(428)     河内国
 
河内《カフチ・カハチ》国 疆域東は大和西は摂津和泉南は紀伊北は山城に至り、東西凡四里南北凡十三里、峰巒東南を擁し淀川西北に繞り大和川其中央を貫き、土壌膏沃なり、北河内中河内両郡は水の利害最も厚し、築堤疏流の工役古来屡之あり、地形の変革亦多し。〇延喜式、和名抄、河内国、訓加不知、十四郡なり、後世|丹比《タチヒ》郡を丹南丹北に分ち、又丹北より八上《ヤカミ》を分つ、故に拾芥抄十五郡と為し、正保図十六郡と為す。近代は二十六万国の封国と称せり。明治廿九年諸郡を廃し南河内中河内北河内の三を更置す、面積四十三万里人口三十万、大阪府の管治に帰す。〇河内は修辞して河州《カシウ》又内州と曰ふ。
河内古|凡《オホシ》川内と称し国造あり、其本居蓋今中河内の地なり。古事記云、天津日子根命者、凡川内国造之祖也。日本紀云、天津彦根命、凡河内直祖也。国造本紀云、磐余尊(神武)以彦己蘇根命、為凡河内国造、即凡河内忌寸祖。又云、橿原朝、以彦己曾保理命、為凡河内国造。〇安閑記に大河内《オホシカフチ》に作り、欽明紀に加不至と注せる所あり。通証云、凡河内也、以皇都在和州、而大河繞州西北、故名、古事記伝云、河内は倭名抄加不知とあり、加渡宇知の波宇を切めたる也、今加波知と云は訛也。按に凡河内とは凡字に大小対比の義あるにや、又凡とは恩智《オンチ》と同語にして地名を冠らせし称号にや、詳ならず。二説凡とは押し統ぶる義にて、河内の諸部の統領を凡河内と呼ぶ即氏号なりと。〇国郡沿革考云、国郡制度始定の時、茅渟《チヌ》県を河内に併せらる、元正天皇の時三郡(即茅渟県の地)を割て和泉監を置く、神護景雲三年由義別宮を都と為し図を改め職と為されしが、幾もなく旧に復す。続日本紀、称徳天皇神護景雲三年十月詔、以由義宮(志紀郡)為西京、河内国為河内職。光仁天皇宝亀元年八月、河内職復為河内国。
河内|綿布《モメン》は世上其名あり、然れども是れ草綿耕織以来の事なれば、其盛輿は近世の事なるべし。古は此国染織を以て著る、万葉集に河内女《カハチメ》の称出て、女巧の起る其久きを徴すべし。延喜式云、中宮御服※[糸+兼]六百疋料、白糸一千五百※[糸+句]色糸三百※[糸+句]、右年料、附河内国、依件雇織、其庸功者、用商布一千八百段充給。
 河内女の手染の糸をくりかへし片糸にあれど絶むと念へや 〔万葉集〕
補【河内木綿】〇地誌提要 〇白木綿、俗に河内木綿と称す、茨田、若江、高安、錦部四郡諸村より出づ、〇三宅縞木綿、丹北郡三宅村より出づ、凡そ当国は東南高く西北低し、万水南より西北に流る、故に土人南を上といひ、北を下と云ふ、風俗素樸淳厚にして奢麗を好まず、稼穡を力め尚古の凰を有す、婦は綿布を織て恒産とす、是を世に河内木綿と云ふ、縞を則ち河内縞と云ふ、地性頗る強し、所謂上地の名物なり。
補【椎名紬】〇社会事彙 貞丈雑記云、しゐな紬といふ物は椎名といふ所より出づる紬なり、椎名は河内国にあるか。〔未詳〕
 
     北河内郡
 
北河内郡 明治廿九年|讃良《ササラ》茨田《マツタ》交野《カタノ》の三郡を合同して北河内郡と為す、凡三十一村二町(枚方守口)郡衙は枚方に在り。東南は洞峠龍王山飯盛山等(男山より生駒山に連接)一帯の高地にして、山背は山城大和なり。西北淀河を以て摂津三島郡に界し、樟葉より守口まで凡六里沿水の地卑湿を免れず。其西部(旧茨田郡)は往時山城川大和川交衝の点にあたり、※[さんずい+于]沢渺々として大坂城の東を繞りぬ、近世治水の功わづかに旧態を変ずと雖、歳時汎濫の患あり。南は中河内郡に接す。〇本郡は古へ茨田《マムタ》の地なり、中世三郡に分れ、今復一に帰す。大坂洪水志云、淀河の水利は摂河二州の安危に係る、昔貞享年中、徳川幕府修治の策を施し、滞を導き阻を鑿つ、而も後世仍水患を免れず、享和二年六月、点野(今牧野村)の堤防を決し、茨田讃良若江の諸郡、汎濫して海を生ず、枚方以西の河身は為に涸れ、運漕の舟は潰水の上を走れり、其歳十一月始めて復旧したりと、明治十八年六月、淫雨止まず、十七日淀河暴漲し、枚方伊加賀堤を決潰し、奔流滔々として讃良を過ぎ忽ち摂州東成郡に入る、寝屋川の堤防其激衝に当り、吏民奔走東成郡野村の堤を截り、潰水を本流に複せしむ、二十日の午後に至り湛水稍減するを見る、下旬に至り雨尚止まず、伊加賀の決所築塞功に垂んとして、二十八日更に大破す、寝屋川の拒障も潰水に没し、濁浪渺茫、中河内《ナカヽハチ》の諸郡村を呑み、東成西成皆波底と為る、七月二日、大坂市街は三十余橋一時に没落し、街上の水深屋に達す、又淀河右岸も島上郡に決潰し、鉄道線以南の村落浸水に会ふ、当時河源の琵琶湖に於て六尺五寸の増量、大坂に於て十一尺八分の増量を見たりき。
 
(429)交野《カタノ》郡 明治廿九年廃して北河内郡に入る、河内国の最北に居れり、延喜式、交野郡訓加多乃とあり(交は交迭の字義に仮る迭古訓カタミ)或は肩野に作る〔日本書紀姓氏録〕和名抄、六郷、後世岡本郷は茨田郡に属したる事あり、国郡考云、交野郡は茨田の分地なるべし、和名抄交野郡三宅郷は古の茨田屯倉なれば也と。〇姓氏録云、物部肩野連、伊香色乎命之後也。(旧事紀云、伊香色雄命子多弁宿禰命者、交野連等祖、磯城瑞籬宮御宇天皇御世為宿禰供奉)、伊香《イカ》郷は即今枚方町の中なれば物部氏の祖此地より中興したるを知るべし。日本書紀、欽明天皇々女に肩野王あり。〇続日本紀「桓武天皇延暦二年、行幸交野、放鷹遊猟」とありて爾後此地は禁野と為る、山田岡本田宮三郷に跨る者の如し、後世|牧野《マキノ》と称し、今牧野村大字|禁野《キンヤ》の名存す。
 
葛葉《クスハ》郷 和名抄、交野郡葛葉郷、訓久須波。〇今|樟葉《クスハ》村是なり、山城八幡町|橋本《ハシモト》の水駅と相接す、古は此地江亭にして対岸山碕と相比したり、又継体天皇此地に践祚したまへり。久須婆《クスバ》渡〇樟葉の渡は淀川にして、西岸|高浜《タカハマ》(三島郡島本村)に至るべし、古は須を清み婆を濁る、今は之に反し久受波と云ふ。古事記水垣宮(崇神)段云、「日子国夫玖命、射死建波邇安王、追迫其逃軍、到久須婆之度時、皆被迫窘、而屎出懸於褌、故号其地謂|屎褌《クソハカマ》、今謂久須婆、又遮其逃軍以斬者、如鵜浮於河、故号其河、謂鵜河也」と、この鵜河と云ふも此辺の古名なるべし。又穴穂宮(安康)段云、市辺王之王子、意富祁王袁祁王、逃到山代苅羽井、渡玖須婆之河、至針間国。樟葉宮《クスハノミヤ》址〇日本書紀、継体天皇元年、天皇従越国行至樟者宮、大伴金村連乃跪、上天子鏡剣璽符。〇按ずるに樟葉は一時の行宮なり、今宮址を伝へず。
 くもらじな真すみのかゝみ影添る樟葉の宮のはるの夜の月、〔続古今集〕      関白前左大臣
楠葉《クスハ》駅(又関)〇続日本紀、和鋼四年、始立都亨駅、河内国交野郡楠葉駅。延喜式、河内国駅、楠葉、槻本、津積、各七疋。〇太平記に「建武元年関所壟断の利に依て、商賈往来の弊、年貢運送の煩ありとて大津葛葉の外は所々の新関を止めらる」と録し、其後北朝光明院より葛葉関銭を伊勢円成法師に賜らんとせしが、之より前に東大寺に附与したるを以て果さず、(諸書摂津葛葉とあるは皆河内の誤なり)近世に及び葛葉関廃し、橋本|枚方《ヒラカタ》に監船所を置きたり。
【葛葉郷】交野郡○葛葉、久須波、風土記、葛葉郷、出松柏脩竹良材柴薪等、土地中、農民用不少、公穀百三十丸、仮粟七十二丸。継体紀元年春正月、天皇行至樟葉宮。古事記、師木水垣宮条、追迫其逃軍到久須葉渡之時、皆被迫窘而屎出懸於褌、故号其地謂屎褌、今謂久須婆。続紀和鋼四年春正月、始置郡亭駅、河内国交野郡楠葉駅。兵部式、河内国駅楠葉、槻本、津積各七疋。長門本平家物語、よどのわたり草津〈すはの渡、さんやかたの山、心ぼそくぞましましける。太平記、壟断の利に依て商賈往来の弊、年貢運送の煩ありとて、大津葛棄の外は悉く所々の新開を止めらる。節用集、葛葉宮。類聚雑要抄、河内国葛葉御園。河内鑑、楠葉里、交野郡。〔続台今集、略〕諸州巡覧記、葛葉の里に入る、俗にいふ葛葉道心が庵のあとあり、葛葉より八幡山にのぼる、其間に金川有、橋を金橋といふ、河内山城の境なり。
〇人名辞書 北朝の時、僧円城と云ふものあり、伊勢大神宮に謁して宝剣を獲たりと称し、之を光明院に進む、事極めて妄誕なり、然れども院大に喜び、賞するに摂津葛葉の関税を以てす、内大臣経顕諫めて曰く、宝剣海に堙する今に百六十余年、其出づるは当に治世に在るべく、何ぞ攘乱の時に於てせん、且つ葛葉関税は東大寺に賜ふこと日久し、今に故なくして之を奪はば僧徒必ず怨を生じて訴へん、請ふ速に先旨を追ひ、東大寺に還与して旧の如くせんことを、光明院之に従ひ、遂に之を遣り還す。
 
舟橋《フナバシ》 樟葉村大字舟橋は本村の南に在り一池を隔つ、(池南北十町東西広狭不一)舟橋川は氷室村大字尊延寺甘南備山より発源し二里許にして淀川へ入る。
 これや此そらにはあらず天の川交野へゆけばわたる舟橋、〔名寄〕    
洞峠《ホラガタウゲ》 樟葉村の東南、招提《セウダイ》村の東に在り。山城|男《ヲトコ》山の南尾にして山河二州の交界とす、古より兵家視望の要害なり。〇太平記云、正平七年、足利義詮宇治路を廻りて木津河を打ち渡り洞峠に陣を取らんとす、是は河内東条の通路を塞ぎて八幡の敵を兵粮に攻めむためなり、八幡より此へは和田五郎、楠次郎左衛門等を向られけるが、楠は今年二十三和田は十六何れも皆若武者なれば、思慮なき合戦をや致さんずらんと危み思はれけるに、皆|荒坂山《アラサカヤマ》へ打ち向けて爰を支へんと控へたり。〇荒坂は男山の南、洞時の北なるべし。(山城国綴喜郡洞嶺重出)
 
山田《ヤマダ》郷 和名抄、交野郡、山田郷。〇今|山田《ヤマダ》村存す、山田池は大字|田口《田口》に属す、山田郷は山田村招提村牧野村にあたる。姓氏録、「河内諸蕃、山田宿禰、魏司空昶之後也」とあるは此か、南河内にも山田村あり、孰れにあたる。
 
田口《タグチ》 田口は橘清友夫人の故里也、仁明天皇即位の時(天長十年)外祖母田口氏に正一位を贈り、交野郡|小山墓《ヲヤマハカ》に守家二戸を置かるゝ事、続日本(430)後紀に見ゆ。〇小山墓は今詳ならず、田口の南十町許に一荒塚あり、上に木を生じ傍に壕存す此なるべし、大字中宮の東五町也、近傍土饅頭多し。
 
中宮《ナカミヤ》 山田村の大字にして田口の西南に接す、牧野村と同一丘上に居る。名所図会云、中宮百済王霊社今存す、古は伽藍ありしが後廃して礎を遺すのみ、伝へ曰ふ桓武帝交野遊猟の行宮にして、百済王氏の宅なり、其族多く此に居す、又檀林太后の叔父橘浄野(清友同胞)隠居の址あり。〇中宮の北十二町を渚宮と云ひ西六町を禁野《キンヤ》と云ひ西南十二町を田宮と云ひ東南十町を池宮《イケノミヤ》と云ひ、古墳冢諸所に散在す、百済王氏の遺墟、歴代遊幸の佳躅、此間に外ならず。〇日本逸史、延暦十二年、銭三十万及長門阿波両国稲各一千束、特施入河内国交野郡百済寺。
 
交野離宮《カタノリキユウ》址 中宮百済社即是なるべし、延喜六年「藤原継縄妻百済氏、賜正四位、百済明信、賜従三位。又行幸交野、放鷹渉猟、以継繩別業、為行宮」と続日本紀に見ゆ。
   過交野離宮感旧作          弘仁帝
 追想昔時過旧舘、悽涼涙下忽霑襟、廃村已見人煙断、荒院唯聞鳥雀吟、荊棘不知歌舞処、※[草がんむり/辟]蘿独向恋情深、看花故事誰能語、空望浮雲転傷心。〔凌雲集〕
百済王氏の平城平安両朝の交に当り盛大なりし状は史冊に明也。西州投化記云、舒明帝三年、百済王義慈遣其子豊璋王及禅広王為質。白雉元年、左右大臣率百官賀※[草がんむり/獲]瑞、百済君豊璋其弟塞城忠勝等預之。〔日本紀続日本紀、按塞城蓋与禅広同人也〕斉明帝時、義慈王兵敗降唐、其臣佐平福信請迎豊璋紹興絶統、於是送豊璋妻子其叔父忠勝等、豊璋纂基、唐兵復攻之、豊璋遁于高麗、禅広因不帰国。天智帝三年、以善光王等居于難波、元明帝賜号曰百済王。〔日本紀続日本紀姓氏録、按善光即禅広〕善光子昌成為摂津亮、天武帝三年卒。〔姓氏録日本紀〕昌成子郎虞、天武帝崩郎虞代善光而誄之。〔日本紀続日本紀〕郎虞第三子敬福、叙従三位為刑部卿。〔続日本紀姓氏録〕〇按に従四位鎮守将軍百済俊哲、同百済教俊等は蓋敬福の一族なり、桓武の朗に仕ふ、俊哲の女貴命、教俊の女慶金並に嵯峨帝の女御たり、又桓武帝の諸妃に百済教法教仁貞香の三女あり、続紀に拠れば延暦九年百済王玄鏡百済王仁貞百済王鏡仁に授位せられ、詔して云「百済王等、朕外戚也、今所以擢一両人、加爵位」と、即諸妃の族人に寵命ありしを見るべし。姓氏録に「右京蕃別、百済王、百済国義慈王之後也」と載せたるも此王氏にて、当時難波又は河内の貫籍にあらずして京戸と為れるを見る。
 
片野《カタノ》 片野の原は今山田村牧野村|川越《カハコエ》村枚方町等にわたる。天之川|穂谷《ホタニ》川舟橋川の三水其間を並行して淀川に注ぐ、卑低の丘陵淀川に添ひ起伏す、即古の遊猟地なり、鳥立原《トダチノハラ》百重原渚岡原等の称あり。
  御狩すととだちの原をあさりつゝ片野の野辺に今日もくらしつ、〔新古今集〕    入道前関白
  交野なる百重が原をつかの間も恋ずやあらん花のみやこに、〔未木集〕       長明
補【交野】太平記、落花の雪に踏迷ふ、片野の春の桜がり、紅葉の錦を衣て帰る、嵐の山の秋の暮、一夜を明す程だにも、旅寝となれば懶きに云々。〇人名辞書藤原継繩は右大臣豊成の第二子たり、宝亀中征夷大使となり、陸奥に出征す、延暦二年大納言を拝し、六年車駕高碕津に幸し、還て其第を過ぎり、妻百済氏に正四位上、百済明信に従三位を賜ふ、又交野に猟し、其の別業を以て行宮と為す、爾後屡々幸す、九年右大臣となる、十三年車駕新京を巡覧して其の高碕第に還幸し、宴欽歓を極む、尋で正二位に叙せらる、十五年薨ず、年七十、桃園右大臣と称す、継繩文武の清班を歴端、右の重任に居り、謙恭自ら守る故を以て世議を免るゝを得たり、嘗て詔を奉じて宝字より宝亀に至る国史を刪定す。子を乙叡と云ふ(大日本史)
 
天之川《アマノカハ》 牧野《マキノ》村大字|禁野《キンヤ》の一名にして、同名の水其傍を週ぐ、古より多く詠歌に著る。〇伊勢物語云、交野御幸の時、御ともなる人酒をもたせて野より出来り、飲てんとて好き処をもとめ行に、天之川と云所に至りぬ、皇子(惟喬)右馬頭(業平)おほみきまゐる、彼右馬頭よみて奉りける
  狩りくらしたなばたつめに宿からんあまの川原に我は来にけり。
 山家集云、天王寺へ参りけるに、片野原と申わたり過て、見はるかされたる所の侍けるを、天の河と申すときく。
補【天河】〇散木奇歌集 河内守経国かのくにに面白所有と申ければ、帥殿忍びておはしけるに、あまの河といふ所にて、ざい中将の七夕つめにとよめる所なりとて、舟をとゞめて河のほとりにおりゐてあそばせ給けるに、かはらけとりて、おのおの歌よませ給ひけるによめる、
 千鳥なくあまの河辺にたつ霧は雲こ〔と〕ぞみゆる秋の夕ぐれ
 
渚《ナギサ》 牧野村大字渚は古の渚宮(又渚院)の地なり。名所図会云、渚院は今観音堂と為す、堂前に五本桜とて枯朽して僅に存せり、歌に渚森と詠ず。
 
渚院《ナギサノヰン》址 伊勢物語云、昔惟喬のみこと申皇子、右馬頭なりける人(在原業平)を常に将ておはしけり、今狩する交野のなぎさの家、其院の桜ことにおもしろし、其木の下におり居て枝を折てかぎしにさ(431)して右馬頭のよみける、
 世の中に絶てさくらのなかりせば春のこゝろはのどけからまし。
   任はてゝ登りける道にて、なぎさの院の梅花を見てよみ侍りける、
 君恋て世をふる宿の梅の花むかしの香にぞなほにほひける、〔土佐日記〕       紀貫之
 よもすがらおきの鈴鴨はぶりしてなぎさの宮にきねつゞみうつ、〔名寄〕       仲忠
 
片野《カタノ》神社 今牧村大字坂に在り、一之宮牛頭天王と称す、蓋桓武天皇天神を祀りたまへる遺祠なり、延喜式に列す。河内志に郊祀壇址を片鉾(今山田村に属す)に在りと為せど、確拠なし。〇続日本紀云、延暦四年十一月壬寅、祀天神於交野柏原、賽宿祷也。六年十一月甲寅、祀天神於交野、(以高紹天皇(即光仁)配享)、其祭文曰、遣大納言藤棟継繩、敢昭告于昊天上帝云々、高昭天皇配神為主、尚饗。文徳実録云、斉衡三年十一月、同じく臭天の祭す。〇交野柏原の祭天は漢土郊祀に擬したる者なり、此地百済王氏の邑にして、桓武帝は百済氏の所出なれば其故ある事なるべし。〇久須々美神社は延喜式に列す、今牧野村大字坂の葛上《クズカミ》に在り。〔名所図会〕
 
宇山《ウヤマ》 牧野村大字宇山は大字坂の北に接す、延暦二十一年坂上田村麿蝦夷二酋を河内植山に斬ると云ふは此なるべし。大日本史云、蝦夷酋大墓公阿※[氏/一]利為盤具公母礼率部落五百余人降、役竣田村麿将二酋帰京、請放還本部以招党顆、公卿議曰、野性獣心、叛服無定、今頼朝威、※[草がんむり/獲]此梟帥、若依奏請、是所謂養虎遺患也、乃斬於河内植山。〇宇山の東一里|菅原《スガハラ》村大字藤坂に鬼《オニ》墓あり夷酋の墳か。
 
園田《ソノタ》郷 和名抄、交野郡園田郷。。今園田の名なし、津田村氷室村菅原村等にあたる者のごとし、穂谷川舟橋川の上游なり、東に甘南備山聳ゆ、田辺(綴喜郡薪荘)と嶺を以て相界す。
 
津田《ツダ》 今鉄道車駅なり、伊賀より笠置木津を経て田辺に至り当国に通ず。津田以南は星田放出を経由して大阪片町に至る、関西鉄道会社線也。
〇紀州名所図会に交野郡津田城主周防守正信の息監物算長は砲術家なりし由見ゆ、天正頃の事ならん。
穂谷《ホタニ》川は氷室村大字穂谷より出で、西北流津田菅原二村の間を経、牧野村に至り淀川に入る、長三里。
於爾墓《オニツカ》〇河内志云、王仁墓、在河内国交野郡|藤坂《フヂサカ》村東北墓谷、今称於爾墓。按ずるに此は百済博士王仁にや、又蝦夷酋を植山に斬りたれば、是其墓にあらずや。
   王仁墓、在交野郡      田中 華城
 平堤隔水一燈紅、人語梭声深樹中、行識王仁荒墓近、暗香襲玉緒と野梅風、王仁墓、今菅原村大字長尾の東南五町許、近年修治を加へ碑を建つ。
 
三宅《ミヤケ》郷 和名抄、交野郡三宅郷。〇今|交野《カウノ》村磐船村星田村田原村等なり。此地即日本書紀仁徳巻又宣化巻に茨田屯倉《マムタミヤケ》とある者とす、交野村大字|郡津《ゴウツ》は郡家の地なるべし、大字|倉治《クラチ》は倉地の謂か。古事記、高津宮(仁徳)段云、役秦人作茨田堤、及茨田三宅。日本書紀仁徳巻云、始立茨田屯倉、因定春米部、宣化巻云、遣阿蘇仍君、運河内国茨田屯倉之穀於筑紫。
 
倉治《クラチ》 今|郡津《ゴウツ》私部《キサベ》と合し交野《カウノ》村と改称す。倉治の東五町許字神宮寺に開元寺《カイゲンジ》滝あり、古祠堂其下に存す、又其北方に古墳と想はるゝ者三四所あり。神宮寺の上方三二八米突の標高あり、穂谷山《ホタニヤマ》也。
 
私部《キサベ》 此里に塞址あり。永禄年中安見直政と云人畠山高政を援て此に拠れりと。〔名所図会〕元亀年中三好松永党の拠れる交野城も此に同じかるべし。〇私部は后邑の謂にて、朝家其|皇后宮《キサキノミヤ》の為めに私邑をたてゝ其|名代《ナシロ》と為す者也、此地は何朝の名代にや。此の私部《キサベ》(交野村)の南十八町に私市《キサイチ》の大字あり、今磐船村と改む。倭訓栞云、敏達紀に私部をキサイベとよめり、今の姓氏に私市に作る、前漢書服虔が注に「私官、皇后之官」と見えたり、訓義是に同じ。姓氏録、皇別、大私部、開化天皇々子彦坐王之後也。
私部光通寺は後村上天皇勅願所、別峰和尚開基と云ふ、此辺南朝由緒の旧刹あるは其以詳ならず。
 
磐船《イハフネ》 私市《キサイチ》村近年磐船村と改む、山中処々に巨巌あり、磐船と号す、故に此名あり。中にも私市の南二十町田原村に至る山中に天磐船《アマノイハフネ》と号する者あり。〇浸遊文草云、※[さんずい+回]天河南入山、可一里、逕路狭隘、左右皆石壁、壁下皆巨石、其尤者曰岩船、高二丈余、延袤不甚殺、其上可列十数人矣、望之兀然如廈屋、而截澗水、水流在下、故有船名耳、不必相似也。
補【岩船山】〇漫遊文草〔前文、略〕故有船名耳、不必相似也、獅子窟距此一里有余、有寺、相伝、役小角草創焉〔後文、略〕
 
獅子窟寺《シシクツジ・シシノイハヤ》 私市《キサイチ》の東十町許山中に在り、普賢山と号す、古の貴刹なり、開基未詳、亀山、後亀山両皇の分骨塔あり、如何なる由緒にや。〇陵墓一隅抄云、後亀山院、交野|百重原《モモヘハラ》陵、在私市村獅子窟山寺。〇漫遊文草云、御子窟寺、相伝役小角草創焉、今寺寛文年中大坂豪民無極者所建也、窟在寺側、巨石相籍、自然作獅吼之勢、其口可客十数人矣
   静仁法親王(土御門天皇々子)師子岩屋に籠り侍けるを送りにまかりて帰るとてよみ侍りける
(432) よもすがら分つる路の露よりもおもひおくにぞ袖はぬれける、〔新後接集〕     僧正教範
   同返し
 立かへり山路もふかき白つゆのおくるゝ袖はぬれまさりけり、〔同上〕       静仁法親王
貝原氏諸州巡云、獅子窟寺は私市の巽にて、麓より十二町にあり、本堂西に向へり、其一段高き処に大磐の窟あり、亀山院の御陵は窟の上にて、遺勅に依て此所に葬奉る、其境すぐれたる霊地にして、石階二重、仏堂も美麗なり、凡山中に大石奇石多く又糸桜多し、山上より大坂尼崎を眺望す、天の川眼下に流る最佳観なり、是より岩船へゆくには、寺を下り天の川を東に上ること三十町とす。〇神州奇苑云、亀山院御不予の時、獅子窟寺の法師に祈を仰附られ、当山に臨幸ありて忽平癒し給ふ、即伽藍再興、又遺勅によりて当山に葬奉る、今に御陵儼然たり、寺宇は其後廃壊したるを、寛永中光影律師重興。
   獅子窟寺           藤本 田居
 十里松林路欲迷、金輿跡断暮鳥啼、当年獅子裔楢在、落日風釆碧海西、
 
龍王山《リユウワウサン》 磐船村大字|榜示《バウジ》の上方を云ふ、標高三五〇米突、交野諸山の最なり、龍王祠あり。東麓は生駒郡北倭村大字榜示にして、富小川《トミノヲガハ》の源此に出づ。
 
田原《タハラ》 田原村は磐船村の南にして、山岳四周し澗水一東北に向て潰決す、即|天之川《アマノガハ》なり。東寺文書、安貞二年河内国田原荘と云は此なり。
 
哮峰《タケルガミネ》 旧事紀云、饒速日尊、禀天神、東天磐船、而天降河内何凶河上哮峰。〇按ずるに哮峰は生駒山とも、獅子窟寺とも、龍王山とも擬定一ならず、共に天之川の川上なり。
 
天之川《アマノガハ》 田原村|生駒《イコマ》山中より発源し北流、私市に至り西北流、牧野村枚方町の間に至り淀川に会す一反三里半。〇名所図会云、天川は星森《ホシノモリ》より出で磐船谷《イハフネタニ》を経、幽溪風色奇絶なり、曾丹集曰、昔仙女あり、此溪水に浴し逍遥し、其羽衣を少年に匿さる、女因て留まり少年と夫婦となり、年経て天に帰る、故に天川と号す。〇牧野村大字禁野一名天之川と曰ふ、水畔に居れば也、上に別目あり。
 
星田《ホシダ》 星田村は天之川の西に在り、三宅山|星田《ホシダ》寺あり即古の茨田屯倉の遺号なるべし。〇元和元年大坂役の時、徳川家康五月五日京都を発し深夜星田に至り、諸将を会議し明朝の開戦を号令し、六日枚岡に進営したり。此地山野平遠大軍を容るべし、澗水の西に注ぐものは寝屋川《ネヤガハ》となり大坂に向ふ。今鉄道車駅なり。
補【星田】〇史料叢誌 河内国交野郡星田村小松明神々庫納むる所なり、巻末に寛永二年六月吉祥日清書とあり、
   目録
 あやはた踊、ばゝんど踊、花見踊、うぐひす踊、ささみ踊、雪かき踊、鵜つかひ踊、あきなひ踊、恋の踊、やかた踊、お寺踊、新田踊、お色踊、うはなり踊、具足踊、山ぶし踊、以上十六番
    あやはた踊
 一、ヒヤ鎌倉の御所の御前でけさ巻上げたる綾の機巻きも巻いたり上げも上げたが汗がこぼれて織られぬ織られぬ
 一、京では一条柳やが娘しらたびはいて綾おるすがたいとしはないか若い衆たちいとしはないか若い衆たち
 
妙見山《メウケンヤマ》 星田の南なる岡巒なり妙見菩薩を祭る、然れども旧名は三宅《ミヤケ》山にして、石清水文書延久四年官牒に見ゆ、「三宅山在交野郡山※[人偏+千]肆佰町御倉町并館院等内地陸町免田弐拾参町云々」往時は広大なる荘園なりしを想ふべし後世三宅の名に牽強し妙見堂を置き今地方の名祀とす。
 
田宮《タミヤ》郷 和名抄、交野郡田宮郷。〇今|川越《カハゴエ》村大字田宮存す、山田村の南にして天之川を挟み数部落あり、古事記、応神皇子二俣王の王女田宮媛あり、此に所因あるか。〇名所図会に、田宮村|大垣内《オホカイト》は昔牧の垣結廻したる古跡なりと、然らば本郷も交野遊猟地の域内なりしこと思ふべし。
 
岡本《ヲカモト》郷 和名抄、交野郡岡本郷。〇今枚方町の中大字|岡《ヲカ》大字|三矢《ミツヤ》是なり、中世には真木《マキ》と称したる地にて、交野遊猟場に属したり。南は鷹塚の岡陵を負ひ、淀川北より来り之を衝き西に折る、地域狭しと雖水に傍ひ利する所あり。〇続日本紀云、養老元年、従五位台忌寸少麿言、因居命氏、従来恒例、是以河内忌寸、因邑被氏、其類不一、請少麿率諸子弟、改換台氏、蒙賜岡本、許之。
 
真木《マキ》 名所図会云、枚方は中頃より京街道と為り旅舎多し、昔は駒の牧ありし地とぞ、豊臣氏の亭館址を観音山と称す。〇真木城址と云者観音山なるべし、長禄寛正記云、良禄四年畠山義就宝螺ヶ峠にて都の方をかへり見て詠歌之あり、彼峠を下り天川と云処へ遊佐河内守国助御迎に参向す、夫より国助先陣にて其夜は真木の城に留り給、終夜義就は都之為体を語、国助は紀州の有様御物語申けり、扨それより河内の若江の城に籠玉ひけり。
 
山埼院《ヤマサキノヰン》址 枚方町大字|三矢《ミツヤ》に在り、〔河内志〕続日本紀云、宝亀四年、勅故大僧正行基法(433)師、戒行具足、知徳兼備、先代之所推仰、後世以為耳目、其修行院総卅余所、或先朝有施入田、或本有田園、供養得済、但其六院末預施例、河内国山埼院、捨当郡田三町。
 
茨田《マムタ・マツタ》郡 明治二十九年廃して北河内郡へ合す。此地淀川を帯び毎に洪水の患あり、仁徳天皇治堤以来河道の変遷最多し。寝屋川《ネヤガハ》附近は近世に及び稍家居稲田と為る、古は草香江《クサカエ》深野池の巨浸実に此に在り。〇和名抄、茨田郡、訓万牟多。古事記伝云、茨は宇婆良牟波良とこそ云へ、万牟と云はやゝ後の訛なるべし、本より万牟多ならんには此字を書べくもあらず、本は宇婆良多なりけむを、宇を省き婆を万に転じ良を音便にて牟と云なせるなるべし、日本後紀「延暦二十三年、改茨田親王、名為万多」これは文字を改められたる也。当時既に万多と呼べる事是にて知らる。古事記高津宮(仁徳)段云、役秦人、作茨田堤、及茨田三宅、この三宅は中世交野郡に属したり、茨田堤は淀川の南浸を拒める者にして、内外の二線ありし如し、下に見ゆる所あり。〇茨田氏は皇別蕃別の二流あり。古事記云、淤斯呂和気天皇(景行)御子、櫛角別王者、茨田下連等之祖。姓氏録云、茨田勝、景行天皇之子、息長彦人大兄瑞城命之後也。又茨田勝、出自呉国王孫皓之後意富加牟托君也、諡仁徳天皇、賜居地於茨田邑、因為茨田勝也。
 
伊香《イカガ》郷 和名抄、茨田郡伊香郷、訓以加々。〇今枚方町の中大字伊加賀|泥町《ドロマチ》の地にあたる、一巒突出、淀川の衝に抵り、水勢屈折す、故に伊加賀崎の名あり。
 梶にあたる波のしづくを春なればいかゞさき散る花と見ざらん、〔古今集〕      兼覧王
 我はたゞ風にのみこそまかせつれいかゞさき/”\人は待ける、〔続後拾遺集〕     和泉 式部
名所図会に勝地吐懐編を引き伊加賀崎は近江国伊香郡なりと曰へり、然れども此地は物部氏勃興の本居にして近江なるは却て此より移せる名なり、且淀山城の江流を上下せば枚方の泊に詠懐ある事必然なり、伊加賀崎は他所に有るべからず。〇伊賀迦色許売は孝元天皇皇后に立ちたまひ、其弟伊迦賀色許男は開化天皇の朝に大臣に補せられ其家大に興る、之を物部氏と為す、此地蓋其本居なり、記紀及旧事紀姓氏録を見て其世系族党の繁衍を知るべし。
意賀美《オカミ》神社は延喜式に列す、今枚方町伊加賀の宮山に鎮坐し、保賀美と称す。
 
枚方《ヒラカタ》 伊加賀|泥町《ドロマチ》三矢《ミツヤ》岡等の大字あり、北は牧野村天川に接す古交野茨田両郡の交界に跨り淀川の水駅なり、人口一千五百。徳川幕府の時|監船所《フナバンシヨ》を置き上下の舟を監し伏見大坂間の航漕を掌知せしめたり、近年駅伝の業稍衰ふと雖も、猶一大江村なり。枚方の名は古に聞ゆるなし、真木(大字岡)天川《アマノカハ》に摂せられし者の如し、豊臣氏伏見大坂の城府を起し航漕の務を重んじたるより、枚方の名あらはれ、慶長元和の際警備の要地たりし事当時の諸書に見ゆ。
書紀通証云、神武帝溯流、至河内草香邑、青雲白肩之津、今枚方蓋白肩の転語、枚方辺有※[楫+戈]析、今云梶原。此説誤れり、書紀集解、白肩は白盾《シラタテ》の魯魚なりと云ふに従ふべし。〇枚方の西より南蹉※[足+它]村の中央を貫き河道の跡あり、長三十余町、太間《タイマ》の北なる木屋《コヤ》池に匯す、何の世の河変にやあらん。
補【枚方】讃良郡〇地誌提要 茨田郡泥町、三矢、岡、岡新町四村に連なる、市坊五、人口一千五百。〇日本戦史 冬の役に大坂軍枚方に砦を設け、淀川に枕み竪守せんと弓銃手を派遣せしも、関東の兵宮田、高槻、芥川(以上皆摂津島上郡)砂(河内讃良郡)若江(同上若江郡)より来り、狭田宮の堤上より射撃するを以て之を止む。
補【佐田宮堤】〇日本戦史 慶長十九年十月、淀川の堤、守口、狭田宮、仁和寺、榎並の数所に破壊あり、大坂の軍乃ち之を利用し更に其口を浚鑿し、以て枚方の通路を絶つ、東軍之を修築す、十一月朔日根来正徳院等二百余人を率ゐ、城を出て狭田宮堤を破壊せむとす、東軍伊奈忠政等銃卒二百余人を以て之を禦ぐ。
 
佐太《サダ》郷 和名抄、茨田郡佐太郷。〇今蹉※[足+它]村是なり。姓氏録「右京諸蕃、佐太宿禰、坂上大宿禰同祖、後漢後帝男延王後也」は此か。
蹉※[足+它]《サタ》神社は蹉※[足+它]山に在り大字を中振《ナカフリ》と称す、中振の名は観心寺建徳二年文書に見ゆ。本社伝云、菅原道真公筑紫左遷の時、息女苅屋姫跡を慕ひ此所に至り西を瞻て蹉※[足+它]したまふ、公薨じたまふ後此所に影向あり、是より近郷二十五村の生土神と為す、後世神前座席の争より諸村分離したり。〔名所図会〕〇按ずるに佐太天神は菅相公に仮託せど信ずべからず、然れども茨田郡諸所に斯神を勧請するを見れば、蓋地方有功の仁祠にて、古の治水の霊神にあらずや。
鬼貫禁足の旅の記云、暮に難波の地を離れて伏見への船にのりて入る、草葉の露は左右同じく置けど、船曳男らの岸伝にかた/”\虫のねたえて、是も物のあはれなるべし、江口の里はまだ宵やみの覚束なく、川かぜは今も旅への枕になれて、昔の秋をしたひ顔なる、尚過ぐるに月は佐田《サダ》の空にいでて、森のともしび影うすく、いと神々し、夜は枚方葛葉の里にふくれど、夢もむすばず
 ひやひやと月もしろしや秋の風。
 
(434)蹉※[足+它]池《サタノイケ》 蹉※[足+它]村大字中振と出口《デグチ》の間に存す、河道磧なり、往時淀川枚方伊香賀崎より南へ決潰したる事ありしならん、末は木屋池に入る、蹉※[足+它]川と日ふ。
 我せこが老るを惜きさたの池のたま藻にもがな苅あげはやさん、〔古今六帖〕     伊勢
 駒なべていざ見に行んさた川に枝さしかぎすやまとなでしこ、〔名寄〕        俊頼
 
三井《ミヰ》郷 和名抄、茨田郡三井郷。〇今友呂岐村是なり、大字三井存す。本郷は茨田郡家の地なるべし、大字|郡《コホリ》の名あり。〇河内鑑云、三井村本厳寺は、京都本能寺尼崎本興寺と共に日隆上人開基の三個所也。
友呂岐《トモロキ》は中世の荘名なり。東寺文書、建武年中茨田郡鞆呂木荘。又康正二年造内裡段銭記云、拾五貫文三条右大臣家、河内国皷呂岐。皷は鞆の誤ならん。
 
太間《タイマ》 今友呂岐村に属すれど、三井郷の諸大字と東西に相距り、太間は西淀川の岸に在り。古は絶間又断間に作り、仁徳天皇の時茨他堤決潰の所なり。今|木屋《コヤ》池蓋其辺なり。当時奔流は寝屋川門真川両筋に入り草香江に会したるならん、形状尚存す。
 逢事は絶間の池のかきつばたへだつる中となりやしぬらん、〔未木集〕       六条院宣旨
 
※[糸+診の旁]子断間《コロモノコタエマ》 日本書紀云、仁徳天皇、将防北河之※[さんずい+勞]、以築茨田堤、是時有両処之築、而乃壊之難塞、時天皇夢、有神誨之曰、武蔵人強頸、河内人茨他連衫子(衫子此云※[草がんむり/呂]呂母能古)二人以祭河伯、必獲塞、衫子取全匏両箇、臨水投之曰、河神祟之、以吾為幣、是以今吾来也、必欲得我者、沈是匏而不合泛、則吾知真神、親入水中、若不得沈匏者、自知偽神、何徒亡吾身於飄風、忽起引匏没水、匏転浪上、而不沈、則※[さんずい+翕]々汎以遠流、是以衫子子雖不死、而其堤且成也、是因衫子之幹、其身非亡耳、故時人号其両処、曰強頸断間、衫子断間也、是歳新羅人朝貢、別労於是役。書紀通証云、衫子断間、在茨他郡太間村。〔※[糸+診の旁]は袗また衫、但し※[糸+診の旁]の出所未詳〕
 
幡多《ハタ》郷 和名抄、茨他郡幡多郷。〇今豊野村大字|太秦《ウヅマサ》、国松《クニマツ》及|水本《ミヅモト》村是なり。友呂岐村の東南に接し、寝屋川は本郷より発源す。是は秦氏の居邑にて「古事記高津宮段云、役秦人作茨田堤、及茨田三宅」とある者也。〇姓氏録云、河内国諸蕃、秦宿禰、太秦公同祖、秦始皇五世孫融通王之後也。
細屋《ホソヤ》神社は延喜式に列す、秦《ハタ》村の神楽田に在り、傍に神宮寺あり、本尊観音を置く。〔河内鑑神祇志料〕〇秦村に秦氏の墳あり、又鍛冶秦行綱宅址あり、行綱は後鳥羽院に徴されし名匠なり、苗裔包平有成等あり。〔名所図会〕
 
寝屋《ネヤ》 今|水本《ミヅモト》村と改称す、東は星田村に接す。星田山中の水北流又西流して寝屋秦を過ぎ、南に折れ郡内の汚溝を集め、門真川思知川を会し大坂に赴く、寝屋川と称す。
 
池田《イケダ》郷 和名抄、茨田郡池田郷。〇今|九個荘《クカノシヤウ》村是なり、大字池田存す。友呂岐村の南にして庭窪村の東なり、溝?は分れて門真川寝屋川に入る。茨田池の涸れて田野と化せるならん、遺形稍弁ずべし。
 
茨田池《マムタノイケ》址 九個荘村池田と友呂岐村|平池《ヒライケ》石津の間の低田蓋是なり。日本書紀、皇極天皇二年七月、茨田池水大※[自/死]、小虫覆水、其虫口黒而身白、八月茨田池水変如藍汁、死虫覆水、溝?之流亦復擬結、厚三四寸、大小魚※[自/死]、如夏爛死、由是不中喫焉、九月茨田地水漸変成白色、亦無※[自/死]気、十月茨田池水還清。
 
神田《カンタ》 九個荘村大字神田あり、田宮村島頭に接す、茨田勝加牟托君の邑にやあらん。姓氏録云、河内国諸蕃、茨田勝、出自呉国王孫皓之後、意富加牟托君也、諡仁徳天皇賜居地於茨田、邑因為茨田勝。
 
茨田《マムタ》郷 和名抄、茨田郡茨田郷。〇此郷詳ならず、今|大和田《オホワダ》村|四宮《シノミヤ》村にあたるか。中世島頭荘と称し大和田村大字野口に堤根神社あり。
 
島頭《シマカシラ》 中世島頭荘の名あり、今大和田村四宮村にあたり、其四宮に大字島頭あり。寝屋川|門真川《カドマガハ》左右を流れ、古へ南は草香江に瀕したるを以て、当時一洲の形を成せり、此地其上方なり。
 
堤根《ツツミネ》神社 大和田村大字野口の常称寺に在り、文徳実録延喜式に見ゆ、其門真川の辺に鎮坐するに因りて之を按ずるに、当時北河断間の潰流門真川筋に添ひて此地を圧迫しければ築防の事あり、即堤上に修祭したる者ならん、故に曰ふ淀川の茨田堤は二線あり、一線は枚方伊加賀崎より守口を経て難波大坂に至る者是外堤なり、一線は島頭にありて断間の決潰に備ふる者是内堤なり。
補【堤根神社】〇神祇志料 今野口村にあり、按、日本書紀茨田連衫子、仁徳天皇の御世茨田堤を作る時に河神を祭て堤を成畢りたりき、是に拠らば堤根神或は衫子を祀れるか、はた河神を祭りしにやあらむ、姑附て考に備ふ
文徳天皇嘉祥三年十二月発酉、堤根神に従五位下を授く(文徳実録)
 按、本書印本堤津島女神に作る、一本に堤下根字あり、蓋神字を脱せり、印本二神を一神とせるは誤なる事著し、故に今一本に拠り神字を補て之を訂す
凡そ毎年九月十五日祭を行ふ(式社細記)
 
(435)大窪《オホクボ》郷 和名抄、茨田郡犬窪號、訓於保久保。〇今|庭窪《ニハクボ》村なるべし、中世には大庭荘又佐大荘と称せり、九個荘村の西南に接し、淀川に瀕す。名所図会云、大窪荘に昔中西四郎兵衛範顕住したり、其事太平記に見ゆ。
津島部《ツシマベ》神社は今庭窪村大字金田に在り、文徳実録、嘉祥三年津島女神授位、延喜式に列す。神祇志料云、此神疑ふらくは津島朝臣津島直の族、此地に住て其祖天児屋根命を祭れるならむ。
 
大庭《オホバ》 今|庭窪《ニハクボ》村に合す、名所図会云、大庭は一番より九番まで村名あり、北十番東十番已上十一村を大庭荘と臼ふ。〇観心寺古文書に大庭開《オホバヒラキ》と曰ふ、新墾の謂ならん、大庭の東に接し門真一番より四番まで村名あり、同く新墾なり。南山巡狩録云、「観心寺申河内国大庭開為敵陣之間可破格中振之状如件 建徳三年後三月 左御門尉 嶺山三郎太郎殿。」〇朝野群載遊女記云、江河南北村邑、掃部寮大庭荘也。
 
佐太宮《サダノミヤ》 大庭一番に在り、蹉※[足+它]村天満宮の分祠なり。慶安元年淀城主永井尚政造す、其頃後水尾太上皇梅枝を寄贈ありしと、其接樹今に存す。(名所図会〕
 家の風世々につたへてかみ垣やたえたるをつぐ梅も匂はむ、            後水尾天皇
 
来迎寺《ライカウジ》 庭窪村大庭一番に在り、佐太宮と相接す。大念仏宗の本山にして聖衆院と号す、本尊は天筆三尊と称する霊画也。寺伝云、摂州深江の僧法明、康永元年男山八幡宮に参籠し念仏三昧を修したるに神託あり、且画像を賜り、遂に浄土門中に一流の大念仏宗を開き、誠阿上人と号す、其法嗣西願上人実尊、貞和三年末迎寺を興し、大念仏宗の本所と為す。
 
高瀬《タカセ》郷 和名抄、茨田郡高瀬郷。〇今守口町|三郷《サンガウ》村にあたる。西は摂州東生郡と郊野を分つ、淀川此に至り南に折れ、又西に屈す。神楽歌に「こも枕高瀬のよどにや」と詠ぜる者此なり。
 こもまくら高瀬の淀にさすさでのきてや恋路におぼれはてなん、〔夫木集〕      家長
 見渡せば末せきわくる高瀬川ひとつになりぬさみだれの比、〔続後撰集〕       源 師光
今|三郷《サンガウ》村大字高瀬は昔小高瀬荘と称し、延喜式高瀬神社其|世木《セキ》と云地に在り、高瀬川は此に淀川を指す、小高瀬荘は往時観心寺知行なりしと云。〔名所図会南木志〕後世河道北に移り、今水を去る八町。
 
守口《モリクチ》 守口町は枚方大坂間の水駅なり。枚方を去る五里十二町、東生《ヒガシナリ》郡|古市《フルイチ》村界に至る十二町、京街道は淀川南岸の堤を行くべし。守口の名産は野菓の糟蔵したる者にして、之を守口|※[酉+奄]《ヅケ》と称す。
   淀川舟中作         僧 百拙
 寒林鴉背夕陽紅、疎柳橋辺買短蓬、唯愛舟昇天碧上、不知身坐月明中、隔洲犬吠孤村火、罷釣人帰一櫓風、思算往年過幾度、満頭漸殺雪※[髪の友が峯]鬆
 
十七箇所《ジフシチカシヨ》 南山巡狩録云、正平廿四年三月、楠正儀足利義満に降参せし事かくれなかりしかば、楠の一族敵味方とたちわかれ、正儀を討たむ為天王寺に陣とりければ、義満も又正儀を助けん為軍勢発向す、廿三日正儀|榎並《エナミ》に陣をとる、四日正儀北方に上洛し義満に対面す、廿一日桶正儀河内国十七ヶ所に引退〈。国郡沿革考云、文明十四年七月細川政元(摂津守護)畠山義就(河内守護)和を講じ、改元其侵す所河内国十七箇所を義就に還附する事大乗院雑事記に見ゆ、十七箇所は蓋今の守口なり。
 
門真《カドマ》 庭窪村の東に接し、島頭の西に在りて門真川を隔てたり。その一番より一四番まで部落を分つは、近代の新墾なることを知るべし。門真川は九箇荘の溝溝を濫觴とす、南流二里、潅星川に入る。其東西|諸堤《モロヅヽミ》村|古宮二島《フルミヤフタシマ》村あり皆宝永治水以後の新墾なるべし。
江家次第に載する斎王難波禊の路程に、河内国茨田|真手《マテ》御所と云地名見ゆ、真手今何村に当るにや。真手は蓋茨田の地にして、茨田堤なる一所の駅亭なりしか、摂津志、間手宿所址、在門真三番村、江家次第所謂河内茨田真手御宿所即此、又古歌にまてと云所にて、
 思きやうかりし潮を過し釆て今日まで人に見えんものとは。
補【麻天】〇散木奇歌集 まてといふ所にてしばしとどまりて、つなでのものどもに物くはせけるに、きしの家どもより人々あまたきてみればよめる
 思ひきやうかりししほをすごしきてけふまで人にみえん物とは
  あまの河といふ所にて、むかしあそばせ給し事のおもひいでられてよめる 恋しさにあはれ昔の面影をあまの河せにやどしてぞみる
 
茨田堤《マムタノツヽミ》 茨田堤の修造は、仁徳天皇の時大決潰ありて強頸袗子《コハクビコロモノコ》の断間二処を築成したまへるより以降、続紀宝亀元年延暦三年、続後紀嘉祥元年等数万の単功を要したる事あり、歴世の業詳ならずと雖、其歳時に土功を要したるや知るべき也、今枚方より東生郡野田村に至るまで凡七里、徳川氏の世に重修し、京街道と為す。○袗子断間《コロモノコタエマ》は今友呂岐村大字太間に在り、其北に蹉※[足+它]村又潰流の跡あり、強頸断間《コハクビノタエマ》は守口町と東生郡古市村の間に在り。慶長十九年十月洪水、(436)茨田の堤は仁和寺(今九個荘柑)佐太宮(今庭窪村)守口榎並(今東生郡榎並村)の数所を決しければ、大坂城は其浸水を城東に湛へしめ以て防禦に利せんとし、且京街道を杜絶せしめんと謀り、東西両軍の兵数百堤上に会戦して之を争ひたる事あり。〇類聚国史、天長十三年、停止河内国供御、堤外赤江場内赤江二処、定竹門江浜治絶間江大治江三処、又停摂津国供御江四処。〔日本逸史〕
   澱江舟中          岡本 黄石
 沙禽相喚水烟清、百里長流半日程、好是夕陽紅未了、船頭膜出浪華城、
 
讃良《ササラ・サララ》郡 明治廿九年廃して北河内郡へ併す。交野茨田の間に介在せる小郡なりき、本茨田の分郡にして姓氏録「茨田宿禰、彦八井耳命之後、男野現占《ナムヌサウラ》宿禰仁徳天皇御代、造茨田堤」と見ゆ。現占即讃良にして、男野は今|甲可《カフカ》村大字|南野《ナンノ》なり。〇延喜式、讃良郡、和名抄、訓佐良々、五郷に分つ。日本書紀、霊異記并に更荒《サララ》郡に作る、後世訛りて佐々良と曰ふ。法隆寺資財帳(天平勘録)更浦郡、西大寺資財帳(宝亀勘録)更占郡に作れり、亦参考すべし。
 天なるや神楽良の小野にちがや苅りかや苅りばかに鶉をたつも、〔万葉集〕(神楽の字を佐佐に仮るは神楽の和声に佐阿佐阿と拍子とるが故也、又此歌は天上の事を詠じたりと云説あれど、其天上てふ諺に就けて讃良野の事をよみたるならん、)
 笹わくる音もささらの河内路に駒を早めてけふもくらしつ、〔新撰六帖〕      行家
古事記に「建内宿禰之子、平群都久宿禰者、佐和良臣等祖也」とありて、姓氏録「河内国皇別、早良臣、平群朝臣同祖、平群都久宿禰之後也」とある亦同じ、即筑前国早良郡と同名相因の地にして、古音佐和良とも曰へり。続日本紀(卅六)佐波良臣静女と見え、和波相通はしたり。凡地名には古今の転訛仮字の精粗ありと雖、讃良の如き其尤もなりと謂ふべし。〇姓氏録、河内国蕃別、佐良連、出自百済国人久米都彦也。此なる佐良は佐々良の省略なるべし。
 
高宮《タカミヤ》郷 和名抄、讃良郡高宮郷。○今豊野村大字|高宮《タカミヤ》小路《セウヂ》等の地にあたる、延喜式大社高宮此に在り。
高宮《タカミヤ》は新抄格勅符、神護景雲四年賜封、三代実録、貞観元年授位ありて、延喜式に大社に班せしむ。旧事紀に「万魂尊児天剛川命高宮神主等祖」とあれど詳ならず、此社今豊野村大字高宮に有し、傍に神宮寺あり。
〇大社《オホコソ》御祖神社は延喜式に列し、高宮大社祖神社と称す、今高宮の東に存す。古は社戸《コソへ》と云ものありて神事に奉仕す、本社は蓋旧事紀に謂ふ所の高宮神主の祖|天剛川《アメノコハカハ》命を祭る者ならん。
 
枚岡《ヒラヲカ》郷 和名抄、讃良郡枚岡郷、訓比良乎加。〇今|甲可《カフカ》村大字岡山|砂村《スナムラ》宮山《ミヤヤマ》及|水本《ミヅモト》村の燈油《トウユ》打上《ウチアゲ》等の地なるべし、樟葉交野星田より中河内への通路にあたる。〇姓氏録云、河内国神別、平岡連、津速魂命十四世孫鯛身臣之後也、按ずるに枚岡大社は中河内郡に在り、彼社号は此地名の移りたる者か、津速魂三世孫を天児屋根命と曰ひ、即枚岡大社の祭神と為す。津鉾《ツホコ》神社は延喜式に列す、今甲可村大字|岡山《ヲカヤマ》の坪井に在り。岡山は大坂役東軍此に屯集し、徳川公陣所の跡には長久松と号する老樹在り。〔名所図会〕
 
甲賀《カフカ》郷 和名抄、讃良郡甲可郷。〇今甲可村の中野|南野《ナムノ》清滝逢坂などにあたる、東に山嶺を踰ゆれば岡原村に至るべし、山中に逢坂|室池《ムロノイケ》等あり。〇日本書紀、敏達帝十三年、鹿深臣韓国より仏像を将来したる事見ゆ、此人本郷の族か、近江国にも甲賀郡あり。康正二年造内裡段銭記に河内国甲可郷見ゆ。
 
中野《ナカノ》 延喜式国中神社、今甲可村中野に在り天神と称す。中野の東清滝峠逢坂山あり、清滝川《キヨタキガハ》西流し中野の西|蔀屋《シトミヤ》に至り寝屋川に注ぐ長一里。
 
南野《ナムノ》 古は男野《ナムヌ》に作る、茨田宿禰の居邑なりき。姓氏録云、茨田宿禰、彦八井百命之後、男野|現占《サウラ》宿禰、仁徳天皇御代、造茨田堤。この男野現占宿禰は刊本占字を脱す、又日本書紀には茨田堤を成功したる人其名を袗子《コロモノコ》と為す。〇延喜式、御机《ミヅクエ》社は南野の鈴原山に在り。
 
室池《ムロノイケ》 南野の東南十八町、飯盛山の背に在り。幽澗の口を塞ぎ池塘と為す、長十町幅二町、末は南野《ナンノ》より四条畷を経て潅星川へ入る。室池は古の氷室の蹟なり、延喜式「讃良郡讃良氷室一所」とある者此也。楠正行墓は南野の西字|雁屋《ガンヤ》に在り、此地即飯盛山下鏖戦の跡にして、近時墓側に相して四条畷《シデウナハテ》神社を造営したり、〇楠正行弟正時正平四年正月五日此に戦死す、後人塚上に楠樹を植て傍に石を立て南無権現と鐫す、一党和田新発意賢秀墓、近所に在り。〔名所図会〕近年墓所重修ありて、其忠魂を弔ふ者多し。僧大典楠公正行墓碑文云、墓在河内之六郷、乃為戦場跡。蓋為南朝者封之、且恐有所※[示+付]焉、其兆方十有余歩、四陲畳石頗高、在田畝之際、※[山/歸]然尚存、中有一楠樹、老且大、前立一碣、所刻※[元+立刀]滅。
 
飯盛山《イヒモリヤマ》 四条《シデウ》村大字|北条《ホウデウ》に峙つ、標高二百九十米突。山頂に古城址あり、山背に室池《ムロノイケ》あり。此地は西方一面※[さんずい+于]沢にして往時|深野他《フカヌイケ》草香江あり大和川に連接したり、されば京都男山より河内和泉若くは大坂へ通ずる要路はわづかに山際水涯を走れり、兵家(437)必争の処とす。南北乱の時両軍多く四条畷に会戦す、四条畷は中河内郡枚岡村に属し、飯盛山の南凡二里とす。正平四年の役に楠正行は北軍高師直を伊駒山南に破り、四条畷より進み飯盛山下に至る、而も寡兵力戦遂に克たずして斃る、近年四条畷祠を此に造りたるより、北条を改めて四条と為す。
 
飯盛山城《イヒモリヤマノシロ》址 建武元年、北条の余党、僧憲法兵を起して飯盛山に拠る、楠正成攻めて之れを斬る。天文元年、畠山氏の兵之に拠る、管領細川晴元本願寺と連合し之を攻陥す。永禄中に及び三好長慶細川氏を輔け堺浦に居るや、飯盛を以て要害と為し、築きて之に移る、長慶卒し、畠山氏の将遊佐信教之を復せしが、織田氏の兵至るに及び其略する所と為り、後廃す。北条より登攀十二町にして城址に達す。改正三河後風土記云、天正十年六月二日、神君(家康)堺浦を出立せ給へるに、忽ち飯盛山下にて、今朝織田殿父子の凶変の早馬に逢、神君仰らるゝに、裁年頃織田殿とよしみを結び、恩に感ずる事深し、織田殿の為に一軍し光秀を討とらむとは思へども、此無勢にては詮なし、今より都に登り知恩院に入て腹切て信長と死をともにせむと宣ひつゝ打立、二十町計行きしに、本多忠勝申出る様は、信長の御為に年来の御志を報られんとあらば、いかにかして御本国に御帰りありて軍勢を催し攻登り、光喬が首討切て御手向あらんにはと支えて諌めければ、神君つくづくと聞召、道中の山賊一揆を防ぐ手立を思案せられ、東へ走り玉ふ。
 
四条畷《シデウナハテ》神社 飯盛山下に在り、明治廿二年楠正行の霊祠を其戦歿所に創む、即此也。朝家持に官幣を授け、又贈位あり。此地は旧来大坂人野崎詣と称し、遊屐群至せる処なり、寝屋川に添ひて往来す路程二里。
   謁小楠公墓          宇都木静区
 含涙慇懃辞紫※[門/昏]、誓将一死定中原、箕裘未継多年恨、茅土長懐往日恩、老樹幾枝従北折、残碑半面向南存、但憐寂寞秋山裏、無復捷書聞至尊、
野崎《ノザキ》 今|四条《シデウ》と曰ふ、飯塩山の麓少南に在り。小槻長興宿禰記云、文明九年九月、河内国野崎、畠山右衛門佐(義就)与同左金吾政長方合戦、左金吾打勝、右衛門佐引退。
 
慈眼寺《ジゲンジ》 野崎に在り、山に倚り西面す、開基詳ならず。近世大坂商民当寺観音菩薩の霊験に帰依し賽者甚盛、堂字出りて荘嚴を致せり、春時寝屋川の堤を歩し又舟を曳かしめ往来す頗雑閙を極む、野崎詣と称す。
   即事          頼 山陽
 綴棹軽舟杙岸横、両三分隊上堤行、舟中堤上呼相答、十里菰蘆夕照明。
河内志云、慈眼寺在野崎村、有石塔、刻曰「永仁二年秦氏建」専応寺、在同村、寺有画仏像、皆題曰「讃良郡山家郷南条村専応寺常住物永正十七年」。
 
中垣内《ナカカイト》 今四条村に属す、野崎の南十二町、北中両郡の交界此に在り。延喜式、須波麻神社あり。垣内の古訓カイチをカイトと訛る。龍間《タツマ》は中垣内の東二十町、山中の孤村なり、古刹あり経寺《キヤウジ》と称す。
 
山家《ヤマヘ》郷 和名抄、讃良郡山家郷、〇此郷今詳ならず、石井郷と同く四条村の中なるべし。
 
石井《イハヰ》郷 和名抄、讃良郡石井郷、〇此郷今詳ならず、山家郷と同く四条村の中なるべし。
 
※[盧+鳥]※[慈+鳥]《ウヌ》野 今詳ならず。日本書紀、欽明天皇二十三年、新羅遺使献調賦、其使人知新羅滅任那、耻背国恩、不敢請罷、遂留不帰本土、例同国家百姓、今河内珂、荒郡※[盧+鳥]※[慈+鳥]野邑、新羅人之先也。〇按に氏族志云「川内馬飼氏、菟野馬飼氏、娑羅々馬飼氏、本竝造姓、天武帝十一年倶賜連姓、不詳其所出也」と、是は生駒山中の牧村にして当時菟野邑とも馬飼里とも呼べる也、和名抄、山家郷石井郷などに当るべけれど未だ事証を得ず。
 
馬飼《ウマカヒ》 今詳ならず。日本書紀、天武天皇白鳳十二年、裟羅々馬飼連、賜姓曰造。霊異記、女人大蛇所婚頼薬力得全命緑四十一、河内国更荒郡馬甘里、有富家、家有女子、大炊天皇世、天平宝字三年、登桑揃葉時、有大蛇纏之、以婚云々。
補【馬甘】○日本国現報善悪霊異記〔重出〕女人大蛇所婚頼薬力得全命緑四十一、河内国更荒郡馬甘里、里有女子、大炊天皇世、天平宝字三年己亥夏四月、其女子登桑揃葉、時有大蛇、纏於登之桑而登、往路之人、見示於嬢、嬢見驚落、蛇亦副堕、纏之以婚、慌迷而臥、父母見之、請召薬師、嬢与蛇載於同床、帰家置庭、焼稷藁三束、(三尺成束為三束)合湯取汁三年、煮煎之成二斗、猪毛十把尅末合汁、然当嬢頭足、打※[木+厥]懸釣、※[門/也]口入汁、汁入一斗、乃蛇放往、殺而棄、云々。〇白鳳十二年婆羅馬飼造賜姓曰造。
 
寝屋川《ネヤガハ》 水本《ミヅモト》村大字寝屋の南|星田山《ホシダヤマ》に発し、迂※[さんずい+回]して豐野《トヨノ》村に至り南流、住道《スミノダウ》村大字|三箇《サンカ》に至り思智川と合し西流、大坂市の東備前島に至り淀川に注ぐ。〇宝永年中大和川改疏以前に在りては、寝屋川筋は一大※[さんずい+于]沢にして、洪水に及べば巨浸と為る、謂はゆる深野池是なり、今|南郷《ミナミガウ》村|古宮《フルミヤ》村|今津《イマツ》村|諸堤《モロヅツミ》村|二島《フタジマ》村住道村|寝屋川《ネヤガハ》村等は桑滄の変を被れる地なるべし。
 
深野池《フカウノイケ》址 古へ北河内中河内の間に巨浸あり草香江《クサカノエ》と称す、大和川南より来り派を分ち之に会し、共に西流して難波に赴く、神武天皇の皇舟難波津より溯りて草香邑に至りたまふと云者、此水に(438)泛べるなり。茨田河内の堤防歴代修治ありけるより、地勢漸く変じ、多く溝涜を開き水を排して田土と為したり、而も剰水猶存し正保国図載せて深野池と称す。下流|勿入《ナイリソ》淵あり。宝永の初め新大和川を疏ずるに及び此地全く涸渇して墾田数村を生じたり。深野の大字は今四条村に属す、寝屋川は其遺址と見傚して可なり。(中河内郡草香江参考)
補【深野池】〇史学雑誌(二十六年二月)古へ河内、讃良、茨田、若江四郡の界に巨浸あり、日下江と称す、西流大和川に通じ摂津に入り、西北に転じ大坂の北に至りて淀河に会す、古事記雄略天皇の時、引田部赤猪子の歌を引て云、久佐加延能、伊理延能波知須云々と載す、即此地なり、其遺址後世に至り猶存し、正保国図載せて深野《フカウノ》池と称す、下流入淵あり、日下村は池の東南隅に臨む、難波より江に遡り直に此地に至る、復疑を容れず、宝永の初新大和川を疏ずる時、此地涸渇して新田を墾開し、数村となる。。四条村大字深野新田。
 
勿入淵《ナイリソノフチ》址 今|南郷《ミナミガウ》村大字|諸福《モロフク》に在り、土人|内助《ナイジヨ》淵と呼ぶ、水渦れて名を有するのみ。〔名所図会〕
 つれなくば身をしづめんとかこつ夜のそなたの月にないりその淵、〔為尹千首〕
宝亀勘録西大寺流記資財帳に「一巻献入荘家並葦原、在河内国更占郡渚浜」など見ゆ、其葦原と曰ひ渚浜と曰ふ、往時皆草香江の辺なればならん。〇貝原諸州巡(元禄年中)云|深野池《フカウノイケ》はその広さ南北二里東西一里、所により東西半里許ありて湖に似たり、其中に島あり三箇《サンガ》と云ふ、故に此池を三箇沖とも云ふ、三箇村は漁家七八十戸南北二十町東西五六町とぞ、池には鯉鮒等多し日々漁船出で之を大坂に売る、又蓮菱等あり菱尤多し是を採て飯にし※[食+羔]にし或は菓子にもす、御供村は池の東に在り又漁人多し、深野池のまはり凡四十二村と云ふ、池の流れの末は大和河に出づ、大坂へ二里毎日商船往来す、内助《ナイジヨ》が淵は深野池の西南にして万八町許。
 
     中河内郡
 
中河内《ナカカハチ》郡 明治二十九年若江渋川河内高安|大県《オホガタ》丹北《タンホク》六郡を合併して中河内郡と為す。郡役所を八尾に置き三十九村を管治す。東には生駒高安の峻嶺自然の国界を為す(大和生駒郡)と雖、他の三面は北河内郡南河内郡及摂津和泉両国に接し、天成の境界なし。東西凡三里南北凡四里半、古の凡川内《オホシカフチ》国なり。大和川の河道古今の異あるを以て地勢の沿革あり。
 
大和川《ヤマトガハ》址 大和国の衆水龍田に匯し、結束して亀瀬を越え其河内に入るや、地平夷なるを以て忽ち奔放に就く、其今の如く堅下村より西に導き直に海に達せしむるは宝永の改疏に因る、其以往に在りては堅下《カタシモ》より西北流して難波津に向ふ、而も数条の分派あり、歴世修治を加ふ、其間又沿革あり、今|古大和《フルヤマト》川と称する水脈の存在に拠り其概説を為すべし。
〇古大和川は堅下(中河内郡)柏原《カシハラ》(南河内郡)の間より北に折れ、一小支を西に分つ橘川と曰ふ、(龍華川今平野川と曰ふ)曙川村に至り一大支を分ち、本流は西北に傾き長瀬川《ナガセガハ》又|曙川《アケガハ》の名を負ふ、大支は北流し玉申《タマクシ》川と称し三野郷村に至り更に二分し、其本流は猶玉串と称し西北に傾き、一支は松原を経て北に進み草香江深野池に入り、以て匯水を導き西に向ひ、楠根川俣に至り三流(長瀬玉串深野)相会し川俣江と曰ふ、やがて今の大坂城の東北に注ぎ淀川と相会せり。橘川は西北流して百済川に入り玉造江と為り、大坂城東を過ぎ大和川に復帰したり。是等諸水今涸れたりと雖、其遺脈猶存し溝涜に代ゆ。
続日本紀「天平宝字六年、河内国長瀬堤修造。宝亀元年修志紀渋川等堤、同三年渋川堤十一処志紀堤五処並決」など見ゆるは皆大和川筋なり、志紀渋川共に長瀬の流にして西北岸の護防なるべし。三代実録「貞観十二年、築河内堤、祈莫重水※[さんずい+勞]之患、奉幣大和国諸社」とあるも、本川の築塊なり。
補【古大和川】〇大阪府地誌略 古大和川は今の大和川の築留樋の処より北に折れ若江郡に入り二川と成り、各西北流して寝屋川に合して更に難波の碕(今大阪城)に向ふ、一水は玉串川、一水は長瀬川と曰ふ、然れども時々流勢の変ありしに似たり。貞観十二年七月壬申、幣帛を奉て河内堤を築くに、重て水※[さんずい+勞]の患なからむ事を祈る、河内の水源大和より出るを以て也(三代実録)
新大和川《シンヤマトガハ》 元禄十六年十月、江戸幕府大に工役を興し柏原村(南河内郡旧志紀郡)より大和川を疏導して西流せしむ、和泉国堺浦の北に至て海に帰す、是を新大和川と称す、長凡四百二十八町、宝永元年十月功成る、是に於て沢坡悉く涸れて新田若干町を開墾し中河内北河内永く水害を免る。  細雨如糸湿客衣、菜花浄尽麦芒肥、春光欲暮河州路、満野軽寒緑霧霏、        岡本 黄石
 
河内《カハチ・カフチ》郡 明治二十九年廃し中河内郡と為す、生駒山の西麓にして古の草香《クサカ》邑是也。此地初め三野県《ミヌノアガタ》あり国郡制定の時建てゝ河内郡若江郡と曰ふ、続(439)日本紀神護二年の条に河内郡始見す、和名抄七郷に分つ。
 
草香《クサカ》 又日下に作る、(日古訓を加と云ふ転じて久に仮る、下は佐迦利の利を省きて仮る)神武天皇東征の時浪速より溯流して草香邑に上りたまふ。当時草香江あり、江湾後世涸れたりと雖、今|日根市《ヒネイチ》村大字日下の名存す。
日下氏には数流あり。古事記伊邪河宮(開化)段云、御子日子坐王、生沙本毘古王、此王者日下部連之祖也。御(姓氏録日下部宿禰、三代実録日下部連)是其一なり。仁徳帝の皇子此に住居し大草香と号し玉ふ、王孫幡梭皇女(雄略皇后)若日下王あり。日本書紀云、大草香皇子、以其女幡梭皇女、配大泊瀬天皇、天皇殺根使主、命有司二分子孫、一分大草香部民、以封皇后。古事記云「若日下王、坐日下之時、天皇(雄略)自日下之|直越《タダゴエ》道、幸行河内、於是若日下王、令奏天皇、背日幸行之事甚恐、故己参上而仕奉」など見ゆ、是其二なり。大日本史氏族志云、日下氏(一作日下部又草壁或大草香部)系出大彦子紐結命、(姓氏録、宿禰拠日本後紀)初日難波吉士、(士或作師又志)応神帝時、難波吉師祖五十狭茅宿禰、従忍熊王軍敗、倶死、安康帝時、難波吉土日香蚊、事大草香皇子、帝信根使主之讒、殺大草香、日香蚊与其二子、※[立心偏+亢]慨殉難、及雄略帝時、根使主事覚状誅、帝乃求日香蚊子孫、賜姓大草香部吉士、天武帝十一年、草壁吉士賜連。〔日本書紀〕是その三なり。
草香山は生駒山に同じ、其北尾を云ふ。日根市村大字善根寺《ゼンコンジ》より登路あり、即古の孔舎衙坂にして、又直越と称したり。
 忍照る、難波を過て、打靡く、草書の山を、ゆふぐれに、吾越くれば、山もせに、咲ける馬酔木の、にくからぬ、君をいつしか、往て早見む.〔万葉集〕日本書紀、神武天皇、欲東踰胆駒山而入中州、時長髄彦聞之、※[行人偏+激の旁]之於孔舎衙坂。〇孔舎衙《クサカ》本書孔舎衛に作る魯魚の誤なり。
直越《タダゴエ》は古事記朝倉宮(雄略)段云「自日下之直越、道幸行河内、遷上之時、立其山之坂上、歌曰云々」とありて草香山の直径なり。万葉集を按ずるに、此山路は難波の捷程と為す、草香江を絶り往来したるならん。
 直越の此径にして押てるや難波のうみと名づけけらしも、〔万葉集〕
補【日下】〇人名辞書 孔生駒は河内の儒者なり、名は文雄字は世傑、日下氏、姓は孔、河内日下里の人、交通産物開墾等の諸事に留め、唯時務経済を以て己が任とす、宝暦二年十二月晦日歿す、年四十一、平生南朝の史を修せんと欲し、建武以降の記伝譜牒、諸家の雑説を集め、以て異同を考訂す、編著已になり題して延慶史斬と曰ふ。  
 
蓼津《タデツ》 盾津又草香津と称す、直越より草香江を絶れる津なるべし、即直津の謂ならん。〇日本書紀、神武天皇、従浪速溯流、至河内草香邑、青雲白盾之津、(中略)天皇引軍還、至草香津、植楯而為雄誥、因改号其津、曰盾津、今日蓼津訛也。(白盾本書白肩に作る今書紀集解に従ふ)古事記又云、天神御子泊青雲之白肩津、此時登美能那賀須泥毘古、興軍待向戦、爾取所入御船之楯、而下立、故号其地謂楯津、於今者云日下之蓼津也、於是与登美毘古戦之時、五瀬命於御手負登美毘古之痛矢串。(此なる白肩も白盾の誤なること著し)
 
草香江《クサカエ》址 今日根市村の西に江湾の跡を存す。古草香江は北河内郡深野池寝屋川と相通じ一大巨浸を為し、玉串川の支派松原より来り之に匯したり、末は川俣江と為り、長瀬川之に注ぎ、難波津に向へり。〔北河内郡深野池参考〕
 久佐迦延のいり江のはちす花蓮みのさかりぴとともしきろかも、〔古事記引田老女詠〕草香江の入江にあさるあし田鶴のあなたづ/\し友なしにして、〔万葉集〕
 
生駒山《イコマヤマ》 日根市《ヒネイチ》村|大戸《オホヘ》村等の東に在り、其最高哮峰六四〇米突は大戸村大字|神並《カンナミ》より登攀すべし、辻子《ツジ》越と曰ふ、暗《クラガリ》峠は枚岡村大字豊浦より上る、哮峰の南に在り、辻子越四百米突の所に興法寺あり。〇名所図会云、生駒山は山勢南北に延び、大樹なし篠竹を生ず、和銅五年高安烽火を廃し高見烽《タカミノトブヒ》を置かれ平城京に通ずと続日本紀に見ゆ、高見は暗峠の北にあり生駒の飛火即是なり。〇万葉集名所考云、巻六に「八隅知し云々射鉤山飛火がたけに云々」とあるを、一本には射鉤を射駒に作れど、彼歌意に叶はず、本居氏射鉤は羽飼の誤なるべしと云へり。
 いもがりと馬に鞍置て射駒山打こえ来れば紅葉ちりつつ、〔万葉集〕君があたり見つつも居らむ伊駒山雲なたなぴき雨はふるとも、〔同上〕奈爾波刀を漕ぎでて見ればかみさぶる伊古林多可禰に雲ぞたなぴく、〔同上〕
延暦八年職判、摂津住吉大社司解状に胆駒|神南備《カンナビ》あり、胆駒神南備山本記、
 四至、東限胆駒川、龍田公田。南限|賀支支利《カシキリ》坂、山門《ヤマト》川、白木《シラキ》坂、江比須墓。西限|母木《オモノキ》里公田、鳥坂《トサカ》里。北限|饒速日山《ニギハヤヒヤマ》。
右山本記者、昔依大神本誓、奉寄巻向玉木宮御宇天皇、橿日宮御宇天皇也。熊襲《クマソ》國|辛島《カラシマ》令服賜、自|長柄泊《ナガラノトマリ》、登於胆駒山賜、宣賜、大八島国天下奉出日神者、船木遠祖大田田之神也、以此神造作船二艘、(一艘木作一艘(440)石作)為後代験、納置胆駒山、長屋墓石船、白木坂三枝墓木船矣。唐国大神通渡賜時、乎理波足尼命、以此山坂木、迹鶩岡《オドロキノヲカ》神降坐、岡斎祀時、恩智《オンチ》神参坐在、仍毎年春秋、通墨江参、因之猿往来不絶、此其験也。母木里与|高安《タカヤス》国堺、存置諍石、大神此山之誓賜、草焼火木朽石之遠期云々と。今山下に神並《カウナミ》の大字を遺す、然れども此山は本来饒速日命に因由ある所と想はるゝに、又住吉神の御山と為すは不審。(饒速日山は田原の哮峰なるべし)
 
大戸《オホヘ》郷 和名抄、河内郡大戸郷。〇今日根市村大戸村なり。姓氏録云、河内国皇別、大戸首、阿閉朝臣同祖、大彦命男比毛由比命之後也、安閑御世、河内国日下大戸村、造立御宅、為首仕奉、仍賜大戸首姓。
 
大宅《オホヤケ》郷 和名抄、河内郡大宅郷。〇姓氏録云、大宅臣、大春日朝臣同祖、天足彦国押人命之後也。〇此郷詳ならず、「日下大戸村造立御宅」の事姓氏録に見ゆれば、日下の中に大宅大戸二郷ありて、今日根市村か。
 
神並《カウナミ》 今大戸村大字神並は生駒山の直下に在り、石切神あれば神辺《カムナビ》の転訛なり。〇石切剣箭命《イハキリノツルギヤノミコト》神社は神並に在り。三代実録、貞観七年授位、延喜式に二座とあり。社説云、上社は生駒山哮峰に在り、下社は山下に在り。〔名所図会〕
 
額田《ヌカタ》郷 和名抄、河内郡額田郷、訓沼加多。〇今枚岡村大字額田存す、是なり。古事記云、天津日子根命、凡川内国造、額由部湯坐連等之祖也。姓氏録云、額田部、天津彦根命子、明立天御影命之後也、允恭天皇御世、被遣薩摩国、平隼人、復奏三日、献御馬一疋、額有町形廻毛、天皇喜大、賜姓額田部。姓氏録又云、河内国皇別、額田首、早良臣同祖、平群木兎宿禰之後也、不尋父子、負母子額田首。額田神社〇古事記明宮(応神)段云、此天皇、娶品陀真若王女、高木之入日売命、生御子額田大中日子命。今額田に大中彦祠あり、御母方に緑由ある国なればなり。〔古事記伝書紀通証〕〇按ずるに額田は和名抄大和河内伊勢参河上総美濃加賀越前備後にあり、上野備中長門には額部とあり即額田部なり、其他諸州に此地名多し、其故を詳にせず。
長尾《ナガヲ》滝〇額田の東二十余町、生駒山の長尾の下に在り。飛泉二条、雄瀑高四丈許、雌瀑岩面に伝ひて落つ。
 
豊浦《トヨウラ》郷 和名抄、河内郡豊浦郷。○今枚岡村大字豊浦|出雲井《イヅモヰ》の地にあたる。河内鑑云、枚岡明神の宮寺六坊豊浦に在り、豊浦をとよはらと云ひならはす。〇日本書紀仁徳巻に「引石川水、而潤上鈴鹿下鈴鹿、上豊浦下豊浦四処郊原、以墾之、得四万余頃之田」とあるは此地なるべし。然れども「堀大溝於感玖、乃引石川水」とあるに合せず、疑ふらく原書錯誤あるべし。感玖は南河内郡なれば此地と水理を一にする能はず、又鈴鹿の地名今其所を失ふ。
 
母木《オモノキ》 日本書紀云、神武天皇、孔舎衙坂之戦、有人隠於大樹、而免難、仍指其樹、曰恩如母、時人因号其地、曰母木邑、今云飫悶廼奇訛也。〇書紀通証云、母木一説高安郡恩智也、枚岡神主旧記云、母木寺在枚岡下豊浦之地。
補【母木】〇史学雑誌(二十六年二月)〔神武紀、略〕母木邑は河内玉祖神社(高安郡神立村)旧記云、同郡恩知村古へ母木と称すと、継体天皇二十四年紀に河内母樹と記す。
 
枚岡《ヒラヲカ》神社 枚岡村大字|出雲井《イヅモヰ》に在り、今宮幣大社に列す。書紀通証云、平岡神社、去草香村一里許、神武紀所謂退還示弱、札祭神祇者、即此矣、社有|国平《クニムケ》祭。〇名所図会云、平岡四座は天照大神天児屋根命経津主命武甕槌命なり、毎年正月占穀祭事あり、五穀を小菅に容れ粥を焚き其煮熟により豊凶を卜す之を粥卜と称す。按ずるに本社は初め中臣氏の祖神にして二座なり、天児屋根及姫神を祭る、姫神は天児屋根の妃か女なるべしと古事記伝に論ぜり、彼天照大神と為すは妄誕のみ。神祇志料云、枚岡神社四座、今出雲井村日下山枚岡にあり〔河内志河内式社細記〕即河内一宮也。〔一宮記名所図会〕中臣遠祖神天児屋根命は興登魂命玉主命の女許登能麻遅媛命に娶て生座る神也〔藤原系図〕上古天照大神石屋に隠り座時、此神天香山の真坂樹を搬て種々の物を取平げ祝《ホザキ》て大神を招出し奉り、皇孫命を輔翅奉りて天降り給ひき、〔日本書紀古事記〕其英霊威神の徳尤も当時に著る。〔日本書紀古事記古語拾遺大意〕平城天皇大同元年河内丹波地六十戸を神封に寄し〔新抄格勅符〕仁明天皇承和三年従三位勲三等天児屋根命に正三位従四位下比売神に従四位上を授奉り〔続日本後紀〕清和天皇貞観元年天児屋根命に正一位比売神に従三位を賜ひ其後弥加布都命神比古佐耳布都命神を合せて四座とす、〔三代実録延喜式〕蓋弥加布都命は健御霊命にまし佐耳布都命は経津主命にませり、〔参酌三代実録日本書紀古事記延喜祝詞式大意〕二年従三位弥加布都命神比古佐耳布都命神并に従二位を加へ、七年勅して奉秋二祭神祇官の中臣一人を差て幣帛を附け祭事に検校し琴師一人を祭場に供奉る事を恒例とし、平岡神四前春冬二祭并春日大原野に准て幣を奉るべく制給ひ、〔三代実録〕
 按本書是よりさき皆二神をのみ挙て四前なる由をいはず、此に至て始て四前を云事見えたり、是に依て考ふるに始は二座を祭られしを此御世のほどより鹿島香取二神を配享りし故に四前と云るにやあらむ、(441)其は藤原氏権を執りて殊に春日四座神を甚く崇奉り氏神としつるに合せて、本社より立まさりて御栄ましければ、此にも本春日の四座神を祭るべき自らの勢なれば也、姑附て考に備ふ、
醍醐天皇延喜の制四座并に名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る、凡武蔵国封戸調庸の租穀を以て神社を修むるの料とす、其祭二月十一月上申日を用ふ、此日神祇官一人弾琴笛二卜部雑色人を率て之に供奉る、凡神社に仕ふる者神主物忌禰宜祝あり。〔延喜式〕以上。
 
平岡《ヒラヲカ》 此地に中臣氏の祖廟あり、藤原一家盛大を致すに及び大社と為る、和名抄讃良郡枚岡郷あり、姓氏録平岡連ありて中臣氏なり、蓋北河内より此に移りたる者なるべし。今枚岡村は大字豊浦額田民戸稠し、暗峠の西口にして枚岡神社の北傍より登る。〇延喜式、河内郡栗原神社あり、姓氏録栗原連あり、中臣氏なれば枚岡社辺にあるべきか。
 
英多《アガタ》郷 和名抄、河内郡英多郷。〇今英田村三野郷村是なり、枚岡村の西に接す、玉串川の岸にて、古の御野県の本拠なり。吉田《ヨシダ》は英田村の大字なり。名所図会曰、吉田村吉田氏宅に富景楼あり、田禄二百石を附し丈庫と為し不朽を謀る、領主片桐侯より和漢書籍若干を納めらる云々、此文摩後に聞えず廃壊したるか。
 
松原《マツバラ》 枚岡の西に接し、大坂玉造口に至る捷路あり。(英田村大字松原)往時大和川の支脈玉串川此地に来り一支を分ち、松原の西を過ぎ北進し草香江深野池に入る。〇日本戦史(大坂役)云、慶長十九年十月朔日、片桐且元其子貞隆髻を断ち大坂城を去る、士率五百を従へ戒心して玉造門を出づ、七隊長之を護送す、且元父子松原に至り酒を酌みて七隊長に訣別し茨木城に赴く、翌年四月廿八日、将軍秀忠河内口の陣地割を命じ、本多康紀同康俊を遣し松原に営し、奈良街道を守備せしむ、此日藤堂氏の士長田村(今楠根村大字長田、松原の西一里許)の番所を襲ふ。古|三野《ミノ》県あり、後の河内若江二郡は之より出でたり。古事記水垣宮(崇神)段に河内之美努村とあるは茅努の誤なるべければ之を除く、日本書紀、清寧巻に三野県主小根あり、姓氏録、河内国神別、美努連、角凝魂命四世孫天湯川田奈命之後也、又天武紀、白鳳十三年、三野県主賜姓曰連、などあれば其大概を知るべし。延喜式、若江郡御野県主神社今三野郷村に在りて、河内郡英田村と相混ずるは、是れ玉串川の沿岸なれば、地形変動する所ありしならん。三野郷は和名抄に其郷名なし、河内郡に英多郷(今英田村)ありて若江郡御野県主神社は英多郷の南に存すれば今英田村三野郷村は三野県の本拠なるや明なり。続日本後紀、(巻十五)「難波部主足改本姓、賜美努宿禰、貫河内国若江郡」とある亦傍証とすべし。〇東寺文書、正和三年、七条院領、河内国美濃勅旨田。
 
御野県主《ミノノアガタヌシ》神社 延喜式若江郡御野県主神社二座とありて今三野郷村大字|上《カミ》之島の御野郷辻に存す、三野県主の祖神を祭る。〇延書式河内郡|津原《ツハラ》神社、今三野郷村大字市場に在り、玉串明神と称し、傍に津原池あり。〔名所図会〕
補【御野県主神社】〇神祇志料 御野県主神社二座、今河内郡上島村御野郷辻にあり(河内志・河内国図)蓋河内御野県主の祖神也(日本書紀・延喜式)
 按、御野県主其出自を詳にせず、続日本後紀、三代実録を考ふるに若江郡美努宿禰主足また美努連清名と云人みえ、姓氏録河内神別美努連は角凝魂命三世孫天湯川田奈命の後とあり、此に係らば御野県主或は其同族也
醍醐天皇延喜の制、祈年祭並に鍬靱各一口を加奉る、(延喜式)凡そ九月廿八日祭を行ふ(式社細記)
 
玉串川《タマクシガハ》 この川は宝永年中新大和川改疏以前には、大和川の北支流にして、水量大なりき、今は一条の溝※[さんずい+血]を遺し、旧河道開墾して新田と為る。南高安村より楠根《クスネ》村まで凡三里にして、長瀬川に合す。〇玉串の名は玉串明神より出たるならん、荘園考所引正安四年文書玉櫛荘あり。玉串明神は東岸に在り、社域広大なり、(三野郷村大字市場)社の北に古へ玉串川の一小支北流して深野池に入りしが、今は全く絶ゆ。
 
新居《ニヰ》卿 和名抄、河内郡新居郷。〇此郷今詳ならず。枚岡南村にあたるべきか、四条畷の辺を曰ふに似たり。
 
四条畷《シデウナハテ》 枚岡南村大字四条の野を云ふ、古墳あり瓢箪山と称す。太平記を按ずるに、正乎四年正月、北軍高師直男山交野より北河内に打て出づ、兵六万を分ち、伊駒山の南及び四条畷飯盛山外山四処に配り、師直親ら余軍を将て其後に居る、伊駒山南と云は即枚岡なるべし、暗峠の口なり、外山は南木志に中山に作る今詳ならず、師泰(師直弟)は別に一軍を以て堺浦に屯す、楠正行は之を見て往生院(今池島村大字六万寺)に逆寄せし、正月五日兵三千を以て四条畷より進み敵を撃ちて京街道を押し、飯盛山の麓に至り力戦之に死す。(往生院参看)〇南北乱の時北軍は大略二路に分れ、直に北河内より入る者、難波を迂廻し住吉天王寺に入る者の両途あり、南軍亦此両途を取る、当時河内難波の間に大沢巨浸あるを以て、両軍互に虚実の勢を相し、両途に会戦したり。正平十四年の役、南山巡狩録の記事最此状を洞見するに足る。当時北軍は難波を大手の本戦と為す、「十二月北方足利義詮摂津(442)河内に発向、廿日義詮は大手に発向せんが為め其勢七万余騎なり、太平記井に異本合考園太暦には、義詮の軍勢を以て二千騎ばかりとしるせり、廿三日義詮尼ヶ崎にむかふ、〔園太暦東寺長者補任〕廿四日には搦手の大将畠山大夫入道々誓、八ヶ国の勢二十万騎辰刻に京を立ち八幡より河内路に打入り、廿五日四条村に於て初度の合戦あり、〔園太暦〕廿六日和田楠の手の者共一人も出さざれば大手搦手の勢同日に川をわたりたり、住吉天王寺へ入る、しかれども大将義詮猶いまだ川を越えず尼崎に陣し、赤松員世同則祐はこゝかしこに打ちりて斥候の備を全くす、仁木義長は三千余騎にて西宮に相集り、われ一人天下の大功を立てんと思案をなし陣を堅めて居たりしが、翌年春に至り畠山仁木不和出来、義詮京都へ引還す」〔太平記〕
 
桜井《サクラヰ》郷 和名抄、河内郡桜井郷、訓佐久良井。〇今|池島《イケジマ》村是なり、安康天皇桜井屯倉を建てたまふ。日本書紀云、帝恨無嗣、※[次/口]大伴大連金村、金村奏曰、請為皇后次妃、建立屯倉之地、便留後代、令顕前迹、以桜井屯倉、与毎国田部給賜」とあり、応神巻に、桜井田部連とあるは追書なるべし。国造本紀云、穴門国造、桜井田部連同祖、邇伎都美命之後也。
桜井寺は六万寺《ロクマンジ》往生院の古名なるべし。日本書紀、崇峻天皇三年、学問尼善信等自百済還住桜井寺とあり、然れども、大和高市郡豊浦寺も桜井の名あり、孰に当るべきか、又続日本紀、「天平十六年、天皇行幸難波宮、安積親王緑脚病、従桜井頓宮還」とあるは即此地なり。
 
梶無《カヂナシ》 延喜式、河内郡梶無神社。今六万寺字桜井に在り、船山明神と称す、社北に柁無の字あり、〔河内志〕石清水文書、延久四年官牒に「河内郡、字林燈油薗、免田拾肆町伍段、参条土江里、肆条梶無里、陸条馬里、漆条祝刀里」などと云ふは此地方なるべし。
 
往生院《ワウジヤウヰン》 池島《イケジマ》村大字|六万寺《ロクマンジ》に在り。名所図会云、往生院六万寺は岩滝山と号す、額は聖武天皇後陽成帝の宸翰なり、天平中行基菩薩開創、封七十戸一百畝を賜はり勅願所たり、字多天皇修補、食地三十余町あり、貞和五年楠正行之に拠り北軍を撃つ、高師直寺を焼き田を没収す、天和年中浄土宗僧欣誉再興す、楠氏の石塔あり、東に山を踰れば鳴川《ナルカハ》千光寺に至るべし。〇太平記云、高兄弟は淀八幡に越年し、猶諸国の勢を調へ河内へは向はんと議しけるが、楠已に逆寄にせんために吉野へ参りて暇申し、今日河内の往生院に着きぬと聞えければ、師泰先づ正平凶年正月二日淀を立ちて、二万余騎和泉の境の浦に陣を取る、師直も翌日三日の朝八幡を立ちて六万余騎四条に着く、此儘軈て相近づくべけれども、楠定めて難所を前に当てゝぞ相待つらん、寄せては悪しかるべし、寄せられては便あるべしとて、三軍五所に分れ、鳥雲の陣をなして、陰に設け陽に備ふ。
 
高安《タカヤス》郡 明治二十九年廃止して中河内郡へ入る、高安山の麓にして小郡なりき。和名抄、訓多加夜須、四郷に分てり。後世或は恩智郡と呼びたる事あり。三代実録、元慶三年、常澄宿禰宗雄同秋原等六人、賜姓高安宿禰、宗雄等自言、先祖後漢孝章皇帝之後也、裔孫高安公陽倍、天万豊日(孝徳)天皇御世、立高安郡、陽倍二字、与八戸両字語相渉、仍後賜八戸史姓、末孫員川等、承和三年、改賜常澄宿禰、望請複本姓高安。(八戸南河内郡八上八下郷参考すべし)〇高安は往時蕃別繁殖の地なり、姓氏録云、右京諸蕃、高安下村主、出自高麗国人大鈴也。(摂津諸蕃、高安漢人、出自狛国人小須々也)河内諸蕃高安造、八戸同祖、八戸、出自後漢光武孫章帝之後尽達王之後也。〔続紀、天平神護二年、河内国人※[田+比]登戸東人等九十四人、賜姓高安造〕河内未定雑姓、高安忌寸、阿智王之後也。
高安里は伊勢物語に見ゆ、或は曰ふ物語の女子は高安村|神立《カウダチ》の人なりと、神立は大和国へ通ずる十三《ジフサン》峠の口なれば往来の便自ら多し。〇南山巡狩録云、延元三年三月より北畠陸奥国司源顕家の軍は、八幡住吉の辺に数度の合戦あり、五月天王寺に陣し玉ふ、廿一日高師直と合戦に及ばれ討死せらる、この日高木遠盛は高安にあり、敵陣を焼払むとせしかば、天王寺より助け来りし程に、遠盛まづその勢を追ひはらひ、やがて在家を焼たりける。〔高木遠盛申状〕
 君があたり見つゝを居らん生駒山雲なかくしそ雨は降るとも〔伊勢物語〕夜もすがら生駒おろしに月きえてころも打也高安の里〔新撰六帖〕
補【高安郡】〇和名抄郡郷考、高安、多加夜須、風土記東限庄田山、西限榛田山、南限箕輪、北限氷川、一本云、此郡東西三里二十五歩、南北七里一歩、土地上農民用繁多、出木綿鳥獣、合郷八所、庄保二所、神戸三所。節用集、高安。三代実録元慶三年、常澄宿禰宗雄、常澄宿禰秋原等六人賜姓高安宿禰、秋雄等自言、先祖後漢光武皇帝孝章皇帝之後也。裔孫高安公|陽倍《ヤヘ》、天万豊日天皇御世立高安郡、陽倍二字与八戸両字語相渉、仍後賜八戸史姓、末孫正六位上八戸史貞川等、承和三年改八戸史賜常澄宿禰、望請改八戸両姓複本姓高安。天智紀六年築高安城。続紀文武二年八月修理高安城。
 附録、今按、風土記恩智郷多出綿絮松柏、有神、号恩智大明神、所祭大御食津命也、土地上農民用繁多、公穀百三十丸、仮粟七十丸、本抄恩智と唱ふる郷なし。神名式に高安郡恩智神社、玄蕃式に河内国恩智一座。姓氏録に河内神別恩智神主高魂命児伊久魂命(443)之後也。三代実録恩智大御食津比古、恩智大御食津比※[口+羊]命。河内鑑に高音郡恩智などあれど何れも郷名なし、たゞ風土記のみ恩智郷と記せしは後の世の唱なるべし、今も神社と地名と共に高安郡に在り。上田百樹云、俗高安郡を恩智郡と呼べり、しかれば社号を郷或は郡に負ふせ呼たるなるべし。
補【高安里】〇伊勢物語に見ゆる高安里といふは、今神立村なりと、土人の伝説なり。神立の小板屋の女といふが即高安の女子にて、物語に見ゆる
 君があたり見つゝを居らむ伊駒山雲な隠しそ雨は降るとも
 君こむといひし夜毎に過ぎぬれば頼まぬものの恋ひつつぞぬる
は其作とかや。
 
玉祖《タマノオヤ》郷 和名抄、高安郡玉祖郷、訓多林乃於也。〇今北高安村是なり、玉祖神社あり。貝原諸州巡云、神立村に玉祖大明神あり、大道に鳥居あり、社まで列樹の松あり、是在原業平をまつると云、即高安の神なり、伊勢物語に見ゆる業平が高安の女に通ひしは此里なり。
 
玉祖《タマノオヤ》神社 北高安村|神立《カウダチ》の東十三峠の登口に在り、(名所図会云、供僧を薗光寺竹之坊と云ふ)玉造氏の祖神を祭る。姓氏録云、河内国神別、玉祖宿禰、天高御魂乃命十三世孫建荒木命之後也。又云、玉祖玉作、高御魂命孫大赤玉命之後也、天津彦火瓊々杵尊、降幸於葦原中国時、与五氏神部、陪従皇孫降来、是時造玉璧、以為神幣、故号玉祖連、亦号玉作連。〇神立は神※[まだれ/寺]《カウタチ》の謂なり、元和元年大坂夏の役に将軍秀忠此地に営す、陣地跡を花岡と称す。
補【玉祖神社】〇神祇志料 今神立村にあり、玉祖大明神といふ(河内志・河内国図・神名帳考・南遊紀事)蓋玉祖宿禰の祖神櫛明玉命を祭る(新撰姓氏録・日本書紀・古語拾遺)櫛明玉命又天明玉命又玉祖命
 按、日本紀一書に豊玉神あり、蓋同神と聞ゆといふ、高魂命の藤にして伊弉諾尊の児也(日本書紀・古事記・姓氏録・古語拾遺)初天照大神磐窟戸に隠り坐時、此神八坂瓊の曲玉を造り、皇孫命天降り給ふに及て陪従仕りき(日本書紀・古事記)凡そ毎年六月十六日を例祭とす(式社細記)
 
十三峠《ジフサンタウゲ》 神立より大和国(生駒郡)国界まで廿三町、道傍に冢十三あり、因て名とす。大坂天王寺より龍田法隆寺に赴く路なり、伊勢物語に見ゆる河内通ひの遺跡とぞ。〔名所図会〕
鴨森《カモノモリ》は神祇志料云大竹村(同北高安村神立の西北なり)鴨森に鴨神社あり、延喜式に高安郡御祖神社鴨神社并び載せ、三代実録に御祖神御子宮神共に授位あるを考ふるに、御子宮神即鴨森にて、御祖神は鴨御祖神社なり。〇都夫久美《ツフクミ》神社は延喜式に列す、今水越(北高安村)の中森《ナカノモリ》是なり、久美大神と称す、姓氏録、河内神別積組造あり、物部阿刀同祖、于摩志麻治命の後也。
 
千塚《センヅカ》 千塚は北高安村の南部の大字なれど、古代壊冢の散在は此地に限極せず、北部大竹に円塚瓢塚の樹木叢生したる者あり、すべて大竹神立より中高安村大窪に至るまで十町余の間最多し、中高安村郡川の辺(相距八町)亦壊冢を見るべし。
人類学会雑誌云、高安郡|神立《カウダチ》大久保の二村多くの塚穴あり、坪井氏曰ふ此所には塚の崩れ方のさまぎまある中にはヨウロッパに在る純粋のドルメンと同じき形に変じたるものもありて甚だ面白し、予は曾て駿河駿東郡土狩村にも類似の者を見たりしが、此所程に順序が揃ひ居るものにはあらざりき、高安郡の塚穴調べ殊に崩れ方の度に異同有る事の調べは極めて興味あることなり、千塚の名を導き来りしも亦偶然ならざるが如し、形状亦種々にして完形をなすあり、半ば其形を存するあり、又纔に其痕跡を留むるあり、彼の石塊の草間に散乱せるも皆研究すべし、中には其形状の最も奇にして、石机と称すべき者あり、されば彼の外人の唱ふる石机なるものも始めは塚穴にして、後被土崩れ又変じて机卓に類するより、斯くはドルメンの名称を附与せしものなること亦疑ふべからざるなり。
 
坂本《サカモト》郷 和名抄、高安郡坂本郷。〇今|中高安《ナカタカヤス》村なるべし、高安城の麓なれば、坂本の名ありしならん。日本書紀、天武元年、坂本臣財長尾直真墨、率軍士三百、距於|龍田《タツタ》、次于|平石《ナラシ》野、時聞近江軍在高安城、而登之云々。此坂本臣財は本郷の人なる歟。御祖《ミオヤ》神社は中高安村大字大窪に在り。三代実録、貞観二年授位、延喜式に列す、蓋鴨御祖神なり。〔名所図会神祇志料〕
 
山畑《ヤマハタ》 中高安村の大字なり、大窪の南に接す、延喜式、佐麻多度神社あり。(河内志〕〇相伝、在昔山畑に長者あり、信徳丸と曰ふ、母は死し継母家刀自たり、弟は継母の所出なり、継母二男を立てゝ惣領と為し信徳丸を逐ふ、信徳は幼にして天王寺舞楽童たりしを以て天王寺に潜み乞丐と為る、同国に富家|蔭山《カゲヤマ》の長と云あり、其一女信徳丸を慕ひ天王寺に詣り祈願し、遂に親の聴を得て夫婦と為り、其家大に興る、彼山畠の母子は惣領を奪ひたる業報により衰滅したりとなん。〔名所図会〕是遺話は近世浄瑠璃に組立て天王寺|合邦辻《ガツパウガツジ》と題す、河内志云、鐘冢、在山畑村、俗云真徳麿旧跡、事見与呂法師曲詞、或曰女嬬従五位下百済王真徳墓、延暦中人。
 
(444)郡川《コホリガハ》 郡川は今中高安村の大字にして、東に法蔵寺あり、寺の上方を高安山と為す、此地古高安の郡家の址ならん。〇人類学会雑誌云、近年大学教師モールスは日本塚穴論の一篇を著し、高安郡服部川郡川諸村に散在せる塚穴に就き其所見を述べたり、此辺一帯の地巨石の錯乱して草叢の間に横はるもの、皆これ塚穴内部を構造せる石塊の崩壊せしものとす。〇郡川の北に接するを大字|服部川《ハトリガハ》と云ふ、北高安村と同く、古塊の崩壊せる者多し。
 
高安山《タカヤスヤマ》 高安山は古事記高津宮の段に見ゆ、後世には専ら信貴山と称す。十三峠以南中高安村の上方に標高四八〇米突に及ぶ、之を鉢伏《ハチフセ》山と称す。鉢伏の南十二町を雁多尾《カリンダヲ》畑山と曰ひ、堅上《カタカミ》村に属す。〇高安山は南北一里に過ぎずと雖、竹木満山渓水多し、灌漑に利あり、即恩智溝の本源なり。(元亨釈書云、生馬仙者、入河内高安県東山、住深谷中、寛平九年沙門明達、到其庵、便以瓜与達云々)
 
高安城《タカヤスノキ》址 高安の鉢伏山に在り、五老峰とも称す。天智天皇初て此に築き烽火を置き、難波津大和京の警備と為す、和銅五年、高安烽を高見(生駒山)に移し本城廃したり。永禄年中松永久秀信貴山に築きたる時、属塞を鉢伏に置きたり。(大和に重出す)
日本書紀、天智天皇六年、築倭国高安城、八年、天皇登高安嶺、議欲修城、仍恤民疲、止而不作。天武天皇元年、坂本臣財率軍士三百、距於龍田、次于平石野、時聞近江軍、在高安城而登之、乃近江軍知財来、委焚税倉、皆散亡、仍宿城中、会明臨見、西方自大津丹比両道、軍衆多至、財自高安城降、以渡衛我河、戦于河西。持統天皇三年、行幸高安城。〇続日本紀、文武天皇二年、修理高安城。大宝元年、廃高安城、其材具賜大和河内民。和銅五年、罷高妥烽、始置高見、以通平城宮焉。
補【高安城】〇日本書紀〔天武天皇元年〕〔坂本臣財、長尾直真墨等〕率三百軍士距於龍田、復遣佐味君少麻呂、率数百人屯大坂、遣鴨君蝦夷率数百人守右手道、是日坂本臣財等次于平石野、時聞近江軍在高安城而登之、乃近江軍知財等来、以悉焚税倉皆散亡、仍宿城中、会明臨見西方、自大津丹比両道軍衆多至、顕見旗幟、有人曰、近江将壱伎韓国之師也、財等自高安城降、以渡衛我河与韓国戦于河西、財等衆少不能距、先是遣紀臣大音命令懼坂道、於是財等退懼坂道而居大音之営、是時、河内国司守来目臣塩籠有帰於不破宮之情、以集軍衆、爰韓国到之、密聞其謀而将殺塩籠、塩籠知事漏、乃自死焉、経一日、近江軍当諸道多至、即並不能相戦以解退。
 
掃守《カモリ》郷 和名抄、高安郡掃守郷。〇今南高安村の中大字|黒谷《クロダニ》教興寺垣内などにあたる、掃部神社黒谷に存す。〇姓氏録云、掃守田首、武内宿禰男紀都久宿禰之後也。日本書紀、孝徳天皇五年、遣大山上掃部角麿於新羅。
掃部神社は三代実録貞観十六年河内国掃部神授位、蓋掃守氏の祖神なり。掃部の故典は古語拾遺に詳なり、曰天祖彦火尊、娉海神之女豊玉姫、生彦瀲尊誕育之日、海浜立室、于時掃守連遠祖天忍火命、供奉陪侍、作箒掃蟹、仍掌鋪設、遂以為職、号曰蟹守、今俗謂之借守者、彼詞之転也。(天忍火蓋誤忍人)
 
教興寺《ケウコウジ》 南高安村に在り、民戸大邑を成し、大字をも教興寺と称す、即古の高安寺なり。
 立田やまあらしの音も高安のさとはあれにし寺と答よ、〔玉葉集〕          阿一上人
今真言宗を奉ず、僧勝鬘開基、崇峻天皇元年創建す。〔地誌提要〕
 
高座《タカクラ》神社 南高安村大字|垣内《カイト》の東に在り、岩屋《イハヤ》弁天と称す、供僧寺其傍に在り、即|春日戸《カスカベ》神社なり。延喜式、高安郡天照大神高座神社二座、並大社、元号春日戸神、〇名所図会云、高座神社は教興寺の東なる岩窟に在り、弁財天と称し寺僧之を祭る。〇按ずるに高座は岩窟の一称なり、二座は天照大神春日戸神にして、伊勢遷坐の途次の頓宮ならん、春日戸は姓氏録春井連ならん、高安宿禰の一党なり、春日井連、河内造同祖、後漢光武帝七世孫慎近王之後也。神社志料云、延喜式、春日戸社坐御子神社は今山畑(中高安)宝積寺境内に在り、高倉祭と云事ありと、御子神は春日戸氏の祖神にて、天照大神には所因なかるべし、新抄格勅符、大同元年河内四戸を春日部神に充奉り、三代実録、貞観元年春日戸神授位、みな天照大神に関せざる也。
補【高座神社】〇神祇志料 天照大神高座神社二座、元名を春日戸神といふ (延喜式)今教興寺村の東山にあり(河内志・河内国図)蓋天照大神高御産巣日命を祭る(日本書紀・古事記・延喜式)平城天皇大同九年河内四戸を春日戸神に充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下春日戸神に従五位上を授け(三代実録)
 按、所謂春日戸神は高座神一座をさせるにて、天照大神にかゝれるにはあるべからず、大神に位階を奉る例なければ也
醍醐天皇延喜の制並に大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ六月七日を例祭とす(式社細記)
 
恩智《オンチ》 今|南高安《ミナミタカヤス》村に属す、恩智神社あり、食《ミケ》の事を知れる大祀にして古は神宮寺あり、今(445)大字神宮寺は其遺称なり。南北朝の頃恩智氏あり、楠木和田と協力王事に勤めたり、右近将監満一の名俗書に見ゆれど、事実詳ならず。〇姓氏録、河内国神別恩智神主あり、高魂命児伊久魂命之後也と見ゆ、或云、凡河内は恩智河内なるべし、然れども恩智は古音オホチなるべくオホシには非じ、猶所考あるべし。和名抄渋川郡志紀郡共に邑智《オホチ》郷あり。
 
恩智《オンチ》神社 南高安村大字恩智の東に在り、祠境幽古なり。文徳実録三代実録に恩智大御食津比古命、恩智大御食津比※[口+羊]命二座と為す、蓋古事記、那岐耶美二神所生の大宜都の神、又日本書紀保食神と同霊なり。神秘抄に豊受大神同体と為す、延喜式名神大社に列す。〇神祇志料云、恩智神社蓋御食の事を知り給ひて大なる功坐す神也、〔参取延喜式大倭本紀延暦儀式帳等大意〕之を河内二宮と云ふ、〔神名帳頭書〕天平神護二年、河内丹後播磨美作三十七戸を神封に充奉る。〔新抄格勅符〕
補【恩智神社】〇神祇志料 恩智神社二座、今恩智村恩智山にあり(河内志・河内国図・神名帳考証・国華万葉記)思智大|御食津《ミケツ》比古命・恩智大御食津比※[口+羊]命を祭る(文徳実録・三代実録)
 按、神秘抄外宮同体神とするもの大御食津比古の名に依て云るにや、姑附て考に備ふ
蓋御食の事を知り給ひて大なる功坐す神也(参取延喜式・大倭本紀・娃暦儀式帳大意)之を河内二宮と云ふ(神名帳頭注)称徳天皇天平神護二年、河内、丹後、播磨、美作地三十七戸を神封に充奉り(新抄格勅符)文徳天皇嘉祥三年十月辛亥、二神に正三位を授給ひ、(文徳実録)清和天皇貞観元年正月甲申、並に正三位勲六等より従二位に叙され、九月庚申雨風の御祈に依て幣便を奉り(三代実録)醍醐天皇延喜の制並に名神大社に列り、祈年月次相嘗新甞の案上官幣及祈雨の幣帛に預る(延喜式)凡そ其相甞祭には恩智神主官幣を受て之を奉りき(令集解)一条天皇正暦五年四月戊申、中臣氏人を宣命使として幣帛を奉らしむ、疫癘放火の祈に依て也(本朝世紀、参取日本紀略)凡そ毎年六月廿七日祭を行ふ(神社覈録)
 
恩智《オンチ》川 思智山高安山の溪澗本源とし、北に流れ寝屋川に会す、灌漑の溝※[さんずい+血]なり、水尚乏きを以て竪下村より大和川の水を堰入れ之に通ぜしむ、長凡三里。
 
三宅《ミヤケ》郷 和名抄、高安郡三宅郷。〇姓氏録云、河内国諸蕃、三宅史、山田宿禰同祖(魏司空昶之後)忠意之後也。此郷今詳ならず、蓋南高安村恩智にあたるごとし、続日本紀宮池駅あり亦是歟。
 
神宮寺《ジングウジ》 此寺恩智明神の供僧にして、古は三宅寺と称したるならん。続日本紀、孝謙天皇天平勝宝八歳、行幸難破、至河内国、御智識寺南行宮、遂幸知識山下|大里《オホサト》三宅|家原《イヘハラ》鳥坂等七寺、礼仏。〇延喜式大県郡|常世岐姫《トコヨノチマタヒメ》神社は神宮寺の西なる八王子権現是なり、三代実録貞観九年始て官社に預る、蓋常世連の祖神なり、姓氏録に常世連は燕国公孫淵の後と為せり。
宮池《ミヤイケ》駅は続紀、天平十七年、行幸難波宮、不予、車駕還平城、夕宿宮池駅、とあり、三宅に同じかるべし。
 
大県《オホカタ》郡 明治二十九年廃して中河内郡へ入る、境域最小にして今堅上堅下の二村に過ぎず。然れども和名抄既に六郷に分ち、一時堅上堅下二郡を建てられたり、其地狭少と雖人口夙に稠密なりしを知るべし。〇大県郡初め片塩と称したり、即古の凡河内国造の本居なり、古事記「天津日子根命者、凡河内国造之祖也」とありて、姓氏録「大県主、天津彦根命之後也」に作る是也。片塩《カタシホ》は安寧天皇浮穴宮を営みたまへる地なり、国郡制置の時堅上堅下の二郡に分れ、尋いで之を併す、続日本紀云、養老四年、河内国堅下堅上二郡、更号大県郡。〇片塩万葉集片足羽に作る。片足羽《カタシハ》川あり、即大和川の別名歟、片塩の地にして此称あり、河内志は石川の旧名と為せど所拠を知らず、万葉集に「見河内大橋、独去娘子歌」ぁり、
 級照る、片足羽河の、さ丹塗の、大橋の上ゆ、紅の、赤裳すそ引き、山藍もて、摺れる衣きて、たゞ独り、い渡らす児は、若草の、夫かあるらむ、橿の実の、ひとりかぬらむ、問巻の、ほしき我妹が、家の知らなく。
此大橋は堅下村大字|安堂《アンダウ》より西へ、志紀郡船橋村(今南河内郡道明寺村に属す)に架したる者ならん。
 
巨麻《コマ》郷 和名抄、大県郡巨麻郷。〇今堅上村大字|本堂及雁多尾畑なるべし、延喜式、大狛《オホコマ》神社その本堂の生土神なれば也。〔河内志〕高安山の東南にして、雁多尾畑の北なる山村なり.。
 
家原《イヘハラ》 家原の名今亡ぶ、雁多尾畑を曰へるにあらずや。続日本紀「天平勝宝八歳、孝謙天皇、家原寺礼仏」の事見ゆ。又観心寺古文書に、伽利帝夷母の封田家原里に在る事、史徴墨宝考証に載せたり、雁多尾畑《カリンダヲハタ》は伽利堂畑の訛にあらずや。興国四年二月、大夫尉源康政寄附状曰、観心寺伽利帝夷母御宝前、常燈料所、光延名田地事、合参段、在河内国大方郡家原里。
 
金山《カナヤマ》神社 延喜式、金山孫神社今青谷に在り、八大金剛童子と号す。延喜式、金山孫女神社今雁多尾畑に在り、山王権現と号す。〔河内志〕此二神は神代巻に見ゆる伊邪耶美命の所生なるべし。
 
(446)光徳寺《クワウトクジ》 堅上村大字雁多尾畑の中央に在り。雁林堂《ガンリンダウ》と称す相伝ふ、円融法皇の勅願所にして、憎法円(延暦寺)開基、安貞二年俊円僧都(園城寺)再興し、親鸞上人に帰依して信乗と改名し、松谷《マツタニ》念仏房と号したり、親鸞七条の制文を当寺に遺し、今に真宗の名藍たり。〔名所図会二十四輩図会〕日本図経に載する雁林堂鐘の款識曰、
  南旡旡量寿仏 夫松谷者風水地霊而登東広旧跡春日山兀朝陽照軒窓西海入海曜夕日北信貴宝殿南□法喜金剛霊山集四時実景復雁林堂傍有一井泉名曰龍水福井一汲顕延寿福徳※[身+沈の旁]味不捨其楽仏法威徳以可敬信于時寛喜己丑別当俊円誌焉冶工藤原家綱
補【堅上】○二十四輩巡拝図会 松谷光徳寺は東派院家にて、大県郡雁多尾畑松谷にあり、円融法皇の御勅願にして、延暦寺法円を延て別当とし、台密二教を奉じて七堂伽藍の霊区たり、其後俊円僧都親鸞の弟子となり、信の一字を聖人よりさづかり、仏念坊信乗と改名す、俗姓は藤原氏、勧修寺内大臣高藤公の後胤前武蔵守範俊の子なり、真宗御掟七ケ条、聖人当山に下向ありて染筆あらせたまひ、信乗法印へ授与す。
 
賀美《カミ》郷 和名抄、大県郡賀美郷。〇今堅上村大字青谷などにあたるか、青谷は雁多尾畑の南にして、大和川に臨み亀瀬越の山中なり。賀美郷蓋古の堅上郡の遺名にして、今の堅上村即古郡域ならん、地勢高処を占む。続日本紀、神護景雲三年、河内国大県郡人、従五位下上村主五百公、賜姓上連。
 
鳥取《トトリ》郷 和名抄、大県郡鳥取郷。〇今堅下村大字|高井田《タカヰダ》なり、鳥取氏の祖天湯川田命の祠此に存す、姓氏録云、河内神別、鳥取、角凝魂命三世孫天湯河桁命之後也。又云、垂仁天皇々子、誉津別命、年向三十、不言語、于時見飛鵠問曰、此物何爰天皇悦之、遺天揚河桁尋求、詣出雲国宇夜江、捕貢之、即姓鳥取連。
天湯河田神社は延喜式に列す、高井田の西に在り、延喜式、宿奈河田神社は高井田の東に在り、〔河内志〕宿奈は本社の苗裔神なるべし。〇日本書紀云「鳥取造祖天湯河板挙、詣出雲捕獲鵠献之」と、古事記は白鳥を越国に獲と為し、異説あるに似たり。
 
竹原井《タカハラヰ》 堅下村高井田は竹原井田の謂とす、此里は亀瀬越の西口にして景勝の地なり、平城宮の朝に離宮を此に置かる。大和川の水龍田以西に及べば山に触れ石に激し結束凡一里此に至り稍広し。〇名所図会云高井田村竹原山に石井あり、井傍に住吉岩あり、住吉神の禊場と云ふ。
  上宮聖徳太子出遊竹原井之時、見龍田山死人、悲傷歌、
 家ならば妹が手纏かむ草まくらたびに臥《コヤ》せる此の旅人あはれ、〔万葉集〕
 たかはらの石井の水やあまるらん立田の山のさみだれの頃、〔夫木集〕        光俊
竹原井離宮址〇続日本紀、養老元年、行幸難波、還至竹原井頓宮、造行宮司賜禄。天平六年、車駕発自難波、宿竹原井頓宮、免安宿大県志紀三郡今年田租、以供竹原井頓宮也。天平感宝八歳、行幸難破、至河内国、御智識寺南行宮。宝亀二年、車駕自難波還、到竹原井行宮。
 
鳥坂《トリサカ》郷 和名抄、大県郡鳥坂郷。〇今堅下村大字安堂太平寺にあたるか、高井田の北に在り、鳥取郷の坂下なり、続紀、天平勝宝八載の条に孝謙天皇智識寺南の行宮(竹原井)に御し、鳥坂寺の仏を巡礼したまふ、今安堂に大日寺あり、鳥坂寺の遺なるべし。河内志に鳥坂寺址は高井田に在りと曰ふ、志紀郡国分寺参看すべし。〇普光廃寺、在高井田村、延暦三年、寺僧勒韓獲赤烏献之、因授大法師、并施稲一千束、一名井上寺、又名鳥坂寺。〔河内志〕
智識寺《チシキジ》址 智識寺は聖武天皇盧遮那仏発願の勝緑を結びたまふ所にして、拾芥抄に拠れぱ太平寺即是なり。今観音堂あり、太平寺《タイヘイジ》は其大字と為る。或書云、寛永年中此地に金銅仏を獲たる事あり、之を彼観音堂に置く、蓋智識寺は中古毀滅し、始末詳ならず。〇続日本紀云、天平感宝元年、天皇(孝謙)太上皇(聖武)太后(光明子)行幸東大寺、白八幡大神祠曰、去辰年(天平十二庚辰)河内国大県郡の智識寺に坐す盧舎那仏を礼奉て則朕も欲奉造と思とも得不造し間云々。又天平勝宝八歳、行幸難波、至河内国、御智識寺南行宮、遂幸智識山下大里三宅家原烏坂等七寺礼仏。天平神護元年、幸河内国、捨智識寺食封五十戸。〇扶桑略記云、応徳三年六月、河内国智識寺顛倒、※[土+念]像大仏砕如微塵、長六丈、観音立像也。(※[土+念]像は猶塑仏と云ふごとし)
石上《イシガミ》神社は三代実録貞観九年官社に預り、延喜式に列す、今太平寺に在り熊野権現と称す。〔名所図会〕
 
片塩浮穴宮《カタシホウキアナノミヤ》址 安寧天皇の皇居なり、大和志葛下郡に宮址を擬したるは謬れり、片塩は大県郡の旧名にして、姓氏録、河内国神別、浮穴連あれば此地に求むべし。(大和磯城郡にも堅塩あり参考すべし)日本書紀雄略巻に堅磐此云柯陀之波とあれば、石上神と相因む者に似たり、延喜式、大県郡石上社、今堅下村大字太平寺に在り。〇古事記云、師木津日子玉手見命、坐片塩浮穴宮治天下也。日本書紀云、磯城津彦玉手看尊、遷都于片塩、是謂浮穴宮。姓氏録、河内神別浮穴直、移愛受比命五世孫、弟意孫連之後也。
 
(447)津積《ツツミ》郷 和名抄、大県郡津積郷。〇津積は延喜式に河内国津積駅馬七疋とありて、駅家なり。今堅下村大字大県に擬すべき如し、又続紀に見ゆる智識寺の次なる山下寺は此に求むべし。
 
高尾《タカヲ》 名所図会云、大県の東に高尾山あり、老松巨巌の奇あり、延喜式鐸神社嶺上に鎮座す。〇按ずるに「姓氏録、河内諸蕃、高尾忌寸、秦宿禰同祖融通王之後也」と見ゆ。隣郷大里史と同族なれば相因む所あり。又延喜式、大県郡|鐸比古《スズヒコ》鐸比売の二社あり、鐸の神名詳ならず、姓氏録浮穴直の祖移愛受比命あり疑ふらくは移愛受比古命の誤脱ならん、即此に祀る祖神と為す可し。
 
大里《オホサト》郷 和名抄、大県郡大里郷。〇今堅下村大字|法善寺《ホフゼンジ》平野の地なるべし。続紀孝謙天皇天天平勝宝八歳七寺巡拝の次を考ふるに智識山下大里三宅とありて、三宅は高安なれば大里は直に之に接す、法善寺の大字は即大里寺の遺に非ずや。〇姓氏録、河内国諸蕃、大里史、太秦公宿禰同祖、融通王之後也。
 
平野《ヒラノ》 竪下村大字法善寺の北に在り。延喜式、若倭彦命若倭姫神社二座今此に在り。三代実録、貞観元年授位の事見ゆ、〔名所図会〕何氏の祖神にや詳ならず。〇河内志に清寧天皇埴生坂門原陵を平野の古墳に擬したり、此は帝陵にあらずと雖、誰の墓たるべきか。
 
若江《ワカエ》郡 明治二十九年廃して中河内郡へ入る、其郡域大略玉串川長瀬川及深野池に囲まれ、三角形を成す。本来若江渋川一境を成し、凡川内国に属し、又三野県あり。(高安の三野参照すべし)国郡制置の時、若江渋川二郡に分れたりと雖、延喜式渋川神社御野神社を若江郡に列せしめ、和名抄巨麻郷を若江郡に隷ぜしむる等混乱あり。〇和名秒、若江郡、訓和加江、七郷に分つ、其巨麻郷は今久宝寺村に当れば、地形若江郡に属すべからず。続日本紀「養老四年、河内国若江郡人、河内午人刀子作広麿、改賜下村主姓、免雑戸号」とありて別に巨麻の下郷の名あるに似たれど、和名抄に之を欠けり。
 
長瀬川《ナガセガハ》 一名|曙川《アケガハ》(又明川)と曰ふ。旧大和川西北流の蹟にして、宝永中新河道成るの後乾涸して大抵新田と為るも、一条の溝※[さんずい+血]を存し、尚長瀬と称す、曙川村より楠根村に至る、凡三里。続日本紀、天平宝字六年、長瀬堤決、発単功二万二千二百余人、修造之。宝亀元年、修志紀渋川堤、其功費三万余人。。三代実録、貞観十二年、遣朝使築河内国堤、成功未畢、重有水害之恐、奉幣大和国諸社、祷雨※[さんずい+勞]無事、以河内水源出於大和国也。十七年、以右中弁橘朝臣三夏、築河内国堤、為其長官。
 
刑部《オサカベ》郷 和名抄、若江郡刑部郷。〇今曙川村にあたる、大字刑部あり。此郷古は物部氏の本居弓削と一郷なり、弓削宮址本郷に在り。〇姓氏録、河内諸蕃、刑部、出自呉国人李年孫也。(旧事紀云、宇摩志摩治命十一世孫、物部石持連公、刑部垣部刑部造等祖)
 
都塚《ミヤコヅカ》 曙川村大字都塚の南に都塚あり、玉串川の堤上也。延喜式都留美島神社あり、所祭詳ならず。(渋川郡布施村又都留美神社あり)
 
由義宮《ユゲノミヤ》址 称徳天皇僧道鏡(弓削氏)を寵任ありし比、一時弓削行宮に御し、遂に建てて西京と為し、河内職を置かる、由義宮是なり。河内志は宮址|八尾木《ヤヲキ》(今曙川村大字)に在りと為す、八尾木の鎮守社の西北八町許に別宮八幡社あり、(今八尾村大字別宮)名所図会之を以て宮址に擬せり。〇続日本紀云、称徳天皇天平神護元年九月、遣使造行官、於大和河内和泉等国、十月丙戌、車駕自和泉国日根郡新作行宮、到河内国丹比郡、丁亥到弓削行宮、授道鏡太政大臣禅師号、令文武百官皆拝之、又云、神護景雲三年十月、行幸由義宮、詔曰河内国為西京、権建肆※[廛+おおざと]於龍華寺、令河内職、免除安宿志紀田租之半。宝亀元年正月、入大県若江高安等百姓宅於由義宮酬給其価。三月行幸由義宮、臨博多川、以宴遊焉、葛井船津文武|生蔵《オホクラ》六氏男女二百三十人、供奉歌垣、
 ふちもせもきよくさやけし液可多我波ちとせをまちてすめるかはかも、(伯太川は此に長瀬川を云ふべし、伯太社は本川上流玉手村に在り)
 をとめらにをとこたちそひふみならす西の京はよろづよのみや。
按ずるに称徳天皇是歳八月崩御、道鏡亦黜けらる、由義宮の西京も六年にして廃す。
弓削《ユゲ》寺址〇弓削寺は蓋物部弓削氏の氏寺にして、道鏡盛満の日造営施入の事続日本紀并元亨釈書に見ゆ。道鏡は僧綱補任に「河内人、弓削氏、天智天皇孫志基親王第六子也」とあり、王孫を以て弓削氏の養子と為りたるか、疑はし。天平神護元年称徳重祚の詔旨中に「此禅師の昼夜朝廷を護仕奉を見るに先祖の大臣として仕奉し位名を継むと念ひて在人なりと云て退賜と奏しかども此禅師の行を見るに至て浄く仏の御法を継隆むと念行まし」とあるに拠れば、彼の弓削の祖排仏の魁物部守屋大連の裔孫たること明白なり。弓削寺址は曙川村大字東弓削と八尾木の問に在り。〔名所図会〕
弓削《ユゲ》神社〇延喜式、若江郡本社二座と在れど、其一座は今南河内郡志紀村大字弓削に在り、一座は本郡曙川村大字東弓削に在り、長瀬川を隔て相望む、其間は即ち弓削河なり。
(448) 真※[金+施の旁]もち弓削のかはらの埋れ木のあらはるまじき事とあらなくに、〔万葉集〕
 弓削社は和州石上神宮の苗裔神なるべし、即物部氏の氏神にして石上と同く布都神と称す。三代実録、貞観二年河内国従三位弥加布都命比古佐自布都神とある是か。
補【弓削郷】若江郡〇和名抄郡郷考、弓削、由介、神名式弓削神社二座。冠辞考、職員令造兵司の下の雑工部の集解に弓削|矢作《ヤハギ》等あり、さる人の住し所を後に弓削の村矢作の村などいふなるべし、続紀称徳天皇の御時、由義宮を造らせ給ひて行幸ありしことみゆるは即こゝ也、こゝは道鏡法師の故郷なりとぞ。平家物語、河内国弓削といふ所に道鏡法師といふものあり。諸州巡覧記、弓削村は太子堂の巽に在、百済の城址あり。河内鑑、弓削河原あり、玄賓僧都旧跡あり、守屋旧跡あり。万葉集七、真※[金+施の旁]もてゆげの河原の埋木の顕るまじきことにあらなくに。河内名所鑑、橘島は東弓削のうちなり、橘寺の旧跡あり、万葉七、橘の島にしをれば川遠みさらさでぬひし我下衣、又十六、橋の寺の長やに我いねし云々。〇今曙川村大字東弓削。〔次項、参照〕
 
弓削《ユゲ》郷 和名抄、若江郡弓削郷、訓由介。〇弓削は若江志紀に渉る地名なれど、此なる弓削郷は今|八尾《ヤヲ》村なり、日本紀垂仁巻、十個品部の一に弓削部あり、造弓職の謂也。日本書紀并に旧事紀に物部弓削大連守屋とあり、物部氏の邑なりき、然れども又異流あり。姓氏録云、河内国神別、弓削宿禰、天高御魂乃命孫天|※[田+比]和知可気流夜《ヒワチカケルヤ》命後也。
 
八尾《ヤヲ》 八尾は中河内郡の大邑にして、今郡役所を置き、鉄道線路は大和国より南河内郡柏原に至り、八尾を経由し、大坂に向ふ、戸数一千。〇八尾は箭負《ヤオヒ》の訛ならん、延喜式矢作神社今八尾村字矢作※[木+戚]樋に在り。〔河内志〕姓氏録云、河内国神別、矢作連、布都努志乃命之後也。蓋古言帯矢・造箭相通用し、令義解「職員令、造兵司雑工、謂弓削矢作等」とあり。又姓氏録、矢作連祖布都神とあるは弓削神社に同じかるべし。〇天文二十二年吉野詣記云、八尾金剛蓮花寺に行きつく、八尾と云所は鶯の名所なり、よの常のは尾十二枚かさなれり、此所のは尾を八枚かさね、すぐれたるよし申しけり、
 契りおきてこゝにぞきかんうぐひすの八尾のつばさ八千とせの声。          三条西公条
 
八尾城《ヤヲノシロ》址 八尾村大字|木戸《キド》あり、此なるべし。八尾の邑心にして寺内の東なり、木戸の南に荘之内《シヤウノウチ》の大字あり即城内か。〇南山巡狩録云、延元二年七月、小山三郎左衛門忠能高木八郎兵衛遠盛等八尾城に押よせ合戦をとげ、常陸房慶盛疵を蒙る、八月十六日、宮方高木八郎兵衛遠盛八尾城を責んがため打むかふ所に、城兵五条河原まで打出こゝにて合戦あり。〔高木遠盛申状〕十七日高木遠盛は昨日の軍に敵を追かけしばらく陣とり居ける所に、天王寺の敵再びここによせ来り遠盛またかの勢と合戦す、十八日高木遠盛は丹下城に押よせ、近郷を焼払ふ、十月五日、遠盛八尾城に押寄て城郭を焼払ふ。〔同上〕正平二年、細川顕氏河内国楠が城郭へ押寄せける時、正行は火を挙げて箭尾に出向ふ状を為し顕氏の大軍を誉田林《ホンダハヤシ》に敗る、同十五年、大和の官軍八尾を守りしが、龍泉落城しければ同〈陥る。〔太平記〕
長柄《ナガエ》神社は延喜式に列す一本長|栖《セ》に作る、長瀬堤の神なるべし、八尾村大字荘之内に在り、子守《コモリ》宮と称す、〔河内志神祇志料〕蓋|水分《ミクマリ》神の謂なり。〇別宮八幡社は八尾村の南に在り、相伝ふ称徳天皇由義宮の址なりと。〔名所図会〕
 
大信寺《ダイシンジ》八尾村の西、大字寺内に在り。慶長十二年僧光寿開基、真宗大谷派の名藍也、光寿は教如と号し即東本願寺の祖とす。
 
常光寺《ジヤウクワウジ》 八尾村大字西郷に在り、禅宗を奉ず、本尊地蔵菩薩は小野篁作と称す、寛治二年白河法皇熊野行幸の時駕を廻らされ舎利を寄進したまふ、至徳二年五郎大夫成澄と云者伽藍再建、康応二年足利義満詣拝し祈願所と為す、元和元年大坂役此地戦場と為る、寺中に藤堂氏軍士七十人の墓あり。〇日本戦史(大坂役)云、長曾我部盛親は九月六日早天増田盛次と共に城を出で敵に会ふ、長曾我部の兵五千、増田は兵三百を率ゐたり、路久宝寺を経て八尾に進む、先頭隊は別に萱振村に出づ、敵兵既に攻撃し来るを以て直ちに東向して開戦す、長曾我部の隊は銃卒後方に在れども応撃する能はず、稍騒擾の色あり、萱振の西に退却す、藤堂家信等進撃、八尾地蔵堂の前に至る、高虎も亦馬を玉串川の東堤に立て戦を督す、時に盛親未だ八尾に入らず、麾下三百騎を左右に配備し、皆馬を下り長瀬川の堤上に折敷かしめ、命じて曰く令を待たずして起つ者は斬らむと、今敵兵の突入し来り其距離十余間なるに及び、令して槍を竝べて下撃せしむ、藤堂の兵為めに散乱し、藤堂高刑遂に之に死す、長曾我部の兵既に藤堂の左先頭を破り、勢に乗じ敵を沼沢中に追撃し、騎士六十余人兵卒二百余人を殺し、猶進みて其援隊を破り大に之に勝つ、盛親長瀬川堤上に駐止し戦を罷む。(長瀬川は八尾久宝寺間を流る)栗栖《クルス》神社は三代実録、貞観四年援位預官杜、延喜式に列す、今常光寺の傍に在り、牛頭天王と称す。〔名所図会〕
補【玉串川】〇人名辞書 大阪夏の役起るに及びて、五月五日黎明木村重成今福に出づ、山口弘定及び内藤玄(449)忠に謂て日く、我出でて戦地を卜し、明日東旆を望んで雌雄を決すべしと、特に先導となり、松原、若江、萱根、八尾を巡歴するに、地利皆便ならず、唯若江東磧玉串川の堤傍を認め、以て戦地と定めて還る、是夜浴に入りて髪を洗ひ、香を焚き、江口曲(猿楽曲の名)を謡ひ、小鼓を撃ちて情を遣る、六日兵四千七百を率ひ、若江に至りて餐を伝ふ、時に兵帰り報じて曰く、東師已に至ると、乃ち銃手三百六十を玉串川小堤に列す、玄忠弘定之に次ぐ、重成前軍となり、藤堂氏の前隊藤堂新七と会戦す、井伊直孝高安より発し、将に道明寺に赴かんとし、重成の旗標を望みて若江に向ふ、重成東面して之を邀ふ、麾を揮ひて奮励す、東軍色揺ぐ、直孝白旄を取り、士率を指揮して力戦す、城兵多く殪れ後拒蕩騒す、重成なほ騎を上堤に進む、庵原助右衛門十文字槍を把り、重成の幌を纏て之を執る、重成田畝に墜つ、衆争ひ進みて重成を馘す、重成時に年二十一。
〇玉串川は古大和川の道なり、大和川は往時若江郡弓削にて東西の二道となり、玉串の道は高安若江の二郡を界し、岩田より西に折れ東成郡榎本村放出に至り西道長瀬川と合し、鴫野(新開荘村)に至り寝屋川と会したり、一名通川。
穴太《アナホ》 八尾村大字穴太は大信寺の北四町に在り。姓氏録、河内国未定雑姓、孔王部首、穴穂天皇(安康)之後也。
 
萱振《カヤフリ》 今八尾村に属す、八尾の北十町に在り。南方紀伝云、足利将軍義政の世に方り、畠山左衛門督政長同右衛門佐義就と故管領左衛門督持国入道徳本が家督をあらそふ事あり、康正二年の夏河内国萱振といふ所にて終に合戦に及ぶ、彼等もと一族の中なりしかば、其旗同じくして敵味方わかちがたかりとて、政長やがておのが旗に乳つけて竿にさしけり、其世の人皆これに倣て旗の制一変しき、後世にいはゆる乃保利これなり。
加津良神社は三代実録延喜式に列す、今萱振に在りて牛頭天王と称し、萱振の神事あり、萱を以て松明を作り神をいさむるを謂ふ。〔名所図会〕
 
小坂合《コサカアヒ》 今八尾村に属す、玉串川の西堤の辺なり、坂合神社あり、此社は三代実録元慶七年授位ありて、延喜式には二座と為す。
 
錦部《ニシゴリ》郷 和名抄、若江郡錦部郷。〇今西郡村及若江村なり。姓氏鋳云、河内国諸蕃百済、錦郡連、三善宿禰同祖、速古大王之後也。西郡は八尾村萱振の北に在り、若江村は尚北に在り、玉串川を去る東へ八町とす。西郡若江二村間の径傍に木村長門守重成及山口伊豆守重信の墓あり、山口は元和元年夏役木村に斃され、木村も同日戦死し、武名を残す。〇日本戦史(大坂役)云、五月五日、木村重成は急に東軍の主力星田より南走千塚を経て道明寺に来るべしとの巷説あれば、地形を視察し且偵者の言を聞き、直ちに両将軍の麾下を側撃せんと欲す、松原、吉岡、若江、河野、西郡、萱振、八尾の諸村を巡視するも、意に適する処なくただ若江の東磧地稍々平衍にして玉串川之に屈曲し、其大小の堤上(当時の堤高き者二間許なりしと云ふ)楊柳繁茂、以て陣地と為すべきを認定し、其夜兵数四千七百人平塚某を先頭とし大和僑(玉造口平野川の架橋)を発す、街口を出る二三町にして六日天明け、銃声遙に道明寺方位に起り、煙塵天に※[風+易]り、東方山麓の東軍は旌旗陸続として南に進む、重成年少年短く急に若江に出でむとすれば、人影動揺敵あるが如し、既に八尾に達す、前に沼地あり敵来る能はず、我も亦進む能はず、重成軽進を悔い更に全隊に命じ転回し北すること二十町許、此時東軍(藤堂隊)已に其右方に在り、然れども之を長曾我部隊に譲りて顧みず、東軍藤堂以謂く敵我兵を顧みず直に若江に向ふ、是れ我星田に本営あるを知り襲撃を図るならむ、請ふ之を側撃せむと、八尾若江一帯に開戦す、木村の隊若江に達すれば東軍の俄に方向を転じ来るを見る、乃ち其兵を三分し、右翼は西郡村の小堤に沿ひ、南方藤堂隊に備へしめ、左翼を岩田村に出し、奈良街道に備へしめ、本隊は君江の南端に駐止し山口弘定を其前方|十三《ジフサン》街道に進めて井伊隊に向はしむ、既にして藤堂隊の右先頭藤堂良勝は藤堂良重と共に玉串川を渡り萱振村に向ふ、途中良重猛進し萱振の東南に至り、敵兵(即ち木村重成の右翼)の西郡村方位より来るを望み槍を揮ひ突出し遂に重傷を負ふ、良勝部兵を率ゐ其後を承け遂に之に死す。井伊直孝は是日敵兵若江八尾に出づるに驚き、急に軍令を発し恩智川を渡り田間の細路を経更に玉串川を渡り其左岸の堤に上る、時已に正午に近し、重成堤上に銃卒三百六十人を配備し井伊隊を襲撃せんとす、重成の臣下曰く我兵既に功あり宜く城に帰るべしと、重成曰く予未だ両将軍を獲ず区区の捷何ぞ言ふに足らんと、聴かず。井伊の隊玉串川左岸に上る、重成の後隊先づ潰え、(其理由未だ詳ならず)重成怒て前進し、庵原朝昌と闘ひ、遂に西郡の堤上に死す。
 
若江《ワカエ》 若江村は西郡村の北に接す、姓氏録に「若江造、出自後漢章帝苗裔奈率張安刀也」とありて、若江郡の旧邑なり。若江城は此に在りしと雖、其跡泯滅す。元和元年夏役若江堤の激戦は西郡の条に詳なり。
 
若江城《ワカエノシロ》址 若江は足利将軍の世に国主畠山義深家臣游佐某を河内守護代と為し、ここに(450)築き居らしむ、寛正元年畠山氏の二子政長義就相※[門/兒]ぎ義就若江城に入り游佐国助に倚りけるより遂に大乱と為る、〔長録寛正記名所図会〕天文の末に及び細川家執事三好長慶の子筑前守義長幕府の執権と為り若江を居城とす、将軍義輝の妹を娶り威勢自張る、永禄四年松永久秀義長を弑し義継を立て、長慶の嗣と為し、三代二十余年三好氏若江に在りて天下の成敗を司る云々。〔管窺武鑑名所図会〕
鏡《カガミ》神社は延喜式、若江鏡神社、今若江村大字南村に在り、雷森と称す。文徳実録、斉衡元年、大雷火明神授位とあるは此也。〔名所図会〕
 
余戸《アマベ》郷 和名抄、若江郡余戸郷。〇和名抄錦部郷の次に列せしめたり、蓋其余戸にして今弥刀村小坂村などにあたるか、西郡村の西なり。
弥刀《ミト》神社は延喜式に列す、今|弥刀《ミト》村の名を立つ。河内志に弥刀神は近江堂の牛頭天王なりと云へるに因る。
 
新治《ニヒハリ》郷 和名抄、若江郡新治郷。〇今詳ならねど玉川村などにあたるか、若江村の北にして玉串川の両岸に渉る、河内志云、延喜式仲村神社は菱江に在りと、菱江今玉川村の大字なり、稲葉と同く玉串川の東岸に在り。
 
岩田《イハタ》 今|玉川《タマガハ》村に属す、玉串川の西岸なり。元和元年夏役に、木村重成の左翼木村宗明の隊兵岩田に出でて枚岡の東軍に対す、東軍榊原小笠原の兵之を見て動かず、宗明兵を収めて退く、小笠原観望敵を逸するを耻ぢ、急に天王寺に向ひて進む。〇石田神社は岩田の南に在り、延喜式岩田神社三座とある者是也。
補【岩田】〇日本戦史 五月六日の戦、木村の左翼隊の前面即ち暗峠越の道上には東軍の第三番手榊原康勝(兵二千百人)小笠原秀政(千六百人)等の諸隊あり、岩田村に在る敵兵を攻撃せむとす、重信制して姑く若江の戦況を観望せしむ、既にして井伊隊大に克つ、榊原隊乃ち松原村より小川を渉り進撃し、敵数人を殺す、木村宗明肯て甚だ防戦せず、大阪に向て退却す。
 
六郷《ロクガウ》 玉川村の北に東六郷西六郷の二村あり、其西に北江《キタエ》村あり、共に古の草香江深野池及玉串川等の堆沙涸洲《ヨリスヒアガリ》に成る、然れども河内志に延喜式若江郡宇波神社は加納に在りと為し、加納《カナフ》荘は吉水院文書建武元年の者(荘園考所引)に見ゆ、加納今東六郷の大字なり。
 
川俣《カハマタ》郷 和名抄、若江郡川俣郷。〇今|楠根《クスネ》村|意岐部《オキベ》村にあたる。古事記伊邪河宮(開化)段云「御子日子坐王曾孫、息長宿禰王、娶河俣稲依毘売」と此川俣の地なるべし、姓氏録云、川俣公、日下部宿禰同祖、彦坐命之後也、と是れ以て証すべし、又、河内国神別、川跨連、津速魂命九世孫梨富命之後也。〇楠根大字川俣は玉串川長瀬川の合流に在り、古は草香江の水亦之に合せり。霊異記云、行基大徳、令堀開於難波之江、而造船津、説法化人、道俗貴賤、集会聞法爾時、河内国若江郡|川派《カハマタ》里、有一女人、携子参往。
補【川派】〇日本国現報善悪霊異記、行基大徳携子女人視過去怨令投淵示異表縁第三十、行基大徳、令堀開於難波之江、而造船津、説法化人、道俗貴賤集会聞法、爾時河内国若江郡川派里、有一女人、携子参往法会聞法、其子哭譴、不令聞法、其児年至于十余歳、其脚不歩、哭譴欽乳、※[口+敢]物無問、大徳告曰、咄彼嬢人、其汝之子、持出捨淵、衆人聞之、当頭之日、有滋聖人、以何因縁、而有是告、嬢依子慈不棄、猶抱持、聞説法、云々。〔※[さんずい+屈]江寺址、参照〕
 
長田《ヲサダ》 楠根村大字長田は川俣の東南に接す、姓氏録「河内国未定雑姓、長田使主、百済国為居王之後也」とある此ならん。
 
楠根《クスネ》川 玉串長瀬の中間に在る溝※[さんずい+血]なり、曙川村都塚より玉串の水を分ち西北に導き、若江意岐部の諸村を経て川俣に至り、玉串川に併す。〇川俣《カハマタ》江古へ草香江の末玉串長瀬の諸水と匯し川俣江と為り、摂津国東生郡に入る。日本書紀仁徳天皇の御歌に、
 伽破摩多曳のひしから(菱殻)のさしけくしらに(刺不知)云々
此なり、近世水理変して唯遺跡を存するのみ。
 
御厨《ミクリヤ》 今改めて意岐部村と曰ふ、川俣の東南にして楠根川に跨る。延喜式に江《エ》厨あり、此なるべし。正親司式云、年料雑菜、造雑魚鮨十石、味塩六斗、河内国江厨所進。〇姓氏録云、河内国皇別、江首、江人附、彦八井耳命七世孫来目津彦大雨宿禰大碓命之後也、また此なり。
意岐部神社は延喜式に列す、今御厨の辺を意岐部村と称するは本社の存在すればならん。
 
渋川《シブカハ》郡 明治二十九年廃して中河内郡へ入る、長瀬川の西に沿ひ狭長の地なり。西境摂津東成郡の交界は頗る錯雑す、小路《ヲヂ》村今東成に属すと雖地形渋川に属すべきに似たり。〇和名抄、渋川郡、訓之不加波、五郷に分つ、若江郡巨摩郷亦当然渋川に属す、凡六郷とす。本若江と一境にして凡川内に属したる者に似たり、今久宝寺を大邑とす、古の巨摩郷也。
 
邑智《オホチ》郷 和名抄、渋川郡邑智郷。〇今|巽《タツミ》村長瀬村にあたる、巽村大字|大地《オホヂ》あり。
余戸《アマベ》郷、和名抄、邑智郷の次に列す、邑智の余戸にて今布施村高井田村及び摂州東成郡|小路《ヲヂ》村等ならん。〇石清水文書延久四年官牒に「渋河郡|大地《オホヂ》庄田畠弐拾五町陸条冷江里漆条橘島里同条足代里」など見ゆ、足代(451)は今布施村の大字に遺れり。
 
高井田《タカヰダ》 長瀬川の西にして楠根村と接す、西北は摂州新開荘なり。延喜式、渋川郡鴨高田神社は本村に在り、今長栄寺八幡宮と称す。〔名所図会〕高田の名は此地長瀬川と玉造江の間に在る古村なればならん、彼新開荘の卑低に対したる称謂也。
都留美《ツルミ》神社〇延喜式、渋川郡都留美神社。今|布施《フセ》村大字東足代に在り、所祭詳ならず。都留美島神と云もの若江郡曙川村都塚にも在り。
 
蛇草《ハクサ・ハムコソ》 今|長瀬《ナガセ》村に改む、長瀬川其東を流る。蛇は古言羽々と云、(古語拾遺、天十握剣曰天羽羽斬、古語大蛇云羽々、斬蛇也、)又|蠅《ハヘ》と相通ぜり、(日本書紀、天蠅斫之剣)亦転じて波牟と為り、今|波布《ハブ》と曰ふ。此に蛇草は今汲久佐と呼べど古は波牟許曾と曰ひ、平氏太子伝、河内国渋川郡蛇草村あり、物部氏の邑なりき。延喜式、波牟許曾神社あり。
 
波牟許曾《ハムコソ》神社 延喜式に見ゆれど諸書其所在を知らず、蓋今の蛇草は社号の遺なり、按ずるに波牟は蛇にして許曾は社の義なり、蛇を祭れる者にや、又剣に斬蛇の名あり。村名は此社名より起る。
 
衣摺《キスリ・キヌスリ》 長瀬村大字衣摺は蛇草の南に在り、古は衣楷に作る、物部守屋の渋川稲城は此地なるべし。書紀通証云、渋川郡有木摺村、守屋所領、見平氏太子伝、聖徳太子手印記等、字書楷摩也。
 
渋川稲城《シブカハノイナキ》址 日本書紀云、崇峻天皇元年、蘇我馬子宿禰、勧諸皇子、謀滅物部守屋大連、倶率軍兵、従志紀郡、到渋河家、大連率子弟与奴軍、築稲城而戦、於是大連昇衣摺朴枝間、臨射如雨、有跡見首赤檮、射墜大連於枝下、而誅。〇衣摺《キスリ》は今龍華村太子堂の北三十町に在れど、城址を伝へず、太子堂に守屋大連墓と称する者あり。
 
横野《ヨコノ》 今|巽《タツミ》村の地なるべし、延喜式横野神社は巽村大字|大地《オホヂ》に在り印色《イシキ》宮と云ふと。〔河内志〕仁徳天皇の時横野の堤あり、橘川を堰入たる堤塘なるべし、日本書紀に見ゆ。
 紫の根延ふ横野のはる野には君をかけつゝうぐひす鳴くも〔万葉集〕しもがれの横野の堤かぜ冴ていり汐遠くちどり鳴なり〔続古今集〕
難波玉造入江の上流なれば、入汐を詠じたるなり。
 
賀美《カミ》郷 和名抄、渋川郡賀美郷。〇今久宝寺村の西に加美村立つ、此なるべし、邑智上郷の謂か。
 
正覚寺《シヤウガクジ》 加美村の大字なり、平野町(摂津国)と橘川を隔て、其北に接す。〇正覚寺は明応年中管領畠山政長一族義豊を誉田城に攻めたる時、将軍義植をこの地に迎へ師を出せり、細川政元阿波の兵を以て義豊を援け正覚寺を囲み、政長を殺す、義植脱走周防に赴く。〔細川両家記戦史外史〕
 
鞍作《クラツクリ》 加美村に属し、正覚寺の南にして、平野八尾の中間なり、鞍部氏の邑なりけん。〔書紀通証〕鞍部村主司馬達等其子善信尼多須那多須耶の子止利仏師三世相継ぎ、仏法東遷の初め、頗其力を致したり、日本書紀扶桑略記に事蹟見ゆ。
 
巨麻《コマ》郷 和名抄、若江郡巨麻郷。〇河内志に拠れば巨麻荘の名は久宝寺村に遺り、延喜式渋川郡許麻神社同所に在れば、和名抄若江郡に隷せしめたるは謬れり、地形亦渋川に入るべし。許麻神社は久宝寺村午頭天王是なり供僧坊観音院あり即古の久宝寺と云者是なり。〇按に古語に狛剣又高麗剣の称あり、又狛錦高麗錦の称あり、河内国には錦部郡又錦部郷(若江)の名あるは即狛錦の産地なるべし、而て続紀養老四年若江郡人河内午人刀子作広麿と云雑戸あり、午人の午は干支馬に配すれば此に駒人即狛人の義ならん、刀子作《サビヅクリ》は即剣工の称たるや明なり、されば高麗剣の製作は此地に於てありしこと推断すべし。〇或書に三条古鍛冶宗近は本河内に居り有成と曰ふ、其子有盛は長和年中の人にて、子弟に其鍛法を伝へ、有氏有国有正など云ふ名匠ありと、蓋高薦剣刀子作氏の遺風にや。
 
久宝寺《キウハウジ》 久宝寺は旧許麻神社の宮坊なり、転じて邑名と為る。今久宝寺村、方四町、人口二千余、八尾町と長瀬川を挟む。〇日本戦史(大坂役)云、五月六日午前、藤堂高虎の前隊長瀬川八尾村に大死傷を被れる後、藤堂隊の渡辺了独八尾を占領して長曾我部隊の久宝寺に在る者と相持せしが、午後井伊隊の悉く木村隊を撃却し更に西南に進み来るを望み、再び其兵を進め久宝寺に向ふ、長曾我部隊且つ拒ぎ且つ退き大阪に返る、渡辺隊進撃増田盛次以下三百余人を殺し、遂に平野を占領して曰く請ふ本隊を進められよ、共に道明寺口より退却の敵真田を撃たんと、高虎肯かず帰を促すの使前後七回に至る、了已むを得ず黄昏平野に放火して兵を収む。
 
顕証寺《ゲンシヨウジ》 久宝寺村に在り、文明十一年慧燈大師兼寿の創建する所にして、慶長以後西派に属し本願寺連技の住房たり。文化年中宗義惑乱一件の際、顕証寺闡教は智洞学頭に加担し摂州小浜毫摂寺と対抗したりしが、智洞非義に陥りければ顕証寺も罰せられたり。
 
竹淵《タカブチ・タケチ》郷 和名抄、渋川郡竹淵郷、訓多加不知。〇今|龍華《リユウゲ》村大字|竹淵《タケチ》亀井太子堂等なるべし、跡部郷の分地なり。
竹淵《タケチ》〇竹淵は橘川の南にある大字なり、田中に池水を(452)回らせる小祠あり、古墳瓢箪の形を成す。拾遺集に竹川の淵を詠ぜるは此地なるべし。
 もみぢばの流るゝ時は竹川の淵のみどりも色かはるらん、〔拾遺集〕        凡河内躬恒
跡部《アトベ》神社を延喜式路部に作るは謬れり、今龍華村大字亀井に在り。姓氏録、阿刀連物部同祖なれば、阿刀氏の祖神なること明なり。〔河内志〕
補【跡部神社】〇神祇志料 跡部神社
按、本書印本跡を路に作る、誤れり、今一本及倭名鈔郷名に拠て之を訂す。
今亀井村の属邑跡部村にあり(河内志・河内国図)蓋阿刀連の遠祖饒速日命を祭る(参取日本書紀・旧事本紀・姓氏録大意)
 按、書紀物部守屋大連別業河内の阿部にある事みえ、旧事紀饒速日命の供奉の中にも跡部首天津羽原と云もあり、姓氏録・続日本後紀・三代実録等に阿刀連多くみえて、みな摂津に貫《ア》り、国図を按るに本郡摂津に隣接たるに、古への阿部は和名砂阿都郷即今跡部村などを合せて跡部或は阿刀とも云し事著し、姑附て考に備ふ
凡そ其祭九月九日を用ふ(式社細記)
 
龍華《タチバナ・リユウゲ》川 一に橘川に作る、南河内郡柏原村より大和川の水を堰入れ、太子堂の西南を経て平野の東を過ぎ、巽村に至り摂津東成郡に入り平野川と曰ふ、末は玉造江と為り、淀川に注ぐ。
 
太子堂《タイシダウ》 今龍華村の大字と為る、聖徳太子建立|勝軍寺《シヨウグンジ》此に在り、故に太子堂と称す。南河内郡磯長太子堂を上太子と呼び、此に下太子《シモタイシ》の名あり。
   太子寺            河野 鉄兜
 上宮太子古金仙、留得当年舎利田、鳩語塔陰春寂々、落花風散石炉煙、
   吉野詣記云、八尾より神廟むくの木のある寺に参りて、彼木のもとを拝み、本堂へ参り、太子の御影開帳はなきよし語りしかど、案内しれる人ひそかに申て開きけり、  三条西公条
 隔なく帳かゝげて椋の木のむくつけき迄向ふ俤、
 
勝軍寺《シヨウグンジ》 厩戸太子建立、今真言宗を奉じ、太子御影を祭る、植髪像と称す。堂前に椋樹の老朽せるあり、物部守屋を渋川阿都別業に攻撃したまふ時、椋陰に隠れ危急を免れたまふとて、戦勝後此に伽藍を興さる、故に椋樹《リヤウジユ》寺の別号あり。〔名所図会〕〇貝原巡覧記云、下太子勝軍寺昔は大伽藍なりしに、数度兵火にかゝり今は大ならず、此村は田中に在り高原ならず、堂前に守屋の頸塚躯塚二あり。書紀通証云、守屋墓、在太子堂傍、有鏑矢塚。〇按ずるに太子伝補闕記云「斑鳩寺被災之後、不得定寺地、故百済入師、率衆人、令造葛野蜂岡寺、川内高井寺」と高井即下太子堂にあらずや、或は大県郡に竹原井の名あれば彼地か。
補【高井寺】〇上宮聖徳太子伝補闕記〔重出〕斑鳩寺被災之後、衆人不得定寺地、故百済入師率衆人、令造葛野蜂岡寺、令造川内高井寺、百済聞師、円明師、下氷君雑物等三人合造三井寺云々。諸州巡覧記〔重出〕跡部村下の太子(木の下の所なり)の寺勝軍寺と云、厩戸王子の像あり、本堂南に向へり、律宗なり、昔は大伽藍なりしに数度兵火にかゝり、今は寺大ならず、此村は田中にある故、寺の有地も高原にあらず、堂の前に守屋大臣の首洗池あり、其東に守屋の頸塚・躯塚とて小塚二あり。
跡部《アトベ》郷 和名抄、渋川郡跡部郷、訓阿止倍。〇今龍華村大字|植松《ウヱマツ》渋川の辺を云ふ。姓氏録、阿刀宿禰、石上同祖、饒速日命孫味饒田命之後。〇按に旧事天神本紀に「船長、同共率領梶取等、天降供奉」の人々を挙げ船長、跡部首、天津羽原。梶取、阿刀造等祖、天麻良。船子、笠縫等祖、天津麻占。為奈部等祖、天津赤星など見ゆ、姓氏録、味饒田命と云ふは此船長梶取船子等の主長とならせ給へるにやあらん、笠縫島は摂州に在り。
 
阿都《アト》 日本書紀、用明天皇二年、物部守屋大連、聞群臣図己将断路、即退於阿都。(大意)(注、阿都、大連別業所在、地名也)〇阿都は即今龍華村の古名なるべし、大和国磯城郡にも阿刀の地名あり。敏達紀十二年、阿刀桑市館、(日羅所寓也)推古紀、阿斗河辺館などあるは河内にして此地ならん。植松に龍華寺址あり、河辺館にあらずや、長瀬川に近し。
 
龍華《タチバナ》寺址 続日本紀云、称徳天皇神護景雲三年、行幸由義宮、権建肆※[纏の旁+こざと]、於龍華寺、車駕臨観。河内志云、龍華寺址、在植松村、有龍華堤、土人称橘荘。〇集古十種に河内国橘寺庭中所置土露盤の銘を載す、文字漫※[さんずい+患]読むべからず、片仮名に綴りたる文にて年号月日并に干支を係く、干支己酉也、此龍華寺の物か。
渋川神社は延喜式に列す、今龍華村大字植松の東長瀬川の堤上に在り、社の北に渋川あり。〇按ずるに渋川は龍華川の古名ならん、続日本紀に「天平勝宝八歳、車駕自難波還、取渋河路、至智識寺行宮」とあるは、今の植松太子堂を経て天王寺へ通ずる者なり、龍華川も宝永年中新大和川疏開以後水脈変遷したるか。
 
丹北《タンホク》郡 明治二十九年廃して中河内郡へ入る、新大和川の南北に跨り境域整はず。丹北の名は丹比《タチヒ》の北郡の謂にして和名抄丹比郡の注に「為丹南為丹北」と見ゆ、中古以降の事なり。其後志紀郡及住吉郡(摂津国)の地を侵食したり、故に和名秒、志紀郡(453)志紀郷、住吉郡住道郷、丹比郡三宅郷依網郷田邑郷等を以て近時丹北と称したり。
 
志紀《シキ》郷 和名抄、志紀郡志紀郷。〇今|長吉《ナガヨシ》村|三木本《ミキモト》村なるべし、長吉に延喜式志紀長吉神社あり。〇続日本後紀云、承和六年、河内国志紀郡志紀郷百姓志紀松、取宅中所生橘樹、其高僅一二寸余、而花発者、殖于土器、進之。
 
三木本《ミキモト》 三木は樟也、延喜式、志紀郡|樟本《ミキノモト》神社三座、河内志、南|木本《キノモト》に在りと為す、今三木本村大字南木本也、三木のみは称美の謂にて、古事記に見ゆる免寸《メキ》大樹蓋是なり、龍華川《タツバナガハ》村を貫く、免寸川亦是也。〇古事記高津宮(仁徳)段云、此之御世|免寸河《メキガハ》之西、有一高樹、其樹之影、当旦日者、逮淡路島、当夕日者、越高安山、故切是樹、以作船、其捷行之船也、時号其船謂枯野故以是船、旦夕酌淡道島之寒泉、献大御水也。古事記伝云、和泉志に免寸川を菟才田《ウサイダ》河と為し、日根郡菟才田村にあてたれど地理違へり、高安山と云は河内の中なるべし。
阿州将裔記、永禄年中和州筒井喜三と云もの人数二万計にて河州|木本《キノモト》といふ所へ打ていで三好家と度々合戦、終に三好宗之に討れけり、是も将軍義輝喜三がたへ内証と聞ゆ、其子細は是ほどの大乱に三好左京太夫義継は両度の合戦に虚病をかまへ出合ざりけり、義継は義輝公の従弟婿なるにより両陣ともに立間敷よし、義輝公より内書有ゆゑなり、扨喜三討死の後は義継が外の三好家は義輝不和のよし。
 
長吉《ナガヨシ・ナガエ》 三木本村の西を長吉村と為す、古事記遠飛鳥宮の(允恭)段に河内恵我之長江と見ゆ、延喜式、志紀郡志紀長吉神社二座と云者長吉村大字長原に存す、此社は三代実録貞観元年授位の事あり、河内志に今|日蔭《ヒカゲ》明神と称し、大嘗会の時日蔭蔓を貢進す、中世長吉村分れて二と為り長原吉富と曰ふと載せたり。〇長原の南に大字|川辺《カハベ》あり、天王寺平野より南河内郡に通ふ駅路にあたる。
補【志紀長吉神社】〇神祇志料 志紀長吉神社二座、今丹北郡長原村にあり (河内志)
 按、古老伝説、此地旧名長吉なりしを後分て吉富長原二村としつる也、又昔大嘗会に本社より日蔭鬘を奉りしを以て、日蔭明神とも云り、附て考に備ふ
 
蓋高御産霊命栲幡千々媛命を祀る、河内志貴県主が斎祀る所也(大和国神名帳略解)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下志紀長吉神に従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制並に大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)
 
住道《スムチ》郷 和名抄、摂津国住吉郡住道號。〇住道は日本書紀仁腎巻に住道人山寸あり、姓氏録摂津国神別住道直あり、今国堺移り河内へ入り矢田村(大字住道)瓜破《ウリワリ》村と為る。
 
須牟地《スムヂ》神社 延喜式、住吉郡須牟地曾根神社中臣須牟地神社|神《ミワ》須牟地神社三座あり、河内志、中臣社は住道に在りと為す、今住吉明神と云ふ、曾根神社は和泉泉北郡五個荘村に在り。〇延喜式云、凡新羅客入朝者、給神酒、其醸酒料、摂津国住道伊佐具二社各百廿束、合二百四十束、送住道社、令神部造中臣一人、充給酒使、於難波館給客。〇按に住吉大社宮司解に 「天平元年、依託宣、移徙河内国丹治比郡|楮原《カヂハラ》里、故号住道里住道神」とあるに拠れば此神は住吉の別宮なり、延喜式に住道神二座は八十島祭に預ると為す。
補【須牟地神社】〇〔神祇志科〕今河内国丹北郡住道村にあり(河内志・河内国図)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下中臣須牟地神に従五位上を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、月次新嘗の幣帛に預る、凡そ新羅人参来て朝廷を拝し奉る時は、住道生田両社の神酒を欽しむ、其生田の酒は敏売《ミヌメ》崎にして之を賜ひ、住道の酒は難波の館にして之を賜ふ(延喜式)蓋古への制也(日本書紀)醍醐天皇延喜の制、大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ六月廿一日八月十九日祭を行ふ(式社細記)
 
瓜破《ウリワリ》 河内志に六月晦日訓みて瓜破と云ふと為す。花営三代記、楠正儀北朝に帰したる頃、応安四年十一月官軍(吉野方)正儀宇和利城を攻むる事見ゆ、宇和利は瓜破ならん。
補【瓜破】丹北郡〇瓜破村存す、一作六月晦日。南山巡狩録、建徳二年十一月、官軍は楠正儀が宇利和利城に寄せ来り、五日今暁にいたりて引退く、是時官兵湯浅の一揆百余人命を殞す(花営三代記)〔花営三代記「五日、暁、河州宇利和利城寄手南方勢引退云々、湯浅一族凶徒百余人被討」〕
 
矢田《ヤタ》 石清水文書、延久四年官牒に「丹北郡、矢田荘、壱条矢田部、参条駅家里」などと見ゆるは此也。
 
依羅《ヨサミ》郷 和名抄、丹比郡依羅郷。〇今|天美《アマミ》村是也、摂津住吉郡|大依羅《オホヨサミ》の分郷なり。姓氏録云「河内神別物部、依羅連、神饒速日命之後也。又云、矢田部首、依羅同祖、六世孫伊香我色雄命之後也」と、今矢田村大字矢田部は実に本郷の北に接し、新大和川を隔つ、之に因りて按ずるに住道依羅等の地は古へ一境を成したり、今摂河泉三州の交界に跨る。(又云、河内諸蕃、依羅、出自百済素禰志夜林美君)
 
天美《アマミ》 天美村は新大和川の南にして摂泉の堺に接す、大字城連寺の西|南枯木《ミナミカレキ》天美岡に阿麻美神あるを以て近年立てゝ村名と為す、此神延喜式丹比(454)郡阿麻美許曾神社とあり、許曾は古言祠なり、阿麻美は海部に同じかるべし。
 神祇志料云、琉球の北界に阿麻弥大島あり、中山伝信録琉球国史略中山系図及南島志鹿児藩名勝考引中山伝説并に云、上古神人あり阿麻美久の神又阿麻弥久筑之神と云、始て阿摩美岳に降る之を天孫といへり、三男二女を生む一を天神とし一を海神とす、此に拠に阿麻美久神或は我天神伊弉諾尊の御子綿積神にして所謂二女或は豊玉姫玉依姫か、琉球人名字今猶豊玉の語を用る者多きも海神豊王彦の名に由縁あり、然らば火々出見尊の幸し給へる海神の宮疑らくは彼地方に在むか、阿麻美許曾神社恐らくは阿麻美久神を祭るに似たり、然れども未だ明証を得ず、姑附て後考に備ふ。
 
田邑《タムラ》郷 和名抄、丹比郡田邑郷、多無良。〇今布忍村松原村なるべし、三宅村の西南に接す。松原村に大字田井荘あり、古の依羅屯倉の田部の邑ならん。
 
布忍《ヌノセ》 布忍は近世布瀬荘と号せしが今村名と為る、狭山他の末流之を過ぎ又布瀬川と曰ひ、新大和川に入る。〇布忍は古訓奴乃師ならん。姓氏録、河内国皇別、布忍臣、的臣同祖、武内宿禰之後也。
 
高木《タカキ》 今布忍村の大字高木は高木遠盛の本居なるべし、高木荘は西琳寺古文書応永元年の物に見ゆ。遠盛は延元年中官軍に帰し本州に戦功あり、南山巡狩録多く高木遠盛申状を援用す。
補【高木】丹北郡〇南山巡狩録 延元三年九月、池尻半田に在る所の凶徒を打敗らむ為に、佐備三郎左衛門尉正忠高木遠盛以下彼所に打向ひ合戦を遂る(高木遠盛申状)
高木荘 西琳寺古文書応永元年のものに見ゆ。〇今布忍村大字高木。
 
松原《マツバラ》 松原荘は河内志に録す、今立てゝ村名となる。布忍の東なり、南北乱の比松原城あり、城址未詳。〇南山巡狩録云、延元三年閏七月、松原城に凶徒楯籠ると聞き、和田左兵衛正興椅本九郎右衛門尉正茂等軍勢を率て打むかひ合戦を遂る、此時高木遠盛城兵丹下八郎太郎同子息能登房を討取り軍功をあらはし、剰彼城にこもる所の敵兵を追落す。〔高木遠盛申状〕
田坐《タヰ》神社は三代実録、貞観四年田坐神授位預官社、延喜式、丹比郡に列す。河内志、田井城に在りて八幡宮と称すと。日本紀、「景行帝世、諸国興田部屯倉」とある依網屯倉の田部也。
 
丹比柴籬宮《タヂヒノシバガキノミヤ》址 反正天皇の皇居なり、日本書紀云「天皇都於河内丹比、是謂柴籬宮」。書紀通証云、在丹比郡松原荘植田村、名所図会云、上田村の広庭神祠の東北を云ふ。〇今松原村大字上田の東に広庭社あり、社域蓋皇居址なり、社南大路六町大字|立部《タヂベ》に至る、即天皇の御名代とす、日本紀に丹比を淡路《タンヂ》に作り「初生于淡路宮、於之有井、曰瑞井、汲之洗太子、時多遅花、落在井中、因為太子名也」と今|淡路《アハヂ》国にも瑞井宮の遺跡を伝ふ後勘をまつ。又按に古事記、浮穴宮(安寧)段にも「師木津日子命之一子、知々都美命者、坐淡道之御井宮」とあり此淡道も打旧訓阿波知と云ふ、若くは多治に非ずや、再考すべし。
 
立部《タチベ》 松原村大字、古は蝮部に作る。古記高津宮(仁徳)段云、為水歯別命(反正)之御名代、定蝮部。姓氏録云、瑞歯別尊生|淡路宮《タチノミヤ》之時、瑞井水奉灌御湯、于時|虎杖《タチ》花飛入御湯瓮中、色鳴宿禰称天神寿詞、奉号多治比瑞歯別命、乃定多治部諸国、為皇子湯沐邑、即以色鳴為宰領。
 
三宅《ミヤケ》郷 和名抄、丹比郡三宅郷、訓三也介。〇今三宅村存す、松原村の北にして新大和川の南なり 三宅村の東に恵我村あり、古三宅の属地にや、又志紀郡長野郷の隷附にや詳ならず。〇日本書紀、依網屯倉は仁徳巻に始見し、皇極天皇元年、「於河内国依網屯倉前、召百済大使翹岐等、令観射猟」とも載せらる。書紀通証云、三宅村有馬場池即此。〇酒屋《サカヤ》神社は三代実録延喜式に見ゆ、今三宅村の東南に存す。〔河内志〕
 
     南河内郡
 
南河内《ミナミカハチ》郡 明治二十九年志紀紀丹南|八上《ヤガミ》安宿部《ヤスカベ》古市石川|錦部《ニシキベ》の七郡を廃し、其区域を以て南河内と為す。郡衙は富田林に在り、五十村を管す、南北七里東西三里半、北の一面を除く外大和紀伊和泉の三国と各山嶺を以て相限る、其中河内郡と接する境は村落太牙相錯る。石川《イシカハ》の水全郡を貫き、西偏に狭山川《サヤマガハ》あり。〇本郡は古へ志貴《シキ》県主|紺口《コムク》県主二氏あり、並にに神八井耳命の裔にして隣近を知摂せり。
 
丹比《タヂヒ》郡 丹比は後世丹北丹南|八上《ヤガミ》の三郡に分れ、郡名廃するや久し。和名抄、十一郷あり、原注に「訓太知比、為丹南丹北」とあれば八上《ヤガミ》は更に丹北より分れし者の如し、八上は丹北の西境なれば也。〇丹比は古事記に「為水歯別命(反正)之御名代、定|蝮部《タチベ》」とありて姓氏録云「丹比宿禰、火明命三世孫天忍男命後、男武額亦命七世孫、御殿宿禰男|色鳴《シコヲ》、領|多比部《タヂヒベ》、因号丹比、逢為姓」、又古事紀に宣化天皇「御子(455)|恵波《ヱハ》王者、多治比君之祖也」とあれば、丹比氏は二流あり。
 
八上《ヤガミ》郡 明治二十九年廃し南河内へ入る。八上《ヤガミ》は古に聞えず、蓋和名抄|八下《ハチゲ》郷(丹比郡)の地なり、八下の名雅馴ならざれば後世私称八上と為し、一郡に擬したり。正保国図に公然八上郡を載す、西は泉北郡に接し、方一里許。
 
八下《ヤチゲ・ヤヘシモ》郷 和名抄、丹比郡八下郷、訓波知介。〇今金岡村|南八下《ミナミヤシモ》村|北八下《キタヤシモ》村の三と為る。按に此地は八戸《ヤヘ》氏の下《シモ》邑なりければ八下の名あり、姓氏録云「河内諸蕃、八戸史、後漢光武帝之後也。又三代実録云、天万豊日天皇(孝徳)御世、高安公陽倍、立高安郡、陽倍二字与八戸両字語相渉、仍後賜八戸史」と、即高安を八戸の上邑とし、此を下邑と為したる也。
 
金田《カネダ》 今|金岡《カナヲカ》村に改む、相伝ふ金田の土地神金岡社は巨勢金岡を祭ると、近年金田長曾根の二村を併せ金岡の称を立つ、堺市より古市村に通ずる駅路にあたる。
南山巡狩録、和田氏古文書、
 和田蔵人助氏申河内国金田郷惣判官代職并長曾禰郷郡司職等事為助氏重代相伝本領之条関東六波羅御下知譲状以下証文分明之上者本職無相違之由目代所令注進也然早任先度国宣岸和田助氏領掌仍下知如件
   正平八年七月十九日 左衛門少尉 花押
 
小寺《コテラ》 今南|八下《ヤシモ》村の大字と為る、天平神護元年丹比行宮址此地に在り。〔河内志〕続日本紀、天平碑護元年十月丙戌、車籠自和泉国曰根郡新作行宮、到河内国丹比郡、丁亥到弓削行宮。〇元亨釈書云、「安慧姓狛氏、内州大県人、七齢事州之小野寺広智、俗之号菩薩者也、智異其才器、携附台嶺伝教、承和十一年為羽州講師」と、小野寺今詳ならず小寺《コテラ》は其遺称にあらずや、此地法雲寺等梵刹多し。又小寺の南に大饗《オアヘ》野(大字大饗)あり、丹比行宮の饗庭なりしにや。
 
丹南《タンナン》郡 明治二十九年廃して南河内郡へ入る。和名抄丹比郡の注に丹南丹北とあれば、中世既に郡の分割あり、野中丹下丹上菅生黒山狭山土師の七郷の地なるべし。〇丹南の狭山池西南の曠野は本不毛の地なりしが、近世開闢して村邑立つ。
 
土師《ハシ》郷 和名抄、丹比郡土師郷。〇今|日置荘《ヒキノシヤウ》村なるべし、和泉国土師郷に接するを以て推断すべし。〇日置荘《ヒキノシヤウ》村の西なる大草村は高野街道(堺市より紀州高野へ)に沿ひ、近せの新墾地なり、南は三都《ミツ》村に接し、一帯の卑丘相連る。
大野関《オホノセキ》址〇名所図会云、大野関址は日置荘西村の西に在り河泉両国の堺にして高野街道にあたる、昔楠氏の軍士此に関を建てゝ要害とせし也、元禄年中開発して関茶屋新田と呼ぶ。〇今|大草《オホクサ》村と曰ふ、西は泉北郡東百舌鳥村(古土師村)也。
 
狭山《サヤマ》郷 和名抄、丹比郡狭山郷、訓佐也万。〇今狭山村野田村なり。狭山は崇神天皇の時|埴田《ハニダ》水少きを以て池溝を開きたまへる地なり。姓氏録、和泉国神別、狭山連、大中臣之同祖、天児屋根命之後也。
 
狭山《サヤマ》 狭山村は狭山池を囲み、池原《イケノハラ》池尻本狭山|半田《ハンダ》等の部落あり。小田原北条氏天正十八年滅亡し、相模守氏直弟氏規天野山に入る、豊臣氏狭山の田一万石を給す、(文禄三年)二人相尋ぎ卒し、慶長五年氏規の子氏盤封を襲ぎ此地に陣屋を置く、爾後相続して明治維新に至る。〇文久三年八日十四日、京師嘯集の浪人等侍従中山忠光を奉じて窃に京師を発し、船淀を過ぎて即日大坂に抵り、其明艤して和泉に赴く、舟中髪を断て衆と誓ひ直に進みて河内に入り、狭山の寺院に拠る、其衆凡そ一千人号して天忠組といふ、邑主北条氏の臣属等を説きて糧仗を出さしむ。十七日五条代官鈴木源内を斫り、以て車駕を促がす、俄にして朝議一変し詔して大和行幸をとゞむ。
狭山神社は三代実録延喜式に列す、狭山村大字池尻の本狭山《ホンサヤマ》に在り。蓋狭山連の祖神を祭る、今牛頭天王と称す。〔河内志神祇志料〕
 
池尻《イケジリ》 姓氏録、河内国未定雑姓、池後臣、天彦麻須命之後也。〇南山巡狩録云、正平二年正行東条に在り官軍を催す、摂津国和泉国及び紀伊国熊野の辺に於て楠方の者ども蜂起なすよし京に聞えしにより、細川顕氏を大将とし八月天王寺に着陣し、それより泉州堺の浦に向ひ、廿四日河内国池尻に於て、楠勢京方とたゝかふ。〔岸和田助氏申状〕
 
半田《ハンダ》 日本書紀、狭山池を開く条に狭山|埴田《ハニタ》水少しとあり、当時此地の謂なるべし。狭山は小山の義なれば埴田も読みて字の如し。南山巡狩録、延元三年九月、池尻半田に在る所の凶徒を打破る為め、佐備三郎左衛門尉正忠馳向ひ合戦を送る由、高木遠盛申状を援証す。
 
狭山《サヤマ》池 狭山村の中央に在り、水源は天野《アマノ》山より出で二里にして此に瀦す、南北八町東西四町漫々たる大池なり、末は二条と為り北流す、各二里半、大和川に会す。丹比郡の村落其利を被る者、方三里に過ぐ。古事記、玉垣宮(垂仁)段云、御子印色入日子命者、作狭山池。〇日本書紀云、崇神天皇詔曰、今河内狭山埴田水少、是以其百姓怠於農事、其多開地溝、以寛民業。続日本紀云、天平宝字六年、狭山池堤決、以単功八万三千人修造。〇河内志云、狭山池、天野小山田二渓、瀦于此為池、周回一里許、永禄中安見美作守者重修、軽重中片拘束市正因加修補。〇狭山堤神社、(456)三代実録延喜式狭山神狭山堤神並載す、堤社は池東|明神山《ミヤウジンヤマ》に在り。
 
狭山下池《サヤマノシモイケ》 狭山大池の北十町に大鳥《オホトリ》太間《タイマ》の二池あり、各方三町許。続日本紀云、天平四年、築河内国丹比郡狭山下池。〇書紀通証云、崇神紀|苅坂《カリサカ》池反折池、一曰天皇居桑間宮是造池也、未詳、今大鳥池太満池、倶在狭山、疑謂此歟。
 春ふかみ狭山の池の根ぬなはのくるしげもなく鳴かはづかな、〔堀川百首〕
野田《ノダ》 野田村は狭山の北に接す、興国三年観心寺文書、野田荘管領地頭得分〔南木志〕と見ゆ。又高木遠盛申状、延元三年九月、凶徒野田荘に城郭を構ける故に、和田正興以下之を攻落す。〔南山巡狩録〕
 
菅生《スガフ》郷 和名抄、丹比郡菅生郷、訓須加不。〇今平尾村を云ふ、大字菅生存す。
菅生神社は三代実録延喜式に列す、菅生の南に在り天神と称す。新抄格勅符、天平宝字八年封戸を充奉り、姓氏録「河内国神別、菅生朝臣、大中臣同祖、津速魂命三世孫天児屋命之後。」
 
平尾《ヒラヲ》 菅生の北に接す、今合同して平尾村と曰ふ。〇南山巡狩録云、弘和二年正月、官軍は山名氏清の為に敗らる、按ずるに旧案の内須波部新左衛門入道の申状に、山名氏清武家の命を得て楠中務大輔正儀の討手に向ふと見えたるをおもへば、和田和泉守正武が軍を起せしのみならず、正儀もこの時は再び官軍に附属し、一族と共に旗を挙げ、所々に打て出けるなるべし。二月河内国平尾に於て、楠中務大輪正儀は山名が勢と戦ひて勝利をうしなひ、要害に引退く。案ずるに正儀一度足利義満に降参せしかども、いく程もなくまた叛きて、南朝に仕へけるなるべし。
 
黒山《クロヤマ》郷 和名抄、丹比郡黒山郷。〇今黒山村存す。河内鑑云、天武天皇御廟黒山に在り、薬師堂ははらみの薬師と云。〇書紀通証云、黒山、見孝徳紀、延喜式、黒山席即此。〇黒山の北に古冢あり、西面前方後円にして壕を繞らす、長径百聞許、丹比神社の西凡四町とす、河内志之を以て仁賢天皇埴生坂本陵に擬せり、
余家《アマベ》〇黒山村大字|余部《アマベ》あり、狭山川ここを過ぐるを以て余家《ヨケ》川の名あり
 
丹上《タンジヤウ》郷 和名抄、丹比郡丹上郷。〇丹比《タンヒ》村|丹南《タンナン》村是なり、丹南に大字丹上存す、丹比の上郷の謂なり。丹比に大字|郡戸《コホヅ》あり、古の郡家なるべし。
 
丹比《タンビ・タヂヒ》 中世多治比と曰ふ、近年|河原城《カハラジヤウ》と合同し丹比《タンビ》村と為す、丹比神社あり、域内広衍なり。丹比神社は土俗若松天神と称す、上殖葉皇子を祭る、即丹※[土+穉の旁]氏の祖也。〇日本書紀、宣化天皇子上殖葉皇子亦名|椀子《マリコ》、是丹比公偉那公凡二姓之先也。旧事紀云、L殖葉皇子、丹比稚田君祖。三代実録云、加美恵波皇子、生十市王十市王生多治比古王、賜姓多治比君。〇続日本後紀、文徳実録三代実録授位奉幣の事見え、延喜式に列す。
 
河原《カハラ》 今丹比村大字|河原城《カハラジヤウ》は河原荘の謂にして、河原連の居なりけん。続日本紀、神亀二年、河内丹比郡人、正六位下川原椋人子虫等四十人、賜河原史姓、神護景雲三年、河内国人、河原蔵人人成等五人、並賜姓河原連。姓氏録云、河内国諸蕃、河原連、広階同祖陳思王植之後也。
丹南《タンナン》 この村は丹比村の西北に接す。元和九年高木主水正正次丹南一万石の封を幕府より給せられ、子孫世襲、陣屋を置けり、維新に至り廃す。延喜式|櫟本《イチノモト》神社は丹南の南大字真福寺の櫟本に在り、其南大字大保に鍋社と云者あり、鍋子丸を祭る、古へ此地※[金+當]釜の鋳造業ありと。〔河内志名所図会〕按ずるに鍋子丸は丹比氏祖椀子皇子に非ずや。
 
丹下《タンゲ》郷 和名抄、丹比郡丹下郷。○今高鷲村なり、大字|丹下《タンゲ》存す。高鷲原御陵本郷に在り。〇丹下城址今詳ならず。南山巡狩録云、延元二年三月のころ、和田楠の人々河内国古市郡に要害を構ける所に、丹下三郎入道西念以下多勢を率しこの城に打むかひけるにより、和田楠も勢をしたがへ野中寺の前に打て出で、こゝに於て合戦あり、寄手を打敗るのみか機にのりて丹下城の在家を焼払ふ。〔岸和田治氏申状〕大日本史云、延元三年、鎮守府将軍源顕家出陣和泉、橋本正茂与和尚正興挙兵応之、囲丹下城、攻之数日、会顕家戦歿、旋軍。
 
大塚《オホツカ》 丹下村の西に一大古墓あり、人家其上に占居す、大字大塚と曰ふ。北面して池を繞らす、前方後円、最高平地を抜くこと凡六丈。(東西凡三町南北凡四町)書紀通証之を以て来目皇子埴生山岡上墓と為せど非なり。全く平地に在れば岡上と曰ふべからず、或は疑ふ雄略天皇高鷲原御陵に非ずやと、形状壮大当時の盛勢を表示するに似たり。(高鷲村大字大塚大塚掃部肋惟正は此地の人か、楠氏の族也。建武中興和泉守護代と為り、正成に従ひて湊川の役に赴き、戦敗るるに及び引還り河泉の地を守る、後正行に従ひて高師直の兵を拒ぎ重創を被むり馬斃れて復た戦ふ可らず、会々逸馬あり騎て逃るゝこと数里、宗族尽く死すと聞き馬を廻らして接戦し、遂に戦死す。〔大日本史〕
 
高鷲原《タカワシハラ》陵 雄略天皇の御陵なり。日本書紀云、葬大泊瀬天皇于丹比高鷲原陵、于時隼人昼夜哀号陵側、与食不喫、七日而死、有司造墓陵北、以礼葬之。延喜式云、丹比高鷲陵、泊瀬朝倉宮御宇(457)雄略天皇、在河内国丹比郡、兆城東西三町南北三町。扶桑略記云、丹比郡北高鷲原陵、高二丈方二町。古事記云、御陵在河内之多治比高※[壇の旁+鳥]也。
河内志は本陵を島泉《シマイヅミ》(今高鷲村大字)の西なる古墓に擬したるより、今仍て陵標を定む、然れど是卑小の丸塚にして、小治由奈良朝の制式に合ふも、雄略帝陵とせば疑はし、山陵志云、「高鷲原是長野郷之西、島泉村有古墳、其形円而環以溝、此也、呼為丸山、高鷲之名久喪之、但陵南有僧寺、此以為山号」〇按に島泉墓円径百間に満たず、其東少間にして又小墳あり、此数墓蓋旧史謂ふ所の隼人墓ならん、而も其真皇陵は此を距る西微南十五町、大塚山に擬す可きのみ。
 
大津《オホツ》神社 延喜式大津神社三座、今高鷲村大字宮に在り、大宮と曰ふ、宮の東に大字津堂あり、蓋津連の祖百済辰孫王等を祭る。〇続日本紀云、津連、賜姓菅野朝臣、出自百済国貴首王、応神天皇、捜聘有識者、貴須王遺其孫辰孫王、随使人朝、天皇喜焉、特加優寵、以為皇太子之師矣、仁得天皇、以辰孫王長子太阿郎王、為近侍、太阿郎王子亥陽王、亥陽君子午定君、生三男、長子味沙、伸子辰爾、季子麿、従此而別、始為三姓、各因所職以命氏焉、葛井船津連等即是也。
補【大津神社】〇神祇志料 大津神社三座、今丹南郡丹下宮邑にあり、大宮といふ(河内志・河内国図)蓋百済辰孫王の曾孫午定君の三子味沙、辰爾、麻呂を祭る、此は葛井、船、津三氏の祖也(参酌日本書紀・続日本紀・日本後紀・新撰姓氏録)
 按、日本後紀三氏の墓地本郡野中寺の南寺山に在りと見え、丹南に隣りなる安宿郡松岳山は船氏の墓地なる事、船氏墓誌にて明なり、且野中村は本社の東にあり、野中寺は野上村にありて、其近隣に葛井村葛井寺などあり、又続日本紀三代実録等に拠るに、三氏同じく此地に住るより其祖を氏神と崇し事著し、附て考に備ふ
醍醐天皇延喜の制、祈年の祭鍬靱各一口を加奉りき(延喜式)凡そ六月八日十一月祭を行ふ(式社細記)
 
埴生《ハニフ》 今|埴生《ハニフ》村立つ其山野を羽曳山又丹比野と曰ひ、古市より西へ往来する古道之に通ず、之を埴生坂と曰ふ、又丹比坂の名あり、一簇の丘陵なれど古墳墓散在する者多し。
丹比野〇古事記若桜宮(履仲)段云、其弟墨江中王、欲取天皇、以火著大殿、於是阿知直盗出、而乗御馬、今幸於倭、故到于多遅比野而寐、天皇歌曰、
 多遅比野に寐むとしりせばたつごもももちてこましをねむとしりせば
日本書紀には同事を「太子、到河内埴生坂、醒之」と載せたり、山地なる事明白なり。
 波邇布耶迦わがたち見ればかぎろひのもゆる家村つまが家のあたり、〔古事記〕
 
野中《ノナカ》郷 和名抄、丹比郡野中郷。〇丹比野の中郷の義なるべし、恵我長野の諸陵は其東北に散在す、今埴生村是なり。〇埴生村大字|野上《ノノウヘ》は長野村大字野中の西なり。姓氏録、河内国諸蕃、野上連、河原連同祖、陳思王植之後也。
 
野中《ノナカ》寺 今野上に在り、青龍山徳蓮院と称し、聖徳太子開基と伝ふ、中世荒敗の後寛文年中僧覚英僧恵猛共同中興し、真言律宗の道場と為す。〔名所図会〕〇日本後紀、延暦十八年、菅野真道言、先祖葛井船津三氏墓地、在河内国丹比郡、野中寺以南、名曰寺山、子孫相守、累世不侵、而今樵夫成市、採伐冢樹、先祖幽魂、永失所帰、請依旧令禁、許之。按ずるに津氏の祖神大津杜は野中寺の西北高鷲村大字宮に在り、葛井の名は野中寺の東北長野村に葛井《フヂヰ》寺存す、船氏の本居も三代実録に依れば丹比郡なるべけれど、今詳ならず。船氏古墓国分村(安宿郡)に在り、此を去る相遠し、凡一里とす。〇野中神は三代実録貞観十七年授位、今野上の法泉寺中なる亀池弁財天是なりと云。〔名所図会〕
補【野中神】〇神祇志料 野中神按、河内志に丹南郡野中村の西野上村にありといへど、今本村の法泉寺の鎮守とし、寺内に仏像を安置のみにて、神社の景況なしと云り
清和天皇貞観十七年八月戊寅、正六位野中神に従五位下を授く(三代実録)大雷火明神、文徳天皇斉衡元年四月丙辰従五位下を授く(文徳実録)
 
埴生坂本《ハニフノサカモト》陵 仁賢天皇の御陵なり。日本書紀、億計天皇、葬埴生坂本陵、延喜式、埴生坂本陵、石上広高宮御宇仁賢天皇、在河内国丹比郡、兆城東西二町南北二町。扶桑略記云、丹遅郡埴生坂本陵、高二丈方二町。〇今埴生村大字|野上《ノヽウヘ》の東にして、仲哀帝陵の南凡八町也。名所図会云、河内志は仁賢陵黒山村に在りと曰ふも非なり、野上の東に御陵とおぼしき者あり、池塘をめぐらし字をボケヤマと曰ふ、(長野村大字野中管内)埴生坂の下にして、帝諱億計と申奉れば、ボケは億計の訛なるべし。
 
埴生崗上《ハニフヲカノヘ》墓 日本書紀、推古天皇十一年、征新羅大将軍来目皇子、薨於筑紫、殯于周防裟婆、後葬於河内国埴生崗上。〇名所図会云、埴生山今|羽曳山《ハビキヤマ》と曰ふ、伊賀(今埴生村大字)の領内に一古墳あり、先年蓋石あらはれたるに、※[土+廣]の大さ六尺計、内へ入ること一丈五尺、是れ来目皇子の墓ならん。〇今野中寺の南八町許に、来目皇子の墳なりとて修理せる者あり、(陸軍地図載之)名所図会謂ふ所と相(458)異なり。
 
志紀《シキ》郡 明治二十九年廃して南河内郡へ入る。此郡本大和川西浜の地なりしが、元禄中新大川を郡の中央に導き、西に決せしめたるより、南北の二域に分る。和名抄、志紀郡、訓之岐、八郷に分つ、其志紀郷は中河内郡(旧丹北)へ入る。〇古は志貴県主あり。古事記、朝倉宮(雄略)段云「幸行河内、爾登山上、望国内者、有上竪魚作舎屋之家、天皇令問其家、答白、志幾之大県主家。又姓氏録、河内国皇別、志紀県主、多朝臣同祖神八井耳命之後也、此の志紀は大和磯城と同名なれど、異流の郡邑なり、三代実録にも其証あり。〇志紀郡古名恵我とも云ふ。
 
長野《ナガノ》郷 和名抄、志紀郡長野郷。〇今長野村是なり(長野の西なる中河内郡恵我村も本郷の隷地なりけん)古は恵我長野の名あり、広く志紀郡の域に被れり、仲哀天皇長野山陵此地に置かれしより其名著れ、以東にまで及ぼせるならん。日本書紀神功巻に「足仲彦天皇、葬於河内国長野陵」雄略巻に「以餌香長野邑、賜物部目大連」など見ゆ。志紀辛国神社は演義式、志紀郡に載す、今長野村大字岡の南|辛国池《カラクニイケ》畔に在り、春日明神と称す。〔名所図会〕按ずるに是れ蕃別長野連の祖なるべし。姓氏録、河内国諸蕃、長野連、山田宿禰同祖忠意之後、出自周霊王太子普也。長野神社は延喜式志紀郡に列す、今長野村大字岡に属し剛琳寺の傍に在り、辛国社は更に其西に在り。
補【長野郷】志紀郡〇〔和名抄郡郷考〕長野、風土記、土地中、農民用不少、公穀百五十丸、仮粟七十丸、長野山出赤梧白桐楠松槻椿薇蕨蜀椒、薯蕷白※[草がんむり/斂]百部根連翹苦参女菁、猪鹿兎狐仙熊狸等。神名式、長野神社。諸陵式、恵我長野北陵、遠飛鳥宮御宇天皇在河内国志紀郡。諸州巡覧記、仲哀天皇の陵は沢田にあり、河内国長野の陵に葬るとあり、此所なり、道明寺西北なり。諸陵式、恵我藻伏山陵、兆域東西五町南北五町。山陵志、仲哀陵在恵我長野、恵我長野浜石川、而南北長矣、陵居其西偏、故曰西陵、按呼為仲津山古来所伝、仍仲哀御名也、允恭陵乃在其東北曰北陵、按呼為市野山、此地故是餌香市辺也、餌香即恵我、今為国府村、或以為市辺王押盤墓、然他無所徽不取也、応神陵当西陵之南、所謂恵我藻伏山陵也、按呼為八幡山、併用其御名与神号也、因廟而祀焉、地南隣古市、故其縁起曰、葬於古市郡長野山、縁起又曰、欽明天皇二十年二月十五日勅陵前立杜奉此祀焉、長野明是此間総名也、今西北二陵皆繋長野、而此陵独不言長野南陵何也、蓋藻伏之名自古大聞、即其地方不足詳言也。
 
恵我長野《ヱガノナガノ》陵 仲哀天皇の御陵なり、日本書紀単に長野陵と記す、後世其東方に諸陵継置せられければ西陵と標す。古事記、帶中日子天皇御陵、在河内意我之長江也、演義式、恵我長野西陵、豊浦宮御宇仲哀天皇、在河内国志紀郡、東西二町南北二町。〇今長野村大字岡の南に在り、藤井寺(剛琳寺)と野中寺の間なり。山陵志云、仲哀陵、在恵我長野恵我長野浜石川、而南北長矣、陵居其西偏、故曰西陵、今呼為仲津山、古来所伝、仍仲哀御名也。
仲哀陵の東南大字野中に古冢数多あり、其仲哀応神倭武三帝陵鼎立の間に居り、大なる者四所、陵を起し水を廻らし瓢形を成す、小なるは円塚にして、其数七八個あり、猶其旧跡たるを弁ず、共余は壊崩詳ならず。(山陵志に是等の一所は反正帝殯陵ならんと云ふ)
 
藤井寺《フヂヰデラ》 今長野村大字藤井寺は葛井寺あるを以て此名あり、蓋百済辰孫王の裔葛井氏の旧居也。続日本紀云、仁徳天皇、以辰孫王長子太阿郎王、為近侍、太阿郎王子亥陽王、亥陽王子午定君、生三子、長男味沙、仲子辰爾、季子麿、従此而別、始為三姓、各因所職以命氏焉、葛井船津連等即是也。これに依れば葛井は味沙の後なるべし、剛琳寺も同氏の創建か。
 
剛琳寺《ガウリンジ》 葛井寺の法号なり、今紫雲山三宝院と号し真言宗を奉ず。昔は古子山と曰ひ、聖武天皇の御願、阿保親王の再造とぞ、一説云、堀河院御宇永長元年、大和加留里の藤井安基と云者古寺塔の荒敗を再修しけるより、世に其苗字に依り藤井寺と号しける、本尊観世音は石川春日里の稽氏作なり、三十三所第五番の霊場とす。〔名所図会卅三所図会〕
 参るよりたのみをかくる藤井寺花のうてなにむらさきの雲、
藤井寺合戦、岸和田治氏申状に見ゆ、「延元二年三月十日、細川兵郡少輔同帯刀先生等為大将軍、寄来古市之間、馳向野中寺東、防戦之処、逆類等引退之間、追懸藤井寺西并岡村北面、致散々合戦之刻、細川等大勢分二手寄来之間、数刻致合戦之忠節者也、就中帶刀先生討死之時者、於藤井寺前大路、至御方退散之期、抽軍忠畢、此等次第、当国守護代大塚掃部助惟正所令存知也」又日本戦史云、元和元年五月六日昧爽、西軍後藤基次国分道明寺に東軍と会戦す、西軍隊将毛利勝永藤井寺に在り、真田幸村の来会を待つ、已にして前隊大敗、午後東軍は道明寺より誉田に連なり、西軍は野中寺の東より藤井寺の前に亘る、幸村適至り誉田の敵を撃ち利なく、兵を収め勝永の隊に至り其手を執り謂て曰く、今暁濃霧の為に時を誤り我行進期に後れ、遂に又兵衛(基次)隼人(兼相)等の死を救ふ能はず、今此に足下と相見るは予甚だ恥づ、抑々豊家運命の尽る所か、勝永日く此に死するは既に益なし、請ふ明日共(459)に右府の馬前に戦死せむと、時に午T後四時を過ぎたり、諸将順次退却するも東軍敢て追撃せず、幸村大言して曰く東軍百万と称するも終に一人の男児なき也と、勝永銃隊を遺して追撃に備ふ、其士相議し附近の民家に放火し烟焔に混じ退却す。
 
小山《コヤマ》 長野村の北を小山村と曰ふ、小山大字津堂の南に城址あり、三好山城守康長入道笑岩元亀年中之に居る、天正元年織田信長若江に三好氏を攻むる時、織印信包滝川一益五千騎を以て高屋口に備へしは小山城の押へなり。〔三十三所図会〕
 
新家《ニヒノミ》郷 和名抄、志紀郡新家郷。〇今詳ならず、小山村などにあたるか。姓氏録云、河内国未定雑姓、新家首、汗麻鬼足尼命之後也。徴証これなし。
 
邑智《オホチ》郷 和名抄、志紀郡邑智郷。此郷詳ならず、今太田村などにあたるか。和名抄渋川郡にも邑智郷を載すれど、地勢稍懸隔す。太田村は大和川の北岸に在り、柏原駅の西とす。
 
田井《タヰ》郷 和名抄、志紀郡田井郷。〇今志紀村柏原村なるべし、志紀村大字田井存す。田井の東大字弓削に延喜式弓削神社二座中の一あり、物部氏の氏神布都霊を祭る。按ずるに旧事紀「宇摩志麻治命八世孫、物部金弓連公、田井連佐比連等祖。又云、十世孫物部目古連公、田井連等祖。又云、十二世孫小事連公、柴垣連田井連等祖」とあれば、物部氏の邑たる事明なり、彼金弓連の名は弓削の美称なるべし。
 
柏原《カシハラ》 大和川の新古二派の股間に居り、小市邑なり。大和川は元禄宝永の土功に西北より転じて直北に導きたりと雖、溝※[さんずい+血]の水脈は尚旧に仍り玉串長瀬龍華の支流あり。〇鉄道は大坂より奈良五条に通ずる者、柏原王寺間に於て亀瀬(大和川の隘谿)を通過す、柏原は其西口の車駅なり。
 
井於《ヰノウヘ》郷 和名抄、志紀郡井於郷、訓井乃倍。〇今|道明寺《ダウミヤウジ》村大字大井国府等なり。元亨釈書云「慧感高麗国人、推古三十有三年貢来、勅住元興寺、祈雨有験、擢為僧正、後於内州、創井上寺、弘三論宗」この井上寺霊異記に「河内市辺、井上寺之里」とあり、餌香《ヱカ》市の辺なる事明白なり。〇井於は田井の上郷の謂ならん。
 
国府《コフ》 是旧衙の地なるが今道明寺に属す、国府の北を大字|北条《ホウデウ》と曰ひ、東北を大字船橋と曰ふ、此地は古井於郷の中なるべし大和川其東北を繞※[螢の虫が糸]す。延喜式、和名抄、河内国府在志紀郡、行程一日、此地即古の餌香市なり。
志紀《シキ》神社は延喜式に列す、今道明寺村大字大井に在り、天王宮と称す。〔河内志〕按ずるに古事記明宮(応神)段云「品陀天皇之御子、若野毛二俣王、娶其母弟百師木伊呂弁、亦名弟日売真若命、生子意富杼王、(継体帝祖父)次忍坂之大中津比売、(允恭帝后)次田井之中津比売、次田宮之中比売」と田井卿は本郡に存し允恭帝皇后陵亦在り、師木伊呂弁命の本居は此地にして、本社は其廟にあらずや。〇黒田《クロダ》神社は延喜式に列す、今道明寺村大字|北条《ホウデウ》(志疑神社の東五町許)に在り、天神と称す。〔河内志〕志貴県主神社は延喜式大社に列す、今道明寺村大字国府に在り、春日明神と称す。姓氏録、河内国皇別、志紀県主、神八井耳命之後也。
国府総社《コフノソウジヤ》〇毎州国府に之あり、本地亦存す。〔河内志〕
本朝無題詩、大江佐国詩序に「遊普光寺、々在河州府東山」と記するを見れば、当時国府尚存せり。
井上《ヰノウヘ》塚〇名所図会云、国府に衣縫《イヌヒ》千斬町あり、其地|御塚《オツカ》又|乙子《オトコ》塚と称する者あり、続日本後紀承和三年旌表の志紀郡孝女衣縫氏の墓なりと。按ずるに衣縫は岐奴奴比なり、土俗伊奴比と云は井上の訛なるべし、以て国府の地は和名抄井於郷たるを知るべし。〇人類学会雑誌云、畿内地方に於て石器遺跡稀少也。山城木津より石棒の出しことありしと説くと、薯根志石鏃の条に大和国にはたゞ法隆寺より三里東、布留の社の西丹波市の野山に大なるもの稀にあり云々の記録あるの外は、石器の畿内に出でたること少し。明治二十二年其遺跡を河内国志紀郡国府村に発見せり、村中允恭天皇の御陵あり、其東北の田野志貴県主社の辺に遺物散布す、採集せし遺物は石器貝塚土器獣骨獣歯にして、石器は皆粘板石を打裂して造りたるものにして、石斧一個其長サ三寸巾一寸五分なり、此他は多くは小石器にして、種々の石鎌(長きものは一寸三分小なるものは五分に過ぎず)剥皮具其他小石鎗及其尖端石小石の欠片等なり。
 
餌香市《ヱガノイチ》 今道明寺村国府の旧名なり、日本書紀、雄略巻云「狭穂彦玄孫、歯田根命、窃奸采女山辺小島子、天皇聞、以歯田根命、収付於物部目大連、而使責譲、以馬八匹大刀八口、※[禾+跋の旁]除罪過、資財露置於餌香市辺、橋本之上」と、此橋は万葉集に河内大橋とありて片足羽川に架す、対岸は片塩の地なれば也、又餌我川と曰ふ、顕宗巻には旨酒《ウマサケ》餌香市と頌せり。
 
船橋《フナハシ》 道明寺村大字船橋あり、大和川石川の会合所にして其西岸にあたる、今新大和川に架橋して柏原村へ通ず。日本書紀餌香市辺の橋、又万葉集河内大橋と云は此なるべし。続日本後紀、承和八年、志紀郡孝子衣縫氏女、恵我川に梁を架すも此に外ならじ。(中河内郡片足羽川参照すべし)
 
衛我《ヱガ》川 餌香市辺の流を云ふ、大和川にも石川にも通ず、日本書紀崇峻巻に餌香川原、天武巻に衛我河とあり。〇日本妃、壬申年「坂本臣財、率三百軍土、距於龍田、聞近江軍、在高安城、而登之、乃(460)近江軍敗亡、財仍宿城中、会明、臨見西方、大津丹比両道、軍衆多至、顕見旗幟、有人曰、近江将壱伎史韓国之師也、財等降自高安城、以渡衛我河、与韓国戦于河西、財等衆少、不能拒、先是遣紀臣大音、令守懼坂、於是財等退懼坂、経一日、近江軍当諸道多至、即並不能相戦、以解退」按ずるに懼坂《カシコノサカ》は龍田越なり、近江軍何が故に解退せしやを詳にせず、大津は今高鷲村大津神社あり、丹比は丹比坂にして今埴生村に在り。
 
恵我長野《ヱガノナガノ》北陵 允恭天皇の御陵なり、応神天皇藻伏山陵の北に当れば此名あり。古事記に「在河内之恵賀|長枝《ナガエ》」とあり、長江の義にて恵我川の浜に在れば也。日本書紀「葬於河内長野原陵」とあり。延喜式云、恵我長野北陵、速飛鳥宮御宇允恭天皇、在河内国志紀郡、兆城東西三町南北二町。扶桑略記、恵我長野北原陵、高四丈方三町。〇山陵志云、允恭陵、乃在仲哀陵東北、今呼為市野山、此地故是餌香市也、或以為市辺王押磐墓、然他無所徴、不取也、〇允恭陵は北面し、道明寺大字国府の西に接す、市辺王子墓は近江国に在るべければ固より相異なり。河内志は国府陵の西南に接する沢田の古陵中津山を以て允恭帝と為したり、然れども沢田陵今標して允恭皇后仲津姫陵と定む、西南面し陵形相同じ。〇名所図会云、恵我北陵の畔に小塚十三あり、其三は道明寺に属し、七は沢田に属し三は古市に属すと。今按ずるに仲津姫陵の南に宮車像の小墓あり、其他北陵附近十数個の土饅頭あり。
 
拝志《ハヤシ》郷 和名抄、志紀郡拝志郷。〇今沢田村なり、大字林有す、道明寺村の西に接し、恵我長野北陵の畔なり。林氏は数流あり、姓氏録云「河内国皇別、林朝臣、道守朝臣同祖、竹内宿禰之後也」続日本紀云「延暦六年、河内国志紀郡人、林臣海主等、改姓賜朝臣」又姓氏録云「河内国神別、林宿禰、大伴室屋大連公男、御物宿禰後也」「河内国諸蕃、杯連、出自百済国川支王。」
伴林氏《トモノハヤシウヂ》神社は今|沢田《サハダ》村大字林の北に在り、天押日命を祭る、大伴氏の祖なり。三代実録、貞観九年伴林神官社に預り十五年天押日命神授位あり、延喜式に列す、其氏人は姓氏録云、林宿禰、大伴宿禰同祖、高皇産霊尊五世孫、天押日命之後、続後紀云、承和二年、河内国人、林連馬主、賜姓伴宿禰。
 
土師《ハシ》郷 和名抄、志紀郡土師郷。〇今道明寺村大字道明寺是なり。江談抄「菅家、本姓者土師氏也、河内国土師寺、是其先祖氏寺也」と見え、土師氏は河内より大和に移り、又山城京に移る。姓氏録云、右京神別天孫、土師宿禰、天穂日命十二世孫、可美乾飯根命之後也、光仁天皇天応元年、改土師賜菅原氏。〇日本書紀、垂仁巻云、皇后日葉酢媛薨、臨葬有日焉、天皇詔群卿曰、従死之遣、前知不可、今此行之葬、奈之為何、於是野見宿禰進曰、夫君王陵墓、埋立生人、是不良也、喚上出雲国之土部壱佰人、自領土部等、取埴以造作人馬及種々物形、献于天皇曰、自今以後、以是土物、更易生人、樹於陵墓、為後葉之法則、天皇大喜之、仍号是土物、謂埴輪、亦名立物也、厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地、即任土部職、因改本姓、謂土部臣。〇土師郷は本国丹比郡又和泉国其他にも多し、江談抄に拠れば此地土師氏の本邑にて、其他は属隷枝別の地に似たり、菅原道真詩にも此地を故郷と詠ぜり。
天夷鳥命《アメノヒナトリノミコト》神社〇文徳実録、天安二年河内国天夷鳥神授位。今道明寺の鎮守天満宮蓋是也、天夷鳥は土師氏の祖天穂日命の子なり、後世菅原道真と混同し、今土師神社とも称す。
 
道明寺《ダウミヤウジ》 道明寺村の名は土師寺《ハシデラ》の別号道明と曰ふに因る、蓋氏神天夷鳥祠の供僧なり。〇道明寺今真言宗の尼院なり、初め土師八島連家を捨てゝ精舎と為す、聖徳太子の所営とぞ、後菅原道真の伯母覚寿尼氏寺なれば此に出家あり、道真筑紫左遷の時此寺に一宿せられ、影像を遺さる、(今天満宮本尊荒木の像是也)其明暁に
 鳴けばこそ別れもいそげ鶏の音の聞えぬ里のあかつきもがな
後北野霊社造立の比此にも天満宮を創む、中世寺産多かりしかど畠山氏の兵乱に之を失ひ、天正中寺社再建す。〔名所図会〕〇土師八島連の塚は寺西二町余に在り、八島は唱歌の妙を得て鬼神を感動せしめたる事、平氏太子伝に見ゆ。〇扶桑略記、昌奉元年宇多上皇巡幸の条に云「経龍田山、入河内国、菅原朝臣(道真)絶句曰、雨中衣錦故郷帰」と又治安三年入道相国道長遊覧の条に云「指河内国、進発之間、昏黒御道明寺、国司為職、装束食堂、帷帳之餝、壮観云尽、朝夕之儲、敢不忽諸、諸陪従南、廬太以過分、明日入摂津国」と、按に昌泰御幸の時も、上皇は菅原朝臣の故郷たる道明寺に一宿ありしならん。
   過道明寺有感        惟宗 孝言
 閑官多暇出城外、引歩便来古寺前、雁塔五重承夜露、鳧鐘三下報黄昏、檀那昔到留神跡、紗帳深護安世尊、樹下春闌懐旧処、家山暫忘立墟根、〔無題詩集〕
道明寺糒は古来その名たかし、姓氏録土師氏の祖に乾飯根と云人あり、偶然と為すべからず、今も寺中に之を製し詣者に販給す、或者の戯に
 尼の撰る舎利のほし飯道明寺。.
大坂夏役、元和元年五月六日、天明け西軍の諸隊道明寺の東石川磧に至る、時に前発の後藤基次に国分に敵(461)に会し、大敗、残兵退き走り石川を渡り、山川北川の隊に混入す、諸将追撃の敵に当り奮闘甚だ勉む、殊に薄田兼相は状貌魁偉膂力人に過ぐ、前役博労洲の敗を恥ぢ必死を期し、縦横馳突、先づ東軍に獲らる、山川北川は道明寺前に於て返戦時を移し、南に退き誉田の森に拠る。
 
誉田《コンダ・ホムタ》 今|古市《フルイチ》村に属す、大字古市の北に接す。古事記景行皇子|品陀《ホムダ》真若王あり、蓋此に住居し玉へり、応神帝亦品陀和気と称し真若王の女を娶り崩じて此に葬り奉る。古事記伝云、応神天皇品陀真若王の御女を娶りたまふも此地に居住しませばなる可し、吉野国巣等が歌に仁徳天皇を本牟多能美古と詠めるも、品陀《ホンダ》天皇の御子と申すことなり、書紀に誉田天皇と註せり、誉田今コンダと呼ぶは後の訛也。〇此地元志紀郡の地なるを、中世より古市郡に属せしめ、今遂に古市村に合同す、誉田林《コンダハヤシ》は藻伏山陵にして、誉田河原は石川磧なり。太平記に、正平二年河内守楠正行は北軍畑川顕氏を此地に要撃したる事見ゆ。〇日本戦史、(大坂役)元和元年五月六日午後に至り真田幸村期に後れ根浦街道|巴引《ハビキ》野(今植生村伊賀より野之上間)より誉田に至る、前隊すでに破れたり、東軍伊達隊曰く赤隊彼に在り之を撃てと、赤隊は即ち真田の隊なり、旗旌甲冑皆赤色を用ふ故に云ふ、彼我の間地勢平坦以て奔馳すべし、片倉重綱乃ち歩小姓を騎兵に合せ前後二隊と為し、又銃卒を其左右に展開し、之に側面より敵将を狙撃すべしと命じ、鼓螺吶喊して進む、幸村急に其兵をして折敷かしめ、敵騎の接近を見、槍を駢べて之に迎はしむ、片倉の士突進之に死傷する者尠からず、両隊大に混戦す、進退数合、重綱竟に其兵を誉田の村落に収む、両軍終に交綏し、真田の隊は野中村に退く。当宗《マサムネ》神社は誉田の北|王水《ワウスヰ》町なる当宗垣内に在り。〔河内志〕延喜式志紀郡に列し、宇多天皇外祖母当宗忌寸の祖神三座を祭る。姓氏録云、当宗忌寸、出自後漢献帝四世孫、山陽公之後也。仁和五年当宗祭、始めて幣帛使を遣し、国司をして專当せしめ給へり。〔年中行事秘抄〕
補【当宗神社】〇神祇志料 当宗神社三座、今古市郡誉田の北、王水町当宗垣内にあり(河内志)宇多天皇外祖母当宗忌寸氏神を祭る(新撰姓氏録・年中行事秘鈔・大鏡裏書)宇多天皇寛平元年四月乙亥、勅して云、朕外祖母当宗氏神河内にあり、今年より初て之を祭るべしと詔て、即幣帛使を遣し、国司一人国の正税を以て其事を専当《アヅカル》べく剏給ひき(年中行事秘砂・本朝世紀・諸神記引寛平御記)
 按、諸神記等の書祭年を誤て寛平五年四日七日戊辰とす、今之を訂す
其祭四月十一月上酉日を用ふ、醍醐天皇延喜の削並に大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)凡そ夏冬の祭、杜本祭使兼て本社の祭物を奉り、馬寮走馬十匹を奉らしむ(延喜式・師遠年中行事・公事根源)
 
恵我藻伏崗《ヱガノモフシヲカ》陵 応神天皇の御陵なり、今古市村大字誉田の北に在りて北面す、高五丈許、(南北五町東西四町)厳然たる廟寝也。古事記、御陵、在川内恵賀裳伏岡也。延喜式云、恵我藻伏岡陵、軽島明宮御宇応神天皇、在河内志紀郡、兆城東西五町南北五町。山陵志云、応神陵、呼為八幡山、長野是此間総名也、今西北二陵皆繋長野、而此陵独不言長野南陵何也、蓋藻伏之名自古大聞、即其地方不足詳言也、又云、藻伏古事記註曰百舌鳥、本是和泉地名也、因疑此自彼改葬、而仍其旧号、故名蓬※[草がんむり/累]。(按に旧陵は百舌なりしにもせよ、藻伏と百舌は同言に非ず)扶桑略記云、天皇葬于河内国志紀郡恵我藻伏陵、一云葬殖香藻節崗陵、高五丈方五町。〇雄略紀云、河内国言、飛鳥部郡人、史伯孫女者、古市郡人書首加龍之妻也、伯孫聞女産児、往賀聟家、而月夜遷於|蓬※[草がんむり/累]《イチヒ》丘、誉田陵下、逢騎赤駿者、伯孫視而心欲之、仍換馬、相辞、明日、赤駿変為土馬、伯孫異之、還覓誉田陵、乃見※[馬+総の旁]馬、在於土馬之間。
 
誉田八幡《ホムタハチマン》宮 応神陵の南二町即其背に在り。八幡宮縁起に依れば後冷泉天皇の時、本陵の南一町余に造営すと云者是なり。〇名所図会云、長野山誉田八幡宮は僧院十五宇祝家十三宇神子三人奉仕す、本地堂は護国寺と号し、本尊阿弥陀仏、奥院は宝蓮華寺と号し、真言宗を相承す、誉田縁起は足利義教筆に成る、天正年中神領没収の後豊臣氏更に二百石の喜捨あり。(近年寺社家分離祠廟旧観なし)又卅三所図会云、八幡宮宝物古書画経像の類多し、又伎楽の器具あり、洪鐘は「八幡宮誉田山陵鐘也、建久七年丙辰七月日鋳之」と銘す、社境の内に「土馬変成赤駿」の古跡なりとて、厩址を伝へたり。延久四年官牒曰、長久五年国符云、可奉免、古市郡誉田山陵、三昧田仏憎供料田拾伍町事、右八幡宮御牒云、誉田山陵者、大菩薩御舎利之処也、今奉為法楽荘厳、建立三昧堂、已限永年、勤修行法、件三昧田、彼時国司頼隆直人、依夢想告、初以奉免者。〔史学雑誌〕〇誉田宗廟縁起曰、「応神帝、葬于河内国古市郡長野山、欽明帝始、改造廟而有行幸、聖徳太子亦有参詣、後冷泉御宇新造官社、去本所一町余。」
 
古市《フルイチ》郡 明治二十九年廃して南河内郡へ入る、志紀郡の南に接せる小郡なり。古事記に倭建命の霊白鳥と化し伊勢より飛翔り河内国志紀に留まり坐(462)とあるを、書紀には旧市村に留まると記し、今も白鳥陵存すれば本郡は志貴県の分地たる事明なり。和名抄、古市郡、訓不留知、三郷に分つ。後世誉田及安宿郡加美郷石川郡大国郷を併せたり。
 
古市《フルチ》郷 和名抄、古市郡古市郷。〇今古市村大字古市|碓井《ウスヰ》などの地なり、日本紀旧市村(寛平熱田縁起旧市邑に作る)白鳥陵の事見え、続日本紀云「天平十七年、河内国司言、古市郡古市里、庭中得白亀一頭。」〇姓氏録「古市村主、出自百済康王也」とあるは雄略紀に古市郡人書首加龍と云ふ人と同族にて謂ゆる西文氏なるべし。氏族志云、文氏、出自漢王邦裔孫鸞王、鸞王之後王狗、転至百済、其孫王仁、博通典藷、応神朝応徴来朝、是為河内文首祖、即西文氏也、〔日本書紀古語拾遺姓氏録続日本紀〕称徳帝時、古市郡人有馬※[田+比]登益人、改賜武生連、出自王仁孫阿浪古。〔続日本紀性氏録〕
 
西琳寺《サイリンジ》 諸州巡覧記云、古市村西琳寺初め古市寺と号す、是れ本邦寺院の初にて、蘇我稲目の創立向原寺是也、今律僧住す。〇此寺は蘇我氏向原宅の古跡と云事河内志にも採れり、然れども古縁起によれば欽明二十年河内の文氏の造立たるや明白なり。此寺古文書を蔵し、南河内の名藍の一なり。 わがたのむ西の林のうめの花みのりの花の種かとぞ見る、〔新葉集〕        後村上院
寺蔵、弘安四年太政官符云「西琳寺四至東限飛鳥荘(依為太子御廟四至内下官符被止殺生)南限岐子荘(依為山門西塔領往代禁断殺生)西限尺度荘(依為根本法花堂領往代禁断殺生)北限誉田陵(依為大菩薩聖廟下官符止殺生)爰当寺者、欽明桓武両朝御願、舎那弥陀霊験之仁祠也、草創旧先於天王寺、三十箇廻。」〇按ずるに弘安官符の文に天王寺より先んずる三十年と云ふは欽明御宇に当る、岐子荘今其名なし高屋の別名か、古京遺文云、河内国西林寺記、載天平五年縁起曰、天忍羽広庭天皇、己卯年九月七日、始大山上文首阿志高時、率諸親属等、仕奉此寺、並阿弥陀丈六仏像。
古市城と云ふは高屋城と同異詳ならず、南山巡狩録云、正平二年三日の比、細川兵部少輔同帯刀先生以下多勢を率し河内国古市城に寄せ来るにより、和田楠以下の官軍野中寺の東にかけあはせ防ぎ戦ひ、敵を追ひ靡け藤井寺の西岡村といふ所まですゝみ行く、細川勢軍兵を二手にわけ取て返し又合戦を遂げ、和泉の守護代大塚惟正平石源次郎八木法達以下が手に属し接戦する程に、細川帯刀をうちとり官軍勝利を得たりけり。〔岸和田冶氏申状〕伊岐宮《イキノミヤ》は古市の西に在り白鳥明神と称す。河内鑑云、古市雪の宮は白鳥宮とも云、日本武尊鷺になりて飛たまひしと申伝ふる所也。
古市は南河内の一大村なり、畠山氏南北乱の後を承けて古市の南|高屋城《タカヤノシロ》に居り国務を視たるより、此地河内の首府と為る、天正中畠山氏亡び復寒邑と為る、而も旧俗を存し尚南河内の山市なり。
 
高屋《タカヤ》陵 古市村の南に在り、安閑天皇の御陵なり。日本書紀云、広国押武金日天皇、葬于旧市高屋丘陵、以皇后春日山田皇女、及天皇妹神前皇女、合葬于是。延喜式云、古市高屋丘陵、勾金橋宮御宇安閑天皇、在河内国古市郡、兆域東西一町南北一町五段。扶桑略記云、高屋丘陵、高三丈方二町。延喜式又云、古市高屋墓、春日山田皇女、在河内国古市郡、兆城東西二町南北二町。按ずるに延喜式安閑陵其皇后陵と幅員を異にす二陵相並ぶに似たり、然れども書紀に合葬とあれば其実一陵なるべし。明徳年中河内守護畠山基国此に築城し、帝陵其域中に入る、近世陵畔より玉碗《タママリ》を発掘したる事あり、古市西琳寺に蔵すと云、藤貞幹集古図、蜀山人一話一言等に詳なり。
高屋神社は延喜式に列す、今高屋陵南字古屋敷に在り、八幡宮と称し、築城の時其域中に属したり。姓氏録「高屋連、出自神饒速日命」とあれば其祖神を祭れるならん。
 
高屋城《タカヤノシロ》址 古市村の南に在る、字|古屋敷《フルヤシキ》と云ひ、土俗八幡山と称す、帝陵を其北部に籠絡し、土星壕池の遺形歴々尚存す、東西凡四町南北八町、国主畠山氏二百年の居宅なり。初め南北争乱の末に方り、足利幕府は畠山義深を以て大和河内の守護に任じ、侵略を事とせしむ、義深高屋に築き南方を謀り、子基国州中の望族和田隅屋甲斐荘等を招降し楠木氏を破り高屋に治す、明徳中也。基国幕府管領職たるを以て守護代を置き、遊佐安見木沢等之に任ぜり。基国の孫持国、其子政長義就兄弟相争ひ、英子孫互に攘奪したりしが、政長の孫植長終に本州を復す、再伝して高故に至り、永禄三孝三好長慶と戦ひ城陥る高政出亡す、三好義継之に代る、已にして織田氏軍京に至る、高政其援を得て高屋に還り本州の半を封ぜらる、天正元年遊佐信教乱を作す、織田氏の兵本州に入り之を平げ、高政出亡す、三年、三好康長入道本願寺に加担し此に拠りしが、後織田氏に降る。〇信長公記云、天正三年四月、信長南方へ御馬を被出、君江に至て御陣取、大阪より差向候附城かいほりへは御手遣もなく、直に奥へ被成御通、八日、三好笑岩楯籠高屋へ取懸、町を被破、不動坂口相支、推しつ推れつ数度合戦、此時信長駒ケ谷山より御自の下に被見物、晴がましき働也、其日は誉田の八幡道明寺河原へ取続、段々に陣取、信長は駒ケ谷山に御陣を張せられ、万方へ足軽被仰遣、谷谷入口迄御放火・其上麦苗薙捨。
 
(463)白鳥《シラトリ》陵 古市村の西大字|」軽墓《カルハカ》に在り、日本武尊の仮墓なり、軽墓は其訛と為す。日本紀云、日本武尊、化白鳥、飛至河内、留旧市村、其処作陵、曰白鳥陵、然遂高翔上天、(古事記曰化入尋白鷺矣)仁徳天皇之時、差白鳥陵守等、充役丁、天皇臨役所、爰陵守目杵、忽化白鹿以走、於是天皇詔之曰、是陵自本空、故欲除其陵守、而甫差役丁、今視是恠者、甚懼之、無動陵守者、則且授土師連等。
 
尺度《サカト》郷 和名抄、古市郡尺度郷。〇今古市村大字軽墓、西浦村大字西浦等の地なるべし、丹比坂の東なり、坂門の義なるべし。尺度池は白鳥陵の西、坂門原陵の北なる池塘ならん、方三町許。続日本紀云、天応元年、河内国言、尺度池水変成血色、其臭甚羶、長可二町、広可三丈。〇姓氏録、河内国皇別酒人造、日下部同祖彦坐命子狭穂彦命之後也。
 
坂門原《サカトハラ》陵 清寧天皇の御陵なり。延喜式、河内坂門原陵、磐余甕栗宮御宇清寧天皇、在河内古市郡、兆城東西二町南北二町。〇今西浦村大字西浦の北に在り、白鳥陵と相距二町許。山陵志云、坂門者埴生坂門也、其地西浦村、而其東古市、即恵我長野之南、清寧陵、呼曰|白髪山《シラガヤマ》。〇按に清寧陵は扶桑略記「坂門原陵高二丈方二町」に作り、又「飯豊天皇、葬于大和国葛木植田丘陵、一云葬河内国古市郡、坂門原南陵」とあり 飯豊陵の事は日本書紀延喜式に拠れば葛下郡|埴口《ハニグチ》墓たるや明白なり、扶桑略記の一説は疑はし。
  河内途上         篠崎 訥堂
 路入河南吾未曾、※[子+子]山稍近露及稜、虫声満地午猶咽、野草秋風何帝陵。
 
坂本《サカモト》郷 和名抄、古市郡坂本郷。〇今西浦村大字坂田あり、此辺を云ふ、尺度郷の南なり。戸苅《トカリ》池〇日本書紀、推古天皇十五年、作戸苅池。河内志云、在古市郡|蔵内《クラノウチ》村、今曰|利雁戸《トカント》。(今西浦村大字蔵内)〇利雁神社は延喜式に列す、今西浦村大字|西坂田《ニシサカタ》戸苅山に在り。〔河内志神祇志料〕
姓氏録旧事本紀、依羅連高屋連並に物部伊※[草がんむり/呂]弗連の裔也、依羅氏蓋網を設て鳥を捕る事を掌る、且伊※[草がんむり/呂]弗五世祖伊香色雄命の母を高屋阿波良姫と云ふ、高屋神社に由あり、利雁は蓋鳥猟の仮言ある時は、利雁神社或は依羅連の祖神を祭れるも知るべからず、西坂田高屋二村又隣接す。
 
安宿部《アスカベ》郡 古は安宿に作る、正保国図すでに安宿部と記せり、明治二十九年廃して南河内郡へ入る、石川の西なる狭小の地なり。もと古市と
共に志貴県の域内なるべし、和名抄、安宿部《アスカベ》、訓安須加倍。日本紀雄略巻に飛鳥部郡と見ゆるは追書なれば、当時未だ郡制なしと知るべし、和名抄、三郷に分れたり。〇飛鳥部は蕃別なり。姓氏録、河内国諸蕃、飛鳥戸造、出自百済国比有王男※[王+昆]支王也。又飛鳥戸造、百済国末多王之後也。
 
資母《シモ》郷 和名抄、安宿郡資母郷。〇今|玉手《タマテ》村にあたる、国外|駒谷《コマガタニ》に対し下方に居る、片山玉手円明の三大字に分る。
片山《カタヤマ》 玉手村の北に在り、大和川の南岸に臨み人家散在す。南に丘陵を起す、小松山玉手山と曰ふ、元和元年夏役の戦場にして其墓あり。
 河内野や片敷山の片岸にゆきか花かとなみぞよせ来る、〔古今六帖〕
日本戦史云、東軍大和口水野勝成捻指揮たり、五月五日関屋亀瀬より進み、哺時国分に至る。時に諸将小松山に登り曰く好陣地なり宜く此地に屯すべしと、勝成肯かず、夫れ寡兵を以て此に屯し敵若し来り撃たば竟に支ふる能はざらむ、国分は片山を距る遠からず前に水田あり細流あり地形頗る良好なり、今夜国分に屯し若し敵小松山に来らば明朝繞りて玉手円明方位に出で、前後夾撃して之を殲さむ、勝敗の機は敵を致すと致さざるとに在りと。
伊達正宗後れ至る、其先頭片倉重綱小松山の東南に到り、兵を分ちて二と為し一隊(銃二百弓五十長槍百)を山下に伏せしめ、自ら一隊(騎士六十銃百弓五十長鎗百歩小姓組槍百)を率ゐ退くこと二町許にして屯し、警戒す。是日西軍真他幸村毛利勝永後藤基次は黎明以前に小松山を越え前後隊を合し狭隘部の口に於て東軍を迎撃せむと決議したりし也。六日基次二千八百の兵を率ゐ払暁藤井寺に達し、後隊を待つも至らず、時機漸く後るゝを以て独り道明寺に出て前路を偵察せしむるに、敵兵二三千国分に屯すと云ふ、乃ち石川を渡り直に馳せて小松山に登る。其先頭兵すでに片山を東に下り鬨声を発して急に東軍を撃つ、復た銃撃に遑あらず、槍を以て接戦し劇闘甚だ勉む。東軍地勢利あらず先づ敗る、松倉重政山北より進み西軍左翼の銃火を冒して之を駆逐し、更に南に進み遂に敵軍の後を絶てり。基次は初め撃退すること数回なりしも、東軍二万の多兵三面より攻撃を受くるに及び、終に勝算なきを知り、小松山を西に下り馳せて広衍の地に出、展開して死戦し、遂に胸部を射撃せらる、時已に正午に近し。
補【片山】〇西国三十三所図会 奥田忠一墓 片山村にあり、則ち玉手の北に隣す、河内鑑に云、大坂軍の寄手奥田三良右衛門忠一討死の石塔あり、同寄手井上四郎兵衛、神子田四郎兵衛、岡本嘉助、下野道三、阿波(464)伊兵衛此所にて討死、其余兵卒の討死数ならず、又片山に古礎多し、すべて擾長戦場は片山、玉手、円明諸村の間にあり、今此辺の土中より武器出る事あり、銅板重ね張の矢根等近年田圃の中より出る、安福寺に蔵むとぞ、図会云、円明、玉手、片山諸村慶長の戦場也、奥田忠一墓は片山村に在り、河内志云、慶長乙卯五月六日、後藤基次薄田兼相出戦す、仙台の家臣片倉小十郎是を賜り、二人の首を獲たり、今に此辺土中より武器出づ。
 
玉手《タマテ》 玉手村に安福寺あり、地方の名藍なり、片山玉手山に出す所の葬穴古器、金環陶器の類を寺中に蔵す。日本書紀仁徳巻に播磨佐伯直阿俄能古|玉代《タマテ》の地を献納すとあるは此か、大和南葛城郡にも同名あり。人類学会雑誌云、河内玉手村丘陵の南面に横穴散布す、各穴の間隔多きも五六間少きは一二間に過ぎず、今六個許の発見あり、其一穴の奥に土棺の崩れたるものあり、即此横穴も亦曾て墳墓として使用せられしものと云ふべきなり。
 
安福寺《アンプクジ》 玉手村大字玉手の山上に在り、今浄土宗を奉ず、寛文年中僧珂憶廃頽の旧院を更新して之を成す、行基創開の遺跡と称せり。珂憶は尾州侯光友の帰依を得、堂舎建立多く其資助に因り、屋式梁低く柱太く万世不易を期したり、俗に聖徳太子の式と称す。寺は高に倚り望広し、難波の江海眼下に来る。伯太《ハカタ》神社は今玉手村に在り、伯太又百尊に作る蓋此地の古名なり。続日本紀に由義宮の辺の長瀬を波可多と頌せり、玉手の下を過ぐる石川の水流れて長瀬と為るを以てなり。〇延喜式、文徳実録、伯太彦伯太姫の二座と為し、神祇志料は是れ田辺史伯孫及妻を祭ると曰へり、河内志、彦神社は安福寺に在り、姫神社は円明山に在り白山権現と為すと。〇姓氏録云、上毛野朝臣豊城入彦五世孫、多寄波世君之後也、雄略御世、努賀君男|百尊《ハカタ》(日本書紀作伯孫)為阿女産、向聟家、犯夜而帰、於応神天皇御陵辺、逢騎馬人、相共語話、換馬而別、明日看所換馬、是土馬也、因賜姓|陵辺《ヲカベ》君、百尊男徳尊孫新羅、皇極御世、賜河内山下田、以解文書、為|田辺《タナベ》史。(国分村に字田辺の名有す)
補【伯太神社】〇神祇志料 伯太彦神社、今玉手村伯太川の辺にあり(河内志・河内国図)伯太彦神を祭る(延喜式)伯太彦は蓋田辺史伯孫也(参酌日本書紀・姓氏録大意)
 安、日本書紀雄略天皇御世河内国飛鳥辺郡又田辺伯孫あり、釈日本紀日本紀竟宴歌集にもはくそむと訓み、姓氏録に百尊とさへあれば字音のまゝに訓し事著けれど、後人之を祀る時に伯太彦と号しなるべし、伯孫と伯太彦と何れにも由縁ありて聞ゆれば也、姑附て考にそなふ
文徳天皇天安二年二月己丑、従五位下伯太彦神を官社に預らしめ(文徳実録)醍醐天皇延喜の制、祈年祭に鍬一口を奉るを例とせらる(延喜式)
〇神祇志料 伯太姫神社 今玉手の南円明村にあり、(河内志・河内国図)伯太姫神を祀る(延喜式)蓋田辺史伯孫の妻也(日本書紀・姓氏録・延喜式)
 
国分《コクブ》 国分寺の所在地なれば此名あり、玉手村の東大和川に添ふて一村を為す。大和国王寺下田より亀瀬関屋を経て此に出づ、小駅舎なり。元和元年五月、大坂軍国分口を争ひ先隊後藤基次敗れ、後隊期を失し又敗れ、遂に天王寺の会戦と為り、大坂城陥る。日本戦史云、夏の役起るや、基次曰く城壕既に填めらる、我軍出て平原曠野に迎撃せんか、以て老功の家康と精練の東兵を破らんこと未だ保し易からず、故に天王寺に戦ふの策は予の取らざる所なり、顧ふに東軍必ず大和路より来らむ、寡を以て衆を禦ぐは険に拠て戦ふに如かず、我精鋭を聚めて国分の狭隘を扼し、之を半途に要撃せば十中七八志を得ん、既に先頭を破らば其他は必ず奈良郡山に退却し、再来数日を費すべし、其時に臨みては更に応変の良策あらんと、前隊後藤基次薄田兼相等六千を以て先発す、五日晩を以て国分の西片山に東軍に会ふ。
国分《コクブ》寺址〇延喜式云、河内国国分寺料一千束、今国分村に旧蹤を存す観音堂あり、石地蔵あり。〔河内志〕〇本朝無題詩集に河州府東山普光寺あり、国分寺を言ふにや、又安福寺などにあたるか、霊異記、安宿郡、信天原寺亦詳ならず。
   遊普光寺、々在河州府東山   大江 佐国
 秋日適尋古寺登、暮林蓊索嶺泉澄、梯危路遶幽溪入、山隔雲従断峡興、如遇旧遊丹頂鶴、纔談往事白眉僧、此時促膝沈吟苦、被引風流去末能、
扶桑略記云、大同元年、伝燈大法師慈雲卒、年四十九、俗姓長屋忌寸、右京人也、神護景雲四年得度、登壇之後学業殊高、安居之日請旡性摂証等、厥後永為普光寺伝法講師、勧誘不倦、生徒卒業。〇霊異記云、河内国安宿郡、部内、信天原《シテハラ》山寺、為妙見菩薩、献燃燈、帝姫阿倍天皇(元明)代、知識緑依例施財、其布施銭五貫、弟子窃盗而隠之、返于河内市辺井上寺之里。(磯長妙見寺にや)
松岳山船氏墓〇国分村|松岳山《マツタケヤマ》に前年古墳を発き墓誌を獲たり、銅碑長九寸七分濶二寸二分厚五厘、両面文を鐫たり、又同地より奇石を獲たる事あり、全円径六寸形状歯輪に似たり、其質緑泥石なり。〔好古小録人類学会雑誌〕船氏は葛井大津と并び百済辰孫王の裔にして、河内史氏なり。(465)惟船氏故王後首者是船氏中祖王智仁首児那沛故首之子也生於乎婆※[こざと+施の旁]宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲勅賜官位大仁品為第三殞亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦安埋故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之宝地也
按ずるに辛丑は舒明天皇十三年、戊辰は天智天皇元年なれば相去る廿七年とす。
補【信天原寺】〇日本国現報善悪霊異記〔重出〕妙見菩薩変化示異形顕盗人緑第五、河内国安宿郡部内、有信天原山寺、為妙見菩薩献燃燈処、幾内毎年、奉於燃燈、帝姫阿倍天皇代、知識依例献於燃燈菩薩、並室主施於銭財物、其布施銭之中五貫、師之弟子、窃盗而隠、後為取銭、往見之無銭、但鹿負矢仆死也、仍為荷鹿、返于河内市辺井上寺之里、率人等、而至見之、非鹿、唯銭五貫、因顕盗人、定知、是非実鹿、菩薩所示矣、是奇異之事矣。
補【船《フネ・フナ》氏塞】〇人類学会報告 奇石あり、全円径六寸許、形状は宛も時辰儀の歯輪に似たり、石質は緑泥石なるべし、何に用たる具なるや考ふべからず、出所は河内国安宿郡国分村松岡山の古墓なりといふ、松岡山は船氏の墓地なれば、憶ふに此石器も亦船氏墓中の物ならむか。
 
尾張《ヲハリ》郷 和名抄、安宿郡尾張郷。〇今国分村にあたるべし、徴証なし。姓氏録云「河内国皇別、尾張部、彦八井耳命之後也」と、即志貴県主同族なれば其以ありと謂ふべきか。又尾張連あり、旧事紀云、「饒速日尊十三世、尾綱根命妹金田屋姫、嫁品陀真若王、生三女王、誉田天皇并為后妃、誕生十三皇子、賜尾綱尾張連姓為大臣、勅曰汝自腹所産十三皇子等、爾率養日足奉耶、時連為大歓喜」と、此品陀真若王誉田天皇并に隣邑志貴の誉田に居たまふ事なれば、是亦相因る所あるが如し。
 
賀美《カミ》郷 和名抄、安宿郡賀美郷。〇今|駒谷《コマガタニ》村大字駒谷飛鳥の二所なるべし、玉手村の上方に接す。霊異記|鋤田《スキタ》寺は本郷の中か、記曰「釈智北者河内国人、其安宿郡鋤田寺之沙門也、俗姓鋤田連、後改姓上村主也、母氏飛鳥部造也、天年聴明、智恵第一、製盂蘭盆大般若心経疏等、為諸学生、読伝仏教、時有沙弥行基、時人欽貴、美称菩薩、以天平十六年甲申冬十一月任大僧正、於是光法師発嫉妬之心云々」。
 
駒谷《コマガタニ》 駒谷村大字駒谷は古市の東南十町、当麻越(又竹内越と云)の山口なり。〇金剛輪寺は、名所図会云、四々山金剛輪寺安養院と号す、後村上院勅願所として摂州葦屋荘を寄せ給ふ、綸旨及楠氏の遺物数多伝へたり、藤原永手清少納言の墓と称する者寺中に存す。
杜本《モリモト》神社は金剛輪寺の上方に在り、〔河内志〕蓋桓武天皇々子仲野親王の室贈正一位|当宗《マサムネ》氏の祖神を祭る、三代実録延喜式に列す。〇神祇志料云、本社は当宗同族の神なり、仁寿三年奉幣使を遣され、杜本祭此に始る、後祭儀久絶し宇多天皇寛平元年再興したまふ。〔諸社根元記公事根源〕〇三十三所図会云、天明三年刊三余抄云、杜本社国分村火の谷にあり、古代は杜本千軒とて坊舎千軒これあり、勅使御参向これあるよし申伝ふ、其近辺土中より古瓦おり/\掘いだすといへども、社頭と申もこれなく、大木の樟これあり、其木に藤かづらまとひ春は花咲みだれて常ならぬ木立とて神木と申伝ふ。
 
補【杜本神社】〇神祇志料 杜本神社二座、今古市郡駒谷村にあり(河内志・河内国図)蓋桓武天皇皇子仲野親王の室、増正一位当宗氏の祖神を祭る(参取大鏡裏書・寛平御記・新撰姓氏録)当宗神社同族の神也、(延喜式・諸社根元記大要)文徳天皇仁寿三年、内蔵寮幣使を遣して祭を行はしむ、杜本祭此に始る(諸杜根元記・諸神記)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下杜本神に正四位下を授け、七月丁卯良峰朝臣経世を使として神宝幣帛烏を奉る(三代実録)初仁寿中祭を行ひしより後、祭儀久しく絶たり、宇多天皇寛平元年四月に至て更に之を再興し給ひき(諸社根元記・諸神記、四月拠公事根源)
 按、諸書是年を祭の始とせるは誤れり、蓋仁寿に祭ありしが其後中絶たるを、此神は当宗神に由縁ある故に、始て当宗祭を行はるゝに附て、此社の祭をも再興されしをかく誤伝し事著し、姑附て考に備ふ
醍醐天皇延喜の制、二座並に名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る、凡そ其祭四月十一月上申日を用ふ、此日内蔵寮属小人を差して幣を奉り、馬寮走馬十匹を奉る(延喜式)九年七月庚午、河内国|解《マヲ》さく、杜本当宗二社相距る事遠からず、而るに左右馬寮官人長上騎士馬部廿四人を率て御馬十列を牽列ね、内蔵寮官人雑色等幣帛を賚し、申日は杜本、明日は当宗に供奉る故に、夏冬二時の祭毎に之寮使等久しく国府に留るを以て、諸郡の煩を致せり、願くは内蔵使一人にして二社に供奉る例に依り、左右馬寮夏冬毎に替る替る一寮御馬を以て両社に仕奉らむと奏しき、即勅して之に従ふ(本朝月令引大政官符)凡そ十月十七日を以て祭を行ふ(河内式社細記)
 
飛鳥《アスカ》 今駒谷村に属す、駒谷の東南十二町に在り、竹内《タケノウチ》越の山路にして、磯長村を経て大和国長尾に至る。其路当麻の南に出づ、一支路当麻の北に(466)至るを穴虫越と曰ふ、履仲天皇其南路に就き北路を避けたまふ事記紀に詳なり。履仲紀云、天皇到河内国埴生坂、急馳自大坂向倭、至于飛鳥山、遇少女於山口、問之日此山有人乎、対曰執兵者満山中、宜自当麻※[人偏+至]踰之、於是得免難、則歌之。又古事記云、水歯別命(反正帝)還下難波、欺隼人曾婆訶理、殺墨江中王、率曾婆訶理、上於倭之時、到大坂山口留、即造仮宮、忽為豊楽、乃隼人賜大臣位、百官令拝之、欽時斬其首、乃明日上幸、故号其地、謂近飛鳥也。〇按ずるに近飛鳥《チカツアスカ》とは飛鳥の二路中其北路なる大坂は捷径なれば此名あり、古来附会の説あれど看察を要す。
飛鳥戸《アスカベ》神社は延喜式安宿郡の名神大社也、今駒谷村飛鳥の東に在りて天王宮と称し、供僧を常林寺と曰へり。神祇志料云、飛鳥戸造百済宿禰の祖※[王+昆]伎王を祀る、〔姓氏録三代実録〕清和天皇貞観元年無位飛鳥戸神に正四位下を授け、二年十月官社に列る、陽成天皇元慶四年氏人百済宿禰有雄御春朝臣有世等が請に依て春秋祭祀の為に田一町を充給ふ。〔三代実録〕蕃神考云、続紀に桓武天皇は百済永継を女御とし給ふ、永継は公卿補任紹運録を併せ考るに飛鳥部奈互麿の女なり、又続後紀には「御春朝臣是百済王之種飛鳥戸等之後也」とあり、永継は又藤原内麿に嫁し、真夏冬嗣の生母たりき。
 
石川《イシカハ》郡 明治二十九年廃して南河内郡へ入る。大和川の一支源石川の上游にして、古は錦部郡と一境にして紺口県と云、又蘇我氏の先祖此に居り石川宿禰と曰へり、後其西部を分ち錦部郡を建て、和名抄、石川郡、訓以之加波、四郷に分ち、後世或は錦部郡と混同し指して東条《トウデウ》郡と称したる事あり、太平記に見ゆ。
三代実録云、大臣武内男宗我石川、生於河内国石川別業故以石川為名、賜宗我大家為居。〇東鑑云、元暦元年、樋口次郎兼光、為木曾義仲使、征石川判官代、日来在河内国。史徴墨宝考証云、石川源氏は義家以来世世河内に住し、石川錦部の辺を領せる一流にて、義基養和元年の初平氏の為に斬られ、弟義資は虜にせられ其後本国に帰り木曾の為に攻められ、遂に頼朝に投じ是より鎌倉に於て連枝の列に在り、元弘の乱に其子孫宮方に与し、笠置の役に馳加りしこと尊卑分脈等に見ゆ、其一族錦織氏あり。〇東条郡は元弘の乱に楠木正成無名の家より出でて、文武の材幹義烈の盛誉を発したる地なり、河州第一の勝跡とす東条郡の説は河内志及国郡沿革考に見ゆ。
 
大国《オホクニ》郷 和名抄、石川郡大国郷。〇今駒谷村大字|大黒《ダイコク》あり、是大国郷の遺称ならん、大黒寺と云禅刹あり、又大黒石と号する石を産す。〔三十三所図会〕因て按ずるに本郷は駒谷村大字大黒壺井并に磯長村山出村等に擬すべし。
 
大黒《ダイコク》 石川の東岸に在り、延喜式、石川郡|大祁於賀美《タケオカミ》神社今此地の生土神なり、山王権現と称す。〔河内志〕
 
壺井《ツボヰ》 今駒谷村大字壺井は中世古市郡に隷じたり、河内守源頼信任国の日、別業を此地に占めたるより三代の墳墓を置く。三十三所図会云、源氏墳墓壺井に在り、又古へ化輪寺といふ浄刹あり、是は頼義公奥州征伐の時敵身方の亡卒を追福の為に建られ、本尊に慈覚大師の作し賜ふ阿弥陀仏を安置す、後世廃寺となりて化輪寺藪金堂芝など圃の字となりぬ、漸本尊は残りて壺井寺什宝となりぬ、されば此辺は皆一跡の地にして、源家の領と見えたり。
 
通法寺《ツウボウフジ》 壺井寺と称す、石丸山と号し真言宗を奉ず、源氏三代の墳あるを以て元禄十三年徳川幕府堂舎を再興せしむ。頼信墓は本堂の巽位二町に在り、頼義墓は観音堂畔に在り、義家墓は頼信の東一町に在り。
 〔通法寺文書〕永徳三年四月河内国古市郡通法寺別当并供僧等謹言上
 欲早被奇捐丹生谷左近将監遠房所掠賜料所儀且云頼義建立伽藍且任八幡殿御自筆寄進状右大将家仮名書御教書并代々手継文書楠木中務大輔正儀二個度下知状旨如元令安堵仏燈油四町三段間事
右当寺者為源家御氏寺雖送三百年星霜高験猶日新者歟御本尊千手観音者頼義有御出狩庭之時山中放光明而草木変金色之間成希代之思有御覧者因光中忽然而現給千手観音発露啼泣而投五体於地御帰依之余仁奉負自身建立伽藍可被安置其内御本尊今千手是也然後八幡殿十二歳御時天喜年中応于勅命而為追討朝敵之御発向奥州之時於彼御本尊御前立種々願為未来寄特脱御直垂被懸像之御首畢其時之帳絹今猶在像之御首上加之八幡殿深有御祈誓之造写彼形條懸于御守暫時不放於身御下奥州経十二年三月被責彼貞任宗任併依当時御本尊千手擁護也先年大地震之時令崩倒伽藍之間為建立今御堂引地之処掘出石唐櫃開蓋而奉拝見者御骨是歴然也伊予入道殿八幡殿被立二基之五輪石塔并有御定立墓堂而割分件免田四町三段云々
 
壺井八幡宮《ツボヰハチマングウ》 相伝、天仁二年瀕義家勧請すと、即源氏の氏神なり。元禄十四年、徳川家綱通法寺修理の時、奉請して正一位壺井権現の号を三代武将に賜はり、本祠に配祀す。〔名所図会〕祠前に壺井あり。
 
磯長《シナガ》 今磯長村有す、用明敏達推古聖徳孝徳の諸皇陵あり、梅鉢紋の如くに位置す。科長神社は山田村に属す。磯長は古市村の東南一里余、大和(467)当麻寺の西嶺背に当る、聖徳太子の廟寺最世に聞ゆるを以て俗に太子と称す。
補【磯長】〇西国三十三所図会 太子村は皇太子六歳時、三輪の市と同時にこゝに市屋を建させ給ふ、今に蛭子の社あり。
 
磯長太子《シナガノタイシ》陵 磯長村大字太子に在り、上宮法王聖徳太子の墓なり、墓下聖霊院叡福寺を其廟堂と為す。〇日本書紀、推古天皇廿九年二月、厩戸豊聡耳皇子命、薨于斑鳩宮、(上宮法王帝説及法隆寺仏像銘卅年)是時諸王諸臣及天下百姓悉長老、如失愛児、而塩酢之味在口不嘗、少幼者如亡慈父母、以哭泣之声満於行路、乃耕夫止耕、舂女不杵、皆曰日月失輝、天地既崩、自今以後維恃哉、是月葬上宮太子於磯長陵。〇延喜式、磯長墓、橘豊日天皇之皇太子、名云聖徳、在河内国石川郡、兆域東西三町南北二町。〇御墓山は山に倚り墳を成す其中央は太子御母穴穂部間人皇后、東方即太子にして西方は太子妃膳臣女、三石棺を納めたり。〔名所図会〕
 
叡福寺《エイフクジ》 磯長村に在り、渋川勝軍寺を下太子と云に村し上太子《カミノタイシ》と号す、聖徳法王の影像を置く、故に聖霊院の名あり、今真言宗を奉じ堂舎は慶長八年豊臣氏の造進なり。〇西方尼院は南の上段に在り、浄土宗を奉ず、南林寺は更に其南に在り、叡福寺古伽藍講堂の跡なり、天正二年兵燹の後廃絶しけるに後水尾太上皇叡福寺行幸の時一宇を勅建せしめらる、即南林寺也、寺中太上皇御手植の甘露柿存す、太上皇宸翰光子内親王御画等を什宝と為す。〔名所図会卅三所図会〕西方尼院の東一町許民家の前に古墳あり、或は之を以て蘇我馬子桃原墓と為すも詳ならず。又延享年中叡福寺愛染堂の畔田間より高屋連枚人の墓誌を獲たることあり、寺中に其誌石を蔵す、長八寸巾六寸厚三寸余、錬石に似たり。〇古京遺文云、高屋連枚人墓志、石河郡山崩而出志似石非石、似瓦非瓦、土砂合成、未経火化者、和州宇智郡楊貴氏墓志其制全同、
 故正六位上常陸国大目高屋連枚人之墓宝亀七年歳次丙辰十一月乙卯廿八日壬午葬
占事談云、天喜二年、聖徳太子御廟近辺、坤方為立石塔、引地之間、地中有似筥石、掘出之、筥也、長一尺五寸許、横七寸許、有身蓋、開見之処、御記文也、仍天王寺奏開事由、件御記文状云、
 吾為利生、出彼衡山、入此日域、降伏守屋之邪見、終顕仏法之威徳、於所々造立四十九箇之伽藍、化度一千三百余之僧尼、別記、法華勝蔓維摩等大乗義疏、断悪修善之道漸以満足矣、今年歳次辛巳、河内国石川郡磯長里、有一勝地、尤足称美、故点墓所云、吾入滅以後、及于四百三十余歳、此記文出現哉、爾時国王大臣、発起寺塔、願求仏法耳、
按に太子の未来記と云ふは中世の諺にて、数度かゝる造言仮託のありし事と思はる、摂州天王寺参看すべし。集古十種に収めたる上太子の瑪瑙石、高四寸有奇寛五寸有奇、正書六行、第一行第六行※[さんずい+防]す、蓋本碑数片中の一片にやあらん、第二行に「今年□□辛巳」第三行に「□□足称美□」第四行に「于四百□□余」第五行に「王大臣□□寺」など見ゆ、古事談の記文に符合する所あれど、真贋如何を知らず。
補【高屋連枚人墓】叡福寺愛染堂の辺、田園の間にあり、延享年中此地より墓誌を掘出せり、今叡福寺東南院に蔵す、其文左の如し〔略〕長八寸巾六寸厚二寸余。
補【南林寺】西方院の南にあり、叡福寺古伽藍講堂の旧跡なり、天正二年の兵燹にかゝりて、後水尾上皇石川寺へ行幸ありて此に伽藍を修造し給ひて、詔して仙人岳南林寺と号を賜ふ、寺内に甘露柿といふ柿一株あり、
(468)補【春日】〇西国三十三所図会 春日村にあり、当村の産土神とす、此春日村は大和街道の通路にして駒谷より直にのぼりて此地にいたり、是より山田村に出て右の方は竹の内峠、左の方は当殊に越ゆる道筋なり、世に岩屋越といふ。
 
妙見寺《メウケンジ》 春日の艮の山中に禅院あり天白山妙見寺と号す、寺中茶臼塚より墓誌を発掘したる事あり、煉瓦長八寸二分広五寸一分厚二寸、背に織布痕を印す、其銘云、
 遺延暦三年歳次甲子□□朔癸酉丁酉参議従四位下陸奥国按察使兼守鎮守副将軍勲四等紀氏諱広純之女吉継墓志(以上四行)
又此寺に古碑を蔵す墓標あり、前年寺東片原山に在りけるを収めたる也、其石長二尺許広一尺文は六行に勒す。
 飛鳥浄原大朝廷大弁官直大弐采女竹良卿所請造墓所形浦山地四十代他人莫上殺木犯穢傍地也
 己丑年十二月廿五日
補【妙見寺】春日村より艮の山中にあり、天白山と号す、禅宗なり。
竹良卿墓碑 当寺什宝なり、石長二尺許闊一尺許、古墳の址は山田村の領内片原陳山にあり、碑文には形浦山とあり、後世片原山と言訛れるなるべし、尤墓碑は其地にありしを後に当寺に移し立つるなり〔碑文、略〕飛鳥浄原の宮は天武天皇にして、竹良卿は日本紀に竹羅又築良、築羅とも書けり、形浦山は春日村にあり。紀広純女吉継墓誌も同寺にあり、当寺の境内に一邱陵ありて、土人字を茶臼山といふ、是古墓の地にして、後年土中より墓誌出だす即古瓦一片なり、今妙見寺の什物とす、此処は紀氏の古地なるべし。〇古瓦長八寸二分、闊五寸一分、厚二寸。墓誌に云、背に布痕あり、精密の瓦製なり〔銘、略〕宝亀十一年春三月、奥州夷賊伊治呰麿乱を起し広継を攻む、是に依て終に呰麿が為に殺さる事、続日本紀に見えたり。
牡丹巌窟 春日村の山中にあり、字を塚原と云ふ、口の広さ五間ばかり、深さ三間許、昔石を斫出せし跡なるべし、又北の方に口の広さ八尺ばかり、奥のふかさ限りしられず、字を太平といふ、又辺りに塚穴あり、事実詳かならず。
 
磯長中《シナガノナカ》陵 用明天皇の御陵なり、今磯長村大字春日に在り、字を円明土《ヱンメイト》と云。〔河内志〕山陵志、用明陵、春日村古塚此也、古事記以此謂料長中陵、蓋西南則中尾、東南則山田、東北則大坂、西北則太子墓、屹乎相望也。〇古事記、池上宮(周明)段云、此天皇御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也、延喜式云、河内磯長原陵磐余池辺列槻宮御宇用明天皇、在河内国石川郡、兆域東西二町南北三町。(書紀推古帝元年改葬於磯長陵)扶桑略記云、用明天皇磯長原山陵、高三丈方三町。
 
山田《ヤマダ》 山田村は磯長村の東に接す、古磯長の中なり。山田染と称するは紫草茜にて往時其名遠近に聞ゆ、又山澗より金剛鑽を出す。此地は和州当麻寺の西に方る。当麻寺の旧址万法蔵院廃跡は菖蒲谷に在り。〔名所図会卅三所図会〕
科長神社は延喜式石川郡に列す今山田村東条に在り、八社明神と称す、其南一町に妹子《イモコ》塚あり。[河内志〕
補【山田】〇西国三十三所図会 万法蔵院廃跡 山田村の山手にあり、菖蒲谷と云ふ、万法蔵院は今の当麻寺をいふ、其はじめ用明天皇第四の王子麻曾子王の創建にして、官寺となし万法蔵院と号す、白鳳二年大和国に移し禅林寺と号す、削当麻寺これなり、されば此地に於ても伽藍魏々たりし故に、今尚山野の字に諸堂の名あまたのこれり。
 
