「萬葉集辭典」折口信夫全集第六卷、中央公論社、1966年4月25日発行
 
    萬葉集辭典のまへに
 
□萬葉集辭典の校正も、ひと月足らずの中には、やつと爲あがる迄になつた。手をつけはじめて二年半、其板行のよしを言ひひろめてから、一年半になる。ほんとうは、去年八九月頃に出來あがつて居なけれはならぬはずであつた。其が、まる一年の初秋も過ぎて、更に半年、おしつまつた歳の暮れの市ぐらに、辛うじて竝べられることになつたのである。豫約者名帳に加入せられた讀者の方々には、まことに何と、おわびの申さう樣もない。方に、憤りが通り越して、ひた呆れにあきれて居て下さる頃であらう。
併し、此點、板元文會堂の主人の與り知らぬことである。作者が書きなほし/\してゐた間に、矢の催促の果は、商賣冥利まで説いて聞かせられた本屋こそ、眞によいつらのかはである。けれども、其弓勢の末は、やはり皆わたしに來た。蔦屋の番頭・手代に脅かされた、昔のおどけた式亭の夢を、連夜見とほしさへした。言海〔二字傍点〕の跋文を書きながら、「大嘘槻先生の食言海」など言ふ秀(4)句の手紙を受けとつて、かの博士のせられた泣き笑ひの顔も見た。
□世間の義理の上に、學術的良心を脊負うてゐる者は、何時の世にも、此苦いほゝ笑みの味を嘗めずには、すまぬのであらう。家の兄からは、三度迄、信用と言ふ世渡りの第一義を説いて來た。弟が、世間・學間の天秤の上り下りに、肝を冷してゐる間に、學問ばかりでは、義理がとほらぬと言ふのであつた。其兄も、もはや、何とも言うておこさなくなつた。さうしてやつと出來あがつた斯萬葉集辭典が、果して、どれほどの出來ばえか。思ふと情なくもあり、寂しくもある。
□昨年中に、ともかくやり上げる必要があると言ふので、同學の親友、武田祐吉・高柳光壽・安藤英方三君の手助けを願うて、やつと、大體はこしらへ上げた。其後、刷れて來る、校正刷りの上に、書き加へ、書き改めする程に、本文二百八頁の虞迄來た。あまり直しの激しさに、驚いたのは、印刷所の文選職工よりも、寧、文會堂である。組み換へ料のかさむのに、肝を銷して、ひみのえ〔四字傍点〕(二七二頁)から下は、筆耕の手で、改めて淨書させて、此原稿きりで、増すなり、減すなり、自由にする樣にとの申し出しなのであつた。此が昨年の暮れである。其後は、限られた行數・字數の内で、訂正することの許されてゐた校正刷りとは違うて、思ふ存分、直す程に加へる程に、御覧の通りの紙數になりのぼつたのである。み〔右○〕の部をひときりにして、又ふ〔右○〕から書き出し(5)たのは、今年の三月頃であつた。其間に、補遺に組み入れるべき題目が、段々と出て來た。小田原の郡史編纂所で、古書に讀み疲れて戻ると、早川じりの汐さゐの音を聞きながら、燈の下で、辭典の淨書の上を、縱横に塗抹し、改竄した。
此樣に、今年の初めからは、爲事の片手間にするほかはなくなつた。東京へ戻つてからもやはり、同じ事を續けてゐた。何と言ふ、二重の心づかひか。晝は、本朝通鑑や、寛政重修諸家々譜を拾ひ讀みして、夜は、萬葉びとの心を探り/\、辭典を書くといふのである。小田原の爲事も、來年一月には、目鼻がつく。此本も、やつとかた〔二字傍点〕がついた。此からは、眞に身を入れて、本書の補遺と言ふよりも、前期王朝辭典の編纂に、うちこむことが出來るのである。今では唯、兩三个月後に控へた其日の來るのが、泳ぎ著く樣に待たれる。
□萬葉集辭典を作ることは、とりも直さず、奈良朝の百科辭書をこしらへる訣である。わが國の書史が、到底、奈良朝以前に溯ることの出來ぬものとすれば、時代辭書を分擔する人々の中、萬葉集の時期を受け持つ者が、一番損な役にまはつたことになる。なぜなら、勝手ながら此書物で、平安の王朝に對して、前期王朝と呼びならして來た奈良朝以前、即、殆、まだ「青空のふるさと」や「海のあなたの妣《ハヽ》が國」を夢みてゐた空漠たる時代迄も、脊負ひ込まされねばならぬからである。(6)それも、萬葉の色あひの、著しくなつた飛鳥・藤原の頃からは、今日かつ/\、文獻のたどるべきものがあるのみならず、今後も、美術史家や、考古者學の手で、少しづゝは、遺物年表に、箇條が殖されて行き相である。とは言へ、平城・平安京の坊目考をこしらへる樣な考へでは、幾百年待つたとて、前期王朝の片影をも捉へることが、出來ようとは思はれぬ。其でも、正倉院など言ふ奇蹟の樣な實在が、目に見える物の幾分は、解決の鍵を用意してゐてくれるが、心の内の世界になつては、何に縋つて、探りよることが出來よう。大學出の勢のよい學士たちの中には、可なり意味ある想像を提出してゐられる向きもある。おつかなびつくりで、手もえ出さぬ歴史家に對うてよりも、此人々に禮心を表すべき理由がある。
語部が物語を心《シン》にした、記・紀・風土記竝びに、萬葉集が殘つてゐて、斷片ながらも、此期の人々の生活内容を、書き止めて置いてくれたのでなかつたら、此人たちの努力も、横穴の年代づけに、角めだつてゐる考古學者の努力と、大した違ひのないものとなる處であつた。
であるから、前期王朝の爲にも、上の四つの書物自身の爲にも、四部の書物を、閑却することは出來ぬ。從うて、萬葉を以て萬葉を證明することも、勢、避ける訣にはいかぬ。言はゞ、自脈をとる、と言つた次第なのである。
(7)物心兩面から萬葉人《マンネフビト》の生活を見ると言ふことは、可なり根氣のよい文明史家の一生の爲事にも、餘つてかへるだけの分量がある。まことに、もろ向き心を抱いて、八衢に夕占《ユフケ》とふ處女は、正占《マウラ》を得ようはずがない。極めて欲深く、而も自ら揣り知らぬわたしの、この本で企てた所は、まのあたり、むなしい荻のおとづれを得た。
□此書物では、自分の考へを、あまり述べ過ぎたかも知れぬ。其を今少しかたよせて、先輩の説を竝べた方が、善い樣だ、とかたはらいたげな顔する人もあり相に思ふ。併し、其には、わたしとして、幾分考へてゐる積りでゐる。
常に發生の順序をたどりつゝ、結論に達するといふことは、大事なことである。同時に、排列・蒐集するに當つて、「何の爲に」といふ主題を落した節には、其爲事は、博物學者の助手の勞働よりも、氣の毒なものである。さなくば又、他人の説の比較ばかりに、大きな仲裁顔をさし出してうやむや〔四字傍点〕に手をしめて了ふことになる。わたしは此ごろ、萬葉・古今などに對する、俳諧派の倭學者連中の研究史を調べることに、興味を持つてゐる。態度・手續きなどについての、あなぐりを本意とした、それと此とは、全く別問題である。さう言ふ處に、中心を据ゑての考察でない限りは、他人の説の年代記風な排列などは、研究の餘業と言うても、さしつかへはない。又、自分(8)の研究の過程を誇るおろかしい態度だ、とも言はれよう。更にしかつめらしく言へば、一種の啓蒙的な態度である。粉本をなぞる研究手段である。其にも係らず、今の世の庠序學派の人々の中には、些しの創造をも交へてない不完全な分析の儘ではふり出して、立派な學術的な態度だと考へてゐるてあひもある。
さう言ふ研究が、どれだけの效果を、學間のうへに屆けるか。わたしはいつも、疑うてゐる。恐らくは、たか/”\、懶け性の孫引き學徒の骨惜しみを、助長する位のことであらう。さう言ふ爲事を以て、眞の學者の道と考へてゐる人も、現にある。此作者などは、恥かしながら、まだ血氣の若者である。「便利な」と言ふよりも、「力強い」と評せられる語の方が、望ましいのである。萬葉についての、先人の説を書きとめた書物には、極めて僅かな名著がある。諸君のほんの少しの手間で、一語々々の研究發達史は、知れるのである。
□辭典の書きはじめから、企てゝゐたことで、初板の上に現れずに了うたことは、地圖と、年表と、插し畫とである。其外、一語々々の下に、其語の口譯萬葉集に出てゐる頁數を入れて、索引にも使はれる樣にするはずにしてゐた。
久しく考へ執《シフ》してゐた説も、一旦書いて了ふと、其束縛から自由になつた氣持ちのせゐ〔二字傍点〕か、昨日(9)の考への淺さや、間違ひが、目について來た。此一兩年に於いて、萬葉集に對するすべての考へが、わたしの内に、非常な速さで、變つて來たのを感じる。まだ/\、動くことだらうと思ふ。かう言ふ點から、今の儘の口譯萬葉集の索引をこしらへる氣には、どうしても、なれなかつた。澤山の小さな寫眞版を、あちこちにさし入れねばならぬ插し畫は、材料の不足と、本屋のそろばん〔四字傍点〕の上の不承知から、とう/\物にはならなかつた。地圖は、今も、五萬分の一圖の上に、しるしをつけ/\してゐるが、恐らく此も、辭典板行の間にはあふまい。
□この樣な未熟な物を、一見立派らしい名をつけて公にすること、如何にも心ぐるしい。そこで、板元と相談して、再板が賣りきれたら、全部刷りかへる、といふ約定をきめた。此で少しは、安心もしたのである。かうして、段々訂正改板して行つたら、生涯の中には、やゝ人の爲になる、前期王朝辭典も、出來ようかと思ふ。
□一方から見れば、恥しいことであるが、この本の作者などは、まだ/”\成長の途中にゐる。どうしても、補遺ばかりでは、滿足してゐられぬ程に、變化することであらうと思ふ。現に、この初板の中などでも、本文と補遺とでは、可なりな違ひが出てゐる。さう言ふ場合、すべて補遺の方が、今の作者の考への通りだ、と思つて戴きたいのである。併し、其補遺も、頁數をつゞめる(10)必要から、大分簡單な書き方をしたので、ほんとうは、本文「ひみのえ」以下の樣なぐあひ〔三字傍点〕にしたかつたのである。されば、此小さな本の中にも、極めて簡單で、初學者向きにこしらへた部分(あ−ひみのえ)と、少々作者の思ひ通りにした處と、のうと・ぶつく〔六字傍点〕と言ふ風の表し方をした場處と、態度が、この三通りになつてゐるのである。改板のをりには、ひみのえ以下の行き方をとりたいと思つてゐる。
□紙だか〔三字傍点〕のをりからである。板元ではさだめて、廉くない値段で、賣り出すことになるであらう。此は今からも、豫期《アラマ》し難くないことである。一見《イチゲン》のお方には、誠にお氣の毒に思ふ。唯、貪る、と思はれると、如何にも心苦しい。
出來るだけたかく、多く售りたいのが、商賣人の心いきとは言へ、近頃の本屋どもの、紙だかを言ひまひに、書物の値段をひきあげる態度は、われ/\讀書生の、憤らずに居られぬことである。而も、自分の此書物が、諸色のあがりや、印刷代のかさんだ爲に、可なりな値で賣り出され相なのは、殘念にも思ふが、姑く、板元の心に任せることゝした。
                  槐の冬枯れに對うて  作    者
 
(11)    案  内
▼此書物、もと/\完全な物ではない。本文・補遺いづれにも、書き落した語が、澤山、あるはずである。けれども、本文に見えぬからと言つて、あきらめて貰うても困る。一應、補遺の方を探して頂きたい。本文・補遺に亙つた、語の索引をつける積りにして置いたのが、印刷の手違ひで、初板には、つかぬことになつたのである。
▼本文・補遺兩方に、一つ語の出てゐるのは、本文の言ひ落し・言ひ表しの不足、或は、其後、考へ變りのしたのを、訂し補うたのである。
▼見出しの語の下の、括弧に容れてある漢字や、假名は、讀者の一目の早|訣《ワカ》りを思うて書き入れたので、萬葉集の用字例を集めた、と見られてはならぬ。
▼語の内容の發達の跡の辿られる限りは、(ア)(イ)(ウ)などいふしるし〔三字傍点〕をつけて、歴史的の意義を示した積りである。但、其順序が、人々によつて、後前になる樣に考へられる向きも、あるかも知れぬ。
(12)▼解釋の中に、譬へば、(風土記)(萬葉)(倭名鈔)など言ふ風に、書物の名を括弧に入れたのは、援用文をくど/\と陳ねるのは、讀者の理會に都合わるからう、と思うたからである。
▼符號の中、見出しの語の間に插んだ、‐=・などいふしるし〔三字傍点〕は、其組織の岐れ目を示したのである。單純な組織のものは、‐を以て見せ、少しくこみ入つたものには、‐=の二つを使つた。=は大きな岐れ目、‐は小さな岐れ目を表したのである。多くの場合、‐は最簡單な語根を解剖して見せる爲に用ゐた。
但、語の頭に‐のあるのは、語尾、或は、語尾的に用ゐられるものなる場合である。
 ‐なむ ‐けし ‐け・なく‐に ‐か などは、その語尾なることを見せ、‐え(江) ‐ふ(原)などは、語尾風に用ゐられてゐることを示した。又、・は、ふか・む へな・る ひづ・つ わか・し しる・し などは、語根と屈折との境ひ目を表したのである。
▼六號活字の一段さげた見出しに、所謂あんちつく文字を使うたのは、本條の語の所屬なることを見せたのである。但、本條に表れた部分だけは、假りに、‐で以て示した場合もある。
 
(13)全集に収めるに際し、次の諸點を改めた。
 一 原本においては本文篇・補遺篇と別輯されてゐるが、檢索の便を圖つて、補遺を本文中に組み入れ、(補)の印を附して區別した。更に後年の加筆は、(新補)の印を附した。その爲、語彙・説明に重複を生じた部分がある。※[入力者注、(補)(新補)は○の中に書かれているが便宜上()で圍んだ。その他記号類で底本に忠実でないのがある。正確を期す場合は底本を御覧頂きたい。]
 二、 引用の歌には、國歌大觀の番號を附した。
    尚、卷末のあとがきを御覧願ひたい。       (校訂者)
 
(15)     萬葉集辭典
 
     あ
 
あ【我】 あれ〔二字傍点〕・あが〔二字傍点〕がまだ、代名詞語尾のれ〔傍点〕・が〔傍点〕を伴うてゐない形。吾が分化して、わ〔傍点〕となり、接尾語をよんであれ〔二字傍点〕・われ〔二字傍点〕となつた。わ〔傍点〕に比べて見ると、古風な情調を有つてゐたものと見えて、同時代でも、身分の高い人、或は幼穉な者が使うたものらしい。鹿持雅澄の萬葉集古義が、どんな場合にも、あ〔傍点〕・あれ〔二字傍点〕でとほさうとしたのは、よろしくない。言ふ迄もなく、代名詞語尾の發達せぬ時代のものだから、熟語を作る時にも、あづま(我妻)・あご(吾兒)などの如く、領格の接尾語を俟たないで、直に接してゐる。
 
あ・うら【足占】(補) 又、あしうら〔四字傍点〕。古代の民間占法の一つ。ある豫めきめた距離の間をあるく足數の奇偶によつて、思ひ事の叶ふ・叶はぬを判斷する方法であらうと思ふが、明らかでない。或は片足を成、片足を敗、と豫定しておいて、既定の地鮎に達した時に、蹈んた足で判斷するのか、或は足音の響きの強弱によつて決定するものかとも考へられる。此は橋占にも應用せられた方法であるらしいから、或は此が眞のあうら〔三字傍点〕かも知れぬ。
 
あえ‐ぬ‐か‐に(補) あえ〔二字傍点〕はあゆ〔二字傍点〕の連用形。今人の言語(16)情調からは、あゆかに〔四字傍点〕で済む處を、現在完了・習性などを表すぬ〔傍点〕で、動詞の表す状態を一層明確・不動に言ひすゑるのである。散りぬ〔傍点〕ばかり・消《ケ》ぬ〔傍点〕かにもとな、など皆、此用法で、かう言ふ處から、現在完了の觀念は導かれ來るものであらう。か〔傍点〕は體言語尾で、同時に副詞形容詞化する語である。に〔傍点〕は單純な副詞語尾。落ちるほどに、こぼれさうに。
 
あ‐おと【足音】(補) あしおと。
 
あ‐がき【足掻】(補) 馬の足癖、脚で土を掻くこと(ア)。又、脚で土を蹴立てる容子にも言ふ(イ)。
 
あが‐こゝろ(補) 枕。明《アカ》し。清澄《キヨスミ》の池。男女の誓言を用ゐて、枕詞としたので、わたしの心は、正明だと言ふので、古代の徳目たる明《アカ》しを起して、明石〔二字傍点〕にかけ、邪《キタナ》い考へをまじへてゐないと言ふ潔し〔二字傍点〕を起して、清澄の池につゞけたのである。
 
あかし=おほ‐ど【明石大門】 門《ト》は迫門《セト》。明石海峽、即、明石(ノ)門《ト》を大門と言うたのは、稍廣い處からか。
 
あか・す【燭す】 火をともす。火を明くともす。
 
あか‐ず 飽かぬ。これに二義ある。滿足せぬ。不足など言ふ物足らぬ心持ちと、極端によくて、何處までも嫌にならぬと言ふのとである。
 
あが=たゝみ【我が疊】(新補) 枕。みへ。わが座處の疊で、旅中、本人の座處の疊を移したり、穢したりせぬ樣に心掛けねば、旅に居る人は災ひをうける。其で、門出の人が家人に我たゝみを監《ミ》よと言ふ心持ちでつゞけたのであらう。單に重《ヘ》に懸けたものなら、あが〔二字傍点〕は無用の事である。或は我が神料と獻る疊と言ふ意で、見そなはせと言ふのにみ〔傍点〕にかけたのか。
 
あがた‐の‐いぬかひ‐の‐いらつめ【縣(ノ)犬養(ノ)郎女】 姓宿禰。縣(ノ)犬養家の女子。其名不詳。
 
あがた‐の‐いぬかひ‐の‐きよひと【縣(ノ)犬養(ノ)淨人】 姓宿禰。天平勝寶六年には、下總國防人部領使少目從七位下。弘仁十四年從五位下。傳不詳。
 
あかつ【分つ】 わかつ〔三字傍点〕と同じ語。恐らく、此方が原形であらう。あがつ〔三字傍点〕と濁るのは、よくない。わける。はなす。配る。わりあてる。
 
あか‐とき【曉】 あけのけ〔傍点〕が熟語としてか〔傍点〕に轉じたので、明《アカ》いと言ふのではない。夜のひきあけ。まだほの暗い時分の朝はやく。後にと〔傍点〕の音つ〔傍点〕に轉じてあかつき〔四字傍点〕と言ふ。
 
(17)あかとき‐つくよ【曉月夜】 明方迄殘つてゐる月。ありあけ。月夜《つクヨ》は、長い習慣から夜の意味は失はれて、唯、月と言ふ意ばかりを表す。
 
あかとき‐やみ【曉闇】 明方の月や星も隱れて、ほの暗い時分。
 
あか‐に【不飽】 あかに〔三字傍点〕は飽かずの連用形とも見るべき形で、飽かなくである。飽かにせむのせむ〔二字傍点〕は、動作の代表で、飽かないで居ようと言ふ意。
 
あが‐ぬし【吾主】 わたしの尊ぶお方。大人。檀那。二人稱の敬語。後のわぬし〔三字傍点〕などよりは、遙かに、自卑の意が深い事を思はねばならぬ。
 
あかね‐さす【茜注す】 枕。茜色を呈すると言ふ意でなく、恐らくは茜に注《サ》す、或は茜を注すと言ふ意であらう。本集時代には既に原意を忘れて、茜色を呈すると感じてゐたものであらう。茜を注すと説く場合は説明し易い。茜をさすと、紫の色濃くなるから、紫とも言ひ、照るとも言ひ、照るの類推から、日にもかけるのであるが、茜にさすと言ふ方が、正しいらしい。茜には紫色を注して色を鮮明にすると言ふ意で、紫にかゝり、茜に紫をさすと色が照ると言ふので、照るを起し、照るから聯想して、日にもかゝるものであらう。
 
あかね‐さし 枕。あかねさすの中止形。さねさし・あられふり・やすみしゝと同樣で、枕詞の一格として、體言形式をとつて、實質の意味を持つた語でないと言ふ事を示したものと考へられる。
(新補) 赤染めには、古く二通りあつた樣である。一つは、くれなゐ。今一つは緋である。くれなゐは舶來したもの。緋は、固有の方法で、茜で染めるのである。此には深緋・淺緋の區別はあるが、ともかく、緋と言へば、茜染めといふ事になつてゐたもの、ひいては、衣冠の色目の名として、藤原朝あたりからも既に、緋が日本語化して了うて居たと見てよからう。後期王朝の記録で見ても、深緋には、茜の色をひきたてる爲に、殆、同じ量の紫を入れる事になつて居る(延喜縫殿式)。だから、茜染めには、紫をさす事は、周知の事で、枕詞としてなり立つ事も出來た事である。紫も亦、今の紫より遙かに赤かつたのである。さす〔二字傍点〕とは、色をたゝせる爲に入れる副染料とも言ふべきものを入れる事である。木灰・灰汁・(18)石灰・米・鹽・酢などを入れるのも、さす〔二字傍点〕である。紫の如きも、茜に對しては、重要な副染料であつたのである。逆に紫染めには、茜をさす事はない樣である。
 
あがふ【贖ふ】 あが〔二字傍点〕を語根としてゐる。古人の犯罪觀念は、皆、宗教に起因してゐて、罪を神に對して謝すれば、免されるものとして、其程度に準じて、其財産を提供して神慮を和めるのであるが、財産ばかりで足らぬ時は、肉體にも及ぶのである。本集の時代には、神に願うて罪惡の赦しを請ひ、身を禊ぐ祓への代物として没収する樣になつてゐる。其外、單に夏・冬の大祓に神に物を獻る事をも言ふ。贖物《アガモノ》は、即、其獻らるべき物品である。祓へつ物をさしあげて禊ぎする動作をも贖ふと言ふ。消極的な贖罪觀念を脱して、ある邪念を退けようとする積極的行爲にも禊ぎは行はれた。又、あがなふ〔四字傍点〕。
 
あか‐ほし【曉星】 曉《アケ》の明星。あかほしのあくる朝、と枕詞風に用ゐる。
 
あかみ‐やま【赤見山】(補) 下野國安蘇郡赤見村の山であらう。東歌には國所未勘の歌の中に入つてゐる。
 
あか‐も【赤裳】 裳は、今の袴であるが、後のしびら〔三字傍点〕の類の腰の下を後から掩うて前で結び、長く後に曳いたものをも言うた樣である。赤裳裾曳くなど言ふのは、多くは其である樣だ。今日の裾よけ湯文字の類と考へてはわるい。
 
あが‐もて【吾面】 東語。わがおもて。わしのかほ。
 
あから‐がしは 神饌を盛る爲の※[木+解]葉の、若々しい照り透く樣なのを言うたものであらう。今日の赤芽柏などゝは、別物であらう。
 
あから‐たちばな 又、あかるたちばな。あから〔三字傍点〕のら〔傍点〕は體言語尾。明橘の意で、殘る處なく照つた橘である。あかる〔三字傍点〕はあから〔三字傍点〕の轉である。色のすつかりついた橘の實。
 
あから‐をぶね 赤い船。赤く丹で塗つた船。當時の官船の塗色は赭色に一定してゐたから、普通人の船でないと言ふが、恐らくは裝飾と禁厭とを兼ねて、普通人の船にも赭土を塗つたものと思はれる。或は赭色の船の足を速いとする俗信があつたのかも知れぬ。
 
あがり【吾許】 又、わがり〔三字傍点〕。自分の處。此方《コチラ》の手もと。(19)うち。あが‐りでなく、あ‐がりである事は、略、疑ひがない。但、がり〔二字傍点〕は何の意か明らかでない。若しくは、が〔傍点〕は處《カ》で、り〔傍点〕はに〔傍点〕など言ふ助辭の音轉ではあるまいか。あがりに・あがりをなど言ふのが、不自然であるのも、此理である。
 
あき【阿騎】(補) 大和國字陀郡。阿紀(本集)、又、吾城(紀)とも書く。宇陀郡と磯城郡との境の半阪から上の高原は、即、此地で、阿紀(ノ)神戸《カムベ》のあつた迫間《ハザマ》を中心として、廣く亙つてゐる地を言ふのであらう。飛鳥時代には、此野を通るが、伊賀への道であり、又、獵りの爲に大和平原から、泊りがけで來たものと見える。
 
 あき‐ぬ【阿騎野】 阿騎の地に廣がつた野。
 
 あき‐やま【阿騎山】 阿騎の地の山。今、松山町の秋山城の地と言ふが、必しも一个處でなく、廣い山路の樣である。
 
あき‐かしは【秋葉】(補) 枕。うるわ。かしは〔三字傍点〕は食膳の時に使ふ食物を盛る廣い木の葉。轉じて木の廣い葉の總稱に使ふ。秋がしはとは、葉の紅葉したのを言ふ。潤和《ウルワ》川の枕詞とするのは、潤《ウル》ふとかけたのか、漆の紅葉に聯想したものか。かしは〔三字傍点〕を石として、潤和川を其名處と説くのはよくない。
 
あきはかへし【商返し】 古代に行はれた一種の徳政と見るべきもの。社會經済状態を整へる爲、或は一種の商業政策の上から、消極的な商行爲。賣買した品物を、ある時期の間ならば、各元の持ち主方にとり戻し、契約をとり消す事を得しめた事。之がちやうど、夫婦約束の變更・とりかはした記念品のとり戻しなどに似てゐるので、一種の皮肉な心持ちを寓して用ゐたのである。
 
あき‐たる【飽き足る】(補) 十分に飽いて滿足する。
 
あきつ‐の‐みや【秋津(ノ)宮】(補) 大和國吉野郡宮瀧の近邊。雄略天皇の臂を?んだ蜻蛉《アキツ》の地名説明傳説のある地。大きく見れば、吉野宮、土地の小名から言へば、秋津の地にあつたから秋津宮と言うたのであらう。即、吉野(ノ)宮の別名。
 
 あきつ‐がは【秋津川】 あきつ野を流れて、吉野川に入る川。
 
 あきつ‐ぬ【秋津野】 あきつのみや〔六字傍点〕のあるあたりの野。
 
あき‐の‐は【秋(ノ)葉】(補) 秋の頃の木の葉で、春花と對(20)照的に言ふ語。黄葉した葉。
 
あき‐らむ【明・諦む】(補) 語根あき〔二字傍点〕は明。ら〔傍点〕は體言語尾で、形容詞的過程を持たせる語。む〔傍点〕は語尾。明らかにする。はつきり知る。隅から隅迄訣らぬ處なくする。後の思ひあきらめると言ふ意は、まだない。
 
あく(補) 本集には、獨立に用ゐられた場合はない樣である。唯、水に關した序歌があつて、飽くと續けた例が可なりある。單に飽滿するだけならば、水の縁の序歌は使はぬはずである。卷四「難波《ナニハ》潟汐干のなごりあく〔二字傍点〕までに(五三三)、卷二十「秋草におく白露のあか〔二字傍点〕ずのみ(四三一二)、卷十五「玉しける清き渚を汐滿てばあか〔二字傍点〕ずわれ行く(三七〇六)。古今集には、あか〔二字傍点〕にかゝつたのがあるので、「掬ぶ手のしづくに濁る山の井のあか〔二字傍点〕でも(四〇四)、「岩間行く水の白波立ちかへりかくこそは見めあか〔二字傍点〕ずもあるかな(六八二)などを、水の縁から梵語の阿伽にかけたものとしてゐる人もあるが、本集の例を見れば、其妄りなることが知れよう。古代の地名にも、飽浦(紀伊)・飽田(肥後・筑前)・齶田《アキタ》・飽海《アクミ》(羽後)・飽多《アクタ》などの外にも、安藝・阿岐・安岐・阿久津・阿久澤など到る處に見える。羽後の秋田を開田《アキタ》だとし、常陸の飽田を飽き喫うた地だからと説いた地名の説明は、信じにくい。ともかく古代にあく〔二字傍点〕と言ふ水の動作を表す語があつた事を信じてゐる。方言の比較から、此語の本義が見出されさうに思ふが、其迄の假説としてあく〔二字傍点〕はわく〔二字傍点〕と同系の語で、意義は多少分化して、水の涸れた處へ、又、泡が噴いて、水の湧き出る容子かと思うてゐるが、或はあす〔二字傍点〕と同じ語で、語尾のく〔傍点〕とす〔傍点〕との轉換かと言ふ考へも持つてゐる。
 
あくら【飽浦】(補) 紀伊國。今、海草郡田倉の地とするのは、音に執した説明であらう。前條參照。
 
あけ‐ぐれ【明昏】(補) 朝闇。十五日以前の月の隱れた後、まだ夜の明けきらぬ間のくらがり。夜朝《ヨアサ》など言ふ方言にあたる。
 
あ‐ご【我兒】(補) あがこ〔三字傍点〕・わがこ〔三字傍点〕などよりは、古い形の熟語。本集以前と見える語に、あぎ〔二字傍点〕など言ふ形もあつた。うちのこ〔四字傍点〕(ア)。若者を親しんで言ふ語(イ)。
 
あご【網子】(補) 網を引く人數。地曳き網に言ふ。網子整ふと言ふ處から見ると、號令めいた語で動いたのであらう。
 
(21)あさか・やま【安積山】(補) 岩代國安積郡河内村の額取《ヒタトリ》山の古名。
 
あさけ【朝明】(補) 夜あけ。朝のひきあけ。明けたる朝と言ふ處を、古くは形容詞を下に据ゑる語法があつたから、形容詞を下にまはした形であらう。
 
あさぢ‐の‐うら【淺茅(ノ)浦】(補) 對馬國上(ノ)島下縣郡。今、竹敷港の在る※[さんずい+彎]。近く安佐治川(本集)があつた處から言うたのであらう。たがしきの浦〔六字傍点〕は、此浦の一部であつたのである。
 
あさ‐づく=ひ(補) つく〔二字傍点〕は、らしい意と考へられる。朝づく日は、朝らしい太陽、夕づく日は、日暮れらしい太陽。又、朝方の日・夕方の日の意とも思はれる。
 
あさ=づく‐よ【朝月夜】(補) つくよ〔三字傍点〕は月その物をさす。朝月と言ふ事でなく、朝になつた樣に明らかな月の光を言ふと説く説もあるけれども、強ひて言へば、朝の月と説けぬ事もない樣である。
 
あさづま‐やま【旦妻山】(補) 大和國南葛城郡葛城村の朝妻の地に在る山。葛城山の端山の名であらう。阿佐豆磨《アサヅマ》の避簡《ヒカ》(ノ)小坂《ヲサカ》(紀)は、此山から河内國へ踰える道であらう。又、天武天皇の朝妻(ノ)行宮(紀)がある。
 
あさ‐と‐で【朝門出】(補) 朝家を出る事。朝表へ出る事。朝、妻に別れて出る事。
 
あさとり‐の【朝鳥の】(補) 枕。むれたつ。さきに群れ立つ〔七字傍点〕の枕詞とするのは、よくない。宿つてゐた鳥の、朝になつて、一時に飛び立つ處から、群れ立つ〔四字傍点〕を起したのである。
 
あさ‐な【朝莱】(補) な〔傍点〕は副食物の野菜、朝つむ菜。朝餉のさい〔二字傍点〕の菜。
 
あざぬ【糾ぬ】(補) 組みあはせて編む。繩、又は髪の毛に言ふ語。あざなふ〔四字傍点〕の原形。
 
あさは【淺羽】(補) 遠江國磐田郡の松原・長溝・中村・諸井附近の古名だらうと言ふ。
 
あさひな‐の‐こほり【朝夷(ノ)郡】(補) 今、安房國安房郡に合併せられた。元は安房・平群二郡の東、長狹郡の地。
 
あさ‐びらき【朝開】(補) 中世、あさぼらけ〔五字傍点〕と誤訓せられてゐた語で、夜もやはれ、碇泊してゐた船が朝もやひ〔三字傍点〕を解き、碇をぬいて出發する事を、朝びらく〔四字傍点〕と言うた。朝ひらいて漕いで行くの意。その連用法(22)で、名詞ではない。
 
あさ‐まもり=ゆふ‐まもり【朝衛・夕衛】(補) 宮門を朝晩に、休みなく警護する意。漢意を享けた對句である。
 
あさみや【朝宮】(補) 朝宮仕への意。朝の出仕。朝の伺候。
 
あざむく【欺く】だます。うそをつく。詭計に落す。
 
あさも‐よし 枕。あさも〔三字傍点〕は麻裳。よし〔二字傍点〕は助辭、囃詞と言うてもよい。紀の枕詞。紀伊國から名物の麻裳が出たから言うたのである。玉藻よし讃岐・青丹よし奈良と同じである。但、あさ〔二字傍点〕は一種の緑の淺い色であらうと言ふ説がある。
 
あさ‐らか 淺〔傍点〕に、副詞語尾らか〔二字傍点〕をつけたのである。淺々と。輕々と。あつさりと。
 
あさら‐の‐ころも 淺色染めの着物。あさら〔三字傍点〕はあから〔三字傍点〕と同じく、ら〔傍点〕が語尾で、あさ〔二字傍点〕と言ふ緑色の薄い色を言ふのであらう。
 
あさる(補) 潮の干潟に、鳥などが、餌を求める容子を言ふ語。あす〔二字傍点〕に關係のある語か。後には、水邊でなくても、言ふ事になつた。本集に磯廻・島廻をあさる〔三字傍点〕と訓む訓《クン》も、有力に行はれてゐる。即、磯廻り、島廻りして、餌を求めるとするのである。
 
あさ‐を【麻苧】 麻の苧。まだ績まぬ麻の繊維。
 
あし 感情にそぐはぬ不愉快な事を現す。氣にくはぬ。又、怨みの心地を含む。憎い、道徳的の感情を現す爲にも用ゐられた樣である。
 
あしかゞ‐の‐こほり【足利(ノ)郡】 上野國の郡名。
 
あしがき‐の【蘆垣の】 枕。蘆垣は、蘆を束ねて折りかけた垣である。極、粗末なもので、形式的の隔てである處から、隣・間近などにかけて枕詞としたのである。
 
あし‐が‐ちる 枕。難波〔二字傍点〕は蘆の多い海濱だと言ふので、蘆が散る、即、蘆の花の散る難波とかゝるのだと説くが、完全でない樣である。
 
あし‐がに【蘆蟹】 海岸の蘆の中に居る蟹。或は赤蟹の意とも聞える。
 
あしかび‐の 蘆の袋角。あしなえのあし〔二字傍点〕につゞけたのは、即興である。
 
あしがら 相摸國足柄郡。箱根山彙の總名。
 
あしき【葦城】(補) 筑前國筑紫郡。御笠村の中に阿志岐《アシキ》(23)の字あるは、此地か。古く驛家《ハユマヤ》の在つた地で、其處の野山を葦城野・葦城山と言ふ。大宰府から米山へ踰える途中にある。
 
あしきた【葦北】(補) 肥後國葦北郡の地。葦北七郷の中心は葦北郷で、今、佐敷村の地に當る。
 
 あしきた‐の‐ぬさか‐の‐うら【葦北(ノ)野坂(ノ)浦】 葦北郡田(ノ)浦附近だと言ふ。
 
あじくま‐やま【阿自久麻山】(補) 常陸國筑波郡小田村北條附近の山。
 
あしけ‐し 惡し〔二字傍点〕を語根として、副詞語尾か〔傍点〕をつけたのを、更に形容詞活用にうつしたので、意味はあし〔二字傍点〕と變りがなく、副詞・形容詞と言ふ段階を經てゐるだけに、曲折が生じてゐる。此語は終止がある樣だが、よけく〔三字傍点〕の方は、連用副詞形とも言ふべき、よけく〔三字傍点〕と言ふ形だけしかない。
 
あし‐ずり【蹉※[足+它]】 ぢだんだを蹈む事。執着・痛恨の感情の高ぶつて來た時、足を地上一處に度々摺つて蹈むから言ふ。
 
あし‐たづ 蘆の中に棲む鶴でなく、丹頂の鶴であらうと言ふ。あし〔二字傍点〕には赤い意があるのである。
 
あしたづ‐の 枕。たづと言ふ音から、たづ/\しと續くのである。
 
あし‐だま【足玉】 手玉と同樣に、足首につけて飾りとする玉。
 
あしつき 水草の名。海苔の類で、小さな實をつける。清流の早川などに生える。
 
あし‐の‐け【脚病】 脚氣。
 
あし‐はら‐の【蘆原の】(新補) 枕。此語、恐らく枕詞であらう。蘆原の醜男・蘆原のしき伏せ庵、皆、醜(sik)にかゝるらしいが、古い處では、更にし〔傍点〕一音にかゝつたものではなからうか。ともかくも蘆原を日本の國と見、又、ある地方の名と見るのは、よくなからうと考へる。
 
あしはら‐の‐みづほ‐の‐くに【蘆原(ノ)瑞穗(ノ)國】 日本の異名。但、ある一地方の美稱の汎稱に擴つたものの樣だ。神に祝福せられた豐饒なる國土と言ふ事であるが、恐らく天孫種族が始めて此國土に來た最初の領土で、海岸の地であつたのであらう。之に豐をつけて言ふのは、美稱を添へた迄である。
 
あし‐び【蘆火】 蘆の幹を燃料にして焚く火。水邊の民(24)の生活の窺はれる語である。東語ではあしぶ〔三字傍点〕と訛つてゐる。
 
あしび【馬醉木】 灌木。山や森林の中に自生する。初夏、白い花が咲く。葉は馬が喰ふと毒にあたつて痲痺した樣になると言ふ。あせみ。あせぼ。
 
あしびき‐の【足引の】 枕。山にかゝる。山の足 裾 の曳いてゐる處から言ふのだとする説も信じ難い。あしび〔三字傍点〕は馬醉木《アシビ》で、木《キ》を添へたものとも見られる。或は足曳きの病《ヤマ》ひと言ひかけたものかも知れぬ。同じ假定説を言へば、蘆葺《アシフ》きの屋とも解せられる。
 
あし‐べ【蘆岸】 蘆の生えた邊と言ふ事ではなく、蘆のある海岸と言ふ事である。
 
あしほ‐やま【葦穗山】 常陸國笠間に近い處にあつた山。又、今の足尾だとも言ふ。けれども、足尾説は採り難い。常陸風土記によつて常陸と定める。
 
あしや【蘆屋】 又、あしのや。攝津國武庫郡蘆屋(ノ)郷。今も地名がある。しかも今よりは、神戸市によつて海との距離が、もつと接近してゐた樣である。
 
あしや‐をとめ【蘆屋處女】 攝津國蘆屋の郷の姓名不詳の處女。傳説上の人物。妻爭形式の一つ。同郷の壯男と和泉國の茅渟壯士《チヌヲトコ》との、爭闘を見るに堪へないで、生田川の流れに身を投げて死んだので、蘆屋壯士も續いて投身した。茅渟壯士、後れて之を聞いて、殘念がつて自殺した。それで處女の塚を中に、兩男の墓を築いたが、處女の心も蘆屋壯士に傾いてゐたので、塚の上の木が其方を向いてゐるとの傳説。
 
あじ‐ろ【網代】 字の通り、外の物で、網に似た用をさせたもので、竹を編んで水中に沈めて、魚のかゝるやうにした道具。本集時代から宇治川の網代が名高かつた。
 
 あじろぎ。 網代の親柱となる木を川中に、あちこちに掘り立てゝあつたのである。
 
 あじろびと。 網代に魚のかゝるのを見る番人。
 
あす【明日】 きそ〔二字傍点〕・きす〔二字傍点〕に對した語。元は、確實に明日とさしたのではなく、近い未來の日を指したらしいが、本集中には、ほゞ用語例が、明日と言ふ處に固定しかゝつてゐる。其でも、あすの日〔四字傍点〕・あすのよひ〔五字傍点〕など言ふ邊から見れば、まだ十分固定してはゐない樣だ。
(補) きす(>きそ)と對した語で、近い未來の日を(25)指したのが、翌日の意に固定したので、或は朝《アサ》・旦《アシタ》と關係があるかも知れぬ。本集では、明確に明日と解せずに、幾分、未來の日と翌日との間を動搖して感じてゐる方が、却て正しい樣である。
 
あす(補) 水量がへる。水がひく。多く潮流の干滿について言はず、水が自然に下に吸ひ込まれて、量のなくなる心持ちを表す。又、段々へつて行く過程も表す。語根asは、動詞的屈折として、as‐u形容詞・副詞語根としてas‐a(副あさ‐に・形あさ‐し)の屈折をもつ。即、ふく〔二字傍点〕(其條參照)と對した形で、水の減る容子を言ふ語なる事は疑ひがない。古形四段活用、新形下二段活用。記中卷「あさずをせ、さゝ(三九)、卷十四「われを馮めてあさましものを(三四二九)は古形で、新形は本集中にも多く見えてゐる。今、そこる〔三字傍点〕。
 
あず【崩崖】 崖の砂の崩れ易い危い處。本集には東語の外には見えぬが、都の語の中にもあつた事は事實である。又。あぜ〔二字傍点〕。
 
あず【危岸】(補) 地形を表す古語。蹈むと崩れる岸。あぶない崖道。訛つてあぜ〔二字傍点〕。平安朝の辭書には、此語が見えてゐるから、當時すでに、中央語にもあつたのであらう。卷十四「あずべから駒の行このす〔十一字傍点〕危《アホ》かども(三五四一)の一二句は、崩崖だからあほか〔三字傍点〕の序にしたのである。
 
あすか【飛鳥】 大和國高市郡。今の飛鳥村の地を略北の境として、南へ廣く飛鳥川流域に擴つてゐた地名と見える。奈良奠都の氣運の準備時代とも見るべき飛鳥の都は、隨分、久しく同一地方に代々新造せられ、段々、各小地名を習合して崗本《ヲカモト》・島・小墾田《ヲハリタ》・坂田・南淵《ミナブチ》の地もみな、飛鳥の何と、飛鳥の字を冠する樣になつた。但、奈良(ノ)都の頃には、故京・小治田京などゝ言はれてゐた樣である。藤原(ノ)都も、單に飛鳥の中で、宮室の位置を變へられたに過ぎない程の、近距離への遷都で、實は飛鳥京の中に籠めてもよいのである。間には孝徳天皇の難波遷都・天智天皇の近江遷都などがあつても、大體に百餘年つゞいた都の地で、飛鳥川があり、神南備山が横り、飛鳥神南備神社あり、飛鳥寺・川原寺あり、書紀の壬申の亂の時の山上からの眺望を敍した邊を見ると、可なりの家竝みもあつた樣に見える。飛鳥の地の最小(26)限は、現在の飛鳥村附近であるが、最大な場合を考へると、南は南淵山、東は多武峰、北は香具山附近まで、西は檜隈《ヒノクマ》・身狹《ムサ》と境を接してゐた事もある樣である。
 
あすか‐の=ひめみこ【明日香(ノ)皇女】 天智天皇の皇女。高市(ノ)皇子の妃。位は淨廣肆。文武天皇四年四月四日薨ぜられる。後、從二位を贈る。
 
あすか‐をとこ【飛鳥壯夫】(補) 飛鳥の里に住んでゐる職人男。飛鳥の南よりの桃原・眞神原などには、雄略天皇の朝に、河内國に居させた三韓|新來《イマキ》の才技に病死者が多かつた爲に、陶部《スエつクリベ》・畫部《ヱカキベ》・鞍部《クラつクリベ》・錦部《ニシゴリベ》などを移したとあるから、沓作りなどの職人も必、同時に移つて來たので、飛鳥と言へば、他の地方の人々は、才技の集團地の樣な心持ちがしてゐた爲に、飛鳥壯夫の雨ごもりして作つた沓など言ふ語も出來たのであらう。尤、此は一般的に、さうした才技を斥《サ》したものか、其とも、傳説上の名高い長雨忌みし乍ら沓を作つた人物を言うたものか、今日では判斷がなりかねる。
 
あぜ【危岸】(補) 標準語あず〔二字傍点〕の訛。あず〔二字傍点〕・あぜ〔二字傍点〕どちらも東歌に見えて、中央語で書いた歌にはない。「あず」參照。
 
あぜ(補) 中央語の何《ナニ》・如何《イカ》・など〔二字傍点〕に當る。疑問代名詞の語根。あど〔二字傍点〕はあぜと〔三字傍点〕の融合の樣である。今のなぜ〔二字傍点〕とは違ふ。此語は、など〔二字傍点〕・何〔傍点〕・如何〔二字傍点〕の樣に、言ふ〔二字傍点〕・す〔傍点〕を伴ふ事が多い。其場合、言ふ〔二字傍点〕・す〔傍点〕は、唯、接尾語の職分をするたけで、逐語譯をしてはならぬ。
 
 あぜ‐せろ‐と 東語、あぜ〔二字傍点〕はあど〔二字傍点〕の訛。せろ〔二字傍点〕は爲《ス》に關係のある語で、あどせる〔四字傍点〕・あどする〔四字傍点〕などの訛であらう。中央語で言ふと、何《ナニ》す・何せるの意で、副詞語尾と〔傍点〕がついて、何として・どう言ふ訣で・何故に、など言ふ意が表れる。
 
 あぜ‐と。 と〔傍点〕はあぜ〔二字傍点〕の意を明らかにするだけの副詞語尾。
 
 あぜ‐と‐いへ‐か。 何と言へばかで、何故に・何として・どう言ふ訣で。
 
あそ【阿曾】 吾兄《アセ》の轉で、男子の美稱。二人稀の敬語。あそみ〔三字傍点〕の約ではない。池田のあそ〔二字傍点〕は、直に池田(ノ)朝臣とさしたのではなく、池田兄・池田君位の敬意を持つた語である。あせ〔二字傍点〕から出て、本集の頃には、專ら(27)代名詞として用ゐられてゐたのである。
 
あそ【安蘇】(補) 今、下野國安蘇郡。郡の中央佐野・犬伏町邊が後期王朝の安蘇郷(和名抄)に當ると言ふから、此あたりを廣く安蘇と呼んだのであらう。今も、地勢から見て上野國に屬してゐる樣に見えるが、本集以前に上野國の管内であつた風を殘してゐたと見えて、「上つ毛野安蘇」と歌うたのである。中山太郎氏は、此には渡良瀬川流域の變動と言ふ事が大きな原因になつてゐると言はれた。或は單に國郡の區劃よりも、自然の地勢から、かう考へ慣れてゐたものか、とも思はれるが、單に其だけではあるまい。後世にも安蘇を上野國としてゐる例が間々ある。
 
あそゝ‐に 淺々にと説くよりは、あす/\にと説くがよい。あす〔二字傍点〕は、動詞になると、淺くなる意に用ゐるが、あそゝ〔三字傍点〕は、其意を含んだ語根的體言で、意はやはり淺々と近いのである。よいかげんに。
 
あそばす 遊ぶ〔二字傍点〕の敬語。お遊びなさる。管絃の樂しみをなさる。又、單に遊び戯れなさる。
 
あそぶ【遊ぶ】 古くは管絃の類の音樂を樂しむ事に言うた樣で、遊部など言ふ部曲《カキベ》すらあつたのである。後には廣く心を慰め、霽れさせる行爲を言ふ事になつたので、本集中にあるあそぶ〔三字傍点〕も、此兩義を持つてゐる樣である。
 
あそみ【朝臣】 吾兄臣《アセオミ》の融合とする説が勢力を持つてゐるが、あそおみ〔四字傍点〕の約とする方が、自然である。朝臣の字は、字義に興味を持つた宛て字なる事は、勿論である。元はあそ〔二字傍点〕と同じく貴族同士の使うた貴大身〔三字右・〕と言つた風の敬稱代名詞であつたものが固定して、骨《カバネ》の一種になつたのである。天武天皇十三年十月の八色(ノ)姓の定めがあつて、この方、臣・連を乘りこえて、第二等の骨《カバネ》となつたのである。
 
あだ【阿陀】 大和國字智郡。吉野川治岸に、今も在る。元は其邊より更に廣く、北・西に擴つてゐたものと思はれる。小高い丘陵が亙つてゐる。其が即、阿陀(ノ)岡で、阿陀(ノ)墓も、此處に在る。
 
