ず、皆鳥仏師の作にして甚だ奇観たり、此塔は現身往生の塔と名づけ、皇極帝二年十一月山背大兄皇子蘇我臣入鹿に攻められし時、一族妻子と共に縊して薨じ給ひし所なりと伝ふ。
大講堂 金堂の後北にあり、高五丈一尺、東西二十二間二尺、南北十二間五尺三寸にして、旧来の建物は延長年間雷火に依りて焼失し、現今のものは正暦元年山城国法性寺内普明寺の本堂を移し建てたるものなりと云。
上の堂 廻廊の外北方の山腰にあり、高四丈五尺、東西拾五間、南北七間半、舎人親王本願を以て建立せしものにて、其御堂は大風に依り顛倒せしが、慶長元年之を再建せり。
西円堂 上の堂の西方小丘上にある一奇堂にして、高四丈二尺、方九間四尺六寸あり、光明皇后の生母橘夫人の本願にて養老二年建立せしものに係り、千余年の建物なり、本尊薬師如来像、長八尺、行基菩薩の作にて、十二神将十二躯、高各々二尺五寸余、大仏師運慶の作に係り、何れも巧妙を極む。
聖霊院 高三丈六尺、東西八間五尺五寸、南北十六間五尺、保元二年の建立に係り、本尊は聖徳太子三十五歳の真像にして自作、長二尺七寸五分の座像なり、脇士は山背大兄皇子、殖栗茨田皇子、恵慈法師の座像なり、皆鳥仏師の作と伝ふ、別に百済の聖明王献ずる所の如意輪観音あり、また名作なり。
綱封倉 聖霊院の東にあり、校倉造にして高三丈三尺、東西六間半余、南北十五間余、当寺の宝物倉にして、其内部には和漢稀世の古仏数千体、用明帝、推古帝及び聖徳太子等の御遺物を始めとして、其他関係ある皇族諸臣の遺物も数百点累々堆を作す。
食堂 聖霊院の東北にあり、高二丈一尺、東西十二間五尺余、南北六間三尺、創立のままなりと云ふ、本尊薬師如来の座像及び脇士、日光月光の二休、梵天帝釈二体、四天王四体は何づれも和漢竺三国の土を以て鳥仏師作りしもの、塑像にして絶世の名作なり。
新堂 高一丈八寸、方四間一尺余、もと境内華園地にありし古建物を弘安十一年今の地に移せりと云。
 釈迦如来金銅坐像一躯(止利作)
 同脇士金銅立像二躯(止利作)
 薬師如来金銅坐像一躯(止利作)
 同脇士金銅立像二躯(止利作)
 観世音菩薩木造立像一躯
 四天王木造立像四躯  行法堂か
 阿弥陀三尊金銅坐像三躯  金堂か
 観世音菩薩乾漆立像一躯
 橘夫人念持仏厨子一基、玉虫厨子一基
 蓮花図絹本着色二曲屏風一双(巨勢金岡筆)
 九面観音木造立像一躯(聖徳太子作)
 観世音菩薩木造立像一躯
 行信僧都乾漆坐像一躯
 
夢殿《ユメドノ》 東院又は上宮王院と称す、中院の東四町許に在り。八角円堂(高三丈九尺径五丈六尺)上宮太子在世の日入定の室址にして、夢殿と号す、蓋斎殿の謂乎、扶桑略記云、太子在斑鳩宮、入夢殿内、此殿在寝殿之側、一月三度沐浴而入、明旦談海表雑事、及諸経疏。本尊十一面観音、(木像六尺五寸)又行信僧都道詮律師の二像あり、本殿は天平年中行信造立なるべし、今中院の金堂大塔中門と同く政府特別保護を加ふ。夢殿の前にあたり礼堂あり、側に舎利殿あり、本尊正観音立像(寺伝止利仏師作長二尺九寸)俗に夢違仏と曰ふ妙好の相を具ふ、五間の障子に太子絵伝を描写す、旧画は延久三年摂津国大波郷人秦致真の作なりしを、天明中吉村光貞模写したり。(旧画は今御府に帰す)伝法堂は夢殿の背に在り古仏像多し、中にも木造四天王は最著る。
   五言、扈従聖徳宮寺一首、時高野天皇在祚、 淡海三船
 南岳留禅影、東州現応身、経生名不滅、歴世道弥新、尋智開明智、求仁得至仁、垂文伝正法、照武掃凶臣、茂実流千載、英声暢九※[土+艮]、我皇欽仏果、廻駕問芳因、宝地香花積、釣天梵楽陳、方知聖与聖、玄徳永相隣、(法隆寺蔵古簡有此一篇)
   扶桑略記云、治安三年、前大相国(道長)御法隆寺、先覧東院、是聖徳太子夢殿也、覧種々宝物、有御歌、
 王の御名をばきけどまだも見ぬ夢殿までにいかできつらん、
  弘安元年、法隆寺宝物和歌 霊山定円
 鷲の山法のこころをいかにしてしるしそめけむいかるがの宮、(法花経義疏御章本)すかしなす仏のいますかざりまでさぞ玉虫のひかりますらむ、(玉虫厨子)此寺のさかえを見ればうづみ置くくらひうくべきよははるかなり、(伏蔵)秋の霜さえたる上に夜の星 七の光をならべてぞ見る、(七星御大刃)
   法隆寺開帳、南無仏の太子を拝す
 お袴のはずれなつかしべにの花、 千那
   法隆寺にて
 二王にもよりそふ葛のしげりかな、 園女
   法隆寺の仏像を、天王寺に拝みて
                契沖
 いかるがの宮は昔の軒の草おひこそかはれ人の心に、
補【夢殿】○京華要誌 法隆寺東院夢殿 一に上宮王院と称す、八角形にして高三丈九尺、方九間二尺、創立のまま存在せり、聖徳太子在世の日、常に入定し給ひし浄殿なり、因て夢殿と云ふ、本尊十一面観音は木作金色にして、長六尺五寸あり、希世の名作なり、前立の正観音及び行信僧都座像、道詮律師座像は何れも名作なり。
礼堂 夢殿の前面にあり、高三丈、東西十間四尺、南北八間余。
舎利殿・絵殿 舎利殿と同一棟にして東は舎利殿、西は絵殿なりとす、高三丈、東西十三間半、南北七間余あり、礼殿と共に天平創立の儘存在せり、舎利殿の本尊は釈尊、左眼は仏舎利にして、太子二歳の時東方に向ひ南無仏と称し、手中より墜したるものなりと伝ふ、殿内に土佐光信筆の画障子あり、又太子二歳の立像あり、徳治年中仏師丹好作る所なり、絵殿の本尊は金堂正観音立像、長二尺九寸、鳥仏師の作にて、俗に夢違の観音と云ふ、※[土+素]造聖徳太子七歳の座像及び木造長三尺の正観音立像と共に名作なり、殿内に太子入胎の時より薨去の後まで一代のことを記せる絵を五間の障子に画けり、旧画は延久三年五月摂津国大波郷の人秦致真の筆に成れるものにて、非常の名画なるより、曾て之をはぎ貯へしを、先年宮内省に献納し、現今の画は天明中吉村法限周圭光貞の写せるものにて、また凡作にあらず。〔付箋〕八角円堂、単層、本瓦葺。
 
生駒川《イコマガハ》 北生駒《キタイコマ》村より発源し、生駒山下を県て平群谷《ヘグリダニ》(今明治村)を過ぎ、龍田村を貫き、佐保広瀬の諸水に会し大和川と為る、長四里許。龍田には之を龍田川と云ふ。生駒谷は南北の二村に分る。
 
生駒山《イコマヤマ》 北生駒村の西に聳ゆ、大和河内の国界を為し頂点抜海六四〇米突、山路を辻子《ツジ》越と曰ふ、宝山寺より河内の芝村興法寺に通ず、辻子越の南に暗峠《クラガリタウゲ》あり河内枚岡へ出づ、(河内国草香参看)辻子越の北に又別路あり善根寺越と云ふ河内|日下《クサカ》へ出づ古の孔舎衙坂此なり、
 久かたの雲井に見えし生駒山春はかすみのふもとなりけり、〔新勅撰集〕 後京棲摂政前太政大臣
万葉集仙覚抄に云、昔百済固より馬をこの国へ献りたり、それを秦氏の先祖よくのれりけり、さて帝これをいみじきものにせさせ給ひて、うまと云こと定り始て、いこま山に放てかはしめ玉ひけり。○按に古事記応神帝の時、百済国主照古王牡馬牝馬各一疋を阿知吉師に附して貢上したる事を載す、其時の放飼の故事によりて駒山の名起るか、伊駒の伊は発語を冠らせたる者に似たり。古名は孔舎衙山にや不審。
孔舎衙坂《クサカノサカ》 日本書紀、神武天皇、欲東踰胆駒山而入中洲、時長髄彦聞之、※[ぎょうにんべん+(激-さんずいへん)]之於孔舎衞坂。按ずるに神武帝浪速より草香津に次し生駒を踰えたまふ、草香今|日根市《ヒネイチ》村大字|日下《クサカ》是也、然らば孔舎衞は孔舎衙の誤なるべく、其故道も今|善根寺《ゼンコンジ》の北路にて、草香山の直越《タダゴエ》是なり、旧説多く生駒南路暗峠に充てたるは精からず。
 妹がりと馬に鞍おき射駒山うち越くればもみぢちりつつ、〔万葉集〕
 
宝山寺《ハウサンジ》 生駒山絶巓の東北十町、山腹(四五米突)巨岩暴露の処に在り、石状瑰醜を極む、殿堂亦観るべし般若窟と称す。古は修験道者の行場なりしが、延宝六年湛海比丘遠近に勧募して造営を為す、山下を菜畑《ナバタケ》と云ふ、北生駒の首村なり。 
往馬《イコマ》神社 宝山寺の下生駒川の畔に在り、南生駒村大字一分に属す、延喜式往馬坐伊古麻都比古神社二座是なり、生駒谷の氏神にして往馬彦往馬姫を祭る。神祇志料云、胆駒神は天平二年神戸稲租二百三拾余束を無料及び雑用に充て、〔東大寺正倉院文書〕平城天皇大同元年神封三戸を寄し〔新抄格勅符〕清和天皇貞観元年正月従五位下往馬坐伊古麻都比古神に従五位上を授く、〔三代実録〕醍醐天皇延喜の制二座并に大社に列り祈年月次新嘗の案上官幣に預り其一座は又祈雨の幣に預る、〔延喜式〕凡大嘗祭胆駒杜の神都をして火鑚木を奉らしむ〔北山抄〕卜部氏又此神を祭て亀卜|火燧木《ヒキリキ》神と云、延喜式年中御卜料波々迦木は大和有封の社に仰せられ之を採進む、本社火燧木を奉る者或は波々迦木と云ふ。
補【往馬神社】○神紙志料 伊古麻山口神社
 按、臨時祭式伊古麻を胆駒に作る
今櫟原村にあり(大和志・名所図会)清和天皇貞親元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け、九月庚申雨風の御祈の為に幣を奉りき(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る(延喜式)一条天皇正暦五年四月戊申、中臣氏人を宣命使として疾疫放火の事を祈らしめき(本朝世紀、参取日本紀略)
 按、本朝世紀胆駒に作る時は往馬の社か、又本社を指して云るか詳かならず、今姑く此に附く。
 
鬼取山《オニトリサン》 生駒山の一峰なり今南生駒村、大字鬼取と曰ふ、鶴林寺あり拾芥抄に役小角の開基、儀学儀賢の二鬼をを呪縛したりと云古跡なり。竹林寺あり行基菩薩の埋葬所と曰ふ、竹林寺の太鼓近年まで大坂城の鼓楼に在りし由、金城見聞録に見ゆ。
 生駒《イコマ》山大聖竹林寺、太鼓張之記録、古伝聞、迦葉打鼓則阿難立舞、上宮吹笛則山神出遊、(中略)筒則、生駒山之霊木、而梓則竹林寺之貴木、彼山者是海公大師之聖跡、此寺行基菩薩宿樹也、(中略)正安二年歳次壬寅、(中略)奉張直大聖竹林寺御堂 太鼓、(中略)御願本尊大聖文殊、(中略)寛正三辛巳年、(鼓銘一節)
 
暗峠《クラガリタウゲ》 南生駒村に属し河内枚岡に越ゆ、近代奈良大坂の通路は専ら之に由りしを以て其名著る、或は暗嶺《クラガネ》越と曰ふ。
   重陽くらがり峠にて
 菊の香にくらがりのぼる節句かな、 芭蕉
 
平群《ヘグリ》郷 和名抄、平群郡平群郷、訓倍久里。今南生駒村北生駒村明治村是なり。明治村は旧平群谷と称し、生駒谷と相分れ亦山中一境を成せる地なり。大和志云、平群山、上方数峰、平斉成群、因名。古事記伝云、大和志平斉成群とは仮字を知らざるひが言也、冠辞考云、万葉歌「薦畳平群のあそ」とは編たる薦の幾重もへだて重ぬる意にて云かけたり。小川氏云、平群は重快《エクリ》の意なるべし、応神天皇歌に戸中之異句離《トナカノエクリ》とあると同じ意ならん、景行天皇歌に「たたみごも平群の山」と見ゆ。
補|十三塚《ジフサンヅカ》山 平群郡○大和町村誌集 河州に亘て高約五十八丈、山中に嶺あり、十三峠と称す。○明治村大字福貴畑にあり。
 
平群谷《ヘグリダニ》 今明治村と改む、福貴《フキ》外十九の大字あり、生駒川の両崖山丘の間に散在す、西南隅を信貴山《シギサン》と為す。
平群坐紀氏神社は延喜式に列す。日本書紀、武内宿禰子曰|木兎《キノツク》宿禰、是平群臣之始祖也。古事記、建内宿禰之子木角宿禰者、木臣之祖。神祇志料、紀氏神社、今平群谷上荘村にあり辻宮(木兎宮の訛にや)といふ※[木+典]原《シデハラ》西向共に之を祀る、〔大和志〕蓋紀朝臣の遠祖武内宿禰を祀る、〔参取姓氏録〕淳和天皇天長元年、右衛門督紀朝臣百継越前加賀守妃朝臣末成等が奏請に依て紀氏神を幣帛の例に預らしめ〔類聚国史〕六年山城愛宕郡の丘一処を百継等に賜ひて神を祀る処たらしむ。〔日本紀略〕
楢本《ナラモト》神社 三代実録云、貞観三年、平群郡雲感寺楢本神授位。延喜式云、雲甘寺坐楢本神社。大和志云、雲甘寺坐楢本神は梨本村野馬田明神なり、県名勝志云、梨本の字宮脇に在り。
 
双墓《ナラビノハカ》 梨本(上之荘の南)の東方字前と云所に長尾塚牛尾壊あり、相伝ふ長屋王吉備内親王の墓なりと。〔県名勝志〕続日本紀云、天平元年二月十二日、遣使葬長屋王吉備内親王屍、於生馬山。
船山《フナヤマ》神社は延喜式に列す、今梨本の東大字三里に船と名づくる地あり、此か。〔県名勝志〕或云、中宮村山上に三の舟石あり、其形舟を覆ふに似たり、此なり。〔神祇志料〕
 
鳴川《ナルカハ》山 平群谷の西北隅にして暗峠の南に在り、明治村大字鳴川に属す。古精舎あり千光寺と曰ふ、大和志云役小角の,開創にて、鐘銘に元仁二年四月鋳とあり。胆駒山口神社は鴨川の南東十八町、生駒谷平群谷の交界に在り、明治村大字|櫟原《イチハラ》に属す、三代実録貞観元年授位、延喜式大社に列したり。
 
平群《ヘグリ》神社 明治村大字西宮に在り、延喜式平群神社五坐并大社に列すとある者是也、即平群氏の祖廟なり。
 按古事記姓氏録三代実録、平群木兎宿禰の裔を挙て平群臣佐和良臣馬馬御※[木+(織−糸)]連、平群文室朝臣、韓海部首、額田首、味酒首凡七氏あるが内、平群文室姓は平群に文室を複ねたるにて平群より出たる姓と聞え、額田首は母の姓なりと云へば此二氏を除きて即五氏なり、依て思ふに五座は即五氏の別れたる祖を各一人づつ祭れるにあらじか、〔神献志科〕
御櫛《ミクシ》神社は西宮の西大字|椹原《クシハラ》に在り、〔大和志〕蓋平群氏の一類|馬御※[木+(織-糸)]《ウマノミクヒ》連の祖神なり。古事記曰、都久宿禰平群臣佐和良臣馬御※[木+(織-糸)]連等之祖也云々、延喜式に列す。
 
石床《イハトコ》神社 延喜式大社に列す西宮の西大字|越木塚《コシキヅカ》字石床に在り、里人巌山社と曰ふ、傍に巨石あり、三代実録、貞観元年石床神授位。神州奇苑云、岩床村は十三峠の麓なり、石床神社の路の辺に甑塚《コシキヅカ》あり古墓なるべし、箱淵川近く流る、又此あたりに丸山二子塚とくりやまなど云ところあり、此石床は大なる岩あつまりて自ら石室を成し、其中に又大石あり之を石床と名づくる也。
穂【石床神社】○奈良県名勝志 平群石床神社は明治村大字越木塚字石床に在り、里人巌山祠と称す、傍に巨石あり、石床と呼ぶ、日本紀に曰く、天武天皇四年秋七月、小錦下三宅吉士入石を副使とし新羅に遣すと、清和天皇実録に曰く、貞観元年平群石床神に従五位上を授くと。
 
信貴山《シギサン》 明治村大字|信貴畑《シギハタケ》に属す、山頂四八〇米突、和河の国界たり。東半腹に朝護国孫子《テウゴコクソンシ》寺あり、信貴の毘抄門是なり。延喜式平群郡|猪上《ヰノウヘ・ヰノカミ》神社は、大和志信貴山に在りと為せど、今詳ならず。
毘沙門堂は観喜院朝護国孫子寺と称す、澗壑窈窕、楼閣縹渺、画中の趣を具ふ、慶長年中豊臣氏造営する所也。延喜中明蓮上人開基、按ずるに明蓮は道詮と同く法隆寺の住侶たりき、道詮は富貴律師と称する事本朝高僧伝に見ゆ、富貴即信貴の別名なれば此等二師の建立か。南山巡狩録云、元弘元年より此方、誅伐に心を悩まされける大塔宮は(護良親王)命を全して元弘三年六月志貴の毘沙門堂に御座あり、尚合戦の御用意ありと聞えければ、京中の武士心中さらに穏ならず、即征夷大将軍に任じ給ひ、十七日志貴を御立あり都に帰り登られしかば、世の中のさまはな/”\しくぞ見えわたりける。大和志云、志貴山寺、拾芥抄曰、大明上人開基、有縁起文、鳥羽僧正所図也。鶴林寺は鬼取山に在り、史学雑誌云、大和志鶴林寺の楠正虎の書簡は永禄中の者なり、正虎曩祖正成朝臣の信貴山多聞天の申子たるに因て天文二十二年登山して願文を納れ、正成の修羅苦患を救ひ併せて自己の武運長久を祈請したり、其原稿は今鳥取県士族楠某の家に蔵す、又正成勅勘恩免の請願は松永久秀に因て執奏す、久秀が其勅免を賀する状今香川県士族楠某の家に蔵す、久秀は当時当山に在城せり。
補【信貴山】○史学雑誌(廿七年二月)大和志平群郡鶴林寺の下に「寺有文暦二年縁起一巻、楠正虎永享十書簡一章」と見ゆ、永享は必永禄の誤なり、正虎曩祖正成朝臣の志貴山多聞天の申子たるに因て、天文二十二年四月十九日登山して願文を納め、正成の修羅苦患を救ひ、併せて自己の武運長久□喪継承を守らん事を祈祷し(其原稿、今鳥取県士族楠正基の家に蔵す)又正成朝臣勅勘恩免の請願は松永久秀に因て執奏せり、(久秀の朝敵赦免を賀する状は香川県士族楠直吉の家に蔵す)久秀は当時志貴山に在城し、而して鶴林寺は其山麓に在り。○鶴林寺 僧行基開創(本朝高僧伝)
 
信貴城《シギノシロ》址 永禄三年松永久秀大和河内を征略し、信貴山に築き天主屋倉を起す、後天正四年織田氏の滅却する所と為る。大和寺社記云、信貴山の頂に古城の址あり、初め吉川喜蔵と云し武士築かれしとかや、天正年中松永弾正此城に龍る。〔名所図会〕毘沙門堂の辺なるべきにや、築造の址存すべきも今尋ぬる人なし。
 
高安城《タカヤスノキ》址 信貴山の西は河内高安なれば、古の高安城も山中なるべし、今詳ならず。日本書紀云、壬申之乱、坂本臣財、長尾直真墨、率軍士三百、距於龍田、坂本臣次於|平石《ナラシ》野時、聞近江軍在高安城、而登之、乃近江軍知財等来、以悉焚税倉、皆散亡、仍宿城中、会明臨見西方、自大津丹比両道軍衆多至、顕見放幟、財等自高安城降、以渡|衞我《ヱガ》河、戦于河西。生駒山の蜂火亦高安にして、天智帝の置かれし者なり、万葉集、悲寧楽故京長歌の句に
 秋さりくれば射駒山|飛火《トブヒ》が塊《ヲカ》にはぎの枝をしがらみちらし云々
 
龍田川《タツタガハ》 生駒川の下游にて、新龍田《シンタツタ》(今龍田村)の西を過ぎ大川に会し大和川と為る、古来詠歌の名所にて学者の議論多し。龍田考云、凡龍田川は古今集に
   神なび山をすぎて、龍田川をわたりける時に、もみぢ葉のながれけるをよめる、
 神なびの山を過ゆく秋なれば龍田川にぞぬさは手向る、 清原深養父
と詠めるは、河内の方より出こし道の次第に非らず、神南山を越て西の方へ帰りいなんずる秋なれば、先東より立田川にみそぎはらいて幣をば手向る心をいふにて、今秋の越えんとすれば此山は立田川の西にあるなり、即立田新宮の方にあるべし、立野にては実地唯川副の路をこそゆけ、あなたの山は嶮しく渡るべくもあらず。又云龍田川は万葉集に詠じたる者なし、彼古今集に
 立田川もみぢみだれて流るめりわたらば錦中や絶なん、
(此歌は読人不知と載せて、左往に奈良帝と記し、同書序に秋は立田川に流るる紅葉をば帝の御目に錦と見給ひと書るは、専此御歌をさして云へるにて、玉勝間にも平城天皇なるべきよしにいはれつるは実にさる事なり、)とある御歌ぞ立田川といふ名の物に見えたる始にはありける、後撰和歌集に元方
 立田川たちなば君が名ををしみ岩瀬の杜のいはじとぞ思ふ、
岩瀬杜を詠合せたる、其|岩瀬《イハセ》は新龍田の土橋より四五町下にあれば、此処なる立田川を詠るものなる事疑なし、かかれば今の龍田の立田川ぞ此川の名の起れる原なり、然るに彼の広瀬川に流合つる後は大川筋を龍野の湊過るほど迄をも或は立田川といひつる事あり、其は兼輔集に、初瀬にまうでたりけるに
 から錦あらふと見ゆる立田川大和国のぬさにぞありける
を初とし、後拾遺集に
 嵐ふくみむろの山のもみぢ葉は立田の川の錦なりけり 能因
これらの歌どもは皆大川をよめり。
 
那珂《ナカ》郷 和名抄、平群郡那珂郷。此は今の龍田村にあたるか、即平群郡の中郷の謂ならん、霊異記に「平群駅、西方有小池」など見ゆるも此駅家なるべし。
 
龍田《タツタ》 龍田は今の龍田村|三郷《ミサト》村を総称す、神武天皇紀に、「勒兵歩趣龍田」とありて古より河内大和の交通要害の所なり。
新龍田《シンタツタ》は今龍田村と曰ふ、名所図会云、新龍田は法隆寺より六七町坤にあり民家軒を並べたり、初め龍田神を法隆寺鎮守とし為しけるも其|立野《タチノ》までは程遠しとて、此に移し奉り新宮と称す。按に慶長十九年大坂東西兵起るの前にあたり、徳川氏片桐市正且正を摂州茨木より移封し龍田に治せしめ、邑三万石を賜ふ、寛永五年出雲守孝利除封せられ更に半之允為久に一万石を給せられ、明暦二年に至り全く除封せらる、小泉の片桐氏は本藩の支家なるべし。
 
龍田新宮《タツタノシングウ》 龍田村駅中北側に在り、延喜式龍田比古龍田比女神社二坐とある者是也。龍田考云 本社伝に聖徳太子法隆寺を建給ふ時、その建立の地を神紙に乞祷みたまひて、毎月此斑鳩宮より彼立野社に参詣たまひしが、法隆寺成就して後に其傍に、勧請し給へるよし(尚此神の老翁となりて伽藍の勝地を教へて我また守護神とならんと詔しよしなどもあり)に伝へつるは実にさもあるべし、然るを大和志に此小社の列なる社をも「倶在龍野村云々、神幸之地在龍田村、旧名御憩所、今建小祠、称曰新宮」とあるは非なり。
 吾ゆきは七日はすぎじ立田彦ゆめこの花を風にちらすな、〔万葉集〕
   大和の国故郷なりければよめる
 つひにわがきてもかへらぬ唐錦たつたや何のふるさとの空、 下河辺長流
清水《シミヅ》墓 延喜式云、清水墓、間人女王(天智天武之妹)在平群郡、兆城東西三町南北三町。書紀通証云、今墓上建寺、曰清水山吉田寺、在龍田村南小吉田。県名勝志云、吉田寺は永延元年僧恵心の開創なり。
因幡《イナバ》宮址 続日本紀、称徳天皇天平神護元年閏十月、河内弓削宮より還幸の時因幡宮に駐輦の事見ゆ、龍田村大字稲葉の名存す、蓋此地なり。
 
奈良志岡《ナラシノヲカ》 龍田村の南なる小吉田《コヨシダ》車瀬|目安《メヤス》の辺を曰ふ、神南山と龍田川を隔てて其東方なり、磐瀬森は其北に在り、名所図会に、目安に在り龍田大橋より四町許、南川添にささやかなる森あり垢離取《コリトリ》場と称す此なりと、然れども垢離取場は即|磐瀬森《イハセノモリ》にて奈良志野中の一林のみ。奈良志一に平石《ナラシ》に作る、日本書紀云、壬申之乱、将軍大伴吹負、聞散自河内至、則遣坂本臣財、率三百軍士、距於龍田、財次于平石野、時聞近江軍在高安城、而登之。龍田考云、万葉巻の六大納言大伴旅人卿寧楽に在りて故郷を思ふ歌あり、
 須臾去而見牝鹿神名火乃淵者浅而瀬二香成良武《シバラクモユキテミテシカカムナビノフチハアセニテセニカナルラム》
巻の八に此旅人卿の孫なる大伴田村大娘が其妹坂上大嬢に送れる歌に、古郷之奈良志之岳能霍公鳥《フルサトノナラシノヲカノホトトギス》とあるに考へ合すれば、旅人卿までの本居は此奈良志岡也、又今の龍田川の東傍に松の老木ども村立残れる森を今も岩瀬の杜と呼べり、此辺にて龍田川一名|神南川《カンナンンガハ》といふ、万葉巻の八に志貴皇子 神名火乃磐瀬之杜之|霍公鳥毛無岳仁何時来将鳴《ホトトギスナラシノヲカニイツカキテナク》かくよませ玉へるは此皇子の御殿この毛無《ナラシノ》岡に在て、其処に住給しかば、今磐瀬杜に鳴なる霍公鳥のいつか吾住処には移り来なかむと詠せ玉へるなり。
岩瀬森《イハセノモリ》は龍田村の南|車瀬《クルマセ》に在り、其林中小祠あり。
 神奈備の伊波瀬の杜のよぶこどりいたくななきそ吾恋まさる、〔万葉集〕 鏡王女
磐瀬森の西南、龍田川を隔てて四町許に三室山《ミムロヤマ》神南村等あり。
 
神南《ジンナン・カンナビ》山 一名|三室山《ミムロヤマ》と曰ふ、龍田村大字神南に在り。山の南東を繞り水瀕に民家あり、山上に神岳《カムヲカ》杜あり、高凡十丈許径五町に満たず、三方水に囲まれ島を成す。或云、万葉集額田女王の詠歌|大島嶺《オホシマノネ》は此ならんと。
龍田考云、神南三室山といふは龍田里より四五町ばかり南の方にて、やや高き山なり、其山東は高き岸にて龍田川流れ廻れり、西の方やや低く成るところに龍田の里より彼龍田越にものする官道ありて、其処なる阪を椎阪《シヒサカ》といへり、彼古今集の歌の端書に、紙なび山をすぎてとかけるは則此坂の事なりけり、さて此椎坂を南に越ゆれば勢野《セヤ》の里なり、北は田畠にて南の方には神南《シンナン》村といふありて、山中に今は里人の山王杜といふなるぞ或は式に見えたる神岳《カンヲカ》神社には坐したる、是れ高市郡神岳より此処に移したる古社あり、按ずるに聖徳太子は磐余池辺《イハレイケノベ》宮の辺りにて生れ給へるには違ひあるまじければ、飛鳥神南備社を産土神ともち斎き玉ふべき理りなれば、斑鳩宮に移り坐つる時其産土神も移したるならん。
 神名火のうちわの前の石淵にこもりてのみや吾恋居らむ、〔万葉集〕河津なく甘南備河にかげ見えて今やさくらむやまぶきの花、〔同上〕清き瀬に千鳥つまよび山のまにかすみ立らむ甘南備の里、〔同上〕神なづきしぐれもいまだふらなくに兼てうつろふ神南びの杜、〔古今集〕
勝地吐懐編に、万葉集、笠女郎大伴家持唱和の詞中|飛羽《トバ》|打廻里《ウチワノサト》の名あり、神南備|打廻前《ウチワノサキ》同地なるべしと云ふ、古事記、孝霊天皇の皇女に倭|飛羽《トバ》矢若屋比売と申も、此地名を負給ふならん。
 しら鳥の飛羽山松のまちつつぞわが恋わたるこの月ごろを、〔万葉集〕 笠女郎
寛正元年畠山政元大和に入り河内の畠山義就を伐つ、政元龍田に陣し義就の将遊佐国助を邀撃す、国助神南に戦死し政元|島城《シマノシロ》を取る、島城蓋神南山を云ふ。長禄寛正記云、河内勢は高安より二手に分れ、島の領内福基のをうたうと云所に若党二十四人指置、国助追手の大将にて千五百騎押寄、天の川の南片岡の端の郷を通り、総持寺の芝野に勢揃し、一手は神南山の北縄手を東に向て金山の敵に当る、一手は法隆寺と吉田の間馳向ひ此手先づ敗北、遊佐一党誉田一党百五十騎計神南山の頂に上りて、敵の旗を見腹を可切と評定し、河内の国助以下自害。〔節文〕
 
立野《タチノ》 今|三郷《ミサト》村と改む、龍田村の西南一里に在り。大和川此地より漕運を通じ土俗湊と称す。立野の東を勢野《セヤ》と曰ふ、西は河内の国界にして、山水険隘、謂ゆる龍田越にして亀瀬と曰ふ。龍田考云、龍田大宮は地理を按ずるに太古より此地鎮坐なるべし、東の方は遙にひろくうち開けたる地にして、西は所謂龍田山高く聳えたれば実に然いふべき地のありさまなるうへ、万葉集巻の九の歌に打超而名二負有杜爾風祭為奈《ウチコエテナニオヘルモリニカザマツリセナ》とある、打越えてとは難波より帰るとて立田山を打越てといふ事にて、立野は立田山の東の麓なればよく符へり、然るを橘守部が著せし鐘の響に、行嚢抄龍田明神の条に昔の紀行の文を引て、別当のいはく此神は人皇十代崇神天皇の御宇に斎ひ鎮めたまへる山を神南備山といふて縁起にもありと云へるは、すべて信難き妄言なり、天武天皇紀の「四年夏四月遣小紫美濃王小錦下佐伯連広足祠風神于龍田立野」とあるも此時絶たるを改めて祭られしに非ず。旧事紀云、宇摩志麻冶命十三世孫、物部武彦連公、立野連等祖也。
補【立野】○龍田考〔重出〕龍田はいと古くより書にも歌にも多く見えたる地にて、社は更なり山川など殊に世に名高く、尚歌に詠合せたる此所の名所にては神南備山(または川とも)三室山(または岸とも)磐瀬社、那良志岡などをはじめ尚何くれと詠合せたる名所ども多かるを、いづれもいと紛紜《マギラ》はしくなりきつるは、もと龍田の社の立野と龍田と二所にありて名高き名所をも龍田に近かる地に多かれば、其を龍野の方には羨み嫉む愚痴者やありけむ、もとより本宮とます立野なれば、総て龍田と詠きたる名所どもは山も河も何も悉皆立野の方に在りとしいはむとて、多くの名所どもを其近き辺に設けたり、行嚢抄に引る応永の頃の紀行の文には既に彼の偽妄の見えたるを以て想へば、元亨より応永までの間に設け出づる偽りには違ひあるまじ。
 
勢野《セヤ》 古事紀伝云、神武天皇皇后を勢夜陀多羅媛と申奉る、勢夜は地名なるべし、聖徳太子伝唇に勢夜里と云見えて、今勢野村あり是なるべし。
 
坂門《サカト》郷 和名抄、平群郡坂門郷。旧事紀云、饒速日尊天降之時、五部造為伴領、率天物部天降供奉、其一坂戸造。姓氏録云、坂戸物部、神饒速命天降之時従者、坂戸天物部後也。坂門郷今立野村に当る、龍田越の山口なればなり、天武紀に「坂本臣財、率軍士三百、拒於龍田」とある坂本も坂戸物部にや。史料通信叢誌云、坂門は法隆寺資財帳に坂戸に作る、天暦六年の古牒に「牒平群郡坂門郷刀禰、并郡庁家地肆段玖拾歩(中略)限東法隆寺法師安美地」などあり、同寺々要日記に勢野龍田坂戸三所とも録せり。
 
龍田《タツタ》神社 今三郷村立野に在り、中世二十二社の第十四に列し、風神を祭る。延喜式龍田坐天御柱国御柱神社所祭級長戸辺命級長津彦命二座とある者是也。古事記伝に、風は天と地の間を支へ持てば御柱と称へたりと、書紀纂疏は風神即龍田姫龍田彦なりと曰へり、按ふに級長は古事記志奈に作り、龍田の別名か、名義詳ならず。今官幣大社に列す。神祇志料云、級長津彦日本書紀に見ゆ、旧事紀には級長戸辺ありて二神と為せり、此二神即風神にして、上古伊弉諾尊大八洲国を生給て、我生りし国唯朝霧のみ薫満る哉と詔て、乃|吹撥《フキハラ》はせる|御気息《ミイブキ》に生坐《アレマセ》る神也。〔日本書紀旧事本紀〕崇神天皇御世、五穀物《イツツノタナツモノ》悪風荒水に逢てあまねく傷はるるを天皇憂給ひ祈誓《ウケヒ》して御寝坐《ミネマセ》る大御夢《オホミイメ》に此神顕れ坐して、此は我御心也《アガミココロナリ》、明衣楯戈御馬鞍《ミゾタテホコミマクラ》品々の幣帛《ミテグラ》備て、朝日《アサヒ》の日向《ヒムカ》ふ処|夕日《ユフヒ》の隠る処の龍田立野の小野《ヲノ》に吾宮を定奉りて吾前《アガシマヘ》を治め奉らば、天下の公民の作りと作る物は草の片葉に至るまで成幸へ奉らむこと悟奉りき、故に其始て神社を建て之を祭りき。〔延喜式祝詞〕天武天皇三年、小紫美濃王小錦下佐伯連広足をして風神を龍田立野に祭らしむ、風神祭此に始る。〔日本書紀〕大宝令、風神祭、義解云、広瀬龍田二祭也、欲令※[さんずいへん+(軫-車)]風不吹稼穂滋登、故有此祭。
 山姫のちえだの錦織りはへて立田のもりは神さびにける、〔雲葉集〕 源信明
補【龍田神社】○神祇志料〔脱文〕天武天皇三年四月癸未、小紫美濃王、小錦下佐伯連広足をして風神を龍田立野に祭り、明年七月壬午又之を祀る、風神祭此に始る(日本書紀)天武天皇大宝の制四月と七月とを例月とし(令義解)後に四日を祭日とせらる(本朝月令引弘仁式・延喜式・北山鈔)聖武天皇天平二年龍田神戸租稲四百四十束を以て神祭及雑用に充て(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神地三戸を寄奉り(新抄格勅符)嵯峨天皇弘仁十三年八月庚申、龍田神に従五位下を授け(日本紀略)文徳天皇嘉祥三年七月丙戊大中臣久世王を遣して風雨時に従ひ五穀豊登の事を祈らしめ、二神並に従五位上に叙され、仁寿二年七月庚寅、並に従四位下を賜ひ、壬辰幣馬を奉て年を祈り、十月甲子従三位に進め奉り(文徳実録)清和天皇貞観元年正月甲申、従三位龍田神に正三位を授け、九月庚申風雨の御祈に依て幣を奉り、十二年七月壬申、使を遣し幣を奉り雨※[さんずいへん+勞]なき事を祈らしむ、是よりさき河内国堤を築の功未だ成終ざるに重て水害あらむ事を恐て也、陽成天皇元慶二年七月己未、神宝を納る為に倉一宇を造り、三年六月癸酉神財を奉らしむ(三代実録)醍醐天皇延喜の制並に名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣に預る、凡そ夏秋の祭、王臣五位各一人、神祇官六位官人各一人を使とす、卜部一人神部各二人之に従ふ、国司次官以上一人専ら事を行ひ、諸郡をして贄二荷を奉供しむ、其祭料稲並に当国の正税を用ふ(延喜式)一条天皇正暦五年四月戊申、疾疫放火の変に依て中臣氏を宣命使として幣帛む奉らしめき(本朝世紀、参取日本紀略)今四月四日八月十二日祭を行ふ、其神幸の地龍田村にあり、後世小祠を建て新宮と云、即是也(良訓補忘集・大和志・行嚢砂)
 
龍田関《タツタノセキ》址 立野村に在り、其西限を峠と云ふ。峠の西南水流石に激する辺を亀瀬と名づく、凡此通路南北の峰共に之あり而て近代は専ら葛城郡王子村より南峰を経行す、謂ゆる亀瀬越なり、北峰を古道立野越とす、関隘此に在り。書紀通証云、天武天皇八年、初置関於龍田山、今関址在立野西、天文八年収立野関銭、事見信貴山寺日記、古今集云
 たが身そぎゆふ着け鳥かから衣たつたの山にをりはへて鳴く、
相伝四境祭、鶏着木綿放之四関、名曰木綿着鳥。
 
龍田山《タツタヤマ》 三郷村の西なる嶺を云ふ、信貴山の南に接し河内|堅上《カタカミ》村(大県郡)に跨る山なり、而も一峰の名つくべきなし。日本書紀云、神武天皇、勒兵歩趣龍田、而其路狭嶮、人不得並行、乃還。又云、去来穂別太子、(履中)発当摩県兵、令従身自龍田山踰之、曰彼来者誰人也、何歩行急之、若賊人乎、因隠山中、而待之、出伏兵囲之、悉捕得。書紀通証に龍田に盗賊を詠ずる事は去来穂別太子の故典に起る乎とあれど疑はし、按ずるに
 風吹けば沖津しらなみ立田山夜はにや君が独りこゆらん、〔古今集〕
是本より山中亀瀬の滝川に龍田嵐の夜毎に吹すさむを詠ぜるに過ぎず、盗人の異名をしらなみと云ふは荘子に緑林白波の語あり、後世之に因り説を為すのみ。
 
立田越《タツタゴエ》 龍田考云、立田越の事を玉林抄に聖徳太子初めて開きたまふとあれど非なり、日本書紀に神武天皇又履仲天皇の御事蹟あるぞかし、ただ彼太子此|斑鳩《イカルガ》宮より数河内にものし給ひしよしなれば、其程さしも狭険《サガシ》かりし路を平に造らしめ給ひしかば其を誤りしかいふなるべし、さて万葉の歌に龍田山之滝上とある滝は尋常のにはあらで速川をいふ、今も此川龍田山なる亀瀬《カメガセ》をいふあたりにて岩にせかれ滝落ち流るるが故にしかいへるなり、又滝上の小鞍嶺《ヲグラノミネ》は此歌どもによるに彼亀瀬の辺の一の山の名にはありける、大和志に「小倉峰有二、一在立野村西」、また立田之島山とよめるは彼川の折廻て島となれる処を指して島山とはいへるなり、然るを契沖が古今集余材抄加茂翁が伊勢物語古意などに此立田山なる小倉峰を暗峠の事なりと註はれつるは誤なり。
   春三月諸卿大夫等下難波時歌
 白雲の龍田の山の、滝の上の小鞍《ヲグラ》の嶺《ミネ》に、さきををる桜の花は、山たかみ風のやまねば、春雨のつぎてふれれば、ほつえはちりすぎにけり、下枝にのこれる花は、しばらくはちりな乱れそ、草枕旅ゆく君が、返り来までに、〔万葉集〕
島山《シマヤマ》は万葉集に難波経宿明日還来之時歌とて
 島やまを、射ゆき廻れる、河ぞへの、丘辺の道ゆ、昨日こそ、吾越来しか、云々
是は高市郡橘の島山と其地異なり、立田越の中に属す。
 
懼坂《カシコノサカ》 立野の西なる峠と字する坂なるべし。日本書紀、壬申之乱の条に「先是遣紀臣大音令守懼坂道、於是坂本臣財等退懼坂、而居大音之営」、万葉集の石上乙麿卿配土佐国之時歌に「やそ氏人の手向すと、恐の坂に幣まつり」云々ここ也。
 扶桑略記云、昌泰元年十月廿八日、上皇進発、指摂津住吉浜、経龍田山、入河内国、龍田是自古名山勝境也、群臣献和歌、菅原朝臣道真絶句曰、満山紅葉破心機、況遇浮雲足下飛、寒樹不知何処去、雨中衣錦故郷帰、
 神まつり大和こどもや立田歌、 鬼貫
 
    北葛城郡
 
北葛城《キタカツラギ》郡 上古郡|葛城国《カツラギノクニ》の北部にして、中古分れて葛下|広瀬《ヒロセ》二郡となり、明治廿九年合併して北葛城と称せしめらる。地勢南に高く北卑し、西は二上山の脈を以て河内国に堺し、北は大川(大和川)を以て生駒郡と相距て、東は重坂《ヘサカ》川を以て磯城郡と相隔つ、南方は高市郡南葛城郡と相接す。郡役所は高田町に在り一町廿村を管す。鉄道は高田を交叉点とし、一線東して畝傍桜井に通じ、一線南して新荘経て吉野へ向ふ、一線は西北王寺に通ず、王寺即奈良大坂間の一駅なり。
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葛下《カツゲ・カツラギノシモ》郡 延喜式、和名抄、葛下郡、訓加豆良木乃之毛。地形勾状を成し、広瀬都を東北に抱擁す、和名抄七郷に分れ、今一町十五村と為り北葛城郡に併す。葛下郡は日本書紀天武帝白鳳十三年の条に倭葛城下郡と初出す、後世文字を音読して専らカツゲと云へり。
 
片岡《カタヲカ》 今|王寺《ワウジ》村志都美村上牧村等の地を云ふ、古は尚其東南に広被す、蓋傍丘の義なり。山陵志云、丘是旧都(高市)西南、而其西並葛城山、延※[しんにょう+(施−方)]乎南者里許、因号傍丘焉、大和西偏古葛城国也、後世分為二郡、曰葛上葛下、傍丘即葛下西地、所謂片岡荘也、而其名泛蒙此間、或指西山曰傍丘、謬名、傍丘磐坏二陵、在葛下南隅。(今磐園村陵西村)姓氏録、左京神別、中臣方岳連、大中臣同祖。旧事本紀に見ゆる「綵靖天皇、皇兄手研耳命、於片丘大※[穴/音]、独臥于大牀」も此片岡の地か。
 片崗のこの向峰《ムカツヲ》に椎まかば今年の夏のかげにならむか、〔万葉集〕
大和軍記云、葛下郡片岡と申所の片岡新助は小身にて侯得共、和州にては如形なる武功の人にて、今の知行高八千石計也、松永久秀筒井を字多郡へ逐落し、国侍皆久秀に随候得共、片岡一人不随久秀も両度押寄せ候、志貴城より三里計、其間に河合と申沙河あり、常は歩わたり、水出は舟越に候、新助此河端迄山づたひに打出で松永を防ぐ、松永寄せ難くして龍田に片岡押への城を取、番勢入置る、新助の子弥太郎の時に松永寄せられ城を乗取。英俊日記、永正二年、和州武家衆の交名中に片岡氏あり、此片岡氏の居所は即今の王寺村也。 
片丘馬坂《カタヲカウマサカ》陵 孝霊天皇の御陵なり今|王寺《ワウジ》村|馬背坂《ウマセサカ》の東に在り墳起高八間周二十五間、字|峰垣戸《ミネノカイト》と曰ふ。〔書紀通証山陵考〕日本書紀云、大日本根子彦太瓊天皇、葬于片丘|馬坂《ウマサカ》陵。延喜式云、片丘馬坂陵、黒田廬戸宮御宇孝霊天皇、在葛下郡兆城東西五町南北三町守戸五煙。 
王寺《ワウジ》 この村は片岡の首邑なり、北葛城の西北隅、大川に臨み亀瀬越の東口也。奈良大坂間の鉄道は此に南方線(五条及桜井)と相接す、亦一要駅也。
 
亀瀬越《カメガセゴエ》 龍田越の別路にして、大川(大和川)の南岸を通じ河内回国分村(南河内郡)に至る、鉄道も此隘処(凡一里)を経て柏原駅に達す。扶桑略記、治安三年入道相国高野参詣条に云、廿六日御法隆寺、廿七日指河内国進発之間、亀瀬山之嵐紅葉影脆、龍田川之浪白花声寒、爰於山中仮舗草座、聊供菓子、焼紅葉※[火+爰]佳酒、蓋避寒風也、昏黒御河内国道明寺。
片岡坐神社 王寺村片岡山に在り、五社明神と云ふ、延喜式名神大社に列す。神祇志科云、蓋鴨建角身の子鴨建玉依日子命を祀る、〔参取釈日本紀山城風土記姓氏録延喜式千載和歌集〕大同元年大和遠江近江三十戸を神封に充奉り〔新抄格勅符〕貞観元年授位。〔三代実録〕片岡小松杜も此か。
 片岡の小松のもりのほととぎすほのかにも啼け恋しかるべし、〔六帖〕
久度《クド》神社は王子村大川端に在り、字を久度と云ひ久土寺あり。〔大和志神祇志科〕続日本紀、延暦二年平群久度神官杜に列し、延喜式平群郡に載せらる、郡界少変有るに由る、按ずるに此神今山城葛野郡平野神社に合祀す、謂ゆる竈神ならん。
補【片岡坐神社】○神祇志科 片岡坐神社、今王寺村片岡山にあり(大和志・名所図会) 按、今村中に片岡山、片岡池あり、又今泉村の地、片岡庄と云り
蓋賀茂建角身命の子鴨建玉依日子命を祀る(参取釈日本紀・山城風土記・姓氏録・延喜式・千載和歌集)平城天皇大同元年大和、遠江、近江地三十戸を神封に充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下勲八等より正五位上を授け、九月庚申幣使を差て雨風を祀り(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る、(延喜式)一条天皇正暦五年四月戊申、授疾放火の変を祈る為に中臣氏人を宣命使として幣帛を奉りき(本朝世紀、参取日本妃略)凡そ九月廿六日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
補【久度神社】○奈良県名勝志 久度神社 王子村大字王寺の北方にあり、境内三千二百坪、続日本紀に曰、延暦二年十二月丁巳、大和国平群郡久度神を従五位下に叙し官社に列すと、延喜式平群郡に載せ、今改めて本郡〔北葛城〕に載す。
 
達磨塚《ダルマヅカ》 王寺村に在り。元亨釈書に聖徳太子飢人の墓を築き之を達磨塚と曰ふと曰へり、塚上の堂は勝月上人創立とも解脱上人建造とも云ふ、興福寺衆徒之を憎み嘉元三年堂宇を焚きしが、足利氏の時制して寺を置き給田す、近代は臨済宗南禅寺に属し、寺内に中興碑及松永久秀墓あり。日本書紀、推古天皇二十一年、皇太子遊行於片岡、時飢者臥道垂、仍問姓名而不言、皇太子視之与飲食、即脱衣裳覆飢者、而言安臥也、則歌之曰、 級《シナ》てる、片岡山に、飯《イヒ》に飢《ヱ》て、臥《コヤ》せる其旅人哀れ、親なしに汝《ナレ》なりけめや、さす竹の君は や無き、飯に飢て、こやせる其旅人哀れ、他日遣使令視飢者、飢者既死、皇太子大悲之、因葬於当処、墓固封也、曰非凡人、為必真人也。書紀通証云、以飢人為達磨、蓋浮屠好事者為而已、日本紀及拾遺集只云太子云飢人耳、未曾云達磨也、按本朝文粋藤俊生倭歌序元亨釈書等為達磨、俊頼和歌髄脳清輔袋草紙等為文殊、後人因建寺、今在王子村、事見得岩中興記。
〔達磨寺中興記云〕達磨寺在和之片岡、俗称曰墳焉、初鹿苑相公枉駕南京西大、扈従之僧到、則破屋一間、祖師上宮太子二像偶坐、有一禅衲居守焉、涼烟白草、寥闃附可念、既而勝定相公継体、施置荘産、将宮構焉、和乃春日牡封邑、而興福※[てへん+(柄-木)]其治、東大左右之、故法相華厳両流、根拠頡頑、以為儻使禅刹勃興、則精采為之※[日+英]奪、不利於己、損尊像占荘田、相公赫然曰、大行黜罰、威復于旧、輪奐絢爛、過者拭目、鳴呼※[(瑤-王)+系]推古癸酉、至永享紀元、既得八百余歳、起而復仆、々而益起、祖跡由来無動揺、得中興記命工彫、斯文歴劫留斯石、仮使天衣払不消、
 文安五年戊辰六月   住持比丘南峰祖能誌焉
此記は八角石幢に勒したり。
 
葦田《アシタ》 古片岡の一地名にて、王寺村にあたると云ふ、葦田池一名肩岡池と云ひ、今王寺に在り。〔大和志〕古事記云、履仲天皇、娶葛城之曾都毘古之子、葦田宿禰之女、名黒比売命。姓氏録云、大和未定雑姓、葦田首、天麻比止津乃命之後也。
 あすからは若菜つまんと片岡の朝の原はけふぞ焼くめる、〔拾遺集〕
葦池《アシノイケ》 日本書紀、壬申之乱、将軍大伴吹負、引軍到当麻衢、与壱岐直漢国、戦葦池側。書紀通証、葦池即葦田池、一名肩岡池、推古紀十五年作倭屑岡地。
 
志都美《シツミ》 近年平野|今泉《イマイズミ》上里|畠田《ハタケダ》等を合せて志都美村と曰ふ、王寺村の南なり。志都美神社は延喜式に見ゆ、今|上里《カミサト》八幡宮是なり。又延喜式|火幡《ホハタ》神社あり、今畠田八幡宮是なり、火幡即|火田《ヤキハタ》の義なるべし大同元年火幡神伊与二十戸を神封に寄せらるる事新抄格勅符に見ゆ。延喜式伊射奈岐神社、今上牧村大字下牧に在り五社と云ふ。
 
片岡葦田《カタヲカアシタ》墓 茅渟王(彦坂押人大兄王子)の墓なり、王は敏達の皇孫にして皇極孝徳二帝の父也。延喜式云、片岡葦田墓、茅渟王、在葛下郡兆城東西五町南北五町。今志都美村大字|平野《ヒラノ》清岡の頂に在り、大和志に顕宗天皇傍丘磐坏陵と為す者是ならん。〔山陵志陵墓一隅抄〕按ずるに本陵墓は平野今泉の交界に在り、又書紀通証に「顕宗陵在今市村、宝永年間陵崩、遂為民居」とある今市は下田村大字北今市を指すか、詳ならず。
 
品治《ホムチ》郷 和名抄、葛下郡品治郷、訓保無智。此郷今詳ならず、片岡王寺村の辺にや。古事記云、本牟智和気命、拝出雲大神宮之時、毎到坐地定品遅部也。日本紀云、垂仁天皇、愛誉津別皇子、定誉津部《ホムツベ》。(此地誉津部の故墟なるペし)
 
賀美《カミ》郷 和名抄、葛下郡賀美郷。此郷今詳ならず、二上《ニジヤウ》村なるべし、二《フタ》上山の名古より聞ゆる所也。
 
蓼田《タデタ》郷 和名抄、葛下郡蓼田郷。タデタと訓むべし、本書賀美の次に記されたれば下蓼田の義にて、今|下田《シモダ》村にやあらん。
 
下田《シモダ》 下田村は王子の南一里余、鉄道車駅にして小山市なり二百戸許、西に穴虫《アナムシ》越あり、河内国へ通ず、古は大坂とも曰へり。旗尾池は下田に在り、周回七十余町、郡第一の巨塘也。
 
大坂山《オホサカヤマ》 下田村の西に逢坂あり、其西に関屋(二上村大字)あり此より河内へ踰ゆるを大坂と曰ふ、二上山の北に接す、今|穴虫《アナムシ》越と称す。関屋より右すれば田尻《タジリ》を経て国分村に出づべく、左すれば。駒谷《コマガタニ》飛鳥へ出づべし、山中岩石累々、金剛砂を産す。日本書紀云、崇神天皇祭大坂神、運大坂山石而造箸墓、時人歌「飫朋佐介《オホサカ》珥菟芸廼煩例屡伊辞務邏塢云々」古事記云、応神天皇時、百済国貢知醸酒人名仁番、亦名須々許里、須々許里醸大御酒以献、天皇御歌、歌幸行時、以御杖打大坂道中之大石者、其石走避、故諺曰堅石避酔人也。又書紀云、去来穂別太子(履中)、到河内国埴生坂、而醒之、顧望難波、見火光而大驚、急馳自大坂向倭、至于飛鳥山。又云、天武天皇元年、将軍吹負既定倭地、便越大坂、往難波、八年、初置関於龍田山大江山。書紀通証云、天武紀大江山活板作大坂山、今葛下郡|岩窟越《イハヤゴエ》也、関屋大坂村里相隣可以証矣。古事記伝云、此道は古は往来しげき大路なりしを、今はさばかりには非ず、穴蒸越とも云、穴蒸と云村より河内飛鳥村に到り、難波の方に通ふ。続日本紀、天平十五年、大坂獲金剛鑚。〔九月、斐太始以大坂沙治玉石之人也〕大坂山口神社は今穴虫牛頭天王社是か、関屋にも逢坂にも祠あり、執れか山口の神ならん。日本書紀云、崇神天皇、夢有神人、誨之曰、以黒盾八枚黒矛八竿、祠大坂神、於是依夢之教、祭之。延喜式云、大坂山口神社(大月次新嘗)云々。
 大坂をわが越来れば二上《フタカミ》にもみぢばながるしぐれふりつつ 〔万葉集〕
地学雑誌云、二上村穴虫山中の渓間には其堆積せる沖積土砂に交り金剛砂を多量に産出す、其質良好にして諸種の石材を切断若くは琢磨するに供用せり、鉱源は西北に発達せる英雲安山岩中にありて、其副成分として多量に抱有せらるる柘榴石の母岩、(あめがんむり/毎)爛崩壊して土砂となると共に湖底に沈※[さんずいへん+差]したるものにして、今尚ほ成生しつつあり。
威奈大村墓 名所図会云、穴蒸山馬場村の農夫近年地を掘り大甕を得たり、甕破れ内に一銅器あり、形大球の如く蓋身両分す、身の下に円足あり、蓋に墓誌銘を小楷にて彫たり、文字鮮明なり、蓋身ともに口径八寸深各四寸重四斤三両。其銘云、小納言正五位下威奈卿墓誌銘并序、卿諱大村、檜隈五百野宮御宇天皇之四世、後岡本聖朝紫冠威奈鏡公之第三子也云々、葬倭国葛木下郡、山君里栢井岡云々。
補【大坂】○履中紀元年太子到河内国埴生坂、而醒之、顧望難波、見火光而大驚、則急馳之、自大坂向倭、至于飛鳥山。天武紀元年、将軍吹負既定倭地、便越大坂往難波。三代実録貞観元年九月、大坂山口神。姓氏録、大和神別天孫大坂直、注、天道根尊之裔也。古事記伝、神名式に葛下郡大坂山口神社あり、葛上葛下と郡の異なるは堺近ければぞ別には非ず、孝徳天皇の大坂磯長陵も河内の石川郡にて此山の西面なり、さて此道は古は往来し大道なりしを、今はさばかりの大道には非ず、穴蒸越と云て葛下郡穴蒸村と云より河内国古市郡飛鳥村に到り、古市などを経て難波の方に通ふ道なり、さて其穴蒸村に並びて逢坂村と云あるは大坂なるべきを、後世にはオホとアフと一に唱るから誤て逢字を書なるべし。 
二上山《フタカミヤマ・ニジヤウサン》 北葛城郡の西嶺にして、其高峰双耳を聾ゆる者即二上山なり。其峰麓を今|二上《ニジヤウ》村当麻村と為す、峰は土俗|男岳《ヲダケ》女岳《メダケ》と云ふ
 木道《キヂ》にこそ妹《イモ》山在とふ玉櫛二上山もいもこそありけれ、〔万葉集〕二上にかくろふ月の惜しけども妹がたもとを離《カ》るる此ごろ、〔同上〕
 
当麻越《タイマゴエ》 二上山の南北に二路あり、共に当麻路と称すべし。一は北に在り穴虫越是なり、一は南に在り竹内《タケノウチ》越是なり。履仲紀云、太子到河内国埴生坂、顧望難波、見火光而大驚、則急馳之自大坂向倭、至于飛鳥山、(今南河内郡駒谷村)過少女於山口、対曰執兵者満山中、宜自|当摩径《タギマヂ》踰之、太子於是得免難、則歌之曰、
 おほ坂に逢ふやをとめをみちとへばたゞにはのらず※[くちへん+多)耆摩知をのる。
此に大坂と云ふは穴虫越にて、竹内越即当麻路なり、共に河内飛鳥より岐分す。
 
当麻《タイマ・タギマ》郷 和名抄、葛下郡当麻郷、訓多以末。今当麻村|磐城《イハキ》村五位堂村等なり、二上山の南東を云ふ。当麻寺万法蔵院あり、古今著名の大刹也。旧事本紀云、饒速日尊天隆之時、天物部等二十五部人同帯兵仗天降供奉、其一当麻物部。又云開化天皇々子彦坐王、当麻坂上君等祖。古事記云、用明天皇、娶当麻之倉首比呂之女、飯女之子、生御子当麻王。
腰折田《コシヲレダ》 日本書紀云、垂仁天皇時、当麻邑勇悍士、曰蹶速、強力能毀角申鈎、恒語衆中曰、於四方求之豈有比我力者乎、帝聞之求其対、一臣進薦出雲国人野見宿禰、乃令※[てへん+角]力、宿禰蹈折蹶速之腰而殺之、故奪蹶速之地悉賜宿禰、是以其邑有腰折田之縁也。大和志云、良福寺村有腰折田、又有衢池。(今五位堂村良福寺)日本書紀、壬申之乱、将軍吹負到当麻衢。
当麻神社 当麻彦社(二座)山口社一境に在り、今当麻村字平田荘山口に在り。〔県名勝志神祇志料〕共に延喜式に列し、山口神は大社なり。神祇志料云、当麻彦は蓋用明天皇の皇子|麻呂古《マロコノ》王を祭る、清和天皇の外祖母源朝臣潔姫の外家|当麻真人《タギマノマヒト》の氏神也、〔日本書紀三代実録新撰姓氏録〕是れ麻呂古王の御母は葛城直磐村が女広子なれば其由縁に因て古くより祭れる神なるを、清和天皇の外祖母の氏神たるを以て特に崇奉あり、文徳天皇仁寿三年始て当麻祭を行ふ。諸社根源記に此祭を以て山口祭とするは誤れり。〔三代実録延喜式参取〕
葛木二上神社は延喜式に葛木二上神二座并大社と著録し、今|二上山《フタガミヤマ》の東に在り、当麻村大字染野の上方と為す。二上薬師堂は元亨釈書に見ゆ、今大字新在家の高雄寺是也。二上墓は大津皇子(天武子)の墓なり、二上神社の東に在り、今当麻村大字|加守《カモリ》の域内なり。日本書紀、持統天皇元年、大津皇子賜死於訳語田舎。万葉集云、移葬大津皇子屍、於葛城二上山。
倭文《シツリ》神社は延喜式に葛木倭文坐天|羽雷《ハツチ》命神社、今当麻村大字加守字|上太田《カミオホタ》の志登利の地に在り、棚機森《タナバタノモリ》と曰ふ、〔県名勝志神紙志料〕倭文氏祖神を祭る、倭文の遠祖天羽槌雄神代に在りて文布《シツリ》を織りたる事、古語拾遺旧事本紀に見ゆ。
補【当麻】○大日本人名辞書 初め大伴吹負、乃楽山に敗れ、古京に還り後数日にして墨坂に至る、会々置始菟千余騎を率て来援す、因て其軍を合し、還て金網井に屯し散兵を聚む、弘文帝の兵大坂より至ると聞きて兵を提て西当麻に至り、壱岐韓国と葦池に戦ふ、吹負兵を上中下の三道に分ち、身中道より進む、弘文帝の将犬養五十君別将廬井鯨を遣し、精兵二百を率ゐて吹負の軍を衝かしむ、三輪高市麻呂置始菟上道より進みて箸陵に戟ひ、大に弘文帝の軍を破る、倭地悉く定まる、吹負進みて大坂を経て難波に至る、諸将と亦三道より並び進み、山前に至り河内に屯す、吹負難波の小郡に留り、西国の諸司に官鑰駅鈴伝印を献ぜしむ、天武帝の天下を得る吹負の功大なり、十一年卒す、大錦中を贈る、初め吹負の金網井に軍するに当て、高市郡大領高市許梅、口噤して言ざる三日、神憑りて曰く、我は是れ高市社神事代主、牟狭杜神の生霊なり、当に神馬兵器を以て神日本磐余彦天皇の陵に献ずべし、我已に皇孫を奉じて不破宮に送る、還て本軍を護せん、今敵軍将に西道より至らん、宜く警備をすべしと、言訖て殆んど夢の覚たるが如し、吹負乃ち許梅を遣して陵を祭り、神教の如くせしめ、并びに幣を二神に奉らしむ、又村屋神祝に憑て曰く、敵兵将に至らんとすと、中道より我社を過ぐ、宜く速に備を設くべしと、俄にして壱岐韓国西道より来り、廬井鯨中道より至る、果して其の言の如し、事平らぐ、吹負具に状を奏す、勅して三神の位を陞し以て祀らしむ(大日本史)
補【倭文神社】○神紙志料 葛木倭文坐天羽雷命神社今上太田村志登梨にあり、棚機森と云、蓋此也(奈良県神社取調書)天羽槌雄神を祭る、天羽槌雄神亦名を建葉槌命といふ(日本書紀・古語拾遺・神代巻口訳)蓋倭文宿禰の氏神也(古語拾遺・姓氏録)上古天照大御神石窟に隠り坐時、此神文布を織りて仕奉りき(古語拾遺)武甕槌命、葦原中国を平伐る時、其服はぬ星神|香々背男《カガセヲ》を平げて復命奏しき(日本書紀)平城天皇大同元年神封廿三戸を寄し奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)
補【良福寺】〇三十三所名所図会 腰折田古跡は当麻より艮の方廿丁許り、良福寺村に在りて田圃の字に残れり、垂仁帝七年天皇倭直の祖長尾市を勅使として野見の宿禰をめし、当麻の蹶速と角力を取らしめ給ひ、更に蹶たりけるが遂に蹶速が脇骨を蹶折られて命を失ひけり、勝たる賞に蹶速が地を野見宿禰に賜はりたり、こゝを腰折田と名付て其旧址を遺しけりとぞ。
福応寺 右良福寺村の隣村狐井村に在り、恵心僧都の誕生の地なり、天慶五年こゝに生る、其古跡なりといふ、釈源信は姓は卜《ウラベ》氏、父の名は正親、母は清氏なり。
 
当麻寺《タイマデラ》 当麻村|丸子《マリコ》山の下に在り、用明帝子麿子王が兄聖徳太子の教を受け興立したまふ者なり。〔古今著聞集大和志大日本史〕禅林寺と号し、本尊観世音、金堂講堂薬師堂東塔西塔法華堂曼荼羅堂以下数多の坊舎あり、真言宗浄土宗両徒之を守る。法華堂は治承年中一山焼失の後源頼朝造進すと云ふ。〔名所図会〕東塔(三層瓦葺)西塔(三層皮葺)は近年特別保護を加へらる、寺宝浄土曼荼羅〔絹本着色法橋慶舜筆〕法然上人絵伝〔藤原吉光筆〕は鑑賞家の喜ぶ所なり。元亨釈書云、和州禅林寺者、俗号当麻寺、初号万法蔵院、在内州山田郷、(二上山西麓也)白鳳二年麿子王移于当麻、当麻者役小角之家地也、天武帝論小角、捨家為伽藍、十年成、改名禅林寺、落慶導師慧灌僧正也。按ずるに麿子王は推古朝に創立ありしならん、〔大日本仏教史は寺記を引き推古帝二十年創と〕而て其移置は麿子王薨去の後か、然らずんば王在世の日天武帝以前に転徙したる者とす。
   二上当麻寺に詣で、庭上の松を見るに、凡千とせも経たるならん、大さ牛をもかくさん、かかる非情も仏縁に引れて斧斤の罰をまぬがれたるぞ幸にして尊し、
 僧あさがほ幾死にかへる法の松、 芭蕉
曼荼羅《マンダラ》堂 元亨釈書云、天平宝字中、僕射藤横佩有女、性無世染、入寺薙髪、誓曰我見浄土観弥陀、集蓮茎百駄、与二化女、得糸織之、其幅一丈五尺、浄土衆相、厳麗備足、化女即弥陀観音也。古曼荼羅は今秘蔵見る者少し、三十三所図会に延宝中修補すと記す、又云、和州寺社記曰く、中将姫横佩大臣豊成の女、実惟法師を師とし善心尼妙意尼又法如尼の名あり、其庵は今紫雲と名づく、雪玉集に曰く中将姫二上山に草庵を結び、生身の弥陀来迎あらば命終の期とせんとて、念仏三昧に入寥々たる窓の前に日の光さしあらはれたるに、老尼一人来り給ふ法如尼あやしみおぼしめして、
 南無阿弥陀仏をのみぞよぶこ鳥あやしやたれぞ二上《フタカミ》の山、
治承年間兵火の為めに金堂講堂及び二基の塔鐘楼経蔵坊舎けぶりとなりたりと雖、曼陀羅堂のみは巽の角に火付きながら自ら消たりと西誉抄に見えたり、凡当麻寺の曼陀羅其古幅は弥陀観音の両尊織らせ給ふ所なるよし、其上品上生中品中生の間に織る所の銘文四百十三字最も奇巧なり、実に三国無双の霊宝といふべし、近世補修あり、新曼陀羅は当今本堂に収むる所なり、故に今本堂を曼陀羅堂といふ、順徳院建保二年に勅許を蒙り同四年阿波国浦の庄にて絹を得たり、五年六月廿三日功成りぬ、画工は良賢法印源慶法眼銘文は修理大夫藤原朝臣行能なり。春日画所法橋慶俊の造れる曼荼羅(文明年中)又延宝中重新造の者等寺中数幅あり。
奥院往生寺 当麻寺の西の方にあり、本堂は円光大師の像を安んず、傍に阿弥陀堂方丈庫裏楼門等巍々たり、当院にも宝物数多あり、即ち本尊弥陀仏は恵心僧都の作也と、当寺に安置する源空上人の遺像は桑原左衛門入道真像を写す所にして上人自ら開帳四十八度に満給ひし霊像なり、其初は洛東知恩院に在りて年歴を経たりしが、十二世誓阿上人の時此院へうつす。恵心僧都源信は当麻郷の人なり。
染野《ソメノ》寺 染野に在り、石光寺と称す。元亨釈書云、染野有精舎、昔天智帝時、其地夜々有光、帝使人見之、三大石形似仏像、勅刻三石、作弥勒三尊像、其上架殿庇之、俗以近染井号染寺、後役小角殿前栽一桜樹、曰仏法沮桜樹枯、自爾旧枝漸朽、新梢※[くさがんむり/夷]※[くさがんむり/秀]、枝葉欝茂、花果鮮麗、見今存焉。
補【横佩】○平城坊目考 横佩或は萩、右大臣と称す、横佩の二字国史に見えず、或説云、横佩は大和国葛城郡の内郷名にして、豊成公別業あり、於是横佩大臣と云々。
 
長尾《ナガヲ》 今|磐城《イハキ》村と改む、当麻の南にして山駅なり、大字|竹内《タケノウチ》と相接す。西当麻山を踰ゆるを竹内嶺《タケノウチタウゲ》と曰ふ。日本書紀、天武天皇元年、長尾直真墨、率三百軍士、拒於龍田、書紀通証云、葛下郡有長尾村。又此地の長尾神社は延喜式并に三代実録に見ゆ、長尾直の祖神也。
竹内《タケノウチ》嶺 古事記伝云、若桜宮(履中)段に当岐麻道と云は、河内石川郡より大和葛下郡へ越る者にして、二上山の南に在て今竹之内越と云ふ。按ずるに当麻路は河内国山田村鶯関に出で、彼地にて岩屋越とも称する事河内志に見ゆ、山中に岩石多し、天武紀に見ゆる岩手道《イハテノミチ》亦是なり。(壬申年、遣鴨君蝦夷、率数百人、守石手道)
 
高※[各+頁]《タカヌカ》郷 和名抄、葛下郡高※[各+頁]《タカヌカ》郷。額※[各+頁]《タカヌカ》同字なり、其地今詳ならず、新荘村にあたるか、古事記云、息長宿禰王、娶葛城之高額比売、生子息長帯比売命。日本書紀云、神功皇后母曰葛城高※[桑+頁]媛。姓氏録云、高額真人、春日真人同祖、敏達皇子春日親王之後也。
 
新荘《シンシヤウ》 北葛城の南部の大邑なり、延宝八年徳川氏永井越中守尚房を此に封じ、明治維新まで世襲す、領高一万石.陣屋は後|櫛羅《クシラ》に移せり。高田より南へ通ずる鉄道、新荘御所を車駅と為し吉野へ入る。
調田《ツキダ》神社は新荘の北大字|疋田《ヒキタ》に在り、春日と称す。〔大和志〕神護景雲四年槻田神に神封を寄する事新抄格勅符に見ゆ、延喜式調田坐一事尼古神社是也。
金村《カナムラ》社は新荘の西大字|大屋《オホヤ》に在り、三代実録延喜式に載す。日臣命九世孫大伴連金村を祀るか、金村は仁賢武烈継体安閑宣化欽明の六帝に歴事し、久く忠誠を竭して大連と為る。
補【調田神社】○神祇志科 調田坐一事尼古神社
 按、三代実録事を言に作る
今疋田村にあり、春日といふ(大和志・名所図会)
 按、春日神社の摂社に一言主神あり、且本社を春日と云に拠らば、或は一言主神を祭れるか、姑く附て考に備ふ
称徳天皇神護景雲四年、槻田神に大和播磨地二戸を神封に充奉り(新抄格勅符)
 按、槻田は即調田なり
清和天皇貞親元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ其祭毎年六月七日、九月九日を用ふ(奈良県神社取調書)
 
埴口《ハニクチ》墓 飯豊青皇女の御陵なり、今新荘村大字北花内に在り。三歳《サンサイ》山と云ふ、陵山《ミササギヤマ》の転也、書紀通証云.天和中桑山氏毀御墓、建八幡神祠、日本紀云、弘計天皇与億計王、譲位久而不処、由是天皇姉飯豊青皇女、於忍海角刺宮、臨朝秉政、崩葬葛城埴口丘陵。延喜式云、埴口墓、飯豊皇女、在葛下郡兆城東西一町南北一町。続日本紀云、天平六年、葛下郡人白丁|花口《ハナクチ》宮麻呂、散己私稲、救養貧乏、仍賜少初位上。
 
神戸《カンベ》郷 和名抄、葛下郡神戸郷。今詳ならず、蓋|磐園《イハソノ》村にや、葛木御県《カツラギミアガタ》神此に在り。葛木御県神社は今磐園村大字|築山《ツキヤマ》に在り、〔県名勝志〕三代実録延喜式に列し、祈年祭大倭六県神の一也。神祇志料云、大同元年本社に備前地を充封せらる、和名抄備前赤坂郡葛木郷あるは蓋神戸なり。
 
傍丘磐坏《カタヲカイハツキ》陵 磐坏に南北二陵あり、傍丘は今葛下の西北隅に其名存すれば探求者或は本陵を下田王寺の辺に索めたり、然れども傍丘は総名にして磐築は小名なり、磐築の跡を求むれば築山の他に従ふべきか、今磐園村陵西村是なり。(武烈紀城上の地は、後の葛下広瀬に渉れる者なるべしと云)
磐坏《イハツキ》南陵 顕宗天皇の御陵なり、今|陵西《ヲカニシ》村大字池田の二子《フタコ》山是なり。〔陵墓一隅抄〕山陵志云、磐坏、傍丘南隅也、武烈陵乃其北、相並曰北陵、磐坏蓋寿蔵、取其名於祝而築之、今有築山村、其南為陵家村、而南北各存古墳、北陵甚高荘、武烈之陵也、而南陵乃平地之所築、頗卑小、日本書紀云、葬弘計天皇于傍岳磐坏丘陵。延喜式云、傍丘磐坏丘南陵、近飛鳥八鈎宮御宇顕宗天皇、在葛下郡兆城東西二町南北三町。扶桑略記云、磐坏丘陵高三丈東西二町南北三町、同北陵、高三丈方二町。
意多郎《オタラ》墓 日本紀、武烈天皇三年、百済意多郎卒、葬於高田丘上。今|陵西《ヲカニシ》村大字岡崎に在り。〔書紀通証〕
磐坏《イハツキ》北陵 武烈天皇の御陵なり、今|磐園《イハソノ》村大字築山に在りて城山と号す、大和志に茅渟王葦田墓と冒認したる者是也。日本紀、葬小泊瀬稚鶺鴒天皇于傍丘磐坏丘陵。延喜式、傍丘磐坏北陵、泊瀬列城宮御宇武烈天皇、在葛下郡兆城東西二町南北三町。武烈紀云、作城像(寿蔵也)於水派邑、仍曰城上。
 
高田《タカタ》 高田町は大和西南部の都会なり、戸数八百、交通輻輳、木綿売買の市場たり、鉄道は東南北の三方に通ずる外、西は長尾竹内嶺を経て河内に到る山路あり。県名勝志云、高田天神宮は一古嗣にして、貞応弘安応永以下の上棟牌あり。
 
石園《イハソノ・イソノ》 石園は今磐園村浮穴村の地に当る、磐園村に大字磯野あり古名の遺なり、浮穴村には延喜式石園神社存す。
 
浮孔《ウキアナ》 三倉堂《ミクラダウ》村近年改称して浮孔と曰ふ。大和志書紀通証に安寧天皇片塩浮穴宮は三倉堂の地なりと為せるに由る、然れども片塩は河内大県郡たる事、古事記伝に之を論ぜるが如し。石薗神社は三代実録、貞観元年、石園多久豆玉命授位、姓氏録、爪工《ハタクミ》連、神魂命男多久豆玉命之後也。延喜式、石薗坐多久虫玉神社。三倉堂の西方に在り、龍王杜と称す、境内八段計。〔大和志県名勝志〕
補【石園】○奈良県名勝志 石園坐多久虫玉神社二座、園一に薗に作る、浮孔村大字三倉堂の西方にあり、境七反九畝九歩、里人龍王と称す、姓氏録に曰、爪工連、神魂命子多久豆玉命三世天仁本命之後也。上梁文に曰、承久元年七月重修、又曰、応永十二年再造と。清和天皇実録に曰、貞観元年正月廿七日、大和国石薗多久虫玉神に従五位下を授くと。○石園は今別れて石園、浮孔の二となるか。
○神紙志科 石薗坐多久豆玉神社二座
 按、本書虫に作る、今一本姓氏録に依て之を訂す
今三倉堂村にあり(大和志・名所図会)
 按、隣村に磯野村あるは蓋石薗の転音ならむ
神魂《カムムスビノ》命の子多久豆玉命を祀る、即爪工連の祖神なり(新撰姓氏録・延喜式)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上に叙され(三代実録)醍醐天皇延喜の制並に大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ三月六月九月十一日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
山直《ヤマタヘ》郷 和名抄、葛下郡山直郷。和名抄和泉国山直訓也末多倍とあり、山田部の義なるべし、今其地を失ふ、要するに高田町附近の古名なり。一説大坂山の穴虫に掘出せる墓誌に山君《ヤマキミ》里とあるは山直に同じかるべしと。
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広瀬《ヒロセ》郡 明治廿九年廃停し其地北葛城郡に入る。延喜式、和名抄、広瀬郡、訓比呂世。東大寺天平二年大税帳、広湍郡。本郡は東西一里南北二里、狭小の地にして葛下郡に抱擁せられたり。
日本紀の歌謡に飫斯乃広瀬とあり飫斯は葛城の忍海《オシミ》なれば、皆葛城より分出したる事明白也、和名抄六郷に分れ、今五村と為る。
 
散吉《サヌキ》郷 和名抄、広瀬郡散吉郷。今|馬見《ウマミ》村大字|三吉《サンキ》あり即此地とぞ。〔大和志〕古事記、開化天皇々子、比古由牟須美玉之子、讃岐垂根王。馬見《ウマミ》村は古の城戸散吉両郷の地にて葛下の陵西村と接し古墳多し、大字大塚の地に前年古鏡十余枚を得たり、今東京博物館に収蔵す。日本書紀欽明帝二十三年の条に見ゆる讃岐鞍※[革+薦]と云者も此郷人か。
讃岐神社は三代実録、元慶七年散吉大建命散吉伊能城命授位、延喜式、讃岐神社。今三吉に在り大和志に散吉郷済恩寺安部の界に在りと云是也、按ずるに散吉讃岐その原づく所は城にして狭之城の義か。
補【讃岐神社】○神祇志料 讃岐神社、今散吉郷済恩寺赤部二村の界にあり(大和志)蓋|散吉《サヌキ》大建命、散吉伊能城命を祀る、陽成天皇元慶七年十二月甲午正六位上散吉建命神、散吉伊能城命神に従五位下を授く(三代実録)
 按、延喜式載する処一座にして祭料二座なるの例、延暦儀式帳の如き、以て徴とするに足れり、故に今姑く此に附く
凡そ毎年九月十日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
城戸《キノヘ》郷 和名抄、広瀬郡城戸郷。今馬見村に合す、日本書紀に「武烈天皇三年、作城像於水派邑、仍曰|城上《キノヘ》」とある地にあたるか、然れども武烈傍丘磐坏陵此に非ず、万葉集に高市皇子の殯宮を此地に起したる事見ゆ、木※[瓦+缶]城上木上木於城於など種々ある皆同じ。於《ウヘ》神社は延喜式に列す、書紀通証云、於神社在大塚村、称|城宮《キノミヤ》、今馬見村大字大塚にあるべし。成相《ナラヒ》墓は押坂彦人大兄皇子の墓なり、皇子は舒明帝及び茅渟王等の父也。今馬見村大字平尾|小子《ヲコ》塚にあたる、崩壊して原形を失ふ。〔大和志県名勝志〕延喜式云、成相墓、押坂大兄皇子、在広瀬郡東西十五町南北廿町。姓氏録に「成相真人、敏達天皇皇子難波王後也」と見え、成相は本地の名なり、而て成相墓兆城の広大なるを見れば初め押坂皇子等の山荘にやありけん。三立岡《ミタテヲカ》墓は高市皇子(天武子)墓なり、今馬見村大字三吉字大垣内の西北|三立《ミタテ》山あり、然れども墓処を失ふ、近代開拓して之を亡せるなり。〔大和志県名勝志〕或曰三立岡墓は牧野成相両墓の南五町に在り、三墓鼎峙すと。〔名所図会〕延喜式云、三立岡墓、高市皇子、在広瀬郡兆域東西六町南北四町。
牧《マキ》野墓は桓武帝の外祖父高野乙継の墓也、高野朝臣初め和氏と曰ふ、太后新佐笠姓を賜ふて高野と曰ふ。延喜式云、牧野墓、太皇太后之先和氏、在広瀬郡兆域東西二町南北五町。名所図会云、牧野墓は成相基の西十町許に在り。
 
河合《カハヒ》 広瀬郡の北部を河合村と曰ふ。佐保初瀬飛鳥の諸水相会して此に至り、更に広瀬川(百済川葛城川)と会し富小川を容れて益大なり、故に大川《オホカハ》の名あり、河合村即其南畔に居る。日本書紀に広瀬の川曲《カハワ》と記す所之に同じ、広瀬神社あり、謂ゆる川合神〔正倉院文書〕是なり。広瀬川は本|葛城《カツラギ》川の広瀬を云ふ、今百済村に在り、広瀬神社この川合に立ちたるより大川(大和川)をも広瀬川と呼ぶ。
 御そぎして神のめぐみも広瀬川いく千代までかすまむとすらん、〔千五百番歌合〕
河合の大字|佐味田《サミタ》に宝塚と呼ぶ古墳あり前年此より埋蔵品を獲たり。其鑑十七枚は今東京博物館に蔵置す、一は尚方四乳鏡、一は四神四獣鏡、一は日月天王鏡なり、是等製作銘文図様に因り漢魏の世のものたるを知る。
 
広瀬《ヒロセ》神社 河合村大字川合に鎮座し、今官幣大社に列す。日本書紀大忌神に作り、延喜式和加宇加乃売神に作り、又広端河合神と云ふ。中世は二十二社第十三に列し、歴代祈年の大祀たり。日本紀云、天武天皇四年、遣小錦中間人大蓋大山中曽禰韓犬、祭大忌神、於広瀬河曲。延喜式云、大忌祭一座(広瀬牡)御膳持《ミケモチ》須留若宇加能売命。大宝令云、大忌祭、義解云、謂広瀬立田二祭也、欲令山谷水変成甘水浸潤苗稼得其全稔、故有此祭也。大和志云、河合村定琳寺、為広瀬神宮寺。
補【広瀬神社】○神祇志科 広瀬坐和加字加乃売命神社(延喜式)之を大忌神又広瀬河合神と云ふ(日本書紀・新抄格勅符)今広瀬河合村にあり(和州旧跡幽考・神名帳考証・大和志・国華万葉記)御食の事を知り持ち給ふ神若宇乃売神を祀る(延喜式)天武天皇三年四月癸未、小錦中間人連大蓋、大山中曽禰連韓犬をして大忌神を広瀬河曲に祭り、次年七月壬午又之を祭る、是後毎年四月七月祭を行ふ(日本書紀)文武天皇大宝の制又之に依る(令)後世四日を式日とす(延喜式・北山※[金+少]・本朝月令)聖武天皇天平二年広湍川合神に神戸稲租二十束を充奉り(東大寺正倉院文書)光仁天皇宝亀九年六月辛丑、参議左大弁藤原朝臣是公寺として幣帛を奉り、雨風調和ひ秋稼豊稔ならむ事を祈り給ひ(続日本紀)平城天皇大同元年神封戸を充奉り(新抄格勅符)嵯峨天皇弘仁十三年八月庚申、従五位下を授け(日本紀略)文徳天皇嘉祥三年七月丙戊、従五位上に進め仁寿二年七月庚寅、従四位下を加へ、壬辰散位従五位上安宗王等を以て祈年の為に幣馬を奉り、十月甲子従三位を授け(文徳実録)清和天皇貞親元年正月甲午正三位に叙され、九月庚申雨風の祈に幣を捧げ、十二年七月壬申、幣を奉て河内堤を築に雨※[さんずいへん+勞]の患なからん事を祈り、陽成天皇元慶二年七月己未、神宝を納る為に倉一宇を造らしめ、三年六月発酉神財を奉る(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣祈雨の奉幣に預り、凡そ広瀬祭に用ふる処の贄は当国正税を以てし、国司次官以上一人其事を専当《アヅカ》る、某日王臣五位各一人、神祇官六位各一人を祭使に充しめ(延喜式)一条天皇正暦五年四月戊申、中臣氏人を宣命使として疫疾放火の変を祈申さしめき(本朝世紀、参取日本紀略)
 
上倉《カミツクラ》郷 和名抄、広瀬郡上倉郷。上倉下倉二郷相并ぶ、旧事紀に「綏靖天皇兄手研耳命、於片丘大|※[穴/音]《クラ》中、独臥于大床」とある大※[穴/音]之に同じかるべし、今河合村大字|穴闇《アナクラ》あり、此地は葛下の片岡相接すれば古は片岡大※[穴/音]とも称しけん、。大和志云穴闇寺、今名長林寺、見于橋寺縁文。 
下倉《シモツクラ》郷 和名抄、広瀬都下倉郷。上倉郷参考すべし。
 
山守《ヤマモリ》郷 和名抄、広瀬郡山守郷。今其名を失ふ、箸尾村萱野の辺郷名なし、蓋此か、応神天皇の時諸国の海人及山守部を定めたまふ事書紀に見ゆ、是其部民の住処なるべし。
 
箸尾《ハシヲ》 河合の南、百済の北を箸尾荘と曰ひ、其首村を萱野《カヤノ》と為す、今箸尾村と改む。平城坊目遺考に春日大宿所勤番の事を記し、箸尾氏は中川党藤原姓にして、広瀬郡に居り六万石高を有すと録す、戦国頃の大名なり。
大和軍記云、広瀬郡箸尾と申所に箸尾宮内少輔と申仁被居る、先祖より代々の居城にて其旗下には布施|万財《マンサイ》南郷東院などと申人々あり、今の知行高二万石計に候、筒井国替の後其まゝ本領を給り候処、石田逆乱の刻直に改易にて本知を放れ申候。英俊日記、永正二年国衆大名交名に箸尾上野守とあり、別に布施安芸守と云ふもあり、又箸尾上野守父子被述懐遁世事、高田家之儀裁許無一途、近日当麻へ出諸勢、被押寄候、又云、両高田者、河内在国、裁許無一途間、其儘河内に勘忍云々、又布施安芸守行国、箸尾上野守為国、万歳右京進則定、高田常次郎清房などとも注す。
櫛玉比女命神社は今箸尾村大字|弁財天《ベンザイテン》に在り、本社延喜式に列し、旧事紀に拠れば饒速日尊の妃御炊屋姫を祭る者也、浮屠家之を弁財天に転じたるならん。按に畿内志に広瀬《ヒロセ》寺は今大福寺といひ弁財天を祭れり、大福寺貞応三年古鐘、泉州貝塚村願泉寺の什物と為ると曰へり、本社の供僧也。
 
広瀬《ヒロセ》 今百済村に属す、葛城川の東畔に居る。(百済の北に接す)日本書紀に「天武天皇十年、将蒐於広瀬野、而行宮※[てへん+(構−木)]訖、装束設備、車駕畢不幸矣、十三年幸于広瀬」とあるは此地ならん。大和志、「広瀬行宮址在大野」と、大野は河合村に属す、不審と謂ふべし。
 広瀬川袖つくばかりあさきをやこゝろふかめて吾おもへらむ、〔万葉集〕
旧事紀云、饒速日尊天隆之時、供奉防衛、三十二人中、天乳速日命、広湍|神麻続《カンウシ》連等祖。(崇唆紀に広瀬勾原とあり、勾まで広く被れる名なり。)
 
百済《クダラ》 葛城川(広瀬川)重坂川の間なる村落也、南は葛下の高田町東は磯城の平野村とす。応神帝の朝に百済新羅人等帰住したるに因り此名あるべし、敏達天皇元年百済|大井《オホヰ》に造宮あり。河内志此大井を以て河内国百済郷に求め、今川上村大字|太井《タヰ》に擬すれど太井《タヰ》は造宮あるべき地理に非ず、必定大井宮址も大和百済邑に求むべきのみ。
百済池 古事記云、建内宿禰命、引率新羅人、為役之堤池、而作百済池。大和志云、百済村西、広四百畝。
百済宮《クダラノミヤ》址 日本書紀云、舒明天皇十一年、造作大宮、以百済川側、為宮処、書紀通証云、百済宮故址、今半入十市郡飯高村。按ずるに百済川即|重坂《ヘサカ》川なり、飯高は今平野村に属す、天武紀壬申の乱に大伴連馬来田が弟吹負が兵を起したる百済家も此地に在りしなり。紀云、馬来田先従天皇、赴于東国、吹負留於倭家、謂立名于一時、欲寧艱難、即招一二族、及諸豪傑、僅得数十人、密与留守司坂上直熊毛議之、詐称高市皇子、繕兵於百済家。
 
百済大寺《クダラノオホテラ》址 日本書紀云、舒明天皇十一年、造作百済大宮、及大寺、百済川側、建九重塔。大安寺縁起云、上宮皇子以熊凝寺、附舒明天皇、歳次己亥、於百済川側、子部《コベ》社乎切排而定寺家、建九重塔、入賜三百戸封、号曰百済大寺、此時社神□而夫火、焼破九重塔、并金堂石鴟尾。三代実録云、昔日聖徳太子、建平群郡熊凝道場、飛鳥岡本天皇、遷建十市郡百済川辺、曰百済大寺、子部大神在寺近側、含怨屡焼堂塔、天皇遷立高市郡、号曰高市大官寺。通証云、今塔之址、在広瀬郡百済属邑二条、三代実録為十市郡、拾芥抄曰、大安寺、本名百済寺。大日本仏教史云、百済大寺舒明帝建立、封邑三百戸を施入し学侶を住せしめ給ふ、〔大安寺縁起扶桑略記〕其後火あり堂塔灰燼し、皇極天皇阿倍椋橋穂積百足を造寺司と為し、近江高志の丁を発し之を造営せしむ、〔日本書紀元亨釈書大安寺縁起〕孝徳天皇僧恵妙を以て寺主と為したまふ蓋造営成れば也、天智天皇七年大に百済大寺を修し丈六仏像を置く、〔大安寺流記資財帳帝王編年記扶桑略記〕天武天皇二年更に之を高市郡夜倍村に移し高市大寺と曰ふ。名所図会云、百済寺の址、僅にのこりて毘沙門堂あり。
百済野は万葉集高市皇子城上殯宮之時の歌に、
 言さへぐ百済の原ゆ神葬り葬いまして云々、
高市の京より葛下の城戸郷への葬所に赴く路次にあたれば此の如くよめる也。
 百済野のはぎのふる技に春まつとすみし鶯なきにけむかも、〔万葉集〕
 
下勾《シモツマガリ》郷 和名抄、広瀬郡下勾郷。今百済村是也、高市郡に曲川《マガリカハ》村あり相接す。古は当麻勾《タギマノマガリ》と云ふ、当麻へ通ずる路辺なればならん、又広瀬勾と云ふ、広瀬に属する郊野なれば也。古事記云、開化天皇御子、日子坐麻生小俣王、小俣王者当麻勾君之祖。
 
勾原《マガリノハラ》 日本書紀(崇峻紀)云、物部守屋大連誅之軍、忽然自敗、合軍悉被p衣、馳猟広瀬勾原、而散。
 
    南葛城郡
 
南葛城《ミナミカツラギ》郡 古葛城国の南部にして、後葛下忍海二郡に分れしを、明治廿九年合同して南葛城の号を立つ。西は葛城|金剛山《コンガウセン》を以て河内国に界し、南は巨勢山《コセノヤマ》を以て吉野宇智郡に界す、東は高市郡と相交錯す、葛城川(下流広瀬川)重坂《ヘサカ》川(下流百済川)南方より発し北葛城郡へ入る。郡衙は御所《ゴセ》町に在り、十四村を管す。鉄道高田より御所を経て宇智郡五条に向ふ。
     ――――――――――
忍海《オシノミ・オシウミ》郡 延喜式、和名抄、忍海郡、訓於之乃美とありて、日本書紀顕宗巻に於戸農瀰とあり、神功巻に桑原佐糜高宮忍海凡四村とありて、本葛城国の一村なり、初め忍海部氏の邑とす。古事記云、開化天皇御子、建波豆羅和気王者、道守臣忍海部御名部造等之祖也。この邑後は飯豊皇女一名忍海郎女の御名代に定められしか、天智紀忍海造小龍あり、続紀大宝元年倭国忍海郡人三田首あり。忍海は初め一村なるを一郡に建て、和名抄四郷に分つ、人口稠密の地なる事想ふべし。然れど域内東西二里南北一里に満たず、故に今又合併して忍海《オシミ》一村と為る。
 
中村《ナカムラ》郷 和名抄、忍海郡中村郷。今忍海村大字忍海なるべし、即忍海の中心なり、続日本紀に葛下郡国中村とあるも同じかるべし。宝亀五年、国中連公麻呂卒、本是百済国人也、其祖父徳率国骨富、属本蕃喪乱帰化、天平年中、聖武皇帝発弘願、造廬遮那銅像、其長五丈、当時鋳工無加手者、公麻呂頗有巧思、竟成其功、以労遂授四位、官至造東大寺次官、宝字二年、以居大和国葛下郡国中村、因地命氏焉。
 
角刺宮《ツヌサシノミヤ》址 顕宗天皇登極の際飯豊皇女権に朝政を聴きたまへる所也、忍梅村忍海に小祠あり、此なりと云。〔書紀通証〕日本書紀云、億計王与弘計天皇譲位、久而不処、由是天皇姉飯豊青皇女、於忍海角刺宮、臨朝秉政、当世詞人歌曰、
 野麻登べにみがほしものは於尸農瀰のこのたかきなる都奴娑之のみや。(古事記云、葛城之忍海之高木角刺宮)
 
津積《ツツミ》郷 和名抄、忍海郡津積郷。今詳ならず、忍海村笛吹の辺にや。
 
園人《ソノヒト》郷 和名抄、忍海郡園人郷。今詳ならず、古事記に葛城五村苑人とある其一村なり。古事記穴穂宮(安康)段云、大長谷王興軍、囲都夫良意美之家、都夫良意美八度拝白者、先日所問賜之女子、※[言+可]良比売者侍、亦副五処之屯宅以献、注、所謂五村屯宅者、今葛城之五村苑人也。姓氏録、大和諸蕃、園人首、出自百済国久知豆神之後也。
 
栗栖《クルス》郷 和名抄、忍海郡栗栖卿、今詳ならず.大和志云、柳原《ヤナギハラ》に栗栖野ありと、忍海村の東部に大字柳原あり。日本書紀云、去来穂別太子、自龍田山踰之、時倭直吾子籠、素好仲皇子、密聚精兵数百、於|攪食栗林《カキハミクルス》、為仲皇子将拒太子。書紀通証云、攪食栗林、在忍海郷柳原村。万葉集云、
 さしずみの栗栖の小野のはぎの花ちらん時にし行て手むけん。
按に此歌は大納言大伴旅人の詠なり、栗栖は和名抄山城固愛宕郡栗野に作り、久留須と訓注したり、栗栖とは国栖と同言なるべし其考は吉野郡の中に注したり。日本後紀、大同元年勅、池之為用、必由灌漑、栗林之用.良為得栗、今諸国所有蓮池并栗林等、或決灌田之水、潤彼芙蓉、或占無実之林、寄言供御、如此之頬、必妨百姓、宜遣使仔細勘定。
 
忍海《オシウミ》 今は一郡一村と為り、十五大字あれど、旧四郷の区分明ならず、為志《ヰシ》神社は延喜式に列す、今林堂十二所権現と云ふ。〔大和志〕皇極紀に「やまとの飫斯の広瀬を渡むと」云々、為志は忍志《オシ》の誤ならん。
 
笛吹《フエフキ》神社 延喜式、葛木坐火雷神社二座是なり、笛吹山に在り、一座は火宮《ヒノミヤ》と称し火雷神を祭り、一座は笛吹連の祖を祭る。〔大和志神祇志料〕三代実録、貞観元年正三位勲二等葛木火雷神に従二位を授け、延喜の制名神大社に列し、凡朝廷に事ある毎に笛吹社より波々迦木を奉らしむ。姓氏録、天孫笛吹連、天火明命之後也。旧事紀、天火明饒速日命六世孫建多乎利命、笛吹連若犬甘連等祖。笛吹池は笛吹の北梅室に在り。
 笛吹の池の堤はとほくともちかくとひなばわすれざらなん、〔古今六帖〕笛吹のやしろの神は音にきく遊の岡やゆきかへるらん〔藻塩草〕
書紀通証云、古事記曰、天照大神、閉天石屋戸時、召天児屋命、取天香山之天汲々迦、而令占、奥儀抄曰、婆々迦木、取自笛吹社上之山、和名抄、朱桜一名桜桃、和名波々加、一名邇波佐久良、今按婆々迦樺也、和名加波、又云加仁波、俗名犬桜、一名南殿桜是也。
補【火雷神社】○神紙志料 葛木坐火雷神社二座、今笛吹村笛吹山にあり、火宮と云ふ、所謂笛吹社是也、(大和志・奈良県神社取調書)
 按、中古笛吹杜と本社とを以て別神とし、終に本社を笛吹社の末社とす、今之を改むと云り
蓋一座は火雷神を祭り(日本書紀。古事記・延喜式)一座は笛吹連の祖天香山命を祀る(参取、新撰姓氏録・旧事本紀)清和天皇貞観元年正月甲申、正三位勲二等葛木火雷神に従二位を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上祭幣に預る(延喜式)凡そ朝廷卜事ある毎に笛吹社より波々迦木を奉らしむ(奥儀抄・卜部秘事口伝)即本社也、凡そ其祭九月廿四日を用ふ(奈良県神社取調書)
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葛上《カツジヤウ・カツラギノカミ》郡 延喜式、和名抄、葛上郡、訓加豆良岐乃加美。本郡は和名抄九郷に分れ、今|御所《ゴセ》町外十三村と為る、明治廿九年忍海郡と合し南葛城と称す。加豆良岐乃加美は近代専らカツジヤウと呼べり、古の腋上秋津洲の地なり。
葛城《カツラギ》川は金剛山の東麓より発源し、南流して広瀬川と為り、北葛城郡河合にいたり大川に注ぐ、長凡八里。
 
鴨《カモ》 葛上郡に広く被れる古名にて、神武帝の時建角身命も一時此に居り、因て賀茂《カモ》の称を冠す、其他饒速日の供奉、又大田々禰古の裔孫、共に鴨の称を冒す。和名抄に上鴨下鴨二郷あり。
釈日本紀云、山城風土記曰、日向曾之峰天降坐神、賀茂建角身命、神倭石余比古御前立坐而、宿坐大倭葛木山之峰、自彼漸遷至山代国。旧事妃云、鏡饒速日尊天降之時、供奉防衛三十二人中、天櫛玉命、鴨県主等祖。古事記云、意富田々泥古命者、神君鴨君之祖。旧事紀云、大田々禰古命之孫、大鴨積命、此命磯城瑞籬朝御世賜賀茂君姓。姓氏録云、大和神別、賀茂朝臣、大神朝臣同祖、大国主神之後也、大田々根古命孫大賀茂都美命(一名大賀茂足尼)奉斎賀茂神社也。按ずるに安寧帝の后渟名底仲媛は事代主命孫|鴨王《カモキミ》女也と日本書紀に見ゆ、此鴨王やがて大田々根古の祖にあたるか。(開化皇子彦坐命より出でたる鴨氏は牟婁郷参考すべし、)
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下鳧《シモカモ》郷 和名抄、葛上郡下鳥郷。下鳥は下鳧の謬りなる事明白なり、今御所町及び三室|竹田《タケダ》等の諸村ならん、下鴨社は御所町にあり、謂ゆる鴨都美八重事代主神社二座是なり。
 
下鴨《シモカモ》神社 本社は高鴨に対し下津賀茂杜と云事、応永二十五年田荘注進状に見ゆ。〔史料叢誌〕神祇志料云、本社は又葛城賀茂神社といふ、(出雲風土記延喜式神皇正統記大三輪神鎮座次第)大三輪社の別宮也、(大三輪神鎮座次第)今御所村にあり、近隣五村の氏神とす。〔大和志神名帳考名所図会〕蓋積羽八重事代主神妹高光姫大神命を祭る、〔参取古事記旧事紀延喜式〕社伝に下照姫命建御名方命を合祭るとある下照姫は蓋高光姫を謬り伝へし者なること著し、旧事紀に拠るべし、こは天下造らしゝ大神大国主の辺都宮に坐高津姫を娶て生坐る神也、〔旧事紀〕崇神天皇御世神裔大賀茂祇命に勅して初て社を葛城邑の賀茂に建て此神を斎き奉らしめ給ひき、〔大三輪神鎮座次第参取旧事本紀〕醍醐天皇延喜の制並に名神大社に列す。
 
御所《ゴセ》 御所町は南葛城の大邑にて、郡衙あり、又鉄道車駅たり。或は五所に作り、古来ゴセと訓む、其義詳ならず。三十三所図会云、五所新荘高田の辺は諸村木綿紺飛白縞織の類名産たり、或は絹の糸を交へてめづらしき縞を織出すを家毎の手業《テワザ》とせり、是を世に大和縞と号して名産とす、されば村中に藍染の紺掻多く、数多の綛糸を染て軒端に干す、表の傍には機織処女小歌を諷ひ、裏には糸繰老婆詠歌をあぐる、爪の長き仕入の商人あれば、気の短き親仁ありて恰かもいさかへの如く、算盤の音機音に混じて甚静ならざるは、正しく土地の栄と謂ふべし。
 
掖上池心《ワキカミイケノウチミヤ・※[池心の左側のふりがなに「イケゴコロ」とあり]》宮址 孝昭天皇の宮址なり、大和志書紀通証に池内《イケノウチ》(今秋津村)御所二村の間に在り、此地一名|大韋古《オホヰコ》原今|蓬原《ヨモギハラ》と云ふとあり。掖上は御所東西広く被むれる名なり、博多陵※[くちへん+兼]間丘牟婁郷の所在にて之を知るべし。日本書紀、孝昭天皇遷都於掖上、是謂|池心《イケゴコロ》宮。
掖上《ワキカミ》池 日本書紀云、推古天皇廿一年、作掖上池。持統天皇四年、幸于掖上陂、観公卿大夫之馬。掖上池は書紀通証に井戸村と為せど疑はし、宮址と同く池内村に在るべし。
 
博多山上《ハカタヤマノヘ》陵 孝昭天皇の御陵なり、今御所町の西南|三室《ミムロ》村に在り。延喜式、博多山上陵、掖上池心宮御宇孝昭天皇、在葛上郡兆城東西六町南北六町。山陵志云、孝昭帝都腋上、居於池心宮、今池内村即其址、博多山在池内西北、掖上是此間総名矣、博多山今呼天皇山、上有祠、奉孝昭之祀、其地三室村、又池内村西隣曰室村、孝安帝秋津島宮所在、今有古墳焉、石棺一片暴露於其上、里老相伝、此亦孝昭陵、夫孝昭之葬、日本書紀為孝安三十六年、意不応稽延至此、更拠旧事紀、書元年葬之、則孝安孝思之深、蓋初近葬某所居室地、朝夕観望之、乃晩年卜地改葬博多矣、且某曰三室、或仍陵室名之也。(山陵考云、博多山、根廻百二十六間高九間垣廻百四十三間)
 
掖上《ワキカミ》 今御所町の東玉手茅原の辺を掖上村と為す、蓋古の桑原郷にあたる、即ち掖上の古都なり、※[くちへん+兼]間丘あり。掖古書腋と通用す。西州投化記云、姓氏録、功満王、秦始皇三世孝武王之子也、仲哀帝八年来朝、按三代実録三世作十二世、東雅鳩巣小説并曰蓁至子嬰而亡、今称始皇之孫者、蓋出自扶蘇也、功満王之子曰融通王、又作弓月君、応神帝之時更帰国、率百二十七県狛姓帰化、天皇嘉之、賜朝津間腋上地居之。 
桑原《クハハラ》郷 和名抄、葛上郡桑原郷、古の腋上の中にして、日本書紀に桑原邑とありて、帰化人の住地なり、今掖上村にあたる如し。姓氏録云、大和諸蕃、桑原直、漢高帝十世孫万得使主之後也、左京并摂津諸蕃、桑原史、桑原村主同祖。
 
玉手《タマテ》 掖上村大字玉手に孝安天皇玉手丘陵あり、日本書紀仁徳巻に「播磨佐伯直阿我能胡、殺雌鳥皇女、探足玉手玉得之、皇后命有司、推※[革+(句の口の代わりに言)]得状、阿我能胡乃献己之私地、請免死、故納其地、赦死罪、是以号其地曰|玉代《タマテ》」とあるは此か、河内国にも玉手村あり。古事記、葛城長江曾都毘古者、玉手臣祖也、即此なり。
 
玉手丘上《タマテヲカノヘ》陵 孝安天皇の御陵なり、今掖上村大字玉手に在り。延喜式云、玉手丘上陵、室秋津島宮御宇孝安天皇、在葛上郡兆城東西六町南北六町。山陵志云、孝安陵、今所在曰宮山、其上有祠焉、蓋此間亦当隷掖上、而式不冠之、略言爾。(山陵考云、玉手丘上陵、高九間根廻百四十間、)
 
※[くちへん+兼]間丘《ホヽマヲカ》 掖上村大字|本馬《ホンマ》の南、柏原に在り、国見山と曰ふ、本間《ホンマ》は即※[くちへん+兼]間の訛なり。日本書紀云 神武天皇巡幸 因登腋上※[くちへん+兼]間丘、両廻望国状、曰研哉乎国之獲矣、雖|内木綿《ウツユフ》之|真※[しんにょう+乍]《マサキ》国、猶如|蜻蛉《アキツ》之|臀※[くちへん+占]《トナメ》焉、由是始有秋津洲之号也。書紀通証云、秋津洲、此非云日本国状、※[くちへん+兼]間丘所瞰之地形爾、蓋蜻蛉喜銜尾而飛、状成輪曲、故譬之青山四周。按ずるに秋津洲は腋上の地の別名なり、島とは一締《ヒトシマ》りの地域を指す、孝昭天皇之に移都し孝安天皇之に造宮ありしより其名著れ後は和州《ヤマト》全体に及ぼして遂に国朝の別号となれる者の如し。
補【※[くちへん+兼]間丘】○奈良県名勝志、葛上郡掖上村大字柏原にあり、日本紀に曰く、神武天皇三十有一年辛卯夏四月乙酉朔、皇輿巡幸因て腋上※[くちへん+兼]間丘に登り国状を廻望して曰く、妍なる哉国を之れ獲たり、内木綿の其真※[しんにょう+乍]国といへども、猶蜻蛉の臀※[くちへん+占]の如し、是より始めて秋津の号ありと。○掖上村大字本間あり。
 
茅原《チハラ》 掖上村大字茅原は修験道の開祖役小角の故里なり、今吉祥草院五条寺存す、小角の開基と称し其遺像を置く。霊異記云、修持孔雀王呪法、得異験力、以現作仙飛天縁、第二十八、役優婆塞者、賀茂役公氏、今高賀茂朝臣者也、大和国葛木上郡茅原村人也、自性生知、博学得一、仰信三宝、以之為業、修行孔雀之呪法、証得奇異之験術。
補【茅原寺】○掖上村茅原にあり、吉祥草院五条寺と称す、僧行基の開基にして、其遺像あり。
 
牟婁《ムロ》郷 和名抄、葛上郡牟婁郷、孝安帝の都邑したまふ所にして、今秋津村大字室の名存す、日本書紀履仲巻にも掖上室山あり。古事記伊邪河宮(開化)段に、御子日子坐王の子室毘古王あり、葛城鴨氏の一流の祖なるべし、姓氏録、左京皇別鴨県主、摂津皇別鴨君は蓋是なり。
 
秋津島《アキツシマ》宮址 今秋津村大字室に在りとぞ、〔大和志〕孝安帝の御宮なり、古事記云、天皇坐葛城室秋津島、冶天下也、日本書紀云、天皇遷都於室地、是謂秋津島宮。按ずるに室は亦掖上の中にして、孝昭孝安二帝の都城也、秋津島の名之より著れ後国朝の別号と為る。
 
室墓《ムロノツカ》 武内大臣の墓なり、或云ふ玉手に在り、又云ふ室村に在りと。日本書紀允恭巻云、玉田宿禰、主反正天皇之殯宮、逃隠武内宿禰之墓域。山陵志云、孝安玉手陵南有旧家、呼為罐子山、検之是宮車象、而左右有二三円冢、蓋所陪葬者、或以為孝安陵、非也、孝霊孝元二陵未象宮車、而孝安独先得如此乎、玉手一為玉田、武内是玉田氏之祖、由此観之、蓋武内之丘墳、而其孫之所匿、亦可以備考矣。史料叢誌云、三輸神官巨勢氏系図曰、葛上郡室村南、鉢伏山有墳、即武内之室墓也。
 
琴弾原《コトヒキハラ》 秋津村大字|富田《トンダ》に在り.又白鳥陵あり 室の鉢伏山の東北なり。〔大和志〕日本書紀允恭巻云「新羅人恒愛京城傍耳成山畝傍山、則到琴引坂顧之」
白鳥《シラトリ》陵 日本書紀云、日本式尊葬于伊勢能褒野、化白鳥自陵出、指倭国而飛、群臣因開其棺而視之、明衣空留、而屍骨無之、追尋白鳥、則停於倭琴弾原、仍於其所造陵焉、白鳥更飛至河内。
上鳧《カミカモ》郷 和名抄、葛上郡上烏郷。和名抄の上鳥は上鳧の謬りなるべし、下鴨の上方にして今|櫛羅《クシラ》村小林村などにあたる、櫛羅には鴨山口神社あり。
 
櫛羅《クシラ》 此村延宝八年丹後宮津城主永井氏の舎弟直円櫛羅新庄一万石の地を賜ふ、其陣屋近年亡ぶ。西嶺は葛城の一峰にして、戒那と名づくる滝あり。
   葛城山、倶巳羅瀑布 藤本田居
  銀河分一派、直向葛城流、飛響無今古、動揺天地秋、
鴨山口神社は櫛羅村に在り、延喜式大社に列す、又三代実録に載せらる。按ずるに戒那山《カイナサン》即鴨山と呼びし者にて、建角身命の寓止せるは此地なるべし。
 
楢原《ナラハラ》郷 櫛羅村の南にして、又葛城山の中に在り、大村なり。和名抄、葛上郡楢原郷。太平記云、元弘元年東国勢初度の合戦に負くれば、楠が武略侮りにくしとや思ひけん、吐田楢原迄は打寄んとは不擬。平城坊目遺考に、南党楢原氏は葛上郡金剛山麓に住し三万石高なり、春日明神勤番五年毎に勤むとあるは、戦国頃の大名なり。大和軍記云、楢原は国侍の内にては、よき身上の仁にて旗下も多くクシラ、サヒ、長良など申者に候。英俊日記、永正二年和州武家衆の交名中に 楢原三郎栄遠とあり、又吐田修理進遠光と云もあり、
葛木大重神社は延喜式に列す。大和志云、楢原村に在りと。神紙志料云、新抄格勅符に大同元年葛木犬養神に信濃地廿戸を神封に充てらる、大重は犬養の謬に似たり。
 
吐田《ハンタ》 今|吐田郷《ハンタガウ》村と云ふ、和名抄大坂高宮二郷の地なり、吐田の名は太平記に吐田楢原と見ゆれば新称にもあらず、金剛山の東麓にして山路あり、即大坂にして今|水越峠《ミヅコシタウゲ》と称す。(名義は埴田なるべし)
 
大坂《オホサカ》郷 和名抄、葛上郡大坂郷。今吐田郷村の上方を云ふ、大字関屋あり、山路を水越と呼び河内石川の上游に到るべし。古事記掖上宮(孝昭)段云、皇子天押帯日子命者大坂臣之祖也。葛下郡にも大坂あれど之と異なり。姓氏録「大和神別、大坂直、天道根命之後也」とあるは孰の大坂ならん。
葛木|水分《ミコモリ》神社は今吐田郷村関屋の水越峠《ミコシタウゲ》に在り、此神三代実錦貞観元年授位、延喜式に列し、祈年祭水分四神の一なり、水分は配水の謂なり。
補【水分神社】○神紙志科 葛木水分神社、今関屋村水越峠にあり(大和志・名所図会・奈良県神社取調書)蓋速秋津日子神の子天之水分神、国之水分神を祭る、(古事記・旧事本紀)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より正五位下を授け、九月庚申幣使を遣して雨を祈り(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣に預る、即祈年祭水分四神の一也(延喜式)
 按、本書之を名神の社とす、然れども名神祭の条に此神を載せず、今姑く之に従ふ
凡そ毎年八月一日九月廿四日十一月廿日、祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
葛城《カツラギ》 葛城は南北に渉り、古来大名なるが、其本拠は金剛山下高宮郷なるべし、即今の吐田《ハンタ》郷の中なり。日本書紀云「高尾張邑有土蜘蛛、皇軍結葛綱而掩襲之、因改其邑曰葛城」と、是れ神武帝の時にして謂ゆる「以剣根者、為葛城国造」とあるも当年の事なるべし、高尾張の名は後に聞く所なし、蓋高丘と云ひ高宮と転ずるは皆高尾張丘、高尾張丘宮の略ならん。武内宿禰、其族党繁衍し子孫葛城を以て本拠と為し、蘇我大臣高宮に祖廟を立つ、高宮の条参考すべし。
 
尾張《ヲハリ》 葛城《カツラギ》の別名なるべし、古は尾張連あり大姓也。神武天皇紀に高尾張邑と云ふは即高宮郷なるべし、河内国に尾張郷あり、東海道に尾張国あるは尾張連の移住に因るか。又尾張に古言両義あり、小墾田《ヲハリダ》と曰ひ土地に因り、尾羽張《ヲハバリ》と曰ひ剣制に因る。
 
高尾張《タカヲハリ》 日本紀神武巻に高尾張邑と見ゆ、即尾張の高丘の地を指して斯くも曰へるか、(神代巻)天忍穂根尊、生児天火明命、火明命児天香山、是尾張連等遠祖也。火明命は旧事紀に因るに即饒速日と同じ、曰饒速日尊天隆之時、供奉防衛三十二人中、天香語山命、饒速日尊児也。古事記「掖上宮孝昭段云、天皇娶尾張連祖奥津余曾之妹、名余曾多本毘売命。又境原宮孝元段云、御子比古布都押之信命、娶尾張連等之祖、意富那毘之妹、葛城之高千那毘売」と。当時葛城は皇居在り、押之信命の孫武内の族亦此地に繁衍す、以なしと為さず。小川氏云、旧事紀尾張連系譜、三世天忍人命の妻に葛木出石姫あり、弟天忍男命は葛木土神剣根命女を娶る、土神は国造の謂なり、四世瀛津世襲命亦葛木彦と云ふ、七世建諸隅命は葛木直祖大諸見足尼女娶る、建諸隅の妹大海姫一名葛木高名姫は古事記水垣宮(崇神)段に天皇娶尾張連之祖意富阿麻比売とあるに合す、之に依りて之を観るに当時尾張連は葛城に居住したる盛強の族たるや明なり、然るに延喜式六国史中葛城に於ける尾張連の祖神絶えて之なし、是れ疑問なり。
 
高宮《タカミヤ》郷 和名抄、葛上郡高宮郷、訓多加美也。是は高丘宮の謂にて綏靖天皇の都邑なれば此名あり。大和志に森脇を宮址と為す、是なり。今|吐田郷《ハンタガウ》村の下方にして大字|森脇《モリワキ》存す。又大字|名柄《ナガラ》あり、古は長柄に作り長江《ナガエ》と訓む即葛城襲津彦の邑なり、襲津彦の女磐之媛皇后の歌に「箇豆羅紀(葛城也)多伽彌揶(高宮也)和芸幣能阿多利(吾家之辺也)」と日本書紀に見ゆ、又同書神功紀に桑原佐糜高宮忍海凡四邑とありて共に葛城に属す。
 
高丘宮《タカヲカノミヤ》址 高丘は神武帝の葛城の土蜘妹を誅したまへる高尾張の地にして、尾張連居る、別目に其説を挙ぐ、綏靖帝此に都邑したまひ、又高宮と曰ふ。書紀通証云、釈引土佐風土記曰、葛城山東下、高宮岡、持統帝幸焉。按に高丘宮は葛木一言主神社と同く吐田郷村森脇なるべし。
日本書紀云、綏靖天皇都葛城、謂高丘宮。又云皇極天皇元年、蘇我大臣蝦夷、立己祖廟於葛城高宮、而為八※[にんべん+(八/月)]之※[にんべん+舞]。
又云推古天皇三十二年、蘇我馬子宿禰遣使奏曰、葛城県者元臣之本居也、故因其県為姓名、(葛城氏)是以冀得其県、以欲為臣之封県、天皇詔曰、朕自蘇我出之、大臣朕舅也、然今当朕之世、頓失是県、後君曰、愚痴婦人、臨天下、以頓亡其県、豈独朕不賢耶、大臣亦不忠、是後葉之悪名、則不聴。
 
一言主《ヒトコトヌシ》神社 吐田郷村大字森脇に在り、此神は葛木の一言主と称し雄略の朝に出現の事古事記に詳かなり、旧事紀には是神は素盞鳴尊の児とあり。釈紀引土左風土記曰、土左高賀茂大社、其神名為一言主尊、其祖未詳、一説曰大穴六道尊子味※[金+且]高彦根尊、暦録云、雄略天皇時、一言主神与天皇相競、有不遜之言、天皇大瞋、奉移土左、神随而降、神身已隠、以祝代之、初至賀茂之地、後遷于此社、而天平宝字八年、高賀茂田守奏、而奉迎鎮於葛城山東下高宮岡上、其和魂者猶留彼国于祭祀、云々と、之に拠れば高賀茂神と同神にして、土佐国一宮亦同じ。通証云、或曰、事代主命、一言以決天下、焉知非一言主神。文徳実録、嘉祥三年葛木一言主神授正三位、三代実録、貞観元年葛城一言主神授従二位、延喜式名神大社に列す。雄略天皇葛城山に登幸せるとき、其向の山尾より山上に登る人あり、既に天皇の鹵募簿《ミユキノツラ》に等しく其|装束《ヨソヒ》の状《サマ》及《マタ》人衆《ヒトドモ》も相似て分れず、爾天皇望けて問しめ給はく、此倭国に吾を除《オキ》て亦|天子《キミ》はなきを、今誰人ぞ如此て行くと問しめ給ひしかば、答申せる状も大命の如くなりき、於是、天皇怒りて矢刺《ヤサシ》給ひ、百官の人等も悉く矢刺ければ、其人等も皆矢刺り、故天皇其神なる事を知しめせるを、猶殊更に亦問しめ曰く、然らば其名を告《シラ》さね、各も各も名告て矢《ヤ》弾《ハナ》たむと詔ひき、於是答曰く、吾先問ひたれば吾先名告せむ、吾は悪事《マガコト》も一言《ヒトコト》、善事《ヨゴト》も一言、言離《コトサカル》之神葛城之一言主大神也と申しき、天皇惶畏て白し曰く恐《カシコ》し我大神|顕見大身《ウツシオミ》坐むとは覚らざりきと白して、大御刀弓矢を始めて百官人等の所服《ケセル》紅紐《アカヒモ》の青摺の衣を脱しめて拝み献りき、故其大神手拍て其捧物を受給ひ、天皇の還幸時長谷の山口に送り奉りき是一言主神は彼時にぞ顕れ坐ける。〔古事記参取日本書紀〕按に一言主出顕の状は、彼の天空倒映の象に似たり、亦一不思儀と謂ふべし、通証云、按小説曰、役小角架石橋于葛城山、役使山神、憤成功之遅、縛山神、此本三斉略記所説、秦始皇之故事、載在広博物志、一言主神豈見役使之鬼乎、俗説之惑人、吁亦甚。
 
石橋《イハハシ》 古より其説あれど実を詳にし難し。扶桑略記元亨釈書云、役小角、入葛木山、居巌窟者、三十余歳、持孔雀明王咒、駕五色雲、優遊仙府、駆逐鬼神、以為使令、日城霊区、修塵殆偏、一日告山神曰、自葛木嶺、至金峰山(吉野)其間危、雖苦行者、猶或艱之、汝等架石橋、通行路、衆受神命、夜々運巌石、督営構、小角呵神曰、何不早成、対曰葛城峰一言主神其形甚醜、難昼役、待夜出、以故遅耳、小角怒、咒縛一言主神。
 岩橋のよるの契りも絶えぬべしあくるわびしきかつらぎの神、〔拾遺集〕
小川氏云、寛文記に葛城の神は女体にましますと曰へるは、彼石橋の虚誕により、詠歌者流之を夜の契などとよみたるより出しならん。
多太《タタ》神社は吐田郷村大字多田に在り、荘神と云ふ、蓋三輪賀茂両氏の祖大田田根子の故里にして之を祭る、延喜式に列す。古事記水垣宮(崇神)段云、天皇問之、汝者誰子也、答曰僕者大物主大神娶陶津耳命之女活玉依毘売生子、名表櫛方命之子、飯肩巣見命之子、建甕槌命之子、僕意喜多々泥古白、即以為神主、而於御諸山、拝祭意富美和之大神前、此意富多多泥古命者、神君鴨君之祖。摂津国|多田《タダ》も此大田田根子の一族分居の地なるべし。
 
宮戸《ミヤト・ミヤノヘ》 宮戸は吐田卿村の大字なり、今ミヤトと呼ぶ、蓋旧地にして此辺に猪石岡あるべきも今詳ならず。姓氏録云、山城神別|神宮部《カミヤベ》造、葛城猪石岡|天下神《アマクダルカミ》天破命之後也、六世孫吉足日命、磯城瑞籬宮御宇崇神天皇御世、天下有災、因遣吉足日命、令斎祭大物主神、災異即止、天皇詔曰、消天下災、百姓得福、自今以後可為宮能売神、乃賜姓宮能売公、然後庚午年籍注神宮部造也。
 
長柄《ナガエ・ナガラ》 今吐田郷村名柄は古は長柄に作り長江と訓む、後世転じて長良と為す、仁徳皇后磐之媛の故里にして日本書紀に葛城部を定むとあるも此地の事か。
磐之媛は父は古事記に「葛城長江曾都比古者、玉手臣之祖」と称す、即邑人なり。長柄《ナガエ》神社は名柄に在り、延喜式に見ゆ。姓氏録云、大和地祇、長柄首、事代主神之後也。日本書紀云、天武天皇九年、幸于朝嬬、因以看大山位以下之馬於長柄杜、乃※[にんべん+卑]馬的射之。
 
御歳《ミトシ》神社 今葛城村大字|東持田《ヒガシモチタ》の御年山に在り、延喜式に祈年祭斯神を拝し名神大社に列す。三代実録、貞観元年葛木御歳神授従一位とある者是なり、初め大田々根子の裔孫本社の視たりと云ふ。〔姓氏録〕此神後世太だ顕れず旧事本紀に本社は事代主及高照姫を祭ると為せど、謬文に似たり。
御歳神は大年神の子とす、其功烈は古語拾遺に詳なり、上古|大地主《オホトコヌシノ》神御田営らしゝ時、田人に牛肉を食はしむ、御蔵神の子其田に至り御饗《ミアヘ》に唾《ツバキ》て還り坐て父神に其|状《サマ》を告《マヲ》す、時に御歳神怒り坐て其田に蝗《イナムシ》を投じ給ひしかば、苗葉《ナヘノハ》忽に篠《シノ》竹なし枯損《カレソコ》ねき、故大地主神|片巫《カタカウナギ》(本注に云ふ志止々鳥)肱巫《ヒヂカウナギ》(本注云今の俗竈輪また米占と云是也)をして占求《ウラマギ》給へば此は御歳の祟也、白猪白馬白鶏を献りて其神怒りを解和給へと白して、故教のまゝに御年神に奉謝《イノリ》給ふ、時に答曰く是は誠に吾意也、故|麻柄《アサガラ》を加世岐に作り、其葉を以て之を払ひ、天押草をもて其を押し烏扇《カラスアフギ》を以て扇げ、如此《かく》して猶去ずば溝口に牛肉を置き※[くさがんむり/意]子《ツス》蜀椒《ヤマハジカミ》呉桃葉《クルミノハ》及塩を其|畔《クロ》に班《アカチ》置けと言教給ひき、茲に大地主神其教の隨《マニマニ》行給ふ、時に苗葉復茂りて年穀《タナツモノ》豊《ユタカ》に稔りき、是神祇官白猪白馬白鶏を以て此神を祭る緑也。〔古語拾遺〕称徳天皇天平神護元年、大和讃岐等十三戸を神封に充奉る。〔新抄格勅符〕
補【御歳神社】○神祇志科 葛城御歳神社、今東持田村御年山にあり(大和志・名所図会・奈良県神社取調書)大年神の子御年神を祭る(古事記・延喜式)
 按、旧事本紀に八重事代主神の妹高照光姫大神命は倭国葛上郡御歳神社に坐すとあるは、恐らくは神名帳の順序に依て推あてに云る妄説に似たり
文徳天皇仁寿二年四月庚申、御歳神に従二位を授け、十月甲子正二位を加へ奉り(文徳実録)
 按、本書大和国御歳神とのみにて郡名なし、故に高市郡御歳神社と混はしく思はるれど、三代実録の位階神名に拠る時は本社なる事甚明らかなり、故に此に附く
清和天皇貞観元年正月甲申、正二位葛木御歳神に従一位を授く(三代実録)初め大田田根子の裔本社の祝たりしより後神主を置事なかりき(新撰姓氏録・三代実録大意)八年に至て始て神主を置しに、神祟甚だ著る、仍て勅して之を停む、十二年七月壬申、幣を奉て河内国の堤重て水害なからむ事を祈らしめ給ひき(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る、凡そ祈年祭例幣の外必ず白猪白馬白鶏各一を加奉らしむ(延喜式)毎年八月廿七日廿八日を以て祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
日置《ヒキ・ヒガ》郷 和名抄、葛上郡日置郷。日置は諸国に多き名なるが、此地最旧きか、旧事紀に「腋上池心宮御宇孝昭天皇の后は饒速日尊四世孫世襲足姫命亦名日置姫命」とあり、本郷蓋世襲足姫の御名代なるべし。仁徳天皇の御歌に「朝妻の避箇《ヒカ》の小坂」の句あり、避箇即日置なるべし、然らば今葛城村の中とぞ。栗田氏郷名同唱考云、日置といふは和名抄に能登珠洲郡、丹波多紀郡、出雲神門郡、肥後玉名郡、大和葛上郡、安房長狭郡、尾張海部郡、薩摩郡名、伊勢壱志郡、長門大津郡、越後蒲原郡、周防佐婆郡、但馬気多郡、ヒオキともヘキともヒキとも訓るは皆音の転なり、正しくはヘオキとも訓むべきにや、出雲なるは風土記に「日置郷云々、志紀島宮御宇天皇之御世、日置伴部等所遣、来宿停而為政之所、云日置郷」とある志紀島宮は崇神天皇なるべし、この御世に出雲振根が事ありて後大神を祭らず、是によりて神託ありしかば伴部を遣はされて大神を祭らせ政をせさせ、其人々を置せ給ひしなるべし、さて其の人々の戸を定めて置かれしよりヘオキの義にて日置郷は出来たるにやあらむ、さて日置部臣といふ姓も出雲にあるは此に起りしなるべし、部々の住る処をしか名けたりけむも知るべからず。
 
避箇《ヒカ》 書紀通証云、朝妻山在葛上郡、朝妻村上方山路、曰比介小坂。(避岐を避箇に転ずる事古言其例あり)
 阿佐豆磨の避箇の烏瑳箇《ヲサカ》をかたなきに道行くものもたぐひてぞよき、〔日本書紀〕
 
朝妻《アサツマ》 今葛城村の大字なり。姓氏録云、弓月王、応神天皇十四年来朝、上表更帰国、率百二十七県伯姓帰化、并献金銀玉帛種々宝物等、天皇嘉之、賜大和朝津間腋上地居之焉、又云、大和国諸蕃、朝妻造、韓国人山都留使主後也。允恭天皇御名を雄朝津間稚子と申奉る、相因める所あるか、又、天武天皇九年、幸于朝嬬」とも見ゆ。
 けさゆきて明日は来なむと云へしまに旦妻山に霞たなびく、〔万葉集〕
 
葛城山《カツラギヤマ》 大和国西界の峻嶺にして、其脈北に赴く者は戒那山二上山と為り、西に趨る者は河内紀伊の国界を為し由良海門に至る。其高峰は南葛城郡の西に於て高天山《タカマヤマ》と為る、一名金剛山と曰ふ、役小角山中に修行しけるより今に道士絶ゆるなく、中世は七高山の随一にして、修験宗の霊場たり。
 春柳|葛城山《カツラギヤマ》にたつくものたちてもゐてもいもをしおもほゆ、〔万葉集〕よそにのみ見てややみなんかつらぎや高間の山のみねの白雲、〔新古今集〕
  葛城峰 新井白石
天上玉芙蓉、五城十二重、帝畿標巨鎮、神府擁群峰、列宿環朱鳥、飛泉掛白龍、霓旌仙蹕度、時有羽人逢、
  葛城山にて
猶見たし花にあけ行く神の顔、 芭蕉
日本書紀、雄略天皇四年、射猟於葛城山、急見長人来望丹谷、面貌容儀相似天皇、天皇知是神、猶問曰何処公也、長人対曰、現人之神先称王諱、然後応※[道/口]、天皇答曰朕是幼武尊也、長人次称曰、僕是一言主神也、遂与盤于遊田、駈逐一鹿、相辞発箭、並轡馳※[馬+(聘−耳)]、言詞恭恪、有若逢仙、於是日晩田罷、神侍送天皇、至来目水。又云雄略天皇五年、狡猟于葛城山、嗔猪従草中暴出逐人、天皇詔舎人逆射、舎人怯縁樹、嗔猪直来欲噬、天皇用弓刺止、拳足踏殺、於是欲斬舎人、皇后止之曰、陛下以嗔猪故而斬舎人、無異於豺狼也、天皇乃与皇后上車帰、呼万歳、曰楽哉、人皆猟禽獣、朕猟得善言而帰。又云斉明天皇元年正月、空中有乗龍者、貌似唐人、著青油笠、而自葛城嶺、馳隠胆駒山、及至午時、従於住吉松嶺之上、元以役行者為師、敬重、後妬賢徳、讒奏公家云、小角夾誑惑世間、為国凶乱也、又葛木山之澗底、常有吟音、聞之尋至、大巌藤纏、疑是巌吟歟、切放即纏、如本繋縛、役公伝曰、役儀婆塞者、着藤皮衣、松葉為食、吸花汁、助保身命、卅余箇年、誦孔雀王咒、難行苦行、大験自在、追聚鬼神、令駈仕、吾国無比也、於時金峰与葛木峰、為行通於両山、召集諸神、令度橋、金峰大神、不勝咒力、而且作始之、葛木一言主大神、又且始作、申於行者云、自形尤醜、夜間作之、行者云、昼尚怠、況将夜作哉、時一言主神、不勝於行者追、讒言於王宮、云々。〔節文〕
 
高天《タカマ》 葛城村大字高間、葛城山の上方にして世俗高天原と曰ふ、南遊紀行云、葛城山東麓より二十町登りて高天村に至る、高天は郷内広く村々多し、桜又鶯の名所なり、此辺より大和国中よく望見す。
 葛城の高閲の草《カヤ》野はやしりて標《シメ》さゝましを今ぞくやしき、〔万葉集〕古今秘抄に、孝謙天皇の御宇、大和国高天寺の小童空くなる、次の年鴬来り梅が枝に鳴く、其声をきけば「初陽毎朝来不相還本栖」と、これを文に移せば「初春の朝夕毎にきつれどもあはでぞかへるもとの栖かに」、云々と見ゆ、今も高天寺の境内に古梅あり。〔名所図会〕高天彦神社は高天山に在り、今彦沢権現と称す。〔大和志〕延喜式名神大杜なり。新抄格勅符云、宝亀十年、高天彦神奉充四戸。類聚国史云、大同元年、高天彦神預四時幣帛、縁吉野皇太后願也。三代実録云、貞観元年、正三位勲二等高天彦神授従二位。
補【高天彦神社】○神紙志料 高天彦神社は今高天村高天山にあり、彦沢権現といふ(和州旧跡幽考・大和志・神名帳考証)光仁天皇宝亀十年神封四戸を充奉り(新抄格勅符)平城天皇大同元年四月己未、正四位上高天彦神四時幣帛に預る、吉野皇太后の御願に依て也(日本後記・類聚国史)、仁明天皇承和六年五月丙午、従三位高天彦神を名神とし(続日本後記)清和天皇貞観元年正月甲申、正三位勲二等高天彦に従二位を授く(三代実録)
 按、本神従三位に進み又正三位勲二等に叙されし事史に漏て考ふべからず
醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上官幣に預る(延喜式)凡そ其祭九月五日を用ふ(奈良県神社取調書)
 
金剛山寺《コンガウセンジ》 葛城山の頂に在り。神皇正統記に華厳経の文「東北海中有一処、名金剛、従昔以来、有菩薩、名曰法起」を引き、書紀通証は金剛鑚山中に出づ故に名づくと為す、名所図会云、金剛山寺は正堂大和国に属し、余堂河内国に隷す、東に朝原寺あり南に猪石岡寺あり。(猪石岡は姓氏録に見ゆ昔天降る天破神此に居る)正堂本尊法起菩薩なり、役行者開基と云ひ、此寺一名転法輪と云ふ。吉野詣記(天文廿二年)云、此名山は彼「於南海中、有一浄土、常在説法、法喜菩薩、名金剛山」の本文も此世の外の心ちして、道すがらのけはしき、鳥の声もたえたる所に雪のこり、み山木など冬の盛の姿にてたてる誠に馬の通ひもなき故と人々申けり、哺時に辛うじて上りつきぬ、榾と云もの焚きすさびたる炉火のもとによりて、道すがらの寒さつくろふ、程もなく点心などいふものとりまかなひ備へたり、長く道たえたる山のうへに、かゝる貯へのとりあへざりしもふしぎにて、思ひつゞけゝる、
 衆峰絶頂金剛窟、行者高蹤路転迷、今日初嘗禅悦食、相盟法喜法身妻。
金剛沙一名柘榴石、(一名柘榴子又柘榴珠)色沢種々にして其美麗なるを宝玉と為し、細沙を玉石の截磨に用ゐ、金剛鑚と称す、本邦其産地金剛山最著れ、今葛下の穴虫河内石川郡古市郡等金剛山の脈中に産す。天平十五年、官奴大友斐太葛下郡大坂に金剛鑚を獲て玉を造る事続日本紀に見ゆ、当時称して大坂沙と曰へりとぞ。
補【金鯛山】○産業事蹟 聖武天皇天平十五年に大友史斐太と云ふ者ありて、官奴なりしが玉を造ることを能くせり、此の年大和国葛下郡大坂と云ふ所にて金剛鑚を得て玉を造るに用ひしに、其功甚だ速かなり、天皇斐太が功を賞して官奴を免じて良民に従はしめらる、而して大坂に於て得たる砂なるを以て当時大坂砂と云へり、其事は続日本紀巻十五に見えたり、因て案ずるに、金剛鑚の出しより其山を金剛山と云ふなるべし、此の砂は金剛山のみならず大和の生駒山其他丹後、土佐、讃岐等の諸国にもありて、何れも解玉の功あり、天工開物に解玉砂と云ひ、通雅に※[(刑−りっとう)+おおざと]砂と云ふも、恐らくは此の類の砂なるべし、此の金剛鑚出てより玉を造ること大に易くなりたりと云ふ。
 
佐糜《サビ》 今葛城村大字佐味、中世は佐味荘と称したり、日本書紀神功巻に佐糜邑とある者此也。
 
神戸《カンベ》郷 和名抄、葛上郡神戸郷。今葛城村佐昧高鴨の辺なるべし、即高鴨社の神戸、中世は神通寺村の名あり。
 
高鴨《タカカモ》神社 葛城村大字高鴨字|神通寺《ジンツウジ》に在り、〔大和志〕出雲阿遅※[金+且]高日子根神を祭る、又迦毛大御神と謂へり。〔古事記〕旧事本紀に捨篠《ステシヌ》社と云ひ、延喜式高鴨阿治須岐詫彦根神社四座(並名神大社と為す、蓋苗裔神を配祀せる也。初め雄略天皇の朝此神出現ありしが、天皇之を土佐国に移し、天平宝字年中某氏人の請に因り之を迎ふ。出雲風土記云、意宇郡賀茂神戸、阿遅須岐高日子禰命、坐葛城賀茂社、此社神戸在焉、改名鴨。(新抄格勅符云、鴨神戸八十四戸大和卅八戸伯耆十八戸出雲廿八戸)続日本紀云、天平宝字八年、復祠高鴨神於葛上郡、高鴨神者、法臣円興其弟中衛将監賀茂朝臣田守等言、昔大泊瀬天皇猟于葛城山時、有老夫毎与天皇相逐争獲、天皇怒之流其人於土左国、先祖所主之神、化成老夫、爰被放逐、於是天皇(淳仁)乃遣田守迎之、令祠本処。新抄格勅符云、天平神護元年、土左地廿戸奉充高鴨神、二年大和伊与地三十三戸奉加。三代実録云、貞観元年、従二位勲八等鴨阿治須岐宅比古尼神授従一位。補【高鴨神社】○神祇志料 高鴨阿治須岐詫彦根神社四座、又|捨篠《ステシノ》社といふ(旧事本紀)今佐味荘神通寺村にあり(大和志・神名帳考証)大国主神の子阿遅※[金+且]高日子根神を祭る、今迦毛大御神と申す(古事記)高鴨神にして皇孫命の近き守り神と坐させ奉る神也(続日本紀・延喜式)此神天稚彦が喪を弔給ふに、其妻子等此神を天稚彦と見まがひて哭悲みき、爰に此神大く怒りて、我は愛しき友なれこそ弔ひ来りつれ、何とかも我を穢き死人に比《ナゾ》ふると云て、御佩せる十掬剣を抜て其喪屋を切伏せ、足もて蹶離ちやりて飛去給ひしかば其妹下照姫命歌よみして其名を顕し申しき(日本書紀・古事記)初め大国主神の裔大田田根子命の孫大賀茂積命、此神を斎奉りしより賀茂朝臣世々其祭を掌る、(参取、新撰姓氏録・続日本紀)雄略天皇葛木山に猟し給ふ時、此神老翁と化て獲ものを競て不遜《ナメシキ》詞ありしを、大く怒坐て土佐国に移奉らしむ(続日本紀)大炊天皇天平宝字八年十一月庚子、僧円興弟中衛将監高賀茂朝臣田守が請に依て高鴨神を土佐より迎へて、葛上郡葛城山東下高宮岡上に鎮祭り給ひ(続日本紀・釈日本紀)称徳天皇天平神護元年土左地廿戸を充て神封とし、二年大和伊与地三十三戸を寄し奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従二位勲八等鴨阿治須岐宅比古尼神に従一位を授け(三代実録)
 按、本書同条に正三位高鴨神に従一位を授くるとあるは、恐らくは誤りて重複りしものなるべし、故に今取らず
醍醐天皇延喜の制四座並に名神大社に列り、祈年月次相嘗祭の案上官幣に預る(延喜式) 按、四座の内三座祭神、今考ふべき由なし
一条天皇正暦五年四月戊申、疫癘の御祈の為めに中臣氏人を宣命便として幣を大和鴨社に奉る、蓋此神也、(本朝世紀、参取日本紀略)凡そ九月九日を以て祭を行ふ(奈良県神社取詞書)
 
余戸《アマリ》郷 和名抄、葛上郡余戸郷。蓋神戸の余戸にして、今|葛《クズ》村なるべし、雲櫛神あり。重坂川の上游にて、地勢高市郡巨勢郷と連接す、巨勢山あり。
 
巨勢山《コセヤマ》 葛城郡と吉野郡の堺に在り、重坂川《ヘサカガハ》より発す、延喜式巨勢山口神社は葛村大字|古瀬《コセ》に在り。
 巨勢山のつら/\椿つら/\に見つゝ思ふな許湍《コセ》の春野を、〔万葉集〕
巨勢寺址 日本書紀云、天武天皇、朱鳥元年、巨勢寺封二百戸。書紀通証云、巨勢寺、在葛上郡古瀬村、今廃。
 
※[木+威]田《ヒタ》 今葛村の大字|樋野《ヒノ》蓋此なり。姓氏録云、巨勢|※[木+威]田《ヒタ》朝臣、雄※[てへん+丙]宿禰四世孫稲茂臣(欽明紀許勢臣稲持)之後也、男荒人、皇極天皇御世、遺佃葛城長田、其地野上漑水難至、荒人能解機術、始作長※[木+威]、川水灌田、天皇大悦、賜※[木+威]田臣姓也。
 
戸毛《トゲ》 戸毛村古瀬村等今合同して葛村と改む、御所より吉野山へ赴く駅路にあたる。吉水院文書、建武元年戸毛荘。
大穴持神社は葛村大字|朝町《アサマチ》に在り、三輪明神と称し拝殿ありて神宮なし、〔大和志名所図会〕延喜式に列す。
雲櫛《クモクシ》神社は延喜式、葛上郡大倉比売神社、又云雲櫛社、旧事紀によれば此神即高鴨神の妹下照姫に同じ、大穴持と同く高鴨社の苗裔神也、土人宇久比須宮と称す、〔県名勝志〕彼高天寺にも鶯を名所とす、惟ふに高天彦は下照姫の夫天椎彦を祭る者にして、亦同く高鴨社の苗裔神ならん。
 
重坂川《ヘサカガハ》 葛村巨勢山中より発し、重坂を経て高市郡に入り北葛城磯城二郡の間を流れ百済川と称す、長八里、大川に注ぐ。能登瀬《ノトセ》川と云ふは本川の古名か。
 高湍《コセ》なる能登瀬の川ののちにあはむ妹には吾は今ならずとも、〔万葉集〕
 
火打崎《ヒウチサキ》 火打崎は大治元年白河法皇高野御幸記に見ゆ、大和川の南方広瀬杜に近しと云ふ、今詳ならずと雖葛城郡の中なるべけれは、仮に此に係く再按、扶桑略記、寛治二年太上天皇高野御幸の時も、往復とも火打崎行宮に着御ありて、葛上郡火打崎と録す。大治元年高野御幸記云、大和川連日雨降、中途泥濘、然間河梁遂流、危渡有畏、※[舟+乍]※[舟+孟]三艘、可渡由仰左衛門少尉源為義、着御于火打崎、件御所立三間四間檜皮葺屋一宇、為御所、西有板葺五間廊、為公卿殿上人座、北有同六間廊、為所衆武者所座、御所艮方有五間廊、為御厨子所、北垣西頭五間一面屋為庁、乾角立九間二面屋、為御厩、坤角立四問屋為御車宿、御随身所艮角立三間一面屋、為釜殿并召次所、此処人家相僻、民居稀疎、仍扈従輩或構仮屋、或占殿舎、抑今夜依為巡路、奉幣広瀬社。
 