磯長山田《シナガヤマダ》大陵 推古天皇の御陵なり、山田村高塚即此なり。古事記に「此天皇御陵在大野岡上、後遷科長大陵」とありて、日本書紀に「天皇遺詔興陵勿厚、便宜葬于竹田皇子之陵、従之」と載せ、扶桑略記にも「竹田皇子陵河内国石川郡」と見ゆ。延喜式、磯長山田陵、小治田宮御宇推古天皇、在河内国石川郡、兆城東西二町南北二町。
 
大坂磯長《オホサカシナガ》陵 孝徳天皇の御陵なり、一に鶯《ウグヒスノ》陵と曰ふ、山田村に在り今|上野山《ウヘノヤマ》と曰ふ。〔名所図会〕山陵志云、孝徳陵、在中尾陵北、山田村古冢、称北山者此也、大坂是葛城山、自河内踰大和処也、(大坂今河州曰岩屋越、和州曰竹之内越者)書紀、磯長謬作機長。〇延喜式、大坂磯長陵、難波長柄豊碕宮御宇孝徳天皇、在河内国石川郡、兆城東西五町南北五町。扶桑略記云、大坂磯長山陵、高二丈方五町。
 
鶯関《ウグヒスノセキ》址 名所図会云、山田村竹之内峠の西八町許の処なるべし、鶯陵は枕草紙に載せ、即磯長大坂陵を指す、大坂は竹之内峠(一名岩屋峠)に外ならず。
 我おもふこゝろもつきず行く春を越さでもとめよ鶯の関、〔明玉集〕        康資王母
 
石川《イシカハ》 此川は高向《タカウ》村蔵王領より発源し、葛城金剛山の諸澗水を併せ北流す、南河内郡唯一の洪流也、長凡八里。道明寺村に於て大和川に会す。〇日本書紀仁徳巻に「堀大溝於感玖、乃引石川水、而潤鈴鹿豊浦郊原、以墾得四万余頃之田」とあるは此地の事なるべけれど、鈴鹿は其地を失ひ、豊浦は中河内郡に其名あれど、感玖と遠隔して相通ぜず。住吉大社司解状に石川の灌漑の縁起あり、下に引く。
仁徳紀に見ゆる石川の灌漑の事に耽き、延暦八年職判(469)の摂津住吉大社司解状は此養水を以て大神の本願と為し述ぶる所あり、然れども其言詞奇異に渉り含糊の態多し、大意南河内の地は往時大神の御田御山なりと云ふ、其四至の地界は明白に判断し難けれど南河内及び隣接の地を指すごとし。其文に曰く右大神宣、我田我山、潔浄水|錦織《ニシゴリ》石川針魚《イシカハノハリヲ》川余里令引漑、以榊黒木能斎祀、吾有※[豈+見]※[兪+見]謀時、如斯斎詔宣、亦山預石川錦織許呂志奉仕、山名所々在、号曰|兄山《セヤマ》 天野《アマノ》 横《ヨコ》山 錦織《ニシゴリ》 石川《イシカハ》 葛城《カツラギ》 音穂《オトホ》 高向《タカムク》 華林 二上《フタカミ》山等。(葛城山元高尾張也)
  四至 東限大倭国李道、葛木高《カツラギダケ》小道、忍海刀自家|宇知《ウチ》道。南限木|伊都《イト》県道側、并大河。西限河内、泉、上鈴鹿、下鈴鹿、雄浜《ヲノハマ》、日禰野《ヒネノ》公田、宮処《ミヤト》、志努田《シヌタ》公田、三輪《ミワ》里道。北限|大坂《オホサカ》音穂野公田、陀那波多《タナハダ》之男神女神、吾嬬坂《アヅマサカ》、川合《カワアヒ》、狭山《サヤマ》、埴田《ハニタ》、大村、斑熊《フチクマ》、野谷《ノタニ》右山河奉寄本記者、昔|巻向玉木宮《マキムクタマキノミヤ》御宇天皇、癸酉年、随大神願、遣使屋主忍男武雄心命、所奉寄也、爰武雄心命、以用此山為幣、居於|阿備柏原《アビノカシハラ》社斎祀、九年内、即申賜|難波道《ナニハチ》籠住山一岳、武雄心命者、武内足尼父也。(中略)羽白熊鷲誅伏得地、熊取《クマトリ》云、日晩御宿地、日寝《ヒネ》云、依有横中山故、横山《ヨコヤマ》云、在横嶺故、横嶺《ヨコミネ》云、嶺東方頭、杖立《ツヱタテ》在二処、石川錦織許呂志忍海刀自等争論水利、故俗謂杖立、為論義。亦|西国見丘《ニシクニミヲカ》在、東国見《ヒガシクニミ》丘在、皆大神令登塩筒老人、見国賜岳、亦|横嶺《ヨコミネ》冷水潔清、※[さんずい+盈]漲池在、吉野萱野沼《ヨシノカヤノヌマ》、智原萱野沼《チハラカヤノヌマ》此水食聞、甚冷清水、仍欲御田引漑思召、針魚令堀作溝谷。(中略)通方向堤樋流灌、其樋地二百代、(在河内志紀長倉、高向堤地、樋尻仁謂住吉、碑文穿彫附也、)墨江堰《スミノヱノヰ》在、(同|長倉《ナガクラ》沙古田里、十五坪、堰池五十代)時倭忍海刀自、率親族等白於大神曰、別分此水給乞申、乃智原|萱野《カヤノ》水分少小賜、悦其水賜、持行溝穿造、(中略)送水通潤田因其地|水分《ミクマリ》、水越《ミヅコシ》云。亦令住三輪人鎮守|水分《ミクマリ》時、八咫烏子等奉寄吾住嶺、自斯此内烏、東倭岑、南|美曾《ミソ》道、竹川《タケカハ》西公田、北|玉井《タマヰ》、倭川、比太岑《ヒタノミネ》道烏差申。亦|難波高津宮《ナニハタカツミヤ》御宇天皇、海大神詔宣、以大和守、令堀|紺口《コムク》溝、同水流開墾、上鈴鹿、下鈴鹿、上豊浦、下豊浦、四処郊原、四万頃之田既成、農田既膏油、故其地百姓作喰、在寛饒之賀、無凶年之患、是大神本願也、石川針魚河水、引漑於大神御田縁此也、針魚通此河、今不絶、為往来、云々と。今按に兄山伊都大河(紀川)阿備等は紀州にて、横山雄浜日禰(日寝)宮処志努田三輪熊取等は泉州なるべし、華林は其訓を知らず、針魚は人名にして又其人の造れる溝の名に転用す。音穂吾嬬坂などは其地詳ならねど、文辞に拠りて稍位置の大抵を弁知すべきに似たり、萱野沼と云ふは即石川の支源なるべし横嶺と呼ぶ山中にあたる。籠住山又吾住嶺とは大神の御山の義ときこゆ。鈴鹿豊浦は更に仁徳朝の追漑の田地なるが、鈴鹿は西堺に当ると云へば泉州に接近する地か、志紀以西に其名ありしごとし。(住吉浦に豊浦水分神社あり、此溝は住吉浦へ穿り通ぜし如し、)
 
石川《イシカハ》 石川村は富田林村の東、磯長村の南也、大字|大箇塚《タイガツカ》は山駅なり、大箇塚に接し大字|一須賀《イスカ》あり。
 
石川《イシカハ》城址 石川村の中ならん、今詳ならず。養和元年前武蔵守源義基、拠石川城応源頼朝、遣源季貞等討斬之、伝首京師、虜義基弟義資義広、寿永三年、源行家赴河内、拠石川城畔、義資与之、源義仲遣其将樋口兼光撃之、行家棄城走。〔大日本史〕降旗《フリハタ》神社は大箇塚に在り、大伴氏の祖天押日命を祭ると称す、延喜式に載せたり。〔名所図会〕壱須何神社は延喜式に列す、石川村大字一須賀の市河明神是なり。〔神祇志料〕
勝地吐懐編云、「姓氏録、河内国諸蕃、狛連、出自高麗国人伊利斯沙札斯也」「大狛連、出自高麗溢士福貴王也」「島木、高麗国伊理和須使主之後也」かやうにあるを催馬楽に合せ考ふれば、これら石川郡におかせ給へる其子孫を石川のこまうどと曰へるか。
 石川のこまうどに帯をとられてからき悔するいかなる帯ぞ花田の帶の中は絶たる、〔催馬楽〕
 
喜志《キシ》 喜志村は石川の西岸に在り、富田林の北一里許。和爾池の傍に延喜式美具久留御玉神社鎮座す、文徳実録嘉祥三年授位、今|下水分《シモスヰブン》神と称す、赤坂村の水分神に対比したる也。「河内志神祇志料〕美具具留は美具婆利(水分《ミクバリ》の義の転訛にや。
 
富田林《トンダバヤシ》 富田林村は南河内の小都会なり、古は富田芝と祢し曠原なりしを天正年中開発し、市店建つづき醸酒家最多し、戸数五百許。真宗興正寺別院あり、足利氏織田氏の古証文を蔵す、興正寺十四代証秀上人開基|毛人谷《エビタニ》に上人の墓あり。〔名所図会卅三所図会〕今南河内郡々衙を此地に置く。柏原より此まで鉄道六哩。
補【富由林】〇三十三所図会 興正寺|懸所《カケシヨ》は富田林にあり、京師興正寺の輪番所なり、本尊阿弥陀仏は春日仏師の作にして、長三尺許り、脇壇に親鸞上人真向の御影を安ず、当寺は応永年間の建立にして、永禄の頃足利義昭公、織田信長並びに家臣柴田佐久間等の古証文あり、興正寺十四代証秀上人再営して此に住し、隣村|毛人《エビ》谷に寂す、今其地に墳あり、門徒之を祖師山と称す。
 
大伴《オホトモ》 富田林の束石川の南を大伴村とす、大字山中田に大伴塚ありしが今開墾す。〔名所図会〕(470)日本書紀、敏達天皇十二年、詔以百済日羅妻子水手等居于石川、大伴糠手連議曰、聚居一処、恐生事変、乃以妻子居于石川百済村、水手等居于石川伴村。〇姓氏録云、河内国未定雑姓、大伴連、天彦命之後也、又大友史、百済国人白猪奈世之後也。
 
雑居《サハヰ》郷 和名抄、石川郡雑居郷。〇今石川村喜志村富太林村大伴村等にあたるか、敏達天皇の時百済日羅の妻子従壘を石川に安置し、又之より先き此地百済の村名已に見ゆれば諸蕃雑居の謂により此郷名を建てられしに似たり、錦部郡新居郷百済郷は雑居の南に在りし如し。
 
紺口《コムク・カムク》郷 和名抄、石川郡紺口郷。〇或は感玖《カムク》又|咸古《コムク》に作る、今中村河内村白木村赤坂村等の地なるべし。中村に寛弘寺あり即紺口寺なり。(河内志咸口神社は龍泉寺に在りと云ふは頗疑はし龍泉寺は今東条村に属し、紺口郷の別郷佐備の域内ならずや)紺口県主あり即此地を本居とす。日本書紀、仁徳巻、堀大溝於感玖、乃引石川水。〇姓氏録、河内皇別紺口県主、志紀同祖神八井耳命之後也。古事記明宮(応神)段云、此天皇娶品陀真若王女、高木之入日売命、生御子|高目《コムク》郎女。(日本書紀作※[さんずい+勞]来田皇女)〇按ずるに紺口県は石川錦部二郡に渉る。延喜式|鴨習太《カモノナラヒタ》神社は中村大字|神山《カウヤマ》に在り神山の西に寛弘寺あり、又南は赤坂村に接す。
 
寛弘寺《クワンコウジ》 紺口《カムク》寺の謂なるべし、寺後世廃し今中村の大字と為る、延喜式咸古神社は此地に在るべき也、河内志之を龍泉寺に在りと云は信ずべからず、龍泉寺佐備郷なり。
 
平石《ヒライシ》 今|白木《シロキ》村と改称す、中村の東北河内村の北に接す。太平記に平石城見ゆ、又「平田」と記せる地名あり、平石の謬ならん。曰く、正平三年京方に於ては河内楠が館をば焼きはらひ、吉野の君をも取り奉るべしとて、越後守師泰六千余騎にて、正月八日和泉の境の浦を立ちて、石川河原に先づ向城を取る、武蔵守師直は三万余騎の勢を率して同十四日平田を立ちて、吉野の麓へ押し寄する。〇名所図会云、平石村に方六町許の城址あり、平石左衛門尉茂直の籠れる所なり。大日本史、正平十四年畠山国清将犯行在、楠正儀和田正武修赤坂城拠之、十五年春令橋本正高与福塚某等城平石、以五百余兵守之其余将士各守近里、夏今川範氏佐々木氏頼等陥平石城、諸砦並陥、正儀与正高、退保金剛山。
 
高貴《カウキ》寺 平石の神下《カウゲ》山に在り、真言律宗を奉ず。相伝ふ空海大師此山中に安居し、修練の夜仏法憎を聴き詩あり、
 閑林独坐草堂晩、三宝之声聞一鳥、一鳥有声人有心、声心雲水倶了々、
後草堂を改め高貴寺と為す、後鳥羽天皇熊野行幸の時特に駕をめぐらして寺に詣でたまふ、御製云
 我国はみのりの道のひろければ鳥も唱る仏宝憎かな、
近世明和安永の頃、慈雲律師澆季の※[さんずい+于]濁を超脱し卓然として一旗幟を建て高貴寺に登り正法律の復古を唱ふ、遂に勅頼の内宣を賜り堂舎を興す、故に後鳥羽帝十三重石塔及桜町桃園後桃園三皇の神碑を寺中に置く。〇按に河内志に「高貴寺、在神下山、相伝上古有天神降于此峰云、憎空海建正堂、安置高貴徳王菩薩像、因以名寺、有神祠称石船」と述べたり、高貴徳王は中古住吉大神の本地仏として崇敬せられたるを思へば、此本地垂跡の関係は石川の御田御山に寄托して起れる縁起談にや、石川を参看すべし。
補【高貴寺】〇人名辞書 慈雲名は飲光、大阪に生る、法楽寺に入りて僧となり、京師の伊藤東涯に就きて学ぶ、是の時信州に大梅禅師と云ふ者あり、曹洞の耆宿にして、名北方に重し、慈雲乃ち往き謁して以て証を求め、互に相詰難す、年二十七の時河内高井田の長栄寺に移住す、是の時親証、覚法、覚賢及び四方有志の徒群至す、慈雲正法の衰へたるを歎き、之を匡衡するを以て己れが任とす、乃ち親証覚法等と相議し、新に憎制を作りて同志に示す、始めて正法律とす、慈雲又梵字を研修す、蓋梵学其の伝を失ふや久し、慈雲師授を仮らずして心通意解す、八囀七例より九韻十※[口+羅]声に至るまで皆其真象を得、竟に梵学津梁一千巻を作る、年五十四、教を請ふもの益々進む、帰依するもの相謀り、貲を捐て阿弥陀寺を京師に造り、慈雲を延て居らしむ、嘗て貴人の請に因り十善法を説く、弟子其の語を録して十二巻とし、号して十善法語と曰ふ、年八十、退て河内の高貴寺に遷る、其池幽邃閑寂真に道を修るの良場たるを以て、遂に官に請ひ十方僧刹とし、定めて正法律一派の本山と作す、文化元年に歿す。
 
弘川《ヒロカハ》 今河内村に属す。河内志云、弘川寺、是楠氏家臣|隅屋《スヤ》与市旧塁之地也、規桜《ブンマハシザクラ》在堂前、与市嘗以此樹為楯、自画其地而誓曰、縦令我軍不利、不出此域、終戦死于樹下。〇寛正二年、畠山両党の乱に畠山政長弘川に拠り塞を起したり、亦弘川寺の地か。長禄寛正記云、畠山義就有無の合戦にて運命を見るべしとて、弘川へと急げり、寛正二年六月廿日の夜のことなれば急とすれど山中にまよひ、夏夜無程明方に漸々弘川の陣に馳付てみれば、三重に大木戸を打高矢倉を上たり、夜中に攻入べしと風上に火をかけ烟の下に切て入る、されども政長の本陣までは火もかからず、是は御幡と院宣を入られし御韓櫃たるにより兼て用心きぴしかりしかば少しもさわがず、頓て政長御幡を被出、寄手を追散す。
 
(471)弘川寺《ヒロカハデラ》 河内村大字弘川に在り、真言宗をを奉ず、本尊薬師如来、宝亀年中沙門光意此山に住したる事元亨釈書に見ゆ、寛正の兵乱に火を被り焦土と為る、今堂宇纔に有す。〇西行法師の墓あり、近世似雲法師長秋詠藻に拠り西行墓を尋ねて弘川寺に到れるも、山僧之を詳にせず、本堂の奥二町許に行塚《ギヤウヅカ》を獲て標を立つ、塚周廻十五間高二間似雲其東に花之庵を営み幽栖年を経て死す、其墓花之庵の下二町許に有す。〔名所図会〕
   円位聖歌ども判乞侍りし、(其年は文治なり)河内の弘川と云山寺にて煩ふ事ありとて、急ぎつ かはしたりしかば限なく喜び、言遺して後二月十六日に南に隠れ侍りける、彼上人先の年に桜の歌多く詠けるに、
 同くは花のもとにて春死なんそのきさらぎの望月の頃
   遂に此日終を遂げけるに、あはれにありがたくおぼゆ云々。〔長秋詠藻〕
 なみならぬむかしの人の跡とめて弘かは寺にすみぞめの袖、〔野史〕       今西行似雲
補【弘川寺】〇人名辞書 似雲は歌人なり、安芸広島の人、本の名を如雲と曰ふ(川岡雑談に播州姫路の人に作る)資性和歌を好み、京師に入り准大臣藤原実蔭に就きて学ぶ、名山幽蹤を遍歴して居住を定めず、時人之を呼びて今西行と曰ふ、嘗て西行の墳墓の詳かならざるを歎じ、百方之を探ぐりて河内の弘川寺に到り、其の地を以て西行の墳となし、乃ち碑を建て、又為に一草堂を造り、自ら庵を山陰に結びて居り、号して春雨亭と臼ひ、詠じて曰く「なみならぬ昔の人の跡とめて弘川寺にすみ染の袖」と、晩年一草庵を嵯峨天龍寺の境内大堰川の辺りに構えて、自ら名を似雲と改む、齢八旬に及び身を和泉鱒尾の北村某に倚せて歿す、遺嘱して遺骸を弘川寺に送り、西行の墳と並べて塚を築かしむといふ(野史)
 
水分《スヰブン・ミクマリ》 今赤坂村大字水分は中村の東南に接し金剛山の西麓なり。赤坂城址は其上に在り水分《スヰブン》明神は南河内の名社なり、額背書して云「延元二年丁丑四月廿七日勅授位記五年庚辰四月八日左衛門尉楠正行書」。
建水分《タケミクマリ》神社は三代実録貞観五年授位、延喜式に列す。神祇志料云、凡天下諸神増階の例天慶より建治まで七度なる時は、本社の如き三代実録元慶三年従四位上に叙さるれば、正に七階を経て従一位に進み給へるを、延元に正一位を給ひしなり。
補【建水分神社】〇神祇志料 今金剛山の麓水分村にあり、水分明神といふ (己巳紀行・河内志・河内国図・南遊記事)蓋天之水分神国之水分神を祭る(古事記・延喜式)清和天皇貞観五年八月壬戌、従五位上建水分神に正四位下を授け、十六年三月発酉、従四位下を賜ひ、陽成天皇元慶三年九月壬子従四位上に叙され、(三代実録)後醍醐天皇)延元二年四月丁酉、正一位を授奉る(河内志引神社額背識文)
 按、天下諸神増階の例、凡そ天慶より建治まで七度なる時は、元慶の従四位上より七階を経て従一位に進み給へるを以て、延元に正一位を給ひし也、附て考に備ふ
凡そ九月十五日祭を行ふ(神社覈録)
太祁於賀美《タケオカミ》神社 今古市郡大黒村にあり(河内志・河内国図)蓋伊弉諾尊の子高※[靈の巫が龍]神を祀る(日本書紀一書)是は雨を知り坐神也(万葉和歌集)凡そ八月廿六日を以て祭を行ふ(神社覈録)
 
赤坂城《アカサカノシロ》址 今赤坂村大字|水分《スヰブン》の上方に在り、城墟南は山岳に靠り、東南断崖三百尺、北に一径を通ずと河内志に見ゆ。山中の形勢詢に当に然るべし而て太平記赤坂を説き三面平地と為す、此境と相符合せず、後の考按をまつ。〇赤坂城は元弘元年楠正成己が館の上なる山上に築き東国勢を引受けたる所也、正成居宅は水分邑内ならん、元弘の嬰守後、正平年中正儀再三赤坂に拠り北軍を拒けり。〇太平記云、元弘元年九月、東南の軍勢楠兵衛正成が楯籠りたる赤坂の城へぞ向ひける、石川河原を打ち過ぎ城の有様を見遣れば、俄に拵へたりと覚えて、はか/”\しく堀をもほらず、僅に屏一重塗りて方一二町には過ぎじと覚えたる、其内に櫓二三十が程掻き双べたり、是を見る人ごとにあな哀の敵の有様や云々。東国の勢是を見て一攻なせしに忽ち敗れて蜘の子を散すが如く石川河原へ引き退く、其道五十町が間馬物具の捨てたること足の踏所もなかりければ、東条一郡の者どもは俄に徳つきてぞ見えたりける。初度の戦に負けければ、楠が武略侮りにくしとや思けん、吐田楢原辺に各打ち寄せたれども、軈て又推し寄せんとは擬せず。彼の赤坂の城と申すは東一方こそ山田の畔重々に高く少し難所のやうなれ、三方は皆平地に続きたるを堀一重に屏一重塗り、方四町にだに足らぬ平城に敵四五百人籠りたるを、東八箇国の勢どもが責めかねて遠攻したることの浅ましさよ云々。(以上の文によれば、此楠木城は平城なりしと想はる、赤坂の地形に合はず、或は云ふこれは東条の柵にして、別に太平記に三方岸高くして云々の山城あり、即赤坂柵かと)又云、三年二月、楠の城へ寄せられ、四方雲霞の如くに取巻、此城三方は岸高くして屏風を立てたるが如し、南の方許こそ平地に続きて、堀を広く切り岸の額に塀を塗り、平野将監入道初め三(472)十余人こもりたり。又云、正成は去年赤坂に自害して焼け死にたる真似をして落ちたりしを実と心得て、武家より其跡に湯浅孫六入道定仏を地頭に居ゑ置きたりければ、今は河内国に於ては殊なる事あらじと心安く思ひける処に、二年四月三日楠五百騎を率して俄に湯浅が城へ押し寄せて息をも継せず責め戦ふ、城中に兵粮の用意乏しかりけるにや、湯浅が所領紀伊国の阿瀬川《アセカハ》より人夫五六百人に兵粮を持たせて夜中に城へ入らんとするより、楠夙に聞きて兵を道の切所へ差し遣し悉く是を奪ひ取る間、湯浅入道降人に出づ、楠其勢を并せて七百余騎にて和泉河内の両国を靡けて大勢になりければ、五月十七日に先づ住吉天王寺辺へ打ちて出て、渡部の橋より南に陣を取。〇楠氏宅址、赤坂村大字水分に在るか、河内志其第址又誕生所を水分に繋けたり、或は云ふ、東条村龍泉に在るへしと倶に詳ならず。〇太平記云、河内金剛山の西にこそ楠多聞兵衛正成とて弓矢取りて名を得たる者は候ふなれ、是は敏達天皇四代の孫井手左大臣橘諸兄公の後胤たりといへども民間に下りて年久し、其母若かりし時志貴の※[田+比]沙門に百日詣でて夢想を感じて設けたる子にて候ふとて、稚名を多聞とは申し條ふなりとぞ答へ申しける、主上さては今夜の夢の告是なりと思召して頓て是を召せと仰下さる。増鏡は稍太平記に異なり、「笠置殿には大和河内伊賀伊勢などより兵ども参り集ふ中に、事の始より頼み思されける楠兵衛正成といふものあり云々。」太平記又云爰に河内より早馬立て六波羅へ注進あり、楠兵衛正成といふ者御所方になりて旗を挙ぐる間、近辺の者ども志あるは同心し志なきは東西に逃げ隠る、則ち国中の民屋を追捕して兵粮のために運びとり、己が館の上なる赤坂山に域郭を構へ、其勢五百騎にて楯籠候。〇氏族志云、橋氏、左大臣諸兄六世号公廉、生河内守惟風、尚醍醐皇女韻子内親王、〔一代要記、皇胤紹運録、斎院記、橘氏系図〕及藤原氏盛、而其族大衰、〔玉海〕然支派寔繁、布在国郡者、不可勝紀、其在河内者為楠木氏、(東鑑、建久元年、有楠四郎者、蓋是族也、按太平記唯云、正成諸兄之後、不載父祖之名、而世所伝楠氏系図、諸説皆不合)
 
佐備《サビ》郷 和名抄、石川郡佐備郷。〇今東条村千早村なり、東条に大字佐儒存す。延喜式に咸古佐備神社の名あり、今東条村大字甘南備に存するを見れば、佐備は紺口郷より分れし者たるを知る。佐備神社は東条村佐備に在り延喜式に列す。上梁文云「石川郡東条佐備郷高園宮文安元年十二月重修」〔河内志〕〇旧事紀云「珠城宮(垂仁)御宇之世、五十瓊敷入彦皇子命於河内国|幸《サキ》乃河上宮、作太刀千口、名曰|赤花《サヒ》之伴、亦|裸伴《ハタカトモ》剣、今蔵在石上神室」この造刀の事は記紀二典には茅渟と為すも、旧事紀の説亦参考する所あるべし。同書又云、十市根、大連之子、物部金弓連公、佐比連等祖。〇南山巡狩録云、延元三年九月、池尻半田の凶徒を打破らん為に、佐備三郎左衛門尉正忠高木遠盛以下彼所に向ひ合戦あり、〔高木遠盛申状〕此正忠は佐備の郷人なり。
咸古佐備神社は延喜式に列す、東条村大字甘南備に在りと云。(河内志〕蓋紺口県主の祖神にして、佐備郷に祭りたる也。
 
東条《ヨウデウ》 東条は本佐備郷の荘名に起り、一時は東条郡の称あり、石川錦部両郡を指せり、実に楠氏の根拠なり。延元元年南山巡狩の初め京方には廃帝(後醍醐)を東条に御座ありと想へり、予草記云、
 廃帝御幸事御座河内国東条之間凶徒等可蜂起之由有其聞早引卒一族并伊予国地頭御家人不日馳向可致軍忠之状如件
  建武三年十二月廿日       判
後村上帝の時吉野より東条郡観心寺及天野山に移御あり、其来往の途次東条の邑に御したまへる事あり、行在は龍泉寺なるべし。観応三年二月二十六日、南方の主上已に山中を御出ありて、瑶輿を先づ東条へ促さる、剣璽の役人ばかり衣冠正しくして供奉せられ、其外の月卿雲客衛府諸司の尉は皆甲冑を帯して前騎後乗に相順ふ、東条に一夜御逗留ありて、翌日頓て住吉へ行幸なれば、和田楠以下、真木野、三輪、湯浅入道、山本判官、熊野の八庄司、吉野の十八郷の兵七千余騎路次を警固仕る云々。
 
東条城《トウデウノシロ》址 龍泉城に同じかるべし、龍泉城は東条村大字龍泉の上方に在り、方四町許、塁塞の跡顕然たり。〔河内志名所図会〕南山巡狩録、建武三年十月、岸和田弥五郎治氏東条の城に楯籠る。〔岸和田治氏申状〕延元二年十月十九日、足利尊氏は細川兵部大輔を大将とし東条(東条は河内国にして楠が籠れる所の城なり)に押寄せしむ、官軍に於て高木遠盛岸和田定智以下之を防ぐ。〔高木岸和田申状〕正平三年正月五日、楠正行戦死、十四日高師直三万余騎を引具し平田荘にうつる。〔太平記園太唇細細要記〕この日河内国東条に於て高師泰は岸和田蔵人助氏等と接戦す。〔岸和田助氏申状〕二月八日三月十八日十九日かさねて東条にて合戦を遂ぐ。岸和田文書の面を見るに東条上時彼方佐美谷所々に於て合戦すと云ひ、四月に及ぶもやまず、翌年八月まで師泰石川に在陣す。〇椿葉記云、観応三年閏二月廿日、南朝(後村上)の天気によりて両上皇(光厳光明)新院(崇光)儲皇直仁親王八幡の軍陣に幸しまします、南方の官軍利なくして八幡より没落、河内国東条の城に還幸あり、同五月に又大和国加名生の離宮に渡御なる。園太暦云、(473)観応三年五月十三日、今朝聞去夜八幡陣敗北、主上以下之人々被過南都、或有称東条之説、然而南都実事云々。(観応三は南方の正平七也)〇太平記云正平十四年京方河内へ発向す、和田楠相謀て籠泉平石の諸城を守る中にも龍泉には大和河内の兵一千余人籠置たるが、寄手之を攻めんともせざりける間、斯ては徒に兵を置ても何かせん打散じてこそ野戦にせめとて、龍泉の勢をば皆呼下して、さしもなき野伏ども百人計見せ勢に残し、こゝの梢かしこの弓隠の端に旗許を結附、尚も大勢籠りたる体に見せたり、云々、十五年夏龍泉城陥る。
補【東条】〇南山巡狩録 正平三年正月五日、楠正行戦死、十四日高師直三万余騎を引具し平田庄にうつる(太平記・園太暦・細々要記)この日河内国東条に於て高師泰、岸和田蔵人助氏等と接戦す(岸和田助氏申状)二月八日、三月十八日十九日かさねて東条にて合戦をとく、岸和田文書の面をみるに、東条上時彼方佐美谷に所々に於て合戦といふ、四月に及ぶもやまず、翌年八月迄師泰石川に在陣す。
 
龍泉寺《リユウセンジ》 龍泉城址の下に在り、牛頭山医王院(真言宗)と号す、本尊薬師如来。寺伝云、蘇我馬子勅を奉じ十二願主を移し、群類利益の道場を建つ、弘仁中空海師再営の後繁栄大に加る、霊水あり、龍泉と称す、黄門定家卿立願の歌に、
 十あまりふたつのちかひ清くしてみがける玉の光をぞ知る、
寺記正三位資順筆、中務大輔康致画。〔名所図会〕〇元亨釈書云、内州有一寺、其池元龍池、龍移他処、池又涸、寺衆苦無水、空海点一所加持、清水忽涌、因号龍泉寺。
 
千早《チハヤ》 東条村大字|甘南備《カンナビ》の上方にして、金剛山の半腹に在り、千早村と曰ふ。或は千剣破に作る(剣は刃の義に仮る破は也不留の也を仮る)真乗院文書、元弘三年大塔宮楠兵衛追討の古案に茅和屋《チワヤ》に作り、〔史学雑誌〕史徴墨宝第三編、宇都宮通綱文書に茅屋《チカヤ》に作れり。〇千早城は村の東に在り。謂ゆる金剛山城是なり、今郵便局は大字小吹に在り。
 
千早城《チハヤノシロ》址 金剛山の西腹に存す、山勢巍然として四面の谷深きこと東百丈、西七十五丈南八丈北三十丈、東南の間に一逕あり坂路巉々たり、元弘中廷尉正成の起す所にして、南河内十七所の根城とす。〔河内志名所図会〕〇外史云、元弘二年冬、楠正成築千剣破城、於金剛山、三年二月、吉野赤坂既陥、関東三軍皆萃于金剛山、南西南諸道兵、応徴発者亦会焉、称八十万、合勢攻正成、正成以千余人拒之、五月解囲、正平二年、足利尊氏令諸将、攻金剛山不克、元中七年、足利義満使畠山義深攻金剛山、城兵飢不能戦、逃走匿十津川、自正成築城焉、凡六十年、為賊兵所陥。太平記云、元弘三年楠兵衛正成千剣破に籠る、此城東西は谷深く切れて人の上るべきやうなし、南北は金剛山につづきて、しかも峰そばだちたり、されども高二町ばかりにて、廻り一里に足らぬ小城なれば、何程の事かあるべきとも覚えず、されど、此城を力攻にすることは、人の討るゝばかりにて、其功成り難し、唯取巻きて食攻にせよと下知す、爰に如何なる者か詠みたりけん、一首の古歌を翻案して、
 よそにのみ見てややみなん葛城のたかまの山の峰のくすの木
軍もなくて陣々に江口神崎の傾城どもを呼び寄せて、様々の遊をさせられける。〇梅松論云、楠兵衛尉正成と云ふ勇士叡慮を請て河内国に金剛山千波屋と云無双の要害を城廓に構て錦の御旗を上しかば、去年笠置へ向たりし東士共重て上洛して翌年の春大将軍奈良路を経て先吉野へ発向して大塔宮を攻落し奉り、則村上彦四郎義輝を討取て其勢すぐに金剛山に向て城を囲む、数万の軍兵武略を尽すといへども究竟の要害につよ弓精兵多く籠る間、寄手命を落し疵を蒙るもの幾千万といふ数を知らず、東士利を失ふ。
 
金剛山《コンガウセン》 葛城山の一峰にして、千早村より登る事二十八町を絶頂と為す。転法輪寺此に在り、大和(南葛城郡葛城村)に属す、国界は寺域内に之を劃す、和州葛城山及金剛山寺参看すべし。〇金剛山城は即千早城也太平記云、光厳院法皇行脚の時、霞に消えて高く峙てる山を問はせ給へば、是こそ音に聞え候金剛山の城とて、日本国の武士どもの幾千万といふ数を知らず討れ候ひし所にて候へとぞ申しける、是を開召してあなあさましや、此合戦といふも我一方の皇統にて天下を争ひしかば、其亡卒の悪趣に堕して多劫が間苦を受けんことも、我罪障にこそなりぬらめと、先非を悔させ御座す。
   後醍醐院御時、金剛山といふ所にて合戦ありけるに、公家武家の人々命をおとしたるよし聞えける頃、
 いたづらに名にかへてだに捨る身を法の為にはなど惜むらむ 〔国師詠草〕      夢窓 疎石
   河内途上、望金剛山、懐楠中将、 菅 茶山
 縹渺仙雲綾翠微、金剛山色靄斜暉、中興偏籍雎陽守、大挙徒労玉壁囲、
山河千載英雄恨、海樹鬱葱分甸服、郊田衍沃入皇畿、歴々荒営想指揮、
   河内途上         菊池 渓琴
 南朝古木鎖寒霏、六百春秋一夢非、幾度問天天不答、金剛山下暮雲帰、
(474)   南遊往返、数望金剛山、想楠河州公之事、慨然有作   頼 山陽
 山勢自東来、如鳥開双翼、遙夾大江流、相望列黛色、南者金剛山、挿天最岐□、※[手偏+施の旁]尾抵海※[土+艮]、蜿蜒画南域、隠与城郭似、擁護天王国、想見予章公、孤塁扞群賊、合囲百万兵、陣雲繞麓黒、臣豈不自惜、受托由面勅、灑泣誓吾旅、為君※[鹿/金]鬼※[虫+或]、果然七尺躯、自有回天力、宕叡連武庫、隔江村正北、公死実在彼、在公尽臣職、所惜壊長城、寧支大※[まだれ/夏]仄、吾行歴泉紀、往反縁大麓、顧瞻山海間、慷慨三大息、丈夫有大節、天地頼扶植、悠々六百載、姦雄迭起※[足+焙の旁]、一時塗人眼、難洗史書墨、仰見山色蒼、万古青如拭、
 
錦部《ニシキベ・ニシゴリ》郡 明治二十九年廃して南河内郡へ入る。大和川の一支源石川の上游にして、古は石川郡と一境なり、蕃別|錦織部《ニシゴリベ》此に帰住しけるより石川錦部と称し置郡の時分立す。和名抄、錦部郡、訓爾之古里、四郷に分れたり、南北朝の頃東条郡の私称あり、南方の帝王行宮を本郡に徙し観心寺天野山等に御したまへる事あり。日本書紀、仁徳巻云、百済王之孫酒君、逃匿于石川錦織首許呂斯之家。姓氏録云、河内諸蕃錦部連、三善宿禰同祖百済国速古大王之後也。〇錦部郡は西和泉に堺し南は紀伊に堺す、岩涌《イハワキ》槇尾|天野《アマノ》諸山相列れり、其東北は旧石川古市丹南と相接し、山川紛糾す。
 
新居《ニヰ》郷 和名抄、錦部郡新居郷。〇今|廿山《ツヽヤマ》村なるべし、大字|新家《シンケ》あり錦織村も此中なりけん。石川の西岸にして、北に卑丘を踰ゆれば狭山村狭山池に到る。
 
廿山《ツヽヤマ》 廿山村は狭山より東条へ通ずる要隘にあたる、南北乱の時数度の戦場たり。太平記云、延文五年(正平十五年)閏四月廿九日の晩、桔梗一揆五百余騎忍びやかに津々山《ツヽヤマ》より下てまだしののめ明けはてぬに、霧のまぎれに龍泉の一の木戸まで押寄せ、同音に鬨をどっと作る、細川相摸守清氏と赤松彦五郎範実とは二十山《ツヽヤマ》に陣を並べて居たりけるが、龍泉の鯨波を聞てあわや人に先を駆けられるとひしめく云々。〇廿山村より東条村龍泉まで、凡二里の距離とす。
 
河田《カウタ》 日本書紀、敏達天皇十二年、百済日羅至、徳爾殺之、詔以百済日羅妻子水手等居于石川、大伴糠手連議曰、聚居一処、恐生変、乃以妻子居于石川百済村、水手等居于石川大伴村、収縛徳爾等置于下百済阿田村、遣数大夫推問其事。〇阿田は蓋|河田《カウタ》の誤なり、廿山村大字|甲田《カフタ》あり、河田の訛に似たり、又本郷|新居《ニヰ》は即下百済にあたる、百済郷は彼方長野にあたる可し。
 
錦郡《ニシゴリ》 錦郡村は廿山の南に接す、中世石川源氏の一族錦織氏あり此に居住したるならん、錦織判官代と称し承久記太平記に見ゆ。〇錦織天王宮及び人麿塚と云者本村に在り、河内志に人麿とは続紀天平十九年の条に載せたる河内人阿保人麿ならんと曰ふ。〇按に観心寺資財帳に「地壱町五段、北限道並錦部寺栗林、在錦部郷高向村、承和八年郡判券」と見ゆるは今の錦郡村の地にあらずや、又光仁紀宝亀四年僧行基の河内国石凝寺の事見ゆ、石凝錦織は相疑似す。
 
百済《クダラ》郷 和名抄、錦部郡百済郷。〇今彼方村長野村市新野村等に擬すべし。敏達紀十二年に百済日羅の妻子を石川百済村に安置せしめられしは此地也。
 
彼方《ヲチカタ》 錦郡村の南にして東条村の西なり。南山巡狩録、正平三年正月楠正行戦死の後、高師泰石川東条に攻入り彼方佐美谷の辺に合戦止む時なく、翌年八月まで師泰石川在陣の旨を記せり。金胎寺岳山の塞は即彼方なり。此辺|西条荘《サイデウノシヤウ》とも云ふ。
 
岳山《タケヤマ》 いま彼方村大字|嬉《ウレシ》の上方を曰ふ。楠氏十七
所枝城の一なる金胎《コンタイ》寺址此に在り、明徳年中国主畠山基国の将遊佐氏之に居り高屋城の後備たり。〔河内志明徳記〕〇三十三所図会云、岳山明王寺は慶長年中再興、其不動明王は岳山の城中守護の尊像なり、岳山は此地の上にして今|金胎寺《コンタイジ》の城址と云へり、金胎寺は延文の乱に将軍足利義詮公龍泉山を攻給ふ時兵火の為めに伽藍残らず焼失す、岳山の城は寛正元年畠山義就爰に楯籠り畠山政長と戦ひ、勢猛にして金胎寺に出城を構へ、三年が間籠城に及びしが粮尽し程に金胎寺を捨て、暫し岳山に籠り、其後岳山をも明去つて高野山に忍び又粉川にて政長と戦ひ、終に熊野の奥に蟄する事後太平記に詳なり。〇岳山金胎寺城の事は応仁記に見ゆ。
 
高向《タカムク・タカウ》 高向村は今長野村の南に一村を為せど、古は長野も高向の中なるべし、高向王の墓と伝ふる者長野村大字上原に在り。〇姓氏録云、高向朝臣、石川同祖、武内宿禰六世孫猪子臣之後也。(此地即古の錦部郷なる由錦郡の条下を参考すべし)
 
長野《ナガノ》 長野村|上原《ウヘノハラ》八幡宮あり、其傍に古墓あり、高向王(用命帝孫)と曰ふ。此辺は俗に高向庄と称する地なり、前王廟陵記に「仲哀天皇恵我長野陵、今長野荘上原村」と云ふは誤れり。〔名所図会〕
 
光滝《クワウノタキ》 高向村大字滝畑に在り、高九丈三尺幅八尺其下に光滝寺あり、光滝の上方は蔵王《ザワウ》峠と曰ふ、紀伊国妙寺(伊都郡)に通ず。光滝の末は西条川と称し、北流して大伴に到り、東条の諸渓を併せ、石川と為る。三十三所図会云、光滝寺は泉州|槇尾《マキノヲ》山施福寺の奥院也、槇尾西一里許に在り、多宝塔は今廃す、(豊臣氏造立)或云、行満和上欽明の朝に泉州賀補山(475)より光の滝を尋ね来りて此道場を開き、其後槇尾山を草創し給ふ、八尺の不動の尊像は別院無量坊の本堂に安置す、世人炭焼不動と唱ふ、其所以は天慶六年の春、当寺の住職常操大僧都に、白炭を焼く秘術をあやしくも授け賜ふ、今も世に光滝炭の名あり。
 
余戸《アマベ》郷 和名抄、錦部郡余戸郷。〇是れ百済の余戸なるべし、今天見村は此遺称なり。川上村加賀田村三日市村等之に属す、中世には甲斐荘と称す、峡間の謂ならん。
 
天見《アマミ》 天見村は岩涌山《イハワキヤマ》の麓にして、南河内の南界なり紀見峠を趨ゆれば紀州橋本駅に達す、畠山義就寛正四年岳山を退去し此を過ぎ述懐の詞に、
 夏落る木の実峠の行末も人にまかせてさく花をみん
とありと当時の軍書に見ゆ。〇又|甲斐荘《カヒノシヨウ》安満見の名は楠木合戦注文に出づ。
 今年(正慶二)正月五日、於河内国甲斐荘安満見、致合戦打死人々、紀伊国御家人井上入道山井五郎以下五十余人、皆為楠木被打畢、是は元弘三年正成千早に拠れる時の事とす、石清水文書延久四年官牒に早く「錦部郡荘園壱処、字甲斐伏見荘、葦谷山肆拾捌町玖段」などとも載せれり。
 
岩湧《イハワキ》山 天見村加賀田村の上方に峙ゆ、山勢峭然絶壁削る如し、金剛山(和紀河三国交界)と七越《ナヽコシ》山(河泉紀三国交界)の間に在り、脈絡相続けり。山中には岩涌寺并に岩涌瀑あり。
 
三日市《ミカイチ》 三日市村大字上田に一塞址あり、土俗|烏帽子形《エボシカタ》と曰ふ。〔名所図会〕。三十三所図会云、三日市は京師浪花より高野詣の通路にあたり、旅店数多ありて賑はし、夏月には大峰入の宝螺の音に出女の昼寐をさまし、泊りすゝむる声々の色を含みし厚花粧に、護摩酢の過ぎた新客は、行場の誓ひも打忘れて、精進落すもありぬべし。
 
川上《カハカミ》 三日市村の東、東条村の南を今川上村と称す、大字寺元に観心寺あり南河内第一の貴刹なり。〇観心寺の東南を大字鳩原と曰ふ。続日本紀「文武天皇三年河内国献白鳩、詔免錦部郡今年祖役」とある獲鳩地は此か。〔河内志〕
 
延命寺《エンミヤウジ》 川上村大字|鬼住《オニスミ》に在り、延宝の頃覺彦比丘故宅を捨てゝ精舎と為せる也、覚彦は当時密教家の龍象にして今弘法の盛誉あり、元禄四年将軍綱吉に謁し江戸に霊雲寺を建てたり。
 
観心寺《クワンシンジ》 川上村大字|寺元《テラモト》に在り、檜尾《ヒノヲ》山と称す、真言宗、本尊七星観音、開基実恵は空海の高弟にして、諡号道興大師と云、実慧の弟子真紹修造して定額に列す。元亨釈書云、実慧、初事大安寺秦基、後従弘法大師、法称告曰、我法之興汝之力也、附以東寺、天長四年、建内州観心寺。〇史徴墨宝考証云、観心寺は寺伝に、文武朝の開創にして雲心寺と曰ふ、空海之れを再興改号して実慧に附すと云へり。実慧は空海の嫡資、天長四年親心寺に住し承和二年始て末寺長者と為る、晩年又観心寺に帰休し廟塔も此に在り。此寺元慶七年勘録縁起資財帳并に後亀山後小松両帝御跋の実録帳ありて徴古に資す。〇観心音本堂一宇、七間四面向拝三間(屋根入母屋本瓦葺)明治三十一年政府特別保護を加へらる、又|建掛塔《タテカイタフ》と称するは楠氏の所造完からずして後に遺したりと云者也、古文書宝器数多あり。
承和三年大政官符云「観心寺錦部郡以山中一千町(地名仁深野)四至東限横岑、南限小月見谷、西限紀伊道川并公田、北限龍泉寺地并石川郡界、又石川郡以南山五百町(地名東坂野)四至東限国見岑、南限上滝、西限岑、北限石川家并堰。(実録帳〕〇考古学会雑誌云、
 観心寺勘録緑起資財帳事
  合  寺壱院 在河内国錦部郡以南山中
              東限犬尾滝 南限
   敷地拾伍町許  四至
              西限小仁深 北限龍泉寺山
    承和三年閏三月十三曰官符
 右寺起首、自去天長二年、故少僧法眼和尚位真紹、居住件山、所建立也。即真紹解※[人偏+稱の旁]、已居住件地、歴十余年、聊建道場、号観心寺、望請殊賜件地、永為寺地勅使請者。
 加之、去貞観十一年、治部省符※[人偏+爾]、真紹奉状※[人偏+爾]、故少僧都伝燈大法師位実恵、奉為国家所建立也 承和十年官符傅、以当国守充件寺別当、若守遙授以介充之、立為恒例者、今件伽藍憎徒寔繁、転経之音少間未絶、真紹守先師之遺跡、念興隆之久遠、望請為定額寺、勅依奏者、仍註録縁起如件。
 三間檜皮葺如法堂壱間。五間檜皮葦講堂壱間。六間板葺護摩堂一間。萱葺三間鐘堂一間。六間檜皮葺房一間、北端為経蔵。檜皮葺宝蔵一宇。僧房、櫓皮葺五間室一間、萱葺七間室一間、九間室一間。太衆院、食堂神殿等凡九間。(以上節略)
三代実録云、貞観五年九月、以山城国愛宕郡道場一院、預於定額、賜名禅林寺、先是律師真紹申牒称、昔忝以愚※[月+蒙]貧道之質、厚蒙承和聖主之恩、(中略)至心発願、奉為聖皇造廬※[田+比]遮仏及四方仏像、而毎事闕短、資具未備、唯採材木未始鏤刻、爰逮于斉衡元年、於河内国観心山寺、謹奉造三年之間、其功既畢、窃慮山中寂寞、住持雜久、至于後代恐有徳毀事、須近移京華之辺垂、爰買東山家、便為寺、云々。
補【観心寺】。三十二所図会 後太平記巻の三云、〔応安元年千破窟の城を攻むるとき北軍〕山名伊豆守時氏、(476)同左衛門佐師義、同民部少輔氏清は観心寺の中院を陣舎とし、毎朝仏殿に詣し、信心を傾け武運の祈り怠らず、時に一つの不思議あり、毎夜深更に仏殿鳴動き、新に凱声を作りける、是は奇特の瑞見哉と擬疑し、急ぎ院主を呼んで事の様を尋ねらる、院主曰く、抑も此中院と申すは、去る元弘の終、楠正成菩提の為修造の寺にて候、云々、亦仏殿鳴動の事は、当寺本尊の脇立愛染明王の霊験にて候、然るは此愛染明王は後醍醐天皇より楠正成へ勅与の尊像にて候へ共、正成討死の時当寺に安置し、子孫に伝へ候へと遺書を置かれ候、然れ共正儀正勝一族皆討死の誓にて辞退候間、大和国平一揆は正成一族にて候へば、平三郎左衛門尉盛政に渡すべきにて候(中略)時氏師義氏清是を感見し、敵と云へ共、正成古今無双の勇義を感じ、各涙を催されける、斯る処に寺内亦動いて、雷声幽に聞えしかば、此尊像は敵を擁護し、味方を罰し給ふ仏なれば、名詮自性の理り、忌々敷妖験哉と、色を変じて囁きければ、山名父子も心中穏かならず、陣替とぞ聞えける。
〇南木誌 大日本史曰、正平十四年冬十一月、畠山国清率関東兵入京師、十二月足利義詮発兵、与団清南侵、是冬以賊将犯行宮、車駕遷自天野、入金剛山、御観心寺、十五年庚子春正月、左馬頭楠正儀、和泉守和田正武城赤坂、福塚某河辺某等城平石、真木野某酒辺某等城八尾、大和河内兵城龍泉峰、大納言藤原隆俊守紀伊最初峰、二月十三曰辛末、畠山国清進津津山、丹下股野誉田酒勾水速湯浅志貴諸氏叛于国清、夏四月五日辛酉、藤原隆俊与畠山義深戦于龍門山大敗之、紀伊守護代伊勢守塩谷某戦死、十一日丁卯、藤原隆俊与畠山義照等又戦龍門山敗績、走保阿瀬川城、云々、二十五日辛巳、陸良親王反、焚賀名生行宮及公卿第宅、二十六日壬午、遣前関白師基討之、陸良親王赤松氏範敗走、閏月乙卯晦、土岐直氏、細川清氏、赤松範実陥龍泉城、今川範氏、佐々木氏頼、佐々木信詮陥平石城、八尾守将真木野某等棄城走、五月三日戊牛、畠山国清等合軍攻赤坂城、八日癸亥、和田正武夜襲敵営不利、正武楠正儀退保金剛山、秋七月、楠正儀攻杉原某水速城抜之、恩地某牲川某攻根来僧徒于春日山城破之、阿瀬川定仏、山本某、田辺別当某撃湯川荘司于鹿瀬蕪坂走之、伊豆守山名時氏攻赤松貞範抜其六城、仁木義長帰順。
 
観心寺《クワンシンジ》行宮址 後村上帝正平の初め吉野賀名生より河内国へ臨幸あり、天野金剛寺を以て行在に充てたまふ、正平十五年の夏賊兵頻に行在を犯しければ金剛山へ移御すと号し観心寺を以て行在と為したまふ、幾もなく京師乱起り北方衰へければ車駕観心寺より摂津住吉へ行幸、皇居を彼所に置く事数年に及ぶ、花営三代記に拠れば天皇は正平廿三年住吉殿に崩御し給ふ。南山巡狩録之を弁じて曰く、後村上帝崩御の行宮は何地か、今嘉喜門院御集に考へ見るに正平廿三年の歌ありて、其詞書に、此比天下諒闇にていとど物あはれなりしこの春うつし植られける桜の枝につけて今上「植置きしむかしの人のかたみとて手折る桜はおもかげもなし」御返し「かたみとて手折る桜の花だにもちりて跡なき色ぞかなしき」とあり、この心によれば後村上院の崩御ありし御所に夏の比まで門院も後亀山帝もすみ給ひしにや、河内志にも桜雲記にも正平二十三年の春忍びて住吉より観心寺へ行幸あり、かの所にて崩御のよし記せば元より後亀山帝はこゝに居給ひ後村上院も春の比よりこの寺に忍びて入らせ給ひ、御庭に桜の木を植させ給へるなるべし、是等の説に従へば嘉喜門院御集の歌にも害なし、又住吉より崩御の後霊柩を観心寺まで送りまゐらせし月日も詳ならざるよりみれば旁彼説の如く住吉より観心寺にうつり給ひ、しばし住せ給ひ、遂に此にて崩御ありしに似たり。〇南山巡狩録又云、南方は正平十五年五月、楠和田は赤坂の城終にこらへじと見ければ城に火をかけ金剛山の奥へと引退ける、〔水月古鑑〕此程の事にや去年の冬より官方所々の城々落去しぬと聞にければ、観心寺の行宮にて君もいとおそろしく思し召され、群臣も心をいためける、然るに敵かつて寄せ来らず、あまつさへさして仕出したる事もなく、此度のいくさは是までとて、五月廿八日に寄手の総大将宰相中将義詮尼崎より帰洛せられしかば、五畿七道の勢二十万騎各本国へぞ帰りける、細々要記に六月下旬和田楠金剛山を出て住吉天王寺に発向し、誉田の城を攻たりける是によつて武家より畠山細川土岐佐々木武田宇都宮数千人発向す、此時また和田楠も金剛山に引かへせば京勢は天王寺に陣をとると云ふ。
補【観心寺行宮址】〇正平廿三年倚廬の御所よりあはれなる事ども申され候し御文のついでに
 おもひやれ見しおもかげもかき暮てなき人こふる袖の涙を
    御かへし
 かきくらす涙ときくにいとど又ほさぬ袂をぬらしそへぬる(嘉喜門院御集)
檜尾観心寺《ヒノヲクワンシンジ》陵 後村上天皇の御陵なり、観心寺に在り住吉行在にして崩じ給ふとも又観心寺に崩じ給ふとも云ふ。山陵志云、後村上陵、在檜尾山也、観心寺後山中有墳、広可二丈、寺僧歳時奉祀焉。名所図会云、檜尾陵墓荒蕪して叢林繁れり、上に椿樹あり。〇楠公首塚観心寺にあり、延元々年兵庫の戦に正成歿し其躯は湊川に葬り、首級は敵兵の手に罹り後故郷へ送致せられ此に葬るとぞ。
   観心寺          篠崎 小竹
(477) 金剛山麓千由窟陰、古寺臨澗曰観心、仏殿荒涼丹青剥、老杉参天午蕭森、下有一塔知誰墳、中将楠公葬其元、言是湊川戦歿日、函送公家従敵軍、河山摂山纔隔海、身首相望両墳在、官道自多堕涙人、此地寂寞鬼恐餒、独有正平天子陵、君臣千載永相憑、
 
河合寺《カガフジ》 観心寺の西北に在り、本尊十一面観音、楠正成の持念仏とぞ。河合寺碑云、河合寺、皇極帝二年勅建、為楠氏遺愛也。(寛保三年建)
山田《ヤマダ》郷 和名抄、錦部郡。山田郷〇今|天野《アマノ》村大字小山田あり、蓋是なり。宗良親王河内山田に寓し新葉和歌集を撰したまふ、当時天野金剛寺はた住吉などに行在所建てたまへる頃なれば、親王此に仮居したまへるか。〇此地は錦部郡の西偏にして泉州に界す、澗水皆北流狭山池に注ぐ。
 
天野《アマノ》 狭山村の南二里、東条村の西一里半を天野山《テンヤサン》と曰ふ今天野村と称す大字|下里《シモザト》に金剛寺あり。〇永万元年紀の南山の沙門阿観河内国天野沢に異人に逢ふ、阿観曰く是は何人ぞや、翁答て我は建水分《タテミヅワケ》の神、天野の沢に棲むなりと、阿観爰に堂宇を建て丹生水分の神祠を建て鎮護とし、後白河院の謗を賜ふ、建久二年八条女院牒を下して僧坊三綱七十余坊を造らしめ、後白河法皇再建の由緒を以て皇子覚法親王の裔寺となり、建保三年七月嘉陽門故八条女院の芳信を感じ、旧風を継て女人の高野と称号し給ふ、正和三年学頭阿闍梨忍実当山の瑞光を見て阿育大王の鉄塔を感得し、古仏聖跡たる事爰に知られけり、即其出現の所を今塔の尾と云ふ。〔三十三所図会〕
 
金剛寺《コンガウジ》 真言宗、永万年中憎阿観開基、承元元年後白河法皇高屋憲貞に勅旨ありて重修、同六年石川判官代義兼寺領は国役雑事永く免除の院宣を奉承す、元弘三年大塔宮の令旨を賜り、正平八年南主後村上院臨幸、寺を以て行在に充て給、北朝三主又此に御す、当時播州西河荘河州大鳥荘摂州山田荘等寄進せしめらる、寺宝両部大曼荼羅は北主の御附与、もと禁中修法の具なりと、山寺の形勝鐘磐の青白雲に和し、松柏の籟宝閣を回り、春花秋月眺望絶妙ならずと云事なし。「名所図会三十三所図会〕
 
天野《アマノ》行宮址 後村上天皇天野殿の遺址は今金剛寺の食堂即是なり、月見亭又存す、〔河内志〕正平八年南方新帝(後村上)賀名生より此に徙御、十二年寛成親王立太子の儀あり、十四年の冬観心寺へ還御、又住吉へ移幸あり。南山巡狩録云、正平九年の頃、河内国錦部天野山金剛寺に臨幸ある、此寺は僧房七十余宇ありて従ふ衆徒も少からず、供奉の人々仮に住居いとなみける事と見ゆ、されば新葉にも「君すめば峰にも尾にも家居して深山ながらの都なりけり」とあり、一説に竹口栄斎金剛寺の文書を引て正平八年四月八日天野に臨幸のよしいひたれども詳ならず、されども公卿補任及御文書目録に正平九年の頃皇居を指て天野殿といふを見れば、いかにも此寺への臨幸は八九年の事蹟なるが如し、又十二年の冬河内国観心寺へ行幸ありし由観心寺の古文書に見ゆ、是は仮初に臨幸ありし事にてかしこを行宮と定め給ひしにはあらざるべし、十四年十一月足利義詮及び畠山国清入道が東国勢天野山を襲ひける時、楠正儀和田正武天野殿に参内し軍の評定したりけるに、只今の皇居はあまりにあさまなる所にて候へば金剛山の奥観心寺と申すへ御座をうつしまゐらすべしと申ければ、さらばとて行幸あり、終に観心寺を行在所となさる、正平十五年の事なり。按に「皇年代略記云、光厳天皇、文和二年(南朝正平八)、八月於河州行宮御落飾、四十一(按に文和二、一書観応二に作るは誤れり)戒師西大寺元耀上人、延文元年(正平十一)於河州離宮、由良覚明和尚奉令著禅衣。又光明天皇観応二年(正平六年)十二月、俄以御落飾、戒師泉涌寺了寂上人、文和四年八月、自河州東条行宮、出御伏見殿。」などみな天野のことなるべし。天野は往時佳醸の名あり、金剛寺の坊舎に於て之を造る、今はなし。〔名所図会〕蔭涼軒日録云、(文正元年)「筑前国練貫酒、小樽纔有之、将座上有来客八九人、仍勧之皆曰久聞其名、今嘗此味、不勝絶嘆也、似奈良並天野名酒之風味」と、其他諸書に天野酒の称散見す。
   河内道上           越 夢吉
 落花吹満袞龍衣、回首南巡事已非、唯有御香留涙跡、春風如夢旧禅扉、
補【天野行宮址】〇後村上院正平十一年、錦部郡天野山を以て皇居とす。〇正平十一年正月、内裏にて梅花久薫といふ事を講ぜられける時、序奉りて、与喜左大臣、「君がため玉しく庭に植ゑ置きて千代のかざしと匂ふ梅が技」(新葉集)与喜左大臣は即洞院左大臣実世公の御事にして、大和国与專村を知り給ひしゆゑ、かくは称せし。〇残桜記に二条為忠卿二首の歌を詠じて皇居に奉ける、「君すめば峰にも尾にも家居して深山ながらの都なりけり」「世にいでばひかりそふべき月かげのまだ山ふかき雲のうへかな」この詠を以て今年の条にかく、是を新葉集に考ふるに、君すめばの歌はいかにも今年のことなるべく、世にいでばの歌は、行脚の僧さき山の行宮にてよみけるよしをいへり、〔新葉集、詞書「天野の行宮にて詠み侍りける歌の中に」左注に「この二首の歌は天授六年秋の頃、修行しける僧のさき山の行宮のあたりをすぎ侍りけるが、物に書きつけけるとぞ」〕
補【天野】錦部〇人名辞書 藤原隆俊は隆資の子なり、近衛少将に任ぜらる、正平中中納言と為り大納言に任(478)ぜらる、八年兵を紀伊に起す、熊野八荘司咸な来り属す、乃ち守護某を攻て之を破り、諸将の兵を統べ、山名時氏と合して京師を収復す、足利義詮後光厳院を奉じ東に走り、尋で大に兵を集めて返撃す、時氏退て伯耆に帰る、隆俊も亦諸軍を以て退く、十年又時氏と諸将を帥て義詮を神南に攻む、利あらずして退き還る、十五年義詮畠山国清の兵を率て来り攻む、隆俊楠正儀等と之を拒で利あらず、走りて阿瀬河城を保つ、十六年細川清氏と義詮を攻めて之に克つ、尋で引き還る、後内大臣と為る、敵兵天野の行宮に迫るに及びて、和田義武等と力を勠せて之を拒ぐ、文中二年兵を率て夜敵営を襲ひ、克たずして之に死す、隆俊勤王して勲労あり、常に恢復を以て意となす、嘗て歌を為りて曰く「君が為吾が取来つる梓弓元の都へ返さざらめや」(大日本史)
 
     和泉国
 
和泉《イヅミ》国 東は河内、南は紀伊共に山脈を以て交界す。北は大和川を以て摂津と相隔つ、西は海湾にして謂はゆる和泉灘なり。(古は茅渟海と称し、今或は大坂湾と曰ふ、)面積三十三万里、其沿海凡十四里、図形ほぼ三角を成し、其弦にあたり、矢の長凡五里(七越山より大津村まで)土地狭小と雖甚豊実、魚塩の利あり。〇延喜式、和名抄、和泉国(訓以都三)三郡に分つ、後世其和泉郡に泉南《センナン》を分ち合せて四郡と為す。正保国図、和泉郡を泉郡に作り、泉南を南郡に作る。明治二十九年其大鳥泉を合同して泉北郡を置き、日根《ヒネ》南を合同して泉南《センナン》郡を置く。今人口二十五万、大坂府の管治なり。修辞には古来泉州と曰ふ。和泉は古へ茅渟《チヌ》と称せる地なり、茅渟県也、国郡制置の際之を河内国に隷す。日本紀允恭巻に河内茅渟《カフチノチヌ》とあるは追書なり。霊亀二年珍努宮《チヌノミヤ》の営造ありければ和泉日根の二郡を割き珍努宮に供し、尋で和泉宮建ち大鳥和泉日根を以て和泉|監《ゲン》を置く。天平十二年和泉監廃し、之を河内に併せしが、天平宝字元年和泉国を復し、三郡を管す。天長二年摂津国江南四郡(東生西成百済住吉)を割き和泉に隷せしむ、而して民情服せず、幾くもなく之を止む事、続日本紀、国造本紀、続日本後紀等に詳なり。〇霊異記泉水に作る。和泉の和は添字也読声なし。
補【江南】〇淳和天皇天長二年正月、江南の東生西成住吉百済四郡を以て和泉国に隷す、幾もなくして之を止む、天長二年三月癸酉、摂津国江南四郊隷和泉国、閏七月壬辰、停隷和泉国江南四箇郡、還附摂津国、百姓騒動、無顧私業也(日本紀略)
 
茅淳《チヌ》 或は血沼又|珍《チヌ》に作る、古事記云、天神御子、興|豊美※[田+比]古《トミヒコ》戦之時、五瀬命、於御手、負登美※[田+比]古之痛矢串、自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。日本書紀云、皇軍至茅渟山城水門、時人号其処曰|雄水門《ヲノミナト》。古事記又云、訶恵志泥命(孝昭)弟、当芸志比古命者、血沼別之祖。姓氏録云、和泉国皇別、珍県主、豊城入彦命三世孫御諸別命之後也。〇古事記伝云、黒鯛の属に知奴と云魚あり、和名抄に海※[魚+即]魚を当てたり、此魚血沼海の名産なりし故に、地名を即て其物に負へるなるべし、延喜式、和泉例国貢に、御贄鯛鯵あり。今按ずるに茅渟は海の名より国土に及ぼしゝ者にして、其初め知奴魚に起因したるにや、知奴魚は其色赤くして血を塗れる状あればならん、謂ゆる堺の桜鯛蓋是なり、桜鯛の名は夫木集に出づ。〇国造本紀云、和泉国造、元河内国、霊亀元年、割置茅野監、則改為国、元|珍努官《チヌノツカサ》。
 
茅淳海《チヌノウミ》 古事記血沼海に作る、茅渟の条下に出づ。日本書紀欽明巻云、河内国言、泉郡茅渟海中、有梵音、震響若雷声、光彩晃耀、如日色。(此に河内国泉郡とあるは国郡制置後の追書に係る者のみ)
 妹がため貝をひろふと陳奴の海にぬれにし袖はほせどかはかず〔万葉集〕
 
和泉灘《イヅミナダ》 古の芽渟海なり、今大坂湾とも称す、難波潟は其北部也。〇水路誌云、和泉灘は内海の北東端にして、北東と南西の濶さ三十五海里、南は和泉国の大山嘴を以て界し、其西は淡路島を以て界す、諸浜岸は一般に高くして樹木森立す、然れども処々に低沙浜あり、此海に一の島嶼険礁なきは甚奇観なり淡(479)路島の東浜に便利なる一錨地なく、之に反して其対面和泉摂津の海岸は一般に距離二海里(大阪附近は四海里)にして五尋界となり、全岸到る処に好錨地あり。〇和泉灘の名は夙に土佐日記に見ゆ。
 
     泉南郡
 
泉南《センナン》郡 明治二十九年、日根郡を併せ泉南郡を建つ、泉南の名は和名抄に見ゆる者、和泉郡より分ち後の南郡に当る、境域古今広狭の差あり。〇本郡南は葛城《カツラギ》山の余脈西に走せ国界を為す雄山と曰ふ、孔道は海に沿ひて通ず、鉄道車駅は岸和田佐野尾崎等と為す、尾崎より和歌山(紀州)に至る。〇郡衙は岸和田に在り、二町(岸和田浜町貝塚町)四十村を管治す。
 
日根《ヒネ》郡 明治二十九年廃して泉南郡へ併す。日根の名は日本書紀、允恭天皇茅渟宮に御し日根野に遊猟の事見ゆ。又雄略巻に云ふ「根使主、讒殺大草香皇子、事覚、使主逃匿至於曰根、造稲城而待戦、遂為官軍所殺」と、根使主即日使主にて、姓氏録「和泉国諸蕃、日根造、出自新羅国人億富使主」とあるに同じかるべし。(日根野参看)〇和名抄、日根郡、訓比禰、四郷に分つ。   亭子院の帝、(字多)おりゐ給て又の年御ぐしおろし、所々の山ふみし給て行ひ給けり、備前掾にて橘のよしとしと云ける人、御供に頭をおろしてけり、泉の国に至り給ひ日根と云所おはしまし、仰せごと有ければ、
 古里のたびねの夢に見えつるはうらみやすらんまたととはねば〔大和物語〕 いづみなる日根の郡の日ねもすに恋てぞくらす君が知るらん、〔古今六帖〕    在原のしげはる
日根|文派《モンパ》は日根の織業なり、初め樽井《タルヰ》村大津屋新助の妻安永年中(紀州文派に傚ひ)これを織る、天保年間幕府令して奢侈を刺し絹布の類一切之が使用を許さず、是に於て該業俄に隆盛に赴き、機工四百五十有余戸の多きに上る、明治十五年には製造地に増減なし、産出高二十一万反此価十一万円、織元六十五戸出機千二百五十戸なりしと云ふ。〔産業事蹟〕
補【日根郡】〇日根、比爾、神名式日根神社。允恭紀八年、天皇興造言室於河内茅渟、而衣通姫令居、因是以屡遊猟于日根野。〔古今六帖・大和物語、略〕明徳記、和泉国ひねのと云所。〔和名抄郡郷考〕
補【泉州鏡】〇貿易備考 鏡は古へ精銅を鋳て之を作れり、後世は唐金(鉄に亜鉛を和せしもの)と白鑞(鉛に錫を和せしもの)とを和し、型に鎔し形を成し、焼末せし鉛と少許の小銀を以て其面を磨擦し光を生ぜしむ、然るに外交開けしより硝子製の鏡盛に行はる、和泉国日根郡は専ら金属製の鏡を出す、湊、佐野、中の庄三ケ村の産額一ケ年凡六千五百箱(一緒一千七百箇)にして、此価金凡そ六万一千七百五十円なり。
 
鳥取《トトリ》郷 和名抄、日根郡鳥取郷、訓止止利。○今東鳥取村、西鳥取村、淡輪《タナワ》村|深日《フケヒ》村|孝子《カウシ》村、多奈川村、下荘《シモノシヤウ》村等にあたる。〇日本書紀、垂仁天皇、詔天湯河|板挙《タナ》、献鵠、別賜姓而曰鳥取連。姓氏録云、和泉国鳥取、天湯河|桁《タナ》命之後也。〇古事記に見ゆる鳥取之河上宮《トトリノカハカミミヤ》は日本書紀|宇砥川上《ウトノカハノミヤ》宮に作り、其故址今|東鳥取《ヒガシトトリ》村に在りと云ふ、旧事紀|幸《サキ》之河上宮と為す、幸は今の尾崎村なり、東鳥取は其南に接す。
 
谷川《タガハ・タナガハ》 今|多奈川《タナガハ》村に改む、泉州の最西南にして、紀淡海峡|加太瀬戸《カタノセト》の東北に在り、俗に田川と呼ぶ、鳥取連祖天湯河|桁《タナ》は此地の人なりしか。又土佐日記云、ぬしま(淡路沼島)と云所を過ぎて田無かはと云所をわたる、辛くいそぎて和泉のなだと云所に至りぬ。〇按ずるに桁は此地方の古名なるべし、淡輪は桁《タナ》の※[さんずい+回]なるべく、谷川は桁川なり。日本書紀に「五十瓊敷命、遊茅渟居菟砥川上宮」とある注に「一云鍛名|川上《カハカミ》」と記入せり亦此辺なり。
慶長年中、領主桑山法印谷川港湾を掘て泊地と為す、後埋没し更に共北に新港を造る、今に入船多し。〔名所図会〕〇谷川港は加太瀬戸口より東北方約三海里、陸岸に在り、人造の一小港、口幅約二十碼、湾入約一百碼、大抵低潮に四呎半小艇の繋泊に適す。〔水路志〕谷川港東西凡四町半、南北四町半深一仞二尺、西方へ開く、観音《クワンオン》崎は港の東北角なり、山崖璧立す。〔地誌提要〕近時船渠造設の計画ありと云ふ。
補【谷川《タナカハ》港】〇日本水路志 加太瀬戸口より東北東方約三海里に於て陸岸にあり、此処は人造の一小港にして港口幅約二十碼、湾入約一〇〇碼、大抵低潮に約四呎半の水深あり、小艇の繋泊地に適す。
 
理智院《リチヰン》 谷川村に在り、真言宗、慶長中桑山氏中興す、院内に豐国祠あり、豊太閤の像を置く。桑山氏谷川築港の時港畔の丘上に豊国明神を廟祀し、理智院を以て供僧とす、元禄中該廟火災、因りて此に移すと云ふ。〇桑山法印は豊臣氏に仕へ、和歌山城を築き之に居り紀泉に封邑四万石を給せらる、諱は重晴、剃髪して治部卿法印と云ふ。
 
深日《フケヒ》 深日村は多奈川村の東に在り、沙浄く山翠にして風景の地なり。続日本紀、称徳天皇、天平神護元年、遣使造行宮于河内和泉、尋行幸紀伊国、(480)還到和泉国日根郡深日行宮。〇平家物語云、寿永三年、阿波国安摩六郎忠景、紀伊国園部兵衝忠康志を同して、和泉国|吹飯《フケヒ》に城門を築て籠居す、平家の大将能登守教経兵船を集め来りて吹飯を攻む、安摩園部得堪ず、教経域兵の頸百三十取て福原へ帰陣す。大日本史云、平教経、聞淡路人安摩宗益、率其従属赴京師、率百五十騎、要之西宮海上、宗益不得進、退泊舟於和泉吹井浦、其党紀伊人園部重茂、欲来而与之合、倶赴京師、教経又抵紀伊破之。〔盛衰記〕
 時つ風吹飯の浜にいで居つゝあがふいのちはいもが為めこそ、〔万葉集〕
  寛平の御時菊合、和泉ふけひの浜の菊
 けふ/\と霜おきまさる冬はたゞ花うつろふと浦みゆくらむ、〔夫木集〕
延喜式、国玉神社今深日村に在り、〔和泉志〕又弥勒寺あり、天徳元年右衛門尉猪使公忠の創立とぞ、荒敗せりと雖古簡を伝へ旧院の名を遺す。〇日本戦史(大坂役)云元和元年四月廿九日、池田忠雄吹飯の滿に着船す、浅野長晟方に樫井《カシヰ》に戦ひ使を遺し来援を求む、忠雄処々の火煙を望み土寇の夾撃を恐れ兵を動さず、長晟乃ち日暮全隊を山口(紀伊名草郡)に収む。
 
飯盛山《イヒモリヤマ》 深日の東南|孝子《カウシ》村に在り、紀泉間の連峰の一にして雄山《ヲノヤマ》の諸嶺中最秀抜なり、山径を孝子《カウシ》越と曰ふ深日より紀伊国園部六十谷に通ず、凡三里、山頂廃寺址あり、役行者の開創とぞ。史学会雑誌云、湯浅党六十谷彦七定尚は紀泉両国の境なる飯盛山(孝子越の絶頂に近く和泉国日根郡深日村より凡三十五町)に城廓を築き、建武元年冬より翌二年春に渉り官軍と烈戦して終に木本宗元の手に討たれ、官軍は総督足利高経諸将楠木正成宇都宮冬綱富部信連以下高野山衆徒等手を砕て奮戦し、就中正成の尽力にて終に城を陥れたり。〇按に飯盛山の名は河内にも紀伊にもありて、紀州名所図会には那買郡龍門山の東なる飯盛山を以て建武元年の凶徒籠城の跡と為せり。高野山文書、延元二年、左兵衛三善資連、備後国太田荘山中郷を高野山へ寄進する状中に「去建武元年、為紀州飯盛城凶徒追伐、亡父信連為勅使、楠木河内大夫判官正成相共発向之時、高野山衆徒殊被抽軍志」とあり、参考すべし。
 
淡論《タンノワ》 深日村の東を淡輪村と為す、和泉志云、紀小弓宿禰墓此に在りと、蓋紀氏の居邑なり、其古墳多く存す。雄略紀云、紀小弓宿禰為大将、伐新羅、賜吉備上道采女大海、為随身視養、小弓値病而薨、大海従喪到来、不知喪所、憂諮於大伴室屋大連、大連即為奏之、勅作冢墓於|田身輪《タムノワ》邑、葬之、また按に同時に将軍大伴連談と云人あり、談は此地の名に因むに似たり。〇名所図会云、紀小弓墓は淡輪の東南に在り、方一町許池水を繞らす、大海墓、封域之に同じ、土人小墓と呼ぶ。又淡輪の西に紀船守の墓あり、其傍に小冢二あり、船守は天平宝字中恵美押勝を撃ちて功あり、延略中累進して、近衛大将大納言を拝し、十一年薨じ右大臣を贈らる。〇管窺武鑑云、大坂夏の戦に大野主馬亮紀州へ押向ふ、淡輪六兵衛は泉州淡輪の旧領主なれば案内者として主馬亮先手を仕り働けるが、潔く討死を遂ぐ。
 
黒崎《クロサキ》 淡輪の海角を云ふ、谷川崎と尾崎の中間に在り、沙觜の類のみ。土佐日記云、和泉のなだと云所より出て漕行く、海の上きのふの如に風波見えず、くろさきの松原をへて行く、所の名は黒く松の色は青く、磯の波は雪の如くに、貝の色は蘇枋にて、五色に今一色ぞ足らぬ。
 
箱作《ハコツクリ》 今|下荘《シモノシヤウ》村と改称す、大字箱作|貝掛《カイカケ》相接す、此地石匠多し古来英名あり、和泉の石作《イハツクリ》と云者是也。〇姓氏録云、和泉国、石作連、垂仁天皇御世、為皇后日葉酸媛命、作|石棺《イハハコ》献之、仍賜姓石作大連公。〇和泉石は色青緑にして石理精好なり、碑碣に造り文を刻するに適す、同質の石近代は多く阿波国よりも伐出す、或は同じく和泉石と冒称す。
補【和泉石】〇山海名産図会 和泉石は色必青く、石理精にして碑文等を刻す、又阿州より近年出すもの是に類す、其石禰ぶ川に似て色緑に、石形片たるがごとし、石質は硬からず、又城州にては鞍馬石、加茂川石、清閑寺石等是を庭中の飛石、捨石に置き、水を保たせ濡色を賞し、凡て貴人茶客の翫物に備ふ。
箱浦《ハコノウラ》 箱作貝掛の海浜を指す、土佐日記に見え、歌名所たり。   このあひだに、けふは箱の浦と云所より綱手ひきてゆく、かく行間にある人よめる、
 玉くしげはこの浦波たゝぬ日は海をかがみとたれか見ざらん、〔土佐日記〕
菟砥《ウト》 今東鳥取村是なり、菟砥川は今|井関《ヰセキ》川と呼び、箱作の南山より発し、東北流二里にして男里《ヲノサト》川に入る。
 
菟砥川上宮《ウトノカハカミノミヤ》址 和泉志云、在|自然田《ジネンダ》村東南。〇古事記、玉垣宮(垂仁)段云、御子印色入日子命者、坐鳥取之河上宮、令作横刀壱仟口、是奉納石上神宮、即坐其宮、定河上部。日本書紀云、五十瓊敷命、居於茅渟菟砥川上宮、作剣一千口、因名其剣川上部。〇旧事紀には之を幸《サキ》之川上に作る、蓋尾崎の川上の義にや、書紀原註「一云鍛名川上」と鍛名川即谷川なれば車鳥取に非ずとも疑はる。
 
(481)宇度《ウト》墓 印色入日子命、(垂仁皇子)の墓なり、今東鳥取村大字自然田の東に在り、玉田《タマタ》山と称す。〔和泉志〕延喜式云、宇度墓、五十瓊敷入彦命、在和泉国日根郡、兆域東西三町南北三町。〇今箱作村の東北なる古墓、和泉志に紀小弓墓と曰へる者を以て宇度墓と為し修理せらる、箱作停車場の西南二十七町許。波多《ハタ》神社は延喜式に列す、今東鳥取村大字|石田《イシダ》の八幡宮蓋是なり、社伝鳥取連の祖角凝命を祭る、後世八幡神を合祭す、末社に板挙《タナ》祠あり、供僧を神光寺と曰ふ。〔和泉志名所図会〕〇按ずるに波多神社は今も鳥取郷の総社と称し、其八幡神と云ふは即垂仁皇子を応神天皇に紛乱したるに非ずや。
 
井関山《ヰセキヤマ》 東鳥取下荘の南嶺にして、飯盛山の東に接す、桜雲記に見ゆる井山は此なるべし。〇南山巡狩録云、正平六年八月、岸和田助氏、日野(日根郡を云ふ)に於て凶徒と相戦ひ軍功ありしこと助氏申状に見ゆ、桜雲記に「和泉国井山城は官軍の籠れる地なりけるに、武家方淡輪彦太郎と云者攻来り合戦あり」と曰ふに相当る。
 
雄山《ヲノヤマ》 紀泉間の山嶺の総名にして、古の呼唹郷鳥取郷の南に亘る、葛城山|犬鳩《イヌナキ》山の余脈なり。日本後紀、延暦二十三年、行幸和泉、進辛紀伊国、還従雄山道、入御日根行宮。又平治物語に平清盛父子熊野詣の時、京の兵乱を聞き切目王子より引返し紀泉の堺、於の中山に於て六波羅の使者に逢ふ事あり。〇雄山道は今東鳥取村より踰ゆる大道に同じかるべし、大字山中宿あり、古駅名を存す。
東涯文集云、自鳥取郷到紀州山口、此間三里許、宛転乎崇峰複領之間、傍山有澗、沿澗而道、澗底奇石怪巌、※[王+鬼]詭可愕、間有長松山田、布置映帯乎其間、一丘一壑亦是屏障中物。〇名所図会云、山中宿地福寺に地蔵堂王子あり、宿の北に馬目原王子あり、王子記御幸記に見ゆる者なれど、今共に廃す。
呼唹《ヲ》郷 和名抄、日根郡呼唹郷、訓乎。〇延喜式、和泉国、駅馬呼唹七疋。和泉志云、男里村、昔乎郷、或云、下津男郷、呼唹之字者、元明天皇勅、地名限二字、紀為紀伊之類也。〇今尾崎村、男信達《ヲノシンタチ》村、樽井村、東信達村、北信達村、西信達村。鳴滝村〇呼唹は古事記男に作り、紀国と為す。日本紀雄に作り茅渟と為す、惟ふに此名在昔紀泉の間に跨り、雄山南北数里を籠絡したるならん、之に因り記紀の異説相容れざるを見るに似たり。
 
尾崎《ヲサキ》 尾崎村は東鳥取村の北にして、男里《ヲノサト》川此に至り海に入る。蓋男里の時の謂にて、旧事紀に鳥取川上(古事記)を幸之川上《サキノカハカミ》に作る即男里の幸の川上なるべし。〇尾崎は戸数五百、賈人船戸多し、今鉄道車駅にして泉州最南の集散地たり。名所図会云、尾崎は南海廻漕の舟懸りなり、吉田某の家は其祖先源右衛門清房九右衛門重章永禄慶長の頃此地の吏務を執り、当時の制書数通有す。
 
男《ヲ》神社 今|雄信達《ヲノシンタチ》村大字|男里《ヲノサト》に在り、男里川の東岸にして古の山城《ヤマキ》水門に近接す。〇延喜式、男神社二座。泉州志云、今在男里村、一座神武天皇、今称男森明神、一座彦五瀬命、今称浜天神。
 
山城水門《ヤマノキミナト》 古呼唹郷の寄船地なり、又|山井《ヤマノヰ》水門と曰ふ。和泉志云、「山井水門、在|樽井《タルヰ》村」と、樽井は雄信達村の北に接し、小湾を成す。日本書紀云天皇軍、至芽渟山城水門、(亦名山井水門)時五瀬命、矢瘡痛甚、雄誥而薨、時人号其処曰雄水門。〇日本後紀、延暦二十三年、行幸和泉、遊猟于城野。この城野或は山城の郊野にあらずや、後の考をまつ。
 山の井のみなとを分て行舟のあかずも人にぬるゝ袖かな〔夫木集〕
補【山城水門】〇神武紀云〔重出〕五月丙寅朔癸酉、軍至茅渟山城水門(亦名山井水門、茅渟、此云智怒)時五瀬命矢瘡痛甚、云々。山城水門は和泉國日根郡樽井村に鴻り、雄水門即同処にして、倭名抄|呼唹《ヲノ》郷あり、今|男里《ヲノサト》村存し樽井村に隣す。
 
男里川《ヲノサトカハ》 東信達村|葛畑《ツヅラバタ》に発し、西流|金熊寺《キンユウジ》川と云ふ、山中鳥取二川を併せ、尾崎村雄信達村の間に至り海に入る、長四里。
 
金熊寺《キンユウジ》 東信達村に在り、観音堂薬師堂行者堂等ありて、其鎮守神を金峰熊野の二権現と為す、故に金熊寺の名を命ずと。近年此鎮守神をば男神社に引きあて、、神武帝彦五瀬命にましますと伝唱す。寺中又疫神社あり、是は延喜式畿内十界の疫神祭の一処、和泉紀伊の堺に在りと云者に当るか。〇金熊寺の山野に梅樹を植ゑ、俚俗一目千本といふ、春時来訪の客多し、樽井車駅を去る凡五十町。
 
樽井《タルヰ》 今樽井村と曰ふ、旧名|山井《ヤマノヰ》と曰へるを改めたりとぞ。戸数四百、紋羽織の業盛大なり、鉄道車駅あり大坂を去る二十五哩、和歌山を去る十四哩。
 
信達《シンタチ》 信達は中世の荘名なり、今北信達、西信達、東信達、鳴滝、樽井の数村と為る、古の呼唹郷の中にて泉州志は下津《シタツ》郷の謂なりと為せど詳ならず、北信達村大字市場を首邑と為す。
 
市場《イチバ》 方俗は御所《ゴシヨ》村とも曰ふ。名所図会云、白河院堀河院熊野行幸の時、御止宿ある故に御所と曰ふ、後鳥羽院御幸記曰「建仁元年十月、信達宿厩戸御所に入御、萱葺三間例の如し」云々、厩戸は大苗代村の北に在り、今|筆《フデ》王子祠存す、御幸記又曰「厩戸御所を出でて、信達一瀬王子に参る」と、此祠今牧(482)野村の南に在り。〇大苗代《オホノシロ》牧野市場等は連檐の邑にして、今北信達村と改む。
   信達村観音堂        林 羅山
 信達雀蒐石径斜、海山風景画難加、観音堂裡何所有、一個野僧持法華、
今は鉄道線信達の海岸、樽井村を経由するを以て、市場は歩車の駅舎たるに止まる。〇和泉志云、大苗代観音堂今名長慶寺、旧名海会寺、霊異記所云血渟山寺蓋此。
 
賀美《カミ》郷 和名抄、曰根郡賀美郷。〇今|上之郷《カミノガウ》村、日根野村、新家《シンケ》村、田尻村、長滝村、佐野村、中通(南北)等に当る。茅渟宮日根宮等の遺址皆本郷に属し、泉州の旧邑なり、之を賀美と名けしは尊敬の意に出でしにや、又延喜式、意加美《オカミ》神社本郷に存す。
 
茅渟宮《チヌノミヤ》址 上之郷村字|中村《ナカムラ》に在り、其墟を土人衣通姫の手習所と曰ひ、享保の頃まで小祠を置き封境万一町許なりき、後墾きて田と為し又葬所を作り、遺址殆泯滅す。〔和泉志名所図会〕〇日本書紀、允恭天皇、納衣適姫、更興造営室、於河内茅渟、而令居、因此以屡遊※[獣偏+葛]于日根野。〇続日本紀、元正天皇、霊亀二年三月、割河内国和泉日根両郡、令供珍努宮、四月割大鳥和泉日根三郡、始置和泉監。聖武天皇天平十五年、太上皇(元明)幸智努離宮。〇按に茅渟宮は衣通姫及元明女皇の離宮なり、当時宮監を置き郡務を兼掌せしめたるより和泉国遂に離立する事と為れり、日根行宮は茅渟宮の東日根野に在り、相距る一里に満たず。
意賀美《オカミ》神社は延喜式に列す、今上之郷村字上村の普郡山に在り、武塔天神と称す。〔名所図会神祇志料〕本郷の名賀美は此祠号に因りて起れる如し。
血沼池《チヌノイケ》〇古事記玉垣宮(垂仁帝)段云、御子印色入彦命、作血沼池。和泉志云、茅渟池、在日根郡野々村西、広三百三十畝、今日布池。名所図会云、茅渟池は佐野村の北にして、街道の東に在り。〇東涯文集云、発貝塚而到近義荘、近義又作近木、民業造木櫛、過瓦屋、到見出川、道側有池、土人称野々池、或云推古天皇所鑿珍努池是也、凡泉之州、自堺津至樫井、五十里許、行沿海平田之間、極目皆木綿、時久亢旱阜、桔槹龍骨家家争灌。
 
日根野《ヒネノ》 日根野村は茅渟宮興造の時遊猟場たり上之郷村の東大井関川の北に在り、中世には日根野荘と曰へり。
日根《ヒネ》神社は日根野に在り、日根野荘の生土神にして、大井堰大明神と称す、蓋日根造の祖新羅国人億斯富使主を祭る、〔姓氏録正倉院文書神祇志料〕延喜式に列す。(雄略帝の時根使主の拠れる日根稲城も此地とす、)〇また比売神社は日根神社の鳥居の南に在り、溝口《ミゾクチ》大明神と称す、茅渟宮の旧址と相近し。相伝ふ比売神は即允恭皇妃衣通姫を祭ると。〔名所図会〕三代実録、貞観元年、和泉比売神、預官社。延喜式、曰根郡、比売神社。
日根行宮址〇日本後紀、延暦二十三年、行幸和泉、進幸紀伊、従雄山道、還御日根行宮。〇これ桓武帝南巡の行宮なり、日根野に設けられしならん。
 
大井関川《オホヰセキガハ》 この川は犬鳴山の南、紀州根来山の陰より発し、北流日根野村大井堰祠の南を過ぎ、西流田尻村吉見に到り海に入る、長六里。〇続日本紀、天平十六年、元明太上皇智努離宮行幸の時、仁岐《ニキ》河に臨みます事あり、仁岐河今詳ならず、蓋大井関の流なるべし。
 
犬鳴山《イヌナキサン》 日根野の東に在り、紀泉を界する葛城山の一峰にして高五千百尺余、大井関川其西麓を流る、大木土丸の二村あり、今合併して大土《オホツチ》村と改む山中飛瀑多し。
 
七宝滝寺《シツパウロウジ》 大木《オホキ》の東二十余町、巉崖危磴を経て登る可し相伝ふ役小角開基、其犬鳴の緑起は世にきゝわたる事なれど古書に未だ見ず、正乎中志一上人中興し真言宗の霊場と為す、和泉式部が犬鳴にてよめる歌とて、家集に見ゆるは、
 山里は寐られざりけり夜もすがら松吹風に驚かれつつ。
 
七宝滝《シツパウノタキ》 犬鳴山中に七滝あり、両界、塔、弁財天、小槻、奥、千丈、布曳等なり。布曳は高三十六丈幅三尺、其末は皆大井関川に入る、何年の頃にや九条植通殿下七宝滝寺に詣でて、
 おもひきや七のたからの滝に来て六のにごりを清むべしとは、
藤沢南岳遊記云、泉南之山、可遊者二、北曰牛滝、寺称威徳、南曰犬鳴、寺称七宝滝、皆溪湍作趣、所以命滝字也(中略)壬辰初冬、余遊犬鳴、自大久保、稍々入山、至土丸村則溪山已佳、一澗送、一溪迎、一嶺去、一峰来、径険則歩、且歩且車、至大木村。村路岐、右則走紀之粉川者、取左而行、到溪橋、従此石径不容車皆歩、溪幅十余歩、一大石渠也、過橋、傍有小瀑、呼両界瀑、蓋仙凡分界之処也、過第二橋数歩、巨岩当径、径即絶矣、乃踏岩稜陟、已踰之、径不甚艱、板橋縫溪、溪左右転、転々殊観、有塔瀑者、可観、左崖磴上、有二小石碣、一為猟夫、一為義狗、事載泉州志、過第七橋、巨堂当面、堂安不動明王像、堂前又有瀑、巨岩突兀、洞※[さんずい+回]游万状、観最美矣、又従堂左小蹊、行数十歩、有一瀑、長二丈余、亦可観也、転到僧房、々在第四橋北崖上、即七宝滝寺也、与燈明岳相村、満目秋樹、紅紫可愛、而溪則※[革+堂]鞳耳、寺僧曰、寺上数町、土泥消、(483)山骨蕗、※[石+肆の旁]※[石+亢]之奇、不可名状、殆与和州金峰相似、実羽流苦行之地、又曰淡之小聖、避恋女于此、与彼猟女事、不足陳于大人前独正平中、南朝忠臣、城於土丸雨山者、今明王堂、即橋本正高所新修、(中略)溪山之美、実為一州之冠、牛実不及犬哉。
 
火走《ヒハシリ》神社 演技式に列せり、今|大土《オホツチ》村大字大木に在り、滝大明神と曰ふ、昔此神を祭るに、男巫火の上を走る行事ありけりとぞ。〔名所図会〕
 
土丸城《ツチマルノシロ》址 大土村大字土丸に在り、土丸は犬鳴山の西麓にして日根野村を去凡一里とす、天授中官軍橋本判官正高の拠れる所也。〇竹口栄斉が南朝編年紀略に、細川清氏が帰依の僧志一上人東国より河内国に来りけるを、官兵橋本民部大輔正高是を尊信し、和泉国日根郡犬鳴山に不動堂を修造し、七宝滝寺を開基し、かの志一上人を以てこれに居らしむといふ事を彼等の文書を引てしるせり、詳なることをしらず。〔南山巡狩録〕大日本史云、天授元年、土丸城主宮内少輔穂本正斉降、四年、橋本正高起兵於紀伊、帰和泉、拠土丸城、五年、山名義理山名氏清等来囲土丸城、防戦失利、姪某死之、遂捐城而逃。〇明徳三年、山名義理紀伊に拠り、弟草山駿河守をして美作国江見広戸等七百人を以て土丸雨山(熊取村)両城を守らしむ事明徳記に詳なり。
 
樫井《カシヰ》 今南中通村に属す、中通《ナカトホリ》は近代の荘名なり、樫井は北信達村の北にして大井関川を隔つ、元和元年の古戦場なり。〇樫居王子は後鳥羽院御幸記に見ゆ、又日本後紀、延暦二十三年和泉行幸の途次に垣日野《カキヒノ》と云地あり、今樫井と云は垣日の訛にあらずや。日本戦史、(大坂役)云、夏の役起るや、大坂城兵日を期し兵二万を以て和歌山城を攻撃せんと決議す、大野治房之を指揮す、和歌山城主浅野長晟見兵五千出でて之を拒ぐ或は佐野に於て防戦すべしと云ふ、亀田高繩曰我等最終の勝利を図らざる可からず、佐野の地たる山麓速く東に離れ海浜近く西に接し、開豁なる曠野にして兵馬の進退自由なり、寡を以て衆を捍ぐの地に非ず、後方一里に樫井あり、以て戦ふべし、宜く其蟻通明神の松林を前にし、八町畷を銃撃しつゝ逓退すべし、前に松林あれば敵我兵の多寡を知る能はず、且つ畷の左右は深泥なれば騎を並べて来る能はず、我軍必ず捷たんと、四月廿九日、城兵暁を以て敵と会戦せむと期し、諸隊次序を逐ふて進む、先頭岡部則綱塙直次貝塚に於て朝餐を喫し、佐野市場に達し、敵兵の既に信達方位に退却するを知り、蟻通の北方池端に出て、安松《ヤスマツ》の北に駐止し後兵の継ぎ至るを待つ、亀田高繩は天明安松の民家を放火し、蟻通祠辺に出でて敵に接し、一戦を試みしも利なし、我諸隊の南行を見て漸次逓退す、既にして城兵追撃甚だ急なり、紀州兵も亦拒戦頗る勉め、樫井を中心とし刀槍相闘ふあり赤手相搏つあり、削綱は傷き直次戦死し、城兵皆安松に退却す。
 
吉見《ヨシミ》 今田尻村と改む、大井関川此に到り海に注ぐ。明治維新の際、近江三上藩遠藤氏此地に移封せられ、数年ならずして廃藩と為る。
 月をのみよし見の里の秋のくれ松風ならで呼人もなし。〔夫木集〕
   吉見里          新井 白石
 雉鳴青野外、犬吠翠微間、桃欲迷前路、桂堪歌小山、数家機杼動、一水桔槹間、毎随明月到、応伴白雲還、
南方紀伝に、興国元年征西宮吉野行在を出て和泉路吉見浦より発船して西国に下向し給へる事見ゆ、又河内志に「泉州海浜、漁猟豪富相雑、佐野賀祥寺多造巨舶、行商四方、其細民十里遊漁、妻独守室」と述ぶ、賀祥寺は吉見浦の大字なり、又同志に「日根郡|兎才田《ウサイタ》村、民以農隙出大坂及堺、為人舂米、凡雇傭者雖出他邑、呼曰兎才田、其歌謡亦謂之兎才田曲」と、兎才田は吉見の隣村にして今|新家《シンケ》へ合す。
 
中通《ナカトホリ》 近代の荘名なり、佐野長滝の辺を曰ふ、今南中通村(樫井)北中通村(鶴原)の名あるは之にちなめる也。中通とは蟻通明神に所因あるにや、枕草紙の蟻通縁起に「もろこしの国より、七曲《ナヽワタ》にわだかまりたる玉の中を通りて、左右に口あきたるがちいさきを奉て、之に緒通して給ふらんとて奉る」など見ゆ、附会の嫌あれど、蟻通明神此に在れば併記す。
 
長滝《ナガタキ》 長滝村は南中通の北にして、元中通荘に属す蟻通明神あり。〇万寿寺記〔群書類従本〕云、弘長三年間白殿下、以泉州長滝包富、附与十地上人、建武五年、以長滝弥富并附。この包富弥富名は長滝の小字なるべし。
 
蟻通《アリトホシ》社 長滝村の北に在り。名所図会云「蟻通大明神の林は馬場二町計り、境内に鐘楼神宮寺あり此神は枕草紙を以て本と為す」と、然れども紀州天野の丹生四所の第三を気比《キヒ》宮と云ひ、一名蟻通明神と為すを見れば尚由来ある事にや。〇枕草紙云、ありとほし明神、貫之が馬のわづらひけるに、この明神のやませ給ふとて、歌よみて奉りけるに、やめ給ひけん、いとをかし、このありとほしとつけたる心は、誠にやあらん、昔おはしましける帝の、唯若き人をのみおぼしめして、四十に成ぬるをば失はせ給ひけるに、中将なりける人みそかに親を家の内に土ほりて屋を立て、それにこめすゑたり云々(中略)さて其人(中将の親人)の神になりたるにやあらん、此明神のもとへ詣でたりける人に宣ひける、
 なゝわたにまがれる玉の緒をぬきてありとほしともしらずやあるらん。
(484)紀貫之家集云、ありとほしの神と云をきゝて、詠みて奉りけるに、馬のこゝちやみにけり、
 かきくもりあやめも知らぬ大空にありとほしとは思ふべしやは。
〇俗説弁云、蟻通の故事は仏典に出づ、法苑珠林、不孝篇、棄父部、引襍宝蔵経云、世尊曰、我於過去、久遠有国、名棄老国、彼国中有老人者、遠駆棄去、有一大臣云々と述べ枕草紙と同じ意を記したり、又祖庭事苑云、世伝孔子厄於陳、穿九曲珠、遇桑間女子、授之以訣、孔子遂暁、乃以糸繋※[虫+豈]、引之以蜜、而穿之ともあり。〇今按ずるに繋※[虫+豈]通の小説は、仏典に材を取りたる者なるべし、然れども貫之が此に遇然※[虫+豈]通の地名にあひ詠歌しけるより、更に清氏女の構架を誘引したる者とす。
 
佐野《サノ》 佐野村は湊とも市場とも称し小繁華なり。今鉄道の車駅也。戸数一千五百、岸和田以南の大邑とす、銅鏡匠あり古より其名あり。
   佐野と云所に輿かきすゑたる程に
 いづみなる佐野の市人たちさわぎこのわたりには家もありけり、〔雪玉集〕管窺武鑑云、元和元年四月の末、紀州の浅野但馬守先手は四備、但州に一日先立て佐野鶴原の辺を取しき、二備は二十町程間を隔て長滝安松の辺に陣取る、やがて競懸て押寄せ、大坂勢を引受て一迫合鎖つて、右の方は蟻通の明神の森の蔭へ引退き、左の方は岡山の林へ引取る、大坂衆はきほひ進て追詰るを、紀州勢は樫井川まで引かけ/\退くなり、但州急に之を見て旗本組の備を下知して、樫井川を渡り脇より押廻しければ、大坂衆案に相違して敗軍と為る。
 
鶴原《ツルハラ》 佐野の北に在り、今北中通村と改む。貝田《カヒダ》王子あり、後鳥羽院御幸記に見ゆ、此地旧名貝田なり。〇鶴原の東|瓦屋《カハラヤ》にて街道二分して堺市に向ふ、沿海は即国道にして、山に沿ひて土生伯太を通ずるを小栗《ヲグリ》通りと名づく。〇加支多神社は延喜式に列す、今鶴原に在り貝田八幡宮と称す。〔和泉志〕
北中通村大字中野荘あり、此は天正五年織田氏の軍一向一揆を撃ち、貝塚中野の塞を抜き雑買孫市を降し、戌を佐野に置くとある地なるべし。
 
近義《コギ》郷 和名抄、日根郡|近義《コギ》郷。〇今北|近義《コギ》村、南近義村、熊取《クマトリ》村是なり。姓氏録云、和泉国未定雑姓、近義首、新羅国土角折王之後也。〇近義は蓋韓語王なり、日本書紀に韓王をコキシと訓み、或は干岐に作りてコニキ又コニキシとよめり、本郷は其語に出づる事姓氏録以て証すべし、後世はコキ又コギに訛る。行基年譜に日根里近木郷内と録せば日根より分ちたる郷名なるや明白とす。東鑑|小木《コギ》郷に作る、曰、文治二年、前備前守行家、在于和泉国一在庁日向権守清実、小木郷宅。又古木王子は後鳥羽院熊野御幸記に見ゆ。近義川は西萬城村大字|蕎原《ソボハラ》より発し、西北流木島村水間を経て北近義村脇浜に到り海に入る、長凡四里。南山巡狩録云、正平十五年二月、京勢河内へ入る、和泉国近木郷の散在十生生長生職二分は和田左衛門蔵人助氏本主たるのよし文書を捧て歎きし所に、別紙を以て天下静謐の時一円賜ふべしと仰下されける、此よし坊門中将仰を伝へて楠正儀朝臣の添状をあたふ、然るに畠山入道々誓が許より蔵人に申おくつて、京方に降参なさば望にまかすべきよし頻にあざむきければ、和田終に武家に降参し祖父和田修理亮入道が跡を知行しける。〔諸家系図纂〕古木《コギ》王子は今近義村大字王子に在り、王子の東に大字|橋本《ハシモト》あり、南北朝の比泉州の官軍和田の一党に橋本氏あり、本邑の人ならずや、橋本民部大輔天授中雨山土丸に籠り京勢と合戦すること諸書に見ゆ。又橋本に千石堀《センゴクボリ》積善寺《シヤクゼンジ》の両寒址あり。和泉志云、千斛堀積善寺両賽址、在橋本村管内、相伝天正中本願寺光佐拠大坂、与織田侯相挑、根来憎徒等相率紀泉二州諸土、進拠積善寺千斛堀城、声援光佐、而光佐既窮請降、退于紀州、僧徒猶不降、告報久保田畠中高井貝塚沢村諸塞、又欲抜岸和田城、十三年、豊太閤火攻積善寺千斛堀、殲根来僧徒、諸城悉潰。
補【近義郷】日根郡〇近義、備中関政方傭字例引姓氏録云、近義首新羅王角折|王《コキシ》之後云々、この近義はいかに訓むべきにか、近頃ある人の訂正せる本にコムキと訓り、書紀任那新羅百済等の国王を干岐また旱岐と書てコンキシまたコンキと訓り、通証に杜氏通典云、百済王号於羅瑕、百姓呼為※[牛+建]吉支といへり、旱岐干岐は共に下の支をはぶかれたるにて、やがて※[牛+建]吉支なり、※[牛+建]は玉篇に居言切ケン呉音コンなり、舌内声の字なればコンと転る故にコンキシと訓むべし、干旱等も呉音はコンなるべし、又カとコとは常にかよふ例なれば、転じてコニとせしにもあるべし、されば此近義は新羅国王の後なる故にコニキシの首《オビト》といふ姓氏を賜ひて近義の字を充られたるものなるべし、近字は玉篇に其謹切にて漢音キン呉普コン※[立心偏+欣]音にて舌内声なり、かゝれば是もコニキシと訓むべし、下の支に充る字省きたるは、干岐の例にひとし、且二字に定められし故にも有べし、今按、此説にて明らか也、正濫抄の説いまはぶけり。
 
神前《カウザキ》 今近義村の大字にして、旧日根と和泉(南郡)両郡々界に当る。天平年中行基法師此に泊所を設け、神前|船息《フナスヱ》と称せり、行基年譜云、神前船息、在和泉国日根郡、日根里、近木郷内。〇延喜式、日根神前神社、今神前の妙見祠是なり。〔和泉志〕
 
熊取《クマトリ》 熊取村は中世熊取荘と称し、日本後紀、延暦二十三牛、和泉行幸の時、熊取野に遊猟(485)あり、東嶺を雨《アメ》山と曰ふ、南は犬鳴山に至る。〇熊取荘は五門《ゴモン》を首村とす、中左近と云ふ旧家あり。〔名所図会〕
〔史学雑誌〕雑訴決断書 牒 和泉国衙
  湯浅木本新左衛門尉宗元申当国熊取荘地職事(在申状具書)
  牒任去月十日 綸旨可沙汰居宗元於荘家之状送牒如件以牒
   建武元年九月五日
(前大臣今出川兼李公) (楠木正成)
  従一位 藤原 御判   左衛門少尉橘朝臣在判
(万里小路藤房卿)
  中納言兼左衛門督藤原朝臣御判
 
南《ミナミ》郡 明治二十九年廃して泉南郡へ入る、南郡は和名抄に「和泉国、分和泉郡、置泉南郡」とあれど何年の分割なるや詳ならず、後世泉南の名を訛り唯南郡と曰へり、正保国図南郡と記し以て今時に至る、和名抄に参照するに木島掃守八木山直の四郷の地即本郡を成す。
 
本島《キノシマ》郷 和名抄和泉郡木島郷、訓木乃之末。○泉州志云、木島郷|三間《ミヅマ》村、相伝、昔此境山深而多良材故曰木島。按ずるに今本島村(大字水間)島村、貝塚町、麻生郷村、有真香村等の地なるべし。
 
水間寺《ミヅマデラ》 木島村大字水間に在り、近義川西葛城村蕎原より来り寺畔を過ぐ、寺は龍谷山と号し幽閑の道場なり僧妨四十余宇耕樵を兼業して生活を為す、歴代公武の賜書制状数通存す、〔名所図会〕今観音堂多宝塔薬師堂行基堂愛染堂等数宇ありて、山中の佳境を占め、寺背に大瀑あり最も観るべし。木積《コツミ》観音堂は水間を去る数町、亦同く行基開基と称する古刹なり。〇和泉志云、水間寺、有建久正治年間古文書、今昔談曰珍努山寺有正観音像即此、又云、貝塚願泉寺古鐘勒曰「大和国広瀬郡大福寺貞応三年鋳」又「曰和泉国泉南郡木島郷水間寺鐘応正二年鐫」不知何時再移願泉寺。
 
有真香《アマカ》 水名に因り村名起る、阿里麻《アリマ》川と曰ふ、東葛城村大字塔原より発源し西北流貝塚町の北に到り海に入る。(津田川とも曰ふ)長凡四里。〇有真香は日本書紀崇峻天皇元年の条に見ゆ、物部守屋の資人捕鳥部万の邑なり、其墓今大字八田に在り。
 
犬墓《イヌヅカ》 崇峻元年、物部守屋大連、資人捕鳥部万、将一百人、守難波宅、而聞大連滅、騎馬夜逃、向茅渟県有真香邑、朝廷遺衛士数百囲万、々射殺三十余人、仍以持剣三截其弓、還屈其剣投河、別以刀子刺頸死焉、国司以万死状牒上、朝廷下符斬之、散梟八国、臨斬梟時、有万養白犬、俯仰廻吠、於其屍側、遂噛挙頭、収置古冢、横臥柁側、飢死於前、国司尤異其犬、又牒上、朝廷哀之、下符曰、此犬世所稀聞、可観於後、須億万族、作墓而葬、由是万族双起墓於有真香邑、葬万与犬焉。〇書紀通証云、万墓在泉南郡八田村、狗墓在其北。(明治二十二年八田の双墓に建碑す)矢代神社は延喜式和泉郡|矢代寸《ヤシロキ》神社二座、今八田に在り、〔和泉志〕神祇志料云、蓋建内宿禰の子波多八代宿禰木角宿禰を祭ると、矢代氏|寸《キ》氏の祖なるべしと云也、
一説矢代村と訓めり。
 
府生郷《アソガウ》 麻生郷は和名抄に載せず、後世本島より分割したるならん。有真香村の西、貝塚町の東也、今麻生郷村と曰ふ。
 
阿里莫《アリマ》神社 延喜式、和泉郡阿里莫神社、今府生郷村大字久保に在り。〔和泉志〕神祇志料云、此地古は有真香邑の内ならん、有真と阿里莫相通へり、姓氏録、安幕首あり、饒速日命の後也、蓋之を祭る。〇姓氏録云、和泉神別安幕物部、十市尼大連之後。
 
貝塚《カヒヅカ》 貝塚町は岸和田《キシワダ》の西南半里許、一小市街なり。願泉寺在り、泉南の大伽藍にして寺域方四町の広きを占め、往時有勢の寺家たりき、元和元年四月廿九日大坂城より大野道犬治房総大将として二万人を以て紀州へ進撃したる時、道犬岸和田城を押へん為め兵三千を分ち、願泉寺卜半の饗応を受け寺中に屯留する間に、前隊塙団右兵衛門直次|樫井《カシヰ》に戦死し総敗北と為る。
    貝塚岸本氏遺世園、南海偉観、尽于一目
 遺世園臨海、万株松翠斉、天地涵昼夜、地脈没東西、帆駕青山過、波揺紅日低、重避難預約、灑筆坐留題、(東涯)
補【貝塚】〇大坂役 浅野右近浅野右衛門等樫井の東西の高みに陣を取り居申し候、大坂大野主馬手勢三千にて貝塚まで罷出候、大野道犬は岸和田の城に出、右京殿を押へて手勢三千にて参候、然る処に貝塚の本願寺の御堂と申す所にて振舞を給べ侍り候内に、新宮左馬、伴田右衛門(塙直次)両人樫井へ進み、浅野の伏兵に逢うて敗北す。
 
願泉寺《グワンセンジ》 貝塚の北に在り、金涼山真教院と称し、真宗本願寺に属す。初め佐野川(今佐野村)の人新川卜半、一向同行の信者にして貝塚に移り、念仏道場を建つ天正年中大坂石山本願寺織田家と合戦の頃卜半泉州門徒の魁たり、顕如上人石山を去り紀州雑 買に赴くに及び卜半救護ます/\力む、上人亦屡往来し一時此に寓止したる事あり、故に貝塚本願寺と号せり、元和元年窃に東軍に通じ亦功あり、幕軒より寺地方四町を附与せられ、江戸寛永寺の院家に列したり。
補【願泉寺】〇此寺は当国佐野川村住人にて、一向同(486)行新川卜半の創建にて、天正年中織田氏の一向宗征伐の時、顕如教如の両上人も此地に来り、難を避けたることあり、其後慶長元和大坂役の時、東軍に力を致したるより江戸の援を被り、境内四町四方を賜与せられ、大坊と為る。〇後は東西の両本山に倚属し、地方の名刹たり。
 
掃守《カモリ》郷 和名抄、和泉郡掃守郷、訓加毛利。〇今|南掃守《ミナミカモリ》村北掃守村、岸和田町、土生郷《ハブガウ》村等の地なり。掃守氏は二流あり、姓氏録云、和泉国皇別、掃守田首、武内宿禰男紀角宿禰之後也、又云、和泉国神別、掃守連、振魂命四世孫天忍人命之後也、雄略天皇御代、掌掃除事、賜掃守連。〇掃守或は加守に作る。
 
岸和田《キシノワダ》 岸和田《キシノワタ》、今|岸和田《キシワダ》町岸和田浜町岸和田村の三に分る、戸数三千許泉南郡の郡衙を置き、鉄道車駅あり。〇岸和田氏は南北朝の際に勤王の一族なり、諸家系図纂南山巡狩録等に岸和田氏の古文書数通あり、中にも
 和泉国岸和田弥五郎治氏申軍忠次第
 一 延元元年五月廿五日兵庫湊川合戦之時楠木一族神宮寺新判官正房並八木弥太郎入道法達相共抽合戦之忠功者也
    延元二年三月日
などあり、治氏の子を助氏と曰ふ、又快智定智の名あり。或は云、和田の一党にて岸村に住しければ岸和田と称すと。〔名所図会〕永禄年中、三好氏堺浦に居る時、安宅冬康淡路より移り此に居る、天正年中羽柴秀吉の将中村一氏岸和現に拠り、南海の来寇に備ふ。〇中村式部少輔一氏記云、中村一氏は天正十一年十二月泉州に在り岸和田を守る、紀州一揆根来雑賀の者中合せ三百の勢にて泉州表へ出張つかまつり、中村、沢、田中、積善寺千石堀五ケ所に附城つかまつり、岸和田と何も五十町ばかりへだて、日日のかけ合御座候、一揆大将は根来杉坊、赤井坊、粉川御池妨、雑賀、中村、本木、的場、横庄司、駕皆一味にて打出申候、其年中は方々に取合、翌年正月に紀州一揆ゲヂ/\山に本陣をすゑ佐野辺へ先手を出し既に岸和田迄も可相働体に見え、岸和田の出城狐塚に取つく、中村式部少輔六千ばかりにてかけつけ小木川にて対陣し、一揆方をやぶる云々。
補【岸和田】南郡〇諸家系図纂 岸和田氏の軍忠次第の古文書数本あり〔次第、略〕
 
岸和田城《キシノワダノシロ》址 今岸和田村即是なり、天正十年中村式部少輔一氏之を創め十三年近江国水口に移り、小出播磨守秀政一氏に代り本国六万石を賜はり城を起す、孫大和守吉英、元和元年大坂の役東軍に応じ、援将金森可重と共に守備を固くす、西軍兵を岸和田の南に進め浅野氏と樫井佐野に戦ふ、其兵敗退、小出氏之を城下に要撃す。此歳小出氏但州出石に移り、松平周防守康重本城を賜はる、寛永十七年岡部美濃守宣勝更に之に代る、爾来岡部氏世襲、明治維新の際に至る。
 
蛸地蔵堂《タゴヂザウダウ》 岸和田の大伽藍なり、天性寺《テンシヤウジ》と称す、縁起詳ならず。土俗其霊験を渇仰し、参詣日夜絶ゆるなし、蓋近世の開基にして、文禄中小出氏在城の比より起ると云ふ。
 
土生郷《ハブガウ》 和名抄に載せず、今土生郷村と曰ふ、大字畑あり、延喜式、和泉郡波多神社は此に在るべし、有真香村矢代神社と相近ければ祭る所も相同じく波多八代宿禰なるべし、和泉国皇別、掃守田連も同族の因みあり。
 
藺生野《ヰフノ》 日本後紀、延暦二十三年、和泉行幸の時藺生野に遊猟あり。延喜式、和泉国調に藺笠四十六枚と録し、後世泉州名産編笠は松村より出せりと、〔名所図会〕云へば藺生野は今南掃守の辺か。兵主《ヒヤウス》神社は延喜式和泉郡に列す、今南掃守村大字西之内に在り、泉北郡泉穴師神社の別宮なり。今北掃守村大字に吉井《ヨシヰ》あり、東鑑に「嘉禎三年、矢部禅尼、賜和泉国吉井郷」とあるは此ならん。
 
八木《ヤギ》郷 和名抄、和泉郡八木郷、〇今八木村存す。平家物語に十郎蔵人(行家)殿は和泉国八木郷と云所にましますとあり、東鑑には小木郷と為す孰れか是なる。又姓氏録「右京皇別、八木造、和多羅豊命児布留多摩乃命之後也」と見ゆ、延喜式、和泉郡夜疑神社を載せたれば八木造の本居は此か。(夜疑神社大字中井に在り)八木の首邑は大字大町なるべし、南北乱の頃には八木弥太郎法達武名あり、岸和田氏の一族なり。南山巡狩録云、延元元年兵庫合戦の後、泉州にて阿房次郎畠山国清蜂起するにより、岸和田の一族はせ向ひ相戦ふと雖、勝利を得ずしてしばらく八木の城に籠る、其頃摂津国天王寺に陣し給ひし中院右少将、并に楠が一族橋本九郎左衛門尉正茂以下後詰として攻来り給ひしかば、城中より之を見て打て出、さしつゝみてたゝかふ程に、寄手うち負て引退く、この勢ひに乗じて敵方の城を攻落す。〔岸和田氏申状〕
 
久米田寺《クメダデラ》 八木村大字|池尻《イケシリ》に在り、真言宗、隆池院と号す。門前の池塘方八町、灌漑の利あり、神亀二年憎行基の鑿造する所也。永禄三年、三好の一党豊前守之康入道実休、久米田寺に屯し国主畠山紀伊守高政と合戦に及び陣没す。〔和泉志名所図会〕〇史徴墨宝考証に久米田の寺田は山直郷包近名及八木掃守木島三郷の内に在りしこと、本寺所蔵の古文書に見えたりと曰へり。本寺縁起に拠れば天平十年本寺成る、五間仏堂一宇、釈迦三尊を置き、塔婆一基鐘楼経歳并に僧房若干、四至は 「限東、角河春木峰小津(487)川東峰七層峰、限南葛木横峰、限西松村登路并延年峰、限北大道」と見ゆ。又本寺所蔵天平勝宝元年勘録の流記坪付云、
 隆池院 字久米田寺     住僧 二口
  和泉国行基菩薩肆拾玖院内寺領流記坪付
 右院縁起久米多寺地所漑之均有千余町好農業天旱動耕作各乏水事屡眼苗之苦以天平十年二月其堤上加修理臨時所起之院泉郡上池田村所在是也
  院内地漆段田弐町伍段 伍段在島池尻林壱所寺院西北在
 総合寺領田伍拾陸町参百歩
  上久米田里二坪肆段弐佰肆拾歩(中略)下久米田里四坪壱段佰捌拾歩(中略)吹井里一坪参段(中略)波多山里一坪漆段瀬良谷陸拾歩(中略)岡田里二坪伍段(中略)上池田里十坪伍段小松井里七坪肆段(中略)動里十四坪捌段(中略)上池尻壱段捌拾歩
 右院領流記坪勘録如件(以下の連署法師名略す)
 
山直《ヤマタベ》郷 和名抄、和泉郡山直郷、訓也未多倍。〇今山直上村、山直下村(大字新在家)及び山滝《ヤマタキ》村(今泉北郡に属す)に当る。姓氏録云、和泉国地祇、山直、天穂日命十七世孫日古曾乃己呂命之後也。〇山直は霊異記にも山直里と記し、山田部の謂にや、又山之直の略にや詳ならず。土俗ヤマタビと唱ふ、大津川の南支源、牛滝山の谷也。
補【山直郷】和泉郡〇〔和名抄郡郷考〕山直、也末多倍、契冲云、国には山たびといへり。風土記残篇、山直郷、土地肥、民用繁多、有神、号直明神、大足忍代別天皇御宇所奉崇神須佐能雄尊也。泉州志、郷今属泉南郡、神社在和泉郡内畑村山池東、又云、直内畑村積川村稲葉村中村包近村三田村摩湯村多治米村新在家村。神名式、山直神社。姓氏録、和泉神別天孫、山直、天穂日命十七世孫日古曾乃己呂命之後也。節用集、山直。霊異記、山直里。
 
三田《ミタ》 山直下村大字に三田あり、茅渟の山の屯倉と云者此か。日本書紀、安閑巻に「桜井屯倉、賜妃香々有媛、注一本云加※[貝+兄]茅渟山屯倉」と見ゆ、山の屯倉果して此地ならば山直は山之直の義なり。
 
新在家《シンザイケ》 山直郷の大邑なり、下山直に属す。名所図会云、庭訓往来に和泉酢の名あり、建長二年記に「和泉郡、御酢荘、貢酢」と見え、今山直の新在家より酢を出す。〇延喜式、和泉郡淡路神社、今山直下村大字摩湯に在り、淡路と云ふ事何の謂たるを知らず。〔和泉志〕
 
包近《カネチカ》 山直上村大字包近は中世|包近名《カネイカミヤウ》と称したり。延喜式、和泉郡楠木神社、今此に在り。〔和泉志〕積川《ツカハ》神社は山直上村大字積川に在り、祈年祭、座摩五座生井福井綱長井波比岐阿須波の神を祭ると云ふ。〔積川社記古事記伝等〕日本紀略、弘仁十四年、奉幣積川社、祈雨、続日本後紀、承和九年、積川神授位、延喜式、和泉郡に列す。〇積川は訓むこと津川に同じ、山直山中の水西北流して泉北郡大津村に到り海に注ぐ、然らば大津の川上の社の謂なるべし。
 
神於山《ジンオサン》 山直上村の南に在り、東葛城村大字神於に属す、土人称して和泉郡の鎮山と為す。延喜式、和泉郡|意加美《オカミ》神社此に在り、供僧舎を神於寺と称し、宝勝大権現を祭ると云へり。〔和泉志〕〇神於山は葛城山牛滝の北支脈にあたり、山中の総名葛城と称するを以て、今東葛城西葛城の二村を立つ。〇西葛城村大字|蕎原《ソボハラ》に葛城一言主神の石宝殿《イシノホデン》と号する社あり。岸和田治氏申状に、延元元年蕎原城の名を載す。又大字|木積《コツミ》の観音堂は行基開基四十九院の一といひ、後世廃頽の余なれど、一宇の中に古仏像数多あり。
 
内畑《ウチバタ》 今|山滝《ヤマタキ》村と改む、山直上村の東南に接す。(今泉北郡に属す)延喜式、和泉郡山直神社は内畑山直池の東に在り、〔和泉志神祇志料〕蓋山直の祖神を祭る。
 
牛滝山《ウシタキサン》 山滝村大字大沢の南に在り、北は槇尾《マキノヲ》七越《ナナコシ》の諸嶺に連接し、紀泉間の葛城山脈の一高峰なり、大津川は此より発源す。〇山中飛瀑多し、中にも一之滝(高二丈)二之滝(高十丈)三之滝(高四丈)最観るべし、其三の滝の潭心に石出づ、形牛の水中より跳上するに似たり、牛滝の名之に因る、楓樹亦賞すべし、大沢を距ること凡十五町。〔名所図会地誌提要〕
 小車もつひにとどめむなにしおはゞ牛滝やまの木々のもみぢ葉、         似雲
 
大威徳寺《タイヰトクジ》 牛滝山に在り、真言宗を奉ず。寺記云、正殿、安大威徳明王之像、六面六臂、駕青牛、慧亮法師所鐫、威霊殊絶、相伝、清和天皇詔亮降魔、開護摩壇、修威徳明王之法、感青牛之現空、成之、寄於此山。〔名所図会〕今威徳殿多宝塔行者堂求聞持堂及び僧房数宇あり。
   牛瀑山促句           後藤 春草
 双高峰間溪淙々、翠柏映発万樹楓、天然錦綉裏山容、左顧右視忙酬接、禅房還嫌眼界狭、飯罷下山辞霜葉、人言冬山如打睡、今日含笑々何事、笑君与水走塵地、
 
     泉北郡
 
(488)泉北《センボク》郡 明治二十九年、大鳥郡泉郡を合同し本郡を建つ、郡役所を鳳《オホトリ》村に置き四十一村を管治す、堺市は郡内に在れど別に市制を布けり。〇孔道は海に沿ひて通ず、北摂州大坂住吉より堺に入り浜寺大津を経て泉南郡岸和田に至る、今鉄道汽車を架す、堺市より南河内に向ふ者は狭山古市道明寺の別あり、奈良に赴くは道明寺よりする也、高野吉野に赴く者狭山を便路とす。
 
泉《イヅミ》郡 旧和泉郡に作る、明治二十九年廃して泉北郡へ入る。和泉郡は日本書紀、欽明十四年、河内国言、泉郡茅渟海中、有梵音云々とあるは追書なり、当時未だ国郡の制置なし。霊異記に泉郡と録し、和名抄に「泉南郡分置」と註す、蓋其池田郷、坂本郷、上泉郷、下泉郷、軽部郷、信太郷の六を旧に依り本郡に属し、他の四郷を割きたる者とす。
 
七越山《ナヽコシヤマ》 和泉国の東南隅に在り、即紀河泉三州の交界なり、其北に接し槇尾《マキノヲ》山あり。。七越は山直川(牛滝)松尾川、池田川の南にして泉州第一の深谿なり、南に踰ゆれば紀州伊都郡に出づ可し、一名横山と云ふ、故に北麓を横山荘と曰ふ。狭衣物語に和泉なる構が岳と書るも此なりと云ふ。
 立のぼる月のあたりに雲消えてひかりかさぬる七こしの峰、〔山家集〕        西行
 何としていかにやけばや泉なる横山炭のにほふなるらん、〔新撰六帖〕        光俊
 七こしのうへにかさねつ雲の峰   悠川
七越峠は南横山村大字|父鬼《チチオニ》より紀州|妙寺《メウジ》に通ず。
槇尾山《マキノヲサン》 七越山の北に在り、東横山村大字槇尾に属す此山は四岳八峰、層巒欝々として蓮花の如く、四十八瀑三十六洞ありと称せり、嶺東は河州天野山高向村等なり。〇巻尾《マキノヲ》神社は三代実録、貞観六年巻尾神授位とあり、即巻尾寺の鎮守にして、今施福寺本堂の南大壇に在り。
 
施福寺《センフクジ・セフク》 巻尾寺観音堂即是なり、延喜式に見ゆ。往時は三論又真言宗にして延応年中横山荘を潅頂堂料に寄進せられ、後深草法皇建長二年修法あり、同三年宣陽門院万華万燈会料として日根郡吉見の免田を附せらる、寛文中より天台宗に帰す。〔名所図会〕〇元亨釈書云、空海年十八、上大学、雖読儒書、志在仏経、偶逢沙門勤操、受虚空蔵求聞持法、末薙染、而事修練、甫弱、就操落髪受戒、研究三論、時操在泉州槇尾山寺。〇三十三所図会云、巻尾寺仙薬院施福寺は弘化年中火に罹り再興す、延喜主税式曰、和泉国巻尾山寺、観音堂料五百束云々、今時は坊舎七十宇ありて免除の租税纔に六石也、然れども山林若干広うして樹木繁茂せり、是を農商に鬻ぎて益とし、又一山の坊中順礼の徒輩に宿を貸し一助とす、故に麓の花咲き初る頃より詣人群参して最賑はし、旅人必ず此に宿る可し、坊舎何れも清潔なれば世塵を払ひて実に心の穢をも洗ふべき思ひせらる、「寺に寝て誠顔《マコトガホ》なる月見かな」※[土+蓋]嚢鈔に曰、西国卅三所第四番背福寺の千手は欽明天皇の御願、行満上人の建立、三間四面の堂なりと云々、按ずるに凡本朝に仏法の伝来せし事は欽明帝の御宇が始めなれど未だ専ら行はれず、豈勅願所あらんや、行満上人も恐らくは後世の人なる可し、開山は行基空海に過ぐ可からず、空海延暦年中満願寺を建て、自ら千手大悲の像を彫刻して安置し給ひ、後再び来て求聞持の法を修し給ふ、故に当山に捨身岳隠水等あり、皆弘法の遺跡なりと云々、また詠歌「深山《ミヤマ》路や檜原松原わけ往けば槇の尾寺に駒ぞいさめる」按に山中檜松杉多く茂り、殊更第三番粉川寺より当山に至るを檜原越と云ひて、頗る難所の深山路なり、槇を牧に取りなして駒とつゞけしなる可し。
 白雲埋路幾重々、門外寒流石上松、林鳥相呼山更静、老僧携鉢下孤峰、 登槇尾山  山本 利盛
巻尾寺衆徒は延元の乱に南方に従事す、延元二年八月岸和田一族并に巻尾寺衆徒は横山荘宮里城にて武家方と合戦し、十月十三日岸和出治氏巻尾寺に籠れるに、凶徒寄来りければ治氏大塚新左衛門尉正連と共に城外に打て出でて之を追退けたり。〔南山巡狩録諸家系図纂〕
補【槇尾】〇三十三所図会 巻尾山仙薬院施福寺は弘化年中堂宇残らず焼失の後再興す、巻尾神社、本堂の南上壇の地にあり、当山は巻尾明神初めて鎮座し給ふ処の霊地なり。
弘法大師剃髪旧址 石階の中間道の傍に一宇の堂ありて、愛染明王を安ず、俗に愛染堂と云ふ、此地は往昔中室院の古跡にして、勤操僧正岩淵より此に移住し給ふが故に、俗に中室院勤操僧正と云ふ、大師其初め勤操を師とし此にて落髪し給へり。
満願寺旧蹟 大門より二町許下にあり、弘法大師延暦年中に建て給ひし寺院なりとぞ。
満頃寺滝 同所にあり、滝の傍に弁天の祠あり、開基は行満上人なりと伝ふれども、其時代詳ならず、当寺の什宝には空海薙染の黒髪及渡唐の砌り青龍寺の恵果阿闍梨より伝来し給ふ真言秘密の論書、又帰朝の時平城帝へ奉りし将来の上表、伝教大師へ贈らるゝ書一通、共に当寺の宝庫に秘蔵す、尚其余霊仏什宝挙て枚へ難し、され〔脱文〕
 
横山《ヨコヤマ》 横山は中世荘名たり、今東西南の三村と為る。池田川の上游にして、七越槇尾の山麓とす、横山は原来七越峰の別名也。〇南山巡狩録云、(489)延元二年正月、楠が手に随ひ岸和多治氏所々の敵営を焼払ひ、今日また横山に打むかひて凶徒等の館を焼払ふ、〔岸和多治氏申状〕横山の地名詳ならず、按ふに河内和泉の内にあるべし、四月十六日岸和多侍従房快智同大輔房定智同弥五郎治氏等和泉国巻尾寺の要害をかまへ、所々の官軍と牒し合せ互に声援をなす。〔岸和多快智同左智治氏等申状〕
 
福瀬《フクセ》 東横山村大字福瀬に鳥地獄あり、南面利《ナメリ》湯とも曰ふ、鳥地獄と云は池中不断時に泡沫を湧出し、禽鳥此に飲めば忽ち死す、天保年中究理家浴澡すれば験あるを知り浴湯を開かしむ、冷泉なり、又福瀬に岩隙より潮の沸所あり、潮谷と称す。〔名所図会〕
男乃宇刀《ヲノウト》神社は延喜式「和泉郡、男之字刀神二座」今西横山村大字|仏並《ブツナミ》に一座、大字下宮に一座在る、是なり、〔和泉志〕此地本社の鎮座あるを以て中世は宮里と曰へり。
 
宮里《ミヤザト》 西横山村大字下宮仏並(上宮と云ふ)及南池田村大字国分の辺の古名なるべし。〇延元元年六月、和泉国宮里城に於て、岸和多の一族武家方と数度合戦を遂ぐ、廿八日唐国《カラクニ》の敵在所を焼払ふ、八月四日岸和田党巻尾寺衆徒等宮里城を攻め、国分寺に於て激戦あり、七月凶徒と宮尾に戦ひ、九月廿七日宮方岸和田弥五郎治氏大塚掃部助惟正上郷弥次郎俊康等宮里城に押寄せ合戦を遂ぐる。〔岸和多快智同定智同治氏等申状〕
 和泉国宮里保、為美濃国五箇郷替、所被寄附玉凰院也、早被領掌者、天気如此、仍執達如件
    永和四年三月廿日 左中弁花押(日野仲光)
    妙心寺授翁上人禅室   〔史学雑誌所援〕
補【宮里】〇南山巡狩録 延元二年六月、和泉国宮里城に於て岸和田の一族、武家方と数度合戦を遂ぐ(岸和田快智同定智同治氏等申状)廿八日、さきに岸和田の一族唐国といふ所にはせむかひ、敵の居所を焼払ふにより、凶徒等も出あみ合戦をとぐる、又八月四日は岸和田が一族併に巻尾寺の衆徒等、和泉国宮里城にて武家方と合戦し、国分寺前に於て殊に戦を励す(同上)九月廿七日、宮方岸和由弥五郎治氏、大塚掃部介惟正、上郷弥次郎俊康等、和泉国宮里城に押寄せて合戦をとぐ(同上)
 
国分寺《コクブンジ》 今南池田村に属す、大字を国分と曰ふ、西横山村下宮の西に接す、寺址に就き一草堂を遺すのみ。延喜玄蕃式云、和泉国安楽寺、為国分寺、置僧十口、主税式、和泉国国分寺料五千束、文殊会料一千束。〇名所図会云、昔智海上人と云あり、泉郡浦田の人にて宮里の滝山に住み仏乗を勤修す、或時糜来り智海の小便を嘗て懐胎し一女を生む、稍長して太※[女+朱]麗なり、藤原不比等之を看て大に異み養育して宮中に納る、即光明子なり、光明子後宮里の家地に就き安楽寺を建てたまひ、承和六年勅して国分定額と為す、今滝山薬師堂存す、国分寺の奥院にして智海上人の遺跡なり。〇聖武皇后光明子其姉を宮子と曰ふ、即文武皇后なり宮里或は両后の乳母の家地ならん、但糜鹿懐胎は妄誕信ずべくもあらず、両后の生母は犬養宿禰三千代なる事続日本紀に歴然たり。〇岸和田氏軍忠状云、延元二年八月、岸和田快智同定智同治氏并に巻尾寺衆徒宮里城に押寄せ、武家方と合戦に及び、殊に国分寺前に於て戦を励ます。
 
松尾《マツノヲ》 今北松尾南松尾の二村と為る、横山の西に接し一谷を為す、松尾川は其末大津川に会す、松尾寺あり。
 
松尾寺《マツノヲデラ》 南松尾村に在り、阿弥陀山と号し天台宗を奉ず、相伝ふ役小角開基、往時は朝廷勅願の貴刹にして、後世敗頽し豊臣氏再興の事ありと雖、古規の十の一に及ばずと。〔名所図会〕〇白石紳書云、和泉国丹羽谷松尾寺と云を土俗かうべ堂と云、伝に平家の寿永の敗に一族の首どもを埋めし所なりと、三間四面ばかりなるが椽の下はこと/”\く髑髏なり、昔は板屋なりしを後に鋼瓦に改たりと見ゆ。百拙和尚松尾寺記云、天正中、平信長之兵、放火仏閣、亡有孑遺、唯共首堂者、巍乎兵燹中耳、慶長七年、豊臣秀頼再造、粗復旧観。〇和泉志云、松尾寺、又号阿弥陀峰寺、承和六年、勅為定額寺、々有元暦延元貞和正平年間勅書庁宣等、峰中記曰、松尾寺、昔日修法験者僑居于此、又以当寺僧、為和泉国講師職、見穴師寺古記。
 
春木《ハルキ》 今南松尾村に属し、陸軍砲兵射的場あり、春木荘の名は玉海安元元年の条并に建長二年道家処分記に見ゆ。
 
唐国《カラクニ》 北松尾村に属す、古の韓国氏の居なるべし。姓氏録云、和泉国神別、韓国連、采女臣同祖、伊香我色雄命之後也、武烈天皇御世被遣韓国、復命之日、賜韓国連。〇岸和田氏軍忠状云、延元二年六月廿八日、さきに岸和田一族唐国と云所に馳向ひ、敵の居所を焼払ふにより、凶徒も出合ひ合戦を遂ぐる。
 
池田《イケダ》郷 和名抄、和泉郡池田郷、訓以介多、〇今北池田村(大字下村)南池田村(大字三林)の二に分る、横山荘の北に接す。姓氏録云、和泉国皇別、池田首、景行天皇々子大碓命之後也。延喜式、和泉郡|穂椋《ホクラ》神社は今和田小倉山に在りと、〔神祇志料〕南池田村|三林《ミハヤシ》の北に大字和田あり、此か。〇万町《マンチヤウ》(南池田村大字)伏屋氏の後苑に阿闍梨契冲の庵址あり、契冲の家集に其頃の詠草を載せたり。〔名所図(490)会〕一説契冲庵址は憐村南松尾の久井《ヒサヰ》なりと。池田川のほとり、伏屋某が造りおける庵を借て住けるに、其ほとり大竹おほぞらに聳ゆる者多きを見て、
 千ひろある岸根に生る村竹をいほりのまがきすぐしてぞ見る、
   池田川の流いと面白く島と見えたる所に梅ありて匂ひけるをよめる、
 夕月夜うめが香おくるかは風にきしねの草の身をぞ忘るゝ
池田神社は北池田村大字下村に在り、池田首の祖神大碓命を祭ると云ふ。〔名所図会和泉志〕
 
坂本《サカモト》郷 和名抄、和泉郡坂本郷、訓佐加毛止。〇今郷荘村と改む、池四郷の西に接す、坂本氏の旧墟なり。姓氏録云、和泉国皇別、坂本朝臣、建内宿禰男、白城宿禰三世孫、建日臣、因居賜姓坂本臣。続日本紀云、天応元年、和泉郡人、坂本臣糸麿等六十四人、賜姓朝臣。続日本後紀云、承和三年、讃岐国人右少史坂本臣鷺野、請除讃岐之籍帳、復和泉之旧墟、建内宿禰男紀伊宿禰之後也。〇和泉志云、坂本氏累世住坂本村、坂本石見守、大永年中、修造祇園社、棟札今尚在矣、天正年中坂本某戦死於大坂川口。
 
桑原《クワバラ》 今郷荘村の大字と為る、西福寺あり、東大寺俊乗坊重源の墓と伝ふる者あり。又桑原井あり、相伝ふ昔此井に雷落けり、井より上らんとする所を人々集り蓋を覆ふ、雷煩悶して誓を立て、云ふ永々此地に落ちまじと、即蓋を除き雷を放てり、此に因て後世雷鳴をきけば桑原々々と呼ぶ、雷は彼誓にまかせ其地に落ちずと。〔名所図会〕
 
観音寺《クワンノンジ》 今卿荘村の大字と為る。和泉志に云延元三年和泉郡観音寺城并に箕形城に官軍楯こもりしかば、日根野道悟と云者押寄せ之を攻落したり、当時の古文書猶ありと、箕形は今北松尾村の大字と為る。
補【観音寺】〇南山巡狩録 五畿内志に延元三年、和泉国観音寺の城并に箕形城などに官軍楯籃りしかば、日根野道悟といふもの押寄て是を攻落す、其の時の古文書あり。〇今郷荘村大字観音寺、北松尾村大字箕形。
 
上泉《カミツイヅミ》郷 和名抄、和泉郡上泉郷、訓加美郡以都美。〇今国府村、伯太村、南王子村等なり、此地は中世本州々庁の在所にして、初め和泉宮を置かれ、宮監転じて国府と為る。
 
和泉宮《イヅミノミヤ・ニギイヅミノミヤ》址 国府村大字府中に在るべし、和泉寺蓋其旧墟と為す。或は曰ふ信太村に旧府《フルフ》神社あり、即宮址かと、亦詳ならず。
続日本紀云、元正天皇、養老元年、車駕幸和泉離宮、免河内国今年調、聖武天皇、天平十六年、行幸和泉離宮。之よりさき霊亀二年四月、割河内国大鳥日根和泉三郡、始置和泉監とあり、天平十二年和泉監併河内国など見ゆれば霊亀二年始めて和泉宮を興し宮監を置かれたるか、又称徳天皇、天平神護元年、行幸紀伊国、還到和泉日根郡深日桁宮、乙酉到同国新治行宮と見ゆ、此新修の行宮も和泉宮ならん、和泉の名は泉井に因りて起るかに似たり。和泉の井、御館森西北に在り。和泉神社は延喜式和泉郡和泉神社也、旧和泉寺に在り、後之を御館森に移す、〔神祇志料〕本社に古作の神像四十八躰所蔵す。〇和泉《イヅミ》今|国府清水《コクフシミヅ》と称す、府中の西の入口に在り、一名和泉の井と日ふ清例無比の水にして酒を醸し茶を煮る共に佳也、井上に延喜式泉井上神社あり。〇或人の説に此泉は美称をニギイヅミと呼びたるに依り宮名に其字を採りたるべしと曰へり、井神は俗に井戸八幡と呼び、総社五社明神と一境なり。
 
国府《コクフ・コフ》址 今村名と為る、大字|府中《フチユウ》御館森を庁址と為す和名抄、和泉国府、在和泉郡、行程上二日下一日。〇府中村に国府総社及び泉八幡宮あり総社には神宮寺ありて奉祀せり。〔名所図会〕〇後鳥羽院熊野御幸記に「建仁元年十月六日、平松王子より御馬を停め歩にて国府新造御所入御」と、亦御館森の地か。土俗は上古の茅渟県の宅址も此に外ならずと曰へり、霊異記に泉郡大領|直沼《チヌ》県主倭麿鳥の邪婬を見て発心し、出家して行基法師に随従する事見ゆ。
 
伯太《ハカタ》 伯太村は国府村の北に接す。延喜式、和泉郡博多神社此に在り、又同式丸笠神社は伯太の丸笠《マルカサ》山に在り。
伯太陣屋は寛文元年渡辺越中守方綱、伯太一万三千五百石を幕府より賜与せられ、陣屋を置き之を治し、明治維新に至る。渡辺氏の祖半蔵守綱は、慶長年中武州松山に封ぜられ、方綱に至り泉州へ移邑したるなり。
 
平松《ヒラマツ》 伯太村の字なり、熊野権現の伏拝《フシオガミ》ありて平松王子と称せり、後鳥羽院御幸記云「建仁元年十月六日、平松王子に於て殊に乱舞の沙汰あり」平松はまたくもふかく立ちにけり明行鐘は難波わたりか〔正治百首〕        後鳥羽院
 
軽部《カルベ》郷 和名抄、和泉郡軽部郷、訓加留倍。〇今|忠岡《タダヲカ》村大津村是なり、大津川の末委にて海浜に居る。姓氏録云「和泉国皇別、軽部、倭日向建日向八綱多命之後也、雄略天皇御世、献|加里《カリ》乃郡、仍賜姓軽部君」と、之に因れば此地旧名加里なるべし、古事記、遠明日香宮巻云、御子為木梨之軽太子、御名代、定軽部とある軽の名も此地に因むか、大和高市郡にも軽の地あり。又古事記神代巻に「大年神、要|天知迦流美豆《アメシルカルミツ》比売」とある加流美豆は軽之津の謂にや、即此地なるべし。
 
(491)興津浜《オキツノハマ》 軽部の浜を曰ふ。古事記伝云「大年神、娶天知迦流美豆比売、生子奥津日子神、次奥津比売神、亦名大戸比売神、此者諸人以拝竈神者也」とあり、古今集に和泉国沖津浜の歌あり、和名抄に和泉郡軽部郷あるも御母の名によしあり。
   貫之和泉国に侍りける時、大和よりこえまうで来てよみてつかはしける、
 君を思ひおきつの浜になくたづのたづね来ればぞ有とだに聞く、〔古今集〕      忠房
名所図会に澳津浜は大津浜の一名とあり、大津村は忠岡村の東北に接し、大津川を隔てたり。
 
大津川《オホツガハ》 三源あり、其牛滝川松尾川は国府村の南に合同し、槇尾山より出づる池田川は国府村を過ぎ、此に至り更に二流相併せ、大津忠岡の間に於て海に入る、長凡六里。
 
大津《オホツ》 宇多《ウタ》太津、下条《シモデウ》大津の二村あり、今合同す。戸数一千許、古の軽之津なり。土佐日記に小津《ヲツ》に作る応神紀に見ゆる「吉備兄媛、請省親聴之、自大津発船、而往之」は此に非ず。
   五日、けふからくして和泉のなだより、小津の泊りをおふ、松原めもはる/”\なり、かれこれくるしければよめる、
 行けどなほ行やられぬは妹がうむをつの浦なる岸のまつ原、〔土佐日記〕
更料日記云、さるべきやう有て、秋の比和泉にくだる、(中略)冬になりて登るに、おほつと云浦に舟にのりたるに、其夜雨風いはもうごく計にふりふぶきて、神さへ鳴りて轟く、岡の上に(中略)舟引上げ、夜をあかす、五六日すぎ風なぎたれば舟を出す、(中略)国の人々あつまりきて、其夜この浦をいでさせたまひて石津につかせ給はらましかば、やがて此御舟なごりなくならましなどいふ心細うきこゆ、
 あるゝ海に風よりさきに船出して石津の波と消なましかば。
 
下泉《シモツイヅミ》郷 和名抄、和泉郡下泉郷。〇泉州志によれば吾孫子荘(今穴師村)及下条大津(今大津村の内)を指す。
 
我孫子《アビコ》 我孫子は中世荘名に呼ぶ、今穴師村に大字我孫子あり、穴師神社を氏神と為す。〇姓氏録云、和泉国未定雑姓、我孫公、豊城入彦命男倭日向健日向八鋼田命之後也。延喜式云、和泉国|網曳厨《アヒコ》所造、味塩魚二十石六斗。
 
穴師《アナシ》 穴師村は旧我孫子荘と曰ふ、穴師神社あるを以て今改称す。延喜式、泉穴師神社(二座)兵主神社粟神社相並載す、兵主神は穴師村の南一里泉南郡北掃守村に在り、粟神社は大津村大字字多に在りて粟堂と称する事和泉志に見ゆ。
 
泉穴師《イヅミアナシ》神社 穴師村大字宮に在り、此神天平九年神戸頴稲三千九百余束を奉充し、〔正倉院文書〕承和九年貞観十一年授位あり、〔続日本後紀三代実録〕延喜式に列す、神宮薬師堂あり御旅所と称す。〔名所図会〕神殿は慶長中修理す、古作の神像八十余躯現存す。
 神祇志科云、大和国、穴師坐兵主神、巻向坐若御魂神を延喜式に并載したるは和泉国泉穴師神兵主神粟神を拜載したると参考すべし。大倭本記に、一鏡及子鈴は天皇御食津神、今巻向穴師社宮所坐解祭大神也とある御霊体二に坐ば、巻向社二坐なるべきに、一坐なるは疑はし、其一坐は穴師兵主神にてもあらむか、然らば本社も一坐は倭大国魂神を祭れるにて、次なる兵主神は別に祭れる社にや、若しくは和久牟巣曰神の子豊受毘売神を合せて二坐なるか、猶考ふべし、さて玄蕃式に新羅客に飲しむる醸酒料稲を大和の纒向河内恩智及本社より出すも、御食津神の幸ひ坐る稲以て醸れる酒を蕃人に給ふにて、即此神等の恩賚を被らしめ給ふ御わざなるべし、又按ふにこの穴師社殿に男女主神各一体、東殿に日子神七体、日女神四体また摂社天富貴命殿内に主神日子神一体、其佗日子神十四体日女神十九体、凡一百九体形相異なり新作にあらずと云へり、何故にかく神像多くあるにや、姑附て考に備ふ。〇考古学会雑誌云、穴師神社、今神像八十三体を蔵す、中にも其形稍大にして彩色を施したる女体は五六体のみ、彫木高一尺六寸、其装容は頭髪半垂にして小髻を結ひ、衣は袖濶く衣上に背子様のものを着け右衽にして、裳を穿き、前に組帯を結びたり、大略仏家天女の図像と本邦古代の服飾を折衷して彫飾せるごとし、袖口と襟脚に置口様の緑飾あり、又袖の上部腕の辺に鰭の如き飾あり、和州薬師寺の神功皇后像に比すれば頗古樸なり、吉野水分祠の神像と相類す、凡此種の女神像は本州和泉井上社、摂州池田の呉服神社、奥州平泉の毛越寺等にも現存すとぞ、平安朝初期の比の様式かと曰へり。
 
信太《シヌタ》郷 和名抄、和泉郡信太郷、訓臣太。〇今信太村|上条《カミデウ》村是なり、姓氏録に「信太首、百済国人百午之後也」と見ゆ此地の氏人ならん、又万葉集に小竹田《シヌタ》男を亦知奴壮士と称へたる歌あり、知奴は芽渟に同じく総名にて、小竹田は小字なりと知るべし。
 
信太森《シノダノモリ》 枕草紙にもりはしのだのもりと記し、歌の名所なり。名所図会云、信太森は今信太村の中村に在り信太明神の社を謂ふに非ず、社の西十町許、荘官森田氏の宅地に老楠あり、之を土人信太森と呼び、樹高凡八丈枝葉繁茂す明神の旧地とぞ、樹下に(492)狐を住ましめ又葛葉祠あり彼※[竹/甫/皿]※[竹/艮/皿]内伝鈔に安倍博士晴明の母は信太森の狐にて名を葛葉と云へりと云小説に因る、好事家の作為なるべし。
   和泉式部道定に忘られて、ほどなく敦道親王かよひ給ふときゝて、よみて遺しける、
 うつろはでしばししのだの森を見よかへりもぞする草のうら風、         赤染御門
    かへし
 あき風はすごく吹ども葛の葉のうらみがほには見えじとぞ思ふ、〔新古今集〕     和泉 式部
 いづみなるしのだのもりの楠の木の千枝にわかれて物をこそ思へ、〔紀氏六帖〕
 
聖《ヒジリ》神社 信太山に在り、信太大明神と称す、古款の信田森は此を指す。三代実録、貞観元年、和泉國聖神、列官社、延喜式、和泉郡聖神社是なり。社僧万松院云、古事記「大年神、娶活須※[田+比]神之女、伊怒比比売、生子大国御魂神、次韓神、次曾富理神、次向日神、次聖神」この聖神なりと。〔名所図会古事記伝〕〇信太村大字王子に属す、寛政八年本社社家と社僧の
間に訴訟ありける事、一話一言に載せたり。
 
王子《ワウジ》 今信太村の大字と為る、熊野権現の伏拝あり。後鳥羽院御幸記云、建仁元年十月六日、於篠田王子、松下有御禊、家行為御使、参信太明神。
補【王子】〇日本戦史 四月廿九日、浅野長晟は王子村に在り、先頭は大坂兵と櫻井に戦ひ之を撃退す、部将再び城兵を攻撃せんと請ふ、長晟曰ふ、土寇蜂起の情況あり、宜く一たび和歌山に退くべしと、適々信達の東南に火烟挙る、即兵を収めて山口に退く。
 
旧府《フルフ》神社 三代実録、貞観元年和泉国旧府神列官社。延喜式和泉郡に載せたり、今信太村大字|尾井《ヲヰ》に在り、〔和泉志〕これ旧府の址と云ふ。
 
曾禰《ソネ》 今|上条《カミデウ》村と改む、大字曾恨あり、曾根に接して助松浜あり、北は高石浜に接し、一帯の滷洲なり。曾禰神社は延喜式に列す、姓氏録云「和泉国神別、曾禰連、采女臣同祖、神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也」また日本書紀天武四年の条に曾禰連韓犬と云人あり。
    泉州道中         藤井 竹外
 喚取籃輿便換舟、浪華南去是平疇、西風吹木綿国、一路穿花到紀州、
 
大鳥《オホトリ》郡 明治二十九年廃して泉北郡へ併す。日本書紀持統天皇三年河内国大鳥郡高脚海とあり、又続日本後紀、承和六年八月の条に庚午年被貫戸籍河内国大鳥郡とあるは天智帝の御宇の歳次ならん。和名抄、大鳥郡訓於保止利、十郷に分つ。郡の北部堺市の中及|五個《ゴカ》荘(浅香)向井《ムカヰ》(遠里小野)地は往時摂津国住吉郡に属す、元禄の末年新大和川閉鑿、是等の地水南に属しければ、明治の初年に至り之を本郡に移されたり。
日本後紀、延暦廿三年十月行幸和泉国、甲辰夕至難波行宮、乙巳上御舟泛江、四天王寺奏楽、国司奉献、丙午至和泉国遊猟于大鳥郡恵美原、丁末猟于城野、日暮御日根行宮。
 
上神《カムツミワ》郷 和名抄、大鳥郡上神郷、訓加無都美和。〇今南北中の三の上神《ニワ》村に分る美和を爾波に転じたる也。大鳥郡の東南隅にして石津川の上游なり、美木多村久世村陶器村と共に一境を成す。〇姓氏録云、和泉国神別、神直、神魂命五世孫天道根命之後也。(和田連同祖)
 
鉢峰《ハチガミネ》 南|上神《ニワ》村に在り、一名小倉峰、峰南は槇尾横山の地なり、延喜式大鳥郡国神社は大字鉢峰に鎮座す、又法道上人の開基と称する長福寺あり金堂宝塔存す。〇鉢峰閑谷院長福寺は又法道寺と云ふ、白鳳年中法道上人開基、今真言宗を奉ず、古文書を収蔵す。〔名所図会地誌提要〕
 
片蔵《カタクラ》 今中|上神《ニワ》村大字|方蔵《カタクラ》、此村に延喜式大鳥郡桜井神社あり、社頭に桜之井あり。〔名所図会〕大日本史、橋本正高伝に「天授六年、正高与山名氏戦於和泉死之、上神、下村、毛穴《ケアナ》、磯部《イソベ》、桜井等諸士尽闘死」と見ゆれど、下村毛穴等も上神郷内にや否や詳ならず。〇延喜式、大鳥郡|山井《ヤマヰ》神社、今中上神村大字|栂《トガ》に在り、社畔に山井寺存す。〔神祇志料〕
 
大庭寺《オホバデラ》 今北上神村の大字と為る、神《ミワ》社転訛して爾波と為り大庭寺の名起りしか。〇延喜式、大鳥郡|鴨田《カモタ》神社今北上神村大字大平寺に在り。〔和泉志〕
 
和田《ニギタ》郷 和名抄、大鳥郡和田郷、訓爾木多。〇今美木多村北上神村久世村是なり。爾木多を後世美木多に訛る、又和字を音読して輪田《ワタ》とも唱へたり、上神《カニワ》郷の西北に接す。〇姓氏録云、和泉国神別、和田首、(神首同祖)神魂命五世孫天道根命之後也。(又云、天児屋根命之後)〇延喜式、大鳥郡美多弥神社は今美木多村大字上村に在り、姓氏録、民直、天児屋根命之後とあれば、亦和田氏同族の祖神なるべし。〔和泉志神祇志料〕
 
和田《ワダ》 和田は楠氏の一党に和田氏あり、太平記に和田新発意源秀同兵衛尉正朝同五郎正忠同和泉守正武等の名あり、終始忠節を南朝に尽し泉州無双の名家なり。名所図会云、和田村に和田城址あり、又多聞天寺ありと、和用今|久世《クゼ》村と改称す。
和田の荒山《アラヤマ》に延喜式多治速比売命神社あり、国内神名帳に田治早姫に作る是なり。〔神祇志科〕
 いづみなる荒山桜さきぬらし槇のはしのきかゝるし(493)らくも、〔夫木集〕       公朝
又延喜式、坂上神社、今久世村大字平井に存す。
 
大村《オホムラ》郷 和名抄、大鳥郡大村郷、訓於保無良。〇今|東陶器《ヒガシタウキ》村、西陶器村是なり。〔和泉志〕古は陶邑又陶器荘と称したり、和田郷の東にして深井郷の南なり。〇姓氏録云、和泉国神別、大村直、神魂命子大名草彦命男枳弥都弥命之後也。(又云、天道根命六世孫若積命之後也)
 
陶《スヱ》 日本書紀、崇神巻云「於茅渟県、陶邑、得大田根子」と古事記は此事を録し「大物主大神、聚陶津耳命之女、活生依毘売、生子太多田根古」とあり、此地の旧邑たるを知るべし。書紀通証曰、大鳥郡陶器荘、清和天皇之朝、陶家益多、而河内和泉両国、相争焼陶伐薪之山、事見三代実録。〇延喜式、陶荒田神社二座ありて今東陶器村大字上に有す、〔和泉志〕蓋陶津耳氏の祖神を祭る、又延喜式|大雷《オホイカヅチ》神社あり、今東陶器村大字北に有す、〔和泉志〕蓋大年神の苗裔なるべし、山城国に同名の社あり。
陶器城と云事南山巡狩録に見ゆ、東陶器村大字|福田《フクダ》などの地ならん。正平六年七月、宮方岸和田助氏、和泉国陶器城に攻よせ戦をいどむといへども勝負を決せず。〔岸和田助氏申状〕
 
陶器《タウキ》 人類学会雑誌云、陶器荘は大鳥郡の東偏に在り、丘陵起伏するもの称して陶器山《タウキヤマ》陶山と云ひ、其衆水の深坂村に会するもの之を陶器溪と云ふ、荘内到る処土器欠片の散乱せざるはなく、其数多なる貝塚土器の比にあらず、殊に高蔵寺村字|道祖神山《サイノカミヤマ》其他所々にかまあとと称する処あり、是実に古代製陶の竈跡にして、謂はゆる朝鮮土器祝部土器等此に相混交錯雑して遺れり、之によりて見るに朝鮮土器と祝部土器は同時に同所に於て製造せられたり但し朝鮮土器は概して大なる器物たりしならん、且其質の頗る堅緻なるより察すれば、即牢固を要する日用の器具に供し、祝部土器は祭器として造られ、又時々高杯の如きものなきにあらざれども、概して巨大ならざる日用の器具として造られ、或は之に飲食物を盛り又之に依りて液料を飲みしならん、此等の土器は世に僧行基の創造に出るものなりとし、呼て行基焼と称せり、高蔵《カウザウ》寺は行基の創造する処なれど、其寺応仁の兵燹に罹り記録之なし蓋河泉二州製陶の業は其源猶頗る遠く、行基以前にありしならん、元来祝部とは祭器の謂にして、忌瓮《イハヒベ》に作るを正とす、朝鮮土器と云ふは近日人類学会会員創唱の語にて欧人中にはコリアンポツテリーの語あるに由る、畢竟其朝鮮式に做て造るより斯く呼べるものなる可し、甚妥当ならず。(今西陶器村大字高蔵寺、同深坂、)
 
日部《クサベ・クサカベ》郷 和名抄、大鳥郡日部郷、訓久佐倍。〇今|鶴田《ツルタ》村是なり、大字|草部《クサベ》あり。延喜式、和泉国日部駅馬七疋と見ゆ、続日本紀に取石頓宮あり、古事記に日下之高津池〔日本書紀高石池〕あれば今|取石《トロシ》村|高石《タカイシ》村も本郷の中なるべし。〇姓氏録云、和泉国皇別、日下部首、日下部宿禰同祖、彦坐命之後也。按ずるに河内生駒山下に日下あり、古事記伝は日下蓼津は生駒山下にあらで此高石海なるべしと論ぜり、其説に河内の日下は船通ふべき川だになしと云ふ也。然れども彼大和川北流の昔を想はゞ川だになしとは言ふべからず、蓼津は此日部郷にあらず生駒山下のみ。日部《クサカベ》神社は鶴田村大字草部に在り、延喜式に列す、今牛頭天王と称す、供僧行興寺あり其興院を瑠璃窟成願寺と云ひ、薬師堂あり、天王社内には正平廿二年と刻し昇降の龍及四天王を鐫せる石燈炉ありと。
 
菱城《ヒシキ》 仁賢紀菱城邑人鹿父。通証云、今大鳥郡菱木村。。今鶴田村大字菱木。
 
取石《トロシ》 取石村は取石池あるを以て近年其名を建つ、取石頓宮は続日本紀「神亀元年、車駕従紀伊、還到和泉国取石頓宮」とありて、延喜式日部駅蓋此なり。〇姓氏録「和泉国諸蕃、取石造、出自百済国人麻意弥也」此|麻意弥《ヲオミ》は日根造祖億富使主と同人にして根使主即其族人なり、根使主罪あり其子孫収められて日下部の御名代と為る事河内国日下の条に詳にす、因て惟ふに此地は旧名取石なるを日部《クサカベ》に改められたる也。
 いもが手を取石の池のなみのまゆ鳥が音けに鳴く秋すぎぬらし、〔万葉集〕
富木《トノキ》 延喜式、大鳥郡等乃伎神社、今取石村大字富木に在り。姓氏録云、和泉国神別、殿来連、大中臣之同祖天児屋命之後也。〔名所図会〕
 
高石《タカイシ・タカシ》 高石村は取石村の西に接し、海浜一里許、北は浜寺村に至る。続日本紀「天平神護二年、和泉国人外従五位下高志毘登若子等五十三人、賜姓高志連」とあり。又釈家官班記云、行基、和泉国大鳥郡人高志氏、是は高石《タカシ》にや越《コシ》にや。又高石池は日本書紀垂仁の朝に五十瓊敷命の所造なり、古事記日下之高津池に作る。(姓氏録「河内諸蕃、古志連、文宿禰同祖王仁之後也、」とあれば霊異記僧行基越史と云ふに合ふ、高志は高石に非ず)
 
高石《タカシ》神社 延喜式に列す、高石連祖百済王仁を祭ると云ふ。〔名所図会〕又逍遥院殿高野紀行云、高師浜の松原の下天神の社の前に輿をたてゝ、 袖のうへに松吹く風やあだ波のたかしの浜の名をもたつらん、
明治維新の際此高石の松を斬りて士族授産の料に充て(494)られし事あり、時の内務卿大久保利通之を見て、堺なる県令の許へ斬伐の情なきよし申送りて停止せしめらる、近年其事を石に記して松原に立て置く、利通公の歌に云、
 音にきくたかしの浜のはま松も世のあだなみはのがれざりけり、
 
高師浜《タカシノハマ》 日本書紀、持統天皇三年、禁断漁猟武庫海(摂津国)一千歩内、置守護人、准河内国大鳥郡高脚海。
 沖つなみ高師のはまのはま松の名にこそ君をまちわたりつれ、〔古今集〕       貫之
高石村大字今在家の浜なる井戸森に、延喜式大鳥浜神社あり、大鳥神の摂社とす。〔和泉志〕
 
大鳥《オホトリ》郷 和名抄、大鳥郡大鳥郷、訓於保止利。〇今|鳳《オホトリ》村に作る、書紀通証和泉志は大鳥社記を援き日本武尊の霊大鳥に化したまひ此地に降ります、謂はゆる大鳥神是なりと為せど信ずべからず。〇今鳳村大字北王子に泉北郡役所を置く、堺市大小路を去ること一里半とす、大鳥社は本州第一の大祀にして神鳳寺之に奉仕せり、今神鳳寺廃すと雖、州人崇敬旧に依る。
 
大鳥《オホトリ》神社 鳳村大字大鳥に在り西面す、高石浜を距る凡十八町、和泉国の一宮なり。俗説日本武尊と為し社記亦伝ふる所あれど証拠に乏し、姓氏録「大鳥連、大中臣同祖、天児屋根命之後也」とありて藤原氏の盛時に及び、大鳥神益顕れたるを想へば祭神は天児屋根命たるべし。〇大同元年大鳥社和泉の地二戸を寄奉り、〔新抄格勅符〕弘仁十四年祈雨の為に奉幣あり、〔日本紀略〕承和貞観の比頻に授位あり従三位に進み、(日本後紀三代実録〕延喜式名神大社に列したり。〇和泉志云、大鳥神社、慶長中罹兵火、元禄中僧快円、興建神鳳寺於神域、今寺隅僅存小祠。名所図会云、供僧勧学院は神鳳寺と号し、僧行基開基、後世荒敗に及びしを豊臣秀頼再営ありしかど、元和の兵火に焼亡し大塔一基を遺す、寛文年中堺奉行石川土佐守利政石造鳥居を寄進し寺社の再修を為し、本社及摂社四宇皆成る、神鳳寺は真政円忍律師の中興なり、神域を千草森《チグサノモリ》と呼ぶ、利政詠進あり、
 いづみなるちぐさの森におとたれてちかひつきせじ万代までに。
    踞尾北村氏向栄事八景之一、鳳寺晩鐘
                 梁 蛻厳
 鳳寺春山夕、※[金+堅]然法響伝、花飛揺返景、林静度深煙、※[合+鳥]集香台外、僧帰清廟辺、何人驚大夢、暫此脱塵縁、
平治物語云、平治元年、清盛父子熊野に詣でけるに洛陽の兵乱を聞て半途より帰り、和泉国大鳥神社に到り重盛飛鹿毛と云名馬を神前にたてまつる、清盛のよみて奉りける歌に、
 かひ子ぞよかへりはてなば飛かけりはごくみたてよ大鳥の神。
大鳥神社、今神鳳寺を停め、官幣大社に列す。摂社四座下大鳥|鍬靱《クハユキ》神社(今浜寺村大字下鎮座)大鳥浜神社(今高石村今在家鎮座)大鳥美波比神社大鳥井瀬神社ともに延喜式に列す。神祇志料云、大鳥井瀬神社今廃せり、旧址は平岡(八田荘村大字)に在り、美波比神社は北王子(今鳳村大字)に在り美夜比若宮と称す、蓋古事記に見ゆる大年神の子庭津日神なり、延喜式本郡に大歳神社を録せば其苗裔神の鎮座せるも所由ありと謂ふべし。
補【大鳥神社】〇神祇志料 今大鳥村神鳳寺域内に在り、大鳥大明神といふ (和泉志・国郡全図・名所図会)蓋大鳥連の祖天児屋根命を祭る(参取姓氏録・続日本紀)
即和泉国の一宮也(一宮記)平城天皇大同元年、和泉地二戸を神封に充奉り (新抄格勅符)嵯峨天皇弘仁十四年七月丙辰、祈雨の為に幣帛を奉り(日本紀略・西宮記)仁明天皇承和九年十月己巳、従五位下大鳥神に従五位上を授け(続日本後紀)清和天皇貞観元年正月甲申、正五位下勲八等より従四位下を賜ひ、九月庚申雨風を祈る為に使を遺し幣を奉り給ひ、三年七月甲戌、従三位に叙され(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る(延喜式)
 按、平治物語平治中平酒盛父子熊野に詣でんとする時、源義朝叛きつる由を聞き、引返して鞍馬及歌を大鳥神に奉ると云る、即是なり
凡そ八月十五日五月三日祭を行ふ(式社細記)
 
石津《イシツ》郷 和名抄、大鳥郡石津郷、訓以之都。〇今|神石《カミイシ》村(上石津)浜寺《ハマデラ》村(下石津)の二と為る、鳳村の北なり、東は百舌鳥野にして、海浜は堺浦と高石浜に続く、石津川此地にして海に入る。〇土佐日記云、いし津といふ所の松原おもしろく浜辺をとほし云々。
    晩晴           梅※[土+敦]
 開尽南軒眺晩晴、汀沙渺々海潮平、帰帆影失春煙際、復入松樹裡明、
石津太社《イシツオホコソ》神社〇延喜式に列す、今神石村大字上石津の夷《エビス》祠蓋是なり。姓氏録「和泉国神別、石津連、天穂日命十四世孫野見宿禰之後也」と然らば穂日命を祭れるならん。〔名所図会〕
補【石津郷】大鳥郡〇石津、以之都、仁徳紀六十七年冬十月、幸河内石津原以定陵地、始築陵、是日有鹿、忽起野中走入役民之中而仆死、時異忽死以探其痍、即百舌鳥自耳出之飛去、因視耳中悉咋割剥、故号其処曰百(495)舌鳥耳原者、其是之縁也。神名式、石津太社神社.応永記、石津。土佐日記、石津といふ所の松原おもしろくて云々。更科日記「あるゝ海にかぜより先にふな出して石津のなみと消なましかば」。行嚢抄、追分、堺市中にあり、是より右に赴き石津の駅にいづる、紀州和歌山の道、左の街に入て茂津野にいづるは高野路なり、石津堺より一里、岸和田まで三里。
 
石津原《イシツハラ》 姓氏録、石津連は野見宿禰の後土師氏にして、百舌鳥野も旧石津原と称す、日本書紀仁徳紀に見ゆ、曰天皇幸河内(この河内は追書なり)石津原以定陵地、始築陵、是日有|鹿《カセ》、忽起野中、走入役民之中、而仆死、時異忽死、以探其痍、即百舌鳥自耳出之飛去、因視耳中、悉咋割剥、故号其処、曰百舌鳥耳原者、即是之縁也。〇史徴墨宝考証云、延元三年陸奥太守北畠顕家戦死の地、太平記吉野拾遺等|阿部野《アベノ》とするは誤れり、顕家高兄弟の軍を堺浦の陣に攻めて大敗し、泉州石津に戦歿す。按に国郡全図石津浜に十郎蔵人源行家墓を標す、行家は東鑑和泉小木郷(近木郷)に捕へらるれど、此に其墓ある事不審なり、蓋北畠大将軍顕家を誤れるならん、鶴岡社務記録及び深堀文書に拠れば、顕家卿伊勢路より大和に入り延元三年三月阿部野合戦、又五月廿二日高師直と堺浦に戦ひ、敗軍と為り石津にて戦歿せらる、神皇正統記に「五月和泉国にての戦に、時や到らざりけん忠孝の道こゝにて極り侍き、苔の下にも埋もれぬ物とては唯いたづらに名をのみぞ心うき世にも侍るかな云々」と見ゆ。
 
石津川《イシヅガハ》 二源あり、一は鉢峰《ハチガミネ》より発し上神谷《ニハタニ》川と云ひ、一は陶器村に出て、相合して北流、石津に至り潅に入る、長凡六里とす。
 
浜寺《ハマデラ》 浜寺は大雄寺《ダイユウジ》の俗稱なり、寺廃し今村名と為る即下石津なり。大雄寺は僧覚明の開基覚明は会津の人、由良法燈禅師の衣鉢を紹ぎ入元して天台に遊び、帰朝出雲国雲樹寺を創めたり、元弘三年後醍醐帝伯耆行在におはすや召して所受あり、国済国師の号を賜ふ、後山城國長尾妙光寺に居り足利氏之を延けども応ぜず、夜遁れて吉野に走る、後村上帝河内摂津に巡狩の比、大雄寺を石津に立つ、帝又戒法を受け三光国師の号を加へたまふ。〔本朝高僧伝和泉志史徴墨宝考証等〕
禅海寺《ゼンカイジ》神石《カミイシ》村大字市に在り、臨済宗大徳寺の末なり、」開基一路居士は洛西仁和寺の門主にましませしが、遁れて此に栖む、一体和尚問答の事あり云々。〔名所図会〕
 
蜂田《ハチタ》郷 和名抄、大鳥郡蜂田郷、訓波知多。〇今|八田《ハンダ》荘村是なり、和田郷久世村の北にして大鳥郷の東なり、大字|八田《ハンダ》八田《ハンダ》寺等あり、行基菩薩の誕生地とす。蜂田神社は延喜式に列す、今八田荘村の大字八田寺に在り。姓氏録、和泉国別、蜂田連、大中臣同祖天児屋根命之後也と見ゆれば其氏社なるべし。〔和泉志〕
 
家原寺《イヘバラジ》 八田荘村大字を同じく家原寺と曰ふ、大鳥神社の東十町許、神石村大字|踞尾《ツクノヲ》の南三町とす、大僧正行基の故宅にして憎叡尊(興正菩薩)中興の精舎なり、本尊文殊仏その白毫光の中に一寸八分黄金像を納む、婆羅門僧正菩提僊那来朝の時将来したる者とぞ。〔名所図会〕親長記に、文明十一年三月家原寺に詣でて文殊を拝し、残花を看てよめる歌見ゆ。
行基は元亨釈書に「百済国王之胤也、天智七年生」と、明匠略伝同じ、家原寺伝に 「行基母、蜂田《ハンタ》首虎身女|薬師《クスシ》姫」と曰へり、姓氏録に「和泉国諸蕃、蜂田薬師、出自呉国主孫権王也。又云、出自呉国人都久爾理久爾也、古記云怒久利」など見ゆ、而て霊異記に「越史越後国頸城人也」と録す。惟ふに行基の男系は実に和泉諸蕃古志史即王仁の裔にて、其族党は越後頸城に所因ありけるより、彼氏号を負へるに似たり、故に越人とも泉人とも為す。〇続日本紀云、天平勝宝元年、大僧正行基和尚遷化、俗姓|高志《コシ》氏、和泉国人也、和尚真粋天挺、徳範夙彰、初出家、読瑜珈唯識論、即了其意、既而周游都鄙、教化衆生、道俗慕化、追従者動以千数、随器誘導、成趣于善、又親率弟子等於諸要害処、造橋築坡、不日而成、百姓至今蒙其利焉、豊桜彦天皇(聖武)甚敬重焉、詔授大僧正之位、并施四百人出家、和尚霊異神験、触類而多、時人号曰行基菩薩、留止之処、皆建道場、其畿内凡四十九処、諸道亦往々而在、弟子相継、皆守遺法、至今住持焉、薨時年八十。〇元亨釈書云、叡尊、寛元三年於泉州家原寺、行別受法。名所図会云、家原の塞は戦国の比寺町左近|雀部《ササベ》兵衛の築く所三好笑岩之を攻め両士を殺し泉州を平定したり。
 
深井《フカヰ》郷 和名抄、大鳥郡常※[さんずい+陵の旁]郷、今為深井、訓不加井。〇今深井村存す是なり、蜂田郷の北にして、土師郷の西なり、常※[さんずい+陵の旁]の訓詳ならず。旗野氏云、常※[さんずい+陵の旁]は蓋常陵にて登古袁加と訓むか。〇泉州に深日深井二所あり、長禄寛正年間記に「細川澄元方の軍勢は和泉のふか井に陣を取り、同高国方の諸勢は同|万代《モズ》荘に陣取る」とあり、此深井は即此地なるべし、其隣接の土師郷即|万代《モズ》荘なればなり。
補【深井郷】大鳥郡〇常※[さんずい+陵の旁]、今為深井、不加井、風土記残篇有吹井郷云、土地痩荒有洪水之患也、民用不多、又有吹井浦云、出蝦鰯※[魚+高]赤魚※[魚+方]※[魚+角]※[魚+豈]、海人海士多。泉州志、引続紀云、天平神護元年九月遣使造行宮於大和河内和泉等国、以欲幸紀伊国也、同十月到和泉国日根郡深日行宮。正禄間記、澄元方の諸勢は和泉のふか井に陣を取、高国方の諸勢は同|万代《モズ》庄と云所に陣取。平家物語、寿永三年阿波国安摩六郎忠景紀伊国園部兵衛(496)忠康同志和泉国吹飯築城籠居。
 
土師《ハニシ》郷 和名抄、大鳥郡土師郷、訓波爾之。〇後世|万代《モズ》荘と称し今東百舌鳥村(大字土師)西百舌鳥村(大字百済)中百舌鳥村(大字梅村)の三と為る。本郷は百舌鳥野の南部にし、西は石津郷塩穴郷に接し北東は郊野河州の域と相接比す。蓋応神仁徳の山陵此に営造ありしを以て、土師氏職を以て之に従事し、遂に帰住したる所とす。日本書紀に「孝徳天皇崩、起殯於南庭、以百舌鳥土師連土徳、主殯宮之事」とあり。又姓氏録「和泉国神別、土師宿禰、秋篠朝臣同祖、天穂曰命四世孫野見宿禰之後也」とあり。(東百舌鳥村土師に今波世の世を濁音にす)
 
百済《クダラ》 今西百舌鳥村の大字と為る。姓氏録云、和泉国諸蕃、百済公、出自百済国酒王之後也。又日本書紀云、依網阿弭古捕異鳥、献於天皇、(仁徳)酒君曰此鳥多在百済、得馴而能従人、亦捷飛掠諸鳥、百済俗号曰供知、(是今時鷹也)乃授酒君、令養馴。
 
百舌鳥野《モズノ》 古事記には毛受野に作る、又石津原と称す。和名抄、石津郷土師郷塩穴郷の三郷に跨り、今神石村百舌鳥の三村|舳松《ヘノマツ》村及|向井《ムカヰ》村大字中筋等の地にあたる。堺市の東に接する低丘これなり、南北凡一里、東西稍減す、仁徳履仲反正の三正陵、応神の殯陵及数多の荒墓数在す、大略を以て之を挙ぐれば百舌鳥村大字土師百済の間に大荒陵一所陪塚四五個、万代八幡宮の東に荒墓三個、又其西履仲陵に至る間に大荒陵二所、(其一所は応神殯陵と称す)宮車象小墓及円形陪塚凡十個履仲陵の南に大荒陵一所、其附近踞尾山中に至るまで丸塚数多あり、大仙陵は巍々として全野の中央に聳ゆ、陵側の陪塚十個余、其西畔に宮車象の者二所、反正陵は其北に在り東畔亦一墳あり。日本書紀云、依網阿弭古、献鷹於天皇、(仁徳)乃授百済酒君、令養馴、未幾時而得馴、酒君則以韋緡著其足、以小鈴著其尾、居腕上、献于天皇、是日幸百舌鳥野、放鷹令捕鳥、忽獲数雉。又云、天皇幸石津原、以定陵地、有鹿仆死、探其痍、即百舌鳥自耳出之飛去、因視耳中、悉咋割剥、故号其処、曰百舌鳥耳原。〇続日本紀云、延暦九年、詔、朕外祖母土師宿禰、(太后新笠母)追贈正一位。夫先秩九族、事彰常典、自近及遠、義存曩籍、其土師氏、惣有四腹、中宮母家者、是|毛受《モズ》腹也、故毛受者賜|大枝《オホエ》朝臣、自余三腹者、或従|秋篠《アキシヌ》、或従|菅《スガ》原。〇旗野氏云、毛受を中世以降の諸書に万代と録する者あり、此地は聖陵皇墓の特に多き地なれば、漢籍に天子の寿蔵を万代城など云ふに倣ひ、万代と書し、毛受と訓じたるか。
 
万代八幡宮《モズハチマングウ》 万代を毛受に仮る、其故を詳にせず、八幡宮は西百舌鳥村大字赤畑に在り、大仙陵の東南凡十町、宮前の溝を百済川と曰ふ。名所図会云、万代八幡宮は神宮寺重楽院あり奉仕す、社説曰、応神天皇初め百舌鳥野に葬り、後誉田に移し奉る、宮西の御廟山即殯所なり。
   和泉国万代の別宮に参籠しける時よめる
 民やすく国をさまれといのるかな人のひとよりわが君のため、〔新葉集〕       二品 親王
裳伏同《モフスヲカ》殯陵〇古事記伝云、明宮(応神)段、裳伏岡の上に百舌鳥陵也と云五字の細註あるは、決く後入の書加へたる妄ごと也、裳伏は河内誉田にて百舌鳥は和泉なるを、言の近きを以て妄に押あてに云るなり、契沖が河社に云「百舌鳥は今万代と書て八幡宮あり、陵に似たる山におはします、其氏子の習にて毎年正月三日の間肉食をとゞむ」云々。〇山陵志云、応神天皇、河内|恵我藻伏《ヱガノモフス》岡陵、註曰百舌鳥、百舌鳥本是和泉地名也、因疑此自彼改葬、而仍其旧号。〇按ふに応神殯陵と云者はなはだ明白を欠く、河社に八幡宮々域即殯所と為せど非なり、社説の伝ふる所は宮西の二大荒陵中其西百舌鳥村大字高田の民家の北なるを指し御廟山と為す、墳甚高からず西面して池をめぐらす者是なり。又八幡宮の南六町に大荒陵あり東西四町南北稍殺ぐ厳然たる制式なり、大字百済に属す、無主の旧跡にや。
 
百舌鳥耳原中《モズミミハラノナカ》陵 仁徳天皇の御陵なり、土俗|大仙陵《タイセンリヨウ》と曰ふ、今|舳《ヘノ》松村の領域とす。延喜式、百舌鳥耳原中陵、難波高津宮御宇、仁徳天皇、在和泉国大鳥郡、兆域東西八町南北八町。扶桑略記、註高五丈。〇書紀通証云、舳松村大山陵、域外四畔有七塚、曰長塚、俗云武内宿禰、曰長山塚、俗云王仁。山陵志云、仁徳帝、嘗幸石津原卜陵地、命其地曰百舌鳥耳原、遂又為陵号、蓋寿蔵自此始矣、今曰大山陵、古事記、百舌鳥作毛受。〇大仙陵は方位南々西に向ふ、(履仲反正二陵と一致)縦七町横最広六町、項起凡九丈、周溝二重、其形状最端正を極む、明治五年偶然本陵の崩壊あり洞穴露出す、官之を検按し修理旧の加くにす、爾時陵中種々の副葬器具在るを見とめたりと云ふ。
補【大仙陵】〇日本戦史 冬の役、東軍の先鋒藤堂高虎は十月十九日木津(山城)に至り廿六日龍田越より河内に入り、国府に進み、大和諸藩の至るを待ち、廿八日之を率ゐて小山に宿し、廿九日大仙陵に屯す、其先頭隊長渡辺了は進て住吉に陣す。
〇人類学会雑誌 明治五年九月、和泉国大鳥郡仁徳天皇御陵の前山崩壊して洞穴を顕はしたり、即ち内部を検し、種々の発見あり、器物図解は此事を記したり。
 
百舌鳥耳原南《モズミミハラノミナミ》陵 履仲天皇の御陵なり、今|神石《カミイシ》村大字上石津の領域にて、仁徳陵西南凡八町とす。延喜式、百舌鳥耳原南(497)陵、磐余稚桜宮御宇、履仲天皇、在和泉国大鳥郡、兆域東西南北五町。〇此陵、今縦五町横四町余、周壕一重、墳起は北峰十六間、南峰十四間とす、陵東に二大古陵あり、(裳伏岡殯陵参考)又陵南に一所あり、共に方位形状を同じくす、即西面して縦二三町横稍減ず、其他古墳墓数多散在すれば一々に挙げ難し。
 
百舌鳥耳原北《モズミミハラノキタ》陵 反正天皇の御陵なり、楯井《タテヰ》山とも称す、今|向井《ムカヰ》村大字|中筋《ナカスヂ》に属す、河内大和街道の南畔にして仁徳陵の北八町に在り。延喜式、百舌鳥耳原北陵、丹比柴籬宮御宇、反正天皇、在和泉国大鳥郡、兆域東西三町南北二町。〇此陵は他の二陵に比すれば卑小なり、其楯井と呼ぶは丹比の訛なるべしと云、〔和泉志山陵志〕陵東に牛頭天王祠あり、祠域亦古墳に似たり、祠域陵域通算して東西三町の式文に合すと云ふ。(扶桑略記云、百舌鳥耳原北陵、高五丈広三町)名所図会に中筋牛頭天王は東原大明神と称し、王仁博士を祭ると、此祠の西北に方違《カタタガヒ》明神と称する小社あり、又|紅谷庵《コウコクアン》といふ禅室あり。向井《ムカヰ》寺と云ふ行基開創の一宇は、旧方違の辺にありしと云ふが、後世堺の市中へ移建す今の向泉寺是とぞ。
   望拝仁徳天皇大仙陵、仙陵恐山陵之訛、有池匝之、周廻一里、其大可舟、余浸漑旁村民田、其利甚溥
 雲閉蒼梧曰色陰、長者耕墾不相侵、珠襦玉匝千年悶、石馬金輿何処尋、経典三韓開帝学、人煙万戸軫宸襟、碧池周匝有余潤、仍憶一杯遺沢深、伊藤 東涯
塩穴《シホノアナ・シアナ》郷 和名抄、大鳥郡塩穴郷、訓之保乃阿奈、〇今仙堺市|南荘《ミナミノシヤウ》(大小路以南)舳松《ヘノマツ》村湊村是なり訛りて、之阿奈と呼ぶ、舳松村の南に字塩穴存す。(泉州志聖蹟図志和名抄郡郷考〕粉河寺古文書、建武三年二月、粉河寺行人鏡乗が一族大塔若宮護良親王の仰により、戦功を以て和泉国塩穴荘地頭職を賜ふ。〔南山巡狩録〕今|塩穴寺《シアナデラ》(大安寺西一町)存す、塩穴とは潮井と云に同じ。
 
舳松《ヘノマツ》 舳松この村は堺市の東南に接す、向井村大字中筋と共に百舌鳥野の中なり、仁徳帝反正帝二陵此に在り。〇湊村は往時の埠頭にや、堺市の西南に接し海に瀕す。湊焼を産す、此土器は相伝へて僧行基の陶法を承くと云ふ、点茶家賞用する所の炒鍋(炉中に灰を盛る器也)は即湊焼なり。
補【湊村】大鳥郡〇地誌提要 市坊十九、堺に接す、戸数五百、枝村出島と云ふ。
〇工芸志料 湊焼は和泉国の湊村(堺浦の南にあり)にて製する所の土器なり、土人伝へて云ふ、行基といふものあり、陶法を土人に教ふ、尓来巧を伝ふるなりと、故に其の是を伝ふる最も久しとす、天正年間津村の工人、点茶家の用なる沙鍋《ホウロウ》(沙鍋は点茶家にて炉中に用ゐる灰を盛る器なり)を造る、点茶家之を賞して用ゐざるものなし。
 
堺《サカヒ》 百舌鳥野の西北海に臨める都会なり、戸数一万人口四万七千大坂を去る凡二里、繁華大坂に比すれば稍遜色ありと雖、河泉第一の府市也。市邑の状艮位より坤位に伸び長廿七町、横幅汁四町より五町に及び均一ならず、中央の横条を大小路《オホセウヂ》と云ひ南荘北荘を分つ、四至囲むに壕池を以てす、西に向ひて港湾を造る、湾の東を戎島《ヱビスジマ》と称し、湾の南を大浜《オホハマ》と称す。市は往時堺浦と称し、摂津和泉交界の地に起れる海村なり、故に大小路以北北荘の地は住吉郡朴津郷より割入すと云ふ。堺荘の名は東寺文書「正中二年最勝光院、摂津国堺荘、領家今林准后兵士七人」とあり、即北荘なるべし、延元三年鎮守府大将軍北畠顕家高師直を堺浦に攻め石津原に戦死す、南方新帝住吉行宮の時、細川氏南海を略有し堺浦に兵船を備へたり。太平記云、正平十六年吉野の諸卿の僉議一同して明年よりは三年北塞りなり、節分以前に洛中の朝敵を責め落すべしとて、十二月三日住吉天王寺に勢調をすれば、細川兵部少輔氏春淡路の勢を率して兵船八十余艘にて境の浜へつく。〇明徳年中足利義満本州の守護職を山名氏清に賜与し、氏清堺に築き泉府《センプ》と称す。氏清敗滅の後、大内義弘本州を賜はりしが、故ありて応永六年叛き堺に拠る、足利氏撃ちて之を斬る、義弘拠守の状応永記に見ゆ。曰、義弘入道は相公(御所様義満)已に有御動座、於東寺御出之由を伝へ聞て、其日は石津に在て向v北成v礼けるとかや、是迄は君臣の礼相残れりと、哀れにこそ覚え侍りけれ、去程に軈て堺に打帰て陣を取り、合戦の評議有けるに、先河内の高山《タケヤマ》を討取て東条土丸《トウデウツチマル》の辺を陣取て、和泉紀伊国を管領せば五年十年なりと云とも御方つまること不可有、堺の浦、清水の浦、中国の船の通路も其便り可有と申す。(清水は住道《スムヂ》なり)〇細川満元大内に代り本州を守護し、四伝して政元に至る、其義子高国澄元家嫡を争ひ、大永中澄元の子晴元阿波より至り、堺に拠り遂に本州を取り、家臣三好長基を守護代とす。天文元年長基(海雲)晴元に迫られ顕本寺に自殺す、已にして長基の子長慶晴元に畔き本州を攘奪し、宰松永久秀を堺浦に置く、時に唐船蛮船入津し貨物の交易太盛なり、富庶天下に冠たり。永禄十一年織田信長京師に入り足利義昭を立て、将軍と為し号令を発す、阿波三好党之に抗する能はず、久秀款を納れ、十河存保阿波に帰る。細川両家記、永禄十一年、信長堺南北へも二万貫矢銭被相懸候処、不能承引、城楼をほり北の口々に樋を埋み候間、矢銭之儀相延申條、十二年正月五日六日合戦、御難儀之由御所様(498)より信長へ御注進有ければ、則自身攻登り同十四日に京着候なり、諸勢跡々より又五万許京上り、此時信長より境南北へ使者を被遣、今度阿州衆堺より催候て出陣の事曲事の由被申懸、可被破由候条、南北堺難儀にて足弱荷物等根来粉川槇尾などへ隠し運の由風聞なり、阿州衆悉下国の由懇望して詫言半にて候、三人衆の家共既面々を被打崩程候なり。〇天正五年、織田氏政所を堺南荘に置き松井友閑をして吏務に任ぜしむ、十三年豊臣秀吉政所を北荘に移し小西行長をして之を掌らしむ。文禄以降奉行を置き市政を為す、大坂長崎と相比したり。明治維新界県を置き河泉大和の三州を管治す、数年にして廃せらる。今|殿馬場《トノババ》の四近は文禄以降の官衙地とす。
 夏と秋の堺のうらのまつかぜにかたえすゞしく寄する白波、〔夫木集〕行春の堺の浦のさくら鯛あかぬかたみに今日や曳くらむ、〔夫木集〕
南山巡狩録、正平十九年、和泉国堺の浦に道祐といふ隠者あり、あらたに論語を鏤刻し世に伝ふ、是を正平板と云、堺の浦は中古唐山より来舶せる湊にして、天正の頃までは猶遺風のこれり、此故に堺の浦にて刻せる論語活版の文選韓文柳文等多く今も世に流布せり、道祐何人たるを知らざれども、当時彼堺の浦にて儒を唱し者なるべし。〇史学雑誌云、堺浦は応永六年大内義弘が楯籠れる時、兵数二万三千、防禦の城郭は方十六町、井楼四十八、矢倉千百二十五の要害にて、兵火に罹りし民家一万余と大内実録に見ゆ、当時漸く般富に赴きしこと想見するに足る。義弘敗死の後は細川の守護地と為り、阿讃淡との交通は次第に頻繁となりしなるべし、開口社文書に明応二年代官のこの地に駐在せるを証す、領家政所の代官ならん、糸乱記に「大永元年堺の政所号を三好長基(元長)に賜ふ、此時よりして奉行所と称せらる由」載せたるは非なり。寛正二年堺南荘は京師相国寺塔頭崇寿院領となる、応仁文明の乱には畠山政長は南荘に陣し畠山義就は北荘に入る、文明十四年和平の後に至り南荘の屋地子銭七百三十貫文は減じて四百貫と為る、細川政元亦其利を兼并せんと欲し幕府に訴ふる所あり、延徳二年幕府南荘を以て政元の家臣安富元家に附与せしむ、其与奪の始末は蔭涼軒日録に詳なり。明応二年将軍義植の畠山義豊を紀伊に伐つや堺附近は千戈の巷と為る、永正五年大内義興中国西海の兵を以て義植を奉じ東上す、四月廿七日堺に着船し六月を以て遂に京師に入る、義興管領職に任じ堺港を以て其往来の門戸と為したり。永正十八年義植細川高国の遂ふ所と為り堺に来り南荘に舎す、幾もなく四国に走る。大永六年十二月三好之長兵七人千を以て義植の養子義維并に細川晴元を奉じ入京を謀る、先鉾淡州洲本を経て堺港に入る、翌年三月義維四条道場(今北荘金光寺ならん)に居る京人呼びて堺御曹司といふ、元長之より堺に拠り高国と争ふ云々。堺浦の繁栄は、応永中大内が此地を以て近畿に於ける立脚所と為しゝに由る、糸乱記云「応永の頃大内義弘此地を領し来て、再び津を開き呉越三韓南蛮と好を結び迭に商船を通じてより、家増し民富み一都会を成す、今蕃船到らずと雖尚余蘊あるは此故とかや」是也。初め永享四年幕府の聘明の時、堺の商人も勘合の符を受け彼国に往き貿易せり、又南方琉球に向ひ通商せり。文明三年島津立久堺の賈人が窃に琉球に通商し自家の特権を害する由を訴ふ、幕府之を禁制し島津氏の符を有せざる船舶の琉球に入港するを停む、而も密航なほ已まず、文明六年には幕府泉州の賈人小島林太郎左衛門尉、堺浦、湯川宣阿、小島三郎左衛門の渡唐船琉球を経由する事を諭す、文明八年に遣明船堺浦を発程す、是より遣明船しば/\堺を以て発程地となし、通商の業大に進み般富旧に倍す、是等の事情は薩藩旧記、島津国史、蔭涼軒日録の諸書に見ゆ。天文六年細川晴元堺に命じて遣明船を調へしむ、天文御日記七年正月の条
 堺浦には船少も候はず條即波にて打わり候間紀州|藤白《フヂシロ》湊又は一二箇所(在所失念仕候)此所は如何様の大波大風にも山ぎわへ寄候間不苦候云々
とあるは遣明船に関して、本願寺の周旋を乞ふ時の事とす、此発船は紀州畠山氏并に大内氏の故障ありし事も諸書に見ゆ。天文中幕府財帑足らず堺の富賈に就きて銭を借ること数度、皆河内|十七箇所《ジウシチカシヨ》の租入を以て返償に充つ、此を以て商人頗勢力を得て種々の特権を享受し、又大内氏に縁り山口に往来して入明渡唐の特権を得たり。凡堺の商港は其民政|納屋《ナヤ》に在りき、糸乱記に曰、海岸に納屋を持ち之を貸して取得となせる者を上分の者と称し、納屋貸衆と云ひ、其中の大なる者十人を十人衆と云ひて、公事訴訟の類は皆此十人衆によりて裁決せられしと、之に依りて之を見れば堺港は古より多少自治の制もありしにや、永禄中には会合三十六人と云へり、三好家の政所を輔佐せる市参事会員とも謂ふべし、三十六人衆の首席者は能登屋臙脂屋なり。織田信長の近畿を定むるや、堺の商売の強暴を嫉み大に責むる所あり、市民百方陳謝僅に免る、信長納屋年貢を加徴す、十人衆再三愁訴して命を奉ぜず、信長怒り訴人を獄に下し其逃れし者を捕らへ堺浦の北口に梟首せしむ、堺の市民此に至り屈撓す。然れども其通商の雄心は未だ淪滅せず、天正文禄の比納屋助左衛門|呂宋《ルスン》に貿易し、慶長中助左衛門が柬蒲塞《カンボチヤ》に航して商業を監督せること泰長院文書に見ゆ、徳川氏の始に至りても、堺は京江戸大坂長崎と共に五箇所の称ありしが外国貿易は長崎の一港に限らるゝに及び、堺の商業又云ふに足らず。(499)〇游嚢※[月+券の刀が月]記云、堺市は※[門/虫]書に「和泉一州、鼎食撃鐘、淫俗有中国之風」と云ひ、図書編に「和泉一州、富者八戸、皆居積貨殖」と云へり、是皆三好家政所の昔、海舶互市の全盛を記せるにや。〇異称日本伝云、皇明実紀、万暦二十五年、楊方亨詭報、去年六月十五、従釜山渡海、九月二日于干大版受封、即四日回和泉州。今按万暦二十五、当日本慶長二、大版当作大坂、于大坂受封非也、于伏見見楊方亨沈惟敬也、回和泉州、此時唐船来于和泉界、故去時亦回于此也、両朝平攘録、万暦二十四年八月十八日、冊使至日本沙浦郎、廿九日冊使向五沙浦、九月初二冊使入見関白、初四冊使即還沙浦郎。(五沙浦は大坂にて、沙浦郎は堺浦なり、韓人浦をカイと訓むは彼俗訓相通也、図書編は堺を沙界に作れり)
補【堺】〇日本戦史 夏の役、四月廿八日大阪城兵堺の湊に至り、堺大湊の市廛を焼く、東軍の水師向井忠勝九鬼守隆小浜光隆等海上より之を銃撃す、城兵六七百人海浜に出て応戦すること二時許、日暮れて交綏す、大野治房の本隊は兵燹の火光を利用し、暗夜中に堺を経、大鳥を過ぎ、佐野樫井に向うて進む。〔大浜、詩、略〕奥野小山、名純、字温夫、浪華人。広瀬旭荘、名謙、字吉甫、豊後人。
 
大浜《オホハマ》 堺新港の西南を大浜と曰ふ、海上の眺望あり遊賞の客至る、近年酒楼旅館等の設置成り、大浜公園と称す。〇堺浦は元禄の末年新大和川を此港の北に導きたるより、泥沙沈滞し海湾大に淤洲を生じ、遂に錨泊所を失ふ。寛政の初め官家命を下し新港を開築す、波戸《ハト》を起し舟溜を穿ち、燈台を建て又溝渠を通ず、土俗之を新川《シンカハ》開発と称す、吉川某の計按に出でしとぞ、然れども港中尚大舶の寄泊に勝へず、僅に地廻船の釆往するのみ。徳川幕府の末にあたり港頭に砲台を築造したることあり、今大浜に廃塁を観るもの是也。
    界浦         奥野 小山
 海湾別闢温柔郷、新醸※[酉+余]※[酉+糜]喚客嘗、無端一陣晩風急、吹落楼々脂粉香、
   界浦晩望        広瀬 旭荘
 洋心山点夕雲飛、風送軽帆箇々帰、舟子予知今夜雨、摩耶山色漸依微、
   界浦舟中         藤井 竹外
 波戸無風漁市腥、夕陽舟過古茅渟、淡山看入浮嵐去、還自鴎辺露寸青、  塩津《シホノツ》は堺浦の旧港の名なるべし、塩穴津《シホアナツ》の訛にや、細川両家記に見ゆ。応永記には清水浦とあり、住道浦の訛なり。住道は和名抄住吉郡住道郷ありて、今中河内郡へ入る、新大和川開鑿後地形変じたりと難北荘の西なる三宝村は旧港湾なる事明白なり、塩津又清水浦と云へるも此なるべし、浅香浦と云ふも同じく此所なり。
〇細川両家記云、大永七年三月、阿波国より若御所様(足利義澄)十七歳、屋形細川澄元の御曹子六郎殿(晴元)十四歳にて、境へ御着津なり、然りと雖塩津に月日を送り春過ぎ夏たけ、同九月十四日前筑前守之長の孫なる三好筑前守元長(海雲)大将にて、諸勢ことごとく境を打立て摂洲尼崎に渡り、同十七日丹丹城へ取懸る。
堺織物〇堺は往時機織の業最盛なり、足利氏の初め泉府を此に建たるより其業起れりと云ふ、蓋当時専ら絹布羅紗綾頬を織出せり、降りて天正年間に至り支那の織工来航し明様の紗、紋紗、金紋紗、錦、金襴、緞子、縮緬、好絹、分※[衣+表]衣等の諸品を織り、此業を土地の織工に伝へき、後寛文五年の頃に及び盛に好絹を織る、時人称して羽二重といふ、又元和中支那の織工初めて金紗を織る銭屋某松屋某伝へて之を製す、銭屋織松屋織即是なり、而して織業斯の如く堺の地に盛なりしより其織場の地を綿の町、綾の町、絹屋町と名づけ、支那地方より齎し来る所の生糸を購入するに一定の株式を定め之を糸割符と名づけ、独り其商権を此地に専らにせしが、爾来年移り物換り一たぴ京都西陣織の進歩したると、大坂の繁栄を極めたると、長崎の貿易を開きたるとによりて、此地の織業漸次に衰頽を来し、貞享元禄の頃に至りては遂に職工其跡を絶つに至れり、爾後数十年を経て寛保の頃初めて本地に帆木綿及雲斎、真田等の諸品を織出し、寛政年間には綿段通を創め、明治初年には綿小倉「アツシ」石油燈心の類を製するに至れり、然れども之を昔時に比すれば、霄壌啻ならず、彼の錦綾絹類の如きを今其名を二三市街の名称に有するのみにして、数百年前の紀念僅に製綿機械の音を聞くに過ぎずといふ。〔工芸志料産業事蹟〕
堺鍛冶〇天文年中、南蛮船筑紫に来り鳥銃を伝ふ、堺の賈人橘屋又三郎之を得で本市に製銃の業を創む、是より鉄砲諸国に弘布す、今に鉄砲鍛冶あり〔名所図会〕
又庖刀を造る鍛師多し、皆古の遺沢を存するに過ぎず。
補【塩津】〇細川両家記 大永七年云々、然といへども塩津に月日を送り〔類従本「境津」〕
補【堺緞通】〇大阪府史談 堺の商人藤本庄右衛門といひし人、肥前鍋島の緞通と支那の敷物との製法によりて、一種の緞通を天保二年に始めて織り出せり、其子孫世々其業と其名とを継ぎて今日に及ぶといふ。
 
南荘《ミナミノシヤウ》 堺市大小路以南の総名なり、東寺文書、文安元年大鳥郡堺南荘。〇細川両家記云、天文十二年七月細川次郎殿氏綱(尹賢子)と申候は常植御跡目と申て、諸浪人集り泉州玉井衆取立申し、境南荘へ打入、十月に氏綱も阿波へ御帰陣あり、然ば世上(500)しづかなり。〇玉井は泉州の荘名なりと云ふ、今其所を失ふ。
 
南宗寺《ナンシユウジ》 堺南荘の南隅に在り、舳松《ヘノマツ》村と相接す。臨済宗、大林和尚開基、三好長慶其先考海雲入道元長追弔の為に創建す。当時は宿院の傍に在り、寺禄二千貫を給せらる、弘治二年也、天正二年兵火に罹り太半回禄元和元年又兵火にあふ、幾もなく沢庵和尚幹事して再興す、本市奉行喜多見忠勝、岸和田城主小出吉英等協力ありければ造営年を経て成る、堺第一の伽藍なり。堺の聞人牡丹花肖柏武野紹鴎千利休(宗易)曽呂利新左等の墓在り、此寺旭堂宏麗にして、障璧榜額并に庭園茶室等皆観るべし。〇旭蓮社《キヨクレンシヤ》 大阿弥陀経寺は南宗寺の北に在り、浄土宗鎮西派白旗流義の一本寺也。開基円証上人、文保中入元し盧山東林寺に到り念仏三昧の真悟を得、帰朝の後正中年中堺の浜に旭蓮社を創め道場を営む、実に本邦蓮社の嚆矢なり、光明帝建武四年二千六百貫の田を賜ふ。寺内に舳松《ヘノマツ》明神祠あり。〇堺潮風呂は古より著る。名所図会云、風呂は旭蓮社の領なり、(大町の西)潮井浴室の前に在り、守覚法親王家集に「和泉国|新家《シンヤ》と云所にてしほゆあみ」し給へる事見ゆ、或年豊太閤此に浴し、奉行石田隠岐守政成に仰せて制状を賜へり。三条西実隆高野詣日記云、堺南荘光明院に至りて、さまざまのいたはりもてなされ侍り、夢庵寄宿の寺へも罷り侍り云々、還向の道、又堺に返りつきぬ、宗仲が寮にて一盞侍り、翌日阿弥陀寺へ招請あり、大師御作の弁才天など拝見、たうとくなん、近き寺の風呂に入りて、夕づけて帰る程に、浜見巡りて光明院に帰る、
 漕かへり入江の船の夕なぎにさかひ知らるゝ己が浦々。
 
大安寺《ダイアンジ》 臨済宗、応永元年秀徳和尚草創、南宗寺の東に並ぶ。今の仏殿は魚屋助左衛門の居宅を移造したる也、助左衛門堺浦の商賈にして貿易を以て富を致す、天正文禄の比頻に呂宋に往来し巨利を獲たり、其将来せる茶碗世に伝へて魚屋《トトヤ》と称する者あり、其居宅(納屋と称す)は建築華侈を極め、七宝を鏤めたりと云ふ。〇祥雲寺《シヤウウンジ》、寛永年中沢庵和尚創むる所也、寺中に五葉松の老幹あり、市人呼びて松之寺と云ふ、〔京華要誌〕大町の東に在り。
補【大安寺】〇魚《トト》屋助左衛門は堺浦の商人にて、一号納屋といふ、天正年中海外交易を為し、或年呂宋に入り巨利を獲て帰る、故に呂宋助左衛門とも称す、其将来する所の壺すべて五十個、世に伝へて魚屋茶碗と称す、今に珍奇とせらる、大安寺の書院は助左衛門の家を移したる也と。
 
宿院《シユクヰン》 堺南荘に在り、住吉神(摂津)の禊所にして、神事の旅所也。東北に一丘あり、夏越《ナゴシ》岡と日ふ、揖取《カトリ》宮|宝御前《タカラゴゼン》の二祠を置く、毎年六月修禊の時神幸あり。
 みな月の今日の堺にみそぎして千年をのぶる神のみやびと、〔壬二集〕        藤原 家隆
書紀通証云、如意《ニヨイ》神祠在泉州堺南荘、俗謬称子卯神、或称|子亥《ネヰ》神、此本住吉境也、親長記所謂、参詣子亥御前是也。俗説弁云、摂州住吉は上代潮満瓊潮涸瓊の出たる所也、故に玉出島《タマテシマ》の名あり、彼二玉後に堺の飯匙《イヒカエ》池に納む故に宿院に如意明神まします。(今飯匙池は宿院に在れど別に市町の東に如意神社ありと云ふ、不審)
 
開口《アクチ》神社 延喜式、大鳥郡開口神社、今堺南荘甲斐町に在り、宿院の北に接す。供僧大念仏教寺あり世に堺の大寺《オホテラ》と称す、蓋住吉の別宮にて、或は三村《ミツムラ》明神と称す、開口は此地の旧字なり。〔書紀通証名所図会〕享禄の乱に三好元長大寺に屯営したる事細川両家記に見ゆ、近年寺宇を撤去し、三層塔一基存す。〇延暦八年職判、住吉大社宮司解状云
 六月御解除、開口水門姫神社、在和泉国、四至東限大路、南限神崎、西限海棹及限、北限堺大路、
この解状によれば是れ水門の神|津守《ツモリ》の祠なり、三村と云も御津の村に鎮坐の義のみ。又市中に乳守の地名あり、即津守の訛ならん。
 
顕本寺《ゲンポンジ》 宿院町の東に在り、文明十三年創建僧日浄開基、法華宗の古刹也。天文元年細川晴元其臣三好宗三木沢長政等をして本願寺一揆を誘ひ、海雲人道を顕本寺に殺さしむ。細川両家記云、享禄五年摂河泉三個国の本願寺一揆馳集、十万許にて三好筑前守元長陣所南庄へ取懸けたりければ、合戦にも及ばず大寺をのき顕本寺へ取籠られける、又御所様(義澄)も四条の寺より顕本寺へ御成ありければ、四方より責入るほどに、筑前守を初めて凡討死七十余人なり、一揆も三十余人討死するなり、既に御所様も御切腹召るゝ処に、晴元より人を遣はされ刀を奪ひとりて、前に御座候つる四条の道場(金光寺)へうつし申されけるなり。
 
北荘《キタノシヤウ》 堺市|大小路《オホセウジ》以北の総名なり、東寺文書、正中二年摂津国堺荘。又前田家文書、応永年中接津国北荘と見ゆ。蓋往時住吉郡榎津郷の地なり、近世大和川を堺浦の北に導きたるより、北荘の西更に新洲を生ず。
天神宮は北荘戎町に在り、明暦三年造立す、供僧を常楽寺と曰へり、或云此祠昔塩穴郷湊村に在り、塩穴天神と称す。文明二年菅原為長卿記云、和泉国|毛受《モズ》、深井|草部《クサカベ》土師、塩穴、高石等は菅原の旧領なり、天神宮は菅原家の家廟なりしと。〔名所図会〕
(501)補【堺北荘】○前田家所蔵古文書 摂津国北荘、応永年中。東寺文書 正中二年摂津国堺荘。○今向井村大字北荘。東寺文書 文安元年大鳥郡堺南荘。
 
妙国寺《メウコクジ》 北荘材木町に在り、法華宗永禄年中僧日※[王+光]開基、三好実休入道之康及び市民油屋常言の創建なり。庭前に大蘇鉄樹あり、実休の植たる者と云ふ、海内無比の巨株也。〔名所図会〕
 
信証院《シンシヨウヰン》 信証院北荘神明町に在り、本願寺の別院なり、徳川氏の時寺禄三百石の朱印を給せり。○東本願寺の寺未真宗院亦堺の名藍なり。
 
戎《エビス》島 此島は寛文四年激浪この浦を衝ける際に成り、越て二年蛭児神の二神の石像を海中に得たり、奉行水野氏築堤して戎島と名づく、蛭児神社あり、〔名所図会〕今鉄道車駅を置く。○東涯文集云、大和川、本過大坂城東偏、而入海、宝永元年、廃旧河、命諸鎮兵、自河州鑿新河、九里八町、歴堺津而入海、夷島、々長五六町、寛文四年、海溢沙擁為洲、逐築為島、今為商船安泊之処、人戸稍庶。
 
向井《ムカヰ》 向井村は堺市の北郊なり、往時堺北荘の中なれば大字北荘存す、向井寺は堺市に移し向泉寺と改む。又大字七堂は往時|七堂浜《シチドウガハマ》と号し、高渚《タカス》寺の廃址なり、高渚寺、続日本紀宝亀四年の条に見ゆ。
 
浅香《アサカ》 今五箇荘村と称す、向井村の東に接す、往時住吉郡|大羅《オホヨサミ》郷の地なり、新大和川疎通依来地勢変す。浅香浦《アサカノウラ》は後世地形変じ今此名なし、蓋堺北荘の西なる三宝村の地、古は海湾に属す、浅香浦此に外ならず。
 夕されば汐みち来なる住吉《スミノエ》の浅香の浦にたまもかりてな、〔万葉集〕         思紀皇女
万葉集の当時、潮汐の干満ありし江湾なれば、今の遠里《ヲリ》小野の低地即大和川の辺に浅水ありしと思はる。○細川画家記云、本願寺細川晴元と不和になり、享禄五年八月晴元方木沢左京亮衆へ一揆方よ路次にて喧嘩をしかけ討取る、然ば則木沢衆より其日境の東にあさかの道場とてあるを初て、近郷悉く放火する、然ば和泉河内大和摂津の国一揆即時におこり、あくる五日に堺に御座候屋形へ取懸ければ、木沢左京亮自身打出合戦す、其日一揆衆負て引、弥大兵乱出来たり。
須牟地曾彌《スムチソネ》神社は延喜式摂津住吉郡に列す、今五箇荘村大字花田の南に在り、勝手明神と称す。〔和泉志〕蓋住吉の別宮也。○船玉《フナダマ》神社は延喜式摂津国住吉郡に列す、今五箇荘村大字|船堂《セントウ》に在り、船玉明神と称す。〔神祇志料摂津名所図〕船玉は即住吉大神の霊を曰ふ。
 
新大和川《シンヤマトガハ》 宝永元年新大和川の疎鑿成り、大和川を南河内郡柏原の南より堺浦の北へ導き、河州の水害を除く。延暦年中摂津大夫和気清麿河内の水を西海に排去せしめんが為め、天王寺荒陵の南に土功を起したる事続紀に見ゆれど成功せず、徳川氏の時排水功を遂ぐ。而て堺浦は此新疏の為めに埋却し、寄泊の便を殺がると云。○常憲実記云、元禄十六年十月、此度大和川水路修治あれば、本多中務大輔忠国(後改名政武)助役被仰付。宝永日録云、宝永元年四月、大和川普請に附松平左兵衛督直常等三人に命じ工事を助けしめらる。河内志云、新大和川、元禄十七年大興力役、自柏原村疏導於西、至堺浦北、注於海、※[こざと+是]広十三歩、高二十尺、両岸相距百歩、長九千百歩、於是古水道傍、即皆免水害之患、太平年表云、宝永元年三月、泉州河州の間へ四里二十八町の新川を堀る、播州姫路城主本多政武之をうけたまはる新大和川と曰ふ。
 
     摂津国
 
摂津《セツツ》国 東は河内、南は和泉(大和川を以て堺す)及海、北は山城丹波、西は播磨に至る。其西北界は大略分水嶺を以て相限り、東界は河内と、一部淀川を以て相分ち一部は郊野相接す、東西凡十二里南北凡九里澱水山城より来り、平野流勢に治ひて開く、群峰西北に連り、海湾其外を抱擁す、地海陸の衝に当り実に中州の枢紐たり。
難波津《ナニハツ》の名上古より顕れ、不易の都会なり、江山の王気千秋猶存すと謂ふ可し。故人云西南の喉口、皇畿の※[門/困]域山嶺右に繞り、平野左に連る、田土の豊腴、海浜の広斥沢国の佳致、他州に比なしと。○今面積五十三万里、大坂神戸二市七郡に分れ人口一百万、大坂府兵庫県の二庁あり之を治む。
古へ浪速国《ナニハノクニ》又津国と云ふ。姓氏録、摂津国神別天孫国造氏ありて「天津彦根命男天戸間見命之後也」と註す。天武天皇六年其難波大宮あるを以て摂津職《セツツヌシキ》を置かる、即宮監にして国務を兼ねし制也、延暦十二年摂津職を停めて国司と為し、摂津の号転じて国名と為る。○国都沿革考云、日本書紀「天武六年十月、以大錦下丹比公麿、為摂津職大夫」又職員令「摂津職、帯津国」と。字書に摂総也兼也とあり、其摂津は即職名にして津を以て国名と為したる也、清寧天皇紀に摂津国とある追書なるべし。類聚三代格曰、延暦十二年太政官符、応停摂津職為国司事右大臣宣傅、奉勅難波大宮既停、宜改職名為国、按ずるに和名抄「摂津、延暦十三年停職為国」と三は二の誤のみ。天長二年、江南の四郡(東(502)生西成住吉百済なり)を割き和泉国に隷す、百姓騒動止むなきを以て旧に復せしむる事日本紀略に見ゆ。浪速《ナミハヤ》国の名は神武紀に見ゆ「皇師至難波之碕、会有奔潮太急、因以名為浪速国、亦曰浪華、今曰難波訛」と、また古事記云「故従筑紫国上行之時、経浪速之渡、而泊青雲白盾津」と、此奈美波奈爾波の名義今詳にし難し、浪速又は浪華は真の名義を托したる漢字とはおもはれず。○万葉集古義名所考云、今の世の人は浪速又浪華などと書て、ナニハと訓ことのやうに心得、殊にみやびたることの様にさへおもひて、好み書く人も多かめるはいと片腹いたき事也、抑浪華浪速など書てはナニハとは訓れぬ也、ナミハナ又ナミハヤと云によりてこそ浪華浪速とも書るなれ、然ればいまだ訛りてナニハと呼ぬ先に立もどりてナミハヤと訓せむとならば浪速とも書くべし、若し浪速と書てナニハと訓るゝ事ならば寧楽人などにもしか書たるがあるべし、万葉集の中に難波那爾波名庭など書たれど浪速とも浪華とも見ゆるは一所もなし云々。○按に記紀以下の古書に地名の起因を説きたる中に種々の附会ありて信拠し難き事多し、釈日本紀開題に論ぜる「弘仁私記序云、本紀、異端小説、怪力乱神、為備多聞、莫不該博、一書及或説、為異端反語、及諺曰、為小説也」の言想ふべし、其小説に訛と云ふ方の正実にして、起因の方の往々誤まれる者あり、この浪速浪華の如きもナニハの方却て正実にて、之を浪の速さ浪の華に言ひ寄せたる方最疑はし。古書を考ふるに難字はナニヌネノ行の韻にてナヌなるべし、故に那爾に仮るは当然なり、争でかマミムメモ行の那美に因みあるべけんや、後世ン韻の為にナニヌネノマミムメモの両行紊乱せる時代なれば之を論ぜず、寧楽朝以前に在りては音韻最正順にあるべき筈なり、豈那爾と那美の差別を混同すべけんや。而も書紀に難波は訛にして浪華浪速は本なりと云ふは、地名の起因を求め故事に言ひ寄せんが為めに牽強せる諺説のみ、地名には此類すくなからず。近くは難波《ナニハ》の御津の如き記紀二典ともに牽強の説を録せり、尚参考すべし。(浪速浪華の速華は波の一音に仮りたるにて波也波奈に非じ)○又今大坂の地名にナンバあり是は後世ナニハを訛りてつたへけるが遺れるにや、再考すべし。
 難波人葦火たくやのすしたれどおのが妻こそとこめづらしき、〔万葉集〕やそぐには那爾波につどひ船かざりあがせむひろをみもひともがも、〔同上〕海原のゆたけき見つつあしがちる奈爾波にとしはへぬべくおもほゆ、〔同上〕
津国《ツノクニ》と云ふことは、難波は無比の要津なれば也、応神紀に夙く「阿知使主、求縫工女於呉、率其三婦女、以至津国及于武庫、而天皇崩之不及」と見え、古今の諸書に多く載する所なり、其義理は律令に見ゆる者最切実なり、
 律云、凡私度関者徒一年、(謂三関者)摂津長門減一等、余関又減二等、越度者各加一等、(不由門為越)令義解云、摂津及太宰主船司之官船云々、又云、欲度関、若船筏経関過者、要請過所、謂長門及摂津、其余不在此限、又云、凡行人出入関津者、皆以人到為先後不得停擁、謂行人者、公私皆是也、津者摂津、其要路津済、置船運度、自依雑令、
蓋三関は古京東方の要隘にして、難波津長門関を西方の塞所としたり、其契券を過所と称し出入を制限したる所以也、和名抄、摂津は世都都と訓み、管十三郡その百済郡は後世欠郡と称したりしが、近世に及び欠郡の名も廃しければ十二郡と為り、明治二十九年更に住吉郡を東成(古東生に作る)に併せ、島上島下を合し三島郡に復し、豊島能勢を併せ新に豊能の号を立て、八部菟原を武庫郡に併す、故に今七郡と為る。摂津修めて摂州と呼ぶこと多し。
 
難波津《ナニハツ》 古は難波大津と称す、今東成西成二郡の地にわたり、墨江《スミノエ》の津大伴の津(御津と云)の両処あり、皇極元年難波郡と曰ひ天長二年江南四郡と曰ふ、〔日本紀略〕即此也。
 難波津に美船泊ぬときこえこばひもときさけてたちはしりせむ、〔万葉集〕奈爾波津によそひよそひてけふの日や出でてまからむ見る母なしに、〔同上〕
古今集序云、難波津の歌は御門のおほむ始なり、
 難波津にさくや木の花ふゆごもり今ははるべとさくやこの花、
大鷦鷯の御門の難波津にて皇子と聞えける時、東宮を互に譲て位に即給はで三年に成ければ、王仁と云人のいぶかり思ひて読て奉りける歌也。○神功紀云、三神誨之曰吾和魂宜居|大津渟中倉《オホツノヌナクラ》之|長峡《ナガヲ》、便因看往来船。〔摂津風土記云、沼名椋之長岡之前、今称須美乃叡〕又応神紀云、吉備兄媛請省親、自大津発船、而往之。〔書紀集解云、大津蓋指難波津、〕又仁徳紀云、天皇親幸大津、待皇后磐之媛之船、而歌曰、那珥波びと、鈴船とらせ、こしなづみ、其船とらせ、大み船とれ。○日本書紀、皇極天皇元年、遣諸大夫於難波郡、検高麗国可貢金銀等、并其献物。○姓氏録云、難波忌寸、大彦命之後也。難波連、出自高麗国好太王也。神功応神の朝に韓国を服属せしめ、貢献船を難波の海に致さしめたまひ、離宮を大隅《オホスミ》に建つ。仁徳天皇に至り高津《タカツ》宮を難波に起したまふ、津国の繁栄此に基す、履仲以後大和に復都すと雖難波に亭館倉倉の設あり、西方の往来に便にす。孝徳天皇の時再び長柄《ナガラ》豊碕宮を起し皇居と為す、又一代にして遷移す。而も猶離宮を置き天武帝羅城を築き別都と為す、聖武帝亦遷宮の事あり久しからずして罷めらる。桓武天皇山城に遷都し東方に多事なりけるより難波稍閑なり、後遂に衰ふ。南北争乱の際、後村上帝住吉行在に御し軍事を視たまひしも克たずして止みぬ、天正中豊臣秀吉大坂城を築き難波復興す、今西京を圧し東京と競い俗言三都の目あり。○国造本紀云、摂津職、初為京師、柏原帝代、改職為国。
 すむ月もいく代になりぬ難波からふるきみやこの秋の夜の月〔続古今集〕
春江花月歌        屈 景山
 浪華江上梅花樹、南枝開遍及北枝、浪華江水接大海、西海南海無津涯、春潮連江々不流、夜月纔生光陸離、江花江月相掩映、江上春色更煕々、昔日仁皇此營都、虞廷揖譲衣裳垂、萬井?々人煙煖、江花獻笑入麗詞、前馭一去空千載、高陵松柏雨露滋、豐公重築大坂城、金湯不屑函※[山+肴]※[山+戯]、駕御龍虎在掌握、威名赫奕震華夷、代換城空復何見、唯有江月閲榮衰、江月有待夜々明、江花居然年々披、江水猶不捨晝夜、万古滾々無盡時、仁皇※[しんにょう+貌]矣豐公逝、人世興亡忽可悲、此時須記春江好、春來勿誤花月期、
浪華懐古         龍 草廬
 地比金陵古帝州、欝葱佳氣未全收、堯仁曾許三年貢、禹鑿猶余一水流、鴻雁渚邊風色老、蒹葭洲上夕陽愁、春宵唯有梅花發、人唱王郎舊日謳、
   寄橋本香坡        山中靜逸
 遥望江南無限情、雲霞何処浪華城、想君画舫探梅去、一百八橋春水生、
小謡 難波津
 なには津に、咲くや木の花、冬ごもり、今は春辺に匂ひ来て、吹ども梅の風、枝を鳴らさぬ御世とかや、げにや津の国の、なにはのことに至るまで、豊なる世の例こそ、実に道広きをさめなれ、/\
 
難波潟《ナニハガタ》 又難波海と曰ふ、即難波の海上を指す、此地淀川の河道変遷泥沙堆積の為めに古今の沿革あり、大略北尼崎(川辺郡)より南堺浦に至るまで年々砂州の増大を見る。○三代実録、元慶五年、難波海解除。(延喜式八十島祭の条に難波湖とあり、湖は万葉集に港と同じ、)
超草香山時歌
 直超《タヽコエ》のこの径にして押てるや難波の海と名づけけらしも、〔万葉集〕難波方塩干にいでゝ玉藻苅るあまつをとめらなか名のらさね、〔同上〕難波かた汐みちくればあま衣、天ごろも(本)あまごろも、田蓑のしまにたづ鳴渡る、鳴渡る、(末)〔神楽歌大前張〕
古の難波碕は大坂城の高処を指す、今城より天保山迄八十町の距離を数ふ、近時更に天保山以外に築港興堤の業を初めたり、其新州益加ふる所あるべし、此間凡二千年の久き、数方里の土壌を生じたるならん。近時の地図多く大阪湾と標す。
 
東成郡
 
東成《ヒガシナリ》郡 古へ東生郡に作る、難波津の東南部なり。初め難波大宮此に在りけるを以て難波大郡と称したり、後分れて東生百済住吉の三郡と為る、百済は一に闕郡と称し中世亡びて東生住吉に割入す、明治廾九年更に住吉を本郡に併す、今面積凡六方里、廾五村四町(平野安立東平野玉造)人口十一萬、郡衙を天王寺村に置く。大坂市の東南を包み東は河内国と田野接比し、北は淀川を以て西成郡と堺し、南は和泉国と大和川を以て堺す、西南の一部又西成郡と斥鹵相錯る。○地勢を以て之を謂へば本郡中玉造町清堀村東平野町西高津村天王寺村は當然大坂市に入るべき者に似たり。
 
難波大郡《ナニハノオホコホリ》 日本書紀欽明二十二年、於難波大郡、次序諸蕃。又推古十六年饗唐客等、於難波大郡。○国郡沿革考云、難波大郡、和銅中国郡の名を定むるに及び東生と称せしなるべし、後世東成に作り今亦之に仍る。
 
住吉《スミヨシ・スミノエ》郡 明治廾九年廃して東成郡へ合併す。住吉古は須三乃江と呼べり、和名抄、文字に依り須三與之を訓み、後世多く之に仍り。仁徳帝の時|墨江《スミノエ》之津を定められ、後建てて郡と為れる也。古事記伝云、神功皇后の御世に住吉《スミノエ》大神を鎮め祭られし地は菟原郡の住吉なるを、仁徳天皇の御世に彼神を今の地に遷し奉り、墨江之津を定め給える也。
和名抄、住吉郡、訓須三與之、五郷に分る、其住道郷は今河内国中河内郡へ入る、(矢田村瓜破村)余戸郷は盖今西成郡|勝間《カツマ》村粉浜村等なるべし、中世百済闕郡の地本郡に入りたる事あり。
補【住吉郡】〇住吉 須三与之、風土記住吉郡名曰本名沼名|椋《クラ》之長岡之前、今俗略之称須美乃叡、今按かゝれば須三乃叡と云べきを住吉と書るにより誤て須三与之(504)と唱ふるやうになれり、古事記には墨江とあり、伝に書紀万葉には住吉と書ても須美乃延とよみ、又万葉に墨之江、清江、須美乃延など有て須美与志といへること一もなし。神名式、住吉座神四座、今按神后の御世に此神を鎮祭られし地は菟原郡の住吉なるを、今地に移されしは、古事記高津宮段に又定墨江之津とあるに就て思へば、彼神を今地に遷奉りしも同時なりけん、されば住吉といふ地名も彼菟原郡より移れる名なり。三代実録貞観元年、摂津国住吉神、同四年摂津国住吉郡。一宮記、住吉神社、底筒男・中筒男・表筒男三座、後加神功皇后四座也、摂津国住吉郡。
住吉 古へ墨江に作る、蓋難波大郡を割て之を置しなるべし、古事記高津宮仁徳天皇上巻曰、掘難波之堀江而通海、又堀小椅江、又定墨江之津。
 
榎津《エナツ》郷 和名抄、住吉郡榎津郷、訓以奈豆。〇今|住吉《スミヨシ》村墨江村安立町等の地なり、又和泉国泉北郡|向井《ムカヰ》村|五個荘《ゴカノシヤウ》村及堺市北荘等の地も古榎津郷の領域か。和名抄、訓以奈豆とあるは江奈豆の誤なり、蓋住の吉津《エノツ》の約なり、万葉集に「墨吉の得名津」と詠ぜり。大社解状に神戸郷とある地ならん。
 墨吉の得名津にたちて見渡せば六児《ムコ》の泊ゆいづるふな人、〔万葉集〕    高市連黒人
 あし引のやまの高根にのぼりてぞ朴津《エナツ》の海はちかく見えける、〔夫木抄〕   能因 法師
摂陽群談云、榎津は其所を転じ今住吉の字に存す。名所図会云、遠里小野の南に朴津《エナツ》谷あり、又朴津寺の旧蹟は礎をのこす、中世村を移し今は民家もなし。
補【榎津郷】住吉郡〇榎津、以奈豆、摂陽群談転所称古名村、榎津今住吉郡住吉村の名所にあり。正濫抄、万葉にはえなつとよめり、武蔵国男衾郡に同名あるは和名にもえなつとあり、いとえと五音通ず、〔万葉、略〕
〇今住吉村墨江村、安立村、敷津村。
 
新大和川《シンヤマトガハ》 宝永元年大和川を河内国柏原より西方に疏通し、榎津郷遠里小野浅香山等を穿ち海に導く、因て新大和川と称す。近年水南の地は悉く和泉国に属せしめ、河心を以て摂泉の堺と為す。(和泉国新大和川参考)
 
住吉《スミヨシ・スミノエ》 和名抄、榎津郷余戸郷(今西成郡粉浜村勝間村)にあたる、即仁徳天皇の定めたまへる墨江之津なり、日本書紀履仲巻に「鷲栖王、恒居於住吉邑、是讃岐国造、阿波国脚咋別、凡二族之始祖也」と見ゆ。又姓氏録、右京皇別、住吉朝臣、上毛野朝臣同祖、多奇渡世君之後也。
 住吉の里ゆきしかばはる花のいやめづらしき君に逢へるかも、〔万葉集〕
 
墨江津《スミノエノツ》 古事記、高津宮(仁徳)段云、定墨江津。雄略紀云、身狭村主青等、共呉国使、将呉所献、手末才伎漢織呉織、及衣縫兄媛弟媛等、泊於住吉津、〇又|三津《ミツ》とも曰ふ万葉集に「贈入唐使長篇」の句に「忍照る難波にくだり、住吉の三津に船のり直渡《タヾワタ》り」と見ゆ。〇墨江は其岸及び浜古より聞こゆ、或は敷津と云。
 悔しくもみちぬる塩か墨江の岸の浦わゆゆかましものを、〔万葉集〕白浪の千重にきよする住吉の岸の黄土粉《ハニフ》ににほひてゆかな、〔同上〕住吉の浜によるとふ打背貝みなきこともてわれ恋めやも、〔同上〕
住吉岸《スミノエノキシ》は盖難波|吉志《キシ》氏の本拠なるべし。姓氏録云、摂津国皇別、吉志、大彦命之後、又云、難波忌寸、大彦命孫、波多武彦之後也。吉志と忌寸同祖なる事知るべし、而て古事記には「忍熊王以難波吉師部祖、伊佐比宿称、為将軍」と見え、日本書紀には「神功皇后、自穴門向京時、※[鹿/弭]坂王忍熊王拒之、吉師祖五十狭芽宿禰、隷于※[鹿/弭]坂王、為将軍」と見ゆ、有勢の名族たる事想ふべし。雄略帝の時難波日鷹吉士堅磐あり、安閑帝は難波吉士氏に命じ諸国屯倉の事を掌らしめたまふ。〔日本書紀〕〇氏族志云、接日本書紀、称吉志者頗多、応神帝時、有熊之凝、与五十狭茅、倶従忍熊王、註云多古吉士祖也、敏達帝時、有小黒吉士宰於百済、皇極帝時、有国勝吉士水鶏、使於百済、天智帝時、有岐弥吉士針間、所系皆不詳。〇古事記伝云、吉師は大彦命より出づ又吉師舞と云ことあり、続日本紀に「摂津職奏吉師部楽」とあり、阿部氏の人昔新羅国より大嘗会の日に帰り参て始て吉志舞を奏せし事あり、大彦は阿部氏の祖なれば同支別なり。又継体紀に吉士老とあるを初とし、吉士某と云は皆韓国の吉士に因れる称にて、難波吉志の氏人に非ず。〇按ずるに多古吉士は日鷹吉士同じかるべし、即難波吉志なり、天武紀に「三宅吉士、賜姓曰連」とあり、又難波吉志たるべし、(後世住吉踊と云業あり吉志舞の遺風にあらずや)凡吉士には両意あり一は家号にして一は尸号なり、尸号なる吉士は韓国の吉士の称を移したる爵位なれど、家号の吉志は岸と称する地名より出でたるならん。一書云、住吉踊は田植神事の変にや、田植神事も今は堺浦の傾城遊女その役を勤む、其田植の周辺に赤白の旗立て、具足したる武夫巡る、是は征韓凱旋の時彼国の婦女をつれ帰りたる名残りと云ふは俗人の附会にや、或人の戯れに「傾城のかくし芸なり田植歌」とよめるあり、近代専ら神宮寺の僧家に住吉踊と称し、下賤の業を為したるも、亦吉士舞の余裔か、源委詳ならず、又住吉大神は別号を高貴徳王菩薩と称し、近世には別当南坊ありて神領二千石の中に就き配分を享けたり云々。
住吉は本|菟原《ウナビ》より移せる名なれど清江《スミノエ》の義なり。万葉集に清之江と記せる例あり、後世住吉の細江又池など(505)と詠ずるは言字重複の嫌あれど亦荷論を為し難し、住吉神社の西に細江存し、打出浜に通ず.
 住吉の細江にさせる澪標《ミヲオツクシ》ふかきにまけぬひとはあらじな、〔詞花集〕
 さみだれの住の江殿に日をふれば海より通ふ池のしらなみ、〔拾玉集〕
  失題        柴  秋村
 晩来換酒足魚蝦、呼取閑鴎作一家、最是澄江明月裏、満篷乾雪宿蘆花、
 笠影飄然落碧流、此生笑付釣魚舟、英雄豎子皆黄土、野樹江雲自在秋、
   墨江拝神祠    劉  元高
 松際玲瓏古殿扉、相携而々賽神帰、素裳如雪霊巫舞、撃鼓吹簫送晩暉、
補【吉志】〇大日本史、吉志氏、貫干摂津、難波忌寸同祖(姓氏録〇按日本書紀、称吉士者頗衆、応神帝時、有熊之凝、与五十狭茅倶従忍熊王、註云、多古吉士祖也、敏達帝時、有小黒吉士、宰於百済、皇極帝時、有国勝吉士水※[奚+隹]、使於百済、天智帝時、有岐弥吉士針間、所系皆不詳、附干此、以俟後考)雄略帝時、有日鷹吉士堅盤、又称難波日鷹吉士(日本書紀)蓋是族也。
 按、日本書紀安閑帝置諸国屯倉、詔難波吉士掌其税。〇今島下郡に吉志部村あり。
 
手塚《テヅカ》 名所図会云、住吉村の北五町計街道の道に手支山《テツカヤマ》あり、登臨せば眺望佳なり、一説に之を鷲栖王の墓と曰ふ、不審。久保之取蛇尾云、住吉の北なる岸のひたひに塚の侍るをせに手塚又|帝《テイ》塚といふ、摂津志に大玉手塚小玉手塚と録す、今は其南なる大手塚は黄土よろしきにより土人に崩され、小手塚のみ残る、小手塚は狭手彦の墓にや狭手彦の父は金村にて欽明紀に住吉宅に居ること見ゆ大手塚は其父なる金村の墓にや。
 
住吉《スミノエ》神社 住吉《スミヨシ》村に在り。延喜式住吉坐神社四座とあり、中世二十二社第十五に列し摂津の一宮なり、今官幣大社に班す、宮司津守氏、華族男爵を賜ふ、此祠は古事記「底筒之男命、中筒之男命、上筒之男命、三柱神者、墨江之三前大神」とあるの外後世神功皇后(息長帯姫命)を配祀し四座と為る。摂津国風土記〔釈日本紀所引〕云昔息長足比売天皇世、住吉大神現出、而巡行天下、覓可住国、到沼名椋之長岡之前、乃謂斯実可住之国、遂讃称之云、真住吉之国、乃是定神社、今俗略之、直称須美乃叡、前者今神宮南辺、是其地。〇案ずるに住吉大神は記紀の説く所筑紫|日向小戸《ヒムガノヲド》の橘の檍原《アハギハラ》に現れたまふ、即|海童神《ワタツミ》に同じ、今筑前国に旧蹟を遺す。神功皇后征韓の日、大神の霊威尤顕著なりければ、是より国家の大祀と為る。(筑前国住吉神社参照)
神功皇后初め本社を武庫の菟原《ウナビ》に定め、仁徳天皇此に移さる。沼名椋は倉庫の名なるべし、敏達天皇を渟中倉大玉敷尊と諡し奉るも御蔵に因む者ならむ、又播磨風土記〔釈日本紀所引〕に「住の吉の大倉向きて飛ばゞこそ速鳥といはめ何にかはやとり」の歌あり。〇神祇志料云、鴨長明文字※[金+巣]に住吉四座の一を衣通姫と為すは謬伝なり、初め息長帯姫韓国を征《コトムケ》給はむとせし時、大神始て御名を顕はし給ひて、今実に其国を求めまく思さば我御魂を御船に坐せて大海を渡り坐すべしと詔給ひき、故其神教に依て終に新羅を平定《タイラゲ》給ひ、即大神の荒魂を某|国守《クニマモ》り坐す神と祭鎮奉り、還渡て務古水門《ムコノミナト》に至り坐時、大神吾|和魂《ニギミタマ》は大津の渟中倉の長峡に坐て往来船を看行《ミソナハ》すべしと誨給ふ随に、始て住吉《スミノエ》国に神社を定めて鎮坐しめ給ひき。〔日本書紀古事記古語拾遺〕一代要記に天平宝字二年始て住吉社を造るとあるは修造の事を指すに似たり。欽明天皇御世使を遣て住吉神を祠らしむ、将に新羅を征給はむとせば也、〔釈日本紀引天書〕天武天皇十三年行幸して神田三十町を奉て御酒料に充給ひ、〔色葉字類抄〕桓武天皇延暦八年本社に行幸あり、住吉行幸蓋此に始る。〔帝王編年記〕大同元年遣唐使の御祈に依て従一位を授く、〔日本後紀〕凡此社蕃国に使する者必幣帛を奉て船舶の恙なき事を祈り白しき、〔参取延喜式万葉集和歌等〕是歳摂津丹波播磨安芸長門地二百卅九戸を神封に寄奉り、〔新抄格勅符〕弘仁三年勅して本社正殿の外破るに従て修理するを永例とす、二十年毎に改作る時は甚弊あるを以て也、〔日本紀略〕貞観十三年筑前封戸の貢綿闢乏を致すことなく制給ひき、〔類聚三代格〕延喜の制并名神大社に列り凡神社正殿二十年毎に改造らしむ、其科は神税を用ふ。〔延喜式〕後鳥羽天皇文治元年二月、平氏追討の御祈に神験あるを以て御剣并に宝器を奉り、建保二年又宝器を納め給ふ。〔百錬抄〕後村上天皇正平七年二月甲辰晦住吉に幸して幣馬を奉る時、適社前の松樹故なくして倒れ、十五年四月戌辰神殿鳴動して社前の楠樹又故なくして折る、人以て凶兆とす、〔太平記〕九月天皇住吉社に行幸し、〔新葉和歌集李花集〕十九年三月又行幸し給ひき、〔新葉和歌集〕然れども此後皇室漸衰へ終に京師を回復し給ふ事あたはず、〔太平記、続神皇正統記〕大凡住吉大神の霊威事に触れて顕れ給ふもの往々此の如し。〔参取東鑑太平記古今著聞集大意〕凡住吉祭甚多し、二月四日祈年祭、五月廿八日田植祭六月晦大祓神輿開口の旅所に幸す、〔住吉社記八幡宮本記〕十一月新嘗祭神人祭衣を着け馬に騎り大和畝火山口神社の埴を取来て天平瓮を造て神饒を供ふ、祈年祭も又同じ、〔和州旧跡幽考名所図会〕其神社に仕ふる者神主権神主社務あり、〔縁日本紀津守系図〕板屋、狛、津守、大宅、(506)神奴、大領、高木之を神主七家といふ、皆田裳見宿禰の裔也、其他神人三百余家あり。〔住吉神社考摂津志〕〇住吉四座の造営そのさま諸社に混せず、三社の進みて立てるは魚鱗の備、一社ひらくは鶴翼の陣なり、是れ韓国征伐の軍神なれば也。〔名所図会〕半円状の高椅あり、反椅《ソリハシ》又|球橋《タマノハシ》と云ふ、亦此地の一名物也。
住吉大神を高貴徳王《カウキトクワウ》菩薩と云ふは其所以を詳にせず、彼れ謡曲丁固松に「此神は高貴徳王菩薩の御垂跡と申すとかや、おもたかの尊とて、景行天皇の御宇よりして、此浦に聖廟を立置き給へる」などありて、世に喧伝すれど疑惑多し。古今著聞集には慈覚大師叡山にて如法経かきたまひける時、白髪の老翁あらはれて託宣あり、
 我是兜率天内、高貴徳王菩薩(原注紫龍)也、為鎮護国家垂跡、当朝墨江辺松林下、久送風霜、時有受苦、自当社北方、有一勝地、願奏達公家、建立一伽藍、転法論云々、
これによりて神宮寺建立せられぬ、又津守国基の申侍るは、住吉の南社は衣通姫にして玉津島明神と申し、和歌浦《ワカノウラ》神なり云々と。蓋此後段衣通姫を混入するは、住吉にも玉出島《タマデシマ》の一名あれば紀州なる和歌浦と相乱るゝのみ、又前段の高貴徳王に紫龍と註せるは住吉神も海神なれば仏家の天部龍王などに附会せるものゝごとし。〇延暦八年職判の住吉大社司解状は摂津徴書に収めらる、其記録する所の事項之を記紀二典并に古風土記に対照するに、多少の異同ありて、而も現存の古書に伝へざる特異の事数条あり、神道家古史家の研究を要する者ならん。今地物関連の条項を下に抄出し、又諸州各地に分出する者あり。
 座摂津職住吉大社司解  申言上神代記事
   従三位住吉大明神大社神代記
  合
   住吉現神大神顕座神縁記
     座玉野国渟名椋長岡玉峡墨江御峡大神
        今謂住吉郡神戸郷墨江住吉大神
  御神殿四宮、第一宮表筒男第二宮中筒男第三宮底筒男、右三前、今三軍大明神、亦御名向※[櫃の旁]男聞襲大歴五御魂速狭騰尊、又速逆騰尊
  第四宮姫神宮御名気息帯長足姫皇后宮
    奉斎祀神主津守宿禰氏人者元手搓見足尼後
    神戸三百十四烟当国卅煙播磨国八十二煙長門国九十五煙ヽヽヽヽヽヽ煙
  斎垣内四至限ヽヽヽ道阪南墨江 ヽヽ海棹及限限北住道郷
  凡大神宮所在九箇処 当国住吉大社四前 西成郡座摩社二前 菟原郡社三前 播磨国賀茂郡住吉酒見社三前(戸三煙)長門国豊浦郡住吉忌宮一前 筑前国那珂郡住吉社三前 紀伊国伊都郡丹生川上天手力男意気続流住吉大神 大唐国一処住吉大神社三前 新羅国一処住吉荒魂三前
  部類神
   当国広田大神 筑前国橿日廟宮 糟屋郡阿曇社三前 播磨国明石郡垂水明神 紀伊国名草郡丹生※[口+羊]姫神子神
   座摩神二神(一名為婆照神)中臣住道神(須牟地)住道神 須牟地曾禰神 住道神(件住道神達八前)赤留比売命神(中臣住地神草津神)船玉神(今謂斎祀紀伊国紀氏神□神静□神伊達本社) 多米神須牟道曾禰神 止抒侶伎比売神 天水分豊浦命神奴能太売命神 津守安必登神二前(号海神) 難波生国魂神二前 下照売神昧早雄神 萱津神 長岡神 大蔵神 忍海神 伎人神 片県神 阿閉神 魚次神 田蓑島神 開速口姫神 錦刀島神 長柄神 武雄神(中略)
  四至 限東駅路 限南朴津水門 限西海棹及限限北住道郷
右大明神以顕現者、古昔天地未剖、(中略、大抵神代紀の旧文を引けり)三所大神、今謂墨江御峡大神、号称住吉大明神也、祷祓除縁、蓋自此時始也、(中略十四代足仲彦天皇、穴門豊浦宮御宇、
  在長門国豊浦郡北樹社今謂住吉斎宮
(中略)気息長姫天皇、韓神功天皇、第十五代、初居橿日宮、後居磐余稚桜宮、(中略)三軍神誨之曰、吾魂宜居大御栄大津、中倉之長岡峡国、便看獲往来船、因則以手搓足尼、被祭拝矣、難波長柄泊賜。胆駒嶺山登座時、奉寄甘南備山、大神重宣、吾欲住居地、渟名椋長岡玉出峡、(中略)即大神住賜国、如御意改号住吉国。(中略)大神宣、吾天野錦織石川高尾張胆駒甘南備山等、榊黒木土毛土産等荷前、及錦刀島物海藻、以此等物斎祀。(中略)皇太后語太子及武内宿禰曰、朕所交親百済国、是大神所授賜国也、非由人、故大神大社定、所奉斎祀之。或記曰、住吉大神、与広田大神、成交親、故有御風俗和歌、灼然焉、
 墨江伊賀太浮海末世住吉夫古
是即広田社、御祭時神宴歌也。
以前、御大神顕坐神代記、引勘已末年七月朔丙子注進、大山下右大弁津守連吉祥去以大宝二年壬寅八月廿七日壬辰定給本縁記等、依宣旨具勘注、所言上如件、謹以解。
天平三年七月五日 神主従八位下津守宿禰 鳥麿
        遣唐使
        神主従六位上 津守宿禰 客人
(507) 件神代記肆通之中、進官一通、社納一通、氏納一門一通二門一通、後胤各秘蔵、妄不可伝見、努力如前記請了。
 但客人家料也     鳥麻呂
            客人
  為後代験請判  津守宿禰屋主
 郡判依請
  擬大領外正六位下勲十一等津守宿禰知麻呂
   少領外従八位下津守宿禰浄山
   擬主帳 土師豊継
 職判依郡判
  従五位下行大進小野朝臣沢守
  正六位上行少進葛木水魚麿
  正六位下行少属勲十一等物部首
  従七位上行少属竪部使主
    延暦八年八月廿七日
按に神祇紀聞に「住吉社には縁起なし、勘文一巻あり、作者は津守国枝にて両部習合の書なり」と曰へり、其勘文と此解状は各別のものならん。解状に玉野国渟名椋《タマノクニヌナクラ》とあり、其一処には帯須比売乃命、自筑紫、難波長柄仁依坐互、大神御言以宣波久吾者|玉野《タマノ》国有、大垂海小垂海等仁祀所拝礼牟止宣」と録す、住吉郡は古名玉野国と呼び、垂海とは渟名椋の一名なるべし、豊島郡の垂水《タルミ》神も此より移したる者か。住吉神を三軍《ミイクサ》大明神と曰ふは然ることながら、向※[櫃の旁]男聞襲大歴五御魂速狭騰《ムカツノヲキクノソノオホフイツノミタマハヤサノポリ》尊とある亦名は神功紀の註の外に見えず、其義不詳、紀州丹生川上神を天手力意気続流住吉大神と称するも他に聞見なし。大唐国新羅国に此神の祀殿ありし由を録せるは、韓国服属の情勢を証明する一要件と為すべし、但大唐とは漢土の謂にあらず、古史に大伽邪又大駕洛に作る所の任那の日本府所在の地を指すのみ。今も摂社に鉾御前楯御前《ヘホコノミサキタテノコサキ》の神あり、韓国征伐の軍神なりし故と知るべし。
 住吉の御前の沖の汐合にうかび出たる淡路島山、〔新葉集〕
   建久六年、将軍家(頼朝)以梶原平三景時為御使、令奉幣住吉給、被奉神馬、景時参着社頭、註和歌一首於釣殿之柱云々、〔東鑑〕
 我君のたむけのこまを引つれて行末とほきしるしあらはせ、
 天くだるあら人神のあひおひをおもへばひとし住吉のまつ、〔拾遺集〕       安法 法師
 西の海やあをきが原の汐ぢよりあらはれ出でし住吉の神、〔続古今集〕       卜部 兼直
 我見ても久くなりぬすみのえの岸の姫松いくよ経ぬらん、〔古今集〕住吉の岸の松が根うちさらしよせくる浪の音のきよしも、〔万葉集〕住吉にいつく祝が神言にゆくともくとも船ははやけむ、〔同上〕
   海浜神祠(住吉祠)     藤  為時
 晴沙岸上暮江干、欝々林蘿陰社壇、応是神心嫌苦熱、浪声松響夏中寒、〔本朝麗藻〕
 すみのえや花ともいはず松の春、    蓼太
歌道者流住吉神を和歌三神の一と為し神詠あり、新古今集に録せり、之に依り又|行合森《ユキアヒノモリ》と称す。
 夜やきむき衣やうすきかたそぎの行合の間より霜や置くらん、〔新古今集〕風通ふかたへに露やこぼるらん夏とあきとのゆきあひのもり、〔歌枕名寄〕
源平盛衰記云、凡和歌は国を治め人を化する源にして、心を和げ思を遣る基也、只住吉玉津島のこの道の崇神たるのみにあらず、伊勢石清水加茂春日より始め奉り、託宣の詞は皆夢想の告、何れも歌に非るはなし云々。是は中世の歌神と云ふ義の釈なれど、後世には三神三聖などいふこと起り其説煩しくなりぬ。又歌道の諺に住吉の三忘と云事あり、其本歌は忘貝忘草忘水なり、
 いとまあらば拾ひにゆかん住の江の岸によるてふ恋忘貝、〔万葉集〕
 住よしと海士はいふとも長居すなひと忘草生ふと云ふ也、〔古今集〕         忠峰
 住吉の浅さは小野の忘水たえ/”\ならであふよしもがな、〔詞花集〕        範経
補【住吉社】〇晩花集 住吉の祠に奉りける百首の歌の中に、呼子鳥
 住吉のなごしの岡のよぶこ鳥なにゝよるべき海人のつり舟  下河辺 長流〇 〔神祇志料、脱文〕
 按、一代要記孝謙天皇宝字二年始て住吉社を造ると云は修造の事を指に似たり、附て考に備ふ
欽明天皇御世、使を遺して住吉神を祠らしむ、新羅を征け給はむとするを以て也(釈日本紀引天書)天武天皇十三年行幸して神田三十町を奉て御酒料に充給ひ、(色葉字類砂)朱鳥元年七月幣を奉り、
 按、本書蓋天皇御病の祈り也
持統天皇六年五月幣使を遣して新宮を造る由を告し、(日本書紀)文武天皇慶雲元年七月幣帛を奉り(続日本紀)称徳天皇天平神護元年宮を造らしめ給ひ(色葉字類秒)桓武天皇延暦三年六月辛丑、正三位住吉神を勲三等に叙し、十二月丙申従二位を賜ひ(続日本紀)八年本社に行幸あり、住吉行幸蓋此に始る(帝王編年記)平城天皇大同元年四月丁巳、遣唐使の御祈に依て従一位を授く(日本後紀・日本紀略)凡そ此後蕃国に使する者必幣帛を奉て船舶の恙なき事を祈り白しき(参取続日本紀・延喜式・万葉和歌集大意)是歳摂津、丹波、播磨、安芸、長門地二百三十九戸を神封に充奉り(新(508)抄格勅符)嵯峨天皇弘仁三年六月辛卯、勅して本社正殿の外破るに従て修理るを永例とす、二十年毎に改作る時は甚弊あるを以て也(日本紀略)仁明天皇承和六年八月己巳、神祇少副大中臣朝臣磯守等をして幣帛を奉り、遺唐使の事を祈らしめ(続日本後紀)文徳天皇嘉承三年九月乙未、宝幣を捧げて宿祷を賽し(文徳実録)清和天皇貞観元年七月、神宝を捧げ、九月庚申幣帛を奉て雨風を祈り、八年四月又神財を奉らしめぬ(三代実録)十三年五月、筑前封戸の調庸綿、毎年太宰貢綿使に附て神社に輸送り、祭事の闕乏を致す事なく制給ひき(三代実録、類聚三代格)醍醐天皇延喜の制、並に名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る、凡そ神社正殿二十年毎に改造らしむ、其料は神税を用ふ、如し神税無ければ即正税を充つ、長門封税は封戸の徭夫を以て之を運ばしめ、其余功は徭分を進て社を修るの料とす、但し豐浦郡封戸徭夫は留て御蔭社に充つる(延喜式)円融天皇天元五年七月庚寅朔、音楽走馬十匹を奉り(西宮記・小右記)一条天皇正暦五年四月戌申、中臣氏人を宣命使として疫疾放火の変を祈り(本朝世紀、参取日本紀略)寛弘七年閏二月己末、明年三合厄に当ると云を以て神宝東遊を奉り、後一条天皇長元七年三月癸未、二十年一度遷宮に依て神財を奉り給ひき(日本紀略)凡そ其造営には神祇副を使とす(西宮記)白河天皇延久五年二月甲午、上皇及陽明院本社に幸し(扶桑略記・一代要記)応徳元年九月己酉、皇太后住吉社に詣給ふ、関白藤原師賢以下公卿之に従ふ(扶桑略記・帝王編年記)
 按、編年記五年八月に繋く
鳥羽天皇永久二年十二月戊午、遷宮に依て神宝を賚す、人夫百人を召し神宝及神服四具唐鞍一具神馬一匹を奉り(中右紀)〔以下脱文〕
 
 
 
 
〇人名辞書 津守国夏は住吉の祭主を襲ぎ、嘉暦中摂津守を授けらる、帝北条高時を討つ、国夏に勅し平定を祈らしむ、高時滅びて従三位に進めらる、正平七年草駕将に京師に帰らんとして住吉に至り、国夏の宅に御すること十八日、因て進めて正三位に至る、国夏頗る和歌及び笛を善くす。大日本史 正平六年足利尊氏及議詮降、七年二月二十三日庚子、車駕発賀名生至東条、云々、廿八日壬寅、至住吉、御神主津守国夏家(園太暦・太平記、〇太平記作二十七日)
   中納言家成住よしにまうでて歌よみ侍りける時よめる
 神代より津守の浦に宮居して経ぬらむ年のかぎり知られず (千載集)        大納言隆季
〇日本戦史 冬の役、十一月五日高虎陣を進め住吉神社を背にす、日く此地東に池あり、西に丘陵あり、後に松林あり、敵我兵の多寡を知り易からずと、阿倍野道に面し間牒をして敵地に放火せしむ、十七日家康関屋越より住吉に至り、祠官津守某が家に入る。
 
玉出《タマテ・タマツ》島 住吉本社の西北に在り、卑丘島状を為す、大海《タイカイ》神鎮座す。大海神は延喜式に元名|津守安人《ツモリノアラヒト》神二座と録す、安人は現人の訛なるごとし。天平宝字三年垂水神摂津二戸を寄奉り、天平神護元年備中二十戸を加奉る、〔新抄格勅符〕延喜の制住吉大神と同く八十島祭に預る、天暦二年祭使を住吉海神に遣し給ふ即是なり。〔日本紀略〕〇神祇志料云、海神は蓋豊玉彦命豊玉姫命を祭る、今一棟三座ありと曰へり、按ずるに住吉大神一名|少海童《ワカワタツミ》神と云ふ事神代紀に載せたり、然らば海神此に其苗裔豊玉彦媛二神を指し後世彦火々出見尊を配祀したる者の如し云々。〇名所図会云、住吉社記玉出島は神宝満珠干珠を蔵めたる所也、一説|遠里小野《ヲリヲノ》の南三町許圃中に玉手箱塚あり、土民之を崇め登陟を禁ず。(今按に此は岩手《イハデ》又岩出杜と唱へし所なり、地中より石などの出し処にや)
 君がため玉出の岸に和ぐる光りの末はちよもくもらじ、〔新拾遺集〕        津守 国平
又按に海神二座を此に現人神と云ふは住吉大神の荒魂を殊に祭るならん、然れども其三座と曰はざるは不審なり、八十島祭の海神二座垂水神二座、住道神二座此諸神皆住吉神に同じきに二座と為すは別に緑由あることか、住吉太神宮年中行事云、九月晦日、玉出島御祓神事、御供備進、神輿一基出御、玉出者当社第一之秘区也、故於此祓禊」と、荒魂出現の寓意か。〇延喜式、住吉郡生根神社、今玉出島の北一町許に在り、俗に天神宮と呼ぶ。〔名所図会〕
補【大海神社】〇神祇志料 大海神社二座、今住吉神社の西北玉出島の上にあり、之を住吉摂社とす(摂津志・名所図会)蓋海神豊玉彦命豊玉姫命を祀る(参取日本書紀・大海社記・住吉社記)
 按、住吉社記云、本社一棟三座あり、塩土老翁豊玉姫命彦火々出身尊を祀る、一説に豊玉彦命一座を祭る、附て考に備ふ
田裳〔見〕宿禰の裔津守氏世々本社の社司たり(神名帳考証・住吉神社考)仍て本社又旧名を津守氏人神と云ふ、醍醐天皇延喜の制、住吉神と同じく八十島祭に預る(延喜式)村上天皇天暦二年七日壬子、祭使を住吉海神に遺し給ふ、即是也(日本紀略)凡そ六月晦祭を行ふ(式社考証)
 
磐出《イハデ》 又|八十島《ヤソシマ》とも云、即|玉出島《タマテシマ》同地にして八十島祭ありし所とす。元真集に「いてはの八十島に舟にのりて人あそぶ」と云題画の歌あり、いてははいはての錯置なるを八雲御抄にも出羽と註せられしは誤なるべし。名所補翼抄に夫木集重之の歌を引き(509)此一首「侍従乳母紀伊へ下りける時、餞せさせ給ふとて」とある由を挙げたるは善き思考なり、然るに猶いづこと定めず、今は判断して住吉の玉出島に充つ。勝地吐懐編にも夙に津国磐手杜は住吉の末社ならんと云へり。今三島郡に安満《アマ》社を磐手森とも呼ぶに拠れば、住吉の裔神玉出島などを古は磐手森とも呼べるを知る、安満は海に通ふ即大海神の杜なり。
  いては(いはて)の八十島に舟にのりて人あそぶ
 八十島の浦のなぎさにかぞへつゝとまれるとしもあまた経ぬべし、〔元真集〕
   侍従乳母紀伊へ下りける時餞せさせ給ふとて
 八十島の松の葉数をかぞへつゝ今ゆく末にくらべてしがな、〔夫木集〕       重之
 人しれず思ふ心のふかければいはてぞ思ふ八十しまの松、〔夫木集〕        謙徳公
未なる謙徳公歌最証とするに足る、猶八十島祭の事は玉造《タマツクリ》の生玉神社址参考すべし。〇按に八十島祓所は即磐出森なり、旧説紛々として帰著せざれど、古今秘註に「堀江東有沢廻一万歩許名八十島」とあるに拠れば、古へは生玉の辺に在りしこと、生玉社址の下に述べしごとし。然れども何れの世よりか住吉に移さる、袖中抄「住吉の浜のこなた」とある是なり、且江家次第に「到難波津、宮主作壇(中略)禊了、以祭物投海、次帰京」とあるも、投海は住吉の事なるべし、生玉堀江にては相当らず。下なる歌詞にも住吉なること著明なり、蓋古風土記に堀江とあるは平城京の頃までの旧禊祈と為すべきに似たり。
   後白河院の御時、やそ島の祭に住吉にまかりてよめる、
 住の江に八十島掛て来る人や松を常盤の友と見るらん〔新拾遺集〕         隆季
   住吉の行宮におまし/\ける頃人々いろ/\心ばへをつくして、風流の破子ども奉りける中に、神主国量八十島祭のかたを造りて奉りけるを、御覧じて、
 みそぎする八十島かけていましめや液治まれる時は見えける、〔新薬集〕      後村上院
 