あた‐か‐も【恰】 副詞。そつくり其まゝ。まるでそつくり。あた〔二字傍点〕は當るの語根のあた〔二字傍点〕で、か〔傍点〕は副詞語尾。も〔傍点〕は助辭。
 
あだし【他】 語根形容詞で、まだ形容詞活用を分化形成せないもの。寧、副詞と言うてよい。或物を中心(28)として、其他の物を拒外して、無關係扱ひにする時に言ふ語。あだしごゝろ〔六字傍点〕・あだしたまくら〔七字傍点〕は、違うた心・別な手枕と言ふ事になるので、或者を中心として言うた語である。近代になつて、あだ〔二字傍点〕が艶・浮薄など言ふ言語情調を持つて來た後のあだし〔三字傍点〕何と言ふ類の語とは、區別する必要がある。
 
あだゝら【安達太郎】 今の安達太郎山。磐城にある。奥州の弓の原料たる、名高い檀《マユミ》の木を出す。
 
あだびと【阿陀人】 大和國宇智郡、阿陀地方の人。吉野川で鵜飼をする爲に、昔から都人の注意に上つたのであらう。
 
あたひ‐なし【無價】 無價寶珠などの無價の字の直譯。値段づけの出來ぬ程と言ふので、尊い極限を表す。値ぶみを超越してゐる。
 
あだむ【讐む】 敵意を持つ。害意を挾む。本集には卷二に「あだみたる虎が吼ゆると(一九九)があるだけであるが、敵を見たと言ふのではなく、讐《アダ》を語根とした動詞、讐をすると言ふ意になるのである。あたんする。
 
あた‐ゆまひ【篤齋】 手厚い精進潔齋。深い物忌。或は、篤疾《アつヤマヒ》でもあらうかとも思はれる。
 
あた‐ら【惜】 副詞。折角の。かういふ状態にあるのは、惜しいことだと言ふ意の語。其物の價値を認めて、其がなくなつたり、埋れたりしてゐるのを殘念がる意の副詞。
 
 (補) あつたら。惜しく思ふ感情を表す副詞。無駄にしたのを殘念がる心地。大切に思ふ心理。もつたいない〔六字傍点〕と言ふ意も、既に出てゐる樣である。さうして惜しがる心地は、物の上にも、人材の上にも使うてゐる。紀卷十四「墨繩《スミナハ》しが無けば誰かゝけむよあたら墨繩(一八七)は、人の上に言うたのである。あらた〔三字傍点〕と混同して、あたらし〔四字傍点〕・あたらよ〔四字傍点〕、など訓み違うてゐる。
 
 あたら・し【惜し】 前條の形容詞。惜しい。大切だ。もつたいない。しく活用。
 
あぢ【鳧】 鴨の一種。今の小鴨に當る。
 
あぢかま【味釜】 駿河國の地名。味釜(ノ)浦と言ふ。
 
あぢきなし つまらない。かひがない。氣にくはぬ。現在のありさまを悲觀して言ふ語。望みどほりにならぬ不滿足の心持ちを現す。
(29)あぢさはふ ※[有+鳥]鴨《アヂカモ》が澤山に群れてゐると言ふ意味である。群《ムレ》を約めため〔傍点〕を言ひ起し、又、此鳥は、晝夜の別なく、群れわたる故に、「夜晝いはず」に譬へて居る。又、あぢさ延ふか。
 
あぢ‐さゐ【紫陽花】(補) 或は今の紫陽花でないかも知れぬ。さゐ〔二字傍点〕は神武天皇紀によると、山百合である。百合の一種で、あぢ〔二字傍点〕と言ふ名の草かと思ふ。
 
あぢ‐のすむ 枕。す〔傍点〕を起す。あぢ〔二字傍点〕のぢつとしてゐる洲とかけたのである。
 
あぢ‐ふ【味生】 攝津國東成郡産湯稻荷の池を、今も味原《アヂハラ》(ノ)池と言ふ。原は即、原《フ》で、此池の事は、仁徳天皇紀にも見えてゐる。
 
あぢま‐ぬ【味間野】 越前國今立郡の地。今の味眞野・北新庄村の地であらう。
 
あづま【吾妻】 日本武尊の碓氷峠での故事とするのも、單に一種の地名説明説話に過ぎないであらう。起原は必、あいぬ〔三字右・〕語にある事と思ふ。あつ〔二字傍点〕は豐饒の意で、ま〔傍点〕は地と言ふ事になるのである。唯、日本武尊の傳説が碓氷峠以東(今の足柄山中)としてゐるのは、略、相摸國以東、常陸國以西の國々なる事を示してゐる樣だが、本集にも足柄山以西(遠江)北陸奥州までも稱してゐるのは、汎稱の轉化であらう。
 
 あづまのくに 東人の住んでゐる國々。
 
 あづまのさか 足柄峠。
 
 あづまど あづまびと〔五字傍点〕の略。
 
 あづまびと 都人と生活状態・文化程度を異にした東國人、單に野蕃人と言ふ意にも用ゐる事がある。あいぬ〔三字右・〕種族の蝦夷《エミシ》に關する恐怖・侮蔑から出た語である。東人と言うても、單に蝦夷ばかりでなく、歸化人・都の官吏・商人等の土着した者もあつたのである。
 
あづま‐うた【東歌】 東人の作つた歌。當時、都では未開の國・疑問の國としての東人の行爲は、すべて異郷的な興味を唆つたのである。其爲に東の國々に住む人の歌、竝びに都人の東に行つて、東の風物に興を起した歌などを集めたもの。本集卷十四の全部と卷二十の前半部とは其であるが、卷十四の方は、時々人麻呂集に見えた、恐らく人麻呂が東風に興味を持つて作つたと思はれるものゝ外は、全部作者不明であるが、卷二十の方は、防人《サキモリ》に徴發せられた(30)人々の、望郷の歌・相聞歌などを集めて拙劣なるものを捨てたので、恐らく命令的に作らせたものを編したのであらう。古今集も亦萬葉集に從うて、卷二十の大部をば東歌としてゐる。此方は、よほど都風である。
 
あつみ‐の=おほきみ【厚見(ノ)王】 舍人親王の子。天平勝寶元年四月無位から從五位下になり、六年十一月には少納言として伊勢奉幣使となり、天平寶字元年五月從五位上に進んだ。天平神護三年兵部卿で薨ぜられた。御年四十。御子に池(ノ)邊(ノ)王がある。
 
あづみ‐の=げみやうぶ《ヒメトネ》【安曇(ノ)外命婦】 姓連。名は大刀賣。安倍朝臣蟲麻呂の母。聖武天皇の宮廷に仕へて寵せられ、威權高かつた人である。光明皇后も之を信頼してゐられた。位は從四位に到り、天平寶字六年六十五で死んだ。
 
あづみ‐の‐みくに【安曇(ノ)三國】 姓連。天平勝寶七年には武藏國掾部領防人使。天平寶字八年十月從五位下。
 
あで【阿※[こざとへん+是]院】 紀伊國在田郡の古名。阿川(今在田川)の流域。絲我山も近い。あですぎて絲我の山と言ふのは、此爲である。
 
あ‐てか‐を‐し【珂庭珂袁志】(補) 枕。ちか。此枕詞、本集に値嘉《チカ》(ノ)崎を起した一个處より見えぬ。單に偶發的に出來たものか。古くから行はれてゐたものか。明らかに知り難いが、語の組織から見て、みづどりの〔五字傍点〕・もみぢ葉の〔五字傍点〕など言ふ類とは、其成立の時代を異にしてゐる事を看取る事が出來る。思ふに、筑紫邊の古物語は、値嘉島・値嘉(ノ)崎などの枕詞として使ひ馴らされてゐたのを、都人が應用したと見るのがよさ相である。(偶發と見えぬ點に於いて、時代の古い點に於いて、地方的な點に於いて)。血〔傍点〕にかかると見れば、庭〔傍点〕を延〔傍点〕の誤字として「落《ア》ゆ」を含んだ語とも見えるが、か〔傍点〕竝びにをし〔二字傍点〕の説明が出來ぬ。此は恐らく、同音をくりかへす「まそがよそが」「ますげよしそが」「さひのくまひのくまがは」「みよしぬのよしぬ」「まくまぬのくまぬ」の類例と見る事が出來よう。即、あ〔傍点〕は單なる接頭語と言ふよりも、囃し詞としてついたものと見、をし〔二字傍点〕はを〔傍点〕・よ〔傍点〕、枕詞に通じても用ゐられるから見て、よし〔二字傍点〕と同じものと見、てか〔二字傍点〕はちか〔二字傍点〕の轉じたものと見るのである。(31)されば、元の形は「あ値嘉をちか〔二字傍点〕」「あちかをし値嘉〔二字傍点〕」など言ふ形であつたと考へられる。
 
あてさ・ふ(補) 本集には、否定の形だけが一个處見えるだけである。卷十九「食國の四方の人をも、安天左波受《アテサハズ》めぐみ賜へば(四二五四)。天を夫の誤りとして、あぶさはず〔五字傍点〕と本居宣長は訓み、賀茂眞淵は末の誤りであまさはず〔五字傍点〕(餘さず)だと言うたが、あぶさはず〔五字傍点〕なる語の用例もなく、似た語は後代のものであるから、信じきる事も出來ぬ。あまさはず〔五字傍点〕はあぶさはず〔五字傍点〕にも及ばぬ延約説の勝手な解釋である。恐らく一つの用例を止めたきりで、亡びた語と思はれる。
 
あ‐と【足跡】(補) 足《ア》の踏んだ處《ト》。足跡。足痕《アシガタ》。人・獣・鳥などに通じて言ふ。「あと踏みもとめ」は、足がたをつきとめてつけて行く事である。獣・鳥の場合には、あ〔傍点〕を略して、單にと〔傍点〕だけで足跡の意を表す事もある。
 
あと【足音】(補) 足のおと。
 
あど(補) あぜと〔三字傍点〕の融合か。如何に。
 
 あど‐か 何か。どうして。反語の意を持つ。
 
 あど‐すゝか すゝ〔二字傍点〕は爲々《スヽ》、即、今の爲々《シヽ》で、しつつ〔三字傍点〕に當る。如何にしつゝかと言ふ組織であるが、意は、「どうした訣で」に、進行過程の心持ちを含めて考へればよからう。
 
あど【何】 東語。など。何と。あどか〔三字傍点〕はなぜで、あどすゝか〔五字傍点〕は如何せればかで、何故と言ふ事になる。あどせろ〔四字傍点〕は如何にせよである。
 
あど【阿渡】 近江國高島郡の地名。湖岸に在る。此地方を遠江《トホつアフミ》とも言うたらしい。阿渡川・阿渡の水門《ミナト》などある。今、舟木の地であらうと言ふ。
 
あと‐なし【痕無し】 あとかたもない。物の名殘の殘らぬこと。
 
あと‐の‐としたり【安都(ノ)年足】 姓は宿禰。傳不詳。或兵部の下官であると言ふ。
 
あと‐の‐とびらの‐をとめ【安都(ノ)扉(ノ)處女《娘子》】 安都(ノ)宿禰の一族に扉と言ふ家があつたのか、處女の名が扉と言つたのか、明らかでない。恐らくは前者であらう。即、安都(ノ)扉(ノ)宿禰の處女であらう。
 
あとも・ふ【率ふ】(補) 語根はあと〔二字傍点〕(後)か。伴《トモ》ふと言ふ組織ではあるまい。又、別にあつむ〔三字傍点〕の再活用でないかとも考へる。ひきつれる。從へる。操縱する。(32)引率する。卷二「み軍兵《イクサ》をあともひ給ひ(一九九)などは、他動詞に疑ひはないが、船の場合などには自動詞として、相互に連竝《つラナ》めて行く時にも言うてゐる樣である。卷九「足利思《アトモ》ひて漕ぎにし船は高島の阿戸の水門にはてにけむかも(一七一八)のあともふ〔四字傍点〕は、此意と解くが、或は別殊の意をもつてゐるのかも知れぬ。
 
あど‐もふ【足利思ふ】(補) 阿戸の地を目的と目ざす。此は恐らく、誤解であらう。前條參照。
 
あ‐とり【※[獣偏+葛]子鳥】(補) あつとり。雀科に屬して、頬白に似た小鳥。腰のあたりが眞白で、咽喉から胸へかけて茶色で、頭と脊との黒なのが雄、黒茶色に薄茶の斑《フ》のあるのが雌である。あじあ〔三字傍点〕・えうろつぱ〔五字傍点〕の北に生殖して、寒くなると南へ移る渡り鳥である。秋になると、群をなしてわが島へと渡つて來る。本集にも、あとり〔三字傍点〕が候鳥なる事は窺はれる。臘※[此/角]鳥(新撰字鏡)・花鶏など書く。
 
あな(補) つらさ・悲しさを訴へる感歎詞か。穴師に痛足を宛てゝゐる處から見ると、ほゞおや〔二字傍点〕など言ふ驚く意の出自も窺はれる。或はあや〔二字傍点〕の轉とも思はれる。又は、あ〔傍点〕は彼《ア》で、な〔傍点〕は感歎詞語尾か。けれども本集時代に始まつた語でないから、速斷は出來ぬ。
 
 あな‐に 副詞。あやに〔三字傍点〕よりも更に痛切に、心持ちを表す。「にほひはもあなに」などは、「にほひ〔三字傍点〕だはい。めつぼふかいにすぐれた」の意。
 
あなし【穴師】(補) 大和國磯城郡三輪から初潮へ亙る山つゞきに穴師山がある。此麓が穴師里で、此山の高處が、弓槻《ユつキ》个|嵩《ダケ》で、此山から出るのが穴師川である。此川は三輪に入る。穴師には穴師兵士《アナシつハモノヌシ》(ノ)神社がある。纏向《マキムク》山と竝んでゐる處から、まきむくの穴師〔七字傍点〕とつゞける。古今集卷二十「まきむくの穴師の山の山びとと人も見るかに山※[草冠/縵]せよ(一〇七六)の採《ト》り物の歌は、穴師山に、山びとがゐて、山※[草冠/縵]を獻つた風を傳へるものだ、と柳田國男先生は言つてをられる。
 
あ‐なゆむ【足萎む】(補) あ〔傍点〕は足〔傍点〕。なゆむ〔三字傍点〕は萎ゆ〔二字傍点〕の再活用で、なやむ〔三字傍点〕の原形。意義はまだ、なやむ〔三字傍点〕の意に分化せず。足がなえる〔三字傍点〕。足がしびれる。足がきかぬ。
 
あ‐ぬ【阿努】(補) 伊勢國安濃の歌を、錯つて東歌に入れたものか。其とすれば、安濃郡安濃の地である。
 
あ‐の‐おと【足(ノ)音】(補) 足の音。あ〔傍点〕は足。
 
(33)あ‐の‐と【足(ノ)音】(補) と〔傍点〕は音〔傍点〕の母音脱落。あ〔傍点〕は足。足の音。
 
あは(補) 降りつむ雪をあは〔二字傍点〕と言うた江戸期の方言から、深い雪の意と説いた橘守部説はおもしろいが、弊もある。淡雪の略あは〔二字傍点〕とも受けとられぬ。「淡くなふりそ」を「淡《アハ》になふりそ」と言ふ事は、に〔傍点〕の用語例の廣かつた當時として不思議はない。に〔傍点〕の主になる語と言ふので、名詞と考へた誤りであるが、卷二「ふる雪はあはにな降りそ吉隱《ヨナバリ》の猪飼の岡の寒からまくに(二〇三)は、ひどく降るなともとれるが、今、淡雪の降つてゐる状を見て、今、降る淡雪よ。淡雪にもふるな、と言うたものと考へるがよからう。「あわゆき」參照。
 
あは‐しま【淡島】(補) 紀伊國海草郡。加太の海中に在る友个島であると言はれてゐる。
 
あば‐の‐ぬ【安婆(ノ)野】(補) 所在不明。奈良の都の近郊に在つた火葬場。「をちかたのあはぬ〔三字傍点〕(紀)とは、別の地であらう。
 
あは‐れ(補) 身に沁みて、感動した事、或は異常な感激を表す。單に感歎詞と言ふよりも、體言形容詞の樣な職分をしてゐる。尤、記紀のものには、純粹の感歎詞と見るべきものもあるが、本集には、さうした用例はない。讃美・喜悦・悲痛・哀恨の場合に用ゐるが、皆、浮いた詠歎には使はない。語根は、此《コ》は・其《ソ》はなどゝ同じ類の彼《ア》は〔傍点〕に、や〔傍点〕・よ〔傍点〕に通じるれ〔傍点〕がついたものであらう。
 
あひ‐【相】(補) 合ふ〔二字傍点〕より出た副詞的接頭語で、互に〔二字傍点〕・共に何々する〔六字傍点〕など言ふ意を表す。本集にすでに、後世の樣に譯する事の出來ぬ用語例もある樣である。
 
あびき【網引き】(補) 海中に入れた網を曳くこと。
 
あひづ‐ね【會津嶺】(補) 會津地方での高山を、會津嶺と固有名詞にしたので、甲斐个嶺・伊豆(ノ)嶺・相摸嶺《サガミネ》の類である。今の磐梯山の事と言ふ。
 
あふ【敢・堪ふ】(補) は行下二段活用。合ふ〔二字傍点〕の義で、能力のあること。叶ふ・能ふ、皆、適合觀念を持つた語である。又、爲了《シヲフ》せる意を導いてゐる。終止形には、きつと否定の助動詞が從うてゐる。連用形には、肯定的なものと否定的なのと、二樣の用法が見えてゐる。同時代に、かつ〔二字傍点〕(敢・堪)といふ似た職分の語がある。助動詞に接する形式は、すつかり同(34)じであるが、あふの方は、肯定・否定ともに用ゐられる點と、彼の能動的なのに對して、自然的な點とが違ふ。本集中に、あへて〔三字傍点〕と言ふ副詞形が否定の形をとつてゐないのは、後期王朝以後には見えぬ事である。
 
あふ【逢ふ】(補) 出くはす。ぴつたり會ふ。は行四段活用。自動詞。今はあふ〔二字傍点〕の主體を、主格の人、或は物に逢うた生物とするが、古くは其を(平安朝迄も)文の主格に据ゑ、主格の生物は却て反對の位置に置かれるので、われ處女に會ふと言はずに、處女我に逢ふ、又は處女逢ふと言ふ。本集の歌を見る時に、主格の定め方に、此點に於て多く間違ひを生じるから、注意せねばならぬ。
 
あふ【闘ふ】(補) 對抗する。むかなふ。爭ふ。喧嘩する。會戰する意であらう。
 
あふ【合ふ】(補) ぴつたり合ふ。は行四段活用。自動詞。又、下二段活用にも自動詞がある。卷二十「雪にあへ照るあしびきの山橘(四四七一)は、他動詞のあはせる〔四字傍点〕でなく、叶ふ・適合する・うつりあふなどの意に使うてゐる。
 
あふ【饗ふ】(補) 食物をこさへる。調理する。御馳走とばかり説くのはよくない。
 
 あへ【饗物】 あへ物〔三字傍点〕の意。食物。みあへ〔三字傍点〕など言ふ。新嘗はにひあへ〔四字傍点〕だと言ふ。
 
あふ【交ふ】(補) あはせる。かきまぜる。食料を混ぜて、調理する。
 
あふ【喘ふ】(補) 現今の所謂あぶ/\と言ふ擬聲語と同じ系統のあふ〔二字傍点〕を、直に活用したものか。ふう/\と息をつく。せい/\と言ふ。あへぐ。は行下二段活用。自動詞。
 
 あヘ‐て【喘へて】 喘いで。せい/\言ひながら。「あへて漕ぐ」は、喘ぎ/\漕ぐのである。
 
あふさか‐やま【逢阪山】(補) 山城國から近江國へ踰える道は、當時、大きいのが二つ、一つは宇治から、田原の道を今の大石に出ないで、直に石山方面に出る田上《タナカミ》の谿谷を通る舊道、及びこの逢阪山を越える道で、今の樣に宇治からも、後の京都の地からも行く事が出來たと見える。阪上(ノ)郎女が通つたのは、今の京都からの道順と思はれる。
 
あふち【樗】(補) 今の栴檀の木。喬木。小さな※[さんずい+門/舌]葉の繁(35)り深い木。四月から五月にかけて紫色の花が咲く。時候の花とて、續命縷《クスダマ》に繋ぎまぜられる。
 
あふみ【淡海】(補) あはうみ〔四字傍点〕の融合で、鹽海に對して眞水の海、即、湖水の意。本集にも、此普通名詞の意に多く使うてゐる。琵琶湖は固より、遠江國の濱名湖・常陸國の騰波(ノ)淡海など見える。ちかつあふみ〔六字傍点〕(平安朝末期には、ちかたふみ〔五字傍点〕とも言ふ)があふみ〔三字傍点〕の名を專らにして、國名となり、濱名湖がとほつあふみ〔六字傍点〕(東歌にとべたほみ〔五字傍点〕)で、國名も遠江となつた。併、近江國の中にも琵琶湖に對して、遠つ湖《アフミ》と言うた水海が、湖北にあつたらしく、卷七「あられふり遠江の阿戸川柳(一二九三)は、高島郡の阿戸の地の歌である。
 
あべ‐しま【阿閇島】(補) 長門國豐浦郡藍島の古名か。又、筑前國糟屋郡の阿惠島(當時、藍島、周廻一里)を、此だと言うてゐる。夫木集小侍從の歌「香椎潟夕霧がくれ漕ぎくればあべの島わに千鳥しば鳴く(筑前續風土記)。併、疑はしい。
 
あべ‐たちばな【阿倍橙】(補) うまい食料の橘と言ふ意であらう。「あふ」參照。和名抄(食經)に橙、和名、安倍太知波奈、似柚而小者也と見えてゐる。今の柑子であらう。
 
あべ‐の‐いち【阿倍(ノ)市】(補) 今の靜岡市。安倍川の川原の市が發達して、終には國府さへ置かれる事になつたのであらう。
 
あほか【危】(補) あほく〔三字傍点〕とあり〔二字傍点〕との複合形で、あほかども〔五字傍点〕はあほけれども〔六字傍点〕と同じか。今のあぶない〔四字傍点〕と同じ系統の語か。又、あやほか〔四字傍点〕のや〔傍点〕音脱落か。
 
あま‐ぎらし【天霧し】(補) 空一面に曇つて。日の光も見えぬ迄に水氣が立ち隱して。
 
あま‐ぎらふ【天霧ふ】(補) 空一面に水氣にこもつてゐる。霞・霧の類で、日の光も見えぬ。
 
あま‐くだる【天降る】(補) 空から降る。「あもる」參照。
 
あま‐ぐも‐の【天雲の】(補) 枕。おくかも知らず。たどきも知らず。深く重り埋んだ空の雲は、底も知れぬ處から、奥處《オクカ》も知らずと言ひ、探りあるくすべ〔二字右・〕もわからぬと言ふので、たどきも知らずとかける。
 
あま‐ごもる【雨籠る】(補) 雨降りで、家にひつこんでゐる。雨天の爲に爲事《シゴト》にも出ずにゐる。雨を遮斷する。あまつゝみ〔五字傍点〕と同じい。
 
(36) あま‐ごもり 枕。みかさの山。笠《カサ》・蓋にかけた。
 
あま‐さかる【天離る】(補) 枕。ひな。遙かに天に離れて在る日《ヒ》とつゞいて、鄙《ヒナ》の枕詞と固定したのであらう。中央の都を天と見て、地を天から離ると見る説は、よくない樣である。
 
あま‐そゝる【天聳る】(補) そゝる〔三字傍点〕は上に向うて、すくすくとのびて行く状。空に高くつゝ立つてゐる。
 
あま‐た【多】(補) 不定數詞。副詞。あま〔二字傍点〕はまねく〔三字傍点〕のま〔傍点〕に母音發聲のついた形で、あまねく〔四字傍点〕などゝ類似してゐる。た〔傍点〕は數詞語尾。本集には數から轉じて、量の上に用ゐてゐる。あまたかなしむ〔七字傍点〕は多く〔二字傍点〕でなく、深く〔二字傍点〕、或は非常に〔三字傍点〕である。
 
あま‐つ‐しるし【天つ璽】(補) 高天原から傳つてゐる、皇統を表す尊い證據の品。三種(ノ)神器。十種《トクサ》(ノ)神寶《カムタカラ》の類。
 
あまづたふ(補) 枕。ひ。大空の路を傳ひ運行する日〔傍点〕とつゞく。卷二「あまづたふ入り日さしぬれ(一三五)は、入りにはかゝらず、やはり日〔傍点〕にかゝるのである。
 
あま‐づゝみ【雨謹】(補) あま〔二字傍点〕は雨の形容詞的屈折。つつみ〔三字傍点〕は物の障碍《サハリ》を避けて、ぢつと籠つてゐる事で、雨にふりこめられて外へ出ない事を、物忌《モノイ》みにこもつてゐる樣に言うたもの。或は古くからの習慣で、今も精進が足らなかつたと言ふ風に、罪惡觀念と雨の障碍とを結びつけて考へてゐたかも知れぬ。
 
あま‐つ‐みかど【天つ御門】(補) みかど〔三字傍点〕は、御門・宮門、即、御所の意で、あまつ宮に同じい。「天つ御門にさだめ給ふ」は、死後の御所と、其處を領しきめられる意で、御陵をさしてゐる。
 
あま‐つ‐みづ【天つ水】(補) 空からの水、即、雨。
 
 あま‐つ‐みづ 枕。あふぐ。旱に雨を仰望する意から、あふぐ〔三字傍点〕・あふぎこふ〔五字傍点〕などゝつゞける。
 
あま‐つ‐みや【天つ宮】(補) 空に在る樣な尊い宮殿。貴人を死んだ後に置く處。天がけりたる後の宮の意。又、貴人だけは、高天原に昇るものとの本集頃から出來た考へから(古くは賢愚尊卑、皆、夜見《ヨミ》(ノ)國に赴くのであつた)抽象せられた、高天原に在る死後の御所。
 
あま‐てる‐や(補) 枕。ひ。や〔傍点〕は體言化する助辭。大空に照る所の日〔傍点〕とかゝる。
 
あま‐とぶ【天飛ぶ】(補) 大空を飛ぶ。記に、天だむ鳥(37)もつがひぞ、とあるのも同じである。
 
 あま‐とぶ 枕 かる。天飛ぶ雁とつゞけたのだ。雁は遠方から大空を鳴き渡つて來る處から、とりわけ古人の注意を惹いたので、かる〔二字傍点〕とつゞけたので、かる〔二字傍点〕はかり〔二字傍点〕と音價が動搖してゐたなごりである。地名の輕《カル》にかけたのである。
 
 あま‐とぶ‐や や〔傍点〕は體言化の助辭。意義用法、前に同じい。
 
あま‐ねし【多・遍し】(補) 數多い。度重る。一杯になる。まねし〔三字傍点〕の語頭に、接頭語あ〔傍点〕のついたもの。く活用。「まねし」參照。
 
あま‐の‐と【天(ノ)門】(補) 日月の光の晝夜に隱れる處から想像した門で、高天原と人界とを隔てる空の門。尊貴な人々の死んだ時は、此門を開いて入ると考へたのである。
 
あま‐の‐はら【天(ノ)原】(補) 廣々とした大空。
 
あま‐ゝ【雨間】(補) 雨に邪魔せられて、やりかけた事もやりつゞけられぬ、其休みの間。
 
 あまゝ‐おく 雨間を隔てとして。
 
あまる【餘る】(補) のり超える。ある限界以上に出て殘る。度を越す。非常な状態になる。むやみになりすぎる。副詞的過程を含んだ動詞で、「強度に……する」と言ふ風の内容を持つてゐる。「息づきあまる」は、息づいても/\息づききれぬ・強度に息づくの意。
 
 あます 右の役相。自分自身の動作と見て言ふ場合。即、前條の不可抗的・自然的なのに對して言ふ。
 
 あまり‐に‐て に〔傍点〕は時の助動詞の連用、て〔傍点〕も同樣。度を越して。非常になつて。
 
あま‐をとめ【蜑處女】(補) 若い女の漁にたづさはるもの。娘蜑。さうした女たちが、都人の注意をひいたので、卷五「常世《トコヨ》(ノ)國の蜑處女(八六五)など言ふのもある。此は天處女、即、天女と言ふ意ではなく、理想國に棲んでゐる結構な蜑處女と言ふのである。誤解してはならぬ。
 
あま‐を‐ぶね【蜑小舟】(補) 漁人の乘つてゐる舟。
 
 あま‐をぶね 枕。はつせ。舟の泊《ハ》つ〔傍点〕から、地名の泊瀬《ハつセ》にかけたのである。
 
あみ‐の‐うら【網(ノ)浦】(補) 讃岐國|阿野《アヤ》郡、又は那珂郡の内。所在不詳。網は綱の誤寫で、つな〔二字傍点〕・つぬ〔二字傍点〕、通(38)じるから、那珂郡の津野だらう(萬葉考)と言ふが、あみ〔二字傍点〕と言ふ地名の分布も可なり廣いから、讃岐國の中にあみのうらがなかつたとは言へぬ。
 
あめ‐しる【天領る】(補) 高天原、即、天界を領し治める。尊い神として空を治める所。天子は日神の裔だから、死後、天に上つて、高天原を治めるものと考へてゐたのである。後には皇太子などにも言ふ樣になつた(イ)。其で、あめしる〔四字傍点〕が直に崩御をさす。本集には、(ア)(イ)兩方とも用ゐてゐる。
 
あめ‐つし【天地】(補) あめ〔二字傍点〕は天。つし〔二字傍点〕はつち〔二字傍点〕の訛。此訛は續紀にも見えてゐる。
 
あめ‐の‐かぐやま【天(ノ)香具山】(補) もと、高天原に在つた山であるが、後に此土に落ち來て、大和國の十市・高市の堺に著いたのだと信ぜられてゐたので、此山の木土、皆、神聖清淨なものと考へられてゐた樣である。三山の一つで、今は其高さ畝傍山に劣り、耳梨山より優つてゐる。昔は埴安(ノ)池、其西と北とに亙り、近く藤原の都の宮殿にも對してゐたので、飛鳥・藤原時代には、最、注意をひいたのである。今は多少、山容に變化を受けたであらうが、背に多武峯を控へてゐるので、一番低く平凡に見えてゐる。其南麓には、昔、哭澤女《ナキサハメ》を祀つた哭澤《ナキサハ》(ノ)杜《モリ》があつた。大安寺がまだ南都にひつこさぬ前の大官大寺は、やはり南麓近くに在つた。伊豫國にも古く、此山と姉妹と考へられた山があつて、同時に天から降つたものと、伊豫國風土記逸文に記してゐる。
 
あめ‐の‐しぐれ【天(ノ)頻降雨】(補) 空かきくらして降る時雨と言ふ言語情調が伴うてゐる。或は雨の頗降の意で、天(ノ)時雨でないかも知れぬ。
 
あめ‐の‐した【天(ノ)下】(補) 空の擴つてゐる下の國土。人間世界。今のてんか〔三字傍点〕と言ふ程、抽象して考へたものではない。
 
あめ‐の‐たづ‐むら【天(ノ)鶴群】(補) 天を飛びわたる澤山の鶴。
 
あめ‐の‐つゆじも【天(ノ)露霜】(補) 空からおりる水霜。つゆじもを莊嚴に言うたゞけである。
 
あめ‐の‐みかど【天(ノ)御門】(補) みかど〔三字傍点〕は御門で、即、御所の意になる。まだ此時代には、天子其方をみかど〔三字傍点〕とは言はない。が、おほらかに天子を指す事になる。あめ〔二字傍点〕は崇敬の意を示して、及び難い極度の觀念(39)を寓したので、暗に天子を指すのである。尊い御所・其處に入らつしやる御方。
 
あめ‐ひと【天人】(補) 天にゐる人。支那・印度思想から出た空想で、わが國在來のものではない。
 
あめ‐ゆく【天行く】(補) 空を連行する。日月に言ふ。
 
あ‐も(補) 女性を表すいも〔二字傍点〕が、中央ではおも〔二字傍点〕・いも〔二字傍点〕兩樣に分れてゐるのに、東語ではあも〔二字傍点〕一つで、兩方に通用させてゐる。妹。いとしい女。妻(ア)。母を親しみを以て言ふ語(イ)。
 
あも‐しし【母父】(補) 東語。あも〔二字傍点〕はおも〔二字傍点〕。又は女親《イモオヤ》の義のあも〔二字傍点〕とも考へられる。しゝ〔二字傍点〕は父の訛。天地《アメつチ》をあめつし〔四字傍点〕と言うた類である。都では、當時、おも〔二字傍点〕は乳母の意となつてゐたのに、東ではまだ、あも〔二字傍点〕を母に用ゐてゐたのである。
 
あも‐とじ【母刀自】(補) おも〔二字傍点〕刀自、即、母の尊稱。
 
あもる【天降る】(補) 天からやつて來る。空からふつて來る。あま〔二字傍点〕・おる〔二字傍点〕の融合。あまくだる〔五字傍点〕よりは古い。神性のあるもの、又は、高天原よりの物に言ふ。名詞にあもり〔三字傍点〕と言ふ。神人交通の觀念の盛んであつた時代を見せてゐる語で、同じあもり〔三字傍点〕でも、偶發的のものと、定時的のものとがある。
 
 あもり‐つく 空から降つて、此土に到着する。天(ノ)香具山は、伊豫國風土記逸文によると、高天原のが落ちたものとなつてゐるなど、其例である。
 
あやし【奇・靈し】(補) 名状出來ぬ。妙だ。不思議だ。よい意味の驚歎で、讃美の意を持つてゐる。語根あゆ〔二字傍点〕から出た形容詞。しく活用。「あやに」參照。
 
あや‐に(補) 無上《ムシヤウ》に。めつたやたらに。訣《ワケ》がわからぬ程。むやみに。むちやくちやに』。説明の出來ないのを不思議に思ふ心持ちを表す副詞。あやし〔三字傍点〕・あやふし〔四字傍点〕などのあや〔二字傍点〕と同源で、語原はあゆ〔二字傍点〕と言ふ語にあつた事と信じる。方向《メド》の立たぬ意も、既に分化しかけてゐる樣である。
 
あや‐の‐こほり【安益(ノ)郡】(補) 讃岐國阿野郡。今、綾歌郡。
 
あやは‐ども(補) 東語。危けれども。あぶなくはあるが』。あやふし〔四字傍点〕とあやし〔三字傍点〕と同源な事は、既に述べた。「あやに」參照。あよく〔三字傍点〕・あゆく〔三字傍点〕が東語では危くと言ふ處に用ゐられてゐたので、其あり〔二字傍点〕の過程を含んだあやかども〔五字傍点〕(危かれども)のか〔傍点〕が、は〔傍点〕に轉じた(40)のである。
 
あやほ‐か【危】(補) 東語。危しの語幹あやふ〔三字傍点〕が音價動搖で、あやほ〔三字傍点〕とも發音せられたのに、體言・副詞語尾のか〔傍点〕がついたのか。又、あやほく〔四字傍点〕とあり〔二字傍点〕との複合か。
 
あゆ【落ゆ】(補) おちる。こぼれる』。量の豐富でない落下運動を表す語。木の實・汗などの場合には使ふが、普通、水などに用ゐる事はない。や行下二段活用。
 
あゆ‐ち【愛智】(補) 又、年魚市。尾張國の郡名。今の熱田の邊が其中心であらう。
 
 あゆち‐がた【愛智潟】 熱田港が遠淺であつた處から言うたのである。
 
 あゆち‐の‐みづ【愛智(ノ)水】 愛智(ノ)里に湧いた水であらう。唯、小治田《ヲハリダ》には疑がある。大和國高市郡飛鳥の小治田にあゆち井〔四字傍点〕など言ふ清水があつたものか。其とも尾張國は小治田(ノ)連(後に尾張宿禰)の本貫だから、熱田邊に小治田と言ふ地があつたのか、とも思はれる。
 
あゆ‐ばしる【鮎走る】(補) 「鮎、はしる」と言ふ文章を一處にした語。みのる〔三字傍点〕・心ゆく〔三字傍点〕などの類。鮎が水中をすばやく泳ぐ事。
 
あよ‐く【危】(補) 東語。あよ〔二字傍点〕はあえか〔三字傍点〕・あやに〔三字傍点〕・あやし〔三字傍点〕・あやふし〔四字傍点〕などの語根あゆ〔二字傍点〕(ゆ〔傍点〕は子韻)で、く〔傍点〕は古副詞語尾。あよし〔三字傍点〕と言ふ形容詞としての終止形は、まだ出てゐない樣であるが、あやし〔三字傍点〕のしく〔二字傍点〕活用に對してゐる。あぶない。おつかない。びく/\する状を表す動詞。あよくなめかも〔七字傍点〕は、危くなからむかの意である。東語には、あよく〔三字傍点〕とあほく〔三字傍点〕(あほかども)の二つの形があつたと思はれる。
 
あらかじ‐め【豫め】(補) 前から。かねて。未然に』。め〔傍点〕は目《メ》・間《メ》などに通じる時の意のめ〔傍点〕であらう。今日の考へでは、あらかじめに〔六字傍点〕と言ふ處をに〔傍点〕をつけなかつた形であらう。あらかじ〔四字傍点〕はあらます〔四字傍点〕・あらまし〔四字傍点〕に關係があらう。要するに、前《サキ》に・初手《シヨテ》になど言ふ意から分化して來たものと思はれる。或は大體に、精密でなくとも、と言ふ樣な意を持つてゐたかも知れぬ。
 
あらき【荒墾】 田畑の下ごなし。ざつとの開墾。
 
あらくさ‐だつ【荒草立つ】 雜草の立ち茂る事。
 
あら‐し【暴風】(補) 山おろし』。し〔傍点〕・ち〔傍点〕は風。暴風《アラシ》の義で、山から吹きおろす風は荒い處から言うたのであらう。單に暴風を言ふのは、しまかぜ〔四字傍点〕・あからしま(41)かぜ〔七字傍点〕など言ふ。又「山のあらし」と山を重ねても言ふ。
 
あら‐た【新】(補) 副詞。交替する意を表す。擬聲副詞。くる/\と(ア)。氣のかはりめの著しい状。さら〔二字傍点〕・めづらしい容子。古びない有樣。元氣のある樣。盛りの状。結構な(イ)。卷十九「年月はあらた/\とあひみれど(四二九九)の類は、(ア)である。手のこんでゐない荒〔傍点〕・璞〔傍点〕の意から、た〔傍点〕語尾の接續によつて、すつかり分化して了うたのである。
 
 あらた‐し【新し】 前條の形容詞。しく活用。めづらしい。氣がかはる。結構だ。
 
 あらた‐よ【新世】 古びず、繁昌して元氣ある時勢。
 
あら‐たま【璞】(補) 掘り出した儘で、磨きにかけてゐない玉質の礦石。本集には、此意味の用例は見えぬ。
 
あらたま‐の(補) 枕。とし。き。璞石は、鋭くて圓滿でないと言ふ處から、鋭《ト》しを起したと言ふが、或は砥〔傍点〕にかけたものかも知れぬ。又、あらた‐ま〔四字傍点〕で、ま〔傍点〕は副詞語尾で、懲りず‐ま〔四字傍点〕・逢はず‐ま〔四字傍点〕のま〔傍点〕と同じく、年月に對する執著と讃美とを含んだ語として、年《トシ》に接したものとも考へられる。き〔傍点〕に接するのは、從來、麁玉郡《アラタマゴホリ》の伎倍《キベ》として考ヘられてゐたので、口譯萬葉集にも東歌の性質上、其に從うて置いたが、生《キ》(生氣ある、新しき)とかゝつてゐるとも思はれる。よし生〔傍点〕に接したのでなくとも、ともかく、き〔傍点〕一音に續いたものなる事は略、疑がない。而も、きへ〔二字傍点〕に接するのは、來經行く〔四字傍点〕年とつゞいてゐる例などから見て、き〔傍点〕についたものが、きへ〔二字傍点〕につくものと定まつてからも、可なり長い時間を經たものなる事が知れる。具足玉(ノ)國が訛つて、彼杵郡となつたと言ふ傳説(肥前風土記)は、そなひたま〔五字傍点〕>そのき〔三字傍点〕とはあまり無理な訓で、そだりき〔四字傍点〕>そのき〔三字傍点〕だらうと考へる。玉をき〔傍点〕と訓んだ證據ではあるまいか。
 
あらち‐やま【愛發山】(補) 又、有乳山。越前國敦賀郡・近江國高島郡との堺に在る山。近江路を北陸に出るには、是非越えねばならぬ山で、都人の注意に上つてゐたのである。王朝には、蝦夷の北陸方而からの南下を妨ぐ爲に、此處に關處が置かれてあつた。三關の一つである。關の置かれた初は明らかでないが、既に天平寶字八年八月に見えてゐる(續紀)。又、魔物の都に入るのを妨ぐ爲に、天子不豫の時は、都(42)から使が出て、三關を固めたが、延暦八年七月三關を廢し(續紀)、大同元年には既に故關と稱せられてゐる(後記)から、此山の關も、亡びたのである。
 
あらづ【荒津】(補) 筑前國筑紫郡荒戸。福岡市の西北端。博多から續いた地帶を言ふのであらう。
 
 あらづ‐さき【荒津(ノ)崎】 今、荒戸山と言ふ。
 
 あらづ‐の‐さき‐はま【荒津(ノ)崎濱】荒津の崎の鼻にある濱。此語、外海に面した地勢を示してゐる。
 
あら‐とこ【荒床】(補) 家にゐて夜寢る時の、温い、やはらかな寢床に對して、家の外で寢る場合、たとへば、旅で岩の上に寢たり、死んで石槨の中で寢たりする時の、其寢處を言ふ。
 
あら‐ぬ【廢野】(補) 荒廢した野。殺風景になつた野。開墾せず、うつちやつた野。
 
あら‐ぬ‐か(補) ぬか〔二字傍点〕は願望を表す。あつてほしいものだ。あればよいが。
 
あらは‐す【露す】(補) 暴露する。さらけ出す。隱してゐたのを表向きにする』。露《アラハ》にすの義で、今のあらはす〔四字傍点〕よりは、あらはに〔四字傍点〕の意が明らかに見える。
 
あらは‐る【露る】(補) あらはになる。むき出しに出る。露顯する。隱した事が表向きになる。東語、あらはろ〔四字傍点〕。
 
あらひ‐ぎぬ【洗ひ衣】(補) 枕。とりかひ川。洗ひ衣にとり易へる意でつゞけたのだらう。
 
あら‐ぶ【荒ぶ】(補) あらい状態になる。荒廢する。殺風景になる。潤ひがなくなる。すなほ〔三字傍点〕でなくなる。飼ひ鳥・飼ひ獣などが人になじまなくなる』。ある〔二字傍点〕は動作に言ひ、あらぶ〔三字傍点〕は状態に言ふ。ば行上二段活用。自動詞。「ある」參照。
 
あら‐ぶ【暴ぶ】(補) あら/\しい行ひをする。あれまはる。あれ狂ふ。善からぬ事に力を振うて、災をする』。ば行上二段活用。自動詞。祟《タヽ》り神・夷などの擧動に言ふ。「うとび、あらぶる神たち(祝詞)。
 
あられ‐ふり(補) 枕。かしま。きしみ。とほ。ぶり〔二字傍点〕は枕詞の一格。動詞を固定させて連體形と區別するのである。其屋根をうつ音から、囂《カシ》(ま〔傍点〕迄言はずとも知れた)にかゝるのである。きしみ〔三字傍点〕にかゝるのも擬聲か。かしま〔三字傍点〕の音轉か。とほ〔二字傍点〕も擬聲で、單にとゝ〔二字傍点〕のと〔傍点〕にかゝつたのではなからう。
 
あられ‐まつばら【霞松原】(補) 攝津國住吉。海岸に在(43)つた松原の地名であらう。安立區《アンリフマチ》とあられ〔三字傍点〕との類似から、住吉杜の鳥居前から、新大和川に到る軒つゞきの邊の古名とするのは、想像にすぎぬ。
 
あら‐ゐ‐の‐さき【荒藺(ノ)崎】(補) 武藏國荏原郡新井だらうと言ふが信じにくい。或は阿禮(ノ)崎と同じ遠江國の新居か。
 
あり‐【在】(補) 其まゝで。同じ状態を持續する場合につける副詞。
 
 あり‐がよふ。いつも往來する。かはらずに通る。
 
 あり‐來《ク》。續けて來る。絶さないでゐる。
 
 あり‐去る。あり來〔三字傍点〕と同じい。
 
 あり‐たつ。もとのまゝに立つてゐる。
 
 あり‐たもとほる。其まゝでうろ/\してゐる。休みもせないで、いつまでもあちこちする。
 
 あり‐まつ。かはらず待つ。以前の通りに待つてゐる。
 
 あり‐めぐる。あちらこちら歩き廻る状態をかへぬ。
 
 あり‐わたる。其儘ずつと續ける。長年月持續する。
 
あり‐が‐ほし【在りが欲し】(補) さう言ふ風にありたい。かう言ふ具合になりたい』。紀卷十五「大倭べに見が欲し〔四字傍点〕ものは忍《オシ》(ノ)海《ミ》のこの高きなる角差《つヌサシ》(ノ)宮(一九一)のがほし〔三字傍点〕と同じものである事は疑ひがない。まほし〔三字傍点〕とは別樣のもので、まだしも、が〔傍点〕は領格のものと言ふ方が近いかも知れぬ。
 
あり‐こそ(補) こそ〔二字傍点〕は願望の助辭。係結のこそ〔二字傍点〕と同類の語である。本集時代には、此語に用言的情調を殘したと見えて、ありこせぬかも〔七字傍点〕と働かしてゐる。但、こそ〔二字傍点〕と言ふ助辭は、すべて來《コ》そ〔傍点〕(そ〔傍点〕は指示助辭)と言ふ成立を、持つてゐるものかと考へられる。
 
 あり‐こせ‐ぬかも ありこその上に更に願望の意をもつたぬかも〔三字傍点〕をつけて、接尾語のこそ〔二字傍点〕を活用させたのである。あつてくれゝばよいがなあ。
 
ありち‐がた【有乳潟】 越前國愛發郡。
 
ありね‐よし(補) 枕。つしま。何々よしと言ふ枕詞は、其地の名物をあげる例になつてゐるので、此枕詞もつしま〔三字傍点〕にかゝつたもので、ありね〔三字傍点〕と言ふのが、名物であらうと言ふ推定だけはつく。有根は、對馬國の有明山を言ふのだと説くが、固有名詞をかやうに略して言ふ例はない。よし〔二字傍点〕は、あさもよし〔五字傍点〕・あをによし〔五字傍点〕・たまもよし〔五字傍点〕など參照。
 
ありま‐すげ【有馬菅】 攝津國有馬で出る菅が、三島(44)菅の樣に名高かつたのであらう。枕詞としては、其頭の二音あり〔二字傍点〕を繰りかへして、ありつヽ〔四字傍点〕、と言うたのである。
 
ありま‐の=みこ【有馬(ノ)皇子】 孝徳天皇の皇子。天智天皇は、此皇子を此儘に置いては、後に恐るべき近江朝廷の競爭者になられよう、と言ふ懸念から、腹心の蘇我(ノ)赤兄に言ひ含めて、わざと叛意を起させようとせられた。書紀の記事では、皇子はまだ明らかに決心してゐられなかつた樣に書いてゐるが、近江朝廷側の記録ではなし、且、當時迄、非常に同情を惹いた事件と見えてゐるから、其點は明らかでない。牟婁(ノ)湯(今の鉛山温泉)行幸中の天皇に、赤兄は、皇子の異心を抱いてゐられるよしを奏上したので、直に使を遣つて呼びよせられた。其歸途、北牟婁郡岩代迄來られた時に、其處の濱松の枝を結んで、自分の命を無事な樣にとのまじなひをして通られたが、海草郡藤白迄戻られた時、其坂(峠)で縊り殺されて了はれた。岩代の結び松は、此皇子の薨處の藤白と音の類似から出た、一種の説明傳説であつて、全くは一種の禁厭をした單なる一結び松だらうと思ふが、後世、とり放つ事の出來ぬ迄、皇子の生涯に聯結して考へられて了うたのであらう。ともかくも萬葉人の、此皇子に關する同情は、詠史的な心持ちを唆るに十分だつたのである。
 
ありま‐やま【有馬山】 攝津國有馬郡の山。山中に温泉が、今の樣に此時代にも湧いてゐたので、奈良人も湯治に行つたのである。猪名川の水源。
 
ある【現る】 現れる。出現する。なかつた物がひよつこりと出る。露出する。本集中には、少くとも正面からある〔二字傍点〕を生れると譯すべき處はない樣である。生れる意を婉曲に敬意を以てある〔二字傍点〕と言うた處はあつても、ある〔二字傍点〕を直に生ると譯せねばならぬ用例はない。一般に通じては現れる意で、中に敬意を以て出現なされると言ふ風に出産を言うた處があるばかりである。ある〔二字傍点〕は存在のある〔二字傍点〕・顯露の意のあらは〔三字傍点〕などゝ一つの語で、存在の初めに言ふ意に分化せられたものであらう。ら行下二段活用。但、あらはるの融合したものと見てはわるい。
 