    高市郡
 
高市《タカイチ・タケチ》郡 延喜式、和名抄、高市郡訓多介知。色葉字類抄、引古記云、武市、高市。今タカイチと云ふ、和名抄八郷、今八木町今井町外十二村と為り、郡衙を八木《ヤギ》に置く、南は鷹鞭山を以て吉野郡と堺し、西は重坂川《ヘサカガハ》西岸の地をも兼領し、東北は磯城郡と接す。本郡は上古|倭《ヤマト》磐余《イハレ》の地なり、後高市県と為り、磐余の名は僅に十市郡耳成川辺に存し、今其遺地磯城郡に入る、神武天皇橿原宮に御し尊号を神|日本《ヤマト》磐余彦と称し奉る、橿原即磐余の属地なれば也、宮址今本郡白橿村に在り。
日本書紀神代巻に「大物主神及事代主神、乃合八十万神於天高市、以朝参京師」の語あり、此天高市は此地なるや否詳ならずと雖、同名社あり、蓋高市は高処市邑の義たるや明なり。神武奠都以降歴朝の宮殿多く本郡に在り、謂ゆる国之奥区なり、故に高市《タケチ》の名あるか。又一時今来郡の称あり、帰化種裔満地に居住しければと云ふ、今来は新帰の義なり。古事記云、天津日子根命、倭高市県主之祖也。姓氏録云、高市県主、天津彦根命十二世孫建許呂命之後也。日本書紀云、天武天皇元年、高市郡大領高市県主許梅、同十二年、高市県主賜姓曰連。今来《イマキ》郡の名は日本書紀欽明巻の外所見なし、高市郡の別称にして新帰の民多きを以て此名あり、蓋一時の私謂ならん、然れども亦以て昔時古京住居の種別は蕃氏特に熾盛なるを徴るに足るは此一事の存せるに由る。日本書紀云、欽明天皇七年、倭国今来郡言、於五年春|川原《カハラ》民直宮(民は姓宮は名)買取良駒、襲養兼年、檜隈村人也。続日本紀云、宝亀三年近衛員外中将勲二等坂上大忌寸苅田麿等言、以檜隈忌寸任大和国高市郡司、元由者、先祖阿智使主、軽島豊明宮馭宇天皇御世率十七県人夫帰化、詔賜高市郡檜前村而居焉、凡高市郡内者、檜前忌寸及十七県人夫満地而居、他姓者十而一二、是以天平元年、従五位民忌寸袁志比等申其所由、被任郡司、四世于今、勅、宜莫勘譜第、聴郡司。按ずるに高市郡は当時の京邑なれば蕃別雑居多しと云と雖固より貴種国姓亦大なり、但飛鳥藤原廃墟と為りて百官悉皆平城に移りたるより、本郡遺留の人民蕃別独り多く十中八九を占め、因て古県主天津彦根の譜第を停め、新帰化檜前忌寸の任を見たる也。
     ――――――――――
巨勢《コセ》郷 和名抄、高市郡巨勢郷。今越智岡村|新沢《シンサハ》村|天満《テンマ》村にあたる、郡の西部にして重坂川の西傍に居る、重坂川は南葛城郡巨勢山より発源す、一名能登瀬川。
 さざれなみいそ越道《コセヂ》なる能登瑞河音のさやけさたぎつせ毎に、〔万葉集〕
古事記云、武内宿禰之子、許勢小柄宿禰者、許勢臣之祖也。(小柄三代実録に男韓に作る)日本書紀、継体天皇元年、巨勢臣男人。孝徳天皇大化五年、巨勢徳陀古。按ずるに天満村は古南葛城の忍海郡の地たるやも知るべからず。
 
越智《ヲチ》 今|越智岡《ヲチヲカ》新沢の二村は古の越智なり。姓氏録「左京神別越智直、石上同祖神饒速日命之後也」は此に因あるか、越智岡陵は皇極天皇を葬り越智野は万葉集に詠ぜらる。続日本紀「延暦二年、贄田物部首年足、築越智池」と見ゆ、今大字|田井《タヰ》荘あり、其潅漑の所にあらずや。
越智館址 中世越智氏あり本郡の豪棄族なり、物部姓と称すれな越智直の裔ならん、南主に勤王し正平五年足利直義を庇保したる事あり、享禄天文の頃高取城へ移る、故館は越智岡村大字越智なるべし。平城坊目遺考云、大和国武士春日明神大宿所動番、越智姓物部、毎年なり、高市郡畝火山西にて、高二万四千石。太平記云、左兵衛督慧源は吉野殿と御合体ありて、慧源は大和の越智の許におはしければ、和田楠を始めとして、大和河内和泉紀伊国々の宮方とも我も/\と慧源殿に馳せ参る。
越野は越智野なり、歌枕にコス野とよむは謬れり。冠辞考云、万葉集
 しきたへの袖易へし君玉だれの越野《ヲチヌ》に過ぎぬ亦もあはめやも、
此反歌は裏書に 「或本云、葬河島皇子越智野時」とあり、因りて越野は乎知能とよむべし、高市郡の地なり、「玉の緒」とかけたり。万葉集に又越の菅原あり、之を高志国と為すも非なり、同く越智ならん「真珠のを」とかけたり、
 またまつく越の菅原わが苅らず人のからまく惜きすが原。
天津石門別《アマツイハトワケ》神社 延喜式、三代実録に見ゆ、今越智岡村大字越智に在り。〔県名勝志〕姓氏録云、神魂命之子天石都倭居命。古事記云、天石戸別神者御門之神也。
補【越智】市布郡○史学雑誌(廿六年十月)遠智家譜伝に拠れば、其先大和源氏(即清和源氏満仲の流)にして右馬頭親家始めて越智に住して越智を称し、其長子親房大島冠者と号し、次子家房越智冠者と号す、享禄天文の間に至り高取城に居る、家房より二十一代玄蕃頭頼秀、大和大納言秀長卿に属せしが、天正十七年讒に遇て自害、其子家政徳川家康公に従ひ、旧邑に復せしも、子家常に至り再び邑を失ふ。
 
越智崗上《ヲチヲカノヘ》陵 皇極斉明天皇の御陵なり、今越智岡村大字越智の東にあり。一丘二塚其一塚は崩壊して石棺暴露す、古丘は完好なり、是即帝陵にして陪塚は皇女皇孫なるべし。或は曰ふ越智の南|車木《クルマギ》天王山即御陵と。〔陵墓一隅抄〕山陵志云、越智軍記曰、茅原之東|志貴奈美伊佐羅波《シキナミイサラバ》山、志貴奈美布列也、謂山勢布列東西也、伊佐羅波、大和方言謂崩、則崩山指越智崗、続日本紀、天平十四年越智山陵崩壊、長一十一丈広五丈二尺、在茅原之東矣。按ずるに大和志は本陵を北越智東北升塚と為す、一隅抄謂ふ所と同異詳ならず、山陵志の茅原は南葛城腋上村にして本地の西南に接す。日本書紀、天智天皇六年、合葬天豊財重日足姫天皇与間人皇女於小市岡上陵、以皇孫大田皇女葬於陵前之墓。延喜式、越智岡上陵、飛鳥川原宮御宇皇極天皇、在高市郡兆城東西五町南北五町。扶桑略記云、斉明天皇、辛酉夏遷居筑紫朝倉宮、七月天皇崩、山陵朝倉山、十一月改葬大和国高市郡、越智大握間山陵。
今城谷上《イマキタニノヘ》墓 大和志之を以て吉野郡大淀村の今木に在りと為せど疑ふ可し、趨智崗上陵と同所にあらずや。日本書紀、斉明天皇四年、皇孫建王薨、今城谷上起殯而収、天皇本以皇孫有順、而器重之、詔群臣曰、万歳千秋之後、要合葬於朕陵。
 
新沢《シンサハ》 北越智は近年改めて新沢村と為す。字常門に延喜式|稲代《イナシロ》坐神社あり、打鳥祠と称す。〔大和志県名勝志〕又北越智の東に古墳あり(升加山天王社)身狭桃花鳥坂《ムサツキサカ》墓なるぺしと云ふ、今別目に出せば此に掲げず。三十三所図会云、常門の長法寺は本堂大日如来観音堂地蔵堂等あり、十三重石塔婆は先年其中より銅鏡金仏を出せる事あり、石燈籠は正和五年施入の銘ありとぞ。新沢の西なる天満《テンマ》村は南葛城郡忍海村と相錯る。
 
補|長法《チヤウホフ》寺 高市郡〇三十三所図会 天満山長法寺は常門村にあり、本尊大日如来、池中の観音堂には三十三所の観世音を安置し、地蔵尊の千体堂は池の傍にあり、鎮守熊野権現の社は本堂の傍、山の方にあり。
十三重石塔 本堂の左の向山の方にあり、寺僧曰、先年此地所崩れ、石塔の倒れし時地中より経一巻軸のみ存す、鏡一面、金仏三体、長三寸許、三尊の弥陀と覚しきもの出たり、爾後又埋むとぞ。
古物石燈炉 本堂の前にあり、勒して曰、正和五年施入。
 
波多《ハタ》郷 和名抄、高市郡波多郷。今高取村舟倉村是なり。霊異記に高市郡波多里、又今昔物語高市郡八多郷に小島小寺ありと見ゆ、小島は今高取村に大字存す。
旗野は日本書紀推古巻に「薬猟集于羽田、以赴於朝」とあるに同じかるべし。
 あられふり板ま風ふき寒き夜や旗野に今宵われひとり寝む、〔万葉集〕
波多神社 大和志に今高市村の大字畑に在りと為す、畑は高取村の東に接すれば或は然らん、本社は延喜式に列す、波多氏の祖神なるべし。波多は四流あり、一は建内宿禰の後也「古事記、建内宿禰之子、波多八代宿禰、波多宿禰之祖也」「姓氏録、八多朝臣、武内宿禰命之後也」。二は稚野毛二俣王の後也「古事記、二俣王(応神皇子)生子大富杼王者、波多君等之祖」「姓氏録、八多真人、出自謚応神皇子椎野毛二俣王」。三は「姓氏録云、大和諸蕃波多造、出自百済国佐布利智使主也」四は「大和未定雑姓波多宿禰、高弥牟須比命孫治方之後也」これら四流孰れか本郷に拠占したるなり。
舟倉《フネクラ》 高取村の西南に舟倉山あり、近年市尾|丹生谷《ニフタニ》羽内の諸村を合せ舟倉村と改称す。波多甕井神社は新抄格勅符三代実録延喜式に見ゆ、舟倉村大字|羽内《ハウチ》に在り今天照大神と曰ふ。
 
大丹穂山《オホニホヤマ》 舟倉山の古名ならん、今も丹生谷の大字存す、大仁保神授位の事三代実録に見ゆ。紀州丹生祝詞に巨勢丹生と云此か。日本書紀、皇極天皇三年、蘇我大臣蝦夷、使長直於大丹穂山、造|桙削《ホコヌキ》寺。書紀通証云、桙削寺、在高市郡丹生谷村、今廃。霊異記に法器山寺あり、桙削山寺を修正したる者にあらずや、同書云、大皇后天皇(皇極斉明帝)之代、有百済禅師、名曰多常、住高市郡内法器山寺、勧修浄行、看病第一、応死之人蒙験。
補【法器山寺】高市郡○日本国現報善悪霊異記〔重出〕寺戒比丘修浄行両得現奇験力縁第廿六、大皇后天皇之代、有百済禅師、曰名多羅常、住高市郡部内法器山寺、勤修看病第一、応死人蒙験更蘇、毎咒病者有奇異、取楊枝上枝時、立錫杖於錫杖、而互用二物物不仆、如鑿而樹之、天皇尊重、而常供養、諸人帰依、而恒恭敬、斯乃修行之功、遠流芳名、慈悲之徳、長存美誉也。○谷の桙削寺是か。
 
高取《タカトリ》 高市郡の南隅にして 鷹鞭山を負ふ。其尾を高取山と云ふ、其西谷は壷坂と云ひ澗水西流して重坂川に入る、其東谷は子島土佐と云ひ澗水は北流檜前川の源なり。詞林採葉抄云、竹取物語なる竹取翁の旧跡は大和の国竹取の城とて、おどろ/\しく聞えし是なりといふ。〔三十三所図会〕高生神社は三代実録に高生神とあり、今|高羽根《タカハネ》明神と曰ひ、高取村|清水《シミヅ》谷に在り。
補【高取】〇三十三所名所図会 竹取今は高取と書けり、詞林採葉云、竹取の翁の旧跡は大和の国竹取の城とておどろおどろしく聞へし是なりといふ、竹取物語の翁は駿河国大綱の里に住し人なれば、別の人にぞ侍りなん云々。
 
高取城《タカトリノシロ》址 高取山に在り、土佐《トサ》町より登る事五十余町、険阻に拠り塞を成したり。南北争乱の際吉野方の防備を起せしに初まり 天文中越智氏之に移り、天正年中国主豊臣秀長に帰伏す、已にして越智氏家絶ゆ、慶長五年徳川氏増田長盛の封邑を奪ひ高取城を割き本多因幡守俊政に給附す二万五千石、乃其旧築を修補す、寛永十七年植村出羽守家政之に代る、子孫世襲して近時に至る、封邑二万九千石土佐町を市聚と為す。本城明治の初め廃城と為り、層楼粉壁尚旧観を存す。三十三所図会云、越智家は代々大和に住す、和州諸将軍伝に、応永二年筒井の初代順永の麾下とあり、又天文元年の春南都合戦の条下に越智玄蕃頭利之は高取の城主にして父を大学助利元と云ひ同従弟小治郎利祐といへるあり云々、又高取玄蕃頭利之は和州高市郡高取山の城主知行一万五千石順庵の姪婿也、麾下土佐八木飛鳥氏五千石合せて二万石なると。按ずるに史学雑誌越智家譜伝を引き、源満仲の流大和源氏右馬頭親家始めて越智に住し、其長子親房大島冠者と号し、次子家房越智冠者と称すとあり、親家は物部氏に入婿したる者ならん、中世其例多し、同書又云、享禄天文の間に至り越智氏高取城に居る、家房より廿一代玄蕃頭頼秀大和大納言秀長卿に属せしが、天正十七年自害す。高取城は文久三年八月浪人天忠組に襲はれし事あり、或書之を記して曰く、八月廿七日天忠組五十余人を以て高取を攻む、昧爽の軍利なく天之河辻へ退く、其一将吉村寅二郎重卿殿して三在に至り、功なくして退くを見慨然胸を撫して曰く、咄無腸男子何をかなさむ我れ死せん耳と、即ち書を遺し同志十三人を率ゐ潜行、城に火し以て死を決せむと欲し、乾草を背にし火を袖にして返り進む、時既に夜、途に敵の哨兵杉野某逢ふ、其兵凡六十人衆皆死闘す、重卿大槍を揮ひ杉野を狙刺す、流丸忽ち重卿の胸を洞す、遂に志を得る能はず。
 
鷹鞭《タカムチ》山 大和志云、鷹鞭山、在土佐村上方、今曰高取山、山勢※[山+肖]抜、為郡主山、山中有巨巌、就造五首羅漢像、傍有石燈籠、勒曰慶長十一年本多俊政創立、其西壷勒山。(鞭は古言神に通ず鷹神の義か)
 狩人のこぬ日ありとも鷹むちの山のきぎすはのどけからじな、〔相模家集〕
 
壷坂《ツボサカ》 鷹鞭山の西にして、高取山の南極なり。南法華寺《ミナミホツケジ》あり、壷坂寺と称し古今不易の名藍なり、真言宗を奉じ三十三所の随一なり。
 
壺坂寺《ツボサカデラ》 三十三所図会云、壷坂寺は高取土佐町の東南一里壷坂に在り、八角の本堂礼堂法堂鐘楼経蔵二王門以下魏々として建つ、南法華寺と号し、本尊千手の像は道基上人造作なり.、開基は元興寺の海弁上人なり、〔拾芥抄〕又帝王編年記に曰く「文武天皇大宝三発卯、佐伯姫|足子《タラシ》の尼善心といふ者有り高市郡南法華寺を建立せし人なり」冥応集に「本浄曰、子島と壺坂とは開基別なりと雖、中古より一所の寺となれり、花山院の時分真興阿闍梨といふ人あり是を世に子島の先徳といふ、今密宗の秘事を伝ふるには子島の流をば又は壷坂とも云、」然れば一本寺にて兼帯せしなるべし、仁明天皇承和四年、壷坂寺は定額並に官長の検校たるべしとの宣下ありとは続日本後紀に見えたり、当寺の詠歌は
 岩をたて水をたゝへて坪さかの庭のいさごも浄土なるらん、
因幡堂は二王門の下に在り、寛永年中領主高取城本多因幡守政武建立と云ふ、堂内に豊臣秀長本多俊政等の肖像を安置す。
図会又云、五百羅漢石及両界曼陀羅石は壺坂本堂より凡八町ばかり東高取の山中に在り、巨巖の石面に各彫り付たり、慶長年間本多俊政彫刻せるよし、寛文大和寺社記に曰く、高香《カウカウ》山とて壺坂より八丁程東の方に、近き頃本多因州安置し給ふとて、五百羅漢を切り付たる石両界のまんだら切付たる石仏おはします云々。本居氏玉勝間に、壺坂の人形彫たる石を論じて曰く、五百羅漢の像とて石に数百の人の形を彫たるあり、或人の云へるはこれを俗に羅漢ともいふはあらぬ事なり、よく見れば皆上つ代の人の形也、神の御しわざと見えたりと云へり、すべて旧き神の御像またさらぬをも世には皆おしなべて仏の像と思へる多し、又物の形など石にゑりたるが異しく跡もわきまへがたきなど世に多かるを見れば、上つ代にはくさ/”\石に物ゑることの多かりし也、神代のしわざをも今まのあたり見るべき物は石のみぞ有ける。考古学会雑誌云、壺坂寺の奥香高山の石面に彫刻あり、凡此山に登れば先づ岩石に地蔵菩薩を彫り浮べる者、次に両界曼陀羅を彫めるを見るべし、やがて進めば五杜明神の像を観るべし、此五社明神の形像を按ずるに、其一は鋒を杖にし宝塔を捧げたる者、多聞天に似たり、其二は有髯合手の相にして、頭髪の上に髻を見る、其三は鑰と珠を手にせる者、印鑰童子に似たり、其四は其二と頭顔を同じくするも、右肩を袒にし手を上下して巻子と刀子に似たる者を持つを相異とす、其五は宝塔を戴き八臂を備へ柔和の座像也、弁財天たるや明白とす、其彫刻の縁起詳ならず、本邦の古神像に類する形状も稍これあり。又云、壺坂寺に方尺許の磚二枚ありて、面に釈迦三尊并に天蓋天女等、又鳳に雲を描出す、其図様太だ古雅にして蓋推古天智の比の様式に係る、此磚は寺内の土中より往々発見せられ、龍蓋寺にも同種の磚一枚を所蔵し、図様酷似すと云ふ、土壇などの装飾なりしなるべし。
補【壺阪寺】○霊場記云、寛文の頃土佐の町に沢都《サハイチ》といふ盲目あり、日参して千日に満じけれども験なければ沢都大に腹を立て、仏をふかく頼みし悔しさよと、杖ふり上て其辺を敲たて、一首の狂歌に「酒壺を転臥《ウツブセ》にする壺坂の堂も仏も同じ土塊」かく読みて様々と悪口し立帰りけるに、後より沢都々々と呼声あり、誰ならんと、其夜は堂内に通夜し、夢に本尊告げて宣く、汝罪業深き故に盲人となりしなり、眼ばかり明て得さしたりとも、頓て悪趣に堕しなば何の益かあらん、此の祈りを縁として毎日歩みを運びなば、其功徳に依て身中の罪障悉く消滅し、命緑尽くる夕には目出度浄土へ生ぜしめんと思ふ故に、態と今日まで捨置きしぞと御告ありければ、沢都いよいよ感応空しからざるを喜び信心肝に銘じ、斯くて生涯病なく、悩むことなくして、産業乏しき事なく、志度に至つて大往生を遂ぐるとなん。
因幡堂 二王門石階の下に在り、観音三十三体、岩上出現の像を安んず、前の領主本田因幡守政武建立なりと聞ゆ、堂内左の傍に大和大納言秀長、本田因幡守父等の木像を安ず。 
国府《コフ》址 大和国府は高取村大字土佐町に在りし者とぞ、今国府八幡宮あり、境域一千余歩、蓋庁址なり。〔地誌提要県名勝志〕和名抄、大字国府、在高市郡、行程一日、管十五郡。
 
土佐《トサ》 高取村の主部にて、土佐町と称す、旧高取城下の市聚なれど民戸寂々、一百許に過ぎず。
 
子島《コシマ》 高取村の大字にして土佐町と相接す、子島神は三代実録に見え延喜式に列す、今春日明神と称す。観覚寺は寺伝に古の小島寺なりと云ふ、千手院と号し観音を祀る。〔三十三所図会〕
 
子島寺《コシマデラ》址 元亨釈書云、報恩、天平宝字四年、於和州高市郡子島神祠畔、建伽藍、安丈八観自在菩薩像、及四大天王像、号曰子島寺、桓武帝勅、賜官禄恩、又受封戸。又云、真興、長保五年、為維摩講師、棲子島寺、人貴之不字、呼子島先徳。子島寺は今昔物語に見ゆ、今の観覚寺其名を伝ふる者にや、報恩は備前国に興立の寺宇最多く、彼地にて報恩大師と呼び、尊崇比なし、惟ふに子島は備前にも其名あり、相因縁する所ある如し。
補【子島山観覚寺】千手院と号す、世に子島寺といふ、天平年中建立の古刹なり、後世大小廃す、近来両建の模様ありて、追々に旧観に復する形勢なり、天平宝字四年報恩抄弥、高市郡子島神祠の畔に伽藍を建て、一丈八尺の観自在菩薩の像及び四大天王の像を安んぜらる、其寺を名付て小島寺といへりと釈書に見えたり。
高生神祠 旧は高取の山上に在りしを、天正年中土佐の町つゞき清水谷村に移すと云ふ、此れ三代実録に出づ。
清水井 右同村高ドノヤと言へる在家の内に在り、近郷にならびなき清泉なり、土人曰、此清水あるを以て地名を清水谷と号すとぞ。霊鷲寺 桃源山常喜院と号す、清水谷の山方に在り、本尊薬師如来、左右に十二神将列す、并に千体仏の薬師如来厨子内に充満す。
越智家之墓 草庵の上の方に古墳の石塔婆五基あり、三基は文字滅して見えず、漸くに二基おぼろげながらに読得たり。
○人名辞書 真興は高僧なり、南都仲算の弟子、因明に精し、内大人藤原教通其道行を知りて方外の交を締ぶ、興居る所の小島の道場に於て兜率天を現じ、教通をして瞻礼せしむ、興一日出でて小島に帰る、偶々群妖出でて将に侵悩せんとす、興唯識観に入り良久しくして群妖皆な地に仆る、平生の行為甚だ真率にして辺幅を修めず、長保中詔を奉じて最勝会に赴く、講已りて懐中より草履を出だし、自ら穿て行く、後人其の徳を敬し、呼ぶに名を以てせず、皆な子島先徳と云ふ(元亨釈書・東国高僧伝)
 
檜前《ヒノクマ》郷 和名抄、高市郡檜前郷、訓比乃久末。今|坂合《サカアヒ》村と改む、坂合陵あれば也、又大字檜前存す。檜前氏は帰化種なれど、姓氏録によれば他に檜前舎人連あり「火明命十四世孫波利那乃連公之後」と云ふ。古事記檜※[土+(向-ノ)]に作る、牟狭《ムサ》も昔之に属す。
日本書紀云、雄略天皇、所愛寵、史部身狭村主青、檜隈民使博徳。又欽明七年、川原民直宮、檜隈邑人。(民使、民直共に姓なり)姓氏録云、檜前村主、出自斉王祖男斉王肥也、又云檜前忌寸、阿智王之後也。続日本後紀云、阿智使主、軽島豊明宮馭宇天皇御世、率十七県人夫帰化、詔賜高市郡檜前村而居焉。
 
於美阿志《オミアシ》神社 延喜式に列し、今檜前に在り、僧舎を置き之を守る、道興寺と曰ふ。於美阿志は史に使主阿智と云ふにあたる、即檜前忌寸の祖神なり。〔名所図会県名勝志〕西州投化記云、阿智便主、後漢霊帝之曾孫也、〔続日本紀〕按姓氏録、作三世又四世孫、三代実録作四世孫、姓氏録云坂上大宿禰、出自霊帝男延王也、拠之則延王蓋阿智王之祖父也、漢祚遷魏、阿智王、因神牛教、行帯方、聞東国有聖王、帰之則応神天皇二十年也、阿智王奏請曰、臣旧居在於帯方、人民男女皆有才芸、伏願天恩遣使追召、乃勅遣使、挙十七県人夫、随使尽来、永為公民、詔賜檜前村而居焉、〔姓氏録〕按秋月氏系図曰、阿智王生高貴王、又名阿多倍、来帰号都賀使主、生三子、長志努直賜坂上姓、次山木直腸大蔵姓、次爾波木直賜内蔵姓。檜前川は高取山より出て、真弓岡の東を過ぎ久米寺の西を経て重坂川に入る、真弓川又久米川とも呼ばる、長凡三里。冠辞考云、佐檜乃熊檜隈川と云ふは佐は発語にて檜隈を重ねて曰へるなり、三吉野の芳野などの類也。
 佐檜のくま檜の隈川の瀬を早み君が手とらばよせ言むかも、〔万葉集〕
 
呉原《クレハラ・クリハラ》 今坂合村大字栗原なり、呉人《クレヒト》の帰住せる地にて日本書紀に檜隈野と記したり。古事記、朝倉宮(雄略)段云、呉人参渡来、其呉人安置於呉原、改号其地謂呉原也。呉人は即漢土江南の地より到来せる者なるが、其之をクレと呼ぶ事何の由る所あるを知らず。呉津彦神社は栗原に在り下宮《シモノミヤ》と称す。〔大和志〕書紀通証に雄略帝の時「呉国使献漢織呉織及衣縫」の文を引き本社呉人の廟なりと曰へり。姓氏録云、牟佐呉公、呉国王子青海王之後也。牟佐は坂合村の北に接したる地にて、古は一郷の中か。栗原に道昭法師を火葬したる事、釈書に見ゆ、又此地なるべし。曰、遣昭和尚河内国丹比郡人、俗姓船連、父恵釈、白雉四年入唐、遇玄奘三蔵受業焉、帰朝於元興寺東南、別建禅院住焉、文武三年物化、弟子等火葬於栗原、天下火葬従此而始。
 
安古岡《アコノヲカ》陵 文武天皇の御陵なり、今坂合村大字栗原に属す、火葬の事続日本紀に見ゆ。延喜式云檜前安古(古一作占)岡上陵、藤原宮御宇文武天皇、在高市郡兆城東西三町南北三町。扶桑略記云、文武天皇火葬飛鳥岡、山陵檜前安古岡上、高三丈方一町。山陵志云、欽明陵の南、以陵上孤松茂翳、今呼高松山、一名美賛佐伊、即文武陵也(名所図会云、平田の西に在り、俗に中尾石墓と云、陵図考云、高松山、高一丈五尺周廻二十間、) 
坂合《サカアヒ》陵 欽明天皇の御綾なり、坂合村大字平田に在り。延喜式云、檜隈坂合陵、磯城島金刺宮御宇欽明天皇、在高市郡兆城東西四町南北四町。(扶桑略記云、本陵高四丈)山陵志云、欽明陵、今謂其丘北、曰坂中、推古帝二十八年、以砂礫葺檜隈陵、今検之果然、故或号石山。名所図会云、本陵は罐子山又梅山と呼び、高四間廻三十四間、石仏四体あり背にも膝にも面貌あり、元禄十五年平田村池田より掘り出して此に据ゑたり。陵墓一隅抄云、平田の猿山(石像猿に似たれば也)の欽明陵は初め河内国古市郡軽墓に殯りしたまへるを、後此に改葬ありし也。按に書紀、推古天皇二十年、改葬皇太夫人堅塩姫、於櫓隈大陵云々、是は欽明皇后をも合※[やまいだれ+(夾/土)]ありしにや、今陵辺に鬼の俎鬼の雪隠と呼ぶ大石あり、是は其実人巧の棺にて身蓋二片なり、長一丈二三尺其内容を測るに凡長九尺横五尺高三尺六寸、鑿成頗精也、一説之を以て倭彦命墓の遺棺と為すは誤れり、一説此棺は身蓋二片の外に横側の扉ありし者と云ふ、形状を按ずるに其言当れり。
 
廬人野宮《イホリノノミヤ》址 是れ宣化帝の皇居にして、日本書紀に「遷都于檜隈廬入野、因為宮号也」とありて、威奈大村墓誌に櫓前五百野宮とあり、此宮址即檜隈寺ならん。
檜前寺《ヒノクマデラ》址 日本書紀、天武天皇元年、檜隅寺封百戸、限三十年。山陵志云、聖徳太子伝記曰、檜隈寺者欽明天皇宗廟也、今檜隈村道昭寺、蓋其遺構矣、尚有九層石浮屠、俗謂之欽明陵、即以陵廟之称互通也。道昭火葬の事呉原の条に出づ、此に道昭寺と云ふは又相因る所ある也。
 
真弓《マユミ》 坂合村大字真弓あり、檜隈川西畔にして丘に倚り、巨瀬郷と相腹背す。続日本紀に、檀山とありて御陵あり。
櫛玉命神社は三代実録、貞観元年授位、延喜式四座并に大社に列す、今真弓八幡宮是也、玉造氏の祖櫛明玉王祖櫛玉彦櫛玉媛を祭ると云ふ。〔名所図会神祇志料〕檀弓岡基は茅渟王妃吉備姫の墓なり、坂合村大字越に在りと云ふ〔書紀通証〕今詳ならず。日本書紀、皇極天皇二年、吉備島皇祖母命薨、葬于檀弓山岡。
 
真弓岡《マユミヲカ》陵 草壁皇太子の墓なり、坂合村大字|越《コス》の戊亥に在り、土俗御前塚と云者是か、或は云真弓の西なる王塚(今越智岡村大字森に属す)是ならんと。〔陵墓一隅抄〕
続紀、天平神護元年、車駕過檀山陵、詔陪従百官悉令下馬、儀衛巻其旗幟。延喜式云、真弓丘陵、岡宮御宇天皇、在高市郡。草壁皇太子の東宮は飛鳥岡に在りしならん、故に岡宮と称す、文武帝の御父なるを以て追尊ありしなり。万葉集に「日並《ヒナメシ》皇子尊殯宮之時、舎人等慟傷歌」あり、佐太岡を詠めり佐太岡は真弓岡に接し今越智岡村に属す、大字佐田是なり。
 朝日てる佐太の岡辺にむれ居つゝわが哭く涙やむ時もなし、〔万葉集〕よそに見し檀の岡も君ませばとこつ御門ととのゐするかも、〔同上〕
 
越村《コスムラ》 巨勢郷の分村にて今坂合村に入る者ならん、古墳の石室暴露せる者あり甚大なり、奥行一丈四尺幅八尺二寸高九尺、天井は一枚石なり、側壁又巨石を用ひたり、羨道長二丈八尺幅八尺より七尺に至る、天井五枚の巨石を列せり。〔人類学会雑誌〕許世都比古命神社越村に在り、延喜式に見ゆ許勢氏の祖神なるべし。(巨勢郷参看を要す)
補【越村】○人類学会雑誌 高市郡坂合村字越村の石室も亦甚大なるものにて、石室の奥行一丈四尺、幅八尺三寸、高さ九尺、天井は一枚石なり、側壁も亦巨大なる石を用ひたり、羨道は長さ二丈八尺幅は入口に於て六尺九寸、天井は五ケの大石を用ふ。
 
身狭《ムサ》 今|白橿《シラカシ》村大字見瀬は身狭の訛なり、此地は檜前久米両郷の間に居れり、孰れに属すべきか、或は牟佐又武遮にも作る。大字鳥居五条野も身狭の中たるべし、鳥居は古築坂と云ひ、五条野は大内丘と云へり。日本書紀云、雄略天皇、寵愛身狭村主青、又云、欽明天皇十七年、遣蘇我大臣稲目、於高市郡、置韓人百済大身狭屯倉、高麗人小身狭屯倉。姓氏録云、牟佐村主、出自呉孫権男高也、又牟佐呉公、呉国王青海王之後也。続日本紀云、和銅三年、牟佐村主相模、奏賀辞、進位二階。
牟佐坐神社 日本書紀天武巻に、神教あり「吾者牟佐社所居、名|生霊神《イクムスビ》者也」と載せたり、延喜式大社に列す。今見瀬に在りて境原天神と称す、〔大和志〕生霊をば一に生雷に作る。
補【牟佐坐神社】○神祇志料 牟佐坐神社、今三瀬村にあり、境原の天神と云(大和志・名所図会)
 按、三瀬鳥屋二村相隣る、蓋古牟佐地なり
生霊神を祭る(日本書紀一本・釈日本紀)蓋高魂命の子伊久|魂《ムスビ》命即是也(新撰姓氏録)天武天皇壬申の乱、神霊を顕して軍威を助け奉りき、故に幣を捧げ品位を登進して之を礼祭る(日本書紀)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を給ひ (三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ毎年九月九日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
大内丘《オホウチヲカ》 今白橿村|五条野《ゴデウノ》なるべし、檜隈大内陵此に在り、古は牟佐に属し檜隈に近ければ其称あり。山陵志云「檜隈是身狭東南、所謂軽之旧都也、今古時蓋広、而檜隈名始見雄略紀」と、然らば軽の地等内なりし事もあるか。日本書紀云、欽明天皇七年、檜隈邑人、川原民直宮、得良馬、超渡大内丘之壑、十八丈焉。
 
大内《オホウチ》陵 天武持統二帝合葬の御陵なり、五条野の西字円山是なり。〔野口《ノグチ》荒墓を参看〕聖蹟図志云、元禄中大内陵を野口の荒墓に擬したる事あれど非なり、五条野の丸山是なり、塚崩れ羨門露る、其門南面し隧道長十四間半、天井は六枚の石を以て蓋へり、室は縦四間横三間半、石棺二個あり各長九尺高六尺幅六尺、蓋は金字を成す、即二帝の合葬陵なり。山陵志云、大内陵巍然而崇、今呼為丸山、取名其形也、為壇三成、而南面、其中等之上有羨門、黒石為之隧道、深可三丈、而有室、築之以堊、覆之以巨石、崇広皆丈余、有石棺二焉、一在北南面、一在東西面、因以為其南面天武也、西面持統也。日本書紀云、持統天皇元年、皇太子(草壁)率公卿百寮人等並諸国司国造及百姓男女、始築大内陵、三年葬之。延喜式云、檜隈大内陵、飛鳥浄御原宮御宇天武天皇、在高市郡兆城東西五町南北四町。又云、藤原宮御宇持統天皇、合葬櫓隈大内陵。扶桑略記云、檜隈大内陵、高五丈方五町、大宝二年太上天皇崩(持統)火高大内陵、天武天皇之同陵也、以下火葬。
 
築坂《ツキサカ》 今白橿村大字|鳥屋《トリヤ》是にあたると云ふ、身狭の桃花鳥坂とも曰へり。日本書紀、神武天皇、賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。この地畝傍白橿原の皇居と相去る遠からず。
桃花鳥坂墓は倭彦命(崇神皇子)の墓なり、今鳥屋と北越智の立合場、字升加山の半腹、牛頭天王杜の地なるべし。【陵墓一隅抄〕日本紀、垂仁天皇、葬倭彦命于身狭桃花鳥坂、集近習者悉生而埋、立於陵域、数日不死、星夜泣吟、遂死而爛※[自/死]、犬烏聚※[口+敢]焉、天皇聞此泣吟之声、心有悲傷、詔群卿曰、是雖古風、非良何従、自今以後、議止殉。(益田池碑文に「武遮※[土+龍]押其坤」とある荒※[土+龍]蓋此也)
 
鳥坂《トリサカ・ツキサカ》神社 延喜式鳥坂社二座鳥屋に在り、又大伴神社と曰ふ、大伴氏の祖天押日命道臣命を祭ると。〔県名勝志神祇志科〕或は云鳥坂は桃花鳥坂の略ならん。
巨勢山《コセヤマ》坐石椋孫神社 延喜式に見坂、今鳥屋の東南巨勢谷に在り、土人呼びて春日明神と為す。〔大和志県名勝志〕
 
桃花鳥坂上《ツキサカノヘ》陵 宣化天皇の御陵なり、皇后橘仲皇女(仁賢皇女)及子女を合葬す、今白橿村大字鳥屋に在り。ミサンサイ山と称し、高十二間周百九十間、濠を繞らし、陪塚五あり。日本紀云、天皇葬于身狭桃花鳥坂上陵、以皇后橘皇女及其孺子、合葬于是陵。延喜式云、身狭桃花鳥坂上陵、檜隈直入野宮御宇宣化天皇、在高市郡兆城東西二町南北二町、扶桑略記云、本高三丈方三町。山陵志云、桃花鳥者乃畝傍南地、身狭之地、分在南北、欽明紀所謂大身狭小身狭此也、其地相接桃花鳥坂、両地之交不可偏挙、故号之以両地、益田池碑云左龍寺、右鳥陵、龍寺謂岡村龍蓋寺、鳥陵即桃花鳥坂上陵、陵地今為鳥屋村、自此東南、即益田故池。
 
桃花鳥田丘上《ツキタノヲカノヘ》陵 綏靖天皇の御陵なり、今詳ならず、一説綏靖陵は畝傍山の北に在りと為す、(下に其地目あり)信ずべからず。聖蹟図志に池尻八幡宮は土人綏靖帝陵と為すと、池尻は白橿村に属し今の桃花鳥坂の田間に当る、稍信にちかし。延喜式、桃花鳥田丘上陵、葛城陵丘宮御宇綏靖天星、在高市郡。(古事記には衝田《ツキタ》岡陵に作る)
聖蹟図志又云、鳥屋宣化陵の東に大古墳あり、其陵の石槨顕る、土俗|石長持《イシナガモチ》と称す、其傍に大陵と想はるゝ者存す、元禄年中之を以て越智岡上陵に擬したり。 
益田池《マスダノイケ》址 弘仁十四年勅旨ありて、久米の南、檜隈の間に此池を造る、弘法大師其功を紀して碑文を勒す、後世池廃し碑も亦亡ぶ、今見瀬の西南岡上に碑の趺坐石あり、俗に石船と云、高二丈許縦二丈五尺横一丈三尺、上に孔を鑿り二槽と為す、碑文の原稿真蹟は高野山の古院に伝ふと云ひ、模刻を世に伝ふ、字体放蕩を極めたる大筆なり。〔大和志名所図会〕益田は沙田の義か、姓氏録云、左京蕃別、沙田史、百済国人意保尼王之後也。
三十三所図会云、益田池の碑石は何の世の事にや、当国高取の城の石塁に積み込みありと古く言伝へたり、然れども其城の廻り広大にして何方にありと云ふ事を知るものなしとぞ、今集古十種に載する処雷の一字を摺たるあり、其字の大さ竪凡五寸余、巾凡四寸余と見ゆ、さもある可しと覚ゆ。旧跡考云、益田池、久米寺の辺りに花出山と云ふ際に益田の池の跡とてかすかに残れり、其西に続きて池尻村と云ふあり、村老言ひ伝て彼池の樋口にて侍れば池尻の名ありと也、思ふに是より南半里許り行き碑銘をすゑける石今に残れり、池尻村より爰迄昔は池に侍りなん、益田の旧名は村井と云へり、此地は漢の直の旧宅なり、嵯峨天皇旱天に田畑の損はれん事を愁ひ給ひしかば、弘仁十三年の比大和守藤原朝臣縄主紀伊守末等、此所の地理佳き事を弁へ、池を掘すべき由奏しければやすく勅許ありしより、縄主未等真円律師と申合せて池を掘せたり、大伴参議国道和州太守藤広を池の検校職に補せられたり、或人曰旱魃の時に至りては田に益ある事甚だしきを以て益田の池と号せられけるとなん、銘は釈空海性霊集に見えたり、其句に「池之為状也、左龍寺、右鳥陵、大墓南聳、畝傍北峙、来眼精舎鎮其艮、武遮荒※[土+龍]《ムサノアラハカ》押其坤、十余大陵聯綿虎踞、四面長阜※[しんにょう+麗]※[しんにょう+(施−方)]龍臥、雲蕩松嶺之上、水激陵隈之下」斎藤拙堂紀行云、抵一岡、石船在焉、岡下旧為益田池、有碑僧空海撰、見其性霊集、此石実為其趺、々高可二丈、碑之大可知矣、其上可坐数十人、歩而数之、竪得十二武、横其半而加八之一、石面有方鑿二、径三四尺、左右相対、是蓋承坐処、石上高顕、望頗空豁、碑文所謂、「左龍寺、右鳥陵、大墓南聳、畝傍北峙」者皆可坐而按焉、余謂、太祖相中土、営橿原宮、諸帝遷徙、不出此間、当時壮観可想、今荒邨曠郊、皆不可的知其処、且拠碑文所云、「笑昆明之非※[にんべん+壽]」等語、池水之大、当如湖海、今也数里内求一帯水、而不得焉、況於所云「春繍秋錦玄鶴黄鵠」之美観者乎、又其所謂蒼桑之変於今日見之者、可勝歎哉。
 
来目《クメ》郷 和名抄、高市郡来目郷、訓久米。今白橿村に当る、大字久米存す。来目郷は古の畝傍|軽《カル》牟佐等の地を并せたる者ならん。来目は神武帝の軍将大来目命の居宅せし所なれど、又他流の久米氏あり、旧事紀、饒速日尊天降之時、天物部等二十五部供奉、其一曰久米物部。又古事記、武内宿爾之女久米能摩伊刀比売、姓氏録云、久米朝臣、武内宿禰孫稲目之後也、又久米朝臣、大足彦国押人命之後也。天孫本紀云、宇摩志麻治命者、橿原宮御宇天皇、御世、元為足尼、次為申食国政大夫、奉斎大神|活目《イクメ》邑、五十呉桃女子師長姫為妃。按に活目は伊久米にて、伊は発語なるべし、五十呉桃は伊久米部と云ふに同じかるべし、又垂仁天皇の御名を活目と申すも此地に因みあらせられしならん。
 
来目川《クメカハ》 檜前川に同じ、真菅村に至り百済川に注ぐ。日本書紀云、神武天皇、使大来目、居于畝傍山以西川辺之地、今号来目邑。又云、雄略天皇、射猟於葛城山、一言主神出而与盤于遊田、送天皇至来米水、是時百姓咸言有徳天皇也。
 葛城へ渡る久米路の継橋の心も知らずささ帰りなむ、【神楽歌〕御狩する君かへるとて久米川に一言主ぞ出でませりけれ、〔夫木集〕
久米御県《クメノミアガタ》神社は延喜式に本社三座とあり、今久米に在りて天神と称す。来目都の祖高御魂命味耳命大来同命等を祭るとも云ふ。〔大和志神紙志料〕姓氏録、久米直、命御魂命八世孫味耳命之後裔。按ずるに垂仁帝の興したまへる来目屯倉来目高宮即此か。
 
来目高宮《クメノタカミヤ》址 日本書紀、垂仁天皇行幸来目、居於高宮、興屯倉于来目。又云、景行天皇定倭屯家、又云纏向玉城御宇天皇(垂仁)之世、為太子大足彦(景行)定倭屯田。此来目屯倉は其朝号倭を冒すを見れば、当時盛大の御府なりし事推知すべし。
 
久米寺《クメデラ》 白橿村大字久米に在り、今真言宗を奉ず。大師空海嘗て秘経を本寺塔中に獲て立志修学すと称す、開基不詳、益田池碑に来眼精舎鎮其艮の句あれば当時既に名藍たり、仏殿本尊薬師なり影堂善無畏空海二師像を置く、多宝塔は慶安中賊火に罹り仁和寺の旧塔を移建す。この寺は古仙久米の造立と称せり、一書来目皇子(聖徳皇弟)の開基と為す。釈日本紀所引「伊予風土記曰、伊予郡天山、所名之由者、倭在天加具山、自天天降時、二分而以片端者降於倭国、以片端者降於此土、其御影敬礼奉久米寺」と、此古語に云ふ久米寺は本寺にや、伊予にも久米郡あり、不詳。扶桑略記、弘法大師本伝云、海仏前発願、一心祈感、夢有人告曰、於此有経、名字大毘廬遮那経、是乃所要也、在高市郡久米道場東塔下、於此解緘普覧。今昔物語云、今は昔何れの時にや、帝内裡を大和国高市郡に造営し給に、国中の夫を催して其役とす、夫の内に仙人と呼者あり久米と申す。先年当国吉野郡龍門寺に籠り法を行て仙となり空に飛行しけるが、吉野川の辺にて若き女の衣を浣へるを見て心まよひつゝ女が前に落ぬと行事官聞て、偖はやんごとなき人にこそ、其時の行法定て覚えたるらん、かく多き材木を自持運ばんより祈て飛ばしめよかしと戯る、久米一の道場に籠り祈るに、八日に当れる朝そこばくの材木南の山辺の杣より空を飛て造営所へ集りけり、行事官等も敬ひ貴みて久米を拝しけりとなん。元亨釈書云、久米仙者和州上郡人、嘗於高市郡営構精舎、鋳丈六薬師金像并二菩薩、所謂久米寺也、後又修仙凌空飛去、又有大伴仙安曇仙二人、与久米相後先、両仙庵基今猶在和州。多武峰略記云、久米寺旧記曰、古仙之所建立也、昔有一女於久米川洗衣、古仙見其脛白、自従天落、即建寺於此地、至心亦修悔、白日更昇青天、安置丈六薬師銅像并二菩薩像、霊験掲焉、利益甚盛矣、検校于満注文云、天慶八年当国守忠幹着任、初奉拝当寺聖廟、以座主大法師真昇、補任久米寺別当職矣。扶桑略記云、久米仙、飛後更落、其造精舎在高市郡、奉鋳丈六金銅薬師仏像、堂宇皆亡、仏像楢在曠野之中、久米寺是也。
 
畝傍《ウネビ》 白橿《シラカシ》村大字畝傍及畝傍山四近の総名なり、畝火雲飛宇禰烽にも作る。古歌に玉襷畝傍とつゞけたり、襷を纏《ウナゲ》ると云かけたるか。日本書紀「推古天皇廿一年、作畝傍池」とあり、池今詳ならず。姓氏録云、諸蕃畝火宿禰、坂上大宿禰同祖、後漢霊帝男延王之後也。古事記云、宇摩志摩遅命、此者|妹《ウネメ》臣祖也。 
畝傍山《ウネビヤマ》 白橿村の中央に特起す、一座の丘陵他に連接せず、土俗|慈明寺山《ジミヤウジヤマ》と呼ぶ。其形質たる層状を呈し水成岩の如き観ありて、主成鉱物は黒雲母と斜長石、所謂雲母安山岩なるものにして、稀に柘榴石を抱有し火山岩中多く現出せざる種類なり、之を砥石に用ゆることあり、此地又所々に古土器を出し、雨後などには多く顕はるといふ。〔地学雑誌名所図会〕
 宇泥備やまひるは雲とゐ夕されば風吹ふかむとぞ木のはさやげる、〔古事記〕 神武帝皇后
 思ひあまりいともすべなみ玉襷雲飛の山にわがしめゆひつ、〔万葉集〕
 神代をもかけてぞしのぶたまだすき畝火の山をけふし見つれば、 富士谷成章
畝火山口坐神社 本社は大同元年神封を進められ〔新抄格勅符〕貞観元年昇位〔三代実録〕延喜式大社に列し、祈年祭山口神六座の一なり、然るに後世之を神功皇后を祭ると為す其所由詳ならず。○畝火社、昔は畝火の山腹にあり、今山の頂上に遷す、祭る所神功皇后なり、畝火明神と名附、神名帳及び三代実録に出づ、又官寺を慈明寺《ジミヤウジ》と云ふ、西の麓に神祠の跡の石あり今御旅所と云ふ、又山腹に馬繋《ウマツナギ》と云ふ所あり、畦樋|大谷《オホタニ》吉田慈明寺|山本《ヤマモト》大窪四条|小世堂《コセダウ》等の氏神とす、毎年摂津住吉神社より神官此社に来り祭儀ありてのち、畝火山の土を取る事旧例なり、孰れの代より始りしことを知らず。〔大和志三十三所図会〕慈明寺と云古院、畝火旅所の傍に在り。〔聖蹟図志〕
補【畝火山口坐神社】○神紙志科 畝火山口坐神社、今畝火山本大谷三村の界にあり、昔畝火の山腹にありしを、後山頂に移祭り畝火明神と云(大和志・名所図会・奈良県神社取調書)
平城天皇大同九年神封一戸を充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より正五位の下を授く、九月庚申、雨風の御祈に使を遣し幣を奉り(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及び祈雨の幣に預る、即祈年祭山口神六座の一也(延喜式)凡そ十月廿二日祭を行ふ(奈良県神杜取調書)
 
畝火山《ウネビヤマ》北陵 神八井耳命(綏靖帝兄)の墓なり、大字山本に属す今|御陵山《ミササギヤマ》と称す、陵辺小祠あり岩井耳《イハヰミミ》と曰ふ。〔書紀通証〕聖蹟図志之を以て綏靖陵に擬せり主膳塚《シュゼンツカ》の名あれば也、日本紀云、神八井耳命、葬于畝傍山北。山陵志云、神武陵、古事記為畝火山之北方白橿尾上、尾上者山※[山+禺]如尾者、今畝傍山東、里人呼曰御陵山、墳然而隆起此也、大和志以此為神八井耳墓也、若果神八井耳之命、何以伝謂之御陵乎。山陵志の古事記白橿尾上の語に拠り論ずる所誠に以あり、而て今制定して神武陵と為す者は平野に居り、尾上と云ふ者に符合せず。然れども此山本の寝園は神武帝陵にや、又皇子墓にや、尚覈審を要す。
 
橿原宮《カシハラノミヤ》址 橿原宮は神武天皇創国の皇居にして、古事記に畝火之|白檮原《カシハラ》宮に作る、近年|白橿《シラカシ》村の名は之に因る。宮址は二千年の久き其処固より遺失す、明治廿二年国家発祥の跡を標せんが為め畝傍山東南に地を相し神宮を建つ、特旨西京旧闕の神嘉殿及内侍所を賜り移造す、号して橿原神宮と曰ひ、官幣に列す。
 高みくらとばり掲げて柏原の宮のむかしもしるき春かな、〔新葉集〕 後村上天皇
日本書紀云、神武天皇下令曰、自我東征於茲六年、頼以皇天之威、凶徒就戮、雖辺土未清余妖尚梗、而中洲之地無復風塵、誠宜恢廓皇都規※[莫/手]大壮、観夫畝傍山東南橿原地者、蓋国之墺区乎可治之、即命有司経始帝宅、即位於橿原宮、是歳為天皇元年、号曰神日本磐余彦天皇。古事記伝云、畝傍山の東南麓に畦樋《ウネヒ》村と云あり、今樋を清て呼り、然れども古は濁れり、白檮原宮とは白檮樹原にてありし故に負る名なるべし書記に「払山林、経営宮室」とあり、此地名は今世に遺らざれ共、大宮所は山の東南の麓に近き地なりしこと著明し。或説に葛上郡なる柏原村(今掖上村)此宮址なり、山の西南に当れば東字は西の誤りと云は非なり。一説橿原は加志布ともよむべしと、天平六年造の讃岐国山田郡中臣宮処氏本系帳には「高市県畝火之橿原宮、家牒云加志布能美夜云々」と見ゆと、古へより斯く両様に呼べる地名にや、風土記逸文に宇禰備能可志婆良と見ゆ。
 
御陰井上《ミホトヰノヘ》陵 安寧天皇の御陵なり、白橿村大字吉田御陰井の西北に在り、安寧山と呼ぶ。古事記云、陵在畝火山之美富登也。日本書紀云、葬天皇、於畝傍山南御陰井上陵。延喜式云、畝傍山西南御陰井上陵、片塩浮穴宮御宇安寧天皇、在高市郡兆城東西三町南北二町。書紀通証云、陵在井西北、廟在井東南。
 
繊沙渓上《マサゴタニノヘ》陵 懿徳天皇の御陵なり、白橿村大字畝傍|真名子谷《マナコダニ》に在り、陵西一荒墳あり。古事記云、陵在畝火山真名子谷。日本書紀云、葬天皇於畝傍山南繊沙谿上陵。延喜式云、ウネビヤマ南繊沙溪上陵、軽曲峡宮御宇懿徳天皇、在高市郡兆域東西一町南北一町。
 
畝傍山東北《ウネビヤマウシトラ》陵 神武天皇の御陵なり。本陵は後世其処を失ひ元禄の比|神武田《ジブノダ》の字存するに拠り其近傍に就き古冢を捜り、前王廟陵記(松下見林)大和志(並河永関祖衡)等首唱して帝陵と為す、曰く「畝傍山東北陵、可百年以来、壊為糞田、民呼其田字神武田、暴※[さんずいへん+于]之所為、可痛哭也、余数畝為一封、農夫登之、※[りっしんべん+舌]不為怪、及観之寒心、夫神武天皇、継神代草昧之蹤、東征中州、闢四門朝八方、王道之興、治教之美、実創於此、我国君臣億兆、当致尊信之廟陵也、澆季至於此噫哀哉」と此数畝を余せる一封は、蓋四条の管内なる荒丘にして、今綏靖帝陵に擬定せらる、者なり、其塚山は一書高七尺廻三十間とす、幕府之に因りて陵域を標す、寛政四年、幕府博士柴野邦彦巡視し、詩あり之を紀す、
   壬子冬、奉使入大和、行経神武陵、
 遺陵才向里民求、半死孤松数畝丘、非有聖神開帝統、誰教品庶脱夷流、厩王像設専金閣、藤相墳塋層宝楼、百代本支麗不億、幾人来此一回頭。
爾来国情の変遷にしたがひ帝陵の議世に起る、山陵志(蒲生氏)に至り古事記「畝火山之北方白|橿尾上《カシヲノヘ》」の語に拠り廟陵記大和志の所定を駁す、而も文久年中幕府戸田氏の請を以て朝廷に奏し山陵修理の事あるや、猶前標に因り営造したり。今代に及び議者|神武田《ジブノダ》に尚古塚あるを主張し、宮家遂に之に就て修理を加へ神武陵を制定す、明治十年車駕行幸陵前に拝告あり。(今白橿村大字山本の管内字神武田)
古事記云、御陵在畝火山之北方白橿尾上。日本書紀云葬天皇於畝傍山東北陵。延喜式云、畝傍山東北陵、在高市郡東西二町南北二町。山陵志云、神武陵、在畝火山之北方白橿尾上、尾上者山※[山+禺]如尾者、今畝火山東、里人所呼曰御陵山、墳然而隆起此也、大和志以此為神八井耳墓矣、若果神八井耳墳乎、何以伝謂之御陵乎、且所謂余数畝為一封塚者、亦不在神武田、距神武田又北三町許、決非神武陵。聖蹟図志云、畝傍山の東北麓洞村(今白檀村大字)に生玉明神あり、洞畔に丸山あり此丘即神武天皇東北陵たるべし、彼神武田の古塚、又|四条《シデウ》の東塚共に真陵に非ず。神武田《ジブノダ》址は今神武天皇の御陵域是なり。聖蹟図志云、神武田は一説神武堂の訛なり、即廟堂の址といふ、山本村に属し古塚新塚二個あり。山陵志云、神武田亦曰美佐々岐、蓋以其嘗有廟焉、相伝旧有神武飼廟、在神武田地、昔年水潦、廟為之所漂、而後遷大窪村、今大窪寺之址、有国源寺焉、又伝、国源寺亦自神武田旁遷于此、拠多武峰記、有泰善法師、貞元二年、創国源寺。
 
国源寺《コクゲンジ》址 神武田《ジブノダ》の地に当り、今陵東勅使殿をば塔垣内《タフカイト》と曰ふ亦寺址なり。初め貞元二年僧泰善国守藤国光と協力創営し、神武天皇の神教に依ると曰ふ、後水害を被り大久保(白橿村大字)に移す、寺田を神武田と称す。多武峰略記云、神武天皇崩于橿原宮、葬畝傍山北陵、旧記曰、国源寺在高市郡畝傍山東北、天延二年三月十一日早朝、検校泰善被過彼地、途中有人頭戴白髪、身着茅蓑、告泰善曰、師於此地、為国家栄福、講一乗矣、奉善問云、公姓名亦住処何乎、答曰我是人王第一国主也、常住此処、言訖不見、故泰善毎年三月十一日、到彼地講法華、貞元二年、当国守藤原国光伝聞此事、建方丈堂、安観音像、永為当寺末寺矣云々。
 
大窪寺《オホクボデラ》址 大久保に在り、近世国源寺彼地より移り此址に居る、書紀通証に「神武祠廟在大久保村」と云者是也、大窪寺は日本書紀に「天武天皇朱鳥元年、大窪寺封百戸限三十年」と云者にして、其廃亡久し、縁起亦詳にし難し。(白橿村)
娘子《ヲトメ》塚、大和志云、在大窪村、昔有娘子、字曰桜児、有二壮士、共挑之、捐生格競、貧死相敵、娘子歔欷曰、従古至今、未聞一女適二門矣、二子意難和平、不如妾身死相害永息爾、乃尋入林中、懸樹縊死、見万葉集和歌小序。謡曲三山云、南は香具山、西はうねみの山に咲く桜子の里見れば、よそめも花やかにて、羨ましくぞ覚ゆる、生きてよも明日までの、人のつらからじ、この夕暮を限りぞと、思ひ定めて耳無の池水の淵にのぞみて影うつる、名も月の桂のみどりの髪は、さながらに池の玉藻の濡れごろも。
 
四条《シデウ》 綏靖天皇陵は白橿村大字四条の東に在り、元禄中之を以て神武陵と為す、近年更に綏靖陵に擬す。旧史に見ゆる桃花鳥田岡と称すべき地に非ず、神武田《ジブノダ》の東北にあたる、不審。
古事類苑に引ける四条村神武帝陵周垣成就の図に、台山惣廻五十間、溝八角形延長三十六間、中に丘墳あり、下段西方高七尺、上段東方一丈とす、東北隅は細流に浜し、西南辺は小径に沿へり、是は元禄十年幕府(其実は細井広沢等の建言にて、広沢の主人柳沢甲斐守吉保の執行)にて修理ありし時の事とす。広沢の記に云「神武天皇の陵、畝傍山の東北におはします、田の中にて知る人なかりし、所の民「ジブノタ」とよび侍りき神武を伝へあやまると見えたり云々。
高市御県《タケチミアガタ》神社は四条に在り、今|高県《カウケ》宮と称する是也、〔大和志〕大同元年神封を奉じ、貞観元年昇位あり、〔新抄格勅符三代実録〕延喜式名神大社に列し、即祈年祭倭国六県神の一なり。高市は畝傍山北曾我川の畔の古名にて、後郡名と為れる者の如し、日本書紀「推古天皇十五年作高市池」の事あり、今詳ならず。
補【高市御県神社】○神祇志料 今四条村にあり、高県宮といふ(大和志・名所図会)平城天皇大同元年神封二戸を充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞親元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預る、即祈年祭六御県神の一也(延喜式)凡そ十二月廿二日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
軽《カル》 白橿《シラカシ》村の東部、大字大軽|和田《ワタ》石川五条野の辺なるべし、古は軽の地と云ふ総名なり、懿徳孝元応神三朝の皇居あり、又軽市と称して、市邑なりき。古事記に「あまたむ軽」と詠ず、天飛雁と云ひかけたる也、万葉集には「わか薦をかり路の小野」と詠ず、軽を苅に言ひかけたり。古事記、境原宮(孝元)段云、建内宿禰之子許勢小柄宿禰者、軽部臣之祖也、又姓氏録云、軽部、倭日向八綱多命之後也、雄略天皇御世献加里之郡、仍賜姓軽部君、又姓氏録云、軽我孫、彦坐命之後四世孫白髪王、成務天皇御代、賜軽地三十千代是負軽阿弥古姓之由也。
日本書紀、天武天皇白鳳十年、天皇将蒐於広瀬野、群卿皆居于軽市、而検校装束。軽市《カルノイチ》は今大軽の軽町ならん。
 やまと路や軽の市女に事問んあふにつらさをいかが買ふべき、〔五百番歌合〕 季経
 
軽曲峡宮《カルマガリヲノミヤ》址 懿徳天皇の皇居なり、古事記に境岡《サカヒヲカ》宮に作るも同じかるべし。書紀通証云、曲峡宮在軽町坤方、今名田有末波利乎佐、即此。日本書紀欽明巻に、「大伴紗手彦伐高麗、以所獲美女、送蘇我稲目宿禰、稲目居軽曲殿」とあり、曲殿亦此地か。
 
軽境原宮《カルノサカヒハラノミヤ》址 孝元天皇の皇居なり。書紀通証云、境原宮、在軽村大道西、今里民云佐加伎婆羅。身狭《ムサ》に牟佐坐境原天神あり、彼地か。
 
豊明宮《トヨアキラノミヤ》址 応神天皇の皇居なり、古事記に軽島之明宮とありて、日本書紀亦同じ。旧事紀は「都于軽島地、謂豊明宮」と録し、続日本紀古語拾遺霊異記山城風土記等は皆豊明宮とあり、津国風土記には軽島豊阿岐羅宮と記す、宮址蓋大軽大内丘の軽寺なるべし。
 
軽池《カルノイケ》 日本書紀、「応神天皇、作軽池、」これは酒折池と云者同処なるべし、酒折は坂降りの義理にあらずや。古事記、水垣宮(崇神)御世、作軽之酒折池。又玉垣宮(垂仁)御世、本牟知和気命作二俣小舟、浮倭之市師池軽池。万葉集猟路は軽路の仮借なり、
 軽の池のうらわゆきめぐる鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに、〔万葉集〕遠つ人猟路の池にすむ鳥の立ても居ても君をしぞ思ふ、〔同上〕
 
軽寺《カルノテラ》址 日本書紀、天武天皇朱鳥元年、軽寺、封百戸、限三十年。大軽の字に東明寺あり、草堂纔に存し廃軽寺と称す。〔名所図会〕山陵志云、軽旧都古時蓋広、大内之丘北、田畝土俗称軽大臣宅地、疑是軽大寺之訛也、凡旧宮地、必※[てへん+(講−ごんべん)]仏寺、以異之、蓋中古風習矣
軽神社 延喜式、軽樹村坐神社二座。大和志云、白橿村大字池尻の南、軽子村に在り、軽我孫公の祖神か、又樹を祝ふ者か。
 天飛ぶや軽の社のいはひ槻いく世まであらむこもり妻ぞも〔万葉集〕
 
石川《イシカハ》 白檮《シラカシ》村大字石川存す。蘇我氏の祖石川宿禰河内の石川に生れ後本国に移ること三代実録に見ゆれば、彼地名を移したる者なるべし、蘇我氏の宅此に在りしことも諸書に見ゆ。日本書紀、敏達天皇十三年、蘇我馬子宿禰、於石川宅、修治仏殿、とあれば後世まで別荘を此に有てり、同書皇極天皇元年紀に蘇我大臣畝傍家とあるも此か、又宗我村の邸か、詳ならず。
大歳《オホトシ》神社は延喜式本社二座、今石川に在り、歳は古言|田寄《タヨセ》にて穀物に本づき其収納を一年と為すと古事記伝に見ゆ、大歳神即穀神にして、祈年祭主として之を祭るとぞ。
 
石川精舎《イシカハノシヤウジヤ》址 敏達天皇十三年蘇我馬子石川の宅に精舎を修治し仏像を奉祀す、翌年塔を大野岡に起す、是より仏法初て起る、当時物部守屋中臣勝海奏請して仏法を禁断し、塔を倒し之を焼きしかど遂に果さず、仏法愈盛なり。石川精舎は何の世まで存立したるにや、遺址歴々たり、今浄土宗本明寺其故跡を伝へ馬子塚と称する五輪石塔(高丈余)あり、又村中田圃の字に八講田、山林の字に花厳寺大楽寺感道寺等あり。〔大和志三十三所図会〕日本書紀云、敏達天皇十三年、従百済来鹿深臣有弥勒石像一躯、佐伯連有仏像一躯、蘇我馬子宿禰請之、乃遣鞍作部村主司馬達等池辺直永田使於四方、訪覓修行者於石川宅修治仏殿、仏法之初自茲而作、十四年宿禰起塔於大野丘北、大会設斎、以司馬達所獲舎利蔵柱頭、時疫疾流行、物部弓削守屋大連与中臣勝海大夫奏、禁断仏法斫倒其塔、縦火燔之。古事記伝云、推古帝の陵初め大野岡上に在り、後|科長《シナガ》大陵に移すとあれば、大野岡即馬子の起塔したる所なるべし。大野丘北塔址は今白橿村大字和田に属す、田園と為り塔之田と曰ふ。〔三十三所図会〕
 真こも苅る大野河原のみごもりに恋こし妹が紐とく我は、〔万葉集〕
補【石川精舎】○外交志稿 用明帝の時、鹿深臣佐伯連、百済より還る、弥勒石像一躯、仏像一躯を齎す、蘇我馬子其像を請ひ石川の宅(案ずるに大和志に高市郡石川の廃精舎石川村の古祉、今本明寺及石浮屠あり、高丈余)に於て仏殿を修治し、石仏像を安置す、之を石川精舎と云ふ、仏法此より弥漫せり。
石川精舎廃址 石川村にあり、今本明寺と云へる浄土宗の寺ある地、其旧址なりと云ふ、馬子の塚とて古き五輪の石塔あり、又村中田圃の字に八講田と云ふあり、法華八講を行ひし址とぞ、又山の字に花巌寺山、大楽寺山、感通寺山など呼べるあり、皆寺院の旧地なる可し、蘇我馬子石川の第宅の傍に於て堂舎を営むとあれば、凡て此辺馬子の第宅の旧址ならんか(三十三所図会)
 
剣池《ツルギノイケ》陵 孝元天皇の御陵なり、白橿村大字石川の剣池是なり、池中島を起す、高一丈周三十二間、池周三百間。〔名所図会〕日本書紀、葬天皇于剣池島上陵。古事記御陵在剣池之岡上。延喜式云、剣池島上陵、軽境原宮御宇孝元天皇、在高市郡域東西二町南北一町。
剣《ツルギ》池 日本書紀云、応神天皇、作剣池軽池鹿垣池厩坂池、舒明天皇七年、瑞蓮生剣池、一茎二花、皇極天皇二年、剣池蓮中有一茎二萼者、豊浦大臣(蝦夷)妄推曰、是蘇我臣将来瑞也、即以金墨書而献大法興寺丈六仏、明年蝦夷入鹿並被誅。
 
厩坂《ウマヤサカ》 軽の中なれど今詳ならず、白橿村大字田中の辺か。日本書紀云、応神天皇御世、東蝦夷悉朝貢、役蝦夷而作厩坂道、又作厩坂池、又云、百済王阿直岐貢良馬二匹、即養於軽坂上厩、以阿直岐令掌飼、改号其養馬之処曰厩坂也。美作《ミマサカ》池と云も厩坂の訛ならん、
 伊勢ならばひがごとぞとや思はまし大和なるてふ美作の池、〔堀河次郎百首〕
厩坂《ウマヤサカ》宮址 日本書紀云、舒明天皇十二年、天皇至自伊予、便居厩坂宮。是は田中宮と同じきか、即厩坂寺を其宮址に置かれしならん、厩坂寺は高市郡なる事源平盛衰記に見ゆ。
 
厩坂寺《ウマヤサカデラ》址 初め藤原鎌足山階(今山城山科郷)に精舎を建て維摩講を置く、天武天皇元年之を高市郡飛鳥里厩坂に移し法光寺と号す、〔伊呂波字類抄大日本仏教史〕平城遷都の時和銅三年左京に移す、今の興福寺是なり。多武峰縁起云、維摩会者大織冠遠忌也、大織冠性崇三宝、毎年十月荘厳法筵、仰維摩之景行、説不二之妙理、薨逝以来、間断年久、爰淡海公、以慶雲二年丙午冬十月、於城東第、初開維摩法会、屈入唐智鳳、以為其講匠、同四年丁未十月、在厩坂寺、請新羅遊学僧観智、講両本維摩経。初例抄云、維摩会、始自斉明天皇元年、講師西大寺寿遠法師、慶雲四年開於厩坂寺、講師観智新羅国僧。
補【厩坂】○初例抄 維摩会始自斉明天皇、仁〔元歟〕明天皇即位元年始之、講師西大寺寿遠法師、元都〔元歟〕興寺、中絶四十三年、慶雲四年丁未開於厩坂寺講師観音新羅国僧、和銅移于植槻寺、和銅五年移興福寺、亦移南京法花寺、亦移長岡神足家云々、永留興福寺事、延暦廿年殊有宣旨。
 
田中《タナカ》 白橿村大字田中は石川と接す。古事記云、建内宿禰之子、蘇我石河宿禰者、田中臣等之祖也。此地は古へ軽に属し、舒明天皇の田中宮厩坂宮一処にあらずや、又三代実録に馬立伊勢部田中神と云者あり、大和志之を以て田中八幡宮に援当たり、馬立《マタテ》伊勢部と云ふ所以は詳ならず。
田中《タナカ》宮址 日本書紀云、舒明天皇八年、災岡本宮天皇遷居田中宮。厩坂宮と一処か。
 
雲梯《ウナデ》郷 和名抄、高市郡雲梯郷、訓宇奈天。今|金橋《カナハシ》村真菅村今井町等にあたる。金橋に大字雲梯あり、来目郷の北にして磯城郡北葛城郡の間に夾在す。重坂川郷中を貫流し此に曾我川と呼び、下流には百済川と曰ふ。宇奈天は溝の古言なり、日本書紀欽明十四年に溝辺《ウナテ》直と云人あり。姓氏録云、雲梯連、高向村主同祖、漢宝徳公之後也。続日本紀云、天平宝字七年、賜漢人伯徳広道、姓雲梯連。
 
雲梯森《ウナデノモリ》 古事記伝云、出雲国造神賀詞に「事代主命の御魂を宇奈提に坐《マサセ》」とあれども延喜式に此社載せず、又「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐《マサセ》て」とあるも式に合はず、熟思ふに彼文は「事代主命を飛鳥の神奈備に賀夜奈流美命を宇奈提に」とあるべきをまがひ誤る者なるべし、故は飛鳥は事代主雲梯は賀夜奈流美と云事今も国人の言なり、大和志に延喜式加夜奈留美命神社は柏の森(今高市村)に在りと云るは定かなる証なし。
 真鳥すむ卯名手の神社《モリ》の菅の根をきぬにかきつけ着せむ児もがも、〔万葉集〕延喜式加夜奈留美命神社は三代実録にも其名見ゆ名社也。神紙志料云、加夜奈留美命神社今雲梯村にあり、〔古事記伝〕大穴持命の子加夜奈留美命を祀る、加夜奈留美命又|加屋鳴比女《カヤナルヒメ》神と云、〔延喜式類聚三代格〕飛鳥神の裔神とす。〔類聚三代格〕 
高市森《タカイチノモリ》 雲梯神社同処か、或は云ふ今廃すと、壬申の乱に「吾者高市杜所居名事代主神」と神教ありし霊祠なり。貞観元年従三位高市御県鴨八重事代主神授従一位と三代実録に見ゆ、延喜式大社に列したり、大和志に本社今|鴨公《カモキミ》村大字高殿に在りて鴨公森と云ふとあり、亦一説なり参考すべし。日本書紀云、大伴吹負軍金綱井之時、高市郡領高市県主許梅、※[修の彡の代わりに黒]忽口閇而不能言也、三日之後方|著神《カミカヽリ》以言、吾者高市社所居名事代主神、又|牟狭《ムサ》社所居名生霊神者也、乃顕之曰、於|神日本磐余《カンヤマトイハレ》彦天皇之陵、奉馬及種々兵器、便亦言、吾者立皇御孫命之前後、以送奉于不破而還焉、今且立官軍中守護之、且言、自西道軍衆将至之、宜慎也、言訖則醒矣故是以便遣許梅而祭拝御陵、因以奉馬及兵器、又捧幣而礼祭高市身狭二社之神、然後壱伎|史韓国《フヒトカラクニ》自大坂来、故時人曰二社神所教之辞適是也、軍政既訖、勒登進神之品以祠焉。神祇志科云、雲梯事代主神社は今その社既に廃たり、〔奈良県神社取調書〕即八重事代主神を祭る、〔三代実録日本書紀延喜式〕初此神其御父大己貴命と共に群神を天高市に建て天に昇て天神の命に帰順ふ由を申し給ひき、〔日本書紀古事記〕其後大己貴命己神の和魂を大御和の神奈備に坐させ、御子事代主命の御魂を宇奈提の神奈備に坐せて、皇御孫命の近守神と宣り給ふは即是也、〔延喜式祝詞〕此神其稜威尤厳なるを以て、人皆之を畏る、所謂宇奈提の森の神也。〔万葉集〕
川俣《カハマタ》神社、今金橋村大字雲梯に在り、今川俣八王子と称す、三代実録延喜式に見ゆ、蓋川俣公の祖神なり。姓氏録云、大和皇別、川俣公、彦坐命之後也。
補【川俣神社】○神祇志料 川俣神社三座、今雲梯村にあり、川俣八王子と云(大和志・名所図会)蓋川俣公の祖彦坐命族類の神を祭る(参酌新撰姓氏録・大和国神名帳略解大要) 按、神名帳略解に崇神帝坐命に勅し、神殿を石川俣に建て、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、※[火+(漢-さんずい)]之速日命、熊野忍蹈命を祀らしむ、因て川俣公姓を負ふ、後其二神を分て子部神社に祀ると云る、信じがたき説なれど、彦坐命川俣公姓の事を云るは由縁あり、其川俣公の祖を祭る事を徴すに足れり
清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け(三代実録)
 按、本書陽成天皇元慶六年五月癸卯の条に、高市郡従五位下天川俣神社の事みゆ、されど位階違へり、異神か同神か詳ならず、或は三座の内の一神か、姑く附て考に備ふ
 
忌部《イムベ》 金橋《カナハシ》村大字忌部は忌部氏の住所なりき、祖神太王命社あり。忌部氏の祖は天照大神に奉事し大功あり、子孫世々国家祭祀の礼儀を掌知す、古事記云「布刀王命者、忌部首等之祖」と、其裔斎部広成、大同二年、古語拾遺を撰述し廷奏する所あり。
太玉《フトダマ》神杜は貞観元年授位〔三代実録〕飛鳥神の苗裔神と為す〔類聚三代格〕延喜式名神大杜に列し四座并祭す、布刀玉命及其子能売命豊磐窓命櫛磐間戸命を云ふ、四神並に天照大神に侍従したる事、日本書紀古語拾遺に見ゆ。按ずるに本社飛鳥の苗裔と云ふは、忌部氏退転して後彼摂属と為れるを云ふか、飛鳥は事代主神なれば本一族の類に非ず。
補【太玉神社】○神祇志料 太玉神社四座、今忌部村にあり(日本紀通証・大和志・神名帳考証)高皇産霊尊の子斎部宿禰の遠祖天太玉命及太玉命の子大宮売神、豊磐間戸命、櫛磐間戸命を祀る(日本書紀・古語拾遺・日本紀通証・神名帳考証)
 按、大和国神名帳略解に磐間戸二神なく、太玉命天比の理当スとあり、太玉命は天太玉命と重複なれば取りがたけれど、天比の理刀@命は天比理刀当スにて此に由縁あり、さらば磐間戸二神を一柱として此姫神を加ふべきか
此四柱の神、蓋皆天磐屋戸に大功あり、太玉命は祭祀の礼儀を掌り(日本書紀・古事記・古語拾遺)大宮売神は殿内に侍て神意を和奉り、豊磐間戸神・櫛磐間戸神は宮門を守衛る事を掌りて仕奉りき(古語拾遺)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制、並に名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預る(延喜式、名神二字拠名神祭式)飛鳥神の裔神也(類聚三代格)
 
勾《マガリ》 金橋《カナハシ》村大字|曲川《マガリカハ》の辺を云ふ。其西北に接せる北葛城郡百済村は和名抄広瀬郡下勾郷の地なれば、曲川は上勾なるべし。安閑天皇の遷都したまへる勾は此地と云ふ、大和志に曲川は旧名勾金と云ふとあれど疑はし、曲川は此地を流るゝ宗我川に因みたる者にて亦其所由あり。天文二十二年吉野詣記に見ゆ、曰高田を立出ぬるに、曲川までわかき人おくりに馬など引せてきたり酒すゝめて立別れけり、きさらぎもけふのみなるに桃花こゝかしこ咲て、川のまがり曲水の興を催すべき所のさまなるよし申て、
 さかづきに千とせもめぐれもゝの花川は曲の水にうかべて。
 
金橋宮《カナハシノミヤ》址 今金橋村曲川にあるべし、近年宮名に因み村名を改む、安閑天皇の皇居なり、日本書紀云、安閑天皇、遷都于大倭勾金橋、因為宮号、古事記云、勾之金箸宮。
 
曾我《ソガ》 今|真菅《マスゲ》村と改む、万葉集に「真菅よし宗我の河原」と詠じたるに因る。蘇我氏の祖先此に居宅したるに因り彼氏名起れり、古事記伝云、蘇我氏は満智韓子稲目馬子倉山田蝦夷赤兄の人々あり史に著る、後は石川と改む、三代実録に「右京人石川朝巨木村箭口朝臣岑業改姓賜宗岳朝臣」と見ゆ、馬子蝦夷等逆臣なれば我を岳に改めたるか云々。国造本紀云「素賀国造、橿原朝廷、始定天下時、従侍来人、名実志印命、定賜国造」と、按に此条は本書遠江と駿河の間に載せたれど、神武帝開国の初に方り東海の遠地まで国造配置あらん事疑はし、大和の蘇我にあらずや、今徴証なけれど録して後の考定をまつ。
宗我神社は曾我村の北河原に在り、今|入鹿宮《イルカノミヤ》と云ふ、蘇我氏の祖神なり。新抄格勅符神封、三代実録授位の事あり、延喜式宗我坐宗我都比古神社二座並に大社に列す。三代実録云、宗我氏始祖石川、賜宗我大家為居、因賜姓宗我宿禰。
補【宗我神社】○神祇志料 宗我坐曾我都比古神社二座、今曾我村の北蘇我河原にあり、入鹿宮と云(大和志・神名帳考)宗我都比古神、宗我都比売神を祀る、(延喜式・宗我社伝)蓋蘇我臣の祖神也(日本書紀・古事記・姓氏録大意)
 按、日本紀葛木県を以て蘇我氏の本居とす、今国図を考ふるに葛上郡と本郡の界に曽我村あり、古へは葛城県の内にて本居となりし故に、其祖神を祀れる事著し、附て考に備ふ平城天皇大同元年神封三戸を寄し(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授く、六年六月辛未正五位下を賜ふ(三代実録)醍醐天皇延喜の制、並に大神に列り、月次新嘗の幣帛に預る(延喜式)凡そ十月十六日祭を行ふ(奈良県神社取調書) 
宗我川《ソガガハ》 真菅村金橋村の間を流る、重坂川檜前川(一名久米川)の合流にして又勾川と称す、末は百済川と為り大川《オホカハ》に注ぐ。
 真菅よし宗我の川原に鳴くちどりまなし我せこわがこふらくは、〔万葉集〕
安川《ヤスカハ》 日本書紀神代巻に天安川と云者あり、古語拾遺に天八湍河に作る。小川氏云、安川は即八宗我川なり、八は発語にして之を約めて安川と云ふ、按に天高市神社曾我村に現存す神世に在りて諸神の霊蹟をあらはし給ふも此地なるべし、旧事紀を参照するに「伊弉諾尊、斬※[車+可]遇突智、剣鐔垂血、激越為神、所走就揚津石村、所成之神名、曰天尾羽張神、今坐天安河上|天窟《アマノイハヤ》神也.とありて宗我川の上游に天津石戸別神社あり、延喜式に著れ巨勢郷越智岡に存す。明治三十年宗我川の右岸真菅大字中曾司に石器時代之遺蹟を発見す、即宗我神社の北なる古墳散在の畠地是なり、石鏃土器の徴証に足るものを見るべし、従来石器時代遺跡は畿内に於て之を見ること最稀なり、前年河内国々府村の地に之を見たりといふ。〔考古学会雑誌〕
 
天高市《アマノタカイチ》神社 真菅村大字曾我に在り、高市八幡宮と称す。〔大和志神祇志料〕三代実録貞観元年授位、延喜式大社に列す。天高市及び天安川は神代史に見ゆ、然れども神代の談人事を以て律すべからず、此地即神代史に合するや否やは詳ならず。日本書紀神代巻一書曰、大物主神及車代主神、会乃八十万神於天高市、帥以昇陳其誠疑之至。古語拾遺云、素盞鳴命、為日神行甚無状、天照大神赫怒、入天石窟、閉戸而幽居、時八十万神相会天高市、議之。
補【天高市神社】○奈良県名勝志 真菅村大字曾我に在り、古事記に曰く、天津日子根命は高市県主の祖なりと。古語拾遺に曰、素盞鳴命日神を奉為し、行甚だ無状、天照大神赫怒天石窟に入り磐戸を閉て幽居すと、時に八十万神天の高市に相会して祷るべきの方を議すとは、即此所なりと云ふ。
 
今井《イマヰ》 今井町は真菅村の東にして八木町に接す、戸数五百、本郡の小繁華なり。和州軍記云、今井村と申所は兵部と申す一向坊主の取立たる新地にて候、此兵部器量のものにて四町四方に堀を廻し土手を築き、内に町割をいたし人をあつめ家を造らせ、国中へ商等をいたさせ、又は牢人をはひあつめ候、然処に大坂一向門跡逆意の刻石の兵部も今井に一揆を発し、近辺を放火し相働候を、筒井順慶仕寄にて半年計も被攻終に落去せず、大坂扱になりて後は今井も扱になり、矢倉等をおろさせ、兵部は其まゝ信長公より赦免、先規に不替、今井の支配仕り宗門を相続候、秀吉公時代も右の通にて居住候。
 
金綱井《カナツナヰ》 日本書紀、天武元年壬申の乱の条に曰く、将軍大伴吹負、為近江軍所敗、以独率一二騎走之、逮于墨坂、更還屯金綱井、而招聚散卒、西到当麻衢、先是軍於金綱井時、高市大領高市県主許梅著神、云々と。墨坂は宇陀郡に在り、吹負及楽山(添上郡)に敗れ墨坂に走り、高市県に返り高市杜(曾我村)牟佐神(身狭村)の神教を得たり、謂ゆる金綱井は今井の辺なる事明なり、今井の大字|小綱《セウコ》あり古はコツナと呼び、即|金綱《コツナ》に非ずや、詳ならず。
補【金綱井】○日本書紀〔天武紀元年〕将軍吹負為近江所敗、以独率一二騎走之、逮于墨坂、遇逢菟軍至、更還屯金綱井、而招聚散卒、於是聞近江軍至自大坂道、而将軍引軍如西、到当麻衢、与壱伎史韓国軍戦葦池側、云々、先是軍金綱井之時、高市郡大領高市県主許梅、※[修の彡の代わりに黒]忽口閇而不能言也、三日之後著神以言、吾者高市社所居、名事代主神、又牟狭所居、名生霊神者也、云々。○今井町大字今井大字小綱。
 
八木《ヤギ》 八木町は今井町の東北に接し、飛鳥川を隔つ、亦同く小繁華にして機織戸多く、総て三百余戸なり。小房《コフサ》観音堂あり。飛鳥川は八木にて曾我川と云ふ、玉林抄に聖徳太子斑鳩より曾我川を経八木宮を過ぎて橘宮と通ひ玉ふと見ゆ、是也。
補【八木】〇三十三所図会、八も|札街《フダノツジ》 八木の町の札の辻は東は桜井より泊瀬に至る街道、南は岡寺、高取、吉野等への道筋、西は高田より竹内、当麻への往還、北は田原本より奈良、郡山への通路にして、四方往還の十字街なれば、晴雨暑寒を厭はず、平生旅人間断なく至て賑し、毎朝札場の傍に於て魚市あり、此辺何れも旅駕屋にて、家作広く端麗なれば、伊勢参宮の陽気連駕をつれたる大和巡り、両掛もたせし西国順札なんど日の高きを言はずして爰に宿る、所謂迫隣に於ては繁花なり。
 
遊部《ユフ・アソブ》郷 和名抄、遊部郡遊部郷。今の八木町|鴨公《カモキミ》村にあたるか。三代実錬元慶四年の条に百済大寺を高市郡夜部村に移されし事見ゆ、夜部遊部同じかるべし、又大和志に飛鳥川を一名|遊副《ユフ》川と呼ぶとあり、因りて其地を求むるに八木町鴨公村に相当す。玉林抄に八木の曾武川とあるも遊部《アソブ》川の転じたる乎、尚徴証を要す、一説白橿村大字|四分《シブ》は遊部の訛と曰へり。按に遊部は本来部民の称にして、阿曾賦と呼べるを後地名に転じ由賦とも唱へしならん。遊部の本義は令集解云、遊部、隔幽顕境、鎮凶万魂之氏也、終身勿事、故云遊部、古記曰、遊部者、在大和国高市郡、生目天皇(垂仁)之苗裔也、天皇之子円目王、娶伊賀比自伎和気女為妻也、凡天皇崩時、比自岐和気等到殯所、而供奉其事、仍取其氏二人名、称禰義与此也、禰義者負刀並持戈、与此者持酒食、並負刀入内供奉、唯禰義等申辞者輒不便人知也、(中略)其人終身無事、免課役任意遊行、故云遊部。
 
高殿《タカドノ》 今|鴨公《カモキミ》村と改む、八木村の南にして古の藤原の地なり、畝傍香久耳成三山鼎立の間に在り。(耳成山は八木町の北に在り)
鴨公森《カモキミノモリ》 大和志書紀通証云、延喜式高市御県坐鴨事代主神社、在高殿、今称大宮、又名鴨公森。今按ずるに高市森は雲梯森と同じ此に非ず、県名勝志又云高宮と曰ひ大殿と曰ふを合せ考ふれば蓋藤原宮の跡ならんと。
補【高殿】○奈良県名勝志 高市御県坐鴨事代主神社は鴨公村大字高殿にあり、里人大宮と称し、又鴨公森と呼ぶ、日本紀の高市社是なり、或は云ふ、本社を大宮と称し、所在を高殿と云ふ、彼是合せ考ふれば、蓋藤原宮の址ならん。
 
飛騨《ヒダ》 鴨公村大字飛騨あり、斐太の細江此なるべし。冠辞考云万葉集「白まゆみ斐太の細江の菅鳥の」云々、是は引を略きて斐と言掛たり。東大寺要録(長徳四年注文)高市郡飛騨荘。
 
藤原《フヂハラ》 今鴨公村高殿の地蓋是なり、又大原と称し埴安の西に方る、持統文武の皇居藤原宮同く此なり。之より先に古事記明宮(応神)段に「御子二俣王生藤原之琴節郎女」とあれば旧地なり、日本書紀、允恭天皇藤原に別官を構営し衣通媛を置きたまふ、、衣通姫は即藤原之琴節郎女なり。曰、天皇召衣通郎女、(即弟姫)留於倭直吾子籠之家、勿近宮中(遠明日香宮)則別構殿屋於藤原而居也、天皇幸于藤原宮、密察衣通姫消息、是夕衣通姫変天皇而独居、其不知天皇之臨、而歌曰
 わがせこがくべきよひなりささがにのくものおこなひこよひしるしも、
天皇聴是歌、則有感情。推古天皇十五年、於倭国作藤原池。
 
大原《オホハラ》 藤原の別称にて、藤原鎌足の本居なり、今大織冠宅址と伝ふる所あり、即鷺栖坂の北に当る。〔書紀通証名所図会〕多武峰略記云、推古帝二十二年、鎌足生大原藤原第。姓氏録云、藤原朝臣、出自津速魂命三世孫天児屋根命也、二十三世孫内大臣大織冠中臣連鎌子(古記曰鎌足)天智天皇八年、賜藤原氏、男正一位増大政大臣不比等、天武天皇十三年賜朝臣姓。
  天皇(天武)賜藤原夫人(鎌足女為皇妃)御歌
 吾里に大雪ふれり大原の古にし里にふらまくはのち〔万葉集〕
 大原のこのいちしばのいつしかと我おもふ妹にこよひあへるかも〔万葉集〕 田原天皇 大原のふりにし里にいもをおきて我いねかねつ夢に見えこそ〔万葉集〕
按に万葉集第八の一歌の注云「藤原夫人、字曰大原大刀自、即新田部皇子之母也」又続紀には「天平神護元年、行幸紀伊国、車駕巡歴大原、長谷、臨明日香川、而還藤原」と載せたり、略解云、大原は続紀に紀伊行幸の路を記せしに泊瀬と小治田の間に大原と云所見ゆ、今も大原村あり、即藤原とも云り、藤原氏の本居にて十市郡なり。(十市郡香具山の西に接したれど固より高市郡也、)
 
藤原宮《フヂハラノミヤ》址 鴨公村鴨公森の辺なるべし、万葉集に「あら妙の藤井が原に大御門始めたまひて埴安《ハニヤス》の堤の上にありたゝし」云々の句あり、藤井原即藤原の井ある処なれば斯くも呼ぶのみ。日本書紀、持統天皇朱鳥七年、幸藤原宮地、八年春、幸藤原宮、冬十二月、遷居藤原宮。続日本紀云、天武天皇慶雲元年、始定藤原宮、入百姓一千五百五煙於宮中、賜布有差。按ずるに日本書紀朱鳥の紀年詳ならざる所あり、之を要するに持統帝五年甲午より元明天皇和銅三年庚戌まで十六年の皇居なり、後世特に持統文武の二主を藤原宮御宇天皇と称し奉る、浄見原宮より此に移り後平城に遷都なり、帝王編年記に元明天皇四年藤原宮火の事見ゆ、此より廃墟と為る、扶桑略記云、和銅四年、大官大寺並藤原宮焼亡。釈日本紀藤原宮条云、私記曰此地未詳、愚按氏族略記云、藤原宮在高市郡鷺栖坂北地。(鷺栖は今白橿村大字四分の地なり)
 藤原の大宮づかへあれつくやをとめがともはともしきろかも、〔万葉集〕藤原のふりにし郷の秋はぎはさきてちりにき君待かねて、〔同上〕
 
大官大寺《ダイカンダイジ》址 大官一に大宮に作る、天武天皇二年百済大寺を高市郡夜部村に移し改号したる也。〔日本書紀三代実録〕夜部は今鴨公村なるべし。書紀通証云、「大寺址、在小山村東、礎石尚存」と、小山は今飛鳥村に入れど鴨公村と密接す、蓋是なり。和銅三年平城左京に移し、更に大安寺と号す。〔元亨釈書大安寺縁起流記〕日本書紀云、天武天皇二年、以小紫美濃王小錦下紀臣訶多麿、拝造高市大寺司。十一年、天皇不預、誦経於大官大寺川原寺飛鳥寺、因令稲納三寺、各有差。朱鳥元年勅之、大官大寺、封七百戸、乃納税三十万束。大安寺伽藍流記云、天武天皇二年歳次癸酉、自百済地移高市地、六年歳次丁丑、改高市大寺号大官大寺、藤原宮御宇天皇朝廷、恵勢法師乎令鋳鐘之、爾後藤原朝廷御宇天皇(文武)九重塔立、金堂作建、並丈六像敬奉造之。続紀云、文武天皇大宝元年六月。於大安寺講新令。
 
葉師寺《ヤクシジ》址 今生駒郡都跡村の薬師寺は初め藤原宮に在り、大和志に木殿と為す、木殿《キドノ》は鴨公村の西に接し、今白橿村に属す。天武天皇の時に創始、〔薬師寺大塔露盤銘〕養老二年平城西京に遷す。〔濫觴抄〕日本書紀云、天武天皇白鳳九年、皇后体不予、則為皇后誓願之、初興薬師寺、仍度一百僧、由是得安平。続日本紀云、文武天皇二年、以薬師寺※[てへん+(講-ごんへん)]作略了、詔衆令住其寺。濫觴抄云、薬師寺者、養馬徳藤原宮建立、土木之功熟三帝、日月之営送五代。元亨釈書云、白鳳八年、皇后(持統)病、勅建薬師寺、祈冥救、時不知営構之規、祚蓮入定、見龍宮之伽藍、出定而奏造式、以故薬師寺宏壮麗妙云。按ずるに薬師寺移建の大塔は生駒郡に現存す、骨※[てへ+(講-ごんべん)]麓妙古人の所言に合ふ、而も金堂諸宇今焚毀の余旧規を存するなし。 
鷺栖《サギス》 鷺栖は藤原宮址の南にして、古書藤原古墟の指鍼と為す所なり。玉林抄云、「藤原宮は鷺栖坂の北なり」、釈紀云、「藤原宮、在高市郡鷺栖坂北地」。鷺巣池は古事記に見ゆ、玉垣宮(垂仁)段云、天皇鷺栖の池の樹に住む鷺や宇気比(誓也)落ちよと斯く詔り給ふ時、其鷺地に堕ち死き。
鷺栖神社は延喜式に列す今白橿村大字|四分《シブ》に在り、鷺栖八幡宮と曰ふ。〔大和志〕
 
飛鳥《アスカ》 今飛鳥村|高市《タカイチ》村に当る、或は明日香に作る(初允恭天皇顕宗天皇此地に皇居を営みたまひしも各一代にして止み、推古帝に及び又造都あり、爾後一百年京邑と為る。藤原(持統帝)平城(元明帝)の遷移に至り尚古京と称し別都たり、天平宝字中淳仁帝行幸あり後廃墟と為る。飛鳥を明日香と訓むは「飛鳥《トブトリ》のあすか」と云ふ冠辞に由る、日本書紀「天武十五年、改元曰朱鳥、元年、仍名宮|飛鳥《トブトリ》浄御原《キヨミハラ》宮」と見ゆ、此浄御原即明日香の中なれば転じて飛鳥の明日香と唱へ、終に其飛鳥をば明日香とよみならはせりと。(本居氏の説)又云、あすかと云鳥の名を明日香の地に云掛て、飛ぶ鳥とは冠らせしならん。(加茂氏説)此あすかと云鳥は即いすかならん、紅色にて口角の齟齬ひたる者なり、皇国にあるなべての鳥の中にかばかり全く紅きはをさ/\あらず、此鳥何国に棲るにか尋常は見えず、秋の比西南の方より数多打群れ飛渡り来て春の半過る頃又うち群れて帰り去く者なり、此鳥古は阿須迦と云けむ云々。(伴氏説)古事記、玉垣宮(垂仁)段云、御子大中日子命者、飛鳥君等祖也。姓氏録云、飛鳥直、天事代主命之後也。
 
遠飛鳥宮《トホツアスカノミヤ》址 允恭天皇の皇居なり、書紀通証に飛鳥村鳥形山なるべしと云ふも徴証なし、或は之を河内国飛鳥に求むれど信ずるに足らず、要するに本地に在りて故址を失ふ者也。其|遠飛鳥《トホツアスカ》と云ふは仁徳帝難波都の時、河内の飛鳥を近《チカツ》と為したるに対し、大和のを遠と呼べる也。古事記曰、伊佐本和気命(履仲帝)坐難波宮之時、其弟水歯別命(反正帝、河内丹比宮御宇天皇)到倭大坂山口、詔斬曾婆訶理、今日留此間、而先給大臣位、明日上幸、留其山口、斬曾婆訶理之明日上幸、故号其地謂近飛鳥也、上到于倭、詔之今日留此間、為祓禊、而明日参出、将拝石上神宮、改号其地謂遠飛鳥也、云々。(履仲反正二帝は並に允恭の同母兄にして、仁徳帝の皇子とす)
 草まくら我ふるさとの外に亦遠つあすかの都恋しも、〔新続古今集〕 尭好
 
賀美《カミ》郷 和名抄、高市郡賀美郷。飛鳥の地にして今飛鳥高市の二村是なり、高市郡の上方に在れば也。日本紀略、天長六年、高市郡賀美郷甘南備山鳥形山と云事見ゆ。
 
飛鳥京《アスカノミヤコ》址 又小墾田京と称す、推古帝以降持統帝に至るまで一百年の都邑なり、豊浦岡本川辺浄御原等の諸宮あり。当年の皇居は毎代必変易し其間時々移御あり、故に造宮ありて造都なしと謂ふべし、然れども飛鳥は百年余の間皇居常に此に在りしを以て自ら造都の状を為し、以て後世の都邑不易の勢運を馴致したり。孝徳帝天智帝は一時此を去り難波滋賀に遷都ありしかど永からず、尚古京と称し其街市も旧に依り別都たりき、天平宝字中尚岡本宮存在す、後荒墟と為る。万葉集に飛鳥明日香の里と詠み、霊異記に小墾田古京と見ゆ。
 飛とりの明日香の里をおきていなば君があたりは見えずかもあらん、〔新古今集〕 元明天皇
 たをやめの袖吹きかへすあすか風都を遠みいたづらに吹く、〔続古今集〕 田原天皇
日本書紀、天武天皇元年、大伴吹負詐称高市皇子、率数十騎、自飛鳥寺北路、出之臨営、爰留守司高坂王、拠飛鳥寺西槻下為営、運小墾田兵庫器仗、軍衆聞敵声悉散走、吹負等曰、古京是本営処也、宜固守之、解取道路橋板作楯、竪於京辺衢、時吹負与近江将大野果安、戦于乃楽山、為其所敗、於是果安至八口、〔集解本作八田〕※[(企-止)/山]而視京、毎街竪楯、疑有伏兵、乃梢引還。按ずるに八口八田詳ならず、延喜式治田神社あり今高市村大字岡の宮山に在り、此か、※[入/山]は古字登に同じ。
補【古京】○大日本人名辞書 大伴吹負は天武帝の東国に入るや、吹負留りて従はず、親族豪傑と結びて数十人を得たり、時に留守司高阪王、飛鳥山の西に営す、吹負詐りて高市皇子と称し兵を率ゐて飛鳥寺の北に出で、高阪王の営に臨む、営兵之を聞て逃走す、吹負使を発して不破に遣し、之を奏せしむ、天武帝大に喜び吹負を拝して将軍と為す、吹負将に近江を襲はんとす、乃ち乃楽に赴く、稗田に至る比ひ二人あり、近江の軍河内より至ると伝ふ、吹負龍田大坂石手の三道を探り自ら乃楽山に屯す、荒田尾赤麻呂曰く、古京〔飛鳥岡本宮という〕は是れ根本の地なり守らざるべからずと、吹負即ち赤麻呂忌部子人を古京に遣す、赤麻呂等橋を毀ちて盾と為し、街衢を列ねて守る、明日吹負大野果安と乃楽山に戦ひて敗績し、僅かに身を以て免る、果安迫て八口に至る、街衢に盾を列ぬるを見て、其備あらんことを恐れ、兵を率て還る。
 
小墾田《ヲバタ・ヲハリダ》 或は小治田に作る 飛鳥の異名同地なり、故に或は飛鳥岡本宮〔日本書紀〕又小治田岡本宮〔続日本紀〕の名あり、然れども飛鳥は広く及ぼし、小墾田は狭く限れり。雷岳豊浦岡本の辺を指したるに過ぎじ。河内国船氏墓版に乎婆陀に作る。
日本書紀云、安閑天皇、以小墾田屯倉、与毎国田部、給賜妃紗手媛。古事記、建内宿禰之子、蘇我石川宿禰者、小治田臣等之祖也。欽明紀云、蘇我稲目宿禰、小墾田家、安置仏像云々。姓氏録、小治田朝臣、蘇我稲目宿禰之後也。又云、小治田宿禰、物部石上同祖、欽明天皇御代、依墾小田鮎田、賜小治田大連。
補【小治田京】○天武紀〔元年〕我(大伴吹負)詐称高市皇子、率数十騎自飛鳥寺北路出之臨営、乃内応之、云々、爰留守司高坂王、及興兵使者穂積臣百足等、拠飛鳥寺西槻下為営、唯百足居小墾田兵庫運兵於近江、時営中軍衆開熊叫声悉散走、云々、壬辰、将軍吹負屯于乃楽山上。時荒田尾直赤麻呂啓将軍曰、古京是本営処也、宜固守、云々、解取道路橋板、作楯竪於京辺衢以守之、発巳、将軍吹負与近江将大野君果安戦于乃楽山、為果安所敗、軍卒悉走、将軍吹負僅得脱身、於是果安追至八口(集解、作八田)※[(企-止)/山](信友云、※[(企-止)/山]訓ノボリ)而視京、毎街竪楯、疑有伏兵、乃稍引還之。〇八田は即治田なるべし。
 
雷《イカツチ》 飛鳥村大字雷は、日本書紀並に霊異記|小子《チサコ》部栖軽(一作螺贏)雄略天皇の詔命を宣べて雷を豊浦と飯岡の間に捕獲したりと伝ふる地なり。雷岡あり、神岳《カミヲカ》又神奈備三諸の別称を負ふ。
補【雷】○奈良県名勝志 気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社二座、飛鳥村大字雷の北端にあり、境内三坪、今九頭明神と称す。〇三座なるべし。清和天皇実録に曰、貞観五年大和国従五位下気吹雷神、従五位下響雷神並に官社に列すと、或は云ふ、九頭は国栖の訛なりと。○神祇志料 気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社二座、今飛鳥川の東雷土村雷岡にあり、九頭明神と云(大和志・神名帳考証)
 按、大和国神名帳略解に本社もと吉野郡国栖村にあり、後波多郷稲淵山に移す、又按、九頭は国栖の転音也
気吹雷響雷神、吉野大国栖御魂神を祭る(延喜式)吉野大国栖御魂神は蓋吉野国栖部の祖盤穂排別神也(日本書紀・新撰姓氏録)
 按、文安三年神名帳注解、盤穂排別神の子とす、姑附て考に備ふ
 
雷岡《イカツチノヲカ》 古事記諸云、書紀雄略巻に「天皇詔少子部連螺贏曰、朕欲見三諸岳神之形、或云此山之神為大物主神也云々」此古事記霊異記にも委く見えて、三諸岳即出雲国造賀詞の飛鳥之神奈備山と云所なり、三輪山と混ふべからず、万葉集十三、登神岳山歌、三諸乃神名備山とも神名備乃三諸山ともよめる皆此にて、神岳とも雷岳とも云、飛鳥神社もとそこに坐しけるなり、天長六年今の鳥形山へ移し奉る。今按ずるに雷岡の神奈備山は出雲国造賀詞に「賀夜奈流美命乃御魂乎飛鳥乃神奈備爾坐」とあるに当り、延喜式加夜奈留美命神社は天長六年本社移転後尚旧祀を存したる者に似たり、古事記伝神祇志料に加夜奈留美命神社は雲梯社なりと為す者恐らくは穿に失する論なるべし。(日本書紀、天武天皇朱鳥元年、天皇不予、奉幣飛鳥四杜とあるは鳥形山遷坐以前、雷岳の事なり)
  天皇(天武)御遊雷岳之時、柿本朝臣人麿作歌
 おほきみは神にしませば天雲の雷の上にいほりせるかも〔万葉集〕
神山の山下とよみゆく水の水尾の絶えずは後もわがつま〔同上〕見渡せば白ゆふかけてさきにけり神をか山の初さくら花〔玉葉集〕
三垣山《ミカキヤマ》は雷岳の辺に在るべし、柿本人丸詠鳴鹿歌あり
 三諸の神辺山に立向ふ、三垣の山に、秋はぎの妻をまかむと、朝づく夜あけまくをしみ、足引の山びことよめ、喚立て鳴くも、〔万葉集〕
垣田池《カキタノイケ》は書紀通証に曰く応神紀に鹿垣《シシガキ》池を作る事見ゆ、神代巻一書に天垣田とあると同く垣を繞らせる天子の御田を云ふ、万葉集に「神奈備の清き御田屋の垣津田の池」とよむ、今飛鳥村に在り云々。彼三垣山も同類の語か。
国栖《クズ》神社 延喜式、気吹雷響雷吉野大国栖御魂神社二座とありて、今雷村の北に纔に存す、九頭《クヅ》明神と云ふ〔県名勝志〕三代実録、貞観元年気吹雷神響雷神官杜に列すとあり、蓋雄略帝雷丘の故事に因る、之に国栖部の祖神を配し都て三座なるべし、国栖部は吉野郡の古住民たる事、日本書紀姓氏録に詳なり。
 
八釣《ヤツリ》今飛鳥村大字八釣なり、顕宗天皇近飛鳥八釣宮は此なるべし。古事記伝云、伊邪河宮(開化)段「御子日子坐王之子、神大根王亦名八瓜入日子王。又遠飛鳥(允恭)段「御子八瓜之白日子王」〔日本書紀、八釣白彦皇子〕八瓜は夜都理と訓べし、こは高市郡八釣村なるべし。
   献新田部皇子歌
 八釣山木だちも見えずふりみだる雪はだらなるあした楽しも、〔万葉集〕 柿本人麿
 
近飛鳥八釣《チカツアスカヤツリ》宮 顕宗天皇の皇居なり、飛鳥村八釣なるべし、允恭天皇の遠飛鳥に対して別異せる称ならん。古事記に倭の山口大坂を近飛鳥(今河内国南河内郡駒谷村飛鳥)と称する由見ゆる所あれど之と異なり。古事記云、遠祁之石巣別命、(顕宗帝)坐近飛鳥宮、治天下捌歳也、日本書紀云、顕宗天皇元年、於近飛鳥八釣宮即位。
 
飛鳥川《アスカガハ》 高市郡|稲淵山《イナブチノヤマ》に発源し、飛鳥村を経て北流、磯城郡に入り大川に合す、長凡八里。古事記八釣宮(顕宗)段云、初天皇逢難逃時、求奪其御粮猪甘老人、是得求喚上而、斬於飛鳥河之原。
 阿須箇我播みなぎらひつつゆく水のあひだも無くも念ほゆるかも、〔日本書紀〕 斉明天皇
 飛鳥川七瀬の淀にすむ鳥もこゝろあれこそ波たてざらめ、〔万葉集〕あすか川淵は瀬になる世なりとも思ひそめてむ人は忘れじ、〔古今集〕
甘檮岡《アマカシノヲカ》 飛鳥村大字豊浦に在り、誓盟の神古より此に鎮坐し探湯《クカダチ》の事ありし所なり、「弘仁私記云、今高市郡有釜是也」と見ゆ、後世揚釜亡ぶと雖神社猶存す。日本書紀、皇極天皇二年、蘇我大臣蝦夷児入鹿臣、双起家於甘檮岡、称大臣家、曰|宮門《ミヤト》、入鹿家曰|谷宮門《サハノミカド》 甘檮は或は味橿、又甘白檮に作る。
甘樫《アマカシ》坐神社は延喜式四座并大社と為し、三代実録授位の事見ゆ、土俗推古天皇と称すと云へり。〔大和志〕神祇志料云、甘樫坐神社蓋|八十禍津日《ヤソマガツビ》神大禍津日神神直毘神|大直毘《オホナオビ》神を祀る、〔参酌古事記文安三年神名帳注解及社説本社伝説〕此八十禍津日神大禍津日神は伊邪那岐命黄泉国の穢き汚れに依りて成坐る神也、故天下の万づの禍事悪事は此神の御霊より起り、神直日神大直日神は其禍を直さむとして成坐る神也、故天下の禍事悪事を直し給ひ見直し給ふ御霊に坐り、〔古事記参取延喜式祝詞〕垂仁天皇の御世|本牟智和気御子《ホムチワケノミコ》の為に、使を遣して甘白檮の前なる葉広熊白檮を宇気比枯し誓い生し、允恭天皇の御世天下の氏々の氏姓を正し給ふ時に言八十禍津日前《コトヤソマガツヒノサキ》に玖珂瓮を居て、其違過まてる氏姓を定玉へるも、蓋皆此神に祈りませる也。〔古事記、日本書紀〕
 
飛鳥《アスカ》神社 飛鳥村|鳥形山《トリガタヤマ》に在り、延喜式四座并大社と云者是なり。旧|雷岡《イカツチヲカ》の三諸に鎮坐し飛鳥神と称す。出雲国造神賀詞に拠れば、大物主神杵築宮に静まり御子賀夜奈流美神の御魂を飛鳥神奈備に坐させて皇孫の近き衛護と為したまふと云者にして、日本書紀には三諸岳の神は大物主ぞとある皆是也。他の二座は蓋味耜高彦根と事代主なるべしと云。(神祇志料)日本紀略、天長六年、高市郡賀美郷甘南備山飛鳥杜、遷同郡同郷鳥形山、依神託宣也。類聚三代格云、貞観十六年太政官符、応以大社封戸修理小社事、其祖神者貴而有封、其裔神則微而無封、仮令飛鳥神之裔、天太玉櫛玉臼滝加夜鳴比女四神此等之類是矣。按ずるに本社|鳥形山《トリガタヤマ》今甘南備とも称するは旧地の名を襲ぐものなり、裔社加夜鳴比女は雷岡の旧境に在来する者を指せり。飛鳥神境に今伊勢八十末社と称し伊勢神宮に擬せる祠あり、又飛鳥井あり、催馬楽詞に
 飛鳥井に宿りはすべしかげもよし御水《ミモヒ》もよし御秣《ミマクサ》もよし、
酒槽石《サカフネイシ》は酒谷(本社南方)に在り、大石縦一丈五尺横五尺石面に槽《フネ》七道を形成す、相伝ふ本社の酒殿にて醸造の遺器なりと。
飛鳥山口坐神社は新抄格勅符安宿山口神、大同元年大和播磨の地十四戸を奉寄し、三代実録授位、延喜式大社に列す、今鳥形山の酒谷に在り。〔大和志県名勝志神紙志料〕
補【飛鳥神社】○奈良県名勝志 飛鳥村大字飛鳥字鳥形山にあり。日本紀に曰、天武天皇朱鳥元年秋七月乙亥朔、幣を飛鳥四社に奉ずと。日本紀略に曰、天長六年高市郡賀美郷甘南備山飛鳥社を同郡同郷鳥形山に遷す、神の託宣に依てなりと。類聚三代格に曰、貞観十六年六月二十八日太政官符に、大社の封戸を以て小社を修理すべき事、其祖神は則ち貴て封戸あり、其裔神は則ち微にして封なし、仮令飛鳥神の裔、天太玉、櫛玉、臼滝、賀屋鳴比女の四神此等の類是なりと。域内八十九社あり、酒槽石は南方酒谷山にあり、長一丈、幅五尺、飛鳥神の神酒を醸したるもの、実に上古の遺物なり、飛鳥井は社務所の北にあり、社記に曰、神武天皇御馬の水を汲み給ひし所なりと。〔催馬楽、略〕社中所蔵の古物、八菱形古鏡、八握剣、古印、神鏡五面、刀剣六口、麒麟欄間等なり。
○神祇志料 飛鳥坐神社四座、昔加美郷神奈備山にあり(日本紀略)
 按、日本書紀に三諸岳、延喜祝詞式に飛鳥之神南備山など見えたる処はみな同地にして、今飛鳥川に沿たる雷村に小山あり、此山を古へ神岳とも雷岳とも云し也と云ふ、姑く附て考に備ふ
故に又甘南備飛鳥社とも云り(日本紀)今飛鳥村にあり(大和志・祝詞・名所図会)蓋|賀夜奈流美《カヤナルミ》神、
 按、類聚三代格賀夜鳴比女に作り、大和国神名帳略解に神南大飛鳥之日女神とある其何故なる事を知らずと雖ども、其姫神なる事明けし、故に今神南火飛鳥の文に因て之を記す
を主として大己貴命、味耜高彦根命、八重事代主命を祀る(参酌、延喜式・大和国神名帳略解)
 按、諸書本社祭神を云ふもの一定の説なし、神名帳略解載する処、明快疑を容れず
初大穴特命杵築宮に静り坐時、御子賀夜奈流美神の御魂を飛鳥神奈備に坐させて、皇孫命の近き守神と奉り給へるは即此神也(延喜式)天武天皇朱鳥元年七月癸卯、使を遣して幣を飛鳥杜に奉り(日本書紀)淳和天皇天長六年三月己丑、神宣に依て高市郡賀美郷甘南備山社を同郷鳥形山に遷奉る(日本紀略)蓋今の地なり清和天皇貞観元年九月庚申、雨風の御祈の為に幣使を奉り(三代実録)醍醐天皇延喜の制四座並に名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る(延喜式)凡そ其祭正月十一日、十一月朔日を用ふ(奈良県神社取調書)
 
飛鳥寺《アスカデラ》址 蘇我馬子の本願に依りて真神原に興立し、法興寺又元興寺と号す。続紀に養老二年八月新京に移す事見ゆ、蓋之を平城左京新元興寺に併せたるなり。而も故地には別院を遺して、本元興寺と称し治安中まで存す、今|安居院《アグヰ》(真言宗、号鳥形山、飛鳥大仏と称する者)、の北に本寺址礎石数多あり、墾破して田圃と為る、院の西に五輪古石塔あり、土俗入鹿墓と曰ふ。元亨釈書に「崇峻元年、蘇我馬子営法興寺、推古十四年寺成、今之元興寺也」とあるはすなはち飛鳥寺にあたる、又玉林抄に元興寺四門の額、南に元興寺北に法満寺東に飛鳥寺西に法興寺と掛られたりと記す、諸寺興立年を逐ふて成り一地に相並び遂に元興寺の大号の下に摂せしめたる者か、法満寺は今其寺名を遺す(真宗を奉ず)とぞ。色葉字類抄云、元興寺、推古天皇御願、建立於大和国武市郡、号本元興寺、寺家縁起云、崇唆天皇第二年己酉、聖徳太子与蘇我馬子大臣、武市郡建法興寺。
日本書紀云、崇峻天皇元年、蘇我馬子宿禰大臣軍敗而退、乃発誓言、凡諸天王大神王等、助衛於我、便獲利益、願当奉為諸天与大神王起寺塔、流通三宝、誓已而進、果殺守屋大連、平乱之後、蘇我大臣、亦依本願、於飛鳥地、起法興寺。又云、是歳百済国遣使、并僧恵※[てへん+(總-糸)]等、献仏舎利、又并献寺工、鑪盤博士、瓦博士、画工、馬子請百済僧等、問受戒之法、以善信尼等、付百済国使、発遣学問、壊飛鳥衣縫造祖樹葉之家、始作法興寺、此地名飛鳥|真神原《マガミノハラ》亦名飛鳥|苫田《トマダ》。(苫田邦音、与鳥形相近似、疑転訛為鳥形、)推古天皇十四年、鋼繍丈六仏像并造竟、坐於元興寺、金堂設斎。扶桑略記云、推古五年法興寺造了、今元興寺是也、天皇設無遮会供養之、紫雲降覆、合掌目送、語左右曰、此時感天、故有此祥、但三百年後霜露沾衣、五百年後堂殿亡矣。三十三年、高麗僧恵灌住元興寺、流布三論法門、建井上寺。又日本書紀、皇極天皇三年、中臣鎌子連求可立功名哲主、偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毬之侶。斉明天皇三年七月、作須弥山像於飛鳥寺、且設盂蘭盆会。又云、天武天皇元年、大伴連吹負、密与留守司坂上直熊毛議之、謂一二漢直等曰、我詐称高市皇子、率数十騎、自飛鳥寺北路出之、臨営、乃汝内応之、既而繕兵於百済家、先使秦造熊馳、謂寺西営中日、高市皇子自不破至、爰留守司高坂王及興兵使者穂積臣百足等、拠飛鳥寺西槻下為営、唯百足居小墾田兵庫、運兵於近江、時営中軍衆聞熊叫声、悉散走、吹負率数十騎、劇来喚百足、而殺之、喚高坂王而令従軍焉、遣使於不破宮、奏事状、天皇大喜、乃令吹負拝将軍。又云、白鳳九年、勅凡諸寺除国大寺二三、官莫治、唯基有食封者、先後限三十年、満削除之、是以飛鳥寺不可関于同法、而官恒治。十四年幸于浄土寺、〔書紀通証云即飛鳥寺〕持統天皇元年、請集三百龍象大徳等於飛鳥寺、奉施袈裟人別一領、此以先帝御服所縫作也。元亨釈書云、慧灌高麗国人、入隋受嘉祥吉蔵三論之旨、推古三十有三年、本国貢来、勅住元興寺。又云、道昭姓船氏、丹比郡人也、居元興寺、有戒行誉、白雉四年奉勅入唐、至長安謁三蔵玄奘、承禅法得悟解、業成還邦、又止元興寺。三代格、貞観四年官符云、此寺者仏法元興之場、聖教最初之地也、去和銅三年帝都遷平城之日、諸寺随移、件寺独留、朝廷更造新寺、備其不移間、所謂東元興寺是也。平城坊目考云、世俗|元興寺《ガゴゼ》と謂て小児を魘す、是れ元興寺鐘楼灘法師の故事にして、平城京の時に非ず、本朝文粋及神社考にも載せたり、元興寺は平城に移されしと雖その余堂倉廩等彼鬼頭と高市郡の古寺に遺存す、扶桑略記曰「治安三年十月、入道大相国道長詣紀伊国金剛峰寺、十八日奉札東大寺、興福寺元興寺、大安寺石上寺等、十九日御本元興寺開宝倉、令覧鐘堂鬼頭、忽難撰出、依物多事忙也、次御橘寺云々」文繁ければ其要を摘て、本元興寺悪鬼の事平城にあらざる証とするのみ。
 
真神原《マガミノハラ》 又真髪原に作る、飛鳥法興寺の地にて、鳥形山《トリガタヤマ》の下なり。日本書紀雄略巻崇峻巻に見ゆ、漢才伎の住所なり。姓氏録云、大和諸蕃、真神宿禰、出自漢福徳王也。書紀通証云、倭名抄、兼名苑云、狼一名豺、和名於保加美、蓋大神也、昔明日香地有老狼、土民謂之大口神、故其地名大口真神原、見風土記。
 大口の真神の原にふる雪はいたくなふりそ家もあらなくに、〔万葉集〕
 
豊浦《トヨウラ・トヨラ》寺《テラ》址 飛鳥村大字豊浦に在り、飛鳥寺の南に接し、二寺一境を成したる者の如し。本名|建興《ケンコウ》寺と云ひ又小墾田寺と云ふ、初欽明帝の時蘇我稲目向原の家宅を捨て、精舎と為し向原寺と称せしが、物部守屋の焚く所と為る、厩戸王再興して葛木《カツラギ》寺と号す是也。和銅三年平城造都の時本寺猶故京に留存し、続紀霊亀二年元興寺を左京に移すとあるは建興の豊浦寺なるべし、而も此寺当時新元興寺に対し本元興寺と称し、飛鳥寺も亦本元興寺と称したるごとし。葛木寺と云は法王帝説、太子起七寺(中略)葛木寺賜葛木臣と見え、蘇我氏即葛木臣なり。太子伝暦に葛城寺又名妙安と曰へり、而て大和志に「故葛木寺、在葛上郡朝妻村」など説くは採るべからず、葛木寺豊浦寺の一所なることは霊異記并に催馬楽に伝ふる歌詞に徴して明白とす。大和志又云、広厳寺、在高市郡豊浦村、旧作向原、又名豊浦寺と、此広厳は向原の音カウゲンを転じて後世かく改めたる者のごとし、今も難波池の西に僧堂坊舎ありと。
 朝日刺、豊浦寺の西なるや、桜井に押てや押てや、桜井に白玉しづくや、云々〔霊異記、白壁天皇治天下之表、挙天下而歌之、〕
葛城の寺のまへなるや、豊浦の寺のにしなるや衣《エ》の波井《ハヰ》にしらたましづくや、云々〔催馬楽葛城〕
日本書紀云、欽明天皇十三年、蘇我稲目宿輔、浄捨|向原《ムクハラ》家為寺、会疾疫大行、大連物部守屋等奏、以仏像流棄難波堀江、復縦火於伽藍焼尽。〔扶桑略記云、向原榴木原也〕榴木牟久木也、日本書紀云、舒明天皇之時、山背大兄王向京、而居豊浦寺、持統天皇二年、為先帝設無遮大会於五寺、大官飛鳥川原小墾田豊浦(五字一寺名也)坂田。三代実録、元慶六年、太政官下符大和国司、※[にんべん+(稱−のぎへん)]、散位宗岳朝臣木村等言、建興寺者、是先祖大臣宗我稲目宿禰の処建也、本縁起文具存灼然、望請宗岳氏検領、而彼寺別当伝燈大法師位義済確執曰、太政官仁寿四年符※[にんべん+(稱−のぎへん)]、彼寺推古天皇之旧宮也、元号豊浦、敢為寺名、凡厥縁起具存前志、仏法東流最始於此、其田園奴婢施入之田、勅誓堅懇、銘之金盤、頃年堂龕頽破、尊像暴露、綱維不勤、勾当有懈、仏物僧物還致俗用之訟、習而不悛、恐乖御願、又貞観三年符※[にんべん+(稱−のぎへん)]、彼寺本自無有俗別当、而今特置之、寺中諸事触途為損、早従停止者、宗我稲目宿禰以家為仏殿、天皇賜其代地、遂相移易、施入皇宮、稲目宿禰奉詔造塔、然別建興寺、之建、出自御願、不可為宗岳氏寺明矣、官商量宜停氏人検領之望、不得重致寺家之愁。
 
桜井《サクラヰ》 書紀通証云、向原寺今日広厳寺、在豊浦村、傍有井曰桜井、又名榎葉井。続日本紀、宝亀元年童謡曰、
 葛城寺の前なるや豊浦寺の西なるや(オシトドトシトド)桜井に白璧しづくや好璧しづくや(オシトドトシトド)しかしては国ぞ昌ゆるや吾家らぞ昌ゆるや(オシトドトシトド)、時井上内親王為白壁皇子妃、識者以為井則内親王名、蓋白壁天皇登極之徴也。
按に当時豊浦寺は平城京に移されたれど、旧地の桜井に因みて此童謡あり。其旧曲は「白玉しづくや」と曰へるを白玉と白壁白亀は音相通ずるに依り、続紀に載する詞章のごとく改められしにや、催馬楽には白玉と謡ふと曰へば旧曲なるべし。法王帝説裏書云、庚戌(崇峻帝三年)学問尼善信等自百済還、住桜井寺、今豊浦也。又推古紀云、二十年、百済人味摩之帰化、曰学于呉、得伎楽※[にんべん+舞]、則安置桜井、而集少年令習。又按に朴井《エノヰ》と榎葉井は一所にて桜井に同じかるべし、推古紀、二十四年、掖玖人帰化、先後并三十人、皆安置於朴井。氏族志云、榎井氏、物部之属、孝徳帝時、有物部朴井連稚子、天武帝時、有朴井連雄君、為壬申功臣、賜氏上、〔日本書紀〕本族自是自興、文武帝二年大嘗、直広肆榎井朝臣倭麻呂(代本宗物部氏)竪大楯、(続日本紀参取日本紀)是後榎井氏与石上氏、世掌其事、(貞観儀式)元正帝時、従八位下榎井連※[てへん+(上/下)]麻呂賜朝臣。〔続日本紀〕日本書紀、欽明帝十三年、以向原家仏像、流棄難波堀江。玉林抄云、堀江は豊浦寺の東の仏門の尚東、飛鳥川の西の入江是也、今かすかに遺れり、昔は広くして海にたとへ、浦にことよせて或は豊浦と云ふ。按に古史難波堀江と明記す、其摂州の津頭を指すこと必然とす、玉林抄の説採るべからず。
補【向原寺】〇三十三所図会 広厳寺は豊浦村難波の池の傍にあり、今廃して小堂一宇、僧舎一坊存す、又向原寺に作る、又の名豊浦寺と云ふ、傍に井あり、桜井と云ふ、又の名榎葉井と云、一説に向原寺は河内国古市郡向原山西琳寺也、初め向原寺と云しを後西琳寺と改むと云、又向原寺は蘇我稲目宿禰に始まり、蘇我の馬子造り加へて石川の精舎となし、守屋大連焼き払ひての後元興寺となしけると云ふ、然れば向原寺の旧地不詳、旧跡幽考に曰、或和尚元和年中の著作の書に、向原寺の跡は曲川の辺にありと云々、此義に従へば初め向原寺は曲川の辺にありて後石川に移して石川の精舎と云ひけるにや、又日本紀に守屋大連焼き払ふ体を思ふに、向原寺石川精舎大野丘の塔、同所の様にも見へ侍る云々。
葛木寺 法王帝説云、太子起七寺、四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺、池尻寺、葛木寺(賜葛木臣)○元興寺なり。
○日本後紀、延暦十八年二月乙未、贈正三位行民部卿兼造宮大夫美作備前国造和気朝臣清麻呂薨、本姓磐梨別公、右京人也、後改姓藤野和気真人、清麻呂為人高直、匪窮之節、与姉広虫共事高野天皇、並蒙愛信、云々、姉広虫及笄年、許嫁従五位下葛木宿禰戸主、既而天皇落餝、随出家為御弟子、法名法均、授進守大夫尼位、委以腹心、賜四位封并禄位田 宝字八年、太保恵美忍勝叛逆伏誅、連及当斬者三百七十五人、法均切諌、天皇納之、減死刑以処流徒、乱止之後、民苦飢疫、棄子草間、通人収養、得八十三児、同名養子、賜葛木首。
 
豊浦宮《トヨウラノミヤ》址 三代実録によれは推古帝十一年小墾田新宮に移御ありて十四年元興寺を旧宮に置かれし者の如し、然らば蘇我氏の向原宅豊浦宮元興寺同所たるべし、推古帝豊浦宮に即位したまひ、十一年間の皇居なり。
 堤をば豊浦の宮につきそめて世々を経ぬれど水はもらさず、〔新勅撰集〕 貞信公
 
川原宮《カハラノミヤ》址 河辺《カハベ》宮同処にして、川原寺の地たるべし、今高市村大字川原に在り、飛鳥川の西岸豊浦の南なり。日本書紀、孝徳天皇白雉四年、皇太子(天智)奉皇祖母尊(斉明)往居于飛鳥河辺宮、五年鼠従難波向倭都而遷、又云、斉明天皇元年、災飛鳥板蓋宮、遷居川原宮。                          
川原寺《カハラデラ》址 高市村大字川原に在り、一名|弘福《グブク》寺と曰ふ斉明天皇の造立にして其皇居たり、川原又河辺宮と称す。日本書紀 白雉四年、画工狛竪部子麿※[魚+即]魚戸直等多造仏菩薩、安置於川原寺。天武天皇二年、聚書生、始写一切経、於川原寺。続日本紀云、天平感宝元年、定諸寺墾田地、弘福寺五百町。三十三所図会云、淳和天皇弘仁九年、川原寺を弘法大師に給はり、高野より都に通ひ給ふ道の宿りにせられよとの勅ありと、水かゞみに著せり、爾有て寺の東南院に折々住居せしとぞ、其院は程ふるまでも残りたりしが、定恵和尚の住給ひし西南院は無なりけるよし、玉林抄に見えたり、今は唯名のみ残りて、幽かに草堂一宇を古跡とす。
 
橘《タチバナ》 高市村大字橘は飛鳥川の上游にして、稲淵の北なり。雄略帝后草香幡梭姫は後名を橘姫と申す此地に居たまふか。又用明天皇は橘豊日命と称し奉る、古歌橘花降里と詠ぜり、聖徳太子一寺を創め今に存す、菩提寺と曰ふ。
 
橘寺《タチバナデラ》 今仏頭山|上宮院《ジヤウグウヰン》と称し、聖徳太子の像を置く堂塔旧観なしと雖尚僧舎数宇あり、寺伝に用明天皇の別宮址と為す、或は然らん、天皇は橘豊日と号したまへり。仏頚山《ブツトウサン》は寺傍の丘を曰ふ、丘下池あり。書紀通証云、太子伝曰、推古十四年、皇太子勝鬘経講説之夜、蓮花零降、花長二三尺、而溢方三四丈之地、即於其地、誓立寺堂、是今之橘樹寺也。橘寺興立の事は法王帝説に見え、日本書紀に「白鳳九年、橘寺尼房失火、以焚十房」とあり、元亨釈書に一名菩提寺と為す。畝割塚《セワリヅカ》、建治四年古鐘(泉州深井善福寺)古燈籠等存す、石燈籠は僧舎の側に在り、仏像と十二支を刻めり、銘文なけれど古色多し、世に天下第一と称す。万葉集に「橘の寺の長屋の」と云句あり、又「橘の殿の立花」とあり皆此ならん、寺伝に聖徳太子此殿に誕生したまふとも云ふ。
 たち花の寺のながやにわがいねしうなゐはなりはかみあげつらむか、〔万葉集〕
 名にしおはばしばしやすらへほととぎす橘寺の夏の夕ぐれ〔月清集〕いにしへに誰袖の香をうつし置きて花たちばなの寺となしけん〔夫木集〕今こそは苔の下まで見えずとも空より花のふりしところぞ〔新撰六帖〕 〔月清集、未詳〕
扶桑略記云、治安三年、入道大相国(道長)次御橘寺、披覧宝物、今日恨所、不求得天雨曼陀羅花、太子講経時之瑞也、次漸向晩頭、次龍門寺。
補【橘寺】○史料叢誌に曰く、石燈籠の名物は橘寺に仏像と十二支をゑりたるが、年号をしるさざれども天下第一の古物といふべし、次に春日の祓殿社なるは火ぶくろに鹿の形あり、春日杜に火見形といふがあり、西屋、柚木、東大寺の八幡宮、三月堂、般若寺の文殊堂秋篠寺、春日の奥院、当麻の穴虫石などいとおほかり、元興寺に延元元年の燈籠あり、太秦に頼政の寄附といひ伝しがあり、大徳寺の高桐院に幽斎法印のめでたまへしがあり、ちかき比には泉涌寺の雪見形などきこゆ、江戸浅草竹町の渡の近所に六地蔵の石燈籠とて、鎌田政清がたてけりといふがあり、相模国筑井県下河尻村なる宝泉寺の観音堂には、建久二年の年号をしるせしがあり、云々。
 
野口《ノグチ》荒墓 橘寺の西大字野口(高市村に属す)荒墓あり其一所王之墓は元禄中之を以て天武持統の合葬陵に擬したり、石槨あらはれ棺なし、或は倭彦命の墓と為せり、之を去る遠からず鬼俎《オニノマナイタ》及|鬼厠《オニノカハヤ》と号する者あり石棺の委棄せられたるを斯く呼び習はす。野口荒陵は近年宮内省諸陵寮論定して大内陵と為し修理せらる、即天武持統合葬の寝所也と云ふ。文暦二年四月、高市郡大内山天武帝陵盗に穿鑿せられし事百練抄、帝王編年記、并に明月記に見ゆ、古事類苑に高山寺文書|阿不幾乃《アフキノ》山陵記を援く、穿鑿の始末最詳なり、曰く阿布幾乃陵は大内山陵なり、諸陵雑事注文に大和青木天武天皇御陵とあり云々、記云
 里号野口□□□□
 盗人乱入事文暦二年三月廿日甘□□両夜入云
 件陵形八角、石壇一通一町許歟、五重也、此五重の峰有森、十余株、南面有門、門前有石橋、此石門を盗人等纔人一身通許切開、御陵の内、有内外陣、先外陣方丈間許歟、皆馬脳也、天井高七尺許、此も瑪脳無継目、一枚を打覆云、内陣の広南北一丈四五尺東西一丈許、有金銅妻戸、広左右扉各三尺五寸七尺、扉厚一寸五分高六尺五寸、左右腋柱またまぐさ鼠走、冠木已上金銅扉の金物、大小六、形如蓮花、こふの獅子也、内陣三方上下皆馬脳歟、朱塗也、御棺張物也以布張之入角、朱塗長七尺広二尺五寸許深二尺五寸許也、御棺蓋は木也、朱塗、御棺床の金銅厚五分、互上を彫透左右尻頭に十二、くりかた尻頭に六、御骨首は普通よりすこし大也、其色赤黒也、御脛骨長一尺六寸、肘長一尺四寸、御棺内に紅御衣の朽たる少々在之、次皿人取残物等被移橘寺内、石御帯一筋其形は以銀兵庫※[金+巣]にして、以種々玉飾之、石二あり、形如連銭、表手石長三寸、石色如水精、似玉帯、御枕以金銀珠玉飾之、似唐物、其形如鼓、金銅桶一、納一斗詐歟、居床、其形如礼盤、※[金+巣]少々くりかた一在之、又此外御念珠一連、三匝の琥珀、以鋼糸貫之而多武峰法師取了、又彼棺中に銅かけかけ二在之、已上。
又明月記に「天武天皇大内山陵云々、只白骨相、又御白髪猶残云々、於女帝御骨者、為犯用銀筥、奉棄路頭了」などとありて、大内山の合葬陵たること当時其言説ありしを知る、然れども高山寺文書の委細なる検注に、二帝の御棺又は二皇の御骨のことを見ず、野口里の青木墓の真に大内山陵たりや否やは尚疑ふべし、且延喜式に檜隈大内山陵と号し奉るに拠れば其檜隈の地たること最確実なり、野口の青木墓は飛鳥の橘の地にして山谷相隔てゝ全く別境とす、後の識者の考按をまつのみ。(阿布幾乃山陵記に馬脳石と云ふは、石をばセメント以て畳みたるを見て斯く述べしならん、古墓には往々※[石+專]瓦を以て造れるごとき精巧なる窟室ありと云ふ)
 
島《シマ》 高市村橘に接し島荘《シマノシヤウ》と云大字あり、古は橘の島と称したり。帝王編年記に「高市郡飛鳥岡本宮島東岡地也」見ゆ、是也。日本書紀云、推古天皇三十四年、蘇我馬子大臣薨、仍葬于桃原墓、大臣則稲目宿禰之子也、家於飛鳥河之傍、仍庭中開小池、乃興小島於中、故時人曰島大臣。書紀通証云、島荘村有荒墳、疑是桃原墓也、又宅址在同村。桃原《モモハラ》雄略巻にも見ゆ。
 島山にてる立花をうずにさし仕へ奉るはまうちぎみたち、〔万葉集〕
 
島宮《シマノミヤ》址 高市村島荘に在るべし、天武天皇の別宮にして皇太子草壁亦此に御す。日本書紀、天武天皇元年、天智帝授鴻業、乃辞譲之、即日出家、入吉野宮、自菟道(宇智郡)返、或曰虎著翼放之、是夕御島宮、又云、捷後車駕詣于倭京、而御于島宮。白鳳五年天皇御島宮、宴射手、同十年、周防国貢赤亀、乃放島宮池。
 島の宮勾の池のはなちどり人目に恋ていけにかづかず、〔万葉集〕御立しの島をも家と住む鳥も荒びな行きそ年かはるまで、〔同上〕つれもなき佐太の岡べにかへりゐば島の御橋にたれかすまはむ、〔同上〕東の多芸の御門にさもらへどきのふもけふも召すこともなし、〔同上〕ひとひには千たび参りし東の太寸の御門を入りがてぬかも、〔同上〕
此の東の滝の御門と云ふも、島宮の別殿なるべしと思はる。
播磨風土記標注云、島宮の号は天武紀に屡見えて、万葉集巻二に「高光我日之皇子乃、万代爾国所知麻之、島宮婆毛」、是は天武天皇の皇子草壁皇子の坐し給ひし宮にて、此皇子持統天皇三年四月に薨じ給ひしを傷奉れる歌也、然るに爰に天皇としも称奉れるは、朱鳥元年に天武天皇崩給ひ翌年を持統元年として、其四年に持統天皇位に即き給ひしかば、三年の間は此皇子皇統を継ぎ給ひし事疑ひなし、然るを明治に追謚に洩たるは口をしき業也、続紀天平宝字二年の詔に「日竝知《ヒナミシリ》皇子命、天下未称天皇、宣奉称岡宮天皇」と宣ひ、紹運録には長岡天皇と記し奉れり、日竝知皇子とは此草壁皇子を申す、播磨風土記には歴然と島宮御宇天皇とあり。
 高ひかる吾日の皇子のいましせば島の御門は荒れざらましを、〔万葉集〕
 
稲淵《イナフチ》 或は蜷淵《ニナフチ》に作る、今高市村大字稲淵是なり。日本書紀、用明天皇二年に南淵坂田寺とあり、坂田村(今高市村大字)相接す、日本紀略、弘仁十四年、坂田朝臣弘貞改姓、賜南淵朝臣。和名抄、蜷俗訓美奈とありて、姓氏録云「右京皇別蜷淵真人、出自謚用明天皇皇子殖栗王也」又続日本紀、藤原宇合子田麿隠蜷淵山、世称蜷淵大臣。又冠辞考云、和名抄、河貝子美奈とありて古は饗に供し者也、
 御食向ふ南淵山のいはほにはちれるはだれかきえ残りたる、〔万葉集〕
日本書紀 皇極天皇元年八月、天皇幸南淵河上、跪拝四方、仰天而祈雨。玉林抄云、南淵山は橘寺より五十町許にて、滝の名所なり。按ずるに延喜式に高市郡滝本神社字須多岐神社あり、共に飛鳥川の水上南淵に在る者ならん。
臼滝《ウスタキノ》神社は今稲淵に在り、宇佐宮と曰ふ。〔大和志〕類聚三代格に臼滝は飛鳥神の裔社と為し、延喜式に飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社とあるもの是也。大和志云、龍福寺、在稲淵村界内、有墓表、文字頗剥減、其中曰、「二位竹朝臣墓天平勝宝三年歳次辛卯四月三日葬于朝風南」
日本図経云、高市郡稲淵村、龍福寺、石浮図処、有竹野王墓碑、正書四行、前二行各八字(天平勝宝三年歳次辛卯四月廿四日丙)三行一字(子)四行六字(従二位竹野王)又共石浮図、凡四層、上第一層、高九寸五分方一尺一寸、有半蓋石厚五寸方一尺四寸、(中略)第四層高尺六寸万一尺四寸五分、墓石厚七寸方二尺七寸、惟此層有字、正面今不之見、右側有字五、而不可弁、右側僅有昔阿育三字。
日本書紀云、皇極天皇三年、中臣連鎌子既与中大兄相善、倶手把黄巻、自学周孔之教、於南淵先生所。通証云、先生未詳其名、疑南淵朝臣之先也、今稲淵村有神明塚、或謂先生墓也。
補【蜷淵】○人名辞書 藤原田麻呂は宇合の第五子なり、天平中兄広嗣の不軌を諌るに坐して隠岐に流さる、居ること三年、赦に遇ひて帰る、蜷淵山に隠れて時事に与らず、心を古典に潜む、廃帝の六年聘唐副使に調ぜらる、国家多難にして果さず、延暦元年右大臣に陞り二年官に卒す、年六十二、世に蜷淵大臣と称す(大日本史・日本儒林伝)
補【臼滝神社】○神祇志料 飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社、今稲淵村にあり、宇佐宮と云(大和志・奈良県神社取調書)蓋高津姫の命を祀る(本社伝説)高津姫命は胸形に坐す多岐津比売命也(古事記)
 按、高津姫多岐津比売と多岐比売、音相近し、本社伝ふる処又極めて拠あり、其同神なること著し、姑附て考に傭ふ
蓋飛鳥神の裔神とす(類聚三代格)凡そ十月十日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
坂田寺《サカタデラ》址 高市村大字坂田にあるべし。書紀通証云、坂田寺一名小墾田坂田尼寺、万葉集小墾田之坂田、一書曰司馬達等居址。日本書紀云、用明帝疾病、司馬達子鞍部多須那進奏曰、臣奉為天皇出家修道、又奉造丈六仏像及寺、天皇為悲慟、今南坂田寺仏像是也。多武峰略記云、日本紀第二十二、推古天皇十四年夏五月五日、勅鞍作鳥即賜大仁位、因以給近江国坂田郡水田廿町焉、以此田為天皇作金剛寺、是今謂南淵坂田尼寺矣、太子伝上云、用明天皇二丁未年、仏工鞍部多須奈為天皇自身出家、造丈六仏像并坂田寺矣、承安二年八月四日、南淵坂田等永可為当寺之末寺由、賜長者宣、三年正月晦、彼寺本主木幡寺上座永厳、以坂田寺流記公験等永寄進当寺了。司馬達等継体天皇の朝に仏像を以て梁国より渡来し坂田原に廬居したる事扶桑略記水鏡及元亨釈書に見ゆ、本邦の仏像最初の所なり、達等の子多須那は河内鞍部の村主と為り其子を止利と曰ふ、一門力を興法に致す、推古天皇の止利を褒美したまへる詔旨、日本書紀に曰、朕欲興隆内典方将建仏刹、肇求舎利時、汝祖司馬達等便献舎利又於国無僧尼、於是汝父多須那、為橘豊日天皇出家、又汝姨島女初為諸尼導者、以修行釈教、今汝所献仏又合朕心、此皆汝之功也。
 小墾田の坂田の橋のくづれなば桁より行かむな恋そ吾妹〔万葉集〕
歌人等中世に当り此坂田を板田に謬り換歌多し。扶桑略記云、継体天皇即位十六年壬寅、大唐漢人鞍部村主司馬達止入朝、即結草堂於高市郡坂田原、安置本尊、帰依礼拝、挙世皆云是大唐神也、然而非流布也。
 
上宮《カミノミヤ・ジヤウグウ》址 聖徳太子の上宮は池辺宮(今磯城郡安倍村)の辺なるべしとも思はるれど、扶桑略記、に曰ふ「厩戸皇太子居宮南、称上宮太子、今謂坂田寺、是其処也」と蓋豊浦宮の南の謂ならん。書紀通証云、推古元年、立厩戸豊聡耳皇子、為皇太子、令居宮南上殿、故称其名、謂上宮太子、今謂坂田寺、是其宮、所見暦録。
 
岡《ヲカ》 高市村大字岡は飛鳥に接し、今岡寺存し古の岡本宮址の地なり。岡は市往岡《イチキノヲカ》と称し、日本書紀には飛鳥之岡と云ひ、万葉集には高市之岡とも曰へり。姓氏録云、右京諸蕃、岡連、市往公同祖、百済曰図王男安貴之後也、鬼神因鬼感和之義、今代謂鬼室、廃帝天平宝字三年改賜百済公姓。
 
市往岡《イチキノヲカ》 或は逝回丘《イキキノヲカ》に作る、岡の里の高処の名なり。続日本紀云、神亀四年詔、僧正義淵法師、禅枝早茂、法梁惟隆、扇玄風於四方、照恵炬於三界、加以自先帝御世迄于朕代、供奉内裡、無一咎※[にんべん+((天+天)/心)]、念斯若人、年徳共隆、宜改市往氏賜岡連姓、伝其兄弟。
   故郷豊浦寺尼私房宴歌
 明日香河逝回の丘のあきはぎは今日ふる雨にちりかすぎなん、〔万葉集〕 丹比国人
治田《ハリタ》神社は延喜式大社に列し今岡村の宮山にある者是なりと云〔大和志〕小治田氏数流なり其中の祖神か。(小墾田を参考すべし)日本書紀、天武帝王申の乱に「大伴吹負、与近江将大野果安戦于乃楽山、為某所敗、於是果安至八口、(集解本作八田)登而視京、毎街竪楯、疑有伏兵、乃稍引還」とあり、此小墾田京を望視すべき八口は何地にや、八田の誤りと為せば八田《ハツタ》治田《ハリタ》相通ず。
 