船玉《フナタマ》神社 住吉の摂社にして、本祠の南に在り、延喜式に列す。続紀「天平宝字七年、初遣高麗国船、名曰能登、帰朝之日、風波暴急、漂蕩海中、祈曰幸頼船霊、平安到国、必請朝廷、酬以錦冠、至是縁於宿祷、授従五位下、其冠製錦表※[糸+施の旁]裏、以紫組為嬰 この船霊神蓋此也。延暦八年解状に船玉神の下に「今謂斎祀紀伊国紀氏神□神静□神伊達本社」と注したり、其故を知らず、紀伊の紀氏神伊達神等を船霊と為して祭ると云ふ意ならん、今俗熊野大神をば船玉十二社などと呼ぶも紀伊に相因めど不審。
 
長岡《ナガヲカ》 今長岡山と云ふ、立聞《タチキキ》神と称する叢祠あり。長岡は蓋沼名椋之長岡前の謂にして、延暦八年解状にも部類神の中に長岡といふあり。
 
侍者前《オトモノサキ》 住吉神主の祖田裳見宿禰の祠あり土俗地主宮と呼ぶ、宿禰初て住吉大神に奉侍し子孫世襲して其職を墜さず、号して津守と曰ふ、蓋祭政一致の古代に在りては、祠官津吏之を相兼ねたればなり。住吉浦一に津守浦と称す、津守郷(大坂西成郡)参看すべし。
 神代より津守の浦にみや居して経ぬらん年のかぎり知らずも、〔千載集〕       隆李
 
住吉行在《スミヨシノアンザイ》址 後村上天皇、正平中住吉神主国夏の宅を以て行在と為し臨御数年にわたり、恢復の軍政を此に視たまへり、当時号して住吉御所《スミヨシゴシヨ》と曰ふ。津守神主の家は大宮の巽に在り、御所蓋其地なり。又慶長十九年十一月大坂役に東軍先鋒藤堂高虎大和国より小山(南河内)大仙山(泉北郡)に進み、十一月五日住吉森の北に陣す、十七日徳川家康住吉に至り津守神主の家に営す。
南山巡狩録云、正平七年新帝吉野賀名生より住吉神主の家に御移、やがて京師恢復ありしが果さず。十五年再此地に駐輦し給ふ、抑正平十四年十二月東国の畠山の勢など河内国まで責入て天野の行宮もあやふく見えさせ給ひければ、観心寺に遷幸ある、其頃信濃国に御坐ありし宗良親王にも勢をつけて責上るべきよし仰せ遣はされしならん、しかるにとかく宮の仰にしたがふ兵もすくなく、上洛し給はん事遅なはりける内に十五年五月おもひのほかに敵はしりぞき、北方にて仁木畠山が乱起りしかば官軍京へ乱入し、主上も都ちかき住吉まで行幸あり、祈にふれては京を襲ひ給はん御はかりごとをめぐらされけると見えたり。同じ頃にや住吉の行宮にて泰成親王うまれ給ふ、権大納言公旨卿「住よしの松よりすだつ鶴の子の千とせはけふや初なるらん」と詠じたりける、この泰成親王はのち太宰帥宮と申す。李花集曰、正平十五年、東国の凶徒ども河内国にせめ入て行宮も危く聞えしかば、何ともしてひと所へなど思ひ侍りしかどもふとはかなひ侍らで、心苦しう聞え侍りし、程なうもとの如くにうちしたがへられて、剰へ御入洛有べきにて住吉へ移ろはせ給ふほど、信濃よりとく力合てせめ上るべきよし仰られしに、秋冬迄に成ければおそく侍るとて「いつ迄か我のみひとり住吉のとはぬ恨を君にのこさむ」と仰られしかば、御返事に奏させ侍りし「わがいそぐ心をしらば住吉の松久しきぞ恨みざらまし」。又云、正平十五年九月車駕河内国東条観心寺より住吉にうつされ、津守が舘を皇居とせらる是もまた園太暦太平記等に明らかなり、皇太子は彼(510)所にわたらせ給ひし事はなく吉野山或は観心寺金剛寺などに居給ふとみえて、後亀山院住吉にてよませ給ひし御製新葉集に所見なし。又後村上院正平廿三年崩御の地は住吉なる事を花営三代記鳩嶺雑事記などに見ゆるうへは疑ふべきにあらず、然るに住吉詣記に「正平十九年四月上旬、足利義詮津の国難波の浦をみん為に船にのり逍遥し給はんと兼てはおもはれしが、世の乱を思て住吉の社のみにもうでられこゝに一夜をあかし都へ帰り上り給ひける」と見ゆ、稍不審なり。案ずるに此時住吉の津守の館は南朝の行宮として諸臣下此処にすまゐ給ふことあきらかなりされば足利義詮住吉にもうでらる、と云事甚いぶかし、時勢はかりがたければ実に間行して此社に来り一夜をあかし申されけるか、測るべからず。〇鳩嶺雑事記云、応安元年三月十一日、住吉御所崩御、御年四十一。(河内国天野観心寺を参看すべし)
神宮寺は住吉の北に在り、旧号新羅寺と云ふ、本尊薬師は秘仏なり、今天台宗を奉ず。〔名所図会〕元亨釈書云、明遠住吉人、天慶三年、於住吉神宮院、降藤純友、修昆沙門法、明年五月伏誅。〇繁昌詩云、住吉舞、是為神宮寺之僧徒、呼投十二穴、立門前奏其伎、僧凡四五人、皆戴菅笠、々檐垂尺余〓巾、著白衣、揮白扇、一老僧拏大傘、執竹片、叩傘柄唱和、以按節、三四僧揚手躍身、環舞於傘下焉、其歌曲不能知為何語、唯記峰姫松之語也、柳湾有詩曰、
 現来街上※[口+斗]花身、莫是西天古応真、阿難唱歌迦葉舞、于今瞞殺満城人、
補【住吉御所】〇鳩嶺雑事記 応安元年(即正平廿三年也)三月十一日、住吉御所崩御(御年四十一、奉号後村上院)
 
浄土《ジヤウド》寺 住吉社の東に在り、応徳元年津守神主国基開創、堀河天皇の勅願所なり、文応年中僧叡尊中興、真言律宗を奉ず。〔名所図会〕〇新葉集、正平十八年八月先帝かくれさせ給ひしより廿五回忌にならせ給ひければ、住吉行在に於て摂津国荘厳浄土寺にて御八講を行はれける、夜に入て月くもりて侍ければ主上かくぞ詠じ給ひける「秋を経て月やはさのみ曇るべき涙かきくるいざよひの空」。
 
出見浜《イデミノハマ》 住吉森の西に松林あり、細江浅沢《ホソエアササハ》の水林際を過ぎ海に入る、此辺を出見浜と呼ぶ。住吉の献火高燈籠あり、何の世より設けたるにや海上標識の用を為し、海神の誓にかなひ、最興趣あり。 住吉の出見浜の柴なかりそねをとめらが赤裳のすそのぬれて行かむ見ゆ、〔万葉集〕
 
敷津《シキツ》 住吉出見浜の西の新洲也今敷津村と名づく、其洲土全く近代の附縁《ツケヨリ》に成る、古の敷津浦は即此地にして墨江津亦同じ。敷津村の北西角に突堤あり、木津川の川口にして燈明台を置く、天保山を北西に視、相距ること凡四十町。
 住吉の敷津の浦の名のり藻の名は告てしをあはぬもあやし、〔万葉集〕
 
粉浜《コハマ》 紛浜村は住吉村の西北に接す、(如何なる故にや今西成郡に属す)又|粉洲《コス》とも称す。
 住吉の粉浜のしゞみあけも見ずこもりてのみや恋わたりなむ 〔万葉集〕
 住よしのこすのとこなつさくも見ずかくれてのみや恋わたるらん 〔夫木集〕
 
勝間《カツマ》 今|勝間《コツマ》村と云ふ、紛浜村の北にして阿倍野天下茶屋の西なり、紛浜勝間二村西成郡に隷すれど地理の当然に非ず。〇勝間は或は木妻《コツマ》に作る、按ずるに筑前国|志賀島《シカノシマ》にも勝馬《カツマ》村あり、堅間《カタマ》とは古語籠を云ひ又転じて舟を称す、その訛れる也。細川両家記云、享禄四年常植勢は淀川を越し欠郡中島へ陣替し、先陣は住吉のこつまに陣取るを、阿州衆堺より押よせ切勝て、天王寺今宮木津難波に陣取。
 思ひ出よ千代の子の日のけふごとにかつまの浦の岸の姫松、〔名寄〕
 
余戸《アマリベ》郷 和名抄、住吉郡余戸郷。〇是は榎津郷の余戸にして、今粉浜勝間の二村なるべし。(大社解状の北住道郷と云に当る)
 
浅沢《アササハ》 住吉社の南に一条の窪地あり、東南依羅池に連る、今開きて田と為し細流存す、古歌に浅沢の野とも沼とも詠ず。(墨江村に属す)
 墨吉の浅沢小野のかきつばたきぬに摺つけきむ日知らずも、〔万葉集〕さみだれに浅沢沼の花かつみかつみるからにかくれ行くかな、〔千載集〕
   長唄住吉詣
 住吉へ一筋道ぞ梅の花、雪かと見れば晴れわたる、日本橋すぢ永き日に、春の景色の浦々と、背中たたいて此神は、いつの御代より今宮の、此も新家《シンケ》と誰がたてそめて、天下茶屋、のぼりやすな、すな砂つづみ、どうで嫁入にや打たるゝ身ぢやに、石の鳥居のおお門出もよし、岩田帶して誕生石の、殿はなほよし姫小松でも、千代や引らん万代や経ん、(住吉の誕生石は俗説島津忠久の故跡とす)
 
安立《アリフ》 住吉村の南に接し、(泉州堺市の北)大和川に至る一条の駅舎を安立町と呼ぶ。此地古は阿良札松原と称したり、姓氏録、摂津国諸蕃に「荒荒公、任那国豊貴王之後也」と見えたるも此地の名によれる姓なるべし、玄与日記に慶長二年云々「住吉の塩千を待侍る、住吉の行合の間|細江《ホソエ》あられ松原津寺遠里小野など見侍りぬ」と見えたるを思へば、其比まで(511)も名の遺れるなり。
 あられ打つ阿良札松原住の江のおとひをとめと見れどあかぬかも、〔万葉集〕
   住吉の御前の橋より、松原に出て浜のわたり逍遥して、和泉の堺にまかりこゆとて、路すがら名ある所ども、云尽すべくもあらぬ見物なり、霰の松原と云所を過ぐとて、見れば世の常の松のはにも似ず、吹き枯らしたる様に見え侍れば
 木がらしの吹しほる色と見るばかり名にあらはるゝあられ松原、〔高野詣日記〕    三条西実隆
日本紀略「延喜三年、摂津国荒々神授位」又延喜式「住吉郡天水分豊浦命神社」と。神祇志料、水分社は今安立町に在りと曰へば、荒荒神は水分神の別名にあらずや。
補【三宅門神】〇神祇志料 三宅門神、荒荒神、按、島上郡三宅村あり、住吉郡住吉安立町に霰松原あり、疑らくは夫地ならむ、附て考に備ふ
醍醐天皇延喜三年五月十九日、摂津国三宅門神、荒々神、並従五位下を授く(日本紀略)
 
遠里《ヲリ・トホサト》 今|墨吉《スミノエ》村是なり、大字|遠里小野《ヲリヲノ》存す。本|遠里小野《トホサトヲノ》と称したる地なり、中世|瓜生《ウリフ》野と称し因て旧字に就き訛りて速里《ヲリ》と為る。旧境は大和川以南、浅香山百舌鳥野に至る。住吉の遠里《トホサト》小野の真榛もてすれるころもの盛りすぎぬる、〔万葉集〕待宵や遠里小野の油うりつらきはけさの波こうの声、〔夫木集〕
名所図会云、遠里小野の榛実を以て油を絞り住吉の燈火に供す、また沢口村(今墨江村に属す)若松神は延喜式住吉郡止抒侶支比売神社にあたる、社頭に轟池ありと。按ずるに筑紫の方言涌泉を轟と名づく、神功紀にも跡驚の語ありて涌泉を指せり、此止抒侶伎の池は蓋浅沢の一源か。
 
爪生《ウリフ》野 遠里小野《ヲリヲノ》に同じ、太平記には両様に記したり、曰「光厳院法皇難波の浦を過させ給ふに、御津の浜松霞わたりて曙の気色物あはれなれば、遙に御覧ぜられて
 誰まちて御津の浜まつかすむらんわが日の本の春ならぬ世に
と打ちなみだぐませ給ふ、住吉の遠里小野《ヲリヲノ》へ出させ給ひたれば焼痕回緑春容早、松影穿紅日脚西なり。」
又曰、正平二年九月の頃、河内国藤井寺の合戦に細川陸奥守顕氏無甲斐打ち負け引き退きし後、十一月二十五日山名伊豆守時氏細川陸奥守顕氏を両大将にて、六千余騎を住吉天王寺へ差下さる、楠帯刀正行是を聞きて廿六日の暁天に五百余騎を率し先づ住吉の敵を追出さんと、石津の在家に火をかけて瓜生野の北より押よせ之をかけやぶる。
補【瓜生野】〇太平記〔重出〕〔廿五、住吉合戦事〕〔正平二年十一月〕同二十六日の晩天に五百余騎を率し、先住吉の敵を追出さんと、石津の在家に火を懸て、瓜生野の北より押寄たり、云々、大手の大将山名伊豆守(中略)千余騎にて、唯今馬煙を挙て進たる先駆の敵に懸合せんと、瓜生野の東に懸出たり。〔三十九、光厳院禅定法皇行脚御事〕摂津国難波浦を過させ給ふに〔云々、和歌略〕是より高野山を御覧ぜんと思召て、住吉の遠里小野へ出させ給たれば、焼痕回緑春容早、松影穿紅日脚西なり、海天野景歩に随て新なる風流に、御足たゆむ共不被思召。
 
来目《クメ》 日本書紀清寧巻に「難波来目邑|大井戸田《オホヰトダ》」とあり、摂津志は遠里小野の旧名を来目と云ふと曰へり。
 
磯歯津《シハツ》 日本書紀、雄略巻云、身狭村主青等、共呉国使、将才伎、泊於住吉津、是月為呉客、通磯歯津路、名呉坂。
 四極山《シハツ》うち越見れば笠縫の島こぎかくるたななし小舟〔万葉集〕千沼回《チヌワ》より雨ぞふりくる四八津のあま網手綱ほせりぬればたへんかも、〔同上遊覧住吉浜、還宮之時、応詔作歌〕
古事記伝云、磯歯津は万葉集に四八津の白水郎を和泉千沼海と読合せたり、住吉津と相近し、住吉の東なる喜連村は呉《クレ》を訛りたる者と云ふ、住吉より喜連へ行く間にひくき岡山の横たはりてあるぞ四極山にて、呉坂は此なるべし。〇按ふに磯歯津詳ならず、古事記伝に住吉喜連の間に坂ありと云ふも、住吉の東八町許に地勢稍高まれど坂と云ふべき者なし。書紀通証云、住吉一名磯歯津。
 
大羅《オホヨサミ》郷 和名抄、住吉郡大羅郷、訓於保与佐美。〇今|依羅《ヨサミ》村是なり。河内国にも依羅郷あり、今大和川を隔てゝ天美《アマミ》村と曰ふ、天美の西に接する五箇荘村も本郷の領域なり、大和川疏通後地勢懸絶するを以て今和泉国に隷す。〇依羅氏数流あり、姓氏録「摂津皇別、依羅宿禰(日下部同祖)彦坐命之後也」これぞ大依羅氏なるべし、物部依羅氏と百済依羅氏は河内を本土とす、大依羅は姓を吾孫《アヒコ》と云ふ、網曳の義か。日本紀神功征韓の条に「以依綱|吾彦《アヒコ》男垂見、為祭神主」と見ゆ、其氏人国史に散見す。
補【大羅郷】住吉郡〇〔和名抄郡郷考か〕大羅、於保与佐美、神名式大依羅神社四座。今按、三代実録貞観元年九月大依羅神とあり、是は例の二字に定まりしより大羅となりたることいちじるし、節用集にも大羅あり。塩尻引摂陽群談云、依羅住吉郡庭井村大依羅神、式内四座名神大の社也、大己貴命の孫天八現津彦神を祀る、(512)吾孫氏の神也、仁徳紀に依羅氏|阿弭古《アヒコ》云々、是神功皇后紀に所謂依網吾彦と同じ、今吾孫子村あり、或は阿孫子とも書り。拾遺患草、住吉并依羅社に求子の歌よみてたてまつるべきよし祀官申しかばたてまつりし、「住よしの松のねあらふしき波にいのる御かげは千代もかはらじ」「君が世はよさみのもりのとことはに松と杉とやちたびさかえん」崇神紀六十二年冬十月、造依網池。応神紀十一年、瀰豆多摩廬予佐瀰能伊戒珥奴那波区利。推古紀十五年河内国依網池。今按、承徳二年古図に住吉社の南にあたりて阿弭古依網神社ありて、其東に依網池といふもあり。摂津志、依羅池在住吉郡庭井村、俗呼仁衛門池、其三分二為新大和川、当今広六百六十余畝、崇神天皇六十二年冬十月造。
 
大依羅《オホヨサミ》神社 延喜式、大依羅神社四座、并名神大、預入十島祭。本社今依羅村大字|庭井《ニハノ》に在り。神祇志料云、蓋依網我孫の祖建豊波豆羅別王を主とし、住吉三前神を配祀す、〔古事記姓氏録大意〕息長帯姫命蕃国を伐給ふ時住吉神の和魂は御身に服て寿命を守り荒魂は先鋒として師船を導奉らむと教給へるに依て、依網吾彦男垂見を神主として拝祀らしめき。〔日本書紀〕称徳天皇神護元年摂津備前十八戸を神封に充奉り、〔新抄格勅符〕仁明天皇承和十四年七月依羅神社を修造り官社に預らしむ。〔続日本後紀〕〇古事記、伊邪河宮(開化)段云、御子建豊波豆羅和気王者、依網之阿毘古等之祖也。按ずるに建波豆羅別は彦坐命の弟にあたる、姓氏録と少異あり、此依羅神に児孫を祈り奉る由は定家卿集にも見ゆるが、其起因は神功皇后の故事なるべし。本紀云、大神(住吉)有海曰、和魂服玉身、而守寿命、因以依網吾彦男垂見、為祭神主、于時也適当皇后之開胎、皇后則取石、挿腰而祈之。
   依羅社に求子の歌よみてたてまつるべきよし、神官申しかば、たてまつりし、
 君か世はよさみのもりのとことはに松と杉とやちたびさかえん、〔拾遺愚草〕
 
依網池《ヨサミノイケ》 今依羅村に僅に存す、其池址は大依羅社の西南新大和川の堤畔に在り。蓋宝永年中新大和川を此に導く以前には狭山川の水依網池に瀦し、西に屈折して住吉の浅沢と為れり、古今の変遷あり。摂津志云、依羅池在庭井村、俗呼仁右衛門池、其三分二為新大和川、当今広六百六十余歩。名所図会云、依網池古人崇て御衣網《ミイモウ》と称し、今は仁右衛門池と曰ふ。〇日本書紀、崇神天皇詔曰、農天下之大本也、民所特以生也、其多開池溝、以寛民業、造依網池狭山池等。又応神紀の歌に「みづたまる予佐瀰能伊戒にぬなはくり」の句あり。〇古の依網池の末は、住吉浅沢の流と為る者の外に、北流する者は長居池と為りし如し。
草津大歳《クサツノオホトシ》神社は延喜式住吉郡に列す、今依羅村大字|苅田《カリタ》に在り年頭天王と称す、(摂津志〕依網池の北にあたる、〇努能太《ヌノタ》神社は延喜式住吉郡努能太比売命神社、今依羅村大字杉本に在り、依網池の西に接す。神祇志料云、杉本村に奴能太と唱ふる塚あり、本社の旧墟なり、又野々田池其傍に存すとぞ。
補【草津大歳神社】〇神祇志料 草津大歳神社、今住吉社の南刈田村にあり、住吉摂社とす(摂津志・名所図会)蓋大年神を祭る(古事記・延喜式)醍醐天皇延喜の制、祈年祭鍬靱を加奉る(延喜式)凡そ六月八月十一月の十六日を以て祭を行ふ (大阪府式社考証)
補【努能太神社】〇神祇志料 努能太比売命神社、今杉本村野々太池側にあり(摂津志・式社考証)
 按、式社考証云、奴能太と唱ふる処に凡そ十五坪余の家ありて、古来より神社ありしが、今本村氏神の家ありて、古来より神社ありしが、境内に引移せりとみえ、又奴能太家図を見るに、家の四面田畝の字何れも野々田とあり、努能太神社の古址なる事明らか也、附て考に備ふ。
 
我孫子《アビコ》 今依羅村の大字と為る、依網池の北西にして依網の氏人の故里なるべし。姓氏録「摂津国地祇、我孫、大己貴命孫天八現彦之後也。」「摂津国未定雑姓、我孫、豊城入彦命之男大網多之後也」「左京皇別、大網臣、豊城入彦命六世孫下毛君奈良弟真若君之後也」と、大網は即大依網の謂なり。続日本紀、天平勝宝二年、住吉郡人依羅我孫忍麿等、賜姓依羅宿禰、神奴意岐奈祝長月等、賜姓依羅物忌。〇大聖寺観音堂、この里中に在り。
 
寺岡《テラヲカ》 依羅村大字寺岡は吾孫子の北十町許、東丘に臨南寺在り。〇延喜式、住吉郡多米神社。姓氏録云、多米宿禰仕奉於大炊寮、御飯香美、特賜嘉名。書紀通証云、多米神、今在寺岡村西苗見杜、称多禰加志宮、今荒廃。
 
長居池《ナガヰノイケ》 今依羅村寺岡の北より田辺村の西にあたり狭長の池塘存す、蓋是なり。〔名所図会〕南北凡十八町東西二町許、古は依羅他の末流寺岡に至り一派を分ち此に匯し、更に(今猫間川筋)玉造江に向ふて流れたるならん。千載集に長居浦と詠たるも此か、(名所大絵図には百《モモ》が池と標す)
 すめらぎの長居の池に水すみてのどかに千代の影ぞ見えける、〔堀河後百首〕     肥後
 霜さえて小夜も長居の浦さむみあけやらずとや千鳥鳴らん、〔千載集〕        静腎
 
杭全《クマタ》郷 和名抄、住吉郡杭全郷、訓久末多。○杭全は中世|闕《カケ》郡に入りたる事あり、今|喜連《キレン》村平野郷町是也、古事記伝云、倭建命御子、息長田別王之子、杙俣《クヒマタ》長日子王あり、杙俣は地名にて摂津国に見ゆ。
(513)補【杭全郷】住吉郡〇〔和名抄郡郷考か〕杭全、久末多。節用集、杭全。摂陽群談闕古名村といふ中に挙たり。今按、此郷河内郡に入りたるにや、細川両家記永禄二年六月廿九日に南河内喜連杭全と云処へ三好方又陣替也云々、又欠郡内喜連杭全と云所ともあり。
 
喜連《キレン》 今喜連村と曰ふ、平野の南に在り喜連《キレン》は古名|呉《クレ》の転にて今は喜連《キレン》と呼ぶ。細川両家記に永禄二年六月南河内喜連杭全と云処へ三好方また陣替也、又欠郡内喜連杭全と云所など見ゆ。戦国畠山細川の争奪の比は此地闕郡に入り河内に属したりと見ゆ、地勢亦疑似の所に居れり。〇延喜式、住吉郡楯原神社、今喜連村の西に在り天神と称す。〔摂津津志〕
 
伎人《クレ》 古事記伝云、住吉の東二里許に喜連《キレ》村と云あり、河内の堺なり、昔は河内に属て万葉集に河内国伎人郷とある所なるを久礼を訛りて喜連とは云なり、孝謙紀三代実録などに伎人堤《クレノツヽミ》とあるも此所の事なり。〇按に旧事本紀、宇摩志麻治命十三世孫、物部呉足尼と云人あり依羅連の祖と註す、呉宿禰は蓋此地の在名とす。摂津志に喜連郷は今の平野なりと云へり、万葉集河内国伎人郷後世に転じて本州に入り杭全と改称したるにや。又摂津志に万葉の歌
   天平勝宝入歳、於河内国伎人卿馬史国人之家、宴歌
 にほ鳥の於吉奈我何波は絶えぬとも君にかたらむ事つきやも
を引き息長《オキナガ》河を此地に載せたり、息長河他に聞えず、近江国には同名の地あり。伎人を久礼と訓ずるは、往時投化の呉人は皆才伎を以て当代に称せられければ也。
 
呉坂《クレノサカ》 日本書紀、雄略巻云、身狭村主青等、共呉使、将才伎、泊於住吉津、為呉客道、通磯歯津路、名呉坂。〇古事記伝云、住吉より喜連へ行間の岡なるべし、今も古代の通路と云伝ふ。
 
平野 今平野郷町と云ふ、大坂市を距る事二里、人口八千、大和に通ずる鉄道車駅なり.郷中古より工匠多く、紡績は※[木+巣]車を用ひし往時より殊に盛なり、龍華《タツハナ》川其東を繞り北に流る、一名|百済《クダラ》川又平野川と曰ふ。
夏陣の平野合戦の事は日本戦史云、元和元年五月徳川家康は七日の暁天を以て河内の枚岡を発し、片山道明寺の戦場を巡視し、十時頃平野に至る将軍秀忠来会す、乃ち桑津に向ふ、日已に午に近し、秀忠急に岡山に向ふ家康も住吉に向ふ、時に松平忠直は夜を冒し諸隊を率ゐて進軍し、午前七時天王寺の西南に向て備ふ、初め家康諸隊に合し本日将に少子義直頼宣に示教せんとす猥に開戦すべからずと、斥候をして敵軍の情況を視察せしむ、斥候帰り報じて曰く敵の隊伍整粛にして動揺の状なく戦を待つものゝ如しと、家康乃ち使を城中に遺し再び和を議し移封を勧めしむ、而も越前兵已に開戦す。
補【平野川】〇大日本農史 元和六年庚申五月、大和川漲水の為に其の近傍の地荒蕪する事、高二万一千四百石に及ぶ、代官末吉孫左衛門※[舟+共]船七十艘を造て平野川に通ず、是に於て其地漸く賑ひ、先に荒蕪せしもの始めて其の旧に復す(台徳院御実紀)
 
杭全《クマタ》神社 平野郷の氏神なり町の北大字|泥堂《トロダウ》龍華川※[こざと+是]畔に在り、熊野三所神を勧請《レイダウ》す。〇熊野社記云、平野郷昔杭全荘と云しを、嵯峨帝の時田村将軍の男坂上広野麿に本郷を賜はる、其苗裔相続して世に平野殿と曰へり、宅址今長宝寺の北に在り、此家に女子あれば比丘尼と為し長宝寺に住せしむ云々。〔名所図会〕〇長宝寺は大字西脇に在り、真言宗女僧院なり。本尊十一面観世音、開基慈心尼は田村将軍女(桓武妃葛井親王母)とぞ。〔名所図会〕熊野権現縁起は近世伏見宮梶井宮以下近衛摂政家熈等の詞書にて麗しく成就せり、其画は絵所預土佐之芳の筆なり、権現の勧請、田村氏の業報、はた長宝寺建立の事など詳に述べたり。
 
赤留比売《アカルヒメ》神社 延喜式、住吉郡赤留比売命神社、今平野郷野堂に在り、三十歩《サンジフヾ》神と称す祠畔大楡樹あり〔摂津志〕〇古事記明宮(応神)段云、比売碁曾社、謂阿加流比売神者也、本居氏云、東生郡比売許曾神社、住吉郡赤留比売神社は比売許曾を又別に住吉郡に祭れるなるべし、しかる例多し。大坂の比売許曾神社参看。
 
大念仏寺《ダイネンブツジ》 平野郷町の西北隅、大字|馬場《ババ》に在り、融通大念仏宗の本山なり。寺域四千歩、堂舎輪奐郷人群詣の道場たりしが、明治三十一年失火、諸宇みな灰燼となる再興二百万金を要すべしと云。〇融通念仏宗は大原良忍を元祖とす、当国|深江《フカエ》の人僧法明男山八幡宮に参籠し神託に任せ其教を中興し、元亨年中(一云嘉元)此地に本寺を開基す、即一宗の大本山にして良忍上人を推して開祖と為す、本尊天得如来は八幡神の示現とぞ、法嗣は初め専ら本邑の人を挙げ法縁同行者中一人を推して上人と為せり、他宗に比類なき風儀なりき、元禄年中住寺上人に紫衣勅許あり、寺法稍改更し巍々たる専修道場とはなれり、近年宗風衰へ信徒二万戸許と云。
三才図会云、大念仏寺、良忍上人、天治二年、依鞍馬毘沙門瑞告、弘融通念仏、而門弟在嵯峨、立自巳法、以不合法意、稍中絶焉、元亨元年、深江村法明上人、因八幡神託、再興融通真法、是中興之祖也、旧因法例、若住持遷化、則平野村内住人、有其系縁者、中任〓選人、俄薙髪為上人、勤寺役、蓋可融通易行法業、元禄年中、大通上人以来、勅許紫衣法服、定嫡伝嗣法弟子、(514)寺門立戒壇石、〇一書云、大念仏寺は正徳中幕府より御尋ありしに、摂河山の三州の外に檀信者なし、寺宝幽霊の片袖と云は宝蓮寺宮の親筆縁起あり、其大意、元和年中住吉の社家松太夫の女、東国に順礼して箱根山にて死す、臨終の時奥州の順札に遺言して平野の道阿上人の回向を請ふとて片袖を送付すと、此始末不思議の念仏功力を談ずる也。
 
百済《クダラ》郡 此郡は住吉東生両郡の間に介在し、四至不整の小郡なりき。後世欠郡と改称し郡墳頗移動あり、近世に及び闕郡全く廃し其地は住吉東生に分隷したり。〇続日本紀、延暦十年、摂津国百済郡人、広井造真成。和名抄に、百済郡、訓久太良、三郷に分る。
補【百済郡】〇百済、久太良。姓氏録、諸蕃百済。摂陽群談、此郡名今闕、続後紀天長十年四月以摂津国百済郡荒廃由廿七町野賜源朝臣勝、故老俗伝云、百済郡東部西部南部の郡里相共に仁徳帝の御宇海潮逆上つて西海に流入るといへども、源順和名に所載あり、後世百済の郡里を闕て東生の大郡に結ぶ、因て中古の人東西|闕《カケノ》郡と書けり、近歳闕の字も除きて百済の郡里断絶せり。〇今按、古図を検するに久太郎と云地名あり、浪華人の今の久太郎町にあたれりといへる、さることなるべし、又或説に久太郎町は堀久太郎といふ人の住りしより負せたりといへど証なし。〇他山石、上古は百済郡といふが東生郡と住吉郡との間にありて十三郡にて有しが、いつの頃にか東生と住吉との両郡に分け併せられて、今は百済郡なくして十二郡となれり、按に足利家の天文繩の記録、豊臣氏の天正総検地の記録には共に摂津の国十三郡と記されたれば、百済の廃たるは文禄より以後の事にして、遠からぬ世のことなり。
 
闕《カケ》郡 又欠郡に作る、百済郡の後名なり、戦国の頃は西成郡中島をも欠郡に入れ移動甚し。它山石云、古は百済郡と云が東生郡と住吉郡の間にありて摂州十三郡有しがいつの頃にか亡びたり、按に足利家の天文繩の記録豊臣氏の天正総検地の記録には、共に津の国十三郡と記きれたれば、百済の廃たるは文禄以後の事なり。摂陽郡談云、後世百済の郡里を闕て東生の大郡に結ぶ、因て中古に東生闕郡と書けり。〇按に欠郡は小槻長興記(文明九年)細川両家記等に見ゆ、南北朝以前には之を詳にせず。国郡沿革考云、欠郡は元和の初猶存せり、元和三年松平下総守忠明領地目録に摂津闕郡并南北中島四万三千石の文あり、正保図に至りて闕郡を載せず。
補【闕郡】〇小槻長興記曰、文明九年九月廿八日、後聞、今日於河内国野崎畠山右衛門佐(義就)与同左衛門督政長朝臣方合戦、左金吾手打勝、右衛門佐方引退、発向摂津国闕郡於木村合戦、責天王寺陣云々。按、闕郡元和の初猶存せり、元和元年六月十日松平下総守忠明に大坂城十万石を賜ひ、同三年九月十一日領地目録を下す、其文曰、摂津闕郡並南北中島四万三千石余(天満千波)町地子並葭年貢六千石云々とあり、正保図に至りて闕郡を載せず、此時蓋廃郡となりしなり、今地図に拠て之を考るに、平野川は古の百済川なり、此郡東は此川を以て河内に界し、北は東生郡に接し、西は西成郡に隣り、南は住吉郡に接す、和名抄に三郷を載す、其東部郷は今の岡村田島村の辺にて、西部郷は林寺村以西の地ならん、南部郷は南北田辺村なるべし。
 
百済《クダラ》川 河内|龍華《タツハナ》川の末にして平野郷を過ぐるを以て今|平野川《ヒラノガハ》と称す、小椅江《コハシエ》玉造江の中游なり。 くだら川かは瀬をはやみゆく駒のあしの浦まにぬれにけるかも、〔六帖〕
 
南部《ナムブ》郷 和名抄、百済郡南部郷。〇今田辺村|南百済《ミナミクダラ》村の地なるべし。奈良の朝に住吉郡田辺郷の名あれば、其後田辺郷を南部郷と改めたるにや。一説本郡の東西南の三部は皆田部を修めたるなりと、旧事天孫本紀に「物部倭古連公|依羅田部《ヨサミノタナベ》連祖也」とありて此諸郷は住吉の大羅《オホヨサミ》郷に接近す。
 
鷹合《タカヒ》 今南百済村と称す、日本紀に仁徳天皇依綱阿弭古の捕へたる鷹を百済酒公に馴養せしめ、鷹甘部を定めたまふ事あり、鷹合は蓋其部民の故宅なり。〇田辺《タナベ》東神は三代実録貞観四年授位の古祠なり、今南百済村大字中野に在り。〔神祇志料〕西神は田辺村に存す。
 
田辺《タナベ》 南百済村の西北に接す、長居池を隔てゝ阿倍野と相望む。姓氏録蕃別田辺史あり、氏族志「聖武帝時、有摂津住吉郡田辺郷人田辺史真立、見于正倉院文書」と、又三代実録「貞観四年田辺西神授位」、西神は今田辺村の南に在り山坂明神と日ふ、〔摂津志〕蓋東西両神ともに田辺史の祖神なり。法楽寺《ホフラクジ》は田辺村に在り、本尊観音、平重盛創建、又源義朝造立と云へど詳ならず。
補【田辺】〇大日本史 田辺氏、史姓、貫于右京、出荒田別(姓氏録)聖武帝時、有摂津住吉郡田辺郷人田辺史真立(東大寺正倉院文書)即是族也、蕃別又有田辺史。
田辺西神 神祇志料、今住吉郡南田辺村にあり、並に南北田辺村の氏神とす(摂津志・神名帳検録)清和天皇貞観四年十一月乙亥、田辺東西二神並に正六位上より従五位下を授く(三代実録)。
 
東部《トウブ》郷 和名抄、百済郡東部郷。〇按に東部西部は対牝の郷名なり、而て田辺村以北は北百済(515)村生野村南北に列し東西と云に符せず、或云、今生野村百済野にあたると。
 
西部《サイブ》郷 和名抄、百済郡西部郷、〇按に東部西部は百済郷を東西に割きたるならん。(貞観七年百済郡百済郷の田券あり、世上に摸刻相伝へり)又桑津(北百済村)舎利寺(生野村)辺の地理を考ふるに延暦中摂津大夫和気清麿河内川を荒陵の南に導かんとしたる開墾址存す、桑津の北より天王寺荒陵(茶臼山)の東に向ふ、東部西部は或は此水道に依て分れたるにや、桑津は西南に属すべく舎利寺は東北に属すべし、若此臆想の如くんば生野村即百済野と称する岡山は東部郷なるべし。
 
桑津《クハツ》 今北百済村と改む、日本書紀「応神天皇召髪長媛、至自日向、便安置於桑津邑」と、摂津志云、住吉郡桑津村、土人伝此事、今有八幡神祠。
 
百済野《クダラノ》 今|生野《イクノ》村及|鶴橋《ツルハシ》村大字岡村|木野《コノ》猪飼野等の地なり。天王寺の東、水田溝洫之を因繞し、一座島状の丘なり、〔摂津志〕南北二十町東西十町より五町に至り均一ならず。
 くだら野の萩のふる枝にはるまつとすみし鶯なきにけむかも、〔万葉集〕
百済郡百済郷志良岐氏貞観七年田券一紙世に伝ふ、北大道大寺等の地字今に存す、此辺には唐人《カラウト》山あり、東に百済川(平野川)流れ、中央に百済寺の跡あり。〔史料信叢誌〕
百済寺《クダラデラ》址〇今生野村舎利寺蓋是なり、日本書紀に難波|大別王《オホワケノミコ》寺とあるも此か、敏達天皇五年、大別王自百済国還、百済国王貢献経論若干巻、及律師禅師比丘尼呪禁師造仏造寺工六人、置於難波大別王寺。〇霊異記云、尺義覚者、本百済人也、其国破時、当後岡本宮御宇天皇(斉明)之代、入我聖朝、住難波百済寺矣、法師身長七尺、広学仏教、念誦心般若経、時有同寺僧恵義、独以夜半出行、因見義覚室中、光明照耀、讃曰大哉尺子、多聞弘教、閉居誦経、心廓融達、所現玄寂焉、為動揺室壁、開通光明顕耀。
補【百済野】〇史料通信叢誌に曰く、百済郡百済郷志良岐氏、貞観七年九月十五日の一紙世に存す、北大道大寺等の地字今に存す、大に参考となるべき田券也、此ほとりに唐人山といふ地及|韓居殿《カラヰデン》など云地あり、此辺一円百済野なり、其東に百済川あり、猪甘津の橋此川にかゝる、中央に百済寺のあと有り、百済野はすべて三韓人の居留地にてありし事うたがひなし、其地古くより砥石金属の溶解せる層など出づれば、韓人も諸種の工業を伝へしなるべし、又古瓦なども多く出づ。〇今鶴橋村の中ならん。
補【大別寺】〇外交志稿 用明帝〔傍注、敏達五年。敏達六年の誤り〕の時大別王(按ずるに第一皇子難波の皇子なり)百済国に使するより還る、百済王経論若干巻及び律師、禅師、比丘尼、咒禁師、造仏工、造寺工六人を貢献す、難波の大別王寺に置く、仏工寺工の来る、此を始となす。
 
舎利寺《シヤリジ》 生野村の中央に在り、今黄檗禅を奉ず、仏殿本尊釈迦を置く、太子堂は厩戸皇子を祭る、寛文年中重修僧木庵中興す。〇舎利寺縁起云、生野《イクノ》長者の子生れながら唖なり、厩戸皇子に遭ひ口より忽舎利を吐出し、是より能く言ふことを得たり、因て奇縁に感じ長者の家を捨て、寺と為す、生野は此地の旧名なり云々。〇舎利寺の北五町に岡村あり、今鶴橋村に属す、此辺大坂役に徳川氏の陣所なり。
 
岡山《ヲカヤマ》 生野村百済野の別名なり。其北部(鶴橋村大字岡)に中臣氏の祖大小橋命の墓あり、〔摂津志〕今舎利寺の北三町に荒冢あり蓋是なり、其北二町に御館《ミタチ》宮あり。土人イバラ神と呼ぶ。〔名所図会〕
日本戦史云、大坂冬の役、将軍秀忠岡山に営する二閲月、楯柵を樹ゑ殆ど城塞の如くし、門を山北に置き山麓に営舎を構築す、和議成り兵を罷む。翌年夏の役、将軍の営は又岡山に在り。五月七日岡山口の東軍は午時に及び開戦し急に天王寺に向ふ、彼我競進力戦、時を移して勝敗決せず、両軍遂に混淆す。西軍大野治房銃隊を率ゐ直に秀忠の麾下を衝く、麾下騒擾す、秀忠自ら槍を執りて敵中に突入せんとす、黒田長政加藤嘉明等麾下に集り警衛す。井伊直孝は天王寺口の敵を側撃したりしが、敵兵秀忠の麾下に向ひ来り東軍大に騒擾するに及び、旌旗を整へ返戦せむとするも能はず、漸くにして敵退色あり、玉造口方位に走る。〇元和元年五月七日、大坂城取詰の時、茶磨山なる真田左衛門佐赤旗備にて天王寺表岡山東まで箕手なりに備たてたり、此時秀頼公軽き大将にて座しまして、未明に先手へ出馬有て味方の機を勇め下知あらば、諸軍勢も勇気出来て勝負は時の運による、仮令敗軍に及ぶも天王寺鳥居の前に床几を据ゑ死を極めまさばいかなる弱兵もいかで見捨遁るべき、されば古今に比類なき一戦あつて前代未聞なるべきを、出馬遅々にて越前衆頻に合戦を初め、東西乱合迫合、御庄越前を始として名誉のものども悉く討死仕り、毛利豊前石川肥後真田左衛門佐大野主馬何れも今日を最後と粉骨を尽し戦ふ、東国方数度敗軍に及候へども、先へ突抜たる関東勢頓て跡にて火を挙げ城を焼立て候故、天王寺表敗軍して皆討死。〔山本豊久私記〕
 
木野《コノ》 岡山の北端にして今鶴橋村の大字と為る。小槻長興記曰「文明九年九月、於河内国野崎、畠山左衛門佐(義就)与同左衛門督政長朝臣方合戦、右衛門佐方引退、発向説津国闕郡、於木村合戦、(516)責天王寺陣」と此|木村《コノムラ》即此なるべし。
 
鶴橋《ツルノハシ》 岡山の東に猪飼野(鶴浜村大字)あり、其百済川に架する者を鶴橋と云ふに依り今鶴橋村立つ。摂津志に鶴橋を以て仁徳天皇の架したまへる猪甘津橋と為す、然れども猪飼野の西北に小橋《ヲハセ》村あり、猪甘津橋は即小橋に在りしならん、河内に通ずる者也。
 
東生《ヒムガシナリ》郡 後世沿革して東成郡と為る。和名抄、東生郡訓比牟我志奈里、五郷に分つ。〇按に難波大郡を東生と改め小郡を西成と改めらる、東生西成は対比の詞なり、その奈里と命ぜられたるは奈里止巳呂の意にや、蓋王家の別業なりければ也、而も春生秋成の義を寓したり。
 
余戸《アマベ》郷 和名抄、東生郡余戸郷。〇後世阿倍野の名は是に因るか、今天王寺村なるべし。此には必しも余戸《アマリヘ》の義にあらず、阿部を余戸に仮りたるのみ。日本書紀応神天皇の皇女阿倍あり、通証には東生郡阿部野を以て御名の所因と為す、八雲御抄には歌枕|阿部《アベ》の島《シマ》を摂津国に在りと定めらる。
 阿部の島鵜のすむ石によるなみのまなくこの頃やまとし思ほゆ、〔万葉集〕      赤人
 
阿倍野《アベノ》 又安部野に作る、天王寺以南住吉祠に至る一帯の沙丘なり、長三十六町幅十八町。今住吉村勝間村天王寺村今宮村等に分属すれども、其中央大字阿部野并に天下茶屋は天王寺村に属す。二条の大路之を貫く、一は天王寺より、一は今宮より、共に住吉村に至る。〇平治物語云、平滑盛父子熊野より引返し、途中に悪源太義平が阿倍野に待と云ふは如何にと問給へば、其義は曾て候はず伊勢国伊東の兵共こそ都へ入らせ候はゞ御供仕らんと、三百余騎にて待參らせ候ひつれと申す。
神州奇苑云、崑玉集曰、兼好法師、津の国天王寺のあたり、阿倍野の原と云所の松原のふるき所に行ひ、古家など折ふしあるにふれて、弟子寂閑わらは命松丸を具して行ひしが、貧しかりければ恒の産なきは過し難しとて、弟子わらはなどものして筵やうの物をこしらへて、京なる便にあきなはれけり云々。今阿倍野村五六町西北、天王寺より十町許西南の岸のうへに丸山と云所あり、此に石塔数多ありて一説に之を兼好塔と云ふは誤れり、享保の比或人の説をいつはれる者にて採るべからず。又丸山の南に谷を隔ててざくろ塚と云古墓あり、阿倍野村より五町許西北の畑の中とす、此塚径四尺厚一尺許の石あり此塚の西を聖天山《シヤウデンヤマ》と云ふ歓喜天堂あり、摂陽群談には石榴塚の東南に松虫《マツムシ》塚ありと、松虫塚は最ちいさし、誰人の跡にや、兼好宅址は分明ならず。
 
阿部野《アベノ》神社 阿倍野の南に在り、(住吉村字岸野)明治二十一年創建、別格官幣社に列す。北畠顕家を祭る、吉野拾遺に拠れば、延元三年五月顕家脚は北軍と阿倍野に戦ひ陣歿す、父親房公之を傷み
 先だちし心もよしやなか/\に浮世のことをおもひ忘れて
と。又、先帝の時〔延元三年五月〕源の中納言、陸奥の軍を数多従へ玉ひ、道々を平げて美濃の国迄おはしける由、先立て聞えければ、上より始て頼もしき事に思し玉ひけるに、阿倍野の露ときえさせ玉ひけりと、刑部丞友成その際の有様を参りて泣々語る、爰に三年が程経て北方其野を過させ玉ひけるに、爰ぞ其人の消させ玉ひける所と告げければ、
 亡人の形見の野辺の草枕夢に昔の袖のしらつゆ。
 
大名《ダイミヤウ》塚は天王寺村大字阿倍野の南東二町に在り、摂津志之を以て北畠顕家墓と為し、後人弔訪今に多し、或は曰ふ顕家は公家より大名と云ふ事太だ疑はし、又高貴の人を収葬するに原頭に於てして寺中に為さざるは怪むべし、当時の習に違へり、且顕家は「野元三年三月十五日、阿部野の一戦に敗れしかど、尚退きて泉州を保ち、五月廿二日再び堺浦に戦ひ、終に石津原(泉州)に陣歿す」と説く者あるに非ずや、其墓の此に在るは疑なきに非らず。
   阿部野           広瀬 旭荘
 興亡千古泣英雄、虎闘龍争夢已空、欲問南朝忠義墓、蕎花秋仆野田風、
  過安部野(源顕家墓在焉)   藤井 竹外
 一牛鳴処牧童眠、路出王孫古墓前、芳草和煙青漠々、自人杖底直連天、
 
天下茶屋《テンガヂヤヤ》 今宮より住吉に通ずる路にあたり、阿部野の字なり、往時より茶亭二戸あり、是は豊太閤殿下住吉詣の憩所にして、天下茶屋の名之れに因むと伝へり。此辺遊覧の客の訪ふ所にして、住吉浦木津川難波潟の風色眼底に映し、摂津名所の一に居る、近時大坂富豪の別荘小宅等多く起る。阿部野は渡辺天王寺及び河泉二州の中間に居るを以て、兵馬を以て浪華を争ふの日、阿倍野実に其交衢と為る、楠氏の出陣、北畠の激戦、石山攻の事跡等に徴すべき者あり、其最著大なるは夏冬の両役是也。大久保物語云、夏の陣に御旗本御鑓の奉行人は大久保彦左衛門忠教也、然るに御旗奉行の衆御鑓奉行の衆を下目に見てける処に、七日の合戦に相国様(家康)は岡山の方へ上らせ給ふに、御旗をば住吉まで押て行く、途方を失へば彦左衛門御旗をあれなる大塚へ上て阿部野の原を押上げ給へと云へば、天王寺をさして押上げけるに、中(517)程にて御旗立ける処へ彦左衛門駈けよせて、何とて敵近き所にて御旗をひらめかせ給ふぞと、茶磨山を左にして押上げ玉へ茶磨山なるは敵には非ずや遅々せず左へ押上げ玉へと云、稍ありて、天王寺の方へは押ずして東の方へ押し、御旗がまくれて見苦し、然る処に茶臼山の東にてやう/\相国様見付申、然る処にはや天王寺口にて鉄砲の鳴り取合ける、御旗を田中にたてける時旗にて叩き合はるべきかとて鑓を前へ出す、然る処に天王寺の南にて味方俄かに崩れて来りければ其時御旗奉行一人も居ず、相国様は道より天王寺の方に頓て路畔に御馬を控へさせ、小栗忠左御門忠政より外は一人も無くして散り/”\になりけるが、逃げたる事やらむ御前にはあらず云々。
 
玉造江《タマツクリエ》址 百済川の末を云、ふ、古は百済川及|狭山《サヤマ》池の末|小橋《ヲハセ》に至り江と為る、小橋の北は玉造なれば又玉造江と称す。河内川の諸脈東より来り之に会し高津《タカツ》生玉《イクタマ》の岡を繞り其北西に至り、更に山城川(淀川)に会す、勾形一里許、大略今鶴橋の北より中本村北開新荘村野田村に至る。後世水脈変じ江湾も田野と為る、猶平野川(即百済川)猫間川《ネコマガハ》の細流あり、玉造江の遺跡と謂ふべし。(猫間川を一書巨麻川に作るものあり)
 みなと入の玉造江に漕ぐ船の音こそたてね君を恋れど、〔新勅撰集〕         小町
 
深江《フカエ》 今|南新開荘《ミナミシンカイシヤウ》村と改む、此村菅笠を名産とし、莎草を以て之を造る。総て南北とも新開荘は沢中の村なれば和名抄郷名に見ゆる事なし、東生郡味原郷の隷属ならん、然れども笠縫島の名万葉集に詠ぜられたれば亦旧地と謂ふべし。東は中河内郡高井田村に接す。
 四極山《シハツヤマ》うち越見れば笠縫の島こぎかくるたななし小舟〔万葉集〕
按に旧事本紀、饒速日命天降供奉の船子の中に「笠縫等祖、天津林占、曾々笠縫等祖、天都赤麻良」和州にも笠縫里あり。古事記伝云、笠縫島は延喜式、御輿中子菅蓋一具、菅並骨料、従摂津国笠縫氏参来造とある部民の居所にて、今の深江村是なり、此地古は川々多く流れ合ひて広き沼あり、海の如く其中の島にてありしと也。
 おしてる難波菅笠おきふるし後はたがきむ笠ならなくに、〔万葉集〕
 
鴫野《シギノ》 今|北新開荘《キタシンカイシヤウ》村と改む、東北に大和川址あり、宝永の治水後僅に一条の溝と為る、慶長十九年冬の陣に東軍上杉景勝此口に当り大和川堤を争へり。〇日本戦史云、大和川鴫野の堤には西軍より柵三重を置き、銃隊長井上頼次及大野治長の部下二千余人更番之を守る。十一月廿六日東軍之に迫る鴫野口戌兵支へず頼次之に死す、上杉の隊将安由能元追撃首百余級を取る、直江兼続令して大和川を限り追撃を止む、景勝旗を鴫野の堤上に建てしめ大和川の西堤を截断して棚を樹つ、暫にして城兵出て戦ふ、家康鴫野の報を聞くや上杉隊の疲労を察し使を以て景勝に命じ速に兵を収め其地を堀尾忠晴に譲らしむ、景勝尚兵を収めず、堀尾の兵も亦迂廻し大和川の洲嘴より射撃す、城兵終に柵を復する能はずして大に敗る、然れども其兵衆多なるを以て、退いて大和川の外堤に拠り柵を修築す。
 
放出《ハナテ・ハナチデ》 今|榎本《エノモト》村に改む、往時は放手に作り大和川の北岸にあたる、宝永中大和川涸れ更に放出の北に寝屋川を導き、鴫野に至り大和川の旧路に就かしむ。〇放出の剣堤に八剣神あり、摂津志之を以て延喜式東生郡阿遅速雄神社と為す、阿遅は味生《アチフ》郷に相因む、當に味生池の邊に在るへし、放出に在る事不審。
 放ち出や通の川の朝ぼらけつゝみむかふに舟よぶやたれ、〔歌枕名寄又藻塩草〕
通川《トホリカハ》 は放出にて大和川をかく呼べるならん、花営三代記には上の瀬放手渡と曰ふ、下の瀬は渡辺なれば中の瀬は今の野田村京橋口たるべし。〇南山巡狩録云、建徳二年五月、細川右馬助頼基軍勢を相催し天野の行宮を攻んとす、六月廿二日に至りて河を渡る、上の瀬放手の渡を越る人々には細川典厩山名霜台同戸部楠木正儀、又中の瀬を渡る人には畠山尾張禅門一色禅門佐々木侍所土岐等なり、下瀬渡辺よりは石堂禅門仁木禅門赤松律師等次第に兵を進めける。
補【放手】東生郡〇南山巡狩録〔重出〕建徳二年五月細川右馬助頼基軍勢を相催し、大和路に打向ひ天野の行宮を攻んとす(花宮三代記)六月廿一日に至りて河を渡る、一方上の瀬放手の渡を越ゆる人々にば典厩(細川右馬助なるべし)霜台(山名弾正少弼成るべし)戸部(山名民部少輔成るべし)楠木(楠木中務少補正儀ならむか、考へがたし)又中の瀬を渡る人々には畠禅(畠山尾張守入道の事成るべし)一禅(一色修理大夫入道成るべし)侍所(侍所の事詳ならず、花営三代記応安五年三月の条によれば佐々木治部大夫高秀なるが如し)土岐(大膳大夫善忠なるよし竹口栄斎いへり、然れども確証なし)下瀬渡辺よりは石禅(石堂右馬頭成るべし)仁禅(仁木左京大夫入道成るべし)赤松律師(則祐事成るべし)同遠憚(光範の事にやあらむ)等次第に兵を進めける、
 花営三代記以下八月の文より補へり、八月に及び北方、案ずるに此人々川をわたりてよし野に向ふ事、去る六月の条に見ゆ、楠木も寄手の列に見へたり、されども戦ありし事はきかず、山名石堂も一度宮方(518)に属し奉りて、先帝吉野住吉等に居給ふ頃はいとよくつかへまつりし者どもなりしゆゑ、空しく京に帰るを以て恥とせざりしものか、花営三代記に云瓜破に帰りしならむ
〇今榎本村。
 
今福《イマフク》 今|鯰江《ナマヅヱ》村と改む、古は大和川の北岸にして鴫野と相対せり、鯰江は此地の溝洫の名なり。〇日本戦史云、今福鴫野は大坂城の東北半里に在り、京橋口及青屋口に通ず、二村大和川を挟み鴫野は其左岸、今福は右岸に在り、相距る僅に六町許、今福は又西の方蒲生村と相接し、片原備前島に至るべし、故に其※[こざと+是]を称して今福※[こざと+是]と云ひ又蒲生※[こざと+是]と云ふ。今福鴫野両地の左右皆水田にして人馬に便ならず、冬の役城兵今福※[こざと+是]を截断すること三所柵を四重に設け之を守る、其第一柵今福村を距る三町許、大野治長の部将矢野正倫飯田家貞各々三百人を以て之を守り、十一月廿三日に仮橋を柵の後なる截断所に架し銃手を以て之を掩護す。廿六日味爽東軍佐竹隊今福※[こざと+是]に進み奮戦競ひ進む、正倫退くこと二三町京街道の岐路に至り東兵の為めに殺さる、其部下悉く死し家貞も亦斃る、残兵退きて片原町の柵(第四)を守る。佐竹義宣馬を進めて指揮し片原町に至り城兵を撃退す、木村重成城中に在り之を見て出戦す、後藤基次亦之に赴き並び進む、時に日正午なり、重成基次の兵合計凡三千に上り気勢大に振ひ、すでにして渋谷政光を殪す、東軍周章其屍を収むる能はず、後藤の兵之に乗じて吶喊柵を破て入る。此時義宣は今福村の西端に在り、先頭部隊の敗潰を見て憤恨し、親ら眉尖刀を揮ひ衆に先ち指揮するも、一人の返戦するなし、乃ち使を鴫野に遣し援を景勝に乞ふ、景勝乃ち杉原親憲に命ず、親憲七百余人を率ひ進て大和川の中洲に至るも、水深くして渉る可らざるを以て、側面より城兵を銃撃せしむ、両軍以て交綏す。
 
榎並《エナミ》 今福の北を榎並村と曰ふ、中世榎並荘と云ひし地これなり、北は古市|守口《モリクチ》に連り京街道にあたる、榎並は天文の頃塞ありて三好長慶の攻陥する所と為る、塞址は大字|野江《ノエ》なるべし。南山巡狩録云、正平二十四年三月、桶正儀北朝へ降りしかば一族敵味方に分れたり、足利義満は正儀を助けん為め軍勢を差向け、四月正儀は榎並十七個所に陣を取る。(十七個所は今の守口駅なり)〇三条西実隆高野詣日記云、伏見の津より舟出して、鵜殿三島江など云所、いとをかしく見え侍り、江なみとかやいふわたりにて、天昭庵とかやより、盃求め出てもて来れる、興ある事になむ、かくて伏待の月指しあがりて、短夜ものこりなき程に、おさか(即大坂にて石山本願寺をいふ)と云所にいたる。〇穴太記云、天文十八年己酉の頃、三好筑前守長慶は同名宗三入道に野心を含む事有しに、細川右京大夫晴元偏に宗三入道を贔負ありしかば、宗三は細川右馬頭晴賢の館なる中島の城に籠りしかども、軍利を失ひて三月朔日江なみの城へ引さりぬ、此城は元来も宗三の館なれば、究竟の要害を拵へ、日来は子息右衛門大夫政勝を籠置たり。〇榎並荘は今の榎並村以外まで渉れる名なり、又神鳳抄に「摂津国中村御厨卅七町、藤井中納言家領、承安五年寄進之」とあるは、永正以来宮司引附に、
 津州榎並荘内、東方高瀬二箇所者、祭主令徴納
と云ふに当る、今都島村大字中野を御厨《ミクリヤ》址とするにや、又|城北《シロキタ》村に大字中あり。
 
古市《フルチ》郷 和名抄、東生郡古市郷、訓不留智。〇今榎並村の北に古市《フルイチ》村の名立つ、東は北河内郡守口町に接す、淀川の堤に傍へり、之に因れば古市村|清水《シミヅ》村城北村等を古市郷とすべきか。大同類聚方云、布累致薬東生郡、古市大戸麻呂所伝方。〇又按ふに古村市は淵《フチ》の延びたる語なるべし、此地は摂津なれど河内茨田堤の末にして、仁徳の朝の破堤|強頸《コハクビ》絶間《タエマ》の跡古市村大字|千林《センバヤシ》に存すと云、古来淵瀬の易れる所ならん。強頸《コハクビ》絶間《タエマ》址 千林《センバヤシ》に一絶間《イチノタエマ》あり、強頸絶間の址とぞ。〔摂津志書紀通証〕〇日本書紀云、仁徳天皇将防北河(山城川即淀川)之〓、以築茨田堤、是時有両処之築、而乃壊之難塞、時天皇夢有神、誨之曰、以武蔵人強頸、祭河伯、必獲塞、爰強頸泣悲之、没水而死、乃其堤成焉、時人号其処、曰強頸絶間也。書紀通証云、名柄橋人柱、膾炙人口、蓋起于此。
補【古市郷】東成郡〇布留智、民部省図帳、古市公穀二千九百六十七束有余、仮粟一千五百六十七丸。今按、応永二十四年浪華図に南長柄、北長柄の東、近江川を隔て古市といふ地あり、其中間に川島といふ島あり、摂陽群談に闕古名村といふ中に挙たり。
補【強頸絶間】〇摂津名所図会云、東生郡千林村に一絶間あり(摂津志)(日本書紀・同通証、略〕強頸絶間今在東生郡千林村、衫子《コロモノコ》絶間在茨田郡太間村。〔仁徳紀、天皇夢、有神誨之曰、武蔵人強頸、河内人茨田連衫子(衫子、此云〓呂母能古)二人以祭於河伯、必獲塞、云々〕
 
滓上江《カスガエ》 今|都島《ミヤコジマ》村と改む、大字沢上江善源寺友淵中野等に分る、沢上江即滓上江の謬を沿習して改めざる也。〇滓上江の母恩寺《ボオンジ》は浄土宗の尼院なり、相伝、後白河帝御願、母待賢門院菩提のために創建ありと。〔摂津志名所図会〕〇日本戦史云、慶長十九年十二月六日、東軍攻城に当り、中島天満船なく水深きを憂とす、伊奈忠政曰く苟も上流を塞ぎ畢らば徒渉すべしと、家康乃ち毛利福島に夫卒一万五千をし、角倉与一の川舟数百艘を以て土石を輸送し沢上江の工事を(519)助けしむ、九日|長柄《ナガラ》と沢上江間の工事成る、高さ一丈八尺幅十五間長百二十間上流の水皆中津川に入り天満川の水大に減じたり、然れども大和河内の水南より来りて已まぎるを以て、城下の渡渉猶試みがたし。
 
友淵《トモフチ》 摂津志云、武庫郡西宮六湛寺鐘銘曰「摂津国西成郡舳淵荘盛福寺鐘文永十一年」此辺古は西成郡に属せしことあるか、水脈変移ありし故にや、又称謂の混乱にや、鐘銘西成とあること疑ふべし。
 
善源寺《ゼンゲンジ》 今都島の大字と為る、多田院文書に善源寺荘見ゆ。貞治五年文書には中島内善源寺地頭職ありて足利家より多田院へ寄付したる領荘とす、康暦二年には善源寺荘東方地頭職諏訪三郎左衛門入道跡と録し、文安四年には西成郡内善源寺、文明十四年には「摂州欠郡善源寺村御敵乱入近年不致所務」など見ゆ、郡号称謂の乱れたること想ふべし。都島《ミヤコジマ》には明治二十八年大坂給水々道の溜池成る、市中十万戸の給養に足ると称す、水量百二十万石あり。
 
桜宮《サクラノミヤ》 今|都島《ミヤコジマ》村大字中野に属す、淀川東岸に在り堤上多く桜樹を植ゑ花時最佳景なり、大坂人之を江戸の梅児塚に比す、嵐雪「花に風軽く釆て吹け酒の泡」の句は此地の吟とぞ。按に桜宮は神鳳抄摂津国中村御厨にして、伊勢大神の旧由緒地とす、謡曲第六天云、「神風に心安くぞ任せつる、桜の宮の花盛花の白雲立迷ひ、空さへ匂ふ月読の、洩り来る影ものどかにて、知るも知らぬも道の辺の、行かふ袖の花の香に、春一しほの景色かな」と、桜宮は伊勢神宮の裔未なるを此に其名を移したる也。
   夏日桜社朝望        内山 栗斎
 日射江心送釣船、孤亭斜在網洲前、耕午隔柳過煙岸、巣鷺出林飛水田、列岳風回開宿霧、層城酎密接涼天、此時若使丹青写、倚檻同遊亦共伝、
   春夜桜満即事絹       藤井 竹外
 落花江水欲流春、皎々空中孤月輪、如此春江花月夜、何堪酒醒対離人、
 鴉影流空月似眉、〓遙酔夢下桜祠、楼頭少婦遙招手、一片残霞在酒旗、
 桜宮行楽正花多、歌笑声流春夜波、紅燭青簾何処客、猶停遊舫在横坡、       中島 棕陰
 
網島《アミシマ》 桜宮の南八町、西は淀川を隔てゝ川崎造幣局に対す、南は旧大和川(今寝屋川)を以て大坂城と分離す、謂ゆる京橋口なり、名所図会に、酒店漁家あり風景難波の最なりと品評す。〇網島の東を野田村と曰ふ京街道之に係る、南を片原と云ひ西は備前島と云ふ淀川北より来り此に於て西に屈折し更に天満川の名を獲。〇近松巣林子の名作に「天網島」あり、網島大長寺に紙治小春の塚ありて院本の本縁を伝ふ。或云|大長寺《ダイチヤウジ》は豊後佐伯藩祖森勘八郎高政の菩提所なり、高政は十露盤(算顆盤)を明人より伝習し初て之を本邦に広むと、高政は豊臣秀吉の寵臣なり、一説文禄年中毛利勘兵衛明国より伝来すと云者と相符合せず。
片町《カタマチ》は片原町の義なるべし、今鉄道停車場あり。此鉄道は放出より北河内へ通じ、木津笠置を経て伊賀伊勢へ往来す、関西鉄道会社の布設する所にして、東海より大坂に通ずる捷路なり。
   網洲           篠崎 小竹
 霞遮黄烏塚、春遍桜花祠、十里江堤曲、瀞人認酒旗、
   天網島、橋づくし
 淀と大和のふた川を、ひとつ流れの大川や、水と魚とは連れて行く、我も小春と二人づれ、ひとつ刃の三つせ川、何を歎かん、此世でこそは添ねども、未来は云ふに及ばず、こん度のこんどの、ずつとこんどの其先の世までも夫婦ぞと、一つ蓮のたのみには、一念一部の夏書せし、大慈大悲の普門品、妙法蓮華京橋を、わたれば至る彼の岸の、玉の台に法を得て、仏のすがたに身をなり橋、野田の入江の水煙、やまのは近くほの/”\と、あれ寺々の鐘の声、こう/\かうしていつまでか、とてもながらへはてぬ身を、最期急がん此方へと、手に百八の玉の緒を、涙の玉にくりまぜて、南無阿弥じまの大長寺、すくひ取らせたび給へと、藪のそとものいさゝ川、流れ身なぎる樋の上を、最期どころと、つきにけり。〔節文〕
補【大長寺】〇文禄の頃、豊臣秀吉の臣に毛利勘兵衛といふ者あり、算を善くす、秀吉其術を研究せしめんとて、勘兵衛を明《ミン》に遺せしが、明人秘して詳かに伝へず、已むを得ず一たび帰朝し秀吉に訴ふる所あり、秀吉即ち奏請して勘兵衛を出羽守と為し、再び明に遣はす、幾くもなくして征韓の役あり、秀吉も尋で薨じ、遂に其術を究むる能はずして已めり、元禄三年の刻人倫訓蒙圖彙に十露盤は吉田七兵衛拵へしとかや、昔は算木ばかりなり云々といへるに拠れば、勘兵衛の出羽守が齎し帰れる算法、統宗等の書によりて創製せしか、又或説には算顆盤の始祖は毛利氏なるべしともあり、今旧佐伯(豊後)藩主毛利子爵家に伝へらるゝ珠算に関する談を聞くに、抑々我国にて専ら行はるゝ珠算は、往支那より伝はりしものなるが、豊公時代迄此算盤を使用する法を知らざりしより、豊公之を遺憾とし、庶子森勘八郎高政を明国に遣はし、其用法を伝習せしめたるが始めにて、商人等営業上一日も欠くべからざる要具となりしをり、
右高政は豊公の妾森氏の出にて庶子なるも、公の第一子にして、大阪網島町に其邸宅あり、即ち今の大長寺(520)是なり、因て同寺には高政の位碑(大長寺殿)を安置しありといふ、然れば高政は我国に於ける珠算の始祖として、殊に商家の崇敬すべき人なり、且大阪には旧跡存在し縁故浅からざるより、本年豊公三百年祭に当れるを機とし、中之島豊国神社境内に小祠を建立するか、又は紀念碑を建設せんと計画する有志者ある由、扨此高枚は初め母方の性森を冒かしたるも、朝鮮征伐の時、毛利家に質となりし事あり、終に森と毛利と国音通ぜるより毛利と改姓し、後豊後日田に封ぜられて十二万石を食みしが、豊公没後徳川家康禄十万石を削り、同国佐伯に移封したり、即ち今の佐伯旧藩主子爵毛利範高氏の先祖なりとす、斯る由緒あるを以て、幕府時代に佐伯藩主江戸参勤の途次、大阪を過ぐる時は必ず家老を網島の大長寺に遣はして、位碑を拝せしめ尚大阪の蔵屋敷詰役人をして、一箇年三回づゝ大長寺に参詣せしめしが、廃藩後此事なきに至りしも、今に大阪在住の佐伯出身の人々は、毎年旧暦の盂蘭盆会に一同大長寺に参詣して位牌を拝し、法会を営むを例とすといふ。
補【片原】東成郡〇人名辞書 大阪冬の役起る、木村重成馳て片原町に出でて騎を下り、衆に令して進戦せしむ、後藤氏房堀田正高等先登して今福を攻む、佐竹氏の先鋒渋江内膳追て堤柵に拠る、重成の部下大井何右衛門、高松内匠、河崎和泉等接戦す、上形景勝南岸にあり、銃手に命じて連発せしむ、重成堤上の柵裏に拠る、氏房進み銃に当りて傷く、重成の健歩二人田畔を廻り横に之を射る、敵退く、重成氏房衆を麾て進戦す、佐竹の裨将戸村十太夫銃に中りて士卒敗れ走る、内膳騎を旋へして阻戦す、重成の部下銃を発して内膳を狙撃す、余衆乱れ走る、重成追撃す、義宣衆を督して邀戦し、授を景勝に乞ふ、景勝銃手数百に命じて横射せしむ、是に於て右衛門等戦死す、重成何右の屍を収めんと欲す、敵進み来りて隙を得ず、遂に軍を収て柵を保つ、氏房舌を巻き歎じて曰く、我曽て聞く、重成遠謀勇鋭ありと、今日にして之を見る、他日必ず名を成すあらんかと、衆亦歎称す。〇京橋口の以東を云ふ。
 
備前島《ビゼンジマ》 網島の西に接す、今網島と同く大坂市北区に属す。〇慶長十九年冬役、十一月廿九日、今福堤の兵(後藤基次に属す)営舎を焚き備前島に保《ツボ》む、是日船場已に敵に陥られ備前兵(池田氏)之を望見して天満に入り将に備前島に迫らんとす、花房職之戒めて曰ふ後藤の在るあり妄進すべからずと、時に後藤伏を設けて敵の至るを待つ、十二月朔備前兵悉く天満を占有す後藤も備前島の守地を棄てゝ京橋に入る、片桐且元東軍の命を奉じ備前島に進み其最も城に近きを以て砲手をして轟撃を為さしむ、翌年夏役、東軍石川京極の諸将備前島に迫り交戦す。
 
京橋《キヤウバシ》 大坂城の西北口にして京都街道の要衝なり、旧大和川(今寝屋川)に架す。此江湾蓋仁徳帝の引きたまへる南水にして玉造江とも称せる者也、以西は天満川と曰ふ即古の難波江なるべし。橋北京街道より分岐して東に赴くを今福堤と曰ひ、奈良街道なり、此辺の民家を片原又相生町と字す。
   春日歩浪華域外        広瀬 旭荘
 〓〓長橋帯外城、雄郡形勝実天成、南流一水沿官道、北走群山向帝京、春焼入雲知雨兆、暮帆移樹見風行、時和幾認田夫酔、野菜花中笑語声、
 
撫凹《ナツクボ・ナデクボ》 霊異記に見ゆ、曰「摂津国束生郡撫凹村、有一富家長、公姓名未詳也、聖武太上天皇之世、彼家長依漢神祟而祷之、祀限于七年、毎年殺祀之以一牛、合殺七頭、七年祭畢、忽重病云々」と、今其地を失ふ。
 
     大坂
 
大坂《オホサカ》 東成郡西成郡の中間に居り、西面海を控え江河北より来り、百貨幅湊富賈多し、海内無双の商業地と称す、人口七十五万、実に本邦第二の都府と為す。街衢井然、江渠縦横、最運輸の便あり、水運は淀河に由り其利古より著る。海運は安治川木津川の両口に依る、諺に日々の出入千艘と曰ふ、然れども大艦巨舶を容るゝ能はず、之を以て近時天保山外に築港を為す、唆工の期遠からず。〇大坂今市制を布き東西南北の四区に分つ、東西五十町南北六十町、天保町の港湾は隔絶して一里以外に在り。西浜町|難波《ナンバ》村今宮村木津村九条村|三軒家《サンゲンヤ》村上福島村下福島村野田村北野村|曽根崎《ソネザキ》村川崎村(以上西成郡)天王寺村東平野町(東高津)西高津村|清堀《キヨホリ》村玉造町等(以上東成郡)は今郡に隷すれど皆接比の邑なれば、当然大坂の属なり。〇鉄道は東西幹線の車駅は曾根崎村|梅田《ウメダ》に在り、大和河内線は難波村(湊町)を停車場とす、和泉紀伊線亦同所に在り、北河内線は網島片町に在り。大坂は古の難波津なり、上世其咽喉を利として西海鎮制の要枢と為し、皇居客館の設備を見たり。平安京の初より衰微に就き、泊舟の海門は神崎|大物浦《ダイモツウラ》に移りたりと雖、尚国府を渡辺に置き州の豊色なり、名社大寺あり亦前代の余光を掲げたり。南北朝の乱には常に両軍の争ふ所と為る。明応五年の比蓮如上人生玉荘大坂に一向専修の道場を立て其教諸州を風靡す、蓄兵略地其跡大名に同じ、大坂の名之より著れ、難波渡辺の旧号を摂す、細川両家記云「永禄十二年今度東国衆(織田氏)摂州入、寺々吉所は以礼銭相課、大坂よりは五(521)千貫文分出之由候」と、当時堺浦は二万貫の矢銭を課せらる、両地の力以て比較すべし。天正文禄の交豊太閤本願寺の故址を拡大し定めて都府を為し、万国列侯の朝会を制令せるより千門万戸忽にして江上に充ち、商工の民集る。元和元年徳川家康撃ちて豊臣氏を滅し盛衰一朝にして相易る、然れども海内昇平の勢運は交易市場の盛大を致し、大坂の繁華幾年ならずして旧に倍〓す。蓋大坂は東西諸州の中心に居り水陸の便を占め、商賈勤勉、最利市に長ず、故に幕府諸侯皆邸を置き庫を設け、米穀の糶糴より物産の販売金銭の借貸に至るまで凡百の調度之を大坂に為したり、是れ当時政治兵馬の大柄は江戸に移れりと雖材貸の権は大坂を離れざりし所以也。大坂旧事記云、元和元年五月七日秀頼公大坂落域也、其責持口の堅めは諸侯方の御直番有りしが、各帰国の跡は静謐之上依台命松平下総守の領地となり、町人共は立帰りたれど乱後故金銀諸色共に甚以不自由、立戻りの其儘故に、至て困窮、漸々藁屋葺の住居にて建家も間原々々今の山家住居同様也、此頃伏見城引払、伏見町人共の内に伏見も後々には衰微に可成やと見越推量して大坂へ下り願出、何卒私共へ町家被為下置候はゞ我々引越し住居仕度段願上、初めは二十三町なりしが後に漸々望来る者多く終には弐百余町となる、之を伏見組北組南組の三郷に分ち、東を東生郡と云ひ上町を大坂と号す、西を西成郡と云ひ下町を船場と号す、是皆下総殿(忠明)の御作意なり、其後三郷組替あり御地子高は北組六千四百石南組三千二百石天満組々入れ即千六百石、此三郷人数寛永二年十人万人寛文九年四十一万七千人、元禄の頃より少しづゝ次第に繁華の地と為り市町年毎に交易栄ゆ、富島古川安治川堂島堀江高津難波曾根崎等の新町相加り、明和五年北組四千七百石南組四千二百石天満組千八百石と為る。(北組は城下官地と組替ありしごとし)。又大坂指掌図云、江戸堀阿波座堀立売堀海部堀は明和二年の新地なり、江之子島安永八年新地なりと、近年に及て益四周に延長し以て今日の大都を為す。(大坂の名義起因は石山本願寺址の小坂を参考すべし)
   元禄戌の秋九月九日、奈良より難波津にわたる、生玉の辺より日をくらして、
 菊に出て奈良と難波は宵月夜、  芭蕉
   五月六日大坂うち死の遠忌を弔ひて
 大坂や見ぬ世の夏の五十年、   蝉吟
 蘆の穂に箸うづたかや客の膳   去来
 四つ橋の角たちけるぞ冬の月、  乙洲
   難波晩望         山本 洞雲
 浪浸長橋二百弓、春陰未霽是何虹、金城巻雨呑斜日、碧殿穿雲縋大空、千店〓閭撲地列、一条周道到京通、
 年々眺望思無尽、南国魚塩圧洛中、
   浪華           岡本 黄石
 千帆日来往、長河一道流、豪華多旧俗、幅湊冠諸州、十里無余地、万家尽有楼、廃興何用説、逝水夢悠々、
一書云、大坂は寛文年中石丸石見守定次が東町奉行たる時、商家に問丸を設けさせ荷物の運転を迅速ならしめらる、又大小の両替屋を設けさせ手形の流通を盛んにし仲間信用を厚からしめたり、天満南北の三郷に分ち総年寄十四人を定め市政に参与せしむ、元禄享保に及び大坂江戸の交通大に開け、江戸に十組問屋大坂に廿四組問屋を結び其気脈を通ず之を菱垣廻船問屋と曰ふ、此に於て海内の物貨は皆大坂に於て集散する形勢と為り市民富裕を極めたり、天保中仲間組合と制を解かれ諸株式を停止せられ一時商家諸工の衰頽を見たり、その後其習例を回復せしが、明治維新前後又形勢の変更あり云々。〇大坂繁昌詩云、五大洲中、人品都雅、万我大坂為無双、(穀堂遺遺稿、浪華殷富、甲寰区、素封之君、不知数)諸侯勤王事、聘幕府、国用不足者、皆遣使厚幣、来大坂以借之、(邦俗呼借金之家、称銀主)嘗考始皇紀、徙豪富于咸陽、実有故矣、今日金銀供諸侯、則因足称天下有用之財焉、吾有聞之、豊臣氏之治天下、金銀不可勝用也、是以大坂城有金井、埋黄金数万枚、元和元年、両将軍収城内燼余、猶見有金二万八千枚銀二十四万両、于吾有金銀久矣。
補【大坂】〇細川両家記〔重出〕永禄十〔一〕年、今度東国衆、(傍注、信長なり)摂州入之時、大勢山崎家々居取に乱妨之由候、此外国中郡山所々被相破候寺々、吉所は以礼銭相課、大坂よりは五千貫分出之由候。
〔脱文〕
 東を摂州東生郡と云ふ也、上町を大坂と号す、西を摂州西成郡と云ふ也、下町を西船場と号す、是皆下総守殿の御作意なり、三郷石高の事は右地子御年貢高
  北組六千三百九十石五斗壱升三合弐勺
  南組三千百九十五石弐斗五升弐合六勺
  天満組子五百九十七石六斗弐升八合五勺弐才
 此都合常免八ツ納高、此地子銀壱石に付弐十匁替なり
 又北組を南へ組替、昔の伏見組者無之、其替天満組一郷出来たり、如此御入替へ与有之に付其上(富崎、古川、安治川、堀江、西高津、難波、曽根崎)此外新地相増す、明和五年、
  北組四千六百九十六石
  南組四千百五十三石
  天満組子八百十九石
 元禄の頃より少し宛次第に繁昌の地となり、市町年々毎に諸事大きに交易繁昌す、(522)三郷人数、寛永二乙丑年十七万九千六百十人寛文九己酉年四十一万七千三百四人(男廿一万九千二百六十一人、女十人万三千百五十人人)
補【大坂邸】〇人名辞書 大坂は四方の中心にして、海運輻湊、富商大賈多し、故に諸侯皆邸をおき、以て米穀の糶糴より金銭の借貸に至るまで一切の事を掌らしむ、而して吏其人を得れば国に大喪水旱災〓ありといへども、調度虧なきを得たり。
 
安良《アラ》卿 和名抄西成郡安良郷〇今天王寺及び附近の地なるべし、御手印縁起に荒陵《アラハカ》郷と云ふ者是なり。和名抄に之を安良に修めたるは荒陵の字面を忌みたればならん、陵墓の事は凶礼に属すればなり。摂津志に安良は長良《ナガラ》の謬と曰へり、又一説に 「安良は姓氏録に見ゆる荒荒《アララ》にて万葉集の阿良礼《アラレ》松原の地か」と、阿良礼松原は住吉の南にて西成郡境と懸隔す、二説并に採らず。
補【安良郷】西成郡〇和名抄。安は長の誤か、又安良波賀か。〇安良、民部省図帳、公穀一千七百六十三束、仮粟一千三十六丸。〇今按、承徳二年の浪華古図に久宝寺久太郎、今の久太郎町か、安良と南北にならびてあり。摂陽群談、闕古名村とて挙たり、これより以下三野に至まで然り。
 
四天王寺《シテンワウジ》 阿倍野の北、荒陵《アラハカ》の東北に接する丘上に在り、今本寺の四周に僧院民屋集まれるを以て天王寺《テンノウジ》村と称す。
四天王寺今天台宗を奉じ域内二万六千歩、堂舎四十余宇、大坂市其境地を修理して公園と為す、花木の麗割烹の美賞すべきを以て四時通俗雑沓す。〇本寺は聖徳太子創建、荒陵山難波寺と称す、歴朝崇敬の宝刹なり。本願縁起に東西捌町南北陸町と載せたれど後世削減し、寺記、延宝五年検地東西百五十九間南北二百五間とぞ。堂塔は創建の後数度の改修を経、近世に及び享和元年雷火に罹り金堂大塔以下四十余宇悉皆焼亡す、文化九年、大坂白銀町の紙屑商淡路屋太郎左重興の発願、勧募功成り旧観に復す。抑本寺は一千三百年の旧蹟、其海陸の要害兵家必争の点にあたるを以て戦乱の災亦数々なり、然れども太子所遺の霊物七星剣一口、手印本願縁起一巻、扇面法華経(紙本着色粘葉百二枚今為国宝)一帖等猶存す、寺像の造作は古規に拠ると云ふと雖沿革を免れざるべし。
四大門は西大門を追手とす、門前に石華表あり鋼額を掲ぐ、寺記云、転法輪処、釘石鳥居額曰、釈迦如来転法輪処当極楽土東門中心、太子宸翰也、慈鎭和上歌曰
 (夫木集)つのくにの難波の浦の大寺の額の銘こそまことなりけれ。〇元亨釈書云、忍性詣四天王寺、開豊聡太子施薬凍病悲田敬田四院事、志慕焉、永仁二年、奉勅管天王之主務、捨俸余益悲敬二院、此寺大門之外有衡門、(俗曰鳥居)鉅木宏材、歳久朽頽、性出新意、以石新之、高二丈五尺、国人拭目。〇石華表(法号発心門)の傍に納骨堂あり、引声(法華)堂短声(念仏)堂とす。寺記云、念仏堂、在西門之前、石鳥居之間、古尼堂也、此堂帝王或将軍家参詣之時、為居館、按大系図、後二条帝皇子、守邦親王女宮、為天王寺尼衆、元和年中幕府令放逐尼衆。〇西大門には輪宝を備へ、詣者をして之を転ぜしむ、門内には五智光院并に経蔵あり。寺記云、五智光院、治承元年、後白河法皇建立勧進灌頂、従是毎歳有結縁、為其料土佐国高岡荘寄附。〇南大門は回廊仁王門の南に在り、門側に万燈院あり。寺記云、万燈院、嘉禎四年、摂政入道道家、於天王寺修万燈会、此其場也。
回廊は中央に在り(延長百五十間)大塔金堂講堂の三宇を囲繞す、西重門を正面とす、金堂は(桁行十間梁間八間)本尊如意輪像、東壇四天王を安置す皆西面す。大塔は其南に在り、五層基方二丈三尺高十四丈七尺、本尊釈迦仏なり。仁王門は更に大塔の南に在り、講堂は金堂の北に在り。無常院は鐘楼なり講堂の傍六時堂の前に在り、徒然草に天王寺の舞楽は都にはぢず、善く図をしらべ黄鐘調の鐘声の最中に協はすと見ゆ、今の鐘は後世の改鋳なれば如何にや。又一書に、天王寺大塔は後醍醐帝の時再修あり、和州額安寺の古塔婆を移造らる之を雲水作《ウンスイヅクリ》と曰へり、近代は苫屋宇兵衛其形に拠り造進する所とぞ。回廊の北に食堂あり、又六時堂あり、天王寺記云、百済寺旧跡在東久保村之東、按平氏伝跋、引難波百済寺旧記曰、天王寺六時堂、千手観音一躯、往昔百済寺本尊と。舞台は池水の上に架し、聖霊会の時伶人此に舞楽を奏す、此寺の舞楽は本邦古楽中絶の際、伝承僅に此に存し、後世をして継ぐ所あらしめたりと云ふ。聖霊院は東隅に在り即太子廟なり、遺像(十六歳御容)を安置す。〇繁昌詩云、四天王寺、聖徳王之忌辰、在二月廿二日、毎春於蓮池上、伶人張楽、按我邦伝古楽、始宇百済国味摩師云、味摩師伝之秦川勝、川勝伝子川満、相伝不絶、至今日焉、西土永嘉以後、楽府多散亡、隋平陳之後、纔得其一二、所謂清商楽是也、文帝以為華夏正声、至唐武后時、稍得之、所謂平調清調瑟調是也、迄五代、天下鼎沸瓦解、古楽遂亡、至采始見朱子経伝通解所載、趙彦粛十二譜、及張蔚然三百篇声譜、然以理数推度之、而不能得其古調矣、我邦所伝、実為不失古調、歌詞雖逸、亦可以定古楽之正声、真是大快事、市河寛斎七絶曰、
 六代遺声伝李唐、龍姿軟舞羅陵王、傷今懐古無解人、月底花前看一場、
清水寺北伶官第宅相列、曰楽人街、伶官受制于仙洞上(523)皇東西両宰(町奉行)不能制矣。〇秋坊《アキノバウ》は本寺の寺司家也、食堂の北に居宅す、公文所と称し寺宝を収蔵す、相伝ふ、太子の侍臣小野妹子の曾孫文人、寺司職を賜はり子孫相続す、摂陽群談に秦川勝の裔孫と為す。〔名所図会〕宗祇が句に「難波津や秋に言葉の海もがな」とあるは秋野坊にてよめるものとぞ。
栄花物語云、延久五年二月、後三条院天王寺に詣させ給ふ、先住吉にまゐらせ、廿四日御堂のこりなく御覧じ、亀井など御覧ず、廿五日御船いだす御幣島と云所御覧ず。
 万世をすめる亀井の水やさは富の小川の流れなるらむ、〔後拾遺集〕         弁乳母
   天王寺に参りけるに難波の浦にとまりて
 さ夜ふけて蘆の末こそ浦風に哀打そふ波の音かな、〔新古今集〕
   天王寺に舎利を拝み奉りて
 薪つき煙もすみて去にけむ是や名残と見るぞ悲き、〔千載集〕              瞻西
   屏風の絵に、天王寺の西門にて法師の舟に乗て、西方に漕離れ行かた書たる所
 あみだぶと唱る声を楫にてや苦しき海を漕離るらん、〔金葉集〕             俊頼
   天王寺にたちよりて見れば、聖徳太子四天王を納めおき玉ふ、又みづからの御像をすゑおき給ふ、石の鳥居亀井の水など心しづかにながめて、万代をかめ井の水にむすびおきてゆく末ながく我もたのまん、〔足利義詮住吉詣記〕   登天王寺浮屠        中井 竹山
 浮図標出古悲田、晴日〓攀四望遙、表裡甲山判王気、東西成郡接人煙、仙陵遺愛雲端樹、廃帝余哀海上天、千歳層楼金碧〓、従来世事幾推遷、
   観四天王寺塔図作歌          梁川星巌
 我聞阿育王発願、造塔満八万八千、舎利爪髪有余屑、渡河踰海到東偏、結構随地金碧満、晃耀城市照山川、就中偉観天王寺、飛勢截雲相輪円、上宮太子活菩薩、連創伽藍度人天、象教従此方隆盛、八宗分派説因縁、法鼓僧鐘声不断、喧〓千有二百年、諌草誰復弾仏骨、伴宮蕭寂鎖寒烟、白首儒生飯不足、守経兀兀藜床穿、嗚呼君不見一弾指頭宝界現、鬼子鬼母戯青蓮、
 わけは知らずおぼろに涙千余年、   大江丸
 未来記の是もひとつや一乗合、    淡々
日本書紀云、用明天皇二年、蘇我馬子勧諸皇子群臣、謀減物部守屋、倶率軍兵、到渋川家而戦、皇子等与群臣衆、三回却還、是時厩戸皇子、束髪於額、而随軍後、料曰非願雜成、乃〓取白樛木、疾作四天王像、置於頂髪、而発誓言、今若使我勝敵、必当奉為護世四王、起立寺塔、誓已而進討、大連之軍忽然自敗、平乱之後、於摂津国、造四天王寺。又云、推古天皇元年、始造四天王寺於難波荒陵。三十一年、新羅貢金塔舎利一具、大灌頂幡一具、小幡十二条、皆納于四天王寺。孝徳天皇大化三年、阿部大臣請四衆於四天王寺、迎仏像四躯、使坐於塔内。〇書紀通証云、平氏太子伝引本願縁起曰、以丁未歳(用明二年)始建玉造岸上、癸丑歳(推古元年)壊移荒陵東、大連子孫従類二百七十三人、為永奴婢、没官所領田園十人万六千八百九十代、定永寺財畢、河内国弓削鞍作祖母間衣摺蛇草足代御立葦原寺、八箇所地、都集二十万四千六百四十代、摂津国於勢摸江鴟田熊凝等散地、都集五万八千二百五十代、居宅三箇所并資材等、悉計納寺分。〇扶桑略記、四天王寺縁起云、法号荒陵寺、荒陵郷東建立、故以処村号寺、発願四天王、故曰四天王寺敬田院、(東西八町南北六町)乾角建施薬院、艮角建悲田院、北中間建療病院、是三院在寺垣外、敬田院、斯地内有池、號荒陵池、其底深青龍恒居處也、以丁未歳始建玉造岸上、癸丑歳壊移荒陵東、斯処昔釈迦如来転法輪所、于時(厩戸王)成長者身、供養如来、以是因縁、起立寺塔、相当極楽国土東門中心、以髻髪六毛、相加仏舎利六粒、籠納塔心柱中、金堂安置金銅救世観音像、百済国王所進也、凡宝塔一基五重瓦葦金堂一宇二重瓦葦、金塗六重宝塔二基、金銅仏舎利塔形一基、講堂一宇八間瓦葦、夏堂四間丈六弥陀一体、冬堂四間観音一躯、歩廊一廻瓦葦八十間、二重中門一宇瓦葦五間、(金剛力士)食堂一宇七間瓦葦二面庇文殊※[田+比]頭盧、自余不細註之云々。〇元亨釈書云、用明天皇二年、上宮厩戸王、於摂州玉造岸上、建梵刹、安天王四像、分物氏資産納寺、推古元年、移難波淡荒陵東、故曰荒陵寺、有池南北一里、東西里余、曰荒陵池、青龍※[さんずい+勿]焉、昔釈迦文仏因地転法輪於此、爾時皇子為長者、聴受供養、故遷此地宝塔大殿、対極楽界東門、皇子授髻髪六茎、加仏舎利六粒、蔵塔中柱、表救世六趣。〇古京遺文云、四天王寺本願縁起、係後人偽託、然其出在一条帝時、故可猶取証。天王寺別当職は承和年中円行和上初任の後、保延元年には白河法皇々子行慶僧正の補任ありてより、法親王の入寺多かりき。帝王編年記に覚書文暦の比、此寺に山門(延暦寺)寺門(園城寺)の所属を争ふ事数十年に渉り、寺僧衆徒干戈を執り騒動止まざりし由見ゆ。足利時代には天台真言の差別なく法親王の入寺あり、元和以後台家輪王寺の管帶に属したり、明治八年より更に住職を置くことゝ為りぬ。
天王寺は南北朝の時しば/\兵馬の街と為り、両軍争奪の中点たり、中にも最名ある戦は楠木正成の天王寺陣なり。楠木合戦注文云「正月十九日巳刻寄釆天王寺、致合戦、交名人等、大将軍四条少将隆貞、楠木一族、(524)同舎弟云々、一日合戦、戌亥時、子時追落、楠木渡辺責下、御米少々押取、同廿二日申時引帰」(正慶二年)又太平記云、東国の兵の中に天王寺の鳥居に
 花さかぬ老木のさくら朽ちぬともその名は苔の下にかくれじ
と一首の歌を書きて、其次に「武蔵国住人、人見四郎恩阿生七十三、正慶二年二月二日、赤坂の城へ向ひて、武恩を報ぜんために、討死仕り畢りぬ」とぞ書きたりける。〇楠木宇都宮の対陣は太平記に拠れば正慶元年夏の事とす。曰六波羅勢は渡辺より天王寺の在家まで楠勢を追かけゝるに、正成は思ふ程敵の人馬を疲して、二千騎を三手に分けて、一手は天王寺の東より、敵を弓手にうけてかけて出づ、一手は西門の石の鳥居より魚鱗に懸りかけ出づ、一手は住吉よりかけ出て、之を破る、然るに翌日楠は敵定めて今は近づくらんとて引きたりける、夜明けゝれば、宇都宮七百余騎の勢にて天王寺へ押し寄せ、古宇都《コウツ》の在家に火をかけ、此辺は馬の足立悪しくして、遣狭き間かけ入る敵に中を破られな、後を包まるな、と下知して、紀清両党馬の足をそろへて、天王寺の東西の口よりかけ入りけれども敵一人もなし、宇都宮不戦先に一勝したる心地して、本堂の前にて馬より下り、上宮太子を伏し拝み歓喜の思をなせり、四五日を経て後、和田楠和泉河内の野伏共を四五千人駆り、大和河内紀伊の山々浦々に、篝を焼かぬ所はなかりけり、其勢数万騎あらんと推し量れておぴたゞし、如此する事両三夜に及びければ宇都宮も天王寺を追く。〇天王寺未来記の事は太平記に見ゆるが、明月記嘉禄三年の条にも其説を載せ、時代を逐ひて頻に出現す其実疑ふべしと論ぜり、蓋仮託の流言にして当時の諺なるべし。〇天正年中織田氏の軍兵天王寺の塞を守ると云ふは即|勝曼《シヨウマン》城なり、天王寺の西北に接する地なり。名所図会は月江尼寺を以て天王寺城址と為す、月江寺は勝曼院の北三町許なれど、其間一窪地を隔つるのみ。
 城南裙〓鬧花朝、中有泥墻繞草寮、塔影到衣檐〓午、桃紅深処独吹篇、        柴 秋村
 只見紅裙不見憎、遙聞金磬礼荒陵、桃花可似春雲嬾、埋到浮図第四層、
補【四天王寺】〇天王寺記に曰く、本願縁起所載東西捌町、南北陸町、今境内延宝五丁巳年検地帳所記、東西百五十九間、南北二百五間。聖霊院 此院太子薨後安置太子遺像、朝奠暮祭無怠慢也、
六時堂、堂在食堂之前、弘仁七年建立、勤六時勤行云々、
五智光院 院在西門之右、検旧記曰、高倉帝治承元年後白河法皇建立此院、勧灌頂導師三井公顕僧正、従是毎歳九月廿日有結縁灌頂、為其料土佐国高岡庄寄附云々、
絵堂 堂在聖霊院之西、按旧記、此堂太子一生之行事以図画彰也、然大僧正行慶事務之間顛倒而無再興、後堀河帝貞応三年別当慈円再興旧跡、後障子撰漢家本朝往生伝、仰尊智法眼画九品往生之人、及詠和歌賦詩句、万燈院 在寺内西南隅、検旧記曰、嘉禎四年九月廿五日摂政入道々家於天王寺修万燈会、此其道場也、
念仏堂 在西門之前、石鳥居之間、古尼堂也、旧記曰、此堂者帝王或将軍家参詣之時為居館、按大系図、後二条帝皇子守邦親王女宮為天王寺尼衆云々、又高倉帝后宮建礼門院宮女戒之妹理円尼、天王寺尼衆(見扶桑隠逸伝云々)元和年中幕府令放遂、
転法輪処 釘石鳥居、額銘曰、釈迦如来転法論処当極楽土東門中心云々、太子宸翰也、慈鎖和上歌(夫木集)曰、つのくにの難波の浦の大寺の額の銘こそまことなりけれ、
転法輪石 在金堂之前、石文曰、東、妙法蓮華経。南、是大摩訂衍。西、衆生如教行。北、自然成仏道。
按、慈鎮歌(夫木集)曰、難波津やふるき昔もあしがきのまぢかきものを転法輪処
 天王寺 灌頂に来会も緑よ天王寺    徳元
徒然草云、何事も辺土はいやしくかたくななれども、天王寺の舞楽のみ都にはぢずといふ、天王寺の伶人の申し侍りしは、当寺の楽はよく図をしらべあはせて、物の音のめでたくととのほり侍る事、外よりもすぐれたり、故は太子の御時の図今に侍るをはかせとす、いはゆる六時堂の前の鐘なり、其の声黄鐘調のもなかなり、寒暑に随ひてあがりさがりあるべき故に、二月涅槃会より聖霊会までの中間を指南とす、秘蔵の事なり、此の一調子をもちて、いづれの声をも調へ侍るなりと申しき。
京華要誌 当寺は一に四院に分ち、施薬・療病・悲田・敬田に分ちたりとも云ふ、徳川氏の時日光山輪王寺の管轄と為り、享和元年雷火にかゝり、金堂講堂大塔等四十余宇悉く焼けしが、文化九年大阪白銀町の紙屑商淡路屋太郎左衛門奮発して再建の勧進を為し、数年に成功す、寺域二万五千六百余坪あり、南大門、仁王門、五重塔(高十四丈七尺あり)金堂、講堂、舞台、廻廊荘嚴をきはむ、石の鳥居には釈迦如来転法輪所当極楽土東門中心と題扁す、寺宝は太子手印縁起、又七星剣等あり。
  天王寺にまゐりけるに、難波の浦にとまりてよみ侍りける
 さよふけて芦の末こす浦風にあはれうちそふ波の音かな(新古今集)          肥後
(525)  天王寺にまゐりて舎利を拝みたてまつりてよみ侍りける
 薪つき煙もすみていにゝけむこれやなごりと見るぞ悲しき(千載集)         瞻西 上人
 
荒陵《アラハカ》 後世|茶磨《チヤウス》山と称す、天王寺の西南に接す。陵形欠損すと雖西南半面に湟を遺し方域二町余、日本書紀仁徳巻に「当荒陵松林之南道、忽生両|歴木《クヌギ》、挟路而末合」と見えたり、其古墓なること想ふべし。又続日本紀に摂津大夫和気清麿河内川を荒陵の南に導かんとして成らざりし事を載す。前皇廟陵記云、「天王寺旧記曰、四天王寺西南有荒墓、相伝仁徳天皇築之、後更定陵」と、この説詳ならず。荒陵の茶磨山は太子塚又大塚と曰ふ、天文十五年細川晴元の兵之に築塞す。細川両家記云、山中又三郎天王寺大塚へ城構へて籠けるを、河内衆打立て責候へば難儀に成間、三好方同宗三衆淡州衆かの城の後詰の為め九月朔日に中島へ打渡、同三日に少々渡辺川を渡る所に、天王寺城※[口+愛]に成て明渡なり。〇日本戦史云、慶長十九年冬の役徳川家康営を茶磨山に置く、山頂の地甚狭く近侍の外居るべからず、番士は一心寺を以て屯所と為し寺の東に総門を建て、守衛の兵は湟南の山に陣営す、是歳和議成り、翌年又兵起る。五月東軍大和河内に入る、西軍五月六日道明寺八尾若江の諸戦皆敗れ、将士の死傷少からず、是夜真田幸村毛利勝永等茶磨山及天王寺に屯す。七日味爽大野治長茶磨山に来り軍議す、幸村曰く天王寺附近を戦場と定め城中諸将皆出てこゝに配備し、東軍を誘致して決戦せん、別に一隊を船場《センバ》に置き正面軍酣戦の時潜に下寺《シモテラ》町を経て茶磨山の南に迂廻せしめ敵の背後を襲撃す可しと。東軍は先鋒本多忠朝挺進して他隊に超え毛利隊と対す、右に四十間余の沼地あり左に小丘あり、越前忠直の隊の前にも亦小丘あり、丘上より赤旗の茶磨山に翻るを見て真田隊なるを知り、衆恐懼の色あり。正午忠直馬を命じ進撃す、西軍毛利隊僅に一町弱の距稚に於て四千余の兵を析敷かしめ、先づ本多隊を銃撃す、本多隊敗る、毛利隊は越前兵の右隊に突入し忠朝を斃す。東軍小笠原秀政父子保科正貞と共に竹田永翁の隊と戦て之を破り天王寺を左にして進撃する七人町許、更に大野治長の兵と戦ふ時毛利の隊俄に来り側撃す、秀政重創を負ふて退く(其夜終に起たず)長子忠修其退却を知らず槍を提げ健闘し之に死す、二子忠政(年十八)父兄の死傷を開き殊死突入し敵の背後に出て激闘し遂に七創を負ふ、正員も亦丸に中り其従兵概ね戦死す。之より先き幸村は越前隊の来迫を見て指揮之に向ふ、大谷吉久渡辺糺伊木遠雄等善く戦ひ、越前兵も亦曹戦し呼声天地を動かす。家康は平野より桑津の西に出て、越前兵の後尾に在て進みしに、毛利勝永本多小笠原の諸隊を敗り勝に乗じて来り衝く、両軍混乱彼我を弁ぜず、東軍大に驚擾す。是日東軍諸隊強争挺先して進み後方の配備未だ定らず、家康は馬を路傍に駐め彷徨す、已にして越前兵猛撃して進み遂に旗を茶磨山に建つ、西軍支ふる能はず。然れども幸村は胆気益々壮にして縦横馳突、東軍を攪乱する数回の後僅に退て安居《ヤスヰ》天神に憩ふ、越前の兵進て之を槍殺す。〇諸書を参考するに七日の軍は「大坂方に於て今日ぞ堀際の一戦たるべしとて、城兵天王寺表を一円に取敷、真田は茶磨山に備を立て旗本と二之手にて百騎計後の勝を心懸て屯しける、味方右のかた岡山表の先陣は加賀利常卿、左の方茶磨山の一陣は越前少将殿なり、両備の間は本多出雲守忠朝、相備の大小名中は掃部頭(井伊)と藤堂にて二之手榊原云々。〔続武家閑話〕七日の戦は城より打出、西は天王寺茶臼山を限り東山は岡山まで段々に備へ、城五万の勢を黒門玉造高津口三の門より一同に討て出、両御所様旗本へ突懸候はゞ今日の勝負は何れとも知れがたく見えたり、越前少将忠直様御湯漬立てながら二盃上り箸を御膳へなげ玉ひ、兵粮は遣ひ腹はよくなりたれば、餓鬼道に落ちまじ真直に閻魔の庁に可行と被仰、御冑を召し御馬引寄御掛なされ、其日の一番合戦なりけり。〔武道雑談〕七日の合戦のとき、浅野勢は今宮の方より人数をいだす、越前家備の跡を押通りたるを見ると、何者となく紀州殿被致裏切と申出し罵りて、関東勢大に騒動す、之に乗じ真田左衛門尉幸村馬廻の勢を以て大御所御備近く撃てかゝる所に、越前家の旗本にて受留手痛く合戦す、抑真田左衛門合戦の様子奇怪の説多く、此日初は茶臼山へ出で、夫より平野口に於て伏兵を引廻し又岡山に出で戦ひ後に天王寺表に於て討死す、其往来抜道の跡只今に跡残ると誠しやかに書残す、今按ずるに去年冬の城攻の時竹束を附け仕寄道を造りたるを、数十年の後に相残たる跡を見て、合点行かざるもの抜道などと取合せ、兵家常の事を不知、誤を伝へたりと考ふ。〔元和先鋒録〕
按ずるに荒陵の東三町許より、一条の窪地あり南東に連り、斜めに桑津今林の間を経て平野郷に至る、今平野街道は此窪地に沿ふて走る。名所大絵図に之を河堀口と標榜す、即延暦年中|河内川《カフチガハ》開鑿末成の跡也。桑津以西凡二十町、其人為開鑿の跡最明なり、桑津以東は一面の平田、蓋大和川を承けたる河内の水を龍華川に通じ、荒陵の南を穿断して海に導かんと企図せる也。荒陵の西には河道猶存す、俗に鼬《イタチ》川と呼ぶ、役《エダチ》河の義なり。日本後紀に之を記し、和気朝臣清麿、為摂津大夫、鑿河内川、直通西海、擬除水害、所費巨多、切遂不成。(続日本紀云、延暦七年清麿言、河内摂津両国(526)之堺、堀川築堤、自荒陵南、導河内川、乃通於海、然則沃壌益広、可以墾闢矣、於是便遣清麿、勾当其事、応須単功二十三万余人、給粮従事。)徳川氏宝永元年を以て新大和川を造り、以て河摂二州の水害を除き沃壤を益したるは、実に此遺謀に出づと謂ふべし。
 
一心寺《イツシンジ》 天王寺石鳥居の下、茶磨山の西北に在り、旧天王寺の別所にして源空の庵室たりき。慶長中参州の僧本誉存岸再興し一心寺と号す、たまたま戦乱の起るにあひ、冬の役には家康公営所を此に立てたり、乱後に大坂城の殿材を給附し寺字を重修せしめらる、家康書する所の坂松山の額あり。前門は大坂玉造口《タマツクリクチ》黒門を移したる者とぞ、又五月七日の戦に死したる本多出雲守忠朝主従十人の墓あり。〇名所図会云、一心寺は浄土宗々祖二十五箇旧跡の一にして、難波名号の霊場也。文治元年、天王寺別当職慈鏡和尚、法然上人を招請し四間の庵室を結び新別所といふ、後白河法皇天王寺行幸の砌上人を訪はせ、共に日想観したまふ、其唱和夫木集に見ゆ、
 阿弥陀仏と云ふよりほかは津の国の難波のことも葦刈りぬべし、          法然
 難波潟入にし日をもながむればよしあしともに南無阿弥陀仏、
     後白河法皇
一心寺の西に合法《ガツポフ》辻の字あり。名義を知らず。
 
夕日岡《ユフヒノヲカ》 天王寺の西、一心寺の北、高津《カウヅ》に至る間の総名なり。源空庵日想観の故事、又家隆卿夕陽庵の跡あるを以て此称起る、西面の崖地にして岡下を下寺《シモテラ》町と云ふ岡上も寺町なり。安居《ヤスヰ》天神宮は丁心寺の直北に在り、元和元年真田幸村勇戦の未此祠畔に還り、越前兵西尾久作に其元首を授けたる所とす。
新清水《シンキヨミヅ》は安居の北に接す、寛永年中観音堂を建て堂宇舞台の制一に京師清水寺に擬せり。此辺亭館の設多く遊賞の客を延く、有栖《アリス》山とも称す。
  大坂繁昌詩云、安居天神祠、地成小岡、故又呼天神山、廟北有福屋有浮瀬、皆一大酒楼、天神山西、路傍有一祠、安石像閻羅王、此名合法衢、此間鑿土、則泉水輙沸、有増井逢坂諸名泉焉、清水寺在其北、与天神山相連、楼閣巍然、樹木欝然、元和之役、松平忠直〓于閻羅祠、曰我不堕餓鬼道、事見逸史外史。
 合法衢辺泉水喧、閻王祠畔欲黄昏、樹深清水観音閣、数点霊燈誦普門、
 
勝曼院《シヨウマンヰン》 夕日岡の中心にして、新清水の北に接す。勝曼院は四天王寺の別所にして、本尊愛染明王なり、多宝塔あり大日如来を安置す。〇勝曼の塁は或は天王寺城と呼ぶ、天正中織田氏石山本願寺と対陣の時、向城として之を築く。名所図会、天王寺城址は今の月江寺なりとす、月江寺は勝曼院の北三町許なれど、一窪地を隔つ。〇古実話云、夏の陣大坂落城の時家康公の上意に、此茶麿山の北に見ゆる勝曼院の山に佐久間不干(信盛)筒井順慶荒木村重こもりて大坂の門跡顕如上人より攻ける時、鑓合ありし事聞及びぬ、其外上方にての鑓大形聞き及ばず、鑓は昔より云ひ伝へる杉成りの鑓にて天正六年五月三日の合戦とぞ。〇世々乃跡〔本願寺古文書〕云「天王寺北城近衛殿人数入替、大坂退城之刻太子塚をも引取、今度使衆を可入置事」と是は天正八年の事なるべし二月十七日署印の信長証文なり、北城は即勝曼塁なり、太子塚は茶磨山なり近衛殿は前久公を云ふ。
藤家隆卿墓は勝曼院の背、夕陽庵に在り。家隆は天王寺の庵にて最期を遂げられ、辞世の詠あり。享保年中墓碑を建てゝ之を標示す。(名所図会〕
 ちぎりあれば難波の里にやどりきて波の入日をおがみつるかな、          藤原 家隆
勝曼院の傍に大江神社あり、旧毘沙門堂なり。
 
国分寺《コクブンジ》 天王寺の東五町に在り、(今生野村大字国分)蓋天平年中勅建の国分僧寺にして菩提僊那の開基と称す。中世荒敗、延宝八年黄檗山憎性派再興す、元禄元年東大寺公慶大仏重修の時、菩提僧正往代此寺より請に応じて開眼導師たるを以て、派を招き法会首領に充てたりと云ふ。(東国高僧伝〕
 
毘沙門池《ビシヤモンイケ》 天王寺の東北に接す、国分寺の西北六町に在り、岡山より西十町、夏の役の戦場なり。大坂御陣覚書云、元和元年五月七日の戦には、細川越中守忠興の手は岡山の西を押抜、天王寺毘沙門ケ池に備を立て暫く鉄砲迫合あり、田の中へ乗付西の土手を抱へたる敵へ掛る、土手へ乗上り此口の軍打勝、敵を追払ひ逃を追ひ柵場まで詰候。日本戦史云、五月七日岡山口に、将軍秀忠の前備たる藤堂及井伊の隊は本多小笠原等の隊敗績し西軍突入し来るを見て、桑津村より沼沢を渉りて進み治長の銃隊を側撃し、其先頭は毘沙門池辺に於て毛利隊を撃つ、毛利隊は真田及渡辺大谷等の諸隊皆潰え後方連絡絶ゆるを以て之を棄て退却し岡山口一帯の西軍終に支ふる能はず、土山の東西より黒門口若くは大和橋口に退却す、乃ち天王寺及岡山口の東軍相合して城に逼る。
 
讃揚《サヤ》郷 和名抄、西成郡讃楊郷〇今|西高津《ニシカウヅ》村|東平野《ヒガシヒラノ》村(即東高津)等、天王寺の北方なる高地ならん、即|郡戸《コホド》又は高津《カウヅ》と呼べる皆此なり。〇皇典講演(村岡氏)云、讃揚は当に佐耶とよむべし、即佐夜部を修めしなり、孝徳紀に「壊難波|狭屋部《さやべ》邑子代屯倉、而起行宮也」と、姓氏録、摂津神別に「佐夜部首、伊香色雄命之後」と、天孫本紀に物部大小木連、佐夜部(527)直、また物部印岐美連公、佐夜直等祖也とも見ゆ、承和六年〔続後紀〕摂津国人、直講博士佐夜部直穎主、改賜姓善友朝臣と是れ其裔なり、応永難波地図に拠れば今の高津町にあたる、摂津志に「揚当作場、今|三番《サンバ》村」とあるは謬り也。〇按に讃揚は狭屋部邑にて高津《カウヅ》ならんとの説は従ふべし、但し其応永地図に拠ると云はるゝも、彼図固より真本と想はれず、必しも之に拠るを要せず、孝徳紀|子代《コシロ》離宮を一所に蝦蟆《カハヅ》行宮とあるにて、讃楊は蝦蟆と同地たるを証するに足らん、安良《アラ》郷の北に接し、東生郡郡家郷味原郷と相連れり。
 
高津《カウヅ》 天王寺以北|空堀《カラボリ》に至る一帯の高地を云ふ、今西高津村東平野町(即東高津)等是なり、古の高津《タカツ》と相異なり、本|蝦蟆《カハヅ》に作る中世|郡戸《コホド》に転じ、或は古宇都に作る。〔太平記古宇都〕〇古事記伝云、今の世にカウヅを高津と書て、高津宮は其所なりと云は誤れり、カウヅ孝徳紀蝦蟇行宮とある所にて、此地名うつぼ物語にも見えたり。
 
蝦蟇行宮《カハヅノミヤ》址 日本書紀、孝徳天皇二年、御蝦蟇行宮。(註戎本云離宮)書紀通証云、空穂談曰、難波の祓に冠柳に到たまひて、大宮
 河津なる柳がえだに居る鷺をしろくさくともまづ見つるなる、
疑今所謂高津、王子記作郡戸。古事記伝云、蝦蟇宮は今の比売許曽の社のある高津なるべし。〇按に蝦蟇行宮は狭屋部邑に在りて子代離宮とも曰ふ、孝徳帝難波遷都の初めに此に御せしが、大化三年是歳壊小郡営宮とありて、小郡の蝦蟆行宮を移し更に味経と長柄豊崎に営造ありしと知るべし。
 
郡戸《コホド》 コホドと呼ぶ、郡字をコホに仮る事諸国に例あり。細川両家記云、享禄四牛浦上勢は天王寺上難波朔戸渡辺津村陣所なり、又云、元亀元年
信長方の人数は天王寺今宮部戸陣取と、此に  戸又部戸とあるは皆郡戸の誤にて今の高津を指す者とす。宣胤卿記、明応六年殿下伝領の一荘を摂州群戸とあるも此なるべし。
 
円珠庵《エンジユアン》 今|東高津《ヒガシカウヅ》の餌差《エサシ》町に在り、阿闍梨契冲の住宅にして其終焉所なり、元禄十五年とぞ。此法師内典を究めしのみにあらず、和歌に長じ博く国書に通ず、徳行亦非凡なり、後世景仰して止まず、庵室陋なりと雖法師の遺物を安置す、亦大坂の一名所と謂ふべし。
 つかの野のそなたにはあらで難波潟こぎ出る舟に鹿子ぞなくなる。          契沖
 高津とて此に昔を忍ぶれば宮の鴬野田になくなり。
補【円珠庵】〇人名辞書 契冲名は空心、俗姓は下河、摂津の人、十三にして髪を薙て高野山にのぼり、居ること数年、学行ますます進む、泉州久井里に往て山水の奇を愛し、居ること年あり、三蔵を尽し悉曇に通ず、又池田河の側に居て偏く皇朝の国史実録古記をよみ、専ら国風を好みて広く其の書を採る、延宝五年儀軌二百余巻を手写して生駒宝山寺に納め、妙法寺に住し母氏を移し孝養す、是の時水戸西山義公万葉集の註釈を撰す、之を府下に致さんと欲す、契冲固く辞して就かず、而れども公の志に感じ遂に万葉代匠記二十巻惣釈二巻を作りて之を上る、公其の卓見をよろこぴ、白金千両絹三十匹を賜ひて是を労ふ、冲悉く散じて貧乏の者に給し、且つ寺院の修造に充て、一も私用せず、母氏歿するに及び院を退き、難破の東高津に卜居し、円珠庵と号す、俗客を屏謝し清修自適す、西山公時に物を賜ひて起居を問ふこと絶えず、時に天禄十四年正月二十五日、定印跏趺をむすびて寂す、年六十二。〇大阪府史談、玉造あたりの円珠庵。
 
生玉《イクタマ》神社
面す。祠背は懸崖なるを以て、台〓の説あり、西海の雲万家の煙を望むべし、今宮幣大社に列す、謂はゆる難波大社なり。祠東に池之弁天、北向八幡等あり。
生玉神は本玉造村|難波杜《ナニハノモリ》に在り、明応の比蓮如上人本願寺を石山(今大坂城)に建てたる時、本社は其傍に存せりと云。蜃長の初め豊臣氏之を域外に移す、即今の所なり、徳川幕府神領三百石を充て奉れり。〇神祇志料云、難波坐|生国咲国魂《イククニサキクニタマ》神社(神祇式咲国の字なし釈日本紀に拠りて補ふ)は生国魂咲国魂神を祭る、是れ島の八十島墜る事なく皇孫命に寄きし奉る大神なり、〔延喜式〕大同元年摂津二戸を神封に充奉り、〔新抄格勅符〕貞観元年難波生国魂神授位、〔三代実録〕延喜式名神大社に列る。(玉造生国魂神社址参看)
 
高津《タカツ》神社 西高津村に在り、生玉神社の北二町許、今仁徳天皇を祀り比売許曽を別殿に祀る。此地蓋孝徳天皇蝦蟇離宮の址にして後世牛頭天王社あり、近世|高津《カウツ》は仁徳天皇の宮名と疑似するを以て更に帝廟と号し、又延喜式東生郡比売許曽神社ありて後廃絶したるを以て此に其名を伝ふ。(比売許曽神社址は小橋《ヲハセ》にあり)此祠域は道頓堀の東に当り、地勢隆起して登覧に宜し、多く梅樹を植う、或人の詠に曰く、
 春の夜の月に昔や思ひ出で高津の宮に匂ふ梅が枝、
 
東平野《ヒガシヒラノ》 西高津村の東を東平野町と為す、即東高津なり。名所図会云、高津の東を総て上小竹葉野《アゲサヽハノ》と曰ふと、又|篠山《サヽヤマ》と曰ふ、東北は味経《アヂフ》の姫山《ヒメヤマ》(即真田山)に接す。(再按上小竹野の古跡は此に非ず)
 妹が髪上小竹葉野のはなち駒あらぴにけらしあはぬ思ば、〔万葉集〕網引する三津の浜辺にさはかれてあけさゝは野に田鶴かへる也、〔堀河百首〕
(528)大坂冬役、十二月四日の暁、加賀前田の隊篠山より真田山に向ふて進撃し、夜黒く路を失ひ真田山の兵の為め窘められたる事当時の軍書に見ゆ。
 
空堀《カラホリ》 高津《カウヅ》の北にて今大坂市南区に属す。大坂城旧三之丸の南外湟なりしが、冬役の後埋却したれど猶其遺形を存す、桃谷《モモダニ》の窪地を中心とし東は真田山の北に通じ、西は東横堀に至る。〇日本戦史云、大坂域の地勢や西に海を控え、東及北に川を帯び、天険自ら敵軍を阻するに足るも、独り其南方は高原にして平かに城に連なる。故に空壕を鑿ちて之を阻絶せりと雖、秀吉猶終身之を憂慮せりと云ふ。冬役、真田幸村の砦を南郭外に築きたる、蓋亦此に見る所ありしならん、大坂城三之丸の南面に三門あり、西端に在るを松屋町口とし、其次を谷町口其東を八町目口とす、共に路を天王寺に通ず、真田幸村の砦(世に之を真田丸と称す)は八町目口の東、即ち城の東南端に在り。〇同書又云、冬役東軍は城池堅固攻撃不利なるに因り、藤堂高虎をして詐謀をめぐらさしめ、谷町口の城将の一人南条忠成を誘はしむ、忠成塀柱の根を斬りて東兵を導かむと欲し、堤燈を褐ぐるを期とし銃を発すべしと約す、其事あらはれ十二月三日忠成とらはる。四日東軍城に迫る、城兵急に之を防がむとし誤て火薬を爆裂し楼櫓を焼く、東軍以て忠成の内応となし益兵を進む、時に午前四時なり、東軍空壕に入りし者進退維れ谷る、城兵銃を発し石を飛し悉く之を殺す、日既に牛を過ぐるも戦闘やまず、加賀越前の兵益死傷して城兵一人の死傷なし、三時に至り戦やむ。此後諸隊の仕寄、空壕を距る僅に三十間或は二十間に至る、先頭高虎及直孝等の陣地は土山を築き城内を瞰射す、城中も亦土豚を積みて障壁となし之を拒ぎ銃射雨の如し、東軍死傷甚だ多く各営三百或は五百に至る、而して城兵一の死傷なく唯銃痕を障壁に印するのみ、東軍又隠道を鑿つ効なくして已む。又云、冬陣の時嵯峨の墨の倉某後代の覚えの為め天王寺口の矢倉を金堀を以て掘らす、本多佐州見て誰人の許しにて彼に矢倉を掘らすぞ、箇様なる事は書物に書留る事なれば関東の武士共が城を攻かね町人を頼て矢倉を掘らせたるといはれむは後代の名折なりとて押止めらると云々、其掘たる穴の中に座敷を構へ明りの入様にして茶湯を仕掛、美はしき形勢なり、久国直に見ると云々。〔久国談話〕其後木村長門守御使大御所様へ参り候て起請文受取帰被申條、夫より城中寄衆共互に出合申條、城中より協引々々に寄衆の仕寄など見物いたし、藤堂和泉守金堀御入の穴は巾二間半高サ一間御座候、檜の木にて両方の柱の上桁切張削り立三尺に一ツ宛両方に掛け燈台ともし申條、此穴城までは特の外速く御座條。〔山口休庵咄〕
補【桃谷】〇大坂域の外郭の空壕址なり。
 
郡家《グウケ》郷 和名抄、東生郡郡家郷〇今大坂市空堀《カラホリ》桃谷
安堂坂(南区)などの地にて讃揚《サヤ》郷の北、玉造の南なる高地ならん。難波大郡の客館は此に在りしごとし。
 
難波大郡館《ナニハオホゴホリノムロツミ》址 蕃客を置かれたる亭館なり、難波館又津館と云ふに同じ、蓋本館の設備は応神仁徳の聖朝より創まりし者ならん。〇摂津志、書紀通証等に難波館は安国寺坂上に在りと云。占事記伝云、上本《ウヘホン》町通|安曇《アンドウ》寺町筋の民家の後へに小祠有て今に古宮跡と云伝へたりと、安国寺坂上と云ふ者之を指すに似たり、今大坂市上町南区東区の交界の辺なるべし。
欽明天皇紀、二十二年、新羅献調賦、於難波大郡、次序諸蕃。推古天皇、十六年夏四月、召大唐客裴世清等、為唐客更造新館、於難波高麗館之上、九月、饗唐客等、於難波大郡、舒明天皇二年、改修理難波大郡、及三韓館、皇極天皇二年、災難波百済客館堂。〇書紀通証云、難波客館、在東生郡安国寺坂上、万葉集曰在館門観江南美女歌、即此、又云、安国寺坂、北有小祠、此即高津宮蹤、一名大郡宮。〇按ずるに高津宮は此と相異なり通証の説採るべからず、難波客館は続日本紀延喜式に難波館と記す者即鴻臚に同じ、帝王編年記に「敏達天皇十二年、百済僧日羅来朝、于時太子十二歳、交於童子、遊戯難波館、日羅指太子、這跪地合掌唱曰、敬礼救世観世吉、伝灯東方粟散王、従於西方来誕生、皆宣妙法度衆生、是本邦聞観音名号之始也此に日羅を憎と云ふは疑はしけれど、事のついでに引く。
鴻臚館《コウロクワン》址〇即難波大郡客館にして史に高麗館三韓館百済客館などあるに同じ、承和十一年館を以て国府の庁舎に充てらる、爾後府館の興癈は詳ならず。〇続日本後紀云、承和十一年、摂津国言、依去天長三年承和二年両度勅旨、定河辺郡為奈野、可遷建国府、而今国弊民疲、不堪発役、望請停遷彼曠野、便以鴻臚館為国府、且加條理者、勅聴之。〇名所図会に「三韓館は真田山の北一町許に旧址あり、字を唐居殿《カラヰドノ》と云ふ」と載す、韓家殿の義にやあらん。
 
真田山《サナダヤマ》 高津の東北に接し北は空堀、東は水田、西は味経池にして西は高津に連り一座の丘なり。旧名|姫《ヒメ》山と云ふは山南に比売許曽神社ありければ也、大坂冬役に真田幸村此に出丸《デマル》を築き、前田利常(加賀宰相)之に対し仕寄《シヨセ》を造りたるを以て真田山又|宰相《サイシヤウ》山と呼ぶ、幸村塁址今小橋寺町と呼び、大略寺院の敷地と為る。
按に、浪華国志は真田山の辺を以て仁徳帝高津宮址と推定す、曰「皇城は東百済川、西上町、北は玉造、南は百済野と限り、宮址は小橋寺町の西の方、今の桃木原、此を土人御殿谷と云、或は云東は有都谷(真田山の南一町)西は大江岸、北は味生坂高台(土人コンダイと呼ぶ)南は餅差町の地か」と、今採らず。〇戦史、慶長十九年十一月、真田幸村大坂域南方の防禦固からざるを以て、一砦を空堀の東南岡に築く、方百間柵を四周し壕を環らし、壕中又二重の柵を樹つ、塀柵一間毎に箭眼六個を開き銃三挺を排置し、又櫓間に棚櫓を設け七尺の武者走(武者走は当時築城家の通語にして門側の壁内に設け兵士の登降に便する者を称す、雁木坂重り坂相坂の三種あり雁木坂を便とし相坂を忌むといふ)を構へて銃を列す、砦の南に密篠叢生の小高地(小橋村に属す故俗之を小樽の篠山と謂ふ)あり亦銃卒を出し之を守らしむ。十一月十一日以来東軍漸々城南に薄り柵を設け営を布く、域を距る凡十四五町許、十三日家康令して軽しく接戦すること勿らしめ、湟塹を掘り土星を築き巨砲を以て射撃せしむ幸村之を見て兵を篠山に増し之を防ぐ。〇真田山の東北に稲荷祠あり、俗に真田稲荷と称す。又真田山の辺を清掘《キヨボリ》村と曰ふ、空堀に因む所あるか。
補【谷町口】〇日本戦史 冬の役、東軍礦夫を以て城壁の下を鑿ち、構櫓を崩壊せしむべしと命ず、伊治等曰く、高虎直孝及利常の仕寄の前より掘らしむべしと、乃ち十二月十四日より工を起す、其方法左の如し、高さ八尺五寸横幅九尺、穴の入口両角より奥へ四尺五寸づつ間隔を置き、左右に柱を駢植し、貫を二段に通し大なる梁を渡し、其上に角柱を五通り並べ、其上へ厚板を挿み天井を貼る如くし、両脇の土を擁する為め貫と土との間に厚板を竪に置き、又穴の真中通に九尺間を置き、梁に大なる柱を立つ、是れ地震或は土崩に備るなり、又穴の両傍に燈を掛け火を点ぜり、隧道を鑿つこと五六日、凡そ一町に至る比ろ構和成り、工を寝む。
補【真田山】〇古名媛山と曰ふ、玉造の西南、小橋の西北なる一阜なり、大坂役両度真由幸村之に築塞す。
 
味原《アヂフ》卿 和名抄、東生郡味原郷。〇今鶴椅村の北部(大字猪飼野東小橋小橋)及び中本《ナカモト》村(大字本荘)なるべし、即郡家卿の東にして北は玉造に接す、難波旧地考に味原は蓬原《ヨモギフ》浅茅原《アサヂフ》の例にして味生に同じ、摂津志に之を味舌《アマシタ》村に擬したるは採るに足らず、天王寺の北なる山小橋《ヤマヲバセ》の旧名を味経と曰ふと此也。〇延喜典薬式云、凡味原牧、為寮午牧、其生益牡牛、便充耕作薬園并為父牛。
補【味原郷】東生郡〇味原。民部省図帳、味原庄公穀無貢代、仮粟以横税充貢代、延長三年五月依洪水欲為荒地、国司藤原兼仍依収用之儲避其害。難波旧地考、味経原は島下郡別府味舌二村の古名と摂津志にいへれど、長柄宮味経原は相|接《ツヅケ》る地にあらでは、方葉集六金村作歌に「長柄宮尓真木柱太高敷而(中略)味経原仁物部乃八十伴雄者庵為而云々」といへるに協はず、是は味舌の名によりて例の並河氏の押当の強言とおぼゆればとるにたらず、故におほくの古図に就て考るに、天王寺の北東味原(山小橋《ヤマヲバセ》の旧名といへり)南に高津といふ所見えたり、是即今の東高津村なり云々、孝徳紀白雉元年正月幸味経宮観賀正礼とある味経は、今の味原にて、原は蓬原・浅茅原の例にて不と訓べければ、味原は即味経なり、既に万葉には味|原《フ》の宮とあり、彼宮津宮の旧跡よりは小谷、上古の堀江の遺跡なり、北に隔て其名存れり。摂陽群談転所称古名村、味経原と称する名所ありといへども方角不知。〇今東野町と曰ふ東高津即是也。
 
味原池《アヂフノイケ》 小橋《ヲバセ》の西に在り、(真田山の南麓)比売許曽の御影《ミカゲ》池と呼ぶ、池北を桃山《モモヤマ》と云ひ池南を産湯《》と云ひ、今花本を       歌集に味原《ミハラ》池と詠じたるは即此也。
 今朝よりはみはらの池に氷居てあぢのむら鳥ひまもとむなり、〔夫木集〕
       俊頼
 
猪甘《ヰカヒ》 今|鶴椅《ツルハシ》村大字猪飼野あり、平野川の東岸に在り。古は猪甘津の名あり、当時平野筋を小椅江(又玉造江)と称し江湾たり、日本書紀仁徳天皇の条に「為橋於猪甘津、即号其処曰小橋」とあり、是れ河内大和の通路に架せる者なり、長瀬玉串の諸水を渡り草香江の辺を経て久舎衙坂に至れるならん。
 忍ぶれど人はそれぞと御津の浦に渡り初にしゐかひつの橋、〔小町家集〕
〔補注、右の歌未詳〕
此に御津の浦とあるは、蓋|小椅《ヲバセ》江なり。
 
小橋《ヲバセ》 今鶴橋村に属す、大字小橋東小橋の二に分る。名所図会云、小橋里は味原郷なり、大小橋命の宅址今小橋の西に在り、藤原殿と云ふ、大系図を按るに大小橋命の父雷大臣初て中臣姓賜はり、其十一世孫鎌足に至り藤原姓を賜ふ、此地藤原の字あるは後人の所作なるべし、胞衣塚《エナヅカ》と云者あり。姓氏録云、摂津国神別生田首、雷大臣命之後也、其子大江臣者、中臣藍連之祖也。〇姫許曽社旧記云、大小橋命の墳は猪飼岡(今岡山)に在り、形は馬鬣封にして長九十六間、構二十六間、其子小泊瀬宿禰の墳は傍に在り、又大小橋命の館址は姫許曽社の西南に在り。〔史料叢誌〕
 いにし世のひじりの跡の名をとめて小泊瀬の里に煙にぎはふ、〔応安百首〕
 
小椅江《ヲバシノエ》 小橋の東に猫間川《ネコマガハ》(古は狭山池依羅池長居池等の末なり)平野川(古は河内川の一派にて百済川と云ふ)存す、古は河内の諸水此に会注し一江湾を成し玉造江とも称す、大抵小橋以北一里に至(530)る、更に長瀬川草香江等と相会し難波江と為る。小椅江を掘り治めし事は古事記高津宮(仁徳)の段に見ゆ、当時は今の中本《ナカモト》村南|新開荘《シンカイシヤウ》村北新開荘村等は沼沢なりしならん。〇名所図会云、猪甘津橋の北に尼淵《アマガフチ》の字あり、書紀「推古廿七年、摂津現有漁父、沈罟於堀江、有物入罟、其形如児、非魚非人、不知所名」と見ゆるは此なるべしと云ふ。
 
桃山《モモヤマ》 小橋の西、味経池の北なり、即真田山の南面と為す。或は桃木《モモノキ》原と称し、池の南|産湯清水《ウブユノシミヅ》野中観音堂に至るまで多く梅桃を植ゑ、客を延き賞観せしむ。
   游産湯林亭有感     菊池 海荘
 風林蕭瑟日将沈、客子傷秋感最深、五百年来勝敗跡、哀吟寂々有孤禽、  
味経営《アヂフノミヤ》址 小橋村に在るか。名所図会は高津宮《タカツノミヤ》址は桃木原(今桃山)なるべしと云者味経宮に非ずや。曰宮址は小橋寺町の西なる桃木原|御殿谷《ゴテンダニ》なり、北は味経坂、東は有都《ウト》谷、南は餌差《ヱサシ》に至る、餌差は即小橋法蔵山なりと。(図会、又御殿谷より甃銘を発見したる事ありとて、等由良宮天皇二年摂津上宮など云文を載せたり、贋作偽造たる事明白了々とす)〇日本書紀、孝徳天皇、白雉元年正月朔、車駕幸味経宮観賀正礼。三年十二月晦、於味経宮、請二千一百余僧尼、使講一切経、是夕天皇従於大郡、還居新宮、号曰難波長柄豊碕宮。〇按ずるに孝徳帝の正宮は長柄豐崎《ナガラノテサキ》にして、仁徳帝高津宮と同く玉造(今大坂城)に在り、味経は其別宮なり、大郡宮とも曰ふ、神亀二年聖武帝難波長柄宮行幸の時、大伴金村長歌に「おきつ鳥|味経《アヂフ》の原に、物部の入十伴雄は廬して、都なしたり、旅にしあれども」とあれば其頃旧宮廃しぬ。天平十六年難波造都の時は万葉集に之を「御食向ふ味原宮」と詠じたれど、其句意に拠り宮城の形状を推すに、玉造を大宮とし、味経は離宮か。続日本紀「天平勝宝八歳春二月、天皇(孝謙)至難波宮、御東南新宮。三月太上天皇幸堀江上、遺使摂津国諸寺誦経、襯施有差」此東南宮と云ふは玉造の大宮の東南にて、即味経なるべし。
 
比売許曽《ヒメコソ》神社址 小橋味経池の南、産湯《ウブユ》清水の地なり、法蔵《ホフザウ》山と称す。産湯は土俗大小橋命の誕生処と称し、甘泉涌出す、傍に産湯稲荷社あり。姫社《ヒメコソ》は後世廃絶し其遺蹟知れざれば、高津天王社を以て之に擬したる事あり。天明八年東小橋《ヒガシコバセ》の小祠中樋代より姫社旧記を発見し、初めて旧蹤を得、而れども姫社の神は記紀以下の古書すでに明白を欠き、彼旧記と云者亦信偽相半す。〇相伝ふ姫社は鎮座年歴最久し、近く天正中織田氏本願寺合戦の時兵燹に罹り滅亡す、旧記古図に拠るに本殿の地を法蔵山と云ふ、(東西六十五間南北卅間)産湯清水の上に在り、其祓所を玉江と曰ふ、即八十島の壇場なり、高津の泊|高彦崎《タカヒコノサキ》大葉刈山|磐船山《イハフネヤマ》等の古跡あり云々、此旧記は天文二十牛味原某の樫述とぞ。其中に日ふ、
 法蔵山、神武天皇、有自愛、称愛倶目之山也、人王卅七代孝徳天皇御宇、白雉二年、於味経宮、令読一切経、其経軌仏具等、蔵此山、仍以愛久目山、称法蔵山。大僧正慈円家集曰、
 おさめ置法の山路の未かけてあのくたら野に鷺ぞ鳴。
 神祇百首物部好名歌曰、
 朝がすみ四方も静に立春の姫こそ祭今日こそは見め。
 難波押照神社、即当社別称也、伝記曰、天磐舟東而、高日女(亦名天探女神)此地天降給時、磐舟而至于此、以天磐舟泊、故名高津也、石舟有光輝、仍曰石照神社、石押五音通也。亦曰難波大社、亦日百済神宮、亦呼味生大宮、亦高津天神社、亦曰古宇津天王宮云々
比売許曽(姫社)神は新抄格勅符に比売神社に作る、許曽即古言神社に同じければ也。延喜式(臨時祭の条)又下照比売社に作る、古事記に阿加流比売神と曰ふ、風土記万葉集天探女と混淆す。是新羅国王の子天日矛の妻にして蓋|難波渡《ナニハノワタシ》之神の女なり、海上霊威の神なるを以て上古より之を崇敬せり。古事記津国風土記は応神天皇朝の人と為し、日本書紀は崇神朝の事阿羅斯等を以て天日矛に混ず。播磨風土記に拠れば必定神武東征以前の事に属す「昔天日矛、一女の日耀に感け妊みて生ける赤玉を得て、床辺に置きしかば、即美麗嬢子に化ぬ、仍婚して嫡妻と為たりき、此妻常に珍味を設て懇に其夫に侍ける、日矛心奢りて妻を罵れば、其妻吾は汝が妻と為べき女に非ず、吾祖の国に行なむと云て、窃に小船に乗て遁度来て難波に留りける、此は比売碁曾社に坐す阿加留比売と申す神なり、其磐舟の泊ける処を高津と曰ふ、日矛追て渡り釆て難波に到らむとせるを、其渡之神塞て入れしめぎりき」〔古事記及津国風土記逸文〕〇日本書紀云、初阿羅斯等、在国之時、黄牛負田器、将往田舎、黄牛忽失、尋跡覓之、至一郡家、郡公殺食、問牛直、対曰牛直莫望財物、便欲得郡内祭神、其所祭神是白石也、因将来置于寝中、其石化美麗童女、於是阿羅斯等大歓之、欲合之間、童女忽失也、阿羅斯等大驚之、問已婦曰、童女何処去、対日向東方、則尋追求、遂遠浮海、以入日本国、童女者詣于難波、為比売許曾社神、見祭焉。〇難波の比売許曽一名阿加流比売と云ふにより、或は高皇産霊の女明玉命に混じ、又一名下照姫と云により或は味耜高彦根の妹なる下照姫天探女に混ず、後世之に因りて大葉刈山《オホハカリヤマ》高彦崎の附会を生ず、其の高彦崎は夫木集鎌倉右大臣の歌に「天地のひらけし代より神さびてはるかにな(531)りぬ高彦の崎」と見ゆ、当時既に混乱を醸せり。〇新抄格勅符、大同元年比売神社摂津地一戸を寄せ、三代実録貞親元年下照比売神授位あり、延喜式名神大社に列す。
補【姫古曽神社】東生郡〇小橋村にあり。図会云、風土記天探女乗磐船到于此、以天磐舟泊故号高津(万葉注同じ)社家注進記曰、垂仁帝御宇、神石美麗の天女と化して麦爰に蔵れ給なり、比売古曽と宣ふ、是を俗に姫蔵と書り、八雲御抄には天の岩舟の泊る所を高津と云、又朝野群載に接州国東方於味原有石船、往年下照姫神垂跡云々、其磐船四十尋余、亘二十尋石、中有凹凸、置中央宝珠、一顆名曰如意珠、其船向東北、待智者揺動、其上有祠、祭祀石霊。又万葉、角麿、久竪の天の探女《サグメ》がいはふねのはてし高津はあせにけるかも。図会、磐船の旧蹟、小橋村の西南田圃中に一堆の丘あり、字を下至土《ケシト》野原といふ、土人磐船山と云、是則天探女命磐船に乗て天降り給ふ時其留りし地なり、下至土野原と云は彼磐船土中に鎮座し給ふより下至土と呼り、比売高曽大神の御正体なり、此磐船中に蔵れましましたるよりヒメコソと云。比売古曽神社、味原郷小橋村にあり、三代実録員観元年授従四位下、今小橋村氏神とす、正月十二日也、又五月五日菖蒲刈神事、十一月廿五日橋梁神事あり、所祭下照姫命は大己貴命の女にして天稚彦の妻、味耜高彦根命の妹なり、又名稚国玉媛、或天探女とも号す、末社に阿遅速雄社あり、若宮と称す、又大葉刈社、高津八幡宮、玉敷社等あり。〇按るに天探女と比売許曽と神にありては一体なりといへども、人間には二体なり、天探女の磐船に乗て降りしと歌に詠ぜしは神の一体なるを示すなり、然れども探女磐船に乗て天降りしいふこと、古事に絶てなきことなれども、天といふ字を名に負ひたれば、是も天より降り給ひし人にありけむ、詳にいはば下照姫の無名雉を見付しによりて探女の名あり、是は神代の事なり、美麗男女の任那人を誘て磐船に乗て高津に至る、比売許曽と仰がれしは人王十一代垂仁天皇の時なり。図会又云、当社鎮座年歴久遠にて、或は荒廃し又再興あり、近くは天正織田家と本願寺光佐との戦に兵燹に罹り灰燼となる、漸村老小祠を守て僅に残る、故に前代摂津名所集には詳ならず、爰に近年天明八年此神社の樋代よりも旧記神器出でて大略明白なり。〇東小橋の西南。古文書は採用すべからず、社前掛札記も述ぶる所条理明ならず、蓋今の産湯清水の辺は法蔵山と号したる比売許曾宮地にて、□東□五町に今比売許曽社あり、旧は本社の末にて牛頭天皇を祭れる所とぞ、大小橋命の胞衣塚と云は清水の東北にあり、東に向ひ凡そ八間、西七間、北七間、三角の形をなす。
〇姫許曽社旧記 御本殿の地を法蔵山と云ふ (東西六十五間、南北三十間)初め湯清水上に在り、難波大社、百済神宮、味生大宮、高津天神、古宇津天王とも云ふ、万葉集、久方の天の探女が磐舟の泊し高津はあせにけるかも、夫木集、天地の開けし世より神さびて遙になりぬ高彦の崎。姫許曽の祓所を玉江と曰ふ、又八十島頭と曰ふ、延喜式に見ゆる八十島祭の壇場也、大小橋命の墳は猪飼岡(一名玉出岡)なり、形は馬鬣封にして(長六十九間、構二十六間)其子小泊瀬宿禰の墳は側に在りて長山と曰ふ、又大小橋命の館址は法蔵山の西南にして藤原殿と曰ふ、応安百首、去し世の聖の跡の名をとめて小泊瀬の里に烟にぎはふ、蓋味耜高彦根と其妹下照姫の神跡にして、垂仁仁徳以下歴朝由緒の名所なるべし。
 今按、小泊瀬は今の小橋にて、本来葬所の義ならむ
 高津の年頭天王祠を古来姫古曽にあてたれども、天
神祇志料 比売許曾神社
 按、新抄格勅符、比売神社に作る
又下照比売社と云(延喜式)今西成郡西高津村にあり(摂津志・和尓雅・摂陽群談)(今東成郡西高津村)
 按、一説、東成郡味原郷小橋村にあり、天正以来八祠なりしが、天明八年始めて旧址を明にする事を得たり、附て考に備ふ
古の宇豆明神是也(神名帳考証)新羅国王の子天日矛が嫡妻阿加流比売神を祭る、昔天之日矛一女の日耀に感け妊みて生ける赤玉を得て床辺に置りしかば、即美麗嬢子に化ぬ、仍婚して嫡妻と為たりき、爾其嬢子常に種々の珍味を設て懇かに其夫を敬ひき、故に日矛、心奢りて妻を詈ば、其嬢子大凡そ吾は汝が妻と為べき女に非ず、吾祖の国に行むと云て、窃に小船に来て遁げ渡り来て、難波になも留りける、此は比売碁曾社に坐す阿加留比売と申す神也(古事記)
 按、日本書紀又其事を書て崇神天皇の御世、都怒我阿羅斯等の事とし、本書及摂津風土記には応神天皇御世の事とす、未だ是非を知らず、姑附て考に備ふ平城天皇大同元年摂津地一戸を以て神封に充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下勲八等下照比売神に従四位下を授け(三代実領)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)
 
磐船山《イハフネヤマ》 味原池の東畔に方十間許の一堆の丘あり、字を下至土《ケシトノ》野原と云ふ、即磐船山なり。比売許曽の神の正体とぞ、社家注進記曰「垂仁帝御宇、神石化美麗天女、爰蔵給、比売許曽宣云々」俗に姫蔵と書すとぞ。〔名所図会〕〇按ずるに磐船は石棺にして、山は古塚なるべし、風土記万葉集に載せたる高津の磐(532)舟は自ら之と相異なり。朝野群載云、摂津国東方於味原、有石船、往年下照姫神垂跡、其磐船四十尋余、亘二十尋、石中有凹凸、置宝珠一顆、名曰如意宝珠、其船向東北、待智者揺動、其上有祠、祭祀石霊。
阿遅速雄《アヂノハヤヲ》神社址〇延喜式、東生郡阿遅速雄神社。今東小橋の姫社に本祠の名を伝ふ、旧社は廃亡久し。蓋味原の地主神にし阿加流比売の祖、謂ゆる難波渡之神なり。古事記明宮(応神)段云、昔有新羅王之子、名謂天之日矛、聞其妻遁、乃追渡来、将到難波之間、其渡之神塞以不入。
 
酒人《サカト》郷 和名抄、東生郡酒人郷。〇酒人は大和河内には坂門又尺度とある者に同じかるべし、蓋|坂処《サカト》の義にして今玉造町并に大坂城(大坂市東区)附近の高地と云ふ、即玉造郷なり。後世小坂又大坂の名は之に因りて起る。
補【酒人郷】東生郡〇酒人、民部省図帳洒人保公穀九百六十八束三毛有余、仮粟七百三十有余丸、其貢者依国司之処分、松柏材梁桑麻灯油之類、但閑院領近衛領青蓮院領之類者、制外之貢代也。今按、応永二十四年浪華国に玉造村の西にありて、生玉庄よりは東南なり、摂陽群談に闕古名村といふ中に挙たり。
 
高津《タカツ》 今大坂城の地、玉造の古名なるべし。難波旧地考、高津宮は或人の考に、今の大城の所ならむと云へり、さるは仁徳紀に見えたる菟餓《ウカ》野は今天満(北区)と云辺の古名なれば、天皇のそこなる鹿の声を聴きたまはんには高津宮址は天満に遠からずと知らるれば也、又紀に「掘宮北之郊原引南水」といへるは即今の大川(天満川)なりと、此説当れるに似たれど堀河院以来の難波古図どもの有るを見るに、今の大城の所は何れの図にも唯石山とありて宮地と謂ふべき者にあらず、又天満川を堀江と云ふも当らず、大和河内の諸水は古へ大城の東南より北を流れ西に赴きて海に入れり云々。今按ふに旧地考前段の説当れり動すべからず、後段堀河院以来の難波古図と称する者数種ありと雖皆贋作にして、而も考拠の価値なし、宮北の南水は最考慮を要す、南水即河内川にして其宮北に於て山城川(淀川)と合流するに方り、仁徳帝の時其南水の流末を制為して高津の泊処を便利したまへる者に似たり、謂ゆる難波江と云者是也。〇高津即玉造の岡は南の方阿倍野より隆起せる一派の北端なり、住吉浅沢より之を通観すれば阿倍野(南北一里東西半里)に於て最高十八米突に過ぎず、天王寺以北玉造江(大坂城北)に至る長一里幅十五町最高二十三米突に及ぶ、大坂域西南隅即此也、而て城中は稍低しと雖三面の岡脚は皆水流にして潮汐を生ず、形勢は最雄偉なり、其江海沼沢渺々の間に突出したるを以て古人「おし出る難波」の語あり。
 久方の天の探女が石船の泊てし高津はあせにけるかも、〔万葉集〕
摂津風土記云、難波高津者、天稚彦天降時、属之神天探女、乗磐船而至于爰、其磐船所泊故号高津。〔続歌林良材抄万葉代匠記〕此に天稚彦とあるは天日矛にあたり、天探女は阿加流姫にあたる、混乱の所以は比売許曾神社の条を参看せば明了すべし。
補【高津】〇難波旧地考 高津宮の御跡は、或人の考に、今の大城の所やそこならむと云へり、さるは仁徳紀に見えたる菟餓野は今天満と云ふ辺の古名なれば、天皇のそこそこ牡鹿の声の聞して可憐の情を起し給ふ由彼紀に見えたるは、大宮所のその野に遠からぬ辺と知らるればなりと云へり、又「掘宮北之郊原、引南水」といへるは則今の大川なりといへり、此の説当れるに似たれど、堀川院以来の古図どものあなるを、こゝかしこより借求めて見るに、今の大城の所は何れの図にも石山とありて宮地のあとゝいうべき所にはあらず、丈今の大川を堀江ぞというもあたらず、四百年前の図を見るに、大和川は東南より大城の北に流れ、今の大川にて淀川の末と合て西に流れて海に入れり。〇古図に就て考ふるに今東高津村なり、こゝをしも高津といへるは、西に三津の江ありて大江の岸よりしていと高く、東に猪甘津ありて猪飼の岡より西は高し、東西の津の間に立て其地いと高ければ、高津の号は負ふしけむ、然らば仁徳の御宮所は此地なるべく思へるに、或人曰、この高津村の辺にやゝ高き岡ありてそを御殿といふ、今は桃を多く植たれば桃谷といふといへり、是を高津宮の御遺跡なるべきに決せり。〇前説は甚非なり。
 
高津宮《タカツノミヤ》址 仁徳天皇の皇居なり、日本紀「郡難波是謂高津宮」とありて御歌に「おしてる難波」とあれば難波皇居は地形突出の処なるべし。宮址は玉造|石山《イシヤマ》の中に在るべけれど年歴の久きと変易の数なるが為め後世其遺址を求め得ず、摂津志浪速国志等擬定する所あれど採り難し、難波旧地考の説最参考すべし而も尚不審なきに非ず、此間幸にして坐摩《ヰカスリ》祠のその故址を今日に伝ふるあれば、之に因り宮城の片隅をのみ推知すべし、坐摩神は宮地之霊にして、宮域内たること明確毫糸の疑を寄れず、一隅と雖、挙げて以て全形を想ふべし、宮城内爾余の状態は之を欠く。仁徳紀云、詔曰、朕登高台、以遠望之、煙気不起於城中、以為百姓既貧而家無炊者、即知五穀不登百姓窮乏也、封畿之内尚有不給者、況乎畿外諸国耶、自今之後、至于三載悉除課役、削心約志、以従事乎無為、是以宮垣崩而不造、芽茨壊以不葺、是後風雨順時、宙姓富寛、炊烟亦繁、甫科課役以構造宮室、故於今称聖帝也。古事(533)記云、大雀命、坐難破之高津宮治天下也、天皇登高山、見四方之国、詔之、於国中烟不発、国皆貧窮、故自今至三年、悉除人民之課役、是以大殿破壊、悉雖雨漏、都勿修理、以槭受其漏、後見国中、於国満煙、故為人民富、今科課役、是以百姓之栄、不苦役使、故称其御世、謂聖帝世也。
扶桑略記云、仁徳天皇、郡難波高津宮、天皇登楼四望、民烟閑寥、仍詔曰、自今以後三年、悉除諸国課役、息百姓苦、官舎雖破、暫不修造、百姓既富、天皇登楼亦見、詔曰朕既富足、炊烟繁昌、天皇詠曰
 たかき屋に登て見れば烟立民のかまどはにぎはひにけり、(此歌は新古今集にも入り御製と為せり)
一本頭註云、詠曰云々、是非御製、日本紀竟宴之歌也。
 桜花いまさかりなり雜波の海於之旦流宮にきこしめすなべ、〔万葉集〕        大伴家持
此家持の歌は万葉集巻廿に載せ、天平勝宝七歳の比の作なること其前後の章に拠りて知られたり、続日本紀には天平勝宝八歳行幸の事を載せたれば其前年に家持難波に行役したるならん、又長歌に
 天皇の遠きみよにも、於之旦流離波のくにに、あめのした知らしめしきと、今の世にたえず云ひつつ、云々
とあるは仁徳天皇の御事を指したるにて、其終に「うべし神代ゆ始めけらしも」と結べるも、神代即仁徳帝の盛時を云へるなり、亦以て当時の難波宮は即高津の宮址たるを推断すべし、下なる長柄《ナガラ》の宮も同所なり。
 いにしへのなにはの事をおもひ出て高津の宮に月の住むらん、〔金薬集〕
 
長柄豊碕宮《ナガラノトヨサキノミヤ》址 孝徳天皇の皇居なり、一説長柄を長江と訓む、然れども釈紀所引古風土記逸文に難波長楽豊前宮とあれば其訓奈賀良なること鼓なきか、而て摂津志其宮址を長柄本荘《ナガラホンジヤウ》(西成郡豊崎村)に求めたるは非なり、彼本荘の地形を看るに卑低の水郷にして高爽の称|豊碕《トヨサキ》に符号せず、且豊崎は岬《デサキ》の意を寓したるに似たれば渡辺の堀江(天満川)の上なる今大坂城の辺こそ「押いづる出崎《デサキ》」と謂ふべき也。書紀大化四年の条に単に「幸于難波碕宮」とありて白雉二年に及び「天皇従於大郡、遷居新宮、号口難波長柄豊碕宮」とある者皆此なり。〇長柄を長江と訓み其宮址は本荘にあらずと論ぜるは難波旧地考の立案なり、其長江と訓むと云へるは今採らず、其本荘にあらずして難波宮と同地たること以呂波字類抄に拠り判定すべし。同書云「豊前宮、坐摂津難波長柄、今造離宮是也」と、字類抄は必定古書に就きて此註解を為せしならんが、国史に雜波離宮とありと云は聖武帝の造営したまひ、光仁帝も行幸ありし者に外ならず、(光仁紀、宝亀二年二月、車駕幸交野、辛丑進至難波宮、発卯左大臣篠原永手暴病、詔大納言大中臣朝臣清麿、摂行大臣事、戊申車賀取龍田道、還到竹原井行宮、)此離宮を以呂波字類抄に「今造離宮」と曰へるは、平城京時代の古書を字句其まゝに授引せるを想ふべく、今造とは平城朝の修造の義か、或は今の下玉字を脱せるか、両義に外ならじ。扨此豊碕宮も高津宮と同じく玉造《タマツクリ》今の大城の地に在るべきこと、難波宮址の条にも弁ずる所あり。但し長柄宮と橋柱の古跡とは中世早く湮没す、尚長柄泊、長柄橋参考すべし。
 いにしへの長柄《ナガラ》の宮は跡もなし橋ばしらだに朽はつる世に、〔夫木集〕
按に皇極妃四年の註に「是歳、移京於難波、而|板蓋《イタブキ》宮(飛鳥)為墟」と録し、其六月蘇我大臣の誅斬あり、尋いで孝徳帝の登極ありて七月改元大化と曰ふ、中大兄皇太子たり、時に高麗百済新羅の進調使皆難波津の館
十二月「天皇還都難波長柄豊碕、老人等相謂之曰、自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也」と。二手正月に及び改新の諸詔勅を発せらる「其二曰初修|京師《ミヤコ》置畿内」云々と、是月|子代《コシロ》離宮に御す、紀註に「壊難波|狭屋部《サヤヘ》邑|子代《コシロ》屯倉、而起行宮」と録し、二月「天皇還自子代離宮」とある侶飛鳥小墾田宮へ還幸ありしならん、九月「天皇御|蝦蟇《カハヅ》行宮(或本云離宮)」と蝦蟇蓋子代屯倉の宮名なり。三年「是歳、壊|小郡《コゴホリ》営宮」とあるは小郡は狭屋部の蝦蟇行宮を指す、而て新宮未だ成らず。十二月晦、天皇還自温湯、而停|武庫《ムコ》行宮(武庫地名也〕是日災皇太子宮、時人大驚怪、四年春正月朔、賀正焉、是夕天皇幸于難波|碕《サキ》宮云々、四年の賀正の武庫行宮に行はれしは新宮の成らざりければならん。五年正月、詔置八省百官、三月天皇朱雀門、(中略)倉山田大臣自|茅渟《チヌ》道、逃於倭国、(中略)是夜欲焼宮(宮謂小墾田宮)などあるにて、此に至り難波新京域も相成れるを想ふべし。翌「白雉元年春正月朔、車駕幸|味経《アヂフ》宮、観賀正札、是日車駕還宮」とあるは当時味経の別宮にて賀正の事行はれしは、碕宮の経営尚完からざればなり。冬十月、為入宮地所壊丘墓、及被遷人者、賜物、即遺将作大匠荒出井直比羅夫、立宮堺標云々。翌年に至り「冬十二月晦、於味経宮、請憎読経、是夕燃二千七百余燈於朝庭内、使読安土側等経、於是従於|大郡《オホコホリ》、遷居新宮、号曰難波長柄豊碕宮、三年春正月朔、元日礼訖、車駕幸大郡宮」と是にて宮城成る、大郡宮は味経の別殿を指せり。又云「三年秋九月、造宮已訖、其宮殿之状、不可〓論、冬十二月、請天下憎尼、於内裡設斎燃燈、五年冬十月、皇太子(在倭国飛鳥)聞天皇病疾、乃奉皇祖母尊赴難波、天皇崩于正寝、仇起殯於南庭」云々、翌年正月、斉明帝重祚して飛鳥に復京ありしも(534)「七月、於難波朝、〓北(北者越)蝦夷九十九人(東陸奥)蝦夷九十五人、并設百済調使一百五十人」など見ゆれば難波宮城は其後まで保存せられしを知る。又其規模の広大なりし事も八省百官の設備あるにて想像するに足る。長柄豊碕宮は其後専ら難波宮《ナニハノミヤ》と唱ふ。天武紀云「八年、初置関於龍田山大江山、仍難波築羅域。十二年、詔曰、凡都城宮室非一処、必造両参、故先欲都難波、是以百寮者、各往之請家地。朱鳥元年、難波大蔵省失火、宮室悉燹、或曰|阿斗《アト》連薬家失火之、引及宮室、唯兵嘩職不焚焉」。(難波国を余国に準ぜずして京師に擬し、其摂津職を以て其宮司とせられしも此天武帝の時なり)されば天武帝の末年に難波の宮室は火災にあひ、孝徳帝の旧構も滅したるを知る、然れども尚焚余の別殿などのありしにや「文武紀、三年正月癸未、幸難波宮、二月丁未、車駕至自難波宮、詔免従駕諸国騎兵等、今年調役。元正紀、養老元年二月壬午、天皇幸難波宮、丙戌自難波至和泉宮、河内摂津二国并造行宮司等賜禄」とあればその頃にも孝徳天武の遺影を見るべし。聖武帝に至り難波行幸多し、神亀二年行幸、尋いで式部卿藤原宇合は知造難波宮事と為り、天平四年石川枚夫造難波宮長官と為る、而も当時の難波皇居は又高津の長柄豊碕に在る事万葉集に徴すべし
   太上天皇(持統)幸于難波宮時、自人部王作歌
 大伴の美津の浜なる忘貝家なる妹を忘れて念へや、
   慶雲三年幸于難波宮時、志貴皇子作歌
 葦辺ゆく鴨の羽がひに霜零りて寒き夕は倭し念ほゆ、
   神亀二年冬十月、幸于難波宮時、笠臣金村作歌
 忍照る難波の国は、葦桓のふりぬる郷と、人皆の念ひいこひて、つれもなく有し間に、続麻《ウミヲ》なす長柄の宮に、真木柱ふとたか敷て、食国を収めたまへば、おきつ鳥味経の原に、物部の八十伴の雄は廬して、都なしたり旅にはあれども
 荒野らに里はあれども大君の敷ます時は京師となりぬ
   式部脚藤原宇合卿、被使改造難波堵之時、作歌
 むかしこそ難波由舍といはれけめ今はみやこと都びにけり、〔万葉集〕
殊に続紀「天平十三年三月、摂津職言、自今十四日始至十人日、有鶴一百八、来集宮内殿上、或集楼閣上、或止大政官之庭、毎日辰時始来、末時散去、仍遣使鎮謝焉」とあるは、明に孝徳天武の叡志に出でし都城の、一百余年の後まで継紹せられしを知るに足る、又天平十六年の聖武帝の遷都造営も、旧堵に就き修補ありしに過ぎぎるべしと想はる。即続紀に、天平十六年正月、天皇在恭仁京詔、喚会百官於朝堂、問曰恭仁難波二京、何定為都、各言其志、於是陳恭仁京便宜者百八十人、陳難波京便宜者百五十三人、就市問市人、皆願以恭仁京為都、但有願難波者一人、願平城者一人。是月天皇行幸難波宮、二月勅云、今以難波宮為皇郡、運恭仁宮高御座并大楯、於難波宮、又遣使、取水路、運漕兵壌器仗、恭仁宮百姓、情願遭難波宮者、悉聴之、天皇取三島路、行幸紫香楽宮、三月樹大楯槍於難波宮、中門外東西楼殿、請憎三百人、令読経。十七年六月、平城宮、樹門之大楯。八月車駕又幸難波宮、癸酉天皇不予、勅平城恭仁留守、固守中宮、悉追孫王等詣難波宮、己卯車駕還平城、是夕宿宮池〓。〇又難波の市巷の事は桓武紀「延暦三年、摂津職言、蝦蟆二万許、長可四分、其色黒斑、従難波市南道南行池、列可三町、随道南行、入四天王寺内」と見ゆるに拠れば、四天王寺の北方にて大道相通ぜること、推想すべし、当時の難波市巷は今の上町なる丘岡に倚りて建置せられしか、即
其宮畔の地也。
   天平十六年難波宮作歌、
 安みしし、吾大君の、在り通ふ名庭の宮は、いさ魚取り海片つきて、玉拾ふ浜辺を近み、朝はぶる浪の声さわぎ夕なぎに櫂の音きこゆ、暁の寝覚にきけば、あまいしの塩干のむたうら渚には千鳥つまよぴ、葦辺には田鶴鳴とよみ、見る人の語りにすれば、聞人の見まく欲りする、御食向ふ味原《アヂフ》の宮は、見れど飽かぬかも、〔万葉集〕
この一長歌に拠るも、難波宮城は高津の豊碕より味経の原野までを籠められしを証明するを得ん。
 
玉造《タマツクリ》 和名抄、酒人郷の地なり、今西北大半は大坂城及び其外郭と為り、玉造町は東南の一部を占むるに過ぎず。日本書紀仁賢巻に玉造部〓魚女ありて、通証に「東生郡地名有玉造、此其遺也」と見ゆ、其当否は今詳にし難しと雖、玉造と云ふ名義は必定玉造部の墟なりしが故に起る者とす。玉造は高地にして長江大沢三面を繞囲す、故に玉造の岸の名なり、上宮聖徳太子伝補開に用明二年丁末玉造の東岸上に四天王寺を起されしこと見ゆ、曰く物部弓削守屋大連、与宗栽大臣、緑仏法興不之論、内忘姻親之義、外蔑君臣之道、発〓眦之怨、興志逆之軍、率己党類、以稲為城、調練軍士、擬襲京城、朝廷震恐、事倉卒、大臣奉勧太子、興整軍士、直難波自後而襲、以平群臣神手為少軍、自志紀襲於渋川、賊誓放物部府都大神之矢、中太子鎧太子亦誓放四天王之矢、即中賊首大連胸、倒而墜樹、衆乱躁、川勝進斬大連之頭、少将軍撃平余党、係虜首家口、覆奉於玉造之東岸上、(在東生郡)即以営為四天王寺、始立垣基、大臣与太子、還宮覆奏、後制新位之時、神手叙小徳、川勝等叙大仁、四天王寺、後遷荒墓村。。五代帝王物語云、見阿と云(535)法師、天王寺修理の料に玉造の岸に太子瓦をうづみ置れたるよし、御手印縁起に註しおかれたるを掘出して、寺家を修理すべき旨宣旨を申請ひ、(中略)文永二年六月の比、数百の人夫を相具し、玉造の岸に幔幕引まはして掘する程に、十日許かしここ掘らすれども、人夫の力のみ疲れて更に見えず、これは、円満院二品親王天王寺を興隆せられ、寺領十箇所を附け縁起文に任せ三箇院建立して悲人病者を扶置かるゝを聞き、此寺家の修理上人聖一の日来ありつるをのけて管領せんの心ふかきに因て、太子の冥慮を憚らず只貪慾に任せて掘らすれば掘出さぬこそ道理なれ、同八月此僧みづから刺刀持て我喉かき切て死うせぬ。
 
生国魂《イクタマ》神社址 延喜式、難波坐生国咲国魂神社と録し、慶長の初め高津《カウツ》に移す。摂津志云、旧在今府城地、明応中釈蓮如欲毀而建仏刹、屡示神異、恐怖而止、天正中豊太閤築府城時、遷祠|郡戸《コホド》南、加其祭田。然れども今其社址明にし難し、築城を経たれば也。〇古事記伝に大国主神の裔に活玉《イクタマ》前玉比売ありと云ひ、書紀通証に旧事紀「生玉命、新田部直遠祖也」と見ゆと云ひ、本社に引あてたれど縁由明ならず。日本書紀に「孝徳天皇、尊仏法、軽神道、〓生国魂社樹」と載せたれば古人崇敬殊に深かりしを知る、延喜式に一名難波大社とありて、祝詞に「往島《イクシマ》の御巫の辞竟奉る皇神たちの御まへに白さく生国足国《イククニタルクニ》と御名は白して辞竟奉る」と載す、往島は幾多島の義なれば八十島に同じ、島の幾島八十島の神霊を祝祭する者なるべし。
八十島《ヤソシマ》祓所址は即生国魂神社址に同じかるべし。延喜式に八十島祭には住吉神大使羅神海神垂水神住道神等之に預ると曰ひ、之を難波の海の解除と称す。万葉集三代実録等に其事見ゆ、此禊所址は住吉浦とも大河尻津村江とも云ひ、其大河尻と主張する説に今里《イマザト》(今神津村)に旧址ありとも曰ひ御幣島《ミテシマ》(今歌島村)に生玉神を祭るとも曰ふ、今判明し難ければ、一書に「堀江の東に沢あり八十頭島」と云ふに拠り、仮に之を生玉に係く。
釈紀、神武天皇即位の条に旧事本紀を引きて云、凡即位之時、生島是大八洲之霊、命生島御巫斎祀矣、復座摩是大宮地之霊、命座摩御巫斎祭矣。延喜式云、八十島祭御巫、生島巫并史生(中略)赴難波湖祭。〇古今秘話并袖中抄云、御代初に八十島の使と云事、或ものに云、風土記曰「堀江の東に沢あり、広三四町許、名をば八十頭《ヤソカシラ》島と云、昔女人を待ち其子を負ひ罟もちて鳥を捕らむとす、鳥まつ間、河の鳥飛て罟にかゝる、女人鳥の力にたえずしてかへて引返されて落いりて死也、人あり其頭を求に、人頭二鳥頭七十人あり、合八十頭也、是によりて名づくる也」袖中抄又云「八十島の使とて内の御めのとたち、八十島めぐりと云事は侍れ、それも島々にて祓すへきを住吉浜のこなたにて、西の海にむかひもろ/\の島々の神を祭るといへり。」〇住吉大社年中行事云、八十島祭於難波河尻島々被行之、河尻者淀河之下流也、河中多島如田蓑|幣《ミテクラ》島等皆是也、往古河尻島々、皆住吉鎮之、故八十島祭、雖祭諸神、宗住吉大神。(再考、八十島祓所は中古以降住吉の盤出《イハデ》なるべし、其以往には此生玉か)
  建久二年八十島祭に住吉にまかりて読はべりける
 君が代は八十島かくる波の音に風静なり住の江の松〔新拾遺集〕          西園寺入道前太政大臣
補【生国咲国魂神社】〇神社志料 難波座生国咲国魂神社
 按、本書咲国の字なし、今釈日本紀延喜式諸本に拠て之を補ふ、又難波大社と云(延喜式)旧玉造生玉荘府城の地にありしを、後今の高津の南天王寺の辺に遷奉る(和尓雅・摂陽群談・摂津志) 生国魂神咲国魂神を祀る、是は島の八十島墜る事なく皇孫命に寄奉る皇神也(延喜式)平城天皇大同元年摂津二戸を神封に充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下勲八等難波坐国魂神に従四位下を授け、九月庚申雨風の御祈に依て使を遺し幣を奉り(三代実録)醍醐天皇延喜の制並に名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預り、八十島祭に預る(延喜式)毎年六月廿八日九月九日祭を行ふ(摂陽群談・名所図会)
 
難波杜《ナニハノモリ》 今玉造町の北を森村と字す大坂城玉造門の前面なり。日本書紀、推古天皇六年、難波吉士磐金、至自新羅、而献鵲二侯、乃俾於難波杜、因以巣枝而産之。〇名所図会云、玉造に森宮と云小祠あり、此は 鵲森《カササギノモリ》なり、往時本願寺御堂は此に在りて鷺森と云ふ、天正八年紀州退去の時和歌山に鷺森の名を移す。〇按ずるに難波杜即生国魂社なり、今の森宮は森村の東なる出畔に在り、蓋豊臣築城の時、其社を高津に徙し、又難波社の民を東畔に退け、此に因りて森村森宮の名猶玉造の中に存せるならん、古の真旧址にあらず。
 
石山本願寺《イシヤマホングワンジ》址 石山御堂 又大坂《オホサカ》御坊と称し、今大坂城本丸の地にあたると云ふ、蓋古の難波杜なり。明応五年山科本願寺蓮如此地を相し道場を建つ、蓮如の孫証如の時天文元年山科の堂宇法華一揆并佐々木の兵の焚毀する所と為る、証如因て本尊を石山に移す。当時摂河泉三州は細川両家畠山氏及び法華宗の割拠する所、皆兵を以て対峙し各主持する所あり、本願寺は石山に拠り同行一揆最強盛なり、塁壕を起し守備を厳にし、寺宇即城郭なり、称(536)して城構と云ふ。天正中職由信長之を攻め、数年にして抜けず、顕如稍屈し、又朝家の諭旨あるに会ひ、城塞寺宇を織田氏に致して紀州鷺森に逝く、後また中島(今の津村御堂)に移り、遂に京帥六条に重興す。
細川両家記云、享禄五年五月、屋形晴元より山科本願寺御頼みありければ、同心有、則摂州大坂へ下向有、近国の門徒へ相触られ三万計馳集。又云、天文二年三月、本願寺一揆衆おこり晴元方伊丹の域へ取懸る、木沢調儀して京中の法華衆相語ひ後巻に下る、合戦あり後巻衆切かちて一揆衆五百計切捨なり、下郡中村々里々悉放火す。四月晴元御勢堺へ取かけゝれば、本願寺衆大坂へ取入なり、五月五日より御屋形衆木沢衆京中法華衆一味して大坂へ取懸り責候へ共叶はず、和睦して同廿日に諸陣開也。(晴元の女を顕如に嫁与したるは此時なるべし)〇古事類苑云、本証寺の門跡となりしは永禄年間を正とするが如し、御湯殿上日記并に門跡伝によれば、永禄二年十二月光佐の時の事とす、古今独語にも云ふ「抑開山聖人(親鸞)三百年忌は永禄四年にあたる、之に因て諸国御門弟御一家革外坊主衆参向、ひきあけられ勤修あるべきよし沙汰あり、今師(顕如上人)禁裡より門跡になし申され、下間一党も坊官の准拠たるべしとて法橋法眼等に叙せり、それに附て顕証寺、願証寺、光善寺院家の望み天気を経られ永禄三の比参内あり、それより後教行寺、順興寺、慈敬寺、勝興寺常楽寺院家にさだまりぬ。
本願寺は元亀元年より織田氏の兵に攻撃せられ、天正八年に至る、其和議の際信長より出せる証文、世々乃跡(本願寺古文書)に載す、中に云「賀州二郡、大坂退城以後、於無如在者、可心附事、月切者七月盆前可究事、花熊尼崎退場之刻可渡事、三月十七日」。按ふに石山は天文二年証如上人の定めて本拠となせし城塁なるべし、信長記に大正八年まで四十九年間と云に符合す。〇信長記云、大正八年大坂本願寺本門跡新門跡退出。抑大坂は札日本一の境地なり、其仔細は奈良堺京都程近く、殊更淀鳥羽より大坂城戸口まで舟の通ひ直にして、四方に節所を〓へ三里が内には中津川吹田川江口川神崎川引廻し、東南は二上が嵩立田山生駒山飯盛山の遠巒の景色を見送る、其麓に道明寺川大和川の流に、新ひらき淵の水落合、大坂の腰まで四里の間江と河とつゞいて渺々たり、西は滄海漫々として唐土高麗南蛮の舟まで出入、五畿七道之に集る、売買利潤富貴の湊也。本願寺此境地に隣国の門徒、加賀の城作を召寄、方八町に相搆、真中に高き地形有り、爰に一派水上の御堂をこう/\と建立し、前に池水を湛へ後には弘誓の舟を浮べ、利剣即是の名号には煩悩賊の怨敵を治し、仏法繁昌の霊地に在家を立、甍を並べ軒を継ぎ福祐の煙厚く遍し、されば此法を尊む輩遠国端島の外より日夜仏詣の者道に絶えず。一年信長公野田福島御取詰の処に、長袖の身ながら一揆蜂起せしめ、落去候ては大坂手前の儀と存じ通路ふさぐ。是時信長公野田福島の人数御引取、其御遺恨か、既に五箇年以前より当時参詣の輩を被推止、剰被取御敵一分諸口を取詰、天王寺に相城被申附候、末法時到て修羅闘諍の瞋恚を発し、力及ばずながら大坂方もこう津丸山ひろ芝正山を始として、端城五十一箇所に楯籠、搆の内にて五万石致所務、任運于天道五年の間相守ると雖調議不相叶、此上は勅命と云ひ道理と云ひ退城可仕と肯申條。爰大坂立初て以来四十九年の春秋を送りし事、昨日の夢の如し。然耐城内掃除の上、おもてに弓矢鉄砲等の兵具をかけ並べ、資財雑具を有べき体に飾置き、御勅使御奉行衆へ相渡し、八月二日新門跡退域、雑賀淡路島より数百艘の迎船ありて、城内のもの右往左往に海上と陸とちり/”\に別れ候。いよ/\時刻到来候哉、焼松の火に甚風来りて吹かヽり余多の伽藍一宇も残らず、夜昼三日黒雲となつてやけ失せぬ。(本門跡は顕如上人光佐、新門跡は教如上人光寿なり)
 蓮如上人大坂の御文章曰、抑当国摂州東生郡生玉の荘大坂と云在所は、往古よりいかなる約束のありけるにや、さんぬる明応五の秋下旬のころより、仮初ながらこの在所を見初めしより、すでに形の如く一宇の坊舍を建立せしめ、当年は早すでに三年の星霜をへたり云々。
游嚢〓記云、石山御坊本尊銅像弥陀は長六尺背に応永十四年八月廿五日と刻めるが、此像矢玉の痕八九所ありて、寛永中大坂御目附今村某之を江戸へうつし、青山権太原の長禅寺へ安置すと云ふ。(鋼仏を此寺の本尊と云ふは疑はし、又矢玉の痕ありと曰へば、堂外の濡仏にや、)雪玉集云、お坂と云所に到て、兼て頼置しを尋侍りし、最甲斐々々しく知辺して由ある宿りに誘入て、兎角労り侍りしに、各舟の内の苦しさもわすれ果ぬ、つとめて此所の本堂など見るべきよし申せしかば、ここかしこ見巡る、心詞も及ばざる荘厳美麗の様になむ侍りし。(是三条西実隆卿天文の初年の紀行也)〇摂陽落穂集云、今の大坂城は東生郡にて、〓崎樫山と号し、生玉大明神の社、一向宗本願寺御堂、生玉の社僧南坊を始め、曼陀羅院桜本坊等十個寺此地に住居せり、東は沼にして葭蘆茂り、北は湖水の流れの末うけて淀川ふかく、西は伯楽《バクロ》が淵より海上につづき、南は一方平地にて自然に要害をなす、今城の大手先の井戸は本願寺の台所井なれば、世人蓮如井戸と名づく、又本丸の庭に本願寺の数寄屋流芳楼の址あり。摂営秘録云、本丸の数寄屋址自然石の手水鉢あり、一之谷又八十島と名づく、石燈籠もあり、共に本願寺の比より有之由(537)申伝ふ、秀頼生害松、并に蓮如袈裟掛松もあり、また石燈籠は高五尺、左右に文字彫附人の形あるごとし地蔵形と名づく。金城聞見録云、本丸御居間より西十間はなれて、庭に燈籠手水鉢敷石ともに一石を切分け造れり、土中には三石共に一連なり、石燈籠の銘に岩松無心風来吟と刻む、天守台の東に稲荷社あり、殿堂美美たり、実は豊国大明神なるべし、旧図に符合す、社辺に袈裟掛松生害松あり。(按に本丸の石水盤を名づけて八十島と云ふこと、八十島祭の事と思ひあはすべき如し)
補【石山】〇世界之日本(第十九号)山科の蓮如代を其子実如に譲りて隠居の身となりしといへども、英気尚銷せず、明応五年八十二歳の時泉州堺へ到るの途次、生玉の庄石山と云へる処を過ぎて、大に其形勢を愛し、茲に一宇を建立したりけり、是れぞ有名なる大坂の御坊にして、蓮如は明応八年に寂せり。
 〇蓮如−実如−証如−顕如 証如顕如二代は石山に居て、天文元年山科打破られ、証如は本尊を石山に移す。
 
小坂《ヲサカ》 新編常陸国誌云、古年代記に生玉荘小坂とあるは後の大坂なり、土人今に大坂をオホサカと呼ばずオサカと唱ふ。(雪玉集高野詣記にもおさかに作る)浪速国志云、大坂の名上古に聞えず、明応の頃蓮如上人の文に 「摂州東生郡生玉荘の内大坂」とあれば其初め封疆広からず、今は大坂の生玉と称し昔に反す。〇按ふに生玉荘は本生国魂神領の謂ならん、豊太閤築城の時の詠にも「生玉の城の石垣」と曰へり、然るに、仁徳紀
 阿佐豆磨の避箇の烏瑳介《ヲサカ》をかたなきに道行ものはたぐひてぞよきの御詠を引き、小坂の名已に此にあらはると云ふ者あり、無稽も甚し、阿佐豆磨の避箇は和州南葛城郡にして、仁徳皇后の故里なり、釈紀に阿佐豆磨は「師説在難波之地名也」と註すれど、固より拠るに足らず。
本願寺の旧城は之を豊臣氏の築造に比すれば卑小なりしや知るべし、贋作の擬古図にも寺址を後の本丸と為すは年代久遠ならざる事なれば採るべし、従ひて生玉社の旧址も推すべし。〇大坂城由来云、此城一向宗本願寺顕如上人見立て、惣搆堀をほり只今の御本丸の庭に御堂を建て、堂の前に池を掘り船を浮め仏誓の船に准じ宗門を進められける、土堀なり、予大坂在城の節に奥御番神前空地を破損奉行人足ども掘て壁土に用ゐ深く掘けるに、小さき五輪どもを掘出し、人足ども御城内に石塔有るを不思議なる事といひ罵る、立寄て見るに文字も無し、是昔一向宗寺なりし時の印うたがひなし。〔日本社会事彙〕〇石山籠城の状勢は細川両家記の記事最切実ならん、西一里を隔て、野田福島の水塞あり、其南北に尼崎木津の援あり、渡辺船場の地を取籠めて東国衆(織田氏)に杭せる也。曰元亀元年野田福島山衆談合には 譬信長勢五六万有之共当城へ一度にはよせがたく、一万二万づゝ寄来る共城戸より外へ出る事なかれ、弱々として日数送るならば東国衆長陣は叶まじか、万一きふに攻来らば木戸口屏際にて鑓突太刀折して運を可開なり、本国立し曰より思ひ切て来るこの身なれば、尋常のはたらき専一なり、逃まうけせば海河にて可為犬死なり、身を捨るならば命有んと定置れけるが、同九日十一日に信長方衆福島提へ被出條、然時城方若輩の衆鉄砲軍仕かけ、信長の武者首七つ討取て城内へ取入由候なり、扠大坂内談には野田福島この間の分なれば苦からず條へ共、万一不慮出来候へば則大坂の手前になり候得ば如何なり、両所堅固の時只今色立候て可然由にて同九月十二日夜半に寺内の鐘撞かれ條へば即人数集けり、信長方仰天也。〇織田氏の石山攻囲は十餘年の久に渉り奏功せず、天王寺に築塁し日夜逼迫を事とす、力争したりと謂ふべし、而も斯の如し、惟ふに本願寺は諸州強援を有し門徒所在に充満し、織田氏以て其の武力を専にする能はざりしにもせよ、宗門一揆の猛勇死を顧みざるに非ざるよりは、此久年の固守を遂げ能はざるべし。
 
大坂城《オホサカノシロ》 大坂市東区の東に接し、方九町許、本丸二丸の二郭に分れ塹塁柵門地利を相して築造す、外郭は三丸と称し、今上町玉造町と称し大半民家と為る、凡内外東西廿町余(西は東横堀東は猫間川)南十八町許、(南は空堀北天満川なり)今中部都督并に第四師団の営也、北部、青屋口《アヲヤグチ》を造兵廠と為し、三丸追手口玉造口の外辺皆兵営操場に供せらる。大坂城は天正八牛本願寺退去の後豊臣秀吉之を築く、其子秀頼に至り益壮固を加ふ。慶長十九年十一月秀頼拠守して東軍を拒ぐ、之を冬役と曰ふ、和議成り其外壕を毀つ、翌年(元和元年)兵再び起る、五月城陥る之を夏役と曰ふ。初秀吉の海内を一統するや京都及び伏見に築造し、而も大坂を以て首都と為し之に子孫百世の業を託したり、慶長五年関原一戦の後兵権全く江戸に移ると雖、諸侯大名の窃に大坂に帰嚮するあり、徳川氏之を憂ふ、秀頼死し海内始て大に定まる。夏陣の終るや徳川氏大坂を松平忠明に賜ひ十万石を給す、忠明荒廃を修し市邑を治し数年にして殷実故の如し。徳川氏乃忠明を他に徙封し大坂を鎮府と為し、城代(一人)を置き之を守る勲旧の諸侯之に任ず、京橋玉造に両當あり旗本大番頭更戌す、山里中小屋青屋口雁木坂は別に小諸侯を役して衛戍を為さしむ、称して加番と曰ふ。舟手奉行は別に九条島に居り官船及津務を掌れり、市政は町奉行(二人)両庁に分れ之を視たり。又城郭殿舎は元和六年西国大名に課役して改修し、数年(538)を経て竣功す、万治三年青屋口火薬庫雷震し城内焚けたり、寛文五年天守閣雷火、天保十四年市民に百五余万金を課し殿舍諸門を條理す。徳川十四代家茂長州征伐の師を起すや大坂城を以て行営と為し、慶応二年八月営中に薨ず、是歳京都又崩御の凶事あり、天下の勢大に変ず。翌年王政復古の号令京都より発せられ、十五代将軍慶喜兵権を返上す、四年正月二日慶喜兵を率て入朝路にして官軍に撃退せらる、七日慶喜大坂に還り急に軍艦に移り江戸に走る、九日城中失火所有の楼屋兵器大略滅尽す、十一日官軍大坂に入り幕府の兵皆散亡す、西南近畿の諸州忽にして定まる。三月車駕大坂に臨み、東国親征の令を頒つ、中興維新の業因りて成る。陸軍の制度に就くに及び鎮台を本城に置き、後改めて師団と曰ふ、今中部都督之に臨み第三師団第四師団の軍政を統ぶ。
   大坂城観打毬歌      野田笛浦
 金城還用兵、分曹各対営、笠換兜〓杖換戟、八驥如龍截風行、雪片火珠蔽空下、両陣撞撃城欲傾、君不見猴面藤郎雄拠時、叱咤群侯如雷霆、一朝豚犬終不保、戎馬蹂躙妖氛腥、忽成龍虎現天象、鼓〓変為打毬声、茫々世界何所擬、嗚呼山一場打毬耳、
豊鑑云、天正十年の夏羽柴秀吉城州山崎に明智を討取り此に暫く在陣、然共素より山崎も住べき所にあらずと思ひ給ひければ、摂津国大坂こそ要害に付ても西国舟の出入の便に遠からざれば、爰をなん住所に定め城かまへ殿作りひだたくみほどこし給ふ、北の方を移し人々住べき様をおきて給ふ、ある人の
 ゆほびかに囲ひなしつゝ君住ば今ぞほり江に玉もしかまし。
柴田退治記云、秀吉於大坂、定城郭、彼地五畿内中央、而東大和、西摂津、南和泉、北山城、四方広大、而中※[山/歸]然山岳也、廻麓大河、淀川大和川、合其水即入海、大船日々着岸、不知幾千万艘、平安城十余里南方平陸、而天王寺住吉堺津三里余、皆立続町店屋辻小路、為大坂之山下也。
 生玉の城のいし垣つみあげてたかきいさほは雲の上まで、(京都豊国神社所蔵真筆)  豊臣秀吉
日本戦史云、大坂域は慶長十九年冬役、当時の状、塁壁高廿間壕広く水深く中に五層の天守閣あり、外郭は西方横堀(今の東横堀)を限り船場を隔てゝ海を控え、北に天満川を帯び川以北は西福島野田より東川崎に至るまで水田に接し、東方は大和川又平野川あり、大和川の水鴫野今福より片原町に至るの間広きこと三町に及ぶ、乃ち淀川に沿ふて〓塘を増築し障壁楼櫓を備へ乱椿を以て水を堰き、以て西国の兵に備へ、東は玉造より猫間川まで、壕を掘ること二町許、又其上に塁壁を構ふ、南は空壕十数町、生玉より、玉造に至る、其側に高さ一丈の石壁を築き上に鹿柴を列ね十間毎に櫓一所を設け(市街の倉庫を毀ち之を造る)各銃砲十挺を備へ、時に小橋山に一塞を起し南方の防禦首部とす、西は支砦を穢多崎博労淵及阿波座土佐座の西岸に構へ、又砦を河原町(今の瓦町)に搆ふ、船場天満は島津等西国諸侯の陣地に充て、福島には砦を置き櫓を築き五十余間の壕を鑿ち、野田海老江中島伝法九条等に戌兵を置き、伝法の川口に巨艦大安宅丸(艪五十挺を用ふ)を繋ぎ更に番船を置き船路を扼し、又鴫野今福に対しては京橋堤に鹿頭柵を新設し、東西北の域壁にも箭眼銃眼を増鑿し十間毎に一櫓を設け戌兵を配置したり、而て開戦に及び西国来援の兵なく、十一月西面の諸砦頻に東軍に奪はる、偶和議の約成り戦を罷む。十二月廿日東軍急に滞在の諸侯を役し外壕を埋没せしめ内城に及ぶ、二丸の壕濶四十間乃至六十間水深四間に及ぶ、二十余日にして填壕毀郭漸く終る。已にして城中再び戦諜を決し、元和元年三月兵士を招寡し卒役を発して塹壕を復し柵を植う、天王寺口独復旧に難んじたゞ柵門を置く、然れども敵は必天王寺口より来るべきを知り結局の方略我軍は出でて雌雄を野戦に決するに在りと為せり。又云五月東軍大和河内に入り六日若江道明寺に接仗す、西軍敗る。七日は東軍勝に乗じて南方より逼る、此日東西北の三面に接仗なし、而て天王寺岡山両口の戦西軍大に敗れ、将士大半戦没し残兵城中に退却す、東軍は勝に乗じて三之丸に逼る、此日の晨秀頼天王寺口に出て決戦せんと欲し旌旗を列し桜門(本丸)に在り、時に東軍使を遣し和を議せしむ城中或は媾和を希ふ者あり、又流言あり叛応者秀頼の出るを待ち火を城に放たむと云ふ、因て其出馬を遅延す、既にして敗報至る、秀頼慨然として曰く一死素より期する所なりと出て城はむとす、適々速水守久天王寺より帰り諌めて曰く、前軍崩潰し道路に填咽す、出て尸を乱軍中に暴すは主将の事に非ず、寧ろ退きて本丸を守るべし力窮りて後処決する未だ晩しと為さざるなりと秀頼之に従ふ、厨吏密に款を東軍に通じ火を庖厨に放つ、適々暴風〓起し姻〓天を蔽ふ、東軍競ひ進み三之丸の木柵を越え処々に放火す、城中一も防禦配備を指揮する将なく、午後五時頃二之丸遂に陥る。八日の朝秀頼母子|蘆田郭《アシダグルワ》(本丸山里に在り)に潜居す、片桐且元之を偵知し、東軍井伊及安藤の兵頻に鼓噪発銃す、秀頼乃自裁し毛利勝永之を刎す、(時年廿二)母(淀君浅井氏)及随従の男女之に殉ず。〇慶長見聞記云、七日の晩市正且元は病中にて候へども城の案内知り候へば乗物にて城へ入、焼残候所々火を掛けさせ.焼払ひしに、飯蔵に秀頼御籠被成候て、女中等も見え申候間、則其旨を大御所様(徳川家康)へ申候事、真に士の非本(539)意と諸人心あるは申しける、固より市正病者は隠れなく候へども此合戦の後百日之中に亡びはて子孫も後には絶果けると也。
   東遊六首之一        頼山陽
 畿甸風光吾始過、東来地勢廻坡〓、淡洲蟠踞当郊樹、淀水蒼茫接海波、楠子孤墳長涕涙、豊家遺業尚山河、悠々今古供掻首、欲説興亡奈独何、
   登浪華城楼         中井竹山
 金城臨眺日、勝国事堪哀、降準元天授、孤児豈覇才、当〓群〓出、接〓大江廻、形勢依然在、千秋重鎮開、
   下澱川、過浪華城      人見 寧
 天老地荒喚奈何、澱城雨暗乱啼鴉、無情最是長江水、依旧溶々入浪華、
天保八年二月十九日大坂町与力大塩平八郎(名は後素中斎と号す字を子起と云)当時隠居の身なりしが、時事世運に感激する所あり、子弟党与十数人を糾合し乱を作し多く市中を焚椋したれど、一日にして平定す、平八郎は油掛《アブラカケ》町の家に潜み、後月余自焼して死す。
   無題二首          梁川星巌
 蒹葭無際水悠々、二百年来覇気収、尚剰金湯為保障、誰名仁義弄尤矛、清乎有事是天警、合党雖多非国讎、君子原情定功罪、賈紘妄誕豈春秋。驀地風濤舞老鯨、〓車迅発百雷声、石頭従古例縦火、京口於今能用兵、為情先生空講道、可嗤豎子浸成名、捷書只報孫〓死、不道冥鴻万里行。
 
難波江《ナニハエ》 今の大坂城の西北に触るゝ天満川の筋なり、然れども此水古代には直に南に走り西海に入し如し、即御津崎を海門と為す。御津浜今南区島之内にあたる、而て水勢世を遂ひて西北に傾き遂に木津川と為れり、元禄元年木津川より一支を分ち安治川を造り之を入船の河口と為す。今は難波江の名なし。
 忍照るや難波の小江に云々、おしてる難波の小江の云々、〔万葉集巻十六〕なには江の釣するあまに目かれけむ人もわがごと袖やぬるらむ、〔小町集〕
此江昔は山城川河内川は云ふも更なり、日下《クサカ》江小椅江の水まで落合ひ、洪河を成せる者ならん、謂ゆる仁徳帝の堀江とは此江の水脈を修治開疎せられし者にして、北河(山城川)の水量多大なる為めに、南水(河内川)の常に擁塞せらるゝを疏引せられし所也、古史に逆流(北河)を塞ぎ、横流(南水)を決くと云ふ蓋是のみ。
 
堀江《ホリエ》 昔仁徳帝高津宮の北郊を掘開して南水を引き、又茨田堤の絶間を築塞して北河を防ぎ以て難波江を〓す、難波の渡蓋是なり、或は難波堀江と号す。仁徳紀に「詔曰、今朕視是国、郊沢曠遠、而田園乏小、旦河水横逝、以流末不〓、聊遇霖雨、海潮逆上、而巷里乗船、故群臣曰、決横源而通海波、塞逆流以全田宅、乃堀宮北之郊原、引南水以入西海、因以号其水曰堀江」とあり。帝王編年記に、此堀江の条下に註して「今山崎河通海、是堀江」と見ゆ、山崎とは淀川即古の山城川の経由する所なれば、水脈の源委分明とす。而て其堀江の形状は、河流の左転右遷、歴代その変なきにあらざれば、千年の後世にして、仁徳帝当時の河身を探尋し難し、唯其大略の位置を今日に指示せんには「天満川筋に於て、北河の逆流を塞ぎ南水の横源を通じ、一時新河身を造らせ玉ふ者、之を堀江とは名づけられし也」と曰ふを得べし。近年大坂に数種の擬古贋作の地図流布し、桃谷空堀の辺に南水西決の跡を標記するもの多し、皆忘誕を免れず、而も世人之に惑ひ、附会の弁を加ふるは最怪むべし。抑難波堀江は、河内川の未にあらずして、山城河内両水の委口なりし状、古事記の磐之媛太后が堀江に泝り山城川に入りたまふ一事、最  拠に る。   之曰売命、還幸之時、於難波之大渡、悉投棄御綱柏、故号其地謂御津前也、即不入坐宮、而引避其御船、泝於堀江、随河而上幸山代、此時歌曰、つぎねふ、夜麻志呂賀波を、かはのぼり、わがのばれば」云々。〇続日本紀云、天平勝宝八歳、太上天皇(聖武)幸堀江上。
   天平十六年太上天皇、御在於難波宮、御船泝江、遊宴之時、左大臣橘宿禰奏歌、
  保利江にはたましかましを天皇のみふねこがむとかねてしりせば、〔万葉集〕
   御船以綱手昨江、遊宴之日作也、伝誦之人、田辺史福麻呂是也、
 保利江より水乎《ミヲ》びきしつ、御船さすしづをのともはかはのせまうせ、夏の夜はみちたづたづし舟にのり川の瀬毎に樟さし登れ、〔同上〕
   天平勝宝八歳、太上天皇太皇大后行幸於難波宮、江辺之作也、
 保利江こぐいづての船のかぢつくめ音しば立ちぬ水尾早みかも、船競ふ保利江の川の水際に釆居つゝ鳴は都鳥かも、〔同上〕
 さよふけて穿江こぐなる松浦船かぢ音たかし水尾はやみかも、〔同上〕 津のくにの御津の堀江に雨ふればかぎりも知らずたまる我恋、〔家集〕 伊勢
補【堀江】〇浪速上古図説に曰く、難波堀江は今の上町と天満の郷の間なる大川なり、日本紀「仁徳天皇十一年四月、詔群臣曰、今朕視是国者、郊沢曠遠、而田園少乏、且河水横逝、以流末不〓、云々、十月掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以号其水曰堀江」是郊原郊沢との給ふは高津の宮地より北、長柄本庄の郷へ碕となりてつゞきし郊原にて、天満の郷より北は地形わけて低き沢地ゆゑ、かくの給ひしなり、川水横に流るゝ(540)とは、古大和川河内川、其余の小川より難波入江に落合ふ水、風雨烈時は山城河より流るゝ水も入江にさし込、潮のたゝへにて、津の国河内両辺の田圃を害ふ事数多なれば、図のごとく東表の入江より郊原を掘切り、南水を西の海へ導しなり(南水とは北の河に対へて謂し也)
 附ていふ、又北の河の〓を防んとして茨田の堤を築と有は、山城河の水、今の河内茨田郡へ溢れ込み、川尻駅からさる故、堤を築き河水を導き給ひし也、扨本堀江川は南水を引んとて掘らせたまひしかど、難波江のつゞきなれば、山城河の水も自然此堀江川に流れて落るなり。
 水|派《ワク》る難波堀江のなかりせばいかにかせましさみだれのころ(山家集)
 
堀江寺《ホリエデラ》址 延喜民部式云「摂津国堀江寺者、士人二人浪人十人、令護仏経、并免調〓、有死闕随即差替」と、此寺始末詳ならず。蓋欽明帝の時物部尾輿中臣鎌子が論奏して小墾田向原寺の仏像を流棄せる故蹟とす。用明紀云「天皇曰、依奏有司、乃以仏像、流棄難波堀江」と、今大坂市中に堀江町ありて和光《ワクワウ》寺阿弥陀池に仏像流棄の故跡を伝ふるも以なきにあらじ。難波津は故俗禊祓の祭所にして、朝廷穢悪を攘ひ清め給はんが為め、難波禊を行はせ給へる事後世まで其典例を遺せり、仏像の排攘も此水頭に行はせられしこと事理最明白とす。〇霊異記に「行甚大徳令堀開於難波之江、繭造船津、説法化人、道俗貴賤、集会聞法」と堀江寺も行基の建立か。
 津の国の那邇波〓利哀のひとつ橋君わたらさばあからめなせそ、(威稜道別并古風土記逸文所引)
堀江川の渡舟及び橋梁の事は、渡辺の条に参考すべし。
 
長溝《ナガミゾ》郷 和名抄、西成郡長源郷。〇難波旧地考云、和名抄西成郡長源は長江の誤なるべし、彼長柄をも中世以来誤て奈賀良と訓めど奈賀江なり、北条九代記に摂州長江荘と見ゆ。〇按ずるに和名抄刊本長源は長江と読むべく其文字は長溝とせんか、大安寺伽藍縁起流記資財帳に長溝郷と見ゆ、曰「摂津国一処、在西成郡長溝郷、荘内地二町、東田、西海即船津、南百姓家、北路之限」と長溝郷の西は海湾にして船津なる事以て知るべし。東鑑承久三年の条に長井倉橋両荘とあり皆此か。再考するに長柄は釈記所引古風土記逸文に長楽に作り、住吉大社宮司解状に長柄泊ありて、即大安寺資財帳の船津に当る、其訓は奈賀江にあらず、奈賀良なり、但其地は長溝郷に当る如し、其長溝は奈賀美曽と訓むべきか、中世には渡辺と称し、或は尚長柄の旧名をも遺せり。荒木田氏旧地考に古の長柄は今の長柄本荘(豊崎村)に非ずと判定せるは卓見なりしと雖、畢竟するに其訓をも長江と為したるは従ひ難し。鴨長明の発心集に
 津国渡辺と云所に、ながらの別所と云寺あり、其に近比暹俊といふ憎ありけり、長寛二年の秋暹俊夢に見るやうは云々
とあるは、渡辺即古の長柄たるを証明するに足る。
補【長溝郷】西成郡〇和名抄、長源、難波旧地考、長柄は奈賀江と訓べき証を挙てこゝを長江といふは、百済狭山両河の合て西の海に入とある堀江の長きをいふ名にや、西成郡なる長源も源は誤字なるべしと摂津志にはいひ、又国人もしかいへれば、もしくは江の誤にて堀江の旧名にはあらぬにや、北条九代記に長江庄倉橋庄と見え、今も北堀江に長江堤の遺跡もあり、古図に長洲川といへるは此長江にやあらん〇今按、承久軍物語にも長江倉橋両庄と見えたれば、長柄はナガエと訓むこともありしか、されど承徳二年浪華図を考ふるに長源は新羅洲のうちにありて南北長柄とはいたく隔りたる地にて、混ふべき処にあらず、〇加納諸平云、長源は長溝の誤にはあらぬか、大安寺資財帳、摂津国西成郡長溝郷とあり。
大安寺伽藍縁起流記資財帳 摂津国壱処、在西成郡長溝郷、庄内地二町、東田、西海、即船津、南百姓家、北路之限。
 
長柄《ナガラ》 和名抄長溝郷の地にして、今の大坂|上町《ウハマチ》(北区内)に当る。孝徳天皇の皇居を長柄豊碕宮と云ふは、長溝郷の上方なる玉造《タマツクリ》に在りしを以て、同じく長柄の号を冠せるなり。而して西成郡内又別に長柄橋《ナガラノハシ》あり、日本後紀、弘仁三年、遣使摂津、造長柄橋と見ゆ、此両長柄は南北相去る一里許なる以て、古来往々混同して錯乱の嫌疑なきにあらず。○長溝郷の長柄は船津にして長柄泊と曰ふ、中世には専ら渡辺と称したり、其事長溝郷の条下に述ぶるごとし。住吉大社解状(延暦八年職判)云
 長柄船瀬
  四至 東限高瀬大庭 南限大江 西限鞆淵 北限川岸
 右船瀬泊、欲遣唐貢調使調物積船舫、造泊、天皇念行時、大神訓賜、我造長柄船漸進矣、造之。
此文意は「遣唐貢調使の調物を船舫に積まむと欲して造れる泊瀬をり、天皇遣らんと念す時、大神訓へ賜ひて我造れる長柄の船瀬を進らせて造らしし」と也、されば此船瀬は遺唐船発行以降の造設ならん、其遣唐使の幣物を貢調と曰へるは失体なれど、文字を以て実義を害す可らず。さて其船瀬の水面は、大安寺資財帳に長溝郷の一荘の西は海にて船津なる由見ゆ、又住吉大社解状の四至に南限大江とあるにて渡辺の泊所と同一(541)なるを知る、其東限高瀬大庭とあるは江水の上游にて、今も河内国守口の辺(茨田郡)に高瀬大庭の地名存す、鞆淵は詳ならず。(今東成郡都島村に友淵の大字あれど方位本文に符号せず、江水の下游なる川尻にありしものか)〇渡辺の長柄と云ふことは発心集にも見ゆるが、長柄駅は渡辺橋の畔なる由建仁元年の後鳥羽上皇熊野行幸の諸紀行に見ゆ、最徴拠に足る。
家長日記云、一年三熊野詣の御悦に、長柄の御宿に着せ給ふ、日は入方近く成て今宵頓て御船にて登らせ玉ふなれば、御艤何くれと打紛れて心周章しきに、君は何となく所の哀なる様しめ/”\と眺めさせ玉ふ。はるばるとそこはかとなく清げなる浜面に、小松原の生たたる緑深く見え渡り、風の音すさまじく打吹、今更に思出て越なき所の様なり。渡辺の橋の上に行かふ駒の足音、おどろ/\しく踏鳴し、船呼声々も耳かしましければ、御前の辺は何となくしめやかなるに、昔の長柄の橋とかや此わたりなりにけんかし、唯名ばかりを聞渡るに、跡をだに見てし哉と思召たり、何所を指てか見えんずべきなど、且は芙申合り、少将雅経が其橋柱の切持候云々。〇熊野御幸記云、建仁元年十月廿五日、暁参御所(住吉)出御前出道、於大鳥居小家食了、出過天王寺、入ナカラ宿所、(自京家到来相具船也)仍候之、但此宿細川庄(入水無瀬)成時沙汰也、人不来云々、仍即打出了、馳奔入皆瀬山崎、前々宿所也、今日過十五六里了、御幸ナカラより御船上御、云々。〇按に家長日記并に御幸記に長柄駅と云ふは、渡辺に同じきこと、水程船路の次第に由りて判知すべし、今の豊崎村の長柄橋址の地にあらず。
補【長柄船瀬】〇長明発心集云、津国渡辺と云所にながらの別所と云寺あり、其に近比暹俊と云僧ありけり、長寛二年の秋、暹俊夢に見るやうは云々。
 
大江《オホエ》 又長溝に同じ、万葉集に見ゆる難波小江の訛なるべし。名所図会云、今天満橋南爪八軒屋の浜を大江の岸と云ふ、大江橋は渡辺橋に同じ、後拾遺集に「わたの辺や大江の岸に宿りして」と詠めり。〇実隆卿高野紀行云、渡辺より舟にのりうつりて漕出る程に、能因法師が「雲井に見ゆる伊駒山」もおもひ出られ侍り、楼《ロウ》の岸《キシ》などいふもこゝと云也、大江殿の跡とてまことに今も松のみ緑に見え侍り。(或抄に、大江殿と云ふは、左大臣源融の別業にして、融の裔孫此に住止し、渡辺党渡辺氏となると曰へり、江家次第に大江御厨とあるは、伊勢大神宮の神封なりしと見ゆ、亦此地なるべし、其厨の旧址、後世存否を詳にせず)
 
渡辺《ワタナベ》 又渡部に作る、難波江の渡口の地を云ふ、三代実録云、仁寿三年、摂津国奏言、長柄《ナガラ》三国面河、頃年橋斬絶、人馬不通、請准堀江川、置二双船、以通済渡、許之。古事記伝云、堀江は渡辺と云ふ処なり、此江に傍て南渡辺北渡辺とて里有り、堀江の渡の辺なる故に渡辺と云しなり、橋のありし時もあり渡辺橋と云りき、其橋は今の天神橋のあたりとぞ。〇按ずるに古事記明宮(応神)段云「昔有新羅王之子、名謂天之日矛、聞其妻(比売許曽)遁、乃追渡来、将到難波之間、其渡之神塞以不入」と見ゆ、是渡之神は渡口の主と云義なれば古代此地の酋長を指すにや。此地は中世国府渡とも称し、河海並びに之を津頭と為したり。
 さみだれは日数ふれどもわたの辺の大江の岸はひたさざりけり、〔堀河百首〕
扶桑略記云、治安三年、前相国(道長)十月廿八日、入摂津国、午時御四天王寺、次於国府大渡辺、乗御船、廿九日、風静波平、過田蓑島、雲海茫々、沙渚渺々、未時指江口之間、遊行之女船泛来、歌曲参差、為憐其衒売之意、米百石給。○長門本平家物語云、承暦二年二月十五日、範頼西河神崎を出て長門国に赴く、義経四国へ渡んとす、日比は淀郷内忠俊を以て、神崎渡辺両所にて舟揃しつるが、今日既に纜を解に、梶原申けるは、船に逆櫓を立て進退自在にせばや云々、按東鑑、元暦元年九月朔、範頼発京向西海、至二牛二月、猶在周防、而諸平家、与義経同日赴長門者、無所拠、又梶原景時先此赴西海、或在備後或在播磨、逆櫓論無所見、東鑑曰、二月十八日、昨日廷尉自渡部欲渡海之処、暴風俄起、舟船多破損、士卒船等一艘而不解纜、爰廷尉云、朝敵追討使、暫時逗留、可有其恐、不可顧風波之難、仍丑刻先出舟五艘、卯刻着阿波国勝浦。〔参考本盛衰記〕〇大日本史云、源綱、祖仕任武蔵守、父宛称箕田源次、綱為濾敦所子養、敦者源満仲婿也、綱養母居摂津渡辺、因以渡辺為氏、又元亨釈書云、渡辺伝、摂津渡辺郡人也、家世業弓馬、自幼年慕法、一比丘教曰、南無一心敬礼西方教主、三十三万憶一十一万九千五百、同名阿弥陀仏、唱礼如是、則早滅罪、伝内心唱号、毎日千遍、三十年而逝、時長承三年也。〇盛衰記云、文覚は渡辺党遠藤左近将監盛光の一男、上西門院の北面下臈なり、三歳の時父死し一門滝口遠光に養はれ、元服させて盛遠と名を附く。又云、文覚道心の起を尋れば女故なりけり、文覚の為に内戚の姨母一人あり、衣川殿と云ひ、娘一人あり名をばあとまとぞ云ける、並里に源左衛門尉渡「滝口源悟子)とて一門あり、其比渡辺の橋供養行れける云々、遠藤武者も入道して失にし女(阿津磨又袈裟)の骨を拾ひ、後園に墓を築き、第三年の間は行道念仏して斜ならず弔けるとぞ承る、去ばにや夢に墓所の上に蓮花開て、袈裟聖霊其上に坐せりと見て、さめて後歓喜の涙を流しけり。〇按に城州鳥羽に恋塚と云ものありて、袈裟墓とも伝(542)ふ、然れども其人々の故園は渡辺に在ることなれば、此地に墓を築きたる事疑なし、後世其遺跡を伝へざるは惜き事ならずや。
按に此地に渡辺党の在住したる由は、諸書に散見す、中にも、古今著聞集云「渡辺に往年一堂あり薬師堂とぞいふなる、源三左衛門翔の先祖の氏寺なり、番の馬允が時此堂を修理しけるに(中略)此堂は建立の年紀を数ふれば六十余年になりにけり、云々。」又雑筆要集に一谷発向の廻文あり、摂津国御家人遠藤七郎為信と云名を載す、東鑑「寛元元年、摂津国渡部海賊人罪名事、今日及評定、彼刑部丞綱法師、所帯下司職、為領家収公」とも見ゆ、翔番為信綱などあるは皆渡辺党なるべし、山槐記、盛衰記等に源三位頼政随従の渡辺党の人々多く見ゆ。〇北条九代記云、摂津国の住人渡辺右衛門尉と云もの野心を起し、鎌倉を叛き、六波羅の政道に随はず、近隣を犯して狼籍をいたす、与力同心四五古人にも及びけり、高時即河内国住人楠多門兵衛正成に仰せて対治せしむるに、不日に伐平げたり云々。此説信否を知らねど、南北乱の頃まで渡辺党は此地に占居しけん、其後は離散したるごとし。
補【渡辺】〇赤松記 浦上勢は大坂の前渡辺山の渡りにて船をのり沈め、又は橋よりおち、馬に乗ながらむざと川に乗入れ乗入れ沈み果て候、たまたま残りし者、又野里の渡りにて悉入水し討れ候、浦上も渡辺川にて沈み果ける。
〇細川両家記〔永禄十一年九月〕十日に典厩、城の前中津川に船橋懸られたり、然るに七十一年以前に畠山尾張守、河内高屋城より出、摂州入の時に天王寺へ陣取、其時渡辺川長柄に橋をかけられたり、云々、其時浦上方勢は天王寺、木津、難波、今宮、上難波、朔戸、渡辺、津村陣所なり、其時は渡辺川、福島河二順に橋懸られたり(中略)頃は享禄四年六月四日なり、当年四十年に成候なり。
百錬抄云、貞永三年三月、伊豆守信光供養渡辺橋、件橋信光所営作也。
 
窪津《クボツ》 渡辺の一名なるべし、文治中には其津をかく呼べるか。玉海、文治三年八月天王寺詣の条に窪津に着す渡辺也とあり、翌年の天王寺詣の条に「晩頭附渡部、謂之大渡辺、即乗車、法印下船、於此辺堂御経相進、追可着天王寺」又翌五年の天王寺詣の条にも「着窪津、秉燭参寺」とあり。国府津《コフツ》の訛なりべし。
 
国府《コフ》址 日本後紀「延暦二十四年、遷摂津国、治於江頭」と江頭即|大江《オホエ》の渡辺《ワタナベ》なり。国郡沿革考云、摂津職は初め西成郡雄伴郷に在り、古歌に大伴之御津と詠ず、後江頭に遷す、今天満橋を古国府渡と云ひ、終に其地を渡辺と称すと云ふ時は江頭は此たる必せり。天長二年江南四郡を和泉国に隷せしめ国治を豊島郡に徙さんとせられしかど果さず、尋いで国治を河辺郡為奈野に遷さんとせられしが又果さず、承和十年鴻臚館を以て府と為さる、拾芥抄に西生郡府と記せるは何世の事にや。〇渡辺の渡津一に国府渡とも、窪津《クボツ》とも曰へり。
 みやこ人ありやと問はば津のくにの国府の渡りにわぶとこたへよ、〔夫木集〕      法性寺関白
 尋つるこゝろも知らで津のくにのこふとも人のつくるなりけり、〔夫木集〕       大納言公任
 浪速国志云、浪速は古代大伴氏の伝領なりしとぞ、大伴郷の名あり、其領主の故跡は大江の岸の国府町也、今の八軒屋の浜にて、坐摩の御旅所の神石ある故に石町とも云ふ。
補【国府】〇国郡沿革考 「延暦十三年遷国治於江頭」按ずるに摂津職蓋西成郡雄伴郷に在り、古歌に大件の三津云々とあり、今大坂の地にして、必海辺の地に在りしならん、江頭、今其地を詳にせずと雖ども、今天満橋を古国府渡と云ひ、終に其地を渡辺と称すと云ふ時は、蓋亦必今の大坂の中に在らん、「天長二年以江南四郡隷和泉国、還附摂津国、以百姓騒動、無顧私業也」按ずるに、四郡の地を和泉に隷する時、西成郡国府亦其中に在る故に、豊島郡に徙さんとせられしなり、然れども幾もなくして和泉に隷することを停められしに依り、国府旧に依りて西成郡に在りしならん、東成西成二郡は古難波の大郡小郡と称し、其基礎の地なれば、百姓騒動して其和泉に隷する事を欲せざるも其事情亦宜なり、承和十一年「摂津国言、依去天長二年正月廿一日、承和二年十一月廿五日両度勅旨、定河辺郡為奈野、可遷建国府、而今国弊民疲、不堪発役、望請、停遷彼曠野、便以鴻臚舘為国府、且加修理者、勅聴之」按ずるに鴻臚館は東成郡に在り、今玉造の南真田山其遺址なりと云ふ。
 
渡辺橋《ワタナベバシ》址 名所図会云、一名大江橋今の天満天神両橋の間に架し、往時は河幅二百六十間に上れりとぞ、貞享年中堂島を築きたる時大江渡辺の二橋を新架せるは、旧名を伝ふるのみにて、其遺址に非ず。〇渡辺橋の創架の事詳ならず、「堀江のひとつ橋」とよめる古歌あれば、之を証とすべきか、三代実録によれば仁寿中長柄(今豊崎村)三国《ミクニ》(今新荘村)の二橋も断絶し、堀江川に準じて船を置かるゝ事見ゆ、中世堀江の大渡に架橋供養の事は盛衰記に見ゆ、又百錬抄「貞永三年伊豆守信光、供養渡辺橋、件橋信光所営作也」とも見ゆ。〇太平記、楠正成渡辺橋に屯し六波羅勢須田高橋の両党を取り、子正行は同所にて山名細川の大軍を敗りたる事を録す。花営三代記には「建(543)徳二年六月北軍三手に分れて、河を渡る、上瀕放手の渡、中瀬(地名を欠く)下瀬渡辺」と記したり。〇赤松記云、浦上勢は大坂の前、渡辺の渡にて船をのり沈め、又は橋よりおち馬に乗ながらむざと川に乗入沈み果候、たま/\残りし者ども又|野里《ノサト》の渡にて悉入水して討れ候、浦上(村宗)も渡辺川にて沈み果ける。(大永四年)又細川両家記云、七十一年以前畠山勢天王寺に陣取、其時渡辺川長柄に橋をかけられたり、四十年前浦上方天王寺陣の時は、渡辺川福島川二順に橋を懸られたり。
 はるかなる大江の橋はつくりけん人の心を見えわたりける、〔夫木集〕         俊頼
 わたなべや橋のうはてをはじめにておほかる岸のつまやしろかな、(夫木集〕      公朝
難波江御津の浦は其流委の海に注ぐには古来幾多の変遷あり、大抵世を逐ふて西北に傾きたり、ただ渡辺のみ大変なし。正平年中にあたり足利義詮の住吉詣記には、渡辺を御津浦と為すは疑ふべし、曰「みつの浦より舟に乗てこゝかしこを見るに、
 開くより見るはまされりけふこそは初てみつの浦の夕なみ
たみのゝ島にあがりてみれば、あまの釣する船共あまた岸のほとりにこぎよせて、やすらひゐたり。」又延宝の頃に成れる懐橘談の航程あり亦一考すべし、曰「彩舟に帆を掲げ順風よければ、人々こぞりて乗りぬ、月影海上を照し清風故人に逢てこそ夏なき年と思ひ侍れ、船郎声あげて棹の歌を発するに耳を傾ける人もあり、
 わたの辺や大江の岸に宿りして雲井に見ゆる生駒山哉
と、良暹法師が歌を吟ずる人もあり、福島木津川、右は他美乃島、左に岸の姫松あれば住吉の浦も見ゆ云々」と、他美乃島を今の堂島福島にあたると為す、不審。
 
天満橋《テンマバシ》 東区上町八軒屋より北区天満へ架す、長百十余間近年鉄材を以て更架す。
   難波橋上眺望       伊藤仁斎
 橋上幾千尺、登覧意豁哉、河排城闕入、天向海門開、水濶波還細、岸遙家自廻、憧々来往者、誰是済川才、
 
天神橋《テンジンバシ》 天満橋の下五町に在りて相并行す、長百三十間亦近年鉄材に改められ、大坂三大橋第一也。○三大橋とは天満天神其下流なる浪花《ナニハ》橋を併称する者とす、浪花橋は中之島を中間に挟み、其長稍減す。   浪華橋納涼           頼山陽
 万人声裡夜如何、月到天心露気多、豪竹哀糸船櫛比、一江無処著金波、
   春船              垣内渓琴
 三百河椅水自春、黄金翠袖浪華津、々頭正有桜花発、筒々接船坐玉人、
 
八軒屋《ハチケンヤ》 或は八間と称す、天満天神両橋間南岸の字なり。古の南渡辺にして今東区に属す。淀川航漕の泊所にして、汽船〓艇江を掩ひて簇る。
   難波客舎歌           服南郭
 八間楼上南去客、八間楼下北来舟、問君駐舟自何処、東極江都西帝州、問君此去向何地、難波風俗堪壮遊、城闕邑屋海雲辺、五万雑錯万国船、江南江北青楼女、到処随意擁花眠、勧君鸚鵡杯中物、一杯一斗斗十干、勧君行楽好自愛、明朝回首各風煙、
   送君夷下江上浪華        頼山陽
  勧杯還唱定風波、牽袂将歌莫渡河、江上雨糸与風片、看釆不及別情多。柵鎖声収雨似塵、烏〓夜繋浪華津、篝燈呼酒臥相語、誰是行人誰送人。
 
座摩《ヰカスリ》 八軒屋の旧名なり、古へ坐摩《ヰカスリ》神社此に在り。近世之を船場の西南に移し渡辺の名を伝へ、(東区西横堀)今坐摩と呼ぶ。古事記伝云、大年神に天知《アメシル》迦流美豆姫を娶りて生める子阿須波神波比岐神あり、此神は宮中所祭卅六座の中に「坐摩巫祭神五坐生井神福井神綱長井神波比岐神阿須波神」とある是なり。祈年祭の祝詞に「座摩の巫の称辞竟奉る、皇神等の前に白さく、生井栄井津長井阿須波波比岐と御名は白して」とあり、賀茂真淵の考に座摩は本津の国の所の名にて、祝詞の文に依るに古より此神の敷坐し所に、仁徳天皇高津宮造り給ひて宮中にも之を斎ひ給ひしより、其後京都を移されても同く遷し斎はれたる者なるべし、座は令集解に居とも書たれば為《ヰ》と訓ことは定かなり、摩《スリ》も借字ならん、即|井之後《ヰカシリ》と云地名にやありけん、井に因れる名と聞こゆ。〇按ずるに井之後《ヰカシリ》五座中生井栄井長井は井の水を斎ひ称へたる辞なり、名所図会に座摩《ザマ》は井神三座竈神二座と為すは、拠ある説か。書紀通証に「応神天皇時、遣紀角宿禰等四将討百済国、便立阿花為王而帰、即日於難波沼中拝祀神功皇后、坐摩神是也、今神幸地(大江岸)有鎮坐石、俗呼神功皇后憩息右、此即旧社地」云々、とあるは摂津志の説なるが信用し難し。仁徳帝の高津皇居の時に宮地の主神として重く斎祀ありしと云説信用すべし。釈紀所引の旧事本紀「座摩是大宮地之霊、命座摩御巫斎祭」とある者最簡明なり。住吉大社宮司解状にも歴々として之を証明す、曰く、
  猪加志利乃神二前。一名為婆天利神、元大神居座、為麿飯聞食地。
 右大神者、難波高津宮御宇天皇之御世、天皇子波多※[田+比]若郎女之御夢、奉喩覚良久、吾者住吉大神之御魂曾止、号為婆天利神、亦猪加志利之神止、託給支、仍神主津守宿禰令斎祀、(中略)神戸二煙、神田七段、現在西成郡、以前大神所顕坐所、并御名、注顕如右。
(544)今解状を参考するに、猪加志利は地名にて住吉大神の仁徳帝皇女に託宣出顕の所なり、而も其二前と云ふは住吉大神を一殿とし、宮地之霊を一殿とし、之を二前とは曰ふならん。又大宮地之霊を平安京の時葛野郡|平野《ヒラノ》に祭り竈神とも称せり、中世以降仁徳帝を平野明神なりと唱ふるも縁由なきにあらず。〇座摩神社古文書は真偽相混ずる者のごとし、治承寿永の古簡に摂津国一宮坐摩大社、又難波大社(坐摩社)別殿渡辺王子などあるも、一宮は住吉郡の大社にて、難波大社は坐摩の事にあらず生国魂を指す皆疑ふべし。貞和五年足利尊氏願書に「座摩之神者、海中出現之三神也、昔神功皇后三韓追討之時、現神力、助皇后、追伐異賊、乍令安座摩滅朝敵、故号名座摩」などあるは徴証の一補と為すべし。又享徳四年坐摩神宮寺の叔元叟の状に高貴徳王菩薩と称し奉れり。然るに近年に至り坐摩社に宮地之神のみ祭るは古義に背くと謂ふべし、坐摩神社参看すべし。
 
楼岸《ロウノキシ》 坐摩《ヰカスリ》の旧地|八間屋《ハチケンヤ》を曰ふ即|大江《オホエ》の岸辺なり。摂津志、坐摩神社、旧在石町、時其地曰楼岸、有数小祠、皆属域内、今尚有石、方五尺、俗呼神功皇后憩石、天正中遷置円江側、夫木集曰、
 わたなべや橋の上てを始めにて多かる岸の妻社かな。
按に楼岸は渡辺の岸にして、大江殿の古跡亦此なりと云ふ事は実隆高野紀行公条吉野詣記にも見え、僧元政の温泉遊草にも楼岸と題して詩あり、
 岸上楼台接紫宸、炊烟疎処識貧民、如今楼尽岸空在、髣髴猶看登覧人、
と云ふ、即仁徳帝の登楼望煙の古墟と為す者也。此説にして是ならば、此岸蓋高津宮城中の楼台にや、或は高津宮即此とも推論するを得ん。
 高どのにのぼりて見れば天の下四方にけぶりて今ぞ富みぬる、  日本紀竟宴和歌  藤原時平
信長記云、元亀元年九月、中島細川典厩が城迄、公方(義昭)御動座、同八日に、大坂十町計西にろうの岸と云所取出に被仰付、并に大坂の川向と川口と申在所候、是又拵云々、九月十三日、夜中にろうの岸川口両所の取出へ、大坂より鉄砲を打入、一揆雖蜂起、無異子細候。
 
東横堀《ヒガシヨコボリ》 東区南区を南北に貫流す、長二十余町、即上町と下町(船場島内)の交界なり、西横堀(西区東界)の東十町許に在り。東横堀は大坂城の外湟にして、高麗橋大手橋(淡路橋又思案橋)本町橋|農人橋《ノウニンバシ》久宝寺橋安堂寺橋等之に架す、蓋古の安曇江《アツミノエ》にして築城の日に改修したる者なり。
 
高麗《カウライ》橋 今大坂市の里程元標橋畔に在り。〇冬陣に城兵は船場を維持しかね、高麗橋本町橋等を残し其外は焚毀に附しけるに、石川忠総進みて高麗橋に迫るも兵寡し、池田忠継備前兵を以て之に代り筏を編み渡渉を試み吊井楼を築き城中を瞰視す、城兵屈せずして拒む、阿波の蜂須賀隊は農人橋に屯し城兵の夜襲に会ひたり。夏陣には越前忠直勇戦して真田を破り川場《センバ》を抜き火を民屋に放ち、勢に乗じて高魔橋を奪ひ先登城に入り旗を樹てたり。〇按ずるに高麗椅は往時|河原《カハラ》橋と唱ふる者に似たり、管窺武鑑に東横堀を河原町川と記したり、又寛永五年板行の入子枕と云書に瓦橋あり高麗橋を指すならん、「瓦橋とや油屋のひとり娘のお染とて云々」(即阿染久松世に憐を追善と題する歌祭文の句なり)
 
安曇江《アツミノエ》 東横堀の旧名なるべし、古へ江畔に阿曇《アツミ》寺あり今堀の東西に安堂寺《アンダウジ》町の名存す。〇日本書紀曰、孝徳天皇白雉四年、幸旻法師房、而問其疾、遂口勅恩命。原註、或本於五年七月云、僧旻法師臥病、於阿曇寺、於是幸而問之。〇書紀通証云、阿曇寺、在大坂安堂寺町、地蔵石像尚存。〇続日本紀曰、聖武天皇天平十六年、幸安曇江游、覧松林、百済王等、奏百済楽。〇又江次第にある難波三所禊の一所安曇口は口字疑ふらくは江の訛のみ、御津浜を参考すべし。安曇寺址の石仏を今油掛地蔵と呼び、油掛町の名起る、天保八年大塩平八郎の死せる巷は此なり。神州奇苑云、安堂寺町は安曇寺のありし所にて、二町目の木戸側に地蔵の石像あり、願ある人は繩もて石像を縛り置き、成就すれば油をかけて報賽す、三尺許の石なり、大坂市中に於て殊に霊験ありと称せらる云々。
 
船場《センバ》 或は川場千波に作る、東西横堀の間にして北は天満川に至る、南は長堀島之内なり、今東区と称し大坂市の中心にあたる。千門万戸最殷賑を極め、殊に其北部高麗橋通今橋通北浜等は商社銀行の巣窟とす、今上町の北部を併せ東区の名を立つ。按に橘庵漫筆に船場は洗馬の義と云ふも疑はし、京都の青物市の問丸を俗にセンバと云ふ、交易の所を斯く云ふにやとあり、因りて之を推すにセンバは競売場《セリバ》の訛なるべし。〇慶長十九年冬の役、船場は西軍以て属塞と為し兵を配備す、已にして十一月廿九日城中相議す、博労淵阿波座等破れ船場天満も亦危し如何せんと。七隊長曰く某等始より守地広豁の不利を説けり、今果して然り宜く天満船場の二所を焼き兵を収めて上町に退き壕(今の東堀)を限りて守るべしと。乃ち諸将に命ず、大野治房之を聴かず、因て人を今橋より出し町家に放火し以て治房の営に延焼せしむ、治房退く。翌味爽蜂須賀至鎮船場南御堂(本願寺別院)に陣し仕寄を掘りて本町橋の側に至る、東軍山内忠義池田忠雄浅野長旻鍋島勝茂等相継て陣を船場に移す、是より壕を隔て橋を争ひ昼夜相戦ふ、後数日にして和議成る。元(545)和元年夏の役、西軍出でて南郊に戦ふ、明石守重は船場より迂回すべきの命を受け、精兵三百を選び南進して東軍の側背に出て其不意を撃たむと期せしに、天王寺口の我兵已に敗るゝを聞き市街の南端に駐り東軍を挑む、午後二時頃越前兵大に至る、守重之に向て逆撃す、水野勝叱咤戦を督し西軍を撃ち敵の敗に乗じ競ひ進む、船場又陥る、東軍城に入り忽にして其旗楼門に樹つ。〔日本戦史〕
補【船場】○大阪府地誌略 船場は西横堀川の間にあり、南は長堀川に至り、北は淀川土佐堀川に至る、豪商最も多き所なり、殊に高麗橋通及び今橋通には銀行会社等多く、商業盛なり。
橘庵漫筆云、大坂の船場は洗馬の義とも又京師八条の青物市の問丸をさしてセンバと云ふ、交易の地をかく云ふにや。
 
北浜《キタハマ》 船場の北にして天満川に浜す、河中に中之島《ナカノシマ》堂島あり(共に北区に属す)浪華椅淀屋橋等を架す。〇淀屋と云ふ豪商は往時此に住める也、家の祖を岡本三郎右御門と云ひ北浜町に住し材林を商ひて業とす。三郎右御門嘗て徳川氏に恩顧あり故を以て城州八幡に山田三百石、又其請によりて大坂并に堺浦入港の干鰯運上を賜ふ。淀足辰五郎は其数世の孫なり、少年家を継ぎ最も奢侈を極む、是に因て罪を得又謀書謀判を以て死刑に該る、其名族に係るを以て罪を宥し家産を没収し三都を追放す。其家の天井は金箔を以て厚く貼り、其夏亭と称するものは硝子を以て作る。純金棍百本黄金百十二万両白銀八千五百貫地所金券数十万両其他之に副へりとぞ、元禄年中の事なり。
 蝙蝠が出て北浜の夕涼み、川風さつと吹牡丹、からいしかけの色男、いなさぬいなさぬ何時までも、浪華の水にうつす姿画、
懐徳書院址懐徳書院は維新の頃まで持続し船場今橋通に在りしと云。〔大坂府史談〕懐徳書院は享保十一生丁中井甃庵の起す所にして尼崎町に建て、其師三宅石庵を請ひ祭主と為し孔孟を尊奉して子弟を教授す、名声夙に当世に馳たり。抑大坂の地たる、商賈の浴修学を知らず、懐徳院建つに及び一府を風靡し四方游学の人之に帰す、其子竹山履軒に至り並に才学あり、書院の盛此際を最と為す。
補【懐徳書院】〇大阪府史談 今はなけれども三十年以前までは今橋通にありたる学校なり、此書院は此頃有名なる中井甃庵の官に請ひて建てしものなり、元来大坂の地は学を修むる人少かりしが、甃庵此書院を建てしより子弟の学を修むるもの増加し、又諸国より来り集りしかば、読書の声四方に起り、有名なる学者相つぎて出で、大阪の文学盛になれり、其子竹山履軒及び門人五井蘭州は共に有名なる学者にして、甃庵の後をつぎ此院の教授となり、子弟を教育せり。
 
津村《ツムラ》 船場《センバ》の西部を津村と曰ふ、古は円《ツフラ》と呼べり、江湾の名に因る。円江は名寄に「奈波の津夫良江」と詠じ、万葉集なる繩浦も此に外ならじ、蓋円江は今の西構堀に擬すべし。
 雪ふればあしのうら葉も浪越て難波もわかぬはなのつぶら江、〔名寄〕        顕昭
 葦辺行くたづの羽凰にうちなぴき蛍なみよるはなのつぶら江、〔夫木集〕       兼光
東大寺要録、長徳四年註文、摂津国西成郡曇江荘、地六段。この曇江も円江なるべし、曇を都牟に仮る者なり。〇摂津志云、円神祠、今称津村御霊、古今秘註曰、堀江東有沢、周廻一万歩許、名八十島頭、延喜式曰、八十島祭、赴難波祭之、皆此。
繩浦は、万葉の叙景に拠れば、藻塩を焚き釣漁を為し前には島の横たふ由にて、当時の風色想ふべし。催馬楽に「なんばの海」又は「なはのつふら江」を詠じ、此なは〔二字傍線〕なんば〔三字傍線〕同語にしてなんばは転訛にやあらん。従来の通説、難波浪華の訛りてナンバと為れりと云ふは信じ難し。
 繩の浦に塩やくけぶり夕されば行きすぎかねて山に棚引、〔万葉集〕繩の浦ゆそがひに見ゆる奥つ島こぎたむ舟は釣りせすらしも、〔同上〕
   催馬楽、繩振、風俗歌〔袖中抄〕
 なはのつぶら江のせなの春なれば霞みて見ゆるなはのつぶら江(本)つぶら江のせなや秋なれば霞ても見ゆるなはのつぶら江(末)
細川両家記、元亀元年八月廿四日信長人数三万余騎にて京上なり、廿六日に天王寺へ陣取なり、其外諸勢は渡辺津村上難波下難波木津今宮部戸陣取由候なり、廿七日に三好左京大夫殿中島の内天満森へ陣取。津村御霊宮は津村平野町に在り祭神詳ならず、名所図会云津村は社辺の総号なり、津村柳の名は土人の久く伝ふる所にして、今に其柳あり。(津村御霊は俗にゴンゴリヤウと呼び、鎌倉権五郎景政に附会すとぞ)再考するに延暦二十四年淡路の廃太子の為めに諸国に御霊祠を置かれし事国史に見ゆ其遺址か。
津村《ツムラ》北御堂は津村本町に在り、本願寺別院なり。仏毅対面所の建物宏大なること大坂第一と称す。明治元年三月大坂初度行幸の時此に駐輦し給ふとぞ、寺境石塁を以て自ら固くし、宛乎たる小城郭なり。〇南御堂は南三町に在り、久太郎町久宝寺町の間とす、即東本願寺の別院なり。
繁昌詩記曰、西本願寺、在安土坊西、結構屹然、勢擬王侯、按唐時蜀有※[獣偏+柔]村、其民剔髪、若僧従者、蓄妻子、蓋西土既有一向宗之凰、乃※[獣偏+柔]村先龍谷、殆四百年矣、(546)往年朝鮮聘使之過大坂、以此為舘、近来有放暫絶、東本願寺在其南、堂宇較西少減、山陽有冷語曰、鎌府付糜鹿、室府委灰塵、一姓優婆塞、還伝五百春、
 
座摩《ザマ》神社 船場久太郎町に在り、社傍を渡辺と字す此社旧渡辺に在り、延喜式、西成郡|座摩《ヰカスリ》神社是なり、今俗ザマと呼ぶ。名所図会に伏見院勅額難波大社座摩神と題せられ、今に西成郡の総社生土神なりと曰ふ、蓋豊臣氏築城の際此に移さる。〇座摩神は新抄格勅符、大同元年摂津二戸を寄進、三代実録、貞観元年授位あり。延喜式曰「凡座摩巫、取|都下《ツガ》国造氏童女七歳已上者充之、若及嫁時充替」と、是は仁徳帝の皇女に託宣ありし遺風ならん、其旧地|坐摩《ヰカスリ》の条を参考すべし。
補【坐摩神社】〇神祇志料 旧八軒屋浜南石町に在しを淡路町に移し、今又之を大坂南渡辺町に遷奉る(摂津志・国華万葉記・摂陽群談・名所図会)住吉の末社也(百錬砂)蓋生井神・福井神・綱長井神・波比岐神・阿須波神を祭る(参取延喜式、大意)平城天皇大同元年摂津地二戸を神封に寄し奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下勲八等坐摩神に従四位下を授け(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣帛に預る(延喜式)毎年六月九月廿二日、十一月十五日祭を行ふ、六月之を夏祓神事といふ、此日神輿石町の旧址に幸す(摂陽群談・名所図会)
 
菟餓野《トガノ》 今|天満川《テンマガハ》南北の地なるべしと。延喜式「凡座摩巫、取都下国造童女」とある都下は菟餓に同じかるべし、書紀通証云「菟餓野、北自天満北野、南京橋町(八軒屋)平野町(八軒屋の南四町)之総名、座摩社記作都下、又名渡辺」と、同名の野|八部《ヤタベノ》耶にも有り、即夢野なり。〇日本書紀云、仁徳天皇居高台、毎夜自菟餓野、有聞鹿鳴、一夕鹿不鳴、明日猪名県佐伯部、献牡鹿、問之則曰獲菟餓野、帝悲而有恨、移佐伯部。
 わぎも子を聞き都賀野べの靡《シナ》ひ合歓木《ネム》われはしぬばすまなく念へば、〔万葉集〕
名所図会云、今西天満を床野尾《トコノヲ》と云ふは菟餓野の訛なるべし。〇都下《トガ》国造氏は他に所見なし。姓氏録摂津国神別に国造氏ありて「天津彦根命男、天戸間見命之後也」と註す、蓋津国造にして延喜式都下国造と同きに似たり。座摩の神主は今渡辺を氏号とし、其所蔵文書に多く都下国造と署名する者あれば、徴拠すべきに似たれど、文書の真偽詳ならざれば引用し難し、追考を期す。
 
雄伴《ヲトモ》郷 和名抄、西成郡雄伴卿。〇和名抄刊本は雄伴を雄惟に誤る。摂津風土記の逸文に「雄伴郡、有夢野」と遺り、法隆寺流記資財帳に摂津国雄伴郡宇治郷と載す、此雄伴郡は後の八部郡なれども雄惟の誤写なる事以て推論すべし。〇雄伴は万葉集に大伴と唱ふる地にして、即御津浜也、大小の変更は淳和帝御諱大伴を避けしか、又古人音調を節する為めに雄件を大件と転ぜるか、此地は今南区|島之内《シマノウチ》にて、即長堀道頓堀の辺にあたる、謂ゆる御津浜也。〇冠辞考続貂云、大伴氏昔大連の職に居り、難波河内を食地にや領せられけん、欽明紀に「大伴金村大連、居住吉宅、称病不朝」と見え、又霊異記にも推古の御時「大伴野栖古、居難波宅而卒」と見ゆ、此人を寿詞せし歌万葉集に載す、
 靱かくる伴の男広き大件の国栄えむと月は照るらし
と、是大件の領国なる由なり、大件の御津と云ふも、此緑か。
   山上臣憶良、在大唐時、憶本郷歌、(続紀、大宝元年、以守民部尚書粟田朝臣真人、為入唐執節使、無位山於臣憶良為少録)
 いさこども早|日本《ヤマト》辺へ大伴の御津の浜松まち恋ぬらむ、〔万葉集〕
   太上天皇(持統)幸于難波宮時歌
 大伴の高師の浜の松が根をまきてし寝れば家ししぬばゆ、〔同上〕           置始東人
補【雄伴】〇雄惟、荒木田久守云、伴にて、古は郡名ならん。〇上田百樹云、伴か。〇永徳二年浪華古図に布之美久宝寺の南のかた新羅洲雄幄といふ地あり。
 
御津《ミツ》 古へ渡辺の船津なり、今南区島之内に三津寺町の名存す。之に因て当時を推すに難波江は渡辺(長溝郷)より西南に流れ、御津(雄伴郷)を以て泊処と為したり、隠江《コモリエ》の名あり。其西南は大海にして難波碕柏済の険あり。凡是等水脈汀線の変及び陵谷の遷れる状は今之を詳にし難しと雖、大略今の木津川東岸(西区西浜町等)は近世まで高陸に非ざりしを想へば、奈良朝の比の長汀曲浦は、今の東区南区に求むべく、其以西は沙觜堆洲の散在せる浅水なりけん日本書紀仁賢巻云、日鷹吉士、被遣韓国、後有女人、居于難波御津。又続紀、天平勝宝五年九月、摂津国御津村南風大吹、潮水暴溢、壊損廬舎一百十余区、漂没百姓五百六十余人、並加賑恤、仇追海浜居民、遷置於京中空地。
 大伴の美津の浜なる忘れ貝いへなる妹をわすれて思へや、〔万葉集〕         身人部王
 押てるや難波の三津に焼塩のからくも我は老にけるかも、〔古今集〕         読人不知
万葉集に「葦が散る難波の美津」又「塩干の三津の海」「大伴の美津の泊」 など見ゆ、又御津堀江あり。
 ひとりのみ見つの堀江に住む鳰のそこは絶ずも恋渡(547)るかな、〔六帖〕        紀貫之
摂津職址〇国郡沿革考云、摂津職の治所、蓋大伴郷御津に在り、上古渡辺より発船する者皆此津に因る、摂津職を置れしも必ず此に津務を執れる事推知すべし。摂津志曰「三津神祠、在大坂島之内三津寺町」と其三津寺町の辺、津職の庁址なるべし云々。
三津浜《ミツノハマ》〇江家次第云、伊勢斎王、渡辺禊、(中略)解纜、向禊所、旧例三日、有三所禊、近代同日行之、旧例者向大江儲所、而近代先過此所、禊後着、
 三津浜下方禊(擬住吉)  三津浜禊  安曇口禊
  (口疑江之訛)更帰大江御厨儲所、給国司禄、
 三津寺諷誦。
補【御津】○摂津職の治所、蓋西成郡大伴御津にあり。仁賢天皇六年秋九月、遣日鷹吉士使高麗召巧手者、是秋、日鷹吉士被遣使後、有女人居于難波御津。万葉集一、山上憶良在大唐時憶本郷歌を載て曰、去来子等、早日本辺、大伴乃、御津乃浜松、待恋奴良武。其外「大伴乃、美津能等麻里」等の歌あり、また大伴乃美津能浜(身人部王歌)の歌もあり、上古難波より発船する、皆此津に因れるを見るべし、然る時は摂津職を置れしは必らず此津にある事推て知るべきなり、和名抄西成郡雄伴郷(刊本誤て雄幄に作る、元和本惟に作る)あり、即淳和天皇の御諱を避て雄伴に作りしなり、摂津志曰三津神祠在島内津寺町、三津寺在難波村、管内大坂、三津寺町一名大伴、其島内津寺町の辺、蓋摂津職の故址なるべし。
 
三津寺《ミツデラ》 南区に属し、三津寺町の名あり。此寺寛永中の再興にて大福院と称す、又三津八幡宮あり古の禊所址にやあらん、寺には観音を本尊とす。〇摂津徴書所収、三津八幡宮記云、神亀中此三津に行基菩薩八幡の御本地堂を立て弥陀を安置し給ふ、世に三津の寺と云、延久二年本社御建立あり、西南の浜に山を築き松桜楓を植、此一所を今に山西浦と申す、故に世を救ふ誓の海の入日こそなにはの三津のてらす也けり
と曰へり、源光俊脚の歌に
 逢事は世を隔つとも玉垣の三津の湊に手向をぞする
又行家脚の歌には
 行人の手向も見えず玉垣のみつの湊のさみだれの比
と、かくの如く証歌多し云々。(宝永年中再写)
 
島内《シマノウチ》 今南区と称す、東は横堀、西は西横堀、北は長堀、南は道頓堀とす。古の大伴郷三津浜なるべし、今高津の地を併せて一区の行政を為す。
 
長堀《ナガホリ》 長堀東横堀と西横堀及び木津川の三水を連絡し、東西に貫通す。心斎《シンサイ》橋長堀橋等之に架す、心斎橋は明治五年鉄材を用ゐ改造す、本邦鉄橋の最初とぞ。〇長堀は其創通年代を知らず、一説之を以て和名抄長溝郷の起因とす。
 
道頓堀《ダウトンボリ》 長堀と並行し其南に在り。慶長十七年市民安井道頓、梅津川と呼べる小渠を改修したるものにて、元和の初めに竣功せりとぞ、日本《ニホン》橋は道頓堀に架し堺市に通ずる国道に係り、大坂南方の衝に当る、劇場観棚数座ありて、日夜熱鬧を極む。此地は貞享年中竹本義太夫(名博教)近松門左衛門協力して浄瑠璃曲を興し之を操人形芝居に上せたる所也、今に至て其流ます/\大なり、元禄中浄瑠璃分れて竹本豊竹の両座と為り、後世傀儡衰へ歌舞伎盛なりと雖、義太夫節の世に行はるゝ事依然たり。
補【道頓堀】〇日本橋之に架す、此辺熱鬧の市街なり、此堀には東横堀の水と肱形直角を為して、大阪市区の東南二面を画す、道頼堀の南なる千日前は大阪奉行所の刑場なり(近年市区たり)
○人名辞書 竹本  原、名は博教、摂津西成郡四天王寺村の農にして、五郎兵衛と称す、性浄瑠璃を嗜み井上播磨が門に入りて学ぶ、以為らく播磨流は地節長くして、音を表とし節を裏とす、宇治義太夫流は地節短くして、音を裏にし節を細かにす、両流未だ全く其宜きを得ず、我れ其長を縮め短を延ばし、表裏相適和して其中を取らば、豈に何ぞ其宜きを得ざらんやと、是より日夜 黽勉して遂に一流を案出し、始めて之を四条の戯場に謡ふ、世挙りて之を賞賛す、是に於て竹本義太夫と改め、貞享二年始めて道頂堀に操芝居を興行す、時に近松門左衛門と云ふ者あり、狂言作者を以て其名都鄙に鳴る、筑後常に其作を謡ひ、名益々世上に著はる、宝永元年老を以て座元を引き、竹田出雲掾襲て座元となる、正徳四年病みて歿す、時に年六十四、天王寺念仏堂前に葬る、貞享より正徳に至る三十余年間、傀儡に和して唱ふ所の浄瑠璃凡そ六十余番あり、今に至りて人其譜章を称す、義太夫節是なり(声曲類纂)
〇人名辞書 豊竹越前少掾(藤原重泰)は梁※[草がんむり/塵]軒と号す、大坂南船場の産なり、少にして浄瑠璃を好み、元禄中道頓堀立慶町に戯場を構へ、豊竹座と称して操芝居を興行す、是の時に方りて浄瑠璃座豊竹・竹本の二派に分れ、竹本を西とし豊竹を東とす、越前掾前後四十八年間操に和して唱ふ所の浄瑠璃凡そ百五十余番あり、又兼て戯作を善くし、自作の院本数書あり(声曲類纂)
 
御津埼《ミツノサキ》 難波津の海門なり、今木津川尻の千本松堤に擬すべけれど、古は水脈汀線後世の比にあらず、故に今子細に考量し難し。
古事記、高津宮(仁徳)段云、大后磐之媛、為将豊楽、而於採|御綱柏《ミツナカシハ》幸行、木国之間、聞天皇婚八田若郎女、(548)大恨怒載其御船之御綱柏者、悉投葉於海、故号其地、謂御津前也。日本書紀又云、磐之媛皇后、遊行紀国、到熊野岬、取其処之御綱葉、而還到難波、聞天皇合八田皇女、而恨之、則其採御綱葉、投於海、而不著岸、故時人号散葉之海、曰|葉《カシハ》済也、皇后不泊干大津、更引之泝江、自山背廻而向倭」と、按ずるに御綱柏葉を海門に散じたるより御津崎柏済の名生じたる如く書き成せるは、地名に拠り事件を寓せる者にて其実本末を転ずべし、古史其例多し。日本書紀景行巻に已に「日本武尊、殺柏済之悪神」と載せ、神武巻に難波之崎出づれば磐之媛以前の旧名なり。
 おしてる、なにはのさきのならぴ浜ならへむとこそそのこはありけめ、〔日本書紀〕  仁徳天皇
並之浜と云は地名にや。万葉集笠朝臣金村贈入唐使歌に「夕去れば、鶴《タヅ》が妻喚難波方、三津埼より、大舶に、ま梶しゞぬき、白波の高き荒海を、島伝ひ別れ行かば」など見ゆ、又略解本なる柿本人麿羈旅歌
 三津の埼浪をかしこみ隠江《コモリエ》の舟をもいつかよせむ奴島に、(今按、隠江はナバリエとよむか、繩浦あり)
此隠江は海門の内なる船津を指し、海門波高く奴島《ヌジマ》(淡路に在り)に行きかぬる状を叙したり。三津埼中世に難波湊又|一之洲《イチノス》の称あり、一之洲は即閂洲を曰ふ。
 霜がれのなにはの蘆のほの/”\とあくる湊に千鳥なくなり、〔千載集〕        賀茂成保
 風あらきみなとの沖の一之洲にむかふ小船は早入にけり、〔新撰六帖〕         行家
埼頭には古より水尾衝石の設あり、其木造のものを水尾木水尾杭と称す、今の防波堤浮標の類なり可航路の所在を示す故に澪標に作る。延喜式云、難波津頭、海中立澪標、若有旧標朽析者、捜求抜去。〇土佐日記に当時海上の航程に記す、
 二月五日、けふ辛くして和泉の灘より小津の泊をおふ、石津の松原又住吉のわたりを漕ぎ行くに、ゆくりなく風吹きてこげども/\しぞく也、六日、澪標のもとより出でて難波の津を来て河尻に入る、皆人々、女、おきな、額に手をあて、喜ぶこと二つなし、かの船酔の淡路の島の巨子京近くなりぬといふを喜びて、船底より頭をもたげてかくぞ云へる、
  いつしかといぶせかりつる難波潟あしこぎ避けて御船来にけり、
七日、けふは川尻に船入り立ちて漕ぎのぼるに、川の水ひて悩みわづらふ船の登る事いと難し、
  来ときては川上り路の水をあさみ船も我身もなづむけふかな、
此歌は京近くなりぬる喜に堪ずして言るなるべし。八日なほ川のほりになづみて、鳥養《トリカヒ》の御牧といふ辺にとどまる。〔節文〕
 
津守《ツモリ》郷 和名抄、西成郡津守郷。雄伴郷の南にして住吉郡に接する地なるべし、即今の難波村今宮村木津村の辺にあたる。〇姓氏録云、摂津国天孫、津守宿禰、尾張之同祖、火明命八世孫大御日足尼之後也。この津守氏即住吉神主なるべし。類衆符宣抄に「摂津住吉大領、津守貫茂」と云あり。〇回国雑記云、津の国なこの浦に難波津を守れる人の住しによりて、其浦を津守の浦といひ、又其子孫の氏によぴて津守氏有とかや、今はなこの浦の所をさだかに知れる人なしとなん。
 大舟の津もりが浦にのらむとはまさしに知て我ふたりねし、〔万葉集〕        大津皇子
 住の江の津守網引のうけのをのうかれか行むこひつつあらずは、(同上〕
捕【津守郷】西成郡〇津守、今按、住吉郡名も菟原より移されての後なり、西成郡三野郷あるも菟原郡より共にうつされたるなり、此所住吉に近し、類聚符宣抄摂津国住吉大領津守貫茂などいふ人名あり。回国雑記〔重出〕安房国那古の観音にまうで、ぬかづき終て夕の海づらをながめやるに、寺憎のいで来て、あれ見給へ、入日をあらふ沖つしらなみとよめるは此景なりといへり、されどそれは津の国住吉郡なごのうらをよめるとかや、そのなごのうらに難波津をまもれる人のすみしによりて、其浦を津守の浦といひ、また其子孫の氏によびて津守氏有とかや、いまはなごのうらの所をさだかにしれる人なしとなむ。
 
祝津《ハフリツ》 是は住吉の敷津と同じきか、祝《シユク》の字音は敷《シキ》に近し孰れか当れる。摂津志は「祝津宮址は河辺郡難波村に八幡宮あり」と為せど、祝津は住吉神の近地たるべし、疑ふらくは西成郡難波村に非ずや、難波天王祠あり。欽明紀元年、幸難波祝津宮。釈紀引天書曰、天皇幸難波、進幸祝津宮、遣使祠住江神、将征新羅井。続紀、勝宝二年、住吉郡人祝長月等、賜依羅姓。
 
名子《ナゴ》 名児那呉那古等に作る。回国雑記云「入日をあらふ沖つ白波」とよめるは津国住吉郡なこの浦とかや、其滿に難波津を守れる人のすみしによりて津守の浦といふとかや、今はなこの浦の所をさだかに知れる人なしとなむ。
〇名所図会云、今大坂通頓堀の南今宮木津難波等の総名なるべし、住吉浦に続けば古詠之を読合せたり、日本椅以南堺街道を長町《ナガマチ》と呼ぶも実は名呉町なるべし。
 住吉の名児の浜べにうまなめてたまひろひしく常わすらえず、〔万葉集〕舟はてゝ可志《カシ》振り立てゝ廬せむ名子江の浜辺過ぎがてぬかも、〔同上〕略解云、和名抄「〓〓、加之、所以繋舟」と有て舟を(549)つなぐべき所へ立る木也、今も舟人の詞に可志を振ると云。
 那古の海の汐干のかたは遠けれど目に近かりし淡路しま山、〔夫木集〕         公朝
万葉集摂津作歌の中に吾児の塩千あり。略解云、吾児は住吉の名児をかくも唱へしにや。
 雨はふり借る廬はなしいつのまに吾児の塩干に玉はひろはむ、
 
難波《ナンバ》 今大坂市道頓堀以南の地にして、天王寺夕陽日岡の西麓也。其長町(日本橋筋)千日前《センニチマヘ》等は西区に隷し難波村は東西に存す、民屋接比す。難波をナンバとよむこと古へに聞えず、催馬楽難波海に「ナンバの海ナンバの海こぎもてのぼる」とあれば是等を初見とすべし、細川両家記には上難波下難波の村名多く見ゆ、今の難波を指す。按に奈爾波をナンバと訛ること疑惑あり、ナンバは別に此地|繩浦《ナハノウラ》の繩(隠江のナバリ)の訛れるにて、浪華と語根を異にするに非ずや。
難波の城塞は天正中本願寺門徒の築きて木津河の海運を防衛したる者なり、塞址詳ならず。天正四年五月織田の将原田長俊大坂の南より進む、敵塞を木津及難波に構へ戌を置き、三塚に拠り銃を縦ち長俊を拒ぐ、長俊深田を渉り奮戦克たずして之に死す。〇難波の東部は享保以後開きて新巷《シンマチ》と為る、又難波は徳川幕府の時米廩を置き糶糴を節制したる所なり、太倉今に有す。難波御蔵《ナンバオクラ》の北は千日前と称す。
 
千日前《センニチマヘ》 道頓堀の南、長町日本橋筋の西を総称す。泉州線(坂堺と云)の車駅にして、見世物小屋寄世席亭多し、喧噪昼夜を分たず、京都の新京極に比す。此地は幕政の時刑場を置かれ千日寺と称する無常所あり、寒煙蔓草の間に墓石※[壘の土が糸]々相依れりとぞ、難波|遊廓《シンチ》は千日前の西北に接す。
補【千曰前】〇京華要誌 道頓堀の南方に当り南北に通ずる繁華の地を千日前といふ、角座の傍より之に出づべし、旧幕の時は大坂奉行の配下に係る刑場ありしが今は美麗の市街となり、商店見世物軒を並べ、其雑沓道頓堀に譲らざるに至れり。
 
瑞龍寺《ズヰリユウジ》 難波村の中央に在り、延宝年中鉄眼和尚(道光)薬師堂を転じて黄檗禅の精舎と為す。鉄眼は学術道徳一代に卓異し、興造済度の功殊に多し、世に鉄眼《テツゲン》寺と称し訪詣今に絶ゆることなし、寺宇亦観るに足る。〇難波の生土神天王祠は瑞龍寺の南に在り。
 
鼬川《イタチガハ》 今宮難波木津諸村の※[さんずい+于]水を西に導く溝渠なり、本名役川|西浜町《ニシハママチ》に至り木津川に入る、西浜町は往時は穢多村と称したる也。〇人類学会雑誌云、明治十一年難波村鼬川の開鑿の時、土中より舟を発見す、船身は大木二枚にて造り古のウツポ船と云ふものなり、木質は物産家の説に拠れば桑と云ひ又木工等の云ふに楠の類なりと、所々破損腐蝕せるありと雖、猶其大体を存し、長さ四十尺許幅最広き処にして四尺に余れり深さは最深一尺七八寸なるが如し、而して其実体は実に二枚より成りて相重ねて結合す、三条の棍ありて両舷をつなぐ三棍の下には一枕材ありて此等の支をなす。〇摂津志、鼬川、本名河内川、自天王寺荒陵南流、歴木津難波二村間、達木津川、延暦七年、単功二十三万人従事、即此矣、今平野西有河内川荒陵南有堀越村、皆其故踪。(河堀口を参肴すべし)
 
今宮《イマミヤ》 今宮村は西区長町の南に接し天王寺の西木津村の東なり、今宮神あるを以て村名と為る、此地近年市巷を開き稍熱鬧におもむけり。名所図会云、今宮荘は今宮所蔵弘治の綸旨に見えたり、往時朝役神役と云事あり朝役は毎年禁裡御所へ魚味の供御を奉る、神役は京都祇園の駕輿丁なりき。○按に今宮文書は年号蝕滅の御厨子所預の宣旨、丈永十一年正安二年の宣旨あれど、文章通読する能はず、祇園社大宮駕輿丁接津国今宮神人魚物商売等事為荘中相着間凡令売買云々早任度々御成敗上非分之族商売致座中沙汰可守神役之由神被仰下也仍下知如件
   大永二月六月     左衛門尉三善判
祇園社大宮駕輿丁接津国今宮神人等申往昔以来致売買之業被停止浦々閑泊往反之煩禁裡御厨子所供御人再当社之神人之条勤其役無妨之処近年猥依成他家被官人或相掛非分課役云々
   永禄三年十二月     前大和守主善判
等、近く慶応中まで、駕輿丁の許状を時々申請したること見ゆ。
恵美須《ヱヒス》社は即|今宮《イマミヤ》の杜なり、蓋武庫の西宮の戎神を勧請せる也、正月十日祭を初戎と称し、大阪市人群詣して福を祈る、中に妓女は駕に乗り之に赴く俗に宝恵駕《ホヱカゴ》と曰ふ、亦大阪の名物也。広田《ヒロタ》神社は今宮の北に在り、相距る一丁余、亦武庫の西宮広田神社を請へる也、摂社祇園神あり、頼政家集に
   九月十三夜
 津守より広田にわたる商人もこよひの月をめでざらめやは
とあるは武庫なるを詠ぜるか、又此にや。
東岡一常幽閑地、返照蒼茫烟靄婿、多少楼台春樹中、塔尖独認天王寺。
 
田蓑島《タミノシマ》 今詳ならず、津守郷の内にて江家次第に見ゆる三津浜下方禊所にあたるごとし。大同類聚方云、男賀崎薬、摂津国|田面浦《タモノウラ》津守連通主家方也、又生守里薬、接津国|田裳《タモ》浦、津守連等所上奏之方也、
と此に田裳田面と云ふは田蓑に同じかるべし、田裳乃(550)と相近し、又顕注密勘云、田蓑島は天王寺の側に在り、遠所の七瀬の一なり、方角抄云、田蓑島は天王寺の西、戌亥の方よりの海辺なり、海道より南なり。〇又按に住吉大社解状に「九月御解除、田蓑島姫神社、在西成郡」とありて重き禊所なり、後世其旧蹟を亡失すと雖田蓑宮は、今船場|座摩《ザマ》神社の摂社に之れあり、田蓑橋は堂島に其名を伝ふ、又|大仁《タイニ》村(鷺洲村)の北に古松一株あり、其下に石の宮土中に埋れたり、是を古へ斎宮女御の禊祓の古跡なりと云ふ〔摂津志名所図会〕女御の事源語に出づ、
   住吉の御社たち給ひて所々に逍遙をつくし給ふ、難波の御社など殊に七瀬によそほしう仕う奉る、堀江のわたりを御覧じて今はた同じ難波なると御心にもあらで打誦し、御車留めさせ、
 澪標こふるしるしにこゝまでもめぐり逢ひけるえにはふかしな、
   田蓑島に御祓仕う奉る、日暮になり夕しほ満来て入江の鶴も声をしまぬ程の哀なるをりから、
 つゆけさの昔に似たる旅衣たみのゝ島の名にはかくれず。〔源氏物語〕
 難波潟汐みちくらしあまごろもたみのゝ島に鶴なきわたる、〔古今集〕
 天の下のどけかるべし難波がた田蓑の島にみそぎしつれば、〔新後撰集〕       津守経国
足利義詮住吉詣記云(貞治三年)たみのゝ島にあがりて見れば、あまの釣する船どもあまた岸のほとりにこぎよせて、やすらひ居たり
 雨ふれど降らねどかはくひまぞなき田蓑の島の蛋のぬれ衣、
それより南にあたりて野田《ノダ》の玉川と云所あり。此紀行によれば田蓑島は彼大仁などかと疑はる、然れども此紀行本来信憑し難りれば、重拠と為すべからず。
補【野田】〇住吉詣(足利義詮作)〔重出〕
 雨ふれどふらねどかはくひまぞなき田蓑の島の蜑のぬれ衣
   それより南にあたりて、野田の玉河と云所あり、このほとりに藤の花さきみだれたり
 紫の雲とやいはむ藤のはな野にも山にもはひぞかゝれる、
 