ある【荒る】 荒廢する。さん/”\になる。整ひ榮え賑やかであつた物・處が、反對な状態になつて行く事。(45)語義はむき出しになると言ふあらは〔三字傍点〕の過程を含んでゐるものと思はれる。又、心にも、肉體にも、以前の樣に細やかに美しい處がなく殺風景になつた、と言ふやうな時にも使ふ樣である。ら行下二段活用。
 
あるく【歩く】 足行《アユ》くの轉で、ありく〔三字傍点〕と同じ語。か行四段活用。今のあるく。出掛ける。舟や馬で行くのに對して出來た語。
 
ある‐み【荒海】 あらうみ〔四字傍点〕の融合とも見られるし、荒の體言形容詞ある〔二字傍点〕(ar)に海の意のみ〔傍点〕のついたものとも見られる。後者の方がよからうと考へる。
 
あれ‐つぐ【現れ繼ぐ】 後から/\と絶えず出て來る。「あれつぎ來れば」と言ふ語もあるから、生《ア》れ齋《イつ》くの約だなど言ふ説は成り立たぬ。又、神に獻る阿禮處女の意にあれ〔二字傍点〕を説いたのもわるい。
 
あれ‐の‐さき【阿禮(ノ)崎】(補) 遠江國濱名郡新居の崎であらうと言ふ。高市(ノ)黒人の遠江に來た事は、證據が本集に在る。
 
あわゆき(補) 泡雪と書いてゐるが、本集時代に、わ〔右・〕音・は〔右・〕音の音韻の通じた事は事實である。此はわ〔右・〕音も、は〔右・〕音も共に、今の音と違うてゐた事を證するのであるが、淡雪・泡雪が同一の物である事は疑ひがないらしい。古來、此説明に窮して、泡雪を泡の樣に降つては消え、消えては降る雪の事としてゐるが、よろしくない。
 
あわ‐を【沫緒】 紐の結び方。淡路結びであらうと言ふ。又、沫緒に縒るとあるから、結び方でなくて、絲を強くさせる爲の縒り方の一種かとも思ふ。その作り方・用途不明ではあるが、ともかく俗信を伴うてゐるらしく思はれる。
 
あをうまの‐せちゑ【白馬(ノ)節會】 一月七日あを馬〔三字右・〕を見ると災厄を除くと言うて、馬寮から牽き出す所謂あを馬〔三字右・〕を見る朝廷の行事。あをうまは、平安朝には、白馬と書いて、實際にも白馬を牽いた樣であるが、本集の頃は、實際の青馬を見たのだと言ふ。青馬と言ふのは、※[馬+總の旁]の事で、黒の青みがゝつた毛色である。
 
あを‐えり【青衿】 青色の衿で、普通の着物の衿の上に、更に目につき易い樣にかけたものであらう。
 
あを‐がき【青垣】 山などを見立てゝ言ふ語。青い垣の樣な山。青垣ごもり〔五字傍点〕と言ふのは、青垣で圍はれて(47)中に籠つてゐると言ふ事。
 
あをがき‐やま【青垣山】 あをがきと同じである。
 
あを‐かぐやま【青香具山】(補) 山上の木草の繁つて、遠目に青々と見える處から、冠らせた修飾で、天(ノ)香具山を稱へたのである。
 
あを‐ぐも【青雲】(補) あをぞら。晴れわたつた空の色を、雲と考へてゐたから、言うたのである。今でも「あをぐもが出て來た」など言ふ。
 
 あをぐも‐の 枕。いでこ。曇つた空が霽れて、青空のたなびき出るのを、仰望する容子。「出で來《コ》わぎも子」と續くのである。
 
あを‐すが‐やま【青菅山】(補) 菅の生えた青々とした山と言ふ意に説くか、青くて清々《スガ/\》しい山と説くべきか、いづれともきめられない。唯、前説の方が國學者風の常套説明に陷らないで、率直である樣だ。
 
あをたか【蒼鷹】(補) 青色に黒毛をまじへた羽色の鷹。
 
あ‐をに‐よし(補) 枕。なら。あをに〔三字傍点〕は青土。黛《マユズミ》の料である。顔料の一種として、古代生活には必要な物であつたのだ。よし〔二字傍点〕は「よしゑやし〔二字傍点〕」「あなにやし〔二字傍点〕」のやし〔二字傍点〕の新しい形で、「近江のや〔傍点〕」「咲くや〔傍点〕木の花」などのや〔傍点〕と同じく、體言的形式を完備させて、副詞・形容詞の過程を持たせる助辭。し〔傍点〕はまだ形容詞活用を持つ迄進化せなかつた時分のもので、既に幾分、形容詞的内容は持つてゐるのであるが、やはり一種のはやし〔三字傍点〕語と言ふべきもので、本集時代既に死語であつたものが、かう言ふ處に、纔かに生命を持つてゐたものなのであらう。寧良《ナラ》山は青土の名産地として、まだ都の開かれぬ前から語られてゐた處から、出來た語であらう。此は奈良以前に出來た枕詞に相違ない。丹青の色映えて宜しい奈良の都と言ふ意だと言ひ、青土を踏み平《ナラ》すとかけたのだと言ふのは、いづれもよろしくない。「何々よし」と言ふ語は、きつと其地の名物を言ふ事になつてゐるので、「玉藻よし讃岐」「麻裳よし紀」などの類である。
 
あをね‐ろ【青嶺ろ】(補) 青嶺は、大和國吉野にある青嶺个嶽とも言ふ。ろ〔傍点〕は含蓄を示す助辭で、單に調子の爲についたのではない。
 
あを‐の‐うら【英遠(ノ)浦】(補) 越中國氷見郡阿尾村の海岸の浦。
 
あをはた【青旗】(補) 旗は、豐後國風土記などにも幣(48)束の意に用ゐてゐる。青旗と言ふのは、神を招く代に立てる植物の葉を竿頭に束ねた幣束樣の物で、高く青々とした容子から、山に準へて、あをはたの〔五字傍点〕を、枕詞としたものであらう。決して青色の旗があつたものではあるまい。葛城山・忍坂山などにかゝるのも、皆、此理由からである。こばた〔三字傍点〕と續くのは、山城國木幡山ともとれるし、木でこさへた旗の意にも見える。
 
 あをはた‐の。 枕。かづらき山。おさか山。こばた。前條を見よ。
 
あを‐ぶち【青淵】(補) 青々とした深い潭。
 
あを‐みづら(補) 枕。よさみ。青色めいた美しい髪を依せ編んだ鬢《ビンヅラ》と言ふ處から、依羅《ヨサミ》にかけたと言ふが、或はあをみ〔三字傍点〕と言ふのが植物の名で、つら〔二字傍点〕は蔓草の總名に用ゐるのが常で、其草に出來るよさ〔二字傍点〕(瓢の事をよさづら〔四字傍点〕と言ふ)と言ふ處から、よさみ〔三字傍点〕とつゞけたのではあるまいか。
 
あを‐やま【青山】(補) 青々とした繁つた山。多くの場合、眼前の山脈を首ふ樣である。
 
      い
 
い 格を表す助辭。主として主格につく。同じ助辭のは〔傍点〕を伴はぬが、普通である。卷四「紀の關守りいとどめてむかも(五四五)。又、「わぎも子い來むといひせば」、皆が〔傍点〕、或はは〔傍点〕で説明が出來る。又「これを保《モ》つい〔傍点〕は實を致し、これを放つい〔傍点〕はほろびを致す」の如く、いは〔二字傍点〕と重るのも、卷四「君いしなくはいたききずぞも(五三七)の樣にいし〔二字傍点〕と重るのも、時にはある。
 
い【寐・寢】(補) ねること。いね』。寢る動作の名詞。朝寐《アサイ》・熟寐《ウマイ》など言ふ。哭くに對して、哭《ネ》と言ふ名詞がある樣なものである。わが國の語法の古格の一つとして、自動詞に、補足語に似た假目的を立てる事がある。寐寢《イヌ》・寐《イ》を寢《ヌ》・寐《イ》も寢《ネ》ず等で、後世には、(後期王朝中期以後)い〔傍点〕を脱して言ふ。寐《イ》を、接頭語い〔傍点〕と、簡單に説いてゐる説もあるが、誤りである。又、「夜寐《ヨイ》も寢《ネ》ず」は、夜寐《ヨイ》を假目的と見るか、「夜、寐も寢ず〔五字傍点〕」と説くか、今日から定めにくい。
(48) い‐ぬ【寐寢】 い(寐)を見よ。
 
 い‐も‐ねず【寐も寢ず】 い〔傍点〕(寐)を見よ。
 
 い‐を‐ぬ【寐を寢】 い〔傍点〕(寐)を見よ。
 
い‐がき【齋垣】(補) 神領を標す限界に結ひまはした垣。い〔傍点〕・ゆ〔傍点〕共に、神に對して、人間の潔齋・謹慎の意を表す語。
 
いかご‐やま【伊香山】 近江國伊香郡伊香郷。枕詞としては、同音を利用して如何《イカ》とつゞける。
 
いかつち‐の‐をか【雷の岳】 大和國高市郡。香具山の南方にある岡。
 
いかほ【伊香保】 上野國群馬郡、榛名山一帶の地を言ふ。伊香保の沼は、今の榛名湖である。
 
いかるが【斑鳩】 今、まめまはし。鳩の一種。又、鵤とも書く。
 
いき‐しに‐の‐うみ【生死(ノ)海】(補) 摩※[言+可]止觀に出た語で、「動2法性(ノ)山1入2生死(ノ)海1」とある。佛教の理想は、不生不滅の涅槃境である。輪廻を脱却した無動苦の無漏界に入る事である。其にも係らず、毎に次の生《シヤウ》の因を結んで、絶えず七道の間を輪廻してゐる。何處迄、行つても涯《カギリ》のない大海を以て、此生物根本的の苦痛を譬へた語なのである。沈※[さんずい+百の中の一を口]して脱却の出來ぬ状から、生死泥、無自覺な方面から生死長夜、受動的に見て、生死縛、其外、生死淵・生死野など同じ意味で用ゐてゐる。
 
いき‐づく【息吐く】(補) といきつく。ほつとする。ためいきつく』。倦んだ時、堪へきれなくなつた時、鬱積した息を洩すのを言ふので、主として憂愁の場合に言ふ。
 
 いき‐づか‐し といきつき相な氣持ちになる。ほとほといやになる容子。しく活用。
 
 いき‐づき‐あまる 度をこして歎息する。いくらでも、といきづく。
 
いき‐どほる【悸る】(補) 動悸がたかぶる。胸がわくわくする。心がこみあげる樣になる。むしやくしやする。動悸が起る程、腹がたつ』。此語を單に憤ると説いては、よくない。後のいきだはし〔五字傍点〕などゝ同じ語であらう。いき〔二字傍点〕は息で、とほ〔二字傍点〕は擬聲、る〔傍点〕は語尾。ら行四段活用。
 
いく【行く】(補) ゆく〔二字傍点〕と同じい。此方が古い形かとも思ふ。進行過程を抽象して言ふ語でなく、あるく〔三字傍点〕と譯(49)せねばならぬ。
 
いくさ‐の=おはきみ【軍(ノ)王】 舒明天皇朝の人。傳未詳。王は古くは、みな美古《ミコ》と唱へて來たが、天武天皇四年頃よりは、親王と書いて美古と訓み、諸王をば於保伎美《オホギミ》と訓んでゐるから、此處にも於保伎美と訓む方がよからう。
 
い‐ぐし【齋串】(補) 神に獻る標《シルシ》の串。神域を劃する榜《シルシ》の串。「くし」參照。
 
いくたまべ‐うぢ【生玉部氏】 未詳。生玉部足國は、上野國佐野郡出身の防人。卷二十に短歌(四三二六)一首あり。
 
いくぢ【活道】(補) 山城國相樂郡。和束村の内であらう。活道(ノ)岡・活道山とも言うた。甕(ノ)原(ノ)宮に近くて眺望のよかつた處と見える。山があつて、此山道を活道(ノ)道《ミチ》とも言うてゐる。
 
いくべ‐うぢ【生部氏】 未詳。卷二十に駿河國の防人生部道麿の短歌一首(四三三八)あり。
 
いくり(補) 海中の石だと言ふ。今もくり石〔三字傍点〕と言ふのを證として、くり〔二字傍点〕を石の意、い〔傍点〕を接頭語としてゐるのは、よくない。
 
いくり‐の‐もり【伊久理(ノ)森】 越後國蒲原郡。伊久禮神社ならんと言ふ。
 
いけがみ【池上】 大和國十市郡池上の地。磐余の池の上《ホトリ》にあつたので、恐らく池頭にあつたのであらう。此池上に寺があつて、其法樂に、毎年力士舞が行はれた爲、池上の力士舞と歌はれる樣になつたのであらう。
 
いけだ‐の‐ひまつり‐の‐とこたり【池田(ノ)日奉(ノ)得大理】 桓武天皇の延暦四年從五位下に敍せられた。景行天皇の皇子大碓命の後である。
 
いけだ‐の‐ひろつ‐の‐をとめ【池田(ノ)廣津(ノ)娘子】 未詳。池田は氏、廣津は字であらう。池田朝臣は豐城入彦命十世の孫佐太(ノ)公の後、上毛野朝臣と同祖だから、上野國那波郡池田、又は邑樂郡池田より其名を負うたのだらう。池田首は、景行天皇の皇子大碓命の後である。新撰姓氏録に、和泉國に居る由が見える故、和泉郡池田より名を負うたか。將又、命の裔、尾張・美濃にあるより言へば、美濃國池田郡池田、尾張國春部郡池田より負うたか。廣津娘子は何の族なのか未詳。廣津は倭國五礪(ノ)廣津邑で、比盧(50)岐頭《ヒロキヅ》と訓むべきだと言ふが、如何。他田《ヲサタ》廣瀬朝臣と言ふのが、姓氏録にある。これも池田かと思ふが、其證がない。
 
いけだ‐の‐まひら【池田(ノ)眞枚】 稱徳天皇天平寶字八年十月從五位下に敍せられ、神護景雲二年十一月※[手偏+驗の旁]※[手偏+交]兵庫軍監、光仁天皇の寶龜元年十月上野介、五年三月少納言、八年正月員外少納言、十年六月また少納言、十一年三月長門守となり、桓武天皇の延暦六年二月鎭守副將軍となり、翌年紀古佐美大將軍となつて蝦夷を征するや、眞枚も前軍の別將として從軍したが、翌八年膽澤に敗れて爲すところを知らず、九月召還、職を免ぜられた。豐城入彦十世孫佐太公の後である。
 
いけ‐の‐べ‐の=おほきみ【池(ノ)邊(ノ)王】 弘文天皇の孫。父は正四位上式部卿葛野王。聖武天皇神龜四年正月從五位下に敍し、天平九年十二月内匠頭となる。淡海眞人三船は、王の子である。
 
いける‐と (補)生きぢから。生きてゐるせい。生きてゐる力《リキ》。本集は大抵「生けるともなし」と使うてゐる。此と〔傍点〕はこゝろどはなり〔七字傍点〕のど〔傍点〕と同じで、根柢をなす魄力を指す樣である。
 
いこま‐やま【生駒山】 大和國生駒郡と河内國北河内郡との境にある山。今の奈良より大阪へ出る通路に當る。當時、此山に烽火を置いた。
 
いさ (補)後期王朝の物語類では、さあ〔二字傍点〕どうか知らんなど言ふ風に、譯し慣れてゐるが、本集にも、不知〔二字傍点〕を、いさ〔二字傍点〕と訓ませてゐる處を見ると、此時代には、もつと的確に判斷が出來ぬ・當惑する、などの意を示す詞であつたと思はれる。いさよふ〔四字傍点〕は此から出たのである。「いざ」「いさよふ」參照。
 
いざ (補)今のさあ〔二字傍点〕行かうなど言ふ、誘ひそゝのかし、せきたてる感歎詞で、率川をいざがは〔四字傍点〕と訓ませたのを見ても知れる。どりや〔三字傍点〕と譯して、自分の動作を促し、勢づける樣な表し方は、まだ出來てゐない樣である。
 
いざ‐がは【率川】 大和國添上郡。春日山より出て、三笠山の南麓を過ぎ、今の奈良市を中斷して佐保川に入る小川。
 
いさゝ‐め【少時】 (補)わづかの間。暫時。いさゝ〔三字傍点〕はいさゝか〔四字傍点〕の語幹である。め〔傍点〕は時の意。
 
(51)いさな‐とり 枕。いさな〔三字傍点〕は鯨で、鯨を捕へる海(又は濱・灘《ナダ》)と續けたのである。又、いすなどり〔五字傍点〕の轉とも言ふ。
 
いざには‐の‐をか【伊射爾波(ノ)岡】 伊豫國温泉郡。今の道後の後山、伊射爾波神社がある岡。昔、此岡に碑文を建てゝ、天皇五度の行幸を勒した事が、伊豫國風土記の逸文に見えてゐる。
 
いさや‐がは【不知哉川】 近江國犬上郡にあつた川。今、所在不明。ともかくも鳥籠《トコ》の山から流れ出た事は、聖武天皇の御製でも知れる。いざや〔三字傍点〕と言ふとぼけた顔の名稱が、萬葉人の心を惹いたのであらう。
 
いさ‐よふ【躊躇ふ】 ぐづ/”\する。てきばきせぬ。判斷つきかねて、惑うてゐる心持ちから、さうした人の動作、竝びに無生物の上迄及した語で、語根いさ〔二字傍点〕に語尾よふ〔二字傍点〕がついてゐるのである。「いさ」參照。
 
いさる【漁る】 (補)あさる〔三字傍点〕と關係があるのか。廣い意味の漁《スナド》る事をさすのでなく、誘ふと關係があつて、魚を誘ひ寄せてとるとか、又は沖釣りなどの意かと、疑うてゐる。
 
 いさり‐び【漁火】 夜釣りに出た舟で焚く火のあかり。
 
いざ‐わ (補)わ〔傍点〕はよ〔傍点〕などゝ通じる感歎の意を持つた接尾語。いざわ/\〔六字傍点〕は、さあ/\〔四字傍点〕と促し誘ふ語であらう。
 
いし‐うら【石占】 (補)石の壓覺を標準にして占ふ法で、事の成否を占ひ定める時に、輕くば成就、重くて持ち上げられねば駄目、と判斷するのである。景行天皇紀の石を足蹴にせられて、柏葉の樣に上つた傳説は、石占法を極度に誇張したものである。本集の沈懷石の歌にも、其石が石占の石であつた事が見える。又、今日に到る迄、此占法は行はれてゐるのである。
 
いし‐かは【石河】 砂石にて底をなせる川。
 
いしかは‐の‐いらつめ【石川(ノ)娘女】名は大名兒。久米禅師・大津皇子・日竝皇子・大伴田主等と相聞贈答した。鹿持雅澄は、大津皇子・大伴田主と贈答したのは、山田郎女で、大名兒とは同名別人だと言ふが、如何。大伴安麻呂の妻|邑婆《オホバ》も亦、石川郎女と言ひ、石川命婦と言ひ、藤原宿奈麻呂の妻も亦同名である。未詳。
 
(52)いしかは‐の=おほとじ【石川(ノ)夫人】 天智天皇四年嬪となつた蘇我(ノ)山田(ノ)石川麻呂の女姪娘だと言ふが、如何か。姪娘は即、御名部皇女・阿閇皇女(元明天皇)の御母で、持統天皇の御母遠智娘の妹である。鹿持雅澄は、石川麻呂は大臣の職だから、夫人をもつて石川夫人と呼ぶべきではないと言うたが、石川麻呂の子孫石川氏を稱するから言へば、言はれない事でもない。未詳。
 
いしかは‐の‐おゆ【石川(ノ)老】 傳未詳。文武天皇二年七月美濃守となつた石川朝臣小老と同人か。卷八に石川朝臣老夫の歌(一五三四)あり。
 
いしかは‐の‐かけ‐の‐をとめ【石川(ノ)賀係(ノ)女郎】 傳未詳。石川は朝臣姓で、孝元天皇の皇子|彦太忍信《ヒコフトオシマコト》命の後だ。石川は河内國石川郡より出で、蘇我石川宿禰、その石川別業に生れたので、名に負うたと言ふ。蘇我を氏とせぬのは、入鹿等誅せられたによつて、其名を忌んだのか。
 
いしかは‐の‐きみこ【石川(ノ)吉美侯】 鹿持雅澄は、君子と同人とした。君子は、元明天皇和銅六年正月從五位下、靈龜元年五月播磨守、養老四年正月從五位上、十月兵部大輔、五年六月侍從、聖式天皇神龜元年二月正五位下、次で三年正月從四位下に進む。併、栗田寛博士は新撰姓氏録考證の中に、君子は若子の誤だと説いた。(鹿持雅澄は若子は君子の誤だと言うてる)。舊本左註の吉美侯神龜年中少貮に任ずとあるのは、大宰少貮は從五位下相當の官だから、君子と若子と何れが正しいかは別として、別人である樣だ。
 
いしかは‐の‐たるひと【石川(ノ)足人】 元明天皇和銅四年四月從五位下に敍し、神龜元年二月從五位上に任ず。大宰少貮となつた年は不明だけれど、五年遷任したのを、筑前國蘆城驛家に餞した事が見える。
 
いしかは‐の‐としたり【石川(ノ)年足】 武内宿禰の子宗我石川宿禰十世の孫、從三位行左大辨石川石足朝臣の長子である。廉勤治體に長じ、初め身を少判事に起し、聖武天皇の天平七年四月從五位下、同十一年六月出雲守として善政があつて、※[糸+施の旁]三十疋、布六十端、正税三萬束を賜り、十二年正月從五位上、十五年五月正五位下に進み、十六年九月東海道巡察使となり、十八年四月陸奥守に轉じ、次で正五位上、同(53)年九月春宮員外亮となり、十一月左中辨を兼ね、十九年正月從四位下、三月春宮大夫となり、孝謙天皇天平勝寶元年七月從四位上に進み、八月式部卿より紫微大弼を兼ね、十一月八幡神の託宣上京の時は迎神使をつとめ、同三年四月伊勢に奉幣し、五年九月從三位に敍し、大宰帥となり、天平寶字元年六月神祇伯・兵部卿となつて中納言に進み、同二年八月正三位になり、三年別式を作つて律令と竝び行はん事を請ひ、四年正月御史大夫に任じ、五年十月稻四萬束を賜り、六年九月三十日年七十五で、京師の宅に薨じた。詔して佐伯今毛人・大伴家持をして物を賜つて之を弔し、攝津國島上郡白髪郷酒垂山に葬つた。
 
いしかは‐の=ひめとね【石川(ノ)命婦】 内命婦石川朝臣|邑婆《オホバ》にて、大伴安麻呂の妻、坂上郎女の母である。婦人五位以上を内命婦と言ふ。
 
いしかは‐の‐ひろなり【石川(ノ)廣成】 天平寶字二年八月淳仁天皇即位の日、從五位下に敍し、四年二月姓を賜つて高圓《タカマド》朝臣と言ふ。思ふに母氏文武天皇の嬪石川朝臣刀子娘が和銅六年嬪と稱する事を得ぬ由が見えてゐるから、何かの過にて屬籍を削られ、石川朝臣を停めて、新姓を賜つたのか。高圓は大和國添上郡高圓山より出たのであらう。次で文部少輔となり、五年五月攝津亮に遷り、十月尾張守、六年四月山背守、八年正月從五位上に進み、播磨守となり、稱徳天皇神護景雲二年二月周防守に、次で三年六月伊豫守に移り、光仁天皇寶龜元年十月正五位下に進む。廣成また廣代・廣世とも言ふ。
 
いしかは‐の=まへ‐つ‐ぎみ 石川大夫は「いしかはのみやまろ」及び「いしかはのきみこ」を參照。石川卿は「いしかはのとしたり」を參照せよ。
 
いしかは‐の‐みゝち【石川(ノ)水道】 傳未詳。
 
いしかは‐の‐みやまろ【石川(ノ)宮麻呂】 文武天皇慶雲二年十一月大伴安麻呂の大宰帥となつた時、彼も亦從四位下で、大貮となつて赴任し、此頃、長田王も亦筑紫に遣され、此人々と親しんだものか。元明天皇和銅元年三月右大辨に任じ、四年四月正四位上、六年正月從三位に進み、同十二月六日薨じた。天智天皇朝の大臣大紫連子(蘇我氏)の第五男なり。宮麻呂に石川氏を賜うたのであらう。
 
(54)いし‐なみ【石竝み】(補) 又、いはゝし〔四字傍点〕。石橋《イハヽシ》に二種ある。長い板状の石を流れに渡すのと、川中に幾つも飛び石を置いて、其上を渡る樣にしたのとである。後者を石竝みと言ふ。
 
いしゐ‐の‐てこ【石井(ノ)手兒】 信濃國埴科郡の石井の里。其處には恐らく、當時に稀な石井筒、或は岩疊の中に清水を湛へた水汲場があつたのであらう。さう言ふ場處で水を汲む姿が、人々の口に上つた美女で、葛飾の眞間の弖古奈《テコナ》の類で、てこ〔二字傍点〕は赤兒と言ふ意もあるが、茲は娘に幾分親しみを持つて言ふ語であらう。
 
いせ‐の‐いつき‐の‐みや【伊勢(ノ)齋(ノ)宮】 天皇、歴代毎に伊勢大神宮に差遣して奉仕の任に當らしめる皇女。女王で、又、御杖代とも言ふ。齋宮は伊勢國多氣郡にあつた。轉じて其皇女・女王をば言ふ。多くは未婚の皇女を卜定したのであるが、皇女のない時は、世次によつて女王を簡んだ。選定が出來ると、齋院に移し、次で野宮に入り、更に潔齋三年で、伊勢へ群行するのだ。齋院・野宮は、初の間は一定せず、元正天皇の朝には、北池邊の新造宮を齋院に當て、野宮は天武天皇の朝には泊瀕、光仁天皇の朝には春日に置いた。
 
いそ【石】(補) いし〔二字傍点〕。いしと言ふよりは古い。さうして小さな物には言はぬ樣で、巖など譯すべきである。磯と誤解してゐるのも、隨分ある樣である。
 
 いそ‐ざき 又、いそ‐の‐さき。 石崎、即、いはゝな(岩鼻)である。
 
 はなり‐いそ 又、はなりそ。 海中に離れて、孤立した岩。
 
いそ【磯】(補) 前條の擴張。いはゝま。岩石の多い海岸。岩の爲に、岸波が荒くて、船のよれぬ海岸。
 
 いそ‐の‐うら【磯(ノ)浦】 ※[さんずい+彎]入した海の岩はま。
 
 いそ‐み【磯曲】 いそわ〔三字傍点〕と同じい。
 
 いそ・わ【磯曲】 磯濱の入りこみ。
 
いそがひ‐の 枕。磯にうちあげられた貝殻は、片々づゝになつてるものだから、片戀〔二字傍点〕にかけたのである。卷十一「鰒《アハビ》の貝の片思ひして(二七九八)とある鰒は、一枚殼なので、茲に謂ふ磯貝とは違ふ。
 
いそのかみ 枕。ふる 大和國山邊郡石(ノ)上。石(ノ)上氏の本貫。布留と隣してゐる。後、石(ノ)上の範圍が擴(55)つて、布留をも含む樣になつた。其で石(ノ)上布留と言ひつゞけたので、元は枕詞でも何でもなく、「春日なる御蓋(ノ)山」の類であつたのが、同音から古〔右○〕にも通じて來る樣になつたのだ。い〔傍点〕‐其昔《ソノカミ》の義だと言ふのはわるい。
 
いそ‐の‐かみ‐の‐おとまろ【石上(ノ)乙麻呂】 麻呂の第三子、聖武天皇神龜元年二月從五位下に敍し、十一月大甞會の時は、内物部を率ゐて神楯に立ち、天平四年正月從五位上、九月丹波守となり、八年正月正五位下、九年九月正五位上、十年正月從四位下で左少辨となり、十一年正月久米若賣と重婚したと言ふので土佐國に流され、十三年大赦にあうて、十五年五月從四位上に、十六年九月西海道巡察使となり、十八年治部卿から常陸守に遷り、次で正四位下右大辨となり、十九年二月從三位に進み、孝謙天皇天平勝寶元年七月中務卿で中納言となり、二年九月朔日歿した。才秀れた上、文學を好み、土佐に流された時、「遼夐遊2千里1、徘徊惜2寸心1、風前蘭送v馥、月後桂舒v陰、斜鴈凌v雲、輕蝉抱v樹吟、相思知2別慟1、徒弄白雲琴(懷風藻)と歌うて、在京の友に送つた。其外、今に殘つた詩が三首ばかりある。
 
いそ‐の‐かみ‐の=おほまへつぎみ【石上(ノ)卿】 「いそのかみのおとまろ」參照。
 
いそ‐の‐かみ‐の‐かつを【石上(ノ)堅魚】 元正天皇養老三年正月從五位下に敍し、聖式天皇神龜三年正月從五位上に進み、五年大宰帥大伴旅人の妻大伴郎女の長逝した時に、式部大輔で勅使となつて大宰府に行つて、喪を弔し物を贈り、事畢りて、府の諸卿大夫・驛使等と記夷城に登つて旅人と贈答した。天平三年正月正五位下に陞敍、八年正月正五位上となつた。
 
いそ‐の‐かみ‐の=まへつぎみ【石上卿・石上大夫】 石(ノ)上麻呂であらう。「いそのかみのおとまろ」參照。
 
いそ‐の‐かみ‐の‐やかつぐ【石上(ノ)宅嗣】 乙麻呂の子で、孝謙天皇天平勝寶三年正月從五位下、天平寶字元年六月相摸守、三年五月三河守、五年正月上總守、十月遣唐副使、七年正月文部大輔、八年正月大宰少貮、十月正五位上常陸守、稱徳天皇天平神護元年正月從四位下、二月近衛中將、二年正月左大辨・參議、(56)十月正四位下、神護景雲二年正月從三位、十月新羅の交易品購入の爲に大宰綿四千屯を賜り、光仁天皇寶龜元年九月大宰帥、二年三月式部卿、十一月中納言、六年十二月請うて物部朝臣の姓を賜ひ、十年十一月改めて石上大朝臣の姓を賜ひ、十一年二月大納言、桓武天皇の天應元年四月正三位、六月二十四日大納言兼武部卿で歿し、正二位を贈られた。彼は辭容閑雅で、風景山水にあへば、必、筆を把つて題した。寶字以來、淡海三船と共に文人の棟梁を以て評判された。詩賦數十首の著があつて世に傳誦され、五十三で死んだ時は、人皆、之を惜しんだと傳へられて居る。
 
いたし【痛し】(補) 身の内のひゞいて痛む容子(ア)。つらい(イ)。ひどい。きつい。甚しい(ウ)。極度の感情を寓して言ふ場合(エ)。「いたき女やつこ」。
 
 いた‐け‐く いた〔二字傍点〕は前條の語根、け〔傍点〕は副詞化語尾か〔傍点〕の變形、く〔傍点〕は形容詞語尾(此く〔傍点〕は名詞を作るく〔傍点〕でない)。副詞過程を持つた體言で、いたいこと〔五字傍点〕・つらさ〔三字傍点〕など譯する。
 
 いた‐も も〔傍点〕は、にも〔二字傍点〕・しくも〔三字傍点〕・くも〔二字傍点〕などの意で、副詞・形容詞の語根に直接について、副詞指辭のない場合を補ふ語。はなはだも〔五字傍点〕・こゝだも〔四字傍点〕などの類。
 
いた‐はし(補) いたむ〔三字傍点〕、或はいたぶ〔三字傍点〕の形容詞化。
 
いた‐ぶる(補) 東語。浪のひどく動搖する容子を表す。甚《イタ》振る。或はいた〔二字傍点〕に荒浪の意があるのか。後にはいたぶり〔四字傍点〕と言ふ語もある。次條の語は、此から出たのである。
 
 いたぶら‐し ざわつく容子。凪ぎ靜かならぬ有樣。卷十五「浪のほのいたぶらしもよ。きそひとり寢て(三五五〇)。
 
いち‐じろし【著し】(補) 語根|著《シロ》し〔傍点〕に、いち〔二字傍点〕がついてゐるので、いち〔二字傍点〕はいと〔二字傍点〕か。
 
いち‐の‐うゑき【市(ノ)植樹】(補) 寧樂京の東市・西市に植ゑた竝み木。
 
いち‐の‐さと【伊知(ノ)里】 所在未詳。
 
いちはら‐の=おほみ【市原(ノ)王】 安貴王の御子、聖武天皇天平十五年五月從五位下に敍し、天平勝寶元年四月從五位上、翌二年十二月正五位下、淳仁天皇天平寶字七年正月攝津大夫となり、次で四月造東大寺長官となつた。曾て宴を開き、父安貴王の壽を祝(57)福して、卷六「春草は後はうつろふ、巖なす常磐にいませ、貴き吾君(九八八)と歌つた。又、命じて歌林七卷を書寫せしめた事がある。
 
いちひ‐つ【櫟津】(補) 地名。大和國添上郡|櫟本《イチノモト》のあたりに櫟井《イチヒヰ》の地もあつたから、比邊の地名の錯誤か。
 
 いちひつ‐の‐ひ‐ばし【櫟津(ノ)檜橋】 同地に在つた橋で、橋詰に檜の木が立つてゐたからの名であらう。或は檜で造つた橋の意かとも考へるが、物質名詞としては、眞木と言ふから、如何であらう。
 
いつ‐かし【嚴橿】(補) 橿の木の一種か。或は神木の橿を敬うて、嚴《イつ》をつけたのか。「三輪のみもろ〔三字傍点〕の嚴橿」は、雄略天皇紀にも見えてゐる。鹿持雅澄が五可新何本〔五字傍点〕をいつかしがもと〔七字傍点〕と訓んだのは、日本紀から暗示を得たので、莫囂圓隣をみもろ〔三字傍点〕と訓むのは、わざとらしい樣である。
 
い‐つがる(補) い〔傍点〕は接頭語。つがる〔三字傍点〕は繼ぐ〔二字傍点〕の再活用。つながるの意。くつゝいてはなれぬ。ひつゝく。
 
いつき‐の‐みや 「いせのいつきのみや」參照。
 
いつく【齋く】(補) い〔傍点〕は接頭語。つく〔二字傍点〕は仕《つカ》ふの原形で、奉仕の意。或は嚴《イつ》くか。虔《つヽ》しんで奉仕する(ア)。大事にする。一所懸命に守る(イ)。
 
いつくし【愛し】(補) かあゆい。大事の物として、愛情深くよせられる(ア)。前條の形容詞化である。立派だ(イ)。これは嚴〔傍点〕の言語情調が伴つたのである。
 
いづし(補) いづち〔三字傍点〕の音轉。東語。
 
いつ‐し‐か(補) 語幹の儘にも、語尾と〔傍点〕・も〔傍点〕をつけても使ふ。し〔傍点〕は強調の助辭|其《シ》で、何時か〔三字傍点〕の義か。早く何何になるやうにと願ふ心持ちを表すが、卷八「いつしかも花に咲きなむなぞへつゝ見む(一四四八)と言つて、咲かなむと言はないのは、何時か何々にならうと言ふのが、情調の推移で、早く何々になつてほしいと言ふ意を表す樣になつた事を示すのである。「いつしかも花に咲かなむ」と訓んだのは、咲きなむ〔四字傍点〕に訂正する。
 
いつしば【櫟柴】 櫟《イチシ》の木の葉。又、いちしば〔四字傍点〕とも言ふ。櫟の柴と言ふのはよくない。
 
 いつしばの 枕。いつ〔二字傍点〕を起す。
 
いづ一ち【何地】(補) どのところ。どこ。推定すべき箇處のわからぬ場合に、發する不定代名詞。
 
いづ‐て=ぶね【伊豆手船】(補) 伊豆方の漕具を備へた(58)船。即、伊豆出來の舶。て〔傍点〕は手で、今のおうる〔三字右・〕のやうな※[舟+虜]の事と思はれる。熊野の諸手船《モロテフネ》(もろた〔三字傍点〕と訓むのはわるい)は、左右兩方におうる〔三字右・〕をつけて漕ぐ船なのであらう。足柄箱根山中の材で出來る伊豆風の船は、もろて〔三字傍点〕かかたて〔三字傍点〕か知れぬが、おうる〔三字右・〕の鹽梅からついた名である事は、ほゞ疑ひはない樣である。
 
いづ‐の‐たかね【伊豆(ノ)高嶺】 伊豆國。今の天城山。
 
いつま【暇】(補) いとま〔三字傍点〕の東國の方言。
 
いづみ‐かは【泉河】 山城國相樂郡。甕原で、木津川に入る川。奈良の京を出でゝ山城國に赴き、又、久邇の京にゆくには、必、渡らなけれはならぬ川である。
 
いづも‐の‐をとめ【出雲(ノ)娘子】(補) 出雲(ノ)宿禰の女であらう。吉野川で溺死した事は、集中、人麻呂の挽歌で明らかである。出雲國から宮中に來てゐた采女《ウネメ》であらう。或は遊女か。
 
いづる‐ゆ‐の【出づる湯の】(補) 枕。たゆら。たよら。ゆ〔傍点〕からよ〔傍点〕にかけた類音聯想でなく、湯の絶ゆ〔二字傍点〕とつゞけたのを、更にたよら〔三字傍点〕にうつしたのである。たゆら〔三字傍点〕・たよら〔三字傍点〕は、倦み厭ふ意の副詞。
 
いで(補) どれ。どりや。感歎詞。自分の行動を促進し勵す心持ちを表す。又、他の注意を惹かうとする感歎詞。おい〔二字傍点〕・さあ〔二字傍点〕などゝ譯する。「いざ」參照。
 
いで‐たち【出で立ち】(補) はひり〔三字傍点〕に對する語。屋敷内の空地であらう。門の中、建て物の入り口(這入り)の外、出でたつ處の義であらう。門外の意に説くのは、よくあるまい。
 
 いでたち‐の‐つゝみ 出で立ちにある堤で、家に廻した土居《ドヰ》の類であらう。其處に木を植ゑたものと考へられる。
 
いで‐ます【出で坐す】(補) お出でになる。行幸になる。宮を出でますである(ア)。行在せられる(イ)。
 
いでみ‐の‐はま【出見(ノ)濱】 攝津國住吉郡。此濱に出て、淡路島を見やらるゝより名づけた名であらう。又、和泉《イヅミ》の濱だらうとも言ふ。
 
いと‐こ【愛子】(補) 後のいとしい〔四字傍点〕と通じるいと〔二字傍点〕であらう。親しい間柄を表す。こ〔傍点〕は他人を親しんで言うたので、催馬樂にはいとめ〔三字傍点〕と言ふ語もある。「いとこなせの命《ミコト》」は、仲のよい人なる貴兄殿と言ふ樣な言(59)ひ方である。
 
いと‐のき‐て(補) いとゞしく〔五字傍点〕と同系統の語か。非常に。甚。よつぽど』。又、一層〔二字傍点〕・かてゝくはヘて〔七字傍点〕など言ふ言語情調が加つてゐる樣である。
 
いとほ‐し【惻し】(補) 厭《イト》ふ、或は傷《イタ》むの再活用であらう。見てゐると、心が傷んで、傍視するに堪へない心持ちを表す。今も言ふ語。氣の毒だ。見づらい。氣づらい。
 
いと‐ま【暇】(補) いと〔二字傍点〕はいとなむ〔四字傍点〕・いとなし〔四字傍点〕などの語根と同じで、多事の意であらう。其|間《ヒマ》と言ふ義で、忙中に得た閑暇である。東語に、いつま〔三字傍点〕。
 
いなき‐をとめ【稻寸丁女】 實在の人でなく、稻置、即、田舍の庄屋などの處女を言ふ場合にのみ存してゐた古名で、今の八萬長者の弟娘《オトムスメ》の類であらう。つまり長者の家の娘と言ふ位の意であらう。
 
いなさ‐ほそえ【引佐細江】 遠江國引佐郡。濱名湖の東北隅が深く入り込んで入江になつてゐるところ。
 
いなだき【頂】(補) 顱頂。あたまの天邊。頭に乘せる料のもの。
 
いな‐の‐め‐の 枕。寐寢《イネ》の目のと言ふ意味、覺めて目を開くと言ふ處からあく〔二字傍点〕にかけたと言ふは、如何。篠《シヌ》の間《メ》があるから、此も稻の間であらう。
 
いなび【稻日】 播磨國印南郡。「いなみ」に同じ。
 
いなび‐づま【印備都麻】 播磨國印南郡都麻の里であらう。「いなみづま」參照。
 
いなみ【印南】 播磨國印南郡。西國に赴く要路に當つてゐたから、屡、歌にも見えてゐる。印南國原と言ふのは、郡ではあるが、それには係らず、其一帶の地をさして言うたのだ。
 
いなみ‐づま【印南都麻】(補) 播磨國賀古郡の海中に在つた島で、恐らく賀古川の洲などであらう。或は上島・鞍掛島などの名かと考へられぬでもないが、尚、前者の方がよさ相である。本集時代以前には、いなみづま〔五字傍点〕と言はず、なびつま〔四字傍点〕と言うてゐた樣である事は、播磨風土記の地名説明傳説で見ても明らかである。併、印南郡のいなみ〔三字傍点〕に關係した地名に違ひない事は、ほゞ確かであるが、傳説はさうは説かないで、なび〔二字傍点〕と言ふ語の民間語原説から印南別孃女が、景行天皇の求婚を避ける爲、此島になばつたので、南※[田+比]都麻〔四字傍点〕と言うたと説明してゐる。或はいなみづま〔五字傍点〕(60)を、播磨ではなびつま〔四字傍点〕と略して馴れてゐたかも知れぬ。とにかく小さな島なのに係らず、傳説的に名高い島であつたのであらう。口譯萬葉集に印南の都麻の里と説いたのは、訂正せねばならぬ。
 
いな‐むしろ 枕。いなむしろは寢筵である。敷く・裘《カハ》と言ふので、しく〔二字傍点〕・かは〔二字傍点〕と言ふ語を起したのだ。
 
いなら‐の‐ぬま【伊奈良(ノ)沼】 所在未詳。
 
いにし‐へ(補) むかし。遠い過去。とこしへと同じ組織で、去にし〔三字傍点〕のし〔傍点〕は時の助動詞でも、緊張の助辭でもなく、體言副詞(無屈折形容詞)の語尾であらう。むかしべ〔四字傍点〕のし〔傍点〕も、此であらう。へ〔傍点〕は邊でなく、世〔傍点〕或は時〔傍点〕の意を含んでゐる樣である。其時を明らかに示す事の出來ぬ過去を、おほまかに指す副詞。
 
いぬがみ【犬上】 近江國の郡名。國の東南にある。
 
いぬ‐じもの 枕。犬の如くの意。犬は道路に臥したり、又、そのまゝ死屍を道にさらしたりするものだから、道に臥す〔四字傍点〕の枕詞として用ゐるのである。
 
いのち‐に‐むかふ(補) 命に對ふで、命だけのねうちのある、又は命とつりがへなど譯するがよい。或は命に抗《ムカ》ふで、命を亡さうとする意とも考へられる。
 
いは‐かき【磐圍】(補) 本集には、いつも垣の字を書いてゐる。かき〔二字傍点〕は動詞|圍《カ》く(かこふ〔三字傍点〕の原形)の連用中止法で、垣と名詞化したのではない。「岩の圍む所」の意。
 
 いは‐かき‐ぬま 岩にとり圍まれた中の沼。
 
  いは‐かき‐ぬま‐の 枕。こもる。磐圍沼の隱る〔二字傍点〕とかゝる・沼の状態から言ふ。
 
 いは‐かき‐ぶち 岩のとり圍んた淵。
 
  いは‐かき‐ぶち‐の 枕。こもる。岩圍淵の隱つてゐる状態から言ふ。
 
いは‐がくる【磐隱る】(補) 岩石の中に入りこんで姿を見せぬ。死んで石郭の中に葬られる。岩に隱ると言ふ處を、副詞風に岩を使うたのである。
 
いは‐き【岩城】(補) いしのからと。石郭。山地の古墳の石郭を、城と見なして言うたものか。之を山城の事の樣に言ふのは誤り。
 
いはくえ‐の 枕。同音を應用した枕詞。
 
いはくに‐やま【岩國山】 周防國玖珂郡。今の岩國市の北方に同名の山あるが、卷四「周防なる岩國山を越えむ日は手向善くせよ荒き其道(五六七)と言う(61)た嶮路にふさはぬ。蓋、岩國市の南方の群山を指すか。
 
いはくら【石倉】 大和國吉野郡。
 
いはしろ【岩白・磐代】 紀伊國日高郡と西牟婁郡との境一帶の海岸。今の村より廣かつたのであらう。南部《ミナベ》川を渡つて切目《キリメ》迄の間は、此地であらう。有馬(ノ)皇子の結び松の故蹟である。千里(ノ)濱・白良(ノ)濱も、恐らく此地であらう。今、湯崎附近に求めるのは、よくない。小石の名所。
 
いはせ【石瀬】 大和國高市郡。又、卷十九に、石瀬野(四一五四)の歌あり。
 
いはた【石田】 山城國字治郡。石田の神社は、延喜式に出てゐる。
 
いはた‐の=おほきみ【石田(ノ)王】 未詳。垂仁天皇紀に、五十日足命、是石田君之始祖也とある。此皇子の御母は、山背(ノ)苅幡戸邊とある故、石田は山城國久世郡石田である。又、石田王と石田君と關係あるか、それも未詳。
 
いはつな‐の 枕。いはつな〔四字傍点〕は、石蔦である。石蔦は、別れては、又、はひ逢ひ纏ふものであるから、人の若返る事を譬へて、をちかへるの枕詞としたのである。
 
いは‐とこ【岩床】(補) 岩の床。墳の中で、死人を据ゑる岩の床。又、床の樣なひろがりを持つた岩。水の流れぬあたりの川中の岩の上。
 
いは‐の‐ひめ‐の=おほきさき【磐(ノ)姫(ノ)皇后】 葛城|襲《ソ》津彦の女。仁徳天皇の皇后。履中天皇・住吉仲皇子・反正天皇・允恭天皇の御母。仁徳天皇二年三月妃に立たれた。性嫉妬深く、天皇の妾等宮中に入る事が出來ぬ。曾て、天皇は吉備海部直の女黒姫の容姿端正なのを聞いて、之を招き給ふ。けれども黒姫は皇后の嫉妬を恐れて、其本國に逃げた。天皇は高臺に登つて黒姫の船出するを望んで、「沖邊には小舟つらゝく黒ざきのまさづこわぎも國へくだらす(記下五二)と歌はれた。皇后は、之を聞きて忿り給ひ、人を大浦にやつて追はせられた。天皇は黒姫を戀ひ給ひ、皇后を欺いて淡路より吉備に下り、黒姫にあひ給ふ。又後、皇后は豐樂《トヨノアカリ》をせられようと御綱柏を採りに、紀伊國に行啓し給ふ間に、天皇は八田若郎女を入れ、日夜宴せられた。皇后は難波(ノ)大渡で、此事を聞き、怒つて御船に載せた御綱柏をば(62)海に投じて、宮に入らないで、川を上つて山城に啓せられた。此時の歌、「つぎねふや、やましろがはを、かはのぼり、わがのぼれば、かはのべに、おひだてる、さしぶを、さしぶのき、しがしたに、おひだてる、はびろ、ゆつまつばき、しがはなの、てりいまし、しがはのひろりいますは、おほきみろかも(記下五七)。やがて山城から奈良の山口について歌はれたには、「つぎねふや、やましろがはを、みやのぼり、わがのぼれば、あをによし、ならをすぎ、をだて、やまとをすぎ、わが、みがほしくには、かづらき、たかみや、わぎへのあたり(同五八)。かくて還つて、暫時、筒木の韓人奴理能美の家に居られた。天皇は舍人鳥山を遣して、御歌を送られた。「やましろに、いしけとりやま、いしけいしけ、あがはしづまに、いしきあはむかも(同五九)。又、丸邇《ワニ》(ノ)臣口子を遣して、歌を贈られた。「みもろの、そのたかきなる、おほゐこがはら、おほゐこが、はらにある、きもむかふ、こゝろをだにか、あひおもはずあらむ(同六〇)。又、「つぎねふ、やましろめの、こくはもち、うちしおほね、ねじろの、しろたゞむき、まかずけばこそ、しらずともいはめ(同六一)。口子この歌をうたうた時、大雨が降つたのに雨にもめげず、夜中に跪いてゐたので、青摺の衣赤紐に染つた。口子の妹口姫、皇后に仕へてゐたのが、歌うて曰く、「やましろの、つゝきのみやに、ものまをす、あがせのきみは、なみだぐましも(同六二)。是に口子・口姫・奴理能美の三人議して、天皇に奏して、皇后の啓は奴理能美の養ふ蟲に、一度は匐《ハ》ふ蟲になり、一度は殻《カヒコ》になり、又、一度は飛鳥になる、三色に變る奇蟲がある故、其蟲を看に來たゞけだ。異心あるのでないと。天皇は即、吾も見むと、奴理能美の家に到り給ふ。奴理能美、三種の蟲を皇后に獻じた。天皇が皇后のゐられる殿戸に立ちて歌はれたのは、「つぎねふ、やましろめの、こくはもち、うちしおほね、さわさわに、ながいはせこそ、うちわたす、やくはえなす、きいりまゐくれ(同六三)。この天皇・皇后の御歌六首は、賤《シヅ》歌の返し歌だ。さうして三十五年六月崩じ給ふ。卷二なる四首の短歌につきても、熱情的詩人だつた事が想像出來る。
 