岡本宮《ヲカモトノミヤ》址 今高市村大字岡の龍蓋寺蓋是なり。然れども本宮は或は小墾田宮又岡本宮後岡本宮等、同所異造の皇居なれば其詳今尽し難し、大和志に小墾田宮は豊浦なりと為せど従ひ難し、龍蓋寺寺説に治田神社及寺境は故宮なりと云ふに従ふべし。小墾田宮《ヲハリダノミヤ》址 日本書紀、推古天皇十一年、遷于小墾田宮。此朝廷には厩戸皇子摂政し、始て冠位を定め、朝礼を正し、憲法を布き、暦法を頌ち、、十六年隋国の使者を延見し、文物典章此時より観るべし、実に国勢推移の大時運際したり。
岡本宮《ヲカモトノミヤ》址 日本書紀、欽明天皇二年、遷於飛鳥岡傍、是謂岡本宮。書紀通証云、在岡飛鳥二村間、即逝回岡也、万葉集謂之高市岡本宮。
後岡本宮《ノチノオカモトノミヤ》址 日本書紀、斉明天皇二年、於飛鳥岡本、更定宮地、遂起宮室、天皇乃遷、号曰後飛鳥岡本宮。天武天皇元年自島宮、移岡本宮。
小治田岡本《ヲハリダオカモトノ》宮址 続日本紀云、淳仁天皇天平宝字四年八月、転播磨備前等※[米+(備の旁)]三千斛、以貯小治田宮、尋幸小治田宮。五年正月朔、廃朝、以新宮(平城)未就也、暫移而御小治田岡本宮。
板蓋《イタブキ》宮址 日本書紀、皇極天皇二年、自権宮移幸飛鳥板蓋新宮。斉明天皇元年、即位于飛鳥板蓋宮、是冬炎。通証云、在岡飛鳥二村間。按ふに中大兄皇子十二門を鎖し大極殿を囲み蘇我入鹿を誅斬したまへるは本宮の事とす、凡岡本宮の造営は多武峰上に至る迄園垣を繞らし山上に天宮《アマノミヤ》を起し、種々の興立あり、天平宝字中の宮殿も此旧※[てへん+(講−言)]に依る者ならん、今龍蓋寺に古楼門一宇あり、故宮の遺物と伝へり。
長等山風云、東大寺要録所引龍蓋寺記に拠れば、天智天皇岡宮を義淵僧正に賜はりて寺と為し龍蓋と云ふとぞ、此岡宮即岡本宮に同じ、草壁皇子(文武帝父)をも岡宮天皇と称し奉る即此宮地に御坐せしなり、神皇正統記紹運録などに岡本天皇を長岡天皇と記し奉るは岡を長岡とも云へるによりて然も称しならひたるなるべし、色葉字類抄に「岡寺、大炊天皇之時、越前国封五十戸施入」と見えたり。
 
岡寺《ヲカデラ》 法号|龍蓋寺《リユウガイジ》と曰ふ 寺説、天智天皇二年.後岡本宮を捨てゝ精舎と為し義淵法師に附与せらる本尊塑像丈六二臂の観音は空海の作にして、其胸中に天平宝字の聖主念持小像を納れたりと、按に拾芥抄に「善蓋寺、丈六土仏、高市郡、興福寺末、弓削法王造立之後未焼」とあるは、三十三所観音の一にして、即此岡寺なるべし、善は龍の誤ならん。本寺は荒敗の余今堂宇の存するもの、卑小にて宏大の状なけれど、古制を伝へ、其仏殿小楼景観るべし、其他山門僧房等は皆後世の修造也。三十三番第七の札所也、詠歌に
 けさ見れば露岡寺の庭のこけさながら瑠璃の光りなりけり。
元亨釈書云、義淵之幼也、天智帝同皇子鞠育於岡本宮後出家、※[にんべん+昌]相宗、受其業者、行基道慈良弁宣教隆尊等也、又勅建営龍蓋寺龍門寺龍福寺、皆淵之構造也、大宝三年為僧正、神亀五年寂。
補【岡寺】〇三十三所図会〔詠歌、略〕天人浮刻一枚。酒槽岩は岡村の北三丁余東の山の方藪林の中にあり、上平面にして長凡一丈五尺許、幅五尺余、高さ凡四尺余。伝云、飛鳥神社の酒殿の古跡なりとぞ、按に古へ神に奉つる酒は斎して瓶に醸し、其瓶ながら奉るとぞ然れば古は今の如く槽にて絞りて造りしにはあらず、酒槽の由来怪かし。
 
浄御原宮《キヨミハラノミヤ》址 高市村大字|上居《ジヤウゴ》にありと云ふ、上居は浄御《キヨミ》を改作せる者なり。〔大和志書紀通証〕日本書紀、天武天皇営宮室於崗本宮南、遷以居是、謂飛鳥浄御原宮。又※[盧+鳥]野皇女(持統)及有天下、居于飛鳥浄御原宮。古事記伝云、書紀「天武十五年改元、曰朱鳥元年、仍宮曰飛鳥浄御原宮」とあるはトブトリとよむべし、朱鳥の祥瑞の出来たるをめで給ひて飛鳥《トブトリ》と名づけ給ふ、大宮の号をトブトリと云から其地名に冠せて飛鳥明日香と云ひ、終に枕詞の字を地名に用ひて書くこととなれり。万葉集名所考云、按に本来の地名は浄《キヨミ》にて、宮名に浄御原と負せしにやあらむ、されば歌詞には本のまゝ浄宮ともよめるなるべし略して云るにはあらず、巻一に「明日香清御原宮」巻二に、「飛鳥之浄之宮」云々、又
 妹もわれも清之河のかはぎしのいもがくゆべき心はもたじ。
 
細川《ホソカハ》 高市村大字細川は浄御原宮の上方にして、多武峰に接す。天武紀、白鳳五年勅、禁南淵山細川山並莫蒭薪、とある者是也。
 打手折《ウチタヲリ》多武の山霧しげみかも細川の瀬になみのさわげる、〔万葉集〕
滑谷岡《ナメノハサマ》 ○日本書紀、皇極元年、葬舒明天皇于滑谷崗。通証云、滑谷岡在|冬野《フユノ》、(今高市村大字冬野)翌年改葬于押坂陵。
 
    磯城郡
 
磯城《シキ》郡 磯城は明治廿九年|十市《トイチ》式上《シキシヤウ》式下《シキゲ》三郡を合併したる地なり。古磯城県あり、実に今の郡境に当る。十市(田原本町外八村)式上(三輪村外七村)式下(都村外三村)総て一町二十村郡衙を三輪に置く、西北部は平坦にして、北葛城生駒二郡と水脈を以て分る、其山辺高市二郡の交界は村荘相接す、東南部は多武峰音羽山吉隠山等の山嶺を以て宇陀吉野と相限る、寺川初瀬川此間より発源し西北流して式下に至り皆|大川《オホカハ》に会注す。
磯城県主は古の大姓にして、其流二あり、一は黒速の裔にて其家綏靖帝以来数代の姻戚たり、孝元帝以降聞ゆる所なし、一は建新川命の族党なる物部にして垂仁帝以降に起る。惟ふに磯城県は十市県と接近し十市亦物部一党の邑なりければ、古書に二県相混同す。初め神武天皇磯城県主兄磯城を誅し弟磯城を以て県主と為す、(名を黒速と曰ふ)綏靖帝は師木県主祖の女河俣比売を納れ、安寧帝は磯城県主葉江の女阿久斗媛を納れ懿徳帝は磯城県主太真椎彦女飯日媛を納れ、孝霊帝は十市県主祖大目の女細媛を納れたまふ、〔古事記〕大目は日本紀磯城県主に作る。姓氏録、大和神別、志貴連、神饒速日命孫日子湯支命之後也。旧事紀云、日子湯支命五世孫伊賀色雄命子建新川命、倭志紀県主等祖、纏向珠城宮御宇(垂仁)天皇御世、為侍臣供奉。又云、伊香色雄命児十市根命、纏向珠城宮御宇天皇賜物部連公姓。又云、十市根大連之子物部印岐美連公、志紀県主等祖、志賀高穴穂宮御宇天皇(成務)御世為侍臣供奉。又按ずるに磯城とは石塁の謂なり、工芸志料云、石をならべて垣を成す是を志貴といふ、雄略天皇泊瀬朝倉宮に於て詠じたまふ「もゝしきの大宮」と云句あり、則皇居の周垣石を以畳み築き、城を成したるを云ふ。
補【磯城】○工芸志料垣を造ることは太古よりあり、而して其形状及製作並に一ならず、石をならべて垣となす、是を志幾といふ、柴を以て作るを布志賀垣《フシガキ》といふ、葉の着たる柴を以て造るを阿袁《アヲ》布志賀岐といふ、神武天皇大和の橿原の宮殿成る、垣を四面につくる、橿原の皇垣は其製造詳ならず、按ずるに志幾を築き其の内に柴を以て造るか、崇神天皇磯城に都す、是を瑞籬宮といふ、美豆賀岐とは稚木を皇城の域内にならべ植ゑて以て垣となすなり、後世に至ては方木及木板を以て造るも亦美豆賀岐といふ、垂仁天皇更に纏向に都す、是玉垣宮といふ、又珠城宮ともいふ、玉垣珠城は同義にして、並に皇城の城内の垣を美にするの名なり、此垣は何を以て造りしにか詳かならず、按ずるに、多麻賀岐を築くの語あり、後世に至ては神社の外垣を多麻賀岐といひ、内垣を美豆加岐といふ、而して並に木を以て之を造る、反正天皇河内の丹比《タヂヒ》に都す、柴を以て周垣を作る、故に之を丹比の柴籬宮といふ、皇居多く柴を以て垣をなす、清寧天皇の大和の磐余の甕栗宮は柴を以て垣となし、又欽明天皇の離宮の泊瀬の柴籬宮崇唆天皇の大和の倉椅の柴垣宮、皆柴垣を以て称す、凡て上古の皇居の周廻は石を以て畳て城となし、以て其域内を囲む、是を柴籬といふ、雄略天皇の御宇、天皇大和の泊瀬の朝倉宮に於て歌を詠じて曰、毛々志紀能淤富美夜比登波と毛々志紀は則皇居の周垣にして、衆石を畳て以て城となせるをいへるなり。
 
磐余《イハレ》 磐余は本高市郡及磯城郡南部に広被したる地名なり、然れども耳成川の辺即十市郡を中心となし其四近に及ぼせる者に似たり、故に磐余川磐余池は今安倍村に在り。日本書紀云、神武天皇、撃虜、有兄磯城軍布満於磐余邑。又云、磐余之地、旧名片居《カタヰ》、亦居|片立《カタチ》及我皇師之破虜也、大軍集而満其地、因改号曰磐余。片立又片居今所考なし。古書に石村《イハレ》に作るも同じ岩村《イハムラ》の略と云ふ。     ――――――――――
十市《トホチ・トイチ》郡 明治廿九年廃停して磯城郡へ合す、田原本町外八村なり。和名抄に止保知と訓じ、四郷に分つ、桜井村は旧城上郡より入れるなるべし。近代は止保知を止伊知に転じたりき。十市郡は古の十市県にして、日本書紀「孝安天皇皇后、注、一曰十市県主五十坂彦女五十坂媛也。又孝霊天皇皇后、磯城県主大目女細媛、一曰十市県主等祖女真舌媛也」など見ゆれば磯城の分地なるが如し、又旧事紀に物部氏の一祖十市根命垂仁帝の朝に物部連の姓を賜ふとあり、国郡制置の初に一郡と為る。十市は遠市の義か、十《トヲ》は止保に仮れるのみ。
 
池上《イケノヘ》郷 和名抄、十市郡池上郷。埋※[鹿/(弓+耳)]発香、天平宝字五年沽券、十市郡司池辺の解文に部内池上郷と載す、磐余池辺の地にして用明帝宮此に在り、今安倍村|香久山《カグヤマ》村是なり。姓氏録云、右京皇別、池上真人、出自謚敏達孫百済王也。又左京未定雑姓、池上椋人、謚敬達天皇孫百済王之後也。
 
磐余池《イハレノイケ》址 市磯池《イチシノイケ》とも称す、今安倍村大字池内香久山村大字池尻ありて、池塘は廃す。〔大和志〕古事記、玉垣宮(垂仁)段、御母等率御子本牟智和気命、遊状者、作二俣小舟、浮倭之市師池、率遊其御子。日本書紀、履仲天皇、作磐余池、又泛両枝船磐余市磯池、与后妃分乗而遊宴、時桜花落于御盞。磐余池は一名埴安池と云。
 桜散る室の山風吹ぬらし市磯の池にあまる白波〔夫木集〕
 
稚桜《ワカザクラ》宮址 磐余の稚桜宮は市磯池の辺に在るべし大和志に池内(安倍村大字)と為せり。日本書紀「神功皇后摂政、都于磐余、注、是謂若桜宮」とあり。古事記伝云、若桜の名は履仲天皇の宮号にて書紀神功巻に「是謂若桜宮」と注したるは後人のさかしらに加へたるなり、彼紀に和加には稚字をのみ用て若と書る例なし、然るを又古語拾遺に神功の御世を稚桜朝と云ひ、履仲の御世を後稚桜朝と云るは誤なり。履仲紀云、即位於磐余稚桜宮、天皇泛船于磐余市磯池時桜花落于御盞、天皇異之、則召物部長真胆連、詔之曰、是花也、非時而来、其何処之花矣、汝自可求、於是長真胆連独尋花、獲于掖上室山而献之、天皇歓其希有、即為宮名、故謂磐余稚桜宮、其此之縁也。
 
甕栗宮《ミカクリノミヤ》址 清寧天皇の皇居なり、亦磐余に在り、蓋安倍村池内と云ふ。〔大和志〕甕栗の義亦詳ならず。清寧紀云、設壇場於磐余甕栗、陟天皇位、遂定宮焉。
 
玉穂宮《タマホノミヤ》址 継体天皇の皇居なり、亦磐余に在り。継体紀に(つぬさはふいはれのいけのみなしたふ)の歌詞あり、此宮址も安倍村池内の辺に外ならじ。日本書紀、継体天皇、遷都磐余玉穂、崩玉穂宮。常陸風土記云、石村玉穂宮、大八洲所馭天皇。(継体)按に玉穂は土地の名に取れる宮号ならん。
 
池辺宮《イケベノミヤ》址 用明天皇の皇居なり、又|双槻宮《ナミツキノミヤ》と曰ふ。大和志、宮址は長門邑今安部村(大字安倍)にあたると為せリ。日本書紀、用明天皇館於磐余、名曰池辺双槻宮。(続日本紀、作石村池辺宮)按ずるに双槻は槻樹の在りけるを以て名づけたる也「用明紀二年、※[田+比]羅夫連手執弓箭、就蘇我馬子大臣|槻曲《ツキノワ》家不離昼夜守護」とある槻曲家も宮傍にある者なるべし、万葉集には「池の辺の小槻が下の細竹《シヌ》」と詠ぜり、又「帝葬于磐余池上陵、後改陵于河内磯長陵」と用明紀にあれば、当時宮傍に仮殯の事ありし也。
磐余《イハレ》河 用明紀、二年夏四月、御新嘗于磐余河上。此川は耳成川の上流にて、山田寺の奥より発する者也。
磐余《イハレ》野 安倍村香久山の辺ならん、今其名なし。
 うま人にいはれの野辺の花すゝきかたよりにのみなびく君かな、〔覚雅僧都百首〕
高佐士《タカサジ》野は磐余野と同処ならん、大和志に南浦(今香久山村)に在りと為す、古事記に神日本磐余彦天皇七媛と高佐士野に遊びたまふ事見ゆ。
 
山田寺《ヤマダデラ》址 安倍村大字|山田《ヤマダ》に在り、華厳寺《ケゴンジ》と曰ひ蘇我倉山田の建営なりき。日本紀、孝徳天皇五年、蘇我臣日向、※[言+(濳-さんずいへん)]倉山田大臣於皇太子、(天智)曰将叛、天皇将興軍囲大臣宅、大臣逃向於倭、大臣長子興志、先是在倭、(謂在山田家)営造其寺、大臣仍陳説於山田寺衆僧、及長子興志等曰、夫為人臣者、安構逆於君、何失孝於父、凡此伽藍者、元非自身故造、奉為天皇誓作、今我見※[言+(濳-さんずいへん)]身刺、而恐横誅、聊望黄泉、尚懐忠退、所以来寺使易終時、言畢、開仏殿之戸、而発誓曰、顧我生々世々不怨君主、誓訖自経而死。多武峰略記云、山田寺法号華厳寺、蘇我山田石川麿大臣安置十一面観音像長五尺、長元七年、検校善妙当大臣之忌日、始修法華八講、堂塔鐘楼経蔵等跡、今猶存之。扶桑略記、治安三年十月、入道前相国(道長)云々、次御山田寺、已以入夜、十九日覧堂塔、堂中以奇偉荘厳言語云黙、心眼不及、御馬一疋給僧都扶公、次御本元興寺、開宝倉令覧、中有此和子陰毛、鐘堂鬼頭忽難撰出、依物多事忙也。
東大谷日女《ヒガシオホタニヒメ》神杜は延喜式高市郡に列す、今安倍村大字山田に在り、大谷八幡と称す。〔県名勝志大和志〕書紀通証云、姓氏録、東漢文《ヤマトノアヤノ》直谷宿禰、漢別也。
 
阿部《アベ》 今阿部生田山田池之内の諸村合併して安倍と改む。姓氏録云、阿倍朗臣、孝元天皇々子大彦命之後也。書紀通証云、孝徳巻阿倍内麿臣、為左大臣、又有阿倍倉梯麿、二名同人、十市郡阿倍村倉梯村。(今多武峰村大字倉橋)姓氏録、阿倍朝臣の外に和安部《ヤマトノアベ》臣あり、大春日朝臣同祖、彦姥津命の後なり、是異流にして北葛城郡馬見村大字安部を本居とする者ならん。阿部は霊異記にも「自阿部、山田、追至豊浦寺西」とありて古より阿をのみ用ゐたり、今安に改む紛更の業なり。南山巡狩録に、興国二年辛巳正月、大和の国安倍山の城に於て吉野方官軍楠西阿蜂起するのよし京師に聞え足利直義佐々木近江入道に下知し彼城にむかはしむ、〔朽木氏文書〕又太平記巻廿六の楠正行参吉野条に、補将監西阿といふ人あり、毛利本には石楠将監西阿に作るこゝに見ゆる西阿も同人か、二月廿八日、大和国西阿城合戦あり、足利方渡辺源四郎実戦功を遂る。〔蠹簡集〕此安倍は馬見村か、又此なるにや、後の分別を期すと云ふのみ。
 
阿部文殊堂《アベノモンジユダウ》 安部村に在り、寺城に古墳多し、今崇敬寺知足院と称す。寺伝大化中創立、本尊文殊大士、是日本三文殊(奥州永井丹州切戸と合せ)其一とぞ、又大日堂あり。寺説に本尊文殊は堂の巽なる石窟|浅子《アサコ》の中より顕出すと云。元亨釈書云、承暦三年、暹覚結庵和州安部山、安部之峰、為精修之区者、覚之力居多。 
香具山《カグヤマ》 今香久山に作る、山辺の諸村を合同して香久山村と称す。山は大字|戒外《カイゲ》に属し高凡十七丈、頂を天之指《アマノサシ》と呼ぶ、土質埴土なり、赤埴白埴と曰ふ。安倍村の北鴨公村の東なり、藤原宮址は山の西北に接す、此山天香山と称し或は高山賀久山に作る。続紀、文武天皇四年、字尼備、賀久山、成会山陵、及吉野宮辺樹木無故彫枯(此に賀久山と云ふは山陵号と聞ゆれど、賀久山に帝后の陵寝ありしを知らず、不詳)。
 春すぎて夏来るらし白たへの衣ほしたりあまの香来やま、〔万葉集〕
万葉考別記云、大和国は山々四方に廻りたちて国の中は平かなるに、香具山|耳成山《ミミナシヤマ》畝火山の三つのみ各独り立て其あはひ各一里づつあり、物の三足あるが如し、藤原宮の跡所は此三つの山の中にて、香山へよりし也扨畝火は高く耳成はそれに次ぎ香具山は中に卑けれど形は富士の山を小さく作れる如くにて、往古四方の麓広く水木繁く万足りて美しかりければ、取りよろふ天の香久山とは詠めるなり、又此山の畝尾は西へも引、殊に東へは長く曳わたりけん今は其畝尾の形いささか残れるが、其畝の本につきて二町四方計りの池あり、是ぞ古の埴安《ハニヤス》の池の残れるなり、彼池より八町許東北に池尻村池内村てふ里の今あるは古の此池の大きなりし事知る可し、夫は後にかの畝尾を崩し池を埋めて田所とし里居をもなせし者なり、斯れば古の歌に其池を海原見てとも詠み給ひ、且つ彼山々の中に香具山はなだらかにて万便りあれば、登りて国見をもし給ひけん。
   高市崗本宮御宇(舒明)天皇、登香具山望国之時御製
 山常《ヤマト》には、村山あれど、取よろふ、天の香具山、のぼり立、国見をすれば、国原は烟立こめ、海原はかもめ立たつ、うまし国ぞ、あきつしま、八開跡のくには、〔万葉集〕
いにしへの事は知らぬを我が見ても久くなりぬ天の香具山、〔万葉集〕
天香山は神代巻に載せたれど天上の事とせば論及し難し。釈紀所引伊予風土記云「伊与郡、自郡家以東北、在天山、所名天山由者、倭在天加具山、自天天降時、二分而以片端者天降於倭国、以片端者天降於此土、因謂天山本也、其御影敬礼、奉久米寺」と、亦稽ふる所なし、此久米寺と云は大和にも伊予にも久米の地名あれば孰れとも定め難し。又添上郡|春日《カスガ》にも香山《カグヤマ》の地名ありて雷神を祭る、紀州鳴神郷にも香土《カクツチ》神社ありて神代巻の迦具土神八雷神の事と相捗る者のごとし。歌学者流の説に天香山は在所知る人なしと曰へり、亦以ある哉。神武紀に「夢有天神訓之曰、宜取天香山社(注云香山此云介遇夜磨)中之土、以造平瓮、而敬祭天神地祇、則虜自平伏」とありしは正く此地の故事にして、崇神帝の時武埴安彦亦此山の土を取り逆謀を為したり、蓋上古以来神秘の霊山と倣したる故也。又案ずるに万葉集中大兄天皇御詠に「高山《タカヤマ》は雲根火《ウネビ》ををしと耳梨と相争ひき」と詠じ、播磨風土記云「出雲国阿菩大神、聞大和国畝火香山耳梨三山相闘、此欲諫止、上来之時、到於此処、(播磨国)乃聞闘止」など見ゆれば、三山争競と云ふ故事は一の寓意ある諺なるべし。姓氏録云、香山真人、出自謚敏達天皇皇子春日王也、又香山連、出自百済国人達率荊員常也。
天香山神社は香具山の北麓南浦に在り、〔大和志〕神武天皇天香山社中の土を採らしめたまへるは此所と云、新抄格勅符、天香山櫛真知命と為し、延喜式元名大麻呂并天知神、三代実録太麻等野知神と曰ふ。神祇志科曰、延喜式、元名太磨止乃知神の誤にて、蓋|太兆《フトマニ》の卜事《ウラゴト》を掌り坐す神なりと。
補【櫛真知命神社】○神祇志料 天香山坐櫛真知命神社、
 按、本書知字を脱せり、今新抄格勅符に拠て之を補ふ
元名大麻等乃知神と云(延喜式)
 按、本書印本、大麻呂并天和神とあるは誤れり、今一本及三代実録に拠て之を訂す
今香具山の北南浦村にあり(大和志・名所図会)神皇産霊尊の御子櫛真乳魂命を祀る(尊卑分脈・度相氏系図)
 按、尊卑分脈神魂命の弟津速魂命の子高千穂命の子居々登魂命の子天児屋根なれば、櫛真乳魂命は天児屋根命の曾祖父津速魂命の甥に当り坐神也、附て考に備ふ
蓋太兆の卜事を掌り坐神也(大和国神名帳略解、参取延喜式・釈日本紀大意)神武天皇天神の御訓に依て八十平瓮を造る時、土を天香山社中に取らしむ、蓋本社也(日本書紀)平城天皇大同元年神封一戸を充奉る、(新抄格勅符)
 
畝尾《ウネヲ》神社 延喜式、畝尾|都多本《ツタモト》神社、今香久山村大字|木之本《キノモト》哭沢杜《ナキサハモリ》是なり。〔大和志〕日本紀、神代巻一書云伊弉冊尊化去、伊弉諾尊哭之、涙堕而為神、是即|畝尾樹下《ウネヲノコノモト》所居之神、号哭沢女命。按ずるに本社は神代の故事に因み後世追祀したる者か、万葉集に人命を此に祈る事あれば、当時既に在りし者とす。
   檜隈女王怨啼沢神社歌
 哭沢のもりに三輪すゑいのれども我おほきみは高日知らしぬ、〔万葉集〕
姓氏録云、畝尾連、天辞代命子国辞代命之後也。
香山寺《カウセンジ》は香久山村|戒下《カイゲ》に在り、今興善寺に改め文珠院と号す、香具山の東麓に居る。帝王編年記に見ゆる香久山三学院は此か、天照皇大神の故跡と称せり。〔三十三所図会〕日本書紀、神代巻、天照大神発慍、乃入于天石窟、閉磐戸而幽居焉、注云天磐戸在香山。按ずるに神代の事人世を以て規律すべからざる所多けれど、香山の磐戸、畝尾の樹木の遺跡の如きは、史書撰述の当時既に此地なりと説ける者ありて、斯く注せる如し。
補【畝尾神社】○神祇志科 畝尾都多本神社、また哭沢神社といふ(万葉和歌集)今木本村哭沢森にあり、(大和志・名所図会)蓋哭沢女命を祭る、初伊弉諾尊其姫神の神去坐し時、哭泣流涕給ふ涙堕て神と化き、畝丘樹下に所居神啼沢女命即是也(日本書紀一書・古事記)古へ人命を此神に祈る者あり(万葉和歌集)醍醐天皇延喜の制、祈年祭に鍬靭各一口を加奉らしめき(延喜式)凡そ毎年八月廿六日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
補【香山寺】〇三十三所図会 香具山興善寺文珠院、戒下村にあり、真言宗、僧坊五宇あり、十市郡に属す、香具山の東麓なり、寺記に云、往古天照大神此地に於て秘法の要を現し、国を福し民を益し善く興す、故に号をなせり、中興の開基は隆俊上人、又豊臣秀吉公より令旨を給ふ、伽藍開基の記に見えたり、帝王編年記曰、香久山三学院と見えたり。
二階堂古址 天香具山の北表にありて、今は唯名のみ斗りなり、昔二階堂之に草創ありて〔脱文〕
香具山法然寺 南浦村にあり、今は浄土宗なり、本尊阿弥陀仏、脇士観音勢至等、共に鳥仏師作、少林院と号す。○聖徳の向山寺にあらずや。
 
埴安《ハニヤス》 香具山の麓の古名なるべし、今此名なし。古事記伝云、波爾夜須は埴※[黍+占]《ハニネヤス》なり、字鏡に「挺謂作泥物也、禰也須」と見ゆ、香山畝尾の地名なり。健埴安《タケハニヤス》神社は今香久山村大字|下八釣《シモヤツリ》に在り、延喜式に畝尾坐健土安社是なり。〔大和志〕蓋孝元皇子健埴安彦命を祭る、古事記伝神祇志料は之を以て土神《ハニノカミ》を祭ると為せど、健の名負ふを見れば皇子なるべし。古事記境原宮(孝元)段云、此天皇、又娶河内青玉之女名波邇夜須毘売、生御子建波邇夜須毘古命、この母子は此に住し給へるより、其名を取りたるならん。
埴安池《ハニヤスノイケ》は今香久山村大字|南浦《ミナミウラ》に纔に遺る、蓋古の大池の幾分なるべし、磐余池市磯池同所異名なり。再考するに万葉集に「埴安の御門の原」と詠じたるは藤原宮の事なれば香久山の北面にて磐余と異所なるべし。
   高市皇子尊城上殯宮之時、柿本人麿和歌、
 埴安の池のつゝみのこもり沼のゆくへも知らに舎人はまどふ〔万葉集〕
補【健土安神社】○神祇志科 畝尾坐健土安神社、今下八釣村にあり(大和志・名所図会)蓋土神波邇夜須毘古神、波邇夜須比売神を祭る(古事記)此神又埴安姫と申す(日本書紀及一書)神武天皇天神の教に因て此社中の土を取り、平瓮を造て天神地祇を祭り、八十梟帥平伏し給ひき(日本書紀)聖武天皇天平二年神戸租稲九十束を以て祭神料に充奉り(東大寺正倉院文書)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授く(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ九月三日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
多武峰《タムノミネ・タウノミネ》 今峰下の諸村を連合して多武峰《タウノミネ》村と云ふ、古はタムと呼びしを中世以降タウとと云ひ、又談武に作るにより、修して談峰談山と為したり、峰上に藤原鎌足廟あり。この談峰は磯城郡の南限にして西は高市郡東は吉野郡とす、澗水北流して倉橋川に入り寺川《テラカハ》と為る。斉明天皇田身の峰上に離宮を造り給ひ持統文武又行幸あり二槻宮《フタツキノミヤ》と号す。東鑑云、文治元年予州(義経)凌吉野山深雪、向多武峰、是為祈請大織冠御影云々。
二槻宮《フタツキノミヤ》址 日本書紀、斉明帝二年、於田身嶺、冠以周垣、又於嶺上、両槻樹辺、起観、号為|両槻《フタツキ》宮、亦曰|天宮《アマツミヤ》。通証云、多武峰西北有地名|根槻《ネツギ》、即宮跡、田身注此曰大務。多武峰勝志云、紫蓋寺者、増賀上人改葬処也、為念仏道場、斉明帝両槻宮址。
補【多武峰】○奈良県名勝志 十市郡多武峰村大字多武峰にあり、形龍の如し、談山神杜あり、蓋山中の幽邃殿宇の華麗之を兼ぬるもの、本邦未だ多く其比を見ず、本殿の北背を談山又は談峰といふ、嘗聞く、大織冠天智帝と倶に撥乱の事を談じ給ふ所と。〔談山神社の山陽詩・鉄兜詩、略〕河野鉄兜、名熊、字夢吉、別号秀野、播磨人。
 
談山《タンザン・ダンザン》神社 多武峰上北面に在り。初め太織冠藤原鎌足の墓所に就き、其子定恵、寺塔を建てたり、藤原氏の盛大を極むるや崇重益加はり、供奉頗厚し、後梢衰ふと雖徳川氏の時尚寺録三千石を給したり、祠廟は嘉永二年重修し、壮麗州中の第一たり、大塔は古時の遺構、其余の堂宇明治維新の際妙楽寺の廃亡と共に多く毀敗に属す、今別格官幣に列す。延喜式云、多武岑墓、増太政大臣正一位淡海公藤原朝臣、在十市郡、兆城東西十二町南北十二町。三代実録云、貞観五年、大和国、禁藤原氏先祖贈太政大臣多武峰墓、四履之部内、百姓伐樹放牧。大日本史云、初葬鎌足於摂津|阿威《アヰ》山、子僧定慧帰自唐、改葬大和多武峰肖像祀焉、後世国家将有大変、則其像破裂云、注、談峰縁起曰、初鎌足与天智帝、会談和州倉橋山藤花下、謀誅入鹿、因号其地曰談峰、鎌足嘗謂定慧曰、談峰之為地也、東連伊勢山、西村金剛山、南界金峰山、北隣大神山、其霊勝不下唐之五台、我百歳之後卜、兆域於此、則後葉繁衍矣、定慧帰自唐、憶其言遂改葬于談峰、且創伽藍名曰妙楽寺。神社考云、延長四年建多武峰総社於是勅号曰談山権現。
 回合同巒気勢騰、※[火+軍]煌金碧廟廊層、風雲一体君臣業 山背誰※[言+音]天智陵、 頼山陽
 園城寺古袈裟少、飛鳥宮空環佩間、唯有談峰神徳在 夕陽金碧照寒山、 越鉄兜
 藤かづら絶ぬ根ざしをとどめける跡もかしこき多武の山寺、 伴※[草冠/高]※[さんずいへん+爰]
 尋ねきて此も桜の峰つづき芳野泊瀬の花の中宿、 飛鳥井雅章
大八洲雑誌云、貞慧法師は藤原鎌足の子にて、日本書紀には定恵に作る、世に貞慧伝の一書あり「白鳳十六年、歳次乙丑、秋九月、経自百済、来京師也、(中略)以其年十二月廿三日、終於大原之第、春秋廿三、道俗揮涙、朝野傷心」と見ゆ、白鳳十六年は日本書紀天智天皇四年の原注に「定恵以乙丑年、付劉徳高等船帰」とあるに※[金+(攝-手偏)]合す、其大原第は高市郡大原の藤原第に外ならじ。かくては貞慧多武峰を開きたりと云事も疑ふべく其事は古くより異説多し、多武峰略記「荷西記云定慧和尚、天智天皇治天下丁卯(天智六年)生年二十三人唐、天武天皇治天下戊寅(大武七年)帰朝、謁弟右大臣(不比等)問云、大織冠御墓何地哉、答曰摂津国島下郡阿威山也、於是和尚具語先公契約、即引率二十五人参阿威山墓所、掘取遺骸、手自懸頸、即落涙言、吾是天万豊日天皇(孝徳)太子、宿世之契為陶家子、云々(陶家とは、多武峰縁起に内臣有痛蟄居山城国字治郡小野郷山階村陶原家とある家を指るなるべし、)故役人荷土、共登談岑、安置遺骸、於十三重之塔之底矣」後記(冷泉円融の朝の僧千満撰)云「或記云、白雉四年(癸丑)夏五月十日、定恵和尚生年十歳、随遣唐使小山上吉士長丹等到長安、天智四(乙丑)年秋九月廿二日付大唐使劉徳高等帰京師、天智九(庚午)年閏九月六日、改大織冠聖廟、移倉橋山多武峰云々、或記云、天智六(丁卯)年、定慧和尚生年二十三入唐、白鳳七(戊寅)年帰朝、同年十月、改大織冠聖廟移倉橋山多武峰、其上起十三重塔云々、或説云、白雉四年入唐、天智六年重入唐、旧記云、定慧和尚、白雉四(癸丑)年夏五月、随遣唐使入唐、高宗永徽四年也、在唐習学二十六年、高宗儀鳳三(戊寅)年、伴百済使帰朝、白鳳七年秋九月也、同年十三重塔矣、已上入唐帰朝改葬起塔等之時代、異説如此、但此中荷西記者、与定慧和尚存日記全同、仍暫以彼説可為指南歟」とありて、後記の或説の白雉四年云々の説は、日本書紀に合へど、其余はすべて合はず。元亨釈書には、白雉四年の入唐、唐の調露元年己卯即白鳳七年(癸酉をもて元年とす)の帰朝として、習学殆十歳とあるは誤なり。本朝高僧伝にその帰朝を調露元年即白鳳八年(壬申を元年とす)とし、在唐二十七年としたるは、年数をかぞへて改めたるなるべし。是等の諸説を観るに定恵の多武峰を開きたりとの事蹟も疑ふべし、尚考索すべきことにこそ、もとより高明の裁定を仰ぐべきことなり。(以上) 
妙楽寺《メウラクジ》址 大和志云、妙楽寺在多武嶺、号曰護国院、僧定恵建、鎌足公廟、在正堂東。元亨釈書云、定慧大織冠之長子也、慧在唐、大織冠已薨、慧帰朝、与従属上阿威山、取遺骸改葬談岑、就上構十三層塔。○談峰大織冠像破裂及び大衆蜂起の事中世歴代之あり、中にも其一例、永保元年、興福寺僧数千入多武峰、焼氏家三百余区、多武峰僧負大織冠像、逃匿僅免、像破裂墓鳴、罷興福寺別当公範、逮捕首悪繋獄」〔大日本史〕の如きあり、又降りて英俊日記「永正三年八月、京衆沢蔵乱入間、国衆者十市箸尾以下南脇衆者悉多武峰楯籠り、堅固に相踏了、廿七日沢蔵軒香久山陣替、多武峰の麓の小屋二三所追落、九月四日沢入道惣勢を出し多武峰取懸了、五日暁多武峰没落、則焼了、言語道断体也」など僧兵の状を推知すべし。
飯盛《イヒモリ》塚 談山廟の下に飯盛塚あり、多武峰少将高光墓と云。〔名所図会〕高光は九条右大臣師輔の子村上帝に仕へ文才の名高し、遁世して其祖先の廟山に入り、逸遂に此に卒す、正暦五年なり、法名如覚と曰ふ。
 
音石《オトハ》 今多武峰の東に其大字遺り、倉橋と相接す、音石《オトハ》寺の跡あり、多武峰略記云、音石寺、又善法寺者、千手観音霊応之地也、勝宝元年沙門心融建立之、其後天長年中改造之、願主安部中納言入道俗名国香、檜皮葺坊舎廿宇、相分上院下院、坊舎数繁多也、又元興寺僧都明詮来住此地、又高尾峰僧正真済来任此地、貞観十年延安和尚時、永為当寺之末寺矣。
 
粟原《アハハラ》 今多武峰村の大字と為る、粟原寺は後世廃絶し、其鑪盤銘を勒せるものの伝ふるに因り旧事を得たり。古京遺文云、粟原寺鑪盤、今蔵多武峰妙楽寺、
 寺壱院四至 限東竹原谷東岑 限南太岑 限樫村谷西岑 限北忍坂川[#「限東〜坂川」は「限樫…」から改行して二行に書く]
此粟原寺者仲臣朝臣大島惶々誓願奉為大倭国浄美原宮治天下天皇時日並御宇東宮敬造伽藍之爾故比売朝臣額田以甲午年始至於和銅八年合廿二年中敬造伽藍而作金堂仍造釈迦丈六尊像和銅八年四月敬以進上於三重宝塔七科鑪盤矣仰願籍此功徳皇太子神霊速証无上菩提果願七世先霊共登彼岸願大島大夫必得仏果願及含識具成正覚
按崇峻天皇紀、有鑪盤博士、七科即七階、猶云七層也。
 
倉橋《クラハシ》 多武峰村大字倉橋古は倉橋(古事記)又椋梯(三代実録)に作る、多武峰の東口なり。東嶺は宇陀郡と交界し倉橋山又音羽山と曰ふ。日本書紀、天武天皇白鳳十一年、※[けものへん+葛]于倉梯。三代実録、貞観十一年、大和|椋梯《クラハシ》山河岸崩、獲鏡一枚、広一尺七寸献之。古事記、仁徳帝御世、速総別王宇陀へ逃退の時、倉椅山に騰り「椅立の倉梯山をさかしみと」の詠あり、古は磐余より宇陀の通路は此に係り、今の長谷路には非ず。
 椋橋の山を高みか夜ごもりにいで来る月の光りともしき〔万葉集〕
   遊猟 大津王
朝択三能士、暮開万騎筵、喫※[(巒−山)/肉]倶豁矣、傾蓋共陶然、月弓輝谷裡、雲旌張嶺前、※[日+義]光已隠山、壮士且留連、〔懐風藻〕
天武紀十二年に倉梯に狩りしたまふことあり、大津皇子の遊猟篇も其時の事にや。
 
倉梯宮《クラハシノミヤ》址 崇唆天皇の皇居なり。古事記云、天皇坐倉橋柴垣宮。書紀通証云、倉橋村金福寺、是其旧址。名所図会云、下居《オリヰ》村なり「倉梯山の下居原と云ひ、いみじう庭つくらせ四季に従て叡覧ありけるとぞ」と七巻抄に見ゆ。
下居《オリヰ》神社 三代実録、天安元年梯橋下居下授位、延喜式に列す。姓氏録云「下家《オリイヘ》連、彦八井耳命之後也」と蓋神武帝の皇子を祭る、今香久山村大字下居の北数町(桜井村大字下居)に在り。
補【下居神社】○神祇志料 今椋橋村を去る五六町、多武峰東口、下居の隣邑下村にあり(和州旧跡幽考・大和志・名所図会)蓋神八井耳命を祀る、初神八井耳命皇居を去て春日県に降居坐き、故に下居神といふ、河内志貴県主神亦同神也(大和国神名帳略解)文徳天皇天安元年八月庚辰、従五位下椋橋下居神に従五位上を授く(文徳実録)凡そ其祭九月七日を用ふ(奈良県神社取調書)
 
倉梯岡《クラハシノヲカ》陵 崇峻天皇の御陵なり。延喜式云、倉梯岡陵、倉梯宮御宇崇峻天皇、在十市郡、無陵地。書紀通証云、在倉橋村東、今云赤城。山陵志云、多武峰、其東北之麓、是為倉梯、按崇峻為賊臣所虐、即日葬之、意其陵不応比他、而今検之頗高壮、蓋非一朝所治、治寿蔵当時已成俗、崇峻亦然歟、地傍蹊間甚隘、不獲之兆城、式曰無陵地、其此之謂歟。名所図会云、倉橋岩屋山、高十三間周廻八十三間窟中に石十あり、高三尺八寸長八寸横三尺七寸厚九寸練石也、窟の広九尺。
 
倉梯川《クラハシガハ》 多武峰音羽山の渓水相合し倉梯川と為り、桜井に至り忍坂川と合し、耳成村に至り磐余川を容れ寺川と為る。日本書紀、天武白鳳七年、堅斎宮於倉梯河上。又万葉集に「橋立の倉梯川の石のはし」と詠ぜり。
 
川辺《カハノベ》郷 和名抄、十市郡川辺郷、訓加八乃倍。蓋倉梯川の辺にて、今の多武峰村是なるべし。
 
磐余《イハレ》山 安倍《アベ》村と桜井村の間を曰ふか、磐余山口神杜今桜井村大字|谷《タニ》の西南に在り。日本書紀斉明天皇二年に見ゆる石上山も此地なるべし、延喜式石寸に作る寸は村の略字なり、書紀石上は石寸の誤ならん。斉明紀、二年起宮、曰後飛鳥岡本宮、時好興事、廼使水工穿渠自香山、西至石上山、以舟二百隻、載石上山石、順流控引、於宮東山、累石為垣。水理を按ずるに石上は山辺郡の名なれど.穿渠順流の事と相符せず、蓋石寸の誤のみ。
 つぬさはふ石村《イハレ》もすぎず泊瀬山いつかも超えむ夜はふけにつゝ、〔万葉集〕
石寸《イハレ》山口神社は天平二年正倉院文書、又新抄格勅符に見ゆ、延喜式、祈年祭六山口杜の一にて大社に列す、桜井村大字谷の西南に在り、〔県名勝志〕一説安倍村に在り。〔大和志〕
 
桜井《サクラヰ》 桜井村は古城上郡の地に似たり、延喜式城上郡内の二社今本村に在り、証すべし、地域十市郡と交錯し全く倉梯川の両岸に跨る。桜井の名は桜部の訛にして謂ゆる磐余若桜部の居邑なり、但推古紀「二十年、百済人味摩之帰化、曰学于呉得伎楽舞、則安置桜井、而集少年令習伎楽」とあるは此に非ず、豊浦寺の桜井なり。桜井の駅舎は戸数五百、鉄道西南方より支線を通じ、多武峰初瀬三輪等の集散は本車駅之を専にす、亦四方の小走集なり。
拙堂紀行云、桜井駅、係我藩(伊勢藤堂氏)封疆、邑屋稠密、為四方走集、我藩除二伊外、有城和提封五万石北起城之笠置、南至和州多武山下、自為一勝概、差奉行官属、掌其政事、治於|古市《フルイチ》。桜井薬師堂は磐余寺と云ふ、又来迎と称する巨刹あり、殿堂宏壮なり。桜井町大字浅古の前谷に古墳石槨の露出せる者あり、洞高五尺余横四尺余奥に行くこと八尺八寸、其前面は破壊したれど今其周壁天井を検するに煉瓦を以て畳成せるに似たり、実は然らず、磚状の石塊をばセメントにて築きあげたる者のみ、此種の古墳は多武峰村大字粟原の見寄峠、榛原村(宇陀郡)大字萩原の南山に在り、安倍文殊堂の境内なる洞窟も同種の墳穴とす。〔考古学会雑誌〕
若桜《ワカザクラ》神社は延喜式城上郡に列す、桜井村大字谷に在り〔大和志〕若桜郡の祖神なり、姓氏録云、若桜部造、初去来穂別天皇、謚履仲、泛両枝船於磐余市磯池遊宴、是時膳臣余磯献酒、桜花忽来浮于御蓋、天皇異之、遣物部長真胆連尋求 乃俘得掖上室山献之、天皇歓之賜姓。
高屋《タカヤ》神社は延喜式城上郡高屋安倍神社三座とある者是なり、今若桜神社(土俗白山社と云ふ者)と同境に在り大和志に土舞台と云者或は旧址ならん、(桜井村坤方の高岡にて安倍村の東也)万葉集舎人親王の御歌に、
 ぬば玉の夜ぎりぞ立てる衣手を高屋のうへにたなびくまでに、
祭神は阿部朝臣同祖、膳臣若桜部朝臣等の祖神なり。姓氏録、若桜部朝臣阿部朝臣同祖とありて、膳臣余磯の事は若桜神社及稚桜宮の条下に見ゆ、隣村安倍に今大字|膳夫《カシハデ》あり。
補【桜井】○奈良県名勝志 北八木駅の東方に在り、市肆連接、物貨富贍、戸数五百あり。○駅中の巨刹来迎寺は明治廿三年皇后陛下駐駅の所とす。〇三十三所図会、東光寺は桜井村にあり、往古は磐余《イハレ》堂又桜井寺と号す、大永天正の頃、桜井掃部介延久と云ふもの、薬師仏の霊夢を蒙り、東方より光明赫々たるに依て東光寺と改むと云ふ。桜井は八木より初瀬に至るにも、同寺より飛鳥、安部を経て長谷に至るにも此地に出るを順路とす、又是より右に行けば多武峰の東口に至り、左に行けば奈良街道なれば、平日に往還の旅人繁く、尤近隣の在郷より此里に来て諸色を求むるが故に、商家軒を列べ交易し、月に六度の市をなして、至て賑はし。
補【高屋安倍神社】○神紙志料 高屋安倍神社三座今十市郡若桜神社の側にあり、高屋明神と云、若桜井谷の安倍松本山にありしを、後之を今地に遷祭る(和州旧跡幽考・大和志・神名帳考証)按、安倍山の西に膳部村あり、安倍朝臣、膳臣、若桜部朝臣共に同族也、附て考に備ふ
蓋安倍朝臣の氏神たり(新撰姓氏録・延喜式)文徳天皇天安元年八月庚辰、従五位下より従五位上を授く、二年四月戊申従四位下に叙され(文徳実録)醍醐天皇延喜の制並に名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預り(延喜式)朱雀天皇天慶三年九月丙寅、正四位下より従三位を授く(日本紀略)
 
耳成《ミヽナシ》 今|耳成《ミヽナリ》村立つ、耳成山の近傍を云ふ、大字葛本木原十市大田市等之に属す。耳成川倉橋川の合流処にて耳成《ミミナシ》山は其南に在り。日本書紀「推古天皇九年、天皇居于耳梨行宮」と見ゆ、大和志木原に在りと為す。
和名抄、十市郡神戸郷、今其名を失ふ、蓋十市御県の神戸にして、今耳成村に当るか。
 
耳成《ミヽナシ》山 香具山の南に聳ゆる一座の小丘なり、木原《キハラ》の東方に特起し、高十余丈形状愛すべし。日本書紀允恭巻に「新羅人恒愛京城傍耳成山畝傍山」とあるも以あり、当時皇后は飛鳥の八釣に在り。類聚国史、延暦廿四年、勅大和国畝火香山耳梨等、百姓任意伐損、自今以後莫令更然。大和志云、耳梨山、四面田野、孤峰森然、山中梔樹多矣、因又呼|梔子山《クチナシヤマ》、
 みヽなしの山のくちなしえてしがな思の色の下染にせん、〔古今集誹諧歌〕
耳梨池は耳梨畝火香山の三山争競と云ふ古諺に因めるにや、万葉集に耳梨池に鬘児三人の男に相競はれ我身を沈む云事小序に見え、其歌に
 耳なしの池しうらめしわぎもこがきつゝかづかば水はあせなむ。
耳梨川は磐余川に同じ、耳成山の西を流る、目梨川《メナシガハ》とも云、
 目なし川耳なし山の見もきかずありせば人をうらみざらまし、〔六帖〕
耳成山口神社は耳成村木原(耳成山の頂)に在り、天平二年正倉院文書新抄格勅符三代実録等に見ゆ、延喜式祈年祭山口神六座の一にて大社に列す、耳成は本社鎮坐するを以て土俗|天神山《テンジンヤマ》と称す。
補【耳成山】○奈良県名勝志 俗に天神山と称し、十市郡耳成村大字木原の東方に孤立す、高約二十余丈、山頂に耳成山口神社あり。
補【耳成山口神社】○神祇志料 今木原村耳成山にあり(大和志・名所図会)聖武天皇天平二年神戸祖稲五十三束を以て祭神料に充奉り(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神封一戸を寄し(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より正五位下を授け、九月庚申雨風の祈に依て幣便を奉り(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る、即祈年祭山口神六座の一也(延喜式)凡そ毎年十月三日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
太田市《オホタイチ》 耳成村大田市は古の磐余田《イハレダ》にして、目原《メハラ》の地なるべし、高皇産霊祠あり。〔県名勝志〕延喜式、目原坐高御魂神社。日本書紀、顕宗巻云、阿閇臣事代※[ぎょうがまえ+金]命、出使于任那、於是日神著人謂之曰、我祖高皇産霊、有預鎔造天地之功、宜以民田奉我、若依請献、我当福慶、事代由是、還京奏、奉以磐余田十四町、対馬県主直侍祠。
目原坐高御魂神社 延喜式二座并大社、天平二年正倉院文書薪抄格勅符にも見ゆ、高御産霊神及日神を祭る日神は旧事紀対馬県主等祖天日神(饒速日尊供奉三十二人之一)是なるべし。
補【高御魂神社】○神祇志科 目原坐高御魂神社二座、高皇産霊尊及御女栲幡千々媛命を祀る(延喜式)
 按、大和国神名帳略解に本社川辺郡目原村高森にありと云り、されど今詳ならず
顕宗天皇三年四月庚申、日神人に着りて阿倍臣事代に詔はく、磐余田を以て我祖高皇産霊尊に献れと詔ひき、事代其由を奏しゝかば、神の乞のまゝに田十四町を献り、対馬県直を以て祠に侍らしむ(日本書紀)即是也、聖武天皇天平二年神戸租稲二百七十一束を以て祭料とし(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神封二戸を充奉り(新抄格勅符)〔以下脱文〕
 
十市《トホイチ》 耳成村大字十市に十市森あり、謂ゆる御県神此なり。中世十市氏和州の豪族にして南朝に属し足利氏に抗す、平城坊目遺考に「十市氏中原姓、或曰県主、長谷川党なり、十市山の城に住し春日大宿所隔年勤番」とありて、城址は弓月岳《ユヅキタケ》と云へり。氏族志云、中原氏、初曰十市首、曰安寧皇子磯城津彦後、然未詳也、旧事紀天降五部人中、有十市首祖富々侶、是或其先也。朱雀帝時、有左少史十市部宿禰春宗〔九条殿年中行事記〕春宗子大学博士有象、及同姓助教以忠等、円融帝時改賜姓中原宿禰、尋為朝臣、子孫世任文職、〔中原系図〕按三代実録、陽成光孝朝有助教中原朝臣月雄、蓋是族也」と、此文職中原と土豪十市の関係知れず。又県主は、古事記云、黒田宮(孝霊)天皇、娶十市県主之祖大目之女、名細比売、生御子大倭根子日子国玖瑠命(孝元)。又旧事紀云、伊香色雄命児十市根命、纏向珠城宮御宇垂仁天皇御世、賜物部連公姓。
十市御県坐神社は十市森に在り、十三社と称す。〔大和志〕天平二年正倉院文書十市御県神稲一千余束と見え、新抄格勅符三代実録に封戸授位あり、延喜大社に列し大和六県坐神の随一とす、坂門《サカト》神社は延喜式に列し今耳成村大字中村に在り。
 
竹田《タケダ》 耳成村大西竹田、(平野村竹田に対し東竹田と云)延喜式竹田神社あり、土人三十八所社と呼ぶ、〔大和志〕竹田川辺連の祖火明命を祭るならん。万葉集に竹田庄あり。
   坂上郎女従竹田庄贈賜女子大嬢歌
  うちわたす竹田の原になくたづのまなく時なし吾恋ふらくは、
姓氏録云、神別天孫、竹田川辺連、火明命五世之後、仁徳天皇御世、十市郡刑坂川之辺、有竹田社、因以為氏神、同居住焉、録竹大美、供御箸竹、因茲賜竹田川辺連。
 
飫富《オホ》郷 和名抄、十市郡飯富郷。飯は飫の誤なり、古来沿用す、今多村及び平野村の南部是なり(平野村北部及び田原本は古の城下郡の地か)多神社あり、意保臣の祖神也。古事記、白橿原宮(神武)段云、御子神八井耳命者、意富臣祖。姓氏録、多朝臣、出自謚神武天皇子神八井耳命之後也。大日本史氏族志云、多臣、景行之時、有多臣祖武諸木、従西征有功、天智帝時有多臣蒋敷、其妹嫁百済王子豊、壬申之乱、美濃安八磨郡湯沐令多臣品治、従天武帝有功、十二年多臣改賜朝臣、〔日本書紀〕以従四位下大朝臣安麻呂為氏長、即撰古事記者也。〔続日本紀古事記序〕
 
多《オホ》神社 多村大字多に在り、延喜式多神社、又弥志理都比古神社二座とある蓋是。綏靖皇兄を祭る 書紀通証云按弥志理都比古身知彦也、神八井耳知身之才、而克譲之謂歟、綏靖紀云、与兄神八井耳命、知庶兄手研耳命蔵禍心、遂殺之、神八井耳命服其勇、譲曰吾当為汝輔、奉典神祇者、是即多臣之始祖也。神祇志料云、本社は神武天皇を并祭て二座と為すとぞ、初神八井耳命弟建沼河耳命に吾は兄なれども汝命を扶けて忌人となり、天神地祇の神事を知りて仕奉らむ、汝命上として天下知しめせと詔て御身を退き給ひき、故弥志理都比古命と称奉りき。〔古事記、参取多大明神社記〕聖武天皇天平二手神戸租稲一万六百九十束を祭神及神嘗酒科に充奉り〔東大寺正倉院文書〕平城天皇大同元年大和播磨遠江六十戸を寄す。〔新抄格勅符〕皇子神命神社は延喜式多神社四皇子の一なり、今本社の西南に在り。〔大和志〕姫皇子神社は延喜式多神社四皇子の一なり、今本社の東に在り。小杜《コモリ》神命神社は延喜式多神社四皇子の一なり、今本社の東南にて木下社と称す。屋就《ヤツキ》神命神社は延喜式多神社四皇子の一なり今本社の西大字大垣に在り。千代《チシロ》神社は延喜式に列す多村大字|千代《チシロ》に在り亦多神の苗裔なるべし。 
秦楽寺《シンラクジ》 多村大字|秦荘《ハタノシヨウ》に在り、小堂宇なれど建築観るべし、蓋中古の遺構と云ふ。楽戸秦氏の氏寺ならん。(杜屋参看すべし)
新口《ニイクチ・ニノクチ》 多村の大字なり、建武二年吉水院文書に新口荘と云此なるべし、近世劇部に新口の民忠平大坂の妓梅川に狎る事を伝称す。
 
子部《コベ》神社 今平野村大字飯高に在り、延喜式、三代実録に列し、蓋|小子部《チヒサコベ》連の祖神八井耳命を祭る。
雄略紀、六年、天皇欲使后妃親桑、以勧蚕事、受命螺瀛聚国内蚕、螺瀛誤聚嬰児、奉献天皇、天皇大咲、賜嬰児於螺瀛、曰汝宜自養、螺瀛即養嬰児於宮牆下、仍賜少子部連。通証云、詩曰螟蛉有子、螺瀛負之、螺瀛取他子為己子、因此為名。按ずるに姓氏録に異流あり、子部、火明命三世孫、建刀米命之後也、又旧事紀云、天火明櫛玉饒速日尊四世孫、天戸目命。子部神社の西に百済川あり、舒明帝川辺に百済大寺を建て玉ひし時、子部神祟あり、三代実録曰、子部大神、在寺近側、含怨屡焼堂塔云々。
 
飯高堂《イヒタカダウ》 今瑞華院と称す、小堂宇なれど亦中世の構造なれば様式参考すべし、秦楽寺と一対の古刹なり。
 
野倍《ヤベ》 多《オホ》村大字矢部あり、万葉集に屋部坂あり、此か。日本後紀には「於保美野にただに向へる野倍の坂」の謡あり、於保美野は多宮なるべし、即皇居に比興し、野倍は桓武御諱|山部《ヤマベ》と相近し、
   宝亀四年天皇(桓武)為皇太子、天宗天皇(光仁)心倦万機、遂譲位于天皇、初有童謡、識者以為天皇登祚之徴、
 於保美野にただに向へる野倍の坂いたくなふみそつちにはありとも、〔日本後紀〕
 
田原本《タハラモト》 田原本町は十市郡の北限にして、式下郡界に在り、古は城下郡の地なるべし。和名抄、城下郡賀美郷か。田原本は徳川幕府の時旗本交代寄合平野氏の陣屋あり、五千石高を知行す、今田原本町及|平野《ヒラノ》村是なり。故に田原本は今に市店六百戸、小繁華の邑なり。
     ――――――――――
城下《シキノシモ》郡 後世|式下《シキゲ》に改め、今磯城郡へ合併す、延喜式、和名抄、城下郡訓之岐乃之毛とあり、磯城の北部を分割したる者にして和名抄六郷に分る。後其大和郷は山辺郷へ入り、賀美郷は十市郡へ入る。磯城の上下二郡は続日本紀天平勝宝二年の条に初て出づれど、尚其以往に分割せられしならん。
明治廿九年|式下《シキゲ》郡四村を磯城郡に合同す、本郡は古の城下郡なるが何の世より文字を改めたるか詳ならず、和州平坦地の最中に居る、北は佐保川を以て生駒郡に界し、西は百済川を以て南葛城郡に界し、東南二面は山辺郡及旧式上十市の地と錯雑す。初瀬川寺川飛鳥川(一名遊副川)の三水南より来り、各自に佐保川に注ぐ地勢卑低なり。
 
黒田《クルダ》郷 和名抄、城下郡黒田郷、訓久留多。今都村大字黒田あり是也、孝霊天皇此地に都邑し御子を彦国牽命と申奉る、牽古事記玖瑠に作る、黒田の久留と相因る所あるが如し。
 
廬戸宮《イホトノミヤ》址 孝霊天皇の皇居なり、書紀に「遷都於黒田、是謂慮戸宮」とありて、大和志に宮址は都森即是なりと為す。
都森《ミヤコモリ》は都村大字宮古と黒田の間に在り。(書紀通証)
 すぎゆかん三輪の山辺をしるしにて宮古のもりの名をな忘れそ、〔夫木集〕 祐挙
富都《フツ》神社は延喜式に見ゆ、大和志|富本《トミモト》(今都村大字)に在りと為す、蓋村屋坐弥富都神の裔社なり。
 
鏡作《カヾミツクリ》郷 和名抄、城下郡鏡作郷訓加加美都久利、(都上脱美)今|都《みやこ》村大字八尾及川東村の西部にあたる如し、鏡作諸社は八尾及び川東対大字小坂に存す。
鏡作神社 神祇志料云、今鏡作郷八尾村鏡池の側に在り、蓋鏡作連の祖天照国照火明命を祀る、〔神宮雑例集〕火明命の子天香山命を鏡作の遠祖とす、延喜式鏡作坐天照御魂神社是なり、旧事紀と併証すべし、天平二年正倉院文書、鏡作神戸租稲百余束、大同元年新抄格勅符大和伊豆の地十八戸神封に充奉す。鏡作伊多神社は延喜式に列す、今都村字保屋に在り。〔県名勝志〕又鏡作麻気神社同く式内なり、今川東村大字小坂に在りと云〔大和志〕補【鏡作神社】○神祇志料 鏡作坐天照御魂神社、今鏡作郷八尾村鏡池の側にあり(和州旧跡幽考・大和志・神名帳考証)蓋鏡作連の祖神天照国照彦天火明命を祀る(旧事本紀・神宮雑例集引神宮記)
 按、神宮記に火明命の子天香山命を鏡作の遠祖とする者、旧事紀と併せ証すべく、又今昔物語十市郡奄知村に鏡造氏居りし事見ゆ、本国鏡作氏ありし事知べし、附て考に備ふ
平城天皇大同元年、大和伊豆地十八戸を神封に充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ九月十九日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
三宅《ミヤケ》郷 和名抄、城下郡三宅郷、訓美也介。今三宅村再興す、黒田郷の西北に接す、川西村も本郷に属したるか。
仁徳紀云、纏向珠城宮御宇(垂仁)天皇之世、科太子大足彦尊、定倭|屯田《ミタ》也、是時勅旨、凡倭屯田者、毎御宇帝皇之屯田也、其雖帝皇子、莫御宇不得掌。
 父母にしらせぬ子ゆゑ三宅道の夏野の草をなづみ来るかも〔万葉集〕
 
結崎《ユフサキ》 今川西村と改む初瀬川寺川|遊部《ユフ》川の匯集する所にして、其西方に在ればならん、川東村あり之に対す。結崎《ユフサキ》唐院《タウヰン》は川西村の首部なり。観世系図云、観世之先、伊賀服部氏之子、幼名観世、為春日社掌、領結崎(大和)、因更曰結崎清次、号観阿弥、其子元清伎能絶特、鹿苑大相国嬖之、寵幸最渥叙従五位、号大夫、薙髪曰世阿弥、乃新為謡曲、有序破急、称于当世。按に観世家は杜屋の楽戸秦姓服部氏の末なるべし、伊賀服部と云ふは附会のみ。
糸井《イトヰ》神社は結崎の結城市場に在り、今春日と称す。〔名所図会〕糸井は日本書紀安寧巻に糸井媛、応神巻に糸媛、〔古事記糸井比売〕敏達巻に糸井王あり、此地に因みあり。姓氏録云、大和諸蕃、糸井造、伊蘇志臣同租、新羅天日槍命之後也、蓋結崎の古名也。
比売久波《ヒメクハ》神社は延喜式に列せり、今唐院の教塚《ケウヅカ》に在り子守《コモリ》社と称す。〔名所図会県名勝志〕
 
室原《ムロハラ》卿 和名抄、城下郡室原郷。今|川東《カハヒガシ》村なるべし、万葉集に「日本《ヤマト》の室原の毛桃」とあるは此か、一説川東村大字唐古に室原の名ありと。〔県名勝志〕日本書紀、孝徳巻に「遣使大唐、以室原首御田、為送使」。
                      
淹知《アムチ》 川東村大字|海知《カイチ》あり、古は淹知(海知《アマチ》)なるを改めたるか、大和志海知に恩智《オムチ》神社ありと為す。又山辺郡二階堂村大字|奄冶《アムチ》あり郡界に接せば古は本郡の地か、霊異記に十市郡菴治村、今昔物語にも十市郡庵治村鏡作部など見ゆ、十市式下二郡亦相隣る、要するに古滝知氏の邑此辺にありける事明なり。姓氏録、奄智造、額田部湯坐部同祖、天津彦根命十四世孫建凝命之後也。古事記云、天津彦根命者、倭淹知造等之祖也。延喜式倭恩智神社あり、是は河内恩智神社と分別する為め倭字を冠する者也。
 
村屋《ムラヤ》 今川東村大字蔵堂に村屋神社あり、此辺の古名なり。天武紀壬申乱の時近江将犬養連五十君中道を経由し杜屋に陣する事見ゆ、当時山辺箸墓の一線を上道と云ひ、(初瀬川東)之に対して城下十市の低野を通ずるを中道と称したる者の如し、即奈良方面より飛鳥京に向ふ路程とす、今上道あれど中道なし。延喜式に楽戸郷|杜屋《モリヤ》あり、村屋の一称ならん。雅楽寮式云、凡四月八日七月十五日斎会分、充役楽人、於東西二寺并寮、宮人詣寺検校、前会三日、宮人史生各一人、就楽戸郷簡充、原注在大和国城下郡杜屋村。大和志を按ずるに同寺現在の古鐘の銘に「城上郡森屋郷新楽寺建保三年四月鋳」とありとぞ、新楽寺は今多村の秦楽寺を曰ふ、此寺蓋楽戸秦連の氏寺にして、郡郷の所管諸書相異なるは、境域の移動に因れるか。
村屋神社は延喜式、村屋神社二座、大和志蔵王堂に在りと云ひ、神祇志料今弥富都比売神社域内に在りと為す、旧祠退転したるにや、又初より弥富都の裔社にや詳ならず。
弥富都比売《ミフツヒメ》神社は延喜式に列し、今|蔵王堂《ザワウダウ》森屋社と曰ふ(大字|蔵堂《クラダウ》)者是なり、式下郡の大社なり。神祇志料云、大物主部の妻三穂津姫命を祀る、三輪杜の別宮也〔日本書紀大三輪杜鎮座次第〕初大物主神天神の命に帰順奉る時事代主神と共に八十万神等を天高市に合集て天に上り坐き、茲に高皇産霊尊勅給はり汝若し国神を妻とせば吾猶汝を※[足+(流−さんずいへん]る心有と思はむ、故今吾女三穂津姫を配せて汝が妻とせむ、今より後八十万神を領て永《ヒタブ》るに皇孫命を護奉れと詔を還し降らしめき。天武天皇壬申の乱、将軍大伴吹負金綱井に軍する時、村屋神祝に託て陰に軍威を佑給へり、依て進て之を祀らしむ〔日本書紀〕村屋神は即弥富都比売命也、〔延喜四時祭式〕聖武天皇天平二年神戸租稲五十四束を以て祭神及神嘗酒料に充しむ。〔東大寺正倉院文書〕久須々美神社は延喜式に列す、今弥富都比売社内に在りと云、〔神祇志料〕服部神社は延喜式二座とあり、楽戸秦氏の氏神なるべし、旧川東村大字大安寺に在り波登《ハト》社と云へり、今弥富都比売社内に移す。
 
堅塩《キタシホ》 堅塩は今河内国中河内郡竪上村堅下村(旧大県郡)にも此名あり、安寧天皇々居は片塩浮穴宮と称す、旧説葛下郡に宮址を充てたるは固より徴証なし、河内堅塩稍信に庶幾し、然れども大和亦|岐多《キタ》志太神社あり、是神名に非ず地名に似たり。書紀通証云欽明天皇妃堅塩媛、(蘇我稲目女)孝徳紀曰、忌称塩名改曰堅塩、延喜式、城下郡有岐多志太神社、万葉集竪塩皆訓加多志保。県名勝志云、岐多志太神社川東村大字大木の大鼓地に在り。
 
阿刀《アト》 今川東村大字坂手の辺の旧名也。書紀通証云、城下郡阿刀村、在坂手村東南今廃。日本書紀、敏達天皇十二年、召葦北国造阿利斯登子于百済、営館於阿斗桑市、使住日羅、供給随欲。按ずるに河内渋川郡又阿都の地あり、日羅阿斗桑市館は渋川に非ずや、雄略紀、七年倭国|吾砺広津《アトノヒロキツ》邑は正く此なり。 
 鹿の音に草のいほりも露けしてなみだ流るゝ阿刀の村里、〔相模家集〕
姓氏録に拠れば摂津国にも阿刀の地ありし者の如し、又某氏号に尋来津《ヒロキツ》氏あり。
補【阿刀】城下郡○大日本史 阿刀氏(或作安斗、又安都)出自味饒田、有宿禰姓、云々、中宗時有僧義淵阿刀氏、大和高市郡人(今昔物語、○本書聖武帝時、有僧玄ム、阿刀氏、亦大和人、日本霊異記、僧善珠初冒迹連、居大和山辺郡、拠此、本氏又有貫大和者也)
池《イケ》 川東村大字|法貴寺《ホフキジ》の古名なり、池大宮今同所に存す、〔県名勝志〕延喜式に池坐朝霧黄幡比売神社と録し又池社と云ふ、〔令集解延喜式〕大同元年池神社封三戸を充奉る事新抄格勅符に見ゆ。
 
坂手池《サカテノイケ》 川東村大字坂手。通証云、池水今涸、為田畝、堤則属于十市郡竹田村、日本紀景行巻曰、造坂手池、即竹蒔其堤上。
 
韓人池《カラコノイケ》 今川東村大字|唐古《カラコ》に在りと云。〔大和志〕応神紀、武内宿禰領諸韓人等作池、因以名池、曰韓人池。
 軽島の明の宮のむかしよりつくりそめてし韓人の池〔夫木集〕 衣笠大臣
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城上《シキノカミ》郡 後世|式上《シキジヤウ》に改め明治廿九年停廃して磯城郡と為す。城下の東十市の東北に接し初瀬川の上游なり、三輪山中央に立ち東境は山嶺を以て宇陀郡と相限る。延喜式和名抄、城上郡、訓之岐乃加美とあり日本紀皇極巻に志紀上郡とあれば其比の分郡なるべし。(磯城郡参看)古城上は或は今山辺郡の地と混同し山辺の名を称す、蓋石上山より三輪山一帯の高地其通跡を上道(天武妃に見ゆ)と号し、因りて其間を山辺と命名したるなり、山辺道上陵は城上郡に属し、霊異記に山辺郡磯城島村の私謂あるが如き以て証すべし。磯城川は初瀬川の一名なるべし、今|城島《シキシマ》村と三輪村の間に此称ありしか、城島即古の磯城島にあたり初瀬川其北を限り、刑坂川《オサカヾハ》(一名寺川)其南を繞る。日本書紀応神巻、武内宿禰弟甘美内宿禰讒言于天皇、武内宿禰有望天下之情、天皇勅兄弟令請神祇探湯、是出于磯城川辺、為探湯、武内宿禰勝之。
式上《シキジヤウ》郡は即城上郡に同じ、和名抄、城上郡八郷今三輪村外七村、明治廿九年磯城郡を復し、式上式下十市を合同す。
 
大市《オホイチ》郷 和名抄、城上郡大市郷、訓於保以智。大市は崇神紀に「倭迹々姫命、葬於大市、謂|箸碁《ハシノハカ》也」とありて今|織田《オダ》村にあたる、大字箸中に御墓存す。姓氏録云、諸蕃任那、大市首、出自任那国人都怒賀阿羅斯止也。大倭神社注進状云、井神社在城上郡、所謂大市長岡、今狭井社地是也。又姓氏録云、諸蕃、長岡忌寸、己智同祖諸歯王之後也、(己智出自太子胡亥)。穴師兵主神社参看。
 
狭井《サヰ》 狭井は一所添上郡奈良町の南に故蹟を有す相参考すべし。延喜式、城上郡狭井坐|大神《オホミワ》荒魂神社。神祇令云、季春鎮華祭、義解曰、謂|大神《オホミワ》狭井二祭也、在春華飛散之時、疫神分散而行癘、為其鎮遏必有此祭、故曰鎮華、大和志云、狭井渓源自三輪山、※[しんにょう+堯]狭井寺跡、至箸中村、入纏向渓。
狭井神社 神祇志料云、狭井坐神五座、今三輪神社の北、狭井渓南にあり、花鎮《ハナシヅメ》狭井神社と云、〔和州旧跡幽考大和志名所図会〕古之を佐為神と云ひ〔東大寺正倉院文書新抄格勅符〕大物主神の荒魂〔令集解延喜式〕及和魂并神の御子事代主命姫稲蹈鞴五十鈴姫命妃勢夜多良比売命を祭る、即大倭社の別社とす。〔大倭社注進状参取古事記〕聖武天皇天平二年神戸租稲三百九束を以て祭料とし、〔東大寺正倉院文書〕平城天皇大同元年神封二戸を充奉る。
 
笠縫《カサヌヒ》 後世其地を失ふ、蓋織田村大字|茅原《チハラ》に在るべし。〔史学雑誌〕大和志、十市郡|新木《ニヒキ》村と云ふも明徴なし、名所図会、三輪社の南三町と為す亦証なし。神楽歌に「笠の浅茅原」の語あり笠縫浅茅原の訛ならん。今の茅原是のみ、崇神垂仁両帝の皇居に遠からず。日本書紀、崇神天皇、以天照大神託豊鍬入姫命、祭於倭笠縫邑。又(垂仁紀)云、倭姫命以天照大神、鎮坐於磯城巌橿之本而祠之、然後随神誨、遷于伊勢国渡遇宮。延暦儀式帳云、美和乃御諸原爾造斎宮始奉支。茅原は三輪山の北狭井川の東なり、崇神帝卜問の所之に同じ、日本書紀云、崇神天皇幸于|神浅茅原《カンアサヂハラ》、而会八十万神以卜問之。又(顕宗紀)弘計王曰、倭者|彼彼《ソソ》茅原浅茅原|弟日《オトヒハ》僕是《ワレソ》也。弘計天皇の辞によれば茅原と笠縫は二名一所たる事明白なり。
 
箸墓《ハシノミハカ》 著箸古字同じ、土師《ハシ》と音義相通ず。今織田村大字箸中の路傍に在り、迹々日百襲《トトヒモヽソ》姫(孝元皇女)の御墓なり、天武紀、壬申乱の時山辺の上道箸陵に両軍会戦の事見ゆ、亦此と為す。日本書紀〔崇神〕云、倭迩々日百襲姫命、為大物主神之妻、然其神昼不見、而夜来矣、姫曰明旦仰観威儀、大神曰吾入汝 柵笥而居、願勿驚、姫心裏異之、待明以見櫛笥、有美麗小蛇、則驚之叫啼、時大神忽化人形、仍践大虚、登|御庶《ミモロ》山、爰姫悔之、隠居、則箸撞陰而薨、乃葬於大市、故時人号其墓、謂著墓者、是墓也日也人作、夜也神作、故運大坂山石而作、則自山至于墓、人民相踵、以手逓伝而運焉。
 
芝村《シバムラ》 三輪村の北に接し、徳川氏の時邑主織田氏一万石の陣屋あり、近年芝村茅原等合同して織田村の号を立つ、旧主に因む者なり。初め織田長益慶長五年東軍に属し戦功を以て大和地二万石を加封せられ、元和中二子長政尚長を戒重柳本の二所に居き分禄す、長政の後丹後守長清正徳三年幕府に請ひて陣屋を芝村に移す、子孫相継ぎ明治の初に至る。
補【芝村※[遷−しんにょう)]喬館】○日本教育史資料 元禄二巳年三月五日、藩主より士卒一般へ教示したる首項に曰く、
一文武の学問を勉、孝悌忠信を守、軍法弓馬太刀鎗砲柔術等役儀に応、不失当用可守之勿論、小判に偏るべからず
一士は可成多芸者也、是は用ひ彼は用ひまじきと□取のならざる事なれば、偏よらずして為すべし、稽古は暫く賓主をなし、修練は四時に順て怠るべからず
又曰く、
一道理は善也、理屈は不善、他人の過悪を語、吾に過悪ある事をしらず、為頭者は尚以深く戒て人と交るべし、但道理は少くも無私意を云、理屈は己を利するの人欲也、云々、
元禄九年始めて大和国式上郡戒重村に設立し、正徳三年居所替願済の上同国同郡芝村へ移し、本村字駒止に設立す、初め織田丹後守平長清、士気の衰頽せしを憂歎し、元禄九年※[遷−しんにょう]喬館を設立し、京師より鴻儒北村可昌なるものを聘招し、率先藩士と共に文学を修む、武術も本館構内、別に一棟を建立し、育英場と称し、両道頗る興起し、士気大に振ふ、故に当時尤文武隆盛なる事は、今尚口碑等にも伝ふ所なり、長清著述、織田真記十五巻あり、今尚其家に伝ふ、可昌学派は朱氏を主とす。
 
大神《オホムチ・オホミワ》郷 和名抄、城上郡大神郷、訓於保無知。今三輪村大字三輪是なり、三輪山あり大神鎮坐し古来国家の崇奉する所也。三輪の名義は古事記及姓氏録旧事紀に績苧三※[(榮−木)/糸]の故諺を録す、然れども酒瓮をも水曲をも古言皆三輪と云ふ、此地初瀬川の迂曲処にあれば水曲の称先起り、其山に名づけ其社に及ばし遂に祭神の酒瓮に及ばしたる者か、此地美酒を出し神霊亦造醸を愛したる事三輪大神宮の条参考すべし。又神字を無知と訓むは、日本紀貴字を牟知と訓むと同義なり、地名に神字を無知とよむ例多し。古事記伝云、和名抄大神を於保無知と云ふ、美を無と云も音便なり知は和の誤ならん、此氏人は垂仁巻に三輪君祖大友主、旧事紀、大田々根子命之子大御気持命其子大鴨積命次大友主命、此命磯城瑞籬朝(崇神)御世賜|大神《オホミワ》君姓。姓氏録云、大神《オホミワ》朝臣、大国主命之後也、初大国主神娶三島溝杭耳之女玉櫛姫、夜来曙去、未曾昼到、於是玉櫛姫|積苧《ヲダマキ》係衣、至明随苧尋覓、経於茅渟県陶邑、直指大和国御諸山、還視遺苧、唯有三※[(榮−木)/糸]、因之号姓大三※[(榮−木)/糸]。
美和河《ミワカハ》、古事記、朝倉宮(雄略)段云、天皇一時遊行到於美和河之時、河辺有洗衣童女、名謂引田部赤猪子。
   大神大夫任長門守時集三輪河辺宴歌
 三諸の神のおばせる泊瀬河水尾し絶えずばわれ忘れめや、〔万葉集〕
泊瀬川は三輪山(即三諸)の東北|上之郷《カミノガウ》村より発源し、山南を繞りて山の西を北へ流れ去る、大神郷にて之を三輪河と云。謡曲鉢木云、駒とめて、袖打払ふ陰もなし、佐野のわたりの雪の夕ぐれ、箇様によみしは大和路や、三輪が崎なる、佐野の渡り、是は東路の佐野の渡云々。
 
三諸山《ミモロヤマ》 後世専ら三輪山《ミワヤマ》と称す、三輪村の東、初瀬村の西、孤峰峻抜にして林木青葱たり。眺望群山に異なり、春日の三笠山と相比すべし。日本書紀神代巻一書云、大己貴神、問幸魂奇魂、欲何処住耶、答欲住於日本国之三諸山、故即営宮処、使就而居、此大三論神也。又崇神巻云、天皇勅豊城命活目尊曰、汝等二子慈愛共斉、不知曷為嗣、各宜夢、朕以夢占之、於是兄豊城命、以夢辞奏曰、自登御諸山、向東而八回弄槍、八回撃刀、弟括目尊以夢辞奏言、自登御諸山之嶺、縄※[糸+亙]四方、逐食粟雀、則天皇相夢、謂二子曰、兄則一片向東、当治東国、弟是悉臨四方、宜継朕位、立活目尊、為皇太子、以豊城命令治東国。
 三諸つく三輪山見ればこもりくのはつ瀬の檜原おもほゆるかも、〔万葉集〕
日向《ヒムカヒ》神社は延喜式、神《ミワ》坐日向神社、三輪山の巓にあり高宮日向王子と称す、大神の裔社なり。〔大和志神紙志科〕
玉列神社は延喜式刊本或は玉烈に作る、今三輪山の南に在り、朝倉村大字慈恩寺に属す、大神の裔杜なり。〔大和志〕
補【日向神社】○神祇志料 神《ミワ》坐日向神社、今三輪山の巓にあり、高宮と云(大和志・名所図会)日向王子と申す、蓋大神の御子神也(延喜式)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上に進め(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預る、凡そ大神祭の日使に附て緋帛二丈を此神に上らしむ(延喜式)凡そ四月十三日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
補【玉列神社】○神祇志料 按、本書印本列を烈に作る、今内蔵式に従ふ、今慈恩寺村にあり(大和志・名所図会)
 按、本村と出雲村との間なる置崎村に玉貫と云地名ありとぞ、附て考に備ふ
凡そ大神祭の日幣料の緋帛一丈五尺を奉らしむ(延喜式)凡そ十月廿一日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
大神大物主《オホムチオホモノヌシ》神社 三輪山の西面に鎮坐す、又三輪社と称す。今官幣大社に列し、神域三首町、鬱蒼たる霊境なり。斯神崇神天皇の世に著れ大己貴神(一名大国主)の御魂を祭り、大物主神と号す。惟ふに斯神国土修成の功業あり、子孫盛大なるを以て初より此地に祀祭せられ、崇神帝礼典を尽し神子をして之に侍嗣せしめ、威徳益加はる。本社今神殿あれど、前年まで鳥居楼門拝殿のみありて神の宮室なし。奥儀抄曰、大三輪は祭の日茅の葉を三くゝりて岩の上に置てそれを祭る、社のおはさぬを怪しとて作りければ、百千鳥飛来てつゝき破り蹈みこぼちて去にける、それより神の誓と知りて社は造らざりしと也、云々。古事記伝曰、大三輪社は崇神の御世に始て建たるが如く聞ゆれど然には非ず、白|檮原《カシハラ》宮の(神武)段に美和之大物主神と見え、下文に「至美和山而留神社」とあるも往昔の事なるをや、さて此社今世には御殿はなくしてたゞ山に向て拝むはいかなる故か、古は御殿ありつと見えて、即書紀この御世の御歌に「瀰和の殿の、あさ戸にもおしひらかね、瀰和の殿戸を」と詠みたまひ「開我宮門」など見ゆ、又日本紀略、長保二年、大神社宝殿鳴、童蒙抄、三輪社に参り祈り申程に某社の御戸を押開き見えたまふなど見えたり。中世三輪大明神二十二社の第五に列し、和州一宮と称せり。令義解云、天神者伊勢山城鴨住吉神等類也、地祇者大神大倭葛木鴨出雲大汝神等類是也。
日本書紀云、崇神天皇御世、国内多疾疫、民多死亡者、天皇乃幸神浅茅原、而会八十万神、以卜問之、是時神明憑倭迩々日百襲姫命曰、天皇何憂国之不治也、若能敬祭我者、必当自平矣、天皇問誰神也、答曰大物主神、(大己貴別名)時随教祭、然無験、天皇析之、夢大物主神曰、以吾児大田々根子、令祭吾者、則立平矣、亦有海外之国、当帰服、天皇布告天下、求大田々根子者、得諸茅渟県陶邑、即以為祭主、於是国内漸謐、天皇以高橋邑人活日、為掌酒、活日奉神酒献天皇、仍歌之曰
 このみきはわがみきならず椰磨等なす大物主のかみしみき、いくひさいくひさ。
又云、雄略天皇御世、呉国使献漢織呉織及衣縫兄媛弟媛等、以衣縫兄媛、奉大三輪神。天平二年東大寺大税帳、大神神戸穀弐百壱拾漆斛。新抄格勅符、天平神護元年、大和摂津遠江美濃長門地百六十戸奉充神封。続日本紀、天平九年遣使於伊勢神宮大神社、以告新羅無礼状。三代実録、貞観元年正月大神神授従一位、二月授正一位。延喜式、出雲国造神賀詞云、大己貴命和魂を八咫鏡に取託て倭大物主櫛※[瓦+(肆−聿)]玉命と名を称て大御和の神奈備に坐。(県名勝志云、三輪神宝鉄鏡二面あり径各一尺厚六分許古色蒼然掬すべし上古の物たる疑なし)
補【大神大物主神杜】○神祇志料 大神大物主神社、今三輪村東三輪山(亦名三諸山)にあり(和州旧跡幽考・大和志)
 按、日本書紀古事記神宮とありし事、崇神紀に見え日本紀略一条天皇の御世にも宝殿ある事見ゆ、然るに今神殿なく、ただ山に向ひて拝み奉るを深き故あることの如く云るは誤りにて、取るに足らず、されど中古以来神紙の祭奠甚しく衰ふるに合せて、神社も破損へるまにまに、自ら此の如くなりこしものなる事著し、かゝれば神道を興し給はむ時には、必ず厳しく宮柱を大敷たて給ふべき事なり、世人多く前説に惑ふを以て、此に附て疑を解くこと然り
大穴待命の和魂を祭る、之を大物主神と申し(日本書紀・古事記)又倭大物主櫛※[瓦+(肆−聿)]玉命と云(延喜式)初大穴持命、天神の詔の随に少彦名神と共に此国を作り堅め給ひ、大造の績を建給ひて後、其幸魂奇魂を倭の青垣東山上に斎奉る、此は所謂御諸山上に坐す神即是也(古事記・日本紀)即大和の一宮也(一宮記・諸神記)崇神天皇御世、神|誨《サトシ》に依て神孫大田田根子を神主とし又吉足日命をして大物主大神を斎祭らしむるに、神気悉息て天下安平しかば、天皇神宮に行幸して宴楽《トヨノアカリ》し給ひき(日本書紀・古事記、参取姓氏録)此時高橋邑人活日掌酒となりて天皇に神酒を奉れり(日本書紀)神功皇后韓国を伐つ時、大三輪社を筑前に建しかば、軍士自ら集て新羅遂に伏平ぎ(日本書紀・筑前風土記)其威霊の盛なる事既に此の如し、清寧天皇大室屋大連に勅して幣帛を奉り、皇子なき由を祈祷らしむ時に、神教に依て少彦名命を辺津磐坐に祭り給ひしかば、顕宗、仁賢二皇子を播磨に見得て迎入奉りき(鎮座本紀次第記・日本書紀)称徳天皇天平神護元年、大和、摂津、遠江、美濃、長門の地百六十戸を神封に充奉り、(新抄格勅符)文徳天皇嘉祥三年冬十月辛亥、正三位を授く、仁寿二年十二月乙亥従二位を賜ひ(文徳実録)清和天皇貞観元年正月甲申、従二位勲二等より従一位を授け、二月丁亥朔正一位を加へ、七月丁卯右兵庫頭藤原朝臣四時をして神宝幣帛を奉り、九月庚申幣便を差して雨風を祈り、十二年七月壬申、河内堤を築くに重て水※[さんずいへん+勞]の患なからむ事を祈る(三代実録)凡そ大神祭四月十二月上卯日を用ふ(延喜式)初瑞籬の朝祭を行ひしより後、醍醐天皇昌泰元年三月丙子に至て勅して夏冬の祭を行はしむ(諸杜根元記・諸神記・大三輪杜鎮座次第)是後毎年内蔵寮馬寮官人をして幣帛及走馬十疋を奉る、延喜の制名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上官幣祈雨の幣に預る、一条天皇正暦五年四月戊申、中臣氏人を使して放火疫※[やまいだれ+萬]の御祈に幣帛宣命を奉り(本朝世紀、参取日本紀略)長保二年七月戊子、宝殿鳴動の故を以て幣を廿一社に奉りき(日本紀略)
 
大三輪寺《オホミワテラ》址 倭路記云、三輪大明神の大鳥居の辺茶屋多し、鳥居に入て行て北の方に大三輪寺あり、寺内に若宮おはします、此処へは慶円法師(長和三年天台座主慶円にや)開基、其東に三面大黒天あり、又三輪山南に平等寺あり。天文二十二年吉野詣記、廿八日柳本太神にまゐりて、あなし川を渡り檜原大御輪寺にまいりたりしに、寺のさまうるはしくよのつねのつくりざまにあらず、くさびなどいふものも用ひず造れるさまものがたりせり、かたはらにみわ明神の王子の入定の所あり、王子宝殿にとぢ入せ給ひし時の両足の跡顕然として有り、錦にて覆あり、開きて見るにそのあと聊かふみちがへたり、顕当を表し給ひしよし神秘などかたれり。大三輪寺は近世停廃したれど、其址に若宮存す神子大田々根子の廟墳なりと云。
 
緒環《ヲダマキ》塚 活玉依姫(大田々根子母)の墳なるべし、本社の下なる字明神溝に在り。三代実録延喜式に見ゆる綱越《ツナコシ》神社即此なりとも曰ふ。〔県名勝志〕古事記云、活玉依毘売、其容貌端正、夜半之時、有神相感、美人妊身、其父母欲知其人、誨其女曰、以赤土散床前、以閉蘇紡麻貫針、刺其衣襴、故如教、而旦時見者、所着針麻者自戸之鈎穴、控通而出、唯遺麻者三|勾《ワ》耳爾、即知自鈎穴出之状、而従糸尋行者至美和、而留神社、故知其神子、故意富多多泥古命者|神《ミワ》君鴨君之祖也。近代院本浄瑠璃に三輪杉酒家《ミワノスギサカヤ》の一編は本社の故事を材料と為して作意したる也。 
三輪《ミワ》 三輪村大字三輪は古三輪市と称し、今に駅舎なり、造酒と索麺を土産とし、店を設け客に饗す、殊に酒は古代より其名あり。
 尋ねばやほのかに三輪の市に出でいのちにかふる印ありとや、〔六百番歌合〕
 うま酒を三論の祝がいはふ杉手ふれし罪か君にあひがたき〔万葉集〕うま酒の三輪のはふりが山てらす秋のもみぢば散らまくをしも〔同上〕
 
三輪磐井《ミワノイハヰ》 日本書紀、雄略天皇、訖猟殺市辺押磐皇子、是月御馬皇子(市辺皇弟)往三輪、不意道逢邀軍、於三輪磐井側、逆戦不久、被捉、臨刑指井而諷曰、此水者百姓唯得飲焉、王者独不能飲矣。
 
三輪城《ミワノシロ》址 十訓抄云 昔中納言和田磨の末に余古太夫といふものありけり、年来三輪市の傍に城を造て住けるに、妻の敵に責られて城も破れ、兵も悉打失せて、笠置山寺の窟のありける中に隠れて住みける。太平記に三輪の西阿と云あり、武士にや又僧祝の徒にや、吉野に勤王す。大日本史云、西阿三輪人、延元二年、帝御吉野、勅諸国討足利尊氏、西阿応勅、拠関地城、挙兵尊氏遣兵攻之不能克、興国二年、尊氏又遣細川顕氏佐々木貞氏等来攻、拒戦無利、棄城走、聚兵還拠城、顕氏等又来囲、遂不能抜之、後与子良円従楠正行、戦死于四条畷、其族尚在三輪、勤王不易節云。関地《セキチ》城址即三輪なるべし、南山巡狩録に阿倍山の楠将監西阿とあり、三輪西阿と同人にや。巡狩録又云、永享十二年五月一色左京大夫義貫大和国三輪にて一族三百人自害し、諸人心をいたましむ、(富麗記に拠る)南方紀伝に一色は越智退治として和州三輪に居たりけるに、義教に近侍する女房小弁と聞しが、いかなる故有しにや一色義貫は官方にこゝろを通じ京都を傾んとはかるよし讒言しければ、義教事の実否をも糺さずして一色を責るにより終に一族三百人三輪にて自害す、是により義貫が怨霊義教の愛子を罰すといふ。
 
上市《カミノイチ》郷 和名抄、城上郡上市郷。大市に対し此名あり、謂ゆる海柘榴市にあたる如し、即今三輪村の南部大字|金屋《カナヤ》の辺の古名なるべし。
 
海柘榴市《ツバキイチ・ツバイチ》 今三輪村大字|金屋《カナヤ》の中なり、椿市観音堂又つばいち地蔵など云あり。〔名所図会〕長谷の山口にして観音参詣の路なれば、古には殊に世に聞えし市なりしとぞ、今は全く荒村なり。枕草子に云、市はつばいち。日本紀略云、延長四年、長谷寺山崩、至于椿市、人烟悉流。花鳥余情云「小右記、正暦元年長谷寺、午時至椿市、令交易御明灯心器等、而詣御堂」これ等にて当時を知るべし。日本書紀云、武烈天皇、聘物部麁鹿火大連女影媛、平群鮪報曰、妾望奉待海柘榴市巷。又云、敏達天皇十三年、弓削守屋中臣勝海奉詔焼寺塔、有司便奪尼等三衣、禁鋼楚撻、海石榴市亭。又云、炊屋姫皇后(即推古帝)別業、是名海柘榴市宮。
 むらさきは灰さすものぞ海柘榴市の八十の街に相し児也誰、〔万葉集〕
略解云、紫は海石榴の灰を加へて染る者なるによりつばいちといはむ序とせり。
殖栗《ウヱクリ》神社は三輪村大字上之荘字南垣内の殖栗に在り、延喜式内の古祠なり。〔神祇志料県名勝志〕日本書紀用明帝の御子殖栗王此に因める御名か。
 
志貴《シキ》神社 三輪村大字金屋にあり、志貴宮と称す。三代実録延喜式に見ゆ。即倭国六県の一社にして、磯城県主の祖神なり、県主の家系の事磯城郡の条を参考すべし。本社は正倉院文書、天平二年磯城神戸租稲三千三百五十余束、新抄格勅符、大同元年神封千二百戸を進めらる。崇神帝磯城瑞籬宮も同地なるべし。
補【志貴神社】○神紙志料 志貴御県坐神社、今金屋村にあり、志貴宮と云(大和志・名所図会)聖武天皇天平二年神戸租稲三千三百五十余束を以て神祭料とし(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神封十二戸を充奉り(薪抄格勒符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上に叙され(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る、祈年祭六県の一也(延喜式)凡そ十月廿六日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
磯城瑞籬宮《シキミヅガキノミヤ》址 崇神天皇の皇居なり。日本書紀云、天皇遷都於磯城、是謂瑞籬宮。古事記には水垣宮に作る。通証云、宮址在三輪村東南、志貴御県坐神社西。史料通信叢誌云、磯城水垣宮址は今長谷川と三輪川の間なる金屋(今三輪村大字)に在り、天皇山《テンノヤマ》と呼ぶ、天宮《テンノミヤ》あり、志貴御県祠の西南に当る。 
恩坂《オサカ》郷 和名抄、城上郡恩坂郷、訓於佐加。今城島村なるべし大字忍坂あり。古事記伝に恩は忍の誤なるべし今も忍《オシ》坂村と云ふとあれど忍《オシ》若くは恩を於に仮りたる者にして、後世オシ坂に訛れる也、昔は磐余磯城より宇陀郡の地へ通ずる径路は此忍坂より萩原へ出でたり、神武天皇大和打入の際実に然り、其後初瀬路開け、恩坂路漸廃す。恩坂忍坂は舒明紀押坂、姓氏緑|刑坂《オサカ》に作る。古事記、遠飛鳥宮(允恭)段、娶意富杼王之妹忍坂之大中津比売、(安康母)為御名代、定刑部。本居氏云刑部は忍坂部なり、刑部と書故は其郷の人等の刑部《ウタベ》の職に仕奉りしことのありしより、やがて其職名の字を書ならへる也。姓氏録云、未定雑姓、忍坂連、火明命之後也。(氏族志云、刑部、諸書或作忍壁、又作小坂部、邦読皆通)
刑坂《オサカ》川は姓氏録に見ゆ忍坂川なり、忍坂の東に発し西流、外山桜井の間を過ぎ、倉橋川に合し寺川と為る。
室屋《ムロヤ》址 神武帝大和打入の条に於佐箇の大室屋に虜を掩殺したる事見ゆ、曰天皇勅道臣命、汝宜帥大来目、可作大室於忍坂邑、盛設宴饗、誘虜取之、道臣命奉密旨掘※[穴/音]於忍坂、而選猛卒、与虜雑居、酒酣之後、一時刺虜、無複※[口+焦]類者。恩坂山口坐神社は三代実録延喜式に見ゆ、祈年祭山口神六座の一なり、今城島村大字赤尾に在り。生根《イクネ》神社は延喜式恩坂坐生根神杜、今忍坂の宮山に在り、山口神と同く三代実録新抄格勅符天平二年大税帳等に見ゆ、土人|神体山《シンタイサン》とも曰ふ。補【刑部】○大日本史 刑部氏、造姓、出自餞速日十一世孫石持(旧事本紀○刑部、諸書或作忍壁、又作小坂部、邦読皆通)又有連宿禰二姓、云々、清和帝時、讃岐多度郡人斎院権判官刑部造真鯨、改貫左京(○本書、同時有陸奥名取団大毅刑坂宿禰本継、刑坂無所見、疑刑部之訛、附待後考)
刑坂川 城上郡○姓氏録竹田〔川辺〕連の条に見ゆ。〔仁徳天皇御世、大和国十市郡刑坂川之辺有竹田神社、因以為氏神、同居住焉〕補【忍坂室屋】城上郡○今城島村に在るべし。神武紀戊午年、先撃八十梟帥於国見丘破斬之、云々、既而余党猶繁、其情難測、乃顧勅道臣命、汝宜帥大来目部、作大室於忍坂邑、盛設宴饗、誘虜而取之、道臣命於是奉密旨、掘※[穴/音]於忍坂而選我猛卒、与虜雑居、陰期之曰、酒酣之後吾則起歌、汝等聞吾歌声、則一時刺虜、云々、時道臣命乃起而歌之曰、於佐箇廼、於朋務露夜珥、比苔瑳破而云々。○菅笠日記、初瀬より多武の峰へゆく、細道にかゝる此橋は、はつせ川のながれにわたせるはし也けり、云々、東の方にいと高き山をとへば、音羽山とぞいふ、音羽の里といふもその麓にありとぞ、忍坂村は道の左の山あひにて、やがてこのむらのかたはらをとほりゆく。
補【忍坂山口坐神社】○神紙志料 今忍坂村の隣邑赤尾村にあり(大和志・大和国図・名所図会)聖武天皇天平二年神戸の穀八斗一升を以て祭神料に充奉り(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神封一戸を寄し(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より正五位下を授く、九月庚申、幣を奉て雨風を祈り(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る、即祈年祭山口神六座の一也(延喜式)補【生根神杜】○神祇志料 忍坂坐生根神社、今忍坂村宮山にあり(大和志・名所図会・奈良県神社取調書)聖武天皇天平二年神戸祖稲一百五十束を祭料雑用に充て(東大寺正倉院文書)平城天皇大同元年神封一戸を寄し(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より従五位上を授く(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)
 
押坂《オサカ》陵 舒明天皇の御陵なり、田村皇女(舒明母)大伴皇女(欽明女)鏡女王の墓同所に在り。日本書紀、皇極天皇元年、葬息長足日広額天皇、於滑谷岡、二年葬于押坂陵、延喜式云、押坂内陵、高市岡本宮御宇舒明天皇、在城上郡兆城東西九町南北六町。日本紀、天智天皇三年、島皇祖母命薨、通証云、帝王系図曰、糠手姫皇女号島皇祖母尊、押坂彦人大兄王子妃、舒明天皇母。延喜式曰、押坂墓、田村皇女、在城上郡舒明天皇陵内。延喜式、押坂内墓、大伴皇女、在城上郡押坂陵域内。又押坂墓、鏡女王、在城上郡押坂陵域内東南。今城島村大字忍坂の字丹塚(又段々家)高十七間周廻百三十六間三壇を成す、舒明皇陵なり、陵西南二町許天神社後の古墳は蓋田村皇女也、又東北半町許塚穴あり、恐くは大伴皇女ならん。〔名所図会山陵志陵墓一隅抄〕
 
迹見《トミ》 今|外山《トミ・トビ》に作る、城島村に属し忍坂の西に接す、等弥神社あり、蓋長髄彦の徒類の居址にして神武帝大捷の故蹟なるべし。長髄彦は古事記一名登美毘古と曰ひ、生駒郡鳥見郷を本居とす、此地は別居ならん。日本書紀、天武白鳳八年、自泊瀬遷宮之日、看群郷儲細馬、於迹見駅道頭、皆令馳走。外山は今初瀬桜井間の小村なれど、古は忍坂路の要駅にして忍坂山を一に鳥見山と曰へるに似たり、神武紀「立霊※[田+寺]於鳥見山」とある故蹟は大和志宇陀郡萩原に在りと為す、萩原は忍坂の東一里に当る、再考するに類聚三代格登美山に宗像神社在り、然らば烏見霊※[田+寺]も此地にして、萩原には非じ。
家像《ムナカタ》神杜は外山《トミ》の春日宮即是也。〔大和志〕日本書紀、雄略天皇、遣凡河内直香賜与采女、祠胸形神、欲親伐新羅、神戒天皇曰、無往也、天皇由是不果行、通証云城上郡宗像神社疑即是、時皇居在此郡。延喜式、宗像神三座名神大社に列す、類聚三代格、登美山宗像神高市皇子外家の神なるを以て、某氏賤年輸物を分て神社を修理せしめ、後裔高橋真人即氏人と為る、筑前宗像神の別宮なり云々。
補【宗像神社】○神祇志料 宗像神社三座、今外山村登美山にあり(類聚三代格・神名帳考証・大和志)天照大御神の御子田心姫、湍津姫、市杵島姫を祭る(日本書紀・類聚三代格)蓋筑前国宗像神社の別社也(三代実録・類聚三代格)天武天皇の御世、皇子高市皇子外家の神なるを以て、某氏賤年輪物を分て神社を修理せしむ(参取日本書紀・類聚三代格)是後皇子の裔孫高階真人を氏人として神社の事を掌らしめき(類聚三代格)陽成天皇元慶四年三月庚辰、官社に預り、五年十月辛卯氏人高階真人忠峰を神主とす、是より先氏人等解状を奉て浄御原天皇の御世以来今に至るまで氏人奉る処の神宝園地色数稍多し、且高階真人世々当社の事を掌りしが、世遠く人怠り或は職掌を勤ずして神宝を紛失ひ、或は彼此相譲て祭事を闕怠るを以て、屡祭祟を致せり、願はくは筑前本社に准へむと奏すを以て也(参取三代実録・類聚三代格)字多天皇寛平五年十月癸亥、忠峰等奏さく、当社は筑前宗像神と同神にして天照大神の御子に坐を以て、大神の勅に汝三柱神は道中に降居て天孫を助奉て天孫に崇祭れよと詔ひき、今国家祈祷ある毎に幣を奉給ふは其本縁也、唯筑前にのみ封戸神田ありて大和は未だ封例に預る事なし、因て忠峰等の始祖太政大臣浄広壱高市皇子命、氏賤年輪物を分て神社を修理るを永例とせられき、然るに年代久遠物情解体、且氏蓑へ路遙にして之を催促べき力なし、故に貞観十年の格に依て祖神宝物を請て修理に充てんとするに、氏人狐疑猶予つゝ年月を送る間に、神舎既に破壊を致せり、今筑前宗像郡金崎に在る所の氏賤同類蕃息其数已に多し、願はくは其正丁十六人を良民として調庸を奉らしめ、之に代るに当社随近徭丁を以て永く神社修理に充むと申しき、即勅して之を許し、件の徭丁は氏長者並神主等の申請を待て之を充て、一度差充るの後輒く他役に充べからずと制給ひき(延喜式)
 
磯城島《シキシマ》 今磯城島の名回復し城《シキ》島村に作る、粟殿《アハドノ》外山等の大字あり。三輪村と初瀬川を隔て、桜井村と刑坂川を隔て自ら一洲の状あり(太子伝玉林抄云、欽明天皇の敷島は異説あれど皆実説を知らず、彼処の人勧田房曰ふ、敷島とて長谷へ参れば山崎に小堂あり、今は武家入部の時くづせり、惣じて敷島とて一郷の処なり、慈恩寺殿の管領なる故に三輪の宮本へ郷役をするなり、金刺宮は川の向に竹原あり其内に小社あり、此欽明天皇内裡の跡也。按に古来「敷島の倭国」の成語あり、大和の別名と為り、又本邦の大名に転じ、更に歌道を敷島の道とも曰ふ、凡平城朝以後の語なるべし、論者或は崇神天皇磯城瑞籬宮に御宇して神の教を人の世に広め政法興りければ之を敷島の道と言ひ、言語を以て之を伝ふるを以て歌道にも及ぼすと説けど、崇神の皇宮に敷島の号なし、仏の教の我邦に顕れたる欽明の御宇こそ敷島と相関すれ、因て再考するに「敷島の倭国」の語は上古に聞く所なく、万葉以降に多し欽明天皇以前に此詞あるべからず、然らば欽明の昭代を謳歌したるより起るに非るは莫し、但書紀通証に、「称此邦為磯城島、旧説以欽明都城於磯城、故取其号者、不是、延喜式祝詞曰皇神之|敷坐《シキマス》島之八十島、蓋出干此」亦一説なり、然りと雖秋津島は南葛城の地名にして又飽き足らす意を含む如く、敷島も此地の名にして又知ろし食す(猶統御といふごとし)の義に通ずるは、皆古人措辞の妙趣と謂ふべきのみ。
補【磯城島】○日本国現報善悪霊異記 釈善珠禅師者、俗姓跡連也、負母姓而為跡氏也、幼時随母、居住大和国山辺郡磯城島村、得度精懃修学、智行双有、皇臣見敬、通俗所貴、弘法導入、以為行業、是以天皇貴其行徳、拝任僧正之。〔山辺郡は誤り〕
 
金刺宮《カナサシノミヤ》址 今城島村の中なるべし。日本釈名云、敷島の都の跡は長谷の谷のひろき所、慈恩寺村(朝倉村大字)の下五六町に在り、芝原少し残れり。日本書紀、欽明天皇元年遷都、倭国磯城郡磯城島、仍号為磯城島金刺宮。法王帝説に欽明帝を志癸島(又志帰島)天皇と記したり、金刺は造営上に因める名なるべしと雖詳ならず、或は曰ふ金は堅固の状を言ひ、刺は※[てへん+叉]なり、和名抄※[木+叉]首和名佐須とありて、柱上の横叉を言ふと。
 大和にも磯城島の宮しきしのぶむかしをいとゞ霧やへだてむ〔月清集〕
史料通信叢志云、三輪村大字金屋の山崎は敷島と呼び垣内《カキウチ》と字する田あり、又三輪山の南岬(即山崎)に金屋島《カナヤシマ》及び穴刺《アナサシ》の字ありて、長谷川は其柿内と穴刺の間を流る、三百年前の古図に長谷川西岸に磯城島宮と標する者は今の垣内に当る、田地は近年の開拓にて其玉林抄に曰へる小祠今は亡びてこれなし、高円山《タカマヤマ》は慈恩寺の南に在り。
 
戒重《カイヂユウ》 城島村の大字なり、慶長五年関原の役織田武蔵守長益(信長弟)石田軍を破るの功を以て徳川氏三万余石の地を大和に給す、元和元年長益退隠して有楽と号し戒重一万石を左衛門佐長政に分禄し、子孫世襲す、正徳三年同郡芝村へ移館す。
英俊日記云、永正二年、戒重大仏供公事云々、十市衆大仏供合力人共損云々。大仏供殿久敷被違例、合戦之最中被奪去、依之諸勢引了、越智仲人云々、三年八月京衆入国、戒重城没落。
 
長谷《ハツセ》郷 和名抄、城上郡長谷部、訓波都勢。今朝倉村初瀬村の中なるべし、辟田郷と相混す。長谷は古書又泊瀬と記したり、其地勢狭長の谿澗なるを以て、長谷の字を押当てたりと雖、語意|終瀬《ハテセ》か、古事記伝に初瀬川々上は猶遠けれど此地ぞ上瀬なれば初の瀬の意かとあり、物の終始は義相通ず。又小泊瀬と称す、信濃国にも小泊瀬山あり後世訛りて姥捨山《ウバステヤマ》と曰ふ、因て古の葬所なりやの疑あれど、此地の氏人信濃に移り小長谷の名彼地にも起れるのみ、而も泊瀬に終《ハテ》の意あれば詞人特に葬所の悲感を寓せるならん。長谷に三氏あり。姓氏録、長谷|置始《オキソメ》連、神饒速日命七世孫大新川命之後也。(是其一なり)古事記朝倉宮(雄略)段、大長谷稚建命、坐長谷朝倉宮、定長谷部舎人、又建内宿禰之子波多八代宿禰者、長谷部君之祖也。(是其二なり)武烈帝は小泊瀬稚※[焦+鳥]※[寮+鳥]天皇と称す。氏族志云、小長谷氏武烈天皇置小泊瀬舎人、〔日本書紀〕本氏蓋出於此、有連姓、有造姓、〔古事記、連拠日本書紀〕仁徳帝時有小泊瀬造祖宿禰臣、賜名賢遺臣、天武帝十一年小泊瀬造賜連。〔日本書紀、瀬拠釈日本紀〕又|長谷川《ハセガハ》氏あり、新編常陸国誌云、長谷川は大和国長谷より起る、多武峰縁起に承安年中の人長谷川三郎季俊長谷川主殿正経など云ふあり、是長谷川の初祖と見えたり。長谷の枕詞を隠口《コモリク》(又籠国)と云。詞林采葉抄云、此所は山の口より入て奥深き故に籠口といへり。書紀通証云、挙毛利矩《コモリク》隠口也、見万葉集、蓋泊瀬山口※[くさがんむり+翁]蔚故為枕辞也、泊瀬或用長谷瀬亦可以見其義。古今六帖に海士小舟|泊瀬《ハツセ》と詠ず。
 隠口の泊瀬少女が手にまけるたまはみだれてありと言はずやも、〔万葉集〕君が世は大初瀬路の百枝槻ももえながらもさかえますかな、〔同上〕〔未詳〕
泊瀬小野 日本書紀、雄略天皇、游乎泊瀬小野、観山野之体勢、慨然起感歌、曰云々、於是名小野曰|道《ミチ》小野。通証云、小野在初瀬西。
 
初瀬《ハツセ》川 本郡|上之郷《カミノガウ》郷村大字|小夫《ヲブ》の山中に発し、南流長谷寺の傍を過ぎ、西流朝倉三輪を過ぎ西北に屈折し、山辺郡二階堂村に至り佐保川に合し、大川(即大和川)と為る、長凡十里。古歌泊瀬を百瀬と誤りモヽセとも云へり。詞林采葉抄云、此川百瀬川とも云ふ、長谷寺に詣でぬるに渡る処は初の瀬なる故に初瀬と云なるべし。
 石走るたぎち流るゝ泊瀬河たゆる事なくまたも来て見む、〔万葉集〕
 
泊瀬列城《ハツセナミキ》宮址 武烈天皇の皇居なり。日本書紀武烈天皇、設壇場於泊瀬列城、陟天皇位、遂定都焉。通証云、在長谷寺南、出雲村。(今朝倉村大字出雲)古事記、継体天皇の皇女出雲郎女あり、出雲《イヅモ》に住居したまへるならん、又書紀「欽明天皇、三十一年、幸泊瀬|柴籬宮《シバガキノミヤ》」の事あり、列城宮と同異詳ならず。 
泊瀬朝倉《ハツセアサクラ》宮址 雄略天皇の皇居なり。日本書紀、雄略天皇、設壇於泊瀬朝倉、即天皇位、遂定宮焉。通証云、在黒崎岩坂二村間。(今朝倉村大字黒崎大字岩坂)姓氏録云、秦酒公率秦氏、養蚕織絹、盛諸国、貢進如丘如山、積畜朝廷、天皇嘉之特命寵命、役諸秦氏、※[てへん+(構−木)]八丈大蔵於宮側、納其貢物、故名其地、曰長谷朝倉宮。氏族志云、内蔵公、系出阿智便主子都賀四世孫東人、履中雄略二朝、相踵建内蔵大蔵、納諸国調絹、便東西文氏、勘録其簿、於是漢氏賜姓為内蔵大蔵二氏。〔姓氏録古語拾遺〕帝王編年記云朝倉宮、在城上郡磐坂谷南、廿町許。朝倉は蔵庫に因める号なり、蓋後世|校倉《アゼクラ》又|叉庫《アゼクラ》と云ふは即朝倉なり、其制は古歌に謂はゆる「朝倉や木の丸殿」と云ふ類にして、横材をたゝみ之を造為す、又支倉と云語あり波世庫と訓む、支は叉の訛にて長谷倉なるべし、秉燭譚に宝庫は四角なる木を積上て造る之をアゼリ又アゼ庫と称す、下学集叉庫をアゼクラと訓むと或書に見ゆ。和名抄、校倉(阿世久良)蔵穀物也、然れども支倉は後世仙台の氏名に遺るのみにて、未だ徴証を得ず。
倭訓栞云、和名抄校倉をあぜくらと読み、今昔物語宇治拾遺にも見ゆ、あぜは交《マゼ》の義なるべし、方なる木を打違へて井楼の如くに組上て、木の角を外へあらはす、依て下学集には叉庫と書り、新猿楽記にも叉倉に作り、俗にあぜりとも云といへり、姓氏録には※[田+寺]籠とかけり、北山鈔に校屋あぜやとよむ。
白川陵は後村上天皇中宮源顕子(北畠親房女)の墓なり、陵墓一隅抄云、正平八年入長谷寺為尼、御陵在笠間山、曰白川陵。今朝倉村大字笠間に在るべし。
 
泊瀬山《ハツセヤマ》 初瀬郷の山を指せりと雖、特に初瀬村大字初瀬を本拠とす、長谷坐山口神社同所に在り、雄略天皇の御詠に、
 挙暮利矩の播都制の山は、いでたちの宜き山、わしりでのよろしき山の、籠国のはつせの山は、あやにうらぐはし、あやにうらぐはし、〔日本紀〕籠国の初瀬の山の山際にいざよふ雲はいもにかもあらむ、〔万葉集〕
長谷山口坐神社は天平二年東大寺大税帳に、神戸穀三拾参束、新抄格勅符、大同元年長谷山口神々封二戸などあり、延喜式大社に列す、初瀬村大字初瀬に在り。
 事しあらば小初瀬山の岩木にもこもらば共にな思ひわがせ、〔万葉集〕
小初瀬山の岩木とある岩城《イハキ》即石郭の謂にて墓穴也、前にあげたるいざよふ雲の歌も火葬の挽歌なりと知るべし、按に泊瀬はやがて葬所の義なるべし。
 
初瀬《ハツセ》 今初瀬村と云ふ、此村川に臨み伊賀国及宇陀郡より大和へ通ずる大路にあたり、山中の孤駅なり。長谷寺の大伽藍あり、観音大士の霊場にして、真言宗新義派の学寮なるを以て道俗の参詣頗多し、或人の句に「麦青し泊瀬まゐりの笠ならぶ」と云へり。 
長谷寺《ハツセデラ》 初瀬に在り、仏殿山に倚り高に在り、堂塔諸宇四傍に散布し、儼然たる大伽藍也。寺説元正天皇養老五年辛酉草創、又云文武帝の朝に徳道上人造立と。本堂は八棟《ヤツムネ》造、本尊十一面観音、殿堂の構造京都清水寺に相似たり。(明応五年重興なりとも又寛永年中造進とも云へり)豊山神楽院と号す、延喜式に豊山寺《ホウザンジ》料租稲二千四百束とあれば、別名豊山と云ひし也、万葉に豊泊瀬道《トヨハツセヂ》の語あり。続日本紀、称徳天皇神護景雲二年、行幸長谷寺、捨田八町。続日本後紀、仁明天皇承和十四年、勅、大和国城上郡、長谷山寺、元来霊験之蘭若也、宜為定額、永以官長令検校也。三代実録云、貞観十八年、律師法橋上人位長朗申牒※[にんべん+(稱−のぎへん)]、大和国長谷山寺、是長朗先祖、川原寺修行法師位道明、霊亀年中率其同類、奉為国家所建立也、霊像殊験遐邇仰止、請毎年安居、令居住僧等講演最勝仁王両部経、誓護朝廷、其布施供用寺家物、太政官処分依請。元亨釈書云、神亀三年、長谷寺成、行基法師為導師、義暹咒願而慶之。又云、長谷寺者、比丘道明沙弥徳道(即法道仙人)勠力建、其像者、自近州高島郡三尾山流出、霹靂木也、中書侍郎藤房前奏、賜和州租稲三千束、乃刻十一面観音像、高二丈六尺、震雷破巌石為坐、方八尺、仏工稽主勲稽文会作之。長谷寺縁起は菅原道真書と称すれど信憑し難し、近年寺中より千体仏銅版の発見あり、三代実録と并看して当寺興立の本縁を知るに足る。千仏多宝塔銅版、竪三尺巾二尺六寸厚一寸、其面の中央に多宝塔を鋳出し、無数の諸仏菩薩其四傍に充満す、其鋳巧最精妙なり。下段に銘文あり三百二十余字を勒す、其首八行許半ば欠損すれど、後段及銘辞は完し。此銅版久く隠没し集古十種古京遺文等にも収められず、近年五重大塔焼失の後灰中より端なく現出したり、然れども火の為めに欠損ししは痛惜すべき也、其序中に「粤以奉為天皇陛下、敬造千仏多宝仏塔、上※[まだれ+昔]舎利、仲擬全身、下儀並坐諸仏、方位菩薩囲繞」云々、又銘辞曰、
 遙哉上覚  至哉大仙  理帰絶妙  事通感緑  釈天真縁  降茲豊山  鷲峰宝塔  涌此心泉  負錫来遊  調琴練行  披林晏坐  寧枕熟定  乗此勝善  同帰実相  一投賢劫  但値千聖  歳次降婁  ※[さんずいへん+来]菟上旬  道明率引  捌拾許人  奉営飛鳥  清御原大  宮治天下  天皇敬造
此銘によれば本寺は天武帝の為めに道明造立、歳次降婁は建卯之辰なり。礼記云、日在奎、注、仲春者日月会於降婁、而斗建卯之辰也。※[さんずいへん+来]菟詳ならず、一説漆兎にして七月ならんと、卯年三代実録に参照し、霊亀元年乙卯なる事疑なし。長谷寺縁起云、此豊山有二名、一者泊瀬寺、又云本長谷寺、二者長谷寺又云後長谷寺、其差別者、十一面堂西有谷、自其西岡上有三重塔並石室仏像等、是泊瀬寺也、得号者泊瀬河瀬、滝蔵権現坐、其所勝地而往古以来諸天影向砌也、脇彼地在天人所造之毘沙門天王、古人喚為天霊神矣、雷取登空之時、御手宝塔流、而泊此山麓三神里神河瀬、武内宿禰卜筮則自手崇、而北峰西北隅納之、其後経三百余歳、河原寺道明聖人移之石室、天武天皇更勅道明聖人建精舎於此矣、其聖人六人部氏矣。次東岡上有十一面堂者、長谷寺也、徳道聖人之願、而北家曩祖房前臣、奏元正天皇奉聖武勅詔、以所建立也、彼聖人播磨国揖宝郡人、俗姓辛矢田造米麿也。(以上大意なるが疑惑多し)長谷寺は三十三所第八番に当り、古より賽者盛なり、早く源氏物語玉葛巻にも見え、初瀬詣の名あり。順礼詠歌の事は何世より起れるにや、天文二十二年吉野詣記云、初瀬本尊の御前に参り、折しも歌うたへる女二人法楽とおぼしくて歌うたへるあり、其詞に花の都人うたよませ給へやと云を打開くより、誠に都人にはまぎれなけれど、歌よみなむ事は胸つぶれて、暫念誦して本尊に向ひ奉れり云々。
拙堂紀行云、山行崎嶇数十里、経萩原吉隠、日将※[日+甫]、忽遇一岡、石榜上題曰長谷之道、登則眼界頓豁、寺在前山中央、金閣宝塔、窈窕緑樹間、其下碧甍牆、人家且千、実為壮観、同人連声呼快、下阪数町、自大門入穿廊々長二町許、南郭詩三十三天次第攀信矣、曲折而上、右傍有一老梅樹、榜曰紀貫之故里梅、出後人狡獪耳、廊尽即為大悲閣、々架崖而起、与清水石山同制俗呼為舞台、倚欄而望、桜花爛漫、坐人白雲中矣、通覧而出、已昏黒、長廊掛燈数十、累々如連珠。
 きかでただあらましものをけふの日も初瀬の寺の入相の鐘、〔新続古今集〕 通守
 をはつせや花よりひゞく山風のかねのにほひもしらむ夜のそら、 宣長
 奈良を出で初瀬どまりや花の春、 失名
   晩に初瀬山に詣でて、堂の前なる欄に立よりて見れば、朝風の遙に谷より吹上りて、滝のひびきのそこはかとなし、
 嶺はたゞもみぢ吹はらひ鹿ぞ暗く、 涼岱
 春の夜やこもりゆかしき堂のすみ、 芭蕉
 笈摺に卯の花さむしはつせやま、 去来
 
小池坊《セウチバウ》 観音堂の西なる岡上に在り、妙音院と云、旧紀州根来山寺学頭なり、天正年中根来破滅し、妙音院は寛永に及び其遺侶徳川氏の外護に因り講堂学寮を豊山域内に起し、真言宗新義派の種芸綜智場と為す。
与喜山《ヨキヤマ》 観音堂の東方、水を隔てゝ与喜山あり、山上菅丞相祠あり、其辺を与喜の里と曰ふ。此他に洞院実世の墓あるべしとぞ。南山巡狩録、正平十三年、洞院左大臣実世公薨じ給ふ、年五十一、此人元弘のはじめより先帝の御旨を受け万事を執し、忠功の程たぐひすくなかりける所なり、〔公卿補任太平記合考〕細々要記に、与喜山と云処に葬りけるとあり、新葉集に与喜左大臣と署せり。
鍋倉《ナベクラ》山 相模集云、初瀬に詣でつきて、はしの前に谷深うもみぢ多かるを、いづくぞと問へば、なべくら山といふ、
 春ならで色もゆ計りこがるゝはなべ倉山のたきぎなりけり、
補【長谷寺】○史料叢誌 大和国字陀郡長谷寺の什宝、千体釈迦銅仏は竪三尺巾二尺六七寸、厚さ一寸余なり、此銅版鋳造の精工なる、中央には多宝仏塔あり、無数の仏菩薩四方に充満す、其意匠誠に妙絶にして奇々異様ならざるはなし、惜むべし下の隅少々闕損するを以て、四天王の内一体は木を以て古く補ひあり、天武天皇の朝に形の如くに鋳造の術に長じたる、実に美術の模範とも称すべき仏図にして、且つ其証とするは、下段に左記の銘あり、是又八行、凡そ四十五字を闕く、楽翁侯の集古十種、狩谷掖斉の古京遺文、葛西彰子の証古金石集及び金石年表以下に記載せざると、元来長谷寺五重塔中に秘しありしを以て、人の知らざる処なりしが、近世此塔焼失し、其灰中より現出せしを以てなり、寺憎は本長谷寺の本尊と称す、其銘曰、
 惟夫霊
 立称已乖小
 真身然大聖             (此処欠損)
 不図形表利
 旦夕畢功慈氏
 仏説若人起※[穴/卒]堵
 阿摩洛菓以仏駄都
 安置某中樹以表刹
 上安相輪如小来葉或造像
 下如※[のぎへん+廣]麦此福無量粤以奉為
 天皇陛下敬造千仏多宝仏塔
 上※[まだれ+昔]舎利仲擬全身下儀並坐
 諸仏方位菩薩囲繞声聞独覚
 冀聖金剛師子振威伏惟聖表
 超金輪同逸多真俗双流化度
 旡史為冀永保聖蹟欲今不朽
 天地等同法界無窮莫若崇拠
 霊峰星漠洞照恒秘瑞厳金否
 相堅敬銘其辞曰
 遙哉上覚 至矣大仙 理帰絶妙 事通感緑〔下略〕
泊瀬 麦青し泊瀬まゐりに笠ならぶ 吾東
○聖武天皇の朝に吉備大臣遣唐使を奉り唐土に渡り給ふに、彼国に於て野馬台の詩と云へる縦横分らざる一百二十字の文を出して読ましむ、吉備公更に読むこと克はざりしかば、心中に長谷寺の観音を念じ給ふ、奇異や紙上に蜘下りて其文の順を糸にて引て教へけりと云ふ、野馬台詩の事既に江談抄に出て、江帥云、此事我慥委、雖無見書故孝親朝臣之従先祖語伝之由被語也、又非無其理、大略粗書有所見歟、云々、然れば最も古く伝ふる小説なり。
  野馬台之詩
 東海姫氏国百世代天王右〔一本石〕司為扶翼衡主建元功初興治〔一本和〕法事終成祭祖宗本枝周天壌君臣定始終谷填田孫走魚膾生羽翔葛後干戈動中微子孫昌白龍遊失水※[穴/君]急寄胡城黄※[奚+隹]代人食黒鼠食牛腸丹水流尽後天命在三公百 王流異※[立+曷]猿犬称英雄星流飛〔一本鳴〕野外鐘鼓喧国中青丘与赤土茫々遂為空。
 春の夜は誰かはつ瀬の堂ごもり 曾良
 
吉隠《ヨナバリ》 今初瀬村に属す、初瀬の東一里宇陀郡の界辺に在り。日本書紀「持統天皇九年、幸|菟田《ウタ》吉隠」とある者此也、万葉集吉魚張に作る、長谷より宇陀への通路なり。
 吾やどの浅茅いろづく吉魚張の夏身の上にしぐれふるかも、〔万葉集〕夏身一に浪柴に作る、地名なり。
吉隠陵は光仁太后紀氏の墓なり、吉隠に在り、今高塚と呼ぶ。〔大和志〕延喜式、吉隠陵、皇太后紀氏、在城上郡、兆城東西四町南北四町。
猪養岡《ヰカヒノヲカ》は天武皇女但馬女王の墓此に在りと云。
   但馬皇女薨後、穂積皇子遙望御墓、悲傷歌、
 ふる雪はあはになふりそ吉隠の猪養の岡のせきならまくに、〔万葉集〕
 
辟田《ヒケタ・ヒキタ》郷 和名抄、城上郡辟田郷。今初瀬村の中に混じたるならん、秉田《ヒキタ》神社同村大字白川に在り。古事記雄略帝の引田部赤猪子に賜へる歌に、
 比気多のわかくるすばらわかくへにゐ寝てましもの老にけるかも
とある栗林は此郷なり。続紀に、慶雲二年、大和国人大神引田公足人、賜姓大神朝臣とあるも此郷の人なるべし。辟田を引田とよむこと其例稀有なり。古事記、朝倉宮雄略(段云)、天皇一時遊行到於美和河之時、河辺有洗衣童女、其容貌甚麗、天皇問誰子、答曰己名、謂引田部赤猪子、即令詔者、汝不嫁夫、今将喚而還坐云々。○辟田即ヒラタと訓むか、しからば辟田も平田も平らなる地面の田あるを云ふときこゆ、推古紀に百済味摩之帰化云々此今大市首辟田首等祖也と見え、姓氏録、大和蕃別に「辟田首、任那国主都奴加阿羅志之後也」とあるも此に住みけるに依りて負るなるべし、一説に辟田は佐岐多と訓べし雄略紀に菟田郷戸部|真鋒田《マサキタ》高天あり、鉾田は辟田に同じ、兎田は隣郡の宇陀なりと云へり、如何あらむなほ考ふべし。〔郡名同唱考〕
秉田《ヒキタ》神社 延喜式秉田神社二座、一本曳田に作る今初瀬村大字|白川《シラカハ》轟瀑の上に在り、白山権現と云ふ。蓋引田首の祖神なり、引田部赤猪子、又天武紀に見ゆる三輪引田君難波麿は此氏人ならん。
迹驚淵《トドロキノフチ》は白川の宮山の下に在り、枕草子に「轟の瀑はいかにかしましく恐ろしからん」と記せるも此なるべし。天武紀云、白鳳八年、幸泊瀬、宴迹驚淵上。
 
神戸《カンベ》卿 和名抄、城上郡神戸郷。此郷今詳ならず、三輪山の背なる上之郷村にあらずや、初瀬川の上游なり小夫《ヲブ》笠村滝倉の諸大字あり。
 
滝倉《タキクラ》 上之卿村滝倉は小夫の南笠村の東なり。滝倉明神杜あり、延喜二十年授位の事類聚符宣抄に見え、天慶三年正二位に進むと日本紀略に在り。滝倉礼堂と今昔物語に載せたり。大和志云、滝倉神宮寺、鐘銘応永二十六年。上之郷村大字|笠《カサ》に笠山あり、纏向山に接す、峰容蓋の如し故に名づく。
 雨ふらばきむと思へる笠の山人にな着せそぬれはひづとも〔万葉集〕 石上乙麿
 
巻向山《マキムクヤマ》 纏向村の東嶺にして上之郷村の西界を為す万葉集に「三毛侶の其山なみに児等《コラ》が手を巻向山はつぎのよろしも云々」とある如く、三輪の御諸山の北に相並ぶ。
 
檜原《ヒバラ》 巻向山の麓を曰ふ。姓氏録、檜原宿爾、坂上大宿禰同祖、出自後漢霊帝男延王也。
 巻向の檜原に立てる春がすみおほにし思はばなづみ来めやも、〔万葉集〕鳴神の音にのみきく巻向の檜原の山をけふ見つるかも、〔同上〕
 
弓月岳《ユヅキタケ》 纏向の高峰の名なり、多く万葉集に詠ぜり。名所図会云、弓槻岳の頂上に十市兵部少輔遠忠の城跡あり、此辺の道筋に竈馬《カウロギ》橋と云あり、小溝に野づら石を渡したり、カウロギと云謡曲あり。
 痛足《アナシ》川かは波立ちぬ巻目《マキムク》の由槻が嵩に雲居たつらし〔万葉集〕大和軍記云、十市と申所に十市常陸介と云人、代々の居城にて、和州の東山際は此人の領知に候、東の山中伊賀境まで持分に候、常陸介は筒井順慶の姪婿にて候。英俊日記、永正二年国衆大名の交名中に、土市新次郎遠治と云あり。
玄賓僧都の庵址は檜原に在り、三輪山の北に方り一名玄賓谷と曰へり。〔名所図会〕玄賓は平城平安両朝の交に盛名あり、特に嵯峨天皇の眷顧を被りたり、然れども隠退して出でず清操を持して身を終る、江談抄、弘仁五年玄賓任律師、辞退歌云
 三輪川のきよき流れにすゝぎてしころもの袖は更にけがれじ。
 
纏向《マキキムク》 纏向は垂仁景行二帝の皇居したまへる所なり、今纏向村の東部穴師巻野内などの辺の古名なるべし。巻向神社は即巻向坐若御魂《マキムクニマスワカミタマ》神杜、〔延喜式〕一名巻向穴師社〔釈日本紀引大倭本紀〕今三輪山の北巻向の檜原にあり、豊受大神と云、〔大和志神名帳考証名所図会〕蓋天皇伊弉諾尊の御子豊受毘売神の御父|和久産巣《ワクムス》日神を祭る、〔古事記日本書紀〕斎鏡一面子鈴一合を以て霊形とす、上古天祖皇孫命を天降し給ふ時三種神宝に此鏡鈴を副て天皇命の御食津《ミケツ》神として朝夕御食《アサユフノミケ》夜の護り日護り斎奉れと詔ひし大神、即是也。〔釈日本紀引大倭本紀〕平城天皇大同元年大和二戸を神封に充つ〔新抄格勅符〕本社は後世いたく衰頽し、今わづかに小祀を存するに過ぎず。
 
纏向珠城宮《マキムクタマキノミヤ》址 垂仁天皇の皇居なり、今纏向村大字穴師の西|長者屋敷《チヤウジヤヤシキ》と云ふ者是か。〔書紀通証名所図会〕珠城は古事記に玉垣に作り、師木玉垣宮と曰ふ。
 日にみがく玉城の宮のさくら花春のひかりと植や置けむ、〔統古今集〕
 
纏向日代宮《マキムクヒシロノミヤ》址 景行天皇の皇居なり、今纏向村大字穴師の北に在りと云。〔大和志書紀通証〕古事記之を頌して曰ふ、
 麻岐牟久の比志呂のみやはあさひ照る宮、夕日のひかげるみや。
 
穴師《アナシ》 纏向村大字穴師是なり、穴師山|痛足川《アナシカハ》巻向山巻向川異名同実とす、古は大市郷の中なるべし、日本書紀穴磯に作る。
 纏向の痛足の山にくも居つゝ雨はふれどもぬれつゝぞこし、〔万葉集〕世の中の女にしあらば吾渡る痛背《アナセ》の河をわたりかねめや、〔同上〕ぬばたまの夜さりくれば巻向の川音たかしもあらしかも疾き、〔同上〕
 
兵主《ヒヤウス》神社 穴師に在り、蓋大和国魂神の別宮なり。新抄格勅符大同元年大和和泉播磨地五十二戸を神封に寄進せられ、播磨風土記餝磨郡兵主郷穴無里あり、延喜式名神大社に列す。正倉院文書天平二年穴師神戸祖稲一千四百三十六束とあり、今延喜式大兵主神社亦同境に在り。本社の地即古の穴磯邑大市長岡岬なるべし。日本書紀垂仁巻云、倭大神者大水口宿禰曰、太初之時期曰、天照大神悉治天原、皇御孫尊専治葦原、我親治大地官者、言已訖焉、然先皇(崇神)、祭祀神祇細微、未探其源根、以粗留於枝葉、放其天皇短命也、今汝御孫尊、慎祭則天下太平矣、天皇命渟名城稚姫命、定神地於穴磯邑、祠於大市長岡岬、然是姫命身痩弱不能祭、是以命長尾市宿禰令祭矣、按ずるに崇神帝の時に先祭られしは大兵主社にて、渟名城稚姫は兵主杜を起し、長尾市に至り大和社(山辺郡)を始めたるか。其兵主と曰ふは即軍神の謂ならん、後世の追称に出づ、大和神社参看すべし。補【兵主神社】○神祇志料 穴師坐兵主神社、今穴師村の東弓月|嵩《タケ》にあり(和州旧跡幽考・大和志・名所図会)蓋大倭大神大国魂命を祀る、垂仁天皇御世、神教あるを以て大神を祭るべき人を穴磯邑に定めて、大市長岡岬に齋祀らしむ、即是也(日本書紀) 按、本書山辺郡大国魂神社は崇神の御世より祭れる地にして、本社は神地を定むるに及て祭られし所なる事著し、且延喜式・倭名妙に穴師大市等の地名山辺郡にあらずしてみな本郡に属たるも、又其一証なり、附て考に備ふ
聖武天皇天平二年神戸祖稲一千四百三十六束を以て神祭神嘗酒料に充奉り(束大寺正倉院文書)平城天皇大同元年、大和、和泉、播磨地五十二戸を神封に寄し(新抄格勅符)
 按、播磨風土記穴無里は倭穴師神戸に附て仕奉りきとあるは、此時寄せる神封なるペし清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下勲八等穴師兵主神に従五位上を授く(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次相嘗の案上幣帛に預る(延喜式)一条天皇正暦五年四月戊申、中臣氏を宣命便とし幣帛を奉て疾痩等の事を祈らしめき(本朝世紀、参取日本紀略)
 
柳本《ヤナギモト》 纏向村の北に接し、山辺郡の郡界に密邇す。戦国の頃柳本氏あり、柳本の東なる弓月岳を要害と為し之に築けり、蓋三輪十市の一党ならん。
柳本塞址 芝村と同く織田氏の陣屋なり、初有楽斎長益(信長弟)関原役東軍に属し戦功あり、徳川家康三万石を給す、元和元年其一万石の地を大和守尚長に分禄し柳本に居館す、子孫世襲以て明治維新に至る。
天神山《テンジンヤマ》 延喜式伊射奈岐神社此に在り。〔県名勝志〕工芸志料云、正嘉元年人あり柳本天神社に石柱を立て以て道標と為す、石を以て道標を造る事蓋此に始る。補【柳本】○工芸志料〔重出〕正嘉元年人あり、大和国城上郡の柳本天神社に石柱を立て、以て道標と為す、石を以て道標を造ること蓋此始めか、是より後石柱を以て遣標となすこと諸国に多し、而して後又石を以て橋柱となし、門柱となすこと諸国並に起る、而して今に至る
 
水口《ミナクチ》神社 柳本村大字渋谷《シブタニ》の神山に在り。〔県名勝志〕垂仁帝の時、大和大神大水口宿禰に憑着して教命ありし事、穴師兵主神杜の条参看すべし。旧事紀に依れば大水口氏は穂積同祖にして、物部氏と出自を共にす。
 
山辺道上《ヤマベノミチノヘ》陵 崇神景行二帝の御陵なり、今柳本|朝和《アサワ》の辺とす。石上より三輪に通ずる路は山に沿ふて行くべし、之を山辺道と曰ふ、天武紀壬申乱の条に大和上中下三通の一なる上道即是なり、陵名之に因りて命ぜられし也、今諸陵寮柳本の王墓向山の二所を以て之に擬定せらる。
崇神天皇陵 延喜式、山辺道上陵(古事記山辺道勾之岡上)磯城瑞籬宮御宇崇神天皇、在城上郡兆城東西二町南北二町。大和志山陵志は崇神陵は南に在りと為し、柳本村大字渋谷東南向山(高十一間周二百間)を以て之に充て、聖蹟図志は其西に一荒墓を録す。陵墓一隅抄は崇神陵北に在りと為し柳本村の東字別所ニサンサイ又王墓と称する者を以て之に擬す。按ずるに延喜式「山辺郡衾田墓、無守戸、令山辺道勾岡上陵戸兼守」とあれば崇神陵当に北に在りて衾田《フスマダ》に近かるべし、後の論者をまつ。
景行天皇陵 延喜式、山辺道上陵、纏向日代宮御宇景行天皇、在城上郡兆城東西二町南北二町。大和志山陵志は景行陵を以て北に在りと為す、即柳本村別所のニサンサイ是也、高一丈四尺周百間式文に符合す。山陵志云、景行陵、呼為|忍代《オシロ》山、即古遺言也、帝諱忍代別、古者上下相名、而不敢諱、陵旁柳本北、接乎釜口。而て陵墓一隅抄は之に反し景行陵は南に在りと為す、按ずるに南なる古陵は過大式文に合せず、疑らくは帝陵に非ず、崇神の真陵は釜口衾田の地に求むべきか。
 
下野《シモノ》郷 和名抄、城上郡下野郷。下野今其名なし、柳本村纏向村の中にて平夷の地を謂ふか、万葉集に敷野あり磯城の下野の義なるべし。
 君に恋うらぶれ居れば敷の野の秋はぎしぬぎさをしか鳴くも、〔万葉集〕
 
訳語田《ヲサダ》 又他田に作る、今纏向村大字|太田《オホタ》辻村の辺の古名なり。古語訳語(通事)を袁佐《ヲサ》と曰ふ、因りて他種の通訳を経る者をも袁佐と呼び、他字を仮りたる如し。敏達天皇の皇居したまふ所なり、霊異記及神明鏡には磐余訳語田宮とあれど、磐余は十市高市に広く被むれる名なりと知る可し。
 
訳語田幸王宮《ヲサダサキタマノミヤ》址 敏達天皇の皇居にして、初め天皇此に生長したまふ、故に諱を訳語田と曰ふ、謚して渟中倉《ヌナクラ》太玉敷と曰ふ、幸王宮に居りたまふを以てなり。渟中倉とは宮中の御庫の号なるべし、今纏向村大字太田に天照御魂神社あり、幸玉宮其社辺に在りしなるべし。日本書紀云、敏達天皇四年、命卜者、占海部王家地、与糸井王家地、卜便襲吉、遂営宮於訳語田、是謂幸王宮。通証云、大田村有旧址。
他田《ヲサダ》神社 延喜式、他田坐天照御魂神社。今纏向村大字太田字海道に在り、〔県名勝志〕饒速日命を祭る、正倉院文書(天平二年)新抄格勅符三代実録等にも見ゆ。
 
    山辺郡
 
山辺《ヤマベ・ヤマノベ》郷 今夜万倍と呼ぶ、延喜式和名抄山辺郡訓夜万乃倍とあり、日本書紀雄略巻には耶磨能謎とあり、和名抄六郷あれど郡域固より整はざるを以て古今の沿革あり。山辺は初めより総名にして石上より三輪の辺まで一帯の称なり、古事記、垂仁天皇御子、大中津日子命者山辺之別之祖也とあるは此間に領邑したまへるなり、山辺県主も此に外ならず。当時|闘鶏《ツゲ》国造あり東山嶺背数里の渓間を占有す、其国廃し置郡の日之を本郡に入る。天武紀白鳳十二年山辺郡竹谿村とあるは和名抄宇陀郡多気郷に同じ、又和名抄添上郡山辺郷あり。蓋天武朝以後山辺郡旧闘鶏の諸郷を分割し宇陀添上に入れしめたり、字多郡多気郷笠間郷添上郡山辺郷楊生郷等是なり、而も今波多野村は楊生を離れ本郡に復し笠間郷(東里村豊原村)も本郡に復したり。又西南界大和神社は(今朝和村の内)古城下郡大和郷と称す、延喜式大和神社本郡に載するを見れば延喜以前に変遷あり。山辺郡今山辺村外八村と為り、山辺村丹波市を首邑とし郡役所を置く。奈良町より三輪桜井に通ずる孔道丹波市を経由す、古の山辺《ヤマベ》の上道是なり。
     ――――――――――
大和《オホヤマト》郷 和名抄、城下郡大和郷、訓於保夜未止。今山辺郡朝和村東南部なる長柄萱生等の地なり、大和大神鎮座するを以て其名あり。日本書紀崇神巻に「祭倭大国魂神、倭国|市磯《イチシ》邑、後改名曰大倭邑」とあり之を垂仁巻一注に参照するに市磯は穴磯《アナシ》の誤にて城上郡穴師兵主神にあたり、大倭は大倭直祖長尾市の祭事したる者にて相異なり、旧名|穂積《ホヅミ》なるべし。書紀磐之媛皇后歌に「鳥陀※[氏/一]夜莽苫をすぎ」の語あり、釈紀云「烏陀※[氏/一]小楯也、言山如立小楯也」と見ゆ、大和社の東方に丘陵相接す、之を小楯に比するか。続日本紀、天平宝字二年、大和国奏※[にんべん(稱−のぎへん)]、部下城下郡大和神山、生奇藤、其根虫彫成文云々。当時本郷は城下郡に隷す、延喜式に至り山辺郡に属せしむ、和名抄城下郡と為すは延喜式の旧を襲げる者のみ。
 
衾田《フスマダ》墓 継体天皇々后手白香皇女(仁賢帝女)の陵なり、今朝和村大字|中山《ナカヤマ》に在り殿墓《トノハカ》と称す。〔大和志〕延喜式、衾田墓、手白香皇女、在山辺郡兆域東西西二町、令山辺道令山辺道勾岡上陵戸兼守。按ずるに山辺道勾岡上陵は崇神帝にして今城上郡柳本村南陵を以て之に擬定すれど疑なきにあらず、衾田墓附近の地に求むべし。大八洲雑誌云、中山邑の東北に一大荒隴あり、前方後円にして封域頗広し土人之を東殿塚(又ウプヤマ)と字せり、此荒隴の西に沿ひ又一座の大陵あり、之を西殿塚と称す、二者相并び其間僅に六七間を距て、形状高低封域方向を同じくせり、其西殿塚は継体天皇の皇后手白香姫の山陵とぞ。
 衾道を引手の山にいもを置きてやま路をゆけば生けりともなし、〔万葉集〕
名所図会云、中山の東に龍王山高く聳ゆ、即引手山なり衾道《フスマヂ》は此辺に在り。按ずるに引手山即釜口山の一峰ならん、南は纏向弓月岳に連る。
 