木津《キヅ》 木津は今木津村西浜町(旧穢多村)の二に分る、難波《ナンバ》村の南に接し西は即木津川なり。三軒家《サンゲンヤ》は木津の対岸にして船溜あり、木津川口より入船する者は多く此の辺に泊す、謂ゆる木津河口の泊所是也。
有方録云、(寛政八年)大坂、将至四国、問船可托、有阿州船、欲以明日発、乃与此約、阿州有視ヨ、不挟過所者、不許上陸入疆、於是就其藩郎留守謀、留守予券書一過、船即所謂五十斛者也、二更解纜於道頓港、船舶群集、舳艫相銜、舷々相撲、帆檣森然、如行林※[木+越]、江岸置一宇、戈戟列植、張燈数※[火+主]、閲船出入、柁手大呼以報曰、阿船一隻方発、岸上曰聴了、即過比、松樹如戟、斜月在杪、水白影黒、行一里余、左見燈光烱然、是為住吉祠前石楼所焼。〇参考本盛衰記云、重衡卿の女房、新中納言局(桜町成範女)は故殿の若君の首を懐に入持て、乞食修行し髑髏の尼と名附らる、天王寺西門にて断食し居たりけるが、今宮の前木津と云所より、海人を語らひ遙の沖に漕出て、海へぞ入給ふ。按に長門本には、此事を経正卿の北方(鳥飼中納言女)にて、渡辺の橋の上より投水せられたりと為す。
 
木津川《キヅガハ》 淀川《ヨドガハ》大坂市に入り天満船場の間に至り天満川又船場川の名あり、福島に至り屈折して南に赴く、東岸に木津村あるを以て木津川と称す。今中之島の西、安治川木津川の分脈より千本松堤に至るまで七十町あり、千本松堤即川尻にして堤の西角に燈台あり天保五年堤成る、天保山を西北に視て一里の距離あり。大艦巨舶は天保山沖に泊すと雖、和船は木津川安治川に入る、其比較木津川尻の入船稍多しと云ふ。信長記云、七月十五日の事候(天正四年)中国安芸の内能島来島七八百艘大船を催し、大坂表海上乗出し兵粮可入行候、打向人数まなべ沼野宮崎尼崎小畑花くま野の口是らも三百余艘乗出し木津川口を相防候、御敵者大船八百艘計也乗懸相戦候。陸者大坂ろうの岸木津ゑつ田が城より一揆共競出、住吉後手之城へ足軽を懸、天王寺より佐久間右衛門人数を出し横手に懸合、推つおされつ数刻之戦也。箇様候処海上者ほうろく火矢などと云物をこしらへ御身方の舟を取籠投入々々焼崩、西国船は得勝利大坂へ兵粮入。又云、其後信長公は大坂へ出船、勢州の九鬼右馬允に被仰付大船六艘作之、滝川左近大船一艘是は白舟に拵へ順風見計寅六月廿六日(天正六年)熊野浦へ押出し大坂表へ乗廻候之処、雑賀谷輪浦々の小船不知数乗懸矢を討懸鉄炮を放懸四方より攻候也、九鬼右馬允七艘之大船に小船を相添山の如く飾立敵舟を間近く寄付愛し候様に持なし大鉄炮一度に放懸敵舟数多打崩候之間、其後は中々寄付不及行に無難寅の七月十七日堺の津へ著岸候し也、見物驚耳目候し也。翌日大坂表へ乗出し塞々に舟を懸置海上之通路を止堅固仕候なり。十一月六日西国舟六百余艘木津へ漕来り九鬼へ乗向候へば南へ取籠、午刻迄海上にて舟軍有、初は九鬼支合條事難成見え候、六艘之大船に大鉄炮余多在之敵船を間近く寄付大将軍の船と覚しきを大鉄炮を以て打崩候へば是に恐れて中々不寄付、数百艘を木津浦へ追上、見物之者共九鬼右馬允手柄成と感ぜぬはなかりけり。○安西軍策云、天正三年(信(551)長記四年)大坂石山の本願寺信長卿に攻らる、顕如上人へ加勢として毛利家より兵粮船六百余艘警固船三百余艘艤して差上らる。昼夜急げる程に七月上旬に播州室の津着岸す。信長卿よりも大船三艘木津の川口に横へ、其外兵船三百余艘相随て通路を差塞、中々大坂へ可入様ぞなかりけり、中国の船には野島も村上も舟軍は代々其妙を得て次第次第にせり込敵船に乗移切廻ける程に、あだけ二艘乗取けり、其外截取小舟は数知らず。〇玄与日記云、文禄五年八月、和田御崎より難波浦伝ひして大坂近なれば、船子の歌ふ声にぎはしく成りて十八日に大坂へ着船なり、地震の折節浪たかく風はげしき海上つゝがなく侍りつる事仏神のまもりにうたがひなく思ひ侍りぬ、九月六日一葉のふねをさし、あくれば長月七日八幡山山崎など見侍て伏見の入江に着侍りぬ。
   浪華観漁          牧〓斎(まきとうさい)
 万檣争港市声稠、粉璧縦横夾碧流、笑我吟〓着無地、満江秋雨上漁舟、
   浪華竹枝
 空濠煙雨夕陽沈、一葉載春維舶陰、指点儂家西嶺下、浮雲百変是郎心。
 
穢多崎《ヱタガサキ》 今此名亡ぶ、即三軒家村なり、木津川西岸に在り木津難波二村と隔水相対す。日本戦史に穢多崎は船場の南端にして今三津寺町地方也とあれど採るべからず。
管窺武鑑云、大阪冬陣の時、蜂須賀阿波守は今の川口の御番所ある寺島(今西区松島)の南の埼、三間屋の小島へ取着かれたり、此所に穢多が城あり、是は其昔織田信長の時本願寺門跡大坂に籠城の事あり、此刻渡辺住所の穢多共が門跡方を仕り楯籠るを以て也。此寺島夷島穢多崎の辺所々に大坂衆張番を置、或は人数を用ひたり、然れども蜂須賀衆夜に紛れて大坂衆を悉く追散し、其処を取敷けり。〇慶長十九年冬役、明石全延兵八百を以て穢多崎を守る。阿波兵十一月十八日木津を探り、十九日午前三時を以て勝間を発し其兵三千余人を二分し水陸並び進む、一陣は潜に敵砦の背後に出民舎に放火し吶喊して不意を襲ひ、一隊は船を以て砦下に逼り鉄鈎を以て塀を毀ち前後夾撃す時に北風烈しく火四方に延焼す、戌兵狼狽全延遂に遁逃し衆皆博労淵に走る。廿六日穢多崎より野田福島へ交通の便を開く為め舟橋を架す。〔日本戦史〕〇按に管窺武鑑渡辺の穢多と称するは近世西浜町に移転せる老なるべし、寺島《テラシマ》は今|松島《マツシマ》と称し遊廓あり、松島の南三軒家村の北端(道頓堀東より来り木津川に会する所)に近年まで監船所在りき。
 
川南《カハナミ》 九条村の西南に接する新洲を今川南村と称す。東は木津川北は安治川西は海なり、本九条島の拡延せる者にして中央に木津川の一支|尻無川《シリナシカハ》貫流す。凡此新洲は、東北角九条村を除くの外は皆近世三四百年の堆沙に係る、天保町は洲の西角にして実に天保元年の築成に係る、近時大坂の築港計画は、川南村の西面に行はるゝ者也。〇産業事蹟云、恩加島《オンカシマ》(今川南村)岡島嘉平治が文政年間始て発見せし「晩生潮知らず、赤穂水米」は素と糯米の変生せしものなり。西成郡海岸の寄洲は堤防を修築し宝暦年度に於て二百四十余町歩を開墾し逐年開墾をなしたるものにして、土質細沙にして鹹味を含有し為めに稲木の枯凋すること往々あり。然るに該赤穂は枯死することなきのみならず、成長太だ能く収穫多量なるを以て甫めて「赤穂潮知らず」の名を下せり。其の色赤黒にして醜なりと雖精米にすれば頗る潔白となり、味も亦美なり、故に近時に至っては西成住吉、両郡海岸の地は十中の八九該種を栽植するに至れりと云ふ。
 
九条《クデウ》 九条は本木津川と中津川間の斥鹵にして福島以南の総名なり、九条島と号す。寛永年中香西皙雲(一作夕雲)官に請ひ此に修築し住宅墾田の基を定む、爾後新洲年々増加し貞享年中河村瑞賢島の中部を穿通して安治川を造る、天保中新見正路又安治川を修治す。今九条島分れて川北村(又四貫島と云安治川の北)川南村九条村等と為る、三軒家村は島の東岸を成す。
竹林寺は九条村尻無川の畔に在り、東は松島に対す、浄土宗、寛永年中九条島の開基香西皙雲創建する処なり。寺の西南二町に茨住《ウバラスミ》吉社あり、又皙雲の勧請せる者にして九条島の生土神とす。。九島《キウトウ》院は竹林寺の西三町に在り、寛文年中黄檗禅僧龍渓開基、寛文十年海嘯浸地の時龍渓偈を遺し溺死す、後人其奇特を伝へ寺を建つ。
九条村の北|本田《ホンデン》町古川町等は今西区に隷す。本田《ホンデン》は幕政の時御船手屋敷と称し監船所《フナバンシヨ》船府《フナブギヤウ》船庫等あり、此地安治川木津川の分派点にして斜に中之島と対す、明治維新の際御舟手屋敷を以て外国人居留地に供す。
富島《トミシマ》は本田町の西に在り一洲を成し安治川に傍ふ、元禄十一年の築成に係る、今大坂商船会社商船学校此に建つ。
 
安治川《アヂガハ》 貞享年中河村瑞賢の開く所にして、福島の南、中之島《ナカノシマ》の西より大川を導きて西せしめ、以て海に会せしむ。其海口に防波《ナミヨケ》丘を起す、俗に瑞賢山《ズヰケンヤマ》と称す、今安治川南三町目に存す。爾後流末の淤塞年を逢ふて漸く生じければ、天保年中新見正路再び海口を悼め瑞賢山の西南三十町に天保山を起す、前後通じて五十五町と為す。戎云瑞賢諱を安治と曰へるに因り、時人安治川と命じたりと、不審。(552)貞享四年畿内治河功成る、向きに河村瑞賢治水の命を受くるや大坂に至り役を起す。蓋大坂は河の将に海に入らむとする所に九条島あり、河は島に扼せられ旋流して海に入る、此れ上流濫溢し淤塞の由て致す所なり、故に先づ九条島の中央に就き一道の新河を開き直に海に達せしむ、新川既に成り河水沛然として傾注し、向きの濫溢するもの自ら順下し壅塞するもの自浚除す。凡そ大小幹河支流、堤防通計十万余丈の間、田圃廬舎河岸を侵占するもの今悉く之を撤去し、又堤旁堤内所生の蘆葦竹樹は該管官民をして悉く之を芟除せしむ。是に於て河口また淤塞の憂なく、南海西海諸道の漕運阻礙なきに至る、誠に国家無疆の慶にして生民未曽の利なり。〔畿内治河記〕〇明和三年赤水長崎紀行云、大坂は繁華東都に劣らず、家数二十七万七千戸人数九十万口と聞く、諸国の廻船河中に逼る、毎日出入おの/\千艘也と云ふ、廿一日朝船を下し番所の前を経て、安治川二丁目の辺大仏島につなぎ汐を待つ、八反帆七間計船子五人なり、廿二日風雨滞留、夜に入れば遊女ども十人ばかりづつ組つれ舟へ来り戯る、又蜆川の方より島屋ぴんとて遊女舟幾十艘といふ数知れず客船の左右へ漕よせ呼めぐり、誠に江南長干の風俗もかくあらんかとをかし、廿三日安治川より十町計り下り、和久の鼻に順風を待つ。
   安治河口即事        長州侯元義
 南去北東船作叢、津梁架得曲如弓、湿雲半破天収雨、各自篷窓祈便風、
   尼崎※[人偏+就]舟入坂       頼山陽
 風顫蘆花乱櫓声、一支寒港半時程、忽然転陀大江口、舟傍万檣林底行、
   舟到浪華港作        坂井虎山
 高城遙指浪華洲、浦上風煙入暮愁、秦隋当年亡二世、猗陶今日富諸侯、雲間塔聳東西寺、港口帆飛南北舟、篷底経旬心已厭、明朝又泝※[さんずい+奠]川流、
   夜送柴東野、自浪華帰讃州、 広瀦旭荘
  湾濶煙無際、舟移月有声、前程雖不遠、夜色渺離情、
補【大阪河口】〇京華要誌 大坂の河口は二あり、共に西成郡に属す、一は安治川口にして大川筋・土佐堀・蜆川之に会す、一は木津川口にして長堀・道頓堀及西方の諸水之に集る、今通常川口といへば安治川口のことにして、船舶の出入大抵安治川橋の辺より本田一二三番町の辺に於てす(本田は安治川橋の南岸なり)安治川口に瑞玉山あり、天保山あり、瑞宝山は川村瑞宝の川口を浚へし時土砂を堆積せし所にして、天保山は天保二年幕府川口を浚へし時其土砂を以て作れるものなりといふ、木製四角形の第四等不動白色の燈明台あり、光力十二海里をてらす、海底は深五仞に過ぎざれども、大小の船舶日に出入すること数百艘、昼夜嘗て間断なし。
 
天保山《テンパウザン》 安治川の海口にして其南岸頭なり。天保二年安治川浚渫の土砂を積み之を築き防波堤を出す事百間に上る以て船舶入港の標識とす、故に目標《メジルシ》山とも曰ふ、後燈明を置き又改修して砲台と為す、明治維新の後砲台を停廃し燈台を改建す。〇天保山は地角斗絶の処にあるを以て海天の眺望はなはだ広し、遊覧の客を延かんが為めに亭館の設あり。
   登天保山          広瀬旭荘
 絶巓勝概旧曽開、此日振衣倚夕※[日+薫]、一簣成山人力大、孤飛踰海鳥心勤、風生極浦帆形仄、春入遙峰焼痕分、幾歳西州帰不得、※[山+奄]※[山+茲]望断万重雲、
新見正路文政十二年大坂町奉行となる、赴任して数月訟理まり政挙がり吏民悦服す。此より先き摂河川路填塞す縁岸屡々水害を受く、正路幕旨を奉じて之を※[さんずい+睿]治す、民或は其の事を難じて従ひ肯へんぜず。正路為めに懇諭すること数回、遂に服従す。是に於て衆皆な荷※[金+插の旁]鼓舞して之に赴く、尋で海口を※[さんずい+睿]して巨舶の出入に便ならしむ、摂人大に喜び相与に醵貲して以て公費を資け、更に鑿土を積み以て一太邱を為して疏鑿の績を表し、喚びて天保山と云ふ。〔事実文編〕
 
大坂港《オホサカミナト》 日本水路志云、大坂港は西及南に開く、泊地の水深極て規則正しく漸次に増減す、其底質軟泥錨抓き最好くして船舶は依て以て安全に颱風を凌ぐに足るべし、浜辺は皆白沙なれども、低潮痕を距る一鏈の処に至れば泥となる。目下の好錨地は天保山燈台の西方山一二海里、水深四尋或五尋の処とす、底質軟泥にして錨抓き甚よろし。安治川口は二条の防波堤間より海に入る、其北側半海里余は水甚浅し、然れども大坂城下まで端舟を通ず。川口に閂洲あり、非常の低潮には殆露出せんとす。砲台は其近傍地低きを以て甚顕著なり。木津川口は安治川口閂洲の南と束二海里にあり、木津川閂洲あり該閂洲は未だ密測を経ず、然れども安治川口閂洲よりは較々深からむ、何となれば大坂に至る和船は安治川を泝る者より木津川を泝る者のやゝ大なればなり。〇開港規則云、大坂の港界は、武庫川口目標ツリーポインより南微西に向ひ引きたる一線と大和川口より引きたる一線と武嘩川口目標より六海里大和川口より五海里の所に於て相接する其二線内に含まる。
 
大坂府庁《オホサカフチヤウ》 西区|江之子島《エノコシマ》に在り、摂津の東部(一市四郡)并に和泉河内二国を管治す。(大坂市西成郡東成郡三島郡豊能郡一市四郡)
江之子鳥は木津川の水心に居る、西は九条|本田《ホムデン》町、東は阿波座薩摩堀町なり、梅田停車場を去る二十町、大坂城を去る三十町也。
(553)補【大阪府庁】〇京華要誌 西区江の子島にあり、高麗橋より西二十四町を隔て、梅田停車場より二十余町あり、宏壮美麗の洋館にして、其位置西経四度十六分北緯三十四度四十分に当る、傍に郵便局あり、木津川を隔て、前面に外人居留地あり、此辺大厦高屋相望み、雄壮広大の観をなす。
 
西横堀《ニシヨコボリ》 東横堀に并行し、西区と東区南区の界を為す。西区は西横堀を東限と為し北は土佐堀(天満川の一支)に至り西は木津川に至り南は道頓堀に至る、土佐座阿波座新町堀江等の字あり、而て江之子島松島等附近の町々之に隷す。
 
堀江《ホリエ》 西区の南部にして元禄十一年市街を開く、道頓堀長堀の間に在り、中央に堀江堀ありて地を南北に分つ、蓋古へ大伴の御津の西に接すれば御津堀江の遺名にやあらん。天明寛政の頃堀江の商人壺井屋太吉(木村孔恭)博物の学に長じ交道尤広し、嘗て井を鑿ち古蘆根を獲たり、喜て曰く此れ豈古の謂ゆる堀江の蘆葦《アシ》かと、遂に其堂に名づけて蒹葭堂と云ふ。
補【堀江《ホリエ》】〇人名辞書 木村巽斎名は孔恭、字は世粛、壺井屋太吉(亦吉右衛門とも云ふ)と称す、浪華の人、酒造を業とし、古堀江の地に居り、家甚だ富めり、嘗て井を蚤る事数仞、偶々古蘆根を獲、巽斎喜て曰く、此れ豈に古の所謂堀江の蘆かと、遂に其堂に名けて蒹葭といふ、巽斎人となり博学多芸、書画を善くし詩に長じ、又物産の学に精し、性素より奇を好み、多く珍籍古図画、金石器物書帖を儲ふ、故に四方好事の士羨慕来訪するもの衆し、是に於て交道日に広く、蒹葭堂の名海内に聞ゆ、享和二年歿す。〇御津の堀江なり、長江の堀江にはあらず。
 
葦島《アシシマ》 今堀江の地なるべし、大坂冬陣に真田幸村兵を伏せて徳川公を要撃せんとしたる処也。日本戦史云、十二月廿七日の夜、幸村の間諜出でて家康の明朝水路より木津福島を巡ると聞き、帰り告ぐ、幸村大に喜び兵を葦洲に伏せ家康を襲撃せんと欲し銃に巧なる者五十人を撰抜し更に壮者十八人に槍及鉄鈎を持たしめ、小※[舟+可]三隻に搭じ天満川を出て博労淵の南なる葦洲に至り蘆葦中に伏す。寒風凛烈、霰雨交々飛ぶ、兵皆相抱きて暖を取る、幸村巨※[木+盍]を開き酒を兵士に給し又一壺より油を取り手指に塗らしめ、黎明又餅を給し労苦を慰し、既にして火繩を銃に施し以て家康の至るを待たしむ。味爽家康急に出馬を止め、本多正純に命じ銃卒を率ゐ船に乗じ葦島近傍及福島新家を巡視せしむ。幸村正純等の旗章を見て曰く予は駿翁の為めに出たり、彼等の為に発す可らずと、兵を収めて退く、東軍終に之を知らず。
和光寺《ワクワウジ》は北堀江に在り、元禄十一年堀江開市の頃創建す、僧知善開基、小池あり阿弥陀池と称し上に宝塔を架す。古史に仏像を難波堀江に投棄する事見ゆ、其故蹟此阿弥陀池なりと説く者あれど信じ難しと云ふ。
 
新町《シンマチ》 西区に属し長堀立売堀の間を云ふ、寛永年中の新地にして其初め官家特に傾城町の為に開きたり、後世に至るも改めず、大坂名物の一なり。摂陽落穂集云、新町の太夫扇屋夕霧は寛文延宝の比の全盛なり、笆節《マガキブシ》と云は承応明暦の比の流行唄にて夕霧の新曲なり。
補【新町】〇摂陽落穂集 扇屋夕霧は寛文の末延宝の比の太夫にして、下寺町浄回寺に墳墓あり、花岳芳春と号す、三都三名物と呼なす、そのひとつ浪花新町の笆節《マガキブシ》曲といへるは承応明暦の比のはやりうたにて、寛文十二年子年一扇屋夕ぎり京都より浪花にくだりし時、舟中の佳景を時花曲となさしむるよし、其ふみは今の京半太夫といふ曲に彷彿たりしが、今は絶ぬ、偖また夕ぎりに付合せし藤屋伊左衛門といへる人は、歌舞妓のあやつりにありて、実に人な〔脱文〕
〇人名辞書 木村亦次郎は伏見の浪人、寛永年中大坂新町の傾城町を開く(早引人物故事)〇寛永年中埋却の地にて、もとは江浜の窪地也。
 
博労淵《バクラウフチ》 今新町の地なるべし、大坂冬陣の時薄田兼相(俗に岩見重太郎と曰ふ)の守れる砦あり、其址詳ならず。管窺武鑑云、穢多崎の並び道頓堀の北に馬口労町あり、鈴木田は博労が淵に籠るを蜂須賀衆働を励み、穢多が崎博労淵両所退散す、又藤田能登守へ惇労が淵の城の体を見積らせられしに、藤田の言上に此城方三町に不足、郭十町余有無也、是を以て考れば籠る所の人数一人役を勤る程の者大積り、内を以て二千八百、外を取て三千六百までは有間敷とあり。〇日本戦史云、博労淵は旧と潭の名なり、狗子島(江之子島)の東に在り、後遂に其治岸の地を総称す、東南に穢多崎あり、西南に葦島三軒屋島あり、冬役城兵此に棚楼を築き壕を南北に堀り一橋を穢多崎に通じ、薄田兼相七百人を以て之を守り、阿波兵に破らる。
 
阿波座《アハザ》 西区新町の北に接す、即|立売堀《イタチボリ》京町堀の間の字なれど其中央に阿波堀|海部《カイフ》堀薩摩堀等ありて北部を別に靱《ウツホ》町と字す。此地は慶長以来の旧市街なれど、明和二年に壕渠を改修し面目を一新したりとぞ、西に江之子島あり。〇日本戦史云、冬の役、阿波の商賈阿波座に居る者城兵に包囲せられて出る能はず、十一月十九日蜂須賀至鎮穢多崎を取るに及び窃に出て城兵の守備堅固ならざるを告ぐ、至鎮乃ち其婿池田忠雄と兵を合し、博労淵及阿波座土佐座を攻めんと欲するも、博労淵の戌兵時々軽※[舟+可]に乗り穢多崎附近の(554)荻叢中に伏し射撃す、東軍仕寄を狗子島沿岸に附け以て博労淵の棚楼を射壊せんとす。
 
土佐座《トサザ》 西区の北部を土佐座と云ふ。北は土佐堀に至り南は京町堀に至る、中央に江戸堀を通し今其北を土佐堀通と云ひ、其中を江戸堀通と云ひ、其南を京町堀通と云ふ。〇土佐堀は其北に中之島構はり、幕政の時大名諸侯の邸庫多く堀の南北に散在したり。
阿波座の蜂須賀氏の開く所なるが如く、土佐座は長曽我部氏山内氏の開く所なるべし。〇日本戦史云、冬の役十一月廿九日、東軍石川忠総博労洲を攻めんと欲し黎明葦島の洲嘴に出づ、時に潮満ち水漲りて渡るを得ず、博労淵の兵棚楼より之を銃射し弾丸雨の如く忠総の兵多く之に死傷す。忠捻転じて狗子島の北より渡る、蜂須賀の兵も亦舟数十隻に搭じ、木津口より穢多崎に逼る、忠総先づ上博労(本町通の北)を取り城兵の土佐座に走る者を追撃す。蜂須賀の士下博労(本町通りの南)に向ひ攻撃し、至鎮は阿波座に向ひ忠総は土佐座に向て攻撃し、遂に各之を取る、時に午前八時なり。
 
雑喉場《ザコバ》 京町堀通の西に在る魚市場也。産業事蹟云、大阪魚市は承応年中に特権を公許せられ、爾来京大坂に売買する所の魚類は大概本場に於て糴売するものとし、若し此市を経由せずして漁家より直に他へ輸送する者あるか、又は出売と称して魚荷を船中に於て取引するが如きは、皆官に出訴して相当の禁罰を受けしむるの例なりき、明治維新後に及び旧法故習漸く廃す。抑京の魚売の事は七十一番歌合に魚売女の「いをは候、あたらしく候、めせかし」と呼び歩行く由を記せり、室町将軍の時京都其外に魚座ありて魚を売買し運上を納めしかば、座より出す所の売子商人公儀を申し押売喧嘩を致し検断所へ罷出るなど商人非道の売買多かりしこと、室町殿日記に見ゆ。
大坂西区には各種貨物の問屋多し、流石に商業を以て海内の財富を傾くるの地也。按ずるに庭訓往来に芸才七座の店とあるを抄に絹座、炭座、米座、檜物座、千朶積座、相物座、馬商座の七座は市毎にありとあれば、猶令式の市塵《イチタナ》の如し。また太平記に「あひ物」の語あり、康富記文安六年の条に「あい物」とは「あきない」の事商の字なりと見ゆ、当時商物の名を干魚の独占むるほどなれば魚類売買の盛なりしこと想ふべし、今も佐渡、越後等にては干魚を手広く売買する者を四十物師《アイモノシ》といへり、四十と書く義未だ詳ならず。又問屋あり或は問丸と云、庭訓往来に湊に替銭浦に問丸といへるもの是なり、和名抄に邸を今按ずるに俗に津屋と云は此類なり、古へ売物を停めて賃を取る処といへり、古問丸を津屋《ツヤ》といへるにや、問丸問屋等の名既に親元日記文明五年の条に見ゆれば魚類にもさる問屋の有けること論なし。徳川氏の時の事を地方凡例録に問屋はもと株式なれば新規に願ふも輙くは許されず、是等は売物の多少によりて運上を納むといへり。
 
中之島《ナカノシマ》 北区に属す、東西二十余町横幅広きは三町に及ぶ、天満川分岐して之を繞る。北を堂島川と云ひ南を土佐堀と云ふ、幕政の頃一島を挙げて西国諸藩の庫邸《クラヤシキ》に占有せられたり。廃藩後官衙学校医院工場等に供せらる、東部には公園あり明治十三年豊国神社を園中に建てゝ大坂重興の威徳を表す、今宮幣に列す。
   玉江橋春望        頼春水
 玉橋乗〓好従容、麗日和風淑景濃、侯邸古松濤陣々、市楼春柳翠重々、雲辺塔影天王寺、海上嵐光仏母峰、莫道村郊青耐踏、何人此去可移〓、
 玉江《タマエ》と云は難波江の小字なり、今は知れず、勝地吐懐編に見ゆ。  玉江《タマエ》こぐ蘆刈小舟さしわけて誰をたれとか我はさだめん、〔後撰集〕
補【中之島《ナカノシマ》公園】〇京華要誌 北区中の島の東端難波橋の西方一面を公園地とす、長五町幅広き所一町余あり、南に土佐堀川を控へ、北に堂島川を負ひ、溶々たる巨流四面を囲み、園中には梅桜柳楊を交植し、茶肆割烹店軒を並ぶ、地は大坂市の中央繁華の区にあり、風景佳絶なるより四時游人の絶間なし、夏時納涼の時最も雑沓を極む、別格官幣社豊国神社はホテルの西にあり、豊太閤を祭る、明治十三年創立なり。
 〔頼春水詩、略〕春水、名惟完、字千秋、安芸人。
 
堂島《ダウジマ》 中之島の北に在り、中之島に比すれば幅員稍小なり。大川を此に堂島川と云ひ小派北に繞るを曽根崎川と称す、対岸は即曽根崎なり、米市工場等あり。
名所図会云、堂島の市たちは米穀を糶糴なり、市人街頭に東り指頭を揺して高下の極をさうばして、之を又須臾にして遠き国まで知らすとかや。此始元は北浜の富商淀屋巨庵豊臣氏の軍糧を掌る事年久く、常に諸国の米粟菽麦を買積み、己が家の前なる橋爪に毎朝市を立て、諸人に商ふ、此家断絶の後其遺風を以て日々市を立つ。堂島は近世五花堂と云風流者京洛より移り来り此に住して花木をたのしむ、其頃は野原なりしを貞享の頃公命により市街を開く、五花堂の事羅山文集に見ゆ。〇堂島の米商穀価の権衡を持して海内を動せる事は、幕政|庫邸《クラヤシキ》時代を最盛とす、今も余力猶足れり、其衰を見ずと云ふ。
有方録(寛政八年)云、大坂、見商賈集渡辺橋、交易五穀、人衆如雲、彼此相分、或隠語或正言、喃々呶々、(555)約言定而散焉、有人州経紀、視其価直、甚上而欲病、相結而不可解、則大※[さんずい+發]斗水、如急風暴雨、人乃散、而復集、更端鬻買、名曰相場、謂一定物価之上下也、天下穀価、大抵因此、而貴賤同暴相移、是蓋郡国之大権、寓之商賈之手、且不存之京師江戸之間、而委諸浪華何也、浪華者舟船所湊、東運西輸、不歴于此、則不能得、是以一日貿易、数百巨万、富豪射利、素封者多、儼然侯国、不為之称貸者、為甚稀也、夫侯国雖小者、尚連敷十里地、学其財利、納於尺寸無土之商夫、雖勢使然、豈無制度之能救哉。
補【堂島】〇京華要誌 日本米穀市場の本場たる堂島は中の島の北にある所の一島にして、南堂島川に臨み、北曽根崎川を控ゆ、元は茫々たる野原なりしが、貞享中初て公金を以て市街に編入せられ、北浜と称し米穀の売買を取扱ひ、維新の前までは諸国の大名皆其貢米を輸入して売り捌きたれば、公私の売買日夜紛擾雑沓して、其繁華云はん方なく、現今に至りても亦各種組合会勃興し、東西の米穀を集散し、穀価の全権を掌握せり。
補【蜆川】〇人名辞書 大阪の兵起る、利隆弟忠継と並び進んで長柄川に抵る、利隆上流より済らんと欲す、監軍城昌茂之を止む、忠継乃ち其の下流より済る、既にして忠継蜆江を済つて福島塞を取る、利隆猶ほ長柄に在り、塵を望んで済らんと欲す、昌茂復た之を止む、本多正純師を巡つて還へり、報じて曰く、四囲既に迫る、前まぎる者は長柄の師耳と、後ち昌茂是に坐して廃黜せらる。
 
郡家《グウケ》卿 和名抄、西成郡郡家郷。〇今北区天満にあたる、即難波小郡の郡家なり。日本書紀壬申乱の条に云「大伴吹負、既定倭地、便越大坂、往難波小郡、仰以西諸国司等、令進官鑰給駅鈴伝印」と。
日羅墓〇書紀通証に小郡西畔丘前なる日羅墓は天満同心町に在りと日へり、同心町は今川崎造幣局の域内に入る、墓の存否詳ならず。敏達天皇十三年、謀復任那、召火葦北国造阿斯登子達率日羅于百済、日羅到献計、百済恩率参官等送日羅、臨罷時、窃語留者徳爾余奴等曰、計吾過筑紫許、偸殺日羅、於是日羅自桑市村、遷難波館、徳爾等相計、欲殺日羅、日羅身光有如火焔、恐而不殺、遂於十二月晦、候失光殺之、詔令収葬於小郡西畔丘前。〔日本書紀〕
補【小郡】〇天武紀、元年辛亥、将軍吹負既定倭地、便越大坂往難波、以余別将等各自三道進至于山前屯河南、即将軍吹負留難波小郡而仰以西諸国司等、令進官鑰鈴伝印。
 
駅家《ハユマ》郷 和名抄、西成郡駅家郷。按に郡家の水駅にして渡辺の称之に由る、即難波堀江の渡戸とす。水南長溝郷を南渡辺とするに対し天満を北渡辺と云ふ、北渡辺即此駅家なり。厩牧令云、水駅不配馬、量閑繁、別置船四隻以下二隻以上。又文徳実録云、仁寿三年、摂津国長柄三国両河、准堀江川、置二隻船、以通済渡。
 駅路《ハユマヂ》に引舟わたしただのりに妹がこゝろにのりにけるかも、〔万葉集〕
 
天満《テンマ》 今北区と称し、川崎曽根崎堂島中之島等の地之に属す。天満の名は無題詩集太平記等に出て、菅公廟あるを以て也。淀川北より来り天満の東を過ぎ屈折して西に向ふ、今天満天神等の橋を架す、故に天満川と称す。毎年七月天満祭に神輿を舟に乗せ松島に渡御せしむ、水上の光景人目を驚かす、大坂神事の第一と称す。天満は往時|北渡辺《キタワタナベ》と称し、北は長柄|三番《サンバ》に枝し一島を成せり、西方地形数変革あり。〇日本戦史云、天満は大坂城の北西、水を隔てゝ在り。其西は中津川支流を隔て南中島に、西南は天満川を隔てて船場に、東方は淀川を隔て、備前島に隣接す。冬の役東軍天満川の深くして城に逼り難きを憂ふ、藤田重信建議して曰く淀川右岸の※[こざと+是]を破り水を神崎中津の二川に導き、破口の下に柵を樹え土豚木石を以て水を堰き、以て下流を涸すべしと。家康之を善とし、十一月十一日松平忠利伊奈忠政に命じ鳥飼近傍に於て神崎川の※[こざと+是]を破り之に淀川の水を引く、すでにして家康鳥飼の工事功なきを以て更に滓上江《カスガエ》に※[こざと+是]を築く、時に野田福島の諸塞陥る。二十九日天満の諸営自焼して城中へ入る、初め秀頼島津家久を招き天満を守らしめむと欲し砦を此に築きしも、其来らざるを以て終に守り難しと為し、是に至て之を焼く、東軍天満に入て陣す。
補【天満】〇細川両家記〔重出〕元亀元年九月、同七日に信長天王寺より中島天満森へ陣替候なり、則天神宮拝殿会所放火申候なり、然ば森中へ陣屋を懸られ候なり、先陣衆は敵近海老江堤田中に陣屋懸られ候なり。〇太平記〔重出〕康安元年九月廿八日、(摂津国に不慮の事いで来て京勢若干討れにけり)和田楠是を間て、よき時分也と思ければ、五百余騎を率して渡辺橋を打渡り、天神森に陣を取る、佐渡判官入道道誉が嫡孫近江判官秀詮、舎弟次郎左衛門、兼て在国しければ、千余騎にて馳向ひ神崎橋を阻て防戦はんと議しけるを、守護代吉田肥前房厳覚、何条さる事や候べき(中略)つづけや人々と広言吐て、厳覚真先に神崎橋を打渡れば、後陣の勢一千余騎も続て河を越たりける。
 
天満天神《テンマテンジン》宮 天満の中央に在り、菅原道真を祭る蓋山城北野神を勧請す、縁起ありと雖詳ならず。名所図会云、地主祠あり大将軍と曰ふと。
   九月尽日、陪天満天神祠   藤原敦基
(556) 渡口社壇訪土民、説言天満是天神、華栄便祝瑞籬菊、蒸札近薦幽澗蘋、葉錦敗風秋尽夕、木綿翻雪日晴辰、重巌松老無知歳、激浪花飛鎮駐春、域北霊祠猶仰徳、河陽古廟更歌仁、村閭違近低頭至、報賽黄昏帰海浜、
   季夏菅廟祀日舟中題二首         ※[さんずい+奠]陰
 羽衛迎神下水涯、※[人偏+辰]童撃鼓※[糸+鋒の旁]巾垂、画船彩舫観如堵、不似西冥竄逐時。江上船連岸上楼、絃歌接夜咽中流、華燈百万天猶昼、豪挙応凌六十州。
太平記云、正平二年瓜生野より京勢引返し、先づ橋を警固せよとて渡辺を差して引きけるが、天神の松原まで落ちのびたりける。又云、応安元年九月、楠正儀和田橋本五百余騎を率して渡辺の橋を打わたり、天神の森に陣を取る。〇細川両家記云、元亀元年九月、信長天王寺より中島天満森へ陣替なり、則天満宮拝殿会所放火申候、然ば森中へ陣屋を懸られ候なり、先陣衆は海老江堤田中に陣取敵近く候。
 
川崎《カハサキ》 天満の東に接し淀河に臨める地を云ふ。今造幣局あり、廠舎宏大遠望して之を知るべし、此地は幕府の時東照宮及倉庫并に諸吏の宅に充てたる所なりしが、明治元年之を一掃して鋳鍛の工場を建つ、規模最観るべしと云、中に亭館あり千布観と云ふ。
補【大阪造幣局】〇京華要誌 高麗橋の東北十八町許、西成郡川崎村にあり、梅田停車場よりは十四五町、大阪城よりは天満橋を渡りて数町に過ぎず、淀川の流にのぞみて宏壮偉大の石室甍を並べ、煙突半空を摩して日夜炭焔を吐くもの、之を大阪造幣局となす、明治元年八月我政府が英国カラバ会社に命じて、支那香港にある処の英国造幣機械を購入せしめ、旧幕府川崎米倉の址に此建物を建築して其機械を据ゑ付け、尓来茲に二十有余年の広きに及び、石を砌し鉄柵を周らし、柵外に植うるに桜花を以てし、危楼傑閣突兀相望み、機関の声轟々として四辺に響く、世界有数の大造幣場にして、今一年間鋳造する所を聞くに、大抵金貨壱百万円、銀貨壱千万円、銅貨五十万円乃至百万円にして、創立以来発行する所各種の硬貨弐億万円の巨額に達せりといふ。
 
北野《キタノ》 天満の西北を北野村と云ふ、大融寺と称する古刹あり。
   浪華逢客導游        広瀬旭荘
 未醒南郊酒、還浮北渚舟、三秋曾契濶、一日此携游、好樹多臨水、美人宜在楼、不妨天易晩、明月照清流、
 
大融寺《ダイユウジ》 真言宗桂木山と号す、相伝ふ左大臣源融公創建、中世荒敗し今大門の跡は西三町に存し、宝塔楼閣等皆田の字にのこれり、後快済上人再興し今の如くなれり、什宝に建武元年足利尊氏倉橋荘寄附状、建武三年吹田荘寄附綸旨等有り。〔名所図会〕
 
曽根崎《ソネザキ》 天満の西、堂島の北なり、曽根崎村と云ふ。宝永年中より漸次市街を開き、今大略大坂市に隷す。
補【曽根崎】西成郡〇北の新地を曰ふ、難波に比せる遊廓也。
 
梅田《ウメダ》 曽根崎村の大字なり、鉄道幹線大坂停車場在り、旅客貨物の出入常に雲集山積す、溝池を穿ち南堂島川に通じ水運海漕と相連続せしむ。
   夜入浪華          河野秀野
 扁舟五里十里、細雨二更三更、撞破蘆花残夢、菅神祠外鐘声、
補【埋田】〇今梅田に造る、山陽線と東京線の車駅にて、大坂市の大埠頭たり。
 
     西成郡
 
西成《ニシナリ》郡 古の難波小郡なり、続日本紀「神護景雲三年、西成郡人秦人神島、賜秦忌寸」と見ゆ。囲郡沿革考云、和名抄、西成を西生と作る所あり、生に作るは誤なるべし、日本後紀延暦三年の条に東生西成二郡と記し、古より東西文字を異にしたる也。〇西成郡は難波津の西北半部を占む、中世国郡の制度破れ闕郡の称を冒したる事あり、又中島と云ふ、淀川の流末支分して郡村を抱擁すれば也。〇本郡は三方水を以て限ると雖南部に於て東成郡(古東生郡住吉郡)と交錯す、和名抄、西成郡訓邇之奈里十二郷に分る、其郡家駅家讃揚長溝雄伴津守等は今大坂市に入る、中世闕郡と称したる事は細川両家記云「大永六年細川澄元方牢人闕郡中島へ切入り、河を越し吹田に陣取。又享禄四年「播磨勢淀川を越し闕郡中島へ陣替し、細川常植は中島の内うらいに陣取」と此うらい今鷺洲村大字|浦江《ウラエ》なり。
本郡今三十村二町(天保町西浜町)に制為すと雖、大坂市郡の南部に蟠踞し、市郡の境界頗整はず、海岸には新洲年々に増加するあり、水脈縦横に馳するを以て地形の変遷歳時に之ありと云。
 
中島《ナカシマ》 中島に南北の別あり。神崎川(三国川)中津川(長柄川)間を北中島と云ひ、穴太記に見ゆる三好宗三の中島域此に在り。細川両家記に見ゆる細川常植の中島城は南中島に在り、中津川天満川(福島川)間を南中島と云ふ。太平記云「正平三年、楠帯刀正行は今年殊更父が十三年の遠忌に当りければ、其勢五百余騎を率し、時々住吉天王寺辺へ打出で/\、(557)中島の在家少々焼払ひて、京勢やかゝると待たりける」と、是は船場《センバ》を指す如し、中島の戦争の事、大坂陣に至るまで諸書に散見す。
補【中島】〇南山巡狩録 細々要記に和田楠数百騎を率し、天王寺に打て出、所々を放火す、正平三年十月、官軍威を振ふなしと聞えしかば、仁木左京大夫兄弟佐々木等数千人、説津国に発向し神崎に陣を取り、同廿二日中島に於て合戦あり、そのゝち京勢は猶神崎に陣すと云。
 
宅美《タクミ》郷 和名抄、西成郡宅美郷〇今詳ならず、田蓑島は即宅美郷かと疑はるれど徴拠に乏し。一説宅実は多久美と訓むべく、応神紀に見ゆる猪名部の能匠《タクミ》などが住地ならんと、因りて按に今の野田福島の辺にや、此地中世以来船戸船匠の在住の跡あれば、そのかみも工匠の名を負へる邑里か。
 
福島《フクシマ》 今上下の二村に分る、大坂市堂島の西にして街巷相接比す。安治川は其西に流れ木津川は其南に在り、古今不易の※[爿+戈]場《カシバ》なり。文治の比には源廷尉渡辺に臨み船を福島に治せる事盛衰記に載せたり、今|上福島《カミフクシマ》に逆櫓松《サカロノマツ》あり義経艤舟の遺跡と唱説す、蓋松は後世好事者の寄託なるべけれど而も其所以ありと謂ふべし。
細川両家記云、享禄四年猶上方勢は天王寺木津難波今宮上難波朔戸渡辺津村陣所なり、其時は渡辺川福島河二順に橋懸られたり、其時相手は阿波讃岐の三好家なり、此衆の陣所は住吉吾孫子勝間遠里小野築島さうの口堺南、日々取出取合なり。〇又云、織田信長と云人五畿内押領して進退候事、且は阿波の国衆口惜次第なりと、元亀元年庚午年春の頃より阿波の勝瑞と云処にて折々被相談、今度攻上るには先々可然処に軍楯籠由候処・或人被申けるは摂州の中島の内野田福島と申所候、先西は大海なり淡路四国へ舟通路自由なり、北南東方は淀川まきたり、里のまはりは沼田なり、箇程なる所は稀なるべしと被申たりければ、皆々此儀同心有、秋の来を被相待其勢一万三千摂津中島天満森へ陣取たり。阿州にて如相定、野田福島に猶以堀をほり壁を付櫓を上させ、河浅き所に乱株逆茂木引、此当所へ被楯籠而、東国勢被相待條由候なり。然に此処は昔三百八十七年以前に源判官平家御退治のとき御陣取の処なり、是より御船に被召候て四国西国迄御利運に成由候なり。福島に天神社三処なり、蓋天満の分祠なり。又五百羅漢堂あり妙徳寺と号し、正徳年中僧南源の建造せるものとす。〇鬼貫犬居士記云、一年大坂の市を出て、閑なるを好んで心を福島に動し、みづから犬居士と呼ばつて俳道を吠ゆ、家は汐津橋の辺なり、前には軒の松風流水にひたして猶冷かに、後は野径の虫時しも野分に吹送りて、己れ己れが声幽也、
 吹風や稲の香にほふ具足櫃
右には武庫淡路のつづき遠く聳えて、左は伊駒葛木の峰遙に高し、むかふは堂島の新地家立ならび、舟きほふ堀江の川嵐に、西海の浪路を忘れ入日を惜む帰帆、半は屋上に見越して、
 須磨の秋風にしみたる帆筵か。
元亀天正中の福島塞址今詳ならず、慶長中豊臣氏船庫を福島に置く、当時安治川は之なかりしと雖、下福島の西より富島の東南に一渠ありて、中津川と相通ぜしめたる如し、今に古川《フルカハ》の名あり。四貫島の新堀は之に異なり、安治川疏鑿の後中津川と安治川を相通ぜしめし者也。
 
野田《ノダ》 野田村は福島の西に接す、其西部中津川に臨む地を新家《シンケ》と字す、伝法港の東十余町に方る、新家の南に木津川へ通ぜる旧渠存す、又西南安治川に通ずる新渠あり。○日本戦史云、野田福島は南中島の西南端也、中津川天満川の両間に位置し大川尻の要衝たり、西は伝法四貫島大川尻西南は九条南は狗子島博労淵と川を隔てゝ相対す豊臣氏の船庫其西南端に在り。新家と称する地は此船庫の北に在り、域将大野道犬棚楼を福島の五分一に設け八百人を以て新家を戌り、川に治ひ柵三重を樹て、大安宅丸以上船数艘(六十枚の櫓を設けたる福丸及三十七挺櫓の伝法丸等)及盲船(両側に胴壁を附け処々に箭眼を穿つ)等を新家伝法口等に泛べ、又福島に砦を設け宮島兼与小倉行春二千五百人を以て之を戌る。十一月十六日東軍の船将九鬼守隆向井忠勝大船十一艘軽※[舟+可]五十艘を率伝法港に入り、陸上なる池田氏の軍と協力し新家を攻撃す。廿三日東軍新家を取る、尋で五分一附近の島嶼に移り、廿八日夜雨に乗じ堤下より進み五分一の棚楼を攻撃して之に克ち、大船盲船等数隻を獲、西軍の戍兵皆天満へ逃去す。
野田藤《ノダノフヂ》〇野田村の東に藤棚あり、傍に春日神を勧請す、細江あり野田玉川と詠ず。〇貞治三年住吉詣記云、田蓑島より南にあたりて野田の玉川と云所あり、此辺りに藤の花さきみだれたり。鬼貫が句に「野田村に蜆あへけり藤の頃」
 難波がた野出の細江を見渡せば藤なみかゝるはなの浮橋、〔新類題集〕        西園寺公広
 
鷺洲《サギシマ》 野田福島の北を鷺島と曰ふ、今|大仁《タイニ》浦江|海老江《エビエイ》塚本合併し鷺洲村を立つ。中津川村西を流る、土人野里川と呼ぶ、享禄四年播州勢数千の溺死したる大字|塚本《ツカモト》の地か。
細川両家記云、元亀元年九月信長天王寺より中島天満森へ陣を替へ、先陣衆は敵近く海老江堤の田中に陣屋(558)をかけられ候。〇日本戰史云、冬の役池田忠継尼崎に屯し、十一月七日神崎川を騎渉して兵を進め悉く大坂の戌兵を駆逐し、更に中津川を踰え浦江大仁に移る。翌日直に野田福島の敵に向ふ、監使其挺進を制すれども聴かず。〇大仁《タイニ》の村郊に古墓あり、王仁墓と称すれど詳ならず。旭荘の絶句に「十三渡西南、田間古松樹、々下土微穹、人道王仁墓」。
補【大仁】〇大日本戦史 冬の役、池田忠継騎して大和田川を渉り、十一月七日悉く戌兵を遂ひ、大和田を取り、更に中津川を渉り浦江大仁に移る、八日忠継野田地方に進む、監便其挺進を制止するも聴かず、福島迫る。
 
槻本《ツキノモト》郷 和名抄、西成郡槻本郷、訓都木乃毛止。〇是南中島の中なるべけれど今詳ならず。日本書紀神功巻に千熊長彦を槻本首之始祖也と註す、此郷に因む所あるにや。鷺洲村大字|塚本《ツカモト》は槻本と相近し南中島なり、後の考定をまつ。
 
浦江《ウラエ》 鷺洲村の中央にして、大坂梅田車駅の西八町許也。享禄四年細川常植此に陣し、播州衆の援を以て細川晴元及阿州衆を堺浦に攻め大敗す。元亀元年織田氏三好党を討つ時将軍義昭を此に奉じたり、中島城と称す。
細川両家記、享禄四年常植の御勢播磨勢淀川をこし闕郡中島へ陣替し、先陣は住吉のこつまに陣取を堺より推よせ切勝て、天王寺今宮木津難波に陣取、常植は中島の内うらいに陣取給ふ、浦上は同野田福島に陣取なり、その勢二万余騎との風聞なり、境の町人驚天し門々に垣をしたりければ、誠御祓などの日と見ゆるなり。六月四日に晴元方堺より語勢打出、天王寺木津今宮へ取かけその日責くづす、常植方和泉守護殿伊丹兵庫助国助河原林日向守、薬師寺三郎左衛門、波々伯兵庫介討死せり、此外中島の野里川へ入て死するなり、同播磨衆に浦上掃部島村弾正初て三百余人討死なり、此外五千余人野里川に入て水におぼれて死ねり、以上七千余人死すると言ふなり、誠に/\川を死人にてうめてあたかも堀の如く見ゆる、昔も今も末代もかゝるためしはよもあらじと人々申なり。又元亀元年九月、東国衆は中島の内浦江と申所に古城候へ御所様(義昭)御入城なり。此所は先年細川常植浦上を御頼み同心ありて播磨備前美作三箇国を催し三万騎にて常植在城あり、今度中島において尾張信長と阿波三好方取合の事凡日本国三分一双方へ軍勢集、同四国衆一万三千にて堅國にして運開かれ奇特由候なり、信長方軍勢六万人にて敗軍して遠路無異儀帰国候事、是亦名大将哉と申候。
補【浦江】〇細川両家記 〔元亀元年九月〕十二日に中島の内浦江と申所に古城候、御所様(義昭)御入城なり、此所は先年細川常植(イ、高国)御牢人の後、備前国へ御下向候て、浦上掃部御頼候処同心被申、備前播磨美作三ヶ国催、三万騎にて上洛候時、常植此城に御座候なり。
 
三番《サンバ》 今中津に大字下三番あり上三番は豊里《トヨサト》村と改む、万葉集に見ゆる上小竹葉野《アゲササバノ》の地とす、三番は小竹葉の訛なり、上《アゲ》は播磨風土記并に住吉大社解状に朕君《アキ》又吾君に作り、中津川の旧名とす。
 妹が髪上小竹葉野の放駒あらびにけらしあはぬ思へば 〔万葉集〕
今中津村大字三番は鷺洲豊崎西村の間に在り、中津川の渡口ありて俗に十三《ジフサフ》と呼ぶ。名所図会に此辺は中世|富島《トシマ》と称したる地なりと記す、富島荘、建長二年道家処分記に録せらる。
 
中津川《ナカツガハ》 淀川の一支にして柴島長柄の間より西流す、四十町にして南洗、三十町にして又西流、三十町伝法村の西に至り海に入る。川尻を伝法口と云ふ。〇中津川又長柄川と呼ぶ。畿内志云、長柄河淀河、第二支上古水道唯是一川、構流不一、仁徳天皇疏導掘江、延暦中通三国川、然猶氾濫不已、疏柴島北放水道、漏水勢于三国川、名曰中津川、今二重堤即此、後凌名柄川、塞此水路、童謡曰「摂津国能中津河原遠塞支加禰天」。按に北中島なる柴島の北に河道故址あり、畿内志之を以て中津川と為す、其所説疑なき能はず。
 
吾君《アキ》川 中津川の古名なるべし、万葉集に上小竹葉野《アゲササバノ》とあるも、中津川の畔なる三番野の謂ならん。住吉大社解状云、従三国川尻、至于吾君川尻、難波浦、(中略)爰三韓国調貢、従此川(三国川)運進、而漂没、此川仍有制不運漕従吾君川運漕云々。また朕君済《アキノワタリ》と云ふ名あり、吾君渡の謂にて播磨国の古風土記に見ゆ。其朕君済を一名|高瀬《タカセ》済と呼ぶ、高瀬は守口《モリクチ》(河内茨田郡)の旧名に遺れば中津川の筋をば高瀬川とも呼べることありしにや、今之を推すに其渡津は十三若しくは橋寺《ハシデラ》の辺なるごとし。播磨風土記云、昔大帯日子命、誂印南別嬢之時、到摂津国|高瀬之済《タカセノワタリ》、請欲度此河、度子紀伊国人、小玉申曰、我為天皇贄人否、爾時勅云、朕公雖然猶度、度子対曰、遂欲度者、宜賜度賃、於是即取為道行儲之弟縵、投入舟中則、縵光明炳然満舟、度子得賃乃度之、故云朕君済。
 
十三《ジフサウ》 中津村大字光立寺の渡津を十三と呼ぶ、即中津川の筋なり。〇細川両家記云、元亀元年九月信長の軍引退の時、中津川船橋は四国衆より夜中切流したり、然ば船橋渡らんもなし、昔からの橋もなし、皆々かち渡にし玉ふなり。一里程行候へば又大河有、是は江口河と申す名所なり、こゝにも橋もなし船もなし、かち渡りにせられたり、我も人も難儀と申も愚なり、堀(今神津村十三渡)と申所の船橋なり。(559)〇日本戦史云、冬役池田利隆は神崎川の浅深を測らしむるに、深くして渉る可からずと云ふ、乃ち方に船筏を覓めしが、弟忠継大和田川を渉るの報を聞き、大に憤恚し衆を麾して神崎川を渉る、城将織田長頼|十三《ジフサウ》(地名)の渡を戌る、肯て戦はずして退く。
 
長柄《ナガラ》 今豊崎村と改む、一説此地は孝徳帝豐碕宮の旧址と伝ふればなり。和名抄何郷にあたるにや、郡家《グンケ》にやあらん。今豊崎村その大字北長柄、南長柄|本荘《ホンシヤウ》南浜、国分等あり。
三代実録、仁和元年、摂津国長柄神授位、此は本郷の鎮守なるべし、孝徳天皇の長柄豊崎宮址は本郷かとも云へど今採らず、天満川以南の地に豊崎宮址を求むべし。難波旧地考云、長柄宮の御跡は天満の北に長柄と云村あり、其西に本荘と云村あり、そこにいさゝか森ありて神祠の残れるは大宮所の跡といへど、或識者の考には今の崇禅寺浜(北中島村)と曰へり、己親く其地を観るに本荘と云村も崇禅寺浜も彼長柄村よりは一段低くて、上古山城川の流れ出でたる河尻の洲浜なるべきか、大宮所の跡ならずかし、抑豊崎宮の長柄を奈賀良と訓はひがよみにて奈賀江と訓べき也云々。
 津の国のながらへ行けば忘られて猶ぞみまくの堀江ならまし〔古今六帖〕
補【長柄】○社会事彙 年山打開云、中原康富朝臣日記曰、古今集序、ながらの橋もつくるなりと、又ふりぬるものは長柄の橋と我となりけりともよめり、ふりたる事といふ習か、弘仁三年に造らるゝよし国史に見えたれば、弘仁より伊勢が時分まで百年の内なり、ふりぬると可読条如何、然らば弘仁は新造か、わたの辺のあたりにかけたる橋と云々、契冲法師が書たる物に、文徳実録を引ていはく、仁寿三年九月戊子朔戊辰、摂津国奏言、長柄三国両河、頃年橋梁断絶、人馬不通、請淮堀江川置二隻船、以通済渡、許之。
〇難波旧地考 長柄宮の御跡は天満の北東に、南長柄北長柄といふ村ありて、その北長柄の村の西に本庄といふ村あり、そこにはいさゝか森ありて神祠の残れるは、大宮所の御跡といへり、また或識者の考には、今の崇禅寺浜といふ地その御跡なりと言へり、己したしく其地を見るに、本庄といふ村も崇禅寺浜と曰ふ所も彼長柄村よりは一段ひきくて、上古山城川の流れ出でたる河尻の洲浜なるべきか、今村里となれる地と見ゆれば、是も大宮所の跡ならずかし、又味経原は島下郡別府味舌二村の古名と摂津志に言へれど、長柄宮味経原は相接る地にあらねば、万葉集の歌意に協はず、是は味舌の名に依りて例の並河氏の押あての強言とおぼゆれば執るに足らず。古図に就て考ふるに、百済川狭山川の二流、天王寺の東猪甘の岡の南に合て、この小谷を流れて西の海に入れりと見ゆれば、紀に言ふ所によく協へり、かくはこの御宮所、菟餓野と放りて、そこの牡鹿の声の聞ゆべきにあらずといふべけれど、彼都賀野を今の天満と言ふも信じがたし、彼地は四方に海川の回りを河洲の地と見ゆれば、上古と雖も鹿の住むべき地に非ず、或人のいふには、今高津宮とて仁徳帝を祠れる御社のあなる、その近き辺りに菟餓の旧名遺れりといへり、是あたれるに似たり、斯く定め置きて長柄豊崎宮の御跡を考ふるに待つ、長柄の二字を中古奈賀良と訓来れるはひが訓にて、奈賀江と訓べきなり。〇今按、長柄橋即大江橋なり。家長日記 御前に少将雅縫侯が、其橋柱の切れは持て候者をと申す、京にて急ぎ参らすべき由仰あり、只朽たる木のはしに侍り、何計のしるしにかは、さとも思召べきなど申合り、是は此渡りの住人滝口盛房と申すをのこの伝へ持て侍りしなり、それが先祖に侍りけるもの、此川の辺をあやしき舟に乗てわたり侍りけるに舟にこたへて舟俄に不動かへりけ(イ、かへらざ)れば、人を卸して水底を探らせけるに、掘出せるなり、細に見侍れば、中に黒鉄の心たてゝ柱のたたずまひの姿なり、さればよと思合せて、取て今に伝へたりけると申、京へ入らせ玉ひて二三日計ありて、此橋柱の切まゐらすとて添たる歌、
 これぞこの昔長柄の橋柱君がためとや朽のこりけん
  返しせよと仰侍りしかば、
 これまでも道ある御世の深き江に残るもしるき橋柱かな
  是を文台にして和歌所に置かる。
 
長柄橋《ナガラノハシ》址 日本後紀云、弘仁三年、遣使摂津、造長柄橋。文徳実録云、仁寿三年、摂津国奏言、長柄三国両河、頃年橋梁断絶、人馬不通、請准堀江川、置二隻船、以通済渡、許之。〇此橋は古今集序詞に載せられ、廃絶の後は能因法師その橋造りの飽層を取得て人に引出物したる事袋草紙に見ゆ、家長日記明月記には後鳥羽上皇この橋柱の水底に朽のこりたるを採らせて、和歌所の文台に造らせ玉ふよし載せたり。
 世の中にふりぬる者は津の国のながらの橋と我となりけり、〔古今集〕
公任卿集云、三島江をへてながらのはしにて
 橋ばしらなからましかば流れての名をこそきかめ跡を見ましや、
くらうなる程に住吉にまうでつきぬ、松風波の音聞しにたがはずをかし。又俊頼家集云、此道にながらと云所聞ゆるは過ぎぬるかと、人のたづぬれば、船人のながらはくま(二字不審)川のかたになん侍ると云をききて
(560) 涙のみ大河尻のかたなればよもながらへはゆかじとぞ思ふ。
源義詮住吉詣云、貞治三年卯月上旬のころ、津国の難波の浦みむとてかの所にまうでけるに、淀より舟にのりてゆくほどに長柄といふ所につきぬ、いにしへも此所に橋ありて人のゆきかよひしが、今ははしの跡とてはわづかに古ぐゐばかり也、やう/\難波の浦につきぬ。(此紀行は疑はしき節多し信ずべからず)〇陸路之記云、長柄の橋柱の聯と云ふものあり、こは貞享の頃津国西成郡|柴島《クニシマ》村といふ所の田の中に埋れたりしものにて、妙法院堯延法親王の
 あしまよりみゆるながらのはしばしらむかしのあとのしるしなりけり
と歌よみたまへるがそれなり、むかし後鳥羽の帝の仙洞におはしましゝほど、此橋柱を歌所の文台に作らせたまへること家長記にみえて、そは滝口盛房といふ者のとほつおやの川のみな底さぐらせて掘出たるよしなれば、其かみはなほみをのすぢも明かにしられつらんを、其後またあまたのとしをへて、つひにもとの流れは田畠となれる、まことにこの木の片をみても世のうつりかはるさましられたり。
 
鶴満寺《クワクマンジ》 豊崎村大字南長柄に在り、延享年中憎忍鎧重興す開基不詳、天台律院にして閑雅の寺宇なり。重興の際毛利侯より寄贈せられし古鐘在り、形状雅麗、銘云
 長門州原東郡宇都松江山普済禅寺(中略三言四言銘詞)永和五年己末仲呂日 太平十年二月日寺朽而□□三□金鐘入三百斤長二尺四寸二□
摂陽落穂集云、霊松山鶴満寺の鐘楼にかくる古鐘は唐土北燕馮跋の太平十年(東晋義煕十年)に鋳造する所なり、往昔我国に渡て長州普済寺の物となり、即永和五年の彫銘あり、然るに普済寺退転の元文の比長州毛利侯堤防経営の折から土中より堀出し延享年中之を此寺に納れ給ふ、二千余年の古器なり。〇国分寺は鶴満寺の東北に在り、正国山金剛院と号す、荒敗の後近世快円比丘尼中興して律院と為す、蓋古の国分尼寺ならん。〔名所図会〕
 
源光寺《ゲンクワウジ》 豊崎村大字南浜に在り、東成郡平野大念仏寺の別院にして建武年間法明上人之を開く、即融通念仏宗の一本寺にして、本尊天筆阿弥陀如来を安置す。
 
伏見《フシミ》郷 和名抄、西成郡伏見郷、訓布之美。〇此中島の中なるべけれど今詳ならず、或は大坂市船場の伏見町を以て之に擬すれど、伏見町は元和の比山城国より移したる名なれば採り難し。江口大道などの村里ならん。
 
柴島《クニシマ》 名所図会云、今土俗国島に作る、此辺淀川の流に布木綿を晒す、是を国島晒と云ふ。〇柴を久爾と訓むは古言なるべし、北越方言に柴籬を久禰と云ふ事今なほ然り、摂津志には柴島は古へ茎渡と呼べりと、不審。本朝無題詩集に藤茂明摂州山寺の律句に「南欹柴島小於挙」と云は登臨して此地を望みたる言なり。又細川両家記云、天文十八年八月、三好長慶方衆中島へ入るなり、然に柴島に典厩衆宗三衆籠る城ありて其西方の浜に出合候て合戦あり、宗三衆負て其夜城を明け退くなり。
柴島は南中島の長柄と中津川を隔て、即中津川の分水口にあたる、今西中島村と改むるは江口の中島より西にあたれば也、大字浜あり。
補【柴島】〇細川両家記 〔天文十八年〕同三月一日に三好方衆、中島へ入なり、然に柴島城に典厩衆、宗三衆籠て有、城の西方浜にて出合候て合戦有、宗三衆負て三好加介、河原林又兵衛一番に進出討死なり、以上十六人討死なり、筑前守方に河合孫七郎只壱人討死なり、然ば則其夜城を明退くなり。
  夏日於摂州山寺即事      藤原茂明
 時々此地有留連 尋到守門思慨然 西繞芥河繊似帯 南欹柴島小於挙(芥河柴島、此州之名所也)当窓斜竹纔遮日 残砌短松不記年 境隔塵喧人事少 素心寂静礼金仙
 
大日寺《タイニチジ》 今|豊里《トヨサト》村大字上三番に在り、真言宗中台山遍明院と号す。延喜式「摂津国正税公廨、大日寺科五千束」と見ゆ、往時は当州の名藍たる事想ふべし。名所図会云、大日寺、本尊大日如来弘法大師の作なり、堂字は中世兵乱に会ひ荒廃すと雖、嵯峨醍醐後深草三帝の宸影を寺宝と為す。豊里村は柴島の西にして大道村の南に接し淀河に瀕す、大字三番の西を大字橋寺と曰ふ、北河内の守口駅の対岸也。夫木集藤信実の詠に
 長柄なる橋本寺もつくるなりおこさぬ家を何にたとへん
とあり、此橋寺の字は之に因るか、新荘村大願寺は今橋本寺の遺跡と伝ふ、是非を詳にし難し。
 
大隅島《オホスミシマ》 蓋北中島東部の古名なり、今中島村|大道《ダイダウ》村新荘村豊里村等にあたるごとし。〇日本書紀云、安閑天皇勅大連云、宜放牛於難波大隅島、与媛島松原、冀垂名於後。又続日本紀云、霊亀二年令摂津国、罷大隅媛島二牧、聴百姓佃食之。〇按に摂津志、書紀通証等、応神帝大隅宮址は西大道村(今大道村大字西大道)に在りと云、今之に従ふ、然れども徴証太だ乏し、又形状疑ふ可し、後の重考を期す。
 
(561)大隅宮《オホスミノミヤ》址 応神紀云「天皇幸難波、居於大隅宮、登高台遠望、時妃兄媛望西、於是天皇間曰何爾歎之甚也、対曰妾有恋父母之情、便因西望、天皇則聴之、仍喚淡路御原之海人八十人、為水手、送兄媛于吉備、兄嫁自大津発船而往之、天皇居高台望兄媛之船、以歌之云々」と。按に大隅宮は難波大津の上にして津頭発船の状を望視し得べき地なるに似たり、蓋|高津宮《タカツミヤ》などの地勢と同じかるべき所とす、而て之を大道《ダイダウ》村とすれば大津と相隔遠するのみをらず、海船の発ち出づるを望み得ん理なし、大隅宮址は必定大道などの辺にはあらで、大坂の中なるべし。
 
江口《エグチ》 北中島の東北端にして、神崎川の淀川本流より岐分する所に在り、今|中島《ナカシマ》村と改む。〇名所図会云、江口古は西海の舶京師に赴く時此より川船に乗替しとなり、泊処なれば繁華の地にして娼妓其名あり、いまは農家僅に在りて耕作の村と為る、江口の遊女|妙《タヘ》と西行法師贈答の歌は新古今集に載せ、又撰集抄に江口尼の談あり、今江口の堤上に歌塚を遺す、寂光寺に君堂《キミノダウ》あり妙女の像を置く。〇続日本紀云、天乎宝字三年、高麗使高南甲、到難波江口。江家次第云、八十島祭日、到難波津、禊了以祭物投海、次帰京、於江口、遊女参入、纏頭例禄如恒。〇江口娼女の事朝野群載に詳なり、河辺郡神崎参考すべし。
   江口にて白といふ遊女のむすめの虎を具して、是れ又をさなき者なればあはれにせよなど申ければ、物語などして遙に送りて、今宵はとどめばとまりげに申けれど、猶をりふしあしとて返しつかはしける次によめる、
 とどめよとしろくいへども折節のあしわけにても過しつるかな、〔散本集〕天文十八年、細川晴元三好宗三等、三好長壕を拒みたる時、宗三江口の中島に拠り、晴元は島下郡三宅に陣す、長慶撃ちて江口を抜き宗三を斬る。穴太記云、長慶は細川氏綱を取立て河内住人遊佐河内守長教大和国住人筒井須昭を相語ひ、中島(南中島)に陣取敵の寄るをぞ待かけける、天文十八年六月十一日の早天に、宗三入道はえなみの城を立出で江口の渡を越え、中島の城にちかき江口の里にうちあがり水沢の陣をぞすゑにける、此江口と申は四方に大河渺々として沙頭みちせばきに波うち際迄逆茂木を引かけたれば敵も寄せ難し、又打出んも船あらねば只いつとはく近江勢を待居たりけるに、廿三日の月を待て一首の狂歌よゐて武士の猛心をなぐさめける、
 河船もとめておふみの勢もこずとはんともせぬ人を待かな。
按に穴太記氏綱の中島城は南中島野田村とす、〔名所図会名所大絵図〕江口の中島城は、名所図会江口の村長田中氏の宅其古跡と曰へり。〇江口の西に瑞光寺と云ふ巨刹あり。
補【江口】〇台記云、久安四年二月二十一日、宿柱本辺、今夜密召江口遊女於舟中、通之。廿二日反、遊女給米、又有纏頭事、鶏鳴後着鴨川尻。
 
小松《コマツ》 中島大字小松は江口の西に接す、涙池の故跡あり。〔名所図会〕東鑑、建久三年摂津国小松荘、又東寺文書、正和二年七条院領小松荘(摂津)など見ゆ、今小松の西に新荘村あり即小松荘の中なるべし。三国川北辺を過ぐ、対岸は三島郡|吹田《スヰタ》町なり。
 よしさらば泪の池に身をなしてこころのまゝに月やどるらん、〔夫木集〕        西行法師
 
大願寺《タイグワンジ》 今新荘村に在り、仏性院橋本寺と称す、蓋古の三国川の橋寺なるべし。三国川に架橋ありし事は文徳実録仁寿三年の条に見ゆ、大願寺近代僧日慶再興して法華道場と為す。
名所図会云、北中島城は初め江口に在り、三好長慶が従弟宗三之に拠れるを、長慶の一族十河一存攻めて宗三を殺す、後城塞を新荘《シンシヤウ》村に移し天正年中中川清秀の兵之を守れりとぞ。元和中稲葉淡路守紀通の居邑中島と云も此か。
 
崇禅寺《スゼンジ》 今|北中島《キタナカシマ》村大字山口に在り。嘉吉二年播磨国主赤松満祐事を以て将軍義教を弑し、首を携へ西走の途次此に埋葬し去る、管領細川持賢乃ち寺を建てゝ之を弔祭す。開基憎亨隣、曹洞禅院也、寺後世衰頽すと雖門前に馬場あり松林欝々たり。正徳五年大和郡山の藩士遠城治左衛門兄弟其一弟を殺さる仇敵生田伝八郎を崇禅寺馬場に要撃して果さず、却て反り打ちに会ふ、世上之を伝唱し遠城兄弟の枉屈を悲む。
 
三津屋《ミツヤ》 今|神津《カミツ》村と改む、南に中津川の渡あり十三と称す、北に神崎川の渡あり三国《ミクニ》と称す。三津屋長栄寺は真言宗、薬師堂大師堂あり。
補【中津川】〇細川両家記〔重出〕〔元亀元年九月〕同十日に典厩、城の前中津川に船橋懸られたり、然るに七十一年以前に畠山尾張守、河内高屋城より出、摂州入の時に天王寺へ陣取、其時渡辺川長柄に橋をかけられたり、其所詮なく高屋の城へ帰陣候つる由申伝條、不吉之由に候なり。〔堀、参照〕
 
堀《ホリ》 神津村大字堀の渡は即|十三《ジフサウ》渡也。細川両家記云、元亀元年東国衆は中島の内堀と申所の前、中津川に船橋を遣られたり、七十一年以前に畠山尾張守河内高屋城より出て摂州入の時に天王寺へ陣取り、渡辺川長柄に椅をかけられたり、然に其所詮なく帰陣候つる由申伝候不吉之由候也。太平記、応安元年楠和田の一党渡辺椅を越え佐々木秀詮同氏詮は神崎川を過ぎ中島に合戦あり、其地理は今(562)神津村の中なるべし。曰「佐々木判官秀詮兄弟は神崎の橋爪へと馬を西頭になして歩ませ行く処に、桶正儀が足軽の野伏三百人両方の深田へ立ち渡りて鏃を支へ散々に射る、佐々木は後陣より返さんとする処に和田橋本福塚五百余騎抜き連れて追懸けたり、中津河の橋爪にて白江源次六騎踏み止りて討死したる。守護代吉田肥前房厳覚真先に橋を渡りて逃げけるが、続く敵を渡さじとやしたりけん橋板一間引落してければ、佐々木判官兄弟は橋の辺まで落ち延びたりけるが、恥しめられて兄弟二騎引き返して矢庭に討れてけり」と、本文中「神崎の橋爪へと馬を西頭」と云句地理に合はず、懸聞の誤に似たり。
 
三国川《ミクニガハ》 今神崎川又江口川と曰ふ淀川の一支にして江口に分れ西流二里余神崎(川辺郡)に至り南に折れ一里にして大和田村に至る、其末委は更に数派に分裂す。古の大河尻大物浦なり。三国川の名は続日本紀「延暦四年、遣使堀摂津国神下梓江鯵生野、通于三国川」と見ゆるを初とす、鯵生野は今三島郡味生村なれば、神下梓江は安威川(茨木川)なるべし、三国渡は今神津村の東に在り豊能郡荘内村(大字菰江小字三国)に通ず。三国椅は文徳実録に見ゆ、又太平記「正乎十七年和田楠勢神崎橋より二十余町上なる三国の渡を越ゆ」と載せたり、今は神崎の東三十町に三国渡あり。
 
三野《ミノ》郷 和名抄、西成郡三野郷。〇今歌島村|稗《ヒエ》島村なり、北中島の西南部にして野里《ノサト》の名存す。按ずるに日本紀安閑巻に「天皇行幸三島、県主奉献上御野下御野之地」とあるは此に非ず、三島郡鳥飼牧なるべし。此三野郷は媛島牧なり、即稗島の御野あるを以て其号立つ。姓氏録、摂津諸蕃三野造、百済布須麻乃古之後也。
 
加島 古の蟹島《カニシマ》なり、今|御幣島《ミテシマ》野里と相合せ歌島村と称す。朝野群載に江口神崎蟹島の繁華を記したる文あり、天下の大楽地と号したり、神崎の対岸にして同く江口川の筋なり、神崎橋と云者も太平記に見ゆ、蓋此に在り。〇名所図会云、昔は加島千軒とて此地に鍛冶多し、今は僅に一両軒の治戸あるのみ、延喜式云「摂津国五十八煙、右鍛冶戸、毎年自十月一日、至二月三十日、為番役使。
   かしまを過けるに、遊女どものあまた詣来て、歌うたひけれども、かかるおもひをかうぶりてのぼれば、え遊ばぬ由など申て、いささか物などごころざして遣したりければ、又夜まうで来てきこえかゝりければよめる、
 かしまへはあそびしにやとつきぬらむ戯にても思かけぬを、〔散木集〕
補【蟹島】河辺郡〇朝野群載に見ゆる蟹島とは、江口神崎に匹敵したる水駅なり、当時は泊舟輻湊の処にて、風流にとめる一大楽地たる趣なり(江口の条参看すべし)今梶島村より大物の東に一水を隔つ(神崎川の支流)此地即古の泊地ならん、桑滄の変あるが為めに今は古の状態さらさら見えず。或は云ふ、蟹島は西成郡加島なりと、加島村は神崎川の右岸にて、神崎駅と川を隔てゝ相対す。
台記云、久安四年二月二十日、詣天王寺、於西海乗舟入一洲、遊群来宿加島辺。
 
御幣《ミテ・ミテグラ》島《シマ》 今|歌島《ウタシマ》村の大字なり、美天と唱ふるは美天久良の略なるべし。浪速上古図説に八十島祭の旧地は御幣島ならん生玉住吉の二神をば今も此里に祭ると曰へり。按に幣島は難波河尻の八十島の一島たる由、住吉年中行事にも録し、古の禊所なるべし。住吉大社宮司解状(延暦八年職判)
 一 荷前二処幣帛浜等本縁
  一処 従科戸島山為上至于錦刀島南為界
  一処 従宇治川為上至于針聞于刀川為界
  一処 従三国川尻至于吾君川尻難波浦
 右荷前并幣帛浜等、昔気長帯姫皇后所奉寄也、爰三韓国調貢、従此川運進、而漂没、此川仍有制、不運漕、従吾君川運漕、因茲為幣帛浜、坐神姫神縁是也、社一前。
此に見ゆる荷前一処は播州なるべし、科戸詳ならず、三国川吾君川の間なる浦と云ふは今の歌島稗島伝法大和田等の海に当る、其幣帛浜は御幣島に残り、姫神は姫島に残る即比売許曽神なり。(延喜式島下郡に幣久良神社を載す、不審)
   みてぐら島と云所をすぐとてよめる
 夕かけてみてぐら島を過行ばその川上にたむけてぞさす、〔散木集〕
百練抄云、「延久五年二月廿日、太上皇(後三条)陽明門院、一品内親王、参石清水、住吉、天王寺給、廿二日覧難波浦、廿五日覧長柄橋、於御船有和歌、廿七日還御」と、扶桑略記には此事を録すれど、廿五日覧長柄橋の一項を欠く、栄花物語にも「廿五日の辰の時ばかりにぞ御舟出す、午の時に左衛門権佐まさふさ参れり、種々に装飾たる中にあかきうへのきぬにこと/”\しく参りたる、最めづらしく見ゆ、左中弁さねまさ題たてまつる、みてぐらじま(御幣島)と云所御覧ず、さねまさを御船に召上て歌共講ぜさせ給」とのみ見え、長柄橋の事なし。
 
野里《ノザト》 今歌島村と改む、南は稗島に接し東は中津川を隔て鷺洲に対す、即三野郷の遺称なり。細川両家記云、中島陣に於て播州赤松殿浦上掃部に付て御遺恨の子細有之、敵方阿波国讃州へ被仰談之条、(563)浦上方衆敗軍なり。然ば浦上も島村も腹切候なり、所々にて討死するもあり病死するもあり、二千余人と云、野里川へ入て死する人五千人と云、以上七千人と被記と申候なり、頃は享禄四年六月四日なり。
補【野里】〇人名辞書 三右衛門、摂津国野里村の農民なり、資性勇を好み、一たび奮激するや隣里皆な之に応ず、慶長十九年冬、片桐且元大坂を去りて茨木城に入る、三右近隣の土民八百余を募りて、且元の軍を伊丹神崎に邀撃して之を破る、徳川家康三右を召し対理せしむ、三右且元を睥睨し罵て曰く、足下は故の大閤秀吉の洪恩を荷ふ、其の幾許なるやを知らず、足下若し人たるの道を知らば、義を守りて節に死し、以て忠を存すべしと、且元終に言壅るといふ、家康三右の義胆を嘉し、其の罪を宥恕して曰く、是れ常人に非ず、之を導くに道を以てせば、即ち正に一方の魁首たらんと(野史)
 
媛畠《ヒメシマ》 今の稗島《ヒエシマ》村是なり、中津神崎二川の間に横はり、南なる伝法《テンポウ》西なる大和田は今に海口《ミナト》たり、往時媛島も海口なるべし。摂津風土記逸文云(釈日本紀所引)「比売島松原者、昔軽島豊阿伎羅宮御宇天皇之世、新羅国有女神遁云、其天来住筑紫国岐伊乃比売島(今豊後姫島)乃曰此島者猶不遠、若居此島、男神尋来、乃遷来停此島、故取本所住之地名、以為島号」と此女神は即比売許曽神にして男神は天日槍なり、当国風土記は応神天皇の御宇と為せど播磨風土記は神武紀以前即神代の事と為せり。古事記高津宮(仁徳)段云、天皇将豊楽而幸行、日女島之時、於其島雁生卵。又日本書紀、安閑天皇、放牛於難波大隅島、与媛島松原、冀垂名於後。又敏達天皇、勅遣使於葦北、召日羅眷属、賜徳爾等、任情決罪、是時葦北君等、受而皆殺弥売島、弥売島蓋姫島也。続日本紀、霊亀二年、令摂津国、罷大隅媛島二牧、聴百姓佃食之。
   和銅四年、河辺宮人、姫島松原見嬢子屍、悲歎作歌
 妹が名は千代にながれむ姫島の小松が末にこけむすまでに、〔万葉集〕
   中津川晩望        広瀬旭荘
 斜陽脈々下平坡、秋入江心水不波、野渡無人沙雁起、紅楓影裡一牛過、
 
余戸《アマベ》郷 和名抄、西成郡余戸郷。〇余戸は海部《アマベ》の仮借にして、大和田村伝法村福村千船村等の沿海邑にあたる。中世は大河尻《オホカハジリ》と称し神崎中津の二水此に匯し更に数派と為り海に入る、今大坂尼崎間の地是也。
 
大和田《オホワダ》 神崎川(三国川)の末、南岸に在り。北岸を佃島《ツクダシマ》と云。佃島の西に一支流ありて尼崎大物杭瀬等(川辺郡)と相隔つ、古の大河尻の泊処は蓋尼崎町と大和田村の間に在りしならん、水脈の推移と洲岸の変遷ありて今古の形勢相異なり。名所図会云、大和田は尼崎と相近く河海の交堺なり、水に鯉多し、諺に「大和田の鯉掴み」と云。
   田辺福麿過敏馬浦時作歌
 浜きよみ浦うるはしみ神世より千船のはつる大和太の浜、〔万葉集〕
敏馬《ミヌメ》滿は比売浦の謂にて媛島の浦か、武庫郡にも同名あり疑ふべし、媛島は大和田の東に在り、今佃島を千船《チフネ》村と号するは乃古歌に因める也。〇大和田浜大河尻は中世西岸に在りては大物浦と称し、平安京の時西海の大津頭なりき。蓋難波津衰へて海漕の路北に移り、大輪田|大物《ダイモツ》より神崎川を泝る事と為れり。後世に及び堺浦南に起り大物浦浅せて尼崎之に代る、天正中より大坂勃興し南北の埠頭共に衰ふ、隆替常なきを知るべし.〇大河尻は大物浦の条を参考すべし。○陰徳太平記云、天正三年、大坂本願寺より大和田に出城を構へ、下間某を入置、渡辺神崎十艘川辺へ軍兵を出し、郷民を悩乱す、三月中旬、荒木摂津守大和田の城へ押寄、攻崩追打して、大坂の総構天満迄打破。信長記云、天正四年四月、荒木は尼崎より海上を相働、大坂の北野田に取出を三所押並、川手通路取切。
 
伝法《テンポウ》 稗島の南にして中津川(長柄川)の海門なり、伝法口と称す。豊臣氏の時に港泊と為しゝか、古に聞見なし、渠を大和田(神崎川)福島(木津川)に通ずるは即豊臣氏の所開にや。〇豊臣氏の時伝法口を港泊と為しゝ事は、大坂冬陣の際東軍之を衝きて西軍の艦船を奪へるにて明白なり。日本戦史云、大坂の船庫は福島に在り、十一月十六日九鬼嘉隆志摩より三国丸安宅丸等の五艘及軽※[舟+可]五十を以て伝法口に入る、乃諸国よりの入船を検す。是より先向井忠勝大船六艘を率ゐ江戸を発し遠州洋に風濤に遇ひ船皆漂蕩し忠勝独り纔に免れ此に至り伝法に来会す。廿三日中島在陣の池田氏の兵と協力して福島野田を攻撃し、敵を攘ふて多く船艦を奪ふ。
 
     三島郡
 
三島《ミシマ》郡 摂津国の東北隅にして、南は淀川に至り東は山城(乙訓郡)北は丹波(南桑田郡)に界し西は豊能郡に接す。面積十四方里、郡衙を茨木村に置き、三十二村を管す、人口七万あり。古|三島《ミシマ》県あり国郡制置の初め分割して島上島下二郡と為す、明治廿九年復旧して三島郡の名を立つ。旧説島(564)上島下豊島の三郡を併せ三島と曰ふは謬れり、豊島は本郡の西に並ぶと雖地形河辺郡の東一半を成す、且三島は御島《ミシマ》の義にして即島村(今宮島木村大字)を本因と為す。古事記白橿原宮(神武)段云、三島湟咋之女、勢夜陀多良比売と、湟咋は今|溝咋《ミゾクヒ》村の名存し、島村と相接す。〇日本書紀雄略天皇の条に三島郡|藍原《アヰノハラ》とあるは安威郷なるが、郡称は追書に係る。又「欽明天皇二十三年、新羅貢調使人、知国家憤新羅減任那、不敢請罷、例同百姓、今摂津国三島郡埴盧新羅人之先祖也」と見ゆ、埴盧は今詳ならず、書紀撰修の当時は尚島上島下の名なかりし如し。〇三島氏に数流あり、藤原大中臣同祖県主最著る。日本書紀、安閑天皇、行幸於三島、使大伴大連問良田於県主、飯粒仍奉献上御野下御野等之地。続日本紀、神護景雲三年、摂津国島上郡人、正六位上三島県主広調等、並賜姓宿禰。姓氏録云、右京神別三島宿禰、神魂命十六世孫建日穂命之後也。とある是也。旧事紀「饒速日尊天降之時、供奉三十二人中、天神玉命、三島県主等祖」と見ゆるも同じ、彼三島湟咋は蓋県主の祖にして其孫女伊須気余理比売(父は大和大物主神の霊と云)は神武天皇の嫡后なり。又旧事紀云「宇摩志麻治命十四世孫物部金古連公、三島韓国連等祖。景行天皇皇子豊門別命、三島水間君祖」など見ゆるも此地なるべし。姓氏録、右京皇別三島真人、出自 諡舒明皇子、賀陽王也。〇三島菅いまだ苗なり時またばきずやなりなむ三島すげがさ、〔万葉集〕
 
島上《シマカミ・シマノカミ》郡 和名抄、島上郡、訓志未乃加美。〇島上は三島郡の東部なり上下の間自然の境界なし、和名抄、五郷に分る。〇島上の孔道は山城国山崎より芥川に通ず、芥川より二分して島下郡に入り一は大坂に達し一は伊丹西宮に向ふ、(西国街道)今鉄道は大坂線を通じ車駅を高槻(芥川)に置く。
 
水無瀬《ミナセ》 今|島本《シマモト》村大字|広瀬《ヒロセ》是なり、城州大山崎村と相接し世俗通じて山崎駅と称す。東は淀川を隔て、男山に対し、西北は山嶺を負ふ。日本後紀、延暦十六年、遊猟於|水生《ミナセ》野。又類聚国史、天長八年遊猟於水成野。東大寺要録(長徳四年註文)島上郡水成瀬荘。などあるは即此なり。水無瀬川は大沢山及び尺代《シヤクタイ》山より発し、屈曲広瀬に至り淀川に会す、長三里。
 浦触れてものはおもはじ水無瀬川ありても水はゆくとふ物を〔万葉集〕
 
水無瀬殿《ミナセドノ》址 山城名勝志云、卅八帖歌枕曰、皆瀬は津国風土記島上郡也、山背堺。寛乎菊合曰、名所一番、山崎皆瀬菊。又伊勢物語曰、昔惟喬の御子と申皇子あり、山崎のあなたにみなせといふ処に宮あり、年毎に桜の盛には其宮へなむおはしましける。〇本朝遯史云、惟喬親王、文徳天皇第一子、有以不得皇嗣、閑居于洛外山崎水無瀬宮吟詩詠歌以自遣、毎歳賞桜花一日遊河州交野之奈疑佐院以翫桜花在原業平従行賦倭歌、惟喬自交野到天河以設宴、業平記有常皆詠歌、既而惟喬弥厭俗塵、隠于小野時人号小野宮。
 君をわれ交野のさとにたのみおきていく夜みなせの渡しつらん、〔夫木集〕      憲盛
惟喬親王の宮址は今詳にし難きも、後鳥羽院の離宮は稍推知に足る、初めは淀川の浜に在り洪水流失の後之を西山の下に移す、今の水無瀬官幣社は蓋洪水流失の故宮址なるべしと云。〇増鏡云、後鳥羽院水無瀬といふ所にえもいはずおもしろき院造り、しば/\かよひおはしましつゝ、春秋の花紅葉につれても御心ゆく限り世をひびかして遊をのみぞし給ふ、所がらも遙々と川に臨める眺望いとおもしろくなん、元久の比詩に哥を合せられしにも、とりわきてこそは、 みわたせば山本かすむみなせ川夕は秋となにおもひけむ。
高野日記云、信実朝臣の水無瀬殿の四季の四巻詞書、同筆御製などの有るあたりは、御筆もくはへられたり、尾上殿滝殿田上のいなは殿河にのぞめる萱葺の渡殿釣殿、所々の岩木は色あひ水の心ばへそのをり/\の景色を書わけられし。百練抄云、建保五年正月十日、上皇御移徙水無瀬新御所、是本御所去年大風洪水之時顛倒、流失之間更点他所被造営也。〇古今著聞集云、鳥羽院御時、交野《カタノ》八郎と云強盗の張本ありけり、今津(不詳)に宿したるよし聞召て、北面の輩をつかはして搦め召されける、やがて御幸成て御船に召て御覧ぜられけり、彼奴は究竟のものにて、搦めて四方をまきて責むるにとかく違ひて如何にも搦められず、御船より上皇みづからかいを取らせ給ひて御おきてありけり、其時即搦められにけり、水無瀬殿へ参りたりけるに云々。
 春のいろをいく万代かみなせ川かすみの洞の苺のみどりに、〔建保百首〕       定家
 水なせやませきいれし滝の秋の月おもひはつるもなみだ落ちけり、〔壬二集〕     家隆
 
水無瀬宮《ミナセノミヤ》 広瀬の中央に在り、明治六年水無瀬離宮址に就き後鳥羽土御門順徳三皇の神霊を祭り、官幣中社に列す。初め三皇承久の変にあたり遠島に巡幸あり車駕終に回らず、明応三年特詔あり使を隠岐に遺し神霊を奉迎し御影堂に置く、後中納言藤原兼成卿をして祭事を掌らしめ、子孫世襲し此地に住し羽林家に列す。明治六年阿波佐渡の両処亦神霊の奉迎あり殿宇を造進せしめらる。〔名所図会地誌提要〕
 天皇恐み恐み掛畏き後鳥羽院の霊祠に奏賜へと奏さく云々、爰に元弘建武より以来、聖怨世に満て国を乱し給と記文有に依て、四海艾まらず一朝朴ならざる事、(565)偏に斯れに由ると、今所召有て、坐所の号を以て水無瀕神と申さむ、云々。
  明応三年八月廿三日 新文章博士章長草之
山城名勝志云、後鳥羽院御影堂は街道の東二町許に在り、頓阿法師高野日記曰、院は信実朝臣召して御影をかゝせさせ給ひて七条院へまゐらせられしそれにて、御影堂は立られし云々、是也。安貞二年古文書、七条院(後高倉天皇妃)伝領の事見ゆ。
 
桜井《サクラヰ》 今|島本《シマモト》村に属す広瀬の西南に接す。山城名勝志云、水無瀬を去る十五町許なり、明月記曰、承元二年十月十五日、武庫川渡て船に乗り了ぬ、漸く八幡御山に望む、桜井を過て山崎につき了ぬ、石清水歌合「此里は桜井ちかきみなせ山ほどはむかへの夕ぐれの雲」経光、家集「桜井の里にて春の花を見て秋は桂の月をながめむ」権中納言長方。〇太平記云、楠正成公兵庫へ下ける、嫡子正行が今年十一歳にて供したりけるを思ふ様ありとて、桜井の宿より河内へ還し遣はす。日本外史云、余数往来摂播間、訪所謂桜井駅者、得之山崎路、一小村耳、過者或不省其為駅址、蓋経足利織豊数氏、世故変移、道里駅程、随輙改耳。(太平記異本に桜井を神南辺に作る)
   過桜井駅址           頼山陽
 山崎西去駅井駅、伝是楠公訣子処、林際東指金剛山、堤掛依稀河内路、想見警報交奔馳、促駆羸羊獰虎、間耕拒奴織拒婢、国論顛倒君不悟、駅門立馬臨路岐、遺訓丁寧垂髫児、従騎粛聴皆含涙、児伏不去叱起之、西望兵庫賊氛悪、回頭幾度覩去旗、既殲全躬支傾覆、為君更貽一塊肉、剪屠空復膏賊鋒、頗似祁山与綿竹、脈々熱血灑国難、大澱東西野草緑、雄志難継空逝水、大鬼小鬼相望哭、
 なでしこにかゝるなみだや楠の露  芭蕉
桜井寺は今廃す。以呂波字類抄云、桜井寺、従街道西有旧跡、西有島上郡濃美郷、康和四年奉造、薬師如来、長治二年供養已訖。
待宵小侍従墓は桜井の西南なる山に在り、小侍従は男山八幡宮別当清光の女にて近衛院皇后に仕ふ、碑文は林羅山文集に見ゆ。〔山城名勝志名所図会〕
   桜井村看梅花、側有待宵小侍従墳       藤井竹外
 美人曾此葬氷肌、化作寒梅南北枝、一脈香魂誰喚返、春風竹外雪消時、
 
大原《オホハラ》 続日本紀云、和銅四年、始置都駅宰、接津国島上郡大原駅。大原今詳ならず、桜井の旧名にや、又芥川にや。
 
高浜《タカハマ》 島本村大字高浜は水無瀬の南十町余に在り、淀川に瀕せり。
 来て見れば、千世も経ぬべし高浜の松にむれ居る鶴の毛衣、〔続後撰集〕      太上天皇
 
上牧《カミマキ》 今|梶原《カヂハラ》村と相合し五領《ゴレウ》と改む、島本村の南に接す、安閑天皇の三島上御野は此なるべし。安閑紀云、天皇行幸於三島、使大伴大連問良田於県主、飯粒仍奉献上、上御野下御野上桑原下桑原并竹村之地。
 
鵜殿《ウドノ》 五領《ゴレウ》村大字鵜殿は上牧の南十町許に在り、東は淀川に臨む西に池塘あり。名所図会云、鵜殿の堤に生る蘆は篳篥の舌に可なりとて、昔より其名あり。〇土佐日記云、かくて船引上るに、なぎさの院(今北河内郡牧野村)といふ所を見つゝ行く、其院むかしを思ひやりて見ればおもしろかりける所なり、こよひ宇土野《ウドノ》と云所にとまる、明日さしのぼるに東のかたに山のよこほれるを見て人に問へば八幡《ヤハタ》の宮といふ。〔此宇土野即鵜殿なり地理合す〕
 
神内《カウナイ》 五領《ゴレウ》村大字神内は梶原の北に接す、櫻井の南十町。山城名勝志云、神南備、山崎より一里許西南なり、土人云森は神南備の南、街道の東の傍に古木二三株残れり、井蛙抄曰、神なぴの杜とよめるも大和なり、但古今に山崎より神南備の森までおくりにまかりてといへるは大和にてはあらじ、都の西の方にやとおぼゆ、太平記に、文和四年二月四日、義詮朝臣山崎の西神南の北なる峰に陣を取る、又神南桜井の山脇より馬煙東西になぴかして云々、共に此地なるべし。〇太平記、文和四年、将軍義詮七千余騎にて山崎の西神南の北なる峰に陣を取り給ふ、山名右衛門佐師氏神南の敵さまでの大勢ならずと見すかして、八幡に控へたる、南方の勢と一となりて先づ神南の宿に打寄り合戦あり、山名敗軍。
 
磐手《イハテ》 今|成合《ナリアヒ》安満《アマ》古曽部等を合せ磐手村と称す、安満明神は土俗磐手森と称す、古歌に詠じたる名所とぞ。勝地吐懐編云、岩手森は住吉にちかくて末社などにや、今尋るに知る人なし。(住吉にも磐手の地名あり)
   とき/”\物申ける人の住吉に詣でて、いはての森のもみぢこそまだしかりつれと云ひおこせて侍りける返事に、
 君にしも秋を知らせぬ津の国のいはての森をわが身ともがな、〔続古今集〕      馬内侍
日本逸史、天長九年、島上郡荒田并野地二百二十三町、寄安満勅旨為墾田。
 
金龍寺《キンリユウジ》 磐手村大字|成合《ナリアヒ》の東嶺に在り、大字安満の北廿町(坂路八町)天台律院なり。草創は延暦年中参議阿倍是雄にして初め安満寺と号したり、百余歳を経て千観内供中興して金龍寺と云ふ、邂逅池(玉坂池)あり、慶長年中宗俊法印豊臣氏の資助を獲(566)て重興す。〇元亨釈書云、千観初止三井、旁修浄土、園城之背、西峰巍峨、不便日観、乃速覓勝地至摂州、有山出金色雲、観思霊区、而卜居、今之金龍寺也、池有龍故名焉。(金龍寺縁起、載于醍醐枝葉抄)
 たまさかに見るだにさびし世のつねの雪の深山を思ひこそすれ、           千観
谷口山詩集云、摂之金龍寺、初称安満寺、娃暦中参議阿倍是雄所草創也、応和三年之春、千観内供、遙見瑞雲、便陟斯山、山高谷深、人跡幾希、西空冥々、日観可凝、南冥渺々、水想可澄、内供忻然、悦目愉心、山有小池有金色龍出現、因改名焉、遂就池側、締草廬而居、康保之年、其東造一宇堂、安普賢像、懺乎無始罪霜也、嘗製願偈、作四弘誓歌、源為憲窃読其偈、感激随喜之余、作詩句六十韻称讃之、云々。
 
古曽部《コソベ》 磐手村大字古曽部は安満の西に接す。古曽部は社戸の義にして、日本書紀「大化元年、中大兄使阿倍渠曽倍臣、攻古人皇子斬之、又天武紀に社戸《コソベ》ありて、釈紀は古曽部と訓せり。通証云、社訓古曽、乞字亦同訓、蓋神社則人之所為祈願、故訓社為古曽。旗野氏曰、コソの語に二義あり、一は指辞にして是其《コレソノ》の略也、一は乞《コス》にして転じては社《コソ》と為る、社人を乞部《コソベ》と云ふ事願人を称宜と呼ぶが如し。〇金龍寺開基を摂津志阿部是雄と為す、蓋渠曽倍氏なり。姓氏録云、左京皇別許曽倍朝臣、阿倍朝臣同祖、大彦命之後也。〇此地近代陶工あり、古曽部焼と名づく。
   津の国古曽部と云所にて読る
 我宿の木末のなつになる時は生駒のやまは見えずなりける、〔後拾遺集〕        能因法師
能因は俗名橘永凱 此地に住したるを以て世に古曽部入道と称す、能因塚存す、慶安三年高槻城主永井氏建碑す、林羅山の撰文なり。此地爽※[土+豈]に倚り高槻芥川を去る十町許、佳景の古村也、花井《ハナヰ》と云泉は古曽部の字|別所《ベッショ》に在り、美人山と詠ずるも此とす。
   花井、在城北三里、往昔井上有桜花、憎能因和歌賞之、事見于碑、   藤井竹外
 花并々荒花不開、残碑字滅半苺苔、一泓浄緑無人管、附与青蛙喚雨来、
   遊伊勢寺        僧元政
 適来伊勢寺、佳境絶凡塵、梅影知何水、桜花未改春、塔留奇石旧、碑刻好文新、一鑑清如月、至今照古人、
   次人見寄韻       藤井竹外
 終年謝客閉柴関、車馬絶蹤心自間、只是無朝無暮望、西方恰有美人山、
   澱上偶詠        森春濤
 別却桃花減却春、仙郎憔悴水之浜、扁舟欲繋相思夢、恰好山名是美人、
古曽部能因塚の上方に伊勢寺あり、才女伊勢(藤原継蔭女)の隠栖跡と称す。元和元年僧祖永中興し、慶安年中高槻城主永井氏其古墳を修め、碑を立て林羅山の撰文を刻す、元政上人寺記を述ぶ。
 
濃味天神《ノミノテンジン》社 古曽部の西嶺に在り、高槻村大字|上田部《カミタナベ》に属す。社辺を天神山と称し石 磴磴数町、大路を高槻古城の西に通ず凡十八町、天神馬場と称す。今高槻車駅は馬場の一端に当る、延喜式、島上郡野見神社是なり、蓋菅原氏の祖野見宿禰を祭る。〇天神社の西に霊松寺弘徳寺(曹洞禅宗)広智寺(黄檗禅宗)等あり、霊松は応永の比無月妙応禅師の開く所にして佳矚の浄刹なり、芥川氏の古墓あり。天神馬場《テンジンババ》は天正十年六月羽柴筑前守秀吉山崎会戦の時陣したる所也。当時秀吉は疾駆速戦して其功ををさめければ、神戸信孝(信長次子)之を疑ふ、秀吉弁解の征文新編会津風土記武家事記等に収めたり、曰く同十二日池田を同道いたし中川瀬兵衛高山右近令談合、山崎表へ馳上両人御さきに陣取、其次に天神之馬場迄我等者ども取続け陣取せ、大坂へ人を進上候間働可申といへ共、信孝様を柏待、富田に一夜陣取相かけ申條。次の十三日昼時分川を越せられ候間、筑前も懸御目候へば御落涙、筑前もほえ申候儀限無御座條。十三日の晩山崎に陣取(中略)明智め切崩、則夜落に山科の藪中へ明智め北入百姓に首をひろわれ候。筑前西国より不罷上候とも、終には信孝様明智め首刎させられべき御事案之内と可被思召候へ共、筑前早く毛利をも物の数にせず馳上、信孝様の御先懸致し信孝様天下のほまれ取らせられ候ば、筑前の覚悟にて、何様にもかはゆがらせらるべきと存候。
 
膿味《ヌミ》郷 和名抄、島上郡濃見郷。〇東大寺奴碑籍帳、(天平年中)「島上郡野身里戸主軽部弓張」など見ゆ、今高槻村野見天神あれば此地たる事明なり、磐手村|大冠《オホカムリ》村島本村五領村も之に属すべし。
 
高槻《タカツキ》 高槻村は近時まで永井氏三万六千石の城下なり、芥川を去る十町、富田を去る二十四町、廃藩後大に衰頽すと雖尚一千戸あり。鉄道車駅は西北天神馬場に在り、芥川村に接す。〇名所図会云、野身郷高月は初め近藤連の邑なり、之を高月殿と云、十二代の後入江左近の時没落す、後和田伊賀守惟政高山右近友祥之に居る。
 
高槻城《タカツキノシロ》址 高槻村|大冠《オホカムリ》村の間に在り、平夷に就き築城し南北七町東西五町、墾開の余土塁壕池の跡尚存す、本丸稍南に偏し、四方に数郭を分つ。本城は高山氏の興す所ならん、元和元年大坂陣の時東軍石川忠総高槻を守る、元和三年松平紀伊守家信に賜り、寛永十年岡部美濃守宣勝之に代る、同十七年松平若狭守康信更に之に代る。慶安二年永井日向守直清(567)入部し、爾後世襲して近年に至る、三萬六千石。
 
大冠《オホカムリ》 高槻の南、淀川に沿へる卑低地を大冠郷と称す、今大冠村と改む。大字|大塚《オホツカ》は河内の枚方駅と相対し、一水駅也。
   冬夜下澱江        藤井竹外
 布衾夢破鉄稜々、雁打寒更水欲氷、起掲疎篷月先没、暗風吹動夜船燈、
 
芥川《アクタカハ》 水名、又村名なり。芥川は水源丹波国南桑田郡|田能《タノ》村より出て南流す、長五里、大冠村の西に至り淀川に注ぐ。
 はつかにも君を三島の芥川あくとや人の音づれもせぬ、〔夫木集〕           伊勢
芥川村は高槻村の西北なる一駅なり、芥川其中を貫流す。延喜式、島上郡|阿久刀《アクト》神社在り、古事記、浮穴宮(安寧)段云「天皇娶河俣比売之兄県主破延之女、阿久斗比売、生御子大倭日子※[金+且]友命」(懿徳)とあり、此比売は阿久刀神と相関する所あるか。太平記云、細川卿律師定禅は讃岐国鷺田荘に旗を挙げ、建武三年正月四国中国の軍勢を駆催して播磨大蔵谷に着きたりけるに、赤松信濃守範資我国に下りて旗を挙げん為に京より逃げ下りけるに行き逢ひて、其勢都合二万三千余勢正月八日午の剋に芥河の宿に陣を取る、将軍高氏の大渡口の合戦をきゝて定禅は桜井の宿の東へ打出でければ、山崎の官軍防ぎ得ず、さらば淀鳥羽の辺へ引退きて大渡の勢と一になりて戦へとて、討ち残されたる官軍に三千余騎赤井を差して落ち行けば、新田左衛門督大渡を捨てゝ都へ帰り給ふ。〇芥川氏は貞和康安の比右馬允と云者あり、南軍に属す、子孫散じて備後駿河に徙る、永正中三好之長入道希雲其次子孫次郎長光を此に置き芥川氏を冒さしむ、其子孫十郎嗣ぐ天文中三好長慶に属す。〔名所図会史徴墨宝考証〕〇外史補云、天文十七年、摂津三宅某芥川某、送款於三好長慶。永禄元年、長慶囚細川晴元于芥川城、踰年卒。十一年織由信長入摂津、攻細川六郎三好長縁子芥川城、長縁等棄城走。又外史云、天正元年、信長令荒木村重、攻和田惟政于芥川、城榜常格曰、獲主将者予万金、村重将中川清秀熟視之、以墨勾之、観者無測其意、既而惟政晩出城、雑士卒修守備、清秀伏壕側、跳出斬其首、信長乃賞清秀以万金。〇芥川城は高槻城と異なるべし、名所図会に「芥川の山城垣内と呼ぶは城跡なり」と見ゆ、土岐山城守定吉は天正の末年に此に居りし者のごとし。
 
郡家《グウケ》 郡家は今芥川村に合併す、グウエと呼び芥川の西に在り。郡家と阿武野村大字氷室岡本の間に一大古墳あり西面す、墾破を経たりと雖古構猶弁すべし、東西三町許、其前面に陪冢あり。郡家は古の衙処にして此地は真上郷の中なるべし、古跡の由来詳ならず。
 
真上《マカミ》郷 和名抄、島上郡真上郷、訓末加美。〇今|清水《シミヅ》村大字真上存す、本郷は今芥川村及清水村大字真上阿武野村大字氷室岡本宮田塚原|土室《ハムロ》等なるべし、服部郷の地と相混するに似たり。真上|酒垂山《サカタレヤマ》墓〇清水村真上の東、光徳寺(芥川の北にして濃味天神の西)に文政年中古墳を発し石川年足の墓誌銘を獲たり、島上郡白髪郷と記す、白髪は延暦の詔旨に依り真髪即真上に改めたる也。〇墓誌銘云、(古京遺文)武内宿禰命子、宗我石川宿禰命十世孫、従三位行左大弁石川石足朝臣長子、御史大夫正三位兼行神祇伯年足朝臣当平成宮御宇天皇之世、天平宝字六年歳次壬寅、九月丙子朔乙巳、春秋七十有五薨于京宅、以十二月乙巳朔壬申、葬于摂津国島上郡白髪郷酒垂山墓、札也、儀形百代、冠蓋千年、夜台荒寂、松伯含□、嗚呼哀哉.〇狩谷臨之(掖斎)云、右墓志、文政三年正月、摂津国島上郡真上光徳寺村民徳右衛、鑿其宅後荒神山而獲之、按公卿補任、履仲天皇之時、執政臣有蘇子満智宿禰、蓋是石川宿禰之子、其子韓子其子高麗其子稲目其子馬子其子雄正子其子連子其子安麻呂其子石足其子年足故曰十世孫也、年足卿、官銜薨日与史合、平成宮即平城宮、又倭名類聚抄島上郡有真上郷、無白髪郷也、按続日本妃、延暦四年五月詔曰、臣子之礼必避君諱、比者先帝御名及朕之諱、公私触犯、猶不忍聞、自今以後、宜並改避、於是白髪部、為真壁部、山部為山、然則白髪郷之為真上、亦係延暦所改、是志在詔前二十四年、故猶不違也、酒垂山、当今|荒神山《クワウジンヤマ》。
補【真上郷】島上郡〇真上、末加美、摂陽群談、歴世不易十ヶ村中にありて、真上にありける石川年足卿墓誌、〔略〕
 
服部《ハトリ》郷 和名抄、島上郡服部郷、訓汲止利。〇今清水村大字服部存す、本郷は服部|原村《ハラムラ》奈佐原(今阿武野村)等にあたる。神服《カムハトリ》神社は清水村大字服部に在り、延喜式に列す、蓋服部連の祖神也。姓氏録云、摂津神別服部連、※[火+漢の旁]之速日命十二世孫、麻羅宿禰之後也、允恭天皇御世、任職郡司、総領諸国織部、因号服部連。〇名所大絵図、服部村に一本木塚安国寺塚等の荒墳を標す、又松永久秀の築けりと云ふ服部城址あり字を城山《ジヤウヤマ》と曰ふ。行嚢抄云、服部より十町許乾の方に旧塁あり、山城なり。
補【服部郷】島上郡〇〔和名抄郡郷考〕服部、波止利、摂陽群談、歴世不易とて挙たる十ヶ村中に在。神名式、神服神社。姓氏録、摂津神別服部連、※[火+漢の旁]之速日命十二世孫、麻羅宿禰之後也、允恭天皇御世任織部司、総領諸国織部、因号服部連。行嚢抄、服部村自路右にあり、此村より十町斗乾の方に旧塁あり、服部城といふ、山(568)城也、是は松永弾正久秀築之。
 
阿武野《アムノ》 服部の西を阿武野と云ふ、奈佐原《ナサハラ》荘とも曰ふ、北山に霊仙寺と云ふ古刹あり。〇皇典講演に欽明紀なる埴廬邑は今の土室《ハムロ》かと曰へり、土室は今阿武野の大字なり。奈佐原荘は若王寺文書養和元年のものに見ゆ。
 
原《ハラ》 今清水村と改む、服部の城山の陰にして一澗を成す。芥川之を通す、上方は即|神岑《カムノミネ》なり、今本山寺山と称す。〇姓氏録云、摂津国諸蕃原首、真神(真上)宿禰同祖福王之後也。
 原山のさヽやの床のかりぶしにとりの音聞ゆあけぬ此夜は、〔名寄〕         為家
安岡寺《ヤスヲカデラ》は北山|本山寺《ホンサンジ》に対し南山と称す、原村の北に在り、本朝無題詩に藤原茂明の詩あり、此寺の即事にや。
   夏日於摂州山寺即事
 時々此地有留連、尋到寺門思慨然、西繞芥河繊似帯、南欷柴島小於拳、当窓斜竹纔遮日、残砌短松不紀年、境隔塵喧人事少、素心寂静礼金仙。
 
本山寺《ホンサンジ》 原村の北方、山路三十町、天台宗、北山霊雲院と称す。寺背の峰は標高六百四十米突に及ぶ、東は神峰山《カブサン》に連接す、神峰寺と相去る二十町。〇相伝ふ役小角開基、本尊毘沙門天を安置す、天正中高山氏の兵火に罹り慶長年中豊臣氏再興を為し、元禄年中徳川氏桂昌院の修補あり。〔名所図会〕
 
神峰山《カブサン》寺 神峰山寺本山寺の南に在り、(原村の東岡)の天台宗、根本山宝塔院と称す山門毘沙門堂行者堂阿弥陀堂以下憎房数多あり、相伝ふ役小角開基、本尊毘沙門なり。按ずるに拾芥抄七高山の一を摂州神峰と云ふ、即是也。又三代実録に「貞観二年、僧三澄奏言、神峰寺在摂津国島下、奉為国家所建立也」とあるは忍頂寺の事にて相異也、慶長年中豊臣氏再造。惟ふに南山北山は共に当寺の別院なるべし、山中泉石林巒の奇勝あり。
   明暦丁邑之秋、登神峰山寺、老憎説縁起曰、此山也役行者之開基、開成皇子之中興、本尊者多間天、有滝名|九頭《クズ》、有松名影響、十三級之石塔、是収光仁帝王骨之処、乃皇子所建也、
 護世神峰山更微、役君旧栖掩雲扉、祗今願頼多聞力、記得老憎縁起帰、
 
津江《ツノエ》 今|五百住《イホスミ》村と相合し|如是《ニヨゼ》村と改む。如是川《ニヨゼイガハ》あり芥川の一支なり、高槻富田二邑の間に在り。津江は康正二年造内裡記に「六百五十文、妙法院御領、摂州津江荘段銭」と見ゆ。
 
富田《トンダ》 島上郡の大邑なり、近代は造酒家多かりしが、今は伊丹灘の下に在りて名声稍衰ふ。
 
本照寺《ホンセウジ》 真宗本願寺存如上人(蓮如の父)開基、正信房創建、近代は小浜|毫摂《ガウセフ》寺を此に併せ、当国本宗本派の法務を総べ、本願寺連枝之に住す。俗に上巻の御祖師と呼ぶ、蓮如上人教行信証を敷説せる旧跡とぞ、故に教行寺とも云ふ。寺域は塁壕を以て自ら固うし、庭中に富寿栄と称する偃臥松あり。〇細川両家記云、天文元年十二月、摂州上郡武士衆一味して富田道場此外所々焼失あり、同時に池田伊丹武士衆相談、下郡中道場残らず放火するなり、然ば一揆衆のありさま目もあてられぬ体共なり。
 
普門寺《フモンジ》 富田の西郊に在り、臨済禅の古院なり。説厳和尚開基す、戦国のころ廃頽、近世明暦のころ龍渓和尚再興す。〇細川両家記云、永禄四年五月、細川晴元入通有て一清と号し申候なり、摂州富田荘普門寺へ入被申候、則富田荘御料所被附馳走候て、めで度由候なり、同九年九月阿州公方様(義栄)越水城へ御出候なり、十二月に富田荘普門寺へ御座を被替候也。〇普門寺鎮守三輪明神は一境に在り、蓋三島鴨神社の別宮也。
 
慶瑞寺《ケイズヰジ》 富田に在り、応永年中僧松巌開基、当時景瑞庵と称す、明暦の比憎龍渓中興し臨済を改め黄檗と為す。〇祥雲山、本尊観世音は後水尾天皇の御念持仏寛文五年寄附、同帝及霊元院法皇の宸筆あり。中興龍渓は大宗正統禅師の勅号を賜ひ、明憎隠元帰化の時龍渓奏請して之を長崎より招き本寺を附属す、黄檗禅宗是より興隆す。〔名所図会〕
 
児屋《コヤ》郷 和名抄、島上郡児屋郷。〇今|富田《トンダ》村附近なるべし。名所図会|五位《ゴヰ》荘三島江とあり、五位は児屋の転訛なるべし。蓋今富田村三個牧村(大字三島江)溝咋村島宮村等なり。按ずるに中臣藤原の遠祖を天児屋根命と曰ふ此の児屋郷児屋根は地名人名相因む所あるべし、河辺郡には昆陽に作る。また児屋郷は三島郡の本拠にして、日本書紀「皇極天皇三年中臣鎌子、称病退居三島」とあるは此なり、今三個牧村大字三島江の名存し又島宮村大字島の名存す、溝咋村の左右に並ぶ。姓氏録に摂津国島首あり、天忍穂耳尊の後裔と為す。
補【島】〇今宮島村、野々宮、島村。姓氏録、摂津国未定雑姓、島首、正哉吾勝々速日天押穂耳尊之後者、不見。
 
三島鴨《ミシマカモ》神社 延喜式島下郡三島鴨神は今三島江(三個牧村)に在り、此辺は島上島下の交界なれば古今郡界の推移あり。神社志料云、蓋大山積神を祭る、初め仁徳天皇の御世此神百済国より渡来まして、津国御島に坐きと伊予風土記に見ゆ。〇按ずるに三島神は鴨と号すれば大和三輪の神等たるや明なり、伊予にも三島神ありしが為め風土記之を混(569)同するも従ふべからず、日本書紀(神代巻一書)云「事代主神、化為八尋熊鰐、通三島溝※[木+織の旁]姫」と即事代主の霊を祀りたる也、古事記には大物主に作る、二神同系にして同徳の神なれば今是非を分ち難しと雖、其大山積に非ることを証すべし。(溝咋神社参考)
補【三島鴨神社】〇神祇志料 今島上郡三島江村に在り(摂津志・摂陽群談)蓋大山積神を祭る(参取伊予風土記・諸神記)初仁徳天皇の御世此神百済国より渡来坐て、津国の三島に坐き、即此也(伊予風土記)光孝天皇元慶八年十二月丁未、正六位上三島神に従五位下を授く(三代実録)凡そ毎年九月二十日神幸の祭あり(式社考証)
 
三島江《ミシマエ》 今|三個牧《サンカマキ》村と改称す、淀川の西岸にして、富田村の東南三十町。此辺中世に御料の牧なりしと云ふ西は鳥飼の牧に連説す。
 三島江の入江のこもをかりにこそわれをば君は思ひたりけれ、〔万葉集〕
   みしま江となん申といふをきゝて
 思ひしるうみみしま江の水なればゆけどもゆかぬ心地こそすれ、〔公任脚集〕
   三島江所見         渡辺精所
 残柳疎籬傍野塘、鯉魚風裡一江長、秋波瀲※[さんずい+艶]平如席、無数軽帆帯夕陽、
 
玉川《タマガハ》 名所図会云、和歌六玉川の一所摂州なるは三島江の西|西面《サイメン》に古跡を存す、万葉集三島の玉江の遺号か。
 見渡せば波のしがらみかけてけり卯の花さける玉川の里、〔拾遺集〕
 三島江の玉江の薦をしめしよりおのがとぞ思ふいまだ刈らねど、〔万葉集〕
和田泊《ワダノトマリ》 土佐日記に「和田の泊のあかれの所」と録せる地は、水路鳥飼と渚院《ナギサノヰン》の間なれば三島江若くは枚方駅に当る如し、今其名を失ふ。〇土佐日記云、八日、猶川のほとりになづみて、鳥かひのみまきと云ほとりにとまる、九日、船を引つゝのぼれども川の水なければゐざりにのみゐざる、此あひだに和田のとまりのあかれの所と云所あり、米魚などこへばおこなひつ、かくて渚の院を見つゝゆく。(加藤磯足云、あかれの所は一本贖の所とあり、商所か、又別れの所かとも思はる)
 
筑紫《ツクシ》 淀川の古水駅なり、今其地を失ふ。書紀通証之を以て津江に充てたれど、津江は淀川堤の北三十町に在り水浜に非ず、津江に傍ひて芥《アクタ》川流れ三個牧村大字唐崎に至り淀川に会す。因て考ふるに唐崎旧名筑紫にあらずや、後撰集の雑の部に大江玉淵女の詞書に「女ともだちのもとにつくしよりさしぐしを心ざすとて」とあるを大和物語には烏飼院よりと為せり、鳥飼と云も相隣比す。姓氏録、摂津国諸蕃、漢、竺志史。陳思王植之後也。
補【筑紫津】三島郡〇日本書紀通証 催馬楽云、難波の海、難波の海、難波の海、漕ぎもてのぼる、をぶね大船、筑紫津までに、いますこしのぼれ、山崎までに。在島上郡津江村。
 
柱松《ハシラマツ》 平語に此地名あり又土仏と云もあり今三箇牧村の柱《ハシラ》本か〇長門本平家物語云、淀の渡、草津楠葉の渡、きんや片野山、心ぼそげにましける。去程に柱松と云所に着給ふ。此名は大和言葉にはあらずして仏説とも云つべし。其故は花秋中納言と申ける人他界せられしに、其子の少将悲み奉り盂蘭盆経の跡を聞伝え、七月中の五日の暮程に御墓に詣でつゝ、枯松に草の葉むすぴかけ火を灯して
 玉すがたしば/\我に見せ給へ昔語の心ならひに
と云つげて、火をかけられたり、誠に昔の風情に違はず故大納言現じて見え給ふ、是より此を柱松と名附け、初秋十四五日の暮、もしは被岸を待て、高きも草を結び霊に手向る灯火を柱松とぞ申ける。成親脚住吉詣どもの有し時、加様の所々を過しにも何とも思よらざりしが、今我身に歎のある時ぞ昔の思も知られけり。所々を過行ば、土仏と云所に着給ふ。是は吉野尾少将と申す人、無実の罪蒙り備後国篠尾と云所に配流せられければ、其所にありける仏師に仰せ土を以て仏を造り供養せらる、かゝりし功徳にや程なく無実はれて召返さる、其よりして此をば現仏の浦とも申、土仏の湊とも申ける、(以上実録無所見且其説甚渉怪誕)是と云彼と云、思ひつゞけて入江入江州崎州崎を行程に、長柄に至る。〇台記云、久安四年二月二十日、詣天王寺、於西海乗舟、自|一洲《イチノス》入、遊群来宿|加島《カシマ》辺、廿一日宿|柱本《ハシラモト》辺、今夜密召|江口《エグチ》遊女、於舟中通之、廿二日、返遺遊女、給米又有纏頭事、鶏鳴後着鴨河尻。
 
溝咋《ミゾクヒ》 今|三個牧《サンカマキ》村(三島江)の西に接し溝咋村立つ、旧の溝杭荘なり。延喜式、島下郡溝咋神社此に在り、大字を馬場と云ふ、富田村の南二十町蓋三島県主の祖を祭る。
溝咋神社〇古事記、白橿原宮(神武)段云、更求為大后之美人時、大久米命曰、此間有媛女、是謂神子、其所以謂神子者、三島湟咋之女、名勢夜陀多良比売、其容姿麗美、故美和之大物主、見感而其美人、為大便之時、化丹塗矢、自其為大便之溝、流下突其美人之富登、(此二字以音)爾其美人驚、而立走伊須須伎(此五字以音)乃将来其矢、置於床辺、忽成麗壮夫、即娶其美人、生子名謂富登多々羅伊須々伎比売命、亦名謂比売多多羅伊須気余理比売、故是以謂神御子也。〇旧事紀云、事(570)代主神、通三島溝杭女活玉依姫、生児天日方奇日方命、妹姫蹈鞴五十鈴姫命。
 
島下《シマノシモ》郡 和名抄、島下郡、訓(準上)。〇島下は三島郡の西部なり、和名抄四郷に分つ、其南方鳥飼吹田山田の辺は郷名を欠く、不審なり。〇鉄道線は今東南方を掠め茨木吹田に車駅を置く。古来の国道は其北太田(今三島村)郡山(今春日村)を過ぎ伊丹西宮に向ふ、即西国街道なり。
補【島下郡】〇続紀 神護景雲三年二月、摂津国島上郡人正六位上三島県主広調等賜姓宿禰。続後紀、承和六年八月、以摂津国島上郡荒田九段、賜明経碩儒従四位下善道朝臣真貞。三代実録、貞観二年九月、僧三澄奏言、神岑山寺在摂津国島下郡、奉為国家所建立也。古事記伝、雄略紀に島郡とみゆ、後に二郡に分れて島上島下といふなり、伊予国風土記、津国御島と書り、万葉七、三島江之玉江、又十一、三島江之入江などよめり。
 
烏飼《トリカヒ》 鳥飼は延喜馬寮式に摂津国烏養牧(左寮)とありて、淀川に沿へる牧野也。今は開きて田と為し鳥飼村|味生《アヂフ》村と曰ふ、三個牧の西南に接し安威川茨木川其西北を繞り洲を成す、長一里余横十余町。土佐日記に淀川を上る舟の鳥養の御牧のほとりに泊る事を録す、万葉集に取替川と詠じたるは即此に淀川を指す。大和物語に鳥飼院と曰ふは御牧に同じ、遊女などの居る事見ゆ、当時江口神崎に並べる水駅なりしならん、今味生村大字|一津屋《ヒトツヤ》あり、江口(西成郡)と相対し神崎川の分派路にあたる、此一津屋蓋古水駅なるべし。
 あらひぎぬ取替川のかはよどのよどまむ心おもひかねつも、〔万葉集〕
大和物語云、亭子のみかど(寛平宇多天皇)烏飼の院におはしましにけり、れいのごとおんあそぴあり、このわたりうかれめどもあまたまゐりてさぶらふ中に、声面白くよしあるものは侍りやととはせ給に、うかれめばらの申様、大江のたまふちといふものなむめづらしきまゐりて侍と申ければ、見せ給ふに、さまかたちもきよげなりければ、あはれがり給てうへにめしあげ給ひ仰せ給ふ云々、玉淵はみならうありて歌などよくよみき、この鳥飼といふ題をよくつかうまつりたらむに、まことの子とはおもほさむとおほせ給ひけり、うけ給はりて即ち
 浅みどりかひある春にあひぬれば霞ならねどたちのぼりけり、
とよむときに、帝のゝしり哀れがりて御しほたれ玉ふ。〇散木奇歌集云、熊野に詣けるに、よどにて船にのりてくだりけるに、とりかひといへる所にて舟のゐてくだらざりけるに、日くれにければ、
 おきへなき高瀬の舟をさしすゑてとりかひにても暮しつるかな、
〇按ずるに三島県主飯粒が安閑天皇に献じたる下御野は即ち鳥飼の御牧なるべし、今|藤森《フヂノモリ》と称する古社あり。
 
味生《アヂフ》 鳥飼村の西を今味生村と改む大字別府一津屋等あり、即古の鰺生野なるべし。続日本紀云「延暦四年、遣使堀摂津国神下梓江鯵生野、通于三国川」と此神下梓江と云者詳ならずと雖三国川は味生村の西南に淀川の分岐する者を指す、即神崎川なり。惟ふに神下梓江は安威川茨木川等なるべし、古は彼水直に淀川の本流に入りけるを、延暦中鯵生野の西に導き、今の如く支流三国川へ注ぐ事となれるか。
 
別府《ベツプ》 外史補云、天文十八年、三好長慶攻三好宗三於中島、宗三出榎並城、拒江口、長慶使安宅冬康、陣別府江口三宅之間、而急攻晴元三宅城、還攻江口、大破之、斬宗三。〇味生村別府は江口三宅の中間に在り、吹出の東二十余町にあたり、味舌《マシタ》村と相接す。日本戦史云、慶長十九年冬の役、東軍松平康重岡部長盛等山陰道の兵合計一千六百余を率ゐて摂津に入り康重別府(吹田の東北)に陣す、城兵吹田川の対岸に陣し弓銃を列して之に備ふ、康重の士都築某其営に放火し戌兵を撃退し遂に諸将士と共に北中島に至る。
吹田《スヰタ》 本郡西南の大邑なり、鉄道車駅あり。神崎川邑南を流れ安威川は東北より来り之に匯す。〇吹田村は醍醐雑事記に貞観七年吹田庄と載せ、園太暦には吹田御厨と記す、又近古此地は西園寺家の領荘なりし由諸書に見ゆ。
増鏡云、宝治の比、大おとどの津の国の吹田山庄にもいとしば/\おはしまさせて、様々御遊数を尽さる、川にのぞめる家なれば、秋ふかき月のさかりなどは殊にえんありて、門田の稲の風になぴく(中略)、
 川舟のさしていづくかわがならぬたびとは云はじ宿と定めむ。
百練抄云、建長三年九月、上皇(後嵯峨)御幸吹田殿、大宮院(母后)同御幸、七箇臼可被召湯山御湯云々。岡屋関白記云、建長三年閏九月、上皇臨幸大相国(実氏) 吹田別業、可被召寄有馬湯也。五代帝王物語云、前相国(公経)天王寺、吹田、槇の島、北山さしも然るべき勝地名所には山荘を造り営まれ、家の繁昌ならびなくぞ見えし云々。〇正平八年三月、官軍吉良石堂等神崎の辺に打出て、土岐頼康と吹田にたゝかふ、土岐謀をめぐらしける程に官軍終に打負て討るゝ者多かりし事、園太暦南山巡狩録に見ゆ。又細川両家記云、大永六年十二月細川澄元方牢人闕郡中島へ切入り、河をこし吹田に陣取、合戦やぶれ堺までこそ逃にけれ。(571)吹田一名高浜と曰ふ、鎮守を高浜神社と称す、円満寺観音堂は世に浜堂と呼び、円通院観音堂は高浜山と号す。本朝高僧伝云、釈能忍、号大日、乎景清叔父也、天生好禅、卒有悟処、建三宝寺、於摂州水田県、煽唱禅法、文治己酉夏、忍使弟子練中勝弁、齎書幣、入宋謁育王山拙庵光禅師、(中略)一夜景清訪来、刺殺忍而去。
補【吹田】〇南山巡狩録 正平八年三月官軍吉良石堂、摂津国神崎の辺に打て出、土岐頼康と吹田にたたかふ、土岐はかりごとをめぐらしける程に、官軍終に打負て討るゝ者多し(園太暦)細川両家記〔大永六年十二月〕京田舎の騒動なのめならず、然ば澄元方牢人欠郡中島へきり入なり、三宅須田あまり悦で河をこし、吹田に陣取、道永方伊丹衆、上郡衆談合して、同十一日に吹田に取懸合戦して伊丹衆打勝て、吹田十七歳児なるを初て首百余り討取、東西へ追ちらしければ、中島に陣取典厩衆も堺迄こそ逃にけれ。
 
佐井寺《サヰデラ》 今|千里《チサト》村の大字と為る、吹田の北二十余町に在り。此地に伊射奈岐神社あり、佐井寺は古へ其供憎なりしならん。名所図会云、一名山田寺、本尊観音、天平中憎行基草創し三代実録拾芥抄所載の旧刹なり、天正中兵火に罹り正保年中再興す、領主板倉周防侯撞鐘を寄進したり。〇千里山《チサトヤマ》は佐井寺の北に在り。山中桃花多し、一名河田山、往く者あり。伊射奈岐神社〇延喜式、島下郡伊奈岐神社、二座并大。三代実録、貞観元年授位、此二座中一座は千里村佐井寺に在り、即伊弉諾尊を祭ると云ふ、俚俗春日神社と為す。〔摂津志神祇志料〕
 
山田《ヤマダ》 山田村は千里の東北に接す、往時此二村同く山田郷なるべし、山田郷は和名抄に見えざれど東鑑「文治三年、摂津国山田荘、奉寄佐女牛若宮」とあるは此か.(八部郡にも山田あり)〇延喜式、伊射奈岐神社二座中の一座は山田村大字小川に在り、伊弉冊尊を祭ると云ふ、俚俗五社明神と為す。〇山田の東に蜂前《ハチサキ》寺金剛院と称する古刹あり、南面して真舌三宅岸部の諸村を下瞰す。
 
岸部《キシベ》 岸部村は吹田の東北にして真舌《マシタ》の西に接す、或は吉志部に作る。鎮守大神宮は村の北岡上に在り、此地は蓋難波吉師部の遺墟なり、吉師の本拠は住吉にして此地は其別邑なるべし。古事記伝云、忍熊王に仕へし将軍は「難波吉師部之祖、伊佐比宿禰」とありて吉志部氏姓氏録に見ゆ、又吉志舞と云ことあり、続日本紀十一に摂津職奏吉師部楽とあり、今島下郡に吉志部村あり、地名より出でたるかはた舞より出たる号にや。〇北山抄云、大嘗会午日祭、安倍氏秦吉志舞、五位以上引之、設床子等如前、作高麗乱声而進、舞者二十人楽人十人、安倍吉志大国三宅日下部難波等氏供奉。
 
味舌《マシタ》 此村は岸部三宅の間にして山田村の東北に接す、古村なるべけれど他に聞見なし、摂津志|味原《アヂフ》を以て味舌と混同したるは謬れり。宣胤記に「明応六年、殿下薨、所々渡領註之、味舌三宅岸部南郷(摂津)」とあるは此地なり、即摂※[竹/録]家の世襲領なりしを知る。
 
高生《タカフ》郷 和名抄、島上郡高上郷〇皇典講演云、和名抄高上は高生の誤なるべし、訓みて多加布と云べし、武蔵但馬に高生郷あり、安閑紀に三島竹林屯倉ありてタケフと傍訓す、刻本に竹林を竹村に作る、姓氏録、摂津神別竹原氏あり角凝魂命男甲佐布命之後と、今の三宅村は竹林屯倉の遺名ときこゆ。〇今按に上に引ける村岡氏の説発明と謂ふべし、蓋今の鳥飼味生味舌吹田など皆高生の郷域ならん。又再考するに三島分郡の時高生も分郷して高上高下と為し、其高上郷は島上に属し今の鳥飼などにやあらん、高下は其西南にて島下に編入したるか、和名抄に高下郷なきは遺脱と云はんか。
 
三宅《ミヤケ》 味舌の北、山田の東を三宅村と曰ふ、旧三宅荘と称す、大字蔵垣内に三所明神あり、蔵垣内《クラカイト》は古の屯倉の遺号なるべし。大字|宇野辺《ウノヘ》に延喜式島下郡|井於《ヰノヘ》神社あり、土俗又三所明神と称す、宇野辺は井於の訛なり。〇古事記、玉垣宮(垂仁)段云、天皇以三宅連等之祖、名多遅麻毛理、遺常世国。姓氏録云、摂津国諸蕃新羅三宅連、新羅国王之子天日桙命之後也、而或記以伊久米入彦命(垂仁帝)為祖(一本云滋野宿禰同祖田遅麻守之後也)。按ふに此地即三宅連の故里なり、日本書紀天武帝の時三宅連石床と云人あり、十三年、賜姓朝臣と載す。三宅城址は今詳ならず村西の高地に在りしか。天文十八年細川晴元三宅の郷士某に倚頼し此に拠り三好長慶の兵を拒ぎたり。穴太記云、三宅といふ者も細川右京兆晴元の被官たりしが、天文十八年敵に同意ありとて香西越後守元成を差向不日に攻おとし、則右京大夫入城しておはしけるが、佐々木弾正少弼定頼朝臣は舅なりしかば兼てより合力の志侍りて彼勢をぞ待れける。六月廿四日の朝霧のたえまより十河民部大輔一存は三宅の城へ押寄、大手の木戸逆茂木を引やぶり二の木戸迄ぞよせつけたる、城の内には僅百人たらぬ勢なりしかども流石名有る士共なりしかば鋒に血を濺て戦ひければ、十河は少し引退き人馬に息をぞつかせける。斯て一存申けるは此城の体を見るに今一攻せめばおちぬと見えたり、去りながら譜代の主君に腹切らせ奉らるも本意ならず、倡や人々江口の城に押寄宗三を打取長慶が宿意を奉ぜんとて、三百余騎は引返し四国の海賊(572)になれたる者一文字流を切て打渉り、向ふの岸に駈あがり具足の水をしたゝらしてぞ立にける。(三宅の南二十町に別府あり、別府の南十余町神崎川の浜に江口あり、別府今味生村と云)
 
沢良宜《サハラギ》 今|玉櫛《タマクシ》村と改称す、三宅村の東に接し茨木村の南なり。延喜式、島下郡佐和良義神社在り。
 
穂積《ホヅミ》郷 和名抄、島下郡穂積郷、訓保都美。〇今|春日《カスガ》村大字穂積存す、茨木村も本郷の属地なりしならん。穂積氏は姓氏録「神饒速日命五世孫、伊香色雄命之後也」とありて大和美濃に同名の郷あり。〇春日村大字郡郡山は相接比す古の島下郡家なり、此地は茨木村の西にあたり、郡神社茶臼塚馬塚等の古跡ある事、名所大絵図に見ゆ。
補【穂積郷】島下郡〇穂積、保津美、今按、此氏の人住りし地なるべし、美濃国本巣郡にくはしくいへり。摂陽群談、転所称古名村、穂積、島下郡に闕て今豊島郡にあり。行嚢抄、大坂より諸方城下道程、穂積六里。
 
茨木《イバラキ》 茨木村或は茨城に作る、本郡の都会なり、今郡衙を置き鉄道車駅たり。茨木川は二源あり佐保山《サホヤマ》(清溪村)勝尾山《カツヲサン》(豊川村)より出て福井村中河原に会し、茨木の西を過ぎ安威川に注ぐ長凡四里、一名|手鞍川《テクラガハ》と曰ふ。〇霊異記に島下郡舂米寺及味木里の名あり、味木はウマキと読み茨木は其訛にやあらん、舂米寺は詳ならず。曰く石川沙弥者、自度无名、其俗姓亦未詳、所以号名石川沙弥者、以其婦河内国石川郡人也、其雖仮容於沙門、而繋心於賊盗、或詐称造塔、乞斂人之財物、退与其婦買雑物而※[口+敢]之、或住摂津国島下郡舂米寺、斫燈塔柱、汚法誑人莫過斯甚、終到島下郡味木里、忽得病気云々。
 
茨木城《イバラカイノシロ》址 福富氏始て之を築き、細川三好の与党たり、永禄十一年織田氏の軍本国を詢へ中川瀬兵衛清秀に茨木を賜ふ。蜃長年中片桐市正且元茨木二万五千石を給せられ此に修治したりしが、大坂役の歳大和国龍田に移封せられ本城永く廃す。〇茨木神社あり、延喜式、島下郡、天石門別神是なりと云ふ。天石戸別神は神代巻に顕る、然れども旧事紀「景行天皇々子、豊門別命、三島水間君祖」と見ゆ、豊門別を称するにや。神祇志料は延喜式、山城葛野郡天津石門稚姫神社伴氏神社大酒神社相並び、此にも新屋《ニヒヤ》神三座中に伴酒着神あり次に石門神を載たるは極めて由縁ある事なるべしと論ぜり。
補【天石門別神社】〇神祇志料 天石門別神社、今茨木村にあり(摂津志・名所図会)蓋太王命の児天石戸別神亦名櫛磐窓神を祭る(古事記・古語拾遺)
 按、延喜式山城葛野郡天津石門稚姫神社、伴氏神社、大酒神社を並挙たるを、此の新屋神三座の内伴酒着神あり、次に此神社を載たるは極めて由縁ある事なるべし、姑附て考に備ふ。
 
新野《ニヒヤ》郷 和名抄、島下郡新野郷、訓爾比夜。〇今三島村福井村の地なるべし、延喜式新屋神社は三島村大字|西川原《ニシカハラ》に在り。
 
新屋《ニヒヤ》神社 延喜式、島下郡新屋坐天照御魂神社三座、並名神大。摂津志云、一座在於西河原(今三島村大字)一座在於福井村、一座在於宿久荘上河原(今豊川村大字)〇按ずるに天照御魂神は大和十市郡山城葛野郡にも之を祭る、一説饒速日尊供奉の一なる天日神命とも、又饒速日尊の別名なりとも云ふ。神祇志料は三座の二は伴馬立神伴酒着神なりと論じたり。新抄格勅符、大同元年新屋神々封一戸を充奉り、続日本後紀、嘉祥二年伴馬立天照神伴酒着神並に従五位を授け、三代実録 員観元年勲八等新屋天照御魂神に従四位下を授け、伴馬立神伴酒着神に正五位下を授けらる、蓋伴氏の祖神なるべし。
補【新屋神社】〇神祇志料 新屋坐天照御魂神社三座、今新屋郷福井村新屋神森にあり(摂津志・名所図会・大坂府式内神社考証)天照御魂神は蓋天照国照彦天火明命を祭る(斟酌新撰姓氏録・旧事本紀・延喜式)其二座は伴馬立天照神伴酒着神を祭る(日本後紀・三代実録)平城天皇大同元年新屋神に神封一戸を充奉り、(新抄格勅符)仁明天皇嘉祥二年十二月甲午、伴馬立天照神伴酒着神に従五位下を授け(続日本後紀)清和天皇貞観元年正月甲申、勲八等新屋天照御魂神に従四位下を賜ひ、五月辛未伴馬立天照神
 按、本書印本件馬立三字を新屋坐に作る、今大永本尾張家本に拠る
伴酒着神並に正五位下に叙され、五月庚申奉幣使を遺して雨を祈り(三代実録)醍醐天皇延喜の制、三座並に名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預り、天照御魂神は殊に相嘗察に預る(延喜式)
 
太田《オホタ》 今|三島《ミシマ》村と改む、継体天皇三島藍野陵此に在り。又字西河原|新屋《ニヒヤ》神社の東南一町許に便水《ヨルベ》と称する古跡あり。
 月影はさえにけらしな神がきやよるべの水につらゝゐるまで〔家集〕
     清輔
世人之を疣水《イボミヅ》と称し傍に疣桜あり稀代の大樹なり。〔名所図会〕按ずるに安閑天皇の時三島県主飯粒あり、疣の名は由縁なきにもあらず、又大和十市郡太田市に目原坐高御魂神あり、此地に新屋座天照御魂神あり、同神異祭ならん。
太田《オホタ》神社〇延喜式、島下郡太田神社。旧事紀云、景行天皇皇子豊門入彦命、太田別祖。皇子豊門別命、三島(573)水間君祖。姓氏録「摂津神別中臣太田連、天児屋根命十三世孫御身宿禰之後也」ともあり。太田神社は今太田山に在り、太田別の祖神なるべし。〇名所図会云、太田塞址あり、上古は石風呂在りしと云ふ、東鑑に見ゆる太田太郎の城地と為り、南朝正年中には太田頼基此に居る。(石風呂とは上古の石棺なるべし)
 
牟礼《ムレ》 今三島村|戸伏《トブセ》の旧名なるべし、太田の西茨木の東に在り。牟礼神社は延喜式に列す、古事記、玉垣宮(垂仁)段云「御子大中津日子命者、牟礼之別当祖也」と、此社今戸伏に存す。牟礼とは古言森もしくは村に同じ。
 
惣持寺《ソウヂジ》 今三島村に属す、茨木の東北十町許、真言宗西国札所第二十二番の巡拝場なり。本尊十一面菩薩、堂宇は高丘に倚り門垣石階を備ふ、寛平二年藤原山蔭創立し元亀中兵火に罹り、慶長八年豊臣氏再興す茨木城主片桐且元奉行せりと云ふ。。三国伝記に、陽成天皇御宇越前守藤原高房(淡海公五代孫)一寺建立未だ果さずして卒し、其一男中納言山蔭亡父の所願を果さんとて遣唐使大神御井に多くの黄金を附て千手観音の御衣木《ミソキ》を求めたる事見ゆ、蓋此寺の創立也。〇朝野群載、惣持寺鐘銘云、粤祖父越前守藤原朝臣、帰心於普門妙智、傾首於無礙大悲、而墜露※[さんずい+盍]然、閃電倏爾、納言尊考、軫先業之不遂、歎善因之未成、以黄金附入唐使大賀直井、買得白檀香木、造千手観音菩薩、曰惣持寺、於是第二男備前権介公利、鋳豊鐘一口、于時延喜十二年夏四月八日。
 
藍野《アヰノ》陵 継体天皇の御陵なり、今三島村大字太田に在り。延喜式に島上郡と為す、此地もと服部郷阿武野村の領域にや。〇延喜式云、三島藍野陵、磐余玉穂宮御宇継体天皇、在摂津国島上郡、兆城東西二町南北三町。扶桑略記云、三島藍野陵、高三丈方三町。〇名所図会云、陵の封境方六十間周に堀り上に石棺の発きたる者石片四個あり、元禄年中官命を以て当時農家散在の石を収拾せられたる也、土人池上陵と云ふ又小塚五あり。山陵志云、継体陵、太田村古塚此也、呼為茶臼山、以其頂有凹所名之也、然而象宮車、環之溝依旧、三島今割為上下二郡藍野陵乃在其交。名所図会云、太田村の上野に女九《メココノツ》宮と云者あり、形態天皇奉葬の時妃妾九人の殉死したるを祭ると云、其証不詳。
 
耳原《ミミハラ》 三島村大字耳壊は太田の西に接す、幣杜《ミテグラ》あり。延喜式島下郡幣久良神社是なり。耳原に幣塚又|糠《ヌカ》塚と号する古墳あり。
 
安威《アヰ》郷 和名抄、島下郡安威郷、訓阿井。〇今安威村石川村|見山《ミヤマ》村是なり。安威川は丹波桑田郡|別院《ベツヰン》村より発し、流るゝ事二里にして見山に至り南流、太田溝咋の諸村を経、西に折れ茨木川を併せ、吹田に至り神崎川に入る、凡七里。
補【安威郷】島下郡〇〔和名抄郡郷考〕安威、阿井。神名式、阿為神社。諸陵式、三島藍野陵、継体天皇。山陵志、三島今割為上下二郡、曰上島曰下島、藍野陵乃在安威山、安威川など有。摂陽群談、歴世不易十箇村中にあり。正録間記、安威城。〇島上島下は古の三島の地分て上下二郡となす。
 
藍原《アヰノハラ》 安威郷の南より三島村太田辺までの古名なり。日本書紀云「凡河内香賜、逃亡不在、雄略天皇、遣弓削連豊穂、普求国内県、遂於三島郡藍原、執而斬焉」と又三島の上桑原下桑原と云事安閑紀に見ゆ、今石河村大字|桑原《クハハラ》ありて其南を安威村と為す、蓋上桑原は石河村に擬すべく、下桑原は藍原即安威村にあつべし。
阿為神社は延喜式に列す、今安威村に在り、苗森《ナヘモリ》明神と云ふ。蓋中臣藍連の祖雷大臣命を祭る。姓氏録談峰縁起を参考すべし。〔摂津志神祇志科〕姓氏録云、中臣藍連、同大江臣之後也、児屋根命十一世孫雷大臣命、十二せ孫大江臣也。
 
阿威山《アヰヤマ》墓 藤原鎌足の旧墳なり。方三町許一堆の丘なり、上に石窟あらはる、土人将軍塚と呼ぶ。藍野陵の西北十五町に在り。摂津志云、藤原氏荒墓、在摂津国島下郡安或村、公易簀之日、遺言薄葬、及※[病垂+(夾/土)]此地、公庶子釈定慧者、白雉四年、随遣唐使等浮海而入長安、不遭其喪、帰朝之日、改葬大和国十市郡談峰。
 
桑原《クハハラ》 今石河村と改む、安威村の北に接す。日本書紀に三島県主飯粒、上桑原下桑原等之地を安閑天皇に献納したる事見ゆ。
補【桑原】〇安閑紀、行幸於三島云々、県主飯粒慶悦無限、謹敬尽誠、仍奉献上御野、下御野、上桑原、下桑原、并竹村(通証、竹生之訛)之地。。五領村大字上牧、鳥飼村、石河村(上)安威村。
 
大門寺《ダイモンジ》 石河村大門寺は旧名|青龍《シヤウリユウ》寺と云ひ、本尊観世音真言宗を奉ず、文禄四年豊臣秀次の侍臣木村常陸介重茲此に入り自殺す、其墓存す。
   与諸友遊拝州青龍寺    藤原敦光
 晨興尋古寺、々静正端居、雁叫秋雲外、鐘鳴暮雨初、逢僧談妙理、礼仏慕真如、風渡菊籬馥、月明林逕疎、窮通心底識、名利夢中虚、信宿催帰駕、来遊是只且、 〔本朝無題詩集〕
 
忍頂寺《ニンチヤウジ》 見山《ミヤマ》村に在り、真言宗、本尊観世音を奉ず。勝尾寺開成皇子の創建と称し、寿命院と号す、往時は大伽藍なりしも今は衰微を極む。三代実録、貞観二年、伝燈満位憎三澄奏言、神岑山寺、在摂津国島下郡、三澄奉為国寮所建立也、春演説最賭王経、秋吼(574)講法華妙典、請為御願真言一院、賜名忍頂寺、詔許之。史学雑誌云、金綱集裏書、元弘二年十二月十六日の状に「九月より京中以外騒動候、阿か河に朝敵充満し山崎迄せめいり條間、宇都宮赤松入道賜打手、早速追返候了、仍仁定寺に構城郭引籠候を、昨日(十五日)打落頸共数被持参候、是大塔宮御所為と申也云々、」此状中の阿か河とは蓋阿くたならん、而して阿の字は次の行の頭にあり、仁定寺も地理を案ずるに芥川より西北凡二里を距てたる島下郡の忍頂寺也。〇太平記、康安元年足利氏は佐々木治部少輔高秀を摂津国へ差し下さる、当国は親父道誉が管領の国なれば国中の勢を相催して五百余騎忍常寺を陣に取る、官軍中島を打ち越えて都を差して攻め上る。忍常寺の麓を打通るに機を呑れて臆してやありけん矢の一をも射懸ずをめ/\とこそ通しけれ、さては山崎にてぞ一軍あらんずらんと思ふ処に、今川伊予守も叶はじとや思ひけん、一戦も戦はで鳥羽の秋山へ引き退く云々。按ずるに忍常寺は忍頂寺に同じかるべし、然れども中島より山崎へ通ずる要路に当らず、全く山間に僻在す、太平記の所説誤れるに似たり。
宿久《スクク・スツク》郷 和名抄、島下郡宿人郷。〇和名抄宿人は宿久の誤なり、延喜式須久久神社ありて後世宿河原宿久荘の名存す、今豊川村(大字宿久荘)清溪村(大字泉原)福井村等にあたる。〇続日本紀、和銅四年、遷都平城、始置駅亭、摂津国島下郡|殖村《スクムラ》。この殖は宿久に同じかるべし、其駅址は今春日村大字郡山などにや、国道旧に依り之を通ず。名所図会云、徒然草に見ゆる宿河原《スクガハラ》のホロホロ塚は郡山の竹林の中に在りと。
神祇志料云、須久久神社二座、今宿久荘鳥羽の須久山に在り春日神を祭る。右大臣大中臣朝臣清麿仕を罷て寿久邪に居りし時、寿久《スク》山に遷して氏人と共に寿久山神社と崇奉る即是也、神宮雑例集天平十二年此神を遷祭ると云り、然れども清麿致仕延暦初年に在り其天平と云者恐らくは誤れり、又按、天平中浦麿故有て此に籠居りし事あるか、今得て考ふべからず。
補【須久久神社】〇神祇志料 須久久神社二座、今宿久荘鳥羽邑須久山に在り(摂津志・摂陽群談・名所図会・式社考証)春日神を祭る、右大臣大中臣朝臣清麻呂仕を罷て寿久郷に居りし時、寿久山に遷して氏人等と共に寿久山神社と崇奉る、即是也(神宮雑例集・色葉字類鈔)
 按、雑例集天平十二年四月五日、此神を遷祭ると云り、然れども清麻呂致仕延暦初年にあり、其天平と云者、恐らくは誤れり、又按、天平中清麻呂故有て摂津に籠居りし事あるか、今得て考ふべからず、附て考に備ふ
凡そ九月九日祭を行ふ(式内社考証)。
〇宿人、摂陽群談、歴世不易村とて十箇村挙たる中にありて、人を久に作り宿《シユク》人とよみたり。今按、神宮雑例集聖武天皇天平十二年庚辰四月五日、春日御社奉遷寿久山御社、是右大臣大中臣清麻呂卿致仕、籠居摂津島下郡寿久郷之間、住家近所奉崇也。徒然草に宿河原という所にて。吟和抄に宿河原摂津国にあり、これらに依れば、人は久の誤か。
 
福井《フクヰ》 茨木川の上遊に居り一大村なり。新屋神社三座の一なる式内祠あり、又真龍寺あり、福井の北を今|清溪《キヨタニ》村と称す、泉原《イツハラ》山あり。
 
宿河原《スクガハラ》 今福井村中河原(豊川村宿久荘の東南に接す)蓋是なり、西国街道之を経由す。徒然草云、宿河原と云所にてぼろ/\(今の薦憎なり)おほく集て九品の念仏を申けるに、外より人来るぼろぼろの若し此中にいろをし坊と申法師やおはしますやと尋ければ、其中よりいろをし此に候、かくの玉ふは誰ぞと答ればしら梵字と申者也、己が師何某と申人東国にていろをしと申ぼろに殺されけりと承りしかば、其人にあひ奉て恨申さばやと思ひて尋申なりと云、いろをしゆゝしくも尋ねおはしたり、さる事侍りき、爰にて対面し奉らば道場をけがし侍るべし、前の河原へ参り合はん、あなかしこ脇差太刀いづかたをもみつぎ玉ふな、あまたの煩にならば仏事の妨に侍るべしと云定めて、二人河原へ出あひて心行ばかりに貫きあひて共に死にけり、ぼろ/\と云者昔はなかりけるにや、近き世にぼろんじ梵字漢字など云ける者其始なりけるとかや、世を捨たるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍を事とす、放逸無慚の有様なれども死を軽くしてなづまざるかたの潔く覚て、人の語りしまゝ書附侍る也。〇今春日村大字郡山にホロホロ塚あり、郡山は中河原の南に接す、茨木川の磧地なりと知るべし。
 
勝尾《カツヲ・カトノヲ(カチヲ)》寺《デラ》 豊川村大字|粟生《アハフ》勝尾山に在り、応頂山菩提院と称す。旧名弥勒寺、神亀四年僧善仲善算開基、開成皇子興立なり。大日本史云、光仁天皇々子憎開成、天平神護元年、潜登摂津勝尾山為憎、住桂洞、師事憎善算、後伐桂樹、構草堂、帝施摂津豊島郡稲一千束、以充経費、命曰弥勒寺、宝亀六年給島下郡水田六十町、天応元年卒、延暦元年勅、為開成修法華八講、著為恒例、清和帝嘗幸寺、改賜額勝尾寺。〇名所図会云、勝尾寺は真言宗、坊舎二十有三、本尊十一面観音、西国巡礼第二十三番の札所なり、一鳥居は粟生新家の路傍に在り、之より登山三十六町にして楼門に達す、観音堂開山堂般若台弥陀堂等あり。元亨釈書云、善仲善算、摂津刺史藤致房之双児也、九歳師事天王寺栄堪、十七剃髪、神亀四年逃入山、縛草(575)庵、宴居清修、今勝尾山也、神護景雲二年、仲乗草座、忽飛去、後三年算冲天而西。又云開成、光仁帝子、桓武之兄也、劫敏頴而志仏乗、上甚鍾愛、天平神護元年、潜出宮入勝尾山、畳石為塔、禅宴其側、仲算二師、経行山中、適見問曰、深山孤※[門/貝]、何為居此、皇子告志、二人延帰庵所、即日就剃受戒、一日二師避席、揖成譲庵而去之、初二師発願写経之日、雷落地、今最勝峰是也、二師乃種楮於此、已而紙成、二師授紙、託成而去、成写大般若経、欲得浄金水祈之、八幡大神金錠以為墨、諏訪南宮神取水充器、乃棲桂窟写経、六年而功畢、就雷堕之地、建道場、号弥勒寺、光仁帝捨官租、建如法堂、移桂窟之居、大桂腹朽、自然如洞、窟在山中、天応元年成寂、成平時自刻薬師像奉事焉、趨化時其像涙滴至花座、今猶在。又云、勝尾寺講堂、観自在條者、宝亀八年堂成、九年日州沙門興日、贈八尺白檀杏木、而末有良工、十一年比丘妙観者来曰、我能刻像得否、座主開成許諾、三日後僧俗童輩、惣十八人、伴観来彫像、千臂千目荘麗端厳、又加四天王像凡五尊、三十日而成、八月十八曰也、時人曰十八霊応之数、不虚設也、国俗以十八日為観自在日、正暦元年宋商二人来、一台州人周文徳、一務州人楊仁紹、二商曰、百済国后妃、未邁壮齢、其髪早白、一夕后夢、日本国勝尾寺千手大悲、霊感無比、汝其祈之、以是寄我等二人、以閼伽器金鼓金鐘等什物、遙献勝尾寺、太宰府使者、送到本寺云。〇又云、行巡為勝尾寺第六座主、貞観中帝不予、勅巡献法衣一領念珠一串、帝作礼病乃愈、上大悦、捨荘田氷為寺産、初此寺名弥勒、巡不応詔赴京、而承帝眷、以匹夫勝天子、故勅改賜額勝尾寺(山麓云尾)後帝避位、幸勝尾寺、而巡已帰寂。〇按ずるに楓桂の古訓共にカツラと云ひ、又カトと云ふ山城葛野郡の原名に参照すべし、勝尾《カツヲ》も旧名|勝之尾《カトノヲ》にして桂山の謂なるのみ、元亨釈書桂洞に作るは其一証なり、而てまた勝天子の説あるは附会の妄語のみ.此寺近代衰へたりと雖箕面山の東に接し、観楓の客時に之を過ぐるあり、又光明天皇の御陵あり。
   勝尾山中書所見        失名
 爛々数珠楓、界破方杉翠、高下多僧房、総曰勝尾寺、十房九無僧、華堂燕塁墜、山門売※[米+羔]媼、迎客説近事、無上三宝教、今已属澆季、招提清浄地、幾谷鴛鴦戯、熊羆舌夢真、獅象法儀偽、雌風勅天※[門/昏]、倏忽雷霆至、行雲帰福堂、現世現阿鼻、唯遺並蒂蒂蓮、夕陽照※[焦+頁]※[卒+頁]、
補【勝尾寺】〇伊呂波字類抄 在摂津国□□郡、孝謙天皇御宇左衛門府生時原佐道之子証如聖人、於十六歳登勝尾山寺、依付証道上人習学顕密正教、根性叡敏、通□甚深妙義、尋寂寞之地、結構草庵、村行上品上生業、貞観九年八月十九日往生云々。
 
勝尾寺《カツヲデラ》陵 名所図会云、光明院御塔勝尾寺の東谷に在り、康暦二年本寺草庵に於て崩御遺勅によりて此に蔵む、元禄己卯命に因り墻を造る。〇南山巡狩録云、光明院は世をうしとや思召たりけむ、仏門に御志ふかく、ある時は躬勝尾寺に光明院をいとなませ給ひて住せ給ひ、またある時は保安寺にも入御し給へりき。享保の頃紹運録によりて光明院の御草庵の跡を勝尾寺にいたりて尋ね、石塔を得たり、其銘に光明院と刻たりけるよし松下見林が前王廟陵記に見えたり。
 
     豊能郡
 
豐能《トヨノ》郡 明治二十九年|豊島《テシマ》能勢の二郡を合併して豊能の号を立つ、近時合名立号の時に往々此種の方按を取ると雖、義理に合はず。〇豊島《テシマ》能勢は猪名《ヰナ》川の東方にして、三島郡の西に接し北は丹波に至り南は三国川に至る、本河辺郡と一境の地なりしが、後世相分置すと雖猶同一の形勢あり、謂はゆる猪名野なり。然るに近時河辺を兵庫県に属せしめ、豊能を大坂府に属せしむるは当然の立界に非ず。本郡面積凡十二万里人口四万七千、池田町外廿二村に分れ、郡衙を池田に置く。池田は猪名川に瀕し郡の中央を占む、其北山中の地は能勢にして野間(今東郷村)を大邑とし、其南低平の部は豊島にして岡町(今豊中村)を大邑とす。西国街道は池田の少南を適ぐ、古は草野駅瀬川駅あり、後世之を欠く。
 
能勢《ノセ》郡 明治二十九年廃して豊島郡に併せ、豊能郡と改む。猪名川の東支源にして、豊島郡の北に接し、山間幽僻の境なれば、俚俗伝へて平家の余裔と称する者在り。和名抄、※[帝+鳥]※[肩+鳥]、※[徭の旁+鳥]属也、乃世。和名抄、能勢郡、訓乃世とありて三郷に分つ、古は河辺郡に属し、玖佐《クササ》村と曰ふ。大玉元年分置せらる。続紀、和鋼六年、摂津職言、河辺郡玖佐々村、山川遠隔道路嶮難、由是大宝元年始建館舎、雑務公文一准郡例、因請置郡司、許之、今能勢郡是也。
補【能勢郡】〇足利時代諸家紋帳、摂津之能勢とて十二目結の紋を載たるあり、此郡に在し家なるべし。
 
枳根《キネ》郷 和名抄、能勢都枳根郷、訓木子。〇今枳根荘村是なり、大字今西に延喜式|岐尼《キネ》神社あり。本郷は能勢郡の北限にして丹波国に通ずる径路あり。
 
(576)神山《カミヤマ》 枳根荘村大字神山に三草《ミクサ》山あり、昔清山寺と称する精舎あり、元亀年中回禄し今山下に移す、三草山一名美奴売山と曰ふ。釈紀、引風土記云、美奴売者神名也、其神本居能勢郡美奴売山〔摂津志名所図会〕
 
今西《イマニシ》 名所図会云、今西の生土神岐尼宮は今二座と為す、春日明神多田権現なり、後者は源満仲の家士此に居住したるより崇めたる者なるべし、天文年中国侍塩川伯耆守と能勢小重郎合戦の時社殿焼亡し、其後太田和泉守再興せり、神官二家供僧一坊あり。
 おのづから神の心にならはしのきねの宮居の月ぞさやけき、〔歌枕名寄〕
 
西郷《サイガウ》 是は和名抄能勢郷の西郷なるべし、大字宿野大里等あり、即古の来狭々村也。
 
来狭々《クササ》 日本書紀、雄略天皇、詔土師連等、使進応盛朝夕御膳清器者、於是土師連祖吾笥、仍進津国来狭々村、名曰贄土師部。〇来狭々は宿野の旧名にして、今に至るも土※[怨の心が皿]を名産とす。延喜式久佐々神社あり、土人|草々《クサヤマ》明神と呼べり、一花草《イツケサウ》と称する者神籬に茂生す、小草茶を長ずる二寸許冬花を開く梅に似たり夏は葉脱す。
 
下樋《シタヒ》山 西郷村大字大里の西北に在り、今|剣尾《ケンビ》山と称す。万葉集に「まそかゞみたゞ目に見ねば下檜《シタヒ》山した行く水の上に出でず」の句あり此地の古事なるべし。〔摂津志〕摂津風土記云、昔有大神曰天津鰐、化為鷲、而下止此山、十人往者、五人去、五人留有久波乎者、来此山伏下樋、而届於神許、従此樋内通而祷祭、由是曰下樋山。
 
田尻《タジリ》 田尻村は西郷東郷の間に在り。大日本史氏族志云、源国直子国基、領摂津能勢郡、称能勢氏、四世孫頼仲為田尻荘地頭、其後称田尻氏。〔浅羽本能勢系図及古文書〕
能勢文書は、寛喜三年将軍頼経の判物にて「能勢郡内田尻庄源頼仲親父頼定朝臣譲状に任せ地頭職たるべし」と云ふを初とし数通あり、弘安七年将箪家政所下文に「頼仲法師跡、能勢郡田尻野間両村、阿波国篠原庄地頭職」とあり、康永四年足利直義の判物には能勢判官頼連父頼任譲状にまかせと記す。又応仁元年七月能勢源左衛門尉同弥次郎近衛油小路合戦に討死の感状は細川勝元の書なり、天文中細川家の感状最多し。
 
倉垣《クラガキ》 今|歌垣《ウタガキ》村と改む、田尻村の北に接す、摂津風土記雄伴郡に歌垣山あれど、此に非ず。
 くらがきの里に波よる秋の田はとしなかひこの稲にぞ有ける、〔夫木集〕        匡房
 
能勢《ノセ》郷 和名抄、能勢郡能勢郷。〇今東郷西郷歌垣田尻の諸村なるべし、能勢田尻は摂津源氏の一党なり。名所図会云、能勢氏の故跡諸処に在り、地黄《チワウ》(今東郷村)に累代の館址あり、清普寺と云日蓮宗の道場は歴世の菩提所にして、能勢頼幸の古墓石存す、野間の妙見山は能勢蔵人の要害なり、元和の初めには能勢摂津守頼次あり、頼次は地黄の真如寺(日蓮宗)を祈願所と為したりと云ふ。〇能勢氏は足利時代諸家紋帳に十二目結の紋を録す。戦国の乱に敗亡したる也、始末詳ならず。
 
野間《ノマ》 今東郷村と改む、延喜式野間神社は大字|地黄《チワウ》に在り、此地能勢郡の首邑と為す。〇醍醐雑抄云、建武三年九月院宣、摂津国野間田平駄足寺辺田地、并屋敷、醍醐寺報恩院知行。又東寺文書、応永廿九年、摂津国野間荘。
文化中、野間郷|出野《シユツノ》村辻某の家より建保五年藤原経房と云ふ人の録せる古書発見す、即安徳帝西海の波に隠れさせ玉はず、実は経房供奉して潜に此山中に置き奉りしに、文治三年出野にて崩御ありしと云ふ始末を載す。是書は贋作ならんと判断せらるれど、一顧の直なきに非ず。
 
妙見山《メウケンヤナ》 東郷村の南に在り、山頂に妙見堂あり能勢妙見と称し、土人群詣す、吉川村の東北に方り、地方の望標なり。
 
雄村《ヲムラ》郷 和名抄、能勢郡雄村郷、訓乎無良。〇今其地を失ふ、蓋吉川村及び河辺郡東谷村中谷村等にあたる。
 
吉川《ヨシカハ》 東郷村の南に在り、河辺郡東谷村と地域相錯る、吉川の山中に銅鉱の廃坑多し、保原山花折山川西山等は尚現行す、鉱中に銀万分之四以上の量を含めど、今其産額乏しと云ふ、薬師寺あり七宝山万代寺と号す。此地の銅鉱は日本紀略に、「長暦元年八月、奉幣七社、奉献摂津国貢鋼上分、又長久二年、摂津国始献紺青」などあるに当るか。帝王編年記には「長暦元年、能勢郡初献銅」と録すれば多田鉱山より旧き者のごとし。
補【吉川銅山】能勢郡〇山中に銅鉱の旧坑多し、保原山、花折山、川西山などは尚現行す、銀を含有す、万分之四以上の富鉱あれど産量乏し。
。七宝山万代寺 吉川村の山中に在り、薬師堂なり。
 
東能勢《ヒガシノセ》 東郷村の東南を東能勢村と曰ふ、久安寺川《キウアンジガハ》の源なり、三島郡に接す、摂津志延喜式島下郡走落神社を東能勢村大字切畠の走湯天王宮に擬したり、然らば此地古は三島郡の城内にやならん、大字|余野《ヨノ》を首邑とす。
名所図会云、木代(今東能勢)善福寺古刹なり、本村より朝家へ毎年玄猪餅を献進しけるに、善福寺之を支配す、相伝ふ弘安六年本村男山八幡宮神領と為り、正(577)応三年供御田と為り康安応永両度の口宣案を保存す、天正年中兵乱の為め供御中絶しけるが、文禄二年より先規を復し亥月亥日の供御を進め奉る、此玄猪餅一に能勢餅と曰ふ。
 
豊島《テシマ》郡 明治二十九年廃して能勢郡に併せ豊能郡と改む。東は三島郡に接し、南は三国川を以て西成郡と相堺し、西は河辺郡と地域相錯る、猪名川の東岸也。
和名抄、豊島郡、訓手島、七郷に分つ、桑津郷は後世河辺郡へ入る。古は手島連あり、古事記、白橿原宮(神武)段云、日子八井命者、茨田連手島連之祖。姓氏録云、摂津皇別、豊島連、多朝臣同祖彦八井耳命之後也と、又霊異記には禅師永興摂津国手島郡人也と、又大同類聚方に切国|手染《テシマ》郡など見ゆ、此豊を止与と訓める例なし。
補【豊島】〇大日本史 大和源氏、頼治称宇野氏、其子親弘徙居摂津豊島、称豊島氏、生親治、称宇野七郎、保元中、以従崇徳上皇獲罪云々。
 
止止呂美《トドロミ》 久安寺川に添へる村にて東能勢村の西南に接す、塩川隠岐入道の故塞と云ふ者あり、塩川氏は中世の邑主にて天正中亡ぶ。〇按に止止呂美は迹驚又は轟など云地名と同じく涌泉のある所の称なり、塩川《シホカハ》の涌泉は延暦八年職判の住吉大社宮司解状城辺山の縁起に見ゆ、城辺山《キノヘヤマ》は今の止止呂美細川二村なるべし、其塩川と云ふは即久安寺川の古名とす、意保呂野《オホロノ》、長尾山等今存否を知らず、田々は即多田に同じ。
 豊島郡|城辺山《キノヘヤマ》
   四至 限東能勢国公田 限南我孫并公田 限西為奈河公田 限北河辺郡公田
右杣山河、元昔|橿日宮《カシヒノミヤ》御宇皇后、所奉寄供神所杣山河也、元偽賊土蛛、造作斯山上城塹居住、略盗人民、軍大神悉令誅伏、吾杣地領掌賜、山南在広大野、号意保呂野、山北別在長尾山、山岑長遠、号長尾、山中有澗水、名塩川、河中涌出塩泉也、豊島郡与能勢国中間在斯山号城辺山由、因土蛛城塹界在、山中在直道、天皇行幸丹波国還上道也、頗在郊原、百姓開耕、号田々邑。
 
久安寺《キウアンジ》 細川《ホソカハ》村大字伏尾に在り、大沢山家養院と号す、真言宗、観音を本尊とす、寺伝行基の開基にして、治安年中仏工定朝更造して旧像を胸中に納む、近衛天皇久安元年重興し久安寺の号を賜ふ、寺職賢実上人は天皇降誕の時加持の功力ありしを以て也、寺中に小鶴《コツル》の庭あり、名木寄石多し。〔名所図会〕
 
細郷《ホソガウ》 今細川村と復称す、伏尾以下六個大字に分る。池田町の北に接し多田院村(河辺郡)の東に居る、久安寺川東能勢村より発源し本村大字木部に至り猪名川に会す、伏尾の久安寺及び吉田の湯松庵は並に景勝の地を占め、地方の名藍なり。〇産業事蹟云、細郷植木、又池田植木と云ふ、其業天文の頃より起る、大阪の市府勃興するに及び庭園樹苗の需求多く加り園芸の術愈進む。細郷谷近傍の山中に一種細末の砂あり、此砂にて種に嫩芽挿条すれば能く根を生ずるをもて、挿条を始め播種、接木、圧条、偃曲、切截、根廻及び盆栽等園芸上利便を得るや多し。承応二年大内炎上し左右の桜橘焼枯せしが、明暦元年郷中接木の巧者六蔵なるものを御所に召され、曩に焼失せし橘に接木せしめらる、而して接橘よく成長せるを以て其賞として橘兵衛の名を賜りしと云ふ。降りて延宝天和の頃世上静謐、庭園樹木及盆栽を愛玩するもの益々増加せるをもて、郷中宮業者は内外諸方より奇種を集め草木、花卉、菓樹、薬種、山林の苗木等悉く栽培し、西国地方は勿論、江戸名古屋を始め諸方へ販売す、一年大凡五六万荷、郷中の営業者其数三百戸。天保の末幕府世上の驕奢を誡め植木栽培を停めたりしが、郷の四境山岳に接し猪鹿の田圃を害するのみならず用水常に欠乏せるを以て、植木栽培の補資あらざれば以て生計を営む能はず、且つ其業たる或は玩弄に属するものありと雖も、多くは菓荳山林等有益の樹苗なるを以て再び其許可を得たり。維新に至り植木の需求者漸々減少し、明治十九年の調査花戸凡二百六十六戸とぞ。
   望木部村、在池円北三里、一村皆花戸、
 逢望別村籠※[糸+鋒の旁]霞、千金誰解買名花、私田尽把牡丹種、不是尋常百姓家、       藤井 竹外
補【中川原】〇産業事蹟、豊島郡中川原村外五ヶ村の植木は、汎く人の称賛する所にして、世間之れを池田植木と云ふ、天文の頃より起る、松槭桜梅等の苗を種々異形に造り販売せしが、天正文禄慶長の頃に至りて、大坂市中庭園樹苗を需求するもの多く、随て園芸家も増加し、園芸術は郷中一般の営業となれり。
 
細川《ホソガハ》 細川神社は大字吉田の慈園寺山に在り、今毘沙門天と称し久安寺の奥の院と為す、細川谷の鎮守、延喜式に列す、細川は蓋久安寺川の古名なり。〇大字古江の無二庵に和泉式部の墳と称する者あり、式部は丹後守藤原保昌に嫁したる事あり、保昌は河辺平井の人なれば、由縁なきにしもあらず。〔名所図会〕
 
池田《イケダ》 猪名川の東畔に在り、猪名川谷(能勢細川及び河辺郡多田院諸村)の隘口にあたるを以て山民の交易に便なり。戸数一千五百、繁栄伊丹と相匹敵し共に美醸を以て盛名あり。近代|灘目《ナダメ》洒(西宮)興り池田を凌駕すと雖猶酒国の一都と謂ふべし。池田(578)炭は吉川村より出でて本市に販与するを以て其称あり。〇池田氏は井出左大臣橘諸兄の後裔とす、細川氏守護の時之に属す、両家記曰、永正十六年秋の比より四国勢京上りに附、澄元方に池田前筑後守息三郎五郎申されけるは、今度摂津国口の先陣は何かし仕候べしとて申謂、人数を揃ふる所に、高固の方河原林対馬守正頼塩川孫太郎夜討、寄手うたれ三郎五郎は首三十あまり討取り、阿波国澄元へ注進、御感ありて豊島郡一邑に下され弾正忠になされ申となり云々。後永禄十一年の比織田氏の兵摂津に入る。池他筑後守勝政邑を守り出て降らず、織田の兵攻撃して之を降す。天正元年勝政放逐せられ、池田城は荒木村重に附与せらる、城址は五月山に在り。〇豊能郡役所今此地に置かる、尼崎伊丹より池田に至る鉄道線あり、猪名川筋の運輸機関と為す。
補【池田炭】〇産業事蹟 地田炭は摂津国能勢郡吉川村より産出し、豊島郡池田村に売買す、是れ池田炭の名ある所以なり、抑吉川村は能勢妙見山の南麓に位する一小村にして、家数僅かに百戸に過ぎず、殊に四囲皆山にして耕地少し、故に村民の生業は山林の稼を専らとし、耘耕の業を傍とせり、然るに今を去る凡そ三百有余年の頃、即ち天正二年春□村農中川勘兵衛清光なる者、山林に生立する椚を伐採し、之を焼て一種の木炭を製造せるを以て嚆矢とし、尓来各村に行る。
 
五月《サツキ》山 池田町の上方、抜海凡二百米突、秦野山の西嶺なり、蓋|佐伯山《サヘキヤマ》の訛とす。日本書紀仁徳天皇の時猪名県佐伯部移于安芸とあるその佐伯部の遺墟たるべし。宝亀勘録西大寺資材帳に「一巻豊島郡佐伯村、和諸乙並布勢夜恵女等献」とあるも此地なり。
 五月山花たちばなにほととぎすかくあふときはあへる君かも、〔万葉集〕佐伯山卯の花もたしあはれわが手をしとりてば花はちるとも、〔同上〕
 五月山佐伯山は同処なり、池田城址大広寺愛宕祠等此山にあり、愛宕は佐伯部の祖神を祭るとぞ、毎年夏夜燈火を焚きて法会を修す、尼崎大坂の地より之を望見すべし、一奇観なり。
 さつき山木の下やみにともす火は鹿の立どのしるべなりけり、〔拾遺集〕
 
大広寺《ダイクワウジ》 五月山に在り、愛宕祠の東三町。曹洞宗、僧天厳開基、応永年中邑主池印筑後守光正の本願なり、神牌存す大広寺殿玉堂金公と題す、殿堂亦寺名と相かなふ。天正中歌人牡丹花肖柏此に寄寓したりとて其肖像を蔵す。
 
呉服《クレハ》神社 池田町の南に在り、其田野を呉服野と称し、呉国渡来の工女を祭ると云ふ。土俗池田町旧名呉服里と伝ふ、日本書紀、応神天皇、遣阿知使主於呉、令求縫工女、使主与工女弟媛呉織穴織至津国、及武庫而天皇崩、是女人等之後、今呉衣縫蚊屋衣縫也。〔摂津志〕按ずるに池田は和名抄秦郷の中なり即蕃別機織の工人の住宅たりと云事由縁明白なり、然れども延喜式河辺郡伊居多神社を以て之に擬するは不審の事とす。〇氏族志云、坂上田村麿、子治部大輔正野、五世孫正任、居摂津豊島郡呉庭其後有荘屋村治等氏。〔坂上系図〕又按に呉服里の世上に聞ゆるは謡曲に見ゆればならん、又本社棟札に
 嚮※[龍/共]聞(徳踰周武誉冠漢高)応神聖皇者(中略)則二女巳在摂州路豊島郡呉羽里得呉服穴織之以降(中略)不道擲梭之労無倦□□業云々慶長九甲辰片桐東市正且元
   昔の海、中頃の淵、今は田夫が※[田+壽]まくらをなして夢と為る、織女の歓楽の跡をおもふて、池田の唐船淵をよめる、
 棹のうたは松の声のみ鍬つつみ、   鬼貫
伊居多《イケダ》神社は名所図会に池田の北に穴織《アナハ》神社あり、本号伊居多なり、古は河辺郡|小坂田《コサカデン》村に在りけるを此に移す、因り呉服里を改め池田と為す云々。(小坂田は和名抄豊島郡桑津郷に属し、今神津村に入る、)
池田古墳〇字五三堂に古墳あり、明治二十年発掘、蓋石を除きたるに深四尺長四間幅三尺畳むに割石を以てす、基底は朱砂を布く鋼鏡一面刀剣の折れたる者数多土器一個玉数個を獲たり、或は宣化皇子椀子王の御墓と為せど詳ならず。〇字呉服野に荒木摂津守村重及び従臣の墓と称する者あり、土饅頭なれば上世の遺墳なるやも知るべからず。
補【椀子王墓】〇摂州豊能郡池田町字五三堂に於て、先頃一の古墳を発掘したる由なるが、此程大坂府の吏員同地に山張して、該古墳の蓋石を取除きしに、中は深さ四尺、長さ四間、幅三尺許りにして、周囲の厚さ二寸内外の割石を以て畳み、底には熟土に朱を混じたるものを一円に散布しあり、其下より青玉の玉台一個、青色の管玉三個、素焼の壺一個、青銅の鏡一面及び刀剣の折れ数個を発掘したりといふ、扨此墳墓は種々取調べの上、宣化天皇の皇子椀子王の御墓ならんとの事にて、不日大坂府より此旨宮内省へ具申する筈なりといふ。
 
秦下《ハタノシモ》郷 和名抄、豊島郡秦下郷。〇今池田町是なり、奏上郷は今の秦野村なるべければ推知すべし。姓氏録云、摂津国諸蕃秦忌寸、太秦公宿禰同祖、功満王之後也。又云秦人、秦忌寸同祖、弓月王之後也。
 
秦上《ハタノカミ》郷 和名抄、豊島郡秦上郷。〇今秦野村なり、池田町の東に接し一段の高地なり、北嶺を秦山《ハタヤマ》と曰ふ.大字畑の山中に石積滝あり澗水一道乱石堆積の上より落下す、其末は瀬川駅に至り箕面川に合(579)す、山北は即細川村にして東は箕面山に連接す。続日本紀、神護景雲三年、摂津国豐島郡人、井手小足等十五人、賜姓井忌寸。〇井手は古言堰塘の義にして此地に秦氏の造れる塘あるを以て此名号在り、池田井口堂(北豊島村大字)等の称偶然に非ず。難太平記に高師直高師泰は摂州井出の合戦に撃殺せらると為す、即此地にして秦野の南方今井口堂瀬川宿(箕面村)の辺即戦場たるべし。人類学会雑誌に秦野村大字|才田《サイダ》の古墳を記して云ふ、尊鉢《ソンハチ》塚は其穴露れ田畝の中にある竹叢繁き丘なり、穴口の前には一宇の神祠あり、石室の高さ十八尺長さ二十二尺横十尺入口長さ二十五尺あり、正面は一段高くして中央には石の十三塔左右に地蔵不動の石像あり、周壁は大石を以て畳み天井石殊に大なり。
補【井出】〇難太平記 大御所、錦小路穀(大休寺殿)の御中違の時も、一天下の人の思ひし事は、当家の御中世をめされん事まで、あながちに御兄弟の間をばいづれと不可申とて、両御所に思ひ思ひに付申き(中略)只いかにもして大休寺殿より宝篋院穀へうつくしく天下をゆずり与申させ給へかしとの御方便ゆへに、摂州井出の合戦の時も、師直師泰うたれしをも、大御所は咎め申させ給はざりき。
 
萱野《カヤノ》 旧萱野谷十山村東は三島郡に至り箕面山の麓なり。縁起式摂津国|草野《カヤヌ》駅。和名抄、豊島郡駅家郷は此地に外ならず、西国街道今に至るも之を通ず、大字芝村陽光院に萱野三平墓あり、三平は元禄赤穂烈士の一人にして院本には早野勘乎と称す。駅家《ウマヤ》郷和名妙に列す、即延喜式草野駅なり、今萱野村箕面村是なり。古駅は稲村芝村(萱野村大字)の辺なるべし、中世は瀬川(箕面村大字)を駅舎とす。
 
稲村《イナムラ》 古稲村は萱野に属し、新稲《ニイナ》村は箕面に属す。続日本紀宝亀十一年豊島郡人、韓人稲村等一十八人、賜姓豊津造と見ゆるは此地の諸蕃なり。
 
為那野《ヰナノ》 是れ本猪名川両岸の総名にして、豊能河辺二郡に渉る、其為那都比古神は萱野村大字白之島に鎮座するを以て今此に標出す。
 しながどり為奈のふしはらとびわたるしぎの羽音はおもしろきかな、〔拾遺集神楽歌〕
 あやしくもしぐれに返すたもとかな猪名の笠原さして行くとも、〔元永歌合〕      法性寺関白
為邪都比古神社は延喜式豊島郡本社二座とありて、今萱野谷の鎮守とし、土俗大宮と称す。或は牛頭天王を祭ると為せど後世の事なるべし、為那氏は数流あれば此神何氏の祖にや詳ならず、河辺郡為奈参考すべし。
 
外院《ゲヰン》 萱野村大字|外院《ゲヰン》は三島郡勝尾山の南にあたる帝釈寺あり、蓋勝尾寺の別院なり、相伝ふ清和天皇勝尾山行幸の時、山上を都率内院に比し、山下の帝釈寺を外院に擬したまふと。
 
箕面《ミノオ・ミノモ》 萱野谷の西を分割して今箕面村を立つ。此地名は水尾《ミノヲ》の義なるべく古来或は箕尾に作りミノヲと呼ぶ而も箕面の字を仮るは転じてミノモと呼べるに因るか詳ならず。今面訓オモなるを以てオ仮字を附するは古法古義に非ず。
 雨しのぐみのをの里の柴垣にすだちはじむるうぐひすの声、〔夫木集〕        西行法師
   箕尾山瀑布          服 南郭
 偶縁探勝此攀躋、地迫雲門極峡間、万丈瀑泉鳴石壁、千般草木潤厳山、方憐界道懸天上、忽恨随流落世寰、得叩列星仮投宿、応騎箕尾向東還、
   観箕面瀑布          梁 蛻巌
 界破吉松畳石瑞、耄夫漫庵山看、却羞白髪三千丈、坐嘯天風六月寒、
箕面山は大字平尾の北にして抜海五百米突勝尾山の南秦山の東北をり、箕面川は山中より発し南流して瀬川宿に至り国道を横断し西に折れ猪名川に注ぐ、長二里余。
 
箕面滝《ミノオノタキ》 平尾より箕面川に沿ふて上る十町にして滝安寺に至る、更に上る十余町にして飛泉あり高十六丈、其上に碧潭あり龍穴と名づく。〇元亨釈書云、役小角、嘗在摂州箕面山山有滝、小角夢入滝口、謁寵樹大士、覚後構伽藍、自此号箕面寺、為龍樹浄刹。又云、釈千観居蓑面山、撰法華三宗相対釈文、応和二年夏旱、朝議勅観祈雨、中使到柳宣旨、庵之後三里有大滝、滝上大柳樹、偃蹇亘滝口、観上庵樹手※[敬/手]香炉、啓白持念、于時炉煙聳騰、山雲相和、甘雨大灑。
 忘れては雨かとぞおもふ滝の音にみのをの山の名をやからまし、〔夫木集〕      津守 国助
斎藤拙堂遊記云、箕面の山、盤廻して而して之を上れば則ち浄境地に開け清渓奔駛し紅欄橋架す焉、此間竹経松緯、一往幽折、寺門に至る、稍前めば左右磴有り、左を行者堂と為し右を弁天宮と為す、並に宏麗にして之を合せ名づけて滝安寺と曰ふ、満山皆楓、爛然として霜に飽き色渥丹の如し、水は岩間に緯錯し時に墜錦有りて波に映じ杳然として流れ去る、談者多く言ふ其勝高雄の上に在りと、意ふに然らん、後門に出で、径に沿ふて而して行く、楓尽きて松来り水窮りて石出づ、巨岩竦峙し大さ厦屋の如き有り、唐人戻と曰ふ、戻の言たる反る也、相伝ふ昔外国の人有り来遊して此に至り険を畏れて反り去る、故に名づくと、更に進む、大声※[革+堂]※[革+塔の某]山谷に震ふを聞く、径転じて瀑布の絶壁に掛るを望見す、長さ二百尺可り、墳沫空に飛び跳擲して而して下り、潭底に至て復逆上し、輙ち轟然として雷動(580)す、一仏堂在りて瀑に面す、登り観る焉、凛然魄悸久しく留まること能はずして而して去る、聞く近畿の瀑布那智を以て第一と為し、此瀑之れに亜ぐと、想ふに当さに然るべし、堂の右より磴を躡んで而して上る、瀑頂に出づ、頂凹蓄碧方三丈、上流灌注し底深測られず、蓋し瀑の源也。
 
滝安寺《ロウアンジ》 箕面山吉祥院と称す、天台宗に属す。役小角の開基なるを以て修験道を奉じ、殊勝の霊場なりき。本尊は弁財天女を祭り俗諺竹生島厳島江島に井び四所の弁天宮と曰ふ後水尾天皇再興の内勅を賜り現在の伽藍を成す。〇名所図会云、箕面寺は毎年富会あり古来之を行ふ、正月七日四方の庶人競ひ来て、木札に己が名を書し、三の韓櫃の内に入れ置く、寺憎出でて櫃の中より札を突き出だす、一番二番三番の富札の者には護符を授く、之を得る者は幸福忽に来るとぞ、此富会は最旧き事にて夫木集に兼隆卿の歌あり富突山とよめり、
 君が代は富突山のさき/”\にさかへぞまさるよろづ世までに。(按に此歌は長和大嘗会の歌なれば、富つき山と云は備中か丹波なるべしと云)
   みのをの山寺にこもりて出侍りける晩の月面白く侍りければよめる
 木の間もるありあけの月のおくらずば独や山の峰を出でまし、〔千載集〕       覚性法親王
史学雑誌云、元弘の乱後醍醐帝の隠岐に在ませ給ふ間、護良親王は漁人をして官軍の形勢を帝に報ぜしめ給ふ事常に絶えず、〔増鏡〕猶親王は自ら危難に瀕し給ふも常に父帝に孝養を尽し給へるは、箕面寺へ下されし令旨にて明なり、即ち
 箕面寺者往古御祈祷所也当今皇帝之還幸御祈祷殊可抽忠懃之由依 大塔二品親王御気色之状如件
   元弘三年閏二月二十二日 左少将定恒奉
果せるかな天運再び環り、帝は機を得て遂に閏二月二十四日隠岐島を脱し、伯耆船上山に出でたまへり。
 
瀬川《セガハ》 今箕面村に属す、秦野村の東南に接し北豊島村玉坂の上に在り、西国街道の一駅にして太平記に見ゆ。延元元年二月、官軍足利党の兵を逐ひ下し、新田義貞の細川和氏を潮川に破りしは此也。正乎六年、高師直師泰兄弟井出合戦に打果さる、井出と云も此近地なり。今川了俊道行振云、津の国のあくた川にいたりぬるにも、ちりの身の行末いかゞとおぼつかなし、世河《セガハ》小屋野などいふところの下すども、ものみ侍るとて、思ふ事なくいそがはしからぬけしきも、今はうらやましくおぼゆ。川づらにそひて、木ぶかく物ふりたる山あり、武庫の山と申すとなん。〇阿比太神社は延喜式豊島郡の大社なり、今瀬川の北十町大字新稲村に在り、牛頭天王と称す、阿比太神授位の事は日本後紀に見ゆ、所祭詳ならず。
 
玉坂《タマサカ》 北豊島《キタテシマ》村大字坂は瀬川の西南十町余に在り、西国街道之に係る。此地豊島郷に属し古郡家の在処なれば其名夙にあらはる、
   津の国にたまさかといふ所にしりおき給ひける女に、
 てしまなる名をたまさかのたまさかに思ひいでてもあはれ問はなん〔御集〕    元良親王
玉坂の西八町許を中之島《ナカノシマ》と曰ふ、菅原峰嗣の山荘址あり。
〔摂津志〕三代実録云、菅原峰嗣、天安二年為典薬頭、貞観五年自謝老、出為摂津権守、退居豊島郡山荘、灌薬養性以卒、峰嗣処治必効、嘗撰金蘭方。
 
豊島《テシマ》郷 和名抄、豊島郡豊島郷、訓天之万。〇今豊島村是なり、日本紀略「天長二年、遷摂津国治、於豊島郡家以南」とありて此郡家に国府を移さんとしたる事あり、然れども果さずして止みぬ。郡家は大字市場と云ふ者其故跡なるべし。太平記、延元元年二月官軍足利の敗兵を追撃して豊島河原に戦ふ事を録す、市場の傍を流るゝ箕面川の磧なるべし、西国街道之を経由す。
 
余戸《アマルベ》郷 和名抄、豊島郡余戸郷。〇本郷は豐島の余戸なるべし、今麻田村桜井谷村などに擬すべきか、又豊津村の辺にや。
 
桜井谷《サクラヰダニ》 萱野村の南、熊野田麻田の間なる渓村なり、卑低の山峰に囲まれ一区を為す、桜井谷と称す、人類学会雑誌云、桜井谷村大字野畑の太鼓塚より一陶棺を掘出せり、総高さ一尺六寸二分幅一尺五寸長さ四尺七寸五分にして、両側に六個宛の小穴あり、足は八本宛二行に付けり、内部の周囲に波紋充満す、蓋は高さ五寸七分長さ四尺七寸七分幅一尺四寸二分にして裏僅に波紋あり、蓋の横に各一個の穴あり、此穴に小蓋あり其径三寸三分なり。
 
麻田《アサダ》 桜井谷の南に接する田村なり、徳川幕府の時青木氏の陣屋あり。青木氏の祖所左衛門一重は豊臣秀頼に仕へ大坂七手組の一隊長なり、民部少輔に叙せらる、元和元年二月命を以て駿府に奉使し帰途東軍に拘禁せらる、大坂城陥るに及び一重薙髪宗佐と号す、寛永中徳川氏出仕を命じ麻田一万九千石を給し、子孫世襲す。
補【麻田】手島郡〇人名辞書 青木一重は武族なり、初字所左衛門重直の後、美濃の人なり、豊臣秀吉に仕へ七隊の長となる、民部少輔と称す、大坂兵起るに及びて一面を守備す、元和元年二月、一重右府秀頼の命を受け、局大歳卿及び正栄尼と駿府に趣く、帰途京師に来るに及びて二※[女+母]大坂に還る、一重独り京師に拘せら(581)る、板倉勝重命を受け一重を旅舎にゥく、人を遣して警備す、大坂陥ると開き薙髪して宗佐と号す、後召仕はれて摂津麻田一万十九石余を食む。
 
岡町《ヲカマチ》 今豊中村と改称す、桜塚と相接比し小市聚なり、村中に原田明神あり。大日本史に「宗純為僧、号一休、有子為僧、曰紹偵、号岐翁、居摂津桜塚」と見ゆ。
 
熊野田《クマンダ》 豊中村の東に在り。仏眼上人開基の宝珠寺あり、寺説仏眼は華山法皇を導き奉り熊野三山を巡礼したりしが後此地を相して霊場を擬造し、熊野代と称す、後世訛りて熊野田と為す。
 
寝山《ネヤマ》 熊野田村の上方にして三島豊能の郡堺を為す、一名千里山と云ふ、乱形の丘山なり。〔摂津志名所大絵図〕
 つれてゆく寝山も知らず白鳥のさきの世もうき身のちぎりかな、
 
大明《オホアケ》郷 和名抄、豊島郡大明卿、訓於保阿介。〇今詳ならず、岡町若くは倉橋荘などにあたるか。
 
小曽根《ヲソネ》 熊野田村の南なり。摂津志※[車+猶の旁]軒小録に小曽根郷春日祠に多数の古簡収蔵すと云、今其伝ふる者を見るに、元中五年大納言南方将軍家尊と署名する奇異の願書などありて、真偽混乱するに似たり。
  春日社領摂津国榎坂郷雑掌中当郷内田畠参町余事訴状副之事如此吹田河内守家人小蔵法師濫妨云々。
   延文元年八月日         沙弥
      赤松信濃判官殿
 
服部《ハトリ》 小曽根村の西に接す、今|中豊島《ナカテシマ》村と改む。天神宮あり大坂より池田箕面に赴く路傍にあたり、芸人者流の特に崇拝する祠也。
 
倉橋《クラハシ》 今倉橋の名なし、南豊島村庄内村二に分る。郵便局は三屋《サンヤ》に在り。此地中世倉橋荘と称す西は猪名川に至り南は三国川に至り本郡西南隅の地なり。東鑑云、承久三年、武家背天気之起、依舞女亀菊申状、可停止摂津国長井倉橋両荘地頭之由、二個度被下宣旨之処、右京兆(泰時)不諾申、仍逆鱗甚故也。〇古は此地椋椅部の住所ならん、姓氏録云「摂津未定雑姓、椋椅部連、伊杏我色乎命之後」和州にも同地名あり。〇細川両家記云、天文三年八月、三好伊賀守同久助本願寺一味して、御屋形晴元へ御赦して椋椅城へ取入楯籠により、晴元衆取出て北中島と云所にて合戦あり、伊丹衆まけて同名馬場を初て十余人討死也。
 
垂水《タルミ》 今|豊津《トヨツ》村と改む、小曽根村の東に接す。大字垂水に延喜式豊島郡名神大社垂水神社あり、続日本後紀、承和八年垂水神授位の事見ゆ、蓋住吉の海童神を祭る。姓氏録云、右京皇別垂水公、豊城入彦命四世孫賀表真稚命之後也、六世孫阿利真公、諡孝徳天皇御世、天下旱魃、河井涸絶、于時阿利真公、造作高樋、以垂水岡基水、令通水宮内、供奉御膳、天皇美其功、便賜垂水公姓掌垂水神社也。按に是は孝徳天皇|長柄豊崎《ナガラトヨサキ》宮の事ならん、然れども此垂水岡の地より長柄まで高樋を造作する理なし大河を隔てたる所なればなり。但し延喜式八十島祭の条に垂水神二座とあるに拠れば、此神は住吉の別宮なること想ふべし、又垂水は古言滝に同じ、住吉浦にも垂海《タルミ》の地名あり。神功紀には「大神(住吉)有海、曰和魂服玉身、而守寿命、荒魂為先鋒、而導師船、即得神教、而拝礼之、因以|依網《ヨルミ》吾彦男垂見、為祭神主」とあるに参考せば、此垂水とは依網垂見が特命を承りて祭りたるに因り垂水祠起り、其祠の地をも垂水とは呼ぶなりけり。
補【垂水神社】〇神祇志料 今垂水村にあり(摂津志・摂陽群談・名所図会)蓋垂水公の祖豊城入彦命を祭る、孝徳天皇御世天下旱魃して、水絶し時、阿利真公垂水の岡基の水を宮内に通ずる功あるを以て、姓を賜て垂水神社を掌らしむ、即是也(新撰姓氏録)仁明天皇承和八年〔閏〕九月戊戌、勲八等垂水神に従五位上を授け、(続日本後紀)
 按、本書上を下に作るは誤なり、三代実録に拠て之を訂す。
清和天皇貞観元年正月甲申、従四位下に叙され、九月庚申雨風の御祈に依て幣を奉り、陽成天皇元慶元年六月癸未、幣を奉て甘雨を祈り給ひ(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る(延喜式)一条天皇正暦五年四月戊申、中臣氏人を宣命使として疫疾災火の変を祈らしむ(本朝世紀、参取日本紀略)
 
    河辺郡
 
河辺《カハノベ・カハベ》郡 或は川辺に作る、猪名川の流域にして豊能郡と相抱擁し古の猪名《ヰナ》県なり。仁徳天皇の時河部の名代を定め、国郡制置の際河辺郡を建てらる。北は山脈を以て丹波多紀郡と相限り、南は海に至る即大坂港湾なり、東は豊能郡と地形錯雑し西も武庫郡有馬郡と相交る。南北凡十一里東西は最広四五里より一二里より減ず、面積十四方里、人口七万三千伊丹尼崎の町一十四村に分つ。郡衙は伊丹に在り、兵庫県の管治に属す。〇和名抄、河辺郡、訓加波乃倍、八郷に分つ後世豊島郡桑津郷武庫郡昆陽郷賀美郷雄田郷等本郡に入る。占事記高津宮(仁徳)段曰、天皇為太后之弟、(582)田井中比売御名代、定河部。又境原宮(孝元)段云、建内宿禰之子、蘇何石川宿禰者、川辺臣等之祖也。古事記伝云、山城大和にも河辺あれど摂津ぞ川辺臣の里ならむ、此氏人は天武紀十三年に朝臣姓を賜はる。姓氏録云、右京皇別川辺朝臣、武内宿禰四世孫宗我宿禰之後也。
 
為奈《ヰナ》 或は猪名県と称す、今の河辺豊能二郡の旧名なり。和名抄為奈郷は河辺郡に属し、延喜式為邪都比古神は豊島郡に在り。猪名県は仁徳紀に見ゆ、猪名県佐伯部、献苞苴、天皇令膳夫問之、牡鹿也。
為奈氏は数流あり。応神紀、新羅王、貢能匠者、是猪名部等之始祖也、又雄略紀、木工猪名部真根。姓氏録云、摂津国諸蕃為奈部首、出自百済国人中津波手之後世。〇旧事紀、饒速日尊供奉五部人中、為奈部等祖、天津赤占、又船子、為奈部等祖、天赤星。姓氏録云、摂津国未定雑姓為奈部、伊香我色乎命六世孫、金連之後也。〇古事記檜※[土+回の最後の画無し]宮(宣化)段云、恵波王者、韋那君多治比君之祖也。(日本書紀、恵波作殖葉又椀子、韋那作※[立心偏+韋]那)而て姓氏録「為奈真人、宣化天皇々子火焔王之後也」と載す、恵波火焔二王共に此に封ぜられ給へる也。
為奈野は二郡に渉る総名なるべければ何処と限定し難し、万葉集に「しながとり居名野を来れば有間山」云々とつづけたり。又為奈野牧は延喜式に見ゆ、今河辺郡長尾村に大字荒牧あり此か。又三代実録「仁和元年、為奈野、為太政大臣(藤基経)狩鳥野。貞観元年、賜左大臣源信、河辺郡為奈野、為遊猟之地。貞観十五年、賜河辺郡為奈野、於二品親王(時康)以為狩猟之地、勿禁百姓樵蘇焉。〇又続日本後紀、承和十一年国府を河辺郡為奈野に遷建する二とを停められし事見ゆ、此遷建を計られたるも何処にや詳ならず。(長尾村鴻池参看)
猪名川《ヰナガハ》 或は蜷川《ニナカハ》に作る、多田池田の地を経過するを以て多田川又池田川とも称す。六瀬《ムツノセ》村より発源し南流し多田に至り能勢川久安寺川を容れ池田を過ぎ箕面川を容れ伊丹に至り、分れて二流と為る、椎堂を経て戸之内に至り三国川に入るを本流と為し、支流は食満《ケマ》を経て神崎に至り三国川に入る藻川《モカハ》と称す、各長一里余、凡其水源より計れば十里。
 かくのみに有けるものを為名川のおくをふかめてわが思へりける、〔万葉集〕
   伊丹舟下猪川   後藤 春草
 東岸交菰盧、西堤半※[竹/均]柳、軽舟乗浅流、小春喧可負、行到略※[行人偏+勺]下、不免皆縮首、岸勢合還開、船頭左乍右、水落灘声急、風景移如走、白石※[隣の旁+災の上半]々浄、洗杯澆陽垢、
 
桑津《クハツ》郷 和名抄、豊島郡桑津郷、訓久波都。〇今|神津《カウツ》村是なり、猪名川の東岸にして地形豊能郡に属すべし、大字桑津存す。
火焔《ホノホ》王祠は神津村東桑津に在り、此皇子は川原公為奈公志比陀公の祖にまします事為奈郷の下に詳にす。古事記檜※[土+回の最後の画無し]宮(宣化)段曰、天皇娶川内之若子比売、生御子火穂王。摂津志云、河辺郡火焔王祠及墓、在東桑津村。
桑津の北池田町に近く大字|小坂田《ヲサカデン》あり、延喜式河辺郡伊居太神社は旧此に在りしを、後世今の池田町に移すと云ふ、不審なり。
 
雄家《ヲベ》郷 和名抄、河辺郡雄家郷、訓乎倍。〇今川西村大字|小戸《ヲト》あり、旧訓|尾部《ヲベ》なり、延喜式小戸神社は今|小戸《ヲヘ》天神と称す、摂陽群談云、雄家今小部に作る。又荒木略記云、荒木大歳大輔は丹波の汝多の一門にて御座候、摂津へ牢人仕り武庫郡小部荘と申所に小身の体に居申候(武庫は河辺の誤なり、武庫に小部なし、大蔵大輔は村重の父にて義村と曰ふ)〇本郷は川西村大字|小花《ヲハナ》小戸火打の辺にあたる、池田町の西にして猪名川を隔つ、北は多田村の谷口なり。
延喜式河辺郡鴨神社は今川西村大字加茂に在り、伊丹の北一里、東は猪名川を隔てゝ池田に対す。
 
大神《オホムチ》郷 和名抄、河辺郡大神郷、訓於保無知。〇今多田村并に東谷《ヒガシタニ》なるべし。大神は大和大物主の神の子|大田々根子《オホタタネコ》の住地なれば此称あり、姓氏録、摂津神別に神《ミワ》直|神《ミワ》人ありて皆大田々根子の裔とす、大神郷多田に住みたる著姓ならん。(神代紀に貴字を武智とよむ、貴神其義相通ず、故に神の字も武智とよむ、釈紀秘訓にも見ゆ)
 
多田《タダ》 伊丹町の北二里に在り、中世多田荘と称せるは東谷|中谷《ナカノタニ》六《ムツ》瀬谷を総べたるならん、多太《タダ》神社は延喜式に列す、大和大物主神の神主大田々根子の祖廟なり、多田村大字平野に在り、俗説山城平野神を勧請すと為す妄語のみ。崇神紀云、「天皇夢有一貴人、自称大物主神、曰天皇勿愁国之不治、若吾児大田々根子令察吾、則立平矣、復有海外之国自当帰伏、天皇布告天下、求太田々根子、即於茅渟県陶邑得之、即以為祭主」と古事記には意富多多泥古に作り、旧事紀大直禰古に作る。古事記伝云田々は地名なるべし、姓氏録云、「摂津回神別均々内臣、石上朝臣同祖、神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也」と此多々氏は自ら別流なり。
 
多田《タダ》鉱山 猪名川の上流に発達せる金属鉱脈は其区域能勢、川辺、豊島の三郡に跨り、大約東西五里南北三里余の広袤を有す、六十九村に亘り新旧坑千九百有余あり。凡此他の採鉱は多出源氏勃興の初めに起りて、水中の沙金を採る、天正の末豊臣(583)氏の時に至りて隆盛を極め、徳川氏に及んで猶盛なりしと云ふ、爾来現今に至るも亦多少の産額あるは、蓋し其の鉱貿良好にして且つ銀分に富めるの致す所にして、多田銀山の称ある偶然ならざるなり、然れども其欠点とする所は鉱脈の薄少にして各所に離隔散在するに在り。〔地学雑誌〕現行の鉱山は吉川村多田村(真盛山)数坑あり。
平野《ヒラノ》温泉は多田村大字平野に在り、泉源は沙羅林《サラリン》山に在り、元禄年中初て樋を架し浴室を設け熱を加へて客を延く、炭酸性の泉なり、往時は客舍二十四戸ありしと云ふも、近年頗衰頽せり。
 
多田院《タダノヰン》 多田院は源満仲の廟にして源家崇敬の宝刹なり、鷹尾山法華三昧寺と称す、近年改めて多田宮と曰ひ、其地の大字をば多田院と為す、多田村の中央にして山色水声佳景の境なり、宮域方百数十間、寛文年中徳川幕府修造頗る広麗の制なり、近年漸衰廃に就くと云ふ。東は新田山《シンデンヤマ》平野温泉に接し四山処処に鉱穴あり、又中谷村北田原の大井と字する地に奇岩怪石の争ひ立てるあり。
帝王編年記云、天禄元年、源満仲建多田院、中尊丈六釈迦像、満仲営作、文殊、願主摂津守頼光(頼政行徳先祖也)普賢、願主大和守頼親(法華経太郎頼安先祖也)四天、願主河内守頼信(頼朝脚以来代々将軍家先祖也)供養導師天台座主慈恵也、寛弘五年、花山法皇、於摂州多田、令尋惟成少将法名空寂給、少童伝事由之時、無左右惟成馳参、涕泣無限。〇大日本史云、源満仲累歴摂津守、嘗居多田、故家号多田、子頼光歴摂津守、子頼国、頼国六世孫行綱、世居多田荘、称多田蔵人、後白河法皇謀滅平氏、諭旨於行綱。又云満仲仕村上冷泉円融華山四朝、為人有勇略、朝延頼為爪牙、拝鎮守府将軍、後利髪更名満慶、天禄元年創多田院、長徳三年卒、年八十六、即宗多田院、安其像、子僧源賢小字美女丸、事僧源信求法、終有所得、号多田法眼、好和歌、所著有樹下集、伝于世。〇名所図会云、満仲公天禄元年多田荘|新田《シンデン》山に築き之に移り是を新田城と曰ふ、多田院は公の墓所なり、忍性菩薩中興して道化広く振へるより院職は世大和国西大寺の管掌と為る、文明四年足利家の推奏に依り正二位を贈りたまひ、万代守護権現と号せしむ。寛文年中徳川家より営造を加へられ、元禄九年徳川家の推奏ありて更に正一位を進め、多田権現と号せしむ。
多田院文書は、鎌倉武家以来の古簡類を収め、重要の墨蹟其中に存す。文永十年の多田院造営条々、
 一荒神祭事 右先募所当之上分宜潔祭祀之中精進蘋※[草がんむり/頻]之礼敢勿緩怠矣
 一鎮守社事 右六所之和光者一庄之鎮守也早募所当任本跡可令造替也
 一本堂造営事 右檜皮雨漏蓮眼露冷朽損之趣寺之長久不如瓦葺者歟早改檜皮可用土瓦矣
当時院に聖と憎と給主の三方ありて、政所は両分し総奉行安東平右衛門関東の代官たり、又別当職並勧進の事は良観房へ附せらる、又弘安四年文書に依れば同年二月本堂供養あり、正応六年の両執権連署に依れば国内棟別銭を長観房に下知し拾文づつと定め、六波羅の下知を添へたり、永仁元年の下知状には丹後国の棟別銭見ゆ、数州に課せられし也。弘安五年のものに鎌倉極楽寺より本堂の上葺未成功三重塔修理催促の事見ゆ、正和元年文書に常行堂法華堂三重塔供養のこと見ゆ、此頃に至り寺院諸宇完成したるごとし。古簡中最旧きは
 多田荘内鷹尾畑田畠等為多田院総社六所権現御燈油并御壇供料所度々寄進状等明鏡也然者当院御知行不可有相違者也□山野東限禅師坂西限尾道南限猪鼻北限抒谷焼尾)者景満数代所管領因所奇進之状如件
  寛弘三年十二月八日 波豆河郷公文源景満 判
是れ多田院創立の際のものにや、波豆河《ハツカハ》は多田の西に接し今西谷高平二村に当る。総社六所は田々根子の祖神なる大物主ならん、又別に荒神《クワウジン》あり住吉の現人神を云ふならん、満仲の遺筆住吉託宣と号する者に処り推断すべし。弘安四年の多田院本堂四方拾町殺生禁断の執達状に「雀山《ササベ》河、可令立堺」とあり、別案に「限東総政所東浦木、限西石屋大谷西峰、限南風尾、限北鷹畑谷南峰」と載す。正応六年官符云、当寺者、多田満仲之終寂場也。釈迦善逝之霊像也、長河前横、夕陽暁月之観念有便、高山後峙春花秋葉之瞻望添興、善心自催、勝形尤好云々。建武元年三月廿五日、足利尊氏願書云、曩祖満仲氏寺之間、源家之帰依所異他也、然而今度之義兵、蒙本意、将又天下太平、四海安全、当家繁栄、子孫長久云々。かくて四年に尊氏より東成郡善源寺東方地頭職を寄進したる由も其文書あり。又建武元年八月廿日沙弥蓮性寄進状に「木工助貞綱為朝敵迫罰罷向津軽之間」とあるは誰人の事蹟にや。康正二年の寄進給主目録には
 善源寺 東方地頭職諏訪三郎左衛門尉跡
 鷹尾  総社六所権現料       北畠殿
 櫛作  上寺観音堂免        同
 鎮守  総社六所権現免       同
 猪淵村 毎日仏性米         執事武蔵守
 原郷  地頭給内五段御塔修理科   高播磨守
 多々郷内左左部方 生名承仕給    仁木京兆
 山原村 本堂以下修理料       佐渡判官
 石道村 平居九郎跡本堂寄進     赤松参河守
 紫合  本田方談義所料       同
(584)延文三年六月足利義詮が先公尊氏の遺骨一分を当院に納置すとの状ありて、以下将軍歴代の納骨状見ゆ。又文明元禄両度贈位に関する諸簡あり。多田院の西大寺所管と為れるは、西大寺唐招掟寺等と同じく武家の制状に任せ忍性律師に附与せられしに因る、忍性の書状三通あり、本院の造営供養并に新田開発に関せる者なり、当時の別当職良観房も良忍の徒なるべし。又元応元年貞祐判にて多田院両政所へ下知したる制状に
  南都西大寺以下三十余寺者可為関東御願所之由永仁六年被成御下知事多田院專随一候也上為御内御領之間造営事当長老行覚御房就被申子細自公文所所被仰下也地頭御家人以下甲越人等可加制禁云々
 寛正文亀の此の文書には「多田荘七郷并に加納分米谷山本小戸村、寺社諸本所領、善源寺地頭職等、段銭為寺家催促」など見ゆれば足利氏の時に米谷山本小戸などの加納を賜与したりと見ゆ。
補【多田】〇改正三河後風土記 源経基王の御子を満仲朝臣といふ、生母は武蔵守橘繁古の息女とぞ、満仲朝臣は延喜十二年摂州多田の館にて誕生あり、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条の五朝に歴任し、天録年中多田院を造営あり、慈恵大師を屈請して導師とせらる、寛和二年丙戌七月には花山法皇多田院に御幸あり、恵心僧都に八講行はせ、法皇檀那にならせ給ふ、貞元二年満仲朝臣多田院を近江国仰木の里(志賀郡)へうつされ、同年八月十五日齢六十五にて横川の恵心院にて素懐を遂げられ剃髪せらる、法名満慶、是より多田新発意と称せらる、天台止観の奥儀をさとり、和歌をも心にかけて拾遺集の作者なり、齢つもりて八十六歳、長徳元年卒去せらる、遺骨を摂州多田の里に納め、廟を多田院と号し、八月十四日十五日両日の祭祀今に至て厳重なり、文明四年壬辰足利慈照院の将軍奏靖により従二位を贈り給ふ、元禄九年丙子六月廿四日、七百年忌常憲院殿御執奏にて正一位にあげ給ふ、満仲朝臣の子を頼信といふ、母は大納言藤原元方の息女なり、安和元年多田の館にて誕生あり、童名清王丸と称せらる、剛果明断よく兵法に達し、兄摂津守頼光と其名ひとしく世に称せられき。
 買茂社領摂津国多田荘内米谷当寺段銭之事、先止催促有子細者企参後可被願中候也 仍執達如件
    文安三卯月八日        旨元 判
                   性通 判
        多田院雑掌
 
満願寺《マングワンジ》 多田院の南二十四町に在り、長尾村平井の北十八町許、渓間の古刹なり。満願寺より西方仲山寺清澄寺に至る一帯の嶺を成すを横峰《ヨコミネ》と称す。〇本寺は蓋多田法眼源賢の開基にして、多田一門郎党の古石塔を存す、初め源賢金堂常行堂十手堂等を興し、北条泰時三層塔を造進し、北条長時楼門を造進し正中二年後醍醐天皇勅願所と為したまふ、後火に罹り烏有に帰せしが慶安年中重興する所あり、然れども旧時の観に復する能はず、今真言宗を奉ず。
 
畝野《ウネノ》 多田院の北にして能勢川|六瀬《ムツノセ》川の交会する処なり或は宇禰野に作る今|東谷《ヒガシタニ》村と改む。日本後紀、大同三年、廃説津国河辺郡畝野牧、為牧馬逸出、損害民稼也。〇住吉大社解状に見ゆる坂根山は畝野の辺の山谷を指すものゝごとし
  河辺郡為奈山別名坂根山
   四至 限東為奈川并公田 限南公田 限西御子代国界山 限北公田并羽束国界
 右杣山河領掌之由同上解(豊島城辺山)但河辺豊島両郡内山総号為奈山別号坂根山昔大神誅土蛛宿寝坂上仍号山内有宇禰野天皇遣采女採柏葉御子代国今謂武庫者訛
  為祭河 木津河
 右河等領掌之縁同上解(豊島郡城辺山)但源流者従有馬郡能勢国北方深山中出東西両河也東川名久佐々川流通多抜山中西川名美度奴川流通美奴売乃山中両河倶南流逮宇禰野西南同流合名号為奈河西辺有小野当城辺山西方名曰軍野昔大神率軍衆為撃土蛛御座地也因号伊久佐野河辺昔居山直阿我奈買因号阿我奈賀川今謂為奈川就訛大神々霊男神人賜令流運宮城造作料材木(中略)為奈川無大石生芹草武庫川有大石無芹草両河一流令注依神威為奈川于今不入不浄物領掌木津川等此縁也
按に為奈河木津河は今の為奈河の上游なる多田河に外ならず、其東川と云は能勢川にて、西川は六瀬川なり、六瀬村に大字木津存す、木津の東に美奴売山あり、而て解状後段に至り西川を武庫川と為すは今謂ふ所の武庫川に非ず、六瀬川を指せるのみ、両河一流とあるにて明白なり、伊久佐野と云ふは今知れず、西畝野などにや。
 
小童寺《セウドウジ》 多田の東谷村大字西畝野に在り、浄土宗忠孝山と号す、源賢阿闍梨藤仲光の一子幸寿丸の為めに創建す。初め源賢の幼時美女丸と曰ふや習学の為め仲山寺に登るも放逸にして教を受けず、父満仲怒り郎従藤原仲光を遺して之を殺さしむ、仲光之を悲み窃に美女丸を比叡山横川の恵心房に送り、更に源信僧都に托し己子幸寿を斬り身代として小童の首を主君の見参に供す、後美女丸其事を聞き感激して修学を力め遂に其業を成す、即幸寿の忠孝の為めに身を殺せるを傷み本寺を創むと云ふ。。一庫《ヒトツクラ》の温泉は亜爾加里性の塩類泉なり、温六十八度、小董寺の北一里に在り。
 
(585)楊津《ヤナイヅ》郷 和名抄、河辺郡楊津郷、訓也奈以豆。〇今中谷村|六瀬《ムツセ》村なるべし、大同類聚方に河辺郡楊津里広根朝臣食麻呂とありて、中谷に広根の大字存す、摂津志にも楊津郷は六瀬荘にあたると曰へり、多田荘の北に接し為奈河の水源なり六瀬川とも呼ぶ。
 
銀山《ギンザン》 今|中谷《ナカタニ》村の大字と為る、大字|広根《ヒロネ》の西山也。地学雑誌云、本銀山は天正年間盛況を呈したる鉱区にて、其脈中央に輻湊し、其瓢箪坑と称する者は往時の富鉱の最なるも、今は水没して廃坑たり。鉱種は斑銅鉱及輝鉛鉱にして少量の黄銅鉱を雑ゆ、之を分析したるに百分中銀○、一〇五鋼一一、二六及鉛三三、七三の定量を得たり、極めて富良の鉱石と云ふべし。猪淵山の鉱脈は銀山町より一山を越へ直径凡そ六丁南に方れり、鋼分は鉱石百貫目に付十貫目にして之に銀二百匁内外を含めりと。
補【銀山】〇地誌提要 銀山は河辺郡多田院村の奥永盛山にあり、銅山も同処なり、昔は銀山町を盛なりとす。〇〔中山寺・清澄寺 参照〕神崎川の多田谿を出て平地に就く処は、一円多田荘なるべし、西を横峰とす、清澄寺は其陽の米谷村にあり、仲仙寺は其陰の谷中にあり、今中山寺に作る、二寺みな仁明帝御宇よりの古刹なれば、多田院の塔頭には非らず、佐々木道誉下知状に「多田御祈祷所」とあれば、二寺も亦源家の祈祷寺なり。
 
六瀬《ムツセ》 多田谷の奥を六瀬と曰ふ、即猪名川の源なり。池田より丹波国篠山に通ずる間道之に係る、駅舎は木津《キヅ》に在り。〇多田の西谷《ニシタニ》は地形より論ずれば有馬郡に属すべし、大字|羽豆《ハヅ》ありて、和名抄有馬郡羽束郷の中とす。
 
山本《ヤマモト》郷 和名抄、河辺郡山本郷、訓也末毛止。〇今|長尾《ナガヲ》村と改む、大字山本存す、川西村の西に接し、多田の横峰の南面なり。(小浜も本郷の中也)大字山本の東北に接し大字|平井《ヒラヰ》あり藤原保昌の故里とぞ、保昌は家号を平井と曰ひ、摂津大和丹後の国守を累歴し勇決胆略あり、甥源頼信と名を斉くす。〇平井より北五町、渓に沿ふて登れば西明寺滝に至る、白水翠巒の勝を賞すべし、岩洞の奇偉なる者多し、此より更に北上八町にして満願寺あり。
 
中山寺《ナカヤマデラ》 古は仲山寺に作る、長尾村の西に在り大字を中山《ナカヤマ》と曰ふ、西国卅三所の第二十四番とす、玉海承安四年の条に見ゆ。現域二万坪、真言宗に属し、金堂本尊観世音を置き、薬師堂地蔵堂太子堂羅漢堂十王堂等あり慶長八年豊臣氏重修す。寺伝に此山は仲哀天皇の妃大中姫の葬所なり、妃の所生皇子忍熊王宇治に敗死したまひ後此に帰葬す、聖徳太子其古陵に就き寺宇を建立ありと。摂津志云、中山寺鍵塚、相伝忍熊王墓。
 
鴻池《コウノイケ》 長尾村山本の南に大字荒牧鴻池あり、荒牧は古の牧場なり新牧《アラマキ》の義ならん。鴻池は摂津志国府池の転と為す、即天長承和の際移府の事あらんとせる所也。鴻他の村家の南に大鹿《オシカ》池あり、摂津志一名荒府池と為す、即ち新府《アラフ》池なるべし。〇続日本後紀云、承和十一年、摂津国言、依去天長二年承和二年両度勅旨、定河辺郡為奈野可遷建国府而今国弊民疲、不堪発役、望請停遷被曠野、以鴻臚館為国府者、勅聴之。落穂集考云、津の国鴻の他の酒屋勝庵(初め三郎右衛門、寛永年中の人なり)といふ者、酒二斗ばかり入る樽二つを壱荷として担ひて江戸にくだり、大名の家々に至り壱升を銭二百文づつに売りたり、そのころ米は下直なり木銭は十二文などしたる故、鴻の池より江戸への一と上下銭は三百五六拾文にて仕込たり、したるにその酒日を追て売る故、馬の背にても及びがたく、終に東海道を何十万樽といふに至りて、船に積みて入津すること、今日に盛也といふ。
 
小浜《ヲハマ》 小浜《ヲハマ》村は長尾の西に接す、武庫川の東岸にのぞむ。真宗本願寺支院|豪摂《ガウセフ》寺あり、此寺は初め京都出雲路に在り、寺主乗専覚如上人に帰依し改宗す、天正年中此地に移る、寺主善秀の時なり、善秀は門徒一揆の魁帥たり、後本願寺の連枝を以て寺職を嗣がしむ、文化年中本願寺宗意惑乱の獄起り、当時主闌岩は智洞破斥の位置に居り勝訴となれり。補【豪摂寺】川辺郡。小浜豪摂寺は真宗本派の支院にて、文化度の宗意惑乱の獄にあたり、寺主闌岩は智洞破斥の位置に立ち、遂に勝訴と為る、然る後に此寺は富田本照寺へ併せらる。
豪摂寺 出雲路乗專の開基にて、京都又は丹波六人部に移したる後、戦国の頃には摂州小浜に移る、故に小浜豪摂寺と云ふ。
 
米谷《マイタニ》 小浜村大字米谷に延喜式河辺郡|売布《メフ》神社あり、今貴布禰明神と為す、米谷は蓋売布谷の訛なり。賀茂別雷社文書、寿永三年摂津国米谷荘、また同社神記、河辺郡山本郷蕨野拾五町、貞観六年所寄進也、号米谷荘。また康正造内裡引付に摂津国山本荘二貫文松尾社領など皆此なり。〇天孫本紀「伊香色雄命子、大※[口+羊]布命、若湯坐連等祖、纏向珠城宮御宇(垂仁)天皇御世、為侍臣供奉」と之を姓氏録に参考するに「摂津国神別若湯坐宿禰、伊香色雄命之後也」とありて三代実録、貞観五年河辺郡人若湯坐連宮足など見ゆ、売布神は即若湯坐氏の祖なるべし。〇米谷と山本郷は後世相分裂すれど、そのかみは同名一境なりしごとし。
 
清澄《キヨシ・セイチヨウ》寺 米谷《マイタニ》に在り、中山寺の西北十町許、真言宗を奉ず。宇多天皇寛平年中勅建、仏工定円(586)に命じ釈迦弥陀弥勒三尊を造進せしめらる、開基は益信僧正なり、益信修法の時三宝荒神此に影向ありとて、後世最之を敬祭す、謂ゆる清荒神《キヨシクワウジン》なり。京都禁裡の東北に勧請する者即之に同じ。平家物語に叡山の学侶慈心房尊恵津の国清澄寺に住み、承安二年焔魔庁へ赴き法華を転読したる一条の話説あり。塩尻云、荒神は役者感得とも又開成感得とも曰へり、皆後世の附会なり、荒神の本縁の事は仏者も、谷響集には正法になしと云へり、或はいふ瑜義経等に曰へる、毘那夜伽訳して大聖歓喜天と云者にて、これに忿怒と如来の二像あり、一切法の障碍となる神ゆゑ、修法の時先之を降伏する事密家の大事なり、これ竈神に非ず、蓮花三昧の所説、を本とし、顕教には普賢大士の変作とし、密教には金剛薩※[土+垂]の所変に習ひ愛染明王と同くす、但し荒神と云号は唐土になし、我邦あらぶる神の意なり、盛衰記に清盛修法して荒神を鎮めて財宝を得しこと見ゆ。
   米谷宿清澄寺        広瀬 旭正
 木合天容小、山黒星輝分、何者同我宿、応是晩帰雲、松風如天楽、深谷終夜聞、
 
安倉《アクラ》 小浜村の東を安倉荘と日ふ、今其大字と為る。日本書紀、白雉元年の条に難波吉士|胡床《アクラ》あり、此地に由縁あるか。
 
児屋《コヤ》郷 和名抄、武庫郡児屋郷、訓古也。〇今河辺郡稲野村是なり、昆陽寺昆陽池等此に在り。北は山本郷南は武庫郷に至り、武傳川其西を流る。補【児屋郷】武庫郡〇〔和名抄郡郷考〕児屋、古也。民部省図帳、加美之児屋公穀一千六百七十余束、仮粟以貢代充其国司挙奏。今按、賀美児屋と二郷のさまなれど、図帳によるときは一郷なり。行嚢抄、昆陽、自西宮到于此二里、駅宿也、追分昆陽にあり、自是左に趣くは有馬路、右に趣くは京へも大坂へも出る路なり。
 
昆陽《コヤ》 今|稲野《イナノ》村に改む、伊丹町の西なり。大字昆陽は駅舎にして伊丹を去る十余町、其北に昆陽池あり、方六町許。
 夕されば木のまの月しくらければたどりぞわたるこやの松原、〔夫木集〕法成寺入道 いかばかりいぶせかるらんこやの池のみぐさのもとにすだく蛙は、〔堀河百首〕兼昌
   津の国にすむこやの入道、歌ものがたりなど大かたに云者なりけり、門の前をわたるとて、いそぐ事有てえまゐらず、何事かと云ひたれば、
 難波人いそがぬ旅の道ならでこやと計は云もしてまし〔相摸集〕
昆陽池は行基法師の造る所とぞ、昆陽寺は、池の西南八町に在り、此地は古来西国街道にあたれば其名夙に著る。〇児屋郷は三島郡にも其名あり、天児屋根命の由縁ある地也。細川両家記に小屋|野間《ノマ》とあり小屋《コヤ》は即昆陽にて今共に稲野村の大字なり。太平記には小野屋と記し、野間の西北大字山田に高師直の墓あり、然れども難太平記によれば師直は井出に打死す、又細々要記には 「観応二年二月廿五日、武庫河の辺鷲林寺の前に於て、上杉修理亮高師直師泰両入道以下十余人をうつ、河津高橋以下又切腹をす」と録す。
 
昆陽寺《コヤデラ》 稲野村大字|寺本《テラモト》に在り。名所図会云、崑崙山昆陽寺今真言宗を奉ず、天平五年憎行基開創池を造り田を墾き院家に施入し、寡孤癈疾を救治す、摂州第一の名刹なりき、天正中寇火に罹り、後僅に造営す、薬師堂関山堂主水堂等のみ、主水堂は天平九年疱瘡流行の時行基修法の霊蹟なりとて、今に至るも秘水を出す。〇日本後紀云弘仁三年勅、在摂津国※[立心偏+(旬/子)]独田、一百五十町、宜令国司耕種、所獲苗子、毎年申官、待被処分、然後用之、※[立心偏+(旬/子)]独田者、故大僧正行基師、為矜孤独所置也。延喜式云、凡故僧正行昆陽院事者、摂津国与別当憎、共知検校。〇昆陽寺の鐘の事は今昔物語にも見ゆるが、今は宝暦年中改鋳の新鐘に古銘を勒す。一書に此寺鐘の古銘を載す、
 建立壱院敷地肆町院家総領空閑荒野壱処
  肆至 東限伊丹坂 南限笠池堤 西限武庫川 北限後通墓 大小池十二所在四室内
 在摂津国河辺北条武庫東条云々天平勝宝元年二月菩薩遺弟上人初鎔鋳云々
駅の東に接し大字|千僧《センソウ》あり、亦仏家由縁の名なるべし。〇本朝世紀云、天慶八年、京洛之間訛言、従東西国諸神入京、或号志多羅神、或曰小藺笠神、又称八面神、摂津国言上解文傳、従河辺郡方、数百許人荷担神輿、捧幣撃鼓、歌舞羅列、来着豊島郡、又担送於河辺郡児屋寺。
 
雄田《ヲダ》郷 和名抄、武庫郡雄田郷、訓乎多。〇今河辺郡の立花《タチバナ》村なるべし、今立花の東なる坂部久々知神崎の辺を小田村と改称したるは雄田の上郷なればなり、往時分郡の時雄田の上郷を河辺に隷せしめ、下郷を武庫に隷せしめ、下郷を和名抄には雄田郷と録せし者のごとし。
 
富松《トミマツ》 今立花村に属し、其中央に居る、塚口《ツカグチ》と相并び民口頗多し。太平記云、正平十七年和田楠其勢八百余騎神崎へ打莅む、摂津の守護佐々木道誉が代官箕浦俊定橋を二三間焼落して待けれど、和田楠は三国渡より打渡り小屋野富松河原林へ勢を差廻して、敵を河へ追ひはめんと取籠めたり、箕浦は浄光寺の要害へ引返さんとすれば、敵はや入替りたり。(浄光寺は今豊能郡中豊島村大字長興寺にや、不詳)〇細川両家記云、永正十六年細川高国、十二月二日池田城へ着給ひ、越水の城の後巻のため小屋野間九十九町|水山堂《ミツダウ》等武(587)庫川のはたに陣をつづけ、折々合戦させられたり。(水堂は今立花村に属し富松の南に在り)又云、享禄三年の八月に、細川晴元の与党なる薬師寺三郎左衛門山国盛は高松城にたて籠、同九月廿一日に神呪寺より富松城へ朝懸して責落ちければ、三郎左衛門に和泉衆相加へ尼崎の大物へ入られたり。
 
郡家《グウケ》郷 和名抄、河辺郡郡家郷。〇今伊丹町なるべし、此地猪名野宮在りて旧邑なり、今に至るも郡衙あること偶然にはあらじ。〇猪名野宮は伊丹町の北に在り、土俗祇園社と曰ふ、然れども古来野の宮と呼ぶを見れば為奈氏の祖神を祭れるならん、貞享二年邑主近衛家の重修する所也。
 
伊丹《イタミ》 伊丹町、今戸数千八百(大坂を去る四里余池田を去る一里余)醸酒太だ盛なり。旧事本紀に「宇摩志麻治命十二世、物部|木蓮子《イタビ》連公、石上広高宮御宇(仁賢)天皇御世為大連」と伊丹の名は木蓮子連に由縁あるか詳ならず、但し丹字は多仁に仮るべきも、多美に仮るべからず、亦疑なきにあらず。史徴墨宝考に貞治元年伊丹基長の軍忠状ありと云へば旧族の在りしを知る、伊丹氏は天正の初めに滅亡し、荒木村重国守と為り築きて之に居る有岡《アリヲカ》城と称す。徳川氏の時本邑は摂※[竹/録]家近衛殿の領封たり、市民の長を挙げて総宿老と為し之を治めしめたり。〇今尼崎池田間の鉄道線は伊丹を過ぐ。
山海名産図会云、伊丹に醸す酒は醇雄のほまれたかく、今は遠国にては諸白をさして伊丹とのみ称し呼べり、されど伊丹の酒を造る業も古代より久しきことにあらず。元は文禄慶長の頃より起て、江府に売始しは伊丹隣郷鴻池村山中氏の人なり、其の当時は纔五斗一石を醸して担ひ売とし、或は二十石三十石にも及びし時は近国にだに売あまりけるによりて、馬に負はせてはるばる江府に鬻ぎ、不図も多くの利を得て其価を又馬に乗せて帰りしに、江府ます/\繁昌に随ひ石高も限りなくなり富巨万をなせり。継起る者猪名寺屋升屋と云て是は伊丹に居住す、船積運送のことは池田満願寺屋を始めとす。うち継て醸家多くなりて今は伊丹池田、其外西宮兵摩灘今津などに造り出す物また佳品なり。頼山陽長古堂記云、伊丹之酒、醇於天下、而坂上氏最醇云、蓋醸戸亡慮七十余家、舶載輸江都、歳以三十余万斛為率、凡其運酒以木※[嬰の女が缶]缶、薦包席裏、署号於上、而其号争新闘奇、歳更月革、務刮人自聳衆観、而坂上氏唯墨一縦一横、為如剣鋒菱角状而已、自昔未之或改、呼曰剣菱、天下酒価低昂、皆視剣菱為準。
    伊丹のふくろあらひ
 賤の女や袋あらひの水の汁、    鬼貫
   七月伊丹の愛宕火を見て
 天もともし火に酔り伊たみの大燈籠、  宗因
   戯作摂州歌        頼 山陽
 兵可相、酒可飲、海内何州当此品、屠販豪侠堕地異、腹貯五州水※[さんずい+念]々、阿吉不吉捐与人、阿藤営宅城加錦、龍顛虎倒両逝波、戦血満地化嘉禾、伊丹剣菱美如何、各※[酉+埒の旁]一杯能飲麼
   和伊丹坂上生見寄     梁田 蛻巌
 雲斂丹丘※[直三つ]翠屏、鳳笙知爾倚欄聴、清風肯惹金銀気、楽土休図南北溟、携手山中観大瀑、回頭浦上爛秋星、懶仙何日攀鴻去、村月同斟桑落※[酉+需]、
補【伊丹】〇日本教育史資料 領主近衛家は京都住居にして、青侍等の此地に住するものなく、領内民政は平民中総宿老なるものを青侍格と為して之を掌らしむ、天保九年近衛忠煕公、儒学を好尚せらるゝに因り明倫堂を建つ、総宿老小西新古衛門等之に与る、槍本半介名通、字大路、静麾庵と号し又別に香坡と号す、明倫堂教頭に任ぜらる。在職二十年其間通学するもの領内人民のみならず他邦の土人往々来学するものあり、慶応元年に至て幕吏新撰組の捕ふる所となり、大坂東町奉行所の獄に繋がる、後流刑に処せられ、獄中に死す。
 
伊丹《イタミ》城址 伊丹町の東に在る一座の荒丘なり、壕塁の形稍々弁ずべし。南北一二町東西二町|有岡《アリヲカ》と称す、或は有応《アリオウ》山と曰ふ、伊丹氏の要害なり。細川両家記に高国方の人に永正十六年伊丹兵庫助国扶あり、天正の初め伊丹氏織田の軍の滅却する所と為り、天正六年荒木村重本城に拠り織田氏に叛きしが、翌年冬に及び落城す。〇城址の傍に墨染寺あり、荒木氏将卒の墓及び俳諧師鬼貫の墳在り、此寺法華宗にて伏見より移すと伝ふ。
   和尚にいかなるか是れなんぢが俳眼と問はれしに即答、     鬼貫
 庭前に白く咲いたるつばきかな、
日本外史補云、大永七年、三好元長攻伊丹不下、享禄二年柳本弾正与伊丹某闘、遂殺伊丹、伊丹与元長有姻、元長遣兵、救伊丹攻柳本、柳本走枚方。〇細川両家記云、天文二年三月五日、本願寺一揆衆おこり伊丹の城へ取懸る、らうかと云物を一町あまりづつ二通りこしらへ、昼夜の境なく尼女まで集り堀を埋めければ難儀に及候処同廿九日に木沢左京亮調儀して京中法華衆相語ひ後巻に下る、合戦あり後巻衆切かちて一揆衆五百計切捨なり、下郡中村々里々悉放火す。〇野史云、永禄十一年、織田信長入京師、先是伊丹親興先送款于信長、以故分摂津于親興及池田勝政和田惟正、後親興畔之、元亀四年七月、信長遣荒木村重来伐、親興拒戦、力尽遂自殺、城陥。外史云、天正六年荒木村重叛、拠伊丹城、応毛利氏、七年村重如華隈尻崎。
   有岡のむかしを哀れにおぼえて、
(588)  古城や茨くろなるきりぎりす、    鬼貫
  おもしろさ急には見えぬ薄かな、   同
辻《ツジ》碑は伊丹町大字辻に在り、此地伊丹の北昆陽の東北にして西国街道に当る、銘曰
 距東寺十里距関戸七里距須磨七里距天王七里距大小路七里
天王は丹波境枳根荘村(豊能郡)の天王峠なり、大小路は和泉堺浦に在り、此碑摂津志に載す近世好事者の建立か。
 
為奈《ヰナ》郷 和名抄、河辺郡為奈郷。〇今|園田《ソノダ》村なり、大字猪名寺あり、伊丹の南神崎の北にして猪名川の西畔に居る。藻川《モカハ》村中を貫流し食満御図田中瓦宮椎堂等十余大字に分る。
補【為奈郷】河辺郡〇続後紀 承和十一年十月戌子、摂津国言、依去天長二年正月廿一日、承和二年十一月廿五日両度勅旨、定河辺郡為奈野、可遷建国府、而今国弊民疲、不堪発役、望請、停遷彼曠野、便以鴻臚館為国府、且加修理者、勅聴之。三代実録仁和元年正月十三曰、勅、以説津囲為奈野、為大政大臣狩鳥野、樵蘇放牧、依旧勿制。同貞観元年四月廿日、詔賜左大臣従一位源朝臣信、摂津国河辺郡為奈野、為遊猟之地。同十五年八月、勅賜摂津国河辺郡為奈野於二品行中務卿兼上野太守諱(光孝天皇)親王、以為遊猟之地、勿禁百姓樵蘇焉。左馬寮式、為奈野牧右寮。姓氏録、摂津国皇別、為奈真人、宣化皇子火焔王之後也(日本紀同之)神楽歌、しながどりや、為奈のみなとにあそびいるふねの、かぢよくまかせ、かたぶくな、ふねかたぶくな」しながどり、為奈のふし原、あいぞ、とびてくる、しぎが羽音は、音おもしろき、しぎが羽おとは。拾遺集神楽歌に「しながどり為奈のふしはらとびわたるしぎが羽音はおもしろきかな」摂陽郡談、古名転文字村、為奈今川辺郡有て、猪名寺村となれり。
 
坂部《サカベ》 伊佐具《イサグ》神社は延喜式に列す、神功皇后、神前の松原に祈られしと云古跡ならん、今園田村大字上坂部の稲荷明神是なりと云ふ。〔摂津志〕〇坂部は元和三年五月播州大山寺衆徒注進状に、摂津尼崎同坂部村と記し太平記元弘三年の条には酒部に作る。姓氏録を諳ずるに酒部公あり所因あるか。姓氏録云、右京皇別酒部公、大足彦忍代別天皇皇子、神櫛別命三世孫彦大兄王之後也、大鷦鷯天皇御代、従韓国参来人、兄曾々保利弟曾々保利二人天皇勅有何才、白有造酒之才、令造御酒、於是賜麻呂号酒看郎子賜、山鹿比※[口+羊]号酒首郎女、因以酒看為氏、又「摂津皇別久久智、坂合部同、大彦之後也、允恭天皇御世、造立国堵之標、因賜姓坂合部連」と、久々智は今坂部の相接して其遺名あり。
 
瓦宮《カハラノミヤ》 園田村の大字なり、川原公の旧址なるべし。三代実録巻七巻卅八に摂津国河辺郡人川原公の人々見えて「宣化皇々子、火焔親王、是川原公為奈真人等祖」と録し、姓氏録云「摂津国皇別川原公、為奈真人同祖、火焔親王之後也。天智天皇御世依居、賜川原公姓」。
 
椎堂《シヒダウ》 和印村の大字なり、瓦宮の東北にして藻川を隔つ、蓋椎田君の旧居なり。日本書紀、宣化天皇火焔皇子、是椎田君之先也。(古事記椎田は志比陀に作る)姓氏録を参照するに、天智天皇の時椎田君を改めて川原為奈の二姓と為したまへるに似たり。
 
雄上《ヲノカミ》郷 和名抄、河辺郡雄上郷。〇今|小田《ヲダ》村なるべし、雄田の上郷の謂なり、雄田郷は和名抄武庫郡に属すれど今は本郡に転じ立花村と云ふ者蓋是なり。
 
神崎《カンザキ》 今|小田《ヲダ》村に属す、三国《ミクニ》川(一名神崎川)に臨む、往時大河尻大物浦に海船の競ひ入泊するに当り、神崎は京津間の水駅たり、後大に衰ふ。神崎停車場は神崎の西十五町に在り、尼崎伊丹の間を過ぐる幹線車駅也。
摂津風土記云、昔息長足媛天皇、幸于筑紫時、集諸神祇於川辺郡内神前松原、以求福。〇朝野群載遊女記云、江河南北、邑々処々、摂津国有江口神崎蟹島等地、比門連戸、人家無絶、倡女成群、掉扁舟、看旅舶、以薦枕席、声遏溪雲、韻飄水風、経廻之人、莫不忘家、洲蘆浪花、釣翁商客、舳艫相連、殆如無水、蓋天下第一之楽地也。江口則観音為祖、中君、□□小馬、白女《シラメ》、主殿《トノモ》、蟹島則宮城為宗、如意、香炉、孔雀、三枝、神崎則河菰姫為長者、姑蘇、宮子、刀命《トメ》、小児《コチゴ》之属、皆是倶尸羅之再誕、衣通姫之後身也。上自卿相、下及黎庶、莫不接牀第、施愛慈、又為妻妾、没身被寵、雖賢人君子、不免此行、南則住吉、西則広田、以之為祈徴嬖之処。殊事百大夫、道祖神之一名也、人別※[宛+立刀]之、数及百千、能蕩人心、亦古風而已、長保年中、東三条院参詣住吉社天王寺、此時禅定大相国(道長)被寵小観音、長元年中、上東門院、又有御行、此時宇治大相国(頼通)被賞中君、延久年中、後三条院、同幸此寺社、狛犬犢等之類、並舟而来、人謂神仙、近代之勝事也。成田参詣記云、百大夫云々ハ男根の貌ヲ多ク拵ヘタルガアルコトナルベシ、但し宙大夫ノミニテハ通ジカヌル故ニ道祖神ト註セシナラン。〇園太暦に神崎、浜崎、杭瀬、今福、久岐等の住民神仏権勢の号を仮り公役を逃るゝを責し請状あり、浜崎は尼崎を指せるごとし。
 津の国のなにはの事か法ならぬ遊びたはぶれまでとこそきけ、〔後拾遺集〕        遊女宮木
神崎の東南三国川を隔てゝ加島あり、古の蟹島なり。太平記には神崎橋数度の戦場と為る事を載す、今架設する所なし、時々形勢の変易に因るとは云へ、今や孤(589)村寂寞として傾城塚の草離々たるのみ。
補【三国渡】〇太平記(正平十七年八月〕和田楠其勢八百余騎を率し、野伏六千余人神崎の橋爪へ打莅む、(摂津国の守護代箕浦次郎左衛門)其勢僅に五百余騎神崎の橋二三間焼落て、敵河を渡さば河中にて皆射落さんと鏃を汰て待懸たり(中略)和田楠元の陣に尚控たる体を見せん為に、殊更篝を多く焼続させて、是より二十余町上なる三国の渡より打渡て、小屋野、冨松、河原林へ勢を差廻して、敵を河へ追はめんと取籠たり。
 
久久知《ククチ》 今|小田《ヲダ》村と改む、神崎の西にして立花村の東也。立花は和名抄武庫郡雄田郷の地と云ふ、而て久々知神崎辺は阿辺郡雄上郷と云ふ、雄田の上郷の謂なり。姓氏録に摂津皇別、久久知、高橋臣同祖大彦命之後也と見ゆ、此地の在住貴族なりしを知る。〇南山巡狩録云、元弘三年六月、赤松退治とて佐々木時信常陸前司時知五千騎にて打向ひしかども、この勢わづかに打なされ幾程なく帰京せしかば、洛中の騒動おほかたならず、赤松三千騎にて久々知酒部を陣どれば、十月六波羅の討手再び瀬川に到着す、十一月戦を遂るといへども討手また利を失ひ、赤松勢は遁るを追て十二月淀赤井山崎西岡に着て、所々に火をかけたり。
 
長洲《ナガス》 今小田村に属す、尾崎の北六町許、海を隔つ一里、然れども古は難波潟の汀線此辺に画せられし也。日本書紀履仲巻に「負悪解除善解除、而出於長渚崎、令祓禊」とあるは此なるべし。
 いのちだに長洲に有れば津の国の難波の事もうれしかるべき、〔相摸家集〕 しなが鳥|居名《ヰナ》のみなとに入る舟の梶よくまかせ傾くな、若草の妹も乗たりや我ものりたりや船かたぶくな/\、〔催馬楽階香取草〕
 大わたに荒しなふきそしながどり居名の湖に舟はつるまで、〔万葉集〕
補【長洲】川辺郡〇日本戦史 十月十三日大坂の兵出で、堺の奉行所(当時は政所と称す)を囲む、奉行芝山正親衆寡敵せざるを慮り、岸和田に退く、是より先、正親人を茨木に馳せ援を乞ふ、且元銃卒百余人を発遺す、其兵尼崎に至り海路より赴かむと欲し、長洲村に俳諧す、大坂の斥候之を撃つ、茨木の兵神崎より伊丹森本に転戦し、茨木に遁れ還る。〇今小田村大字長洲。
 
余戸《アマベ》郷 和名抄、河辺郡余戸郷。〇今尼崎なるべし、余尼共に海の古言と相同じ蓋|海戸《アマベ》海崎《アマガサキ》の謂なり。此地は三国川の末に在りて難波潟武庫浦に臨む、大河尻大物浦尼崎等、旧時の海港相並ぶ、停泊の便否は世と共に変易し、今寂々たる海村なり、独尼崎の猶旧観を保つあるのみ。
 
大河尻《オホカハジリ》 大河尻は三国川(一名神崎川)の旧委口にして大物浦大和田(西成郡)の間也。今地形変易すと雖、大略尼崎の東|杭瀬《クヒセ》梶島《カヂガシマ》(今小田村に属す)佃島(西成郡千船村)等を其古跡とすべし。木津川口(西成郡)をも或は大河尻と称す同名異処なり、大河尻大物浦は平安京の初より西海の要津と為る、南北朝の比より大河尻大物浦散亡して尼崎之に代る。大和物語云、亭子の帝(宇多)川尻におはして遊女《ウカレメ》しろと云を召に遣はしたりければ参りてさぶらふ、かんだちめ殿上人みこたちあまたさぶらひ給ひければ、しもにとほくさぶらふ、かうはるかにさぶらふよし歌つかうまつれと仰せられければ、即読て奉りける。
 浜千鳥とび行かぎりありければ雲立山をあはとこそみれ
とよみたりければ、いとかしこくめで給ひて、かづけものたまふ。〇藤原隆信集云、人々にいざなはれて川尻のかたへあそびにまかれりしに、うかれ女などあまたきあつまれる中に、きびめがむすめとかすぐれて目とゞまりしかば、かへるみちよりたよりにつけていひやりし、
 浅からずこゝろをかけし浪路よりぬれにし袖のかはくまぞなき。
俊頼家集云、此道にながら(長良)と云所聞ゆるは過ぎぬるかと人のたづぬれば、船人のながらはくまかは(くまかは不詳)の方になん侍ると云を聞て、
 涙のみ大河尻のかたなればよもながらへはゆかじとぞ思ふ、
又云、一の洲に事なくて入て悦ぶ程に、とゐと云者の詣で来て酒などこゝろざして侍けるを、人々急ぎのみけるに殊の外にすかりければ、飲さし侍りけるを見てよめる、
 入ぬるをよろこび顔にのむまじや一のす酒をとゐこともなく。
此を西河尻《ニシカハジリ》とも曰ふ事は長門本平家物語に見ゆ、木津《キヅ》口に対せる名ならん。又源義経河尻出船の際、合戦の事、異説多し、参考本盛衰記云、伊予守義経西国へ落下ると聞き、摂津源氏多田蔵人行綱、大田太郎、豊島冠者等千余騎を引具し当国中小溝と云所にて陣を取。玉海、文治元年十二月四日、伝聞、昨日義経於河尻辺、与太田合戦、打破通了、又云、義経行家等、去五日夜、来船宿大物辺、自夜半大風吹来、乗船損亡、義経行家等、指和泉浦逃去了、東鑑云、五日予州、至河尻之処、多田蔵人豊島冠者等、聊発矢石、遮前途。印本平家物語云、大田太郎頼基、河原津と云所に判官を射懸、伊藤本平家物語云、溝杭と云所に城槨を構えて待懸たり。〇史学雑誌、建久七年大政官符〔大坂小原文書〕云、「河尻一洲者、洪濤漫々、万里無岸、広潟浩々、四面受風、既来而欲人河尻不得、而空没海底」この官符は東大寺(590)重源上人魚住輪田の二処と同く河尻の閂洲をも修治せんと奏上せるに答せる者也。数行の文字なれど緊切比無し、輪田(兵庫)は先づ成り魚住も後年普請したるが如し、唯此河尻の成否は詳ならず、此官符中に「雇役河尻在家人夫」の語あり、即河辺郡海部郷西成郡海部郷の民なるべし、又大物(尼崎町大字)の東に杭瀬《クヒセ》の名存す、蓋往時の停泊処にして杭を建てたるにより此称あるか。
 
寺江《テラエ》 大河尻に在り、其地詳ならず。玉海云、治承四年六月十三日、参福原離宮、到草津乗船、終夜浮淀川、十四日就邦綱寺江山荘、到于大物浦、駕輿。百錬抄云、治承四年六月二日、行幸摂津国福原、法皇新院同以臨幸、貴賤上下出平安旧城、赴摂津新都、今日着御寺江頓宮。〇寺江後世に聞えず、光雅卿記を参考するに大納言邦綱は大河尻大和田に山荘を占有す、寺江は其中の一名たること明白なり。(平家物語寺井に作る)、
 
大物《ダイモツ》 古は大物浦又大物浜と称す、大河尻の停泊処也、今尼崎町の東に大字大物あり、又大物浜大物橋の遺称存す。名所図会云、大物浜を蘆刈島とも曰ふ、昔此浦に日下左衛門と云者あり、家貧く夫婦飽かぬ別を為して女は京へ上り男は島にのこり再会を待ちつ、蘆を刈り世のいとなみせしが、後に女は貴くなりて男に逢し事大和物語に見ゆ、是也。東鑑、文治元年十一月六日、行家義経、於大物浜乗船剋、疾風俄起、而逆浪覆船之間、蘆外止渡海之議、伴類分散、相従予州之輩四人、所謂伊豆右衛門尉堀弥太郎武蔵坊弁慶妾女静一人也。〇源平盛衰記に、藤原師長土佐国左遷の途大物浦に至り琵琶の秘曲を源惟守に伝授したる由を載せ、太平記に尊良親王の家従秦武文御息所を供奉し土佐へ下らんとて、大物浦に至り賊難にかゝる事を載す。
浦初島は大物浦に在り、今尼崎町字辰己及初島新田の辺なるべしと云ふ、紀州にも同名あり。
 思ひやる浦の初島おなじくはゆきてや見まし秋の夜の月、〔続拾遺集〕        平 清時
尼崎《アマガサキ》 尼崎町今戸数二子八百、神崎川を控へ大阪湾に臨み、溝渠四達す。其北方猪名川筋には鉄道を架し、伊丹池田に達す、幹線鉄道は神崎駅を最近とす、本町を去ること凡二十町。〇尼崎港は小船の出入あるのみ、南方の広斥大字|大洲《オホス》に一渠を穿通し、海上に防波堤を起し船を導く、二十町にして本町に至るべし。又神崎川の支流にも小船を容る。尼崎は蓋|海土《アマ》崎にて、和名抄余戸郷の地なり、太平記に初出す、云元弘二年五月、隅田高橋は両六波羅の軍奉行として四十八所の篝并に在京人畿内近国の勢尼崎神崎柱本の辺に陣を取り、遠篝を焼きて楠と対陣す。又云、元弘三年三月、六波羅勢既に瀬川に着きぬと聞えければ、赤松勢は在家にこみ入待ける所に、尼崎より船を留めてあがりける阿波の小笠原三千余騎にて押寄せたれば、赤松敗軍して小屋野の西に退く。〇尼崎は元弘三年五月播州大山寺衆徒注進状に見ゆ、赤松合戦の時の事なり。大永七年細川高国故公方義澄の子義昭を迎立せる時、尼崎に築城す、当時尼崎大阪堺浦は鼎立して争衡の勢あり。天正の初年荒木村重修補し、村重の叛くや本願寺一揆と協力して尼崎花隈を保ち織田氏に抗す、織田氏遂に之に克ち二城を池田信輝に属す。十年六月本能寺の変羽柴秀吉急に軍を旋して尼崎に至り信輝と謀り明智を撃つの謀を決す、遂に山崎の大捷あり、当時神戸信孝大阪に在り遅疑止まず、秀吉の言に曰く、〔新編会津風土記古文書〕
 信孝様大阪に御座候を、明智既河内へ乱入はや大阪を取巻御腹を可召之由、八日酉之刻風の便に御注進候間、若信孝様御腹召候ては何かも不入儀と存、夜昼なしに八日辰之刻尼崎迄令着陣、人数不相揃討死仕候はんと存、川を越致後巻可申に相究申候。
 
尼崎《アマガサキ》城址 尼崎町の中央に在り、方五町許、内外の二郭に分れ、石塁壕池猶存す、旧名大覚寺城と称すと。細川高国創築、荒木池田両氏を経て、慶長の比建部某之に居る、徳川氏の時元和三年戸田左門氏鉄に賜ひ、寛永十二年青山大蔵大輔幸氏之に代り玄孫幸侶に至り、宝永八年松平(家号桜井)遠江守忠喬更に之に代る、封土四万石以て、明治維新に至る。
 
本興寺《ホンコウジ》 城址の西に在り、日蓮宗八品派の一本山也、応永二十七年憎日隆開基す、今仏殿祖堂開山堂多宝塔等あり、宏壮の伽藍なり。
栖賢《セイケン》寺は臨済禅家十刹の一に列す、文和年中僧竺堂開基す、天正年中羽柴氏の陣舎なり、徳川氏の時田禄五十石を給附せり。〇如来院《ニヨライヰン》は浄土宗円光大師遺跡二十五所の一なり、遍照寺と号し、初め神崎に在り。
   釣鯊          広瀬 旭荘
 遠山西隠寒雲繞、孤鶴南飛秋色杳、夾水両行紅樹間、釣鯊舟過知多少、
謡曲雲林院云、蘆屋の里を立出でて、我は東に赴けば、名残の月の西の海、汐の蛭子の浦遠し、松陰に煙をかづく尼が崎、暮れて見えたるいさり火の、あたりを問へば難波津に、咲くや木の花冬ごもり、今は現の都路に、遠かりし程は、桜にまぎれある、雲の株に着きにけり。〇明朝人の録せる図書編に「日本、山城居中、乃彼国之郡、山城之南、為和泉、其南海※[奥/山]泊舟者、為阿売介撒几、為歪打阿波、為干撒几、為天正者、為沙界衣、又其南為沙界」と見ゆるは懸聞寄訳の誤あれど、阿売介撒几《アマガサキ》は尼崎にて、沙界《サカイ》は堺なり、于搬几は大坂(591)にや又尾崎(泉州)にや、其地を知らず.
 