いは‐ゝし【石橋】 川の淺瀬に置き竝べた飛び石を石(63)竝《イシナミ》とも、石橋とも言ふ。其間隔の遠近によつて、渡るのに、便不便が出來る處から、間《マ》或は間近〔二字傍点〕と言ふ語にかけたのであらう。又、飛鳥川の向ひ側の神竝山へは、河原(ノ)橋を通るほかは、此石竝を越えた爲に、神竝山と石橋との聯想が密接だつたのだらう。或は、竝〔傍点〕にかゝつてゐると言ふのも、傾聽の價値はある。
 (補)石の橋。大體、兩樣ある。一つは長い板状の石を渡した橋。一つは川中に据ゑた飛石を渡る樣にしたもの。又、今一つ、高處に上る石階の意もある。
 
いは‐ゞしる 枕。いはゞしるとは、水が石の上を超えて激しく流れる事で、瀧とか、垂水の枕詞としたのだ。之を近江の枕詞としたのは、恐らくは、いははしの〔五字傍点〕の轉音で、足蹈みとかゝつたのだらう。流れあふと説くのは、不可である。
 
いはひと【齋ひ子】(補) 大事にする所の子。ほんそご。箱入り子。風にもあてぬ子。「いはふ」參照。
 
いはひ‐しま【祝島】(補) 周防國熊毛郡上關村。上(ノ)關の西南にある島。但、航路の順序について疑ふべき點がある。或は岩屋島から、祝島に附會したものか。
 
いは‐びと【家人】(補) 東語。いへびと〔四字傍点〕の聲音變化。又、いは〔二字傍点〕は、伊波など言ふ地名とも考へられる。
 
いは‐ふ【齋ふ】(補) いむ〔二字傍点〕・ゆむ〔二字傍点〕の再活用。聲音移動の爲に、は〔傍点〕行音に變つたので、神に對して穢れと思はれるを謹み、淨め、敬虔な態度を持して神を祀る事。又、さう言ふ態度をとつて、穢れに乘じて來る邪惡を避けようとする行ひをも言ふ。又、單に淨め、謹むと言ふ意に使うてもある。
 
 いはひ‐べ【齋※[公/瓦]】 すゑものゝ一種。甕の類で、すわりのよいのも惡いのもあるが、地を掘つて、尻は埋めて置くのだから、さしつかへはなかつたのである。素燒きで、今日でも古墳から屡、發掘せられる。神を祭る時に、御酒を盛つて獻り、底の方は土に埋めてゐたので、「齋※[公/瓦]を齋《イハ》ひ掘りすゑ」など歌うたのである。
 
いはほ・ろ(補) 地名。古代のは〔傍点〕行音の一つは、咽音であつた爲、いかほ〔三字傍点〕がいはほ〔三字傍点〕となつたので、即、伊香保ろ〔四字傍点〕である。「いかほ」參照。
 
いはまろ【石麻呂】 大伴家持の友人。吉田連老の字。痩せてゐた人な事は、家持の歌で明らかである(三(64)八五三・三八五四左註)。
 
いは‐もと【岩本】(補) 岩石の根もと。地上に隆起した岩の土に接した部分。いそもと〔四字傍点〕(石本)など言ふ語もある。略、同じ程の意味である。
 
 いは‐もと‐すげ【岩本菅】 岩の上に生えた菅は、根が深く這入らぬが、岩の根方の柔らかな土には、深く喰ひ込んで生えてゐるのが、注意に上つたのである。
 
 いは‐もと‐すげ‐の 枕。ねふかめて。前條の理由で、根深めてとつゞくので、根深めては、心の奥深く沁みこませての意。
 
いは‐や【窟】(補) 岩屋の意。人の住處としての巖穴。墳の石郭や、山の横穴や、自然の巖窟を利用して、住んでゐた者は、先住民の中には澤山あつたので、本集時代にも、屡、さうした人のゐる事を信じてゐたのである。志都(ノ)窟(大汝・少彦名)、美穗(ノ)崛(久米(ノ)若子)は、其著しいものである。
 
いは‐や‐ど【崛門】 岩屋の入り口。岩屋の表(ア)。岩屋の岩の戸(イ)。
 
い‐ばゆ【嘶ゆ】(補) い〔傍点〕は馬の鳴き聲本集にも馬鳴をい〔傍点〕と訓ませてゐる。はゆ〔二字傍点〕はほゆ〔二字傍点〕に通じるのであらう。「い」とほえる義。かゞ鳴く〔四字傍点〕・い鳴く〔三字傍点〕の類。
 
いはれ【磐余】 大和國十市郡。磐余の池は、履中天皇の二年作られたもの。磐余の道・磐余の山とも集中に見えてゐる。
 
いはれ‐の‐もろきみ【磐余(ノ)諸君】 孝謙天皇の天平勝寶六、七年の頃、正七位上刑部少録であつた。
 
いはゐ‐づら 草の名。つら〔二字傍点〕は蔓の總名。いはゐ〔三字傍点〕が其名であるが、い這ひの音轉か。不詳。
 
いへ‐つ‐どり 家の鳥は、即、鶏で、古くはかけ〔二字傍点〕と呼んでゐた。それ故、家つ鳥かけ〔五字傍点〕とつゞけたのである。野つ鳥雉〔四字傍点〕の類。
 
いへ‐の‐しま【家(ノ)島】 播磨國揖保郡。其名よりして家郷の事を想起したのだ。又、播磨國飾磨郡の海上にある群島の一つ。
 
いほ‐ざき【庵崎】(補) 紀伊國伊都郡眞土山の邊。崎は眞土山の崎であらうか。卷三「眞土山夕越え行きて(二九八)と言ふのは、現在の行動で、卷三「庵崎の角太川原に獨かも寢む(二九八)は、紀伊國に出たら、其處の庵崎の角太川原で、今夜は獨寢する事だ(65)らうの意で、大和國を離れてこそ旅愁が明らかに浮ぶのだから、庵崎は必、紀伊國であるが、國境の變動を經た今日では、はつきりとは知れぬ。
 
 いほざき‐の‐すみだ‐がはら【庵崎(ノ)角太川原】 庵崎附近の角田の地の川原の意で、此附近の紀(ノ)川の別名をすみだ〔三字傍点〕川とするのは如何。武家時代に入つて隅田《スダ》黨の根據になつてゐる。
 
いほまろ【伊保麻呂】 姓氏傳不詳。
 
いほり‐の‐もろたち【庵(ノ)諸立】 姓は君。傳未詳。
 
い‐ま【間】(補) あひだ。時。ちようど其時に』。いは接頭語。ま〔傍点〕は空間から時間にうつして用ゐるのであるが、接頭語を伴うた爲に、意は分化して、さしあつた時をさす事になつてゐる。
 
いま‐き【今城】(補) いま〔二字傍点〕は新、き〔傍点〕は來で、新渡來の外客の意で、歸化人を言うた語が、其等の人々の居住地と音ふ意で、地名にもなつたので、分布の廣い地名である。新漢をいまき〔三字傍点〕と訓むのは、いまきのあや〔六字傍点〕の略稱。今、地誌類多く、吉野郡の内、吉野川の北岸地方大淀の今木の事としてゐるが、或はすべて誤りかも知れぬ。高市郡の檜前《ヒノクマ》が、今來郡の中であつた事は、倭國今來郡からの上言に、欽明天皇の五年春、川原(ノ)民(ノ)直《アタヘ》宮《ミヤ》の事を檜隈村の人としてゐる(紀)のでも知れる。今來郡と言ふのは、恐らく高市郡の南方、檜前を中心として東方に亙つてゐた地名で、飛鳥が都宮の地とならぬ時代には、其邊迄擴つてゐたものらしく、飛鳥が名高くなつてからも、今來の小名を飛鳥の中に有してゐたものと考へられる。阿智王が奏上して、漢人の澤山住んでゐる處から、今來郡と言ふのを可《ユル》され、後に高市郡に改めた(坂上系圖)とするのは、歸化人が祖先や家門を誇る手段で、高市郡の一部を今來郡と言うたものに相違ない。又、此地には、名高い槻の大木があつたので、黒彦王、屑輪王の新漢槻本(ノ)南丘(ノ)墓(紀)、蘇我倉山田石川麻呂の逃げて來た倭國今來の大槻(紀)などが、文獻に殘つてゐる。此は元興寺門外の槻の木(紀)ではあるまいか。蝦夷父子の今木雙墓・齊明天皇の皇孫建王の今城谷(ノ)上墓も、亦高市郡の飛鳥附近に在つたものに違ひない。
 
いまき‐の=おほきみ【今城(ノ)王】 元暦本、古寫本の註に、今城王、後賜大原眞人氏也とあり、また卷八に、(66)大原眞人今城傷惜寧樂故郷歌一首とある故、續紀の大原眞人今木(又今城)其人か。新撰姓氏録には、大原眞人は謚、敏達孫百済王より出づとあるが、當非知れぬ。されど聖武天皇の朝、高安王に大原眞人を、また此頃、岡坂王も亦、大原眞人赤麻呂の姓を下されたから、其事なしと言へない。正倉院文書によれば、天平廿年には兵部省少丞正七位下で、既に大原眞人今城とある。大原今木は孝謙天皇天平寶字元年五月從五位下に敍し、六月治部少輔となり、淳仁天皇の同七年正月左少辨となり、次で上野守に遷り、八年正月從五位上に進み、官位を褫奪されたが、光仁天皇寶龜二年閏三月原位に復し、次で兵部少輔となり、三年九月駿河守に進んだ。
 
いま‐まつりべ‐うぢ【今奉部氏】 東人の姓。新日祭部氏の意で、日祭部氏の部曲と同樣な職掌を持つたのであらう。即、新歸化人なる日祭部と言ふ事であらう。下野國の防人、今奉部與曾布の歌(四三七三)がある。
 
いみづ【射水】 越中國の郡名。また、川の名、加賀國の白山の裏山より出づる飛騨の白川の下流。
 
いむ(補) 又、ゆむ〔二字傍点〕。意味はいはふ〔三字傍点〕と同じい。
 
いむべ‐の‐くろまろ【忌部(ノ)黒麻呂】 孝謙天皇天平寶字二年八月外從五位下に敍し、淳仁天皇の同三年十二月|首《オビト》の姓を廢して新に連《ムラジ》の姓を賜ひ、六年正月内史局(ノ)助となる。
 
いめたてゝ 枕。いめ〔二字傍点〕は射部で、べ〔傍点〕とめ〔傍点〕と音の通ふのは通例の事である。その射部、即、獵人を大勢立たして射とめ〔三字右・〕させると言ふ心持ちで、跡見〔二字傍点〕の枕詞としたのであらう。御狩には、射部の外に跡見部と言ふものもあるが、こゝでは、其跡見部の意味は、少しも交へてゐないのである。
 
いめ‐の‐わだ【夢(ノ)曲】 大和國の吉野川のうちの一名所。風景のよいので歌はれる。わだ〔二字傍点〕は水の※[さんずい+彎]流したところ。
 
いめひと‐の 枕。いめひとは、射部人である。叢・木蔭などに伏しかくれて射るものであるから、伏見〔二字傍点〕を言ひ起したのである。
 
いも‐が‐いへ‐に 枕。最愛の妻の家に行くと言ふ心持ちで、いく〔二字傍点〕の枕詞に置いたのである。い〔傍点〕とゆ〔傍点〕とを通じて用ゐたのは、古くからの事だ。
 
(67)いも‐が‐かど 枕。いとしい女の家の門を出たり入つたりすると言ふ事から、或は出入川《イデイリガハ》に、或は入出見川《イリイヅミガハ》にかけて、言つたのである。但、此場合に於て、前者は入乃川《イリノガハ》、後者は泉川《イヅミガハ》と言ふのが、本道の名前で、其頭につけた語には意味はない。
 
いも‐が‐かみ 枕。年頃になれば、女は髪を結ひあげるものだから、あげ〔二字傍点〕の枕詞としたのである。
 
いも‐が‐しま【妹个島】 紀伊國海草郡。
 
いも‐が‐そで 枕。想ふ女のなつかしい袖を纏《マ》いて寢ると言ふので、まき〔二字傍点〕にかけたものである。
 
いも‐が‐て‐を 枕。可愛い女の手を把ると言ふ心持ちで、とろし〔三字傍点〕にかけて居る。
 
いも‐が‐め‐を 枕。いとしい女に疾く會ひたいと言ふ心持ちで、疾見《トミ》と言つたので、わぎもこを早見濱風などゝ言ふのと同じ事である。め〔傍点〕は目〔傍点〕、即、面だ。
 
いも‐に‐こひ 枕。妹に戀ひ、我が待つと言ふ意味で、わが松原〔四字傍点〕を起して來たのた。
 
いも‐ら‐がり 枕。いとしい女の處に今、來たと言ふ意味で、今來《イマキ》の峯〔二字傍点〕につゞけたのである。
 
いやひこ【彌彦】 越後國蒲原郡。佐渡國に面した海岸に孤立せる山の名。伊夜比古神社がある。
 
いゆ‐しゝ‐の 枕。射られた、即、矢に中つた猪は、よしや其場は逃れて行つた處で、どうせのたれ死にしてしまふものだ。そこで行きも死なむ〔六字傍点〕に聯想して、枕詞としたのである。
 
いよし・たゝしゝ【伊縁立之】(新補) よせ立てなさる……。およせ立てになる……。おひきつけになるところの』。い〔傍点〕は接頭語。よし〔二字傍点〕は、よせ〔二字傍点〕とも訓めるが、古くは四段によし〔二字傍点〕と言ふ。たゝ〔二字傍点〕も同樣、古くは自動詞・他動詞共に四段活用である。此處は、其將然形であるから、たゝ〔二字傍点〕である。しゝ〔二字傍点〕は、上のし〔傍点〕は、敬語、下のし〔傍点〕も敬語。たゝせす〔四字傍点〕と言ふ形の古形である事は、「安見しゝ」と同樣である。下のし〔傍点〕を過去助動詞とする、諸先達の考へは無雜作過ぎる。過去に言ふ必要は、毛頭ないばかりか、過去では、わからぬのである。習慣的の動作を言ふのだから、現在(無時問)・現在完了の二つの中でなくてはいけない。即、萬葉中期以後の形では、立てさすでよい處である。併、尚、考へて見ると、御立爲之〔四字傍点〕と言ふ同じ形と見える語の、みたゝしゝ〔五字傍点〕と訓んでは、わる相に思はれる理(68)由から、みたちしゝ(安見しゝには、將然・連用の區別がないから、同形)と訓むのかも知れない樣に、いよしたち〔五字傍点〕(>て)しゝ〔二字傍点〕と訓むべきのかも知れぬ。よせ立て《イヨシタチ》を|せられる《シシ》と言ふ事になる。他の訓で言ふと、皆いよし〔三字傍点〕でなくてはならぬ。いよせ〔三字傍点〕と訓むのは、新し過ぎる。いよせたてゝし〔七字傍点〕(仙覺・季吟・契沖・千蔭・芳樹)は、言外から敬意を汲む外はない上に、し〔傍点〕を過去とするから、むだ〔二字傍点〕で而も新し過ぎる感じのあるてし〔二字傍点〕など言ふ訓み方を入れねばならぬのである。いよりたてし〔六字傍点〕は、てし〔二字傍点〕の弊は避けたが、敬語でない。なくても敬意は出ぬ事もないが、過去はいけない。いよせたゝしゝ〔七字傍点〕(眞淵)と言ふ位なら、いよし〔三字傍点〕と言ふ方が勝れてゐる。いませたてます〔七字傍点〕(守部)は無理である。又、此を天子の方から、およりになると見れば、いよりたゝしゝ〔七字傍点〕、又はいよりたちしゝ〔七字傍点〕と訓むべきであらう。より立ちなされた〔右○〕と言ふ事に説いて、いよりたゝしゝ〔七字傍点〕(雅澄)と訓んでゐるが、過去はよくない。やはり此場合も、いより立たせす〔七字傍点〕の意に説かねばならぬ。但、天子がおより立ちになると言ふよりは、およせたてになると言ふ方が、自然である。其上に、朝には自ら手にとり撫で給ふ(朝庭取撫賜)とあるのだから、同じ樣に、側におよせ立てになる方であるのが適當。夕庭伊縁立之は、朝夕を無二三昧な對句と見ずに、日中(朝になると)は……夜中(夕になると)は……、と言ふ風に、寢られた時の容子と見るのがよいのだから、又、いよりたちしゝ〔七字傍点〕は、いよしたち〔五字傍点〕を體言と見て、よりたち〔四字傍点〕をせられる〔四字傍点〕と言ふ形で、みたちしゝ〔五字傍点〕・安見しゝ〔四字傍点〕と、亦同類に見ること、いよし〔三字傍点〕。(以下原稿缺)
 
いよ‐の‐たかね【伊豫(ノ)高嶺】 今、伊豫國の石槌山と言ふ四國第一の高山である。
 
いよ‐の‐ゆ【伊豫(ノ)湯】 伊豫國温泉郡にある。今、道後と言ふ。此湯は、古くより知られて、釋日本紀・萬葉仙覺抄に引ける伊豫國風土記逸文によれば、上古より天皇の行幸ありしこと五度に及ぶ由の碑文があつた相だ。此碑文は、釋日本紀に引用せられて、漢字を借りて國語を寫した文獻の現存せる最古の物だと言ふ。伊豫温湯宮は、此地に於ける行宮である。
 
いらご‐の‐しま【伊良虞(ノ)島】 三河國渥美郡。今半島となつてゐる。當時は、伊勢國に隷屬した海島だつ(69)た樣である。
 
いら‐な‐けく(補) いら/\しく。じれ/\して。煩悶して』。いら〔二字傍点〕は苛〔傍点〕で、心のいらだち苦しむ容子。なけく〔三字傍点〕は甚しくの義と説く語尾なし〔二字傍点〕の、あり〔二字傍点〕の過程を融合したなけ〔二字傍点〕に、副詞語尾く〔傍点〕のついたもの。
 
いり‐ぬ【入り野】 山地に深く開墾地の入りこんでゐる處。
 (補)山地へ原野からつゞいて入りこんだ開墾地を大體に見て言ふ語。卷十「入り野のすゝき初尾花(二二七七)。
 
 たこ‐の‐いりぬ 地名。上野國多胡郡の入り野。卷十四「多胡の入り野のおくもかなしも(三四〇三)
 
いりひ‐なす 枕。入り日の樣にとの意。夕日が段々とかくれてしまふと言ふ意味で、かくる〔三字傍点〕にかけたのであるか。
 
いりま【入間】 武藏國入間郡の地。
 
いろ‐(補) 敬意を持つた親しみの接頭語。記・紀・本集すでに、原義が辿れなくなつてゐる。御間城入彦《ミマキイリヒコ》など言ふ入《イリ》は、此いろ〔二字傍点〕と關係があらう。(兄弟の順序を示すものであるまい)。
 
 いろ‐せ【阿兄】 兄(時には弟にも)に言ふ。親しみ語。
 
 いろ‐と【阿弟】 弟及び妹に言ふ。
 
 いろ‐ね【阿姉】 姉に言ふ。
 
 いろ‐は【阿母】 母に言ふ。
 
 いろ‐も【阿妹】 戀ひ妻に言ふ。
 
いろ‐づかふ【色附ふ】 いろ‐づく〔四字傍点〕が語根になつて、更にふ〔傍点〕語尾をとつて、再活用したもの。色がつく。紅葉する。
 
         う
 
 
う【坐】(補) わ行下二段活用。ゐる〔二字傍点〕及びすう〔二字傍点〕(据)の古形である。他動詞にはゑ〔傍点〕・ゑ〔傍点〕・う〔傍点〕、自動詞には、ゐ・ゐ・うの三段づゝの活用がある。古い形ではあるが、本集には、其片影だけは殘つてゐる。
 
う【得・獲】(補) 手にとる。手に入れる。わが物にする。捉へるの原形(ア)。手にとる事が出來る。捉へる能力がある(イ)。
 
う【鵜】 游禽類に屬する鳥で、體は割合に大きく、色は暗色。頸が長く、嘴は細長くて先端が少しく曲つ(70)てゐる。其黒さが古代人の注意に上つたのである。水中を潜らして魚を捕へさせる事は、此頃からあつた。
 
うか‐ねらふ(補) うかゞひねらふ〔七字傍点〕の脱落だと言ふが、うか〔二字傍点〕の説明が足らぬ樣である。鳥獣を※[殼の几を弓]《ネラヒ》を定めて射る事か。待ち臥せて射る意か。
 
 うか・ねらふ 枕。とみ。鳥獣の足痕を見る跡見《トミ》の人が、うかねらふ状に聯想したのである。
 
うかぶ【浮ぶ】(補) ば行四段活用。自動詞。水中に浮ぶ(ア)。うく〔二字傍点〕の再活用。うはつく。動搖する。定まらぬ(イ)。
 
 うかべる‐こゝろ うはついた心。うはき。
 
うから【族】(補) 血すぢの一門。一族。親類。
 
うか‐る【浮・漂る】(補) うく〔二字傍点〕の再活用。ぶらつく。ふらふらする。一處に根據をすゑてぢつとしてゐぬ事。うろつく。流浪する。定住せぬ。下二段治用。
 
 うかれ‐びと【流民】 無籍浮浪の民。今日のさんか〔三字傍点〕の祖とも見るべき、日本國の國籍に録せられぬ、無頼・悍惡の徒。欧洲に漂浪してゐるじぶしい〔四字傍点〕と酷似した、古代日本住民。
 
 うかれ‐め【遊行女帰】 柳田國男先生の説によれば、うかれびとの女で、神に仕へて、巫女の樣な生活をしながら、容色に優れて賣色を業とした者で、主として船泊りなどに居て、良民を惑したとの事である。從來の遊逸な生活をしてゐるからだと言ふ説は、根據のない考へである。彼等は、賤民としての扱ひをうけ乍ら、貴族とも交つて、都人の注意を惹いた者も多かつたが、多くは奸猾な者であつたらしい。橘守部が、女郎・娘子など書いたのは、皆、遊女だと説いたのは、必しも當らないが、地方の女で、都人の記憶に殘るやうな女は、此種族のものなのであらう。比點に於ても、じぷしい〔四字傍点〕の女と似てゐる。
 
うかれめ=かまふ‐の‐をとめ【遊行女婦蒲生(ノ)娘子】 名不詳。頓才に勝れてゐたと見える。傳不詳。
 
うかれめ=こしま【遊行女婦兒島】 姓不詳。兒島〔二字傍点〕は名である。大宰府に住んだ遊女。歌は巧みである。才氣勝れた處から大伴旅人に愛せられてゐたものと見える。卷六に歌(九六五、九六六)あり。
 
うかれめ=さぶるこ【遊行女婦佐夫留子】 姓不詳。(71)越中の國府に住んだ遊女。佐夫留は名の樣に見えてゐるが、侍《サブ》ると言ふ意で、宴席などに侍るところから出たものかとも言ふが、さぶる〔三字傍点〕と言ふ語に侍ると言ふ意のある處から、此地方で、遊女を呼ぶ語であつたので、さぶる〔三字傍点〕其子など言うたのであらう。大伴(ノ)古慈悲の妻が、此女と夫との間を嫉んで下つたのは、恐らく家持の刺嗾などがあつたのであるまいか。
 
うかれめ=はにし【遊行女婦土師】 名不詳。土師は氏、對馬國の遊女。卷十八に歌(四〇四七、四〇六七)あり。
 
うきた‐の‐もり【浮田(ノ)杜】 大和國字智郡。吉野川の右岸、大荒木神社のこと。
 
うきぬ‐の‐いけ【浮沼(ノ)池】 石見國安濃郡。(卷七、一二四九)
 
うき‐はし【浮橋】 船橋などの種類であらう。當時、實際に用ゐなかつたもので、傳説的に多く存する上から見ると、何處へでも自分の行きたい方面に渡す事の出來る想像の船であつたものと見える。
 
うく【浮く】(補) ぢつとしない樣を表す語。根ざしなく動搖する。漂ふ。ふらつく。今の浮く〔二字傍点〕は、水上に在る事のみを言ふが、漂蕩の意を忘れてはならぬ。船を浮寶と言ふのも、此爲である。卷十七「家にてもたゆたふ命波の上にうきてしをれば(三八九六)は、たゆたふ〔四字傍点〕・うく〔二字傍点〕の内容類似と共に、浮くの縁から、心の動搖する樣に言うたのである。此語の再活用のうかる〔三字傍点〕が浮浪する意に、うかれ人〔四字傍点〕が浮民(浮浪者)の意に用ゐられるのも、故のある事である。
 
うぐひす‐の 枕。鶯の羽と言ふ意味で、春のは〔傍点〕にかけたとも説かれてゐるが、寧、其鳴く時候から春と率直につゞけたのであらう。
 
うけ【泛子】 魚を釣る時、絲につける泛子《ウキ》。うけのを〔四字傍点〕と言へば、即、釣絲で、泛子によつて浮いてゐる處から、浮び〔二字傍点〕の枕詞としてうけのをの〔五字傍点〕を用ゐてゐる。
 
うけ‐ふ【誓ふ】(補) ちかふ(ア)。祈る。願ふ(イ)。諾《ウ》くの再活用か。(A)事の善惡・成否・吉凶を占ふ時に、神を判者に立てゝ、現在、判斷に迷うてゐる事が、+《プラス》ならばかく、一《マイナス》ならばかく兆《シルシ》を表し示し給へと豫約する事。(B)其から一轉して、さう言ふ約束を立てゝ祈る事。又、(C)若し欲する通りの結果を生ぜしめて下されたら、かく/\の事をすると誓約する事にも使(72)ふ。但、此は正しくはちかふ〔三字傍点〕で、うけふ〔三字傍点〕の本義は、(A)である。
 
うし【大人】(補)  ぬし〔二字傍点〕と關係のある語とも思はれるが、又、別殊の語とも考へられるふしがある。恐怖を含んだ敬語で、かしら〔三字傍点〕・巨魁・親分などの樣な、野蠻と暴力とを持つてゐた一地方の有力者をさす名詞が、本集時代には、すぐに敬意を表す接尾語として用ゐられてゐる樣である。御大人〔三字傍点〕など言ふ人名は、其が元、獨立であつた事を示すと共に、絶大の敬意を表さなかつた事を見せてゐる。
 
うしはく【領く】(補) 領する。とりこむ。わが物として人に指も觸れさせぬ。うし〔二字傍点〕は大人〔二字傍点〕であらうと言ふ。うしふ〔三字傍点〕の再活用ではあるまいか。うすはく〔四字傍点〕と言ふ音轉もあつたらしい。治《ヲサ》む・見る・明《アキ》らむなど、其民を教化すると言ふ意でなく、唯、土地をとると言ふ意に用ゐてゐる。大人《ウシ》として占めると言ふ位の事で、天神よりは、寧、地祇に使ふ語と見てよい樣である。うしはきいます〔七字傍点〕と言ふ語は、屡、かう言ふ用語例を見せてゐる。
 
うしまど【牛窓】 備前國邑久郡の經津の名。
 
うず【髻華】(補) 後には插頭花《カザシ》となつた、冠の巾子《コジ》の根方につけた裝飾で、花・葉・蔓などさま/”\の物をさし、又、まつはした樣である。支那の鈿と用途が似てゐる處から、鈿をうず〔二字傍点〕と訓ませてゐる。推古時代既に、自然の草花を用ゐるに止らず、金・豹尾・鳥の尾など用ゐてゐる(紀)。※[草冠/縵]の形式化したもので、用途は一つであつたのである。かげ〔二字傍点〕と言ふのも此で、冠をかげ〔二字傍点〕と言うた(播磨風土記)のも、巾子を縛る蔓草が主要部分であつた事を示してゐる。うず〔二字傍点〕に插す葉は、織細味のない竹・杉・橿なども用ゐてゐるので見ても、當座限りの物なる事は知れる。
 
うすひ【碓日】 上野國碓氷郡、今の碓氷峠。
 
うすらひ‐の 枕。薄氷のやうに薄いとつゞけたゞけである。
 
うそ‐ふく(補) 口を細め尖らして、息を吐き出す。又、其時に出る鋭い音。即、結果から見ると、口笛を吹いた事になるのである。鷽《ウソ》をおびきよせる時に、其聲を似せて口笛を吹く事から出たものか。後世、鳩吹く〔三字傍点〕と言ふ樣に。嘯〔右・〕の字をうそふく〔四字傍点〕と訓むのは、同じ吐く息と言ふ處から、口の開きの大小を混同して(73)の誤譯である。
 
うそむく(補) うそふく〔四字傍点〕の音轉であらう。
 
うだ【宇陀】 大和國宇陀郡。卷一には日竝皇子が度々狩獵にゆかれた事が見える。卷七には宇陀の赤土の事が出てゐる。
 
うたおもふ【歌思ふ】(補) 歌を考へる。歌想を練る。
 
うだく【擁く】(補) だく。だかへる。かゝヘる』。いだく〔三字傍点〕の原形。又、むだく〔三字傍点〕とあるのは、う〔傍点〕・む〔傍点〕に通じる鼻母音なる證であるとも言ふ事が出來る。拱〔傍点〕を、たむだく〔四字傍点〕・てうだく〔四字傍点〕と訓むのも、手抱くの義である。
 
うたて【嫌・憂】(補) いやに。いやだ。なさけなく。なさけない。不快に。不快だ』。副詞でゐて、形容詞の樣な表現をする事の出來る語。文章組織の轉換に馴れて、かう言ふ用法も出來たのであらうが、語自身、他のく〔傍点〕・に〔傍点〕を伴ふ副詞とは、變つた修飾機能を持つてゐる。後期王朝になると、普通なら、うたてくあり〔六字傍点〕と言ふ處に、うたてあり〔五字傍点〕と言うてゐる。それで、此語には、もとな〔三字傍点〕と言ふ語と同樣に、うたてく〔四字傍点〕・うたてし〔四字傍点〕の過程を含んでゐるものと見てよい。轉〔傍点〕の字をうたゝ〔三字傍点〕と訓んだのと關係あるらしく、或は不快な感情の次第に募る意を持つてゐるのかとも考へる。であるから、次條の句も出來るのであらう。まだうたてし〔四字傍点〕と言ふ活用は出來てゐない。今も諸方の方言に用ゐるうたてい〔四字傍点〕と言ふ語と、用語例はさして違はぬ。
 
 うたて‐け‐に いやな心持ちが、どん/”\とつのる。いよ/\不快になる。
 
うたひと【歌人】(補) 歌※[人偏+舞]所の屬。歌謠を謠ふ役。歌詞を作る者の意でなく、當時、古代からの傳説的の古曲の外に、宮廷詩人の手で出來た新作もあつたが、其歌を、器樂に合せ、又は單獨に謠うたのである。
 
うたまひ‐どころ【歌※[人偏+舞]所】 大寶令の制度の雅樂寮である。治部省の被官で、文武雅典正※[人偏+舞]雜樂及び男女の樂人・音聲人の名帳典度課試事、其他、節會・祭神・釋奠・饗宴・佛會等の事を掌つた。
 
うち【宇智】 大和國字智郡。
 
うぢ【宇治】 山城國久世郡。宇治川は瀬田川の下流で、琵琶湖から出て、淀川に入る。大和國から近江・北越へ行く古道は、此峽谷を瀬田に出たのである。(74)瀬の早いのを以て聞えた川だ。宇治の都は行宮で、諸天皇が山城と大和との間を往復せらるゝ時に、度々此地にお泊りになつてゐる。
 
うち‐いづ(補) だ行下二段活用。他動詞。言ひ出す。うちあける。隱してゐた心を露し知らせる。
 
うち‐えする 枕。うちゆすると言ふに同じく、駿河國には急流があつて、常に轟々と大地を搖する樣だによつて、駿河の枕詞としたと説く人もある。併、えする〔三字傍点〕は、又、よする〔三字傍点〕とも言ひ、其意味には關係せずして、同音をかさねてする〔二字傍点〕を呼び起したのだと見るが、正しい樣である。
 
うち‐たをり(補) 枕。たむ。ゆきみ。うち〔二字傍点〕は接頭語。たをる〔三字傍点〕は撓むと同じで、曲つたり、中窪であつたりする容子である。たむ〔二字傍点〕は撓むと同義である處から、多武《タム》にかけたものか。み〔傍点〕は曲〔傍点〕の字を宛てゝ、地形の曲つた處に言ふから、やはり同義でつゞけた枕詞と見られる。ゆきみ〔三字傍点〕の里は、所在明らかでないが、地名である事は疑ひなからう。
 
うち‐なす【打ち鳴す】(補) うち〔二字傍点〕は撃ち、なす〔二字傍点〕は鳴す。叩いて鳴す。
 
うち‐の‐くら‐の‐なはまろ【内藏(ノ)繩麻呂】 天平頃の人。傳未詳。内藏氏は内藏の事を掌つた事から出て居るらしい。内藏宿禰と言ふのは、坂上大宿禰と同祖で、都賀(ノ)直四世孫東人(ノ)直の後である。繩麻呂は忌寸を姓として居るから、果して此族であるか、疑はしい。
 
うち‐の‐とねり【内舍人】 又、うどねり〔四字傍点〕。帶刀で朝廷に宿衛し、雜事に從事し、行幸に左右前後に供奉警衛し、又、攝政・關白に隨身を賜ふ時、内舍人を給する。中務省に屬し、初位以上の子孫、性識聽敏儀容觀るべき者を選んで之に充つ。文武天皇大寶元年六月、初めて内舍人九十人を定置した。大同三年減定して、※[門/韋]司に代つて事を奏せしめたが、弘仁二年に停めた。近衛天皇久安年中、六十人と改め定め、後、百人以上になつた。延喜以後、良家の子を補する事が絶え、臨時内給成功等を以て諸家の士、之に任じた。
 
うち‐の‐へ【内の方】(補) とのへ〔三字傍点〕の對。うちらがは。なかの方。内部。へ〔傍点〕は方。
 
うち‐のぼる 枕。うちのぼる火と言ふ意味で、ほ〔傍点〕に(75)かけたのだらうと思はれる。佐保へは、山川に沿うて坂を登つて行くからだと言ふ説もあるが。
 
うちひ‐さす 枕。全檜建《ウツヒサス》と言ふ意味で、宮殿の壯大な樣である。たつ〔二字傍点〕とさす〔二字傍点〕とは、よく通じて用ゐられる。八雲たつ〔二字傍点〕・八雲さす〔二字傍点〕の如きも、其一例である。或は、うちひさす〔五字傍点〕は、うち養《ヒタ》す身〔傍点〕とかけたのかとも思はれる。美日さす〔四字傍点〕の意だと解くのはいけない。
 
うち‐ひさつ(補) 枕。みや。うちひさす〔五字傍点〕と通じてゐる。但、ひさつ〔三字傍点〕をひさす〔三字傍点〕の訛りとするのは、どうであらうか。うち養《ヒタ》すの身とかゝつたのかとも、撃ち浸《ヒサ》つ實《ミ》(木の實)とつゞけたものかとも考へられる。
 
うぢべ‐うぢ【宇治部氏】 宇治部氏は神魂《カムムスビ》(ノ)命の五世の孫、伊香我色乎命《イカガシコヲノミコト》の後で、連姓である。
 
うぢま‐やま【宇治間山】 大和國吉野川の北岸の山。藤原京より吉野に行く路次に當る。
 
うち‐わたす(補) ずつと見わたす。うち〔二字傍点〕は接頭語か。或は此語、た〔傍点〕・さ〔傍点〕・を〔傍点〕などの枕詞と思はれぬでもない。
 
うつ【棄つ】(補) すてる。うつちやる。はふる』。すつ〔二字傍点〕ふつ〔二字傍点〕・うつ〔二字傍点〕通用したものであらう。なげうつ〔四字傍点〕のうつ〔二字傍点〕も打つ〔二字傍点〕でなくて、此意であらう。
 
うつ‐【内】(補) うち〔二字傍点〕が修飾語として、他の語と熟してゐる際に、遺してゐる古い音韻形式。
 
うつ‐【空】(補) からの。がらんだうの』。中味のない樣。内容の充實してゐぬ容子。本集には熟語としての外はない樣である。
 
うつくし【愛し】(補) かあゆい。いつくし〔四字傍点〕の音轉。愛著の心持ちを表す。
 
うつ‐し【現・正し】(補) はつきりしてゐる。現實的だ。まざ/”\してゐる。疑ひなく目の前に在る』。うつゝ〔三字傍点〕の形容詞。終止形は見えぬが、しく〔二字傍点〕・しき〔二字傍点〕の活用はある。うつし〔三字傍点〕の形は、原始形容詞で、し〔傍点〕は無活用のS子音に近い。けだし〔三字傍点〕などの類である。
 
 うつし‐ごゝろ【正心】 正氣。夢幻でない、常態の心。
 
 うつし‐み【現身】 生きてゐる此身。生活力の發散せないでゐる身。肉體。靈魂に對して言ふ語(ア)。現世における人間身(イ)。又、うつせみ〔四字傍点〕。うつそみ〔四字傍点〕。
 
うづ‐しほ【渦潮】(補) うづまきの起つてゐる海水。海の渦卷き。
 
(76)うつせ‐がひ 枕。身の脱けた貝をうつせ貝〔四字傍点〕と言ふので、身なき〔三字傍点〕の枕詞に置いたのである。
 
うつせみ‐の 枕。うつせみは現《ウつ》しき身と言ふ意味で、いのち〔三字傍点〕・よ〔傍点〕・ひと〔二字傍点〕・み〔傍点〕、さては、いも〔二字傍点〕・つね〔二字傍点〕・やそ〔二字傍点〕などの枕詞に用ゐてゐる。
 (補)枕。み。いのち。よ。從來、現身の字を皆、うつせみの〔五字傍点〕と訓んだのはよくない。空蝉と書いたのは、大伴家持に一首あるきりである。此もかはせみ〔四字傍点〕をそひ〔二字傍点〕と言ふ處から見れば、うつそみ〔四字傍点〕と訓めぬとも言へぬが、姑らく此訓をも殘しておく。但、字面どほり空蝉でない事は勿論である。次條參照。
 
うつそ‐み【現身】(補) うつしみ〔四字傍点〕の音轉。
 
 うつそみ‐の 枕。み。いのち。よ。身・命については説明を要せぬ。よ〔傍点〕は今生きてゐる此世、と言ふ意につゞくのであらう。
 
うつそ‐を 枕。うち和げた麻《ソ》を績《ウ》むと言ふ意味で、うつそををみ〔六字傍点〕とつゞけたのだ。をみ〔二字傍点〕はうみ〔二字傍点〕の轉音である。
 
うつたへ‐に(補) すつかり。一向《ヒトムキ》に。ひたすらに。むげに』。副詞。或は觸る〔二字傍点〕の枕詞かとも思ふ。又、訴へに〔三字傍点〕で、訴へ歎きも申さずに、泣き寢入りする意ともとれる。
 
うつ‐ゝ【現】(補) 正氣。起きてゐる間。現在。目のまヘ。はつきりした事。夢の架空的なのに對して、現實的な寢醒の間。又、をつゝ〔三字傍点〕。「うつし」參照。
 
 いま‐の‐うつゝ【今の現】 傳説上の夢の樣な昔に對して、今を現實の没空想のものとして言ふ語。
 
うつゝ【棄つ】(補) うつちやる。かまはぬ』。た行下二段活用。うつ〔二字傍点〕の再活用。うちすつ〔四字傍点〕の融合とするは誤り。
 
うつゆふ‐の 枕。うつゆふ〔四字傍点〕は、野繭の繭で、中に蛹が這入つて居る處から、こもり〔三字傍点〕にかけて言うたのである。
 (補)枕。こもりて。自ら衣裳となつて、更に裁ち縫ふに及ばぬ服《ハタモノ》を内幡《ウツハタ》と言ふ(常陸風土記)から、うつゆふ〔四字傍点〕もうつはた〔四字傍点〕と同じで、一種の技巧で出來る織り方の、布であらう。それで、身幅その他の窮屈な邊から、こ〔傍点〕(小)或はこも〔二字傍点〕(小身《コム》)を起したものかと思はれるのは、うつゆふの〔五字傍点〕ま狹《サ》き國なれど(神武天皇紀)と言ふ用ゐ樣から見ても、うなづかれる。
 
(77)うづら‐なく 枕。鶉は荒野に栖むものだから、荒廢して古りたる場處を形容したので、ふりにし里〔五字傍点〕及び古し〔二字傍点〕にかけて居る。
 
うづら‐なす(補) 枕。い逼ひ臥す。鶉は草中を這ひまはり、臥しかくれてゐるから、這ひ臥すをおこしたのである。
 
うつる【移る】(補) 居處・時間がかはる(ア)。色がかはる(イ)。ら行四段活用。又、ゆつる〔三字傍点〕と發音した。次條參照。
 
うつろ‐ふ(補) 前條の再活用。色がわるい方にかはる。色あせる。色さめる(ア)。又、木の葉や花のうつろふ〔四字傍点〕のは、即、亡びに近づくのだから、おとろへる意に用ゐる(イ)。は行四段活用、但、衰へる意のうつろふ〔四字傍点〕からおとろふ〔四字傍点〕(下二段活用)に轉化したと見るが適當ではあるが、おとろふ〔四字傍点〕は、又、おとる〔三字傍点〕(劣)から出たとも見られる。
 
うとべ‐の‐うしまろ【有渡部牛麿】 傳未詳。駿河國出身の防人。短歌一首(四三三七)あり。
 
うな‐がける(補) 首にかける』。ら行四段活用。うながく〔四字傍点〕、或はうなぐ〔三字傍点〕の再活用。連用法の外は、文獻に殘つてゐぬ樣である。
 
うなかみ‐がた【海上滷】 上總國海上郡。
 
うなかみ‐の=ひめおほきみ【海上(ノ)女王】 天智天皇第七子志貴皇子の御女。元正天皇養老七年四月從四位下に敍し、聖武天皇神龜元年二月從三位に進む。卷四の天皇と贈答の歌(五三一)も、此頃のものであらう。
 
うな‐ぐ【領ぐ】(補) 首にかける。首の後から兩側にまはして、前に垂れる』。が行四段活用。うな〔二字傍点〕は領《ウナジ》、即、襟くび。うなぐ〔三字傍点〕・うなづく〔四字傍点〕、皆、此語を語根としてゐる。敬語にうながす〔四字傍点〕と言ふ。
 
 うな‐げり うなぐ〔三字傍点〕の現在完了形である。首にかけてゐる。
 
うな‐さか【海阪】(補) 舟が水平線に達すると、影を隱して見えなくなるのを不審に思うた古代の人が、其處に傾斜があつて、其を下るから見えぬ樣になるものと考へてゐた空想の坂。又、海境〔二字傍点〕の義で、海のくぎり目〔四字右・〕を、即、海の限の水平線を言ふのだとも説くが、前の方が自然である。
 
うなて‐の‐もり【雲梯(ノ)杜】 大和國高市郡。事代主神(78)を祀る。萬葉時代に多く見えた神社である。
 
うな‐ばら【海原】 地名。卷十四の東歌に「海原の根柔小菅(三四九八)とある。國名未詳。一説には地名にあらずして、海邊を言ふとも言ふ。
 (補)ひろ/”\とした海上。海原・天(ノ)原など、陸上の原に對して言ふのである。東語にうのはらとあるのは、古い形を殘してゐるので、海之原の義。うみ〔二字傍点〕の聲音脱落でなく、う〔傍点〕が海の古語だつたのであらう。「わた」參照。
 
うなひ【菟原】 攝津國武庫郡蘆屋郷の地名。又、上總國の東京※[さんずい+彎]に面せる方の名。これは海邊、若しくは海上の義であらう。又、石見國邇磨郡の海岸。これも海邊であらう。
 
うなひ‐をとこ【菟原壯士】 攝津國莵原(ノ)郷の若者。氏名不詳。傳説上の人物。茅渟の信田《シヌタ》壯士と二人で、一人の莵會《ウナヒ》處女を妻にせうと爭うた。處女は莵原壯士に心があつたが、信田壯士の荒い行ひに出る事を恐れて、兩人の爭ひの圓滿に解決する方便と信じて、生田川に身を投げて死んたので、莵原壯士は、直に後を追うて死に、信田壯士も後れ走に死んだ。里人が三人の心を悲しんで、處女塚を中に兩人の墓を築いたが、處女の生前の志の如く、塚の上の木が莵原の墓に靡いてゐると言ふ。妻爭ひ傳説の中、處女の死の上に、兩人の死は、縵(ノ)兒・櫻(ノ)兒傳説より、一歩變つた方に踏み込んでゐる。今も兵庫縣武庫郡に、其地だと言ふものが、二个處迄存してゐる。
 
うなひ‐をとめ【菟會神女】 前條參照。
 
うぬ‐の‐おゆびと【宇奴(ノ)老人】 字奴首男人であらう。同人は元正天皇養老四年、大隅・日向の隼人が亂をした時に、豐前守であつたが、將軍となつて大に之を破つた。
 
うねび‐やま【畝傍山・畝火山】 大和國高市郡。平野に孤立した山で、大和三山の中、最高い山。稍、二上山風の男性的な姿をした山である。古來、此山の男性・女性について議論がある。之を女性とする説は、愛《ヲ》しと言ふ語に着し過ぎてゐるのである。飛鳥京・磯城京以前の帝都は、ほゞ此山を中心としてゐた樣で、其東北、橿の尾上には、神武天皇をしづめてある。橿原(ノ)宮は、其西南麓にあつたと考へられてゐる。
 
(79)うねめ【采女】 後宮の官女で、天皇に侍して飯饌の事を掌つた。仁徳天皇の時には、もはや見えるから、其前からあつたらしい。孝徳天皇の大化二年、郡領以上の姉妹子女の美しい者を出させ、一百戸を以て采女一人の料に當てた。文武天皇の大寶元年の令制中務省の奏にかゝつて、宮内省采女の司が此事を取り扱つた。水司に六人、膳司に六十人を置いて飯饌の事にたづさはらせたのであるが、年十六以上三十歳以下に限つたのである。
 
うねめ‐やすみ‐こ【采女安見兒】 姓氏不詳。藤原鎌足の愛した女。若い頃に逢うたのか、晩年に會うたかは、明らかでない。安見兒得たりの歌は、或は空想で、宴席に侍つた采女に戯れて謡うたものかも知れぬ。
 
う‐の‐はな ※[さんずい+艘の旁]疏《ウツギ》の花。※[さんずい+艘の旁]疏は虎耳草科の落葉灌木で、幹の高さは五六尺にしかならぬ。五六月頃、穗状花序の花が白色に咲く。さまで立派な花と言ふのではないが、淡白な趣があり、それが花時分になると、夜目にも白く見えて、丁度、浪の穗の樣だと言ふので賞美せられた。四月を卯月と言ふのも、此から出たと言ふ。表が白くて下の青い襲《カサネ》の色目の名にも用ゐるに至つた。又、馬醉木《アシビ》の花だと言ふが、馬醉木をわざ/\卯の花とも言ふまい。
 
う‐の‐はら【海原】(補) 東語。うなばら。
 
うへ【上】(補) そば。わき。ちかく。邊《ヘン》。あたり(ア)。うへ。かみ(イ)。表面(ウ)。う〔傍点〕は母音添加で、へ〔傍点〕が語根であらう。普通う〔傍点〕を語根と考へるのは、よくない樣である。井(ノ)上・野(ノ)上・川(ノ)上は、今の上方でなく、其あたりをさす。於〔右・〕の字を本集及び同じ時代の文獻に、往々うへ〔二字傍点〕と訓んでゐるのは、邊〔傍点〕・近〔傍点〕の内容のあつた事を示す。思ふにう〔傍点〕音を持つた語を綜合した音覺情調から、上方と言ふ觀念が生じたらしい。尤、かみ〔二字傍点〕を邊の意に用ゐても居るから、尚、決著迄には餘地があるかも知れぬ。
 
うへ【筌】 竹で編んたもので、山間の川などに伏せて魚を捕へる道具。今も各地で用ゐられてゐる。或はさかご〔三字傍点〕と稱してゐる地方もある。さて、折角、川の中に伏せて置いても、見張り番でもしてゐないと、他の人に盗まれてしまふと言ふ處から、伏せて守るなどの句に關係して用ゐてある。
 