釜口山《カマクチヤマ》 朝和村中山の東にして、壊墓の羨道露出する者多く其竈に似たるを以て釜口の名起るか、長岳寺あり寺を繞り古墳累々たり、古より農民田野に耕牧する者副葬の器具を獲ることあり、今に絶えず。天明寛政の頃にや長岳寺主曇如好古の癖あり、近郊出す所の金石多く其蔵に帰す、故に自称して曲玉館主人と号せりとぞ。天文二十三年吉野詣記云、大和国に入り、山辺内山にて暫く足をやすめ、長岳寺(釜口と号す愛染明王)におもむき二夜をあかしけり、此の寺の外護柳本とてやさしく情けふかし、凡浮屠は桑下の三宿をだに戒められしに、此柳本こそ千夜をも明すべきやどりとは覚え侍れ、本堂にまいりて、愛染堂前花繞松、方池亀出水溶々、忽除業障洗煩悩、十二時中不退鐘、又寺に帰りて夜に入て楊本範堯と盃さしいて遊びけり。
補【釜口】山辺郡○史料叢誌に曰く、釜口山の地勢たる、式上山辺二郡に跨り、所謂萱生の千塚に接近し、古墳累々として寺地を囲繞せり、農民田を墾し、曲玉管玉金環及び石器等を発出すること、古へより今に至るまで往々之れありしは、世人の普ねく知る所なり、近世釜口長岳寺普賢院主曇如、随て見れば随て求め、名玉珍器を以て書斎に充満せしめ、身を其間に置き朝夕之を娯む、故に自ら称しで曲玉館主人と号したり、其多く曲玉を蔵するを以てなり、当時近畿の古物家を称すれば、先づ指を浪花の※[くさがんむり+兼]葭堂と大和の普賢院に屈せしむるに至れりとぞ、曇如入滅して、後任其遺物を保有する能はず、四方に散逸し、今何人の手に帰せしを知らず。
 
萱生千塚《カヤフノセンヅカ》 朝和村東部高地に古墳甚多し、故に此名あり。貝原氏の二階堂窟と曰ふも此なり、世俗今に古人穴居の跡と為す者あれど非なり、万葉集に衾道の引手山とありて当時葬所の事著明なり。又此墓を戦国の頃殺戮の事ありて原上一時に其屍を収めたる者と云ふも非なり、古代数世間(平城朝以前)の葬所のみ。
史料通信叢誌云、荒隴を千塚と云は諸州往々之れあり、千塚とは数十の古墳一区に碁布するもの、俗称にして千は其多きを謂へるなり。大和国山辺郡朝和村の大字に萱生中山あり、其地東は衾田《フスマダ》引手山《ヒキテノヤマ》(名勝たり俗に龍王山と呼ぶ)を負ひ、南は崇神景行の山陵を隔て纏向《マキムク》三輪《ミワ》長谷《ハツセ》の諸山を控き、北は布留山《フルヤマ》石上《イソノカミ》邑に連り西は成願寺邑(亦朝和村の大字)を隔て官幣大社大和神社を望めり。此萱生中山成願時は勿論、接近の村落は古墳頗る多く累々として相依り地上微く隆起せるものは皆古墳ならざるなく、一望波瀾の起伏するが如し、就中萱生中山最多し、俗に萱生千家と称す、其何れの時何人等を葬りしや記録口碑の徴すべきなければ之を知るに由なしと雖古来村民開拓する毎に冢穴石棺等発現し、曲玉管玉小玉石器古鏡甲冑馬具刀剣鏃土器の類を獲たり、今山野墾破の余其地大概民有と為り、茶園に変じ柑園に化せり。貝原益軒営窟説云、凡諸州、依高岡爽※[土+豈]之地、為石窟者多矣、五畿四荒皆然、就中大和州二階堂邑、河内州服部川邑、傍山為骨窟者、孔夥矣、殆不可数、故二州民、目之倶称千塚焉、是皆人力之所営作、非天工之自成也、其窟口咸向南面開、窟中左右及深奥当面之処、畳石為壁、其上頭以大石之扁者、連布而蓋之、恰若今之藻井然、大率深入可二三丈或四五丈、其中作区処二三間、恰如今世民屋之中為区別、其高濶各六七尺、其口窄狭纔可容身、鞠躬而入、人皆疑之曰、此窟古人之所築、未知其為何而作也、国俗曰上世氷雨氷風屡傷人、故子営為之、方其雨氷時避之而潜居于此焉、或曰疑是上世葬人之坑也。
 
岸田《キシダ》 朝和村大字岸田は中山の西に接す。姓氏録云、岸田朝臣、武内宿禰五世孫稲目之後也、居岸田村、負岸田臣号。日本書紀、孝徳天皇二年「涯田臣之過者、在於倭国被偸官刀、是不謹也」とあるも同族也。
 
兵庫《ヒヤウゴ》 朝和村大字兵庫は大和神社の北に接す、大倭神社は武器を納めたる旧祠なれば其兵庫にあらずや、東鑑大和国兵庫荘見ゆ。
 
大和《オホヤマト》神社 朝和《アサワ》村大字|新泉《ニヒヅミ》に在り、延喜式大和坐大国魂神社三座并に名神大社に列し、中世二十二社第四に班す、今官幣大社也。此神は日本書紀を按ずるに崇神天皇の時顕れたまふ、初め穴磯に祭る穴師兵主神是なり、垂仁天皇の時更に穂積臣祖大水口宿輔に神教あり因て長尾市宿禰をして祭祀せしめたまふ、即本社なり。(旧説此地は市磯邑なりと曰ふ市磯は穴磯の誤にて此に非ず)神祇志科云、大和社は素戔嗚尊の子大年神の子大国御魂神をまつる、八尺瓊を以て霊形とす。〔大倭社注進状蓋此神倭国を経営坐し功徳ある神なるを以て朝廷にも殊に深く尊み崇奉れり故之を大和大神と申す。〔参取日本書紀、古事記、旧事本紀大意〕
 按出雲風土記に此神意宇郡飯梨郷に天降坐すことみゆ、此は大穴貴命天神に帰順奉り天上に参上り坐時此神も従奉りしが降坐しなるべし、旦大穴貴命天下を経営玉へるを以て大国玉命と称奉るを、此神も大和大国魂神と申すは、或は彼神を肋けて殊に倭国に功徳ありし事著し、姑附て考に備ふ、
初大国魂神を天皇大殿の内に斎奉り、崇神天皇に及て甚く神威を畏給ひ渟名城稚媛命に託て之を市磯邑に遷祭らしむ、〔日本書紀、市磯邑拠大倭社注進状〕相殿二座其一は大年神の兄八島士奴美神五世孫八千矛神を祭る〔古事記大倭社注進状〕八千矛神は即大穴貴命也、昔此神の天孫に奉りし広矛も大殿内に在しを斎奉て即其霊形とす、〔参取日本書紀大倭社注進状〕其一は大年神の子御歳神を祀る、〔古事記、大倭社注進状〕垂仁天皇御世大倭直祖長尾市を神主とせば天下太平ならむと神教給ひき、故長尾市を以て大国魂神を祭る神主とす。〔日本書紀〕此後大倭氏世々其祭を掌りき、〔日本書紀続日本紀〕持統天皇六年幣を奉て藤原宮を造る由を告し、新羅の調物を奉り〔日本書妃〕聖武天皇天平二年、神戸租稲一千四十束を以て祭神及神嘗酒料に充しめ、〔東大寺正倉院文書〕孝謙天皇天平勝宝元年大和尾張常陸安芸出雲武蔵の地三百二十七戸を神封に寄奉る、〔新抄格勅符〕清和天皇貞観元年従二位勲三等大和大国魂神に従一位を授け、宇多天皇寛平九年大和大国魂神に正一位を授け奉り、〔大倭社注進状引新国史〕醍醐天皇延喜の制三座並名神大社に列り祈年月次相嘗新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る、〔延喜式〕鳥羽天皇元永元年二月、乙火災に依て神殿三宇及霊形みな焼失給ひき。〔中右記〕
 
長柄《ナガラ》 朝和《アサワ》村大字長柄、白鳥明神あり、延喜式曰堤神社あり、〔大和志〕姓氏録云、大和神別、白堤首、天櫛玉命八世孫大熊命之後也。神武紀に臍見長柄丘と云地あり、臍見即穂積なれば長柄此也。史学雑誌、臍見長柄丘は猪祝の拠るところにて、山辺郡の東南隅に長柄村あり、即其地にして和珥の南に当り、波※[口+多]丘と共に鼎足の勢を為す、神武天皇既に磯城長髄等を滅す、是に於て西北方隅猶三賊ありて相聯結す、故に偏師を遣り先づ平げ、尋で力を東南葛城の賊に用られしなり。
 
穂積《ホヅミ》 今|朝和《アサワ》村の中なるべし、大字|新泉《ニヒヅミ》は新穂即初穂を積置処の義にて此を謂ふか、神武妃|臍見《ホソミ》長柄丘とあり、今新泉長柄相接す。穂積氏は物部氏同族にして盛胤なり、穂積臣遠祖大水口宿禰大倭大国魂神の教を被り其社を居邑に興せるより之を大和郷と為す。古事記、宇摩志摩遅命、此者物部連穂積臣※[女+采]臣等祖也とあり。軽堺原宮(孝元)段云、天皇娶穂積臣等之祖内色許男命妹内色許売命。志賀宮(成務)段云、天皇娶穂積臣等之祖建押山垂根之女名弟財郎女。万葉集に長歌
 みてぐらを楢より出でて、水蓼穂積に至り、鳥網張る坂手を過ぎ、石走の甘南備山に云々
此行程、楢は奈良京なるべし、甘南備は飛鳥にも龍田にも二処あり。
 
朝日《アサヒ》 朝和村大字佐保荘に朝日観音堂あり、朝日は地名なるべし、今朝日の朝と大和の和を取り朝和の村名を命じたり。延喜式、朝日豊明姫神社は三代実録にも見ゆ、今観音堂の地蓋神域にて小祠存す。〔大和志〕夜都伎神社延喜式に列す、今朝和村大字乙木《オトギ》に在り。〔大和志〕
 
内山《ウチヤマ》 朝和村大字|杣之内《ソマノウチ》は内山と称し永久《エイキウ》寺(一作永福)の廃址あり、此寺明治維新の際まで田禄一千石を有し堂宇諸房巍々たりしが、住持の僧下劣にして一朝毀壊に附し、今悉皆敗亡す。名所図会云、内山金剛来院永久寺は山口村に在り、永久年中鳥羽院の御願、開基亮彗なり、本堂阿弥陀奥院不動明王真言堂大日如来なり、元弘年中笠置没落の時後醍醐帝忍て入御ありし遺跡とす、真言宗を奉じ堂塔屋舎四十八区。大和志云、内山永久寺、又曰石上神宮寺、貞観八年、勅以大和国田二十八町、施入石上神宮寺、須待造寺畢還収、見三代実録。
 
長屋《ナガヤ》卿 和名抄、山辺郡長屋郷、訓奈加也。○旧跡幽考云、長屋原は今長原にあり、万葉集に見ゆ、続日本後紀承和十三年の条に山辺郡長屋郷と見ゆ。今朝和村大字|永原《ナガハラ》の辺なるべし、二階堂村の東南部大字井戸堂も此郷中なるべし。
長屋原《ナガヤハラ》、万葉集云、和銅三年春、従藤原宮遷于寧楽宮時、御輿停長屋原、向望古郷作御歌。近年永原の人中村直三と云者あり、農を勉め徳を好み、篤行の名遠近に聞ゆ、明治十五年歿せり。
補【永原】○産業事蹟 山辺郡永原村は往古より地論水論等の絶ゆる時なく、人心の治り兼ねたる所なりしを、善次郎と云もの年来深く歎きて、臨終の際に一子直三を病床に呼び、其方は終身の間に力を尽して村内の葛藤を治めよとありしより、直三は其遺言を守り、人心を治るには学問に如かずと、然れども高きに登るは低きよりし、遠に行は近きよりするこそ順序なりとて、遂に心学に志し、道話書を読み仁義の大道を学び、数年躬行して村民を教導し、遂に村内の葛藤を静定せしこと其領主に聞え、嘉永元年三月十七日青銅三貫文の褒賞を賜り、直三又農学に志して米穀の良種を各地方に求め、地味と寒暖に因て耕事を研究し、同国千余箇村の農夫に培養法を授け、専ら国益を謀り、明治維新の後は諸藩府県に招聘せられ農を勧む、明治十五年直三の善行上聞せられ、天顔に咫尺して日本三農師の一人なりとの名誉を揚ぐ、直三益感激し、五月十二日永原村に遙拝所を設け、大小の神紙を始め農業に尽力せし貝原、宮崎、佐藤、大蔵四大人の霊を祀る、大日本農会々頭能久親王之を嘉し、祭文を贈られたり、其年八月時疫に罹り死す、世の識者之を惜み、近世稀見の篤志者となす。○今朝和村大字永原。
 
山辺《ヤマノベ》 今此名なし、二階堂《ニカイダウ》村大字|井戸堂《ヰトダウ》の辺なるべし、山辺御県神此に在れば也。古事記伝云、更科日記に初瀬に詣づる道の所東大寺云々、石上云々、其夜山の辺と云所の寺に宿りてなど見えて、中昔まで山辺里あり、本其名より郡名にもなれるなり。
   泊瀬へ詣づとて山辺と云わたりにて
 草枕旅となりなば山の辺にしらくもならぬわれや宿らん、〔後撰集〕
山辺御県《ヤマノベミアガタ》坐神社は二階堂村大字西井戸堂字大門に在り〔県名勝志〕更科日記山辺寺と云も此なりしならん。本社は天平二年東大寺大税帳に山辺御県神戸租稲二百七十束、大同元年新抄格勅符神封二戸とあり、延喜式大社に列し、倭国六県神の一なり。旧事紀云、饒速日尊六世孫建麻利尼命、石作連桑内連山辺県主等祖也。
 
小島《コジマ》 二階堂村大字小島は嘉幡の東に存す、古の服部郷なるべし初瀬川其側を流る。日本書紀、雄略天皇時、歯田根命奸采女山辺小島子、天皇聞、以歯田根命、収附物部目大連、以馬八匹大刀八口、祓除罪過。
補【小島】○日本書紀 雄略帝十三年春三月、狭穂彦玄孫歯田根命窃※[(女/女)+干]采女山辺小嶋子、天皇聞以歯田根命収付於物部目大連而使責譲、歯田根命以馬八匹大刀八口、祓除罪過、既歌曰、耶磨謎能、故思麼古喩衛爾、比登涅羅賦、字麼能耶都擬播、鳴思稽矩謀那斯。
 
服部《ハトリ》郷 和名抄、山辺郡服部郷、訓波止利。今二階堂村大字|嘉幡《カバタ》あり蓋神服部の訛なり。姓氏録云、大和神別服部連、天御中主命十一世孫天御桙命
 
二階堂《ニカイダウ》 村名なり、嘉幡《カバタ》に二階堂|膳夫《カシハデ》寺あるを以て近年四近十余村を合併し二階堂村と称す、佐保川初瀬川南北より来り此に於て相合す。膳夫寺は初め十市郡膳夫村(香久山村大字)に在り、聖徳太子妃膳夫姫の造立なり、二階堂と呼び、本尊虚空蔵菩薩後世此地に移す。〔名所図会〕
 
喜殿《キドノ》 二階堂村大字喜殿、此地は古へ奈良より飛鳥泊瀬の方へ赴くに中道と云ふ筋にあたるか、喜殿井戸堂より磯城郡村屋蔵堂を通じたる者に似たり。
   初瀬に参り侍りけるに、きのとのと云所に宿らんとし侍けるに、誰と知りてかなど云ければ、答するとて、
 名のりせば人知りぬべし名のらずば木の丸殿をいかで過ぎまし、〔後拾遺集〕 赤染衛門
 
石上《イソノカミ》郷 和名抄、山辺郡石上郷訓伊曾乃加美。今|山辺《ヤマベ》村即是なり、石上神宮は布留に在り、古へ皇家武器宝璽を奉安し給ふ所にて、安康仁賢の二帝亦此に皇居したまふ。姓氏録云、石上朝臣、宇摩志摩治命十六世孫物部連公麿賜物部朝臣姓、改賜石上朝臣姓。石上は古事記に磯上に作り、日本書紀は伊須能箇瀰と訓める所あり。
石上溝《イソノカミノウナデ》は日本書紀「履仲天皇、掘石上溝」の記事あり。高抜《タカヌキ》原は日本書紀「雄略天皇、命根使主、於石上高抜原、饗呉人云々」、石上池は日本書紀「斉明天皇六年、於石上池辺作須弥山、高如廟塔、以饗粛憤四十七人」など見ゆ。石上市神社《イソノカミイチノヤシロ》は山辺村大字石上の古屋敷に在り、天神と云ふ、旧址は村東の平尾《ヒラヲ》の地とぞ、〔神祇志科大和町村誌集〕蓋押磐皇子(履仲帝男)の宮址にして仁賢天皇の因りて皇宮としたまふ所なり、仁賢は押磐皇子の子にして、日本書紀に
 石上振の神椙本かり末きり市辺宮《イチノベノミヤ》に天下治す天万国万押磐尊の御子と云宣旨あり、履仲帝亦石上神宮に居たまふ事同書に見ゆ。
祝田《イハヒダ》神社は延喜式に列す、今山辺村大字田部の南方に在り、〔県名勝志〕古の屯倉の遺ならん。豊日神社も延喜式に列す、今山辺村大字豊井の天神是なるべし。〔大和志〕
 
石上広高宮《イソノカミヒロタカノミヤ》址  仁賢天皇の皇居なり、大和志之を嘉幡《カバタ》に在りと為せど徴証誤れり、帝王編年記に「広高宮、山辺郡、石上左大臣(石上麻呂天武文武の比の人)家北辺、田原」とあるに拠れば石上市神社の祝田神社の辺に外ならず。日本書紀には「於石上広高宮、即天皇位、或本曰天皇之宮有二所焉、一宮於川村、二宮於縮見高野」とあり、縮見は播磨美嚢郡の潜邸なれど、川村は大和の皇居にやあらん、大和志川村を嘉幡に擬すれど石上と地勢遠隔す、当に今の山辺村の中に就き求むる所あるべし、穴穂宮参看。
 
石上穴穂《イソノカミアナホ》宮址 安康天皇の皇居なり、大和志山辺村大字田村と為す、田村は丹波市に接し布留川の南畔なり。帝王編年記云.穴穂宮山辺郡、石上左大臣家西南、古川南地是也。古事記伝云、田村は丹波市に近く布留川の南なり、此天皇早くより此地に住坐けるを以て穴穂王と申せるなり。穴穂宮を田村とせば石上左大臣家は大字川原城にあたる、更に広高宮を求むれば大字田部石上の辺こそ其所なれ石上溝石上高抜原原等は皆此間に在りしならん。
三島《ミシマ》、山辺村大字三島に近年□祠神道天理教会と云者興る。
 
丹波市《タンバイチ》 山辺《ヤマベ》村の駅舎にして、戸数三百山辺郡の首邑なり、奈良の南三里三輪の北三里。丹波市は布留川の辺に在り、布留川古名市川也、官幣大社石上神宮は丹波市の東十八町に在り。
 
石上《イソノカミ》寺址 今山辺村に石上寺址二所を伝へり。一は大字石上に在り、旧跡幽考云、磯上寺は磯上村にて、在原山本光明寺と号し、在原業平朝臣の住まはれし地に立られける也、拾芥抄に磯上寺は宝蓮寺と号すと見えたれば何の代に本光明寺と改めたるにや。一は大字布留に在り、名所図会云、良因寺、又良峰寺石上寺と曰ふ今宵《コヨヒ》薬師堂とも云ひ布留に在り、天長年中善守法師住持す、後僧正遍昭其子素性并に爰に幽居す良峰氏なり。按ずるに在原氏は桓武の皇孫に出て良岑《ヨシミネ》氏も桓武の皇裔也、又石上内親王(桓武皇孫女)あり、前二説を参照するに、石上の二寺共に蓋王氏造立の貴寺なり、後世衰敗今之を詳にし難し、扶桑略記延喜元年良岑法師(素性)此良因院に住居の事見ゆ、又扶桑略記云、治安三年、入道前大相国留宿東大寺、奉礼大仏、次拝興福寺、次御元興寺、次御大安寺、次未時御法蓮寺(字石上寺)覧給下八相、次御山田寺。謡曲井筒云、名ばかりは在原寺の跡ふりて、松も老いたる塚の草、是こそそれよ、なき跡の、一村すすきの穂に出るは、いつの名残なるらん、草茫々として、露森々と、古塚の、まことなるかな、古への跡、なつかしき景色哉。天文二十三年吉野詣記云、在原寺道すこし行きて問ひければ、昔の筒井筒の井の本など教へける、形の如く残れり、磯の上|古野《フルノ》の田面を行き云々。
   石の上と云寺に詣でて、日の暮れにければ夜明てまかり帰らむとてとゞまりて、此寺に遍昭侍ると人の告侍りければ、もの云試んとて 小野小町
 石の上に旅寝をすればいとさむし苔のころもをわれにかさなん、(逓昭返し)世をそむく苔のころもはただ一重かさねばうとしいざ二人ねん、〔後撰集〕
   ならの石上寺にて 素性法師
 石上ふるきみやこのほとゝぎすこゑばかりこそ昔なりけれ、〔古今集〕良峰の寺にきてこそ千早ぶる布留のやしろのもみじばを見れ、〔相撲家集〕昔より植けんときを人知れず花にふりぬるいその上寺〔夫木集〕
補【磯上寺】○和州旧跡幽考 磯上寺、磯上村にあり、石上在原山本光明寺と号して在原業平朝臣の住れし地に立られける寺なり、拾芥抄に磯上寺は宝蓮寺と号するよし見えたれば、いつの代に本光明寺とは改めたるにや、古今集、ならの石上寺にて「石上古き都の時鳥こゑばかりこそむかしなりけれ(素性法師)顕注密勘に此歌の端書に、ならの石上寺にてと書る心えず、奈良都は添上郡、石上は山辺郡なり、石上寺をならといはんこと、いはれなし、只奈良を過てまかれば石上寺遠からぬにおもひわたりて奈良の石上と書て侍るなり、遠鏡に詞書なる石上寺は山辺郡石上にあるを、奈良といへることは、今の京にては石上のあたり迄をもひろく奈良といひならへるなり、丹波国なる愛宕山をも他国にては京の愛宕といふ類なり、○今按、いま櫟本のつづきに磯上村といふあり、是より左の方布留の社の辺也、磯上は此辺の惣名也、磯上寺また柿本寺ともいへり、いまはいさゝかなる小宇遺れりとぞ、石上池は斉明紀六年に見え、石上溝は履中紀四年六月に見ゆ、名跡考にいその上の五六町東寺井川是也といへり。
 
布留《フル》 今山辺村大字布留.この地は崇神天皇布留の霊宝を鎮座せしめたるより此名あり、姓氏録に「市川臣木事、大※[焦+鳥]※[寮+鳥]天皇御世、達倭《ヤマトニイタリ》、賀布都奴斯神社、於石上御布瑠村高庭之地」とあれど仁徳帝始て布都の霊宝を賀祭せられしに非ず、此以前已に其神庫其村名ありし也。布留布都古言相通じ又|※[音+(師の旁)]霊《フツノミタマ》と号す、玉篇、※[音+(師の旁)]断声とあり、利刃の謂也。
 石の上|零《フル》とも雨にさはらめや妹にあはむと言ひてしものを、〔万葉集〕
姓氏録云、大和皇別、布留宿輔、柿本朝臣同祖、天足彦国押入命七世孫米餅搗大使主命之後也、男木事命、市川臣、大※[焦+鳥]※[寮+鳥]天皇御世、達倭、賀布都奴斯神社、於石上御布瑠村高庭之地、以市川臣為神主、斉明天皇御世曰物部首并神主首、因茲失臣姓、為物部首、天武天皇御世依社地名、改布瑠宿輔。
 石の上振の山なる杉村のおもひすぐべき君にあらなくに、〔万葉集〕
布留川は或は古川に作る、姓氏録布瑠市川宿禰あり、市川は蓋布留川なり。石上神宮の下を過ぎ丹汲市を経て二階堂村に至り初瀬川に入る長凡三里。(中世の俗布留の枯野を歌枕に古枯《フルカラ》野とよめり)
 わぎもこやあを忘らすな石の上袖振川の絶えむとおもへや、〔万葉集〕
 
石上《イソノカミ》神宮 山辺村大字布留の高庭《タカバ》に在り、日本書紀石上神宮又|振神宮《フルノミヤ》に作り履仲天皇此に御したまふ事あり、延喜式名神大社石上坐布留御魂神即是なり、今官幣大社に列す。本社は神武天皇|平国《クニムケ》の霊刀を奉祝し種々の神宝を収蔵したる御庫なり、故に神府の名あり。崇神天皇神府造立の初め太后伊香色謎の弟伊香色雄をして鎮祭せしむ、伊香色雄之に因りて物部と称し、軍事の柄自ら其家に帰し、此より大伴佐伯二氏と相并び武職を世々にする事と為る。延喜式に拠れば古へ正殿及び佐伯大伴の三殿あり、正殿即物部殿と謂ふべし。後世宮庫壊廃、今楼門宝庫等あり、正殿は近年造立。史料通信叢誌云、石上神宮は拝殿ありて宝殿なかりしが、相伝ふ拝殿の後の禁足地は往古火盗の難を慮り霊剣と宝物を封埋したる処と、明治七年宮司より教部省に稟請し地方官立会にて発掘を為す乃ち神剣一口鈴一口鉾の破折数片勾玉管玉二百数十を獲たり、其神剣は鑑定して布都の霊なるべしと云ひ、之を奉安して正殿の神体と為せりとぞ。神宝は秘蔵の霊器なれば多く世に聞ゆるなしと雖、鉄製の古盾、鉄製内反刀二口、隷書銘文の七枝刀等模影流布す、并に貴重すべき者也。続国史略に弘化四年盗あり成務垂仁称徳の三陵(添下郡)を発き剣玉朱沙を窃み、又布留神庫に入り小狐丸と名くる剣を窃みたりと記す。神祇志料云、石上神宮|布都《フツ》御魂の横刀を祀る、布都御魂亦名佐士布都甕布都神と云ふ、初神武天皇紀伊国熊野に幸して荒神を順ひ給ふ時に、建御雷神其平国時の横刀布都御魂を下し給ひしかば其荒振神自ら切仆されき、〔日本書紀古事記〕天皇橿原に都するに及て物部連遠祖宇麻志麻治命其天瑞宝を献り神楯を立て五十櫛を布都主剣大神に刺繞して殿内に齋奉りき、崇神天皇御夜八十万神を祭る時初めて建布都大神社を大和国山辺郡石上邑に移し奉り、伊香色雄命をして天神より受伝し瑞宝をも共に此牡に蔵めて国家の為めに斎鎮め奉り号を石上大神と申し、又其氏神とす。〔旧事本紀〕垂仁天皇御世皇子五十瓊敷命の作らしし横刀一千口を神宮に納め、又之を掌らしむ、其後妹大中姫命に其事を知らしめんとし給ふ時吾は手弱女也いかで天の神庫に得升らんと申給ひ、更に伊香色雄子物部十千根大連に治めしめ給ひき〔日本書紀〕仁徳天皇此布瑠村高庭の地に幸して布都奴斯神を斎ます時に、布瑠宿禰の祖市川臣を神主とせられき、〔新撰姓氏録〕是より物部臣市川臣裔今に奉仕す。〔石和聞見志書紀通証〕天武天皇忍壁皇子を神宮に遣して神宝を塋き、即勅して神府に貯ふる諸家の宝物を其子孫に還さしむ。〔日本書紀〕聖武天皇天平二年、神戸租稲三千八百余束を充て祭料とし、〔東大寺正倉院文書〕称徳天皇神護景雲二年神封五十戸を充奉る。〔続日本紀〕桓武天皇延暦廿四年二月、典薬頭中臣朝臣道成等に勅して石上の兵仗を返し納めしむ、是よりさき神社の器仗を山城葛野郡に運びつるに神怒あるを以て也。〔日本後紀〕平城天皇大同元年大和備後信濃八十戸を神封に寄し、〔新抄格勅符〕文徳天皇嘉祥三年正三位を授け〔文徳実録〕清和天皇貞親元年正三位勲六等石上神に従一位を加へ、九年正一位に叙され、尋で大和国に勅して百姓神山を焼き禾豆を播蒔事を禁しむ。〔三代実録〕凡本社正殿及伴佐伯二殿並に鑰各一口神祇官庫に納めて輒く開くことを得ず、又本社門鑰匙常に官庫に納め、祭時宮人神部卜部をして門を開き社地を掃除して祭に供奉らしむ、其備後の封租穀は社家に収て夏冬祭料に充つ。〔延喜式〕今神宝猶遺る者多し、又神に仕ふる者忌火禰宜年預あり、忌火は禰宜の上首たり布留氏之に補され、物部氏を以て其神宝を掌らむと云。〔石和聞見志〕○旧事記云、磐余彦天皇肇即位、宇摩志摩治命奉献天瑞宝、乃先考饒速日尊自天受来天璽瑞宝十種、是所謂瀛津鏡一辺津鏡一八握剣一生玉一足玉一死反玉一道反玉一蛇比礼一蜂此札一品物比礼一是也、天神教導者有痛処者、令茲十宝謂一二三四五六七八九十而、布瑠部由良由良止布瑠部、如此為之者、死人返生矣、即是布瑠之言本矣。日本書紀云、垂仁天皇詔曰、朕聞新羅王子天日槍将来宝物、今在但馬為神宝也、朕欲見之、天日槍曾孫清彦、献羽太玉一箇足高一箇鵜鹿赤石玉一箇日鏡一面熊神籬一具、皆蔵於神府。
出雲建雄《イヅモタケヲ》神社は石上神宮の前に在り、〔県名勝志〕若宮《ワカミヤ》と称し、延喜式に列す。蓋出雲建を平げし霊を祭る、古事記には景行の朝に倭建命討ちて出雲建を平ぐとありて、書紀と少異あり。書紀崇神巻云、出雲振根有怨其弟飯入根、欺弟共沐|止屋《ヤムヤ》淵、先是兄窃作木刀自佩之、及浴兄先上陸、取弟真刀自佩、後弟驚而取兄木刀、共相撃矣、弟不得抜木刀、兄撃弟飯入根而殺之、故時人歌之曰、やくもたつ出雲建が佩けるたちつづらさわまきさみなしにあはれ。
今接ずるに飯入根の大刀を伝へたる出雲振根は、即ち古事記に録せる景行朝の虜にあたるか。
石成《イハナシ》神社は石上神宮前に王子《ワウジ》宮と云者此か。続日本紀神亀三年聖武帝不予の時奉幣あり、蓋備前国赤坂郡石上神都部別社なり、赤坂郡は古吉備磐梨県の域内なれば此に石成神と称す。日本書紀神代巻云、素戔嗚尊断蛇之剣、号蛇之麁正、此今在石上也、一書曰今在吉備神部許也。古事記伝云、備前石上布都之魂神社の伝説には神剣は昔大和の石上へ遷し奉りて此には坐まさずと云り、崇神垂仁の御時など余の神宝と共に京に召上給ひて、其時より石上に納められけん。○垂仁帝の皇子大中津日子は吉備|石無《イハナシ》別と称し、子孫大に吉備の地に興る、因由ありと謂ふべし。
補【石上神宮】○史学雑誌 石上神宮神宝に六叉鉾と称する者あり、鉄質にして左右三枝あり、中鉾と共に七箇にして、或は神功紀の七枝刀ならむか、中鉾の表裏に各隷書一行を彫刻す、文字磨(三水こざと力)多くして尽く読むべからざるも、裏面泰の字の下左偏イを留め、其下四の字あり、又二字磨※[さんずいへん+こざとへん+力]して其下□月十一日丙午正□造の字あり、字様と鋳法を按ずるに、魏文帝の泰初年中の作也。○弘化四年大和大盗嘉兵佐蔵等四人密発成務天皇陵、窃御剣珠玉朱沙、又入布留祠庫、窃剣(小狐丸)及宝器、售之、某商観之関白政通、政通驚曰、此剣非世間所有、唯布留社蔵之、命検之、事覚、至安政中悉礫之奈良、佐蔵又発垂仁称徳二陵云(続国史略)
石成《イシナリ・イハナリ》郷 和名抄、山辺郡石成郷、訓以之奈利。今山辺村大字布留及び其山中の古名なるべし、石上神宮の石成神社参考すべし、備前国磐梨より蛇之麁正神を此に移したるに因り其名出しならん、以之以波古言相同じ。
 
桃尾《モモヲ》滝 今山辺村大字滝本に在り、高七丈幅一丈、寺あり龍福と曰ふ、滝の水は流れて布留川と為る。大和志云、龍福寺、在桃尾山、有正堂弥陀堂不動堂伽藍神祠僧房十六区、元亨釈書曰僧義淵建。
 
闘鶏《ツゲ》国 古国名なり 層富山辺磯城等の東嶺背にして宇陀郡并に伊賀国と相接し名賀郡と名張川の一線を以て交界す。後世山辺郡に隷属し山辺楊生都介星川笠間の数郷と為る、和名抄に至り山辺楊生を添上郡に分隷せしめ、笠間を宇陀郡に割与したり、今笠間の地復山辺郡に入る。
日本書紀仁徳巻云、額田大中彦皇子猟于闘鶏、因喚問闘鶏稲置大山主。又允恭巻云、初皇后随母在家、闘鶏国造嘲之、於是皇后貶其姓、謂闘鶏稲置。万葉集に「日本《ヤマト》の黄楊の小櫛を抑へさす」の句あり、黄楊即闘鶏に同じ、又続日本紀「元明天皇霊亀元年、開大倭国都祁山之道」とあり、当時平城造都の初めなれば忍坂泊瀬の旧路を不便とし、此拳ありし也、故径今詳ならず。
 
星川《ホシカハ》郷 和名抄、山辺郡星川郷、訓保之加波。今其名なし、蓋|福住《フクズミ》村|針別所《ハリガベツシヨ》村に当るか、針別所は針荘と云へる地なるべし。
長門本平家物語云、興福寺領針庄と云所あり、去仁安の比西金堂衆の代官として小河四郎遠忠と云者是非なく庄務を打止る間、衆徒の中より快尊を差遣し遠忠が濫妨を押へさす。針別所福住の北に波多野村あり、(添上郡に編入す)波多星川二氏、建内宿禰に出でて同祖の裔なり、古事記、波多八代宿禰者、星川臣之祖也、姓氏録云、大和皇別、星川朝臣、武内宿禰之後也、敏達天皇御世、依居地改賜星川臣。
 
福住《フクズミ》 今|福住《フクズミ》村と云ふ、永禄中福住の郷士|岩掛《イハカケ》城主山田道安東大寺大仏の修補を為す、此地に都介氷室址あり。大和志云、文明以降、大和国士、越智十市清澄福住等、各割拠其邑、統属不一、加之多武吉野緇徒、衡行国中、天正年間、筒井松永、占其渠魁、国入戦図、民労賦役。
 
都介《ツゲ》郷 和名抄、山辺郡都介郷。今都介野村是なり、日本書紀仁徳巻云、額田大中彦皇子猟于闘鶏、時自山上望之、謄野中有物其形如廬窟也、闘鶏稲置大山主曰氷室也、皇子即将来其氷、献于御所、天皇歓之、自是以後毎当季冬必蔵氷、至春分始散氷也。
延喜式、山辺郡都介氷室一所。大和志、福住村有氷室神社。
 都介の野に大山主が蔵めたる氷室ぞ今もたえせざりける、〔堀河院百首〕
都祁山口神社は三代実録延喜式に列す、今都介野村大字小山戸に在り。〔県名勝志〕都祁水分神社は延喜式に列す、今都介野村大字友田に在り。〔大和志〕下部神社は延喜式に列す、今都介野村大字|吐山《ハンヤマ》字織部に在り。
 
笠間《カサマ》卿 和名抄、宇陀郡笠間郷、訓加佐末。今|東里《ヒガシサト》村大字笠間あり、豊原《トヨハラ》村も之に属す、溪水は名張川に入る、東大寺要録、長徳四年注文、伊賀国笠間荘四十二町とあるも此なるべし。旧事紀云、物部胆昨宿禰、宇太笠間祖大幹命女此巳呂為妻。
 
神野寺《カウヌデラ》 豊原《トヨハラ》邑大字|伏拝《フシオガミ》に在り、法性山一心院と号す、神亀年中僧行基の開く所と云。〔名所図会県名勝志〕扶桑略記、元慶四年、以太上天皇聖体乖予、遣使廿一寺修功徳、東大興福元興西大薬師大安法隆招提延暦新薬師四天王香山長谷壷坂崇福梵釈現光神野三松子島龍門云々と、此の廿一寺の中に三松と云ふもの詳ならず。
 
    宇陀郡
 
宇陀《ウダ》郡 延喜式、和名抄、宇陀郡、宇太。古は菟田県又|猛田県《タケダノアガタ》と曰ふ。磯城郡山辺郡の東西にして、名張川《ナバリガハ》の上游なり、四面皆山、渓水悉名張に入る。郡東南界は山脈を以て伊勢国(一志郡飯高郡)及吉野郡と相隔つれど、北方は伊賀国|名賀《ナカ》郡と相交錯す通路は初瀬より本郡|萩原《ハギワラ》駅に至り三本松《サンボンマツ》を経て伊賀国に入るを初瀬街道と曰ふ、内牧|神末《カウスヱ》の山腹を渉一志に出づるを伊勢路の故径とす、郡の南西部に松山《マツヤマ》あり郡中の小都会なり。
神武天皇東征の師は熊野吉野より先菟田県《ウタノアガタ》に至る、書紀に「尋八咫烏所向、仰視而追之、踏山啓行、遂達菟田下県」とあり、下県蓋郡の東部今宇賀志村宇陀村等なり。天皇兄猾を誅し弟猾を封じ猛田県主と称す、其後裔史書に見ゆる所なし。皇極天皇三年菟田郡人押坂直あり。〔日本書紀〕菅家文草に雨多《ウタ》県に作る、和名抄五郷其笠間郷は今山辺郡に属す。又多気郷は一時山辺郡に隷したる事あり、天武紀白鳳十二年山辺郡竹谿村と記す、竹谿即多気郷にして猛田県の遺号なり。今本郡松山町外十一村に分る。
菟田《ウタ》山 皇極紀、三年倭国言、頃者菟田郡人押坂直、登菟田山、便見紫菌、挺雪而生、高六寸余、満四町許、乃採取還示隣家、※[てへん+(總−糸)]言不知、押坂直煮而食之、大有気味、因喫菌羹、無病而寿、或云蓋俗不知芝草、而妄言菌耶。  
 
宇田川《ウダガハ》 神武紀に菟田川の名出づ、今|萩原川《ハギハラガハ》とも称す、字賀志村高見山中より発源し西流、又北流、萩原駅を経て東流す伊賀に入り名張川と為る、凡七里。
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多気《タケ》郷 和名抄、宇陀郡多気郷。今萩原村|内牧《ウチマキ》村三本松村等なり、蓋猛田県の遺号にして、続日本紀「聖武天平十二年、幸伊勢国、是日到山辺郡竹谿村、堀越頓宮」とある者此也。
 
猛田《タケタ》 神武紀云、皇師立詰之処、是謂猛田、作城処号|城田《キタ》、又賊衆戦死而梟僵屍枕臂処、呼為|頬枕田《ツラマキタ》。書紀集解同通証等に頬田を十市郡竹田に充つ、、地理相符せず、同紀に「弟給猾猛田邑、因為猛田県主、是菟田|主水《モヒトリ》部遠祖也」と見ゆる如く此諸地皆菟田の域内なる事明白なり、但其城田頬枕田主水部の故跡審ならず、猛田の本拠も亦詳実を欠く。
多気山は萩原内牧の東嶺にして、三本松の南に聳ゆ、室生山《ムロフヤマ》と相並び高二百丈と称す、岩石崖嵬形状奇偉なり。皇極紀に見ゆる紫菌を採れる菟田山《ウタヤマ》此か。
補【猛田】○史学雑誌(二六年二月)神武紀、又皇師立詰之処、是謂猛田、作城号曰城田、又賊衆戦死而僵屍枕臂処、呼為頬枕田、云々。猛田は集解、十市郡竹田を以て之に充つ、鑿説と謂べし、竹田村は郡の西北端に在り、蓋古磯城に属し、後倭名抄城下郡三宅郷の地なり、因て按ずるに、二年紀に「給弟滑猛田邑因為猛田県主、是菟田主水部遠祖也」と、倭名抄宇陀郡多気郷あり、即其地にして、今下竹村及松山町(延喜式宇陀駅の地なり)其近傍数村是なり、蓋兄猾弟猾菟田県の魁帥にして、其地に拠る、而て弟猾先降り、功あるを以て故に之を賞するに旧邑を以てし、子孫因て主水部となるなり。○神戸村下竹。
 
榛原《ハイバラ・ハリハラ》 又|萩《ハイ》原に作る、宇陀郡西北隅に在り、西|吉隠《ヨナバリ》山を踰ゆること一里にして磯城郡初瀬に達す、東は三本松を経て伊賀に入り内牧曾爾を陟れば伊勢に達すべし、小駅なり。神武紀小野榛原の地此と云へり。
鳥見山《トミノヤマ》 神武紀云、天皇立霊時於鳥見山中、其地号曰上小野榛原、下小野榛原、用祭皇祖天神焉。古事記伝云、榛原は今の榛原《ハイバラ》駅是なりと云、此村長谷の東方にて今は宇陀郡に入て、彼城上郡|外山《トビ》村とはやや遠けれど、古へ登美と云は広き名に聞ゆれば、彼駅のあたり迄かけて鳥見山中なるべし。
 
墨坂《スミサカ》 萩原の西に在りと云ふ。日本書紀、神武巻云、国見岳上有八十梟帥、又於女坂置女軍、男坂置男軍、墨坂置※[火+赤]炭、其女坂男坂墨坂之号由此而起也。又天武巻云、将軍大伴吹負、為近江所敗、以独率一二騎走之、逮于墨坂、遇逢菟軍至。按ふに吹負は、乃楽山に敗れ南走、東国に入らんとして墨坂に至り還軍、又飛鳥古京を守る、其地理合す。又姓氏緑云「大彦命遣治蝦夷之時、至於菟田墨坂、忽聞嬰児涕泣」と。
墨坂《スミサカ》神社は榛原村大字萩原に在り、六杜権現と称す。〔県名勝志〕日本書紀云、崇神天皇夢有神人誨之曰、以赤盾八枚赤矛八竿祠墨坂神、古事記云、於宇陀墨坂神、祭赤色楯矛。又雄略紀、天皇詔少子都連螺贏、朕欲見三諸岳神之形、原注或云菟田墨坂神也。
 秋もはや宇田の炭がま煙りけり 鬼貫
 
宇陀野《ウダノ》 日本書紀、推古天皇、十九年夏五月五日、薬猟於菟田野、鶏鳴集于藤原池上、(高市郡)以会明乃往之、諸臣各著髻華。三代実録云、貞観二年、詔源朝臣融、賜大和国字陀野、為臂鷹従禽之地。大和志、足立村(今榛原村)今云禁野、県名勝志、萩原の西二町許に狩屋殿《カリヤデン》の字あり、即此と、按に承元中の宇多の内野行幸も此か、百練抄云、承元三年三月六日、上皇(後鳥羽)行幸南部、七日上皇御幸長谷寺、并字多郡内大野召仰、九日上皇還御。
 宇陀の野の秋|芽子《ハギ》しぬぎ鳴鹿もつまに恋ふらく我にはまさじ、〔万葉集〕
郡家《グウケ》址は榛原村の中なるべし今詳ならず、天武紀云、王駕逢伊勢駄五十匹、於菟田郡家頭、皆棄米而令乗歩者、到大野。
 
丹生《ニフ》 宇陀の丹生神は神武天皇祈祷の遺跡なれど、後世甚著れず、丹生神社延喜式に列し、今榛原村大字雨師に在り。神武紀云、吾今当以厳瓮、沈于舟生之川、如魚無大小悉酔而流、譬猶※[木+皮]葉之浮流者、吾必能定此国、頃之魚皆浮出、随水※[口+瞼の旁]※[口+禺]。
 
朝原《アサハラ》 榛原村大字雨師に在り。神武紀云、天皇祭天神地祇、則於彼菟田川之朝原、譬如水沫、而有所咒著也。書紀通証云、延喜式、宇陀郡丹生神社即此、在雨師村。雨師《アマシ》は菟田川の西岸にして丹生社の西に朝原あり、周廻五町、原中に龍王池あり。〔県名勝志〕雨師又龍王は丹生神の別名也。
補【朝原】宇陀郡○奈良県名勝志 丹生神社、榛原村大字雨師の西方に在り、本社もと朝原に在り、後此に移祭す、朝原本殿の西方に在り、周回約五町許、神武天皇紀の所謂彼菟田川の朝原と曰ふは即此、其原中に池あり、龍王池と称し、丹生川の源たり。
 
※[たけがんむり+(にんべん+縦棒+のぶん)]畑《サヽハタ》 榛原郡の東北大字山辺《ヤマベ》に在り、天照大神の別宮とて、小祠存す。垂仁紀云、倭姫命求鎮坐大神之処、而詣菟田※[たけがんむり+(にんべん+縦棒+のぶん)]幡、延暦儀式帳云、宇太の阿貴に坐し、次に佐々波多宮に坐き、書紀通証云、山辺村属邑篠畑、今猶存神祠云、※[たけがんむり+(にんべん+縦棒+のぶん)]篠本字。按に、※[たけがんむり+(にんべん+縦棒+のぶん)]畑頓宮は延喜式御杖神社是なり。椋下《ムクノシタ》神社は榛原村大字|福知《フクチ》の字|椋下《ムクノシタ》に在り、延喜式に列す、一説|椋下《クラシ》と訓み高倉下を祭ると為す。〔県名勝志神祇志料〕
補【椋下神社】○奈良県名勝志 同村大字福地の南方に在り、高倉下命を祭る。
 
檜牧《ヒノマキ》 今内牧村と改む、榛原村の東にして一溪に拠り赤埴《アカバネ》八滝の諸村あり内牧谷《ウチマキダニ》と称す。東|山粕《ヤマカス》峠を陟り曾爾村を経て伊勢通路あり。日本後紀、延暦十八年、停大和国字陀|肥伊牧《ヒノマキ》、以接民居損田園也。真木原《マキハラ》寺址は今詳ならず、真木原は牧原なれば此地にありし事推知すべし。霊異記云、閣羅王示奇表、勧人令修善縁第九、藤原朝臣広足者、帝姫阿倍天皇(元明)御代、倏病嬰身、為差身病、神護景雲二年、至菟田郡於真木原山寺、而住云々。御井《ミヰ》神社は延喜式に列す、今檜牧に在り、倉井明神と称す。〔名所図会〕
八滝《ヤタキ》墓は壬申役将軍文根麿の墓なり、天保二年八滝の米山に耕夫土中より銅函を発見す、中に銅版墓誌銘あり、量五百匁、函長九寸五分広一寸九分高一寸五分、広一寸四分銘云、
 壬申年将軍左衛士府督正四位上文禰麿忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒
後其墓誌銘を本地龍泉寺に附し、寺内に塚を築き之を埋む。〔三十三所図会〕日本書紀、天武天皇壬申六月、発途入東国、事急不待駕而行之、従者皇后皇子已下、書首根麿之類二十有余人、七月遺書首根麿、率数万衆、自不破出、直入近江。続日本紀、大宝元年、壬申年功臣賜食封、書首尼麿一百戸。慶雲四年十月、従四位下文忌寸禰麿卒、遣使宣詔、贈正四位上、并賻※[糸+施の旁]布、以壬申年功也。
補【真木原寺】宇陀郡○霊異記〔略〕〔霊異記攷証、吉川氏曰、宇陀郡赤瀬村之西北香水山嶽有廃寺跡、蓋真木原山寺之蹟也〕
補【八滝】〇三十三所図会 文禰麻呂忌寸之墓 宇陀郡八滝村にあり、天保二年辛卯九月廿九日、八滝村の米山と云へる所の山畑より、農夫計らず銅器を掘出せり、是に依て文氏の墓なる事を考へ知れり、器は函にて鋳鋼、重五百匁あり、長九寸五分、広一寸九分、高一寸五分、内に牌あり、錆色凡そ紺と緑の群濃なり、牌は長八寸五分、広一寸四分、銘に曰く、壬申年将軍左衛士府督正四位上文禰麻呂忌寸、慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒、今当村龍泉寺の境内に埋みて塚を築けり、按ずるに、
書紀天武天皇元年六月、発途入東国、事急不待駕而行之、云々、是時元従者草壁皇子、忍壁皇子云々、書首禰麻呂云々、秋七月庚寅朔辛卯、天皇遣村国連男依、書首根麻呂云々、率数万衆、自不破出、直入近江。
続日本紀文武天皇大宝元年七月壬辰、壬申年功臣、随功第亦賜食封、並各有差、又勅、先朝論功行封時、云云、書首尼麻呂云々各一百戸。同慶雲四年冬十月戊子、従四位下文忌寸禰麻呂卒、遣使宣詔、賜正四位上、並賻※[糸+施の旁]布、以壬申年功也。
とあり、牌は贈位を記したりと見ゆ。○今内牧村大字八滝。
補【内牧】○奈良県名勝志 太平山 宇陀郡内牧村にあり、高大約数十丈、自明《ジミヤウ》にては之を坊耕地と称し、赤埴及荷坂にては之を高峰山と呼ぶ。
光明ケ岳 俗に赤埴山と云ふ、内牧村大字赤埴にあり樹木繁茂、寺あり、仏隆寺と称す、嘉祥三年僧賢恵の開創、石磴を登るべし、東北室生寺を去ること一里。
 
赤埴《アカバネ》 内牧村大字赤埴は八滝の東北に在り相接す。赤埴山は樹木繁茂し林中仏隆寺あり、石磴を踏みて之に上る、寺の東北一里室生寺に一径を通ず。〔県名勝志〕
 山跡の宇陀の真赤土のさにつかばそこもか人の我をことなさむ、〔万葉集寄赤土〕
 
味坂《ミノサカ》 今|荷坂《ミノサカ》に作る、内牧村に属し赤埴山の上方に在り、延喜式昧坂比売神社此に在り。〔県名勝志」按ずるに味坂は神武紀に「女坂《メノサカ》置女軍」とある地なるべし、後世味坂に訛る。
補【浪坂】○奈良県名勝志 味坂比売神社 和名抄浪坂に作り、応神天皇紀に厩坂に作る、内牧村大字荷坂の東南に在り。○神武紀女坂是也。
 
大野《オホノ》 三本松村大字大野は萩原駅の東北二里 宇陀川の左岸に居る。天武紀に壬申六月、天皇発途入東国、到大野以日落也.及夜半到隠郡。(隠訓名張)古事紀伝云、大野は今山辺郡にて名張へ到る道なり、大野寺あり、承元三年後鳥羽太上皇の御幸ありし宇陀郡大野石仏と云是なり。大野寺は宇陀川の上に在り、室生渓の合流処にして山水幽奇なり、弘法大師の開基と称す、龍神滝あり高八丈濶三尺。
 毛ごろもを春冬かたまけて出でましゝ宇陀の大野はおもほえむかも、〔万葉集〕
 
三本松《サンボンマツ》 三本松村は近世山辺郡に属したる事あり、今本郡に属し萩原名張間の間駅《アヒノシユク》なり。宇陀川に沿ひ水清く石秀て旅客の詩情画想を発するに足る南に水を渡り山に入る一里室生寺あり。名勝地誌云、三本松の山中に瀑布多し、中にし担《ニナヒ》滝最美なり、字龍口に在り高五丈幅八尺、広瀬旭荘の詩に 「上潭与下潭、浪花散復集、分派蒙巌肩、知人荷担立」と云者是なり、大字滝には三瀑あり。
堀越頓宮址 三本松村大野の西に堀越頓宮址あり、大|向淵《ムコチ》に属す。続日本紀、聖武天皇天平十二年、行幸伊勢国、是日到山辺郡竹谿村堀越頓宮。〔大和町村誌集〕
 
室生《ムロフ》 室生村は三本松の南、内牧の東、曽爾の西に一溪を成す、大字田口室生等あり。山粕《ヤマガス》は地勢曽爾に属すれど今室生村へ入る。室生一に一に※[木+聖]生に作る、室生寺は俗に女高野《ヲンナカウヤ》と称し、其霊異を高野山に比す。
室生寺《ムロフデラ》 室生山中に在り、高峰東北に聳え渓澗三方を繞り、塵外の清境なり。龍穴神の供僧坊にして桓武天皇御願僧賢※[土+景]開基、或は曰ふ僧修円創立、空海重興すと。本堂五重塔慈尊院等数宇あり、其大塔は明治三十一年政府特別保護を加ふ、寺像は観るべき者多し、中にも木造観音一躯国宝簿に登録す。
 
龍穴神社《リユウケツ》 神祇志科云、いま龍王社と云ふ、〔和州旧跡幽考神名帳考証大和志〕光仁天皇宝亀中僧をして延寿法を室生山に修めて東宮の御疾を祈らしむるに即愈給ひき、蓋宝亀九年の事なるべし。後興福寺僧賢※[土+景]室生山寺を創建してより此神殊に霊あるを以て伽藍護法神とす、凡旱災ある毎に龍穴に臨て雨を祈るに神験屡顕る、(承平七年室生山寺奏状)清和天皇貞観九年従五位下穴生龍穴神に正五位上を授け、〔三代実録〕醍醐天皇延喜十年雨を祈るに感応あるを以て従四位下を給ひ、(日本紀略室生寺奏状〕朱雀天皇承平七年、大和少掾藤原善隣を使として幣を奉るに甘雨忽至りき。〔室生寺奏状〕元亨釈書云、慶円屏居室生山、一千日、還過河橋、貴婦人至、儀服甚※[青+見]、而不露面、啓曰願授即身成仏印明、円曰姉誰人也、女曰善龍女也、円附印明、女便騰空中、其爪長丈余、放五色光、倏忽隠没。
 
漆部《ヌリベ》卿 和名抄、宇陀郡漆部郷、訓奴利倍。今曾爾村御杖村にあたると云ふ。〔大和志〕用明紀に小坂漆部造兄あり本郷人なるべし、文霊異記に宇陀郡漆部郷、風流女、難波長柄豊崎宮(孝徳)甲寅年登仙飛化の奇譚を載す、又以呂波字類抄云「倭武皇子、遊※[けものへん+葛]宇陀|阿貴山《アキヤマ》之時、以手牽折木枝、其木汁黒美、染皇子之手、爰召舎人床石足尼曰、此木汁塗干而可献之、床石塗干而献之、皇子大悦、取之令塗翫好之物、以床石足尼任漆部官」と、是は宇陀に漆部を置かれし濫觴ならん。史料通信叢志云、今阿貴山(神戸村)に嬉川原《ウレシガハラ》と云ふ大字あり、応永十二年の古文書に漆河原荘と記せり、倭武皇子漆木を獲たまへる古蹟にや。
山粕《ヤマガス》 室生村に属す曽爾村の上方にして伊勢路之に係る、山粕の北に昇風岳あり山答壁立削成横屏の如し。
 
曽爾《ソニ》 室生村の東に在り 溪水北流して伊賀国に向ふ曾爾谷と云ふ、今曾爾|御杖《ミツヱ》の二村に分る。日本書紀、仁徳巻云、隼別皇子、率※[此+鳥]鳥皇女、逃走于伊勢、吉備品遅部雄※[魚+即]追之、至菟田、迫於|素珥《ソニ》山時、皇子隠草中得免、急走而越山、歌曰
  梯立のきがしき山も吾妹子と二人越ればやすむしろかも
古事記高津宮(仁徳)段、速総別王女鳥汪、逃亡到宇陀之|蘇邇《ソニ》時、御軍追到而殺也。
 
菅野《スガノ》 今|御杖《ミツヱ》村と改む、山駅なり。古事記伝云、速総別王の物し給へりし道は蘇邇より伊勢一志郡の家城村を経て川口に至る筋なり、古の大道は是にや有けむ、川口関此に当る。○御杖《ミツヱ》村は此地|神末《カウズヱ》に延喜式御杖社ありと大和志に記したるに因りて改名したる也、然れども日本書紀垂仁巻には「天皇以倭姫命為御杖、貢奉於天照大神」とあれば、※[たけがんむり+(にんべん+縦棒+のぶん)]畑《ササハタ》頓宮即御杖社なり。
門倍《カドベ》神社は延喜式一に門僕神と曰ふ、今曽爾村大字今井の曽爾明神是也。〔大和志県名勝志〕姓氏録云、門部連、牟須比命児安牟須比命之後也。
補【門僕神社】○奈良県名勝志 門僕《カドベ》神社、僕一に倍に作る、曽爾村大字今井の中央に在り、境内千三百五坪、日本紀に曰く、天武天皇十二年門部直姓を賜ひて連と曰ふと、姓氏録に曰く、門部連は牟須比命の児安牟須比命の後なりと。宇陀郡に属す。
 
国見岳《クニミダケ》 国見山とも曰ふ、曽邇谷と伊勢一志郡界間に在り、蓋古の八十梟帥の拠れる所とぞ。〔大和志〕神武紀云、天皇陟菟田、高倉山之巓、瞻望城中時、国見丘上、別有八十梟帥。按ずるに国見山の位置明了を欠く、古今の異同あるに似たり、三国地志によれば此辺は六箇山郷と称し、最幽僻の里なり。
 
高倉山《タカクラヤマ》 今|高見山《タカミヤマ》と称す、室生村大字|田口《タグチ》の南に在り、標高凡八八〇米突、山粕駅より凡二十町、東は伊勢国飯高郡、南は吉野郡高見村なり、俗に宇陀富士と称す。駅路北麓を山粕峠と云ひ、南麓を高見峠と曰ふ。大和志高倉山は守道《モヂ》に在りと云ふは之に異なり、疑ふべし、神武紀「天皇勅菟田高倉山之巓瞻望城中」と云ふは此なる地形と相合ふ、守道は今政始村に属し遠眺の地に非ず。
斎藤拙堂南遊志云、高見嶺、界勢和、神武帝之東征、向孔舎衙坂(衙或誤作衛今為暗嶺)軍不利、乃転径紀国、向伊勢、由此嶺入大和、故御製中有神風伊勢之語、或以為由熊野、人吉野者非、又帝撃破八十梟帥於国見丘、按国見在高見南、山勢相連、谷川氏謂、国見山在勢伊之界、伊賀見村上方、余遍検図誌、無所謂伊賀国見村者、且勢之界伊処、与国見相距数里、帝之至伊、史亦無明文、此説不可従。
補【高倉山】宇陀郡○奈良県名勝志 所在未詳、或は曰く宇陀郡政始村大字守道にあり、上に望軍の碑あり、高六尺許、是其証なりと、或は曰く此山四面狭隘にして城中を瞻望すべからず、況んや国見岳を望むを得んや、乃州界にある高見山即ち是ならむと。
補【高見山】○奈良県名勝志 旧名高角山、又宇陀富士と称し、吉野郡高見村の東にあり、勢州飯高郡に亘る、高約四千六百二十尺、頂上高角神社あり、両南に冠岩、獅子岩、天狗岩等あり、字ミツカノより登る、凡そ五十町。○今高角神社、吉野郡高見村大字平野に属す。
 
宇賀志《ウガシ》 高見山の西を字賀志村と為す、則神武紀に「頭尋八咫烏所向、遂達于菟田下県、因号其所至之処、曰菟田穿邑。注曰穿邑此云|于介知《ウカチ》能務羅」とある者是也、大字宇賀志存す。古事記に「於宇陀、有兄宇迦斯、弟宇迦斯二人」とあれば、書紀穿邑は本より地名にして其梟帥の負へる号なり。
血原《チハラ》 神武紀云、兄猾(兄宇迦斯)陳屍斬之、流血没踝、故号其地曰菟田血原。大和志之を以て高倉山の北に在りと為す、今室生村上田口に属す、古事記伝之を疑ふも其以なきに似たり。
日張山《ヒバリヤマ》 字賀志村大字字賀志の東に在り、高倉山の西南一里とす、山中に青蓮寺あり、俗に中将姫の古跡と云ふ。
駒帰《コマガヘシ》 字賀志村大字駒帰に辰砂水銀の鉱産あり。
佐倉《サクラ》神社は延喜式に列す、宇賀志村大字佐倉に在り、境内一株八幹の老杉樹存す。〔県名勝志〕
 
宇陀《ウダ》 宇陀村は字賀志村の西に接す、大字|古市場《フルイチバ》を首邑とす、古市場は戸数二百あり、延喜式宇陀水分神社鎮座す。
宇陀水分《ウダノミクマリ》神社は三代実録貞観元年授位、大和志に榛原村大字井足に在りと為せど彼社は水分と謂ふべき地に非ず、古市場《フルイチバ》の社は老樹鬱立、祠堂亦古雅なり、内務省鑑定して四百年外の建造と為し維持費を給す、宇陀川の上游水浜に居る、状態想ふべし。
大神《タイシン》ば宇陀村の大字にて古市場の北に在り、延喜式|神御子《ミワノミコ》美牟須比命神社此に在り、今は古首《コス》神と曰ふ。〔大和志〕
補【宇陀水分神社】○神祇志料 今下井足村にあり(大和志・名所図会)天之水分神国之水分神を祭る(古事記・延喜式)崇神天皇御世神教に従て赤盾八枚、赤矛八竿を以て墨坂神を祀りき(日本書紀・古事記)墨坂神は蓋宇太水分神也(参酌日本書紀・延喜式大意)平城天皇大同元年神封一戸を充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より正五位下を授け九月庚申、幣使を差して雨風を祈り給ひ(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣に預る、即祈年祭水分四神の一也(延喜式).凡そ六月十八日九月廿一日祭を行ふ(奈良県神社取調書)○榛原村井足。
 
伊那佐《イナサ》 宇陀村の西南に接し内牧村の南なり。大和志|山路山《ヤマヂヤマ》を以て神武帝御歌に見ゆる伊那佐山に充てたるに由り、近年此名立つ。古事記伝は之を採らず、伊那佐山は墨坂の別名ならんと曰へり。延喜式、都賀那木《ツガナキ》神社、伊那佐山の上に在り、是亦大和志の説なり。
補【伊都佐山】○奈良県名勝志 宇陀郡伊那佐村大字山路にあり、高約四十丈、神武天皇紀の所謂伊那佐能瑳摩能とは即此なり、山上に都賀那木神を祭る、字三薮より登る、凡そ十七八町。
都賀那木神社 伊都佐山の上にあり、日本紀に応神天皇二十年秋九月、倭漢直の祖阿知使主其子都加那使主並に己の党類十七県を率て焉に来帰す。
 
八咫烏《ヤタガラス》神社 山路山の西面に在り、宇陀村大字高塚に属す。神紙志料云、八咫烏《ヤタガラス》神社旧鷹塚村にありてをところすの社と云、今其旧址僅に存れり、〔和州旧跡幽考大和志神名帳考証古事記伝〕神魂命の孫鴨建角身命を祭る、〔参取日本書紀続日本紀姓氏録釈日本紀〕初神武天皇中州に入坐時、此神八咫烏となり虚空より飛翔りて皇軍を導き奉り大なる功を著し給ひき、〔日本書紀古語拾遺〕文武天皇慶雲二年九月八咫烏社を宇太郡に置て之を祭らしむ即此神也。〔続日本紀〕太平記に、昔大和国宇多森に鬼神ありて人を害す、頼光朝臣の従者渡辺綱之を打取鬼の手を斬りたる事見ゆ、今高塚の辺に大字|母里《モリ》あり、此即宇多森にあらずや。
補【八咫烏神社】○奈良県名勝志 伊都佐村大字高塚字八咫烏に在り、神武天皇戊午の年、夢に天照大神天皇に訓して曰く、朕今頭八咫烏を遺し、宜しく以て嚮導者と為すとは即此神なり、続日本紀に曰く、文武天皇慶雲二年九月丙戊、八咫烏社を大和国宇陀郡に置て之を祭ると、傍に石造の祠あり、高三尺許、境内伊那佐山と対し、眺矚絶だ佳なり、但登路険悪、頗攀路に苦しむ。
補【宇多森】○五鈴遺響 太平記三十二、大和国宇多森に鬼あり、人を害す、源頼光は渡辺綱に命じて此鬼を伐たしむ、重代の太刀を賜る、鬼の手を切て頼光に見参す。○伊那佐村母里。
 
伊福《イブキ》郷 和名抄、宇陀郡伊福郷。此郷名今某所を失ふ、宇陀村字賀志村伊那佐村などにあたるか。伊那佐村大字|福西《フクニシ》あり、伊福西の遺称にあらずや。(三代実録、貞観四年播磨人雅楽寮笛生伊福貞、復本姓五百木連云々)
 
浪坂《ナムサカ》郷 和名抄、宇陀郡浪坂郷、訓奈無佐加。此郷名今某所を失ふ、松山町神戸村政始村にあたるか。続日本紀「和銅六年、宇太都浪坂郷人、得銅鐸於長岡野地」とあり。
岡田小秦命《ヲカタノヲバタノミコト》社は延喜式に列す、今政始村大字小和田に在りと云。〔大和志〕岡田は波坂村長岡の地か。続紀「和銅六年、波坂郷人、得銅鐸於長岡野地、而献之、高三尺口径一尺、其制異常、音協律呂」。
 
守道《モヂ》 近年|政始《セイシ》村に改む。吉野郡龍門山の脈を以て南方を限り、高見村|鷲家《ワシカ》に通ずる山路あり。大和志は神武天皇登望の高倉山は守道に在りと云ひ、神祇志科亦|高角《タカツノ》神社〔延喜式〕守道の字高倉に在りと為す、然れども高見山(今吉野郡高見村)にも高角神社あり、登高瞻望は彼地相勝れるを覚ゆ、後の考慮を期す。
 
吾城《アキ》 吾城は延暦儀式帳阿貴に作り、万葉集安騎野と云ふも此か、(万葉に詠ぜるは吉野の地か)今松山町近傍の総名にして、和名抄浪坂郷にあたる如し。天武紀壬申乱の条に「王駕自吉野発、入東国、即日到菟田吾城。又白鳳九年、幸于菟田吾城」とあり。 
秋山《アキヤマ》 松山町の南に接し一丘あり、丘上寨址あり秋山城と称す。天文の頃土豪秋山氏の居と云ふ、今神戸村大字|拾生《ヒロフ》に属す。万葉に見ゆる安騎野は此なるべし、中世宇陀狩場といふ、謡曲国栖云、身を秋山や、世の中の、宇陀の御狩場よそに見て、男鹿伏なる春日山、みかさぞまさる春雨の、音はいづくぞ吉野川云々。又以呂波字類抄に阿貴山に作るも此を指す。
   軽皇子宿于安騎野時、柿本朝臣人麿作歌、
 阿騎の野にやどる旅人打なびきいもぬらめやも古へおもふに、〔万葉集〕
大和軍記云、宇多郡の秋山は筒井順慶の縁者にて、一度順慶此人を頼み、字多へ引込み終に運を開き候。
 
松山《マツヤマ》 松山町は戸数四百、宇陀郡の小都会なり、天正年中多賀氏此地に築城したるより、元禄年中まで封侯相承したり
 
松山城《マツヤマノシロ》址 神楽岡と称す、初め多賀秀種(豊臣氏の将堀秀政の弟なり)此地に封ぜられ二万石を領す、子出雲守秀家慶長五年西軍に属し除封と為る。福島正頼(正則弟)之に代り三万石を賜はりしが、元和元年故あり除封、織田内大臣信雄更に本地五万石を食み子孫此に住す、元禄八年伊豆守信武に至り丹波柏原へ移り、松山城廃す。
                                
甘羅《カンラ》 松山城は旧名|神楽岡《カンラヲカ》と云ふ 廿羅と云も吾城の地なれば此なるべし。天武紀云、車駕発吉野、到菟田吾城、過甘羅村、有※[けものへん+葛]者二十余人、則喚令従駕、逢駄馬於郡家。姓氏録云、大和諸蕃|蘰《カツラ》連、出自百済人狛也。
 
神戸《カンベ》 今神戸村立つ、大字|迫間《ハザマ》に神部明神あり、昔伊勢神宮の封邑なり、大神宮諸雑事記云、垂仁天皇時、天照坐皇太神天降坐於宇陀郡、于時国造進神戸等、今号宇陀神戸是也。神鳳抄云、宇陀神戸、卅七町白布廿一段。
阿紀《アキ》神社は神戸村迫間に在り其地を神楽岡と云ふ、延喜式に列し垂仁天皇の御宇皇女倭姫命天照大神の宮処を求め美和より宇太阿貴に移り、次に※[たけがんむり+(にんべん+縦棒+のぶん)]畑宮に赴きたまふ事延暦儀式帳に見ゆ。
剣主《ツルギヌシ》神社は延喜式に列す、今神戸村大字|宮奥《ミヤオク》の白石明神是なり、神殿の背に広三席ばかりの巨石横たはる、所祭詳ならずと云。〔県名勝志〕
補【阿紀神社】○宇陀郡神戸村大字迫間字神楽岡に在り、境内千三百八十六坪、里人神戸明神と称す、日本紀に載す、神武天皇厳※[分/瓦]を造作して丹生川上に陟り、用ゐて天神地祇を祭るとは即此、本社宝物中天国作の太刀長二尺一寸。○神祇志科 今迫間村阿紀にあり、神部明神と云ふ(大和志・名所図会・奈良県神社取調書)蓋伊勢大神也、垂仁天皇の御世皇女倭姫命、大神の宮処を求めて美和の御諸宮より宇太阿貴宮に座せ奉る時に倭国造神田神戸を奉りき(延暦儀式帳・倭姫世記)所謂宇陀神戸是也、故に今に至まで此地猶祭料米を奉ると云(神鳳砂、参取延暦儀式帳解)
 
男坂《ヲノサカ》 神戸村大字|半坂《ハンザカ》蓋是なり、西に踰ゆれば磯城郡|忍坂《オサカ》の栗原に出づべし、忍坂即大坂の義あれば男坂は小坂なるべし。神武天皇の時虜の陣し故跡なり、中世又|波津《ハツ》坂と云ひ今|半坂《ハンザカ》と呼ぶ。旧説女坂も男坂の近傍に在りと為せど詳ならず、延喜式昧坂の名ありて、今内牧村大字|荷坂《ミノサカ》にあたる如し。
咲岳《ワラヒヲカ》 半坂の南に大字嬉河原あり此地か。奈良県名勝志云、神武紀、椎根津彦弊衣服及び簑笠を著け老父の貌を為し、又弟猾箕を被り老嫗となり天香山に至る、群虜二人を見て大に之を咲ふと、後人其地を指して咲岳と称すと云ふ、今其所在詳ならず、或は曰ふ宇陀郡神戸村大字嬉河原の西南方に小字ワラヒと云ふ処あり即是なりと、未だ当否を知らず。
 
波津坂《ハツサカ》 今の半坂是なり。元弘三年正月官軍蜂起し、和泉国熊取地頭木本宗元は護良親王の令旨に応じ此に戦ふ事古文書〔史学雑誌〕に見ゆ。木本宗元、最前参御方、致合戦忠節、就中出羽入道寄来吉野御所之時、奉属大将中院少将家、馳向大和国字多郡波津坂、致合戦忠節之条、兵部卿親王家御感、令旨炳焉。
補【神戸】○奈良県名勝志 女坂 日本紀曰、女坂に女軍を置くと、今所在未詳、或は曰ふ、宇陀郡神戸村大字麻生田にありと、或は曰ふ、同村大字宮奥の地これなりと、未だ執れか是なるを知らず。
男坂 同村大字半坂にあり、同書に載す、男坂に男軍を置くとは即此嶺、上に至る凡そ十七八町。
補【波津坂】○史学雑誌 元弘三年正月、北条勢は天王寺に到着せしが、其後其近傍に於て小戦あり、勝敗決せず、官軍は進て吉野山の東北なる宇陀郡に於て賊軍を逆撃せり、湯浅宗元訴状に云々〔略〕○神戸村大字関戸、又大字半坂、磯城郡外山へ通ず。
 
    吉野郡
 
吉野《ヨシノ・ヨシヌ》郡 吉野或は芳野に作る、大和南部の大郡にして紀伊川《キノカハ》の上游(即吉野川)の地なり。十津川卿北山卿の地は更に其南に在り、地勢相異なりと雖本郡に隷す。宇智郡は吉野の西部を割きたる者にして本郡と一塊を成す、面積約百三十方里、土俗|奥郡《オクノコホリ》と云ふ。
神武天皇熊野より嚮導を得て其軍を吉野河の河尻に進めたまふ事古事記に見ゆ、当時十津川の重嶺深谷を陟絶したるや想ふべし、日本書紀に菟田穿より吉野を巡幸すとあるは誤れるに似たり。応神天皇吉野に離宮を置きたまへるより歴世其設あり、故に元正天皇の時|芳野監《ヨシヌノツカサ》と為し国郡以外の行政区と為る、聖武天皇の時監を廃し郡に復す。国郡沿革考云、芳野郡の名は続日本紀和銅四年に初出し、元正天皇の時|芳野監《ヨシノゲン》と改め和泉と共に二監と称す、離宮あるを以て監の官職を立つ、霊亀二年和泉監を置かるれば此前後に建置せられしならん「天平四年七月、令両京四畿及二監、依内典以請雨焉、十二年、廃和泉監」と、芳野監も此比に停止せられし也。
荘園考云、大館高門所蔵無題古文書に日本国六十七とありて、和泉国佐渡国を挙たれば天平宝字元年和泉国を立られし後に記せる者と見ゆ、然るに芳野監芳野国郡二郷三里九とあるを思ふに、芳野国と云がありける故に六十七国なりしなり、大和を大倭とかき去京里程はなく山城を山代とかき去京行程半日とあるにて、延暦以前奈良の朝の事なるを知る。延喜式、和名抄、吉野郡、訓与之乃。或は三吉野と呼ぶ、雄略帝の歌に美延斯乃《ミエシヌ》と詠じたまふ、美は発辞にて異義あるに非ずと曰ふ。日本紀万葉集には曳之努《エシヌ》又与之努|余思努《ヨシヌ》なりと書す。吉野には神武帝巡幸の比|井光《ヰヒカ》国栖《クズ》の二族あり帰伏す、井光の後は吉野連と為り、続日本紀続日本後紀に其氏人載せられ郡領に任ず、国栖は国栖部と称し中世まで其異俗を持せり。
吉野十八郷の名は太平記赤松記に出でたれど其郷名詳ならず、和名抄四郷は吉野川沿岸に止まり、僻遠なる十津川郷北山郷は未だ録せざりしに似たり、今上市町外十四村十津川郷九村、北山郷二村と為る、郡衙は上市に在り。
新刊の一冊子に曰く、吉野山林は方今幽蔭※[くさがんむり+會]蔚雲興霞起して其観最盛なり、此杉檜の造林は三四百年来の事に過ぎずと云ふ、或は其良種を薩摩土佐より伝へたりと説き、川上《カハカミ》村の杉檜栽培を文亀年間に起ると為す者あり、然れども川上の五社峠の三本杉は各周囲二丈、其大さ牛を蔽ひ其寿四五百年を下らず、蓋吉野の山谷古より天生の杉檜なかりしに非ず、造林の術亦自此に出でしのみ、近年の統計書を見るに吉野郡に官有林なし、其民林毎歳の売高は百六十八万円の多きに達す、此造林地には古来五郷組合と称する団結あり、川上中荘黒滝西奥の五組にして、造林及び林木の流出販売等の改善を謀れり、又所有権の事に就きては大抵林地と林木は其主を異にす、地主は村落の共有あり富家の私有ありて林木の栽培は別に木主の在るあり、地主の政府に納むる租銀を山手と称し、木主の地主に私ふ料銀を歩一又は歩口と云ふ、是材木販与の価銀中百分の五乃至十許を地主に納るれば也、而て此地主木主の利害を計較するに、村落人民を地主とせる木主の造林を最善美と為すがごとし、又地主木主の貸借を計較するに、年期貸借の法は大に不可なり、謂ゆる立木一代限〔五字傍線〕の慣習こそ便利なれ、何則、凡吉野の林齢は七八十年より百二三十年を大法とす、若し短期にして伐木を急がば木主地主共に利益なし、長期にして造材需用の時機に投合し易からしめば、木主地主共に多額の収益を得れば也、十津川郷は吉野に属すと雖、造材流出の上に於て損失多ければ、林業盛大ならず、吉野河沿岸の独り森々たるは、紀川の漕運自在なるに因る、封建の時世に当り、和歌山藩は吉野の下游|岩出《イハデ》村に関を置き、木材通過の税百分十を徴したり、之を口役と称せり、明治維新後、口役の関税を除却せらる。
 斐太《ヒダ》人の真木流すてふ爾布《ニフ》の河ことは通へど船は通はず〔万葉集、今按に斐太人は造材者の古名か、爾布は山林の別名か〕
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賀美《カミ》郷 和名抄、吉野郡賀美郷。今高見村龍門村上市町等吉野川の上方の地にあたるか。北并に東は山嶺を以て限る、即宇陀郡及伊勢国飯高郡なり、高見山東北隅に峙つ。
 
高見《タカミ》 高見山は一名|高角山《タカツヌヤマ》吉野川の北支源小川《ヲガハ》之より出て、国樔村に至り川上川に会し初めて大なり、此間五里許、高見小川の諸村散布す。
高角《タカツノ》神社は延喜式宇陀郡に列す、神武天皇熊野より進軍したまふ時嚮導たりし八咫烏本名建角見命を祭る、今高見大字平野に在り土人|水分《コモリ》神と称す。
補【高角神社】○奈良県名勝志 高見村大字平野にあり、里人水分社と称す、姓氏録に曰、神魂命の孫鴨建津見命、化如大烏、翔飛奉導、速達中洲、時天皇嘉其有功特厚褒賞、八咫烏之号従此始也と。延喜式二座宇陀郡に載す、今吉野郡に移載す。
 
小川《ヲガハ》 是中世荘名にして、今の高見小川四郷の三村にあたる、高見山の山中瀑布あり小川瀑と呼び、其末国樔に至るまでを小川と呼ぶ。
 
鷲家《ワシカ》 高見村の首邑にて、宇陀郡より上市下市に通ずる駅舎なり。文久三年天誅組の浪士此地に来り諸藩兵の囲む所と為り遂に散亡に帰す。藤本鉄石忠烈碑(吉野村如意輪寺建立)云、鉄石常歎皇威之不振、慨然以天下之事、為己任矣、文久三年癸亥秋九月与同志士五十余人、奉侍従中山公忠光、挙兵於十津川、先生実為之総裁、幕府遣兵来攻、二十五日、大戦於鷲家村、遂死之、時年四十有八、其臨戦也、従容賦国詩、以精神貫磐石自説云、後五年、大政復古、雖頼先帝在天之霊、抑亦先生首唱之功、与有力為、朝廷嘉其忠烈、為追思之。
 
※[くさがんむり+解]岳《アザミダケ》 四郷村大字|麦谷《ムギタニ》に在り、高見村の南にして川上村の北に聳ゆ。元亨釈書に、「良算上金峰山、住※[くさがんむり+解]岳《アザミダケ》、数十年、持法華、鬼神出現、供果爪、猛獣毒蛇、皆悉馴伏」とあるは此か。〔名所図会〕
 
龍門《リユウモン》 高見村の西に接し、上市村に至る間を龍門村と為す、古の龍門牧又龍門荘の地なり。北に龍門山を負ひ、吉野川に臨む、大字柳村山口の二を首里とす。東鑑云「文治元年、源義経赴大和国字多郡龍門牧以来、一日片時不住安堵之思」この宇多郡は比隣の地なれば誤記したるか、義経の幼時母常盤に抱かれ此里に隠れたること平治物語に見ゆ。
   過龍門里、在宇※[こざとへん+施の旁]郡、常盤抱牛若避難処、
 満天飛雪暗荒村、懐裡孤雛泣凍喧、他日嶄然頭角現、始知此地是龍門、 斎藤拙堂
龍門郷山口村に古文書あり、正平三年本郷百姓愁訴状を載す、此の大頭入衆日記は春日講の頭をなす順帳にして、上冊は正平二年乙丑に始り大永八年にいたり、下冊は享禄二年乙丑に起り天正十二年甲申にいたる、みな古き反古を返して帳につゞりしものにして、本文を載する申状もかの帳の裏に見ゆるものなり、扨又龍門郷は此時まで南都興福寺の領地なり、しかるに後醍醐天皇この山に入らせ給ふよりのちは勅命にしたがひ租税を行宮に納め来れり、しかるに内裏は師直が為に焼失ありしゆゑ、穴太といふ所へ皇居を移されしうへは、龍門郷の租税を以前の如く興福寺へ納むべきとし、彼寺より下知す、されども行宮よりも勅ありて今の御所へ参らすべしとあるゆゑ、百姓等双方へ役をつとむる事を難義におもひ、愁状を捧し者なりと。
 
龍門寺《リユウモンジ》址 龍門村の山口の上方に在り、元亨釈書義淵法師の興立と為す、飛泉あるに依り此名を命じたるならん。今昔物語云、今は昔何れの時にや、大和高市内裏の時、当国吉野郡龍門寺に籠り法を行て仙となりたる久米と云者あり、空に飛行しけるが、吉野川の辺にて若き女の美なるが衣を洗へる脛の白を見て、心まよひつゝ女が前に落ぬ、則其女を妻として住侍る、其より仙人とは呼ぶ也。扶桑略記、〔三代実録〕元慶四年云々太上天皇落飾入道、寄事頭陀、意切経行、便欲歴覧名山仏※[土+龍]、於是始自山城国貞観寺、至大和国東大寺香山神野比蘇龍門大滝、摂津国勝尾山、諸有名之処、経廻礼仏、或処留住踰旬乃去。又治安三年、入道相国(道長)次龍門寺、于時仙洞雲深、峡天日暮、青苔岩尖、湊布泉飛、礼仏之後、留宿上房、霜鐘之声屡驚、露枕之夢難結、昔字多法皇詠卅一字於仙室、今禅定相国挑五千燈於仏台、岫下有方丈之室、謂之仙房、菅※[極−木]相都良香之真跡、書于両扉、前総州刺史孝標者、菅家末葉也、誤以仮手之文、忝書神筆之上、悪其無心、消以壁粉、其外儒胤成業者、又並拙草、衆人嘲之。
 
龍門滝《リユウモンダキ》 山口と柳村の間に在り、即龍門寺址の地なり。
   大和に三月ばかりすむに、さう/\しく寺めぐりせんと思ひてありきけるに、りうもんと云寺に詣でて、む月の十日あまりになん有ける、見れば其たきの有さまは雲の内より立くる様に見ゆ、仙の窟と云はいたく年つもりて、岩の上の苔八重むしたり、哀に覚えて、
 たちぬはぬ衣きし人もなきものを何山姫の布さらすらん、〔伊勢家集〕
 雲見えて人まどはすは流れ出し龍の門よりきたる水かも、 素性法師
龍門《リユウモン》山、懐風藻云、葛野王子淡海帝之孫、大友太子之長子也、母浄御原之長女十市内親王、器範宏※[しんにょう+貌]、風鑑秀遠、材称棟幹、地兼帝戚、少而好学、博渉経史、頗愛属文、
   遊龍門山一首
 命駕遊山水、長忘冠冕情、安得王喬道、控鶴入蓬瀛。
吉野山口神社は三代実録延喜式に列す、龍門村大字山口に在り。又本社境内に高桙《タカホコ》神社あり、延喜式に列し古は龍門山の巓に在りし者と云。〔大和志〕
 
津振川《ツブリカハ》 龍門寺大字|津風呂《ツブロ》は山口の南にして渓に沿ふ、日本書紀、天武巻云、大海人皇子発途東国、事急不待駕、乃皇后載輿従之、逮于津振川、車駕始到、即日到菟田。往時の行径は津振より牧村を経て龍門山を踰えしならん。
 
妹兄山《イモセヤマ》 国樔《クズ》村宮滝の西、上市町の東、吉野川を挟み相対せる丘陵の名なり。北峰を茂山《モヤマ》と呼ぶ即|妹山《イモヤマ》なり、三代実録授正一位大名持神社此にあり、蓋古歌に神ありて妹兄山を造れる由詠ずるに依り此祠を起し、下流に別に兄山あるを以て或は此地の兄山洪水に漂はされて彼に到るなど、古来雑談多し。
大名持《オホナモチ》神社は延喜式名神大社に列す、妹山に在り境内に大海寺あり、又|潮生《シホフ》淵あり、鹹水涌出す。〔名所図会〕今龍門村大字河原屋。
 大名持少名み神の作れりしいもせの山を見るぞうれしき〔拾遺集〕 柿本人麿 〔万葉集読人不知〕
和州巡覧記云、上市より龍門へ入る谷口吉野川の両傍に水を隔てゝ双山あり、飯貝(今吉野村大字)に在るを背山と云ひ西也、龍門の方を妹山と云ふ東也、是は茂山《モヤマ》なり、共に高からぬ同大の山相むかへり、古歌に詠ぜる名所なり云々。○按に顕昭袖中抄に万葉集紀の国の妹背の山とよめるを以て妹背山紀伊に在りと曰ふ、また元明天皇阿閉皇女と号ひ給ふ比の詠に「越|勢能山《セノヤマ》時御作歌」と題し、
 是れやこの倭にしては我こふる木路に有とふ名に負ふ背の山〔万葉集〕
と見ゆ、歌意を推せば古より唱ふる諺に「紀伊の妹背山」と云者も実は吉野即大和国の中なりとて其事に附けて懐を述べたまへるなり、日本紀に京畿の南限は紀伊|兄山《セノヤマ》とありその名著るれど、此兄山と云は伊都郡笠田村の中流の孤島にて、妹兄相并ぶ地形にあらず。
 兄の山にたゞに向へる妹の山ことゆるすやもうち橋わたす、〔万葉集〕人ならば親のまな子ぞあさもよし紀の川のべのいもとせの山、〔同上〕
など皆吉野なるべし、而も当時已に「紀伊の妹背山」てふ諺ありて、兄山の方をば専一に詠じたるごとし、彼地は南海往反の通路にて人々の詠吟も多くありし如し、之を要するに同名両地と判断すべきか、後世にも古今集続後拾遺集には吉野たるべき証歌を載す。
 流れては妹背の山の中に落る吉野の川のよしや世の中、〔古今集〕 読人不知
 流れてもうき瀬な見せそよし野なるいもせの山の中がはの水、〔続後拾遺集〕 行家
 
上市《カミイチ》 吉野川の北岸に在り 吉野村と水を隔てゝ相望む、戸数三百、小水駅なり、上市町と称す。北なる山を千股山《チマタヤマ》と曰ふ、万葉集宇治間山は此とぞ、名所図会及び略解の説也。
 宇治間《ウヂマ》山あさ風さむし旅にしてころも借るべき妹もあらなくに、〔万葉集〕 長屋王
 
那珂《ナカ》郷 和名抄、吉野郡那珂郷。国樔村の辺を中荘と称するは那珂郷の遺か、然らば国樔村吉野村川上村にあたる。
 
国樔《クズ》 又国栖に作る、此地古代穴居異習の土民在り国樔と号す、中世に至るまで雑糅せず、其後形跡全く亡び唯葛根に名を存するのみ。国樔村は吉野川に跨り龍門の南、金峰の東に在り、応神以降聖武帝に至るまで離宮の在りけるは即此地に属す。郵便局は新子《アタラシ》に在り。
日本書紀云、神武天皇親率軽兵、巡幸吉野、有尾而披磐石而出者、天皇問之曰、汝何人、対曰臣是磐排別之子、此則吉野国樔部始祖也。姓氏録云、大和地祇国樔、出自石穂押別神也、神武天皇行幸吉野時、川上有遊人、于時天皇御覧、即人穴、須臾又出遊、窃窺之喚問、答曰、石穂押別神子也、爾時詔賜国栖名、後孝徳天皇御世、始賜名人国栖意世古、次号世古、二人、允恭天皇御世、進御贄、仕奉神態、至今不絶。日本書紀云、応神天皇幸吉野宮、国樔入来朝、因献醴酒干天皇、而歌之曰、云云歌訖則打口以仰咲、今国樔献土毛之日、歌訖即撃口仰咲者、蓋上古之遺則也、天国樔者其為人甚淳朴也、毎取山菓食、亦煮蝦蟇為上味、名曰毛瀰、其地自京東南、而居于吉野川上、峰嶮谷深、道路狭※[山+獻]、故雖不遠於京、本希朝来、自此之後、屡参赴、以献土毛、其土毛者栗菌及年魚之類焉。延喜式云、践詐大嘗祭、宮内官人引吉野国栖十二人、楢笛工十二人、入自朝堂院東腋門、就位奏古風。延喜式又云、吉野御厨、年魚鮨火干、従四月至八月、月別上下旬、各三担、吉野御贄所進、蜷并伊具比魚煮凝等、随得加進。
 国栖どもがわか莱つまむと司馬《シバ》の野のしば/\君を思ふこのごろ、〔万葉集〕勝地吐懐編に契沖師「司馬は奥義抄にしめの(標野又禁野)とよめるは非なり、しば/\とうけたるに叶はず」と述べたり、蒿渓子頭注に国栖等を仙覚抄にクニスラと訓み、契沖師クズドモと言はる顕昭袖中抄にはクズヒトとよめり、仙覚の鋭は心得がたし、按にクニス・クズ・シバノ・シメノ古言通用にや。源平盛衰記云、吉野の国栖とは舞人なり、国栖とは人の姓なり。浄御原天皇大友皇子に襲はれて、吉野の奥に籠りまし/\けるに、国栖の翁栗の御料にうぐひと云魚を具して供御にに備へ奉る、後天皇御位につきたまふてより以来、元日の御祝には国栖の翁参りて、桐竹に鳳凰の装束を賜て舞とかや、豊明の五節にも此翁参りて、栗の御料にうぐひの魚を奉る也。古事記伝云、続紀(卅一)外従五位下国樔小国あり、小右記に「寛弘八年正月一日、無国栖奏、依不参上也、近年如之、是大和守頼親時被調、已不参上」とあり、此程より参上絶たるも江次第盛衰記等に国栖人の見ゆるは其|調《マネビ》のみなり。
 うぐひすや国栖の翁の笛の弟子、 貞室
按に諸国に栗栖《クルス》小乗栖の地名多し、和名抄に郷名あり万葉以下の古歌にも此名見ゆ、蓋栗林の地にして其郷民は秋実を採り、之を貢献するを例とす、即一種の山民なり、而して之を久留須と呼ぶは栗林に栖むと云義にはあらず、語源自ら異なり、クズの転りに非ずや。
紀伊国栖原浦に久授呂宮《クスロノミヤ》あり、社伝に国栖人の吉野より来りて祭れる者と為し、今|国主《クニヌシ》宮と訛る、此栖原は持統紀那耆野と載せられたる禁野にて、仁寿四年東寺真済大徳の田券に在田郡野村栗栖林と記せる地なりとぞ、亦国栖栗栖の同言たるを証すべし。
 
吉野宮《ヨシノミヤ》址 吉野離宮は蓋二所あり、一は国樔村大字宮滝にして一は下市村なり、然れども下市の徴証明白ならず。「応神天皇、幸吉野宮時、国樔人来朝、雄略天皇、幸于吉野宮」〔日本書紀〕是時の行在詳にし難し、但雄略帝の河上|蜻蛉《アキツノ》小野に幸せるに考合すれば皆宮滝の蜻蛉宮か。斉明天皇二年吉野宮行幸、此より天武持統文武元正聖武の行幸は書紀続紀及万葉集に見ゆ。
 よき人のよしとよく見て好しといひし芳野よく見よ良人よくみつ、〔万葉集〕
 
蜻蛉野《アキツノ》 大和志|蜻螟《セイメイ》滝の地に充てたれど鑿説のみ、万葉集蜻蛉宮あり今宮滝にあたれば蜻蛉野亦此なり、河上小野と詠ぜる亦同所とす、下市村の秋の野或は蜻蛉野と同じからんと曰ふも明徽なし。(中世和歌者流は蜻蛉野は形《カタチ》野ともよみたりと云)
   雄略天皇、吉野幸于河上小野、命虞人駈獣、欲躬射待、虻疾飛来、※[口+(潛−さんずいへん)]天皇臂、於是蜻蛉忽然飛来、囓虻将去、天皇嘉厥有心、号曰云々因讃蜻蛉、名此地、為蜻蛉野、
 野磨等の、〔古事記美延斯怒乃〕嗚武羅の岳に、獣《シヽ》ふすと、誰か此事、大前《オホマヘ》に申す、大君はそこを聞かして、玉纏きの呉床《アグラ》にたゝし、しづ巻のあぐらにたゝし、獣待と朕《ワガ》いませば、手腓《タクブラ》に虻《アム》かきつきつ、其虻を蜻蛉はやくひ、這虫も大君にまつらふ、汝《ナ》が形《カタ》はおかむ、あきつしま野磨等、〔日本書紀〕
   養老七年発亥夏五月、幸子芳野離宮時、笠朝臣金村作歌、
 滝の上の、御舟の山に、水枝さし、しじに生ひたる、刀我の木の、弥継々に万代に、かくし知らさむ、三芳野の、蜻蛉の宮は、神柄か、貴かるらむ、国柄か、見がほしからむ、山川を、清みさやけみ、諾《ウベ》し上代ゆ、定めけらしも、〔万葉集〕
嗚武羅岳は大和志小村山(今小川村大字小村)に擬したり、当否詳にし難し、御舟山は宮滝の上に其名存す。
  幸于吉野宮時、弓削皇子贈与額田王歌、
 古へに恋る鳥かも弓絃葉の御井の上よりなきわたり行く、〔万葉集〕
略解云、弓絃葉《ユヅルハ》井は蜻蛉離宮の辺に在るべし、御父天武帝の暫入おはせし所なれば、かの姪王も同く恋奉られむ、故に贈り給ふなるべし。
 
吉野川《ヨシノガハ》 二源あり、北支源は高見山に発し小川《ヲガハ》と称す、南支源は川上川と称し大台原山に出づ、西北流七里国樔村に至り小川と合し、西流上市下市五条等を経て紀伊国界|真土山《マヅチヤマ》に至る八里、尚西赴十三里和歌山市の西北に至り海に入る。吉野諸村、材木を山林に採り水を利用して和歌山に降下し、海上諸州へ販与す、本郡第一の富源とす。古歌に「吉野川其水上を尋ぬれば葎かしづく萩の下露」と詠る如く、源は一所にあるべからず、土俗曰ふ此山中西風には東方へ水多く流れて伊勢の宮川嵩まさり、東風吹けば吉野川あふれ、北風には熊野川(十津川)水多しと。
 隼人の湍門のいはほも年魚はしる芳野の滝に尚しかずけり、〔万葉集〕
吉野川は山中飛泉多し、宮滝大滝は幹川の石に激し急湍と為る者にして、最雄観なり。
遊副川《ユフガハ》は吉野川の一名なるべし、万葉集吉野宮長歌に「遊副川の神も大御食に仕奉ると上津瀬に鵜川を立て下つ瀬に小網《サデ》さし渡し」云々と見ゆ、略解は宮滝の末に遊川《ユガハ》野ありと記す、或は結八川《ユフヤガハ》に作る。
 妹が紐結八川内をいにしへの※[にんべん+叔]人見きと此をたれか知る、〔万葉集〕懐風藻の詩句八石洲笛浦琴淵等の勝景あり、吉野川の中ならん、八石《ヤシ》は今国栖村大字|矢治《ヤヂ》あり転訛したる者か、夢淵は下市に其名寄す、笛浦琴淵は詳ならずと雖笛浦は延喜式国栖村に楢の笛工あり、今国栖村|楢井《ナラヰ》の住民なるべし、笛浦の名之に因るか、琴淵は雄略帝歌舞の故典に因る如し。
   天皇幸行吉野宮之時、吉野川之浜、有童女、其形姿美麓、故婚是童女、而連坐於宮、後更亦幸行吉野之時、留其童女之所遇、於其処立大御呉床、而弾御琴、令為※[にんべん+舞]其嬢子、作御歌曰、
 呉床居の神の御手もちひく琴に舞するをみなとこよにもがも、〔古事記〕
  和藤太政佳野之作 葛井広成
 物外囂塵遠、山中幽隠親、笛浦※[てへん+妻]丹鳳、琴淵躍錦鱗、月後楓声落、風前松響陳、開仁対山路、猟智賞河津、
  従駕吉野宮 吉田宜
 神居深亦静、勝地寂復幽、雲巻三舟谿、霞開八石洲、葉黄初送夏、桂白早迎秋、今日夢淵上、遺響千年流、
 
宮滝《ミヤタキ》 国栖《クズ》村大字宮滝は北岸なり、古の蜻蛉野にして吉野川此に至り急湍と為り、石出て水蹙む、古来遊賞の勝地、殊に離宮の在りけるを以て、宮滝の名あり。名所図会云、宮滝は懸泉に非ず、吉野川の両岸に大岩あり、高五間許巨水其間に狭められ一丈八尺許と為る、其景絶妙なり。
 扶桑略記、昌泰元年十月廿二日、太上天皇進発直向宮滝、廿四日過現光寺、礼仏捨綿、別当聖珠捧山果、煎香茶、以勧饗侍臣、上皇進行留宿於吉野郡院、廿五日遂至宮滝、愛賞徘徊、不知景傾、其滝之為体、広袤二三町、勢非峻嶮、其※[石+良]※[石+盍]急流之色、如崩積雪、有勅曰勝地不可空過、以観宮滝為題、各献和歌、路次向龍門寺、礼仏捨綿、松蘿水石、如出塵外、源朝臣昇向古仙旧庵、不覚落涙、殆不言帰、上皇安坐仏門、痛感飛泉、勅令献歌、是日山水多興、人馬漸疲、素性法師菅原朝臣道真等銜尾而行、法師問曰、此夕宿於何処、朝臣応声誦曰、不定前途何処宿、白雲紅樹旅人家、入夜執炬、到野別当伴宗行宅、廿六日留而不出、廿七日進発、上皇指摂津住吉浜、経龍田山、入河内山国。 年のはにかくも見てしが三吉野の清き河内の滝つしら波、〔万葉集〕
   昌泰元年十月廿五日宮滝に遊び、立やすらふに日の暮るる事も知らず、其滝のありさまめぐり三四町許、高くさかしからねど音はいとたかく、早く流れたる岩に積れる雪の崩れかゝるが如し水の中に所々に大なる石あり、相去ること遠きは一丈あまり、近きは七八尺云々、〔後撰集引菅家記〕
 水引の白糸はへて織るはたは旅のころもにたちやかさねん、 菅原道真
 滝落る吉野の奥の宮川のむかしを見けん跡したはゞや、〔山家集〕 西行法師
清河原《キヨキカハラ》日晩山《ヒグラシヤマ》などは、古の歌詠にまかせ後人其地名を立てたるか、二所ともに宮滝の辺に在りと名所図会に見ゆ。
 苦しくも暮行く日かも吉野川きよき河原を見れど飽かなくに、〔万葉集〕
 日ぐらしの山路をくらみ小夜ふけて木の末毎にもみぢてらせる、〔後撰集〕
 
菜摘《ナツミ》 国樔村大字莱摘は宮滝の東に接す、万葉に「国栖どもがわかな摘まむと司馬野《シバノ》の」てふ句あれば古名司馬野なるべし、吉野川を此地にて夏実川と呼ぶ。 吉野なる夏実の河の川淀にかもぞ鳴くなるやま影にして、〔万葉集〕
 かすみたち雪も消えぬや御吉野の御垣の原に若菜つみてん、〔続後撰集〕
 
三船《ミフネ》山 三船山は菜摘の東南に在り、遠く望めば船の状あり、坂路太嶮なり。〔名所図会〕懐風藻に「雲巻三舟谿霞開八石洲」の句あり、三舟谿即此地にして、其東に大字|八治《ヤチ》あり、八石《ヤシ》を訛れるにあらずや、雄略天皇御歌烏武羅岳も此にあらずや、
 滝のへの三船の山に居る雲の常にあらむと我おもはなくに、〔万葉集〕
 たぎの上の三船の山ゆ秋津辺に来なきわたるは誰れ喚児鳥、〔同上〕
 
楢井《ナラヰ》 国樔村大字楢井は宮滝の西に接す、延喜式外楢井坐神社此に鎮座す、今春日神と称す。〔大和志〕古の国栖人の祭りし者なるべければ春日と云ふは後世の事也、国栖部の楢|笛工《フエフキ》あり此の住民なるべし「延喜式、国栖十二人、楢笛工十二人、奏古風」との事あり。
 
樫尾《カシヲ》 古は鹿塩《カシホ》に作り、又加志能布と呼ぶ、国樔村の大字也。宮滝の対岸(吉野川南側)にあたる。延喜式、川上鹿塩神社あり。大和志古事記伝云、豊明宮(応神)段、国主人の歌に「加志能布に横臼《ヨクス》を造り」とあるは樫尾に今も鹿塩神社あり、大倉明神と云ふ此なり、国栖七村の氏神とす。
 
象《キサ》 今国樔大字|喜佐《キサ》谷是なり、樫尾の西南に接す、一渓西|青根《アヲネ》峰より出でて吉野川に入る、又西南に登陟すれば数町にして吉野村に至る、象の中山即此ならん。
  暮春之月幸芳野離宮時中納言大伴卿奉勅作歌
 昔見し象の小河を今見ればいよよさやけく成りにけるかも、〔万葉集〕
  太上(持統)天皇幸于吉野宮時高市連黒人作歌
 やまとにはなきてか来らむ呼子鳥象の中山よびぞ越ゆなる、〔同上〕
倭訓栞云、倭名鈔に※[木+雲]をきさとよむ、木文也と注せり、今いふ木目也、刻むの義なるべし、象をきさと訓むも象牙の様に似たる文あればなるべし、天智紀に象牙をきさのきとよめり、拾遺集物名にも見えたり。
 
川上《カハカミ》 国樔村の南東、長七里幅三里の山中を川上村と云ふ。大台原山東に屏立し、大峰《オホミネ》西に盤踞し、伯母《ヲバ》峠は南方北山郷の分水嶺を成す。此地東は伊勢の大杉谷、西は十津川郷、四面皆高山深谷にして川上谷其中央に居る、即吉野川の源頭とす、所々に急湍ありと雖木材を流下するに筏師の技巧善く之を過ぐと云。方今吉野の山林、川上村を推し善美と為す、民其業を勉め、往々巨万の富を累ぬるものあり。
大滝は国樔の南一里、川上村大字大滝|西河《ニシガウ》の間に(吉野川の激湍)あり、一名西河滝と曰ふ。
蜻螟滝《セイメイノタキ》川上村大字|西河《ニシガウ》に属す、水高処に潴り一潭を成し溢れて下垂す、直高凡十二間。文禄年中大和国主豊臣秀俊(郡山城主)蜻螟滝の※[さんずいへん+秋]中に溺死すと云ふは此なり、一名白糸滝と曰ふとぞ。
 代々を経て絶えじとぞ思ふ芳野川ながれて落るたきの白いと、〔続後撰集〕 延喜帝
   吉野西河の滝にて
 ほろ/\と山吹ちるか滝の音、 桃青
 鮎の子のこゝろすさまじ滝の音、 土芳
南朝皇孫遺跡 川上村諸所に王孫の事を伝ふ、凡南朝皇胤の談は川上荘及北山郷(和州及紀伊)に土俗の所説多けれど徴証の明確なるは少し。大和志云、川上荘|神野谷《カウノタニ》金剛寺、一名中寺、山号妹背、本尊日抛地蔵、山中有南帝自天王陵、及小祠宝篋印塔一基、刻曰長禄元年十二月二日。南朝遺史云、川上村|東川《ヒガシガハ》に住吉明神と云あり、此は即小倉宮実仁親王(後亀山帝長子)の廟とぞ、大字|神野谷《カウノタニ》金剛寺忠義王尊秀王(後亀山帝三子万寿寺尊義王之子)の石塔神牌あり、大字|入之波《シホノハ》の三之公《サンノキミ》山に万寿寺尊義王の墓あり、大字高原に河野宮忠義王の居址あり、忠義王は神の谷に居給ふ。○陵墓一隅抄云、南朝先帝中宮、新待賢門院藤原廉子、川上西陵也、在高原村、隆起如山、上有一祠。
 
入之波《シホノハ》 温泉あり、炭酸性九十度、澄明にして味甘酸なり、砂磧の間より湧出し、夏時来客を待ちて蓋屋を営み浴場を開くのみ、土俗役小角の発見と称す。
補【川上】○南朝遺史 湯浅の戦に義有王討死の後、尊義王神器を奉じ二皇孫とともに吉野川上に遷らせ三の公に匿し坐す、三の公と云ふ処は大和吉野郡川上荘(古書小倉の奥とも)神の谷村の領|入《シホ》の波《ハ》村の奥なり、尊義王自ら太上天皇と称す、康正元年(南帝)天靖十三年太上天皇尊義王崩御(年四十五)三の公山に葬し、高福院と謚す、尊秀王は父王崩御し給ふてより宮方の軍勢を駆り催さんと、北山の荘大河内小瀬滝川寺の御所に遷らせ給ふ。
補【神谷】○南朝通史 金剛寺は大和吉野郡川上郷|神《カウ》の谷村に在り、大峰山の奥院とも称す、尊秀王の御頸は神の谷村金剛寺山内に葬し奉り、自天院と謚し奉る、金剛寺内に御頸塚と称し五輪塔あり、鐫に曰く、長禄元年十二月二日とあり、南帝王の神社と崇め奉る。
補【高原】○南朝遺史 岡室の御所は大和国吉野郡川上郷高原村なり、忠義王此に坐す、古蹟あり、忠義王薨じ給うてより自天院の御兜鎧太刀長刀等川上荘二十三ケ村の宝物となし、是に向ひて南朝の皇族御在世の如く朝拝の式を行ふに、同荘|東《ウノ》川村龍谷山運泉寺にて、寛永二年乙丑迄累年二月五日を以て此式を行ひ奉りしを、後年に至り火災の難を厭うて御宝物を三保に分つ、皇孫九代とは一後醍醐天皇、二長慶院、三後村上天皇、四後亀山天皇、五小倉宮実仁親王、六勧修寺門主教尊元基親王、七円満院門主円胤義有王、八万寿寺門主空因尊義王、九大河内宮尊秀王(自天親王)以上を尊称す。
補【新待賢門院陵】吉野郡〇一隅抄 南朝先帝中宮藤廉子、川上西陵也、在高原村、隆起如小山、陵上有杜。
補【小倉】○南朝遺史 実仁親王は潜に嵯峨を忍び出で吉野の奥小倉山に遷らせ給ふ、今川上荘東川村の小倉山と称す、此所を御所となし、遷座す、嘉吉二年実仁親王吉野小倉の御所に於て薨ず(年六十四)小倉院と称す、郷民勧請して、霊を住吉大明神と崇め奉る。補【河野】○南朝遺史 忠義王は河野の御所へ遷らせ給ふ、残桜記に神の谷村の金剛寺の如く指せり。○吉野旧事記、起立系譜白川渡村川向ひ御霊の森を指せり、茲に於て南朝の皇子吉野の奥に尊秀王、忠義王、尊雅王の三皇子坐す、忠義王は赤松の逆党危害を遁れ、高原村に隠れ坐す。
 
柏木《カシハギ》 川上村大字柏木は国栖村を去る事五里、伯母峠《ヲバタウゲ》を越ゆれば四里にして北山郷《キタヤマガウ》河合に至るべし。柏木十二社権現は川上荘の氏神なり、山中に洞窟多し深十余丈に至る者あり、中に石鐘乳を生ず、凝結種々にして、珠玉纓絡の状を為す。
     ――――――――――
飯貝《イヒガヒ》 吉野村大字飯貝は上市町の南岸に在り、古事記伝吉野連の祖井氷鹿の遺号なるべしと云へり。日本書紀云、神武天皇親率軽兵、至吉野時、有人出自井中、而有光、天皇問之曰、汝何人、対曰臣是国神、名曰|井光《ヰヒカ》〔古事記井氷鹿〕此則吉野首部始祖也。姓氏録云、大和地祇、吉野連、弥比加尼之後也、謚神武天皇行幸吉野到神瀬遣人汲水、使者還曰、有井光女、天皇召問之汝誰人、答曰臣是自天降来白雲別神之女也、名曰|豊御富《トヨミケ》、天皇即名水光姫、今吉野連所祭水光神是也。
   よし野を下る時
 飯貝やあめに泊りて田にし聞く、 芭蕉
 
吉野《ヨシノ》 吉野村は吉野川の南金峰山の下、爽※[土+豈]に拠り村を成す。六田渡より金峰に至る一里余、寺社民家景勝を相して排置す。昔は金精明神威霊の地にして堂塔壮厳を極め、花木の美山川の清その風光を加へたり、元弘の乱に及び大衆勤王、尋いで天子南巡行在を寺中に置き以て恢復を図りたまふ、先帝(後醍醐)大業克たず蒙塵四年にして崩ず、太子(後村上)践祚正統の号令を以て海内の義軍を奨む、国勢遂に分裂して宮方京方と為る、謂ゆる南北朝是なり。正平三年賊軍吉野を犯し行在陥る、南主避けて加名生《カナフ》に移り又河内に赴きたまふ、延元元年より此に至り凡十三年也。爾後四十年南主多く此に御せずと雖、尚吉野朝廷と称するは、吉野実に南方の倚頼する所なれば也。已にして南朝義烈の事陳跡に帰したりと雖、桜花万朶の絶景今に依然として在り、懐古覧勝の客推して天下第一と為す。吉野村大字吉野山は山市を成し戸数三百旅亭酒家の款待に便するあり、年々花候には四方の人蔟り至る。
   南遷弔古 伊藤東涯
 黄屋南奔王気分、峰巒重畳駐孤軍、中原戈甲無清日、北闕鐘※[てけがんむり+虞]只白雲、神器那能祚衰運、藁人誰復答殊勲、漁郎不知興亡事、一棹刺過箕水※[さんずいへん+賁]、
   芳山懐古 中井竹山
 天子蒙塵度大瀛、親王敵拠孤城、帳中不※[さんずいへん+麗]悲歌涙、麾下長懸節義名、土窟游魂千載恨、邦畿振旅一時栄、恨望故塁烟塵迩、魅谷風腥杉檜嶋、
 よしの山入にし人は音せねど夕の鐘のありかをぞ知る、 加茂真淵
 みよしのはいかに秋立つ貝の音、 破笠
 よしの山たヾ大雪の夕かな、 野水
 歌書よりも軍書にかなし吉の山、 其角
桃青笈の小文に云、吉野の花に三日留りて、曙たそがれのけしきに向ひ、有明の月の哀なる様など、心に迫り胸に満て或は摂政公のながめに奪れ、西行の枝折にまよひ、彼貞室が是は/\と打なぐりたるに我は言んこと葉もなくて徒に口を閉たるいと口をし、思立たる風流いかめしく侍れども、こゝに至りて無興の事也。
 
吉野山《ヨシノヤマ》 山中の総名なり、凡此山の花一時に開かず上中下の候あり、大概立春より六十五日に当る頃を最中とし、麓の花過ぎて中路の花盛に、中路過ぎて上の花開く、其間三十日許。昔より桜樹一切伐採を禁じ、蔵王権現の祟ありと伝ふ、薪の中に小枝あるとも之を焚くことなし。吉野山の名は旧事紀に「茅渟県大陶祇女、随糸尋人、入吉野山、留三諸山」とあるを最古とす。
補【吉野山】○奈良県名勝志 吉野郡北方に在り、屋宇概ね崖服に連る、戸数二百三十余、後醍醐天皇陵及吉野宮吉水神杜、勝手神社、如意輪堂、蔵王堂、桜本坊、竹林院等あり、遠近来拝するもの少なからず、又山に桜樹多く、花時には市街最も賑へり、江馬某の詩に云、峰巒一白似雪遮、此際山家即酒家、不識東皇賦何税、※[もんがまえ+盍]村生計在桜花と、実況を詠ずるなり。
   芳野 河野鉄兜
 山禽叫断夜蓼々 無限春風恨末消 露臥延元陵下月 満身花影夢南朝
 芳野 吉野にてさくらみせうぞ櫓笠 芭蕉
 
一目千本《ヒトメセンボン》 六田渡より東南に登れば鋼鳥居まで三十三町あり、其三十三町前後の地、山上山下一目皆花なり、故に一目千本と称す、又坂路羊腸たれば七曲《ナナマガリ》坂の称あり。
藤尾《フジオ》坂 東鑑云、文治元年十一月十七日、予州(義経)籠吉野山之由、風聞之間、執行相催悪僧等、日来雖求山林、無其実之処、今夜亥刻予州妾静、自当山藤尾坂降、到于蔵王堂、其体尤奇怪、衆徒等具問子細、静云予州自大物浜来此山五箇日逗留、衆徒蜂起之由依風聞、仮山臥之姿逐電訖、于時与数多金銀於我、附雑色男欲送京而彼男取財宝、棄置于我雪中之間、如此迷来。八坂本平家物語云、判官義経は吉野山の深雪に踏迷ひ、兎角して宇多郡へぞ出られける、龍門の牧は母常盤の所縁なりければ暫く息をつき、それより南都に上り東大寺の辺春走と申山寺に忍ておはしけるが、年の暮に都に上り伏見深草梅津桂西山東山の片辺に隠れ、次年(文治二年)春の比山伏修行者のまねをし、笈を掛北国に懸て奥州へ下られける。愚管抄云、文治元年十一月、九郎義経川尻にて落失せ、暫しと隠れつゝありきけるが、無動寺に財修とて有ける堂衆が房には暫ありけると、後に聞えき、終に陸奥へ逃て行にける。東鑑云、文治二年十一月廿二日、予州凌吉野山、向多武峰、廿九日十字坊相談予州、奉送遠津河辺、三年二月十日条曰、前伊予守義顕、日来隠住所々、度々追逃捕使害訖、遂経伊勢美濃等国、赴奥州云々。
吉野城《ヨシノノシロ》址 元弘二年冬、尊雲法親王還俗護良と曰ひ、(大塔宮)吉野山に兵を挙げたまふ蔵王堂に拠り守備を為し吉野城と称す、然れども謂ゆる永久築造にあらねば山中処々に防禦の設を為ししならん。今廃長峰薬師堂の側に村上彦四郎義光父子忠烈の碑あり、(二十五丁目)此辺追手外郭にあたるか。
高城山《タカキヤマ》 子守明神の左なる高処を曰ふ、俗に城山と呼び吉野城址なりと云ふも疑はし、高城山の名は夙に万葉集に出づれば元弘年中の故跡にあらず。
 見吉野の高城の山にしらくもは行はヾかりて棚引る見ゆ、〔万葉集〕
吉野塗は吉野郡製造の漆器にして、多く膳椀を作る、其作紀州根来の産に似たる者を吉野根来と称す。吉野紙は其理疎にし潔白なり、軽薄比なし、漆及油を漉すに必需の料なり、亦本郡の名産とす。
補【吉野塗】○貿易備考 大和国吉野郡に製する所にして、多く椀を作る、其製黒漆を以て之を塗り、外面に朱漆を以て木芙蓉を画けり、文吉野膳と称する折敷あり、吉野郡の下市村及び字智郡の五条村に於て之を製す。○吉野根来は大和国吉野に製する所の漆器なり、伝へ云ふ、初め漆工某、根来塗に基き一種の※[(髭−此)/休]方を始め、朱漆或は黒漆を以て塗り、其縁の側面を朱の掻合(春慶塗に類せし色を云ふ)に塗たるものなり(按ずるに、吉野根来と称する五百年前の漆器、今尚存す、恐らくは後醍醐天皇の時に製せしものならん)工人業を伝へて今に至る。
補【吉野紙】○貿易備考 漆漉紙は延紙に似て甚だ軽薄、其|理《キメ》疎にして色潔白なり、因て※[王+毒]※[王+冒]珠玉を裹むに用ゐ、又漆及び油を漉すに必要の紙となす、故に名く、大判並判の二種あり、大和国吉野の名産にして、十日市駅を以て本場となす、此地に於ては八寸と呼び、他州にては吉野紙と称す、又或は和紙と唱へ、小和良と曰ふ、宇多郡よりも亦之を出す、他国にて模製すと雖も其用に堪へずと曰ふ。
 
勝手《カツテ》祠 勝手神は祭る所詳ならず、坂路西側に在り、吉野山八神の一にて古より、其名あり、神社啓蒙云「勝手神、鬘受命、天孫降臨之後、為後見降焉」と。今村上義隆の墓碑此に在り、義隆戦死の地か。
補【勝手】○西国三十三所図会 村上義隆碑 勝手の祠社の奥にあり、義隆は村上彦四郎義光の子なり、元弘三年正月吉野の城敗れ危きに及ぶにより、父義光は大塔宮の御身がはりと成て敵をあざむき、宮を落し奉る、一子兵衛蔵人義隆は父の諌にしたがひて宮の御供したりけるが、落行道の軍急にして又も危ふかりしを、義隆たヾ一人踏とゞまり、五百騎の敵を支へて討死す、村上父子が忠死によりて宮は虎口の難を逃れて高野山に落させ給ひけるとあり、太平記に義隆只一人踏とゞまりて十余ケ所の庇を被てけり、死ぬるまでも猶敵の手にかゝらじとや思ひけん、小竹の一村ありける中へ走り入て腹掻き切て死にけりと云々、按ずるに此地その自殺せし古跡ならんか、尚考ふペし、按ずるに大和名所図会に曰、廷尉源義経公の愛妾静御前は勝手の社前にて法楽の舞を奏し、衆徒の心を蕩かし、義経主従十二騎を落せしは誠に刃を用ずして勝を全うするは、六韜文伐の篇の奥儀ともいひつべき者かと云々、然るに義経記評判には蔵王堂の前にとあり、別して白拍子の上手にてありければ、音曲もじうつり心も詞も及ばれず、聞人涙を流し袖をしぼらぬは無かりけり、終にかくぞ諷ひける。
 ありのすさみのにくきだに、ありきのあとは悲しきに、有て離れし面影を、いつの世にかは忘るべき、別れの殊にかなしきは、親の別れ子の別れ、勝れて実に悲しきは、夫妻の別れなりけり」と涙の頻りにすゝみければ、衣引きかづき伏しにけり、
 
袖振山《ソデフルヤマ》 勝手祠の辺に在り、天女舞楽の故事あり、彼雄略天皇吉野川辺に童女の舞を覧たまふと云者と相似たり。本朝月令云、五節舞者、浄御原天皇(天武)之所製也、相伝云、天皇幸吉野宮、日暮弾琴有興、試楽之間、前岫之下、雲気忽起、疑如高唐神女、髣髴応曲而舞、独入天瞻、他人無見、挙袖五変、故謂之五節、其歌曰
 をと女どもをとめさびすもからたまをたもとにまきてをとめさびすも。
吉野拾遺、先帝豊明の節会をせさせ給へるに、余りに形ばかりなる有様を思しなげかせ給ひけるに、袖振山の目近く見えわたりければ、
 袖かへす天津乙女も思ひ出よ吉野の宮のむかしがたりに、
と打詠めさせ、月更るまでおはしましけるに、御夢ともなく袖振山の上より白雲の棚びきて南殿の御庭の冬枯し桜の梢にとヾまりけるに、夫れかとばかりおぼしやらせ給へるに、乙女の姿のうちしほれたるが、
 かへしては雨とやふらむ哀れしる天津乙女の袖のけしきも、
となく/\詠じて雲に隠れけるを、御覧じおくらせ給ひて御こゝろぼそげに渡らせ給ひし。 
水分山《ミクマリヤマ》 水分峰に吉野水分神あり、後世子守明神と称す、一説水分子守を別社と云ふは非なり、古事記伝神祇志科に拠り同神と為すべし。
 神さぶるいはねこごしき三芳野の水分山を見れば悲しも、〔万葉集〕
吉野水分神社は水分山に在り今子守明神と云ふ、勝手祠の上方十八町、或は籠《コモリ》の宮と云ふ。水分神は諸山多く之あり、水の配分を司る神霊なり、故に水分と号す、枕草紙にみこもりの神とある、同じ、続日本紀、文武天皇二年馬を芳野水分峰神に奉り雨を祈る、新抄格勅符、三代実録、延喜式にも見ゆ。
世尊寺《セソンジ》址は水分峰の辺、獅子尾坂の上に在り、近代大淀村比曾に移し廃墟と為る。世尊寺は霊鷲山と号し、保延七年鋳成せる播摩守平忠盛施入金峰山寺の古鐘ありしと。〔名所図会〕縁起詳ならず。
 鷲の山御法のにはにちる花を芳野の峰のあらしにぞ見る、〔月清集〕 後京極良経
補【水分神社】○神祇志科 吉野水分神社、今吉野水分山の峰にあり、子守明神と云ふ、即是也(大和廻記・玉葛間)
 按、大和志等諸書みな丹治村に在とするもの誤れり、故に今とらず
蓋|水戸《ミナト》神の子天之水分神国之水分神を祀る、水を分《クマ》り施して奥津御年を成し幸ひ給ふ神に坐せり(古事記・延喜式)後之を美許毛理乃神と云ひ(枕草紙・和歌六帖)遂に訛て子守神と云ふ(草根集・太平記)文武天皇二年四月戊午、馬を芳野水分峰神に奉て雨を祈り、(続日本紀)平城天皇大同元年神封一戸を充て(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下より正五位下を授け、九月庚申、雨風の御祈の為に使を遣し幣を奉り(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の祭幣に預る(延喜式)凡そ毎年六月九月五日を以て祭を行う(奈良県神社取調書)
子守神社 〇三十三所図会 子守神社は世尊寺の古跡に次ぐ、籠守とも云ふ、勝手社より此所迄凡そ十八町余、社記に云、抑当社子守大明神は大峰の鎮守にて山上随一の神社也、是に依て大峰登山の行人等携ふる所の金剛杖にも子守卅八社と申し崇め奉るなり、子守卅八杜と申奉ることは御子卅六神を生せ給ふ故なり、子守は則ち子を守ると読みて、子孫長久を護らせ給ふとぞ
 吹きはらへ山は芳野の秋霧に子守かれても宮の花ぞことなる(草根集) 正徹
補【世尊寺】〇三十三所図会 世尊寺古址は獅子尾坂の上にあり、此地は霊鷲山に等しきとて鷲尾山と云ふ、回禄の後廃して小堂一宇あり、其古蹟の遺風ならんか、後世比蘇村現光寺の廃址に禅剃を建て、霊鷲山世尊寺と号し再興す、〔月清集、略〕
金峰山寺古鐘 右同所の上の方にあり、俗に吉野三良の鐘と云ふ、其来由詳ならず、金峰山寺は蔵王堂の寺号なれば、此鐘貞和五年の兵火をのがれしものなるべし、世尊寺の鐘にはあらず、
 鐘銘跋曰、金峰山寺洪鐘保延六年十二月播磨守平朝臣忠盛施入熟鋼七年辛酉鋳成云々
 
金峰《カネノミタケ・キンプ》神社 又蔵王堂《ザワウダウ》と称す、金峰山《カネノミタケ》の下に在り、近年其神仏混淆を改む。神社考に「世伝金峰山権現者、勾大兄広国押武金日天皇(安閑)也」とあれど、御諱金日に附会牽合したるに過ぎず、本社蓋吉野金峰の鎮守神にして、僧家之を両部に祭り金剛蔵王権現と為す。中世に方り供奉の僧徒盛強号して吉野大衆と曰ふ、延元の乱に勤王帝駕を奉迎し行在を寺中に置く、正平三年(北朝貞和四年)正月賊師泰(高階越後守)師直(同武蔵守)来犯し行在及祠宇を焼く。後世再興、其旧観復する能はずと雖、尚広壮の建築なり。鋼造鳥居高二丈五尺発心門と称す、相伝ふ聖武天皇東大寺巨像鋳成の剰余を以て之を作ると。(門前橋は豊臣氏架進)山門康正元年造立、金剛密迹二力士各高一丈六尺、大塔は土壇を遺すのみ礎石の上に一小宇を置く、此大塔供養の事承暦三年と元亨釈書に見ゆ、鋼製燈台高一丈文明三年辛卯の銘あり。本堂十八開四面康正元年再興、(足利義政の時代)天正十九年修繕、(豊臣氏の時)本尊金剛蔵王権現脇士すべて三体を安置す(本尊二丈六尺魔障降伏の相を表示す)棟梁柱楹の類堅完無比の良材をあつむ、中に躑躅樹の柱と曰ふ者周囲八尺長三丈一尺相柱周囲一丈三尺長三丈五尺。〔名所図会京華要誌〕神祇志料云、金峰《カネノミタケノ》神社今吉野山村金御岳にあり、金精《コンジヤウ》大明神といひ、〔大和志和爾雅大和回記〕又蔵王権現と云ふ、〔太平記和爾雅〕蓋金山彦姫命を祭る、〔参酌本社伝説日本書紀古今著聞集〕即吉野山鎮守の神也。〔大和志大和廻記神名帳考〕文徳天皇仁寿二年特に従三位を授け、三年名神に預り、斉衡元年相嘗月次神今食祭に預らしめ、〔文徳実録〕清和天皇貞観元年従三位勲八等より正三位を授け、〔三代実録〕醍醐天皇延喜の制名神大社に列り祈年月次相嘗新嘗の案上官幣に預る、〔延喜式〕堀河天皇寛治六年上皇及中宮御精進ありて本社に詣給ひき、〔百練砂中右記〕中世以来御岳精進を重んずるは此杜に詣るの神斎を云也、〔河海鈔※[土+蓋]嚢抄〕後金峰寺盛なるに及て僧徒此神を称て蔵王権現といひ、子守勝手神人等も又屡神輿を舁て事を京師に訴ふ、〔一代要記皇帝記鈔百錬鈔太平記大意〕後村上天皇正平三年正月辛亥高師直等吉野皇居を襲ひし時神殿及七十二間の廻廊三十八所の神楽屋宝蔵竈殿悉く火に罹りて焼亡き。〔園太暦太平記〕三十三所図会云、金精大明神は吉野山の地主神なり、祭神垂跡未詳、三代実録貞観元年八月、従五位下行備後権介藤原朝臣山蔭外従五位下行陰陽権助兼陰陽博士滋岳朝臣川人等を遣され大和国吉野郡の高山に於て祭礼を修せしむ、又五年二月吉野郡の高山に祭事を修せしむ、是両度共に螟※[騰の馬を虫に]五穀を害するを穣ふ法也、蓋斯の金峰の事たるべし、又宇治拾遺に、京洛七条の箔打師あり、金御岳の金を穿ち冥罰を被ふる事を記したり。○金峰祠は中世以降修験道の行場にして、蔵王堂金輪王寺の名あり、寺伝亦云役行者小角の開創する所、山神化現の像威猛の徳を備ふ、小角の礼拝せる者と。金峰本堂の側に威徳天神社あり、菅原道真の霊を祭る、扶桑略記元亨釈書に天慶四年沙門道賢(日蔵上人)の礼拝したる由見ゆ。元弘三年大塔宮護良親王蔵王堂に拠り城と為し賊の来攻に備へたまふ、賊将二階堂出羽入道道蘊大兵を以て至る、城遂に陥る。太平記云、
 大塔宮は蔵王堂の大庭に最期の御酒宴あり、宮は御鎧に立ところの矢七筋、御頬さき二の御腕二箇所突れさせ給ひて血の流るゝこと滝のごとし、然れども立たる矢をも抜かず流るる血をも拭ひ給はず、敷皮の上に立ながら、大盃を三度傾けさせ給へば、小寺相模四尺三寸の太刀の鋒に敵の首を貫きて宮の御前に畏まり「戈※[金+延]剣戟を降すこと電光の如くなり、磐石盤を飛ばす事春の雨に相同じ、然りとはいへども天帝の身には近づかで、修羅かれが為に破らる」と囃を揚げつゝ舞ひたりける、折しも大手の合戦急なりと見えて、村上彦四郎義光鎧に立ところの矢十六筋、枯野に残る冬草の風に臥したる如くに折懸て、宮の御前に参りて申けるは、今は叶はじと覚え候、一先落て御覧あるべしと、錦の御鎧直垂と御物具とを下し給ひつゝ御諱字を犯して敵を欺き御命に代り参らせ候はん、早く御物具を脱せ給へと、上帯を解奉れば宮げにもとや思召しけん、脱替させ給ひて、我若生たらば汝が後生を弔ふべしと仰られて、御涙を流させ給ひながら、勝手の明神の御前を南へ向つて(十津川郷へ)落させたまふ。
補【金峰社】〇三十三所図会 往昔京洛七条に箔打ありけるが、金の御岳の金を穿ち取りて箔に打ちて売りけるに、其箔毎に小さき文字にて金の御岳々々と悉く顕はれけるが、箔打は此文字更に見えざりしとぞ、やがて検非違使の詮議に合て一五一十を白状し、終に獄屋に入れられて十日許りありて死しけり、箔をば不残金峰山に返して本の所に置きけると語り伝へて、夫より人怖ていよいよ件の金を取らんと思ふ人更になしと、宇治拾遺に見へたり、是則神の試し給ふ所なりとぞ。金精大明神社 延喜式神名帳曰、金峰《カネノミタケ》神社、名神大、月次新嘗とありて、吉野山の地主神なり、故に金御嵩の号爰に起ると云、祭神の垂跡未詳。三代実録曰、貞観元年金峰神に正三位を授くと云々、
○西国三十三所図会 義楚六帖曰〔略〕土俗に云、其土みな黄金なり、因て金御岳と称す、聖武天皇東大寺の大仏を鋳んと欲し、多くの金を求め給ふ、時良弁僧正に詔して当山の金を求めしむるに、蔵王権現此山の金を取ことなかれと告たまひて許し給はずといふ。
補【金峰山寺】○西国三十三所図会 本尊は蔵王権現三体ならび安置す、長二丈六尺、魔障降伏の相あり、○躑躅大柱 堂内右の前にあり、周凡そ二抱半余あり、俗に立樹なりと云ふは誤なり、往昔諸堂再建の時、吉野郡樫尾村より寄附する所と云ふ。○大塔古址 本堂の西にあり、礎石の上に仮堂を営む、三尊仏を安ず、承暦三年十一月金峰山の塔供養の事、釈書に見えたり、〇大銅燈籠 四本桜の間にあり、高凡そ一丈余、紫鋼を以て造る、文明三年辛卯九月十一日と鐫す。
神社考曰、役行者吉野山にあるとき、神釈迦の像を現はす、行者曰、此形衆生を度し難しと、次に弥勒の像を現ず、尚曰く、未だなり、次に蔵王権現現ず、甚怖るべきの貌なり、行者曰く、此我邦の能化也云々、蔵王権現三体中尊の本地は釈迦如来、左は本地千手観音、右の本地は弥勒菩薩也と云、当山は役行者の開基にして文武天皇大宝元年の建立なり、○大塔の古址は側に鉄具あり、按ずるに大塔の露盤の類なるか、貞和五年の兵火にかゝる物なるべし。
補【威徳天神杜】○西国三十三所図会 金峰本堂の右大塔古址の左に隣る、元亨釈書云、天慶四年八月沙門道賢と云ふものあり、冥昭をかりて金峰山の金剛蔵王菩薩に見ゆ、蔵王の曰く、今大政威徳来らんとする相なりと、須臾の間に西方の空中より千万人至り来る、其儀相衛護の体魏々として見えにける、王者の郊礼にしも似たり、大政天道賢に語りて曰く、我はこれ菅丞相也、※[りっしんべん+刀]利天帝我に字して日本大政威徳天と呼べり、我讒言によりて配流せらるゝ時、こころを動かさざるに非ず、我国土の一切疾病災難の事を主どる、我君臣を悩し人民を傷らんと欲す、道賢の曰我国の人民倶に火雷神と称して尊重礼敬、何とて愁ありけるやと、大政天の曰く、火雷神は我第三の使者にて、火雷気毒王といふ者なり、是我名にあらず、若し人我形を作り我名を称へて慇懃に尊重せば、我必ず彼を擁護してん云々、道賢此時名を日蔵と改む、其後当社を建立し威徳天神宮を鎮め奉りしとなり、花供※[りっしんべん+(籤−竹)]法会式(例年二月朔日)餅搗(正月廿六日より廿八日に至る)当山の大礼なり、則云蔵王権現の祭式、天下泰平五穀成就の祈祷なりと云ふ。
〔付箋〕象王堂は頗る広大なる伽藍にして、聖武天皇の御宇創立する所、元弘三年大塔宮此処に楯籠らせ給ひ、賊将二階堂道蘊攻めて之を焼く、後再建せしが正平四年高師直また之を焼く、現在の建物は康正元年の建立にかゝる、本尊金剛蔵王大権現は丈二丈六尺、其脇は二丈四尺の弥勒菩薩、左脇は二丈二尺の千手観音にして、いづれも木像なり、傍に役小角の像を安置す、自作なりと伝ふ、有名なる神代杉の柱は周囲一丈三尺、長さ三丈五尺、躑躅の柱は周囲八尺、長さ三丈一尺あり、堂前には四角に画せられたる地ありて四隅に一本宛の桜あり、之を四本桜といふ、元弘三年閏二月朔日、護良親王錦の直垂を村上義光に賜ひ、こゝに惟幕を張りて君臣の永訣を告げ給ひし所なりといふ、〔脱文〕―鋳造の残銅を以て造りたるものにて、額は発心門とあり、聖武の御宸筆ともいひ、空海の筆とも伝ふ、華表の高さ二丈五尺、柱一丈一尺あり、山門は康正年間の建立にして左右の二王は湛慶の作、他は運慶の作なりといふ、丈各一丈六尺余あり。
 
吉水《キツスヰ》院 蔵王道の供僧坊なりしが 近年改替して吉水《ヨシミヅ》神牡と号し、南朝弔祭の霊場と為す。蔵王堂を去る凡三町、地稍低下す。三十三所図会云、吉水院の草創は大宝年中小角山上修行の時姑息の庵室なり、其のち醍醐の聖実尊師もこゝに跡をとゞめ玉ふ、加之源平兵乱には源義経密に此寺にいる、吉野法師等義経を討んとせしゆゑ又此寺を出て中院谷《チユウヰンダニ》に隠れしに悪徒等なほも跡を求め来りければ、佐藤忠信を残して落玉ふとなり、又後醍醐帝京都を逃れさせ玉ひ此山に潜幸ありし時、先当院へ行幸ありて行宮とし、後に実城院に移り給ふ、此院の床を御枕として詠み給ひし御歌に、
 花にねてよしやよしのヽよし水の枕の下に石ばしるおと。
 秋斎閑話云、吉野吉水院あり、太平記に吉水法師宗信とあるは此住持にて、後醍醐天皇の姫宮を下され妻帯なりしが、今は清僧の寺となれり、此寺親房の自筆の職原抄あり、○今按ずるに吉野拾遺に「みよし野の山の山守こととはん今いく日ありて花は咲なむ」と後醍醐天皇の尋ねさせ給ふ御返しに「花さかん頃はいつとも白雲のゐると知るべきにみよしのゝ山」と申上たるよし、此寺の事にこそ云々、尚近くは豊太閤も吉野花見の時、此院に入らせ給ふとなん。
補【吉水院】吉野郡○要誌 吉野金峰山寺の僧坊なり、源義経の潜みしも、延元帝の行在も此院にして、当時の殿舎を存す、帝の御製「花に寝てよしや吉野の吉水の枕の下に岩走る水」雲居桜あり、御製「此にても雲井の桜咲にけりたゞ仮そめの宿と思ふに」豊太閤も此に宿りて花を看たりとぞ。
〔付箋〕吉水神社は路の左方にあり、坂を下り行く、入口に「吉水神社、南朝皇居旧跡」と記したる標木あり、昔は吉水院と称し天台宗の精舎なりしが、明治の初年神社に改めたるなり、白鳳年中役小角の創立する所、文治元年源義経此処に潜みし事あり、義経の駒繋ぎ松(枯れて根のみ残れり)弁慶の力釘(巌石に二本の釘を打ち込む)といふもの今尚存せり、延元元年天子蒙塵、吉野に幸して吉水院を行在となし給ふ、時に十二月二十一日なり。
 
実城院《ジツジヤウヰン》址 蔵王堂の乾方三町許に在り、実城院は吉水院と同く旧供僧房にして、延元興国の際行在所と為る者是也、近年廃頽し全く荒墟と為る。竹林院も蔵王堂供僧也、凡吉野衆徒の遺院は今竹林院わづかに存す、庭園の造為佳麗なり。
補【実城院】○西国三十三所図会 蔵王堂の乾の方三町ばかりにあり、又は金輪寺とも云、建武三年より後醍醐天皇皇居に定められ、当時御手づから茶入十二を刻ませ給ふ(或は廿一とも云)是を世に金輪寺と云、尤も漆器といひながら勅作の品なれば、金輪寺あしらひとて茶湯にも有るよし聞ゆ、南朝四世五十六年の間の皇居の地にして、則其の皇居の儘にて作もかへず、さるほどに殿屋美麗にして後世の及ばざる事ども多し、常の御座等も有て貴し。
 
吉野行宮《ヨシノアングウ》址 実城院即当年の行在たるべしと云ふ。又初めは吉水院に御し、後は実城院へ移りたまふとも云へり。後醍醐天皇延元元年十二月吉野に入り行宮を定め、四年天皇崩ず、皇太子即位之を後村上天皇と為す、正平三年賊兵来犯火を行在に縦つ、神社仏寺多く延焼す、天皇加名生に避けたまふ。南山巡狩録云、按ずるに後醍醐天皇より後村上天皇の御宇はじめまで吉野内裏と称せしは今の実城院の所と思はる、太平記園太暦等によるに正平三年正月楠正行四条繩手に於て討死の後官軍敗北せしかば、廿五日師直等皇居に責より見るに、御前には人なかりし程に、其辺に火をかけたり、折ふし山風吹て皇居をはじめ月卿雲客の宿所のこるかたなく焼失し、この余煙に蔵王堂北野杜七十二間の廊迄灰焼となりぬ。桜雲記云、興国二年(北朝暦応三年)新帝後村上吉野を帝都とすといへども、行宮殿閣なし、月卿雲客微少にして昇進除目殆断絶せんとす、於是二月下旬源親房常陸小田の城に居して職原抄二巻を作りて吉野へ献じ奉る、百官諸位職掌を指すが如し、末代に至て帝都の亀鑑とす。
 此にても雲井のさくら咲にけりただ仮初めの宿と思ふに、 延元帝御製
 みやこだにさびしかりしを雲はれぬ吉野の奥のさみだれの空、 同上
   延元四年、吉野の行宮にさぶらひし比、よみてたてまつりし歌の中に、
 あきらけき御代の春しる鶯も谷より出る声きこゆなり、 宗良親王
   さらぬだに春は先思ひやらるる吉野の奥、此比は皇居にて、さま/”\おしはかられさせ給ひしかば、
 さかば先ゆきてこそ見め我やどとたのむよしのの花の下蔭、
   中院准后(親房)歌よみて吉野より見せ侍し中に「九重の御階のさくらさぞなけに昔にかへる春をまつらん」とありしそばに書加侍りける、
 君すめばこれもみはしのさくら花むかしの春にかはらざるらん。
   芳野竹笛歌 頼山陽
 有客手裡横紫玉、就視蒼箆褪老緑、吹之一曲声悲※[戚+足]、加蒼梧之狩不北還、涙乱湘雨斑痕簇、又加望帝之魂※[口+眞]百鳥、啼裂山竹夜濺血、問客何処得此物、延元天子古殿屋、敗橡敢学柯亭収、一条龍髯寄騰矚、長舌有※[たけがんむり+黄]君楽聽、短夢重失中原鹿、剣器渾脱始犯声、七道戦伐沸野哭、囲城聞笛非無人、凝碧管弦長胡曲、君不見芳野山中頭白烏、畢逋似呼返闕速、吉語誤人入歌詞、空止殿屋※[人+免]且啄、龍顏仰屋曾按剣、王気或寄一尺竹、
 