     武庫郡
 
武庫《ムコ》郡 古書或は務古に作る、明治二十九年|菟原《ウハラ》八部《ヤタベ》二郡を廃し、本郡に合す。東は河辺郡、北は有馬郡、西は播磨明石郡にして南は海に面ふ、六甲山(古名武庫山)摩耶山其北に峙え、武庫川其東を流る、東西八里南北二里東南に向ふて海湾を抱く、謂ゆる武庫海なり、此地明石海峡の東門にして、瀬戸内海の要隘を占め、東西往来の便利難波大坂の上に在り、且山囲江繞、風波の虞少きを以て最巨舶の寄港に便なり、之を以て務古水門は神功応神の朝より其名あり、中世には兵庫津福原荘一時遷都の事あり、近時神戸市を開き五方万国の互市場と為し、豪華富美横浜と相敵す。〇本郡今神戸市独立し、郡部二町(西宮御影)十有九村に分る、人口凡九万、郡衙は西宮町に在り。神社考云、風土記「神功皇后伐三韓、帰到摂津国、海浜北岸、広田郷、今号広田明神是也、故号其海曰御前浜、又埋其兵器処曰武庫」と、此埋兵の説は元亨釈書にも見ゆ「埋如意珠、及金甲冑等、故亦曰武庫」と共に疑はし、按に武庫は仮字のみ記紀務古に作る、埋兵の故に新に命じたるに非ず、後世に至り埋兵の遺説あるを以て更に兵庫の称起るか、加茂真淵武庫は原名|向《ムカフ》なりと曰ふ説に従ふべし、住吉大社解状には御子《ミコ》の訛と曰へり。
 たまはやす武庫のわたりに天づたふ日の暮行けば家をしぞ思ふ、〔万葉集〕冠辞考云、此武庫は聟と云説あれど歌の意は椋と云かけたらむか、椋の葉は物を磨けば也、又此名は古書などには務古とも牟古とも書たれば武庫も仮字なるを、字に就きて説をいふは俗の業なり、椋の樹ある地あれば椋山などいひしか、又向《むか》つ峰向つ国など古へ多く云へり、此地海頭へさし出たる地にて難波より向はるゝ故に向と云ふか。〇今按ずるに武庫原名向と云ふ事最信ずべし、日本書紀に向津比売とあるは即式庫郡広田大神なり、当時西宮広田の辺を向津《ムカツ》と称せるならん、和名抄津門郷後世灘目郷と称す、又兵庫も務古水門と号し、湊川の名有す。之に因りて観れば菟原八部二郡も古代は総名武庫の中なり、国郡制置の際武庫菟原雄伴(後八部に改む)の三と為る、今代の合併即復古の挙なり。〇姓氏録、摂津国諸蕃牟古首、出自百済国人片礼吉志也。続日本紀、天平神護二年、武庫郡大領、日下部宿禰浄方、献銭二万※[木+温の旁]榑一千枚。
補【武庫郷】武庫郡〇〔和名抄郡郷考〕万葉集十七、多麻波夜須武庫能和多里爾云々。〔冠辞考、略〕東鑑、文治六年四月、摂津国武庫庄。源貞世道ゆきぶり云、津の国のあくた川にいたりぬるにも、ちりの身の行末いかゞとおぼつかなし、世河小屋野などいふところの川づらにそひて、木ぶかく物ふりたる山あり、鳥居たたり、そのあたりの人に尋ね侍れば、これは昔足姫のもろこしの三の国したがへたまひかへりたまひける時、この山によろひかぶとなどうづみ給ひけるより、やがて武庫の山と申すとなん。
 このたびもあらき波路のさはりなく猶ふきおくれむこの山かぜ
摂陽群談、歴世不易村とて十箇村挙たる中にあり。
 
武庫海《ムコノウミ》 武庫川鳴尾崎より兵庫津輪田崎に至る曲浦なるべし、武庫浦とも云ふ。日本書紀、持統天皇三年、禁断摂津国式庫海、一千歩内。
 武庫の海のにはよくあらしいさりする海士のつり舟なみのうへゆ見ゆ、〔万乗集〕夕づく日和田のみさきをこぐ舟の片帆にひくや武庫の浦風、〔玉葉集〕武庫の浦の入江の渚鳥羽ぐくもる君を離れて恋にしぬべし、〔万葉集〕
武庫のうら和田の御崎によるなみのここにもかくる天の橋立  釈 契冲
   武庫郡南浦、有懐寄京故人、    僧 義堂
 四海干戈猶末息、辺烽点々※[火+樂]眸紅、回胆北闕人何在、倚遍南楼月正中、半夜潮鳴知海国、五更鐘動覚霜空、憑誰挽下天河水、注為蒼生洗蘖虫、(応仁元年避乱中之作云)
 
武庫川《ムコガハ》 水源有馬郡に在り、其一支源は古市村(丹波多紀郡)より出て一支源は小野村に出づ、南流三田川となり有馬郡中の諸水を併せ東流又南流して生瀬《ナマセ》に至り武庫郡に入る。(水源より此に至る凡十里)更に南流四里にして海に入る、鳴尾崎と云ふ。〇武庫川下游は平時水涸れ砂碩広し、瓦林の南に一支脈あり西に折れ今津に至り海に注ぐ。
 武庫河の水尾をはやみか赤駒のあがくそゝぎにぬれにけるかも、〔万葉集〕武庫川に跡もとゞめぬかほよ鳥なく日も見えぬさみだれの頃、(夫木集〕  家長
和名抄に依れば武庫郡の地、河東に賀美児屋雄田武庫曽根の五郷あり、今賀美児屋雄田の三郷は河辺郡へ入る。
 
石井《イシヰ》郷 和名抄、武庫郡石井郷、訓以之井。〇今詳ならず、民部省図帳に「武庫郡石井荘、以海鮮之料食塩之有無、充貢云々」と録し、書紀通証は之を引きて石井荘に広田大神在りと為せど、図帳は偽書と思はるれば採らず。今郡郷の布置を按ずるに良元《リヤウゲン》(592)村に擬すべし。
 
伊孑志《イソシ》 良元《リヤウゲン》村大字伊孑志、伊曽志と訓む、孑は孫の略字か。摂津志伊刀志に作る、武庫川の南岸にして有馬郡生瀬駅の東南一里に在り。
 
宝塚《タカラヅカ》 伊孑志に在る鉱泉の名なり、武庫川の岸にして、近年浴場を設け冷泉を熱し、遠近の遊客を延く。泉質は含炭酸塩泉なりと云ふ、往時此地に塩尾《シホヲ》湯又|川面《カハモ》湯と称する冷泉ありし事摂津志に見ゆ、俗説有間湯の遁水《ニゲミヅ》と為す。
補【宝塚】〇京華要誌 武庫郡良元村字伊孑志にあり、西の宮停車場の北二里を距つ、泉質は含炭酸塩泉に属する冷泉にして、其成分はコロールナトルウムなり、近年浴場を設く、叉飲用すれば胃腸のカタル病并に腺病を治すべし、旅舎料理店等武庫川の河岸口にありて、遊客は不便を感ずることなし。
 
小林《コハヤシ・ヲハヤシ》 今良元村と改む、伊孑志の南に接す。小林荘は山州新熊野社養和年中古文書に見ゆ、又藤原光経集に小林《コハヤシ》の温泉の事見ゆ、此温泉即今の宝塚なるべし。
   貞応二年十月、津の国のをはやしと云所に湯あみんとてまかりて侍りしほど、なれ遊びし遊女に小屋野より別るとて、
 旅人のゆきゝの契りむすぶともわするな我を我もわすれじ、            藤原光経
 
譲葉峰《ユヅルハノミネ》 枕草子云峰はゆづる薬のみね、春曙抄云ゆづる薬のみねは津国なり※[木+牒の旁]《ユヅリ》の嵩に同じ。摂津志云、※[木+有]李葉《ユヅリハ》岳伊刀志村上方也、山中※[木+有]李樹多矣。
 
武庫《ムコ》郷 和名抄、武庫郡武庫郷、訓無古。〇今武庫村是なり、大字武庫存し武庫川の東なり。武庫御厨は東鑑建久三年の条に見ゆ、武庫荘は同元年の条に見ゆ、大字武庫荘の名亦存す。
 
守部《モリベ》 今武庫村の大字なり。細川両家記、永正十六年細川高国越水域後巻の条に「小屋野間九十九町高木河原林式庫守部水堂等」に陣を立てつづけ折々合戦の事見ゆ。
 
新田《シンデン》 今|大荘《オホシヤウ》村と改む、武庫村の南に接し同く武庫川の東なり。細川両家記、永正十六年越水城後巻の段に「武庫守部水堂浜田大島新田武庫川のかた上から下まで陣を取つゞけ折々合戦させられたり云々」浜田大島の二大字は新田の北に接し今同く大荘村に属す、近代此地は大島荘と称し故に大荘と改めたるなり。摂津志、新田の南なる大坂港の一部を以て琴浦《コトウラ》と為す、琴浦一に異浦に作る。
 こと浦に朽てすてたるあま小舟わが方に引く波もありけり、〔風雅集〕はつ音をばわが方になけ子規こと浦に待つ人はありとも、〔続千載集〕
 
曾禰《ソネ》郷 和名抄、武庫郡曾禰郷。〇今鳴尾村是なり、大字小曾根存す。武庫川の西にして北は今津村と枝川を以て相限る、西南は武庫浦なり。新撰字鏡※[石+角]を曾禰又夜和戸留止己呂と訓む。
 
小松《コマツ》 鳴尾村大字小松は小曾根の南に接す、其生土神に哀加志乃宮あり、摂津志名所図会等は押照宮と録し、孝徳天皇有間温湯より還幸の時停駕ありし武庫行宮の跡と為す、日本書紀参照すべし、今此生土神を延喜式岡太神社に擬する者あり、不審。〇夫木集に小松崎は摂津近江両処と為す、此なる小松崎は鳴尾崎に同じ。
 難波潟うらかぜさむみ汐みてば小松が崎に千鳥なくなり、〔夫木集〕         勝明法師
観応二年足利尊氏御影浜小清水に合戦し、敗れて松岡の城へ退く事太平記に見ゆ、摂津志、松岡域址は小松に在りと為せど、今詳ならず。
 
鳴尾《ナルヲ》 鳴尾は武庫川西岸の大村なり、即古の曾禰郷なり。此地は泥沙年々流水に排出せられ沈堆して洲を成す、古は小松崎の名あり、蓋鳴尾崎と相同く武庫川口の沙嘴を指す。今小松より沙嘴まで三十町、鳴尾より沙嘴まで二十四町を距る、沙嘴には立標ありて其東面を大坂港の限界と為す。鳴尾浦は武庫海に属し大坂港限界の西を指す、即今津西宮の澳なり。
 常よりも秋に鳴尾の松風はわけて身にしむものにぞありける、〔新拾遺集〕      西行法師
 けふこそは都のかたの山の端も見えずなる尾の沖にいでけれ、〔千載集〕       大納言実家
   なる尾なる所に塩ゆあみにまかるとて
 あすよりは恋しくならば鳩尾なる松の根ごとに思ひおこさむ、〔散木集〕       源俊頼
謡曲高砂云、たかさごや此浦舟に帆をあげて、月もろともに出でしほの、波の淡路の島影や、とほくなる尾の沖すぎて、早すみの江に着にけり。
 
瓦林《カハラバヤシ》 今高木と合同して、瓦木村と改む。細川両家記永正十六年越水城後巻の段に小屋野間九十九町高木河原林云々とあり、九十九町は今詳ならず、河原林即瓦林なり、同書に又河原休対馬守正頼あり此他の郷士なるべし。(史籍集覧に瓦柿政頼記を収む)
 
津門《ツト》郷 和名抄、武庫郡津門郷、訓都止。〇今|今津《イマツ》村瓦木村なり、今津に大字津門有す、広田の水門なれば津門と呼ぶ。姓氏録云、摂津国皇別津門首、櫻井臣同祖米餅搗大使主命之後也。
補【都門郷】武庫郡〇津門、都止。行嚢抄、〔垂出、都努松原〕此所をつとといふことは、昔多田満仲の息男美女丸の為に死したる幸寿丸が首をつゝみたるつとといふもの流る、故に村の名とする由里俗の説なり、首洗の池とて材の内に在、松原山昌林寺、村の内池の西に(593)有、浄土宗、此寺に源頼光御影堂、幸寿丸が石塔有、角の松原・名次山、津戸の西海道より北に少し松原ある所といふ、名次山と云も同所なり。万葉集三、我妹子に猪名野は見せつ名次山角の松原いつかしめさん。摂陽群談、古名転文字村、津門、今矢田部郡に有て、津戸に作る。〔和名抄郡郷考〕
 
都努松原《ツヌノマツハラ》 津門の松原なるべし、〔摂津志万葉集略解〕今昌林寺の山号を松原と称す其遺名ならん、都努一に角に作る。
 我妹子に猪名野は見せつ名次《ナスギ》山角の松原いつかしめさむ、〔万葉集〕天乙女いさりたく火のおほくして都努の松原おもほゆるかな、〔同上〕
行嚢抄云、此所を津戸と云事は、昔多田満仲の息美女丸に代り死Lたる幸寿丸が首をつゝみたる苞《ツト》の流れ来りし故に村の名とする由、里俗の説なり、松原山松林寺あり。〇幸寿丸の首苞の説は妄誕なれど、摂津志に昌林寺に源摂津守頼光墓ありと云ふ、源家由緒の古刹なるべし。
 
今津《イマツ》 鳴尾の西にして西宮の東なる海村なり、蓋津門の村を南移したる者ならん、今津門と相距る八町に及ぶ、西宮と相去る五町、造酒家多し、戸数富力は之を西宮に比して稍遜色あるも亦灘目郷屈指の豊邑なり。海浜に入船に使する為め小渠を設け燈台を建つ。(元治元年幕府西宮今津に小砲台を築きし事あり)
 
西宮《ニシノミヤ》 西宮は戸数三千、西国官道中央を貫き鉄道は其北を過ぎ、車駅あり。南に港湾あり。沙嘴西南を掩蔽して泊舟の地を作為す、神戸(四里)大坂(五里)の中間にあたり、灘目郷第一の海駅也、夷宮《エビスノミヤ》鎮坐し其名最著る。又醸戸は方今西宮を推して灘《ナダ》の最多額と為す、尺素往来に「酒者|天野《テンヤ》南京《ナラ》之名物、兵鹿・西宮之旨酒」と述ぶれば古代より其業の起れるを徴するに足る。又海東諸国記に「戊子年(我応仁二年)吉光遣使来朝、書称畿内摂津州、西宮津尉、長塩備中守源光吉、以宗貞国請接待」とあるは朝鮮貿易に従事せる土豪ありしを観る。
   摂津州途中       頼 山陽
 郊畿行未了、淡島喚将※[應の心言]、黒見酒家瓦、紅知商舶燈、英雄迭経紀、形勢尚飛騰、自笑書生拙、征塵屡笈※[竹/登]、
太平記云、建武三年正月、官軍京都に勝利を得て足利勢は西へ行く、新田義貞追懸て西宮へ着給へば、直義尚支へて湊河に陣をぞ取られける。同七日の朝なぎに遙の澳を見渡せば、大船五百余艘順風に帆を掲げて東を指して馳せたり、何方に属く勢にかと見る処に二百余艘は※[楫+戈]を直して兵庫の島へ漕ぎ入る、三百余艘は帆をついて西宮へぞ漕ぎ寄せける、是は大伴大内介が将軍方へ上りけると、伊予の土居得能が御所方へ参りけると漕ぎ連れて着たるなり。荒手のしるしなれば大伴厚東大内が勢三千余騎一番に旗を進めたり、土居得能後へつとかけ抽けて直義の控へ給へる打出の宿の西の端へかけ闘ひける間、左馬頭叶はじや思はれけん又兵庫を指して引き給ふ。
 
西宮《ニシノミヤ》神社 西宮町の西北字市場に在り、延喜式菟原郡大国主西神社即是なり、土俗|夷《エビオスノ》宮と称す。中世以降夷神を福徳の神と為し世の崇敬盛なり、殊に商賈の拝する所也、其緑由を論ずる者諸説一定せず、稍聞くべき者三説あり。〇書紀通証云、諾尊冊尊為夫婦、生蛭児、雖已三歳、脚猶不立、故載之於天磐※[木+豫]樟船、而順風故棄、白井宗因曰、蛭子御前、西宮所祭之一座、世所謂西宮夷是也、相殿二座、事八十神大国主命、卜部兼煕甘二社注説也。塩土伝云、蛭児尊、世称福神、即西宮夷神社、而社下蛭子浦、蓋其船之泊処也。(此説蛭子と為す者也、臆説にして明了を欠く、然れども平家物語剣巻にも此説あり)〇俗鋭弁云、世俗大黒と云は大己貴命なり、大己貴一名大国主、大己貴大国字音彼此相共に近似す、竺土釈家にも大黒天あり相混せざるを要す、大己貴の子事代主命を夷神とも称す、彼蛭子の船津国に流れ着きけるを其土の夷ども養ふて夷三郎殿と号したりと云は偽説なり、山崎垂加云、「大己貴命、初自経営中州、而不昇于天上、其子事代主命遊行釣魚、聴天神之勅、則避而去之、勅使父陥於不義、其徳之至、為如何哉」この父子二神実に本邦地主の神なる故に、今に人家祭りて福神とするなるべし。〇大八洲学会雑誌云、源平盛衰記に平判官康頼流人たりし時、硫黄島を去る事五十町に離山あり、彼岳には夷三郎殿と申神を祭る由載せり、今立綱法師随筆萍之跡を考ふるに、薩摩には夷神の像は他邦岩上釣魚のものと異なり、男女の二像玉を捧げ并びて座する也、蓋彦火火出見尊と妃豊玉姫なり、彼|夷《エビス》の辞も恵美須に訛にして笑《ヱ》み栄え給ふ御容に出づ、御名火火出見は頬笑《ホヽヱミ》にして含笑の義にあらずや。〇按ずるに蛭子説採るべからず、事代主命と云者稍信にちかし、彦火々出見尊と為すは詳ならざる所あり、其恵美斯愛比須は古音相通の事は実に然りと為す。延喜式大国主西神社と号するに因れば其大国主神(父大己貴にても子事代主にても)たる事疑ふべからず、後世夷の宮の名あるも夷《エビス》は本社の地字にやあらん、要するに神名社名の根本は夷に在らずと知るべし、夷の名の附会は固より此神の本緑にあらず。
 西の海に風心せよ西の宮あづまにのみやえぴすさぶらふ、〔拾玉集〕
 〔補注、右の歌未詳〕
   西の宮の神民の船に桙榊して、ぬされうと云物(594)とりて風の祈するかたかけるをよめる、
 柴小舟まほにかけをせゆふしでて西の宮人風祭りしつ 〔散木集〕
   過西宮、観俗所謂剣珠者、  憎 義堂
 袖裡摩尼一顆円、霊光夜射九重天、若従沙竭宮中過、龍女神珠不直銭、〔空華集〕
東鑑(巻四十三)今度始而於西御門脇、被勧請三郎大明神、又(巻四十八)夷社とも見ゆ此時代より夷宮諸州へ勧請せらるゝにや、類聚既験抄には浜南宮夷三郎殿とありて、閑院大臣冬嗣の愛女が此神の霊気にかゝりて病み狂ひたる事を録したり。〇摂津志、本社は広田の西に在るを以て西宮と称すと為せど疑はし、広田の南に在り、然れども「故蹤は西浜に在りて南宮又は沖の荒夷と称す、合せて戎三郎両社と云由」仲資王記に見ゆれば、其故蹤こそ菟原郡に属し広田の西南なりしならん。(南宮は今本社内に移す)〇西宮は広田の末社なれば建久五年夷宮震動の怪あるを以て広田神に奉幣あり、〔仲資王記摂津志及広田社廿四番歌合〕応永廿六年蒙古襲来の時、西宮荒夷宮震動の事は後崇光院御記に見ゆ。〇西宮の末社に百太夫祠あり傀儡師の祖なりと云ふ、中世|夷舁《エビスカキ》と云ふ傀儡師あり本社の駕輿丁の類にやあらん。
補【西宮神社】〇神祇志料 大国主西神社、又夷宮と云ひ戎三郎宮と云、即広田の末社也(仲資王記)今武庫郡西宮村に在り、広田社の西なるを以て又之を西宮と云(摂津志・神名帳考・神社啓蒙)醍醐天皇延喜の制、祈年祭鰍靱を加奉りき(延喜式)後鳥羽天皇建久五年七月甲亥、夷宮屡鳴動の怪あるを以て幣を広田社に奉り、土御門天皇元久元年八月甲辰、神社を改造て遷宮を行ふ(仲資王記)毎年正月十日|斎居《ヰコモリ》祭を修む、凡そ斎警て響音を停むる事尤厳也(摂津志)奥の夷宮旧村西浜南に在り、故に南宮と云ひ、今本社域内に在り(摂津志・神社啓蒙)合せて戎三郎両杜と云(仲資王記・忠富王記大意)
 西宮 神も釣たれて柳の池すゞし   廬元
赤松記、享禄三年〔赤松殿〕親の敵浦上を御討有べき調略にて堺へ人質を被出事相済、云々、屋形の御陣は西の宮六大寺と申寺にて候、浦上衆切かゝり来ると雑説有、とかく六大寺に御座候ては一日も御抱難被成候とて、俄に神尾の寺へ御陣替。
 
御前浜《オマヘノハマ》 西宮の南浜なり、摂津風土記〔神社考所引〕「皇后到摂津国海浜、北崖広田郷、故号其海浜曰御前浜、又曰御前澳」かの夷宮の旧地は此なるべし広田社の西南三十余町、此に漁する鯛を御前鯛と称す、又御前沖御前灘の称あり。〇古今著聞集云、後三条院の御時、国の貢物広田の御前浜に多く入海の聞ありければ、宣旨を彼社へ下され貢物を没倒せられむ由逆鱗ありけるに、社辺木一夜に枯にけり、主上聞召驚かせ玉ひて宥め申されければ、木元の如栄えにけり、其後舟も入海せざりけり、又嘉応二年住吉社の歌合の事を、広田神海上より羨ませ玉よし両人同様の夢見奉る、道因其由聞えて、又人々に歌乞ひて合にけり。
   御前と云所になごろと申もの立と聞て
 さのみやは人の歎きをしら波のたつはおまへのしわざとぞ見る、〔散木集〕 けさ見れば浜の南の宮つくりあらためてけりよはの白雪、〔広田社歌合〕
海清寺は鰲山と号し臨済禅宗、応永年中無因禅師開基す、西宮の北に在り伽藍最広大なり、六湛寺は或は六大寺に作る、赤松記享禄三年の条に見ゆ。
 
広田《ヒロタ》郷 和名抄、武庫郡広印郷、訓比呂多。〇今|大牡《タイシヤ》村大字広田あり、芝村甲東村も本郷の属なりしならん。日本書紀に広田国の称あり津門卿の浦をも広田海と云ふ、広田本武庫川西の総名なりしならん。大字広田は西宮町の北二十町に在り、官幣大社鎮座す。
補【広田郷】武庫郡〇広田、比呂多。節用集、広田。神名式、広田神社。三代実録貞観元年九月、広田神。神社啓蒙、広田社、在摂津国武庫郡西宮郷広田村、今馬駅所、称札辻、自此去北十余町。字類抄、世俗云西宮。
   承安二年広田社の歌合に、述懐の心を
 けふまではかくて暮らしつ行末はめぐみ広田の神にまかせん(新続古今集) 六条入道前大政大臣
   広田の社に御うらやみあるよしの夢の告げ有りとて、同じく歌合すゝめし時よみて加へし三首の中、社頭雪
 いさぎよき光にまがふちりなれやおまへの浜に積る白雪(長秋詠藻)
名所方角抄、広田浜神前なり、兵庫より五六町ばかり西也、御前浜、御崎浜、長洲の浜とてあり。行嚢抄、広田社、西宮より北、海の右の山際に在。
 
広田《ヒロタ》神社 大社《タイシヤ》村大字広田の西岡に在り、今官幣大社に列す。天照大神の荒魂を祭る、神功皇后征韓の時霊威を示したまひ、撞賢木厳之御魂大疏向津比売命と御名を称へたてまつる、向津は武庫津と曰ふに同じ。日本書紀云、皇后之船、還務古水門而卜之、天照大神誨之曰、我之荒魂(撞賢木嚴之御魂天疏向津比売)不可近皇后、当居御心津広田国、即以山背根子之女、葉山媛令祭。〇新抄格勅符云、大同元年広田神摂津之地四十二戸奉封、三代実録云、貞観十年進広田神階特加従一位。延喜式云、武庫郡広田神社、名神大、凡新羅客入朝音、給住吉神酒、広田生田長田三社牡各五十束合二百束、送生田社神部造、差中臣(595)一人充給酒使、醸酒者於敏売崎給之。
 押なべて心広田の神ならばかゝるうき身をめぐまざらめや、〔広田社歌合〕書紀通証云、廿二社註式曰、広田者天照大神之荒魂也、可謂伊勢神宮同体、如式文者一座也、現在五社。神祇志料云、按帝王編年記諸神記等請書に本社は神功皇后を祭ると云もの誤れり、後世に及び八幡住吉南宮(諏方)八祖神を合せ之を広田五所と云ふ、仲資王記に元久元年神殿破損朝廷造替の議太怠るを以て神祇伯仲資王私に造修して五所の遷宮を行ふこと見ゆ。
伊和志豆神社は延喜式武庫郡の一社に列す、三代実録貞観元年伊和志豆神授位あり。摂津志云、広田荘中村に在りと、今大社村大字中村。
補【広田神社】〇神祇志料 今広田荘広田村にあり(摂津志・和爾雅・神社啓蒙)西宮といふ(諸神記・廿二社注式)天照大神の荒魂|撞賢木《ツキサカキ》厳之御魂・天疏《アマサカル》向津比売命を祭る、神功皇后の祭り始め給ふ所也
 按、帝王編年記諸神記等諸書に神功皇后を祭ると云もの誤れり、故に取らず初皇后新羅を平順て還坐時、天照大神、我荒魂は皇居に近き奉るべからず、御心の広田国に居坐《マス》べしと誨給へるを以て、山背根子が女葉山媛をして斎奉らしめ給ひき、即是也(日本書紀)平域天皇大同元年摂津地四十二戸を以て神封に充奉り(新抄格納符)文徳天皇嘉祥三年十月辛亥、従五位下を授け(文徳実録)其後従三位勲八等を賜ひ、清和天皇貞観元年正月甲申、正三位に叙され、九月庚申雨風の御祈に幣使を遣し給ひ、十年閏十二月己亥、使を遣し幣を奉て従一位を授け、
 按、本書十二月乙亥特に従一位を加ふとありて、又此事あるは、恐らくは衍文也、故に今彼を省て此を取れり、附て考に備ふ
陽成天皇元慶元年六月癸未、幣を奉て甘雨を祈らしめ(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、析年月次相嘗新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る(延喜式)村上天皇応和三年七月乙丑、祈雨の奉幣使を遣し給ひき(日本紀略)後鳥羽天皇元暦元年四月丙戌、源頼朝淡路国広田荘を寄して平氏を伐事を祈る(東鑑)後世に及て本社に八幡、住吉、南宮、八祖神を合せて之を広田五所と云ふ(仲資王記・諸神記)土御門天皇元久元年十一月乙亥、是よりさき神殿破損雨露洩るを以て造替を請ふに、朝廷の議甚怠る、此に至て神祇伯仲資王私に神殿を修め、神御装束を奉て五所の遷宮を行奉りき(仲資王記)後堀河天皇嘉禄元年十月甲寅、神社火あるを以て五所神体みな災に罹り(明月記・帝王編年記・皇帝記鈔・百錬砂・卜部兼文勘文)其神社の衰ふる此の如しと雖も、神威を輝し坐て皇朝を護奉るの功列尤も著明しと云(後崇光院御記)
 
名次山《ナスギヤマ》 広田大社の西の岡を云ふ、名次神鎮座す、新抄格勅符、大同元年奈須岐神摂津二戸を封じ奉り、三代実録、貞観元年名次神授位、延喜式、武庫郡の大社に列す。
 わぎもこに猪名野は見せつ名次山角のまつばらいつか示さむ、〔万葉集〕
補【名次神社】〇神祇志料・名次神社
 按、新抄格勅符、奈須岐に作る。
今広田社の西、名次丘に在り、之を広田社の摂社とす(摂津志・閑田耕筆)平城天皇大同元年摂津二戸を寄奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位名次神に正五位を授け、九月庚申風雨の御祈に依て使を遣し幣を奉り(三代実録)醍醐天皇延喜の制大社に列り、月次新嘗及祈雨の幣帛に預る(延喜式)
 按、本書本社の下に鍬靱の二字あり、伊和志豆神社の下に大月次新嘗とあれど、祈雨八十五座並大社なるを以て之を考ふるに、本社と次の伊和志豆社と互に誤りて、本社の下にあるべきを次に記し、次にあるべきを本社の処に混れて載たる事自ら著し、故に今之を訂すといふ。
 
越水《コシミヅ》城址 大社村大字越水に在り、中村の西北五町広田大社の南(八町)西宮の北(十余町)丘に倚り塁壕の跡を有す、方二町に満たず。前面は御前浜打出浜にして後は甲山武庫山に連接し一要害の地なり。〇太平記|小清水《コシミヅ》に作り、観応三年足利直義其兄尊氏を此地に破る、永正六年細川高国の属将河原休政頼此城を守り細川澄元三好元長を拒む、翌年元長攻めて之を陥る、後三好氏の属城と為る、永禄十一年織田氏の軍之に臨む篠原長房城を棄てゝ潰走す。
太平記、観応二年摂津の守護赤松信濃守範資使者を以て播州光明寺なる将軍尊氏へ申けるは、京都八幡より七千余騎を光明寺の後攻に差下され候、只先づ其城をば閣き討手の下向を相支へ神尾鷲林寺小清水の辺にて御合戦候はば敵の敗北疑ふ処にあらず、(中略)かくて小清水の軍には将軍却つて打負け引退き、兵二万余騎の、四方四町に足らぬ松岡の城へ、我も/\とこみ入ける。〇細川両家記云、永正十六年細川高国は丹波摂津山城国相触させ、十二月池田城へ着き越水城の後巻のために、小屋野間九十九町高木河原休、武庫、守部、水堂、浜田、大島、新田、武庫川のかた上から下まで陣を取つゞけ折々合戦させられたり、年くれければ永正十七年庚辰になり、正月高国より諸陣に相触れさせられて、二万余騎にて打出諸口にて合戦終日にあり、又高田方摂津国の住人伊丹兵庫助国扶は中村口へ取懸り木戸逆茂木を切落し内へこみ入る、かくて日月を送る程に越水も退屈して同二月三日夜半に落城、高国京(596)へ引返す。
 
越木岩《コシキイハ》 大社村の大字なり、越水の西に接し西宮町より六甲山鷲林寺に登る阪路にあたる、渓澗に水車を装置する家多し、丈甑岩と称する怪石あり。
 
宿川《スクカハ》 越本岩の山中より発し西宮の西を過ぎて蘆屋灘に入る細流なり、名所大絵図に宿川の傍に夙村を標す、今大社村大字|森具《モリグ》にあたる、純友追討記に見ゆる兎原郡須岐駅は此なるべし。夙《シユク》と須岐《スキ》相近似し、和名抄蘆屋の買美郷ありて延喜式蘆屋駅と云者亦此須岐なるべし、郡界の変遷あり。純友追討記云、伊予掾藤原純友為海賊之首、備前介藤原子高風聞其事、為奏聞其旨天慶二年十二月下旬、相具妻子自陸路上道、純友聞之、将為害子高、令郎等文元等、追及摂津国兎原郡須岐駅、同十二月廿六日壬戌寅剋、絶友郎※[人偏+同]等、放矢如雨、遂獲子高即截耳割鼻、奪妻将去也、子息等為賊被殺畢、公家大驚、下固関使於諸国、且於純友給教喩官符兼預栄爵、叙従五位下、而純友野心末改、猾賊弥倍。(本朝世紀云、摂津蘆屋駅辺、純友士卒迫来、囲陵備前介藤子高等)
 
甲山《カブトヤマ》 或は兜山に作る広田社の北三十町、抽海三百米突円錐形の樹峰なり。山腹は花崗質の岩石乱堆す、今東麓なる門戸《モンド》大市《オホイチ》の諸村を合して甲東《カフトウ》村と称す。〇甲東村大字門戸に延喜式武庫郡岡太神社あり、摂津志は岡太社小松に在りと為せど、今名所図会に従ふ。
 
神呪寺《シンジウジ》 甲山の南面二百米突の高処に在り、神尾《カンノヲ》と称す、即観音堂なり。元亨釈書云、如意尼者、天長帝(淳和)之次妃也、丹州余佐郷人、十歳入王都、雖専寵、志在山林、嘗修如意輪供、持誦閉目※[立心偏+兄]然、空中有妙音告曰、摂州有宝山、号如意輪摩尼峰、昔神功皇后征新羅而還、埋如意珠及金甲冑弓箭宝剣衣服等、放亦曰武庫、汝盍居彼、妃聞之開口、有天女乗龍、向西南飛去、蓋弁才天也、又摩尼峰、是役小角旧址也、天長五年、一夜妃共宮女二人、潜出寓宮赴摂州、到南河畔乗舟、明日南宮浦下舟、詣南宮及広田神祠、次日入山、山内北有池、地中出五色光、池辺皆白石似玉、妃登峰営構、三十三日而梵宇落成、帝尋妃、勅尚書右丞真王、入山賜存問、諸后妃懐妬忌謀焼山房、上知之勅真王、佯焼山下茆屋、諸妃遙見煙、妬心乃止、今其地曰焼寺、妃又請空海入山、伐桜刻像、就海剃髪、爾来持誦益勤、故号神呪寺、承和二年帝幸山中、大中大夫和真綱扈従、如意演説、皇情大悦、是歳如意向西而化、年三十三。
   追記神呪寺西閣題詩       僧 義堂
 旧遊三十年前事、衰老重来慨古今、天女霊蹤芳草合、帝妃小隠落花深、山埋宝剣龍応護、水※[病垂/〓]明珠月欲沈、又問紫雲仙篋事、蓬壺人去杳難尋、〔空華集〕
六甲《ロクカフ・ムコ》山《サン》 甲山の西、御影浜の北にあたる、横嶺の総名にして、中に数峰あり、山中に鷲林寺の廃址あり。鷲林寺は天長十年僧空海開基と称し神呪寺と同く観世音を奉ず、天正午中兵火に罹り焼失し、今わづかに茅堂を存す。
 秋の夜の務古の高恨にゆきふりて津守の浦によする白波、〔夫木集〕
   これは昔足姫のもろこしの三の国したがへたまひかへりたまひける時、此山によろひかぶとなどうづみ給ひけるより、やがて武庫の山と申すとなん、 此たびもあらき波路のさはりなく猶ふきおくれむこの山かぜ、〔了俊道行振〕     今川貞世
六甲山の南澗は御影浜に流出す御影川と称す、故に六甲山をも御影山と称する者あり、今御影川の辺|篠原《シノハラ》高羽《タカウ》八幡《ヤハタ》の諸村を合併して六甲《ロクカフ》村と為す、北澗は有馬郡に注ぐ○六甲の最高峰は住吉より湯山に通ずる阪路に当り、抽海凡九百米突、武庫有馬の郡界を為す。或云武庫の高峰を譲葉《ユヅリハ》の峰と呼ぶ。
 かど松やうしろに笑ふ武庫の山、  鬼貫
 
兎原《ウバラ》郡 明治二十九年武庫郡に併せられて廃止す、武庫山の麓沿海の狭地なれど和名抄八郷に分ち戸口古より繁し。万葉集に葦屋之|菟名負《ウナビ》(又宇奈比)とあれば原名は海辺《ウナベ》なるべし、故に又|海原《ウナハラ》と称し転じて菟原と為れる者なり、後世訛りて茨郡と為す和名抄に宇波良と註し伊勢物語にもムハラ郡と記す。続日本紀、神護景雲三年、菟原郡人、倉下水守等十八人賜姓大和連。〇菟原郡は本務古の城内にて、蘆屋を総名とす、置郡の際|蘆屋《アシヤ》は郷名と為り、大小転倒したり、然れども菟原郡の海を蘆屋灘と称するは、後世まで其古を忘れざるものならん。
   摂州菟原旅宿即事〔本朝無題詩集〕蓮禅
 山根海畔客中居、与友留連覃月余、露色秋籠征雁陣、潮声夜入旅人廬、稲花戸外追風馥、柿葉墻陰学雨疎、請問土民営底事、生涯産業釣江魚、
    菟原途中         菅 茶山
 六甲山南三塚辺、輿昔懐古思茫然、波涛彎曲千帆影、邑里東西万戸煙、残塁清泉分野碓、故宮黄菜満沙田、今時自作今時盛、空感楠公戦歿年、
補【兎原《ウハラ》郡】〇兎原、宇波良。万葉集九、菟原処女墓長歌とありて、歌に葦屋之菟名負処女、その反歌にもしか見え、その長歌に智努壮士宇奈比壮士とも、又下に菟原《ウナヒ》壮士とも書たり、さればふるくは菟原をうなひとよみたりしを、此抄のころに至りては文字のまゝにうはらととなへ誤れるなるべし。伊勢物語、むかし男、(597)つのくにうはらの郡に云々。純友追討記、摂津国兎原郡須岐駅。
 
葦屋《アシヤ》郷 和名抄、兎原郡葦原郷賀美郷。〇和名抄、葦原は葦屋の誤にて、賀美は其上郷なり、上郷は打出浜并に須岐駅及び今の精道《セイダウ》村ならん、其以西は和名抄の本郷にて中世|山路《ヤマヂ》荘と称したる諸村ならん。延喜式葦屋駅は即上郷の須岐にして、今西宮村に入る。〇姓氏録云、摂津諸蕃、葦屋村主、石占忌寸同祖(出自後漢霊帝子延王)阿智王之後也。
 
打出《ウチデ》 宿《スク》川の西にして大社村大字森具に接す、海に臨み打出浜の称あり、今|精道《セイダウ》村の大字と為る。太平記延元元年正月官軍追撃して足利直義を打出浜に破る事見ゆ。〇打出の北鉄道線の傍に古墳あり、阿保親王(平城皇子)と称す。摂津志に此地は親王の別荘にして、地字に御所内堂上金津岡等の遺墟ありと云ふも詳ならず、在原業乎の蘆屋に在住したる事は古書に見ゆれば其父君も由緒なしと謂ふべからず。
 
蘆屋《アシヤ》 在原業平の此に住みし事は伊勢物語に 「昔男津の国むはらの郡蘆屋里にしるよししていきて住けり、爰をなん葦屋のなだとは云けり」と記す、因りて是は父阿保親王より伝領の荘なるべしと云ふ、其の在住の頃よめる歌は多く勢語に見ゆ。
 晴るゝ夜の星か河辺のほたるかも我住かたの海人のたく火か、〔新古今集〕      在原業平
 問へかしなあしやの里のはるの夜にわが住方の月はいかにと、〔続後撰集〕      少将内侍
摂津志云、蘆屋里、在原氏宅址、土人呼曰猿丸太夫旧第也。名所図会云、蘆屋川の傍に猿丸が古墳と云者あり、其謂詳ならず、打出より青木まで蘆屋浦と呼び又漢人浜《カラヒトノハマ》と称す、又藤栄屋敷跡と云ものあり、是は謡曲|藤栄《トウエイ》に藤左衛門尉一子月若が相伝七百余町の家領をば其伯父藤栄に横奪せられ月若一時零落せらるを北条最明寺時頼その由をきゝて月若に返し与へたりと伝ふる古跡なり。
鷹尾《タガヲ》城址は蘆屋の北なる一峰、民家を去る八町許松樹叢生す。細川両家記云、永正八年淡路守殿(細川尚春)兵庫口へ渡り灘へ上る処に、高国方の兵河原林対馬守正頼は蘆屋の荘の上鷹尾城に楯籠、淡路守殿この城を責むへしとて灘深井といふ所に陣取給ふ、此由正頼より京なる高国へ注進、同七月二十六日蘆屋河原にて合戦あり、又鷹尾より河原林の手を合せて戦ひけるに、京高国方討勝て淡路衆首百余討取、八月初旬播磨の赤松勢鷹尾城を取巻さかしき谷高き岸をもいはず責められける間、城の内にもこゝをせんどと戦ひければ、その日も暮て寄手も麓へ引、しかれ共域の中に此分ならば叶はじと思ひ同十日の夜半に城あけにけり、播磨勢は悦て則伊丹の域へ取懸り遂に京に切上り云々。
 
灘《ナダ》 鳴尾の武庫川口より神戸の湊川口までの広湾を土俗灘と称す蓋蘆屋灘の謂なり。中に就きて魚崎以東を中灘と呼び、魚崎以西を大灘と呼ぶ、此灘上の海駅江村総称して灘目《ナダメ》郷と曰ふ灘辺の訛なるべし。
 葦の屋の灘のしほやきいとまなみつげの小櫛もさゝず来にけり、〔新古今集〕    在原業平
 なだの海きよき渚のはま千鳥ふみおく跡を浪やけづらん、〔伊勢集〕        枇杷右大臣
 つなで引く灘の小舟や入ぬらん難波のたづのうらわたりする、〔続後撰集〕灘郷の豪家大抵造酒を業とし諸国に運送す、謂はゆる灘洒是なり、斯醸造家の盛大は年暦久しからず、伊丹の後に起る者の如し。然れども延喜式新羅来朝の外客には生田に造れる住吉の神酒を敏売崎にして給与する事見ゆ、生田敏売共に後の灘辺郷に属す、亦由来する所ありと謂ふべし、近年に至り灘酒の声価斛量頓に加り海内を圧して酒中の王と為れり。
   棹歌            菊池海荘
 月落潮来赤石間、潮頭初月似弓彎、孤舟濺尽鮫人涙、青了楠公墓畔山、
 空洋風尽艇行遅、漁笛悠揚渡翠※[さんずい+猗]、仏母峰遙煙髻淡、一痕新月好描眉、
 
山路《ヤマヂ》 中世山路荘あり今亡ぶ、深江青木等は本荘村と改称す、沿海の地なり。田中岡本等は本山村と改称す、山麓に在り。
   播磨守に侍りける時、三月ばかり舟より上り侍りけるに、津の国に山路と云所に参議為道朗臣しほ湯あみて侍ると聞てつかはしける、
 長ゐすなみやこの花も咲ぬらん我も何故いそぐ船手ぞ、〔詞花集〕          平 忠盛
山路城址は本山村大字田中に在り、観応年中赤松範顕の拠れる所也。〔摂津志太平記〕
 
岡本《ヲカモト》 今|本山《モトヤマ》村と改む、古墳多し。岡本の北なる大字北畑の嶺腹に延喜式兎原郡保久良神社あり、土俗牛頭天王と為す。〔摂津志〕岡本は魚崎町の北十八町にして扁保曾塚《ヘホソヅカ》あり、往時は墓畔に尚二十余の土饅頭ありて、里謡に
 岡本の袁佐婆にたてる扁保曾塚ぬの織る人は岡本に在り
と唱ふ其解を知らずと。今村寺の背に方四尺高二尺許の土饅頭を遺し、又発掘せられたる塚穴二所を存するの外幾多の古塚は皆破壊して其跡を留めず。近年同所字マンパイのオリツカに石棺露出す、中より土器(皿状)一石輪一曲玉類百五十許を獲たりとぞ。
補【岡本】菟原郡〇人類学雑誌 神戸の東三里余なるヲ(598)カモトといふ所、五百山といふ寺の後には多くの塚ありしが、庭石を要するが故に崩したるとぞ、今存するものは四フィート平方にして高さ二フィートなり、此塚の有る丘の上にて土器と鉄器とを獲たる事ありしと、此他二個の塚穴あり。〇今本山村に属す。
 
魚崎《ウヲサキ》 住吉川の口にして其東畔に存り、或は五百崎に作る、今魚崎村と称す、造酒家の邑あり。〇産業事蹟云、魚崎山邑氏の監製する所銘酒正宗は享保年中之を創め醇良の佳名あり、文化中に及び正宗の銘は早く已に海内諸州に知らると云ふ、当時酒場を菟原郡魚崎村及び武庫郡西の宮町の両所に設置したりしが、醸酒の良否は大に料水の適否に起因するものなりとのことを案出し、天保十一年始めて西の宮町酒造場の料水に供する井水を魚崎村酒造場の料水に供用し、以て試造せしに、果して品位同等の清酒を醸造することを得たり、爾来年々西の宮町より多量の井水を海路魚崎町に運搬し、以て醸造の料水に供し、猶且醸法精錬改善を為すこと数次、以て今日見る所の芳烈無比の良酒を得たりとぞ。
参考本盛衰記云、千代に替らぬ翠は、雀の松原みかげの松、雲井にさらす布引は、我朝第二の滝とかや、求塚と云へるは恋故命を失ひし二人の夫の墓とかや、いなの湊の曙に霧立こむる昆陽の松。〇雀松原《スヾメノマツバラ》は魚崎より深江辺の浜松原をさすごとし。
 
佐才《ササイ》郷 和名抄、兎原郡佐才郷〇皇典講演云、佐才当に読て左左伊と云ふべし、蓋鷦鷯の仮借なり雀にも作る、占は雀部氏あり其居る所ならん、今魚崎の雀松原と云ふは鷦鷯松原の遺名にや。
 
住吉《スミヨシ・スミノエ》郷 和名抄、兎原郡住吉郷。〇住吉村存す。魚崎御影の北にして汀線を去る十町許、鉄道車駅の南傍に茨住吉神社あり、神功皇后の御宇に表筒男中筒男底筒男の三海神現出し其神誨に依て始て此に奉祭す、乃地名に取りて住吉神と称す、後諸所に此神を祭る者皆住吉と云ふ。○日本書紀云、神功皇后向京、二王拒之、二王狩于菟餓野、赤猪咋※[鹿/弭]坂王而殺焉、忍熊王同是事大怪也、於是不可得敵、期引軍更返屯千住吉。この条を按ずるに菟餓野《ツガノ》は今の湊村夢野若くは都賀野村の辺なり。
補【住吉郷】菟原郡〇住吉。神社啓蒙、茨住吉、在摂津国茨原郡、所祭之神.三座、表筒男中筒男底筒男。神功皇后紀元年伐新羅之明年二月、表筒男中筒男底筒男三神海之曰、我和魂宜居大津渟中倉之長峡、便因看往来船、於是随神教以鎮座焉。荒木田久老播磨下向日記、住吉の大御神の御社を拝奉る云々、神功皇后の初め此大御神を祠りたまひし御社はこゝなるべし、長田、生田、住吉、広田と相ならびておはしますにてもしられ、また生田の長|狭《ヲ》住吉の長狭と聞えしは、北の山より海際に突出たる峡《ヲ》さきの名なるべく、いまもそのさま見えたり、さて此社を難波に遷されしは仁徳の大御世ならんといへど、猶それより後なるべきか、斉明紀に住吉の松嶺とあるも今の住吉にはあらじかし。
 
茨住吉《ウバラスミノエ》神社 本社は延喜式に載せず、何の謂にや。神社啓蒙云「茨住吉在茨原郡」と、古事記伝云、日本書紀、三神誨之曰、吾和魂、宜居大津|渟中倉《ヌナクラ》之長峡、便因看往来船、於是随神教、以鎮坐焉、則平得度海とある渟中倉の長峡は兎原郡住吉郷なり、今も本住吉とて祠もあるなり此地古名ヌナクラ里と云ひしとぞ、武庫山の支別の南の方へ長く引延たる尾崎にて誠に良峡と云べき地なり。〇按ずるに務古を住吉の本拠と為すは当然の論なるべし、彼大津と云ふも務古水門の事ならん、書紀前段の後に「直指難波、于時皇后之船、廻於海中、以不得進、更還務古水門而卜之」ともあり、然れども仁徳帝に至り難波に墨江之津を定め大神をも低地に移し奉りぬれば、後世の人難波と務古を混同し、渟中倉之長峡は務古に非ざるをも神功皇后の昔に牽合したる如し。今兎原住吉の地形を察見するに山坡に在り、斜面にして長峡に非ず、本店氏の説誤れりと為すべし。渟中倉之長峡は難波なる今東成郡の阿部野より南に引きたる卑丘の謂にして、住吉大社は正に其尾に在り。
 
郡家《グウケ》 住吉村の西に接し郡家《グウケ》付あり、今御影村の大字となる、中世本郡々衙の地なり。
 
覚美《カガミ》郷 和名抄、兎原郡覚美郷。〇今詳ならず、御影山御影浜などと鏡郷と云ふことは相因む所あるが如し、御浜町又は六甲村などにやとおもはる。
 
御影《ミカゲ》 今御影町と曰ふ、戸数一千、亦灘郷の屈指の大邑なり。住吉の西南五町、直に海に瀕す、御影浜と称す。
 世にあらば又帰りこむ津の国の御影の松よ面かはりすな、〔続占今集〕        基俊
御影の名は本地石材の産出盛大なるが為めに世に花崗岩の一名と為す。住吉社説に社背の嶺を御影山と曰ひ、住吉神の垂跡処とす、蓋御影の原名は神祠の翳蔭を為す者の称にして、猶御笠山のごとし、今御影の名広く武庫郡石材伐出の峰領に及ぼし古意を失ふ。〇御影浜は正平六年足利尊氏高師直が官軍石堂板頼房に破られし処也、太平記に見ゆ。
 
八幡林《ハチマンバヤシ》 今六甲村と改む住吉村の西都賀川の東にして六甲山の麓なり、摩耶山は大字篠原の西南十八町。名所図会云、慶龍寺篠原に在り、叨利天上寺の子院なり、僧慶日の創む所とぞ、慶日は元亨釈書に見ゆ。〇太平記云、元弘三年閏二月五日、六波羅勢は赤松則村追討として京都を立ち、同十一日卯の剋に(599)摩耶の城の南の麓求塚八幡林よりぞ寄せたりけるが忽ち引去る、赤松入道先んずるにはしかずとて、三千余騎を率し、磨耶の城を出でて、久々知酒部に陣を取。
 
摩耶山《マヤサン》 六甲山の西南に特立せる一峰なり、抽海七百米突、峰陰を滝谷と曰ふ、布引滝の源なり。峰陽に三路あり、一は布引より、1は上野(都賀野村大字)一は篠原よりす、海を去る直径一里、峰勢峭峻にして峨々欝々たるを以て最眺望に佳なり。峰頭に叨利天上寺あり、文人摩耶を修して仏母と為す。〇摩耶山は正慶二年赤松円心入道則村の拠守して城と為せる所也。
 
叨利天上《タウリテンジヤウ》寺 今都賀野村大字上野に属し、摩耶山の峰頂に在り、仏母山と号す。観音堂夫人堂あり、寺説に梁武帝女人の難産を憐み、仏母摩耶夫人の影像を造り功徳を修す、憎穴海入唐の時之を伝へ帰朝して仏母堂を建つと。此寺今真言宗を奉じ、仏殿僧房清潔にして、山中の風光殊に壮麗の情あり、神戸の人毎年夏に至れば避暑の計を此に取る、旧名|天城《テンジヤウ》寺朝とぞ。
三才図会云、摩耶山叨利天上寺、一名仏母山、天武天皇時天竺法道仙人来朝建立、法道初在天竺、将赴日本、先到中華、謁西明寺道宣律師、師以十一面観音与之、曰釈迦四十二歳時鋳之、登叨利天、遇摩耶夫人授之、至仏滅後夫人降于下界、附与此像於阿那律尊者、其後来于西明寺云々、法道携之、新作一尺六寸木像、納鋳仏於胸中、以為本尊。〇摩耶山の下に舟寺《フネデラ》の旧蹟あり。摂津志云、舟寺河陳村八幡伺傍、一名神宮寺、見文明年中旧記。
   舟寺に憎の居て経よむ所を
 ふね寺にのりうかぶなり夜もすがら声を帆にあげてよみすましつつ、〔散木集〕
 
天城《アマキ》郷 和名抄、菟原郡天城郷。○都賀野村の北部を云ふ、摂津志曰、「天城郷廃、上野村旧名天城野、属都賀荘」と。上野に天上寺あり郷名より出でて叨利天に故事附したる者と。
 
津守《ツモリ》郷 和名抄、兎原郡津守郷。〇同名西成郡にも之あり参考すべし、古事記伝云、高津宮(仁徳)の御世に難波に大宮敷座るに就て住吉大神の御心京師近く座さく欲て、菟原より今の処に移奉る、住吉の津の事は書紀にも見え、和名抄兎原郡津守郷あるは其津を守りし人の居住なるべし。〇此郷今都賀浜村なるべし、謂ゆる敏馬浦なり。都賀野村の南部も本郷の山中なりけん。
補【津守郷】菟原郡〇津守。姓氏録、摂津国神別天孫、津守火明命之後也、又津守宿禰尾張宿禰同祖、火明命八世孫大御日足尼之後也。古事記伝、高津宮此三世難波に大宮敷坐るに就て、大神の御心京師近く坐まく欲て也、所念着したりけん、かくて此津のことは書紀神功巻に此大神の御誨言に「宜居大津渟中倉之長峡看往来船」とあるごとく、彼菟原郡に坐しほどより其地大津にてありしを、和名抄に同郡に津守郷とある其津を守りし人の居住なるべし。行嚢抄、津守の浦、住吉の別名也、一所二名なり、津守とは住吉神主の氏なり。
   住吉社へ百首たてまつりしに
 すみよしは齢つもりの浦なれば神は年をやをしまざるらん(雲葉和歌集)      慈鎮和尚
  岸忘草
 たれをかも忘るゝ草のたねとてか今はつもりの岸におふらん(白河殿七百首、文永二年) 資平
 
敏馬《ミヌメ》 今都賀浜村都買野村にあたる、敏馬は古書美奴売三犬女又見宿女に作る。延喜式八部郡※[さんずい+文]売神社ありて、中世郡界推移したるに似たり。
 
※[さんずい+文]売《ミヌメ》神社 摂津志云、今菟原郡|岩屋《イハヤ》に在り、万葉集仙覚註風土記に見ゆ。神祇志料云、美奴売神を祀る、蓋素盞嗚尊なり、神功皇后征韓の時神誨あり故此神を此浦に祭る、後世新羅の使来る毎に敏馬崎にして住吉の神酒を飲ましむるは蓋又此故也。〇摂津風土記云、美奴売松原、今称美奴売者神名、其神本居、能勢郡美奴売山、昔息長足比売天皇、幸于筑紫国時、集諸神祇於川辺郡内神前松原、以求礼福、于時此神亦同来集曰、吾亦護佑、仍諭之曰吾所住之山、有須義乃木、各材採、為吾造船、則乗此船、而可行幸、当有事福、天皇乃随神教、遺命作船、 此神船遂征新羅、(一云、于時此船大鳴響如牛吼、自然従対馬海、還到此処、不得乗、法仍卜占乃留置、)還来之時、祠祭此神於斯浦、并留船以献、神亦名此地曰美奴売。
 珠藻かる敏馬をすぎて夏くさの野島の崎に舟ちかづきぬ、〔万葉集〕         柿本人麿
敏馬滿は今都賀浜以西小野浜に至る海辺なりと云ふ、※[さんずい+文]売祠は其中央|岩屋《イハヤ》(今都賀野村大字)に在り、汀線を去る百間許の高崖に居る、謂ゆる敏馬崎は此なるべし。
   過敏馬浦時山部宿禰赤人作歌
 御食向ふ淡路の島にただ向ふ三犬女の浦の奥べには云々、〔万葉集〕
   又田辺福麿作歌
 八千桙の神の御世より百船の泊《ジャツ》る渟と八島国もゝふな人の定めてし三犬女の浦は云々〔同上〕真十鏡見宿女の浦はもゝふねのすぎていくべき浜ならなくに〔同上〕
   海路の心をよめる
 もとめ塚お前にかゝる柴舟のきたけになりぬあるかたもなみ、〔散木集〕
此浦古代には一大泊舟処なる事風土記万葉集に徴して(600)之を知る、蓋武庫水門の別湾なり、中世以降衰へ敏馬の名亦亡ぶ。万葉集珠藻苅敏馬を一所には珠藻苅処女に作る。
補【※[さんずい+文]売神社】〇神祇志料 今菟原郡岩屋村に在り、(摂津志)美奴売神を祀る、蓋素盞嗚尊也(摂津風土記・本社伝説)初此神は能勢郡美努売山に在せり、神功皇后韓国を言向け坐むとして諸神を川辺郡神前松原に集祭り給ふ時、美努売神誨曰けらく、吾住所の山に在《ア》なる杉木を伐て吾為に船を造り、其船に乗て行幸《イデdマ》さば幸福く坐しまさむと詔ひき、皇后即神教に随て船を造らしめ給ふに、其神船牛の吼るが如鳴響て彼国に至りき、而して遂に新羅を征伐《コトム》けて還坐時、神船自ら此所に来着て得動ざりしかば、之を卜問しむるに神の御心也と白しき、故に此神をこの浦に祝祭りて船をも神に献りき(摂津風土記)後世新羅の使来る毎に、敏馬崎にして住吉の神酒を飲ましむるは、蓋又此故也(延喜式・摂津風土記大意)凡そ其祭八月十三日を用ふ、(明細帳)
 
都賀野《トガノ》 六甲村の西を今|都賀野《トガノ》村又|西灘《ニシナダ》、其東南を都賀浜村と呼ぶ、是れ都賀川(摩耶山の東なる杣谷より発す)に因みて命名したる名にして蓋古の菟餓《ツガ》野の遺か。日本書紀に「神功皇后向京、※[鹿/弭]坂王忍熊王拒之、二王出于菟餓野、而祈狩之、赤猪咋※[鹿/弭]坂王而殺焉、忍熊引軍、更返屯于住吉」と曰ふ者は此地なるべし。然れども菟餓野は西成郡北渡辺(天満の辺)及八部郡夢野(今湊村)にも其名あり、同名異所なり、混乱するなきを要す。建武二年三浦文書(荘園考引)の都賀荘と云も此か。〇高林神社は延喜式、菟原郡高林神社、三代実録、貞観十八年高林神授位、摂津志云、在于原田村。〇原田は今都賀野村に属し、※[さんずい+文]売神社の北六町許に在り。
河内国魂神社は延喜式、菟原郡河内国魂神社、神祇志料云、今五毛村御形森に在り、蓋凡河内国造の祖天津彦根命の子天御影命を祭る。〔参酌古事記姓氏録日本紀摂津志等〕〇五毛《ゴマウ》は或は胡麻生《ゴマフ》に作り、今西灘村に属す、摩耶山の麓に在り。
 
求女塚《モトメヅカ》 万葉集に葦屋処女墓とある者是なり。大和物語にはモトメ塚と記し、太平記には、延元元年兵庫合戦の時新田義貞敵の追撃にあひ求塚に上り之を拒ぐ、賊兵競ひ至り太だ危急なりければ小山田高家その身代りとなり戦死する由見ゆ。〇処女墓三所各周廻八十余歩、一は住吉村字|御田《ゴテン》(御影町の東)一は東明《トウミヤウ》(今御影町に属す其西に在り)一は|味泥《ミトロ》(今都賀野村に属す※[さんずい+文]売神社の東六町)に在り、相距る各十余町、今御田東明の二塚は現存し、近年味泥塚は削られて民宅と為る、俗説御田塚を茅渟の信太男墓、東明塚を処女墓、味泥塚を兎原男墓と為す、皆前方後円の大馬鬣封なり。
   過|葦屋処女墓《アシヤノヲトメヅカ》作歌
 古の益荒をとこの、あひ競ひ妻問しけむ、葦屋の菟名日処女の、奥城《オクツキ》を吾立ち見れば、永き世の語りにしつゝ、後人の偲にせむと、玉桙の道の辺近く、磐構へ作れる塚を、天雲の退きへの限り、此道を行人毎に、行きよりていたち嘆げかひ、惑人《ワビビト》はねにも啼つゝ、語りつぎしのぴ嗣ぎこし、処女等が奥城所、吾さへに見れば悲しも、古へ思へば、
 古の小竹田《シヌタ》男のつまどひし菟会《ウナヒ》処女の奥つきぞこれ、   見|菟原《ウナヒ》処女歌
 葦の屋の菟名負処女の、(中略)智奴をとこ宇奈比をとこのふせやたき、すゝし競ひて、相よばひなしける時は、(中略)しつ手纏賤き吾故、丈夫の争そふ見れば、生けりともあふべくあれや、宍串呂《シヽクシロ》黄泉《ヨミ》に待むと、(中略)打歎き妹がいぬれば、血沼壮士、其夜夢に見、取りつづき追ひゆきければ、おくれたる菟原壮士い、(中略)ところづらとめゆきければ、親族《ウカラ》どもいより集ひて、永き代に標にせむと、遠き世に語つがむと、処女墓中に造り置き、壮士墓此方彼方に造置ける、故縁きゝて知らねども、新喪のごともね哭つるかも。
知奴小竹田は今泉州の地名なり、又此一話と同事と想はるゝ者|生田《イクタ》川にも之を伝ふ。
 
布敷《ヌノシキ》郷 和名抄、菟原郡布敷郷。〇此は後世訛りて布引と為る者か、又敷字をヒキとも訓むべきか、布引滝あり、蓋今神戸市の東部葦合小野浜等の地なり。姓氏録云、摂津国皇別、布敷首、玉手同祖、屑木襲津彦命之後也。
 
布引滝《ヌノヒキノタキ》 今神戸市に属す、生田川の上流して大字|葦合《フキアイ》に在り、雌雄の二瀑石傾き水激し之を望めば白布を敷くが如し。此滝大道の傍海上を去る事遠からず、古来盛名あり、近年神戸市水道の源地を此に造り、大に飛泉の風致を破損すと雖尚勝景たるを失はず。水源は摩郡山の北澗に出て、此に至り凡六十町、末は生田川と為り海に入る凡十五町。〇布引滝の上方を滝谷《タキダニ》と曰ふ、一条の幽澗亦探遊に可なり。砂山《イサゴヤマ》は雌滝の左傍に在る瓢状の丘なり、滝山と称す。砂の名は伊勢物語に「いざ此の山の上に在りと云ふ布引の滝」云々とあるにより設けたる者と曰ふ。今按ずるに生田神社は旧|砂子《イサゴ》山に鎮座せりと摂津志に見ゆ、延喜式、玄蕃寮新羅入朝の条に「摂津国住道伊佐具両社の神稲を以て酒を造る、難波館に就て之を蕃客に給す」と為す、伊佐具神(延喜式河辺郡にも同神あり)往時生田の砂子山に在りしを以て伊佐具の別称ありしか、砂子伊佐具相近し。近年神戸の市人山上に伊勢遙拝所を建て、花圍牡と号す、其意は再興に非ずと雖其跡は相同(601)じ。
伊勢物語云、昔男津の国むはらの郡あしやの里に知るよしゝて行て住けり、其家の前の海の辺にあそびありきていさこの山の上にありと云ふ布引の滝見に登らんと云ひて、のぼりて見るに其滝物よりことなり、長さ廿丈広き五丈ばかりなる石のおもてに、白絹に岩をつつめらんやうになん有ける。〇此滝は平治物語に平相国清盛一覧の時霹靂に会ひたる怪談を録し、九州軍記には太閤秀吉海上を船にて漕ぎゆき遙に望みて、雲より落る瀑有、あれこそ生田川の源にて布引の滝ぞなどしるされたり。
 あしの屋のいさごの山のみなかみを登りて見れば布引の滝、〔夫木集〕        衣笠内大臣
   海邑晩帰口号        染田蛻巌
 松含科景鳥声幽、上有飛泉如帶流、海曲暮霞看欲落、行人猶上酒家楼、
 
筒井《ツツヰ》 名所大絵図に葺合の東南生田川の東に筒井の村名を標す、今亡ぶ。仁治元年南海流浪記云「神崎ヲ立チ筒井ニ至ル、路間五里小屋福原ヲスグ、筒井ヲ立チ石屋渡ヲ渡テ石屋ニ宿ル、路間六里余スマタルミヲスグ」。此の行程の記載は誤謬あるに似たり、地理に合せず、唯其筒井と云は生田辺の筒井なるべく、石屋渡と云は淡州岩屋へ渡る明石瀬戸なるべし。
 
小野《ヲノ》 生田《イクタ》の小野の謂なり、布引の南なる平郊にして生田の末社|二宮《ニノミヤ》あり、二宮の南方沿海の地を小野浜と曰ふ。
 問はねども誰が為とてか津の国の生田の小野に若菜つむらん、〔夫木集〕       経季
 
小野浜《ヲノハマ》 旧生田川の末にして、堆沙あり自ら喙を成して南に向ひ湊川の川尻と相望みて神戸港の左翼を為す。明治四年生田川を布引滝より疎通して、旧口の東北十町許字脇浜に導き、之を新生田川と名づけ、小野浜を開く。明治七年加納某此に船溜を造りしが、十七年に至り海軍省船溜を収めて更に造船所を建て諸種の工事を加ふ、西は外悔人居留地に接し神戸港の一眼目なり。〇旧生田川口を今小野崎又神戸崎と称す。
 
八部《ヤタベ》郡 明治二十九年廃止、武庫郡へ合併す。本郡は摂津国西極の地にして、生田より須磨に至る長三里に過ぎず、而も江山の形勝を占め明石瀬戸の隘口に当る。。八部郡、和名抄訓夜多倍、五郷に分つ、拾芥抄八田部郡に作る。延喜式に※[さんずい+文]売神社を八部に属せしめたるは誤なるべし、生田の東一里に及べば也、其間に布敷郷ありて兎原郡に属せり。
古事記、高津宮(仁徳)段云、天皇恋八田若郎女、賜遣御歌、八田若郎女答歌、故八田若郎女之御名代、定「八田部。旧事紀云、高津宮御宇天皇、立矢田郎女為后、而不生皇子、詔侍臣大別連公、為皇子代后号為氏、便為氏造、改賜矢田部連公姓。〇姓氏録云、摂津国皇別韓矢田部造、豊域入彦命之後、三世孫弥母里別命孫現占君、息長足比売(諡神功)筑紫糟永宮御宇之時、海中有物、現占君遣見複奏之日、率韓蘇使主等参来、因茲賜韓矢田部造姓。〇此地は初め雄伴郡と曰ひ、淳和天皇の御諱大伴を避けて八部郡と為せる者に似たり、雄伴郡の条参考すべし。而て八部は即八田部なれば八田皇后御名代、若くは韓矢田部氏の由緒地なるべし。
補 【八部郡】〇今按、拾芥抄八田部、郷名の部にも八田部郡とあれば、当時ふたやうに書たるなるべし、神名式には八部とあり。須磨寺鐘銘、摂津州矢田部郡山田庄。古事記高津宮条、天皇恋八田若郎女賜遺御歌、八田若郎女答歌故、八田若郎女之御名代定八田部、姓氏録、摂津神別矢田部造、伊賀色雄命之後也。
 
雄伴《ヲトモ》郡 摂津風土記逸文、及法隆寺資財帳(天平十八年勘録)に此名あり、而て延喜式和名抄に見ゆるなし。風土記「雄伴郡夢野」資財帳「雄伴郡宇治郷伊米野」とあるを考れば八部の前名なる事明白なり、凡官家に於て当時郡郷名を改むるは至尊の御諱を避くる事其一例なり、淳和天皇御諱大伴なれば其比の改名なるべし。〇西成郡難波の御津も和名抄雄伴郷の地にして万葉集大伴御津と詠ぜる埠頭なり、此は務古の水門にして又雄伴郡の名を負ふ、其謂なきにあらざるべし。住吉大社解状には「菟原郡、元名雄伴国」と載す、菟原雄伴武庫は三名一国と見て可なり。
 
歌垣山《ウタガキヤマ》 風土記云、雄伴郡波比具利岡、西有歌垣山、昔者男女集登此上、常為歌垣、因以為名。〇波比具利岡歌垣山共に詳ならず、夢野と同く宇治郷にやあらん。
 
神戸《カウベ》 小野浜より西南、和田岬に至る大海市なり。湊川を挟み神戸兵庫の二区を成し、横十町乃至二十町長六十町、西北は峰巒壁立東南に向ひて港湾を開く。其氏庫和田泊は即古の務古水門にして、神戸は生田宇治郷也。徳川幕府の末造に当り兵庫を開放して外国互市場と為すの議あり、慶応三年遂に神戸を相して租界を置き交易を奨む、此より兵庫神戸繁昌急に加はり、爾来三十年如今戸数四万五千人口二十万に上る、即二邑の外|荒田《アラタ》葺合|林田《ハヤシダ》等を併せ交制を布かる。
補【神戸市】〇京華要誌 摂津国八部郡湊川の東西に二区の大市街をなせるもの、東を神戸となし西を兵庫とす、今合して神戸市と云ふ、東西凡二十町、南北一里十八町、戸数四方三千余、人口十二万余、五港の一に(602)して海陸の咽喉に当り、大阪以西の一都会なり、港湾は満潮の時深く凡そ八仞、内外の船舶輻奏し、昼夜汽笛の声を絶たず、一ケ年投錨の船艦七百五十隻に下らず、兵庫県庁は神戸の北長狭通四丁目に在り。
 
神戸《カウベ》港 日本水路志云、神戸は条約港の一にして大坂の西方十二海里にあり、港の区域は和田岬端より北東に向ひ旧生田川(小野崎)より正南に向ひ直線を引き其両線交叉以内とす。此港は中央の川埼に由て二部に分る、神戸泊所は南面の障屏甚微なれども能く偏西風を保障す、兵庫泊所は湊川口と和田岬の間に位し水深概して四尋底質硬泥錨抓き甚可なり、神戸は南西風を避くること兵庫に及ばざるも偏東風に暴露する事は兵庫より少なり。〇開港規則云、神戸の港界は生田川の旧口より南方に向ひ引きたる一線と和田崎より北東に向ひ引きたる他の一線との二線間を経界と為したる面積内に含まる。
   神戸           岡本黄石
 万里潮光帯万家、近来開港日紛奢、通漕已可圧瓊浦、繁富亦将同浪華、蛮館分区連海※[さんずい+筮]、妓楼作郭倚山涯、鎮留楠氏英霊在、此地逾看気色加、
 
生田《イクタ》郷 和名抄、八部郡生田郷、訓以久多。〇今神戸市の東部三宮以東の地を云ふ。日本書紀に活田長狭国《イクタナガサノクニ》と曰ひ、生田神社本郷の中央に現存す。天武天皇九年「摂津国言、正月活田村桃李実也」と亦此地とす。姓氏録云、説津神別生田首、天児屋根命九世孫雷大臣命之後也。 稲葉ふくかぜもことにぞ身に寒き生田の里の秋の夕ぐれ、〔夫木集〕         俊成
 波白む沖のはやてやつよからん生田の磯によするとも舟、〔同上〕          為家
補【生田郷】八田部郡〇生田、天武紀九年正月、摂津国言、活田村桃李実也。神名式、生田神社。姓氏録、摂津神別、生田首、天児屋根命十一世孫。行嚢抄、生田神社、村の右の森の中にありて当国の一宮と云、稚日尊の霊社也、又生田川北より南に流て海に入る、此川上は布引の滝なり。岡山人松井河楽寛文七年東行日記、生田明神、此神者稚日女尊也、按、日本紀此尊坐于斎服殿而織神之御服也。又云、往古生田河辺有処女、双男慕之甚切、百誘相競、処女守節不撓、詠一首之和歌忽畏避於水底、始末具載于大和物語。治承四年三月、高倉院いつくしま御幸記、廿日とりの山坂にてひるのくごまゐりて、やがていでさせたまふ、いく田の森などうちすぎて、申のくだりにふくはらに着せ給ふ。
 
生田川《イクタガハ》 水源摩耶山の陰を出て、布引の滝と為り初めて海浜に就く、旧は布引より南流して神戸租界(外国居留地)の東に至り菟原八部の郡界なりしが近年更に其以東|脇浜《ワキハマ》に疏導す。〇大和物語に「昔処女あり、競ふ男二人ありけるを、身になげきて生田川に投じ死せるよし」を録す蓋処女塚の異伝なり、其処女のよみける詞に「住佗ぬ我身投てん津の国の生田の川は名のみなりけり」云々。
 幾たびの生田の川にたちかへる波に我身をうちぬらすらん、〔後撰集〕
 
生田《イクタ》神社 今三宮町の北、山手通の東に在り、官幣中社に列す、稚日女尊を祭る、此神神功皇后征韓の時霊験あり、皇后凱旋の際務古水門に泊し神誨に依り此に祭る、新抄格納符、大同元年摂津四十四戸神封に寄せ奉り。三代実録、貞観十年祷告あり従一位を授け、延喜式、八部郡名神大社に列す。名所図会云、生田大明神は三之宮村に在り近隣廿四村の生土神なり、古は生田川の水上布引の砂子《イサコ》山に鎮座し、地名を生田長狭国と称す、〔今按ずるに長狭は中間の義なるべし)裔神八前域外に在り、一宮は北野(今山本通の東)二宮は生田川東、三宮は神戸(今三宮町)四宮は花熊、五宮は平野、六宮は坂本(今湊川神社の北)七宮は兵庫北浜町にあり。
日本書紀「神功皇后凱旋、舶于武庫水門、稚日女《ワカヒルメ》尊誨之曰、吾欲居活田長狭国、因以|海上《ウナビ》五十狭令祭」。本居宣長云、神功皇后神問の条に彼の広田の神天疎向津媛命(天照大神に同じ)の次に「亦問之、除是神有神乎、答曰|幡荻穂出《ハタスヽキホニヅル》吾也於|尾田吾田節《ヲタアタフシ》之|淡郡《アハノクニ》所居之有」とある所居之の下に神の名脱たり、前後を合せて見れば稚日女尊なるべし。〇活田長狭一に活田長峡に作る、然れども広田生田長田は三処相連り同く神功皇后奉祝の神なり、而て生田は他二社の中間に在りて之を長狭と称す、蓋し中間の意なり。又神祇志料云、旧事本妃に稚日女尊をば天照大神の御妹と為す、他書所考なし、然れども日本書紀には稚日女尊、坐于祭服穀、而織神之御服也、素盞嗚尊見之、則逆剥斑駒、投入之殿内、稚日女尊乃驚、而堕機、以所持梭、傷体而神退矣とありて、本書の例尊字を用ひしは至貴の神等に限りたれば此神も甚貴くおはす也。今按ずるに此神は神功皇后請教の威霊にして本居氏の説最参考すべし、其尾田吾田節之淡郡を旧解にアタフシと訓むは謬れり、アゴノタフシなれば志摩国答志郡粟島乎多坐神〔神名式〕即是なり、吾《アコ》は英虞に同じく答志の別名と知るべし、猶志摩|伊雑宮《イサハノミヤ》参考すべし。
厳島御幸記、治承凶年三月廿日、とりの山坂にて昼の御食参りてやがて出させ給ふ、生田の森など打過て申のくだりに福原に着せ給ふ云々。此地は福原造都の時東の大手門たり、源平盛衰記に当年合戦の事を詳にす。又延元元年の兵庫合戦、其二月十日には楠木正成賊を(603)追撃して生田宮浜に至り軍を還し、五月廿五日の一戦には四国の船手細川の兵は紺部浜より上陸し生田森に向ひ新田義貞を撃破す。梅松論云、足利高氏公は兵庫の島にうつされ、当所の船を点じて諸国の御方に志を同して同時に都に責入べしとありけるに、周防の守護大内豊前守長門の守護厚東入道両人兵船五百艘当津に参じたりければ、此荒手に都へ責登るべしとて、建武三年二月十日、兵庫を御立有ける所に、宮方にも楠大夫判官正成和泉河内両国の守護として摂津国宮浜に馳合て、追ひつ返しつ終日戦つて両陣相支ふる処に、夜に入て如何おもひけむ正成没落す、翌日十一日、細川の人々大将相支ふ、即筑紫へ下向ある云々。〇生他明神の南、三宮の西傍の辺に古墳あり双塚なれば土俗河原太郎兄弟の墓と曰ふ由或書に見ゆ、又一新開紙に、頃年旧生田村の圃間に行路を造るに方り石棺を発きたり、六枚の盤石より成り中に刀剣矢鏃等を獲たりと。平家物語云、寿永三年二月五日の暮方に、源氏昆陽野を立て漸く生田の森へ攻め近づく、雀《スズメ》の松原、御影の松を見渡せば、源氏手に/\陣を取て遠火を焼き、更行くまゝ眺むれば山の端出る月の如し。明くれば六日、大手生田の森をば源氏五万余騎にて寄せたりけるが、其勢の中より馬には乗らで芥下をはき弓杖をつきて、二人のもの森の逆木を上り越え、武蔵の国の住人河原太郎私の党の高直同き次郎盛直生田の森の先陣ぞやと名乗りて城の中へぞ入りたりける。城の内には之を見て今は此者愛しにくし討てやと云程こそありけめ、備中の国の住人真名辺五郎射る矢に兄弟二人は落させて同じ枕に伏にける。東国の強者梶原平三之を聞き是は不覚にてこそ討たせたれ寄せやとて五百余騎逆木を取除け、父の平三景時平次景高兄の源大同三郎つづきて駈入たり、新中納言知盛の卿は大手の大将軍にておはしけるが、後顧み黒煙おしかゝりければあはや西の手は破れにけると、取物もとり敢ず我先にと落行きたり。
〔節文〕
補【生田神社】〇神祇志料 今生田川の西生田宮村に在り、生田大明神と云ふ(摂津志・摂津国図・八幡宮本記・神名帳考証)稚日女尊斑駒を逆剥にして其殿内に投入しかば、稚曰女尊乃驚給ひ、機より堕て、持たる梭以て御体を傷つき給ひき、
 按、旧事本紀に此神を以て天照大神の御妹とせり、他書考る所なし、然れども日本書紀の例、尊字を用ひしは至貴の神等に限りたれば、此神も甚尊き神にては坐す也、又按、古事記鳥鳴海神の妻昼女神あれど、此神とは同名異神也、姑附て考に備ふ
此神神功皇后韓国を順服て還来坐時に、務古水門にして、吾は活田の長峡国に居べしと誨給へる随《マニマニ》、海上の五十狭茅を以て祭らしめき、此即生田神社也(日本書紀・延喜式)平城天皇大同元年摂津四十四戸を以て神封に充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、正五位上勲八等生田神に従四位下を授け、九月庚申雨風の御祈に依て幣使を奉り、十年十二月乙亥従三位を賜ひ、閏十二月己亥使を遣し幣を奉て地震の災を祷告せしめ、又従一位を授け、陽成天皇元慶元年六月癸未幣を奉て甘雨を祈り(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次相嘗新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る(延喜式)村上天皇応和三年七月乙丑、祈雨幣帛使を遣し(日本紀略)一条天皇正暦五年四月戊申、レ疫癘火災の変に依て中臣氏人をして幣帛を奉らしめき(本朝世紀、参取日本紀略)凡そ毎年八月十九日二十日祭を行ふ(明細帳)
延喜式玄蕃寮、凡新羅客人朝者、給神酒、其醸酒※[米+斤]稲、云々、摂津国広田生田長田三社、各五十束、合二百束、送生田社、並令神部造、差中臣一人充給酒使醸生田社酒者、於敏売崎給之、醸住道社酒者、於難波舘給之。
 
三宮《サンノミヤ》 生田社の南を三宮町と称す、今神戸鉄道車駅にして居留地界の北に接す、此地に生田の第三の裔神ありければ是名あり。
補【三宮社】〇図会 神戸村に在り、生田別宮八所の一なり。
 
神戸《カウベ》郷 和名抄、八部郡神戸郷。〇生田郷の西、宇治郷の東なれば大略今の元町《モトマチ》南北の地にして西は再度《フタタビ》筋に至る者か。郡郷考云、かうべは土人の説に往昔神功皇后三韓より帰陣せさせ給ひて、かしこにて討取給へる所の首を此所に埋め給へるより頭村と名づけられしと曰へり、此所を黒谷上人伝には押部(甲部誤)と書し、太平記に紺部と書く、生田の近境なれば当初其社の神戸なるべし。〇按ずるに本郷は生田の神戸なること論ずるまでもなし、延喜式には生田の神部をして造酒せしむる事を載せたり、蓋灘酒の濫觴にして由緒太だ正し、曰凡新羅客人朝者、給神酒、送二百束生田社、令神部造、於敏売崎給之。神戸は慶応中まで一海村民家五百許、西は二茶屋《フタツチヤヤ》村|走水《ハシウド》村と相接比し一邑を成し、之を総べて一千戸に満たず、今の元町通を其大路とし、酒家船戸ありて稍海駅の状を備ふと雖、兵庫津と湊川の広斥を隔てゝ相対し、鴎栖鷺宿の人家散在して烟火蕭条たり、今往事を摘採して其大略を述べん。兵庫記云、神戸村は宇治野川の東につゞき往還の村なり、太平記に紺部浜とあり西の口を走水《ハシウト》次を二茶屋東を神戸と申て三所相つづく、此所には諸国の回船ふなもち多し、昔神功皇后三韓退治帰朝ありて是に至り異敵の首を実見ありし故頭村と申すと云伝ふ。開港史云慶応の当時まで神戸三村は兵庫と同く幕府直轄の地にして、街道の南、海に近く酒庫(604)十数棟あり廻船問屋数戸あり、而も大半は小農民にして精米商之に雑はる、生田川の傍に八町馬場あり、社頭より直に水浜に達す、沙上に鳥居あり生田磯と云ひ、(今租界の地也)俚謡に「馬場ぢゃ/\と云はんすけれど此んな馬場でも花が咲く」と伝ふ、神戸の北に花熊宇治野の二村あり、西宇治川を越ゆれば蓼原《タデハラ》(今相生町)坂本荒田平野の三村あり、文久三年幕府大に海軍を興すの議あり、海軍奉行勝麟太郎(義邦後安房)建策五月遂に大坂船手方を廃止し神戸に海軍局を創め操練所を建てゝ兵勇を教育す、勝其長官たり連に小野浜川崎和田崎に築塞し西宮今津に及び大坂堺浦と相※[牛+奇]角し海防の備を立つ、又神戸村民私造の舟膠場を収め修船場《ドツク》と為すの計画を為す、十月将軍家茂巡海の事あり勝其事を紀して碑を局内に建つ、
 文久三年三月大君駕大船巡覧摂播海浜至于神戸相其地形命臣義邦使作海軍営之基可謂当時之偉図也顧大君踞床指画之処恐久而湮没謹勒于石以貽永世云々
其十一月故あり勝の職を免し海軍局尋で廃す、局は三宮町に在り、操練処は宮浜の舟膠場の東なりとぞ。慶応三年兵庫開港の勅許初めて布告せられ、その宮浜を以て外人居留の租界と為す、面積凡二十六町なり、(舟膠場は安政二年二茶屋の舟手網屋吉兵衛の修造なり、当時摂海に船底据膠の設備ある処なく、多度津に之あるも不便多し、網屋之を憂ひ百方苦慮、遂に之を成就したり、然れども其工費銀七十貫に上り網屋破産しければ、村民協力負債を代弁して之を完功す、後数年にして海軍局立ち互市場となり税関を此に建て、舟膠場を利用して舟溜と為す、)神戸の旧錨地は宇治川尻の東、走水の浜にて、築堤して小港を造り以て出入に便したり、其廻漕は菱垣船樽船と称する船式なり、当時の貨物は米穀酒肥料を主とし問屋は大坂兵庫の賈人なれど、其船隻は神戸に繋留する者最多く、隠然たる無名の海駅なりき、菱垣船は松前箱館の遠北まで航走し堅牢を以て称せられ、樽船は専灘酒の運送に供せり。〇神戸開港(兵庫開港)は会幕府瓦解王政維新の際に方る、慶応三年十二月海内物情騒擾、翌年(明治元年)正月鳥羽伏見の戦あり、兵庫奉行官を棄て、脱走す、港市に政治を視る者なし、英米諸国の軍艦海上に存り警戒す。其十一日備前藩の小隊三宮町を過ぎ英人を傷く、軍監之を聞き兵を上陸せしめ港市を守る、已にして官軍来戍し参与東久世通禧詔旨を奉じ神戸に臨み天皇親政外国交際の事を来朝諸公使に告げしめらる、仏英伊普蘭米の六囲使臣運上所(宮浜に在り)に会し大命を聴き上陸の兵を罷め去る。尋で新政府は兵庫鎮台を置き二月改めて裁判所と為し専ら外務を処理せしむ、五月海内稍定る即裁判所を罷め兵庫県を置く、庁舎は
坂本村に在りき。此より後港市の繁栄年々に加はり街巷を造り四隣の閑地を開く、遂に西は兵庫に接し民口猶溢れて近郊数村を籠め以て今日の盛大を看る其発達の急遽なる海内に比なしと云ふ。詞人は神戸の地形を相し、呼びて神山《ジンザン》と曰ふ。
補【神戸郷】八田部郡〇〔和名抄郡郷考〕行嚢抄、神辺、自脇浜到此一里、自神辺到于兵庫一里。名跡考、摂津国八部郡にかうべといふ所あり、土人の説に往昔神功皇后三韓より帰陣せさせ給ひて、かしこにて討取給へる所の首を此所にうづみ給へるより頭《カウベ》村と云伝るよしをいへり、此所を黒谷上人の伝には押部と書、太平記に紺部とかきたり、或は上辺、上部、押部などとも書り、これらは後世土人の称呼につきてみだりに文字を替、終に其説を附会せるものなり、彼村は八田部郡生田の社の近境にあれば、当初当社の神戸なりしゆえ、かうべとは云なるべし、且和名抄を考るに、八田部郡郷名に神戸あり、則此かうべ村なるべし、今は正しく神戸と書り。
兵庫名所記 神戸村、宇治川のつゞき往還の村、太平記に紺部とあり、西の口を走水《ハシウド》、次を二つぢゃ屋、東を神戸と申て、三所相つゞく、此所より諸国の回船、ふなもちおほし。昔神功皇后三韓退治帰朝有て是に到り給ひて、異敵の首を実見ありし故頭村と申すと云伝へり。
 
兵庫《ヒヤウゴ》県庁 今神戸北長狭通に在り、摂州三郡播磨国淡路国但馬国(各一円)丹波二郡を管治す。
 
花隈《ハナクマ》 今神戸北長狭通、県庁西三町許、旧花熊村と称し自ら一邑を成せり。永禄十一年織田信長の兵摂州に入り細川三好の諸党与を破る、荒木村重功を以て本州を賜はる、村重花隈に築き山陽道を制す。天正六年村重叛き、毛利氏に通じ、大坂本願寺を緩け伊丹城に拠る、門徒雑賀根来の土兵海路花隈に来援す、翌年伊丹食竭き村重西走毛利氏に倚らんと欲して果さず花隈に入る、伊丹陥る。八年十月花隈又食竭き池田輝政の攻陥する所と為る、村重は其所終を知らず。本願寺古文書、信長証文に「花熊尼崎退城之刻可渡事」と見ゆ、是は天正八年春本願寺石山城退去を約する時なれば、当時花熊は尼崎と共に門徒の拠守したるを推知すべし。
 
諏訪山《スハヤマ》 神戸|山本《ヤマモト》通に在る一丘なり。再度山の山口にして諏訪明神あり老樹森々たり、地甚高からずと雖神戸の正北に居り眺望遠大なり。山中に炭酸泉あり、熱を加へて澡浴に供す、旅館客亭の設備り庭園最清佳なり、此冷泉は旧|塩池《シホイケ》と称し明治三年修めて浴場と為す、後近地を闢き遊園と為し、布引と并称して神戸の二遊覧処と曰ふ。〇諏訪山の東飛越(旧北(605)野村)姥口(布引)の二所にも同質の冷泉あり。
補【諏訪山《スハヤマ》遊園】〇京華要誌 山手通の北に在り、一帯の丘陵樹木鬱然として茂り、中に諏訪明神を祀る、神戸市の遊園にして旅館割烹店各所に散在し、往々宏壮美麗なり、温泉場は尤も此地著名のものにして、温泉の泉質特効等布引の冷泉に同じく、土地高燥にして眺望に富み、神戸兵庫の市街より茅渟の海を隔てゝ東には紀泉、西には播陽、又正面には讃淡州の山脈一眸の中に収まり、明媚快濶の風光名状すべからず。
 
再度山《フタタビサン》 神戸の北に聳ゆる峻嶺なり、抽海凡四七〇米突諏訪山より坂路羊腸三十町にして絶頂に達す、旧名|多多部《タタベ》山なり。山頂の古刹を大龍と名づく、真言宗を奉じ観音を本尊とす、弘法大師開基、和気氏の本願なり近世寛文の比和州唐招提寺賢正上人重興す、亦神山の小勝境なり。〇大日本史云、正平十七年、和田正武与楠正儀等入摂津、与石堂頼房攻赤松光範、進至湊川、焼兵庫民家、光範拠多田部城固守、乃引兵還。
 
宇治《ウヂ》郷 和名抄、八部郡宇治郷。〇神戸郷の西八部郷の北なり。宇治野村宇治野川の名は後世まで存す。宇治野川は再度山より発し平野の東を過ぎ坂本宇治野二村の間を過ぎ走水に至り海に入る弁天浜と称す、本郷は今相生町(旧名蓼原)多聞町福原町橘町坂本町宇治野町荒田村湊村等の地なるべし。法隆寺資財帳に「宇治郷夢野」とあり、今湊村大字夢野存す即是なり。湊川本郷を貫流して海に入る、川尻を湊崎又川崎と称す。
補【宇治郷】八部郡〇〔和名抄郡郷考〕冠辞考続貂、大和国法隆寺の資財帳に「摂津国雄伴郡宇治郷宇奈五岳」など見えたり、和名抄には此郡名なきは、淳和天皇の御諱を大伴と申奉りしゆえ、大伴氏を伴氏と改し時、雄伴郡を八田郷と改られけん、是を八部ならんと云は、かの資財帳に「東限弥奈刀川、南限加須加多池、西限凡河内寺山、北限伊米野」とあれば、今の兵庫の津より西をいふ也、此こと後紀逸史等に見えざるは脱漏なるべし、是よりさきに桓武の御名を山部と申しゝかば、山部氏を山氏とあらため、平城の御名をさけて紀の国の安提郡を在田郡と改め、嵯峨の御名をさけて伊予の神野郡を新居に改らるゝがごとし。
 
湊川《ミナトガハ》 水源二あり、一は再度山|鍋蓋《ナベブタ》山の陰(丹生荘山田村に属す)より出て、一は小部山鵯越の辺より出て湊村に至り平野夢野の間に相会し、南流|会下山《エゲヤマ》の東に触れ左折して海に向ひ其川尻を川崎と称す、長二里余、平時は水涸れ沙磧を見るのみ、河床太だ高く堤防を以て之を擁す、堤上花樹を栽植し公園と為す、其神戸市の中央に在るを以て士女散歩の地たり。
 湊川うはなみはやく且こえて汐までにごるさみだれのころ、〔夫木集〕       為相
 みなと川うき寝の床にきこゆなり生田のおくのさを鹿の声、〔同上〕        範兼
湊川の源名は務古の水門に因る、法隆寺資財帳に「雄伴郡宇治郷、宇奈五岳、東限弥奈刀川」と録す、宇奈五岳は後の会下山なるべし。名所図会云、此川古は壊下《エゲ》山の麓を南へ流れ兵庫の西を繞り大和田浜にして海に入る、平相国築島の時に福原の洪水の難を避けんが為め兵庫の北へ疏導せらる。〇按に湊川往時兵庫の西を流れたりと云事は信なるべし、地勢を看取するも歴歴たり、且其時代を推すに寿永の乱前に其流を改めしか。東鑑「元暦元年、一谷戦敗、越前三位通盤、到湊川辺、為源三俊綱被誅戮」とあるを盛衰記には「通盛湊川の端を下りに落されしが木村源三成綱と組て討れ玉ふ」と録し、平家物語に「三位通盛山の手の大将軍にておはしけるが、其勢皆落失せ敵に押隔てられ給ひぬ心静に自害せんとて東に向ひて落行き給ふ所に、近江国住人佐々木の木村三郎業綱以下七騎が中に取籠られ討れ給ふ」と見ゆ、而て摂津志は通盛墓佐比江堤の東北に在りと為すは当時已に今の如く湊川の東流したるを証すべし、佐比江は兵庫の北船入にして湊川堤に接す、名所図会に佐比江堤の通盛墓今之を失ふとて、西野なる木村源五重章墓辺に其跡を求めたるは誤れるに似たり。
 
川崎《カハサキ》 又湊崎と曰ふ、湊川の川尻にして一座の堆洲なり。兵庫神戸両泊所の中間に突出し、之を佐比江(兵庫の北船入)走水浜(神戸宇治川尻波止場)より計れば東南に拡張する事凡十町、洲形三角を成す。西川崎(兵庫出町)に砲台を置く、東川崎に造船場あり、明治三年金沢藩鉄工廠を此に創め沿革して造船場と為る。
川崎停車場は東川崎に在り、(相生町の東)今東海道幹線の西端にして神戸市の車駅なり山陽鉄道は之に接続し兵庫以西を往来す。神戸大坂間は明治七年に創業運転し、山陽線は明治廿三年に其端緒を成す。
 
湊川《ミナトガハ》神社 楠公《ナンコウ》祠と称す、湊川東北五町許、多聞通橘通の間に在り。明治維新の初め特に詔旨を授け建祠し、楠公の忠烈を褒揚して天下の義気を奨む、同四年祠堂成り尋で別格官幣に列す、殿廡門垣の結構壮麗なり、此地もと坂本村に属し空野寂々一堆の荒墳を見るのみなりしが、開港以後店肆填塞し方今神戸第一の繁劇巷と為る。墳上には一碑を留め、猶社域に遺れり、山陽外史の長歌行に「摂山逶※[しんにょう+它]海水碧、吾来下馬兵庫駅、想見訣児呼弟来戦此、刀折矢尽臣事畢、北向再拝天日陰、七生人間滅此賊、碧血痕化(606)七百載、茫々春蕪長大麦、君不見君臣相図骨肉相呑、九葉十三世何所有、何如忠臣孝子萃一門、万世之下一片石、留無数英雄之涙痕」と詠ぜるは此なり。
兵庫名所記云「正成墓は街道の上手坂本村の前畠の中に在り、往年までは塚印に梅松の二本ありしが、元禄四年水戸家に古墳を再興あつて碑石を建てたまふこと。按に塚標は尼崎城主(当時本村の領主)青山氏の植る所にして、筑前の儒生貝原氏も忠義の墳の埋没を憂ひ建碑の企ありしが果さず、水戸黄門光圀修史の志ありて儒臣をして海内に採訪せしむる所あり、楠墓の荒廃を慨して碑を立つ、亀趺基石を並せ高十尺、碑面に自筆「嗚呼忠臣楠氏之墓」と題し、碑陰には明徴士朱之瑜の賛辞を勒す。
 余偶泊舟於摂州兵庫津、下船陸行、到湊川北、而見楠公墓、々在平田之中、榛※[草がんむり/奔]蕪穢、無※[土+延]隧、無墳封、又無碑碣、塋上唯有松梅二株、悲風蕭々、春草青々。〔貝原益軒楠公墓記〕
   宿生田           菅 茶山
 千載恩讎両不存、風雲長為弔忠魂、客窓一夜聴松籟、月暗楠公塞畔村、
   摂州路上          頼 山陽
 酒家粉壁映晴波、官道乾沙渉淤河、風景依然人欲老、
楠公真下十経過、
   楠公墓            森 春濤
 笠置山寒貉一邱、延元陵古水東流、南朝無限傷心涙、灑向楠公墓畔秋、
延元元年五月廿五日の兵庫役は、海陸二界に跨り古今稀有の大戦なり、梅松論の記事最詳なり。曰将軍の御方は船数大小総て五千余艘と聞えし、きりながら其夜の御供に出し舟は三千艘に過ざりけり、月の出汐を待て播州室津より五十町東なる杓子浦に御舟かゝる、順風なりければ四国船を本船にて御先に走る、是も淡路の瀬戸須磨明石の澳にぞ泊し夜になりしかば、皆船の舳艫に焼す篝火、実に浪を焼かとぞみえし。陸地の勢は一谷を前にあて、海と陸との両陣見渡たりし間、明日五月廿五日兵庫の合戦の事御談合の御使夜の中に往復度々に及ぶ。廿五日卯刻に細川の人々四国の舟五百余艘を本船として、なほ追風なれば昨日のごとく帆をあげて敵の整たる湊川と兵庫の島をば左にみなしてぞはしりける、敵の跡をふさがん為なり、同時に数千艘の舟帆を上て淡路の瀬戸五十町をせばしときしり合て、更に海はみえず漕並べたりしに、陸地の御勢も同く打立て一谷を馳こすとみえし程に、辰の終に兵庫島を近く見渡したりければ、敵は湊河の後の山より里まで旗をなびかし楯を並て整たり、是は楠大夫判官正成とぞ聞えし。播磨海道の須磨口も大勢向ひてさゝへたり、浜の手は和田の御崎の小松原を後にあてゝ、新田方中黒の旗さして一万余騎もあるらんと見えしが、和田の御崎の合戦破れて兵庫の端の在家より煙あがりしかば、大道もたまらず山の手も又かくのごとし。さる程に四国の勢兵庫の敵を落さじと生田の森の辺よりあがりける所に、義貞兵庫の戦に打負て三千騎許にて引けるに行合たり、細川の人々従弟兄弟我も/\と船よりあがりければ、義貞打負て都をさして落にけり。定禅義貞には目をかけずして、湊川に向ひ楠正成残て大手の合戦、一所に自害する輩五十余人、討死三百余人。湊川の軍破れしかば御陣は御下向の時と同く兵庫の魚の御堂にてぞ有し、高尾張守の手の者討取し間、正成が頸持参せられける実検あり。〇足利方細川の人々四国船を以て紺部浜に向ひ、以て官軍の退却路を要したる事は太平記にも見ゆれど、戦争の状を記する稍緊切ならず、同書又正成は湊川の北なる民舎に入り自害すと為し、後世且諸説あれど信ずるに足らず、戦敗れ軍乱るるの際決然唯一死あるのみ、豈他の閑作業あるべけんや。
補【湊川神社】〇京華要誌 神戸相生橋西多門通三丁目に在る別格官幣社にして、楠正成を祀る、方二町余悉く土塀を以て之を囲み、芝居見世物割烹店等軒を並べて客を招き、粉囂雑踏市中第一繁華の区となる、表門の内左側の林下に有名なる嗚呼忠臣楠氏の碑あり、即ち元禄四年水戸黄門公の正成忠死の処に就きて建碑せるものにて、当時は湊川河畔一帯の田野なりしが、明治四年当社を創立せしより熱鬧の地となれり。
補【楠公墓】〇兵庫名所記 楠河内判官橘正成塔は兵庫より北、街道通の上手、坂本村の前、畑の中、往比迄は塚印梅松の二本ありしが、元禄四辛末年水戸黄門光圀公古墳を再興あつて、碑石を建て給ふ、
 忠孝著乎天下、日月麗乎天、天地無日月、則晦蒙否塞、人心廃忠孝、則乱賊相尋、乾坤反覆、余聞楠公諱正成者、忠勇節烈、国士無双、蒐其行事、不可概見、大抵公之用兵、審強弱之勢於幾先、決成敗之機於呼吸、知人善任、体士推誠、是以謀無不中、而戦無不克、誓心天地、金石不渝、不為利回、不為害※[立心偏+朮]、故能興復王室、還於旧都、諺曰、前門拒狼、後門進虎、廟謨不蔵、元兇接踵、構殺国儲、傾移鐘※[竹/虚/ハ]、功垂成而震主、策雖善而弗庸、自古未有元帥妬前、庸臣専断、而大将能立功於外者、卒之以身許国、之死靡他、観其臨終訓子、従容就義、託孤寄命、言不及私、自非精忠貫日、能如是整而暇乎、父子兄弟、世等忠貞、節孝萃於一門、盛矣哉、至今王公大人、以及里巷之士、交口両誦説之不衰、其必有大過人者、惜乎載筆之者、無所考信、不能発揚其盛美大徳耳
 石故河摂泉三州守贈正三位近衛中将楠公賛、明徴(607)士舜水朱之瑜字魯※[王+與]之所撰、勒代碑文以垂不朽、
〇寛文四年 歴日記云、坂本村の前田の中に楠正成が塚なんありける、そこを過ぎて山際に大龍寺といふ寺あり、其寺の西に梶原が二度のかけの標の石とてあり。
 
坂本《サカモト》 今坂本町と曰ふ、北に円形の丘あり広厳寺《クワウゴンジ》安養寺等其下に列し丘東を宇治野と称す。広厳寺は俗に楠寺と曰ひ禅家に属し元僧明極の開基とぞ。
 
広厳《クワウゴン》寺 医王山と称し本尊薬師如来。此寺楠公墓所の北三四町、俗説多く楠公に附会する所あるも、狡獪の言信を採るに足らず、寺中に一碑あり、
 楠公墳上一株梅、元禄年間此地栽、精忠猶見当時節、歳々南枝向日開、  此梅元在楠公墳上云々。
史学雑誌云、古写本太平記に拠れば正成自害の段、其大略曰「右馬頭直義の五十万騎、正成の七百騎に懸ちらされて須磨の上野へ引のく。入替て吉良石塔畠山上杉の人々六十余騎にて湊川の東へ打出て跡を切らんとぞ取巻ける。楠兄弟の兵取つて返り三時計りの間に十六度までもみあひける、されば楠の兵皆打れて僅に七十騎にぞ成りにける。正成は打破つて落つべかりしか共、都を出しより世間の事今は是迄と思ひ定めたりければ、一歩も引ず戦て機已に疲れければ、湊川の北に在家の一村あり中へ走入て腹を切んとて(今本には此下に楠が一族十三人手の者六十余人六間の客毅に二行に並居て一度に腹をぞ切る云々の句あり)舎弟正季に向ひて、抑最期の一念に依つて善悪の生を得と云へり、九界の中には何の処か御辺の願なるやと問ひければ、正季から/\と芙ひて七生までも只同じ人間に生れて、朝敵を亡ぼさばやとこそ存候へと云ひければ、正戌よにも快げなる気色にて罪業深忘念なれども、我も加様に思ふ也、いざさらば同く生を替て此本懐を達せんと盟りて、兄弟同じ枕に臥にけり云々」按に「一村ある中へ走入て腹を切んとて」の下に今本竄入の文字あり、中にも六間客殿など云は広厳寺の明極行状に符合すれど、参考太平記及大日本史も天正本を引き之を疑ひ其妄を弁じたり、明極行状と云ものも、今本も皆天正以後に取拵へたる者か。〇今按に、明極行状に楠公の贈位贈官を録し摂河泉三州大守と為したるは疑ふべしとて学者其議論あり、又明極行状楠公は五月十五日に此地に着陣し明極と法話せりと為す、細々要記に「五月廿三日、官軍播磨を引て兵庫へ退く、同日楠判官正成勅を受兵庫へ下向、其勢五百騎計、廿五日兵庫湊川合戦」とあれば正成が明極と対話の事亦疑ふべし。要するに明極行状は拠るべき古書に非ず、広厳寺の明極住止、并に楠公明極の間答等は蓋無根の構説のみ。
補【広厳寺】〇兵庫名所記 坂本村西はづれに寺あり、医王山広厳宝勝禅寺と号す、後醍醐天皇御勅願、開山焔恵明極和尚草創、本尊薬師如来、堂を瑠璃殿と称す、楠正成同舎弟正季此寺の客殿に於て、一家十六騎郎従七十三人自害と云。
 
荒田《アラタ》 荒田村近年神戸市へ編入せらる、福原造都の比此に平清盛弟頼盛の山荘あり。平家物語云、治承四年四月、高倉院厳島還幸、播磨の国山田の浦に着かせ給ひ、それより御輿にめして福原へ入らせおはします、御逗留ありて福原の所々を皆歴覧あり、池の中納言頼盛の卿の山荘あらたまで御覧ぜらる、又同じ年六月、日比福原へ都うつりあるべしと聞えしかば、京中上下騒ぎ合ひ、二日の日新帝行幸の御輿をよせたり、明る三日福原へ入らせまします、池の頼盛脚の山荘皇居になる、十一月十三曰福原里内裡へ遷幸。〇荒田に差方《シヤホウ》塚と云者二所あり、一は村の東北に在り一は南蓼原(今中町通二丁目)に在り、福原造都の時条里を割るに方り之を築きて割出しの基と為したりと伝ふ、事由詳ならず。
近年荒田の南に娼家を集め一廓を成さしめらる、湊川の東堤に倚り、福原新地と称す。
補【差方塚】〇兵庫名所記 荒田村北東畑の中に塚印の木あり、治承四子年六月九日福原新都の時、五条大納言国綱朝臣承はりて此塚を築き、是より地形わり出し里内裏を造られしとなり。開港史云、差方塚は仲町にも之あり、宮城の経始起点は二者いづれにや、詳ならず。
 
湊山《ミナトヤマ》 湊川の上游の地を指す、今湊村と称し奥平野石井夢野烏原等に分る。
 湊山とことはに吹く汐かぜに絵島のまつは波やかくらん、〔新勅撰集〕      後徳太寺左大臣
天王《テンワウ》温泉は奥平野牛頭天王社の前に在り、炭酸冷泉にして岩罅より湧出す、諏訪山塩池と同質なれど其発見は慶長の往時に属す、豊臣秀吉、浴室開創者正直屋寿閑へ与へたる証文今に村人の家に蔵する由、鉱泉志に見ゆ。〇天王越とは温泉の傍より湊川に沿ふて丹生荘山田村へ通ずる山路を曰ふ。〇千鳥滝《チドリノタキ》は湊川の激湍なり、天王温泉の西に在り。
 深山かとおもひ来ぬればさはなくて千鳥の滝に汐ぞ満くる、〔袖中抄〕
此歌意によれば往時に湊山まで潮の干満ありしにや、又湊と名を負ふに牽合して潮を詠じたるにや、詞人の語深く依拠すべからず。
 
夢野《ユメノ》 湊川の西なる高原なり、(長十町横六町)北は湊山南に会下山にして西は鵯越に通ずる峻阪なり。民家は石井夢野の二大字に分る、治承四年六月平清盛は離宮を夢野に造り、後白河法皇を奉ず、謂ゆる牢御所《ラウゴシヨ》是なり。
 
(608)牢御所《ラウゴシヨ》跡〇平家物語都うつりの段云、入道相国は高倉の宮御謀叛によりて法皇をば憤り治承四年六月福原へ又御幸なし奉り、四面にはた板して口一つあきたる内に三間の板屋を造りて押込奉り、守護の武士には原田の大夫種直ばかりぞ候ひける、たやすう人の参り通ふべきやうなければ、童などは牢の御所とぞ申ける、聞くも忌々しうあさましかりし事どもなり。〇参考源平盛衰記云、治承四年十月、新院厳島より還御あり、遙遙の海路を御舟にて事故なく還上らせ給ふ。十一日夢野(長門本作夢殿)と云所に楼の御所を造て、法皇御渡有べき由、入道相国申されければ、(長門本云、法皇渡らせ給ひけるが、三条殿へ御渡有べき由申されければ)御輿に召て御幸あり、名もいまいましき楼御所を出させ給て尋常の御所に移り入らせおはすも、厳島明神の験にやとぞ思召されけり。〇摂津志には石井に平家造営の雪見《ユキミノ》御所跡ありと為す、牢御所と異同詳ならず。
 湊川うき寐の床も今宵こそあきをつけ野の鹿もなくなれ、〔夫木集〕         公衡
 あはせてやいむといふらんうば玉の夢野の鹿のもろ声に鳴く、〔同上〕        長明
夢野は一名|刀我野《トガノ》と曰ふ。〇摂津風土記云、雄伴郡夢野、父老相伝云、昔者刀我野、有牡鹿、其婦牝鹿、居此野、其妾牝鹿、居淡路国、牡鹿宿婦処、明旦語其嫡云、今夜夢、吾背霜零而草生、此夢何祥、其嫡悪夫復向妾所、乃詐相之曰、背上生草者矢射背上之祥也、又霜零者塩塗宍之祥、汝渡淡路野島者、必遇船人射死、謹而勿往、其牡鹿、不勝感恋、渡野島、海中逢行船、終為射死、故名此野、曰夢野、俗諺云、刀我野|爾立留真牡鹿母夢相乃麻爾麻爾《ニタテルサホシカモイメアハセノマニマニ》。日本書紀仁徳天皇三十八年難波なる菟餓野の条に「鳴鹿も夢あはせのまに/\」と云ふ、諺の起因を註す、風土記と少異あり。蓋鳴鹿の故事は本地を拠とし、其鹿と云ふは水夫《カコ》の異名なるべし、即務古水門の船戸の古諺也。
烏原《カラスハラ》は夢野の西北澗中に一区の聚落を成す。名所図会云、烏原願成寺は法然上人の弟子住蓮の旧栖なり、平三位通盛の室小宰相の塔寺内に存す、住蓮平家滅亡の後通盛夫婦の菩提を弔ひ、今に住蓮坂の名ありと、不審。
会下山《ヱゲサン》 夢野の南を蔽ふ高陵なり、法隆寺資財帳(天平十八年勘録)に宇奈五岳と云は此か、曰「雄伴郡宇治郷、宇奈五岳、東限弥奈刀川、南限加須加多池、西限凡河内寺山、北限伊米野」と。(加須加多池は今西野の池なるべし、凡河内寺山と云は長田神社の東陵にや、伊米野即夢野也)名所図会云、「会下山一名延喜山といふ、幅三町の平山なり、延喜年中に築出せし所なり」と、此延喜年中に築くと云事何の謂たるを知らず、会下と云ふは中世の語、禅僧の会所を曰へり。
 
八部《ヤタベ》郷 和名抄、八部郡八部郷、訓也多倍。〇八部郡の首邑なり、即務古水門にして後の輪田泊兵津津なり、宇治郷の東にして半面は海湾なり。(八部郡参考)
 
務古水門《ムコノミナト》 輪由《ワダ》泊|兵庫《ヒヤウゴ》津の旧名なり。日本書紀云「神功皇后の船、(従韓国凱旋向京忍熊王拒之)廻於海中、以不能進、更還務古水門、而卜之、有神誨、乃祭広田活田長円三神」と、是れ忍熊王兎原住吉に防戦の時にして其航程地境を推し以て務古水門の位置を弁知するに足る。又云、応神天皇、取枯野舟材、為薪而焼塩、得五百籠、賜諸国因令造船、是以諸国一時東上五百船、悉集於武庫水門、時新羅調使宿武庫失火、即引及於衆船、而船多見焚、由是新羅人聾然大驚、乃貢能匠者、是猪名部等始祖也。
 住の江の榎名津に立ちて見わたせば武庫の泊をいづる舟人、〔万葉集〕              黒人
輪田兵庫の沿革は下に見ゆ。
 
輪田《ワダ》 大輪田《オホワダ》とも云ひ又和輪通用す、務古水門兵庫津の別名なり。中世(鎌倉時代)築島して港泊を修めたる比より輪田泊の名廃れて、専ら兵庫島と称す、南岬に和田崎の名存す。大輪田は難波の河尻(三国川)にも同名の船瀬あり、蓋皆韓国朝貢の盛代に興りたる海駅にして、或は行基法師の建置と為すは修復の謂のみ、行基年譜云、大輪田船息、在兎原郡宇治。延喜年中三善清行意見封事に曰「臣伏見山陽西海南海三道、舟船海行之程、自※[木+聖]生泊(播州室津)至韓泊(飾磨津)一日行、自韓泊至|魚住《ナスミ》泊一日行、自魚住泊至大輪田泊一日行、自大輪田泊至河尻(難波大輪田)一日行、此皆行基菩薩計程所建置也。〇名所図会云、兵庫の海底に洲あり常時には隠れて見えず、洲の長さは菟原郡深江浦に連る、毎年三月潮涸るゝ時見ゆと云ふ、天長八年入唐使の船を此澳に泊りし時洲の南の海中に出ると云ひしは是なり、即大輪田泊の古跡とぞ、洲の近傍水甚深く十二三尋あり、船客の畏れ忌む所也。〇論田泊の修造は歴代之あり、中にも築島の事最世に喧伝す、其始末下の如し。史学雑誌云、和田岬は西風には安穏なるも、東南風急なるときは高浪岸を拍て停泊し難きを以て、古来造船瀬使を置き石堤を築て停泊の舟を保護せり。嵯峨帝の時船瀬破壊せしかば役を興して之を修築し、弘仁七年に其功を訖る、爾後は其修作の料には官私船の米を収め及び水脚を三日づつ使役する等の事あり、(類聚三代格に見ゆ)船瀬は即船居にて泊船の所なり。仁寿三年に至り又大輪田船瀬石椋修造の事あり、荘田の稲を以て其料にあつ、又三代格に見ゆ、石椋はいはくらとよむ、(609)三善清行の意見封事に「而今公家唯修造輪田泊、長廃魚住泊」云々の語あれば当時五泊の内專重きを輪田泊に置けり。平清盛の経島修築は平家物語に見えて、応保元年より三年までの事と為すも、源平盛衰記には承安二年三年の事と為し相合はず、其詞又虚飾多し、治承四年の官符は山槐記に載す、
  応調庸物運上船梶取水手下向時、人別三箇月、勤仕摂津国大輪田石椋造築役事、
 右得人道前太政大臣家今日解状※[人偏+稱の旁]、(中略)爰近年占摂津平野之勝地、為遁世退老之幽居、依其境之相近、聞此崎之為要、殊励私力、図築新島、波勢常嶮、石椋不全、自非仮国々之功力、争得致連々之営築乎、則下知畿内並山陽南海両道諸国、不分庄公、不論権勢、田一丁別畠二丁別、各宛一人、可被雇召、於其時節者、各可依申請、但播磨造小安殿、備前造大極殿、已以営大功、不可准他国、宜除公田支配庄薗、至于東海西海両道国々者、当国大小雑物運上之時、其船梶取水手下向之次、慥任先例、役経三日、望請官裁云々。
此に新島を築くと云へば、旧来の模様にては不完全なるゆゑ更に意匠を出して新築若くは増築を謀るか、是時宋の商舶博多及び兵庫に来りて貿易し而して清盛居を福原に占しは船舶の停泊に便せんがため大に計画する所ありしならん、即ち現今築島寺所在の一島新築の役を興せしなり。去共之より廿年後の建久の官符に「大和田泊者、古今之間、或雖修復、二十年来、石椋頽壊云々」とあれば治承の度は兵乱急に起り末成功に至らざりしならん。平家物語等に清盛の工事を記して十分に竣功し、一労永佚の業を成すが如くに其功を誇称するは事実に非ず、建久七年の官符は大坂小原文書に見ゆ、
 太政官符 摂津国司
  応任東大寺大和尚重源申請、知識不論神社仏寺権門勢家庄薗公地、令伐用造築魚住大輪田泊等、石椋并一洲小島料材柯木竹等、点進津津破損船瓦、兼雇役河尻辺在家人夫事云々。
この施行により兵庫の築島始て完成せしなるべし。清盛の経画、重源上人の手を経て成功するは奇と云ふべし、扨兵庫経島の用途として後年まで課したる升米は延慶元年に至り遂に東大寺八幡宮に寄附せらる、爾後東大寺には同所に代官職を置き石椋修理を取計らはせ、升米置石の徴収は代官の請負となりて、其年額は七百五十貫文なりと云ふこと永享八年の文書に見ゆ。
 
兵庫《ヒヤウゴ》 古の務古水門、輸田泊なり。今神戸市に入る。兵庫の名は上古に所見なし、平語に福原兵庫と記し、東鑑元暦元年兵庫三簡荘の名あり、太平記には輪田泊を以て兵庫島と為す、難太平記梅松論等之に同じ。蓋鎌倉武家の比に輪田築泊の事ありて、其津頭に変改あり、因て更に兵庫島と称したるか。按に務古一に武庫に作るを以て、武庫を其文に因り兵庫に転じたるにや、然れども徴証なければ臆想を免れず。神社考に引ける古風土記逸文には「武庫今日兵庫」と註すれど、此注は原文なるにや、神社考作者の今注にや詳ならず。〇鎌倉武家の時に制定せりと伝ふる船法式目三十一条世に伝へり、其奥書云、
 右三十一箇条之儀貞応二年癸未三月十六日兵庫辻村新兵衛土佐浦戸篠原孫左衛門薩摩房野津飯田備前天下へ被召出船御尋之時則御批判被成候理を曲法有とも法を曲理不可有之條此三十一箇条之外にも舟之沙汰於有之者三十二箇条引合理を以可有沙汰候者也
名所図会云、兵庫津は福原荘なり、海陸都会の地にして一名武庫泊と曰ふ、昔の津頭は西北の山手の地なり、平相国清盛築島成就して今の形状と為り、其築島即|経島《キヤウノシマ》と云ひ兵庫の津是なり。〇按ずるに務古水門と称するは往時佐比江を埠頭とし、佐比江廃して其南岬辺に移り大輪田泊と称し、後大輪田の北|佐比江《サビエ》の南に築島したる者の如し、近代の兵庫津是なり。其|岡方《ヲカカタ》組南浜組北浜組の三に分れしは古俗の遺制なるべし、岡方は務古水門の旧邑にして、南浜は大和田の古駅なるべし、而て北浜は兵庫築島以後の新地なるを知る。名所図会に「兵庫津は官道岡方にかゝり南浜北浜の別あり、繁昌大坂にかはりなし、諸州の船の入津商売は天正以後の事なり」と云ふは粗漫なり、大輪田務古福原の昔は之を措き、足利幕府の時にも兵庫は京畿第一の要津なり、日韓交通の事態を録せる海東諸国記に
 我慶尚道東莱県之富山浦、至対馬島(中略)自尾路関、至兵庫関、七十里水路、自兵傳、至王城、十八里陸路、
と載せしは当時水陸の経由を観るに足る。又「応仁元年丁亥成化三年」遣使来朝、書称畿内摂津州兵庫、平方民部尉忠吉、受図書、約歳遣一船」とあるは平方氏其土豪なりしを想ふべし。近年破産せる北風某を兵庫の旧家なりとすれど不審、俚俗その家を俗諺一千年の旧家と曰ふは誇大の嫌あれど、近古以来の家筋なりしにや。。一遍上人縁起云、正安四年津国兵庫島へ着給、沙村重りて街を並べ、河海堪へて派を堺す、銭塘三千の宿、眼の前に見る如く、范蠡五湖の泊、心の中におもひ知らる、治承の比新都を建られし、福原の京とは此所なり、翠華還らずして歳月久く積りぬれば、玉甃空く跡を残し瓦の松さへ其名なくなりにけり。〇南方紀伝云、嘉吉三年六月、朝鮮の使者来る、是れ将軍義教の薨逝を弔ふとなり、朝鮮人兵庫に到る時、貢賦をわぶる、管領持国の曰く、誠は商売の為に来朝すと見(610)えたり、然らば国役その費多し、都に入ることあるべからずとあり、朝鮮人は尚弔の為に来朝す全く商売のためにあらずと陳ずる故に、都へ入らしむ。異称日本伝に「図書編曰、摂津、其※[奥/山為飄船各、為阿家世奴竦、為素埋、為男女懐、東南懸海、為阿功州」とあるを引き、飄船各は兵庫にて、阿家世奴竦は明石浦、素埋は須磨なるべしと云へり。福原荘は鎌倉武家の初め、藤原氏接※[竹/録]家の伝領となり、一条家に譲与せられ、南北乱後は赤松香川等の武家其下司たり、事一条兼良の桃花蘂葉に見ゆ。応仁の乱に兼良の孫政房兵庫に避けしが、山名氏の兵に殺す所と為る。応仁記曰、文明元年大納言政房依為御本領、兵庫におはしけるが、敵とや思ひけむ、以長鑓御心もとを突通し奉る云々。応仁乱後は細川三好諸党の略有する所と為り、織田氏の起るや摂津を定め荒木村重に与ふ。村重の叛くや花隈城を以て中国路を塞ぐ花隈兵庫の名多く当時の軍書に見ゆれば、兵庫にも築塞したるに似たり。兵庫三組四十四町其三面郊野に接する部は溝渠を設けて防備し門を置きて出入を厳にしたる状、泉州堺浦に同じき者あり。開港史云、兵庫は外郭と云へる溝渠を以て之を限り、総門は湊川柳原両口に在り官道之を通じたり、天正八年花隈落城の後池印輝政兵庫を以て城郭の構と為せりとぞ、豊臣氏大坂を興し万国の船舶を引附たるより兵庫面目を改む、大坂は舶舟の便悪きを以て大舶巨艦は多く兵庫に廻漕したるを以て也、当時の下知として和田崎より大坂河口までの間に浅瀬あり是を十里の遠浅と云ひ大船を入れ難し、即大坂城の要害と為す、依て諸国の廻船は皆兵庫に止らしめ、大坂の海商は更に其貨物を小舟に移し出入を為す之を迎船と号す、又出買船と呼べり、徳川氏に及び兵庫神戸等の地は尼崎領と為り、明和年中より幕府の御領所と為る。
   兵庫の磯に舟をつなぎぬ、此処に大なる浴室ありて行て見る、玄蘇法師の詠ぜる詩も思はれ侍る、〔懐橘談〕
 浴後自誇清浄身、江頭山色共相均、兼全名実古来少、地是福原民是貧、
天明七年、兵庫人口一万九千六百、南浜一千二百九十戸岡方一千五百八十戸北浜一千五百八十戸神社十一寺宇三十問屋百二十一軒船七百八十二艘内渡海船五十八。〔開港史〕慶応三年冬兵庫を以て外国互市場と為し神戸を開港す、湊川の沙磧数年にして街巷と為り兵庫神戸の間に湊川の一組を生ず、明治十二年兵庫三組神戸等を合同して神戸区と称せしめらる、自治制を布かるるに及び神戸市と称し、隣接の村落|長田《ナガタ》池田尻池|駒林《コマバヤシ》御崎等皆市中に編入す。
補【兵庫】〇名所図会 会下山一名延喜山といふ、兵庫の地にあり、巾三丁の平山也、延喜年に築出せし所也、〇兵庫津 町名四十四、官道岡方にあり、南浜北浜の別ちあり、繁昌大坂にかはる事なし、むかし兵庫の津は是より西北の山手のすべて浜辺にて、町小路もなくして、多く漁村船子の住家なり、淡州入津売買は天正以後の事なり。〇此海の底に洲あり、長くして菟原郡深江浦に連る、毎年三月潮涸るゝ時砂の洲必ずみゆるなり、天長八年入唐使の船を此湊に泊め、津の南の海中に出るといひしは是也、是古の御崎といひて、大和田の古墟也、水涯甚深うして十二三尋ありて船客の畏忌る所なり、
 ゆふづく日和田のみさきをこぐ船のかたほに引くや武庫のうら風(玉葉集)      入道前太政大臣
 住の江の得名津に立ちて見渡せば武庫のとまりゆ出づる船人(万葉集)        高市黒人
〇佐此江 上方よりの人口にして遊楼多し、佐比江名所にあらず、清からぬ江をさび江と言也、此地新地にして元はさひ江なるべし。若狩守経基〔俊の誤り〕墓、佐比江橋の北にあり、平相国第四〔一か〕の舎弟修理大夫経盛の次男なり。
〇兵庫の北風とは酢づくりの名家、一千五百年来の富商なりと云ふ。〇海東諸国記に、我応仁元年に方り、兵庫の人平方民部丞忠吉と云ふもの朝鮮へ使者遺し、毎歳一船を送るべきことを約せる由見ゆ。
〇名所図会 鎌倉実記、平相国清盛此地を築く事民の煩ひもかへりみず、只威に誇る悪行には似たれども、末代天下の至宝にして、島々入江田地となり人家も増長し、諸国に船のわづらひなく交易盛んに行はる、其功実に善行といふべし、抑此津を築くの条は、摂津和田ガ崎は往還の海門天下運送の要津なり、平家の勢威万国に及ぶといへども、東国の八平氏関奥の夷族に恐あり、爰を以て清盛かたがた思ひめぐらし、京城をはなれ要害の府城をかまへ、子孫長久の地を考ふるに、津の国福原より勝れたるはなし、たとへ君臣の礼に背くとも中国西国の人々さへ心がはりだになくば、須磨関を堅め葛葉山崎の大城戸を閉ぢて船路の通路を専らにせんと、胸方氏国が器用方便をかり、許斐《コノミ》の忠次郎(妙典の子なり)門司の藤内并紀四郎景則を奉行として、長門周方丹波播磨紀伊和泉より役夫を出させ、飛騨の匠木曾の杣方惣じて内裏供御料所の正税といふとも御祭全科の外に十分一の課役を取て不日に成就せんと、応保元年二月八日に築はじめ、過半成就の所に八月に至りて大風大波立て一夜に是を淘失ひ、跡方なくぞ成りける、かくて又三年の弥生阿波の民部重能を奉行として終に成就す、云々、人柱の事は平家物語に見ゆ、松王小児の事さだかならず、今兵庫の里俗清盛様といひ、尊ぶもむべなり。
(611)補【兵庫踊】〇改正三河風土記 今川氏真の行儀、明れば蹴鞠茶湯、暮れば酒宴乱舞のみ翫び、遊女白拍子兵庫踊などに日月を送る。
 
佐比江《サビエ》 兵庫の西北部に在り旧|岡方《ヲカカタ》に属す、湊川に接し東に小港あり、土俗|船入《フナイリ》と曰ふ、即佐比の江にして小船の出入に便す。蓋務古水門の遺墟にて、其傍に生田の裔神|七宮《シチノミヤ》在り。
 年を経てにごりだにせぬ佐比江には玉藻かえりて今ぞ澄むべき、〔後撰集〕      壬生忠岑
名所図会云、佐比江は兵庫北の入口にして青楼多し、佐比江とは清からぬ入江の名なり、若狭守平経俊(経盛次男)墓、佐比江橋畔に在り。開港史云、佐比江の賑はひいと旧し、俚謡に
 兵庫|髷《まげ》べにおしろいの花の顔さび江といへど日々にあたらし、
と口吟めり、其後娼家は西の出口|柳原《ヤナギハラ》に移され、六七十年来は佐比江常人の住処と為る。〇兵庫髷は佐比江の娼婦の好みに出でし髪形なり、櫛巻と云者に類す、又兵庫踊と云者あり駿河国主今川氏真乱舞を好み兵庫踊を召したる由、改正三河後風土記に挙げたり。又歴世女粧考に兵庫髷は兵庫の遊女より結ひ初めたるなり、寛永板の俳句犬子集に「兵庫のものよ唯ごめんなれ(付句)けかをしてゆく女房のかみ」また慶安板峰続集に「娶にほしきけば兵庫の泊舟(付句)名にむすぴたる青柳の髪」など見ゆ、云々。
 
経島《キヤウノシマ》 今|北浜《キタハマ》の地なるべし、築島以複数度の沿革ありて旧形尋ぬべからずと雖、大抵佐比江以南来迎寺々辺即是なり。来迎寺は築島《ツキシマ》寺と称し、寺辺を島之上町と曰ふ、今浄土宗を奉じ本尊阿弥陀仏なり。
長門本乎語云、福原の海は泊のなくて、風と浪との立合ぬれば、通へる舟の倒、乗人の死する事昔より絶えず怖き渡と人々申ければ、入道(清盛)阿波民部大夫成長に仰て、去る承安三年築始たりしを、次の年風に打失はれて、次の年石の表に一切縫を書て船に入て幾隻と云事もなく沈られたり、さてこそ此島をば経島とは名けられけれ、猶往返の舟に仰て十の石を取持て、彼島へ入べし末代までも此仰背くべからずと宣旨下され、成良計申ければ其事に定られけり。はたより沖へ一里三十六町出してぞ築きたりける、初は河舟計ぞ有ける、それを便にて広くなり、漸陸へ築き続け、見る見る船も留り家なども出来、室高砂に劣るべしとも見えざりき。世をすごす習なれば遊女の有も憎からず、小舟の影に居て四周を見渡せば、漕行舟の跡の白波と歌ひ遊ぶめり、或は屋形の内にて「船中浪上歓会惟同」とて「和琴緩調臨潭月、唐楫高堆入水煙」など朗詠をす、鼓を鳴らし拍子を打ち余波惜き曲をうたふ、国司以下は中将のそこを払ひ、商人下臈はもとでを倒しつつ、後は侮れども此時逢にしなれば力なき習なれや云々〇印本平家物語云、乎相国入道福原の経の島築かれて上下往来の船の今の世に至るまで煩なきこそめでたけれ、彼島は去応保元年三月に築初められたりけるが、同八月二日俄に大嵐吹き大波立ちて皆揺り失ひてき、同三年三月下旬に阿波の民部重能を奉行にて築かれけるに、人柱立らるべきなんど僉議ありしかども、それは中々罪業なるべしとて、石の面に一切経書きて築かれける故にこそ経の島とは名づけけれ。六代勝事記云、入道大相国は民部大輔成良(田口)ときこえし賢きものをして築しめたりし経の島の多くの人の命を助けて、万代の名誉を残す。〇築島の業は一朝夕の事に非ず、其始末輪田の条に見ゆる如し。俗説讃州香川民部の子松王|小児《コテイ》と云者、人柱に立ちて成功すと、其緑由詳ならず。太平記には兵庫島と称し、当時須磨明石の隘路を扼する要津なり。太平記云、細川定禅律師は四国の兵どもを駆り催し、大船七百余艘にて紺部《カウベ》の浜より上らんとて磯に傍てぞ寄上りける、兵庫島三箇所に扣へたる官軍五万余騎船の敵をあげ立てじと、漕ぎ行く船に随ひて汀を東へ打ちける間、船路の勢は自ら進みてかゝる勢に見え、陸の官軍は偏に逃げて引くやうにぞ見えたりける、海と陸との両軍互に相窺ひて遙の汀に着きて上りければ、新田左中将と楠判官と其間遠く隔りて兵庫島の船着には支へたる勢もなかりけり、依之、九国中国の兵船六千余艘和田の御崎に漕ぎ寄せて、同時に陸へぞあがりける。〇懐橘談云、経島は人柱築入れしとつたふれど、平家物語には人柱罪業なりとて石の面に経文を書て築かれたりければ故にこそ経の島とは名づけゝるとあり、平相国の塔と云ふを尋ね見るに弘安九年二月日と彫て、清盛逝去養和元年より百七年の後のものなり、清盛の忌日二月四日なれば月は同じ。〇平相国塔は平家物語に「養和元年閏二月四日、入道相国悶絶遂にあつち死ぞし給ひける。同七日の日愛宕にて煙になし奉り骨をば円実法眼頸にかけ津の国へ下り、経の島にぞをさめける。さしも日本一州に名をあげ威を振ひし人なれども、身は一時の煙となりて浜の真砂にたはむれつゝ、空き土となり給ふ」とあり、此古跡は逆瀬川八棟寺なるべし、其地岡方に属し経島の西南六町許とす。
   築島           斎藤拙堂
 洲觜截潮千丈長、万家楼外※[竹/族]帆檣、世人一立愛憎見、欲用長城罪始皇、
 
新川《シンカハ》 築島寺と岡方磯町の間に一港あり、方百間許の池なりしかど東は海湾に通じ小舟の入泊に便し兵庫の埠頭たりき。明治七年神戸区長神田某(612)此船池を以て北口と為し西南に一水を疏鑿し、南浜の西を繞り外郭の旧溝渠に通じ入泊避風の処と為す、呼びて新川と曰ふ、南口は和田崎の北に在り。近年更に其南口を和田崎の西に移し、岬頭廻航の迂路を免れしむ。
 
逆瀬川《サカセガハ》 兵庫津の旧外郭、西南方の溝渠を為せる一条の野水なり。明治七年築島寺の入船池より逆瀬川に水脈を通し、修造して新渠と為す。〇参考本盛衰記云、成親大納言は大物浦より船に乗り、塩路遙に漕出し、難波の里に飛螢、葦屋の沖の舟呼び、武庫山下風、福原の京、渚河(湊河の誤)和田御崎|逆手河《サカテガハ》行来の人のしげければ小馬の林に隙ぞなき。(逆手河即逆瀬川)
 
八棟寺《ハツトウジ》址 逆瀬川の辺に在り、兵庫名所記に残礎見ゆと云ふも今其境域を詳にし難し、蓋平氏造立の伽藍にして入道相国の古石塔一基を存す。清盛の遺骨は福原に蔵したる事平家物語盛衰記編年集成等に見ゆ、現建の古石塔は真光寺の南に在り、石造十三脣浮屠高二丈六尺「銘云弘安九年二月」と鎌倉執権北条貞時の所建と云。〔摂津志〕〇大日本史云、平清盛剃髪法名静海、辞大政大臣、天下政事一出其手、放濫嬌溢、上下苦之、治承四年六月遷都於福原、九月伊豆流人源頼朝起兵、清盛還旧京、時天下諸道反平氏者日相続、清盛意頗沮喪、以政事専委其子宗盛、会酒盛得病、大息曰所恨者不見頼朝首、我没之日無造堂塔、無供養仏、願斬頼朝首、以懸墓上、薨歳骨経島、及京師失守、宗盛行至福原、拝酒盛墓終夜奏楽、誦経而去。〇東鑑には清盛納骨所は播磨垂水の山出浦法華堂と為す、山田にも分骨したるを云ふなるべし。
 
魚御堂《ウヲミダウ》址 逆瀬川の辺にして真光寺の東なるべし。魚御堂の本本尊は頽廃の後能福寺に移す。〔名所図会〕魚御堂は梅松論難太平記に録し、延元元年足利尊氏筑紫往来の途次陣舎せる所なり。難太平記云、兵庫魚御堂と云所にて御方皆腹切の着到付られしに、細川卿房は御舟にめさるべしと申行けり、故入道範国殿は是にて御腹めさるべしと張行申けり、此事を後日に錦小路殿の常に御物語有しは、すでにはや御先途と覚しめし志しを両人の異見うしろあはせなり、清き武者の心は同じかるべしと思ふに、此ちがひめは今に不審也と仰有し也、此事などは殊更無隠間、太平記にも申入度存事也。
 
真光寺《シンクワウジ》 逆瀬川の西傍に在り、時宗僧知真開基、正応二年創建、寺域六千坪、堂宇広大なり。遊行念仏の流祖一遍上人(諱知真)正応二年八月遷化の遺跡にして、時宗渇仰の霊場なり。真光寺の南に同宗薬仙寺あり、寺域四千坪、平清盛塔は此両寺の間に在り。。一書云、兵庫延福寺に延文年中鋳銘の鐘あり。
 
福厳寺《フクゴンジ》 兵庫|岡方《ヲカカタ》の西に在り、臨済禅家に属し開祖仏灯国師、願主木下源太と云ふ。福厳寺の傍に福海寺あり、同宗開山円有和尚足利尊氏の創建と称す。〔名所図会〕太平記隠岐院彼地より帰洛の条に曰く、元弘三年五月晦日は兵庫の福厳寺といふ寺に儲餉の在所を点じて、且く御座ありける処に、其日赤松入道父子四人五百余騎を率して参向す。龍顔殊に麗しくして、天下草創の功偏に汝等贔屓忠戦によれりと叡感ありて、此寺に一日御逗留ありて、供奉の行列遷幸の儀式を調べられける処に、其日の午の刻に羽書を頸に懸けたる早馬三騎門前まで乗打にして、庭上に羽書を捧げたり。諸卿驚きて急ぎ披きて之を見給へば、新田小太郎義貞の許より相模入道以下の一族従頬等不日に追討して東国已に静謐のよしを注進せり。(天正本に同日の暮程に河野人道土居得能伊予国の勢を率して大船二百余艘にて参着すとあり)六月二日瑤輿を回らさるる処に、楠多門兵衛正成七千余騎にて参向す、其勢殊にゆゝしくぞ見えたりける云々。
 
福原《フクハラ》 今兵庫岡方及び長田尻池等の地なるべし。平清盛別業を此に置き福原荘と称す、治承四年造都の計画を為し遂に里内裡を興す、而も久しからず、車駕旧京に還る。寿永二年平宗盛幼主を奉じ西海に赴く途次、福原に由り旧館故宮を焚滅して去る。福原の名は平氏経営の比は東|生田《イクタ》より須磨まで波及したるに似たり。平氏滅後福原荘は藤氏長者の伝領に帰し、之を一条家に伝ふ、文明の乱に一条政房本荘に退去し暴兵に殺害せらる。近代福原荘の号は兵庫以東に遺り、其以西には罷めたり。。一条兼良桃花蘂葉云「摂津国福原荘領家職者、鎌倉右大将已来伝領之、武家代代安堵状在之、土貢者赤松請申時為四百五十貫、次第減少、当時守護被管香川領之、代官職為家門自専之在所、検断人足等事、将軍下知状在之」と之を建長二牛九条道家処分記に照らすに「報国院領、摂津国論田荘、当院者故禅閤(良経)草創終老地也、又家領輪田寺生島荘」とある輪田荘即福原荘なり、東鑑「元暦元年兵庫三簡荘殿下御領」と云に※[金+攝の旁]合す。
平家《ヘイケ》別業址〇逆瀬川《サカセガハ》八棟寺の辺に萱《カヤ》御所あり、夢野に雪見御所あり、頼盛第は荒田村なりなど云ふに因り、之を按ずるに、造営は福原近郊処々に散在したるや明なり。而て本荘の中心は彼逆瀬川の辺にや有けん、相伝ふ萱御所跡は酒盛塔の南なる田間にありと、又その西に一墟あり今大蔵省米廩を置く(南逆瀬川町)是亦殿址と為す、尚西に至れば尻池の分内に寺山《テラヤマ》と称する一墟あり、土俗方四町の築垣の跡と云者此なり。〔摂津志名所図会開港史〕或は寺山を以て里内裡に擬する者あれど今採らず、内裡は古書に輪田の西野と称し、今(613)も逆瀬川の西十町に西野の字存す。(旧長田村の属)〇福原別業の創始詳ならず、嘉応元年後白河上皇高野行幸の帰途之を訪はせ、又「百錬抄云、承安元年十月、上皇(後白河)御幸人道大政大臣(清盛)福原別墅、有船遊事、遊女賜禄。又云治承三年三月、上皇御幸入道大相国亨、安芸伊都岐島小巫、翻廻雪之袖、為叡覧也」などありて、治承四年には高倉新上皇御宿祷のため厳島御幸の時往復此に途次あり。大日本史云、平清盛、営別荘福原、亭※[木+謝の旁]風流、以窮四時之観清盛常疾叡山奈良僧徒、屡犯京師、欲遷都於福原避之、治承四年六月、逆徙焉、宮殿未成、権以弟頼盛別荘為宸居、既而復徙車駕於已第、幽法皇於三間板屋、清盛欲造大内裡於新都、使大納言藤原実定参議源通親等相攸輪田規度広袤、而土地狭隘、仮営皇居、称里内裏、十一月新都宮成、帝徙御焉、俄而還旧京、寿永二年、宗盛奉帝而西至福原、焼故都宮殿公卿第宅、泛海如太宰府、遂抵讃岐、既而山陽南海将士稍為其用、翌年正月、築城於一谷、広袤三里、包福痺故郡、北限山南至海、一谷為西門生田森為東門、兵士七十万余、設船数万艘、遣使于京師、連和与源義仲、遂駐駅於福原行宮、源頼朝使其弟範頼義経攻之、宗盤倉皇奉帝、再如屋島。〇源平盛衰記に福原の地勢を叙したる一段あれど、隣近の地数里の長きに渉り、散漫の憾あり、方丈記の文独切実なり、里内裡の条に援く。盛衰記云、福原北は神明垂跡生由広田の宮各甍を並べたり、尽せぬ御代のしるしとて、雀の松原御影の松千代に変はらぬ緑なり、雲井に晒す布引の滝、白玉岩間に連れり、後を顧れば翠嶺の雲を挟んで暁の嵐の漠々たるを吐く、前に望めば蒼海の天をひたして夕陽の沈々たるを呑り、湖水漫々として遠帆雲の浪に漕ぎまがひ、巨海茫々として眺望煙波に眼を遮り、月の名を得たる須磨明石淡路島山おもしろや、螢火燃るるあし屋の里の夏の暮、孰れもとりどりに心すみたる所なり。
補【福原】〇平安通志 鴨長明方丈記に曰く、同じ年(治承四年)の水無月の頃、俄に都遷り侍りき、いと思の外の事なり、大方この京のはじめを聞けば、嵯峨天皇の御時都と定りにけるより後、既に数百歳を経たり、ことなる故なくて、たやすく改まるべくもあらねば、これを世の人たやすからず愁へあへるさま、ことわりにも過ぎたり、されどとかくいふかひなくて、御門より始め奉りて、大臣公卿悉く摂津国難波の京(福原は摂津国故かくは記したるか)に遷り給ひぬ、世に仕ふるほどの人、誰かひとり故郷に残り居らん、官位に思ひをかけ、主君のかげを頼むほどの人は、一日なりとも疾く移らんとはげみあへり、時を失ひ世にあまされて、期する所なき者は愁へながらとまり居たり、軒を争ひし人の住居、日を経つゝ荒れゆく、家はこぼたれて淀川に浮かび、地は目の前に畠となる、人の心皆あらたまりて、唯馬鞍をのみ重くす、牛車を用とする人なし、西南海の所領をのみ願ひ、東北国の庄園をば好まず。
萱御所址 今兵庫南、逆瀬川町米廩の地とぞ、内裡址は東尻池村に属し、近年鉄道築造運河開鑿の為に形跡を失ふ。〇按ずるに福原内裡は和田の西野と称し、和田即ち後の兵庫なれば、西野は長田神社・蓮池の東なるべし、今も西野の字を此間に遺す、旧山陽道の傍なり、惟ふに西野の大路即ち朱雀にして、都邑の制西南面し、山谷を右京と為し、沙斥を左京と為したるに似たり。
兵榛名所記 抑摂津国矢田部郡福原の庄兵庫は、応保年中に築島成就して後、乎相国清盛入道浄海の沙汰として此所に都を経営し、既に事成りて治承四庚子年六月二日、人王八十一代安徳天皇(今年三歳)一院上皇摂政殿をはじめ奉り、太政大臣以下月卿雲客、平家には太故人道を初一門の人々、其外百官人民悉く山城国平安城より此福原に移り給ふ、池大納言頼盛の山庄皇居と成(荒田村に古跡あり)同九日新都事初有べきとて、上卿には徳大寺の左大将実定、土御門宰相中将通親、奉行には前左少弁行隆多くの官夫を召具して、和田の松原西の野を転じ、九条の地に割給ふ、然るに一条より五条迄は有て、其下の地なし、公卿まちまち詮議ありしかども、百敷の政事行れず、依て又変改ありて同じき年の十一月廿一日旧都に還幸なし奉る、大政入道は此地に住給ふ。
 
福原内裡《フクハラダイリ》址 輪田の西野なり、今兵庫岡方の西長田の東に在り。百錬抄「治承四年六月、乗御福原、世専号之遷都、入道大相国申行之。九日差遣大納言藤原実定参議源通親左中弁藤原経房左少弁藤行隆左大史小槻降職右大夫小槻国宗等於輪田、点定遷都地、左京条理不足、又無右京云々。十一日於新院殿上被議遷都事、左大臣已下参入。以輪田被定其所、而条里不足、亦可被縮宮城歟、又平地内無右京、当西有山、隔件山被用右京如何、山谷相交、可有甚難。人々定申云、左京不足、右京山谷相交事、有何事哉、於被縮宮城之条者不可然也。
〇皇帝紀抄云、治承四年、相国禅門俄申行遷都之儀、主上行幸法皇密々渡御、摂※[竹/録]以下悉以追従、即著御接州福原別業為皇居、或印南野或昆陽野、帝都之地有評定、然而後遂被定福原了、新都之事、天下愁歎、何事加之哉。〇平家物語云、六月九日新都の事始あるべしとて、上卿二人奉行官人ども召し具して当国和田の松原西の野を点して九条の地を割られけるに、一条より下五条までは其所ありて、其より下はなかりけり、行(614)事の官帰り参りて此由を奏開す上は播磨の印南野か猶津の国昆陽野かなど公卿詮議ありしかど事行くべしとも見えざりけり。旧都は已にうかれぬ新都は未だ事行はず、ありとしある人は皆身を浮雲の思を為し、もと此所に住む者は地を失ひて憂へ、今移る人々は土木の煩をのみ歎き、すべて唯夢のやうなりし事ども也。上卿宰相の中将通親の脚の申されけるは異国には三条の広路を開きて十二の洞門を建つと見えたり、況や五条まであらん都になどか内裡を立てぎるべき、かつ/”\まづ里内裡を造らるべしと議定あり。五条大納言国綱の卿臨時に周防の国を賜りて造進せらるべき由、入道相国計ひ申されけり、此国綱の卿と申は並なき大福長者にておはしければ、内裡造りいだされんこと左右に及ばねど、いかんぞ国の費民の煩なかるべき。やがて八月十日の上棟、十一月十三日遷宮と定めらる。旧き都は荒れゆけど今の都は繁昌す、(中略)平家都を福原へ遷されて後物の怪ども多かりけり、岡の御所と申は新しう造られたりければ然るべき大木もなかりけるに或夜大木の倒るゝ音して、是は天狗の所為と沙汰したり
 咲きいづる花のみやこをふりすてゝ風ふく原の末ぞあやうき。
参考本盛衰記云、法皇(後白河)をば福原に三間なる板屋を造て、四面に波多板し廻して南に向て口一つ開たるにぞ居参らせける、筑紫武士石戸諸卿種直が子佐原大夫種益守護奉り一日に二度形の如供御を進らせけり、かゝりければ此御所をば童部は楼御所とぞ申ける。玉海云、治承四年六月、行幸福原別業、内裡中納言頼盛家、上皇(高倉)禅門之別荘、法皇宰相教亜家、摂政(基通)安楽寺別当安能房、十一月二十三日、人伝云、去夜手島蔵人某(元伺候三条宮近年夙夜拝幕下辺)放火福原人家、逐電向東国了、二十五日還都。〇平家物語云、平家一門すでに帝都を落ち福原の旧里につき一夜をぞあかし、所々を見給ふに、春は花見の岡の御所、秋は月見浜の御所、泉殿松蔭殿馬場殿二階の桟敷殿雪見の御所萱の御所人々の館ども、国綱脚の承りて造進せられし里内裡、鴛鴦の瓦玉の石だたみいづれも三年が程に荒れはて、旧苔道を塞ぎ秋の草門を閉ぢ、簾絶え間あらはにして月影のみぞ差入ける、明けぬれば福原の内裡に火をかけて主上を初め参らせて、人々皆御船にめす、寿永二年七月廿五日なり。〇方丈記云、津の国福原の京は、所のさまを見るに、其地程狭くて条里をわるに足らず。北は山にそひて高く南は海に近くて下れり、浪の音道にかまびすしくして塩風殊にはげし。内裡は山の中なれば、かの本丸殿もかくやと計りなかなか様かはりて優なる形も侍りき。日々に家は作れるに、猶空き地は多く、道の辺を見れば車に乗るべきは馬に乗り、衣冠なるべきは直垂をきたり、都の手振忽に改りて、唯鄙びたる武士に異ならず。これは世の乱るゝ瑞相かと、きゝ置けるも著く、日を経つゝ世の中うき立て人心治らず、民の愁遂に空しからざりければ、同年の冬猶山城の京に帰り給ひき。
福原内裡の古跡詳ならず、或は尻池の寺山を以て之に擬すれど、寺山は広斥の間に立ち、方丈記内裡は山の中なればの文に合はず。百錬抄に右京山谷相交ると曰ふを見れば長田山会下山等を右京と為し、其山脚に大路を通じ輪田の広斥沙岸を以て左京に充用したるを知る。今此大略の推定に因り輪田西野を探検するに、湊川以西会下山長田山の下より須磨に向ふて野径縦横髣髴として条妨の区画を見るべし。其方位は西南に面して縦街を開けり、中にも大路(朱雀に擬すべし)と思はるゝは湊川堤(今福原遊廓の西岸辺)より起り、直径|大池《オホイケ》の傍を過ぎ西野《ニシノ》と称する一団の民家の南を掠め、西国街道に合し苅藻川蓮池を経て須磨に向ふ。其左右は田畝の排列の方向一致する所あり、横巷の跡は最明白なり、大池の東に会下山と岡方間に三条の野径并行し、其以西長田山と尻池《シリイケ》間にも数条の野径并行し皆彼大路と直角に交叉し、条坊区画の遺跡たるを弁ぜしむ。殊に長田の東南、西野の西南、苅藻川と大路の相交切する辺に、幾多寿永役の埋屍塚あるは、斯大路の当時要衝なりしを証す。然れども皇居は其故域を詳にし難し、大路に傍ふて探求を累ぬれば或は発見するを得ん、之を要するに唯西野大池の辺と想像せらるゝのみ、録して他日の補正を期す。
 
和田崎《ワダノミサキ》 兵庫の南東に横はる沙觜なり、即神戸港の南界を成し、東に向ひ突出す、兵庫南浜に属す和田明神は万治年中鳴尾浦より移したる者とぞ、又三石社あり。〇和田崎砲台は文久年中幕府の築造する所にして、石堡鋳なり、明治四年其傍に燈明台を建造し、迷津なからしむ。此御崎に燈ありしは土俗平相国の時に始むと為す、太平記にも官軍輪田の燈炉堂《トウロウダウ》に陣したる由載すれば最旧しと謂ふべし。大日本史、足利尊氏将水陸数十万至、新田義貞部分諸将、使脇屋義助、将五千人、障于経島、大館氏明三千人、陣于燈炉堂南、以禦水軍、自将二万五千余人、守和田崎、以策応諸軍。〇名所図会云、御崎は和田明神より辰巳の方八町許、海面へつきいづる洲なり、一名遠矢浜と称す、建武の乱に官軍本間孫四郎重氏足利の軍船に対し射術の名誉を取りし処也、燈炉堂跡は千僧寺の南と云ふ、寺伝に平相国此に万燈会千憎供を行ひたるが燈堂は後世退転し千僧寺のみわづかに有すと。
 くるま舟和田の御崎をかいめぐりうしまどかけて塩は引くらん、〔夫木集〕みなと川こぎ出て行けばほととぎす和田の御崎の松に啼くなり、〔同上〕
(615)百錬抄云、承安二年十月十五日、入道太政大臣(清盛)於摂州輪田浜、修千壇阿弥陀供、上皇(後白河院)十三日臨幸令修法華給。〇山家集云、六波羅太政入道、持経者千人集めて、津国和田と申所にて供養侍りける、頓て其序に万燈会しけり、夜深るまゝに灯の消けるを、各とぼし継けるを見て、
 消ぬべき法のひかりのとぼし火を挑る和田の御崎なりけり。
 かゝげつ、輪田の御崎の灯は舟のみのりのしるしなりけり、〔東雲集〕
輪田岬の海上を輪田海と曰ふ、西は須磨明石の瀬戸を控し、東北に武庫浦蘆屋灘に連接す、東鑑「寿永三年、平内府宗盛返状云、自讃岐屋島、解纜遷幸摂州、不能下船、経廻輪田海辺」と、是は平族一谷築城の前日の事なるべし。
 和田の海に降る白雪は消ながらなみのこゝろに寒さをぞそむ、〔夫木集〕
和田崎に近年遊園を開き、四時賞寮の客を招く。
 
長田《ナガタ》郷 和名抄、八部郡長田郷、訓奈加多。〇今林田村(大字長田)須磨村是なり、林田は神戸市へ編入せらる。長田は日本書紀に御心長田国と讃し、本郷は八部郡の西限にして摂播二州交界は須磨の西に在り、南は海に至り北は鷹取山鉄枴峰等峙立し地勢狭陰、謂ゆる須磨|関《セキ》処也。(海に至りては明石瀬戸と云)
補【長田郷】〇神名式、長田神社。三代実録、貞観元年九月、摂津国長田神遣使奉幣、為風雨祈焉。神社啓蒙長田神社在摂津国摂津郡、所祭之神一座、事代主命、神功皇后紀元年、皇后伐新羅之明年二月、皇后之船廻於長田国、別以葉山媛之弟長媛令祭。行嚢抄、長田大明神、南向の社、華表は浜辺に立。
 
長田《ナガタ》神社 林田村大字長田に在り、苅藻川其西を流る、西国街道を南に距る六町、事代主命を祭る、広田生田二神と同く神功皇后の祭りたまふ所也。日本書紀云、皇后之船、廻於海中、以不能進、更還務古水門、而卜之、於是事代主命(号於天事代於虚事代玉籤入彦厳之事代神)誨之曰、祀吾于御心長田国、別以葉山媛之弟長媛令祭。〇大同元年、摂津地四十一戸長田神に充て奉り、〔新抄格勅符〕貞観元年、従四位を授け、〔三代実録〕延喜の制名神大社に列り、明治の判官幣小社に列る、兵庫の民称して開運の神霊と為す、蓋広田西宮と同体なればなり。源平盛衰記に「福原の北には神明垂跡広田西宮」と載するは此なるべし、大社村西宮町の事にはあらじ。又神皇正統記に「後醍醐天皇鎌倉の滅亡を西の宮と云所にてきかせましましける」とあるも長田の西宮なるべし。
   早う懸想しける女の津の国長田の森と云所にありときゝてやりける、
 いのちだにながたの森のなかりせば便りに君が宿を 見ましや、〔為頼集〕
補【長田神社】〇神祇志料 今兵庫の西一里長田村に在り(摂津志・八幡宮本記・神名帳考証)大己貴神の子事代主命を祀る、神功皇后韓国を平げ訖し難波に還坐時、此神吾を御心の長田国に祭れと誨給ひしに依て即葉山媛の妹長媛をして斎奉らしめ給ひき(日本書紀)平城天皇大同元年摂津地四十一戸を充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位上勲八等長田神に従四位下を賜ひ、九月庚申雨風の御祈に依て幣を奉り、九年九月丁未祈年穀の賽に使を遺し幣を奉り、陽成天皇元慶元年六月癸未、幣を奉て甘雨を祈り(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列り、祈年月次 相嘗新嘗の案上官幣及祈雨の幣帛に預る(延喜式)村上天皇応和三年七月乙丑、祈雨奉幣使を遣し(日本紀略)一条天皇正暦五年四月戊申、中臣氏人を宣命使として疫癘等の変を祈らしめき(本朝世紀、参取日本紀略)凡そ八月十八日祭を行ふ(明細帳)
 
苅藻川《カルモガハ》 長田山鵯越より出て鷹取山を繞り南流尻池に至り海に注ぐ、長四十町許の細流なり。長田の南に方り、苅藻川西国街道相交切する辺に古塚多し、此街道より西野大池湊川に向ひ東北に馳する野径あり、蓋福原新都の中央大路なり。〇平武蔵守知章其従兵監物太郎頼方の墓は享保年中摂津志の著者並河五一郎石標を建つ、街道の側に在り。知章墓の北に平三位通盛及木村源吾重章の墓と称する者あれど其真否疑はし。之を要するに此一帯は福原内裡の焚跡にして、一谷攻撃の時激闘の処たるべし、即平語盛衰記に山手鵯越と称する道路も此に合す。然るに平家物語知章頼方戦死の話説を浜軍の条に掲ぐ、而て今其遺跡の長田に在るは疑なき能はず、同書山手の侍大将越中前司盛俊と記せる盛俊冢は武蔵守墓の西|名倉《ナグラ》池の傍に在り。
   過平武州墓         頼 山陽
 凍雨連南海、寒雲失摂山、如何歳月暮、猶在道途間、生理老妻手、別愁慈母顔、泥深武州墓、下轎涙潜々、
蓮池《ハスノイケ》は長田の西、大字池田に在り、街道の北側なり。平家物語云、三位中将重衡は生田の森の副将軍にておはしけるが、戦すでに敗れて渚の方へ落給ふ処に、後より敵は追かけ舟に乗べき隙もなければ、湊川苅藻川をも打渡り蓮の池を馬手に見て、駒の林を弓手になし、板宿須磨をも打過ぎて、西を指てぞ落給ふ。
 
真野《マノ》 輪田の西に接す、真野池あり故に後世|尻池《シリイケ》村と称し、今林田村に合併して神戸市に編入せらる。北は長田、西は苅藻川、南は海に至る、福(616)原造営の時其域内に入り、築造の遺墟を有す。(福原参看)〇近江滋賀郡又真野村あり、参考すべし。
 真野の浦のよどの継僑こゝろゆも思へや妹が夢にし見ゆる、〔万葉集〕真野の池の小菅をかさにぬはずして人のとふ名を立べき者か、〔同上〕白菅の真野の榛原こゝろゆもおもはぬ君がころもに摺りぬ、〔同上〕
真野は輪田海に臨む、淀と云ひ池と云ふは苅藻川の水脈に由れるならん、今其跡を失ふ。勝地吐懐編云、万葉集に「いさ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折てゆかむ」と有は津の国なり「大和へ早く」とあるにて其和州ならぬ事顕れたり、榛の皮を以て衣を摺り染む之を榛摺と曰へり。
 継橋のあとは水田の水鶏かな、〔未詳〕 芭蕉
 
駒林《コマノハヤシ》 今長田村と合併し、林田村と称す、大字駒林は苅藻川の西畔にして其西を大字野田と曰ふ。名所図会云、駒林に源氏松とてあり、昔光源氏の君須磨浦に居たまふ時植玉ひ、後世枯継したる也。
 古の駒の林の松みれば植しふる葉も変らざりけり、〔名寄〕
 
鷹取山《タカトリヤマ》 一名|神撫《カミナデ》山、長田の西須磨の東北に突起す、標高三三〇米突。西麓に禅昌寺妙法寺の二院あり。禅昌寺は臨済禅家、延文年間正続禅師宗光の開基、本尊観世音なり。妙法《メウホフ》寺は本尊毘沙門天、城州鞍馬山に擬す承和年中僧定範興立し真言の精舎なり、後世荒敗し黄檗禅家の山房と為る。発心集に「津の国和田の奥に妙法寺と云ふ山寺あり、彼所に楽西と云ふ出雲の聖人ありて住みけり」云々の逸話を載せたり。
〇山南を板宿と曰ふ平家物語に見ゆ、今須磨村に属す。(近年鷹取に石炭を試掘したれど遂げず)
 
須磨《スマ》 今須磨村と臼ふ、延喜式須磨駅の名を載せ和名妙には之を欠く、蓋長田郷の属なり。西部山海相迫る処を一谷と称す、北に鷹取山後山鉄枴峰鉢伏山を負ひ、海を抱きて直に淡路島に対す、即明石瀬戸の東口なり。一谷より西南五海里にして岩屋浦絵島に到るべし。
 為間《スマ》の海人の塩焼衣のなれなばか一日もきみを忘れて念はむ、〔万葉集〕       山部赤人
 須蘇のあまのしほやきぎぬの藤衣まどほにしあればいまだきなれず、〔同上〕     大網公人主
須磨は水碧沙明太だ幽雅の地なり、古来賞遊の人多し。山陽外史の詩に「乱松相映白沙明、隔水青山対晩晴、鴎背無風細波静、速帆如坐近帆行」とあるも此境の情なるべし。名所図会云、須磨は古は駅家なりと云へど、今は農家のみにて海浜なれど漁家少し、塩屋も古の事にして今は海面遠浅になりたりとて塩竈も絶たり、西須磨は家毎に表の方に簾を垂るゝは海人の苫屋の遺風なるべし、又|磯馴《ソナレ》味噌と号し麦にて製したる醤を売るは近世の俗なり、潮水を汲み粥を煮て潮雑炊と云ふは今も民家には食すとぞ、磯馴松とは猶浜松と云ふごとし、続後拾遺集に其本典あり。
 須磨の浦やなぎさに立る磯馴れ松しづ枝は波のうたぬ日ぞなき            俊頼
在原行平閑居址〇東須磨西須磨の間に字菖蒲小路と云処は行平佗住の跡とぞ、俗諺に行平流人となり此に籠りける時、松風村雨と呼ぶ二女召されて閑居に給仕す、近き世まで常須磨に辻堂あり二女の遺跡を伝へしと云、又月見松|衣掛松《キヌカケマツ》をなど号する老株あり、すべて謡曲松風に因り設けたる事なるべし。〔名所図会〕〇行平謫居の事詳ならず、然れども其須磨に閑居したる事ありとは、古今集源氏物語に明なり、西行法師撰集抄以後に多く流罪の説を見る。
   田村の郷時(光孝帝御宇)に、事にあたりて津の国の須磨といふ処にこもり侍りけるに、宮のうちに侍りける人に遺しける、
 わくらばに問ふ人あらばすまの浦に藻しほたれつゝわぶとこたへよ、〔古今集〕    在原行平
   行平身にあやまつ事ありて、須磨の浦へ流され、もしほたれつゝ浦づたひしありきたるに、あまにいづくにやすむと尋ねたまへば、「白波のよする渚に世をすごすあまの身なればやどもさだめず」とよみてまぎれぬ、云々〔撰集抄〕
 源氏物語、須磨巻云、源氏の君御舟に乗り給ひ、日長き比なれば追風さへそひて、まだ申の刻ばかりに須磨の浦に着き給ひぬ、おはすべき所は行平の中納言のもしほたれつゝわびける家居近き辺なり、此浦は昔こそ人の住処などもありけれ、今はいと里ばなれ心すごくて海人の家だに稀なり、人繁くひたゝけらん住居はいとほいなかるべし、海面はやゝ入りて哀なる山中なり、垣のさまより初めて珍らかに見給ふ、萱屋ども葦ふける廊めく屋などをかしうしつらひしたり、近き所々の御荘の司召して仰せられ、水深う遣りなし楠木どもなどしなさせ給ふ。須磨は海は少し遠けれど、行平の中納言の関吹越ゆると云ひけん浦波よる/\は実にいと近く聞えて、又なくあはれなる者はかゝる所の秋なりけり。一夜枕をそばだて、四方の嵐を聞き給ふに、波たゞこゝもとに立来る心地して涙墜つとも當えぬに、枕浮く計りになりにけり、琴を少し掻き鳴し給へるが、我ながらいとすごう聞ゆれば、ひきさし給ひて、「恋ひわびてなくねにまがふ浦波は思ふ瀉より風や吹くらん」と謡ひ給へるに、人々驚きて起き居つゝ、鼻をしのびやかにかみわたす。
源語は本来寓言なれど、其文情の妙に須磨の景致を写(617)し出せば此に載す。
 世俗伝へ云、一絃琴は行平中納言須磨浦に謫居中、一日卒塔婆の波に打寄せられたるを拾ひ取り、冠の緒を以てこれに架し浜辺の蘆を切りて左右の指に箝めて弾ぜしに始まると、或は庇板の浦風に脱落したるに烏帽子紐を張とし、又松風村雨と云ふ二人の海女の事さへ附会して彼卿須磨に謫居の徒然を慰められしによりて須磨琴の称ありといへり、されど信ずるに足ず。日本後紀に「延暦十八年七月、有一人乗小船、漂着参河、以布覆背、左肩著紺布、形如袈裟、年可二十、身長五尺五分、耳長三寸余、言語不通、唐人見之、曰崑崙人、後頗習中国語、自謂天竺人、常弾一絃琴、歌声哀楚」とあれば異邦の一絃琴も此頃よりや渡りけむ。皇国固有の一絃は質素なる片板又は竹の割りたるものに、一絃を張り、其按処は六箇処ありて、和琴六絃の調をなす。神社等の楽器に用ひて古雅なる楽器なり、後世の八雲琴は全くこれの発達せしものなり、現今の一絃は今を去ること二百年前四山人別号麦飯仙人と云へる河内金剛輪寺の僧を中興の祖とし、文政天保の比より八雲琴と相并びて世に広布し、以て今日に至る。笈の小文云、「卯月中比の空も朧に残りて短き夜の月もいとゞ艶なるに、山は稚葉に黒み掛りて杜鵑鳴出べきしののめも海の方より白み初めたるに、上野とおぼしき所は麦の穂波あからみあひて、漁人の軒ちかき芥子の花絶え/”\に見渡さる、
 須磨の海人の矢先に鳴くか杜鵑、 桃青
東須磨西須磨浜須磨と三所に別れて、あながちに何わざするとも見えず、藻塩たれつゝなど歌にも聞え侍るも、今はかゝる様も見えず、きすごと云魚を網して真砂の上に乾し散しけるを、烏の飛来てつかみ去る、之を悪みて弓をもてをどすぞ海人の業とも見えず、若し古戦場の名残を留めてかゝる事をなすにやいとゞ罪ふかく、猶昔の恋しきまゝに鉄枴が峰にのぼらんとす、
 月はあれどるすのやう也須磨の夏、  桃青
此浦の実は秋をむねとするなるべし、淡路島手にとる様に見えてすま明石の海左右にわかる、呉楚東南の詠もかゝる所にや、物知れる人の見侍らば、さま/”\の境にもおもひなぞらふべし。〔節文〕
 折しも秋なかば三五夜中の新月の、三千里の外までも心知らるゝ秋のそら、雨は亦瀟湘の、夜のあはれぞおもはるゝ、云々〔謡曲雨月〕
   赤石抵兵庫途中       越 鉄兜
 驀地汀雲椋日過、西風簸雪去来波、無人説着平公子、松色秋寒老塔婆、
 家々竹箔牛風軽、松気浅深陰復晴、一霎馬前人後雨、蓑声鬣影両分明、
 力なう入かゝる臼や須磨の秋、    涼菟
 松影や月は三五夜中納言、      貞室
 おぼろ夜やことさら須磨のふる簾、  既白
須磨浦に今綱敷天満宮と云あり、菅公西赴の時浦人の家に休憩し綱網を敷きて円座を設けさせ給へりと伝ふ、当時の影像なりとて祠中に奉安す。
 
上野《ウヘノ》 須磨の上方を云ふ。往時は上野の台地に民戸あり、街道は月見山の麓古屋舗と字する辺より鉄枴峰を踰え播州に到れりと、然らば西須磨一谷は昔海潮うちよせて通路なかりしにや。〔須磨誌〕
 波かけぬ須磨の上野の露にだに猶しほたるゝ旅ごろもかな、〔新千載集〕      浄阿
 鈴舟をよする音にやさわぐらん須磨の上野に雉子鳴くなり、〔名寄〕         顕昭
建武三牢五月廿五日の合戦に、足利直義は陸路の総督として此に陣したりと云ふ.太平記曰、正成正季兄弟敵陣にかけ向ひ七度合ひて七度分る、其心偏に左馬頭に近き組んで討んと思ふに在り、遂に左馬頭の五十万騎も楠の七百余騎にかけ靡けられて、又須磨の上野の方へぞ引返しける。
 
福祥寺《フクシヤウジ》 世に須磨寺と云ふ、上野に在り。寺宝に無官大夫敦盛の青葉笛、武蔵妨弁慶の若木桜の制札等あり。湯浅常山東行筆記云、青葉笛と伝ふるはあらぬ贋物なり。名所図会云、若木桜は源語に因りて設けたる者なり、其制札とて此花江南所無云々とあるも信ずべからず。〇源語須磨巻云、須磨には年かへりて日長くつれ/”\なるに、植ゑし若木の桜ほのかに咲き初めて、空の気色麗なるに万の事思し出られて、一年の花の宴の事思ひ出、聞え給ふ、
 いつとなく大宮人のこひしきにさくらかざしゝけふも来にけり。          光源氏
須磨寺の後背の横領を呼び後山《ウシロノヤマ》と曰ふ、是も源語須磨巻に君の「おはしますうしろの山に柴と云ものふすぶるなり」の句あるより名所と為る、標高三百米突、鷹取の西南に崛起す。
 月いづるうしろの山は雲はれて須磨のいほりに帰る浦かぜ、〔夫木集〕       為家
関谷《セキヤ》址〇西須磨の西源光寺の辺なりと云ふも定かならず、源光寺の傍を流るゝ細流を千鳥川と呼ぶは「寝ざめの関守」の句意より名づけたる也。 旅人はたもとすゞしくなりにけり関吹こゆる須磨の浦風、〔続古今集〕行平あはぢ島遙に見つる浮雲の須磨のせき屋にしぐれきにけり、〔玉葉集〕家隆 淡路しま通ふ千鳥の鳴声にいく夜ねざめぬ須磨のせき守、〔家集〕兼盛
須磨の関塞の事は古書に未だ見ず、延喜式畿内十処疫(618)神祭の一処を摂津と播磨の堺と為す、須磨関の名之に因るか。今千鳥川の西を浜須磨と曰ふ、即一谷なり。
 
一谷《イチノタニ》 須磨村西部、山海間の狭隘なり、俗に浜須磨《ハマスマ》と称す。千鳥川の西、界川の東、長三十町に満たず、鉄枴《テカイ》鉢伏の山嶺其背障を成し、浅溪三所あり、一谷二谷三谷の称あり。名所図会云、一之谷は谷の広二十間許高十二間、谷口より波打際まで六十間余あり、霖雨には流水を見る、此潺湲の沙色西方赤く東方白し源平の旗色今に顕ると土人の諺なり、谷の上方に寿永帝の内裡跡あり、方廿四間計り其峰を鉄枴と云ひ、嶺北に鵯越あり。
参考本盛衰記云、平家は室山水島二箇度の合戦に打勝、木曾も討れぬと聞えければ、屋島をば出して摂津播磨の境難波潟一谷に籠ける、去正月より此能所なりとて城郭を構たり。歴代皇紀云、元暦元年、正二月比、平家悉発西国軍勢、福原以南群居播磨室并一谷辺、以一谷為其城、重々掘池、其勢六万騎、二月七日、東国九郎加羽保田等自京寄、卯刻合戦、自後山偸入放火、至巳時平家散々落了、前帝并女房等前内大臣等乗船逃了、凡所打取上下千三百余人、生取之勢二万余騎許。玉海云、平家大略籠城中者、不残一人伐取了、但素乗船之人々、四五十艘計、在島辺、帰住讃岐、其勢三千騎計云々。東鑑、前内府返状曰、
 正月廿六日、解纜屋島、遷幸摂州、奏聞事由、随院宣行幸近境、且二月四日、相当亡入道相国之遠忌、為修仏事不能下船、経廻輪田海辺之間、依可有和平之儀、来八日院使出京不帰之以前、不可有狼籍之由、以書状、被仰畢、仍官軍相守此仰、本自無合戦志之上、相待院便下向之処、七日関東武士等襲来于叡船之汀、官軍等依院宣有限、不能進出、各雖引退、彼武士等乗勝襲懸、忽以合戦、多令誅戮上下官軍畢、此条何様事候哉、仔細尤不審、若相待院宣可有左右之由、不被仰彼武士等歟、将又雖被下院宣、武士不承引歟、若為緩官軍之心、忽以被廻奇謀歟、猜思次第、迷惑恐歎、末散蒙霧候也、為自今以後、為向後将来、尤可承仔細候也、如此之間、還御亦以延引、毎赴還路、武士等奉迎之、此条無術事候、全非公家之懈怠。
平家物語云、平家は去年の冬の比より押渡り西は一谷を城廓に構へ、東は生田森を大手の木戸口とぞ定めける、其間福原兵庫板宿須磨に籠る勢、山陽道八箇国南海道六箇国都合十四箇国を打従へて、召さるゝ所の軍兵十万余騎とぞ聞えし。一の谷は北は山、南は海、口は狭くして奥広し岸高くして屏風を立たるに異ならず、北の山際より南の海の遠浅まで大石を重ねあげ、大木を伐て逆木に引き、深き所には大船どもをそばだてゝ掻楯にかき、城の面の高櫓には四国鎮西の兵ども弓箭を帯し雲霞の如くに并居たり、櫓の前には鞍置馬ども十重廿重に引立たり。常には城中大鼓を打ちて乱声し、高き所には赤旗多く打立たれば、春風に吹かれて天に翻り唯火炎の燃上るに異ならず。二月四日、福原には故入道相国の忌日とて仏事式の如く遂行はる、此次に除目行はる、主上旧都をこそ出させ給ふと雖三種の神器を帯して万乗の位に備り給へば、除目行れんも僻事に非ず。かく平氏既に福原まで攻め上りたる由聞えしかば、正月廿九日都には範頼義経院参して平家追討のために発向すべき由を奏聞し、二月七日卯の刻に一の谷の東西木戸口にて矢合とて定めける。〇按ずるに一谷攻撃は一に山手なる鵯越突進を以て其決勝を見たり、鵯越の地理は別目に載す。其一谷陥没の大意は東口生田の大手は範頼正面より迫撃丁したるに、西口搦手なる一谷先づ破れ平家は退却路を失ひ大敗に及ぶ。西口の義経は軍を分ち二団と為し本隊は土肥実平熊谷直実等田井畑より塩屋(明石郡垂水)に出て奇中の正攻を為し、一団は義経みづから引率して鵯越より険阻を横絶して直に一谷城の背に突出す、即ち奇中の奇なり。平語文飾に失すと雖其要を採れば曰「源氏大手ばかりにてはいかにも叶ふべしとも見えざりしに、七日の曙に九郎御曹子義経其勢三千余騎鵯越に打上て、一の谷の城廓遙に見下し、(鵯越は須磨福原丹生荘の間なる山径の名なり其一谷に出るは鵯越の一支なり)馬ども落して見給へば、平家の城廓越中前司盛俊が館の前にこそ立たりけれ。御曹子只落せとて真先かけて落させければ、皆つゞきて落す、其処しも小石交りの真砂なりければ、流れ落に二町許颯と落し、壇なる所に止まる。それより下を見渡せば大磐石釣瓶落しに十四五丈ぞ下りたる、三浦の佐原十郎義連進み出て是は三浦の方の馬場ぞとて真先かけて落しければ、大勢昏之につづき、大方のしわざとは見えず、唯鬼神の所為とぞ見えし。落しもはてぬに鬨を咄とぞ作りける。先村上判官代康国が手より火をかけて、平家の屋形仮小屋を片時の煙と焼払ふ、黒烟すでに押懸りければ平家の兵共前なる海へぞ多く走り入り、助舟ども幾らもありけれども舟一艘に四五百人千人許こみのりたらんになじかはよかるべき、目前に大舟三艘沈みけり、後にはよき武者をば乗すとも雑人原をば制すべしとて、太刀長刀にて打払ひけり。去程に大手にも浜手にもこゝを最期と責め戦ふ能登殿教経如何思はれけん高砂へ落給、生田の森の大将軍知盛の卿後を顧みあはや一の谷破れにけるとて汀の方へ遁のび馬にて海の面二十余町泳がせ、大臣宗盛殿の御船へぞ参られける。薩摩守忠度は西の手の大将軍にておはせしが、控へ/\落ち給ふ所に岡部六弥太追かける之を打取奉、六弥太首を取れども名をば(619)誰とも知らざりけるが、箙に結びたる文を見ければ旅宿花と云題にて、
 行きくれてこの下影を宿とせば花やこよひのあるじならまし             忠度
とかゝれたり。凡東西の木戸口時移る程もなかりしに、源平数をつくして討れ、櫓の前逆木の下には人馬のししむら山のごとし、一の谷小笹原緑の色を引替て、薄紅にぞなりにける。軍敗れにければ主上を始参らせて人々皆船に召し、汐に引かれ風に随ひ紀伊の地に赴くもあり蘆屋に沖に漕ぐもあり、或は明石の浦づたひ或は淡路の瀬戸を渡る、泊さだめぬ楫枕片敷袖もしほれつゝ、朧にかすむ春の月、心をくじかぬ者ぞなき。(忠度の墓とて今東須磨に之を伝ふる所あれど、信否を知らず)
   過一谷、懐平源興亡事作歌、 頼 山陽
 播之首、摂之尾、吾視其地何雉偉、山勢北来迫海※[土+需]、松柏露根乱蘆葦、怒潮淘沙出白骨、啼小鬼兮哭大鬼、聞説平氏曾此族赤※[旗の其が子]、※[まだれ/垂]※[まだれ/義]為城澎湃為溝、左控王畿右甸服、旧業自期唾手収、何料東人有機智、要害早巳被耽視、九郎一身渾是膽、伏旗仆鼓出不意、蜀道雖艱不用氈、懸崖絶壁如平地、組練割山訝懸瀑、蹄間三尋真是鹿、秦宮殿宇従一炬、晋人争舟指可掬、桓伊弄笛終貽禽、劉鯤嘯歌亦遭戮、勝敗有機少人知、絵画徒伝娯童児、一自貂蝉出介冑、上下文恬又武煕、豊知養虎自遺患、羽翼已成猶守雌、敢忘越人殺其父、白※[施の也が毛]一出誰敢支、宛如翡翠遇飢鷹、不怪毛血紛離披、独有武州能捐躯、婦人群中見丈夫、吁呼諸君皆能学之子、不将宝剣附天呉、
   一谷懐古           梁 星巌
 二十余春夢一空、豪華吹散海※[田+(而/大)]風、山排殺気参差出、潮迸冤声日夜東、憶昔満宮悲去鷁、欲将往事問飛鴻、※[文+闌]斑剰見英雄血、塹樹鵑啼朶朶紅、
 谷かげに平家の人やきくの花、    田福
   忠度の古墳一樹の松によれり
 月今宵松にかへたるやどりかな、   蕪村
平敦盛塔。三谷の西一町許に五輪石塔あり、高一丈余梵字を刻す、或云実は北条貞時弘安の比平家一門戦死修福の為めに建る所なり、何の世よりか無官大夫の墓と呼び做したり。〇須磨誌云、敦盛塔の前に蕎麦を煮て売る家あり、一谷の名物として往時より之を称す、或人の其詞を造る曰、
 そばはあつ盛あんばいは義経、大茶碗に鉄枴やまもり、それを知つつ九郎判官、うどんは色の白い玉織姫、酒は一の谷源平躑躅のもろはく、三うらの大杯で一盃のめば顔は弁慶、座敷は千畳じき水は帆掛船、紀州熊野浦までやりツぱなし、お茶はせツたい、薩摩守たゞのみ、御遠慮のお方は悪七兵衝、食ひにげたら後ろに平山、草鞋は熊谷の陣足の草鞋、破れる迄は受合に候。
 松際旗亭蕎麪香、山当人面古城墻、分明走狗将※[免三つ]兎、誰把残杯酌九郎、              頼 山陽
 風鼓潮波囓白沙、海畿途傍翠屏斜、春深空※[月+券の刀が貝]王孫草、日暮誰憐刺史花、          草葉侃川
 玉笛誰図兆敗軍、梅花零落夜紛々、平家公子知多少、今日路人唯弔君、
                 同
八本松〇須磨の西端に老樹亭々たり、称して八本松と曰ふ。此処は院本彦山利生記に、京極内匠が吉岡一味斎の娘菊と従者友平を殺害したりと云地なり、慶長年中の事とぞ。
界川《サカヒガハ》は摂播の国界なり、三谷の西五町細流歩渉すべし、水中に榜示あり、西は垂水村塩屋(明石郡)なり。
 かたつむり角振り分けよ須磨明石、 桃青
 
多井畑《タヰノハタ》 須磨村の大字、鉄枴鉢伏の陰にして後山《ウシロノヤマ》の西に在り、溪水は西南に趣き塩屋(明石郡垂水村)に注ぐ。多井畑は平家物語に田井畑に作り、義経丹波路より播磨三草山を踰え美嚢郡に出て以て一谷を襲ふに方り、先づ此地を奪ふて平氏を俯視したり、謂ゆる鵯越逆落これなり。鵯越は本美嚢郡より東南福原兵庫へ通ずる山路の名にて、源氏の軍鵯越より西に趣き多井畑に至り分れて二隊と為り一は逆落の手段を取り、一は塩屋に出でて敵城の西木戸に迫れり。平語云、熊谷の次郎直実搦手に候ひけるが、西の手の真先かけんとしのびに落さんずる谷を弓手になし、馬手へ歩ませ行程に、年比人も通はぬ田井の畑と云古道を経て、波打際へぞ打出ける、一の谷近う塩屋と云所あり、未だ夜深かりければ此手の侍大将土肥の次郎実平七千余騎にて控へたり、熊谷夜に紛れて其処をつと馳通り、一の谷の西の木戸口にぞ押寄せたる。〇源平盛衰記には、義経鵯越より鉢伏山に登り蟻戸《アリト》と云所に至る由を載す、蟻戸今詳ならず、多井畑の近地に在るべきか。笈の小文云、須磨の後の方に山を経て田井の畑と云所、松風村雨の故里といへり、尾上つづき丹波路へ通ふ道あり、鉢伏のぞき逆落しなど恐ろしき名のみ残りて、鐘懸松より見下すに一の谷内裡やしき目の下に見ゆ。其世の乱れ心に浮び、二位の尼公王子を抱奉、女院の御裳に御足もたれ船やかたにまろぴ入らせ玉ふ御有様、女嬬曹子の類さま/”\の御調度もてあつかひ、琵琶なんどしとねふとんにくるみて投入れ、供御はこぼれて鱗くづの餌となり、櫛笥は乱れてあまの捨草となりつつ、千年の悲此浦にとゞまり侍るぞや。〔節文〕
 
鵯越《ヒヨドリゴエ》 或は鴇越に作る、兵樺庫原より播磨国美嚢郡へ通ずる山路なり。今神戸市|夢野《ユメノ》より西北に走り、山田村(丹生荘)を経て、淡河村三木町等(620)に至るを鴇趨と称す。
鵯越は東鑑に「源九郎、先引分殊勇士七十余騎、著于一谷後山、号鵯越」とあり、平語に「御曹子三千余騎にて一の谷後鵯越を落さんとて、丹波路より搦手へこそ向はれけれ」云々とありて其言ふ所文飾に過ぎ実すくなし逆落の一段最地理にそむく、唯其大意を採るべし。鵯越の本路は山田村|藍那《アイナ》より東南夢野若くは長田に出づべきも、藍那より南に出でて多井畑に至り以て一谷に臨む別路あり、九郎は此別路を取りしに似たり、而て平語に又云「九郎義経こそ三草山(今加東郡上福田村)を責破りて既に乱入の由聞候、山の手が大事にて候へば能登守教経之を承り越中前司盛俊を先として三位通盛の卿を具し一万余騎にて、山の手へぞ向はれける、此山の手と申すは一の谷の後鵯越の麓なり」と、教経は鵯越の本路に向ひ義経に会戦する能はず、一谷城早く已に敵の乗ずる所となりしか、論者の詳考をまつ。
 
山田《ヤマダ》 神戸市の北二里、山間の大村なり。旧|丹生《ニフ》荘と称し十三村に分れ、東西三里南北二里、東は摩耶山唐櫃山に至り、南は再度山鵯越の横嶺を以て須磨村と相分つ。地勢全く播磨に属し、溪水は明石美嚢両郡に傾注す。〇摂津志に山田村に驚尾氏の家あり、鵯越の按内者たる鷲尾庄司の裔孫なる旨を説けり、鷲尾荘司は盛衰記平語に并見すれど此地の人と思はれず、丹波多紀郡に驚尾村あり。丹生山明要寺は大字坂本に在り、比叡延暦寺の裔末にして天台の古院なり、後世衰頽し今わづかに存す。丹生山は一名|帝釈《タイシヤク》山と云ひ、山田村の北界を為し美嚢郡淡河村の上に聳ゆ。天正中別所氏の三木に拠るや此に築塞し丹生城と称す、之より先き南北朝の乱には官軍丹生寺に拠れり。南山巡狩録云「延元三年夏、播州丹生寺の宮方明石城に責よせ、加爾坂に於て合戦」の事島津氏古文書に見ゆと、本村の古へ播州に属したるを知るべし。
 
   有馬郡
 
有馬《アリマ》郡 東は河辺郡に至り南は武庫郡に至り西は播磨美嚢郡北は丹波多紀郡なり、囲むに山嶺を以てし諸水一束して東南に潰ゆ、即武庫川の上游なり。南北八里東西四里、今二町(三田湯山)十三村に分る人口三万六千郡衙は三田《サンダ》に在り。有馬は日本書紀「舒明天皇三年、幸摂津国有馬温湯」とありて温泉の名古今に著聞す、万葉集に
 大君の御かさにぬへる在間菅ありつゝ見れどことなきわ妹
とあるも此地の菅に寄托したるか。和名抄、有馬郡、訓阿利万、五郷に分つ。補【有馬郡】〇〔和名抄郡郷考〕神名式、有馬神社。風土記、有馬神社、圭田八十三束三毛田、祭祀大己貴并少彦名神也、又云、有馬郡、或磯毛郡、東限麿美山、西限猪名岳、南限小走岡、北限小浜川。欽明紀三年幸摂津国有馬湯。
史料叢誌 有馬兵部少補則頼は赤松次郎源則村の裔孫なり、祖父与次郎則景始て摂州有馬郡に住す、依て氏とす、父重則播州三木城に移り、又淡河城に移る、則頼は豐臣秀吉に仕ふ、則頼関原事平て後、本領摂州有馬郡の内にて禄を加へ、都て二万石を賜り三木城に住す、其子豊氏丹波国福知山に移り八万石を領す、元和六年台徳公の命を奉じて福知山を転じて筑後国久留米城に移りて十三万石を加へ賜ひ、総て二十一方石を領す。
 
有馬山《アリマヤマ》 此名は郡中の総称なれば何処と限定し難し、摂津志湯山に擬するは非なり。又古歌を按ずるに有馬山は猪名野に詠み合す、即猪名野に面へる羽束山名塩山生瀬山船坂山など六甲山の北に接続する嶺を曰ふ者の如し。
 しなが鳥居名野をゆけば有馬山夕ぎり立ちぬ宿はなくして、(万葉集〕津の国の武庫の奥なるありまやま有とも見えず雲のたな引、〔新千載集〕
 
生瀬《ナマセ》 有馬郡の東南端にして武傳川に臨む、(此に生瀬川と云)即猪名野(池田伊丹等)より有馬山へ入る隘口なり。今名塩と合併して塩瀬村と改称す、生瀬駅より西北に進めば名塩を経て三田に達し、西に船坂を踰ゆれば湯山に至るべし。〇浄橋寺《ジヤウキヤウジ》在り、浄土宗の名藍なり、寛元元年僧善恵(西山上人)開基、本尊弥陀は宇都宮弥三郎頼綱入道蓮生の念持仏なり、又寛元三年沙門証空(即善恵)款識の古鐘あり。
  生瀬渡遇玉堂相公而作   僧 義堂
 水生谿漲路難通、人馬争舟急似風、逢着明公済川手、小僧省得笠浮空、〔空華集〕
 今坂鶴鉄道、池田より生瀬を経て三田篠山に向ふ。
 
四十八瀬《シジフハツカセ》 生瀬より西|船坂山《フナサカヤマ》を踰え湯山に至る二里、幽溪に沿ふて行く、巉巌激瑞多し、六甲山の陰にあたる。
   遊馬山、渉四十八瀬、前後十数里、不見人家、
 当路危峰皆虎躍、奔流迸水尽蛇行、四十八曲天将黒、呟笑時聞木客声、        牧 ※[(章+〓)/心(トウ)]斎
 
名塩《ナシホ》 塩瀬村大字名塩は生瀬の西北一里に在り、更に西行二里を山口村と為す.名産名塩紙(321)あり、縦短横長にして書信の用に供す、多く大坂に消費せらる、世に大坂半切と呼ぶ。〇名塩教行寺は真宗本願寺派の名刹なり。又鉱泉三所あり、微温湯也。〇康正二年造内裏段銭記に「参貫丈、八幡大乗院、摂州有馬郡内塩荘」とあり、内塩即名塩なるべし、又長塩に作ると云。
 
賀美《カミ》郷 和名抄、武庫郡賀美郷。〇今塩瀬村なるべし、武庫河の中游にして有馬山中に近接するを以て、後世有馬郡に属するならん。
 
羽束《ハツカ・ハツカシ》郷 和名抄、有馬郡羽束郷、訓波都加之。〇今高平村(大字羽豆川)西谷村(大字羽豆今川辺郡に属す)是なり。塩瀬村の北にして一条の長谷委蛇として七里に及ぶ、羽豆川の水源は豊能郡|枳根荘《キネノシヤウ》村天王峠に出て後川《シツカハ》と称す、末は武庫川に入る。姓氏録云、摂津国神別天孫羽束、天佐鬼利命三世孫斯鬼命之後也。又云、摂津国皇別羽束首、天足彦国押人命男彦姥津命之後也。〇延喜式云、摂津国有馬郡羽束工戸、役十五日、不免其調、若有絶戸、其口分田准価賃租、充雑工食、不給公粮。
   つの国はつかといふ所に侍りける時遣しける
 秋はつるはつかの山のさびしきに有あけの月を誰と見るらむ、(新古今集〕      源 俊頼
 限りありて羽束の里にすむ人はけふかあすかと世をも歎かじ、〔家集〕        和泉式部
拾芥抄に摂津国羽束郡の名を載す、当時私立の郡なりしにやあらん。
 
高平《タカヒラ》 羽束郷の高平谷今高平村と称す、大字酒井に延喜式河辺郡|高売布《タカメフ》神社あり、郡界後世移動ありしか。摂津志云、高売布神社上梁文、永正十年越前守小野時家修補。〇按に売布神社は今河辺郡小浜村米谷に在り、参照すべし。又高平村大字|十倉《トクラ》羽豆川の間に大舟山あり、三峰高峙して絶壁懸崖を成す。
補【高売布神社】〇神祇志科 今高平谷坂井村にあり、惣社といふ(摂津志・名所図会)
 按、旧事本紀伊香色雄命の子大※[口+羊]布命、若湯坐連等祖、新撰姓氏録に若湯坐宿禰伊香色雄命之後也とみえ、三代実録貞観五年八月戊辰の条に摂津国河辺郡人若湯坐連宮足等本居を改る事あり、又本郡に此神及売布神社とあり、思ふに大※[口+羊]布命を其氏人の祭れる社にはあらじか、附て考に備ふ
 
小野《ヲノ》 高平村の西を小野村と曰ふ青原《アヲハラ》峠あり丹波篠山に出る直径之に係る。小野の青原峠に母子《モシ》と云ふ小山駅あり。母子の東に永沢寺《エイタクジ》あり、禅家の古刹なり、元亨釈書之を以て丹波国と為せり、曰寂霊、豊後州人、幼善読書、不屑居俗、年十七、至州之大光寺、依定山禅師落髪、後遊諸方、応安元年、遂出世于能州総持、細川頼之及創丹波永沢寺、寂霊為其開山始祖。〇青野川は青原峠より発し、武庫川の一支源なり。
 
中野《ナカノ》 此村は小野の西に接す旧中荘と称す。東寺古文書正和三年七条院領摂津国中荘あり、此か、大字末に洞窟三十余所、人造の者なるべしと云ふ、後の考究を期す。
 
四辻《ヨツツジ》 今本荘村と改む、四辻は三田より篠山に通ずる駅路にして西は播摩の国堺なり。四辻の北二里|古市《フルイチ》村あり、亦山駅なり、地勢当然有馬郡に属すべく、実に本荘川の源なり、今丹波多紀郡に属す。本荘川青野川と合し三田川と為る、即武庫川の上游なり、四辻より三田に至る二里半。今阪鶴鉄道は藍《アヰ》村を経由す。
 
忍壁《オシカベ》郷 和名抄、有馬郡忍璧郷、訓於之加倍、在上下。〇今詳ならず、郡の北部にて、小野中野|藍《アヰ》本荘の藷村にや。姓氏録に「摂津神別、刑部首、火明命十七世孫屋主宿禰之後也」と見ゆるは即忍壁郷の部民なりしにや。
 
三輪《ミワ》 中野の南を今三輪村と為す、三田町に摂す、三輪神社あり、郡中の一旧祠と云。〇大字|香下《カシタ》に塞址あり正平年中郡の豪族松山(今大字川除)大原(今大字大原)貴志(今貴志村)有馬の諸党之に拠り、官軍に応じたり。〇大字|尼寺《ニジ》に菩提寺と称する古刹あり、尼寺の一嶺|角山《ツノヤマ》は倒扇状の奇峰にして俗に有馬富士と称す、其裾野を志手原と曰ふ、遠望すれば駿州芙蓉峰の景に匹似す。
 
三田《サンタ》 有馬郡の中央に居り、山中の小都会なり、戸数一千神戸市を去る八里とす、旧九鬼氏の塞あり、今郡衙を置く。阪鶴鉄道之を経由す。三田陣屋は元和七年松平丹波守平康長之に居り、寛永十一年九鬼大和守久隆之に代り、子孫世襲して封土三万六千石なりき。。三田の車瀬《クルマセ》は有馬氏の館址なり、有馬氏は播磨赤松氏の流にして与次郎則景本郡に移り美嚢郡淡河を兼併して豪族と為る、乃有馬と称す。其子重則淡河に転じ重則の子兵部卿法印頼則豊臣氏に帰伏し遠州横須賀へ移封せられ三万五千石也、慶長五年頼則徳川家康に服事し其子豊氏関原に戦功あり即有馬郡の故領二万石を加賜せられ、丹波福知山城に移る。元和六年更に筑後久留米城に移り二十一万石の巨封を受く。〇南山巡狩録に島津古文書を引き「延元四年八月、淡河岩岸三田等の城々にて、赤松律師(則祐)河原三郎島津忠兼等官軍と合戦」の事を記す、岩岸は今詳ならねど淡河三田は東西相去る凡四里。
補【三田】〇工芸志料 三田焼は元禄年間摂津国有馬郡の三田の領主九鬼某の、其の地の工人に命じて古青磁、(支那の明の代に製せし所の青磁をいふ)を模造せし(622)む、其巧殆に真に逼る、近時良工なしといへども、製出する事絶えず、工人業をつたへて今に至る。
 
田中《タナカ》 今|三輪《ミワ》村に大字|下田中《シモタナカ》あり、此なるべし。細川両家記云、永正十六年己卯の歳、秋の比より四国又播磨勢京上りに附き、澄元方に池田前筑後守息三郎五郎申されけるは、今度摂津国口の先陣は何がし仕り候べしとて申請、摂州有馬郡田中といふ所へ上り人数を揃へし所に、高国の方河原林対馬守正頼塩川孫太郎相談し、彼田中へ同十月廿二日夜半に夜討、寄手塩川衆河原林衆身にかわらぬ人あまたうたせ漸々にこそ引にけれ、池田三郎五郎は首三十あまり討取則阿波国へ注進申されければ、澄元御感ありて豊島郡一色に下きれ、弾正忠になされ申となり。。三輪村の南にして、三田町の対岸に在り。
 
道場《ダウヂヤウ》 三田の南を道場村とす、湯山山口より三田に至る間駅なり、道場の東大字|生野《イクノ》に羚羊《カモシカ》谷の奇勝あり〇摂津志云、カモシカ谷、在生野村南、俗曰鎌倉、蒼崖千仞下臨一菜溪、奇岩抜出者数十丈、名之鐫仏岩、岩形似仏、其西横嶺逶※[しんにょう+麗]、名以龍山、山形似奔龍、東有振鷺瀑、一葉溪之源也、峭壁百丈、水如線而下。
 
大神《オホミワ》郷 和名抄、有馬郡大神郷。〇今三輪村三田町貴志村等ならん。三輪の三論明神は色葉字類抄に「大神、温泉|鹿舌《カシタ》三像大明神者、是一体分身也、故号三和社」など見ゆ、鹿舌神は同村大字香下に在り。
 
幡多《ハタ》郷 和名抄、有馬郡幡多郷、発多、在上下。〇今八多村是なり、旧畑荘と称す大字西畑存す、大沢村道場村も此中なるべし。有間《アリマ》神社は延喜式有馬郡の一祠なり、今八田村大字中村に在りて山王権現と称す。〔摂津志〕
 
山口《ヤマクチ》 道場と湯山の間なる村名なり、摂津風土記に功地《クチ》山と云者此と云。〔摂津志〕公智《クチ》神社は延喜式有馬郡の一祠なり、今山口村大字山口の久牟知山《クンチヤマ》に在り天王宮と称す。〔摂津志〕風土記曰、有馬郡有久牟知川、右因山為名、山本名功地山、昔難波長楽豊前宮御宇天皇世、為車駕幸湯泉、作行宮於湯泉之時採材木於久牟知山、其材木美麗、於是勅云、此山有功之山、因号功地山、俗人弥誤曰久牟知山。〔釈日本紀〕
 
湯山《ユヤマ》 三田の南四里、六甲山の北麓にして菟原住吉停車場の北三里余に在り。謂ゆる有馬温泉の所在地にして戸数四百五十、抽海一千一百尺の高に居り、山中の孤村なれど浴客常に来集するを以ておのづから佳麗の小繁華を為す、湯山町と曰ふ。名産竹細工籐細工陶器等あり。
 
有間湯《アリマノユ》 有間の温泉は近く京畿の山に在るを以て古より著聞す、而も其涌出盛にして効験多きが故に今に至りて益興る。浴場は近年改造を為し、宿舎十余戸浴婢を置き能く客を待遇す、旧温泉寺の宿坊たるを以て呼ぶに二階坊御所坊奥之坊兵衛坊池之坊等の名を以てす、浴場は別湯並湯の二室に別れ、温度摂氏三十九度、多量の塩化分を含み鹹味あり水色溷濁し赤褐の沈澱を為す、効能は主として防腐解凝強壮催下制酸等に在り。又杉谷の冷泉(本泉の東)は炭酸泉にして俗に鉄砲水と称す。上谷《カミタニ》に妬泉と云者あり時々怒号沸騰す、里諺に女子盛装して之に臨めば妬心怒気を生ず故にウハナリノユと名づくとぞ、妬泉の西に明目泉あり、眼を洗へば善く翳を除くと云ふ。〇日本鉱泉誌云、有馬本湯塩類泉にして泉口を一にし其槽を分つのみ、冬時は酸化鉄游離する為め溷濁すれど夏時は常に澄清し游離炭酸少量を含み味甚鹹く渋※[さんずい+墻の旁]なり、其反応は弱酸性にて熾灼すれば亜児加里性を為す、温熱百度を常とす。杉谷《スギガタニ》炭酸冷泉は無色澄明にし硫臭微にあり酸味を帯ぶ、固形分千中二、明治六年始めて開場し飲浴並に佳、此冷泉近傍に地獄谷の字あり、谷中※[怨の心が目]井あり鳥《トリ》地獄と称す、禽鳥の此に近接し来る者井中発散の気に触るれば斃れずと云ことなし、又凹処を虫地獄と称す虫頬の窒息して死する者多し、盖皆過量の炭酸気を発するに由る、旧名地獄穴と云へり、花《ハナ》湯は新湯と称し本湯の上方数十間に在り、炭酸性徴温泉にして熱八十五度に過ぎず、専ら湯気の凝結せる者を採りて金瘡を治する用に供す。」有馬温泉志云、此温泉の熱度、豊公以前の事は考へ難けれど、慶長元年の地震に依て俄に熱湯となり、豊公普請を命ぜられし後再温泉となりたりと云ふ、而も猶熱高かりしにや羅山の記に「有馬湯、旧得冷煖之中、而浴者有効、一旦会地震山崩、而後酷熱触手如探湯、殆似投鶏卵而黄白凝結也、故近歳引澗水于筧以注之、始獲浴焉、然其効亦可覩也」とあり、羅山の有馬に浴せしは元和七年にて、慶長の地震よりは二十五年の後なり然るに尚此の如し、又温泉論附録に「窃惟斯泉也、往古来今、大温無比、是以泉頭常設備渟水桶、使人含之以解浴煩、或以冷水清畳手巾、戴諸百会、以禦頭疼眩暈、名曰枕水、又有提桶、別汲温湯盛之、高掲以灌浴者肩背、名曰打湯、以治頭瘡眼赤※[病垂/累]※[病垂/歴]肩気耳底※[耳+寧]等云、当時泉気猶未得其所歟、故使浴者輙発暈失心、往往有焉」と、此文に依て見れば昔は温度頗る高くして浴するもの動すれば眩暈など起すことあるを以て、手拭冷水に浸し頭に戴きて入りしと見えたり、然るに寛永六年(元和七年より八十八年後なり)貝原益軒入浴の時には温度下りしものと見えて、有馬山湯山記(益軒の著)には枕水打湯などの事も言はれず、正徳五年(益軒の入湯より纔に六年後(623)なり)河合章堯の著せし有馬山温泉記追加には「唯有馬の湯のみ冷熱人の好に応ずるが如く、尤寒暑昼夜に少のたがひめありといへども、杓にてそゝぎあつくおぼゆるを、つとめて入る時は湯和かにして、水を加ふるに及ばず、自から中を得るが如し」とあり、是より又八十四年を経て、文化中に至り温度愈下りしにや、柘植籠洲が兵衛坊に与へし書中に「挙世相伝、有馬温泉火気薄弱、不足適人之膚、初浴聳然毛寒良久、然後肌体温温、猶曝背於秋陽、吁嗟愚俗不識泉性、亦何足与道哉、然其所以有此言者、蓋泉気之触身、其必有所不能使人無歉然也」と言へり、さて斯く温度の次第に下ることは、四面の水澗相合して温泉中に滲入するの致す所なりと論ぜしより、遂に泉底を凌へし事あり、されど温度は増加せざりし如し、又文禄中豊公の浴し給ふ時、薬師山の前の庭を塩浜となし、此温泉を汲て塩を煮させ給ひしに、其まゝ塩となりしかば、建仁寺の南化和尚これを見て、
 今見智謀過古賢、温泉流処汲潮煎、山非海上自松島、寒月籠光塩竈烟、
といふ詩を作りしより、田中伯元の紀行に見え、又拓植龍洲の書中に「頃適有郵便、忽劇所齎呈、玄貝一朋、実是馬山温泉之塩、是彼泉液、注諸蒸露罐、文火煎沸一昼一夜、露竭液凝、成一大塩塊耳」と見ゆ、温泉にて塩を煮しはためし少き事なれば、姑く爰に記して話柄となす。
   温泉館、送同人回嵯峨、兼簡諸友、 義堂
 馬山氷雪勒春色、幾樹桜花※[門/必]艶紅、倦鳥未還南国晩、孤雲自去北山中、栖霞観古鶴尋宿、度月橋高馬過空、会有故人煩問信、温泉且澡黒頭虫、   温泉雑詩
 肯随雲雨下陽台、曾受霊山顧命来、譲法護人并護国、行宮門対寺門開、女神廟
  風前莞爾破顔時、裡許深蔵峭峻機、莫把瞋拳容易打、懸崖当面勢巍々、笑巌
  誰将地獄扁山泉、引得痴人照膽寒、須信全波全是水、往来莫作※[金+獲の旁]湯看、地獄泉(以上空華集)
   丁亥孟夏偶到有馬      浅見〓斎
 籃輿今日渡高※[山+喬]、峰緑相囲遶四牆、病客湯婢喧擾外、一条筧響徹深宵、
林羅山有馬湯記(今善福寺所蔵)云、摂州有馬郡、山口荘之湯泉、未詳其始也、舒明天皇、孝徳天皇、並行幸于此、則所従来已久矣、旧記曰、行基法師、自昆陽寺、来於有馬山、見一人病臥山中、問曰汝何疾病、而若此哉、答曰欲赴湯救疾、而力疲不得進、且絶食已数日、行基哀之、与飲食、病者曰今食無魚、行基乃至長洲浜、得魚以帰、病者曰上人先試嘗之、基即食、味甚美、於是勧之、病者臥食之、且告曰、我有黒瘍、上人若舐瘡瘍、痛楚可少忍乎、基忍而舐※[口+允]焉、忽見其形変作金身、即薬師仏之貌也、基大驚拝、仏告曰我有温泉、為試上人現病躯、言已不見、基感歎不止、刻等身薬師石像、置于泉涌出処、就建一宇、今薬師堂是也、以其所割之残魚、放昆陽寺池、化為一目金魚云、此山有三神、一曰湯山権現者薬師、一日三輪大神者毘盧舎那、一曰鹿舌明神者千手大悲也、爾来浴者、病多愈、蓋依仏神加被力乎、承徳元年丁丑、天作淫雨洪水、崩山溺家、九十五年後、和州吉野憎仁西、詣熊野神、一夕夢神告曰、摂州有馬山中有湯、近歳荒廃甚矣、汝可往従事、西曰以何為証、神曰庭樹葉有蜘、宜随其糸所牽以赴焉、翌旦覚而見果然、既而至中野村二松下失蜘蛛、西迷道而立、俄有一翁、導西登山、投木葉曰、葉落処必是霊地、忽不見翁所之、遂就其攸、開旧跡、凌湯源、建寺及十二妨舎、置守湯人、時建久二年辛亥二月也、
享禄元年、及天正四年、再罹欝攸之災、堂舎人屋皆為烏有、十三年乙酉、羽柴帝吉公之夫人、鼎建寺院、納封田、今之巍然者是也。〇書紀、舒明天皇三年、幸於摂津国有間温湯、十年幸有間温湯宮。孝徳天皇大化三年冬十月、幸有問温湯、左右大臣群卿大夫従焉、十二月天皇還自温湯云々。此温揚宮址は摂津志に杉谷と為す、又大治三年白河法皇建春門院の御幸、安元二年後白河法皇の御幸あり。
  有馬の湯にしぬびて御幸ありける御供に侍けるに湯明神をば三輪の明神となむ申侍るときゝて、めづらしく御幸を三輪のかみならばしるしありまの出湯なるらん、〔千載集〕     按察使資賢
 
温泉《ユ》神社 延喜式、有馬郡名神大祠なり、湯山町字塩野原山に鎮座す、後世三所権現と称す、蓋温泉寺中祖僧仁西熊野神に擬し三所の号を立てたる也。神祇志料云湯神は千載集色葉字類抄に拠れば三輪社と云ひ大己貴命を祭る、山家要略記に摂津温泉神は大和三輪社の妃と為す。〇釈紀引風土記云「有馬郡、又有|塩之原《シホノハラ》山、此山間在塩湯此辺因為名、始得見塩湯者、土人不知時世之号、但知島大臣時耳」と島大臣とは蘇我馬子の号なり。色葉字類抄云、温泉三和社旧記曰、大神温泉《ミワユ》鹿舌《カシタ》三像大明神者、是一体分身也、故号三輪社、崇神天皇御宇之時七年始定置神戸、載天慶八年交替帳。又云|地獄穴《ヂゴクアナ》事、古老云、神殿巽方有穴、号之地獄穴、広各二丈余、凡生命之類、入此穴者、莫不損命、其証于今不絶云々。第一白馬不参向、第二男女重忌房内事有月事、第三当任国司不参詣、潔斎奉幣之後房内之外不忌肉食云々。古老云、此湯明神者、東方浄土薬師如来之垂跡也、随温泉底、有石仏像、其等身薬師如来像也、自其左右脇出温泉、承徳年中、雷雨洪水以後、不奉見尊容云々。(624)造陰形置社辺事、古老云、参詣之輩、先造件物、置社頭、是定習也、湯明神令愛婦女之姿給、近則入道大政大臣雅□被参詣之時、造置件形之条、尤不得止事也、随見取棄畢、其後人々有夢告、如元被造畢。
 
温泉寺《ウンセンジ》 湯神社の供僧なり、常喜山と称し真言宗を奉ず、本尊薬師如来、行基大徳の創建と称す、建久二年大和国吉野の仁西上人中興し衆徒十二坊を置き一山の事を掌治す、寺の東峰に清涼院愛宕祠等あり謂ゆる奥院なり、天正文禄の比豐臣秀吉夫妻の入浴あり温泉寺を改修したりと云ふ、此他仏刹猶多し。温泉寺の塔頭蘭若院阿弥陀房清涼院等今亡ぶ。
 
落葉山《オチバヤマ》 湯山の西に峙ゆ、一名投木山又童子山と曰ふ、天文年中三好宗三此に築城したるを以て今|城山《シロヤマ》と称す、山麓に善福寺《ゼンプクジ》あり、此寺は今曹洞禅を奉ずれど往時は温泉寺に属せり、温泉寺の旧什物多く此寺に伝ふ。〇三好家成立記曰、摂州有馬湯の谷の西童子山の城には三好宗三楯籠、其勢五百近国の窺便宜、播州三木の別所豊後守是を可攻由評定有りて、明石浦を見妻手、各嶺を分ち下りて燵石の峠に上り、童子山を見下し鬨を上る、後陣の勢も押寄たれど地形難所にて掛合せ可戦にも非りし也、其夜雨風烈しければ宗三云多勢に無勢始終難戦とて、河内国へ引き退きし
となり。
 
鼓滝《ツヅミノタキ》 湯山の南八町許に在り、水源六甲山より出て懸泉三丈六尺広一丈樹石の布置頗幽致あり、有馬温泉第一の勝景なり。赤松律師則祐の鼓滝の歌耳比磨利帖に載す、原本は湯山池之坊に蔵すとぞ。
 
有野《アリノ》 湯山町の西を有野村と日ふ、唐櫃《カラト》山あり水晶を産出す故に燧石峠とも曰ふ、又其西に風越《カゼコシ》峠あり、之を踰ゆれば丹生荘山田村なり。
 
春木《ハルキ》郷 和名抄、有馬郡春木郷、訓波留木。〇今詳ならず、湯山山口有野などにあたる、春木は墾開の義ならん。
 
     近江国
 
近江《アフミ・チカツアフミ》国 北は越前若狭、西は丹波并に山城、南は伊賀并に山城、東は伊勢美濃なり。琵琶湖は州の中央に居り、四山の水皆之に帰し、西南に一溝を決潰して之を疏通す、即淀川宇治川の源地也。東西凡十二里南北凡十九里、面積二百六十方里、其他四十六方里は湖水なり、県治を大津に置き、滋賀県と曰ふ。近江は近淡海《チカツアフミ》の仮借にて、遠淡海に対比して此名あり、遠淡海は即遠江国なり。古書には多く淡海とのみ称し、或は相海に作る、本湖海の名を転じて国名に呼べる也。中世以降|江州《ゴウシウ》と号し、江北江南に分ち、又江西江東に分つ、大抵滋賀高島を西近江と曰ひ、又浅井坂田伊香を北近江と曰ふ、地理を見て知るべし。本州は西南に畿内を控へ東北三道の要衝に当り、四方の枢軸に居る、畿外と云ふと雖実は京師の属邑のみ、大路は江東《コウトウ》を重要とす。武智麿伝云、近江者宇宙名地也、地広人衆、国富家給、東交|不破《フハ》、北接|鶴鹿《ツルガ》、南通山背、至此京邑、水海清而広、山木繁而長、其壌※[土+盧]黒、其田上々、雖有水旱之災、曾無不獲之恤、故昔聖主賢臣、遷都此地、郷童野老、共称無為、携手巡行、遊歌大路、時人咸曰太平之代、此公私往来之道、東西二陸之喉也。近江は和名抄知加津阿不三と訓み、十二郡を管す、延喜式之に同じ、中世|善積《ヨシヅミ》郡の名あり、近時は東浅井郡の名ありしも今皆廃し、十二郡の旧に依る、土俗|中《ナカ》郡の私謂あり愛知神埼の辺を指す。
古の淡海国は江州の総名なれど、万葉集に速江《トホツアフミ》の語ありて江北を指す、
(625) あられふり遠江の吾跡《アド》川楊刈れども亦も生ふちふ余跡《アド》川楊、
吾迹川は今高島郡の安曇《アド》川是也、蓋国郡制置の前代には淡海は総名なれど、中にも江南の一方をば殊に淡海国を指したるならん。(古事記「境原宮(孝元)段云、建内宿禰之子波多八代宿禰、沫海臣之祖」とありて、其氏人は崇峻紀に、「遣近江臣満於東山道、使観蝦夷国境」とあれど、其在所は詳ならず)古事記に「天押帯日子命者、近淡海国造之祖」と云ひ、国造本紀に「淡海国造、彦坐王三世孫、大陀牟夜別」と云ひ、又|安《ヤス》国造、安郡公などあり。此安国造と近淡海国造、又淡海国造と云ふは本来異性なれど、姻親の関係上より一家門と為れる次第は、野洲郡御上神社の条に注す。又|坂田《サカタ》国造あり、坂田郡を参照すべし、是は江北を指せるなり、其他|蚊野《カノ》蒲生三尾など皆旧邑なり。姓氏録に「淡海真人、出自諡天智皇子大友末也」と見え又天智天皇大津宮に臨御ありしを以て、之を近江朝廷と称し奉る、之より先成務天皇は滋賀高穴穂宮に臨御ありしかど、古書の例天智をのみ近江朝廷と指す。江州は武家興立以来佐々木氏の管国にして、子孫六角京極の二家に分れたり、室町幕貯の末造に至り江北京極家は浅井氏の奪ふ所と為る、天正中に至り南北共に滅し織田氏に帰す。織田氏|安土《アヅチ》山に築城し鎮府と為せしが覇業半途にして斃れ、豐臣氏|八幡《ヤハタ》山に築城したりしが久しからず、徳川幕府に及び彦根城を起し元勲井伊氏を封じ、以て京畿を控刺せしむ、天正記には江州検地高七十万石と称し、元禄検地八十三万石也。
   江州          島田忠臣
 江州形勢自難裁、関左咽喉此地推、四面山峰屏障立、一泓湖岸鏡※[區の品の上に大]開、綺分田畝秋来稔、葉泛舟航風順廻、嶮固便宜兼水陸、比於蜀漢画無該、〔家集〕
   江州道中          山県周南
 今年復行役、落日向東州、津樹春雲合、駅楼山雨浮、乾坤故塁在、昼夜大江流、徙倚憐風物、龍鍾独自愁、
   江州            菅 茶山
 梱水蒼茫煖意融、晴波閃礫釣糸風、五湖遺逸家何在、六代高僧窟亦空、岳寺雲帰春樹外、沙汀鴨睡夕陽中、済川誰抱平生志、時見孤舟蓑笠翁、
   過湖山           柴 栗山
 湖辺沙路浄無泥、柳渚松湾任馬蹄、休怪児童語言好、皇州近在彩雲西、
   湖上即目          岡本黄石
 越北朝為雪、群峰寒色分、天台一堆碧、半入帝京雲、
近江名跡按内記云、此国は土地膏腴にして収獲多し、然れども沿湖の村落は屡洪水の害あり、古来地租の重き所にして、民益僅少なれば、中郡の人は商賈を業とし、他州に店舗を設く、其布商の風俗たる四方に往来し、貨物の有無を通ず、之を近江商人と曰ふ、初め其家を出るや天秤棒一本を肩にし、東西に利市し、帰音又棒一本を肩にするのみ。産業事蹟云、近江麻布は産地諸郡に散在す、高宮縞と云ひ、野洲晒と云ひ、兵主布と云ひ、加田布と云ひ、地平織と云ひ、種類一ならず、其産額最多くして殆んど近江麻布の名声を専有するものは紺花色等の絣布とす、其創始の年代未だ詳ならずと雖、今を距る百五六十年前に在て、江州商人が各地奔走の際、其製法を習ひ得て之を本国に伝へたるものゝ如し、乃之を事実に徴するに、麻布の産地たる神崎愛知犬上の三郡に於て、古今富豪を以て名あるものは概ね麻布に縁故ある屋号を称し、旦現今と雖も越後奈良能登等の麻布は、大半江州商人の手を経て諸国に販売するを見て知るべきなり、往年は年々四五十万反以上の産額なりしが、近時は減じて二十万反内外に降れりと云ふ。
補【近江】〇近江国輿地志略噂 近江の地理を記せる書少し、元明天皇の風土記、応仁の兵火にかかつて今人間になし、たまたま浅井郡の脱簡水戸の史館にあり、亦近江風土記と号し二冊、紙数六十葉ばかりある書、後世の偽作なり、近江給遺・近江記などいふものあれども、漸一二冊にすぎず、信贋相半する書なり、神崎郡の土人木村源四郎があつむる近江郡分の書十二冊あり、此書はその地の産土のことを多く載たり、神社仏宇のことに至ては甚疎漏なり、大津の商賈原田伝兵衛蔵六の輯たる淡海録十冊世間に流布す、此書前代旧事本紀を本立とし、江源武鑑等を必要とし、真偽をわかたず、弁論なく、きくまゝに書集たる書なり、一向採用にたらず、享保年間に及び予(寒川辰清)膳所の藩主の命にて輿地志略百巻を撰す。〇近江国輿地志略、善積郡を多く載す、近江の土俗も亦これをいふものおほし、ともに虚偽孟浪の言なり、三正史六国史諸実線、善積郡の名をあぐるものをみず、拾芥抄に十二郡としるし、その十二郡の名の下に勢多善積としるす、是をもつて郡名とおもへるにや、勢多善積は郷の名にして、順和名妙に勢多は栗本郡の下にのせ、善横は高島郡の下にしるせり、是を正説とすべし、東鑑のごとき中世の実紀なり、是亦善積の庄をのせて善積郡をしるさず、又奥島のごとき三代実録には野洲郡とあり、今蒲生郡に属す。
補【近江八景】〇図会 湖水の絶景をあつむ、比良、堅田より三井、石山に連り、粟津、唐崎、勢田、矢橋をあはせ瀟湘の八景になぞらふ。〇明応九年八月十三日近衛政家公尚通公父子、佐々木高頼の招請によりて江州に淹留ありて、詠歌序など作れり、八景の題号此時より始る、詩歌数多有、略之、或は永徳五年ともいへ(626)り。
近江《アフミ》名所 〇淡海地志 〇志賀郡 七の社、鷲津、都富士、相洞、彼母山、真葛原、亀岡、屏風浦、うきねが原、月見坂、吾妻海、常盤橋、とろきの橋、千鳥淵、真長浦、若松社。〇高島郡 陸野、河島、香取滿。〇浅井郡 月出、新居郷、竹生島、朝日山、大浦。〇伊香郡 余吾瑚、己高山。〇坂田郡 筑摩、馬場。〇犬上郡 千松原、いさや川、鳥籠山。〇野洲郡 桜山、徹山、老曾松。〇栗本郡 志那、野寺、女阪、小竹生島、奥津島山、三保(野洲)小茎岡(野洲)童部浦。〇甲賀郡 信楽外山、岩根、龍門。
 
黒丸《クロマル》 〇神鳳砂 近江国、黒丸御厨大給主俊貞(二宮御領)件御厨去建仁二年新進立也、国司庁判具也、供祭物内宮万上分米三石、雑用料七石、外宮方同前。〔未詳〕
 
岸下 〇神鳳妙 近江国、岸下〔御厨〕外宮上分三石、ロ入十石、七十丁、七石五斗。〔未詳〕
 
琵琶湖《ビハノウミ・ビハコ》 古は単に淡海《アフミ》と曰ふ又近江之海と曰へり、近代に及び専ら琵琶湖と云ふ。宇治川(末は淀川)の源にして、四山の水之に帰し、無双の巨浸を為す、古来此湖、東西十里南北廿里と称するも、東西は広狭一方ならず、今実測するに南北十七里に過ぎじ、東西は狭処一里に満たず、(堅田浦)広処も六里許(長浜浦)とぞ、面積凡四十六方里。続日本紀、養老元年、行幸美濃、行至近江、観淡海。〇海道図会云、淡海又琵琶湖と号く、堅田より瀬多に至て狭く、形琵琶の鹿首《カシユ》に似たり、勢多より宇治に至て弥々細ければ海老尾にたとへたり、柱には竹生島あり、佐々木百万石は皆湖の潤沢なり。(琵琶の名は何時代に起れりやを詳にせず)〇書紀通証、近江国画図曰、伝云湖者、人王第七孝霊天皇五年、江州地※[土+斥]、水初而湛矣、淡海号出于此、東海諸国記、崇神天皇元年、開近江州大湖。〇近江輿地志略云、琵琶の湖は、年代記に曰く「孝霊天皇五年、一夜地裂、湖出来、駿河国富士山涌出す云々」又説云、孝霊帝五年、地裂て海となる、善積一郡すでに湖となるののち其土富士山となる、かるがゆえに富士詣をなす人、風すさまじく山はげしき時は、近江の近江のと呼ばるときは、かならず風しづまるを以て、近江の人を先達となすといへり、皆漫言人を惑はすものなり。〇日本後紀、弘仁六年四月、行幸近江国滋賀韓埼、便過崇福寺、梵釈寺、即御船泛湖、国司奏風俗歌舞。文華秀麗集云、
   夏日臨泛大湖一首 御製(嵯峨)
 水国追涼到、乗舟泛大湖、風前飜浪起、要裡落帆孤、浦香濃盧橘、洲色暗蒼蘆、邑女採蓮伴、村翁釣魚徒、畏景西山没、清猿北嶼呼、沿湖興不已、弭棹転帰艫、
   過琵琶湖作    伊藤仁斎
 古来云此水、一夜作平湖、俗説尤難信、世伝※[言+巨]亦迂、百川流不已、万谷満相扶、天下滔々者、応憐異教趨、
   過太湖      山県周南
 甸服趨東道、岳陽開大湖、風波来万里、壮志愧雄図、
   淡海       守屋東陽
 琵琶湖濶一蒼茫、名勝相迎興激昂、大沢龍蛇雲夢遠、旧都文物歳華荒、山臨積水生秋色、帆接遙空引夕陽、神女祠壇杳無際、飛揚万里欲※[塞の土が衣]秦裳、
   遊于琵琶湖追賦  垣内海荘
 淡海帝都東、湖山気勢壮、層城蒼霧底、巨刹彩霞中、断浦沈紅日、横林生暗風、龍蛇何処去、漠々碧蘆空。三万六千頃、茫々呑百川、巻雨声振岳、涵星勢逼天、城松送晩翠、島竹散晴烟、此景遙堪憶、詩人孟浩然。落日湖霞紅、湖楼欲御風、明晦無昼夜、江山送英雄、水流功名尽、雲在遺塁空、感慨不成睡、月白聴帰鴻。
   琵琶湖歌       岡本黄石
 我邦分六十、淡海在中土、吾夙周歴観、地勢何壮巨、北控越趨西五畿、千山万山鹿四囲、中有太湖之呑吐日月、得非造化鑿天池、蕩々三万六千頃、百川会作巨浸来、終古水天同一色、宛然有似画図披、春融蕩分秋澄爽、籠朝陰分盪夕暉、浮嵐暖翠千万状、無時無処不清奇、勾呉于越何足数、也知乾坤神秀鍾于茲、一日飲湖亭、四山風景美、浩歌興未闌、山背殷雷起、黒風乍廻閃雲旗、古道驚波白崔※[山/鬼]、急雨傾天注射来、勢如万弩発激矢、恍疑伍胥憤魂甦来駕怒濤、巫支騰※[足+卓]神鞭駛、又訝共工再出頭触不周山、竃囂震鼓走群鬼、第恐為之天柱折地維裂、山岳崩壊人共死、須臾万態悉消滅、翠屏玉鑑一時啓、乃知天地霊怪不可測、丈夫意気応如此、憶昔兵馬目※[手偏+倉]攘、五畿七道妖氛揚、吾公一震佐英主、十年汗馬駆豺狼、遂以元勲充鎮国、収此勝概入封疆、爾来二百余年業、流峙居然抵金湯、我聞王侯守国天設険、母乃形勢非此郷、
   湖上矚目       梁 星巌
 楓葉蘆花湾亦湾、雨余雲斂夕陽間、湖光一片明如鑑、照出文君黛色山、
 淡海の海ゆふなみ千鳥ながなけば心もしぬに古おもほゆ、〔万葉集〕あふみのうみ浪かしこしと風守り年はや経なむこぐとはなしに、〔同上〕相坂を打出て見れば淡海の海白木綿花に浪立渡る、〔同上〕
湖上の八景は、明応九年近衛関白殿下江州に滞留の頃、瀟湘八景に擬して之を撰ばれたりとぞ、世に近江八景と称す、其題目は
 三井晩鐘  石山秋月  堅田落雁  粟津晴嵐  矢橋帰帆  比良暮雪  唐崎夜雨  勢田夕照
等にして本邦各地の八景名勝皆之に因りて更に模擬を為す、傚顰の尤なる者か、詩歌多けれど陳々相依るに(627)過ぎず。謡曲八景の詞は今の題詠(明応の撰か)より稍異趣とす、明応以前の旧詞なるに似たり、翫味すべし、
 あれに見えたる比良の山、小松が原に吹く嵐は、山市の晴嵐もかくやらんと思はれ、真野の入江の洲崎の真砂は、雲かと見えて江天の暮雪に異ならず、あらおもしろやと見る程に、いとゞ心の澄渡る、堅田の浦の釣舟の、沖より家路に急ぐをば、遠浦の帰帆かと打ながめ、雪の一むら残れるは、夜の雨の名ごりか、扨比叡山の鐘の声を、速寺の晩鐘かと打聞き、それ辛崎に翼をたるゝ沙鴎、平沙の落雁に之をなぞらへ、洞庭の月には、鏡の山をたとへたり、誰を漁村の夕照に、つりたるゝ者とは思ふべき。
又淡海をば鳰海《ニホノウミ》と詠ずることあり、是は中世以降の事にして野洲郡邇保郷の下に注せる如く、郷名より出でし名也、鳰てるやと云語も「邇保を出る舟」の原意より転じて淡海の枕詞とはなれり、源氏物語ににほのうみと詠ず、
 風わたるにほの水海そらはれて月かげきよし神津しまやま、〔続千載集〕      前関白
此湖水は元禄年中|供御瀬《クゴノセ》鹿跳澗を開鑿して排水を為さん計画ありしと云ひ、又享保年中塩津山切抜の目論見ありしと云ふ、近年大坂敦賀間の運河を予想する者あり、其説に水面は今海上八十六米突の位置を保ち、二億一千三百万坪の積を有す、水深は最深八十突もあらんと推測せらる、故に水深四十一米突を減じ、標高四十五米突に至らしめば、一億六千万坪の陸地を有べし云々。
水産調査所報告云、琵琶湖に注入する河川は野洲、愛知、犬上、安曇の諸川とす、仁保、善利、知内、石田、比良、和邇は小流なり、四囲の山脈は高しと雖土地狭小なるを以て大河なし、殊に西近江の南部には、急斜せる山腹より一射湖中に奔下し、其河床は両側の原野よりも高きものあり、此の如くなるを以て平時は全く乾涸し、之を湖上より眺むるときは恰も自蛇の山腹を下るに似たり、彼の比良磧の如きは即ち是なり、東近江は原野較広くして長流ありと雖、平時は大に水量を減じ甚しきは全く乾涸するものあり、毎年夏時霖雨の際には、漸次湖の水量を増加す、通例平水より増すこと三尺内外なり、時に五尺乃至八尺に至ることあり、殊に明治元年には非常に出水して、其水準壱丈余の高に増したりと云ふ、湖の面積の大なるに比すれば河川の匯集尚狭小なるを以て洪水は決して一時に来らず、而して其退減するや亦緩徐なり、又此湖水には海水の如く一種の運動あり、其表面流は常に風向に従ひ底流は之に反すと云ふ、故原田博士の説に拠れば、本邦には土地構成の結果として、本邦地形に並行して生じたる裂罅数多あり、其越前より九州筑紫の海に至る一大裂罅は、深く凹落して地学上所謂地溝帯をなせり、琵琶湖は即ち此地溝帯の一部分に水の滞溜して生じたるものなりと、琵琶湖の成生此の如くなるを以て、其浅深の度は彼の霞ケ浦の如く均一ならずして、諸処に暗礁の突起するあり、叉湖中竹生島、多景島、白石、沖之島の諸島嶼あり、野洲郡|木浜《コノハマ》村及び滋賀郡堅田村以南は三尋乃至五尋を以て最深の処とす、此最深部即|澪※[竹/助]《ミヲ》は西岸に接近せり、故に東岸は遠浅にして西岸は急糾せり、又木浜及堅田以北に於ても最深の処は西岸に接近す、高島郡石田川口を距ること東方一里の沖は凡七十尋あり、是れ湖中最深の処とす、而して東岸は大抵遠浅にして多景島附近は三十尋計あり、然れども姉川口沖は急に深くして竹生島の東方は二十尋あり、西辺は五十尋あり、白石は多景島西南西二里許を隔て、水面に露出する蕩滌岩なり、其南方十余町を隔て稍細長なる暗礁あり、ホン島と唱ふ、礁上深さ凡十三尋あり、愛知川口近傍にもナマヅ島と称する一小暗礁あり、又高島郡北舟木壱里許の沖に、長壱里幅凡三町許の暗礁ありて南北に横はる、礁上深さ凡十五尋あり、之をウルシ島と称す、四周の沿岸は砂質若くは岩崖或は砂利なれども、深さ二三尋以上に至れば漸く泥質となり、四五尋以上に至れば殊に柔軟なる泥質となる、狭少なる入江又は内湖にては深き数尺にて已に泥質となる、水産の分布を按ずるに東岸の遠浅にして内栖の相連る処にはヨシ、サヽモの類生繁し、エビ、ホテの常栖所たり、又春夏の候フナ、コヒの産卵場に最も適する処なり、西岸一帯は水草に乏しくこひ、ふなの産卵場には適せざれども、亦コアユの放卵する所たり、竹生島附近は夏期マスの栖息所たるが如し、安曇川、知内川、姉川の如きは春期はこあゆ、うぐい、はす秋期はますの溯上すること多し、いさゞは堅田木浜以北稍深き処に産し、ますも堅田木浜以南に来ること少し、而してわたか及びもろこは堅田及び愛知川以南に於て漁獲せらるること多し、しゞみは沿岸砂地の処に産し、ひがいは岩石のある附近に栖息すること多し、大略木浜村辺は※[鳥+入]漁業を以て鳴り、高島郡知内、舟木及び東浅井郡南浜はますの漁業を以て名あり、而して滋賀郡堅田村、蒲生郡沖之島、坂田郡磯村は古来専業者の多き処にして、能く波濤に堪へて出稼をなすの習慣あり、就中堅田村の漁業者を以て其最となす。
 
     滋賀郡
 
(628)滋賀《シガ》郡 近江《アフミ》国の西界に居り.山嶺を以て山城、愛宕《オタギ》宇治《ウヂ》二郡と相限り、北は高島《タカシマ》郡に至り東は琵琶《ビハ》湖に臨む、東南の一隅は勢多《セタ》川を以て栗太《クリモト》郡と相分つ。地形狭長、南北十一里、東西一二里許。今|大津《オホツ》町外十四村に分ち、面積十八方里、人口七万(葛川《カツラガハ》村は地形高島郡朽木谷に入るべきを以て、本編之に従ふ)郡衙は大津に在り。
滋賀は古書多く志賀に作る、或は志我、磯鹿に作るあり。和名抄、滋賀郡訓志加、四郷に分つ。地勢湖山の勝区を占め、古聖帝の都邑したまへる所なり、成務天皇は高穴穂《タカアナホ》宮に御し、天智天皇は大津《オホツ》宮に御したまへり、古語に「狭々浪《サヽナミ》の志賀」と云へり。
補【滋賀郡】〇和名抄郡郷考 滋賀、志賀。三代実録貞観八年四月、近江国志賀郡。景行紀五十八年、作志賀。続紀養老元年九月、作志我。同天平神護元年正月、作滋賀。霊異記作磯鹿、其外いと多し。万葉新採百首解、万五「さゝなみのひらの山風海ふけば釣するあまの袖かへる見ゆ」さゝなみといふ名二つ有、此歌のは神功紀狭々浪栗林云々、欽明紀狭々波山云々、天武紀諸将軍等悉会※[竹/脩の月なし](佐々)波、此外にも多し、万葉にもさゝなみとて、志賀・大津・比良などこの地にはみな冠らせ、且さゝ波の大山守、さゝなみの国などもいへるを思ふに、志賀の郡のひとつの名なりけり、字もまた※[竹/脩の月なし]・佐々など清音にてあれば、是は篠靡てふ地名なること明らけし、其いまひとつは小波のことにて、元は佐邪波・佐射奈美など書て、下のさ濁音なれば別也。兵部式、滋賀伝馬五疋。日本紀略、延暦十三年十一月、近江国滋賀郡古津者先帝旧都、今接輦下、可追昔号改称大津、この大津より北のかた志賀里、志賀花園、志賀山越、志賀浦等みな名所也。
〇今面積凡十人方里、人口六万六千、大津町外十四村。
 
楽浪《サヽナミ》 狭々浪、又※[竹/脩の月なし]浪に作る、滋賀の別名にて本郡の旧号と做すべし。今滋賀村に大字|漣《サヽナミ》あれど之に異なり、古は専ら此地の総名に呼び習はせり。日本書紀神功巻の狭々浪栗林《サヽナミノクルス》は後世の粟津の栗栖《クルス》に当り、欽明巻の狭々波山は志賀山に同じ、天武巻の「会於※[竹/脩の月なし](此云左々)浪探捕左右大臣」と云は大津の旧都に同じ。〇古事記伝云、訶志比《カシヒ》宮(仲哀)段曰、出沙々那美悉斬其軍」これ志賀也、尚古は沙々那美は志賀よりも広き名にや有けむ、万葉の歌共に沙々那美の志賀と多くよみ志賀の沙々那美とよめるはなし、又同書には楽浪《サヽナミ》之|平山《ヒラヤマ》ともあれば平のあたりまでかけたる名にぞ有けむ。〇冠辞考云、万葉巻一(人麻呂)左散難弥之志我、又楽浪之思賀、巻二、(東人)神楽之志賀、左射礼浪、敷布《シクシク》爾、又集中に楽浪《サヽナミ》とて大津の宮、故京《フルキミヤコ》、国都美神、大山守、平山風などつづけたり、こは近江の志賀郡にある※[竹/脩の月なし]なみてふ地にて、そこの大名なる故に其辺りの処には冠らせたる也、書紀神功紀天武紀にも見えて※[竹/脩の月なし]とは小竹也、浪は借字にて靡の意なり、故なぴく物につけて云へり、古事記応神条に「志那陀由布、佐々那美遅」とよみしも此篠靡道にて、しなへたゆふてふ語を冠らしめたるにて、狭々は清みて唱ふる也、近江の湖によりてさゞ波てふ語を冠らしむと思へるは委しからず。
万葉集名所考云、楽波は古へ広き名にて、後に志賀郡なる一処の名となれるなるべし、今昔物語に志賀郡篠波山と見えたり、其後篠波を湖水のことゝ思ひ誤りたる趣往々に見えたり、さて集中佐々に神楽声とも楽とも書き、又和名抄但馬国楽前(佐々久万)とも見ゆ、此は神楽には小竹葉を用ひ其を打振音の佐阿佐阿と鳴に就て、人々も同く音を和せて佐阿佐阿と云竹る故なるべし、猿楽の謡物に「さつ/\の声ぞ楽む」と云も松風の颯颯と云音より是に云かけたる也。
 
狭々波山《サヽナミヤマ》 按に猶楽浪山と云ふごとし、楽浪の地の山なれば何山と限るべからずと雖、欽明紀の本文に徴拠するに志賀の大渡《オホワタ》の山なるべし曰、欽明天皇三十一年、高麗使者漂着越浜、遣使者迎之、七月高麗使到近江、遣許勢臣猿与吉士赤鳩、発自難波津、控引船於狭々波山、而装飾船、乃往迎於近江北山。通証、是経山城国淀河、伏見字治、而引至于勢多大津也。〇今按に通証の解説は謬あり、宇治勢多の間は舟を控引すべからず、本文の意は難波の人々を遣して、狭々彼山の津より湖上の北山なる津まで船を控引せしむと云ふのみ、又万葉集に連庫《ナミクラ》山と云あり、即狭々波山なるべし、
 佐左浪の連庫山《ナミクラヤマ》に雲居れば雨ぞふるちふかへり来吾背、
再按に、栗田氏神楽入綾に引ける浅井家記録に拠り「近江国風土記云、淡海国者、以淡海為国号、故一名云|細浪《サヽナミ》国、所以自前向観湖上之漣※[さんずい+猗]也」とある逸文を采録す、疑惑なき能はず、古書に未だ細浪国の号ありしを見ず、恐らくは後人偽托の語のみ。
 
逢坂《アフサカ》 大津町の南の阪路にして、今鉄道線は隧道を穿ちて之を通ず。此山本来江州城州の分界なるに、近世山南なる大谷《オホタニ》町|藤尾《フヂヲ》村まで江州に隷せしめ大津町に入る。本篇には大谷藤尾等を山城宇治郡に係属せしむ、彼方を参考すべし。此山は南は音羽《オトハ》、笠取《カサトリ》。岩間《イハマ》の諸嶺に連り、北は比叡《ヒエイ》山、比良山に続きて界嶺を成し、阪路は百五十米突、(海水面)の隘処に通ず、大津町の湖岸は八十五米突とぞ、日本書紀、神功皇后命武内宿禰、撃忍熊王、宿禰追之、適遇于逢坂以破、故号其処日逢坂也.大化二年詔、北(629)自近江|狭々波合坂《サヽナミノアフサカ》山以来、為畿内。
 をとめらに相坂山に手向草ぬさ取おきて我妹子に相海の海の云々〔万葉集〕賀茂氏冠辞考云、手向の麻は、幣料の木綿の布をばたたみて手に捧げて手向くれば、木綿畳手向の山ともよめり、又紀行云、万葉に、見近江海晩頭還来作歌「ゆふだゝみ手向《タムケ》の山を今日こえていづれの野べにいほりせむ子等」とあり、是は昔奈良の都より近江に通ふには、宇治川を渡りてあこゐの原といふ原より山科のいはたの森など過ぎて、相坂を越ゆる由、同書の長歌に見えたり。〇参宮図会云、逢坂山一名手向山、手向とは往昔旅行の人必山の嶺にてぬさを散じて道祖神へ手向せしなり、是は此に限らぬ事にて今俗語に惣じて嶺をたふげと云は、即ち手向の転語なりとぞ。
 もみぢ葉を関守神に手向置きてあふさか山をすぐるこがらし〔千載集〕       実守
 鳥居たつ逢坂山のさかひなる手向の神よ我ないさめそ〔夫本集〕          仲正
逢坂山の南にも北にも関明神ありて、北なる祠の背を手向山と云ふと。(名所図会〕按に逢坂即手向山なれば別に此と指すべき峰はあらざるべし、又浮寝原|弥高《イヤタカ》山と云ふ名所も逢坂にありと云へど詳ならず。
 相坂の関をば知らで人心浮寝のはらになどまよふらん、〔夫木集〕         仲業
 逢坂や花の木末のくるま牛、   智月
按に大津は京都の東北門戸を扼しければ、古へに在りては水陸の運輸みな此より牛車の力を仮れり、大津牛の事諸書に見ゆ、中に沙石集に「昔尼君二人して大津を過るに、道の辺に車の輪の一あるを見て、一人が云く此車は大乗誹謗のものにこそ、車の片輪のあるといふ、一人が云く大乗誹謗せぬものなり、片輪のなきといふ、云々」の小説は世に名高し。
補【弥高山】〇淡海地志 逢坂の東の高峰をいふともあり、逢坂山の歌の中に 雪ふればいや高山の木ずゑにもまだ冬ながら花さきにけり             兼盛
 あふみなるいや高山のさかきもて君が千代をもいのりかざさん(拾遺集)      同
坂田郡伊吹山の麓にも弥高村ありて山あり。
補【手向山】志賀郡〇淡海温故録 此辺も知れず。
 今朝みれば雪のしら木綿かけてけり此や手向の山路なるらん            後鳥羽院御製〔未詳〕
浮寝が原 此近所なり。〔夫木集歌、略〕
補【扇要】〇逢坂山にあり、前方遙に三上村に対し、右に伊州左に江州を遠望す、而して両岸左右に開くこと数十丁、恰も扇の如し、其轂に似たる所即ち扇要と称す、一碧万頃白帆釆往、勝景実に愛するに堪たり(図は山水奇観に在り)
    扇要(山水奇観)
 岳湧湖留跡 斎東語自詼 如今対図看 真似悦他来
    従京都之大津途中
     僧大潮(名元皓、肥州人、著松浦詩集、西溟余稿等)
 窈窕大津路 婆娑京樹陰 関高花易暁 湖濶月難沈 煙郭青山繞 虹橋綵霞深 招提遊不倦 慰愉客中心
 
相坂※[錢の旁+立刀]《アフサカノセキ》址 日本紀略云、延暦十四年、廃相坂※[錢の旁+立刀]。文徳実録云、相坂是在昔之旧関也、時属霊連、不閉門鍵、出入無禁、年代久矣、更始置之云々。〇江談抄云、大入道殿兼家為納言之時、夢過合坂関、雪降関路悉白、令見給、大令驚、雪者凶夢也思、召夢解欲令謝合、令語給、夢解申云、此御夢想極吉想也、慥以不可有恐、其故人必可令進斑牛、即令人進斑牛、夢解預纏頭之、大江匡衡令参、此由有御物聞、匡衡大驚、纏頭召返、合坂関、関白関字也、雪者白字也、必可令到関白、大令感給、其明年令蒙関白之宣旨給也。〇枕草紙云、
 夜をこめて鳥のそら音は計るとも夜にあふさかの関はゆるさじ、         清少納言
 逢坂は人越やすきせきなれど鳥もなかねば明けてまつとか、           中納言行成
按に相坂関の創置は史書に記載なし、大化二年畿内の北限を此に定められし時、塞を建てられしにや。名所図会云、関の旧址は逢坂の峠の東にて、大津の上片原《カミカタハラ》町に在り、尼寺の辺なり、又後藤記に永禄八年佐々木屋形より逢坂に新関をすゑられし由見ゆ。〇近江輿地志略云、相坂※[錢の旁+立刀]この※[錢の旁+立刀]は字書に削平の義と為せど、栂尾山寺の篆隷字画に※[錢の旁+立刀]は柵なりと称せり、的当の言なり。〇参考本盛衰記云、永万元年山門衆蜂起して、追手搦手二手につくり、搦手は大関小関四宮川原も打過て、苦集滅道や清閑寺歌中山まで攻寄たり、又云、治承四年十二月、三井寺三院の大衆会合して、大関小関堀塞て、垣楯をかき逆茂木引て城※[土+郭]を構へたり、頭中将重衡一千余騎の軍兵を率して発向す、大衆は大関小関二手に造て防戦けれども打落され、重衡寺中に乱入す」と。長門本平家に此事を記して云、三井寺を攻らるべしと沙汰ありければ、大衆起て大津の南北の浦に、掻楯かき櫓掻て防ぐべき由結構す云々、山槐記百錬抄には大衆山科の辺に防戦せりと録す、大関小関南浦北浦と云ふ事不審なきに非ず、長門本の南北の浦は南北の関の誤にや、然らば大小の関は南北に相並び、大谷藤尾と二路に関を設けたるごとし。(大津の浜の関は又此に異なり)
 夜こゆと誰か告けん逢坂の関固むなり早くかへりね(630)〔伊勢家集〕
 あふさかのゆふつけ鳥にあればこそ君がゆききをなくなくも見め、〔古今集〕
木綿着鳥は、京都四境の関の祭の牲なりとぞ、凡警虞ある時関へ向けて木綿着鳥を進め祭祷ありしなり、逢坂にのみ限るべからず、然れども歌枕には専ら此に係けたり。
 あふ坂の関のしみづに影見えて今や引らんもち月のこま、〔拾遺集〕        貫之
 君が代に逢坂山の岩清水こがくれたりとおもひけるかな、〔古今集〕        忠岑
   逢坂山有懐蝉丸      梅澗
 走井水通逢坂関、峨洋人去独潺湲、沈吟立馬撫千古、雨昏琵琶湖上山、
逢坂山の北谷は大津町の南端にして、片原町、関寺町、清水町など相接比す。名所図会云、関清水の峠、弘法大師火除名号石の傍にあり、又関明神の御旅所にもあり、後世準へ作るものか、鴨長明の時さへ明ならず、無名抄に三井寺に円宝房阿闍梨独其所をしれり、尋てければ関寺より西へ二三町ばかり行て、道より北のつらに少し立あがり候処に一丈許なる石の塔あり、其塔の東へ三段許至てくぼめる所、即昔の関清水の跡なりしに今尋るにさだかならず、大略清水町のほとりなるか、谷間の水は北流して湖中へ入る、吾妻川又鏡川と曰ふ、歌には関の小川とよむ。
補【相坂関址】〇日本紀略 延暦十四年八月己卯、癈近江國相坂※[錢の旁+立刀]。文徳実録 天安元年四月庚寅、始置近江国相坂、大石、龍花等三処之関※[錢の旁+立刀]、分配国司健児等、鎮守之、唯相坂是古昔之旧関也、時属聖運、不閇門鍵、出入無禁、年代久矣、而今国守正五位下紀朝臣今守上請加二処関、而更始置之也。
〇輿地志 日本紀略延暦十四年相坂※[錢の旁+立刀]の字あり、※[錢の旁+立刀]は字書に削平の義とす、嘗て閉塞の意なし、梶尾山寺の篆隷字画に※[錢の旁+立刀]は柵なりとあり、此一書はなはだ的当の解をなす。
新関 〔東海道〕名所図会に云ふ、後藤記云、永禄八年八月十八日江陽屋形(佐々木家)が此に新関を置かれしこと見ゆ。同書又云ふ、関の旧址は逢坂山の巓にて、今大津町の上片原に在りて、尼寺の辺なり。
開駒近 公事根源、八月十六日|勅使《テシ》牧の馬奉る(勅旨は信濃に勅旨を以て牧場を置かれたる故なれば名づく)図会、駒牽、むかし毎年八月十五日に諸国の馬を天子へ貢奉るとて、あふ坂の関迄来るを右馬寮の官人此にむかへて牽き奉る也、これを逢坂の駒迎といふ。
逢坂夕告烏 図会、古今「あふさかのゆふつけ鳥にあらばこそ君がゆききをなくなくも見め」閑院。ゆふつけ鳥とは、世の中さはがしき時四境の祭とて、おほやけにせさせ給ふが、鶏に木綿をつけ四方の関にいたりて祭る也、逢坂は東一方の関なればかくよめり、大和物語「たがみそぎゆふつけ鳥か唐衣たつたの山におりはへて鳴く」
 
関寺《セキデラ》 参宮図会云、関寺は今|近松寺《キンシヨウジ》の領知にして長安寺と云ふを其跡とす、遊行派の道場なり。関寺牛仏の事は栄花物語岑の月の巻に載せ、今なほ牛塔と云もの長安寺の前に形ばかり残る。東海道図会云、関寺は逢坂清水町の左の山手に在り、拾芥抄、関寺、本尊弥勒、志賀郡にあり、古は伽藍巍々たり、三井寺の別院、恵心僧都も此に住給、今時宗となり本尊阿弥陀を安ず、又云、関寺小町旧蹟は相坂片原町阿弥陀堂とも云、又小町塚は清水町妙光寺にあり、何れも由縁定かならず。名所図会云、小野小町は年老て山関寺の辺に住わびたりと云ふ、其時の歌「あはれなり我か身のはてやあさみどりすゑには野べの露と思へば」又草庵の柱に書けりとて「終るまで身をば身とぞと思ひたれみづからしつるのべの野送り」或云、小町関寺に住みし事何の書にも見る事なし、関寺といふ謡曲は小町になぞらへて人世の盛衰をさとさしめんがために作りたるのみ。〇輿地志略云、相坂に一寺ありて、寺僧常に旅人を見て鉦を敲き勧進をなす、土俗之を以てあやまつて関寺といふ、春斎翁の博識なるさへ「坂畔に寺あり関寺と号す、蓋し小町旧跡か」と鵞峰文集に載られたり、関寺は近松寺の南、いまの小坂といふ地なり、いま此寺に小野小町百歳の像といふものあり、これは小町老衰の後関寺の辺に徘徊したりしとて、関寺小町あるひは鸚鵡小町なんどといへる猿楽者流の謡れば、好事の者この像をまうけしなるべし、またあみだ堂の向に一つの墓あり、南無阿弥陀仏を書す、是小野小町の墓なりなんど偽るものあり、はなはだしき偽なり、江戸の商人紀伊国や某といふものゝ墓なり。〇又云、三井寺の寺門伝記補録に考拠せば、関寺は近松寺の南逢阪の岡の東に在り、関山を背にし東閭里に接すといへり、是等を以て考ふれば清水町及上中下の関寺町は往古関寺の堺内なるべししかれば件の関山を越え今の向山寺《カウサンジ》山を過ぎ、博労町辺に出で東に向ひ、また北に向て往古の関寺門前を過ぎ、吾妻川の堤を通り松本に出で、膳所《ゼゼ》が崎へ通路せしなるべし、名所方角抄に「古昔の東路相阪嶺より六七町ばかり山麓を経て、松本の浜辺に出で此間を打出《ウチデ》の浜と云ふ」とあり、古今の相違あることを見るべし、抑逢阪の関を始めて置給ひしは桓武天皇の御宇なれば関寺も亦た其時分よりの事なるべし、牛塔《ウシノタフ》の事扶桑略記に委く載たり、其関寺草創の時分彼天竺の雪山《セツセン》の牛乳を持来して護摩の用とし、金鶏の香合に入て納たるなるべしと、此霊塔あ(631)る処の畔を鶏坂といへば又拠なき処にもあらず、其後関寺廃亡したるを万寿年中に中興し、又其後牛あつて死したること寺伝の俗説縁起の通りなるべし、件の古昔の牛乳塔の故を以て、又其牛を其地に埋め塔を立て牛塔とはいへしなるべし。
 
向山寺《カウサンジ》址 輿地志略云、向山寺は手向《タムケ》の山寺の義なるべし、堂塔廃絶、今大津市中の墓所にて其寺なし、近松御堂の領にて河内の国顕証寺支配なり、往古向山寺の本尊なりとて長三尺の阿弥陀仏は御坊《オンバウ》が家に安置す御妨とは賤者の称にして人を葬るものゝ名なり、其いにしへは寺の僧にたのみて葬れる故に、喪家たつとんで御坊と云ふ、寺僧此事に倦て賤者を雇ふて葬をつとめしむ、終に誤つて賤者の名とせり、此地を月照とも云ふ事むべなり、この山に登れば湖上一面に眼下に見ゆ、明月東山に出でて波間を照し、山下の樹葉の露にきらめくありさま尤も佳興あり。
 あふ坂やいとどせきあふ蝉の声、   智月
   東進途上            頼 山陽
 五十三亭控海東、故関右折路岐通、湖南草樹春雲碧、畿内峰巒夕日紅、流峙依然此形勝、興亡已閲幾英雄、分明攻守千年勢、著論誰追賈誼風、
   逢坂関             字都木静区
 斜陽古関路、渺々客心愁、故関残山拆、前途老樹危、一身甘棄物、多病遇清明、可笑水雲跡、仍将書剣随、
 
大津《オホツ》 逢坂山の北麓、琵琶湖の南岸に在り、民戸五千、大津町と曰ふ。西北は三井寺の寺域にして、今分割して兵営を置かる、東に松本馬場の二大字あり、幹線鉄道の車駅は即馬場に在り、馬場より西北に支道あり湖岸の波止場に至り、以て湖船の運送に連絡せしむ。〇大津は京都を去る三里、東北二道の咽喉にして水陸の要害を為す、中世大津関の名あり。慶長五年の役に京極高次大津城を以て東軍に応ず、徳川幕府其城を膳所に移し仍代官を置き太倉を掌りまた市政駅務を監ぜしむ、明治維新滋賀県を置き近江一国を管帯す。
   大津             菊池海荘
 潮城歌吹海、沢国自繁華、百里開清鏡、群巒擁琵琶、桃花春雨駅、柳色暮煙家、好坐飛楼上、引盃看落霞、
   宿遠帆楼和菊池士固領     上街木海
 遠帆望尽水無涯、日落楼窓聞晩鴉、春雨煙濃荒駅柳、夜雲寒護旧都花、繊娥当席能扶酔、客子登高不憶家、賦就当看翠鱗躍、蘭紅銀燭気如霞、
按に古の滋賀大津は此に非ず、今滋賀村なりと云ふ、然れども日本紀略「延暦十三年勅、近江国滋賀郡古津者、先帝旧都、今接輦下、可追昔号、改称大津」と見ゆ、古津《フルツ》は蓋和名抄|古市《フルチ》郷にして、古都廃したる後|錦部《ニシゴリ》古市の二郷に分れ、宮址は錦部郷今の滋賀村なれど、津頭は延暦再復の勅旨に任せ、依然其南に在りて、以て今日に到れるならん。中古には大津浜、又打出浜と曰へり。〇延喜木工式云「凡近江大津雑材、自同津、至宇治津」と、大津に湖上の材木を集めて、瀬田より宇治川を下したる事知るべし。
 我いのちまさきくあらば又も見む滋賀の大津によする白波、〔万乗集〕        穂積老
 君が世は大津の浜のまさごもて数にとるともつきじとぞ思ふ、〔名寄〕        大江匡房
   大津にて
 雁の漕ぐ舟は雲居にならねどもみやこの人は知らずや有らん、〔家集〕        赤染衛門
 秋の日もながらの山のもみぢ葉は大津の里のかざしなりけり、〔夫木集〕       隆祐
 関こえてくるればかへる大津馬おのが一連れ道いそぐなり、〔新撰六帖〕       為家
淡海志云、大津町四千余軒、四道の咽喉にして駄馬牛車を以て洛中へ運送すること絡繹として絶えず、近世坂本の城を此に引かれし時、民戸も共に移り来りし故に、町の名に坂本と同き者多し。〇按に大津坂本の二地は相去る五十町、地形相類似し、并に京都の東方の門戸なり、中世以降大津坂本の二関ありて、織田氏京畿を経略する時大津には駅吏を置き、坂本には城塞を築く、天正十年坂本城焚け、乃其城を大津に移したるは豊臣氏の業なるべし、徳川氏に至り更に大津城を膳所浜に移せり。
補【大津】〇図会 淡海志に町数九十八町、人家四千余軒、四道の襟喉にして人馬牛車を以て洛中へ運送する事不絶、馬は大津馬とて歌にもよめり、新六帖「開こえて暮るれば帰る大津馬のおのが一つれ道いそぐなり、為家(東海道名所図会、知家〕此里は坂本の城此地へ引ける時町家もともに移りし故に、町の名に坂本と同名あり。
 
滋賀《シガ》県庁 大津町の東、松本に在り、近江十二郡の治所とす、此辺東浦とも字す。
 
大津城《オホツノシロ》址 旧代官所址即是なりとも云ふ、大津市の湖岸なり。初め天正年中、豊臣氏坂本の塞を転じて此に移さしめ、其将士を置く、慶長五年関原の戦後、徳川氏再び域塞を転じて膳所浜に移し築く。按に越後治乱記に天正十四年六月、越後上杉景勝上洛、大津に着せし時、城主駒沢雅楽頭の馳走ありし事を載す、天正十八年、豊臣氏前州主佐々木の子京極高次を居く、慶長の乱起るや高次東軍に応じ、逢坂を杜ぎ米穀を収め、城下を焚毀し以て防禦の策を講ず、毛利輝元其叔元康雫包をして兵三万を率ゐて来り伐たしむ、攻闘三日夜、遂に羅城を奪ふ、此城一面は瑚に(632)対し三面平地にして、関寺より園城寺に連りて岡巒畳々城壁を下矚す、相隔つ僅に三四町、敵兵大※[火+貢]を阜陵に設けて屡々楼櫓を射、且湖上船筏を結びて水陸並に薄る、会々大※[火+貢]天主楼二重を毀つ、婦女恐惶す、たまたま僧興山来り扱を入れ、和議を為さんと請ふ、高次之に従ひ西軍と質子を交へ、城を致し園城寺に退きて紀州高野に遜る、後関が原の捷を聞くに及び自悔恨に堪へず、徳川家康人を遣して※[しんにょう+檄の旁]へて曰く、子事を危難の際に挙げ、援なきを知りて孤城を敵中に守る、其義既に烈なり、功亦多しと、若狭国小浜城に移封す、(食邑九万石)而て大津城を以て戸田左門一西に賜与し、之を大津の東に移さしむ、膳所城是なり。〇大津の代官職は慶長五年徳川家康関が原の一戦後大津に次したる時、蘆浦の観音寺(住僧其名舜興と云)と十四屋(商人にて小野総左衛門と云)に命じて初て其職を賜りしが、観音寺十四屋も其吏務を永く子孫に伝へず、爾後は諸氏交替して明治維新に至れり、又大津には百艘株と号する特権あり、天正年中豊臣氏軍役従事の船舶百艘を課し、依て湖上運漕の権は都て此百艘に寄与せしめしに起る、明治維新に至り其制廃せり。(近江名跡案内記〕
 
大津関《オホツノセキ》址 輿地志略云、大津関と云ふ名目何の故なりと云ことをしらず、或は云、古へ舟のつくところにしてみだりに乗船の人及び荷物を陸にあぐることをゆるさず皆改め通せり船手の関といふ意にやといへり、堅田浦などにても船を改むる事を関務といへり、足利尊氏の感状にのりて堅田に今もあり、これらを以て見れば舟のつくところ、船改の義かなへるにや、扇子や八幡屋などいへるは後につけし名なるべし。〇按に名所図会に日吉山王の祭礼の時、供御の料にとて七日以前より膳所の城下に一場所をかまへ、往来の人に銭を乞ふ、世に之を膳所の猿と云ふと記せり、是は近世の事なるが其由来は中世の大津の関務に米銭を征したる名残りとも謂ふべし、元徳二年叡山行幸記に「此頃当社の様を見るに、作れば焼け、焼けては又作る有様は、たゞ事ともおもほえず、誠に旅人往返の津料は、不浄物を択ばざるうへ云々」とあれば元来大津阪本の関務は日吉社造営科なりしと知らる。
 
疏水《ソスヰ》運河 大津町の西北、三井寺の東なる三保崎《ミホノサキ》に閘門堰門を設く、明治十八年起工、湖水を引き京都市に通ぜしむ、五年を経て成る、三井寺観音堂の下より隧道を穿ち暗渠と為す者藤尾に至るまで一千三百四十間、其中間に坑井二処を造り陽光を注射し、舟楫航過の便宜を謀る。
大津絵《オホツヱ》 輿地志略云、此絵は今逢坂山の大谷町の路傍の民家家ごとに之を画きて旅人に売る、或は追分絵と云、追分より片原町の辺までこれある故に名づく、或は大谷絵と云ふ、大谷町の名によれり、或は淨世絵と号す、其絵少年の瓢を以て鯰を抑へ、一犬盲者の犢鼻褌を喰付き、夜叉羅衣を着て天鉦を敲き、婦女藤花を担える類の画なる故に浮世絵といへり、鳥の子紙を用ひ、甚麁末鄙野なり、相伝ふ古昔土佐又平光興といふもの此地に在つて此絵を書始めたりと、今土佐家の人に此事を尋ぬるにかつてなしといへり、又狩野家の人の曰、古法眼の門人一とせ此地に寓居する事ありて、土民何某とかや云もの此筆法を習ふと、然れども三写焉烏馬にて、今の如き風とはなれりとおもはる。
 おほつゑの筆の初めは何ぼとけ、 芭蕉
元禄十四年版河念仏云、西のす垣によせて、おほつ絵の阿弥陀一幅をかきたれど、厭きたれば念仏は申さず云々。
大津油坊《オホツアブラボン》 輿地志略云、大津の油坊と云ふ怪火は、土俗アブラボンと呼ぶ、故事同縁に曰く、江州大津八町といふ町に明松の如くなる火飛廻る、此火の名を油盗といふ、昔志賀の都に油を売商人大津辻の地蔵に毎月燈明をともす、其油を夜々盗たる者、死して燈の炎となりて、今の世までも迷の火消せずといへりと云々、湖中の漁人皆云、雨の夜はまゝ此火にあへり、時としては船の尾或は艫先に留り、亦飛行すなどといへり、或は炎の中に坊主の顔出で笑ふが如しなんどいへり、本よりわけもなき妄談なり、本草に謂ふ所の燐火と云ふ者の類のみ。
四宮《シノミヤ》神社 今|天孫《テンソン》神社とも云ふ、社辺の民家を四宮町と曰ふ、大津の大祀なり。四宮祭礼の盛大なりし由は、江源武鑑にも載せ、今もにぎはしき祭礼を行ふ、祭神縁起明白ならず、蓋比叡神の末社にて三宮四宮と相次序したるか、不審。〇瀬見小河云、日吉山王祭は古より四月中の中日にて、賀茂の国祭即|御阿札《ミアレ》日と同じ、今も四月の祭に先いと大なる榊を大津の四宮の総政所に渡し、此時|幸鉾《サイノホコ》とて早尾大行事と呼ぶ画像をかけて、大榊の先に押立て炬火を燃し、行列作り共に坂本の榊宮と云処に送り、次に大宮の東脇なる山末宮跡へ安置す、是は賀茂祭の御阿礼の古儀ときこゆ。
 