(80)うべ【宜・諾】(補) なるほど……。もつとも……。道理こそ……。如何にも……』。副詞。うべ〔二字傍点〕は承認する義で、ある事實を前提として、其を肯定する場合に使ふ。うべ戀ひにけり〔七字傍点〕は、なるほど焦れるのも尤である。うべもなづけし〔七字傍点〕は、此地にかう言ふ名をつけたのも、なるほどゝ思はれるの意。
 
 うべ‐な‐/\ な〔傍点〕は感歎か。強く賛同・肯定の意を表す。
 
 うべ‐なふ【肯ふ】 なふ〔二字傍点〕は動作を表す語尾。承諾の動作をする義で、承諾する。よいと認める。
 
 うべ‐も も〔傍点〕は副詞語尾。うべ〔二字傍点〕と同じい。
 
うへ‐の‐きぬ【袍】 禮服の袍である。當時、すでに襲《オスヒ》と袍とは、別な物として、混亂せなかつた樣である。廣袖・角領《カクエリ》で、丈が長く、當代では最正式な禮服であつた。支那風の模倣な事は、言ふ迄もない。
 
うま‐い【熟睡】(補) 十分なねむり。ぐつすりと寢ること』。うま〔二字傍点〕はうまびと〔四字傍点〕の條で説いた。い〔傍点〕は寢の名詞である。
 
うまくた【望※[こざと+施の旁]】上總國望※[こざと+施の旁]郡。今、君津郡佐貫の地に當る。
 
うまくひ‐やま【馬咋山】 馬〔傍点〕は枕詞で、くひやま〔四字傍点〕は地名だ。山城國綴喜郡。泉川の流域にある山。
 
うまごり 枕。うまごりは美織で、うつくしい織物には文《アヤ》があるからあや〔二字傍点〕にかけたのだ。
 
うま‐さけ 枕。かむなび。みわ。美酒《ウマザケ》を釀むから神南備〔三字傍点〕にかけ、又、美酒を釀す道具の酒甕をみわ〔二字傍点〕と言ふ處から、みわ〔二字傍点〕を起したので、三輪が酒の名處となつたのは、後世の事であるのに、美酒の産地だから、うまさけみわだと言ふのは、時代錯誤である。尤、みわ〔二字傍点〕が酒に關係の多いのは事實であるが、これとても、ある民間語原に胚胎した説明説話と言ふ事が出來る。
 
うま‐し【圓滿】(補) 味がよい。おいしい(ア)。完全だ。十分だ。肥えてゐる。立派だ。豐かだ(イ)。く活用。くはし〔三字傍点〕の繊細を讃美するのと反對に、圓滿肥厚な事物の頌美を表す。女にはくはしめ〔四字傍点〕を喜び、男にはうましを〔四字傍点〕を尊ぶのも、此理由である。うまし國・うまし處女のうまし〔三字傍点〕は、形容詞の原始修飾形で、活用の出來た後も、終止形に似た原始形を使ふのである。
 
うましね【昧稻】(補) 傳説上の人物。大和國の吉野川(81)で簗をかけて、魚をとる事を、爲事とした翁の名。「つみのえのせんによ」參照。
 
うま‐せ【馬柵】(補) 又、ませ〔二字傍点〕。厩の貫の木。馬が自由に出ない樣に入れておく(ア)。人の屋敷に馬の這入らぬ樣に妨ぐ垣で、ませ〔二字傍点〕垣・籬《マガキ》の事たと言ふが、此は古くからの誤解かと思ふ(イ)。
 
うま‐の‐くにひと【馬(ノ)國人】 河内國伎人郷の人、續紀天平神護元年には右京人とある。姓は※[田+比]登。又は史。淳仁天皇の天平寶字八年十月外從五位下に敍せられ、天平神護元年十一月武生(ノ)連をば賜つて居る。天平勝寶八年頃、散位寮散位であつた。漢の高皇帝の裔、王仁の孫|阿浪《アラ》古(ノ)首の末であらう。さうして地方官をして居たらしい。
 
うま‐びと【貴人】(補) 身分のよい人。顯貴の人。うま〔二字傍点〕は、圓滿豐富を表す形容詞的體言である。身分よい人の貧弱でない樣から言ふのである。馬は古代價貴い物であつたから、馬を所有した人、即、貴人の義であると説くのはよくない。又、肥人をうまびと〔四字傍点〕ゝ訓んだのもわるい。此はくまびと〔四字傍点〕ゝ訓まねばならぬ。「くまびと」參照。
 
うま‐ふ【産ふ】(補) うむ。生む〔二字傍点〕の再活用。は行四段活用。
 
うま‐ら【茨】(補) 又、うばら。いばら。ばら。刺のある小灌木の總稱で、茨城と言ふのは、刺の木で圍うた城《キ》なのである。からたちのうまら〔八字傍点〕と言ふのも、枳穀の刺多い處から言うたのである。
 
うみ‐の‐こ【産みの子】(補) 腹を痛めて生んだ子。實子。
 
うみ‐を‐なす 枕。ながら(ノ)宮〔四字傍点〕・ながと(ノ)浦〔四字傍点〕にかゝる。績みたる麻の樣に長く、とつゞけるのだ。
 
う・む【倦む】(補) 飽く。疲れる。うんざりする。いやに思ふ。ま行四段活用。憂む〔二字傍点〕の義。
 
うも【芋】 ずゐき芋。い〔傍点〕・う〔傍点〕の音價動搖だ。
 
うもれき【埋れ木】 朽ち倒れて土中や水中に埋れてゐる木を言ひ、又、朽ちなくても谷底などに生じて、人にも知られずに他の木々の蔭に埋れて居る物も指す樣だ。物の下に埋れてあらはれぬと言ふ意味で、下〔傍点〕の枕詞に用ゐる。
 
うら【浦】(補) 海岸線の屈曲した弓形の地。※[さんずい+彎]。入り海』。但、今の※[さんずい+彎]の樣な廣い範圍でなく、海岸の山・(82)岬などを境として一と浦をくぎる樣である。波のわりあひに靜かな梅面に接してゐる。海面でなく、海岸の名であるが、其地に接した海面をも、稱してゐる樣である。卷二「石見(ノ)海|津農《ツヌ》(ノ)浦曲を浦なしと人こそ見らめ潟なしと人こそ見らめ(一三一)とあるのは、船のより易い海岸の屈曲や、波浪を調節する遠淺がないのを示す。「え」「いそ」參照。
 
うら‐【心】(補) 心の中。しんそこ』。心を下《シタ》と言ふ語で表すから、此も裏〔傍点〕から出たのであらう。それも、うらさぶ〔四字傍点〕・うらがなし〔五字傍点〕など、熟語として存してゐるばかりである。
 
 うら‐がなし 心が感傷的になる。
 
 うら‐さぶ 心が殺風景になる。氣にくはぬ。
 
 うら‐まく 心中で用意する。心づもりする。心でまつ。
 
 うら‐もと‐なし 心中にたよりなく氣にかゝる。
 
うら‐/\‐に【遲々に】(補) 副詞。日がのんびりとして容易に暮れぬ容子。ゆつくりと。のんびりと。後の人、麗〔傍点〕をうらゝか〔四字傍点〕と訓んで、麗日と遲日を混同してから、よく晴れた日と感ずる樣になつたが、本集卷二十には、家持の春日遲々云々の文の後に「うらうらに照れる春日に(四二九二)とある。「二月三月日遲々〔二字傍点〕」をうら/\〔四字傍点〕と訓んた傳説から見ても、後期王朝の末、若しくは、武家時代の始めにも、遲々〔二字傍点〕の意にうら/\〔四字傍点〕を用ゐてゐたのである。
 
うらしま‐の‐こ【浦島(ノ)兒】 又、うらのしまこ〔六字傍点〕と訓むのだとも言ふ。日本人に異郷樂土觀念の起つてから出來た話であらう。雄略天皇朝の事とする日本紀も信ぜられぬ。一番信用の出來るのは、萬葉の歌の上の浦島が最、古形らしい。漁夫の兒と海神の女と、人と神との通婚に要する化生としての龜、故郷を思ふ心、神界と人界との暦日の差、人間に示す事を禁じた神界の秘密、此等の事は、此傳説から落す事の出來ぬ要素であらう。彦火々出見尊から浦島へ來ると、やはり大分、複雜味が加つて來てゐる。此傳説に注意すべきは、海中の國は、海阪を越えて達せられる處としてゐる點で、目無堅間に乘られた彦火々出見尊とは、此點、大分違ふ。とにもかくにも丹後人の信じてゐた傳説で、澄江(ノ)浦の人だとしてゐた事は古くかららしい。卷九(一七四〇)の歌。
 
(83)うら‐す【浦洲】(補) 浦近く出來てゐる洲。水鳥などの渡る事が多かつた。
 
うらなく(補) か行四段活用か。自動詞。うらなげ〔四字傍点〕と體言風に見るのは、よくない。卷十七の宇良奈氣の氣〔傍点〕は、け〔傍点〕でなくて、き〔傍点〕と訓むべきである。歎をなげ〔二字傍点〕の借訓と見る事も、無理である。寧、歎を哭・泣などの樣に意譯したもの、長息と區別あるものと見る方がよからう。本集にある四つの用例が、すべて、「ぬえ鳥の」を冠つてゐる處から見ると、或は卷一の軍王の歌(五)などから來た、固定したもので、明確には意味を掴んでゐなかつたのかも知れぬ。「ぬえ鳥の」は、のどよふ〔四字傍点〕・かた戀ひ〔四字傍点〕にもかゝつてゐる。のどよふ〔四字傍点〕の方は、ほゞ、咽喉聲に鳴く(よふは呼ぶか)事と思はれるから、うらなく〔四字傍点〕も、裏鳴くなどの意で、含み聲とする説があたつてゐるかも知れぬ。又、思ふに、のど〔二字傍点〕は閑《ノド》で、閑喚ぶ義と同じく、閑《ウラ》(遲々《ウラウラ》の類で、のどかなこと)鳴く意であつたのか、ぬえ鳥〔三字右・〕に關する聯想の推移から、のどよふ〔四字傍点〕・うらなく〔四字傍点〕を悲鳴の樣に考へたものか。元は、人間の泣くのにもうらなく〔四字傍点〕・のどよふ〔四字傍点〕と言うたかは訣らぬが、後には、漠然と屈托して悲しみ泣くと言ふ風な聯想をしてゐた(うらぶ〔三字右○〕る・うら〔二字右○〕なく)であらうと思ふ。恐らく歌の上だけの語で、口語にはなかつたものであらう。卷一「暮れにけるわきも知らず、むらぎもの心をいたみ、ぬえこ鳥の裏歎居者《ウラナキヲレバ》(五)。卷十「ひさかたの天の河原に、ぬえ鳥の裏歎座津《ウラナキマシツ》。ともしきまでに(一九九七)。同「よしゑやし、直《タヾ》ならすとも、ぬえ鳥の浦歎居告子鴨《ウラナキヲリトツゲムコモガモ》(二〇三一)。卷十七「あをによし奈良のわぎへに、ぬえ鳥の字良奈氣之都追《ウラナキシツヽ》下戀ひに思ひうらぶれ……吾を待つと寢《ナ》すらむ妹を。逢ひて早見む(三九七八)。
 
うらぬ‐の‐やま【末野ノ山】 所在未詳。
 
うら‐の‐し【陰陽師】 文武天皇の大寶元年に制定したもので、陰陽寮に屬して卜筮及び相地の事を掌つた。定員は六人で、官位は從七位上に相當し、得業生を之に任じた。大宰府にもまた一人あつた。
 
うらふ【占ふ】(補) うらなふ。うらどふ』。うら〔二字傍点〕の動詞化。は行下二段活用。他動詞。祓《ハラ》ふの下二段活用なのと似てゐる。名詞にうらへ〔三字傍点〕と言ふ。或は當時、自分の占ふ場合には、四段活用(此形遺つてゐぬ)を使(84)ひ、所相に近い意を持つ時に、此形を用ゐたのかも知れぬ。
 
 うらへ【占】 うらなひ。うらふ〔三字傍点〕の名詞法。
 
うらぶる(補) しをれる。しよげる。見窄《ミスボラ》しくなる』。は行下二段活用。心中の寂しさの表れる外貌を言ふ語か。同類の形の語を見ても、うらぶる〔四字傍点〕はうらぶ〔三字傍点〕の活用の拗れた一種の再活用で、うらむ〔三字傍点〕と關係ありさうに思はれる。
 
うらべ‐うぢ【卜部氏】 天兒屋根命十二世の孫大雷臣命の後である。命は又、跨耳命と言つて、龜卜の術に達し、仲哀天皇に仕へた。で、卜部と言ふ姓を賜つて、子孫が代々此術を行つて居た。
 
うるは‐し【美・麗し】(補) うつくしい。立派。綺麗でつやつぼい(ア)。かあゆく思ふ。なかゞよい(イ)。潤《ウル》ふの形容詞化。
 
うるわ‐がは【潤和川】 大和國。所在未詳。
 
うれしけし(補) 嬉しいと言ふより曲折の多いだけ、感情が深い。く活用。うれし〔三字傍点〕が體言語尾か〔傍点〕の接續によつて副詞過程を經て、更に形容詞となつたもの。
 
うれむ‐ぞ(補) 副詞。どうして……。なか/\。何の……。いつかな……。否定を伴ふ副詞。
 
うゑ‐き【植ゑ木】(補) わざ/”\植ゑ立てた木。竝み木。本集時代には、一般に自然生のまゝであつたのに、東市西市の植ゑ竝べた木が、頗、注意を惹いたのである。
 
うゑつき【植槻】 大和國添下郡。郡山の東方、佐保川に臨んだ地。
 
      え
 
え(補) 此時代ばかりでなく、後々迄も、え〔傍点〕列の音價は、固定せないで、動搖が多い。お〔傍点〕列の方に近く、而も、い〔傍点〕列の勢力の失はれてゐない處から、よ〔傍点〕に近い音であつたらうと思はれる。此は一方、あ行・や行の二つのえ〔傍点〕のあつたと言ふ事にもなるが、普通、考へられてゐる樣な、明確な區別は立たなかつたもの、と見てよからう。
 
え【兄】 あに。あね。此時代には、多く名詞の頭又は末について、兄弟の順序を示すが、尚、古くは、え〔傍点〕だけで獨立して、長者・年かさなどの意を表した。
 
(85)え【吉】 吉《エ》しの語根。體言。又、否定の助動詞をもつた動詞の上で、能力を示す事が多い。吉《エ》行かずなどのえ〔傍点〕は、得《エ》ではない。
 
え【江】(補) 水の入り込み。海川の一部分が深く入り込んで、明らかに内外の區劃の立つてゐる地の水面。川の一部の廣々とした處と言ふので、漢字の江〔右・〕を誤訓したものと見える。三島江・巨椋《オホクラ》(ノ)入り江などは、淀川の入り込みで、難波江は、難波(ノ)浦とは別で、淀・舊大和川の間に出來た江である。海の江〔傍点〕も、浦よりは深い※[さんずい+彎]入で、船を泊めるに便利な地である。入り江〔傍点〕と言ふ語の出來るのも、江が深く入りこむからで、江の入つたものと言ふ訣でなく、江〔傍点〕と言ふのと同じである。卷十五「武庫《ムコ》(ノ)浦の入り江の洲鳥(三五七八)。卷三「荒栲の藤江(ノ)浦に鱸釣る(二五二)などは、江・浦の地形の類似を示してゐる。
 
え【榎】(補) えのき。此頃には、榎・朴が通用して、朴(ノ)井(ノ)連をえのゐ〔三字傍点〕(孝徳・齊明・天武天皇紀)、朴(ノ)本(ノ)連をえのもと〔四字傍点〕(天武天皇紀)、莵田《ウダ》(ノ)朴室古をえむろこ〔四字傍点〕(孝徳天皇紀)などゝ訓んでゐる。思ふに、新しくは皆、榎〔右○〕の字を書いてゐる處から見て、榎の木、古くは朴の字に當るものと考へてゐたのであらう。ほゝの木〔四字傍点〕でない事は、勿論である。
 
 え‐の‐み【榎の實】 えのきの實。卷十六「わが門の榎の實もりはむ百千鳥(三八七二)。
 
えし【吉し】 よし。や行のえ〔傍点〕・よ〔傍点〕の音價動搖である。
 
えしぬ【吉野】 吉野を古くかう言うたのである。
 
えだち【役・※[人偏+謡の旁]】(補) 語原は役立《エダ》ちで、役に催し立つる意と思はれる。役《エ》は、字音を取つたものとも思はれるが、古くから、國語化して、え〔傍点〕と言うて居たらしい。役《エ》(ノ)連《ムラジ》を、纏向(ノ)日代(ノ)宮の役《エ》(ノ)民《タミ》長鳥《ヲサトリ》の別れだから、役を氏とした(仁明天皇紀承和十年正月條)とある事から見ても、役《エ》と言ふ語の古い國語だ、と考へてゐた事も、事實である。又、役に民を使ふ事も古くからあつた事故、旁、役《エキ》の音を用ゐたもの、とばかりもきめられぬ。役《エ》(ノ)直(古くは役(ノ)君)など(紀・姓氏録)、氏の名にもある。役の事に與つた家筋であらう。
 令制では、正丁の一年の役を十日、正役の外に留役を附け加へる時は、其上、三十日迄で、通算して四十日以上に出る事はない。役を免じて貰ふ代りに納(86)める物を、庸と言ふ。正式には、十日の役に對して、布二丈六尺を賦せられる都合だから、一日の役に對しては、二尺六寸の割り合ひで、賦する事になつてゐる。又、次丁は、一人年役五日で、庸に代へるとすれば、一人一丈三尺の定めで、從うて留役も、十五日以下である。正留二十日以上役せられぬ定めである。又、代役をも許してゐた。若し、父母の喪に服してゐる場合だと、滿一年は役を免す事になつてゐた。但、庸は、布を標準とするだけで、其郷土の名産を納めればよいので、必しも布には限つてゐぬのである。留役は、官の給與を受ける事は出來たが、正役には、京中で使はれる場合は、公粮を給せられる事なく、粮食は、自辨である。此樣な經済上の不都合の上に、身役であるから、當時の人皆、其えだち〔三字傍点〕に催される事を嫌うたのである。殊に、代役させる奴婢のない樣な家では、二樣の苦しみを蒙るのであつた。
 
えな‐つ【榎津】 攝津國住吉郡。
 
えのもと‐うぢ【榎本氏】 榎本連は、道臣命十世孫佐弖彦の後で、大伴氏と同祖である。山城國乙訓郡榎本郷より名を負うたのか。
 
えのゐ‐の=おほきみ【榎井(ノ)王】 天智天皇の御子志貴皇子の御子と言ひ、又、天武天皇の皇子志貴親王の御子とも言ふ。さすれば、光仁天皇の御弟か。淳仁天皇の天平寶字六年正月无位より從四位下に敍せられ、同年六月二十一日卒し給うた。
 
える【擇る】(補) よる。えらぶ。よりすぐる』。ら行四段活用。澤山の物の中から、心に適うた一つ、又は若干を拔き出す事。えらぶ〔三字傍点〕は、此語の再活用である。
 
     お
 
おい‐づく(補) 年よりらしくなる。老年が近づく。老《オ》い近《ツ》くか。老《オ》い似《ツ》くか。
 
おい‐な‐み(補) 老年。よい年。老年時代。老いの身〔四字傍点〕の轉化。身は單にからだ〔三字傍点〕でなく、世〔傍点〕の意である。
 
おう‐の‐うみ【飫宇(ノ)海】(補) 出雲國意宇郡。
 
おき【澳】(補) へ〔傍点〕(邊・岸)、又は、は〔傍点〕(端)の對。ゐる場所から水平的に、遙かな極點に近いと考へられるあたり。おく〔二字傍点〕と同じいが、違ふ處もある。本集には(87)專ら水に使ふが、陸上にも言ふ樣である。但、熟語の場合には、普通、本集に失はれた意味をも遺してゐる。
 
 おき‐つ‐かみ【遠(つ)神】 遙かな處にいらつしやる神。
 
 おき‐つ‐くに【遠(つ)國】 遠い邊土の國。海上遙かな國の意ではない。
 おき‐つ‐み‐とし【奥(つ)御稔】 一番あとの田のあがり。おくて〔三字右・〕の米。
 
おきぞめ‐の‐あづまびと【置始(ノ)東人】 天武・持統天皇の時の人。傳未詳。
 
おきぞめ‐の‐はつせ【置姶(ノ)長谷】 聖武天皇の時の歌人《ウタヒト》(音樂家)。
 
お‐きそ‐やま【大木曾山】 信濃國西筑摩郡。木曾川に添うて作つた信濃道の沿道の山。
 
おき‐つ‐なみ 枕。しき。とをむまよびき。沖の方から寄せて來る浪の、幾重にも/\立つてゐる樣よりして、事の繁き意味のしき〔二字傍点〕にかけ、又、其浪を以て、たわむ〔三字傍点〕眉と聯想してゐる。
 
おき‐つ‐も 底の藻である。底にある物は隱れてゐて見えぬと言ふ心持ちで、なばり〔三字傍点〕にかけたのだ。
 
おきなが‐がは【息長川】 近江國坂田郡、琵琶湖の東岸より注ぐ。今の姉川。
 
おきなが‐の‐くにしま【息長(ノ)國島】 淳仁天皇の天平寶字六年正月正六位上に敍せられた、息長丹生眞人國島と同人であらうか。息長氏は、應神天皇の皇子|稚渟毛二俣《ワカヌケフタマタ》(ノ)王の後である。
 
おく【措く】(補) さしおく。殘し留める。後《アト》に殘して去る。
 
おくつゆ‐の 枕。草葉におく露の樣に。消《ケ》、又は消ゆ〔二字傍点〕とつゞけたのである。
 
おく‐の‐て【奥(ノ)手】(補) 二の腕。腕の關節から外の腕に對してさき〔二字傍点〕の方の腕。
 
おくやま‐の 枕。檜《マキ》は專ら深山の木であるから、奥山の檜〔四字傍点〕と常用するのである。
 
おくる【遺る】(補) さしおかれる。おく〔二字傍点〕の再活用で、後〔傍点〕の字を宛てた處もあるが、其は民間語原と見る方がよい。所相。あとにのこる。後《アト》からする。なかまはづれになる。
 
おさか‐の=おほきみ【忍坂(ノ)王】 淳仁天皇天平五年正月從五位下に敍せられ、後、大原眞人赤麻呂の姓を(88)賜る。新撰姓氏録には、大原眞人は謚、敏達夫皇の孫百済(ノ)王より出づとあるが、今城王も、此頃、大原眞人を賜り、此前、聖武天皇の朝、高安王に、大原眞人を賜うた。天平十一年十月光明皇后の維摩講に琴を弾じた事があるから、音樂には堪能だつたのだらう。
 
おさかべ‐うぢ【刑部氏】 允恭天皇二年二月|忍坂《オサカ》(ノ)大中姫を皇后となし、皇后の御名代として刑部を置いたに始る。河内國若江郡、伊勢國三重郡、遠江國引佐郡、備中國賀夜郡・英賀郡等の刑部は、皆、此時の名代か。刑部氏は此御名代に仕ふる民だ。神別に刑部造・刑部連があり、刑部首は火明命十七世孫屋主宿禰の後にて、攝津國有馬郡忍壁に居り、蕃別なる刑部造は呉國人季牟意彌の後、刑部史は七姓漢人季姓の後である。又、百済(ノ)酒王の後に、刑部と言ふがある。
 
おさかべ‐の=みこ【忍壁(ノ)皇子】 天武天皇第九皇子。母は宍人臣大麻呂の女|※[木+穀]《カヂ》媛(ノ)娘、磯城皇子(萬葉の志貴親王)の同母兄だ。十年三月天皇大極殿に御して川島皇子・忍壁皇子等に詔して、帝紀及び上古の諸事を記定せしめ給ふ。十四年正月淨大參位を授け、朱鳥元年八月封百戸を加へられ、文武天皇四年六月藤原不比等等と勅を奉じて律令を撰定し、翌大寶元年八月に至りて成つた。所謂大寶律令である。三年正月知太政官事(後の太政大臣)となり、慶雲元年正月更に封二百戸を加へられ、二年四月は越前國野一百町を賜ひ、五月七日三品を以て薨ぜられた。
 
おさか‐やま【忍坂山】 大和國城上郡。神武天皇が土蜘蛛八十建を征せられた時に、新室を作つて賊を集め、宴闌にして、大久米部をして之を伐たしめられた地だ。
 
おしたる‐をぬ【押垂小野】 所在未詳。
 
おし‐てる 枕。なには。此枕詞は、萬葉時代には既に原義が辿られなくなつてゐたものと見える。であるから、直越《タヾゴエ》の道で作つた歌に、「おしてる〔四字傍点〕海と名づけけらしも」とあるのである。之は、月おしてるなどゝ同じ意に、奈良時代の人は考へて、海の光がおし照ると言ふ風に考へてゐたのである。尤、當時、龍田を越えれば、其處に日下江以下中央河内の沼澤地を越して浪花の海が遙に見え、一帶に海の光が見えたものなのである。
 
(89)おし‐の‐み‐べ‐うぢ【忍海部氏】 新撰姓氏録は開化天皇の皇子|比古由《ヒコユ》牟須美(ノ)命の後とし、古事記は同じく天皇の皇子建豐波豆羅和氣王の後とする。御兄弟だから、何方か誤り傳へたのだらう。大和國忍海郡より名を負うたのか。卷二十に下總國結城郡の防人忍海部五百麿の歌一首あり(四三九一)。
 
おひ‐をゝる【生ひ撓る】(補) をゝる〔三字傍点〕は、しなひたわむ容子である。生え延びて、枝がぶら/\になる。
 
おぶ【佩・帶ぶ】(補) 腰にとりまはす(腰につける意でない)(ア)。帶をばする(イ)。卷七「おほきみのみかさの山のおびにせる(一一〇二)などのおび〔二字傍点〕は、おび物〔三字傍点〕のつもりで、帶と見てはわるい。
 
おふし‐の‐まひと【生石(ノ)眞人】 生石は、大石と同じか。孝謙天皇の天平勝寶二年正月外從五位下に敍せられて居る。大石氏は左京の蕃別で、高丘宿禰と同祖で、廣陵(ノ)高穆の後である。生石眞人は、播磨國の生石から名が出て居るらしい。
 
おほあみ‐の‐ひとぬし【大網(ノ)人主】 天平頃の人。傳未詳。大網氏は左京皇別で、姓は公、上毛野朝臣と同祖で、豐城入彦(ノ)命の六世の孫下毛野(ノ)君奈良の弟眞若(ノ)君の後である。常陸國信太郡阿美郷の阿彌神社は、豐城入彦命を祭神として居れば、何か關係があるらしい。
 
おほ‐あらき【大殯】 屍を未だ葬らずして、暫く收めて置く處を言ふ。荒城の義だ。上代は喪屋を造つて殯し、後には正室に殯し、又、幸院に送りて殯した。凡て殯中葬送までの間は、朝夕饌膳を薦むる事、生前の儘にする。又、上代は歌舞擧哀誄等の式あり、中世以後は專ら讀經供養を行ふ。殯の期限は、時代によりて一定せない。
 
おほあらきぬ【大荒木野】 大和國字智郡荒木神社のある處。吉野川の右岸。
 
おほうらた‐ぬ【大浦田沼】 筑前國粕屋郡、志賀半島の沼澤地。
 (補)或は大‐浦田野とも考へられる。大浦と言ふ地の田野で、沼は假字であらう。強ひて言へば、大浦の※[さんずい+養]田《フケタ》たとも思はれるが、九州處々に、田野と言ふ地があつて、水田であつた土地の、使ひ荒されて荒廢したものらしく思はれる。唯、水田であつた土地が、地主の奢りの神奪で、水田が亡びて、其後は、水田(90)を開く事が出來ぬが、土地よく肥えて、開墾の便ある地(豐後風土記)と言ふ説があるから、開墾に適したよい地の事であるかも知れぬ。
 
おほえ‐やま【大江山】 丹波國桑田郡。平安朝時代には鬼が住んでゐると考へられた山。
 
おほ‐きさき【皇后・大后】 仁徳天皇の時の御方は磐《イハ》(ノ)姫、「いはのひめのおほきさき」參照。天智天皇の時の御方は倭(ノ)姫、天武天皇の時の御方は持統天皇を申す。持統天皇は高天原廣野姫天皇と申し、若き頃は※[盧+鳥]野讃良《ウノヽサヽラ》皇女と申された。天智天皇の第二女で、母君は蘇我山田石川麻呂の女で、遠智《ヲチ》娘、又、美濃津子娘と言はれた。孝徳天皇の元年お生れになり、元明天皇・弘文天皇の姉君である。齊明天皇の三年に天武天皇の妃となられ、天智天皇の元年に草壁皇子を大津宮に御生みになり、十年十月天武天皇の吉野へ御入りになつた時は之に從はれ、翌年六月東國に御逃れになる時も亦從はれて、兵を集められた。天武天皇の御即位の二年正月に皇后に立たれ、政を補佐せられたが、朱鳥元年九月に天武天皇の崩ぜられて後、朝廷に臨んで政を見られた。此時、執政大津皇子の陰謀があつたので、之を鎭められ、三年四月皇太子草壁皇子が薨ぜられたので、四年正月に即位された。時々、吉野宮に幸せられ、泊瀬にも遊ばれたが、八年十二月藤原宮に遷られ、十一年八月文武天皇に讓位せられて太上天皇と申された。難波宮に御出になつたのは、文武天皇の三年の事である。かくて大寶二年十二月二十二日御年五十八で崩ぜられ、高市郡|檜前《ヒノクマ》の安古岡陵に葬り奉つた。
 
おはき‐すめらみこと【太上天皇】 卷一なるは持統天皇を指し、卷七なるは元正天皇を申す。持統天皇は「おほきさき」の條參照。元正天皇は日本根子高瑞淨足姫《ヤマトネコタカミヅキヨタラシ》天皇と申し、諱は飯高と申す。天武天皇の御子草壁皇子(日竝知)の皇女、母は元明天皇、文武天皇の御姉にいます。天武天皇九年十月御降誕、靈龜元年九月御即位、寧樂宮に都し給ふ。養老元年二月難波宮より和泉宮を巡り給ひ、九月美濃國に幸し給ふ。近江國に至りて琵琶湖に遊び、山陰・山陽・南海諸國の土風の歌舞を見給ひ、美濃國に到りて、東海・東山・北陸諸國の風俗の雜伎を覧給ふ。此時、多度山の美泉を賞して、後漢光武帝の時の醴泉に比(91)し、靈龜三年を改めて養老元年とし、次で醴泉を汲みて京都に送り、醴酒を作られた。四年五月日本紀成り、八年(神龜元年)二月位を讓つて、太上天皇となり、聖武天皇天平二十年四月二十一日崩じ給うた。御年六十九、佐保陵に葬り奉る。
 
おほき‐の‐やま【大城山】 筑前國三笠郡。大宰府より筑後國に出づる途に當る。大野山の山頂を大城山と言ふのである。
 
おほき‐まつりごと‐びと 判官(三等官)で、役所で實際の事務をとる役人である。役所によつては、此役人には大小の二つがある。神祇官では大少務、太政官では中少辨、省では大少丞、職坊では大少進、寮では大少允、司では令史、弾正臺では大少忠、衛府では將監、大少尉、大宰府では大少監、使では大少判官、國では大少掾であつて、此中の大の方を言ふのである。大宰府の大監は正六位下相當、左右衛門府の大尉は從六位上相當、大判官もやはり從六位相當であつたらう。
 
おほきみ【天皇・親王・王・女王】 天皇を初め、親王・諸王までをも稱しまつる詞。上世は多く天皇を言ふが、後には親王をみこ〔二字傍点〕と稱するに區別せんが爲、諸王をおほきみ〔四字傍点〕と稱するに至つた。
 
おほきみ‐の 枕。天皇は常に衣笠で葢はれて居られるによつて、おほきみの御笠の山〔四字傍点〕とかけて言つたのである。
 
おほき‐みやつこ【大領】 郡司の長官で、外從八位上に相當し、清廉事務に堪ふるものを以て之に任ずる。部下には少領一人、主政・主帳三人宛が置いてあつた。尤、中郡では主政・主帳共に二人、小郡では共に一人宛であつた。
 
おほくち‐の 枕。まがみの原。おほくちは大口で、眞神(即、狼)の特徴から出た枕詞だが、一説に大口は大内の誤で、大内の地の眞神(ノ)原〔三字傍点〕だと言ふ。
 
おほくにぬし‐の‐かみ【大國主(ノ)神】 又、大汝《オホナムチ》(ノ)神。其他異名多きは、古代人は名を人格の一部と考へ、其名を形代として、呪咀せらるゝを恐れた事のかたみである。但、後世は、其人の徳の各方面を示す方便、と考へられたものゝ樣で、此神の異名も、其時代の作爲が多い樣だ。素戔之嗚尊系統の神で(子とも、六世の孫ともいふ)、妻は素尊の女須勢理媛。兄(92)弟八十神の爲に、虐待せられて、幾度か死して蘇生し、又、素尊の虐遇を受けて危險を免れた。此はみな、其神性の偉大を表したもので、蘇生によつて益延び行く大神として信ぜられた英雄神である。出雲系統種族の祖神で、大和先住民の祖でもある。朝廷で此神を崇信せられたのは、征服者として人心收攬の外に、其祟りを恐れられた爲である。出雲國杵築の宮の主神で、大和國三輪山の神は、其和靈だと言ふのは、後世の附會で、恐らく別神であらう。(勿論、其子事代主でもなからう)。此神は天孫種族以前に日本を平定した征服種族の首魁の、傳説化を經たものであらう。
 
おほく‐の=ひめみこ【大伯(ノ)(大來)皇女】 天武天皇の皇女、母は天智天皇の皇女大田皇女で、大津皇子とは同母姉である。天武天皇二年四月伊勢の齋宮に定まつて、泊瀬の齋宮に潔齋せられ、翌年十月十四歳で伊勢に赴かれた。大津皇子とは殊に其間よろしく、朱鳥元年十月皇子陰謀の際、伊勢に行かれた時に歌を作つて別れ、皇子の薨後、齋宮をやめて上京して、之をいたんでまた歌はれた事がある。文武天皇の大寶元年十二月二十七日、なくなられた。
 
おほくめ‐ぬし【大來目主】 大伴氏の祖天(ノ)忍日命、又は道臣命を言ふらしい。天孫降臨の時は、大久米部を率ゐて先鋒となり、神武天皇東征の時、道臣命久米部を率ゐて武勲があつた。大來目主は久米部の頭と言ふ意であらう。
 
おほくら‐の‐いりえ【巨椋(ノ)入江】 山城國、今、小|椋《クラ》の池とて、伏見より一里ほど南にある。之は宇治川のもとの河水路に當つてゐたので、宇治川がこゝに來て、急に廣くなつて※[さんずい+彎]の樣になつてゐた。それで入江と言ふのである。
 
おほくら‐の‐まろ【大藏(ノ)麻呂】 傳未詳。
 
おほ‐さか【大坂】 大和國葛上郡。大和國より河内に出る通路で、二上山の北方を通る路。今の穴蟲峠は、其半分を存してゐる樣である。
 
おほ‐さき【大崎】 紀伊國海草郡大崎村の地。
 
おほし‐の‐みのまろ【大石(ノ)蓑麻呂】 傳未詳。遣新羅使となる。大石氏は左京の蕃別で、高丘宿禰と同祖で、廣陵(ノ)高穆の後である。
 
おほしま‐の‐なると【大島(ノ)鳴門】 周防國大島郡、大(93)島は今、屋代島と言ふ。其島と本土との間の大畠瀬門の極めて狹きによりて、鳴潮を生ずるのである。
 
おほしま‐の‐ね【大島(ノ)嶺】 大和國生駒郡。額田の庄の見下せる山であるが、いづれであるか、確には知られない。
 
おほたべ‐うぢ【大田部氏】 未詳。常陸國防人大田部荒耳(四三七四)、下總國防人大田部足人(四三八七)、下野國防人大田部三成(四三八〇)などの歌みゆ。
 
おほち‐の=おほきみ【邑知王・大市王】 天武天皇の皇子長親王の第七子、聖武天皇の天平十一年正月從四位下に敍せられ、十五年六月刑部卿、十八年四月内匠頭となり、孝謙天皇天平勝寶三年正月從四位上に進み、四年九月文室眞人の姓を賜り、六年九月大藏卿となり、天平寶字元年五月正四位下、六月弾正尹になり、淳仁天皇の同三年十一月大藏卿に復し、五年六月爵一級を賜つて十月出雲守となり、八年九月民部卿に移り、稱徳天皇天平神護元年正月從三位に進み、三年七月出雲巡察使から參議になり、神護景雲二年十月、中務卿として大宰綿四千屯を賜り、光仁天皇寶龜元年十月正三位に進み、二年三月大納言となつて七月弾正尹を兼ね、次で十一月從二位に昇り、十二月治部卿を兼ね、三年二月骸骨を乞うたけれども許されず、五年三月中務卿を兼ね、七月また致仕を請うたが勅許なく、御杖を賜つて十一月正二位に敍せられ、十一年十一月二十八日七十七を以て薨ぜられた。天平勝寶以後、皇族の罪に陷される者が多かつたので、王も佛門に入つて保身の計をなさうとした程であるが、先づは順境にあらせられたのである。
 
おほつ‐の=みこ【大津皇子】 天武天皇第三皇子、母は天智天皇の女、持統天皇の姉大田皇女、大來皇女(大伯)の同母弟だ。幼にして聽明、天智天皇深く愛し給ひ、皇女山邊女王を以て娶し給うた。天武天皇十二年二月朝政を聽き、十四年正月淨大貮位に敍せらる。朱鳥元年天皇崩ずるや、兄太子草壁皇子等と隙あり、反を謀りて捕へられ、譯語田舍《ヲサタノイヘ》に死を給ふ。時に年二十四。妃山邊女王が被髪徒跣、奔りて之に趣いて殉せらる。見る者泣かぬはなかつた。皇子容止墻岸、音辭俊明、長ずるに及びて才學あり。尤も文筆を好み、詩賦の盛なること皇子より興つたと言(94)ふ。また幼年學を好み、文を能くし、壯に及んで武を愛し、能く劔を撃つた。時に新羅僧行心、天文卜筮を解し、皇子に語つて曰く、太子の骨法人臣の相にあらず、然るに久しく下位にあり。恐らくは身を全うせじと。因りて逆謀を進めたと言ふ。第二卷に竊に伊勢に下つたのは、陰謀を抱きて伊勢齋宮の同母姉大來皇女にあはむ爲であつたらう。
 
おほつ‐の‐みや【大津(ノ)宮】 天智天皇が都せられた近江國大津郡の帝都。天智天皇と弘文天皇との二代限りで廢せられて、久しく趾のみが殘つてゐた。天智天皇が此地に遷都せられた原因に就いては、學者に議論はあるが、大和國の舊族の勢力を避けて、新しい唐風の制度を確立せんが爲であつたらうと言はれてゐる。
 
おほ‐とじ【夫人】 ふじん〔三字傍点〕と言ふ。妃の次位にあつて、天皇の御寢に侍するものである。此字は反正天皇の朝に初めて見えて居るけれども、此稱があつたとは思はれない。文武天皇大寶令の制では、夫人は三人であつて、三位以上と定め、多くは大臣の女をば當てた。夫人をおほとじ〔四字傍点〕と訓むのは、わるいとも言ふ。
 
おほとねり‐べ‐うぢ【大舍人部氏】 未詳。
 
おほとも‐うぢ【大伴氏】 宿禰は、高皇産靈神五世の孫天押日命の後であり、連は上と同祖で、道臣命の十世の孫佐弖彦の後である。又、連には天彦命の後がある。又、大伴造と言ふのは、任那の國主《コキシ》、龍主王の孫の佐利王の後である。
 
おほとも‐の 枕。みつ。たかし。神武天皇の御製に紀卷三「みつ/\し久米の兒等が(一二三・一二四)とあるのから胚胎したとも見えるが、やはり難波大伴郷の御津高師(ノ)濱と考へる方が正しい。此枕詞などは、大伴氏が攝南地方を領してからの事で、わりに新しいものたらう。
 
おほとも‐の‐あづまびと【大伴(ノ)東人】 淳仁天皇の天平寶字二年八月從五位下となり、同五年十月兵部少輔となり、七年正月少納言に轉じ、光仁天皇の寶龜元年六月散位(ノ)助となり、八月には周防守に任じ、五年三月弾正弼になつた。
 
おほとも‐の‐いなぎみ【大伴(ノ)稻公】 旅人の庶弟で、聖武天皇天平十三年十二月從五位下で因幡守となり、十五年五月從五位上に進み、天平勝寶元年四月(95)正五位下、八月兵部大輔となり、孝謙天皇の同六年四月上總守に轉じ、天平寶字元年五月正五位上、八月從四位下に累進し、二年二月大和守であつた時、治下に奇藤が出たので報告した所、大和國の調を免ぜられて居る。
 
おほとも‐の‐いらつめ【大伴(ノ)郎女】 大伴旅人の妻で、聖武天皇の神龜五年旅人が大宰(ノ)帥になつて居る時、筑紫で病死した。で朝廷では、此時、勅使式部大輔石上(ノ)堅魚を遣して弔問せしめた。今城王の妃も亦、大伴郎女と言うた。
 
おほとも‐の‐うしかひ【大伴(ノ)牛養】 壬申亂に大功のあつた小吹負の子で、元明天皇の和銅二年正月、從五位下に敍せられ、三年五月遠江守となり、七年三月從五位上、元正天皇の養老四年正月正五位下、聖武天皇天平九年九月正五位上、十年正月從四位下に敍せられ、閏七月に攝津大夫となり、十一年四月參議に進み、十四年八月|紫香樂《シガラキノ》宮に行幸のあつた時は、平城宮の留守となり、十五年五月從四位上に敍せられ、十六年二月には兵部卿で恭仁宮の留守をし、十七年正月には從三位に昇り、十八年四月山陽西海兩道鎭撫使を兼ね、天平勝寶元年四月正三位中納言となり、閏五月二十九日死んだ。
 
おほとも‐の=おほまへつぎみ【大伴(ノ)卿】 右大臣長徳の子、大伴|御行《ミユキ》の事である。御行は天武天皇四年三月栗隈王が兵政長官となつた時、小錦上で其大輔となり、十三年十二月宿禰の姓を賜り、十四年九月また御衣袴を賜つた。持統天皇朱鳥元年正月、天武天皇崩御の時、誄詞を奏し、五年正月封八十戸を増されて三百戸となり、詔によつて祖先の纂記を上つた。八年正月には正廣肆を授かり、封二百戸を増されて氏の上となり、十年十月には、資人八十人を賜つた。文武天皇の三年八月、正廣參に進み、大寶元年正月十五日大納言で薨じた。天皇は非常に之を悲しんで、榎井倭麻呂に葬儀の監督を命じ、又、藤原不比等を其家にやつて、詔して遺族を慰められ、正廣貮右大臣を贈られた。
 
おほとも‐の‐かたみ【大伴(ノ)像見】 稱徳天皇の天平寶字八年十月從五位下に敍せられ、神護景雲三年三月左(ノ)大舍人(ノ)助となり、光仁天皇寶龜三年正月從五位上になつた。
 
(96)おほとも‐の‐きよつぐ【大伴(ノ)清繼】 稱徳天皇・光仁天皇朝の人。傳未詳。
 
おほとも‐のきよなは【大伴(ノ)清繩】 傳未詳。
 
おほとも‐の‐くまのこり【大伴(ノ)熊凝】 肥後國益城郡の人で、聖武天皇の天平三年六月十八歳で相撲使某の從人となつて都へやつて來た。ところが途で病にかゝつて、安藝國佐伯郡高庭の驛家で死んだ。其時、死に臨んで、生ある者は必、死ぬから、自分は決して死を恐れない、けれども故郷の茅屋に居る年取つた兩親が、折角、自分に望を屬して居たのに、自分が死んだと聞いたら、さぞ歎くだらう、其が悲しい、と言うて、歌六首を作つて死んだ。
 
おほとも‐の‐くろまろ【大伴(ノ)黒麻呂】 天平勝寶頃、右京少進であつた。傳未詳。
 
おほとも‐の‐こじひ【大伴(ノ)古慈悲】 壬申亂に大功のあつた大伴小吹負の孫で、越前國按察使從四位下祖父麻呂の子である。少年才幹あつて、藤原不比等の女を娶り、書記に通じて大學の大允を以て身を起した。聖武天皇の天平九年九月外從五位下、十一年正月從五位下、十二年十一月從五位上に敍せられ、十四年三月河内守で正五位下に進み、十八年三月治下で白龜を得たと報告して居る。十九年正月從四位下、天平勝寶元年十一月從四位上に進み、此頃、右衛門督となり、孝謙天皇同八年出雲守に遷り、疎外せられたので、不平で居たところ、五月紫微内相藤原仲麻呂の爲に、朝廷を誹謗したと言ふので、官位を褫奪されて衛士府に禁固されたが、間もなく放免され、天平勝寶八年の亂に坐して、天平寶字元年七月任國の土佐國に流され、光仁天皇寶龜元年十一月元の從四位上に復し、大和守となり、二年十一月正四位下に進み、六年正月に從三位に敍せられたが、八年八月十九日八十三で死んだ。天平勝寶八年の亂と言ふのは、橘奈良麻呂の亂で、大伴胡麻呂と善かつたからであらう。
 
おほとも‐の‐こまろ【大伴(ノ)胡麻呂】 大伴旅人の甥で、聖武天皇大平十七年正月從五位下に敍せられ、天平勝寶元年八月左少辨となり、孝謙天皇の同二年九月遣唐副使となり、三年正月從五位上に進み、四年閏三月大使と共に内裏に召されて節刀を賜り、從四位上に敍せられた。此時、大伴古慈悲の家に宴を(97)張り、多治比鷹主・大伴村上・同清繩等が會して歌うて餞別した。天皇も亦、高麗福信を難波に遣されて酒肴を賜り、歌を以て餞けされた。大使の藤原清河や、今一人の副使の吉備眞備等は、船が破損したと號して唐に渡らなかつたが、彼一人が入唐し、唐の天寶十二年正月百官諸蕃朝賀の時、日本の使を西畔第二吐蕃の下に置いて、新羅の使を東畔第一に置いたのを憤つて、新羅は古から日本に朝貢して居る、然るに今、之を東畔第一に置いて、其下に日本を置くのは怪しからぬと論爭、大につとめて、遂に東畔第一大食國の使の上に位して、國威を辱しめなかつた。六年正月無事歸朝し、四月左大辨となり、正四位下に進んだ。八年五月伊勢に奉幣し、天平寶字元年六月陸奥鎭守將軍、陸奥按察使となつたが、橘奈良麻呂が兵器を備へて田村宮を襲はんとして居つて、胡麻呂も之に與つて居ると山背王の密告があり、上(ノ)道(ノ)斐太都《ヒダツ》も、小野東人の言として、黄文王を謀主として奈良麻呂、胡麻呂等が田村宮を圍まんとして居ると藤原仲麻呂(惠美押勝)に告げ、又、巨勢堺麻呂も密奏するところがあつたので捕へられ、一度は放たれたけれども、また捕へられた。奈良麻呂は仲麻呂の無道を除かんとしたと言つたが、胡麻呂は拷問にあつて杖下に死んだ。此時、大伴古慈悲も亦、土佐國に流されたのである。蓋、橘諸兄黨であつたのが、其失脚と共に仲麻呂黨に除外せられたのである。
 
おほとも‐の‐さかのへ‐の‐いらつめ【大伴(ノ)坂上(ノ)郎女】 大伴安麻呂の女で、旅人の妹、家持の叔母である。母は石川内命婦。初め穗積皇子に嫁したが、皇子の薨後、藤原不比等に嫁し、不比等の死後、再び大伴宿奈麻呂に嫁した。田村大孃・坂上大孃の母で、坂上里に居たから、かく呼ぶのである。
 
おほとも‐の‐さかのへ‐の‐おといらつめ【大伴(ノ)坂上(ノ)二孃】 父は大伴宿奈麻呂。母は坂上郎女。田村大孃・坂上大孃の妹である。第二女ではないけれども、坂上里に居た女の二番目であつたから二孃と言ふのであらう。
 
おほとも‐の‐さかのへ‐の‐おほいらつめ【大伴(ノ)坂上(ノ)大孃】 大伴宿奈麻呂と坂上郎女との間に生れた女。田村大孃の妹、坂上二孃の姉である。家持に嫁(98)し、越中國に赴いた。坂上に居た第一の女であるから、さう呼んたので、田村里に居た女は田村大孃と言はれて居た。
 