如意輪堂《ニヨイリンダウ》 吉野勝手神社の坤の谷に在り、蔵王堂の艮にあたる、字を塔尾《タフノヲ》と曰ふ、往昔如意輪塔ありける地とぞ、吉野先帝(後醍醐)の御陵は堂背に在り。本堂は先帝御影殿にて、影像厨子に奉安し扉に吉野金峰より熊野那智の行路絵図を写し、其上に蔵王権現の讃辞あり、相伝ふ先帝の麗筆と。〔名所図会〕初め正平の兵火如意輪塔御影堂亦免るゝ能はず、天授年中世泰親王(後亀山帝長子)更に新堂を此地に営みたまふ、薨じて堂側に葬る。〔京華要誌〕太平記云、正平三年、楠正行先帝の御廟に詣でて、討死の御暇など歎申て、如意幾重の過去帳に「楠正行同正時同将監和田新発意同舎弟新兵衛同紀六左衛門子息二人野田四郎子息二人西阿子息関地良円
 各留半座乗蓮台待我閻浮同行人
 先だたば後るゝ人を待やせんひとつ蓮の中を残して
 願以此功徳平等施一切同発菩提心往生安楽国
 帰らじとかねて思へば梓弓なき数にいる名をぞ留る
と書附ける」。嘉喜門院御集云、天授二年やよひのはじめつかた如意堂に御こもりありし比、御影堂の前の花につけて内の御かた(後亀山帝)へ奉られける、
 こゝのへに色そへて見よむかし思ふみのりの庭の花の一えだ、
   御返し
 なきかげを花によそへてしのべども是もあだなる色ぞかなしき。
髻塚《モトドリヅカ》は如意輪堂側に在り、慶応元年碑を立つ、森田節斎撰文して之に勒す。其文に云ふ、正平三年正月、車駕在芳野、賊将高師直大挙来寇、楠左右衛門尉与其族等百四十三人、詣行宮陛辞畢、拝訣後醍醐帝陵、入如意輪寺、各截髻題姓名於壁、然後進戦不克、皆死之、今立乙丑之秋、益自備中帰郷、将登談山、遂遊芳野、会津田正臣、建石欲以表左衝門尉髻塚、来請文益、益曰余且遊二山、子姑待之、已而登談山、謁藤原大織冠廟、規模宏敞、殿宇壮麗、偉人起敬、及登芳山、首問某所謂※[やまいだれ+(夾/土)]髻処、在蔓草寒烟中、過者或不知也、於是益低徊不能去、潜然泣下、已左衛門尉与大織冠皆王朝尽臣也、而大織冠斃※[敦/心]於一撃、回天日於将墜、位極人臣、子孫蔓衍、廟食百世、左衛門尉則賊不克、以身殉難、南風不競、宗族殆尽、今欲求其遺跡、而不可遽得、鳴乎何其幸不幸之異也、已而益拭涙、以為其幸不幸雖異、其功未嘗不同也、夫大織冠回天之績偉矣、然比之左衛門尉父子之大節、彪炳与日月並懸、存綱常於無窮者、未知其執愈、故曰其幸不幸曰異、其功未嘗不同也、益既帰、正臣復来促、乃拳前言告之、且曰方今夷狄猖獗、九重宵肝、士効力国家之秋也、事成則為大織冠、廟食百世、不成則為左衛門尉死節、垂名於竹帛、豈非大丈夫平日至願乎、正臣躍然起、曰是以表左衛門尉髻塚矣、遂書以与之。 
吉野《ヨシノ》陵 後醍醐天皇の御陵なり。山陵志云、在吉野山蔵王堂東北、今呼塔尾陵、昔時以陵前有如意輪塔名之也。太平記云、延元四年八月十八日崩玉ひき、蔵王堂の艮なる林の奥に、円丘高くつきて、北面に葬奉る。○侍従吉房は延元帝に奉仕し、登※[しんにょう+(暇−日)]の後思慕止まず薙髪して僧と為り松翁と号し、陵傍に座したり、松翁の著はす所吉野拾遺世に伝ふ。〔南山巡狩録三十三所図会〕
   芳野 藤井竹外
 古陵松柏吼天※[風+(犬/(犬+犬))]、山寺尋春春寂蓼、眉雪老僧時※[車+(綴−糸)]、落花深処説南朝、
   吉野山に登りけるに秋の日既に斜になれば、名ある所をのこして、まづ後醍醐天皇のみさゝぎを拝む、
 御廟としを経てしのぶは何を忍ぶ草、 芭蕉
補【吉野陵】○西国三十三所図会 松翁廬跡、陵の畔にあり、新井白石曰、世に吉野拾遺あり、南朝の事を記す、歴々として徴すべし、余野山集に於て適撰人の名を得たり、吉房朝臣の所著なり、吉房は後醍醐天皇に仕へ二心あらず、登※[しんにょう+(暇−日)]の後思慕やまず、薙髪して僧となり、自ら松翁と号す、松柏操を変ぜざるの義を取れり、陵の傍に廬す、後に旧僚公連朝臣世を遁れて古音と号し、相ともに古琴禅師に参じて宗要を究む(以上大意)
○南山巡狩録 吉野拾遺は古書なりといへども、近世好事のもの附会の別冊をそへたり、此物語を書し松翁と云ふ人は、南京の侍従吉房朝臣の事にやあらん、新井源君安積覚兵衛に贈れる書簡に、余野山集に於てたまたま撰人の名を得たり、云吉房朝臣の著す所也、吉房朝臣は後醍醐帝につかへふたごころあらず、登※[しんにょう+(暇−日)]の後思慕止ず、薙髪して僧となり、みづから松翁と号す、陵の傍に廬す、復旧僚公連朝臣世をのがれて古音と号し大安寺に住する者と相共に、河内国経山古琴禅師に参じて宗要を極む、古琴は草河の真観禅師に嗣法して雲門宗を唱ふるものなり、野山集を顕はすものは是も又南朝の官人にして、松翁古音と法友たる情を忘るゝこと克はず、具にしるして後に備ふと云ふ。 
椿谷《ツバキダニ》 吉野山南の渓なり、椿山寺あり天慶年中僧道賢創建。道賢は一名日蔵世に御岳上人と称す、種々霊験を示現せしめ修行道の英傑たり、扶桑略記元亨釈書に本伝あり。名所図会云、椿谷の辺に雨師《アマシ》獏《ハク》の観音堂あり、昔こゝに後醍醐天皇御幸ありて雨を祈りたまふ、
 此里は丹生の川上ほどちかし祈らばはれよさみだれの空。
此処より一里許下流に丹生神社あり。
補【椿谷】○西国三十三所図会 椿谷、椿山寺は日蔵上人修行の地なり、延喜十六年此寺に入て剃髪し修行すること六年なりとぞ、御岳上人とも云ふ、天慶四年の秋金峰山に入て三七日を限り断食無言して秘密供を修せらるヽに、執金剛神あらはれて水をあたへ、天童来て珍味を授け食せしむ、尚又蔵王権現あらはれ給ひ、地獄の苦相を見せしめ、大政威徳天神の宮殿に至る等、種々の不思議の事ども多かり、委しくは釈書にも見えたり。
 
青根《アヲネ》 吉野山の東嶺にして金峰の北に並ぶ、青嶺の義なり。万葉集に蘿を詠じ、此山に寄せて其青氈に似たる景致を叙せり、
 三芳野の青根が峰の蘿席《コケムシロ》たれか織りけむ経緯《タテヌキ》なしに。
安禅寺は青根峰の下に在り、飯高山宝塔院と号す、蔵王権現を祭り、奥院と云ふ慶長九年豊臣秀頼重興。〔三十三所図会〕
 
苔清水《コケシミヅ》 青根の安禅寺を去る西北二町に在り、西行法師庵室の址にして、芭蕉又之を訪ひ雅懐を述べたり。
 浅くともよしや又くむ人もあらじ我にことたる山の井の水、〔山家集〕
〔補注、右の歌未詳〕
野晒紀行云、独吉野の奥にたどりけるに、まことに山深く白雲峰に重なり、烟雨谷を埋んで山賤の家ところ/”\にちひさく、西に木を伐るおと東にひびき、院々の鐘の声こころの底にこたふ、昔より此山に入て世を忘れたる人のおほくは詩にのがれ歌にかくる、いでやもろこしの廬山と云はんも又むべならずや、ある坊に一夜を借りて、
 碪打てわれにきかせよや坊が妻、 はせを
西上人の草の庵のあとは、奥の院より右の方二町許りわけ入る程、柴人の通ふ道のみわづかにありて、さかしき谷をへだていとたふとし、彼とく/\の清水はむかしにかはらずと見えて、今もとく/\と雫落ける、
 露とく/\こころみに浮世すすがばや。
 凍とけて筆に汲干す清水かな、
   西行庵遺址在芳山極深処 藤井竹外
 樵人牧豎語行公、風雨満山春已空、我覚残碑不辞遠、行三十里落花中、
 
金峰《キンプ・カネノミタケ》 吉野山の高峰にして吉野村の東南に峙ゆ。南は大峰《オホミネ》(釈迦岳弥山等)に連り山谷重畳遙に熊野那智の境に至る、修験道者の経行せる所にして古より其名著る。万葉集に「三吉野の御金嵩《ミカネガダケ》にひまなくぞ雨はふるといふ時じくぞ雪はふるといふ」云云の句あり、文徳実録に金峰《カネノミタケ》三代実録に高山《タケノヤマ》と記して霊神あり、後世蔵王権現と称する者是也、山中に金あり山神惜みて人の採ることを聴さずと云事は宇治拾遺物語に見ゆ。
扶桑略記云、役優婆塞者、賀茂役公氏、葛木上郡茅原村人也、自性博学、仰信三宝、住葛木山、卅余箇年、被藤皮餌松葉、閑孔雀之神咒、究奇異之験術、乗五色雲、通仙人都、駈便鬼神、汲水採薪、仰山神※[にんべん+(稱−のぎへん)]、金峰山与葛木嶺、竝亘石橋、可通行路云々、大宝元年、母子共度去於大唐、件行者唐国四十仙人中第三座也、遣唐副学生道昭、住新羅山寺時、神仙毎日集会、其第三聖以倭音揚問論議、道昭驚奇、件聖人答言、我是日本国金峰葛山并|富慈《フジ》峰等修行、役優婆塞也。又同書云、天台沙門陽勝、於吉野郡堂原寺辺、飛行空中、元登金峰山之次、尋古仙旧庵、弥存幽居之志、到吉野郡牟田寺、三年苦行、終到堂原寺止住、不食無衣、遂以飛去、古老相伝、本朝往年有三、仙飛龍門寺、所謂大伴仙安曇仙久米仙也、大伴仙草庵有基無舎、余両仙室于今猶有、但久米仙後更落。釈書云、聖宝、修練経歴、名山霊地、金峰之嶮、役君(小角)之後、榛塞無行路、宝援葛※[くさがんむり+(田/(田+田))]而踏開、置衛役、自是苦行之者、相継不絶。又云、都藍尼、精修仏法、兼学仙術、世伝金峰山者黄金之地、金剛蔵王菩薩護之、不容婦人渉竟、藍曰我雖女身浄戒、豈凡婦之比哉、乃登金峰。義楚六帖云、日本国、都城南五百里、有金峰、山頂上有金剛蔵王菩薩、第一霊異、山有松檜名花軟草、大小寺数百、節行高道者居之、不曾有女人得上、至今男子欲上、断酒肉慾色、所求皆遂云、菩薩是弥勒化身、如五台文殊。金峰或は黄金峰とも曰へり。
 神のますこがねの峰は法説きし鷲の御山のあととこそきけ、〔末木集〕 藤原信実
 あまそそりかねの御たけは雲居にて高く見えける金の御嵩は、 本居宣長
万葉集名所考云、御金嵩は僧尼令義解に「仮如山居在金嶺者、判下吉野郡之類也」また霊異記に「聖武天皇代、広達入於吉野金峰、経行樹下、而求仏道云々」など諸書にあまた見ゆ。然るを本集巻一に「吉野之|耳我《ミヽガ》嶺」と書たるによりて、後世早く八雲抄にみみがの嶺は吉野の山のよし書せ給へるを初めて、近来おしあてに説く者多し、岡部氏|耳我は御缶《ミヽカ》てふ意にて、此山の形缶に似たるをいふならむといひ、巻十三御金嵩とあるをさへ引出で、金は缶の誤なりと漫に推定めしはいかにぞや、抑美加は御缶の意にて、御御缶といかで云ふべきぞ、又御御缶の義とするも加を我と濁る例なし、皆違へたり、耳我は誤字なるべし、中世金御嵩を専ら御嵩とも呼べり、源氏物語に御たけ精進《サウジ》の事見え、当時崇敬並びなき霊祠たりき。
   六条の源中将と経房の中将と花見んと契りて、俄に中将はみたけ精進して、いかにぞ花見にはありきたまふとぞいひたるを、いかが云んとありしに、かはりて二首、
 我はまたおもひもたえず花さくら君やみたけの山もこゆらん、
 心にもあらでのぼりし吉野やま君をみたけのほどなかりしぞ。〔赤染集〕
 
六田《ムタ》 吉野村の北なる渡津にして、大淀村に対す。六田の渡又六田の淀と称す、水浜楊柳多きを以て柳之駅《ヤナギノシユク》の名あり、芳山来往の客之を過ぎざるものなし。
 かはづ鳴く六田《ムツタ》の川の川楊の根もごろ見れどあかぬ君かも、〔万葉集〕
 さくら咲く水分山に風吹けば六田の淀に雪つもりけり、〔続後拾遺集〕
   芳川 中井竹山
 芳川滾々繞芳山、練色藍光百折湾、天愛名花設斯険、不分一樹向塵寰、
元亨釈書、仙人陽勝、夏入金峰山、冬下|牟田《ムタ》寺、延喜元年謝世。
 
大淀《オホヨド》 上市町の西を大淀村と為す、近代池田荘北荘など云へる地なり、吉野川の北岸に居る、大字増口は吉野村六田の渡の津処也、大字下淵は下市村への渡口なり。 今しくは見めやとおもひし三芳野の大川淀を今日見つるかも、〔万葉集〕音にきき目にはまだ見ぬ吉野河六田の与杼を今日みつる鴨、〔万葉集〕
御馬瀬《ミマセ》は日本書紀雄略天皇御馬瀬行幸の事見ゆ、通証云、吉野郡池田荘|増口《マセクチ》村。羽狭山《ハサヤマ》は日本書紀、履仲卷羽狭、允恭卷、幡舎能夜摩、通証云「吉野村北荘|馬佐《マサ》村、上方有羽狭山」、と当否を知らず。
 
比蘇寺《ヒソデラ》址 大淀村大字比曾に在り、近代吉野世尊寺を此に再興す寺鐘は寛元二年金峰山寺の物にて、吉野郡薬師寺庄葛上郡字鳥屋を寄進せる由を識せりと云ふ。比曽|現光《ゲンクワウ》寺は古の吉野寺なり、玉林抄に本尊仏光を放ちたまふにより現光寺と名づけられき、又栗天八一と書し額ありしと、今破壊して唯古瓦現光寺と銘ずる者旧址より出づるのみ。〔名所図会三十三所図会〕、欽明天皇紀十四年、河内国言、泉郡茅渟海中、有梵音、震響若雷声、光彩晃燿、如日色、天皇心異之、遣溝辺直、入海求訪、果見樟木、浮海玲瓏、遂取而献、天皇命画工、造仏像二躯、今吉野寺放光樟像也。元亨釈書云、推古帝三年、南海之浜有浮査、夜放光声如雷、着淡州、沈水香木也、勅百済工、刻観音像、安吉野比蘇寺、時々放光。〔釈紀云、天書曰、欽明十四年、樟樹浮海、初造仏像、遂為※[田+比]蘇山寺〕
 
越部《コスベ》 大淀村大字越部は増口と下淵の間に在り、越部の名は霊異記に見ゆ。同書云、未作畢仏像而棄木示異霊表縁、第廿六、禅師広達者、俗姓下毛野朝臣、上総国武射郡人(一云畔蒜郡人)聖武天皇代、広達入於吉野金峰、経行樹下、而求仏道、時吉野郡桃花里秋河、有椅々下有音、曰鳴呼莫痛喩邪、禅師聞之、怪見、未造仏了而棄木也、禅師大恐、勧人集物、彫造阿弥陀仏弥勒仏観音菩薩像、既訖、今居置吉野郡越部村之岡堂也。越部村之岡堂をば釈書に和州村崗寺に作るは誤れり、今越部堂なし、蓋南北戦争の際に亡びたるならん。
下淵《シモフチ》は今大淀村に属す、南岸は下市村なれば舟渡あり。
補【越部】○日本国現報善悪霊異記 未作畢仏像而棄木示異霊表縁第廿六、禅師広達者、俗姓下毛野朝臣、上総国武射郡人、(一云畔蒜郡人)聖武天皇代、広達入於吉野金峰、経行樹下、而求仏道、時吉野郡桃花里有椅、椅本伐梨引置之、而歴余歳、同処有河、名曰秋河、彼引置梨、度于是河、人畜倶践、而度往還、広達有縁出里、度彼椅往、椅下有音、鳴呼莫痛踰邪、禅師聞之、怪見无人、良久徘徊、不得忍過、就椅起看、未造仏了而棄木也、禅師大恐、引置浄処、哀哭敬礼、発誓願言、有因縁故遇、我必奉造、請有縁処、勧人集物、雕造阿弥陀仏、弥勤仏、観音菩薩等像既訖、今居置吉野郡越部村之岡堂也、木是无心、何而出声、唯聖霊示、更不応疑也。
 
今木《イマキ》 大淀村下淵の上方にある大字なり。今木の北は高市郡南葛城郡の地にして接続の地|葛《クズ》村(南葛城郡)越智岡坂合(高市郡)等は昔今木郡の称ありし地なり、此地も其名の遣れるならん、日本書紀今木の諸墓は大和志書紀通証等此の大淀の今木に在りと為せど疑はし、彼葛村越智岡村坂合村等に求むべき者のごとし。
槻本《ツキノモト》南丘墓 日本書紀云、雄略天皇、燔円大臣宅、与坂合黒彦皇子眉輪王倶被燔死、時坂合部連贄宿禰抱皇子屍而見燔死、其舎人等収所焼、遂難択骨、盛之一棺、合葬|新漢《イマキ》槻本南丘。書紀通証云、吉野郡有今木村、此墓俗称天狗森。
今木双《イマキノナラビ》墓 日本書紀云、皇極天皇元年、蘇我大臣蝦夷、尽発挙国之民、并百八十部曲、予造双墓今木、一曰大陵、為大臣基、一曰小陵、為入鹿臣墓、四年大兄(天智)殺二人、詔許葬於墓、復許哭泣。書紀通証云、双墓、今在古瀬水泥村(今葛村大字)与吉野郡隣。
今城谷上《イマキノハサマノヘ》墓 日本書紀云、斉明天皇四年、皇孫建王薨、今城谷上起殯而収、天皇本以皇孫有順、而器重之、詔群臣曰、万歳千秋之後、要合葬於朕陵。書紀通証云、殯塚在吉野郡今木村、今云保具良冢。又斉明天皇御歌あり、本紀に載す
 伊磨紀なる乎武例《ヲムレ》がうへにくもだにもしるくしたたばなにかなげかむ、
   (按本史云、天皇傷哀極甚作歌、時々唱而悲哭、幸紀温湯又有歌、詔曰、伝此歌勿令忘於世)
 山こえて海わたるともおもしろき今来の内は忘らゆましじ、
乎武例は小巒の義なるべし、続古今集に外山に改む。
 
吉野《ヨシノ》郷 和名抄、吉野郡吉野郷、訓与之乃。上中下三郷の外に本郷あり、今の大淀村下市村秋野村等にあたる如し。霊異記に桃花里秋河とあるは秋野村に当れば、一名桃花里と曰ふか。
 あさぼらけ有りあけの月と見るまでに吉野の里に隆れる白雪、〔古今集〕 坂上是則
 
下市《シモイチ》 下市村は吉野村の西大淀村の南に方り、秋野と共に秋河の谷に居る。下市は一小山市にて吉野鮨吉野塗を名産とす、吉野鮨は古の吉野厨年魚鮨火干の遺流なるべし、鮨火干は延喜式に見ゆ。
三十三所図会云、※[魚+條]鮓《アユズシ》下市に産す、鮓屋弥助と云者之を製す、其盛器釣瓶のかたちに似たり、故につるべ鮓と云ふ、其味又美なり、土人曰例年吉野七郷より院御所はじめ高家の方に鮎《アユ》の鮓を献じ奉ること久し、近世下市村に宅田屋何某といへる魚商人ありて鮓の調味に馴たるに依り此家に托して漬させ献ぜし事ありしより、年々其加減の違はざる為めとて終には例年宅田屋に打任せて漬させしとぞ、夫より此家の名物となりて、献上の時過ぐれば平日にも製して商ふ事となれり、然るに近世義経千本桜と云へる浄瑠璃の戯作に此家の事を取組て作りしより、諸国に其名高く開え、主人の名さへ更めて鮓屋の弥助と呼べり、世に斯る例はまた少なからず云々。古ヘ吉野の里に味稲《ウマシネ》と云へる男ありて吉野川に至りて魚梁を打て魚を取る、柘の木の枝流れ来りて其魚梁に留まりしほどに、取りて帰るに忽ち化して麗しき女となる、是則ち仙女なり、終に味稲と夫婦の契りをなし老せず死せず、共に久しく住けりとぞ、此歌万葉集に見ゆ。○維新史料云、文久三年天誅組浪人下市を襲ひたる事伴林光平日記に見ゆ、当時彦根藩井伊氏の戌所なりき「文久三年九月十日夜下市の民家に放火す四十五ケ所なり、彦賊等周章狼狽し烟の下より迷ひ出る賊兵を味方の勇士芋刺にする、方角を失ふて賊の討るゝもの数を不知と云々、己は終夜銀峰山の御軍陣より火の手を見つゝ、
 吉野山峰の梢やいかならん紅葉に成ぬ谷の家村」
本邦にて手形流通の事は、和州下市を以て始とすべし、下市には南北朝の末つ方より一種の流通手形起れり、此地毎月六次の市立ありて百貨を交易売買するに、銭にては持運びに不便なりとて、有徳の商人銀目を紙にかきつけ、切手と名づけて発行せるに濫觴す、其公許を得たるは寛永十三年の事にて、当時下市の有徳者三十人を三組に分ち、定札一貫目出すものは三貫目の抵当品を差入れさせ、若し札元の身上不如意となれば組合にて引受くることを命ぜらる、当時都合二百貫匁を限りて出札せしに、延宝中には三組八十六人の札高五百貫匁に達せりとぞ。〔皇典講演〕
夢回淵《ユメワタフチ》 下市村大字|新住《アラスミ》に在り、吉野河の一潭にして、奇石あり、土俗|梅《ウメ》の回《ワタ》と呼ぶ。
 夢の和太事しありけりうつゝにも見てこし者を念ひしおもへば、〔万葉集〕
波比売《ハヒメ》神社は今下市村の南大字|栃原《トチハラ》の黄金《コガネ》岳に在り、供僧を金山寺と曰へり。〔名所図会〕文徳実録天安二年波宝神波比売神並に官社に預り、三代実録貞観八年二神共に従三位に叙され、延喜式に列す、波宝神は今銀峰村に在り相去る一里。
補【波此売神社】○神祇志科 今栃《トチ》原村西南黄金岳の頂にあり、黄金岳宮といふ(大和志・名所図会)文徳天皇天安二年三月己丑、従五位下波宝神波比売神並に官社に預り、四月発丑二神に従四位下を授け(文徳実録)清和天皇貞観六年六月戊寅並に正四位下を加へ
 按、本書従四位下とするは誤れり、今八年文に依て之を訂す
八年十一月乙巳二神共に従三位に叙され(三代実録)醍醐天皇延喜の制、祈年祭並に鍬各一口を加奉る(延喜式)
 按、印本神名帳波此売神社の下鍬字を脱せり、今一本及京極宮本・日野家本に拠て之を補ふ
凡そ八月十五日十一月十一日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
秋《アキ》 今下市村の東南に秋野村立つ、秋河あり長三里、下市にて吉野川に入る。仙覚万葉抄に安騎野は吉野山の方に在りと云ふは此地を指す、然れど万葉集に詠ぜる安騎野は此に非ず、宇陀郡なり。霊異記云、聖武天皇時、吉野郡桃花里有椅、椅本伐梨、引置之而歴歳余、同処有河名曰秋河、彼引置梨、度于是河。
補【秋野川】吉野郡○図会云、下市川とも云、水源吉野山より流れて下市に至て吉野川に入る。〔霊異記略、越部参照)
 
丹生川《ニフカハ》 吉野山の南に発源し西流四里、賀名生《カナフ》村に至り吉野川へ注ぐ。丹生川は二所に瀑布を為す、一は丹生滝(南芳野郡大字丹生)と云ひ、一は王之滝(賀名生村大字滝)と曰ふ
 斧取りて、丹生の檜山の木こり来て、機《イカダ》に作り、ま梶ぬき、磯こぎたみつゝ、島づたひ見れども飽かず、三吉野の、滝もとどろに落る白浪、〔万葉集〕
   賀名生の行宮にて、人々歌よみ侍りける中に、 冷泉右大臣
 忘れめやみかきにちかき丹生川の流れにうきて降る秋霧、〔新葉集〕
補【丹生川】○地誌提要 源を吉野郡吉野山及赤滝山に発し、西流丹生村に至り瀑布をなす、其高凡そ三拾丈、加名生村を経て西北流し、滝村に至り又瀑布をなす、是を王の滝と云、終に字智郡霊安寺村に入り吉野川に合す、長九里拾七町※[濶−さんずいへん]五拾間。
 
資母《シモ》郷 和名抄、吉野郡資母郷。此郷詳ならず、地勢より論ずれば丹生川の谷なる、賀名生村白銀村等あたるが如し、故に今仮に此に係く。
 
南芳野《ミナミヨシノ》 吉野村下市村の南にして丹生川の上游なり大字中戸堂原長瀬丹生等あり、中世には黒滝《クロタキ》荘の名あり。丹生に丹生滝あり、高三十丈其北に丹生川上神社あり。
堂原《ダウハラ》 元亨釈書に堂原寺の名見ゆ此地なるべし、云仙人陽勝、能州人、姓紀氏、初登叡山、後居和州、夏入金峰山、冬下牟田寺、習仙方、延喜元年永謝世境、掛袈裟松枝曰、譲与堂原寺延命、命見是尋求、無縦跡。
 
丹生川上《ニフカハカミ》神社 南芳野村大字丹生に在り.祈雨の大社にして、或は雨師《アマシ》神と称す、中世二十二社第二十一に列したり。神祇志科云、本社は水神|弥都波能売《ミツハノメノ》神を祀る、(廿二社注式廿二牡本縁)伊邪那岐命の御子神也、〔古事記日本書紀〕此神よく天下蒼生の為に甘雨を降し給ふを以て、其徳を称て雨師神と申す、〔参取類聚三代格日本紀略大要〕昔此神|教《サト》し給はく、人声の聞えぬ深山吉野丹生川上に我宮柱を建て敬《イツキ》奉らば、甘雨《アマキアメ》を降して霖雨《ナガアメ》を止給はむと教給ひき、故宮社を造りて仕奉りき、〔類聚三代格〕之を大和神社の別牡とす。〔類聚三代格大倭社注進状〕大炊天皇天平宝字七年旱するを以て幣帛及黒毛馬を奉り、〔続日本紀〕光仁天皇宝亀四年大和丹波四戸を神封に充しむ、嘉※[さんずいへん+(樹−木)]あるを以て也、〔続日本紀新抄格勅符〕六年霖雨祈の為に白馬幣帛を奉る、是後此神を祭るもの、旱には必黒馬を奉り、霖雨の日には必白馬を奉りき、〔続本紀三代実録続日本後紀日本紀略延喜式〕其祷祈ある毎に神験霊応尤顕る。〔左経記古今著聞集、新葉集吉野拾遺〕元慶元年正三位を授け〔三代実録〕寛平七年勅して百姓浪人等神地を妨げ穢奉る事を禁しむ。是よりさき大和社神主|大和人成《ヤマトノヒトナス》称さく、別社丹生川上雨師神の祝等云く、名神本紀を考ふるに昔神宣に依て社を建しより今に至るまで幣を奉り馬を奉るに依て、東は、塩勾《シホアヒ》南は大山峰西は板波滝北は猪鼻《ヰノハナノ》滝を神社の界とし、神馬を放牧ひ狩猟を禁めらる、然るに国栖戸百姓浪人事を供御に寄せ神地を妨げ、動すれば神祟ありと云ふ由を奏せるに依て也。〔類聚三代格帝王編年記〕九年従二位を授け、〔大倭社注進状〕延喜の制名神大社に列し、大和社の神主奉幣す、爾後歴朝尊崇、之を山城国貴船神に比す。
 
白銀《シロガネ》 南芳野村の西に接し、駅所を十日市《トヲカイチ》と曰ふ丹生川の谷なり。北嶺を白銀岳と曰ひ、山上に延喜式波宝神社あり、波宝《ハホ》神彼此売神の事文徳実録三代実録に見ゆ。正平十五年睦良親王(大塔宮王子)叛かせたまひ、賀名生の行在を焼き、銀嵩に拠る事大平記に見ゆ。維新史料伴林光平日記云、文久四年九月九日、銀峰山の御陣に在けるに、後の山陰に俄に玉打音の頻にしける故、何ぞと問へば、彦根の賊間近く寄来りしと云、さらば速に蹴散せと「身を捨て千代はいのらぬ大丈夫も流石に菊は折かざしつつ」斯て上の平と云所まで打出しかば、彦賊等旗の手を取乱して雲霞の如く逃退。 
賀名生《カナフ》 丹生川の未に在り今賀名生村と曰ふ、字智郡南宇智村に接す、旧名|穴生《アナフ》と曰へるを正平年中南帝此に行在を建てたまへる時改めて賀名生と為す。初め延元元年十二月後醍醐帝先づ穴生に至り吉野に移りたまふ、正平三年吉野内裡賊火に罹り後村上帝又此に御したまへり、既にして正平七年の春(即観応三年壬辰)主上親ら諸軍を督し八幡(男山)に出征したまふ。其夏軍利なく北方の上皇以下を伴なひ奉り山中に帰り給ふ、幾程もなく河内に移り、翌年は天野行在におはしませり。後亀山天皇の時、文中二年三度賀名生の御幸あり、是より二十年間の皇居たり、或は吉野の奥なれば推し及ばして唯吉野宮と呼ぶ。大和志に賀名生村の和田華蔵院址を以て先帝延元の行在に擬し黒淵総福寺址を以て後村上後亀山の皇居なりと曰ふ、南山巡狩録は之を採らず。
 
賀名生《カナフ》行宮址 南山巡狩録云、正平三年後村上院穴太まで立のかせ給ひしかども、行宮になさるべき堂含もなきにより、先帝の行在堀又太郎が家に入らせ給ひし事とみゆ、幾程なく此所に行宮を作られ八九年頃まですませ給へり、大和志によれば後醍醐帝のすませ給ひし、故跡は賀名生の庄和田村後村上院は黒滝村に居絵ふよししるせり、今より考ふるに二帝ともに和田村黒滝村等にすませ給ひし事はなし、是は小倉宮御兄弟の御子泰仁王尊義王高秀王忠義王等のすませ給ひし事ありしをあやまりつたへし事と思はる。又云、正平十五年将軍宮睦良親王いかなる御心やつきけむ、賀名生の皇居に押よせ御所を焼給ふ、この宮に附したがひし軍兵どもはじめの程は宮の御謀にやあらむとおもひしかど、終に此宮北朝に御合体にて叛逆し給ふ由披露せしかば、兵どもは離散し宮も御自害を遂げらる、此頃賀名生の御所には主上御座なかりしかど、睦良親王をはじめ宮及公家の従類多くとゞまり給ひし事と見ゆ。凡正平三年の後吉野の行宮と指て云へるものは賀名生に限れり、而も正平中北方へ出陣ありて後其賀名生に還らせ給へるは文中二年なるべし、其拠所々にあり。まづ花営三代記の応安六年の条に宮方天野へ発向の事見え「八月南方奉譲位於御舎弟宮之間、相副三種神器、没落吉野」とみゆ、是天野より吉野へ行幸をさしていへる拠一也。また五百番歌合に入道関白「忘れじなまた出ぬとも吉の山なれて三とせの花の下蔭」とあり、此歌合ありし天授元年より三年後に推時は文中二年に相当り、北朝の応安二年となれり、是拠二、又新葉集雑中、中宮の歌の詞書を見るに、正平廿四年の春吉野の行宮におはしましけるを年月をへて後又彼山に行幸ありける比、松といふ事を「契あればまたみよしのゝ峰の松まつらむとだにおもはざりしを」とあり、此詞書より考ふれば正平廿四年より後も吉野より他所へ臨幸あり、程なく帰り給へる証となる、是拠の三。又嘉吉門院御集に文中二年霜月廿日頃雪いとう降り侍りし日こぞの冬あま野にて御覧ぜられし雪のけしきなど思召し出づる由申されて「かきくらす峰の白雪それながらともに見し世のおもかげはなし」とあり、この歌も又去年はあま野といふ所の雪を見姶へども今年は他所の雪見拾ふこゝろ見ゆ、是拠の四也。是れらより考ふれば実に文中二年行宮を賀名生にうつされしこと分明なり、何故文中二年天野山より賀名生にうつされしといふに、花営三代記に見ゆる如く細川氏春、京勢を率ゐて天野山に打むかひし故なり。扨又新葉集雑中に天授三年行脚の僧よみける歌をのせ、其詞書にさき山の行宮と見えたり、かのさき山といふものはいずれにや知らずといへども、賀名生に在所の山にして行宮はやはり賀名生の皇居をさして云へるものか、猶尋ぬべし、此後元中九年にいたるまでこの賀名生の御所に居たまふ。
 天の下大御心にかなひきや賀名生は里の名にこそありけれ 本居宣長
   芳野古竹笛歌、竹賀名生邑堀又太郎家出之、 草場佩川
 畿内南北割鴻溝、一隅偏安芳嶺幽、文武衣冠不復見、多恨年々花満邱、山陰秦子慷慨志、千里弔古去幽捜、翠華当年駐此地、一区旧廬迹可求、夜半梁上如有物、怪底悲吟訴冤愁、尋声仰視起歎息、枯骨安図是龍※[虫+斗]、為倩伶倫高世手、一腔六孔便渠修、聞昔国栖里中老、奏曲為解君主憂、独此南狩保難釈、万古芳河水激流、英魂知有待妙弄、悲風落月満山秋、
皇代略記云、観応三年五月十一日、新主(後村上)両上皇新院并儲皇、遷御於賀名生離宮、是新主官軍失利御没落、被奉伴之。吉野拾遺云、正平壬辰の年の春旧都の三主ともにとらはれ人とならせ玉ひて、此山に入らせ給へるに、黒木の御所の浅ましきに、尚其外に荊棘を隙なく植たる内に押こめ奉る。
     ――――――――――
十津川《トツカハ・トヲツカハ》 吉野郡南部広大の地を十津川郷と称す古は遠津川と唱へたり、熊野川の上游にして今九村に分る。東鑑云、文治元年十一月廿二日、予州(義経)凌吉野山深雲、吉向多武峰、到着之所者、南院内藤室、其坊主号十字悪僧也、賞翫予州、廿九日十字坊相談予州云、寺院非広、住侶又不幾、遁隠始終不可叶、自是欲奉送遠津河辺、彼所者人馬不通之深山也者、予州諾之、大欣悦之間、差悪憎八人送之。三年二月十日条曰、伊予守義顕、日来隠住所々、度々遁追捕害訖、遂経伊勢美濃等国、赴奥州也、相具妻室男女、皆仮姿於山臥并児童等。
 十津川の吉野のたきを分けゆけば氷ぞ泡ととけてさまよふ、〔家集〕 曾根好忠
 吉野山十尾津川上ゆきふかみけぶりも民の家居なるらん、〔堀河百首〕 国信
神武帝大和打入の時、熊野より吉野に出で給ふ、実に十津川を経由したまへり。古事記云、於時|高倉下《タカクラシ》亦高木大神之命以、覚白之、天神御子(神武帝を云ふ)自此於奥方、莫使入幸、荒神甚多、今自天遣八咫烏、故其八咫烏引道、従其立後、応幸行、故随其教覚、幸行者、到吉野河之河尻。(此に謂ふ所奥方即十津川郷にして河尻は今宇智郡阿太村を云ふ)十津川の郷民は山中に生活し一種の気風古よりこれあり、古事記に奥方の荒神《アラブルカミ》と録したるは当時土酋の類なるべし、保元物語太平記に見ゆる十津川郷士より、近年浪人与力の十津川徴兵に至るまで、皆武勇を好む習あり、蓋地理に所因あるべし。保元物語云、南都より衆徒大勢にて、吉野十津河の者共を召し具して、十余騎にて今夜宇治に着き、明朝入洛仕る由聞え候ふ、敵に勢の着かぬ前に押し寄せ候はん、内裏をば清盛などに守護せさせられ候へ、義朝は罷り向て忽に勝負を決し候はんとぞ勧めける。太平記云、元弘二年大塔宮は十津河を尋てぞ分入らせ給ける、其道の程三十余里が間には、絶えて人里もなかりければ、或は高峰の雲に枕を※[(鼓−支)+奇]て苔の筵に袖を敷き、路の程十三日に十津河へぞ着かせ姶ひける、宮をばとある辻堂の内に置き奉りて、御供の人々は在家に行きて、熊野参詣の山伏ども路に迷ひて来れるよしをいひければ、在家の者共哀を垂れて粟の飯橡の粥など取り出して其飢を助く、声を高らかに揚げて、是は三重の滝に七日うたれ、那智に千日籠りて三十三所の巡礼のために罷り出でたる山伏共、終に踏み迷ひて此里に出でて候云々、戸野兵衛申すには身不肖に候へども某一人だにかゝることぞと申さば、鹿瀬《シシセ》、蕪坂《カブラザカ》、湯浅《ユアサ》、阿瀬川《アゼガハ》、小原《ヲハラ》、芋瀬《イモセ》、中津河《ナカツガハ》、吉野、十八郷の者までも手刺す者候ふまじきにて候。(按ずるに鹿瀬以下五郷は紀伊国に属し小原以下三郷を十津川と為す戸野も郷名の一なるべし当時十津川四郷に分れしか)人類学会雑誌云、十津川郷は五十余の部落(大字)あり、其住民往古より十津川郷士と称したるものなれば、木を伐る樵夫も田を鋤く老叟も皆是籍を士族に列ぬるものにして、其気風の如きも京畿地方の農夫とは自から異る所あるが如し、然るに去る明治廿二年八月一たび大洪水の汎濫して、山壑を崩壊し耕地を侵すや、住民多くは北海道に移住せしが、猶今日にても山腹向陽の地には、数頃の田園に囲まれて点々矮屋あり、総べて杉の厚皮にて蔽ひ、之に数条の大材と石塊とを横ふるを常とす。地学雑誌云、南吉野郡高峻多く山脈あり、之を大峰山上岳の連山とす、其東西に各一径の谷あり、東を北山谷と称し、西を十津川谷と称す、北山谷の東は大台ケ原の山脈に連なり、十津川谷の西は高野山の山群に接し、恰も山字形の断面を示し、中央の山系に於て其海抜の最高点は山上岳二千メートルに達し、左右の山系に在りては是より低きこと二百メートルなり、此二谷は喚雲起雨の地形を成し、森林の養成に適して喬木鬱蒼天日を遮り、谷深く崖高く、嶮峻の山間なれば河流に沿ひて纔かに小径を通じ、山腹の平夷地及び河畔の洪涵地に拠り村落を成したり、所謂十津川郷是なり、其表土は皆※[あめがんむり+毎]爛土壌なれば、明治廿二年の大雨に地辷り山崩れの惨状を招けるも自然の数也。
 
十津川《トツカハ》 吉野新宮川の上游にして、源を大峰山上岳に発す、(天川村)西流七里大塔村に至り漸南流し、南十津川村大字七色に至り紀伊に入る、源頭より此に及ぶ凡二十二里、十津川の舟楫は中十津川村以下に於て之を見る。探奇小録云、十津川舟槎下る者岩石間を縫ふ、舟子棹を手にして舟首に立ち石に逢へば則ち撞て以て避く、左逃右転其巧なること人を驚かす、時に浅灘有り灘石水を激し水咽んで白を※[(翻−羽)+飛]すこと百十頃、舟底石に触れ※[車+歴]轆声有り、又巨岩の下盤渦して潭と成る、乃ち恐る舟随ふて而して輪旋するを、舟子随処手を着け易々に経過す、舟矢より駛く、山転じ岩逃げ、走馬燈を看る如し、眼を転ずる匆々、忽ち七色に至る、舟行蓋已に三里、和州尽き焉、紀州続き焉、両崖即ち低く河身漸く濶く、而して水勢頗る緩し。
 
大峰《オホミネ》 十津川郷の東に横はる大山脈也。吉野金峰の南より.玉置山に至る迄凡十五里、嶺勢綿亘|大天上《オホテンジヤウ》小天上|山上《センジヤウ》岳国見山|弥山《ミセン》釈迦岳天狗岳東屋岳玉置山等一条の山脈を成す。其国見山より一支東に走り伯母峠《ヲバタウゲ》と為る者は大台原山に接す。大峰は往時修験道の登陟以て練行を試みたる霊地にして、其※[足+齊]攀を峰入《ミネイリ》と名づく。修験道(山伏)に二流あり、一は天台宗聖護院に属し当山派と号し吉野より峰入を為す、一は真言宗三宝院に属し本山派と号し金峰より峰入を為す、此時入は役小角の創始する所にして近時に至る迄其業盛行したりしが、山伏停廃の政令ありけるより今や蓑へたり。
   法眼定忍にあひて侍し時、大峰の物語などをしいへるを聞て、後によめる、 源実朝
 すゞかけの苔おりぎぬのふり衣おくもこのももきつつ馴けむ、〔金槐集〕
   大岑にて 僧正行尊
 もろともにあはれと思へ山ざくら花より外に知る人もなし、〔金葉集〕
 峰入は宮もわらぢの旅路かな、 宗因
   花も奥ありとや、芳野にふかく吟じ入りて、
 大峰やよしののおくを花の果、 曾長
   山伏詩并序 僧元政
   山伏者本僧也、昔我俗称僧、総以山伏、是也、今之所謂山伏者、祇是一類異形之徒也已、額着小角巾、肩袿不動袈裟、腰横双刀、手袿八角棒、而高声鳴螺、※[皐+羽]翔市邑、或謂役行者之徒、其叔父願行者、是鼻祖也、行之次曰義学、其次曰義玄、其次曰義直、其次曰寿元、五代之後、枝蔓布浸、充塞乎世間云、
 一錫出峰鳴帝畿、電奔雷震燿神威、腰間倒帯明王剣、肩上斜懸古仏衣、華洛月随巾影動、葛城雲背枕頭飛、不知大法下衰去、終日吹螺何処帰、
参考本盛衰記云、山王院大師(円珍)大峰に入給しに、雲霞峰を隔て荊棘道を埋て東西を失ふ、滝尻に留り七日祈祷し給へば、八咫の霊鳥飛来て木を食折て其路を示し給き、八尺の長頭巾この表示とぞ聞ゆ、凡彼山の体たる、三重の滝に臨めば百丈の浪六根の垢を洗ひ、千草《チグサ》の岳に上れば四季の花一時に開て盛なり、フキウの峰には寒嵐衣を徹し古家《フルヤ》の宿には時雨袖を濡す、彼馳、児宿、滝の胸先、大禅師、小禅師、犀風の岨《ソバ》道、釈迦が岳、負釣、行者帰、何れも得道の人に非ずば争か爰を通はん。
   山家集云、行者返り児《チゴ》の泊りと云所につゞきて過ぐる也、昔の山伏は屏風が嵩と申所をたひらかに過むことをかたしと思ひて、行者児の泊と思ひわづらふなるべし、 屏風にやこころをたてておもひけむ行者はかへり児はとまれる、
   又云、大峰にて、大和国近くなりて古畑と云所にて、※[合+鳥]の声いとすごくなきければよめる、
 ふる畑のそばのたつ木に居るはとの友よぶ声のすごき夕ぐれ、〔新古今集〕
名所図会云、吉野山(金峰)より六里にして大峰|山上《センジヤウ》岳に達す、山勢高峻にして路嶮阻を極む、其間大天上小天上の二峰を踰ゆれば今宿に至る、又|洞辻《ドロツジ》あり、洞辻より直に山上岳の頂に攀づ蔵王堂あり。(古鐘を置く銘云「遠江国佐野郡原田荘長福寺天慶二年」)山上より東行一里を小篠と曰ふ、此辺岩窟多し、又西南一里許を脇宿と曰ふ、又一里許にして普賢岳あり、又南一里余を児泊《チゴトマリ》と曰ふ、国見山あり、又其南一里にして行者帰《キヤウジヤカヘリ》と曰ふ、又行こと二里八町弥山と称す、(弥山以南の路程別見す)すべて金峰より玉置に至る間を峰中と称し高嶺に行径を求めて修行したり。
 
山上岳《センジヤウガタケ》 天川《テンノカハ》村の東に在り、熊野川の源此に出づ、山上蔵王堂あり故に山上の名あり、即大峰の奥院なり。天川村大字洞川龍泉寺より登る者は八十余町の高原を経て之に達す、峰入行者近年大に減じたりと雖信徒未だ全く絶ゆるにあらず、夏季登山者諸州より至る。頂高凡五千六百七十尺。
笙窟《シヤウノイハヤ》は国見山(六百四十丈普賢岳の西南)に在り、国見は北山谷川上郷及十津川郷の交界点にあたり、遠眺頗広し、山中岩窟多し中にも笙窟は日蔵上人(三善清行子道賢)行慶僧正(白河帝の皇子)の栖止したまへる所とぞ。〔名所図会大日本史県名勝志〕
補【山上岳】吉野郡○奈良県名勝志 一に大峰山と称し大天井ケ岳の南少し東にありて、吉野郡天の川・川上二村に亘る、高約五千六百七十尺、絶頂に蔵王堂あり、中に蔵王権現の像を安ず、伝へて役小角の作とす、毎歳諸州より来賽するもの織るが如し、蓋山岳の深奥にして信徒の群賽するもの本州未だ此山の如きあらず、実に希世の霊区なり、登路六条あり、吉野山より六里、上谷より三里、下多古及高原より四里、赤滝は四里二十町、洞川は二里五町、又渓水五条あり、一は天の川に注ぎ、余はみな吉野川に入る。
補【国見岳】○奈良県名勝志 又国見山と称し、大普賢岳の西南にありて、吉野郡天の川・上北山二村に亘る、高約六百四十丈、山上は遠眺裕遠数州を俯瞰すべし、山中に岩室多し、笙窟、鷲窟、朝日窟等あり、西行嘗て此辺を過ぐ、笙の岩室を詠ずるに、
 今宵こそ哀ぞあつき心地して嵐の音をよそにきゝつれ
と、此山より西南を総て峰中と称す。
 
天川《テンノカハ》 天川村は吉野丹生川谷の南にして、天川に沿ふて部落あり、天川は古歌にあまのかはと詠ぜり。
 吉野山花やちるらんあまの川雲の堤をあらふしらなみ、〔未木集〕
長禄記云、寛正四年六月、畠山義就紀州岡の城を忍び出で、天川より末々の人をば暇賜り、三十余人計にて深山を凌ぎ、北山とやらんに忍び給ふ。
大字和田に延喜式伊波多神社あり、〔大和志〕又銅鉱を出す。〔地誌提要〕大字坪内に宗像神社あり、旧弁財天を祭り供僧を白飯寺妙音院と号し、天川荘廿一村の氏神なりき。〔名所図会〕
補【天之川】○維新史料 天の川辻と云所は要害屈竟の地なれど、手立隔り民家の少きのみ兵衆の愁なりけり、「蒸苔の簾の里に住居ても憂目ばかりは隔てざりけり」此程木工竹工抔を呼て大砲幾許を造らしむ、或朝天の川御陣いと寒かりければ
 榧の実の瓦に落つるおとずれに交るも寒し山雀の声
○今大塔村大字簾。
 
天辻《テンノツジ》 今|大塔《オホタフ》村大字|簾《スダレ》の上方にして、五条賀名生より十津川郷に入る要路にあたる、天辻峠と称し駅所を坂本《サカモト》と曰ふ、文久三年九月天誅組の浪人十津川を保せんと欲し此に拠り諸藩兵を拒みし事あり、当時伴林光平日記云、天の川辻と云所は要害屈竟の地なれど、水の手立隔り、民家の少きのみ兵衆の愁なりけり、
 蒸苔の簾の里にすまひ居てもうき目ばかりはへだてざりけり。
天辻は西は高野山(紀州伊都郡)に連り、筒香《ツヽカ》の藤代峰に接比す、神功皇后が丹生神を筒川に鏡め祭り給ふと云事播磨風土記に見ゆ。
補【天辻】○人名辞書 藤本鉄石、名は真金、通称津之助、備前の藩士なり、少壮にして武技を綜練し、また経史に通じ書画を善くす、文久三年八月朝廷已に大和行幸及び夷狄親征の議を決す、鉄石窃に有志の士松本奎堂吉村寅太郎等と謀り、将に義兵を挙げんとす、奎堂首として之を賛成し、同志三十余人と共に侍従中山忠光を奉じて京師を脱し、大坂より河内富田林に趣く、実に文久三年八月十七日なり、因て奎堂等と議し、大和五条代官鈴木源内を襲殺し、其の庁を焚き以て義兵の首途とす、衆士游踊躍奮興し、鉄石及・奎堂を推して総裁とし以て軍議を決せしむ、居ること数日、四方の土民身を致して応ずる者殆んど千人に及ぶ、屡々和歌山、津、彦根、郡山の藩兵来り攻む、鉄石陣営を天の辻に定む、津藩の隊将藤堂高猷諸藩の兵に牒し、大挙して天の辻に迫る、鉄石謂らく、事爰に及ぶ終に遁る可からずと、大将中山忠光に説き、去て南海鎮西の義士と力を戮せ再挙を謀らしむ、忠光去る、乃ち火を陣営に放ち自ら創始三十余人と兵を部署し、奮闘激戦終に之に死す、特に文久三年九月十五日なり。
 
殿野《トノノ》 今|大塔《オホタフ》村と改む、旧十二村荘と称し元弘年中大塔宮護良親王の潜居したまへる地なれば、今大塔に改む。殿野は太平記戸野に作る。大日本史云、尊雲(護良)遂与光林房玄尊赤松則祐等、装為修験者、出般若寺、赴熊野、饑困旬余、始抵十津川、憩息仏舎、従者散入村落、乞食得粟飯橡粥進焉、如此者三日、玄尊適造土豪戸野兵衛家、乃入門覘伺、有女奴出請曰、主母正罹邪祟、願煩師之祷解、玄尊顧指仏舎曰、老師在彼、尊雲乃往其家、病者得愈、兵衛出謝曰、田家無物可答報、願舎干此旬余、以解覊倦、兵衛一夕従容謂曰、如聞大塔宮避難熊野、師等豈知之耶、熊野別当定遍素党北条氏、非宜駐駕之地、此地雖小四方負嶮、加之俗頗僕実習武、往昔平維盛避乱投我家、卒得保全、今大塔宮亦幸来于此乎、将出力奉之、従者指尊雲請曰、是即大塔宮矣、兵衛驚而謝罪、乃造新館、奉尊雲、柵絶諸要、為守備計、兵衛舅竹原八郎聞之、大喜迎致其家。太平記に戸野の仏舎とあり、今殿野に接し辻堂《ツジダウ》の大字あり、仏堂此に在りしならんと云者あり。
 
中津川《ナカツガハ》 今野迫川村に改む.野迫川の谷間に在り、旧十二村荘に属せり、中津川の名は太平記に出でて今大字存す。野迫川村の池津川《イケツガハ》立里等の地に銅鉱あり、又北俣に将軍塚あり。名所図会云、将軍塚は石塔十三あり羅列す、或云将軍宮睦良王の墓なりと、睦良は大塔宮の子也。野迫川《ノセガハ》村は大塔村の西にして、紀州高野山に接す。
 
長殿《ナガドノ》 今|北十津川《キタトツカハ》村と改む、大塔村の南なり、北十津川は大字長殿及|上野地《ウヘノチ》を主要とす、文久三年九月天誅組此地を本営とす、伴林光平日記云、 
   九月十三日長殿山を越ゆる時、山紅葉を見て
 長殿の木々のもみぢを今日見れば君が御旗をよそふなりけり、
   同時に藤本津之助が詠る歌に、
 雲を踏みいはほ裂くらん武士の鎧のそでにもみぢかつ散る、
又云九月十四日義兵は上野地《ウヘノチ》を本営とす、中山公義兵解散の仰あり、十津川郷民も亦云ふ、山中塩食に乏き故に得堪へず、軍衆此に屯ありては新宮口五条口諸方の口止となり候へば退陣を乞ふとなり、やがて退陣と為る、
 夕附日ふもとの松にかたぶきぬこゝや雲より上の地の里。
上野地の西に大字谷瀬あり、名所図会に、竹原八郎宅址は谷瀬に在り、大塔宮寓居ありし所と、然らば大塔宮還俗改名八郎の女を納れ、恢復の計を立てたまふと云ふも此にや、尚再考すべし。
 
芋瀬《イモセ》 今北十津川大字五百瀬是なり、芋瀬は往時一荘の名なりしにや、太平記に芋瀬荘司と云ふ者あり。芋瀬川は紀州阿瀬川郷の堺より発源し、川津(今十津川花園村)に至り熊野村に注ぐ。
 
野尻《ノジリ》 今|十津川花園《トツカハハナゾノ》村に改む、北十津川村の南にて中十津川村の北なり。野尻は一山駅なり、野尻の北に風屋《カザヤ》滝(熊野川)あり高三十丈。
 
弥山《ミセン》 大峰山脈の一峰にして高六千七百尺、和州第一の高山なり。山上岳の南六里(山径)と称す、弥山の南十町を大日岳と呼び、更に南行して峰入路を求むれば三里許にして釈迦岳に至る、其間に小池宿平地宿あり、共に行者の憩所と為す、山東は北山谷也。〔名所図会〕
 
釈迦岳《シヤカガダケ》 一名|転法輪《テンポフリン》と云ふ、弥山の南に在り、山勢雄大其高六千六百尺、弥山に亜ぐと云、土俗|履掛富士《クツカケフジ》と曰ふ。〔県名勝志〕釈迦岳の南に天狗岳笠捨山|東屋岳《アヅマヤガダケ》等四五里の間に連り、以て玉置山に至る。大和志云、釈迦岳、在御山南五里許、一名大峰、郡内諸山、唯此山最雄峻而秀、遠眺磊状如布※[其/木]石者、可以百数、海内之山如是者則幾何。
補【釈迦岳】○奈良県名勝志 一名転法輪岳、又履掛富士と云ふ、仏生山の南にありて北十津川、十津川、十津川花園、上北山、下北山四村に跨る、高約六千六百十八尺、弥山に亜ぎて県下第二の高山なり。
 
小原《ヲハラ》 今|中十津川《ナカトツカハ》と改む、花園村の南なり大字武蔵の東泉寺に二所の温泉あり、硫黄性熱百五十度許。太平記に十津川郷小原とあるは此ならん。小原に接し大字|小森《コモリ》あり、山駅にして十津川郷の首里なり、其西方に行者《ギヤウジヤ》岳峙つ。
 
果無《ハテナシ》 今|南十津川《ミナミトツカハ》村と曰ふ。大字平谷桑畑七色等あり、十津川の本流此に及べば舟を通ず、果無山は桑畑七色の西北に峙ゆ、谷幽にして峰嶮し、紀州東牟婁郡に界し、本宮村(熊野)を去る三里に過ぎす。平谷《ヒラタニ》の柳本温泉は炭酸性百四十度の甘泉なり。
   大和紀伊の界なる果無坂にて、往来の順礼をとどめて奉加すゝめければ、料足つゝみたる紙のはしに書つけ侍る、
 つゝくりもはてなしさかや五月雨、 去来
 
玉置《タマキ》 今|東十津川《ヒガシトツカハ》村と云ふ、十津川北山川両水相近づかんとする地にして、玉置山其中央に聳ゆ、上に玉置権現あり、玉置氏の祖神か。
玉置山、有玉置神祠、巨鐘一口、鐫曰応保三年、金口二口、一曰貞永二年造焉、一曰文安四年懸焉、祝家則玉置氏、其僧舎曰多聞院。〔大和志)和州玉置氏は明神の社人にて、奥州岩城判官平某の後なりと云も詳ならず、家の紋章は州浜形也、一説に平中将資盛の子伊勢国|蔦野《ツタノ》の住人十郎資平寿永の乱に玉置山中へ入り此に家を起す、承久の頃より北条氏へ属し八十五町の地を領し玉置荘司と称す、元弘の頃は荘司盛高あり大塔宮の熊野へ入り玉ふ時武家方として宮を拒み奉る事太平記に明かなり、盛高子なし左衛門尉藤直光を以て家督と為し所領を譲る、直光三子あり長子は玉置山の別当職を受つぎ、次男三男は日高郡河上荘同郡|山地《サンチ》荘に移り別家を立つ。〔紀州名所図会〕出谷《デタニ》塩類泉、(東十津川村)熱百五十度、僻地浴客少し。
 
洞谷《ドロタニ》 東十津川村の南、玉置口《タマキグチ》村(紀伊東牟婁郡也)に在り、北山川の水此に至り奇絶の景を生ず、或は瀞渓に作る。大八州遊記云 北山川南流而至瀞渓、両崖逼束、其開纔八九間、入谿口、頓為別天地之観、河心極深、水流無声、其色紺碧※[青+色]緑、土人呼為度呂、言其水瀞而不動也、故詞人填以瀞字耳、夾水奇巌層出、千姿万態、不可殫述、巌上古木茂樹、蔽翳※[日+義]影、殆如壷中洞裏天、其※[直/(直+直)]直者如壁之削、円者如釜之覆、横者如屏墻之環、蹲者如虎豹、層者如楼閣、縫裂為紋、大者如氷裂、細者如穀※[糸+(雛−隹)]、或平衍可歩可攀、有巌洞、※[穴/目]※[穴/兆]似神仙之居、有屹立水中者、為蓬壷之容、一涯未畢、一涯亦至、応接不暇、盤亘※[てへん+賛]列、如此者凡八町、説者因謂、瀞渓上下、背広流、至此為山、所窄、殆如石門、蓋往古大水為門所壅、不能俄洩、沙土皆為水噛尽、雲根露出、為此異態。 
北山《キタヤマ》 吉野郡川上村の南十津川郷の東に在り、大峰大台原二大嶺に挟まれ最幽僻の境なり。澗水は南流して紀伊に入る、凡七里にして西に赴き、両国界の間を流れ、又七里にして十津川に合し、熊野川と為る。北山郷は今上北山|下北山《シモキタヤマ》(吉野郡)山北(東牟婁郡)の三村に分る、其川の南岸を口北山と云ふ、今南牟婁郡に属す。(今入鹿村西山村神川村五郷村飛鳥村)上北山の河合《カハヒ》と下北山の浦向《ウラムコ》に郵便局あり。
 
龍川寺《リュウセンジ》 自天皇潜居の所とぞ、神暦云「開基南帝自天勝公正聖仏位神康正三年丁丑十二月」又遺教経あり跋云「宝徳二年庚午之秋建当寺」〔大和志〕自天皇は尊秀王又北山宮と称す、残桜記に北山荘大河内に居たまふとあるは大河内即大瀬なるべし。北山宮は嘉吉三年御父万寿寺宮に随ひ兵を挙げ比叡山にこもり軍敗れ、父宮は亡せ給ふ、尊秀忠義尊雅の三王孫は吉野山中に逃れ此地に御坐ます事十余年、神事を奉じて恢復を志したまへり、長禄元年(即康正三)赤松家の遺臣どもにあざむかれ尊秀王害され給ひ、忠義王川上荘に走り尊雅王|高野上《かうのうへ》(今紀州北山郷)に走りたまふと、実否詳ならず。史学雑誌云、扨南朝の皇胤は其名諱系属詳ならざれども、今姑く実録諸書に載する所を挙れば、小倉宮と云ひ(後亀山の皇太弟泰成親王を云ふか但泰成子なし後亀山の皇子其後を承くるならん)上野宮と云ひ(後村上第五の皇子上野太守説成親王の胤)玉川宮と云ひ(長慶帝の胤帝嘗て紀州の玉川に在りしを以て此称あり)又円満院宮(長慶帝の胤)護正院宮(又護聖五庄に作る説成親王の胤)等あり、此諸皇族の内或は遺臣に奉戴せられ或は幕府不逞の徒に挟持せられ前後屡兵を動かして継統を争ひ給ふ、然れども皆志を得ず、或は横に禍害に罹り、或逃匿して終る所を知らず、其京に在るもの足利氏薙髪入寺せしめて其胤を絶たんことを謀れり、嘉吉二年南朝の余党万寿寺金蔵王(後名尊秀王)を擁して兵を起し、潜に禁闕に入り神璽を奪ふ、金蔵主殺さるるに及び又上野宮中類(一に護聖院宮に作る或云即円満円胤なりと)を奉じて紀伊の北山に拠る、中類亦害に遇ふ、乃ち一宮二宮(南朝紹運録に一宮を尊秀王二宮を忠義王と為す然れども尊秀嘉吉三年に薨じ忠義の事は実録の徴すべき者なし)を擁す、長禄二年赤松氏の遺臣一宮二宮を害し神璽を収還す、南北合一より此に至て又六十六年、南朝王子の事是後所見なし云々。
補【北山宮】吉野郡○北山宮一称自天大王、其弟河野宮、一称忠義王、或曰尊秀子也、倶居吉野、尊秀之死、神璽入吉野二王擁守凡十有五年云、初唱義募兵、属者日多、伊勢豪族磯部兼政献軍器粮米若干、嘉吉変赤松満祐弑将軍義教、一族誅夷、其遺臣等欲立功起主家、遺臣上月満吉中村貞友等詐来仕、漸得昵近、長禄元年十二月夜乗密雪※[(妝−女)+戈]北山宮、上月満吉※[(妝−女)+戈]河野宮、執王首及璽而遁、塩谷村人大西某射斃中村貞友、余賊逸去、重竟還禁宮。○北山宮葬于神谷金剛寺、諡高福院、土人立祠致祭、云河野宮不知其葬所也。○吉野郡北山荘小瀬村に御在所を構へ、忠義王は同所より大山を隔てたる河野郷に在り、残桜記に吉野の山奥なる北山庄大河内と云ふ所と記したるは、大河内を小瀬の一名としたるに似たり。
 
大台原《オホダイハラ》山 北山郷の東に横亘し、伊勢の大杉谷及北牟婁郡|尾鷲《ヲワセ》浦に跨る、直立四千九百尺、山容高台の状を成す、大台原の支峰備後山は大瀬の北に在り、大瀬より東に一嶺を越ゆれば尾鷲に至る山径五里。
 
    宇智郡
 
宇智《ウチ》郡 吉野郡西北隅の小村にして、旧芳野の河尻《カハジリ》と云へる地なり、古事記伝此宇智を以て建内甘内兄弟の本居と為せど疑はし、内臣氏の古里は紀伊名草郡の宇治郷なるべし。続日本紀、「文武天皇二年、車駕幸宇治郡。大宝二年、復大倭国吉野宇智二郡百姓」など見ゆ、当時御遊猟場にて内野と称したり、宝亀勘録西大寺流記資財帳に宇治野桃島荘と云ふあり。字智郡和名抄四郷に分る、今五条町外七村と為る、北に葛城金剛山を負ひ吉野郡川中を貫流して紀伊に入る、丹生川吉野の南より来り(南宇智村)之に注ぐ。五条は吉野字智二郡の都会にして鉄道は南葛城郡御所より来り五条を車駅と為し吉野川に沿ふて和歌山に赴く。
古事記云、天皇(神武)到吉野河之|河尻《カハジリ》時、作筌有取魚人、爾《カレ》天神御子問、汝者誰也、答曰僕者国神、名謂贄持之子、此阿陀之鵜養之祖也。(今阿太村)按ずるに旧名阿陀、後宇智に改めたる也、阿陀古言|異《アダ》なれば異類の人民に命名したる者か。
     ――――――――――
加美《カミ》卿 和名抄、宇智郡加美郷。阿陀の上郷の謂ならん、今阿太村南岸の地及|野原《ノハラ》村にあたるか、大字南阿田あり。栄山寺天平古文書云、栄山寺領西新開弐拾漆町陸段、在字智那賀美郷万提村真土条。
 
那珂《ナカ》郷 和名抄 宇智郡那珂郷。阿陀の中郷の謂ならん、今南宇智村坂合部村にあたるか、坂合部に大字中村存す。栄山寺天平古文書云、栄山寺領高栗栖牧地参拾町、在字智郡那賀郷河南三条五灰焼里北辺布師村。
 
丹生川《ニフガハ》 南宇智村を貫き吉野川に入る、此川は吉野金峰に発源し、丹生川上神(南芳野村)在り、南宇智大字|丹原《タンバラ》にも丹生川神社あり延喜式に列す。 
霊安寺《リヤウアンジ》 南宇智村に在り、今寺廃し廟を存す、御霊明神と称す、井上皇后他戸太子の霊を祭る。皇后宝亀三年巫蠱に坐して廃せられ皇太子従ひて庶人と為り并に憤死し玉ふ、宝亀九年改葬、延暦中に及び山城京に御霊社を立て、本郡に山陵を置かる。延喜式、霊安寺料四千束は官稲を分給せられし制也 蓋霊安寺は陵廟供奉の僧房にして、延暦中の創建とす。
宇智陵は光仁天皇々后井上内親王の墓也、霊安寺の西大字|御山《ミヤマ》に在り、御霊塚と称す。〔名所図会〕廃太子他戸親王(井上皇后腹)の墓も同※[やまいだれ+(夾/土)]と云ふ。〔県名勝志〕延喜式云、字智陵、皇后井上内親王、在大和国字智郡兆域東西十四町南北七町|火雷《ホノイカヅチ》神社は南宇智郡大字|御山《ミヤマ》に在り、蓋字智陵に就き更に祠廟を建てたる也、三代実録、貞観元年正四位上火雷神授従三位、元慶三年授正三位とあり。当時の俗、鎮魂其所を得ざれば、其霊鬼火雷と化りて世を害すと為せり、故に此祠あり、又延喜式に列したり。
 
坂合部《サカヒベ》 坂合部村は近年の命名にして、紀伊国伊都郡の交界なれば也。大字大深に狭嶺山あり「続日本紀、慶雲三年、大倭国狭嶺山麓」とあるは此なりと云。〔名所図会〕
落杣《オチソマ》神社は延喜式に列す、今坂合部村大字黒駒に在り〔県名勝志〕落刊本一に蕗に作る、或云落杣は久米仙を謂ふかと、久米の仙人《ソマビト》其通力を失ひ吉野川辺に降落したる古諺あり。(吉野郡龍門を参考すべし)
 
阿※[こざとへん+施の旁]《アダ》郷 和名抄、宇智郡阿陀郷、音可濁読。今|阿太《アダ》村字智村北宇智村等か、吉野川の北岸なり。万葉集阿太大野又字智大野とよめるも本郷の中なり。阿太は字智郡の旧名なるべし、其居民漁業に名あり、阿太鵜養又は阿太人と称す。古事記玉垣宮(垂仁)段云、御子大中津日子者、阿太之別等之祖也。日本書紀云、神武天皇至吉野、及縁水而行、亦有作梁取魚者、天皇問之、対曰臣是|苞苴担《ニヘモチ》之子、此則阿太鵜養部始祖也。
 阿大人の梁《ヤナ》うちわたす瀬をはやみこころは思へどただにあはぬかも、〔万葉集〕延喜式阿多比売神社あり、今阿太村大字原に鎮座す、蓋阿太鵜養部の祖神なり。鵜養部は一に贄持部と称し其祖神武天皇の大帥に帰順し、垂仁帝の皇子大中津彦は阿太の別君と為りたまふ、阿太人は異種他類の義ならん。
 真葛原なびくあき風吹く毎に阿大の大野の芽子が花ちる、〔万葉集〕
阿陀墓は藤原良継の墓、平城天皇外祖父なるを以て延喜式に列す、今阿太村大塚是也。〔名所図会〕延喜式云、阿陀墓、贈大政大臣藤原朝臣良継、在大和国字智郡兆城東西十五町南北十五町。
補【阿※[こざとへん+施の旁]比売神社】○神祇志料 阿※[こざとへん+(施−方)]此売神社、今阿※[こざとへん+施の旁)]郷原村にあり(大和志・名所図会)蓋大山津見神の女神阿多都比売を祀る、
 按、神阿多都比売又豊吾田津姫、吾田津姫或は神吾田鹿葦津姫又鹿葦津姫に作る。
亦名を木華開耶姫と云(日本書紀・古事記)初皇孫瓊瓊杵尊天降りて吾田長屋の笠狭の崎に至り坐時、開耶姫に娶坐て火照命、火須勢理命、火遠理命を生坐き、(日本書紀・古事記・旧事本紀)凡そ十月廿九日祭を行ふ(奈良県神社取調書)
 
宇智《ウチ》 今宇智村立つ、古の内野の地蓋是なり(今大字今井安生寺に延喜式宇智神社あり、国生明神と称す。〔大和志〕又其北に荒木山あり、延喜式荒木神社あり、按ずるに姓氏録「玉祖宿禰、建荒木命之後也」とあれば玉作部の祖神なり、今井の北大字|三《サン》在に庶人《シラウド》墓あり、土人は之を以て廃太子他戸親王と為す。〔名所図会〕   高市崗本宮御于(舒明)天皇、遊猟内野之時、中皇命使間人連老献歌、
 たまきはる内の大野に馬なめてあさふますらむその草深野、〔万葉集〕
 
宇野《ウノ》 宇智村大字宇野は保元物語に見ゆる源親治が邑也、宇奴首も此地の旧族か。姓氏録云、大和国諸蕃宇奴首、出自百済国男弥奈曾富意弥也。保元物語云、法性寺一の橋の辺にて、馬上十騎計り直冑の兵上下二十余都へ打て上りけるが、大将進み出で身不肖に候へども形の如く系図なきにしも候はず、大和守頼親が四代の後胤下野権守親弘が子に宇野七郎源親治とて、大和国奥郡に久しく住して未武勇の名を落さず、左大臣頼通殿の召しに依つて新院の御方に参ずるなり、源氏は二人の主取ることなければ宣旨なりとも得こそ内裏へは参るまじけれとて、打ち過ぎけれ。
 
栄山寺《エイサンジ》 字智村大字子島に在り、今梅室院と称す、藤原武智麿養老三年創始す。武智麿は藤氏南家の祖にして、薨じて此に葬る、其子豊成仲麿并に顕達す。今寺蔵山城国深草道澄寺の古鐘あり、(国宝に列す)銘文は小野道風書とぞ、天下の絶品と云。栄山寺古文書曰、天平神護元年九月官符、大和国司、応永為栄山寺領掌山地畠水田等之状、贈太政大臣武智麿公御墓山地壱佰町(在阿陀郷)(中略)右寺家本願贈正一位藤原朝臣施入、厥後男豊成卿申請、為不輸租田、宛供燈料修理等、而土人致妨、国宰亦収公云々。
後阿陀墓は栄山寺の北に在り。〔名所図会〕延喜式云、後阿陀墓、贈太政大臣正一位藤原武智麿、在大和宇智郡、兆域東西十五町南北十五町。(栄山寺大平古文書云墓山地弐佰捌拾町、在阿陀郷鵜野)
 
牧野《マキノ》 今北宇智村牧野村なるべし、太平記に大和国官軍真木野宇野酒辺等あり、酒辺は今坂合部村にや。槇野城址は牧野村大字上村に在り槇野氏の居館也〔名所図会〕南山巡狩録云、南朝編年略記に佐佐木系図を引て大和国字智郡水越に於て三輪入道西阿真木野入道定観男宝珠丸長谷寺談峰の衆徒を牒じ合せ師直と合戦に及ぶ、佐々木佐渡四郎左衛門尉秀宗師直が命をうけ接戦して終に討死すといふ。(水越は槇野の城地の名なり)
一尾瀬《イヲセ》神社は延喜式に列す、今牧野村大字北山に在り水分神と称す、宮前霹靂社神は延喜式に列す、今北宇智村大字西久留野に在り雷神と称す。〔大和志県名勝志〕
 
高天《タカマ》山 牧野村の上方にして葛城金剛山を指す、延喜式高天山佐太雄神社は大字大沢の神福《カメフク》山に在り、延喜式高天岸野神社は大字北山の岸野に在り。神州奇苑云、大沢村蓮華寺に古瓦多し、享保中土中より墓誌一枚出づ、厚二寸長六寸八分濶九寸、表に文字を彫る、瓦製にて彫文には朱をさせりとぞ。
 従五位上右衛士督兼行中宮亮下道朝臣真備葬亡楊妣貴氏之墓天平十一年八月十二日歳次己卯
 
資母《シモ》郷 和名抄、宇智郡資母郷。今五条町及坂合部村(吉野川北岸)の中なるべし。
 
五条《ゴデウ》 五条は山を負ひ水に臨み、吉野川の江流を利し奥郡の名邑なり、戸数七百本郡の諸官衙此に在り。往時松倉氏此に築城し、元和以後徳川幕府の時吏を派し之を治す五条代官と称したり。文久三年八月京師大和行幸の議あり、諸州浪人廷臣中山侍従忠光を擁し行幸の先駆たらんと欲し、大和河内に入り兵を集、松本謙三郎(奎堂)藤本津之助(鉄石)吉村寅太郎等其魁帥たり、五条陣屋を襲ひ、代官鈴木某を殺し、吉野十津川に赴き幕府の来討を拒む、事就らずして皆敗死す、天誅組の乱是也。
 須恵《スエ》 五条町の東北に接す、八幡宮あり、三代実録、元慶五年授位|統《スヘ》神は是なりと云ふ〔大和志〕。文久三年天誅組の乱に、須恵野に代官等の首級を掛渡たる事あり。
  切りとれば羊頭さへ憐なり寒き葉つきの須恵のやまはた、 伴林光平
補【五条】○人名辞書 文久三癸亥の年八月十二日、大和行幸夷狄親征の盛挙を天下に布令す、河和摂泉の壮士之をき、鳳輦を迎んとす、已にして其事やむ、松本謙三郎・吉村寅大郎等侍従中山忠光を奉じて、義兵を大和五条村に集む、是より十津川の郷兵を招き、白銀峰和田峰等にたゝかふ、幾もなく藤本鉄石以下壮士数輩已に軍に死す、伴林光平乃ち和歌を詠じ之を弔す、曰く「武士の屍をさらす荒野辺に咲きこそにほへ大和なでしこ」已にして糧仗継がず衆寡敵せず、十津川の郷兵稍逃去る、光平長門に赴き再挙を謀らんとす、不幸にして脚疾を発し縛せられ、京師の獄に下る、光平幽憤の遣るべきなく、曰く「畝火山そのいでましを玉だすきかけて待しは夢かあらずか」獄中往事を追想し、手づから藁筆を製し、大和義挙の概意を記し名づけて南山踏雲録といふ、居ること数月刑に死す。
○大八洲游記 五条駅居民三千四百、頗為大邑、文久三年三河人松本衡、備前人藤本真金、擁廷臣中山忠光、殺代官鈴木源内挙兵、唱尊攘之戦、事不就、皆死、世謂之五条之乱、即此地也。
補【須恵神社】○神祇志科 統神
 按、本書一本三統神に作る
今宇智郡須恵村にあり(大和志・名所図会)陽成天皇元慶五年十月丁酉、正六位上より従五位下に叙さる、(三代実録)凡そ其祭八月十六日を用ふ(奈良県神社取調書)
 
二見《フタミ》 五条町の西に接し二見神社あり、延喜式に列す、今雨師と称す〔大和志〕。姓氏録云「二見首、富須洗利命之後也」と、是れ筑紫の阿多隼人の祖神|火闌降《ホスセリ》命の子孫と為す者にして、疑ひなきに非ず、神武帝東征以前に、阿多人薩摩より転移し来れりと想はれず、同名なれば、姓氏録に祖先冒称のままに記したる者か。二見城址は吉野川に臨み、慶長年中松倉弥七郎重政築く所也、重政は越中新川郡松倉村の人、大和に来り筒井氏に仕官し、才幹勇気一世に重く関原役東軍に従ひ功あり、徳川家康抜擢して二箕《フタミ》二万石を給与す、大坂役又功あり、肥前島原城に移封せらる。〔原城記事、徳川加除封録〕
補【二見神社】○神祇志料 二見神社、今二見村にあり(大和志・名所図会)
 按、大和国図、上中下等の村あり、蓋古へ阿※[こざとへん+(施−方)]郷を三つに分ちたる名と聞ゆ、二見村又三村と相近き時は古への阿※[こざとへん+(施−方)]郷内なり、姑く附て考に備ふ
蓋二見首の祖神富須洗利命を祀る(新撰姓氏録)
 按、富須洗利命或は火須勢理命、火闌降命、火酢芹命に作る、並に同じ
亦名を火進命といふ(古事記)凡そ其祭九月九日を用ふ(奈良県神社取調書)
 
真土山《マツチヤマ》 和州紀州の堺上に在り、今紀州伊都郡隅田村の東に大字|芋生《イモフ》真土相並び、紀之川の北岸通路に沿へり。此辺に紀之川を角太《スミダ》川とも呼ぶ、古の紀伊路なるを以て、覊旅の詞藻多く万葉集に見ゆ。
 亦打やまゆふ越行きて廬前《イホサキ》の角太川原にひとりかもねん、 弁基
亦打は真土に同じ。略界云、すみだ川と云所、古今集には武蔵下総のあはひと云、古今集には武蔵下総のあはひと云、古今六帖には出羽なる青戸の関のすみだ川とも有、又駿河庵原郡にもあれど、此なる弁基の歌は紀伊国と定むペし。
 白栲ににほふ信土《マツチ》の山川にわがうまなづむ家恋ふらしも、〔万葉集〕
  大宝元年辛丑九月太上天皇幸紀伊国時歌
 朝もよし木人ともしも亦打山ゆきくと見らむ樹人ともしも、 調首淡海
 たびなれば誰かは我をまつち山ゆふ越えゆきて宿は間ふとも、 本居宣長
 雪と見て駒やなづまむ白妙ににほふ真土の山ざくらばな、 本居大平
 紀伊名所図会云、古の亦打山、国郡界少変して今和州|木原《コノハラ》村(今牧野村大字木之原)に属す、廬前は芋生《イモフ》待乳川紀川へ合流する処を云ふ、芋生《イモフ》は庵と云ふ詞の訛にて此地出崎の如きを以て庵崎《イホサキ》の名あるなる可し、今|上夙《カミシク》村に岩坂とて海道に岩を敷る小坂あるを庵崎の転語と云へどもあやまりなり、又今の堺川の東道に宮ある山を待乳峠《マツチタウゲ》と云ひて大和国に隷けり、古は峠より少し南の方を越ゆるを南海道とす、万葉集に所謂待乳山是れなり。上古此海道を木戸《キノト》と名く、帝都より紀伊国に出づる門の義なり、其山脈は葛城《カツラギ》連峰に起りて北より南に走り、紀和両国の隔をなす、古国都の堺を定むるとき此山の東を大和とし西を紀伊とす、故に神亀元年笠朝臣今村の歌にも「木道に入たつ真土山《マツチヤマ》」と読めるならん。又峠の西麓《ニシノフモト》に木原《コノハラ》畠田《ハタダ》等の村ありて今大和に属すれども永仁弘安の文書に二村を隅田庄とす、益証とす可し。
 
木戸《キノト》 紀伊の門の謂にて、皇畿と余州の関塞なり、後世其名は伝はらねど真土山の辺りに在りし也。古事記玉垣宮(垂仁)段云、御子本牟知和気命、遣拝出雲大神之宮時、自那良戸(那羅山)遇※[足+支]盲、自大坂戸(穴虫越)遇※[足+支]盲、唯木戸是腋戸之吉戸、卜而出行。
字智河崖涅槃経碑の事、古京遺文に載せ、五条駅などの辺と想はるれど、今存否をだに詳にせず。
  大般涅槃経
諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅為楽
如是偈句乃是過去未来現在諸仏所説開空法道如来証涅槃永断於生死若自至心聴常得無量楽若有書写読誦為他能説一経其身於劫後七劫不墜悪道
宝亀九年二月四日 工少……… 知識……
 右、刻在大和国字智河、就崖書、後彫仏像、区未完、似鐫鏤不卒業者、字頗漫滅、而以碑首大般字、遂或謂大般若経碑者誤。
 
     伊賀国
 
伊賀《イガ》国 東北二面は伊勢近江に至り、山嶺を以て相限る、南西二面は大和(宇陀山辺及添上)諸郡と交錯し、村落相雑る、東西凡七里、南北凡十里、四山※[てへん+賛]合し沿河の地稍平坦なり。今人口十一万面積約四十七万里。地勢を以て之を視れば、木津《キツ》川(淀川支源)の上游に居り、当に畿内に附属すべし。而て其北域は旧伊賀阿拝山田の三郡にして、全く伊賀川の一渓なり。其南域は旧名張郡にして、宇陀|山辺《ヤマベ》の諸水、西南両面より之に乱注し、境界最不整なり。明治廿九年、伊賀名張を合同し名賀《ナカ》郡と改め、山田阿拝を合同し阿山郡と改め、境域益不整なり。県冶は三重に属す、是れ津藩藤堂氏の故習に依る者也。伊賀は和名抄、以加、管四郡とあり、大彦命(孝元皇子)の裔孫此に居り、伊賀臣と称す、蓋伊賀国造の祖なり。
姓氏録云「皇別、阿閇朝臣、大彦命男彦背立大稲輿命之後也、伊賀朝臣、大稲輿命男、彦屋主田心命之後也。」日本書紀「持統天皇六年、幸伊勢、賜所過神郡及伊賀伊勢志摩国造冠位」、然るに国造本紀は之に異なり、「伊賀国造、志賀高穴穂宮(成務)御世、意知別命三世孫、武伊賀都命定賜国造」と、意知別は書紀垂仁皇子|租別《オチワケ》命、古事記|落別《オチワケ》王に作る者是なり、本国に大内の地名存す。国造本紀又云「伊賀国、難波朝(孝徳)御世、隷伊勢国、飛鳥朝(天武)代、割置如故」を扶桑略記倭姫世記に参考するに、天武天皇九年「割伊勢四郡、建伊賀国」とあり、惟ふに大化改新の際、畿内を定めて東は名墾の横河(名張川)以来と為され、伊賀国を停め其東部四郡を伊勢に隷せしめ、西部宇陀郡を大倭にに入れ、天武帝の時再び伊賀国を置かれしににたり。伊賀伊勢は平氏の嘗て拠る所也、寿永の乱、平買惟義(信濃人)守護と為り平氏余党を討平す、其弟朝雅子惟信相尋で州職を賜り大内氏と称す、佐藤朝光又州守に任じ、其子孫伊賀氏を称す。南北朝の際、足利氏仁木義長をして伊賀伊勢を兼知せしめ子孫に伝ふ、応永の初め足利氏地を割き北畠顕泰(南伊勢の国司)に与ふ、勢州軍記に「伊賀四郡者、仁木家之領地、雖然名張伊賀二郡之侍、不従之」とある是也。永正の末、仁木氏衰へ、諸族相鬩ぐ、天正七年、北畠信雄(織田氏)撃て諸族を滅す、十一年信雄豊臣秀吉と隙あり、秀吉の臣脇坂安治上野城を襲ひ之を取る、十二年秀吉大和国主筒井定次を伊買に移封す、(八万石)以て慶長十三年に至る、徳川氏其封を収め之を藤堂高虎に賜ふ、藤堂氏世襲、上野に鎮将を置き之を治めたり。伊賀は一に伊州と称す、伊賀風土記残篇と云ふ者あり、伊賀旧|吾餓《アガ》と曰ふなど説く所あれど、信憑すべき書に非ず。
補【伊賀国】○日本国郡沿革考 以加、伊賀は孝元天皇長子大彦命の裔此地に居り国造となる、後伊勢國に併せ、尋で分て伊賀国を置く、始めて天武天皇紀に出づ、
 孝元天皇七年、大彦命是阿倍臣、膳臣、阿閇臣(中略)伊賀臣、凡七族之始祖也。姓氏録曰、阿閇臣、大彦命男彦背立大稲輿命之後也、日本紀合」伊賀臣大稲輿命男屋主田心命之後也、日本紀合。天武天皇二年八月甲辰朔壬辰、詔在伊賀国紀臣阿閇麻呂等、壬申年労勲之状。按扶桑略記曰、天武天皇九年七月割伊勢四郡建伊賀国。倭姫世記亦同じ、蓋是年復分置せしなるべし、二年伊賀国を載するは追書に出づるなり。持統天皇六年三月辛未、幸伊勢、壬午賜所過髪郡及伊賀、伊勢、志摩国造等冠位。按国造は蓋伊賀臣の後ならん。 
伊賀越《イガゴエ》 伊勢|鈴鹿《スヾカ》関より本州|柘植《ツゲ》に踰え、(大岡寺《ダイカウジ》峠)山城国笠置に向ひ、以て京都奈良及び大阪に通ずるを伊賀越と称す、平城造都の時官道と為る。又古の高市《タカチ》京の東海道線を按ずるに、是は宇陀郡|三本《サンボンマツ》松より本州名張に至り柘植に会せし也。又|倉歴《クラフ》山道と云ふ者あり、柘植より近江甲賀郡へ赴くものなり。○今関西鉄道は関《セキ》より来り、柘植に至り二分し、一は上野を経て笠置に向ふ、即伊賀越なり、一は直に北折して深川石部(甲買都)に向ふ、即倉歴山道なり。伊賀|専女《タウメ》は、源氏物語、東屋巻にいがたうめとありて、狐の異名と云ふは疑はし、岷江入楚云、伊賀の諺に、中立ちをたうめと曰ふ、新猿楽記には「伊賀専の男祭、叩※[虫+包]苦本舞」とつづけたり。三国地誌云、専女は老嫗の謂なり、古書に物の一むきなるをたうめと云へば、皆絶経の婦を称するならん。○伊賀衆(又伊賀者)とは、徳川氏旗本軽輩の一団隊なり、旧伊賀の郷士土兵して、徳川氏之を招致し、江戸開府の後、尚其団結を解かず、之に邸宅を給し、子孫奉仕、仍故実に依り、累世伊賀衆と称したり、蓋天正七年織田氏伊賀討平の頃、散亡して徳川氏に帰参したる者ならん。
 
    名賀郡
 
名賀《ナガ》郡 明治二十九年、名張伊賀両郡を合同し、名賀の号を立つ、郡衙を名張町に置く、管する所十八村、四方凡五里。
     ――――――――――
名張《ナバリ・ナンバリ》郡 明治二十九年廃し、其地名賀郡へ入る、伊賀国西南部、境域不整の小郡なり、大略三角を成す、東北は伊賀郡と分水嶺を以て相限り、東南の一角|六箇山《ロッカヤマ》郷は伊勢一志郡に触接す、南は大和宇陀郡と錯り、西は大和山辺郡と錯る、宇陀川南より来り、西偏を過ぎ北流す、名張川と称す、名張町郡の中央に在り。(名張俗唱ナンバリ)
名張古書或は隠に作る、天武紀に「車駕東行、到菟田大野、(宇陀郡三本松村)以日落也、及夜半到隠郡」と、隠慝を古言奈波利と曰ふ。○和名抄、名張郡、訓奈波利、分三郷とあれど、其西南は大和国と錯雑するを以て、東大寺要録、長徳四年注文、伊賀国笠間荘は和名抄、宇陀郡に属し、今は又山辺郡に移る等の沿革之あり。
 吾夫子はいづく行らむおきつ藻の隠の山を今日か越ゆらむ〔万葉集〕
古事記、大倭日子※[金+且]友命(懿徳)弟、師木津日子命之子二王坐、伊賀那婆理之稲置等之祖。姓氏録、皇別、名張、阿閇臣同祖。大日本史云、承和中、伊勢盗聚名張郡山中、私鋳銭、坂上当宗率近衛夷俘等、索捕獲之。伊賀考云、天正伊乱記曰、名張中村(今箕輪村)の住土中村半六、かれ等先祖は太平記に載たる名張八郎が子孫なり。
 
名墾《ナバリ》川 和州宇陀川の末にして、伊賀に入り西《ニシ》川と曰ふ、孝徳天皇大化二年、畿内を定め、東は名墾《ナバリ》横河《ヨコカハ》以来と為さる、横河即西川なり、更に曾爾郷(宇陀郡)より来注する滝川東川(長瀬川)等を併せ、名張町の西を経て北流す、乃|月瀬《ツキノセ》の北に至り、山城相楽郡に入り、伊賀川と合し淀川の上游と為る。
 
黒田《クロダ》 名張川の西岸に在り、西は笠間三本松(共に大和国)等に接す、今|錦生《ニシキオ》村に属す、東大寺古文書、「天喜四年、里田郷」東大寺要録「承久三年官符、寺領黒田荘同新港伺出作」又神宮年中行事に「寺領黒田荘」見ゆ、往時は名張郡の大荘にして、東は六箇山神戸に至る。
補【黒田】名張郡〇三国地誌 東大寺要録〔重出〕承久三年弁官符、寺領拾弐参箇処の中伊賀国黒田荘同新荘同出作。
 
安部田《アベタ》 今錦生村と改称す、黒田の南に接す、永享十二年東大寺文書「安部田村井手村」。(共に今錦生に属す)三国地誌云、安部田は今郷名に呼び.黒田は之に属す。
補【安部田】名張郡〇三国地誌 郷名安部田、黒田村等四村。東大寺古文書天喜四年黒田郷、又神宮年中行事に見ゆ。永享十二年同書安部田村、井手村あり。○今錦生村大字。
 
矢川《ヤカハ》 矢川今錦生村に属す、名張川の南岸、安部田の南に在り、東大寺古文書延久以下の者に矢川郷又矢川条多く見ゆ、又|滝口一井《タツノクチイチノヰ》寺垣内(丈六寺なり)等も見ゆ、矢川の郷内なり。三国地誌云、類聚国史、貞観九年授位の鹿高《カタカ》神は矢川に在り、東大寺文書にも散見し、今春日神社と呼ぶ。
補【鹿高明神】名張郡〇三国地誌 類聚国史貞観九年正六位上鹿高神は矢川村に在り、東大寺古文書にも多く見え、今春日明神とす。○錦生村大字矢川。
 
滝川《タキガハ》 赤目《アカメ》滝の流末諸村、今合併して滝川村と曰ふ、大字|檀《マユミ》長屋柏原|星合《ホシガフ》等は、東大寺嘉暦二年古文書に見ゆ。○三国地誌云、道観長者宅址、一井《イチノヰ》(今滝川村大字)に在り、方二町許、道観芝と云ひ墓存す、又|青蓮寺《シヤウレンジ》山の上、字八幡山にも宅址あり、相伝ふ道観近隣九郷を領して此に住し、八幡山より良材を出して、東大寺二月堂を修造す、其所由を以て今に至るまで秉炬木を調進す、秉炬木一荷に精米一斗二舛宛東大寺より出す、正保年間八幡山争論ありて、四五年の内中絶せしが、東大寺より訴へて一ノ井極楽寺にて製造して下行を給はる、此事実なりと雖、道観がこと詳ならず。
補【檀】名張郡〇三国地誌 今郷名、東大寺嘉暦二年古文書に檀見ゆ、柏原星合など郷名の村里皆同じ。○今滝川村大字。
 
赤目滝《アカメノタキ》 一名|阿弥《アミ》が滝と曰ふ、宇陀郡|曾爾《ソニ》郷の南高見山より発源し、屈曲四里、滝長坂に至り懸水と為り、琵琶湖に落ち、更に飛流激湍と為り、四十八所の多きに及ぶ、其尤魁たる者を龍壷布引千手不動伶人等是なり、末は一里余にして名張川に入る。〇三国地誌云、赤目山は形八葉にして、正中を妙法と名づく、山中に胎内洞屏風岩等の奇あり、精舎を滝寺延寿院と曰ふ、堂舎の結構尤倹素なり、僻地危険なれば、山気粛索として、梵境の幽邃、伊州の最と云べし、四至八町、侯家施入の地なり、建武二年、住侶領黒田荘の土民と争論の古簡を蔵せり。
   赤目山、有四十八瀑、其大者十二、曰行者曰千手曰不動曰霊蛇曰曳布曰滝壷曰縋藤曰柿窪曰横潭曰荷担曰琵琶曰厳窟、(節録五首) 梅※[土+孰]
 潭光明可鑑、人影散※[さんずいへん+放]魚、側有盤陀石、面鐫行者書、飛流漱厳口、散沫白紛々、万点乱桜花、春風吹不分、大響揺坤軸、高勢自雲中、※[山+肖]壁如墻立、雪花翻夏風、細路依垂葛、間雲纏古松、一水当厳砕、忽成双白滝、水気沾衣袂、廻岩幽且深、樵人帰尽已、風声在樹林、
補【延寿院】名張郡○三国地誌 矢川郷滝長坂に在り、滝寺とも云ふ、役小角開くところにして、堂舎の結構尤倹素なり、僻地絶険山気粛索、梵境の幽邃国中の最と云べし、四至八町、侯家施入の地なり、建武二年、住侶聖観及び円信慈観以下、寺領黒田荘の土民と争論の古文書あり。○錦生村。
 
丈六《ジヤウロク》寺 滝川村大字丈六に在り、相伝ふ古は七堂坊含の大伽藍にして、今安置する処の本尊は其遺像なりと云ふ、東大寺永享十二年文書に丈六寺、嘉暦二年文書に丈六郷見ゆ。丈六の東|柏原《カシハラ》より僧妙沢と云者出たり、此僧夢窓国師に嗣法して、後は天龍寺寿寧院に住み画を能し、中にも不動三尊に妙を究む、世に妙沢不動と称す。〔三国地誌〕
補【丈六】名張郡〇三国地誌 今郷名、嘉暦二年東大寺古文書に見ゆ、郷の中なる長屋村も見ゆ。○滝川村大字。
丈六寺 三周地誌、丈六村に在り、相伝ふ古は七坊舎の大伽藍にして、今安ずる拠の本尊は其遺像なりと云、永享十二年東大寺古記に丈六寺云々の事あり。柏原村より出夢窓国師より嗣法して、後天龍寺寿寧院に住す、画を能す、中にも不動三尊に妙を究む、世に妙沢の不動と称す。
 
夏見《ナツミ》郷 和名抄、名張郡夏見郷。○今|箕曲《ミノワ》村に大字夏見存す、本郷は往時滝川|国津《クニツ》比奈知の諸村をも総べたるならん、夏見栗栖は東大寺文書康保元年のものに見ゆ、夏見河は東《ヒガシ》川の別名也。
 
夏見《ナツミ》神社 春日社記に見ゆ、鹿島神遷幸の遺跡とぞ、二十二社註式云 「神護景雲元年六月、伊賀国名張郡夏身郷一瀬川御沐浴、以鞭為験立給、成樹生附」と即此なり。○三国地誌云、中村青蓮寺国津神戸等の名は、東大寺長承三年文書に見ゆと、中村今箕曲村に属す。
 
青蓮寺《シヤウレンジ》滝 夏身の南、山中に在り、其地を青蓮寺と字す、飛泉三段、凡二十丈、源は曽爾郷に発す、青蓮寺山の東に三国山あり。
 
六箇山《ロクカヤマ》 夏身の東《ヒガシ》川(長瀬川)の上游にして、今大和伊勢伊賀三国に分隷す、太郎生《タラフ》村(一志郡)御杖《ミツエ》村(宇陀郡)国津村比奈知村(本郡)是なり、古は六箇山郷と称す。東鑑、元久元年、平氏の余党富田基度三浦盛時乱を起せる時、大内朝雅兵を以て伊賀に入り、盛時を六箇山に攻め、之に克たる事見ゆ。三国地誌云、比奈知《ヒナチ》郷長瀬郷長木(今国津村大字長瀬奈垣)は東大寺承安二年文書に見ゆ、又神鳳抄に多良牟六箇山の神戸あり、蓋皆此地なるべし、多良牟は即太郎生とす、天承二年、伊勢太神宮領六箇山、并東大寺領黒田荘等境を実検せしめん為め、官使下向の事旧案之あり、古図にも出たり、今下比奈知の国津《クニツ》明神社地を六箇山と曰ふ、国津杜は本郡各処に多し、慶長十八年の旧案に、下比奈知滝原(今比奈知村)奈垣布生(今国津村)多羅生神末(今御杖村)を六箇山と載たり。○按ずるに、三国地誌「六箇山はもと一社他の名と云とも、六邑を神戸と為し貢調を供するを以て、六筒山郷と称するか」とあるは事理本末を違へり、国津社は神戸の※[まだれ+寺]なれば、後世某社を六箇山とも呼べるならん。○延喜式、名張郡|名居《ナヰ》神社今比奈知村に在り、山神と云ふ、郡内各処に分祀して二十余に及ぶ、而て此所を推して総社と為す、前年まで本地仏観音菩薩を祭る、〔三国地誌〕按ずるに名居神社、即六箇山の地主祠にて、国津神と称するものか。
補【比奈知】〇三国地誌 今郷名。東大寺承安二年古文書に見ゆ、郷の中なる長瀬・長木なども見ゆ。○神鳳鈔、多良牟六筒山は天承二年七月伊勢大神宮領六箇山并東大寺領黒田荘等境を実検せしめん為に使を下されたる事あり、又古図にも出たり、今下比奈知村国津明神の社地を六箇山と云、所謂六ケとは下比奈知・滝原・奈垣・布生・多羅生・神末是也、慶長十八年の旧案に見えたり、六箇山は一社地の名といへども、此六箇邑神戸の貢調を供するを以、山名を以称する、多良牟は恐く多羅生の転訛なるべし。○今比奈知村。
 
三国《ミクニ》山 六箇山郷の西に峙ち、伊賀伊勢(一志郡)大和(宇陀郡)の交界点に当るを以て此名あり、高七千尺、伊賀第一の峻峰と云ふ。(首岳を参考)
 
名張《ナバリ》郷 和名抄、名張郡名張郷。○又隠駅家と称し、中世|簗瀬《ヤナセ》荘と云ひ、今の名張町是也。
補【名張郷】名張邸○和名抄郡郷考 伊水温故、名張町旧名簗瀬と云、簗瀬城簗瀬駅は慶長の始、羽柴伊賀守が与力松倉豊後守重政八千石を領し、当城に居住す、又名張寺は今処不詳、准后記にも見えたりと。行嚢抄大坂より諸方城下道程、伊賀之名張九十九里、和泉守家司藤堂宮内在所。菅笠日記、阿保よりは三里とかや、町中に此わたりしる藤堂の何がしぬしの家あり、その門の前をすぎて町屋のはづれに川のながれあふ所に板橋を二つわたせり、なばり川やなせ川とぞいふ、いにしへなばりの横川といひけんはこれなめりかし。
名張《ナバリ》 人口四千、本州の名邑なり。東川西川本郷の南に会し、名張川と号す。○日本書紀、(大海人皇子東行段)「夜半到隠郡、焚隠駅家、因唱邑中曰、天皇入東国、故人夫諸参趁、然一人不肯来」。万葉集の隠野《ナバリノ》は後世加久礼野と訓む、本歌は
 暮にあひてあした面なみ隠野《ナバリノ》のはぎはちりにきもみぢ早つげ
 よひに会て朝おもなみ隠にか気ながき妹がいほりせりけむ、
又隠山、
 わがせこは何くゆくらむおきつもの隠の山を今日か越ゆらむ、〔万葉集〕
名張は梁瀬《ヤナセ》とも曰ふ、倭姫世記に簗作瀬の細鱗魚を奉る由見ゆ、是地名の起る所也、東大寺文書、元徳元年及養和元年簗瀬荘とあり、〔三国地誌〕又東大寺要録「承久三年官符、当時寺領弐拾参箇処之一、伊賀国梁瀬荘」。
 
市守《イチモリ》宮 皇太神宮遷幸の時、隠の市守宮に次りたまふ事、倭姫世記に載せ、崇神帝の朝に在り、今名張の市中に坐す小祠是なり、俗之を恵比須堂と云ふ、其処を夷町と呼ぶ、昔は毎月六度の市ありて、隣国より人民輻輳せり、蓋古の遺風とぞ、市守の名空からざるを知る。〔三国地誌〕
 
宇流富志禰《ウルホシネ》神社 三国地誌云、梁瀬郷|平尾《ヒラヲ》に在り、三代実録授位の宇奈根神即此なり、東大寺古図に「簗瀬条宇船明神」と標す、春日神の遺跡とぞ、公事根源曰「春日明神、鹿島より御住所尋ねに出給ふ、御乗物は鹿にて、柿の木の技を御むちに持たせ、伊勢の国なばりの郡につかせ給ふ、御ともには中臣の連時風秀行と云人なり」。〇三代実録、貞観三年、高蔵神高松神宇奈根神並授従五位下、十五年、宇奈根神授従五位上。
補【宇奈根神社】○神祇志料 宇奈根神、按神名帳即本
 宇流富志禰神の宇流を字奈禰と訓じたるを以て、宇流富志禰神を此神なりと云ひ、名居神を宇奈根神なりと云説も聞ゆれど、いづれも未だ其確証を得ず、故に今取らず。
清和天皇貞観三年四月十日甲寅、正六位上高蔵神、阿波神、高松神、宇奈根神、並に従五位下を授け、十五年九月廿七日己丑、宇奈根神を従五位上に殺さる(三代実録)
 
名張《ナバリ》塞址 津藩藤堂氏の将士を置き地方を鎮ぜる所也。伊水温故云、簗瀬城は、慶長の初め、羽柴伊賀守(筒井)が与力松倉豊後守重政八千石を領し此に住す、(天正十三年より慶長五年の比までなるべし)三国地誌云、寒松廟(藤堂高虎)寛永十三年、宮内少輔高吉君をして名張に第を造り居らしむ。菅笠日記云、名張は阿保より三里とかや、町中に此わたり知る藤堂の何がし主の家あり、門前を過ぎて、その町屋のはづれに、川の流れ合ふ所に板橋を二つわたせり、名張川簗瀬川(東川)とぞ云、古へ名張の横川と云ひけんはこれなめりかし。
 
周知《スチ》郷 和名抄、名張郡周知郷。○今|薦原《コモハラ》村蔵持村等なるべし、三国地誌云、薦生郷八幡村(今薦原村)は旧名|唐琴《カラコト》里、永閑名所記に周知郷は唐琴里なりと為す。
周知は古事記「大倭日子※[金+且]友命(懿徳)弟、師木津日子之命之子、二王座伊賀須知之稲置等之祖」とありて、延喜式、阿拝郡|須智荒木《スチノアラキ》神社、続紀に須珍《スチ》都計王(阿拝郡柘殖郷)などあるは、此地より出たる称なるべし。(阿保郷参照)
補【周知郷】名張郡○和名抄郡郷考、神名式、阿拝郡須智荒木神社。風土記、荒木山有神、号須智明神、所祭猿田彦、武内宿禰・葛城襲津彦也。周智山周智郷。風土記、地富饒而民用多也。国人云、今此文字を書てヒナチと唱ふる村あり。
 
薦生《コモフ》 今|薦原《コモハラ》村と改む、名張町の北、名張川の東西にわたる。仁徳紀「遣兵伐隼別皇子、追及于伊勢|蒋代《コモシロ》野、而殺之」或は蒋代は即薦生ならんと曰ふも疑はし、蒋代は素珥山の東一志郡の地なるべし。○東大寺要録「長徳四年註文、伊賀国薦生荘、庄甲荘合四町二百八十歩」とありて、後鳥羽院御巡礼記に薦生邑荘と見え、中山春日明神本郷に存す、即院の御巡拝ありし者也、春日社記に「大神遷幸の時、薦生中出に御贄の栗を植うるに、蕃茂したる事を伝へ、今も八幡村に焼栗《ヤキグリ》井と名づくる神供水あり、東鑑、文治二年、平六※[にんべん+兼]杖時定、於字多郡、与伊豆左衛門源有綱(仲綱息義経聟)合戦」と、俗説弁、伊賀地志云、有綱は伊賀国に至り、薦生にかゝる、当国の勇士服部六郎時定之を討取る。
 
大屋戸《オホヤト》 今|蔵持《クラモチ》村に属す、杉谷《スギタニ》神社あり、鳥羽天皇の勅建と称す。〇三国地誌云、大家戸村は、東大寺文書天喜元年の者に載す、康保年中には大屋戸郷夏焼村とあり、又大江寺とて、大江定基の創めたる精舎本郷に在りしが、後世廃絶す。
補【杉谷神社】名張郡○地誌提要 郷社、大屋戸村、少彦名命を祭る、鳥羽天皇の勅に依て之を建つと云ふ。○今蔵持村大字大屋戸。
 
関岡《セキヲカ》 此地名は今詳ならず、名張郡の中かと想はるれば、此に掲出す。関岡家始末云、伊賀国には服部党大名にて、北郡に威を振ひ、信楽の多羅尾も相従ひける、二千人の大将にて、国司(北畠家)の与力なれば、関岡家と水魚の交を為す、関岡の屋形は上野と名張の境目に在りて、多芸御所に近し、元祖大館左馬助氏明の末孫なれど御所の与力にて千五百人の大将なり、甲賀の地侍も与方しければ、三千人の大将とも云べし。(柘植の楯岡を参照すべし)
     ――――――――――
伊賀《イガ》郡 或は阿我《アガ》郡と称す、明治二十九年廃し、名賀郡へ併す、北は阿山郡に至り、東は伊勢一志郡に界し、西南は旧名張郡なり、四面囲むに山嶺を以てし、溪澗は相会し一束北流す、即伊賀川なり。本郡は国名に取りて之を命ず、天武天皇紀に「車駕急行、到伊賀郡」の文あり、和名抄、伊賀郡、分六郷、其長田郷大内郷は今阿山郡に入る○国郡沿革考云、凡国名と同き郡名は、中世皆改称したり、伊賀郡は、郡内阿我郷あるに因みて、阿我郡と曰ふ、正保国図之に従ふ、寛文年中伊賀に復す。
補【伊賀郡】○〔脱文〕目鑑世記、阿我中村と云処にて伊勢国司幕下の者どもより集り云々と見えたる阿我は上に引ける風土記の吾娥なれば、後世までも古名を郷名に存して、則伊買郡の内にあるか。風土記、中郡也、東限沢墳、西限高師川、北限横川、南限豊国、以国名為郡名。神宮雑事記、垂仁天皇二十五年天照坐皇大神云々、伊賀郡に宿御坐、即国造奉神戸云々。勢州軍記、一云、西方伊賀国四郡者仁木家之領地也、雖然名張伊賀郡之侍□従之。
〔国都沿革考〕伊賀は国名の由て出る所なり、伊賀郡は始て天武天皇紀に見ゆ、
 天武天皇元年六月、天皇即急行到伊賀郡云々
後世阿我郡に作る、阿我郷に因るなり、正保図之に従ふ、寛文中旧に復し、後皆之に依る。 按、和名抄伊賀郡阿我郷あり、凡国名と同じき郡名は中世以後皆之を改称す、伊賀郡其一なり。
六郷の内長田郷の地、今阿拝郡に入る。
 和名抄伊賀郡六郷あり、其長田郷今阿拝郡長田村あり、是其遺名なり。
 
種生《タネオ》 伊賀川の源頭にして、名張の東にあたる、今種生村と曰ふ、其東を矢持《ヤモチ》村と曰ふ、共に三国岳《ミクニダケ》の陰なり。
兼好塚○兼好法師、観応元年伊賀に卒し、国分寺に葬る事、園太暦に見ゆ、而て国見山に其塚在りと云事、国人の伝唱する所なり。三国地誌云、種生村に国見草蒿寺あり、准后伊賀記に国見山草蒿寺の名ありて、信西法師の開基本願なるが、頽敗したるを、元禄年中僧龍雲の再建する所也、永閑名所記曰「名張の奥、国見山に近き辺に、由井の荘と云ふ所に、兼好法師の石塔あるよし、至宝抄に侍る故、尋参りしに、由井と云ふ村のちいさき杉むらの中に、兼好庵の跡とて侍る」と、今草蒿寺の境内に兼好塚あり、元禄年間土民其荒たるを修め築ける者なりとぞ。(国見山は三国岳の別称ならん)
 
極楽《ゴクラク》寺 種生村大字|老《オイ》川に在り、三国地誌云、当寺本尊趺坐銘曰「東大寺金堂壇上于時弘安七年正月八日、造東大寺大勧進沙門聖然之」云々、鰐口銘曰「伊賀国老川極楽寺応永六年己卯九月三日、勧進聖」
補【極楽寺】伊賀郡〇三国地誌 縁起云、善光寺三尊の中仏なりしが、示現に依て播州赤松家臣宇野修埋、南京より此に安置す。
 
首岳《クビガタケ》 一名大山岳、種生村大字高尾の南一里余、東は一志郡にして、西は六筒山郷太郎生村なり、岳陰の水は伊賀川の濫觴と為る、伊州の高嶺にて、北は布引山に連る。准后伊賀記曰「三国嵩、藤原千方朝臣之戦場也、霧生郷、千方将軍之墓所在、千方、村上天皇御宇、仰望正二位、無其甲斐、日吉之神輿取奉、而当国霧生郷籠居、紀朝雄為副将軍、討之」と此千方の城跡と云者、三国岳と笛吹山の中間半腹の地に在り、石屏壁立す。(千方は大系図に載せ、稗史に伝ふる所あれど、其事明徴なし、霧生は今|矢持《ヤモチ》村と改称す)
 
阿保《アホ・アオ》郷 和名抄、伊賀郡阿保郷。○今阿保村上津村是なり、西は阿我郷に至り、東は一志郡に堺す、佐田村|垣内《カイト》を経て安濃津に至る間道あり。(土俗阿保を呼びて阿於と為す、延喜式には早く於保と訛れり)
阿保は旧|穴太《アナホ》と呼ぶ、垂仁皇子息速別王の居邑なり、後の阿我神戸二郷をも総べたり。○古事記玉垣宮(垂仁)段云「御子伊許波夜和気王者、沙本穴太部之別祖也」と沙本は大和にて、穴太は伊賀なり、日本書紀、雄略天皇穴穂部を置きたまふと云は之と相異なり。続紀云、延暦三年「武蔵介建部朝臣人上言、臣等始祖息速別皇子、就伊賀国阿保邑居焉、逮於遠明日香朝廷(允恭)詔皇子四世孫|須珍都計《スチツケ》王、由地賜阿保君之姓、其胤子意保賀斯、武芸超倫、足示後代、是以長谷旦倉朝廷(雄略)改賜建部君、望請返本正名、詔許之」又姓氏録云、皇別、阿保朝臣、垂仁天皇々子息遠別命之後也、息速別命幼弱之時、天皇為築宮室於伊賀国阿保村、以為封邑、子孫因家之、允恭天皇御代、以居地名賜阿保君牲、天平宝字八年、改公賜朝臣姓。〇三国地誌云、
阿保村に字石室又西之森と云所あり、堡址に似て地勢最よろしき地なり、息速別命の遺跡なるか。○皇太神宮遷幸の時、穴穂宮に次ります事、儀式帳に見ゆ、後の神戸郷の地、其旧址とす、神鳳抄神宮雑例集等に阿保神田と云ふは、本郷に属せる供御田なるべし。
【阿保】伊賀郡〇三国地誌 和州より伊勢神宮への官道なり、名張より此に至る三里、阿保より勢州垣内に至ること四里。○和名抄郡郷考 続紀天平十年十月伊賀郡.安保頓宮。又延暦三年十一月武蔵介建部朝臣人上等言、臣等始祖息速別皇子就伊賀国阿保村居焉。姓氏録右京皇別下、阿保朝臣、垂仁天皇皇子息速別命之後也、息速別命幼弱之時、天皇為皇子築宮室於伊賀国阿保村、以為封邑、子孫因家之、允恭天皇御代以居地名賜阿保君姓。神鳳抄、伊賀国阿保神田。末社記、伊賀国阿保庄。神宮雑例集、阿保神田。菅笠日記、村道の左に中山といふ山のいはほいとあやし「河づらの伊賀の中山なかなかにみれば過うき岸の岩むら」かくいふは、きのふこえし阿保山より出る阿保川のほとりなり、朝川わたりて岡田別府などいふ里を過て、左にちかく阿保の大森明神と申す神おはしますは、或伊賀郡大村神社などをあやまりてかく申にはあらじや、猶川にそひつゝゆきゆきて阿保の宿の入口にて又わたる云々、伊勢路より此駅迄一里也。
 
安保《アホ》頓宮址 続紀、天平十二年、幸伊勢国、到伊賀郡安保頓宮宿、大雨途泥、人馬疲煩。○三回地誌云、阿保村六本松に城腰と云所あり、其地凡五間四方の営址と見えて、其形のこる、其側は野山にして、勢州の旧路にあたれば、是頓宮の所なるべし。
延喜式、伊賀郡|大村《オホムラ》神社は阿保村の訛なり、今阿保村に在り、大森明神と曰ふ、三代実録、貞観五年授位。○阿保の北大字|寺協《テラワキ》に吉祥院|宝巌《ハウゴン》寺あり、多く古仏像を収蔵す、文永四年亀山天皇の勒建とす。〔三国地誌〕
補【宝厳寺】伊賀郡〇三国地誌 寺協村吉祥院、多く仏像を蔵す、亀山院勅に依て文永四年建、天皇能作障玉此に歳む、故に宝厳の名ありと云。
 
伊賀中山《イガノナカヤマ》 阿保邑大字|岡田《ヲカダ》に在り、天武紀云「車駕急行、到伊賀郡、焚伊賀駅家、還于伊賀中山、而当国郡司等、率数百衆帰焉」書紀通証云、中山在岡田村|下河原《シモカハラ》村(今上津村)之間、今中山寺之名存矣。
 ながむれば伊賀の中山きりはれて月に数ふる雁がねの数、〔家集〕 源三位頼政
菅笠日記云、道の左に中山《ナカヤマ》と云山のいはほいと奇し、
 河づらの伊買の中山なか/\に見れば過ぎうき岸の岩むら、 本居宣長
かく云は昨日越えし阿保山より出る阿保川の辺なり、朝川わたり、岡田別府など云里を過て、左に近く阿保の大森明神おはします、伊勢路より阿保の駅まで一里なり。
 
上津《カウツ》 阿保村の東に接す、東大寺文書、康平七年の者に阿我郷上津阿保等あり。延喜式、伊賀郡|比々岐《ヒビキ》神社は今|北山《キタヤマ》郷上津に在りて、鹿島明神と称す、〔三国地誌〕今北山伊勢路等を合せ上津村と改称す。
 
伊勢地《イセチ》 伊勢路の義にて、天武紀に見ゆる伊賀駅家此なり、今も之より東阿保山を踰え、一志郡佐田村垣内宿まで山径四里、大峠と称す、按ずるに天皇東行の時、名張より此に至り、故ありて東踰を果さず、中山に還り、更に柘植路を取り給へる也。
 
阿我《アガ》郷 和名抄、伊賀郡阿我郷。○今神戸村の一部、及び美濃波多村古山村等なるべし、神戸村大字|上神戸《カミカウベ》に我山《ワガヤマ》の名存す。○本郷は元神戸郷と同く阿保郷の分属なるべし、三郷の区分錯雑甚し、天智皇女に阿雅《アガ》の御名あり、本地に因める者也、其母即伊賀采女宅子姫なり。又中世伊賀郡を改め阿我郡と称したる事あり、准后伊賀記に阿我郷五保と称す、指す所詳らず。
補【阿我郷】○和名抄郡郷考 伊水温故、伊賀郡阿我は准后記に阿我郷五保とは上神戸・下神戸・上林・丸山・子等なり、これ今云阿我山なるべし、但し子等を除て此自岐川を入て五保と云が、丸山を除くかとも云へり。伊賀名所記に阿我の観音堂は玄賓僧都の開基也。 
我山《ワガヤマ》 三国地誌云、上神戸の小邑に我山あり、観音堂廃跡をのこす、天正の兵乱に堂塔焼亡し、其遺像は今古山村の吉田寺に在る者是也、准后記曰「阿我郷観音寺、玄賓僧都開基」、永閑記曰「阿我観音堂、畠山宗与入道墓所」。○又云、阿我山蓮明寺に児塚と云者あり、生率部婆と号し松樹生ず、此生塔婆の説紛々として俗談多し、永閑が名所記にも其談あり、
 
比土《ヒド》 比土村は上神戸の南に在り、今神戸村に属す、延喜式、伊賀郡|比地《ヒチ》神社今高土明神と称し、延喜式、伊賀郡|高瀬《タカセ》神社今蔵鍵明神と称し、并に比土に在り。〔三国地誌〕然れども比地は此地に非ず、長田郷肱山なるべし。
 
身野《ミノ》 身野は今美濃波多村蓋是なり、南は名張の薦原村に連り、北は花垣村に接す。持統紀「三年、禁断漁猟、於伊賀国伊賀郡身野二万頃」、身野即禁野にして、薦原古山花垣に跨れる御料地なりけん。
補【小波田《ヲバタ》】伊賀郡〇三国地誌 今郷名。○今美濃波多村と曰ふ、名張郡蔵持村と接す。
 
古山《フルヤマ》 神戸村の西にして、岡陵の上に村居す、名張上野間の小駅なり、大字|湯屋谷《ユヤダニ》に石罅より出る鉱泉あり、冷水にして効験少し、空華集に「甲寅春、以湯医浴于伊陽温泉」と見ゆ、今は瑠璃石薬水の名を伝ふるのみ。延喜式、伊賀郡|田守《タモリ》神社今古山村大字|鍛冶屋《カヂヤ》に在り、雷明神と曰ふ。〔三国地誌〕
補【古山】伊賀郡〇三国地誌 今郷名、石縄村に阿我郷古山荘吉田宮とある、元和年間の上棟文あり。
 
神戸《カウベ》郷 和名抄、伊賀郡神戸郷。○今神戸村の下神戸及|比自岐《ヒジキ》村なり、即穴穂神※[まだれ+寺]の地にして、延暦儀式帳、外宮伊賀神戸と云ふ是なり。 
穴穂《アナホ》宮 下神戸《シモカウベ》に在り、穴穂は阿保と相通用したり、延暦儀式帳、皇太神宮遷幸の記事に「次伊賀穴穂宮坐、次阿閇拓殖宮坐」とあるは此なり、神宮諸雑事記云「垂仁天皇御宇、倭姫内親王、奉戴之、先伊賀国伊賀郡一宿御坐、即国造奉其神戸」○三国地誌云、穴穂宮は神※[まだれ+寺]社是なり、永閑記に観勝寺は六穂宮の供僧にて、兵範記に出でし由見ゆ。
本朝高僧伝云「釈行然、賀州人、文永初盤旋旧里、興営天道山無量寿福寺、戒定并修」この寺は今下神戸に存す。
 
比自岐《ヒジキ》 神戸村の東北に接す、或は※[木+(形−さんづくり)]に作る、今比自岐村と曰ふ、東大寺康平七年文書、阿我郷火食村、准后伊賀記云、当帝御領比自基。比自岐神社○延喜式、伊賀郡に列す。神祇志料云、今比自岐の森邑に在り、大森明神と曰ふ、令集解延喜式を参酌するに、蓋伊賀比自岐和気の祖神を祭る。
 
猪田《ヰタ》郷 和名抄、伊賀郡猪田郷。○今猪田村存す、古山村の北に接す、東は依那古《イナコ》村に至る。延喜式、伊賀郡猪田神社本村に在り、又東大寺天養元年文書、猪田郷の名見ゆ。○猪田の西なる花垣《ハナガキ》村は地勢旧名張郡に入れど、猪田に近接すれば本郷内か。
 
花垣《ハナガキ》 此村名張川の東岸にして、和州添上郡月瀬と相対し、梅樹多し、一帯の清渓なり、古山駅の西にあたる、延喜式、伊賀郡|乎美禰《ヲミネ》神社は花垣村大字|桂《カツラ》に在り。
沙右集云、上東門院とて后おはしましける、興福寺の八重桜を都に召ければ、大衆いと便なし、譬へ命はともあれ、桜を掘て得こそ参らすまじと申す、女院斯と聞召し給て、奈良法師は心なき者とこそ思ひしが、誠に色ふかしとて、桜はめさずなりける、殊に伊賀国|余野《ヨノ》荘を寄給ひ、それより花盛七日が間、宿直をして守らせ給ひける、斯ありければ、余野荘を改て花垣荘とぞ名附らる。(古今著聞集之に同じ)三国地誌云、余野の地名に花前《ハナガサキ》あり、古の八重桜のありし所ならん、又今川了俊の詠あり、
   伊賀よりの帰るさに花垣の里に至りて
 けふとてもうつるにほひは九重にちかきあたりの花垣のさと。 源貞世
   花垣の荘は、そのかみ奈良の八重桜の料に附られけると云伝へ侍れば、
 一里はみな花もりの子孫かや、 芭蕉
補【余野】伊賀郡○三国地誌 今郷名、著聞集、沙石集、余野。○月瀬(和州)と相接し、同く梅花の勝賞地なり。
          
依那古《イナコ》 猪田村の東に接す、此村は康平七年東大寺文書に大内郷|依那具《イナグ》村とあり、延喜式、伊賀郡依那古神社を載す、三国地誌、高野社を以て之に擬し、伊水温故、小泉霊社の相殿なる江大神是なりと云ふ。○依那古村大字上郡下郡相並ぶ、蓋古の伊賀郡家なり、其他大字才良市部等あり。
 
才良《サイリヤウ》 延喜式、伊賀郡|坂戸《サカト》神社、今依那古村大字才良に在り、杉谷明神と曰ふ、同所に引谷山利生院あり、本尊不動明王、智証大師開基、天正の兵火に罹り律師祐泉再興す。〔三国地誌〕
補【不動寺】伊賀郡〇三国地誌 才良村に在り、引谷山利生院と云ふ、貞観年中智証大師開基にして、嘉禎年中興正再建、天正兵火に罹り、天正十五年律師祐泉今の寺とす。○依那古村。
 
誰其森《タガソノモリ》 永閑記に依れば、哀其森と共に市部《イチベ》の田間に在りと云ふ。〔三国地誌〕
 さよふけて誰その森のほととぎすなのりかけても過ぎずなるかな、〔夫木集〕
 かきくらし雨の降夜はほとゝぎす鳴てすぐなり哀れその杜、〔名寄集〕
伊水温故、延文の頃兵乱に、伊賀権守橘成忠と云人有しに、河内国交野の郷の住人|遠地《ヲンチ》入道、南帝の勅命を蒙り、此国の楯岡《タテヲカ》山にたて籠り、諸民をつゐやしけるに、成忠かれをうちほろばす、しかる所に遠地は菊水の旗をなびかし、服部川に進み、多勢おそひ釆て責ける程に、叶はずして此誰某森に入て自害す、其古墳此社頭にありときこゆ。
 
大内《オホチ》郷 和名抄、伊賀郡大内郷。○今名賀阿山両郡に分属す、依那古村(名賀郡)浅宇田《アサウダ》村花之木村(阿山郡)等是なり。神鳳抄、伊賀郡大内御薗、又准后伊賀記、大内郷十五保など見ゆ。伊水温故に「大内下荘は今阿拝郡に入る、(花之木村)而て上荘は伊賀郡に在り」と、此上荘は今猪田村に割入す。○建長二年道家処分記、大内東荘、故禅閤(良経)御時、被寄附春日唯識会供料。按ずるに国造本紀「伊賀国造、志賀高穴穂宮(成務)御世、皇子意知別命三世孫、伊賀都命定賜国造」とありて、垂仁紀、祖別命(古事記落別王に同じ)の名跡は本郷たるべし、和名抄祖父を於保知と訓む、大内是なり、又源氏勃興の際信濃の人平賀惟義伊賀守護と為り戦功あり、弟朝惟子惟信共に大内と称す、蓋亦本郷に居住せしに因るが如し。
   伊賀の山家にうにと云物あり、土の底より掘出して薪とす、石にもあらず木にも非ず、黒色にしてあしき香あり、そのかみ高梨野也これを考て曰く本草に石炭と云物あり、いかに申伝て、此国にのみ焼ならはしけん、いとめづらし、
 香に匂へうにほる岡の梅の花、 芭蕉
補【大内郷】伊賀郡〇和名抄郡郷考 風土記、大内里、中肥也。伊賀記、大内郷十五保。神鳳抄、伊賀郡大内御薗。伊賀考、天喜中古按に、大内郷安佐小田村ありと云り。伊賀温故、大内下庄は隣郡阿拝郡に見ゆ、大内上庄は当郡に見ゆ、天神宮は大内□□両郷の宮也、大内村大内庄と記に見えたりと云り、東鑑、信濃国住人大内太郎惟義領当国信州大内郷産生、依之惟義住居の地比々岐村を大内と改む。○按ずるに比々岐杜は上津村に在りて伊賀郡に属す、是れぞ上荘なるべけれど下荘は本郷にて、今阿拝郡花之木村下荘ぞ原地ならむ。〇三国地誌 正応四年文書に加藤左衛門尉伊賀国大内住とありて、今大内下荘に加藤将監の宅址あり、是也、天正中亡ぶ。○今花之木村に属す。
 
    阿山郡
 
阿山《アヤマ》郡 明治二十九年、阿拝山田両郡を合同し、阿山郡の号を立つ、衙所上野町に在り、管する所凡十九村、東西七里南北三里余に及ぶ。
     ――――――――――
阿拝《アベ・アハイ》郡 明治二十九年廃し、其地阿山郡に入る、古は阿閇又敢に作る、後世|綾《アヤ》郡に訛り、正保国図綾之郡と標し、寛文中復旧すと雖、土俗訓みて安波以と為す。
此地阿閇臣の故里にして、敢国《アヘノクニ》の称あり、〔日本書紀延喜式〕倭姫世記敢郡に作り、天武紀に車駕宿|阿閇《アベ》とあり、阿閇里は今府中村印代郷なるべし。○和名抄、阿拝郡、訓安部、分六郷、後世伊賀郡長田郷及大内郷の一部之に入る、勢州軍記云「伊州綾郡河合有綾杉」と今阿拝の河合村なり、又類聚往来に阿弁《アベ》に作れり。補【阿拝郡】○和名抄郡郷考 国府、風土記、中郡也、往昔阿牟忌寸死此、有墳、仍有此号、東限佐与川、西限樫淵、北限篠岳、南限岸村。残篇風土記、阿部山、阿部川。天武紀元年九月戊戌、車駕宿阿閉。三代実録貞観六年十月、伊賀国正六位上安部神伊賀津彦神授従五位下、又云、従五位上敢国津大社神。神名式、阿拝郡敢国神社。倭姫世記にも敢とあり、今アユと云。勢州軍記、伊州綾郡河合有綾杉之名木、信雄之侍結城源五右衛門尉誤斬其木云々。今俗にハアヤ郡ともアハイ郡とも云なり。
 
浅宇田《アサウダ》 今|小田《ヲダ》村に属すれど、古は伊賀郡大内郷内なり、上野町の南にして、名賀郡の境上に在り、東大寺天喜中旧案に大内郡安佐小田村と云者此なり、伊賀考に其説あり、又建長二年道家処分記云「東福寺領伊賀国浅宇田荘、法性寺殿(忠通)御時、為報恩院領寄附」。〇四十九院は浅宇田の東に在り、九品寺と号す、行基大徳の創建とぞ、今衰ふ。〔三国地誌〕
 
下之荘《シモノシヤウ》 今|花之木《ハナノキ》村と改称す、浅宇田の西に在り。三国地誌云、正応四年古文書に「加藤左衛門尉.伊賀国大内住」とありて 今大内下荘に加藤将監の宅址と云者あり、天正中まで其家存せりとぞ。
 
法華寺《ホツケジ》址 今花之木村大字法華に在り、是れ国分尼寺にして、其廃墟歴々たり、神祇志科云、三代実録、貞観五年十五年両度授位の伊賀国応感神は法華寺に在り。
補【応感《オカムノ》神】神祇志科 今阿拝郡法花村にあり(三重県神社調)清和天皇貞観五年三月十六日戊寅、正六位上応感神に従五位下を賜ひ、十五年九月廿七日己丑従五位上を授く(三代実録)毎年十月廿五日祭を行ふ(三重県神社調)
 
長田《ナガタ》郷 和名抄、伊賀郡ナガタ郷。○今長田村是なり、上野町と伊賀川を隔てゝ其西に在り、東鑑「元暦元年、長田荘」万寿寺記「長田荘院田」などあるは皆此なり。○天正十一年、国主織田信雄の羽柴秀吉と不和に及ぶや、秀吉の臣協坂甚内安治伊賀に打入り、上野城を襲ひ、滝川雄利を逐ひ長田市場に在陣して国務を執る、翌年筒井定次上野へ入部す。
 民の戸の烟もかぜになびき行く末はながたの里のかやり火、〔永閑伊賀名所記〕
補【長田郷】伊賀郡○和名抄郡郷考 今阿拝郡長田村、風土記長田里上田也、長田河と云もあり。東鑑寿永三年四月、長田庄。残篇風土記、長田山、長田川。神鳳鈔、長田。国図、長田御厨。又長田村は国図及伊水温故、隣郡阿拝郡にあり、盛衰記、又道はなきかと問給へば是より長田里花苑と云所を廻りて射手大明神の御前を笠置に懸りても道のよく候と申す。行嚢抄、長田村、自此辺左の山の方に安楽院と云寺あり。京城万寿禅寺記、伊賀長田庄院田。
 
花苑《ハナゾノ》森 三国地誌云、長田市場に在り、永閑記には名張里より一里計北に在るよし、宗祇の至宝抄に侍るとあれど、詳ならず、長田森と称する者に同じかるべし。
   相知りたる女、伊賀団長田森と云所にありとききてよみ侍る、(一書に之を摂津の長田とす)
 いのちだに長田の森のなかりせばたよりに君がやどを見ましや、〔家集〕 為頼
源平盛衰記云、義経新居河原に磬へさせ、又道はなきかと問拾へば、是より長田里花苑と云所を廻りて、射手大明神の御前を笠置にかゝりても、道よく候、と申す。
 
射手《イテ》神社 今長田村字|寺内《テラウチ》に在り、准后伊賀記に天武天皇勧請、猿田彦神と為す、古は此を去る四十町、射手森(島原駅の南)に鎮座したるを、天正以後に移したる也、盛衰記一本にイトド明神とあるも之を指す、別当仏性寺。〔三国地誌〕○伊賀記又云、仏性寺、六条殿顕房開基也、遍照院在其南、徒然草野槌云、少僧都弘融、与兼好房有因縁、貞和三年、兼好仏性寺之遍照院居住。○古今著聞集に西行「伊勢国分寺の鎮守、射手の社に詠歌」の事見ゆ、是は伊賀の誤にて、国分は法華尼寺なるべし。
   伊勢に住せし頃、国分寺に折ふし通ひ来て、射手の明神は此寺の鎮守なればとてよむ、
 あづさ弓引きしたもとは力なく射手のやしろにすみぞめの袖 〔未詳〕 西行法師
 
西蓮寺《サイレンジ》 長田村に在り、天台宗真盛派の名刹なり、東国高僧伝云、西教寺沙門真盛、明応四年在賀州西蓮寺、四十八夜、念仏説法、俄病而逝。〇三国地誌云、此寺は真盛師の開く所にして、其墓塔を遺す、後土御門院御塔亦寺内に存すと、真盛は有徳の僧にして、公武の尊信を得て、其名声当代に振ふ、渡御塔も其故ある事ならん。
 
比地山《ヒチヤマ》 長田村の字|百田《モヽタ》に在り、常住寺と称する※[王+炎]王殿あり、相伝ふ摂州清澄寺慈心房尊恵伊勢参宮の帰路、長岡駅百田氏の宅にて死す、其遺仏※[王+炎]王像を後につたへ、筒井定次慶長年中為めに造営を加へ、寛文年中藤堂家より重修あり、寺内に神明宮ありしが今廃す、延喜式伊賀郡|比地《ヒチ》神杜は是なりしならんと云。〔三国地誌伊水温故〕○蒲生氏郷記の伊賀国肱山と云は此ならん、曰「氏郷は秀吉其主の仇討被申上は、自余に可申合に非ずとて、秀吉公得同心、其後柴田修理勝家と秀吉公と合戦の刻は、伊賀伊勢の敵無心許とて、氏郷を両国の押得に頼被置、江州日野の居城に被居、其節伊賀より八度まで甲賀得伊賀守打出、氏郷其度毎にかけ合戦追返して、筒井伊賀守の肱山を落す。」
 
鳥屋野《トヤノ》 三国地誌云、此野は万葉集に等夜野に作リ、白鷹記に「鳥屋野の原の跡を尋ねても、田猟の遊興を催さずと云ふことなし」と叙す、今長田村の南に朝屋《トモヤ》の里あり、其西に鷹芝高野など開曠の山野なり、是れ古の田猟の処なるべ」、朝屋は鳥屋の訛か。(下総印幡郡にも烏矢郷あり)
 はし鷹のとやのゝ浅茅ふみわけて己れもかへる秋のかり人〔新続古今集〕 順徳院
補【鳥屋野】阿拝郡○白鷹記云、とかへる山の秋の色をそへ、とやのの原の跡をたづねても、田猟の遊興を催さずといふ事なし。
賤の男がしばかりみだる鳥屋の野にけさぞ霞はたなびきにける〔堀川百首〕 
三国地誌云、万葉集にも等夜乃野にあるは朝屋《トモヤ》の野の事にや、名所記に其疑をなせり、朝屋の西に大野木の鷹芝野の辺開曠の地なり、因て憶ふに木興川以西は古の田猟の場ならん。○今長田村の南なる山野を云ふ。
 
新居《ニヒヰ・ニヒノミ》郷 和名抄.阿拝郡新居郷。○今|新居《ニヒヰ》村|島原《シマガハラ》村是なり、長田村の北にして伊賀川に沿へり、古の新家駅新居河原は新居村大字|東《ヒガシ》の地なり、後世駅家は其西一里余に移る、島原是なり。
 
新家《ニヒノミ》 続日本紀云、和銅四年、始置都亭、伊賀国阿閇郡新家駅。又三代実録云、貞観十六年、伊賀国節婦新家公福刀自。又源平盛衰記云、義経は伊賀国一之宮大菩薩の御前心計に再拝して、暫新居河原に磬へたり、西に平岡あり、里人を招きて、是より宇治へ向はんには、何地が道よきと問給へば、西に見え候平岡は、あをた山と申、其より前に頭落《クビオチ》滝と云所を通には近く候と申す。○和銅の置駅は平城造都の初にして、当時之を通じて、東海道の道口の為されし也。三国地誌云「新居東村に桜町池町上官舎等の地字存す、古駅の墟なれば也」義経は東村より伊賀川北岸の捷径を問ひしも、地名不吉なれば、南岸を迂回し、長田村より笠置へ出づ、長田郷を参考すべし。○平野|仏土《ブツド》寺と云は東村に在り、往昔台家の大伽藍にして、今尚雁塔多宝塔を遺し、古文書仏像等観るべき者多し。依那古村仲満寺蔵、古経櫃に題して「伊賀国新居郷嘉暦三年妙覚寺願主了意」と曰ふ、妙覚寺は今詳ならず。〔三国地誌伊水温故〕
三国地誌云、新居西村に諏訪明神あり、天正二年仁木長政と云人の造営棟札あり、此社は三代実録、貞観三年授位の高蔵神なり、同所に補陀落寺廃跡ありて、建長五年癸丑の銘ある石碑存す。○又云、新居西山村に頸墜《クビオチ》滝あり高二丈許、青田山と云は今開きて白田と為す、亦同所とす、盛裳記一本アダ山に作る、頸墜滝も一本頸落に作る。
補【仲満寺】伊賀郡〇三国地誌 依那具村に在り、山内に岡寺と云地名あり、是妙覚廃寺の址なり、彼寺の什物とて古写の大般若経を此寺に伝ふ、其書軸に寛和四年丙午三月一日執筆信盛云々。其櫃上に伊賀国新居郷嘉暦三年三月卅日妙覚寺願主了意とあり、今此経を解脱上人の筆なりと云、其実をしらず。
 
島原《シマガハラ》 長田村の西にして、伊賀川南北に民居す、島原宿と称し、伊賀越西口の駅家なり、今鉄道通過して車駅と為り、西は城州大河原笠置に接続す。〇一条兼良美濃路記云、上野小田など云所を通る、タヤマ越は河水未だ渡りがたかるべしとて、笠置とほりに赴き、島の原川を渡る。(たやま越今詳ならず)
 岩が根のながれをたえず住む亀の知るやよもぎの島が原川、〔永閑名所記〕 今川了俊 島が原山おろし吹く夕しぐれ笠もとりあへぬ旅の空かな、〔独清集〕 玄恵法師
島原より西|笠置《カサギ》まで四里、流に沿ふて峰巒高下し、奔湍石の奇観あり、又北方嶺を踰ゆれば、近江国|多羅尾《タラヲ》に至る、凡二里。
 
観菩提《クワンボダイ》寺 東大寺二月堂の別院にして、正月堂と称す、島原駅の北に在り、正堂楼門十三級石浮屠等あり、子院四坊、共に天正の寇火を免れ、伊州の宝刹なり、本尊十一面観音、金鼓の銘云「応永三十一年豊前国伝法寺荘法華院鰐口」。〔三国地誌〕補【観菩提寺】阿拝郡○島原駅。○美濃路記、一条兼良此に宿ること見ゆ。
 
小田《ヲダ》 上野小田と云ふは、美濃道記に見え、中世小渡郷と称するは後の上野城をも籠めたりと云ふ、蔵王権現宮あり、此宮は准后伊賀記にも見ゆ、其側に阿拝神社あり、上野城西丸を築く時、彼地より移すと、〔三国地誌〕三代実録に、貞観六年伊賀国安倍神伊賀都彦神並授位とある、伊賀都彦は此社にや、国造本紀なる意知別命三世孫伊賀都命を祀るか。○今小田村は上野町と相離れ、大内郷浅宇田と合同す。
 
上野《ウヘノ》 今上野町、戸数三千、伊州の都会なり、文禄年間、筒井定次築城して国府と為す、慶長十三年、徳川幕府定次の封を奪ひ、藤堂高虎に与へ以て伊勢の支鎮と為す。今城廃し、阿山郡衙を置き、鉄道車駅あり。(安濃津を去る十二里)
上野は伊賀川の東、服部川の南なる高地を占め、伊賀一州の田野は、上野四郊を最広とす。美濃路記に、服部の菩提寺を立て、上野小田など云ふ所を通ると録せり。三国地誌云、上野は中世小田郷に属し、(和名抄阿拝郡服部郷なるべし)往時上野と云は、今の農人町にあたる、是れ旧民家の部分なり、築城以後形勢変ず、上野平楽寺と云精舎は、今伊予殿丸に在りて、平相国清盛の創建と伝へしが、天正の寇火に罹り、郭外に移し再興して、今万福寺是なり。平楽寺の伽藍神|天満《テンマン》宮は、万治三年藤堂家にて之を農人町に移し、社田を寄附し上野町の鎮守と定めらる。○上行寺は、初め天正十六年藤堂高虎之を紀州粉川山に創建し、予州封侯の時、彼地に移したるも、伊勢を賜ふに及び、更に此に移す。藤堂家の家廟墓塔あり、広禅寺は元和元年渡辺了の創建せる禅房なり、了は勘兵衛と称し、藤堂氏に仕官し、大坂役に戦功あり、名誉の武士なり。
芭蕉翁故郷塚○上野町|愛染《アイゼン》院の境内に在り。松尾宗房、其先柘植氏より出て、此地にて人と為り、遁世して桃青と号し、近世俳句の宗祖と為る、世に芭蕉翁と称す。○枯尾花云、此翁孤独貧窮にして、徳業に富めること無量なり、二千余人の門弟、近遠ひとつに合信す、因と縁の不可思議、いかにとも勘破し難し、去ぬる年深川に庵を結び、しばし心とどまる詠にもとて、一株の芭蕉を植たり、
 野分して盥に雨をきく夜かな
と侘られしに、堪感の友しげく通ひて、自ら芭蕉翁と呼ぶ事になんなりぬ。
 雲と隔つ友かや雁の生きわかれ、 桃青
譚海云、俳諧発句、創基於聯歌、古著以滑稽諧謔為主、鄙俚猥雑、不過為閭巷※[言+(爛−火)]語也、芭蕉翁起而極力排之、其辞卑近、而其旨趣深遠、一句十七字、有千万言不能尽者、未可以鄙近之言軽易之、翁歿其門人相継益盛、残香剰馥二百余年不衰、是豈偶然也哉、翁伊賀柘植村人、名宗房、称忠左衛門、仕国主藤堂氏世臣藤堂良精、々々子曰良忠、号蝉吟子、受和歌於北村季吟、翁亦随学焉、無幾良忠病歿、宗房悲痛切情、乃書俳歌一首於門去、歴遊諸州、剪髪着道服、自号桃青。
鍵屋《カギヤ》辻○上野の郊外の字なり、寛永十一年、渡辺数馬其仇河合某を此に要撃す、剣客荒木又右衛門数馬を援け、遂に其志を成す、世に伊賀越復讐と称す、渡辺河合は共に備前池田侯の士なり、荒木は本郡荒木(中瀬)村の人、池田侯其侠勇を褒美し、召して家臣と為せりとぞ。
   上野黒門、是寛永中渡辺某復仇処、 山陽
 伊賀城頭西閭門、復讐有跡恍血痕、仇人騎駕魚貫過、挺刀一呼褫渠魂、姉夫慷慨慊従義、脊令原寒同雪冤、一水西渡是※[山+壽]原、苗時投宿館尚存、吾来挑燈思往昔、想見※[さんずいへん+卒]刃候暁※[日+敦]、嗟哉士風猶使薄夫敦、寛永之俗今誰論、
補【菅原神社】阿拝郡○地誌提要 郷社、上野、菅原道真を祭る、初同所平楽寺にあり、天正九年辛巳今の地に移す。三国地誌 上野城下に在り、往昔平楽寺の伽藍神なりしを藤堂氏の時万治三年農人町に移し、社領十八石を寄せらる、祭神十座あり。
補【鍵屋の辻】○日本名勝地誌 鍵屋の辻は上野町の郊外に在り、古へ此処に鍵屋と称する烟草屋ありし故に此称あり、当時は人家立て列なりしも、今はたゞ十字路頭に一小茶店あるのみ、相伝ふ寛永十一年十一月七日、渡辺静馬、荒木又右衛門と共に鰯の頭を踏つぶして讐敵なる沢井又五郎を此家にて待ち合はしたりと、其復讐始末は院本にも作り世に喧伝す。
 
上野城《ウヘノノシロ》址 上野町に在り、初め天正中、北畠氏の臣滝川雄利こゝに営す、筒井定次本州に封ぜらるゝに及び、此に築造を為す、文禄年間の事なり、定次伊賀侍従と称し、羽柴姓を賜はる、慶長十三年、定次淫虐度なく、家臣中坊飛駅と相争訟するの故を以て、封土を歿収せらる、(八万石)藤堂高虎同年を以て安濃津上野二城を賜はる、後藤堂氏世々城代を置き、士卒を配賦し之を鎮す、明治の初に至り廃墟と為る。
 
服部《ハトリ》郷 和名抄、阿拝郡服部郷。○今府中村大字服部及び中瀬《ナカノセ》村上野町等にあたる、古服部氏の邑にして、延喜式、伊賀国貢調※[穴/果]綾」とあるは蓋其所造なり、後世綾郡の名起るも偶然に非じ。○服部氏の裔、平家物語に、服部の下司平六時定あり、観世系図云、観世之先、伊賀杉内服部氏之子、幼名観世、為春日社掌楽、更名清次。異制庭訓往来云「伊賀八鳥之茶園」八鳥は服部なり、今も伊賀茶の称あり。
補【服部郷】阿拝郡○和名抄郡郷考 風土記、服部里、中肥也、有神号小宮大明神并扶伯大明神、共服部氏祖之所祭也。神名式、阿拝郡小宮神社(伊賀考、阿拝郡小宮神は服部大宮是也、正二位服部氏惣社也、号二宮)応仁記、今出川殿勢州下向の条に、五月廿五日夜伊賀の服部荒木の菩提寺に御着云々。藤川記、服部川をわたりて菩提寺にいたる。行嚢抄、服部村此辺より上野城の櫓松の中に見ゆ。貝原氏和事始、伊賀の八鳥と書り。青湾茶話、茶品彙といふ条に服部(伊賀産)とあり、こゝより出るなるべし。異制庭訓往来、茶の事をいへる件に伊賀八鳥とあり、今もハットリと云ふ。
 
羽取《ハトリ》山 東鑑、元暦元年五年、伊勢国馳駅参着申云、去四日、波多野三郎大井兵衛次郎実春山内滝口三郎并大内右衛門尉家人等、於当国羽取山、与志太三郎先生義広(系図為義之子志田義広といふ)合戦、殆及終日、争雌雄、然而遂獲義広之首云々、此義広者、去々年率軍勢、擬参鎌倉之刻、小山朝政依相禦之、不成而逐電、令属義仲訖。
   服部川をわたりて菩提寺に至る
 たび衣きのふも今日もくれ服部あやに恋しき奈良の古里、〔美濃路記〕 一条兼良
服部《ハトリ》川は山田の東|阿波《アハ》村より発源し、西流四里服部に至り柘植川を併せ、長田の北にて伊賀川に入る。
 