丸山《マルヤマ》 輿地志略云、丸山は大津寺町の上方にて、町家と野路を隔つ、京都東山の景致に模して霊山とも云ひ、霊鷲山正福寺あり、此寺は遊行他阿上人の開基と云ふも、洛東霊山縁起此地の事ありやと尋ねしに、旧本縁起は紛失して無し新調の縁起十一巻あれども此地の事なし、然れども遊人酔客の為めに座敷をかし精進食を製造して価を取れり、其の地高陽の処なれば眼下の景致によろし、就中秋の日楓林の観面白し。
(633)補【霊山】〇輿地志喀 大津寺町の南に在り、或は丸山とも呼り、大津の町つゞきにはあらず、野路を歴て高き山なり、京師の霊山を模せり。
 
松本《マツモト》 大津の町の東部にて、馬場の西に接する辺を松本とは云ふ、其湖岸をば石場《イシバ》と字し、矢橋への渡船あり。海道図会云、大津松本は昔大嘗會の卜占に依り、江州滋賀郡の献稲をおほせらるゝ時は、大略松本村より貢ぐを旧例とせり、又此所を菊が浜と云ひ、石山寺記に昔字多院の行宮を建てゝ菊を植られしとぞ。
謡曲絵馬云、風はうへなる松本や、ひばり落来る粟津野の、草の茂みを分越して、瀬田の長橋打渡り、夢も一夜の旅寐かな。桃青望月賦云、さて松本に船さし寄せて、茶店の欄干に心を放てば、
 名月や湖水にうかぶ七小町、
猶かたぶく月の名残には、辛崎の松も独りやたてる、古き都の名もゆかしければ、尾花川の明ぼのをこそと、人々を驚しぬれば、夜は早五更に過ぬべし、
 三井寺の門たゝかばやけふの月、
やがて月は長守山の木の間にいりぬ。
   早発大津          梁星巌
 夢繞家江旧釣台、誰某把夢喚将回、斜風細雨湖南駅、三井鐘声枕上来。又 一剣飃※[搖の旁+風]不計年、全家復上大瑚船、祖宗地近能無愧、隔岸青山是越前。
   寛延元年桃園天皇大嘗會行はる、悠紀方春うた近江国松本村
 松本の村の初穂をぬきそめてなほ万世のためしとぞつく、〔古事類苑〕
 
打出浜《ウチデノハマ》 大津町松本石場の辺の古名なりとぞ。〇大和物語云、亭子の帝、石山寺に常にまうで給けり、国の司民つかれ国亡びぬべしとなんわぶるときこしめして、こと国々の御荘司などに仰せてとの給へりければ、もてはこびて御設をつかう奉、詣かへらせ玉ふに打出の浜に、よの常ならずめでたきかりやどもを造りて、菊の花のいとおもしろきをうゑて、御設けつかうまつれりけり、国の守はおぢおそれて外にかくれをりて、たゞ黒主《クロヌシ》をなむすゑおきたりける、おはしましすぐるほどに、殿上人黒主はなどてさてはさぶらふぞととひけり、院も御車おさへさせ総て、なにしにここにはあるぞととはせたまひければ、人々とひたまひけるに申ける、
 さきら波まもなく岸をあらふめり渚きよくば君とまれとか、
とよめりければ、これにめで給てなむどまりて人々にもの給て、返らせたまひける。〇参宮図会云、平家物語に木曾義仲は都より下り、今井四郎兼平は勢由より上るに、大津の打出の浜に行逢ふたりとあり、方角集に昔の東国路は相坂の峙より六七町降り、右の手の山下を通り松本の浜辺へ出る、之を打出浜と云と、枕草紙に「浜は打出のはま」と載せらる。
 関越てうちでの浜のしののめにあとより送る鳥の声かな、〔夫木集〕        為相
   雪いみじく降たりしに石山の涅槃会に詣で打出の浜にていと深く積りたりしに
 関こえてあふみ路とこそおもひつれ雪のしら浜ここはいづくぞ、〔家集〕      赤染衛門
〇古事記、訶志比宮(仲哀)段、建振命出沙々那美、悉斬其軍、伝云、出と云おもしろし、宇治より山科を歴て逢坂迄は山|含処《フトコロ》なるに、逢坂山を東へ越離るれば沙々那美の地にて、湖に向ひ打晴たるは誠に出と云つべき地形なり、万葉の歌に逢坂乎打出而見者など有をも思ふべし、後に此あたりに打出浜と云名あるも其意也、拾遺集に近江なる打立の浜の打出て云々ともあり。
 
石場《イシバ》 今馬場停車場の西北凡十町、湖岸に在り、往時は東国街道水陸の辻にて、送迎往来の客日夜絶えざる処なりしが、近年は通路一変し、昔日の状なし。〇輿地志略云、石場宝浄院は湖崖にのぞみ、高燈楼をあけて航舟のたよりと為す、故に渡過の人に銭を乞ひ油科をたすく。
鳥丸光広東略記云、あかつき残月に舟に乗り、矢ばせへわたる、蒼波漫々として其興あり、北に志賀唐崎長等山、南に粟津の里勢多の長橋はる/”\と見えたり、あまたたびみなれたれど心をつくること懇なれば、景もまた勝絶なり、舟よりあがりて見ればむかひに三上山まぢかく、跡には比叡の高根をおびたり、しばらく徘徊して一吟す「行さきにむかふ三上の山よりもかへり見らるゝひえの大たけ」旅のならひにかりそめとおもへど、早くも京のかたゆかし。
精《シヤウ》大明神社 松本に在り、蹴鞠の精霊を祭ると云ふ、古今著聞集に大納言成道が鞠の精に逢ひたる事を記す、近世京紳飛鳥井難波の二家は斯道の本家と称し、当社の執奏を為すとぞ緑由詳ならず。〔名所図会〕
 
馬場《ババ》 大津町の南東にして、松本に接す、東は膳所《ゼゼ》村なり。今幹線鉄道の大津昇降状は場は馬場駅に在り、此駅より支線を湖岸に布設して大津の湖陸運送の便を為す、長二十町許。輿地志略云、馬場とは廃大光寺の門前なる桜馬場の跡なれば此名あり、大光寺旧大高寺に作る相伝ふ往古此の松本山大津寺月見山大高寺と号せる寺あり、大津の皇子高市の王子の本願なり、中世の兵火にかゝり寺廃し大高寺とともに一寺となりて、大津町へ移す、今の真常寺是なりと云、総じて此辺田畑の字に或は経田と号し、或は弁財天など称する類甚多し、皆大高寺の旧(634)蹟なりと云。
補【馬場】〇馬場村は松本村の南に在り、大光寺の門前、桜の馬場ありし地なり、故に名づくと云ふ。
岡堂 馬場村の民家の西南に在り、是も往古大光寺の界内なるべし、岡の堂と号す、今纔の一草堂なり。〇大津町の停車場此に在り、町の東南に位置す。
補【柴屋《シバヤ》町】〇輿地志略 傾城町なり、京江戸大坂、伏見堺、南都長崎室の津、当津、是にのみ傾城郭と云、別に一郭を構ひて商家の町と混ぜざらしむ、或は呼て其里彼里と云、抑も此町を柴屋町と云事、古来の称にあらで、本名は馬場町と云ふ、彼の遊女三味線を弾き勧酒の間戯言し笑を作て遊客を悦ばしむる事を指して焚と曰ふに依る、大坂の瓢箪町は遊客の流の里にうかれありくと云ふより名づけしとの事なれば定めて柴屋町と云ふも、斯様なるわけもなき名なるべし。
 
近松寺《キンシヨウジ》 又高観音と云ふ、大津の西南逢坂山の北尾の上に在り、大湖の眺望太だ佳なり、八詠楼の一宇あり。此寺は旧三井寺五別所の一なり、近世其域内の地を分割して本願寺派の道場を置く、近松山顕証寺と云。〇輿地志略云、三井寺の五別所、近松寺尾蔵寺微妙寺常在寺水観寺なり、関山の東に近松尾蔵微妙の三寺あり、伝へ言ふ教待教忍行叡の諸仙の会集する松あり、故に近松寺と名くと今高き地に在るを以て人皆|高《タカ》観音と云、ふ。名所図会云、近松《キンシヨウ》御坊は西本願寺掛所河州顕証寺支配なり、昔本願寺蓮如上人長禄の比禁中より日華御門を大谷御妨へ賜りしに、山門の衆徒これを妬み宗門の外道なりとて大谷を焼払ふ、其時上人影像を薦に包みてのがれ出で三井寺を頼みとし影像と共に近松に入れ奉る、此時米五石を三井寺より分附せらる、上人夫より諸国経歴して又寺に帰り給ふ、其旧跡なり、一説に伯父の御坊万徳院は其時近松寺の住持となりおはしたる故に、上人は近松寺に居給ひけるとなり。
   案内する子を傭ひて三井寺より高観音にのぼる所々こと念ごろに、夜は湖水の月など舌さへまはらずいひしも、実になるればおとならしきものをと愛らしくて、
 大津の子おつききまとはいはぬかな、鬼貫
 
安然峰《アンネンガミネ》 近松寺の上方、即逢坂山の西峰なり、近松寺の安然和尚の石塔此に在り、高三百米突。〇名所図会云、安然和尚相州の人也、比叡に登り顕密の教を悟覚し、又花山僧正に就て胎蔵法をうけ、普く経論を講窮す、中頃元慶寺に住して阿闍梨となる、智証和尚の法薫を慕ひ近松寺に錫を留めしと、さて此安然の峰は三井山嶺の峻秀にして雲霞腰を回り、湖上およぴ四方遠近の山野郷里顧望到らざる所なし。
 
神出《カミデ》 大津町の西部三井寺の旧領内なるべし南院とも曰ふ、鹿関《カセキ》町唱門師町など云地あり。輿地志略云、鹿関とは鹿の古名なり、鹿関町は神出の辺にて三井寺の伝に、教待和尚三尾の神を遙向の時鹿出でて前導したる故跡なりと、為家卿の歌に、
 山ふかくおこなふ法の皮衣よものかせぎもきてなれにけり、
荘厳《サウゴン》寺と云は神出に在り、三井寺界内なり、往古は三井の支院たれども何れの年か遊行派の寺となりて、寺領百三十石三井五千石の内なり、毎歳二李の彼岸三井の僧徒こゝに来て説法す、又|唱門師《シヤウモンジ》は今新町又|巫《ミコ》町と云、三井寺の中なり、唱門と云は咒文にや、今家々の門に立ち妙幢本誓を唱へ阿弥陀経を誦して金鼓を打つ、一条院の御宇に寛算供奉の造る頌文なりと云、夫は唱門師にして婦は梓巫なり、梓巫と云ふは人頼めば金銀を貪て死したる者の霊を梓弓にて呼出し、種々の生前滅後の事を説く。補【神出】〇輿地志略 鹿関とは大津北国町の西、神出の辺なり、相伝ふ、三井寺の三尾の神遙向の時、一麋鹿此地に前導す、故に鹿出先と云ふと、公事根源に鹿の字をかせぎとよませたり、為家の歌に〔脱文〕
 
尾蔵《ビザウ》寺 近松寺の北微妙寺の東に在り。輿地志略云、此寺慶祚阿闍梨の創する所、滋賀寺の霊仏を迎へて本尊とす、都鄙遠近の道俗渇仰時有て参詣群をなす、往還緇素の載く笠相軋て或は破れ或は脱する事あり、時の俗因て仏に字して浪津礼笠の観音と云ひ、又呼んで笠脱の観音ともいふ、慶祚塚は寺城中に在り、昔正暦四年比法性寺座主の争ひあり慈覚智証の両門相闘ふ、祚難を岩倉の大雲寺に避く、幾ならずして園城に遷り、尾蔵寺の龍雲坊に栖止す、是に於て笈を負ふもの群集し、また三井感頂の中興たり、永暦二年四月後白河法皇園城寺に幸して、尾蔵寺の龍雲坊に入らせ給ひ、祚が影像を茶礼し給ふ、祚が徳至れりと謂つべし。微妙寺は尾歳寺の西にて、亦慶祚の中興なり、祚は三井寺長吏余慶僧正の弟子にて、釈書云、園城寺雖智証興建、徒衆尚寡、及祚之来、四方※[鹿/君]至、三井之道、此時為熾、従属益繁。
 
三井観音《ミヰノクワンノン》堂 近松寺の西北五町、高岡の上に在り、山の眺望は近松寺の右に出づ、磴道南北の二路あり北は即園城寺の大伽藍及び兵営を下瞰す。〇此観音は西国巡礼第十四番の札所にして、聖願寺(又正法寺)と云ふ、後三条帝の御願所にて初め中院に在りしが文明年中此に移し、詣人の結縁に便すと、近年疏水隧道は堂下の大地を穿ち藤尾谷の方へ通ず。
観音堂の南は逢坂山と長等山の間なる山隘にして、花谷琴緒谷筒井谷等の名あり、総べて南院と曰ふ、南院(635)の溪間を経て藤尾村まで山隘十八町とす。〇三尾《ミヲ》明神は三井寺五社鎮守の一にして、琴緒《コトノヲ》谷に在り、蓋高島郡三尾神を勧請したる也。
 
三井《ミヰ》 大津の西北の地名なり、即園域寺を三井寺と呼ぶ所以とす。俗説三帝の浴泉と云ふは非なり、三は敬愛の辞にて御井に作るに同じ、書紀通証云、天智天皇九年、於|山御井《ヤマノミヰ》傍、敷諸神座、而班幣、中臣金連宣祝詞、御井疑此近江国滋賀郡長等山三井寺之地、三井旧作御井、寺之西岩有泉井、見元亨釈書、古今集云「滋賀の山踰にて石井の許《モト》にて物云ける人の別ける節に読る掬《ムスブ》手の雫《シヅク》に濁る山の井のあかでも人に別ぬる哉」後撰集云「志賀に詣で、希見《メヅラシ》や昔乍の山の井は沈める影ぞ朽果にける」清正集云「近江へ降けるに山の井と云処に」〇三井を三皇の泉と云は彼の釈書寺像志「円珍問大伴氏曰、此寺曰御井何、答曰寺之西岩、有泉井、天智天武持統三皇降誕時、汲此井水、為浴湯、俗因而号御井寺、珍乃改御井、為三井、曰取三皇浴井之事也」などあれば、是亦旧き説なるべし。 いにしへの御代の初湯に汲みそめて遠くすむべき我寺の水、〔名寄〕
この御井は今園城寺金堂の側に在り、三密潅頂の閼加と為し、慈尊三会の暁を期る、本大友太子の清所なり〔名所図会〕など曰へり、之を要するに三帝は大和の京に生長したまへば、滋賀大津に降誕の浴井のあらん理由はなきなり。
 
園城寺《ヲンジヤウジ》 三井寺と称す、天台宗寺門派の本山、大津町の西北に在り、弘文天皇(大友皇太子)の子大友の与多王創建したまふ所にして又大友村主の氏寺なり。貞観年中憎円珍(諡智証大師)中興し延暦寺別院に列せしめ、台教伝法の道場と為す。円珍広布の宗門は、最澄空海の二流を調和し、天台に承くと云と雖、亦自ら異あり、役小角の修験道をも兼摂して、盛に一風を成す、之に因り山門慈覚の徒衆と相悪し、天元正暦以降相分れ、乃|寺門《ジモン》と号して大に之に当る、余慶慶祚明尊行尊等益拡張する所あり、行慶僧正(白河皇子)仁平二年を以て三井長吏と為り、之を道慧法親王(鳥羽皇子)に伝ふ、寺門愈起る、後遂に円満院聖護院実相院照高院等の諸門跡ありて、本寺を管帯す、海内屈指の貴刹なり。
今昔物語云、志賀の郡に昔大伴の皇子の起たりける寺あり、東は近江の江を護《タタ》へ、西は深き山なり、北は林、南は谷なり、金堂は瓦を以て葺けり、二階にして裳層を造たり、其内に丈六の弥勒在ます、寺の辺に僧房あり、寺の下に石筒を立たる一の井あり、名は三井と云ふ。(已上)又古今著聞集に智証大師縁起の文あり「園城寺、此地先祖大友大政大臣家地也、公家堺其四至被宛給也、東限海棹立、南限大関下路、西限国境峰、北限崇福寺四至云々」と録せり、然れど此縁起文は真の大師の遺書にあらず、後人の偽托なるべければ採らず、其北限崇福寺四至と云ふ如きは最疑はし、近江輿地志略所引の古券には 「大友村主寺刹四至券状曰、東限湖棹立、南限南下路金塚南辺下路、北限新羅現在谷山越道並下陌」と古名は大友村主《オホトモスグリ》寺と曰へり、園城の号は円珍の命ずる所にや。今日の地界を比照するに金塚は金塚町と云ふ辺なるべし、中世には寺堺を中院北院南院の三に分ちたり、兵営は全く寺界北院の中なり、西限は明ならざれども長等山の峰に至る、古今不易なるべし。〇寺門伝記云、天智八年草創崇福園城、倶天智之御願、皇子大友奉詔而創両寺、分位同等也、就中崇福建立、先園城一年、故首崇福(志賀山寺)矣、後大友五男与多麿、其男都堵麿再営」と、而て教待仙人開基の事は釈書云、教待不知何許人、久居園城寺、天安二年、円珍法師、相勝区、到園城寺、待見珍如故旧、已而没而不見、珍問檀越大友氏、待公本貫何所、生平行業何如、大友氏曰不知何人、居此寺已百余歳、平居不赴堂斎、有時往湖浜取魚鰲、乾串当饌率為常、乃共大衆詣其房、見残乾魚、皆悉荷藕蓮之類、無佗種、衆皆嘆異、年一百六十二歳、待嘗与清水寺行睿居士善、其来清水、着木※[尸/徙]款話終日云」と。伴氏の長等山風に弘文天皇の御事蹟を詳論し、大友村主三井寺の事に及ぼし、此寺は壬申乱後三年甲戌歳の建始と為す、曰く
 園城寺はもと大友天皇の御為めに、皇子与多王の建立し給ひし御寺なり、此ことは扶桑略記天武天皇十五年の条、「是歳大友大政大臣子与多大臣家地、建御井寺、今三井寺是也、依父遺誡建立之」とあり、又元亨釈書「園城寺者、大友与多所建也、大師薨、其子与多、承顧命、奉天武帝創之、元是大師之家基也」と云ふ、此大師とは大政大臣の唐名にて大友天皇の御事なり、此こと記せるもの、尤も古きは古今和歌集目録、大友黒主伝の条に「皇代記云、天武天皇三年甲戌、大友大政大臣之子与多大臣家地、造御井寺、依父遺誡、建立云々、金堂内陣柱記云、今年甲戌、右大臣大友与多等、建立此伽藍云々、過康平年中見出之」とあり、此古今目録は顕昭法橋の古今集註に藤原仲実朝臣の作と云へり、寛治比の人なり、寛冶より三十年前比に三井寺内陣のうす闇き柱に文字ある事を見留めて此文を得たり、是ぞ当時与多の世を憚りてかゝる幽闇なる所に秘記し給ひしものなるべし、かゝるやんごとなき御寺なれ共、人或ひは円珍が開きし寺のごとくおもふもあり、おほけなきことにこそ。
而て寺門伝記に此寺を以て志賀の崇福寺に比するも誤れり、崇福寺は正しき天智帝の御願の官寺にて、三井(636)寺は稍事情を異にし、指して世に顕れざりける追福所なり、即前朝の右大臣与多王の子孫が、零落して大友村主と云ふ如き卑姓に降り交り給へるにて、其情実を推すべし。大友氏の裔孫夜須良麿に至り、貞観年中本寺を円珍に附与したる次第は、天台座主記、円仁和尚譜に「貞観元年九月、園城寺供養、導師座主円仁云、為天台末寺畢」とあれど詳ならず、榻鴫随筆に古訴状を載せて曰、
 貞観六年状曰、望請以薗城寺長為延暦寺別院、以件円珍作主持之人、早垂恩恤、将慰夜須良麿并氏人愁吟云々、
又天台座主記安恵和尚譜に其官符を載せて曰、
 貞観八年、太政官下、近江国符※[人偏+稱の旁]、滋賀郡擬少領従七位上大友村主夜須良麿状※[人偏+稱の旁]、大政官符、貞観四年下国符※[人偏+稱の旁]、彼国解※[人偏+稱の旁]、大領従八位上大友村主黒主解※[人偏+稱の旁]、件寺停講読師、将以十禅師伝燈大法師位円珍任別当、令加修治兼演法音者、国司覆審、官裁依請、今円珍引率衆徒、動力修治、望請長為天台別院、以件円珍作主持之人、其別当者先尽用円珍血脈、若無人方及円宗云々、奉勅依請者、
而て座主記なる智証大師貞観九年の勒記文にも、俗別当大友夜須良麿、同主麿、同黒主の連判あれど、縁起の旨意に於て詐譌ある事は彼長等山風に摘発せるが如し。又古今著聞集なる智証大師起請に「叡山末代必有喧事、何者谷受北長下也」とあるに附て、或人の其偽作たる由を弁じて曰へるは、
 谷は山口なり、口には舌あり、是口舌を以て北に向ふ、北は坎の卦なり、其象を甲冑となし戈兵となす、是れ長く兵端を開くべき地形なるを云ふ、是より以下二百余年云々の文を見れば此縁起或は円珍の筆にあらず、円仁円珍の徒諍論起り、円珍の徒千光院を焼きて園城寺に退去し、山門寺門両立し大に干戈を動かせし比、其数円珍帰朝より恰も二百年前後に当るをもて、先師の明よく未来を洞見せしめ、又且つ溯りて此両立は新羅明神の予め図りおかれしものなりと云意に作りし者か、云々。
又三井寺の五社鎮守と云は一に新羅明神(別項に見ゆ)二に三尾明神(南院琴緒に在り)三に護法善神(大門の側に在り)四に熊野権現、是は聖護院熊野三山を兼帯するに由る、五に新日吉社、是は延暦寺の山王権現を勧請する也。
園城寺金堂は中院の中央に在り、唐院三層塔五層塔大講堂法華堂大師廟宝蔵経蔵鐘楼等之を繞る、(二王門は甲賀郡西寺常楽院より移し来れる者とぞ)僧徒の住房其南に数宇相並ぶ、円満院は北に在り兵営に接す、本寺像宝の盛大は今一々に枚挙し難しと雖、大師円珍貞観六年唐国より帰朝し、十年伝法濯頂道場を此に興し唐院《タウヰン》と名づけ、将来の仏像経籍を置く、乃之を推して至宝とす、是等の法宝、中世の焚掠の災に会ひしも、尚数多の所蔵あり、又円珍師は画を善くし画く所黄不動、及び其唐より携帰れる秘密仏画二巻伝へて同寺に存す智証の作は空海と酷似し、其唐画は以て彼等の画風の原を探るべしと云ふ。
   唐院所蔵二上人印記
 円珍上人、遠辞本国、来赴大唐、問法尋師、頗得宗旨、伝写経義、益見精勤、洞暁清浄之門、探知生滅之理、懇請印状、以表行由、便遂所懐、亦足為美、  大中十二年四月台州諸軍事守刺史嚴修睦批給
 円載闍梨、是東国至人、洞西竺妙理、梯山航海以月繋時、渉百余万道途之勤、歴三大千世界之遠、経文翻於貝葉、郷路出於扶桑、破後学之昏迷、為空門之標表、遍礼白足、滝留赤城、游巡既周、巾錫将返、懇求印信、以為公憑、行業衆知、須允其請、
  開成五年□月便持節台州刺史漆邁給
   送円載上人帰日本国     唐 皮日休
 講殿談余著賜衣、椰帆即返旧禅扉、貝多葉上経文動、如意瓶中仏爪飛、颶母影辺持戒宿、波神宮裡受斎帰、家山到日将何日、白象新秋十二囲、〔異称日本伝〕
園城寺め中世しばしば火災毀壊にあひしは、世間稀有の一例なるべし、蓋山門延暦寺と相疾悪せるに因る。先づ正暦四年慈覚智証の両門徒分離して、智証の徒の叡山を擯出せられしより、永保元年(即承保元)に至り山徒三井に押寄せ放火す。扶桑略記云、勘録寺塔房舎焼失、御願十五所、堂院七十九所、塔三基、鎧楼六所、経蔵十五所、神社廿一所、舎宅一千四百九十三宇也、官僚実録記也、広考天竺震旦本朝、仏法興廃、未有如此破滅、差遣官使奉幣於日吉社、被告天台両門徒闘諍之状、山僧射矢如雨、公家遣前下野守源義家等、守三井寺残房、山僧又重焼残堂舎畢、堂院二十処、経蔵五所神社九処僧房一百八十三処、但舎宅不注之」と其惨状想ふべし、※[土+蓋]嚢抄にも詳に此事を記し焚焼都合二千四百余所、残僅小堂二宇僧房十四宇と曰へり。此後に至るも両門の争止まず、寺門重修すと雖保安二年保延六年連に山衆に焚毀せらる、応保三年に又焚かれたり
   三井寺やけて後住侍ける房をおもひてよめる
 住馴し我ふる寺は此ごろやあさちが原にうづら鳴らん、〔新古今集〕         僧正行尊
斯て治承四年以仁王平氏を討たんと謀り、事泄れ三井の法輪院に逃れ僧兵護衛して宇治平等院に送り奉る、平氏之を怒り将士を遺して三井に放火し堂舎六百余宇在家二千八百余宇を亡し、僧八百人を殺戮す、建保二年文永元年文保二年元応元年等皆山門大衆の放火に係る、進延元元年には足利方細川定禅の営所と為りければ、(637)新田方は山門衆を語らひ之を襲ひ寺塔に放火す、太平記に「半日の合戦に大津松本の辺までに寺門の大衆死するもの七千六百人」と注したり、其後天文二十一年観音寺城主佐々木氏と大津四宮祭の事につきて争闘し又焚掠にあふ、凡千年間に十度の炎上を伝へり。現今の建築は豊臣徳川両氏の助力に成る、又近世まで門跡は円満照高聖護実相の四院なりしが、慶長十九年方広寺供養の事によりて照高院門跡中絶す。
三層塔は和州吉野|比蘇《ヒソ》寺の旧構を移したる者とぞ、又三井晩鐘は太湖八景の随一にして種々の俗説あり。〇輿地志略云、古鐘堂は閼伽井南にあり、俗或は破鐘堂と云へり、此鐘高さ五尺五寸厚さ三寸五分口径四尺一寸龍頭一尺一寸五分、相伝此鐘は田原秀郷が寄進する所なり、嘗て秀郷明神の頼に依て三上山の蜈蚣を射、其報として龍宮より得る所なりと、破鐘を守る野僧の云、小蛇来りて夜毎に此疵をなむる故に愈たりと、亦笑べし、抑銅の性は年経れば其きず自ら癒合する者なり、龍宮の小蛇鐘をなめて疵を癒す妙あらばいかんぞ疵つかざる様に計らざるや、
新鐘楼は金堂の左にあり、鐘高さ五尺六寸五分径四尺一寸五分厚四寸二分龍頭一尺二寸五分、慶良七年照高院法親王道澄の寄附也。又別に大師将来と伝ふる古鐘あり、太平十二年の銘を刻み、支那北燕憑跋氏の朝に成る者とす、口径一尺七寸高二尺七寸龍頭七寸許、形状摂州鶴満寺の蒲牢と相似たり、製作壮麗也。
 さざなみや三井の古寺かねはあれど昔にかへる声は聞えず、〔名寄〕         定円
 山川のひとつながれの三井の水いかでか末のわかれ行らん、〔拾玉集〕        慈円
 つぎてそのあかつきふかき法の御井ながれ汲む身となるがたふとさ、〔夫本巣〕    光俊
   至三井寺          僧即非
 台山歴罷宿湖傍、暁起径行到上方、山色秀鍾王者気、林花清沃御泉香、安禅倶是新伝戒、触目無非古道場、勝概宛然同我国、不知身已在他郷、
   三井寺登覧         藤東野
 何来天地動玄陰、落日楼台試一臨、秋入九江波蕩漾、雲連三越気蕭森、湘霊鼓瑟思無尽、楚客行吟恨竟深、不識関門風雨夜、幾人操曲遇知音、
   遊三井寺         服蘇門
 園城古刹枕清流、遊客閑探処々幽、玉甃仍留三井潔、華鐘曾自九淵浮、威霊永鎮新羅廟、弘誓高標薩※[土+垂]楼、更見止観静明境、孤輪影落大湖秋、 秋さむし藤太がかぶらひびく時、 蕪村
 
円満《ヱンマン》院 園城《エンジヤウ》寺長吏の住房にして、金堂の東北に殿屋一区を為し、兵営と隣接す、殿中の障子は円山応挙の画く所なれば、天明比の修造なるべし。円満院は初め洛東岡崎に在り、天文年中此に徙す、悟円僧正を開基とすれど実は明尊の創めし所か、門跡相承次第云「悟円、寺門第九世、又号平等院、村上天皇第三子、俗名兵部卿致平親王」と、入道親王の遺跡を明尊伝領し、以て三井の寺門の棟梁となししものに似たり。尊は余慶々祚の門に出て時誉あり、藤原頼通に依信せらる、旧記云「従一位源隆姫、後中書王具平之女、宇治関白(頼通)北政所也、世号高倉殿、本寺常行堂本願、長久元年供養、以土佐国和食庄施入」〔輿地志略〕とあるは即円満院なるべし、扶桑略記、長久三年三井寺円満院為寺大衆焼亡云々と亦是なり、尊寛徳二年長吏に補せられ、又頼通所建の宇治平等院を兼帯す、後行慶僧正入院し、道恵定恵等の法規王に伝統し、円満平等の二院は後世合一に帰す、又行慶は狛僧正又桜井僧正の称ありしを以て、狛桜井の号は円満院につたへたり、近世は御領六百石なりき。〇按に三井寺は近世五千石高と云へり、聖護院千四百石、照高院千石、実相院六百石、円満院六百石は其額外に在りしとぞ。
 
長等山《ナガラノヤマ》 三井寺の西方に聳ゆ、南は逢坂に至り、北は滋賀の山嶺より比叡の大岳に連接し、西は如意岳に続く、山勢卑小なり。
 さざなみの長良の山のながらへば久しかるべき君が御代かな、〔家集〕        兼盛
 さざ波や志賀のみやこはあれにしをむかしながらの山桜哉、〔千載集〕       〔忠度〕
 
長等山前《ナガラヤマサキ》陵 弘文天皇(帝大友)の御陵なり、近年推定して三井寺北院の亀岡を以て之に充つ、今大津兵営の棚内に在り、古来忌む所ありて世には顕れさせ給はず、従ふて知る人も無りし也。長等の山風云、大友天皇の崩給へる地は壬申紀に「乃還隠山前云々」と見え、同紀の下文に「別将進至于山前、屯河南」とも見えたる所にて、其は長等山の山前にて其かみ一区の名なりしなるべし、宇治拾遺物語には山崎と書り、其地は天皇の皇子におはしましける時の家地なりけるが、御軍の敗れにて其地に還りまして遂にゆゆしき御事のありし也、其期に天皇与多王に遺詔給ひけるによりて其地を陵所として葬奉り、又後園城寺を建給ふ。〇今昔物語云、三井寺に荒たる一の房あり、年極て老たる僧一人居たり、委く見れば鱗骨などを食散したり其香※[鼻+跋の旁]きこと限なし、智証大師之を見て傍の房の僧に問へば、此老僧年来此江の鮒を取食ふことを役とせる者也と、大師老僧を呼出て語ひ給ふに、老僧云、我此所に住して既に百六十年を経たり、此寺造て後□□□歳になりぬ、幸に大師来り給へり、永く此寺を譲り奉る云々。〇近江名跡案内記云、弘文天皇山陵は明治十年六月|亀丘《カメノヲカ》と推定せられ、兆域五十間(638)を限り、長等山前陵と称す、当時滋賀県令の疏状云、今営所柵内に一塚あり亀丘と称す、是れ蓋天皇の邸地なり、長等山の麓にして北は山上《ヤマカミ》村に隣る、謂る山前の名義空しからず、寺門伝記に教待和尚亀を捕へ之を食ひ其甲を埋みたる塚と云、此説荒唐と雖当時園城寺寺僧の忌諱を避けたる附会説なるべし、既に前年兵営の建築に際し、申請して亀丘四方五十間を空閑にし、頃者吏に命じて試掘を行はしむるに、果して鏡剣鏃を掘出し、其御陵たるべきこと明白なり云々。〇海道図会云、大友皇子亡び給ふ所は、三井寺別所北院常在寺の山中と云へり。陵墓一隅抄云、大友天皇陵、在志賀郡園域寺、或曰北院林中、有円丘、称亀塚恐是。〇按に亀塚と云ふは亀岡と同じきか、山槐記近江名所の一にも亀岡あり。
 万代に千代をかさねて見ゆるかな亀の岳なる松の緑に、〔後拾遺集〕         資業
 
新羅《シンラ・シラギ》神社 三井寺円満院の北五町に在り、此辺を北院と字し西溪を蓮花谷と日ふ、安楽行堂法明院及常在寺等の三井僧房此に在り。○神社考云、円珍自唐帰朝、忽有老翁、現于船舷曰、我是新羅国之神也、誓護汝、言訖已不見、珍入京、翁亦来曰、我有一勝地、己先相※[修の彡なし]、建立院宇、※[まだれ/支]典籍、我加護、到滋賀郡園城寺、明神語珍曰、我卜居寺之北野、而後乗輿、珍問曰執挙考為誰、明神曰三尾明神也、自此新羅威霊益顕、三尾祠今在寺南、明尊僧正小野篁孫也、寛徳二年為三井寺長吏、永承七年始行新羅祭礼。〇按に新羅社は素盞嗚尊を祭れるにや、続古事談に「三井寺の新羅明神は、宇治殿頼通のお祈に頼豪阿闍梨参りたりけるに、妻戸より神の衣の袖さし出たり、後冷泉院の御時双岡に社を造り御霊会行ひたり、祇園の社とぞ云ひける」とあり、祇園は牛頭天王と申し素盞嗚尊の御事なり、嘗て新羅に渡りたまへる始末は古史に見ゆ。
 しらぎより三井のながれに宿りきていく世すむべき神の心ぞ、〔神道百首〕      兼邦
輿地志略云、伊予守源頼義は太だ新羅明神を尊崇し、長勇快誉阿闍梨は社側に西蓮房を営み、三男義光をば当社の氏人と為し新羅三郎と号せしむ、義光又長男を出家せしめ覚義と云ひ社傍に住せしめ金光院を建てたり、西蓮金光は廃絶世久し。〇又云、大系図纂云、新羅三郎猜甥源朝臣義忠、嫡家相承天下栄名、相語郎従鹿島冠者、令討義忠了、彼鹿島三郎遂本意、其夜馳向三井寺、告其子細之処、義光相副書状、以鹿島三郎公忠、遺舎弟僧宿坊、而彼僧兼堀設深土穴、即捕彼鹿島、堕穴埋殺之了、思ふに此辺なるべし、氏人は武田小笠原佐竹等其後風なり、永承七年円満院前大僧正行尊始て新羅の祭祀を行ふ、園城寺略記曰、暦応三年尊氏将軍御再興、尊氏の寄文あり曰、
 寄進新羅社
   近江国粟津別保地頭職事
 右当社昔在去外国蛮夷之域、遷本朝君子之列、云々。
 
大津兵営《オホツヘイエイ》 近年三井寺北院の地域を割き兵営と為す、方数町を占め、円満院の北新羅社の南なり、又営所の北数町大字山上《ヤマカミ》に射的場あり。
 
錦部《ニシゴリ》郷 和名抄、滋賀郡錦部郷、訓爾之古利。今滋賀村なるべし、大字錦織有す、大津町の北にして山上漣錦織南滋賀滋賀里等の大字あり、以て坂本村|穴太《アナオ》に接す、滋賀山を西に負ひ太湖に臨む、大津も古は錦部郷の中なりしならん。〇元徳二年叡山行幸記云、石田殿|尾花《ヲバナ》井を過て、錦織の浦に出でたまへば、湖光渺漫として山色陸離たり云々。按に尾花井は今兵営の東岸に尾花川あり其辺なるべし、石田殿は詳ならず、錦織浦は古へ滋賀の大輪田と云ふと一境なるべし、中世|錦織《ニシゴリ》庄と曰へる地は即今の大字錦織なり。
補【錦部郷】滋賀郡〇和名抄郡郷考 錦部、爾之古利、元徳二年三月、日吉社並叡山行幸記に、石田殿尾花井を過て錦織の浦にいで給へば、湖光渺瀰として山色陸離たり。志略、志賀の辺より三井寺の本仙の辺をいふなるべし。〇中仙道森山より草津へ出る間道より西の方に錦部寺とてありといへり。
 
山上《ヤマガミ》 三井寺北院の北に接す、輿地志略云、山上は古俗志賀山上と云へり、惣べて錦織《ニシゴリ》郷の中なりと伝ふれども、長等《ナガラ》山の麓にして別所の北にある村なり、日本紀に載せたまふ大友王子山前にかくれて以て自縊給ふとはこの地の事にて、山前を今山上とあやまると松下見林は云へり。
 
宇佐山《ウサヤマ》 山上の北数町|平尾《ヒラヲ》明神の東北なる一座の円丘なり、大字錦織に属し、今陸軍射撃場に供用せらる、山下に八幡宮あり、又接続して大字|漣《サヾナミ》あり、古の漣と曰へるは滋賀郡の総名にて、此を限るべき名にあらず。〇輿地志略云、錦織の西宇佐山は八幡の社あるが故に山の名とす、治暦元年源頼義建立、一間四面の社あり、浜に松ある地を御幸郷と云、寺門伝記補録曰「錦織山八幡宮、予州大守源瀬義朝臣所創也、予州嘗興錦織僧正行観、有師檀之契、毎与之会焉云々」と又曰「予州遂舘錦織庄、終其身焉」予州とは頼義のことなり、或は云頼義屋鋪は今土俗の御所の跡を号する地なりと、今詳ならず、又戦国の比の宇佐山要害亦此なり、古城のあと二町四方許、山上に櫓台等のあと顕然なり、元亀元年庚午五月、信長暇を義脇に告て京を出で、近江に至り宇佐山に城を築き、森三左衛門可成をして守らしむ、浅井長政朝倉義景等これを攻む、同九月可成戦死の後其臣武藤五郎右衛門及肥田玄蕃等暫く在城なすといへども戦死し、つひに落城す。〇外(639)史云、元亀元年、信長令森可成、守志賀宇佐山、会信長与三好斎藤及一向賊戦于摂津、浅井長政朝倉義景時之也、合兵三万陣比叡衢、将焚坂下、宇佐山城将森可成出拒、死之、信長弟信治及尾藤某道家某皆死、北軍速攻宇佐山、留後武藤等能拒、北軍乃過大津、縦火醍醐山科。
補【宇佐山】志賀郡〇輿地志略、宇佐山は錦織の西にある山なり、宇佐八幡の社あるを以て也。〇山上川は或は御影川とも云、源宇佐山より出で、志賀山上村の北にて湖へ入るなり。
 
与多崎《ヨタノサキ》 宇佐山の正西十五町、湖中に突出する四町許の沙嘴なり、北なる唐埼と相距る二十四町。〇輿地志略云、与多崎八柳浜は大津の尾花川より北六町に、柳川と号し巾二間計の沙川戌より辰に流れ、湖水の中二町計出たる崎なり、此辺を土俗の言に柳と呼び柳木綿柳大根などの土産あり、日吉記に曰く「天智天皇白鳳二年三月上巳、於大津与多崎八柳浜、有臨幸」按ずるに与多麿は与多王とも名づく、大友皇子の二男なり、父の顧命をうけ家基を寄て以て園城寺を建てし人なり、村主が寺刹四至の券状を考ふるに、いよいよ以て此地も皆与多が領地なれば、後世かくは名附しなるべし。
 
志賀山《シガヤマ》 今滋賀村の山嶺なり、北比叡の脈を受け南は長等逢坂に連る、山路の西に踰えて白川(山城愛宕郡)に通ずるを志賀山越と称し五十町計あり又三井寺の北院より登り如意山の北を繞る岐路あり、然れども本路は大字滋賀里より登ぼり山中《ヤマナカ》越と呼ぶ者是なり。〇海道図会云、昔より歌に詠る志賀山越は滋賀里の赤塚より登り、山中里白川村を経て京に出る、是を山中越と云ふ、新千載、法印定為「匂ひくる風の便を枝折にて花に越行志賀の山道」凡志賀の山越のこと説種々あり、袖中妙に志賀の山越とは北白川の滝の側より登て如意の嶺ごえに志賀の方へ出る道也と、経頼卿記に云「後一条の御時、殿上人紅葉逍遥の為め、志賀の山越し瓜生山を経て歩行す云々」瓜生は白川の滝の上也、恵慶法師が浄土寺の和歌の序に「月の光の清《キヨ》き寺、瓜生山の麓」と書り、頼基集、ある所の屏風の絵に滋賀の山越する所を「名に云へどなれるも見えず瓜生坂春の霞の立るなりけり」とよめる最証とすべし。
 さゞなみや志賀の山路のつゞらをりくる人たえてあれやしぬらん、〔六帖〕   山中嶺望琵琶湖       垣内海荘
 鳥道椚藤攀小亭、雄風揺髪響冷々、雲釆春駅蜃楼動、雨捲長橋龍気腥、古里煙波連上国、千年岳色聚精霊、吾儕今夜江村夢、月下吹笙過洞庭、
 
志賀大輪田《シガノオホワダ》 又輪田とも云ふ、滋賀の都の時の渡津にて、栗太郡草津へ航したる湖岸の曲《ワダ》なり、其跡詳ならねど輿地志略に袖中抄を援き志賀山越を一名大輪田越と云へる由を挙げたり、然らば滋賀里の東なる唐崎即輪田なるべし、此湖岸は年々泥沙の堆積ありて古今の汀線は同じからざるべし。
 ささなみの志我の大和太よどむともむかしの人に亦も逢目やも、〔万葉集〕      柿本人麿
 かち人のみぎはの氷ふみならし渡れどぬるゝ志賀の大輪田、〔続古今集〕       寂蓮法師
按に保尤物語に鎮西八郎為朝は輪田に隠れて捕れたるよしを記し、源平盛衰記には石山寺と為す、然らば石山寺は志賀寺の訛聞にや、保元物語には「昼は深山に入りて身を隠し、夜は古き湯屋を借り常におり湯をぞしける、爰に佐渡兵衛重貞と云ふ者、宣旨を蒙り三十余騎にて押し寄せてけり、為朗真裸にて合ふ木《ご》以て数多の者をば打ち伏せたれども、大勢に取り籠められて云ひがひなく搦められにけり」と録す。
 
滋賀大津宮《シガノオホツノミヤ》址 天智弘文二帝の遺蹟なり、当時の都邑は辛埼より粟津までの地即今滋賀村大津町膳所村に渉る、事は大津及び郡の条下にも曰へる如し、而て内裡の跡は何処にやと云に至りては諸説紛々たり。
海道図会云、大津宮址は今の代官所ならん。木曾路図会云、昔の大津の皇居跡は今の石原氏(大津町の人なり)のあたり也とぞ。名所図会云、大津宮跡と云は三井寺より廿町計北、錦織藪の辺りに御所のうち、又祇園田といふ字ありて、籔の中には庭砌の形あり、清泉不絶して旱天にも涸ず、又其辺土器塚とて掘ればかはらけの出る所ありと云へり。参宮図会云、志賀都の古跡志賀里西郡村に御所の内と字して、広二町四方計り上壇の地なり、此地の内に竹林有て清水涌出る此地を云とぞ。輿地志略云、山上の北なる錦織村の内に御所跡と号する所あり、是大津の都の跡なりといふ、今に泉水岩ぐみ等の跡なす二町四方許あり、天智天皇の時分事質素なりと云ふとも郡の総域は何ぞ如此ならんや物変り屋移りて旧都の界域も内裡の遺址も知れざるや明らけし、按ずるに此処は彼源頼義屋敷の跡にや、此辺までも大津の都の内なる事は明けし、三井寺の記に内裏より北西にあたりて崇福寺を建てられしとしるせり、崇福寺の旧蹟|見世《ミセ》村の西五町ばかりにあり、こゝを以て見れば此辺は内裡の遺跡の一部なるか。淡海地志云、大津は古尾荒川の辺を本居とす、其地に田の字を御所の跡と云ふ所あり、是大津宮なり、今大津は後世引移りたるものなり。〇今按に諸説の中に就て稍信あるは、輿地志略の南滋賀村見世の崇福寺の南東と云ふ一説のみ、日本書紀に、辛末歳十月、天智天皇疾甚(640)し皇太弟大海人出家せんことを請ひ「便往内裡仏殿、踞坐胡床、剃鬢為沙門」とありて十一月に至り「大友在内裡西殿織仏像前、左大臣蘇我赤兄臣右大臣中臣金連蘇我果安臣巨勢人臣紀大人臣侍之、大友皇子手執香炉、先起而盟曰、六人同心、奉天皇詔」とあり、此内裡の仏殿は前年建立の崇福寺の外之あるべからず、之を輿地志略に三井寺記を引けるに参照せば、今滋賀村大字南滋賀なる禁福寺廃址、即大内裡の域なるを知るべし。
日本書紀、天智天皇六年、遷都于近江、十年十一月災近江宮、火従大蔵省倉出、十二月天皇崩于近江新宮。大織冠藤原鎌足家伝云、丁卯歳(書紀天智六年)遷都于近江国、即天皇位、是為天命開別天皇、朝廷無事、遊覧是好、人無采色、家有余蓄、民咸称太平之代、帝召群臣、置酒浜楼、酒酣極歓、於是太皇弟(一作皇太弟以一長檜刺貰敷板、帝驚大怒、以将執害、大臣固諌、帝即止之、太皇弟初忌大臣所遇之高、自茲以後殊親重之、即位二年冬十月、稍纒沈痾、遂至大漸、帝臨私第、親問所患、請命上帝、求効、翌日而誓願無徴、病患弥重、仍授大織冠、以任内大臣、改姓藤原朝臣、十六日辛酉、薨于淡海之第、時年五十有六。〇書紀家伝を参照するに、此内裡は天智帝丁卯歳営築、而て別に臨湖の浜楼あり、辛未歳に火災ありて新宮に崩御あり、弘文帝即位翌年五月兵乱起り、七月に至り軍敗れ帝崩じ、大海人践祚あり、即都を大倭飛鳥に復したまへり。
   過近江荒都時、柿本朝臣人麿作歌、
 玉手襷、畝傍の山の橿原のひじりの御世ゆ、あれましゝ神のまに/\、樛の木の弥継つぎに、天の下知しめしゝを、空にみつ大倭を置て、青丹吉奈良山を越え、いかさまにおもほしめせか、天ざかる鄙にはあれど、石走る淡海の国の、楽浪の大津の宮に、天の下しろし召けむ、天皇の神の命の、大宮はここと聞けども、大殿はこゝと云へども、春草の茂く生ひたる、霞立春日のきれる、百磯城の大宮所、見ればかなしも、
 きさなみの滋賀の辛埼さきくあれど大宮人の船まちかねつ、〔万葉集〕
 いにしへの人にわれあれや楽浪のふるき都を見ればかなしき、〔同上〕        高市古人
 ささなゐの国つ御神のうらさびて荒たるみやこ見れば悲しも、〔同上〕        高市黒人
   遇滋賀        松平定通
 古蹟曾於旧史諳、※[辟+鳥]鵜湖上水烟間、九重遺址草埋地、千載流芳花満山、玉輦不回春寂々、金鈴無響鳥関々、当時花園今何処、径路迂行試一攀、   滋賀有感        頼 杏坪
 湖田麦秀菜花黄、偶問旧都過楽浪、豈料周公升帝位、華山何処弔成王、
   大津有感        梁 星巌
 古来吟客各争工、沙鳥雲帆浦々風、万世儼然詩筆祖、無人弔問大津宮、
 あふみなるしがの花ぞの里あれて鶯ひとり春ぞわすれぬ、〔名寄〕
 さゝ波のあはれかけても思ひきや滋賀の花園麦を見むとは、             長流
 畑うちや昔は志賀の都人、    乃路
南滋加貝は三井寺の北廿五町許|見世《ミセ》新在家正光寺など云字ありて、正光寺の廃墟とて一町四方許の地に数十の礎を遺すと名所図会に載せたり、此廃墟も崇福寺即大津内裡の事か、柴福寺中世退転して正光寺の名を冒したるにや。
   春晩過滋賀山中     釈 六如
 故都遺跡略無存、経過難徴国史言、断隴依稀龍虎地、炊煙※[立心偏+麼]※[立心偏+羅]牧樵村、山花樹々微雲点、澗水湾々驟雨喧、拾得布紋鴛瓦片、始知鞋底是宮垣、
 
崇福《スフク・スウフク》寺《ジ》址 一名|滋賀山寺《シガヤマデラ》又志賀寺と称す、続紀大宝元年の条には志我山に作り、天平元年の条には紫郷山寺に作れり、此廃墟は以て大津旧宮の所在を弁識すべき指鍼にして、重要の古跡とす。按に壬申の乱後大津宮やがて廃し、宮殿の旧境蓋本寺に帰す、本寺は天智帝戊辰歳勅建せられ、縁起式十五大寺の一なりき、後世亡ぶ、或云天喜年中落慶の事ありて其後に廃滅すと。〇輿地志略云、南滋賀の見世の西五町許廃址あり、本堂の跡なりとぞ、堂の大さ九間、是より一の谷の北に弥勒堂の跡あり、是より東南に観音堂の跡あり亦南に鐘楼のあとあり、是より下東に石仏の釈迦存す大さ二間ばかり土俗是を志賀寺|水向《ミムケ》の釈迦と云ふ、夫より下に焔魔堂の跡あり、其余少しばかりの寺院の旧地多し、是皆志賀山寺の旧跡なり、後世に梵釈寺を引移して混一したり、古記には二条院長寛元年炎上の事見ゆ、栄花物語曰「三月志賀の弥勒会に参らせ玉ふ、天智天皇の御寺なり、天平勝宝八年兵部卿正四位下橘朝臣奈良麻呂が行ひ始めたるなりとて、最あはれにおぼされて、万の事ども急がせ玉ふ」云々。〇延喜式「近江国正税公廨、崇福寺修理料五千束、同寺伝法全科一万束、梵釈寺料六百七十束、国興寺修理料一千束、浄福寺料七千束」と、この国興浄福の二寺今詳ならず。〇又扶桑略記云、康保二牛近江国禁福寺火災、堂塔仏像経蔵鐘楼僧房等皆悉焼亡、天延四年六月十八日大地震、崇福寺法華堂、南方頽入谷底時、守堂僧同入谷死、鐘堂顛倒、弥勒堂上岸崩落居、堂上一大石落打損乾角。
 波にたぐふ鐘の音こそあはれなれ夕さびしき志賀の(641)山寺、〔月滴集〕
扶桑略記、天智六年丁卯、遷都大津宮、本在岡本宮、天皇寝大津宮、夜夢法師云、乾山有一霊窟、天皇驚寤出見、彼方之山、火焔広照、甚為希有、即召大伴連桜井願満法師等、明日尋求其地当火光処、有小山寺、一優婆塞念誦云、古仙霊崛伏蔵地、佐々名実長等寺、其地体骨、林樹森々、谷深巌峻、流水清涼、寂寞閑空、可称勝地矣、七年戌辰正月、於志賀郡建崇福寺、始令平地、掘出奇異宝鐸一口、高五尺五寸、又掘出奇好白石、長五寸、夜放光明、天皇※[殺の異体字]左手無名指、納燈炉下唐石臼内、奉為二恩、自爾以還、霊験在如、天下之人、無不帰依云々。〇大日本史、持統元年、為天智帝設法会於崇福寺、永為国忌、聖武天平十二年、幸志賀山寺礼仏、孝謙天平勝宝八歳、施近江団朝法書一百巻、於崇福寺。〇日本後紀云、嵯峨天皇弘仁六年四月、幸近江国滋賀韓埼、便過崇福寺、大僧郡永忠護命法師等、率衆僧奉迎於門外、皇帝降輿升堂礼仏、便過梵釈寺、停輿賦詩、皇太弟及群臣奉和者衆、大僧都永忠手自煎茶奉御、施御被、即御船泛湖。〇藤原武智聴呂家伝云、公為近江守国、詣志賀山寺、礼尊容、両発願刻身心而懺罪、受戒長斎、令造神剣、附使進之、帝大悦。
 仙人のひかり尋ねし跡やこれ深雪さえたる滋賀のあけぼの、〔夫木集〕        定家
 
梵釈《ボンシヤク》寺址 桓武天皇延暦五年の勅建にして、延喜式十五大寺の一なり、蓋天皇は大津宮御宇天皇(天智)の四世孫なれば、故宮の跡に就き営み給ふ所ありし也、崇福寺と相並び韓埼の辺に在りしことは日本後紀類聚国史の弘仁六年行幸の条に因りて明白なり。〇続日本妃云、延暦五年、於近江国滋賀郡始造梵釈寺、依御宿願。日本逸史云、延暦十四年詔曰、真教有属隆、其業者人王、法相無辺闌、其要者仏子、朕雖遵有国之規、思弘無上之道、是以披山水名区、草創禅院、尽土木妙製、荘厳伽藍、名曰梵釈寺、仍置清行禅師十人、三綱在其中、施水田一百町食封一百戸、以充修理供養之費、二十二年制、崇福寺者先帝之所建也、宜令梵釈寺別当大法師常騰兼加検校。類聚国史云、弘仁六年幸志賀韓埼、便過梵釈寺、停車賦詩、群臣奉和。文華秀麗集云、
   過梵釈寺        嵯峨天皇
 雲嶺禅 ※[戸/冂/口]人蹤絶、昔将今日再攀登、幽奇巌※[山+章]吐泉水、老大松杉離旧藤、梵宇本無塵滓事、法筵唯有薛蘿僧、忽銷煩想夏還冷、欲去淹留暫不能、
   扈従梵釈寺、応制      藤 冬嗣
 一人問道登梵釈、梵釈蕭然太幽閑、人定老僧無出戸、随縁童子末□山、法堂寂々煙霞外、禅室寥々松竹間、永劫津梁今自得、囂塵何処更相関、
元亨釈書云、釈良源姓木津氏、近州浅井郡人、延喜十二年生焉、九歳随母物氏、詣梵釈寺、覚闍梨見曰、此児豈可居郷井乎、十二上叡山、師事理山、後補天台座主、賜諡慈恵。
補【梵釈寺】〇梵釈寺遺跡 不詳、然れども国史実録の載する所を以てみれば、崇福寺の辺と見へたり、定めて此あたりなるべし、往昔は崇福寺に劣らざる寺院と見へたり。淡海録、此梵釈寺を日野岡本にありといへり、甚非なり。〔文華秀麗集、藤原冬嗣詩中の欠字、随縁童子未下山〕
 
黒主《クロヌシ》祠 南滋賀の字|新在家《シンザイケ》に在り、大津宮址の西界とも言ふべき坡上に在り、西に登れば即志賀山越なり。〇海道図会云、新在家の大伴黒主は志賀郡の地主にて、大友与多麿の孫の都堵の子なり、陰陽頭たりしが唐崎にて祓して禄賜はりしこと後撰に見えたり、此地其人の旧蹟にして、心静石と云は祠の東田の中にあり、土人すずみ石と云、明神此石に影向ありて、山水を玩び玉ふ、神前に粢田とて田の字にあり、稲を神供に捧るとぞ、此辺に紀貫之を祭る祠あり。〇輿地志略云、寺門伝記補録曰「黒主、近州志賀郡司大友|都堵牟《トトム》麿之子、実大伴列躬之子也、弘仁天長之歌仙云々」と、また鴨長明無名抄曰「志賀郡に大道より少入て、山際に黒主の明神と申す神います、これ昔の黒主が神になれるなり、今に大件の黒主の宮あり、所には蟻なしの明神と申、昔は桜多かりしと」云々、此無名抄の言を以て考ふれば此宮地かなひ侍る、是を以て此側なる福王子はいよいよ紀貫之なることを知る。(大友郷参看)
 
唐埼《カラサキ》 又辛前可楽崎韓崎等に作る、滋賀村大字滋賀里の東十五町、湖浜の地を云ふ、一老松あり松下に小祠を置く、世に唐崎の一《ヒトツ》松と呼び、江州八景の随一なり。古へは此湖頭即滋賀郡の大渡にして、勝絶の所なるべけれど、後世湖浜の泥沙年々に堆積し、水退きて田土と為るを以て、今岸頭の景色はなはだ清からず、尚修禊の旧典を伝へ日吉明神の旅所と為すも、往時至尊行幸の跡とは思はれず、孤松も植継しば/\にして翠色あざやかならず。
 やすみし、我大君の大御舟まちかこふらむしがのから崎、〔万葉集〕
 月影は消ぬこほりと見えながらさゞなみよする志賀の唐崎、〔千載集〕            藤 顕家
 みそぎするけふから崎におろすあみは神のうけひく印なりけり、〔拾遺集〕          平 祐挙
 からさきやかすかに見ゆる真砂地にまかふ色なき一本の松、〔風雅集〕            二位為子
 跡たれし神のみゆきの古へをおもへばとほき唐崎のまつ、〔新千載集〕            法親王慈道
(642)霊異記云、楢磐島、往於越前之都魯我鹿津、而交易、以之運超、載船将来家之時、忽然得病、思留船単独来家、借馬乗来、至于近江高島郡|磯鹿《シカ》辛前而眷之者、三人追来云々。類聚国史、延暦二十二年、行幸志賀可楽崎、弘仁六年、幸近江韓崎。東鑑、建久二年、於近江国唐崎辺、佐々木小二郎兵衛尉定重、止流刑被梟首。〇輿地志略云、韓崎は平安城の大七瀬の名所の一にして、韓崎の祓は蜻蛉日記にも見ゆ、又日吉神の旅所なり、土俗の諺に日吉社を愛護若《アイゴワカ》なりといひ、当社を細工の小次郎と云ふ、穢多とす、歎息するに堪へたり、是は秋の夜長物語と云書に似たることあるを附会せるものなり、長物語に云ふ、後堀川院の御宇西山の瞻西上人もとは北嶺東塔の衆徒、勧学院の宰相律師教戒といへり、夢に美少人を見て、心にわすれずうかれありきしに、是は三井寺の少人三条京極の花園左大臣の子梅若と申すにてぞありける、梅若此由を聞て一夜唐崎の松の蔭にやすらひしに、天狗に奪はれ失せたり、是より山門寺門の争闘となり、三井寺に火をかけてやきはらひ、又其後梅若帰り来りけれども我事故に仏閣殿舎火災に罹りしを悲み、瀬田の橋の下に身を投てむなしくなれりと、三井聖護院の梅若を愛護若とし、三条京極に住せる花園左大臣を二条の蔵人とし、叡山の教戒が恋慕を継母が恋慕とし、瀬田の橋下に身を投しをきりうが滝に身を投げたりと謬り伝ふ。〇日吉山王、毎年四月申の日の祭礼に、神輿渡御の事は、神輿大宮より下り、八ツ柳(土俗七本松と云は非也)船にて一散に漕つれ、辛崎松の辺の湖上に浮ぶ、膳所より来る神供船は音楽を奏し、七人の童は猿の形を真似神供を湖上に散す、大宮一社の神供は神輿へそなへ、杜人白幣葉茶一袋を添て船より船へ贈り日吉の社人へ渡す、神供船より相図の大鼓を打てば七社の神輿又一散に若宮の浜へ還御なし奉る。〔海道図会参宮図会〕又唐崎孤松は尊朗法親王松記あり「天智の御宇に栽る所、天正中山門再興の事ありて日吉の祭礼もかたの様に取り行はれ、唐崎の神幸も例に違はず松の辺に神輿の御船をならべ御供などそなへ奉る、然るに此松いつぞや風に倒れしを、大津城におはす新庄駿河守直頼、天正十九年に植ゑられたる也」云々、土人の諺に松の囲五尋高三丈余、数千の枝葉四方へ繁く、遠く眺ば翠巒の如く近く視れば蟠龍に似たりと。〔名所図会俗説弁〕
 からさきの松は花よりおぼろにて、芭蕉
   神楽歌※[竹/修の彡なし]渡
 さざなみや志賀の辛崎や、御しね搗くをみなのよささや、それもがも彼もがもいとこせの真いとこせにせん、
補【唐崎】〇図会 日吉祭礼毎年四月中の申の日なり、大宮大津八柳のかげより此山末にしづまりますべき所を定め給ふとて、田中の恒世が舟に棹さして、さゞなみや志賀唐崎に御幸なりし時、船中にて粟の供御を奉りしより、毎年に此浦に神幸あるべしとの神勅より事はじまりて、一千余回の今に至るまで天下の大祀とはなれり。拾遺集「みそぎするけふ唐崎におろす網は神のうけひくしるしなりけり」平祐挙。
唐崎明神 山王大宮初めて現はるゝ地にして、松の下に鳥井あまた建てり、かたはらに女別当あり、松の房といふ、唐崎の祓の事、蜻蛉日記に見ゆ。
からさき松の記〔重出〕尊朝法親王、叡山の事廿とせあまりこのころ退転に及び、精舎仏閣の跡も鹿のふしどとなり、岨づたひの道はおどろが下に埋れはてゝ踏みわくるたよりなかりしを、かしこき世の御かための命によりて山門再興の事ありて、顕密の両宗も日々年々にいやまさりて、久かたの日吉の祭礼も昔のほどこそなけれかたのやうにとり行はれ、志賀から崎の神事も例にたがはず、松のほとりに神輿の御船をならべ、御供などそなへ奉る、さるを此松いつぞやの大風にたふれて、かたばかりも残らず侍れば、御幸の神感もことたえぬるやうに世にもいひあへり、爰に新庄駿河守直頼、大津の御城郭をあづけ給はり、天正十九年風情ある松を植う云々。
 
大友《オホトモ》郷 和名抄、滋賀郡大友郷、訓於保止毛。〇今|坂本《サカモト》村下坂本村|雄琴《ヲゴト》村等なるべし、比叡山の東麓にして琵琶湖に沿ふ、輿地志略云、大友郷は坂本近辺をいふと見えたり。〇按に、続紀「神護景雲元年、近江国人外正七位上大友村主人主、稲一万束墾田十町、献於西大寺」とあるは決めて此郷の豪家にして三井寺を古名大友村主寺と云ふも其氏寺なれば也、而て大津宮朝廷の皇嗣を大友と名附奉るも、此地名に因み給ふのみ、大友天皇の御子与多王、亦与多埼に因み給へり、然れども人主及黒主が実に与多王の裔なりや否やは詳ならず。惟ふに村主《スクリ》姓の旧家と、与多王は姻戚依附の関係ありて、三井寺をば村主氏寺且は大友天皇の追福所と為したるならん。大日本史には「大友果主、世居大友郷、園城寺在郡中、故以黒主為地主、貞観中以園城寺、為延暦寺別院、黒主為神祠別当云々」と叙せり。伴氏長等山風云、後近江大津宮馭宇天皇の御名大友は地名なり、御父天皇此に遷都の後、其地を御封に賜ひたるによりて、始の御名伊賀を改め給へるなるべし、与多王の子孫に至りては大友を氏としたまへるは、御封の地名に依り裡には御名代《ミナシロ》の意しらひにて、みづから称へたまひたるなるべし、紹運録に「与多王、賜大友姓」と注せるは後人の推量にて書る者なるべし又古書どもに与多王の子を都堵牟麿其子黒主と為せど年数合はず、世継の次第詳にしがたし、又大友村主と(643)も称へたるは、当時在来し大友村主の氏人(推古紀大友村主高聡続紀にもあり)の聞ゆるに准へてか、又は其氏人に姻戚のありけるに、たま/\氏名の同じきを拠にいひ合せ、私に村主の姓を称へたりしにぞあるべき。
氏族志云、大友氏、村主姓、蓋志賀氏同祖、推古帝時、有大友村主高聡、称徳帝時、有近江人大友村主人主、清和帝時、有施薬院使大友村主家主、〔日本書紀続日本紀三代実録〕同時有滋賀郡大領大友村主黒主及擬少領夜須良麻呂、〔天台座主記〕按皇胤紹運録、以黒主為帝大友之後誤、又聖武帝時、有近江人大友但波史吉備麻呂、其族皆貫于滋賀郡古市郷。
 
穴太《アナホ・アナオ》 今坂本村の大字と為る、或は南坂本と曰ふ、滋賀村大字南滋賀の北十八町、日吉神社の南十二町、比叡山|無動寺《ムドウジ》の東麓なる里なり、延喜式穴太駅馬五疋とあるは、湖西の北国路なり。〇穴太より無動寺に躋り、愛宕郡修学院へ出づる山径あり、白鳥越又は古道《フルミチ》と云ふ、延元元年山門行幸の時、官軍|白鳥《シラトリ》に陣したりと云は、穴太山の事なるべし。大日本史、脇屋義助伝云、車駕再幸延暦寺、義助守東坂、敵薄城、義助瞰之、乃開門突出、白鳥陸軍衝其左、湖上舟軍敵其右、敵大敗退。〇太平記云、今道《イマミチ》越三つ石のふもとを経て、無動寺に寄んとす、又云、今道古道音無の滝、白鳥三石大岳より人なだれをつかせて逃たりけり云々。盛安寺《ジヤウアンジ》は穴太《アナホ》の北に在り、天文年中、越前国主朝倉氏の家臣杉若盛安の建立とぞ、古刹の中興なるべし。〔名所図会海道図会〕
 
万松院《マンシヨウヰン》址 穴太に在り、天文年中将軍足利義晴の薨所なり。〇淡海地志云、坂本の穴太万松院は義晴公之に居りたまひ、六太新妨と云ひ、公此にて薨ず、御子宰相中将殿穴太を退き比叡辻の宝泉寺に移り、宝泉寺の御所に夏草の茂りて露の置添ふを御覧じて、
 別れ行く涙は袖にしほるゝをなげくと猶も露ぞ置添ふ。
名所図会云、天文十八年足利義晴公三好に畿内をせばめられ、佐々木を頼み三井寺の別所常在寺を御所と定め御滞座あり、此所要害の地に非ずとて慈照寺の大岳将軍地蔵の山に新城を築き、其時御違例なりしかど、おして御入城とて、常在寺を立て、この穴太新坊まで御輿を寄られしに、御違例重く、天文十九年五月四日終に此寺にて薨ぜらる、依之東山慈照寺に納奉り、万松院と申けるなり、されば新坊をも万松院と云とぞ、穴太村にあり、此地は又古の滋賀高穴穂宮在りし所故に、村中に大石など甚多し、八畳敷の石なども有しに、今は埋れてもとめがたし、又田の字に大門と云もあり。
 
志賀高穴穂《シガタカナナホ》宮址 成務天皇の皇居なり、穴太の西字高畠と云は宮址なるべしと、古事記云、若帯日子天皇、坐近淡海之志賀高穴穂宮治天下也。〇按に、穴太は延喜式并に朝野群載に載せたる駅にして、後紀「延暦十人年、浅井郡人従七位下六太村主真杖、賜姓志賀忌寸」と見ゆるは浅井は滋賀の謬にやと思はる、姓氏録にも志賀穴太村主と云姓あり。日本書紀に「景行天皇、幸近江居志賀、三歳是謂高六穂宮」とあれば景行成務二世の御所とす、仲哀天皇も此にて践祚ありし也。名所図会に、「旧都跡を高畠とも云、景行天皇成務天皇仲哀天皇三代皇居の地なり、是を高穴穂宮と云ひ三代の間凡七十年なるべし」と、此に七十年と云は書紀々年なれば信拠し難し。
 
坂本《サカモト》 今坂本村下坂本村の二と為る、或は坂下に作る、比叡山の東麓にして湖水に臨む、延暦寺に登る路なれば或は東《ヒガシ》坂と曰ふ、之に対し愛宕郡修学院村を西坂と曰ふ、又南坂本と云は穴太にて今坂本村に属す、下坂本村は湖岸の方を割きて其名あり。延暦寺開創以来、此地は僧房充満し之を里坊と曰ふ、又日吉山王の祠ありて祠官神人の類多し。〇比叡山は京都の鎮岳にして、兵乱ある毎に必先之を争へり、故に坂本は往々陣営の所と為り、要害を大津に比せり。中にも延元元年(建武三年)再度の御幸は、延きて南北分裂の大乱源と為り、最感懐に勝へざる所なるべし。寺僧勤王の事は太平記に「祐鴬妨は元は法勝寺の律僧にてありしが、先帝船上に御座ありし時、大衣を脱ぎて山徒の※[豸+頁]に替へ、弓箭に携りて一時の栄花を開けり、山門両度の臨宰に軍用を支へしこと、偏に祐覚が為処なりしかば、山徒の中の張本なりとて、延元元年十二月廿九日、阿弥陀が峰にて斬られける」とあり、又南山巡狩録、建武三年十月九日、坂本に於て東宮恒良親王に天子の御位をさづけられ、義貞とゝもに北国に下向ましまし、天下の成敗は義貞決すべきよし勅諚ある、是を承はるもの皆鎧の袖をしぼりけるとぞ、〔此宮は成良親王及後村上院同腹におはし、冊立の事歴代皇紀には建武元年正月廿四日皇太子としるし、紹運録には正月廿三日立妨と云ふ、又太平記十七、瓜生心変の条を合考するに、三種の神器を春宮に渡しまゐらするうへはとしるせる文あり、思ふに吉野山まで齎らせ給ひし三種の神器のみ朝家の物にして、今東宮恒良親王にさづけられし物も、北朝にわたしまゐらせしものも、皆贋物にてありけるなりと推察し奉るべし)この日は受禅の儀、還幸の御粧ひに日くれぬ、先夜更るほどに義貞朝臣潜に日吉の大宮権現に参詣して、信心をこらして祈誓し、当家累代の重宝鬼丸と云ふ太刀を社壇にぞ籠れける、(太平記并梅松論には日吉の社に籠られし処は、重代の赤威薄金の鎧なるよしをしるす、いづれか(644)是なるをしらず、扨又鬼丸の太刀の事を考ふるに、其説区々にして詳ならず)其当時の行在は日吉大宮の彼岸所《ヒガンシヨ》と云院なりき。
   叡山懐古        藤井竹外
 千峰争自五畿奔、比叡屹然如至尊、眼見宝刀蔵岳廟、耳聞玉輦去山門、※[さんずい+翁]雲長宿老杉頂、流水自廻盤石根、北望越前何処是、無人和涙説延元、
   新薬集、元弘元年八月、俄に比叡山に行幸なりぬとて、彼山にのぼりたりけるに、湖上の有明ことにおもしろく侍りければ、
 思ふことなくてぞ見ましほの/”\と有明の月の志賀の浦波、           文貞公
   増かゞみむら時雨の巻云、元弘元年八月廿四日、花山院大納言師賢を(即文貞公の事なり)山に遣し、忍びて帝のおはしますよしにもてなして、彼両法親王(大塔宮尊雲親王妙法院宮尊澄親王也)こと行ひ給ひて、(中略)かゝりけれども帝笠置におはしますよし、程なく聞えぬれば、謀られ奉りにけりとて、山の衆徒も少く心替りぬ、宮々も逃出給ひて、笠置へと詣給ひける、大納言は都へまぎれおはすとて、夜深く志賀の浦を過給ふ、有明の月隈なくすみわたりて、よせかへる波の音もさびしきに、松ふく風の身にしみわたるさへ、取あつめ心ぼそし、
 
坂本《サカモト》城址 下坂本村の松林の浜に在り、今一町計の地を字して城と曰ふ、元亀元年織田信長摂州合戦の時、其将森三左衛門可成宇佐山に築奉し北国勢に当る、浅井長政朝倉義景之を時機とし兵三万を以て来り比叡辻(下坂本村の北今大字と為る)に陣す、延暦寺衆徒之を援く、可成出て拒戦し奮闘之に死す、翌年信長諸将に命じ延暦寺を囲み、焚毀殺戮いたく山徒を撃破す、又一城を置き之を鎮圧す、即坂本城なり、明智光秀に賜ひ之に居らしむ、天正十年光秀の京師に信長を弑するや、光秀妻拏皆坂本に在り、已にして光秀羽柴秀吉の討つ所と為り死しければ、光秀の従子光春城を焚き一族自殺す、秀吉乃ち丹羽五郎左衛門長秀を此に移し北国路を圧せしむ、遂に賤岳の捷あり、天正十二年、長秀を北国に封じ坂本城を停めて大津に更築す。〇明智光春坂本落城の事は、改正三河後風土記云「天正十年六月四日、明智左馬助は大津まで出陣したるに、羽柴勢は打出の浜辺まで押来り、左馬助と辻の辺にて出合頭に出逢て、力を尽し花々しく戦ひける、されども左馬頭が二千騎は大軍に引包まれ或は討れ、或は落去り、今は左馬助一人になりければ、終に一方を切抜て湖へ馬を颯と乗入れたり、左馬助其日の出立は、二の谷といへる名だかき兜を着、白棟に狩野永徳が絵きたる雲龍の陣羽織にて、大鹿毛といふ駿馬にまたがり、さゞ波や志賀の浦風に立波を蹴立蹴立、唐崎の一木の松を目当として、閑々と馬を游がせたり、羽柴の大軍口々に今見よ/\とてたゞ悠々と望居たり、左馬助はやがて唐崎にあがり、追来る大軍を遠見して休みつつ、追兵既に四五町に及ぶ時、只一乗に坂本へ馳入、十王堂の格子に馬を繋付、其身は坂本の城に入り、亡主光秀の妻(服部出羽守保章女也、台徳公の御生母宝台院殿とは再従柿味なりといふ)自然天然といふ二人の子を天守に登せ、其身の妻子をも共に刺殺し、焼草に火をかけ天守半燃あがるを見て、其身も腹十文字に掻切、火の中へ飛入て名を今の世まで残しける」。今|戸津浜《トツノハマ》の東南寺址(今津堂とも云ふ)即城址とぞ。
 
三津《ミツ》 下坂本の浜の古名なり、穴太の東なる唐崎より比叡辻《ヒエノツジ》の辺までに渉る、又|戸津《トツ》と曰ふ山槐記、元暦元年注進の近江名所に富津浜と記す、又元徳二年日吉行幸記にも、戸津の升米を以て神殿造替の料足にせらるゝ由見ゆ、一方の関津なりき。〇輿地志略云、三津又戸津下坂本の惣名なり、猿楽者流兼平の謡に「富津坂本の人家まで残なく見ゆ」と云も是なるべし、三津とは成務天皇志質の高穴穂にましませしなれば、坂本の津を御津とは書すなり、三港の義にあらず、続拾遺集に「なゝそぢに三つの浜松老ぬれど千代のよはひはなほぞはるけき」井蛙抄に此歌を評して近江坂本の三つの浜なりと云へり、刀剣工に来家のものに光包あり、戸津左助と号し花園院の御宇の京なり、又中堂来と云は光包其比叡山の中堂に祈念して造る所とぞ。
 もろびとの願を三つのはま風にこゝろすゞしきしでの音かな、〔新古今集〕             慈円
延暦寺祖伝教大師最澄は三津首百枝の子なり、即此地の人たるを知るべし、然るに大師宝亀十一年度牒に「三津首広野、年給伍、志賀郡古市郷、戸主浄足戸口」と載たるは疑なきに非ず、而て度牒の中に尚「国分寺僧最寂死闕之替」の由見ゆれば、最澄は初め国分寺に在りしに似たり、国分寺は即古市郷の地なれば、最澄父子は当時大友郷の三津を去りて、古市郷の国分寺の辺に移りしにや。
補【戸津】〇輿地志略 来光包は坂本の鍛冶刀工なり、戸津左助と号す、花園天皇の御宇下坂本戸津に住す、戸津来と号す、延慶の頃より慶長八年まで二百九十年に至る、これ古今銘書大全等にしるせり、中堂来とは光包比叡山の根本中堂に通夜し祈念して作る処なり。俗説に三津浜とは芦津今津にて、皆今の下坂本のことなりと、非なり、戸津を或は富津につくる。
 
(645)大和《ヤマト》 今坂本村の字|森本《モリモト》と曰ふ辺を大和庄と号せり、延喜式、滋賀郡倭神社此に鎮座し、森本明神と称す、蓋大倭三輪神を祭る者にして後日吉大宮と云ふは是を移せる者ならん、最澄此倭神の氏子なりければ、小比叡の地主神に配当して大比叡と申しゝ如し。〇輿地志略云、高畠の北|作道《ツクリミチ》の南、往還より西の方、三町四方許を大和の荘と云、山家要略記曰、元慶七年、西三条、女御施入、当国志賀郡大和荘、奉常住明王云々、保元物語曰、六条判官尋まゐらすべきよし、播磨守に仰付らる、十六日清盛三百余騎如意山を越て三井寺を求むれどもなし、東坂本にある由聞えて、大和の庄泉が辻と云処を追補す、是無動寺領なれば、大衆起つて寺領を追補する条無念なり、子細あらば山門に相触れてこそ沙汰を致さめ、左右なく乱入の条狼藉なりとて、軍勢に向つて散々に相戦ふ、官軍神威に恐れて引き退く間、大衆勝つに乗つて又大津の東浦を焼き払ふ。〇按に保元物語に又為義は三河尻五郎大夫景俊が家に在る由を記す、三河尻《ミツカハジリ》は三津の河尻にて泉の辻と云ふも同処ならん、平家物語、源氏追討使北国下向の段に「逢坂関より始めて片道を賜りければ、権門勢家の正税官物をも恐れず一々奪とり、志賀唐崎三河尻、真野高島を通られける」云々、万葉集に三河《ミツカハ》瀬と云ふあり、又此か。
 三河《ミツカハ》のふちせもおちずさでさしに衣手ぬれぬほす子は無しに、〔万葉集〕
 
来迎《ライカウ》寺 下坂本村大字比叡辻の北に在り、天台宗延暦寺に属す、殿堂輪奐殊に絵画の蔵幅に富む、興立繁昌の縁起を詳にせず。或云、来迎寺の十界図は天下の名品にして、六道十五幅巨勢弘高筆と伝へ、方今海内無双と称せらる、近年十二天十二幅(高階隆兼筆)と共に国宝に列す、其他大羅漢十六幅以下数十点あり。寺境に森三左衛門可成の墓あり、元亀元年戦死の事、坂本城址の条に見ゆ。
 
西教《サイケウ》寺 坂本村の北に在り、来迎寺の西北十八町、日吉神社の北十町、横川谷に通ずる奈良坂山径の傍に在り、本堂高閣諸宇広麗華潔なり。本尊仏は洛東法勝寺の薬師如来を奉ぜり、天台宗真盛派の本山にして、叡岳中の別流なり。寺祖は即真盛上人、文明明応の頃時誉を馳せ、公武の帰依頗厚大なり、横川衆徒の招請に依り此寺に講説したり、明応四年伊賀国西蓮寺に寂す、其教は寡慾清浄念々仏に在り、其徒弟推して西教寺の一祖と為し法流を分つ、勅諡慈摂大師と云ふ。近世寺僧に真超と云者あり、其の著はす所、玄義訓釈玄籤十四巻、四教義解新鈔、六局観心異論訣、西谷名目抄、念仏選摧抄、十宗略記、破邪顕正記等数部あり、超曾て日徒たりし時法華宗略名目を著はす、後其の偏見を悔ゆと云ふ、万治二年寂す。〇西教寺に明智光秀一党の墓あり、また国宝には恵心憎都経曼荼羅一幅この寺に蔵む。
 
滋賀院《シガノヰン》 坂本村|真葛原《マクヅハラ》に在り、日吉神社の東南に接す、旧日光山輪王寺貫主天台宗管領法親王の里坊にして、明暦中創建す、同時に東照宮慈眼堂讃仏堂等を起し、江戸幕貯の旨を体したり、近年院内多く頽破に就くと云ふ、此辺延暦寺東塔の界内とす。
 
真葛原《マクヅハラ》 滋賀院の辺の古名なり、洛東円山の辺にも同名あり、相伝ふ慈鎮和尚初め天台に居り、里坊は此里なりければ、真葛原の秀詠あり、後洛東に移りけるより世俗和尚の住所につけ、洛東にも真葛原を立てたりと。 我恋は松をしぐれの染めかねて真葛がはらに風さわぐなり、〔新古今集〕       慈鎮
 
生源《シヤウゲン》寺 輿地志略云、坂本|作道《ツクリミチ》に在り、伝教大師は神護景雲元年八月此処に降誕す、後一寺を建て生源寺と号す、今観音堂七間四面なり、西塔院内の里坊とし、山門一山の世俗事を執行する処にて、山門八別所の其一なり、此処の鐘を猿ども集りて撞きたること太平記に見えたり。凡延暦寺は山谷に堂塔を立てゝ、修禅行道の所と為せど、住宅は多く之を坂下に居き、東西共に山麓に僧房を営みたり、座主門跡の院室の如きは近世皆京都の辺に移されたれど、昔円融院も東坂本に在りと云へり、円融院今西坂本の大原三千院に合同し、梶井門跡と号す。〇平家物語、山門御幸の条云、寿永二年七月廿四日の夜、法皇は窃に御所を出させ、鞍馬へ御幸なれど、是は猶都近うて悪しゝとて、横川《ヨカハ》へ入せおはします、大衆起りて東塔へとぞ御幸はなるべけれと申しければ、東塔の南谷円融房御所になる、かゝりしかば衆徒も武士も皆円融房を守護し奉る、さる程に殿上人すべて加階を望み所職を帯する程の皆馳参し、房には余に人多く集ひて堂上堂下門内門外ひまはざまもなうぞ満々たる、山門の繁昌門跡の面目とこそ見えたりける、木曾殿は既に廿二日を以て攻上り、天台山東坂本にみちたる事なれば、同廿八日法皇都へ還御なる、木曾五万余騎にて守護し奉る、近江源氏山本の冠者義高白旗さして先陣に供奉す、此廿余年見ざりける白旗の今日又都へ入る珍しかりし見物なり。
 
比叡山《ヒエノヤマ・ヒエイザン》 今坂本村に属す、近江山城二州に跨り、南は滋賀山に接し北は遠く比良山に連る、山勢※[山+肖]峻、絶頂を大岳と曰ふ、抜海八五〇米突、峰巒起伏して方五十余町に盤踞す。大岳の東傍に延暦寺中堂あり、(抜海六八○米突)大岳の南に四明峰《シミヤウダケ》無動寺あり、大岳の西北は西塔《サイタフ》の峰勢北走して大原|魚山《ギヨサン》の嶺と(646)為る、横川《ヨカハ》嶺は大岳と一縦裕を隔て其東北に横亘す。凡比叡の水、西面は皆高野川(賀茂川上游)に注ぎ、東面は横川谷に匯し大宮《オホミヤ》川と為る、自余は穴大|仰木《アフキ》の山より直に大瑚に注ぐ。〇此山は延暦寺の寺界にして、堂塔諸所に散在し、幽邃の勝を占め、眺望の遠を攬れり、凡四領に分つ、東嶺(中堂并坂本)南領(無動寺)西嶺(西塔青龍寺)北嶺(横川安楽律院)是なり、坂路は東面を東坂、西面を西坂と云ふ、其登躋は岐分して数路ありと雖、東坂は坂本村より中堂に至る二十八町、西坂は修学院より四十町。(雲母坂と云)〇比叡は古書日枝裨叡又は日吉に作り、其天台教を伝へたるより天台山と称す、故に略称叡山台嶺又日支に作る、按に此山は夙に古事記に「淡海之日枝」と見ゆ、其は「速須佐之男命、娶大山津見女、名神大市比売、生子大年神、大年神娶|天知《アメシル》迦流美豆比売、生大山咋神、亦名山末之大主神、此神者坐近淡海之|日枝《ヒエ》」と載せたり、大山咋神の子は山城賀茂の神なれば其盛烈想ふべし、平城京の時、近江守藤原武智麻呂山中に禅室を搆へ、(神宮院即是れにや、日吉禰宜口伝抄に神宮寺或は香積寺と云)其子仲麿、天平中又国守と為り、先考の旧栖を訪ふ事古書に見ゆ、延暦中最澄の開山に先んじ已に人の着手あるを知るべし。武智麿家伝云、公欽迎無為之道、咀嚼虚玄之味、優遊自足、託心物外、遂登比叡山、淹留弥日、爰栽柳樹一株、謂従者曰、嗟乎君等令後人知吾遊息之処焉。又懐風藻云、
   五言、和藤江守詠裨叡山先考之旧禅処柳樹之作、
                  麻田陽春
 近江惟帝里、裨叡寔神山、山静俗塵寂、谷閑真理専、於穆我先考、独悟闡芳縁、宝殿臨空搆、梵鐘入風伝、煙雲万古色、松栢九冬鮮、日月荏苒去、慈範独依々、寂寞精禅処、俄為積草※[土+穉の旁]、古樹三秋落、寒草九月衰、唯余両楊掛、孝烏朝夕悲、
伝教大師「我立杣《ワガタツソマ》」の後に及び、世俗比叡とは天子大師と叡慮と等くし給ひ、以て道場を建て給ふが故に、此名ありと云ふ、妄誕の極なり。近年此山中に或人石器時代の遺物を拾得したりと云ふも、其原人の遺跡たり否やは未だ明白ならず、貝殻ある事は下に援く。
   叡山        林 羅山
 艮岳従来守紫宸、先王立作国家鎮、雲波五色三津浦、星斗千年七社神、湖水朦朧空得月、山桜寂寞自過春、好風実景非無意、吾亦東西南北人、
   将西帰、預贈叡山鈴上人、  釈六如
 龍盤虎踞旧帝都、天台佳麗天下無、春風三月千峰雪、片々吹落琵琶湖、吾将去棹月夜舟、請君酒掃江上楼、楼下百尺風※[さんずい+猗]細、臥吹玉笙下鹿洲、
禰【比叡山】〇南山遺艸
   元弘元年八月、俄に比叡山に行幸なりぬとて、彼山に登りたりけるに、湖上の有明ことにおもしろく侍りければ
 思ふことなくてぞ見ましほのぼのと有明の月の志賀の浦波 (新葉集)         文貞公
太平記もやゝ同じ、又坂本合戦の条より推考するに、師賢の山門より落て志賀を過給ひけるは八月廿八日の夜の事と覚ゆれば、有明の月を打ながめし風情、さも有ぬべし、
   同じ頃の事にやありけむ、ある野原の中にて夜をあかしけるに、秋の末つかたなれば、虫の声々きほひなくをきゝて思ひつゞけ侍りける
 いにしへは露わけわびし虫のねをたづねぬ草のまくらにぞ聞く(同)
 
大岳《オホダケ》 四明《シミヤウ》峰の東北に並び、二一六〇尺、即|大比叡《オホヒエ》峰にして、西塔の正南、中堂の西南各数町を隔つるのみ。太平記山門合戦の時、敵山に登り官軍支へず大講堂の鐘撞きければ新田義貞兵六千東坂より馳上り、敵を切崩し遂に大岳に屯し、接戦連日に及ぶ由見ゆ。
 ひえのやま其大嵩はかくるれど猶水飲はながれてぞふる、〔堀河後百首〕      俊頼
 大嵩のみねふく風に霧はれてかゞみの山に月もくもらぬ、〔新勅撰集〕       慈鎮
 大たけの峰さわがしく吹風をしづめずばいざ法のともし火、〔拾玉集〕       慈鎮
 夏ならぬ草とりかへし植し田のひえのやまずも生ひにけるかな、〔躬恒家集〕
水欽《ミヅノミ》と云は南嶺無動寺に在り、又|黒谷《クロダニ》と云は西嶺にして飯室と云は横川谷の属なり、小比叡は横川領の南の尾にして一名|波母《ハモ》山と曰ふ。
 
日吉《ヒエ・ヒヨシ》神社 又|山王《サンノウ》権現社と曰ふ、坂本村の西、比叡山の麓に在り、横川谷の水祠前を過ぐ、即|大宮《オホミヤ》川と名づく。此神は延暦寺建立以後僧徒の奉ずる所と為り、地主にましませしが故に山王と号せしめ、種々の附会を為せり。平安京の時山門の寺僧事あれば毎に神輿を挙げて公家に逼る、之を神輿振と称し京師戒懼甚しかりき、元亀二年、織田氏山徒の暴横を憎み、寺中を放火し山王に及ぶ、天正十九年豊臣氏再興、明治維新の際山王権現の号を去らしめられ、官幣大社に列す。
旧説に拠れば山王廿一社と号し日吉を比与志と訓み、大宮二宮に五座を配祀し之を七社《ナヽヤシロ》と曰ふ、猶中七社下七社あり、都合廿一と為し、其祭神を談ずる最妄誕なりき、例せば祠前の三渓梁は豊臣氏共に之を石に造替すれど、旧制は閣道にして之を橋殿《ハシドノ》と呼ぶ、其説に五水落合て五の色の波立、天地開闢の始より「一切衆(647)生、悉有仏性、如来常住、無有変易」の響き止りて、土《ツチ》濃《コマヤカ》なり、山王大権現其響を聞し召て大乗流布の霊地也と託宣あり、故此地を波止土濃と云と、
 橋殿のまきの板はし石はしにつゞきてのぼるやまぞかしこき、〔夫木集〕             為家
又日吉山王の説は、神社考云、山王権現者、欽明天皇即位元年、自天降于大和国磯城郡、而現大三輪神、其後大津宮(天智)即位元年、現老翁形告曰、我是大比叡大明神也云々、按日吉神号者、伝教於小比叡峰、見三光日輪、現釈迦薬師弥陀像、教問其名、神告曰、竪三点加横一点、横三点添竪一点、言已其光昇空而去、教於文字見之、竪三点横一点為山字、横三点竪一点為王字、高大不動則山也、経緯三才者王也、由是遂崇号曰山王、其山王本地諸仏、大宮権現者釈迦(天照大神之垂跡、一名法宿大菩薩)聖真子《シヤウジンシ》者阿弥陀(八幡大菩薩之分身)二宮者薬師(小比叡)、八王子者子手観音、客人《マラウド》宮者十一面観音、(白山禅定之霊神也)十禅師宮者地蔵、三宮者普賢、又中七社、牛御子者大威徳、大行事者毘沙門、早尾者不動、気比者聖観音、下八王子者虚空蔵、王子宮者文珠、聖女者如意輪、下七社、小禅師者弥勒龍樹、悪王子者愛染明王、新行事者吉祥天女、岩滝者弁才天、山末者麻利支天、剣宮者不動、大宮|竈《ヘツヒ》殿者大日如来、聖真子竈殿者金剛界大日、二宮竈殿日光月光」と、其乱雑驚くべし。按ずるに大乗院座主慶命の時、初めて日吉の諸神の本地仏を立て、近世は更に垂跡神祇を配当したり、蓋日吉は延喜式一座なる倭《ヤマト》神社を大比叡とし、先の日吉を二宮と為し、聖真子を加ふ、(此神は賀茂別雷神なるべし)後世に至り種々の附会を為し遂に七社二十一社の数に至れるに似たり。公事根源云、「日吉社者、与松尾神為同体也」と、之を古事記に合考すれば大山咋神なる事あきらけし、而も国常立尊の垂跡なりとて諸書に其談あり、日吉は二宮|小比叡《コヒエ》神を主と為すべし、初め波母山《ハモヤマ》に鎮坐す、波母山は横川領の南尾にして今牛尾又は東尾と云ふ、現在大社の上方の峰なり。
 はも山や小比叡《コヒエ》の杉のみやま井はあらしもさむし問人もなし、〔風雅集〕       日吉神御詠
此山其南西なる大岳より卑小なれば其名ありと知るべし、
 大比叡や小比叡の山も秋くればとほ目も見えずきりのまがきに、〔曾丹集〕日与志《ヒヨシ》山と云ふも此に外ならず。
 日よしやま七坐す神の跡たれてくもらぬ影は世を照すらん、〔夫木集〕          経任
大比叡小比叡の二神を延暦寺の法王と崇敬する事情は類聚三代格、仁和三年大政官符云、
   応加試年分度者二人事
    一人、為大比叡明神分、大毘盧遮那経業、
    一人、為小比叡明神分、一字仏頂輪王経業、
 右延暦寺座主法眼和尚位円珍表※[人偏+稱の旁]、故祖師法印大和尚位最澄、延暦末年、奉使入唐、求法事訖、西朝重我国家、称為礼義之郷、当寺法主大比叡小比叡両所明神、陰陽不測、造化無為、弘誓亜仏、護国為心、所伝真言感頂之道、所建大乗戒僧之壇、祖師創開、専頼主神、若不然者、何立此業、永鎮国家、頃年度僧惣八筒人、其六人者於東塔院、皆為鎮国、其二人者於西塔院、就中一人為賀茂明神分、一人為春日明神分、主神独無其分、貞観二年擬奏其由、依違不言、黙州而至此、恐神明怒、且夫祖師、習得咒験、仍於延暦天子聖躬不予之時、依経修法、奉資宝祚、山家之開泰、莫不頼此功、是以東西弟子、至今勤修、伏望蒙加度者二人、為両神之分、※[角+羊]地主之結恨、増護国冥威云々、
この仁和の官符に依れば当時已に日吉社に加茂春日の二神を勧請せるに似たり、彼七社の中なる聖真子は賀茂神を指し、大宮二宮と聖真子をば山家にては三尊又三聖と称せり、春日神は十禅師と云ふに当る如し。瀬見小河云、延暦寺根本塔中の三聖と云は二宮権現小比叡大明神、大宮権現大比叡大明神、聖真子菩薩の三神なりと、天慶の古記に見ゆ、山家要略記には二宮を雷神とも記せり、山門堂舍記に載たる延書十二年官符に「地主山王一切神祇」と記す。今按に山家要略記に相応和尚検封記を引て曰く「二宮小比叡明神、国常立尊、地主権現、法号華台菩薩、最澄奉授、為吾国之地主、為吾山之山王云々、聖真子、天武元年滋賀郡垂跡、八幡一御前、八幡大菩薩、賀茂大明神、一体正哉吾勝命、舎利弗垂跡也、従仏口生之子也、法号聖真子、最澄奉授云々」と、この地主権現を国常立尊と混じ、聖真子を八幡神又正哉吾勝尊と為すなどは紛更も亦甚しけれど聖真子は賀茂の明神(大山咋の児別雷)を指したる古伝ののこれるを影なからに認むべし。又八王子は五男三女神にして客人は白山神なる由を注し、(天安二年北国より勧請)十禅師は「延暦二年天降、地主宮前天児屋根尊也」と見ゆるにて其春日神たるを推知するに足る、然るに日吉禰宜口伝抄に「小比叡別宮日樹下宮、又曰十禅師宮、件宮者宝亀年中、内供十禅師延秀、於香積寺蒙神託造、山中法師殊加崇敬、毎於舞殿為論議決択、玉依姫在樹下為神、故曰樹下宮」とあるは疑ふべし。日吉禰宜口伝抄は永正天正両度の奥書を加へ、城州賀茂社祝部牧林呂の述作とぞ、稍信拠の価値あり、然れども二三の疑惑なきに非ず、彼書に曰く「上代日吉神者、今八王子社也、此岑在比叡山東尾、又曰牛尾、又曰|并天※[土+追]《ナベテツチ》、其|五百石村《イホツイハムラ》者、山末之大主神之陵也、世(648)人曰牛尊、山末之大主神、又名大山咋神、又曰鳴鏑大神、其妻鴨玉依姫神相殿云々、崇神天皇七年有詔、祀并天槌之和魂於山本、以鴨鹿島為祝、被附神戸、天智天皇七年、大比叡営造営之後、以当社曰小比叡宮、大小之名始于斯矣、山中法師、有波母山之感見以来、配祭国常立尊、年月未詳云々(崇神七年と云は疑あれど猶古伝たるべし)大比叡宮、天智七年戊辰、詔鴨賀島八世孫字志麻呂、祭大和国三輪大己貴神於比叡山口、曰大比叡宮、九年庚午、負祝部姓於宇志麻呂、被附粟津御戸代云々、(此条明了なり)天武三年、依先帝御願、造別宮於大宮之東、奉移田心姫神、世人曰宇佐宮、後日聖真寺宮、聖真寺者在別宮之南、直僧通夜于此云々、弘仁年中、伝教大師又祭応神天皇、(此聖真子の縁起最疑ふべし、賀茂明神の聖真子と八幡大神の宇佐宮を混淆せるか、城州愛宕郡なる加茂の本地堂を聖神寺と云ふは、即聖真寺と云ふに同じ、以て宇佐大神に非るを知るべし)早尾《ハヤヲ》社、大宮之別宮、同時造殿、素盞嗚尊(また不審なり)大行事《ダイギヤウジ》社、祭大年神、大山咋神之父也、陵在社後、山曰旋台、又曰華縵台、私云華縵台者、御母陵歟、新行事社、祭天知加流水姫、大山咋神之母也、仁和中大物忌行事秋主、新物忌行事弘津造殿、故世挙曰大行事社新行事社、竈殿、祭澳津神、大山咋神之兄也云々、小禅師社、祭玉依彦神、延暦年中、香積寺延秀、弟子延暹、依宿願造別殿、世俗曰小禅師宮、延秀延暹俗姓賀茂県主、(小禅師は実に玉依彦神を祭るに因り、春日明神の小禅師を玉依姫に誤れるに非ずや)王子宮、別雷神降誕之産屋、権殿也、在禰宜祝等斎舘之北、中島之地、四月末日御祭、小比叡宮荒和之神四柱行幸、被遣降誕之仮儀、昇天之仮儀、入夜宴将終、酒盞擲地、在地警固人々、作鯨波声、儀仗一人、捧白羽箭趨出、四柱神輿競先、出御於大比叡宮、貞観年中、慈寛大師感見文殊師利於中島、造聖経蔵云々、別雷神昇天之時、丹塗矢鳴動飛去、在比叡社、其後飛去在乙訓社、又飛去在松尾社、今猶現在云々(此条は山城の賀茂松尾乙訓の諸社に参看すべし)天智七年、慶雲薄靡于比叡山之東尾、八人童子天降于弁天※[土+追]之上、漸々歌舞而降于小比叡之華縵台、人々皆曰五男三女神之化身、私建八柱小社、放曰八王子宮、又奉移其小祀子小比叡宮之南、曰三宮(山家要略記に「三宮女体、延暦六年、従空乗雲、金大巌傍、天降八王子中、三女也」と曰へり、按に三宮は比良明神白髭明神などと称する者に同じかるべし、高島郡水尾村の志呂志神社は俗に日吉三宮と唱ふ、但し比良神は女体なること元亨釈書に見えたるを、志呂志を白髭に訛りたるより、其文字によりて老翁なりと想はれ、猿田彦神に転化したるか)其余諸説長けれど、今大略を挙げて神仏の混淆、并に変化沿革を明にす。
      聖真子に奉りける
 やはらぐる光りはへだてあらじかし西の雲井の秋の夜の月、〔続後撰集〕       良仙
      客人の宮に奉りける
 こゝに又ひとりをわけてやどすかな越のしらねやゆきのふるさと、〔続古今集〕    良経
名所図会云、日吉神社鎮坐の後火災両三度、元亀二年信長山門破却の時、廿一社ともに焼亡して、天正七年元のごとく建立ある、又神輿を振り、天子へ嗷訴する事、堀川院長治二年大内裏待賢門に振奉るを始めとして、其後応安応永の頃迄凡十度にて、半は戦に及び殺害多し、今におよび神輿の渡御に「さはらばひやせ」などの俗言も其遺風なるべしと云ふ。
 
大比叡宮《オホヒエノミヤ》 即|大宮《オホミヤ》なり、大和三輪神を祭る、蓋延喜式倭神社即其旧址にして、延暦寺創開の比、之を今の地に祝祭し、大比叡と称ふ、以て小比叡に対比したる也。〇神祇志料云、大日吉神は又大宮と云ふ、今坂本に在り、三輪の大物主神を祭る、初め桓武天皇延暦中、僧最澄仏法を攻めむ事を三輪神に祈つるを以て、其延暦寺を建るに及て即此神を寺の守護神とし、古より此山に鎮座す大山咋神を甚く貶《おと》しめ奉りき、故れ此後大日吉神尤も顕る、〔山家要略記、叡岳要記、袖中砂、日吉社秘密記、元亨釈書、廿二社本縁〕清和天皇貞観元年従二位勲一等大比叡神に正二位を授け、陽成天皇元慶四年正一位に叙さる、〔三代実録〕光孝天皇仁和年中に至り始て神殿を粧ふ事二宮の祉制に准ふ、是よりさき本社尤矮小きを以て也、〔日吉社記引大宮縁起鈔〕後世日吉神、大日吉神に聖真子八王子客人十禅師三宮の五座を加へて山王七社と云ひ、〔諸神記廿二社注式〕又大行事、牛御子下八王子早尾等の四座を祭る、〔玉海諸神記〕おもふに是皆僧徒私に仮設る所の神にして、古の明神にあらざる也、〔参酌山家要略記日吉秘密記大意〕然れども朝廷又頗る其神威を崇め奉りき、〔玉海百錬鈔一代要記〕後深草天皇建長二年五座並に正一位を加ふ、上皇臨時の御祈に依て也、〔帝王編年記、参取諸社根元記〕正嘉二年新に神輿七基を造て本社に送り奉る、〔帝王編年記〕後醍醐天皇延元元年正月、天皇東坂本の皇居に坐時官軍の集《ツドハ》ざる事を憂給ひて、宸筆願文を大日吉社に奉り、十月新田義貞越前に赴く時累代の宝刀鬼切を神殿に納めて戦勝を祈り申しき。〔太平記〕
補【大日吉宮】〇神祇志料 大日吉神、又大宮と云ふ(山家要略記・袖中秒・廿二社本緑)今滋賀郡日吉山の坂本に在り(厳神妙・東海道名所図会)三輪の大物主命を祭る。公事根源、日吉杜者与松尾神為同体也、後朱雀院長久四年六月八日初備二十二社之数、後三条院延(649)久四年四月二十三日初祭之。
 
二宮《ニノミヤ》 大宮の北に在り、小比叡神即是なり。〇神祇志料、二宮旧比叡山の西谷横川の間小比叡にあり、後之を神路山に移す、〔淡海地志東海道名所図会〕按に厳神妙、小比叡の峰を又波母山と云ふ、大年神の子大山咋神亦名山末之大主神又名鳴鏑大神を主として、御妻鴨玉姫神を配祀る、〔古事記又名以下拠日吉社禰宜口伝抄〕 口伝抄に、比叡山東尾並天※[土+追]五百津石村は大山咋神の墓陵にて、神宮寺御蔭大岩は鴨玉依姫神の墓陵と云へり、考ふべし、大山咋神は即賀茂別雷神の御父神也、(釈日本紀袖中鈔諸神記〕乎域天皇大同元年近江地二戸を神戸に充奉りき、〔新抄格納符〕是よりさき僧最澄仏寺を山上に建て三輪神を遷奉て日吉大宮と云ひ、本社を二宮小比叡神と云、蓋大宮を崇めて本社を貶したるなり、されど古より鎮り坐神なるを以て又之を地主神と云ふ、〔山家要略記袖中抄山門堂舎記日吉社記廿二社本縁日吉社秘密記元亨釈書〕清和天皇貞観元年、従五位下小比叡神に従五位を授け、陽成天皇元慶四年従四位上に叙され、〔三代実録〕醍醐天皇廷喜の制名神大社に列る〔延喜式〕円融天皇天元五年幣帛使を遣して音楽走馬を奉り、〔日本紀略〕後朱雀天皇長久四年勅して毎年内蔵寮官幣を奉るべく制給ひ、〔師遠年中行事年中行事秘録〕後三条天皇延久三年十月行幸あり、日吉行幸此に始る、〔百練抄扶桑略記一代要記日吉山王縁起鈔〕四年四月壬申始て官幣を立て祭を行ひ、白河天皇永保元年永く廿二社の列に加へ奉り、〔百練抄師光年中行事裏書〕崇徳天皇保安四年法皇日吉神輿を修めて本社に還し奉らしむ、延暦寺僧徒平忠盛等と戦て神輿を棄去して以て也、〔百練抄一代要紀〕初め鳥羽崇徳の朝より後、延暦寺僧徒動もすれは神輿を舁て京に入り事を訴ふ、若し請ふ所を得ざれば神輿を棄て去る、朝廷唯神威を畏れて其罪を正す事あたはず、或は枉て其意に従ひ或は之を慰めて神輿を還奉らしむ時、必ず使を遣し幣を奉るもの史に記す事を絶えず、〔玉海、東鑑、百練抄源平盛衰記大意〕六条天皇仁安二年、太上大皇御幸し給ふ其儀行幸の如くにして甚盛なり、〔百練抄平範記〕寿永二年、九月上皇御幸して正一位を授奉り、〔参取玉海百練抄柱史抄諸神記廿二社注式〕後鳥羽天皇文治元年六月法皇本社に幸し競馬を行ふ、平氏敗績に依て也、〔天台座主記百練抄〕建久三年法皇不予の御祈に臨時祭を行しむ其儀賀茂臨時祭に准ふ、(百練鈔皇代記〕凡日吉の祭毎年四月十一月申日を用ふ、其冬祭之を臨時祭と云、〔年中行事秘鈔公事根源日吉社記〕今に至て四月大津浦に神幸あり、初め天智天皇庚午の年、鴨県主宇志麻呂祝部として仕奉りしより、其裔世々大榊を執て神幸の祝詞を奏す、此日又幸鋒を立て炬火を燃し、志賀浦の桂を取て賀茂社に奉り、賀茂祭の後葵を本社に奉るは、蓋上古別雷神を天降し奉りし時の遺風なり、〔鴨県主系図、日吉鎮坐記、日吉秘密記、日吉社記、詞林採葉鈔、此日以下参取年中行事秘鈔伊勢名所図会瀬見小河〕凡大小比叡両社に仕ふる者、禰宜、神主、祝、権禰宜、神主、祝等三十余人各其半を分て左方右方と云ふ。〔山家要略記日吉社記〕〇輿地志略云、山の田楽は坂本を始めとするにや、古昔ありて今はなし、日吉大夫は郷民にて、神事の為に猿楽を学び遂に一派となる。〇按に、山王の使者は猿と云諺は、古へ此山に猿多く栖める故にや、又申日に祭礼ありし故にや、湊合して云ひはやす言にや詳ならず、叡岳要記に仏経を援けど妄語耳、袖中抄に猿の異名をたかと云ふとあり、俊頼卿の歌に 「たかの御子いともかしこくみましける猿丸をしもひきたててとや」とあり、日吉社にては猿をばたかのみこと呼ぶと和訓栞に見ゆ、又一名いその帯刀《タチハキ》と云ふと、霊異記元亨釈書に御上嶺の陀我神の使者は白猿なりし事を記載す。山末《ヤマスヱ》社跡は大宮の東に在り。瀬見小河云、日吉社に於て桂を神木の随一とする事は日吉秘密記に録せられ、神輿の画紋は葵なり、賀茂の桂葵を用る古事に同じかるべし、又其日も加茂祭と同く四月中の申日にて、御阿札木をば大榊と呼ぶの異あり、此大榊は即山末社に安置す、山末とは大山咋神の亦の名にて山末之大主神と申すを別に祭りたる荒祭宮の類ならん、秘密記に山末神は本地摩利支天にして、日吉神主の祖琴御館宇志麿是也と云は妄説なり云々。
 東より琴の御館にさそはれて此山末にとまる松風、〔秘密記〕
   天台座主にて侍りける時、日吉の祭の日禰宜匡長がもとよりかざしの桂を送り侍りければ、
 ひさかたの天つ日吉の神まつり月のかつらもひかりそへけり、〔風雅集〕       法親王尊円
 
延暦寺《エンリヤクジ》 比叡山《ヒエイザン》に在り、天台宗の大本山にして山門《サンモン》と号す、延暦七牛僧最澄(諡伝教大師)開創、初め一乗止観院と曰ふ、後堂塔増加し東塔院西塔院の二と為り、弘仁十四年嵯峨天皇勅して延暦寺の号を賜ふ。天長元年僧義真を以て本寺貰主と為し天台座主と曰ふ、丈徳清和の朝に円仁(諡慈覚)円珍(諡智証)并に入唐伝法して宗風を振ふ、珍又三井寺を以て天台の別院と為す、後世に至り三井の徒自立して戒壇を置くや延暦寺之を聴さず、両寺確執決せず歴世相争へり、凡中世僧兵の強盛本寺を推して第一と為し、号して山徒山法師と曰へり、近世に至り漸く衰勢に就く。〇延暦寺は名にし負ふ貴刹なれば、宝器亦多けれど、中世焚掠の災を免れざりし如し、今弘仁帝の哭澄上人の御製は青蓮院門跡に伝へ、澄上人の将来目録一巻羯磨金剛(650)目録一巻は本寺に所蔵し并に国宝に列す、寺塔の事は下に見ゆ、幾多の条目あり。比叡山の荒法師の事は、其一例、平家物語に状態を叙せり、「山門の堂衆と云は学生の所従なりける童の法帥若しくは中間法師ばらにてもや有けん、一年金剛寿院座主学尋治山の時、三塔決判して夏衆《ゲシウ》と号して仏に花参らせし者なり、然るに近年行人とて師主の命を叛きて既に謀叛を企つ、是により平清盛承り官兵二千堂衆を攻めらる、堂衆日比は東陽坊にありけるが、之を聞て近江の国三箇の庄に下向して数多の勢を率して又登山し、さうい坂に城郭を構へて立籠る、学生大衆三千人官軍二千人さうい坂に押寄せければ、城の中より弩しかけたりければ、大衆官軍数をつくして討れけり、堂衆に語ふ悪党と云は諸国の窃盗強盗山賊海賊どもなり、慾心非常にして死生知らずの奴原なり」云々、また参考本源平盛衰記云「治承二年、天台の山上坂本静ならず、八月学匠は義竟四郎を大将とし堂衆の塔舍を截払ひ、西塔東塔大納言の岡に楯籠て城※[土+郭]を構ふ、堂衆我執を起し西塔北谷東陽房に向城を搆て攻附け、義竟討れて学匠即引退く、堂衆は猶三個荘へ下向し国中の悪党を相語ひ、九月数千の勢を具して坂本早尾に城を搆て籠りける」玉海云、「治承二年十月、山門合戦、学生方兵士等、為攻堂衆、焼払大津在家等」山槐記云、「治承三年十月、為焼払近江国三箇庄、被遣官兵、三日宿勢多云、堂衆以横川無動寺為城、三箇庄又依為彼等、為其依怙」歴代皇紀云「治承二年十一月、学生等寄戦早尾城、学生被追落、其後山門弥以荒蕪、西塔禅衆外、凡無住侶、十二月漸以和融、三年六月、堂衆蜂起、以横川并無動寺為城、学衆以東塔並坂本為城、庄々兵士等皆召上之、度々合戦、十一月前座主明雲還補、有和天台止観の一宗中古海内諸州に流布し、真言と並行して盛大を極む、南都古京の六宗が初めより京畿に偏局したる者と頗相異せり、其諸州流布の源由と想はるるは、類聚三代格、承和二年官符云、
   応令天台宗伝弘諸国事
 右伝灯大師位義真表※[人偏+稱の旁]、凡諸宗業廃一不可、七宗年分度者、受戒之後、各試其業、依次差任、立義復講及国講師者、天台一門已立円宗、大乗之学流転末周、望請別当簡堪為読講師者各一人、毎年申官補之、今演伝件宗、其一任之内、毎年安居法服絶断、依先法師最澄所奏年分之式、便収納当国令国郡官司相共検校、将用国内修池溝耕荒廃造船橋殖樹木蒔麻紵之料、謹請官裁者云々、勅依請、
又元慶五年官符云、
   応天台真言両宗、次擬補諸国講読帥事、
 右奉勅、件両宗、各争宗業、已致喧嘩、論之彼道、豈謂平等、事須次第相承、彼此迭補、絶共競情、勿令違越、自今以後如此代補、永為常事。
輿地志略云、寺界は叡岳要記に「延暦寺、在日本国近江国滋賀郡比叡山、大堺地三十六町、周山四方谷六里、伝教大師結界内地浄刹也、其結界、東限比叡社并天※[土+追]、南限登美溪、西限大比叡小比叡南峰、北限三津浜横川谷云々、又仁和元年(光孝天皇)大政官符云、近江国応早勘定言上延暦寺外堺事、四至、東限江際、南限富谷、螺限下水飲、北限楞厳院」と、また「天永二年、依太上天皇(嵯峨大豊)先勅并当代詔勅、従近江国賜正税九万束、造立戒壇院、正殿一宇并講堂細殿一宇也、円融院之御時宣旨曰、左弁宮下、近江国、応延暦寺代々御願堂塔造作修理間、免除東坂本并三津浜苗鹿村人臨時雑役事、天元二年八月下」とありとぞ、相伝ふ往古は比叡山九院十六院ありと、九院は止観院定心院※[手偏+總の旁]持院四王院成壇院八部院山王院内塔院浄土院也、今寺領五千石あり、内千五百石は上坂本、七十三石は葛川、豊臣秀吉公の御寄附、下坂本三千四百二十七石は東照神君の御寄附也、東塔四十六坊、無動寺谷(南嶺)十二坊、西塔二十一坊、横川十四坊、飯室谷五坊、合百九坊、坊領毎坊に二十土石づつ、其中東塔正覚院南光院各百石、西塔正観院横川恵心院各五十石を領す、山門執行代といふものあり三塔各一院之を掌る、中座殿といふ者四人あり僧にあらず、公人といふものあり是亦僧にあらず聚斂を掌役なり、中衣といふあり又雑掌なり。〇近世延暦寺諸門跡は輪王寺を除き、妙法院青蓮院円融院曼殊院の四門ありて、皆京都の近郊に散在したり、坂本には輪王寺の里坊滋賀院ありしのみ、凡天台座主の法親王は保元元年の最雲法親王に始まれり。
 
東塔《トウタフ》 東塔院の義にして根本中堂此に在り、戒壇堂大講堂法華堂文殊楼等ありて一山の中央に居る、現存の諸建築は寛文年間の重修に係る者其多きを占むとぞ、坂本日吉社より登ること二十八町許、絶嶺の稍北東に在り。〇元亨釈書曰、延暦四牛、最澄上睿山、縛草舎、読諸大乗、乃発大願、時年十九、七牛於山頂創一宇、名曰|一乗止観《イチジヨウシクワン》院、今之中堂、所謂延暦寺也、澄自刻等身薬帥像安之、廿五年、奏加天台諌法華宗、時大乗四家、華厳法相三論律也、及此為五宗、弘仁十年、奏乞建円宗大乗戒壇、帝降表南京諸寺、詳定建否、沙門護命杭表斥之、沙門景深著論摘失、澄又反詰、南寺無辞、澄有願造六塔婆、東州三所中国二所、西邦一所、今睿山東西両塔者、中国之二所也、弘仁十三年、於中道院寂、上制哭人澄上六韻、降于山、十有四年賜寺額、配紀元曰延暦、導先皇之崇建也、貞観八年勅諡伝教大師。〇瀬見小河云、宝亀十一年最澄度牒曰、三津首広野、年拾伍、滋賀郡古市郷、戸主正八位(651)下三津首浄足戸口云々、得近江国解※[人偏+稱の旁]、国分寺憎最澄寂死闕之替、応得度云々。
古事談云、昔伝教大師叡山建立の時、中堂立ん為め地を引かるゝの間、地中より蠣のからを多く引出さる、大師奇として比良明神に尋申さる、答云、件の事吾の世の事にあらず、古人語侍しは、此所円宗法文を流布せらるべき地たるに依り、諸海神等集り全て此山築たるよし語侍しかば、海底の蠣殻等出し侍か云々。
   伝教大師、比叡山の中堂建立の時、みづから斧を取て杣木をたちそめ給ける時の歌、
 阿耨多羅三藐三菩提のほとけたちわか立杣に冥加あらせ給へ、〔新古今集・枕名寄〕
   答澄公奉献詩一首    嵯峨天皇
 遠伝南岳教、夏久老天台、杖錫凌溟海、躡虚歴蓬莱、朝家無英俊、法侶隠賢才、形体風塵隔、威儀律範開、袒肩臨江上、洗足蹈巌隈、梵語翻経閣、錆声聴香台、経行人事少、宴坐歳華催、羽客観講席、山精供茶杯、深房春不暖、花雨自然来、頼有護持力、定知絶輪廻、
伝教廟は今浄土院と曰ふ、中堂と西塔との間に在り、即古の中道院なるべし、慈覚廟は前唐《ぜんたう》院と曰ふ、光定廟は別当堂と云ふ、八部院址に妙見堂あり、千光院も東塔の中なり。〇釈書又云、円仁(慈覚)入唐、礼五台山、心中思言、若穏返国、必建文殊間、至心持念、及帰貞観二年創文珠楼、仁礼五台時、牧其霊石及獅子脚迹土、帰逮営楼、埋霊石於五万基趾、填霊土於獅子四脚下、又同書円珍伝、貞観十年、珍為延暦寺坐主、初伝教、於睿山搆三宇、北置多門天王像、号毘舎門護世堂、南※[まだれ/支]経律論、名一切蔵経、中安薬師仏像、曰一乗止観院、以其居中称|中堂《チウダウ》、久稍朽壊、珍合三宇為一堂、今之中堂也、尚存昔号、或曰不乖本乎、又良源伝、康保三年、源補天台坐主、視山務者二十年、山上堂宇敗焚者、皆復旧観、文殊楼者、慈覚之所建也、覚昔於五台、感獅子、収其足跡之土而帰、及想楼、以其土置獅子足下、楼已灰、霊土不可分矣、源於虚空蔵峰、造文殊楼、偶開故篋、得一紙、裏書曰台山獅子跡土、源喜以其土置猊足下。(良源諡慈恵大師)
延暦寺園城寺の確執は大元中に起る、即慈覚門徒良源と智証門徒余慶の争是なり、扶桑略記云「天元四年、僧都余慶任法性寺座主、于時慈覺門徒云、法性寺座主者、建立太政大臣貞信公、以慈覚大師門人補任之、仍長老四代之間、奏任座主九人、他門不交、而第五今長者、誤違旧蹤、以智証大師門徒余慶奏任、五年正月勅云、伝聞延暦寺千手院、無一人住僧、智証大師経蔵法文有紛失疑、宜仰三綱令守護者、又綸旨、天台座主良源所行、可焼亡千手院経蔵并観音院一乗寺之事、可殺害余慶穆算等五人之事、已有其聞、極以不善者、座主良源請奏云、放火殺害是罪中之大罪、設入死門不可犯悪逆、況至法性寺事、只為令不墜一門旧跡也、望請天裁、早被召問虚偽奏聞之人」云々、已にして正暦四年八月に至り、智証門徒の天台擯出と為る、同書云「観音院童子、由無実小事、禅院住僧致大愁、仍慈覺門徒、斫焼千手院房舎、并智証門徒一千余人、僧侶追出山門已畢、其後智証門徒、各占別所、不住叡山」云々と、なほ山門三井確執と題する史籍集覽本には「其後白河院御時、賜戒壇勅許之綸旨於園城寺、因茲山門蜂起、而以大軍推寄三井寺、金堂三院仏閣僧房不残一宇悉焼払、凡白河院永保元年(即承暦五)至建保二年百四十年之間、山門衆徒焼失三井寺五筒度」と記せり、長等山風には猶両門の争乱の始末を委細に述べたり。〇瀬見小河云、叡岳要記曰「衆徒武門之起、慈恵大師(良源)治山之時也、彼釈云、無文則無親上之礼、無武則無威下之徳、故文武相兼、以治天下、爰以抜愚鈍無才之僧侶、成武門一片之衆徒、是依有法之闕、無正法之具也、夫以、上古者挙世崇法、澆薄者人々疎信、於此高峰携兵具、鎮施入田園之違乱、以武勇誡邪義張行之諸宗、致正法之擁護、仍如奉四天衆」と、抑此寺は謂はゆる鬼門の凶方にありておのれ其邪鬼の凶悪を行ひ都へ神輿を振り軍を起し世を乱したるはこよなき禍寺《マガデラ》にこそありけれ、太平記にも「山門毎年の祭礼に洛中の人民を煩し、三千の聖ども国土の庄園を領すること、世の為めに費多し、惟ふに有りて益なき者は山門なり、無くてよかるべきは山法師なり、但し白河院も朕が心に任せざるは、双六の采賀茂川の水山法師なりと仰られ給ひけむ、山門もなくては叶ふまじき故候やらん」云々。
山王院《サンノウヰン》は又|神宮《ジングウ》院と曰ふ、日吉神の供憎の謂也。釈書云、最澄世姓三津氏、滋賀郡人也、父百枝、嘗愁無嗣、詣叡山、在麓神祠、其地景趣幽邃、百枝結草廬、饗香華、求子期七日、至第四暁、得霊夢、其妻乃娠、草廬今之神宮院也、乃最澄自唐還、立為国師、百枝語曰、我昔祈神祠得汝、神※[貝+兄]未報、汝其代之、澄乃詣神宮院、勤修経典数日、香炉灰中待舎利、大如麻子、頃刻灰裏出金縷器、大菊花許、即盛舎利、宛似旧物云々、又云、比叡山山王院、千手観音像、伝教大師之所安也、昔近州有浄信女、欲造観音像求良材、于時比良山有一木、時々放光、女聞之、伐其木為材、而未得巧工、偶一老翁来語女曰、我蘊薄技、能成爾願、女悦奉材、像成翁不見、其長五尺、感応無比、教得像安此院、智証大師後居於此、所謂山王院大師者也。〇鼠《ネヅミ》祠は東塔域内に在り、鼠のほくらと称す、古き物語に見ゆ、平家物語にも出づ、其大要は神社考云「白河院時、詔三井寺頼豪闍梨、祈中宮産子、曰若産子随汝所乞、既而生皇子、豪奏請立戒壇于三井寺、帝憚叡山不許、豪退怒(652)曰、我所望已不許、我所祈皇子我又取而共入庵界耳、豪死其後皇子果※[歹+且]、豪霊化為鉄鼠、登叡山、咬破仏像経論、損害不少、於是立一祠祭之、今鼠禿倉是也」。東塔の中に総持《ソウヂ》院と云ふは、木曾義仲叡山陣の時之に入り九院の第一なりしも後世廃絶す。釈書云、仁寿元年、円仁奏曰、除災致福、熾盛光仏頂為最、是以唐朝街東街西諸内供奉、恒修此法、鎮護国家、今須建持念道場、為陛下修供、蓋大唐青龍寺裏立皇帝本命道場、是其儀也、便降勅、就延暦寺建総持院、択二七僧、修持誦。〇又|定心《ヂヤウシン》院と云ふも東塔の貴刹にて、延喜式に「延暦寺定心院料三万束、西塔院料一万五千束、文殊会科二千束、造院料二万束」と載す、是等皆延暦寺へ充てられし賜税ならん。〇扶桑略記云、延喜四年、太上法皇登幸叡山、御於阿闍梨増命房、作御室於千光院、五年、法皇於叡山戒壇受戒、六年、増命任天台座主、是千光院繁昌比也、十年、法皇増命為師、習練護摩、満山僧侶流涙随喜、皆相語曰、天台之栄花、仏日之再中也、天皇伝聞、授以法眼和尚位、法皇手自捧其位記敬授。(按に宇多法皇の前蹤をふみ、此後は花山後白河の両皇、登山受戒したまふ)
   日本国最澄沙門付法文〔天台霞標〕
 比丘僧道邃稽首頂礼天台大師窃以法王出世一音演説機感不同所聞蓋異故権実之義接於諸部大小之文森然殊流要其所帰無越一実故曰雖示種々道其実為仏乗又曰開方便門示真実相喩之以衆流入海標之以不二法門自他両得同詣秘蔵此経所由作之所以雖泪鶴柵滅而法網散神足隠而宗殊塗不者只是得一心三観而取証如反掌而一言一心三観者本体不生能雖因果常住不滅遍一切処当知天真独朗之一言本来所具之三諦也三即一相亦非一又曰非異一相一切相相即不相即無相此謂一言唯仏与仏知一切法教本一切法義中一切戯論息也雖名一名不通義理雖称三観不及毀讃是以経曰諸法寂滅相不可以言宣又曰諸仏両足尊知法常無性仏種従縁起是故説一乗説一心三観只在斯一言而已於是古徳相伝曰昔智者大師隋開皇十七年仲冬二十四日平旦告諸弟子曰吾滅後三百余歳生於東国興隆仏法若有感応先呈瑞霊則一法鑰投空而入空拳衆雖慕瞻終不知所届之已而今聖語有徴矣遇最澄三蔵不是如来使豈有堪難辛然則開宗示奥以法伝心化隔滄海相見杳然共持仏慧同会龍華
   大唐貞元二十一年歳次乙酉二月朔癸丑十五日丁卯天台沙門道邃
 宋高僧伝云、貞元中、日本沙門最澄者、亦東夷卉服中、剛決明敏僧也、泛溟※[さんずい+幸]達江東、慕天台之法門、求※[豈+頁]師之禅決、属道家講訓、委曲指教、澄得旨矣、乃尽繕写一行教法東帰、慮其或問従何而聞得誰所印、俾防疑惧、乃造邦伯作援証、(中略)澄泛海到国、賚教法、指一山為天台、号一寺為|国清《コクシヤウ》風行電照、斯教大行、倭僧遙尊邃為祖師。〇仏祖統記云、十祖興道尊者道邃(中略)澄既泛※[舟+可]東還、指一山為天台、創一刹為伝教、化風盛播、学者日蕃。釈門正統云、所謂天台教者、自安史挺乱、会昌籍没以来、旧聞放失、伝者罔憑、所有法蔵、多流海東、呉越銭忠懿王、叩教相韶国師、々称螺溪寂洞明台道、王召寂建講創寺、為遣使日本、求其道逸。
   春日遊天台山        藤原信西
 一辞京洛登台岳、境僻路深隔俗塵、嶺檜風商多学雨、巌花雪閉末和春、琴詩酒興暫抛処、空仮中観閑念辰、紙閤燈前何所聴、老僧振錫似応真、〔無題詩集〕
 世の中に山てふ山はおほかれど山とはひえの御山をぞいふ、〔拾玉集〕        慈鎮
 法の水あさく成ゆく末の世をおもへばかなし比叡の山寺、〔同上〕
 
無動《ムドウ》寺 中堂の南十町、大岳|四明峰《シミヤウダケ》の東南に当る故に南嶺《ナンレイ》とも云ふ、標高六〇〇米突、比叡山の南界にして東に降れば穴太村なり、白鳥坂と曰ふ、西に降れは修学院白川村なり、雲母《キララ》坂と曰ふ。殿堂は大衆院不動堂弁天堂等あり、東塔の別所なり、此嶺は南方山低くして東西南の三面眼界開敝す、眺望頗佳なり。〇無動寺の仏殿、即不動堂にして、相応和尚開基す、釈書云、寛平二年、上有歯痛、勅相応加持、時上夢高僧八輩、与応同声相加、覚後上所患歯之落而不知所在、上以夢告応、応奏曰、理趣般若経、有八大菩産、即八十眼倶胝菩薩之上首也、彼八大士擁護聖躬、邪応帰山、見経篋上有一歯、急付近侍、奉御歯、上嘉歎曰、応師非凡也、授以僧官、兼賜度者、応受度牒、而辞僧官、初貞観五年、応等身長刻不動像、六年創一宇安置、号無動寺、又応奏請伝教慈覚二大師諡号。
 つたへくる跡はつきせず岩が嶺の動くこと無き寺のしるしか、〔月清集〕
無動寺より雲母坂を降る路に水飲和労《ミヅノミワラウ》堂と字する址あり、古書に見ゆ。
 
西塔《サイタフ》 西塔院の義にして、根本中堂の西北十余町に在り、元山城愛宕郡に隷属したり、近時改めて滋賀郡に入る、北二十町に黒谷青龍寺別所あり、今尚愛宕郡|八瀬《ヤセ》の管内にのこれり。〇西塔には今釈迦堂相輪堂法華堂椿堂元三堂常行堂等ありて、之を総べて宝幢《ハウドウ》院と曰ふ。帝王編年記云、天長二年、円澄(天台座主二世)共延秀菩薩、(大師弟子)建立西塔釈迦堂。(一名転法輪堂)〇類聚三代格、貞観元年官符云、応試度延暦寺年分者二人、一人奉為賀茂名神、一人奉為春日名神、右十禅師伝燈大法師位恵亮表※[人偏+稱の旁]、以去嘉祥三年陞下御東宮之日、珠垂恩感、毎降誕日、臨時得度今(653)千八箇年、伏冀永歳於比叡山西塔宝幢院、将試度之者、勅宜依来表。
相輪《サウリン》※[木+堂]は釈迦堂の側に在り、俗に艮岳の鬼門柱と曰ふ、古人謂ふ所の宝幢即是なり。〇山門記云、宝幢院相輪※[木+堂]、大師最澄撰銘、一基、其高四丈五尺、有九層、懸十一宝鐸、奉納諸経二十二部、
 葦芽開廓、天主下生、短歌長歌、末防魔兵、第三十主、初開梵甍、沈像焼舍、法鼓未鳴、聡耳立憲、乃信三期、便帰南岳、請経野卿、因果冷然、開悟群盲、時機未熟、淘汰五驚、天王出家、感得天平、受菩薩戒、四在轟々、海内諸州、制底縦横、雖敷法筵、未遺五茎、豈若先帝、憑天台評、新立円宗、永填火坑、年々両度、紹隆妙行、為悦冥道、起斯輪※[木+堂]、叡嶺秀聳、朝影北都、神岳嵯峨、夕臨東湖、山王一等、思存給孤、法宿為号、開顕毘盧、亦塔亦幢、延寿安身、惟経惟咒、護国済人、金刹放光、汲引迷津、宝鐸流声、発開龍神、我等発願、渇仰文殊、十生出現、普施髻珠、信謗両友、倶会四衢、同乗宝車、恒遊寂区、長講妙法、恒転法輪、五忍恒説、永息魔瞋、生涯未尽、此願不泯、成住壊空、不散此塵、
  于時弘仁十一年歳次庚子九月中旬
                  沙門最澄撰
   秋日登叡山謁澄上人     藤 常嗣
 城東一岑聳、独負叡山名、貝葉上方界、焚香鷲岑城、甑※[にすい+食]藜秦蕾※[草がんむり/霍]熟、臼飯錬沙成、軽梵窓中曙、疎鐘枕上清、桐蕉秋霜色、鶏犬冷雲声、高陽丹丘地、方知南岳晴、〔経国集〕
輿地志略云、西塔常行堂は法華堂の西に在り、始め般舟三昧院と号したり、新拾遺集に「心海、山の常行堂の縁懸の鐘にかき附侍りける」とあるは此堂の事なり。
 本覚の山の高根の鐘の音にながき眠りをおどろかすかな、〔新拾遺集〕         心海
補【西塔】〇山城名勝志 帝王編年記云、天長二年十一月三日、円澄(伝教大師弟子、天台第二座主)共延秀菩薩(伝教弟子)建立西塔釈迦堂(又号転法輪堂)
宝幢院 今恵亮和尚の塔、西塔釈迦堂の東南に在り。三代実録云、貞観元年八月廿八日辛亥、十禅師伝燈大法師位恵亮表曰、伏冀天慈幸降恩勅、不改素願、永歳三月下旬、於比叡山西塔宝幢院将試度之。
相輪※[木+堂] 釈迦堂の西に在り、是より北に行けば横川に越ゆる道也。山門記云、三宝住持集云、叡嶺宝幢院、相輪※[木+堂]銘(沙門最澄撰)頂上有銅相輪※[木+堂](宝幢一基高四丈五尺、有九層、最下層懸十一宝鐸、奉納諸経廿二部、弘仁十一年歳次庚子九月十一日)銘云、豈若先帝憑天台評、新立円宗、永填火坑、年々両度紹隆※[玄+少]行、為悦冥道起斯輪※[木+堂]、叡岑秀聳朝竭北都、神岳嵯峨夕臨東湖(上下略)
〇輿地志略 名古曾谷、是東塔西塔の界なり。
椿堂 西塔の入口、杉村の中にあり。
常行堂 法華堂の西にあり、始め般舟三昧院と号す、新拾遺集に、
   山の常行堂の流通の鐘に鋳つけ侍りける歌
 本覚の山のたかねの鐘のおとに長きねむりをおどろかすかな             心海上人
慈恵大師堂 小禅師の西にあり。
 
横川《ヨカハ》 横川谷の嶺上なる堂塔を横川と号し、東西両塔に并べて三塔と曰ふ、東塔の正北一里、山を縦斬する所の横川谷を隔つ、西塔よりは嶺背を蹈破して之に至るべし、迂曲一里。飯室《イヒムロ》は横川塔の別所にて、東南麓二十余町に有り。坂本村より横川嶺に登るに三路あり、→は西教寺前より飯室谷を経て登り之を奈良坂と曰ふ、一は山王祠畔より小比叡の嶺を伝ふ之を本坂《ホンザカ》と曰ふ、一は横川谷即大宮川を泝る各一里許とす、北嶺《ホクレイ》とも称す。
横川の中堂を楞厳《リヤウゴン》院と曰ふ、慈覚大師の開く所なり。〇元亨釈書云、円仁(即慈覚)天長十年、年四十、身疲眼昏、思命不久、於叡山北※[石+間]、結草庵、屏居三年、修練待※[さんずい+去]然、夜夢天人与薬、其形似瓜、割食半片、其味如蜜、有一人告曰、是※[立心偏+刀]利天妙薬也、覚而口中有余味、然後羸形更※[行人偏+建]、昏眸益明、於是以石墨草筆、書※[玄+少]法華、且修四種三昧、以所書経蔵小塔、置一庵名如法堂、其庵今之楞厳院也、天下則之、書法華号如法経、国俗至今伝此儀為精行。〇横川中堂の東側に四季講堂元三堂観音堂等あり、釈書「天慶中藤僕射帥輔、於楞厳院、営法華三昧堂、集衆撃火燧而誓曰、若因三昧力、光栄家族、所撃之火不遇三、便撃之応手火燧出、不至于再、僕射便以此火、点長明燈、于今不滅、乃以此宇、属良源法葉矣、爾来藤葉益昌」と、良源は永観三年正月三日に逝るを以て元三僧正と称し、勅諡慈恵大師と云ひ、山門の振起に大功あり。〇扶桑略記云、浄蔵者禅定法皇之弟子也、籠居横川首楞厳院、三筒年間、苦修練行、或時使者現形、人驚耳目、天慶三年正月、浄歳為降伏将門、於首楞厳院、期三七日、修大威徳之法、然間将門帯弓箭、現立燈盞、人々見驚、然鏑自壇中出、指東去畢、其日京洛騒動、将門之軍今入京郁、浄蔵奏曰、将門之首、今日持参也者、果如其言。
鎌蔵《カマクラ》は比叡山の一山谷なるべけれど今詳ならず、日本紀略、扶桑略記并云「永延二年十月廿七日、円融法皇為廻心、欲登台山、今夕宿御一乗寺、廿八日法皇登台山、廿九日法皇於延暦寺受灌頂戒、卅日法皇差使於鎌蔵(一本作鎌倉)奉訪花山法皇」之を古事談に照らすに「花山院御出家、暫可住横川者」などあれば、横川の一所たること推すに足る、類字名所外集云、公任卿の
(654) わすれ草かりつむ計成にけり跡もとゞめぬかまくらの山、〔夫木集、家集〕
此歌は 「相知れる人の鎌倉の坊に、今は人も住まで草生じけり、有る中にこれなん忘草といひしかばよめる」と前書せり、又歌枕名寄には「神くらに、観教のふるき内に、草生じける中にこれなん」云々に作り、比叡篇に収めたり、云々。
 都より雲の八重たつ奥山のよかはの峰はすみよかるらん、〔新古今集〕
   横川に住みける頃人に答ふる歌
 何ばかり深くもあらずよのつねの比叡の外山と見る計りなる、〔大和物語〕
飯室《イヒムロ・イハムロ》 横川塔の別所にして、宝満《ハウマン》寺と云ふ、北嶺の東麓にして坂本西教寺の北二十町許、溪水は雄琴村へ下る、安楽律院不動堂慈忍堂以下数字あり。慈忍僧正名は尋禅、横川小聖者と称し、師輔大臣の子にて盛名の座主なり、源空等と同く良源に事へたり、源空は恵心憎都と称し学匠の誉れ高くして法薫世に流る。釈書曰、源信、幼時夢有沙門曰、以此鏡至横川瑩磨、覚而大恠、又不知横川何処、後上叡山事慈慧、始思夢事、励精修学、過壮歳屏居横川、専以著述為己任、所謂一乗要訣往生要集阿弥陀経疏大乗対倶舎抄因明相違注釈等也。
淡海地志云、飯室別所の安楽院は恵心僧都の隠所也、又叡桓僧都此に住し法華一万部精誦して釈迦普賢を感見すと、本尊阿弥陀又叡桓と恵心との像あり、此律院にて昔恵心憎都往生要集を著し、宋国に贈る、時に四明智礼禅師深く之れに随喜し、酬るに菩提樹一株を以てす、恵心之れを徳とし以て植う、枝葉栄茂、後元亀の兵火に罹り樹枯る、然るに天正十九年此樹再び枝芽を生ず、山門之れより再興す、後鑑の樹と云ふべし、又中納言義懐此坊にて落髪して隠遁す、栄花物語に見ゆ、又定家登山して此地の閑寂を愛し、預め小石塔を建て以て歿後の設けに擬すと云ふ、其時の歌に
 ふむだにも縁にしなるてふ此山の土となる身はたのもしきかな。
大日本史、藤原義懐伝云、及花山帝祝髪、披剃為僧、改名悟真、又更寂真、時人疑、其薙染出従慫、不能堅守、而屏居飯室安楽寺、勤行精進。
   遊飯室円乗院在叡山     東涯
 羊腸分万木、乍梵控幽房、片石坐禅榻、華※[片+旁]弘律場、澗鳴知雨候、樹老閣天光、貪聴秋林鹿、任帥半日忙、
   比叡山           岩垣彦明
 澄公憶昔占霊蹤、石磴迢々薬樹濃、経閣風廻駆鉄鼠、相輪日照現金龍、雲間鐘磬三千寺、湖上煙霞八九峰、一自名山艮方鎮、長知護国百神鍾、
 
雄琴《ヲゴト》 旧庄名にて、千野|苗鹿《ナフカ》の諸村を総べしが、今村名と為る、坂本村の北に接し、西は横川嶺東は湖岸に至る。
 松風の雄琴の里に通ふにぞ治まれる世の声はきこゆれ、〔金葉集〕          敦光
 
苗鹿《ナハカ・ナホカ》 那波加《ナハカ》神社は又雄琴明神と曰ふ、下野国誌に「寛正年中、壬生官務家の庶流彦五郎胤業、下野国へ下向の時、雄琴明神を壬生城へ勧請す」とあり是也。〇輿地志略云、苗鹿、源平盛衰記に菜岡《ナヲカ》に作る、土俗に云此の社は壬生官務の氏神なりと、因て思ふに此地往古壬生氏の旧領なり、村内法光寺は即壬生氏の氏寺にて、小槻官務家の古文書あり。苗鹿は保元物語に直河に作る、曰く、六条判官為義は白河殿の戦にやぶれて、直河《ナホカ》の木工神主が許に隠れ、又三河の大夫近末と云ふものの家に行きて、其れより東国へ下らんとしけるが、運や尽きたりけん忽に重病を請け、蓑浦《ミノウラ》の方へ行きて船に乗らんとする処に、中々東国へ下らんことも叶ひ難しとて、又三郎太夫が家に立ち帰りて、日暮れしかば山上に上り、終夜祈誓せられたり、明くれば十七日西塔の北谷黒谷と云ふ所に、二十五三昧行ふ所に行きて、出家を遂げ法名を義法房とぞ附かれける。
補【直河】〇保元物語、〔重出、為義降参の事〕為義は直河と云ふ所より、木工神主が許に隠居たりけるが、官軍向ふと聞きて、三河三郎太夫近末と云ふ者の家に行きて、其より東国に下らんとしけるが云々。
法光寺 同所に在り、縁起に拠れば壬生氏の氏寺と云ふ、小槻官務官家の古文書あり。
 
千野《チノ・チノモ》 横川飯室谷の東に接す、今雄琴村に属す、或は之を乳母村と曰へりとぞ。〇輿地志略云、乳母安養院に妙見堂あり、元三大師の母と云誤りなるべし、叡岳要記山門記日吉記山家要略記等を考ふるに、伝教大師の母を妙見と云と、然ば若し此にや、亦妙見と号する仏あり、其仏にや、未だ詳ならず、今に比叡山に属す。
 
仰木《アフギ》 雄琴村の北にして、堅田村の西なる山村なり、即比叡山横川嶺の北麓と為す。〇延喜式、滋賀郡|小椋《ヲムク》神社、今仰木村字葉瀬山に在り、俗に八大龍王と云ひ、雨を祈る神なり。〔神祇志料〕
 
堅田《カタダ》 雄琴村の北にして、湖岸に沿へる村なり、元禄十一年、堀田備後守正高此地一万石高を賜り、邸を置き六代摂津守正敦に至り、文政九年下野国佐野へ所替と為り、邸廃す。〇堅田浦は琵琶湖の西岸、其地張出して野洲郡|木浜《コノハマ》(今速野村)と対向し、大湖の狭隘部に当る、謂ゆる瓢のくびれめと云に当る、埼頭に淨御堂あり東岸木浜を去る十余町に過ぎず、南(655)は大津を去る三里余。〇堅田氏は出自を詳にせず、兵部少輔広澄は豊臣氏に服事し二万石を食す、関原合戦に失敗し家遂に断絶すと云ふ。
堅田は湖西の北国道路に当るのみならず、湖東の航津なるを以て、古より其名著る、殊に元亀天正中織田氏は数北国勢と此地を争ひ合戦あり。〇元亀元年の冬、堅田の地下人は信長公の勢を引入れ、朝倉浅井が役人を討取りければ、江北にて申けるは、東近江越前の通路を竪田にてとり切られなば、誠に鳥ならでは翔り難しと、朝倉浅井両軍二千にて無二無三に堅田へ押よせる、坂井右近五百の小勢にて寺内に引こみしも敵し難く、右近終に討死したり、総じて其時の責口は敵味方にて寺内の堀は平地となりぬと申侍る。〔浅井三代記〕
〇輿地志略云、堅田に関屋と云字あり即関塞の址也、相伝ふ往古関あつて船の往来を改めし地と、往来のふねの十分一をとる、是を杓の銭といふ、今はなし、この処より湖東木の浜へ二十一町船渡あり、かた田の渡十八町といふも此事なり。
堅田鮒《カタヾフナ》 書紀通証云、新撰六帖「いにしへはいともかしこし堅田鮒つゝみやきなる中の玉章」古楽府曰、尺素如残雪、結成双鯉魚、要知心裡事、看取腹中書、蓋鮒以江州堅田産為上品。〇宇治拾遺云、大友皇子の妃は大海人皇子の女、十市皇女なり、近江の謀を父に告申さむとおぼしけれど、すべきやうなかりけるに、思ひわぴ給ひて、鮒のつゝみ焼のありける腹に、ちいさく文をかきて押入れて奉り給へり云々。〇海道図会云、昔より近江名産に源五郎鮒と云ふあり、是は佐々木家一国を領せし時、錦織源五郎と云者漁夫を司る、其漁する鮒の至て善なるを撰て官家に奉る、是により其支配の司を魚名に呼とぞ。(一説|夏頃《ゲゴロ》の訛とぞ)
 雲のゆく堅田の沖やしぐるらんや、かげしめる海人の釣舟、〔拾遺集〕
 
浮御堂《ウキミダウ》 堅田埼に在り、湖中に架せる小閣にして、中に仏像を置く、初め横川の恵心僧都之を創め千体弥陀仏を安置す、其旧構荒敗の後、近世桜町院の内旨に依り御能舞台を下賜せられ再興す、禅僧之を守り満月寺と号す。〇堅田浦は近江八景の落雁を配当したる処にて、唐詩の水碧沙明両岸苔とも云ふべき境地とす。
   堅田落雁        近衛関白
 鴻雁幾行更不孤、晩風帯月落東湖、嚢沙背水堅田浦、猶見孔明八陣図、
   湖上立秋        服仲英
 兼葭深処夕陽懸、湖北湖南淡水煙、七十二峰秋已至、西風吹浦打魚船、
 病雁の夜ぎむにおちて旅寐かな、 芭蕉
 米くるゝ友をこよひの月の客、 芭蕉
桃青既望賦云、望月の残興猶やまず、今宵は二三子にいさめられて、船を片田の浦に馳す、月は待程もなく差出てければ、かの堂の欄干によれば、三上|水茎《ミヅクキ》は左右に分れて、其間に水面玉塔の影をくだきて、あらたに千体仏の光をそふ、誠や恵心僧都の観想の便にあらずと云ことなし、斯くしては月も横川の嶺に傾きて、姑蘇域の鐘もきこゆなるべし、〔節文〕
 鎖あけて月さし入れよ浮御堂、
 やす/\と出ていざよふ月の雲。
   堅田           頼山陽
 麦畝漁荘隔岸呼、晴波一束似※[草がんむり/胡]蘆、平生浸読天正記、始信濃軍飛渡湖、
 
衣川《キヌガハ》 仰木村より発源し、屈曲して竪田の南に至り湖中に入る、今民家あり、竪田村大字衣川を云ふ。
 昔延暦寺繁盛の時、凡太湖の西岸、衣川より大津まで漁猟禁断の地界なり。〇山槐記、元暦元年注進の近江名所に、志賀郡|衣川《キヌガハ》見ゆ。
 何にかはかけて見るべきわかるとて形見といひし人のきぬかは、〔懐中抄〕
真野《マノ》郷 和名抄、滋賀郡真野郷、訓末乃。〇今真野村存す、堅田村|和邇《ワニ》村等も此中なりけん、中世真野入江と云ふ名所は、真野川の末なる湖湾なるべし、今詳ならず。
 真野の浦のよどの継椅こゝろゆもおもへや妹がいめにし見ゆる、〔万葉集〕 真野の池の小菅を笠にぬはずして人の遠名を立べきものか、〔同上〕
 色かはるひえの高根の雲みれば初雪ふりぬ真野のはり原、〔拾玉集〕
 うづらなく真野の入江の浜風に尾花なみよる秋の夕暮、〔金葉集〕          俊頼
 からさきや長等の山にあらねどもさぎなみよする真野の秋風、〔方角抄〕
真野は姓氏録に真野臣ありて旧邑なり、又延喜式、滋賀郡神田神社は大字|普門《フモン》にあり、別当光明寺と云ふ、〔輿地志略〕此社はやがて真野臣の氏神にして隣村和邇小野なども相同じ。姓氏録、右京皇別真野臣、天足彦国押人命三世孫、彦国葺命之後也、男大口納命、男難波宿禰、男大矢田宿禰、従気長足姫皇尊(諡神功)征伐新羅凱旋之日、便留為鎮守将軍、于時娶彼国王猶榻之女、生二女(中略)兄佐久命次式義命、佐久命九世孫和珥部臣鳥務大肆忍勝等、居住近江国志賀郡真野村、庚寅年負真野臣姓也。〇按に姓氏録摂津皇別に又韓矢田部造ありて、八部郡に真野村の名を見る、近江の真野臣と異流の家なれど参考する所あるべし、万葉集の歌(656)詠は此にや彼にや今詳ならず。〇大日本史云、堀口貞満、子貞祐、匿居堅田、方足利義詮東奔、貞祐以兵五百、邀戦真野浦、斬佐々木秀綱。
 
伊香立《イカタチ》 真野村の西なる山村なり、今龍花と合同し、て一村と為る、西は城州|大原《オホハラ》村と一領を隔つ、山槐記元暦元年注進の近江名所の中に志賀郡筏立野と云ふは此也。〇近年この村の新知恩院所蔵の弥陀二十五菩薩来迎図(絹本着色)掛軸一幅は国宝に登録せらる、洛東知恩院三世秀誉応仁年中開基。
 
龍華《リユウゲ》 今伊香立村に合同す、京師北国路の駅所にして途中《トチユウ》と字する山駅あり、京師を去ること五里、和邇村へ二里なり。途中越は即|※[木+万]生《トチフ》越と云ふに同じ、大原村まで一里許の山径を指せる也。輿地志略云、延喜式、近江国志賀郡部花氷室一所とあるは部は龍の誤のみ、江家次第に龍華の氷室の事見ゆ、又古の江州三関の一なる龍華の※[賤の旁+立刀]は、今上龍花の旗山に遺址あり、文徳実録「天安元年四月、始置近江国相坂大石龍華等三処之関※[賤の旁+立刀]、分配国司健児等、鎮守之、唯相坂、是古昔之旧関也、時属聖運、不閉門鍵、出入無禁、年代久矣、而今国守正五位下紀朝臣今守、上請如二処之関、而更始置之也」また平治物語に「横川法師四五百人、信頼義朝が落人を打留んとて、龍華越に逆茂木ひきかひ、楯かきて云々」かの斎藤別当実盛が衆徒大勢の中へ冑を投あたへて、争奪中に打破てとほりしも、「中宮進朗長が膝の口を箆深に射させし」とあるも、此所にてのことなり。
 
和邇《ワニ》 今和邇村と云ふ、真野村の北伊香立村の東湖岸に沿ふ、和邇川は龍華の山中より出づ長二里余、この村は旧庄名に和爾と呼び、真野村と同く和珥部小野臣の居邑なり、大字小野あり、又延喜式、和爾駅々馬七疋とありて、三尾へ接する駅路なり。〇輿地志略云、北浜村中浜村南浜村高城村今宿村中村小野村以上七ケ村を和邇庄と云ふ、古来崇福寺領なりしを相続して園城寺に御寄附の事、建武の状に見ゆ、類聚国史曰、弘仁四年、小野朝臣野主等言、猿女之興国史詳記、其後不絶、今猶見在、又※[獣偏+爰]女養田、近江国和邇村、山城国小野郷、また姓氏録を按ずるに、和珥部居住故に和邇の名ある也、宮城四角四界の祭に、和邇界もその四所の内なりと、朝野群載に見えたり。〇類聚三代格云、貞観九年官符、応令近江国司検領和邇船瀬事、右得元興寺僧賢和牒※[人偏+稱の旁]、件泊故律師静安去承和年中所造也、而沙石之構逐年漸頽、風波之難随日弥甚、往還舟船屡遭没溺、爰賢和修造、数月之間適得成功、云々。
按に和邇は本和州の地名なるが、応神帝の比既に近江国に其氏人移れりと思はる、古事記明宮(応神)段「一時天皇越幸近淡海国之時、到坐木幡村(今山城)麗美嬢子遇其道衢、爾天皇問其嬢子曰、汝者誰子、答白|丸邇《ワニ》之比布礼能意富美之女、名宮主天河枝比売」と云一段に徴拠すべし、丸邇即近淡海国の和邇なるべし、又蒲生郡に比布礼八幡宮あり、参考すべし。
 
小野《ヲノ》 今和邇村の大字なり、古は小野臣あり、大和の春日臣と同祖にして山城国に其族繁衍し、近江には真野郷に居る。古事記、掖上宮(孝昭)段云、御子天押帯日子命者、小野臣之祖也。書紀通証云、按系図、以小野妹子、為敏達帝孫、春日皇子子者、恐非也、春日臣同祖、孝昭帝之後明矣。
小野《ヲノ》神社 延喜式、滋賀郡小野神社、二座名神大と云、是也。〇神祇志料云、小野神社、蓋天帯彦国押人命を祭る、即小野臣氏神也、〔続日本後紀〕光仁天皇宝亀三年、小野社木を採て西大寺の塔を造るに、神祟あるを以て本郡の戸二烟を充奉りき、〔続日本紀新抄格勅符〕承和元年二月、勅して小野氏五位以上の人、春秋の祭に官符を待たず近江国滋賀郡小野氏神社に往還ふ事を聴し給ひ、三年無位小野神に従五位下を授く、遣唐副使小野朝臣篁が請申すに依てなり、四年勅して大春日布瑠粟田三氏五位以上、小野氏に准て春秋二祀官符を待たず、近江氏神社に向ふ事を聴し、〔続日本後紀〕清和天皇貞観四年、正五位上小野神に従四位下を授く。〔三代実録〕
 
木戸《キド》 和邇村の北にして、西に比良の高嶺を負ひ湖上に臨む、古郷名を欠く、中世まで曠野にて村里なかりしにや。〇木戸村に昔田中坊之尉定成と云ふ山門の家士あり、但し古記には比良の田中坊ともあり、元亀三年信長公に攻破られ木戸田中両城ともに降参す、往時は延暦寺領の地たるべし。〔輿地志略〕
 
最勝寺野《サイシヨウジノ》 比良山の麓にして、広遠の野なり、廃寺址とぞ、按に続日本後紀に曰く、宜承前十二人外、妙法蓮華経最勝王経諳誦之人、経別一人、毎年聴度随業、各人近江国妙法寺并最勝寺云々、三代実録曰、貞観九年、詔以近江国滋賀郡比良山妙法最勝両精舎、為官寺、故律師伝燈大法師位静安所建也、静安弟子伝燈大法師位賢真、従唐還、此白申牒、請預於官寺、従之云々、元亨釈書曰、釈静安、従西大寺常騰、学法相、嘗居比良山、読十二仏名経、礼拝修懺、其声聞帝闕、諸州郡間有聞者、因茲勅賜僧官云々、又曰釈慧達、姓秦氏、美州人、事薬帥寺仲継、学法相、嘗上比良山、修練者久云々、相伝ふ往古毎歳二月二十四日此の寺にて法華八講を修す、之を比良の八講といふ、当国土俗比良の八講のあれとてこの日必ず風はげし、思ふに八講の謂にはあらず時候のしからしむる所なりと知るべし。〔輿地志略〕
 
(657)比良《ヒラ》  此村は今分裂し、南比良は木戸村に入り、北比良は小松《コマツ》村に入る、蓋比良は古へ総名にして彼二村は即其領界なり、日本書紀「斉明天皇五年、幸近江之|平浦《ヒラノウラ》」とあるは此なり。
   高市連黒人羈旅歌
 わが舟は枚の湖にこぎはてむ沖へなさかり小夜深にけり、〔万葉集〕
枚《ヒラ》湖と万葉に見ゆるは平湊と訓むべし、比良明神は白髭社と称し、小松埼(明神埼)に在り、比良寺は木戸の最勝寺野を参考すべし、比良山は秘密行七高山の随一也。
 なか/\に君に恋ひずは枚の浦のあまならましを玉も苅つゝ、〔万葉集〕
補【比良】〇北野縁起 天慶九年、近江国比良宮にして、禰宜三和よしたね男子七才なるに詫宣ありき、云々、さても右近の馬場こそ興宴の地なれ、我かのほとりにうつるべし、そのほとりに松をううべしとぞ仰られける。
 
比良山《ヒラサン》 木戸小松二村の西に横亘し、山勢雄偉、高頂は抜海二九〇〇尺、其絶頂を蓬莱と名づく、武奈《ブナ》岳は其北なる一峰なり、南北すべて三里に渉る山背は葛川《カツラガハ》谷と云ふ。(今滋賀郡に属す)此山江州に在りては伊吹《イブキ》と相対比して最高ければ雪の降る早くして夏に至るも猶消えず、土人は小松山《コマツ》とも曰ふ。
 
溶湃《ヨウハイ》滝 比良山中御子谷に在り、上段高二十間下段高六十間と号し、江州第一の飛泉なり、扶桑名勝集に此谷の奇絶を記せり。
 ささ波や平の山風海吹けばつりする海人の袖かへる見ゆ、〔万葉集〕
 千早ぶる比良の御山のもみぢ葉にゆふかげわたすけさの白雪、〔夫木集〕      安法
 都にてさむさぞ見ゆる峰越の比良の遠山雪降りにけり、〔現存六帖〕        信実
 
小松《コマツ》 木戸村の北に連り明神《ミヤウジン》埼を以て高島郡と相限る、即北比良の村里なり、山槐記、近江名所に志賀郡小松原と記せる地とす、山野広漠なり。〇淡海温故録云、平治の乱に左馬頭源義朝軍敗れて小松里に落下り、暫く忍び玉ふ、二男右京進朝長は京都にて深手を負ひ爰にて逝去せり、其寵り給へし堂の旧跡今にあり、又此処に鎧岩と云ふ旧跡あり、赤はげの岸の上に武者形したる大石なり。〇小松は夫木集正安二年の大歌に小松原とも小松里ともよみたり、又永久三年の大歌には
 夕波やしげくよすらん近江路や小松の浜に千鳥なくなり
とよめり、又
 さゞなみや小松にたちて見渡せば三尾のみさきに田鶴むれてゆく。〔堀川後百首〕   仲実
 
白髭《シラヒゲ》神社 小松村の北界、大字|鵜川《ウガハ》の明神埼に在り、此埼は比良の麓にして滋賀高島の郡界に当り、又|三尾埼《ミヲノサキ》と曰ふ、又|打下《ウチオロシ》浜と称す。〇白髭明神は又比良神と曰ふ、三代実録貞観七年比良神授位の事あり、蓋高鳥郡水尾神社の裔社にして、延喜式高畠郡|志呂志《シロシ》神社(三尾郷鴨村の三宮権現)に同じ、北野縁起に比良宮と云ふも此也、曰く「天慶九年、近江国比良宮にして、禰宜よしたね男子七歳なるに天神託宣ありき、右近の馬場こそ興宴の地なれば、裁かの辺に移るべし、其辺に松をううべしと仰せられける」云々、又古事談に、比良明神延暦中最澄法師に比叡山の故事を教示する一項あり、石山寺縁起拜に又元亨釈書神社考に、比良山王白髭明神、天平年中良弁法師に託宣を示し、石山観音堂を創めしめ給ふ由を載せ、又此神の奇異を説く「法勢、承和八年、過近州比良山下和邇、宿民家、家婦俄病、狂言曰、師読観音普門品、我欲聴之、勢素持普門品、然思狂病之言不足聞、便曰我無経本、故不能也、婦人曰師臂※[〓/石/木]見経在焉、勢不得已、出経読之、婦人合掌曰、我比良吋神也、勢曰我聞神皆有通又長寿、昔釈迦文出世西天、未審見知否、婦人曰我不住西印度、然千数百年前、諸天多西飛去、豈迦文出世時乎云々。〇輿地志略云、太平記及び江源武鑑等の書に、湖水旱のとき、三丈六尺底に、白髯明神の前の澳に、二人して抱ばかりなる檜の柱を、間一丈八尺づつ立並べて二町余にわたせる橋あり、亦竹生島より箕浦まで水の上三里、瑞垣のごとくなる切石を、広さ二丈ばかりの道を現じたりと記し、或は白髯社前の澳に、石の鳥居を現ずなどと記せり、太平記江源武鑑採用にたらざる書なれば、是を論ずるは夢中に夢を説に似たり、又台家記に白髭の神はこの国の地主の神にて、湖水の七度変じて芦原となるを見たりなどしるせるは、例の附会無稽の言なり。〇按に三尾君(三尾水尾同じ)古代湖西に於て有勢の豪族にて、其氏神の霊威をば僧家仮托の寓言にあやなして、比良明神又は白髯翁はた猿田彦などと曰へるならん、比叡山の山王七社の三宮《サンノミャ》、三井の鎮守三尾明神と云ふも皆同神のみ、(日吉山王社参看すべし)。松屋叢書云、白鬚明神は比良明神の一名也、〔神社考国花万葉記等〕正体は猿田彦神にて〔神祇正宗神社啓蒙和漢三才図会〕聖武天皇の御宇老翁に現じ良弁僧正に逢ひ給ふ、〔石山寺縁起近江名所函会〕本地は不動明王なりと云へり、〔縁起〕慶安元年鵜川村にて先蹤に従ひ神領百石を寄附、天台宗福寿院を別当職に補せらる、〔行嚢抄近江輿地志〕白鬚明神といふ名のものに見えたるは、曾我物語、比叡山始まりの事の条に「ここにさざなみや志賀の浦のほとりに釣をせる老翁あり、釈尊かれに向ひて翁もし此処の(658)主たらば、此地をわれに得させよ、仏法結界の地となすべしとのたまへば、翁答て申さく、我人寿六万歳のはじめより此処の主として、此水うみ七度まで葦原になりし事もまさ目に見たりし翁也、されば此地結界とならば釣する処なかるべしと、深く惜み申せば、東方より薬師如来忽然と出給ひ、善哉々々早く仏法を広め給へ、われ人寿八万歳の初より此処の主なれども、老翁いまだ我を知らず、何ぞ此山を惜み申すべきとて立去給ふ、其時の老翁今の白鬚の大明神にてましましけり、如来は中堂の薬師にてぞましましけり。」
 
三尾埼《ミヲノサキ》 続紀に 「天平宝字八年、恵美押勝、到高島郡三尾埼、与佐伯三野大野真木等相戦」と見ゆ、今専ら明神《ミヤウジン》埼と曰ふ。 おもひつゝ来れど来かねて水尾埼《ミヲガサキ》真長の浦をまたかへり見つ、〔万葉集〕
真長《マナガ》浦は即今の高島郡大溝村の勝野津なるべし、埼北の小湾なり、大津の北八里、湖上の三尾埼堅田埼石場の三所は大略一直線の位置をなし、また一佳観の地とす、されば古人の詠にも
 さざなみや大津の宮に月すめば見えこそわたれ三尾が埼まで、〔夫木集〕
とはよめり。
 
古市《フルチ》郷 和名抄、滋賀郡古市郷、訓布留知。今|膳所《ゼゼ》村石山村なるべし、今昔物語云「近江国滋賀郡古市郷の東南に心見《ココロミ》瀬といふあり、郷の南に勢多河あり」と、此文勢に因れば当時古市とは専ら粟津を指すに似たり、日本書紀壬申乱の条に粟津市と載す、即市を本拠とす、志賀大津の宮城廃したる後、延暦年中再び大津を打出浜に定められしに因り、粟津を古市と称せるならん.
 
粟津《アハヅ》 今の膳所村なり、古書禾津に作る、大津町馬場の南より勢多川の辺までを指し、粟津荘は東鑑「建久三年、将軍妹黄門室家領」と見えたり。此地は志賀大津朝廷の時、津市なりしが、本来は朝家の御栗栖にて陪膳《オモノ》を献進したる所也、故に後世は膳所《ゼゼ》と称す。
 
栗栖《クルス》 日本書紀、仲哀巻の末に云ふ 「武内宿禰、出精兵而追忍熊王、及于|狭々浪栗林《ササナミクルス》而多斬、於是血流溢栗林、故悪是事、至于今其栗林之菓、不進御所也」と、古事記伝云、狭々浪|栗林《クルス》は催馬楽の鷹の子に「あはづのはらのみくるすの」とある処なるべし、大津より勢多に行く間に在り。按に栗栖は朝家の御料にて、其人民は本来|国栖《クズ》と同じく、通常の法制風俗に非ず、而て此栗栖も後世陪膳と称し魚味を献じたるは「栗林之菓、不進御所」との事由にもとづくにや。
粟津市《アハヅノイチ》 日本書紀、壬申乱条、七月辛亥(二十二日)男依等到瀬田、時大友皇子及群臣等、共営於橋西、而大成陣、不見其後、旗幟蔽野、埃塵達天、鉦鼓之声、聞数十里、列弩乱発、矢下如雨、其将智尊率精兵、切断橋中、而不能止云々、則大友皇子左右大臣等逃、村国連男依等即軍于粟津岡下、王子斬近江将犬養連五十君及谷直塩手於粟津市、於是大友皇子走山前焉。続紀天平十二年、十二月壬戌車駕従蒲生郡宿発、到野洲頓宮、癸亥従野洲発到志賀郡木津頓宮、乙丑幸志賀山寺礼仏、丙寅従禾津発、到山背国相楽郡」、按に木津は禾津の謬にて、此頓宮に三夜泊御と知るべし。
粟津森《アハヅノモリ》 参宮図会云、粟津森とは膳所明神なり、今城下の大手に在れど昔は此に非ず、城内に榎の神木あり乃旧地とす、謡曲兼平に陽炎《カゲロフ》清水見ゆ、今明神の左方瓦之浜に在り。
 関越てあはづの森のあはずとも清水に見えし影をわするな、〔後撰集〕
 ふるさとのあはづの原のさくら花むかしの春もかくやにほひつ、〔能宣集〕 関のあらし夜ざむに吹くや狭々浪のあは津の里に衣うつなり、〔夫木集〕
 
粟津野《アハヅノ》 東鑑、元暦元年正月、於近江国粟津辺、令相摸国住人石田次郎、誅戮義仲兼平。粟津野は粟津浜に同じ、寿永二年七月木曾義仲上京の時、其先鋒加賀の大田兼定此にて平家の軍を敗りしが、半歳にして義仲又此に戦死す。
 鷹の子はまろにたうばらんや手にすゑて粟津の御栗栖《ミクルス》のめぐりのうづらとらさんやさきんだちや 〔催馬楽〕
 粟津野のあはでかへれば瀬田のはしこひてかへれとおもふなるべし、〔兼盛集〕
 粟つのや山から京のほととぎす、 丈草
木曾義仲墓は粟津野の北今大津町大字馬場に属す。海道図会云、木曾殿の墓は馬場村にあり、兼平塞は粟津松原より西北へ入ること三町、田畝の中に石塔あり、(参宮図会、膳所縁心寺に兼平追福石塔あり墓とともに膳所城主之を建らる)天文廿二年、近江国司佐々木高頼、石山寺参詣の帰るさ此古墳を拝し、源家大将軍の古跡守戸なくてはあるべからずとて、一宇を建て、食田を寄附し、堂守を付らると、今|義仲寺《ギチユウジ》と云ひ仏堂に牌あり。参考本盛衰記云、去年六月、木曾義仲北陸道を上しには、五万余騎と聞えしに、今四宮河原を落けるには、只七騎には過ざりけり、粟津の原の終には、主従二騎に成にけり、今井兼平、あな向の岡に見ゆる一村の松の下に立寄、心閑に御自害候へ、其程は防矢仕て、軈て御伴申べしと勧めければ、木曾は今井を振捨て、畷に任て歩せ行く、比は元暦元年正月廿日の事(659)なれば、つらら結べる田を横に打程に、深田に馬を馳入云々。愚管抄云、義仲を大津の田中に追はめて、打てけり。
   義仲寺にてよめる      石川依平
 大木曾の荒山桜末終に雪と散り行く粟津野の原、
   粟津            中井桜洲
 乗津原上義仲寺、尚有残僧掃断碑、莫是英雄酣戦処、夕陽紅樹満秋陂、
   義仲寺           僧五岳
 奇勲圧倒大頭公、深惜先鞭不令終、想像将軍当日恨、芭蕉墓畔立秋風、
芭蕉《バセヲ》墓 輿地志略云、義仲寺の将軍塚の傍に在り、此芭蕉庵桃青は伊賀の人にして、其の初め松永貞徳に随て俳諧の道を学び、後自ら工夫発明し、其式を立て此道を弘む、門人尤も多し、専ら中興と称す、初め京都に在り後江戸に来る、此頃は俳人只翁とのみ云ふ、翁終に大坂に在て疾病して、元禄七年甲戌十月十二日死す、病中の句に「旅にやみて夢は枯野をかけめぐる」遺言によつて此地に葬る、門人榎本其角纂の銘を書す。
 枯尾花芭蕉翁終焉記云、翁は長月晦の夜より床に倒れ、ゆめのさめたるはとて「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」また「枯野を廻る夢心」ともせばやと申されしが、是さへ妄執ながら風雅の上に死ん身の切に意ふ也と悔まれし、此翁「先頼む椎の木もあり」と聞えし幻住庵はうき世に遠し、「木曾殿と塚をならべて」と有し戯も後の語り句に成ぬると思へば、今更に臨終の聞えもなし、麗く眠れるを期として、川舟にかきのせ伏見より義仲寺に移して、かたの如く木曾塚の右にならべて土掻納たり、自らふりたる柳もあり、かねての墓の契とならんと、其まゝ卵塔にまねびあら垣をしめ、冬枯のはせをを餓て名のかたみとす、常に風景を好める癖あり、げにも所は長等山田上山をかまへて、楽浪も寺前によせ、漕出る舟も観念の跡をのこし、樵路の鹿、田家の雁、遺骨を湖上の月に照すこと、かりそめならぬ翁なり云々。
  なきがらを笠にかくすや枯尾花、 其角
 
膳所《ゼゼ》 大津町の東南に接する大村なり、即古の粟津市にて又|陪膳《オモノ》浜と云へり、陪膳を転じて膳所と為し、近世築城の事ありて後は専ら膳所と称す。(太平記には是世に作ると云ふ)
海道図会云、膳所は今城下町総て廿四町也、本は粟津野|陪膳《オモノノ》浜なるべし、山王祭に神供を献ずる由縁なり、例祭の前七日の間此所の頭人の家に猿の紋を幕に張、往釆の商人或湖水交易の船荷を征して、十分一の賽銭を収め神供料とす、此起を尋るに此湖辺に二人の総甲あり、名を近江粟津佐森|陽炎《カゲロフ》、一人は日吉近江佐粟津恒世とてありしが、鎌倉頼朝卿の台命として近江国廿四在所は彼両人支配にて、九十九浦の初穂十分一は近江佐粟津恒世が支配といふ、按に、日吉の社記に恒世が大津の八ツ柳にて神供を奉りし事あり、又松本の精明神の末社に恒世祠あり、昔此社の神職ならんか、又膳所に陽炎の清水あり、此所に住所せしか、兼平の謡曲に「粟津の杜や、かげろふの、石山寺」と謡ふも是等の名をこめて作れるものならん。〇按に比叡明神縁起云、天智天皇の御世に生魚の供御人、海部晴光由中恒世と云もの各船に乗て近江の湖上に出たる時、神人出来りて飢たりとて食を乞はせ給ふに、二人は粟飯を葉に盛りてたてまつれり、さて被神を舟にて辛埼まで送りまゐらせけるに、琴御館宇志丸出でて其神を迎奉る則ち
 大友の三津の浜辺をうちさらしよせくる浪のゆくへ知らずも
と告げさせ、比叡の麓に鎮り坐す〔瀬見小河〕と、蓋粟津のおものの浜は、古の栗栖なれば、土産海物を採獲して供御貢進に充つることも、旧風俗の様想ふべし、又文明乱の頃、大津の浜関《ハマノセキ》は青蓮院座主の所管なりしとぞ、是は延暦寺其関務を掌り仏神の威に托して行旅の人馬より徴収を貪れるならん、藤河日記云、「石山寺に詣でて、
 さわぎ立世にも動ぬ石山はげに逢難き誓也けり、
浜の関とかやは、青蓮院の座主に申て通り侍りぬ、松本を過ぎ大津に至り、其夜は坂本にとまる」云々、粟津の辺に関屋を置かれしことを想像すべし。
 
膳所《ゼゼ》城址 膳所の湖岸に在り、慶長六年、徳川氏特に関西諸侯に課役して之を築き、塁璧楼墻の壮麗、湖上の一美観たり、近世本多氏六万石世襲の城府なりしが、明治維新の後廃毀せらる。〇美登茂之数云、彼膳所の城とていと景色よく見えたる城ありしが、今は残りなく毀ちて畠となれり、こは明治の初めつ方は城をば要なきものにして、善悪をいはず取毀ちて是れよしと誇りかに、賢だちたる人もありしとかや。〇輿地志略云、此城粟津の膳所崎に在り、大津口勢多口に門を構へ、中間を晴所城下といふ、西に相坂の険路あり、東に勢多の大河、後は湖水なり、軍学者流の所謂後堅固の城なり、慶長年中、神祖より戸田左門一西をして大津の城を廃して、膳所崎に築き、此地に封じたまふ、一西の子を氏鉄といふ、元和三年封を摂津尼崎にうつし、本多縫殿助康俊君を以て此地に封じ、令嗣俊次君封を三河国西尾城に受させ、菅沼織部正定芳を以て此地に封じたまふ、寛永十一年菅沼定芳を丹波国亀山に移して、石川主殿頭忠綱を以て此地の主たらしめ、慶安四年伊勢国亀山にうつる、俊次君此地に復封せられ給ふ、爾来他邦にうつらせたまふ(660)ことなし、秩六万石とす。
 
陪膳浜《オモノノハマ》 膳所の旧号なり、莱津の栗栖《クルス》参考すべし、延喜式「宮内省例貢御贄、近江国、郁子氷魚鮒鱒阿米魚」とあれば其献進の一所なるべし。
 滞る時もあらじを近江なるおものの浜のあまのひつぎは、〔家集〕           兼盛
 
石坐《イハヰ》神社 延喜式、滋賀郡に列す、輿地志略云、粟津の木下村のうち川より西の方の田を石神と字す、其社は今西庄に移して八大龍王と曰ふ。按に石坐神は今膳所村大字錦の高木祠なるべしと云ふ、此祠辺に真宗の法伝寺あり、寺説に是滋賀寺址にして天智弘文の聖蹟と為し、近郊に茶臼山と呼ぶ古墳あり、此を指して弘文帝|山前《ヤマザキ》陵也と云ふ、皆信用すべからず。
石山《イシヤマ》 今膳所村の南なる大字北小路鳥居川国分|寺辺《テラベ》南郷等を合同して石山村と曰ふ、勢多川を以て栗太郡と相限り、西は音羽笠取山を以て城州宇治郡と相限る。
 
鳥居川《トリヰカハ》 勢多川の唐橋の西頭を曰ふ、延喜式、六処堺川供奉御禊の一に近江勢田川あり、蓋此地にして、其禊場に鳥居など建てたりしにや、又国分寺の寺門なる鳥居にや、其名を鳥居川と云ふ、今御霊明神と云ふ叢祠あり。〇此辺は壬申乱に近江朝廷の官軍の陣したる所なるべし、書紀云、村国連男依等、到瀬田橋、時大友皇子及群臣等共営於橋西、其将智尊率精兵以距之。(一説、往時の勢田檎は国分寺の東と云へり)
 
国分《コクブ》 今石山村の大字なり、石山寺の北西に接す、桃青の旧栖址ありて、俳人の末流土中より遺筆の市を求むる者あれど、偽托の物たるべし。〇海道図会云、芭蕉翁栖址は勢多より寺に至る途に標あり、是より八町許り奥にあり、幻住庵の記に石山の奥岩間の後に山あり、国分山と云、そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし云々、蕉翁此に三歳を歴て、一夏九旬には一石に一字を染め法華廿八品を書写せり、今折ふしには此経石土より出るとあり。名跡案内記云、国分の鎮守を洞社と云ふ。
 幻住庵記云、麓に細き流を渡りて、翠微に上る、三曲二百歩にして、八幡宮たゝせ給ふ、傍に住捨し草の戸あり、幻住庵と云ふ、山は未申にそば立ち、人家よき程に隔り、南薫峰よりおろし、北風海を浸して涼し、日枝の山比良の高根より、辛崎の松は霞こめて、城あり橋あり、釣たるゝ舟あり、笠取に通ふ木樵の声、麓の小田に早苗とる歌、螢とびかふ夕暗の空に、水※[奚+隹]のたゝく音、美景ものとして足らずと云ふ事なし、中にも三上《ミカミ》の山は士峰の俤に通ひて、武蔵野の古き栖も思出られ、田上《タナカミ》山に古人を数ふ、笹穂の岳千丈が峰、袴腰《ハカマゴシ》と云山あり、黒津の里はいと黒う茂りて、網代守るにぞとよみけん、万葉集の姿なりけり。
 
国分《コクブ》寺址 輿地志略云、国分寺遺址は今国分村に在り、塔有し所とて大いなる礎存在せり、日本後紀曰、弘仁十一年十一月、近江国言、国分僧寺、延暦四年火災焼尽、伏望以定額国昌寺、就為国分金光明寺、但勅本願釈迦丈六、更応奉造、又応修理七重塔一基、許之、延喜式、近江正公、国分寺料六万束云々、江家次第、伊勢勅使進発条下曰、到勢多橋、国分寺前、勢多橋云々、今按ずるに勢多橋も今の架せる処よりは余程下の方と見えたり、盛衰記「今井四郎兼平五百余騎にて国分寺の毘沙門堂に陣を取たりけるか、出合防戦ひけり、山本方等三郎先生義弘もこゝにうたれぬ云々」今存する礎を或は塔の礎ともいひ、或は門の圃ともいへり、石と石との間八間許あり、其外田圃の字に塔田堂前経田石仏堀の垣内風呂の垣内堂屋舗階薬師田釜谷墓尾など云ふ地あり、是皆国分寺の遺址なり、当国の国分尼寺何れの地と云ふをしらず、大津追分の両国寺にや。〇大日本史云、寛仁元年、近江国分二寺災。
 
保良宮《ホラノミヤ》址 今石山村の国分寺址即此ならん、同所に洞宮と呼ぶ小祀存す、輿地志略に寺辺《テラベ》庄は元|洞《ホラ》庄と云へる由を載せたり、寺辺は今の石山村に当り、地理の状亦古の別都にかなふに似たり、保良《ホラ》洞《ホラ》同じ。蓋旧宮西大寺に附せられ後国分寺と為る。〇保良宮は孝謙帝の離宮にして、三年が程の遺跡なり、淡海地志に保良宮は野洲郡三上の浜辺にて、兵主神社は即其旧址と云ふも、太だ徴憑に乏し、此保良と云地名は他書に見る所なけれど、宝亀十一年勘録西大寺資財帳に 「近江国十六巻中、滋賀郡保良庄図六巻」とあれば孝謙帝宮地を以て西大寺へ附与せられしこと想見すべし。〇続紀云、天平宝字三年十一月、遣造宮輔中臣丸連張弓、越前員外介従五位下長野連君足、造保良宮、五年、使衛門督粟田朝臣奈勢麻呂、礼部少輔藤原朝臣田麻呂等、於保良京、鉱給諸司史生已上宅地、十月賜大師及親王稲、以遷都保良也、甲子行幸保良宮、詔曰為改作平城宮、暫移而御近江国保良宮、六年三月、保良宮諸殿及至垣、分配諸国、一時就功、五月高野天皇、与帝有隙、於是車駕還平城宮、帝御于中宮院。(甲賀郡紫香楽宮址、勅旨を参考すべし)
補【保良宮】〇続紀、孝謙天皇天平宝字三年より六年までの離宮なり。淡海地志、一説、保良宮は三上の浜辺にて兵主社は其址なりと。今兵主村。〇息長横川の阿那郷宮に非ぬか。寺辺庄、同名洞の宮。
補【寺辺荘】志賀郡〇輿地志略 石山庄とも云ふ、往昔はこの辺|洞《ホラ》の庄と号せしと、此説信用しがたし 〔今昔(661)物語、略〕
山吹崎 今その所在つまびらかならず〔蜻蛉日記、略〕類聚名所集に、
 いはねどもくちなし色にしるきかなこや音にたゞ山吹の崎
 
石山寺《イシヤマデラ》 石山村大字石山に在り、天平中僧良弁開基、後僧観賢中興して密教を伝ふ、霊験世に聞ゆる大士堂なり、近世は寺領五百石、仁和寺に依属せり、花山帝の皇子僧都深観は此寺の座主と為りたまへりと雖、後世門跡絶ゆ。
海道図会云、石山寺は西国巡礼十三番札所、その霊迹集に楽波大津宮に予て紫雲の瑞を現して、地形の蓮坐を示し、其より一百の星霜を経て、時機漸純熟して、聖武天皇良弁僧正をして伽藍を建立せしめ給、昔上宮太子より歴代禀承の御持尊を八葉の巌石に安置し、百代の皇祚を守護し給ふ、本堂は良弁僧正肇てより、承暦二年囘禄し、鎌倉頼朝公再興あり、天正に至り荒蕪せしを豊臣秀頼公母堂淀殿修補し、庄園を復し給ふ、今の堂是也、本尊二臂如意輪観音、腹内に籠て丈六の巨像とす、御即位の初暦には旧例として開扉あり、又三十三年目にも開帳す、延長六年亭子院の帝(宇多天皇)行幸初てありしより代々の帝行幸多し、東大門は頼朝公の時亀谷禅尼が勧進せしまゝなり、石山寺の額は行能卿の筆なり、鐘楼多宝塔祖師堂観月亭あり、亭は塔の北にて湖上の景を見る、豁眸亭とも云ふ、源氏間と云ふは本堂の傍なる一室を指す、紫式部此に籠居して五十四帖をつづりたりとぞ、其画像近衛関白信基公の賛辞を載す。〇石山寺は古来焚掠の災多からず、古書画の蔵珍あり、中にも越中国官倉納教交替記(紙本墨書巻物一巻)延暦交替記(同一巻)仏涅槃図(絹本着色掛軸一幅兆殿司筆)石山寺縁起(紙本着色巻物五巻隆光筆)等は近年国宝に列せしめらる、又多宝塔の一構は特別保護に与る。
美登茂之数云、石山寺の石は唐からめきたる態、かの太湖石とかやいふものに似て、彼れよりは殊に優れてあやし、其石のあやさま/”\にて、或は横ほり或は峙ち、雲のおりゐるがごとく、水のわきあがるが如く、浪の砕くるが如く、早瀬のそゝぐが如く、鳥けものゝ形に似たるもありて、雨露のいたくもればにか、苔深く黒みわたりて面白く可笑しきに、そこよここよと立もとほりてみれば、此石の根はひとつにて、いろ/\に分れたるなりけり、又源氏間とて昔紫式部がこゝに籠りて、かの源氏の物語りを書きはじめしといへるは非なり、賀茂翁の新釈にもみえて、今論らふにも及ばずなん、此書にもいへる如くかの調度とてあるものを見るに、皆後の世のものなるをや。〇元亨釈書寺像志云、石山寺者、聖武帝創東大寺、鋳大像、多聚金為薄、此時本朝未有黄金、帝聞和州金峰山皆黄金也、命僧良弁祈金剛蔵王、金剛蔵王告弁曰、此山黄金不敢自恣也、今示汝別法、近州湖西勢田県、有一山、如意輪観自在霊応之地也、汝至彼持念、必得黄金、弁便赴勢多、時老翁坐大石上釣魚、弁問曰、汝何人、対曰斯山主比良明神也、此地観音之霊区、言已不見、弁就其石、縛廬安如意輪像、持誦不幾、奥州始貢黄金、爾後刻丈六大悲像、蔵先像於中、亦造金剛蔵王及執金剛神、安左右、其像各八尺、当夷基趾、地中得五尺宝鐸、蓋為霊地。
   石山の堂の前に侍りける桜の木に書附侍る
 うしろめたいかで帰らん山ざくらあかぬ匂を風にまかせて、〔拾遺集〕
   東三条院石山に詣で給ふ時
 かくしつゝいつかは尽ん羽衣のたえず来なるゝ石山の橋、〔名寄又明玉集〕      法性寺入道
   秋石山にまうでてくもりたる夜谷に猿の鳴しを
 たよりなき旅とはわれぞおもひつる木をはなれたるさるも鳴なり、〔家集〕      赤染衛門
 都にも人や待つらん石山の峰に残れるあきの夜のつき、〔新古今集〕         長能
石山峰頂を片履《カタクツ》岡と云ふ、昔淳祐内供此より片沓を遺して昇天したりとてなり、又龍穴谷と云は祈雨の霊崛とつたへたり。淡海地志云、
   永禄五年八月十五日、佐々木屋形の御馳走にて、石山にて、
 石山やにほてる月のさやけさは唐土までも曇なからむ、               近衛殿
橘直幹石山寺に遊ぶ詩に曰ふ「蒼波路遠雲千里、白霧雲深鳥一声、」時人頗る之れを称す、又良岑春通石山寺に宿し立春の詩を賦して曰ふ「夜向残吏寒磬尽、春生香火晩炉燃、」と此句和漢朗詠に出でたり。〇僧元政草山集云、本朝麗藻、載源参州為憲石山寺小池蓮一絶、其後句乃出朗詠集中、膾炙人口、所謂「経為題目仏為眼、知汝花中殖善根」是也、余因此尋蓮池、而無所見、蓋山僧不好事、不知有此詩、蓮池亦為此没也、嗟乎豈独山僧而已哉。
輿地志略云、石山寺本堂の艮、祖師堂の後に、普腎院淳祐が墓あり、土俗悪源太の塚と為すは非なり、淳祐は延喜年中の内供にて、時の積徳たり、其師観賢と共に釈書に見はる。
   円融院の石山におはしけるに九月晦日殿上人共うきはしと云所に参て侍りけるに
 我だにも帰る道には物うきにいかに過ぬる秋にありけん、〔玉葉集〕          公任
 石山のいしにたばしるあられかな、芭蕉
   石山の螢谷にして
(662) 螢火や吹とばされてにほの海、 去来
 やみの夜や子供泣出すほたる舟、 凡兆
   登石山寺          拙堂
 好事天仙奮鉄鎚、琢成岩石万状奇、黒龍騰※[馬+襄]白虎伏、層々入雲丹梯危、上有香閣之高縹緲、下有太潮之碧玻璃、伝是源語成章処、風流千載称紫姫、芳蹤寄在名勝地、地霊人秀相得宜、画閲夙識湖山景、今日相訪不相疑、一笑当時詞林傑、甘向女郎立降旗、
 
心見瀬《ココロミノセ》 石山の下なる勢多川の急湍を謂ふならん、又|供後瀬《クゴノセ》と称するは氷魚の網代を置きて官へ調進したる所なれば也。山槐記元暦元年注進の近江名所には、志賀郡心見里とあり、往時は勢多橋の通じ難き事あれば此瀬を渉る、急湍なれば畏るゝ情より心見瀬と呼ぶならん、如何《イカガ》埼と云ふも同地にて同意の名目なり。輿地志略には心見瀬を石山寺の南なる南郷なりと説き、其東岸は即栗太郡黒津なり。此激湍には水石の奇観多くありしを、元禄年中岩石を断削して河勢を変じたりと云ふ、桜谷螢谷と云ふも此に渓谷外ならず。参宮図会云、北は勢多橋より南は供御瀬、凡二十五町水浜に螢多し、毎年芒種後五日より夏至後五日までを盛りとす、螢谷《ホタルダニ》と名づけ本名試之谷といひ、通常の螢に五倍の大さあり、夏至後は下流宇治へ降る、河水の旱涸する時はこの瀬波くだけて鹿飛《シシトビ》の景に同じ、勢多は即宇治の上游にて相去る五里許。(鹿飛供御瀬桜谷等は栗太郡に在り、参看すべし)
   近江へ下りけるに心見の瀬と云所を過けるに夜いとふかし
 明ぬとやこゝろみ迄は釆にけれどまだ深きよの渡りなりけり、〔清正集〕
今昔物語、近江国志賀郡古市郷の東南に心見瀬といふあり、郷の南の辺に勢多川あり、その河の瀬に大海の鰐上りて江の鯉とたゝかふ、鰐負てかへり下て山背国に石となつて兢たり、鯉は勝て後江にかへり上て竹生島を巡りていまにありといふ、心見の瀬といふは瀬多河□□瀬なりとなん、語つたへたりと云々。(此二字の滅は供御の二字なるべきにや)〇蜻蛉日記云、石山にまゐりて舟にて帰るとて、いかゞ崎山吹崎など云処を見やりて、あしの中よりこぎ行く云々。勝地吐懐編頭書云、按に、打出浜より石山辺までに伊加賀と名づくる所なし、名を失ひたるか、もし水により流れたるにも有べし、宇治の橘の小島の水に崩れたるごとし。
 
岩間《イハマ》寺 石山村南郷の西嶺にして、大字|内畑《ウチハタ》に属す、此嶺は西北|笠取《カサトリ》山に連り、江州城州の国界に当る、石山寺の南一里半、醍醐寺の東一里半、標高四五〇米突、勢多川は山腰を繞る。〇此寺は正法寺と号し、醍醐寺の別院にして、理性院に属す、西国巡拝第十二番の札所とす。〇続古事談云、岩間山正法寺といふは、宇治郡上醍醐の奥の笠取山の東の峰なり、越の小大徳泰澄法師、又金鎮法師とも云ひ越後国古志郡の人なり、白山に行て次に此所にきたれり、此所の未申に桂の木のありけるをきりて、自身等身の千手観音を作り奉り、銅の仏を籠たてまつり云々。(元亨釈書にも此事を載せたり)。
補【岩間寺】宇治郡〇山城名勝志 正法寺と号す、醍醐山の東南一里半許、笠取山の東に在り、三十三所観音の一員なり、醍醐理性院別当たり、麓より八町坂を登れば大門六僧坊の跡あり、昔薬師堂あり、今観音堂、鎮守五社権現社許残れり、等身千手の像頽破して彼の等身の像に泰澄造籠する所の金銅の観音一※[手偏+(朋/木]手半の像を安置す、脇士婆蘇仙、吉祥天女は泰澄の造る所なり云々、本堂の西側に巨桂一株あり、此樹山城近江の堺なり、縁起・別当の旧記・西国順礼記等、皆近江国云々、然れども岩間山は近江山城両国に係る、故に之を載す、云々。〔続古事談、略〕元亨釈書云、釈叡効聞石間寺観音霊感往彼、尽絶他語読法花三千部、夜礼像三千拝云々、此像泰澄法師之所刻。
補【畑】〇輿地志略 いし山より醍醐へゆくには内畑村を歴るなり、宇治へ行には外畑村を過るなり、長明方丈記にも出づ、畑川はいはま山の山間より出て、畑村の南を流れ、湖に入なり。
 
   栗太郡
 
栗太《クリモト・クルモト(クリタ)》郡 或は栗本に作る、西は湖水及勢多川を以て滋賀郡と相限り、南は山城国綴喜郡に至り、東は甲賀郡、北は野洲郡に接す、今十五村面積十三方里、人口五万、郡衙を草津《クサツ》駅に置く。本郡は分ちて二部と為すべし、草津以下十一村は、湖岸平原の地にして一部を成す、(金勝村は其高地に居る)一部は田上《タナカミ》谷にして、勢多川の東岸に倚り、信楽《シガラキ》谷と相接比して全く山中の村落なり、今三村に分る。鉄道線は国道に沿ひて草津に於て東北二線に分岐す、往時は田上谷より山城国字治に通ずる別路ありしが、近世は廃す。雄略紀に近江国栗太郡とあるは追書なるべし、天智天武両紀にも栗太郡と記す。和名抄、栗本郡、訓久留毛止、五郷分つとにあれど、延喜式には栗太郡に作る、今も久利毛止と唱ふ、大字に不止の訓あれば、栗太の古音は不毛二音の混転なるべし。今昔物語、栗田に作るは誤なるべし。
 くりもとや瀬多の橋桁たわむまではこぴつゞくるみつぎものかな、〔夫木集〕
(663)栗太は名義、此地に大歴木《オホクマキ》ありけるに因むと云ふこと諸書に見ゆ、今昔物語には其説を載すれど、是は土中に石木《イハキ》、即石炭泥炭の顆の埋蔵するを見て、附会したるに非ずや、輿地志略に霊仙寺は古の栗本の里なりと曰ふ、今|大宝《タイハウ》村の大字霊仙寺を指す、舒明紀に栗下《クリモト》女王の名あり、此地に因みあるか。晏に、栗太郡は安《ヤス》国(即野州郡)の分地なるべし、郡の大社建部神は、安国造の女婿にまします事、其条下に見ゆるごとし、又葦浦屯倉は今野洲栗太の交界にて、両郡に跨る、又以て古は一国なるを想ふるに足る。
日吉社々領注進記(元応元年)に「栗本北郡二宮神田拾町」とあり、北郡とは当時の私謂なるが、二宮とは何祠にや、小槻神などか。
補【栗本郡】〇野洲の分郡ならん。和名抄郡郷考、久を板本※[袂の旁]に誤る。天智紀三年十二月、栗太。続後紀嘉祥二年七月、栗太。神名式、栗太郡。兵部式、栗太伝馬十疋。一宮記、建部神社、大己貴命三輪一体、近江栗太郡などみな栗太なり、いまも栗太とかけり、此郡西は志賀郡、南は山城国白雲山に至り、坤は山城国界横岩山を限、北は野洲郡の堺三宅金が森にまじはり、乾はみづうみをかぎりとす、艮は野洲郡の堺南桜山、甲賀郡石部山に接し、東は甲賀郡の山岳にとなり、巽は野尻山田代山につらなるなり。三代実録貞観十七年の条には栗本とあり。金葉集恋下、題しらず、読人しらず「近きてふなは高しまにきこゆれどいつかはこゝに栗本のさと」或云、日本紀に近江国粟田郡としるせる所あり、もとより栗田郡といふ郡なし、おもふに上古は粟田口ととなへしにや、粟は栗の字転写の誤なるべし、栗田といひしゆゑに栗太のもじを書しか、亦転りて栗本とはなりたるかといへり、この説いと明かなり。
和訓栞、神代の古抄に、近江国栗田郡は上古大なる栗樹ありて、其根ざし数里におよべり、一郡の人今に掘て晨昏の薪に用ゆといへり。
 
田上《タナカミ・タノカミ》 今|上田上《カミタナカミ》村下田上村|大石《オホイシ》村の三と為す、勢多川左岸の山谷の総名なり、中世には田原《タハラ》庄又大石庄など曰へり、南は城州田原庄(今郷之口村)に接し、東は甲賀郡|信楽《シガラキ》谷に至る、或は曰ふ此山谷は和名抄甲賀郡|老上《オイカミ》郷の中なるべし、按に小神《ヲカミ》山の北より発源して野路矢橋を流るゝを老上川と曰ふ、古は野路より田上谷に入り、勢多川を渡りしと思はるれば、今の老上川は即老上郷の山口の水名なりと知らる。田上は古書|谷上《タナカミ》又手上に作る、天孫本紀「饒速日命八世孫、倭得玉彦命、此命淡海国谷上刀婢為妻、生一男一女云々」また書紀忍熊王の歌に多那伽瀰須疑※[氏/一]と見ゆ。(田上すぎて)勢多河即忍熊王戦死の地なり。又雄略紀「近江国栗太郡言、白※[盧+鳥]※[茲/鳥]居于谷上浜、因詔置川瀬舎人」とあるは、黒津供御瀬の網代の起因にやあらん。東鑑「承久三年六月十三日、軍士僉議、勢多相州(時房)手上城介(安達景盛)」と云ふ、此手上は田上に同じ、歌詠には田の上とも云。
 ゆふだたみ田上山のさな葛ありさりてしも今ならずとも、〔万葉集〕 月影の田上川のきよければ網代に氷魚の寄も見えけり、〔拾遺集〕
 田のかゐみ網代は水のものなれば来て見よ夏のすゞみ所を、〔拾玉集〕        慈鎮
 〔補注、右の歌未詳〕
 田のかみの山の木の葉にしぐれして勢田のわたりに秋風ぞふく、〔名寄〕       中務
   国分山の猿の腰掛にのぼりて
 秋風や田上山のくぼみより、    尚白
淡海温故録云、田上不動堂は石仏を祭る、大岩に作り掛けて建てたる堂なり、又報恩寺と云ふには頼朝公の御教書を伝来すと曰へり。〇長明の方丈記に、猿丸大夫の墓を田上山に尋ねたる由を載せたり、本朝※[しんにょう+豚]史云、猿丸大夫、不知何代人、蓋上世山林之隠逸也、近江国田上、有其旧跡云、鴨長明曾渉田上川、訪認猿丸之墳墓、猿丸族胤不明、故倭歌之家、虚談不少、田上遺塚、猶不蕪滅、長明豈食言乎。(曾束に在り)
地学雑誌云、田上山の大谷と字する山中に、電気石緑柱石煙水晶黄玉石等の宝石を産出す、凡田上山及び金青《コンジヤウ》山(或は金勝山に作る田上山の東に連接す)の花崗岩は、慨して其成分善く発達したれども、建築材としては劣れり、此花崗岩の晶洞に、雲母長石水晶黄玉等の大小完全の晶体相連結して産し、素と其空洞中に懸れるものの遊離して土砂と共に渓谷に流入し居るを以て採取せらるる也。〇田上の羽栗村のはげ石(方言凍石)は猛火に焼きて鎔けず変ぜず、器具を製し又水管を作て鉛管に代るに宜し、或は火炉坩堝を作るに適す、又磁器を製するに宜し、其粉末となすものは最も滑にして石鹸の如し、故に玻璃を研磨し衣服の膩垢を洗浄す可し、又機関の軸に塗て能く滑転を致す。(貿易備考)
補【田上】栗本郡〇淡海温故録 此処に石仏の不動明王あり、大岩に作りかけて建てたる堂なり、田上の不動とて名高き旧跡なり、又田上の報恩寺あり、頼朝公の御教書伝来の由なり。
谷上山 冠辞考云、万葉巻一、磐走淡海乃国之衣手能田上山之云々、こは衣手の手長きてふ意にてつゞけり、山は淡海国栗本郡にあり、巻十二、木綿畳田上山之狭名葛云々、こは幣を手に持て畳みて手向る意にて、手の上とつゞけしなるべし。
 
大戸《ダイト》川 或は田上川と曰ふ、下田上村果津に於て勢多川に会す、又信楽川と云ふ、源は甲賀郡(664)信楽谷の南多羅尾の御斎《オトキ》峠に発し、北流五里、長野黄
瀬を過ぎ西折し、一里にして大戸《ダイト》の大瀑布と為り、小神山(田上山の別称)の下を経て、黒津に至る、総長九里、氷魚の名産あり、大戸山は田上村大字大鳥居に属す。
 
小神牧《ヲカミノマキ》 今廃して上田上村の大字と為り、単に牧と曰ふ、山槐記には岡見牧に作る、其嶺を小神山と称し、老上川は其北に発して野路の玉川と為る、小神山は東一里にして鶏冠山、又一里にして金青山あり皆相並ぶ。〇日本後紀、延暦十八年、近江国小神旧牧賜諱。(嵯峨天皇)
 
黒津《クロツ》 今下田上村に属す、勢多橋の南一里、大戸川此にして勢多川に会ふ、古より氷魚の網代なり、供御瀬は黒津より石山村南郷に踰ゆる渡渉なり、掲裳して絶るべし、水石の奇勝と湖山の要害を以て、古より其名著る。輿地志略云、黒津は古歌に
 たなかみや黒津の庄の寝子男あじろもるとて色の黒さよ
といへり、水畔に大日堂あり崖上に建てり、之を水尾《ミヲ》山と称す、又古歌に黒津のつかなみと云物あり、是は下賤の敷物の名なるべし、
 つかなみの上に夜な/\旅寐して黒津の里になれにけるかな。〔散木集〕       俊頼
補【黒津】〇輿地志略 黒津庄とは稲津村開津村等を云ふ〔古歌・俊頼歌、略〕今按ずるに、つかなみとはねこだといへる下賤の敷ものなり。
黒津八島 湖中にあり、元禄年中台命ありて川村平太夫、湖水の瀬を穿ほるが故に、八島の内六島は切崩されて〔脱文〕
 
供御瀬《クゴノセ》 黒津の勢多川の徒渉を云ふ、黒津は古史に谷上浜と曰へる氷魚の供所なり、氷魚は延喜式「宮内省、近江国例貢氷魚、正親寮近江国氷魚網代、始九月迄十二月貢之」とありて、山城国字治と二所の供所とす。供御瀬に昔八箇の岩嶼ありて之を室八島《ムロノヤシマ》と呼べり、元禄中川村瑞賢淀川の水利を治し、此岩を除去したりと云ふ、石山の心見瀬《ココロミノセ》と云ふも即此なり、平家物語に「木曾方今井四郎兼平勢多を支へければ、稲毛入道の計として田上の供御瀬を渡し粟津へ向ふ」由を載たり。輿地志略云、供御瀬の八島は、元禄年中台命あり川村平太夫琵琶湖の瀬を穿ちほるとて、其六島をきり崩したり、今は僅に黒津の道万島南郷島のみ八島のかたとてのこれり、名寄に俊頼「田上より船にのりて、八島といふ処にて、霧のいぶせかりければよめる、
 河霧の烟と見えて立なべに波わきかへる室の八島に、
 (室八島とは古言竈を云へり、地名の義理は詳ならず)
凡此瀬は黒津螢堂より半町斗り北の方にて、勢多川幅百四十一間あり、古絵図には川の広さ二町とあり、元禄御改の新絵図には二町十二間とあり、幅上下へ十間許りの間渡瀬なり、少く深き処に入れば二十間斗の間は有立なり、其外上下ともに皆人の身立たず、亀の甲なりに高き瀬なり、此瀬にて網代を設け魚を捕へて朝廷に貢す、故に貢御瀬と名づけしと云、盛衰記にも貢御の字に作れり、太平記東鑑には承久の役此瀬を上り京攻めの事を記す、天正元年、足利将軍義昭信長を討たんと勢多橋を引きたる時も、柴田勝家田上へ廻り供御瀬へ渡りたり、今も毎歳公儀よりの御目付必此瀬を改めたまふとなり。
 
関津《セキツ》 今下田上村に属す、黒津の南二十町、文徳実録、天安元年近江国に新置せられしてふ大石関の跡なり、此関は勢多川に沿ひて宇治へ出づる路を扼せる者なり。
餅居《モチヰ》宮 下田上村大字里に在り、田上郷大石郷の古鎮守なり、散木集に曰く
   田上に侍ける頃、上の里と云ける所に、湯わかして人のむかひければ、まかりけるに、鳥居の有ける前に、道しるべの者おろしければ、いかなる神のおはしますぞと尋ければ、もちゐの宮と申神のおはしますと云を聞て、俊重が戯れてよめる、
 あれこそはもちゐの宮と聞からにつくづくと思ふ事をこそ祈れ。
 
大石《オホイシ》 今大石村と曰ふ、関津の南なり、大石は中世は庄名に呼び、大石氏の宅址、大字中村に在り、東村浄土寺は其墓所とぞ、家祖は田原藤太秀郷に出づ、大石党と称し鹿飛《シシトビ》山に塞を搆へ、之を関津と曰へり、其党に桜谷小山淀等の支流あり、天文年中大石党離散したり、浅野家に仕へし大石内蔵助良雄と云ふは此党の裔孫なり、小山系図云「大膳大夫広朝(改名満泰)二男大石弾正良郷」など或書に見ゆ。〔名所図会下野国誌〕土俗大石をオイセと呼び、又男石に作る。
補【大石】〇輿地志略 大石の庄は黒津の庄の南にあり、何の郷と云ひしを知らず、大石の名は文徳実録に出たり、大石の関の旧跡は関津村にあり。
 
田原《タハラ》 大石の南に龍門小田原の二大字あり、龍門は山槐記元暦注進の近江名所に栗太郡龍門と載せたり、小田原は山域田原郷(今綴喜郡郷之口村)に接続す、古は彼此通じて田原郷と唱ふ、東鑑「承久三年六月八日、官軍可向宇治勢多田原」云々、〇氏族志云、藤原秀郷、置別業於近江田原荘、因号田原藤太、子孫因居近江、〔神明鏡〕按太平記蒲生軍記載其説之所由、以俵為米苞、其事怪誕不経、好事者為之也、故今不取。
 
(665)桜谷《サクラダニ》 古名佐久奈度と曰へり、大石村大字|東《ヒガシ》村に在り、後世此名は心見谷と混同し勢多川の谷の総名と為る、蓋佐久奈度は今の鹿飛《シシトビ》の瀬に基因す。輿地志略云、佐久那谷は東城大七瀬の一にして公事根源に見ゆ、
 にほてるや桜谷より落来る波のはなさく宇治のあじろ木、〔夫木集〕
  〇輿地志略 田上にて八月許につれづれなりければ、何となくあゆみ出て、さくら谷のかたへまかりけるに、道のとほかりければやすむとて、式部の太夫のよめる
 春ならで桜だにをば見にゆかしあきともあきぬ道の遠さに、〔散木集〕
 
佐久奈度《サクナド》神社 今桜谷神と称し 毎年六月芽輪祓の祭を行ふ、〔神祇志料〕此神は文徳実録「近江国散久難度神明神に列せしめられ」三代実録、貞観年中授位の事あり、延喜式、栗太郡に列し名神大と注せらる。
補【佐久奈止社】延喜式曰、佐久奈止社云々。文徳実録曰、(仁寿元年六月〕以散久難度神、列明神。三代実録曰、〔貞観元年正月〕佐久奈度神、従五位上。
 
鹿飛《シシトビ》 詞人の謂ふ所の鹿跳澗なり、勢多橋の南二里、桜谷に在り、供御瀬と共に勢多川の一灘なり。輿地志略云、鹿飛幅六間四尺あり、切通の長七間許、山と山との間両岸まで幅二十八間、大水の時は十間許、河の向よりこなたへ鹿も飛越えん、故に此名あるなり、公儀百日御目付必倹見あり、此瀬は古名を石良《イシラ》瀬とも云ふ、散木集顕昭秘注に見ゆ、
 氷魚も世をすみがたしとやおもふらん石良が瀬にも網代打つなり。(和名抄、※[魚+少]、俗云氷魚、白小魚也、長一二寸者)
   鹿跳澗、是湖水瀉出為瀑之処、以鹿跳可渡名焉、己丑五月往観、紀以詩、
 太湖三万頃、其水西南傾、五州怕魚鼈、難拒勢建※[令+瓦]、護之以山壑、濠ン互柱※[手偏+掌]、輸瀉漸弗猝、譬如酒出罌、有余乃溢出、湖面無縮羸、脈々過菟道、混々赴茅渟、長橋虹霓跨、大※[舟+扁]羽毛軽、難信尋其口、裁如一溝横、偉此造物巧、万古安群氓、近聞有献策、決開利舟行、湖船可通海、運送捷路成、咄哉犂※[缶+并]智、敢欲闘巨霊、
岩橋《イハハシ》 輿地志略云、此地名今詳ならず、絵図を考ふるに小田原の南に岩本村といふ地あり、若此の処にや、承久記にいはく「武蔵〈泰時)供御瀬を下て宇治橋へ向はれけるが、其夜は岩橋に陣を取る」と。
補【鹿飛】是佐久奈止社の傍、湖水の至て狭き処也。〇日本名勝地誌 大石村大字東村にあり、勢多川此に至りて忽ち窄く、両崖は山峡にして巉巌崎嶇として相峙つ、平遠の水此が為に激し、沫飛て頽雪の如く、其音※[鼓/冬]々たり、両崖の幅凡そ二十八間にして川底の岩まで六間余に過ぎず、鹿一躍すれば跳超し得べし、故に此称あり、下流又一瀑をなす、之を桜谷の滝と称す、瀑の側らに米浙《コメトギ》と名づくる岩あり、激瑞の音恰も米を浙ぐが如し、此間夏時に水減ずれば、水底の奇岩を現出す、或は臥し或はたち或は躍るが如く、其奇名状すべからず。
石良瀬 則ち鹿飛の事なり、歌枕に〔歌、略〕
 
曾束《ソツカ》 今大石村に属す、旧曾束庄と称し山城国に属したるにや、今綴喜郡宇治田原村と相通じ曾束山とも曰ふ。〇輿地志略云、田上の曾束は、帥《ソツ》大納言源経信の別業にして、之をば俊頼俊重三世相承して卜居す、故に地名を帥家といへり、今曾束の字に作れりとぞ。
   田上にてよみ侍りける
 旅寐する蘆のまろ屋のさむければ爪木こりつむ舟急ぐなり、〔新古今集〕       源経信
   故帥殿田上におはしましたりしに、具しまうされたる人々、歌よまさせけるに、月照網代を、
 あじろには月の光もあるものをなに壮夫のかがりたくらむ、〔散木集〕        源俊頼
   田上に侍りける比、山のかひに人の数多物ひく音のしけるを問はすれば、山より船造りて下すなりと云を聞てよめる、
 山彦はこのもかのもに答へつゝ音たかさこに船くだすなり
   田上にて、川のほとりになみかけたる柳の木に、そは麦と云ものかけたるが、月夜にくらく見えければよめる、
 河柳さしもおぼえぬ姿かなそははさみつゝ月にたてれど、
   田上にてはした山を見てよめる
 おく霜や染めはつすらむもみぢ葉のむらごにみゆるはした山かな、
   ささふのやまにのぼりて
 もも伝ふいそしのささふ時雨してそつ彦真弓もみぢしにけり、
 いかばかり涙のしぐれ色なればなげきおほしの山を染むらむ、
   田上に侍りける程、俊重も侍けるが登りてのち、都よりおくりて侍ける、
 紅葉せし小山の里の恋しさにしぐれてのみもあけくらすかな、〔以上、散木集〕
   自尼瀬至曾木途中      旭荘
 ※[谷+含]谺纔畢又崔※[山/鬼]、北回南旋幾百回、修葛縛柴孤筏載、垂藤※[糸+圭]※[竹/乍]小橋開、澄潭木影龍蛇動、空谷跫音雉兎来、(666)稍転巌肩紅葉尽、夕陽一線照青苔、
    水際巌罅成洞者三、曰蛇穴曰相穴曰虚穴、虚穴尤深、見村女数輩手燭而入、
  巌根有洞其口狭、広可並行高可立、三洞相隣東者深、水気淪巌滴余湿、此洞平日在水心、千鬼百怪所群集、逆波衝折巧覆舟、名曰水府無人渉、一朝水落※[口+牙]然呈、洞背唯見枯藻貼、元〓蛟龍安在哉、紛々餓※[草がんむり/孚]是魚妾、村女又知霊異泯、毎人手燭高歌入、
淡海地志云、勢田川に沿て供御瀬、黒津関津を過ぎて大石村に至る、怪岩奇石、布置はなはだ巧妙なり、已にして鹿飛《シシトビ》に到るべし、曾束村と云ふ、其嶺に猿丸祠あり、又隔岸の地に猿丸の宅址あり、宅址は岩窟にして、青山に囲まれ碧水に臨み佳景なり、是より一嶺を越ゆれば石山寺に達す。
 
勢多《セタ》郷 和名抄、栗本郡勢多郷。〇今瀬田村老上村に当る、東南は田上谷と山嶺を以て相限り、西は湖水、北は木川郷梨原郷に至る、勢多の渡津は大字橋本に在り。
本郷は中古国府の在所にて、延喜式、勢多駅馬三十匹と記せり、元亨釈書に近州湖西勢多県とあれど、湖西にはあらず。〇斉多《セタ》済は中古以来橋梁を架す、忍熊王敗死の処なり、日本書紀云、武内宿禰出精兵、而追忍熊王、及于狭々波栗林、忍熊王逃無所入、則喚五十狭宿爾、共沈瀬田済、而死之、于時武内宿禰歌之曰、
 あふみのみ斉多のわたりにかづくとりめにしみえねばいきどほろしも、
於是探其屍、而不得也、然後数日之、出於菟道河、武内宿禰歌之曰、
 あふみのみ斉多のわたりにかづくとり多那伽瀰すぎて于泥にとらへつ。
 
国府《コフ》址 輿地志略云、勢多府址今の橋本の辺ならんか、按に和名抄曰、国府在栗本郡云々、拾芥抄にもかくの如くしるされたり、延喜式の斎宮式に、頓宮は近江の国府とあり、花鳥余情に、瀬田の頓宮は彼斎宮の御額の御櫛を撤して筥に入たまふ処なりとしるせり、是をもつて見るときは国府を勢多とするもの明なり。〇延喜式、近江、大近国、管十二郡。和名抄、出御在栗本郡、行程上一日下半日。扶桑略記、天延四年六月、地震、近江国府庁并雑屋卅四宇顛倒。志略又云、言塵集曰、国府夷都也と、源重之の「母の近江の国府に侍りけるに、むまこの東よりのぼりて、いそぐこととて、此度はあはでのぼりぬることいひて伴りければ」と云こと、拾遺集第九に見えたり、按ずるに重之は冷泉院の坊の帯刀なり、然れば安和の頃重之の母此辺に棲止せしなるべし。
【国府址】〇輿地志略 勢多は昔は駅にして繁昌の処なり、江次第・延喜式等専ら勢多の駅とす、此勢多を近江の国府とす、和名抄・拾芥抄等に国府栗本郡にあるよし記せり、言塵集に夷の都といふは則国府をいふとしるせり是なり、古昔は斎宮の頓宮もありしと見えて、延喜式斎宮式に、凡そ頓宮は近江国国府とあり、湖月抄に花鳥余情を引て、瀬田の頓宮は彼斎宮の御額の櫛を撤して筥に入たまふ処なりとしるせり。
 
勢多《セタ》川 琵琶湖の水、勢多の西に緊束し、一条の細流となりて南に潰走す、之を勢多川と曰ふ、田上谷を過ぎ幾多の急湍と為り、宇治に至り始めて平夷に就く、凡湖口より宇治まで六里余、供御瀬鹿跳澗米浙瀬等の奇勝あり、末は即宇治川淀川と曰ふ。〇延喜式、六処京城界川御禊の二所ほ、近江国勢由川とす、瀬田橋鳥井川の辺を禊所址とす。
 
勢田《セタ》橋 今瀬田村大字橋本の西に架す、鉄道架梁は更に其北に在り、此橋は滋賀大津宮朝廷の時すでに其名見え、三代実録「貞観十三年、勢多橋火」の事を載せ、延喜式には 「凡近江国、修理勢多橋用途帳、附朝集使、毎年進上、備之勘会」と注せられ、厳重なる官橋なり、枕草紙にも「椅はせたのはし」と記す。
 みつぎもの絶ず備ふる東路の瀬田のながはし音もとどろに、〔家集〕         兼盛
   瀬田の橋のもとにて歌よみける、前に魚とる舟ありければ、
 波のよるいさり小舟の見えつるはいをねられねば見ゆるなりけり、〔家集〕      和泉式部
 〔補注、右の歌未詳〕
 みやこ人まつほど過ておもふらんせたの橋舟今ぞこぎ行く、〔家集〕         赤染衛門
 横の板もこけむす計り成りにけり幾世へぬらん瀬田の長橋、〔夫木集〕        大江匡房
天武紀、壬申乱の条下云、村国男依等討栗太軍、追之到瀬田、(六月二十二日)時大友皇子及群臣等、共営於橋西、其将智尊率精兵、以先鋒距之、仍切断橋中、須容三丈、置一長板、設有榻板、度者乃引板将堕、是以不得進襲、於是有勇敢士、曰大分君稚臣、棄長矛以重※[環の王が手偏]甲、抜刀急蹈板度之、便断著板綱、以被矢入陣、衆悉乱而散走之、智尊抜刀斬退者、而不能止、因以斬智尊於椅辺、則大友皇子左右大臣等、僅身免以逃之。〇海道図会云、拾芥抄曰、本朝大橋、勢多宇治山崎、歌に轟橋とも詠り、此椅帝城の要害にして、古来騒擾の時、引事度々なり、保元平治治承元暦の戦、承久元弘応仁の乱、皆此椅を伐て黒津供御瀬に軍すること数々あり。〇輿地志略云、瀬田棉、俗説曰、後宇多院御宇、(667)思性律師此橋を造り、其製造専ら西土の製に傚ふが故に唐橋と云ふと、又唐金の擬宝珠ある故に唐橋と云ふと皆信ずるに足らず、一説此橋古は今の在ところよりは南の方、阿痛の薬師堂の辺に架せり、竹をくみ板をならべ、筏にくみて繩にてからみ付たる故に搦橋といひしを、中略してから橋とは云なりと、此説是なるに似たり、玉野の浦の記に曰、景行天皇の御宇筏を組みて瀬田に船橋を掛ると、是等を以て見ればからみはしの説あたれり、亦今の所在の地よりは南なりと云の証拠は、江家次第「伊勢公卿勅使進発条下曰、近江国祗承、到勢多駅国分寺前、勢多橋、不下馬」橋今の地にありては何ぞ国分寺の前を通行するに及ばんや、是を以て知るべし、古の東路は遙に南にして、平津村の西より船渡にて東の岸へ上り、勢多の中山を越て行しとなり、鵝峰文集曰 勢多小橋三十六間、大橋九十六間、自橋上望見石山寺、此所為古戦場者数矣、壬申乱、天武大友戦于此、大友敗死、夫天智未崩、天式既辞儲位、則帝統非大友而誰哉、其天命不遂者、時運也、挙世以大友為叛臣、痛哉」水戸義公大日本史を編輯なさしめ給ふに、大友を本紀に建て、近江の朝廷大友と為す、亦同意なり。
 永き日や蝶とつれだつ瀬たのはし、朱迪
 ゆく年のせたをまはるや金飛脚、 蕪村
瀬田橋を俗に唐橋と呼ぶ、唐橋とは韓国様の架梁にて、三代実録「元慶三年九月、鴨河辛橋火焼断太半」と云事見ゆ、又三代格に「延喜二年、大政官符、応置守韓橋丁二人事、右件橋往還要路、人跡不絶」と載せたれば、京師の三条四条五条などの橋も韓国様の架梁なりしと想はる、一説からみ橋の略なりと云ふは、殊に信憑すべからず。
橋姫《ハシヒメ》祠 輿地志略云、勢田の橋姫は橋の南に在り、一説に籠王女を祭るとも云ふ、宇治橋に橋姫を祭ること顕注密勘に見ゆ、其類ならむ、土俗田原藤太秀郷の龍宮の談に附会するも、畢竟水府の霊神なればなり、造橋毎に改修すること古来然りと為す。海道図会云、諺に曰、勢田の橋の下は龍宮城也と、近江国佐々木蒲生氏此橋を往来の度毎に、金の笄子《カウガヒ》を一枚づつ龍神へ進物として投入られしと云伝ふ。
秀郷《ヒデサト》祠 輿地志略云、橋姫祠と相接近して田原藤太秀郷を祠る小宇あり、相伝ふ寛永年中此に建立す、初め此を去ること東南六七町計に、何の神を祭るにや小祠あり、寛永年中蒲生中務大輔忠知此地を過ぎ、土民に尋ぬるに橋辺に我先祖秀郷の社あるべきことを以てす、土民即ち彼無名の祠、定めて是なるべしと答へ、乃橋南橋姫の傍へ移す、尋いで将軍家々綱公より修造ありて、雲住寺の僧之を護ることとなり、祠廟の縁起をも製作す、天和年中の事とす、其縁起に秀郷は勢多川の辺田原(山城国)の人なり、又蒲生郡にも居る、故に田原と称し、或は蒲生と曰ふ、河内守藤原村雄の子なれども、母は下野掾鹿島の女にて、祖父豊沢も下野守にて、東国に其因み深かりしと。神社考低書云、世伝、初秀郷微行近江勢多橋、橋上有大蛇、両眸光曜、双角尖鋭、焔口鉄牙、甚可懼也、秀郷心不動目不逃、直前跨蛇而行、蛇亦不駭、已而有一男、忽来謂秀郷曰、我在勢多椅下、二千余年、見人不鮮、未曾有勇剛如公者、願為我誅寇、恩不可忘也、秀郷諾、与男倶帰勢多、自橋下凌湖水、行数里到一門、入而見、水精為砂、珠石為甃、朱楼紫閣、金欄銀楹、其壮麗不可言矣、請秀郷坐上座、男整衣冠、指呼左右、具膳設宴、及夜闌、僉云寇可来、秀郷狭弓矢而待之、雨風一陣、電又激起、於是見比良峰有光来、其形二千許、松明燃于二行也、秀郷以為百足馬※[虫+玄]、及近前而射之、中而不洞、又射之而不貫、秀郷恠思唾鏃以射、中眉間貫喉下、其光俄滅、有山倒声、果百足馬※[虫+玄]也、彼男大歎曰、此所龍宮也、彼頻侵我、我輩遭彼侮辱、今也公之恵也、以絹一巻鎧一領縛俵一綱鐘一授秀郷、曰公之家必有将軍、秀郷出、男又送、瞑目聞波浪声、已而到橋側、秀郷旋都、絹随裁随長、俵従取米而従満中、(和俗米苞曰俵)故号曰俵藤太、又送其鐘三井寺、文保二年三井回禄、山徒取錘、鏡不鳴、衆人多力、以巨杵撞之、其音如蒲牢之吼、山徒悪之、転于無勅寺岩下、破砕片散、衆拾而遺三井、一日小蛇来挙尾敲之、経宿鐘如故無疵云。
 
勢田《セタ》城址 海道図会云、勢田の旧族勢田氏は洪水防禦の術を善くし、安貞年中勅を承て賀茂川の洪水を防ぐ、勢田判官為兼と云、天文永禄の紀太閤記に勢田の掃部助見えたり、其後家廃衰して、信長公の時、甲賀武士山岡対馬守同美作守の一族、勢田の城に籠る、明智光秀逆叛の時、勢多橋を焼落して光秀に従はず、其後慶長五年の乱此城に石田方の兵屯す。〇輿地志略云、山岡氏の城址は近世寺境となり臨江庵と曰ふ、山岡美作守景隆兄弟明智乱の時、徳川家康公の甲賀山中を過ぎ東走するに当り、嚮導したる事家忠日記に詳かなり、景隆の墓寺中に存す。〇按に、山岡景隆の弟景友道阿弥と称す、石田の乱の時東軍に随従し、勢田城は西軍立花氏之に屯したり、乱後景友は栗太郡の邑一万石を給せらる、慶長九年景友卒し其の封を収めらる、景友の冶邑は田上の大鳥居なりとも云ふ。
 
建部《タケベ》神社 今勢田村大字|神領《シンリヤウ》に在り、一説初め神崎郡建部郷に鎮りませりとも伝へ、〔京華要誌〕竹部大明神と云ふ。志料云、蓋建部君の祖、稲依別王を祭る、〔斟酌日本書紀古事記〕是は日本武尊(668)近淡海の安国造の祖、意富多牟和気が女、布多遅比売を娶て生坐る御子也、〔古事記〕之を近江一宮とす、〔寺徳集一宮記〕貞観二年、官社に列り、十年従四位上に叙され、〔三代実録〕延喜元年、正四位下より従三位に進め給ひ、(扶桑略記裏書)其後名神大社に列り、〔延喜式〕応和二年正三位を授く、〔日本紀略〕凡毎年四月二午を以て祭を行ふ、〔滋賀県注進状〕其神主三人を置く、一老二老三老と云、蓋建部氏なり。〔一宮巡詣記〕〇平治物語、佐殿東走の条に 「勢田には橋もなくて、舟にて向ひの地へ渡り、社の見えけるを如何なる神ぞと問ひ玉へば、建部明神と申す、佐殿さらば今夜は此御前に通夜して、行路の祈を申さんとて留まり玉ふ」とある是社なり、今官幣中社に列す。
 
大江《オホエ》 輿地志略云、神領の北を大江と云ふ、(今瀬田村大字)又窪江村と云ふ地も今は大江村の中に在る字なり、古書に窪倉と号せしも此窪江のことなるべし、大津宮御宇より世々の調物皆玉出玉野の御倉に納て、膳所へ送り都に献じたりと、今旧地の字に久保宮と云処あり是なり、御霊祠あり其供僧坊を常照寺と云ふ、大江の北を大菅村と云ふ、丹後侍従の塚と云ふ古墳あり、又東光寺の寺辺に、古瓦古銭等、大伽藍の遺物とおぼしきものを土中より得るとぞ。
【大萱《オホガイ》】〇輿地志略 大江村の北に在る村なり、正一位九大王社は大萱村に在り。
丹後侍従塚 同村田の中に在り、如何なる人と云ふ事を知らず。
東光寺 同村に在り、往古大伽藍地なりと、土民此辺の土中を穿ちて古瓦古銭、古き仏具等を得る者多し。
 
玉野《タマノ》 大江より野路老上川の辺までを玉野と字す、中世の歌名所なり、玉川の名も之に因る。〔輿地志略〕
 あられふる玉野の原に御狩して天のひつぎの贄たてまつる、〔夫木集〕
 
野路《ノヂ》 今矢橋村と合同して老上《オイカミ》村と曰ふ、瀬田村の東北一里、老上川は一に 狼《オホカミ》川に作る、野路の南を流る、(田上山を発源し西北流、矢橋にて湖水に注ぐ、長二里)野路は玉野路の義なるべし。
 打わたる瀬田の長橋ほどもなく一むら見ゆる野路の松原、〔夫木集〕
 月の入るながらの山を目にかけて今宵はすぎん野路の篠原、〔拾玉集〕
 近江路や野路の旅人いそがなむ野洲が原とて遠からぬかは、〔山家集〕
 うちしぐれふるさとおもふ袖ぬれて行くさきとほき野路のしぬ原、〔十六夜日記〕
参考本盛衰記云、元暦二年六月廿日、内大臣(宗盛)近江国篠原宿に着ぬ、廿二日に勢多にて、大臣殿も右衛門督(清宗)も各別の処に置奉、首はねらる。東鑑云、六月廿一日、延尉(義経)著近江国篠原宿、令橘馬允公長誅前内府、次至野路、以堀弥太郎梟前右金吾、此間大原本性上人、為父子知識、被来臨于其所々、両客共帰上人教化、忽翻怨念、住欣求浄土之志。(野路は往時東国通路の衝に当り、諸書に散見す、而て別に野洲郡篠原駅あり、往々混同の看あるを免れず、頗商量を要す、野路篠原と云ふは大略此を指す)東鑑、建久元年、上洛、著御野路、又承久三年相州(時房)武州(泰時)等休息野路辺、幸島四郎行時、自|杜山《モリヤマ》馳付野路駅、加武州之陣、于時酒宴砌也、武州感悦之余、閣盃先請坐上、次与彼盃於行時、令太郎時氏引乗馬、剰至于所具之郎従及小舎童、召幕際与餉等、芳情之儀、観者弥成勇、云々。
 明日もこむ野路の玉川萩こえて色なる波に月やどりけり、〔千載集〕         俊頼
諺に六玉川の名目あり、其一を野路玉川と為す即此也、御供之数云「玉川或は老上川ともいへり、此川上に大神山といふ高山ありて、此山の麓神領村に建部神社といふあり、即野路の玉川も此流なり」此玉川は玉野といへるより、水名に移りたるならん、山槐記、元暦注進の近江名所に玉井(栗太)玉川里玉野郷など見ゆ、皆此なるべし、海道図会に野路村の西端道傍に埋れし小池あり、之を玉川の古跡と云ふとあるは、玉井の事にあらずや。
 
矢橋《ヤバセ》 又八馳に作る、今野路村に合同し老上村と曰ふ、勢多村の北一里、湖水に臨み大津の石場まで渡航一里、陸路勢田椅を迂回すれば二里、近江八景の一所にして世俗にきゝわたる地名なり、万葉集に八橋に作り矢作《ヤハギ》に因めるが如くに詠ず、名義詳ならず。
 淡海のや八橋のしぬを矢はがずてまことあり得むやこひしきものを、〔万葉集〕
 にほてるややばせの渡りする舟をいくそたびしつ勢田の橋守、〔堀川後百首〕      兼昌
 舟とむるこほりもしらじあづさ弓おして矢ばせのけさの渡りは、〔拾玉集〕       慈鎮
名所図会云、世に伝ふる月夜舟物語と云者は、八橋の事なり、其大意、昔湖に舟なくして、渡海なかりしに、志賀の辺りに月と云ふ遊女有けるが、夢のうちなる枕をかはして睦びける男、ある夜涙をながして云ふやう今は何をかつゝまん、我は山田に年経たる楠の大木なるが、其木を切て舟に造り湖水の通ひにせんと、所の守より既にあす切べしと定まりぬ、然れども其舟千万人よりてもいかでうごくべき、御身向ふに立て扇にてさしまねかば、忽ち舟ははしるべし云々、此物語は三(669)井寺の謡に「山田矢橋の渡し舟の、夜はかよふ人なくとも、月のさそはゞ自ら船もながれ出らん」と云詞に附ての戯作とは見えぬ。
鞭崎《ムチサキ》明神は矢橋村の鎮守にて、八幡宮とも白蛇祠とも云ふ、往時建久元年、右大将頼朝上洛の時、此浦を過ぎ馬上より彼社は何と問はせ、鞭を以て指したまへば、即鞭崎と申すなど伝ふれど、信拠し難し、神社啓蒙にも其説あり。今按接に鞭崎とは猶神崎と云ふごとし此に神祠あるに因り鞭崎の名起る、和名抄に神字を牟知と訓めり。
石津《セキシン》寺 矢橋に在り、天台宗を奉ず、輿地志略云、石津寺縁起によれば「伝教大師、作薬師之像二体、一体者安置于根本中堂、今一体者乃当寺之本尊也、初伝教誓令天狗、投三之石於虚空、其留所在鎮座也、然後此石留于矢橋浦云々、将軍源義詮有瑞夢之告、再建堂宇、然後及戦国、堂宇頽敗焉」この本尊薬師は今武蔵国東叡山中堂の本尊是なり、台命ありて彼へ移さる、当寺には金子を賜はり新仏を安置す。
 
木川《キノカハ》郷 和名抄、栗本郡木川郷、訓木乃加波。〇今山田村笠縫村なるべし、山田村大字木川存す、梨原郷草津駅の西にして、湖岸にのぞめり。木川の南に今大字|御倉《ミクラ》あり、輿地志略に、此は大津宮の御宇の頃、玉出の御倉と称したる朝廷の納所なりし由を説けり、木川は草津川の別称にて、本水名に因れるか。
 
山田《ヤマダ》 今山田村と曰ふ、革津駅の西一里、古は矢橋と相並び大津への渡航ありし所なり、近世は往来も減じたれど猶大邑なりき。
 
笠《カサ》 今|笠縫《カサヌヒ》村と改む、山田村の北に接す、淡海温故録に笠村は和歌に笠縫とよめる地なるべしと推断し置けり。
 旅人のみのうちはらひ夕ぐれの雨にやどかる笠縫の里〔十六夜日記〕          阿仏
笠の里と云ふを歌詞中には延べて笠縫と作したるか、本名にはあらざるべし。又近江の笠原郷は悠紀方の歌名所にて、歌集に散見す、文政元年大嘗会の六帖屏風にも見ゆ、野洲郡なりと云ふ説あれど笠村にあらずや。
   笠原郷、時雨数降、
 君がめぐみさしてぞあふぐ笠原の里ももらさずうるふしぐれを、〔古事類苑〕
補【笠縫】栗本郡〇淡海温故録 此里栗本郡とあれば、彼の上笠下笠両村の名なるべき乎。〔以下、藻塩草「旅人は蓑打払ふ夕暮の、四条」。十六夜日記「旅人の」美濃国安八郡の笠縫とす〕
 
支那《シナ》 志那又品に作る、今蘆浦と合同して常盤《トキハ》村と改む、笠縫村の北にして、湖上に臨み野洲郡界に接す。支那は古村にして村岸は坂本村なれば渡航あり、太平記にも見ゆ。〇按に源氏物語早蕨巻に、
 しなてるや邇保の水海こぐ舟のまほにもいもにあひ見てしがな
とあるは「支那出るや」より漕舟へつづく句法なるべし、地名より出でて枕詞となれる者なり、枕詞此例多し、此地の舟の事、参考本盛衰記云「養和二年、征討使近江の湖を隔て東西より下る、山田矢橋の渡し、志那今浜を浦づたひ、船に竿さす者もあり」云々、東国路の一便航なりと知るべし。又佐々木屋形の盛時に、下総千葉の一族流浪して佐々木に依頼し、志耶を賜り志那刑部少輔清胤と云へる人あり、又支那弥三郎宗鑑と云ふも故里は此なるべし、此地湖村なれば水田に多く蓮を植う、夏日観るべし、里謡に「品のだんの堂による火をともす」と曰ふは陰火ならん、檀堂と称する葬所あり、本尊地蔵菩薩にして焔魔王泰山府君などの古像を置く云々。〔輿地志略温故録〕
太平記云、建武三年正月、北畠奥州の国司五万余騎、湖上の船共七百余艘を点して、志那浜より一日が中にぞ渡られける、爰に宇都宮紀清両党、主の催促に依りて、五百余騎にて打ち連れたりけるが、宇都宮は将軍方に在りと聞えければ、面々に暇を請ひ、色代《シキタイ》して志那浜より引き分れ、芋洗を廻りて京都へこそ上りけり。〇輿地志略云、志那渡は東照公大坂陣の時渡航あり、爾来官船を備置かれしが、元禄頃に至り朽船と為り焚捨らる、守山駅より此まで一里半は作道《ツクリミチ》と称し、東照公通路の後は将軍家上洛の道筋と唱へたり。
 於伊津島しま守る神や居ますらんなみもさはらぬ童部の浦、〔名寄〕         紫式部
於伊津《オイツ》島童部浦は支那の湖上に在り、〔輿地志略〕按に此歌の端書に「みづうみに、おいつしまと云洲崎にむかひて、わらはべの浦といふ入海のをかしきを、くちずさむに」とあり、老幼を比興したる也、一本居ますらんをいさむらんに作る。
補【志那】栗本郡〇淡海温故録 爰は水辺故に蓮を多く作て業とす、下総国佐倉の千葉の一族佐竹に打負て流浪し、佐々木屋形を頼来りしを、即此志那を賜て志那刑部少輔清胤と云ふ(今常盤村と改む)蓮田あり、夏日観るべし。輿地志略、志那渡は徳川公大坂陣の時此の渡をなしたまへるより官船を置かれしが、元禄頃に至り朽船となりて焚捨てらる。
支那檀堂 輿地志略、是は名高き葬所にて本尊地蔵菩薩及焔魔王泰山府君など古像多し、里謡に「品のだんのだうによる火をともす」と曰ふは陰火を指せる也。
 
葦浦《アシノウラ》 又芦浦に作り又安食《アシ》村と云へる事もありし如し、今支那村と合同し常盤村と改む、日本書紀「安閑天皇、置近江国葦浦屯倉云々」当時葦浦と曰へるは今野洲郡|小津《ヲツ》村をも包含したるにや、大字(670)三宅の号は小津村に存す。〇安食《アシ》の名は太平記に見ゆ、南山巡狩録云、建武三年足利高経は北国を塞ぎ、又小笠原貞宗は野路篠原に陣取り、湖上の船をさしとめければ、山門に在る所の官軍朝暮の飢に及ばんとす、かくては叶ふまじ先近江の敵を追払ひ、美濃尾張の道を開く可しとて、三塔の衆徒五千余人志那の浜より打上り、小笠原と安食の馬場にて戦けるに、宗徒の山徒理教妨の阿闍梨を始として、三十余人(流布本に三千に作るとらず今異本太平記による)まで討れければ、山徒終に叶ずして湖上を漕もどる、かゝりける処に江州は累代佐々木氏の所領なるに、今足利尊氏より小笠原貞宗に与へらるゝ事、佐々木道誉が面目を失ふ所なりとて、貞宗が許に行むかひ、尊氏より守護を命ぜられたりと披露し、官軍を追払ふ云々。
補【芦浦】〇輿地志略 芦浦村は安閑天皇二年五月、近江国芦浦屯倉を置く云々、今地勢を以て按ずるに、野洲郡の三宅村此時の屯倉の跡なるべし。
 
印岐志呂《イキシロ》神社 延喜式、栗太郡に列す、今葦浦に在り、由伎志呂宮と曰ふ、〔神祇志料〕太平記|伊岐洲《イキス》に作り、梅松論|伊伎代《イキシロ》に作る。輿地志略云、伊岐代明神は本地堂(虚空蔵)あり、由伎代とも云、梅松論云、京方は山法師阿闍梨宥覚、山徒千余人を相語ひて国人案内者たるにより、江州伊伎代の宮に引籠、是は坂東勢を当国にさゝへて、奥勢を以て後詰をさせんとの謀なる間、武蔵守師直を大将となし大勢を率ゐ、建武二年十二月晦日、彼城に押寄て一夜の中に攻落す、此処野路の宿より西、湖の端なれば討洩されたる者どもは舟に乗て渚行けるとぞ聞えし、云々。
補【伊岐代明神社】〇輿地志略 芦浦村にあり、摂社七社、虚空蔵堂鐘楼堂あり、当社のこと大※[木+親]由伎代社の条下にしるす、〔梅松論、略〕淡海温故録 伊祇代両社とも栗本郡此辺の由なれども、所さだかならず、知る人もなし、太平記には此社内に大軍旅陣の由あり、伊祇代三大寺と太平記にあり、此も大軍旅陣の由見えたり〔未詳〕
 
観音寺《クワンノンジ》 淡海温故録云、芦浦観音寺は聖徳太子開基、又作仏と云ふ、菜生《ナナマ》氏之を建つ、難波の天王寺の鑰を此家に預られ、御戸の開閉は莱生氏を役人に仰付られ、代々相続して近代まで此家ありしが、近き比断絶したる由なり。〇輿地志略云、此寺々領五百六十六石を有す、其縁由、慶長五年関原合戦終て、神君江州に於て、大津の十四屋某と観音寺の住持とに、江州の御代官を命じたまひ、且又湖水の船の総司をも兼させたまふ、故に山王祭礼の時も、山の法師は観音寺と云ふのぼりを立て、湖水に舟を出す、威光莫比なりしとなり。〇按に此観音寺舜興は慶長中太湖の船司職を賜り、貞享二年此寺其吏務を解かれたるより給禄を附せらる。門前に安国寺あり、足利氏毎州建立の一宇と云ふ。天平十八年勘録法隆寺資財帳に 「庄一処、在栗太郡物部郷」とあり、観音寺は此法隆寺の寺荘に当るごとし、聖徳太子開基の説も其拠あるか。
 
物部《モノベ》郷 和名抄、栗本郡物部郷、訓毛乃倍。〇今物部村大宝村などならん、野洲郡守山駅の南に接し、草津駅の北なり、三代実録「元慶六年十月、近江国物部布津神」とあるは今物部村の勝部《カチベ》明神に当るごとし、淡海温故録に勝部明神は本地仏勝軍地蔵なりと申し、旧跡大社にして境内広し、相並びて城跡あり、勝部右近在位の居れる所と伝ふ、又勝部焔魔堂は本尊閻羅大王小野篁の造像と伝ふ云々。
大宝《ダイハウ》天王杜は綣《ヘソ》村にあり、地方十余村の氏神なりければ、今合同して大宝村と改む、土人大宝年中の鎮座と云ふも由来詳ならず、蓋野洲郡兵主神を祭る也、綣村或は綜村に作る、守山駅と草津駅の中間に在り、此社の西に大字霊仙寺あり。
補【兵主神社】〇神祇志料 今栗太郡兵主郷五条村にあり、大宝天王と云ふ (神名帳考証検録頭注・神社覈録)大国主命を祀る(神祇正宗)清和天皇貞観四年正月己丑、従五位上勲八等兵主神に正五位下を授け、七年六月癸亥従四位上を加へ、八年十二月丁酉正四位下に進め奉り、九年二月丁酉正四位上に至り、十六年八月庚申従三位に叙され(三代実録)醍醐天皇延喜の制名神大社に列る(延喜式)〔兵主、参照〕
補【綣村】栗本郡〇淡海温故録 此村の牛頭天皇は大社にて、栗本郡五十四ケ村の産土神也、古法の神事祭礼、例式共色々伝来あり、慶雲元年三月四日御鎮座なり、額には大宝天王とあり、大宝年間に初るや、神境物旧り珠勝の地なり、此地に古来より土器を焼て業とす、世に綣村土器と云て名産といふ。〇今大宝村。
 
草津《クサツ》 栗太郡の中央にして、名駅とす、今郡衙あり、敦賀美濃路(今幹線鉄道及北国線)と伊勢路(今関西鉄道線)の交会にして、往時は東山道(美濃より信濃を経て東国に通ず)と東海道(伊勢路を取る)の交会と為せり。〇輿地志略云、草津は駅次にして旅舍はなはだ多く、富裕の者なきにあらず、駅馬乗下の荷物貫目の制法あり、江戸より上るには品川駅にて改め、江戸に下る者は此駅に於て改むるを法とす、永正六年十月、足利家より六角を攻めんとて追手の大将大内義興都合その勢三万五千余騎、高橋三河守を先陣として相良遠江守杉十郎を相添草津に陣を取り、六角より青地市有衛門茂高守山まで進来て、其夜の暁に敵陣不意を見て火矢を射かけ、草津を焼く、高椅伊勢の方へ相良は.矢橋をさして敗北すと云り。〇按に草津(671)とは種々の物貸の聚散せる津頭の義なるべし、此地は水運なきも陸路の走集なれば義相通ず、古梨原郷梨原駅と云ふ地即此なれど、当時は今の志津《シヅ》村大字追分を東北二道の交会と為したるもののごとし。
 今宵かはる草津の里の旅枕むすびもなれぬつゆぞいぶせき、〔為村卿紀行〕      為村
 草津より浜にいでたるかたなれや早目にかゝる志賀の浦舟、〔夫木集〕        為尹
草津川は古名木川ならん、金勝《コンゼ》山より出て駅の北を過ぎ木川郷山田村にして湖に入る長四里、常に水涸れ砂磧を遺すのみ、故に砂川とも曰ふ。〇名所図会云、立木《タチキ》明神は草津村の鎮守にて、春日明神東国より遷座のときの影向の跡とぞ、又名物乳母餅と云ふを駅中にて売る、土人の言、江州佐々木屋形、六角左京大夫義賢と云ふは、永禄十二年、織田信長の為に亡されぬ、其子孫尚のこりて寛永の頃まで郷代官の如きものにてありしが、事によりて誅滅せらる、其時幼児三歳なる者あり、乳母養育のたよりなければ、餅を製して往還の道に持出、大名高家の乗物などにすがり、懐きたる子はよしある子なり、其養ぐさにとて打なげきければ、自ら其信実を感じてこれを買ふ人多く、後遂に小店を開きければ、是を求る事往来の例となり、乳母が餅とぞもてはやしける。〇草津駅の西なる新田村に一碑あり、正書十四字、〔日本図経〕
  養老元年十月十日□□
  □□明範
 
常善《ジヤウゼン》寺 東海道図会云、草津常善寺は成菩提院と号す、浄土宗、相伝ふ良弁僧正開基、その後真言宗となり興正菩薩大戒を貴賤に授け、是より布薩の事世に広まりしが、訛て草津と呼ぶ、延徳中足利義尚公当国|鉤《マガリ》村の館を移して本寺再興あり、什宝に田村将軍の寄附の大般若経あり、本尊の御厨子の扉に四天王の像を図す、寛乎中巨勢金岡の筆なり、又厨子の後の板面に弥陀来迎の相を画く、荘厳微妙也、当寺書院名高く、庭は細川三膚の好と云。〇按に関原一戦後、徳川家康敵を破り上京、九月十九日此駅に次り、当寺を館とし二泊、会石田三成擒せられて至り、海内の気運愈定まる、家康因りて当寺に五十石の田を与ふ、尋いで二十三日秀忠此を経て文一泊す、是より当寺は将軍家の由緒地となる、寺中に石田の撃松とて三成擒捕の昔を伝ふる古跡存す。
 
梨原《ナシハラ》郷 和名抄、栗本郡梨原郷、訓奈之波良。〇今草津村、志津村等に当るべし、清女の枕草子に「駅はなしはら」と載たれば、占より其名駅たること想ふべし。
 雪ふかし人めもさらになし原のむまやむまやとたれをまつらん、〔正治二年二度百首〕 家長
今草津駅の東南数町に大字|追分《オヒワケ》あり、志津村に属す、即古の駅家址なるべし、延喜式には岡田と曰ふ即勢多三十疋岡田甲賀各二十疋とありて、岡田は今追分の傍に大字岡本の名を遺す。
 あづま路に春やきぬらん近江なる岡田が原に若菜つむなり、〔続拾遺集〕       恵慶
 見渡せば尾花かたよりさざなみや岡田がはらに秋風ぞ吹く、〔夫木集〕        行家
 
志津《シヅ》 中世の荘号なり、又青地荘とも呼びて、草津以東の諸村に被らせたり、今志津村と云は追分部田山寺等を合同したる也。戦国の頃|青地《アヲチ》氏と云ふは馬淵氏の庶流にて、五郎冠者広定の裔なり、栗太郡の一陣四色一揆の中にて、黄旗を家号とし、代々戦功のほまれあり、青地駿河守茂綱は蒲生氏郷の伯父に当る、志津杜とて今野路村にあるは、古の志津庄の南界なる庄塚《シヤウツカ》なるべしと。
補【青地】栗本郡〇淡海温故録 青地の庄は草津の辺にて村数多く大庄なり、青地氏は元馬淵氏の庶流なり、五郎冠者広定の後胤にて、栗本郡の一陣四色一揆の内、黄旗にて代々戦功の誉あり。
補【志津】〇輿地志略 青地荘一名志津荘と云ふ、青地駿河守茂綱は永禄中の人にて、蒲生氏郷の伯父也、志津社とて野路にあるは古の荘堺なり、荘塚と曰ふ是也、志津荘部田村小槻明神。〇今志津村。
 
小槻《ヲツキ》 延喜式に小槻大社小社の二座ありて、今志津村大字|部田《ヘタ》に小槻小社あり、池宮と称ふ、大社は治田《ハルタ》村大字|下戸山《シタトヤマ》に在り。〇古事記伝云、玉垣宮(垂仁)段、御子|落月《オツキ》王者|小月《ヲツキ》之山君之祖也、按ふに此月の字諸本目とあれども誤りなれば今改めつ、小月は大和高市郡にも小槻村あれど其には非ず、式、近江国栗太郡小槻大社小槻神社あり此地なり、其氏人続紀十二「小槻山君広虫」続後紀十九「近江国栗太郡人、小槻山君家島、賜姓興統公」三代実録廿四「近江国栗太郡人、小槻山公今雄同有緒等、改本宿貫左京四条三坊。廿七、小槻山公今雄同有緒同良真等、並賜姓阿保朝臣、息速別命之後也」姓氏録云「小槻臣、垂仁天皇之子、於知別命之後也」。〇今按に小槻は古事記に小月に作り、三代実録小杖に作る、皆よみてをつきと云ふべし。
小槻《ヲツキ》大社 神祇志料云、今小杖大明神と云ふ、〔本社棟札文神社覈録近江輿地志略〕蓋小槻山公の祖息速別命を祭る、〔参取新撰姓氏録三代実録〕貞観五年|小杖《ヲツキ》神に従五位下を授け、〔園太暦参拠〕元慶六年従五位上を加へ、延喜十一年従四位下に進めらる、〔三代実録日本紀略〕康永三年に至り近江栗太郡小杖社神主源重頼奏しけらく、当社は国中無双の鎮守、郡内五所の第一也、(672)凡其位記を授くるの例貞観以来延喜に至るまで皆国史に詳なり、唯天慶三年より以来天下諸神一階を増奉るの詔数度あるを以て、建治元年既に従一位相当の神に坐り、且年中神事甚多かる上に、殊に朝廷の為に天下の平穏ならむ事を祈奉る時は、願くは、正一位小杖神の額を鳥居に懸て社頭を粧厳《ヨソホ》ひ、神明の威光を増奉らむと請奏しき、〔園太暦〕云々。〇今治田村大字|下戸山《シタトヤマ》に在り、草津の東一里。
 
廬井《イホノヰ》 延喜式、栗太郡廬井神社あり、(刊本蘆井に作る)今下戸山に五百井明神と云ふ、蓋是なり、〔輿地志略〕廬井造の祖神を祭る、日本書紀、壬申乱の条云「近江将犬養連五十君、遣別将廬井造鯨、率二百精兵、衝将軍吹負営」と、是れ大倭の古京なる戦なり、又
 近江なるいほの井川の水すみて千年の数の見えわたるかな、〔夫木集〕
いほの井川は則草津川の上游を指す者のごとし。
 
治田《ハツタ》郷 和名抄、栗本郡冶田郷、訓発多。〇今治田村葉山村なるべし、日本書紀、斉明紀注云「辛酉年、百済佐平福信所献唐俘一百六口、居于近江国|墾田《ハルタ》」とあるは此郷に当るか。
今の治田村は目川《メカハ》鉤川辺の近村を合同したる新称なり、草津駅の東方に接せり、輿地志略には、治田郷は鳩村ならん、鳩森と云ふ叢祠あり、治田神なるべしと曰へり。
長唄花の旅云、草津の里の姥が餅、つく/”\杖のしたくぐる、目川の水のしのぶ恋、なんぼ石部のおまへでも、心たがはずその手管。
補治田郷】栗本郡〇和名抄郡郷考 治田、発多。姓氏録、治田連、開化天皇皇子彦坐命之後也、四世孫彦□〔恐有脱〕命、征北夷有功効、因割近江国浅井郡地賜之為墾田地、大海真持等墾開彼地、以為居地、大海六世孫之後、熊田宮平〔官手イ〕等、因行事賜治田連姓也。京城万寿禅寺記、江州羽田庄。志略、南笠の地なるべし、南笠村に治田の神社あり、いま鳩の森といひてちひさき森なり、はたをはとゝ誤れるなるべし。〇今治田村、草津駅の東方にて鉤里是也。
灰塚山《ハヒツカヤマ》 治田村大字川辺に在る小丘なり、土俗|大柞《オホクヌギ》を焚きたる残灰の岡を成せるものと曰ふ、輿地志略には灰塚とは火葬所なれば此名ありと弁ず、温故録は曰く「草津の灰塚山は、昔此地の大栗木の幹枝を切取りし時、其木屑を多く焼き、灰積て山となる、此大木のありし処故栗本郡と号す」と、此地より蒲生郡辺までスクモと云ふ物ありて、今も土中より掘出し、郷民常住の焼草にかへ用ふ、是昔の大木の葉土中に埋もれ朽しものなりと云ふ。〇按に今昔物語に栗太郡の大柞の事見ゆ、筑後三池郡の歴木と一般の旧話なるべし、此にスクモと云ふは即|石木《イハキ》にして、今日称する所の泥炭なり、天智紀「三年、栗太郡人、磐城村主殷之新婦、床席端一宿之間、稲生而穂、其旦垂頴而熟、明日之夜、更生一穂、新婦出庭、両箇鑰匙、自天落前、婦取而与殷、殷得始富」と此の岩城《イハキ》といふも蓋地名を負へる人にて、当時此地方には石木の名目の在りしを知るに足る、今は磐城村の名なし。〇今昔物語云、昔近江国栗太郡に大きなる柞の木生たりけり、其囲五百尋なり、然れば其木の高さ枝を差たる程おもひやるべし、其影朝には丹波国にさし、夕には伊勢国にさす、然る間に其国の志賀栗田甲賀三郡の百姓、此木蔭に覆はれて日当らざる故に田畑を作りつることなし、これに因て其郡々の百姓等天皇に此由を奏す、天皇掃守の宿禰等を遺して此樹を伐倒さしめ給ふ、それより後は百姓田畑を作るにゆたかなることを得たり、披奏したる百姓の子孫今その郡にあり、昔はかゝる大なる木ありけり、是希有のことなりとなん語り伝へたるとなり。
 
鈎《マガリ》 今治田村の大字なり、草津駅の東北一里、足利義尚佐々木六角屋形を征伐せんが為めに、江州に進発し鈎里に屯営す、営中に義尚が左氏春秋を講じたりと云事は、世に賞美せらるゝ逸話なり、延徳元年三月疾作り陣中に薨去す。〇温故録云、鈎には足利家尊氏以来御殿あり、義尚公六角攻の時鈎に御陣を居られ、天下の大軍を集め、長享元年九月七日京都を御進発ありて、翌年三月廿六日迄対陣の処、甲賀廿一家の者の夜討に二ケ所御疵を蒙らせ、終に御他界なり、此に由て諸国の軍兵敗北し、己が本国へ逃下る故、高頼大勝利とはなりぬ。〇輿地志略云、勾の陣城は今寺内と曰ふ、長享丁末年新将軍義尚佐々木高頼を討ち釣里に陣す、中納言実隆卿を勅使として今上皇帝忝くも陣中へ御製下されける、
 君すめば人の心の鈎をもさこそはすぐに治めますらめ、
将軍家より御返事を献ぜらる、
 人心鈎の里ぞ名のみなれ直なる君が代につかへつつ、
其殿室は今草津常善寺の本堂是なり。
 
安養《アンヤウ》寺 釣の東字|寺内《テラウチ》に在り、将軍義尚此寺に滞留の事は重編応仁記に見ゆ、曰く、此に近江国主佐々木六角四郎高頼、近国に在ながら我意に任せて逆意を振ひ、剰へ山門の領知を妨て、山徒の訴訟頻なれば、御進発あり、越前守護朝倉故氏景が家督、弾正左衛門孝景多勢を催し馳上て味方に加はり、頓て高頼を攻られければ、高頼も一戦に打負け己が居所観音寺山の城を落て、山賊の望月山中和田と云ふ者を頼み、甲賀の山中に隠れぬ、然れども此甲賀山は深嶺幽谷、人跡絶えてたやすく攻入難ければ、連々に御誅伐ある(673)べしとて、長享元年十月四日新将軍家坂本より御船に召されて湖上をすぎ、安養寺へ御陣を替へられたり、此旨御父東山殿へ御使を以て御注進ありける序に「坂本の浜路をすぎて波安く養ふ寺に住と答よ」同二十八日鈎の里へ御着陣、云々。
 
伊勢落《イセオチ》 今六地蔵高野などの数村と合同して葉山《ハヤマ》村と改む、治田村の東にして北は野洲川に至り、東は甲賀郡界に至り、実に伊勢路にあたる。此地に相坂寺と名づけし伽藍の廃址ありとぞ、〔輿地志略〕伊勢落は伊勢大路の訛ならん。
海道図会云、六地蔵村に、古より和中散を製して旅人に販与する薬方家あり、是斎と号す、此家今売薬三店あり、元和の項に其家は梅樹の下にありければ、為村卿紀行云
 さくらさへちりぬる後の春ふかみしげき青葉の梅の木の里。
高野《タカノ》神社、延喜式、栗太郡に列せり、今詳ならず、葉山村大字高野あり此地なるべし、此辺は往時高野庄と呼び、近江歌枕の一所なりとも曰ふ。〔輿地志略〕
 我君の子世の敷かもさみだれのたかのの村のまきのしつくは、〔新勅撰集〕〔未詳、三才図会〕
補【高野】〇輿地志略 高野荘は伊勢落村外七村を云ふ、
   寛治元年大嘗会の悠紀方の屏風に、高野村
 我が君の千世の数かも五月雨の高野の村ののきの玉みづ(新続古今集)      前中納言匡房
伊勢落村 辻村の東にある村なり、野洲甲賀栗太三郡の堺なり、然れども当村は栗太郡なり、相伝、古は伊勢大路村と号す、近世伊勢落の字に書改むといふ。
相坂寺跡 同村にあり、相伝、往古相坂寺とて法相宗の寺地ありといふ、今石仏処々に散在す、其由緒にや。
日向山 城山と云ふ、往古相坂寺の鐘楼山なり。
 
金勝山《コンゼサン》 栗太郡の東嶺にして或は金青《コンジヤウ》に作る、南は信楽田上の山谷に跨り、阿星《アボシ》山とも曰ふ、東一半は今甲賀郡石部村に属す、山中に御園荒張観音等の数村あり、今合同して金勝村と日ふ。按に金勝《コンゼ》は金青を出せる山か、続紀「文武天皇元年、令近江国献金青」とありて、此山は西南田上山に連接し、鉱物宝石類の産あり、土人呼びてコンゼとも、コンジャウとも曰ふ。僧朗弁の一名、金熟又金粛又金勝と云ふ、此山寺を開きし英傑なれば也。
補【金青】〇輿地志略 続日本紀文武天皇元年九月丙申〔二年九月乙酉の誤り〕令近江国献金青云々。続日本後紀天長十年九月甲寅朔辛酉、以在近江国栗太郡金勝山大菩提寺、預定額寺云々。
 