おほとも‐の‐さでひこ【大伴(ノ)佐提比古】 大伴金村の子で、磐の弟である。宜化天皇の二年新羅が韓半島にある日本の領地の任那に寇をするので、大伴金村に詔して、磐と佐提彦とに任那を助けしめた。で磐は筑紫に留つて三韓に備へ、佐提彦は韓半島へ行つて任那を鎭め、また百済を救つた。松浦佐用姫が別を惜んたと言ふのは、此時だ。それから欽明天皇の二十三年に、また大將軍となつて、數萬の兵を率ゐて再び韓半島に渡つて、大に高麗を破つた。で高麗王は身を以て逃れ、佐提彦は勝に乘じて都に入り、珍寶 賂・七繊・鐵屋などを分捕して凱旋した。
 
おほとも‐の‐すくなまろ【大伴(ノ)宿奈麻呂】 安麻呂の第三子、旅人の弟で、家持の叔父である。元明天皇和銅元年正月從五位下に敍せられ、五年正月從五位上に進み、元正天皇の靈龜元年五月左(ノ)衛士(ノ)督となり、養老元年正月正五位下に任じ、同三年八月始めて按察使を置いた時、安藝・周防の二國を管し、四年正月正五位上、聖武天皇神龜元年二月從四位下になつた。右大辨になつたのは、此後であらう。
 
おほとも‐の‐するがまろ【大伴(ノ)駿河麻呂】 御行の孫。聖武天皇天平十五年五月從五位下に敍し、十八年九月越前守、稱徳天皇の寶龜元年五月從五位上で出雲守となり、光仁天皇同二年十一月從四位下に進み、三年九月正四位下陸奥按察使となり、四年七月陸奥國鎭守將軍を兼ね、六年九月參議となり、十一月正四位上勲三等に敍せられ、七年七月七日參議正四位上陸奥按察使鎭守將軍勲三等を以て死し、從三位を贈られ、※[糸+施の旁]三十匹・布一百端を賜つた。
 
おほとも‐の‐たぬし【大伴(ノ)田主】 安麻呂の第二子で旅人の弟、宿奈麻呂の兄、家持の叔父、母は巨勢郎女である。第二子だから仲子《ナカツコ》とも呼んだ。容姿佳麗風流秀絶で見る人、聞く者、皆、歎息しないものはなかつた。或時、有名な石川女郎がまだ獨身であつたが、田主を見て、どうかして一處になりたいと思つたが、近づく事が出來ないので、賤しい嫗に扮裝して鍋をさげ、田主の戸を叩いて火を乞うたが、田主は思ふまゝに火を取れとのみで、相手にならなかつ(99)た。で、歌で恨の情をば田主に訴へたが、田主はまた相手にならなかつた。此贈答は、卷二にある。
 
おほとも‐の‐たびと【大伴(ノ)旅人】 (新補)淡等《タビト》・多比等とも書く。姓は宿禰。神代以來の名家で、武を以て大和宮廷に仕へたが、旅人の時代は、漸く其實權が他氏に移りかけてゐた。續紀和銅三年正月の條に初めて左將軍正五位上と見ゆ。養老二年三月中納言、同四年三月征隼人持節大將軍となつて大宰府の隼人の亂を討つ。同五年正月從三位、神龜元年二月正三位、次で大宰帥となつて下向し、同五年に同地で妻を失つた。天平二年大納言に任じて歸京し、翌年正月從二位に敍せられ、同七月二十五日に薨じた。萬葉集には長歌一首と短歌凡、七十六首を載せてゐる。
 
おほとも‐の‐たむら‐の‐おほいらつめ【大伴(ノ)田村(ノ)大孃】 右大辨大伴宿奈麻呂の女。家持の從姉妹に當る。宿奈麻呂は田村里に居つたので、田村大孃と言ふ。坂上大孃は、其母が坂上里に居つたから言ふ。田村大孃の妹は、坂上郎女である。
 
おほとも‐の‐ちむろ【大伴(ノ)千室】 孝謙天皇朝の人。左兵衛監となつた事がある。
 
おほとも‐の‐ふみもち【大伴(ノ)書持】 旅人の子。家持の弟で、花が大變好きで、其庭には澤山の草花や花の木が植つて居た。聖武天皇の天平十八年九月に都で死んだ。家持は越中國にあつて、此事を聞き、歌を作つて悲しんだ。其歌は、卷十七にある。書持の遺骸は、佐保山で火葬に付せられた。
 
おほとも‐の‐みちたり【大伴(ノ)道足】 文武天皇慶雲元年正月從五位下に敍し、元明天皇和銅元年三月讃岐守に任じ、五年正月正五位下、六年八月弾正尹となり、元正天皇養老四年正月正五位上、十月民部大輔に任じ、次で七年正月從四位下に進み、聖武天皇神龜五年二月に權參議に任じ、天平元年三月正四位下、八月右大辨となり、三年八月諸司の擧により擢んでられて參議に進む。此年、十一月畿内總管諸道の鎭撫使を置いたが、道足は南海道鎭撫使となつた。
 
おほとも‐の‐みなか【大伴(ノ)三中】 聖武天皇の天平元年攝津の班田司の判官であつた時、同じ司の史生の丈部龍麻呂が縊死したので、之を悲んで歌を作つた事がある(四四三)。天平九年正月從六位下で、遣新(100)羅副使として歸國したが、病の爲に入京出來ず、三月正六位上になつて拜朝した。十二年正月に外從五位下に進み、十五年六月兵部少輔となり、翌年九月山陽巡察使に轉じ、十七年六月更に大宰少貮に遷り、十八年四月從五位下長門守となり、十九年三月には刑部(ノ)大判事になつた。
 
おほとも‐の‐みより【大伴(ノ)三依】 聖武天皇天平二十年二月從五位下に敍せられ、天平勝寶六年七月主税頭、天平寶字元年六月三河守、淳仁天皇同三年五月民部少輔となり、六月從五位上に進み、十一月には遠江守に遷り、六年四月刑部大輔に進み、稱徳天皇天平神護元年正月正五位上、二年十月出雲守、光仁天皇寶龜元年十月從四位下になり、五年五月二十五日散位で死んだ。
 
おほとも‐の‐むらかみ【大伴(ノ)村上】 稱徳天皇神護景雲二年九月、村上の子の人益が日向國から赤眼の白い龜と白尾の青い馬とを獻上したところが、龜は神龜であり、馬は神馬であると言ふので、人益に從八位下を授け、村上は罪があつて京から追放されて居たのを赦された。そして光仁天皇の寶龜二年四月には正六位上から從五位下に敍せられ、十一月肥後介となり、三年四月には從五位上で、阿波守となつた。
 
おほとも‐の‐もゝよ【大伴(ノ)百代】 聖武天皇の天平十年閏七月に外從五位下で、地方官をして居たが、兵部少輔となり、十三年八月に美作守に移つた。十五年十二月に初めて筑紫に鎭西府が置かれた時、副將軍として出かけたが、十八年四月に從五位下、九月には豐前守となり、十九年正月正五位下に進んだ。
 
おほとも‐の‐やかもち【大伴(ノ)家持】 大納言旅人の子。天平十七年正月六位舍人より從五位下に進み、翌年三月宮内少輔となり、次で六月に越中守に移り、天平勝寶元年四月從五位上に敍し、三年少納言に遷任、六年四月兵部少輔となり、次で十一月山陰道巡察使に任じ、天平寶字元年六月兵部大輔に進み、右中辨となり、二年六月因幡守、六年正月中務大輔、八年正月薩摩守等を經て、神護景雲元年八月大宰少貮に遷つた。蓋、前に藤原良繼等と謀つて惠美押勝を退けんとはかり、事破れたけれど、此前年、押勝敗死し、良繼が大宰帥となつたに因るのであるか。寶龜元年六月民部少輔に、同九月左中辨兼中務(101)大輔に進み、十月正五位下に敍し、二年十一月從四位下、三年二月兼式部員外大輔、五年三月相摸守、九月左京大夫兼上總守、六年十一月衛門督、七年三月伊勢守、八年正月從四位上、九年正月正四位下、十一月參議に進み、右大辨を兼ね、天應元年四月東宮大夫、五月左大辨を兼ね、十一月從三位に敍せられた。延暦元年正月鹽燒王の子氷上川繼の事に坐して官を奪はれ、京外に移されたが、五月前官に復し、六月兼陸奥按察使鎭守府將軍となり、二年七月中納言に任ぜられ、春宮大夫舊の如し。三年二月持節征東將軍となり、四年八月二十八日薨じた。然るに九月、其族左少辨繼人・同竹良等、皇太子早良親王の旨を受けて中納言藤原種繼を殺した。事覺れて捕へられ、家持が謀主だと言ふ事で、名籍を追除し、子永主を隱岐國に流した。併、後、永主は赦還せられ、家持亦、桓武天皇の遺詔によつて本位に復した。彼は藤原氏勃興の時に際し、之と竝進した大伴氏の勢力を如何に挽囘せんとつとめたか、橘諸兄の失脚、惠美押勝の敗亡、僧道鏡の貶謫等の事件に會して、如何に處置したか、趣前守だつた時、加賀郡の没官田一百餘丁を生徒の食料に充て、勸學田と號したが如き、善政好學の風がある。官は中納言まで進んだが、既に天下は大伴氏の物でなかつたのである。
 
おほとも‐の‐やすまろ【大伴(ノ)安麻呂】 右大臣長徳の第六子。右大臣御行の弟。旅人の父だ。壬申の亂に大伴小吹負に從ひ、小吹負の飛鳥寺の西營を奪うた時、安麻呂を不破宮に遣して、天武天皇に事の状を奏せしめた。時に天皇の元年。十三年畿内に遣はして遷都の地を卜せしめ、翌朱鳥元年正月新羅金智淨を饗せんが爲に筑紫に遣された。九月天皇崩じたので殯庭に大藏の誅を奏し、文武天皇大寶元年三月官位號の改制あり、直大壹を改めて正從三位に敍せられ、二年二月式部卿となり、五月朝政に參議し、六月兵部卿となり、慶雲二年八月大納言に進む。十一月大宰帥を兼ね、元明天皇和銅七年五月一日大納言兼大將軍正三位を以て薨じ、從二位を贈られた。
 
おほとも‐の‐よつな【大伴(ノ)四繩】 防人司祐とあれば、其身分は大體想像せられる。防人司祐は防人司の次官で、正八位相當、筑紫邊海の防備に任ずる防(102)人の名帳・戎具・教閲、及び食料田の事業を掌る役である。聖武天皇の天平十七年には正六位上で、雅樂寮の助をして居た。
 
おほとり‐の 枕。はがひの山。大鳥の羽交《ハガヒ》と言ひつづけたのである。
 
おほぬ‐がは【大野川】(補) 越中國射水郡。射水川が、高岡市の附近、舊名大野地方を流れる時の、別稱であらう。或は支流の名か。
 
おほぬ‐ぢ【大野路】(補) 越中國射水郡大野の街道。
 
おほぬ‐やま【大野山】 筑前國三笠郡。其山頂を大城山と言ふ。「おほきのやま」を見よ。
 
おほぬ‐やま【大野山】(補) 筑前國筑紫郡坂本村の北の四天王寺山。天智天皇の四年に大野城を造り(紀)、文武天皇の二年に修造せられ(續紀)、大同二年に其鼓嶺に堂を建てゝ四天王像を安置せられた(後紀)。大宰府管内で、主要な城のあつた山である。當時、城(ノ)山に對して、此方を大城(ノ)山と言うた樣である。
 
おほ‐の‐うら【大(ノ)浦】 遠江國濱名郡の海邊。
 
おほ‐の‐うら【大乃浦】(補) 遠江國磐田郡。天龍川・太田川の爲に出來た沼澤で、於保・福島村の邊にあつた。慶長九年の開發で、田地となつた、遠(つ)大浦も此であらう。(意宇《オウ》(ノ)浦とは別である)。
 
おほ‐の‐とこたり【太(ノ)徳太理】 聖武天皇天平十七年正月外從五位下に敍せられ、十八年四月從五位下に進む。太氏は多氏で、神武天皇の皇子神八井耳命の後。其名は大和國十市郡|飫富《オホ》から出て居る。代々音樂を以て朝廷に仕へて居るから、徳太理も音樂家であつたらう。
 
おほ‐は‐やま【大葉山】 紀伊國。所在未詳。
 
おほ‐はら【大原】 大和國高市郡飛鳥村小原の地で、元、藤原とも言つた。藤井(ノ)原が藤原と言はれる樣になつたので、大原を專ら用ゐたのであらう。藤原氏の出た地。天武天皇の大原夫人を一名藤原夫人と言ふのは、此爲である。飛鳥(ノ)岡の上で、淨見原の宮の片端を望むか、或は山陰になつて見えなかつたのであらう。其で、卷二「大原の古りにし里(一〇三)・同「わが岡のおかみ(一〇四)など言ふ御贈答があつたのである。
 
おほはら‐の‐あかまろ【大原(ノ)赤麻呂】 「おさかのおほきみ」參照。
 
(103)おほはら‐の‐いまき【大原(ノ)今城】 「いまきのおほきみ」參照。
 
おほはら‐の‐おほとじ【大原(ノ)大刀自】 天武天皇の妃藤原夫人の事。藤原鎌足の女で、五百重姫と言ひ、新田部皇子の御母である。父に權臣を有し、天皇の寵を一身に受けた得意の人である。卷二に見えた大原の雪の歌の贈答の如き、如何にゆうもあ〔四字傍線〕にとめるかを見よ。
 
おほはら‐の‐さくらゐ【大原(ノ)櫻井】 「さくらゐのおほきみ」參照。
 
おほはら‐の‐たかやす【大原(ノ)高安】 「たかやすのおほきみ」參照。
 
おほぶね‐の 枕。たのむ。わたりのやま。つもり。たゆたふ。ゆくら/\に。かとりのうみ。海上を渡るに大船はまづ安心で、たのもしいものである。たのむ〔三字傍点〕・わたり〔三字傍点〕にかけた理由は、説明する迄もない。大船のとまる津と言ひかけ、又、たゆたふ及びゆくら/\にと大船のゆた/\とした状態を聯想した道程も明らかである。香取海に冠らせたのは、大船の櫂取りと言ふ意味からである。
 
おはまへ‐つ‐ぎみ【大臣】 最初は、臣姓の諸氏の主帥で、之を統領する者に賜つた樣であるが、後には變じて、天下の庶政を總攬する役人の名になつた。で、成務天皇の時に、武内宿禰を之に任じてから、子孫相ついで大臣に任じた。けれども仲哀天皇の時に、大連を置いてからは、一方を置けば、他方は置かなかつた。大臣と大連の竝置されたのは、雄略天皇からである。併、それも崇唆天皇の時からは、蘇我獨り大臣となつて、大連はなかつたが、皇極天皇の時、蘇我氏亡んでからは、大臣も廢せられた。孝徳天皇の時、初めて大臣を左右に分ち、阿部内麻呂を左大臣に、蘇我石川麻呂を右大臣に、中臣鎌足を内臣にした。文武天皇朝の大寶令の制では、太政官の長官で、太政大臣・左大臣・右大臣・内大臣があつた。
 
おほみわ‐の‐いらつめ【大神(ノ)郎女】 傳未詳。大神は大三※[營の呂が糸]、又、三輪とも言つて、大物主命の後である。
 
おほみわ‐の‐おきもり【大神(ノ)奥守】 淳仁天皇の天平寶字八年正月に從五位下になつて居る。大變痩せた人であつたらしい。
 
(104)おほみわ‐の‐たけちまろ【大神(ノ)武市麻呂】 大三輪(ノ)利金の子。三輪高市麻呂とも言ふ。壬申亂に大伴小吹負が飛鳥寺の西營を破つて天武天皇から將軍に任ぜられた時、小吹負の下について箸陵《ハシハカ》に戰つて、弘文天皇の軍を破つて功があつた爲、十三年に君を改めて朝臣の姓を賜つた。朱鳥元年天武天皇の御かくれになつた時、直大肆と言ふ位で、理官の誄詞を讀んだ。持統天皇の六年には中納言で、天皇が伊勢に行幸にならうとしたのを農時の妨げになると言つて、これを止めた。文武天皇の大寶二年正月には、從四位上で長門守となり、三年六月左京大夫に移り、慶雲三年二月六日で死んだ時に、壬申の功に依て特に從三位を贈られた。曾て詔に應じて「臥v病己白髪、意謂v入2黄塵1、不3期逐2恩詔1、從v駕上林春、松巖鳴泉落、竹浦笑花新、臣是先進輩、濫陪2後車賓1(懷風藻)と言ふ詩を作つた事がある。
 
おほや‐が‐はら【大屋个原】 武藏國入間郡大屋郷にある原。
 
おほやか‐め【大宅女】 豐前國の人。姓氏不詳。但、うかれ女のたぐひであらう。
 
おほや‐ぬ【大家野】 紀伊國名草郡にある。
 
おほ‐わだ【大曲】 わだ〔二字傍点〕は元、海湖などの廣い水面を言うた語。轉じて水の入り込みを言ふ樣になつたのは、わた〔二字傍点〕のわ〔傍点〕の言語情調からであらう。水の大入りこみ。大洋と言ふ意ではない。處で、此が固有名詞となつた地名が多い。
 
おほわだ【大和田】 攝津國武庫郡。
 
おほ‐ゐ‐ぐさ 太《フト》藺に同じく、藺の一種で、水澤の中に生える。長さは尺餘に達する。褐色の花が夏の末になると咲く。秋、其葉を苅り取つて、編んで蓆を製するのである。
 
おみ‐の‐き【樅】 深山の喬木。樅《モミ》の木。
 
おも【面】(補) かほ(ア)。かほつき(イ)。まぼろしに見える顏形(ウ)。表面。上。何々のおも〔五字傍点〕と言ふ事が多く、其場合には、の〔傍点〕と融合して、も〔傍点〕一音となる事が、屡ある(エ)。
 
 おも‐がた【面形】 かほの形。かほつき。
 
 おも‐や おもわ〔三字傍点〕の音轉。
 
 おも‐わ かほ。かほつき。容貌。わ〔傍点〕の意義は、まだ考へつかぬ。曲《ワ》とする説があるのは、よろしくな(105)い樣である。
 
おも‐とじ【母刀自】(補) おつかさん。母者人。おも〔二字傍点〕は母。本集時代にも、既に古語となつてゐたので、東語には澤山出てゐるが、都では、乳母の意に變つてゐる。刀自は敬稱。「とじ」參照。
 
おもひぐさ【思草】 女郎花の異名とも、露草の異名だとも、又、龍膽を言ふのだともいはれる。
 
おもへり‐し‐く‐し(補) 次條を見よ。
 
おもへる【貌】(補) 東語。顏つき。顔かたち。おもへり〔四字傍線〕(色「紀」)の訛語。おもへり〔四字傍線〕は本集にはない。唯、卷四「夜のほどろわが出で來ればわぎも子がおもへりしく〔六字傍点〕しかなしく思ほゆ(七五四)のおもへり〔四字傍線〕を、顏つきの意に説くのは、よくない。思ふの現在完了形思へり〔三字傍点〕に、過去のし〔傍点〕がついた上に、く〔傍点〕と言ふ名詞接尾語が添うたので、下のし〔傍点〕は、緊張の助辭である。
 
お‐よび【指】 ゆび。お〔傍点〕は接頭語か。
 
        か
 
か【鹿】 鹿のもとの名である。
 
か=かく【彼此】(補) あゝとかうと。あゝしたりかうしたり。あれやこれやと。あちらへこちらへ』。對照的の兩端の間を動搖する連續的な動作を表す爲に、同一の二つの用言の語頭に据ゑて、對立的な位置に置く副詞。既に發生してゐると〔傍点〕=かく〔二字傍点〕と同じである。
 
 か‐ゆき=かくゆき あちらへあるき、又、此方のはうへやつて來《キ》、行きつ戻りつして。副詞句。
 
 か‐より=かく‐より あちらへよつたり、こちらへよつたり。又、夫婦の絡みあうて寢る容子。副詞句。
 
かゞ‐なく(補) かゞ〔二字傍点〕は啼き聲の擬聲。がつがと、大きな聲で啼く。※[執/鳥]鳥の聲(三三九〇)。
 
かゞみ‐の=ひめおほきみ【鏡(ノ)女王】 鏡王の女。額田女王の姉、藤原鎌足の妻である。天智天皇から歌を賜つて居り、又、天武天皇の十二年に、天皇が女王の家をおとづれて、女王の病を問はれた事がある。同年薨じて、大和國城上郡押坂陵域内の東南に葬つた。
 
かゞみ‐の‐やま【鏡(ノ)山】 山城國宇治郡。近江國との(106)國境をなす山。天智天皇の陵がある。又、豐前國田河郡。神功皇后が此山で國見をして、紀念に鏡を止めておかれたら、其鏡が石に化つたからして名としたと言ふ傳説がある。
 
かゞよふ 輝く。光りが著しくさす』。かゞ〔二字傍点〕は光線の擬状か。かく〔二字傍点〕・かゝ〔二字傍点〕は、光明の明らかな意に用ゐるから、かゞ〔二字傍点〕が語根で、よふ〔二字傍点〕は語尾。
 
かゞる【※[單+皮]る】(補) 手の甲・足のひらなどが、荒れひゞれて血が出る。ひゞ〔二字傍点〕がきれる。あかぎれが出來る』。掻く〔二字傍点〕の再活用か。あかゞり〔四字傍点〕は、此語の名詞法に、母音あのついたもの。
 
がき【餓鬼】(補) 餓鬼道にゐる生物。梵語Preta、Pitri、Pitrya など言ふ。薛茘※[口+多]《ヘレタ》・卑利多・卑帝利・卑帝黎耶などゝ音譯する。逝去者・父祖の意を意譯して、餓鬼の字を宛てたのである。但、新譯には、單に鬼と譯してゐるばかりである。閻魔王界の所屬生類で、律儀を非議し、破壞し、菩薩戒を犯し、佛の涅槃を毀《ソシ》つた者などが、劫を歴て、其罪業を贖つた後に生れる世界だ(楞嚴經)と言ふ。地下五百由旬の處に住んで(正法念經)、飢※[食+曷]が甚《ヒド》い處から言ふので、百千歳|經《タ》つても、業として、水と言ふ語すら聞く事が出來ぬ。腹は山の樣に膨れ、咽喉は塞つて針の孔《ミゾ》のやうになつて、飲食を見ても喰べる事が出來ぬ。(※[田+比]婆沙論)。餓鬼に、人界に居るものと、前に擧げた餓鬼道にゐる者と二極ある。人界の餓鬼に就いては、後の「餓鬼(ノ)草子」が恐怖を湛へてゐる。後の人の考へる幽靈の形は、此人界の餓鬼に胚胎してゐるのであらうと思ふ。殊に人界にゐて、苦悩を受け、人の影身に添ふと言ふ觀念は、直に其出自を窺はしめる。餓鬼の類別は、九鬼或は卅六鬼などに分けてゐる。本集時代の大寺院には、須彌山像を作つて、殊に六趣の苦痛を誇張して示したものらしく、今日、法隆寺の五重塔の中にも、六道の生類の塑像があつて、餓鬼の姿も存してゐる。又、飛鳥村飛鳥坐神社々司飛鳥氏方には、廢元興寺趾から掘り出した瓦燒きの平板で、餓鬼を陰刻にしたものを保存してゐる。此も元興寺の堂塔の腰に張つた餓鬼像であらう。
 
おほてら‐の‐がき【大寺(ノ)餓鬼】 前條參照。(六〇八)。
 
てら/”\‐の=めがき【寺々(ノ)女餓鬼】 前條參照。大(107)神(ノ)朝臣を男餓鬼と見たてた處から、寺の餓鬼像を女性として取り扱うた迄である(三八四〇)。
 
かき‐かぞふ 枕。物を數へるのに、まづ一つ二つと始めて行く處から、ふた〔二字傍点〕を言ひ起したのであらう。
 
かきつだ‐の‐いけ【垣内田(ノ)池】 大和國高市郡飛鳥神南備山に近い土地。今、亡びて所在不明。
 
かきつばた【杜若】 垣内花の音轉だと言ふ。手ぎはよい説明ではあるが、不自然である。今いふ燕子花であるが、花菖蒲とは、花の形に異同が、昔からあつたのである。
 
かきつばた 枕。にほへる妹・君。燕子花の如く艶《ニホ》ひやかなる妹(君)と、その艶麗なのを形容したのである。卷一「紫草《ムラサキ》のにほへる妹(二一)、卷三「つつじ花にほへる君(四四三)などゝ言つて居るのと同じ性質の枕詞である。
 
かき‐の‐もと‐の‐ひとまろ【柿本(ノ)人麻呂】 持統天皇・文武天皇の兩朝に仕へて、駕に從つて、紀伊・伊勢・吉野等に往き、新田部・高市の諸皇子と遊び、近江・石見・筑紫等に任に赴いた事のある宮廷詩人で、晩年は石見國にゐて、其處で死んた。墓の大和國添上郡にあると言ふのは、古くからの誤である。集中に長歌二十首、短歌八十六首がある。
 
かき‐の‐もと‐の‐ひとまろ‐の‐しふ【柿本(ノ)人麻呂(ノ)集】 奈良朝の初期に集められたもので、多分人麻呂以外の人が集めたのだらう。本集中に引いたのみで、實物は傳つてゐない。本集中卷十一には、此集から纏めて引用してあり、其他の諸卷にも引いてあつて、その數は中々多い。此集は非常に字數を倹約して書いてあるので、讀みにくい歌が多い。萬葉集の分類は、此集の分類に負ふところが少くない樣である。長歌二首、短歌三百三十六首、旋頭歌三十五首がみえる。
 
かきほ‐なす 枕。人のよこごと。かきほ〔三字傍点〕は、こゝでは、蘆荻などを穗ごめに結つた、所謂折り掛け垣である。其は横ざまに結ひなすものだによつて、よこ〔二字傍点〕に言ひかけたのであると言ふ古來の説に從つても宜しい。又、上の説は、横と言ふ語にかゝつたものとして拘泥してゐるので、垣の樣にわが身をとりまき圍んで起つた所の他人の惡言と言ふ風に見る方が、自然であらうと思ふ。
 
(108)かぎろひ かぎろひ〔四字傍点〕は絲遊である。うらゝかな春の日に、燃えるやうに、而もかすかに立つのが見える。そこで春〔傍点〕とか、燃ゆる〔三字傍点〕とか、ほのか〔三字傍点〕などゝ言ふ語にかけた。
 
かくし‐づま【隱し妻】(補) 人目を避けて逢ふ妻で、必しも今言ふ妾などの意はない。嫡妻の嫉妬、或は、重婚問題などを恐れてとも思はれるが、やはり忍び逢ふ女を言ふので、娼婦などでない人に言ふ樣である。卷十一「泊瀕の齋槻《ユツキ》が下にわがかくせる妻あかねさす照れる月夜に人見てむかも(二三五三)で見ても、圍うておくなどの意でなく、出會ふ迄、忍ばせ待たせて置く意らしい。
 
か‐ぐはし【香美し】(補) 香がよい。匂ひが微妙だ。
 
かけ 催馬樂歌に「にはつとり、かけろとなきぬ」とも見えてゐる。其啼く音によつて名づけた鶏の古名である。決して家鶏《カケ》の音ではない。さて其啼き聲は勿論、其珍しく長い尾羽が目立つたと見えて、卷七「庭つ鳥鶏の垂り尾の亂尾の、長き心(一四一三)などゝ歌はれてゐる。
 
かこ‐じもの 枕。犬や猫や鼠などの、子を澤山に生むのに比べると、それ等と同じ類のものと考へられてゐた鹿が、只、一匹しか生まないのは、當時の人には、極めて異樣に感ぜられた事であらう。そこで、鹿の子の樣にひとり〔三字傍点〕とつゞけたのである。かこじもの〔五字傍点〕は、鹿の子のやうに〔七字傍点〕との意味だ。
 
かこ‐の‐しま【鹿子(ノ)島】 播磨國印南郡。
 
かさ‐じま【笠島】 所在未詳。
 
かさぬひ【笠縫】 攝津國東成郡。今、大阪府の東深江村だと言ふが、笠の名處だからの想像である。
 
かさぬひ‐の=ひめおほきみ【笠縫(ノ)女王】 六人部王の御女。母は天武天皇が皇女田形皇女である。
 
かさ‐の‐いらつめ【笠(ノ)女郎】 傳未詳。大伴家持の情人であつた。
 
かさ‐の‐かなむら【笠(ノ)金村】 傳未詳。孝靈天皇の皇子稚武彦命の後である。應神天皇が吉備へ御出になつて、加佐米山に御登りになつた時に、飄風に御笠を吹きとばされた。で、之を怪んだところが、稚武彦命の後の鴨別命が神樣の言ひつけで、天皇に仕へたいと申し出た。そこで、天皇は其眞僞を知らうとして、此山に獵したところが非常に獲物が多かつた。(109)それで鴨別命に笠朝臣の姓を賜つたと言ひ傳へて居る。金村は其鴨別の命の子孫であるから、鹽津山で詠んだ歌も、鹽津山が古英雄の傳説を傳へて居たのにつけて、自分の祖先の加佐米山の英名を忍んで歌うたのであらう。長歌八首、短歌二十四首。
 
かさ‐の‐かなむら‐の‐しふ【笠(ノ)金村(ノ)集】 此集は、或は本集の樣に、他の人の作をも集めてあるかと思はれる。無署名のものは、無論、金村の作であらう。年月處を明記してあるのが、此集の特長だ。本集中に引用したのみで、實物は傳つてゐない。長歌が主であるけれども、短歌もまゝ見受けられる。長歌三首、短歌十首。
 
かさ‐の‐こきみ【笠(ノ)子君】 傳未詳。元正天皇・聖武天皇朝の人らしい。
 
かさ‐の‐やま【笠(ノ)山】 三笠の山に同じ。
 
かざはや【風速】 紀伊國東牟婁郡の地名。
 
かし‐の‐み‐の 枕。ひとり。橿の子は、ばら/”\に一つ/\になつて居るからして、ひとり〔三字傍点〕に冠らせたのだ。前のかこじもの〔五字傍点〕の類である。
 
かしはで‐の=おほきみ【膳(ノ)王】 「かしはでべのおほきみ」參照。
 
かしはでべ‐の=おほきみ【膳部(ノ)王】 膳王と書くのも、同じ人であらう。天武天皇の御子の高市皇子の御子の左大臣正二位長屋王の御子で、聖武天皇の神龜元年二月從四位下になつたが、天平元年二月長屋王と同じ年になくなられた。
 
かし‐はら【白橿原】 大和國の畝傍山の西南に當る柏原の地。橿原宮・橿原畝傍宮と言ふのは、神武天皇が此地を宮處と定められたからの名である。
 
かしひ【香椎】 筑前國粕屋郡、博多※[さんずい+彎]の東部。此地は仲哀天皇の行宮であつたが、後、香椎の廟を立てゝ祀つてゐるのは、仲哀天皇を鎭めてあるのであらう。
 
かしふ‐え【可之布江】 筑前國粕屋郡。
 
かしま【鹿島】 常陸國鹿島郡。鹿島神社があつて、古くから相當に人煙のあつた土地。又、紀伊國日高郡南邊海上にある小島の名。
 
かしま‐ね【鹿島嶺】 能登國能登郡。
 
‐が‐す(補) 副詞接尾語。なす〔二字傍点〕と同じ成立を持つてゐる。卷十四「沼二つ通《カヨ》は鳥がすわが心(三五二六)、(110)が〔傍点〕はの〔傍点〕と同じで、所有格を表すものゝ原形であらう。なす〔二字傍点〕は、東歌にのす〔二字傍点〕とあるが、やはり古形であらう。す〔傍点〕の意義が、今少し判然せぬが、「鳥のさま」「鳥がさま」など言ふさま〔二字傍点〕の意を持つてゐるので、さ〔傍点〕・し〔傍点〕などゝ關係があらう。
 
かすが【春日】 今の奈良市の東方の山野。春日野と言ふのは廣い名で、春日山は其うちの一山を指すのだ。此地は飛鳥平原から宇治の方へ出る路に當つてゐたが、都が奈良に移されてから、殊に多く歌に詠まれる樣になつた。
 (補)大和國添上郡。今の奈良市の地の大部分は、ほぼ春日の舊の地であらう。大春日(ノ)朝臣の居つた地。新撰姓氏録には、糟垣(ノ)臣の字面を改めたのだと言ふ家傳をのせてゐるが、恐らく地の名を冠したのであらう。春日の山が東に立つてゐる。其下に春日神社がある。本集時代には、奈良(ノ)宮の東に接して、郊外の地であつた。後期王朝には、春日郷と稱してゐる。古事記序には、かすが〔三字傍点〕に春日の字を宛てる理由は知れぬと記してゐる。
 
 かすが‐の‐やしろ【春日(ノ)社】 春日山の麓にある。藤原氏の氏神で、第一、鹿島。第二、香取。第三、枚岡。第四、比賣神、の四座を祀つてゐる。併、本集時代の春日社は、果して平安朝の人々の考へてゐた通りのものであつたか、頗、疑はしく、祭神・藤原氏との關係などについては、尚、考へねばならぬ事がある樣である。
 
 かすが‐の‐よしきがは【春日(ノ)吉寸川】 春日山から出て東大寺の南を流れて、佐保川に這入る。
 
 かすが‐やま【春日山】 奈良市の東の山の主峰。御蓋山は其異名だと言ふが、春日山の中の一つの峰であるらしい。
 
かすが‐の=おほきみ【春日(ノ)王】 (一)傳未詳、文武天皇三年六月二十七日淨大肆で卒せらる。弓削皇子が吉野に遊んで歌を詠じた時、之に和して居られる。(二)天智天皇の皇子志貴(施基)皇子の御子。母は多紀皇女。光仁天皇の御弟で、養老七年五月從四位下、天平三年正月從四位上、天平十五年五月正四位下となり、同十七年四月二十八日散位にて卒せられた。
 
かすが‐の‐おゆ【春日(ノ)老】 僧辨基。文武天皇大寶元年三月還俗して、春日倉首の姓と老の名とを腸り、追大壹に敍せられ、元明天皇の和銅七年四月從五位下を授けられ、常陸介になつて年五十二で死んだ。曾て懷を述べて「花色花枝染、鶯吟鶯谷新、臨v水開2良宴1、泛v爵賞2芳春1(懷風藻)と歌つた事がある。
 
かすがべ‐の‐まろ【春日部(ノ)麻呂】 駿河國の人。孝謙天皇天平勝寶七年筑紫へ遣された防人である。
 
かすゆ‐ざけ 酒粕を溶した湯で、貧しい人が酒の代に飲んだものだ。有名な憶良の貧窮問答の歌(卷五、八九二)に見えてゐる。
 
かぜのと‐の 枕。遠きわぎも。かぜのとは風の音である。古事記に、天稚彦のなくなつた時、下照比賣の泣哭する聲が、風に響いて天にとゞいたと見えて居る。これ等の思想から遠き〔二字傍点〕にかけて言つたものであらう。或は疾《ト》きのと〔傍点〕にかけたものか。
 
かぞへ‐の‐し【※[竹/卞]師】 租庸調及び用度の勘計を掌る役人で、主計寮・主税寮に各二人、大宰府に一人、又、修理職に一人居る。正八位上相當で、文武天皇の大寶元年に創置せられたのである。
 
かたしは‐がは【片足羽河】 河内國北河内郡、今、石川と言ふ。金剛山の西麓より出でゝ北流して、大和川に入る川である。
 (補)又、片鹽川。河内國志紀郡大和河峽谷の河内平原に接してゐる邊。後の大縣郡。古く堅上・堅下の二郡となつてゐた事もある。南は大和川。西は舊大和川、東と北の一部は、志貴連山に圍まれてゐる地方。川は今の大和川で、此地方での名である。「かふちのおほはし」參照。
 
かた‐の‐おほしま【可太(ノ)大島】 周防國玖珂郡、今、屋代島と言ふ。
 
かたみ‐の‐うら【形見(ノ)浦】 紀伊國名草郡の海浦。
 
かた‐をか【片岡】(補) 又、傍丘。修飾せられる語の下に修飾語の來るのは、古い形容詞の格である。丘陵地の傍の地域をさして言ふ語。大和國北葛城郡王寺から南、下田迄二里程の間の地をさす事が多い。此北葛城郡の東部を總じて、片岡と言ふ處から、其名の起りの丘陵(今|馬見山《マミヤマ》)をも片岡山〔三字傍点〕、或は片岡〔二字傍点〕と言うたらしく、生駒郡法隆寺の南、岡崎〔二字傍点〕から西へ王寺に來て南へ折れて、葛城山脈と竝行して下田附近で、東へ折れて、高田町の西の岡崎〔二字傍点〕に到る丘陵地(上は舊廣瀬郡の臺地)が即、片岡で、岡崎と言ふ名(112)は、其端と端とを示してゐるのである。さうして此丘陵の内に在つた處から、聖徳太子の河内竹原(ノ)井(龜(ノ)瀬口)へ行かれる道で、餓人を見られた傍丘は、其北部であるし、傍《カタ》丘(ノ)磐杯《イハツキ》(ノ)南・北陵などは其南部にあつて、さしわたし一里半隔つてゐるのである。
 
かち【徒歩】 乘り物に由らずに、陸路をぢかにあるくこと。陸地《クカチ》の融合で、馬より行く、船から行くの如く、陸地より行くと言うたのを、歩みの由る所を直に歩み方の名にしたのである、と金澤庄三郎博士は説いてゐられる。
 
かぢ‐しま【梶島】 所在未詳。
 
かち‐ちせん【葛稚川】(補) 晉の丹陽句容の生れである。姓は葛、名は洪。稚川は字である。若い時から學間が嗜きで、貧乏なのについて、薪を伐つて來て、紙や筆の代とした。夜は書を寫して、勉強して、儒學で名を知られた上に、綜2練(シタ)醫術(ヲ)1(晉書列傳)と言ふ。
 
かち‐ぬ【勝野】 近江國高島郡。琵琶湖の西岸に臨んだ原野。
 
かぢ‐の‐と‐の 枕。かぢ〔二字傍点〕は、今〔傍点〕では舵だけを謂ふが、本集時代には、櫓・櫂の總稱である。かぢのと〔四字傍点〕は即、櫂の音で、入江などを漕ぐ舟の櫂の音が靜かに海面を流れて、はつきりとよく聞える處から、委曲精細と言ふ意味の語であるつばら/\〔五字傍点〕にかけて言うたのだ。
 
かつ はつ〔二字傍点〕と同類の語。副詞。はつ/\。わづか。全部でない樣子を表す語。
 
かつ‐/\ かつ〔二字傍点〕を重ねて、意を深めたもの。
 
かづく かづ〔二字傍点〕は、頭に關する作用を表す語であらう。かづく〔三字傍点〕は、頭に物を冠する意であるが、分化して、水を頭にかぶつて水中に潜《ムグ》る意に使うてゐる。海士などの水中に入つて物を探る働きをも言ふ。
 
かつしか【葛飾】(補) 下總國の郡名。又、勝鹿。其中心は、今の東葛飾郡國府臺から、北へ續いた臺地、市川小金に亙つてゐる。
 
 かつしか‐の‐まゝ【葛飾(ノ)眞間】 今在る國府臺下の低地は、後世に出來たもので、其邊は本集の時代には、海であつたであらう。眞問の磯邊《オスヒ》は、必、國府臺の高臺の岸に臨んだ處であつたものと思はれ(113)る。眞間の入り江は、利根川の沼澤地であらう。
 
かつまた‐の‐いけ【勝間田(ノ)池】 大和國添下郡藥師寺の近傍にあつた池。平安朝時代に、既に跡ばかりになつてゐた。蓮の澤山あつた池。
 
かつら【桂・楓】 めかつら・をかつらの二種がある。桂が雌で、楓が雄である。
 
かづら【蔓】 蔓草の總稱である。
 
かづらき‐の=おはきみ【葛城(ノ)王】 推古天皇の朝に天皇・聖徳太子に從つて、高麗の僧慧總と伊豫國に行かれた方と、天武天皇の八年に四位で逝かれた方と、今一人、橘諸兄との三人がある。卷六と卷二十とに葛城王として出てゐるのは諸兄である。「たちばなのもろえ」參照。
 
かつらぎ‐の‐そつびこ【葛城(ノ)襲津彦】 武内宿禰の子で、仁徳天皇の皇后、磐(ノ)媛の父である。さうして葛城朝臣は、彼の子孫である。
 
かづらき‐の‐ふたかみやま【葛城(ノ)二上山】 大和國北葛城郡。葛城山脈中、大和川の南方に立つ山。頂が二峰に別れてゐるので、二上山の名がついた。今大津皇子の御墓は、男峰の頂上にある。藤原京より眞西に當る。右の二上(ノ)墓は、恐らく山下の裾曲にあつたのであらう。
 
かどべ‐の=おほきみ【門部(ノ)王】 天武天皇の皇子長親王の孫で、川内王の御子である。元明天皇の和銅三年正月從五位下に敍せられ、元正天皇の養老元年正月從五位上に進み、三年七月初めて按察使を置いた時、伊勢守であつたが、伊賀・志摩の二國を管し、五年正月正五位下となり、聖武天皇の神龜元年二月正五位上、五年五月從四位下、天平三年正月從四位上に進み、治部卿であつた。六年二月五位以上の風流才子が二百四十人も集つて、朱雀門外に歌垣を催して、淺茅原(ノ)曲、廣瀬(ノ)曲、八裳刺(ノ)曲などを歌つた。門部王も其中の主な一人であつた。で、天皇は、此時、態、朱雀門へ御出になつて御覧になり、それぞれ禄を賜つた。九年十二月には右京大夫となり、此頃、大原眞人の姓を賜つたが、十四年三月に從四位上となり、十七年四月二十三日大藏聊で死んだ。
 
かとり【香取】 近江國高島郡に香取(ノ)浦あり。又、下總國香取郡、香取神社のある地。
 
かな・しけ(補) かなしく〔四字傍点〕の動詞あり〔二字傍点〕と融合した古い(114)形。或はき〔傍点〕の轉訛ともとれるがよろしくない。新しくはかなしかる〔五字傍点〕と言ふべき處である。卷二十「筑波嶺のさ百合《ユル》の花の、夜床《ユドコ》にも イ 可奈之家《カナシケ》妹ぞ、晝も ロ 可奈之祁《カナシケ》(四三六九)。(イ)は連體形たが、(ロ)も連體形である。卷十四「なるせろにこつ〔二字傍点〕のよすなす、いとのきて可奈思家《カナシケ》夫《セ》ろに人さへよすも(三五四八)、此は連體形。同「晝解けば解けなへ紐の、わが夫《セ》なにあひよるとかも、夜《ヨル》解け也須家《ヤスケ》(三四八三)も、連體形。卷二十「旅行きに行くと知らずて、母父《アモシヽ》に言《コト》申さすて、今ぞ久夜之氣《クヤシケ》(四三七八)も連體形である、卷十四「あぢかまの潟に開《サ》く波、ひらせにも紐とくものか。可奈思家《カナシケ》を措《オ》きて(三五五一)は、連體形から出た名詞である。
 
かには かば(樺)の古名。山地に産する喬木で、葉は桑に似てゐる。其皮は屋根に葺いたり、物を卷いたり、船の外皮としたりした。かには〔三字傍点〕の船は、是である。又、占象をとる時に、かには〔三字傍点〕・はゝか〔三字傍点〕などを灼く事がある。櫻に似た花が咲く。かには〔三字傍点〕櫻、又、樺櫻と言ふ。
 
かには‐の‐たゐ【樺(ノ)田井】(補) 山城國相樂郡。今、棚倉村の邊。山代之|苅幡戸辨《カリハタトベ》(開化天皇紀)。山背……綺戸邊《カムハタトベ》(垂仁天皇紀)など傳へられた佳人のゐた地であらう。名高い蟹滿《カニマン》寺のある地である。(此寺の名も地名から出たのである)。苅幡・綺・樺田《カニハダ》・蟹滿《カニマン》、皆、r・n或はm・nの音韻關係で通じたのである。此地、本集時代に、かにはた〔四字傍点〕ともかにはのたゐ〔六字傍点〕とも言うたのであらう。樺田の在所の意であらう。併、又、久世郡水主・龜這邊の舊名は樺井《カニハヰ》で、綴喜郡樺井|月神《グワツシン》社(延喜式)と言ふ、恐らく蕃神と思はれる神のゐられた地であるから、或は之を言うたものか。大寶元年(續紀)・承和十二年(續後紀)にも、此神の名が見えて、古い地名なのである。延喜の頃では、樺井(ノ)渡瀬は泉川にかゝつてゐて、毎年九月上旬から、東大寺の工人等に造らして、翌年三月下旬には、とり毀つ事になつてゐる(延喜式)とあるから、綴喜郡のとは違うて、樺田と一つかも知れぬ(四四五六)。
 
かね‐が‐みさき【鐘个御崎】(補) 筑前國宗像郡鐘崎。其出鼻に、織幡神社一座(神名式)がある。今は三座になつてゐるが、東座が志賀《シカ》(ノ)大神で、所謂しかの(115)すめがみ〔七字傍点〕である。此神に位階を贈られたのは(文徳天皇實録・三代實録)、此海上を通る船を苦しめられたからであらう。此社のある山を、古くから(後拾遺)さやかた山〔五字傍点〕と言ひ、さやの尾〔四字傍点〕と言ふ尾のあるのは、さへの神〔四字傍点〕があるのだと言ふ説は(筑前續風土記)、此神がさへの神〔四字傍点〕で、船が恐れて賽したるを示すものではなからうか。昔は、此岬と地の島との間の迫門を通つたので、八町程の海峽であつた。かね〔二字傍点〕と言ふ名から沈鐘傳説が伴うてゐる。此地名が興味を牽いたと見えて、江戸期には、芝居にも爲組《シク》まれた。其所作は踊りとして殘つてゐるが、道成寺の燒きなほしとも言ふべきもので、名もやはり「鐘がみさき」と言ふ。
 
かはかみ‐の 枕。かはかみは、河のほとりの意。河のほとりに、澤山の藻が生えてゐると言ふので、いつ〔二字傍点〕もにつゞけた。いつも〔三字傍点〕は藻《モ》の名。同音の何時も〔三字傍点〕にかけたのである。
 
かはかみ‐の‐おゆ【川上(ノ)老】 聖武天皇の天平勝寶七年筑紫國に遣された防人で、下野國寒川都の上丁である。
 
かはぎし‐の 枕。川の岸のくづれやすい處から、くゆ〔二字傍点〕にかけて言ふ。
 
かは‐ぐち【川口】(補) 伊勢國壹志郡。雲出《クモツ》川が壹志平野に出ようとする口に在るから言ふのである。家城《イヘキ》附近を指したものであらう。今、其東に川口村がある。天平十二年十一月聖武天皇が、十日間、茲に行在せられた事は續紀・本集にも見えた。此が河口(ノ)頓宮《トツミヤ》である。此地は、後期王朝の文獻(枕册子・源氏・催馬樂・後撰)に、川口(ノ)關と見える處である。又、岫田《クキタ》(ノ)關とも言ふ。本集時代にも既に關處があつたと見えて、關(ノ)宮と言うた(續紀)相である。大和國宇陀から伊勢國へ出るのは、二道あつて、一つは萩原から伊賀國の名張へ出、一つは萩原から山粕へ出て、岩坂越えを直に伊勢國へ出る道で、川口の關は、此方の道が雲出川に沿うて、伊勢平原に出ようとする要地なのである。
 
かはしま‐の=みこ【川島(ノ)皇子】 天智天皇の第二子で、母は忍海造小龍の女の宮人の色夫古《シコブコ》娘で、大江皇女・泉皇女と同母兄弟で、持統天皇・元明天皇・弘文天皇等とは異母兄弟である。泊瀬部皇女を娶つ(116)て妃とせられた。温裕弘雅、度量の大きい方で、殊に大津皇子とは莫逆の友であつた。然るに天武天皇十四年天皇の崩ぜられた時、大津皇子の陰謀をば朝廷へ密告したので、朝廷は其忠正を嘉したけれど、世人は友を賣つた事を誹つた。この前正月に淨大參位に敍せられ、持統天皇の五年正月には、百戸を増されて五百戸の封をもつて居たが、九月九日に年三十五でなくなられた。曾て「塵外年光滿、林間物候明、風月澄遊席、松桂期2交情1(懷風藻)と歌はれ、又、持統天皇の紀伊國へ行幸になつた時も、短歌をよまれて居る。
 
かはづ【河蝦】 今の河鹿である。山川の清く冷やかなあたりに多いからして、本集中に見えるかはづ〔三字傍点〕は悉く田に鳴かずして山川に鳴くものとせられてゐる。
 
かはべ‐の‐あづまびと【河邊(ノ)東人】 姓は朝臣。稱徳天皇の神護景雲元年正月從五位下になり、光仁天皇の寶龜元年十月石見守となつて居る。聖武天皇天平五年藤原(ノ)八束の使として山上憶良の病を問うた事がある。
 