小宮《ヲミヤ》神社 延喜式、阿拝郡に列す。伊賀考云、小宮は服部氏の惣杜にして、伊賀国二之宮と曰ふ。三国地誌云、昔は服部のやから、阿拝郡を領知せる故に、服部の社もありと、永閑記に見ゆ、土俗なべて服部氏を秦人の裔と為すは非也、姓氏録に、速日命の裔麻羅宿禰、允恭帝の時織部司に任じ、服部連と為れる由見ゆ、凡服部の氏族は慈蔓して伊賀一州に散在したり、或は平内左右衛門尉家長盛衰記に著れ、其名最高ければ、桓武平氏と為すは謬れり、服部六郎時定〔平家物語〕服部伊賀守宗純〔浪合記〕等あり、又円覚律師これは服部広元の子にして、京都法金剛院及清涼寺の住侶にして、応長元年寂す。
 
荒木《アラキ》 今|中瀬《ナカセ》村と改称す、上野町の東にして、山田村の西、府中村の南なり。三国地誌云、荒木村は今昔物語に載せ、服部郷に属す、天正の頃、又右衛門と云者あり、菊山氏、撃剣を善くす、今も其一族存す、元禄年中、荒木の農民一種の稲を出す、実粒大にして太繁茂す、四方に伝播して荒木白子と曰ふ。
 
須智荒木《スチノアラキ》神社 荒木に在り、須智は名張郡周知郷と相因む所あらん、今昔物語に「伊賀の荒木なる白鬚明神は、相殿に武内宿禰の子、葛城襲津彦なり」と云へり。 葛城の其津彦まゆみ荒木にもよるとやきみが吾名のりけむ、〔万葉集〕
頓阿法師の十楽庵記に、霊杜荒木宮と云も此なるべし。
 
菩提《ボダイ》寺 荒木に在り、応仁記、今出川義視勢州下向の条に「伊賀の服部荒木の菩提寺に御着」又藤川記に「菩提寺に至る是も招提門徒の律院なり、設の事は法印申付て伊賀のもの共沙汰せしむとなん、廿七日菩提寺に逗留す、伊賀のもの共去り難く抑留するが故なり、
 菩提樹下古精藍、殿閣微涼来自南、暫借藤床兼瓦枕、※[鼻+句]々一睡味方甘。 一条禅閣
 
車塚《クルマヅカ》 三国地誌云、荒木の車塚は阿雅皇女の墓なり、類聚国史「和銅二年、阿雅皇女崩御於|杉坂《スギサカ》駅、葬伊賀国、賜封田如例」○皇女は弘文帝の同胞なり、相坂駅は即荒木の別名にや、永閑名所記に、信西国分記と云者を援き、伊賀采女宅子媛は山田郡司の女にて、大友皇子(弘文帝)阿閇皇子阿雅皇女を生み奉る由見ゆ。
 
補|大光《ダイクワウ》寺 阿拝郡○三国地誌 西明寺の隣里寺田に在り、西明寺長者服部氏日丸主計と云ふ富家の建立なりとぞ、寺内に春日明神あり。○今中瀬村。
 
印代《イシロ・イナシロ》郷 和名抄、阿拝郡印代郷。○今府中村の内、一宮の辺にあたる、大字|印代《イシロ》存す、郡郷考に今稲代と書き、イシロと訓むと云者此なり、古訓以奈之呂たるペし、服部郷の北に接し、柘植川の南側なり、其東部に敢国祠あり、北岸三田郷に国府址あり。
補【印代郷】阿拝郡○和名抄郡郷考 風土記、印代里、下肥也。国図、印代村。上田百樹云、今イシロと云、国人云、今稲代と書イシロと訓む。行嚢抄、井代村、佐奈具より上野に至道あり。地勢提要、印代村。穂井田忠友云、印代村、当郡佐奈具駅の西に接たり、和名抄にも載たれど訓注なし、神名式を按ずるに近江国栗本郡印岐志呂神社あり、音相近し、隣国の類名なり。○今府中村大字印代。
 
敢国《アヘノクニツ》神社 府中村大字|一之宮《イチノミヤ》南宮山に在り、今国幣中社に班す、延喜式、阿拝郡の大社に列したり、盛衰記に一之宮南宮大菩薩と云者是なり。頓阿十楽庵記云、霊社一宮に程近き里を千座《センザ》(今千歳)といふ、此は神供など調ふる処になん、御手ぐらそこら数見えて、里の童鉾などそぎて持運ぶ。三国地誌云、一宮は、天正の兵火に社頭破壊しけるを、藤堂家、慶長十四年修営し、社領一百石を祀田として寄進せらる。○此神は阿閇臣の祖神なるべし、中世南宮権現又少彦名命など云ふは信拠し難し、三代実録「貞観六年、安倍神授従五位下、九年、敢国津神授従五位上、十五年、敢国津大神授正五位下。」
補【一宮郷】阿拝郡〇三国地誌 一宮、千歳・佐奈具等是也。
補【敢国神社】○神祇志料 今一宮村南宮山にあり、(伊水温故・式社考)之を伊賀一宮とす(一宮記)蓋阿閇臣の祖大彦命の男彦背立大稲越命を祭る(参酌日本書紀・姓氏録・続日本紀大意)清和天皇貞観六年十月戊辰、正六位上安部神に従五位下を授け、九年十月庚午敢国津神に従五位上を賜ひ、十五年九月己丑敢国津大社神を正五位下に叙され(三代実録)
 按、安部神・敢国津大社神は異神の如くなれど、並同神なる事叙位の次第に依て明也、十五年に至て大社神と云ふに拠れば、其大社たりし事是歳に在か、姑附て考に備ふ
醍醐天皇延喜の制大社に預る(延喜式)凡そ其祭十二月初卯日を用ふ(明細帳)
 
佐那具《サナグ》 今府中村に属す、道路四通の便あるを以て、鉄道車駅たり、一宮の北に接す、東は柘植駅に至るべく、北は河合玉滝を経て甲賀郡に通ずる間道あり。
補【佐奈具】阿拝郡〇三国地誌 古駅にして其旧地を古市片町と云ふ、水患ありて民舎をうつす、官道之に係る。
 
青墓《アヲハカ》 日本書紀、雄略天皇、遣物部菟代宿禰物部目連、以伐伊勢朝日郎、朝日郎聞官軍至、即逆戦於伊賀青墓。○此遺跡詳ならず、佐郡具の古墳蓋是なり、阿保氏の墓などにや、三国地誌に「粟生某と云者の墓佐奈具に在り、土俗粟生は新田義貞の従士と伝ふ」云々、粟生は青の訛にて、此塚の名なるべし。○同書又云、佐郡具御墓山は、東西十九間、南北五十間許、四辺に埴輪をのこす、土人呼びて天子の陵なりと云も詳ならず、一名明星山、頓阿十楽庵記に「若林山の舟、粟生左衛門入道長慶軒の石塔、四五年以前に築きぬ、佐那具の後辺に在り」と云者亦詳ならず。
 
府中《フチユウ》 今府中村と曰ひ、印代郷の諸村を併入す、本|府中《フチユウ》郷と称し、東条西条に分る、和名抄|三田《ミタ》郷の地にして、柘植川の北岸なり、此川恋湊の号ありと永閑記に見ゆ、蓋|国府《コフ》の津なればなり、然れども舟楫の利ある流には非ず。
 人をのみこふの湊による波はそでをのみこそうちぬらしけれ、〔夫木集〕
補【府中郷】阿拝郡〇三国地誌 西条村東条村等是也、准后伊賀記、当帝領土橋村とあるも此郷に属す。
 
国府《コフ》址 和名抄、伊賀国府、在阿拝郡、行程上二日下一日、延喜式、伊賀近国、管四郡。○日本書紀、宣化天皇元年、詔曰、阿倍臣宜遣伊賀臣、運伊賀国屯倉之穀、修造官家於那津之口也。永閑記云、国府には国中の土貢をおさめらるゝ所にて、御倉の跡など今に侍る、此脇に伊賀守宗光の石塔あり。〇三国地誌云、府址は府中郷の西条に在り、宗光塔は今見えず、宗光は伊賀前司朝光の子にて、式部入道光西と号す、又伊賀屯倉故墟を伝へざれど、国府に外ならじ。○按ずるに佐藤朝光は東鑑「健保二年、佐藤伊賀前司」とありて、其子季光宗光并に伊賀判官と称し、北条義時に親姻し、鎌倉府権要の地に居る、朝光伊州に所知ありて、子孫実に此地に来往したるに似たり。
 
新国分《シンコクブ》寺 伊賀国々分寺料五千束と云こと、延喜式に見ゆれど、後世廃絶しければ、府中|坂之下《サカノシタ》の楽音寺薬師堂を以て回国参拝の札所と擬へたり、楽音寺は上野城の艮位に当るを以て、鬼門鎮護の為め、藤堂家より四方四町の地を寄進せられし大坊なり、享保七年に至り、公裁を得て国分寺の号を之に附与せらる。桃青の句に「初桜折しもけふはよき日なり」伊賀の薬師寺初会に第すとあるも此なり。
補【新国分寺】阿拝郡○三国地誌 府中郷坂下に楽音寺と云へる薬師堂あり、上野城の艮位にあたるを以て鬼門鎮護として、藤堂氏より四至四町の地を寄せらる、時に国分寺の廃せること久く、回国参拝者は楽音寺を以て国分薬師に擬したりしが、享保七年公裁を得て国分寺の旧号を薬師寺に附与せらる。
 
土橋《ツチハシ》 今府中村の大字なり、准后伊賀記云「当帝領、土橋村、又国府湊三宮」と、三宮は土橋に在りて、延喜式、阿拝郡|波太伎《ハタキ》神社是也、同く宇都可《ウツカ》神社、三代実録「貞観十五年、伊賀国宇豆賀神授従五位下」とありて、本土橋の大堀山に在りしが、今三宮に合併す。〔三国地誌〕
 
三田《ミタ》郷 和名抄、阿拝郡三田卿。○今の三田村なり府中の西に接す、国分僧寺の廃址あり、広大其古規を想ふに足る、支院址は安福寺山|西条《サイデウ》坂之下の三処に存す、十楽奄は頓阿法師の幽栖にして、国分寺に在りしが、又同く亡ぶ、十楽庵記は世に伝ふ。永閑記曰「三田の瑞龍寺は今絶え、朝光の石塔のみ国分寺に残る」と、朝光は承元四年任補し、佐藤前司と称す、其遺塔五輪石今に存す、又仁木氏の守護館の址、本村に在り。〔三国地誌〕○永閑記云、昔大和城上郡の女浅子、興福寺の児を見そめ狂気し、三田の古井に身を沈む、
 いもはたゞ浅子の井戸の浅ましき契りと身をばなし沈めけん。〔蔵玉集〕
頓阿十楽庵記云、国府天王は、河合の社より此頃移しまつりて、其神宮寺は、今出川右府の久う扶持し給ふ童の国丸が頭をおろせしになん。(此天王社三田に在り)〇三国地誌云、三田村の廃跡安国寺は、旧平等禅寺と曰ふ、足利氏諸州安国寺配置の時、之を改む、永仁三年、顕覚僧正の祖母尊阿相伝の地なりしを、慶覚法師捨てゝ寺と為したり、本寺正安二年文保二年以下元応元徳等の古文書は、今郡内に散在す。
 
丸柱《マルバシラ》 三田府中の北にして、近江国|信楽《シガラキ》多羅尾の山谷と一嶺を隔つ、旧|音羽《オトハ》郷と称し、山峰重畳す、其一峰を笠岳と呼ぶ。延喜式、阿拝郡|佐々《サヽ》神社、今本村大字音羽に在り、文徳実録「嘉祥三年、佐々神授位」と云者此なり、神祇志料は伊水温故を引き、佐々木明神と称するに因れば、阿閇臣同祖佐々貴君の祖神ならんと云ふ、然れども古事記伊邪河宮段(開化)云、「御子日子坐王生小俣王、小俣王者佐々君之祖也」と見ゆ、此佐々君の祖にあらずや。○丸柱村と横山より製出する※[次/瓦]器を伊賀焼と曰ふ、其古窯は筒井家前後の事にして、大抵信楽焼に類す、藤堂家に及び、更に公命を以て茶器を造進せしむ、故に土俗御家窯と云ひ之を珍重したり、〔三国地誌〕今伊賀焼衰ふ。
補【佐佐神社】○神紙志料 旧篠岡に在しを後音羽村に移さる、即今地也、佐々木明神と云ふ(伊水温故・神名帳考証)蓋阿倍朝臣同祖佐々貴君の祖神を祭る、(参酌新撰姓氏録・延喜式大意)文徳天皇嘉祥三年六月庚戊、佐々神に従五位下を授け(文徳実録)清和天皇貞観十五年九月己丑、従五位上に叙さる(三代実録)
 
河合《カハヒ》郷 和名抄、阿拝郡川合郷。○今河合村、玉滝村鞆田村等にあたる、三田郷の東北、柘植郷の北にして、山谷曠遠なり。
 
河合《カハヒ》 万寿禅寺記に、伊賀国川合荘と云ふは此なり、永閑名所記に「河合里|高松《タカマツ》宮」と云は、延喜式、阿拝郡陽夫多神社に同じく、三代実録授位の高松神を之に配祀すと、後世高松祇園と称し、社僧を高松山吉蔵院と云ふ、〔伊水温故神祇志科〕今河合村大字馬場に在り、頓阿十楽庵記に、此祇園天王を三田郷に勧請したる由見ゆ。 ゆふかけて猶こそきかめほとゝぎすたむけの声の高松の里、〔美濃路記〕 一条兼良
勢州軍記云、伊州綾郡河合、有綾杉之名木、北畠殿信雄之侍、誤斬其木。〇三国地誌云、天文年中、江州佐々木の家臣安房守実之と云者、河合に来宿し、河合氏を称す、又云、河合郷石川の天津宮は、延喜式、阿拝郡|穴石《アナシ》神社なるべし、天津とは国津に対称したるにて古言東北風をアナシと呼ぶ、此地実に国の東北に当る。
補【川合郷】阿拝郡○風土記 川合山有神、号薮田大明神。国図、川合村。京城万寿禅寺記、伊賀川合庄。
補【高松神社】○神紙志料 高松神、按、伊水温故此神を以て陽夫多神とす、陽夫多神馬場村に在て高松祇園と云を以て也、其祭神大己貴命少彦名命二神にて、社僧を高松山吉蔵院と云に拠時は、高松神即陽夫多神の如くなれど、此二座は陽夫多神一座は高松神ならんも知がたし、姑附て後考を侯つ。
 
玉滝《タマタキ》 河合村の北なる山村なり、西に槇山《マキヤマ》あり、江州長野(信楽)に越ゆべし、北に内保山あり、甲賀郡深川に踰ゆべし。美濃路記云「伊賀の服部につくべき支度なれど、洪水道をとほること易からず、同国玉滝寺と云律院にとまる、本尊は薬師如来にます、玉滝をたちて、かは井と云所を通る、一つ橋あり、高松宮は右の方に在りて見やる、北《キタ》川と云ふ川ばた水なほ落ちず、住人におほせつけたるによりて、藤長寺といふものどもきたりてこしをかたにかけて渡す、又服部川を渡りて、菩提寺に至る。(これは文明四年兼良禅閤の紀行なり)東大寺要録「承久三年官符、寺領伊賀国玉滝荘」。〇三国地誌云、玉滝寺は現存し、境内に八景の勝致あり、又本村には堡塁の跡大小十余所あり、皆天正年中伊州の郷士が、織田氏の軍を拒ぎし者とぞ、玉滝一に玉他儀に作る。
 
補|豊田天王《トヨダテンノウ》社 玉滝村の大字なり、丸柱村の北に接す、延喜式、阿拝郡|真木山《マキヤマ》神社あり、今白石明神と曰ふ。(近江国紫香楽宮址参看)
 
鞆田《トモタ》 玉滝の東に接する山村なり、東大寺要録に承久三年官符、寺領伊賀国鞆田荘と云ひ、村中に伊賀盛景の諸子、山尾鷹山中谷等諸家の宅址あり、土人謂ふ所の盛景は服部家長に同じ。
 
柘殖《ツミエ》郷 和名抄、阿拝郡柘殖郷。○今東柘植西柘植|壬生野《ミブノ》の三村に分る、川合郷印代郷の東にして、方二里余の山野を占む、其南は旧山田郡、東は鈴鹿郡|加太《カブト》(伊勢)北は甲賀郡|油日《アブラビ》、共に山を以て相限る。○観古雑帖云、東大寺所蔵古田券に、柘殖郷長解文あり、拓殖は、和名抄郡郷部に、柘を枯に誤り訓註なし、木類に柘を都美と註す、乃ち都美恵なり、音便して今は都介と云、殖字も植を用ふ。○続紀、延暦三年阿保氏の本系を叙する言中に、須珍|都計《ツケ》王の名あり、此須珍は伊賀の地名と思はるれば、都計も本郷を指すに似たり、又東大寺古文書大安寺資財帳万寿寺記等に柘植荘散見すれば、其寺領たりしを知る。天武紀に「車駕到|積殖《ツミエ》山口」の文ありて、之より伊勢に入御、又盛衰記云「九郎義経は伊勢より伊賀路に懸て攻上けるが、鈴鹿山の麓を過ぎ、八十瀬の白浪分つゝ、加太山にぞ懸ける、此山の体たらく、峰高く峙て上る岩嶮しく、谷深して漲落る水早ければ、足を危して渡る、角て山路を出ぬれば拓殖里に至る」〔節文〕と。
 限りなくおもふ心をつげの山やまくちをこそたのむべらなれ、〔松葉集〕郡にもゆかぬさきより鶯のまくらにつげのやどのあけぼの、〔永閑名所記〕
源平盛衰記に、柘植十郎直重は源行家に従ひ、播州室山合戦に死すとあり、本郷士なるべし、天正伊乱記には、柘植の一族は池大納言頼盛の従士、弥平兵衛尉宗清の未流と云ふ、大日本史平宗清伝云、平氏亡、宗清不知所之、按柘殖系図曰、平氏亡、宗清避地伊賀山中、子孫為柘殖氏、而平氏系図曰、柘殖宗清、為少納言平信実子、而非平兵衛尉宗清。三国地誌云、柘植氏の後、近世日置弾正正次と云ふ射術者あり。
柘殖《ツミエ》宮○これは天照皇大神宮の嘗て径行しませる遺跡なり、今柘植の上村に小祀を存す。内宮延暦儀式帳に「阿閇柘殖宮」倭姫世記「敢都美恵宮」に作る。(今東柘植)補【柘殖郷】阿拝郡○和名抄郡郷考 風土記、枯殖里、中肥也。和訓栞、柘殖なり、天武紀積殖山口とみゆ、枯殖に作るは誤なり、風土記に柘殖は天照大神遷座之仮殿也とみゆ、倭姫世記に敢津美恵宮に作る、神名式に敢国神社とあり、敢は即ち阿拝郡なり。京城万寿禅寺記、伊賀柘殖庄。大安寺資財帳、伊賀国阿拝郡柘植原、又伊賀国阿拝郡柘植庄。内宮儀式帳、阿閇柘植宮。天正伊乱記、柘植の一族は池大納言従士弥兵衛宗清、柘植里に住居す、其末流也。源平盛衰記四十一、柘植郷与野、又伊賀路に懸て責上りける、角て山路を出ぬれば柘植里も打過て当国一の宮南宮大菩薩の御前をば心計に再拝して云々。国図、柘植村上下あり。○今ツゲと云。○残篇風土記、柘殖山・柘殖里。行嚢抄、上柘植・中柘植村・野村・下柘植邑。穂井田息友観古雑帖所載東大寺新造舎文庫所蔵田券、柘殖郷長解云々、忠友云、柘殖郷は和名抄に柘を誤て枯に作り訓注なし、倭姫世記に敢の都美恵宮とある是なり、和名抄木類に柘(豆美)あり、恵は宇恵の略なり、音便して今は都介と云、殖字も植を用ふ。
補【柘殖堡】阿拝郡〇三国地誌 弥兵衛宗清の居る所なりと云ふ、日置弾正正次と云ふ射術者は此宗清の裔なりと云ふ。大日本史、平宗清伝云、柘植家譜以宗清為少納言平信実子、其説謂平氏亡宗清避地伊賀山中、頼朝遣藤九郎盛長就賜宗清以本州山田郡三十三邑、盛長勧宗清構室而居焉、宗清手折柘枝挿地曰、此枝蕃茂則吾居成矣、明年果開花、宗清奇之作和歌、因以柘植為氏、然東鑑等書無所見、且考平氏系図、信実子有右京大夫宗清、而無称柘植之文、其称柘植者、即左衛門尉宗清、則柘植家譜蓋以其同名、誤為一人也。
 
柘植《ツゲ》 柘植山は鈴鹿峠の西南二里、伊賀近江伊勢の交界点に当るを以て、或は三国山と曰ふ、坂路鈴鹿に比すれば急峻ならざるを以て、今鉄道は鈴鹿を避けて之に由る、柘植車駅を以て分岐と為す、東柘植村に在り。
 
倉歴《クラフ》山 柘植山油日越の別名なり、甲賀郡油日は旧蔵部郷と称す、日本書紀壬申の乱に「天皇(天武)到伊賀積殖山口、高市皇子自鹿深越(甲賀山)以遇之、又云、近江別将田辺小隅、越鹿深山、而巻幟抱鼓詣于倉歴」と、当時攻守の要隘たりしを知るべし。〇三国地誌云、倉歴山は即柘殖山を曰ふ、上柘殖(東村)に倉部山薬師寺と云ふ古刹あり、准后伊賀記「当帝御領蔵部」とあるも 此なり。
 秋霜の立ぬる時はくらふ山おぼつかなくぞ見えわたりける、〔後撰集〕
 
風森《カゼノモリ》 盛衰記、九郎義経京都へ攻上る時、伊賀路に懸り風森に投宿の事見ゆ、上柘植に今|誰哉《タソヤ》森と呼ぶ老杉あり此とぞ、〔三国地誌〕伊勢鈴鹿郡加太より大岡寺峠を経て柘植に来れるを推知すべし。
 うらみじな風の森なるさくら花さこそあだなる色に咲とも、〔夫木集〕
 
楯岡《タテヲカ》 関岡即此地か、今西柘植村の大字なり。三国地誌云、延文年中、恩地入道と云人、楯岡に来り 国守橘成忠と市部に戦ふて敗死、蓋南方の士なり。伊水温故云、爰に昔楯岡の長者とてゆゝしき長者あり、其祖河内国交野と云里の住士、遠志入道、延文の頃、南帝の命を請て、此楯岡山に籠ると雖、終にうたれけると也。○南山巡狩録、関岡家始末を引きて曰く、大館氏明氏清は文中の頃伊賀国に関をすゑ、往来の輩をあらためけり、国司北畠は氏清が功を賞し、顕能卿の婿となりければ、国人氏清を称して関岡の屋形と仰ぎ、近江国甲賀郡及び伊賀の国の者ども帰服す。又大日本史云、大館氏清、正平十六年、往属其母家伊勢国司源顕能部下、居伊賀関岡城、顕能以女妻之、氏清累建戦勲、国内兵士、自服部柘植諸氏莫不服従。○関岡楯岡已に地名に相異あるのみならず、恩地大館の事跡亦疑あり、録して後考をまつ。
 
柏野《カシハノ》 今西柘植村の大字なり、東大寺要録「長徳四年註文、伊賀国阿拝郡、伯野荘田廿町九段」とある此なり。准后伊賀記云、伯野、内膳職預也、市自日中至暮、是又当家之処分也。〇三国地誌云、膳野の謂なるべし、今市場の字も残りて、其東に在り。 柏野の市女のそでもひとたびはうつる心の花にそめけり、〔永閑名所記〕 今川了俊
 
壬生野《ミブノ》 西柘植村の南に接し、山田村の北にあたる。東鑑の元暦元年、宇都宮左衛門尉朝綱、拝領伊賀壬生野郷地頭職、又建保四年、伊賀国壬生郷の若林御厨社是なり、和歌蔵玉集に「春日神経行の時、壬生野の里坂下の御厨に宿りたまふ」と云ふ。〔三国地誌〕盛衰記云、元暦元年七月、平田四郎貞継法師、伊賀伊勢両国の勇士催し、謀叛を起し壬生野平田に在り、ミブノ新源次能盛と云者の計ひにて、三百余騎柘植郷与野道芝打分て、近江国甲賀郡上野に一戦あり、能盛は敵に射落さる、乗替の童飛下り主の首を掻落して、壬生野の館に馳帰る。
補【春日宮】阿拝郡○東鑑 伊賀国王生野荘為春日社領。准后伊賀記、壬生野春日社云々。和歌蔵玉集、春日神は神護景雲二年常陸国より尾張の谷陽村、伊賀の中山、壬生野の里坂下の御厨を経たまひ、大和国月瀬里より大和の御笠山の跡垂れ給ふ〔此項未詳〕三国地誌、壬生郷の氏神、一名若林御厨社。
補【児塚】〇三国地誌 上神戸村阿我山蓮明寺の疆内にあり、俗呼で児塚の松とも又は生卒都婆とも云、此生卒都婆の説紛々として俗談多し、永閑が記に俊頼の説を引て、去妻の故夫を慕ひて此国にいたり、妬婦の為に殺されし其卒塔婆を生卒塔婆と云とて、其始末を記する甚委曲なり。
 
若林《ワカバヤシ》 東鑑、文治四年、新中将殿、伊賀国若林御園地頭被拝。永閑名所記には佐那具の若林山と曰ふ、壬生野佐那具相接す、今壬生野村大字西之沢の辺の名なるべし。〇三室《ミムロ》池、古今著聞集「文治の頃、伊賀国住人、女子を持たりけるが、三室の池の龍にとられけり」云々、此池は壬生野の蛇食《ジヤクヒ》池なり、三室は壬生の訛なるべし、土俗相伝ふ、昔石成氏の女子此池に入り、蛇と化したりと。〔三国地誌〕
 
※[くさがんむり+刺]萩野《タラノ》 天武紀壬申六月車駕東幸の条に「会明到※[くさがんむり+刺]荻野、暫停車駕而進食、七月、遣紀臣阿閇多臣品治等、帥兵数万、自伊勢大山、入倭国、多臣品治率三千衆、屯※[くさがんむり+刺]荻野、田中臣足麿、守倉歴山道」。書紀通証云、※[くさがんむり+刺]萩野、当作※[くさがんむり+刺]荻野、今云多羅尾、与近江甲賀郡相接。按に通証は多羅尾に引あつれど、不審也、車駕経由の路程は、伊賀郡家(今阿保村)と積殖山口(今柘植村)の間にして、戦陣の跡を見るも、積殖の大山と倉歴の山道(甲賀越)の近地とす、今此名称なし、蓋江州の多羅尾も、原|※[くさがんむり+刺]萩生《タラオ》の義なるべけれど、同名異地也。
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山田《ヤマダ》郡 明治二十九年、阿拝郡に合併して、阿山郡と為る、阿拝の東南に接したる小郡なり、服部川の上游にして、山間の隘地、東に踰ゆれば伊勢国長野に出づ。○和名抄、山田郡、訓也未太、分三郷。永閑名所記云、信西国分曰、山田郡に御所の内とて、大なるかまへ侍る、此は昔此国より采女にたてまつりける郡司の娘|宅子《タカコ》姫と云あり、天智帝へ仕へ奉て、御子三方おはします、一かたは大友皇子、一方は阿閇皇子、一かたは阿雅皇女とぞ申ける。伊賀采女と云ひしも此事なり、郡司程なく徳つきて、後はいみじき長者のやうになりて、此国に子孫も猶すゑ/”\までも侍ると云。(山田郡司宅址山田村鳳皇寺参考すべし)
補【山田郡】○和名抄郡郷考 風土記下郡也、東限※[入/小]保川、西限阿野、南限葭塚、北限沢田、神日本磐余彦天皇御宇、薬師道守之所知也、其時属伊勢国郷名也、後為郡、山田山在郡東南。源平盛衰記十五、平家滅亡之後兵衛佐殿、律浄房がことを三井寺へ尋給けるに、治承之比高倉宮の御伴申して光明山之鳥居之辺にて打死也と申したりければ、其人なければとて、兼て存ぜしこといかでかむなしかるべきとて、伊賀国山田郷を三井寺へ寄られて、律浄房が孝養報恩無退転とぞ聞ゆる〔節文〕○今按、山田郷は山田郡なるべし、但京城万寿禅寺記、伊賀山田庄院田とあれば、郡中に山田庄もありしか。国図、山田郡山田町。伊水温故、山田町は郡の府なり、昔筒井順慶従士箸尾半三郎住居せり。
 
竹原《タケハラ》 和名抄、山田郡竹原郷。○今山田村なるべし。伊水温故に山田鳳凰寺は竹原村に在り、竹原の名亡びて鳳凰寺村と称する由見ゆ。○山田村の千戸平田鳳凰寺喰代村処々に巌洞あり、土俗之を壙《ハカアナ》と曰ふ。〔三国地誌〕
 
山田《ヤマダ》 旧山田郡の首邑なり、別名|平田《ヒラタ》と云ふ、又|中村《ナカムラ》郷と称したり、今山田村と号す、中瀬村の東に接し、筒井氏国主の比は、箸尾半三郎の館あり。○山田平田は伊賀平氏の居邑なりき、中にも平田冠者太郎家定、筑後前司平貞能、平田入道貞継(一に家継に作る)は兄弟にして、治承寿永の兵乱に武名を墜さず、百練抄東鑑等参考すべし、又盛衰記に平忠盛(刑部卿)の家子山田荘司行末、其孫山田小三郎伊行(惟之にも作る)蓋同族なり。〔三国地誌〕○盛衰記云寿永三年七月、伊賀国山田郡住人、平田四郎貞継法師と云者あり、是は平家の侍肥後守貞能が弟なり、平家西国に落下て、安堵し給はずと聞えければ、日頃の重恩を忘れず、多年の好みを思て、当家に志ある輩、伊賀伊勢両国の勇士を催し、平田の城に衆会して、謀叛を起しける、其志は哀れなれども、大気なしと覚えたるが、三日平氏と笑はれけるは此事なり。(大日本史、寿永三年、関信兼平田家継聚兵二百人、襲守護所大内惟義、吏兵拒戦不克、家継引兵入近江、斬佐々木秀義、已而惟義追撃之、斬家継及富田家資平家能家清等)○又云、平家滅亡の後、兵衛佐殿(頼朝)律浄房(日胤)が事尋給ひ、高倉宮の御伴して、光明山の鳥居の辺に打死と申たりければ、其人なければとて兼て存ぜしこといかでか空しかるべきとて、伊賀国山田郷を三井寺へ寄られて報恩とぞ。〔節文〕(大日本史云、千葉常胤子、僧日胤、受頼朝密旨、限一千日、詣石清水社、黙誦以求神助、死于以仁王難、頼朝悼之、附山田郷、于園城寺、祈日胤冥福)
 いかに世はかくまでつらき身の秋にあはで山田の山にくちなば、〔永閑名所記〕
補【中村郷】山田郡○三国地誌 今中村郷と云、古千戸・真泥・畑是を河原郷と云、平家物語に下千戸に作る、今奥千戸西千戸の唱へあり。○山田村大字中村。
補【平田】山田郡〇三国地誌 平田は駅なり、平田は一に山田とも云ふ、准后伊賀記にも見ゆ、平田冠者太郎家次、筑後前司貞能、平田四郎貞純、伯仲叔ともに平家の家人にて、治承寿永の頃源氏の兵と戦はんが為、伊賀伊勢近江を乱せしこと百練抄・東鑑又盛衰記に見ゆ。○慶長初年豊大閤の命によりて箸尾半三郎是に拠る、二千五百石を領す、平田村あり。
補【山田山】山田郡〇三国地誌 永閑伊賀名所記〔重出〕引至宝抄曰、了然上人「いかにせむかくまでつらき身の秋にあはで山田の山にくちずば」按、平田鳳凰寺富岡等の村より領す、此山上に西京寺廃堂の址あり。
 
千戸《センド》 山田村の大字なり、仏光寺と云は、古の下千戸の山寺と云者にして、志太先生義広の墓あり。東鑑「元暦元年、於羽取山合戦、獲志田三郎先生義広首」と、旧説之を以て伊勢奄芸郡と為すは謬れり、羽取山は千戸の西中瀬村に在り、服部郷の地なり、彼処に戦死して此寺に葬れるならん、源頼朝の叔父に当る。〔三国地誌〕○平家物語云、志田三郎先生義憲は、伊賀下千戸の山寺にしのびてありと聞しかば、服部の下司平六正綱、頓て其勢二百余騎にて押寄せ鬨を作る、義憲ある坊にありけるが、火をかけて自害す。大系図云、義広、暫経廻伊賀国之間、為頼朝卿仰付、当国住人服部六郎時定、於彼国千戸寺被誅之時自害。
補【下千戸山寺】山田郡〇三国地誌 下千戸村仏光寺に志太義広の墓あり、平家物語(八坂本)曰、志田三郎先生義憲は伊賀下千戸の山寺にしのぴてありと聞へしかば、服部の下司服部平六正綱此よしを聞、頓て其勢二百余騎ばかりにて押寄せ、鬨を作る、義憲ある坊にありけるが、火をかけて自害する。大系図曰、義憲暫経過伊賀国之間、為頼朝卿仰付当国住人服部六郎時定於彼国千戸寺被誅之時自害。旧記に羽取山を以て伊勢とするものは一伝の謬り、仍て皆誤る、所謂羽取山は寺田村の上方岡山是なり、本邑の西南にあたり脈相つづけり、彼に戦死してこゝに葬むるならん。東大寺古文書曰、建長七年五月伊州清浄光寺住侶重阿弥陀仏敬曰、請殊蒙十方檀那広恩寺内修種々善根状、右当寺者覚弁聖人経始霊地也。寺院もと台嶺の末刹にして結構巍然たるに、天正の兵火に烏有となる。○今山田村大字千戸。
 
鳳凰寺《ホウワウジ》 山田村の西に在り薬師寺とも曰ふ、寺観今廃し大字に遺るのみ、古伽藍の断礎散在す、里俗武帝の創建と曰ふ、蓋山田古郡司の本願ならん、寺辺に城内《ジヤウノウチ》権現祠あり、弘文天皇を祭ると称す、帝母は郡司の女と云ふ、而て城と呼ぶ者即郡司の宅址也。〔准后伊賀記永閑名所記三国地誌〕
 
本代《ホシロ》郷 和名抄、山田郡木代郷。○此郷は和名抄木代に作れど、木本の謬あるに似たり、今喰代里ありホウシロと呼ぶ、蓋是なり、故に之を正す。本は保音に仮り保字に充たるなり、而て喰は波牟の訓義に仮り、波字保字に転じたるならん、今|友生《トモノフ》村に当る。
補【木代郷】山田郡○喰代は今ハウシロと訓む、喰をハムに仮りハウと移るか、木は誤字なるべけれど推考なし。○和名抄郡郷考 霊異記、伊賀国山田郡※[口+敢]代里といふあり、こゝか。掖齊考証云、今山田郡有喰代郷喰代邑。神鳳抄、喰代御厨。風土記、木代山在郡之東南。伊水温故、風土記木代山、和名抄に木代郷あり、此山此郷今世に知人なし、又喰代郷は喰代高山蓮池。伊賀考、喰代村は元木代と云、此処元木代山と云あり、喰代は今ホオシロと呼。
 
喰代《ハウシロ》 今|友生《トモフ》村の字なり、霊異記、伊賀国山田郡※[口+敢]代里とある是なり。和名抄、木代に作る。今昔物語は霊異記に拠り「※[口+敢]代《ハウシロ》の里に高橋東人と云者あり、家大に富みて財に飽き満ちたり、死たる母の恩を報ぜしむるが為めに、心を発して法華経を写し奉て供養したる事」を載す。○按ずるに※[口+敢]代の高橋東人と云ふは、山田郡司(伊賀釆女父)同人に非ずや、阿閇臣伊賀臣同族に高橋あること、書紀姓氏録に明なり。○東大寺古文書「天喜四年、山田郡喰代村、四至東限高山、西限里山、南限山、北限谷口」と此東限高山と云は、今も高山の大字存す、又神鳳抄喰代御厨あり。
 
友生《トモノフ》 今友生村と曰ふ、山田村の南に在り、東大寺嘉暦三年古文書に伊賀国友尾とあり、准后伊賀記云「公田分鞆尾村」。
 
川原《カハラ》郷 和名抄、山田郡川原郷。○今|布引《ヌノヒキ》村阿波村なるべし、三国地誌には之を千戸の辺と為せど非なり、謡曲井関山に「広瀬川原や井関やま」の句ありて、其地は即布引村なり。
 
広瀬《ヒロセ》 今布引村と改称す、布引山の下なれば也、謡曲に見ゆる井関山は此に在り。東大寺旧案「建仁元年、広瀬村十八町 浄土寺三町,有丸名廿七町三段大」。
 流れいづる涙計りは先き立ちて井せきの山をけふ越るかな、〔新続古今集〕 道命法師此所は山田阿波両駅の間にして、伊勢路の別径之に係る、大字川北の路傍に石窟あり、蓋塚穴なり、此辺に猶数穴ありと云ふ。〔人類学雑誌〕○神鳳抄云、伊賀国広瀬山田本御厨。 
馬野《バノ》 一に番野に作り、笠取山より布引山に至るまで一面の草生にして、古より牧馬の地と為せり、東大寺暦応三年文書曰「馬野者、寺家根本十三大会、并八幡宮転読之料荘」
 
布引《ヌノビキ》山は馬野の東南に横亘する大嶺にして、東は伊勢一志郡榊原村とす、嶺勢綿延布を曳くが如し、故に名づく、今山下の村名に転用す。
補【馬野】山田郡〇三国地誌 奥馬野、中馬野、坂下是を呼て馬野郷と云。○笠取山より布引山に至るまで一面の草山なり、宜なり古より牧地とすることを。布引村大字馬野。
補【布引山】山田郡○地誌提要 馬野三郷、下阿波猿野諸村に亘る、地蔵尾より峰を界して伊勢となす、山下坂下村より一里十町。○今布引村を立つ。
 
阿波《アハ》 布引村の北にして、其駅舎を平松《ヒラマツ》と曰ふ、東|長野《ナガノ》峠を以て伊勢国に堺し、安濃津より山田上野に至る便道なり。○東大寺建仁元年旧案云「阿波保廿七町小、同新別府三町二段、同召次名三町」、又東大寺要録「承久三年官符、寺領伊賀国阿波荘」
補【阿波郷】山田郡〇三国地誌 上阿波、猿野、富永、下阿波、川北、広瀬是を呼で阿波郷と云。東大寺古文書(建仁元年)曰、念仏堂庄八十一町九段(山田郷内)阿波保廿七町小、同新別府三町二段、同召次名三町三段、広瀬村十八町、浄土寺三町、有丸名廿七町三段大、已上建久之比。按、暦応三年古文書、富永荘云々。神鳳砂曰、広瀬山田本郷御厨、按、東大寺古文書暦応三年広瀬荘云々。
補【阿波野】山田部○万雑挽〔万葉七挽歌)に
 鏡なすわが見し君を阿婆の野のはなたちばなの珠にひろひつ
今野と云ふべき処なし、阿波の社の前一面の平地なり、吉野なるか不祥。○平松駅は阿波村の中なり。○神功紀〔摂政前紀〕更造齊宮於小山田邑、云々、答曰、幡荻穂出吾也、於尾田吾田節之|淡《アハノ》郡所居神之有也。○〔鰐口銘、略〕土俗杉尾白髪〔本篇髭〕明神は猿田彦を祀るとす、紀に所謂淡郡は当時伊勢の管内にして、即この邑なり、筑紫馮談の神蓋し猿田彦大神なり、後に小邑小山田あり。○土俗阿波神社と云こと、みるものなし、杉尾荻穂の転訛せるか。
 
阿波《アハ》神社 大字|下阿波《シモアハ》に在り、三代実録貞観三年同十五年授位、延喜式、山田郡に列す。〇三国地誌云、本社鰐口銘云「阿波谷杉尾大明神、文禄五年丙申五月日」又狛狗像あり頗古雅なり、土俗杉尾白髭明神と称し、猿田彦を祀ると為す、按ずるに是れは、日本書紀神功皇后筑紫に於て請教したまへる、淡郡《アハノクニ》神なるべし、其神講に「幡荻《ハタスゝキ》穂に出でし吾や尾田《ヲタ》吾田節《アタフシ》の淡《アハ》の郡《クニ》に居る神なり」と宣りたまふ。(今按、淡郡神は此にあらず志摩国に在り)○延喜式、山田郡葦神社は、今大字上阿波別府に在り、八王子と称す。(伊水温故三国地誌)
 
新大仏《シンダイブツ》寺 大字|富永《トミナガ》に在り、東大寺古文書「建仁元年、山田郡内念仏堂荘八十一町九段」、又円光大師行状に、東大寺俊乗房重源は念仏を信仰のあまり、七箇所の不断道場を興隆せる事を述べたり、伊賀には新大仏と云ふ即是なり、一名神龍寺と称し、源頼朝本願佐々木秀義の菩提を弔へる者とす、相伝ふ俊乗坊創建の初め十一宇の大伽藍なりしが、後世衰頽し、大雨の時、山壑崩れて堂舍破壊したり、本尊も土中に埋没したるを、漸くにして修補し、今の如く石座の上に安置す、又古仏像の頭の内より、長五寸の白銀量廿五分の舎利及香木を発見したる事あり建仁の銘ある千体仏印を現蔵す、佐々木塚は五水谷の頂に方三尺許り石塚なり、又別に経塚あり。〔三国地誌〕○准后伊賀記云、佐々水源三秀義者、源為義之養子也、保元平治軍中、其誉多、寿永三年七月、於山田郡平田城、武勇甚励、老骨負痛手死、七十三歳、即自関東、被定当代第一勲功、御感之余、伊賀御免築墳墓。
   阿波の荘と云所に俊乗上人の旧跡あり、護峰山新大仏寺とかや、名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を残し、坊舎は絶て田畑と名の替はり、丈六の尊像は苔の緑に埋れて、御ぐしのみ現前と拝まれさせ給ふに、聖人の御影はいまだ全くおはしまし侍るぞ、其代の名ごり疑ふ所なく、涙こぼるゝばかり也、石の蓮台獅子の座などは蓬葎の上にうづたかく、双林の枯たる跡も、まのあたりにこそ覚えられけれ、
 丈六にかげろふ高し石のうへ、 桃青
 さま/”\の事おもひ出す桜哉、
補【念仏堂】山田郡〇三国地誌 円光大師行状曰、俊乗房重源念仏を信仰のあまり、七箇所に不断念仏を興隆せられき(同翼賛曰、七カ所不断念仏、或伝説に云、東大寺念仏堂・高野新別所・播磨浄土寺、醍醐旧址道場、伊賀大仏道場・大坂渡辺道場・周防阿弥陀寺是為七ケ処云々)按富永村にあり、俗念仏堂山と云、東大寺古文書に念仏堂庄八十一町九段と云、是なり。○阿波村大字富永。
 
補|佐々木《ササキ》塚 山田郡○此地山田郷新大仏寺也、按、富永村字五水谷の山頂にあり、呼て佐々木塚と云、方三尺ばかりの石棺あり、又経塚あり。○鎌倉実記、引或記曰、建久七年新大仏寺建立、伊賀山田郷俊乗房重源幼住、同八年七月十九日供養之、時其式 奈良東大寺三分一也、棟梁之面為佐々木源三菩提、大檀那源二位頼朝野木四郎左衛門高綱。○阿波村。
補【小田】阿拝郡○三国地誌 今上野も此郷に属せし也、寛永中荒木又衛門此地にて復讐の事あり、此又衛門は備前侯にに出仕す。
補【阿拝神社】阿拝郡○清和天皇貞観六年十月十五日戊辰、伊賀国正六位上安部神、伊賀津彦神、並従五位下〔三代実録〕〇三国地誌 小田町に在りて蔵王権現と同境とす、蔵王権現は准后伊賀記に見えたり、此阿拝神社は上野城西丸の地に鎮座せしを、築城の時彼境内へ移したる也。○今小田村。○神祇志料、敢国同神と為す。
 
     伊勢国
 
伊勢《イセ》国 境域東は内海に臨み、北は尾張美濃に至り、西は近江毬大和、南は志摩なり、東西十二里、狭処四里、南北凡二十七里、面積約二百十五万里。(度会郡南九村旧志摩の地を除く)山岳三面に連亘し、北界の少部は木曽川の洪彼を以て尾張と相限る、土壌肥沃にして山海の産亦豊なり、人口七十万。古時天照皇大神の鎮座(垂仁の朝倭姫之を奉ず)したまふ処にして、号して神国と曰ふ、昔人云、伊勢、山海平均、勝於余州、仍為|国親《クニオヤ》〔類聚往来〕今県治を三重と称し、安濃津に庁舎を置く。○国道は東海《トウカイ》線北部を貫き、参宮線は南北に馳せ四日市と神宮を連絡す、今鉄道北部を貫く者は鈴鹿嶺の西方より伊賀に通じ、亀山駅に於て参宮鉄道と会ふ。
神代紀一書云、「猿田彦神曰、吾則応到伊勢之|狭長田《サナダ》五十鈴川上」其猿田彦の裔を宇治土公《ウヂツチギミ》と為す。神武天皇、熊野浦に進軍して、吉野宇陀に向ひたまふ時「神風の伊斉《イセ》の海」の御詠あり、論者或は之に因り、天皇伊勢を経て宇陀に入りたまふと為せど非なり、蓋天皇の御詠は丹敷《ニシキ》浦|荒坂《ヲサ》津の海を伊勢と呼びたまへるにて、後世の内海と其所指異なりとす。(丹敷荒坂は後世志摩国又紀伊国牟婁郡に属し、其海面をも熊野灘と称す)風土記に拠れば当時国主伊勢津彦(倭姫世記曰、出雲神子、出雲建、一名伊勢津彦、古事記伝云、伊勢津彦は建御名方神に同じ)有り、天皇天日別に命じ之を問ひ、避去せしめらる、天日別仍て伊勢を定め、其子孫国造と爲り、又神主を兼ぬ。
伊勢風土記(釈日本紀所引)曰、伊勢国者、天御中主尊七十二世孫、天日別命之所平治、天日別命、神倭磐余彦天皇、自彼西宮征此東州之時、随天皇到紀伊国熊野村、奉勅東入数百里、其邑有神名曰伊勢津彦、天日別命問曰、汝国献於天孫哉、答曰吾覓此国居住日久、不敢聞命矣、天日別命発兵欲戮其神、于時畏伏啓云、吾国悉献於天孫、吾敢不居、遂乗波而東焉、(近住信濃国即為天日別命之封地邑或云、天日別命奉詔、自熊野村、直入伊勢国、殺戮荒神、堺山川定地区云々。国造本紀曰、伊勢国造、橿原(神武)朝、以天降天牟久怒命孫天日鷲命、勅定賜国造。(標註曰、牟久怒、牟羅久母怒之脱誤、日鷲、日別之訛謬乎)。大同本紀曰、皇大神御鎮座之時、大幡主命曰、己先祖天日別命、賜伊勢国内|磯部《イソベ》河以東、神国定奉、即大幡主命、神国造并大神主定給。姓氏録、伊勢朝臣、天底立命六世孫、天日別命之後也。持統紀曰、六年、天皇幸伊勢、賜所過神郡、及伊賀伊勢志摩国造等冠位。○垂仁天皇の時、大神宮を度会に奉じ、其封邑を神国と名づく、孝徳天皇の時国郡制を布き、十二郡と為し、其度会多気を神郡と云ひ、其旧に仍る、天智天皇の時、多気より飯野を分ち、十三郡と為る、(延喜式、和名抄、伊勢、訓以世、管十三郡、近大国)後神郡増封ありて、飯野を加へ、神三郡と称し、更に員弁三重朝明の三郡を加へ、道前《ドウゼン》道後の目を以て之を分てり、又安濃を東西に分ち、飯高を南北に分ち、封郡に列せしむ、此に於て神八郡の称あり。平維衡国守に任じ、子孫之に繁殖して清盛に極まり、神封の地多く平族の侵略を被る。鎌倉幕府制止する所あれども、復する能はず。延元以後に及び、国勢益分裂し、国司北畠顕能一志郡多気に居り、吉野朝廷の藩屏となる、足利氏仁木義長土岐頼康を本州守護に任じ、北畠氏を攻めしむ、此に於て南伊勢北伊勢具号令を異にす、北畠政具(顕能五世孫)の時、北勢を定め全州一致す、其曽孫具教に至り、織田信長の滅する所と為り、乃郡邑を諸将に分封す、徳川幕府に及び、山田に奉行を置き、神宮及海船の事を監せしめ、其近傍十八万石を和歌山藩の兼知に属せしめ、安濃津城二十万石を藤堂氏に給す、其他小侯数藩あり、桑名城は城主屡改変ありて振はず、明治維新の際全州草高七十万石と云。(明治二十九年、朝明郡を三重に併せ、河曲奄芸を廃し河芸郡を置き、飯高飯野を廃し飯南郡を置かる)
伊勢志摩は境域相接し、旧一国なり、国郡制置の後も、境堺の変遷あり、度会郡伊気郷は志摩に入り、志摩の道潟船越芳草三郷は度会郡に帰す、本編は其三郷(今九村)を旧貫に仍り志摩郡の下に移し、以て地形に順応せしむ。○伊勢の名義、及び出拠詳ならず、書紀通証云、垂加翁曰、「伊勢五十瀬也、出自五十鈴川之名世」と参考すべし、後世|勢《セイ》州と称し、又|雲津《クモツ》川に由り、北伊勢南伊勢の別を為す。
俗諺に伊勢浜荻、伊勢平氏、伊勢暦(神宮司庁参考)、伊勢音頭(古市参考)など云事あり、浜荻は伊勢海の条に掲げ、平氏を此に附説すべし。此諺は盛衰記に出て、平氏と瓶子を通用せるなり、五鈴遺響云「昔河曲郡|土師《ハジ》村の陶工壷を出す、今其業廃せり、之を伊勢壷又伊勢瓶子と曰ふ、一休禅師梅法師の詩に曰、
 五月黄梅歿落時、起青道心成法師、欲問疎影横斜古、伊勢壷底暗皺眉、
北畠材親卿記に曰く、昔平忠盛と云ふは、多度の神に詣て、其の願みてなん夜の夢に、一の壷をたびけり、うれしき事にて酒ぞとおもひければ、酢瓶なりけり、それより目をわずらひ、一とせの間にすがめとなれども、官加階心にまかせ、昇殿まで許されしとなむ、されども孫にてありける世に亡びけるとぞ、これより伊勢のならひとなりて、目出度ことぶきには、酢おくらぬたしめとはなりき、此事節会の夜、平忠盛の舞けるときに、俄に柏子をかへて、伊勢平氏はスガメなりと囃しけり、此の忠盛は桓武天皇の後胤とは申しながら、中比は無下に打下りて、官途も浅く、近来より都の住居もうと/\しく、常は伊賀伊勢のみ居住せし人なれば、此一門をば伊勢平氏と申しけるに依て、彼国の器に准へて、忠盛右の目のすがみたりければ、伊勢平氏はスガメ成りけりとは囃しけるにこそ云々、今考ふるに前説は多度の神酢瓶を賜ひしに拠り、盛衰記は伊勢の国の産の陶器に拠て謔名せしなれば、其旨相異なり、忠盛と生地は安濃郡|産品《ウブシナ》村とぞ。」○按ずるに、忠盛は其高祖維衡伊勢に任国し、父正盛忠盛又伊勢守を賜り、伊賀伊勢に其族党の多かりし事、各地の条下に散見す。
補【伊勢国】○日本国郡沿革考 以世、伊勢は上古伊勢津彦之に居る、神武天皇東征の時、紀伊より転じて此国に至り、天日別命をして之を征服せしむ、伊勢津彦乃ち国を献じて去る、因て天日別命に賜ふて其邑となす、伊勢朝臣は其後なり、
 伊勢風土記釈日本紀所引曰、伊勢国者天御中主尊之十二世孫、天日別命之所平治、天日別命、神倭磐余彦天皇、自彼西宮征此東州之時、随天皇到紀伊国熊野村(中略)天日別命奉勅、東入数百里、其邑有神、名曰伊勢津彦、天日別命問曰、汝国献於天孫哉、答曰、吾覓此国、居住日久、不敢聞命矣、天日別命発兵欲戮其神、于時畏伏啓云、吾国悉献於天孫、吾敢不居矣(中略)遂乗波而東焉(中略)国宜取国神之名号伊勢、即為天日別命之封地国、賜宅地于大倭耳梨之村焉、或本曰、天日別命奉詔、自熊野村直入伊勢国、殺戮荒神、罰平不遵、堺山川定地邑。姓氏録曰、伊勢朝臣、天底立命六世孫、天日別命之後也。
神代紀一書曰、吾(猿田彦)則応到伊勢之狭長田五十鈴川上。神武天皇紀戊午年冬十月、乃為御謡之曰、伽牟伽筮能伊斉能于彌(さんずい)能云々。按、古事記伝建御名方神の条に云、伊勢津彦といふは建御名方神の亦名にて、右(風土記)の故事は即建御雷神の建御名方神を攻追ひ給へる此段の事なるを、神武天皇の御世の事とせるは、伝の誤なるべしと云ふ、然れども神武天皇熊野より菟田下県(大和)に到る地理を考ふるに、天皇熊野荒坂津(今錦津、後志摩に入る、二色郷の地なり)に到り、丹数戸畔を誅し伊勢の西南隅を過ぎ、高見嶺を踰え(此路今高見越といふ、地勢狭束して大和宇陀に至る最捷となす)大和の東に出て(所謂背負日神之威者)菟田に至られしなり、然れば其時天日別命をして別に軍を率ゐて伊勢津彦を平定せしむるは、勢の必あるべき所なり、故に今風土記を採り、以て神武天皇の時事となす、風土記又云、詔云、国宜取国神之名号伊勢とあるは誤りにて、伊勢の名は既に猿田彦の時に見ゆれば、其来る久しきなり、伊勢津彦蓋其国名により名となす者なり
国郡の制定るに及て蓋十二郡あり、天智天皇の時飯野郡を置き十三郡となる、又大神宮封戸の地を神郡と称す、後道三郡前道後三郡の称あり、
渡会郡南境古へ志摩と接す、淳仁天皇の時志摩国と国境を争ふ事あり、後世志摩国英虞郡三郷の地を併せて海浜に達す(志摩国に詳也)
〔前後脱文か〕
度会郡 今人口十一万四千 四町卅一村 面積四十八方里
多気郡 今面積二十九方里 人口四万七千 十七村
 飯野 今面積三方里 人口一万六千
 飯高 今面積廿三方里 人口五万七千
一志郡 今面積卅六方里  人口九万四千 久居町外卅八村とす
阿濃郡 今面積十一方里 人口三万八千 十七村
 阿濃津 人口二万七千
奄芸郡 今面積七方里 人口四万三千 白子町外十四村
河曲郡 今面積三方里 人口二万二千 神戸町外六村
鈴鹿郡 今面積十九方里 人口五万二千 二町十八村
三重郡 今面積十二方里 人口七万余 四日市町外十八村
朝明郡 今面積五方里余 人口三万四千 十一村
 
伊勢海《イセノウミ》 今は伊勢尾張及参河志摩間の内海を指せど、古は志摩国も伊勢島と称し、一境と見做したるより、志摩の南海をも此名の下に摂したり、即熊野灘の東北部をも包有したりと知るべし、故に伊勢蝦と云ふも、皆志摩の産也。
 伊勢の海の磯もとどろによするなみかしこき人に恋渡るかも、〔万葉集〕伊勢の海に釣するあまのうけなれや心ひとつを定め兼つる、〔古今集〕
源氏物語に「伊勢をの海人」と云詞ありて、伊勢の海の義なりと云ふ、名寄は之に本づき、大神宮を雄の宮とよめる者を収めたり、此|雄《ヲ》と云ふも魚の義より転じて、海の意となれるにやあらん。
 うきめかるいせをの蜑を思ひやれもしほかるてふ須磨の浦にて、〔源氏物語〕月影もたえずやすまん五十鈴がは伊勢をの宮の世々のふる道、〔歌枕名寄〕
「伊勢の浜萩を難波にて葦と呼ぶ」てふ諺あり、今東二見村|三津《ミツ》浦に片菓の葦あり、是なるべしと云。〔俗説弁神都名勝志〕
   碁檀越、往伊勢国時、留妻作歌、
 神風の伊勢の浜荻折ふせてたびねやすらむあらき浜辺に、〔万葉集〕
 伊せのうみの伊勢の海の清き渚の潮かひに名のりそや摘まん貝や拾はん珠やひろはん、〔催馬楽伊勢海〕
日本水路志云、伊勢海は、鳥羽港門の北側をなせる答志島を西角とし、伊良湖崎を東角とし、此処幅凡六海里、中間に神島あり、此島と伊良湖崎との間を伊良湖水道と曰ふ、海湾の長さ南北大凡三十五海里、分れて二湾となる、西部は即ち本湾にして、東部は三河湾なり、水深は最深処二十尋を踰えずと雖、割合に岸に近きて探し、北隅の熱田《アツタ》湾(即ち木曽川口と日長《ヒナガ》地角の一線以内)は頗る浅く、固より大船の行く可き所に非らず、又此海湾の中部は平底にして、岸に近づくに従ひ徐かに水深を減じ、且泥底なる為め至極船を導き易く、静穏の日に於ては到る処に仮泊地を得べし、又陸地の総観に於ては、西側は一般に平低にして、白沙青松之に沿ひ、浜より内地凡十二海里にして、長き高山脈に達す、知多半島は凡三〇〇呎に過ぎぎる一帯の低山脈にして、西面に精々険に東面に夷なり、三河湾と伊勢湾とは此半島の為めに分る。
伊勢神風○此は上古の諺にて、風土記逸文〔万葉仙覚抄釈日本紀〕に出づ。曰「天日別命、令問伊勢津彦曰、汝之去時、何以為験、啓曰吾以今夜、起八風吹海水、乗波浪将東入、此則吾之却由也、天日別命、整兵窺之、比及中夜、大風四起、扇挙波瀾、光耀如日、陸海共朗、遂乗波而東焉、古語云神風伊勢国者、蓋此謂之也、伊勢津彦、近住信濃国」云々、本居氏云此伊勢津彦は諏訪建御名方神に同じければ、此避国東入の事は、神武天皇の時にあらず、其以往天孫降臨の初に在りと、神代史の事なれば、今明白の理会に苦むも、逸文及倭姫命世記延暦儀式帳等を合考するに、伊勢津彦の喬孫の此国土に地主たりし事は、其徴証多し、蓋天日別が神武帝の命令を以て、此国を懐柔したるは、伊勢津彦の裔孫の世の事にして、風土記は其裔孫の帰順をば、其祖の避国の故言に混同し、神風の諺を此に引きたるなり。
 
    鈴鹿郡
 
鈴鹿《スヾカ》郡 北は三重郡并に近江甲賀郡に至り、東は河芸郡、南は安濃郡、西は伊賀阿山郡也、西北は峰巒綿亘し、一水諸澗を併せて東流す、之を鈴鹿川と曰ふ。○本郡は、大和山城両京の昔、東海道の咽喉に当り、関塞を置かる、今鉄道は名古屋より来る者を関西線と称し、関駅を過ぎ西|伊賀《イガ》に入り、柘植《ツゲ》駅に至り旧京に向ひて二分す、故に関は間駅と為る。又参宮鉄道は本郡亀山より起り、南馳して神宮に向ふ。○本郡今人口五万五千、二町十八村に分れ、面積約十九方里。(文録検地四万九千石、元禄検地五万二千石)倭名抄、鈴鹿郡、訓須々加、七郷に分ち、当国々府の所在なり。日本書紀、天武帝壬申乱の条に「車駕入伊勢、爰国司守三宅連等、参遇鈴鹿郡」と見えたり、延暦儀式帳に味酒《ウマサケ》鈴鹿国とあり、古事記明宮(応神)段に須々許里と云韓人醸酒の事を載す、之に因みて味酒の枕詞あるか、而も鈴鹿は山名に原づきたる者にして、篶の生へたる義なるべし。○倭姫命世記延暦儀式帳を参考するに、本郡及河曲は古|川俣《カハマタ》県と称したり。
 
鈴鹿《スヾカ》郷 和名抄、鈴鹿郡鈴鹿郷。○今関町坂下村|加太《カブト》ミラ是なり、郡の西界に在り、坂下《サカノシタ》は近江に通ずる山路にして、加太は伊賀に通ず。参宮図会云「鈴鹿関は、古来九度其所を換らる、凡崇神帝以来東海道往来は皆伊賀路に由る、近江より通ずるは、光仁帝仁和二年、新道を開かれしより始まる」、九度と云事明かならねど、通路の沿革数々なりしを想ふべし。
補【鈴鹿郷】鈴鹿郡○和名抄郡郷考 兵部式、鈴鹿駅馬二十疋。名所図会、鈴鹿山在伊勢近江界、東海道駅村なり、近江土山へ行程二里、往古は此所に関を置れたり、関市令・拾芥抄等に見ゆ、三関の一也、海道の左に鈴鹿川ながれ、又右に流れて幾瀬もあるゆゑに八十瀬川ともいへり。
 
鈴鹿《スズカ》川 二源あり、一は加太村大岡寺峠より発し、一は坂下《サカノシタ》村|三子《ミツゴ》山より発し、関町の西に於て相会し、東流して河芸三重両郡の間に入り海に朝宗す、長凡九里。
 鈴鹿川八十瀬度りて誰故か夜こえに越んつまもあらなくに、〔万葉集〕
 鈴か川すずかがは八十瀬の滝を皆人のめぐるもしるくや時にあへる時にあへるかもや、〔催馬楽、鈴之川〕
八十瀬とは、同じ山かはを彼方此方と幾度も渡れば也、〔万葉略解〕万葉集に見ゆるは加太越の渓澗を曰ふ、(即今の鉄道線)後世は坂下村|一瀬《イチノセ》沓掛の辺に、八十瀬の号を移したり、鈴鹿川は関駅の辺には関《セキ》川とも呼ぶ。
 
鈴鹿《スズカ》山 鈴鹿郷の西北を擁塞する山嶺の総名なり、古は伊賀路加太村の方をのみ鈴鹿山と呼べり、後に至り近江路を以て孔道を為したれば、鈴鹿峠の称は坂下村に移りぬ、新旧の別ありと知るべし。鈴鹿山は篶之《スズカ》山の義にて篶草より起れる歟、古名|須受我嶺《スズガネ》、後世|栖鹿《スシカ》又鈴鹿と訛るは、原地に相干与せず。天武紀(壬申乱条)「自伊賀積殖山口、越大山、至伊勢鈴鹿、発五百軍士、塞鈴鹿山道」とあるは古道にて、今の加太山なり、万葉集に「須受我禰《スズガネ》乃波由馬字馬夜と曰ふも之に同じ。平安京の御世に至り、東海東山両道は、近江国草津より岐分せしめ、鈴鹿駅に達せしむ、然れども其鈴鹿山横絶は、尚柘植加太に於てしたるか、其今の如く坂下村を経て土山駅(近江甲賀郡)一線の定まれるは、何世の事にや、沿革審ならず。
参考本盛衰記云、平田四郎貞継法師(太郎入道家継に同じ)伊賀より近江国へ打出て、鈴鹿山を後に当てゝ一戦せしが、源氏の為めに散々に蒐立られて、今に返合するに及ばずとて、鈴鹿山に引籠、夫よりちり/”\にこそ成にけれ、平家重代の家人なれば、相伝の志は哀なれども、大気なしとぞ覚えたる、三日平氏と笑ひけるは此事也、東鑑曰「元暦元年七月五日、大内維義於伊賀国、為平家一族被襲、十九日、与平家余党等合戦、逆徒敗北、其内張本、富田進士家肋、前兵衛尉家能、家清入道、平田太郎家継入道等也」、玉海曰「元暦元年七月八日、伝聞、伊賀伊勢国人等謀叛畢云々、又伊勢国、和泉守信兼已下、切塞鈴鹿山、同謀叛畢云々、廿日伝聞、昨日伊賀伊勢之輩、出逢近江国、与官兵合戦、官軍得理、廿一日伝聞、謀叛大将軍平田入道家継、被梟首、忠清法師家資等蔵山畢」、(本書に三日平氏とあるも、東鑑玉海に参照せば三日平氏にあらず、蓋元久元年四月の条に、別に三日平氏あり、三重郡富田、関の三日《ミカ》城址を参考)本書又云、八月十一日、義経は和泉守平信兼が、伊勢国|滝野《タキノ》と云所に城郭(土偏)を構へ、西海の平家に同意すと聞て、軍兵を指遣す、信兼城内に籠り、失種尽にければ火を放ち、信兼以下自害して炎の中に死にけり。東鑑曰「八月、今度伊賀国兵革事、偏在出羽守信兼子息等結構歟、而彼輩遁囲之中、不知行方、十日、廷尉義経招信兼子息兼衡信衡兼時等於宿廬、誅戮之」、山槐記曰「八月十二日、義経発向伊勢国、為伐信兼」。(この滝野の城も鈴鹿山にして、関の三日城址にあたるかと想はるれど、明徴なし、今南伊勢に多芸谷あり又滝野の村名あれど、信兼の故墟にあらざるべし、又薩州頂峰院文書に信兼党類領の波出御厨あり)  下伊勢国波出御厨 左兵衛尉惟宗忠久
   補任地頭職事
 右件所者故出羽守平信兼党類領也而信兼依発謀反令追討畢仇任先例為令勤仕公役所補地頭職也早為彼職可致沙汰之状如件以下
  元暦二年六月十五日   (花押)
 鈴鹿山ふるの中道君よりもきゝならすこそおくれがたけれ、〔斎宮家集〕鈴か山伊勢路に通ふみせ川のみせばや人にふかき二ゝろを、〔夫木集〕すゝ鹿やま伊勢をのあまの捨衣汐なれたりと人やみるらん、〔後撰集〕
   鈴鹿嶺           越  鉄兜
 古木回厳望欲迷、秋煙匝地失東西、将軍祀外青杉雨、鳥不知名学鬼啼、
補【鈴鹿山】鈴鹿郡〇五鈴遺響 旧名片山或は三箇山、方俗ミツコ山と称す、東街官道を挟みて三峰崔嵬深谷幽渓嶮岨にして南北に聳えたり。林春斎癸未紀行、
 勢州鈴鹿鎖関家 九折八町ー径斜 秋色嵐光多感慨 護花声裡却※[口+御]花
 註云、鈴鹿坂羊腸四百八十間、土人謂之八町。
鈴鹿山 花を踏て岩に角なし鈴鹿山    暁台
補【片山神社】○神祇志料 片山神社、今古厩村にあり、八王子といふ(本村検地帳・式内社検録)
 按、社南小山二嶺ありて片山と唱へ、社東の田畠道を限て西を皆片山と字し、社域の廻りにも片山と字する田畝あるもの、証とすべし。
 
加太《カブト》 又鹿伏兎に作る、鈴鹿川の源頭にして、四面皆山、其伊賀国柘植駅に通ずる山道を大
岡寺《ダイカウジ》峠と曰ふ、今鉄道此村を過ぐれど車駅なし。○平家物語云、元暦元年正月、義経範頼上洛の時、義経は搦手の大将にて、鈴鹿山の麓の関を通し、八十瀬の波を凌ぎ、加太山にかゝり、峰高くー嶮にして身を側ち伝ふ、谷深く水急なれば馬蹄危うして過させたり。
漉伏兎氏は平氏関家の一族なり、其城墟は加太の字|市場《イチバ》に在り、塁壕の址古井等存す。〔伊勢名勝志〕勢州四家記云、関の三家督と云は鈴鹿郡亀山、河曲郡神戸、鈴鹿郡峰、軍兵千の大将也、同五大将といふは、鈴鹿郡国符関家、鹿伏兎関家と三家督となり、何も五百の大将也、関勢与力五千人、此五家は各足利の侍也、関家幕紋は上羽の蝶也。補【鹿伏兎《カブト》城址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 加太村市場に在り、雑木繁茂す、山上塁濠の址尚存す、古井二あり、大旱と雖も涸れず、関平氏の一族之に居る、天正中廃城。○加太村 山中一区を為す、東は関駅に通じ、西は拓殖に至る、今汽車を架す。
 
坂下《サカノシタ》 加太の東北、関町の西北にて、鈴鹿川の支源|一瀬《イチノセ》の源頭に在り、多津加美《タツカミ》坂の下なるを以て、此村名あり。坂を西北に越ゆれば土山駅(近江甲賀郡)に至る、凡二里半。(関町へは凡二里)本村は往時国道往来の旅客盛なりし頃は、人馬の継立特に多かりける所なるも、今は廃絶して寂寥を極む、慶安年中、坂下宿洪水に罹り、今の地に移る、旧駅は十町許西、鈴鹿明神の下なりとぞ。〔参宮図会東海道図会〕
 
多津加美《タツカミ》坂 一に立神に作る、蓋馬鬣の義なり、坂路八町廿七曲、其高峰を三子《ミツゴ》山と曰ふ。〇五鈴遺響云、三子山は路を挟み三峰崔嵬、深谷幽渓嶮岨にして南北に聳えたり、土俗に八百八谷ありといふ、官道の坂路廿六町、樹木陰欝として、屈曲すること羊腸に似たり、且は嶮なる処八町許廿七曲あり、東海道第二の嶮難の処なり、相模筥根山に伯仲すべし、故に古昔より鬼魅緑林の妄談あり、彼田村将軍の事は固より徴証なし、太平記に「鬼切丸と申すは源家の宝刀にして、武将田村将軍より帝に献ず、是は鈴鹿の御前、田村と鈴鹿山にて剣合せの大刀なりと」あるのみ、蓋し鬼魅と称するものは、奸盗にして、今昔物語に「鈴鹿山の旧堂に鬼ありて、人の宿ることを得ず、然るに旅客三人宿りて怪に遇たる事」見えたり、古今著聞集、朱雀門女強盗の事を記して「昔こそ鈴鹿山の女盗人とて云ひ伝へたるに、近き世にも斯る不思議侍るにこそ」と云へり、又神宮雑事記云、「抑古記文曰、醍醐天皇御代、昌泰元年十二月、祭便下向之間、鈴河山内白河強盗出来」云々、田村麻呂鈴鹿御前の剣合といふ事は、田村草紙と云ふ作り物語、及び謡曲に見ゆ。有方録云、鈴鹿山中、有将軍坂上田村麻呂廟、或曰、昔賊挟妖術、拠山擁道、剽奪行旅、朝廷遣将出兵、討之無克、後択材武卓偉、以田村麻呂充之、田村麻呂祷観音大士、依冥祐得勝、是以此山有祠、然於史伝無所見、按古朝廷有事、勅固三関、鈴鹿三関之一、凡関鎮圧以武為重、故祠田村将軍不絶也。
  鈴鹿関          林 春斎
 勢州鈴鹿鎮関家、九折八町山ー径斜、秋色嵐光多感慨、護花声裡却啣花、
  鈴鹿関          草場 船山
 将羊殺賊事千秋、鈴鹿関荒草木稠、勢北峰巒従此尽、残山起伏入江州、
 花をふんで岩にかどなしすゞ鹿山   暁台
俚謡に「坂はてる/\」と、即多津加美を云ふ。
 秋なれば思ほゆるかな鈴鹿山しかと霧とのたつかみの坂、〔末木集〕
 のぼりくだりのおつづら馬よ、さてもみごとな手綱染かいな、まご衆のくせか高声で、鈴をたよりに小諸節、坂はてる/\すずかはくもる、あひの土山雨がふる、(端唄)
 
鈴鹿御前《スズカゴゼン》社 坂下村に在り、諸書之を以て、延喜式「鈴鹿郡片山神社」に当てたれど、信ずべからず、神祇志料、片山神は関町|古厩《ふるまや》に在りと云ふ者に従ふべし。○俗説弁云、弘安元年勅使記曰、鈴鹿山鈴鹿姫坐、坂頭之北辺、世伝坂上田村麿奉勅、征此山鬼女、且相婚、而女自伏罪就囚、献之朝廷、亦逃入山、後田村麿追到、為夫妻、其鬼女是鈴鹿姫也、按此征役事、不見于史籍。○応永三十一年参宮記云、鈴鹿川を渡り、鈴鹿姫と申す小社の前に、人々祓などし侍るなれば、しばし立よりて心の中の法楽ばかりに、彼立烏帽子の名石の根、えも不思議におぼえ侍りて、
 鈴鹿ひめ重き罪をば改めてかたみの石も神となる也。
            
筆捨山《ふですてやま》 坂下村の南、大字|沓掛《クツカケ》より一瀬の辺なる石峰を曰ふ、山は全く岩石を以て畳成せる如く、古松其間に生ず、俚諺に狩野古法眼此勝景を写し、心に逮ばずとて筆を捨てしとぞ、疑ふらくは振捨《フリステ》の訛にて、定家卿又円位上人の詠に因めるならん。
 すゞか山浮世をよそに振り捨てゝいかに成行我身なるらん、〔新古今集〕        西行
 
関《セキ》 今関町と曰ふ、往時関(淺の旁+りっとう、センを置かれし地なり、加太村の東二里余人口三千鉄道車駅あり。和名抄、鈴鹿郡駅家郷と曰ふは此とす。○関の駅舎、今中町と曰ひ、其東口を木崎と呼び、亀山町に至る凡そ一里半、西口を新所と曰ふ、寛永年中、東海道往来の路程を定められし以後の事也、其已前は鈴鹿の南岸、今|古厩《フルマヤ》と云地を東海参宮両道の衝と為したり、延喜式鈴鹿駅馬二十匹と云者之に同じ、古関址は明ならず、時々変移したるならん、○関谷《セキダニ》と云は、亀山より加太までの総名なり。
補【関】鈴鹿郡〇五鈴遺響 駅舎東口木崎といふ、古は関川を渡り古馬屋を東口とす、今の関駅は天正年中関阿芸守所知の時より変革し、又寛永年中以来江戸往来の盛なりしより、東口今の形勢に変りたるなり。
関町坂下村は南北に連接す、是は平安京以後の駅路なり、古の平城京の駅路は関町加太と連接せしか、随ふて関寨の形勢に大変あらむ、但し鈴鹿山を近江の境とのみ思ふは非なり。 
鈴鹿《スズカ》関址 大和京の時は加太を山隘とし、山城の京の後には坂下を要害したるならん、関址明白ならず。○大日本史云、養老五年太上天皇崩、遣使固三関、(按後世有大喪、必固三関 蓋(日+方)于此)宝亀十一年、帝病大漸、遣使伊勢美濃越前固関、延暦八年、廃三関、天慶三年平将門作乱、又固三関。
   伊勢の勅使に伴れて、鈴鹿関を越とて、
 得ぞすぎぬこれやすゞかの関ならんふり捨がたき花の影かな、〔新後撰集〕      藤原 定家
 振すてゝ誰かは越むすヾか山関屋は夜半の月ももりけり、〔新拾遺集〕       荒木田氏忠
 
古厩《フルマヤ》 今関町の南、鈴鹿川右岸の大字なり、即古の駅亭《ハユマウマヤ》址とす、延喜式、片山神社大井神社並に此に在り。〇五鈴遺響は古厩の八王子権現を以て大井神社に擬し、神祇志料は之を片山神社に当つ、蓋二牡一境なるべし、大井は井神にて筒井《ツヽミヰ》と云者此にあり。
 須受賀禰のはゆまうまやの都追美井のみづをたまへないものたゞ手よ、〔万葉集〕
 
片山《カタヤマ》神社 延喜式に列す、今古厩に在り、八王子と称す、社南二嶺ありて片山と唱へ、社東の田畠道を限て西をば皆片山と字し、社域の廻りにも片山と字する田畝あり。〔神紙志料〕○神社考云、皇太弟踰伊賀国、入鈴鹿山、闇夜迷路、遙見火光、到一柴庵、以※[人偏+就]宿、老翁熟見曰、此人有王気、因令一女看之、太弟幸之、於是告曰、吾是皇太弟、避乱到此、会大雨、鈴鹿河漲不得渉、忽二鹿来遇、乃乗而渡、故改号曰|会鹿《アフカ》河。(神社考の語は出典を知らねど、壬申乱の時天皇往復共に鈴鹿に宿りたまふ、参考すべし、片山神社は彼駅翁の祖神たるべし)
 
新所《シンジヨ》 又|新城《シンジヤウ》に作る、関中町の西に接す、天正年中関氏十八世盛信の築く所にて、亀山の支砦なり、盛信の子長門守一政、天正十五年、美濃国土岐に移封せられ、此砦廃す。〇五鈴遺響云、新所の左傍に観音堂あり、城址なりといふ、亀山城主関安芸守盛信(入道万鉄斎と号す)新に所築にして隠居地なり、天正十一年、盛信父子京都に至る留守を窺ひ、盛信が臣岩間七郎左衛門一党四十三人叛逆して、桑名城主滝川に属す、十二年正月江州より蒲生氏郷、関盛信父子出兵し亀山城を奪ひ返し、万鉄斎入道に隠居処として此地をば再び賜る。○大永年中、関何似斎の別館亦此か、宗長手記曰「亀山より程三里ばかり山に入る、三町へだてゝ新福寺といふ律院の内成就院旅宿、奇麗の掃除目を驚し侍る、十日余り休息、毎日の懇にやゝ心かたくぞ侍りし、連歌一座あり、 八十の瀬のみなかみたかし秋の声
 ながれも霧のおくふかきやま    何似
又こゝにも鉾楯軍の用意隙もなし、江州蒲生の城主護より退治数日になりて、こゝかしこ浪人あつまり、後詰の合戦度々と聞ゆ。
 
木崎《キザキ》 関中町の東に接する大字なり、川上山瑞光寺と曰ふ曹洞禅家あり、関万鉄斎の建立とぞ、此辺は古名出羽村と曰ふ。〔参宮図会〕按に出羽《イヅハ》は厳磐の義なるべし、岩石に因む、出羽社あり、今羽州羽黒権現を勧請すと云は、例の附会ならん。 嵐ふく川上かけてすむ月のいつはのもりにかげぞさやけき、〔歌枕名寄〕       行済
 
赤坂《アカサカ》 続日本紀、聖武天皇、天平十三年十月、行幸伊勢、至鈴鹿郡赤坂頓宮。○赤坂美哉址は瑞光院の後に在り、〔五鈴遺響〕木崎に属し、字を内山と曰ふ。〔伊勢名勝志〕
 
三日城《ミカノシロ》址 木崎山に在り、伊勢平氏の籠りたる古跡なるべしと云ふ。〔五鈴遺響〕平家物語「平肥後守貞能が伯父平田入道貞継を先として、伊賀伊勢両国官兵等、暫もたまらず攻落さる、平家相伝の家人、昔のよしみを忘れぬ事は哀れなれども、思立こそおほけなけれ、三日平氏とは是なり」云々、又東鑑「元久元年三月、伊勢平氏等塞鈴鹿関所、凡狼※[獣偏+戻]雖靡両国、蜂起既不軼三日、十一月、伊勢国三日平氏跡、新補地頭」。○按に三日城は伊勢平氏関族の墟なるべし、関氏は平資盛の後裔と云ふも疑はし、平家物語に関出羽守信兼あり、蓋此裔孫のみ、伊勢名勝志は、伊勢平氏伊藤武者景綱の後裔国綱と云を、関一党の祖と為せり。信兼は養和元年、熊野悪僧戒光等が二見浦に乱入せるを撃退し、寿永三年、伊賀の平田氏に与党して克たず、後|滝《タキ》野城に拠り、九郎義経の攻滅する所と為る、滝野と云も鈴鹿山中にや、今伝ふる所なし。
大日本史、平資盛、嘗為父重盛所逐、屏居伊勢、生盛国、後還京師、生親実、源頼朝特宥盛国、為北条氏臣、盛国二子実忠、盛綱、実忠左近衛将監、食伊勢関谷邑、称関氏、子孫仕足利氏、門葉頗盛、其族有亀山、神戸、峰、国府、鹿伏兎等氏、盛綱称長崎氏、世為北条氏執事。〔勢州四家記、伊勢国司伝記、桓武平氏系図〕○勢州軍記、北勢関の一党は太政大臣平清盛の後胤、関左近大夫将監実忠建仁四年初めて勢州鈴鹿郡関の谷を給はり関家と号し北条家の与力となり鎌倉に居住す、北条家滅亡の後、関四郎は足利尊氏公守護方の手に属し、子孫多し、関家元来富人なりき、すべて鈴鹿河曲諸郡中に於て領地を給り、子孫大に繁昌せり。(関氏は、元和三年伯州黒坂城にて除封と為る)
 
関地蔵堂《セキノジザウダウ》 関中町に在り、九関山と称す、里俗鈴鹿関は九度の沿革あれば、九関の名ありと曰ふ、附会なるべし、本尊地蔵菩薩にて、宝蔵寺と曰ふ、蝦夷《エゾ》桜と曰ふ老株あり、此は、定家卿の「エゾスギヌ」の歌詠に因める者なり。〇五鈴遺響云、関の地蔵堂は、勢陽府志に「元応年中炎焼、此時尊像火滅せり、文明四年再び尊像を興し、本堂も建営、洛北大徳寺真珠庵一休和尚を開眼の導師とす、宗長及び紹巴の記に行基の作と載せ、東路記に一休開眼の事を載す、今の堂宇は元禄九年再建す」とあり。○岩佐又兵衛回国記云、関の地蔵はふりたる堂の中に、大の地蔵のおはします、相好尊く見えけれど、紫磨黄金の肌もよごれ、御衣の袖のいろわかず、聞ならく六道能化にてましませば、爰とても道のはた也、導かせ給へ、此堂の軒ならびに数多家ども作りつづけ、旅人の為にとて、多くの飯をもりならべ、これかや物の喩にも、蔵かしらの飯なるべし、此にも又女の白きものにて、顔ぬれるが立出でて、軒の柱によりそひて、そら/”\しくうたうそぶいて、吾こそぶりたる有様を、見るも中中片腹いたくて、馬にまかせて行く。
 
琴橋《コトノハシ》 鈴鹿の琴橋は定かならねど、名高き古跡なり、或は坂下村の一瀬の弁天橋是なりとも曰ひ、又関町の南なる田間に琴橋あり、近傍を桐木と字すと。禁秘抄に「玄上、又鈴鹿、六絃、累代宝物、但毎年御神楽用之」江次第に「和琴鈴鹿、累代帝王渡物也」など見え平家物語にも録せり。多気窓螢云、昔当国鈴鹿の橋板にて造りける和琴《ヤマトゴト》いとめでたきものにて、代々帝の宝物とはなれり、其橋板のかなぎは椿姫に造り、鈴鹿の社に納しとなり、今之を求めけるに、坂の下と云所に板橋弁財天とて祀るあり、開かせて拝むに、尋常の弁財天には非ず、まがふべくもなく橋姫なるべし。
 
神戸《カムベ》郷 和名抄、鈴鹿郡神戸郷。○今神戸村亀山町及白川村是なり、中世には関谷の中に摂したり、延暦儀式帳に鈴鹿川俣県造祖大比古が神田并に神戸を奉りたる由見え、神宮雑例集に、鈴鹿神戸十戸とあり、其神※[まだれ+寺]址は今大字|野村※[ノムラ]に在り。
 
小野《ヲノ》 今神戸村の大字なり、関町の東に接す。○保元物語云、伊勢の住人|故市《フルイチ》伊藤武者景綱、同じき伊藤五伊藤六、同じ郎等ながら、公家にも知られ進らせたる身なり、其故は伊勢の国鈴鹿山の強盗の張本小野七郎を搦めて、副将軍の宣旨を蒙りし景綱ぞかし。○小野に城址あり、殿内と字し、今も五十余間乃至百間の壕其形を遺す、若菜五郎盛高の故跡とぞ、盛高は元久元年平氏蜂起の時其党魁たり、鈴鹿山を塞ぎ所々横行之後、平賀朝雅の為めに関小野にして斬らる。〔東鑑五鈴遺響伊勢名勝志〕
補【若菜城址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 小野村字殿の内及び大堀に連る、今耕地藪地等となれり、深一丈幅三間、
長五十間乃至百間の壕址を存す、元久四年四月平氏の族若菜盛高之に居る、富田基度三浦盛時等と平氏の余党を糾集し、鈴鹿山を扼して大に本州を乱る、京都守護平朝雅大兵を率ひて来り撃つ、逆に誅せられ、城廃す。○関駅の東に連り、今神辺村と改む。
 
忍山《オヤマ》 延暦儀式帳倭姫世記等に、鈴鹿郡神戸郷忍山ありて、一に奈具波志小山《ナグハシノヲヤマ》に作る、皇太神宮の頓宮在りし所也、今布気の小山観音堂は頓宮址なるべし、延喜式忍山神社は今|皇館《カウタチ》神明宮是なり、又延喜式|布気《フケ》神社は同所鈴鹿川の北崖に在り、亀山町大字野村に属し、白鬚大明神と称す。〔五鈴遺響神祇志料〕○按に布気神社は穂積忍山氏の祖神なるべし。古事記伝云「成務天皇、撃穂積臣等之祖、建忍山垂根之女、名弟財郎女、生御子和※[言+可]奴気王」と、此忍山は伊勢の地名か、書紀に此天皇の皇子ましまさねば、王即倭建命の子椎武王なるを伝へ誤れるか、書紀に倭建命后弟橘比売の父を穂積山宿禰と曰へり、又継体記に穂積臣押山と云人見えたり。
補【布気《フケ》神社】○神紙志料 今野村の巽鈴鹿の北涯、田圃にあり、白鬚明神と云ふ(式内杜検録)
 按、社辺より北街道に布気林の字あり、文禄検地帳に白髭御供田を布気の神でんと注せり、布気の白鬚なる事明らかなり、布気と鬚と通音あれば、布気明神と云しを鬚明神と訛り、白字をさへ加へしものなるべし。
 
亀山《カメヤマ》 今亀山町と曰ひ、本郡の治所たり、人口七千。又参宮鉄道は、本車駅を以て幹線に連絡し、東西に通ず、西は柘植に至る十三哩、東は名古屋に至る卅七哩、南は津に至る十哩。
 
亀山《カメヤマ》城址 亀山町の北偏に在り、関氏の築く所にして、天正十五年、豊臣氏岡本下野守重政を此に封ず、十九年重政大に土木を興し修造を加ふ、慶長五年、重政西軍に応じ守禦を爲す、因て徳川氏の没収する所となり、爾来城主数易す、関長門守一政、松平下総守清匡(元和元)三宅越後守康信(寛永十三)本多下総守俊次(慶安四)石川主殿頭昌勝(寛文九)板倉隠岐守直常(宝永七)松平和泉守乗邑(享保二)板倉近江守重治、延享元年、石川主殿頭総慶、入部以後六万石、世襲して近年に至る。○本城址の外に字|若山《あわかやま》と云ふも、関氏の城址とぞ、大字野村は関氏の旧館なりしを、後世若山に移り、岡本氏の時又修造を為しゝ者の如し。関氏は伊勢平氏にて、永禄年中、盛信は長野工藤氏と数兵を構へしが、後織田氏に服従し、故あり拘禁せられて江州日野に置かる、天正十二年盛信蒲生氏郷に倚り、織田の臣属を撃破して故封を復す、其子を長門守一政と曰ふ、天正十五年封三万石を美濃国土岐に賜り之に徙り、庚子の乱、一政東軍に属し、功を以て又故封に帰りしが、慶長十五年、更に伯州黒坂五万石を賜り彼地に転じ、数伝して元禄中廃絶す。亀山大神宮は西町に在り、関氏の奉祀する者とぞ。元禄年中、浜松浪人石井源次郎亀山城下に復讐したる事あり、〔五鈴遺響伊勢名勝志〕野史云、石井兵右衛門、仕浜松城主太田資定、同僚赤堀源蔵殺兵右、兵右之子兵肋、欲報其讐、反為仇所殺、兵助二子半二郎三助皆幼、有僕曰常右衛門、有養二孤、誓復其仇、元禄四年、往亀山狙仇、遂扶二孤斬源蔵。
大永年中の宗長手記に「亀山は慈恩寺新福寺阿弥陀寺長福寺など律院の七堂見え、各々の宿所宿所ありて、東西に市あり、又の日鷲の巣山(今亀山町大字佐山ならん)を見に行くとて、乗ものにて何似斎誘引、※[草冠+毎]の細道滑かにて、上よりみなぎる水谷広くひたして入たる海の如し、たま/\手をかくる岩も足は留らず、むかし山寺ありけるとなむ、、鉾楯の用意にや、おのづからの巌を楯矢倉、門は石を棟柱、四方五十町谷廻りてみゆ、凡数万軍兵とりむかへるとも、罹るべくも見えず。
補【亀山城址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 亀山に三処あり、一は字古城(旧字若山)に在り、今社地及耕地たり、元弘三年初め平盛岡の子実忠、本郡関谷の地を領し、関氏と称す、六世孫実治本城を築きて之に居る、或は言ふ、元弘以前白子党伊藤景綱の後裔国綱なるもの、本郡野村城より此に移し築くと、五子あり、盛澄・盛門・盛繁・盛宗・政美とす、本城及神戸国府、鹿伏兎峰の諸城を分治す、関家の五大将と称す、盛信の時に至りて永禄中長野工藤氏と数々兵を構ふ、近傍諸城皆服従す、後織田氏の為に近江国日野に幽せらる、已にして国に帰る、祝髪して万鉄斎と称す、秀吉此城を氏郷に賜ふ、氏郷万鉄の子を挙用し長門守一政と云ふ、此に居り天正十五年岡本下野此地を賜り、十九年大に土木を起す、今亀山城は其規模による。
○人名辞書 岡本重政は尾張春日井郡の人なり、羽柴秀吉に仕へ亀山城を賜ふ、下野守と称す、慶長庚子の乱起り石田三成に党し、兄之休入道・子重義をして亀山を守らしむ、而して羽柴勝雅と桑名城に拠る、山岡道阿弥調略、和を講ず、家康其旧科を責めて聴さず、重政終に自殺す、子重義主税介と称す、死を水口に賜ふ、時に十二(野史)
補【亀山大神宮】鈴鹿郡○伊勢名勝志 亀山西町に在り、文永中関実忠之を勧請し、亀山権現と称す、城内の鎮守たり、亀山城主世々之を崇敬す。
 
槙尾《マキヲ》 亀山町の南にて、鈴鹿川を隔つ。延喜式、真木尾《マキヲ》神社は大字阿野田に在り、神鳳抄豐
田御厨と云は此とぞ、〔神紙志料五鈴遺響〕横尾|昼生《ヒルフ》の二村は和名抄郷の貫属を詳にせず、続日本紀、「天平十七年、伊勢国真木山火、三四日不滅、延焼数百町、即仰山背伊賀近江等国撲滅之」とあるは此なるべし。(再考此真木山は伊賀国の誤也)
 
昼生《ヒルフ》 槙尾《マキヲ》村の南に在り、河芸郡|栄川《サカエカハ》に臨む、東鑑に「文治三年、伊勢国昼生荘預所、斎院次官親能代官、民部大夫籠重」とあるは此とす、今下荘中荘|三寺《ミツデラ》の三大字と為る。○神祇志科云、延喜式、大井《オホヰ》神社は下荘に在り石《イハ》神社は三寺に在り。
五鈴遺響云、東鑑、養和元年、関出羽守信兼|蛭《ヒル》伊藤次郎を具し、熊野悪僧を二見浦に誅したる事見えたり、蛭は昼生の略也、古今著聞集に「仁治の頃、伊勢の国昼生荘より、百姓なりける法師のぼりて、五条坊門富小路に屋どりて居たりけり」云々、昼生荘といふは即今の上荘中荘下荘其余四邑の属なり、猶方俗昼生谷七郷と称す。
補【蛭】鈴鹿郡〇五鈴遺響 東鑑養和元年正月廿一日条云、熊野山悪僧等去五日以後乱入伊勢志摩両国、合戦及度々、焼払二見浦人家、攻到固瀬河辺之処、平氏一族関出羽守信兼相具蛭伊藤次郎以下軍兵、相逢船江辺防戦云々。今案、固瀬川カタセと訓ず、末考得ず、船江は度会郡及飯高郡に今存せり、然れども山田の船江は旧名勾村なり、松阪の船江は古街道にあらず、未詳ならず、蛭は昼生の略。
下荘《シモノシヤウ》 昼生村の南部なる大字にて、参宮鉄道の車駅也、亀山を去る凡四十町、南は一身田駅を去る三里許。
 
国府《コフ》 今国府村と曰ふ、槙尾村の東に接し、鈴鹿川の南岸に居る、北は牧田村及井田川村に至る、古枚田郷の中なるべし。伊勢国府は延喜式に「伊勢、大近国、管十三郡、在鈴鹿郡行程上四日下二日」と録す、式内|三宅《ミヤケ》神社在り、総社と称す、天武紀に、本国々守三宅連石床と云ふあり、其祖神なるべし、(神紙志料三宅神は今奄芸郡三宅村と云ふ)式内|江《エ》神社は城山《シロヤマ》に在り。(五鈴遺響江神は下荘と云ふ)○城山と曰ふは塁壕の形纔に遺る、往古府庁の跡にして、後関一党の拠れるならん。相伝ふ、元弘年中、関実治の二子盛門、国府に築き、子孫国符氏と称し、天正中に至り廃絶。〔五鈴遺響伊勢名勝志〕
補【国府城址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 国府村字長之城に在り、概ね耕地となり周回竹木茂生す、塁濠の址尚存す、蓋し往古国府所在の地ならん。
 
王塚《ワウヅカ》 国府村西方、字西野に在り、鈴鹿川に近し、面積二千六百余坪、高二丈許、何面したる古陵なり、陵上古樹林を成し、周囲に溝址を見る、土俗王塚と呼ぶに因り、倭武尊|能保野《ノボノ》御墓に擬すれど採り難し、蓋古の川俣県造のものなるべし、王と云ふも大墓の訛のみ。
補【王塚】鈴鹿郡○伊勢名勝志 国府村の西方、字西の野に在り、鈴鹿川の東岸に位す、面積二千六百廿五坪、高凡そ二丈許、南北に長く北は高くして南は稍低し、周囲土居及溝の址を存し、老松雜樹欝葱林をなす、寛平熱田大神宮縁記に「渡鈴鹿河中瀬、忽随逝水、時年三十、仍号其瀬曰能知瀬(能知者、命終之詞也)今改為長瀬訛也」とあり、本村古へ長瀬郷の地にして、隣菅内村に長瀬神社あり、而して又鈴鹿川に沿へり、此地或は其薨所には非るか、暫く疑ひを記す。
 
座頭《ザトウ》塚 座頭塚、又金かけ松といふあり、元和四年、陸奥国より凶徒へ官途に上洛する瞽者四人、参宮を志して此地に係る処、平野と国府の間にして、盗賊の為に官金を奪はれ終に殺害、京都検校是を奉行人に訴ふ、故に此処に高札を建て、黄金三十枚をかけて犯人を求めしむ、古昔平野国府より鈴鹿川の南を通して、古馬屋村に至り関駅に出るを街道とす、院本に恋女房染分手綱といふ文段は、此座頭塚を模して作れるものと憶はる、俗謡と云へども本州の関の小まんといふ旧章に作り合せたる也云々、〔五鈴遺響〕今大字平野は国府村に属し、其西に存す。
 
枚田《ヒラタ》郷 和名抄、鈴鹿郡枚田郷、訓比良多。○今国府村(大字平野)枚田村(大字平田)及び井田川村に当る如し、井田川は鈴鹿川の北岸にして、西は亀山町川崎村に接す。○此地は鈴鹿郡旧邑にして、古は川俣県造の起れる所なり、続日本後紀、承和十三年、鈴鹿郡牧田郷戸主川俣県造藤継の名ありて、川俣神社は井田川村富田に在り、其条参考すべし。
平田氏は伊勢平氏にて、伊賀平田と同族ならん、字御門垣内に城跡と伝ふ所あり、永亨年中平田喜国|海善寺《カイゼンジ》(今井田川村)に居り、後此に移り、永禄十一年賢元に至り織田氏に攻滅せらるとぞ。神鳳抄、鈴鹿郡平田御園と云は此地なり。
補【平田城址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 平田村字御門垣内、耕圃の中に在り、後に樹木を生ず、永享七年平田喜国足利氏に仕へ、鈴鹿三重奄芸等数郡を領し、本郡海善寺に城を築き、歴世之に居る、五世直隣、応仁中本村に城を築き移る、永禄十一年賢元に至りて織田氏に服せず、敵兵来り攻む、遂に自殺して城陥る。○今枚田村、広野の東方一里。
 
甲斐《カヒ》 今枚田村に属す、神祇志料云「延喜式、河曲郡|夜夫田《ヤフタ》神社、今鈴鹿郡甲斐村の藪田に
在り」と、此なり、又|岡太《ヲカタ》神社も今鈴鹿郡へ入ると、岡田の大字は甲斐の西に接し共に郡の交界にあれば、古今の変移あり。○鈴鹿川を此辺にては甲斐《カヒ》川と曰ふ
補【岡部忠澄宅址】鈴鹿部○伊勢名勝志 甲斐村字城垣内にあり、広一町余、今村民住す、相伝ふ元暦元年西海の役平忠度を獲るの功を以て、荘園五箇所を領す。○今枚田村大字甲斐。
     
川俣《カハマタ》 今|井田川《ヰダカハ》村と云ふ、和田井尻川合小田和泉富田海善寺等の大字あり、枚田郷の属にして、野登《ノノボリ》川西北より来り、此地にて鈴鹿川へ注入す。和田《ワダ》は貞和四年古文書「伊勢国、和田荘」と見ゆ、〔三国地誌〕川合海善寺小田は和田の東に接す、小田の東和泉は、鴨長明の
 伊勢ひとはひがごとしけり津島より甲斐川すぎて和泉野の原〔歌枕名寄〕
とある地なり、富田は更に其東にて、荘野村に連る。
補【和田】鈴鹿郡〇三国地誌 貞和四年古文書、右大弁宰相(藤長脚)与右大臣家政相論、伊勢国和田庄事云云。○今井田川村大字和田、亀山の東に連る。
 
川俣《カハマタ》神社 延喜式に列す、今井田川村大字|中富田《ナカトミタ》に在り土俗川又八王子と曰ふ、蓋鈴鹿川俣県造祖大比古命を祭る、延暦儀式帳倭姫命世記に、倭姫太神を頂きて鈴鹿小山宮に座す時、大比古神田神戸を進れる事見ゆ、続後紀、承和十三年、鈴鹿郡牧田郷戸主川俣県造藤継女の名あり其氏人とす。○東海道図会云、富田八王子祠は、街道を背にして立たり、為村卿紀行に 「降雨に風さへ添て今日笠の雫も繁き森の下遣」とあるは此なり。
補【川俣】○神祇志料 天照大神の御杖代伊勢桑名野代宮に坐時、伊勢国造祖建夷方命神田神戸を進りき、次に河曲鈴鹿小山宮に坐時、川俣県造祖大比古、安濃県造真桑枝並に神田神戸を進りき、次に壱志藤方片樋宮に坐す時、壱志県造祖建呰子、飯高県造乙加豆知並に神田神戸を進りき。
 
英多《アガタ》郷 和名抄、鈴鹿郡英多郷。訓安加多。○今|川崎《カハサキ》村及|野登《ノノボリ》村荘内村に当る如し、井田川村の西、亀町の北にして、野登川の谷なり、川崎は旧称県村と曰へり。
 
県主《アガタヌシ》神社 延喜式に列す。今川崎村に在り、方俗|穂落《ホオトシ》明神と曰ふ、蓋伊勢県主の祖倭武尊を祭る、古事記に「倭武命御子、武具見王、伊勢之別、宮首等之祖」とありて姓氏録には「県主、日本武尊之後也」と記す。○延喜式|志波加支《シハカキ》神社は河崎村峰城址の北に廃址を遺す、那久志理《ナクシリ》神社は河崎村字名越に在り、弥牟居《ミムケ》神社は県主社の西十町に在り、林尾崎天王と曰ふ。〔五鈴遺響神祇志料〕
補【河崎】鈴鹿郡〇五鈴遺響 和名抄県郷なり、式内志波加支神社 本邑の内柴崎に古昔神社あり、今廃してなし、村老に探索するに、峰の城旧址の北に宮ヤシキといふ処あり、土人柴垣サマと称せり、然れども社宇なしと答ふ、○式内県主神杜、同処にあり、方俗穂落の社と称す。
 
田村《タムラ》大塚 川崎村の南、大字田村の女坂に在り、一名|丁子《チヤウジ》塚と曰ふ、面積一千六百坪、周回一百八十間、高二間許、土俗倭武尊能保野御陵と曰ふ、能保野は鈴鹿郡東北の山野を総称せるにて、川崎村の西なる野登山も之に因める称なれど、此塚は御陵に擬すべからず。
補【日本武尊陵】鈴鹿郡○伊勢名勝志 一に王塚、又丁子塚と云ふ、田村字女が坂にあり、高二間余、面積三千六百六十坪、周回百八十四間、松樹森欝たり。○川崎村大字田村。
 
峰《ミネ》城址 川崎村の高処っを曰ふ、関の一党峰氏の城墟也、故に殿町と字す。○峰城跡は、北東南は水田繞り、西は山脈を承く、高七十尺、山頭平坦にして、天守台石塁の跡明なり、元弘年中、関実治の五子、政実之に居り、峰氏と称し、子孫世襲して天正年中に至り、其家滅し城廃す。〔勢州軍記伊勢名勝志〕○峰城は、天正十一十二年の比、羽柴・方織田方相戦ふに当り争へる所なり、関万徹〔また鉄〕斎一旦之を略取し、後廃毀したるならん、峰氏は之より先き織田氏の兵に攻滅せらる。
補【峰城址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 河崎村字殿町に在り、北東南は水田に接し、西は小谷の山脈に連る、高七拾尺、山上平坦なり、天守台石塁の址存す、元弘中関実治の五子政美城を築き、之に居り峰氏と称す、歴代之に居る、天正中城遂に廃す(勢陽軍記背書・国誌・九々五集)○今川崎村、亀山の北二里にあり。
 
野登《ノノボリ》 川崎村の西なる山地にして、今野登村荘内村の二に分る、野登山は鈴鹿山の北に連り、三重郡の諸嶺に接す、其西背は近江甲賀郡に属す、野登の高峰を鶏足《ケイソク》山と名づけ、野登川之より発し、川崎村の東に至り椿川を容れ富田に至り鈴鹿川に入る、長凡四里。○古事記伝云、能煩野は一連の大野にして、鈴鹿郡の東西の極《ハテ》までわたれる、西の方は漸く高くして登る地なれば、名義|登野《ノボリノ》なるべし、斯くして西の極は高山並続きて、(近江の国堺なり)、其中に野登山と云ふありて、最高し。
補【野登山】〇五鈴遺響 当山七八分より麓は万樹欝葱として松柏老て枝を交へ、高峰を鶏足山といふ、西の山岨を攣登れば仙が岳なり、近江一国過半一望の中にあり。
 
野登《ノヽボリ》寺 野登山中に在り、字を坂本と曰ふ、此寺延喜年中僧仙朝開基、慶長六年関一政寺領を定めたるより、後亀山城主代々先規により給与する所あり。〔伊勢名勝志〕
補【野登寺】鈴鹿郡○伊勢名勝志 野登村野登山の坂本に在り、延喜七年四月憎仙朝、醍醐天皇の勅願により創立す、堂宇荘厳にして奕世繁盛なりしか、天正十年兵燹にかゝり焼亡す、慶長六年関一政寺領を寄附す、後亀山城主代々先規により之を給す、寺地高峻にして眼下十数里の地一目に尽すべし。○今野登村。
 
遍法《ヘンボウ》寺 野登山の麓、大字辺法寺に在り、今|不動《フドウ》院と曰ひ衰微に就く、東鑑、文治三年の条に、遍法寺領の事あり、当時大江広元の所職と見えたり。〔五鈴遺響〕
補【野登】鈴鹿郡〇五鈴遺響 文治年中鎌倉大江広元領知、旧名遍法寺、今辺法寺に誤れり、東鑑文治三年三月不勧仕庄遍法寺領広元云々。
○辺法寺不動院、同処にあり、昔は大刹なり、寺塔の蹟若干遺れり。
 
原《ハラ》 今三畑と合同し荘内《シヤウナイ》と改む、川崎村の北に在り、原村の八島明神は、延喜式|天一鍬田《アメヒトツクハダ》神社なりと、〔神祇志料〕天一とは神代巻に天日一筒命と曰ふ神にや、此神は刀斧鉄鐸を造り、伊勢忌部の祖なる由、日本書紀古語拾遺に見ゆ。○原村に松尾道場の廃址あり、此は寛正の比高田派流専修寺真恵上人留錫の所にて、当時峰城主筑後守某と不和の事ありて、此を去り一身田に就けりとぞ。〔伊勢名勝志〕
補【松尾道場址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 原村の西北部字上野に在り、一森林をなし樹木欝蒼たり、本堂支院及溝渠等の址尚存す、寛正中専修寺中興僧真恵、本州巡化の際本郡小松村中山寺より此に至り、留錫すること六年、教化大に行はれしが、峰城主峰筑後守と意会はずして去る。○川崎の北にて、今荘内村と曰ふ。
 
庄内《シヤウナイ》山 原村の北椿村の交界に在り、白色の巨岩聳立す、高二百間幅五十間許、頗壮観なり、土俗石大神と曰ふ。
 
長瀬《ナガセ》郷 和名抄、鈴鹿郡長世郷訓、奈加世。○今|深伊沢《フカイサハ》村及椿村なるべし、川崎村の北、椿川の谷にして、東は高宮郷に至る。西北堺は三重郡甲賀郡に至る山嶺之を擁す。○熱田舎寛平縁記云、日本式尊、渡鈴鹿中瀬、随逝水、時年三十、仍号其瀬曰能知瀬、今改為長瀬訛也。○日本式尊東征の帰途、此にして長逝したまふ、其路程は三重郡より鈴鹿川の岸に沿ひて登りまさず、却て野登の上方の地を経過したまふに似たり、迂回の故を詳にし難し、従て御陵墓の所在に就き二説あり、一は長瀬郷長沢に在りと云ひ、一は高宮に在りと云ふ、二所相去ること二里許、其是非判別し易からず、両擬陵并び挙げて、後の考定をまつ。
 
長瀬《ナガセ》神社 今深伊沢村大字長沢に在り。神祇志料云、長沢村深広寺は長瀬山と号し、寺蔵恵心筆の寿像にも長瀬山白方院と題す、本村即長世郷なり、延喜式長瀬神は、今白鳥大明神と云ふ〔慶長六年棟札神名帳考証神名帳検録〕蓋日本武尊を祭る〔寛平縁記慶長六年棟札深広寺略緑記〕初め日本武尊伊勢に移り、熊褒野に至り給ひ、鈴鹿山を過坐時、御病いと危迫、鈴鹿河中瀬を渡りて、忽に逝水と共に薨給ひき、故其瀬を能知瀬(能知は命終ると云詞也)と云、今改て長瀬と云は訛也」〔寛平縁記〕とある即是也。○古事記伝云、長瀬村の古塚は日本武尊御陵に非ず、然れど尊の氏人など遠祖の御陵の辺を慕ひて、此野に葬りしにもあらむ、長瀬神社の神像は背の長き御像なりと云ば、日本武尊御長一丈余とあるに由あるに似たり。
 
建部塚《タケベヅカ》 日本武尊の御陵なるべしと云ふ、塚墳数所あり、蓋日本武尊の裔孫、建部氏県主などの古墓なるべし、寛平熱田緑記に長瀬に薨崩の事を記すれば、由緒ある地なり、之を日本武尊陵と称するも、以なきに非ず。〇五鈴遺響云、長世郷の曠野の中に陵墓あり、俗に多気比墓又|武備《タケビ》塚と云ふは、建部の訛なるべし、この壕は石薬師駅より二里余西方、長沢村の北なる林中にありて、高六七尺許の小塚なり小き木竹など生茂けり、前に社ありて之を武日明神と曰ふ、近世建部綾足私に石を建て御陵と曰ふ、其北五町許の塚は、西にあるを宝装塚、東にあるを開田塚と俗称す各石標に建てたり、其塚広三間四方許、東西の二塚相去ると十間許とす、其西一町許にも車塚と云者あり、すべて此の古墓は高大ならず、又村の西南の方の野中に、高一丈あまり、周十丈許の古塚あり、東面の半腹の土の崩れたる処に穴ありて、二子穴ともいへり、其辺ここかしこに大石どもに地に埋れたるが、聊か露れたる者幾つもあり、又此塚の西の方にも一塚あり。
建部凌岱は陸奥の人、江戸に徙り俳歌及絵事を以て生業を為し、家産以て富む、是時に当りて加茂真淵大に万葉の古風を唱へ、名声籍甚、凌岱乃妻をして従ひ学ばしめ、己れ亦因て其説を聞くを得たり、是より俳歌を鄙しみ、自ら一家の言を立んと欲し、始めて片歌を唱ふ、片歌は日本式尊を以て開祖とす、京師に徙り専ら片歌を以て徒を誘ふ、伊勢能保野は日本武薨去の地なり、凌岱碑を樹て、之れを誌す。
補【建部塚】鈴鹿郡〇五鈴遺響 鈴鹿郡長世の郷曠野中有陵墓、俗云多気比墓と、建部の訛か、此武備塚といふ、又同林の中其塚の後の方に車塚、又一丁許東南の方に宝冠塚・宝装塚など云ふものあり、並にいと小き塚なり、倭建命の御末に建部氏ありて、後に此国の安濃郡などに其氏の人あれば、遠祖の御陵の辺を慕ひて同じく此野に葬りし墓などにもあらむか。
補【武日社】鈴鹿郡〇五鈴遺響 長沢村の竹林中にあり、武日明神と俗称す、近せ建部綾足此処を倭武命の御陵として石を建つ、此所より五町許北に古塚。
 按、長沢村深広寺の事を同寺縁起に長瀬山宝蔵寺とみえ、恵心筆の寿像に長瀬山白方院とあるを見れば本村即和名抄所謂長世郷の地なる事明らけし。
補【二児塚】鈴鹿郡○伊勢名勝志 一名日の穴、長沢村の北方字能褒野に在り、面積三十一坪、傍に穴あり、深副共に二間許、大石を以て之を畳む、又塚の東西に守戸の宅址あり、石垣今に存せり。○今深伊沢村大字長沢、石大神山の東麓に近し。
 
椿《ツパキ》 深伊沢村の西北を椿村と為す、鶏足山荘内山西南を蔽ひ、北は入道岳を以て三重郡界を限る、渓嫺(さんずい)は南注して川崎に至り、野登川に入る。○入道岳の山隘より江州鮎川村に山径を通ず。
 
椿《ツバキ》大神社 延喜式に列す、椿|大社《オホコソ》神社と称すべきか、椿村大字小社の名あり。三代実録、貞観七年椿神授位の事見ゆ、今大字山本に在り、社宇は寛永年中亀山城主本多氏修造する所なり。神祇志料云、椿大神は今山本村椿岳の麓にあり、一宮椿大明神と云、即伊勢一宮也、(本社所蔵唐暦永徳明徳筆写大般若経跋一宮記神名帳考証勢陽雑記椿詣記式内社検録)社の坤位城内に前方復円西向の大塚あり、高山塚と云、是大神の霊陵なるべしとぞ。○椿神は本国諸所に在り、祭神詳ならず、延喜式三重郡、椿岸神社は本社の北一里余、椿尾山に在りしを、何の世にや移し来りて、今本社の東北|旅所《タビシヨ》森に在り、又式内|小岸《ヲキシ》大神社あり、同く椿神の裔社ならん、今大字|小枝須《ヲキス》に鎮坐す。
補【椿大神社】鈴鹿郡○伊勢名勝志 式社、山本村椿岳麓、寛永中亀山城主本多氏再造、本州一宮。
補【椿岸神社】○神祇志料 今鈴鹿郡椿木神社の東北旅所森、御輿宿殿の北にあり、旧三重郡椿尾山にありしを此に移すといふ(式内社検録)
 按、社を移す年代詳ならねど、椿社祭祀の日神輿を其社頭まで舁行く例なるに、−里余の遠程を以て此に移せる也、按、式内社検録云、社の坤位域内に前方後円西向の大塚あり、高山塚と云、是大神の霊陵なるべしと云り
清和天皇貞観七年四月乙丑、従五位上勲七等椿神に正五位下を授け(三代実録)〔脱文〕○神祇式、三重郡椿岸神社。
 
椿《ツバキ》山 椿村小岐須より坤位十八町、小岸山野登山の陰也、東西五十間高二百間許の巨巌あり、此ーを指して方俗石大明神と称す、石神社より十丁余奥に滝山或は祓山御贄山といふあり、屏風岩あり高五十丈許、其流水の前に俗に括りと云ふ所あり、岩石径六七間重り括るの如し、両巌絶壁にして石大神《イシダイジン》に同く白石なり、此辺岩窟あり入ること七八間許、石鐘乳に似て白色なるものあり、方俗骨石といふ、鮎どめの滝あり。○西遊旅談云、石大神は石薬師駅より四里山中に入る、白石直立して数丈の高あり、石大神よりすこし入れば屏風岩あり、十八九町許の間渓水の両岸絶壁其色白し、松楓等之に生じ、秋は紅葉して画のごとし。
補【石大神山】鈴鹿郡○伊勢名勝志 山岐須村の西南部、字庄内山に在り、白色の巨岩峨然聳立す、高二百間、幅五十間許、頗る壮観となす、世に称する所石大神是なり、御幣川其麓を流る、古老伝へて云ふ、往昔敏達天皇駐蹕ありし処なりと。○川崎の西北山中にあり、椿村大字小岐須、江州境也。
 
高宮《タカミヤ》郷 和名抄、鈴鹿郡高宮郷、訓多加美也。○今高津瀬村荘野村石薬師村等なり、枚田郷の北、長瀬郷の東なり、其東は河芸郡川曲村に隣比し、其北久間田村は旧三重郡葦田郷の地なるべし、鈴鹿川は郷の南界に在り。
 
庄野《シヤウノ》 今荘野村と曰ふ、近世は官道の駅家なりしが、今は車駅を高宮にうつさる。○五鈴遺響云、荘野は古の荘園の地にして、能褒野の内なるが、寛永元年より郵亭を置て駅となれり、神鳳抄「内宮、庄野御園」とあり、駅中に火米《ヤキゴメ》を桃李実の如く小俵子に造りて、毎戸に售れり羅山の丙辰紀行にも此事を記したり。○回国道記(岩佐又兵衛)云、馬にまかせて亀山に着く、今日本の御主古今不双の名大将にて、江戸の地に城郭をしめ給へば、江戸往来は高麗もろこしの人まで満ちみち、折々上洛ましませば、此海道の広き事はゞ十五間に道作り、双に千代ふる松を植ゑ、江戸と都と其間百三十里の道なれど、山はたかひき引ならし、川には船橋うちわたせり、此亀山と聞く名さへめでたかりける名所なり、亀山過ればせう野の里なり。○荘野と高宮は南北相接比す。
 
高宮《タカミヤ》 今都賀村広瀬村と合同し高津瀬《タカツセ》の新号を立つ、上月記に長禄元年勢州高宮庄と曰ふは此なり、今鉄道車駅あり、亀山を去る二里、四日市を去る四里許。
 
綺宮《カムハタノミヤ》址は、高宮村御所垣内の地なりとも、又字宮崎なりとも云ふ、蓋綺は此里に倭文を織れるを以て其名起る、景行天皇此に居たまへる事あり、日本書紀云、天皇従東国還之、居伊勢也、是謂綺宮。○按に綺は加牟波多と訓み、川俣と相近似す、綺宮即川俣宮かと疑はるれど、明徴なければ今旧説に従ふ、高宮の号も此等の事に由れるもの也。
補【高宮荘】○上月記 長禄元年勢州高宮荘。○今高津瀬村大字高宮、庄野と相接す、駅舎なり、石薬師に近し、荘野村。石薬師村。○久間田村は三重郡の葦田郷と混乱ある如し。 
倭文《シツリ》神社 延喜式に列す、今高宮に在り。五鈴遺響云、此郷俗紡織を業とし、或は縞文の類を織出す、高宮縞と称す、倭文は青布に文ありと注すれども、文采は織難し即縞にして今俗シダウ島と称するはシトリ縞の訛にして、倭文なるべしと思はる。正法寺《シヤウホフジ》址○此寺明治五年廃す、椎山と称し、高宮村字的場に在り、相伝ふ天平中開創と、東鑑文治三年、伊勢国遍法寺領慈悲山領と見ゆ、慈悲即椎山にて、寺内に椎樹多かりしと云。〔伊勢名勝志〕
補【正法寺址】鈴鹿郡○伊勢名勝志 高宮村字的場に在り、今耕宅地たり、山中椎樹多し、因て椎山と称す、伝へ云ふ、天平宝字中聖武天皇伊勢国へ行幸の時、僧行基創立す、又源頼朝八拾町の田を寄附すと、東鑑文治三年四月条、不勧仕庄の項に遍法寺領広元、慈悲山領と記す、即ち是なり、明治五年無住により廃寺す。○今高津瀬村。
 
能褒野《ノボノ》陵 日本武尊の御陵なり、今高宮の鵯《ヒヨドリ》塚蓋是な、延喜式能褒野墓、日本武尊、在伊勢国鈴鹿郡、兆城東西二町南北二町。又日本書紀云、日本武尊入膽吹山、跨大蛇、於是始有痛身、然梢起之、移伊勢、逮于能褒野、而痛甚之、崩于能褒野、仍葬於野時、尊化白鳥従陵出之、指倭国而飛之、群臣等因以開其棺槻(旁親)而視之、明衣空留、而屍骨無之。○古事記云、倭武命御病甚、急爾御歌曰、
 をとめのとこのべにわがおきしつるぎのたちそのたちはや、
歌竟而即崩、爾貢上駅使、於是坐倭后等及御子等諸下、到能煩野而作御陵、即匍匐廻其地之、那豆岐田而哭。東海道図会云、白鳥塚は荘野より十町許東、高宮村に在り、土人誤て鵯塚と曰ふ、陵高十八間東西二十五間南面す、其辺より土器の類出づ。〇五鈴遺響云、高宮村の南椎山の山脈に続きて一堆の山丘より、形円にして上下二段に重畳して、茶臼に似たり、方俗茶臼山或丸山或経塚山或鴨塚といふ、是白鳥の陵なり、北は広瀬野に続きて馬鬣村の威儀遺れり、往年曲玉及埴輪甍壷の類を掘出せしとぞ。○古事記伝云、能褒野御陵高宮の白鳥塚なるべし、甚高く大にして円し、周に堀の形などもかつ/”\残りて、全く上代の御陵どもの状なり、先は此ならむとぞ覚ゆる、谷川氏ひよどり塚と云是也、度会延佳の曰へる建部墓は御陵のさまに非ず。
 
能褒野《ノボノ》 能登川崎井田川深井沢椿荘野高瀬石薬師の諸村に渉る山野の総名ならん、鈴鹿川を以て南界と為し、地勢南北に向ふて漸高なり、登野の義ならんと云ふ。古事記伝云、鈴鹿郡の北方は過半みな野にて、古へ能煩野と云しは大名にてぞありけむ、今の広瀬野《ヒロセノ》(広瀬原は猶三百数十町の空閑を遺す)鞠賀野又五十師原など云も、此野の中なり。○按に大安寺資財帳に「鈴鹿郡、大野百町、四至東北野、西高山、南石間河之限」とあり、蓋能煩野の中ならん、今椿村に大字大野あり、西は高山と云地勢なれば其処にや。
   古事記云、倭建命到能煩野之時、思国以歌曰、
 夜摩苔はくにのまほらまたゝなづくあをがきやまこもれる夜摩苔しうるはし、又歌曰、いのちのまそけむひとはたゝみこも幣遇利能夜摩のくまかしがえをうずにさせそのこ、此歌者思国歌也、又歌曰、はしきよしわぎへのかたゆくもゐたちくも、此者片歌也。
 
石薬師《イシヤクシ》 今村名と爲る、石薬師堂西福寺あり、高宮の東にて官道の駅舎なり、旧名を高富《タカトミ》里大木と曰ふ、元和二年より駅次に定まる、東郊を鞠賀《マリガ》野と曰ひ川曲村山辺に接す。○万葉集に「山辺の五十師《イシ》原」の句あり「今石薬師仏と云は、地の上に自に立る大きなる石の表に、仏の形をいり附たるにて、此石あやしき石なり、因て思ふに仏をいり附たるは後の仕業にて、上代よりあやしき石のありしによりて、石の原とは名に負たるならむ」と略解に見ゆ。延喜式、本郡石神社あれど今此地になく、昼生村又椿村に石神と云者存す、猶考定すべし。
補【石薬師】〇五鈴遺響 東街官道に民居す、三重郡四日市駅より馬次の駅舎なり、伊志耶久斯と訓ず、旧名大木と称す、高富郷の総郷なり、元和二年官より駅を置る、石薬師と改名せり。〔元政詩、第五句一本「百痾有自性」に作る〕
 
西福《サイフク》寺 又石薬師寺と曰ふ、真言宗を奉じ、神亀年中僧泰澄開基と称す、本尊石像長七尺五寸、金輪際より出現の霊石也、天正の兵燹に罹て仏閣一時に煙となる、幸に本尊は災を免れ時の住職の夢中に示現あり秘法を教へ玉ふ、精米を加持し世上に与へ病難を救ひ、殊には乳汁なき婦人は乳出る事滝の如しと、是を薬師の八割米といふ、一柳直盛侯当国神戸居城の時、種々の奇特を感じ本堂院内再建あり。
   石薬師         深草 元政
 纔過荘野郵、有寺聳高楼、西福門前景、東方世界秋、百阿無有性、四大一浮區(さんずいあり)、刻石薬師仏、此言須点頭、
西行法師山家集に「伊勢の西ふく山と申処に侍りけるに庭の梅芳しく匂ひける」とあるは石薬師西福寺の事ならずや。
   石やくしにてかきつく
 国富や薬師のまへの綿はつ穂、    鬼貫
 
補|大野《オホノ》 ○大安寺伽藍縁起流記資財帳 錦鹿郡大野百町、四至、東北野、西高山、南石嫺(さんずい)河之限。〔未詳〕
 
    三重郡
 
三重《ミヘ》郡 東は海、西は八峰《ハツプ》鎌岳を以て江州に界し、南は河芸鈴鹿二郡に接し、北は桑名|員弁《イナヘ》二郡に至る、明治二十九年、旧|朝明《アサケ》郡の地を本郡に併入したる也。今面積凡十七方里、人口十一万、一町二十九村に分る。○本郡鉄道は国道と相並び、海に沿ふて走り、富田四日市河原田の三駅あり、四日市は海運の利を亨け、北勢の都会なり郡衙を此に置く。
旧三重郡は千草坂部以南の諸村なり、(文禄検地五万六千石)和名抄、三重郡、訓美倍、五郷に分つ、南界三重鈴鹿両川の間に、村里古今の出入あり、神宮雑例集に、員弁朝明三重を神郡に加へ、道前と号する由見え、東鑑「建久元年、加藤左衛門尉光男諌申云、伊勢国道前郡政所職者、為祭主為恩顧之間、所従其成敗也、神領知行事者、本自開発之地、寄附神祝許也、難称押領」○古事記云、倭建命、幸到三重村之時、詔曰、吾足如三重勾、而甚疲、故号其地謂三重。日本書紀、天武天皇、従駕者衣裳湿、以不堪寒、及到三重郡家、焚屋一間、而令温(火偏)寒者。按に三重村と郡家は一所にて、采女郷に同じ、古事記伝曰、朝倉宮(雄略)段に三重釆(女偏)見え、今も采女村あり、三重川もそこに近ければ、其辺なるべし、三重勾とは和名抄に「環(米偏)餅、形如藤葛者也、和名万加利」字鏡に「餌、万我利餅、又饌飴同、万加利」と見え、大嘗会寮式供神雑物中にも勾餅あり、上代より有し者なることを知るべし、御足の腫まさりて勾餅の如く成れるに、譬へ給へる也。補【三重郡】〇五鈴遺響 文禄検地五万六千石、元禄検地六万石。○今十二方里、七万余、一町十八村。
     ――――――――――
釆女《ウネメ》郷 和名抄、三重郡采女郷、訓宇禰倍。○今|内部《ウツベ》村(大字釆女)及鈴鹿郡|久間田《クマタ》村是なり、内部川の中游に居り、東は川後郷西は葦田《アシタ》郷なり、釆女一に釆(女偏)に作る。釆(女偏)
武紀に見ゆる三重郡家は即本郷にて、三重川は今内部川と称ふ。古事記伝云、朝倉宮の御時、伊勢釆(女偏)三重子が歌よみて罪を免れ禄を賜ること見たり、後世采女郷と云は全此釆(女偏)がいとど名高かりし故なるべし、但し郷名宇禰倍とあれば、釆(女偏)部の意なり、延喜式にも采部と見えたり、此は宇那宜弁の切たるにて、物を項《ウナジ》に掛るを云ふ、神代巻に所嬰《ウナゲル》などある是なり。
朱女城址今内部村大字采女の北山に在り、古井墳墓の廃址あり、後藤実基元久元年平氏の遺類を誅伐し、乱後本郡を管治し、男基清は承久の乱に敗死す、其裔孫本邑に給食して、永禄年中に至ると云、〔伊勢名勝志〕神鳳抄、采女御厨。
補【采女】○大安寺伽藍縁起流記資財帳 三重郡釆女郷十四町、開二町五段、未開田代十二町五段、四至、東公田、南岡山、西百姓宅、北三重河之限。
補【釆女城址】三重郡○伊勢名勝志 釆女村字北山に在り、樹木繁茂す、古井墳墓の址尚存す、後藤実基元久の乱後本郡を管す、男基清承久の乱京師に属し誅せらる、男基綱は関東に従ひ評定衆となる、子孫永禄十一年織田信長に亡され、城遂に廃す。
 
杖衝《ツエツキ》坂 古事記云、倭建命、到能褒野、自其地差少幸行、因甚疲、衝御杖稍歩、改号其地謂杖衝坂也、幸到三重村。○古事記伝云、延佳曰、按伊勢国、自桑名郡入来、則経尾津、次三重、次杖衝、次能褒野、是今之順路也、由是考則自「自其地」以下二十四字、当在下文「三重」之下乎と、此坂は実に三重郡と能煩野の間にて、釆女村の西のはづれより登り、坂の上は平野なり、但古の大道は今のより三町許北方とぞ。○按に杖衝坂より高宮鵯塚は順路にして、西南一里を隔つ、長沢(今深井沢村)の建部塚は西北二里を去り巡路に非ず。
  「桑名よりくはで来ぬれば」と云日永里より
  馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍打かへりて馬より落ぬ
 歩行ならば杖つき坂を落馬かな     芭蕉
   と物うさのあまり云出侍れど、終に季のことば入らず。〔笈小文〕
回国道記、(岩佐又兵衛)石薬師の宿を出、たどり/\て行程に、実にや其名も旅の道、杖つきにこそ着にけれ、
 老らくのためにはよしや杖つきのつきぬ旅路をたどるこの日に。
補【杖突坂】○日本名勝地誌 内部村大字采女に在り、里伝に云ふ、上古日本武尊東征の時、桑名郡美津村より能褒野に至るの時、帯ぶる所の剣を杖き此坂を攣ぢ給ふと、側らに古塚あり、芭蕉此坂を過ぎ句あり、「かちならばつゑつきざかを落馬かな」近世碑を建て此句を刻せり。
 
内部《ウツベ》川 水沢《スヰサハ》村鎌岳入道岳より発源し、東流葦田郷采女郷を過ぎ塩浜にて海に入る、長六里、旧名三重川なり。一説、四日市の御滝川を三重川に擬するは謬れり、大安寺資財帳云「三重郡采女郷、十四町、四至東公田、南岡山、西百姓宅、北三重河之限」とあるに拠れば、三重川は采女郷に接比し即内部川たる事明白也。
 わがたゝみ三重の河原の磯うらにかくしもがもと鳴く河蝦《カハヅ》かも、〔万葉集〕 
小古曽《ココソ》 今内部村に属す、三重川の北岸に在り、延喜式、三重郡小許曽神社在り。
 
小松《コマツ》 今内部|久間田《クマタ》両村に分属す、采女の西にて、月見山中山寺の故跡此に在り。専修寺高田
正統伝云、又采女の城主後藤釆女正が妻室、大神宮に参詣両度に及び、御拝を不遂を甚だ歎き、真恵上人に語る、上人即守の札を与へ玉ふ、往て恙なく両宮拝ありて、喜悦限なく上人に帰依す、彼守符を開き見るに犬といへる字あり、采女正怒て我妻に畜生の符を与へしとて、軍兵を発し中山寺を襲ふ、真恵過て吉尾に趣き、更に庵芸郡黒田誓祐の招きに応じて、黒田に遷り玉ふと云々。
 
葦田《アシミタ》郷 和名抄、三重郡葦田郷、訓安之美多。○今|水沢《スヰサハ》村及小山田村なるべし、内部川の上游に在り、古事記伝に「安之美多は倭建命|三重《ミヘ》にて、足を傷みなやませ玉ふに因めるならん」と曰へり、然れども姓氏録「大和未定雜姓、葦田首、天麻比止津乃命之後也」とありて鈴鹿郡に天一神あり、葦田氏の住みける地ならんとも思はる。
 
足見田《アシミタ》神社 今水沢村に在り、八古明神と曰ふ、〔神紙志料〕或は云ふ此神は倭建命を祭ると、〔古事記伝〕延喜式、三重郡に列す。
補【足見田神社】○神祇志料 今蘆田郷水沢村にあり、八古明神といふ、凡そ毎年八月十四日祭を行ふ(神名帳考証・菰野藩調帳・式内杜検録)
 按、拝殿額に正一位葦見田大明神とあり、地祖帳に葦見田あり、又あせみ川の涯の田を葦見川と字するもの証とすべし
 
水沢《スヰサハ》 此村の西嶺字|入道《ニフダウ》岳に黄玉石煙水晶電気石を産出す、又字中谷に、花崗岩中より、黄鉄鉱と交り、辰砂現出す、土抄中に往々水銀の滴り居ることあり。○水沢村字西野に楓溪り、冠峰の麓にて老株澗に満つ、文化六年、菰野侯土方氏遊賞して、碑を立て銘を勒す。水沢の北一里を菰野《コモノ》村とす。
補【水沢】三重郡○地学雑誌 水沢村入道山に黄玉石・電気石を産す、此山中(字中谷)に花花崗岩中に黄鉄鉱と交り辰砂現出す、砂中に水銀の滴ることあり。
○日本名勝地誌 楓渓は水沢村字西野に在り、楓数百株、幽渓の間を囲む、文化六年九月土方侯石に刻す、曰く、山房燗(木偏)楓之勝伝播於遠邇、秋冬交四方騒人来遊、是以其声益噪、今茲秋君侯渉命(賤の旁+リ)、伐雜附妨観者数百株、伐臣者道係之辞、因恐惶□以奉之日、
 冠峰之麓 欄(旁間)楓成林 物換星移 松柏森々 一朝尋斧 観奇於初 青女殿秋 繍惟四舒 且丹且紅 蜀錦(言+巨)加 觴焉咏焉 誰不停車
 
河内《カウチ》 水沢村の字に遺る、延喜式、椿岸神社旧此地に在りしを、今鈴鹿郡椿村一宮に移さる、大安寺資財帳に河内原椿社の名見ゆ。
補【河内原】三重郡○大安寺伽藍縁起流記資財帳 三重郡河内原六十町、開六町、未開田代五十四町、四至、東椿社、南鎌山登道、西山、北牧木之限。〔頭書〕水沢なり。○今〔水沢〕の辺ならん、鎌岳は其西方に聳ゆ。〇五鈴遺響に楼村の字|知積《チシヤク》寺は旧寺址にて、此に椿神明宮ありといふ。
 
鎌岳《カマガタケ》 一に冠《カムリ》山と称す、直立三千六百尺、水沢村の西嶺にして、山背は江州甲賀郡に属す、大安寺資財帳に鎌山と曰ふもの此也。帳云「三重郡河内原六十町、四至東椿杜、南鎌山登道、西山北牧木之限、右天平十六年納賜者。」
   冠山爆布歌贈雪鼎上人            江村 北海
 雪鼎上人氷壷心、自道山水是知音、曽歴南豫又北越、到処名山究討尋、今年金錫駐勢州、高躅始試冠山遊、冠山奇絶世無識、
巨霊蔵俣上人求、山寺鳴鐘水村鶏、肩輿(口+伊)吼転入渓、渓勢漸狭泉漸響、松杉風回笙竿斉、棲鶴在巣護崩崖、
陰洞往往見異花、石路難著謝公(し)、苔桟堪回王者車、轎夫気喘寸不進、牆面芙蓉(直三つ)千仞、上人杖履如踏平、同侶因何目得瞬、大石若屋或似門、紫葛翠篠繞其根、左山右山争出嶮、前水後水相逐喧、始疑白虹倒絶壁、徐知瀑布潟巨壑、噴珠散乱大如斗、雲奔電掣闢霹靂、冠山瀑布奇又奇、上人収拾画与詩、画伝其状詩伝神、詩画併奇達京師、明窓(火+主)香披展間、感極慨然歎人寰、山水顕晦亦有待、世上虚名好是閑、
 
河後《カハシリ》郷 和名抄、三重郡河後郷、訓加槃之利。○今河原田村(大字河尻)日永村塩浜村に当る、内部川の末に居る、神鳳抄「河後郷、二宮方神田」と見ゆ。
 
河原田《カハラダ》 内部川の南にて、采女郷に接す、五鈴遺響に「神鳳抄、今河御厨と云は此なり、采女郷に属せる地なり」と曰ふ、今此に鉄道車駅あり、鉄道は此地にて西に屈折し、南方神戸(一里)に達せず、○河原田の東に一溝あり、内部川と鈴鹿川を交通す。補【河原田】三重郡○勢陽五鈴遺響 三重堺川の南にあり、田畝の地なる故名く、神鳳紗「三重郡今河御厨、(内宮)」今の河原田の内今宿なりと云、采女郷の内なり。
 
大治田《オバタ》 今河原田村に属す、内部川の北岸に在り、旧名小幡なり。東鑑、承元元年十一月の条に曰「小幡村者、為伊勢平氏富田三郎基度、年来忽諸領家押領之、滅亡之後、又為収納地、被補新地頭之間、領家女房頻愁申之、為大夫入道善信奉行、今日停止其職、如本可為領家進止之由、被仰遣」云々。又玉葉集の詞書曰「二条院讃岐、いせの国にしる所侍りけるに、わづらひあるによりて、鎌倉右大臣にうれへむとて、あづまにくだり侍りけるに、ほいのごとくなりてのぼり侍りければ、申つかわしける、
 をはただの板田の橋のとだえしをふみなほしてもわたる君かな           善信
 朽ぬべき板田のはしの橋づくりおもふまゝにもわたしけるかな。          讃岐
按に前輩此歌の作者善信は、親鸞上人の法諱と同じければ、親鸞の作とするは僻説なり、東鑑に載る処の小幡は富田基度が押領せる東富田に邇き処なれば、三重の大治田なるに必せり、領家の女房と云は二条院讃岐にして、源頼政の女なり、善信は三善朝臣康信の法名なり、然るに此小幡に小墾田板田の橋を咏入たるは、大和国の名所を引たるなり。〔五鈴遺響〕
補【大治田】三重郡○勢陽五鈴遺響 日永の巽位にあり、於婆多と称せり、旧名小幡なり、東鑑巻十八承元元年十一月十七日条云、伊勢国小幡村。
 
日永《ヒナガ》 河原田村の北神鳳抄|日長《ヒナガ》御薗此也、字|追分《オヒワケ》は東海道と参宮道の岐にして、駅舎あり、神宮まで十六里。四日市へ一里半。
 行わびぬいさ浜村に立よらん朝明すぎては日長なりけり 〔夫木集〕          長明
浜村と曰ふは、今の塩浜《シホハマ》村なるべし。
補【日永村】三重郡○伊勢名勝志 東海道に属す、神鳳鈔載する所、岡本御薗、日長新御薗、長(ママ)田御薗の地なり、此地多く団扇を製して販売す、俗日永団扇と称す、浜田村、東海道に属す、旧と浜村と称す。
補【日永城址】三重郡○伊勢名勝志 日永村字登城山に在り、山上平坦にして老松欝々空に聳ゆ、伝へ云ふ、平氏の党日永楯(一に館に作る)三郎之に居る、元久元年三月、若菜五郎等と共に乱を作し、平賀朝雅の為に滅され城廃す、此地東内海を望み、尾張参河の連山は海を隔てゝ隠見す、頗る風景に富むを以て春時登臨するもの多し。
 
六呂見《ロクロミ》 今日永村の大字にて、塩浜に在り、観音堂は浜宮内院と称し、本尊四足八鳥の像の上に立つ、後花園院御宇、僧良忠開基とぞ、〔参宮図会〕土俗四足八鳥をロクロミと訓む、其意を詳にせず。
 
塩浜《シホハマ》 日永河原田の東なる海村なり、神鳳抄、三重郡塩浜御薗とある地なり。勢州四家記云、永禄年中、工藤は北畠家につき、関は江州六角家につき、工藤北畠家の諸侍と示合て船にて迫り、三重郡塩浜へ寄たりし所に関衆兼てや知つらん、陸に人数を隠し待かけ、舟より上る所へ打寄戦ひ、大勢切取、是大合戦也、夫より関家威を振ひ、北方諸侍大形関五人の手に付属せり。○内部川(三重川)は塩浜の東南にて海に入る、此塩浜一帯の砂嘴は四日市港の南方を塞ぎ、風浪を防ぐと云。
 
楠《クス》 塩浜村の南にて、鈴鹿川内部川の間に在り、大字|本郷《ホンガウ》五味塚《ゴミツカ》等の地は、旧鈴鹿郡の地なるべしと想はるれど、明徴なし。〇五鈴遺響云、楠郷和名抄所載の郷名に非ず、古昔楠氏居住に拠て名くる処なるべし、伊勢軍記曰、永禄十一年二月、信長北伊勢へ発向、千草宇野赤堀以下悉く幕下に属す、諸勢を率して楠の城を攻らる、楠家勇を揮ふといへども不遂して終に降参す、北畠物語曰、永禄十年八月、信長楠の城に押寄らる、楠家終に降参し、先駆の案内者となる、楠家は五百人の大将なり。
日野《ヒノ》 今八王子村と合同し 四郷《ヨガウ》村と改称す、日永常磐両村の西なり、平家物語、伊賀伊勢両国の官兵の其中に、日野十郎と云兵ありと見ゆ、此村人なりけん。
穂【日野】〇五鈴遺響 平家物語に云、爰に伊賀伊勢両国の官兵等馬仙筏押破られて六百余騎こそ流されたる中にも、日野十郎は古兵にて有ければ、弓の筈岩のはざまにねじ立て掻上り、二人の者どもを引上げてたすけたるとぞ聞えし云々。今按ずるに官平は平氏なり、日野は三重郡にあり。
三重郡○大安寺伽藍縁起流記資財帳、三重郡日野町百町、四至、東堀溝、南大河、西細川、北閏田里之限。○神鳳砂、閏田御厨ありて今千草村の南なり、去れば日野はその南にて、菰野村の中なり、神鳳鈔宿野御厨(須久野)三十町あり、今菰野に属す、須久野の旧名日野にや。
 
安国《アンコク》寺址 今四郷村大字西日野に在り、廃址に五位鳥山と刻せる石標を立つ、足利氏暦応の比、諸州興立の其一院なり、天平の国分寺に亜ぐべきか。
補【安国寺址】三重郡○伊勢名勝志 西日野村字里中に在り、今概ね耕宅地となり、僅に六拾坪許の旧址を存し、中央に五位鳥山(塔頭の一院)と刻せる石碑を建つ、寺伝に云ふ、興国元年七月光明天皇足利尊氏に詔して諸国に安国寺を建つ、本寺其一なり、数十の支院あり、構造荘厳なりしが、元亀三年九月滝川一益の兵燹に障り堂宇焼失す、今塔頭華蔵院(今放光寺と称す)総持院(今顕正寺と称す)の二院は再建し、其他は廃せり。○今四郷村大字日野。
 
柴田《シバタ》郷 和名抄、三重郡柴田郷、訓之波多。○今常磐村四日市町等なり、朝野群載「康和五年、三重郡柴田郷専当」と見ゆ、又神鳳抄「柴田郷弘永名」とあり、今柴田の大字は常磐村に属す。
 
赤堀《アカボリ》 今常磐村と改む、四日市の西南に在り。○赤堀城址は田間に存す、高一丈余の小丘にて、応永の比、下野国赤堀庄の住人田原景信、当所|栗原《クリハラ》村に来り築城して之に居る、後長子景宗は羽津に、二子季宗は赤堀に、三子忠秀は浜田に分邑し、天正年中に至り其家亡ぶ、〔伊勢名勝志〕勢州四家記に見ゆ。
補【赤堀城址】三重郡○伊勢名勝志 赤堀村田圃中に在り、高一丈余の小丘たり、頂上平坦にして荒蕪地となれり、応永の頃田原景信、下野国赤堀庄より本村(旧と栗原村と称す、是に至りて今爾に改む)に来り城を築き之に居る、因て赤堀と改む、後長子景宗は朝明郡羽津村に、二子季宗は本城に、三子忠秀は本郡浜田村に居城す、永禄中長野工藤氏之を攻めしむ、抜く能はず、天正四年秀(ママ)宗美濃竹が鼻の役に戦死し、城廃す。○今常磐村大字赤堀。
 
松本《マツモト》 今常磐村に属す、赤堀の西にて、川島の東南に在り、此辺を富田郷とも称したり、神鳳抄「松本御厨」古へ平氏党松本三郎盛光居住す、盛光は中宮進士教光の三男、富田進土盛基が弟なり、日永城主楯三郎に与力して、元久元年亡ぶ、事跡は東鑑に載たり。〔五鈴遺響〕
補【松本】三重郡〇五鈴遺響 川嶋の巽位にあり、丘岡に傍て平林の中に民居す、此辺吉田郷と私称するなり、神鳳砂「松本御厨(二宮)三丁、三石」とあり、伊勢平氏の党松本。 
川島《カハシマ》 此村は四日市の西二里許、御滝《ミタキ》川の南岸に在り、字東谷西福寺境内に伊勢義盛墓と伝ふる者あり、慶安四年之を発掘したるに、棺槨大小相かさなり、一大甕を獲しに、中には小壷ありしと、〔伊勢名勝志五鈴遺響〕蓋上代の古墳ならん。
補【川島】○神鳳抄 北山田御厨(一名号河島又号升山田)上分田六丁、内宮一石、六九十二月。五鈴遺響、慶安四年土俗伊勢義盛の塚と称するものを掘穿ちたるに一大壷を得たり、其中に小壷ありて棺槨大小相かさなれり云々。○上代の古墳にて平氏党などのものに非ず。
補【伊勢義盛墓】三重郡○名勝志 川島村字東谷西福寺境内に在り、伝へて義盛の墓となす、義盛の父を俊盛と云ふ、本郡の司たり、没して後平家の士伊勢守景綱なるもの其釆邑を没収す、義盛鈴鹿山に隠れ、景綱を殺さんことを謀る、事露れ信濃に流さる、安元中源義経に従ひ、後此地に没すと。○今川島村、四日市の西方也。
 