金勝《コンゼ》寺 金勝山の頂に在り、観音寺とも曰ふ、草津の東三里、別院阿弥陀寺東寺西寺は北麓に在りて石部村に属す、金粛菩薩の開基と称し、続紀に金勝山大菩提寺と記せる定額の官寺なり、後世敗頽して仏堂山門等わづかに存するのみ。〇輿地志略云、続紀曰「天長十年、在近江国栗太郡金勝山大菩提寺、預定額寺」と当寺は朗弁僧正の開基にて、僧正を金粛菩薩と号すとぞ、聖武天皇の勅願として、天平五年草創す、弘仁年中別に八宗院を建て、歴代天子の叡信武家の崇敬あげて数ふべからず、中世灰燼にかゝりて烏有となる、近頃慶長年中、東照神君荒張村の内寺領三十石、山林境内往古の如く寄附したまふ、登寺の山路左右に並木松あり、土俗曰、往古奈良の都のとき鬼門を守る寺あり、今の平安城に比叡山あるが如しと、中世より興福寺の別院たり、応仁長享両度の文書を蔵して、広慶院領近江国金勝庄と録す、本尊釈迦如来丈六の座像也、狛坂観音と云は蒲生郡狛長者感得の霊仏にして、狛坂寺退転するを以て此山に移す。
類聚三代格、太政官符、
 応式度金勝寺年分者二人事
 一人、奉為甲賀郡飯道名神坂田郡山津照名神、
 一人、奉為野洲郡三上兵主両名神、
 可試法華経一部八巻、最勝王経一部十巻、並法相宗、
右得近江国解※[人偏+稱の旁]、甲賀野洲両郡解※[人偏+稱の旁]、謹尋金勝寺之古跡、昔有応化聖人、号金勝菩薩、朝廷尊崇、※[草がんむり/黎]民帰依、金粛尸解之後、興福寺故伝燈大法師位願安、禅居此山、修練無比、至弘仁年中、奉為国家、建立伽藍、於是唱導声価、都鄙騰曜、厚沐朝恩、開此勝地、搆造精舎、安置仏像、別建八宗院、書写一切経論凡一千一百部、朝講法華夕演最勝、号之長講、更占一堂、殊定七僧、始従明旦至子晩際、転読法華、称之三昧、於是承和聖帝、殊降綸旨、施入燈分、即改金粛、賜額金勝、今件四神等、国家所尊崇、人民所帰仰、因茲彼寺既作、国中郡内攘禍招福之境、亦已久矣、就中三箇郡尤是為近隣、望請賜度者、仍録事状、謹請官裁者、従三位守権大納言兼右近衛大将行民部卿菅原朗臣道真宣、奉勅依請、
  寛平九年六月廿三日
金勝山は石部駅より登れば一里半、東寺西寺等其山腹に在り、また、金粛菩薩は僧朗弁を指す、奈良東大寺の金鐘寺をも参考すべし。
補【金勝寺】〇輿地志略 金勝荘とは観音寺村井上村荒張村等にて、広慶院領近江国金勝荘とありて、応仁長享二度の文書存す、金勝寺山頂にあり。
 
長安《チヤウアン》寺址 扶桑略記云、欽明天皇十三年壬申、依百済訴、勅令大将軍佐弖彦、時高麗、伐其王遁逃、佐弖彦遂入其宮、尽得珍宝、其鉄屋置長安寺、長安寺者在近江国栗太郡、多他郎寺是也。〇長安寺今聞く所なし、或は多他郎は久多良の誤にて、愛(674)知郡百済寺かと疑はるゝも、明徴なし。
 
安良《ヤスラ》 山槐記、元暦元年近江名所の一に栗太郷安良郷と注したり、栄華物語、長和元年の大嘗会歌に、
 もろ人の願ふ心の近江なる安良の里の安らけくして。
 
   甲賀郡
 
甲賀《カフガ・カフカ》郡 東は伊勢(鈴鹿郡三重郡)南は伊賀に至り、鎌岳鈴鹿山蔵部山の嶺脈を以て相限る、北は蒲生郡野洲郡と接し、西は栗太郡及山城相楽郡に接す、山谷広遠なり。面積凡三十四方里、地勢分れて二区と為る、一は信楽谷にして、一は横田川の山谷なり、模田川山谷は其東方に於て二谷に分れ、一は伊賀に通ずる山隘にして、一は伊勢に通ずる山隘なり。古より東海道は横田川に沿ひて其二山隘の便を取れり、即鈴鹿越と曰ひ蔵部越と曰ひ共に古より著る、近年鉄道線は蔵部越に通ず。〇今甲賀郡二十五村、人口七万五千郡衙を水口《ミナクチ》村に置く、水口は横田川の山谷にして鈴鹿越の衝に当る。
甲賀古書に鹿深《カフカ》又甲可に作る、天武紀、壬申乱の条云「七月近江別将田辺小隅越鹿深山、(刊本鹿作麻誤也)而巻幟挽鼓、詣于倉歴」と鹿深山即横田川の山谷にして、倉歴は蔵部の山隘なり、敏達紀に見ゆる鹿深臣蓋亦此地に因りて号を得しならん、河内にも甲可郷あり、後世訛りてコーガと呼ぶ。〇氏族志云、姓氏録附録、有早可氏、一本作甲可、権記、一条帝時、有早可千秋、補田上御網代司、恐亦甲可之訛、孝謙帝時、有近江甲可郡大領甲可臣乙麻呂、〔東寺文書〕村上帝時、有近江人甲可公是茂。〔朝野群載〕〇甲賀郡は山城相楽耶なる恭仁甕原の北に当り、聖武天皇紫香楽村に離宮を造り甲賀宮と号せしめらる。
中世甲賀の郷土戦陣の術に熟し世に重んぜらる、起因詳ならず、蓋蒲生党伴党の裔類にして、佐々木屋形(六角氏)に随従し、六角滅亡の後離散して諸大名に仕へし也、伊賀郷土と并称せられて甲賀者と呼ふ、後人特に其法術を説く者あれど、個は是軍書家の談にて、大抵附会に出づ、六角家の軍書は江源武鑑と云ふ者是なり。〇俗説弁云、甲賀家伝に拠れば、信州望月明府の住人諏訪左衛門源重頼と云もの、醍醐帝に仕へ勇名あり、男子三人、長男重家次男貞頼三男兼家と曰ふ、兼家即甲賀家祖也、当時若狭|高懸《カウカケ》山中に賊ありて旅客を劫す、故に追伐すべき旨奉勅して、三人共に発向す、就中兼家武勇絶倫なる故、進て強戦を遂げ、賊徒不残誅伐す、舎兄重家員頼彼武勇を猜み深谷に突落し、我が高名なりと奏して、過分の恩賞を賜はる、然るに兼家穴に陥り姑くして蘇り、両人の領地を併せて武威益強大となる、承平年中相馬将門が謀反のとき東国に下向し軍功他に超しより近江国の内甲賀郡を賜て居住し、甲賀近江と改む。(此説稍疑はし、山村の伴谷の条を参考すべし)〇淡海温故録云、甲賀武士は累代本領を支配し、古風の武士の意地を立て、過奢を嫌ひ質朴を好み、大形小身故に地戦計に出づ、然れども一分一分の武勇は嗜故に、皆今の世迄相続し家を失はず、国並の家々とは各別の風儀なり、世に伊賀の忍の衆と名高く云は、鈎《マガリ》陣に神妙の働あり、日本国中の大軍眼前に見及し故、其以来名高く誉を伝へたり、元来此忍の法は屋形の秘軍亀六の法を伝授の由なり、其より以来弥※[金+蝦の旁]練して伊賀甲賀衆誉多し、甲賀五十三家の目あれど其家名詳ならず。
補【甲賀《カフガ》郡】〇和名抄耶郷考 天武紀元年七月、近江別将田辺小隅越麻深山而巻幟※[手偏+施の旁]鼓詣于倉歴とある麻深の麻は鹿の誤にて、即ち此所也。左馬寮式、甲賀牧。兵部式、駅馬十五疋、伝馬五疋。続紀天平十九年九月、甲賀郡調庸准畿内収之。同天平十六年十一月、太上天皇幸甲賀宮。冶承元年公卿勅使記、甲可駅。盛衰記、養和元年九月奉幣使都を出て近江国甲賀の駅屋に着。同記四十一、甲賀上下郡。行嚢抄、甲賀村横田の渡の辺より左川上の方行程一里半計北の谷にあり、是郡名の村なり、甲賀郡といふは石部の辺、伊勢大路村の堺石より勢州鈴鹿山の境迄を云。続妃、天平十四年二月庚辰、始開恭仁京東北道、通近江国甲賀郡、是は山城国相楽郡より笠置を経て甲買郡多羅尾へ出づるか、又は鷺峰を経て甲買郡朝宮村へ出るかの二なるべし。〇今面積凡そ三十四方里、人口七万二千、廿五村。
 
老上《オホカミ》郷 和名抄、甲賀郡老上郷、訓於保加美。〇今詳ならず、按に信楽谷及栗太郡田上谷の地を指せるか、今老上川大神山(又小神山)は信楽谷の西北に存し、栗太郡に属す。
補【老上郷】栗本郡〇和名抄、甲賀郡。郡郷考、老上、於保加美、志略詳ならず、栗田郡に老上川あり、俗誤て大亀川、狼川などいへり、川下にては長曾川と云、此辺老上の郷なるをもて川の名とす、源は田上牧村の山間より出て南笠村の北を遶り、矢橋村の南をすぎて湖に人。
〇今田上谷大石村を云ふ也、今栗本郡となる、又信楽山中をも此中に摂せしならむも、依然甲賀郡なり、老上川は老上郷より出でて野路の里へ入る故に其名ありて、近時野路を改めて老上村とす。
 
(675)信楽《シガラキ》 今多羅尾長野|朝宮《アサミヤ》小原雲井の五村に分る、栗太郡田上谷と相抱擁して山谷の間に在り。大戸《ダイト》川の上游にして、北は金勝山飯道山を以て相限り、東南二面は伊賀国及山城相楽郡と土岐峠三河岳驚峰山を以て界す、西面は田上谷及宇治田原郷(山城田綴喜郡)と相接す、東西三里南北五里。信楽谷は聖武帝離宮を起したまへる地にして、古書に紫香楽に作る、当時相楽郡恭仁京に御しませる事なれば、山径を開きて此に入り、谷中の勝地を探り給へるに似たり、中世には牧場に充てられ、甲賀牧と曰ふ、後世郷士多羅尾氏あり、徳川幕府の時に至る迄、多羅尾氏世襲して士籍に列し、また代官職を賜り近郡の民政を視たり。
 滋賀楽のみね立かくす春がすみはれずも物を思ふころかな、〔六帖〕
 しがらきや茶山しに行く夫婦づれ、 正秀
産業事蹟云、類聚国史、弘仁六年畿内并近江丹波播磨等に茶を植ゑしめらる、其地は何処にや、江州には即信楽谷なりと、又或は云愛知郡政所なりと、両地共に書の以て伝ふるものなく、由来甚だ漠然たれども山中往々古昔の茶園たりし跡あるを見て、其来る甚だ遠きを知るに足る、信楽政所の両地は其風土能く茶に適するを以て、古昔より連綿伝へて亡びざりしが、慶長七年の検地帳に政所は茶畑反別拾五町六反、信楽谷上下朝宮は茶畑反別二十五町五反とあり、又元和五年旧彦根藩に於て定めたる六ケ畑の茶運上帳に、総計三千九百九十四斤此銀一貫五百五十目とあり、元和偃武の後に至ては、上王侯より下庶人に至るまで、朝夕茶を飲まざるものなく、其需要大に増加せしを以て、当国産茶の地も毎年増加し、遂に正徳享保の頃に至り、需給権衡を失ひ、茶価却に下落し、之れか為め破産廃業する者相踵ぎ、今日は僅に二三万斤を製出するに過ぎずと云。〇地学雑誌云、信楽焼は谷中に製造する陶器を総称するものにして、其原料は同国に発達する第三紀層中至る所に産出すと錐、黄瀬朝宮西村産を最良とし、製造所は黄瀬牧勅使等にあり。
補【信楽】〇東大寺大仏記 以天平十五年歳次癸未十月十五日、於近江国信楽京、奉創仏像其功已止。産業事蹟 類聚国史に云ふ、弘仁六年壬寅畿内並に近江、丹波、播磨等の国をして茶を植ゑしめ毎年之を献ぜしむと、此時当国何れの地に植ゑたるや、今得て之を詳かにする能はずと雖も、或は云甲賀郡信楽谷なりと。
 
朝宮《アサミヤ》 此村は長野村の西二里、田上谷大石川の上游に在り、他の信楽諸村と稍水脈を異にす、大石村に至り二里余、此村古より、焙茶の名あれど、近年は其業振はず。
兼良禅閤藤河日記云、奈良を立ち、美濃国に赴く、泉川をわたりてより、新閏を世の乱れに事よせて、おもふさまに立置きつ、旅行のさはり道さまたげ、心くるしき事のみありけり、伊賀の国あさ宮と云所に至りぬれば、日も暮れ其辺に小家あるをかりて、一夜をあかし侍りぬ、
 行暮て雨はふり来ぬ朗宮をあさたつまでの宿やからまし、
あくれば朝宮たちて、野尻とひかはくらぼねなど、木こり草かりならでは通はぬ所々を過ぎて、道のゆくてに石山《イシヤマ》寺に詣でて、云々。(此に伊賀とあるは甲買の誤り也)
 
多羅尾《タラヲ》 信楽谷の南極に在り、村の上方|三国《ミクニ》岳は即江州山城伊賀の国界に当る、西南野尻峠湯船咋を踰ゆれば瓶原笠置に出づべく、東南に土岐《トキ》峠を陟れば上野《ウヘノ》に出づ。〇天武紀に※[草がんむり−刺]荻野《タラノ》と云地名あり、書紀通証は之を以て多羅尾村に擬すれど詳ならず、当に伊賀国に在るべし。〇多羅尾、一書鱈尾に作る、是非を詳にせず、多羅尾氏は信楽の郷士にて、天正十年六月、徳川家康本能寺の変に会ひ、疾走帰国の時、宇治田原郷より此地に入りけるを保護したり、幕府の世に多羅尾民部知行千五百石を給せられ、代官職を世襲したるも、彼の旧因に出でしなるべし。〇按に信楽郷は中古近衛家の領邑にして、多羅尾氏其所司なりしにや、名跡記には多羅尾氏の祖は近衛左大臣経平の子師俊にして、師俊の子光教、多羅尾四郎次郎と云ひ、信楽別当と号すと述べたり。
 
長野《ナガノ》 多羅尾の北二里、信楽谷の中央なる大村なり、水口町の西南四里。〇長野の西南なる西村小川村等は今合同して小原《ヲハラ》村と曰ふ。南朝遺史云、嘉吉三年、楠二郎は空因法親王を奉じ甲賀郡に忍び、改元して天靖の号を建つ、信楽谷小川村大光寺は法親王の暫く留まらせ給ふ所か云々。
補【長野】甲買郡〇淡海温故録 多羅尾氏は甲賀郡信楽の領主なり、信楽を旧記に紫香楽とあり、信楽の焼物旧き事なり、上作は長野村より出づ、此地は相楽伊賀と相接し、栗本郡大石の富川の上流なり。
小川 南朝遺史 嘉吉三年を天靖と改元、空因法親王を奉じ、楠二良某江州甲賀郡に忍ぶ。
大光寺は江州甲賀郡信楽谷の上小川村に在り、此辺へ空凶法親王、円胤法親王ひと先づ忍ばせ給ふか。
 
紫香楽宮《シガラキノミヤ》址 聖武天皇天平年中の離宮なり、今雲井村大字|黄瀬《キノセ》に遺址を存すと云ふ、甲賀宮とも称し仏寺を置かる。按に此地|大戸《ダイト》川の
上游北岸に在り、金勝《コンゼ》山飯道山其背を圧し、恭仁京の
東北八里許とす、金勝寺(栗太耶)飯道寺《ハンダウジ》参考すべし。(676)〇淡海温故録云、天平十五年、信楽谷に大仏殿造営有て、仏像も御建立にて、甲賀《カフガ》寺共信楽寺共号し、勝宝二年庚寅迄有し由、勝宝二年に奈良の東大寺御草創ありて、同四年に大仏成就、それより奈良へ替りたる由なり、黄《キ》(ノ)瀬《セ》村牧村の間に、大仏殿の旧跡内裡の旧跡を、寺野内裡野と云ふ、大きなる荒野にて、耕作もせず打捨てある故、今に礎の石など其ままにて残れり。〇輿地志略云、内裡野は黄野瀬より巳午の方にて八九町許四方の郊原なり、山を土田山といふ、土俗或は寺野ともいへり、甲賀寺の跡なればなり、今に礎石処々に残れり、土中を穿てば多くは古瓦を得る事あり、何れの日に寺廃せしにや詳ならず、続日本紀始めには紫香楽宮に行幸と記し、後には甲賀の宮に幸すと載せぬれば、土地各別のやうに聞ゆれど同じことなり、紫香楽の行宮を転じて甲賀寺となしたまひしなり、後の行幸のときは外の行宮なれば甲賀の宮と記せるなるべし、此地仏を鋳たるしるしに今に鍛冶屋跡など云ふ処此傍にあり。
続日本紀云、天平十四年二月、恭仁新京、創宮室未成、始開恭仁京東北道、通近江国甲賀郡、八月癸未詔曰、朕将行幸近江国甲賀郡紫香楽村、即以造宮卿智努王為造離宮司、己亥行幸紫香楽宮、即日車駕至紫香楽宮、九月壬寅朔、幸刺松原、乙巳車駕還恭仁京、十二月庚子行幸紫香楽宮。十五年正月辛丑朔、遣右大臣橘宿禰諸兄、在前還恭仁京、壬寅車駕自紫香楽至、四月壬申行幸紫香楽、乙酉車駕還京、七月己亥行幸紫香楽宮、十月辛巳詔曰、粤以天平十五年歳次癸未十月十五日、発菩薩大願、奉造盧舍那仏金銅像一躯、尽回銅而鎔象、削大山以構堂、広及法界為朕知識、遂使同蒙利益、共致菩提也、壬午東海東山北陸三道二十五国調庸等物、皆令貢於紫香楽宮、乙酉始開寺地、於是行基法師率弟子等、勧誘衆庶、十一月天皇還恭仁宮、車駕留連紫香楽、凡四月焉、十二月初壊平城大極殿并歩廊、遷造於恭仁宮、四年於茲其功纔畢矣、用度所費、不可勝計、至是更造紫香楽宮、仍停恭仁営造作也。十六年二月、車駕従難波宮、取三島路、行幸紫香楽宮、三月運金光明寺大般若経、致紫香楽宮、比至朱雀門、雑楽迎奏、官人迎札、引導入宮中、奉置安殿、請僧二百、転読一日、四月紫香楽宮西北山火、城下男女数千余人、皆趣伐木、然後火滅、天皇嘉之、賜布人一端、又勅云、始営紫香楽宮、百官末成、司別給公廨銭総一千貫、交関取息、永充公用、不得損失其本、七月車駕還難波宮、八月詔、蒲生郡大領佐々貴山君親人、神前郡大領佐々貴山君足人、授位賜食封并※[糸+施の旁]布綿銭等物、斯二人並伐除紫香楽宮辺山木、故有此賞焉、十一月甲賀寺始建盧舎那仏像体骨柱、天皇親臨、手引其繩、于時種々楽共作、四大寺衆僧僉集、太上天皇自難波室。十七年正月己末朔廃朝、乍遷新京、伐山開地、以造宮室、垣墻未成、繞以帷帳、樹大楯槍、宴於御在所、五位以上賜禄有差、乙丑百官主典以上於朝堂賜饗禄、己卯詔以行基法師為大僧正、四月戊子朔市西山火、庚寅寺東山火、乙未伊賀国真木山(原書伊勢国真木山に作る蓋誤れり、今伊賀国槇山あり、信楽谷の東に接す)火三四日不滅、延焼数百余町、即仰山背伊賀近江等国撲滅之、戊戌宮城東山火、連日不滅、於是都下男女競往、臨川埋物焉、天皇備駕欲幸大丘野、庚子夜微雨、火乃滅止、五月戊午朔地震、庚申地震、辛酉地震、遣栗栖王於平城薬師寺、請集四大寺衆僧、問以何処為京、僉曰可以平城為都、壬戌地震日夜不止、是日車駕遷恭仁宮、以参議紀朝臣麻呂為甲賀宮留守、丙寅地震、発近江国民一千人、令滅甲賀宮辺山火、是時甲賀宮空而無人、盗賊充斥、火亦末滅、仍遣諸司及衛門衛士等、令収官物、車駕還幸平城、以中宮院為御在所、諸司百官各帰本曹。〇東大寺大仏記云、天平十五年十月十五日、於近江国信楽宮、奉創仏像云々。〇按に此離宮は天平十四年より四年間の経営ありて、謂ゆる伐山開地の業を力めたり、斯る幽僻の空谷に造宮建寺の謀図を立てたまへるは、稍疑惑なきにあらねど、主として仏像の発願によりて此事ありしと思はる、十七年に至り地震山火の災害に罹り、忽然停止と為り、宮寺も此際に※[火+毀]壊したるにや、後年聞ゆる所なし。〇刺松原《サシノマツハラ》大丘野《オホヲカノ》などは宮辺の地と想はる、今并に詳にし難し。
 
勅旨《デイシ・チヨウシ》 今雲井村の大字にして黄瀬の南一里、長野村の北十八町、古の勅旨賜田の地にや、輿地志略に「天平宝字年中の保良宮の址にや今も保良と字する地あり」と曰へり。(滋賀郡保良宮址参考すべし)
 
牧《マキ》 今雲井村の大字にして勅旨と接比す、延喜式「左馬寮近江国甲賀牧」とあるは此なり。
 滋賀楽の牧の杣川こほりして影もながれぬ冬の夜の月、〔玉吟集〕          家隆
雲井村は三雲駅より飯道山を踰えて至るべし二里許、深川駅より赴くも同程なり。
 
石部《イシベ》 甲賀郡西端の駅なり、今石部村と云ふ、草津(三里許)三雲《ミクモ》(二里)間の鉄道車駅にして、横田川(即野洲川)の南岸に居る、古は磯部と曰へりとぞ、又此地に石灰を産出す、石部は石灰に因める名か。〇石部駅の端に金山《カナヤマ》と云字あり、天狗谷とも云ふ、中古銅鉱を出したりとて其坑口を遺す、南嶺を磯部山と曰ふ、即金勝山の尾なり。代匠記曰く 白まゆみ石部《イソベ》の山のときはなるいのちあらばや恋つつ居らむ、〔万葉集〕
是は近江国石部なるべし、古今集に「梓弓いそべの松」とつづけたる歌には人麿と注せり、人麿は近江守の属(677)官にて下られしこと彼集に見えたり云々。又近世佐々木氏の家臣に破部の某あり。重代の家号なるべし、佐々木盛綱入道上州に移り彼地にも磯部と云ふ地に居れり、皆因由ある事なるべし。〔海道図会参宮図会〕
 夏ごろも行手もすずしあづさ弓いそべの山の松の下風、〔新勅撰集〕         家隆
 よこた山いそべ川原のよもぎ生に秋風さむみ都こひしき、〔夫木集〕
   路通に別るとて
 見ゆるさへ旅人さむし石部山、  智月
石部鹿塩《イソベカシホ》神社 延喜式、甲賀郡石部鹿塩上神社と云者是也。〇神祇志料云、石部鹿塩上《イソベカンホノカミ》神社今石部駅にあり、上下両社とす、上を吉姫明神下を吉彦明神と云、即駅家の生土神也、〔和爾雅三才図会東海道名所図会〕按、滋賀県注進状に田中に鎮坐して土田神社と云ひ、上田山鹿塩房蓮浄寺本社の別当を勤むとあり。
 
東寺《ヒガシデラ》 石部村の南、大字東寺に在り、金勝《コンゼ》山の麓にして此寺即金勝の別院なり、西寺と相并ぴ共に阿星《アボシ》山と称す、阿星は金勝の旧名にやあらん。〇海道図会云、東寺は阿星山長寿寺と云、聖武帝の勅願にして古代の仏殿今に存す、本尊地蔵尊行基の作、東西両寺は本聖武帝信楽宮遷都の時、鬼門の守護也、堂前に大石塔あり、帝の御骨を収めし所と云、鬼|儺《ヤラヒ》とて正月十五日前三夜が間村民仏殿の内に集り、小童二人は一箇月潔斎して赤鬼黒鬼の面を被り、鬼の舞と云式あり、仏前に於て大なる鰐口を打鳴して鬼を遂也、堂前に樺桜あり。〇東寺什物、羅漢図〔顔輝筆十六幅〕今国宝に列す。
 近江なる檜物《ヒモノ》の里のかばざくら花をばわきて析人もなし、〔新六帖〕         衣笠内大臣
輿地志略云、檜物は即此里なるべし、長寿寺の什物に濾頼朝及足利家の寄文多くありて、皆檜物荘東寺と記されたるにて知らる、〔蒲生郡日野を参考すべし〕
補【金瀬寺】栗本郡〇淡海温故録 石部駅の南にあり、金瀬の峰に金勝寺あり、麓に東寺、西寺、阿弥陀寺など云ふ古刹あり、峰の本尊は観音にて大地伽藍処なり、麓の阿弥陀寺は蒲生郡の慈思寺を破却して爰に引移し寺号を改め阿弥陀寺浄厳院と云ふ、是信長公興行なり、峰の金勝寺、東寺、西寺の旧跡今に相続なり、観音寺は栗太郡に属す。
補【檜物荘】〇輿地志略 撰集に多し、檜物のもの蒲桜をよめり、是なり、東寺村阿星山長寿寺の什物に、源頼朝及尊氏の寄文多くあり、皆檜物荘東寺と記されたり。
 
西寺《ニシデラ》 石部村、東寺の西に并ぶ、駅南凡十町、阿星山常楽寺と号す、東寺と同開祖にして本尊観世音なり、慶長年中西寺の山門を三井寺に移したる由、京華要誌に見ゆ。〇輿地志略云、西寺、行胤上人再興にして、七堂の大伽藍なりしと云、然れども後世衰微頽敗して終に観音堂及宝塔一基を有す、其営造甚美なり、蓋棟雕已に千有余歳を経て、摂津四天王寺釈迦堂の形に似たり、本尊観音脇立二十八部あり、又この寺内なる三重宝塔に釈迦如来の像を安置す、応永五年釈延慶の再興する所なり。
阿弥陀寺は金勝山の別院小菩提寺の遺址にして、享保年中岩根村蓮華庵を以て菩提寺の寺号を継がしめ黄檗禅の室とす、石部駅の北にて、横田川の北岸に在り。
 
夏身《ナツミ》郷 和名抄、甲賀郡夏身郷、訓奈豆美。〇今石部村三雲村なるべし、大字夏見は三雲に属す、或は菜摘に作る。
   神な月計りに、京へかへるに、紅葉を見て、
 近江なるなつみの里の家居には秋のもみぢぞ今にのこれる、〔家集〕         祭主輔親
針川《ハリカハ》 今大字夏見に接して大字針あり、古歌に伊勢名所針川あり、然れども伊勢に其名を聞かず、此にやと云ふ。
  から衣ぬふ針川のあをやなぎ糸よりかゝる春も来にけり、〔家集〕         躬恒
補【夏見郷】甲賀郡〇和名抄郡郷考 いま夏見村有といへり、其辺なるべし。万葉集十一、酢峨島之夏身乃浦爾依浪の間も置て吾不念|君《クニ》。祭主輔親卿集、神無月ばかりに京へかへるに紅葉を見て「あふみなるなつみのさとの家ゐには秋の紅葉ぞいまにのこれる」輿地志略、夏見村、夏見里夏見あり、南にあるを山夏見と号く、北にあるを里夏見と号す、夏見は郷の名にして、和名抄に出たり、今其疆域詳ならず。行嚢抄、屋棟川、針邑、堺木、菜摘村と次たり、それなるべし。
 
平松《ヒラマツ》 今三雲村の大字にして、石部駅の東十町許、此山中にうつくし松と云ふ一種の松樹あり繁植す。〇海道図会云、平松の美松は葉細く根幹数尺までは通常の雄松の如し、それより枝々数十に分れて、近く視れば蓋の如く、遠く望ば側柏《アスナラフ》に似たり、葉は雌松、株《ミキ》は雄松、山中悉同木也、隣山は常の松にして美松一株もなし、又他所へ移し或鉢植などするに程なく枯て育せず、和漢其類を聞かず、此に来て初て視る人賞歎せずと云ことなし、是風土の奇也。
 
三雲《ミクモ》 石部村の東南二里、今車駅と為る、横田川を渡り東一里余にして水口村に至るべし。三雲は日雲の訛なり。山槐記、元暦元年注進の近江名所に日雲里と載せたり、佐々木家の家臣に三雲氏あり、此郷士にして其館址存す。
長享年後兵乱記云、享禄三年八月義晴将軍先勢、三雲資胤蒲生等至坂本上洛、天文六年十月、観音寺騒動、(678)承禎三雲館へ御退き云々。
 
日雲《ヒクモ》宮 倭姫命世記云、活目入彦五十狭茅天皇(垂仁)即位二年、遷于伊賀国敢都美恵宮、(柘殖)四年遷淡海甲可日雲宮、四年奉斎、于時淡海国造進地口御太、八年遷幸同国坂田宮。〇天照大神遷幸の頓宮址にして、土俗緋雲宮と称する者是也。
妙感《メウカン》寺 三雲村の南に在り、御伴之数云、妙感寺は藤房卿の栖所にて、其墓とてあり、然れども信用し難し、種々の器物あれど皆疑はし。〇海道図会云、妙感寺は禅宗にして、開基は勅諡神光寂照禅師なり、師は俗名万里小路中納言藤房脚なり、荒廃の後、中興仙峰竺頂和尚、本尊千手観音、是藤房卿終焉の地、古墳あり、卿は老後此山へ分入此寺を営み一首の歌を詠給ふ「世のうさをよそに三雲の奥深くてる月影や山ずみの友」かく録して此に錫を留め給こと数十年、遂に康暦二年三月廿八日遷化し給ふ、寿八十五歳、和歌香合杖等什宝にあり、遠忌の時は今に万里小路家より使者ありとぞ。
 
飯道《イヒミチ》山 又|飯道寺《ハンドウジ》山と曰ふ、三雲村の南、深川駅の西方に聳ゆ、北杣村大字三寺より登るべし。飯道神社飯道寺在り、信楽谷雲井村の東北に当り、金勝山と相並ぶ、登躋五十町と称す。
 
飯道《イヒミチ》神社 延喜式甲賀郡に列し、類聚三代格寛平九年金勝寺僧此名神の為めに度者を奏請して聴さる、中世以降飯道寺を置き之に奉仕し、甲賀郡の霊場たり、山下の諸村に寺荘の名あるは其封邑なりしならん、織田信長の時岩本坊梅本坊の二修験道を定め寺領を給し、二百石の禄は近年まで附属せり、此神は寺伝に熊野権現の影向と為すも詳ならず。〇神祇志料云、飯道《イヒミチ》神社今宮内村飯道寺の域内飯道山にあり、飯道権現と云、〔神名帳考行嚢妙輿地志略〕宝亀二年、近江地一戸を神封に充奉り、〔新抄格勅符〕元慶八年従五位上飯道神に従四位下を授け、〔三代実録〕正平元年神祇官御体御卜に、杜司等神ことを穢奉る神祟ありと云を以て、使を遣して中祓を科す、即是也。〔宮主秘事口伝〕〇海道図会、飯道明神は元明帝和鋼七年、天童妙相を現じ、シヤウガ岳に降り、斎宮《イツキノ》介と云人熊野権現の霊告を蒙り登山す、其告に云飯を盛たる形路傍に見ゆる也とぞ、かの斎宮介登山するに、※[木+那]《ナギ》の花飯を盛りたる形に見ゆるを(今石南華谷是なり)道標とて登り、影向石の側に熊野三所権現を勧請す、故に飯道神社と号す、厥後聖武帝信楽宮に都を遷し給時、王城の鬼門守護として、天平十五年南都興福寺の安皎法帥登山し、伽藍造立して両部の霊場とす、醍醐聖宝尊師徒弟当山山石本坊梅本坊和州大嶺に随身供奉して中興す、此時九月五日也、今に至て此日笈を負て社前へ渡す例式あり、是を笈渡しと云。〇参宮図会、久安年中、飯道権現勅額を賜ふ、今宝蔵にあり、此時甲賀の総社となる、織田信長尊信ありて登山し、鳥井坊に宿泊す神領を寄附あること古記に見えたり。
 
飯道寺《イヒミチデラ・ハンダウジ》 飯道山に在り、今北杣村大字三大寺に属す、近世は天台宗を奉じたり、已往は金勝寺の所管なりしならん。〇海道図会云、飯道寺開基は良弁僧正、安皓安峰三世相続て住職たり、中興は光定大師、(慈覚弟子)本堂には薬師弥陀釈迦十二神将を安ず、又弁財天社当山金剛院に安ず、此尊像は伽羅木にして織田信長の持尊也、和州信貴山城主松永久秀を此山より織田勢押寄追討す、其時当山衆徒加勢して勝利あり、其恩賞として此尊像を賜り山林の制限あり、故に地主神と為すとぞ。
 
杣《ソマ》 今|南杣《ミナミソマ》村北杣村寺庄村|龍池《タツイケ》村宮村と為る、中世は杣庄と称す、飯逼山以南蔵部山東木山に至る山谷を占む、蓋元西大寺領にして後飯道寺に転じ、延暦寺の有に帰したる也。宝亀十一年勘録西大寺資財帳に「近江国野洲郡柴井庄一巻、甲可郡杣図一巻、同郡縁道山図一巻」など見ゆるは其事証也、今は池原延暦寺山上広徳院など台家の寺宇あり、台嶺の杣山たる事を伝ふ。龍池村磯尾は深川駅の南二里、伊賀国玉滝へ越ゆる山道あり、即蔵部山越なり。〇宮村大字柑子は、甲賀望月党の故墟とぞ。
補【杣荘】甲賀郡〇淡海温故録 池原延暦寺は杣の庄にあり、比叡山建立の以前に伝教大師開基の由なり 三尺二寸の薬師仏を安置す、我建杣の詠も此堂に由ての歌なりと云ふ。
 
杉谷《スギタニ》 今南杣村と改む、深川の西一里。淡海温故録云、杉谷善住坊は甲賀者にて、第一の鉄砲名人なりければ、元亀元年五月佐々木承禎に頼まれ、蒲生郡成就寺嵩に籠り、香津なる葛折椋木峠にて織田信長を狙ひたり。(是は勢州千草越の事なり)
 杉谷のふる巣にやどる鶯のなくこそ春のしるしなりけれ、〔名寄〕          実仁
山上の広徳寺(北杣村)は延暦寺の末寺なり、俗に甲賀の庚申堂と称す、相伝ふ文禄中里民に藤右衛門といふものあり、家甚貧にして生計に苦み、七日絶食して此に祈念す、一夕夢に感じ銅に亜鉛を混じ真鍮を鋳製するの法を発明し、京都に出で真鍮を製せしに、業盛になりて其家大に富むと云々、此故に諸国の真鍮を錬製するもの多く此寺に来り賽すといふ。〔名勝地志〕
 
寺庄《テラノシヤウ》 深川駅杣谷の諸村なり、蓋飯道寺々領の山谷なりければならん、今は深川駅の辺をのみ寺庄村と曰ふ、古の蔵部郷の地なり。
補【寺荘】甲賀郡〇淡海温故録 飯道寺は此処に熊野権現影向なり、岩本坊、梅本坊の両坊今に存す、天台宗(679)とす、山伏派一流にて相続なり、甲賀の旧跡伽藍処なり、深川村も荘内なり。
 
深川《フカハ》 三雲村の東南二里、伊賀国柘植駅の西北三里余、今鉄道車駅と為る、水口町の南一里余。〇延喜式、甲賀郡|矢川《ヤカハ》神社、今深川駅に在り、矢川大明神と称す。〔神祇志料〕
補【深川】〇日本名勝地誌 深川駅は三雲より伊賀上野町に至る街道に方り、近年関西鉄道貫通して停車場を置しより、交通の便を開きたり。
 
蔵部《クラブ》郷 和名抄、甲賀郡蔵部郷、訓久良布。〇今寺庄大原油日の辺を指すならん、南は伊賀国柘植玉滝と山嶺を以て相限る、即倉歴山なり、山槐記、元暦元年注進の近江名所に列す。〇郡郷考云、三井寺天平宝字二年田券に「甲加郡蔵部郷音太部売田、又同郷椋人刀良売田」など見ゆ。
   近江のくらぶの里と云所にて月あかき夜泊りて
 よそにては暗部の里ときゝしかどあまねくてらす秋の夜の月、〔家集〕        祭主輔親
   大嘗会悠紀方、近江国暗部里
 古に今をくらぶの里人は世々に越たるみしねをぞつく、〔玉葉集〕          俊光
 
倉歴山《クラブヤマ》 伊賀国拓殖を参考すべし、壬申乱の時の陣地なり、「天皇到伊賀柘殖山口、高市皇子自鹿深越以遇之」とあるも、鹿深越即この山道なり、按ふに此山は東西四五里に渉り、西は真木山より東は鈴鹿山に連る、其間に二道の山隘あり、一は油日越にして今鉄道之を通ず、壬申乱の陣地も此に外ならず、一は内保《ウチホ》越を曰ふ、龍池村磯尾より玉滝村に通ず。〇天武紀、壬申歳七月、別命多臣品治、率三千衆、屯荊荻野、遣田中臣足麻呂、令守倉歴道、甲午(五日)近江別将田辺小隅、越鹿深山而巻幡抱鼓、詣于倉歴、以夜半之、銜枚穿城、劇入営中、則畏已卒与足麻呂衆雜別、以毎人令言金、仍抜刀而殴之、非言金乃斬耳、於是足麻呂衆悉乱之、事忽起不知所為、足麻呂僅得免、乙未(六日)小隅亦進欲襲荊荻野営、而忽爰将軍品治遮之、以精兵追撃之、小隅独免走焉、以後遂復不来也。
  くらぶ山下てるみちはみちとせに咲なるももの花にぞありける、〔夫木集〕      匡房
 
大原《オホハラ》 今深川駅の東南を大原村と云ふ、油日村の北にて旧荘号なり。盛衰記に法勝寺領と録したり。〇輿地志略云、滝川左近将監一益は甲賀武士にして、名声を一世に馳す、大原村の人なり、伴四郎兼仗資兼が三世、富永助六郎俊実が後胤なり、俊実甲賀郡大原村に蟄居せしょり子孫当国に多し、是を伴の党と云、一益は鉄炮の達人にして、織田信長に仕ふ、信長頻に登庸して長臣とす、信長薨じて後秀吉と載ひ終に亡ぶ。〇山槐記「大原山(甲賀東)」と注したり。
関岡家始末云、永正七年、京勢江州に発向す、関岡氏則一族を相具し野尻の城を固む、野田黒川土山水口に人数をくり出して京勢を拒がしむ、甲賀郡の諸土鵜飼池田野田の一党、伴の一党望月党般童寺の衆徒まで相従ひおければ、京勢は一戦に及ばず敗退す云々。(今|池田《イケダ》野田|龍法師《タツホフシ》の諸村合同して龍池《タツイケ》村と改む)
 
油日《アブラヒ》 深川駅の東南二里、倉歴山中の村なり、柘植駅まで一里余、山道を油日峠と曰ふ、渓水は西北四里にして土山川に会同して横田川と為る、即野洲川の支源なり。油日神は三代実録元慶元年授位の祠なり、名跡記に油日神即川枯社なりと云ふ。〇神祇志料云、川枯《カハカレ》神社二座、今川枯村にあり、〔神名帳打聞〕其一座は蓋川枯首の祖神阿目伽伎表命を祀る〔斟酌旧事本紀新撰姓氏録〕按に旧事本紀饒速日命の孫彦陽支命淡海川枯姫を娶て出石心命を生む、出石心命は大水口宿禰の父也、本郡水口神社川枯神社あり、共に由縁あり。
今油日村大字滝あり、滝川一益の生地にや、又大字|毛牧《ケマキ》あり山岡景隆の故里と曰ふ、共に伴党の人なり。〇淡海温故録云、寿永三年八月甲賀合戦の事は、諸書を考ふるに、平家残党伊賀伊勢の者、富田進士家助同兵衛尉家能同家清入道平田太郎家継等伊賀を打出で、甲賀郡上野近辺に放火し乱妨をなす、当国勢今度西国発向の跡無勢なりけれども、佐々木源三秀義此由を聞て、子息四人は西国に下り、自らも老武者ながら残兵を集め、五百余人討て出、大原の庄油日明神のつづき、上野の南に対陣を張り、小川を隔て矢軍を初め、平家の軍をかけやぶり、伊賀を平らぐ、秀義は終に八月十九日卒去せり、然れども軍は大利を得て、平家の余党皆退散す。
山槐記云、元暦元年七月十九日、伊賀伊勢平家郎等叛、仍遣官兵源氏郎等、今日午刻、於近江国大原庄合戦、平田入道被打取、両国兵敗走。盛衰記云、甲賀上下郡の輩馳集り、佐々木秀義に相従ひ、法勝寺領大原庄に入、平家は伊賀の壬生野《ミブノ》平田に在り、行程三里には過ざりけり、壬生野新源次の計ひ申けるは、当国は分限せばし、大勢乱入なば国の煩人の歎なり、近江国へ打出て、鈴鹿山を後に当て軍せんに、敵弱らば蒐てんず、健ならば山に引籠り、などか一戦せざるべきと云ければ、貞継法師三百余騎の兵を引率して、甲賀郡上野村渋窪篠鼻田堵野に陣を取て、北に向て磬へたり、佐々木は大原油日の明神の列、下野に南へ向て陣を取る、小河を隔て両陣七八段には過ざりけり。(貞継は東鑑玉海等に家継に作る者是なり)
 
和田《ワダ》 油日村の大字なり。温故録云、永禄八年、南都一乗院門主(覚慶)には、万松院将軍(680)の次男なりしが、三好党のもの光源院殿(義輝)を討奉りし後、彼地を忍び出でて、甲賀郡和田和泉(秀盛)が館に在しけるを、細川藤孝和田と談合して、矢島正林寺に移し奉る、猶室町殿記に詳なり。
 
土山《ツチヤマ》 油日大原の北、水口村の東二里半、鈴鹿山の西麓なり、鈴鹿越の旧駅なれば、近年鉄道線油日越の方へ架したるを以て、土山水口は殆ど廃駅と為る。〇土山の鎮守|神|田村《タムラ》社は、鈴鹿山に賊を誅滅したりといふ故事に因めるならん、即坂上将軍を祭るとぞ。鮎川黒川の二水、土山の西に会し西流す、土山川と称す、即横田川の源なり。
 土山や歌にも歌ふ初しぐれ、   闌更
   鈴鹿の峠常はここより湖水を見れどけふは霧ふかふしてあやなし、狂歌、  鬼貫
 鬼貫が鈴鹿の山にきたればや霧にくもりて見えぬ水海、
   汗かきながら田村堂に詣でて瓦の奉加につく
 六文が月をもらすな田村堂、
鳥部山物語云、日もやう/\重るまゝに、つち山と云駅につきぬ、あくる空は都へと志し、歓びあへる中にも、いとど心やましきに、京よりとて文もて来り披き見れば、なやめる人昨日の暮になん絶入侍りぬと云ふ、云々。
   嘉永元年大嘗会悠紀方、近江国土山村
 うらにあふ土山村にぬき穂して君が千年のためしにぞつく、〔古事類苑〕
応永三十一年参宮記云、寅の刻ばかり水口をたち侍る、道の程空も未だ曇勝にて、見えわき難き野山の景色、月はなれなば見所多かりぬべき所々過行に、前野《マヘノ》と申は誠にはる/”\と見えて、三千世界眼前尽と云詞ふと思出さる、土山雪の所々にのこりて、又雨のふり侍る、夜あけぬれば坂下《サカノシタ》に着ぬ。
補【土山】〇淡海温故録 土山は東海道往還の旅宿なり、此処に田村大明神鎮座なり、坂上由村丸勢州鈴鹿山の逆臣千方を追討の後此処に跡を垂れ給ふや、神前社の下を流るゝ川を田村川と云ふ、鈴鹿峠より出て下は野洲に流落るなり。
 
黒川《クロカハ》 今|山内《ヤマノウチ》村と改む、土山村の東に連り、鈴鹿山中の里なり、大字|山中《ヤマナカ》猪鼻《ヰノハナ》などあり、土山駅より黒川まで一里、更に一里にして鈴鹿の嶺上に至る、南下一里半即関町なり。〇温故録云、天文十一年九月、伊勢国司家より当国を謀らんとて、悪党共を語らひ、鈴鹿口より乱入りぬ、時に佐々木屋形の家臣山中丹後守秀国此地に在城しければ、勢州勢を猪鼻|蟹坂《カニガサカ》に要撃したり、土俗に昔蟹あまた集りて大蛇を殺したる処と云ひなして、追弔の石塔あり。
補【黒川】甲賀郡〇淡海温故録〔重出〕蟹坂、昔蟹共多く集り大蛇を殺せし事ある故名となるといへり、今に蜃の石塔あり、蟹坂合戦は天又十一年九月八日勢州の国司より当国を謀らんと悪党共を語らひ、鈴鹿口より上田山中辺に乱妨をなす、時に山中丹後守秀国山中に在城せしが、此由を聞て屋形へ訴へ、猪の鼻蟹ケ坂に要撃す、山中氏は元祖十代の屋形定鋼より出づ、出雲の山中鹿之介幸盛も此一族の由、隠岐出雲両国の大守は代々当国の先方故、江州の侍多く在住す。
 
鮎川《アイカハ》 土山の東北山内の北なる山村なり、本水名にして此間は綿向《ワタムキ》山鎌岳の奥より出て、西南流五里にして土山駅に至る、即構田川(野洲川)の本源なり、鮎川越と云は山嶺を東に踰え、勢州三重郡菰野|水沢《スヰサハ》に出づる間道なり。
補【鮎川】甲賀郡〇淡海温故録 大河原村は野洲川の水上綿向峠の東麓なり。鮎川 地頭を中比大河原黒川両家より不和に付て攻崩し、処領を両家へ押領して鮎川の家滅亡すと云ふ。
 
大野《オホノ》 土山の西、水口の東なる村なり、大字市場頓宮など云ふ所あり、此地蓋古の甲賀駅なり、延喜式甲賀駅馬二十疋とありて、江家次第にも参宮刺使進発の条下に「到甲賀駅宿、国司供給」と載す、頓宮《トングウ》と云は伊勢斎王の行在に因める称にて、又国司供給の一所なるべし、源平盛衰記養和元年奉幣使勢州へ下る条にも、近江国甲賀の駅屋とあり。〇延喜式|垂水《タルミ》頓宮と云ふも亦同じ、又延喜式六所界川御禊の一は近江の甲賀川と曰へり、又此地の水流なるべし。
補【垂水】〇神祇志料 光孝天皇繁子女王を卜定て斎宮とす、仁和二年夏伊賀伊勢に下知して曰、斎王近江の新道を取て神宮に入給ふべし、故に伊賀旧路の頓宮を停む、斎王伊勢に至る、奉送使藤原山陰奏きく、王輿近江垂水頓宮より出て伊勢鈴鹿頓宮に到る、其夜西垣外の借屋に火あるを以て、斎王更衣の車に乗て頓宮を出給ふ、国守等火を救へども撲滅することあたはず、西風差扇ぎ火勢甚熾にして、遂に寝殿匣殿に及べり、故に垣外諸屋を寝殿として斎王を安置し奉る由を申す、爰に天皇手勅を賜て七日を過ば物煩あるとも解謝して早く斎宮に入奉るべしと詔給ひき。〔三代実録仁和二年九月三十日〕〇甲賀頓宮なるべし。
補【垂水頓宮】〇輿地志略 南箕浦村樋口の西南三町を樽見と曰ふ、古の垂水頓宮の地なり、延喜式に斎王の頓宮たりしこと見ゆ。
 
※[山+義]峨《ギガ》 今岩室村と合同して狭山《サヤマ》村と改む、大野村と土山川を隔て南岸に在り、或は儀俄に作る。儀俄氏あり。
 南山巡狩録、正平六年九月、佐々木定詮は八相《ヤアヒ》山の大敵の中をかけ破り、佐々木にぞ帰りける、この時当国(681)の高山伊予守儀俄播磨守甲賀郡に起り、勢にのり国中を推ければ、佐々木四郎左衛門尉渋川中務大輔直頼大将にて観音寺城に楯籠りしも、叶はじと思ひければ八相山へ頻並をうつて急をつぐ。〔天正本太平記〕
 
水口《ミナクチ》 今水口村と称す、土山川の北岸、大岡山(即甲賀山)の下に在り、旧駅路に係りしが、近年鉄道は水口の西南を過ぎ車駅なし、三雲停車場の東一里半、今甲賀郡役所村内に置かる。一説水口は旧名|美濃部《ミノベ》と称したりと、美濃部天神社在り、又水口山蓮華寺と号する真宗専修寺派の精舎あり。〇甲賀一揆碑、水口大徳寺の境内にあり、天保十三年幕府開墾田地を検し、租を課せむと欲し、丈量督促甚だ苛酷を極む、農民其命に堪へず竹槍席旗三上村に迫る、膳所水口の二城主之を制止するも退かず、幕府農民を捕拿し三十六人を刑す、世に之を甲賀騒動といふ、明治二年七月大赦の令を下す、遺族因て此碑を建て、其霊を慰す。
 
水口《ミナクチ》神社 三代実録、貞観元年水口神授位、延喜式、水口神社。今水口村の西北大岡町に在り、大岡寺の鎮守と為し山王新宮と称する者是なり、大同類聚方云、水口薬、近江国水口神社祝等之家伝、元者大己貴神力也、熱去寒来、日々時々渇、而腸内勤気効云々。〇兼良公藤河記云、水口を過ぐとて其日も雨風やまざりければ、
 雨ふれば小田の水口せきもあへずすだく蛙の声ぞあらそふ、
からうじて五十町計行て新宮の馬場に至る、禅侶の庵をかりて宿す、新宮は山王にてましますとかや、所の司など来りて警固す、終夜雨風甚し、馬場をたつとて庵室にかきおく、
 憶得三生石上縁、一庵風雨夜無眠、今朝更下山前路、老樹雲深哭杜鵑。
 
大岡《オホヲカ》寺 海道図会云、大岡寺は水口東駅大岡山に在り、天台宗、本尊十一面観音、長三尺二寸、胎中の像一寸八分、甲賀三郎兼家の守本尊也、此人勇猛にして山野に狩し、大蛇を斬殺し、其怨霊に因て、久しく苦悩せしが、大悲の功力によりて元の如くなりしと、標石に鴨長明旧蹟とあるは偽書を信じて誤れる也。〇百練抄云、天仁二年二月二十五日、為義於近江甲可郡、尋得義綱、(賀茂次郎)於大岡寺出家、廿九日義綱配佐渡。〇貞応三年源光行海道記云、夜景に大岳《オホヲカ》といふ所にとまる、あくれば大岳の宿をたちてはるかに行けば、内の白河《シラカハ》外の白河といふ所を過ぎて、鈴鹿山にかゝる、山よりは伊勢国にうつりぬ、此路を何里とも知らず越行けば、羊腸坂きびしくして、駑馬石にあしなえたり、すべて此山は一山の中に、数山をへだてゝ、千厳の峰にさはり、一河の流百瀬に流て、衆客の歩みに足をひたせり。按に内白河外白河と云は山槐記元暦元年注進近江名所の中にも甲賀郡と注し、海道図会には土山川を外白川と呼び、水口の松尾川を内白川と呼ぶ由載せたり、松尾川は水口の北より流るゝ細流なり。
 
水口《ミナクチ》城址 天正年中長束大蔵大輔正家之を築く、慶長五年の乱に、東軍池田備中守長吉之を攻め、正家出て降る、徳川氏収めて監吏を置き、東西往来の行営に充つ、後城を毀つ、天和二年加藤佐渡守明英を此に封じ、元禄八年鳥居伊賀守忠救之に代る、正徳二年明英孫和泉守嘉矩復封す二万五千石、明治維新に至るまで世襲す。〇外史云、長束正家事豊臣氏為奉行、後封水口、慶長五年四月、徳川内大臣親東征、及石部、水口城主長束正家請饗之、会有告其異謀者、乃乗婦人輿、夜過城下、正家驚追及於土山謝罪、内大臣温言遣帰、及関原大捷後、池田長吉亀井茲矩逼水口、獲正家還報、以城内貨財賞賜之。〇元和二年林道春丙辰紀行云、大相国(家康)去歳八月四日京より水口に着せ給ふ、雨降ければ三日逗留まし/\けるに、夜更るまで御前に余も侍りし時、学而の篇をよめと仰ければ、跪きひらき侍りしに「能竭其力、能致其身」とある所を自ら御読有りて、能といふ字に心をつくべきなり、なほざりにては忠孝立難しと、親には力をつくし君には身を致すといへば、いづれかまさると云ふ評論あるべしと仰けるに、余もかの趙苞が故事を引て答奉りしが、只今忘れがたくてすずろに袂をしぼり侍る。
補【水口】甲賀郡〇輿地志略 鈴鹿山の西、横田川の東、要害の地なり、古人難を此に避るときは寇至ることあたはず、故に佐々木嘗て屡割拠す、初岡山に城あり、関ケ原の後長束大蔵大輔正家此城に籠る、神祖池田輝政同備中守長吉をしてこれを攻めしむ、正家降る、池田長吉此城にあり、台命あつて城を廃し、家光公山岡主計頭をして此地を守らしむ、是より城なし、しかれども今城主の列に准ず、天和二壬戌の年加藤内蔵介明友をもつて此地に封じたまふ、元禄八年下野の壬生にうつる、鳥居播磨守忠救をもつて此に封じ給ふ、正徳二年亦忠救を下野の壬生にうつし、加藤和泉寺嘉矩を此に後封し給ふ、爾来加藤氏此に居す。
 
甲賀《カフガ》山 輿地志略云、甲賀山は横田川の東、甲賀山の西に当り、要害の地なり、故に古人難を此に避る時は敵迫る能はず、又大岡山と称す、天仁二年加茂次郎源義綱之に拠る。玉海云、治承四年十一月廿一日、閭巷云、近江国又以属逆賊了、前幕下之郎従、下向伊勢国之間、於勢多及野地等之辺、十余人梟主首畢、甲賀入道(年来住彼国源氏之一族)并|山下《ヤマモト》兵衛尉(同(682)源氏)為張本、入道者義兼法師也、刑部丞義光之末葉、十二月二日、追討使知盤卿下向、三日、伝聞、今晩近州逆賊引楯逐電、仍官軍勢多野地等在家数千宇放火追攻、十五日、一昨日知盛資盛等攻敵城、甲賀人道并山下兵衛尉義経等、徒党千余騎、即時被追落畢、二百余人梟首、四十余人捕得。東鑑云、十二月、平知盛卿率数千官兵、下向近江国、与山本前兵衛尉義経同弟柏木冠者義兼等合戦、知盛卿放火、焼廻彼等舘并郎従宅之間、義経義兼失度逃亡、十臼義経参着鎌倉云、去一日遂被攻落城郭之間、任素意参上云々。(その後長享元年六角高頼又此に拠り、将軍義尚の出征あり、永禄十一年六角義弼又甲賀山に入り、以て織田氏の軍を拒む)改正後風土記云佐々木六角は攻めらるゝ時は甲賀の山奥へ逃入、敵去る時は首をさしのべて本国へ立帰るを以て、万古不易の計略と代々思ひたるなり、依て永禄中も甲賀へ逃入しが、時代変じ其誼又異なれば終に再び旧轍を踏事あたはず、永く信長の為めに其家を失へり、琴柱に膠して旧弊に因循し、改革の時を失ふたぐひ古今少からず。
 
川田《カハタ》山 水口村の南、土山川を隔てゝ内貴《ナイキ》村(今貴生川村)に在り、延喜式川田神社(二座并名神大)鎮坐す、今春日明神と云ふ、新抄格勅符、天平神護元年川田神近江地二戸を充奉り、三代実録、貞観元年川田神授位あり、書紀通証には川田神鳥取造祖天湯川板挙なるべしと曰へり。
 
柏木《カシハギ》 水口村の西に接する村なり、神凰抄に近江国柏木御厨、三十六町三石、同新厨、三十町六石九斗と云地なるべし、重編応仁記云「飛鳥井雅康人道二楽軒は洛陽の乱を逃れて、甲賀郡柏木の里に閑居せらる」云々、輿地志略によれば大字北脇は飛鳥井家の所領なりしと云ふ。
瓦林政頼記云、永正四年六月細川六郎澄元は江州へ落たりけるが、青地が城に落附、甲賀郡に下て山中新左衛門尉をぞ頼まれける、七月澄元上洛ありて山中今度の忠節の賞として摂州かけの郡をぞ賜りける、山中が在名は打田と云ふ。〇今柏木村大字|宇田《ウタ》に甲賀武士山中氏の故墟あり。
 落葉だに残らぬ頃の柏木に何をもるとて神のますらん、〔応永三十一年参宮記〕
補【柏木】甲賀郡〇神鳳妙 近江国柏木御厨(外宮)三十六丁、三石。同斯御厨(外宮)三十丁、六石九斗。輿地志略 文明年中飛鳥井雅康柏木村に居住したまふと云ふは、今の北脇村なり、古は飛鳥井家の所領たりき。〇今北脇酒人の辺。
 
横田《ヨコタ》川 甲賀郡を横流し、野洲郡に入り野洲川と曰ふ、二源あり一は土山の鮎川にして蒲生郡三重郡の界嶺の間より出て、柏木村の南辺に至り、(凡八里)油日川を容る、油日川は蔵部山に出づる也、柏木以西三雲石部の辺に於て専ら模田川と称す、末は湖水に帰す、総長十六里に上ると云ふ。
海道記云、若椙と云所を過ぎて構田山を通る、此山は白楡のかげにあらはれて、緑林の人しるき所ともきこゆれば、益なく覚えていそぎすぐ、
 はやすぎよ人の心の横田山みどりのはやしかげにかくれて。
按に若椙と云は今其名をきかず、構田川の辺に外ならじ。
 
山直《ヤマナヲ・ヤマノアタヒ》郷 和名抄、甲賀郡山直郷、訓也末奈保。〇今|伴谷《バンタニ》なるべし、山直を也末奈保と訓む事疑はし、直は姓にして阿多比と訓むべし、和州葛下郡には也末多倍と訓むを証とすべし、又古は江州には佐々貴山君と云著姓あり、其一族の山直氏の本居なるべし、中世には山村《ヤマムラ》とも称したるにや、温故録に山村氏は国中に一族多しと曰ひ、伴谷《バンタニ》村に大字山村下山村伴中山村などあり、後に及び伴氏之に居れるなり、古の山直郷は伴谷岩根水口柏木大野などの地を総べ、甲賀郡の首邑なりしと想はる。
倭訓栞云、万葉集に「夕路問ふ石卜もちて」と見え、埃嚢鈔に幸神の祠に丸石を置て其石の軽重をもて事の吉凶を卜すると云ふ、今江洲水口駅に近き山村に天満天神祠あり、此石卜の石ありて、世に霊異を称せり。氏族志云、伴氏従源義家、征陸奥有功、所謂伴四郎※[人偏+兼]仗者也、〔奥州後三年軍記〕建永中有近江人盤五家次、資兼之裔、仕源実朝、(東鑑、本書、資作祐訓通、磐伴亦旨通)其族累世居近江、曰平松氏、曰甲賀氏。
 
岩根《イハネ》 伴谷村の西、三上山の東南に在り、大字岩根朝国等を合同し一村を成す、山槐記近江名所に石根山を挙げたり、三上山より東へ連続する横嶺の名なるべし。
 石根山やま藍にすれる小忌衣たもとゆたかに立ぞうれしき、〔新千載集天仁元年大嘗会〕匡房
 我君に仕へまつらんこけむしろ石根のむらのよろづ代までに、〔名寄〕        資業
 つらさをもいはねの森の下に生る草のたもとぞ露けかりける、〔六帖〕
 あしたづの来居る石根の池なれば浪もや千代の数にたつらん、〔夫木集〕       俊成
岩根池は今詳ならず、三上山の東に大池あり、亦岩根山の脈中なれば之を指せるにや、岩根村大字菩提寺の上方に当る也。
 
善水《ゼンスヰ》寺 岩根山十二坊嵩に在り、本堂一宇は近年政府特別保護を加ふることとなる。東海道図会云、岩根山薬師堂は昔伝教大師比叡山根本中堂を営(683)給時、此山材を伐て横田川に筏して叡岳に達せんとす、年旱して河に水なし大師登山して見給に、百伝《モモツテ》の池に梶葉涌出たり、其葉に良薬金留の四字あり、大師即池中を探給へば閻浮檀金一寸八分の薬師仏を得たり、是を本尊として請雨法を修し給に、河水満々として良材皆坂本当麻浦に着せり、大師こゝに寺を創し勅を奉て三尺の薬師仏を造り、金像を体中に収む、台嶺の宗風にして医王善逝の霊水あればとて、善水寺とは号けたり。
 
朝国《アサクニ》 輿地志略云、朝国村は岩根の東南にあり、三雲の北也、山城名勝志に「万年山真如禅寺、仏光無学禅師碑、銘曰、建武丁巳、比丘尼聖家喜捨江州岩根浅国両庄、永充仏国禅師伏養之用」云々。
 
千倉《チクラ》 山槐記、元暦元年近江名所の注進に千倉山甲賀郡と注せらる、永和大嘗会記云、悠紀の稲舂歌は
 かけつみて千倉にあまる稲なればつきせぬ御代のためしにぞつく、
石戸《イハト》山 今詳ならず、大嘗会悠紀方の名所なり、近くは文政嘉永両度のものにも見ゆ、甲賀郡にや。
 いはとやまいほつまさかきとりどりにいのるよごとは吾君のため、〔古事類苑、嘉永元年近江国風俗歌〕
 
 野洲郡
 
野洲《ヤス》郡 東は蒲生耶、南は甲賀栗太二郡に至り、西北二は湖水なり、横田川(即野洲川)蒲生川(即仁保川)の二水郡中を貫流して湖に入る。面積六方里の小郡なれども、平夷の地なれば今十三村に分れ、人口四万五千あり、守山村野洲村を名邑とす。古書に益須郡に作る、古は安《ヤス》国造あり、後世の栗太甲賀は其領知内なりしならん、安国造の事は御上神社の条に詳にす。和名抄、野洲郡七郷に分つ、夙に民人の開発ありしを知るべし、蓋淡海国中第一の旧境は即安を推す、神代巻に天安河の名ありて、神道家或は之を以て野洲川に擬するあれど、信用に勝へず。
 近江なる野須の入江にひくあみのこほりもいをとけさぞ見えける、〔重之集〕 かつまたの池のこほりのとけしより野洲の浦とぞ鳰鳥もなく、〔曾丹集〕補【野洲郡】〇和名抄郡郷考 天武紀元年七月|安《ヤスノ》河浜。持統紀八年三月、近江国益須郡都賀山。釈日本紀、私記曰、今之野洲郡也。古事記開化の段に近淡海之安直之祖、又景行の段、近淡海之安国造。続後紀承和三年十一月、近江国野洲郡空閑地卅五町賜本康親王。同承和四年二月、近江国野洲郡公田并荒廃田二百八十五町賜親子内親王。兵部式、野洲伝馬五疋。重之集、冬「近江なるやすの入江にひくあみのこほりをいをとけさぞ見えける」行嚢抄、愛知川自此駅西、野洲郡なり。〇今面積六方里、人口四万二千、十三村。
 
小津《ヲツ》 近年三宅|欲賀《ホシガ》山賀《ヤマガ》等を合同して小津村と曰ふ、南は栗太郡芦浦(今常盤村)と接し、安閑天皇紀に見ゆる葦浦屯倉は即此なるべし。古事記に倭建命の御子「足鏡別王者、小津君之祖也」と見ゆ、足の鏡にして足は葦浦の謂にて、鏡は蒲生郡鏡山の名を負ひ給ふにや、又小津と云は湖上の一航津にて大津に対するにや。〇神祇志料云、小津《ヲツ》神社今小津村にあり大宮と云、〔和爾雅三才図会神名帳考証〕蓋倭建命の御子足鏡別王を祭る、実に小津君の祖也、〔古事記〕康和五年六月、御卜に小津神の神事を穢せる祟あるを以て、社司に中祓を科す即是也。〔朝野群載〕
小津村大字山賀は文和元年足利義詮の園城寺に寄附したる山賀郷なるべし、南山巡狩録に其古簡を採録す。
補【山賀郷】〇南山巡狩録追加、古証文
   寄進 園城寺
     (上略)近江国山買郷等地頭職事右所奉寄之状如件
     文和元年十月六日
       参議左近衛権中将源朝臣 花押(義詮)
補【湯生《ユフノ》庄】〇輿地志略 是栗太野洲二郡にかゝれる庄なり、栗本郡大門村横江村、野洲郡三宅村欲賀村大森村以上五ケ村を云ふなり、是古昔の悠紀をとり行ひし地なるべし、文字転じて湯生の字を書すなり、すでに河海抄にも近江国湯次荘と出でたり。
 
矢島《ヤシマ》 今赤野井と合同して玉津《タマツ》村と改む、小津村の北に接す、矢島の少林寺は臨済宗一休和尚の開基とぞ、永禄八年足利義昭此地に流寓したり、義昭当時沙門にして覚慶と名づけ、少林寺(一作正林寺)に宿る。淡海地志云、義昭公矢島に三年蟄居せられ、越年の御詠あり、
 ことしよりをきまる御代に近江路の神ぞめぐみをそふる我宿、
八月に将軍矢島を御開きありて、木浜より船に召し北国にお越し、八月十五夜船中の詠あり、
 落魄江湖暗結愁、孤舟一夜思悠々、天公亦慰吾生否、月白芦花浅水秋、
 よるべなき身となりぬれどなからぬ海の面にもうきめ見るかな。
按に、保元物語、源義朝の郎等に近江国住人八島冠者あり、此地の武士なるべし。〇外史足利記云、義輝弟曰覚慶、為南郡一乗院主、三党之弑義輝也、遣兵守覚慶、(684)斥其従者、独説細川藤孝、給仕焉、乃密謀佯稱疾、徴医米田宗賢、宗賢宿直数日、託覚慶疾※[病垂/差]、夜賜酒於守兵、守兵皆酔、宗賢乃扶覚慶奔近江、藤孝又至、経甲賀山、至矢島、館于和田秀盛家、覚慶養髪、更名義昭。
補【矢島】野洲郡〇淡海温故録 此辺に正林寺と云禅宗の旧跡大地あり、永禄八年南都一乗院御門主には万松院義晴将軍の御次男ありしが、三好が一族等光源院殿を討奉りし後南都を忍び出で給ひ、甲賀郡和田和泉が館に在しけるを、細川兵部大夫藤孝和田と談合し此寺に移し奉り義昭公と称し奉る、猶室町殿記に詳なり、今玉津村なり。
少林寺 輿地志略、一休和尚の開基にて、此地則ち義昭公流寓の故址とす。
 
小島《コシマ》 今荒見播磨田の諸村と合同し河西《カハニシ》村と改む、玉津村の東、野洲川の西にして、南は守山村に至る、輿地志略に此村は三宅備後三郎高徳の領知せる所と伝ふ、高徳は佐々木家の血胤なりとも曰へば、其故なきにもあらずと説けり。
 
明見《アカミ》郷 和名抄、野洲郡明見郷(安加美)在南北。〇按に明見今詳ならず、河西村大字荒見、玉津村大字赤野井など名称相類すれども、確実ならず、訓註に拠ればアカミとよみ南北の二郷に分れたる地なり。〇再按、明見は三宅と訓むべきにや、後世の方俗に三宅を明見《ミヤウケン》妙見《メウケン》に訛る例甚多し、然れども和名抄に於て早く三宅を明見に作り、訓を転じて安加美と注したりと想はれず、後の考をまつ、三宅とすれば今小津村大字三宅ありて、地理相合ふ。
 
野洲《ヤス》郷 和名抄、野洲郡駅家郷在南北。〇延喜式、伝馬野洲駅五疋。〇今守山村野洲村なり、野洲川を隔てて南北に分る、東国街道美濃路の駅家なり。延喜式野洲郡の馬路石辺神社も此郷内か。
 
守山《モリヤマ・モルヤマ》 野洲川の左岸なる駅なり、草津駅の北五十町、今鉄道車駅は右岸野洲村に置かる。保元物語に森山、東鑑に杜山《モリヤマ》に作り、古駅なり、紀貫之の漏山とよめるは詠歌の習にて正しからず、然れども家集に「竹生島にまうづるにもる山と云ふ所にて」と云小序もあれば、古俗モリ、モル通用ならん。
 白つゆもしぐれもいたくもる山は下葉のこらず色附にけり、〔古今隻〕        貫之
 人目のみもる山になく呼子鳥しのびて誰をなくねなるらむ、〔中務集〕
 すべらぎを八百万世の神も皆ときはに守る山の名ぞこれ、〔千載集、嘉応元年大嘗会神遊歌〕
   近江、悠紀方御屏風
 あしはらやみづほの国をもる山に豊のあかりのおもしろきかな、〔夫木集〕      匡房
此駅中に天台宗東門院守山寺と云ふ観音堂あり、二王門の密迹金剛力士は諸書に霊験の古像と曰へり、又大光寺と云禅刹あり、寺記曰
 持続天皇七年、近州益須郡醴泉出、刺史奏之、勅法真善往真義等試嘗、法真為霊区、創寺号醴泉、其後台宗祐元法印、屡蒙天徳和尚示誨、依此捨寺為禅居、醴泉之蹤至今在寺門南、俗呼曰甘香池、師住山後、征夷大将軍尊氏公、暇日講師問禅要、且聞件々事、増加恭敬、延元元年丙申、将軍重建堂宇、仏殿方丈厨庫山門鐘楼全備矣、至天文年中諸堂悉炎上。
輿地志略云、都賀《ツガ》山醴泉故址は今周廻六十間許の池也、此山三宅村に在り、是を以て思ふに都賀山は往古長嶺にて、此辺までも尾つづきにてもありしと見えたり、日本紀に曰く、
 持統天皇七年、十一月己亥、遣沙門法真善往真義等、試飲近江国益須郡醴泉、八年正月己亥詔曰、粤以七年歳次癸巳、醴泉涌於近江国益須郡都賀山、諸疾病人停宿益須寺、療差者衆、故入水田四町布六十端、原除益須郡今年調役雑徭、国司頭至目進位一階、賜其初験醴泉者、葛野|羽衝《ハツキ》百済|土羅々女《ツララメ》、人※[糸+施の旁]二匹布十端鍬十口。
按に此醴泉と云ふは鉱泉の一種なるべきも、今は廃池を遺すのみ、凡江州には鉱泉温冷ともに絶稀にして、医療の用に供せらるる者之なし、地理上特異の現象と謂ふべし。〇輿地志略云、望月と云ふ謡曲に、守山甲屋の亭主元は信濃国安田荘司友治が家士小沢刑部友房と云者なりし、主人安田は信濃国住人望月の何某にうたれし故、彼甲屋の亭主友房主の敵を打たることを載たり、又保元物語、頼朝馬眠しておくれつつ只一騎森山の宿に入給ふ、源内兵衛真弘頼朝を抱きおろし奉らんとす、頼朝目を覚し鬚切を以て真向二つに打わり、安の河原へ出給とあるは、名高き武功なり。〇氏家内膳正行広は宇都宮の一族なり、豊臣太閤に仕へて勢州桑名の城主たり、其弟志摩守行継は近江国守山にて一万五千石を領しけるが、病死して断絶すと、中興武家盛衰記に見えたり。〔下野国志〕〇史料通信叢誌に、明治十五年八月、守山駅天王山に宝鐸十余口を、掘得たりと記すは、野洲村小篠原の発掘と同事を伝ふるにやあらん。
補【守山】〇賀茂翁家集 もる山は草津のうまやの美濃路にかゝる所をもり山といへば、貫之のぬしの時雨もいたくとよみけむはそれならむと思ふに、同じぬしの集に、竹生島にまうづるにもる山といふ所にてとて歌のあるを思へば、右のもり山は京よりこの島に通ふゆくてにあらねば、いづこにかあらむ、猶考へていふべし。〇淡海温故録 此処に東門院守山寺と云ふ旧跡あり、本尊観音なり、大伽藍にて二王は霊験ある由云伝(685)へたり、又大光寺といふ曹洞宗の大地あり、尊氏将軍御建立の由、寺領相続す、開山は知れず。〇福貝党介と云大剛の侍、栗本郡の内に忍居けるを、其村の者寄合て討取り、首を此立入の河原にて、信長公が太閤秀吉公の忠節の働を申御見分に備へける処、此福貝は名高き武士なり、何として討たる由御尋ねなり、彼者共申は村中寄合討上申旨言上す、此旨聞召れ、此者は助おき尋ね出し召仕べき侍を、土民の分際にして首を討んこと徒の至なりとて、則三人の土民を刑罰せられ、党介首を塚に築き、右土民の塚と此河原に跡あり。
〇当駅繁昌の地にて宿家多し、毎年七月七日、十二日、十二月廿二日、廿七日市あり、これを守山市と云、近郷より種々の品物を持来て商ふ。
東門院 守山寺と号す、比叡山延暦寺の末寺なり、仁王の巨像あり。
大光寺 曹洞宗の禅寺なり、開山天徳和尚は能登国総持寺通幻禅師十哲の其随一なり、寺記に曰く〔脱文〕
〇史料通信叢誌に日く、明治十五年八月、近江国守山駅天王山に所掘得宝鐸十余個あり、此器本邦の土中より掘出す事、昔も今も同じ事なり、扶桑略記に天智天皇七年近江国滋賀郡より掘出せし事を載す、これ此書に見えたる始也、宝鐸と云、此後続日本紀・日本後紀・続日本後紀・三代実録等の国史に見えたり、銅鐸の名を命ず、又阿育王塔鐸なりとも云、形に大小不同あり、図様又同じからず。〇栗本郡と堺を接す、故に古書或は栗本郡となす。〔小篠原、参照〕
吉見《ヨシミ》 守山村の大字なり、駅の東に接す、東寺文書「正和三年、七条院領、近江国吉身庄」と見ゆるは此なり。
 君が世は吉身のむらの民もみな春をまつとやいそぎ立つらん、〔長秋詠藻〕延喜式、野洲郡|馬路《ウマミチ》石部神社は今立入の田中明神と云ふもの是なり。
 
立入《タテリ・タチイリ》 守山村の大字なり、永禄の比禁中の密旨を奉じ織田信長に勤王の業を起さしめたる立入宗継は、此里を本居としたる人也。〇温故録云、立入村は佐々木承禎公此処に城を普請せられんと支度ある折に、野洲合戦不意に起り敗軍す、故に築城成就せざりき。
 うつろはでたてりの村の白菊はさて幾秋の露霜か経ん、〔夫木集〕         俊光
上新川神社は延喜式野洲郡に列し、三代実録貞観十一年授位の事あり、輿地志略、上新川社は野洲村に在り土俗之を立入明神の分身と云ふと記せり。〇道家祖看記云、抑禁中御廃壊無正体之間、立入左京進(宗継法名隆佐)万里小路大納言惟房へ申上る次第は、禁中の御領山科岩倉なども近年は従ひ不申、公家衆も京の住居成り難く国々へ下向候、三好松永などほしいままの有様也、尾張の織田弾正忠信長と申仁へ綸旨を被遣、天下被仰付可然と云々。
 
野洲《ヤス》川 守山村と野洲村の間にして、官道鉄道と交叉す、此河は甲賀郡鮎川村より発し、西北流して土山川と称し、水口の西に於て油日川を客れ横田川と称す、本郡に入り安河と称し、木浜(今速野村の北に至り湖に入る、長凡十六里、江州第一の長流なり、平時は水涸れ沙磧広し、守山駅の北に岐分し、一派は中洲村菖蒲に至り湖に入る。〇天武紀、壬申乱の条に云ふ「七月(十三日)村国連男依等、戦于安河浜、大破之、獲社戸臣大口土師連千島、討栗太軍、追之到瀬田」。
 わぎもこに又も相海の安河の安寐もねずにこひわたるかも、〔万葉集〕
 はるかなる御上の岳を目にかけていくせわたりぬ野洲のかは波、〔新勅撲集〕     後京極摂政
野洲河原に水を堰き入れて、村民布を晒す業を為す、之を野洲晒と号し、江州綿布の佳品也。
補【野洲川】野洲郡〇淡海温故録 上は甲賀郡伊勢界より落て、鮎川黒川一つに相成て一の瀬川となる、又横田川と云ふ、川下此処にて野洲と云。
 野洲川の水底すみて鶴亀のよろづよかねて遊ぶをぞみる(家集)          平 兼盛
 
野洲《ヤス》 今野洲、市三宅、小篠原久野部等を合同して一村を成す、野洲河の東岸、三上山の西北麓なり、乃鉄道車駅と為る。
続紀「天平十二年十二月、車駕従犬上発、到蒲生郡宿、翌日到野洲頓宮」と見ゆ、此の野洲頓宮は今野洲村大字市三宅にや、斯る地名の里は旧跡たる事、諸州に其例多し。
補【野洲】野洲郡〇淡海温故録 此里は古今当国にて織出す布を晒すことを業とす、故に国民野洲晒と称す、此里は行合の里益須と二村続けり、東は行合の里なり。
 風かよふ形見に露やわたるらん夏と秋との行合のみち (名寄)           中務
 
小篠原《コシノハラ》 野洲駅の東にして、篠原村の西に接す、今本郡々衙を置かる、此地に近年銅鐸を発掘せり、其始末は下の如し。
人類学会雑誌云、鋼鐸は古銅器中の珍器なり、古史に天智天皇七年に近江国より出したりと云へり、我邦にて銅鉱山の開けたるは和鋼元年を始とするよしなるに、夫より三十年も以前に、しかも土中より出しことなれば、不可思議に堪へず、明治十四年野洲郡小篠原村大岩谷に於て、一時に十四口を掘出したるは、斯事に関し最も著大の事例とす、近江国輿地志略に由て考ふれ(686)ぱ、其地即福林寺の跡ならんか、当時村吏より官へ報告したるは、最大高四尺一寸七分(曲尺による)拾三貫匁高弐尺三寸参貫九百匁を初めとし、大小軽重不等高一尺五寸壱貫弐百匁高一尺六寸五分壱貫百匁に至る、其報告云、嘗て大岩谷の辺に別に三口を得たる者ありとぞ、此地字福谷又奥小松或は丸山とも呼ぶ、去る明治八年字大岩山と改称す、七年の頃古鏡三面曲玉矢の根七本及び同質にして管の如きもの八個を得、其埋蔵の景況たるや、凡壱尺四方余を朱にて詰め、其中に右の古鏡髪の毛にて狭み、其廻り五尺余四方をねば土にて埋みあり、又該山より西北に字丸山字|甲山《カブトヤマ》の二丘あり、右(甲山丸山)の距離壱町余にて相対す、其形同一にして何れも古墳と見認む、其形状甲の如し、また丸山の一丘は其巓より壱丈余全く持土にして、周辺より青小石多く顕れ、近年該山の近傍より刀剣の類数本掘得しものあり、又字甲山は形丸山に同じく巓に岩屋あり、最も当村の山中何れも岩屋数多あり、皆巨石を以て築きたり、又西へ連続して字天王山と称する一丘あり、又南に当て字堂山あり、距離十町余にて該地に十二所神社あり、茲は往昔比叡山に属せる伽藍あり、天正年間焼失す、今境内近傍に十三重の石塔存在せり、又大岩山より北西に当て字王塚山(距離四町余)あり、其形茶臼の如く、又東北に当て字屋棟川を貫き字吉祥寺山と呼ぶ一丘あり、該他の往昔吉祥寺と称せし伽藍ありしと云ふ。
 
三上《ミカム・ミカミ》郷 和名抄、野洲郡三上郷、美加無。〇今|三上《ミカミ》村即是なり、野洲村の東南、野洲川の北岸にして、三上山特起して東北は甲賀郡蒲生郡に至る、偏狭の地なり。〇古事記伝云、三上は古事記御上に作り、和名抄に美加無と云は後の音便の唱なるべし。〇加茂真淵集云、和名類聚抄に此國の野洲郡に三上爾保篠原などの郷名あり、延喜式には三上の神社を御上とかかれたり、万葉に「さゝ波の国つみ神のうらさぴて」とあるを或物に日吉の御神大物主にましませる故とあれども覚束なし、この山を御神といふは国つ神のましませる所なれば、其里をもみかゐといひ、其浦をもさはいふべきにこそ。
三上村は今小村なれど、近世元禄年中より遠藤侯一万石の陣屋あり、遠藤氏初め美濃国郡上に封ぜられ、其遠祖は東国千葉|東《トウ》の門流に出づとぞ、慶応三年泉州吉見へ移封。
補【三上郷】野洲郡〇和名抄郡郷考 三代実録貞観十七年三月、近江国|三上《ミカム》神。神名式、野洲郡御上神社。東鑑建久元年十一月、三上社。近江国栗本郡金勝寺官符、野洲郡三上兵主両名神。霊異記、野洲御上領。古事記開化段、近淡海之御上祝|以《モチ》伊都都玖天之御影神。源光行海道記、三上の岳をのぞみて野洲河をわたる「いかにしてすむやす川の水ならんよわたるばかりくるしきやある」右京大夫顕輔卿集、近衛院御時大嘗会和歌悠紀方近江国風俗歌十首のうち神楽うた、三上山「ちはやぶるみかみの山のさかきばをかをかぐはしみとめてこそとれ」新勅撰「はるかなる三上の山をめにかけて幾瀬わたりぬやすの川波」方角抄、野洲川は三上山の麓を北へ流れたり。岡部氏西帰云〔加茂真淵集、重出〕あふみのみかみ山は和名抄に此国の野洲郡に三上、爾保、篠原の郷などあり、延喜式には此神社を御神とかかれたり、和名抄に三上とあるはことばの同じことなれば、さも書ことも有けるなり、それにつきて万葉に「さゝなみのくにつみかみのうらさびて」とあるを、あるものにひえのみ神大物主にましませる故とあれどもおぼつかなし、此山を御神といふは国つ神のましませる所なれば、その里をもみかみといひ、その浦をもさはいふべきにこそ、此海のかたへに爾保の郷あれば、其方ならでも爾保の海といふごとく、志賀の大津のかたにても、ことによりてはみかみのうらといふにこそ。
補【三上邸】〇輿地志略 元禄年中遠藤右衛門佐常春を以て此地に封じ給ふ、遠藤氏美濃八幡よりうつる、遠藤氏は千葉東の氏流なり、一万石。
 
三上《ミカミ》山 此山南は岩根山につづき、東は鏡山に接し、一峰独り秀づと雖甚高からず、其蒼翠温潤の風色、絶えて他の湖上の禿山に似ず、標高一千二百尺、遠望して其神峰たるを弁ずべし。〇温故録云、此山登半里、嶮岨に峙ち立てり、四方より眺むるに形富士に似たり、昔此山に大なる蜈蚣ありて、勢田の龍宮城に寇せし故に、田原藤太秀郷之を射殺したりと云ふ俗談あり、太平記には比良の嶺より来る蜈蚣とあり、釈書には此山の神を陀我神祠と記して、また白小猿なりと云ふ、一説に天御影命云々。〇霊異記云、野洲御上嶺。
   安和元年大嘗会風俗歌
 千早ぶる三上の山のさかき葉のさかえぞまさる末の世までに、〔拾遺集〕       能宣
   元暦元年大嘗会風俗歌
 ときはなる御神の山の杉村や八百よろづ世のしるしなるらん、〔千載集〕       季経
 万代の三上のやまのひゞきには野洲の川水すみぞあひにける、(夫木集〕       元輔
 篠原や三上のみねを見わたせば一夜のほどにつゆの積れる、〔夫木巣〕
   三上の岳をながめて野洲河をわたる
 いかにしてすむやす川の水ならんよわたる計りくるしきやある、〔海道記〕      光行
参考本盛衰記云、野路の原を分行て野洲の河原に出に(687)けり、三上岳を見給へば、緑涼き山陰の麓の森に神ぞ住む、三上明神と名附たり、此神養老年中に天降り、日本第二の忌火にて、此所にぞ住給ふ、篠原堤鳴橋、駒を早めて打程に、今日は鏡に着給。○三上の半腹に妙見祠あり、之を明現山と云ふ、近代天保年中、三上村の庄屋土川平兵衛以下が一揆を起し、検田使を遂ひ終に刑死せしを追弔せる石碑を此に建てたり。〇中村栗園明現山記云、江州山水、遊ぶ可き者枚挙す可らず、八幡の如きは既に已に人口に膾炙し、八幡之長命寺、三上之明現山、石部之金勝山、亦皆絶勝を以て聞ゆ、而して明現山は水口を距る最も近く、一日之行耳、路を岩根に取り、沙路より三上村に入り、石磴を躡みて而して登る、又石磴を攀づること二層、明現の祠有り、欄によりて縦観し、江山の名状を悉すことを得たり。
補【三上山】野洲郡〇淡海温故録 又御神山・御上山ともかけり、麓より峰まで十八町あり。
 松がえに枝さしかはす桜山花もちとせの春やにほはむ(長秋詠藩)          俊成卿
 近江のやにほてる月は晴れにけり三上の嶺はなほ時雨つゝ(後鳥羽院御集)〇天保義民の碑 天保年間幕府吏に命じて、江州野洲栗太甲賀三郡の田畝を検せしめ、旧制を改め五尺八寸を以て一間となし、以て租税の増加を図りたり、三郡の民堪ゆる能はず、野洲郡三上村の庄野土川平兵衛等十一名相謀り、徒党数万人を集め、幕吏を逐ふて検地の状を幕府に訴へ、遂に十万日の延期をなさしめたり、幾くもなくして主謀土川等十一名繋獄の身となり江戸に押送せられ、遂に小塚原刑場の露と消えぬ、世に之を天保の義民といふ、維新の後土地の有志者、義民の為に碑を立て、其功労を表せんと欲し、地を同地三上山の山腹に卜し、明治二十三年工を起し、八年を閲して漸く工を竣へ去る十五日建碑式を行ひしが、当日は義民の遺族及び官民有志者三百余名相集り、碑前に祭壇を設け、厳粛に祭典を行ひたり、遠近相伝へ当時を追想し、簑笠を纏ひ隊をなして参拝するもあり、祭式終りて後義氏遺族及び来賓に酒食の饗応をなし、書画揮毫競馬会等の催しあり、頗る盛況なりしといふ、碑は仙台石にて縦八尺余、横四尺六寸余にして、題額は近衛篤麿公の揮毫に係り、撰文は川田甕江氏にして、書は巌谷山六氏なりとぞ。〔水口、参照〕
 
御上《ミカミ》神社 此社は安国造の斎奉る氏神にして、淡海の国津御神と号す、彦国葦命(孝昭帝四世孫)日子坐王(開化皇子)倭建命等は此氏女に娶坐して、安郡公《ヤスクニノキミ》安国造安直などの姓を垂れたまへり。姓氏録、右京皇別、安郡公、天足彦国押人命三世孫、彦国葦命之後也、古事記、日子坐、王娶御上祝以伊都玖天之御影神之女、息長水依比売、生水穂真若王、是近淡海之安直之祖。又倭建命、娶近淡海之安国造之祖、意富多牟和気之女、布多遅比売、生御子稲依別王。〇按に古事記に「天押帯日子命者、近淡海国造之祖也」とあるは、姓氏録、天足彦国押人命と云ふと同事異伝なり、国造本紀に「淡海国造、志買高穴穂朝(成務)御世、彦坐王三世孫、大陀牟夜別定賜国造」とあるは古事記意富多牟和気と同事異伝なり、而て神社考には「三上山明神者、元正天皇善老年中、自天降於此処」とある如き、又此神は陀我《タガ》の伊弉諾尊に同じ、化現して白猿となり百足となりたまふなど、皆後世の附会なりと知るべし、現在の祠堂は本殿拝殿楼門の三宇、華潔の制也、政府特別保護を加ふ。神祇志科云、御上《ミカミ》神社いにしへ三上岳にあり、後之を山下に移す、〔淡海志神名帳考証東海道名所図会〕凡河内の国造等の祖天津日子根命の子天御影神を祭る、〔古事記旧事本紀新撰姓氏録〕按に社家伝説に伊弉諾尊天照大神を祭る、故に天御影日御影社と云ふとあるは謬れり、天御影神亦明立天御蔭命と云ふ、〔新撰姓氏録〕丹波彦多須美知能宇斯王の母、息長水依比売は即此神の御女也、〔古事記〕大同元年、近江地二戸を充奉り、〔新抄格勅符〕貞観元年従五位下三上神に従五位上を授く、十七年従三位に叙され、〔三代実録〕延喜の制名神大社に列り、祈年月次新嘗の案上幣に預る、〔延喜式〕凡本社神官は尤火を慎み、瓦釜を以て炊き陶器を以て食ふ、依て日本第二忌火と云ふ、〔神社啓蒙行嚢抄〕古は御上祝此神を斎奉りき、即御影神の神孫也。〔古事記〕〇東鑑、建久元年、源頼朝上洛条云、著御野路駅、前右馬助朝房自当国三上杜、献※[土+完]飯酒肴等、不令領納之云々。温故録云、三上神官は清和天皇第二の宮を以て任補せられ、則代々此孫流を以て三上の神達《カムタチ》と云ふ。(清和云々は例の附会の妄言なれど、御上祝の旧家なる想ふ可し)釈書慧勝伝、勝遊方至近州御上嶺、陀我神側宿一舎、夢人語曰、為我当読法華、覚而恠之、明日小白猿来、語勝曰、我昔為東天竺国王、彼国時有沙門数千、我下勅括比丘私度、而受報為猿神、師願住此看読、脱我苦趣、勝曰此地無供、不能久居、神曰勿慮也、我伸供養、又浅井郡有諸浄衆、願勧彼同読、勝赴被説此事、僧等不信、忽堂上有白猿、衆憎出見之、其間宏構大材、俄倒辟、諸衆知猴神所為、始信勝言、往彼同読法華。
 三上なるさくらの山の花ざかり散てふことはあらじとぞ思ふ、〔名寄〕        匡房
今三上村の大字桜あり、此なるべし、桜の東方三上山の陰に大池あり、方数町、岩根村菩提寺(甲賀郡)の北に当る.此辺尚池塘多し。
 
篠原《シノハラ》郷 和名抄、野洲郡篠原郷、訓之乃波良。〇今篠原村是なり、野洲村の東北に接し鏡山村(688)(蒲生郡)の西に至る、大篠原高木長島等の大字あり。篠原は古駅にして、往々栗太郡野路駅と混同の看あるを免れず、共に野路之篠原宿と称すれば也、之を判別せんに行程の左右に依らん外なし、即野路駅は東北両道の交会する草津の西にして、篠原駅は北道美濃路の一駅たるの差あるを想ふべし。平家物語に「野路の篠原も打過て、鏡の宿に至りぬれば」とある如きは此郷なり、延喜式、篠原駅馬十五匹とも見ゆ。東鑑文治元年六月、廷尉(義経)著近江国篠原駅、令橘馬允公長、誅前内府、(木曾路図会云、宗盛塚は篠原の東、鳴海橋のひだりにあり尋ぬべし)
東関紀行云、野路と云所に至り云々、篠原と云ふ所を見れば、西東へ遙に長き堤有、北には里人すみかをしめ、南には池のおもてとほく見えわたる。
補【篠原郷】野洲郡〇和名抄郡郷考 催馬楽に「あふみ路のしのゝをふゞきはやひかずとも」などあれば、古へ篠おほかりしより地名になりたるなるべし。兵部式、篠原駅馬十五疋。東鑑元暦二年六月、篠原宿。今昔物語、篠原。節用集、篠原。太平記(十七)小笠原信濃守は野路篠原に陣をとる。枕草紙、原はしの原。十六夜日記、野路といふ所云々「うちしぐれふるさとおもふ袖ぬれてゆくさきとほき野路のしの原」此歌を夫木(十)に載て、しのはらをきヽはらにつくれり。長門本平家物語(十八)野路の篠原も打すぎてかゞみの宿にいたりぬれば。井蛙抄、古今「浅茅生のをのゝ篠原しのぶとも人しるらめやいふ人なしに」右歌枕には山城としるして侍り、大原小野と同所とおもへるにや、続古今「露しげきをのゝしの原いかにまた余りて旅の袖ぬらすらん」続拾遺「旅人の宿かり衣袖さえて夕霜むすぶ小野のしの原」これらは都近き小野とはおぼえぬ也、近江国小野といふ宿あり、しの原といふ所あり、これらは旅の歌にも可相叶か。本朝通記、後篇、文治元年夏六月、誅宗盛清宗於江州篠原。行嚢抄、篠原、野路の東の野をいふ名所なり、但小野篠原とよめるは中仙道なり、野路の篠原とよみたるは此所なりといへり。方角抄、守山の寅のかたなり、鏡山の麓なり。志略、今大篠原村小篠原村あり。
 
敷智《フチ》郷 和名抄、野洲郡敷智郷、国用淵字。〇今詳ならず、按に遠江国にも敷智郡あり、相因む所あるにや、又今の義王村中里村の辺は郷名の当つべきなし、疑らくは此敷智なるべし。
 
義王《ギワウ》 旧|江部《エベ》庄と曰へり、近年|祇王《ギワウ》女の遺徳に因みて村名と為す、篠原村の西に接す、大字永原富波などあり。〇温故録云、昔江部庄田地養水乏しく土人難義せしが、此庄に生れたる祇王、祇女と云ふ女あり、平相国清盛入道の妾となる、村民共祇王を以て入道殿へなげき、篠原の下より田中に大堀をほり、下溜を受けて水を流し用水足れり、此井を今に祇王井と呼ぶ、中北村富波村両処に姉妹の堂存す。〇一書曰、祇王祇女共に京堀川の白拍子也、母を刀自と曰ふ、又白拍子なり、近江益須郡中北村に生る、平清盛途に祇王を見て之を召す、後仏御前寵を專にするに至り、潜に宮を出づ、殿障に書して曰く「崩出るも枯るヽも同じ野辺の草何れか秋にあはではつべき」と、遂に嵯峨へ遁る、是より先祇王清盛に請ひて、溝を郷里|益須《ヤス》に穿ち以て灌漑に便す、利沢三里に及ぶと云ふ。
 
永原《ナガハラ》 今義王村の大字なり、佐々木屋形の時六角政頼の二男高賢此に居り、南佐々木と称したり。〔淡海温故録〕、永原は往時駅舎にして徳川幕府の初めまで其設あり、天文元年宗磧美濃紀行にも、此駅次見ゆ。
   道より雨ふり、からうじて永原まで着、永原よりは都へ海山かけて七里ときく、翌日永原よりしなまで深泥をしのぎて行き、しなより船出せしに、日さし登りて浪もなく静なりしかば、
 船出する朝日の影はしな照るやにほの水海浪ぞなぎたる、〔美濃紀行〕
 
木部《キベ》 今|比江《ヒエ》西河原等を合同し中里《ナカザト》村と改む、義王村の西に接す、木部は又木辺に作り、一向真宗錦織寺此に在り、世に木辺《キベ》派と称し、真宗の一分派なり。
 
錦織《キンシヨク》寺 温故録云、門徒宗の一派一流の本山なり、開山慈空上人は一向宗に違て、代々聖憎念仏三昧の教法なり、末寺処々に多し、此寺は山本源氏錦織氏の人々発心の建立なりや、或は菩提所なるべし。
〇二十四輩図会云、錦織寺は一本山也、天安堂には多聞天の像を安置す、中世此郷の領主石鼻民部親鸞の徒となりて改宗するも、初め天台宗にて慈寛大師一宇を造立して天像を安じたまふといへり、本願寺存覚上人当院に住み給ひ、其息綱厳僧都寺務有て中興す。〇京華要誌云、錦織寺今真宗五派の一本山なり、初め台家なり、嘉禎中一向宗の開祖親鸞東国より帰洛の途次、堂前に露宿ありしが、霊夢に感ずる所ありて、笈中なる一尺八寸の弥陀仏を安置す、是より專修念仏の道場となれり、天神護法錦織之寺なる宸翰は四条帝の賜ふ所なり。〇按に木部錦織寺は古に聞ゆる所なし、近代は本願寺門跡に附随し、堂上家の子弟を申下して寺主に仰ぎ、雲上明覧に列する事と為れり、其法統は本願寺三代覚如の男存覚を初祖と為し、慈観慈達以下相続して今二十代許なり、沿革詳ならず。
 
比留田《ヒルタ》 今木部比江等と合同し中里《ナカザト》村と曰ふ、延喜式野洲郡比利多神社と云は此に在り、輿地志略には秩父妙見社と云ふものを式社に充て、神祇志(689)料には浅殿社と云ものを式社に充つ、其是非を知らず。
 
服部《ハトリ》郷 和名抄、野洲郡服部郷、訓八土利。〇今|中洲《ナカス》村|速野《ハヤノ》村なるべし、大字服部は中洲村に属す、守山駅の西北野洲河の三角洲にして、西は湖上に臨む。
新川《ニフカハ》神社は中洲村大字|幸津川《サイツカハ》に在り、延喜式、野洲郡下新川神社是なり、〔温故録輿地志略〕三代実録、仁和元年下新川神授位。〇按に新川は丹生川にや、諸国に丹生神と云ふは山神水神にて和州吉野郡紀州高野山などに大社あり。
補【幸津川】野洲郡〇淡海温故録 此村兵頭庄内なり、此処に新川大明神在す。〇今中洲村、野洲川の両岐間に居る。
 
水保《ミヅホ》 今速野村と改む、幸津川の南に接す、古事記に「日子坐王は御上神の女を娶り、生みませる子水穂真若王水穂五百依比売まします」由を戴す、此王孫の水穂は此地の名に因りて負はせ玉ふなり、御上神社参考すべし。
木浜《コノハマ》 今|速野《ハヤノ》村と改む、水保の西にして野洲河を隔てゝ相対ふ。〇木浜は湖水に臨み野洲河の末に居り、滋賀郡堅田浦と相対ふ、湖中の狭窄部にして、両岸二十余町を隔つのみ。
 山風は及ばぬ方のさゝら波に木の葉の浦の名を散らすらん、〔為尹千首〕
温故録木之葉浦を以て此木浜に当てたり。〇宗長手記、大永七年足利公方義晴江州下向の時、木浜山田矢橋守山などに二三日滞留の事見ゆ。〇木之浜浦は戦国の頃六角家の重臣進藤氏の邑にて、永禄中進藤山城守腎盛と云ふは六角家の侍大将なり、此辺は中世|速野《ハヤノ》庄と称せり。
 
兵主《ヒヤウズ》 又兵頭に作り、庄号なりしが近年村名に転ず、大字五条に兵主神社あり、軍八度兵頭《グンハツトヒヤウヅ》大神宮と号し、野洲郡の名祠なり、延喜式には名神大と注し、三代実録貞観中五回授位の事あり、又金勝寺僧三上兵主の両名神の為に度者を奏請したる事、類聚三代格に見ゆ。〇按に兵主神土俗|大宝《タイハウ》天王と曰ふ、栗太郡にも之を祭る、大和国大倭神社穴師神社の裔神なるべし。
補【兵頭庄】野洲郡〇淡海温故録 兵頭の庄は大庄なり、此氏神は当国の大社なり、額に軍八度兵頭大神宮とあり、大国主神なり、代々の屋形は軍神なりとて信仰造営の由なり。
 
邇保《ニホ》郷 和名抄、野洲郡邇保郷、在南北。〇今兵主村|北里《キタサト》村なるべし、輿地志略に仁保の字は江頭《エカシラ》村に在りと曰へり、今北里村即江頭にして、兵主村と邇保川を隔つ。
補【邇保郷】野洲郡〇和名抄郡郷考 在南北、志略、今邇保庄あり、その辺なるべしといへり。淡海立綱がうき草のあとゝいふものに、鳰の海と称するは記に、於是其忍熊王与伊佐比宿禰共被追迫乗船浮海、歌曰、伊奢阿芸布流玖麻賀伊多弖淤波受波邇本抒理乃阿布美能宇美邇迦豆岐勢郡和、即入海共死也とあるよりいひ初しにや、ある説に鳰多く住海なればしかいへるなりといへど、いかが、こは野洲郡に仁保といふ郷ありて湖辺なり、和名抄に邇保とかけり、されば此わたりにては邇保の海といひたるが、いつしか湖の総名のごとくなりたるものといへるぞよき、今の人は保の字濁音にとなふ。(今按、邇本抒理のは阿布美にかかれる枕辞にはあらず、句を隔て迦豆岐にかゝるなり、意はにほ鳥の如くかづきせむとなり、然るをさゝ波のあふみなどと同列の枕辞なりと後世おもひたがへたるか、郷名の邇保より出たりといはんはさもあるべし、又名磧考、邇海は古来琵琶湖の惣名とせり、然れども和名抄によれば此湖の惣名にはあらで、彼郷の辺をさしていふにやあらん、されば海ならで又にほの川ともよめり)夫木集、正安大嘗会歌爾本のかは(爾保近江)「もろ人もよはひをのべてむすぶなりにほの川瀬の菊の下水」志略、仁保村、小田村、江頭村。〇今北里村は北仁保にて中里村は南仁保ならむ、仁保川此にて海へ入る、上流は蒲生郡より来る。
補【北邇保郷】野洲郡〇和名抄、邇保郷在南北。和名抄野洲郡六郷、其邇保郷今半は蒲生郡に入り、東西中小路村の辺、仁保庄と称す。
 
仁保《ニホ》川 蒲生川の末なり、蒲生郡|綿向《ワタムキ》山より発し、日野町鏡山村を経て、北里村江頭に至り、湖水に注入す、長十里。
 
江頭《エガシラ》 今北里村と改称す、守山駅の北二里、八幡町(蒲生郡) の西一里、仁保河の畔の大村なり。
   正安大嘗会歌、爾本川
 もろ人もよはひをのべてむすぶなりにほの川瀬の菊の下露、〔夫木集〕        兼仲
古事記云、其忍熊王与伊佐比宿禰、共被追迫、乗船浮海歌曰、
 いざあ君振熊がいたで負はずば邇本抒理の阿布美のうみにかづきせなわ、
即入海共死也。按に此に邇本鳥と云は後世鳰と云ふに同じく、琵琶湖には鳰多く住みければ「鳰鳥の淡海」と口吟めるにや、一説野洲郡邇保郷ありて其浦を邇保の海と呼びたるが、又転じて大湖の総名と為れるにやとも云へり、今按に是は鳥名より出でて郷名と為り、又後世「鳰鳥の淡海」の語に本づき、鳰海てふ名を定(690)めたるならん、邇保海と云語は万葉集には之なし、源語早蕨巻に初出す、
 しなてるやにほの水うみこぐ船のまほならねどもあひみしものを。
鳰は漢名※[辟+鳥]※[帝+鳥]に作ることあり、小鴨に似て稍大なり、頭背翅に黒き斑あり、觜短く脚は赤し、常に水中に出没し、善く波底に潜る、枕辞「邇保照や」と云は「鳰鳥や」の訛なりとぞ、又「鳰鳥の息長川」と云ふは息長は坂田郡の地名也、源語の歌なる「しなてるや」も栗太郡の地名支那にて「支那出るや」の義なりとぞ。
   湖田     玉乃五龍
 峰巒囲沢国、煙靄落暉天、漁屋間農舎、黄雲接碧漣、旱年猶喜霽、退水始耕田、不似濃山路、稲花枯可憐、
 
 蒲生郡
 
蒲生《ガマフ》郡 野洲甲賀の東北に接し、神崎の西南に並ぶ、江南の中央にして古より富強の名あり。国道は北偏を過ぐ、即|八幡《ハチマン》町を車駅とす。日野は東南の山谷にして、自ら一区を成す、彦根より八日市を経て日野に通ずる鉄道支線あり。〇今面積凡二十四方里、人口十万、二町二十三村、郡衙は八幡に在り。古事記「天津日子根命者、蒲生稲寸等之祖也」とあり、蒲生は名義其文字の如く蒲草の野なるべし、蒲生野は天智天皇遊猟の標野《シメノ》にして神崎郡に渉る、神崎は蓋蒲生の分地なり、天智紀「五年、以百済男女四百余人、居于近江国神前郡、八年、以百済佐平余自信鬼室集斯等男女七百余人、遷居近江国蒲生郡」とあるは二郡の関係を見るべし、続日本紀、天平十六年蒲生郡大領佐々貴山君親人、神前郡大領佐々貴山君足人の名あり、佐々貴氏は蒲生稲寸に代り此地を領知せる家なるべければ、国郡制置の時蒲生は分れて蒲生神前の二と為れるを知るべし、又百済人の古跡百済寺、并に佐々貴山君の領知せる久田《クタ》の蚊野《カノ》は、後世愛知郡に在るを想ふに、愛知も亦神前の分地にて、本は蒲生野の中なり。文武紀「大宝二年、美濃国多伎郡民七百十六口、遷于蒲生郡」と見ゆるは空野開拓の政治と知らる。〇和名抄、蒲生郡、訓加万不、九郷に分つ、篠田とあるは篠笥の西郷にして、又蒲生郷を東生西生の二に分たるゝ由 下に其説あり。
   送人帰東、         梁川星巌
 人帰燕去尚掩留、揺落京城無限秋、一片離心逐帆席、鯉魚風裡過江州、
 王孫草色緑※[草がんむり/妻]々、帰路綿山望転迷、政是江東三月暮、楊花風白子規啼、
補【蒲生郡】〇和名抄郡郷考 天智紀八年十二月、近江国蒲生郡。古事記伝(七)名義、上代に蒲の多く生たりし地にや、蓬生、浅茅生、麻生などのたぐひなり。
続後紀承和十四年四月、近江国蒲生郡俘囚。節用集、蒲生野。足利時代諸家紋帳に近江の蒲生とて載たる紋あり、此郡にありし家なるべし。〇今面積凡そ二十四方里、人口九万三千、二町二十三村。
 
安吉《アキ》郷 和名抄、蒲生郡安吉郷。〇今鏡山村|苗《ナ》村|馬淵《マブチ》村なるべし、輿地志略云「安吉は今の倉橋部(今馬淵)弓削|須恵《スヱ》(今鏡山)信濃(今苗村)の辺を云ふなり」。〇今昔物語に安義《アキノ》橋の鬼人を※[口+敢]ふ一語ありて、今鏡山村大字椅本あり、此を謂ふにや、本郷南西は鏡山三上山岩根山の眠を以て甲賀野洲二郡に界し、蒲生川貫流す、土俗|横関《ヨコセキ》川と曰ふ。
 
蒲生《ガマフ》河 推古紀、二十七年、近江国言、於蒲生河有物、其形如人云々。〇此河は上流を日野川と云ふ、源を綿向《ワタムキ》山(西大路村)に発し、西流朝日野村に到り桜川を合せ、錦山の北を過ぎ横関川と称し、野洲郡に入り湖に帰す、長凡十里、末には仁保川とも曰ふ。〇淡海温故録云、歌名所の玉造《タマツクリ》川と云は仁保川を云にや、又鏡山の辺の濁れる川なりとも云へり。
 いく千度君が御代には近江なる玉造川すまんとすらん、〔夫木集〕          元輔
補【玉造川】〇淡海温故録 名所なり〔夫木集、略〕
 一つして万代照らす月なれば底も見えけり玉造川
                     よみ人しらず
 此玉造は二保川を云にや、但し玉造の庄に常に鏡山近辺の山川の流れ溜濁れる川あり、此川を読るにや。
 
鏡山《カガミヤマ》 三上山の東に并ぶ山名なり、山北に鏡宿あり、今此辺塊川橋本弓削須恵横関薬師等の大字を合同し鏡山村と称す、西南は野洲甲賀二郡に界し、北は桐原村馬淵村に至り、東は苗村に至る。鏡は俗説天日槍の日鏡を収蔵したる処と曰ふ、日本書紀、垂仁紀「新羅王天日槍、入近江吾名邑暫居、是以近江国鏡谷陶人、則天日槍従人也」と見ゆれば最旧邑なり、吾名《アナ》と云ふも此地の古名にや鏡谷《カガミノハザマ》は鏡山の東麓にて、今|須恵《スヱ》の大字即|陶人《スヱツクリ》の遺墟なり、又鏡作の事は桐原を参考すべし。(吾名は苗村《ナムラ》を見よ)
 錦山いざ立よりて見てゆかむとしへぬる身は老やしぬると、〔古今集寛平大嘗会の歌〕大伴黒主
   天喜六年大嘗会風俗歌
 花のちる山のふもとのかがみ川日を経てはるはとくかへりけり、〔夫木集〕鏡は古駅なり、近世は停廃す、源平盛衰記に鏡宿と記し、源義朝の遺子牛若丸此に投宿したる折、元服して(691)九郎義経と曰へる由見ゆ。木曾路図会云、鏡宿今は馬次なし、守山より是まで二里、武佐まで又一里半、牛若丸の投宿家とて、京より下る左側沢氏と云、屋の棟に幣を立る者あり。〇東鑑、建久六年、将軍上洛、出江州鏡駅前、羈路鞍馬給云々。
星崎《ホシガサキ》城址 鏡氏の故居なり、鏡宿に在り、鏡氏は東鑑「承久三年六月、鏡右衛門尉久綱、注姓名於旗面、残留合戦、遂自殺、見旌銘拭悲涙」とありて勤王の勇士なり。〇輿地志略云、鏡氏は佐々木十代定重を元祖とす、承久乱に尾張にて討死せし鏡右衛門尉久綱は其二代目なり、愛智郡日夏氏も此流と曰ふ、鏡は代々屋形の旗頭にて、星が崎に在城なり、鏡陸奥守高規息兵庫正は定頼公承禎公に忠功有て、永禄の始め永原一族浅井に頼まれ逆意を起し、南郡騒動の時、承禎公星が崎に宿することあり。
 
苗村《ナムラ》 旧庄号なり、鏡山村の東、朝日野村の西、馬淵村雪野山の南なり、苗村天王祠は大字綾戸に在り、按に延喜式蒲生郡|長寸《ナムラ》神社あり、寸は村の古字なれば那牟羅と訓みて、吾名《アナ》邑の略なるべし。〇温故録云、苗村庄に天王社鎮坐す、何の由来やありけん、国中の賤職を作すもの年々寄集り、此神事を務る習あり、石切革屋革師の類の賤職に十余流ありとなり、又屠児船子なども、それ/”\の役目を云渡す由なり、清浄の大神に、下輩の集り務るはいと不審なり。今按に苗村は大字|川守《カハモリ》山之上《ヤマノウヘ》信濃|駕輿丁《ガチチロウ》などあり、山之上保は昔京の祇園社領と云ふ、蓋長寸神は吾名邑の新羅人の祭れる者にして、後世牛頭天王に混じたる也。
補【苗村】蒲生郡〇淡海温故録 苗村の庄は三十余郷あり、天王御鎮座大社の旧跡也〔下略〕〇綾戸に鎮座す、式内長寸神社にやあらむ。
補【山上保】〇墨考云、近江國蒲生郡に山上の村あり、宮川村の西に隣れる地なり、この山之上村もと山上保にて、往古祇園杜領たり。
 
雪野《ユキノ》山 苗村と馬淵村の間、蒲生川の右岸なる丘陵なり。温故録云、此山に雪野寺あり、安吉山龍王寺と曰ふ、昔は大伽藍にして、小野時兼と云人|川守《カハモリ》里に住し、一鐘を薬師如来に寄進す、之を野寺の鐘と曰ふ、文安三年回禄したり、然れども其本尊并に梵鐘は依然として今に在り。
 蒲生野のしめのの原の女郎花野寺に見するいもが袖なり、〔夫木集〕         匡房
按に此歌野寺一本野守に作るを是とす、蒲生野は雪野山以北の曠野にして、天智帝遊猟の処なり、万葉集云、
   天皇遊猟蒲生野時、額田王作歌、
 茜さす紫野逝しめの行野守は見ずや君が袖ふる
此歌逝行とつづけたるは行歩の義には相違なきも、雪野山の辺にて、地名を掛てよまれたるにやあらん、其野守の人は即此山に住居しけん、土俗の伝ふる小野時兼と云ふも野守職をるべし。
 
馬淵《マブチ》 鏡山村の西、雪野山の北、東は武佐村に至る、大字馬淵は国道に係る、其東南に大字長福寺|千憎供《センゾク》倉橋部などあり。〇馬淵氏は佐々木屋形定綱の五男広定を祖とすと云。馬淵村には花崗石々材を伐出す、方言鵜川石と曰ふ、鏡山村に大字|鵜川《ウカハ》あり。〇元和中、木村長門守重成は大蔵卿局の姪青柳に夫婦の語ひを成しけるも、当時大坂城に在りしが、其五月重成討死のとき、彼婦悲歎を押へて、江州馬淵に所縁あれば、其所の荘官をたのみ、恙なく男子を産みて尼となる、翌年一周忌の営み終て、持仏堂にて心閑に自害を遂げたりと云、其後荘官位孤を養育し、世を憚りて我家苗を名のらせ、我娘を娶合せ馬淵源左衛門と号して家督をつがせ、其子係今に彼所にありと云々。〔浪速全書〕
 日もくれぬわたせ其馬ふちもなきこのひと川は瀬ぶみせずとも、〔夫木集〕      為相
 
子僧供《センゾク》 是は山槐記元暦元年注進の近江名所に「千束橋、蒲生下郡」と注したる地なるべし、土俗、住蓮法師の供養を営みたるに因りて、此名ありと云は、附会の説のみ。〇温故録云、千僧供は千束とも書く、昔爰にて法然上人の弟子住蓮坊安楽妨両僧を、鎌倉の御裁断にて、佐々木九郎義実に仰付られ、刑罰せられ其塚あり、此住蓮坊は対馬守源頼親の苗裔也、其後承元元年両僧の追善のため、爰にて千僧供養あり、故に所の名とす、又爰に大きなる塚幾つもあり、其由来は知れず、正保年中に馬淵繩手の道を作るとて、大塚を一つ崩しけるに、古き朽ちたる具足太刀色々出たる由聞けり。
 
桐原《桐原》郷 和名抄、蒲生郡桐原郷。〇今桐原村是なり、鏡山村の北に接し、岡山村の南なり、此桐原は古の鏡作|天目一箇《アマノマヒトツ》命の後裔、蒲生稲置の住所なりきと云ふ、鏡山と相接比するも、其故なきにあらず。
菅田《スガタ》神社 延喜式に列す、今桐原村に在り。神祇志料云、蓋天津日子根命の子天麻比止都命を祀る、即菅田首蒲生稲置の祖神也、〔参取新撰姓氏録古事記〕凡毎年九月十九日祭を行ふ、此日稲置の稲六十穂を伊勢多度神社に送るを例とす、〔滋賀県注進状〕桐原は今|鋳物師《イモジ》とも称する村にして、村北に字菅田あり、古へ稲置の旧地と云ふ。
 打なびくけしきを見れば女郎花すがたの野辺はおのれなりけり、〔夫木集〕菅田の地名は和州にもあり。
 
船木《フナキ》郷 和名抄、蒲生郡船木郷。〇今岡山村八幡町宇津村等なり、桐原村の北にして湖水に臨(692)む、大島郷(今島村)は本郷と一溝を隔て、湖中に在り。。高島郡にも船木村あれど之と異なり、源平盛衰記に「故刑部卿殿(平忠盛)近江国水海の船木の奥にて、海賊廿人を被搦進」たりとあるは、船木の奥の島即大島郷の凶徒を追捕せられしなり、又船木山と云は今の岡山にや、又奥之島山をさすにや、詳かならず。
 さざ波や船木の山のほととぎす声をほにあげて鳴渡るかな、〔家集〕        顕輔
補【船木郷】蒲生郡〇和名抄郡郷考 今按、左京大夫顕輔卿集「さゞなみやふなきの山のほとゝぎすこゑをほにあげて鳴わたるかな」右歌を美濃に入たるも論なく松葉集の謬にて、さゞ波の詞近江によしありて、さて近江には船木崎とて高島郡にあるは人多くしれる所にて、是ならんとおもはるゝを、和名抄蒲生郡と見えたり。閑田耕筆、船木、松葉集に美濃とし、船木浜近江とす、大嘗会の名所にとられしは近江、分明なり。盛衰記(五)故刑部卿殿近江国水海船木の奥にて、海賊廿人を被搦進たりし。賀茂御厨宣旨の文にも見えたり、下に引り。
 
岡山《ヲカヤマ》 八幡町の西、北里《キタサト》村(野洲郡江頭)の東北に在り、本名|水茎《ミヅクキ》岡なり、永正年中、足利公方義澄江州に下向し、此に寓止せらる、旧記に永正八年八月十四日、公方江州丘山に逝去、年三十三におはす、元亀年中には、六角家臣乾甲斐守の居城也云々。瓦林政頼記云、永正五年六月義澄将軍は九里が拵へたる岡山にて御座あり、同六年十月の一夜、夜討の上手円珍とやらむ云時衆は、義澄将軍に頼まれ、京の御所へ忍入る云々。外史足利記、永正四年、大内義興挙山陰山陽西海兵、奉足利義植西上、五年、将軍義澄奔近江、依六角定頼、義植義興入京師、沼奪義澄官爵、還予之義澄、六年八月、義澄薨于近江|岡山《ヲカヤマ》。
 水茎の岡のやかたに妹とあれとねてのあさけの霜のふりはも、〔古今集〕
水茎岡は同名筑前国にもあり、此歌は古今集大歌所の詠なれば、近江国悠妃方の名所たる事推知すべし。
岡山の西岸に大字|牧《マキ》あり、湖水彎曲して一江湾を成し、湾口に一岩嶼あり、景色頗佳なり、断崖絶壁水深くして岩石の態亦奇なり、東北長命寺松崎を望む、水程十八町許、筆尖《フデカサ》硯淵など云ふ景勝即此に在り。
 槇の村つら/\つばきつら/\におもへばかへし君が八千代は、〔夫木集〕      匡房
加茂《カモ》 今岡山村の大字なり、加茂明神あり、社域殊勝に見ゆるとぞ、古は城州賀茂の御厨にして船木郷也、と云ふこと郡郷考に其説あり。
補【岡山】蒲生郡〇輿地志略 長命寺より十八町あり、離れたる小島にて牧村の民の私有たり、断岸至て水深く岩石尖にして、湖水の大観絶景なり、足利義澄のしばらく棲山せられしあとあり、旧記に永正八年八月十四日、公方義澄公江州丘山に逝す、年三十三と(或云、三十二)載せたり、古歌に詠ずる所の水茎の岡是なり。古城跡は初屋形と号し、足利義澄棲山してこゝに逝す、其後城となす、所謂岡山の城是なり、今に石垣等ありて城址顕然たり、相伝、永禄年中の建築なりと。
補【加茂】蒲生郡〇淡海温故録 加茂大明神、旧跡大地にて境内殊勝の地也、其北の湖辺に槇村あり、名所也、仁和元年の大嘗会の悠紀方の歌
 君が代はちへになみくる〔ィら〕隙もなく作り重ねよ槇本の村人(長秋詠藻)    俊成
 
八幡《ハチマン》 江州南郡の盤邑にして、今八幡町と云ひ、蒲生郡役所あり、鉄道車駅は隣村|宇津呂《ウツロ》に在りて、八幡駅と称す、培民富庶、北郡の長浜と匹敵す、綿布の織造盛んなり、殊に蚊帳地畳表は一種の特有物産とす。此地は天正十四年羽柴秀次八幡山に築城し、安土城下の工商を移したるより、初て市街と為りたる也、安土村の西一里。
 
八幡《ハチマン》城址 今宮山と曰ふ、八幡町の北に在り、津田細江の水其下を繞る、太湖の曲湾左右に斗入し、奥島其背に横はる、天正十四年、羽柴秀次安土城を壊ち此に築く、因て近江中納言と称せり、文禄中秀次逝去の後廃城となれるならん。
八幡《ハチマン》宮 木曾路図会云、八幡宮元|宮山《ミヤヤマ》の上に在り、佐々木屋形の時、神領を多く寄せ進められ三十余個所に及び神威輝けり、初め長徳三年放生会を行はれ、寛弘二年麓に一社を勧請して下の社と称す、弘安中蒙古襲来の時奉幣あり、永禄十一年、信長公の為に佐々木家十八個城一度に亡びければ、神社も衰弊せり、其頃豊臣秀次此山に城を築しが、文禄四年に亡び、慶長五年平天下となりしより、神殿を再興し、旧観にかへる、寛永十一年、関東の命に因て神領五十石神境の除地を賜ふ、湖中なれば景色よし、八幡山和歌序北村季吟法印作なり、比牟礼宮又|火振《ヒブリ》八幡とも呼び奉る。〇按に古事記応神妃の父の名に丸邇《ワニ》の比布礼と云人あり、滋賀郡和邇を参考すべし。
日杉《ヒスギ゙》山 八幡町の西南なる岡なり、願成就寺と呼ぶ天台家あり、此寺昔は八幡山に在りしを、築城の時之を移されたるなり。
金台《コンダイ》寺 八幡町字寺内に在り、境内六町、本願寺の別院にして八幡御堂と称す、顕如上人開基、初め安土に在りて金蔵寺と曰へり。
補【八幡】〇輿地志略 日杉山は八幡町の西南にあり、八幡町のつゞきなり、高二町許りなり。願成就寺は日杉山にあり、始八幡町西南の方にありしを、天正年中秀次城を以て鷹飼村にうつす、其後又こ(693)こにうつす、延暦寺の別院なり。
金蔵《コンザウ》寺は寺内町にあり、初め願寺十一代顕如上人当国蒲生郡に御建立なり、其敷地今に彼地にあり、其後文禄元年のころ秀吉公八幡山に城を築くの日、御堂も此地にうつる、境内六町、今の御堂是なり、朝鮮人来聘のとき必らず旅館となる、初め金台寺といふ。
 
宇津呂《ウツロ》 八幡町の東を大林《オホハヤシ》と云、ふ、宇津呂八幡宮あり、故に今宇津呂村と改む。〇輿地志略云、宇津呂は土俗相伝ふ、寛弘二年、宇佐八幡 此地の松樹に移り釆ます。因て其松を影向松と号したり、此神後世八幡山に遷座ありしも、旧址に別に一宮を置くと。
にし光《サイクワウ》寺 宇津呂中村に在り、龍亀山大雲院と号して浄土宗なり、開山貞安上人、大檀那織田信長也、初め貞安能州西光寺に住し、乱を避け近江に至る、信長信敬して天正七年西光寺を建立す、即安土城大手の前田の中に建立成就す、然して後天正十四年八幡山に城を築き安土の町を悉く引うつす、寺も又移る、今の地是なり。
 
津田《ツダ》 八幡町の北、島村の南を曰ふ、今北津田南津田の字ありて、島村及岡山村へ割入す。津田入江と云は八幡山岡山の西北なる湖水の湾曲にして、東は細溝を以て安土の湖湾に通ずる脈を云ふならん、北津田に津田先生の宅址と伝ふる地あり。〇大日本史云、平重盛、次子曰資盛、子親実、其母抱之匿近江津田、郷長取其母為妻、遂育親実、為越前織田祠官子、号織田権太夫、又称津田先生、剃髪曰寛盛、嘗作和歌寓思云々。
 さみだれは津田の細江のみをつくし見えぬもふかきしるしなりけり、〔続後撰集〕   寛盛
此寛盛法師は津田権太夫親実と号せし士なり、織田氏の祖なり、今織田氏の末孫津田を名のるは此津田によれり、細川藤孝「こほりゐし津田の入江もうちとけて国も豊に春風ぞふく」此歌は藤孝ぬし織田六角両家の扱に下りたまひ、和睦の上にてよみたまふと云ふ 〔輿地志略〕
 
大島《オホシマ》郷 和名抄、蒲生郡大島郷。今の島《シマ》村是なり、八幡町の北にして津田の細江を以て相界す、東は安土の湖湾を以て神崎郡と相限る、北方の湖上に沖島と云ふ岩礁あり。〇島村は土俗|奥島《オクノシマ》又北津田と曰ふ、源平盛衰記に舟木の奥と云ふも此奥の島を指す、周回三里、南西角を松崎《マツガサキ》と云ひ長命寺と称する名藍あり、又東北端に一岩嶼あり伊崎《イサキ》島と曰ふ、安土の湖湾の北を塞ぐ、地勢高下参差として、崖岸乱錯す、太湖の一勝景なり、岩石は伐りて用材に供ふべし、水に泛べて諸方に運致す、其島山を傾山又竪鋒と曰ふ。大島神社は延喜式に列し、新抄格勅符に「大島神、神護景雲元年、神封一戸を充奉る」と見ゆ、今もこの祠奥村に在り。
 
長命《チヤウミヤウ》寺 奥島の西南に在り、八幡町より五十町、西国巡礼三十一番の札所なり、津田の入江の北に臨み、湖山の勝景を攬るべし。〇輿地志略云、奥島長命寺は拾芥抄に「長命寺、三尺聖観音、武内大臣之願」と記す、不審ならずや、相伝ふ、昔野洲郡邇保郷に頼智法橋と云沙門あり、長明寺再興を為しき、其後佐々木定綱、父秀義の菩提の為に重興し、延暦寺に附属す、大永六年、山門の学頭内供奉より贈れる証文に「当山長明命は天智天皇の御願にして、延暦寺西塔の別院なり」と記す、元亀四年、織田氏の軍岡山城を攻めし時、此伽藍亦兵火に罹る、天正十年壬午、勧進の功により堂塔を造営す。〇温故録云、長命寺山に富士権現の母の墓と伝ふる大石あり、此寺は佐々木屋形秀義の廟にて、寺僧は比丘方比丘尼方の二派ありて、寺禄百石を相続す、巡礼詠歌云、
 八千とせや柳もながきいのち寺運ぶあゆみのかざし なるらん。
   雇舟長命寺、阻風、     梁星巌
 春客隔水蒲※[穴/牛]吼、擬問宝陀開士家、何物飛廉敢相阻、満湖吹起鉄蓮花、
補【長命寺】〇輿地志略 当国野洲郡仁保郷に頼智法橋といへる沙門あり、当寺再興の後右大将頼朝、佐々木秀義の死節の忠義を感じ、秀義の嫡男定綱に命じて秀義頓証菩提の為とて当山長明寺を再興し、延暦寺に附せらる、大永六牛山門の学頭内供、奉証文を当寺に贈らる、当山長命寺は天智天皇の御願所、山門西塔の別院なりと、元亀四年発酉六月、当国岡山の城主乾甲斐守、織田信長公のために亡さる、其兵火によりて伽藍僧舎悉く皆焼失せり、天正十年壬午一山の僧侶あまねく諸人に勧進し、堂塔を造営せりと、云々。拾芥抄云、長命寺三尺聖観音、武内大臣の願なりと云ふ、武内は仏法東渡以前の人物なり、不審。
 
松崎《マツガサキ》 長命寺の南の崖端を云ふ、安和天禄両度の大嘗会風俗歌に松崎をよむ、即此景致に取れるなり
 ちとせふる松が崎にはむれゐつゝ田鶴さへあそぶ心あるらし、〔拾遺集〕       元輔
 つるのすむまつがさきにはならべたるちよの例を見するなりけり。〔同上〕補【松崎】〇輿地志略 長命寺山の西の麓なり、「波立る松が崎なる芦田鶴は千代をかさぬるためしなりけり」〇俳士三千風が日本行脚文集に、津田の細江、水茎の岡、又登蓮法師が薄の庵、木の葉の沖のこなた松が崎の木影としるせり、登蓮法師が十寸穂の薄のことは長(694)明無名抄、兼好徒然草に出たり、今之を考ふるに 「わたのべにまかるなり、とし頃いぶかしくおもひたまへしことをしれる人ありときゝて、いかでか尋にまからざらんと云ふ」とあれば、此所の事にてはあらざるべし、然れども、もしやかゝるいひ伝へもあることにや。
 
伊崎《イサキ》 奥島の東北に接する一岩嶼なり、伊崎島と云ふ、不動堂あり伊崎山阿弥陀寺の廃址とぞ、即沖津島の神宮寺なり。三代実録云「貞観七年、元興寺伝燈法師位賢和奏言、久住近江国野洲郡奥島、聊構堂舎、島神夢中告曰、雖云神霊、未脱蓋纒、願以仏力、将増或勢、擁護国家、安存郷邑、望請為神宮寺、叶神明願、詔許之」と、此に野洲郡とあるは謬りなるべし。〔輿地志略名所図会〕
 
沖之《オキノ》島 奥島の北岸を去る十余町、伊崎の西に在り、廻二十余町の岩嶼にして、居民五六十口あリ漁戸也、古は奥津島と曰へり、今島村に属す。 淡海のみ奥津《オキツ》島山奥まけてわがおもふいもが言のしげけく、〔万葉集〕
 風わたるにほの水海そらはれて月かげきよし奥津島やま、〔続千載集〕
 ふる雪はそれとも見えでさざなみやよせてかへらぬ沖津しま山、〔新拾遺集〕
補【沖津島】〇輿地志略 岡山の正北にあり、湖中の小島なり、東西三町余、南北十四五町あり、漁人多く此に住む、其島の石を取てこれを売る、己が居を亡す者なりと云ふべし、古歌に所謂澳津島山是なり、往古は此地に大社ありしとみえたり、延喜式に蒲生郡奥津島神社を載たり。三代実録曰、貞観七年四月二日〔略〕是等も行基法師の伊勢大神宮の夢想を蒙りし類なるべし。
阿弥陀寺の蹟 長命寺のつゞきにあり、伊崎耶山阿山弥陀寺と号す、南郡元興寺の僧賢和の開基なり、寺領ありて甚繁昌せしに、何れの年か寺破滅す。
補【王浜】蒲生郡〇輿地志略 王の浜の産物、王の浜の大人毎歳十一月郁子二を朝廷に献じ奉る、閏月ある年は近江国高島郡より郁子を奉るとあるは転写の誤なり、延喜式例貢の御贄にも郁子あり、今彦根の城主より郁子領米一石五斗毎年土民に賜ひ、土民郁子をつくり京都に奉る、郁子或は※[草がんむり/奥]子に作る、和名抄に郁子一名は棣、和名|牟閉《ムベ》。〔郁子譜并図に近江国高島郡奥之島村王浜、また蒲生郡奥之島、また※[草がんむり/奥]実献上候由緒申伝之覚に「聖徳太子之御時奥島庄之内へ御成行幸それより此所を王之浜と申伝候由」今沖之島に附す。〔高島郷増補参照〕
 
奥津島《オキツシマ》神社 今沖之島に在り、延喜式、蒲生郡の大社なり、新抄格勅符、大同元年神封一戸を充てられ、三代実録、貞観元年授位の事あり。〇此神島は竹生島と匹敵すへき霊境なれど、太だあらはれず。
    泊於磯島           頼山陽
 避風入湖※[奥/山]、繋舟蔭林※[木+越]、数家依崖住、汲路泥常滑、上岸借一枕、舟中忘蚊齧、※[さんずい+夾]旬滞藩城、紗帳申※[人偏+占]畢、不如漁父家、漁燈繙吾帙、
補【奥津島神社】。神祇志料 今沖島村にあり、(淡海地志・神名帳考証・本社所蔵古文書)蓋奥津島姫命を祀る(古事記・延喜式・本社古文書)平城天皇大同元年神封一戸を充て(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月甲申、従五位下奥津島神に従五位上を授く(三代実録)
 
篠笥《ササキ》郷 和名抄、蒲生郡篠笥郷。〇今安土村|老蘇《オイソ》村及|金田《カナダ》村なるべし、和名抄本郡篠田郷と云ふは、今其名を聞かず、蓋篠西郷の謬にして金田村に当る、即篠笥の西郷の謂ならん。篠笥は笥に介の訓あり、和名抄、大角豆注散々介とありて、介と貴は音便なれば古音相通なるべし、古書に佐々貴狭々城又沙々城に作り、後世は専ら佐々木に作る。〇佐々木氏は姓氏録「摂津皇別、佐々貴山君、阿部朝臣同祖、大彦命之後也」とあり、陵墓の事に因める氏号なるべし。雄略紀に狭々城山君韓※[代/巾]と云ふ人あり、実に陵守を職とす、曰天皇恨市辺押磐皇子、陽期狡猟、勧游郊野曰、近江狭々城山君韓※[代/巾]言、今茲於近江|来田綿蚊屋野《クタワタノカヤノ》、猪鹿多有、相随馳猟、於是大泊瀬天皇、(雄略)彎弓驟馬、而陽呼曰、猪有、即射殺市辺押磐皇子。顕宗紀、幸于近江国来田綿蚊星野、掘出御骨造陵、狭々城山君韓※[代/巾]宿禰、事連謀殺皇子押磐、臨誅叩頭、言詞極哀、天皇不忍加戮、充陵守兼守山、削除籍帳、隷山部連、惟倭※[代/巾]宿禰、因妹置目之功、仍賜本姓狭々城山君氏、〇書紀通証云、狭々城山君、倭名抄蒲生郡篠笥、狭々城|御陵《ミササギ》之義、古事清寧記曰、於其蚊屋野之東山、作御陵墓、以韓※[代/巾]之子等、令守其御陵。氏族志云、佐々貴山氏、大彦命之後也、雄略帝殺押磐皇子也、近江狭々城山君韓※[代/巾]、頗与其謀、及顕宗帝即位、詔訪求皇子屍、有狭々城山君倭※[代/巾]、妹置目者、能証其所、因得改葬、帝欲誅韓※[代/巾]、韓※[代/巾]叩頭乞哀、乃勅減死削籍充皇子墓戸、倭※[代/巾]以置目之故免罪、賜其本姓〔日本書紀〕聖武帝時、有近江蒲生郡大領佐々貴山公親人、同姓神前郡大領足人、〔続日本紀〕陽成帝時、有佐佐貴山公是野、為蒲生郡大領、〔三代実録〕朱雀帝時、有蒲生郡郡老佐々貴山公房雄。〔東寺文書〕〇同書又云、佐々木氏、出自左大臣源雅信子参議扶義、扶養生成頼、鎮守府将軍、始居近江佐々木荘、因氏焉、生兵部丞章経、其子経方、経方生行定李定、行定補佐々木社神主、〔尊卑分脈〕称真野氏、季定生秀義、属源義朝、及源家衰、不肯臣平氏、生定綱、経高、盛綱、高綱、義清、(695)厳秀、至源頼朝起兵、諸子皆従焉、為幕府勲臣。〇按ふに佐々木氏古の山君と源姓の入り換りたる事は姓氏族党の沿革に其例多くあり、史海云、佐々木系図は宇多源氏にて、敦実現王の孫扶義を祖とす、扶義は一条後一条の朝に現達したる人なるに、其子成頼の佐々木社司となりたること疑はしかりしに、東寺に伝へたる巻物に醍醐帝の時既に佐々木氏あることを発見したり、思ふに敦実親王は篠原時平の婿にて子雅信も藤原朝忠の婿なれば、外孫の故にて藤原氏より近江荘を譲られ、佐々木社地を牢籠する手段に出たる者ならん。〇佐々木源氏の中興は源三秀義を推す、其諸子鎌倉武家に奉仕し、諸国に繁衍す、中にも江州には其後裔屋形と称し、室町幕府の世に至り、其盛を極む。浅井三代記云、近江国は鎌倉源氏の御代より、三十六人の国衆、八十二人の御侍と申て、一国佐々木の威勢に従はずと云事なし、其時より愛知川より南を江南と申し、北を江北と申し、六角京極(六角京極并に京都の大番邸の地名に因る)の二に分れたり、明応年中六角義実は義澄将軍の妹婿なれば、其威をかり江北京極と相戦ふ、江北高清入道は病者なるにより、江南勢強く働き、愛知犬上二郡は六角に切取らる。〇輿地志略云、佐々木源三秀義当国の主となつてより、子孫相続して封をうく、承久の役、佐々木信綱関東の催促にしたがひ戦功あり、故に信綱北条が為に寵せらる、信綱が長子を泰綱といふ、佐々木六角の祖なり、次子を氏信といふ、佐々木京極の祖なり、六角家は織田信長の為に亡され、京極は上坂浅井等が為に地を掠めらる。〇地誌提要云、佐々木信綱の子、泰綱氏信倶に将軍頼経に仕へ、奉綱南境六郡(滋賀栗太甲賀野洲蒲生神崎)を領して六角と称し、観音寺城に居り、嫡宗を以て守護を襲ぐ、氏信北境六郡(愛知犬上坂田浅井伊香高島)を領して京極と称し、胆吹上平城に居り、愛知川を以て界とす、泰綱八世孫義賢に至り、臣民離心、将軍義昭の来投する、依違命を奉ぜず、永禄十一年、織田信長師を興して罪を問ふ、義賢其子義弼と出亡し、地皆信長に帰す、京橡氏信十世の孫高峰に至り、家臣浅井亮政尊恣、永正十五年、遂に其地を奪ひ、小谷城(浅井郡)に居り、高峰僅に上平の一城を保つ、天正元年、信長浅井氏(亮政の孫長政)を滅し一州平定す。〇佐佐木氏の家は、天正十七年豊臣秀吉の時、江北京極高峰の曾孫高次を取立て、大津に封じ、其裔孫徳川家に服事し、封を讃岐丹後但馬等に受けたり。佐々木御厨は神鳳妙に近江国佐々木御厨とあり、又佐佐木庄は東鑑「治承四年、有近江国住人佐々木源三秀義者、平治逆乱時、候左典厩御方、於戦場竭兵略、而武衛(頼朝)坐事之後、不奉忘旧好兮、不諛平家之権勢之故、替相伝地佐々木庄之間、相率子息等、恃秀衡赴奥州、至相摸国刻、渋谷庄司重国感秀義勇敢之余、令之留云々、又建久二年、佐々木庄者、延暦寺千僧供領云々。
按に今|金田《カナタ》村大字西庄、又西本郷あり、又金剛寺|九里《クリ》など云字あり、此地は佐々木の西庄にて、和名抄篠笥の西郷(篠田郷とあやまれる者)ならん、金剛寺は延暦寺の千僧供領などなるべし、金田は中世の庄名なり。
補【篠笥郷】蒲生郡〇和名抄郡郷考 神名式、沙々貴神社、頭注、仁徳天皇、一説少彦名。神鳳妙、佐々木御厨。節用集、佐々木とあるは是か。寒川氏今の佐々木庄なるべし、佐々木旧鷦鷯の御名によれり、木笥《キケ》相通へり。行嚢抄、佐々木宮、武佐の五六町前より右に入衢あり、是佐々木宮へ行路なり、この路より佐々木宮まで行程十余町。豊浦村桑実寺古文書、天平感宝元年閏五月廿口.聖武天皇御綸旨薬師寺云々、四至近江国蒲生郡、東限神崎蒲生堺沙々貴山長峰、南限鳥坂長峰、西限五条畔、北限大渭。〔桑実寺、重出〕
 
沙々貴《ササキ》神社 今安土村大字常楽寺に在り、佐々木氏の氏神にして、近世は神領一百石、又丸亀侯京極家より一百石の寄進ありしと云ふ、驚峰文集、佐々社記云、
 佐々木明神者、延喜式所載沙々貴神社是也、伝称此社祀少彦名命、且奉崇仁徳天皇、今不得其縁起、削未詳鷦鷯其由来、雖然少彦名命、降自天、以白※[草がんむり/斂]皮為舟、羽為衣、随潮到出雲国、仁徳御名、奉号大鷦鷯天皇、鷦鷯此云娑々岐、乃是与沙々貴通用、与佐々木同訓也、此一神一帝之垂迹於茲、而并被崇信於世、別所伝称、不為無拠也、宇多天皇五代孫、従五位下左近衛将監源成頼、初住佐々木荘、嗜弓馬、其孫源次太夫経方初為此社神主、其嫡男兵庫助季定、為武士続其家業、次男行定為神主、掌社事、二流相分、其枝葉連蔓於本州、而延及他邦、逮鎌倉右大将領闔国、而佐々木兄弟有武功、其後足利家為武将時、佐々木氏族又有大勲、永禄天正以来佐々木氏不能居江州、故此社荒廃矣、方今社役者之言曰、本社之外、有若宮聖、凡神輿三座也〇神祇志料云、佐々貴宮勘文に第一殿少彦名命、第二仁徳天皇、第三大彦命、第四敦実親王を祭ると云り、是は少彦名命は鷦鷯羽を以て衣とするの故事あり、仁徳天皇は大鷦鷯尊と申し、敦実親王は佐々木源氏の祖なるに依り、後人杜号より附会し、其主神とある大彦命に配祭りしものなる事著し。
 
常楽《ジヤウラク》寺 今安土村の大字に呼ぶ、旧沙々貴社の供僧坊の名なり。〇温故録云、佐々木大明神、昔は神事祭式など色々ありと云も、今は絶てなし、社の東の方に腰越と云所あり、信長公安土に御坐の比、鎌倉の腰越に准て、番所を立置れし跡の由也、常楽寺(696)は其神宮寺にて、永禄迄相続、元は佐々貴の本郷也と云、神官木村兵部少輔定通、屋形季定より譲を受し以来、神職を司り、河内守実久に至迄十六代、常楽寺に在住す。
 
豊浦《トヨウラ》 今安土村の大字にして、常楽寺の北にあり、安土山は即此地とす、東鑑に豊浦庄は桑実寺領なりし由見ゆ、然れども其実は、佐々木氏一門の籠蓋を免れ能はざりしにや、夙に経方の四男行実は豊浦氏と名乗り、伊庭、津田、種村の諸氏は更に豊浦氏の支出たりきと云ふ。
 
桑実寺《クハノミジ》 今安土村の大字なり、寺名に因る、此寺は繖山の西峰にして薬師寺と曰ひ、又|桑峰《クハミネ》とも曰ふ、天武帝の創建と伝ふ。〇郡郷考云、桑実寺古文書「天平感宝元年閏五月、薬師寺四至、東限神崎蒲生堺并沙々貴山長峰、南限鳥坂長峰、西限五条畔、北限大渭」。〇温故録云、桑実寺は観音寺の西峰にあり、天武帝の創建と云ふ、豊浦荘に属す、豊浦氏は七代の屋形経方の四男行実元祖也、十一代の屋形信綱へ、北条義時より当国一円に領納の御奉書出づ、時に豊浦庄は先規より桑峰領の由訴有に由て、尾張の国長岡の庄を替地賜る由東鑑に見えたり。〇名所図会云、桑実寺は安土山惣見寺の東八町許、天台宗本尊薬師仏なり、白鳳六年此仏湖水より出現ありしと、定恵和尚当時唐土より帰朝せられ、桑実を携来り此山に植しめ、蚕飼の法を教給ふ即本寺建営の縁起とぞ。〇按に桑実桑峰、其名義相同くクハノミネの意なるべし。
慈恩《ジオン》寺 今安土村の大字なり、常楽寺の南に接す、旧寺号にして浄厳院即是なり。〇慈恩寺は佐々木六角家の本願なり、六角家亡び、織田信長安土城を起したる時、之を変改して浄厳院と為す。
 
浄厳《ジヤウゴン》院 輿地志略云、慈恩寺は古の安土域下なり、安土の城市没落の後は分れて村里となる、初め織田信長軍旅の序に栗太郡の金勝山に赴き、浄嚴坊明感に謁して出離の要行を問ふ、感答て曰く仏教区々にして各其益ありといへども、武門の徒戦場に赴くときは、露命旦暮にせまりつゝ、諸余の行業恐くは成就しがたからんが故に、我祖師源空唯口に称三昧一行を以て懇に教授す、然則公も復其思へ焉、天正年中信長天下をしるに及て、感を安土の城に招き、慈恩寺浄厳院を立て、令を国中に出し、一派の徒をして悉く末寺たらしむ、古簡云、
 ごんぜの坊主寺領の事昨日如申開可相渡候也自余之坊主も此方へ越候はば可遺候無左候はば皆可為欠所取成其意可申付事専一也
  十月十日          信長朱印
               長谷川竹どのへ
               野々村三十郎どのへ
天正七年五月、浄厳院に於て浄土法華両宗の論義あり世に伝へて安土宗論と云者是也。〇温故録云、浄厳院は初め威徳院と号す、屋形政頼鉤陣の節当寺に忍居けるを義尚将軍押寄攻給ひ、長享元年十二月切腹、其後屋形高頼再興有て、承禎の時迄帰依信仰、永禄以後信長公六角家の菩提所と云を嫌ひて破却し、甲賀郡金勝山の麓阿弥陀寺を引取浄厳院と号し、浄土宗に取立、今は念仏宗也、その門前を慈恩寺村と云、大地境内広し、昔刀鍛冶|高木《タカギ》員宗豊の庄浦高木に住して、銘に高木とのみ有り。〇古刀銘鑑云、貞宗は建武年中の人「近州高木住貞宗」と銘す、弟子天九郎俊長は延文の比にて「江州甘露俊長」と銘す。
補【高木】〇名所図会 鍛冶貞宗元応、建武の頃より高木に住めり、三十五歳の時相州に下りて政宗の弟子となる、はじめて弘光と銘せり、弟子数多ありて当国に連続す、此外有国、勢田五郎光包など皆国中巨魁の妙手なり。輿地志略 貞宗は慈恩寺威徳院門前に住せりとぞ、高木村今存す。
 
安土《アヅチ》 旧山名にて豊浦庄に在り、織田信長此に築き江州の鎮府と為したるより其名著る、今豊浦佐々木両庄の諸村を合同して安土村と改む。此地は江南の要衝にして、丘陵数座、東西に連接し、安土山は其西北端に在りて太湖に臨む、湖水は此に奥島伊崎島環囲して太湖と相分ち、別に内湖を成す、方二里許、安土湖と称すべきごとし。神祇志料に拠れば、延喜式蒲生郡|石部《イソベ》神社は安土山に在りと云ふ。〇温故録云、安土は的※[土+朶]の義なり此山の東北に接し、伊庭村(神崎郡)あり、即射場なるべし。
補【安土】蒲生郡〇淡海温故録 安土山は昔神代の的場の安土也と云ふ、北方に神崎郡伊場村あり、此地なりと見ゆ、近代永禄迄相続の由也、天正の初より信長公御居城に取立、其後天正十年迄六年の御在城也、太閤秀吉公今の総見寺に御建立あり、豊浦村に属す。
 
安土《アヅチ》城址 今鉄道線路城址の傍にて隧道を通ず、安土村大字下豊浦に属し、湖高フ上方に在り。〇木曽路図会云、安土天守台跡に、信長公墓あり、処々に石垣を遺存す、信長記曰、安土山を城郭に構へ可有御移とて、天正四年建営、同十一年六月十四日、安土城の天守に明智左馬助火を放ち灰燼となる。
〇外史、織田記、天正四年正月、信長欲徙治于近江安土山、以備長尾氏、惟住長秀※[草がんむり/重]役、起天主閣、閣凡七層高七丈、布邸第于山下、天正十年、羽柴秀吉告、今囲高松城、而毛利氏大挙来救、信長令津田益信及蒲生賢秀等守安土、而自以近臣百余人入京師、館于本能寺、惟任光秀反、囲本能寺、信長自殺、報至、秀賢欲鎮衆(697)拒守、衆一夜四五驚、将士多逃亡者、秀賢乃迎夫人以下、逃於其邑日野、光秀至与将士取天主貨宝、復入京師、明智光春守安土、聞光秀敗焼城、走坂下。
   安土山懐古        服部南郭
 遺構山上寺、宝閣倚蒼穹、草木歳月古、往事憾慨空、憶昔全盛日、経営一何工、城池圻江水、楼台比秦宮、割拠猶未已、征馬駆西東、豈知身上憂、乍起粛墻中、簒逆衆所嫉、三日聊称雄、蒼天自不言、仮手彼豊公、悠々二百歳、電過与夢同、孤冢雲惨澹、荒塁草青※[草がんむり+聰の旁]、香火長弔昔、梵唄日暮風、
 
総見《ソウケン》寺 安土城址に在り、遠景山と号す、臨済家剛可和尚の開基にして、織田信長の本願なり、三層塔は豊臣秀頼の寄進、近年まで二百石の寺禄を給せられたり、閣に倚り湖山の景を観る、朝雲暮霞、奇態千万なり。
   遊湖上、登総見寺、     摩島松南
 秋風何処弔英霊、古塁雲蒸雨気腥、烽火消来劫灰冷、万松影裡仏燈青、
   登安土城墟         頼三樹
 安土墟高雲裡攀、覇蹤化作老禅関、晩霞如火人回首、一点青螺認叡山、
   安土総見寺、謁織田右府像、 玉乃五龍
 百尺城基出樹顛、想他※[土+卑]※[土+兒]映霞鮮、平湖斜与五畿接、大道直従三越連、曽掃荊榛※[人偏+掌]天日、何論楼櫓委秋煙、寺門下馬謁遺像、坐覚威風猶凛然、
信長記云、天正四年正月中旬より、江州安土山御普請、惟住五郎左衛門に仰附らる、四月朔日より大石を以て四方石垣を築かる、又其内に御天主を可被仰の旨にて、尾濃江勢三越州若州畿内の諸侍、京都奈良堺の大工諸職人等被召寄、瓦焼唐人の一観被相添、爰に蛇石と申大石麓迄雖被寄、一切に不上候、滝川惟任羽柴三人合力して、一万余の人数以て夜昼三日に被上候、山も谷も動く計之次第也、御天主の次第、一重石くらの高さ十二間余、二重南北廿間南北十七間、柱数二百四本総高さ十六間にして、七重に至り三間四方也、抑当城は山峰こう/\として、麓は歴々甍を並べ軒を継ぎ、光輝御結構の次第、中々申に足らず、西より北は湖水漫々として、舟の出入みち/\て、遠浦の帰帆漁村の夕照、浦々のいさり火、湖の中に名高き竹生島あり、竹島とて峨々と聳えたる巌あり、澳島山、長命寺、晩夕の鐘の声音づれて耳に触る、海上向ふは比良の嵩、比叡の大岳、南は里々田畠平々として、富士と譬へし三上山遙なり、東は観音寺近し、麓は海道往還引続きて昼夜絶る事なし、御山の南の入江渺々として、又山下には人家門を並べ、市の声おびたゞしく、四方の景気其真を尽し、御殿は唐様せ学びたり云々。
 
観音《クワンオン・クワンノン》寺《ジ》 今|老蘇《オイソ》村大字|清水鼻《シミヅハナ》に属す、即|繖《キヌガサ》山の東峰に在り、之を佐々木山と称す、西国巡礼第三十二番の札所にして、近世まで寺禄五百石の大坊なりき。佐々木屋形の時、其城府は即寺域にして、謂ゆる観音城是なり。〇此寺本尊千手仏にして観音正寺とも号す。拾芥抄に「近江観音寺、神崎郡三尺千手、絹笠山、不知願主、同袋懸」とあるは郡名を誤れり、土俗開基聖徳太子と伝ふ、蓋南都古宗の別院なりしならん、凡此叡山の辺に五古刹なり、観音寺桑峰寺石寺石馬寺(神崎郡)等なり。〇繖は又|衣蓋《キヌガサ》に作り、安土山の東に並び蒲生神崎二郡の交界なり、山色欝蒼として、繖に似たりけるを以て此名ありと、〇温故録云、観音寺山は沙々貴山とも云ふ、佐々木家の城跡は、平地ならば開発して耕しもすべけれど、山故に昔の儘に石垣池水蹈段以下動かずして存す、麓の石寺は往時繁昌して近辺は皆市町なりしと云ふ。
補【観音寺】蒲生郡〇淡海温故録〔重出〕此山を沙々貴山共云ふ、古は今の堂の上の嶺にありたると也、旧跡今にあり、六角屋形代々の城館ある故に、他国よりの順礼の者の為に山の半腹へ下して再興あり、永禄の後又所替る、即今の所也、城宅のあと平地ならば開発して耕すべけれども山故に昔の儘に石垣池水踏段以下動かずして存せり、此麓の石寺、其比は繁昌し近辺悉く町なりしと云ふ。
 
観音寺城《クワンオンジノシロ》址 観音寺の上方に遺れり、蓋佐々木氏十八代四百年の宅と云ふ、沙々貴神社の東一里、永禄十一年六角屋形佐々木義賢義弼父子、織田氏の軍に攻められ、城を棄て、鯰江に走り、遂に其社稷を亡ぼす。
梅松論云、正慶二年、六波羅北方は趨後守仲時、南の方は親衛時益、二人相議して、主上を奉じて東国へ下る、かゝる処に守山《モリヤマ》辺より野伏ども山野に起りて敗軍を追詰けるほどに、討取られ疵を蒙る者数をしらず、其夜は近江国観音寺を一夜の皇居とす、翌日五月九日東へ心ざして落行云々。〇按に六角家の中興氏頼は時信の子なり、剃髪して崇永と云ふ、初め北条時益等の催促に従ひ官軍を禦ぎ、のち足利尊氏に降り近江守護に補せらる、尊氏の反する氏頼なほ幼なり、観音寺城に拠りて之に応ず、延元元年、東国の官軍尊氏を尾して近江に至り、大館幸氏をして攻めて氏頼の居城を抜かしめしが、幾もなく氏頼之を復す。長享年後兵乱記云、天文六年十月一日、佐々木四郎殿後藤父子三人生害、然者永田三上池田進藤平井其外後藤家来衆自焼、面々舘へ取退く時に、観音寺騒動、八日暁四郎殿二千計日野蒲生館御退、九日親父承禎三雲舘御退、于時軍卒観音寺乱妨、一宇不残焼失、本堂迄回禄、麓石場寺三千家屋一時焼却、自北郡軍勢、至愛知川四十九院、(698)取懸、其日軈而打帰也、此時浅井者至高宮居云々、永田三上筆者与北郡同心也。〇按に足利幕府の時、六角氏強項、将軍の親征尚之を抜く能はざりき、天文六年の内乱以後漸衰頽に就き、遂に織田氏に乗ぜられき。
 
老蘇《オイソ》 安土村の東南、武佐村の東に接す、延喜式|奥石《オイソ》神社あり、新抄格勅符、神護景雲元年近江地一戸を封ぜられし古祠なり、和歌には老曽森とよみ、土俗|鎌《カマ》之宮と称す、蒲生宮の訛か。
 忘れにし人をぞ更にあふみなるおいその森に思ひいでぬる、〔六帖〕
 はこべどもつきせざりけりみつぎものおいその里の道のまもなく、〔夫木集〕
源平盛衰記云、抑長光寺と云は、武佐寺の事なり、昔聖徳太子蒲生郡老蘇の森におはしましけるが、法興元世廿一年壬子、太子と后と相共に彼寺に幸し、長光寺と定めらる云々、又云、天智天皇七年、新羅国沙門道行、熱田社の剣を盗出して、近江国蒲生郡まで行く、之を取返きんと追て行き、大磯《オイソ》の森より追初ければ、即追初森とは云へり。
 
蒲生野《ガマフノ》 古の蒲生野は繖山の南、雪野山の東、愛知川に至るまでを指せしならん、愛知川以北は別に蚊野《カノ》の名あり、和名妙には此野中の村家を東生西生の二郷に分つ、後世原野大略開墾に就くと雖、尚武佐駅の南に蒲生野の名を有し、今方数町の空地ありと云ふ(平田村)。和名抄、蒲生郡東生郷西生郷は東蒲生西蒲生の義なるべし、(郡郷考)即西不東不とよむべし、西郷は大抵武佐村平田村桜川村に当り、東郷は市辺村中野村玉緒村市原村等ならん。〇夫智紀、「七年五月五日、天皇縦※[獣偏+葛]於蒲生野」と、而て万葉集には
   天皇遊猟蒲生野時、額田王作歌
 あかねさすむらさきのゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる
と載す、此歌につきて猶雪野山を参考すべし。
 がまふのの若紫のふぢばかま千世のあきまで匂へとぞ思ふ、〔夫木集〕
類聚国史に「延暦二十二年、造行宮于近江国蒲生野、尋行幸焉」と見ゆるも此野なるべし、其行宮址は武佐駅にやあらん。〇温故録云、蒲生野は宇禰《ウネ》野とも曰ふ、岡陵起伏して畝を造る如くなれば也。
 近江よりあさたちくればうねの野に田鶴ぞなくなる明ぬ此夜は、〔古今集〕旅人は今ぞたつらん宇禰の野の有明の月にたづぞ鳴なる、(壬二集〕
補【蒲生野】蒲生郡〇淡海温故録 是を宇禰野共又布引山共云、高低の谷峰うねの如き故宇禰野とは云、蒲生の長者布を晒して干たる故布引と云由也、又糟塚は長者の作り置たる片山水の風景よき地なり、中に島あり、汀には杜若あり、特に勝れたる境なり、玉の小山とも曰ふ、市野部王子も此長者が許にたよりて暫く在すと云(今市野辺村)
   仁和の御時大嘗会の歌
 がまふ野の玉のを山に住む鶴の千年は君が御代の数なり(拾遺集)         よみ人しらず
今八幡町より以東、神崎郡へ連れる曠野なるべし。
 
武佐《ムサ》 八幡町の東、馬淵村の北なる駅なり、今南野村と合同し武佐村と曰ふ、三代実録に貞観十七牛元慶六年両度、牟佐上神牟佐下神并に授位せらる即此地の氏神ならん、又武佐寺あり長光寺の古号とす。佐々木家記云、天文十年武佐より言上、地の三四尺或は一丈下に、木葉枝の朽たるを掘出す、其物黒く朽たる木の葉の塊なり、屋形は(佐々木義賢)希有の事とて、国の旧き日記を見給ふに、其記に曰く「景行天皇病悩あり、占者一覚曰く、当国の東に大木あり。甚く帝に敵あり、此木を代り木屑を焼かば尽きなん、我も彼木の敵なる葛なりと、即時に消失せて、彼木も倒れぬ、此木枝葉九里四方、太さ数百丈、其郡を栗本と号し、栗の実々のらずと」云々、されば野須蒲生坂田何れの郡にもあり、今も国人つくもと名づけて之を掘て用ふ。
補【牟佐】〇神祇志料 按、近江国蒲生郡武佐村あり、董此地也、清和天皇貞観十七年五月庚戌、正六位上牟佐上神牟佐下神に従五位下を授け、陽成天皇元慶六年十月戊申、並に従五位上を加ふ。
 
長光寺《チヤウクワウジ》 武佐村の西に在り、武在寺と称す、源平盛衰記平重衡東下りの条、又源光行東関紀行に武佐寺に憩留の事見ゆ。〇温故録云、難産の時武佐寺に祈れば安産すとて、子安観音と称す、屋形満経信仰寄附の証文あり、至徳二年の書也、又武佐に屋形の蔵あり、此にて納払せられ、軍用に益ある由にて、八合舛を始て作り、四斗を五斗俵にして、国中是を用ひ、武佐舛と称す、本舛を十合舛と云ひ、年貢米は是にて計れり、又武佐に天正年中割竹小弥太と云ふもの、狐の化たるを常に召仕たる奇異の物語あり、夢遊集に出たり。〇宗長手記云、大永七年二月に、公方坂本へ御下向、志賀木浜山出矢椅守山二三曰、長光寺仮の御所しつらはれ御うつり、築地以下普請暫く御座のやうに聞ゆ、長光寺名詮自性を、
 此時とあふがざらめや春の日の長き光りを四方にしきつつ、
東海道北陸西国中国の侍参給、万の名乗、昔木丸殿の「ゆくは誰子ぞ」などもさながら、長光寺の今にや、あら/\の行すゑ筆にまかせ侍べし。〇為和卿集云、大永七年将軍家(足利義晴江州)長光寺にて御座間、為和長く牢人にて奉公申也、七月廿七日守山まで御出(699)張、御伴申御先へ参、同九月十九日に東坂下まで御出張、佐々木弾正小弼御伴、廿五日に渡海也、十月六日に越前衆坂下へ着陣同十三日に東山若王子まで御着陣、同廿四日東寺まで御着陣、十一月十九日に大合戦、明年四月六日に相国寺まで御陣替、同五月廿八日に又東坂下まで被移御座、近日又江州朽木杣迄、被移御座由其沙汰あり、今京都に公方と申は誰人の息共、諸人不知之。長光寺《チヤウクワウジ》城址 按に、元亀元年織他氏の将柴田勝家長光寺に守備す、六角屋形義弼来り城を攻む、勝家固く拒む、父承禎亦来援、兵を増して囲み攻む、密に居民に餌して城中の険易を問ふ、或人曰く水乏しと、乃ち水路を断つ、勝家士卒に令して曰く、城久しく保ち難しと、乃※[酉+燕]を設け衆と尽く蓄ふる所の水を飲み、自ら力を揮て水甕を打破し、士卒を激励して、出でて敵軍を斫る、遂に大に承禎父子を破り、首を獲ること七百余時人呼びて甕破柴田と曰ふ。
 
御所内《ゴシヨウチ》 武佐駅の傍なる大字なり。輿地志略云、御所内は土俗の伝ふる所に、古昔三条院しばらく住せたまふ、或は貞観年中惟喬親王こゝにおはします事ありと、共に採るに足らず、若しくば武佐行宮の跡にはあらざるにや、按に皇年代略記曰「康安元年十二月八日、後光厳院帝幸山門、依南方軍士清氏等襲来也、同日遷御武佐行宮」又紹運録曰「康安二年正月五日、後光厳帝、自武佐行宮、幸山門」云々是等を以ておもへば、武佐に近き地なれば、武佐の行宮ありしにや、然れども世に武佐寺をさして、かりの皇居とするゆゑに或は曰く是廃帝の都を建てられし保良の都の遺址なりと、しかれども歳霜ふりし事ゆゑに誰知る人もなしといへり。〇今按に続日本紀類聚国史に、聖武天平十二年蒲生郡に宿りたまひ、桓武延暦廿二年蒲生野に行宮を造営したまへる事を載す、是らの遺跡は皆武佐駅なるべしと思はる、御所内の字も何の世の程にや、至尊の御在所の跡を伝ふる者ならん。
西生来《ニシシヤウライ》 今武佐村の大字なり、武佐駅と老蘇村の間に在り。〇温故録云、昔貴き大師|西生来《ニシシヤウライ》を過ぎ、路傍の家に腫を掛け、茶を欽て通りしが、茶屋の女大師に恋慕の心を発し、大師の欽残しの茶の沫を飲たりしに、既に妊娠して男子を生めり、其後又大師此所を通りし所、彼女件の仔細有の儘に語りければ、大師彼子を取上て、フツト吹ければ、手に沫少し溜りて其子は消失たり、即大師自ら石に地蔵を彫刻し、其子の菩提を祈らしたる由、それより沫子の地蔵と云となり今もあり。
 
木村《キムラ》 今川合|小房《コブサ》石塔などと合同して桜川《サクラガハ》村と日ふ。桜川は佐久良谷より出て、即蒲生川の上流なり、武佐駅の東南一里、市辺村の南、朝日野村の北なり。〇輿地志略云、木村左衛門尉行定は蒲生木村に在住す、佐々木経方の二男なり、男兵部少輔定道相続してこゝに居り、佐々木の神官職を譲与せらる、行定母は紀下野守盛宗の女なるを以て、祖母の姓を称し木村権守紀の道政といふ、一時平家に諂諛し、寿永以後に又源家に属し、西国討手の人数に在り、通盛を打取りたりし木村源五重章同源三成綱同三郎俊綱、みな此木村が一族なり。
 
石塔《イシダウ》 今桜川村の大字なり。〇温故録云、昔天竺仏生国阿育王八万四千塔の一を、一条院御宇定基法師(俗牲大江)渡唐して清涼山に行住し、遂に此宝塔を感得し、因幡国霊位寺に流し寄せ、寛弘三年佐々木氏此に移し置くと。法苑珠林云、倭国仏法晩至、未知已前、有|阿育王《アイクワウ》塔、不彼国官人(唐貞観中)答曰、彼国文字不説、無所承拠、然土人開発土地、往昔得古塔霊盤仏諸儀相、数放神光、種々奇瑞、詳此嘉応、故知先有也。〇書紀通証云、拾芥抄曰、本朝五奇異之一曰、近江国蒲生石塔、昔阿育王使諸鬼神造八万四千塔、此其一也、毎年大蜂群集、行道此塔。〇按に此の古石塔は天智帝の時、当郡配置の百済人の造立にあらずや、後世其製作のおのづから奇古なるを以て、阿育王塔など云ひはやせるならん、盛衰記曰、定基出家して大唐国へ渡り、清涼山に参りたりければ、寺僧毎朝に池を廻る事あり、寂照故を尋ぬれば、昔仏生国の阿育王、八万四千基の塔をつくり十方へ抛りしが、日本国江州石塔寺に一基留り給へり仍日扶桑を出れば塔影此にうつると申ける。〇寛政年中司馬江漢の西遊旅譚云、石塔村は、其村内石垣、其外飛石、又は流に投ぜらるゝ石、田の傍、家の隅、見る所蹈む所、みな九輪石丸石、屋根形の石にて、石塔の片ならざるなし、程なく石塔寺に至る、石階あり、壇石悉く石塔の旧物を以て畳む、登ること二十間余、其上は百歩四方の平地にして、石の大塔あり、其めぐりに石塔の小なるもの多し、此大塔は大石を以て造る、惣高さ二丈五尺余、文字なし、昔一時崩れてありしを石塔寺を創立して、此塔をも組上たりとなり、此外にも山中人跡絶えたる山に一塔あり、速く望めば遙に見ゆ、大塔の傍なる一小石塔に、嘉元二年と彫りたる者あり、寺宇は石階の下に在り、此村は方今仙台侯の属邑にて、八千石の領地也。(本書図画によるに、大塔は土壇の上に建つ、壇は四層を成し、石を以て欄と為し階と為し、累々として高し、塔又三層、其一重高五尺三寸、横四尺三寸、墓石の一辺は九尺許、二重三重次第に減じ、其頂に九輪※[木+堂]を戴く、按に是等の石塔は天智帝の時、此地配置の韓人の遺跡たること殆んど疑ふべからず、桜谷の小野の八角石塔参考すべし)
(700)小房《コブサ》 今桜川村の大字なり、古刀に「江州蒲生小房住助光」と銘ずる者ありとぞ、此地の住人なりしならん。〔古刀銘鑑〕
 
桜谷《サクラダニ》 西州投化記云、日本紀、天智帝之時、百済達率鬼室集斯授少錦下、八年遷居近江蒲生郡、十年授学頭職、按今蒲生郡小野村、碣高一尺六寸、石※[さんずい+こざと+力]文字不鮮、摩揩数次、始見鬼室集斯墓字、又有朱鳥三年之字、其形存結縛之痕。〇今桜谷村大字小野あり此に鬼室集斯の古跡あるか、桜川の源にて大字佐久良と云地もあり、按に鬼室集斯の墓石と云は、西遊旅譚八角塔に同じ。西遊旅譚云、日野より一里余山路に入り、小野《ヲノ》村に至る、甚の山林にして、田夫の茅舎をかりて、行厨をひらきければ、童子二三輩傍に来る、餅糖など与へんとて出しければ、童は畏れて逃去りぬ、村より四五町許山径に入る、路傍に四角の墓石立つ、救世《クゼ》菩薩の墳と云、又人魚を殺したる所とも云、夫より、西の方に不動堂あり、堂の傍に八角の墓石あり、是人魚墳とぞ、其石方一尺三寸許、棹石高一尺一寸余、笠状の蓋石を戴く、文字見えず、此地は蒲生川の源なり、日本紀に推古帝の時人魚を得し事見ゆ。
補【桜谷】蒲生郡〇淡海温故録 夫木集に読人不知、二保照や桜谷より落きたる波も花咲く宇治の細代木此水仁保川へ入る。〇今桜谷村、日野の北山なり。
市辺《イチノベ》 旧|市之《イチノ》荘と曰ふ。武佐村の東にして、北は神崎郡八日市に接す、古の蒲生野の上なり。〇温故録云、糟塚《ヌカヅカ》は昔蒲生長者の作り置きたる山水の風景よき地なり、中に島あり汀には杜若生へ、特に勝れたる境なり、玉緒《タマノヲ》山とも云ふ、市辺押磐皇子も此長者の許に暫く御在せりと。〇按に蒲生郡狛坂長者の霊仏と云者は、金勝寺(栗太郡)に伝へたり、又山槐記、元暦元年注進近江名所の一に「金柱、古麻長者持仏也」と記す、狛長者、即蒲生郡配置の百済人の中なる狛種の酋長なるべし、市辺の西に蒲生堂の字あり、狛坂の仏殿跡に非ずや、押磐皇子の事と相関せざるべし、此以東に八日市愛知川愛知郡など相接比せば、市は蒲生野東北の総名なるべし。〇今市辺のコボシ塚と云ふ双墓をば、市辺皇子の御墓と榜示せらるとも曰ふ、不審。中野村は市辺と八日市の間なる里にて、蒲生郡の中央との意か大字|小脇今《コワキイマ》などあり。
補【中野】蒲生郡〇淡海温故録 中野の城は蒲生家数代居城にて、蒲生の中野の謂なるべし。大脇之庄は小脇共云ふか、佐々貴家初は爰に在住にて、後観音寺に移り給ふ由也。
補【布施《フセ》】蒲生郡〇淡海温故録 布施は湖の如なる溜池あり、布引山の谷合の流水落合の所也、是を布施の湖と云、市辺の南にあり。
 
大森《オホモリ》 今柴原と合同して玉緒《タマヲ》村と改む、市辺村の東に並び、桜谷村の北なり、神崎郡御園村と相接す。〇大森は徳川幕府の時最上氏五千石の陣屋を置きし所なり、此家は羽州最上義光の裔にして、元和八年、源五郎義俊の家臣等相争訟して、国政治らずとの故を以て、五十二万石の提封を除せられ、此に配置せられしなり。
 今ぞ見る玉《タマ》の緒《ヲ》山の麓にてみちし蒲生の野辺のほたるを、〔夫木集〕
 蒲生野の玉の尾山にすむ鶴の千とせは君が御代の数なり、〔拾遺集仁和の御時大嘗会の歌〕
今大森の辺を玉緒《タマヲ》村と云は土俗の所伝に因るならん
 
市原《イチハラ》 玉緒村の東に並び、綿向山の北なり、神崎郡|山上《ヤマカミ》村の南に接す、市原野|甲津畑《カフヅバタ》高木などを合同して今市原村と曰ふ。此地は甲津畑より東に重嶺数里、伊勢国三重郡に通ずる間道あり、之を千種《チグサ》踰と曰ふ、又南桜谷を踰ゆれば二里にして日野町に至る。太平記に曰く「伊勢の仁木は近江国に打ち越え、葛木山に陣を取り、佐々木大夫判官入道崇永は飯守岡に陣を張り、数日を経ける処に、仁木方より市原城を攻めければ、佐々木は左手の河原に陣を取る」云々、此始末は畠山国清仁木義長と不和の時、六角氏頼は国清に加担し、義長の叔父義任は出て江州葛木山に拠り、将に進みて市原城を攻めんとす、氏頼兵三百を以て河水を済り、三陣を作りて以て待つ、義任其の兵の寡きを侮り、兵を縦ちて競ひ進む、氏頼迎へ戦て之を破り、将士五十余人を斬獲し、首を京師に送れる也。
 
甲津畑《カフヅバタ》 今市原村の大字なり、八幡町より市原野まで六里、市原野より此に至る一里、此より綿向山の下を東へ登る四里にして、江勢の国界なる千種峠に至る。元亀元年、織田信長帰路を六角氏に拒まれ、日野より此山径を尋ねて勢州に出づ、甲津畑の山中に要撃に逢事あり。外史云、信長聞敵兵要于鯰江市原、乃以蒲生腎秀為郷導、由千種路帰、六角義腎便善銃者杉谷善住、伏山木中、狙信長過、連発二丸、中其衣袖、従兵愕欲索之、信長不許、金森長近密与信長易衣、乗其輿而帰。
補【甲津畑】蒲生郡〇淡海温故録 成願寺は当国の熊野先達の寺也、昔は坊中多有由、永禄元亀の間信長公美濃へ通り給ふに香津畑越を毎度通給ふごとに、此近辺彼往来の道なれば、杉谷善住坊此にて公を射たることあり(今、市原村)
 
綿向《ワタムキ》山 市原村の東南、西大路村の東北に当り、東は江勢の国界なる御在所岳鎌岳子種峠に連る、其北澗は愛知川の源となり、南澗は甲賀川の源となり、西澗は桜川日野川の三となる末は即蒲生川なり。標高一千二百五十米突、江州四高山(伊吹山霊山比良(701)山)の随一にして、南郡の鎮と為す、中世以降修験道の行場と為し、熊野権現吉野蔵王権現を勧請したり、一書に葛木明神をも山中に祭ると云ふ、日野町の東二里にして麓に達し、更に登ること一里と曰へり、日野大宮の梁簡銘には此山を錦岳又大嵩と記す。〇温故録綿向山成願寺は江州熊野先達の坊なり、古は坊中盛なりしが近世零落し、今は石垣坊行満坊計残れり、古来より祈祷の神オロシに唱るに 「近江の国には禅鬼一党光林坊」と申は此寺也、南の峰に大岩両方峙て峨々たり、是天狗の居る所にて、人倫の通路なし、光林坊の栖なるべし。
補【綿向山】蒲生郡〇淡海温故録 高山也、伊吹、霊山、比良、綿向四ケの高山也、東の麓は甲賀、北の尾崎は神崎、西南は蒲生也、爰に熊野権現を勧請し、又近処に大滝あつて那智に准ふ、又吉野の蔵王権現勧請す、西大路村の東にあたる。
 
日野《ヒノ》 綿向山の西南なる大邑なり、戸数三千、今分れて日野町|西大路《ニシオホヂ》村等と為る、旧は日野牧と曰へり、蒲生川の上游にして、南は甲賀山を限り、山間と錐広境なり、南比都佐北比都佐|鎌掛《カマカケ》朝日野の諸村碁布す。〇書紀云「天智天皇九年、幸蒲生郡、観遺邇野、而観宮地」
 
遺邇野《ヒモノ》 この遺邇野は古訓相伝へて比毛乃と注す、通証曰「訓義未詳、新撰六帖云、
 近江なる比毛乃の里のかばざくら花をばわけて折る人もなし、
此寄檜物師也、桜皮曰賀波、即樺也、今有日野町」今按に檜物庄は甲賀郡石部村なりとも云ひ、且遺邇野の訓、正否を詳にせざれば、臆断し難し。正中二年、最勝光院注進状云、檜物庄、領家聖護宮、〔東寺文書〕
 
蒲生城《ガマフノシロ》址 今西大路村大字|音羽《オトハ》に在り、蒲生氏の遺墟なり。〇氏族志云、将軍千晴裔孫俊賢、仕源頼朝、食本国蒲生郡、其子俊信初称蒲生氏、(仕源頼朝以下、浅羽蒲生系図)其族有和田、小谷、儀俄、猪野、布施、狛月、佐治、吉山、岩室、必佐、室本諸氏、俊信五世孫秀朝、隷足利氏。(蒲生系図、隷足利氏、拠浅羽本)。〇日本外史補云、蒲生賢秀、初為佐々木義賢部下、及義賢為織田信長所滅、賢秀拠其邑日野、欲拒織田氏兵、賢秀姉夫神戸蔵人、説降于信長、子氏郷質于岐阜、永禄十二年、信長以女妻氏郷、遺帰日野域、天正十年、信長為明智光秀所弑、信長夫人及諸将、欲棄安土入日野、氏郷率兵五百輿五十鞍馬百匹迎之、遂保日野、及羽柴秀吉誅光秀、氏郷従信雄至京師、秀吉賞其功、増封五千石、後徙封伊勢松島。〇名所図会云、蒲生氏は田原藤太秀郷の二男、千晴の六代の裔孫、惟俊是を蒲生太郎といふ、日野牧音羽の城を築く、其子蒲生俊賢七代の孫、蒲生秀朝より又七代の末を蒲生貞秀、入道して知閑法師といふ、子息藤兵衛尉秀紀壮年にして自害す、秀行の弟左衛門大夫高郷の嫡男定秀は、日野総領式を取る、其嫡蒲生太郎賢秀、初めは佐々木義賢に属し、後織田信長卿に随ふ、賢秀の子鶴千代信長卿の婿と成て、蒲生三郎氏郷と曰ふ、後豊臣秀吉公に随従し伊勢松坂の城主と為り、又奥州会津に移されて百万石の大身と為る。(蒲生氏の後は、寛永十一年予州松山城主中務大輔忠知、氏郷の孫、秀行の子に至り、卒して嗣なく、其祀絶ゆ)。〇改正後風土記云、明智乱に蒲生賢秀は、安土城内男女悉く引具して、日野仁正寺の城に帰り、善隆院の上壇に銃卒を賦り、大森口に柵をふり、千五百の勢をまとめ、叛賊寄せ来らば一戦せんと備けるが、賊は遂に其事なく誅滅せらる。〇氏郷紀行云、はや夜も明行程に、旅立つつ行ければ、近江の国にいたりぬ、爰は我主国なりければ、故郷いとなつかしう思ひける、
 おもひきや人の行へぞ定めなきわがふる里をよそに見むとは。
長享年後兵乱記云、文亀三年、日野蒲生城、京勢立開隙、大永二年七月、定頼公囲日野蒲生城、天文六年、後藤父子三人生害、観音寺騒動、佐々木四郎殿二千許、日野蒲生館へ取退る。〇輿地志略云、音羽の御骨堂、仁賢天皇の父市辺押磐皇子の御骨堂なり、或は云ふ蒲生智閑が骨堂なりと、按ずるに押磐皇子の御骨堂ならむ、土俗牛馬を牧せず、蒲生拾遺記に曰蒲生智閑が城を沢蔵攻来とき、蒲生家より狂歌して「沢蔵がかけたるこやはやきかりに御骨の堂へ死骨こめたり」と云々。やきかりと云ふ処は音羽林の界に本木村の田の字に在り、こゝを以て智閑が骨堂にあらざること明けし、智閑菩提所は即日野の信楽院なり。
【音羽《オトハ》山】蒲生郡〇輿地志略 古城址は音羽村の西の山なり、蒲生智閑の居城なり、今に庭石樹木井水の礎等あり。
蔵王村 音羽村のつゞき、日野より一里半東なり、蔵王権現あるを以てなり。蒲桜、蔵王社の傍に在り、神木なりと云、古歌によめり。
 
仁正寺《ニンシヤウジ》 近世は西大路村と改む、初め西大路を仁正寺と謬りたる者と云ふ、寛永年中市橋下総守長勝越後団三条城四万石を除封せられ、甥伊豆守長政に仁正寺二万石を給せらる、子孫世襲して明治維新に至れり。
日野《ヒノ》町 今戸数二千、西大路の西に接し、大窪|村井《ムラヰ》松尾等の市巷あり、八幡町の東南六里、水口駅(甲賀郡)と一嶺を隔て、凡二里なり、民俗商販を好み、四方に行征し、勤勉して家を興す者多しと云ふ、世に之を江(702)州商人と呼び、日野八幡を其最と為す。
 
馬見岡《ウマミヲカ》神社 延喜式、蒲生郡馬見岡神二座、今日野村井町に在り、大宮と称す、又綿向大嵩明神と曰ふ。社辺に延慶三年の銘ある都婆石ある由、西遊旅談に見ゆ。〇閑田耕筆に日野大宮の梁簡銘を載す、曰く此銘文の本書は、いつ失ひけん、今ある所は転写したる者なれど、いと古びて虫ばみたり、近年其摂社を再建せる時、はからず取出せる也、此銘木工頭紀朝臣の作られしは、此邑木工寮領にて檜物を貢進したればならん、檜物いまは日野に訛れりとぞ。
 大嵩者天穂日命神世之古址也、於是欽明天皇御宇六年、観瑞以創祠於錦岳、其天武帝白鳳甲申年、復啓業於※[竹/修の彡なし]谷、而霊儀竟備矣、雖然奠鳥早逝兮、春雨点其瑤、円魂速廻兮、秋露湿其瓊、清宮既廃矣、故令復上棟立棟、以全其佳躅、因以銘、冀明謨朗融、四裔定焉、良弼協和、八荒安焉、四時序季、疾病除焉、十雨順節、穀梁登焉、俯念神明叡聖也、尚垂皇鑑矣、敬白、
 天慶八年乙巳八月二日、従四位下行木工頭紀朝臣貫之謹誌、神主正六位上出雲宿禰貞主、工匠無位鞍部稲足。
神社志料云、錦岳は即綿向の大嵩にして、※[竹/修の彡なし]谷と云は蓋今の社地なり。
正崇《シヤウスウ》寺 日野に在り、一向真宗本派に属す、京師なる本派本願寺の三代講主、若霖、四代講主法霖は共に正崇寺々主にて、若霖は桃溪と号し享保中の人なり、其子若霖は日溪と号す、父子并に当代に名あり、内外の二典に通じ本宗に於て無比の英傑なり、殊に日溪の門下に功存(六代講主)僧樸(陳善院)等の才子を輩出せしむ、蓋本派本願寺の教学、即真宗の教理研の鑽最精微に赴けるは此際に在り、而て此研究の結果同学中に異論起り、文化度の宗意惑乱一件生ず、即僧樸の弟子の時代の事とすとぞ。
補【馬見岡神社】〇神祇志料 馬見岡神社二座、今村并村馬見丘にあり、大嵩社、又綿向明神といふ(国華万葉記・閑田耕筆)蓋天穂日命・天夷鳥命を祀る(天慶八年梁簡銘・馬見岡社旧記)欽明天皇六年始て社を錦岳に建て、天武天皇十三年更に※[竹/修の彡なし]谷に移し奉る
 按、錦岳又錦面山、綿向岳・大嵩とも云り、※[竹/修の彡なし]谷は蓋今社地也
出雲宿禰を神主とす(天慶八年梁簡銘)凡そ其祭四月初亥日之を行ふ。〇閑田耕筆、日野の大宮といへるに紀貫之うしの梁簡銘あり〔略〕
 
鎌掛《カマカケ》 此村日野町の東南一里、甲賀郡土山村の西北一里半。〇輿地志略云、江州には日野鎌掛の辺に、土中より石炭《イハスミ》と云ものを掘出し、柴薪の用とする事あり、栗本郡にては之を須雲《スクモ》と曰ふ、八幡町の湖中よりは岩木《イハキ》と称し、黒色の泥を出す、亦薪の代とす。(これは享保比の事なり)
補【岩木】蒲生郡〇輿地志略 八幡辺の湖中よりこれを出す、黒色の泥なり、採て以て薪柴の用とす、亦一種石ずみとて日野鎌掛の辺にて土中より掘出し、薪柴の用とするものあり、渓名石炭なり、栗本郡にはスクモを出す。〔灰塚山、参照〕
 
必佐《ヒッサ》郷 和名抄、蒲生郡必佐郷。〇今日野町西大路村南比都佐村北比都佐村などなるべし、後世日野牧と称する山谷に当る、延喜式蒲生郡比都佐神社は郷中に在るべし。
 
駒月《コマツキ》 今南比都佐村と曰ふ、日野町の南にして山村なり、甲賀郡水口村に近接す、蒲生党に狛月必佐の家号あり、元応元年日吉社注進記に、蒲生上郡狛月谷神田は社領たりし由見ゆ。
小谷《コタニ》 今比都佐村と曰ふ、日野町の西に接す。〇温故録云、小谷村には諸寺諸山の札を配り、祈念を作す山伏寄集り住居す、屋形定頼の代に、諸国の治乱盛衰安危を聞玉ん為に、此山伏を国々へ分け遣はし、代る/\消息を告知らす、時世軍用の由也、又山伏に当国中の郡庄を分けて、旦那に致させ、春秋初穂を集め廻る、故に民俗是を小谷売僧と云へりと。
 
岡本《ヲカモト》 日野町の西北一里半、今市子村|麻生《アサフ》村と合同し朝日野村と改む、西は苗村《ナムラ》に接す。温故録云、朝日野は市子の辺にて、朝日山は麻生なりと云ふ、日野の茶師堀井氏、前年辱くも後水尾院に御茶を進め奉り、朝日山といふ銘を下し賜る、是此地の名所に因めるものと申伝ふ。
補【岡本】蒲生郡〇淡海温故録 此所に水晶あり、所の宮社の境内にあり、此近辺に延暦五年に桓武天皇御建立の梵釈寺の旧跡なりとて、今は形計残れり(今旭野村)
補【朝日】蒲生郡〇淡海温故録 亀岡は所の者は朝日の岡と云、類聚に家隆卿、
 千代ふべき亀の岡なる小篠原うれしきふしのしげきころかな
今市子村の辺を朝日野村となす。
板井清水 市子村に在り、日野より二里許西なり、
 手にむすぶ板井の清水底すみて影もにごらぬ夏の夜の月(続古今集)      入道前大政大臣
土俗云、此清水の水源は石塔寺の界内に在りと、彼石塔寺へ勅使の詠とて「あふみなる板井の清水来て見れば月のやどらぬ水草もなし」
朝日山 土俗云、麻生村の赤人寺の辺に在りと、今何れの処〔脱文〕
(703)補【入日岡】蒲生郡〇淡海温故録 蒲生郡の鏡宿辺か、本郡に朝日岡あり、之に対す、野洲の内ならんかとも云ふ、
 はし鷹のすゞの篠原狩りくれて入日の岡に雉子なくなり(続古今集)        土御門院御歌
をさして云ふといふことを知らず。日野に堀井氏と云茶商あり、辱も後水尾院朝日山と云茶の銘を下し賜る、是近辺に朝日山と云へる山あるが故なり。
補【火切】〇輿地志略 蒲生郡火切荘、土俗のつたふる処なり。江家次第、小朝拝「有餅鏡(用近江火切)」〔未詳〕
 
 神崎郡
 
神崎《カンザキ》郡 蒲生郡の東北に接し、愛知川を以て愛知郡と相限る、地形狭長、東西十里に近きも幅は一里に満たざる所なり、今面積八方里、人口四万、八日市町外九村に分れ、八日市を郡治とす。此郡は蒲生郡の分地にして、天智紀に神前郡初出す、(蒲生郡の条参考すべし)和名抄、神埼郡、訓加無佐岐、七郷に分つ、其神埼郷は愛知川の河道変じたるが為め、近世其北岸と為り、今愛知郡に入り稲村|葉技見《ハエミ》の二村と為る。
 
山上《ヤマカミ》 愛知川の上游、南岸の大村なり、北岸は愛知郡|小椋《ヲグラ》村とす、故に東北なる小倉谷の深山は今山上小椋二村に分属す、小椋の永源寺は水を隔てゝ相向ふ、故に亦山上寺の名あり、(小椋谷を参考すべし)山上陣屋は、元禄年中稲垣安芸守重定の置く所にして、近邑一万三千石を領知し、世襲して明治維新に至る、八日市の東三里。〇山上は甲賀郡市原村に接し、東方は勢州三重郡員弁郡に連り、重嶺を負ふ、甲津畑より踰ゆるを千種越と称し、小椋谷と杜葉尾《ユヅリヲ》より踰ゆるを八風《ハップ》越と称す。
 
御園《ミソノ》 旧|柿之御園《カキノミソノ》と称したり、山上村の西に接し数村あり、今合同して御園村と曰ふ、古の高屋郷なり。〇御園村大字岡田あり、温故録は之を以て古の岡田駅なりと説けど誤れり、此地は駅路の経由すべき所にあらず、何の世の大嘗會の歌にや、
 いはひつヽ今日の若菜を摘賤も先は御園のつとめだ にする。〔夫木集〕
御園村大字神田に延喜式|河桁河辺《カハケタカハベ》神社ありて、此社より南十余町、熊野林《クマノハヤシ》に市辺押磐皇子の墓と称する者あり。
補【柿御園】神崎郡〇淡海温故録 柿の御園は愛知川の端に傍を伊勢界まで此庄の内と云ふ、こゝに御河辺の社といふあり、
岡田が原は蒲生野より続ける野原なり、
 東路に春や来ぬらむ近江なる岡田の原に若菜つむなり(続後拾遺集)        恵慶法師
 見渡せば尾花かたよりさゞ波や岡田が原に秋風ぞ吹く(夫木集)          行家卿
此野は香津畑海道の宿にて、伊勢千草城に通ず。
 
高屋《タカヤ》郷 和名抄、神埼郡高屋郷。〇今御園村山上村なるべし、輿地志略に妙法寺の辺かと曰ふ、妙法寺は今御園村の大字とす。
補【高屋郷】神崎郡〇和名抄郡郷考 慈恵大僧正遺告、高屋庄、一田地数、在券文、在神崎郡、右桑名忠村等為先祖成仏所施入也。志略、今の妙法寺の辺をいふ。輿地志略、高屋荘、源氏物語に高屋の妙法寺のことみえたり、故老の伝る処なり.
 
妙法《メウホフ》寺 高屋荘と曰ふ、源氏物語に高屋の妙法寺のこと見えたり、故老も亦しか伝ふ。〔輿地志略〕〇叡山慈恵大僧正遺告云「高屋庄、田地数在券文、在神崎郡、右桑名忠村等、為先祖成仏、所施入也」〇按に妙法寺の大字は叡山の別院ありしに由る、陵墓一隅抄に、市辺押磐皇子の御陵は、御園郷妙法寺村に在りと注す、此辺は古の蒲生野の中なるべけれど、御陵の所とは信ぜられず、愛知郡蚊野を参考すべし。
河合《カハヒ》寺 妙法寺の西にして、又御園村の大字なり、此に御河辺神若松森と云古跡ありとぞ。〔輿地志略温故録〕
 二葉なるわかまつの森としをへて神さびんまで君はましませ、〔夫木集〕
 
八日市《ヤウカイチ》 神崎郡の小繁華なり、御園村の西、市辺村(甲賀郡)の北にして、今彦根より日野に通ずる鉄道支線の車駅あり、能登川駅の南二里半、愛知川駅の南二里。
参考本盛衰記云、佐々木高綱野洲の河原に出けるに、草鞍置たる馬追て男一人見え来る、何くの人ぞと問へば、是は栗太の者にて候が、蒲生郡小脇の八日市へ行者なりと答へたり。温故録云、此市場は近江第一の繁昌の市なり、昔佐々木四郎高綱関東へ下向の時、栗本の喜介と云ふもの、馬を率て此八日市の市に出るを、馬を奪取て彼喜介を切殺し、馬に乗て鎌倉に下るといふ事あり、さすれば其比も群集の市と見えたり、建部の庄内なり。〇貿易備考云、八日市場は専ら魚介野菜等を販売す、而して其一日の販売全額は平均二千円に下らず、売買人は多くは蒲生、神崎、愛知、犬上の四郡より来聚せり、而して春晩及び秋季は隆盛にして、夏季は甚だ寂寥たり。
 
(704)建部《タテベ》 古は建部庄と曰ふ、八日市も庄内なりき、近年八日市の北なる諸村を合同して建部村と為す、往時栗太郡建部社領にて、十五村に分れし由一書に見ゆ。〇邑人建部高光は織田信長に出仕し、内匠頭と称す、佐々木族也、其子光重豊臣氏に仕ふ、慶長五年西軍に与し勢州に戦ふ、徳川氏措て問はず、其子三十郎政長摂州尼崎城主たり、大坂役東軍に力を致し播州林田一万石を賜はる。〇天正中織田家に出頭せる建部紹智は、連歌師にて、慶長年中の建部伝内は、江戸幕府の祐筆たり、共に此地の一族なり。
補【建部】神崎郡〇淡海温故録 建部の庄、木流村の人建部伝内は当国三筆といへる能書なり、紹智は連歌の達人、天正中其名高し。
瓦屋寺 摂津天王寺建立の時、此麓にて瓦を焼かせ津の国へ運送したる故瓦屋寺と云ふとなり、麓の池は瓦の土を掘り出したる跡なりと云ふ、本尊観音も疱瘡を守り給ふとて芋観音と云ふ、芋を糸に貰て宝前に献ずるなり。輿地志略、往古は栗本郡建部社領なりき、五村あり。〇今建部村。〇名所図会、むかし南都東大寺の瓦を此所にて焼しとなり、今は禅宗雲居派なり、廃房百ヶ所程の蹟あり。
 
瓦屋寺《カハラヤジ》 建部村に在り、今禅院一宇を遺す、本尊観音は疱瘡の病を除きたまふとて、土俗芋観音と称し、芋を仏前に供ふ、又摂州天王寺の瓦屋をば此に造りたりとも曰ふ、按に瓦屋とは寺院の古名にて、歌には常に瓦葺とよみて仏寺に通ず、必しも造瓦の故に非ず、天智帝の時百済人帰化して、神崎蒲生二郡に配置せらる、其人々の造立にあらずや。
 
箕作《ミノヅクリ》城址 建部村の西南に在り、扇山《アフギヤマ》と称し、北は繖山の観音城址と相対し、距離十八町、国道即其中間を通ず、佐々木六角氏の別邸にして、永禄天正中義賢(承禎入道抜関斎)義弼の居なり、観音城は嫡流義秀を置きしも、軍国の大柄は義賢の掌握する所なりき。
浅井三代記云、永禄二年七月、六角義賢箕作より後藤但馬守を侍大将として三千余騎にて打立、愛知川村に日暮れ、夜高宮へ入り太尾城へ押寄す、又云、信長卿重て被仰出けるは、都までの道筋、江州南に佐々木六角承禎、彼ものの甥に義秀観音城に侍る、是は軍鈍き者ときく、又云、永禄十一年江南には承禎子息こと子細候て、後藤父子を討し故、家中我がちになり、箕作をうとみはてたりしに、織田浅井両旗にて江南に入り、観音箕作両城を攻めらる。〇改正後風土記云、信長は大軍にて近江国佐々木六角が所領を放火し、箕作和田山両城の間を切取、両城を攻させらる、此城の守将建部源八郎秀明吉田出雲守重高同新助六千余の城兵を引連れ、矢玉を飛して防戦す、織田殿松平勘四郎信一の陣へ仰遣さる事有ければ、大手門際へひし/\と附き、塀を乗先登す、松平勘四郎信一大手の一番乗と高らかに呼ばれば、城兵遂に一の曲輪を攻破られ、二の曲輪へ引入、信一息なつかせそひた攻に責よと真先かけて進んだり、建部吉田の両人は力なく搦手より落行しが、東光寺と云寺に入る、和田城の守将も箕作の形勢に聞おぢして、ひそかに忍び落うせたり。
 
神主《カムヌシ》郷 和名抄、神埼郡神主郷。〇今詳ならず、建部村八日市町は古郷の系属なし、蓋これなり、建部神社は当国の大祀にして此地其神主どもに附与せられ、後世建部庄と号せるものの如し、録して後考を竢つ。
 
小幡《コハタ》郷 和名抄、神埼郡小幡郷。〇今北五個荘村南五個荘村東五個庄村などなるべし、大字小幡は北五個庄に存す、駅家郷も本郷の辺にして、延喜式に清水駅と云ふに当る、建部の扇山と老蘇の繖山の間を駅址と為す。
宣胤卿記云、永正十七年、近江国神崎郡小幡社、可奉号総社大明神之由、被聞食訖、小《ヲ》幡山神官中へ執達。
補【小幡郷】神埼郡〇和名抄郡郷考 小幡、行嚢抄、小幡村長き村なり、村中に小橋あり、長三間、川上に水車を操て米をつく所あり。
轟橋 小幡村の内にありといへども、其旧蹟詳ならず(輿地志略)
 わぎも子にあふみなりせばさりと我(夫木集、もと)
 ふみも見てまし轟の橋(堀川〔次郎〕百首)
 
五個荘《ゴカノシヤウ》 今南北東の三村に分る、八日市の北、能登川の間なる広邑にして、国道は之に係る、古の小幡郷及駅家郷なるべし、中世は或家の家領と為りたるより、五個荘と呼ぶ、蓋延暦寺々封たりしこともありしにや、荘内に山王社あり。
補【川並】神崎郡〇淡海温故鐘 此村に大伴皇子の友川島王子御居住にて、此所にて薨ぜらるとて、御廟のある所を塚本村と云ふ、後大部大明神と祝し、山ノ前ロケの庄は皆氏子なり、今南北の五箇荘村に分る。
 
駅家《ウマヤ》郷 和名抄、神埼郡の駅址今詳ならず、蓋東五個荘大字|北町屋《キタマチヤ》と云ふは其遺名にや、延喜式、伝馬神崎郡五疋とあり、又北町屋の南に清水鼻《シミヅハナ》の大字あり、蒲生郡老蘇村に属す、延喜式清水駅と云ふも即此にやと思はる、観音寺山の東麓にて形勝の所とす。〇延喜式云、駅馬篠原清水鳥籠横川各十五疋。〇按に清水駅は、国郡沿革考に、愛知郡清水村(今豊椋村)に引あてたり、然れども稍偏地にて大路の通ずべき所にあらず、又犬上郡清水郷あれど、鳥駕籠(犬上郡)と重複す。
 
(705)石馬寺《イシバジ》 今南五個庄村に属す、繖山の北に在り、即衣笠五寺の随一にして、聖徳太子開基と称し、太子乗御の驪の斃て石に化したりと云ひ、其石存す、近世臨済禅家の僧中興して、古跡を伝ふ。
 
和田山《ワダヤマ》 今北五個庄村大字和田に在り、愛知川の右岸に臨む一丘なり、繖山の東北一里。和田山の尾の上つゞきの高萱に伏猪ありやと人どよむなり、〔新撰六帖〕
和田山は、六角屋形政頼の三男和泉守高成の邑にして永禄十一年、織田氏来攻の時、和田、木村、馬淵の一党この城に拠り防禦せり。
義賢聞信長西上、修箕作和田山等十八城、以和田山当美濃之衝、最固其塁壁、守以精兵、欲待我軍攻之、而首尾相救、信長諜知其計、使美濃三将備和田山、而宣言向観音寺、因引兵襲箕作抜之、和田山城望風解去。〔外史〕
 
小社《コヤシロ》郷 和名抄、神埼郡小社郷。〇今詳ならず、社の訓は屋代にや又許曽にや、其地は今|八条《ハチデウ》村をさすに似たり。
 
能登川《ノトガハ》 今八条村と改む、幹線鉄道彦根八幡の間なる車駅なり、西に接して大字|伊庭《イバ》あり、東一里余にして愛知川村に至る。
佐生《ササフ》又佐双に作り、訓みてさそうと云ふ、今八条村に属す、此地の館址は佐生の西山にあり、後藤但馬守賢豊の居城也、賢豊は六角氏の将にして、武勇を以て称せられ、進藤山城守と名を斉くす、六角義腎之を忌み誘殺す、時に永禄六年三月なり、今も猶礎石及び外濠等を存せり。
 
宇加《ウカ》神社 延喜式神崎郡の官社なり、今八条村大字佐野に在り、宇賀明神と曰ふ。温故録云、此神の影向の次第は、昔大和国泊瀬川の辺に栖ける太麿と云ふ人、所縁やありけん、夫婦眷族ともに引伴ひ、此佐野の庄に来り住む、妻は秦氏なりと云ふ、子七人あり、甚貧しけれども賢にして、世に敬せらる、一夜夢に宇賀神明に謁す、夜明に見れば庭中に忽然と大杉七本生えたり、井水を汲めば酒泉となり、井梧枝垂れて金の子を生ず、是より次第に富貴の大福長者となる、即ち社を建立し此霊神を崇め奉りけり、故に神郷《ジンガウ》と云ふ、此宮の東南の山は和田山なり、長照寺といふ伽藍あり、本尊薬師如来、古此社に副る寺なるべし、又此所の西北に亀塚とて二つ塚の如き小山あり、廻り四五十間計あり。(延喜式宇加を乎加に誤る)
 近江路や佐野の浜辺にこまとめて比良の高根の花を見るかな、〔藻塩草〕
佐野に廃善勝寺の址なりとて、伽藍の礎ののこれる所あり、此寺も繖山五宇の一に列したる者とぞ。〇輿地志略云、佐野は万葉集に見ゆる都久麻佐野方の地なるべし、
 沙額田《サヌカダ》の野辺の秋はぎ時なれば今さかりなりをりてかざさむ、万葉には佐野方の詠尚多し、都久麻は坂田郡なれば、佐野方も其地なるべし、不審。
禰【佐野】神崎郡〇輿地志略、万葉集に見ゆる都久麻《ツクマ》、佐野方《サノカタ》の佐野は此地なり、繖山善勝寺は巨藍の廃址にて石築の残れるが多し。
 
伊庭《イバ》 今八条村に属す、能登川駅の西に接する大村なり、安土山の北にして、裏湖に臨む、東大寺要録、長徳四年注文に「神崎郡|因芳《イバ》里、百廿一町」とあるは此地ならん。〇温故録云、伊庭は射場と云心なるべし安土に接す、伊庭氏は佐々貴七代経方の四男、豊浦の冠者行実が流なり、伊庭出羽守重遠は義朝に属して、平治の乱後蟄居、頼朝再興の後、鎌倉に出て、頼朝に謁し本領安堵の御教書を賜る事東鑑に見えたり、其以来屋形の四天王と称せらる。〇保元物語に、伊庭庄を六条判官為義に賜ふ由見ゆ、又長享年後兵乱記に「永正十一年二月十九日、伊庭貞説父子歿落、十三年八月、伊庭自北郡出張、同月敗北、同冬玉松自岡山出仕、十七年六月、囲岡山、七月二十九日、行貞請取城、伊庭九里退出」云々この一乱の始末詳ならず。藤河記(一条兼良)云、猶ほむさに逗留す、うちおくりの事伊庭に、申つけ捧げるが、三里許をへだてたる所に使にいでて留守なりければ、伊庭方へ使の行かへるあひだ、時刻移るによりて也、その日は雨ふり風烈しくて、はにふの小屋の仮臥、ならはぬ旅のものうさ、いはずともしるべし、一夜江辺聴雨眠、白髪更添新白髪。
補【伊庭荘】〇輿地志略 伊庭荘、源為義に伊庭荘を賜由、保元物語に出たり〔新院為義を召さるゝ事「新院御感の余に近江国伊庭荘、美濃国青柳荘二箇所を賜はつて」〕
 
垣見《カキミ》郷 和名抄、神埼郡垣見郷。〇今|八幡《ヤハタ》村栗見村是なり、八条村の北に接し、安土の裏湖に臨み、愛知川の南岸なり。八幡村大字垣見存す、種村|神郷《ジンガウ》長勝寺体光寺阿弥陀堂などの大字あり、古は叡山山門の寺領なりと云ふ。
 
栗見《クリミ・クルミ》 八幡《ヤハタ》村の西にして、大字|福堂《フクダウ》あり、栗見は太湖と裏湖の間なる狭地にして、奥島伊埼(今蒲生郡島村)と相接し、細溝を以て分界す。愛知川は近世其河道を改め、栗見村の北に至り太湖に入る、往時は河道栗見の北一里なる薩摩(今稲村)に至り、太湖に入りしなり、故に神埼郡神埼郷は、今変じて愛知川の北岸に在り、愛知郡の領域と為る、〇菴に栗見庄は叡山千僧供料にて、近世愛知川庄中を貫流し、南(706)北の両庄と為る、栗見大宮は其北なる本庄に在り、〔温故録〕本庄今|葉技見《ハエミ》村と改む、此本庄は即和名抄神埼郷にして、其北に接し稲村に大字|甲崎《カフサキ》の名遺る、古の愛知川の其辺を流れしなり。
   湖村雑興          中村淡水
 遂涼来宿水雲間、月色風声満浅湾、一帶湖村三四里、門々横柳緑如山。水田在々笑声聞、香稲入鎌人成群、落日秋風裏湖上、帰舟一一載黄雲。
補【栗見】神崎郡〇淡海温故録 クリ見庄は愛知川に分れて南北の庄となる、上古は叡山の千僧供養料に宛行はれ代々山門領にて、天文永禄まで然り、北庄本庄村に栗見大宮あり、新開も北の庄なり、愛知川爰に流れ止まる、弘安年中始めて新しく村を開き、永正の比に至り田畑定り里人も栄えたりと云ふ。
補【福堂】神崎郡〇淡海温故録 福堂は栗見南荘なり、三四百年以前より出来たる村なり、此福堂領の内に野崎須崎と云ふ所あり、名所なり。
 近江路の野島が崎の浜風にいもが結びしひもふきかへす(玉葉集)        人麿
 近江路や野島が崎の浜風に夕波千鳥たちさわぐなり(風雅集)          右京大夫顕輔
阿弥陀堂村は此処に山門の領家竹中紗観院数代在住す。〇今八幡村葉枝見村。
 愛知郡
 
愛知《エチ》郡 古書に愛智又|依智《エチ》に作る、南は愛知川を以て神崎郡と相分ち、北は犬上郡に接す、宇曽《ウソ》川郡の西偏を貫流し、土地平坦なり、小椋谷は東偏に在りて、伊勢国界に連り、山谷頗広し。本郡今面積二十万里、十四村、郡衙を愛知川村に置く、鉄道は西偏を通過す。
日本紀養老元年九月の条に「事駕遷自美濃、至近江、免志我|依智《エチ》二郡今年田租」とあるは即当郡にて、依智とは蓋市の義なり。今も愛知川村大字市の名を遺す、庶民立市の墟なるべし、而も本は蒲生の分地たるべきこと、蒲生郡の条に其説あり。和名抄、愛知郡、訓依知とありて六郷に分つ、後世神崎郡の神崎郷を併す。志族氏云、秦氏、皇極天智間、秦造朴市田来津最顕、〔日本紀〕醍醐帝時、有右大臣忠平少書吏依智秦友頼、〔東寺文書〕村上帝時、有近江権大掾依智秦公広範、〔朝野群載〕後鳥羽帝、有近江掾依智秦盛清、〔吉記〕蓋皆朴市秦造之裔也、朴市依智音訓相通。
補【愛知郡】〇愛智、初め依智に作る、続紀元正天皇養老元年九月癸亥、免志我、依智二郡今年田租及供行宮百姓之租。天保図、愛知に作る、今愛智に仍る。
〇今面積凡そ十九万里、人口四万七千、十三村、愛知郡衙は神崎郡を兼治す。
神崎《カムザキ》郷 和名抄、神崎郡神崎郷、訓加無佐木。〇今愛知郡に入る、稲《イナ》村|葉枝見《ハエミ》村是なり、中世愛知川の水脈変じたる為め、神崎郡を離れたる也、稲村に大字|甲崎《カフサキ》あり、即神崎の訛なりと云ふ、温故録に此川尻に昔大社あり、故に神崎と名づけしと説く、蓋延喜式神崎郡|川桁《カハタナ》神社を指す。
栗見《クルミ》大宮 今|葉枝見《ハエミ》村大字本庄にあり、此地は往時栗見北庄と称し、叡山山門領なり、即其鎮守とす、又大字普光寺には廃院の跡あり、敗瓦断礎を遺す。
川桁《カハタナ》神社は延喜式神崎郡の官社也、今稲村に在り、高藤《カウトウ》明神と曰ふ。〇輿地志略云、高藤明神は、河田《カハタ》森と曰ひ、式内川桁社なるべし。
 久方ののどけきそらを今日見れば河田のもりはかすみ来にけり、〔夫木集〕此社をよめるにや。
補【神崎】神崎郡〇淡海温故録 神崎郡と愛知郡の郡堺也、愛智川此に流れ、川尻の須崎に神社在す、故に神崎と曰ふ、藻塩草に「神崎のあら磯も見えず波立ちぬいづこより行しよき道はなし」と、此の事を云へり、今西川村と曰ふ。〇普光寺村に昔大御堂あり、古の柱建の大石共古瓦等数多あり、近江八ケ村神事に神輿寄合、祭事あり。〇今愛知郡稲村へ併す。
穂【高藤明神社】〇輿地志喝 出路村、神崎郡の界にあり、神崎郡にも出路村あり、両郡へ分れたるなるべし、
高藤明神社 出路村にあり、或云、河田の神社なりと、高藤、河田音訓ちかければ誤るにや。
河田社 高藤神社の辺をいふ、延喜式の河桁社か。
河田原 同所をいふ。
 賤の女の河田の原につむ芹も誰がためにとて袖ぬらすらん(夫木集)        俊成
今稲村の中なるべし。
 
薩摩《サツマ》 今稲村と改む、大字|甲崎《カフサキ》と相接し、愛知川の旧河道の末に在り、湖辺にして航舟の便あり、此里は蓋産摩隼人の旧邑とす、延喜式に近江に隼人の在住して隼人司に属せる由見えたり。〇浅井三代記云、織田徳川の二将若狭越前へ働かれしに、江北の浅井其うしろを切りければ、急に敦賀を立ち若狭路より江西の舟木《フナキ》の浦に着き、村長を頼ませられ、舟にて南近江の佐津摩《サツマ》浦へ上らせ給ひ、それより千種《チグサ》越して帰国したまふ。(藤摩より西北、湖上三里にして、高島郡船木崎に至るべし)。
 
(707)平田《ヒラタ》郷 和名抄、愛知郡平田郷。〇今|稲枝《イナエ》村なるべし、大字|肥田《ヒダ》あり、蓋平田の訛なり。西は神崎郷、東は犬上郡、南は長野郷に至る、此に平流《ヘル》山あり湖水に臨む。
 
肥田《ヒダ》 愛知川駅の北一里許、今|稲枝《イナエ》村と改む、大字稲部|野良田《ノラダ》などあり。〇浅井三代記云、永禄三年六角承禎は江北浅井勢の乱入を聞き、中道肥田の城にて一戦せんかと評議まち/\なりしが、即肥田の城へ取入れ、宇曽川に対陣す、遂に野良田表に一戦あり、承禎父子敗北せられ、肥田へ帰ることならずして、箕作きして退給ふ。
 
野良田《ノラダ》 今|稲枝《イナエ》村の大字にして、肥田の北に接す、浅井長政の大捷の故跡也。〇江濃記云、浅井休外斎入道橘高政は、朝倉の吹挙にて、京極殿一跡を給はり、其子下野守光政の代に成て、武勇父におとりけるにや、六角家にたより、子息備前守を若年より六角の家老平井加賀守が聟に定め、南郡の下知にしたがひける、爰に備前守長政十六才の時、六角家の下尾に立まじとて、平井加賀守の娘を送り返し、六角と無事をやぶる、六角屋形義賢是を聞て大にいかり、其勢二万五千余騎野羅田表へ出張して、敵おそしと待かけたり、浅井父子是に驚き、則勢を催し六千余騎|野羅田《ノラダ》表へ押出す、頃は八月中旬、浅井備前守もせい共をすぐり、敵の本陣に打てかゝりければ、大将義賢忽に打まけ引退き給ふ、其後北近江の城どものこらず浅井が下知にしたがひけり。
 
宇曽《ウソ》川 秦川《ハタカハ》村高取山より発源し西北流、蚊野|八木《ヤキ》吉田等を経て肥田の北を流れ、平流山を繞り湖中に帰す長凡五里。〇浅井三代記云、永禄三年、浅井備前守長政江南へ働き、野良田へ押出し、先勢は宇曽川より二町計北に陣取り、長政本陣は吉田口にすゑ給ふ、六角勢は肥田の城へ取入れ、宇曽川を隔てゝ陣取る、其日両軍一万計の人数段々にもみあひ、一度に川へ駆込戦ひたりしが、六角勢敗北と為り、箕作へ退給ふ、長政は佐和山へ引取、愛知川辺の仕置して、小谷へ帰城。
 
平流山《ヘルサン》 又|荒神《クワウジン》山と曰ふ、稲枝村の北にて湖岸なる一丘なり、北麓は犬上郡|日夏《ヒナツ》村なり、山頭の眺望太だ佳なり。「土俗、昔大蛇あり、天竺霊山の一峰を盗み取り、之を太湖の浜に置き其下に隠る、蛇は化して巨岩と為り、今に平流山に在り」と、三国伝記に見ゆ。〔名所図会〕日夏を参考すべし。
補【平流山】愛知郡〇名所図会 行基四十九院たてゝ都卒の内院を建てしとぞ、三国伝記に曰、昔大蛇霊山の一峰を盗み来て湖水の浜に下す、其下に隠れて石と化して此山をいたゞく、今の荒神山の蛇石即ち是なり。〇稲枝村に属す。補【荒神山】愛知郡〇提要 上平流村下平流村に属し、犬上郡に跨る、山麓より八町、望湖によろし。〇今稲村稲枝両村の東にあたる。
 
枝《エダ》 今|日枝《ヒエ》村と改む、稲枝村の東にて、大字吉田大町高野瀬などあり、北は犬上郡に界す、宇曽川に沿ふ、古は千枝《チエダ》村と称せる由、温故録に見ゆ、何の世の大嘗会の唱歌にや、
 榊葉を千枝の村にゆふしでてとよのあかりの手向にぞする。
補【千技】愛知郡〇淡海温故録 千枝村、今は上略して枝村とも云ふ、此宿の中程に古より石燈駕籠あり、旧跡の伝へある由、又藤の古木あり、名所の由なり。
  永仁六年の大嘗会の悠紀方の御屏風、近江国千枝村藤花浅深
 うすく濃く千枝にさける藤波のさかりも久しよろづ代の春(玉葉集)        前中納言俊光
  貞応元年大嘗会の悠紀方の神楽歌、千枝村
 さかき葉の千枝の村のゆふしでて豊のあかりの手向にぞとる(続古今集)      正三位家衡
又千枝の宿の柳橋とて昔より云ひ習はせしが、未だ本歌は見ず、此宿の南に歌語の橋(土橋とも云ふ)と云ふあり、宇曽川に渡せる橋なり、八雲抄に、
  近江国常盤橋にて
 うすくこくのどかに匂へしづむまで常盤の橋にかくる藤波
此常盤橋はこゝなるべし、土橋にて常に替らず、故に常盤橋とも云にや。
 
吉田《ヨシダ》 温故録云、吉田は近江名所の一にて、吉田氏は佐々木源三秀義の六男、吉田冠者厳秀を祖とす、近世吉田流と称する弓箭家は此家の伝に出づ。
 せく水もよしだの里に植る田はかねて年へむかげぞ見えける、〔長秋詠藻〕      俊成
 
高野瀬《タガノセ》 高野瀬氏は六角家の諸士に其号あり、今日枝村の大字に遺る。〇輿地志略云、天稚神は高野瀬に在り、此神は三代実録「貞観十三年、天若御子《アメノワカミコ》神授位」と云ふ者なるべし。〇古事記伝云「神代巻曰、遺天津国玉神之子、天若日子、於葦原中国、至于八年、不復奏」、三代実録、近江国正六位上天若御子神とあるも此神にや、古今集序の細注には、此神を阿米和加美古と云り、又狭衣物語に、大将を天より迎へ来し人を阿米和加美古と云るも、本此天若日子の事より起りて、後世に天より下る人をば凡て然称るにこそあらめ。〇按に、此天若御子は、新羅王子天日桙を指すにあらずや、日桙が近淡海に来りたる事は鏡山(蒲生郡)吾名郷(坂田郡)に其説あり。
 
(708)長野《ナガノ》郷 和名抄、愛智郡長野郷。〇今|愛知川《エチガハ》村|日枝《ヒエ》村なるべし、愛知川村に大字長野あり。輿地志略に、長野町に長野大領宮と云ふ古祠ありと、即郡家址ならん。
愛知川《エチガハ》 水名にして、又村名なり。愛知川は小椋谷の山中に発源し、愛知神崎の二郡の間を貫流し、湖水に帰す、長凡十二里、高野《タカノ》山上《ヤマガミ》より西北下游には、大略西北向すと雖、山中に諸澗屈曲す、或は越溪《エッケイ》と曰ふ。〇又市川に作る、彦根より八日市日根に赴く支線鉄道の車駅なり。
 愛知川に岩こす棹のとりもあへず下す筏のいと早き瀬や、〔散木巣〕
参考本盛衰記云、白井法橋辛明は、三塔第一の悪僧にて、山門に安堵し難く、千僧供の料所愛知川|胡桃《クルミ》庄に忍居たりけるが、木曽義仲蒲生の陣に見参し、台山当家同心の秘計廻すべしとて、遠火の語ひを為し、山に帰る、山の大衆尤と同じければ、遠火を合せよとて、惣持院の大庭に火を挽く、愛知河原にも之を悦び、遠火を焼たりけり。(胡桃庄は栗見に同じ)
愛知川《エチガハ》(駅)今長野村と合同して、愛知川村と曰ふ、小市街を成し郡衙あり、愛知神崎を管帯す、南岸は北五個庄村なり。愛知川駅は高宮駅(犬上郡)の南二里、武佐駅の北二里、能登川停車場の東一里とす。延喜式、石部神社今この村に在り。
愛知川の古駅は、今大字沓掛と云地なり、浅井三代記に、六角勢愛知川に陣を取り、沓掛の宿まで馳附けるなどあるは是也。〇太平記云、奥州国司顕家卿、建武三年正月、江州愛智河の宿に着かれたり、其日大館中務大輔幸氏は、佐々木判官氏頼其比未幼稚にて楯籠りたる、観音寺の城郭を攻め落して敵を討つ。〇巡狩録云、正平六年九月、佐々木道誉の甲賀庄に着し時、其勢僅に三百騎たらざりける、道誉此儘に引駕籠なばあしかるべしとおもひければ、尾城に篝火をたかせ、その身は愛智河原に打て出、まばらに陣をぞ取たり。
愛知河を土俗江南江北の分界と為すは、往時佐々木屋形の比、六角家と京極家の疆域を此に定めたる事あるに由る、而も天然の地勢は磨針嶺に分界するを以て、犬上愛知二郡は常に両家の争奪を被り、南北の間にさまよへり。
補【愛知川】愛知郡〇淡海温故録 此川もとは宿の南北をめぐり廻りながれて、其中に宿ある故、すでに宿も愛知川と呼たるなり、宿の間に郡界あつて、川下は神崎村へ流れて湖に入るなり、近江第一の大河なり。
 
大国《オホクニ》郷 和名抄、愛智郡大国郷。〇今豊国村豐椋村東|押立《オシタテ》村西押立村なるべし、中世は大国庄と称し、東大寺要録「長徳四年注文、大国庄七町」とあり、東寺文書「正和三年、七条院領大国庄」ともあり、康正二年造内段銭引附に大国上庄とあり、愛知川村の東に接す。
 
平井《ヒラヰ》 又平居に作る、今豊国村と改む、豊満《トヨミツ》大明神あり。〇淡海温故録云、大国平井氏は河内守満季の後流にて、小倉源氏の随一なり、東鑑には平井八郎清頼とあり、太平記には平井九郎と出づ、天文永禄まで悉く軍記に見えたり、浅井長政の初妻は平井定武が娘なり、此娘を長政に離別せられし故、永禄元年より同七年まで大乱に及び、国中大に騒動したり、大国庄は一庄みな豊満大明神の氏子にて、神主を磯部氏と云。
 
押立《オシタテ》 今東押立西押立の二村に分る、旧庄名なり。温故録云、押達庄は比叡山客人宮の氏子にて、即白山権現を祭る、新千載に、道玄押達客人をよみて、
 わきて猶頼む心も深きかな跡たれそめし雪の白山、
続古今に、後古極殿押達の宮に奉る、
 爰にまた宮を分ちて宿すかな越の白根や雪の古里。
〇西押立村大字横溝は、元暦の乱に横溝五郎軍忠の事東鑑に見ゆ、此邑人也、大字勝堂には大石以て築きたる窟あり、其数四十八所と称す、皆古塚なるべし。
補【押立】愛知郡〇淡海温故録 押立の庄十七郷とも東鑑にも出づ、此所に客人宮あり、押立の庄は皆当社の氏子なり、白山大権現なり、新千載に道玄押立客人をよめり。
補【横溝】愛知郡〇淡海温故録 横溝五郎元暦の乱に軍忠あり、東鑑に出づ、井関代々此所に住居す、屋形の近習にて面打の名人の家なり。〇今西押達村。庄堂〔勝堂〕此村に不審なることあり、国中の平地にして然も山遠き所なるに、大石を以て塚を築きたる岩窟四十八ヶ所あり、謂れ如何なることにや、知る人なし。
 
八木《ヤギ》郷 和名抄、愛知郡八木郷。〇今八木庄村なり、押立村の北、秦川村の西南に接し、宇曽川の両岸に渉る、愛知川村の東なり、大字八木島川などあり。
 
蚊野《カノ》郷 和名抄、愛智郡蚊野郷。〇今|秦川《ハタカハ》村なり、大字目賀田|安孫子《アビコ》上蚊野北蚊野軽野などあり、宇曽川の上游にして、北は犬上郡甲良郷に接す。蚊野は古事記伊邪河宮(開化)段云「御子日子坐王之子、袁邪本王者、葛野之別、近淡海蚊野之別祖也」とありて、夙に著れし地なり、蚊屋野と云ふも此なるべし。
軽野《カルノ》神社は延喜式愛智郡の官社なり、今北蚊野に在り。蓋蚊野別の祖神とす。〇神祇志料云、按に姓氏録|軽我孫《カルノアビコ》公は日子坐の後とありて、軽野蚊野軽并に同音にして、今蚊野を我孫子《アビコ》庄と云ふ時は、其証左ます/\明(709)白なり、土人伝説に、軽野別の裔、穴田君熊取君徳万君并に此地に坐りと曰ふ。
補【軽野神社】〇神祇志料 今蚊野郷北蚊野村にあり(滋賀県注進状)蓋近淡海蚊野之別の祖日子坐王子、袁邪本王を祀る(参酌古事記・新撰姓氏録・倭名鈔)
 按、姓氏録軽我孫公日子坐王の後とあるに拠考ふるに、軽野軽蚊野並同音にして、今蚊野村を我孫子庄と云ふ時は、其証ますます明白也、姑附て考に備ふ伝云、袁耶本王の裔穴田君、熊取君、徳万君並に此地に坐り(土人伝説)凡そ毎年正月十五日粥占の祭を行ふ(滋賀県注進状)
石部《イハベ》神社 二坐、今沓懸村にあり、磯部土橋二村の産土神とす、凡そ毎年三月初酉日祭を行ふ(輿地志略)
 
蚊屋野《カヤノ》 按に、此野は佐々貴山君の領知せる所にて、蒲生神崎愛知の三郡中に在るべきは必定なれど、今に其詳を聞かず、日野谷に在りと云ふは採り雜し、又御園村妙法寺に押磐皇子御陵ありと云ふも徴証に乏し、古事記伝に、山城近江若狭の堺なる山中に在りなど云ふに至りては妄誕甚し、要するに蒲生郡の境を遠く離るゝことなし、而て書紀には久田綿《クダワタ》蚊屋野とありて、久田の綿と云ふ総名の下となる蚊屋野と云義なるべけれど、久田綿の名は今聞く所なし、〔古事記、久多綿之蚊屋野〕蓋蚊野軽野は共に狩場の義にして、蚊屋野は萱生《カヤノ》の義なり、其義相通ずるのみならず、音亦相近し疑ふらく一処ならん、故に之を此に係けて後の定めをまつ。〇古事記石上穴穂(安康宮)段云、淡海之佐々紀山君之祖、名韓※[代/巾]白、淡海之久多(此二字以音)綿之蚊屋野、多在猪鹿、此時大長谷王子、相率市辺之忍歯王、幸行淡海、到其野者、各異作仮宮而宿、乗馬出行、大長谷王子、倏忽抜矢、射落其忍歯王、乃亦切其身、入於馬※[木+宿]、与土等埋、又近飛鳥宮(顕宗)段云、天皇求御骨時、在淡海国賤老媼参出白、王子御骨所埋者、専吾能知之、爾起民掘土、求其御骨、即獲其御骨、而於其蚊屋野之東山、作御陵葬、以韓※[代/巾]之子等、令守其御陵、然後持上其御骨也、而召其老媼、賜名号置目老媼、仍召入宮内、敦広慈賜、欲退本国、天皇見送歌曰、
 置目もや淡海の置目あすよりはみやまかくりて見えずかもあらむ。
日本書紀云、顕宗天皇父、市辺押磐皇子、於蚊屋野見殺因埋、及天皇即位、広求御骨、有一老媼曰置目、進曰知埋処、天皇将老婦、幸于近江国来田綿蚊屋野中、堀出而見、果如婦語、臨穴哀号曰、自古以来莫如斯酷仲子之尸(皇子帳内佐伯部史名仲子)交横御骨、莫能別者、爰有磐坂皇子乳母、奏曰仲子者上歯堕落、以斯可別、於是雖由乳母相別髑髏、而竟難別四支諸骨、由是仍於蚊屋野中、造起双陵、相似如一、葬儀無異、以狭々城山君韓※[代/巾]、充陵戸兼守山。
松尾寺《マツノヲデラ》は秦川《ハタカハ》村大字|北蚊野《キタカノ》の東山に在り、高取山の麓にして、金剛輪寺と称し台家に属す、天平年中の開基と伝ふるも詳ならず、伊吹山三修上人の創立とも云ふ、今大悲閣二天門待龍塔法華塔鐘楼等山上に列し、其下に僧房ありて、古刹の風貌を存す、寛永年間の修繕也。〇矢取地蔵堂は大字岩倉に在り、温故録云岩倉の矢取地蔵は霊仏也、狩野の庄の伝記曰、検非違使五位上平師道、代々狩野の庄の領主なり、此先祖地蔵を信じ、当所に地蔵堂を建立し、常に尊敬す、それより以来師道まで代々信仰す、或時師通軍門に赴き既に敗軍に及びしに、小法師出でて矢を拾ひ取り不慮に勝利を得たりとて、此より矢取の地蔵と質号す。
補【久多綿野】〇輿地志略 北畑村は蔵王村の八町許北に在り、日野より二里半許東に在り、日本紀・旧事紀に来田綿に作り、古事記には久多綿に作れり、今誤て北畑に作る、雄略天皇来田綿の蚊屋野に市辺の皇子を射殺すことあり、射殺し給ひし地は今鎌掛の地内なりとも曰ふ。
 
養父《ヤブ》郷 和名抄、愛智郡養父郷。〇今詳ならず、訓は也不なるべし、即籔の義なり、蚊野の南なる角井《カクヰ》村などに当るか。
 
百済《ヒヤクサイ・クタラ》寺 今角井村に在り、近年中野園|市原《イチハラ》及び大覚寺百済寺等を合同して角井と改む、小椋村の北にして、秦川村(蚊野)の南なり、東は小椋谷の山蔽を負ふ、愛知川駅の東二里余。百済寺は又久多良寺と曰ふ、百済国人の蒲生神前両郡に配置せられしこと、天智紀に見ゆれば、其故跡なるべし、或は曰く、此地は安康顕宗紀に載せる久多綿《クタワタ》の蚊星野にして、久多寺なりと、寺は江南屈指の名所にして、中世より比叡山に依属したり、近世は寺領百五十石を領し、百済国の僧院と称せり。〇京華要誌云、釈迦山百済寺は聖徳太子の創立にて、百済国僧の住持したるより其号あり、往古は三百坊の寺院ありしが、屡々沿革の末、寛永年中本堂再建の綸旨を賜り、慶安三年落成す、東谷に薬師堂、南谷に阿弥陀堂、閻魔堂、西谷に阿弥陀堂、北谷に地蔵堂あり、西大門の前には日吉剣宮あり、東大門の前に八幡、白鬚、及び不動堂あり、花の木と云奇株あり、花は春に開く紅色にして山梨に似たり、秋は紅葉して佳観なり。参考本盛衰記云、寿永二年七月、木曽義仲蒲生に陣取り、日数を経て兵糧米なかりければ、使者を百済寺へ遣して是を乞ふ、僧侶衆議して五百石の兵粮を送る、木曽其志を感じて当寺の御油料として、押立五郷を寄進せり。〇飛鳥井亜槐集、応仁乱世以来、近江国柏原へをり/\下りてすみ侍し比、おなじ国百済寺西谷の(710)曼陀羅堂の前に、古鞠懸あり、三本闕たるを植継たきよし、彼寺僧ども頻望侍る云々。
園《ソノ》 今角井村の大字なり、久寿二年の大嘗会悠基方なる近江国園里は此なるべし。
 神うくるとよの明りに木綿園《ユフノソノ》のひかげかつらぞはえまさりけり〔千載集〕      永範
補【高麗寺】〇輿地志略 日本紀天智紀曰、四年春二月以百済百姓男女四百余人居于近江国神前郡。三月給神前郡百済人田云々、是寺を以て見れば、百済人寺を建立せしゆへ高麗寺といひしなるべき、其あと今は村名となれるなり。
補【園】愛知郡〇淡海温故録 大覚寺は旧跡ばかり残れり、古の門前を今大覚寺村と云ふ、其隣に園村あり、昔の木綿園どもにや、近江国木綿園を久寿二年宮内卿永範詠める歌、千載集神社に出づ〔歌、略〕〇今角井村。
 
鯰江《ナマヅエ》 今|西小椋《ニシヲグラ》村と改む、旧小倉庄内にて、愛知川の上游北岸に沿へる村なり、江南六角屋形義賢義弼父子、観音城没落ののち、小倉氏に依頼し、鯰江城に拠る、天正元年八月、織田氏江北及越前を平定し、九月柴田勝家を以て鯰江を攻めしむ、六角氏出降り、江南屋形遂に亡ぶ。
鯰江《ナマヅエ》城址 温故録云、六角満綱三男高昌の後裔、小倉森鯰江は一家なり、小倉備前守実治、同又太郎定雄は観普寺域没落の後、一分を以て鯰江に籠城し、信長の軍に抗敵す、永禄十一年冬より、天正元年九月四日まで六年の間堅固に駕籠城せり、小谷已に落城し、越前も没落の上は、本望達すること叶ひがたしとて、主従城を出でて退散す。
 
永源寺《エイゲンジ》 今東小倉村大字|高野《タカノ》に在り、神崎郡山上村と越溪《エッケイ》を隔て、相対し、小倉谷の谷口に当る、越溪即愛知川の上流也。〇永源寺々祖寂室は、元応元年入元し、七年帰朝す、佐々木氏頼之を崇信し、此地に伽藍を建立し、熊原を以て寺領とす、康安元年入寺し貞治六年入寂す、年七十八、勅して円応国師の諡号を賜ふ、其法弟に松嶺異仲弥天越溪の四人あり、之を四派といふ、相続て住職となる、又|山上寺《ヤマガミデラ》と曰ふ、明応四年勅して本寺を鎌倉円覚寺の上に班せしめられ、後奈良帝の時に至り、嵯峨天龍寺に準ぜしめらる、寛永中東福門院の懿旨に依り、井伊侯を以て当寺の外護に充てらる、済家無比の名院なり。〇温故録云、高野《タカノ》は小倉の山口也、此所に永源寺とて臨済家一派の本寺あり、草創は佐々貴六角判官氏頼、殊に禅宗鎌倉の大覚禅師の宗風に帰依あつて、分国に一寺を建立すべしとて、一宗に道徳の聞ある寂室和尚を招て開山とし、造営ありしより以来、代々相続すと云ふ、山号を瑞石山といふは、境内に龍門の滝あり、こゝに霊石あればなり、又山号を飯高山とも云ふ、是は堂前にある山飯を盛たる形の如し、故に名付くとも云へり、又山上寺とも云ふ、神崎郡山上村と川を隔つ、其後永禄の乱に零落せる所、一経和尚再び法燈をかゝげて当山の中興たり、一説に羽柴武蔵守此所に在住の事あり、此武蔵守は小倉左近大夫良親が娘を信長公へ出し、其腹に男子を生む、信長公本能寺にて滅亡の後其娘彼男子を伴なひ小倉に帰りけるを、秀吉公呼出し小倉の庄二万石与へられたり、然るに慶長の乱に石田三成に党し終に没落すとぞ。〇画僧周文は此寺より出しにや、越溪と号せり、如雪を師として画法を学び、出藍の称あり、応永廿一年如雪より画譜君台観を授かる画家の秘本なり、周文は胸に王呉を呑み眼に韋郭を睨む、画中の三昧手なりと、近世雪舟小栗狩野が徒、宋元の堂に上ることを得るは、皆周文の階梯あるに由るとぞ。〔本朝画史扶桑画人伝〕〇輿地志略云、永源寺は東福門院ふたたび御造営ありてのち、皇女二宮の尼にならせられし時、御硯を当寺に納め給ふとて
 海はあれど君が御影のみる目なき硯の水のあはれかなしき。
   永源寺           後藤松陰
 琵琶湖外古禅関、楓樹千章夕照間、仏地荘厳殊不俗、展将霜錦裹寒山、
補【越溪】〇人名辞書 周文は画僧なり、京師の相国寺に住す、字は等慶、越溪と号す、江州越溪の人。
補【高野】〇日本名勝地誌 高野城址は東小椋村大字高野にあり、始め此地に小倉左近大夫良親と称するものあり、織田信長其女を入れて妾となし、一男を生む、信長弑せらるゝに及び其女家に帰る、豊太閤之を聞き、其子に二万石を与へ此城に居らしめ、良親の子三河守良秀をして後見たらしむ、是即武蔵守なり、関ヶ原の役西軍に党し、其家遂に亡び城も亦廃せり。
 
小椋谷《ヲグラダニ》 愛知川の源にして、神崎、愛知二郡に分属す、山中数方里、東は伊勢国(三重郡員弁郡)と御池岳藤原岳八風嶺千種嶺御在所岳の脈を以て相限り、北は犬上郡大滝山に至る、南は甲賀郡鮎川山に至る、山中の部落相谷菅尾|杜葉尾《ユヅリヲ》等は山上村(神崎郡)に属し、政所蛭谷|君畑《キミガハタ》茨川等は東小倉村と曰ふ。〇伊勢に踰ゆる山径は八風越千種越の二路あり、高野より各四里許、大字政所には鉛鉱を産す、君畑の銀鉱は今廃坑と為る。
温故録云、小倉谷は八風越の路なり、天文年中君畑山に銀坑開け、六角の支配たり、君が畑は昔惟喬親王の旧跡なりと伝ふ、初め親王同郡小倉の山口郷に入玉ひ、猶も幽閑の処を求めむと、深山高峰に分入り玉ふ即君が畑の地に住居を定め、御賢慮ありて其辺り大木をき(711)らせ、諸器の木地を挽くことを御工夫ありて、木地を挽かせ渡世の助けとなし玉ふ、是本朝木地挽の始なりともいへり。(按に、惟喬皇子を木挽の祖など云ふことは、事理を解せぎる土俗の妄説なるべし)
補【政所】愛知郡〇提要 鉛山、政所村、明治七年採出、凡そ六万九百七十八貫。今東小椋村大字。
 
萱尾《カヤヲ》滝 高野永源寺の東一里余に在り、高十八間、滝壷八間四方、傍に小祠あり、神祇志料此祠を以て式内川桁神に擬し、天湯河桁命を祀るとしたれども疑はし。其説に曰く此祠の前を流るゝ愛知川の前淵、大岩聳え立る上に、桁の如く横はれる石の上を、水滝なして落る故に、川桁の名あり、又神崎愛知二郡田に濺ぐ本を湯川と云ふ、近隣百五十余村の田畝皆其水利を被るを以て、民人豊熟を祈り、秋稲を神社に納むるを例とすと云り。
補【川桁神社】〇神祇志料 今萱尾村にあり、大滝大明神と云ふ(山上県伺書)
補【長蘇原】〇大安寺伽藍縁起流記資財帳、近江国弐佰町、野洲郡百町云々、愛智郡百町、長蘇原、四至、東中海谷東上道、西秦武蔵象東上道、南氷室度、北胡桃按度。〔未詳〕
 
 犬上郡
 
犬上《イヌガミ》郡 北は坂田郡に至り、西は湖水、南は愛知郡なり、東は三国岳|霊仙《リヤウセン》岳を以て美濃伊勢に堺す、犬上川|善利《セリ》川の二水ありて、湖中に帰す。堺《サカヒ》入江は坂田の交界に在り、磨針嶺の西崖下なり一裏湖なり、鳥居本村は地勢全く本郡に係れど、今坂田郡に属す、本郡今面積十三方里、人口七万五千、彦根町外十九村に分つ、彦根は徳川幕府の時井伊氏の鎮府にして、江州第一の要害を為したる所なり、即江北江南の交界に当り、古来幾度の戦争を見たる地とす。犬上は古書に狗上に作るあり、日本書紀「景行天皇々子、日本武尊子、稲依別王、是犬上君之始祖也」又姓氏録「未定雑姓、犬上県主、天津彦根命之後也」などあれば、古より此地民族の成立ありしを知る、多何神社は蓋其氏神とす。〇古事記伝云、犬上の氏人は神功巻に犬上君祖倉見別あり、推古巻に犬上君御田鋤あり、孝徳巻に犬上健部君あり、斉明巻に犬上君白麿ありて、天武十三年に犬上君に朝臣姓を賜ふ、姓氏録「左京皇別、犬上朝臣、出自諡景行天皇子日本武尊也」。〇按に多何は本郡の大祀なれば、犬上君の氏神なるべきは事理の当然なるに、後人古事記の一本に拠りて、伊邪那岐命を祭ると為すは頗疑はし。〇又書紀通証に「活津彦根命、是近江国彦根明神也」と注するは、蓋天津彦根命と同神と見做したる故か。
和名抄、犬上郡、訓以奴加三とありて、十一郷に分つ、其鳥籠駅家郷は今の鳥居本村に当る。
補【犬上郡】〇和名抄郡郷考 天智紀元年七月、犬上。景行紀五十一年八月、稲依別王是犬上君武部君凡二族之始祖也。古事記、犬上。兵部式、犬上伝馬五疋。さらしな日記、近江の国おきながといふ人の家にやどりて云々、そこをたちて犬上、かむ崎、八洲、栗本《クルモト》など いふところどころ、なにとなくすぎぬ、みづうみのおもてはるばるとして、なでしま竹生島などいふところの見えたる、いとおもしろし。贈大納言雅世卿富士紀行、永享四年山のへとかや申所にて云々、犬上と申里にて「おのづからとがめぬ里の犬山やとこの山風をさまれる世に」永享四年堯孝法師覧富士記、犬上と申あたりにて、いさや河はいづくにてかとたづね侍れどもさだかにこたふる人もなし、里のゆくてに山川のすゑかすかに見えたる所あり、これならんかしとおしはかりて「いさといふなにながれたる川音やといへどいはねの水のしらなみ」
 
青根《アヲネ》郷 和名抄、犬上郡青根郷。〇温故録に八坂村の浦を青根浦と称すとあり、即其辺なるべし、今磯田村(大字八坂)日夏村南青柳村(大字甘呂)などか、犬上川の川尻にして、湖岸に在り。
 
八坂《ハツザカ》 今磯田村と改む、犬上川の川尻南岸に在り、湖岸其西に並び大字|洲越《スコシ》三津屋などあり、湖心なる白石島と云ふ岩礁を通じて一線に船木崎(高島郡)を望むべし。〇温故録云、八坂《ハツサカ》は昔は八十《ヤソ》の湊と呼び、廻船往行の津なりき、南の浜を青根浦と云。藤河日記云、坂本を出て船に乗るとて、
 さざ浪やけふを日よしの船出せむ追風送れ唐崎の松
されども順風なければ、日ねもすろをおして行く、堅田の浦に船をよせ、又出て山あひを過る時、嵐烈しければ、片帆に風をうけて走らしむ、時の程に三四里ばかり過ぬ、夜の四時にはつさかといふ里に、舟をよせて暫く休息す、これより夜舟を出して、明日のほの/”\に朝妻につきぬ。
 磯前をこぎたみ行けば近江の海八十の湊に田鶴さはに鳴く、〔万葉集〕
 近江のみみなとは八十ありいづくにか君が舟はて草むすびけむ、〔同上〕
此歌、後の一首の八十と云は、数の多きを言掛たるなれど、前首は正しく八十湊と称する地名に聞ゆ。
補【八坂】犬上郡〇淡海温故鐘 此処昔は八十の湊と云ふ、廻船往行の湊なり、竹島も此沖なり、南の浜を青(712)根が浦共、雁金浦共云ふ 〔万葉集歌、略〕千載に千坂の浦を読り、此も此地にやあらむ、
  平治元年大嘗会悠紀方の風俗歌、近江国千坂の森をよめる
 君が代の数にはしかじ限りなき千坂の浦のまさごなりとも(千載集)        参議俊綱
又青根が浦の東に明星堂の跡ありと云ふ。
 
犬上《イヌガミ》川 大滝村|大君畑《オヂガハタ》の奥なる三国山(江膿勢の交界)に発源し、一之瀬川を并せ西北流、高宮村の西を過ぎ、八坂の北に至り湖に入る、長凡七里。日本書紀、壬申歳七月、近江(朝廷)命山部王蘇賀臣果安巨勢臣比等、率数万衆、将襲不破、而軍于犬上川浜、山部王為蘇我臣果安巨勢臣比等見殺、由是乱以軍不進、乃蘇我臣果安自犬上返、刺頸而死、云々、長等山風に曰、接に山部王は、心変じて吉野方にならむとし給へる事の顕れて、討れたまへるなるべし。〇一説に、犬上川は不知哉《イザヤ》川と同じと云ふもの誤れり、不知哉川は今|大堀《オホボリ》川なるべし、然れども今大堀に、土俗血吹川と呼び、聖徳太子の古戦場と伝ふる所あり、其は壬申乱の事を伝へ訛れるや明了也。
補【犬上川】〇淡海温故録 美濃伊勢の三国山より出づ、此川を名取川共不知也川共云、今は高宮川とも云ふ、此川の未湖に入る、其処を床の浦と云よし。
竇田《アナダ》郷 和名抄、犬上郡竇田郷。〇案に竇は字鏡に孔穴とあれば、訓阿奈なるべし、今其地を知らず、愛知郡|軽野《カノ》神社の伝に、蚊野別の裔孫に、穴田君と云ふ家あり、是は此郷に移住せられし人々ならん、今本郡の郷村の布置を見るに、川瀬村か。
 
川瀬《カハセ》 八坂の東南一里、犬上川の南畔なる村なり、大字|犬方葛籠《イヌカタツヅラ》町などありて、幹線鉄道の車駅を置く、彦根の西二里。温故録輿地志略等に、延喜式神崎郡|川桁《カハケタ》神社は、安食庄川瀬村に在り、江東中郡の大社なりと曰ふも、採るべからず、此川瀬は安食庄の中なれば、延喜式犬上郡|阿自岐《アジキ》神二座の其一社に非ずや。
補【川瀬】犬上郡〇淡海温故録 川瀬に桁の宮神社あり、神名帳には川桁の宮とある是なり、江東中郡の大社なり、河瀬の庄十余郷の氏神とす。〇今川瀬村。
補【川桁】犬上郡〇輿地志略 川桁神社、安食庄河瀬村にあり、延喜式神名帳に所謂川桁神社是なり。
 
日夏《ヒナツ》 八坂の南、平流山の東にして、愛知郡界に接する村なり、坂田郡日撫神社(息長村)の神封にや、日撫直は安食使主と同族にして、此村は安食郷の中なりと思はるれば、日撫氏の旧邑たりしこと明白なり。
東大寺要録「長徳四年注文、犬上郡覇流庄、田百十三町七段四十六歩、又同郡水庄、田七町八段二百五十三歩」〇按に犬上郡覇流荘今詳ならず、平流《ヘル》山あり犬上愛知の郡界に当る、平流は覇流の訛にや、覇流荘は安食庄の旧名にや、此地四十九院を首とし極楽寺蓮台寺金剛寺辻堂森堂大堂など廃墟最多し、東大寺の別院にやと疑はるゝも其故なきにあらず。
補【日夏】〇輿地志略 日夏荘とは当郡(愛知〕の西極犬上神崎の中間にある荘なり、この荘大荘にして愛智犬上の二郡にかゝれり。
 
安食《アジキ》郷 和名抄、犬上郡安食郷。〇中世は安食庄と称したり、今の日夏村|豊郷《トヨサト》村|安水《ヤスミヅ》村に当るべし、川瀬村も安食庄に籠められたることあり。
 
阿自岐《アジキ》神社 延喜式犬上郡の官社也、二座と注す、按に安食阿自岐は相同くして、阿智使主《アチノオミ》の裔孫の氏神なるべし、日夏村及び坂田郡顔戸の日撫神を参考すべし。
 
四十九院《シヂフクヰン》 今豊郷《トヨサト》村と改む、川瀬村の西に接す、本は寺号にして今|唯念《ユヰネン》寺と曰ふは其遺跡とぞ。
藤河記云、小野の小庵に一宿し、此を立て多賀と云所を過ぐ、社あり、
 ふりはてて神さびにけり高の宮誰代にかくは祝初めけん、
四十九院を物の名にあらはす、
 乱れ行く世に近江路のをのがじしうくいむべきは我身なりけり。
木曽路図会云、四十九院は兜率天寺とも称す、相伝ふ聖武帝の御宇、行基大師草創、本願寺実如上人の時、本願寺派となる、文和中に後光厳院の行在なりきとて今竹林の内に古跡あり、又山号の額鎮守春日明神の尊号宸翰を賜る、庭中仮山水は行基の作、紫石とて庭の松ヶ崎と云所にあり、翌日雨天にならんとする夜は、深更に及で土中に鳴る也。〇柳庵雑筆云、四十九院|唯念寺《ユヰネンジ》は、昔宝篋将軍義詮卿、正平七年閏二月より三月まで住玉ひし処なり、近比新造せしが、指図は旧の通にして、少しも改めずと云へり、さて唯念寺の営造、実に正平以前ならば、其玄関も未だ東山殿の前のものとす、碑あり※[木+靈]子あり眉庇あり、禅刹の玄関と大同小異のみ、今時の玄関と似べくもあらず、依て今の玄関は東山御殿よりと定む、又或旧記に、鑓持侍の家ならずば、玄関無用と伊賀殿被仰とあるは、板倉伊賀守勝重朝臣と聞ゆれば、当時よりさる制も出来しなるべし云々。
 
尼子《アマコ》郷 和名抄、犬上郡尼子郷。〇今|西甲良《ニシカフラ》村是なり、大字尼子下之郷などに分る、中世は甲良庄に籠められたる事あり、川瀬村の東南一里。〇佐々木屋形、江北京極の一族に尼子あり、即此に住した(713)る也、出雲国に移り大名と為る、然るに雲州軍話に、出雲守塩谷高貞の遺子三歳なるを、尼の弟子と為して助命養育し、之を尼子家の祖と為すと云は、大に謬れり、尼子備前守高久、雲州の守護職を兄高詮より伝授せられ、遂に彼地へ赴けるのみ、其子持久、三せ清久、四世経久等なり。〇陰徳太平記云、佐々木道誉三男高秀、其子嫡男高詮、次男尼子備前守高久、此高久江州の尼子に居住、是江州尼子の祖なり、其嫡男出雲守満秀、次男上野介持久、(号正雲寺)持久始めて出雲の守護職と成て、彼州に下向す、是出雲尼子の初なり。
 
甲良《カフラ》郷 和名抄、犬上郡甲良郷。〇今東甲良村なり、尼子郷の東に並び、南は愛知郡に接す、土俗河原又高良に作る。〇園太暦云、観応元年、石塔中務大輔為大将、江州高良庄辺処々放火。〇応仁略記云、日吉神人の訴に於ては、一事相違あるべからず、山門の訴訟のごとく、甲良庄永代御寄進、其外毎々望にまかする旨、御教書せらる。〇輿地志略云、佐々木京極三郎左衛門持高、領内に甲良社あり、因て称号とす、持高より七代の末甲良三郎左衛門光広、時々京師に遊て、建仁寺門前の匠家によつて、其術を見る、遂にその弟子となる、これ甲良氏建仁寺流の番匠の祖なり、光広より五代の末豊後守宗広、その業に精く其事にひいで、慶長年中東武番匠の棟梁としたまふ、是より子孫相続して幕下に在り。
補【甲良郷】犬上郡〇和名抄郡郷考 応仁略記、神訴においては一事さうゐあるべからず、山門の訴訟のごとく甲良の庄永代御きしん其外毎々のぞみにまかするのむね数通の御教書。江北記、文明十四年に秀矩甲良上郷之儀に付中郡へ打越。志略、いま河原庄といふ所是なり、甲良かはらと訓ず(今按、甲《ヨロヒ》をカワラと云こと新井白石の説に見ゆ、かゝれば此地名を志略に河原庄といふといへるは、カワラの仮字を河原に誤れるなり)〇輿地志略 甲良豊後守宗広当打国犬上郡甲良荘の産土なり、佐々木扶義十六代の末京極三郎左衛門持高、当国蒲生郡弓削の郷を領す、界内に甲良明神。
 
西明寺《サイミヤウジ》 又|池寺《イケデラ》と曰ふ、東甲良村に在り、川瀬停車場の東南一里、海内無双の古建築にして、鬼神呵護の宝妨なり。〇京華要誌云、西明寺は寺伝に仁明天皇の勅願所、承和年中僧三修の開基創立と曰へり、今本堂宝塔等十七宇を有す、一千年の遺構と称し、就中三重塔の内部は壁画を有す、実に稀世の観なり。〇輿地志略云池寺本尊瑠璃光如来、仏堂は西向七間四面軒まはり十三間半あり、三重塔は高十一間五尺、天正中兵火の為めに、仁王門以下の堂宇焼亡したるを重建したり。西明寺本堂は明治卅一年、政府より特別保護の命令あり、即本堂一宇、七間四方向拝三間(屋根入母屋檜皮葺)の建築なり。
 
大滝《オホタキ》 東甲良村の東なる山村にして犬上川の源なり、大字|富之尾《トミノヲ》一之瀬佐目|大君畑《オヂガハタ》等に分れ、山谷方三四里の広を占め、東嶺は三国岳と称し、江濃勢三州の交界なり、北は芹谷と峰を隔て、南は小椋谷(愛知郡)と峰を隔つ、其勢州員弁郡に通ずる山径を焼尾《ヤキヲ》越と曰ふ。〇大滝は、犬上明神を滝宮と称し、傍に漫布あるに由る、山槐記、近江名所の一に大滝山と云は是なり。
 布さらすふもとの里の数そへて卯の花さける大たきの山、(藻塩草)         俊成
温故録云、大滝山大明神は、世に多賀宮の奥院なりと云ひ、本地仏は弥勒菩薩と定めらる、一説犬上明神即此と曰へり。〇輿地志略云、富尾の大滝山犬神は、土人の俗説にも唱ふる所にして、三国伝記にも載せたり、然れども採用に足らず、古事記日本紀に拠れば、犬上君は日本武尊の子稲依別王の後なれば、犬上明神は此二王子の外にあるべからず、又新撰姓氏録に拠れば犬上県主は天津彦根命の後と為す、然らば天津彦根をやがて犬上明神と称ふべきのみ。〇三国伝記曰、昔猟師ありけり、其名を知らず、近江国の鳥籠の山の辺の野山に遊て、諸鳥を取り、夜は深谷に入て獣を取り一生の業とす、常に坂田郡枚方村の目検枷と云犬の子、小白丸と云犬を愛し、暫も身を放たず、連れ歩きけるが、或時山に入る折節、何となく物すごく怖畏の心起りければ、弓に雁俣取添て、例の小白丸を側に伴ひ、大木の朽たるに後楯を取て、夜の明くるを待けるが、深更に及て、彼の犬頻りに飛上り飛掛って吠かゝる、猟師叱りけれども猶吠いがむ、時に猟師怒を発し、剣を抜て小白丸を一打に頸を打落す、其首飛上り、朽木より大蛇の下りて口を開き猟人を呑んと望かゝる吭にしかと噛付たり、猟人大に感じ、悔けれども詮方なく、神祠を営祝ひて大の神と崇む、今の犬神の社是なり云々。(此俗説は泉州犬鳴滝の故諺と相疑似す)
補【大滝】犬上郡〇淡海温故録 大滝山大明神在す、又滝の宮と号す、是多賀の奥の院なりと云、本地は弥勒仏也と云、小説には犬上大明神は此祠共云、〔藻塩草歌略〕富の尾に地蔵菩薩あり、往古より霊験名高く聞ゆ。〇輿地志略 富尾村は敏満寺村の東にあり、大滝山富尾村にあり、犬神の談は土人の俗話にもいひ、亦三国伝記にもこの説をのせたり、三国伝記は実録にあらざればもとより採用にたらず、犬上明神は稲依別王を祭るところか、或は日本武尊を祭り奉るかなるべし、日本紀景行天皇紀曰、稲依別王は是犬上君武部君の二族の始祖なり云々、古事記も又是とおなじ、茨田親王の新撰姓氏録に曰、犬上県主天津彦根命之後也云々、天津彦根命降臨の地ゆゑに彦根の名あり、郡を犬上とい(714)ふものは、よつて来るところあり、
犬神社 淡海温故録 犬神のこと三国伝記に出、昔猟師あり、住処俗名時代知れず、昼は此辺鳥籠山の野山に〔脱文〕
 
佐目《サメ》 今大滝村の大字なり、富之尾の東北一里。。五鈴遣響云、江州高神社より五里許東、山中に佐目村あり、其地に風穴と称して、風を起出す洞穴あり、高丈二余濶二丈或三四丈、一町許にして、数十の洞穴左右上下に別れ、又一町半許にして、蜂※[穴/果]の如く方図を失ひ入ること難し、此窟上下左右寸地もなく石鐘乳を生ず、大者一囲長六尺或一丈二丈にして地上に垂る、其余巌壁に貼く者鏡面の如し、其形状尽し難し。
 
三国《ミクニ》岳 大滝村富之尾の東北四里許に在り、江濃勢三州の交界にして、南は御地岳に連り、北は霊山に連る、大君畑《オヂガハタ》(大滝村大字)より登り一里半とぞ、江州屈指の峻嶺なり。
 
田可《タカ》郷 和名抄、犬上郡田可郷。〇今多賀村と曰ふ、犬上川の北岸、高宮村の東一里、多可大社此に在り。邦俗おたがと称す、田可多賀、その本義は高地と云ふに在るべし。高宮郷は本来本郷と一域なりしを分ちしならん。
多賀氏は勝元記応仁記等に見ゆ、高宮氏と異同を詳にせず、本朝通記云、文明元年、多賀豊後守高忠、率兵援勝元、既帰国、高忠者京極族也、嘗為洛所司代、有美名、住於江州多賀城。〇高宮及び敏満寺を参考すべし。
補【田可郷】犬上郡〇和名抄郡郷考 神名式、多何神社二座。古事記、伊邪那岐大神者坐淡海之多賀也。霊異記、近江国野洲郡部内御上嶺有神社、名曰陀我大神。元亨釈書、御上嶺陀我神社。藤川記、帰路廿二日、小野をたちてたかといふ所をすぐ、やしろあり、「ふりはてゝ神さびにけりたがのみやたが世にかくはいひはじめけん」行嚢抄、大堀村の出口より左は多賀神社行路也。本朝通紀、後編、後土御門院文明元年夏五月、多賀豊後守高忠率兵援勝元、既帰国、高忠者京極族也、嘗為洛所司代有美名、住於江州多賀城。秋山氏伊豆志稿、同国賀茂郡葛見庄に多賀下多賀村あり、多賀村の始り、東の方高き所故に多賀は高なり、江州多賀明神、勢州多賀宮皆高地にありと云。志略、多賀村有、此辺なるべし。
 
多賀《タガ》神社 古書多何又田鹿などに作る、此社は蓋犬上県主又犬上君の祖神也、一説伊奘諾神と云ふ、古事記に「伊奘那岐大神者、坐淡海之多賀也」とありて、日本紀には「伊奘諾尊、神功既畢、登天報命、仍留宅於|日之少宮《ヒノワカミヤ》、又構幽宮於淡路之洲、寂然長隠」と録す、然れども古事記の淡海は淡路の誤なるべし、淡路にも多賀の地名ありて、伊佐奈岐神社鎮坐せり、古事記明応古写伊勢本には、淡海を淡路に作る、之に従ふべし。
又按に多賀宮は延喜式多何神社二座とありて、名神大の注はなく、国史にも授位奉幣の事少し、官家にては左のみ崇重せられざる方なりき、伊奘那岐大神の大宮としては疑なきに非ず、且古事記応永古本(網代弘訓本)には「此神者、坐淡路之多賀也」とありて、大神の淡海国に御座する事不審と謂ふべし、また旧事紀の一本にも「淡海之多賀」と云を淡路に作る、恐らくは此江州なるは犬上県主又は犬上君の祖神ならん、然れど此祠を伊奘諾神の日之少宮と為すも古来其説あり、釈日本紀に既に「日之少宮、少陽之宮、東北方之地也、即艮方、又謂之日隅宮者、即是伊奘諾尊、留宅近江国犬上郡多賀之宮也、出雲国杵築社、又称日隅宮、案之、多賀宮在艮者、日出方之隅也、築杵社在乾者、日入方之隅也、仍共得此号」など弁論を為せり、日之少宮は日隅宮と同一にして其出雲にあることは信拠すべきも、方位を論じ日の出入又少陰少陽などに牽強するは採るべからず、犬上氏神の事は大滝の条犬上郡の条に参考して、本社即其祖廟なることを知るべし。〇木曽路図会云、多賀大社は伊奘諾尊、右の方に神明両社、左の方に三の宮、其外末社神楽穀経蔵拝殿楼門等、近年社頭皆回禄して仮宮なり、日の出杉とて神木本社の右の方にあり、当社は天照大神のたらちをの神にて、伊勢参宮の輩道を枉げて多く詣ずるなり、例祭は卯月二午の日、別当不動院、神領三百五十石、社地広くして先は此国の大社なり。〇神祇志料云、今赤土山の麓にありて、多賀大明神といふ、〔村上美濃日記、行嚢妙、木曽路記〕伊邪那岐大神を祭る、〔古事記〕上告、伊邪那岐大神天神の詔の随《マニ/\》天下を修理《ツクリ》成して復命し給ひ、後又淡海の多賀になも坐ましき、即ここ也、〔日本書紀古事記〕天平神護二年、近江六戸を神封に充奉り給ふ、(新抄格勅符)凡祭時に必栗栖祠に神幸あり、〔類聚抄〕神官は大神主山田神主日向神主及禰宜四人を置く。〔行嚢抄〕
温故録云、土俗多賀を江州の府中と云ふは誤りなり、府は昔栗太郡とす。〇史学雑誌云「謹啓、聞説江州多賀大明神者、日域神霊也、国家人民、皆復命服常、不異謁竺乾之耆婆天、故知与不知、共競而莫不詣矣、某甲武田大膳大夫晴信、誕生辛巳歳也、今歳念五、当生年、謹賀所疑于神于霊、爾有神除厄災、令亀齢鶴算、并得蕭公※[にすい+食]肉芝、王母洗皮毛、殊者蒙仏法付属之金言、蓋得無量寿仏属霊験乎、若無□戚、諸仏妄語也、惜哉乎、次文徳武運、順願得自由、如指掌者必也、諸願円満、黄金二両、奉献宝殿者也、天長地久矣、(715)時天文十四歳龍集乙已、大壮如意珠※[草がんむり/冥]花押(某晴信)敬白」
 此御神は人の性命を護らせ給ふ御事とて、詣拝祈願の徒古今踵を絶たずと云へり、そは此御神の御誓に「吾則当曰将千五百頭」と宣り給ひしに緑由すとなん。
日向《ヒムカ》神社 延喜式犬上郡の官社、今多賀大社の域内の西に在り、蓋多賀の裔神なり、新抄格勅符、天平神護二年近江地二戸を此神に寄せ奉られき。
補【日向神社】〇神祇志料 今多賀村多何社域の西にあり(神社啓蒙・神名帳打聞・近江輿地志略)
 按、延喜内蔵寮式大神祭日向王子幣とある大三輪神の御子と聞ゆるを思ふに、此日向神社も蓋多賀神の御子神なるべし
称徳天皇天平神護二年近江地二戸を充て神封とす(新抄格勅符)凡そ三月四月中申日祭を行ふ(輿地志略)
補【山田神社】〇神祇志料 今多何社の西北一里山田村にあり(神社啓蒙・神名帳打開・彦根藩取調書)称徳天皇天平神護二年近江地五戸を以て神封に充奉りき(新抄格勅符)
 按、扶桑略記裏書云、醍醐天皇延長六年五月丙午犬上郡山田明神位記請印とあるは即此神也、されど其神階詳ならず、姑く附て考に備ふ。
 