かはべ‐の‐みやひと【河邊(ノ)宮人】 元明天皇朝の人。傳未詳。河邊氏は、武内宿禰の四世孫、宇我宿禰の後である。
 
かはむら‐の=おほきみ【河村(ノ)王】 光仁天皇の寶龜八年十一月從五位下に敍せられ、十年十一月少納言となり、桓武天皇の延暦元年閏正月阿波守に遷り、七年二月大舍人(ノ)頭、八年四月備後守となり、九年九月從五位上に進んだ。
 
かはら‐の‐てら【河原(ノ)寺】(補) 大和國飛鳥川の川原に在つた寺であらう。後、弘《グ》福寺。今、高市郡川原に橘寺と向ひあつて、塔の礎石及び精舍を存してゐるのが、舊地である。淨見原(ノ)宮から橋を渡つて供養に行つた由が見えるから、飛鳥川の西岸に在つたのである。神南備山を北うしろに負うてゐる。此寺の外、此山の西に石川精舍。北に豐浦寺。東に飛鳥寺と四方から、神山を異教の寺で圍んだのは、何か訣があるのであらう。
 
かはら‐の‐むしまろ【川原(ノ)蟲麻呂】 傳未詳。天平勝寶七年に遣された駿河國出身の防人。川原氏は、宣化天皇の皇子火※[火+稻の旁]王の後で、天智天皇の御代に攝津國河邊郡川原に居たので、川原(ノ)公の姓を賜つたの(117)である。河原氏とは別である。
 
かはる【香春】 豐前國田河郡。昔、新羅から神が渡つて來て住んでゐたと言ひ傳へる。
 
かふち【河内】(補) 川の流域とばかりでは、詳しくない。すこしつけ加へる。筑前國の方言では、山あひの谷間に一个以上の村があつて、河水が奥から流れて出る境内の事で、平原をば言はぬ。譬へば、岩戸河内十二村(那珂郡)、四箇畑河内四村(同)、五箇山河内五村(同)など、二十の河内が此國にある(筑前續風土記)。即、川が中心になつてゐて、山に圍まれてゐる一區劃の地の事である。(村の有無は關係がない。筑前國のは、河内の地に、村が出來た迄であるから)。
 
かふち‐の=おほきみ【河内(ノ)王】 天武天皇の朱鳥元年新羅の金智淨を饗する爲に筑紫に遣され、持統天皇の三年閏八月に大宰帥となり、八年四月淨大肆を授け、物を賜つたが、筑紫で死なれ、豐前國の鏡山に葬つた。此時、手持女王が弔歌を作られた。女王は王の妃であつたらしい。
 
かふち‐の=おほはし【河内(ノ)大橋】 河内國南河内郡。今、大和川に注入する石川と言ふ川にかけてあつた大橋。
 (補)河内國|片足羽《カタシハ》川に架けてあつた橋。片足羽は、片鹽と一つである。(浮穴(ノ)宮趾は、此處とするのも勿論、北葛城郡に求めるのもよろしくない。大和國山邊郡にあつたのである)。立田|道《ヂ》から大和川に沿うて河内國に出て、今、中河内郡(元、大縣郡堅上・青谷・高井田)の邊を通つて、柏原近くで、對岸の南河内郡(元志紀郡)の國府(石川の西岸、道明寺の北、餌香《ヱガ》(ノ)市《イチ》の地であらう)の方へ渡る橋であらう。(難波への道は、舊大和川に沿うて西北に向うて、直越えの道と出會ふのである)。此語は、河内國の大橋と言ふよりも、國名の原なる、河内《カフチ》(大和川の峽谷地)の出はづれにあつた處から出來た名と見る方が適當らしい。かの上宮太子の遊ばれた竹原(ノ)市も、此橋の邊にあつたらしく、後期王朝の志紀郡|井《ヰ》(ノ)於《ウヘ》郷は、其名のなごりを止めたのであらう。此橋、さ丹塗りの大橋など言うた處から見ると、此歌の出來た當時、民間に喧伝せられたもので、唐風などを模したものと考へられる。此歌は、傳説的民謠的の要(118)素を深く備へてゐる。
 
かふち‐の‐とつみや【河内(ノ)頓宮】 孝謙天皇天平勝寶八年春二月難波に行幸になり、其日、河内國に至り、智識寺の南の行宮に御いでになつた事がある。其行宮の事である。
 
かふち‐の=ひめおほきみ【河内(ノ)女王】 天武天皇の皇子高市皇子の女で、聖武天皇の天平十一年正月從四位下から從四位上に敍せられ、二十年三月正四位下に進み、淳仁天皇の天平寶字二年八月更に正四位上から從三位に進まれた。光仁天皇の寶龜四年正月には無位から本の正三位に敍せられて居るから、此間に位を奪はれたらしい。十年十二月二十三日に薨じた。短歌一首(四〇五九)。
 
かへるで 蛙手の義。楓科の落葉喬木。かへで。
 
かほ‐どり【貌鳥】 後のかつこどり・かつぼどり・かんこどり、即、郭公で、霍公鳥《ホトゝギス》とは違ひがある。支那・西洋で、郭公・かつこう・くつくうなど言ふのも同じだ。昔はかほ/\〔四字傍点〕と鳴き聲を聞いたのだ。
 
かほ‐ばな【貌花】 美しい花の總稱で、かほよばな〔五字傍点〕とも言ふ。古く常陸國では燕子花をかほばな〔四字傍点〕と呼んだ。
 
かほ‐や‐がぬま【可保夜个沼】 上野國。今の榛名湖を言ふのだらう。
 
かまくら【鎌倉】 相摸國鎌倉郡。
 
かまふ‐ぬ【蒲生野】 近江國蒲生郡にある野。近江國の大津宮からは十里ほど隔つてゐる。
 
かまめ【鴎】 かもめ。形は鳩に似て稍大きく、嘴は尖つてゐて、其色は赤い。頭と背とは灰色、腹は白、脚は嘴の如くに赤い。小魚を常食としてゐる。尚、海鴎《ウミカモメ》・大鴎《オホカモメ》などの種類もある。
 
かみ【長官】 役所の長官では、神祇官では伯、太政官では大臣、省では卿、職坊では大夫、寮では頭、司では正、弾正臺では尹、大宰府では帥、國では守、家では令である。別當はかみ〔二字傍点〕ではあるが、別に當ると言ふので、公私共にあつたが、必しも本司の長官ではない。帥は大宰府の長官で、從三位に相當し、奉膳は内膳司の長官で、正六位上相當の役である。内膳司ばかりは、司でも長官を正と言はないのである。
 
かみ【神】(補) 威力を持つとして恐怖の對象となるもの(119)(ア)。信仰の對象となるもの(イ)。雷《カミナリ》(ウ)。獰猛な動物を、やゝ尊敬・恐怖の心持ちで言ふ(エ)。神を全能のものとし、三位一體的の神を考へたりするのは、記紀の記載に、支那思想・佛教思想などの習合がありさうに見える點である。統一一貫した神の觀念はなくて、時々に動搖してゐたのである。神を人間以上の力を持つものと考へてゐた爲に、其好意を保留しておく事が肝腎で、若し失へば、如何なる神からも祟りは來るのである。皇太神宮が祟られた事などもあるではないか。人間社會の道徳觀に超越した存在として、善神と思はれるのも、人間の行動によつて、惡神的の方面を現すのである。祟りが盛んな處から、其を和げる爲に、所謂「こはもて」のした神も多い。或は此意味のものが、第一義と言ふべきであらう。三輪山の大物主〔七字傍点〕は、其代表である。善神と言ふのは、常に人間に好意を多く持ちつゞけてゐる神で、他は多く中性である。邪神・惡神と見える大禍津日《オホマガツヒ》・八十禍津日《ヤソマガツヒ》などは、多くけがれ〔三字傍点〕・つみ〔二字傍点〕の根元となるものと考へてゐたので、必しも惡魔とは言はれぬ樣である。禍津日の力で生じた人間の邪惡を更正するのは、神直日《カムナホヒ》・大直日《オホナホヒ》の神々である。不變の善神を求めるなら、此二神を言ふべきであらう。祟り神に祟りを止めて、常に好意を持續せられる樣に祀る處から、信仰は段々淨化せられて來たものと見るべきであるが、本集時代にもまだ何程も此意味の神はない樣である。伊勢國をはじめ、氏々の氏神なども、元は祖靈の恐怖と言ふ意味もあつたであらうが、本集時代では、まづ、前述の意味の神と見てさしつかへはない樣である。又、避ける事の出來ぬ恐しいものとして、雷をかみ〔二字傍点〕と言ひ、神〔傍点〕と考へたのは、前代からである。「道《ミチ》の後《シリ》こはだ處女を。雷《カミ》の如《ゴト》聞えしかども、相枕まく(記)などは、其である。神岳《カミヲカ》を雷岳《カミヲカ》と書いたのも、神岳の飛鳥の神を雷(又は雷獣としての蛇)と考へたのも、此民間語原からである。尚、狼をまがみ(後におほかみ)、虎を韓國の虎とふ神、蛇ををかみ〔三字傍点〕など本集に言うてゐるのも、動物の人間以上の力に對して持つた恐怖と敬意から出た名であらう。或は異物崇拜《トウテミズム》の心から出たものと考へる事も出來よう。動物祖靈の信仰は、我が國にもあつた事は、事實らしいから。
 
(120) かむ【神】 體言形容詞。神の形容詞的屈折。神たる・神として・神の如き・尊むべき・おそるべきなど言ふ意味の修飾語として、下に在る體言(又は、用言)を形容する場合には、かみ〔二字傍点〕とは言はず、此屈折を生じる。神風《カムカゼ》・神言《カムゴト》・神子《カムコ》・神木《カムキ》・神社《カムヤシロ》・神主《カムヌシ》・神司《カムツカサ》・神《カム》ながら・神《カム》から・神《カム》さぶ・神《カム》くだる・神《カム》づまる・神葬《カムハフ》る・神《カム》しむなどが其である。
 
かみ‐しま【神島】 後に備中國小田郡に屬した。周圍三里許りの島である。
 
かみつけぬ‐うぢ【上毛野氏】 下毛野氏と同祖で、崇神天皇の皇子豐城入彦命五世孫|多奇波世《タケハセ》(ノ)君の後で、上野國に居た處から、其名を得たのであらう。
 
かみ‐の‐ふるまろ【上(ノ)古麻呂】 持統天皇朝の人。傳未詳。上氏は魏武帝の男陳(ノ)思王植の後と言ひ、又、同通剛王、内古同東阿王の後とも言つて居る。
 
かみ‐をか【神岳】(補) 又、雷岳。大和國高市郡飛鳥の神南備のあつた山。雷の字をかみ〔二字傍点〕とも訓み、又、いかづち〔四字傍点〕とも訓んだのは、卷三「いかづちの上にいほらせるかも(二三五)で訣つてゐる。かみ〔二字傍点〕は同時に、神〔傍点〕及び雷〔傍点〕の意を兼ねてゐるので、少兒部栖輕の雷神《カミ》を捉へた傳説から、いかづちのをか〔七字傍点〕とも言うたのであらう。併、神南備をわざ/\神のゐる岡と言ふ意で、神岳と呼ぶ訣もないから、雷《カミ》の意であらう。今の飛鳥(二)坐(ス)神社は、淳和天皇の天長十年に、天皇の御夢の神託に依て移した所謂鳥形山の地で(續日本後紀)、舊の地は、古くから飛鳥村|雷《イカヅチ》の村内に在る小山だとしてゐるが、如何に滄桑の變を經、又、詩人の誇張があつたとしても、本集の卷十七「山高み川遠じろし(四〇一一)、其他の文句とはかけ離れ過ぎてゐる。尤、雷から北へ小山が一直線に散在してゐるのは、甘橿(ノ)丘を開墾した痕跡で(記中卷、曙王の條)、却て今、甘橿(ノ)丘と稱してゐる對岸豐浦村の丘から、西は石川、南は五條野・川原、東は飛鳥川に臨んだ、方十町餘の丘陵を言うたらしい事は、雷から川向ふ半里も西の石川精舍を、神南山石川寺と言うたのに照し合しても、此が神南備で、彼が甘橿の南端の崎である事は明らかである。此山のけしきは今も實に絶景で、高市郡平野が見渡され、遙々と飛鳥川が眺められるので、神南備としての外に、遊戯地、とつみやどころ〔七字傍点〕として、もてはやされたのも、(121)なるほどゝ頷かれる。此山の祭神は、他の神南備と同一の神でなく、事代(ノ)神だとも言ひ(新撰姓氏録飛鳥(ノ)直)、又、賀夜南流美(ノ)神(出雲國造神壽詞)などゝも言ふが、賀夜南流美は飛鳥川上に坐す神で、柏《カヘ》(ノ)森《モリ》村に在るのが其だと言ふが、あまり神威の高かつた處から、さのみ名高くない賀夜南流美を忘れて、雲梯と同神の事代主と言ひはじめたのかも知れぬが、尚、神壽詞だけでは、出雲國造家だけの遺傳とも考へられる。尤、主神は早くから明らかでなかつたので、栖輕の捉へた蛇を、三諸山の神だと考へた(紀)位であるから、此山の神に就いては、皆、渾沌とした考へを持つてゐたのであらう。
 
かむかぜ‐の 賀茂眞淵の冠辭考には「神風の息《イキ》といふべきを省いてい〔傍点〕の一語にかけたのだ」と説いて居るが、やはり、神風の吹き起る伊勢と言ふ意に解するがよからう。伊勢から神風が吹き起つたと言ふ事は、卷二の人麻呂の歌にも見えて居る。
 
かむこそ‐の‐おゆまろ【神社(ノ)老麻呂】 天平頃の人、傳未詳。神社氏は新撰姓氏録に神松造道臣命八世孫、金村大連公之後也とあるのが、さうではあるまいか。社と松とは字形がよく似て居る。神社は五六所見えるが、神松は外に見えない。姓氏録の誤りであるらしい。
 
かむ‐しだ【上志太】 駿河國の志太郡の一部で、地形上、上・下にわかれてゐたのであらう。
 
かむ‐なび【神南備】(補) 又、甘南備・神奈備。神を祀つた丘陵、又は端山を多く言うてゐる。出雲系統の神を祀つた處であるらしい。神竝〔二字傍点〕・かんなべ〔四字傍点〕などゝ稱して、隨分、分布の廣い神社を祀つた土地である。かむ〔二字傍点〕は神の形容詞的屈折な事は明らかだが、なび〔二字傍点〕のな〔傍点〕はの〔傍点〕で、び〔傍点〕は、もり〔二字傍点〕・むれ〔二字傍点〕など言ふ山の意の語の融合み〔傍点〕の音轉で(ま〔傍点〕行からば〔傍点〕行に轉ずる事は澤山の例がある)、即、神之山と言ふ事であらう。かむなび〔四字傍点〕と言ふ社は、社殿なく、いはゞ靈畤《マツリノニハ》と言ふ樣なもので、「神南備にひもろぎ〔四字傍点〕立てゝ」と言ふから、其山の高場に、神靈の依る所の木を樹てたのであらう。神南備で一番名高いのは、高市郡飛鳥の神南備で、本集には單に神南備とあつて、他の地名のない時は、茲と思うてよい樣である。「かみをか」參照。神南備の三諸の山と言へば、愈、飛鳥の事である(122)が、單に三諸と言ふと、三輪山の事に多く言うてゐる。大和國で、他に名高い神南備は、龍田の神南備である。
 
かむなび‐の‐いかご【甘奈備(ノ)伊香】 伊香王である。聖武天皇の天平十八年四月從五位下に敍せられ、同八月雅樂頭となり、天平勝寶元年七月從五位上に進み、三年十月王とその男高城王に甘南備眞人の姓を賜ふ。淳仁天皇の天平寶字五年十月美作介になり、七年正月備前守、八年正月に主税頭、稱徳天皇神護景雲二年閏六月越中守となり、光仁天皇寶龜三年正月正五位下に進み、八年正月には正五位上になつた。大藏大輔になつたのは、天平寶字元年頃であらうか。
 
かむひとべ‐の‐こおしを【神人部子忍男】 傳未詳。信濃國埴科郡の主帳。歌一首(四四〇二)。
 
かむをみべ‐の‐しまゝろ【神麻績部(ノ)島麻呂】 聖武天皇の天平勝寶七年筑紫に遣された防人で、下野國河内郡の上丁である。
 
かも【鴨】 水鳥の名。冬、雁より少し後れて來て、又、雁におくれて歸つて行く。種類が極めて多い。歌には、水に浮いてゐる處、殊に蘆邊に游んでゐるのが多い。渡り鳥としての鴨は、本集に見えてゐない樣である。又、此種類のものは、雌は頗る地味な色をしてゐるが、雄の羽色には、實に美々しいものがあるので、鴨の羽色と言うて賞讃されてゐる。
 
かもがは【賀茂川】 山城國。今、京都市中を縱貫して桂川に入る川。
 
かもじもの 枕。うく。かもじものは、鴨の如くと言ふ意味。浮ぶ〔二字傍点〕に續けた理由は、明らかに過ぎる。
 
かも‐の‐たるひと【鴨(ノ)足人】 傳未詳。長歌二首、短歌二首。
 
かも‐の‐ひめおはきみ【賀茂(ノ)女王】高市皇子の御子左大臣長屋王の女で、母は阿部氏である。
 
かも‐の‐やしろ【賀茂(ノ)社】 上下の二社がある。上社は賀茂別雷神社と言つて、祭神は賀茂別雷神で、山城國愛宕郡上賀茂村野山の麓にある。下杜は賀茂御祖神社と言ひ、祭神は別雷神の母玉依媛及び外租父賀茂建角見命で、同郡下賀茂村糺の森にある。何れも當國の一宮で、官幣大社であつた。其中で普通、賀茂神社と言へば、下社である。神武天皇の時、神(123)教によつて初めて神を祭り、欽明天皇の時、祟があつて、四月吉日の祭が起り、孝徳天皇の時、神戸十四烟、神田一町八畝を奉り、天武天皇五年神宮を造營し、元明天皇の和銅四年には、四月の祭に國司が檢察する事になつた。
 
かも‐やま【鴨山】 石見國津濃郡高津浦に鴨島と言ふ島があつて、古來、人麻呂終焉の地と傳へてゐるけれども、疑はしい。
 
かや‐の‐やま【可也(ノ)山】 筑前國志摩郡の可也山。今、親山と言ふ。
 
から‐あゐ【韓藍】 葉の形が藍の葉に似たので、※[奚+隹]頭を指すと言ふ(或は紅と同じだとも)。紅くて妖艶な趣のある處から、幾分、戀に關係あらしめて詠んだ歌がある。
 
からあゐ‐の‐はな‐の 枕。からあゐ〔四字傍点〕とは、はなやかな色合からして、あゐ〔二字傍点〕と言ふ處から、色に出る〔四字傍点〕の枕詞に用ゐたのである。
 
から‐くに【加羅國】 今の朝鮮の慶尚道地方で、崇神天皇の朝、其國王が來朝し、垂仁天皇の朝、本國に歸る時、任那の號を賜つた。で、これから任那は加羅の別號となつた。併、日本では、何時頃からか、任那のみならず、韓半島全體、それから支那、次に南蕃まで及して言ふ樣になつた。
 
から‐ころも 枕。きなら。からころも〔五字傍点〕は唐衣で、稍上等の品である。が、枕詞としてはから〔二字傍点〕には重きを置かない。只、衣を著馴らすと言ふ處から、きなら〔三字傍点〕につゞけたまでだ。因に、きなら〔三字傍点〕のき〔傍点〕には、別に意味はない。なら〔二字傍点〕は奈良である。
 
からたち【枸橘】 からたちばなの略。きこく。芸香科の落葉灌木。幹の高さ一丈餘、枝の變形した刺が多く、葉は掌状複葉。晩春の頃、小さな白色の五瓣花が咲き、秋になると、其實は熟して黄色になる。球形の漿果で柚子に似てるが、食ふ事は出來ない。わが國には生垣として各地に栽培せられてゐる。
 
から‐とまり【韓亭】 筑前國糸島郡。博多※[さんずい+彎]の入口の西の半島。韓土との交通船の碇泊地。
 
から‐の‐うら【韓(ノ)浦】 筑前國糸島郡。博多※[さんずい+彎]の入口の西部。韓土との交通船の九州に於ける碇泊地であつた。
 
から‐の‐さき【韓(ノ)埼】 筑前國糸島郡。博多※[さんずい+彎]の入口(124)の西の突端。
 
からの‐の‐しま【辛荷(ノ)島】 播磨國揖保郡室の津の海上にある小島。陸より數へて、地辛荷・中辛荷・沖幸荷とて、三島よりなつてゐる。
 
かり‐が‐ね 雁の音と言ふ意味であるが、轉じて、單にかり〔二字傍点〕と言ふと同じ樣に用ゐられた。候鳥の中でも、燕と正反對な時期を持つてゐて、殊に著名なものである。それに啼き聲に哀感を件ひ、又、支那人の想像になつた傳説故事などが一處になつて、古來の文學に、此鳥は度々用ゐられてゐる。
 
かりこも‐の 枕。おもひみだれて。苅つた菰《コモ》は、まだ編まない間は亂れやすいものだによつて、亂れる〔三字傍点〕に譬へたのである。
 
かりたか【※[獣偏+葛]高】 大和國添上郡。古の奈良の都の東方の地。
 
かりぢ【※[獣偏+葛]路】 大和國磯城郡多武峰の南の山中。
 
かるかや‐の 枕。苅る萱の束〔傍点〕とかけたのである。
 
かる‐の=みこ【輕(ノ)皇子】 天武天皇の太子草壁皇子の御子文武天皇の御小字で、母は天智天皇の第四女元明天皇である。寛仁温雅で、歴史を博く渉獵し、射藝にすぐれて居られた。慶雲四年六月十五日崩御せられ、倭根子豐祖父天皇と謚し奉り、飛鳥宮に火葬し、檜隈安古山陵に葬り奉つた。御治世は十一年(國史參照)。
 
かる‐の=みこ【輕(ノ)太子】 允恭天皇の長子木梨輕太子のこと。安康天皇の同母兄で、母は二派皇子の女皇太后忍坂大中姫である。允恭天皇二十三年立つて皇太子となられたが、允恭天皇の崩後、未だ位に即かれない内に、當時、美人のほまれ高かつた允恭天皇の妃で、同母味の輕大娘皇女(衣通姫)と通じて、「あしびきの、やまだをつくり、やまだかみ、したびをわしせ、したどひに、わがとふいもを、したなきに、わがなくつまを、こふこそは、やすくはだふれ(記七八)、また「さゝばに、うつやあられの、たしだしに、いねてむのちは、ひとはかゆとも、うるはしと、さねしさねてば、かりこもの、みだればみだれ、さねしさねてば(記七九)と歌はれた。で、朝廷の百官は、太子を去つて、御弟穴穗皇子(安康天皇)に歸したので、形勢を回復せんとして、大前小前宿禰大臣の家に逃れて兵器を備へたところが、穴穗部(125)皇子は兵を起して宿禰の家を圍んだ。其時、大變に氷雨が降つた。で、皇子は「おほまへ、をまへすくねが、かなとかげ、かくよりこね、あめたちやめむ(記八〇)と歌はれた。宿禰は悲しんで「みやひとのあゆひのこすゞ、おちにきと、みやひととよむ、さとびともゆめ(記八一)と歌つたが、遂に宿禰は太子を捕へて皇子に致した。太子は捕へられて、「あまだむ、かるのをとめ、いたなかば、ひとしりぬべし、はさのやまの、はとの、したなきになく(記八三)、また「あまだむ、かるをとめ、したゝにもよりねてとほれ、かるをとめども(記八三)と歌はれた。そして伊豫に流された。流される時に、また「あまとぶ、とりもつかひぞ、たづがねの、きこえむときは、わがなとはさね(記八四)、「おほきみを、しまにはふらば、ふなあまり、いがへりこむぞ、わがたたみゆめ、ことをこそ、たゝみといはめ、わがつまはゆめ(記八五)と歌はれた。そこで衣通姫は「なつくさの、あひねのはまの、かきがひに、あしふますな、あかしてとほれ(記八六)と歌はれ、遂に戀慕の情に堪へず、あとを追はれた時に「きみがゆき、けながくなりぬ、やまたづね、むかへをゆかむ、まつにはまたじ(記八七)と歌はれたが、太子は待ちかねて「こもりくの、はつせのやまの、おほをには、はたはりだて、さをゝには、はたはりだて、おほをにし、なかさだめる、おもひづまあはれ、つくゆみの、こやるこやりも、あづさゆみ、たてりたてりも、のちもとりみる、おもひづまあはれ(記八八)、また「こもりくの、はつせのかはの、かみつせに、いぐひをうち、しもつせに、まぐひをうち、いぐひには、かゞみをかけ、まぐひには、またまをかけ、またまなす、あがもふいも、かゞみなす、あがもふつま.ありといはゞこそ、いへにもゆかめ くにをもしぬばめ(記八九)と歌はれて、遂に自殺せられた。
 
       き
 
きがむ【牙?む】 き〔傍点〕は牙。齒?する容子の更に激しいもの。猛獣などの怒つた樣。
 
きゞし 雉子の古名。その鳴く聲によつて付けられた(126)名である。
 
きく【企救】 豐前國企救郡。今の小倉市附近一帶の地名である。
 
きこし‐めす【聞見す】 めす〔二字傍点〕は見るの敬語で、するの敬語にも用ゐる。お聞きなさる。國事をおとりなさる。
 
きこし‐をす【聞食す】 おす〔二字傍点〕は身につける意から出て治める意。きこす〔三字傍点〕は聞くの敬語で、國事を聞く意である。めす〔二字傍点〕が見るの敬語で、國事を見る意になるのと同樣である。
 
きさき【后】 天皇の妻妾で、後には多く皇后の場合に用ゐられ、太子・親王の妻にも適用せられた。
 
きさきべ‐の‐いはしま【私部(ノ)石島】 下總國葛飾郡の人で、聖武天皇の天平勝寶七年防人となつて筑紫に行つた。
 
きさ‐の‐なかやま【象(ノ)中山】 大和國吉野郡、吉野群山の一峰。
 
き‐すめり【着統めり】 着〔傍点〕は身につける意で、必しも衣服ばかりを言ふのではない。すめる〔三字傍点〕は、すぶ〔二字傍点〕の現在完了形で、統べてゐると言ふ事。玉を澤山一つの絲に貫いてつけてゐる。
 
きそ 過ぎ去つた時間は、すべて此語で現したものらしく、去年のこそ〔二字傍点〕と同じ語であらう。今では、昨日と説く事になつたがよくあるまい。過日。先日。いつか、など言ふべきである。又、きす〔二字傍点〕。
 
きそふ【競ふ】 我一にと爭ふ。元の意は、他を壓服する處にあつたものと考へられる。
 
きだ【段】 一つの物を幾つにも分ち切つた容子で、段階の意にも用ゐる。
 
きぬ‐がさ【華蓋】 菅でこさへたさし蓋と區別する爲に、絹張りの物を言うたので、唐風の輸入である。貴人の後から柄をもつて斜にさしかけ、天蓋風の布の兩端に曳綱がついてゐるのを、二人にひかせて、貴人を圍んで行くもの。卷三「天ゆく月を綱にさしわが大王《オホギミ》はきぬがさにせり(二四〇)と言ふのは、月を蓋と見立てたのである。
 
きぬ‐の‐おび【絹(ノ)帶】 絹布でこさへた上等の帶。
 
き‐の‐いでゆ【紀(ノ)温泉】 牟婁《ムロ》(ノ)温泉《イデユ》とも言ふ。紀伊國牟婁郡にある温泉の意で、東西南北の牟婁郡の湯の中、多くは鉛山・新宮兩温泉をさす。
 
き‐の‐いひまろ【紀(ノ)飯麻呂】 大納言正三位紀大人の(127)孫、式部大輔正五位下古麻呂の長男である。聖武天皇の天平元年三月外從五位下、八月從五位下に敍せられ、五年三月從五位上に上り、十二年九月藤原廣嗣の亂の時は副將軍となつて之を伐ち、十三年閏三月從四位下に進み、七月春宮大夫より右大辨に昇り、十六年九月畿内巡察使となり、十七年五月地震の時平城宮の掃除に當り、十八年九月常陸守、天平勝寶元年二月大和守、七月從四位上となり、孝謙天皇天平勝寶五年九月大宰大貮に遷り、六年四月大藏卿、九月右京大夫、十一月西海道巡察使、天平寶字元年六月右京大夫、九月右大辨となり、八月正四位下、參議に任じ、淳仁天皇天平寶字二年八月勅を奉じて官號を改正し、三年六月正四位上、十一月刑部卿となり、阿波守を兼ね、四年四月美作守に遷り、六年正月從三位に進み、病久しく、上表して退職を乞ひ、七月十九日散位で死んた。
 
き‐の‐いらつめ【紀(ノ)郎女】 鹿人の女で、小鹿と言ひ、春日王の御子、安貴王の妻である。短歌十二首。
 
き‐の‐かびと【紀(ノ)鹿人】 聖武天皇の天平九年九月外從五位下に敍せられ、十二月主殿頭となり、十二年十一月外從五位上、十三年八月大炊頭になつて居る。
 
き‐の‐きよひと【紀(ノ)清人】 國益の子。學者で、元明天皇和銅七年二月從六位上であつたが、詔を奉じて三宅(ノ)藤麻呂と共に國史の撰修に從ひ、元正天皇の靈龜元年正月從五位下に敍せられ、七月學士を優遇する意味で、穀百斛を賜り、養老元年七月また百斛を賜つた。五年正月には勅によつて退朝後、東宮に參じて居たが、文人武士は國家の重んずる所と言ふので、※[糸+施の旁]十五疋・絲十五絢・布三十端・鍬二十口を賜り、七年正月從五位上、天平四年十月右京亮、十三年七月治部大輔兼文章博士となり、十五年五月正五位下に進み、十六年二月難波行幸によつて、平城宮の留守をつとめ、十一月從四位下を授けられ、十八年正月には橘諸兄等と元正天皇の御所に詣り、酒宴を賜り、仰によつて雪を詠じ、五月武藏守となり、天平勝寶五年七月十一日散位で死んだ。
 
き‐の‐せき【紀(ノ)關】 紀伊國海草郡山口村の白鳥(ノ)關かと思はれる。關と言ふのは、要路國境などに置く所で、上代は專ら警察の爲であつた。神功皇后攝政の時、忍熊王の亂があつて、和氣關を置いたのが、記(128)録にある一番古いものであるが、孝徳天皇の時には、廳の法を定め、文武天皇の大寶元年には、更に詳細の規定が出來た。
 
き‐の‐とよかは【紀(ノ)豐河】 聖武天皇の天平十一年正月、正六位上から外從五位下に敍せられて居る。
 
き‐の=ひめみこ【紀(ノ)皇女】 多紀皇女とも言ひ、天武天皇の皇女、母は蘇我赤兄(ノ)大臣の女|大 《オホニ》娘、穗積皇子の同母妹で、弓削皇子とは異母兄妹である。弓削皇子の情人であるが、又、高安王と通じて、高安王は、伊豫守に左降せられた事がある。一品齋宮で、聖武天皇天平勝寶三年正月二十五日なくなられた。
 
き‐の‐へ【城(ノ)上】 大和國高市郡飛鳥村|木部《キベ》の地。舊説皆、舊廣瀬郡(今北葛城郡)としたのは、いはれのない事である。當時、特別の事情のない限り、諸皇子の常在處は都の附近であつたので、飛鳥に近い木部に殯宮を造られたのは、あるべき事である。
 (補)大和國高市郡。今、飛鳥村の内、木部《キベ》。地名に、の〔傍点〕を割り込ませる事は珍しい事ではない。きへ〔二字傍線〕・きのへ〔三字傍点〕など稱したのである。高市(ノ)皇子等の城(ノ)上殯宮の地を、舊廣瀬郡とするのは、ほとんど定説の樣になつてゐるが、地名を顧みぬ妄説で、長歌から見ても、廣瀬地方でない事は明らかである。
 
き‐の‐やま【城(ノ)山】 筑前國と筑後國との國境に當る山で、大宰府から筑後の國府に到る通路に當つてゐる。
 (補)筑前國筑紫郡山口村の南。今も城山《キヤマ》、又は坊中山と言ふ天智四年に大野城と共に椽《キ》(ノ)城を築かれたのは(紀)、此である。南は肥前國|養父《ヤブ》郡に跨つてゐる。此山城、又、記夷《キイ》(ノ)城《キ》・基肄《キイ》(ノ)城《キ》とも書いてゐる。
 
き‐の‐をかぢ【紀(ノ)男梶】 聖武天皇天平十五年五月外從五位下に敍し、六月弾正弼となり、十七年正月從五位下を授けられ、十八年元正天皇の御所で雪を詠じ、次で四月大宰少式、天平勝寶元年閏五月兵部少輔、二年三月山背守、孝謙天皇同六年十一月東海道巡察使となり、淳仁天皇の天平寶字四年正月和泉守に遷つた。
 
きはつく‐の‐をか【企波都久(ノ)岡】 仙覺抄に常陸國にあると書いてある。
 
き‐びと【紀人】 き〔傍点〕は紀の國の事。紀の國人。
 
きび‐の‐こしま【吉備(ノ)兒島】 備中國兒島郡。今は山(129)陽道の地續きになつて半島となつてゐるが、昔は海島であつた。小豆島と伯仲の間にある大きな島。
 
きび‐の‐さけ【吉備(ノ)酒】 吉備國から出る美酒。黍から釀した酒の事ではない。今の鞆の保命酒の類で、やはり藥として信ぜられてゐたのであらう。
 
きふ【來經】 どん/”\やつて來て去る。送迎に遑なき事に言ふ。來經《キヘ》行く月など。下二段活用。
 
きべ【伎倍】 遠江國麁玉郡にある。今の濱名郡積志村大字有玉の附近か。
 
きほふ【勢ふ】 競ふ〔二字傍線〕とは別の語である。ひどい勢ひでものをする。
 
きも‐むかふ こゝろ。枕。肝は臓腑の總名で、向ふは澤山集まつてゐる樣に言うたのである。肝は靈魂の存在する處と信じた考へから出た枕詞。
 
きよすみ‐の‐いけ【清隅(ノ)池】 大和國添上郡。奈良市の東南に當る。
 
きよみ【淨見】 今、大和國高市郡岡と上居《ジヤウゴ》に亙つた地と言ふ。飛鳥淨見个宮の故地。淨見个原・淨見个宮・淨見(ノ)川など、此地に關聯した名である。
 
きよみ‐が‐さき【清見个崎】 駿河國庵原郡。清見潟を擁して、突き出てゐる。
 
きり【霧】 今日言ふ降る小雨ではなくて、立つものであるから、靄《モヤ》・霞の類であるが、霞は薄く遠くこめてゐるもので、霧は水氣深いもの。又、水邊のしぶきにも、雨氣にも言ふ。
 
きり‐め‐やま【切目山】 紀伊國日高平原から、田邊平原に出る要地に當つてゐる。切目王子のあるところの山。
 
         く
 
くが【岫】 岫の字、支那では、山上小穴と説くが、わが國では、岡・山などの意である。岡の方言か。
 
く‐がね 黄金。又、こがね〔三字傍点〕。
 
くゝ【脱く】 くゞる。物の中をくゞり出る。身をあらはす。拔ける。か行四段活用。
 
くゝ‐たち【莖立】 野菜類の薹《タウ》の立つた物。
 
くゞつ 藁で編んで、物を容れて腰に吊る籠やうのもの。此くゞつ〔三字傍点〕を作る賤民をくゞつ〔三字傍点〕と言ひ、其部族から出る遊女を後世、又、傀儡《クヾツ》と言うたのである。
 
(130)くゝ‐みら【莖蒜】 蒜《ニラ》の莖。
 
くゝむ【含む】 外に顯さぬやうに、内に入れこめる容子を意ふ語。又、物の明らかに見えぬ籠つた樣にも言ふ。
 
くゝり‐の‐みや【泳(ノ)宮】 美濃國土岐郡。景行天皇の行宮。
 
くさか【日下】(補) 又、草香。河内國中河内郡の東、山ぎはに在る。大戸村日根市村附近に擴つた地名。日下氏・日下(ノ)大戸《オホヘ》氏などの本貫。大和國から河内・攝津に出るのに、此處に下りる日下(ノ)直越《タヾゴエ》(ノ)道がある(紀)。此地の上に在るのが草香山である。孔舍衙《クサカ》坂も、此直越の事であらうと言ふ。日下をくさか〔三字傍点〕と訓む訣は、古事記序にわからぬと言うてゐる。
 
 くさか‐え【草香江】 寢屋川流域の沼澤地。入り江の地形をしてゐたのである。
 
 くさか‐やま【草香山】 膽駒山を草香から越える道を孔舍衙坂と言うた(紀)處から見れば、膽駒山をも草香山と言うたらしい。
 
くさかげ‐の 枕。草が蓬々と茂つて、荒れはてゝゐると言ふ意味で、あら〔二字傍線〕につゞけたのであらうか。又蟻にかゝる語と言ふ。ある〔二字傍線〕・あぬ〔二字傍線〕などゝうけるのは、音轉であると説く。荒井(ノ)崎は、或は荒井《アルヰ》と讀むのかも知れぬ。又、思ふに、單にあ〔傍点〕の一語にかゝるのかとも思ふが、あ〔傍点〕の語意は、不明である。
 
くさかべ‐の‐みなか【日下部(ノ)三中】 聖武天皇の天平勝寶七年筑紫に遺された防人。日下部氏は彦坐命の子狹穗彦命の後である。
 
くさつゝみ 枕。やまひ。くさつゝみ〔五字傍点〕は、草を席として臥すと言ふ意味で、上代の旅寢の有樣である。かく草を褥として臥る時は、毒蟲の爲に害せられる事が多いと言ふ考へから、やまひ〔三字傍点〕の枕詞としたのであらう。
 
くし【串】(補) 竹木の類の削つた長め〔二字傍点〕のものを言ふ。物を插《サ》すと、貫《サ》すとの二つの用法がある。痛矢串《イタヤグシ》など言ふから、矢も一種の串なのである。串の重大な用途は、領有を標《シメ》す事で、地にも物にも、自分の物だとのしるし〔三字傍点〕に貫《サ》し、又、小さな物だと、其串の端に插す。神が、人界の物や地を領有する爲に、串を刺《サ》した事は、傳説に屡見える。人より神に獻る物も、串を貫《サ》し、又は串に插して、神自らがした樣に神物(130)のしるし〔三字傍点〕とする。本集のいぐし〔三字傍点〕は、淨地を劃して、神を請《コ》ひ下したのか、獻げ物に貫したのか、判然せない。齋杭《イグヒ》も亦此類であらう。語《カタリ》(ノ)臣《オミ》猪《ヰ》麻呂が、和邇《ワニ》を剖いて、串に掛けて道の傍に立てたのは、神助を謝する捧げ物であらう(出雲風土記)。
 
くし【櫛】 今のよりは大きくて、竹・黄楊などのがある樣である。色々な信仰を持つてゐたが、墓地にさした黄楊の櫛が、化生して木となつた處女塚の化生傳説なども、櫛を神聖視した爲であらう。
 
くじ‐がは【久慈河】 常陸國久慈郡。
 
くし‐げ【櫛笥】 櫛箱。櫛・鏡その他細々とした物を入れたらしい。櫛笥は、當時、女子に一種の神秘なものであるものと見られてゐたらしい。
 
くしろ【釧】 古、臂の邊に絡うて裝飾としたもので、今で言へば、腕輪の類。腕にしつかりとまいて居る處からして、卷九「わぎもこは釧にあらなむ(一七六六)、又、卷一「釧つく答志《タブシ》の崎(四一)などゝ歌うてゐる。金・布などのがあつた。
 
くしろ‐つく 枕。たぶし。釧は手の臂にまくもので、臂は手の關節であるから、釧を著ける手の節と言ふ意味で、たぶし〔三字傍点〕の枕詞としたのだ。
 
くす‐し【藥師】 「くすりし」參照。
 
くす‐だま【藥玉】 五月五日に柱・軒などに吊る續命鏤で、藥物を容れた袋を、中心に、種々の絲を貫き垂れ、香氣高い時の花などで飾つて、邪氣を拂ふもので、今に至るまで絶えない品である。五月の氣候交替の期を恐れたから起つたので、勿論、唐風の模倣ではあるが、我が國に於て、古くから發達してゐた日の忌の思想に合してゐるのである。
 
くずは‐がた【葛葉滷】 上野國赤城山中の大沼か。
 
くすり‐がり【藥獵】 五月五日に山野に入つて、藥餌として獣を狩る事である。之を食うて邪氣を拂うのである。
 
くすり‐し【藥師】 醫者である。古は藥をもる人も病を癒す人も同じであつた。大寶令によると、宮内省の典樂寮に三十人、衛府に各一人、諸國に各一人、大宰府に二人を置いて、官位は從七位・正八位に相當して居た。
 
くぜ【久世】 山城國久世郡。久世(ノ)社は、延喜式に大社十一社、小社十三社と見えてゐる、其中であらう。(132)久世の川原は、木津川の川原を言ふ。
 
くそ‐かづら 女青。かばねぐさ〔五字傍点〕とも言ふ。葉も花も蘿摩《カヾミ》に似てゐるものである。
 
くだ【小角】 笛に大角・小角の別がある。皆、獣角から作つたから、角の字を書くのである。くだらぶえ〔五字傍点〕の略かとも言ふが、よろしくない。
 
くたみ‐やま【朽網山】(補) 豐後國直入郡の北部|救覃《クタミ》(ノ)郷の南に、救覃|峯《ネ》があつて、活火山であつて、麓に川が流れてるのを神河と言ひ、其他にも、温泉の流れてゐる二筋の川があつた(風土記)。今、大船山、又、大仙と言ふのが其で、其近くの九重山・黒岳をも籠めて、朽網山だと言ふ。今、其西南の郡界の邊に在る久住山・久住村は、其名を殘してゐるのではなからうか。但、朽網といふ村名もある樣である。今一个處、出雲國|意宇《オウ》郡に、久多美山がある(風土記)。今、忌部村の地だと言ふ。又、楯縫郡にも玖潭《クタミ》郷がある。
 
くだら‐ぬ【百済野】 大和國廣瀬郡。もと百済人を置けるが故の地名であらう。
 
くつ【沓】 足に履いて歩く道具。足首をかくして履くので、一寸足袋に似てゐる。革製・木製・藁製などの種類がある。之をはくには※[革+蔑]を用ゐる。
 
くに【恭仁】 山城國相樂郡で、大養徳恭仁宮の址は、今の宮登大路の邊である。聖武天皇の天平十一年橘諸兄が此地を以て都に擬した。十三年天皇が行幸になつて、そこで朝賀を受けられ、伊勢神宮其他に奉幣して遷都の状を告げ、平城の二市を移して、鹿背山以東を左京、以西を右京とし、大養徳恭仁大宮と呼んで、十五年大極殿が出來上つた。併、費用がかかり過ぎる爲、更に紫香樂《シガラキ》宮を造つて、恭仁の造営を止め、十六年群臣を會して、恭仁・難波の二京の可否を問ひ、遂に難波に遷都してしまつた。その間、僅に四年である。
 
くにす【國栖】 くす〔二字傍点〕と清音で訓むが正しい樣である。大和國吉野土著の山人。井冰鹿《ヰビカ》・石穗別の子孫。淳朴で菓物を食物とし、蝦螟を上味として居た。京には近いが、交通があまりなかつた。よく歌ふ民で、白馬節會・蹈歌・新甞會・大甞會などに歌を唱つて、所謂國栖(ノ)奏をするのが例であつた。
 
くに‐はふる【國放る】 居る國を遠くする樣に放《ハフ》り出(133)す意で、唯、國を放り出すのではない。後の國遠。
 
くぬち【國内】 くにうち〔四字傍点〕の融合。家《ヤ》ぬちなどのぬち〔二字傍点〕は、のうち〔三字傍点〕の融合とも説けるが、くぬち〔三字傍点〕などから類推遊離したものと言ふべきであらう。領内。國は必しも六十餘州の國でなく、ある一地方をさす事は、勿論である。
 
くまげ【熊毛】 周防國熊毛郡。今、上の關を入つて、長島・佐合島と本土とで圍める※[さんずい+彎]を言ふ。
 
くま‐びと【肥人】 九州の南部に居住した人民で、普通、熊襲と言はれて居る。剽悍武勇を以て有名であつた。景行天皇の時、親征あり。又、日本式尊の征伐もあり。仲哀天皇の時にも王化に服せず。遂に神功皇后の韓半島征伐を見る程であつた。此民族に關して諸種の説はあるが、今は之を省く。
 
くまわ【隅囘】(補) くま〔二字傍点〕は隈。入りこんだ處。囘〔傍点〕は、曲線的な地形を表す語。くまわ〔三字傍点〕は、山にも、川にも、海にも言ふ。萬葉集古義では、くまみ〔三字傍点〕と訓み慣うてゐる。
 
くめ‐の‐ぜむし【久米(ノ)禅師】 天智天皇の朝の人、傳未詳。久米は氏で、禅師は名であらう。此頃は、君子とか、老子とか、阿彌陀とか、釋迦とか言ふ名さへあつた。久米氏は、武内宿禰五世の孫稻目宿禰の後(朝臣)、天足彦國押人命五世孫大難波の後(臣)、天津久米命、味耳命の後、道臣命の子味日命の後などがある。石川郎女に贈れる短歌三首がある。
 
くめ‐の‐つぐまろ【久米(ノ)繼麻呂】 天平頃の人。大伴家持が越中守であつた頃、共に越中國に居た事がある。廣繩の一族であらう。
 
くめ‐の=ひめおはきみ【久米(ノ)女王】 聖武天皇天平十七年正月從五位下に敍せられて居る。
 
くめ‐の‐ひろなは【久米(ノ)廣繩】 聖武天皇の天平二十年頃、大伴家持の下で、越中掾をして居た。武内宿禰五世の孫稻目宿禰の後である。長歌一首、短歌八首がある。
 
くめ‐の‐わくご【久米(ノ)稚子】 傳説上の人物。久米氏の公子であらう。紀伊國日高郡三穗(ノ)窟に隱れ棲んでゐた人。當時、既に神仙潭風の傳説が生じてゐるから、三穗(ノ)窟に、彼所謂久米仙人が棲んでゐたと信じてゐたのであらう。又、弘計(顯宗)天皇の御名である上、雄略天皇の手を避けて逃げ匿れられた事(134)實もあるから、地理に迂い人々の心には、紀伊國にも來られたのだと信じてゐたかも知れぬが、窟を神仙の居處とせずして、單に匿れ場處とのみ見たと言ふ弱點がある。
 
くも‐かくる【雲隱る】(補) 雲の中へ這入つてしまふ。地平線に沈む。眼界を去る。非常に遠くなる。
 
くもばなれ【雲離れ】(補) 雲が空中で、逢うたり離れたりする處から言ふのでなく、遠空の雲が遠く離れてゐる樣の意で、退《ソ》くに續く語。
 
くもりよ‐の 枕。くもりよ〔四字傍点〕は曇夜の義。物のあやめもわかぬ處からたどきもしらぬ〔七字傍点〕とか、まよふ〔三字傍点〕とか言ふ語の枕詞に置いたのである。卷十四にはしたばへ〔四字傍点〕と言ふ語にかけて居るが、これは、あからさまには打ち出さすして、自分の胸のうちに深く慕うて居る思ひを、丁度、曇夜の樣なと形容したのだらう。或は隱《コモ》り温泉《ユ》かとも思ふ。
 
くもゐ【雲居】(補) 居〔傍点〕は雲の止る時に言ふ語。雲のぢつと立つてゐる處と言ふ意で、今日、單に天空の意とするが、もつと雲の止り立つ處と言ふ意を適確に持つてゐたであらう。
 
くもゐ‐なす 枕。とほき。くもゐ〔三字傍点〕とは雲のかゝる處、即、天空の事で、以て遠き〔二字傍点〕の枕詞としたのである。これを「心いさよひ」の如きいさよひの枕詞としても用ゐてゐるが、此時には單に雲のたゆたふ貌を持つて來たもので、天空の意味は失はれて居る。
 
くら‐たに(補) 闇谷の意で、物凄い幽谷とするのが、普通であるが、くら〔二字傍点〕も、谷〔傍点〕も、古學者は、一つに説いてゐる。又、岩〔傍点〕をくら〔二字傍点〕と言ふ方言もあるから、岩谷の意かも知れぬ。
 
くらつくり‐の‐ますひと【※[木+安]作(ノ)益人】 傳未詳。村主を姓として居るところからみると、馬具を作つて居た漢民族の後らしい。
 
くらなし‐の‐はま【倉無(ノ)濱】 瀬戸内海の昔日の航路に當る一地であらう。所在未詳。
 
くらはし【椋橋】 大和國高市と十市とに亙つた山。川は其山より出て飛鳥川に入る。多武峰の端山。
 
くらはしべ‐うぢ【倉橋部氏】 椋椅部氏で、連は伊香我色乎《イカガシコヲ》命の後である。又、首は吉備津彦|五十狹芹《イサセリ》命の後である。
 
くらはしべ‐の=ひめおはきみ【倉橋部(ノ)女王】 椋椅部女王と言ふも、同じ人であらう。聖武天皇朝の人。神龜六年左大臣長屋王のなくなつた時、哀悼の歌を作つて居る。傳未詳。
 