四日市《ヨツカイチ・ヨカイチ》 北伊勢の都会にして、人口一万八千、徳川幕政の時、陣屋を置き代官を派出したり、明治維新の初、三重県庁を建てゝ北勢を管治せしが、後之を安濃津に移す。〇四日市の海運は、幕政の時より伊勢海湾の大埠頭たり、近年町人稲葉三石衛門港内の(雍/土)塞を患ひ、一家の資財を傾けて築造に従事し、波止場を設け浅水面を埋め、溝渠を通し漕輸の路を開く。凡東海の海運は、神戸横浜の中間に、四日市を推して第一と為し、貨物の聚散最盛大なり、(年額三千万円と称す)又関西鉄道は初め基点を此に定め、先之を草津(江州)に通し、尋で名古屋及び奈良大坂の連絡成れり、海内屈指の海市と謂ふべし、(特別輸出港に列す)又紡績製紙の工場あり。
五鈴遺響、四日市は明暦年中七百余戸、海陸都会の地にして、富有の高価あり、林氏癸未紀行に「四日市駅人争趣、処々商売相共遇」の句あり、亦古駅なり、之より尾州熱田の宮駅に至る舟行を、四日市乗と称す、巨船回漕は陸岸より五町余の沖に舟がかりす、二町余の遠浅ありて、小舟ならでは着岸し難し、相伝ふ天正十年六月、織田信長公京師本能寺に害せられける時、東照神君堺津より伊賀路を歴て、本州に潜行あり、本邑に到り玉ひて、舟行して尾張国大野に渡りしとき、駅長小林杢左衛門に、御貰として舟年貢免許あり、今の如く尾張熱田に至る十里の海路を渉る御宋印を恩賜す、又此他の漁人、冬月多く雁鳧を捕るに、海上に(黍+占)縄を張りて捉へて市に鬻ぐ、其縄を他領の海中も厭はず張ることをも恩免ありしと云、今に至り然り、是を流し(黍+占)と称す。○聖代実録、明治九年十二月、三重県農民、地祖の事を以て数千党を成し蜂起す、県令岩村定高説諭して之を鎮んとす、暴徒聴かず、大衆四日市に入り、支庁及び区裁判所を焚き、懲役場を毀ち囚徒を放ち民家を劫椋し、転じて尾張美濃諸国に侵入す、地方諸県為に騒然たり、二十三日、事始て平ぐを得たり。
諏訪神社は四日市の総鎮守にて、市民の崇敬他に異なり、祭礼にぎはし。建福寺は曹洞宗総持寺の輪番所也、竺堂了源和尚開基にて、地方の名藍なり。
四日市の北偏に御滝川(又三岳川)あり、水北を浜一色《ハマイシキ》と曰ふ、又四日市の南を浜田村と曰へり、今共に市内に編入せられ、都合人口二万五千余、四日市市と号す。補【四日市】三重郡〇五鈴遺響 民家明暦中七百余戸、海陸都会の地にして駅舎商賈あり、又娼家ありて富有なり、林羅山癸未紀行詩 四日市駅人争趣 処々商賈相共遇 交易添得一日多 廛中恐作公超霧
慶長寛永中より旧き市駅なり。○尾張国熱田駅に至る舟行あり、俗四日市乗と称す、巨舶運漕は陸より五町余、澳中に舟かゝりあり、二町余は遠浅にして小舟の着く岸なり。
○産業事蹟 三重郡四日市中納屋町稲葉三右衛門なる者は、夙に四日市港の壅塞を患ひ、力を築港の事業に尽し、海浜一万四千余坪を開築し溝渠を鑿て漕輸を通し、埠頭を築て船舶に便にし、為めに一家の(此/貝)財を傾くるに至る、其績顕はるを以て明治廿一年藍綬褒章を賜ひ、其善行を表彰せられたり。
 
御滝《ミタキ》川 又|三岳《ミタケ》川と曰ふ、菰野の西|御在所《ゴザイシヨ》岳より発し四日市に至り海に入る、長七里、一説之を以て三重川に擬すれど謬れり、三重川は今の内部川なるべし。
 
神前《カムザキ》 四日市の西一里余、御滝川に沿へる村落なり、大字|高角《タカツヌ》に延喜式神前神社あり、今東カンゼンと唱ふ、神鳳抄には高角神田の名あり。
高角《タカツヌ》城址は今神前村大字|寺方《テラカタ》の乾位にあたる山頭に在り、五鈴遺響云、東鑑「元久元年五月六日、朝攻飛脚重到来、去月二十九日到伊勢国、平氏雅楽助三浦盛時、並子姪等、構成郭於当国六箇山、数日雖相支、朝政励武勇之間、彼等防戦失利敗北、凡張本若菜五郎城郭構処、謂伊勢国日永|若松《ワカマツ》南村高角|関小野《セキノヲノ》等也、遂於開小野亡其命」云々、按に朝政は右金吾朝雅なり、小山朝政に非ず、北条九代記、朝雅に作る是なり、伊勢平氏雅楽助は中宮長司度光が男、富田進士三郎基盛なり、高角城の旧址より享保五年、太刀鑵子の蓋の朽たるを鑿出せり、上人其祟を畏れて旧土に埋めりと云。
補【神前神社】○神祇志料 今高角村の東かんぜんに在り(式内社検録)
 按、かんぜんは即神前の転訛なり
高角東之宮といふ(慶長四年棟札)○今神前村。
○神鳳妙 高角御厨、高角神田。
 
菰野《コモノ》 桜《サクラ》村は神前の西にて、菰野の東なり、良米を産出して之を桜米と曰ふ、菰野は精良第一と称せらる。○産業事蹟云、伊勢米の精良は、三重郡菰野を推す、明治維新後は、貢米の制限を解き金納に改正ありしを以て、自然農家に於ても米質の如何を顧慮するものなく、只収穫の多からんことのみに注目し、加ふるに精撰乾燥俵装等の法も亦粗悪となり、旧藩時代に比すれば漸く劣れりとぞ、初め菰野村の農惣吉、万延元年秋、千本の中より一穂を撰出し之を培養せしに、品質佳良なるのみならず、収穫甚だ多く、加ふるに稿稈強くして、風害等の為めに倒るゝこと少きを以て、称して関取米と曰ふ、之より其価格は普通米に比すれば常に一割を高くし、関取の名四方に聞ゆ。菰野は神鳳抄「菰野御厨」とありて、天正年中、滝川一益織田氏の命を以て管領したる時、代官を置ける所とぞ、慶長五年、土方河内守雄久の封邑となる、雄久館を置き塞を築き、子孫世襲して明治維新に至る。
補【桜米】○産業事蹟 三重郡桜村は伊勢米の精良品を出したる所にて、当時同村は津藩の領分に属せるを以て津桜の名あり、之を藩主藤堂侯の膳米に供する例なりとぞ。○今桜村。
 
菰野湯《コモノユ》 揚山と称し、創見詳ならず、貞享四年、修治して遠近の客を招きたるより、今に衰へず、四日市を去る四里、山路稍軽車を通す。○此湯は単純温泉にして、八十五度の常温を有ち、山腹に泉竅三所あり、之を延き浴槽を造る、浴舎客室数戸あり。補【湯山】三重郡○地誌提要 菰野泉質硫気あり、疥癬諸瘡痛風等によろし。
薦野温泉 伊勢名勝志、菰野村字湯山に在り、林岳並び整えて樹木深欝たり、養老中僧浄訓霊夢に感じ此を開く、能く百病を治す、遠近来浴するもの多し。
                             
御在所《ゴザイシヨ》岳 菰野の西嶺にして、山背は江州綿向山に連る、北は八峰山、南は鎌岳に亘り、北勢の西界を為す、御滝川の水源なり、直立四千尺許。西遊放談云、天明戊申、日永村にて七月盆のツンツク踊を見て、三里余菰野に至る、土方侯一万石の陣屋あり、市中一二町、此より東十余町にして河原あり、雨降れは水漲る、青滝《アヲダキ》の末なり、方一里程の原あり小笹多し、溪を渉り山中に入れば、山皆土砂流れて、山骨露れ、大石道路を塞ぐ、又渓水にあひ、石を蹈み之を躍り越ゆ、又一渓を過ぎ人家を見る、山を挟みて屋舎を作ること七軒計、湯室は火を焚きて湯となす、此地嶮岨、樹すくなく五穀生ぜず、土なく皆こいしなり、大山は冠が岳御座が岳と云ふ、此山越四里人家なし、江州日野に出づ。
 
千種《チグサ》 菰野の北なる山村にて、澗水は東北に傾き、朝明川に入る、西には千草越ありて、江州神崎郡に通ず。中世土豪千草氏此に居り、北勢の諸族と競へり、一書千草氏は千種少将源忠顕に出づと為す、是非を知らず、天文天正の頃、千草常陸介忠房あり、初め江州六角氏に降附し、後北勢諸家と同く、織田氏に攻滅せらる。
補【千種城址】三重郡○伊勢名勝志 千種村字城山に在り、今耕地及び山林となれり、周囲濠址を存す、建武元年千種忠顕、後醍醐天皇に仕へ功あり、本郡二十四郷を領し目代伊藤吉治をして之を管せしむ、二子顕経正平廿四年九月北畠顕康の命により本郡に数城を築き、自ら禅林寺城に居り之を総轄す、永徳元年忠顕の長子通治の子隆通本村(旧名岡村、是時今称に改む)を築
き子孫之に居る、弘治三年(一に元年、また二年に作る)近江佐々木義賢北勢を取らんとす、先づ本城を攻めしむ、克たず、天正十八年秀吉忠治の養子顕理を音羽村に移す、後大坂の役に戦死す。
 
閏田《ウルタ》 今千種村の大字なり、神鳳抄「閏田御厨」とあり、又潤田に作る、大安寺資財帳に「三重郡日野百町、四至、東堀溝、南大河、西細川、北閏田里之限」とあり、大河とは御滝川を云。
 
赤水《アカウヅ》 今|県《アガタ》村と改む、千種菰野の東にて、其北に鵜川原村あり、赤水は旧名赤松なり、大安寺資財帳に見ゆ、帳云 「三重郡赤松原百町、四至、東上無清泉、甫甲杜山道、北都界、西山之限、右天平十六年納賜者」と、之に因れば今千種鵜川原二村は、当時朝明郡の属なるを想ふべし。
 
刑部《オサカベ》卿 和名抄、三重郡刑部郷、訓於佐加倍。○今三重村|海蔵《カイザウ》村是なり、四日市の西北にて、県村の東南なり、海蔵川郷中を貫き、四日市の北に至り海に入る。○刑部は今坂部の名遣る、頭書のオをば上略したる也、此例往々之あり。○大日本史云、正平二十四年、土岐頼康侵勢州、北畠顕能令子顕泰、拒戦於刑部、却之。
                
坂部《サカベ》 今三重村と改む、即刑部郷の本拠なり、旧事紀に景行天皇皇子「五十功産命、伊勢刑部君、三川三保君祖」と載す、今延喜式|江田《エタ》神社此地に在り、蓋五十功彦を祭ると云ふ。○坂部に字|御館《ミタチ》と云ありて、神宮御厨址なるべし、(神鳳抄坂部御厨)諸書之を以て三重村頓宮址と為し、近年之に因みて三重村の名を立つれど、三重村の旧地は此に非ず。○鉱泉志云、御館鉱泉は炭酸泉にして、温六十度、田畝の間より涌出し、四日市を距る六十町の近きに在り。
五鈴遺響云、西坂部車坂と云は、小坂氏の館祉なりとぞ、源平盛衰記、砥並山合戦条に曰「伊勢国住人|館《タチ》太郎貞康、八十余騎にてひかへたり、貞康が叔父|小坂《ヲサカ》三郎宗綱と云ものあり、名を得たる兵なり」云々、按に官軍は平家六波羅勢にして、館太郎貞康は伊勢平氏党とす、小松維盛に属して木曽義仲に対陣の時なり、小坂三郎宗綱本州に小坂の地名なし、疑らくは刑部を下略して小坂と称せしなり、又坂部城址は同処にあり、元久元年、平氏党若菜五郎が萩原小太郎に命じて守禦せしむる処なり。
 
阿倉川《アクラガハ》 この村は今|末永《スヱナガ》村と合同し海蔵《カイザウ》村と改む、海蔵は古訓即阿久良なるべし、四日市の北に接す。神鳳抄「飽良川御厨、末永御厨」并び載せたり、海蔵の北は羽津村、旧朝明郡の地なり、郡界此間に分れたり。○勢州四家記云、阿久良川家は平貞盛の末、館太郎貞治が後裔なり、天正元年四月、浜田家の侍二百騎率し、阿倉河の城近まで来る、阿久良川の館弥三郎貞隆勇者なりしかば、逃るを追事法過たり、薩摩守貞晴矢倉の上より之を見、弥三郎危し続けと下知す、案の如く菰野道の辺にて、敵伏勢をして弥三郎打死す。
 
賀保宮原《カホノミヤバラ》 今詳ならず、賀保は延喜式「三重郡|加富《カフ》神社」と云者にして、大安寺資財帳云「三重郡宮原四十町、開十三町、未開田代廿七町、四至、東賀保社、南峰河、北大川、西山之限也」と。
 
補|忍《(おし)》米 ○産業事蹟 伊勢国三重朝明両郡の稲米は 其の産額甚だ多く、品質も亦沿海村落を除くの外は善良にして、旧藩制の頃には稲草は最も良種を撰精し、其の種類に制限ありて、制限下の稲草は作付することを禁止し、之に加ふるに米の精撰及び乾燥俵装等完全ならざるものは貢納米とならざるを以て、貢納に先て庄屋年寄等に於て厳重に其の良否を検査し、不良のものは幾回たりとも精選せしめたるを以て、東京大阪市場に於て、伊勢忍米の名最も著はる、其の主産地、朝明郡沿海に非る各村にして、忍藩の領分に属せるを以て忍米の名あり。
     ――――――――――
朝《アサケ》明郡 明治二十九年廃停せしめ、其地を挙げて三重郡に入る、此郡は朝明川左右の地にて、和名抄、朝明郡、訓阿佐介、六郷に分ち、延喜式「朝明、駅馬十匹伝馬五匹」とあるは、今|朝日《アサヒ》村の地なるべし、壬申の乱に、天武天皇朝明郡迩太川辺に天照大神を望拝み給ふと云も此駅なり、文禄検地二万四千石。姓氏録「右京未定雑姓、朝明史、高寵帯万国主氏韓法史之後也」と、此史氏の故墟は此か。○日本書紀、雄略天皇の時「物部目連斬伊勢朝日郎、乃賜猪名部」とあり、朝日《アサケ》は蓋朝明に同じ、其猪名部の来住したるは即員弁郡なり、因て按に朝明員弁は初め一国にて、朝日郎の主帯せる地なるべし。大日本史云、物部目、物部菟代、奉詔伐伊勢賊朝日郎、朝日郎聞王師至、逆戦於伊賀青墓、自今善射、発洞重札、軍中恐懼、菟代不敢進撃、相持二日、日親執大刀、令筑紫聞物部大斧、手持楯並進、朝日郎射中大斧手、矢穿楯洞重甲、入膚一寸、大斧手以手楯蔽目、目即獲朝日郎斬之、帝乃奪菟代所領猪名部、賜目。
補【朝明郡】〇五鈴遺響 文禄検地二万四千石、元禄検地二万九千石。○今五方里、三万四千、十一村。
 
杖部《ハセツカベ》郷 和名抄、朝明郡杖部郷、訓鉢世都加倍。○今羽津村などにやあらん、杖部は姓氏録に丈にも作ることありて、走使部《ハセツカヒベ》の義なるべし。(走便部を下略して走と呼び、羽津《ハヅ》に謬るか)
長谷《ハセ》神社は延喜式朝明郡に列し、羽津村の北字|別名《ベツミヤウ》に在りと云、〔五鈴遺響〕又|大矢知《オヤチ》村西南の山に在りて「八幡と云ふ、旧址は八幡の東南観音堂の地なり、其東麓の久留倍《クルベ》民家を長谷《ハセ》町と呼ぶ是也」と、〔神祇志料〕按に長谷は杖部の略なるべし、此地は訓覇《クルベ》郷と相接地す、而も今長谷町と久留倍一処に混同するは後世の事にて、已往は其別ありしならん、大略羽津村を杖部郷とし、大矢知村富田村を訓覇郷とす。
 
羽津《ハヅ》 四日市の東北一里なる海村なり、天正十二年十一月、羽柴秀吉羽津に陣し、織田信雄と和議の事あり、又羽津氏は赤堀の一族にて、天正の初に滅亡す。○勢州四家記云、赤堀羽津浜田は元一家にて、田原又太郎忠広の末也、羽津先祖は赤堀衛門太夫と云、六代右京助は元亀三年六月、茂福城主山口次郎四郎とは縁者なる故、料理を振舞たしと謀られて、窃にころさる、然ども羽津に残る一族城を不渡取合ありしとぞ。
 
四泥崎《シデノサキ》 羽津の浜を曰ふ、延喜式、朝明郡|志※[氏/一]《シテ》神社此に在り、今|高御前《タカゴゼン》と呼び、土俗風伯神と為す。
 おくれにし人をおもはば四泥の埼木綿とりしでゝ往むとぞ思ふ、〔万葉集〕
志※[氏/一]社境内に古墳あり、面積百余坪、樹木叢生す、嘉永五年、社殿修造の時、之を発見し、曲玉土器等数品を出せり。〔伊勢名勝志〕
伊賀留我《イカルガ》○羽津村の西北別名に隣る字なり、神風抄鵤御厨と曰ふ、延喜式、朝明郡伊賀留我神社在り。
補【額田郡氏墳】朝明郡○伊勢名勝志 羽津村字大宮西、志※[氏/一]神社境内に在り、面積百余坪樹木叢生す、里人伝へて額田部天津彦根命孫意富伊我都命の墓となす、嘉永五年三月社殿修造の時、此墳を発見し、曲玉古器等数個を出せしと云ふ。
補【伊賀留我神社】○神紙志料 今北鵤村の南に在り、斎大明神といふ(神名帳考証・神名帳検録・勢陽雑記・式内社検録)
 按、検録云、同村伝来の古祝文「トウシヤハアマノヲヽヒコノミコト」とあり、当社は天大彦なるべし
蓋御厨の地なるを以て大神宮を斎祭る(神鳳鈔大意)
 
訓覇《クルベ》郷 和名抄、朝明郡訓覇郷、訓久留倍 。○今大矢知村富田村なるべし、大矢知に宇久留倍の地ありと五鈴遺響に見ゆ、蓋訓覇は呉部に同じ、紡織を業とせる部民の称なり。
久留倍八幡宮は、一説式内長谷神社に擬し、又朝明郡式内|長倉《ナガクラ》神社にも擬せらる。
補【訓覇郷】朝明郡〇五鈴遺響 一説大矢知村に宇久留倍あり、又式内長倉神社も大矢知八幡宮に外ならず、訓覇は倉部の義なりと。○今富田村・大矢知村。
 
大矢知《オホヤチ》 羽津の北、富田の西にて、民家林野の間に居る、神鳳抄、大矢知御厨と曰へり、享保年中、村内の廃寺址より、宝鐸二箇を掘出したり。○字|挟間《ハザマ》に浮石層あり、採りて磨砂の用に供すべし。〔地学雑誌〕
補【大矢知】朝明郡〇五鈴遺響 高田専修寺の真恵上人此他に一寺を起したることあり、今廃す、享保年其址より宝鐸二個を掘出す。○神鳳妙 大矢知御厨。
 
布自《フジ》 延喜式、朝明郡布自神社、今大矢知村に在り、富士権現と称す、又同式同郡桜神社も同所桜谷に在り、同く富士権現と称す。
下之宮今大矢知村の大字にて、延喜式、朝明郡|耳常《ミミト》神社在り、神鳳抄「下之宮、神領二十町云々」
 
富田《トミタ・トンダ》 羽津村の木谷在り、其東に接する海村を富田一色と曰ひ、今|富洲原《トミズハラ》村と曰ふ。○富田は東鑑に富田荘、神鳳抄に富田御厨とあり、数邑に分れ、其東富田村は駅舎に当り、民戸最多し、鉄道停車場あり、今富田村と曰ふ者是なり、西富田は即大矢知村也。
 
富田《トンダ》城址 東富田|茶屋《チヤヤ》町にして、今民宅と為る、富田進士平家資の墟とぞ、元暦元年平氏蜂起の時、家資之に与し、大内惟義に斬らる、元久元年、平氏再挙、家資の子基度又之に張本たり、平賀朝雅に撃たれ敗死す。東鑑云、元久元年三月、爰伊勢平氏等、塞鈴鹿関所、索険岨之際、人馬難通、武蔵守朝政出京、廻美漉国、二十七日入伊勢国、自四月十日至十二月合戦、先襲進士三郎基度、朝明郡富田之舘、挑戦移剋、誅基度并舎弟松本三郎盛光等、次於安濃郡、攻撃岡八郎貞重、次到多気郡、与庄田三郎佐房等相戦、彼輩敗北、又生虜河田刑部大夫、凡狼戻雖靡両国、蜂起不軼三日、残党猶在伊賀国、云々。○同書文治三年「院御領、工藤左衛門尉祐経知行、富田荘」と云も此にや、鈴鹿郡川俣にも富田村あり。
補【富田城址】朝明郡○伊勢名勝志 東富田村字茶屋町に在り、今小阜にして宅地に属す、文安三年南部頼村信濃国松本より来り、城を築き之に居る、北畠氏に属す、富田館址所在詳ならず、蓋東富田村富田城址の地ならん、富田進士平家資(一に家助に作る)之に居る、元暦元年七月平氏の族乱を作す、家資亦た与る、大内惟義の攻むる所となり逃れ走る、文治三年幕府此地を以て工藤祐経に賜ひ、富田庄六ケ村を領す。(此時後白河院の御領たるを以て守護代蒔田相模守亦之に住とい)元久元年平族亦乱を作す、家資子度光、其子基度又此に拠り以て本州を乱る、伊賀伊勢守護首藤経俊、兵寡ふして逃走す、平賀朝雅命を奉じて美濃を経て本州に入り、先づ本館を襲ひ誅す。○今富田村。
○東海道名所図会云、四日市桑名のあいだ、富田おぶけの焼蛤は名物にして、ゆきゝの人もこゝに憩ふて酒を勧め、これを賞翫す。
 はまぐりの焼れて鳴くやほとゝぎす   其 角
 
鳥出《トリイデ》神社 延喜式、朝明郡に列す、今富田村に在り。古事記伝云、倭建命の陵造りの時、八尋の白鳥に化て天翔り浜に向ひ飛行きぬと云由見ゆ、鳥出神社も、一説に其白鳥の飛出給ひし地と伝ふ、富田と云も鳥出の訛れ
るなるべし。(和州琴引原の白鳥陵をも富田《トンダ》里と云ふ)
 
広永《ヒリナガ》 今|八郷《ヤサト》村と改む、大矢知村の北なり、五鈴遺響云「広永は朝明川の崖に民居す、神鳳抄、弘永御厨六十町、又東鑑、文治三年、伊勢国|穂積《ホツミ》荘、預所式部大夫とあり、穂積此なり、延喜式、朝明郡穂積神社、今此地にて、川島明神と称す」
補【穂積神社】〇五鈴遺響 式内穂積神社 同所(広永)小字川島と云所にあり、方俗川嶋明神と称す。
補【広永】朝明郡〇五鈴遺響 朝明郡は神鳳妙に「郡司職田、十町」東鑑曰穂積庄。広永村の遺縦あり、是郡家なるべし。
 
萱生《カヤフ》 今八郷村の大字なり、一に加用に作る、塞址あり、富田氏の属塞にて、永禄年中、春日部時家之に居り、千草氏の与党なりしとぞ、神鳳抄に能原御厨とありて、延喜式、朝明郡能原神社鎮座す、日本紀略、天慶三年能原神授位。〔五鈴遺響伊勢名勝志〕補【萱生城址】朝明郡○伊勢名勝志 (一に加用城に作る)菅生村の北部、字城山に在り、方凡そ弐町、旧形猶存す、景勝の地たり、文治中富田家資本州平氏の末葉なるを以て、源頼朝に擒にせらる、頼朝其勇武を惜み死を赦して本州に流す、後姓を春日部と改む、其裔宗方初めて本城を築き之に居る、近郷十余村を領す、三重郡千種城主千種常陸介の与力たり、俊家の時に至り永禄十一年織田信長兵を本州に出す、遂に降る。○今八郷村朝明川の辺にあり。
補【能原神社】○神祇志料 今萱生村にあり(神名帳考証・二郡神社考)朱雀天皇天慶三年九月丙寅、従五位上能原神に正五位下を授く(日本紀略)
 
大金《オホカネ》郷 和名抄、朝明郡大金郷、訓於保加禰。○今|下野《シモノ》村|八郷《ヤサト》村なるべし、大字大鐘は下野に属す。〇五鈴遺響云、此は古代金作部の住地なりけん、続日本紀、養老六年、伊勢国金作部牟良忍漢人安得の名を載す。
 
大《オホ》神社 延喜式朝明郡に列す、今下野村に在り、〔神祇志料〕蓋大和国多神社の裔杜なり、天武紀壬申乱の時、伊勢の将士に多臣品治あり、古事記に依れば開化帝の四世孫曙立王者伊勢之品遅部君之祖と曰へり、按に品遅部絶え、多臣にて其名を負へるにや。
下野《シモノ》 此村、大字|山城《ヤマシロ》は見永氏塞址とぞ、見永藤七郎秀宗足利氏に属し屡戦功あり、故に此地を恩賜して歴代居城す、永禄十一年十月、織田信長の為に滅す、萱生村春日部氏と同時なり、桜雲記、暦応二年四月五日条に 「於南朝、阿曽宗貫に勢州朝明郡を賜て地頭職に補す」云々、阿曽氏の廃亡の後、見永氏永禄中に至り居する処とも云べし。〔五鈴遺響〕
補【下野】朝明郡〇五鈴遺響 山城は山に傍て民居す、志知に同名あり、故に下野山城と称す、也摩自耶宇《(ヤマジヤウ)》と訓ず、伝云、建武年中見永藤七郎秀宗、足利尊氏将軍に奉仕して之を賜ふ。
 
補|鶴沢《ツルサハ》 〇五鈴遺響 神鳳砂「朝明郡鶴沢御厨(内宮)五十丁、二石八斗」鶴沢御厨は今千代田村と改む云々。
 
田光《タヒカ》郷 和名抄、朝明郡田光郷、訓多比加。○今|朝上《アサカミ》村|竹永《タケナガ》村保々村に当るべし、朝明川の上游に居り、南は千種村に至り、西は八風峠を以て江州に界し、北は員弁郡石榑村に至る。
 
保々《ホホ》 此村は神鳳抄に保々御厨とあり、大字市場に延喜式朝明郡|殖栗《ウエグリ》神社鎮座す、県明神と称す、大字小枚の若宮塚は明治十五年発掘し、金鐶を獲たり、近傍に大塚と云巨墳あり、又|筆崎《フデガサキ》と云に十余の古墓あり。〔神祇志料伊勢名勝志〕
補【保々】朝明郡〇五鈴遣響 朝明川の北庄に民居す。神鳳紗 保保御厨(二宮)各三石一斗八升、同別名、一石五斗。○保々市場村。
補【殖栗連墓】朝明郡○伊勢名勝志 小牧村字若宮耕地中に在り、始め此地に小阜あり、明治十五年三月村人之を開拓す、石窟あり、広凡そ壱坪、高六尺許、中に石あり、殖栗連の三字を刻す、亦金鐶を出す、近傍字山が鼻に巨塚あり、王塚と云ふ、又字筆が先(ママ)に尚拾余の古墳あり。○今保々村小牧。
 
田光《タビカ》 田光田口|杉谷《スギタニ》切畠等、八風峠の下なる諸村を合同し、今|朝上《アサカミ》村と称す、田光に延喜式、朝明郡|多比鹿《タヒカ》神社在り、多気窓螢に「昔伊勢武者に田光隼則と云は、彼一条院の時、きれもの年則がことなり、朝明一郡の主なれば、人にも敬せられぬ」と見ゆ、此に住める土豪なるべし。
補【田光】朝明郡〇五鈴遺響 田口は本郡の極北界にして員弁郡の界山中に民居す、多具知と訓ず、神鳳抄「田口御厨(二宮)二十一丁、各三石、六九十二月」とあり。式内|耳利《ミミトシ》神社同処にあり、多比鹿神社より十町山坂を踰て至る、切畑越と云、此処より東に小山あり、アシカサ越と云地に坐す。
 
切畑《キリハタ》 八風峠の下なり、延喜式、朝明郡|伎留太《キルタ》神社此に鎮座す、和名抄に切畠をば「横戟山作畠」と注したり。○田口は神鳳抄「田口御厨廿一町」と云此なり、○地学雑誌、朝明郡いつくれ山より黄玉石煙水晶電気石柘榴石螢石等を産出すと云は、田光山の事にや。
 
永井《ナガヰ》 今|竹成《タケナリ》村と合同し、竹永村と改称す、田光の東南に在り、神鳳抄、長井御厨四十町とありて、延喜式、朝明郡井手神社鎮座す、大堰あり田野の養水と為す、此池より五町許巽位|雁沢《カリサハ》に石鏃を拾ふことあり。
補【永井】朝明郡〇五鈴遺響 岡山に傍て郊原の間に民居す、神鳳抄「長井御厨(二宮)四十丁、各三石」とあり、大池は村落の南郊野の間にあり、水田の用に設くる処なり、溜池より五丁許巽位岡山あり、雁沢と云水湿の地あり、石鏃を産す、矢の根石と云、形箭鏃に似て尖り、或は雁股等数品あり、希に透徹するあり。式内井手神社 同所にあり、土俗井手大明神と称す。
 
八峰《ハツポウ》山 今|八風《ハツプウ》峠と曰ふ、田光及び員弁郡|石榑《イシグレ》より江州山上村へ通ずる間道あり、或は根平越と称す、朝明川の水源とす。
東鑑、元久元年三月条云、武蔵守朝政飛脚到着申云、去月雅楽助平維基子孫等、起伊賀国、中宮長司慶光子息等、起伊勢国、各叛逆云々、彼両国守護人山内首藤刑部丞経俊、相尋子細之処、無左右企合戦、経俊於無勢逃亡之間、凶徒等虜領二箇回、固鈴鹿関八峰山等道路、仍無上路之人云々。
 
朝明《アサケ》川 二源あり、一は八峰山朝上村より出で、一は千種山より発し、下野村に至り二流相会し、東流福崎(川越村)に至り海に入る、長凡六里、日本書紀、天武天皇|迩太《トオホ》川辺に望拝の事見ゆ、或は此川と云ふ。
 
額田《ヌカタ》郷 和名抄、朝明郡額田郷、訓沼加多。○神宮雜例集には「朝明郡額田神田」とありて、
同社  今朝日村なるべし、古の朝明駅家|止保《トホ》御厨など云は朝日の大字縄生に当る如し。
延喜式朝明郡井後神社は、朝日村大字|柿《カキ》に在り、同式同郡|移田《ウツシダ》神社は同村大字|埋縄《ウメナハ》に在り。〔五鈴遺響〕
小 向《ヲブケ》 今朝日村に属す、縄生の南に接し、国道に沿ふ、焙蛤を旅客にすゝめ、万古《バンコ》焼の窯元なるを以て、駅路に名あり。
 はまぐりのやかれて鳴くや郭公、 其角
 産業事蹟云、伊勢の万古陶器は、近世盛行し、一種の式となれり、此陶器は元文中沼浪弄山なる者の創製せるに権與す、弄山通称五左術門と云ふ、(一説、万古焼の祖を柿沼館次郎と云ふ、世にこれを弄山に誤ると)朝明郡小向村に住し、製陶を好み極めて雅致あり、其彩紋は多く唐草を描き、又草花を写す、其着色は赤黄淡青等にして、就中瑠璃の一種大に世人の称賛を得たり、五左衛門の家万古屋と号するを以て、之を陶器の名とせしと云ふ、其名漸く遠近に伝はる、後江戸に出で小梅村に寓し幕府御用陶師となりしが、数年にして罷め、安永六年没す、文政年間、小向の人森与五左衛門なる者あり、有節と号す、万古焼再興の志あり、乃手捻の壷類を造り、素焼にして之を試み、漸く発明する所あり、天保年間、陶窯を改良し、殊に菊花盛上法及臙脂色の彩料を発明し、又模型に数箇の木片を用ゐ、製成の後抜出すの方法を案出し、勉めて精緻の良品を主とせり、是を以て名声大に世に送る、又同国四日市末永村の人、山中忠左衛門なる者あり、有節の家法を秘して世に伝へざるを憾み、嘉永年度以来、屡々製造を試み、百方経験を積み、明治三年に至り、終に精良の器具を製する事を得たり、乃ち広く其法を人に授く、是に於て万古陶器を製造する者、頓に其数を加へ、近時四日市及び桑名を合せて営業者数千名、一箇年の産出代価凡四万円余に達せり。
 
縄生《ナオフ》 今|朝日《アサヒ》村と改む、小向と相接し、北は町屋川を隔て、桑名の市街を望む、古は金綱《カナツナ》駅と称し、町屋の構なりしを以て、員弁川をば後世|町屋《マチヤ》川と改むとぞ、即朝明駅家なるべし、神鳳抄には金綱御厨と見ゆ。
五鈴遺響云、縄生富士権現は、延喜式、朝明郡|苗代《ナオフ》神社なりと、苗代即苗生にて縄生と云ふに同じかるべし。○縄生塞は、天正中、羽柴織田合戦の比に聞ゆ、桑名の属塞なり。
補【縄生城址】朝明郡○伊勢名勝志 縄生村字城山に在り、小丘にして小樹茂生す、北畠氏に属す。今朝日村、町屋川の南岸にあり。
 
迹太《トオホ》 神鳳抄、止保御厨とありて.日本書紀「天武天皇元年、於朝明郡迹太山辺、望拝天照大神」と云地なり、今縄生小向の間、官道の傍に遙拝所ありて、参宮の旅人尚此に詣づ。○按に迹保川は朝明川に非ずして、員弁川ならん、縄生遥拝所は員弁川に近くて、朝明川に遠ければ也。
補【迹保川】朝明郡○伊勢名勝志 縄生村と小向村の間官道の右側に在り、日本書紀迹保川〔天武紀元年「旦於朝明郡迹太川辺望拝天照大神」〕は即ち今の朝明川なり(書紀通証)参宮の旅人今尚此に遙拝す。一源は本郡田光(今朝上村)より出で、一源は三重郡千草より出づ。
 
豊田《トヨダ》郷 和名抄、朝明郡豊田郷、訓止与多。○今川越村是なり、朝日村の東に接し一方は海に至り、他方は朝明員弁の両川あり、大字豊田一色福崎等あり、東鑑「文治三年、豊田荘地頭、加藤太光員」と見ゆ此なり、今土俗トイタと唱ふ。延喜式、朝明郡|八十積椋《ヤソツミクラ》神社は豊田に在りと、神祇志料に記せり。
 
福崎《フクサキ》 今川越村と改む、朝明川此にて海に入る、神鳳抄、福崎御厨廿五町とある地なり。
     ――――――――――
延喜式、朝明郡|菟上《ウナカミ》神社は今所在を知らず、古事記に開化天皇皇子日子坐王の子大俣王、大俣王の子「曙立王、次菟上王、此曙立王者伊勢之品遅部君、菟上王者(伊勢之)比売陀君之祖」とあれば歴々たる事跡なれど、之を詳にする能はず。○同式、同郡|櫛田《クシタ》神社|石部《イソベ》神社又詳ならず石部神社は員弁郡石榑村に在りと云ふも、石樽は朝明に混ずべき地に非ず。
 
    員弁郡
 
員弁《ヰナベ》郡 伊勢国の北端にして、三重郡の北に接す、藤原岳|龍《リユウ》岳を以て近江国と相限り、三国《ミクニ》岳の山脈東南に馳せ、多度《タト》山に連亘し美濃国界を為す、四面皆山、東南町屋川(員弁川)に従ひて微く開く所あるのみ、面積約七方里、人口四万五千、二十二村に分る、幽辟の境なれば名邑なし、郡街を楚原に置く、桑名の西四里。和名抄、員弁郡訓為奈倍、五郷に分つ、蓋朝明の分地にして、雄略帝の時、朝日郎罪あり、物部目之を誅斬し、因て其所領猪名部を此に移せる也、事は朝明郡の条下に注出せり。○猪名部は元摂津国の為奈に起る、姓氏録「神別、猪名部造、伊香我色男命六世金連之後也」とあれば、物部氏の部民たる事明なり、続紀神護景雲三年、員弁郡人猪名部丈丸。
大安寺資財帳云、員弁郡|阿刀《アト》野百町、四至、東百姓墾田御井、西高山、南武賀川、北河胡登山道之限。(此野今詳ならず)  仁和の御べの伊勢のうた
 君が世は限りもあらじ長浜のまさごの数はよみつくすとも、〔古今集〕(按に、此歌は光孝帝即位の時、伊勢国員弁郡主基方の詠なれど、其地を知らず長浜に砂をよむによれば、海浜なるべけれど、員弁郡には臨海の村落なし疑ふべし)
補【員弁郡】○和名抄郡郷考 風土記、当郡東西七里、南北八里、河海多而山林出樹木、神戸十八座、土地富饒也、但不出大竹、魚鳥禽獣不少。続紀神護景雲三年五月、伊勢国員弁郡人猪名部丈丸。後紀〔逸文類聚国史〕天長五年十一月丙申、伊勢国員弁郡空閑地一百町
爲勅旨田。東鑑 元久元年二月伊勢国員弁郡司進士行綱、為囚人被召置、依義盛之訴也。〇五鈴遺響 此郡は朝明の分郡なるべし、津国猪名の工匠部の此に移りて一郡を建てたるならん、聖武孝謙の朝に本郡の工匠造東大寺の役に従事し、盛名を発すること続日本紀に見ゆ。続日本妃、神護景雲元年二月甲申、幸東大寺、云々、授造寺工正六位上猪名部百世外従五位下(此説非也)
 
白瀬《シラセ・シレシ》 員弁川の源頭に在る山村なり、三国岳乾位に聳ゆ、即伊勢近江美濃の交界なり、大字本郷を主里と為し、西は焼尾《ヤキヲ》を渉り犬上郡に至るべく、北は篠立村(今立田村)を経て養老郡に出づる山径あり。○大安寺資財帳に「員弁郡|志理斯《シリシ》野百町、四至東山井河」云々とあるは、此地なるべし。五鈴遺響云、山口と云は篠立の坤位にありて、白瀬郷の内なり犬上郡に至る山径あり龍華越と云ふ、本郷村とは白瀬郷の魁たる故に名づく、神鳳抄「内宮、志礼石御厨、三十町三石」と載す、東鑑にも見ゆ、自瀬砦跡、本邑の内にあり、北畠物語に領主白瀬家あり然れども白瀬郷の名は和名抄になし、東鑑天治中より私称する処なり、神鳳抄志礼石と填(マヽ)るといへども、志礼世と訓じて適へり。
 
篠立《シノダチ》 今|立田《タツタ》村と改称す、三国岳の麓にて、白瀬本郷の北一里、員弁川の水源なり。〇五鈴遺響云、篠立山観音寺は村の坤位山中にあり、此山麓に方俗風穴と称する洞穴あり、高十間許、洞口より五六町許は、流水足を浸して至て清冷なり、六七町に至て石鍾乳多く、左右の窟上に附着して其深さ究め難し、此渓を北に踰嶺すれば石津郡なり西は犬上郡なり。
 
長尾《ナガオ》 今相場村と合同して中里と改称す、白瀬村の東に接す、神鳳抄、長尾御厨|饗庭《アヒバ》并び載せたり、猪名部氏の古跡を伝ふ、一は館址にして長尾の字両馬場に在り春澄善縄館とぞ、一は古墳にて面積十坪許、小石を散布す、進士行綱墓とぞ、五鈴遺響には式内|猪名部《ヰナベ》社も長尾に在りと主張したり、今善縄行綱の事は別目「北大社」の下に詳にす。補【長尾】員弁郡〇五鈴遺響 式内猪名部神は長尾村に在り、俗説に大社村にありと云ふは誤れり。
春澄善縄館址 伊勢国名勝志 長尾村字両馬場に在り、森林中礎石を存す、是其館址なりと云ふ、善縄本姓猪名部造、本郡の人たり、祖財麿本郡の少領たり、善縄博学藻思あり、貞観中累遷して参議正三位に至る、嘗て勅を奉じて続日本後紀二十巻を撰修す、其裔員弁三郎行綱及び其子行経等あり、相継で之に任す、後家絶す、此他に祠あり、善縄の霊を祀る。○善縄の事蹟は続日本後紀・三代実録に詳なり、其家は歴代北勢の著姓として員弁三郎行綱に至り、其子行経・頼綱并に左衛門尉に任じたること東鑑に見ゆ、鎌倉以後何の世にか家亡ぶ。
 
石加《イシカ》郷 和名抄、員弁郡石加卿、訓以之加。○今東藤原村西藤原村|治田《ハルタ》村|阿下喜《アゲキ》村等に当り、東藤原に大字|石川《イシカハ》あり、郷名の遺れる也。神紙志料に、延喜式|石《イシ》神社は石加郷石川に在りと為す者、また之を証す、而て今|石樽《イシグレ》村を以て石加と改称したるは、其所由なし。○石河は藤原《フヂハラ》岳の麓にて、阿下書村の西なり、神鳳抄、石河御厨東禅寺御厨など云へる地なり。
補【石河】員弁郡〇五鈴遺響 員弁川分派の間に民居す、藤原岳の東麓なり、伊志加波と称す、神鳳抄「石河御厨(内宮)三石、七丁」とあり。東禅寺村は石河の坤位にあり、神鳳抄、東禅寺御厨あり。
 
野尻《ノジリ》 今東藤原村に属す、字羽場に三朝塚と云者あり、文禄年中、北畠氏の裔孫具成、桑名城主に仕へ、此地方を管治し、曩祖親房顕能等が南朝三代より伝授せられたる遺物を埋蔵したりと、具成墓其傍に在り。〔伊勢名勝志〕
補【西野尻城址】員弁郡○伊勢名勝志 西野尻村に二処あり、一は字西野に在り、里人云ふ、永享中北畠教具の臣西野左馬允此に居り、近郷渚村を管す、西野殿と称す、三世相承く、永禄十二年織田氏に降る、一は字向野に在り、西南は山里に連り、空(さんずい+皇)二あり、文治中輪田右馬允此に居る、尋で白瀬庄司之を領すること六世、其後数家の居城たり。
補【三朝塚】員弁郡○伊勢名勝志 西野尻村羽場にあり面積百坪、方形にして周囲(さんずい+皇)あり、壇上桜樹数株を植う、社あり、三天皇社と称す、後醍醐・後村上・後亀山の三帝を祀る、伝へ云ふ、文禄中北畠具親の子具成此地を相し、鼻祖親房等南朝三帝より拝賜せし遺器を此に埋め、其霊を祀る。
北畠具成墓 三朝塚の傍に在り、又傍に其母佐々木氏の墓あり、承禎の女なり、具成具親の子、北畠氏亡ぶるや具成免るゝを得たり、文禄三年九月一柳直盛桑名城主たりし時、具成を挙げて本郡志礼石郷長たらしむ。○今東藤原村大字西野尻、白瀬村南たり、即ち石津駅路の傍。
 
治田《ハルタ・ハツタ》 治田は藤原の南に接し、龍《リユウガ》岳の麓なり.此山中字新町の上は、往時銀鉛鋼の出たる地なるが、今尚多少の稼行あり。○治田は八田と訓じ、明暦図に新町と載す、市部の如く民家列居す、山中より旧時銅を出すといへども、今は聞く所なし、神鳳抄治田御厨と載する処なり、近江同犬上郡君が畑村に至る二里八町、山路あり治田越と云ふ、治田砦跡村内にあり、伊勢兵乱紀に当村に治田山城守居住す、太閤記に楠七郎左衛門輔正具居すとも云へり。【五鈴遺響〕
補【治田】員弁郡〇五鈴道響 治田は石川より坤位にあり、山間に民宿す、或は八田に作る、波津多と。○提要 治田郷は銀鋼鉛を出鉱したれども今廃山となる。○今治田村、阿下喜村の西南にて近江国境なり。
補【多志田山】員弁郡○提要 多志田山は銀鉛を出すと雖、未だ開鑿せずと云ふ(近江国にまたがる)
 
賀毛《カモ》神社 延喜式に列す、神紙志料云、今治田郷垣内に在り、蓋治田連同祖鴨君の祖、彦坐命を祭る、開化天皇の子に坐す、古事記姓氏録参考すべし。○人類学会雑誌云、伊勢国石器散布の状は、未だ多く開かず、唯治田郷垣内賀毛神社境内に出づと云ふ、千種村(今三重郡)にも出づ。
 
阿下喜《アゲキ》 白瀬の南一里余、治田の東北にある山村なり、〇五鈴遺響云、式内石神社は飯食山地高寺観音堂の東に坐す、阿下喜駅の北なり、阿下喜は員弁川水涯に民居す地広闊(さんずい)にして商農あり、養蚕家多し、繭糸綿を産す、町屋川の水畔なれば、桑名より船を遡せ、山中より出す処の産物を運漕す、然れども此地より以北には舟上らず、神鳳抄「内宮、阿下喜御厨五十四町」とあるも此地なり。
 
丹生川《ニフカハ》 治田の南に接する村名なり、龍岳の麓にて、山林薮沢曠遠なり、神鳳抄に丹生川御厨は十町と載せ、村内大字|片日《カタヒ》も御厨なりき。
鴨神社大字上村に在り、神鳳妙に鴨大明神神田の事見ゆ、祭る所は治田村賀毛神に同じかるべし、共に延喜式に列したり、又大安寺資財帳に見ゆ。
 
宿野原《スクノハラ》 大安寺資財帳云、員弁郡宿野原五百丁町、開田卅町、未開田代四百七十町、四至、東至鴨杜、南坂河、西山、北丹生川。○此野は五百町と称すれば、広大想ふべし、石榑の山野まで龍絡したるならん。
補【宿野原】○大安寺伽藍縁起流記資材帳〔略〕○今丹生川村なり、字上村に式内鴨神鎮座す。五鈴遺響 丹生川村は治田郷の南にて、神鳳妙に「丹生河御厨(内宮)一百八十丁、三十三石、大御贄上分三石」とあり、又鴨大明神社神田のことも見ゆ。○片目村は神鳳妙に見ゆる地にて、三輪明神あり、之に式内朝明郡|太《オホノ》神社をあてたる説あり、不審。
 
石榑《イシグレ》 今北石加南石加三里の三村に分裂す、丹生川の南にして、西南は郡界を尽す、一説、和名抄石加郷を石榑に擬するも採り難し、神鳳抄、石榑御厨高柳御厨字賀御厨などあり。石榑の田野、処々に火塚と呼ぶ者あり、墳起数尺、大小一ならず大略円形にして、周囲十二三間より三十間に至る、石を畳む所あり、其数二十余、〔伊勢名勝志〕蓋古墳なり。
補【石榑】員弁郡〇五鈴遺響 神鳳砂石榑御厨(内宮)五十丁、白米。和俗山郷の民幽谷僻遠の地より材を伐り出すに、其全材を運び難きが故に四五尺或は七八尺に伐割て遠境に售る、是を久礼木と云、榑の字を通用す、此地僻遠にして此物を産業とするに拠て名く処なるべし、高柳は神鳳妙高柳御厨(外宮)二十四丁、三石と載す。
補【火塚】桑名郡○伊勢名勝志 石榑東村に俗火塚と称するもの弐拾弐基あり、宇野々田、南村、野口、西大野、中大野、東大野の諸処に散在す、円形にして皆石を以て畳む、回り三十間より拾二三間に至る、皆南方に向ふ。
 
野摩《ヤマ》郷 和名抄、員弁郡野摩郷、訓也末。○今詳ならず、阿下喜の東なる其原《ソノハラ》麻生田などを合同して、近年|山郷《ヤマサト》村と改称したり、所由ある事なるべし、然らば其の辺の地とせんか、贋作風土記残篇に野摩池ありて、今の笠田池に当るに似たりと云説あれど、偽書の事なれば挙ぐるも益なし。
 
麻生田《ヲフタ》 今山郷村に属す、大塚一名茶臼山と云古墓あり、大小二所相並ぶ土俗は麻績連の墓と称す。〔伊勢名勝志〕
補【麻績連墓】員弁郡○伊勢名勝志一名王塚、又茶臼山、麻生田村字南山に在り、麻生田野に接す、大小二あり、里人伝へて麻績連の墓となす。○今山里村、阿下喜村の南にあたる。
 
笠田《カサダ》 山郷村の東、大泉原村の北にあり、神鳳抄笠田御厨此なり。〇五鈴遺響は、笠田村を以て和名抄笠間郷に擬したれど、附会なるべし、笠田池は方一里と称すれど、左のみ闊(さんずい)大ならず。
補【笠田】員弁郡〇五鈴遺響 和名抄野摩郷後に笠間郷に転じ、今笠田に訛す、神鳳紗二宮〔今本なし〕笠田御厨などあり、野間池今笠田大池と称して方一里、南北に闊(さんずい)く東西に稍狭し、用水二万斛を貯設て近邑水田の資とす。
 
宇野《ウノ》 今笠田村の大字なり、砦址あり後藤氏の裔宇野部某之に居れりと、〔五鈴遺響〕勢州四家記云、弘治年中、近江国六角左京兆源義堅、伊勢を打取べしとて、小倉三河守に三千の兵を相副、先づ千種を攻め、千種服従の後、宇野部萱生以下を打従ふ、永禄十年八月、織田信長初て桑名表へ発向あり、北方諸侍宇野部萱生以下之に随ひ、其後楠の城を攻めらる。
補【宇野部】朝明郡○勢州四家記 弘治年中、近江六角左京大夫源義堅伊勢を打取べきとて、小川三河守に三千の兵を相副、先千種を攻、千種服従の後、宇野郡郡蘆〔頭注、萱生。同書前記に朝明郡「福家、羽津家、木俣家、柿家、萱生家」郡は部〕以下をしたがへる、(中略)永禄十年八月信長初て桑名表へ発向あり、北方諸侍宇野部蘆(ママ)生以下随之、其後信長楠の城を攻、楠降参し則鬼〔龍川一益〕の与力となる。〇五鈴遺響、笠田郷宇野村に砦址あり、後藤氏の裔宇野部氏の址なるべし。
 
大泉《オホイズミ》 今大泉村大泉原村の二に分る、石榑の東大社の北にて、郡中の首邑に推さる。
 
大泉原《オホイヅミハラ》 近年|楚原《ソハラ》を改め大泉原村と云ひ、本郡々治の所とす、県庁を去る十三里、(桑名の西北四里)阿下喜の南二里とす神鳳抄に大泉楚原井に御厨とあり。
 
長尾《ナガヲ》寺址 五鈴遺響云、大泉に在り、永禄天正中、長島門徒の乱に焚毀の禍に罹り後廃す、智証大師真筆十六善神画幅及大般若経一部六百巻今に遺り存す、裏書に永享十一年十月長尾寺什物と記す、大泉金井西方三邑の村正等、其旧物を賞して、年預に領して蔵せり、当国守護土岐世保刑部大夫持頼墳墓、同処円福禅寺にあり、永享十二年五月十六日自刎して死す、標石あり土俗石仏と称す、南方紀伝及桜雲記云、永享十年五月、武家より命じて一色左京大夫義貫、世保刑部大夫持頼大軍を卒し和州に趣き、処々の一揆と戦ふ、永享十二年更た柳営足利義教の命に依て、土岐興安軍士を将ゐて和州多武峰に至りて、世保持頼を伐つ、持頬自殺。
補【大泉】員弁郡〇五鈴遺響 長尾廃寺址 同所にあり、天台宗、永禄天正の間桑名郡長島一揆の時兵燹に焼亡。
 
美耶《ミヤ》郷 和名抄、員弁郡美耶郷、訓三也。○今詳ならず、神鳳抄宮村御薗なりと云ひ、今大泉原村に大字御薗あり、此の辺即古の宮村にや、後の考定をまつ。
 
笠間《カサマ》郷 和名抄、員弁郡笠間郷、訓加佐万。○今詳ならず、神鳳抄「笠間郷、荒祭宮神田、又笠間郷司職田」など云事見ゆ、近年大泉原村の南、鳥取山田の辺を神田村と号するも、笠間神田なりや、蓋員弁郷は美耶笠間いづれかに当るべし。
 
梅戸《ウメト》 今|大井田《オホヰダ》と合同して、梅戸井村と改む、石榑の東にて、南大社村の北に接す、神鳳抄梅津御厨大井田御厨と云者此なり。光蓮寺と云は往昔大坊なりしにや、其門前の民居おのづから一村を為したり、此門前に城址あり、昔梅戸高實の居所なるが、天正三年十月の役に、高実遂に長島に戦死せり、伊勢軍記に曰く、梅津家は伊勢平氏富田家資の後胤にして、江州佐々木承禎の四男を養ひ嗣となすと、蓋し高実の事なるべし。○宗長手記に、梅戸より江州に赴ける路程を記す、大永年中の事也、曰「八峰峠になれば、送りの僧俗と盃を傾け、梅戸よりの迎の人来りて、その日には峰をこえぬ、此峠は昔より馬輿とほらぬ仔細ありと聞ども、老の足一あしも進まず、人に負るれば胸痛み息もた、え、谷にも落入ぬべく覚え侍れば、老のこしかき、二三十人梅戸よりやとひ喚びて、左右の大石をふまへ、おち滝津波をまたげ、度々心を惑はし、空へもかきあぐるこゝちして、やう/\峠の一屋に一宿、翌朝江州山上の会下寺一見して、麓のたか野といふ里に日たかく一宿。
補【梅戸】○日本名勝地誌 梅戸城址は梅戸井村大字門前字天水に在り、往昔梅戸高実の居城なりし。○光蓮寺は往昔大坊なりしにや、其門前の民居は自ら一村を為す。
 
南大社《ミナミオホヤシロ》 大社は員弁川を挟み、南北の二村に分る、今南大社は長深《ナガフケ》と合同し大長《オホナガ》村と称す、神鳳抄「大社神田四反、長深御厨」など見ゆ、明治八年長深の字生木に一古墳を発きしに、中は石窟南面し、金環(金偏)及土器類を出せりと云。
南大社梅戸の辺に、往時|大谷《オホタニ》と云里ありと神紙志料に見ゆ、曰「員弁郷の南に神貝と云地あり、三十年前は三戸ありしが、後皆大泉に移り、今は一戸もなし、唯神明社遺れり、今梅戸村領南山の谷一里も連りて、大谷の称あり、世人もよく知れり、明応の震災に延喜式大谷神社も人家も流され、人民は大泉に移り、廃址は白河原となりしを、大泉より出て新開せるなり、是即大谷御厨の旧址にして、其神明祠即本社なり、されど人民移居の後、懸隔の地故、神明の霊形を大泉春日社に遷す」。
補【長深】〇五鈴遺響 ながふけは長き泥田の義ならん、神鳳砂「長深御厨、十五丁、三石」大社神田、四反」○今南大社と合せ大長村と改む。
古墳 伊勢名勝志 長深村字生木に在り、面積四坪、始め之を知るものなかりしが、明治八年村人之を毀ちしに石窟あり、南に向す、窟口狭くして中広し、階級の形をなす、金環及び土器類を出せり、近傍旧字船山船塚等の名あり、姓氏録に船連を載す、或は此人の墓には非るか、書して参照とす。
補【大谷神社】○神祇志料 大谷神社、旧大泉村神貝(神貝は軒開の仮借なりとぞ)の地にありしを、後村内春日祠の相殿に祭る、仍て大谷春日と云ふ(式内杜検録)○神鳳砂 大谷御厨、内宮三石、外宮一石五斗、六九十二月、田文云、大泉大谷五丁。
 
北大社《キタオホヤシロ》 今|稻部《イナベ》村と改む、東は神田村と相並び、古の員弁氏の墟なり。員弁は即猪名部にて、摂津国を本拠とし、雄略天皇の朝に、物部大連目、当国の賊|朝日郎《アサケノイラツコ》を誅し、所領の猪名部を此に移す、某氏人猪名部造財麿は本郡少領たりしが、孫善縄学術を以て仕官し、貞観年中累遷して参議正三位に至り、春澄朝臣姓を賜ふ、嘗勅を奉じ続日本後紀四十巻を修選す、同時に掌侍春澄高子あり蓋善縄の一族なり。○大日本史云、善縄員弁郡人、達官後移隷于左京、祖財麿、父豊雄、善縄幼明慧、骨格非凡、財麿奇之、加意撫育、傾産無所惜、弱冠入学、博洽多通、天長之初、及第補俊士、承和十年、遷文章博士、仁明帝執弟子礼受荘子。(下の大木の条参看) 
猪名部《ヰナベ》神社 延紀式に列す、今北大社員弁寺址の辺に在り即員弁氏の祖神也。姓氏録云「為奈部、伊香我色男命六世、金連之後」三代実録云「貞観元年、員弁大神授位、十五年勅、掌侍従五位下春澄朝臣高子、賜稲一千五束、奉幣氏神、向伊勢国」
員弁寺址○今猪名部社の辺に、鐘つき、寺うへ、寺前等の字あり。其北員弁裏と云は山田村に在り員弁寺浦の義ならん、〔神祇志科〕山田より鳥取まで亘れるにや、此間に大御堂大堀跡、古堂地蔵塚、供仏田三百坊など云字あり、天正年中廃滅すと云。〔伊勢名勝志〕補【猪名部神社】○神祇志料 今北大社村猪名部廃寺の辺に在り(猪名部神社弁断)
 按、式内社検録廃寺の跡と云田所は、古検地帳にかねつき上田若干あり、寺うら、寺まへ、其北に員弁裏と云字の地、南山田にありと云り、附て考に備ふ。
蓋猪名部造の祖餞速日命を祭る(新撰姓氏録・三代実録)清和天皇貞観元年五月廿六日辛巳、従五位下員弁大神に正五位下を授け、
 按、員弁は即猪名部に同じ、其大神と云るは何故にか、詳ならず
八年閏三月十三日戊午従四位下を賜ふ、十五年〔九月九日辛未〕掌侍従五位上春澄朝臣高子に勅して、稲一千五百束を賜ふ、伊勢国に向て幣を氏神に奉るを以て也、所謂氏神は即猪名部神也(三代実録)凡そ毎年二月二日、十月一日祭を行ふ(三重県神社調)
補【員弁寺址】員弁郡○伊勢名勝志 山田村に在り、区域ならず、字鳥取下具戸南林谷口の辺に綿亘せしならん(大御堂、鐘楼堂、大堀の跡、古堂、地蔵塚、員弁、浦、仏供田、三百坊等の旧字なり)今耕地或は荒蕪地となれり、上古天台宗の巨刹なりしが、天正の頃織田氏の廃滅する所となる。○今神田村大字山田、稲辺村の東に接す。
 
大木《オホキ》 今稲辺村の大字にて、北大社の西北に接す。勢陽雑記拾遺に、員弁進士三郎行綱は此に住したりと云ふ、行綱は東鑑に大領又五位前司と見え、其子行経頼綱並に廷尉に補任し、北勢の著姓なり、按に行綱は伊勢平氏に党し、元久元年の乱に与るも、宥されて旧領を安堵したり、南北朝以後の世に、此氏人聞ゆる所なし、蓋謂ゆる伊勢平氏に混同して、旧系を失へるならん。○大木の東|六把野《ロツパノ》に古墳散在す、小金《コガネ》塚と云は円冢なり、三《ミツ》塚と云は三墓相并ぶ、文久年中、土人小金塚を発きしに、中室は方九尺、石を以て畳む、土器五六箇を見たりと云。〔伊勢名勝志〕
補【大木】員弁郡〇五鈴遺響 大木は大泉の東に在り、員弁川に傍て民宿す、於保宜と訓む、神鳳砂大基御厨あり、これにや、勢陽雑記拾遺に員弁三郎行綱、元久の比此に居住して郡司たりと云ふ、不詳。
補【員弁行綱墓】員弁郡○伊勢名勝志 長尾村字屋敷に在り、面積拾坪、塚上小石を散布す、行綱三郎と称す、本郡郡司たり、建仁中叛を謀ると疑はれ、和田義盛の訟する所となり逮捕せらる、後宥されて郷に還る、所領故の如し、東鑑に大領進士行綱、又伊勢前司五位行綱とあり、○今中里村長尾、白瀬本郷の東とす。
補【大木塚】員弁郡○伊勢名勝志 大木村字東六把野に在り、雑草茂生す、小金塚は円形にして、三ッ塚は三個相並び共に方形をなす、或は大木氏の遠祖猪名部造財磨及専豐雄等の基となし、又往昔員弁寺廃滅の時、宝器を埋めし処なりとなす、文久中村人小金塚を開きしに、広方九尺深五尺、石を以て之を畳む、其中土器五六個を存すといふ。
 
鳥取《トトリ》 今山田穴太筑紫の諸大字を合同し、神田村と曰ふ、稲辺村の東に接す。延喜式鳥取神社鳥取山田神社の二あり、今共に大字山田に存す、神鳳抄には山田御厨|阿奈宇《アナウ》御厨など見ゆ此地なり、鳥取とは古の鳥取部の民の住所なりけん。○鳥取に反身《ソリミ》坂と云字あり、
 雲いくへひばり鳴なるそり身坂、 芭  蕉
補【山田】○神鳳砂 山田御厨、五丁、又穴太御厨(二宮)各三石、本田六丁、阿奈宇御厨。○今穴田村これ也。
補【鳥羽《トバ》】○日本名勝誌 雲花岡は神田村大字鳥取字元鳥羽に在り、美濃街道及び大木道の岐路にして、字|曲身《ソリミ》阪に接す、芭蕉句あり曰く〔句略、句は句集になし〕
補【山田神社】○神紙志料 鳥取山田神社、今南山田村にあり(寛政六年多門天縁起・桑名藩神社調)
 按、縁起に当村氏神本社に鳥取山田神社、両脇は猪名部の神社・稲荷大明神とあり、之に拠らば猪名部神社を此社に合せ祭れるか。
 
星川《ホシカハ》 今|七和《ナヽワ》村と改称す、神田村の東にて、桑名郡々界に接す、南は員弁川に至る、故に或は星川を水名に仮ることあり、神鳳抄、星川御厨。
星川神社は延喜式に列し、此地は武内宿禰の裔なる星川臣平群臣等の族党の来住せるを徴すべし、星川の南岸志知村(今久米村)に平群神社あり、是皆裔民が其祖神を祭れる者也。 
員弁川 白瀬《シラセ》村三国岳の下より発し東南流し、悉く郡内の渓澗を併せ、星川の東に至り、桑名郡に入り、以て海に朝宗す、長凡九里、古は星川と称し、近世通して町屋《マチヤ》川と呼ぶ。
 限あれば橋とぞならぬ鵲のたてるにしるしほしかはの水、〔歌枕名寄〕         長明
 桑名よりくはで来ぬれば星川のあさけはすぎぬ日ながなりけり、〔方角抄〕       宗祇
補【稲辺】○今大木、大社、八幡の諸村合せて稲辺と曰ふ、郡の東南部にて員弁川(町屋川)の北岸とす。
補【町屋川】桑名郡〇五鈴遺響 町屋川の名義駅店に起る、延喜中に至り今の朝明郡縄生は金井の支郷にて、金綱の駅といふ、過客を舎す処なり、後世桑名府城を置けるより駅は桑名に転じたり、〔方角抄、略〕是此川を星と定められたるなり、水源は星川村邑及星川神社の坐す故なり。
 
久米《クメ》郷 和名抄、員弁郡久米郷、訓久女。○今久米村并に桑名郡桑名村是なり、桑部に久米の村名ありし事五鈴遺響に見ゆ、員弁川の南岸にして旧朝明郡の地と相隣比す、神鳳抄云「久米郷神田、又久米郷司職田」。
 
志知《シチ》 今久米村の大字なり、字平群沢に塁址あり、其山岡に延喜式|平群《ヘグリ》神社あり、社後に古墳と想はるゝ一丘あり 平群は神鳳抄に平栗新田三町郎と載たり、平群星川は共に大和国の地名にて、部民の移住につれて起れる者也。三代実録(巻五)曰味酒首文雄味酒首文主味酒首文宗等三人並賜巨勢朝臣、先是巨勢朝臣河守奏言、文雄款(人偏+尓)、先祖出自武内宿禰大臣也、大臣第五男巨勢男韓宿禰、是巨勢朝臣之祖、第三男平群木菟宿禰、即是文雄之祖也、木菟宿禰之後、賜味酒臣姓、淪落伊勢国、至于文雄祖、改臣賜首姓、是以改姓之望、朝夕刻思、但須順祖胤之称、賜平群之姓、而平群之字、称謂是凡、巨勢之文、義理堪愛、従之。
補【志知城址】員弁郡○伊勢名勝志 志知村の南方字平群沢の山上に在り、面積千二百坪許、西北稍険なり、雑木茂生し僅に土塁を存す、往昔平群木蒐宿禰の裔大内記昧酒首文雄本貫の地なり、後世に至り員弁行綱塁砦を設け、羅城となせしと云ふ。○今久米村大字志知、桑名郡桑部村に連接す。
 
田辺《タナベ》 今久米村大字|中上《ナカカミ》の旧名なり、神鳳抄田辺御厨あり、字|北山《キタヤマ》は、文禄慶長の頃、岐阜城主織田秀信の宰臣木造具康の館址にして 空(さんずい+皇)土塁及家士の邸址猶存す、当時二万五千石を領知したりとぞ。〔伊勢名勝志〕○延喜式、多奈閉《タナベ》神社在り、蓋伊勢国造天日鷺命を祀る、即田辺宿禰の祖なり、旧事紀姓氏録参考すべし。〔神祇志料〕
補【田辺城址】員弁郡○伊勢名勝志 田辺村字北山に在り、地勢三層をなす、内外の空(さんずい+皇)土塁及家士の邸、猶存す、木造具康北畠信雄に属し、此に城を築き居る、天正十八年豊臣秀吉、田辺二万五千石の地を与へ、岐阜秀信の後見とす、慶長五年廃す。○今久米村大字中上。
 
    桑名郡
 
桑名《クハナ》郡 伊勢の東北隅に在り、北は多度《タド》山を以て美濃(海津郡)と相限り東は木曽川に浸され、今|鍋田《ナベタ》川筋を以て尾張(海西郡)と相限る、西は員弁郡に至り、南は三里郡に至る、南東の一隅海に臨む、面積凡七方里人口六万、桑名町に郡衙を置き、十六村を管治す。
和名抄、桑名郡、訓久波奈、五卿に分つ、文禄検地二万一千石、明暦年中、江海渺茫の沢他聞墾成り、新円高一万九千石を増加し、元禄年中四万七千石の検帳高を見る。〔五鈴遺警〕○桑名は姓氏録「右京神別、桑名首、天津彦根命男、天久之比乃命之後也」とありて、即其故里也、天武天皇東国巡幸の途次、往復共に桑名郡家に宿したまふ事日本紀に見ゆ。補【桑名郡】○和名抄郡郷考 天武紀元年六月、高市皇子遣使於桑名郡家、九月天皇宿于桑名郡家〔共に六月、亦記事前後す〕風土記、当郡東西拾二里、南北九里、河海多而少山林、五穀多而民戸盛、雑魚多陽年、大魚多陰年、樹木貧而土地出名竹。〇五鈴遺響、文禄検地二万一千石、明暦中新田増加、一万九千石、元禄中人合高四万七千余石。○桑名郡、今面積七方里、人口六万、桑名町外十六村。         ――――――――――
桑名《クハナ》郷 和名抄、桑名郡桑名郷訓久波奈。○桑名町|益生《マスオフ》村是なり、東南は江海に接し今赤須賀|城南《シロミナミ》の二村あり、南北は大山田村及額田郷(在良村)に至る。○天武紀、元年六月、車駕停于桑名郡家、令起軍陣、高市皇子遣使於桑名郡家、請御于不破、督諸軍事、即日留皇后於桑名、而入不破、九月車駕発美濃、宿于桑名郡家。続紀、天平十二年、幸伊勢国、至桑名郡石占頓宮。
天武天皇祠○今桑名|鍋屋《ナベヤ》町に在り、旧址は益生村大字本願寺なりとぞ、〔五鈴遺響東海道図会〕一説大山田村|蠣塚《カキヅカ》楊柳寺なりとも曰へり、按に此地に本祠あるは、天皇郡家行在の跡なれば也、神社考俗説弁にも見えたり。
補【桑名郷】桑名郡○和名抄郡郷考 神名式、桑名神社、
今大社村に有といへり。内宮儀式帳、桑名神戸六束。勢陽雑記、今も桑名村あり。武鑑、伊勢国桑名郡桑名城。○大社村は員弁郡にて今異郷とす、此話非なり。
○大山田益生村もこの中なり。
 
矢田《ヤダ》 今|益生《マスオフ》村と改む、桑名町の西に接す、一市街を成す、神鳳抄、八太御厨とあり。天正十二年、織田信雄羽柴秀吉矢田河原に会見して和議の事あり、城山《シロヤマ》と号する塁址存す、此辺往時は員弁川横流したる所と云も、今は士民宅舎之に満つ、慶長年中、桑名城修築以後然りと為す。○大日本史云、北畠顕能、延元元年、帰于伊勢、会高師秋受足利尊氏命、来襲北勢、顕能乃命将士督兵、急攻矢田城、却師秋、興国年間、屡戦与師秋破之、正平六年遂擒殺之。
矢田八幡宮は、天武天皇の頓宮址なりと云ふ説あれど、五鈴遺響は之を非と為し、延喜式立板神社を後世八幡宮に謬れる也と曰へり。補【矢田】〇五鈴遺響 今民戸桑名に連続して矢田町と称す、神鳳紗云、八太御厨七丁五反とある是なり、又式内立板神社同処にあり、方俗矢田八幡と称す。
矢田河原信雄秀吉和睦所 伊勢名勝志、桑名市街の西方字矢田河原に在り、今宅地にして旧形を見ず、員弁川旧と此処を過ぎ海に注ぐ故に此名あり、慶長中本多氏流域を南方に換へ、此に外郭を設く、以て藩士を住ましむ。○今益生村大字矢田。
 
桑名《クハナ》 今桑名町と曰ふ、東北は木曽川の別流|揖斐《イヒ》川に倚り、海口に近く水陸の都会也、溝渠
市街を貫流し、北部に艇舟の泊所あり、戸数四千、旧城は江海の要衝を相し、水を利して防禦を為せり。四日市を去る三里半、名古屋を去る七里、鉄道車駅西偏にあり、東北木曽川を横絶し弥富《ヤトミ》駅(前箇須)まで二里
 
桑名《クハナ》神社 延喜式に列し、二座とあり、即桑名首の祖神とす、今|三崎《ミツサキ》明神と称し、春日神を配祀す、往時は神宮寺仏眼院を置き、田禄五十石を給せられたり。又石取と云神事あり、古の石占の遺風ならんと云ふ。日本書紀、日本武尊の従者に善射者石占横立あり、聖武天皇は本郡|石占《イシウラ》頓宮に御したまへり、或は疑ふ石占は此地の別名なるを。○延喜式|佐乃富《サノフ》神社旧溝野村に在り八剣宮に同じきを後世桑名宝殿町に祭る、延喜式|中臣《ナカトミ》神社旧香取村に在りしを、後世宝殿杜の域内に移したり。〔五鈴遺響〕
補【桑名神社】桑名郡○伊勢名勝志 中臣神社、桑名三崎に在り、両社合殿なり、桑名神社は天津日子根命、天久之比乃命、中臣神社は天児屋根命、武雷命、斎主命を合祀す、創建詳ならず、祭日五月十七日・十月十九日、祭礼甚だ盛んなり。○按ずるに社地詳ならず、或は言ふ、桑名神社は桑部村に在りと、されども桑部村は古員弁郡久米村の地なれば、桑名神社の此に在るべき理なし。
補【石名原】○日本社会事彙 小児の語に小石をいしなといふ、伊勢に石名原あり、奥州に石名坂ありといへり、いしなとりは今いふ手玉なるべし、埃嚢抄に石昨(手偏)子をいしなごと訓り、昨(手偏)《サン》は字書に摸《サグル》也とありて、義はかなへるやうなれ共、其字面何に出たるか、疑ふらくは抓字の誤にや、物類称呼、石投、江戸にて手玉といひ東国にて石なんご、又なつことも云ふ。
補【石占頓宮址】○伊勢名勝志 桑名郡に在り、今詳ならず、桑名春日祭に石取の神事あり、是石占の遺なるか。
 
榎撫《エナツ》 桑名の古駅名にて、蓋江之津の訛なり、延喜式「伊勢国駅馬、榎撫十疋。」○日本後紀「延暦廿四年、伊豆国山田宿禰豊浜、奉使入京、至伊勢国榎撫朝明二駅之間、就村求湯」云々「弘仁三年、伊勢国言自桑名郡榎撫駅、達尾張国、既是水路、而徒置伝馬、久成民労、伏請一従停止、永息煩労、許之。」○接に朝明と桑名は両駅相距る一里許、設置の必要を見ず、唯桑名以東江海(水三つ)々之れを渉る困難多し、去れば榎撫駅の置かるゝ事となり、又水路なればとて、馬匹を停めらる、延喜式に馬を録したるは、舟の誤にあらずや。
 
間遠渡《マドホノワタリ》 桑名より尾張熱田駅に航する船路なり、桑名七里渡とも曰ふ、伊勢物語に「伊勢尾張の間なる海」と云ふも此也。
 有明の月にまどほのわたりして里にいそがぬ夜の舟びと、〔名所図会〕
   舟泊桑名城下         梁 星巌
 遠水無波日已沈、万檣(直三つ)々立如林、青楼翡翠多年夢、白露蒹葭此夕心、断続弄風江叟笛、丁東搗月女郎碪、声々末肯無情思、来話蓬窓半夜吟、
伊勢物語云、むかし男ありけり、京にありわびて、あづまにいきけるに、伊勢をはりのあひの海のつらをゆくに、浪のいと白くたつを見て、
 いとゞしく過行かたの恋しきにうらやましくもかへる浪かな。
五鈴遺響云、桑名客船の岸に纜する処を船場と称し、大鳥居一基を建て、船の的の為に灯籠を挑け置けり、又看監所あり、諸侯公卿東関往還するは、城主より官船を装て、凡て風涛の患なし。○桑名より木曽川を上下する舟筏亦多し、木曽美濃の木材米穀等は皆桑名に回漕し、後熱田四日市に転致す。此木曽川筋津島往来の事、宗長手記(大永年中)に見ゆ、曰く、尾州津島へは河のほど二里ばかりなり、桑名衆老若舟にて雨後河水をさしのぼす、数盃の中、津島より又迎ひの舟に乗移り、おくりの舟もしばし川上に浮べてさしやらず。(津島舟は佐屋廻と称す)
 
桑名城《クハナシロ》址 伊勢名勝志云、桑名町の東北部に在り、東は揖斐川(木曽の別流)を帯にし、今吉之丸と字す、按に桑名郷は古には桑名首の居る所にして、後郡家を設け郡司の住する所たり、文治中、伊勢平氏の党桑名三郎左衛門尉行政、幕府の命を受け此地を管す、戦国の時桑名を二分し、東方は伊東武左衛門、(即ち今の城址)北方三崎は矢部右馬允之を領し、南は樋口内蔵介之を領し共に三城たり、永禄中伊勢氏直之を領し北畠具教に属す、天正二年、信長本州征伐の時、滝川一益に命じて長島城を守り、兼て本城を鎮ぜしむ、四年大に城郭を修補す、十一年、羽柴秀吉天野景俊をして之を守らしむ、十二年、小牧の役酒井忠次及び石川数正之を守る、十五年、丹羽氏本城に居る、文禄四年、神戸城の天守を移し修築す、七月氏家行広封を此に受く、慶長五年関ケ原の役、行広石田三成に党し封除かる、本多中務大輔忠勝来り鎮し、封邑十五万右、子忠政元和三年に至り、播州に移り、松平隠岐守定勝(久松氏)之に代る、封十四万石。○豊鑑云、天正十二年、羽柴殿は和平なさばやと、桑名の南の河原に出給へば、信雄もともに御座して対面なり、秀吉膝を析て手をつかね、詞を出されず、涙をすゝり給ふとなり、秘蔵して持し太刀を進上し、本の陣に帰り給ふ、さてこそ両軍泰平のうたをなし悦びあへり、秀吉信長の臣として信雄に従はず、刃をとぐ事其罪明けし、信雄父の仇を討ちし秀吉を亡さむとし給ふ事、義にあらざるべし、春秋いかに筆すべきや、愚心わきがたきにこそ。○氏家常陸介卜全は、元亀元年、信長公長島合戦の退口に討死し、其子内膳正行広は二万石を知行、秀吉公に仕へ桑名に居る、後石田に党しければ、慶長五年家康公四日市に着、氏家より使者を以て桑名に於て饗を奉り、船にて送り奉ると申出づ、井伊直政氏家何の謀あらんと申上げ、公は直に渡海ありければ、氏家は籠城し、山岡道阿弥に攻め落され、行広逐電して剃髪道喜と云ひ、元和元年大坂に入り、天王寺口に勇戦、遂に自殺す。〔北越軍記下野国志〕○久松松平の祖定勝は、徳川家康の異父弟なり、長子定行、寛永十二年、予州松山城を賜り、次子越中守定綱を城州淀城より此に移居せしめらる、封十一万石、孫重定宝永七年越後に移され、又白川城に転ず、桑名は松平下総守忠雅に賜ふ、文政六年、越中守定永(白川楽翁公定信子)に至り、故封に復す、戊辰の乱、城主定敬越後国柏崎に奔り、家士を率て各処に転戦し、会桑の勇名東軍に冠たり。
浄土《ジヤウド》寺は清水町に在り、宝治元年、僧道観中興す、慶長十五年、城主本多平八郎忠勝の墓所を此に定む、浄土宗也。○本統《ホントウ》寺は今一色町に在り、本願寺教如上人女長姫の開基にして、今東派に属し、土俗桑名御坊と称す、法盛《ホフジヤウ》寺は萱町に在り、相伝ふ参州矢矧柳堂を移すと、本願寺准如上人の孫寂全中興し、今西派に属す。
〇五鈴遺響云、十念寺は桑名に在り、創建朝明郡|田光《タビカ》村にして、行基僧正の開基なり、嘉禄年中中興、良忠上人、三重郡六呂見四足八烏山観音寺に於て、専念浄土宗を称讃して世に弘む、其弟子誉阿弥此寺に任し、浄土宗に改めたり、其後文明年中、又天正年中、今の地に遷せり、西方寺は高田派の中興上人真恵の開基、初め真恵野州より出て江州戸津の浜妙林寺に遷り、又朝明郡大矢知青木山光明寺を創建して、又此地に移り、又三重郡北小松に遷住し、又今の一身田に専修寺を建営す、其大矢知廃寺の跡より、享保年中宝鐸二口を鑿得たり、今当寺に什蔵す、中興上人の遺址なればなり。
補【浄土寺】桑名郡○伊勢名勝志 桑名清水町に在り、永承四年創建す、当時或は三崎の神宮寺と称せり、宝治元年僧道観中興す、旧と田町にありしを慶長中今の地に移す、十五年本多忠勝の骨を此に葬る、同氏累代の菩提所たり。
 
赤須賀《アカスガ》 桑名の東に接し、木曽川入海の処なり。五鈴遺響云、赤須賀新田は、勢陽雑記に載せず、明暦図に見ゆ、赤須賀地蔵堂海辺の東の(こざと+是)の上にあり、堂の側に常灯龍あり、海舶の渡海の的標とし、宝暦中より始て置けり、白魚塚は芭蕉俳士の句標なり「白魚や水より白き事一寸」と刻す、白魚は即麺条魚なり、網して獲る地は、桑名より四日市の間海上三里許にして、其堺に方俗横まくらと称する処あり、これより東は尾州愛智郡の地なり、是より西は本州の地にして、尾州の界内は蠣多し白魚なしとぞ、又桑名は蛤貝を名産とす、白魚を漁る海湾に之を獲る也、桑名蛤の奇とするは、他郡の産と異にして、殻大に肉充満し淡味なり、他郡は鹹味甚し、其謂は海朝の淡鹹に拠れり、旅店に松毬の火を焼て炙り食す、過客名産と称す、又醤を以て蛤の肉を煮山椒及薑等を和し、日を経て餒ることなし、方俗時雨ハマグリと称す、初冬より製造すればなり。
 
額田《ヌカタ》郷 和名抄、桑名郡額田郷、訓沼加多。○今|在良《アリヨシ》村是なり、大字糖田あり、益生村の西に接し、員弁川の北岸に沿ふ、南岸|桑部《クハベ》村は一説員弁郡久米郷の属なるべしと云ふも、地形を按ずるに額田郷の属なり。
 
額田《ヌカタ》神社 延喜式に列す、額田部氏の祖神なり、姓氏録に二流あり「額田部宿禰、明日名門命三世孫、天村雲命之後也」又「額田部湯坐連、天津彦根命子、明立《アケタツ》天御影命之後也、允恭天皇御世賜姓」。○神紙志料云、今糠田に在れど、旧|増田《マスダ》に在り社址遺る、増田に額田山源流寺の名あり、大福田寺文亀元年勧進帳に因れば、額田部祖神を祭る、而て勧進帳を按ずるに「大福田寺と云ふは、後字多院の朝に、額田部実澄の草創、彼先祖をば神戸開発の領主門鎌と云、大神五十鈴川鎮座の初、社職に任補せられてより、実澄まで累代不易の神職なり」と、門鎌以来額田郷に居て、桑名神戸の司に補せられしなるべし、されど額田部に宿禰姓あり、湯坐連あり、臣あり又村主ありて、根何れよりの出身なるかを詳にせず、恐くは天津彦命なるべし。○伊勢名勝志云、糠田村の字高塚、遠祖輪前祖場石塔山の諸所に、往々玉環(金偏)陶器の出づるありて、石室の崩壊せる者あり、是額田部氏の墓址ならん。
補【額田神社】桑名郡○神祇志料 今桑名駅の西、糠田増田二村の間にあり、旧増田村にありしを後今の地に移す(神名帳考証)
 旧址を宮址と云ひ、又田地を元宮裏と云、増田村内に額田山源流寺と云もあり
蓋額田部祖神を祀る(伊勢大福田寺文亀元年勧進帳)
 按、本書に此寺は後字多院朝額田部実澄の草創。
補【額田部氏墓】桑名郡○伊勢名勝志 所在詳ならず、額田村字葉田及び八字谷の辺、蓋し其遺址ならん、里人伝へ云ふ、額田部湯坐連等数世を此に葬ると、小字高塚、遠祖輪、前祖場、石塔山の諸処土中、往々曲玉古陶器及び石室の崩壊するものを出すことあり。○今在良村大字額田、桑名の西郊町屋川の北岸。
 
蓮花寺《レンゲジ》 大字糠田の東に接し、又大字なり、此に浮石層あり、抹掘して磨砂に供用す。〔地学雑誌〕
 
益田《マスダ》 元荘号にて、桝田にも作り、中世矢田村桑名町まで広被したり、今大字増田を遺し、糠田と相並ぶ、神鳳抄、増田御厨。〇五鈴遺響云、東鑑嘉禎四年、従五位下行隠岐守藤原行村法師、法名行西卒、年八十四、于時在伊勢国益田庄、此間向彼所。按に今ウノキと云地は行村の住址とぞ。
補【増田】桑名郡〇五鈴遺響 旧名益田庄なり、東鑑嘉禎四年、従五位下行隠岐守藤原朝臣行村、法師名行西卒、年八十四、于時在伊勢国益田庄、此間向彼所云々、又嘉禎四年二月、隠岐守行村入道此庄を領せし旧案あり、今のウノキに住せりと云ふ、神鳳砂云、増田御厨。
 
桑部《クハベ》 三重郡縄生の西、員弁郡久米村の東に接し、町屋川の南岸なり。神祇志料云、延喜式、桑名郡|長谷《ナガタニ》神社、今桑部村字長谷の水辺に在り。
 
尾野山《ヲノヤマ》 大山田|《オホヤマダ》村大字桑名に在り、矢田の北に接し、一座の丘なり、丘北を大字東方と曰ひ、民戸寺宇丘を壓す、桑名町の西十町許、字入江に延喜式|尾野《ヲノ》神社あり。五鈴遺響云、尾野神社は舟着大明神と称し、東方を土俗|本村《モトムラ》と曰ひ、属邑を舟着と日ふ。按に、日本武尊の「尾津《ヲヅ》の孤松」と詠じたまへる尾津郷は即此か、山野には尾野と称し、江津には尾津と称したるに似たり、然れども旧説、大略尾津を今多度村大字|戸津古浜《トツフルハマ》村大字御衣野の辺に定めたり、今説に依れば大山田村は古の桑名郷内と為すべし、後の考をまつ。五鈴遺響に、尾津浜又御衣野浜と云は、海崖なるべし、又磯野浜の名あり、是等の浜は皆今の桑名町の辺にて、多度山中にはあらざるべしとの意を述べたれど、明白ならず。○多気窓螢云、むかし吉田と云へる馬乗り、伊勢の府に来り馬を教へけるが、権目正行其芸をつたへ、高名のゝりしりになりにき、正行は白河院の上北面源正親が子なり、宅は桑名の浜ばた磯のといふ所なり。
補【尾野山】○再考 尾津は今桑名町の西に接する大山田村の中にて、東方などにや、此地古の津頭たり、尾野神社は尾野山に在りて、舟着明神と称す、旧説尾津郷と多度山麓の戸津にあてたるは甚非なり、戸津は野代郷たり、尾津は昔日熱田より渡航の地なるべければ後世の桑名渡と云ふも同じ様子なるを思ふべし。
 
東方《ヒガシカタ》 今西方|播磨《ハリマ》汰上《ユリアゲ》等を合同して、大山田《オホヤマダ》村と改称す、尾野山以西の山野にわたる、高塚《タカツカ》山あり、播磨の南に当り、高九十米突許なれど、木曽川長島より尾州の広野を平臨す、日本武尊の御詠「尾張にただに向へる尾津の崎」とあるも想ふべし。
補【東方】〇五鈴遺響 東方一名もとむらと云ふ、属邑を船戸と云ふ。○今伊曽野の地、考ふべきなし、恐くは勢陽雑記所引の俗歌に「伊勢嶋やみそのゝ浜云々」伊曽野・美曽野の相同じきか、孰れ此地の海涯(さんずいなし)邇き処なりといふべし。
補【丸山】桑名郡○伊勢名勝志 北別所村字高塚山に在り、四境開豁、東は尾濃参の三州を望み、名護屋・犬山の二城嘱目の中に在り、山下に馬場、的場及用水井等の址あり、蓋し往昔桑名城主遊覧の地ならん。○今大山田村大字北別所、桑名の西にあり、一名高塚山。 
照源寺《セウゲンジ》 東方に在り、浄土宗、寛永元年、桑名城主松平氏創建、初め崇源寺と称したり、松平氏の廟墓を置く。
補【照源寺】桑名郡○伊勢名勝志 東方村に在り、浄土宗、寛永元年松平氏一寺を建て崇源寺と称し、後故ありて寺号を照源寺と改む、松平定綱の廟あり。○今大山田村。〇五鈴遺響 柿塚は下深谷部の南にあり、明暦中図に蠣塚新田と載す。○勢陽雑記、柿塚に作る、同所に持統天皇行宮の跡といふ寺院一宇、古柳樹一株あり、楊柳寺と号す、今は桑名新屋敷に移せり。〇五鈴遺響、行宮と云ふこと謬なり。〔蠣塚参照〕
 
大福田《ダイフクデン》寺 東方に在り、神宝山法皇院と称し、真言宗、多く霊仏宝器を所蔵し、北勢の名刹なり、初め矢田の南、今大福《ダイフク》と字する地に在りしを、万治年中、尾野山へ移す。用明天皇の草創と云ひ、所伝の縁起あれど信従し難し、土俗桑名大寺と呼ぶ、蓋額田部氏の所建也。〇五鈴遺響云、福田寺々記は、悉く信じ難しと雖、此寺もとは神戸のありし地に建て、後此処に寺を遷したりと謂へり、今詳にするに、桑名郡神戸の御厨の地なるべし、然る故に大神を奉祀す、又大福にも其神祠の遺址あり真とすへし。(額田郷額田神社参考すべし) 
 
蠣塚《カキヅカ》 今大山田村の大字にして、播磨の北、汰上《ユリアゲ》の西なり、岡に倚り東面す、勢陽雑記に柿塚に作り、楊柳寺とて天武天皇頓宮址ありと見ゆ、今桑名町に寺を移したり。人類学会雑誌云、桑名の北一里許にして、小山の裾に蠣殻の重畳して塚をなすを見る、其上に二三の家を建つ、其前面及び左方は皆田なり、田中に硫気水を生ず、浴場の設あり、介墟中より種々の土器を出す。
補【柿塚】〇五鈴遺響 柿塚は下深谷部の南にあり、明暦中図に蠣塚新田と載す。勢陽雑記、柿塚に作る、同所に持統天皇行宮の跡といふ寺院一宇、古柳樹一株あり、楊柳寺と号す、今は桑名新屋敷に移せり(遺響、行宮と云ふこと謬れり)○今大山田村。
深谷《フカヤ》 大山田村の北、野代《ノシロ》村の南、西は山に倚り、東は揖斐川に臨む、延喜式|深江《フカエ》神社は大字下深谷部に在り、県明神と称す。此村は上下の二村に分れ、深谷部《フカヤベ》と称したりしが、今合併す、戦国の頃、邑主近藤氏の塁址あり。〔伊勢名勝志神紙志料〕
補【下深谷部城址】桑名郡○伊勢名勝志 下深谷部村に在り、併せて三処、一は字北廻の山上に在り(一名北迫城、又白米城と云ふ)今耕宅地たり、延元中近藤家高始めて之に居る、孫家教永禄九年(一に元亀二年に作る)滝川一益と戦ひ敗死す。○今深谷村。
 
野代《ノシロ》郷 和名抄、桑名郡野代郷、訓乃之呂。○今野代村深谷村是なり、延暦儀式帳及倭姫命世記に桑名野代宮と云あり此とす。
補【野代郷】桑名郡○今野代村、深谷村、多度村、古浜村、七取村、古美村。○和名抄郡郷考 勢陽雑記、野代村桑名より乾行程一里。神名帳、野志里神社と有、天照大神垂仁天皇十四年秋九月尾張国中嶋の宮より伊勢国桑名の野代宮に遷幸し奉り、次に鈴鹿の奈久波志忍山に幸し給ふ。内宮儀式帳及倭姫命世記に桑名野代宮。〔渡合元長歌、略〕○今野代村、深谷・香取の間にて多度山の麓也。
 
野志埋《ノシリ》神社 延喜式に列す、神紙志料は之を以て大福田寺の神明に擬したれど何如にや。勢陽雑記云、野代宮に垂仁天皇の時、天照大神尾張国中島宮より桑名に遷幸、此に暫くましまして、次に鈴鹿郡忍山に遷幸し給ふ、桑名府の乾行一里に在り。
 すみれおふ野代の宮のあたりとてつむ人なしに過る春かな、〔神祇百首〕       度会 元長
野代の東に大字|大鳥居《オホトリヰ》あり、多度神の門址なりと云ふも、或は野代宮の門址にや、天正二年長島合戦の時織田方より大鳥居に押寄せ、男女二千人の耳鼻を載り取りたる事、当時の軍書に見ゆ、大鳥居の対岸、即長島郷なり。
 
尾津《ヲツ》郷 和名抄、桑名郡尾津郷、訓乎都。○今多度村古浜村ならんと曰ふ。勢陽雑記、戸津を以て尾津に擬し、八剣宮を以て日本武尊の遺址と為したるより、此説稍定まれるに似たり。勢陽雑記云、今尾津と云所なし、戸津と云所ありこれなるべし、八剣宮とて溝野といふ所にあるは、即尾津神社なるべし、戸津と溝野相並べり。○按に戸津は今多度村に属し、溝野(御衣野)は今吉浜村と改め、野代の西北に接し小山と呼ぶ山丘を挟み、多度山を背にし、東西して香取江揖斐川を隔てゝ尾張海西郡の沢地に臨む。
補【尾津郷】桑名郡○和名抄郡郷考 神名式、尾津神社。勢陽雑記、今尾津といふ所なし、戸津といふ所あり、これなるべし、又尾津神社は今八剣の宮とて溝野といふ所にあるは即尾津神社なるべし、戸津と溝野も並べり、昔倭建命東征時、至尾津忘御剣矣、凱旋後不失在焉、憐之有詠歌、爾後崩御、載日本紀、然則八剣宮祭尊与御剣歟。古事記景行段に尾津前、又歌に袁都能佐岐。景行紀四十年夏六月、尾津又尾津浜。○今多度村戸津、又古浜村御衣野の辺ならむか、不審。
 
尾津《ヲツ》神社 延喜式に列す、蓋日本武尊の遺蹟にして、謂ゆる尾津崎、尾津浜の地に在るべき也。○日本書紀云、日本武尊還於尾張、便移伊勢、而到尾津、昔日向東之歳、停尾津浜、而進食、是時解一剣置於松下、遂忘而去、今至於此剣猶存、放歌曰
 をはりに たゞにむかへる ひとつまつ あはれひとつまつ ひとにありせば きぬきせましを たちはけましを。
又古事記云、倭建命、到坐尾津前一松之許、先御食之時、所忘其地御刀、不失猶有爾、御歌曰、
 をはりに たゞにヽむかへる をつのさきなる ひとつまつあはれ ひとつまつ ひとにありせば たちはけましを きぬきせましを ひとつまつあせを。
又古事記、倭建命御子、足鏡別王者、小津石代之別祖也。旧事紀云、日本武尊児、椎武彦命、尾津君|揮田《フキタ》君武部君等祖。○按に此尾津と云は尾州より勢州の通路に当り、江浜にして埼頭なりしなり、斯る地形は今の尾野山以東桑名町を推して恰当と為す、因て再考するに、和名抄尾津郷は即桑名町にて、桑名郷は大山田村にあらずや、彼|三崎《ミツサキ》大明神は近時式内桑名神社に擬したるも、其実尾津神社にあらずや。
 
御衣野《ミソノ》 或は溝野に作る、野代村の西に接し、今|古浜《フルハマ》村と改む、力尾《チカラヲ》猪飼《ヰカヒ》等の大字あり、多度村|小山《ヲヤマ》の南なる澗を占め、水は東流して香取江に至り、多度川に会し以て揖斐に注入す。○書紀通証は勢暢雜記を援き、尾津孤松此に在りと為す、曰「此松号曰|剣掛《ツルカケ》松、其地云溝野、与戸津相隣、村西有八剣祠、村長為草薙氏」と、伊勢名勝志「太刀掛松は溝野の西に在りしと、今松亡び耕地と為る、蓋往昔は海潮の去来したる地ならん」云々。五鈴遺響は、御衣野古野川の谷は海浜と謂ふべからず、八剣宮は式内佐乃富神社に当り、尾津孤松の所在に非ずと為し、又伊勢しまやみそのゝ浜のまつが枝に年経てたてる太刀もかしこし
と、勢陽雑記に引ける古歌をも疑ひぬ。
補【溝野浜】桑名郡○伊勢名勝志 太刀掛松一名一ツ松、御衣野村西谷の辺を云ふ、今概ね耕地となる、蓋し往昔沿海の地ならん、里人伝へ云ふ、日本武尊東征の時其帯剣を掛けし松ありし処なりと。五鈴遺響 溝野は太刀掛松のあるべき地にあらず。○今古浜村大字御衣野、古野川の渓潤岡陵の上なり、之を海浜と云ふは歴史時代の談に非ず。○式内佐乃富神社あり。
 
猪飼《ヰカヒ》 今古浜村に属す、古野川の北岸にて、多度神社の南山の陽に在り、塁址を存す、元弘建武の頃、小串詮行足利氏に属し此に居る、六世孫詮道は天正の初に至り、織田氏の兵を拒ぎ敗死す、〔伊勢名勝志〕小串氏は蓋多度祀官の一族なり。○猪飼の西山は多度谷に連接し、浮石層あり硅酸より成るを以て採収して、硝子の原料と為すべし。〔地学雜誌〕
補【猪飼】桑名郡○地学雑誌 多度山及び猪飼村の高塚山に浮石層あり、硅酸より成るを以て硝子の原料とす。猪飼城址 伊勢名勝志 北猪飼村字東谷に在り、小丘にして概ね耕地たり、南方は耕圃に臨む、濠形猶存す、古井二あり、今埋没せり、元弘建武の頃小串詮行、足利氏に属し此に居る、六世の孫を詮通(一に則道、又常政に作る)と云ふ、天正六年八月織田氏の兵、朝明郡萱生城を攻む、詮通赴き戦ひ、戦死す。○今古浜村大字。○小串は多度神官と同称なり。○外宮神領目録、猪飼御厨。
 
戸津《トツ》 今多度村に属す、多度谷の口に当り、御衣野の北凡十八町、神鳳抄、富津御厨とある地にして、一説尾津の訛なりと云ふは疑ふべし。
補【戸津】桑名郡〇五鈴遺響 旧名尾津、或は袁津、中古にいたり富津、今戸津と称せり、神鳳紗云「富津御厨(内宮)十九丁、外宮三石」東富津御厨、十九丁」尾津神社 神祇志料 尾津神社二座、今尾津郷小山村にあり、尾津宮といふ(桑名藩神社調・三重県神社調) 按、神社の山下に円正寺ありて山号を尾津山と云ふ、又一証に備ふべし(五鈴遺響、戸津村の牛頭天王社是なり)
蓋尾津氏の祖日本式尊の子稚武彦王を祭る(参酌古事記・旧事本紀)
 
小山《ヲヤマ》 戸津の民家の西、御衣野の北多度社の南、猪飼の東なる一丘なり、高百米突許、東に向て傾斜緩なり、戸津の田野は堤防を以て揖斐川を支ふる地なれば、往時は海潮香取江より浸漸して、小山の下を洗へるも知るべからず、延喜式小山神社あり、今牛頭天王と称す。
 
八剣《ヤツルギ》宮 小山神社の南に在り、一説延喜式尾津神社二座是なり、近傍に尾津山円正寺と号する者あり、又一証に備ふべし、蓋尾津君氏の祖、日本武尊の子、稚武王を祭る。〔神祇志料〕○古事記伝云、戸津は桑名より二里許西北、多度神社より廿町許東南なり、戸津と溝野の間に、八剣宮と云社あるは、尾津神社なりとぞ、孤松は此に其蹟を遺せり、此地は古より美濃伊勢の通路にて、戸津は美濃国界より一里南とす、此あたり今は海より遠けれど、古はやがて海辺にて、尾州津島より渡る泊所なりしと伝へ、多度山より尾崎の長く引延たる端にて、其山埼を里人は鼻長《ハナナガ》と云り、実に尾津の崎と云べき地形なり。○按に尾津の地点疑なきに非ず、諸説を並挙して、計較の料に供ふるのみ。 
多度《タド》 今|戸津《トツ》小山の諸村を合併す、多度山の下に在り、多度神社は戸津の西、大字多度に在り、桑名を去る三里。
美濃国には養老山を多度山と称す、続日本紀、養老元年の条に見ゆ、伊勢の多度山は養老の南五六里、連峰相接比し、揖斐川の西屏を成す、蓋同山彙なり。○多度祠後の峰を朝拝と名づけ、西峰を甕尾と呼び、東峰を岸名と呼ぶ、猶上方三十町を鷲倉又愛宕と称し、濃尾の野を下瞰すべし。
 
多度《タド》大神宮 延喜式、名神大社に斑し、続日本後紀に多度大神宮と曰ふ、初め神宮寺を置き、歴朝の崇敬ありしが、中世頗衰へ、幕政の時領五十石を定む。○延暦元年、多度神叙位、貞観元年、遺右中弁大枝音人、向多度神社、奉神位記財宝、五年、多度神加正二位。〔続日本紀三代実録〕○此社は天津彦根命を祭る、古事記云「速須佐之男命、乞度天照大御神所纏御鬘之珠所成神、御名大津日子根命」姓氏録云「桑名首、天津彦根命男、天久之比乃命之後也」古語拾遺云「天日一箇命、筑前伊勢両国忌部祖也」又姓氏録云 「天津比古禰命子、天麻比止都禰命」〔古事記伝神紙志料〕○東海道図会云、多度大神、天津彦根命、相殿|新宮《シングウ》明神|内母《ナイモ》明神、摂社|一目連《イチモクレン》祠等あり、社説曰、北勢洪水暴風の時、此神其難を防がせ給ふ、往昔は多度柚井戸津小山猪飼等の地皆神領なりき、永禄天正の頃、長島合戦連年止まず、神社寇火に罹る、慶長に至り、桑名城主本多忠勝再営あり、爾後累代桑名侯の尊崇する所と為り、大略旧観に復し、供僧法雲寺を再置す、神庫に古鏡三十面古剣一口古陶古銭数十品を蔵む、神域に老樹奇草を生じ、巌石の怪異なる者多し、八壷谷の幽渓は勝景特に著る。
 
法雲寺《ホフウンジ》 多度神宮の東 愛宕山の下に在り 寛永年中、桑名城主松平氏旧寺址を垂興せしめ、供僧坊と為す、真言宗を奉じ、鎮守愛宕権現あり。多度大神宮寺は、天台の一院たる由、続日本後紀承和六年の条に見ゆ、東寺文書には真言院と為し、訴訟の事見ゆ、古寺は後世廃滅し、五輪石塔散在するを以て、此所即其故跡たるを知る。
東寺文書、長治二年弁官符云、東寺所司等解状稱(にんべん)、多度大神宮法雲寺者、為寺家末寺、既経数百歳、而以去寛治年中、俄依有延暦寺之相論、経奏聞、任国史旨、為真言別院之由、被下宣旨(中略)爰彼山住僧仁誉、相語伊豆前司源国房、随数多軍兵乱入多度寺所領庄々、苅取作田等、兼又令損亡任人等、其子細旨載寺家氏人盛正所進解状云々、又嘉承二年弁官符云、東寺解状稱(にんべん)、多度神宮寺、往古之比、満願聖人依多度大明神託宣、建立堂舎、安置仏像所草創也、而承和十四年、彼寺僧寺憎寿寵、為真言宗、可奉祈鎮護国家之由、請官裁(中略)件多度神宮寺、本宮石本、任往古之例並前官符旨、停止延暦寺妨云々。〔節文〕
五鈴遺響云、多度の祠官は、小串氏と曰ふ、然れども多度庄司と云家あり、異同如何、北畠国司材親卿の多気窓螢に曰、昔三条殿の御領に、多度の国友匠材の上手にて、京にめされ清涼殿造りける、いとめでたく造りいたしければ、大工の官たまひけり、多度の郡にたいこのはたといふめるは是が領なりとぞ、准后暫く此所にましまし、多度の庄司に百貫文からせ給ひける、
  さだめの事
 鷲眼百貫は軍用ふそくにてむつの国司に送る料とて当庄の人々かし給ひよろこび思しめしぬ代もゆたかにかへらす時ごさうばいにて返し賜はらむ事に三神かけ奉るもの也
  午の九月三日              ちかふさ
    たどの庄司どの
今詳にするに、今多度神領の中に古野《コヌ》あり、大鼓野の略して転訛せしにや、陸奥の国司は中納言顕家卿の弟春日中将顕信なり、文中の軍用の料は南朝興国五年(北朝康永元年壬午)九月より、其十月、准后親房卿及び其男顕信其弟少将顕時等、一品宗良親王を奉じて奥州下向の時なるべし。
 
八壷谷《ヤツボダニ》 多度祠の西数町にして、渓澗両崖相対し、之を泝る数十町、危岩削絶、渓流高下し、松楓の間に掩映す、中にも八壷と称するは、(手偏+賛)峰相畳み幽谷を囲み、飛泉急灘あり、潭を為すこと八処、故に八壷谷の称あり。此下流|岩淵《イハガフチ》は水地底に潜り、四五町を経て再涌出し、滔々として東逝す。
   たど権現をすぐるとて
 宮人よ我名をちらせ落葉川、     芭蕉
 布子着てなつよりは暑し桃の花、   支考
柚井《ユヰ》戸津の北に在る大字なり、延喜式|宇賀《ウガ》神杜、今此地の字石垣に在り。〔神紙志料〕
 
香取《カトリ》 今|七取《ナナトリ》村と改称す、多度|古野《コノ》の渓水此に匯(さんずいは外)集し、江湾を成し、揖斐川に通ず、桑名郡の北界にして、美濃国太田村(海津郡)に至る一里。○東鑑云、文治元年、伊勢国香取五箇郷、大井兵三次郎実春賜之。
五鈴遺響云、香取は戸津の東也、桑名府に次で富有の地、近郷の庶民交易す、方俗香取市と称す、信長記、鹿取を駕島と記す、撰者の鹵莽なり、香取と称する名義は、常陸国鹿島香取大神、神護景雲元年、鹿島より遷幸、此地を過玉ひ、奈良の春日山に鎮座ありとぞ、式内|中臣《ナカトミ》神社の旧地なるべし。
 
熊口《くまくち》卿 和名抄、桑名郡熊口郷、訓久末久知。○今此名なし、香取辺にあらずや、一説長島に駒江村ありとて之に擬するも、採るべからず、且長島は江中の洲にして、全く沢地なれば、古代開村の所とは為し難し。○揖斐川の中游(海津郡)駒野村あり、其末に駒江の名あるを思ふに、揖斐川に沿ふて本来熊又駒の地名ありて、香取の辺は某口部に当るを以て此郷名ありしにや、録して後考に備ふ。
 
木曽《キソ》川 木曽|揖斐《イビ》の二川は、香取の東に会ふ、即勢濃尾三州の交会にして、洪水の激衝に当る、油島千本松と号する築堤ありて之に備ふ、土俗油島締切と称し、二水匯(さんずいは外)処の中間を屏塞し、各分流に就かしむる者也。延享年中、幕府美濃伊勢の水患を救はんが為め、薩藩に助力を課し(手伝普請と号せり)之を築く。揖斐川直に桑名を過ぎ海に入るも、木曽川は鍋田|筏《イカダ》の二支を東方に分ち、本流は伊曽島村を貫き後海に入る。近年木曽川の西支長島江鰻江の二口は、杜塞工事を施し、之に因り揖斐川桑名方面の陸(旁是)防は、木曽川洪水の圧迫を免れたりと云ふ、凡香取より以南桑名長島の輪中(南北三里東西若干)は、泰西謂ふ所のデルタ地也。(尾張美濃に於ける木曽川及美濃揖斐川油島参考すべし)木曽川は信州に発源し、長凡五十里、揖斐川は西美濃に発源し、長凡廿五里。
補【長江】桑名郡〇五鈴遺響 秋寐覚集「津島より棹さしくれば長江なる甲斐川過ていづみのゝ原」長江は桑名長島の間の長き木曽川の流れにして、桑名郡より三重郡を歴て鈴鹿郡の甲斐川(今の高岡川なり)を経て和泉にいたる地なるべしといふ、又長明が伊勢記及名寄歌に「いせ人はひがごとしけり津島より甲斐川ゆけばいづみのゝ原」是亦同じ。○再考 甲斐川は峡水にて即木曽川ならむ。
 
長島《ナガシマ》 揖斐川鍋田川間の大洲にて、木曽の幹流其東偏を貫くを以て、分れて二洲を為し、其東洲を今木曽岬村と曰ふ、南部は海に浜し江渠抄堆相雜る、伊曽島と曰ふ、長島の本郷は西偏に在り、今長島|楠《クスノキ》の二村に分つ。
長島は元亀年中門徒蜂起の地にして、滝川一益築城して之に居る、天正十二年、織田信雄之に移り、羽柴の兵を拒く、江中に在るを以て、防禦の便多し、豊臣氏の時、之を清洲主に隷せしめ、福島掃部頭正頼を置く、慶長五年、正頼和州宇陀に移り、長島一万石は其兼治と為す、元和以後、桑名城主の兼知と為り、元禄十五年、増山兵部少輔正弥に賜与せらる、封高二万石、城邑は桑名の北一里、長島江を以て揖斐川に通航す、今纔に塁址を遺す。○伊勢名勝志云、文明年中、安濃郡長野の族、伊藤重晴長島に拠り、押付殿名竹橋の三処(桑名志五処に作る)に堡砦を置く、永禄中、服部友定砦を修して之に拠り、北畠氏に属す、元亀二年五月、一向宗願証寺の憎証意、檀徒の強梁なるものを誘ひ乱を作し、重晴を遂て此に拠り、自ら長島殿と称す、威を近国に振ひ、織田氏の威令一も行はれず、天正二年七月、信長大軍を発し遂に之を殲す、尋で之を一益に賜ひ、北勢五郡を管せしむ。〇五鈴適響云、元亀元年、諸州門徒蜂起して国主に抗敵し、織田殿に叛きぬ、時に桑名長円寺の門徒、下間三位法印を招き、一揆して数万騎長島城に拠て籠居し、勢濃州の門徒の村々を押領す、滝川一益制すといへども敗軍に及ぶ 信長の弟信興尾州漕江の城に戦死す、信長之を聴て大に憤り、同二年五月十日、自ら五万余騎の兵を率して長島を討つ、同十三日退陣のとき、長島一揆濃州大田川へ舟五六十艘出し、軍卒を乗て横ざまに織田勢を支へ、所々に追打す、元亀四年九月、織田信長大軍を発して桑名に至る、門徒詐り降る、二十五日、信長帰陣せむとす、長島より急に三千余兵を発して追慕ふ、後陣林新三郎以下百余人悉く戦死す、天正二年七月、信長又之を討ち四手に分ち進発せり、市《イチ》掖口、香取口、漕江口、桑名口より攻入る、一揆は篠橋大鳥居櫃島大島中江五処に城砦あり、織田の軍悉く之を屠り、男女数千を殺す、八月十二日長島城中力尽て降らんとす、長円寺曰く男女助命ならば一人生害して開城すべしと、信長之を聴す、一万余の門徒の男女群り遁れ去らんとする時、伏兵鳥銃を放ち、其三千余人を殺す。
 
河内《カハウチ》 長島及び美州海西郡市江島の旧名とぞ、市江の北佐屋より蟹江の南に通じ、往時佐屋川の支流あり、故に名づく。〇三国地誌、長島及一江島七村を指して河内と言ふ、往古願証寺を川内御堂と号し、古仏の背に 「伊勢国横郡川内某村某寺某」と記し或は長島御堂と呼ぶ、乃ち川内は河内にして、長島一郷四面河を繞らす、故に此名あり。
 
長島《ナガシマ》御堂址 即長島城の地ならん、仏堂願証寺又顕証寺と云、○伊勢名勝志云、天文中、僧蓮如の十二男蓮淳の開基にして、始め長島に創建し、川内御堂と号す、元亀二年、四世証意長島城に拠り、織田信長に抗す、其子顕忍継て居る、天正二年信長来り攻め、顕忍自殺す、其子准恵免れて民家に養はる、長ずるに及びて再び願証寺を桑名に営す、正徳中、宗派を更め寺終に廃し、其寺字を一身田専修寺に移す。
補【長島】○今長島村及楠村とす、村南の新田地合同して伊勢木曽島、略して伊曽島村と云ひ、木曽岬村と曰ふ、鍋田川筋を以て尾州海西郡と分堺す。
長島城址 伊勢名勝志 本郡の東北部木曽揖斐二大川の間に位せる洲嶼の中央に在り、地形東西に延び長島江其北を擁す、西部は高地にして一宇の小祠を安んず、老杉古松参差相錯る、南に池あり、白蓮を植う、首夏の頃風色頗る佳なり、全地概ね開墾して耕圃となり、僅に石垣の存するを見る、寛永中光明峰寺道家此に来り、邑長其家を修築して之に居る、後京〔脱文〕
 
    度会郡
 
度会《ワタラヒ》郡 伊勢の南堺に在り、東及南は志摩郡及北牟婁郡に至り、北西は多気郡と交錯す。今四町三十一村に分れ 面積凡四十八方里、人工十二万、郡役所を宇治山田町に置く。通路は参宮鉄道亀山安濃津より来り、宮川を終駅と為す。熊野街道は一に札所道と称し、田丸《タマル》より西南に赴き、大内山|荷坂《ニサカ》峠を経て北牟婁郡尾鷲に向ふ。本郡は地勢宮川の末流に因り東に向ひ開く、然るに今宮川の上游大杉谷以下の六村を多気郡に附け、嶺南なる志摩の九村を本郡に管せしむるは、稍不当の区画なり。度会は古書に渡遇又度合に作り、垂仁帝の朝に皇大神宮の鎮座ありて、神国と称す、神功紀に「神風伊勢国の百伝ふ度逢県」と云者此なり、後分割して多気飯野の二郡を置く。伊勢風土記〔倭姫命世記所引逸文〕に度逢の説あり、曰く「畝傍檀原宮御宇天皇、詔天日別命覓国之時、大国玉神遣使奉迎、令以梓弓為橋、而度焉、爰大国玉神資弥豆佐々良比売命、参来迎相土橋郷岡本村申、天日別命歓地主之参相曰、刀自爾度会焉、因以為名也。(神郡の沿革は別に見ゆ)○度会神主は続紀「和銅四年、伊勢国人、磯部祖父高志二人、賜姓渡相神主」とありて、伊勢国造同祖、天日別命の後、大幡主命(一名大若子命)の裔孫なり。和名抄、度会郡(和多良比)十三郷に分つ、其伊気郷は今志摩郡に入る、類聚国史天平宝字三年、伊勢志摩国堺を争ひ、尾垂(銭の旁+リ)を葦淵に移すと云者、此郷なるべし。延暦儀式帳、神界束限を尾垂嶺と為す、尾垂蓋伊気郷の西|二見《フタミ》郷の交界ならん。○度会郡制置の事は、延暦儀式帳に明なり、曰「難波朝廷(孝徳朝)評を立て給時に、十郷を分て度会の山田原《ヤマダノハラ》に屯倉を立て新家連阿久多督領磯連牟良助督仕奉き」
   奉賀人勢州拝神宮     染田蛻巌
 乗霽経松阪、臨岐進竹都、春川催(舟+方)度、宝殿摂衣趨、天楽(草冠+貴)桴鼓、太羨越席厨、従茲神春渥、瑞靄満遙陬、
     ――――――――――
補【度会郡】○和名抄郡郷考 兵部式、度会駅馬八疋。神名秘書、度会郡者大国玉神奉迎之時、以梓弓為橋而渡焉、爰大国玉神佐々良比売参来迎相土橋郷(或云、継橋郷)岡本村、刀自爾度会焉、因以為名也。
続紀文武天皇二年十二月遷多気大神宮于度会郡。風土記、夫所以号度会郡者、畝傍樫原宮御于神倭磐余彦天皇詔天日別命覓国之時云々、大国玉神遣便奉迎天日別命、因令造其橋、不堪造畢于時到、令以梓弓為橋而度焉、爰大国玉神資弥豆佐々良比売命参来、迎相土橋郷岡本村云々、〔刀自爾〕度会焉、因以為名也。古事記伝、大国玉神とあるは伊勢国玉神にて、神名式に度会郡に大国玉比売神社とある是なり、然るを神宮の書どもに大己貴命なりとするは名によりて混ひたる誤也、凡て国玉神と云は国々にあるを、当《その》国にて尊びて大国玉と申すなり、土橋郷は和名に継橋とある是なり、岡本村は今も山田の坊名によぶ処なり。和訓栞、伊勢風土記に号度会郡者川名而巳とみゆ、夫木集にわたりあひ川とよめるは即度会川なり、りあの反らなり、度会川延喜式にみゆ。釈日本紀、二神郡、度会多気両郡也。行嚢抄、度会郡、東は志摩国を堺、南は紀伊国を限り、西は宮川に及びて南北に横はりて長し、北は大湊の海岸を限。
補【神郡】○神都名勝志 按ずるに神宮の御領を古く神国《カミクニ》と称しき、大化以後郡制を布かせ給ひしより此神国をも二分して度会・多気の二郡を置き、各十郷を管轄せしめられき、又神国造の職を廃して大神宮司の職を置き、天智天皇の三年甲子、多気郡十郷の内四郷(乳熊・黒田・長《ヲサ》田・漕代)を割きて伊勢国司に属し飯野郡と称し、高宮村に屯倉を立て、小乙中久米勝麿をして督領せしめらる、延暦十六年八月三日詔ありて大神宮司の御厨を湯田郡|宇羽西《ウハセ》村に移さる、同廿年七月朔日に諸国の神税は一に義倉に准じ、国司検校すべき由仰せ出さる、是に於て大御神の神税も国司の検校する事となれり、然るに太神宮は諸神と異なりとて、同廿四年に至り旧の如く宮司の職権に復せられたり、仁和五年三月十三日又詔ありて、天皇御一代の間飯野郡を神国に復せらる、尋ぎて寛平九年九月十一日に至り、永く皇太神宮の御領たるべき旨仰せ出されたり、是より度会・多気・飯野を神三郡とも道後とも称せり、当時封戸九百七十二烟、度会郡四百四十七烟、多気郡三百十五烟、飯野郡二百十烟、御厨二十ケ所、度会郡十三ケ所、多気郡五ケ所、飯野郡二ケ所、御薗百五十八ケ所、度会郡七十四所、多気郡四十六所、飯野郡三十八所なりき
 此の地神領伊勢国に五郡あり、又大御神御遷幸の途次、国造・県主より進りし神田神戸あり、又歴代の天皇より諸祈願の度毎に国々の封戸を寄せ進られし事、延喜式・皇大神宮儀式帳・大神宮諸雑事記・神宮雜例集・神鳳抄・日本紀略・扶桑略記・拾芥抄等に見えたり、然れども三郡に因なきを以て茲には略きつ
其後文治年中鎌倉幕府より諸国に守護使を置きし時、此の三郡は守護使不入の地と称し、厳しく兵士の椋奪を禁じたり、然るに延文応安の頃、仁木義長此の国の守護となりて所在の神田封戸を押領し、遂に神郡に及べり、是三郡の武家に侵略せられし始なり、永享十二年七月将軍足利義教、国司北畠顕雅と和睦し、守護使を停めて国中を国司に属せしむ、是時かの五郡の神領は勿論、三郡も既に武家の押領に帰してありしかば、国司は其の儘に之を兼併して、分領を定めたり。
○大同本紀 皇大神御鎮座之時大幡主命、物乃部八十友諸人等率、和御魂荒御魂宮地乃荒草木根苅掃、大石小石取平、大宮奉定、尓時大幡主命白、己先祖天日別命賜伊勢国、内磯部河以東神国定奉(飯野多気度会の評なり)即大幡主命、神国造并大神主定給。
○皇大神宮儀式帳 一、初神郡度会、多気、飯野三箇郡本記行事、
右従纏向珠城朝庭以来、至于難波長柄豊前宮御宇天万豐日天皇御世、有爾|鳥墓《トツカ》村、造神痔(まだれ)弖、為雜神政行仕奉支、而難波朝庭天下立評給時仁、以十郷分与、度会乃山田原立屯倉弖、新家連阿久多督領、磯連牟良助督仕奉支、以十郷分、竹村立屯倉、麻続連広背督領、磯部真夜手助督仕奉支、同朝庭御時仁、初太神宮司所称、神痔(まだれ)司中臣香積連須気仕奉支、是人時仁、度会山田原造御厨弖、改神痔(まだれ)止云名弖、号御厨、即号太神宮司支、近江大津朝庭天命開別天皇御代仁、以甲子年、小乙中久米勝麻呂仁、多気郡四箇郷申割弖、立飯野高宮村屯倉弖、評督領仕奉支、即為公郡之、右元三箇郡摂一処、太神宮供奉支、所割分由顕如件。
○持統紀 六年三月辛末、天皇不従諌、遂幸伊勢、壬午、賜所過神郡及伊賀伊勢志摩国造等冠位。按、神郡初多気度会二郡を云、三代格云、弘仁十二年太政官符云、承前之例太神宮司検伊勢国多気度会両郡神田祖及七所神戸田等粗、用祭礼、従来尚矣。儀式帳云、二個神郡云々、又云、多気度会二箇神郡所進云々。雉例集云、飯野郡、仁和五年三月十三日勅、一代之間奉寄、寛平九年九月十一日官符曰、永以奉寄、已上謂之神三郡、又云道後。延喜式之に仇る(後東鑑等神三郡の称見ゆ)雜例集又云、天慶三年八月寄員弁郡二百烟、応和二年二月三重郡二百一烟、天禄四年(改元天延)九月安濃郡三百八十九烟、寛仁三年九月符、員弁、三重、朝明謂之道前三郡、安濃之謂東西郡。○寛治元年六月廿一日、北条時頼式目追加、伊勢国道前三郡政所云々あり〔北条未詳〕文治元年九月飯高郡(南北両郡)謂之神八郡、是に於て八郡となる。
 
宇治《ウヂ》郷 和名抄、度会郡宇治郷。○延喜式、太神宮、在度会郡宇治郷、五十鈴河上。○伊勢風土記云、宇治村、五十鈴河上、造作宮社、奉太神以為内郷也今以宇治二字為郷名。〔神名秘書〕
今|宇治山田《ウヂヤマダ》町の中、内宮神路山及宇治館町今在家町中之切町浦田町及四郷村大字中村楠部等の地なり神域内の謂を以て内と云ひ、後世内宮の称因りて起る、本郷は東(朝熊山)南(神路山逢坂峠)西(鷲峰)は峰巒環繞し、二水其上方に発源し、内宮の南に至り相合ひ北流す、即五十鈴河なり。○宇治より西北|浦田《ウラタ》坂を経て古市《フルイチ》町に通じ、以て山田町に至る、(宇治橋より宮川橋まで)民家連接し六十町に及ぶ、人口三万、今合同して宇治山田町と曰ふ、抑地名は、佳称二字と云事、古聖王の遺旨あれば後人と雖尚留念すべき所なり、而て今宇治山田と云ふ如き、不雅無稽(のぎへん上)にして古に違ふ名を立てしは、神都の為めに惜まるゝ業なり、此地の如きは世俗の新奇に迷ふなく、必ずや其古の本称に帰り、度会町と云ふこそ当然なれ。
補【宇治郷】度会郡○和名抄郡郷考 神祇式 大神宮在度会郡宇治郷五十鈴河上。神鳳抄、度会郡宇治郷。年中行事、宇治郷北谷、又宇治河原、又宇治田辺両所御常供田。神宮雑事記、長暦三年二月大神宮禰宜等上京了云々、抑神宮訴十三箇条也云々、宇治沼木兩卿浪人雑事可致免除事。神社啓蒙、興玉社在伊勢国度遇郡宇治郷内宮酒殿辺、無神殿、猿田彦命一座、宇治土公租神。元々集、宇治郷下松下村。風土記、宇治村五十鈴河上造作宮社奉大神、是日以宇治郷為内郷也、今以宇治二字為郷名。勢州古今名所集、宇治郷にある河なれば宇治川といふ也、水上は五十鈴、河流の末は御裳濯川、五十鈴御宮所より二見の浦の入江までは二里余りあり、其所々に字は有といへども、すべて是を宇治と云なり。
 
神路山《カミヂヤマ》 宇治内宮の神苑を繞り、殊に南方に拡延する地積にして、欝蒼たる山林也、今神路|島路《シマヂ》の二御料地に区分し、南界は志摩郡磯部村神原村に至る(南極の峰を築地又須波留と云)東北は朝熊山、西は鷲嶺前山に至る、方二里余に上るとぞ。
参宮図会云、神路山は一名|天照《アマテル》山と曰ふ、又|鷲日山《ワシノヤマ》と詠ずるは、天竺霊鷲に比したるにて、好て呼ぶべきに非ず。弘安参詣記、神地の山の嵐の音、有為の妄雲も忽に晴れ、御裳濯川の浪の音、無始の罪障も早く濯したる心地して、承り及びしにも過ぎて、身の毛よだち云々。○元亨釈書云、予詣勢州神祠、高山環峙、清河繞流、杉林森(直が三つ)、大数十囲、高百余尺、一鳥不鳴、幽邃闔爾。
 ふかく入りて神路の奥をたづぬればまた上もなき峰の松風、〔千載集〕       沙門 西行
 かくしつゝそむかんまでも忘るなよ天照山の秋の夜の月、〔歌枕名寄〕       後鳥羽院
太平記仁木義長参南方条曰、近年此の人、伊勢の国を管領して在国したりしに、前々更に公家武家手を指さゞる、神三郡に打ち入りて、大神宮の御領を押領す、是によりて祭主神官等京都に上りて、公家に奏聞し武家に触れ訴ふ、開闢より以来斯る不思議やあるとて、厳密の綸旨御教書を成されしか共、義長全て承引せず、剰我を訴訟しつるが悪しきとて、五十鈴川を堰きて魚を取り、神路山に入りて鷹を仕ふなど、悪行日来に重塁せり。
補【神路山】○参宮図会云、神路山は内宮の域のめぐり東南の惣号也、一名太山、天照山、宇治山、鷲の日山とも云、鷲の日山とは天竺霊鷲山に比して、西行の歌より言始たるなるべし、好て呼ぶ名には非。
 
五十鈴《イスズ》川 神路山の南嶺より発し、北流四里西二見村に至り海に入る。神都名勝誌云、一名|御裳濯《ミモスソ》川、俗に大川と云ふ、水源二派あり、共に伊勢志摩国界より出づ、其一逢坂山より出で、皇太神宮の南を繞り、一は神路山より出で、龍が嶺大瀧小瀧の渓流をうけ、此二流神宮西南に至り、一道の大河となり今在家中之切浦田等の東に沿ひて北流し、鹿海にいたりて朝熊川を入れ、又二派に分れ、一は三津江村松下等を経て二見浦に注ぎ、一は汐合に至り、下流は勢田川を合せて海に入る、長き大約四里、濶さ六十間なり、此川二源あるによりて、五十鈴川御裳濯川の別をなす説あれども非なり。(国邑志云、五十鈴は河瀬のいと清けきを鈴に比して名づけたるか、又篶川にや、又濯川の義にて、伊須岐河にや、不詳)
 御裳すその岸の岩根によをこめてかためたてたる宮柱かな、〔山家集〕おりたたん事も畏こし神垣やみもすそ川の清きながれは、     八田 知紀
日本書紀云、倭姫命、興斎宮于五十鈴川上、是謂|磯《イソ》宮則天照大神自天降之処也。倭姫命世記云、命河際にして御裳裔長く穢れ侍るを洗給へり、従其以来号御裳須曽河也。神名秘書云「風土記曰、八少男八少女逢此|泗樹接《イススキ》因以為名也。」○東鑑云、建長二年三月、依為大神宮祈年祭例曰、相州(北条時頼)被奉幣物、東条次郎大夫為御便、参宮之処、彼御裳濯河水色如紅、一日一夜帰本流。
神都名勝誌云、五十鈴川神路山の奥に、奇勝の境地多し、先つ一瀬は山口也、水中石(石+工)を置き人を通す、維新前までは此の所に番屋ありき、御贄小屋《オムベゴヤ》といへり、南海の浦々より魚藻を擔ひて市場に出る道にして、魚人其の荷前《ノザキ》を神宮に納めし所なり、一之瀬より五十鈴川に泝る、溪澗凡十四五町の沿途には、巨岩大石互に奇状を呈し、其の間奔湍衝激して、水は石と相搏ち、珠沫霏々たり、人をして恍惚柳州小石潭に遊べる想をなさしむ、就中鰒石龍淵熊淵海鼠石屏風岩御船石行戻などを最奇と為せり、鏡石とは、高さ二丈横五尺許の巨岩にて、西面削るが如くして、晶螢(中火)物を鑑みるとぞ、白銅鏡に異ならず、土俗は鏡と称す、大滝と云は神路山の上方に在り、高七丈許幅四尺、距山数仞の上より霏々直下せり、両岸の楓樹、飛泉に根を洗ひて恰も(鹿/主)尾の如し。
 