敏満《ヒンマン》寺 多賀社の南西数町に在り、今大字に呼ぶ。〇温故録云、多賀の郷に昔清涼山敏満寺と云寺あり、伊吹山飛行上人の弟子、三童人の内、敏満童子開基にて、飛行上人草創と云、本尊は大日如来なり、永禄の頃までは数坊ありしが、久徳左近兵衛実時を、浅井長政方便りて急に責滅す時、当寺は実時に加勢す、長政怒り当寺を放火し、法師武者を討捨て破却すと云、此より零落して、今は福寿院と云一院計り残れり、当寺の法具等乱暴して、伊香郡|己高《コタカミ》山鶏足寺に寄附の由、今に彼処に残れりと云。〇野史云、京極高清は、文明十七年、江北の支族なる、慶賀氏父子の徒訟獄を起すや、敏満寺に居る、十八年四月、下坂秀隆の弟任記(或は壬記に作る)多賀兵衛四郎大成と相謀り、火を縦ちて下坂邸を焚き、十月を以て大成将に乱を作さんとす、高清因りて之を三雲に避け、十月兵士を発して大成を討ち之を平ぐ、長享元年四月大成美濃より入りて中野に陣す、五月高清之を攻め国友磧に戦ひて中野に至る、大成終に月瀬にて自殺す。
 
神戸《カンベ》郷 和名抄、犬上郡神戸は今其名なし、蓋|久徳《キウトク》村なり、多賀村の北に接し、芹谷の山口に当る。
 
久徳《キウトク》 多賀村の北にして、大字久徳栗栖|月之木《ツキノキ》等あり栗栖は多賀明神の御供所にて、和名抄神戸郷と云ふは即此村に当るを知るべし、延喜式山田神社は又多賀の裔社にして、大字月之木に在り、此神は新抄格勅符、天平神護二年近江地五戸を寄奉られき。久徳城址 温故録云、久徳氏は姓を知らず、多賀山中の城主也、永禄の比、平井定武屋形承禎に訴て浅井を討んと欲す、久徳は元来定武の親属なれば平井に与党す、長政久徳を囲み、久徳防戦術尽て自害しぬ。〇浅井三代記云、永禄三年、高宮三河勝義は江北浅井家へ帰参し、久徳城主左近大夫を討取るべしとて、二十町の近き里なれば、急に押よせ合戦す、城中には多賀の神官共加勢に来り籠りけるが、高宮に内通して中より火をかけゝれば、久徳一家は二百計悉く討れにけり。
 
芹谷《セリタニ》 芹川の源にて、多賀村久徳村の東北なる山村なり、今芹谷村|脇畑《ワキガハタ》村の二村に分る、三国岳霊仙岳の峻峰其東北を蔽塞し、大字五僧(今脇畑村)より美濃国多羅谷(今養老郡)へ通ずる間道あり、
島津越と称す。。輿地志略云、五僧越と云は犬上郡芹川の山中|五僧《ゴソウ》村より、美濃の国石津郡土岐多良村に出るの間道なり、高宮の駅より国界に至て三里、国界より美濃の国土峡多良村に至て三里なり、土岐多良村より関原にいたって四里余、之を島津越といふは、慶長五年関原の戦に、薩州島津義弘敗れければ、其臣入江権右衛門を先駆として脱走す、南の方へ一の瀬土岐多良山に駈せ、五僧保月の山路を歴て、多賀に出、それまでは知る人もなかりしに、島津はじめて通路せし故に、島津越とはいふとぞ。
 
雲仙《リヤウゼン》岳 彦根の東四里、即磨針嶺の上方なり、南谷を芹谷と曰ふ、西麓は鳥居本村、北麓は醒井村にして、東は美濃国不破養老の二郡に跨る。〇温故録云、霊仙の岳は江州にしては、三の高山なり、阪田犬上の二郡に跨り、美濃との国界たり、昔伊吹大明神と当山権現と山の高下を争ひ、空に橋を渡し見玉ふに、両方牛角なりければ、当山権現根の下にかひ物をかひ給ひて、当山の勝になりたりと、世俗に云習はす、当山権現の由来知れず、山中に丹生村あり、醒井駅の南にあたる。
 
高宮《タカミヤ》郷 和名抄、犬上郡高宮郷。〇今高宮村是なり、犬上川の北岸にして、彦根町の南一里、国道之に係る、多賀神社は東一里に在りて本郷は其口なり。続紀、天平十二年十二月行幸の時、横川の頓宮より発し犬上頓宮に到りますとあるは、頓宮亦此地なりしならん、又中古より近世まで、高宮布とて、綿布を名産としたり。
   悠紀方御屏風、高宮郷、七夕有引糸之家、
 七夕にけさ引いともながかれと君をぞいのるたか宮の里、〔長秋詠藻〕         俊成
   御屏風、高宮里、雪尤深、
(716) あさまだきふりさけ見れば白妙の雪つもれるもたか宮のさと、〔家集〕        顕輔
 遺ばたに多賀の鳥居の寒さかな、 尚白
高宮城址 浅井三代記云、大永元年九月、江南勢は高宮城へ押よせけれど、城主三河守は已に佐和山へ籠り、敵一人も取合ず、依て高宮川原に陣を張り、前勢は大堀瀬利川に着したり、六角定頼は本陣を平田山に据ゑ、佐和山を攻動さる、其後三河守頼勝は、再び江南へ帰参す、永禄三年、高宮頼勝已に嫡子勝義に家をゆづりしが、子細ありて勝義江北へ内通し、浅井に附く。〇外史補云、大永元年、六角定頼陥高宮、高政次小関、令越前将朝倉宗滴拒定頼、定頼走高宮、高政親馳赴佐和山、与宗滴合勢、撃定頼、永禄二年、六角義賢来侵、陥高宮、守将高宮頼勝乃降、三年、浅井長政将兵入佐和山、高宮頼勝子勝義来降、使新荘駿河守高宮、元亀二年駿河叛、応織田信長。
補【高宮】犬上郡〇淡海温故録 此処に時宗派の寺あり、正山院と云、一遍上人代々遊行の時暫時此寺に逗留す、又此処布を織ることを業として諸国に商ふ、高宮布とて名産也、
 高宮の宮人いかにかざすらんまづ咲く梅の花をたづねて(夫木集)         兼仲朝臣
 
沼波《ヌナミ》郷 和名抄、犬上郡沼汲郷。〇今|千本《チモト》村|福満《フクミツ》村なるべし、高宮郷の北に接し、犬上川芹川の間に在り、彦根町の外郊なり、千本村に大字沼波あり、大字大堀と接す。
補【沼波郷】犬上郡〇和名抄郡郷考 今按、続紀養老六年三月、近江国飽波漢人とあるは、沼を飽に誤れるか、又は此抄飽を沼に誤れるにはあらぬにや。志略、沼波庄のうちに東西沼波村あり。
 
平田《ヒラタ》 今|福満《フクミツ》村と改む、彦根町の西郊にして、芹川の南岸に在り。〇浅井三代記云、永正七年六月、江北勢上坂泰貞の計略にて、急に佐和山を三方より囲み、平田山に打上り備を立る、江南の諸士之を聞き、追々に馳付れば、救常寺にて其勢三千余人となり、平田山へ押寄せしに、敢なく佐和山落城しければ、平田表に両軍合戦あり。
 
不知哉《イサヤ・イサラ》川《ガハ》 今|大堀《オホボリ》川又|芹川《セリカハ》と曰ふ、霊仙の芹谷より発し、久徳村に至り西北流し、彦根町の西に至て湖水に入る、長五里、〇按に、此川千本村|大堀《オホボリ》の北に、一支を分ち、北流し、里根《サトネ》山の下を経て、彦根町の東に至り、四川《ヨツカハ》の裏湖《ウチウミ》へ帰注す、此北流は蓋旧道にして、彦根築城の時、更に西に疏通したる者か。
万葉集名所考云、不知哉は犬上郡鳥籠山より流出る川なるべし、源氏物語にいさら川とし、後の物にいささ川と云るも、皆此不知哉なり、不知哉をいさやと訓むは、いかでさばかりの訛れりけむ、契沖は犬上川即此にやと云へり。〇按に犬上川を不知哉川と云事、諸書に散見すれど、鳥籠山は鳥居本小野駅、里根山の辺と想はるれば、此川も犬上川には非ずして、其辺なる大堀川なるべし。木曽路図会云、多賀より田隴を伝て一里半許歩めば、不知哉川の堤に出る、大堀《オホボリ》村の東端にて、此川一名大堀川とも云ふ。
 淡海路の鳥籠《トコ》の山なる不知哉川けのこのごろはこひつゝもあらむ、〔万葉集〕     岡本宮天皇
 狗上の鳥籠の山なる不知也河いさとをきこせ余名のらすな、〔同上〕
 渡るべきあさせもいさやさみだれに水まさり行く床の山川、〔草庵集〕
又按に古今集に「犬上の床の山なる名取河」とあるは、万葉集なる歌の伝へ違ひと思はるれば、別に名取河と云は無かるべし、又鳥籠駅の条に鳥籠の山浦の事を弁ず、尚彼所を参考すべし。〇永享四年堯孝覧富士記云犬上と申あたりにて、不知哉川は何処と尋ね侍れども定かに答ふる人もなし、里の行く手に山川の末、かすかに見えたる所あり、是ならんかしとおしはかりて、
 いさと問ふ名に流れたる川音やと云へどいはねの水のしら波。
 
清水《シミヅ》郷 和名抄、犬上郡清水郷。〇今彦根町|青波《アヲナミ》村等なるべし、温故録に安清《ヤスキヨ》清水の地名ありて、今彦根町に入る。又延喜式に近江国清水駅あれど、此にあらず、清水鳥籠は村駅にて、鳥籠は今鳥居本村の中なるべし、而て清水駅は蒲生郡神崎郡の界に在りて、今北五個荘村北町屋と云辺、観音寺山の麓と為す。〇浅井三代記、永正七年、江南勢佐和山へ向け進発し、前勢は清水村平田辺まで満ち/\たり、それより二手に分ち、上道は佐和山海辺へ打向ひ、一手は海手へまはる。
 
彦根《ヒコネ》 今彦根町と曰ふ、人口二万、湖東の都会なり、旧井伊侯の鎮城にして、徳川幕府の重倚なりき。西は太湖に臨み、北に裏湖を湛へ、芹川里根山佐和山其三面を塞ぎ、又東北の国道を磨針嶺に扼し、江南|中《ナカ》郡の平野を控す、要害無双の地なり。〇淡海地志云、彦根は旧佐和山城の傍也、慶長六年より井伊直政大城を築き立る、当城は元観音閣在りて金亀山と云、其観音を松原口へ移せしより、彦根寺とも金亀寺とも云、城下凡そ七百軒、本領三十五万石、其二十八万石は犬上坂田伊香愛知神崎蒲生の諸郡に跨る。〇今彦根は犬上郡衙の在所にて、幹線鉄道の車駅は市街の東に在り。
彦根の号は、犬上県主の祖、天津彦根命を祭れる山名(717)より出づ、一書に天津彦根命此山に降臨すと曰へり、彦根山は即井伊氏の築城せる岡にして、扶桑略記に観音堂の在りし事を載す、此仏宇は金亀寺と号したるを以て、又金亀山の名あり、四津《ヨツ》川の裏湖を陰にし、市街は其陽に居る、佐和山佐渡根山は其東に連接す。
西寺《ニシデラ》 扶桑略記云、承暦三年、摂津国|水田《スヰダ》郡、石良里、有沙門徳満者、上野延末之子也、生年二十歳、両眼忽盲、経三簡年、参鞍馬寺、祈祷無験、従寺出、参籠長谷寺、至第七日、夢見自御帳中、老憎出来云、我力不及、汝当往近江国犬上西郡彦根山、西寺観音霊験之処、致誠祈願、夢覚、参着彦根山西寺、至第三日、両眼忽開、始見仏前灯明、件僧今往彼寺、常修長講、(已上出西寺験記)寛治三年十一月、藤原朝臣師道、参詣近江国犬上西郡、彦根山西寺観音、霊験天下無双之地也、内府頃年、耳根頗不聡利、然参寺後、其恙忽※[病垂/全]、十五日、摂政従二位藤原朝臣、(師実)並左大臣源朝臣、(俊房)同車参詣於彦根寺、廿二日、太上天皇(白河)引率王公卿相等、参入同寺、凡洛下貴賤、海内緇素、男女老少、皆以参拝、凌寒風雨飛軽車、侵甚雪而策疋馬、或観音入夢、延天齢於遐年、或菩薩出験、得人望於斯須。〇西寺は後世金亀寺と称し、慶長年中其山に築城せらるゝ事となりければ、西麓に移さる。
 彦根山あまねきかげと聞しかど八重の雲居にまどひぬるかな、〔夫木集〕         経信
 世をてら寸彦根の山の朝日にはこゝろもはれてしかぞかへりし、〔同上〕
        弁乳母
是の歌どもは、此彦根山を詠じたるや否やを知らずと雖、仮に此に係く、神代巻なる天津高日子根命の故事を詠じたりとも想はる、中古の歌人たち此山の観音大士の霊験に附会して、故事をよみ合せたるにや。
補【彦根十景】〇淡海地志 北野寺梅花、八幡宮秋野、沢山紅葉、横山暮雪、普門山桜、鳥籠山子規、宝林院藤、寵沢寺晩鐘、西湖秋月、松原時雨。
 
彦根城《ヒコネシロ》址 即彦根山なり、井伊直勝の築く所、慶長八年はじめて工を起し、歳を閲すること廿年にして竣功せり、徳川秀忠伊賀伊勢尾張美濃飛弾若狭越前の七箇国に役夫を課し、以て之を助けしめたりといふ、城廓周囲一里余、其中央に巍然として聳ゆる三層の天主楼は、京極高次が大津に築きしものを移す、西城三層楼は、浅井長政が小谷の城閣なり、天秤楼《テンビンヤグラ》門は羽柴秀吉が築きし長浜城門なり、皆当時の移建にして、明治維新後廃墟と為るも、尚毀撤を免る、楽々《ラクラク》園は城北三之丸の湖岸に在り、井伊氏の別邸にして、旧は槻御殿と称したり。〇輿地志略云、彦根は水陸形勝の所なり、其の地たる、三の口あり、高宮八幡口沢山切通口船手松原口なり、八幡口をもつて追手といふ、其道平地にして善利《セリ》川を隔て要害とす、橋あり善利橋といふ、沢山口を以て搦手とす、その路鳥居本より彦根にいたるの間、山岳を鑿開て路とす、故にその坂路険し、松原口は船手と称し、直に湖水に通ず、当城は軍家者流に所謂平山城なり、本丸は金亀山上にあつて、二三の郭次第に低し、初め此城金亀山の東北一里沢山にあり、沢山の城と号す、慶長五年九月、関原合戦、沢山城主石田治部少輔三成敗北の上、沢山落城に及びければ、神祖乃ち井伊掃部頭直政を此地に封じ給ふ、翌六年二月なり、直政以為らく沢山の城地狭少にして水利便ならず、移遷を請ふと、同八年直政の子直勝台命を蒙り、域を金亀山に築く、今の彦根城是なり。〇日本外史徳川紀、慶長七年春、井伊直政卒、直政以関原功、首賜石田氏故邑、居于沢山、奉命城彦根、未成而没、其子直勝襲封、十九年大坂之役、井伊直孝、以兄直勝癈疾不勝事、代摂其軍有功、将軍遂命領其国、直孝辞曰、直勝雖羸、有先臣養士在、毎有君事、臣摂馬従可矣、今以庶※[蘖の木が子]先嫡年、臣所不安也、又因安藤直次力請、将軍嘉賞、而不許。〇徳川加除封録云、慶長六牛弁伊兵部大輔直政六万石加賜、上野国高崎城より近江に移さる、前封を併せて十八万石、元和元年、右近大夫直勝に別封三万石を上野国に賜り、直孝(直勝弟、称掃部頭)に本宗を継がしむ、近江国長浜五万石を加賜、同五年又五万石を加賜せらる、寛永十年、直孝大老職たる累勲を以て五万石を加賜せられ、直孝少時の封一万石を并せ、合三十四万石、享保年中墾田一万石を加ふ、文久二年直弼の子直憲、其父大老職の日、王家に対し敬礼を欠き、公武の一和を失ひ、人心騒擾の基を開きたりとの責を以て、封十万石を削らる。〇日本教育史実料云、井伊直孝の彦根の城に居る、以為らく彦根の地たる京師に接近し、船路殊に便なり、若し文学を以て主とするときは、或は恐る士気文弱に陥り、武道の本意を亡失せん、如かず武を主として士気を養成せんにはと、是に於て武道を以て専門とし、文学を以て羽翼とす、直興の時に至り、世は益々泰平に帰し、文武対講に非ざれば治道を布き難きを以て、儒員佐藤直方を聘して之を抗礼し、自ら文を学び諸士をして就て学習せしむ、是より後専ら両道を練習せしむ、然れども尚ほ私の家塾にして、学校の設立あらず、寛政十一年、直中の時に至りて、遂に藩費を以て学校を創設し、爾来諸士をして就て文武を條練せしむ。
   琵琶湖春望           龍草盧
 春染琵琶湖上山、山青湖白曙雲間、花辺晴動金亀塁、雨後虹懸竹馬湾、千里風煙時極目、百年天地此怡顔、却慚孤客拜蓬態、不似清江鴎夢閑、
   彦禰              梁星巌
(718) 好似勾呉山水国、山成保障水成囲、蟠聯遠勢控三越、浩蕩余波及五畿、邑有善歌知政績、野無悪草見風威、旧封二百年屏翰、虎豹依然護九※[門/單]、
   彦根              頼山陽
 雄藩形勢控湖関、有客観光一往還、積水横包畿内地、浮雲斜指越前山、四疆魚稲豊饒処、百雉城楼縹緲間、難獲讃侯兼戦績、渠魁廃址不違顔、
補【彦根城】〇輿地志略 犬上郡金亀山にあり、土俗沢山の城といふは非なり、彦根をもつて沢山といひ、佐保山といふものも非なり、沢山の城は古城にて今はなし。学校は直中命じられて稽古館と称し、天保元年直亮命じて弘道館と改称し、彦根城西内曲輪或は郭内と称する地即ち今の金亀教校是なり。
 
松原《マツバラ》 旧名|千千《チチ》松原と曰へり、今|北青柳《キタアヲヤギ》村と改む、彦根町の北に接し、松原口とも称す、即湖岸の狭地にして太湖と内湖の間なる一島なり、南北に延びて北は磯山の埼頭に至る、長凡五十町、(幅二三町)故に五十町浜とも称す。〇輿地志略云、千々松原は古の屯倉の墟なるべし、類聚三代格曰、
 夫蓄貯者為国之本、宜連近江国近郡五万斛、貯納於松原倉者、伏望准拠旧例、運件国縁江諸郡穀、収穀倉院、続即運送越前国物、便填其代、云々。
按に山槐記に千松原は犬上郡と注し、大松原は志賀郡と注したり、松原穀倉院は此両処の中なるべし。
 けふよりぞ千々の松原ちぎり置き花は十返り君はよろづ世、〔続古今集〕        為長
 
多景島《タケシマ》 松原の正西、五十町計の湖心に在り、白石島の北東北に並べる岩嶼なり、周廻数百間、上に竹篠多し、明暦年中見塔寺と曰ふ庵を縛したる事あり、其縁起草山集に見ゆ。
 
堺入江《サカヒノイリエ》 彦根山の北なる裏湖を曰ふ、此江は坂田郡朝妻まで浸し、西は松原崎と磯山崎を以て、太湖と隔離し、長凡二里、幅広きは十余町狭きは一町許、朝妻入江とも呼ぶ、其|四津《ヨツ》川とも称するは狭長なる流れ江なればならん。(坂田郡朝妻参考)
 さざなみや堺の入江かげ見えて旅人通ふはまのほそみち、〔夫木集〕         為家
今米原梅原より、佐和山切通口へ掛け鉄道線を通ず、即入江の東岸なりと知るべし。
 
佐和山《サワヤマ》城址 佐和山一に沢山《サハヤマ》、又|佐保《サホ》山に作る、彦根町の東に在る岡陵なり、永正以後城塞ありて、数次の戦闘ありし所也。大八洲遊記、云清涼寺、旧島左近邸地、至近時大門猶存、寺僧無知、毀撤為薪、堂閣頗壮、老樹蔭堂、其背即佐和山故城、丹羽長秀所築、後石田三成居之、井伊侯亦初居此、後移居金亀、寺有大久保忠隣墓、又有懸崖、云女郎墜、東軍破佐和山、城中婦女投之多死、龍潭寺旧井伊侯香火院、風致亦清涼。〇今佐和山の下には清涼龍潭の二寺あり、上には石田氏の祀れる愛宕祠あり。
   泛掟舟金亀山下、升佐和墟作歌、   山陽
 金亀曳尾太湖水、背負層城百雉起、越山若山倒朝来、漕帆直到万家市、勲旧藩維功第一、庚子之事策誰決、東指胆岳雲蒼莽、関原在彼事可説、対峙一墟隔清波、渠魁所窟猶※[山+含]※[山+牙]、庶悪熊羆互相伐、寵幸起跡郤同科、天賜国材各因類、短弧寧敵赤夜叉、想見入封整鎧仗、戦血末乾蒸腥霞、吾甲在心赤更赤、湖波吹出太平色、
   新秋湖上               岡本黄石
 大火纔流白雁※[皐+羽]、何来爽気満江皐、今朝試上水西閣、七十二峰秋色高、
外史補云、江北京極氏高清、有病譲封於其将上坂泰貞、治于上坂、永正七年、泰貞入江南、陥松原、下佐和山、永正十五年、浅井亮政、移京極高清子高岑於小谷、使高岑遣使招降佐和山高宮、大永元年、六角定頼攻佐和山、亮政撃六角氏軍後、佐和山城将磯野伊予出城夾撃之、定頼脱走、元亀二年、織田信長囲佐和山、磯野員正叛、降信長。〇外史云、天正元年、信長入京師、囲三条城、遂与足利義昭行成、而還至守山、召丹羽長秀耳語曰、室町氏必再挙、再挙必阻勢多矢橋、汝伐沢山木、造兵艦十余艘、乃帰岐阜、既而義昭果再挙兵、信長直馳至沢山、乗其兵艦、夜済朝妻渡、旦日達坂下、直入京師、縦火呼譟、烟焔漲天、義昭兵拒勢多矢端者、返顧而潰、京師人大驚曰、織田公豈飛来邪。
浅井三代記云、永正七年、江北に於て佐和山の城を切かへさんとて、評定あり、侍大将上坂泰貞申けるは、佐和山の一里此方、米原|太尾《フトヲ》山に要害を拵へ、出張の足だまりにして、人数を二手に分ち、海手廻りは、磯山に楯こもる松原泳三右衛門成久を責さすべし、一手は鳥井口へ廻し、佐和山へ寄せ、小河孫七郎を責べしと一決す、即三月十六日、江北勢横山を立て、すりはり米原口へ押出したり、十七日江北勢は鳥居本に南向に備立て、江南勢は佐渡根《サトネ》山に押上り、敵味方二町計の合にて鬨を上ぐれば、佐和山城より小河切て出て、合戦一時計にて相引と為り、翌日再度の合戦、又決せずして引分る、同年六月十一日、江北勢急に磯山より松原村へ乱入し、切通口へ寄せければ、佐和山にて防ぐ様もなく、久徳高宮は変心し、江北勢を案内して尾末山へ押上りければ、小河孫七郎も是迄なりとて佐和山を退き、観音寺へ落行けり、即江北より磯野某を以て佐和山を守らしめらる。〇輿地志略云、佐和山の城は京極家の時、磯野右衛門大夫員詮、子丹波守員政相続して在城したり、元亀三年織田信長来て攻ること急にして、城つひに潰ゆ、信長その臣丹羽五郎左衛門尉(719)長秀にたまふ、後長秀封を若狭に受て移る、太閣秀吉(天正十一年)堀久太郎秀政を此地に封じ此城を賜る、その後秀政を越前国北荘に移して、此城を石田治部少輔三成にたまふ、三成二十三万石を領す、慶長五年、秀頼の命を偽て、諸将を招き軍を起す、九月十五日、関が原の一戦に敗す、このとき石田三成が父為成、兄 木工頭重成、その子左近大夫朝成、字喜多下野守頼忠等在城す、神祖筑前中納言田中兵部大輔をして之を攻めしむ、神祖は佐和山の南正法寺に陣営あり、福島正則は高宮愛知川の辺に陣す、城兵長谷川右兵衛反忠して火を掛ければ遂に落城す、九月十七日なり、翌年井伊直政此城を賜りしが、水利便あらずとて、城地を彦根山に換へられたり。
補【佐和山】〇江濃記 佐々木承禎父子は永禄七年浅井が濃州へ出張して斎藤と合戦する間に、此時人数を出し佐和山を乗取り、其後小谷に押寄、北の郡を切したがへ、年来の本意を達せんと、同年の三月廿二日一万四千の勢を率て佐和山へ馳向ひ、町屋を焼払遠巻にしたりけり。
 
里根《サトネ》 又佐渡根に作る、佐和山の東南に連る岡也、今青波村大字里根。〇浅井三代記云、永正七年三月、江北勢佐和山城を攻めんとて、敵すでに小野村大堀村に着しければ、江南は急ぎ佐和山の尾つづき、佐渡根山へ千五百騎を押上る。〇里根山は大洞弁天堂あるを以て、或は大洞《オホボラ》山と呼ぶ、堂宇は井伊氏の置く所にして、湖山の景勝を占む、山下に天寧寺あり、羅漢像五百余躯を置く、文政中條造す、寺中に井伊直弼※[病垂/夾/土]髪墳あり。(延喜式於富布良社は伊香郡木之本に在り)
   彦根城           茶山
 暮帆遙映女墻飛、大洞山頭雲未帰、真箇江城如画裡、臨風誰憶謝玄暉、
   泛湖遂登大洞山       山陽
 半湖残照落帆遅、且就津事倒一巵、病負白巌明月約、来逢紅葉即魚時、 又湖鳥双々触櫂飛、扁舟客与憺忘帰、忽然憶起老菅句、更上洞山看落暉、
   観花於天寧寺        黄石
 石磴半攀湖鏡開、山花宛作白雲堆、分明覚入荘厳界、一面琉璃暎発来
 
鳥籠《トコ》 古駅名なり、蓋今の鳥居本村(坂田郡へ入る)にして、中世は小野駅と称す、後駅家は其北に移り鳥居本宿と云ひ、鳥籠小野は廃絶したり、此駅は延喜式に、篠原(野洲郡)清水(神崎郡)鳥籠(犬上郡)横川(坂田郡)各十五疋と次第したる者にして、和名抄、犬上郡駅家郷とあるに当る、地形を観察するに磨針嶺は実に郡邑天然の分界にして、其南麓には一駅亭を要す、而も後世郡界紛乱し、鳥居本村は今坂田郡に属す、無稽はなはだしと謂ふべし。
 
鳥籠山《トコノヤマ》 日本書紀壬申乱の条に「七月戊戌、村国連男依等、討近江将秦友足、於鳥籠山斬之」とありて、万葉集にも不知哉川と読合せたり、今鳥居本村の南、大字原の上方なる正法寺山を鳥籠山と呼ぶ、不知哉川の北岸に在り。木曽路図会云、鳥籠山は大堀川(即不知哉川)の上にあり、俗に鍋尻山とも云ふ。
 鳴鹿は峰かふもとのとこの山旅の枕に声おくるなり〔夫木集〕            俊成
枕草子には「とこの山は、わが名もらすなと、帝のたまひけん、いとをかし」と載せたり、是は古今集読人不知に、
 犬上の床の山なる名取川いさとこたへて我名もらすな、〔古今集〕
とあるを岳本天皇と思惟したる也。此烏籠の山は中世以後其名亡びたる事は、小島口吟「犬上床の山不知哉川など云所は、痛く目に立ともなければ、いづくとも思ひわかず、されど名ある所は、たづねまほしかりしを、かゝる旅の空にすき/”\しからんもうるさくて、すぎ侍りし」云々とあるにても推知すべし。又床浦とも詠ず、即堺入江にて、鳥龍山の西なる江湾を指すならん、又鳥籠山を広く指せば、正法寺山より西は里根山佐和山の辺まで、都て鳥籠の古駅(鳥居本村大字小野)より見上る傍嶺と做して可なり。
 あれはててあらはぬ袖のうきにのみ哀れいく世の床の浦風、〔家集〕          定家
補【床山】〇小島のくちすさみ いぬかみ・とこの山・いさや川などいふ所は、万葉集に「近江路の床の山なる不知也川けふこのごろは恋ひつつもあらむ」草庵集に「渡るべきあさせも不知也五月雨に水増り行く床の山川」
 
小野《ヲノ》 今鳥居本村に属す、村南に在りて里根山の東なり、即古の鳥籠の駅家址とす。〇輿地志略云、小野は昔の駅舎にして、繁昌の地なりしとぞ、盛衰記に小野の宿と記せり、今は高宮鳥居本など駅次となりて、小野は農家となれり。〇勝地吐懐篇頭注云、名寄に出たる、宗尊親王鎌倉の将軍職を離れて、御帰京の時の御歌「浮身世に」の詞書に「小野の宿にとまり侍れば、なべての秋だにも露けかりぬべきに、旅寐の袖はまことにしぼる計なり」とあり、これは近江路の小野の宿にての述懐の御歌なるべし。
   小野宿にとまりて、云々、
 浮身世にいろかはり行く浅茅生の小野のかりねの袖ぞ露けき、〔名寄〕        中務卿親王
   東の方へまかりけるに、近江の小野といふ所にて、
 忘れつゝこれも夢かとおどろけば馴れぬたびねの小(720)野の山風、〔夫本巣〕       参議雅経
輿地志略云、小野荘は、古老の伝ふる所、後鳥羽天皇和歌所を置かせたまひて、当庄を附属し給ふ、即和歌所の預人、藤原俊成、定家、為家等相続して領せる地なりと。
補【小野荘】〇輿地志略 坂田郡小野荘、古老の伝ふ処後鳥羽天皇和歌所をおかせたまひて当荘を附属したまふ、和歌所領り藤原俊成定家為家相続して領処なりといふ。
吉塚荘 定家の旧領なりと明月記に見えたり、所在詳ならず。
 
鳥居本《トリヰモト》 彦根町の東北三十余町、国道の駅舎なり、今小野矢倉及び、東方霊仙の谷なる武奈《フナ》仏生寺荘厳など云ふ大字を合同し、鳥居本村と曰ふ、磨針嶺の南麓にして、美濃街道は之を過ぐ。其西に一支路あり、米原駅を経て長浜より越前北国に通ず、鉄道は今鳥居本に車駅を置かず、米原に於て東北の岐路を分つ、鳥居本駅より米原駅まで四十町、磨針嶺の西崖の下、朝妻入江に沿ひて往来す。〇鳥居本村、今坂田郡の管治なり。
鳥居本の名は、多賀神社の鳥居なりとも、又|日撫《ヒナツ》神社(坂田郡)の鳥居とも曰ふ、其鳥居門の在りしより此名起れるは必定ならん、或は疑ふ、往時霊仙岳に祀場ありて、其門を此山口に置きしにや、雲仙は鳥居本駅の直東二里に在り。
浅井三代記云、永正七年三月、江北勢は米原表醒井口に働きければ、江南方には高宮三河守久徳左近、佐和山へ後詰し、鳥居本村を焼かせ備を立つ、江北勢は摺針峠より打おろし合戦に及ぶ、其一手は米原より打立て矢倉と云所に押よせ戦たり、江南勢小河孫七郎取て返し寄手を破り、其間に佐和山城の内へ引入ける。
補【鳥居本】犬上郡〇淡海温故録 原は本名馬場の原と云、旧跡の由也、又此原の少し西に千鳥が岡と云小山あり、是は旧跡にて、古歌には原の岡山と読り。山家集に西行法師「朝かへるかりゐう〔夫木、いそ〕なこの村鳥は原の小萱に(夫木、をかやま)声〔越〕やしぬらん」夫木集に九条内大臣「木づたひて梢の蝉も鳴らしき青葉重なる原の岡山」
小野は小野の庄とて近処は皆此庄の由云へり、名寄に中務「浮身世に色かはり行く浅茅生の小野のかりねの袖ぞ露けき」
鳥居本は何れの鳥居にや知れず、今坂田郡となる。〇今鳥居本十四大字あり、磨針の南にて坂田郡嶺を隔つ。
 
 坂田郡
 
坂田《サカタ》郡 犬上郡の北、浅井郡の南にて、西は湖に至り、東は美濃に至る、東南二面は磨針霊仙伊吹の諸嶺環峙し、北は大略姉川を以て浅井と相限る。面積凡十五方里、人口七万、長浜町外十六村に分ち、郡衙は長浜に在り。〇鳥居本村は今坂田郡に属すれど、地勢全く犬上に入るべきを以て、本編之を彼郡に係ぐ。和名抄、坂田郡は佐加太と訓じ、九郷に分つ、吾名息長の地は夙く古史に著れ、息長坂田氏は淡海国の盛族なり。姓氏録、右京皇別、坂田|酒人《サカウド》真人、息長真人同祖、(息長真人、出自誉田天皇、諡応神、皇子稚渟毛二渟王之後也)一云、坂田真人、出自諡継体皇子仲王之後也、左京皇別、坂田宿禰、息長真人同祖、応神皇子稚渟毛二派王之後也、天渟中原瀛真人天皇(諡天武)御世、出家入道、法名信正、娶近江国人槻本公転戸女、生男石村、附母氏姓曰槻本公、男外従五位下老、男従五位上奈弖麻呂、次従五位下豊成、次豊人等皇統弥照天皇(諡桓武)延暦二十二年、贈宿禰姓、於是追陳文思、取祖父生長之地名、改槻本、賜坂田宿禰、今上弘仁四年、同奈弖麿等改賜朝賜姓。又右京諸蕃坂田村主、出自百済国人頭(一作顕)貴村主也。〇古事記伝云、明宮(応神)段に「御子若野毛二俣王、生藤原之琴節郎女」とあるは衣通姫の事也、其兄「大郎子、亦名意富々杼王者、坂酒人君等之祖」とある坂の下に田字脱たるにて、皆近江の坂田に母に随て在りしよしなり、書紀允恭天皇巻に「喚衣通郎姫、々随母以在於近江坂田」と記さる。〇按に息長坂田氏の事は、息長の地名の条下に注説する如き貴姓なるが、継体天皇の妃に息長真手王の女|麻組《ヲクミ》郎女、又坂田大股王の女黒比売ならび納れたまひ、其皇子仲王は又坂田真人の一家を為したまふ、以上貴種の息長坂田に因みある者五六家あり。〇氏族志云、坂田氏、真人姓、継体皇子仲王之後也、〔姓氏録〕壬申功臣、有坂田公雷、十二年改賜真人、〔日本書紀〕一条帝時、有右近衛大志坂田兼平、〔外記日記〕蓋其後也。
又天日檜は吾名邑に滞留したれど、其族党の在否を審にせず、推古紀「十四年、仏工鞍作鳥、給近江国坂田郡水田二十町」とあるは、姓氏録「坂田村主出自百済国人|頭貴《ツキ》村主也」と云ふに当るか、おのづから一家なり。〇国造本紀、淡海国造の次に額田国造と云ふ者ありて「志賀高穴穂朝(成務)御世、和邇臣祖、彦訓服命孫、大直侶宇《オホタタロウ》命定賜国造」とあり、度会延佳の説に額田は坂田の誤りなるべしと曰へり、按に開化天皇は丸邇臣の祖日子国意祁都命の女を娶り、日子坐王を生み、日子坐王に更に其母妹を娶りて、息長宿禰王の祖と為りたまふ、而て息長坂田は一処なるを思惟すれば、(721)国造本紀に額田国造とあるは、坂田と一所なるべき事信用に庶幾からん、丸邇は和珥にも作り、大和添上郡を本とし、族葉は城州江州に繁茂して、滋賀郡にも和邇の地名を遺せり、又往時の坂田の国境は浅井伊香郡をも籠めたるならん。〇再按、或人の説にも坂田は佐奴加太の略言にして、万葉集の句に「都久麻左野方息長之遠知能小菅」とあるを証すべしと述べたり、坂田額田は正略の別に出づと云ふは疑ふべしと雖、一地二名と思惟せば如何、令義解天長三年の勅宣に明法博士額田国造今足と云人あり、政事要略にも同じく額田国造今足の名を載せ、歴々たる名家とす。和名抄美濃国池田郡に額田郷あり、一説彼地を以て額田国造の旧境とす。
 あふみぢや坂田の稲をかりつみて道あるみよの初めにぞつく、〔長秋詠藻近江国風俗歌〕
坂田宮、坂田御厨は今法性寺村の中に在りと思はる。
補【坂田荘】〇輿地志略 坂田荘、民部卿奉憲常喜院を建立し、家領近江国坂田荘を割て寄附すると、寺門伝記に見えたり。
門徒十個寺 史徴墨宝考証、元亀元年四月、浅井備前守長政、職田信長に背て朝倉義景に合し、援を本願寺に乞ふ、本願寺近江十箇寺に檄し、門徒を果めて長政を授けしむ、十箇寺は誓願・金光・乗願・順慶・称名・超照・真宗・福田・福照・清願(寺名異同あり、今諸書を参取す)之を此郡十箇寺と称し、浅井伊香坂田三郡に跨踞す。
〇天智紀、三年十二月淡海国言、坂田郡人小竹田史身之猪槽水中忽然稲生、身取而収、日々致富。
 
米原《マイバラ》 今|入江《イリエ》村と改む、磨針嶺の西崖下にして、朝妻入江(即堺入江)に臨む、鉄道車駅にして美濃路越前路此にて岐分す、彦根の北二山里とす。〇淡海温故録云、米原の北に当て荒神《クワウジン》山と云ふ一座の岡山あり、俗伝、往古湖の砂を以て、富士を築き給ふ時、諸の神達運び疲れて、爰に暫く休み給ふ、其時足に付たる砂聊か落て此岡となりたりと云、又古歌に堺の入江とあるは、此米原の入江なり、坂田犬上二郡の堺にある故なり、入江の北岸は、即筑摩朝妻の里なり。
 
梅原《ウメハラ》 米原の南なる大字なり。〇輿地志略云、梅が原は藤原重光が磧礫集に、常徳院義尚公江東に留陣のころ、一日湖上に舟をうかべて御遊ありけるに、童子舟に棹さしつゝ来れり、何のところの者ぞとありけるに、梅が原の者にて侍ると申ければ、大樹是をきこしめつつ「湖辺自異山林興、童子尋梅棹小舟」と云ふ二句御意にかなひけり云々。
 春の日の光はきはもなけれども先さく花はうめはらの山、〔歌枕〕           俊成
按に梅原山は城州賀茂(愛宕郡)にも同名あり。
太尾《フトヲ》城址 此塞は米原に在り、文明年中、佐々木家の米原平内四郎の居る所にて、大永元年、六角定頼箕浦合戦の時、一手は太尾を攻めしが、抜けずして止み、永禄二年、江南勢遂に之を陥れたり、翌年浅井長政撃ちて之を下し、進みて江南を犯す事諸書に見ゆ。〔淡海地誌輿地志略浅井三代記〕城址の下に青岸《セイガン》寺あり。
補【梅原】坂田郡〇輿地志略 西は湖水の入江にして後は山なり、西は北国の街道なり、古昔たゞ梅樹のみ多くありけるより梅原の名あり、
 さゞ波や堺の入江影見えて旅人かよふ浜の細道(夫木集)           為家卿
那古海 名寄に西行法師は那古の海と読めり、米原の入江を言ふ、
 さしも草伊吹の嵩の山おろしに氷はてたる郡古の内海
 朝かへるかりゐに那古の村鳥は原の岡山越やしぬらん〔鳥居本、参照〕(山家集)
此二首の歌を見れば、極て米原表の内湖を那呉と云ふと見えたり。
 
朝妻《アサツマ》郷 和名抄、坂田郡朝妻郷、訓安佐都末。〇今入江村是なり、大字朝妻筑摩磯多良米原などあり、磨針峠の西麓にして、息長川(一名天野川)の末なり、西は大湖に臨み南に裏湖を擁す、裏湖即朝妻入江にして、又堺入江と称す。〇輿地志略云、朝妻は古昔湖東の大湊にして、往来の船こゝにかゝりて繁昌せり、百五六十年以前より、船かゝらずなりぬ、即慶長の頃より、湊は米原へかはるが故なり。
 あさつまのみゐのこの影しげりあひて栄えにし世を見るがたのしさ、〔兼盛集大嘗会歌〕 朝つまや旗さすこまの声たてゝ勢多の長橋ひきわたす也、〔永久四年次郎百首〕
   朝妻の浦にとまりて、其のあさおき侍りて、
 見し夢のあさ妻ふねや立かへるなみだ計りを袖にのこして、〔東路記〕        仁和寺尊海
 をちかたや朝妻山にてる月のひかりをよするしがの浦波、〔冶承三年右大臣家歌合〕
 にほのうみやあさつま舟も出にけりつなぐこほりを風やとくらん、〔夫木集〕
 あはれなりさしてよるべもなみまくらあさつま舟のうかれ妻はも          伴蒿溪
朝妻船の図とて、遊君の棹さすすがたは、原拠する所を知らずと雖、元禄中英一蝶の画く者ありて、世に之を伝播す、其詞に曰ふ、
 あだしあだ波、よせてはかへる波、朝妻舟のあさましや、ああ又あすの夜は、誰とちぎりをかはして、(722)まくらはづかし、いつはり勝なる、わが床の山、よしこれとても、世の中、
補【朝妻郷】坂田郡〇和名抄郡郷考 兼盛集大嘗会歌、「あさつまのみゐのこのかげしげりあひてさかえにし世をみるがたのしさ」志略、今朝妻村あり、此辺なり。永久四年次郎百首、顕仲(夫木)「あきつまや旗さす駒のこゑたてゝせたの長橋引わたすなり」治承三年十月十八日右大臣家歌合、頼政「をちかたやあさつま山にてる月のひかりをよするしがの浦波」仁和寺僧正尊海あづまの道の記、朝妻の浦にとまりてその朝おき侍りて「見し夢の朝つま船や立かへる涙ばかりを袖にのこして」諸国廃城考、朝妻城。〇伴蒿溪云、或名所集、辛崎の条下に朝妻読合とばかりかけるを見て、いとまぢかき所のやうによみし人あり、から崎は比えの東坂本にて志賀郡、浅妻は筑間に隣て坂田郡なり、湖を中に隔て、あはひ十里余やあらん、然るをよみ合といへるは後京極のうた「浅妻や遠の外山にいづる日の氷をみがくしがのから崎」といふによれるにや、これは辛崎より東に遠く、浅妻山見ゆるけしきなり。志略、筑摩村の北にあり、此地古昔は湖東の大湊にして、往来のふねこゝにかゝりて繁昌せり、百五六十年以前より船かゝらずなりぬ、慶長のころより湊米原へかはるが故也、朝妻或は旦妻に作る。元久詩歌合、業清「あさつまや雲のをちかたかすむなりはなかあらぬかしがのうらなみ」
補【朝妻船】〇名所図会 むかしは朝妻の里は湊にしてゆきかふ船泊り、江口神崎のごとくうかれ女船にてあそびけると也、ある人此舟の讃して「あだしあだ波云々」〔詞章、略〕
 
筑摩《ツクマ》 今入江村の大字にして、朝妻の西に接す、大湖の浜なる漁村なり。〇筑摩は中古の御厨にして、殊に名高し、延喜式云「凡内膳司、近江筑摩御厨長、歴六年為限、又正親司、漬年料雑菜、造醤鮨鮒各十石、味塩鮒三石四斗、近江国筑摩厨所進、凡筑摩長沢膳部中補之」、また扶桑略記、延久二年、永く筑摩御厨を停止せらるる旨を載す、万葉集に託間野《タクマノ》と云ふも此なるべし。
 託間野に生ふる紫きぬにそめいまだきずしていろに出にけり、〔万葉集〕       笠女郎
 近江にか有と云ふなるみくり(御厨)くる人くるしめの筑摩江の沼〔後拾遺集〕    道信
 つくま江の沼江の水や深かりし人くるしめのあやめ引なり、〔夫木集〕        公朝
筑摩江と云ふは即朝妻入江を指すか、又息長川の末を指すにや、詳ならず。〇万葉集、巻十三の長歌に「しなてる都久麻左野方息長の遠智のこすげあまなくに」云々と詠ず。略解云、筑摩息長共に坂田郡なれば、佐野方《サヌカタ》は其筑摩の郷の内にて、遠智は息長の内に在る地名なり。(一説狭野方は額田と云へる地名の中の一所にて、狭額田といへるなりと、坂田国を参考すべし)。 狭野方は実にならずとも花のみもさきて見えこそ恋のなぐさに、〔万葉集〕 沙額田の野辺の秋はぎ時なれば今さかりなり折てかざさむ、〔同上〕
 
筑摩《ツクマ》神社 筑摩の生土神なり、土俗市杵島姫を祭ると云ふ。〇雑和集云、近江国つくま明神と申神おはします、其神の御誓にて、女の男したる数に随て、鍋を作て其祭の日奉るなり、男あまたしたる人は、見ぐるしがりて、少し奉りなどしつれば、物のあしくてやみなどしてあしければ、数の如くして祈れば、なほりなんとする「近江なるつくまの祭はやせなんつれなき人の鍋の数見む」とある和歌集に出たり。〇神祇志料云、筑摩神は筑間浦に在り、〔佐々木見聞録、和爾雅、行嚢鈔〕蓋御食津神を祭る、〔参酌延喜式本社伝説〕仁寿二年従五位下を授く、〔文徳実録〕凡二月初午日、農器三具、奉て之を祭り、四月八日八女各鍋釜を戴き、神饌を備ふ、即古の遺風也、〔佐々木見聞録、参取伊勢物語拾遺和歌集〕按拾遺和歌集云「いつしかも筑摩の祭とくせなむつれなき人の鍋の数みむ」蓋本社の祭に婦人改嫁ぐ者をして、鍋を戴て祭に従はしむ、其鍋の数又改嫁の数の如くならしめて、二夫に見ゆる事を戒むる也。〇此筑摩祭の故事と、越中国|鵜坂《ウサカ》祭は相同じかるべし、俊頼秘抄云「筑麻明神の御誓にて、女の男したる数に従ひて、土鍋を祭の日奉る也、男あまたしたる女は見苦しがりて、少し奉れば病してあしければ、つひに数の如く奉りて祈り、ことなほりけり、鵜坂祭の日は、榊にて女の男したる数に従て打也」云々。
 
磯前《イソザキ》 今入江村に属し、大字磯と曰ふ、筑摩の南にして朝妻入江と大湖の間なる一島なり、狭長にして南端は彦根の松原埼に触る、其堺溝を四川《ヨツカハ》と呼ぶ。〇磯村は土俗|善積《ヨシツミ》島と云ふ、磯前明神は息長氏の祖神なる日本武尊を祭るにや、白鳥明神とも称し、本地堂あり不動明王を安置すれば、明王埼と呼ぶ者あり。
 磯前をこぎたみゆけば近江のみ八十の湊に鵠さはに鳴く、〔万葉集〕         高市連黒人
 さゞれなみ磯越路なる能登瀬川音のさやけきたぎつ瀬毎に、〔同上〕         波多臣
按に八十の湊は今詳ならずと雖、磯前は必定此ならん、後なる能登瀬川の詠は疑はし、息長川の辺に能登瀬の地名あれど、越路《コセヂ》と云は和州の巨勢山なるべしと曰へり、磯は発語に過ぎじ、再考を要す。
 
(723)磯山《イソヤマ》城址 磯前山に在り、六角京極両家争奪を競へる塞也、浅井三代記云、永正七年三月、江北勢米原表へ働き、一手を浦へ廻し、磯山に楯籠る松原弥三右衛門尉成久が城へ押よせける、成久二百五十騎にて打て出で明神山の上にて暫しが程支へしが防ぎかねて城中へ引取りて丈夫に固めたり、江南の援兵後藤但馬守之を聞き、五十町浜を直に急ぎけるが、昨夜の雨にて四川《ヨツカハ》水増り、白浪青海をうち、中々渡すべき様なし、此磯山と申は、東は佐和山の尾つゞき二町計間きれ、入江廻て底深く、南は四津川常は歩渡りなれども、入江の水裾なれば、水増れば二町計りも海面になる、西は湖水渺々として限りもなく、北も入江に引つゝまる、凡入江と海の間は一町半計の陸路あり、磯筑間朝妻と詠ぜし村も此間に続き、江北よりは道の便りよし、去れば江南勢四津川の入江の端に猶予し、兵船七八艘押出し、平駄と云小舟三艘明神山へ乗切る間に、磯山の城はすでに叶はじとて、成久切腹したりけり、江南勢今は力なしとて、其陣十町引取、五十町浜に備を立つ云々。
補【磯崎】坂田郡〇淡海温故録 此処に不動あり、故に明王の崎共云、
 邪呉の海の塩ひのかたの秋霧になほあらはれぬ磯の浦松(夫木集)        為家卿
 
阿那《アナ》郷 和名抄、坂田郡阿那郷。〇今|息長《オキナガ》村南|箕浦《ミノウラ》村なるべし、朝妻郷の東に接し、息長川の谷なり、南に磨針嶺あり、中世は箕浦村と曰へり、今北箕浦を息長村と称す。
古事記掖上宮(孝昭)段に「御子天押帯日子命者、阿那臣之祖也」とあるは此地の邑主の家なり、姓氏録「右京皇別、真野臣、和邇部、安那公同祖、天足彦国押人彦命三世孫、彦国葺命之後也」とありて、即近淡海国造和爾臣などと一族にして、其後裔は吉備の穴国造と為る。国造本紀に「吉備穴国造、纏向日代朝(景行)御世和邇臣同祖、彦訓服命孫八千足尼定賜国造」と見ゆ。彦訓服は彦国葺に同じ、天押帯日子命の三世孫なり。〇日本書紀垂仁紀の一書「注曰、天日槍自菟道河泝、北入近江国、暫住吾名邑、是以近江国鏡谷(蒲生郡)陶人、削天日槍従人也」と、而て通証曰「坂田郡、今吾名邑、有天日矛之故蹤」。按に阿那吾名は旧号にして、其後応神天皇の皇子、若野毛二俣王の領地となり、其王孫相続して息長《オキナガ》氏と曰ふ、是より後は息長を以て此なる地名に転じたり。野洲郡なる三上神の女に、名は息長水依比売と申すは日子坐王の御妻にして、夙に此地に住せたまへるにや、日子坐王また丸邇《ワニ》臣の祖の女に娶りて、山代の大筒木真若王を生み、大筒木王の三世孫を息長宿禰王と申し、神功皇后即其女にましまして息長帯姫と号し奉る、故に応神天皇の御子若野毛二俣王は、息長真若弟比売を娶り意富富抒王を生みたまひ、其後裔は息長坂太酒人君これなりけり、而て日本武尊の「一妻之子、息長田別王、此王之子杙俣長日子王、此王之子真若弟比売」〔古事記〕とあるに参照すれば、息長氏の由緒の深きを知るべし、日本書紀、天武十三年、息長公等十三人、賜姓曰真人、姓氏録、息長真人、又息長連、稚渟毛二俣王之後也。〇氏族志、按三代実録、貞観中使近江坂田郡穴太氏譜図、与息長坂田酒人二氏、同巻進官、又往生極楽記、有坂太郡人息長某、息長近江地名、即其本貫也、一条帝時、有近江筑摩御厨長息長光保、見于外記日記。(山城綴喜郡の息長を参照)
補【阿那郷】坂田郡〇和名抄郡郷考 垂仁紀三年三月、引一書云、天日槍自菟道河泝之、北入近江国吾名邑而暫住。志略、今所在詳ならず。〇息長郷横川洞より起因す。
 
息長《オキナガ》墓 延喜式云、息長墓、舒明天皇之祖母、名曰広姫、在近江国坂田郡、兆域東西一町南北一町守戸三煙。〇按に広姫は息長真手王の女にて、敏達天皇の皇后と為り、押坂彦人を生む、王孫践詐、之を息長足日広額天皇と号し奉る、後諡して舒明と曰ふ、広姫の故里は即此坂田息長なりしならん。今御陵の在所詳ならず、一説大原村大字|村居田《ムラヰタ》の古墳を以て、后墓に擬すれど、信拠に足らず、息長村大字顔戸の日撫神社の南数十間にして、息長宿禰王の墓あり、此辺に在るべし。
禰【息長陵】坂田郡〇一隅抄 大原荘村井田村、皇后塚。〔大原郷、参照〕
 
日撫《ヒナツ》神社 延喜式に列す、今|顔戸《カホト》に在り、此社の南一町許に息長宿禰王の古墳と伝ふる者あり。〔輿地志略〕〇按に新撰姓氏録続日本後紀に、山田造火撫直ありて、共に後漢霊帝四世孫阿知使主の後と云ふ、又坂上系図に摂津三河近江等漢人は皆阿知王の族なりと云り、是に拠れば、二氏の族或は此地に居る者、其祖先を祀れる乎。〔神祇志料〕但し皇極紀に息長山田公と云ふは、同地なれど異族にやあらん、犬上郡に安食郷日夏村ありて、阿自岐神社も在り、亦参考すべし。(番場の山田社参看)
補【日撫神社】〇神祇志料 今顔戸村にあり、凡そ其祭四月中丑日を用ふ(近江輿地志略)〔按に以下略〕
 
顔戸《カホト》 今息長村の大字なり、大字箕浦の北に接し、長浜町の南二里とす、江南江北勢の箕浦合戦の時、浅井亮政顔戸山に旗を挙げたる事あり。
 
息長《オキナガ》川 今|天野《テンノ》川又箕浦川と云ふ、伊吹山の西南、弥高《イヤタカ》大清水の辺より発し西南流、長岡醒井を経て西に折れ、筑摩の北に至り湖に入る、長凡五里(724)天武紀に息長の横川《ヨコカハ》と云ふも此なり。
 にほどりの於吉奈我河はたえぬとも君にかたらむこと尽めやも、〔万葉集〕横川の駅家は即今の醒井の宿にして、壬申乱の戦場も彼処なるべし、下の横川の条を併看すべし、旧説息長を沖中と説く。和訓栞云、息長川は沖中川とも書く、川の水尾の海中に入て、猶水すぢの青みたちて見ゆるを云ふと曰へり。賀茂季鷹云、息長川は近江に在り、沖中の説いかがにや、伴信友云、旧説に沖中と云ひ海の中を流ると云。河海抄に曰ふ、にほ鳥のおきなが川はたえぬとも云々、是は鳰は息長き鳥なれど、久く水底に得耐へぬ事を云ふなるべし。
 
箕浦《ミノウラ》 中世の庄名にして、今息長村南箕浦村の二と為る、大字箕浦の息長村に属し天野《テンノ》川の北岸に在り、大字|新庄《シンジャウ》と相接す、戦国の頃、箕浦氏新庄氏と云は、即此地の郷士なり。〇箕浦は古の息長里にして、江北江南美濃三路の交会たり、保元物語に六条判官為義坂下(滋賀郡)より蓑浦に走り、東国に赴かんと欲して果さゞりし由を記す、蓑浦亦此なるべし、六角浅井の箕浦合戦は、長享年後兵乱記には享禄四年四月六日の事と為す、他書には大永元年と為せり、磨針嶺地頭山参考すべし。〇温故録云、箕浦庄は、江州山本源氏義定の流に、箕浦冠者義明あり、即其領地たり、太平記には箕浦次郎右衛門、同息四郎左衛門同弥次郎などありて、坂田郡の市場なり、近代には今井新庄二氏あり、織田家へ降附したり、新庄駿河守直頼は封侯と為り、徳川幕府の時常州聴里邑一万石を食す。〇野史云、新庄直頼、近江人也、内蔵検校行俊十二世孫直俊、住坂田郡新庄、因以為族号、祖父直寛、字与三、父直島称蔵人、築朝妻城拠之、直頼初字新三郎、天正中称駿河守、慶長庚子之乱、党石田三成、掠略伊賀、軍終減死一等、配于会津、遇赦賜常陸麻生之田。
 
能登瀬《ノトセ》 今息長村の大字なり、大同類聚方に、乃止瀬薬と云ふは、此邑より出でし方剤ならん。能登瀬の東北に鎌刃城址あり、堀能登守の本郷門根城と曰ふ者蓋是なり。
 
山津照《ヤマツテル》神社 能登瀬に在り、今|青木大梵《アヲキダイボン》天王と曰ふ、金勝寺僧徒、此神の為めに度者を奏請して聴されたる事、類聚三代格に見ゆ、爾後柏原郷に供僧別院を置き、山津照神を以て鎮守と為す、祭る所は蓋古の息長氏の祖神ならん、祠辺に息長宿禰王の古墳と称する者あり。新抄格勅符、天平神護二年、近江地六戸を此神に奉り、三代実録、貞観八年授位、延喜式に列せる官社なり。
輿地志略云、青木大梵天王は能登瀬村にあり、往古は大社にして厳重なりしと云ふ、当社の絵馬歌仙開眼の法則一巻、柏原成菩提院にあり、甚感賞すべきものなり、当社に神記なし、近頃西京の僧鳳潭略記を記す、曰く「江州琵琶湖の東坂田郡に山あり、大光山と号す、五廟あり、第一社は青木の大祖正一位鎮守府将軍武蔵守時長なり、其先は乃ち大織冠鎌足公の七世、正一位越前守藤原高房公の男なり、母は藤の真夏卿の息女なり、第二社は鎮守府将軍武蔵守正二位利仁なり、勲績天下に聞ゆ、それより已降孫子みな藤原武門の嫡葉と称す、是に※[瑤の旁+系]て後代祭祀の時、必群国の藤家武族をして執祀の儀を司らしむ、第三社は武蔵守正一位青木大宮大明神の廟と号す、第四社は武蔵守吉信、正一位青木新宮大明神の廟なり、第五社は伊伝武蔵守正一位青木新宮大明神廟なり、以上凡九代、太祖時長より歴代北陸道管領となりて、越前の城に藩屏たり、十三世武蔵守頼忠に至る、文治の初箕浦河の辺に五廟を立つ云々」と、光厳帝院宣あり、
 近江国青木大梵天王本社為勅願之儀遂修造之砌殊可奉祈天下泰平者
 院宣如此仍執達如件
  暦応六年十月四日  按察使経顕
   本願上人御房
〇按に山津照神は、夙に新抄格勅符に載すれば、藤原時長利仁などと混乱せらるべきに非ず、鳳潭の廟記に云ふごとき妄説は世上に其例なきにもあらねど、其粗漫も亦憧れりと謂ふべし、近年山津照祠と青木祠を分割して、其祀域を別異す。
補【山津照神社】〇神祇志料 今能登瀬村にあり(近江輿地志略・郡山藩式社調)称徳天皇天平神護二年、近江地六戸を神封に充奉り(新抄格勅符)清和天皇貞観八年三月壬子、従四位上山津照神に正四位下を授く(三代実録)
 按、扶桑略記醍醐天皇延長六年五月丙午、坂田郡山津照子乃明神位記請印とあるは即此神也、然ども其神階詳ならず、姑附て考に備ふ
初朝廷諸国に神宮寺を建給ひしより、天長承和の際、或は神封の丁を割て神宮寺に充て、或は宮司氏人をして神宮寺を修理せしめ、此に至て神地を侵て寺領とするの弊あり、此後僧円珍の徒専ら妄説を唱へ、神祟に託て朝廷を欺き、賀茂、春日、大比叡、小比叡、飯道山津照、三上、兵主諸名神の為に度僧を請ふ、朝廷又皆之を聴し給ふ時は、神道何ぞ衰へざる事を得む(参取三代実録・類聚三代格・扶桑略記)
 
磨針嶺《スリハリタウゲ》 南箕浦村に属す、東は霊仙岳に連り、西は湖岸に至る、山上に番場駅あり、山南は鳥居本村、山北は醒井村にして、美濃路之に係る、其絶頂は番場駅の西南に在り、湖山の観望太だ広し、鉄道今嶺の西麓を繞り、米原を車駅とす。(725)兼良公藤河記云、すりはり峠を南へ下るとて、右にかへりみれば、筑夫《チクフ》島などかすかにみえて、遠望まなこをこらす、麓に神田《カウダ》といふ所の、一つなき田などみゆ、又左の方には聳えたる岩に、松一本ある、その下に石塔あり、西行法師が塚といひ伝へたるとなん、(按神田は今鳥居本村大字|甲田《カフダ》なり)
 南行数里下陽坡、西望平湖遠不波、孤島屹然何所似、瑠璃万頃一青螺、
 たびごろもほころびぬれやすり針の峠にきてもぬふ人のなき。
    過磨針山          僧義堂
 行到磨針最上峰、一湖春水浸天容、眸擡稍覚王居近、五色雲浮喜気濃、〔空拳集〕
    戊辰正月九日、発京急帰大垣城、
 路到磨鍼感忽生、馬頭遠水夕陽明、掃除天下兵塵了、与此湖光一碧平、        小原鉄心
謡曲東国下云、まだ通路もあさぢふの、小野の宿より見渡せば、斧を磨きしすり針や、番馬と音の聞えしは、此山松の夕嵐、旅寐の夢もさめが井の、自ら結ぶ草枕。
〇大永六年九月、六角定頼江北へ向け進発せられ、先づ其本陣は摺針山に据らる、浅井は七千騎番場の上|地頭《ヂドウ》山に本陣をすゑらる、十二日、亮政地頭山の西六波羅山へ移り、其南の蓮華寺を引包む、伏勢は両山の間さいかち森に隠し置く、定頼は峠の南東五町計の岑へ打上り、遂に合戦に及ぶ。(浅井三代記)
補【磨鍼嶺】坂田郡〇提要 下矢倉村と番場駅の間にあり、下矢倉村東海より六町余、望湖の勝地なり。
 
番場《バンバ》 今南箕浦村と改む、息長川の南岸にて、磨針領に在る山駅なり、南は鳥居本まで一里、北は醒井まで一里。〇温故録云、番場宿は関※[賤の旁+立刀]の跡にて、当時番衛の人々居れり、故に番場の名起れりと、鳥居本村の百々氏は此関所の奉行なりき、元弘の乱六波羅を始め、北条家の大将軍以下四百八十余人、番場にて自害のこと太平記に見えたり、又六角定頼浅井亮政と地頭山にての戦、当国に聞え高き軍なり、三代記に詳なり。(再考、山田祠の馬場《ババ》の義也)
梅松論云、両六波羅の仲時時益は、主上を奉じて東国へ落行きけるに、番場の宿の山上に、先帝の御方と号して近江美濃伊實伊勢の悪党共旗を上、楯をつきならべて海道をきしふさぎぬ、大将仲時いはく、我等命を生て、君を敵に奪はれんこそ恥なるべけれ、命を捨て後は何事か有べきとて、酉の時計に自害する間、従へる輩数百人同く命を落す、南方時益は、去夜四宮河原にて、流失にあたりて死去。〇大日本史云、元弘三年五日、守良親王起兵、要撃北条仲時于近江番場、仲時入蓮花寺自殺、従死四百人、塞在焉。
 
蓮花寺《レンゲジ》 木曽路図会云、蓮華寺は八葉山と号し、番場の駅中に在り、弘安七年、俊聖法師建立、願主道日法師(俗姓土肥元頼、堂の左の方に墓あり)時宗三十五世他阿上人こゝに来て時宗となす、元弘三年五月九日、当寺米山の麓一向堂の前に於て、北条越後守仲時随士四百三十四人、京都を落て爰に自害す、当寺過古牒にあり、執筆槽谷十郎と記す、寺より向ふにあたる山を六波羅山と云、其屍を埋し塚あり、太平記に所謂「五百余騎辻堂の庭にぞおり居たる」と云処なり。〇蓮華寺過去牒は摸写本世に伝ふ、鎌倉武士の最期の悲哀を伝ふる一巻なり、太平記は記事誤謬あれど、下に引くべし。太平記云、元弘三年五月計り、両六波羅京都の合戦に討ち負けて.関東へ落さるるよし披露ありければ、安食、篠原、日夏、老曽、愛智河、小野、四十九院、摺針、番馬、醒井《サメガヰ》、柏原、其外伊吹山の麓、鈴鹿河の辺の山賊、強盗、溢者共二三千人、一度の程に馳せ集りて、先帝第五の宮御遁世の体にて伊吹の麓に忍びて御座ありけるを、大将に取り奉りて、錦の御旗を差しあげ、東山道第一の難所、番馬の宿の東乃ち小山の峰に取り上り、岸の下なる細道を、中に夾みて待ち懸げたり、夜明けゝれば越後守仲時、篠原の宿を立ちて、仙蹕を重山の深きに促し奉る、都を出でし昨日までは、供奉の兵三千騎に余りしかども、次第に落ち散りけるにや、今は僅々七百騎にも足らざりけり、仲時は運つきたりとて自害す、都合四百三十二人同時に腹をぞ切りたりける、死骸は庭に充満して、屠所の肉に異ならず、主上上皇は此死人どもの有様を御覧ずるに、気も心も御身にそはず、只あきれてぞましましけるを五宮の官軍ども、主上上皇を取り進らせて、其日先づ長光寺へ入奉り、三種神器并に玄象下濃二間の御本尊に至るまで、自ら五宮の御方へぞ渡されける。〇近江名跡記云、蓮華寺は往古は米山の下に在り法隆寺と曰ふ、中絶の後筑州竹野庄司永泰の子俊聖法師、弘安七年此地に来り土肥入道通日と力を協せ中興し、時宗の念仏場と為す、十七代明道上人は時誉あり、永禄五年勅願の綸旨を賜り、天和三年、妙法院堯延法親王蓮華寺縁起を撰述せさせ給ふ、六波羅山の古墓は、本寺の西四町許とす。〇俊聖中興の事は鐘銘「敬白奉鋳江州馬場宿蓮華寺突鐘事右当寺者弥陀安置之道場念仏勤行之霊砌也(中略)禅定大法主恭為大檀那有莫大御助成(中略)弘安七年(下略)」などあるにて知らる。
 
地頭山《ヂトウヤマ》 外史補浅井記云、大永元年九月、六角定頼来侵至磨針、浅井亮政便赤尾教政拒之、於無常堂、而自軍六波羅山、伏兵蓮華寺及地頭六波羅両山間、已而亮政軍敗走、新庄保今村城、定頼陣地頭山、而高政即夜分兵、向門根醒井口讃岐口、而親率精兵登(726)地頭山、約已定、而城将今井頼弘素通於敵謀泄、定頼囲地頭山、亮政欲自殺、大橋秀元諌之、井口義氏貌似亮政、自※[手偏+環の旁]亮政甲代死贈其首敵中、定頼乃解囲還。〇按に大永元年の箕浦合戦は、長享年後兵乱記に「享禄四年四月六日、箕浦合戦、浅井敗北、定頼得勝」と云ふに同じかるべし、江濃記三代記の年紀疑ふべし。
 
山田《ヤマダ》神社 延喜式に列す、今番場駅に在り、〔神祇志料〕按に書紀云、皇極元年、初発息長足日広額天皇(舒明)喪、息長山田公、奉誄日嗣云々」この息長山田公の祖神即此なるべし、而て天皇の祖母息長広姫は息長真手王の女にませるを想へば、此祠は息長公の祖若野毛二俣王を祭るならん。
補【山田神社】〇神祇志料 今馬場村にあり(彦根藩取調書・滋賀県注進状) 按、新撰姓氏録、息長真人・坂田酒人真人・坂田宿禰等並に応神天皇皇子稚渟毛二俣王の後にして、近江国に住て槻本公を賜へる事見えたるを思ふに、皇極紀息長山田公あり、此国に由あり、然れば本社は其祖先を祭れるなるべし。
醒井《サメガヰ》 今醒井村と曰ふ、醒井の駅の南は霊仙岳そびえ、山中に丹生と云ふ大字あり、此村は箕浦庄の東に接し、息長川の南岸に在り、磨針嶺番場の北一里、柏原駅の西五十町なる山駅なり、即天武紀(壬申乱の条に)「村国男依等、与近江軍戦息長構河、破之」とある地にして、続紀「天平十二年十二月、車駕幸伊勢、遂到美濃、帰従不破発、至坂田郡横川頓宮、又延喜式「駅馬鳥籠横河各十五疋、坂田郡伝馬五疋」とある皆此也、和名抄には坂田郡駅家郷と曰ふ、而て今の丹生を上丹《カミニフ》郷と録したるを見れば、此駅家は下丹郷と称したるならん。
唇寤水 古事記、日代宮段云、倭建命、騰|伊服岐能山《イブキノヤマ》還到|玉倉部《タマクラブ》之清水、以息坐之時、御心稍※[寤の爿が木]、故号其清水、謂|居寤《ヰサメ》清水也。〇按に玉倉部は柏原村のタケクラベと称する地、若くは美濃国不破郡玉村なるべし、然れども此醒井駅も古より倭建命の故跡を伝へ、殊に其一妻に息長田別比売と申奉るありて、即息長君の外戚家なれば、参考の為めに此に係ぐ。〇木曽路図会云、居※[寤の爿が木]清水は今醒井駅の中、民家の前に在り、傍に倭建命の腰懸国鞍掛とて大石あり。〇古事記伝云、居醒の清水は美濃ならむ、然れども東関紀行に「音に聞しさめがゐを見れば、陰くらき木の下の岩根より、流れ出る清水、あまり涼しきまですみわたりて、実に身にしむ斗りなり」撰集抄に此清水を「延喜の末に旱のせしとき、仲※[竹/弄]と云僧の水を涌さむとて、剣して山の岸を切たるに、忽流出初たる由」記せり、されど醒が井の名は倭建命の御ことに依れる如く聞ゆ。藤川日記云、さめが井と云所、清水いは根より流る、一筋は上より一筋は下より流れて、末にて一つに流れあふ、まことやらむ、此水は美濃の養老の滝につづきたりと曰へり、暫く此にやすみて、
 夏の日も結べば碓き氷にて暑さややがて醒が井の水。
補【上丹郷】坂田郡〇和名抄郡郷考 上丹、加無爾布。節用集、丹生山。正濫抄、上津丹生といふをかくはつづめたり。志略、今上下の丹生村あり、これなるべし。
 
横川《ヨカハ》 息長川の一名にて、古は東山道の通路こゝに至り息長の溪澗に沿ひて東西に走るを以て横川《ヨカハ》の名を負へるならん、(比叡山の横川と混ずべからず)更料日記曰「不破の関あづさ山(柏原村梓河内)などこえて、近江国おきながと云、人の家にやどり云々」横川駅は即醒井にて、息長とも呼べるならん。
 
柏原《カシハバラ》 醒井の東につゞく山駅なり、梓河内《アヅサカウチ》と云ふ山を隔て五十町計り、又美濃国界を去る一里長岡停車場の東南一里、伊吹山は駅北三里にあたる。東関紀行云、柏原と云所を立て、美濃国関山にもかゝりぬ、越果ぬれば不破の関屋なり。藤川記云、かしは原にて、
 ふく風やまたこぬ秋をかしは原はびろかしはの名にはかくれず。           兼良
 おひ下る山のほそ野の柏原もとつ葉まじりしぐる頃かな、〔海道百首〕        為相
東鑑、建久元年の条に近江国柏原庄、又承久三年の条に近江国柏原弥三郎と云人あり、皆此にや、和名抄伊香郡にも柏原郷あり。〇南山巡狩録、正平八年正月、佐々木佐渡判官入道道誉、北野社参と称して近江国に下向し、柏原城に閑居なすよし披露す、是は去年饗庭命鶴丸氏直上洛してより、義詮に相はかりて、尊氏に讒をかまへけるよしをつたへきゝて、欝陶に堪へずしてひそかに知音をかたらひ、こゝに及ぶ所なり。
〔園太暦〕
 梓山美濃の中道たえしよりわが身に秋のなると知りにき、〔名寄〕          好忠
補【柏原郷】坂田郡〇和名抄郡郷考 東鑑建久元年十一月、近江国柏原荘。後成恩寺関白ふぢ川の記、かしは原にて「ふく風やまたこぬ秋をかしは原はびろかしはの名にはかくれず」たけくらべといふはあふみとみのとの山を左右にみてゆく所なり。結城戦場物語、持氏を退治せよとの御諚にて、上杉兵庫のかみを大将にて打立、其勢十万余騎、永享十年七月廿三日に都を立て、近江国の篠原にぢんをとる、明ればばんばかしは原みますに陣をとりたまふ。鴨長明道の記、柏原といふ所を立て美濃国関山にもかゝりぬ云々、こえはてぬれば不破の関屋なりとあれば、近江より美濃不破に出る道なり.。東鑑に近江国住人柏原弥三郎あり、又太平記(727)に元弘元年源具行卿は近江柏原にて斬らると云ふ、然るに和名抄伊香郡にも柏原郷あり、今も存す、東鑑太平記の事何地にや、不審。
 
成菩提《ジヤウボダイ》院 柏原駅に在り、今延暦寺の別院にして、院内に山津照明神を奉ず、蓋旧金勝寺の法相精舎にして、寛平九年の創立か。類聚三代格、寛平九年官符に「応試度金勝寺年分者二人、一人奉為甲賀郡飯道名神坂田郡山津照名神、可試法華経一部八巻、最勝王経一部十巻、並法相宗」云々とあり、後世金勝寺衰へ、此別院遂に叡山に帰したるならん。輿地志略云、成菩提院は寂照山円乗寺と号し、天台宗海道三箇談林の随一にして、拍原寺談議所と呼ぶ、相伝々教大師開基、七堂伽藍の霊場なり、然るに嘉暦元丙寅の年、越前国平泉寺の衆徒等堂塔を破壊す、応永の初比叡山西塔の住侶宝園院貞舜法師再興す、後永禄年中織田信長当寺に止宿の節、舞馬の変に遭ぬ、今の寺は慶長年中祐円法師建立す、此とき東照神君関ヶ原陣城の残米二百石を以て、当寺番匠の労費に充玉ふ、本尊十一面観音なり、堂内に文殊薬師地蔵の三像あり、就中文珠の像は天竺伝来の仏條なりとぞ、当寺領御朱印百六十石五斗、末寺法流八十箇寺、霊宝什物はなはだ多し、又歴代著述の書多し、其中七帖見聞(或は天台累聚ともいふ)柏原安立(或は宝要安立ともいふ)真海十帖等世に行はる。
清滝《キヨタキ》寺 柏原駅の西北六町、清滝山に在り、佐々京極家、即江北屋形の菩提所にて、十八代の墳墓在り、霊通山徳源院と称す、永仁三年、京極家祖近江守氏信入道道善卒し此に葬る、諡して清滝寺殿と曰へり、爾後天正中高吉に至るまでの塋域なり、天台宗を奉ず。〇京極家の居館、太平寺上平寺は並びに伊吹山に在り、柏原の北二里余。(寛文二年丸亀藩祖高和君をも此に葬る)
   柏原山寺          釈六如
 丁字橋南十字沙、前山閣日斂余霞、紅残烏柏村辺樹、紫吐款冬水際花、鹿度氷溪蹄跡陥、鷺翹風渚頂糸斜、詩材画料無人拾、一段荒涼也耐嗟、
源具行墓は柏原駅の北三町余に在り、土人今法華塔と呼ぶ。太平記云、元弘二年源中納言具行卿をば、佐々木佐渡の判官道誉(京極高氏)路次を警護して下し奉り、近江の柏原にて斬り奉るべきよし、上使おそひ来り言ひければ、街道より西なる山際に、松の一株ある下に、御輿を舁き据ゑたれば、具行卿敷皮の上に居直らせ、辞世の頌を書れける、
 生死逍遥、四十二年、山河一革、天然洞然、
六月十九日某とあり。西讃府志云、具行卿墓は、峠地蔵の前に在り、石の高七尺、裏に貞和三丁亥十一月二十六日とあり。〇又柏原の南田圃の中に、王塚と云者あり、元禄十年官より検察ありて、土人は柏原天皇の山陵と曰ひ成す。〔名跡記〕
補【清滝寺】〇輿地志略 京極氏信、左衛門尉・対島・近江守等に任ず、剃髪し道善と号す、永仁三年五月三日死す、行年七十六歳、諡を清滝寺といふ、今当国坂田郡に清滝寺あり、京極家の菩提所なり。京極高氏、左衛門尉、剃髪して道誉と号す、足利尊氏一統の後近江守に封ぜられ、一国之に属す。〇天台宗清滝寺は柏原駅にあり、京極氏十八世の墳存す。
 
寝物語《ネモノガタリ》 柏原村東の界、大字|長久寺《チヤウキウジ》と美濃国不破郡|今須《イマス》駅の間なる民家を、寝ものがたりの里と名づく、二国の人寝ながら、隔壁相話するが故とぞ、又|長競《タケクラヘ》と字す、二国の山其たけを競ぶるが故とぞ。〇藤河記云、柏原すぎて、たけくらべと云ふは、近江と美濃との山を、左右に見て行く所なり。〇按に長競は古史に見ゆる玉倉部《タマクラベ》邑か、古事記に倭建命伊服岐山より降り、玉倉部にて居寤の清水を汲みたまふと曰ひ、(醒井を参看すべし)天武紀に「七月、近江軍将襲不破、而軍于犬上川浜、忽放精兵衝玉倉部邑、出雲臣狛撃却之、村国男依等、戦息長横河、破之」とあり、蓋不破と構川の中間に玉倉部邑あるを知るべし、後世長競と云もの、必定玉倉部の訛のみ。
  ねものがたりの里をとほりて、
 ふむ足や美濃に近江にくさの露、鬼貫
 
長岡《ナガヲカ》郷 和名抄、坂田郡長岡郷、訓奈加乎加。〇今|東黒《ヒガシクロ》田村及柏原村なるべし、大字長岡は東黒田村に属し、近世此辺を黒田庄と称したり、息長川の上游にして、大原郷の南に接す。
長岡《ナガヲカ》 伊吹山下の鉄道車駅にして、深谷と相次ぐ、米原駅の東三里計。
鎌羽《カマハ》城址 又門根の城とも曰ふ、今東黒田村大字本郷と、息長村能登瀬の間に在り、堀氏の居館とぞ。〇堀氏の祖、弥太郎親常は、文治の乱に源家に属し、平宗盛を看守したる事あり、功を以て江州にて所領を賜り、子孫相続したり、永正永禄の頃には堀能登守頼定、同遠江守同次郎、三代江北の一党なり、元亀中浅井に叛き、織田家に属す。〇浅井三代記云、元亀二年織田浅井の両家の大軍、横山小谷対陣の比、本願寺の下坊主ども一揆して、堀がこもれる本郷の城を攻めしかば、横山より木下藤吉郎之を見つけたり、一向坊主凡幾千万の寄手なかりしが、本郷表にて討取たる耳鼻一千八百と注しけり、太閤秀吉は五百にて一千八百の首取ること、一代の荒言とぞきこえける。
 
深谷《フカヤ》 今鉄道車駅を置き、長浜に至る貨車の往復を為す、長岡駅の東一里、人家稀少なり、関原駅の西二里余、長浜に至る凡四里とす。〇深谷の(728)南|大野木《オホノギ》(今柏原村大字) は浅井家の隊将、大野木土佐守秀国の邑なりしと云ふ。
補【深谷】〇鉄道遊賞実内 当駅より西北に分るゝ線路あり、直接敦賀線長浜に達するものなれども、全く貨物運搬の用に供せらるゝものにして、旅客線にあらざるなり。
伊吹山 近江美濃の両国に跨り、高さ海面を抜く四千三百余尺にして、当駅の西北に屹立す、所謂近畿七山の一と称する高嶺なり。
 
春照《シユンセウ》 胆吹山の南麓なる村なり、今藤川村を合同し春照村と曰ふ、柏原村の北一里余、北国太平記に「天正十年、柴田勝家江州木本へ着陣し、是より二手に分れ、一手は前田利家大将にて美濃通り春照の宿まで焼払ふ」と載す、此頃より美濃越前間の一駅たりし也。
 
藤川《フヂカハ》 今春照駅の東一里半、地形美濃国に入り、関の藤川の源なる一村なり、伊吹山の下なれば江州へ属せしむるならん。
 奥のあらしさそふ伊吹の山ざくら花をもらすな関の藤川、〔建保百首〕
 
伊吹山《イブキヤマ》 伊服岐又胆吹に作る、江州濃州の堺上に在り、抜海四千三百尺、形勢頗雄偉なり、北は連峰逶※[しんにょう+施の旁]として越前の山に続き、南面は截然として壁立し、下に隘路を通ず、即東山道なり。〇斯山峰倭建命の登陟ありしより、其名史籍に著れ、江北の鎮山と為す、平安京の時七高山の一に列せしめ、神社仏宇の設あり、佐々木氏信当国の守護職を賜り、京極家を起し、乃ち館を山腹に置きて、江北殿と称し、子孫世襲三百余年の治所なりき。此山今伊吹村春照村に分属す、東部は美濃揖斐郡|春日《カスガ》村に属す。名跡記云、此山高大にして江濃二州の間に盤亘し、冬春の候は雪其峰に満つ、西南麓なる春照駅より之に登るに、上野と云地に民家あり、女一権現祠あり、其北に弥勒堂址あり、此辺松柏茂生し山谷に薬草多し、土人採りて他に販売す、上野より登り十町にして、小高野と云地に三所権現祠あり、又十町登れば鞠場と云ふに至る、是より上方は古来婦女の攀るを許さず、凡山の六分目に当ると云ふ、此の上へ登れば手掛岩行道岩などを経、山径益険にして、登攀すれば面を撲つが如し、山の九分目を驚之曲と名づく、岩石累々たり、絶頂を弥勒と名づく、方四町許、略平坦なり、常に疾風あり、草木疎々たり、中央に石を積み、殊勒の石仏を安置す、更に頂を南に降下すれば、阿弥陀峰と云に至る岩窟に弥陀三尊を安置す、須臾にして弥高《イヤタカ》寺に至るべし、観音堂あり、楓樹溪を圧し、秋霜の候は錦繍の観あり、此溪は箕浦川の源なり。弥高寺の下数町にして、山麓の大道に達す、上平《カミノヒラ》寺は弥高寺の東十余町、大道の北畔にして、藤川の源なり又|太平《オホヒラ》寺は伊吹山の西麓にして、伊吹明神(今伊吹村大字伊吹)の北に在り、此地に羚羊多く栖み、角を崖石に掛けて休ふ者あり、太平寺の客殿より西望すれば、琵琶湖眼下に来る長尾《ナガヲ》寺は更に太平寺の北に在り、大久保村と曰ふ、此辺に石灰山ありて、山下は姉川の急流の繞るあり。〇温故録云、伊吹山、嶺に風水龍王と云者あり、是は即伊吹大明神にや、石を積て弥勒仏となす、飛行上人の開基共云ふ、上人此山に栖む数百年、其色身軽きこと僅に三銖、依て時人三銖沙門と称す、当山に三処寺を開く、長尾弥高太平三寺是をり、上人に給仕の童子三人有り、是も又同く神変不思議の化人なり、名超《ナゴシ》童子松尾童子|敏満《ビンマン》童子と号す、犬上郡松尾寺敏満寺阪田郡名超寺を開き住持すと云、山上弥勒堂と云へるあり、石をたゝみたるまでにて寺なし、此山異草奇木多し、殊に伊吹艾は天下の名産なり、古歌にさしも草と読む。〇北越軍記云、慶長五年、三州苅屋にて水野を打たる利野江《カガノエ》弥八は、元来尾張浪人也、隠れもなき剛勇大胆もの也、慶長元年の比にや、江州伊吹山の谷間に、盗賊数多集て、形を鬼神の姿に似せて、往来の旅人を遂驚し、近郷の男女を劫しけるに因て、野人山樵畏れ慄き、難義に及ける折節、加々野江是を聞て樵夫の体に様を替、鉄棒を杖にして分入尋ね求る所に、峨々たる岩を楯に篠大木の茂りたる其内を棲として、大の男五六人、鬼面赤熊を蒙り、皮の衣を被て、種々の手鉾を提げ駆廻る、加々野江得と見て、傍の辺り立寄りてから/\と笑ひければ、盗賊原山賊と見て罵りける所を、仕すましたりと弥八蹈込て、鉄棒を押取のべ、大将と覚しき大の男の真向を、瓜破りにぞしたりける、残る奴原是を見て討てかゝる、弥八是を弓手馬手に薙倒し、扨々腰骨弱き鬼共哉、嘸閻魔王も愁嘆さんめれと、騒がぬ体にて帰りける。〇按に伊吹山は下野国にもあり、後拾遺集の「かくとだにえやは伊吹のさしも草」と云歌、又「下野やしめぢが原のさしも草」ともよみて、皆下野なること、袖中抄にも其説明白なり。
 冬ながく野はなりにけりあふみなる伊吹の外山雪ふりぬらし、〔続古今集〕      好忠
 吹すてゝ風は伊吹の山のはをきそひていづるせきの藤川、〔夫木集〕  おぼつかな伊吹おろしの風さきにあさ妻舟のあひやしぬらむ、〔山家集〕
 さざれ石のいはほとなれば近江なる弥高の嶺いやたかになる、〔夫木集〕       好忠
 
伊夫岐《イブキ》神社 伊吹山の西南麓、伊吹村大字伊吹に在り文徳実録に伊福貴神授位の事数回見ゆ、延喜式に坂田郡(近江)伊夫岐神不破郡美濃伊福岐神の二座に分れ、両国にて之を祭る、美濃(729)なるは相川村に鎮坐し此地と相距る四里也、参考すべし。〇帝王編年記云、霜速比古命之男、多々美比古命、是謂|夷服岳《イブキタケ》神、女須佐志比女命、是夷服岳神之姉、在久恵峰、次浅井比※[口+羊]、是夷服神之姪、在於浅井岳。〇景行紀、日本武尊自東征還、留尾張、聞近江胆吹山有荒神、即解剣置於宮簀媛家、而徒行之、至胆吹山、山神化大蛇当道、爰日本武尊不知主神化蛇之、謂是大蛇必荒神之使也、既得殺主神、其使者豈足求乎、因跨蛇猶行、時山神之興雲零氷、峰霧谷※[日+壹]無後可行之路、乃捷遑不知其所跋渉然浚霧強行、方僅得出、於是始有痛身。〇古事記伝云、記紀の二書、倭武命の登山の事を録すに相違あり、伊吹てふ名義は山神毒気を吹よし紀に見ゆ谷川氏は是に因るかと曰へり、藤原武智麿公伝といふものに、公登山の事を記すには「公徙為近江守、亦於是按行至坂田郡、寓目山川、日吾欲上伊福山頂瞻望、土人曰、入此山疾風雷雨、雲霧晦瞑、群蜂飛螫、昔倭武皇子調伏東国麁悪鬼神、帰到此界、仍即登也、登欲半為神所害、変為白鳥、飛空而去也、公不聴、率五六人、披蒙籠而登行、将至頂之間、忽有両蜂、飛来欲螫、公揚袂而掃、随手退帰、従者皆曰、徳行感神、敢無被害者、終日優遊、俳徊瞻望、風雨共静、天気清晴、此公勢力之所致也」と云り、源平盛衰記に宝剣の由来を云る処に云「素盞嗚尊即剣を天照大神に奉る、大神大に悦びまし/\て、吾天岩戸に閉籠りしとき、近江国胆吹が岳に落たりし剣なりと仰せける、彼大蛇と云は胆吹大明神の法体なり」と云り、此等の書は信じ難き事多し、きて万葉には此山の歌なし。
 
伊吹《イブキ》寺 観音護国寺と称す、伊吹山の南麓に在り、春照駅に接す。〇輿地志略云、観音護国寺は伊吹の下にて、柏原駅より五十町以北なり、宝亀年中、三修沙門(安祥上人)天皇の御願によりて伊吹山に四個の梵刹を建立す、所謂観音寺弥高寺太平寺長尾寺なり、寺記曰、伊富貴山観音護国寺は、四個の随一最勝の梵宇なり、後醍醐天皇僧綱職の綸旨、並当国長岡庄鳥羽上郷を賜る、貞和三年丁亥寺を今の地に移さしめ玉ふ、佐々木道誉が末葉大原判官は、先祖追孝のために、応永十甲申の年より毎歳法華千部の読経をなす、寄附の寺領日々倍増して、堂舎仙閣甍をならべ、七堂伽藍の霊地たり、然るに織田信長浅井を攻むるのとき、当寺の伽藍を破壊し、横山に向ひ城をかまへぬ、其後兵火にかゝりてこと/”\く焼失せり、其後纔に重興する所あり。
 元慶二年二月、詔、以近江国坂田郡伊吹山護国寺、列於定額、沙門三修申牒※[人偏+稱の旁]、少年之時落髪入道、脚歴名山、莫不周尽、仁寿年中、登到此山、即是七高山之其一也、観其形勢、四面斗絶、人跡希至、昔日深草聖皇、令建一精舎、修薬師念仏、三修居止以降、歳月漸積、堂舎有数、誠非雲構、庶幾霊山、望請天慈、賜預定額。〔三代実録〕
補【板目山】坂田郡〇淡海温故録 上坂田郡伊吹の近辺に在り、散木集に源俊頼朝臣
   はしの紅葉をみてよめる
 板目山いたしや橋も時雨るれば木々のまねして色変りゆく
 
太平《オホヒラ》寺 伊吹山の西麓に在り、伊吹山四院の随一にして太平護国寺と曰ふ、今僧房わづかに存す。按ふに佐々木江北屋形は此に城府を設けたれば、覚静法親王の入りたまへる伊吹寺は即此なるべし。〇大日本史云、元弘三年五月、後伏見上皇光厳帝花園帝、徙御六波羅、足利尊氏奉後醍醐帝詔、攻六波羅、上皇大驚、突囲東出、幸伊吹山太平護国寺、留十八日、帰京師、又同書皇子伝、亀山皇子守良親王、薙髪法名覚静、屏居伊吹山下、元弘之役、北条仲時、挟新主走抵近江、傍近民兵、奉守良為主、拠番馬嶺要之。(〇長尾寺は太平寺の北にて、総持院と称し、弥高寺は太平寺の東南に在り、悉地院と称す)
太平寺城《オホヒラジノシロ》址 佐々木京極氏の遺墟なり、京極は佐々木信綱の子氏信を祖とす、其京極と称するは京邸の在所に因む。氏信文永二年近江守に任じ、江北(愛知以北)六郡を子孫に伝領す、太平寺に居城を築き、江北屋形と号す、高氏入道々誉、元弘建武の兵乱に武功多し、足利氏に従属し、其子高秀幕府の侍所司に任ぜらる、高秀の子高詮出雲隠岐の守護を加賜せられ、之を弟尼子高久に伝ふ、文明年中高清の時、部下の将士しば/\相闘ふ、上坂下坂多賀の諸族最強項なり、高清隣国斎藤朝倉両氏の兵を請ふて之を平ぐ、既にして高清又|海津《カイヅ》に奔る、明徳八年、上坂泰貞高清を奉じて帰館す、永正六年、高清上平城を築き之に移り、国務を泰貞に譲る、太平寺の城館是より廃す。浅井三代記云、江北江南は、明応年中江南より愛知犬上二郡へ働き切取らるれど、京極入道高清は病者なるにより、終に軍勢催さるゝ事もなし、環山寺殿と申す、臣下に上坂治部大輔泰貞と云者あり、前の京極政経の三男の末なれば、江北の侍大将に被仰附、京極殿は伊吹の太平を引退き、同山の内上平と申所へ引籠給ふ。(此上平寺は、伊吹山の東南麓なれば、太平寺と一里余を隔つ)
 
上平《カミヒラ》寺 伊吹山四院の一にして、東南麓に在り、地形全く美濃に入り、藤川の源に在り、今春照村に属す、又上平城は京極家末路の栖所なりとぞ。〇外史補、京極高清与六角定頼構兵、高清失犬上愛知二郡、遂譲封其将上坂奉貞治于上平、永正十四年高清卒、子高岑嗣、浅井亮政攻上平、高岑乞和、十五年、(730)高岑与六角氏、攻亮政大敗、亮政移高岑於小谷。
 
大原《オホハラ》郷 和名抄、坂田郡大原郷、訓於保波良。〇今伊吹村春照村大原村なるべし、伊吹山の西南一帯の広野なり、長岡郷東黒田村の北に接す。〇大原の大道を市場《イチバ》と字す、其南に夜叉池と曰ふ塘あり、又大字ヤナイタは少田に作る、其意義を知らず。
皇后《クワウゴウ》塚 大原村大字|村居田《ムラヰタ》に在り。輿地志略云、享保年中より三十年前許の事に、土人之を穿ちしに、石棺を得て、中には天冠のごときものありき、官吏聞て大に驚き、もとの如くに埋蔵せしむ、是塚恐らくは息長広姫の御陵墓ならん。
補【大原】坂田郡〇淡海温故録 大原の庄十五郷あり、此郷に大梵天王鎮座也、当国には甲賀郡大原の庄と此処と二座也、庄も同名、同神なり。〔下に息長陵、いま日撫神社の前に移す〕
 
上坂《カムサカ・カミサカ》卿 和名抄、坂田郡上坂郷、訓加無佐加。〇今|北郷里《キタガウリ》村|神照《カミテル》村是なり、北郷里村に大字|上坂《カウサカ》存す、坂田の上郷の義なり、北は姉川を以て浅井郡と相限り、東は大原郷、西は細江郷、(今浅井郡へ入る)南は下坂郷に至る。〇按に東大寺要録長徳四年注文云「坂田郡庄田七十六町二段、同郡杉市庄田四町九段、又同郡息長庄十九町二段」など見ゆ。此荘田の跡は今寺院など存在せざれば、何地と推知し難かるべし、六条《ロクデウ》村大字田村に七堂伽藍の跡と称するものあり、是ぞ東大寺別院の遺跡ならんと云人あり。
上坂城址 浅井三代記に依れば、上坂氏は梶原景高の子景信の後裔にして、中比京極政経の子を以て家を継がしむ、即江北屋形の家門なり。〇外史補云、京極高清、譲封於上坂泰貞、領江北治于上坂、永正八年、泰貞無子、已養高清子男泰舜為嗣、守今浜、又養美濃土岐某子泰信、守上坂、十三年泰貞卒、浅井亮政以計襲上坂、泰信走今浜、亮政壊上坂城。〇上坂泰舜は長享年後兵乱記には上坂治部信光に作り、又一書に治部泰貞を景重に作る。
補【上坂】坂田郡〇淡海温故録 上阪は元上阪田と云ひしを下略にて上阪と号するなり。〇北郷里村と今は云ふ、長浜の東に方る。〇人名辞書 上坂|泰舜《ヤスキヨ》は京極高清の子なり、家臣上坂量重に養はれて其の嗣となり、治部大輔と称す、永正十三年八月浅井亮政上坂城を抜く、泰舜乃土民を募りて壁を修め隍を浚ひ、再長浜城に拠る、力屈し又之を去る(野史)
 
横山《ヨコヤマ》塞址 今|北郷《キタガウ》里村大字|小屋《コヤ》に在り、上坂の南に接す、横山とは、大原村東黒田村と北郷里村(上坂)西黒田村の間に横はる岡陵なり、北端は姉川に触る、之を龍鼻と称し、南端は箕浦川に至る、〇外史補云、元亀元年、織田信長自将来攻横山城、守将大野木秀俊三田村国定告急、浅井長政赴之、敗于姉川、横山遂陥、信長令羽柴秀吉守横山、二年長政攻本郷城、秀吉自横山赴龍鼻。
 
龍鼻《タツガハナ》 今北郷里村大字上坂の東にして、横山の岡の北崖なり、峰下は姉川東より来り西に流る。
浅井三代記云、永正の比、上坂泰貞の計略にて、土岐殿の子息をたつが鼻の川辺に捨あるを拾ひあげ養育したり、十三歳の時元服させ、兵庫頭泰信と申ける、又元亀元年浅井織田合戦、信長公横山城を攻めらるべしとて、観音坂犬飼坂へ手を分けて、本陣は龍が鼻の出先の山に据ゑたまふ、城中の大将大野木三田村勇気をはげまして支へけり、長政は小谷を出て大寄山に打上り、五十町をへだてて対陣あり。
 
石田《イシダ》 今北郷里村の大字、石田治部少輔三成の故里にして、慶長五年関原合戦に三成大敗し、身を脱して伊吹山より草野谷に入りしが、食を求めて大原村井之口に至り、均中兵部少輔吉政の兵に捕縛せらる、井之口は石田の東一里許。〇温故録云、石田長楽庵は浅井家祐筆にて、代々能書なり、石田村の生れなり、治部少輔三成は秀吉公の祐筆にて、後立身して十八万石にて、犬上郡沢山に在城し、関ヶ原軍の棟梁にて、滅亡断絶す。
 
国友《クニトモ》 今|山階《ヤマシナ》新庄等の諸村と合同し神照《カミテル》村と曰ふ、神照寺と云ふ古刹あるに因る、北郷里の西、姉川の南、長浜町の北一里許とす。
外交志稿云、葡萄牙船種子島に来るや、将軍義輝「てうしくち」と云者を召し、近江国友の地を給し、以て鉄砲鋳造及び射撃の法を伝へしむ、天文以降西人の我邦に入る貿易利を計るの外多くは耶蘇伝教の徒にして、皆識見卓絶、学問博洽、国主城主の輩亦其教を奉ずる者多し、弘治元年(西暦一千五百五十五年)也。〇温故録云、国友村、此処は鉄砲を製し始る処なり、弘治年中南蛮国より長子口と云ふ者琉球に渡り、多禰島より本朝に来着す、公方家より当国の屋形に命ぜられて、国友に鉄砲を製して以来、此処に伝来すと云ふ。
 
宮川《ミヤカハ》 今神照村国友の字なり、浅井三代記に「浅井亮政宮川の左次兵衛とて、久しき武功の家あるを味方に引入れて、今浜の城(即長浜)を乗取る」云々。〇宮川陣屋は、元禄年中、堀田豊前守正休、一万石の封禄を此地に賜りたるより之を置く、明治維新の際まで相続したり。
 
神照《カミテル》寺 新荘に在り、(今神照村と改む)国友の西南なり。輿地志略云、日出山神照寺と号す、真言宗の檀林所御朱印百五十石あり、字多天皇の勅願所、本覚大師の開山なり、往昔の霊場今は多く郊原となりぬ、幸に毘盧の尊像千手の霊躯霊宝等、百分が一(731)にして免るゝものあり、亦開祖以来相伝の楽器多しと云々。
按に神照寺の辺を福永《フクナガ》荘と号し、神鳳抄に「近江国福永御厨、外宮二百五十町六十四石三斗、上三石神馬二疋、長日御幣紙六十帖、子良装束口入料十石」と注せる地なるべし、今神照寺境内に鎮守神明宮あり、蓋福永御厨即此なり、神照寺は其供僧をりしならん。
補【神照寺】坂田郡〇提要 新荘寺村、真言宗僧本覚開基、寛平中創建。輿地志略 神照寺村にあり。〇神照寺は宇多天皇の勅願寺にて、寛乎七年建立と云ふ、元は大伽藍大地にて三十坊ありといふ。
 
黒田《クロダ》 本庄名とも、横山の東西に跨る、今東黒田村と云ふは、和名抄長岡郷にして、西黒田村と云は和名抄下坂郷の中なるべし、大字|常喜《ジヤウキ》名越《ナコシ》などあり。
補【黒田】坂田郡〇淡海温故録 黒田の庄、本郷に黒田氏代々在住なり、当国にて黒田は名高き家なり。〇今西黒由村東黒田村、東黒田とは長岡駅・志賀谷等を曰ふ、西黒田は名超本荘辺を曰ふ。
 
名超《ナコシ》寺 常喜院とも称す、伊吹山護国寺の別院にして、三修法師の弟子名超童子の創建とぞ、寺記に正治元年後鳥羽法皇密幸して此寺に入らせ給へる事ありと曰ふ、寺門伝記に民部卿泰憲家領坂田荘の常喜院に寄附のこと見ゆ、此地にあらずや。〔輿地志略名跡記〕
補【名超】坂田郡〇淡海温故録 名超寺は伊吹山名超童子の建立なり、古来此処当国の祓殿にて、古歌にも御祓川と云ふ、夫木集に読人知らず、
 夏はつる今はや名超の御祓川河瀬の風は涼しかりけり
〇今西黒田村。名超寺は廃余なほ存し、古文書ありと輿地志に見ゆ。
 
宇賀野《ウカノ》 今長沢|世継《ヨツギ》加田などと合同して法性寺《ホフシヤウジ》村と云ふ、息長川の北にして、西は大湖に至る。
坂田《サカタ》宮 日本書紀云「垂仁天皇、託倭姫命、遷天照大神宮、姫入近江国」云々、通証、儀式帳曰、坂田宮、今在坂田郡宇居野。〇倭姫命世記云「遷幸淡海甲可日雲宮、四年奉斎、遷幸同国坂田宮、二年奉斎、于時坂田君等進地口御田、遷幸于美濃国伊久良河宮」。〇今宇賀野に在りて、岡天王社と云ふ、享保年中井伊侯社殿を重興す、〔温故録神祇志料〕即延喜式岡神社是なり、神鳳抄によれば近江国坂田岸下黒丸などの御厨ありしかど、今其地を知らず。
長沢《ナガサハ》 今法性寺村に属す、長浜町の南一里、近江名所の一にやあらん、長沢の池とよめり。
 君が代のながき例に長沢の池のあやめは今日ぞ引かるる、〔夫木集〕
浅井三代記に、長沢の福田寺は一向宗の大坊にて、元亀二年江北一揆の魁にて、浅井長政小谷没落の時、遺孤を福田寺に託附したる事を載せたり、江北にて有勢の僧院なりき。記曰、浅井長政の頼みにより、本願寺顕如上人より江北へ御書ありて、長沢の福田寺へ相渡され、三郡の一向坊主一揆を起す、箕浦の誓願寺四千二百人、新庄の金光寺二百人、榎の浄願寺千五百人。上坂順慶寺五百人、ゆすき村の清勝寺、木之本新敬妨、都合八千七百人は後備なり、尊照寺村の称名寺二千人、唐川長照寺益田真宗寺は三番に備ふ、長沢福田寺四千五百人、いぬゐ村の福勝寺三千二百人にて、本郷の堀が城を囲む云々。
 
下坂《シムサカ・シモサカ》郷 和名抄、坂田郡下坂郷、訓之無佐加。〇今長浜町|六条《ロクデウ》村法性寺村西黒田村などなり、西は大湖に臨み、東は上坂郷横山に至り、南は息長川に至り、北は細江郷に至る、下坂田の謂なり、六条村に大字下坂あり。
補【下坂】坂田郡〇和名抄郡郷考 下坂、之無佐加。三代実録貞観十七年十二月、近江国坂神とあり、この坂を上下に分てる名也。諸国廃城考、上坂城、上坂治部大夫景重築て此城に居る。志略、今も上坂下坂庄あり。〇淡海温故録 当処は下坂田と云しを下略して下坂と称す、昔鍛冶下坂八郎が出処也、天文の比なりと云ふ。〇今六条村と称す、長浜の南に在り。
 
平方《ヒラカタ》 今六条村の大字なり、長浜町の南に接す。〇温故録云、平潟浦は下坂の浜なり、昔此処に日※[手偏+僉]※[手偏+加]と云名誉の犬ありて、其子を小白丸と云、神変を顕し、後犬上明神と祭らると云こと、三国伝記に見えたり。〇按に、日本書紀継体天皇の時、近江毛野臣の妻の歌に、「比※[手偏+羅]※[加/可]駄喩」の句あり、釈紀に「平形也、盲近江之所名也」と注す、蓋此地なるべし、比※[木偏+羅]※[加/可]駄喩は平形よりの義にあらずして、平形への心なるべし、毛野臣は即此坂田の公の族にて、此に帰葬したるか。
 比※[木偏+羅]※[加/可]駄ゆ笛吹き上るあふみのや毛野《ケナ》のわくごい笛吹き上る、
 右毛野臣、被召到于対馬、逢疾而死、送葬尋河而入近江、其妻歌曰云々、釈云、凡歌意者、毛野臣於西海雖死、為斂屍於故郷、自海路迄近江也、笛吹者、毛野臣久住韓国之間、依漢家之例、葬礼発笛歟、且又本朝上古、有発歌笛於葬礼之事也。
徳勝《トクシヨウ》寺 旧小谷山の下に在りて、浅井家の菩提所なり、浅井亮政の塋域にして、徳勝寺殿と号せり、天正中之を長浜に移し、近世井伊氏命じて平方に移さしむ。〔名跡記〕〇按に浅井三代記に、天文十五年亮政逝去、(732)小谷山の麓なる救外寺に葬ると載す、徳勝寺と同異如何。
 
長浜《ナガハマ》 江北の都会にして、湖水に臨み、北国街道の衝に当る、鉄道車駅なり、米原駅北二里、敦賀駅(越前)南凡十三里、別に貨車鉄道を東に分ち、深谷駅(長岡関原の間)に至り、美濃路に通ず。湖上の汽船は今津(高島郡)大津等に往復す、戸数二千、名産縮緬蚊帳及絹布類あり。
補【長浜】〇鉄道遊賞案内 琵琶湖に瀕し北陸の要路に居る、湖畔常に汽船の出入を絶たず、又紡績の業に従ふもの多く、所謂長浜縮緬等の織物を製出す。〇産業事蹟、東浅井郡難波村の中村林助なるものは、宝暦年間湿田耕すべからざるの地にて、乾庄九郎なるものと共に裂絹の業を起し、次で居民に産を授け半途にして危難に遭ふと雖も、終によく其志を遂げ、是より長く浜縮緬の名を留め、近江の国産となる。
浜蚊※[巾+厨] 貿易備考 近江団坂田郡長浜町(蚊※[巾+厨]地一年製額約収一万七千三百円)神戸町(蚊※[巾+厨]一年製額約収四万八百六十九帳、此価金一十万三千円)坂田浅井伊香三郡にて織り、之を長浜に転売す、故に浜蚊※[巾+厨]の名あり、又蒲生郡八幡町、犬上郡高宮に出づ。
 
長浜城《ナガハマノシロ》址 湖岸に在り、旧|今浜《イマハマ》と称したり、永正の比、上坂泰貞斎之に築城し、其子に伝ふ、浅井亮政攻めて之を焚く、天正元年、織田信長浅井を滅却し、羽柴秀吉に其故地を賜ふ、秀吉乃今浜に城き、改めて長浜と曰ふ、(封凡十八万石)已にして秀吉西征の将と為り、妻孥を此に留む、十年本能寺の変、浅井の旧将阿閉淡路守長之、長浜を襲ひ取り明智に応ず、秀吉の妻孥難を伊吹山に避く、長之其資財を奪ひ、奔り明智に従ひ、後敗死す、柴田勝家越前に在り、之を見て長浜を略有し、義子勝豊之を守る、勝豊素と勝家と隙あり、秀吉之を招降し、益城堡を築き、其糧仗を備へ、以て越前の衝路を拒み、遂に賤岳の大捷あり、爾後八幡及佐和山の属城と為り、徳川氏一統の後は、慶長十一年内藤豊前守信成長浜五万石を賜り、近江美濃飛騨三国に課し改築を為す、寛永五年奥州棚倉に移封、長浜城廃絶す。〇温故録云、今浜城は、上坂景宗入道泰貞斎の始めし所、羽柴秀吉公当郡に攻入り、横山に在城の後、浅井を滅亡して、信長公より江北三郡を賜ふ、此時今浜を改て長浜と号し、即ち在城なり、又屋形京極高吉の御科人を秀吉公へ嫁す、故に江北の先方衆大方秀吉公へ召出され属す、此御科人を後に松之丸殿と申す、天正十年、柴田勝家預りて、柴田氏の兵在城す。〇豊鑑云、天正二年の春、小谷山は北にさかひ、雪いとふかく、さえまさる空のくるしみあり、三里余の戌亥にあたり、今浜とて古き城所あり、海にそひて雪浅く、舟の往来も便ありて、今信長の御座安土山へも程遠からねば、かふり仕るに煩なし、此所に住まむとて、堀を深くし石ぐらを打まはし、殿造りして移り給ひぬ、今浜の名を改めて長浜となん、
 君が代も我よも共に長浜のまさごの数のつきやらぬまで。
 
長浜八幡《ナガハマハチマン》宮 江北の大社にして、江南の比牟礼宮(蒲生郡八幡町)に比す、開創詳ならず。別当は新放生寺舎那院と称し、源義家将軍の勧請などと伝へ、近世は百七十石の社頭を有したりき。〇参考本盛衰記云、寿永六年七月、木曽の軍兵越前の国府を立、今城に着、敦賀山を右になし、能美山を越、柳瀬に打立て、高月河原を打渡し、大橋の村、八幡の里、湖上遙に見渡して、平方朝妻筑摩の浦々を過ぎ、千本の松原を打通り云々。(此大橋村今詳ならず)〇浅井三代記云、浅井亮政は今浜の城へ押よせ、先侍町へ火を放たせ、町屋を残らず焼きまはり、八幡森より手勢を以て城の土手へかゝり、上坂泰舜兄弟を尾上へ逐落す、永正十三年の事なり。
 
惣持寺《ソウヂジ》 長浜下司町に在り、真言宗新義派、後花園帝の勅願所、永享二年僧実済の開基なり、往時は長谷寺小池坊と相並び、新義派の許状を発行せしめし所と云ふ、寺領百二十石。〔輿地志略〕〇按に此寺は紀州根来山の別院なるべけれど、縁起をきかず、本尊薬師如来、堂宇は客殿大門古雅なれど、仏殿やゝ遜色あり。
妙法《メウホフ》寺 日蓮宗、旧小谷山に在りしが、羽柴氏在城の時此に移さる、天正四年十月、秀吉の男次郎早逝して本寺に葬る、本光院朝覚禅定門と諡す、依て妙法寺及知善院に寺禄各三十石づつを給せられしとぞ、知善院は天台律宗なり。
大通《ダイツウ》寺 真宗東本願寺の別院にして、慶安二年宣如上人の創建、殿堂広大なり、長浜御坊と称す。
長浜近在の諸村は、蚕糸織紡の業を善くし、江北の名産とす、中にも縮緬は、宝暦年中浅井郡南福村の民、中村林助乾庄九郎等の創製にして、長浜の市場に販売し、今に至るも其巧益加り、号して浜縮緬と曰ふ、又蚊帳地の綿布麻布を織て、毎年五六万張の出額と称す、即浜蚊帳と曰ふ。
   長浜春望         伊藤坦庵
 春風千里過湖傍、拍岸余波濺客衣、浩蕩天随山尽処、依稀島在水中央、鴎声隔霧聞纔弁、帆影入雲認却亡、駅路馬蹄倉卒去、不能留賞苦相望、
 
細江《ホソエ》郷 和名抄、坂田郡細江郷、訓保曽江。〇今浅井郡|南福村《ミナミトミムラ》に大字細江存す、蓋是なり、按に坂田浅井は、本姉川の流を以て相限りしなるべけれど、水流の変遷ありて、堺上の地域錯乱せるに似た(733)り、浅井郡の川道大井の二郷は今柿川の南に渉り、坂田郡の細江郷は之に混じて浅井郡に属す。
 
 浅井郡
 
浅井《アサヰ》郡 南は坂田郡に至り、北は伊香郡に至り、東は金糞《カナクソ》山国見山伊吹山の脈を以て美濃国と相限る、西は湖水なり。面積凡三十一方里、姉川は東北隅草野の山中より発し、郡の南界を繞る。高月川伊香郡より来り之に会合し、以て湖中に帰す。〇今人口四万二千、郡治は木之本駅に在り。浅井郡は続紀「神護景雲二年、近江国浅井郡人、従七位下桑原直新麿、賜姓桑原公」と見ゆるを初めとす、蓋坂田郡の分地なり。天武紀に浅井田根とあるは、当時郡名にあらざるべし、姓氏録に見ゆるは追書なり、曰く「治田連、開化天皇々子彦坐命之後、四世孫彦命征夷有功効、因割近江国浅井郡地、賜之、為墾田地、大海真持等墾開彼地、以為居地、大海六世之後、熊田宮平等因行事、賜治田連姓也」、而て霊異記、「天平神護二年、坂田郡|遠江《ヲエ》里」とありて、延喜式、浅井郡小江神社あれば、遠江小江一地にて、其頃に分郡ありしならん、国史に其事を見ず。〇浅井郡は和名抄阿佐井と注し、十三郷に分つ、後世塩津郷を西浅井と称し、本郡を東浅井《ヒガシアサヰ》と称す、塩津郷は今塩津永原の二村に分れ伊香郡に属す、此塩津は湖水を隔て、本郡の西北に在り、地形全く相離る、如何なる因由にて之を浅井郡に属せられしにや、他に例なき境界なりき。
補【浅井郡】〇和名抄郡郷考 続紀天平神護元年正月、浅井。後紀天長九年五月、浅井。大八洲記云、一云浅井郡、或阿座膽、西限知奈浦、東限朝日湊、南限岡本磯、北限小寝社。(今按、こゝに一云とあるは風土記なり、志略云、近江の風土記今人間になし、わづかに浅井の一郡脱簡紙六葉ばかり水戸の館庫にあり、漸浅井一郡の境界及竹生島のことすこしくしるせり)
〇神鳳鈔 近江国浅井御厨(二宮御領)代々国司免判文畢、供祭物上分米三石、口入※[米+斤]米五石、近代宮司惣百余石領納之。
補【東浅井郡】〇塩津郷を西浅井と云ふに対し、近代この名あり。浅井は古へ開化天皇の皇子彦坐命の裔孫に此地の半を賜ふ、〔姓氏録、略〕天武天皇元年八月庚申朔甲申、斬右大臣中臣連金於浅井田根。和名抄田根郷あり、今池奥、瓜生諸村の地、種《タネ》の庄と云ふ。〇今面積凡そ三十一方里、人口四万一千、十二村、郡治に長浜に兼治す。
 
草野《クサノ》 姉川の上游にして二渓谷に分る、東を東草野村と云ひ西を上草野下草野二村に分つ、東西二里南北五里許、東界は伊吹山国見山の脈を以て美濃揖斐郡と相限り、北には金糞《カナクソ》岳峙ち、姉川の源を成す。〇草野庄には、昔庄司定康あり、源氏に属し、平治の乱に源義朝父子を隠したり、(大吉寺参看)平家物語剣巻に、東近江の人草野庄司、頼朝を居室の承塵の上に匿くしたる由見ゆ、慶長五年の乱には、石田三成亦此谷に入れり。
東草野《ヒガシクサノ》 柿川の支源|梓《アヅサ》川の上游にして、伊吹山の西谷なり、板並甲津畑等の大字あり、北に新穂越を踰れば揖斐郡広瀬村に出づ。〇天正十年六月、羽柴秀吉の母妻家孥などの隠れたるも此谷にて、当時美濃侍広瀬兵庫と云者の領知なりしとぞ、又関原乱後、石田召捕の事は、家忠日記云「三成を搦捕て大津の御旅舘に献ず、三成関原の戦場を遁走、去て近北草野の奥に隠居て、綴衣を着し、草刈鎌を携へ、破笠を以て顔を隠し、樵夫の姿にまねび、腹病て煩て苦居たり、田中兵部少輔鈞命を奉りて尋捜の間、忽に求出す、田中が兵士沢田庄右衛門三成を見知るによつて擒にす、三成懐中に一尺二寸の刺刀を携へたり。」
高山《タカヤマ》 姉川の支源草野川の源にして、上草野村と改む、北に金糞西に己高《コダカミ》の二嶺を負へる里なり。神祇志料に、延喜式、浅井郡|上許曽《カミコソ》神社は、今高山村に在りて世代《ヨシロ》明神と云ふ由、元和中文書を引きて之を証せり。
補【草野】浅井郡〇淡海温故録 草野庄司定康は昔より源氏随逐の士にて、平治の乱には左馬頭義朝公頼朝公父子此処に忍来給ふ処に、定康忠義を励し大吉寺に隠し奉ると云、東鑑には大福寺とあり。
 
大吉《ダイキチ》寺 上草野村大字|野瀬《ノセ》に在り、天台宗、浅井治家と云人の開基、本尊観世普なりと云ふ、〔名跡記〕草野庄司の氏寺にして、大吉堂即是なり、源義朝此寺に潜匿の事は、東鑑(文治三年)云「去平治元年十二月、合戦敗北之後、故左典厩令赴美濃国給、于時寒嵐破膚、白雪埋路、不進退行歩、而此関東功士、太夫属定康、忽然而令参向其所之間、為遁平氏之迫捕、先奉隠于氏寺大吉堂天井之内、以院主阿願坊以下住僧等、警固之後、請申私宅、至翌年春、竭志節、而近江国領所、平家在世之時者、称源家之方人、被収公滅亡、今又守護定綱為兵粮米、点定之、仍企参上、募申古労之間、停止旁狼藉、如元可領掌之趣旨、今日被仰下。
   宿大吉寺、寺在江州、相伝古昔有四十九院、称大伽藍、今止僧房一宇、亦甚傾壊、  六如
 琳宮銷歇幾年来、残梵凄涼秋気哀、蘚石留題新歳月、霜林想見旧楼台、嵐蒸怪茵生庵柱、雨暗栖蝙払璧煤、(734)自顧余無回斡力、瞑投空費冷厨回、
補【大吉寺】浅井郡〇輿地志略 野瀬村山にあり、本尊正観音、浮木の異像と号す、又尊氏観応二年九月二日軍勢への禁制状有。
 
野村《ノムラ》 今|七尾《ナナヲ》村と改む、下草野村の南に接し、姉川の北岸なり、元亀元年姉川合戦の時、浅井長政小谷を出でて此に陣したり、姉川の南岸は即織田の陣所横山龍鼻なり、朝倉勢の陣所は野村の西に接する三田《ミタ》村(今湯田村大字)なり。〇温故録云、龍鼻陣は初め浅井家討勝て、既に利運に成るべき処、朝倉衆東照宮に討負け、切崩されて大に敗軍する故、信長公勝利となるなり、此軍磯野丹波守員正は浅井家魁の大将にて、名誉をのこす、名高き軍にて姉川合戦とも云ふ、(野村は、小谷山の東南二里、長浜町の東北二里)
 
湯次《ユスギ》郷 和名抄、坂田郡湯次郷、訓由須木。〇今湯田村と改む、姉川の北、西は虎御前村、北は田根村に至る、湯鋤庄とも曰へり。延喜式、浅井郡湯次神社、今湯田村大字湯次に在り。南山巡狩録云、正乎六年九月、尊氏の勢は鏡宿をうち立、湯鋤野《ユスキノ》高月河原に陣取りたりと聞えしかば、直義も細川陸奥守顕氏畠山阿波守国清桃井右馬頭直常を大将とし、其勢二万余騎近江毘へぞ向はせける、両陣行合ければ軍ありといへども、はか/”\敷勝負はなし、来る十日雌雄を決すべき議定せらる。〔太平記園大暦〕按に高月河原と云は今|虎姫《トラゴゼ》村に当る、高月川其西を流る。
 
大寄《オホヨリ》山 今湯田村大字八島|大依《オホヨリ》の北なる嶺にして、己高《コタカミ》山の南尾なり、田根村草野村の分界に当る、小谷城の南東の屏障を為し、西は虎御前山と相望む距離一里、江北合戦の争地なりき、龍鼻の北五十町。〇外史補浅井記、大永元年、六角定頼侵江北、乞援於美濃斎藤秀龍、亮政邀拒秀龍大寄山、克之。外史織田記、元亀元年、信長攻横山城、陣龍鼻、浅井長政朝倉景健舍兵、軍于大寄山、信長夜望大寄山、顧呼宿直諸将曰、柴田木下佐久間在乎、皆答曰在、信長乃召而前之、指示曰北軍炬火徹脊、是将乗暁襲我也、乃下令勒軍、引兵西向、天明遇北軍于柿川、北軍大驚。〇三代記云、浅井亮政は京極勢の押寄るをきゝ、東の手は大寄山と小室山の間に兵をかくし、西の手は大洞虎御前山に伏勢して之をまつ、又云長政代替の時、亮政の吉例にて、大寄山に旗本をすゑ、諸軍矢野島に着到を附けたり。
 
八島《ヤノシマ》 今湯田村の大字なり、浅井三代記に此地を以て足利義昭の寓所とすれど、野洲郡にも矢島ありて同事を伝ふ。〇浅井亮政、天文十五年逝去、小谷山の麓なる田川山辺に寺を営し、救外寺殿と贈名して弔あり、又足利義昭公南都を落たまひ、甲賀郡和田和泉が許に滞在ののち、浅井之を迎奉り、矢島野の救外寺にかりの御座をうつし、御舘を普請し奉る、云云。〔浅井三代記〕又三代記に、小谷山築城の時、一手を尊照寺へ出す由載す、尊照寺は八島の西なる大字なり。
 
田根《タネ》郷 和名抄、浅井郡田根郷、訓多禰。〇今田根村と曰ふ、中世は種川とも称せり、大寄山と小谷山の間なる溪澗にして、田川《タカハ》と云ふ流あり、南流して姉川に注ぐ。
日本書紀壬申乱の条下に「斬近江右大臣中臣連金、於浅井田根」とあるは、此地なるべし、東鑑「建久元年、近江国田根庄者、按察使大納言朝房領析也、地頭佐々木左衛門尉定綱」などとも見ゆ。
補【田根郷】浅井郡〇和名抄郡郷考 田根、多保。東鑑建久元年十月、近江国田根庄者按察使大納言朝房卿領所也。志略、今田根庄あり、田根を多保と訓むはいかなるよしにか。〇志略、高畑の萩野大明神は田根荘十五村の惣社なり。
小室《コムロ》 今田根村の大字なり、慶長中、小堀遠江守政一秩一万二千石を賜り、陣屋を此に置く、政一は本郡の人にして、豊臣家に仕へ、茶道を以て寵遇せらる、後徳川氏に倚り、上方奉行伏見奉行等に任ぜられ、老後宗甫と号す、子孫茶事及奉行職を以て歴仕せしが、天明五年、和泉守政方貪濫の事あり、伏見市民の訴ふる所なりと、不法の罪を問はる、家士及伏見市民連坐する者五十人、小堀氏亦その版籍を除かる。
 
朝日《アサヒ》郷 和名抄、浅井郡朝日郷、訓安佐比。〇今詳ならず、蓋浅井を転じたるなり即|郡上《グジヤウ》の地なるべし、郡上は郡家の旧址なるべければ、今小谷村の郡上駅伊部など云ふ辺なるべし、朝日庄の名は今の朝日村に在れど、彼地は都宇郷なれば相異す。
 いつしかと朝日のさとをたちいでていそぎも運ぶみつぎものかな、〔顕輔家集、近衛院時大嘗会風俗歌〕
補【朝日郷】浅井郡〇和名抄郡郷考 志略、今朝日庄有是なり、又甲崎村は増田村の西にあり、或は此地を朝日の郷ともいへり、湖辺なり、此所より竹生島へ五十町あり、出崎なり、或は浅井の崎ともいふ、又朝日の崎に作る、浅井岡朝日岡とも云なり、〇郡名浅井は朝日の地より出づ、浅井を正音とするか。郡上村、常勝寺村の西にあり。
 
小谷《ヲダニ》 小谷山の下なる諸村、今合同して小谷村と曰ふ、伊部《イベ》郡上《グンジヤウ》丁野《ヨボノ》山田など云ふ大字あり、田根村の西、虎姫村の北なり。
 
郡上《グジヤウ》 木之本春照間の一駅にて、北国脇往還に当る、田川の北岸小谷山の南麓なり、古の浅井郡の郡家址なるべし、小谷寺あり。〇輿地志略云、(735)小谷寺は、本尊観音大士、開基慶春上人の作なり、始め常勝寺と号せしを、中興勢伝法印、浅井亮政と相談して今の寺号とす、寺内に六坊あり、御朱印四拾四石余の高領なり。
 
小谷《ヲダニ》城址 小谷村の北嶺にて、己高《コタカミ》山の南の尾なり。〇外史補、永正十三年、浅井亮政築小谷山徙焉、壊今浜及上坂城、十四年、京極高岑来攻、而不克、爾後亮政子久政、長政皆居小谷、至元亀中、織田信長数囲之、四年八月、長政出城戦死、浅井氏亡。〇輿地志略云、是れ亮政久政長政三代の城地なり、京極丸は山田の下の方南なり、此間に下野守久政が隠居所あり、次に二の丸次に本丸あり、浅井記に大岳といへる処は、今大築が岳と云是なり、天正元癸酉の年八月、織田信長浅井が小谷山の城を攻落す長政父子自殺す、巣谷《スガタニ》は城址の南谷なり。〇浅井三代記云、伊部の小谷山に城を取立べしとて、永正十三年人数を出し、尊照寺と雲雀山とに備を立てさせ、浅井亮政は浮武者になりて、普請を差図し昼夜急ぎければ、十日許の間に惣構土手堀出来すれば、上坂の域より小谷の小屋場へ兵粮を入る、抑此城は三方は離れ山、先づ東に池の奥と申て、山のすみに廻り二里許なる大池あり、南に大沼あり、西は堀水深し、山は手を立てたる如し、北は山引回す、去れども其間きれて村落あり、秘して通ふべきぬけ道は、美濃越前に到るべし、翌年二町許引上げて、大嵩の万へ築直しありしなり。〇改正三河後風土記云元正元年十月、織田殿は佐久間柴田の両将に、大軍を添て大岳《オホヅキ》(真記大撞原書大築)の北、山田山に陣を張、近江と越前の道を取切、後詰させじと設らる、是より先大岳の下に焼尾といふ砦あり、こゝには浅井が家人浅見対馬守を籠置しがこの浅見もいつしか、織田殿に内通し、織田勢を引入ければ、浅見を案内として大岳の城を攻め落し、直に下野の城に押寄たり。〇按に浅井三代記は信偽相半す。長享年後兵乱記云「大永三年、北郡上坂治部信光没落、閏三月京極宗意出奔、同五年、定頼公(六角)浅井城大津見発向、九月亮政没落」などあるを考ふるに、大永三年の上坂没落は三代記に永正十三年の亮政の謀叛の事跡に当り、大津見没落と云ふは、大津見は大築の訛なるべければ、三代記「永正十五年、六角氏の兵小谷を囲み、磯野為員山田より打上りて大築岳を焼きたる」事跡に当る。
 
丁野《ヨボノ》郷 和名抄、浅井郡丁野郷、訓与保乃。〇今小谷村の中、大字|丁野《ヨボノ》山田などなるべし、小谷山の西北の地にて、北は伊香郡界に迫り、山田山は直に小谷山の北に接せり。
丁野は、浅井三代記に拠れば、実に亮政の故里にして、其家系は三条大納言公綱に出づと云ふ、曰公綱(後改民政)三条家の御知行所として、江州浅井郡丁野村に蟄居す、爰にて子一人を生む、其子孤と成りて、丁野村に成育して、十四歳の時、京極持清其里を合力せられ、浅井新治郎重政、後新左衛門と名のる、其子一人あり、新三郎忠政と云、其子三人あり、嫡男新治郎賢政、二男新十郎是三田村の家を継ぐ、三男新八郎是大野木の養子となる、賢政四子あり、長男新治郎教政は後赤尾駿河守と称す、二男新三郎亮政、三男新助政信後大和守と曰ふ、亮政上坂を討ちて家名を起し、小谷山に移り備前守と号し、江北の大将と為る、一説云、敏達天皇守屋大臣の後裔俊忠、其子忠次初めて武家と為り、浅井郡に五箇所を知行し、亮政に至りて二十七代と申し、則其巻物もあれど不審、然れども忠政以下四代が間は数ならぬ小身人にて、亮政武略を以て上坂を乗取までは、郷侍と聞え侍る。〔浅井三代記〕
補【脇坂】〇淡路草に云、脇坂中務大輔安治は江州脇坂の庄の住人安明の長子也、父は織田信長に仕へ、永禄十一年江州観音寺の合戦に討死す、同十二年明智光秀と丹波の住人赤井慈右衛門と合戦の時、甚内安治十六歳にて軍功あり、此時初めて秀吉に見へ、其家臣となり家を起す。〇浅井郡小谷村大字山脇か、異同未考。〔今、湖北町大字丁野小名協坂の地〕
 
山田《ヤマダ》 今小谷村に属す、伊香郡馬上山(北富永村)と相接する山村なり、神明宮あり、伊勢に擬して山田と称すと伝へり。〔古跡記〕蓋神鳳抄、浅井御厨にや、同書云「近江国浅井御厨、二宮御領代々国司免判文畢、供祭物、上米分三石同入料米五石近代宮司惣百余石領納之」と、其豊邑なりしをおもふべし、猶細索せば其地を得んか。
 
虎姫《トラゴゼ・トラヒメ》 又虎御前に作り、山号より起り、今山南の諸村中野|月瀬《ツキガセ》三川《ミガハ》大寺五村宮部大井等を合同して虎姫村と曰ふ、姉川及田川に跨り、小谷村の南、湯田村の西なり、西は高月川に至る、高月野と称し、北国街道の傍なり。
 
虎御前《トラゴゼ》山 小谷山の南、孤立の岡陵なり、高月川其西麓を流れ、田川姉川は南方を繞る、一名長尾山。〇土俗相伝ふ、昔此岡の桃須《モモス》谷より、美女顕出し、せせらぎ長者の妾と為る之を虎御前と申せり、御前懐妊して小蛇を生みしかば、恥ぢ畏みて岡東の河淵に投じ死せりとぞ。〔輿地志略名跡記〕〇元亀元年中、小谷攻撃の頃、陣地となりしことは、外史(織田記)、元亀元年、信長攻浅升長政于小谷城、城甚険、信長上虎姫山、議攻城策、佐久間信盛曰、抜之不雜、恐損我兵、主君以身任天下、何必平此、信長乃焚城四面、而還、三年又囲小谷、聞朝倉義景釆援、塁於虎姫山待之、義景以二万騎至、会義昭使来諭弭兵、乃令木下秀吉、守虎姫山、天正元年、信長攻降大岳、令信忠(736)守虎姫山、而進、既滅朝倉氏、引兵還虎姫山、使浅井長政与父久政自殺。
 
八相《ヤアヒ・ハツサウ》山 虎御前山の南峰なり、今虎姫村大字中野に属し、延喜式、浅井郡矢合神社在り、八相《ハツサウ》大明神と曰ふ。(或云やさうと呼ぶと)〇南山巡狩録云、天正本太平記に「正平六年九月、八相山に於て尊氏直義々詮三人和睦あり、天下の政務は義詮にまかせ給ふべしと、細川顕氏畠山国清頻りに執し申したりしかば、直義も子細あらじと領掌せられ、やがて金柱《カネハシラ》の大御堂にて尊氏兄弟義詮と和睦の対面ありし処に、桃井直常この事を憤りける故、和睦やぶれ、細川畠山も亦尊氏方に属したるよし」みゆれど信じ難し。〇太平記云、尊氏卿は高倉入道左兵衛督を追討すべしとて、鏡の宿に陣を取る、当国美濃国の勢馳せ参りける間、其勢程なく一万余騎に及ぶ、去程に高倉入道石間畠山桃井三人を大将として、各二万余騎の勢を差し副へ、同九月七日近江国へ打ち出て、八相山に陣を取る、両陣堅く守りて其戦を決せず、翌日入道方の大将に異儀ありて、結句越前の国へ引き返す。〇浅井三代記云、元亀三年七月信長卿江北発向、八千余騎を小谷と虎御前の間なる雲雀山に押上る、本陣は矢島の南の野に備へさせ給ふ、虎御前の内八相山にも附城出来しければ虎御前に木下藤吉、八相山は柴田修理を籠め置かれ、人数を横山に引入んとせらる。
玉泉《ギヨクセン》寺 今虎姫村大字|三河《ミカハ》に在り、元三大師の誕生所にて、大師の廟あり、大師諱良源、勅諡慈恵、比叡山の山門強盛に力を致し、永観三年正月三日示寂す、故に山門の習として元三と呼ぶ。
 
岡本《ヲカモト》郷 和名抄、浅井郡岡本郷、訓乎加毛止。〇今虎姫村是なり大井郷と相接比し、古書に良源の郷貫を大井郷とも岳本《ヲカモト》郷とも曰へり、岳本とは虎御前岡の下なれば也。延喜式、浅井郡岡本神社あり、本郷中に鎮坐せるならん、神祇志料「岡本神は蓋浅井比※[口+羊]命を祭る、是は夷服神の姪にして、浅井岳〔帝王編年記〕に坐すなり」と述べたれど、其浅井岡を早崎の岡に引き当てたるは誤れり。
 秋はまだ浅井の岡の小篠原むすびやすらん千代のはつ露、〔夫木集〕         俊光
天台座主記云、権律師良源、諡慈恵、定心房、治山十九年、近江国浅井郡岳本郷人、木津氏。
補【岡本神社】〇神祇志料 今早崎村朝日岡(又浅井岡と云)にあり(輿地志略・朝日県取調書)蓋浅井比※[口+羊]命を祭る、此は夷服神の姪にして浅井岡に坐神也、(帝王編年記・土人伝説)
 
大井《オホヰ》郷 和名抄、浅井郡大井郷、訓於保伊。〇今虎姫村へ入る。大字大井は姉川の南岸に離立すれど、河流の変移によれるならん、古は北岸の地なりしか。〇釈家官班記云、良源、諡号慈恵和尚、延暦寺座主、近江国浅井郡大井郷人、木津氏、天台理仙弟子。〇按に、良源の誕生所は、今姉川の北岸大字|三川《ミカハ》の玉泉寺是なり。
補【大井】浅井郡〇和名抄郡郷考 釈家官班記、大僧正、良源(山)諡号慈恵和尚、延暦寺座主、近江国浅井郡大井郷人、木津氏、天台理仙弟子、真言覚恵律弟子、天元四年八月廿日任、(元僧正、于時座主)天皇御瘧病加持験賞。志略、大井村宮部村の西にあり。〇大寺に王内儀《ウナキ》森と云ふ古社あり。
宮部《宮部》 今虎姫村の大字なり、姉川の北岸に沿ふ、元亀中浅井氏の驍将世上坊(又善祥に作る)継潤此に居り、織田の軍を拒ぐ、羽柴秀吉之を招降して、隊長に任ず、後中務卿法印に補せられ、但州豊岡城に封ぜられ、功を以て因州鳥取城に移り、終に二十万石を食む、慶長四年卒す、翌年其子長房西軍に謀を通ずるが故を以て籍没せられ、其部下多く藤堂氏に帰す。〇外史織田記、元亀三年、信長攻浅井長政于小谷、朝倉義景来援之、信長虎姫山待之、会義昭使来諭弭兵、乃令秀吉守虎姫山、宮部某守宮部、鑿山開道、以便往来。
補【宮部】〇人名辞書 宮部継潤は刑部少輔真舜の子にして、初め中務卿と称し近江坂田郡醒井の人なり、天文丙申の夏叡山に登りて行栄坊に投じ、剃髪して僧となる、然れども資性武を好みて仏を嫌ひ、常に兵書を読みて軍備を調練す、又兼て膂力ありて窃かに去りて江北に帰り、善祥房と号す、浅井長政其の器度あるを慕ひて已まず、遂に招きて宮部寨の守将となす、後秀吉に隷属し軍功を以て豊岡城を賜ふ、天正十年九月鳥取城を取り、継潤を以て其の城主となす。〇今虎姫村、宮部継潤は此地を居邑としたる僧なりとぞ。
 
姉川《アネガハ》 二源あり、共に金糞岳に発し、南流し東草野村を過ぐるを梓《アヅサ》川と云ふ、上草野下草野を過ぐるを草野川と曰ふ、梓川伊吹山の西に到り、西に折れ姉川と称し、湯田村に於て草野川を容れ、虎御前村の西に至り高月川に入る、長凡九里、末は尚一里許にして湖に入る。
   姉川            玉乃五龍
 長流汨々遶原田、万頃※[禾+罷]※[禾+亜]斜日天、龍拏虎攫知何処、一剣秋風度姉川、
元亀年中の浅井織田の姉川合戦は、大寄山龍鼻の間に起る、今湯田村(浅井郡)北郷里村(坂田郡)の辺と知るべし、故に又龍鼻陣とも曰へり。〇温故録云、姉川の名義は俗説に閻魔王の姉の女龍王となり、此川に栖玉ふ故に姉川と号す、此川上に瀬水と云処あり、両峡対峙し、昔此処に大岩あり、高さ丈余あり、常に滝(737)水漲り、白波糸をなす、伊吹山の長尾寺の覚然法印之を鑿ち、忽ち両峡の大岩滝淵に沈没したりと云伝たり、文和の比のことなりとぞ、此姉川を梓川とも云、河上に梓の杣山有る故なり。按に古書に「夷服岳神の姉を、須佐志姫と呼び、久恵《クヱ》の峰に居る」と曰へり、姉川は蓋此神話と相関係し、久恵峰と云ふも水浜の一山ならん今其名を失ふ。
 数ならで梓の杣に立ぬとも杉のもとをばいかで忘れん、〔斎宮家集〕
補【姉川】〇提要 源を浅井郡加須川領に党し、坂田郡に入り龍鼻山岡山の北を過ぎ草野川を合せ、国友川の称あり、小浜村に至り又浅井郡に入り、落合村にて高時川を合す、濶凡そ五十間。〇高時川 又高月川と云ふ、二源あり、一は伊香郡中の河内の東越前|虎杖《イタドリ》嶺に発し、一は美濃の界金糞岳の下に発し、大見村の南にて合流、姉川に会す、長凡そ十里。姉川の合戦は名高き軍なり、龍ケ鼻とも云ふ、織田家の本陣龍ケ鼻なるが故なり、詳に信長記・三代記に見えたり。
補【梓山】浅井郡〇淡海温故録 梓山は姉川の水源なり、浅井郡にて伊吹山の北に連る、東草野谷と云ふ。
 
南福《ミナトミ》 旧庄名なり、今姉川高月川の合流以西、両岸の諸村を合同して南福村と曰ふ、古の坂田郡細江郷浅井郡新居郷錦織郷川道郷等を併せたる地なるべし、細江新居錦織川道の大字歴々として現存す、方二里許の面積に過ぎず、蓋河流の変遷ありしのみに止らず、其面積の甚狭小なるは、中世湖岸に一大池変あり、村里没却、地域以て蹙少したるにや、不審。
 
川道《カハミチ》郷 和名抄、浅井郡川道郷、訓加波美知。〇今南福村大字|川道《カハヂ》あり、姉川の南岸にして、大字細江(旧坂田郡細江郷)に接す。
 
新居《ニヒヰ》郷 和名抄、浅井郡新居郷、訓爾比井。〇今南福村大字新居あり、姉川の北岸にして、大字錦織に接す。〇康正二年造内裏段銭引附云「江州新井郷」又新千載集、「文保二年大嘗会悠妃方、浅井郡新居里、
 いにしへにやゝ立まさるみたからのにひゐの里はにぎはひにけり。〔新千載集〕    俊光
 
錦繊《ニシゴリ》郷 和名抄、浅井郡錦織郷、訓爾之古利。〇今南福村大字錦織あり、神祇志料に延喜式|大羽《オホハ》神社は酸《ス》村に在りて、錦織庄の総社と曰へり、酸村は今虎姫村に属す、すべて此辺は地変ありしにや、郷村の配置の跡甚だ疑はし。
 
益田《マスダ》郷 和名抄、浅井郡益田郷、訓末須太。今|竹生《チクブ》村是なり、大字益田存す、西は大湖に臨み竹生島を望む。
麻蘇多《マソタ》神社 延喜式、浅井郡に列す、蓋|真沙田《マサゴタ》の義なり、安芸国の古郡名に沙田《マスダ》あり、証すべし。
   大嘗会御屏風、益田社祭神所、
 すべらぎをまもりますだの森なれやあからかしはのあからめもせず、〔顕輔卿集〕
豊臣氏八奉行の一人たる、増田仁右衛門長盛は此邑人にして、武功吏職并に衆に勝れ、和州郡山城二十万石を食せり、関原役後除封せらる、子盛次、元和元年、大坂役に城中に投帰し、奮闘して死す。
補【益田郷】浅井郡〇和名抄郡郷考 神名式、麻蘇多神社。〔顕輔卿集、略〕志略、今増田庄あり。
 
早崎《ハヤサキ》 今竹生村の大字なり、其埼一名浅井埼と曰ふ、湖崖の地にして、竹生島を望む、相去る五十町、竹生参詣の人は舟を此より出す。
 
田中《タナカ》 今朝日村と改め、山本|今西《イマニシ》尾上津里などと合同す、余吾川の末に居り、湖浜に在り。豊臣氏の将士に田中久兵衛吉政と云者あり、此邑人にや、徳川氏の時、筑後三十二万石を領し、子忠政に至り、元和六年除封。
 すべらぎの千年の秋の初には田中の村のわさ穂をぞつく、〔夫木集〕
補【田中】浅井郡〇淡海温故録 田中久兵衛尉、出処は宮部共又御園の庄共云、秀吉公御取立あつて秀次公の家老なれ共、云分立て元の如く秀吉公へ仕へ、中比兵部大夫と改め、後又筑後守長政と号し、二十四万石を領す。今浅井郡朝日村大字田中。〇志略、山本山の古城は田中里に在り、山本冠者義澄の所居と云ふ。
 
今西《イマニシ》 今朝日村大字なり、束鑑、建久三年、将軍妹黄門(藤原能保)室家領卅所之一に、今西庄あり、即此なるべし。〇神祇志料云、延喜式、浅井郡|比伎多理《ヒキタリ》神社は今西村に在りて、日吉神と云ふ。
 
都《ツ》宇郷 和名抄、浅井郡都宇郷。〇今朝日村なるべし、大字|津里《ツノサト》存す、都宇は津の義にて、宇は添字、都《ツ》の韻なり、猶紀を紀伊に作るごとし、同名備中国に都宇の郡あり、越後頸城郡に都宇の郷あり、皆港津の地に名づく、此地には尾上《ヲノヘ》港あり。〇万葉集名所考に、都乎の埼とよめるも此かと曰へり。
 葦辺にはたづがね哭きてみなと風さむく吹らむ津乎の埼はも、〔万葉集〕
 
山本《ヤマモト》 今朝日村と改む、朝日山の麓なり、朝日山は浅井山と云ふに同じかるべし、賤岳余吾山の南の尾にして、余吾川其麓を繞り、湖水に帰す。
 朝日山ふもとの里の卯の花をさらせる布とおもひけるかな、〔家集〕         顕輔
近江源氏に、山本遠江守義定同判官義経など云名あり、甲賀郡に住しけん、一説に此邑人なるべしと。温故録云、昔浅井郡に山本柏木綿織とて三流の源氏あり、新(738)羅三郎義光の曽孫たる遠江守義定を祖とす、山本氏は保元平治の後蟄居して忍在る処、治承四年高倉の宮の令旨ありて、源氏を促されければ、即山本一族江北三郡を相催し、山本山に楯籠る、此事京都に聞え、新中納言知盛二万余騎を卒し、江北に進発也、山本党之を聞て城を開き、寿永二年、木曽義仲の起るに至り、越前府中の陣に参て、山本左兵衛尉義恒江州の先導となると云へり。〇山本山の城は、京極家の臣磯野氏の陣にて、要害無双の称あり、後浅井氏の属塞と為り、織田の軍を拒ぎたる事あり。天正の比に及び、阿閉淡路守長之々に居り、織田氏に属せしが明智乱に与党して誅戮せらる。〇山本山と磯野山間二里なり、浅井勢永正十五年之に押よせ、磯野郷のこなた「あや」と申す所に、亮政本陣を据たり、磯野右衛門は川を前にあて、大森山の切通口へ勢を出して之をふせぎたり、数度の合戦の後、浅井勢より山本川の堰切落し、忽ち徒歩にて押込めば、磯野山の加勢源三郎も途に討たれ、右衛門大夫は片山坂を下り、熊野村の方へ落行く。〔浅井三代記〕
補【山本山】〇淡海地志 朝日山とも云ふ。
 くもりなき豊のあかりにあふみなる朝日の里に光さしそふ
 あきらけき御代のはじめの朝日山あまてる神の光なりけり
あ□りと云神山城に在り、近江山近江国をよむ。
山本川は伊香郡椿坂より柳ヶ瀬へ流れ出て、余呉の湖水の末を合せ、磯金にては磯野川と云、津里尾上にて太湖へ入る。
 
尾上《ヲノヘ》 今朝日村の大字なり、余吾川(山本川)の末にして、湖崖の突出地なり、竹生島|葛籠尾《ツヅラヲ》崎と相対向し、塩津湾の東角を成す。〇輿地志略云、尾上は朝日の湊とも曰ふ、余古川の末なり、相伝ふ、昔より子細之あつて、今に湖中の猟船より杓の銭と号し、運上をとる、土民云綸旨をなし下されて、湖水の狩頭となる、故に堅田の猟師等よりうぐひ二百樽を、正月廿日に尾上村へおくると云、尾上城浅見対馬守俊孝在城なり、浅見は旧き家筋にて、東鑑にも浅見太郎実高出る、浅井三代記云、永正中、浅井対馬守は文武二道に達したる侍なりしが、尾上村の城を拵へ隠居したりけり、永正十四年、浅井の為めにせばめられ、俊孝尾上をひらき、高島郡の知行所新荘へ落行く。
 
小江《ヲエ》 今の尾上は小江の訛にあらずや、延喜式、浅井郡小江神社あり、又霊異記に「近江国坂田郡遠江里、有一富人、姓名未詳也、天平神護二年、至一山寺、奉繕写瑜伽論百巻」と見ゆ、浅井郡は往時坂田郡の分地なれば遠江小江同じかるべし。
補【遠江里】〇霊異記 近江国坂田郎速江里、有一富人姓名未詳也、将写瑜伽論、発願末写而淹歴年、家財漸衰、生活無便、離家捨妻子、修道求祐、猶※[目+卷]願果、常愁于懐、帝姫阿倍天皇御世、天平神護二年丙午秋九月、至一山寺、累日止住、其山寺内、生立一柴、其柴枝上、忽然化生弥勒菩薩像、時彼行者、見之仰瞻、巡柴哀願、彼諸人伝聞、未見彼像、或献俵稲、或献銭衣、乃以供上切財物、奉繕写瑜伽論百巻。
 
速水《ハヤミ》郷 和名抄、浅井郡速水郷、訓波也美。〇今速水村是なり、朝日村の東、高月川の西にして、北国街道之に係る、大字馬渡速水高田青名八日市などあり。〇北国太平記云、天正十四年、柴田勝家江州木の本の宿に着陣して、是より二手に分れ、其一手は佐久間を大将にして、長浜の道筋を早水村迄放火。〇速水に陣森と云旧跡あり、寺墟と伝ふ、又速見氏は山本源氏の一族にて、足利氏の頃江北の名家なり。〔輿地志略〕
 
波弥《ハミ》神社 延喜式、伊香郡に列す、波弥速水音相近ければ、即速水の伊豆明神を指すか。〇按に古事記境原宮(孝元)段「建内宿禰之子、波多八代宿禰者、波見臣之祖也」と載せ、延喜式近江と丹後に波弥神社あり、即波見臣の氏神なるべし、神祇志料は播磨風土記を引き、花波神を祭るべしと云ふ「花波神は、昔近江国より、播磨国託賀郡花波山に移ります時、其妻淡海神追奉りて川合里に至りきと」然らば波弥速水花波は一語の相転訛したるにや、古音今詳にし難し、甲斐国志には、逸見《ヘンミ》も古名波実に同じ、蛇《ヘミ》の義と曰へり。
高田《タカタ》 大字速水の南にして、大字|馬渡《マワタリ》の北なり、慶長元和の頃、藤堂家驍将、渡辺勘兵衛了の故郷と云ふ。
   寛治元年大嘗全、風俗歌、
 天がしたかくこそは見めかつはしや高田の村はえぬとしぞなき、〔夫木集〕       匡房
 (此高田は甲賀郡なるべしとも云ふ)
   天禄の大歌、
 名にたてる吉田の里の杖なればつくともつきじ君が万代、〔拾遺集〕         兼盛
 (此吉田は坂田郡とも云ふ)
補【波弥神社】〇神祇志料 蓋花波神を祭る、昔此神近江国より播磨国託賀郡花波山に移り坐時、其妻淡海神追奉りて川合里に至坐き、即ち是れ也(播磨風土記)
 按、波弥・花波異るに似たれど、丹後国熊野郡花波里、今之を波見と云に拠時は波弥の花波にして波弥神の花波神たる事明けし、且丹後国丹波郡に波弥神社あるも又由縁あり、故に今姑附て考に備ふ。
 
(739)竹生島《チクブシマ》 琵琶湖の北部に在り、浅井郡竹生村に属す。竹生村|早崎《ハヤサキ》の西五十町の水心にして、北は菅浦(伊香郡永原村)の葛籠尾《ツヅラヲ》崎を去る十八町、島形菱実の如く、南北に長し凡二十一町、東西は稍減ず、一座の岩嶼にして、東面に小港をば開き、其上に都久夫須磨神社及び仏閣僧房あり、此島は断崕削立、神巧鬼作の趣あり、樹草欝蒼として、湖光山色に掩映し勝絶言ふべからず、長浜へ四里、今津へ三里、大津へ十六里。竹生島の縁起は古人種々の異を説く、神社考云「竹生島者、在江州湖中、其巌石多水精宝珠、本朝五奇異之一也、伝曰、孝霊天皇四年、江州地※[土+斥]、湖水始湛、駿州富士山忽出焉、景行天皇十年、湖中竹生島初涌出云、昔行基菩薩来此島時、神女現形逢基、基初建寺、置弁財天女像、此所謂南閻提中、有湖海中、有水精輪山、即天女所住也、是曰大弁才功徳天女、本地法身大士、而好楽音、故名妙音天女、垂迹于此、因号竹生島大明神」而て、神社啓蒙俗説弁に至りては竹生島神は宇賀御魂神なりと説けり、然れども帝王編年記色葉字類抄に拠り、浅井比※[口+羊]と云ふ地主神を祭るとする方を正とす、浅井比※[口+羊]は土俗虎御前と称する神なるべし、帝王編年記云「古老伝曰、霜速古命之男、多々美比古命、是謂夷服岳神也、女須佐志比女命、是夷服岳神之姉、在久恵峰、次浅井比※[口+羊]、是夷服神之姪、在於浅井岳也、是夷服岳与浅井岳、相競長高、浅井岳一夜増高、夷服岳神怒、抜刀剣殺、浅井比売之頭、堕江中而成江島、名竹生島其頭乎」、また竹生島縁起〔古事類苑所引〕古老口伝云、此島出花厳経説、故自金輪際出生、金剛宝石者、自神代在之、浅井姫命下坐此宝石上、後召諸魚、此石周囲畳重石、隠宝石也、仍両説無相違、浅井姫命今号地主者、釈迦如来化現也、放下坐在世説法之金剛座也。
 
都久夫須麻《ツクブスマ》神社 延喜式、浅井郡に列す、今竹生島に在り、中世以来本地仏を立てヽ弁財天女と称し、芸州厳島相州江島と并称して、日本の三弁天と曰ふ、祠殿は慶長八年豊臣氏の重修する所にして、伏見城の旧殿なりとぞ、日暮《ヒグラシ》御殿と呼ぶ、近年神仏の混同を解き、其供僧宝巌寺は」立す。〇神祇志料云、都久夫須麻、三代実録筑夫島に作る、夷服岳神多々美比古命の姪浅井比※[口+羊]命を祀る、此神竹生島を造り成て即鎮り給ひき、天平神護元年従五位上勲八等を授く、恵美押勝を誅給ふ時、神佑ありしを以て也、(帝王編年記色葉字類抄〕按に荒木田氏系図に、天児屋根命八世孫久志宇賀主命を以て、竹生島大明神とす、未だ拠ある事を知らず、又按に一代要記、清寧天皇の朝竹生島神始て著る。〇元亨釈書云、天平宝字八年九月、大師藤仲、拒官師于近州高島郡、大師敗走、東南舟浮湖而逃、大将軍涼大向竹生島誓曰、普天之下莫非王土、率土之浜莫非王民、今名山大川、皆各有神、鎮護王国、彼竹生島神善有霊、乞発神力、加助皇威、于時東風俄起、吹恵美舟、着高島浜、遂誅恵美、涼大回闕奏事、勅授神朝請大夫。〇扶桑略記云、元慶三年、木連理生竹夫島神社前。日本紀略云、昌泰三年十月、太上法皇(宇多)幸近江国竹扶島。
 目にたててたれか見ざらんちくふ島波にうつろふ朱の玉垣、〔懐中抄〕  隆祐
  竹生島詩
霊島聞名遙寄懐、秋風尋到立徘徊、老松古柏相重挿、怪石奇巌似欲頽、行雨終朝連水見、低雲薄暮抱山廻、有神此上歳年久、天下精誠任浪来、〔本朝麗藻〕       高積善
   春夜、送人卜隠湖中、   釈六如
 東溪烟樹逗微月、一※[片+聰の旁]寒梅香初発、深澗三声両声鳥、陰崖去年今年雪、聞説竹嶼卜隠居、烟水僅隔十里余、湖上山中応相憶、漁笛雲声共有無、
補【都久夫須麻神社】〇神祇志料 按、三代実録都久夫島を筑夫島に作る。
今近江湖中竹生島にあり(近江国図・諸州廻記・国華万葉記)夷服岳神多々美比古命の姪浅井比※[口+羊]命を祀るは、此神浅井岡に坐て夷服神と勢を競ひ力を争ひ給ふ時に、竹生島を造り成て即ち鎮り給ひき(参取帝王編年記・色葉字類鈔)
 按、荒木田氏系図に天児屋根命八世孫久志宇賀主命を以て竹生島大明神とす、未だ何拠あるを知らず、又按、一代要記清寧天皇の朝、竹生島神始て著る、姑附て考に備ふ
称徳天皇天平神護元年(按、本書月日闕)従五位上勲八等を授く、恵実押勝を誅給ふ時神佑ありしを以て也(帝王編年記、勲八等拠色葉字類鈔)
 
竹生島《チクブシマ》弁天堂 本尊弁才天女、即都久夫須麻神の本地仏として、此に奉崇せられし也。〇感通伝云、松室の仲※[竹/弄]に事へし童ありけり、後竹生島に住めり、一日童子来り、毎年三月十八日には竹生島に於て神仙会あり、吾も其役也、願くは師の琵琶を借らん、仲算是に琵琶を与ふ、仲算も湖水に浮み、一夜沖島にかゝる、仲算詠ず「神となる誓に海の深ければ深くぞ頼む沖の島かな」明神御返歌「春の夜の浪間の白き朝ぼらけ漕行船や月の乗らん」十八日に船を繋ぐ、雲井遙に音楽聞ゆ、須臾ありて音して船の内に落るものあり、見ればさきに童に与へし琵琶也、仲算是を見歎息やまず、則この琵琶をこゝに納る、仲算後に箕面滝に登りて、其終る所をしらず、釈書に出づ、又源平盛衰記曰、平経正此島に詣で、神明法楽の為に一曲を弾んとて、仙童の琵琶を請て、楽二つ三つ弾て後、弦上石上と云秘曲を弾じ玉ふ、神納受やし(740)玉ひけん、社壇より白狐出て遊びけるこそ不思議なれ。〔木曾路図会〕或書に空海の句に「緑樹影沈魚上木、月浮海上兎奔波」と云は竹生島にて詠じたりと曰へり、謡曲|島廻《シマメグリ》にも見ゆ。
 
竹生島《チクブシマ》 観音堂 弁天堂に并び、千手菩薩を安置する一宇なり、西国三十三番第三十の札所にて、供僧を宝巌寺(一作本業)と曰ふ、真言宗、寺宝に聖武帝の宸筆大唐新訳聖教序一巻、玄上琵琶撥一握、其他古経巻多し。
   秋夕泛琵琶湖       染田邦美
 琵琶湖上白雲秋、蒼樹依微笙島幽、神女楼台何処是、徒教明月照扁舟、
   上竹生島         岡本黄石
 雲衣影落古壇浄、金榜光飛深窟明、剰有天風吹不断、※[王+爭]々宛作歩虚声、
   聞人将游湖中遙有此寄   斎藤拙堂
 落木哀鴻湖上秋、軽舟覓勝向笙洲、煩君憑弔平公子、万頃琵琶千古愁、
按に古事記応神帝の御歌に「此蟹や何処の蟹、百伝ふ都奴賀の蟹、よこさらふ、いづくに至る、伊知遅志麻美志麻にとき、美保どりの潜きいきづき」云々とある、此|伊知遅《イチチ》島美島は湖中の島とおもはるれば、若くは竹生島の古名にやあらん。〇東涯文集云、竹生島、四面削成如屏、無※[土+需]可縁、其高数十仞、茂※[木+越]満山、翳薈蔽日、唯聞衆鳥啾々耳、南巌之間有湾、可入舟、遂登焉、有磴数十級、上有僧房九間、無復人宇、皆鑿崖架屋、下臨無地、観者神悸脚酸、茶于華王院、去遊吉祥院、暫而上大士堂、導者云、此豊太閤饗明使游撃沈維敬亭子也、皆冬輪奐之美、東南而下、臨水有華表、奇石錯立、険不可近、登覧既畢、遂※[食+卞]于舟中、回棹而南、面々皆巌、殊形怪状、亦倍前所見、大抵嶼負陰而抱陽、周廻一里余、其奇東南為多、行数町而束有小嶼、皆石也、峭抜有画意、高可十丈余、距大嶼四五十歩、往時水浅、可※[寨の禾が衣]裳而通、近者湖水常長、不舟不能上、巓有小祠、祭羅刹云、暫維舟其下、導者縁崖、剔石葦風蘭。
 
 伊香郡
 
伊香《イカゴ・イカ》郡 近年西浅井郡(塩津郷)を併す、古唱伊加賀又は伊加古、今は伊加と呼ぶ、東北西の三方は皆山嶺を以て限る、東は美濃国揖斐郡及本州浅井郡、北は越前国敦賀郡南条郡、西は本州高島郡なり、南は湖浜及び浅井郡の平野に接す、北国街道は高月木之本柳瀬を駅とし、刀根《トネ》越板取越の二あり、鉄道刀根越を通ず。〇本郡今面積凡四十万里、人口三万五千、役所は木之本《キノモト》に在り。
伊香郡和名抄伊加古と訓み、八郷に分つ、蓋坂田の分郡にして、伊香の名は河内国より移す、其説伊香郷の下に注す、坂田酒人君の祖意富々杼王の祀あり、伊香具神社と称す。
   笠朝臣金村、伊香山作歌、
 伊香山野べにさきたるはぎ見ればきみが家なる尾花しおもほゆ、〔万葉集〕   近江の伊香古と云所にまかりける人のもとへ、
 いはばやな知らでや人のいそぐらんいかごの浦はみる目なしとも、〔散木集〕
 
安曇《アド》郷 和名抄、伊香郡安曇郷。〇此安曇は高島郡の港名河名と同く阿渡《亜土》知と訓むべし、古史に海神《ワタツミ》の裔|安曇《アヅミ》と云ひ、信州にも其の地名ある者と、全く相異す、此安曇は本来アヅチの下略か、今|古保利《コホリ》村に阿閉あり、即是なり、伊香郡の西南端の地にて、郡家(即伊香郷)と相接せるを以て、近世郡庄と呼び、今古保利村に改む。
 
阿閉《アツチ》 蓋安曇の本場にして、今古保利村の大字なり、神祇志料云、延喜式、伊香郡|甘櫟前《イチヒサキ》神社は西阿閉に在り。〇按に延喜式、浅井郡|片山《カタヤマ》神社二座、今古保利村大字片山あり此なるべし、阿閉の西にして、浅井伊香の郡界に接す。〇阿閉氏は此地の郷士にて、浅井亮政自立の初め之に抗争し、後屈従せしが、織田氏の軍江北を侵すに及び之に降る、淡路守長之は天正十年明智光秀の一挙に応じ、兵を出して長浜を掠め、幾もなく敗死す。
 
柳野《ヤナギノ》 今古保利村に属す、余呉川の畔にして、古の安曇郷の属なるべし、和名抄本郡楊野郷あれど、配置の跡を考索するに、楊野卿は後の柳野に非ずして、今の木之本村に当る。〇浅井三代記、永正十五年、亮政は柳野に陣を張りけれど、山本山磯野両城の人々出合ざれば、柳野を引取処に、磯野為員大矢を以て立出で、薬師堂と云所の川の此方にひかへ射出したり。
 
比売陀《ヒメダ》 柳野の古名なるべし、延喜式、伊香郡比売多神社は東柳野に在り、〔神祇志料〕・古事記伊那河宮〔開化)段「御子日子坐王、生大俣王、大王之子、菟上王者、比売陀君之祖」。〇神祇志料云、延喜式、伊香郡久留弥多神社は、旧東柳野の字|久留弥《クルミ》に在りしか、今廃れたり、蓋日子坐王の妃沙本大闇見戸売を祭る、土人の伝説に、本社の神と比売陀神とは御妹※[女+夫]に坐りと云ものは、比売陀神即日子坐王を祭ればなり、比売陀君賜姓の事は、古事記若桜宮(履仲)の段に載す。
(741)補【久留弥多神社】〇神祇志料 旧東柳野村字久留美にありしが、今廃たり (滋賀県注進状)蓋彦坐命の妃沙本大闇見戸売を祭る(古事記・土人伝説)
 按、土人伝説に本社の神と比売多神と御妹妹に坐りと云もの、極めて由あり、姑附て考に備ふ
補【比売多神社】〇神祇志料 按、本書比売を売比に作る、恐らくは誤れり、今本書傍訓及一古本に拠て之を訂す、
旧比売多古社地にありしを、今東柳野村青柳に遷す、(滋賀県注進状)蓋比売陀君の祖彦坐命を祭る(斟酌古事記・旧事本紀)
 
伊香《イカガ》郷 和名抄、伊香郡伊香郷、訓伊加香。〇今|七郷《ナナサト》村なるべし、中世郡庄と称し、郡家の在所なり、余呉川の畔にて大字物部磯野横山布施などあり。〇按に、伊香は河内国を本拠とし、孝元帝の頃に伊賀迦色許売伊賀迦色許男出でたまひ、物部氏之より起る、蓋物部の庶流の此地に移るありて、里名先づ立ち、後之に因り郷郡の称を定めたる也、物部の大字今に至るも現存するは最信拠に足る。(伊香小江参看すべし)
補【伊香郷】伊香郡〇和名抄郡郷考 伊香、伊加香。三代実録、従四位上伊香神。神名式、伊香具神社、又伊香具坂神社。節用集、伊香具。日吉神道秘密記、記録新調事、所謂前代之抄物炎上之間以新調、末代宜備亀鏡、於是社頭焼滅之事、元亀二辛未年九月十三日辛未、早旦依放火織田弾正忠信長山上坂本破滅也、社中之記録紛失也、然後七箇年以後天正五丁丑年三月中旬、於伊香立野記之、社頭再造刻、以此記可令演説者也。志略、所在詳ならず。
 
物部《モノベ》 今七郷村の大字なり、伊香色雄命の後裔物部連の旧邑なり、延喜式所載官社、伊香郡|多太《タタ》神社|兵主《ヒヤウス》神社并に本邑に在りて、多太森兵主森の古跡猶存す、〔神祇志料〕和州三輪の神を移し祭れるならん、又式内|乃伎多《ノキタ》神社の旧址あり。
横山《ヨコヤマ》 今七郷村の大字なり、物部に接す、兵主森あり、又延喜式伊香郡横山神社在り。〇東鑑「元暦元年、以近江国横山、寄附円城寺」と云ふは此庄なりしか。
 
磯野《イソノ》 今七郷村の大字なり、延喜式伊香郡|赤見《アカミ》神社在り、今赤見三社明神と云ふ。〔神祇志料〕〇磯野氏は戦国の頃江北の驍将なり、初め永正中磯野右衛門尉員詮、其子源三郎為員、磯野山本の両城を守り、京極家の為に浅井長政を拒ぐ、已にして為員戦死し、員詮出て降る、乃為員の従弟平八を以て後を襲がしめ、丹波守員正と称ぜしむ、佐和山城を賜り、数織田氏の軍を敗る事、軍書に散見す。
補【磯野】伊香郡〇淡海温故録 磯野は旧跡也、夫木集に、
 冬枯れの磯野の川や氷るらん岩間の小笹いろづきにけり
磯野氏、天正年中浅井家に属す、伊予守貞吉佐保山に在城す、息なくして庶流宮沢平八郎を養て、後丹波守貞正と云て大武勇者也。〇今七郷村大字磯野、物部。
 
柏原《カシハラ》郷 和名抄、伊香郡柏原郷。○今|南富永《ミナミトミナガ》北富永の二村なるべし、高月川の辺に在り、大字柏原は南富永に属す、富永旧庄名也。按に姓氏録「左京神別、柏原連、伊香色男命之後也」と見ゆるは、本郷に出でし氏なるべし、又東鑑「正治二年、近江国住人、柏原弥三郎、追討之宣下、又弥三郎住柏原庄」など見ゆ、是は坂田郡にも同名あれば、其いづれに当るか、今之を詳にしがたし。〇醍醐寺雑事記云、近江国柏原荘、応徳二年、白河院奉為前中宮賢子御菩提、被建立円光院之刻、永可為不輸租田之由、
被下官符、被施入院家、爰領主源盛清、年々致年貢之未進、其積及三千石之間、鳥羽院御時、所被附庄務於寺家也。
落川《オチカハ》観音堂〇紫霊山厳長寺と称す、近世廃頽して草堂一宇を遺すのみ、然れども地方に名高き霊仏なり。
 
高月《タカツキ》 今南富永村の大字なり、敦賀鉄道の車駅にして、長浜の北三里、木之本の南一里半。〇織田記、天正元年、信長軍于山田、浅井氏兵守焼尾、朝倉氏兵守大岳、与山田相持、信長遺柴田勝家佐久間信盛、陣于高月、絶越前援路。〔外史〕
 近江なるたか月川の底清みのどけき御代のかげぞうつれる、〔夫木集〕
 
高月川《タカツキカハ》 山槐記、元暦元年注進の近江名所の一なり、又延喜式伊香郡高槻神社あり。〇高月川は又|高時《タカトキ》川と曰ふ、浅井郡にては馬渡《マワタリ》川とも曰ふ水源は、中河内《ナカカウチ》(今片岡村に属す)の北板取越橡木峠の下より発し、南流高時村に至り杉野川を容れ、高月駅馬上山の間にて浅井郡に入り、南福村に至る、凡十里、田川姉川之に会し、西流一里にして湖水に匯す。
宇根《ウネ》 南富永村の大字なり、高月駅に接す、延喜式、伊香郡|乎禰《ヲミ》神社在り、手禰《ヲネ》森と曰ふと、宇根は乎禰の訛なるべし。
 
馬上《マケ》 南富永村の大字なり、高月川の東岸にして、小谷山山田山に接す、延喜式、伊香郡|走落《ハセヲチ》神社今馬上に在り。〔神祇志科〕〇浅井三代記云、永正十四年、朝倉太郎左衛門尉は浅井加勢として、小谷表に出陣し、先手を馬上山へ打あげれば、六角勢は一支もさゝえ得ずして引取り、虎御前山へのぼる、又小谷城没落の時、羽柴秀吉は馬上山をば先づ打取りて、数日の間域中と迫合し、北国勢をば物部高月の辺にて支へらる。
 
(742)渡岸《トガン》寺 高月駅に在り、天台宗の古刹にして、伝教大師の開創と云ふ、本尊十一面観音(木造立像)并に大日如来(木造坐像)は即大師の遺作と称し、近年官の鑑査を経て国宝に編入せらる、此寺中世兵火に罹りしも、古仏は其難を免れ、永禄の比井口弾正中興したりと伝ふ。
 
井之口《ヰノクチ》 今北富永村と改む、高月と木之本の間なる一村なり、大字|雨森《アメモリ》尾山などあり、浅井亮政の臣に井之口弾正と云勇士あり、其女は久政の妻にて、即長政の母たり。
 
楊野《ヤギノ》郷 和名抄、伊香郡楊野郷。〇今木之本村なるべし、温故録に木之本の地蔵堂の前に昔柳木ありしにより、柳之下《ヤギノモト》と呼び、上略して木之本と云ふと述べたり、又一書に地蔵堂浄信寺は初め柳木山と号し、後長祈山と改むと、按に本名楊本を下略して郷名には楊野と定められしか、今古保利村大字柳野あれど、諸郷配置の跡を考るに、楊野郷を木之本村に引当る方、穏なるごとし。
 
木之本《キノモト》 伊香郡の首邑にして、鉄道車駅なり、長浜の北四里、敦賀の南八里。〇貿易備考云、木之本の牛馬市は、藩政の頃、乗馬の買収に依り、頗る繁盛なりしも、廃藩以降稍々衰微し、爾来著しき盛衰なし、年々牛は一千頭馬は三百頭にして、其代価を合計すれば数万円となす、売買主は近傍諸国より来聚す、而して其売主の多きものは丹波但馬両国及び能登国等と為す。
   晩発木下駅        清田※[人偏+憺の旁]叟
 山夜正寒凛、欲晩偏難睡、蓐食更衣裳、把火照行李、月影尚※[口+卸]山、村中人未起、隔墻謝主人、辛苦渡溪水、澗道次第高、群山何累々、回看過来村、林木朦朧裡、
 
浄信《ジヤウシン》寺 木之本地蔵堂と云ふ、温故録云、浄信寺本 尊地蔵仏、白鳳五年求分明神を勧請し大音《オホト》と号し鎮守と為す。。三代記云、木之本地蔵菩薩は、白鳳元年竺土より難波の浦へ漂漾し、海上に耀きたまひければ、浦の長之を帝へ奏し奉る、帝即ち薬師寺の祚蓮法師に勅命せられ、尊像を取下げ、難波に金光善寺を営み給ふ、其後宣旨あり、祚蓮当国へ安置し、長祈山浄信寺と曰ふ。〇史籍年表云、浅井三代軍記、浄信寺別当雄山所著也、雄山父横山成陣、母長政孫、長沢福田寺僧女。意富布良《オホフラ》神社延喜式伊香郡に列す、今木之本駅大鉤山に在り。〇木之本村大字|田部《タベ》は朝倉義景の陣所か、又黒田にも田之上山あり。〇天正元年八月、朝倉義景は浅井長政籠域難義の由を聞きて、其後詰の兵二万三千を率し、伊香胡郡に着陣有て、田部山に陣取す信長公は高槻村に対陣あり、蒐る所に浅井家の軍已に敗れければ、早速に引取り刀根峠を防止めんとて、八月十五日夜に入て軍兵を引揚げ退けり、信長公此を聞き追掛け、柳が瀬より刀根迄の山中にて、三千余討れにける。〔信長記〕
木之本壘址 木之本駅西十八町、天正十一年羽柴秀吉の軍木之本を本陣と為し、山谷数里の間に塞柵を造り、以て柴田勝家の軍を拒み、遂に賤岳の大捷あり。〇北国太平記、天正十一年、江北対陣段云、秀吉、賤岳木本山など諸所、詰り/\に昼夜を分たず要害を拵へ玉へば、不日に城は出来ず、賤ヶ岳の城には桑山修理亮羽田長門守を籠置し、木之本田上山の要害には小一郎秀長、是を本陣と定め、東野山菖蒲谷の城には堀久太郎秀政、大岩山の要害には中川瀬兵衛尉清秀、其尾を七八町隔てヽ岩崎山に、高山右近、堂本山の尾崎に山路将監、同右の方には大鐘藤八、其一段上には蜂須賀彦右衛門尉家政、其左の手の尾崎には木村小隼人鉤置る、堀が要害東野山より、山路が要害道本山の鼻迄柵をふらせ、其中間に小川土佐守を入置れ、海津口の押へには丹波五郎左衛門尉長秀、斯の如くに手配せり云々。
石作《イシツクリ》神社 今木之本村大字|千田《センダ》に在り、延喜式伊香郡石作玉作の二社ありて、今一所に合祀す、三代実録「貞観七年、伊香郡人、石作部広継」と云名あり。
 
黒田《クロダ》 今木之本村の大字と為る、駅の西北数町、賤岳の東に当る、延喜式、伊香郡黒田神社此に在り。〇輿地志略云、黒田に穂先《ホサキ》谷と云地あり、観音堂に穂先長者の墓あり、相伝、元弘三年鎌倉六波羅没落のとき、佐々木黒田判官此地にのがれきたり子孫豪富となり穂先長者といふ、則黒田判官の墓なりといふ、貝原篤信翁も「黒田の元祖、佐々木黒田判官宗清の在所なりといふ」と諸州巡の記にしるされたり。〇名跡記云、黒田の家系は、京極佐渡守満信の二男宗清、右衛門尉に任じ、伊香郡黒田に住す、依て黒田と号す、其六世孫右近大夫高政、備前国福岡に移る、高政の曽孫を官兵衛孝高と為す。北国太平記云、天正十一年四月二十日、佐久間玄番允が俄に騒立て、秀吉後詰とて馳付かれしと鬩げば、大崎対馬守某見て参んと、蜂峰筋を馳下り、黒田の観音坂の峠まで下り立て、南を屹と見やりければ、東西の両道は松明ひしと立つづき、宛も白昼の如く、余焔天を焦して夥し。〇賤岳合戦記云、羽柴小一郎殿は、本陣として田上山に要害を拵へ、游軍は木本辺に宿陣してけり、田上は黒田山の内にて、北国勢の取出は柳瀬の中尾を本城としたり、賤岳より中尾山まで二里余。
 
己高《コタカミ》山 木本駅の東、高時村の峻嶺にして、北は金糞岳に連り、南は尾を引いて、小谷山と為る、山下に大字河合|古橋《フルハシ》石道《イシミチ》などあり、山中に鶏足(743)寺あり。温故録云、鶏足《ケイソク》寺は石道村に属す、延暦年中伝教大師の開基とぞ。三代記云、己高山は、伝教大師みづから正観音の像を作りて、暫く安座したまふ所也。
 ころもでに余呉のうら風さえ/”\てこたかみ山に雪降にけり、〔金葉集〕       源頼綱
 あなうめに人もうらみしこたかみのみねより奥にいほりむすばむ、〔松葉古今集〕
補【石道寺】伊香郡〇淡海温故録 石道村に己高見鶏足寺、又不動寺云寺あり、延暦年中の御草創、伝教大師の開基、由緒由来ある由也、古歌に
 己高見の山の嵐をおひてにて志賀のみなとへ出づる舟人
高見山 此郡の内己高見山の近辺、未だ所さだかならず、旧跡と見えて古歌多し、万葉集「霞降る高見の山に宮木引く民よりも実に物をこそ思へ」〔未詳〕〇今高時村大字石道。
 
法華《ホツケ》寺 今高時村大字|古橋《フルバシ》に在り、真言宗の古刹なり。輿地志略云、法花寺は高時川の上流、古橋の民家より八町奥なり、石田治部少輔三成幼少のとき、手跡をこの寺の三珠院にならふといふ、故にや寺中に三成が墓あり、神使熊山法花寺と号す、此奥にむかし宥珍和尚といふひとあり、元より秘密の教法をまなび、聖宝尊帥の風雅をしたふ、神変加持の応声、感通不思議の験者なり、河伯山神を御年に勅令としたりと、又|尸羅《シラ》池と云ふは寺の山頂の東南に在り、尸羅とは龍神の名にて、不破拾遺に其奇談あり。〇按に尸羅池は一名夜叉池、美濃國揖斐郡の北山に在り、己高山の東北数里を隔つ、輿地志略之を法華寺の下に係ぐと雖も遠近の弁あるを要す、又法華寺鎮守七所権現の第一は世代《ヨシロ》と称す、即延喜式伊香郡与志漏神社か。
 
余領《ヨシロ》郷 和名抄、伊香郡余領郷。〇今詳ならず、延喜式本郡に与志漏神社ありて、今高時村に此祠存す、余領は蓋与志漏と訓むべし、然れども一説余領は余胡《ヨゴ》の誤にやと曰へり、与志漏神社は中世僧家に侵され、戸岩《トイハ》薬師堂と称し、神は其鎮守と為る、近年神仏分離す、祠辺に古墳墓ありとも云ふ。
 
河合《カハヒ》 今高時村の大字なり、延喜式伊香郡|佐波加刀《サハカト》神社在り、佐波加六所明神と称す。〇河合は木之本の東北一里、杉野川と中河内川此に落合ひ、高時川(即高月川)と為る。
 
遂佐《トクサ》郷 和名抄、伊香郡遂佐郷。〇今高時村及杉野丹生村にあたるか、神祇志料に河合村は遂佐郷なりと曰へり、又遂佐の訓は止久佐にや、明徴を欠く。和名抄、長門国宅佐郷、今|得佐《トクサ》に作る、又山草の名にとくさと云ものあり。
 
杉野《スギノ》 高時村の北東なる山村なり、己高山金糞山其東南を囲み三国岳、土倉《ドクラ》岳中尾峠等其北に連り、美濃揖斐郡と相限る、西は丹生村と一横嶺を隔つ、山中三里余に渉る、杉野川は高月河の一支源なり。〇延喜式、伊香郡|等波《トバ》神社あり、杉野村大字音羽に当るか。
 
丹生《ニフ》 杉野村の西に並び、高月川の発源なり、山谷の形勾るを以て、源頭の地|中河内《ナカカウチ》は片岡村の北に当り、今片岡の大字と為りぬ、凡此山谷の長里余に渉り、三国岳橡木峠(板取越)を以て越前南条郡に界し、長野尾を以て越前敦賀郡に界す、西は一横嶺を以て片岡村余呉河の源頭と相限る。
丹生《ニフ》神社は、延喜式、伊香郡丹生神二座、今大字上丹生に在り。神祇志料云、蓋息長丹生真人の祖、稚沼毛二俣王意富抒王を合祀る、〔古事記姓氏録〕其祭には本社の東北なる丹保野《ニホノ》赤土を採り祈るを例とす。
補【丹生】伊香郡〇輿地志略 洞寿院は丹生郷菅並村の北の山なり、民家より六町許あり。
丹生神社 神祇志料、丹生神社二座、今上丹生村に在り(滋賀県注進状)蓋息長君息長丹生真人の祖、稚沼毛二俣王意富杼王を合祀る(斟酌古事記・新撰姓氏録大要)凡そ三月三日丹生祭を行ふ、土民本社の東北なる丹保野赤土を取来て神に祈るを例とす(滋賀県注進状)
 
洞寿《トウジユ》院 丹生村大字|菅並《スガナミ》に在り、曹洞禅宗。輿地志略云、塩谷山洞寿院、護国禅寺と号す、境内三十余町四方、御朱印三十石、近江半国の僧綱所なり、寺記に曰「当寺開山老和尚、諱は天※[門/言]如仲と号す、応永十年癸未の春開基、塩水流出す、依て塩谷と名づけたり」と。〇天※[門/言]は、洞上聯燈録に拠れば信州の人、伊奈郡に崇信寺を開き、永享年中逝す。
 
中河内《ナカノカウチ》 丹生村高月川の源にして、柳瀬駅より板取《イタトリ》駅(越前南条郡)に通ずる国道之に係る、故に今片岡村の兼治に帰す、南柳瀬駅まで二里、大黒山椿坂の険あり。板取駅(一作虎杖)まで三里、橡木峠を越ゆ。西は長野尾崎の間道ありて、敦賀に至るべし、三里余。東南溪間に従ふて降れば、丹生高時に至るべし。
補【中河内】伊香郡〇淡海温故録 越前路往還の駅也、此より東に当て奥川並といふ山家あり、至極の深山幽谷也、高月川此山中より出づ、今柳瀬に合せ片岡村と曰ふ。
 
片岡《カタヲカ》郷 和名抄、伊香郡片岡郷。〇片岡村是なり、余呉川上流にて、柳瀬駅今市東野文室等の大字あり、西は刀根越山|行市《ギヤウイチ》山|足海《タルミ》峠等を以て、敦賀郡及塩津郷と相限る、東北は丹生谷と相表裡し、南は余呉村につらなる。
(744)刀根越《トネゴエ》は柳瀬《ヤナガセ》山と称し、柳瀬駅より西に方り、敦賀に向ふ坂路なり、椿坂は北に直進し、中河内より板取駅に向ふ、共に北国街道なり。今鉄道は柳瀬山を貫通し四隧道ありて、其最長は四千四百余呎に及ぶ、柳瀬敦賀の間に疋田駅あり、越前の域内とす。〇豊鑑云、天正元年八月比、信長又小谷に軍をよせ、虎ごぜ山に軍だてし給ふ、浅井又越前に助の兵を請しかば、朝倉頓て兵共を江北小谷に差向、其軍刀根山にゆきしと聞て、信長掛向戦しに、越前の軍無下に破れ、命を失ふ者多かりければ 続て趨前に乱入、朝倉義景を討けり。
補【片岡】〇日本名勝地志 毛受《メンジユ》勝助墓は片岡村大字池原にあり、近世村人相謀り碑を建て、其埋骨の処と標す。橡《トチ》谷山、中打尾山の南にあり、徳山五兵衛・金森五郎八在陣、毛受勝助戦死の地なり。
堂木《ダンギ》山 文室《フビツ(フムロ)》村の南にある山にして東野越前守道義が城山なり、志津岳闘戦の日、蜂須賀彦右衛門・木村隼人陣取処なり。
柳瀬《ヤナガセ》 今片岡村に属す、鉄道車駅なり、越前の通路なるを以て、古より其名著はる、殊に天正中織田朝倉并に羽柴柴田の大戦此に在りき。徳川幕府の時、関所を置き、彦根藩をして之を守らしめたり。〇天正元年八月、朝倉義景江州柳が瀬に陣し、それより田神山に陣取てひかへしが、大岳丁野を皆敵に攻とられしと聞大に驚き、十三日の子刻に陣営を自焼して逃去る信長之を見て馬廻の小姓ばかりにて、自身馬に鞭打て追かけらる、討首三十余級と聞えたり、其中に前美濃国の領主斎藤右兵衛門大夫龍興は、先年領国を信長に責取られしより、義景に養はれしが、今度の軍に討死しけるぞ哀れなる、信長の大軍引続き、十四日に越前敦賀の津まで着陣。(改正三河後風土記)
小谷《ヲダニ》 柳瀬駅の南に接せる大字なり。温故録云、大谷刑部少輔吉隆は此村の出生にて、幼名を慶松と云ひ、秀吉公に仕へ立身し、後大名になり、関原陣に勇戦して死すと、旧大谷に作りしか、吉隆は敦賀五万石を領知したり。
中打尾《ナカウチヲ》山 小谷の北東に在り、天正十一年、柴田勝家の陣所なり。此より西行市峰まで一里余、幅三間の作道《ツクリミチ》あり、〔輿地志略〕挾山、又|間瀬《マセ》の中尾山と云ふ是なり、賤岳合戦記附録云、北国勢の取出は、柳瀬の中内尾本城なり、佐久間は行市山に居す、其外取出の跡数所あれども、何れを誰と定め雜し、原不破前田徳山などの軍の居せしなるべし、南方勢の取出に比すれば、中内尾の如き巍々たる者は南方になし、凡柳瀬より越前の府中までは、双方大山聳え、一騎立とも云ふべき難所なり、就中江越堺の辺五六里が間は、雪夥く積所にて、時によりて丈余にも及ぶ、誠に北陸道の銚子口ともいふべし。〇北国太平記云、柴田勝家は北之庄《キタノシヤウ》を打立、江州間瀬の中尾山にぞ著れける、秀吉は其賤岳の尾通りを攀登り、味方の要害共を見玉ひて、又海山の大岩山と、岩崎山と二箇所に、要害を築くべしと下知せられ、柴田が本陣中尾山まで巡見あり。
 
行市《ギヤウイチ》峰 片岡村大字池原の西嶺にして、敦賀郡の堺峰を成す。温故録云、行市峰|東野《ヒガシノ》は行市と云ふ郷土の要害跡にて、天正十一年、佐久間玄蕃陣取の地なり橡谷山は徳山五兵衛の在陣にて、毛受勝助戦死の地なり、中谷山は前田又左衛門陣所とぞ。〇賤岳合戦記云、十九日山路将監は佐久間玄蕃に中入をすゝめ、余呉の海の東なる、中川瀬兵衛が要害大岩山へかかる、廿日早朝西の方のおさへには前田又左衛門利家父子、賤岳のおさへには原彦次郎、東野のおさへをば勝家みづからに押へ、佐久間大将にて一万余騎余吾の海へ降る、其日大利を得中川を討取り、上下気ゆるまり彼処に在陣し、翌日小篠が上の露もろともにおちまろびて起てば、南方の勢は已に支度を調へ、敵退ば附かんと待居し事なれば、未だ陣私もせざりし内に、早ひしと附て見えたりけり、原彦次郎漸々賤岳の方より仕払て、一手に成り殿に残りしに、之には慕はざりけり、柴田三左衛門は昨日の内に南へ張り、賤岳の岑筋なる堀切を越て備たりけるが、秀吉卿は旗本を以て附討せられ、佐久間はやう/\にして余呉の海の北へ押上る、前田は茂山の麓高き処に備へたり、暫にして南方勢谷間より水の湧く如くに溢れ、峰よりも木枯のおろす様により合ひ、北国勢総敗軍なり、柴田勝家東野の堀久太郎を押へてありしが、如此なる上は極陣なり、北庄へ帰城心静に自害すべしとて、毛受勝助に五幣の馬印を渡され、小性馬廻を随へ、原彦次郎居たりし明き取出へ取入れらる、(翌廿二日暮に北庄へ帰城)南方は柴田が馬印を見て、之を取巻しに、勝助兄茂右衛門と共に慕ふ敵を追い払ひ、時経て切腹したりけり。
補【行市峰】伊香郡〇輿地志略 中谷池原山の西にある峰なり、此辺にては志津岳につゞきの高山ならむ、志津岳より高し、東野行一が城山なるゆゑ名づく、今は行市の文字に作る、志津岳闘戦の日佐久間玄蕃陣取の地なり。
 
東野《ヒガシノ》 柳瀬村の大字なり、駅南凡一里、天正十一年、羽柴方より此に塞を起して、北国勢を拒む、堀久太郎秀政第一番の備として之に拠り、天神山|堂木《ダンギ》山等に兵を配る、輿旭志略云、堂木山は其初め東野越前守道義の要害にして、当時蜂須賀木村の陣所とぞ。〇北国太平記云、羽柴の先手は堂木山の尾崎には山路将監を入れ置き、其鼻より堀が要害東野山まで柵をふらせたり、山路は柴田方へ駆こみ、変心して佐久間玄蕃を進めて中川瀬兵衛を打取る、勝家は「一戦(745)の上は佐久間引取よと」云送れど応ぜねば、備を押出し、今市と東野の間なる狐塚に陣取りせらる、忽敗軍の由告来りしかば士卒早抜々に落行く。〇賤岳合戦記云、秀吉軍勢を賤岳へ押出し十三段に備へ、ふ番堀久太郎、二番柴田伊賀守なり、取出の城々普請等丈夫に拵へ、天神山の城は聊出過ぎて益なしとて、十町計引退き、本山《モトヤマ》に要害を拵へ給ふ、左禰山《サネヤマ》も弥丈夫に拵へ、堀久太郎を入置かれぬ、卯月半に至り本山の要害に柴田伊賀守の家来山路将監謀叛あらはれ、将監北国陣へ引退く、十九日佐久間山路より賤岳へ働き、勝家は堀が東野をおさへ対陣せしが、佐久間勝に乗り引取らず、夜半の比より四方物さわがしく、翌日早朝、北国勢忽敗軍なり。〇按に合戦記附録云、実《サネ》山は里人菖蒲谷といふ、堀久太郎之に居れり、本《モト》山は里人堂山といふと、此堂山は北国太平記に堂本山、輿地志略に堂木《ダンギ》山とあるに当るごとし。
 
与胡《ヨゴ》 和名抄、伊香郡に此郷名を欠きて、余領郷あれど、与胡余領各別也、郡郷考には延喜式、本郡に与志漏神あるを以て、余領は即与志漏と訓むべきかと曰へり。今郷村の配置の実跡に就き稽ふれば、余呉村中之郷の辺に郷名を欠く、且領字は胡字の魯魚かと想はるれば、疑惑益多し、此地は片岡郷の南、大社郷の北なり、余呉湖在り、古風土記逸文|与胡《ヨゴ》郷、伊香小江《イカゴノヲエ》と云に合す。
 
余呉《ヨゴ》川 柳瀬川とも山本川とも曰ふ、源は片岡村椿坂に発し柳瀬駅を過ぎ南流、余呉湖の剰水を容れ、浅井郡山本村(今朝日村)に至り、西に屈折し、尾上湊にて琵琶湖に入る、伊香郡内の地を貫流すること六里、其末一里許にして湖に帰す。
 
中之郷《ナカノガウ》 余胡の中郷の謂にて、今下余具坂口等を合同して余呉村に復す、鉄道車駅なり、木之本柳瀬を去る各二里。淡海地志に、平維茂しばし此余呉里に栖みたまふに因りて、余五将軍の称ありと述ぶれど疑はし、旧史には維茂従祖父貞盛に養はれ、年最少く、行列の順十余五に在り、故に余五と曰ふと載す。〇延喜式、伊香郡|大水別《オホミヅワケ》神社、今中郷の大水谷に在り、洞窟に水を湛ふ、名て夜叉神と云ふ即是也、又同式|鉛練日古《エレヒコ》神社、今中郷の山王社|江連《エレ》宮是なり、〔輿地志略神祇志科〕按に鉛練は一書は鈴練に作る、神名地名にも類例少き者とす。
 
菅山寺《クワンザンジ》 今余呉村大字坂口の大箕《オホミノ》山に在り、真言宗、相伝ふ天平宝字八年、照檀上人の創立、寛平年中、菅原道真修理を加へ、因て菅山寺と曰ふと、縁起太だ疑はし、然れども此寺に大蔵経巻を秘置せるを想へば、本より平凡の小地ならざりしを知る、其経巻は後江戸増上寺に運致せらる。〇日本教育資料云、慶長十八年九日、将軍蔵経御覧、光記に「江州いかこ郡菅山寺の密厳院来る、一切経之目録持参、五千四百七十一巻、彦坂九兵衛披露にて、九月五日に目録経二巻懸御目也」、とあり、浄土宗護国篇成語考に「第一蔵経本、旧在于江州北郡菅山寺、巻数凡五千七百十四巻、欠本若干巻、慶長十八年請得経本以納増上寺、乃報菅山以采地、而充俸給、且近隣山林供寺、免租徭云、右経本今安置輪蔵者是也」云々、この本は元朝版とぞ。
 
余呉《ヨゴ》湖 余呉村の西に在り、峰巒囲繞し、剰水は其東北隅字江戸に決して、柳瀬川に合し、南流す、湖面今南北二十町東西十町、賤岳は湖の南方に峙立し、琵琶湖の隔障を成す、二湖の相距二十町許。
 さえまさるいぶきが嵩の山颪に氷はてたるよごのうち海、〔現存六帖〕
 いかごがた余胡のうらわに引網のめをならべてもあはでやめとか、〔夫木集〕
木曽路図会云、余吾湖、東西二十町南北三十町、北の峰より滴集りて湖と為る、余水は尾上川に流れ琵琶へ入る、雑和集「昔近江国余湖のうみに、織女の下りて水あみけるに、きりはた太夫と云男行逢て、ぬぎ置る天の衣をとりたりければ、たなばたへ帰り登らで、やがて其男の妻になりて居給へけり、子共生て、年頃になりにけれども、天上へ登らん志失ずして、常はねをのみなきけるに、此男ものへ罷たる間に、其子父の隠し置たる天衣を取て与へければ、母喜でそれをきて、飛上りにけり、此子に契りけること吾はかゝる身にあれば、おぼろにては逢まじ、七月七日毎に下りて、此湖の水をあぶべし、其日にならば相待べしとて、別の泪を出し流しける、偖其子孫今まで有となん、申伝たり」。曽丹集「よごのうみきつゝなれけん娘子が天の羽衣ほしつらんやは」。
補【余江】伊香郡〇淡海温故録 余江は一里計四方の入江なり、小舟もあり、漁人鮒うぐひの類を捕る、余呉鮒とて名産也、此鮒十一月十二月の比雪降り、江面一遍に氷らざれば取れず、尤佳品也、他月は味悪し。
 
伊香小江《イカゴノヲエ》 余呉潮の古名なり、帝王編年記に伊香小江の異聞を録す、蓋古風土記の逸文にして、雑和集の談も之に因りて訛れる者なり。云、古老伝曰、近江国伊香郡与胡郷、伊香小江、在郷南也、天之|八女《ヤヲトメ》、倶為白鳥、自天而降、浴於江之南津、于時|伊香刀美《イカゴトミ》在於西山、遙見白鳥、其形奇異、因疑若是神人乎、往見之、実是神人也、於是伊香刀美、即生感愛、不得還去、窃遺白犬、盗取天羽衣、得隠弟衣、天女乃知、其兄七人飛昇天上、其弟一人不得飛去、天路永塞、即為地民、天女浴浦、今謂神浦是也、伊香刀美与天女|弟女《オトヒメ》、共為室家、居於此処、遂生男女、男二女二、兄名意美志留、弟名那志等美、女伊是理比※[口+羊]、次名奈是(746)理比売、此伊香連之先祖是也、後母即捜取天羽衣、着而昇天、伊香刀美独守空床、※[口+金]詠不断也。(按に風土記逸文の伊香刀美を、雑和集には切畠に作る、切畠は天女の棚畠に対する名目か、又逸文に拠れば伊香連の祖即是人也、伊香連は物部氏たる事伊香郡の条に注す)
川並《カハナミ》 今余呉村の大字にして、羽衣天神祠及|白木《シラキ》明神祠あり、余呉湖の北浜に在り、足海《タルミ》峠は川並より西塩津村へ踰ゆる山路なり。〇北国太平記に「佐久間玄蕃允は行市山打立、忍んで嶺をつたへ、足海峠を下り、余呉の入海をつたへ/\に、公方《クバウ》山の麓へ打廻し、賤岳を打囲ませ、云々」。
 
賤岳《シヅガタケ》 今|伊香具《イカグ》村大字大音の西嶺にして、余呉湖の南に盤踞す、西は塩津村に至り、山南は直に琵琶湖に浸さる、飯浦《ハンノウラ》と曰ふ。此山余呉琵琶二湖の隔障を為し、東尾に岩崎大岩等の字ありて、北国街道に臨む、天正十一年四月柴田羽柴の両軍、此に対陣し、二十日北軍賤岳の諸壘を攻陥す、翌朝引退に際し、急に南軍の大挙追躡に会ひ、北單遂に敗る、之を賤岳合戦といふ。賤岳又志津岳に作る、登躋十町余の嶺に過ぎざれど、古戦場の名ことに高し。〇外史豊臣記、天正十一年、山路将監進附佐久間盛政、耳語曰、敵諸塁皆固、独中川清秀之塁、在賤岳之麓、去我尤遠、而其備不固、吾潜兵趨之、出其不意、必獲志矣、秀吉在大垣、不能速来、子急撃勿失、盛政大悦、往告勝家、勝家曰可也、撃而勝速還、慎勿留也、盤政乃与従弟勝政、将万人乗夜而馳、暁至岳麓、清秀苦戦而死、盤政既勝、因留不還、勝家召還之、使者五反、而日已暮矣、秀吉急馳掩之、大破之、擒勝政、追蹙盛政、又大破之、遂進赴勝家、勝家曰盛政果敗我事矣、遂北走。〇北国太平記云、佐久間は、余呉の入海を伝へ/\に、公方山の麓を打廻し、賤岳を取囲ませ、大野路山に盛政本陣を据ゑたり。又云、奇秀吉急ぎ賤岳へ後詰あり、已に茶臼山の堀切を押廻せば、後陣の勢段々に馳続く、秀吉は猿が馬場に挟箱を卸させ腰打かけ、暫息をぞつかせける。〇輿地志略云、岩崎山は余呉湖の東に在り、高山右近陣取し処なり、大岩山は岩崎の西につゞける山にて、中川瀬兵衛の陣所なり、岩崎より少し高し、瀬兵衛清秀の墓大岩山に在り、墓石高一丈余、天和二年之を建つ。合戦記附録云、中川瀬兵衛尉清秀墓碑曰、
 天正十一年三月秀吉使清秀為此城守将押柴田氏時、佐久間盛政率数万兵囲此城急欲屠之清秀力戦高山右近雖有側砦不并力敵乗勢競進欲拉之也清秀開門出戦然衆寡不遇見其遂不可勝帰城自殺四月二十日也挙世感彼驍勇此地年代寝久古塔頽側茲清秀第五世孫中川佐州刺史久恒歎之新建一基石浮屠云天和二壬戌四月二十日
     浄信寺住持沙門雄山謹誌
此文に中川自殺とあれど、流布の実録と同じからず、碑高五尺許、従軍戦死之墓碑と二石相并ぶ、志津岳弔古之碑その側に在り、
 宝暦十二年閏四月将帰藩取路岐岨十四日謁江州志津岳先君荘岳公之慕有感往事因恭賦五言一律刻石以述懐云
   昔日屯軍地慨然憶指揮塁虚山鳥過碑湿岫雲帰登陣攀空翠躊躇村落暉功名垂竹帛千載欽英威
   豊後州岡城主中川修理大夫源久貞頓首拝男久徳謹書
又合戦記云、志津岳の尾崎に中川瀬兵衛尉、其尾七八町北の方高山右近、岳の城には桑山修理亮なり、塩津海津口の押へには丹波五郎左衛門尉長秀にて一万にて固めたり、長秀卯月廿日五六艘に出船、賤岳の汀近くなるに随て、鉄砲の音夥くなりければ、長秀敵は賤岳を攻落しやする、急ぎ船を漕よせて、百姓に問へば「今晩中川高山の要害を攻められ、落域したるにや、唯今火の手あがり申候、此賤岳に有し桑山修理亮も見驚き落て逃れり」と申ければ、長秀即急ぎ其城へ入ぬ。
補【余湖】伊香郡〇輿地志略 江戸村と云は余湖の水の流出る口なり。
岩崎山 余湖の東にある山なり、賤岳開戦の日高山右近陣取し処なり。
大岩山 岩崎山の南につゞける山なり、賤ヶ岳開戦の日中川瀬兵衛陣とりし所なり、岩崎よりは少し高し。
中川瀬兵衛墓 大岩山にあり、天正十一年四月十六日中川瀬兵衛志津岳の居城を北国勢短兵急に攻むる、不破彦三佐久間盛政将たり、清秀防戦し遂に盛政の臣近藤無一に討たる、墓誌あり、墓石高一丈余、天和二壬戌四月廿日浄信寺住雄山誌之と碑陰に誌文あり。
 
大杜《オホト・オホヤシロ》郷 和名抄、伊香郡大社郷。按に社は杜の誤なるべし、今伊香具村大字|大音《オホト》あり、即是なり、余胡郷の南、伊香郡の北。〇類聚国史「貞観八年授近江国正六位上大社神従五位下」と、此大社も大杜の誤か、不審、凡杜社の二字古人混同し、其杜を社の代用として、森の義に仮れり、大社即於保杼と訓むべきにや、後世此地にて大音《オホト》に作る。
大音《オホト・オトウ》 今赤尾|飯浦《ハンノウラ》山梨子などと合同して、伊香具村と曰ふ、和名抄大社郷に当る、大音大明神あり、延喜式の伊香郡名神大社伊香具神是なり。
 
伊香具《イカゴ》神社 今伊香具村大字大音に在り、大音大明神と曰ふ、三代実録、貞観元年、近江国伊香神従四位下を授くとあるは是なり、伊香具坂神社(今伊香具村大字北布施に在り)と共に延喜式に列す、〔輿地志略神祇志料〕蓋意富富杼王を祭る、即坂田酒人君息長君布勢君等の祖也、延喜式伊香郡|布(747)勢石立《フセノイハタツ》神社は今伊香具村大字赤尾に在り、其北に大字北布施あり、意冨富杼王(一名大郎子王)は応神天皇々子稚野毛二俣王の子にましまして、継体天皇四世祖に当る、北淡海及越前固に其皇裔の繁栄したること、記紀姓氏録に因りて証すべし、俗説大音神は伊香津臣(中臣祖)なりと云ふは附会のみ。〇古事記伝云、万葉十三に剣鞘従抜出而《ツルギタチサヤヨヌキイデテ》伊香胡山とつづけたり、冠辞考に鞘より抜出して撃とつづけたるにて伊は発語に取れる也、伊香胡山は和名抄に近江国伊香郡伊香とある所なりとあるを思ふに、建御雷之男神はかの迦具土神の頸を斬賜へる時、御刀の本に着る血の、湯津石村に走着て成坐る神にて、血は母の如く御刀は父なり、今此剣神をいざなひ起せる功を以て、剣を抜出て撃《カク》心に称たる名にもやあらむ、式伊香具神社は此迦久神を祠れるもあるべし、然らば伊香てふ地名も、此神社より出たるべし。〇按に伊香の地名の本づく所は、伊香郷の下に注したり、意富富杼王の裔孫伊香の地にて祖廟を建てゝ、之を伊香具神とは申す也。
 
山梨《ヤマナシ》 今伊香具村の大字なり、琵琶の湖に臨み、賤岳の南也。按に天孫本紀物部系譜に「物部山無媛連公、軽島豊明宮御宇天皇、立為皇妃」と載す、若くは此山梨は其名代の地か。天正十一年春江北対陣の時、丹羽長秀は賤岳の急を聞き、速に所部を招き、兵船を発せしめ、山梨子に到り、大音を歴て岳に登り、羽柴秀吉に坂路に謁す、北軍の潰ゆるを見て曰く快なる哉と、乃ち兵を麾き馳撃、敵の後軍と接戦、遂に之を走らす、〔野史〕長秀は当時坂本城の鎮将なり。
 外よりも光さびしくさやけきは月のかくるゝ山なしのさと、〔夫木集〕
補【山梨】伊香郡〇淡海温故録 或は曰く月見の里未詳なり、夫木集に雅光卿 月影を待つも惜しむも苦しきにいづくなるらん山梨の里
〇今伊香郡伊香具村に併す。
 
塩津《シホツ》郷 和名抄、浅井郡塩津郷、訓之保津。〇今塩津村|永原《ナガハラ》村是なり、浅井の属なれど地形全く離れて、伊香高島二郡の間に在りければ、近世は西浅井郡と称せり、明治廿九牛一郡二村を伊香郡へ編入す。〇此地琵琶湖の北岸にして、大浦塩津の二湾を抱き、山高く水深し、崖岬崩裂、葛籠尾崎は中央に突出し、竹生島と相望む、大崎山は西界を成し、高島郡と相限る、其南角を大崎と曰ふ、行市山の脈は西に延て越前敦賀郡の堺嶺と為り、愛発《アラチ》山に続く。
補【塩津】〇和名抄郡郷考 続紀天平宝字八年九月、浅井郡塩津。万葉集三、笠金村塩津山作歌、塩津山打越去者我乗有馬曽爪突家恋良霜。神名式、塩津神社、下塩津神社。盛衰記〔二十八、源氏追討使事〕東路には片山、春の浦、塩津の宿を打過て、能美越、中河、虎杖崩より還山へぞ打合たる。志略、今存。伴高溪云、按今猶属近江高島郡を経て越前敦賀に出る順路、塩津海津などつゞけり。
淡海温故録 此処に塩を焼く、然れども謂れあつて名付たるべし〔続古今集、略〕万葉に人丸
 味鎌の塩津を指してこぐ船の名はのりてしを逢はざらめやは。
補【西浅井郡】〇古は塩津郷にて今塩津永原の二村と為る、明治廿九年伊香郡へ併す。此の一郷は高島郡と伊香郡の間に挿入し、海上に竹生島ありて之に属し、以て浅井郡の附庸たりしと雖、地形は伊香に隷するを可とす。〇面積四方里半、人口七千七百、二村。
 
塩津浦《シホツノウラ》 塩津村の湖湾にして、葛籠尾《ツヅラヲ》崎と尾上《ヲヘ》崎(伊香郡)を口角とし、北方に斗入すること百町許、浦上の港を塩津と曰ふ。続日本紀、天平宝字八年九月、恵美押勝乗船、向浅井郡塩津、忽有逆風、船欲漂没、於是更取山道、直指愛発。〇延喜式、浅井郡塩津神社、今塩津村の塩土山に在り、下塩津神社、今同村の集福寺に在り。〇盛衰記剣巻云、平治の乱に源義朝都を落て、西近江比良と云ふ所に至り、比良を立て高島を通りけるに、頼朝馬眠りして父に後れたり、其夜は塩津庄司が許に宿して、夜半許に道しるべして東江州へ移りけり。
   笠朝臣金村塩津山作歌
 塩津山うち越行けば我のれる馬ぞつまづく家こふらしも、〔万葉集〕
   紫式部の塩津山を通りて、賤の男いとあさましきさまにて、猶辛き道かなと云を読侍る、
 知りぬらん往来にならす塩津山世にふる道はからきものぞと、〔続古今集〕盛衰記に、北国源氏追討軍の行路を紀し「片山|春《ハル》の浦塩津宿を打週て、能美地中河虎杖崩より還山へ打出たる」とあり按に片山(今古保利村片山)春の浦(今伊香具村飯浦)当時湖岸を伝ひて往来したるにやと思はる、能美越は柳瀬の辺か、中河は中河内にて、其以北は越前南条郡の域内とす。又太平記新田義貞北国落の条に云「塩津海津に着き給ふ、七里半の山中をば、越前の守護尾張守高経大勢にて、差し塞ぎたりと聞えしかば、是より道を替えて、木目《キノメ》峠をぞ越え給ひける、河野土居得能は三百騎にて後陣に打ちけるが、天《テン》の曲《クマ》にて前陣の勢に追ひおくれ、行くべき道を失ひて、塩津の北におり居たり、佐々木の一族と熊谷と之を取り籠めて討取る」云々、按に此記事地理に合はざるやの(748)疑あれど、前軍は塩津山を越え敦賀に入る事を、塩津即木目峠と為して、斯く綴れり、木目峠は敦賀の東北にて、南条郡府中に通ずる山路なるを、聞き違て誤まれるか。〇氏族志、熊谷氏、系出乎盛方、子直貞居武蔵熊谷、因氏焉、直貞二氏直正、直実、直正孫景貞、承久中勤王死節、子孫居近江。〇応仁記云、其比近江国塩津の住人、熊谷と云奉公の者あり、智仁勇の三徳を兼備へて、文武に惑を不懐者あり、当代の御政道の不正事を悲て、常々諌言を綴て、目安の状を進上す、義政将軍被御覧、金言忽に逆耳とかや、史記云く、其人にあらずして其官に居す、是謂乱天下とて、所領を没収せられ、熊谷左衛門其身を追放せられけるぞ、浅間敷けれ。〇按に戦国の頃若狭国にも熊谷氏あり、郷土なり、亦塩津の一族にや、此地より若狭へは程近し。
 
塩津《シホツ》越 塩津の浦辺より北二里にして、山領あり新道野越とも称し、之を過ぐれば即敦賀郡にして北海を望むべし、近江此山を開穿して水路を通ずる議あり、土俗七里半切抜と曰ふ。〇名跡記云、享保十一年、江戸の人幸阿弥伊予同長貞松田招斎の三人、塩津より敦賀まで新川を堀り、高瀬舟を浮べんと計画し、其願を幕府に申出づ、即奉行井沢弥兵衛千草清右衛門に巡見を命ぜらる、当時三間の大竿にて湖水面と陸地を測りしに、塩津の浜より沓掛の落合橋まで長千八百九十六間、此にて陸地の水面より高きこと十三丈七尺と曰へり。〇湖水疏通の想像は、近年更に大坂敦賀間の運河設計と号し、世に唱説せらるゝ者是なり、凡湖水は海面上八十六米突の高に居り、塩津より敦賀まで直径二十吉米突に過ぎずと云。
 
永原《ナガハラ》 旧庄名なり、今大浦菅浦|月出《ツキデ》庄村矢田部等を合同して永原村と曰ふ、塩津村の西に並び、南に一湾を抱く、葛寵尾崎と大崎を口角とし、斗入一里許。〇永原村より西高島剣熊村へ通ずる山路を卍字《マンジ》峠と曰ふ、南方に延び、謂ゆる大崎山の横嶺と為る、最勝寺観音堂は此嶺に在り、太湖を下瞰す。
補【永原】〇日本名勝地誌 万字峠は永原村大字黒山の西二十町余にあり、此山の頂上に一大石あり、表面に卍字を鐫す、故に万字峠或は卍字坂の称あり、高島郡境なり、此山の南方に古刹あり、最勝寺と号す、俗に称して峰の観音といふ。
 
大浦《オホウラ》 又大浦庄と曰ふ、三代実録「元慶五年勅、清和院大浦庄在墾田卅八町、在近江国浅井郡、依院牒状、永施捨延暦寺文殊楼料」万葉集に遠津大浦と詠めるは此かとも曰へり、一説紀伊国とも曰ふ、
 霞ふり遠津大浦によする波よしもよすともにくからなくに。
月出《ツキデ》 大浦の東なる大字なり、塩津の湾に臨む、新拾遺集に「はる/”\とくもりなき世をうとむなり月出の崎のあまの釣舟」とよめるは此か。補【大浦】西浅井郡〇淡海温故録 大崎の観音堂、殊勝静寂の霊跡なり、大浦の西南に突出せる岬角にて、高島郡と堺す、大浦の湊を古は遠津の浦共、遠津大浦共云へり、北国往来の津なり、大浦の谷広く里も多し、
 霞降り遠津大浦に寄する波よしも寄すともにくゝあらなくに、(万葉集)
 山越えて遠津の浜の岩躑躅わが来るまでに含みてあり待て(同上)
月出《ツキデ》ヶ崎 又月出の里とも云ふ、大浦の東にて塩津の湊口へ向ふ、賤ヶ嶺合戦の時丹羽五郎左衛門長秀此処に舟を着て、此より揚て参陣せりとぞ。
補【菅山寺《クワンザンジ》山】〇淡海地志 海津大崎峰の観音山大崎寺あり、大浦へ行く道に二筋あり、一を途中越といひ、一を卍字越といふ、共に難所なり、昔し弘法大師此山中に石塔を建つ、銘に卍字あり、故に取ると云ふ。
 
菅浦《スガウラ》 大浦の南一里、葛寵尾崎の西側に在り、竹生島と相去る一里、高島郡足利の船木崎を去る五里。
 高島の足利《アト》のみなとをこぎすぎて塩津菅滿今かこぐらむ、〔万葉集〕         小弁
 沖つなみ高しまめぐりこぎすぎて遙になりぬ塩津菅浦、〔按納言集〕
補【菅浦】西浅井郡〇淡海温故録菅の浦は大浦塩津両湾の間に突出せる葛籠峠の泊処なり、竹生島其江上に在り〔万葉集、略〕
 
 高島郡
 
高島《タカシマ》郡 北は若狭及越前の国界を限り、東は湖水及伊香郡に至り、西は丹波南山城及滋賀郡に至る、西近江の北部にて中世以降は江北の属郡なり、朽木谷は安曇川の上游に在りて、山谷頗広し。〇高島は今郡衙を今津《イマヅ》村に置き、十七村を管治す、人口五万二千、面積四十余方里。
高島郡、和名抄、太加之万と訓み、十郷に分つ、日本書紀、継体元年の条に高島郡とあるは追書なれど、天皇は此地高島宮に御坐しませるより、高島の名は著れしなり、釈紀に上宮記を引き弥乎《ミヲ》国高島宮と曰へり、弥乎は一に三尾に作り、此地の旧総名なるべし。
高島鉄穴 今詳ならず、続紀、天平宝字五年、賜大師藤原恵美押勝朝臣、近江国浅井郡高島郡鉄穴、各一処。
補【高島郡】〇和名抄郡郷考 継体紀初年、高島郡。後紀天長四年六月、近江国高島郡荒廃地一百五十二町(749)給弾正台。名所方角抄、小松より北なり。今按、以上管十二なるを拾芥妙に勢多善積の二郡を加へられたるは、何の拠といふことをしらず、此郡なる郷名と栗太郡なる郷名とを誤られたるなるべし。
高島鉄 輿地志略、続日本紀大宝三年九月辛卯、賜四品志紀親王近江国鉄穴。国廃帝天平宝字六年二月甲戌、賜大師藤原恵美朝臣押勝近江国浅井高島二郡鉄穴各一処、云々。
補 長峰《ナガミネ》山 西浅井郡〇淡海温故録 此も処知れず、菅の浦の辺か、浅井の海西の郡の内なるべし。
長秋詠藻に俊成卿
 万代を祈りぞかくる長岑の山の榊をさねこじにして
未本集に俊成卿、
 菅の根の長岑山の桜花重なる雲の末ぞはるけき
 
海津《カイヅ》 西近江路、湖北の一埠頭なり、今海津村と曰ふ、今津の北二里余、伊香郡界なる大崎の西北湾に在り、大崎は湖中に突出すること二十町許、怪厳古木多く、湖北の奇観なり。〇海津駅より愛発山を踰ゆるを七里半越と云ふ、敦賀港まで七里半の程なれば也。海津塩津は湖北の水駅にて、古より並び称せらる、近世の事なれど長唄色香の詞中に「遥々此に三越路や、塩津海津にどれどれ、それあれあれ、はりがうら釣するあまのうけなれや、心ひとつを定めかね、敦賀こまんの吸附煙草」など見ゆ、塩津貝津の娼家の事を詠ぜるならん。
 あらち山雪消のそらになるまゝにかい津の里にみぞれふりつゝ、〔堀川後百首〕    仲実
参考本盛衰記云、養和二年、征討使の軍兵、近江の湖を隔て東西より下る、西路には今津海津を打過て、荒乳の中山に懸て、天熊国境|匹壇《ヒキダ》三口行越て、敦賀津に着にけり。〇温故録云、海津は昔万貫長者と云富人ありて、其遺跡を存す、又温泉あり渇屋谷といふ。〇神祇志料云、延喜式、小野神社、今海津の中小路なる上尾山に在り、海津小野大明神と曰ふ、蓋小野臣族の祭る所の神也。又延喜式、大前神社は中小路の大崎山に在り、按に大前神は彼岬角の鎮守なり、其上方の嶺上に大崎寺あり。
補【海津】高島郡〇淡海温故録 海津は北国往来の津湊なり、即ち有乳山の麓にて伊香郡へも近し〔堀川次郎百首、略〕此処に昔万貫長者と云ふ富人ありて、其遺跡あり、又温泉ありて諸人湯治す、湯屋の谷と云ふ。
 
補 笹峰《ササミネ》 〇太平記 只今夜々のまぎれに京を落ち、篠峰越に北国の方へ御下り候ひて、木目荒血の中山を差塞がれ候へ云々。〔未詳〕
 
鞆結《トモユヒ》郷 和名抄、高島郡鞆結郷、訓止毛由比。〇今の海津村剣熊村|西庄《ニシシヤウ》村なるべし、剣熊村大字浦は即古の鞆結駅なり。〇慈恵僧正遺告云、九間二面屋材木一具、鞆結庄所進、亦鞆結庄一所、所領田地六十余町、此庄元角好文先祖領也、故判事大属武運口入相添、本公験永施入了。補【鞆結郷】〇和名抄郡郷考 神名式、鞆結神社。兵部式、駅馬、鞆結九疋。志略、所在詳ならず。
 
剣熊《ケンノクマ》 古の鞆結にして、中世以降剣熊(一作見之曲)に改む、海津村の西北にして敦賀に通ずる山隘を曰ふ、今剣熊村と称し、大字浦、小荒路《コアラヂ》、在原などあり。〇剣熊関は、徳川幕肝の時、和州郡山藩を戌所にして、西近江路の要害を為せり、古は愛発関の山北敦賀郡に置けり、而て鞆結駅に小荒路の字あるは、愛発山両国の界嶺にして、南北に跨るを以てなり。延喜式、鞆結神社、大荒《オホアラシ》比古神社并に今|浦村《ウラムラ》に鎮坐す、大荒比古は、蓋荒路山の神の謂なり、延喜式、鞆結駅馬九疋。南山巡狩録云、建武三年十月十二日に、北国下向の官軍、春宮を供奉しまゐらせ、はる/”\と旅行し、後陣に打ける河野土居得能が三百騎の勢、見《ケン》の曲《クマ》といふ所にて、前陣におくれ、塩津の北に出けるを、佐々木が一族熊谷の者共取囲て討取る云々。(按に盛衰記太平記并に天之曲《テンノクマ》に作る此天を見に転ずること其故を知らず)
 
牧野《マキノ》 剣熊村の西、今開田寺久保蛭口の諸村と合同し、西庄村と改む、牧野より西北|栗柄《クリカラ》山を越えて、若狭国三方郡に通ずる山径あり。〇輿地志略に「牧野に古墳あり、大塚にして小山の如し、其傍に小塚二在り、善積出羽守斉頼の墓なりと曰へり、其大塚山の如し」と云ふ、是は猶古代のものにて、斉頼時代の塞にあらざるべし。(善積郷参看)
 
大処《オホトコロ》郷 和名抄、高島郡大処郷。〇今詳ならず、鞆結郷の南なる百瀬《モヽセ》村にや、神祇志料云、延喜式、大処神社今|森西《モリニシ》村に在りと、森西は百瀬の大字なり。
 
百瀬川《モモセカハ》 今此水畔の大字森西知内等を合同し、百瀬村と曰ふ也、西庄村栗柄山より発し、東流、相合同して南流、知内に至り湖水に帰す、長一里。
 
知内《チナイ》 今百瀬村の大字なり、延喜式、大川神社在り、知内川は剣熊村荒路山中より発し、知内に至り湖中に注ぐ、長三里。
 
角野《ツノ》郷 和名抄、高島郡角野郷、訓都乃。〇今|川上《カハカミ》村なるべし、百瀬村の南、今津村の北なり、津野神社在り、中世は此地川上庄と称したれど、和名抄川上郷にはあらず、山槐記、善積郡河上里と云ふは此にや。
補【角野】〇和名紗郡郷考 万葉集七、おほみふねはててさもらふ高島の三尾の勝野のなぎさしおもほゆ。 近(750)藤芳樹云、勝野はカツヌと訓べし、和名妙高島郡角野を都乃と訓るは、古へ鹿角野《カツノ》の三字に書たりけむを二字にせしとき鹿字を除きたるを、後に角野とのみよめるなるべし。志略、今角川村有、此辺か。
 
津野《ツノ》神社 今川上村大字北仰に在り、蓋都奴臣の祖木角宿禰を祭る、神官を角氏と曰ふ。〔神祇志料県注進状〕〇古事記姓氏録に拠れば、都臣角朝臣は、武内宿禰の子、木角宿神の後裔なり、天平宝字八年の乱に「恵美押勝、走高島郡、而宿前少領角家足之宅、是夜有星、落于押勝臥屋之上、其大如※[雍/瓦]」と続紀に載せたり、此角家足も本郷に住せしにや。
 都野の岡みなとにかほる梅の花君がみかどにかよふなりけり、〔夫木集悠紀方御屏風歌〕大江匡房
郁野岡《ツノヲカ》と云ふも此にや、郡郷考には角野は勝野の上略なりと為すも採り難し、津野社の東北に湖水の小湾曲を成すあり、即都野の水門ならん。〇延喜式、櫟原《イチハラ》神社は今大字桂の市原に在り、日置神社は大字|日置前《ヒオキマヘ》に在り。
 
酒波《サナミ》寺 川上村大字|酒波《サナミ》に在り、寺伝に行基法師の創建と曰へり、慶長年中、佐久間大膳正勝修理する所あり、寺の鎮守を剣大菩薩角明神と曰ふ。〔輿地志略〕
補【酒並寺】〇日本名勝地誌 川上村大字酒波に在り、僧行基の草創する所なり、寺伝に曰く、康和元年堀川天皇之を修補す、弘治中に至り堂宇大に荒壊せるを以て、浅井長政磯野丹波守に命じて修覆し、寺領一千八百石を寄附す、其後ち織田信澄寺領を収む、是より堂宇荒廃すれども修むるものなく、慶長中佐久間大膳稍や之を修むといへども、昔時の宏壮に及ばず、相伝ふ古へ此地に大蛇ありて人を悩す、二奇童あり、之を斬る、里人之を徳とし二奇童を祭り、剣の祠を酒波と称す云々。
 
善積《ヨシツミ》郷 和名抄、高島郡善積郷。〇今今津村|三谷《ミタニ》村なるべし、古名は脚身《アシツミ》と云ふと。東鑑「文治二年、所衆中原信房、賜近江国善積庄、是雖為円勝寺領、信房致所望之上、為被酬祖造酒正宗房旧労、如此」云々、拾芥抄に近江国善積郡といふも此庄を指せるなり。〇推古紀「三十一年、征新羅、将軍小徳近江脚身臣飯蓋」ありて、延喜式、阿志都弥《アシヅミ》神社あり、今今津村大字弘川の上野原に鎮坐す、善積郷の総氏神なり。〔神祇志料〕阿志都弥を善積と改めて、郷名に立てたるならん。〇善積氏の事は、輿地志略に、善積斉頼の墓は、牧野村に在り、此斉頼は(多田の満政次男忠澄の男)にして出羽出雲守左兵衛尉に仕官す、康平元年、源頼義朝臣鎮守府の将軍となつて下向の時、出羽守にて相具足し、陸奥にて戦功あり、鷹飼の名人妙手なり、今世に斉頼流と云、武用弁略等の印行の諸書、斉頼を政頼に作り、唐崎大納言と書するは虚偽なり、斉頼の父忠澄は善積氏祖にて、初て善積の荘を領す、斉頼に四子あり嫡子を善積蔵人良行といひ、二男を良季と云、三男を左兵衛惟家と云、四男景実は小椋氏の祖なり。
山槐記、元暦元年注進、近江名所の一に河上里を善積郡と注し、拾芥抄にも善積郡を近江の一郡に立てたり、中世の私称なるべけれど、高島郡の北半を分割して、かくも曰へるなるべし。
補【善構郷】高島郡〇和名抄郡郷考 東鑑文治二年二月近江国善積庄。志略、今善積庄有。賀茂社御厨宣旨の文にも見ゆ。
 
今津《イマヅ》 高島郡の小繁華にして、越前路若狭路の交会に当る、湖上の水運あれば、東は直に長浜に航すべし.五里余.今本部の郡衙を此に置く、今津村と称し、大字|弘部《ヒロベ》大供《オホトモ》弘川などあり。
今津は近代加州金沢藩の領邑なりき。三州志云「今津は、天正九年、若狭より出塩荷物往還の事に就き、大溝城主織田信重の古簡あり、古より江北の要津たること知るべし、文禄二年、今津をば豊臣氏より前田家へ賜る」。〇温故録云、今津は越前敦賀と若狭小浜へ往還の路にて、国中の津なり、昔佐渡判官道誉、摂津の国守を加領に賜はり、支配の事太平記に見えたり、其時摂津の国の河原林弾正を当国に伴なひ引寄せ、此今津を宛行ひ住居させ玉ふ、依て代々相続して此処に在城す、天正中まで相続す。
 さよふけて夜中のかたにおぼゝしくよびし舟人はてにけむかも、〔万葉集〕 たびなれば三更《よなか》をさして照る月の高島山にかくらく惜も、〔万葉集〕
温故録に、夜中潟は高島郡なりと、万葉集古義にも高島郡なるべしと曰へり、其処を詳にせねど此に係ぐ、夜中は浦辺と想はるれば、夜中潟と云ふも妨をきにや。
 
保坂《ホサカ》 今|三谷《ミタニ》村と改む、今津村の西にして、若狭路の山中に在り、石田川は保坂の北大字角川より発し、南流又東流して今津に至り湖中に帰す、長凡五里。〇今津より保坂駅まで二里、保坂より杉山の国界を越え、若州小浜まで七里。
 
木津《コツ》郷 和名抄、高島郡木津郷、訓古都。〇今|饗庭《アヘバ》村に当る、今津村の南、新儀村の北、広瀬村(古賀)の東なり。輿地志略云、饗庭庄は古へ木津庄と号す、比叡山延暦寺領なりき、古簡に政所下文案木津庄進之 可早停止古賀善積自由濫妨任旧例打定傍示事右当庄者鳥羽院御時保延年中之頃被寄附山門領刻為被定置四至畢云々
(751)   建保四年八月三日
           小寺法師応俊寺主大法師
           都維那大法師
    修理別当法橋上人位奉之
    上座法橋上人位奉之。
按に、盛衰記の北国源氏追討使出発の条に「西路には大津三井寺片岡の浦比良高島木津の宿」と続けたり、木津郷の西に古賀善積(即今津)両郷に接する山野あり、今も方一里余の空閑の地あり、饗庭《アヘバ》野と号す、庄村の名は之より起るか、温故録には「饗庭庄と云ふは、貞隆親王御所を営み奉り、御一生を送り過させ玉ふ、始めて庭にて饗し奉りける故に、アヘバの庄と申すなりと、今に其塚あり、則饗庭大明神と号する是なり」云々と説く、是非を知らず。
補【木津郷】高島郡〇和名抄郡郷考 木津、古都。志略、今木津庄あり、是なるべし。行嚢抄、木戸村浜辺なり、左の松原の内人家多し、木津と書。盛衰記〔二十八、源氏追討事〕西路には大津、三井寺、片田浦、比良、高島、木津の宿、今津、海津を打過て。〇今木戸村、(滋賀郡)今滋賀郡に属すれど、古は高島か、比良岳の東麓にて小松の南なり、而して比良の西麓葛川谷に木戸口村あり、是皆古は高島郡なりしか。〇今饗庭村。輿地志略、饗場荘、相伝ふ古へ木津庄と号す、後今名にあらたむといふ、古昔比叡山延暦寺領と見えたり。
 
熊野《クマノ》 今饗庭村の大字なり、延喜式、熊野神社|波爾布《ハニフ》神社は宇土生谷に在り。神祇志料云、木津村に熊野山あり。神社の旧址なり、蓋物部氏の族、熊野連田部連の祖、味饒田命を祭る、延喜式、又|田部《タベ》神社相並ぶ、旧事本紀新撰姓氏録を参考すべし。名跡記云、木津荘の人五十川了庵は、曲直瀬造三に学び春昌宗知と称す、慶長七年印版を造り、太平記を刊行し、徳川氏に召されて政府に赴き、又東鑑を刻したり、我邦刻本の祖と謂ふべし。
 
桑原《クワハラ》郷 和名抄、高島郡桑原郷。〇今新儀村なるべし、新儀《シンギ》村は旧比叡の新庄と称し、木津庄の属なり、即饗庭村の南に接す、大字北畑あり、按に桑原は古訓|桑田《クハタ》又波多と云ひ、雄略紀に「詔宜桑国県殖桑」とありて、白田の地を指し桑原と曰ふ、又古歌に江州桑原浜を詠ぜり、新儀村の地、湖畔に在りて畑の大字あるは、其桑原郷たるを推知するに足る、〇淡海地志云、高島郡桑原浜は、昔白髭明神此に七度桑田の変じて海と為れることを見たる所とぞ。
 すめろぎの御世はつきせじ桑原の浜田は三たぴ海となるとも、〔方与集〕       道経
 見るめなきなみだにからはにほの海やまた桑原となりもこそせめ、〔挙白集〕
又按に、桑田碧海の故典は漢籍より出でしなれど、歌人之を白髭明神の事に附会して章を成せるなり、俚諺に雷鳴の時桑原と云ふも、彼桑滄の大変と云はん語の片辞にあらずや、泉州桑原にも、土俗の一説あり、参考すべし。
新庄《シンシヤウ》 比叡の新庄と云へる地なれば、延暦寺領なりしならん、今新儀村と改む、浅井三代記に、新庄の玉泉坊と称する僧兵あり、此地の土豪なりしならん。
太田《オホタ》 延喜式、太田神社あり、今新儀村大字太田の鎮守なるべし。太田大工と云ふは、近世京都の棟梁中井氏に随従し、天正年中の朱印状を伝へたり。〔輿地志略〕
補【桑原郷】高島郡〇和名抄郡郷考 続紀神護慶雲二年八月、近江国浅井郡人従七位下桑原新麿外大初位下桑原直訓志必登等賜姓桑原公。〔挙白集、略〕志略、今桑原村有、杉生村の南西なり。〇新儀村北畑。
 
船木《フナキ》 今|本庄《ホンジヤウ》村と改む、安曇《アド》川の末なる、堆洲の地にして、古は延暦寺の領庄なれど、其河海は加茂社領にて、安曇川御厨と称したり。此堆洲は江西に於て最も東方に突出し、船木埼と号す、湖上二里を隔て、白石《シライシ》島と称する岩嶼あり、犬上郡彦根の多景島と相距る一里許とす。淡海地志云、船木より二里沖に白石あり、水際より六七間もぬき出で、石の相三峰三株を為す、船の廻り様にて、いくつにも見ゆる故にばけいしとも云ふ。(蒲生郡にも船木郷あり、同名異地なり)
船木庄は、建武式目追加にも載せ、挙白集には元徳二年、日吉社并叡山行幸記を引き「宇土船本庄、任本主之契状、可被附山門」とあり宇土は安土の誤にて、即安曇なり。
 川島や舟木のはるの磯千鳥おのれの名をも年とたのまん、〔夫木集寛治元年大嘗会歌〕 大江匡房
今船木の西に大字川島存す。
補【舟木】高島郡〇輿地志略 舟木村、川島村の東にあり、盛衰記にいはく、故刑部卿殿近江の国湖の舟木の奥にて海賊二十人搦めまゐらせられたりしと云々、いはゆるこの処なるべし、故刑部卿殿といふは平忠盛なり。和名抄郡郷考、建武式目建武以来追加、嘉吉元年文書、近江国舟木庄。挙白集、元徳二年三月、日吉社並叡山行幸記、宇土船木庄任本主之契状可被付山門。行嚢抄、舟木、安土の東北の湖辺の山をいふ。
 
安曇川《アドガハ》 又船木川|朽木《クヅキ》川と曰ふ、朽木谷の奥|翠黛《スヰタイ》山の陰より発し、北流八里、朽木市場に至り東に屈折し、三里半にして船木埼に至り湖水に帰す。〇万葉集古義云、阿戸は高島郡の遠江《トホツアフミ》といふ里にある地なり、今あず河又あど河と曰ふとぞ。
 高島の阿戸河なみはさわげどもわれは家おもふやど(752)りかなしみ、〔万葉集〕
 あられふり遠江の吾跡川やなぎ刈れどもまたも生ふちふ余跡川楊、〔同上〕 足利《アト》もひてこぎゆく舟は高島の足速の水門にはてにけむかも、〔同上〕
足速《アト》の水門は即舟木浜なるべし。船木の田荘は山門の領なれど、其河海は賀茂社領なりし由は、東鑑嘉禎四年の条に「賀茂別雷社領、安曇河御厨内藤江村」などと載す、又神社啓蒙に引ける古文書云、賀茂社江州安曇河御厨宣旨云々、今僅所憑安曇河御厨許也、而件御厨夏漁河流、各所釣海浦云々、元暦元年。又後堀河院宜旨に、件安曇河御厨者、令漁河海之魚鱗、備進朝夕之御贄、所無退転也云々、安曇河上者限滴水、下者迄河尻、不可有他人希望之由、厳制重以如此、宜被停止云云、仍船木北浜供莱人等、可令漁進、是則只以河内、被充置供祭料之故、其河縦雖流入何庄公、任宣旨状、可不漁進日供御贄哉、依之或雖有権門勢家之御領、或雖山門日吉之庄園、於河漁者則更非其所之成敗、只附流水併為御厨成敗者也。
【阿曇川】高島郡〇淡海温故録 阿渡川共書き、川上は朽木谷葛川より出て渓澗の水屈曲して、下は舟木崎に流る、高島郡第一の川也、常に筏木を浮べ杣山と為す。
 楸生ふるあどの川原の浅芽生ものこらず霜に枯れはてにけり(名寄)
 筏おろすあどの早川せき留めて暮れゆく秋をしばしとどめん(夫木集)
 あさりして漕ぎかふ舟は高島のあどの湊によりにけるかな(名寄)
 
青柳《アヲヤギ》 本庄村の南なる村にて、大字横江小川などあり、万葉集に吾跡河楊の詠あれば、青柳里の名も由来する所あるか。然れども元暦元年注進の近江名所なる青柳里は志賀郡と注し、頼長公康治元年大嘗会記には野洲郡を悠紀に定めとあるを、夫木集、康治元年大嘗会青柳村をよめるは
 君が代は民の心の一方になびきて見ゆるあをやぎの村、〔夫木集〕         顕輔
とあり、而て今野洲郡に青柳の地名をきかず、不審。
 
藤樹《トウジユ》書院 青柳村大字小川に在り、中江藤樹の講堂なり、藤樹名は原字は惟命、通称与右衛門と曰ふ、其学術徳行は世に喧伝する所なり、また近江聖人と呼ばれ、江西学の目あり。〇輿地志略云、藤樹書院は界内二十間ばかり、書院四間に八間、茅葺の一宇なり、傍に祠堂あり、先生の神主を安置す、大溝城主分部氏の修補する所とす、先生の墓塋は村内玉林寺に在り。
   藤樹書院          大塩中斎
 院畔古藤花尽時、泛湖来拝昔賢碑、余風有似比良雪、流滅無人致此知、
   藤樹先生          後藤春草
 孝唯将一母、忠不事二君、積穀歳俸償、上表吾情陳、童齢読大学、知学在修身、宜哉父老語、淡海出聖人、勿尤信王氏、行実我所忻、蘋※[草がんむり/繁]何処薦、大湖渺白雲、
補【藤樹書院】高島郡〇京華要誌 中江藤樹先生の講堂なり、書院の西北隅に藤一株あり、因て号と為す、藤樹陽明良知の旨を信奉し、一世の大儒たり、篤学力行皆其徳に化し、近江聖人と称せらる、書院の北に先生の墓あり。輿地志略、中江与左衛門惟命講堂の地なり、界内二十間四方ばかり、書院四間に八間、芽葺、傍に祠堂あり、藤樹先生の神主を安置す、領主分部氏修補す、藤樹先生墓、玉琳寺の界内にあり、高さ四尺ばかり、石面に藤樹先生墓の五字を書す。
 
高島《タカシマ》郷 和名抄、高島郡高島郷、訓太加之末。〇今安曇村及本庄村(舟木)青柳村なるべし、安曇河の南にして三尾郷に至る、今三尾の神戸郷を高島村と称するも、古郷の地には非ず、安曇村大字田中は古の郡家址なること、下に見ゆる如し。
 夢のみにつぎて見ゆれば竹島のいそこす波のしくしくおもほゆ、〔万葉集〕補【高島郷】高島郡〇和名抄郡郷考 万葉集九、高島作歌二首「高島乃阿渡河波はさわげどもわれは家おもふ宿りかなしみ」又「たびなればよなかをさしててる月の高島山にかくらくをしも」又高市の歌一首「足利思代こぎゆくふねは高島之足速之水門にはてにけんかも」本朝通紀前篇、寛和元年四月、藤斉明等有罪伏誅云々、斉明及其弟保輔寺張本悪党、刃傷大江匡衡藤原季孝、切落匡衡左指、斉明保輔等逃亡、朝廷下詔索之、捕斉明於近江高島誅之。柴田退治記、随其忠之浅深充行国郡者也云々、高島、加藤遠江守。後水尾院当時年中行事、十一月朔日、毎年例のごとく近江国よりむべといふものを献ず、いつより奉りそめけるにか(注、郁子、近江国高島郷より供之)〔沖之島、参照〕
 
田中《タナカ》 今|安曇《アド》村と改む古の高島郡家なり。温故録云佐々木十一代の屋形、壱岐判官信綱の二男を高島郡司とし、田中に住し次郎信高と曰ふ、其後代々田中家相続す、野史には、田中久兵衛吉政は蓋高島郡田中里の人、姓橘氏と述ぶ、不審、浅井郡にも田中あり。〇延喜式、宇伎多《ウキタ》神社、今田中の字字伎多に在り、〔神祇志料〕此村は大溝の北一里、今津の南二里、朽木谷の山口に当る。
補【田中】高島郡〇淡海温故録 佐々木十一代の屋形壱(753)岐判官信綱公の二男を高島郡司として田中次郎信高と云、其後代々田中家相続す。高島家と一類なり、田中の上の山に阿弥陀山大山寺と云寺あり、大地旧跡なり
 山際の田中の杜に四目よへてけふ里人の神まつるらむ(方与集) 為家卿
〇今安曇村
三尾里《ミヲサト》 田中と相接し、今安曇村の大字なり、延喜式、箕島神社在り。〇輿地志略云、三尾里は三尾君の邑歟、石橋は其字とす、古今著聞集曰「佐伯氏長始て相撲の節めされて、越前の国よりのぼりたるとき、近江国高島郡石橋を過侍たるに云々」按ずるに三代実録、仁和二年五月の条下に、「膂力之士、左近衛阿刀根繼、右近衛伴氏長相撲之、最天下無双」と載せたり、今は石橋に穢多の種類多く住す。
 
三重生《ミヘフ》 田中の北、大字五番領を三重生荘とも号し、延喜式、三重生神社此に在り、土俗継体天皇の御母振姫此に坐して皇子降誕あると云ふ。〔與地志略名勝記〕按に三重生は三尾振の訛にて、三尾振姫を祭るにや、延喜式二坐と注す、継体天皇の入嗣の状は、古事記に「小長谷若雀命(武烈)無太子、天皇既崩、無可知日続之王、故品太天皇五世之孫、袁本杼命、自近淡海国令上坐、而合於手白髪命、授奉天下也」と載せ、書紀には男大迹天皇初め高島郡三尾之別業にましますとありて、釋紀云、
男大迹天皇、誉田天皇五世孫、彦主人王子子也、母曰振姫、上宮記曰、※[さんずい+于]斯王、坐|彌乎《ミヲ》国高島宮時、聞此振姫命甚美女、遣人召上、自|三国《ミクニ》
坂井県而娶、所生|伊波礼《イハレ》宮治天下乎富等大公王也、父※[さんずい+于]斯王(〇彦主人王)崩去而後、王母曰我独持抱王子、無親族部之国難養育、尓時下去於在祖三国、坐|多加牟久《タカムク》之也。
上宮記の説に拠れば、三重生社はやがて高島宮址と為して可なり、此社の西方の山野を泰産寺野と曰ふ、中世継体帝降誕の遺跡につきて精舎を起したるにや、泰産の名実に其以あり。
 
泰産寺野《タイサンジノ》 田中の西方の山野にして、今尚東西一里南北十余町の閑地を見る、其高峰を阿弥陀《アミダ》山と曰ふ、山中の石硯材に供ふべき者あり、呼びて高島石と曰ふ、其上品は蒼黒堅勁にして、善く墨を溌し石理稍粗にして、指頭之を磨すれば索々清音あり、彼歙州石と甚相似たり。
 
万木《ヨルギ・ヨロキ》 田中の東なる大字にて、今|安曇《アド》村に属す。温故録云、万木と書してよるきと訓む、万種の木集りて林を成せば、万木の森と曰ふとぞ。
 昼よりもよるきの森のすむ鷺の安きいもねずこひあかしつつ〔六帖〕
 たか島やよるきのもりの鷺すらもひとりはねしとあらそふものを、〔六帖〕
按に延喜式与呂伎神社あり、即万木森なるべし、山槐記には万木泉に作る、泉は森の誤なるべし、万を与呂に仮りたる也、別に万種の意あるにあらず、若くは寄木《ヨリキ》の心にやあらん、湖水などを流れ寄れる木の義歟。
 
三尾《ミヲ》郷 和名抄、高島郡三尾郷、訓美乎。〇今|大溝《オホミゾ》村なるべし、其西に接する高島村水尾村は三尾の神戸郷なりしならん、和名抄神戸郷を載せたり、南は三尾埼(明神埼)を以て滋賀郡に界す。
三尾は、古事記垂仁天皇の御子|石衝《イハツク》別王を、羽咋君三(754)尾君之祖と録し、国造本紀云「羽咋国造、三尾君祖石撞別命児石城別王定賜」とあり、而て釈紀には継体天皇の父彦主人王は弥平国高島宮に御坐し、伊波都久和希(即三尾君之祖)の裔女振媛を娶りたまふ、継体天皇も三尾君の女を容れたまふ事記紀に明白なり、当時強盛の貴族の占居したまへるを想ふべし。〇天武紀壬申乱の条に「羽田公八国、出雲臣狛、合共攻三尾城」とあるは本郷なるべけれど、今遺址を知らず。
 
水尾《ミヲ》神社 延喜式に列し、二座並名神大と注す、続紀に延暦三年高島郡三尾神授位とある是也、新抄格勅符に、天平神護元年三尾神に近江地十三戸を寄奉ること見ゆ、和名抄、高島郡神戸郷蓋是也。三尾君の祖を祭る。〇按に此神は、土俗三尾埼の白髭《シラヒゲ》明神と云ふに同じかるべしと雖、猿田彦天鈿女などを祭れるに非じ、三尾山の祖神のみ。今二座、其一は今水尾村に属し、其一は高島村に属す、其間に三尾川流れ、山を拝戸《ハイト》山と曰ふ、即三尾山なり。
 高島や三尾のなかやま杣たててつくりかさねよ千代のなみくら、〔拾遺集〕輿地志略云、水尾社は即三尾山の麓、川を隔て二社あり、祭所の神二座、南は猿田彦命河南の社と名づく、北は天鈿女命なり河北の社と名づく、今両社の間五町をへだつ、この社地白髭山の尾続なり、当社あるを以て湖辺の出崎を水尾がさきといふ、古は社領も多くありて繁栄なりしに、今は僅に其形のみのこれり。〇水尾村大字鴨は古の三尾の神戸の遺称なるべし、鴨別雷社領などと曰ふ説あれど疑はし、延喜式、志呂志《シロシ》神社あり、今日吉三宮と曰ふ、延暦寺にて此神を勧請し、比良神白髭などと唱へしか、志呂志白髭の語言は転訛附会の余地あり。
補【水尾神社】〇神祇志科 水尾神社二座、按、続日本紀三代実録延喜臨時祭式、水尾を三尾に作る、并同じ、今水尾村に在り、水尾大明神と云(神名帳頭注・和爾雅・国華万葉記・神名帳考)其一は三尾山の麓|拝戸《ジハイト》村、川を隔て、社あり、河南村、河北社と名く(近江輿地志略)蓋三尾君の祖磐衝別命を祭る(参酌日本書紀、古事記、旧事本紀)称徳天皇天平神護九年九月丙申、三尾神に近江地十三戸を充て神封とす(新抄格勅符)
 按、本書三尾を尾三に作る時は伊香郡なる乎弥神社とも疑はるれど、三尾を倒しまに写し誤りしものなる事著し、故に今之を訂す。
 
高島《タカシマ》院 禅智《ゼンチ》院と称す、今高島村大字高島の上、拝戸《ハイト》山に在り。〇此院伏見殿姫宮龍溪聖玉禅尼の開基なり、御朱印百二十石、開基より第四代まで伏見殿の姫宮住職す、第五代を光運聖貞禅尼といふ。久我内府の女なり、第六代を御堂聖高禅尼と云、転法論前左府公の女なり、当住職七代に当りて又伏見邦永親王の姫宮なり、此の如く連続するを以て、土俗高島の尼御所といふ。〔輿地志略〕
 
拝戸《ハイト》山 高島水尾の両村に跨る、即平尾山なるべし。〇輿地志略云、拝戸山の中に石窟あり、志賀郡東坂本栗本郡田上里村の山中にも石窟多し、土俗皆な火雨の説をいへども、はなはだ妄誕なり、此所の如きは隧道顕然として有れば、疑もなき古昔の墳墓なるべし、今亦按ずるに、恵美押勝が家族三十余人を、三尾崎に斬りしことあれば、彼徒類などの墳墓を、所縁の人の築かれしも知るべからず。
 
伊黒《イクロ》 今高島村に属し、大字黒谷と曰ふ、三尾川の源にして、武奈岳の陰なり。〇浅井三代記云、元亀二年、伊黒の城主新庄法泉坊、信長卿へ味方して近辺を責取る、海津信濃守は小谷に籠城して居けるが、之を聞き討手を望みける、長政公も又此法泉坊忽にすて置なば、高島一郡を押靡けんとて、海津信濃守に勢千三宮百騎を添られ、伊黒の城を攻めしめらる、法泉坊も火出る程戦ひけるが、城は遂に乗取られぬ。
 
武奈岳《ブナガダケ》 比良山の北峰にして、伊黒の南方に聳ゆ、其山中に八池《ヤツイケ》の滝と曰ふ奇勝あり。
 
勝野《カチノ》 今大溝村と改む、明神埼(三尾埼)の北にして、湖水に臨み小湾を抱く、勝野津と称す、延喜式云、諸国運漕切賃、若狭国、海路自勝野津至大津、船賃米石別一升。
 何処にかわれはやどらむ高島の勝野の原に此日くれなば、〔万葉集〕
 大御舟はててさもらふ高島の三尾の勝野のなぎさしおもほゆ、〔同上〕
勝野は湖上の運漕の衝に当るを以て高島津とも称し、中世高島氏之に居る、築城して大溝と曰へり、万葉集に香取浦《カトリ》真長浦と云ふも此なるべし。 いづくにか舟のりしけむ高島の香取の浦ゆこぎいでくる舟、〔万葉集〕
補【勝野】高島郡〇淡海温故録
 高島やあど川波に舟とめてあすは勝野の原をゆかなん(夫木集)          権僧正公朝
 たが袖にまず移るらん高島や勝野のはらの秋はぎの花(同)            為家卿
 
大溝《オホミゾ》城址 古の高島氏の城跡を、長宝寺山と曰ひ、近世又分部氏の築塞あり。浅井三代記云、永正十五年、浅井亮政高島郡を責取るべしとて、水陸の二手にて大溝城に押寄せける、高島玄蕃允一族之を支へしかど力なく、玄蕃打死し城陥る、高島郡之より浅井氏の有と為る、海津長門守政元の伯父信濃守政義大溝に居る。〇高島氏は本来海津同族にや、今詳ならず、天正元年には皆織田の軍に攻滅せられしならん、(755)織田七兵衛信澄更に築城して之に居り、天正七年に至る、天正十四年、京極高次大溝二万石を賜り、尋で大津に移る、元和五年に至り、徳川幕府、分部左京亮光信を勢州より移し、二万石を給ひ陣屋を置く、子孫世襲して明治維新に至る、〔輿地志略名跡記野史〕〇温故録云、大溝の城池は、永久年中、佐々木屋形信綱公の二男信高を祖とす、次郎信高高島郡司に任じ田中に居り、後に高島越中と云ひ此所に在城す、其跡を海津氏継ぎ、元亀三年、信長公大軍を以て大溝に攻寄、終に海津氏討死し、信長公より七兵衛尉信澄に賜はる、天正十年六月信澄摂津国にて亡失しけるに由て、明き城になりける故、当分の預にて丹羽五郎左衛門在城あり
永田《ナガタ》は今大溝村の大字なり、延喜式、長田神社此に在り、永田は西を音羽山と曰ふ観音堂あり、和州長谷寺の大悲像は此山の楠以て造れりと、長谷寺縁起に「高島郡三尾前山、有深谷、号白蓮谷」と見ゆるは即此なり。
補【大溝邸】高島郡〇輿地志略 始め城あつて佐々木京極家武臣磯野丹羽守員政在城す、その後織田七兵衛信澄こゝにあり、然して後城を廃す、元和五年台命あつて分部左京亮光信を此地に封じたまふ、光信は北伊勢工藤家の余流左京亮光嘉が子なり、伊勢国上野より此地にうつる、秩二万石。
補 紅葉浦《モミヂウラ》 〇輿地志略 大溝永田村の浜辺をいふ、一に禰婦浦ともいふ、本村より五六町下の浜なり、この浦にて網する所の鮒を紅葉鮒といふことは土産門の巻にしるす。
 
明神《ミヤウジン》崎 三尾埼と云ふに同じ、大溝村の南音羽山の東の尾にして、高島滋賀郡界は此に分る、打下浜とも曰ふ白髭明神祠此に在りて、今滋賀郡小松村に属す。
 
古賀《コガ》 今|広瀬《ヒロセ》村と改む、安曇川の両岸に跨り、朽木谷の出口なり、饗庭村安曇郡の西に接す。〇輿地志略に木津(即饗庭村)と古賀の境界論の制状を載す。
 山門雑掌与尊勝院雑掌、相論近江国木津庄者、如古賀境事、請文披見畢、如執進代官高久状、并佐々木大膳大夫入道高通代状者、彼論所十三条之通、為木津庄内門領山之段、無子細云々、此上者、尊勝院競望可停、山門雑掌所務之由、所被仰下也、仍執達如件、
 応永十三年四月二日       沙弥判
   佐々木備中入道殿
 
朽木《クツキ》 朽木谷と称す、安曇川の上游にして、今朽木村葛川村久多村の三に分る、東は比良山武奈岳、南は翠黛山、北は大悲山知井山木地山等並列し、山城国愛宕郡丹波国北桑田郡及び若狭国の山谷と相接す。〇朽木谷は京都を距ること遠からねば、深山幽谷とは云へど、往来の便多し、故に久多村は今城州愛宕の郡治に帰すと云ふ、山村なれば林産多し、朽木の杣は古より其名あり。
 さゞ波の大山守のしめゆゑに朽木の杣のはなざかりかも、〔夫木集〕
 さみだれに川音たててたかしまやくつ木の杣木ひく人もなし、〔温故録所引〕
 
市場《イチバ》 今朽木村と改む、今津の西三里朽木谷の大邑なり、朽木氏の邸あり、徳川幕府の時四千七百石の禄高にて、交代寄合の家格なりき。〇按に朽木氏は佐々木信綱の子高信を祖とす、応永年中、朽木出羽守能綱あり、其裔信濃守稙綱、享禄の乱、将軍義晴難を朽木谷に避るや、稙綱居邸を修繕して迎へ入る、義晴幾くもなくして京師に帰る、稙綱毎に柳常に候し、申次七人の員となる、天文八年閏六月、京師騒擾す、稙綱夜窃に柳営に入り、公子義輝を扶けて八瀬里に移る、義輝元服を加ふるに従ひて、稙綱その役に候す、十九年義晴穴太の山中に薨ず、稙綱終始慇懃を尽す世之を称す稙綱の子晴綱、天文十九年、高島越中守と田原坂に戦ひ之に死す、元亀元年、織由信長越前を伐つ、浅井長政其帰路を扼す、信長若狭より朽木谷に入る、元綱之を導きて其還兵を全からしむ。〇西北紀行云、朽木谷は江州高島郡なり、此谷の形南北は長く東西せばし、朽木殿の居宅あり、朽木氏は佐々木氏の庶流なり、周林院とて禅寺あり、京極家の女(豊臣秀吉の側室松の丸殿の妹)朽木氏に嫁し、死後此寺に葬る、方丈の前に仮山水あり、享禄元年、将軍足利義晴三好が乱をさけて、朽木稙綱が許に住居せられ、五年を歴て、天文元年帰京せらる、此寺は義晴の居住し給ふ宅なり、此谷は水南より北にながれ、朽木より又東に転ず(舟木に出でて湖水に入る、川下をあど川と云)、凡南北数里は朽木谷なり、此辺に昔は町井柚木と云両村あり、寛文二年五月朔日大地震の時、東の山崩れて村里を埋み、両村の人皆死すと云ふ、東の山は比良の高峰の西側なり。
 
久多《クダ》 此村は市場の西南四里、葛川村の西に並ぶ、大悲山其西に聳ゆ、溪水は安曇川に注ぐ、今城州愛宕郡の郡治に係る、久多庄の名は醍醐三宝院古文書に山城国久多庄とあれば、其城州に属せるも久しき事なり。
補【久多】愛宕郡、久多荘、三宝院古文書に見ゆ、今久多村。〇大悲山の陰にあたり江州高島郡に接す、流れは北へ高島郡に入る。
 
葛川《カツラガハ》 朽木谷の奥にして、今葛川村と曰ふ、東に比良山、南に翠黛山聳ゆ、郡治は滋賀郡に(756)属す。
補【葛川】滋賀郡〇淡海温故録 享禄元年九月、義晴将軍は三好長基入道海雲に討負け、朽木葛川に落給ひ、朽木民部少輔稙綱を頼て享禄四年まで朽木谷に止住す、天文元年公方朽木を退き龍華の下生庵に移り、十二日和爾の善福寺に移り、十三日坂本宝泉寺、十四日六太常□寺に宿陣にて帰洛したまふ。
 
葛川寺《カツラカハデラ》 葛川村大字坊にあり。輿地志略云、葛川の不動堂は北嶺山息障明王院葛川寺と号す、開山は無動寺相応和尚也、淳和天皇の皇后旅子の創立と称す、本尊は観音にして、天勝堂の不動明王は相応和尚の所作なりとぞ、帝王編年記に曰く「貞元元年、相応和尚、於葛川第三滝、拝生身不動」。〇西北紀行云、葛川谷と云は即朽木谷の奥なり、坊村息障明王院に、地主権現の社あり、色仏《シコフチ》明神と称す、昔は高貴の人もおほく参籠あり、鹿苑院義満慈照院義政常徳院義尚義政の室藤富子并群臣の札本堂に褐ぐ、今にあり、山中にては珍らしき大なる宮寺なり。〇書紀通証云、天武紀、忌部首色弗、色弗、持統紀作色夫知、文武紀曰、正五位上忌部宿禰色布知卒、詔贈従四位上、以壬申年功也、世伝、色弗口訣八箇祝詞、式外近江滋賀郡色弗明神社、在|葛《カツラ》川谷坊村、古来称之地主神云。
 
川上《カハカミ》郷 和名抄、高島郡川上郷、〇今川上村と云ふ者あれど、彼処は角野郷なるべし、朽木谷に郷名なきを考れば、川上郷は即朽木にやあらん、古今著聞集に「高島郡平等院川上庄」の名を載す、孰を指すにや、山槐記の近江名所川上里は善積と注せり。
  文政元年大嘗会悠紀方六帖屏風、
  河上郷六月祓、
 川上の里のながれのきよきせに君よろづ世とみそぎをぞする、〔古事類苑〕
板倉《イタクラ》 江州大嘗会悠紀方の歌名所なり、一書に高島郡と注せり。詞花集に、近衛院大嘗会の屏風に、近江の国板倉の山田に稲を多く苅積あり、之を人見たるかた書きたる所、
 板倉の山田につめる稲を見てをさまれる世の程をしるかな。
       〔2021年2月28日(日)午後2時20分、入力終了〕