大神宮《ダイジングウ》 五十鈴川の上、神路山の麓に在り、(宇治山田町の東南大字宇治館町南)正殿南面す、国家無上の太祀なり。泝釧《サククシロ》五十鈴宮と号し、古は磯宮又宇治宮と称す、後世専|内宮《ナイクウ》と呼び奉り、之に対し山田豊受大神宮を外《ゲ》宮と曰ふ、即伊勢両所神宮にして、通俗オイセサマと唱奉る、畏き辺にては宗廟とも申さる。神皇正統記云、垂仁帝の御時皇女天照大神を斎き奉り、伊勢の国度会郡五十鈴の川上に宮所しめ、是より皇太神とあがめ奉て、天下第一の宗廟にまします。拾芥抄云、兼豊注進曰、宗廟事、大神宮(伊勢)石清水(八幡)御事也、口伝曰、宗廟社稷之号分別事云々、皇帝祖神号宗廟、又勅願杜称社稷。(又塵添(土+蓋)嚢抄にも此説見ゆ)神宮雑例集、永暦元年宣命云、去年兵革俄起之間、為凶悪之輩、雖掠取内侍所、依宗廟之厚助、正体自然出来給、云々。
  伊勢遷宮の年よみ侍りける
 神風や朝日の宮のみやうつりかげのどかなる世にこそ有けれ、〔玉葉集〕       鎌倉右大臣
 いすず河あらたにうつる神がきや年ふる杉の影はかはらず、            本居 宣長
  拝大神宮作        伊藤東涯
 惟皇垂帝統、無外庇蒼生、首出乾坤位、照臨日月明
 茅茨余古朴、狙豆属昇平、万室比甍集、一川夾字清
 我来何所祷、文数日斯成、
神都名勝誌云、太神宮また朝日宮と称す、斎き祀れる御霊代は、大御神の天岩窟に幽居し給ひし時、石凝姥神の造り奉りしは、八咫の御鏡なり、皇孫邇々芸命の此の国に降臨し給はむとせし時、大御神御手づから此の御鏡をとらせ給ひて「此之鏡者、専為我魂、如拝吾前、伊都岐奉」と詔らして授け給へりき、されば此の御鏡は全く大御神の現御身に異なる事なし、そは息長帯比売命に神憑ましし時に「神風伊勢之|百伝度逢県之折鈴《モヽツタフワタラヒノアガタノサクスズ》五十鈴宮、所居神名|撞賢木厳之御魂天疏向津媛《ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメ》命」と宣り給ひし大御言以ても著しき御事なり、又此正殿には相殿神ます、皇太神宮儀式帳に「相殿坐神御船代、二具」とあり、延喜式「太神宮、船代三具」とある註に、二具は相殿神料とありて、皇太神宮儀式帳の分註には、天手力男命万幡豊秋津姫命とし、御霊代は弓剣の二種とせり、されども女神の御霊代に御剣を用ゐし例なし、弘安参詣記には日本書紀を引用して、天児屋根命一名思兼命及び太玉命なるべしといへり、儀式帳奏上の当時分註のありしものなるか、はた後人のかき添へたるものなるか、今定かに知りがたし。(古事記云「天照大神詔者、此鏡専為我御魂、而何拝吾前伊都岐奉、次思兼神者、取持前事為政此二柱神者、拝祭佐久久斯侶伊須受能宮」と、二座は斯く明白なれば、後に追配ありし神は、又太王命なること下条に其論あり、之に従ふを可とす)
神紙志料云、皇大神宮三座、今宇治郷五十鈴河上に在り、古之を渡遇《ワタラヒ》宮と云ふ、〔日本書紀二所太郎宮神名略記〕天照坐皇太御神を斎祭る、霊御形八咫鏡に坐せり、〔日本書紀古事記延暦儀式帳〕皇大神之を日神と申し、又天照大神亦名大日霊貴、又天照大日霊尊とも申奉る、〔日本書紀〕即天日嗣知看皇孫命の大祖神に坐て、四方国を看はるかし坐し、天下の福祥禍災《ヨゴトマガゴト》を知りて、百姓を恵み給ふ甚も尊く畏き大神に坐り、(参取日本書紀古語拾遺延喜式小右記)故五穀の種を穫ては水田物陸田物《タナツモノハタツモノ》を殖る法を定め、養蚕織服の道を教給ひ、〔日本書紀〕朝廷の御為には狭《サキ》国を広く、峻《サカシキ》国を平けく、遠国《トホクニ》を八十綱掛て引寄る如く順服はしむるを以て、大神の神慮とは為給ひける、〔延喜式〕故日本武尊神宮を拝奉りて、蝦夷を伐給ふに、賊類忽に順ひ奉り、息長帯姫命神教に依て韓人を馬飼の奴と仕奉らしめ給ひき、〔日本書紀古事記〕大凡外蕃の貢物を必ず神宮に奉る事は蓋又此故也、〔日本書紀類聚国史日本紀略〕上古天照大神天石屋に隠り給ふ時に、八百万神等神集々て、思金神に思はしめて、常世長鳴鳥を衆鳴しめ、石凝姥命に日像《ヒカタ》の鏡を造らしめ、天鈿女神に歌舞て咲楽はしめ、其鏡を賢木に取繋け、天太玉命天児屋命に広き厚き称辞もて、神祝《カムホサギ》ほざかしめて招出し奉り、即新宮に遷り坐しめき、〔日本書紀及一書古事記古語拾遺〕日像の鏡は即八咫鏡也、〔日本書紀古語拾遺〕皇孫瓊々杵尊筑紫に天降坐しより後、御世御世大神の大詔の随に、宝鏡を同殿に斎奉り給ひ、崇神天皇に至て、深く神威を畏奉り宝鏡を豊鍬入媛命に託て、倭笠縫邑に斎祭らしむ、垂仁天皇の御世、倭姫命に託奉て大神を鎮め坐べき処を求て菟田《ウダ》に至り伊賀国に入り、〔伊賀国拠延暦儀式帳〕更に還りて近江に入り東方美濃固より伊勢に到りたまふ時に、(昔皇孫命の啓行して伊勢狭長田五十鈴川上に到坐る、猿田彦命の裔、宇治土公の祖)大田命参来て五十鈴の川上に好大宮処ありと申す、〔日本書紀神裔以下参取延暦儀式帳倭姫命世記神名秘書〕即見そなはして、宮処を定賜ふ時に「大神是神風の伊勢国は常世《トコヨ》の浪|重浪《シキナミ》寄る国、傍国《カタクニ》の可怜国《ウマシクニ》也、是国に居む」と教し給へる随に、斎宮を興奉りき、是即今の大宮也、〔日本書紀延暦儀式帳〕相殿神二座、左方に坐を天児屋命と申す、霊御形弓に坐す、右方に坐を天太玉命と申す、霊御形剣に坐す、〔日本書紀参取倭姫命世記〕
 按に相殿神、古事記には其一座を思金神とし、儀式帳に天手力男神、万幡豊秋津姫命とす、されど手力男神は佐那県に坐とみえ、神名帳に佐郡神社もあれば相殿に坐べき由なく、又秋津姫命は姫神に坐して其御霊形の剣に坐す事も疑はし、故にとらず、日本書紀に「天祖皇孫に斎鏡を授けて、同殿共床の詔を下し給ひ、次に天児屋命太玉命に勅して、殿内に侍ひてよく防ぎ護り奉れと詔ふ」事見え、鎮座本紀弘安九年大神宮参詣記等にも二座を相殿とする事同じ、故今日本紀倭姫世記の説に従へり、又鎮座本紀に相殿二座昔は天児屋命太玉命なるを、雄略の朝神誨に因り天力男神万幡豊秋津命を本宮に祭られきとあれど、古書に徴し難ければ輙く信じがたし。
其大宮を定給ふ時、八尋機殿を建て、大神の神衣を織奉り、〔機殿儀式帳神名秘書鎮座本記〕又|有爾鳥墓《ウニトツカ》村に神痔(まだれ)を造り、雑々の神政を行仕奉らしめ、孝徳天皇御世、神痔(まだれ)を改て御厨とし、神郡を割て度会山田原と竹村に屯倉を置、天智天皇甲子年、多気郡を割て飯野高宮村の屯倉を立給ひき、〔延暦儀式帳神名秘書〕凡神界の四至東は石井《イハヰ》朝熊《アサクマ》尾垂《ヲタリ》峰等を山界とし、北は比奈多島|志婆崎《シバサキ》阿婆良岐《アハラキ》島、都久毛《ツクモ》島小島等を海界とし、南は志摩の鵜椋嵩錦山坂を界とし、西は飯高、下樋小河《シタヒヲガハ》を神の遠堺とし、飯野郡磯部河を神の近界とす、〔延暦儀式帳〕大同元年、大和伊賀伊勢志摩尾張参河遠江の地一千百卅戸を神封に充奉る、〔新抄格勅符〕初め垂仁天皇の朝、諸国造等奉る所の神戸三百五十三戸之を本神戸といふ、延暦廿年神宮封戸は改減の限に非る事を制給ひ、〔神宮雑例集神宮雑事記〕嵯峨天皇弘仁十二年伊勢大神宮司に勅して多気度会両神郡及七処の神戸田租を検納しむ、〔類聚三代格〕天慶三年平賊の報賽に尾張三河遠江各封戸十烟并に員弁一郡二百烟を寄し給ひ、〔日本紀略神宮雑事記〕応和二年、三重郡二百一煙を充、天延元年、安濃郡三百八十九煙を奉り、〔小右記日本紀略神宮雑例集〕後寛仁元年に至りて、更に御願に依て朝明郡を寄奉る、〔小右記左経記〕合せて之を道前三郡といふ、〔神宮雑例集〕長暦元年封戸百煙を充給ひき、〔扶桑略記〕此後二所太神宮の神田御薗御厨甚多く五畿七道大凡神戸あらざるものなし、〔神鳳砂神領目録大要〕養和元年、金銅鎧を奉て兵乱の事を祈り給ひ、寿永二年祭王大中臣親俊禰宜荒木田成長太神の神教に依て、宝殿の御剣を後白河法皇に奉りき、〔書記百錬紗大中臣荒木田拠中臣本系帳荒木田系図〕初垂仁御世より後封戸神田甚多し、是に至て東国神領神戸所司神人等、事を兵乱に寄て所当神税を妨げ、祭祀の闕乏を致せり。〔参取延暦儀式帳日本紀略神鳳抄東鑑〕○按ずるに神宮雑例集、道前三郡道後三郡の外に「安濃郡、謂之東西郡、文治元年九月、飯高南北両郡、謂之神八郡」とありて、文治には飯高の一郡を割き、神郡と為されしと見ゆ、初め天智の朝に飯野を分割して公郡とせられしが、光孝天皇仁和五年一代の間奉寄の勅あり、寛平九年に至り更に永代の官符を下し給ふ、神三郡と云者是なり、多気度会と相接して道後と曰ふ、封戸九百七十二畑、御厨二十所御園自五十八所あり、員弁三重朝明は道前にして、貞永式目追加に伊勢国道前三郡政所と云名見ゆ、諸国神封の大数は承久注進の神鳳抄に載す。又神宮の変災を視るに、歴代の久き火盗の事往々にして之あり、中にも兵乱の為に事を生じ、因て以て神宮の衰替を招けるは、平氏暴横と兩宮争闘の二者に在り。東鑑治承五年の条に曰「平相国禅門驕奢之余、蔑如朝政忽諸神威、破滅仏法、悩乱人庶、近則放入使者於神三郡、充課兵粮米、追捕民烟、天照大神鎮座以降千百余歳、未有如此例」云々、建仁三年条曰「伊勢国三日平氏跡、新補地頭等募武威、停止大神宮御上分米之由、本宮訴中之、彼他者当国散在之田畠也、平氏雖管領地下、於上分米者、備進本宮之条、所見分明之間、為清定奉行、守先例可致其弁之由、今日被仰下」云々、また内外両宮兵乱記に曰「長享二年六月、此度宇治の滅亡する所以をたづぬるに、多気の国司御所より、宇治衆へ御扶持あるに因て、宇治衆万づ無礼の振廻法に過るに依て、在々所々より之を不悪云となし、故に山田衆よき折節ぞと、近辺に示合、大勢にて発向す、先山田三方を始として、浜七郷三箇郷神都七郷五智白木上野一宇田原外木田の勢幾千騎と云数不知けり、朝熊鹿梅兩郷も山田に組す、去程に六月廿三日早天より、諸勢押寄る、長官傍官物忌衆は今度の大乱能々思案を加るに、先年外宮御殿炎上ある間、内宮の御事も無心許存じ、宮中に伺公し奉り、祈念致す所に、如案既に上館御厩子良館まで焼上る間、御殿に掛る焔は秋の木の葉の嵐に散が如し、落合口御山峠の手負神殿へ逃入に依て、敵数百人御階の下まで乱入し、生害二人あり、同廿四日に死人どもをば、山田より皆取退る」云々、此宇治山田の不和は後年まで余習を遺し、各自奉事する所の神宮に就て相主張し、多く不祥の事態を見たり、毎二十年正殿造替の故儀も廃しける比、漸く比丘尼の勧進に因り遷宮を行ひし時もありき。○神都名勝誌云、北畠国司の頃、神領は宮川東より宇治沼木高向箕曲継橋の五郷と、多気郡斎宮寮の旧址及|相可《アフカ》郷とのみにぞなりにける、神領此の如く減削せしかば、大宮司の神政を執りし離宮の庁院を始め、神税を納めし正倉も遂に廃れ亡ぶるに至れり、天正十一年、国司北畠信雄より両官御供料として、多気郡斎宮|上野《ウヘノ》有爾《ウニ》中村の四村高二千五百貰文の地を寄附せり、同十二年国司廃絶の後、豊臣家より三郡を蒲生氏郷に与へしが、特に皇太神宮に四千余石の地を寄贈し、徳川家に至りても旧例により、朱印の証書を寄せたり、寛永十年に至り、二見《フタミ》郷の人民の愁訴により、両宮御塩の料として、同郷にて高二千三拾余石を復旧せり、爾後明治維新の際まで変る事なかりき、明治四年、海内改封給禄の時、神領はすべて上地せしめらる、爾来両宮年中祭典の供御より百般の調度に至るまで、皆国庫より支弁せらるゝ事と為り、特に神宮司庁を置かせられ、察祝を司らしむ。
神祇志料又云、謹按に凡歴世天皇太神宮を斎祭り給ふ、必其誠を致し其敬を尽し給ふ、故践詐大嘗即位及国の大事繚(さんずい)旱疾疫ある毎に、必大極殿に御して幣使を発遣し、其神宮に至るまで、日毎に御拝を行ひ、御衣を脱ずして寝に就き給ふが如き、後世に至る迄皆古に異なる事なし、(参取類聚国史日本紀略中右記伏見院御記大意)其幣神宮には錦綾、豊受宮には緋縹黄(白/七)帛を用ふ、王臣以下輙く幣を供る事を得ず、皇太子と雖も朝廷に奏して後之を献る、凡二所太神宮に参入る者、兵丈(にんべん)を帯く事を許さず、(延喜式〕勅を奉りて神宮に詣る者、沐浴潔斎し、必仏像仏具穢悪の物を家中に置事を得ざらしむ、若適之を犯す時は、神験立処に著る、〔台記公卿勅使記〕凡仏法僧尼の類に至ては尤も神宮の忌給ふ所なるを以て、僧徒神境に入る事を得ず、其制甚厳也、〔延喜式参取元亨釈書太神宮参詣記〕其祭祝に供ふる舗設雑器松薪炭等の類、皆神戸雑徭をして修備へしむ、凡神宮朝夕に神饌を奠奉り、又歳時に祭る、祭毎に必豊受宮を先にして太神宮を後にす、又宮地は預め二処を定め置き、造替奉遷の所と為す、乃ち二十年を経る毎に、正殿宝殿及外幣殿みな新材村を操て造替、更に遷る、豊受及別宮等之に準ふ、初天武天皇遷宮の制を設給ひしより、時或は例に違ふ事ありと雖、後世に至るまで又之を改る事なし、〔参取園大暦神宮雑事記日本紀略太神宮例文大意)凡神宮諸院及斎王神宮に参る時の館舎は、宮司並神戸調庸をして破に随て之を修め、損壊ふ事ならしむ。〔延喜式〕
補【大神宮】〔神紙志料、脱文〕天武天皇未鳥元年四月丙申、多紀皇女、山背姫王、石川夫人を太神宮に遣し給ひ(日本書紀)持統天皇六年五月庚寅、使を遣し幣を奉る、藤原宮を造るに依て也(日本書紀)文武天皇大宝二年三月丁未、使を遣して秦忌寸広庭が献れる杠谷樹八尋鉾(木偏)根を奉り(続日本紀)七月癸酉詔して云、神宮の封物は神御の物なるを以て、宜しく濫穢を致事勿れと制定ひ(続日本紀・類聚三代格)八月癸亥勅して神戸の調を太神宮服料に充しめ、慶雲元年十一月癸巳、忌部宿禰子首をして幣帛鳳凰(穴/果)子錦を奉り、三年閏正月戊午新羅の調を奉り、元正天皇養老五年九月乙卯、天皇内安殿に御て使を遣し幣帛を奉らしむ、九月奉幣此に始る(続日本紀)此後十一日を以て例日とせり、
 按、是年及天平十二年、延暦九年、承和元年並に九月十一日を以て幣を奉り、承和七年以後みな然るときは、其例日となれる事明らか也、附て考に備ふ
聖武天皇天平十年五月辛卯、右大臣橘諸兄・神祇伯中臣朝臣名代等をもて神宝を奉り(続日本紀)十一年十二月辛巳始て政印一面を置き(神宮雑例集・神宮雑事記)廃帝天平宝治三年十月戊申、初勝宝五年太神宮の界を限て標を樹しに伊勢志摩両国相争ひき、是に到て尾垂割(左賤の右)を葦淵に遷し、即使を遣して幣帛を奉り、称徳天皇神護景雲元年二月乙卯、大炊頭掃守王、左中弁藤原朝臣雄田麻呂を伊勢太神宮使として、社毎に男女神服各一具を奉り、太神宮及月次社には馬形及鞍を加奉らしめ、光仁天皇宝亀元年八月庚寅、幣帛及赤毛馬二匹を奉り、九年十月丁酉、皇太子病(やまいだれ/謬の旁)るを以て親ら神宮を拝み、其十年八月辛卯、神宮正殿及財殿御門瑞垣盗の為に焼るゝを以て、参議左大弁紀朝臣古佐美、神紙伯大中臣諸魚をして幣を奉り其事を謝《マヲ》さしめ、尋で使を遣して神宮を修造らしむ、此火災の時相殿二座の霊形皆折損れき(此火災以下、神名秘書)
○〔続日本紀〕廃帝天平宝字三年十月戊申、去天平勝宝五年、遣左大弁従四位上紀朝臣飯麻呂、限伊勢大神宮之界樹標、已畢而伊勢志摩両国相争、於是遷扈乗(左賤の右)於葦淵。按、考証云、扈乗当依別本及類聚国史作尾垂。度会氏曰、儀式帳云、四至神界、以東尾垂嶺等為山堺云々。即此地葦淵、度会君今有押淵村、疑此と見ゆ、押淵村志摩旧地道潟卿界にあり。〔以上、補注か、補入。○錯簡多く、今仮に以下に続く〕
淳和天皇天長元年九月乙卯、度会離宮を常斎宮とする事を告し(類聚国史)仁明天皇承和五年七月丁丑、幣帛を奉て秋稼成熟を祈り、尋で八省院に御し使を遣して豊年を祈り、十月戊子神宝を捧げ、六年四月壬申祈雨の為に幣を奉り、九月辛酉唐物を奉り、十二月庚戌斎宮焼損に依て珍幣を奉り、多気宮地を卜定めて常斎宮とする事を祈申さしむ、嘉祥二年九月丁巳、左少弁文室朝臣肋雄等をして廿年一度の神宝を奉る即例也、(続日本後紀・日本紀略)文徳天皇即位の年〔嘉祥三年〕九月乙酉、奉幣使に附て細馬五匹を神御に充奉り、仁寿元年九月庚辰、又八匹を奉り(文徳実録)清和天皇貞観八年五月己巳、是歳国内大疫、神郡百姓死穢に触れ駆使の人なきを以て、六月祭に斎王神宮に参給ふ事を停め、九月壬子斎宮允以上穢に仍て祭に供奉る事あたはず、故に勅して中務少輔藤原朝臣諸房を遣して事を行はしめ、十年九月丁酉、右少弁藤原朝臣千乗等をして廿年一度の大神財宝を奉り、陽成天皇元慶二年三月癸卯、幣及神宝弓鉾(木偏)剣等物を奉り、十二月壬申橿日神教あるを以て弘道王を遣して大神の祐助を請奉らしむ(三代実録・類聚国史)光孝天皇仁和元年十一月辛丑、散位大中臣朝臣罕雄判官主典各一人を遣して大神宮を造らしめ、明年九月神宝使左大史善世宿禰有友、史生二人官掌を進発し給ふ、式条に拠るに神宮及神宝二十年毎に一度之を改造る、初貞観十年修営の後並に未だ其限に満ずと雖ど、神宮已に成るを以て神宝を奉りき(三代実録)字多天皇寛平元年三月癸卯、一代を限て飯野郡を寄奉り(類聚三代格)九年九月十一日に至て兵乱の御祈の為に永く之を寄奉る(類聚三代格・日本妃略)醍醐天皇延喜の制太神宮及相殿神二座並に大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預り、 按、神名秘書延喜十一年正月癸未相殿神二座並預四度官幣〔脱文〕
崇徳天皇長承二年八月丙午、臨時幣を奉て豊受宮及別宮滝原伊雑等宮変異の事を謝し、兼て鎮西宗像社焼亡の事を告さしむ、宗像神は太神の御子なるを以て也、(中右記)二条天皇永暦元年二月辛酉、宣命を捧て去年兵革の時内侍所賊の為に掠取られしかど、宗廟の厚助に依て神鏡自ら出来れり、故に新櫃を送て納奉る由を告し(神宮雑例集)後鳥羽天皇元暦元年五月庚寅、源頼朝既に平氏を殲し、武蔵国飯倉御厨を奉る、是よりさき祈願意の如き事を得ば二宮に新加神領を立て東国神領旧に復さんと祈り申せるを以て也、文治三年正月壬戌、又幣帛及神馬砂金御剣を奉て弟義経追捕の事を祈り、土御門天皇正治元年正月乙卯、源頼家遠江浦、尾張一楊・参河飽海及大津・伊良胡等神戸御厨を寄奉り、建仁三年三月己卯、駿河方上御厨を寄し、順徳天皇承久三年三月丁未、頼朝妻北条政子神告ありしを以て、伊勢安示・井後及葉若・西園四村を奉り、後深草天皇宝治二年十二月戊寅、将軍藤原頼嗣御神楽米を神宮に寄奉り、建長二年二月四日祈年祭例日なるを以て幣帛を奉りき(東鑑)後亀山天皇天授五年八月壬辰、伊勢太神宮禰宜神宝を捧げ京に至て遷宮延引の事を訴ふ、後円融院即祭主を遣して之を宥め、十一月に神宝を調献るべき由を告しかば、禰宜等みな命に随て国に帰りき(後深心院関白記)
○〔以下、祈年祭儀か、錯簡未詳〕
祭毎に必豊受宮を先にして神宮を後にす、凡そ祈年祭朝使至る時、太神宮司使者を引て先度会宮に参り、次に太神宮に幣帛を奉る(延喜式)其儀朝使宮司と共に神宮外苑に至る、即ち禰宜|内人《ウチヒト》等候ひ侍りて、宇治大内人太玉串二枝捧げて宮司に授く、宮司手拍給り、禰宜生絹の明衣を着、左右の背に木綿手(糸+強)懸て太玉串四枝を手拍給り、捧持て左方に立ち、宇治大内人太玉串八枝捧持て右方に立ち、共に左右に前行、次に宮司、次幣帛捧持内人、次御馬飼内人御馬牽立つ、次に朝使次内人等立列り、第三重に至り正殿に向ひ跪て版位に列る、内物忌子及内物忌父諸内人等各東に向て跪く、太神宮司版より進み祝詞、畢て座に還り、其持る玉串を宇治大内人に授く、即禰宜大物忌父を召て之を第三御門の左に奉置、次に宮守物忌父を召て、其禰宜捧持る玉串を其右方に進り置、次に地祭物忌父を召て宇治大内人が持る玉串を同御門に進置しめ、畢て四段拝、短手二段拍て一段拝、即退出て荒祭宮を拝み、了て幣帛を正殿に入奉り、終に直会殿に就て此月初子日禰宜内人等揚鍬山に至て山口神を祭り、櫟木本《イチヒコノモト》に至て木本を祭り、山向《ヤマゲノ》物忌其木本を忌斧を以て切、始て禰宜内人等に切しめ、湯鍬に造り、諸禰宜内人真佐岐縵(くさがんむり)為て太神の神饌田に至り、酒作物忌父に忌鍬採しめ、御刀代の田耕《タガヘシ》始め、田耕歌歌ひ、田舞して即諸神田を耕し始め、諸の百姓の田耕始め、又秋の収る時に小内人祝部等を率て御田の稲を抜穂に抜き、長(木+若)に附て田頭に立て、九月祭に之を奉る(延暦儀式帳)神衣《カムミソ》祭 大神宮司神服部|麻績《ヲミ》等を率て、朔旦より荒妙衣和妙衣を織造り、祭日に至て之を供ふ、其儀太神宮司禰宜内人等|神服織《カムハトリ》織女神麻績織女各八人を率て、並に明衣を着、各玉串を執り、神衣の後に立列り参入て宮司祝詞を宣訖る時、共再拝両段、短手を拍事両段、膝退て再拝両段、短手両段一拝訖て退出、即荒祭宮に至て神衣を供ふる事上の如し、其他儀節大抵二月祭に同じ、是日|日祈《ヒノミ》内人笠縫内人等蓑笠を奉て雨風の害なき事を祈る、後世之を御笠神事といふ (延暦儀式帳・延喜式、参取大神宮年中行事)
月次祭 十六日度会宮を祭り、明日神宮を祭る、其儀十五日御巫内人に御琴給て大詔を請奉り、禰宜諸内人物忌等を率て殿内を浄めて、天八重榊を差たてはやし飾り、又御垣の廻りにも栄《ハヤシ》飾り、木綿を懸附け神御の雑物を列ね、大物忌が忌竈に炊奉れる神饌に、志摩の御蟄を造備て、十六日亥時に夕|膳《ミケ》、丑時に朝膳を備奉る、之を斎忌神饌《ユキノミケ》と云ふ、十七日平旦斎内親王神宮に参入り、輿を下り手輿に移坐て外玉垣門座に就く、預め東殿に斎王の座を設け、左右に命婦座を置き、西殿に女孺等座を設訖て、宮司鬘木綿を執り神宮に向て跪時に命婦之を奉る、帝王手を拍て鬘を着く、宮司又太玉串を奉る、命婦又斎主に伝ふ、斎王手を拍ち執捧て内院の座に就き、席を避け前に進み両段再拝、訖て玉串を命婦に授け、物忌に伝て瑞垣門西頭に進置、斎王座に還て後禰宜明衣を着け、宮司当色を着て并に太玉串を執り、禰宜宮司次幣雑物及馬|単行陣列《ヒトヘニツラナ》り、次朝使外玉垣門に入り内玉垣門に当て皆跪く、先便中臣詔詞を申し、次官司祝詞を宣、訖て物忌内人等|明曳《アカヒキノ》御調糸幣帛案を舁入て、瑞垣内財殿に置奉り、帝王并衆官再拝八開手を拍ち、次に短手を拍て再拝両遍、既にしてみな退出、次に荒祭宮を拝み、各解斎殿に就き、齋宮女嬬等五節舞鳥子名舞を舞ふ、神嘗祭は神衣祭使之を祭る(神嘗以下拠延喜式、令集解)神嘗祭 祭の前日大物忌宮守物忌、地祭物忌荒祭宮物忌等、御出の抜穂志摩の御贄を種々の器に造盛しめて朝夕御饌供奉り、酒作物忌の作奉る白|酒《キ》、又清酒作物忌の作奉る黒酒をも副奉り、神郡及国々神戸の懸税《カケヂカラ》を内外重の玉垣に懸奉る、斎主神宮を拝給ふの後、使忌部幣帛を捧げて跪く、時に中臣告刀を申し、宮司又常例の祝詞を奏す、其余儀月次祭に同じ、凡そ度会宮祭多賀宮を拝奉る事、亦荒祭宮の如し、神嘗祭の夜禰宜内人始て新稲の酒飯を食ふと云(参取延暦儀式帳・延喜式)凡そ六月九月十二月は所謂三時祭即是也(延喜式)
〔遷宮〕其造宮便長官次官判官各一人、主典二人、木工長一人、番上工四十人を率来り、吉日を取て二所太神を拝奉り、即伊勢美濃尾張参河遠江の役夫を発し、国別に国司郡司各一人之に仕奉る(延暦儀式帳)次に山口神を祭り、次に使忌部自ら内人等を率、山木本を祭り、正殿心柱を操り宮地を鎮祭り、地祭物忌其地を掃清めて心柱穴を掘り、禰宜をして柱を立しむ(延喜式)心柱また忌柱といふ(延暦儀式帳)次太神宮船代三具、度会宮船代四具并樋代各一具を造る、船代は樋代を納れ、樋代に霊形を納奉る器也(延暦儀式帳・延喜式)其神宝及装束、七月一日より神祇官西院にして之を造備ふ、其神宝、多多利・麻笥・賀世比・(金+専)《サヒヅエ》(金銅四種・銀銅四種)梓弓・征矢・王纏横刀・須我流横刀・雑作横刀・姫靭・蒲靭・草靭・纏・楯・戈・御鏡
 按、延喜式鏡なくして須我流横刀あり
鵄尾琴凡そ廿一種、新宮既成り諸物みな傭る、即弁大夫史、史生、管掌、使部、神祇官史、史生、神部卜部等をして部領《ヒキヰ》送らしむ、預め宮中を祓ひ又中臣氏を遣して京畿及近江伊勢并太神宮を祓はしめ、九月十四日度会宮を粧飾て、明日御像に遷奉り、次に神宮を粧飾て十六日御像を遵奉る(延喜式)其儀十五日巳時斎王参入坐て、暫外川原殿院に侍ひ、手輿にして旧宮御門に至り手輿を下り、玉垣の間に侍坐す、女嬬二人之に従ふ、大神宮司大玉串蘰木綿を捧る事常の如し、斎王蘰木綿を着、大玉串を捧持拝奉給ひ、畢て離宮に還り給ふ、十六日御装束を祓清め、使王神祇副忌部各一人太宮司共外院に参入り、禰宜内人及人垣男女共に大祓して御装束を持参り、内院中御門に使中臣新宮仕奉りて遷奉り、御装物奉る状を告刀申て、中臣及宮司新宮正殿御橋下に侍ふ、中臣東にあり、宮司西に在り、時に大物忌先参上て手附初《テツケソメ》、次禰宜正殿戸を開奉り、殿の四角に燈燃して御装束具を進、畢て皆退出、使は外直会殿座に就く、宮司即人垣仕奉る人等を召集ひ、衣垣衣笠刺羽を持しめ、各太串捧げて左右に分立て正殿の御階下に候ふ、時に行幸の道に布敷、大物忌御鎰賜りて御戸開奉り殿内に燈燃し、御船代開奉て正体《ミカタ》をば禰宜頂奉り、相殿東方に坐御体は宇治内人頂奉り、西方御体をば大物忌父頂奉り遷奉る、行幸の先立は禰宜、次宇治内人、次大物忌、次諸内人物忌及妻子等人垣立て、衣垣曳|衣翳《キヌサシバ》等捧て行幸しむる時に、新宮玉串門に立留て鶏の如く三遍鳴て(本注云、其|音《コヱ》鶏の如く|加祁加不《カケカフ》と云)行幸坐しめ、瑞垣門に至り留て又鳴き、御河橋下に留て又三遍鳴く、蓋長嶋鳥の遺風也、使中臣進入て玉串御門に侍行幸坐しむ時、禰宜殿内に鎮奉り坐しめ、畢て即内御門に御燈炬して退出、八度拝奉り、各直会院に至て湯貴供奉る(延暦儀式帳)〔以下脱文〕
〔脱文、未詳〕と云、初垂仁天皇朝有爾鳥墓村に神痔(まだれ)を造り、神痔(まだれ)司を置て雑の神政を行ふ、孝徳朝郡を建るに及て度会山田原に御厨を造り、神痔(まだれ)司を改て太神宮司とす(延暦儀式帳)此後宮司専其事を掌る(参酌延暦儀式帳三代実録・延喜式)延暦十六年宮司奏さく、神宮御厨斎内親王離宮及諸司宿舎等、宝亀中改造の後二十六年なるを以て、悉破損を致し且河水溢るゝを以て修営を加ふれども猶全からず、願はくは神部課丁に功食を充て他処に移さむ者、即勅して請に従て湯田郡字羽西村に移造らしむ(園太暦・神宮雜例集)承和八年是よりさき離宮火災に罹れり、故に此に至て伊勢尾張二国正税を充て、斎内親王離官を造らしめ給ひき(続日本後紀)凡帝王神宮を拝坐時、先此宮に向ひ禊を禊殿に行ひ、祭終て宮に還る、主神司中臣南門に候て御麻を奉る、凡御厨案主十人、司掌一人、鎗取三人、厨女一人を置く、并神都百姓を充つ、其衣食は神封物を分給ふ(延喜式)凡そ神宮に仕奉る者、禰宜一人、大内人四人、大物忌九人、殳九人、小内人九人、其禰宜大内人十日毎に内人等を率て番を分て宿直す、(延暦儀式帳・延喜式)又大神宮司あり、孝徳天皇朝始て一員を置き、貞観十二年二員とし、元慶二年大少二員を置く(延暦儀式帳、貞観以下三代実録)諸宮も内人二人、物忌父各一人を置き、凡そ封戸仕丁、太神宮三人、豊受宮二人、諸宮各一人、御厨十六人、斎宮四十八人、祭主十人 (延喜式)
 
荒祭宮《アラマツリノミヤ》 大神宮の摂社第一に居り、正殿の背に在り。続日本紀「宝亀三年八月、荒御玉神預官社」と云ふもの此也、延暦儀式帳「荒御魂宮、以鏡為霊形」延喜式「荒祭宮一座、太神荒魂、去太神宮北二十四丈」○倭姫命世記云「荒祭官、皇太神荒魂、伊邪那太神化生神、一名八十枉津日神也、一名瀬織津比(口+羊)神是也」○日本妃略に長元四年荒祭神斎王に託りまして、甚く神威を著したまふ由見え、東鑑、文治三年、源頼朝此神に馬一匹を進献す。
 
風宮《カゼノミヤ》 本宮の西南二町水を隔てゝ鎮座す、風神社又|日祈《ヒノミ》神社と称し、風雨草霖の祈ある所也、延層儀式帳に見ゆ、弘安四年蒙古来寇の時、此神大に神威を顕揚したまふを以て、正応六年宮号宣下あり。風宮の傍に往時僧尼拝所一宇あり、僧尼は宇治橋以内に入るを禁ぜられしを以て、五十鈴川の西南を迂廻し、此に至りて皇大神宮を遙拝せしむるを例としたりとぞ。
 この春は花ををしまでよそならん心を風のみやにまかせて、〔夫木集〕        僧  西行
風宮の西数十歩にして、五十鈴川の二源流の集会する碩を落合《オチアヒ》と曰ふ、此に滝祭の場あり、延暦儀式帳に見ゆ、延喜式には滝祭は神殿なきを以て大神宮摂所二十四社の外とす、儀式帳に二十五社と云は之をも数へしを知る。
  伊勢の神路山の月、杉の木末にかくれ、御もすそ川の西の落合かはらに影見えければ、 月ははや神路の峰にいでぬらし御河の西の影ぞすゞしき、〔続門葉集〕        僧正 通海
補【風宮】○神都名勝誌 風宮橋、僧尼拝所址、古は僧尼の拝所にて風宮橋の南端より枝橋を掛け、川南の岸をつたひ遙に正殿に対して一宇を設けありき、今はなし、
風曰祈《カザヒノミ》宮 橋を渡りて右の方に鎮り坐す皇大神宮の別宮なり、当宮はもと風神社と称し、風雨旱災を祈り申しゝ由、皇太神宮儀式帳に見えたり、弘安年中蒙古襲来の時神威を顕はし給ひしを以て、正応六年三月廿曰宮号宣下ありて別宮に列せられ給ひき。 
神苑ジンエン》 内宮西北に接す、此地もと館《タチ》町と称し、神宮の斎所也、近年人家五十余戸を撤去し、樹石を排置し苑囿と為し、神宮の風致を添ふ。○神苑の東辺、荒祭宮の北に当れる地より、往々茶臼石と云者を拾取る、此石は管玉の類なれど、何の故にて此に発見せらるゝや、詳ならず。〔神都名勝誌〕
補【内宮神苑】○神都名勝誌 此の地もと館町と称し神宮の斎官ありし所なり、近年有志の輩神苑会を起して、人家五十余戸を撤去し、樹石を排置し、神域の風致を添へたること、山田外宮神苑に同じ。
茶臼石 荒祭宮の北に当れる宮域にて往々之を拾ひ取る者あり、管玉に類せり、何の頃の物なるか知るべからず、
百《モヽ》枝松 何所にありし今詳ならず、水左記に大神宮御前とあり、
  みづからよみあつめたりける歌を三十六番につがひて伊勢太神宮に奉るとて俊成卿にかちまけしるしてと申しけるに、度々いなみ申しけれど、しひて申し侍るとて歌合のはしにかきつけてつかはしける
 藤波を御裳濯川にせきいれて百枝の松にかけよとぞ思ふ (風雅集)        西行法師
  勝負しるしつけてつかはしける歌合の奥に書き付け侍りける
 藤波も御裳濯川のすゑなればしづ枝もかけよ松のもも枝に (同)       皇太后宮大夫俊成
 
神宮司庁《ジングウシチヤウ》 神苑の南に接し、正殿の西北に在り。神宮は朝家王政の盛代には、斎王祭主宮司以下、定制に従ふて奉仕し、両所は一統の斎宮寮大神宮司に管掌せられしが、中世以降神封亡び旧制破れ、度会荒木田(中臣姓)の禰宜神主等纔に神徳の洪大を説きて、諸州に勧募し辛うじて祭事を済す、之より両所の神官各家は皆競ふて郡邑の信者を結縁し、其関係仏寺の師檀に同じ、明治維新の際、悉く如是の弊習を除き、祭主は親王諸王の任補に帰し、宮司禰宜以下の官制を布かれ、神宮使は臨時官と為さる。(斎宮寮大神宮司址参考)
伊勢暦と云は、往時両宮の御師《オンシ》神主より、毎年其檀信へ御祓(大麻)と共に頒与したる者を云ふ、其頒暦の事は何時より起りしか、蓋徳川氏以後の事ならん、神都名勝誌に正保五年の旧本ありと曰へり、今政府は帝国頒暦の特権を神宮司庁に附与す。
補【伊勢暦】○神都名勝誌 伊勢暦は何の頃より創りしか、宇治山田の御師より諸国の信者に伊勢土産の暦と唱ふる暦本を頒布する慣例ありき、維新の後廃れたり、今摸本〔欠〕、こは正保五年の物なり。
 
子等館《コラノタチ》址 子等とは神宮奉仕の幼童の風俗舞楽なり。神都名勝誌云、毎年神嘗両月次の三祭礼に、度会郡野篠矢野山神積良蚊野の諸村より、親禰宜幼童数人を率ゐ来り、原村よりは歌長弾琴笛生等来りて、玉串《タマグシ》御門前にて舞を奏する事ありき、之を鳥名子舞と称せり、維新の後廃れ今は亡ぶ、建久年中行事六月々次祭の条、
 従酉剋計、鳥名子等参候、瑞垣御門外方撃志多良、叩手也、謳歌、件歌之中、
   シダラウテト、テヽガノタマヘバ、ウチハムベリ、ナラビハムベリ、アコメノソデヤレテハムベリ、オピニヤセム、タスキニヤセム、イザセム/\、タカノヲニセム。
慶長十二年国母仙院より両宮の子良館に貝桶を下し賜ひしことあり、今猶庁庫に保存せり、其の蓋の裏に良恕法親王の題あり。
   貞享五年、きさらぎの末、伊勢に詣づ、我れ御白洲の土を踏こと、既に五たびに及侍りぬ、一つ/\年の加るに従ひて畏くもかしこきおほん光も、思ひまされる心地して、かの西行の跡をしたひ、増賀のまことを悲びて、内外の御前にぬかづきながら、袂をしぼる計になん、
 何の木の花とはしらず匂ひかな、   芭蕉
   神垣の内に梅一本もなし、いかに故有事にやと、神主などに尋侍れば、只何とはなし、おのづから梅一もともなくて、子良の館の後に一もと侍るよし語る、
 御子良子のひともとゆかし梅の花、    芭蕉
 
宇治《ウヂ》橋 神苑館町の北に在り、宇治|今在家《イマザイケ》町へ架す、即五十鈴川の梁なり、往時は此橋上流に在りて、神苑の東辺滝祭の祓所の北なりき。神都名勝誌云、今の宇治橋の辺、昔は洲にて人家もなく、神官家も大半|中村《ナカムラ》に居住せり、其の後川の洲平地となり、人家も立ち続き、神官家も宇治に移住し、宜きに就きて大橋を今の処に架せしなり、昔の大橋は蕎麦川原に在りしと云ふ、土仏参詣記に曰、「滝祭神とて、河の洲崎に松杉なんど一村立てる計にて、御社もましまさず、其より北を望めば長橋の流をきるあり」と云々、此橋往古は仮に岡田郷の中央より東岸なる岩井田山に架したりしを永享六年、足利義教参詣の時、今の所に移して、堅牢なる大橋となしゝならむ。
 
林崎文庫《ハヤシザキブンコ》 宇治今在家町の西側、鼓《ツヾミ》岳の下に在り、文庫の設広大に非るも、古より其名ありて遠く聞ゆ。 ○神都名勝誌云、林崎文庫は前山の半腹にあり創立年月詳ならず、旧丸山に在りきといふ、貞享三年故ありて今の地に移せり、天明年中、権禰宜荒木田神主蓬莱尚賢僚友と謀り、書庫講堂塾舎等を建てつらねたり、現今神宮司庁の所轄に属せり、蔵書は在来数万巻ありしに、猶珍籍奇書を広く天下に求めしかば、献納する者どもありて、年に月に増加す、鷲嶺鼓岳桐嶺島路神路朝熊の峰巒三面を囲繞して、一方は楠部中村鹿海等の村落遠近に顕はれ、五十鈴川の清流は其東麓を螢(虫が糸)廻して、四時の風光いはむかたなし、文人墨士の常に杖履を容る所也、文庫創立碑、一は南庭にあり、本居宣長の撰文、屋代弘賢の書なり、一は北庭にあり、柴野邦彦の撰文、浅野長祚の書なり。
 
津長《ツナガ》原 宇治今在家町の西、林崎の下に接す、今此辺は民家満ちて郊原の旧形なし、倭姫命世記云、「大神之御船泊在処を津長原と号き」。
 宮木ひく津長の原の春の雪こゝろもとけぬあとをこそ見め、〔神祇百首〕       度会 元長
津長大水神社、又大水神社二座、延喜式に見ゆ、今并び存す、内宮摂社二十四座の中にて、蓋度会地主の裔神なり。
補【津長原】○神都名勝誌 倭姫命世記曰「其御船泊留在志処乎津長原止号支、其処尓津長社定給支」と、宇治今在家町字津長原あり、蓋し此地ならん。
 
慶光院《ケイクワウヰン》址 今神宮祭主官舎是也、宇治浦田町の東側に在り、院宇は天正慶長の比、住持比丘尼豊臣氏の力を仮り造営する所にして、書院廊無(まだれ)今に巍々乎たり、明治維新の初め尼院を停廃せられ、神宮司庁と為し、後祭主官舎に充つ。
慶光院は神宮衰頽の日に造営勧進の功あり、宇治の浦田に在り、昔は山田の西河原にあり、天正中此に遷り住す、当院は他の寺堂に異にして、仏像及梵唄鐘鼓等無し、住持は歴代伝奏を経て勅許あり、賜紫衣の比丘尼にして、宗旨は禅宗、無本寺地あり、近代の尼公には権門の女を乞て寺主とす、威厳他院に殊なり、開山清順上人、(順一作臨)尾州の産中世兵革に因り、二所大神宮遷宮、百余年の間断絶して頽廃す、清順尼深く之を憂ひ、諸州を勧進して造営の料を寄せんとす、然るに僧尼の所勧を以て造営するは、神慮も畏るべく、祠官等も末世の瑕瑾なるべしとて聴さヾれば、其尼の御師足代弘興に託して、其料を送り公訴に及ぶ、永禄年中遂に正遷宮を勤行せしと云ふ、其後兵乱連綿して、又遷宮及宇治橋等廃す、其弟子前例に准し其料を送り寄す、天正慶長中の寺主、豊臣氏に昵近して甚親し、この時庫裏客殿等修営す、今に至り伊勢上人と称す、是前世に諸州を経過して勧進せる時の名の遺りたるなるべし、郷談文雅に曰ふ、第二世守悦上人、文明中御裳濯橋を造営す、第三世清順上人、天文中内宮仮遷殿宮、四世周養上人、天正中内宮仮殿及正遷宮を執行ひ、又外宮正遷宮を行ふ、其後守清上人守長上人相継ぎ寛永慶安の正遷宮を行ふ、其後其造営執行を停らる云々。〔五鈴遺響〕○東照宮実紀云、慶長八年、「伊勢慶光院に御朱印を下さる、伊勢両宮遷宮の事、先例にまかせ執行べし」とあり、是は応仁この方、四方兵革の中なりし故、伊勢両宮荒廃きはまる事百年に過たり、天正十三年、慶光院開基清順尼豊臣家に請ひて造替の事はかりし先縦を以て、斯く令ぜられしなるべし。
補【神宮祭主官舎】○神都名勝誌 浦田本町の右側にあり、此の官舎は元慶光院の建物なりき、慶光院は天正年中豊臣秀頼、片桐且元を奉行として創立せしめられし所なり、書院廊無(まだれ)等輪奐其の美を尽せり、維新の後之を神宮司庁とし明治廿三年迄庁務を執れり、其後修繕を加へて祭主官舎としたり、年々祭主の宮参向の時御宿泊に充つる所なり。 
菩提山《ボダイサン》 朝熊山の西の尾にして、内宮神苑東北凡十町、(今四郷村大字中村の属)仏寺址在り、(逢鹿瀬参考)続紀「孝謙天皇天平神護二年、遣使造丈六仏像、伊勢大神〔宮〕寺」と云者此か。寺伝云、聖武皇帝勅願、僧正行基開基、往古は大伽藍なりしが、数度の火災に罹り、文治元年良仁上人中興の後、弘長中回禄し、宝暦年中に及び朝熊山尊隆阿珊梨重修す、仏堂山門等近年まで存しき。〔参宮図会神都名勝誌〕○按ずるに神宮に仏寺を置き、本地垂跡の習俗を醸成したるは、聖武帝の御宇にして、行基良弁等の主張に出づ、本朝神社考は太神宮雑事記を援き、天平十三年、行基詣神宮請教、七日之夜、真殿自開、大声唱之曰「実相真如之日輪、照却生死之長夜、本有常住之月輪、(火+樂)破煩悩之迷雲、我今逢難逢大願」其十一月右大臣橘諸兄、拝神宮、天皇夜夢、大神告之曰「日輪者大日如来也、本地者廬舎那仏也、衆生悟之、当帰依仏法也」云々、是れ東大寺造仏の本縁にして、恐らくは奸僧の偽言ならん、然れども又其事の必無を断じ難し、天平神護二年の造仏、蓋非常の聖慮に出づ、漫に非仏の念を挟むべからず。○康永参詣記云、香爐風は薫ず、弘正寺の浄場、茶竈煙幽なり、菩提山の禅坊、かゝる寺々一見して、朝熊の宮にまゐりぬ。
   伊勢にて菩提山上人房に月に対して述懐せしに
 めぐりあはで雲のよそにはなりぬとも月になれゆくむつび忘るな、〔山家集〕      西行
    菩提山にて
 山寺のかなしさつげよところ掘、  桃青
 神垣やおもひもかけず涅槃像、   同
菩提山の古墟より経文を刻せる瓦を発見すべし、両面に刻みて、年妃は山田天神山に掘取る者と同く、大抵承安四年なり、又山中に古墳三所あり、近年其一所を発掘したるに、瑪瑙金銀鐶太刀土器等の埋蔵を見たり、其構造石を以て室を畳み成したり、恐らくは宇治土公氏(猿田彦裔孫)の墓ならん。
補【菩提山神宮寺址】○神都名勝誌 西行谷より三町許東の山間にあり、今四郷村に属す、寺伝に云ふ、聖武天皇の勅願により天平十六年僧行基の草創せし所なりと、続日本紀に丈六仏像を伊勢大神宮に造るとあるは、即此の寺の本尊なり、往古は大伽藍なりしが数度の火災に罹り、宝暦年中所建の本堂山門等近年まで存したりき。
経瓦 此地にて往々拾ひ取るものあり、両面に経文を刻す、天神山より出づる物と年紀相同じ、承安四年也。
古墳 後の山の半腹にあり、都べて三箇所あり、近年其一ケ所を発掘す、瑪瑙の曲玉金銀鐶数品、太刀土器等を蔵せり、其構造大石を以て四方を畳み、覆石は頗巨大なり、今形跡によりて考ふるに、千年以前の物と見ゆ、恐らくは宇治土公氏の祖先の古墳ならむか。
 
西行《サイギヤウ》谷 菩提山の西三町許、宇治館《ウヂタチ》町の巽五町、円位上人西行の栖址なり、谷の辺を世木《セキ》とも字す、保延の頃上人伊勢に来り、二見山と此谷に庵を縛し住止す、当時御裳濯川歌合宮川歌合の撰あり、此に近年まで茅屋を置き、尼僧住みて上人の古跡を伝へたり。
   西行谷の麓に流あり、女共の芋洗を見て、
 芋洗ふ女西行ならば歌よまむ、   桃青
【世木】○神都名勝誌 西行谷、館町の巽五町許にあり、保延年中僧円位二見郷の安養山と此の谷とに小庵を構へ、御裳濯川歌合・宮川歌合などを撰集したりき、近年まで茅堂尚存し、尼僧住み居ければ、雅客常に逍遙して、夏日は瀑布に炎塵を洗ひ、秋夜は月下に鹿鳴を待つなど頗る幽興に適せる地なりき。○康永元年太神宮参詣記、
    西行庵址           坂士仏
 此地空余山寂寞 昔人去後幾朝昏 緑蘿庵旧絶縦跡 只有松風敲寺門
○世木、西行谷の西なる田圃の字なり。
 
中村《ナカムラ》 北中とも云、宇治の市街の東北十六町許、五十鈴川の下流に沿へる村なり、今四郷村に属す。往古は河原田《カハラダ》村とも、宇治郷河原里ともいひき、宇治岡陽田の片岸より、此の村を経て皇大神宮に参詣せし古道あり、荒木田氏の旧家多くは此の所に居住したりきとぞ。建久年中行事、六月月読宮月次祭祝詞、
 度会の宇治の河原田村の下津岩根に大宮柱太敷立て高夫原に千木高知て云々、
此地は宇治郷の旧里にして、今の宇治市街(今在家町浦田町等)は後世の造立なり、月読社宇治社等あり、又荒木田神主の墓所あり、此神主は太神宮本紀に垂仁天皇即大鹿島命を祭官と定め給とある家にして、続紀、「天平十九年、伊勢国人伊勢直大津等七人、賜中臣伊勢連、天平神護二年、中臣伊勢連大津、賜姓伊勢朝臣」と云、亦此氏人なるべし、田辺郷参看すべし。
   宇治の中村といふ所にて
 秋かぜや伊勢の墓味なほすごし、  芭蕉
五鈴遺響云、大永年中、内宮の一の禰宜荒木田守武、世中百首を造る、世に称して伊勢論語といふ、巻首に「世の中の親に孝ある人はたゞ何につけてもたのもしきかな」と、百首の体教導を要領とす、此を以て論語の名を冒すなるべし、又享禄三年守武百韻を連ね、天文九年独吟千句を綴る、是連句百韻千句等の権輿なり、其後山崎宗鑑独吟千句の出るあり、而して松永貞徳御傘淀河等、連歌式の書著述成りて、俳諧大に興れり、故に伊勢は俳譜権輿の称あり。
宇治神社 ○延暦儀式帳云、宇治山田神社一処、称大水神児山田姫命、形無、倭姫内親王御世祝定。○今中村に在り、内宮摂社廿四座の一なり、〔神都名勝誌〕蓋葭原神と共に度会地主神と為す。
 
葭原《ヨシハラ》神社 延暦儀式帳云、葭原神社、大歳神児佐々良比古命、形石坐、又宇加乃御玉御祖命、形無、又伊加利比女、形無。文徳実録云、天安二年、在伊勢国正六位上西原神、預官社。○今中村の月読森の南に坐せり、内宮摂社廿四座の一なり、〔神都名勝誌〕参宮図会に、興玉森は都波岐明神と呼び、月読の南に在り、猿田彦の旧址とぞとあるも此か。
 
月読《ツキヨミ》宮 中村|北森《キタノモリ》也、延喜式「月読宮去大神宮北三里」とありて、今道十八町に当る。仁寿二年洪水、殿舎漂流し、宣旨あり新地を定められ奉遷す、或云久世戸坂の下水田の中に森二所あり、俗に二光森と称するは、月読伊佐奈岐の旧址ならむと。〔神都名勝誌〕
   治承四年、遷都の時、伊勢太神宮に帰り参りて君の御祈念し申侍りてよめる、
 月よみの神し照らさばあさ雲のかゝる浮世も晴れざらめやは、〔千載集〕  大中臣為定
梢見れば秋にかはらぬ名なりけり花おもしろき月よみの宮、〔家集〕   西行法師
〔補注、一生涯草紙・西行物語に拠る〕
神紙志料云、月読宮《ツキヨミノミヤ》二座、神宮の北三里、今宇治郷河原田村にあり、〔延喜式神名帳考証神名略記〕伊弉諾尊の御子、月読尊及荒御魂を祭る、月読尊霊形は紫御衣を着て金作太刀を佩馬に乗給へる男神の形に坐す、〔日本書紀延暦儀式帳〕荒御魂命は鏡を以て霊形とす、〔神名秘書〕月読尊文月神月弓尊月夜見尊と申す、其光彩日神に亜ぎ、夜の食国を治し滄海原潮の八百重を知し坐神也、〔参取日本書紀古事記〕光仁天皇宝亀三年八月、京師雨風の災あるは、此神の御祟なりと卜申すを以て、毎年荒祭神に准て馬を奉り、伊佐奈岐神並に官舎に預る、〔続日本紀〕仁寿二年、月読神殿伊佐奈岐神と同じく洪水の為に流失たるを以て、勅して布施河原両里の間に正殿を造り、斉衡二年九月に至て成り、御体を遷奉る、〔神名秘書神宮雑事記〕貞観九年両社を改て宮と称し、延喜の制大社に列し、凡荒祭滝原滝並伊佐奈岐月読伊雑風宮は之を内宮七所の別宮と云ふ。〔神名略記〕
補【月読宮】○神都名勝志 宇治中村の北の森に坐せり、皇太神宮の別宮なり、仁寿二年八月廿八日の大洪水に殿舎漂流し、同年十一月朔日宣旨ありて宮地を此の所に定められ、斉衡二年九月二日に奉遷の式を行はせられしよし、太神宮諸雑事記に見えたり、或はいふ、久世戸坂の下水田の中に二つの森あり、二光の森と称す、これ其旧地ならむと。○神祇志料 清和天皇貞観九年八月丁亥、社を改めて宮と称し、月次祭に預り、十年九月遷宮の時月読宮の神殿を増造る、其荒魂命は旧に仍て改る事なし(神名秘書・神道本源、九月拠三代実録)醍醐天皇延喜の制並大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣に預る(延喜式)凡そ荒祭・瀧原・龍原並宮・伊佐奈岐・月読・伊雑・風宮合せて之を大神宮七所別宮と云(神名略記)
 
伊佐奈岐《イサナギ》宮 月読森に在り、月読宮と同所に鎮坐し、其沿革を同くすと云ふ。○神祇志料云、伊佐奈岐宮《イサナギノミヤ》二座、神宮の北三里にあり、〔延喜式〕今月読宮同地の西に在り、〔神名帳考証〕天照大御神の御祖伊弉諾尊伊伊弉冉尊を祭る、霊形並に鏡に座す、〔日本書紀三代実録延喜式、霊形拠神名秘書〕初二神天神の詔の随に此葦原中国を治め給ひき、其神功威烈尤盛にして且大也。〔日本書紀古事記〕
 
楠部《クスベ》 中村の北東に接し、古市町|九世戸《クセト》より朝熊岳及鳥羽港に到る通路にあたり、今は四郷《シガウ》村の大字也、太神宮諸雑事記、月読宮奉遷の条に「宇治郷十一条廿三|布施《フセ》里、同条廿四川原里等之間」とあれば、布施は楠部の旧名にて、川原は中村なり。
補【楠部】○神都名勝誌 中村の北東に在り、古市町久世戸より朝熊岳及鳥羽港に到る通路なり、今は四郷村に属す、太神宮諸雑事記月読宮奉遷の条〔仁寿三年八月の条〕に「宇治郷十一条廿三布施里、同条廿四川原里等之間」と見えたり、川原里は今の中村なり、されば布施は楠部の古名ならむか。
 
大土《オホツチ》神社 延喜式内宮摂社二十四座の一にして、楠部の東鳥羽路の左側に在り、所御社《トコロノヤシロ》とも称す、延暦儀式帳「大土神社一処、称国生神児大国玉命、次水佐々良比古命、次佐々良比売命、形石坐、倭姫内親王定祝」○按ずるに古事記に「大年神生子大土神、亦名士之御祖神」と云名あれど、伊勢なる此神は之と異なるべし、度会大国玉神社を参照するを要す。国津神所《クニツミオヤ》御社○大土神所御社の域内に在り、御子社とも称す、延暦儀式帳云「国津御祖神社一処、称国生神児宇治比売命、形石坐、又田村比売命、形無、倭姫内親王御世定祝」。
 
家田《ヤタ》 大土神社の近地の旧名なり、家田田上《ヤタタノヘ》の頓宮は皇大神五十鈴川に行幸の初め、暫止の遺跡とす。○神都名勝誌云、此は倭姫命大御神を載き奉りて坐しましける時、猿田彦神の裔孫、宇治土公の祖先なる太田命参りあひて「五十鈴川上に吉き大宮地ある由」答へ奉りし所なり、皇孫命降臨の御時には、猿田彦神御前仕へ奉り、茲に又太田命の大宮地を奏し奉りしは、蓋天上よりの御幽契にして、深き故ある御事なるべし、さて其の旧址を案ずるに、大土神社の南に当れる地を家田(今は尾崎)と云へり、田上は御常供田《ミチウグデン》の辺を云ふなり、(宮崎御常供田の辺に坐す社をも田上大水神牡と称せり)仍りて本村家田にて、神田に近き森を尋ねたるに、産土神八柱神社を得たり、域内古木鬱葱として、自ら千古の風を存せり、恐らくは是即行宮の遺跡ならむか、大神宮本記及儀式帳に本文あり。○伊勢名勝志云、内宮の大御田は楠部に在り、外宮の大御田は藤里に在り、共に天長田と称奉る。
 我くにゝ長田の早苗うつさずばいかヾせん世のとみ草の花〔神祇百首〕       度会 元長
補【家田】○神都名勝誌 家田田上行宮旧址 皇大神宮御遷幸の時、暫時坐しましゝ行宮の跡なり。
 
皇女《クワウニヨ》森 神都名勝誌云、栲幡《タクハタ》皇女は五十鈴川の辺にて自経し給ふ、其所詳ならず、此皇女は稚足姫皇女とも白髪《シラガ》内親王とも称す、雄略天皇の皇女におはしつ、第五代の斎宮に坐す、阿閇《アベ》臣国見の讒により、冤罪を蒙りて縊死し給ひき、或は云ふ、楠部の皇女森は即其の旧址ならむと。
 
浦田《ウラタ》 宇治中村の西を曰ふ、其西北高地を浦田坂と曰ひ、其南は今宇治の市街と為り、浦田町と呼ぶ、神宮祭主官舎在る所是也。○猿田彦神社は浦田町の二見氏の構内に坐す、同氏は世に宇治の土公と称せり、猿田彦大神の裔孫、太田命より系統連綿として今に至るといふ。〔神都名勝誌〕○倭姫命世記云、興玉《オキタマ》神、無宝殿、衢神猿田彦大神是也、一書曰衢神孫太田命、是土公氏遠祖神、五十鈴原地主神也。
補【浦田坂】○神都名勝誌 往古僧行基の両宮に参詣せし時、世人に無常を示さむとて唱歌数首を綴り、比丘尼にうたはせしが初なり。〔間山、参照〕
陽田《ヒナタ・ヤウタ》郷 和名抄、度会郡陽田郷、訓比奈多。○神鳳抄、度会郡陽田郷、又内外両宮兵乱記に陽田見ゆ、今詳ならず。神都名勝誌は古書を引き宇治岡の東に字|陽《ヤウ》田片岸の名ありと論ず、之に因れば浦田坂以北、間之山中之町桜木町古市町久世戸町等すべて字治郷の西北継橋郷の南を謂へるに似たり。
 
宇治《ウヂ》岡 神都名勝誌云、古市より東南浦田坂に至る高地を(前山の尾なり)宇治岡と云ふ、古は一帯の丘陵腕艇(2字とも虫偏)横亘し、其間石路(しんにょう+施の旁)(しんにょう+麗)して、纔に人馬を通じたりき、故に長峰の称あり、天正年中、神郡の奉行を兼ねし田丸の城主稲葉蔵人道通(諸書に通直に作れるは非なり)豊臣家の命を受け、岩石を断鑿して坦途を開き、路の両側に松桜の樹を植ゑしめ、参拝人に便を与へたりといふ、太神宮諸雑事記に、治暦四年九月の条に「宇治岡之東、字|陽田《ヤウダ》片岸」と見え、又東鑑治承五年正月の条に「江四郎経太神宮御鎮坐神道山、遁隠宇治岡」とあるは此也。
 
間山《アヒノヤマ》 宇治岡の今名なり、古市|尾上《ヲヘ》坂と宇治浦田坂の間にして、両神宮の中山なれば也、天正以後、参宮路を此に通じたるを以て、民屋櫛比し、路傍に三味を弾き客を呼び銭を乞ふ婦女あり、間山の阿杉阿玉と称し、伊勢参宮の一名物なり、此歌妓は蓋歌比丘尼の流とぞ、今は鄙俚聞くに勝へず、園女の句に「三絃の拍子にかゝるきくらかな」と云ふは巧なり。○神都名勝誌云、間山唱歌の起因は、行基の跡逐へる法師が、参宮の人に無常の旨を歌ひ授けしに在り、近世寛文延宝の頃に、両間の山(尾上坂浦田坂)の路傍に小屋を作り、女は紗綾縮緬を纏ひ三絃を弾き、男は編笠を被り簓を摺り、子児を踊らせ銭を乞ひき、其の諷ふ歌いと哀にして、文句もよく聞き分けられたるよし、神都長嶺記等に見えたり、此の歌を院本などに挿みて、今に間の山節と称す、山東京伝の著しゝ二見の仇討といへる書に、僅かに一首を載せたり
 我に涙をそへよとや、ゆうべあしたのかねの声、じやくめつ為楽とひゞけども、きいて驚く人もなし、のべよりあなたのともとては、けちみやく一つに珠数一れん、これがめいどのともとなる。
 
古市《フルイチ》 山田宇治両宮の間に在る小繁華なり、妓楼娼戸最多し。此地は往古郷中の市立せし場所なれば、其名あるべし。伊藤武者景綱上総介伊藤五忠清は古市の人なる由保元物語源平盛表記に載す、亦久しと謂ふべし、然れども今日の賑ひは近世に起れる事なり、寛文初年刊行の伊勢道中記云、
 古市町、此の町を過ぎて中の地蔵にかゝる、中の地蔵といふも町の名なり、此の町には茶屋多きなり、遊女あまたあり、あやつり見物芝居此の所にて取り行ふ、是よりめてにあたりて、二町ばかりもあなたに、寒風《サムカゼ》といふ所あり、左右に並木の松あり、昔より此所には人の家居もなかりけるが、近年あそこ爰に人家も出来にけり。
神都名勝誌云、古市の名は久しと雖、妓家は慶長元和の頃に、路傍並木の間に竹格子揚蔀の家を設け、婦女を養ひ往来人に茶菓を供せしが濫觴なり、夫より年月を経るに従ひて、漸殷盛に赴き終に一大遊廓となり、娼楼酒館、列肆繁錯して構造最雄麗を極めたり、されども明治維新の頃までは、尚古風を存し、店前に茶釜を架けおきたりとぞ、或は此廓を呼び長峰《ナガミネ》里と曰ふ、又劇場在り、新撰古今役者大全に「田舎芝居の第一と立つるは、伊勢の芝居にて、尤も由緒深し、毎年正月末より五月までは、二軒はあれども、一軒もなきことなし、昔は伊勢の芝居を芸の示めし場として、是を首尾よく勤め評判よき役者を、京大坂の二番目師にしたるものなり」と見えたり、今は一場のみ残れり、又伊勢音頭の始を考ふるに、上世は歌垣とて、春秋に若き男女立ちまじりて、音頭をあげ歌舞を行ひたることありき、後にはその風俗すたれたれど、秋のふみ月にのみ月にうかれて歌ひ踊る事、ひなの国にぞ残りける、この国にても伊勢踊と唱へて、其遺風を行ひ来りしを、寛延の頃、古市備前屋の主人感ずる所ありて、今の如くに仕組みたり、こは往古弥生望の月毎に、この国なる小倭郷より、齢六十路にあまる夫婦の者等の来て、外宮に鶴の舞という者を奏せし古例ありしを思ひ出でて、少女子等にねり踊らせて、伊勢詣の人どもの見物に供せむとて始めたるものなりとぞ、土俗或は之を河崎踊と云ふ。○妓|阿紺《オコン》墓碑は大林寺の境内にあり、江戸俳優某の建てし所なり、阿紺は本町青楼油屋清右衛門の抱妓なり、阿紺の事よりして、宇治浦田町なる医師孫福斎(院本福岡貢に作る)が数人を斬殺したるを、伊勢音頭恋寝刃と題して院本に物せしより、世に名高くなりぬ。
   南遊絶句         梁川星巌
 (横目/菴のくさがんむりなし)寄書楼台翡翠簾、揺々酒影閃風(穴/巾)、南游到処無多願、只買珠娘一笑塩、
伊藤五忠清は古市の人、膽勇を以て著る、平清盛に事へ右衛門尉と為り、上総介に遷る、治承中源氏兵を諸処に起す、忠清軍に従ふて之を撃ち、後富士川に大敗す、又北陸道に出戦し克たず、忠清亡命し去る、平田家継兵を伊賀に挙ぐるに及び、忠清往て之に属す、家継敗死す、忠清逃れて志摩の麻生浦に匿る、源氏の家衆執へて之を京師に送り、竟に斬らる、子あり忠光と曰ふ、上総五郎兵衛尉と称し、平宗盛に事ふ、宗盛滅後脱走して民間に匿れ、建久三年潜に鎌倉に入り、源頼朝を刺さんと謀り、遂に果さずして執へられ、死に処せらる、世其志気を憐むと云。○僧月仙は古市寂照寺の住持なり、丹青の妙技を極め、令名を後世に伝ふ、今寺中に墓碑あり、文化六年、世寿六十九と曰ふ、寂照寺は浄土宗、延宝五年僧知鑑開創。
補【長峰】○神都名勝誌 酉の時、変化既になりて安の間より顕はれ出で、多分茶釜の前に着坐す、暮色の見事さは殊更にして、過行の客を呼びとゞめて茶にするあり、茶にして酒となるあり、相手ほしき折からにして、情人は情人のかなひ、雲顛客は雲顛の調莱坊となる、キャキャとの門遊も亦一興。
補【寂照寺】○神都名勝誌 本町の左側にあり、浄土宗なり、此の寺の八代目の住職に月仙と号する僧ありき、丹青の技を以て名を江湖に博せり、今境内なる碑文によれば、文化六年世寿六十九、法臘五十四、葬於当寺蔵堂之南。○名勝記 宇治中之町にあり、浄土宗、延宝五年知恩院三十七世僧智鑑創立す、安永三年僧月仙来りて住職となる。
 
前山《マヘヤマ》 古市山田の南、五十鈴宮川両水の間に盤拠す、神路山の西側を成し、南界は菖蒲谷(今沼木村に属す)に至る、方五六十町、其高頂を鷲嶺《ジウレイ・ワシガミネ》と曰ふ、鼓岳其東北に堀起し、内宮の西に当る、北尾は分れて高倉山高神山宮崎城山等と為る。
神都名勝誌云、前山は両宮間の山岳の総称なり、古文書には左貴山の名あり、神路山の先の義ならん、(神路を奥山と曰ふ)伝へ云、昔大和街道より神宮に詣づる人々は、宮川の東岸佐八村より山間を攣ぢ登りて此所に出で、宇治郷浦田坂に通じたりと、又山北には永禄年間までは、世義寺三宝院光明寺等の巨刹、勝概を占め居たりきといふ、当時の名残にや、今なほ処々に桜の老樹を存せり。
 
鷲嶺《ジウレイ・ワシガミネ》 前山の南る峻峰なり、抜海凡五三○米突、西南は沼木村大字|上野《ウヘノ》菖蒲《シヤウブ》等の地なり、鷲嶺に石鍾乳洞あり、三坊窟の東南に当る。或記曰「水従洞中出、従流入之、把燭(人偏+句)(人偏+婁)而入也、漸渉水、覚岩湿泥滑、燭光所射、垂露螢(虫が火)螢(虫が火)如也、凡十八歩路稍闢、見石榜及両石(石+工)、如人標置、先入左穴、石下嵌空、透下得路、始不覚出何許、乃知循岩孔、一匝復出故道、更於榜右稍高処、得一穴、漸入有飛泉、其下大石森立、泉左又有一小穴、腹行僅得入、益入益窄、不可復前、乃進燭窺之、上下岩勢如断(歯+咢)相合、水布其底、左尤深(黒+幼)、旁入者遽呼曰、得源矣、追従之、仄行又得一穴、入而上、高二丈許、周径若干、状若閣道、由此文入一穴、下五六尺、(門/可)然軒豁、洞之所窮也、所覆之岩特蒼古、瀑布二丈許、噴沫飛散、下有一白石、突起承之、日夜寒水之所噛、肌剥髄露、水湛々貯其下、意必与余所窺断(歯+咢)下水通脈也。
 さやかなる鷲の高嶺の雲ゐより影和ぐるつきよみの森〔新古今集〕         西行
 
鼓岳《ツヽミガタケ》 前山の東、宇治今在家町の上に聳ゆ、標高三六〇米突、宮川の佐八村より、大字前山(今宮本村に属す)を経て、鼓岳の下を浦田坂林崎に通ずる林径あり。
 林崎まはではいかゞ通るべき鼓がたけをうちながめつゝ 〔歌枕名寄〕        鴨 長明
 
連台《レンダイ》寺址 鼓岳の北麓、大字|勢田《セタ》(今宮本村と改む)に在り、神都名勝誌云、正暦年中、祭主大中臣朝臣永頼卿、霊夢に感じて創立せられたる真言宗の寺なりしよし、古事談に見ゆ、近年廃毀して、旧址のみを存せり、境内に鏡池といへる小池あり、又上方に鼓瀧と云飛泉あり、高一丈七尺。
大神宮袈裟記〔群書類従本〕云、茲有大禅師別峰和尚、永徳二年春、始詣伊勢大神宮、而後寓居御山蓮台寺数月矣、欽惟、天照大神者、天神七代之苗裔、地神五代之尊祖、日本第一之宗廟也、天下万民之所敬崇也、誰敢不瞻仰乎、茲年四月上旬、有檜垣大長官貞尚五代之孫、四禰宜貞昌者、大神夢告曰、我社蔵由良心地上人所授之藕糸袈裟、爾(人偏)取之付与蓮台寺別峰和尚、自此山田数万家、及国中人民、競詣蓮台寺、譬如百川之流水、帰于大海。
 
継橋《ツギハシ》郷 和名抄、度会郡継橋郷、訓都木波之。○今宇治山田町の中、山田の東部|倭《ヤマト》町より、外宮の東までなるべし。
延暦儀式帳「継橋郷河原村」、神宮雑事記「継橋郷美乃乃村」○此郷は古風土記には土橋《ツチハシ》とせり、後之を継橋と改む、光明寺所蔵天福二年の文書に継橋郷大河原村とあり、皇太神宮儀式帳奥書、山宮神事祝詞、神名秘書、釈尊寺沙汰文等に就きて考ふるに、南は前山《マヘヤマ》より宮崎《ミヤザキ》岡本《ヲカモト》岩淵《イハブチ》吹上《フキアゲ》の辺まで、此の郷に属せしなり。補【継橋郷】○和名抄郡郷考 節用集、継橋在勢州山田。神鳳抄、度会郡継橋郷。故老口実伝、沼木継橋。神宮雑事記、継橋郷美乃々村。太神宮儀式帳、継橋郷河原村。勢州古今名所集、度会郡継橋郷豊宮崎文庫者慶安元年所創立也。
 
尾上《ヲベ》 或は下部《オベ》に作る、尾上坂の上を倭町と称し、古市の西に接す、旧常明寺門前と云ひ、継橋郷と宇治郷との境なり。常明寺一名尾上寺、神萱落《カムカヤオトシ》神社の別当たり。近年まで堂宇山門巍然たりしが、遂に廃絶せり、長徳検録に尾上寺とあるは常楽坊にて、泉寺とあるは常明寺を指せるなるべし、度会益弘の説には、尾上寺は古の尾上の陵守の栖みたる処にて、常明寺一代の住僧彼の寺役の料を取りて隠居す、是今の常楽坊なりといへり。
補【尾上】○尾上町は岡本の東に続ける国道なり、此の町妙見堂の下にあるゆゑ妙見町と称せしを、近世改めたり。尾上坂《ヲベサカ》 往古は羊腸の岩路なりしに、寛文九年坂道を開鑿せしめたり、何の頃よりか於杉於玉と唱へ、処々に仮小屋を作り、(衣+玄)服濃粧の女子に三絃又は胡弓を弄せしめて、往来人の投銭を乞ふ者ありき、近年之を廃して人家を建て連ねたり。〔間山、参照)
 
尾上《ヲベ》古墳 神萱落神社の巽の方、叢林の中にあり、巨岩相覆ひて入ることを得ず、土俗倭姫命の御墓なりと云ふ、然れども古記の徹すべきものなし、近年此の所より曲玉金鐶忌瓮等を掘出せり、何にまれ貴人の墳墓にて、千年以上の物なるべし。
経峰《キヤウミネ》は、尾上坂の南の峰をいふ、又伝ふ倭姫命の御墓なりと、未だ其の証を得ず、毎年十月世義寺の僧徒夜中如法経を納むる式ありき、因りて此の称あり、倭姫命世記云「雄略天皇二十三年二月十五日、自退尾上山峰石隠坐」〔神都名勝誌〕○曼陀羅石《マンダライシ》は、経峰東南の尾崎竹林の中にあり、高さ六尺許の碑石二基、二三尺許の断碑数基立てり、いづれも苺苔繍斑、字画磨滅して定かならず、纔に建武二年月日藤原保重、源幸、大中臣、荒木田氏女等の数字を読み得べし。
今尾上町と云所は近年まで妙見《メウケン》町と称したり、妙見祠在れば也、西は岡本町接す、南は岩淵町吹上町、北は河崎町也。
補【倭姫命旧跡】度会郡○神都名勝誌 尾上陵所在詳ならず、本郡山田尾上町と倭町の間に坂あり、尾上坂といふ、蓋し此近地なるべし、倭姫世記に云ふ、雄略天皇二十三年二月十五日、自退尾上山峰石隠坐と、後人之を尾上陵、又隠山等と称す、古老伝へて此地に尾上社、又小部御陵と称する小社ありと云ふ、今考索するに其地を見ず。
 
光明《クワウミヤウ》寺 尾上の南|岩淵《イハブチ》町に在り、臨済禅院なり、寺伝に曰、初め天平十四年、聖武天皇の勅によりて前山に草創せられ、何の頃にか山田吹上村に移りしに寺運漸衰へたり、元応年間に至り、住職恵観之を禅宗に改め、伽藍を修築せしかば道風復振ひぬ、世に中興開山といへり、爾来東福寺の未刹となる、寛文年間、本支院とも祝融の災に罹りしにより、此の地に再築せり、恵観は月波禅師と称す、南朝の忠臣結城上野介入道宗広朝臣の遺族なりしを以て、入道自筆の勅制軍中法并に軍中日記及び室家の消息、其の他院宣北畠准后の袖判等数通を什襲せり、往年水戸藩に大日本史を編輯せられし時、之を採収して光明寺残篇と曰ふ。○古鐘一口、小楼に懸く、常盤井摂政関白藤原実氏の寄附せしものなりとぞ、古来神境に於ては、梵鐘を撞くこと禁制なりしゆゑ、神官等之を止めしに、天正年中、寺僧郡宰上部越中守に愁訴し終に豊臣家の特許を得てより、毎日二回此の鐘を撞く事とはなれり、其の朱印今に当寺に蔵せり、因にいふ白河天皇の第二の皇女(女+是)子内親王、第五十二代斎内親王として、伊勢に居給ひし頃、其の外祖母なりし六条右大臣の息室伊勢に下り給ひしに、鐘声の聞えければ「神垣のあたりとおもふにゆふだすきおもひもかけぬ鐘の声かな」と詠ぜられしよし、金葉集に見えたり、此の歌のは此の鐘の事なりとの説あれども、年代違へり。〔伊勢名勝志神都名勝志〕○光明寺に後白河院及源顕家結城宗広の供養石塔、并に僧月波の墓あり、宗広入道道忠は月波の父にして、延元四年、八宮義良親王に随行し東国へ進発し、船破れ果さず、安濃津に卒す、其廟今藤方山に在り、一説光明寺に卒し、即此に葬ると云ふ。
補【光明寺】○名勝誌 山田岩淵町にあり、臨済宗東福寺末なり、天平十四年聖武天皇創建、帝及後深草後醍醐天皇の勅願所たり、元応元年結城宗広堂宇を再建し、其子月波を中興開山とす、此寺もと本郡鼓が岳にありしを山田吹上町に移す、後今の地に転ず、寺に宗広自筆の勅製軍法・軍中日記を蔵す、又後深草帝の時常盤井入道実氏寄附と称せる梵鐘あり、伝へ云ふ、神境もと鐘を撞くことを禁ず、天正中外宮神官等本寺の撞鐘を禁ぜんと欲し、豊臣秀吉に訴ふ。
 
岡本《ヲカモト》 尾上町の西に接し今岡本町と称す、外宮の東也、倭姫命世記伊勢風土記に土橋郷岡本村の名見えたり、高神《カウシン》山の開通以前、六坊山の東麓に人家散在したり之を岡本里と曰ふ。
 染めあかぬもみぢ葉のこるうきぐものしぐれてかゝる岡本の里、〔新名所歌合〕    大中臣定忠
補【岡本】○神都名勝誌 岡本町、豊川町に続ける国道なり、伊勢国風土記・神名秘書等に土橋郷岡本村の名見えたれば、上古より存在せる村邑なり、高神山の開通以前六坊山の東麓に人家散在したりき、其の町より東町蛭子祠の辺は岡本の里の旧址なり、新名所歌合の画題に入れり。
 
世義《セギ》寺 岡本町瀧波山に在り、真言宗醍醐寺々末なり、旧前山亀野に在りしを、永禄年中外宮の西に移し、寛文十一年今の地に移す、天平年中の開創にして、往時は堂宇盛大塔頭十九塔ありしと、後威徳院を遺し自余は廃頽せり、本寺例歳に如法経会を修行す、俗にドウヒと称し、播州書写寺の法会に同じ。〔参宮図会伊勢名勝志〕
 瀧なみの山ごしにきく鹿の音にねざめさびしき岡本のさと、〔新名所歌合〕      荒木田成定
補【世義寺】○伊勢名勝志 山田岡本町瀧波山に在り、真言宗山城醍醐寺未なり、天平中聖武天皇の勅創にして、元と前山亀の郷と云ふ地にありしを、永禄中外宮の西に移し、寛文十一年今の地に移せり、往古塔頭十九坊あり、輪番之に住す、後本坊を威徳院に合す、本寺例歳如法経会修行の式あり、俗ドウヒと称す、此法会は播磨書写山と本寺のみなりと云ふ。
 
高坐《タカクラ・タカザ》山 前山の北尾にして、直に山田外宮の上を蔽ふ、通俗高倉に作る、古名賀利佐嶺と曰ふ、天日別命が地主《クニオサ》伊勢津彦に会見したる古跡なり、外宮の東南を擁し、山林は千古斧斤の侵さざる所なれば、老幹直立積翠滴るが如し。或は多加佐山と称し、山中岩窟あり、之を天岩戸と呼び四十八ありと云ふも、今は二三所を見るのみ。
 君が世に濁りもあらじ高くらや麓に見ゆる忍穂井の水〔新名所歌合〕        度会仲房
補【高佐山】○神都名勝誌 此の御山は往古春日戸高座神の住み給ひし所ゆゑ、旧記に多賀佐山或は高座山と記せりしを後に座をクラと読みしより終に高倉と訛伝せしなるべし、又加利佐我嶺・日鷲山・音無山・郭公不為声山・鶏足山などの称号あり、豊受大神宮御鎮座以降は天然の藩屏となりて、東南を擁護せり、数十年来斧斤の侵さざる霊域なれば、老樹(直三つ)々積翠滴るが如く、人をして粛然恐敬の念を起さしむ。
 
天岩戸《アマノイハト》 神都名勝誌云、外宮神苑の東、高神《カウジン》山麓より凡九町許にして岩窟に達す、是古代の墳墓なるべしともいへり。洞口巽位に向ひ、稍入れば広敞大厦の如し、左右天井ともに巨岩怪石を以て塁めり、其の石質を験するに多くは海石なるべし、貝族の付着せるもの今尚存せり、連雨の候には常に塩気を吐きて石膚滑なりとぞ、海浜を距ること数里の絶巓に、かゝる大石を運搬せしは、実に容易の業にあらず、其の非凡の大土工たりしを察すべし、康永参詣記曰「外宮後の山に希代の岩窟あり、仙客常に来り諸神爰に集ると申伝へ、四十八洞と云へり、唯今まで人のゐたると覚えて、石面の暖なる所も有り、又よの常ならぬ翁の人に行きあふ時もあり、漢家に三十六の洞天有り、かれは道工が方術を行ふ霊窟なり、当山に四十八の霊崛あり、是は神仙遊戯をなす化城なり」云々。○按ずるに天岩戸南の小岩戸あり、(大石谷)玄門閉ぢて人をして窺はしめず、未発の古墳なるべし、又土俗高倉の絶巓を高天原と呼び、神代史に因り山中に種々の所会を為したるが、近年は多く亡びたり。
 いにしへの神世の影ぞのこりける天の岩戸のあけがたの月、〔金槐集〕        鎌倉右大臣
倭姫命世記云、裏書勘注曰、風土記曰、畝傍樫原宮御宇神倭磐余彦天皇、詔天日別命、覓国之時、度会|賀利佐《カリサ》嶺火気発起、天日別命視之曰、此小佐居歟、礼使遣命見、使者遠来申曰、有大国玉神、賀利佐到、于時遣使奉迎天日別命、因令造其橋。○又風土記云、〔古風土記逸文本〕伊勢者云、伊賀事志社坐神、出雲神子出雲建子命、又名伊勢都彦神、又名天櫛玉命、此神昔石造城坐於其地、於是阿倍志彦神来集、不勝而還却、因以為名」と、此石城と云は何処にや、高坐山の石戸の類ならん。
補【岩戸】○神都名勝誌 岩窟、高倉山の巓にあり、世俗天岩戸といふ、神苑の東端、高神山の麓よる昇る道あり、凡そ九丁。
 
客神《カウジン》山 高倉の麓を曰ふ 一に高神又荒神に作る。其南の尾|大国《オホクニ》谷に度会大国玉比売神社あり、延喜式に列し外宮摂社十六座の一にして、延暦儀式帳に拠れば大国玉命佐々良比売命二座を奉祝し、伊加利比女命社は其傍に在り謂ゆる地主の神なり。凡此国に於て地主に擬すべきは伊勢津彦と猿田彦の二神なるが、後代奉祝の者は皆伊勢津彦乃其裔神なるが如し、此なる度会大国玉社も伊勢津彦なり。○古事記伝云、古風土記に神武天皇中州に入り座比、天日別命を遣して、伊勢国をうしはける伊勢津彦と云神を言向けしめたまふ、此神は建御名方の亦名にて、神武天皇の御世と為せるは、天皇の御歌に「神風の伊勢」と云詞の初て見へたるより伝へ誤れる者なるべし、(此説いかがあるべき原書の方却て通じ易し)今も高倉山の岩屋は、伊勢津彦の住りし跡なりと伝ふ、暫く此に隠れ居て後信濃国へ去りたまへるにやありけん、(此説岩戸を居室と為し隠所と云ふも不当)高神《カウジン》山に客神《カウジン》社とて、建御名方神を祭ると云ふ。○因云「神風の伊勢」てふ枕辞は本居氏「伊勢津彦が風を起し、之に乗りて去れりと云ふ故典に基けるならん」と説かる、国名の下に註するごとし。
 
宮崎《ミヤザキ》文庫 大国谷の東に在り、岡本町に属す、坊山の南なり、宮崎は一に豊宮崎と曰ふ、豊受宮の崎山の義なり。○神都名勝誌云、宮崎文庫は慶安元年外宮禰宜度会神主延佳(出口氏)弘正(与村氏)等首唱し、衆庶に資財を募りて創建せし所にして、神官の子弟修学の黌舎なり、当時延佳弘正末清正清の功績朝廷に達し、皆栄爵に叙せられき、幕府儒生林道春文庫記を作る、万治三年に至り幕府より修繕費として米弐拾石の采地を寄附、尋いで貴紳家よりも其の拳を賛同して、珍籍奇書を贈付せしかば、和漢の書籍及図画刀剣等倉庫に充棟したり、傍に講堂学舎数宇を設く、室直清、貝原篤信、伊藤長胤、井沢長秀、谷重遠近くは大塩後素、藤森大雅等来りて書を講ぜり、明治十一年の春、祝融の災に罹りて講堂其の他烏有に帰せしが、書籍及大観社の一構は幸に其の災を免れたり、書籍中にも貞享年間島原城主源忠房の寄進せる古文尚書十二巻は、清家々伝の遺冊にして希代の一品也、庫側に外宮神主の碩学度会延佳足代弘訓の霊社を建つるは、郷人追仰の志也。
田上《タノヘ》大水神社○延喜式に列す、宮崎に在り、外宮の摂末也、其地を丸山と呼び、又車塚と曰ふ、社後に古墳あり。
 
沼木《ヌキ》郷 和名抄、度会郡沼木郷、訓奴木。○今宇治山田町、外宮以西の地に当る、近年前山鷲領の南なる諸村を合併し沼木と曰ふは之と異なり、或書に招木とは沼沢に木あるを以て此名ありと為すは、文字に因れる附会にて、本義に非じ。
神都名勝誌云、沼木郷は外宮鎮座の処也、古は宮川の支派山田の平原を繞り、池沼叢樹の其の間に錯落せるを以てかく名づけたりとぞ、止由気太神宮儀式帳延喜式等に沼木郷山田原と見え、神鳳抄に度会郡沼木郷、光明寺所蔵安貞二年文書に度会郡沼木郷|上山幡《カミヤハタ》村など見えたり、中島《ナカジマ》、二俣《フタマタ》より宮後《ミヤジロ》田中の辺に至るまで此の郷に属したりき。
 
豊受《トヨケ》宮 山田の宮後町の北に在り、南面して高倉山に対す、宇治大神宮と共に国家の大祀なり、故に両所伊勢神宮と称し、内宮《ウチノミヤ》に比し外宮《トノミヤ・ゲクウ》の号あり、古書に「大神宮西七里度会宮」と云者是也、七里は今路四十二町也。神都名勝誌云、外宮は等由気宮又度会宮と曰ふ、祝奉る所は豊受大神なり、此神日本書紀に「伊弉諾尊又飢時、生児号|倉稲魂《ウカノミタマ》命、倉稲魂此云|宇介能美陀磨《ウカノミタマ》」また保食神とも見、え、古事記皇孫命天降の段に「次|登由宇気《トヨウケ》神、此者坐外宮之度相神也」和名抄に「保食神、和名|字介毛知乃加美《ウケモチノカミ》」また「稲魂|宇介乃美太万《ウケノミタマ》、俗云|字加乃美太万《ウカノミタマ》」など見え、又大宜都比売とも申し奉り、百穀発生の原素を掌り、天下の人民に衣食を幸ひ給ふ神なり、抑此大神はもと丹波国丹波郡比沼の麻奈為原に坐しましゝを、雄略天皇の御宇度会神主の遠祖大佐々命をして、此の大宮他に鎮め奉らせ給ひしなり、相殿神三座ゐます、延暦儀式帳正殿一区の註に「同殿座神、参前称相殿申」また「相殿神、御船代弐具」とあり、延喜太神宮式に「度会宮、船代四具」とある註に二具相殿神料とありて、西の御船代に二座、東の御船代に一座ましますなり、きてまた延喜太神宮式に「神殿三座、装束帛被三条、絹被三条、帛衣三領、絹衣六領、絹裳九腰」とあり、御裳をも調進せられし上は、女神にましますか、弘安九年通海参詣記に「当宮には左右の相殿三座おはします、何れの大神にて御座するよし、人いまだ知り奉らざることなり」とあり、大同本紀には御伴の神三前と見えたりし。○神祇志料云、度会宮四座、今山田原村に在り、天照大御神の御饌神登由気大神を祀る、蓋伊邪那岐神の子、和久産巣日神の子豊宇気毘売神即是也、〔延暦儀式帳古事記〕上古皇孫命の天降し給ふ時、天神の詔をもて此神の御霊を副降し奉りき、〔古事記〕而して丹波国与佐の比沼の真名井に鎮り坐しゝを、雄略天皇の御世、大御神天皇の御夢に「我御饌津神等由気大神を我許もか」と誨奉り給ふを以て、大佐々命に勅して、布理《フリ》奉れと宣ひき、故罷往て布理奉り、即|御饌《ミケ》殿造奉りて、大御神の朝の大御饌夕の大御饌を日別に供へ奉らしめ給ひき、〔延暦儀式帳上代本記皇字沙汰文〕霊御形鏡に坐す、〔倭姫命世記神名秘書〕相殿神三座、御伴神三前を祀る〔大同神事供奉本記〕皆女神に坐り、〔止由気宮儀式帳延喜式〕(一書、三座は瓊々杵尊天児屋命天大玉命なりと云ふは、後人の妄誕)初め豊受宮の艮角に御饌殿を造り、朝夕の御饌物を調備へ、捧持して太神宮に参向ひ仕奉れるを、聖武天皇神亀五年正月、例に依り本宮より皇太神の朝御饌を備て、先天村雲命の孫に捧げ賚しめて参る処に、途なる宇治山の谷道に死人の有るを見つゝ持参り、天見通命の孫荒木田禰宜に授渡し仕奉り、終て後二月余りを経て、天皇御薬急ぎ御坐して重く祟り給ひき、故宮司高良比連干上其由を奉ずに依て、使を遣して之を祈白さしめ、神主川麻呂御炊内人弘美等に大祓を科せ、三月勅して新に御饌殿を立て、永く神宮に持参ることを停め給ひき、凡饌殿内東方に天照坐皇太神を御奉《マセ》り、西方に止由気大神を坐せ、又御伴神三前を坐奉り、大佐佐命の定奉る抜穂を舂炊ぎ御器に盛り奉らしめ、終て神主物忌を率て其殿前に侍ひ、祈祷み 「天皇朝廷|常石《トキハ》堅石《カキハ》に護り幸へ奉り給ひ、百官に仕奉る人及天下四方国の人民を平に愍給へ」と申て、皇太神を八度止由気大神を八度、御伴神を八度拝奉りて、毎日朝夕に供へ奉りき。〔皇字沙汰文神宮雑例集並引大同本紀、参取神宮雑事記〕
 何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさの涙こぼるゝ、(山家集、とよけの宮にて)円位 上人
 はたすゝき尾花かりふき神風や内外のみやはよろづ世までに、〔夫木集〕       鎌倉右大臣
 かけまくもかしこき豊の宮柱直きこゝろはそらに知らるゝ〔続後撰集〕        藤原俊成
日本書紀〔神代巻一書〕云、天照大神、聞葦原中国|有保食《ウケモチ》神、遣月夜見尊就候之、保食神自口出品物而饗之、月夜見尊忿抜剣撃殺、然後復命、天照大神怒不須相見、乃与月夜見尊、一日一夜隔離而住、是後遣天熊人往看之、保食神既死、其躯生種々物、天熊人悉取持去、奉進之、乃以為陸田種子水田種子。○古事記伝云、等由気大神は天照大神の御食の神にます、神祇官の御食神は即此也、然れども膳夫《カシハデ》の神など云はいみじき非なり、されば天照大神よりも貴き霊なるやと云んに、さには非ず、天にも地にも天照大神より尊き神坐すことはなし、唯其大神も又祭りたまふ神はある事にて、世々の天皇の天神地祇を祭らせたまふと同じ。○按ずるに、内外両所宮は相殿数座に上り、古来朝廷の崇敬之を視て同一と為したまふは、皆天照大神の神慮に因るべしとこそ申奉れ、差別の説は後世の議論に出づ、彼陰陽に配し火水に当て、宗廟社稷若くは対比高下の弁を立つる等、後人知巧の見を以て古の神道に擬するは、いかで誤謬なかるべき、之を支那の道家印度の仏者の理談に習合し、(若しくは泰西学者の鬼神論に比較して)云々するも、皆本邦の古風儀を悉す能はず。我中世夙に習合神道の起るあり、両祠の両官其典冊を伝へ、三部書又は五部書と云ふ、五書中倭姫命世記独り信拠に足る、而も是れ大神宮本紀の残欠にして、天慶以降大治以往の纂集に係る、開巻先づ曰ふ、
 天地開闢之初、神宝日出之時、御饌津神、与大日靈貴、豫結幽契、永治天下、或為月為日、永懸而不落、或為神為皇、常住以無窮、と後人の竄入を視るべし、又神託を録して、 心神別天地之本基、身体則五行之化生、肆元元入元初、本本任本初、神垂以祈祷為先、冥加以正直為初、
と、理談の発達を視るべし、遂に豊受大神をば大自在天の子と註し、亦天御中主霊と説けり、大自在天を両所御鎮座伝記は伊舎那天に作る、是仏説に仮れる者也、外宮御鎮座本紀は首掲し、
 天地初発之時、大海之中、有一物、形如葦芽、其中神人化生、名号天御中主神、亦曰豊受皇大神也、
と揚言し、造化の始元を極めたり、而も内宮を国常立尊と為し、高下の分を示せり、然れども是等の事古書に見えず、皆外宮祠官が私に造れる妄語のみ、蓋外宮をば内宮よりも貴くせんとする奸計に出づと云ふ。宝基本紀は延喜以後天慶以前の纂録なるべし、中に
 因茲奉代皇天、西天真人以苦心誨喩、教令修善、隋器授法、
などと説き、又内宮を火徳、外宮を水徳に対比し「日月変化、水火徳用」と談ぜり、又
 神道則出混沌之堺、帰混沌之始、三宝別破有無之見、戻実相之地、神則罰穢悪導正源、仏亦立教令破有相、
と曰ふ、習合論の開展頗力めたるを知る、然れども此宝基本紀には未だ外宮を以て造化之神天御中主と為さず。永仁四年、両宮の祠官の間に、皇字沙汰の訴訟起る、鎮座本紀鎮座伝記等の偽造は、当時已に成れるや明なり、是より以降「外宮は天御中主を祭り、内宮は国常立尊を祭る」と云ふ事殆世の通説と為る。徳川幕府の初めに、儒生往々神道を談ず、亦多くは五部書に拠る、山崎垂加の流派を其魁としたり。元禄の比より復古の学風起り、神道又漸く変じ、以て近時の勢を成せり。
又按ずるに、中世乱離、大神宮司の政廃し、内外両所の祠官相抗争して止まず、其極武家の抑制に会ふを常とせり、中にも文明中の争闘は、北畠国司の干渉する所なり、神域に殺戮焚毀の珍事を見たり、両宮兵乱記曰く、先年山田外宮衆より、岡本に番所を置、諸国道者を内宮の宿へ通さず堅く相止め、但参宮の上下計を通ずる間、内宮より種々の山田へ仔細を申と雖、不承引、弥堅く止るの間、多気の御所を頼み、御口入有て可給由、日安庁宣を以て、致訴訟所に、内宮より申事無余義の由仰られて、山田へ仔細を被仰付といへども、不承引、剰へ榎倉掃部助氏則本人として文明十九年十月二十四日より、内宮の通路を一向に止む、然間宇治衆兵粮以下万づ及迷惑の間、多気殿御腹立にて、同十二月十九日御勢を遣され、同廿日に山田三方悉く放火せらる、榎倉一類は宮中に走入り、火を掛け奉り腹を切る、翌年より無為に治り、山田三方の面々還住也、去るに因て、山田の破れ偏に宇治の所行ぞと意趣を残す。(神都名勝誌云、山田三方は須原方坂方岩淵方と曰ひ、三方の年寄集会して執政する法なりき、近年三方年寄会所とて、大世古町に在りき)
 
忍穂井《オシホノヰ》 卸饌水《ミケツミツ》なり、御井社其傍に在り、外宮御炊殿の西百廿丈、藤岡の麓にて、称へ奉りて天真井《アマノマナヰ》とも天長井《アマノナガヰ》とも曰ふ、伊勢国造度会神主の遠祖天村雲命、天孫降臨の時、天上より移し下したる者と伝ふ。
 代々をへて汲ともつきじひさ方の天より移す忍穂井の水〔風雅集〕          度会延誠
 花咲ば真名井の水をむすぶとて藤岡やまにあからめなせそ、〔神祇百首〕       度会元長
度会国見神社は延喜式外宮摂社十六座の一なり、延暦儀式帳によれば、彦国見加岐建与束命と曰ふ、蓋亦度会地主の裔神なるべし。参宮図会云、国見杜は其旧址藤岡山に在り、今石を積置き藤《フヂ》社と曰ふ。
 
高宮《タカノミヤ》 外宮正殿の東北なる高処に在り、豊受大神第一の摂社也。延喜式云、多賀宮一座(豊受大神荒魂)去神宮南六十丈、凡二月祈年幣帛者朝使到日、太神宮司引使者先参度会、次太神宮奉献幣帛、其高荒祭宮、使者自進奉、余官命禰宜等進奉。○倭姫命世記云、多賀宮一座、豊受荒魂也、伊弉那伎神所生神、名伊吹戸主、亦名曰神直日大直毘神、霊形鏡坐。
 
神苑《ジンエン》 宮域の四至は延長四年の官符に定め給ひしに、中世以来其境内に人家建ち聯り、自然に市街をなすに至れり、近年之を慨き、公私協議、一挙して人家百余戸を撤去し、池沼を穿ち岡阜を築き、松杉疎密の間に四季の花木を植ゑ、大に神苑を開きたり、農業館は別区に設置して、百穀草木播種の道に資く。○坂士仏参詣記に「出家の輩は五百枝《イホエ》の杉と申霊木の下に詣でて、宮中へは参らず」と見えたり、此杉今はなし。補【農業館】○神苑の北方国道を隔てゝ之を設く、苑の別区なり、百穀の種子はいふも更なり、大凡農事蚕業に係る諸器械は国の内外を問はず網羅蒐集して満場に陳列せり、蓋此の館をこゝに設けしは豊受大神宮の御神徳を広く衆庶に仰がしめむが為なり。
 
月夜見《ツキヨミ》宮 外宮摂社十六座の一にして、外宮の後に在り、内宮摂社月読神と同体、豊受神に因みまします神也、延暦儀式帳延喜式に列す。○神都名勝誌云、月夜見神社は承元四年宮号宣下ありて、別宮に列し、神殿を増作せられたり、宮域の四至封疆地(さんずい+皇)を繞らし、その内には老樹(くさがんむり+翁)欝として実に千古の風致を存せり。又|高河原《タカカハラ》神社同域に坐す、延喜式川原|国生《クニナス》社と載せたる社なり、相伝ふ旧社域は此処より一丁許東、西河原薮世古なりきといふ、又|須原《スハラ》大社ならむといふ説もあれども証とするものなし、応永年中頭工日記の文によれば、其の頃已に今の地に坐しゝ趣なり。○康永参詣記云、月読宮に参りて拝すれば、森の朽葉跡をかくして、庭の冬草塵をなせり、月読の御名を思へば、神代の事もきゝなれたる心にて、
 いくとせか露の玉垣ふりぬらんかみよの秋の月読のみや。
 
平尾《ヒラヲ》 平尾頓宮址は、月読宮の東|高河原《タカカハラ》の辺なりといふ、雄略天皇二十三年、豊受大神宮丹波国与佐の宮より御遷幸の節、所々の行宮を経させられ、当国一志郡山辺の行宮より、先此の所に移り給ひ、三箇月の間坐しましゝ霊蹟なり。〔神都名勝誌〕
 
山田原大神宮司《ヤマダハラダイジングウシ》址 又御厨と曰ふ、高河原に在り、遺址今詳ならず、御厨とは初め神痔(まだれ)《カムダチ》と呼び、神邑神戸の租税を徴し、貢物を収むる政所なりき、垂仁天皇の御代、皇大神宮御鎮座の当初は、有爾《ウニ》郷|鳥墓《トツカ》村に設けられしを、孝徳天皇の御代に至り、大神宮司の職を置かれ、中臣|香積《カツミ》連須気を以て之に任ぜられたり、是大神宮司の権輿なり、(此大神宮司の職務を執る所を御厨政所と云)以来凡一百五十年、神宮の諸政を執行せし旧址なり、また此の所に斎内親王の別館諸司宿舎まで数棟ありて、その一郭内をすべて離宮院とも称したりとぞ、然るに延暦十六年の水難によりて、湯田郷宇羽西村に移転せられし由旧記に見えたり、此の近傍の地名を察するに河原大河原(継橋郷)高河原(沼水郷)等の名ありて、中古までは宮川の分流月夜見の宮の北裏(俗にきとらと曰ふを通りたりと覚ゆれば、其の水害に罹りしを知るべし。〔延暦儀式帳神宮雑例集神都名勝誌〕
 
山田《ヤマダ》 山田町又山田郷と曰ふ、外宮の在所なり、今内宮宇治郷に合併して、宇治山田町と称す。
山田は旧沼木郷山田原と称し、又沼木平尾と称し、平郊の地にて、外宮鎮座以後神邑と為り、中世より民口富庶の名あり、康永参詣記にも「宮川を渉り端山繁山の陰に至りて見れば、此面彼面の里道をひらきて、誠にひとみやこなり」と載せ、南勢第一の都会なり。
延暦儀式帳云「等由気太神宮院事、今称度会宮、在沼木郷山田原村」と、東鑑、養和元年の条には山田郷と記したり。此地本神封なれば、宮司政所の治下なれど、戦乱荒廃の後は、武家の干渉を免れず、北畠国司の頃は已に田丸城を置き、将士をして神邑の政治に参与せしめたり、徳川氏に至り特に山田奉行庁を置き、将士を派して神邑の民政及び大湊船廠の事を司らしめ、役料千五百俵を給す、卒を附属せしめずと雖、水主七十五人を支配せしめたり、明治維新の際、此に度会県を置き南勢を管治したりしが、後廃し、今度会郡衙あり。 神のます山田の原の鶴の子は帰るよりこそ千代はかぞへめ、〔玉葉集〕         源 順
元文年間、旅人小憩の為めに、茶屋を設けたるより濫觴して、妓館を生じ之を新町と曰ふ、又文政年間新地を開き、遂に一郭の娼家を成す。
補【山田原】○神都名勝誌 豊受大神宮大宮地近傍の総称なり、往古宮川の堤防全からざりし時、支流数派に分れ、池沼林(木+越)処々に交錯せる平原なりしかば、沼木《ヌキ》の平尾とも或は山田の原ともいひき、中世より人家稠密して一都会を為すに至れり、近年宇治・高向《タカムク》・箕曲・招木・継橋の五郷を合せて宇治山田町と称す。康永太神宮参詣記、宮川を渉り端山繁山の陰に至りてみれば、此面彼面の里道をひらきて、誠にひと都なり。〇三十三所名所図会、雨合羽のたち屑をもて附髪を作り山田広小路の商家に鬻ぐを、剃髪の徒之を求めて頭にくゝり宮中に詣づれば許させ給ふ、公けなる神慮のほどぞ最とたふとし、狂歌に曰く、髪長は伊勢の宮居のかゐ(かゐにママ)言葉坊主合羽のたち屑の髷。
補【宮後町】○神都名勝誌 豊受大神宮の本殿南面にして、此の町其の後に当れるを以て名づけしか。
補【八曰市】○神都名勝誌 八曰市場町、此の地中世毎月八曰郷人市(纏の旁+おおざと)部を開き、諸物品を交易せし所なれば、この称あり。
新町 元文年間旅人小憩の為に茶店を設けたるが其の濫觴にして、今は章台楊柳に白馬を繋ぎ、演劇歌舞にゆる間なし、殊に夏月の納涼には烟火の妙技を尽し、涼柵楼閣の紅燈昼を詒くばかりなり。
新道 文政年間田沼を填めて其の築地に両三軒の茶店を設けしが、次第に繁華に趣きたりとぞ、今は両側競ひて大厦層閣を構へ、唱歌絃声かまびすし、亦一の銷金商なり。
 
城山《シロヤマ》 山田の南、常盤《トキハ》町の上方に在り、高百尺許、民家あり、是は文明十八年宇治山田一揆争乱の時、ヤマダ方の要害城として、村山掃部介武則陣営を設け、北畠国司の軍勢を拒みし所なり、其の事跡は伊勢軍記勢陽雑記久志本年代記先規録官司引付遷宮次第記文明一乱記子良館旧記等に掲載したり。〔神都名勝誌〕
補【村山砦址】度会郡○神都名勝誌 山田常磐町字城山に在り、高大約百尺、山上平坦なり、山海の景目睫に集り風景愛すべし、文明八年十月宇治の役村山武則国司北畠氏の兵を拒がんとして砦を設く、後廃す。
 
大間国生《オホマクニナリ》神社 城山の下、常盤町字大間に在り、草名伎《クサナギ》神社同域なり、其東に清野《スガノ》井庭神社あり、并に延暦儀式帳延喜式に列し、外宮摂社十六座の中とす。
 
天神《テンジン》山 城山の西にして、二俣町の南に在り、往昔山下に菅廟ありしを以て名くと云ふ、山上に経塚あり、此地より曼陀羅梵文漢字の彫刻ある古瓦を発見すべし、或云箇は大曰経の文にして、承安四年の記載の物ありと。
補【山上郷】○史料通信叢誌 山上郷より掘出せる経瓦あり、瓦の表裏に誌せるは大曰経の経文にして、承安四年のものなりと言ふ。〇二俣町 天神山は田原の南にあり、往昔麓に菅神の廟ありしを以て名づく、土人経塚と称す、此の地より曼陀羅梵字仏経等を彫刻せる古瓦を掘出すこと毎々あり。
 
中島《ナカジマ》 山田東部の総称にして、中にも中島町と云は宮川上渡の街路に当る、文明十八年、山田一揆村山掃部此磧にて北畠氏の兵と戦ひ克たず、応長五年、鳥羽城主九鬼義隆西軍に応じ田丸城を攻めたる時、中島に退く、敵兵追撃、北勝蔵辰親戦死す、其事を録せるを中島兵乱記と曰ふ。○宮川の畔に三好塚と云竹叢あり、三好長秀(阿波三好元長の子とぞ)其子頼澄の二人、永正五年此地にして北畠国司材親の殺す所と為り、因て此に葬ると云。〔伊勢名勝誌〕
蔀野井庭《シトミノヰバ》神社○今中島|辻久留《ツジクル》町に在り、大河内神社同域なり、共に延暦儀式帳延喜式に列し、下宮摂社十六座の中なり、打懸社と云は儀式帳に見ゆ、亦同域とす、古記に沼木郷|八幡《ヤハタ》村と曰へり。
補【中島】○神都名勝誌 中島町は宮川上の渡の街道にして、京町よりの国道と合す、鳥羽の城主九鬼大隅守と岩手の城主稲葉蔵人頭との間常に不和なりしが、慶長年中稲葉蔵人九鬼を討たむとして出陣せる途次、其の一族なりし北勝蔵辰親と云ふものと此所にて戦ひたりとぞ、旧記に載せたり、中島兵乱記といふものあり。
補【三好《ミヨシ》塚】度会郡○伊勢名勝志 山田宮川町(或は云、中島町にありと)に在り、方二十間許の竹叢たり、俗三好塚と称す、長秀元長の子、頼澄は長秀の子なり、二人永正五年四月北畠材親と此地に戦ひ、軍敗れて自殺す、因て此に葬る〔系図、之長の子に長秀・元長・長光・頼澄・善長あり〕
 
宮川《ミヤカハ》 度会郡を貫流する大水なり、神宮の傍を過ぐるを以て宮川の名あり、即宇治山田町の西限を成し、其西岸|小俣《ヲマタ》村に宮川停車場あり、参宮鉄道の終駅とす。
 度会の大河の辺のわかひさ樹わが久ならばいも恋むかも、〔万葉集〕
水源を大和紀伊伊勢三国の堺、大台原《オホダイハラ》巴が淵より出て大杉谷《オホスギダニ》、三瀬谷《ミセダニ》を経て野尻《ノシリ》川に会し、又一の瀬谷の流と合ひ、其の余多気度会両郡の渓流数百条を一括して東北に奔り、大湊《オホミナト》に至りて海に入る、水源を距ること二十余里なり、古は度会川とも、又度会の大川とも、斎《イツキ》の宮川ともいひき。渡口三箇所、上を柳の渡といひ、下を磯の渡と云ひ、中を桜の渡といふ、国道の渡口なり、天平宝字二年に、此の渡口に船橋を懸けしこと、太神宮諸雑事紀に見えたり、近年又長橋を架し、小俣の宮川車駅を山田市街に相続す。
 
河原禊《カハラノミソギ》所址 昔斎王勅使例幣等参向の時、祓を受けられし跡なり、延喜式云「斎王参度会宮、禊度会川、参入神宮」(中渡国道の北なりと神都名勝誌に見ゆ) 契りありて今日みや川のゆふかづら永き世までもかけてたのまん、〔新古今集〕    定家
 御そぎする豊宮川の敷なみの数より君をなほいのるかな、〔新拾遺集〕        朝勝
古は宮川洪水の為に堤防壌れ、河水山田の原に溢れて、宮域までをも浸しし事屡なりきといふ、其の度毎に公家より沙汰ありて堤を修補せられ、或は度会地主神大土御祖神に土宮の宮号を宣下し給ひし事さへありしを、応保長寛のころ、中納言平清盛勅使として参向せし時、堅牢なる堤防を改築したりとぞ、故に土俗今尚東岸を清盛堤といひ伝へたり。〔参宮図会神都名勝誌〕○応永三十一年参宮記云、さむ風と申処と申所にて、誠に此頃は寒嵐相応の名所にて侍りけると覚えて、
 吹くからに猶寒かぜの里人はなれてもさすが袖しぼるらし、
宮川を見わたせば、此処彼処に人々垢離かく、斎宮の御跡は此あたりにと人の申に、よそながら見奉れば、木竹いみじく繁りあひたる計也。(此にさむかぜと云ふは、宮川の渡口|三箇《サンカ》の瀬の義にて、当時三箇瀬の名あり、之を寒風とは言ひかへたり、一説、今の古市の辺に寒風里ありしと云ふ、従ふべからず)
     ――――――――――
河崎《カハサキ》 宇治山田町の北に接し、漁船小艇の埠頭なり、小溝を以て神社港大湊汐合川二見浦等に通ず、各一二里に過ぎずと雖、両宮神都の海漕は一に此口に由るを以て、出入の舟多し。宗碩曰記にも、「山田にて尾張国へ渡る舟をまち、川崎と云ふ辺より釣舟をまうけて、大湊にさしよせぬ、ここの旅宿は馬瀬の某成俊が所なり、明日つとめて舟出すべき由かまへ侍る」と叙したり。
    河崎、舟赴双鑑浦      山陽
 春帆不嫌緩、舎轎就江湾、暖靄三河郡、斜陽両勢山、此行従阿母、何処不郷関、到岸投村店、鮮魚(酉+它)酔顔、
 
黒瀬《クロセ》 河崎の北に接し、鳥羽二見瀬通路なり、今一色神田久志本の諸村と合し、浜郷《ハマガウ》村と曰ふ、長寛二年古文書「継橋郷黒瀬村」とある由神都誌に載せたり、二見箕曲南郷の間なる江渚に臨む。
 
橘《タチバナ》神社 黒瀬路傍の祠にて、古は橘氏の氏神なるべし、橘大臣諸兄の母県犬養宿禰三千代は伊勢の人と伝ふれば、其因みにては古跡を遺すか、〔参宮図会神都名勝誌〕高向の県神社参考すべし。
 
鹿海《カノミ》 黒瀬の南、楠部の北、今楠部|一字田《イチウタ》朝熊の諸村と合併して四郷《シガウ》村と曰ふ、五十鈴川の末に臨み、朝熊山に対す。○神都名勝誌云、鹿海は太神宮本紀に加奴弥と録し、村中に止鹿淵見佐山《トカノフチミサヤマ》あり、鹿海橋の東、懸崖の下、澄潭碧を湛へ、古樹其上を蔽ふ、見佐山之に対し、西岸に聳ゆ、水之を環囲して宛然たる墳丘なり、山腹に石をたゝめる所あり、其傍往々古土器を出すといふ、疑ふらくは宇遅都比女の墓にや。
補【鹿海】○神都名勝誌〔重出〕桶部の艮にある村なり、四郷村に属せり、川を挟みて東西に分れたり、鹿乃見また加奴爾《カヌミ》とも見えて太神宮本紀にも見ゆ。
止鹿《トカノ》淵 鹿海橋の東の沿岸にあり、懸崖壁立すること数丈、澄碧其の下を繞り古樹其の上を覆ふ、岩上に小祠あり。
 
見佐《ミサ》山 止鹿淵に対して西岸にあり、此山四方に連絡なし、細流環囲して宛然たる墳墓なり、山腹に石を畳める所あり、其傍より往々古土器を掘り出すといふ、疑ふらくは宇遅都日女の古墳にや。
 
朝熊《アサクマ》 楠部鹿海の東なる聚落にして、東嶺を朝熊山と曰ふ、(今四郷村の属)神都志云、此村応永年中まで、西北|昼川《ヒルカハ》山に在りと、故実郷談に見えたり、朝熊の名義には諸説あり、僧空海求聞持法を山中に修めし時、朝に熊獣出で夕に虚空蔵現ぜりよりてかく名づけたりと、又旧蹟聞書には熊野は浅隈なり、五十鈴川の下流迂曲し此の地其の浅水の隈に当れるを以て名づけたりと云へり。
 
朝熊《アサクマ》神社 延喜式に列し、内宮所摂二十四社の一なり、寛文年中再修す。延暦儀式帳云「小朝熊神、称神櫛玉命児、大歳神児、桜大刀自、形石坐、又苔虫神形石坐、又大山罪余子、朝熊水神、形石坐、倭姫内親王御世定祝」○按に、桜刀自是れ亦度会の土地神伊勢津彦の裔ならん、或云、富士神を浅間《アサマ・センゲン》と称へ木花開耶《コノハナサクヤ》姫を祭ると伝ふ、朝熊浅間語相近し、開耶桜又古言を同くす、蓋相因る所あるに似たり。○神都名勝誌云、朝熊神は本村の西北の山腹に鎮座、桜の宮とも鏡の宮とも云ふ、儀式帳には小朝熊神社とあり、小は美称なる可し、社域はさまで高からざる山の西端にあり、鹿海川を負ひ朝熊川に面す、対岸の洲嘴に坐せるは鏡宮なり、其傍に虎石汐干石等の奇石あり、又桜大刀自神の由縁にや、境内頗る桜樹多し、弥生の頃は松杉の間に掩映し、風色の幽媚なる事、此の地を以て神都中の第一とす。
 小朝熊の神の坤の角に六七段計を去りて奇石あり、其上に桜樹あり、高き三尺計なり、此木往昔より以後、年を送り春を迎へて花を開き年を結ぶ、今に枯れずしてあり、是を桜大刀自の神の神体と申す説もあり、〔文永十年思円参宮記〕
 神世より光りをとめて朝くまのかゞみの宮にすめる月かげ、〔続拾遺集〕        隆辨
 神かぜにこゝろやすくぞ任せつるさくらの宮の花のさかりは、〔続古今集〕      西行
 神都誌又云、鏡宮《カガミノミヤ》は同処別域、水を隔てゝ丘上に坐す、往昔より二面の神鏡を奉祭す、其由来する所詳ならず、山麓坤の水涯なる大石の上に坐しまして、潮にも沈み給はず、浪にも流れ給はざりきとぞ、時ありて坐さざれば、奏聞を経るに従ひ、朝廷に於ては御卜を行はれ、特に公卿勅使を立て給ひて、祈謝し給ふを例とせり、又時宜によりて神殿に奉安すれば、忽元の処に飛び出で給ひし事もありきとぞ、寛文三年神鏡を掘り出しに、小蛇蟠屈して護衛したりと云ふ、かゝる霊鏡なれば、其事跡多く旧記に散見せり。
 神さびてあはれいく世になりぬらん波になれたる朝熊の宮、〔続古今集〕      嘉陽門院越前
俗説弁云、類聚神祀本源曰、小朝熊神、鏡二面、大和姫命、朝熊《アサクマ》海上にして奉鋳白銅鏡也、正治元年、祝磯部時次解文曰「朝熊杜並御前社宝殿者、共在高山之上、其山下坤方、隔江二十余丈之程、水辺岩上、伴御鏡二面坐」○参宮図会云、朝熊神社、寛文十年大宮司清長旧地を求め再興あり、鏡宮は昼川《ヒルカハ》の尾崎に在り、石上御前《イシノヘノゴゼ》と曰ふ。
 月はたゞひるかは山に雲きえてひかりもみちぬ汐合の浜、〔歌枕名寄〕     長明 
音無山《オトナシヤマ》 朝熊神社の上方にして、北は二見郷に対する嶺なるべし、長明伊勢記に見ゆ、曰「二見の音無山とて、人々登りて遙に海山を見るに、東は参河遠江駿河など越て、富士の山ほのかに見ゆ、艮に当て甲斐の白根信濃の御坂《ミサカ》あり、木谷美濃尾張の山どもの上より、加賀の白山見ゆ、乾に多度の山鈴鹿の三子《ミツゴ》、西に布引山|阿坂《アザカ》山伊賀の山など名を知らず、南は朝熊山志摩国の方なり、朝熊川を隔て昼川の横根と云あり、其西のはなに鏡の宮おはします」云々。
 
桜木《サクラギ》 是朝熊の古村なるべし、伊勢名勝志云、今此里亡ぶ、元和年中水害にあひ、居民一宇田に移る。
 月にくれて近づくまゝに白雲の花になりゆくさくら木の里、〔新名所歌合〕      大中臣定忠
補【桜木】度会郡○伊勢名勝志 桜木の里、朝熊村字桜木の地を指す、今社地及河岸場たり、往古朝熊村の枝村にして一部落をなせしが、元和中洪水に罹り民居悉く一宇田村に徙る。
 
永松《エイシヨウ》庵 朝熊の里中に在り、朝熊岳金剛証寺に属す、林泉幽邃にして、杜鵑花多し、秋田城介入道安倍実季の墓あり、慶長七年、実季幕府の譴を受け此に謫居し、万治二年卒す、幼女及侍女の墓相並ぶ、家は子俊季継ぎ、三春城に居るを以て、高乾院を造り追弔を為すと云。○朝熊村に製薬家あり、世俗朝熊万金丹と曰ひ、実季入道の遺法と為すは非なり、尾州知多郡野間氏の家伝のみ。〔神都名勝誌〕
  栖のかたはらに、夕がほといへるものゝ、おのづから生ひ出て、あれたる垣根ともいはず、青きかづらのおのれひとり心地よげに、はひまつはれ侍るを見るに、あの花折れとの給ひし、ふるごとおもひ出でられて、よみ侍りけり、
 住みわぶる宿とも知らで夕顔の花のみゑみの眉ひらくなり、〔永松庵所蔵筆跡〕     実季
按に実季は安東太郎と称し、羽州檜山館より起り、秋田数郡を平定し、十九万石を領知す、庚子の役、観望反覆の故を以て、江戸幕府の収封する所と為り、仍朝熊に竄逐せらる、後其子俊季を禄し祀を存せしむ、奥羽第一の旧家也。
補【秋田実季墓】度会郡○伊勢名勝志 朝熊村永松庵境内に在り、実季の墓今磐城三春高乾院にあり、蓋し分骨を埋めしものならん、三春城主秋田氏の祖なり、寛永七年九月此地に謫居す、万治二年卒す、幼女及び侍女片山従て此に終る、実季書を能くし和歌に工なり、詠草若干を存す、又医薬を好み奇法多し、世に謂ふ所朝熊万金丹は其家伝なりといふ。○神都名勝誌 野間氏の家法なり、祖先は尾州知多郡の人のみ。
 
朝熊岳《アサクマダケ》 山嶺南北に延び、伊勢志摩の分水界と為す、其山勢北は海に没し神崎と為り、南に崛起し最高峰を生ず、抽海五五〇米突、内宮の正東に当り、神路山の東北堺を成す、(内宮より登る五十町朝熊より登る二十町)登臨の眺望最雄大なり、東海の富岳北陸の白山を見るべしと云ふ、峰の東側に寺宇在り。
 跡たれていく世へぬらん朝熊や御山をてらす秋の夜の月、〔続拾遺集〕        荒木田延季
 
金剛証《コンガウシヨウ》寺 朝熊岳に在り、開創詳ならず 弘法大師中興と称し、本尊虚空蔵なり、中世衰微したるを、建長寺東岳和尚重修して、済家の禅林と為す、勝峰都率院と号す、寺北の別院は呑海と号し、本尊地蔵を安置す、神宮より鳥羽二見経廻の客、登陟する者多し。
 
二見《フタミ》郷 和名抄、度会郡二見郷、訓布多美。○今東二見村西二見村及び浜郷村大字一色等是なり、東は伊気郷〔今志摩郡〕に至り、西は浅水の海湾を隔て、箕曲郷(大湊神社港)に対す、北は海洋にして南に汐合《シホアヒ》の入江あり、坂士仏参詣記云「倭姫の皇女神鏡をいただき奉りて、御鎮座あるべき所を御尋あり、伊勢の海づらに歴覧、あきたらずおぼしめさるゝ所ありて、二度御覧ありし故に二見の浦とは名づく」と、然れども太神宮本紀には「大神御船、二見浜坐時、大若子命に国名何問給白く、速雨《ハヤサメ》二見国と白き」とあれば、倭姫の名づけ給ふと云は非なり。○延喜式云、凡斎王到国之日、取度会二見郷磯部氏童男、卜為戸座。延暦儀式帳に大内人宇治土公磯部小(糸+世)あり、之に拠て考ふるに、磯部氏は蓋宇治土公姓にして、昔倭姫命に大宮地を教奉れる太田命の裔にて、斎王に由縁ある故に、其氏人を以て戸座とせしか。〔神祇志料〕
東鑑、養和二年四月廿一日、熊野山悪僧等、去五日以後乱入伊勢志摩両国、合戦及度々、焼払二見浦人家、攻到固瀬河辺之処、平氏一族関出羽守信兼、相具蛭野伊藤次郎下軍兵、相逢船江辺防戦」と固瀬船江共に郷内ならん。〇二見郷は神鳳抄に録し、採塩の御料なるが、武家の押領と為り、鳥羽九鬼氏の知行に帰したる事あり、寛永年中、一色村の長愁訴して、幕府より二見郷一千三百石高は神宮に附せらる。〔勢州名所集参宮図会〕
補【二見郷】度会郡○和名抄郡郷考 斎宮寮式、凡斎王到国之日取度会二見郷磯部氏童男、卜為戸座、其炬火取当郡童女卜用、但遭喪及長大即替之。神鳳抄、度会郡二見郷。神宮雑例集、二見御鎮地祭物塩三斤。坂士仏太神宮参詣記、垂仁天皇の御娘倭姫の皇女神鏡をいただき奉りて、御鎮座あるべき所を御尋あり、伊勢の海づらに歴覧あきたらず、おぼしめさるゝ海ありて二度御覧ありし故に二見の浦となづく。遷宮物語、宇治郷二見郷伊介郷此三郷合せていまは八郷となる。勢州古今名所集、二見郷千三百石の所も武家の押領たりしを、寛永の頃返し給へり。行嚢抄、二見里六郷あり、惣名を二見と云、昔は七郷有しに今は六郷となる事は、出口村と云一郷絶けるに依てなり。○神都名勝誌 太神宮本記〔倭姫命世記〕に「二見乃浜御船坐、于時大若子命仁国名何問給支、答白久、速雨二見国止白支」とあり、皇太神宮御遷里の以前に既く二見の称ありしなり、出雲風土記に「波夜佐雨《ハヤサメ》久多美《クタミ》山」と記せるも同例なるべし。
 
二見《フタミ》山 御塩《オシホ》山とも称し、二見浦に臨める丘陵の名なり、江海環繞して、全く島を成す、峰勢五分しあるを以て、五峰山とも呼ぶ、或は密厳寺《ミツゴンジ》山と呼ぶ。〔神都名勝誌参宮図会〕
 玉くしげ二見の山のこの間よりいづれば明くる夏の夜の月、〔金葉集〕         親房
康永参詣記云、二見浦より磯山かげの路をつたひ行程に、あはれに心すごき古寺あり、安養山と申処なり、是は西行上人の住み侍りける旧跡とかや、
 此地空余山寂寞、昔人去後幾朝昏、緑蘿庵旧絶縦跡、只有松風敲寺門。        坂士仏
参宮図会云、安養山の寺址は西二見山田原の南に在り、此は宇治の西行谷よりはふるく住止せられ、年も長かりしやにおぼゆ、千載集にも「高野の山を住うかれて、伊勢国の二見山に侍りける」云々との自叙あり。
補【五峰山】○神都名勝誌 山田原の南に環列屈起せる山なり、其の峰の数を以て名づく、また御塩山とも密厳寺山とも称せり、長明伊勢記なる音無山眺望の記文を案ずるに、朝熊川を隔てゝ昼川の横根といふ山ありと見えたれば、立石崎なる江山にあらざること明けし。 
佐見之《サミノ》山 万葉集名所考云、倭姫命世記に「佐美津彦佐見津姫参相而、御塩浜御塩山奉伎」と云るは二見浦の大夫松と云大樹の生たる山、即佐見の山なるべし、今も其麓の小川を佐見河と云ふ、万葉集に伊の発語をそへ、去来見の山と云ふは此ならん、坂士仏の参詣記に二見の浦に佐美明神とて、古き神ましますと書し、即佐見津彦を斎るなるべし。
 わぎもこを去来見の山をたかみかもやまとの見えぬ国とほみかも、(一説去来見山は飯南郡|波瀬《ハゼ》に在り)
 
三津《ミツ》 今東二見村の大字なり、二見山の南、汐合川に瀕する小村にて、彼伊勢浜荻と呼ぶ片葉葦は此地に生ずとぞ。
   伊勢にまかりけるに、三津と申所にて海辺春暮と云ことを神主よみけるに、
 過る春しほの三津より舟出して浪の花をやさきに立らん、〔山家集〕
 我もさぞ願はかくる伊勢島や恋しきひとをみつの浦なみ、〔夫木集〕
三津の東北は江村二見浦なり。
              
江《エ》 今東二見村と改む、此村|汐合《シホアヒ》川に臨めば江の名あり、江水を隔て東に松下村(今東二見に併す)ありて、志摩都鳥羽小浜の地界に接す、北は二見浦なり。○延喜式、江神社此に鎮座す、内宮所摂廿四座の一なり。文明五年正広日記云、伊勢の山田に四五日やすらふ事ありて、大江と云所より舟にのり、伊良胡の渡とてすさまじき所を越し侍るに、こよひは十五夜なりけり、
 古へを思ひいらこの月見ればかいのしづくぞ袖におちそふ。
源延尉義経の従士に伊勢三郎義盛と云者あり、相伝ふ其父俊盛は三重郡福村の人にて、義盛二見郷に移り、江三郎と称す、或は鈴鹿山中に入り焼下小六と号し、後東国に赴き上野荒蒔郷にして義経に従ふと。〔五鈴遺響参宮図会〕○江村と三津の間に内座山と云塞址あり、土人正平年中伊勢守護職仁本京兆義長の築く所と称す、安政四年村民此地より古刀剣土器を発掘したる事あり、〔伊勢名勝志〕古墳にあらずや。
補【伊勢義盛宅址】度会郡○伊勢名勝志 今詳ならず、里人伝へ云ふ、義盛本郡江村に生る、今三津村字東山、旧と常泉寺は嘗て習学する処なりと(同所に巨石あり、中央凹処常に瀦す、之を義盛の硯石と称す)五鈴遺響に云ふ、義盛父俊盛は三重郡福村の人、義盛早く父を喪ひ伊賀に到り中井某に倚り生育し、後二見郷に流落して江三郎と称し、或は鈴鹿山に潜伏して焼下小六と称す、後上野国荒蒔郷に潜居して其主義経に遇ひ、伊勢三郎義盛と称すと、されば其本村に至るも一時の寄寓にして、生誕の地に非るや明けし、記して参照とす。
補【仁木砦《ニキトリデ》址】度会郡○伊勢名勝志 三津村字内座山に在り、山上平坦にして礎石を存す、伝へ云ふ、正平中仁木左京大夫義長本州の守護となり、長野城に拠り神領を侵掠せんとして砦を此に築くと、安政四年村人此地より刀剣及び古土器等を掘出せしことあり。
 
大江寺《オホエデラ》 江村の西、二見山の半腹に在り、真言宗、開創詳ならず、貞享中火災に罹り重修す、観音堂なり。○康永参詣記云、山陰を遠くめぐれる入海のかたを尋て、江寺と申す観音の霊地に参りぬ、苔ふみのぼる石ばしは盤折にて、谷のせゝらぎ音幽なり、黄葉を払ひて古き跡を探り、青竹を携て遙なる峰に到る、
 浦松似昼夕陽裏、老眼摩裟費苦吟、水自細流通海脈、波横万頃列天心、雲暗雲起山高下、潮去潮来月浅深、六十余年漂泊処、江湖風景不如今。
江山(二見山の東部)の頂に天覚寺廃址あり、東大寺衆徒参詣記に「文治二年、俊乗坊重源霊夢に感じ、院宣を奉じて僧侶六十名を率ゐ参宮したる時、此天覚寺に掩留せる由」見えたり。〔神都名勝誌〕
補【大江寺】○伊勢名勝志 江山にあり、真言宗、天平中僧行基の開創に係る、延喜の時叡旨を以て方七間の堂を建築せらる、貞享中火災にかゝり什器記録類悉く焼失す、後僧尭誉之を中興す〔坂士仏康平参詣記、略〕○神都名勝誌 潮音山大江寺は江村の中央より登ること一町許なる江山の半腹にあり、真言宗、創立年月詳ならず。
補【大夫《タイフノ》松】○神都名勝誌 江村字江山に在り、往昔一大老樹なりしが寛政中枯槁して、今存するものは新樹たり、此松数説あり、或は云ふ仁木義長左京大夫と称す、嘗て之に居る、故に名づくと、或は云ふ此樹元と山上に挺立し、海舶の目標となれり、故に伊勢大夫の居所なりと呼びしに起因すと。
 
二見浦《フタミノウラ》 二見村の海を云ふ、東神崎を以て志摩郡伊気浦と相界し、東北は阿波良伎《アハラキ》島|答志《タフシ》島と斜に相対す、西は一色《イシキ》大湊に至る、其中央|立石《タテイシ》崎打越浜の辺を絶景の勝地と為す。
 ますかヾみ二見の浦にみがかれて神風きよき夏の夜の月、〔拾遺愚章〕         定家
 夏の夜は玉ゆらもなし玉くしげ二見の沖にあくるつきかげ、〔夫木集〕         家隆
千尋《チヒロ》の浜と云ふも二見浦なるべし、二見の干潮につけて起る名か、参宮図会云「毎年十一月望日の子刻に、大湊二見浦の海汐干となり、おぴたゞしく陸地と為る、破船の碇などを拾ふ事あり、之を七汐干と呼び、一国の奇観なり、七里あなたなる伊良胡崎まで歩行すべし」と、此七里の干潮につけて、千尋の海の浜とも成ると云ならん、共に過甚の荒唐談なりかし。
 伊勢の海千尋の浜に拾ふともいまはなにてふ貝かあるべき、〔後撰集〕          敦忠
 はまぐりのふたみに別れ行く秋ぞ、 芭蕉
 二見がた月かげさえて更る夜に伊勢島遠く千鳥なくなり、              景樹
蒔絵《マキヱ》松と云ふ、今詳ならず、康永参詣記の文に「二見の浦の景色を見るとて、彼寺より麓の浦に下りて眺望するに、曲渚波を隔てゝ所々の松、絵にかけるがごとし、是や音に聞し蒔絵の松ならんと思へども、誰に問べしとも覚えず」とあり、江寺の下にして彼方に水を隔てゝ松の在るべきは、松下(今東二見村大字)の山なり、此山の北尾を神崎と為す、此に擬すべきか。
 
神崎《カウサキ》 東二見村大字|松下《マツシタ》の北岬なり、即二見浦伊気浦の界と為す、倭姫命世記に荒《アレ》崎と曰ふ、延喜式神前神社在り、(内宮所摂)延暦儀式帳に拠れば、国生《クニナス》神児荒崎比売を祭る。○神前の岬嘴(口偏なし)に屋大の巨岩あり、洞門天成して干潮には徒歩之に入るべし、故に潜島《クグリシマ》と呼ぶ。
 秋をやく神崎山はいろ消てあらしの末に海人のいさり火、            鴨  長明
此歌は伊勢記に「西行法師の住侍りける安養山と云処に、人々歌よみなどし侍りし時、海辺落葉と云事をよみて」と題したり、唐詩の江楓漁火対愁眠の句意を翻せるに似たり、情景ともに善く当れり。
 
立石崎《タテイシサキ》 江村《エムラ》北数町、二見山の尾海に入り、双岩を峙て其側に暗礁を布く、双岩之を立石と呼び、二見浦の景致此に尽く、暗礁は周囲二百数十間に上り、嘉永年中の地震以来、落潮の時纔に礁頭を露すと云ふ、此所は土俗|垢離掻場《コリカキバ》と呼び、古来身を清むる所と為し、海藻を湯に入れ沐浴するを無垢塩湯と曰へり、〔参宮図会地誌提要〕近年は海水浴場の設あり。
 さかろ押す立石埼のしらなみは荒き汐にもかゝりけるかな、(夫木集〕          西行
神都誌云、立石崎の双岩は、崎東敦十間に在り俗に夫婦岩《メウトイハ》と云ふ、其の北の方の大なる岩は高さ二丈九尺、周二十二間、其の南の小さき岩は高さ一丈二尺、周五間あり、両個の距離三間余なり、海中に屹立す、何の頃よりか此の岩に太やかなる注連縄を掛けて、興玉《オキタマ》の神の拝所とせり、太平記剣巻に「彼の鏡は伊勢国蓋見浦に一里計の沖に岩に副ひて御坐す、海のなぎたる時は、船にて押し渡りて、先達ありて拝むなり」とあるは小朝熊の神鏡と混同したる説なり、されど勢陽雑記に潮干《シホヒ》石海中にあり、世俗鏡石と云ふと見えたれば、剣巻の説は即興玉石の事を指したるならむ、また世に画がくなる二見浦の図には、夫婦岩の上に必富士峰と旭とを添へたり、是丹青家の虚構に非ず、四時いつにても風恬に波穏なる暁には、富士峰の雲間に聾聳ゆるを仰ぎ、霊陽の海上に浮び出づるさま、金蛇万丈たなびき渡りて、其壮観たとへむに物なし、別けて夏至の頃には、玉芙蓉の上に光華暉き昇るをおがみ奉らむとて、前夜より人々群をなして集ひあふなり、又云、賓日《ヒンニチ》館は、初め文久三年、阿濃津藩藤堂氏の、神宮御警備の為めに築きし砲台なりき、廃藩の後久しく草莱に委ねしを、明治十九年神苑会にて購求したり、尋いで土木の工事を起し、日ならずして館舎を経営せり。
   双鑑浦、観出日歌、      頼 山陽
 金烏新浴大東洋、帯湿朱輪未吐芭、参山遠山猶宿霧、海涛漸作赤金光、三万六千中一日、来此始見全日出、瞬息飛升難正視、乃信催吾白鬢髪、今日春尽欲呼触(旁光)、伝語義和且徐行。
立石《タテイシ》崎の西は打越《ウチコシ》浜と呼び、神宮の御塩殿《オシホドノ》あり、凡て立石崎より一色村(浜郷村)まで、磯に潮満ちぬれば其辺を通行し難し、山越を為すと云より打越の名あり、清渚《キヨキナギサ》とて催馬楽にうたふも此なるべしとぞ、神都の人々喪の服はてし時、必此渚に潮あみするを古法としたりと云ふ。〔参宮図会〕
 伊勢しまや波の打越しに月さえてしほ風あらき冬の浜荻、〔新名所歌合〕       荒木田延行
 伊せの海のきよき渚のしほ貝に名のりやつまむ貝や拾はむ玉やひろはむ、〔催馬楽〕
   公の使に伊せの国にまかりて帰り詣で来て久しう問はず侍りければ
 人はかる心のくまはきたなくてきよき渚をいかで過ぎけん、〔後撰集〕        少将内侍
補【興玉】度会郡○地誌提要 二見浦立石の東三町五十八間にあり、周囲凡そ四町四十間、深三尺、嘉永甲寅地震以前落潮の時纔かに礁頭を露すと云ふ。
 
汐合《シハヒ》川 五十鈴川の末にして 分派停滞、江湾の状を成して海に入るを曰ふ、一派は東に流れ江村の北にて二見浦に注ぎ、一派は北に向ひ二見箕曲両郷の間に浅水の曲湾を成す、一色|神社《カミヤシロ》大湊の諸村此湾港に臨む、此江水満潮には両方より潮流を生じ込み合ふを常とす、神鳳抄「度会郡塩合御園」と云は此辺に在りける御料なり。 伊勢記云、明ぬれば二見へ行く、伴なる人潮時はいかがあらむ、今は湊にはのぞみぬらむかし、駒を早めよと云ふ、此渡を塩合といふ事は、東西のみなとよりみちくる汐の、爰に行あへばなるべし、
 二見潟とほの湊はいかならむ汐合は駒の爪もかくれず、               長明
塩合合戦とは、永禄十二年六月、木造左中将具正其子具康等、志摩二郡の諸士と合して、款を小田信長に通じ、国司北畠不知斎具教に背きしかば、国司、野呂越前守源実をして之を討たしめき、両軍塩合川の辺に於て接戦したり、是より先北畠国司屡神領を略奪し、処処に関門を設けて参拝人を止むる等、頗横恣の挙動ありき、是に於て山田三保の神官、宿憤を晴さむとして、志摩勢に応援して国司の兵を横撃す、事不意に起りしを以て、国司勢遂に利を失ひ、越前守以下波多波瀬の一族、此の処にて戦死いたす。〔神都名勝誌〕
 
箕曲《ミノワ》郷 和名抄、度会郡箕曲郷、訓美乃和。○今大湊町神社町及御薗村の中大字小林新開等なるべし、汐合川宮川の水分派して郷内を繞り、北は海波と激衝し時々洪浪陸を浸すを見る、箕曲は即水曲の義なり。○光明寺文書「元徳二年、度会郡箕曲郷河辺村」と今河辺の名亡ぶ、延喜式延暦儀式帳に、川原大社并に川原淵神社ありて、(外宮所摂)旧記に箕曲郷勾村に鎮座と云ふも後世水害に会ひ新開(神鳳抄新開御薗今御薗村に属す)河崎の両処へ移す。
 住む人やくるれば窓にあつむらん河辺の里に飛ぶほたるかな、〔新名所歌合〕     荒木田尚長
補【箕曲郷】度会郡○神都名勝誌 箕曲郷は水曲にて、箕は仮字なり、五十鈴の分脈勢田川の下流屈曲して凍流る、故にその沿岸の諸村をかく名づけたりとぞ、神鳳抄に度会郡箕輪郷と見え、又光明寺所蔵元徳二年四月の文書に度会郡箕曲郷河辺村と見えたり。
 
大湊《オホミナト》 山田の北一里半、宮川汐合川の匯(さんずい外)集に在り、北は海に背き、港口は東に開く、方十町の浅水湾を抱き船舶を容る、南十余町を距り神社町あり、又一埠頭なり○大湊は今巨艦大舶を容るゝなしと雖、尚南勢の良港なり、其往昔より名津の一に数へらるゝは、蓋此地京畿神都より東海に航走する門戸に当り、且伊勢志摩熊野の居民の、善く海上の業務を執る者、此地を便近と為すに由る、南朝偏安の時、北畠国司之を以て要港と為し、徳川氏沿習して之に依る、近時船制大に変じ、之を往時に比するに洪卑霄壌の差あり、故に海港の形勢価値亦一変したり。
神都誌云、大湊町は宮川汐合其他数派の朝宗する海口なり、故に古書にも水門と記せり、其地勢東に奔り、
海中に突出して、遙かに遠江灘の衝に当り、自ら神埼北端の鎮護となれり、市街は数百の人家軒を列ね、概ね造船製鉄を以て産業とす。此港古より廻船を支配せしにより、延元四年、義良親王奥州御下向の時、五十余艘の大船を調進し、文亀元年、北条早雲の軍用を蒙り、天正元年、織田家岐阜在城の節も、亦軍船を弁じ、文禄年間、朝鮮の役にも、九鬼長門守義隆豊臣家の命を受け、此所にて軍船を造作せし事あり、其後徳川家より屡大船の準備を命じたることもあり、朝鮮分取の陣鉦陣幕及武門諸氏の文書等此の地に什蔵せるもの数点あり。○太平記云、延元三年、結城上野介入道は、東国より重ねて京都へ攻め上り、会稽の恥を雪がむとて、第八の宮の今年七歳にならせ給ふを初冠召させて、春日少将顕信を輔弼とし、結城入道道忠を衛尉として奥州へぞ下し進らせられけるが、当時陸路は皆敵強にして通り難し迚、此の勢皆伊勢大湊に集りて、船を調へ風を待ちけるに、九月十二日の宵より風やみ雲収りて、海上殊に静りたりければ、船人纜を解きて、万里の雲に帆を飛す、兵船五十余艘、宮の御座船を中に立て、遠江の天龍灘を過ぎける時、忽風波の災にかゝる云々。
 
大湊船廠《オホミナトノフナクラ》址 今大湊町の南、小林《コバヤシ》(御薗村大字)に存す、奉行邸址亦同処なり、奉行は山田奉行と称し、慶長年中徳川氏之を置く、其政務を取りし公(まだれ+解)は、当時の奉行の便宜によりて、所々に移転せしが、寛永十八年、石川大隅守在任の時、この所に奉行屋舗を設置したり、爾来明治維新の際に至るまで、数代の交替あり、其舟倉には常に航海を準備し、御用船孔雀丸虎丸等数艘を蔵し、水主七十余人附属したりき、此の蔵も宮川の西岸有瀧にありしを、寛永十一年こゝに移せり、享保六年孔雀丸を解きまた安政二年諸船の朽破の由を徳川家に申告し、同四年に至り虎丸以下を解きつ、是に至りて終に廃れたり、蓋虎丸は文禄慶長の頃、長曽我部元親より豊臣家に献ぜしものなりといふ、毎年正月某日船おろしの式あり、時の奉行諸司を率ゐて乗船し、水主数名船頭に立ち款乃を唱へて祝賀したり、又大湊町の東洲崎に貯木場あり、造宮造船に備ふ、享保五年、山田の奉行保科丹後守の築く所、当時一千金を費したり、世に伊勢船と云は、艫の形を高く発き挙げて造る者を指す、又諸国の海船は往時多くは大湊に於て修造しければ、之をも伊勢船と曰ひ、一の諺とはなれる也。〔神都名勝誌五鈴遺響〕
補【伊勢船】〇五鈴遺響 艫の形を高く発き挙て造る、伊勢造りと称す、是一種のものなり、猶諸州海船多く度会郡大湊にして修造せり、故に古今混じて謂ふ処なり。
 
神社《カミヤシロ》 大湊の南数町、山田河崎より一渠を通じて港泊あり、大湊の支湾なり、近年神都の海運は専ら此地に由る、旧名|大口《オホクチ》と曰へり、港は東西九十間南北四百五十間、浅水なれば入船は皆大港の沖に碇泊し、端舟にて運搬の便を執れり、日々定期汽船を発し、紀伊の熊野の浦々、志摩の鳥羽、三河の豊橋尾張の武豊熱田当国の桑名四日市等の諸港に往来す、岸上市烟錯落、酒楼旅館劇場あり、春夏の候は遠近の参官(マヽ)人輻輳して頻繁昌す、神社町と曰ふ、山田を去る一里。〔神都名勝誌〕
補【神社港】○神都名勝誌 此地勢田川の注ぐ所なり、古は水曲郷大口と称す、港内東西九十間南北四百五十間あり、水底土砂ふかし。
 
水戸御食《ミトミケツ》神社 神社町に鎮坐す、此神は延喜式外宮所摂十六座の一にして、延暦儀式帳に拠れば速秋津彦命を曰ふ、即海舶の出入あるにより、此神を祝ひたるならん、神社の港の名も偶然に非ず、又古の大湊と云ふは今地にあらで此なるべしとも思はる。
 
小林《コバヤシ》 今|御薗《ミソノ》村に属す、大湊町の南、神社町の西なり。神鳳抄、小林御薗とありて、近代には大湊船倉を此に置かる。神都誌云、大湊と小林の間に、大塩屋御薗と云地ありしが、明応七年八月廿五日、地震海嘯の為めに、人家百八十挙りて流失す。
補【小林】○神都名勝誌 長屋の東北にあり、御園村に属す、神鳳抄に小林御薗といふ。奉行屋舗址、同村にあり、船蔵址、同村にあり。○大塩屋御薗 大湊町より小林に至る間にありきといふ、古文書に長屋御厨内とあり、両宮御料の御塩を調進せし所なり、人家百八十軒余ある一村落なりしが、明応七年八月廿五日の大地震の時海嘯の為に流失す。
 
高向《タカムコ・タカブク》郷 和名抄、度会郡高田郷。○原書高田とあるは高向《タカブク》の謬なり、神鳳抄「度会郡高向郷」今御薗村に大字高向あり此なり、山田の北十町、東北は箕曲郷に至り、西は宮川に至る。
高向の宇須乃《ウスノ》野神社は延暦儀式帳延喜式に列し、外宮の所摂なり、相殿に県《アガタ》神社あり、類聚神祇本源并に長徳検録に県神社高向に鎮坐とあり、此か。〔神都誌〕按に河崎の橘神社は、橘氏の由緒神なりと云へば、此杜は橘氏の母県犬養宿禰三千代の産土にあらずや、梅宮旧記(山州名跡志神祇志料所引)梅宮、天平宝字中祭大若子社、伊勢度会神主遠祖、加夫良居命也、小若子同大若子弟也。色葉字類砂、引橘氏譜牒云、橘諸兄母県大養祭之。
 
伊蘇《イソ》郷 和名抄、度会郡伊蘇郷、訓以曽。○今|豊浜《トヨハマ》村|北浜《キタハマ》村是なり、豊浜に大字磯あり、宮川の西岸、北は海、西は多気郡に至る、南は小俣村に接す。延喜式、度会郡磯神社、又延暦儀式帳「難波朝廷、度会山田原立屯倉、新家連阿久多督領、磯連牟良助督助仕奉」
補【伊蘇郷】度会郡○和名抄郡郷考 神名式、磯神社。年中行事、伊蘇御厨。司中公文抄、伊蘇郷内小川村。神鳳抄、度会郡伊蘇郷。
大若子《オホワクゴ》命墓 磯村の袴田《ハカマダ》と字する地に古墳あり、面積一百二十歩、土俗若子三味と呼ぶ、即大若子命の墓也、大若子は一名大幡主と曰ひ、倭姫命に随従し、大神宮鎮座の際に忠勤し、伊勢国造兼大神主と定めらる、事古典に散見す、天日別命の裔にして、度会神主の祖なり、後世神都の諺に袴田衆大薮衆と曰ふは、其族党なり。○按に延喜式度会郡磯神社又機上神社あり、磯部姓は和銅四年度会神主と改め、其氏人の神宮に奉事したる事は、続日本紀延暦儀式帳等に歴然たり、又倭姫命世記に「従飯野高宮、遷幸宇伊蘇《イソ》宮、大若子命玉拾伊蘇国と申して御塩浜定奉」とあるも此也、或は伊勢は磯の転訛とも説けり。○甲陽軍鑑、石水寺物語に「延尉義経の妾白拍子静の母は伊勢磯村の人なりければ、磯禅師と呼ばれたる」由載す、古の歌舞の堪能は多く寺社の伶人巫女に在りければ、磯禅師と云も其類なるべし。
 
美曽箇瀬《ミソカセ》 宮川の末なりと云ふ、磯村の辺ならん、宮川は磯村の東より分裂し、数派と為り大湊有瀧の間に於て海に入る、洲堆沙嶼紛雜す。○長明伊勢記云、宮川の末渡るに、水上り流るゝ様に見ゆるを、爰はいづくとか云何とて水はのほるぞと云へば、或人塩のさきとて水の逆上るなり、こゝはみそか瀬となん申と云をきゝて、
 さかしほはみそかせまぜて指しのばる洲を過ぎゆきて人に間はゞや。
 
有瀧《アリタキ》 今北浜村に属す、神鳳抄、有瀧御薗と見え、宮川の一支其側にて海に入る、徳川氏の初世には、山田奉行所轄大湊の船倉此に在りきと云ふ。
 
村松《ムラマツ》 今北浜村と改む、豊浜村の北、西は多気郡大淀村に接す、神鳳抄、度会郡村松御厨。
 蝉の貝の声かときけば村松の岸うつなみのひゞきなりけり、〔夫木集〕         斎宮越前
村松の西大字|柏《カシハ》に延喜式、多気那加須夜神社あり、神鳳抄糟屋御薗とある地にて、何の世にや度会郡に入る、明星野の北部なり。
 
駅家《ウマヤ》郷 和名抄、度会郡駅家郷。○小俣《ヲバタ》村|城田《キタ》村(上地)に当るべし、湯田郷の駅家なり、古の宇羽西村も此に在り、日本後紀弘仁八年、及び延喜式に度会郡駅家と云は亦同じ、近世には城田郷に并せられて外城田《トキタ》と曰へり。補【駅家郷】度会郡○神都名勝誌 在地詳ならず、多気郡竹川村の辺より度会郡湯田郷離宮院に至るまでの間にて、駅舎の立ち並べる地を唱へしならむか。
 
小俣《ヲバタ・ヲマタ》 宮川の西岸に在り、山田町と一橋を隔つ、参宮鉄道の宮川駅は此に置かる、此村は神鳳抄小俣御厨東鑑文治三年伊勢国|小倭田《ヲマタ》荘と云者ならん、文政年中、北郊湯田野を開墾し今|明野《アケノ》と呼び農園あり。
延喜式、度会郡小俣神社、今此村に遺る、外宮の摂社と為す、又板田橋と云歌枕の名所あり、(三重郡に大治田あり、彼所を実とす)をばたゞの板田と云ふは続後拾遺集にも見え、本万葉集なる「小墾田《ヲハリダ》の坂田《サカタ》の橋」を誤りたる者にて、玉葉集は更に小俣をば之に引附て読みたる也と云ふ。
 
宇波西《ウハシ》 今|城田《キタ》村是なり、神宮雜例集に「延暦十六年、湯田郷宇波西村へ、沼木郷高河原離宮
院を移立すと云」者にして、後世|上地《ウハチ》と訛る、院址は上地の北、小俣駅の南に存す。
補【宇羽西】○神都名勝誌 湯田郷小俣村上地是也、離宮院址此に存す、今参宮鉄道宮川停車場の地是也、度会元長の参詣記に当時猶築垣溝渠荒廃せるもの、名残を留めたる由記載す。
 
離宮院司庁《リクウヰンノシチヤウ》址 今参宮鉄道宮川停車場の辺是なり、延暦十四年、大神宮司奏請して、御厨離宮及び諸宿舎破損且水患あるを以て、遷替の勅許を得、十六年、大中臣豊庭沼木郷旧院を壊ち、之を湯田郷宇波西村に建つ、御厨即神宮司庁にして、斎王の別殿在り、故に離宮院と称したり。官舎神社〔延喜式〕構内に在り、即荒木田神主の祖神にして、中臣神社とも云ふ、後世此社庁院の亡滅と共に一時廃絶せしが、荒木田清長再興し、今院址に小祠を見るのみ。○神都名勝誌云、神宮御厨は庁院と称せり、神三郡并に六所神戸の政務を行ひ、其の調庸を納むる所なり故に司庁調御倉宿館官舎等数棟ありき、三代格に正倉官舎卅一字を修理すべきよしの官符見ゆ、中世廃絶、元長参詣記に当時庁院の坦溝など尚其なごりをのこせる由を載たり、又大神宮司政印は、天平十一年、神祇官の上奏に因り鋳造の事、続紀に見え、宝亀三年、宮司宿館(沼木郷)焼亡の時災に罹り、斉衡二年、再鋳して下さる、印笥に「太神宮司正印笥、元彫木也、而大宮司公忠長徳四年五月廿日鋳改於銅」と銘す、荒木田神主の家に伝来して、今に神宮司庁に蔵すと云。
補【神宮政印】○神都名勝誌 皇大神宮政印は天武天皇の白鳳年間、禰宜荒木田神主|石門《イハカド》の解状に依りて神祇官より上奏し、宣旨賜はりて政印を鋳下せらる、これ皇大神宮政印の始なり、其の後承暦三年外院の焼亡せし時此の印章も火災に罹り、原形に摸して再鋳造し銅笥銅尺と共に之を寄進せられたり、今猶宝殿に納む、明治廿七年まで八百十六年を経たり
豊受宮政印は貞観五年禰宜度会神主真水の解状に依りて神祇官より上奏し、内宮政印の例に准いて鋳下せられたるものなり、明治廿七年まで千三十年を経たり、印笥は元は木製なりしなるべし、今存せるは銅製なり、側面に宣旨奉造、承徳二年戊寅十二月廿六日庚子の十八字を彫たり、本年まで七百九十七年を経たり、今猶政印と共に宝殿に納む、
大神宮司政印は天平十一年神祇官の上奏によりて、始めて之を鋳下せらる、然るに宝亀三年大神宮司の宿館焼亡せし時、其災に罹れり、斉衡二年原形に摸し再鋳下せられたり、今存せるは即是なり、明治廿七年まで千三十七年を経たり、印笥は元木製なりしを長徳四年銅笥に改め、其側面に大神宮司正印笥元彫木也、而るに大司|公忠《キンタダ》長徳四年五月廿日鋳改於銅の廿八字を彫たり、本年まで八百九十五年を経たり。
 
湯田《ユタ》郷 和名抄、度会郡湯田郷。○今|有田《ウタ》村と曰ふ、旧は宇羽西小俣駅をも包有したる郷名なれど、中世以降は其西部に制限せらる、大字湯田に延喜式|湯田《ユタ》神社あり、内宮所摂廿四座之一なり。○明野を湯田野とも云ふ、里は其南に在り、湯田とは斎田の義なり。〔和訓栞行嚢抄〕
 竹川や湯田野を見ればはる/”\と山田のはらの松はくもれり、〔歌枕名寄〕      長明
本郷の北は多気郡有弐郷(明星村)に接し、西南は田辺《タノベ》郷田丸町に至る、参宮図会云「湯田野の東、離宮院の旧地に千引《チビキ》石と云者あり」と、或は廃礎などにや。
 君がため湯田野をわけてひろひつる千引のいしに誰かあふべき、〔家集〕       俊頼
補【湯田郷】○神祇志料 延暦十四〔六の誤り〕年、伊勢大神宮司奏さく、神宮の御厨離宮及諸司の宿舎は宝亀中改造ありしより既に廿六年を経て、皆悉く破損ね、加之河水暴漲の患あるを以て修理を加ふれども、其金を得難し、請ふ神部課丁を役して他処に遷し建む、故に其功食を充給へと申すと(園太暦延文二年十二月九日)勅して請に従ひ、遣宮使大中臣豊庭を遣し、度会郡沼木郷高川原の離宮を壞て、之を湯田郷宇羽西村に移し立しむ(園太暦・神宮雉例集)○今|有田《ウタ》村大字湯田。
 
田部《タノベ》郷 和名抄、度会郡田部郷、訓多乃倍。○今|田丸《タマル》町及東外城田村西外城田村是なり、