くらもち‐の‐ちとせ【倉持(ノ)千年】 聖武天皇朝の人。傳未詳。行幸供奉の長歌二首、短歌八首。
 
くり‐たゝぬ【繰り疊ぬ】(補) 繰りよせ疊みかさねる。たゝぬ〔三字傍点〕は、たゝなはる〔五字傍点〕と發展するから、たゝむ・かさねるを、たゝぬ〔三字傍点〕とも言うた事は知れる。此語を使うた狹野(ノ)處女の歌は、ぐる/”\とまきかさねて、燒いてしまふと言ふのである。
 
くるべき【※[竹冠/(目+目)/隻]】 片絲をかけて繰る※[竹/(目+目)/隻]《ワク》。
 
くれ/\‐と【昏々と】(補) 目もくらくなる程。おさきまつくらに。今いふ、目がくら/\とするなどの類。又、明けた暮れたと言ふ意を、暮れた/\と言ふ風に言うた。表し方で、夜に日をついで、と言ふ風にも説けるが、恐らく前の方がよからう。
 
くれなゐ【紅草】 呉の藍〔三字傍点〕の略。紅花と言ふに同じい。莖や葉には刺があつて薊に似てゐる。又、花も薊に似て黄紅色である。其花から紅をつくる。瓣を摘んで紅をつくるので、末摘花とも言ふ。
 
くれ‐の‐さと【伎人(ノ)郷】 河内國。今、攝津國東成郡平野の南なる喜連の地と言ふ。此地、呉の伎樂師の住地だから伎人の字を用ゐる。
 
くろうし‐がた【黒牛滷】 又、黒牛の海とも見える。紀伊國日高郡。今の黒島の黒牛に似たるよりして、其附近の滷海に名づけた。
 
くろかみ‐やま【黒髪山】 大和國添上郡。奈良市の北方に當る山。
 
くろ‐き【黒木】 伐り倒して、皮を削り取らぬ木。
 
くろ‐き【黒酒】(補) 酒の一種。本集時代には、古代の酒として、萬事古式を則る大甞祭・新甞祭などの神事にばかり用ゐたものであらう。白酒に對してゐるから、色は黒かつたのであらう。後期王朝には、酒の熟した後に、常山木《クサギ》の灰三升を、一つの甕に和《マ》ぜ合せ、今一つの甕には容れぬ。容れた方が黒貴《クロキ》で、まぜぬ方が白貴《シロキ》(延喜造酒式)としてゐたが、武家の頃になると、白黒共に醴酒《ニゴリザケ》で、其儘のが白酒、黒胡麻の粉をまぜたのが黒酒(康富記)とする樣になつてゐる。段々古代の釀酒法が忘られて來た爲であらう。此等の酒、屠蘇の樣に酒の中に藥味を容れて飲(136)むと言ふ樣なものでなく、釀された初めから、色の黒くも白くもあつたものと思はれる。白井光太郎博士は、本集の物(天平勝寶四年)と、延喜式の物とは、作り方が違つてゐようとて、伊豆七島・九州四國の邊土で作る黒麹の酒を、其古代の風を傳へた、名詮自稱の黒酒だと言はれた(心の花第二萬葉號)。必しも、之を昔の儘の釀し方と言ふ事も出來ぬが、眞正の黒酒なるものと、さのみ遠い關係の酒ではあるまい。卷十九「天地と久しき迄に、萬代に、つかへまつらむ。黒酒白酒乎《クロキシロキヲ》(四二七五)。「由紀須伎二國の獻れる黒紀・白紀の御酒を、赤丹《アカニ》の頬に給へゑらぎ(續紀)。
 
くろほ‐の‐ねろ【久呂保(ノ)嶺ろ】 上野國。今の赤城山中の黒檜山をさすらしい。
 
くろ‐ま【黒馬】(補) くろうま〔四字傍点〕の融合した名詞。又、くるま〔三字傍点〕。更に器械化したものはこま〔二字傍点〕(駒)で、黒馬(こま)であるのに、小馬《コマ》だとか、高麗馬だとか説くのは、おもしろくない。
 
くわた【華他】(補) 後漢の方士。字は元化と言つて、沛國の※[言+焦]人である(後漢書)。
 
ぐわんごう‐じ【元興寺】 もと大和國高市郡飛鳥に在つたのを、遷都後、平城左京七坊に移して舊名の儘、元興寺を稱してゐた。元來、舊都第一の寺で、古くから飛鳥附近にあつた四大寺を合したもので、寺の四門に豐浦寺・葛城寺・法興寺・元興寺の額を懸けてゐたと言ふ。通常、葛城寺と言ふのは、是である。葛城(ノ)大臣蘇我蝦夷の尊信によつて、かう稱せられたものと見える。奈良移轉の後も、飛鳥寺・葛城寺などゝ稱してゐる。
 
くわんぜおむ‐じ【觀世音寺】 天智天皇が齊明天皇の爲に誓願寺としたものであるが、出來上らないでゐたのを、元明天皇の和銅二年に滿誓に命じて造らしめたので、筑前國にある。
 
ぐわんにん【元仁】 未詳。吉野川を詠じた短歌三首がある。
 
      け
 
‐け(補) 形容詞連用形と、あり〔二字傍点〕の融合した形。「けなくに」參照。
 
(137)け‐ 接頭語。氣の意味と説くのも理由がある。け近し・けさやかに、など使ふ。
 
け【笥】 物を容れる道具。道具にけ〔傍点〕・か〔傍点〕など言ふ語尾を持つてゐるのは、皆これで、緒笥《ヲケ》・櫛笥《クシケ》・平盞《ヒラカ》などは、此である。
 
け【日】 日本語には、時間の日を表すのに。ひ〔傍点〕・か〔傍点〕の二語を用ゐる。ひ〔傍点〕の方の太陽と誤り易いので、暦日的には多くか〔傍点〕の系統を使ふ。數詞に接する時は、多くか〔傍点〕。日數など單に、日《ヒ》と言ふ場合には、け〔傍点〕を使ふので、日《ケ》竝《ナラ》べて・日にけに(日に異にと考へるのは、言語情調に偏してゐるのである)・け長しなど言ふ。
 
けいぞく‐を=またく‐す【全2經俗1】(補) 經は常である。管子重令篇に、「朝(ニ)有(リ)2經臣(ガ)1、國(ニ)有(リ)2經俗〔二字右○〕(ガ)1、民(ニ)有(ル)2經産(ガ)1と見えてゐる。
 
け‐ごろも【褻衣】 普通《ツネ》の場合をけ〔傍点〕と言ひ、晴れがましい公然たる場合ははれ〔二字傍点〕と言ふ。「けにもはれにも」など、後世に言ふのも、同じ意である。け〔傍点〕の本義は日で、日常の意であらう。平常の着物。
 
け‐ごろも【裘】 毛のついた儘の獣の皮でこさへた着物。後世の袖なしの樣にしたてゝ上に着たのである。中には鹿などの角のついた儘のもある。
 
けし【異し】 變つてゐる。變である。妙である。をかしい。あやしい。善良を普通とするに對して惡しい事にも言ふ。但、終止形はまだ出來てない。
 
けたし【蓋】 漢文脈に用ゐるけたし〔三字傍点〕とは、少し用語例を異にしてゐる。もしも〔三字右・〕・ひよつとすると〔七字右・〕など譯するがよい。
 
けた‐の‐おほむ‐みや【氣多(ノ)大神宮】 能登國羽咋郡一宮村の氣多神社で、能登國の一の宮で、元國幣大社であつた。祭神は大己貴命で、創建は詳でない。崇神天皇の朝に、勅命で建立したと傳説せられて居る。天武天皇の時、造営せられ、稱徳天皇の天平神護元年神封三十戸を充てられ、神護景雲二年十月更に封二十戸、田二町を寄せられて居る。
 
けつ【消つ】 消す〔二字傍点〕の古形。四段活用。
 
け‐ながし【日長し】 け〔傍点〕は來經の約だとするのはよくない。け〔傍点〕は日《ヒ》の意であるが、ひ〔傍点〕よりは用語例廣く、相當に長い時間に通じて言ふので、けながし〔四字傍点〕は月日長く經てゐると言ふ事になる。
 
‐け・なく‐に(補) ……からなくに。け〔傍点〕は形容詞の連(138)用形とあり〔二字傍点〕との融合した形で、ら〔傍点〕行音が自然に脱落したものと見るべきである。此け〔傍点〕の語尾の伴ふ形は、將然形は固より、終止形も連體形(「かなしけ」參照)もある樣に見える。け〔傍点〕を又、東語ではか〔傍点〕と言うた事もあつたと見えて、卷十四「まさかし余加婆(三四一〇)。同「國の登保可婆《トホカバ》(三三八三)などある。此等、けら〔二字傍点〕・から〔二字傍点〕のら〔傍点〕を省いたとのみ言はれない。卷十六「法師らが髭の剃りくひ、馬つなぎ、いたくな牽きそ。法師半甘(三八四六)の半甘は、當時、なから(半)をなけ〔二字傍点〕とも言ふ事があつた爲に、なげかむ〔四字傍点〕に宛てたものだらう、と三矢重松先生は言はれた。「うらがなしけむ」「汝《シ》が無けば」「現《ウツ》しけめやも」など、皆から〔二字傍点〕に當る形である。「−からぬ」に對するものは、更にく〔傍点〕+に〔傍点〕を加へた副詞形として覗はれる。卷一「わが大君。ものな思ほし。皇神《スメカミ》のつぎてたまへる君|莫勿久爾《ナケナクニ》(七七)。卷四「わが夫子《セコ》はものな思ほし。事しあらば火にも水にも。吾|莫七國《ナケナクニ》(五〇六)。卷十七「嘆くそら夜須家久奈久爾《ヤスケクナクニ》(四一六九)。卷十一「今だにも目なともしみそ。あひ見ずて戀ひむ年月|久家莫國《ヒサシケナクニ》(二五七七)。卷十五「旅といへば語《コト》にぞ易き。すくなくも妹に戀ひつゝすべ奈家奈久爾《ナケナクニ》(三七四三)。此中(二五七七)は、久しけまくに〔六字傍点〕の誤りかと言ふ説が當つてゐる樣であるが、尚、考へる餘地がある。他は皆、けくなくに〔五字傍点〕のく〔傍点〕が脱したのだとは言はれぬ。又、卷十九「立つ雲をよそのみ見つゝ、歎くそら夜須家久奈久爾(四一六九)なども、やすけなくに〔六字傍点〕の衍文かと思はれるが、卷十「清在莫國(二一九八)、卷十二「遠有莫國(三一三四)までを、さやけ〔三字傍点〕(きよけ)なくに〔三字傍点〕・とほけなくに〔六字傍点〕と訓むか、疑ひがある。
 
けなば‐けぬ‐か‐に なば〔二字傍点〕は、ぬれば〔三字傍点〕に對する將然條件で、「かうすると言ふと、かうなるが常である」と言ふ意を持つてるのだが、下のぬ〔傍点〕と相俟つて、其意が愈明らかになる。消えると言ふと、後の物が消えるときまつてると言ふ意に副詞語尾のか〔傍点〕‐に〔傍点〕がついたものである。けなばけぬべく〔七字傍点〕のべく〔二字傍点〕も、かに〔二字傍点〕に同じで、後に、風になど譯する語であるから、其意は一つである。
 
けひ【飼飯】 越前國敦賀郡。飼飯神宮のある浦。又、淡路國津名郡慶野の地。本集には兩處とも見える。
 
(139)‐けむ けり〔二字傍点〕が器械的になつて、け〔傍点〕が過去の意を有つ樣になつて、其がむ〔傍点〕に接したので、過去想像を現す。「あの時あゝだつたけ」など言ふけ〔傍点〕で、過去の事實を知り乍ら、記憶を喚び起す樣な風に言ふ處にむ〔傍点〕が入つて來たので、あつたげなのげ〔傍点〕も是である。「大汝少彦名のいましけむ」は、大汝少彦名の神の入らつしやつたけ、その志都の岩屋と言ふ意である。
 
げむしよう【玄勝】 傳未詳。
 
けむぜい‐し【檢税使】 臨時官で、五畿七道に出張して、國司の財政を點檢してあるく役目である。毎道に使一人、判官・主典各一人を置いた。光仁天皇の寶龜七年七月に始つたのである。
 
けもゝ【毛桃】 桃の一種で、花も實も共に、大きく、果皮には細毛が密生してゐる種であらう。
 
けり【著り】 きあり〔三字傍点〕の融合。著てゐる。尤、古くは、著る〔二字傍点〕は、か行四段に働いた樣である。
 
けり【來り】 來てゐる。來た。
 
‐けり 助動詞。前條の語から出たので、動詞の過去の意を表す。又、詠歎の意も、既に本集には、胚胎せられてゐる樣である。
 
       こ
 
こう‐じ【講師】 「こくし」をみよ。
 
こが【滸我】 下總國結城郡。古の利根川の河畔。滸我のわたりは、利根川の經津。
 
こ‐かしふ【古歌集】 藤原宮時代より奈良朝の初期までの歌を収めた集で、著者は詳でない。集中に引用したゞけで實物は傳つてゐない。短歌が最多く、長歌・旋頭歌も少々はある。多くは作者や作つた時日の傳つてゐない歌であるが、中には作者の知れてゐるのも、此集から出てゐるのがある。
 
こ‐がた【粉滷】 越の國の海濱の名。所在未詳。
 
こく‐し【國師】 萬葉集にある國師は、文武天皇の大寶二年に諸國に置かれた國師で、延暦頃には大・上國は大國師一人、少國師一人、中・下國は國師一人を任じて居た。延暦十年からは講師と改稱した。
 
ごくすゐ【曲水】 春の日の光うらゝかな三月の三日に、小流に臨んだ所々に席を設け、上流から羽觴を流すのを取つて酒を汲みながら兼題の詩を賦し、畢(140)つて宴を設けて披講するので、日暮れても歸るのを忘れた。此事は、顯宗天皇の頃からあり、初めは三月上巳であつたが、聖武天皇の頃には、三月三日になり、愈盛んに行はれたのは、此頃からである。
 
こじき【古事記】 天武天皇が當時、諸家の記録の實に違ふを歎いて、稗田阿禮に參酌大成した古傳説を傳へられたのを、其後、元明天皇の朝、和銅五年太安麻呂が勅により、稗田阿禮が述べる所を文章に綴つたのである。此書には、古代の歌謠百十一首を含んでゐる。仙覺抄引用の風土記逸文にも、此書の名が見える。
 
こし‐の‐おほやま【越(ノ)大山】 越中國婦負郡。
 
こ‐しま【兒島】 備前國兒島郡。今の兒島半島が、昔は海島になつてゐたのだ。兒島の神は、此地に在つて海路を司る神。其神に幣を手向けて渡航するのだ。
 
こすげ‐ろ【小菅ろ】 武藏國葛飾郡。下總國に近いところ。昔は海が近くあつた。
 
こせ【巨勢】 大和國に二个處ある。一个處は高市郡、一个處は南葛城郡。歌に多く見えたのは、高市郡の方らしい。輕(ノ)大路を經て紀伊國へ行くには、必、此處を通るので、輕・諸越の衢と言ふのは、即、此處であらう。巨勢野も此あたりの野、巨勢山は舊|掖上《ワキガミ》と高市とを分界する丘陵であらう。巨勢路は、輕(ノ)大路の續きを言ふのであらう。
 
こせ‐の‐いらつめ【巨勢(ノ)郎女】 壬申亂に弘文天皇に與して、天武天皇の軍を犬上川の濱に破つたが、遂に弘文天皇の軍敗れて流された大納言巨勢臣比等の女で、大伴安麻呂の妻。旅人・田主等の母である。
 
こせ‐の‐すくなまろ【巨勢(ノ)宿奈麿】 聖武天皇の神龜五年五月外從五位下に敍せられ、天平元年には少納言、三月從五位下となり、五年三月從五位上に進み、九年には左少辨であつた。巨勢氏は、姓は朝臣、石川朝臣と同祖で、孝元天皇の皇子彦太忍信命の後、巨勢雄柄宿禰の末である。
 
こせ‐の‐とよひと【巨勢(ノ)豐人】 天平頃の人、字を正月《ムツキ》麻呂と言つて、大舍人であつた事がある。當時、巨勢斐太と共に色が黒かつたので、土師水道に歌でわらはれた。
 
こせ‐の‐なでまろ【巨勢(ノ)奈※[氏/一]麻呂】 中納言巨勢大紫比登の子で、聖武天皇の天平元年三月外從五位下に(141)敍せられ、三年正月從五位下、八年正月正五位下に進み、九年八月造佛像司長官となり、九月從四位下に進み、十年正月民部卿となり、十一年四月春宮大夫を兼ね、參議に任じ、十三年閏三月從四位上に進み、四月河内と攝津とが川の堤について爭つた時、之を※[手偏+嶮の旁]※[手偏+交]し、更に七月勲十二等で左大辨兼神祇伯となり、同月正四位上に進み、金牙で飾つた班行の杖を賜り、九月恭仁に都を遷した時、造宮卿をつとめ、十四年二月從三位に進み、信樂宮に行幸のあつた時は、留守を承り、十五年五月中納言に進んで、また信樂行幸の留守をつとめ、十六年二月には鈴を持つて難波宮に詣り、十七年八月難波宮行幸にまた留守を仰せ付かり、巨勢朝臣等長年の訴によつて二百三人の奴婢を良民にかへし、十八年四月北陸・山陰兩道の鎭撫使を兼ね、二十年二月正三位、天平勝寶元年四月從二位大納言、五年三月三十日大納言從二位兼神祇伯造宮卿の榮位を以て、順調な生活を終つた。
 
こせ‐の‐ひだ【巨勢(ノ)斐太】 天平頃の人、雄柄宿禰四世の孫、稻茂男荒人の後で、從五位上刑部少輔島村(ノ)大夫の子である。巨勢豐人と共に色が黒いので嗤笑せられた歌(三八四五)がある。
 
こそ【許曾】 所在未詳。
 
こそべ‐の‐つしま【巨曾倍(ノ)對馬】 聖武天皇の天平四年八月山陽道節度使の判官で、外從五位下になつて居る。橘諸兄の家で宴會のあつた時、歌を詠んで、諸兄が之に答へて居る。許曾倍氏は孝元天皇の皇子大彦之命の後で、姓は朝臣である。
 
こづみ‐なす 枕。こづみ〔三字傍点〕は木屑で、水流に漂ふ木片である。こづみ〔三字傍点〕の漂着する如く、心がよると續くのである。
 
こと‐おろば‐ふ【言喚ばふ】(補) 口やかましく騷がれる。ひどく評判を立てられる』。こと〔傍点〕は言〔傍点〕。おろばふ〔四字傍点〕はおらぶ〔三字傍点〕の再活用であるが、所相の意を持つてゐる。おらぶ〔三字傍点〕は聲を激まして物を言ふ事で、罵られるなど言ふ内容もある樣である。
 
ことさけを 枕。こと〔二字傍点〕は琴〔傍点〕、さけ〔二字傍点〕は酒〔傍点〕、心を慰める琴や酒も、これには壓倒せられると言ふ意味でおしたる小野〔六字傍点〕に連接して居る。ことさけを〔五字傍点〕は、此歌の民謠なる性質上、傳誦の間に、謠ひ訛つたもので、こ(142)とさけは〔五字傍点〕の音轉かと考へる。
 
こと‐さへぐ 枕。わけが訣らずにゐて、喧しく聞える事をことさへぐ〔五字傍点〕と言ふ。支那人や朝鮮人の語は、只、躁しく聞えるばかりで、一向にわからなかつた處から、唐〔傍点〕・百済〔二字傍点〕の枕詞としたのだ。
 
ことひ‐うし【特牛】 枕。牡牛の殊に強いのを特牛〔二字傍点〕と言うたのである。今も各地方で牡牛をことひ〔三字傍点〕・こてい〔三字傍点〕など呼ぶ。上代に於て、朝廷で、ことひ牛を飼つた事があるによつて、寮飼《ミヤカヒ》を起し、其約音たるみやけ〔三字傍点〕につゞけるのである。
 
こな 未詳。但、こな〔二字傍点〕は越〔傍点〕で、こなのしらね〔六字傍点〕は、今の加賀の白山を言ふか。
 
こ‐なぎ【小水葱】 水葱の葉の細いのを小水葱と言ふ。小水葱は水葵の類で、古くは羮物などにして食べたものらしい。思ひがけぬ田の中で、薄紫の美しい花が咲く。其で、やがて可愛い若い女などに譬へて用ゐてゐる。
 
こぬみ‐の‐はま【許奴美(ノ)濱】 常陸國鹿島郡。今の大洗の濱。
 
ご‐の‐だむをち【碁(ノ)檀越】 傳未詳。碁は氏、檀越は名。碁師を職とした部曲の民であらう。
 
このて‐がしは【子手柏】 檜の類で、葉は檜葉《ヒバ》の葉に似て、掌を立てた樣である。
 
こば【古婆】 武藏國橘樹郡。
 
こはた【木幡】 山城國宇治郡。木幡山の下。
 
こはま【粉濱】 攝津國住吉郡の濱。今の粉漬から北方へ亙つた地。
 
こひ‐ぐさ【戀草】 「人に戀ふ」と言ふ心理上の現象を、物に寄せて思を陳ぶる必要からして、草を以て現したのだ。戀草と言ふ草。形而上の事を形而下の物を以て現すのだから、一致點などは無い。下の例歌に於ては量の多い事を想はしめる。これは馬草として取り扱つてゐる事から起る性質で、「力車に七車」から呼び起すのでは無い。戀草のくさ〔二字傍点〕には後世、同種の用例の如く、人に戀ふる種・戀情を起す材料など言ふ樣の種〔右・〕とか、材料〔二字右・〕とか、もと〔二字右・〕とか、しろ〔二字右・〕とか言ふ意味は無い。卷四「戀草を力車に七車積みて戀ふらく我が心から(六九四)。
 
こふ‐の‐はら【子負(ノ)原】 筑前國糸島郡深江村。
 
こべ‐の=おはきみ【子部(ノ)王】 天武天皇朝の人らしい(143)が未詳。
 
こべ‐の=ひめおほきみ【兒部(ノ)女王】傳未詳。大和國十市郡兒部に居られたらしい。
 
こま‐しま【狛島】 肥前國松浦郡。韓土へ向はうとする船の、九州に於ける最後の碇泊地である。
 
こま‐つるぎ【高麗劔】 枕。古渡りの朝鮮劔には柄頭に環のついてるのは、古墳などから發掘せられるものによつて、今も見る事が出來る。即、其わ〔傍点〕とかけたのである。
 
こま‐のふくしぬ【高麗(ノ)福信】 高麗氏は、高勾麗王好臺の七世孫延興王の後で、武藏國に移住した。高麗と言ふ名稱は、高勾麗の首府丸都から出たのであらう。丸は朝鮮語でこま〔二字傍点〕と言ふのである。福信は武藏國高麗郡の人と言ふから、此子孫であらう。本姓を背奈と言つて、其祖福徳の時、唐の將軍李※[貴+力]に屬して平壌城を拔いたが、日本に來て、武藏國に居たと言ふから、福徳も延興王の後であらう。福信は福徳の孫で、初め右衛士の大志として身を起したが、聖武天皇の天平十年三月に外從五位下に敍せられ、十五年五月從五位上から正五位下、六月に春宮亮となり、十九年六月背奈王の姓を賜り、二十年二月正五位上に進み、天平勝寶元年八月中衛少將から、紫微少弼を兼ね、次で十一月從四位上を授り、二年正月高麗朝臣の姓を賜り、四年命を奉じて難波に遣唐大使を餞し、孝謙天皇の天平寶字元年五月正四位下に進み、橘奈良麻呂の亂に、兵を率ゐて小野東人を捕へて功があつた。淳仁天皇の同四年正月中務大輔となり、七年正月但馬守に遷り、稱徳天皇天平神護元年正月從三位に敍せられ、神護景雲元年三月造宮卿・但馬守で法王宮大夫を兼ね、光仁天皇寶龜元年八月更に武藏守を兼ね、四年三月楊梅宮が出來上り、七年三月より近江守を兼ね、十年三月高倉朝臣の姓を賜り、桓武天皇の天應元年五月弾正尹となり、延暦二年六月再び武藏守を兼ね、四年二月上表して免官を乞うて杖と衾とを賜り、八年十月十七日散位で死んだ。彼は初めは惠美押勝と結び、其失脚と共に道鏡の處に入り、邊陬の蕃民より立つて、從三位弾正尹の榮位を克ち得た才子であつた。
 
こまやま【狛山】 山城國相樂郡。泉河に臨める山。催馬樂に、山城の狛のわたりの瓜作りと言ふ歌がある(144)のは、此附近である。
 
こむ‐の‐みやうぐん【金(ノ)明軍】 大伴旅人の資人で、新羅人の後であらう。
 
こもだゝみ【薦疊】 枕。編む事をふ〔傍点〕と言ふ。即、薦疊|編《ヘ》とかけたのであるが、又、一重二重と重るからだとも言ふ。「八重だゝみ」と言つて居る場合もある。へ〔傍点〕は重動作の名詞である。
 
こもち‐やま【子持山】 所在未詳。山形の大なるが、小さき山を持てる故の名であらう。
 
こもりく‐の 枕。こもりくは隱國、即、こもつた處と言ふ義。初瀬は四方の山に取りかこまれた處に位置して居るから、かう言つたのであらう。くに〔二字傍点〕を單にく〔傍点〕と言ふのは珍しくはない。吉野の久孺を國栖《クニス》とも宛てゝ居る。而して其くに〔二字傍点〕は一地方を指すので、郡をも亦言ふ事がある。
 
こら‐が‐て‐を 枕。こら〔二字傍点〕は子等で、こゝでは女子を意味して居る。可愛い女の手を枕として寢ると言ふので、まきむく山にかけて言うたのだ。
 
こり【香】(補) かう』。梵語 Gandha.音譯健達。四香の中の好香の事。※[鼻+臭]ぐと心念を沈靜させ、清淨にならせる信心の媒介物。木|片《ギレ》や瀝青《ヤニ》で作る物が多い。本集時代にも薫陸香・沈水香・淺香・青木香・白檀香・丁子香・安息香・甘松香・楓香・蘇合香(法隆寺資財帳)など言ふ名目がある。すべて佛前で焚いて、供養する外には藥用に使うてゐたが、平安朝に入ると、化粧・遊戯の料にも用ゐる樣になつた。香には、塗香《ヅカウ》・抹《マツ》香・丸香・香水の種類があつて、抹香・丸香は燒香に使ふ。香水は佛像・行者にふりかけたり、地に撒いたりする。(塗香は次條參照)こり〔二字傍点〕を香〔傍点〕の音轉とするのは理のない事である。Kongと當時發吾せられてゐたはずの香を、訛つたものとも受けとれぬ。恐らく朝鮮語のKhomg(鼻)などゝ關係があらうと思ふ。
 
 こり‐ぬる【香塗る】 塗香《ヅカウ》を塗る事。佛像、又は行者の身に塗香を塗つて、穢れを去り、邪氣を近づけぬ樣にするのである。本集のは塔の壁・柱などに塗香したのを斥すのである。
 
ころ【子等】 子等《コロ》と言ふのと同じ事である。此ろ〔傍点〕にはなつかしみがある。子ろと言うても、一般的に人を指すので無くて、特定の人を指してゐるのだ。卷十(145)四「春の野に草|養《ハ》む黒馬《コマ》馬の口止まず吾《ア》をしぬぶらむ家の子ろはも(三五三二)。同「かの子ろと寢ずやなりなむはた薄うら野の山に月かたよるも(三五六五)。妹ろ・夫《セ》ろと言ふ例もある。
 
ころく 鵡の鳴聲である。今いふ「かあ/\」に同じ。萬葉人は馬の嘶を「い」と聞き、蜂の唸聲を「ぶ」と聞いてゐる。神樂歌には鶏の鳴聲を「かけろ」と現してある。卷十四「鴉とふ大をそ鳥のまさでにも來まさぬ君をころくとぞ鳴く(三五二一)。此「ころく」は「子等來《コロク》」と懸詞になつてゐる。
 
ころふす 用意をして寢るので無くして、たゞ其儘に横になる。まろねする。ごろねする。自伏〔二字右○〕の字を訓む事になつてゐる。さ行四段活用の動詞。卷二「何しかも我大君の立たすれは玉藻の如く、ころ伏せば川藻の如く、靡かひし宜しき君が(一九六)。 同「浪の音の繁き濱邊をしきたへの枕になして、荒床にころ伏す君が家、知らば行きても告げむ(二二〇)。
 
ころも‐かすが‐の【衣春日の】 衣を貸すと春日と言ふ地名とを懸詞にしたので、ころも〔三字傍点〕は枕詞である。雨ふる川(降る−布留)、袖ふる川(振る−布留)などの例もあり、後のものには、衣かりがね・衣かせ山など全く同趣の用例がある。かう言ふ短い枕詞は單獨にも用ゐられるが、更に其上に修飾の語句を添へて序歌の體としたものが多い。卷十二「我妹子に衣かすがの吉木川よしもあらぬか妹が面を見《メ》む(三〇一一)。修飾の語句なしに短い枕詞を使つた例、卷十二「吾妹子や吾を忘らすな石の上袖ふる川の絶えむと思へや(三〇一三)。
 
ころもで【衣手】 袖の事である。
 
 ころもで‐の と言ふ枕詞は、袖の聯想から、ひだ〔二字傍点〕・なぎ〔二字傍点〕・たなが〔三字傍点〕等にかゝるのである。
 
       さ
 
さ【箭】 そ矢〔二字傍点〕の約とも言ふ。柄の短い道具をすべてさ〔傍点〕と言ふ處から、分化して箭の事になつたのであらう。
 
さ‐ 接頭語。小・細・少などの言語情調を既に含んでゐるものもあるが、狹《サ》を宛てるのは、よくない。
 
(146)さうもん【相聞】 支那での用例は、文選・南史張邵傳に見えて居る。文選の註には、聞は問也とある。文選は奈良朝時代に、日本で書寫した記録さへ存して居る位であるから、萬葉集に於ける「相聞」の字は、多分、支那語を襲用したものであらう。「あひぎこえ」と讀むと言ふ説もあるが、其根據は見出されない。現存の萬葉集に於ては、後世の戀歌の意味に用ゐてゐるが、原義は贈答の意味で、原始萬葉集に於ては、原義を以て用ゐられてゐたものである。卷四に「雖v絶2數年1後會相聞往來」とあるは、原義に近い。(一本には相問往來に作つてゐる)。相聞往來の字面は、卷十一・十二・十四にも見えて居て、或は柿本朝臣人麻呂集に用ゐられた字面かとも思はれる理由がある。
 
さえ【采】 今日の物でなく、對局二人、盤を隔てゝめいめいに筒《ドウ》をとり、共に五六個の石を容れてふつて、盤上に竝べるのである。「すぐろく」參照。
 
さおり‐の‐おび【さ織の帶】 さおり〔三字傍点〕は、外來の織り方。小目《サメ》であらうと言ふ。花やかな帶であらうと考へられる。織り方、色目其他不明である。
 
さか【尺】 長さを計る語。古く八尺瓊《ヤサカニ》など言ふさか〔二字傍点〕と、本集のさか〔二字傍点〕とは別で、萬葉集時代には、既に支那尺の影響を受けて、尺をさか〔二字傍点〕と訓んで、古來の尺法の語と情調の混同を來してゐる。粗、古代尺の一尺と見てよからう。但、八尺の八〔傍点〕は、必しも拘泥する必要はない。
 
さかき【賢木】 深山の木。扁栢科の木。常緑樹である處から、神が常に宿る處と言ふ觀念を生じたものであらう。其爲に神の在處を示す木として、神前には、おもに此木を用ゐたので、必しも神の依る木は、賢木とも限つてゐない樣である。賢木でなくて、榮《サカ》木とも、境木だとも、語原には説がある。
 
さかし【賢し】 賢い。其人に對してゐると、自分がより處なく思はれるやうな危惧の感から出た語であらう。尤、本集以前、既に賢《カシコ》いと言ふ語が畏しいと言ふ意のない場合にも使はれてゐるから、本集でもかしこし〔四字傍点〕と訓んでもよい。
 
さかし‐ら‐に 副詞。に〔傍点〕は副詞語尾。賢々しく。賢ぶつて。必しも、賢でなくて賢ぶると言ふ意でない。賢であつても、其賢をわざ/”\面に現すと言ふ場合(147)には言ふ事である。
 
さかた【坂田】(補) 大和國高市郡。今、高市村坂田の地から奥、稻淵・栢森《カヘノモリ》邊迄も廣がつて言つたのであらう。小墾田の坂田(本集)とも、南淵の坂田(紀)とも言ふ。此地が、飛鳥川上流の南淵地方と、下流の岡本飛鳥との中間に在つた爲であらう。元は南淵の地で、鞍作氏の寺があつたのに、推古天皇の朝に、近江國の坂田郡の地を寄せられた爲、寺を坂田尼寺、此地を坂田と言うたのだらう。
 
 さかた‐の=はし【坂田(ノ)橋】 飛鳥川に架けた木橋。下流の川原(ノ)橋などゝ共に、當時、石竝《イシナミ》の石橋《イハヽシ》の多かつたのに對して、注意を惹いたのだらう。
 
さかたべ‐うぢ【坂田部氏】 未詳。坂田氏所管の部曲か。
 
さかて【坂手】 大和國磯城郡。初瀬川の右岸。
 
さかと‐うぢ【坂戸氏】 又、尺度とも書く。本貫は大和國高市郡。
 
さかと‐ら【坂戸等】 坂戸氏の人を親しんで言うた語。ら〔傍点〕は複數ではない。
 
さかとり【坂鳥】 山を越える群鳥は、最低い峯の凹處、即、人の越える坂の上を渡る。其坂にとなみ〔三字傍点〕を張つて、朝の鳥を捕へる事などについて言ふ。
 
 さかどり‐の 枕。朝立つ〔三字傍点〕を起す。坂鳥は朝、大勢、相連つて行くからである。
 
さか‐の‐へ‐の‐おほいらつめ【坂上(ノ)大孃】 「おほとものさかのへのおほいらつめ」參照。
 
さかびと‐の=ひめおほきみ【酒人(ノ)女王】 聖武天皇の朝の人、天武天皇の皇子穗積親王の孫女である。光仁天皇の寶龜三年十一月に三品で、伊勢の齋宮になられた方も、同名ではあるが、別人であるらしい。
 
さかひべ‐の=おほきみ【境部(ノ)王】 又、坂合部王。元正天皇養老元年正月无位より從四位下に敍し、十月封戸を増され、五年六月治部卿になり、次年二十五で從四位上・治部卿でなくなられた。曾て長王の宅に宴して「新年寒氣盡、上月済光輕、送v雪梅花笑、含v霞竹葉清、歌是飛塵曲、絃即激流聲、欲知今日賞、咸有不歸情(懷風藻)と歌はれ、又、秋夜山地と言ふ題で「對v峯傾2菊酒1、臨v水拍2桐琴1、忘v歸待2明月1何憂2夜漏深1(同右)と歌はれた。
 
さかふ【境ふ】 坂を語根とした語。堺《サカヒ》はその名詞法で(148)ある。境とする。境域を定める。くぎりをつける。境界を立てゝ守る。
 
さか‐ほがひ【酒祝】 新酒を釀す時に、齋み淨めて酒の神を祭る式。神官祝詞を奏した後、壯夫ら立つて刀を拔いてあたりを淨め、新酒のさはりなからむ事を祈るのである。之は必しも、神に獻る酒だからとてするのではなく、酒の腐敗を防がうと思ふからである。未開人の間では、釀酒は部落の中の大事で、衆人を臨席せしめて樣々な儀式をする。其形式が後迄も殘つてゐて、豪族の釀酒の初めなどには盛大な式をしたものと見える。
 
さか‐みづく【沈醉】 みづく〔三字傍点〕は水漬く。酒びたりになる。上機嫌で酒を飲む事。
 
さがむ【相摸】 今の相摸國。相撲嶺は中郡大山、即、雨降神社のある山を言ふ。
 
さかや【酒屋】 酒を釀す舍。濫りに人を近づけないで淨めたものである。
 
さかゆ【榮ゆ】 さく〔二字傍点〕を語根として出來た語。や行下二段活用。立派になる。繁昌する。はでに見える。頂上に達してゐる。笑ふ。上|機嫌《キゲン》である。
 
さがらか【相樂】 山城國相樂郡。奈良市から奈良坂を越えて山城國へ出た附近の地名。
 
さき【佐紀】 大和國生駒郡。奈良市の西方に當る。佐紀野・佐紀沼、皆、其地にあるよりの名。
 
さき【崎】 山・岡のつき出た處。或は山・岡などの盡きる處。山はな。はなは。
 
さき【幸】 さち。さいはひ。神の祝福を享けた事。
 
さき‐く【幸く】 幸福に。たつしやに。かはりなく』。さき〔二字傍点〕と言ふ體言に副詞語尾く〔傍点〕をつけたので、まだ形容詞の初歩である。
 
さき‐くさ【三枝草】 山百合の一種。枝の三叉に花の咲いたものと言ふ。奈良の率川社の祭りには、今も用ゐる。三枝は義字で、幸草の意であらう。酒樽などの上に插して神の物の標とし、又、神を迎へるのである。
 
 さきくさ‐の 枕。三叉な處から、三つは四つはと續ける。
 
さぎ‐さか【鷺坂】 山城國久世郡。木津川の右岸の地。
 
さきたけ‐の 枕。そがひ。さきたけ〔四字傍点〕は、削つて尖らした竹の事。即、其語路の似通うて居るによつて、(149)山のそがひ〔三字傍点〕にかけて言うたのである。
 
さきた‐の‐かは【辟田(ノ)川】 越中國。今のいづれに當るか未詳。
 
さきたま【埼玉】 後の武藏國埼玉郡よりは、もつと南部をも含んでゐて、當時は陸深く、今の東京都をも過ぎて入り込んでゐた海に面してゐたものと思はれる。
 
さき‐ちる【咲き散る】 唯、散る事。咲き〔二字傍点〕は修辭的の效果を収める爲にあるので、咲いては散ると言ふ事ではない。
 
さき‐の‐すめらみこと【大行天皇】 大行天皇とは、天皇崩し給うて、未だ御謚號を贈り給はぬ中を言ふ。萬葉集卷一なるは、文武天皇を申す。「かるのみこ」參照。
 
さき‐の‐たをり【崎(ノ)凹處】 たをり〔三字傍点〕は、山の中だるみをした處で、山のつき出た崎の凹地である。一説には、花の咲いてたわ/\になつてゐる状。即、咲きの撓りだとも言ふが、少し無理である。
 
さきはふ【幸ふ】 幸福な結果を齎す。靈妙な力を自然に發揮する。又、ちはふ〔三字傍点〕とも言ふ。言靈のさきはふ國は、語に靈妙な作用があつて、不可思議な樣な結果を現ずる事である。人の心に感應する事にも使ふ。言語に限らず、萬物神靈を信じて祷る時は、妙應があると信じた上の語。古代信仰上の語。
 
さき‐はり【早榛】 染料の榛のわき枝とも言ひ、榛の一種とも言ふ。さき〔二字傍点〕は裂きで、王孫《ヌハリ》の一種の裂いた汁を絞つたものを言ふのかと思ふ。さきはり〔四字傍点〕に衣は染めむなど、催馬樂にも見えてゐる。
 
さき‐もり【防人】 九州の邊要の地を守る軍人で、應神天皇の頃の海人部などから發達したものらしい。大寶令に依ると、勤務は三年で、諸國の軍團から交替するのである。諸國から難波津に出で、それから大宰府に向つた。大宰府では、防人司と言ふ役所があつて、之を支配したのである。天平二年には諸國の防人を止めて、東國の防人のみとし、九年には之をも止めたが、筑紫の防人は弱いと言ふので、復、東國の防人を用ゐた。
 (補)又、島守とあるを、さきもり〔四字傍点〕と訓んでゐる。國の盡端々々《サキヾヽ》を守る人の意である。今日の屯田兵の樣な意を持つてゐて、征戰に赴く人でないから、家人・(150)奴婢・牛馬などを率き連れて行く事は許してあつたが、實際、行はれたかどうかは疑はしい。任地の近くに、空閑の地を給して、適宜に田畑を作らせ、なり物は防人の公粮に宛て、牛も官から渡す事になつてゐた。十日に一日の休暇があり、病人が出來たら醫藥を與へ、仲間内の者に一人看護させる。其往復についても、可なり便宜を計つてある。新舊の防人が交替する際、新防人の數が足らない事があつても、舊防人を留任させる訣には行かぬ。又、國へ歸る道のり〔三字傍点〕の粮をやつて戻し、行き歸りとも疾んで歩けぬ樣になつた者は、もよりの國郡から、粮食醫藥を與へて、歩ける迄は置いてやる。若し赴任の途中の者で駄目だと見れば、國へ戻してやり、其が死んで了うた節には、燒いて埋めてやる。又、兵部省の方へ其死んだ容子を書き送り、資財を持つた者は、やはり兵部に申達して、本家へ還してやる事になつてゐたが(以上、令及び義解)、多く實行出來ず、行き〔二字傍点〕は引率して大宰府へ行つたが、歸りしなには、ばらばらに戻つたのも尠くなく、道で疾んでも、村里・國郡で忌んで顧みなかつた例もある。東國の防人は、勇敢でも、永住の心なく望郷の念に堪へぬ者が多かつた處から、天平神護二年には、筑・豐・肥(前後)の六个國の兵士を、大宰府から、防人司の管轄に移したが、本文にもある通りの訣で、舊通り東國の防人を請ふ事になつた。處が、陸奥の城柵の土木が盛んであつた爲、永住的に筑紫に殘る東國の防人らを分配して、九州出の防人の數を減らした。此等の防人は、恐らくかの家人・奴婢・牛馬を携へて、西下する事を聽された者どもで、後世、松浦黨などの祖になつたのであらう。
 
さく【離く】 か行下二段活用。自動詞。離れる・遠く退く。物と物との間に隔りが出來る。又、心を遣《ヤ》り慰めること。か行四段活用。他動詞。物と物とを隔たらす。妨碍に立つ。
 
さぐゝむ さくむ〔三字傍点〕と同意。踏み分けおし破つて行く。
 
さくむ 語根は裂く〔二字傍点〕か。ざく/\と言ふ音の擬聲か。險しい處を踏み分けて行く。
 
さくら【櫻花】 櫻花は、既に人々から賞翫されて居た。庭に植ゑて愛する事もあつたが、それはむしろ梅に多くて、櫻はなは山野に自生したのを愛した方が多(151)い。併、卷八には、藤原廣嗣が娘子に櫻花を贈つた事が見え、又、處女らが頭插《カザシ》の爲に、風流男が※[草冠/縵]の爲に、櫻の花が咲いたと言ふ歌があつて、風流の遊に用ゐた事がわかる。女子に櫻兒と名づけた事にも、櫻花のもてはやされたのがわかる(卷十六)。後世の樣に、たゞ花とのみ言へば、櫻を意味すると樣の踏襲的の愛し方はまだ無いが、卷十の「能登川の水底さへに照る迄に春日の山は咲きにけるかも(一八六一)。卷八「うちなびき春さり來らし山の際の遠き木|末《ヌレ》の咲き行く見れば(一四二二)の如き、櫻と言はずして、櫻花をよんだ歌はある。
 
さくら‐そ【櫻麻】 麻の一種。さくらあさ〔五字傍点〕と讀む癖から、古今集あたりにも、さくらあさの麻生の下草などゝ假字書きしてゐる。櫻の咲く頃に収穫ある麻で、青麻である。
 
さくら‐だ【作良田】 尾張國愛知郡。作良郷邊の田。
 
さくら‐の‐こ【櫻(ノ)兒】 妻爭ひ傳説の一種の女主人公。兩人の男の妻競爭に堪へないで、林に入つて縊れ死んだ處女。
 
さくら‐ばな 枕。さかゆ〔三字傍点〕にかゝる。容貌のはれ/”\しく美しい少女を、盛んに咲き亂れた櫻花に譬へたのである。
 
さくらゐ‐の=おほきみ【櫻井(ノ)王】 天武天皇の曾孫長皇子の孫、河内王の子、元明天皇の和銅七年正月從五位下に敍せられ、元正天皇の養老五年正月從五位上、聖武天皇の神龜元年二月正五位下、天平元年三月正五位上、三年正月從四位下になり、遠江守には十年頃なつたらしく、次で大原眞人の姓を賜り、天平十六年二月には大藏卿で、難波行幸には、恭仁宮の留守であつた。
 
さけ‐く【幸く】 さきく〔三字傍点〕の轉。幸に。たつしやに。
 
さ‐ごろも 枕。さごろも〔四字傍点〕とは衣の事。さ〔傍点〕は發語で別に意味はない。衣の緒(紐のこと)と言ふ意味で、を〔傍点〕を起したのである。
 
さゞきべ‐の‐ひろしま【雀部(ノ)廣島】 下總國結城郡の人で、孝謙天皇の天平勝寶七年筑紫に遣された防人である。
 
さゝく【噪く】 騷しくふざける。ざんざめく。ほたえる。興に乘つて思ふ儘に振舞ふ事。
 
さゝなみ【漣】 近江國滋賀郡。漣の國とも言ふ。漣の(152)縣《アガタ》の地。天智天皇の時代に滋賀(ノ)都を造られたのは、此處である。湖水の西岸大津より北。今、漣の地名がある。大友(ノ)村主の本貫。さゝなみのしが〔七字傍点〕と續くのは、石(ノ)上布留と同樣、純粹の枕詞ではなく、近接地を竝べた迄である。
 
さゝなみ【漣】 さゞらなみ〔五字傍点〕の略とも見え、小波とも見える。細かな波。
 
さゝ‐ら《少・小》 さゝ〔二字傍点〕は細やかな・小さい状を言ふ語。ら〔傍点〕は語根に接して、純粹の體言にする接尾語で、後の用法は專ら副詞語である。
 
さゝら‐え‐をとこ【少吉壯夫】 さゝら〔三字傍点〕は小さな、即、可愛いである。え〔傍点〕は吉い、即、美しいで、さゝらえをとこ〔七字傍点〕は、可愛らしいよい男で、月の美稱であるが、月を人格化して事實考へてゐたのか、漢人の思想を輸入したものかは知れぬ。月讀(ノ)命など言ふ考へは、毛頭なくなつてゐるのである。
 
さゞら‐なみ 枕。さゞら〔三字傍点〕はさゞれ〔三字傍点〕と言ふも同じい。小さい事。なみ〔二字傍点〕は波である。その小さい波立ちの絶間なき貌を以て、間なく〔三字傍点〕と言ふ語の枕詞に用ゐたのだ。「さゞれなみ」參照。
 
さゝら‐の‐をぬ【佐々良(ノ)小野】 大和國山邊郡。所在不明。卷十六「天なるや佐々良の小野(三八八七)とつゞくは、月を佐々良吉壯子と言ふよりして、同音なるによつて續くのであらうか。
 
さゞれ《小石》 さゞれいし〔五字傍点〕の下略。さゞれ〔三字傍点〕・さゞら〔三字傍点〕、さゝ〔二字傍点〕が語根で小の意、ら〔傍点〕は語尾。擬聲語だとも言ふ。さゞれ石・さゞれ浪・さゝら荻の用例がある。卷四「さほ川の小石蹈み渡りぬばたまの黒馬《コマ》の來る夜は年にもあらぬか(五二五)。
 
さゞれし【小石】 細石である。さゞれいし。小なる石。卷十四「信濃なる干曲の川のさゞれしも君し踏みてば玉とひろはむ(三四〇〇)。
 
さゞれ‐なみ【小波】 小なる浪。岸によする小さい浪。又、音を立てゝ流るゝ川波を言ふ。さゝら〔三字傍点〕は、さゝ〔二字傍点〕は小の意の語根、ら〔傍点〕は名詞語尾。本集の頃までは、漣波の意味はまだ起つてをらぬ樣である。萬葉人は、さゞれなみを間斷なきものに使うてゐる。卷四「千鳥鳴く佐保の川原のさゞれ浪止む時もなし我が戀ふらくは(五二六)。
 枕。小波が磯を洗うて、それでも猶、其磯を越す樣(153)に見える處から、いそ〔二字傍点〕とかゝり、磯からこせぢ〔三字傍点〕にかけた二重枕詞であらう。
 
さし‐なみ【指竝】 竝びつゞいてゐる。隣あひ。卷六「大君の命かしこみさしなみの國にいでますはしきやしわが夫の君(一〇二〇)。卷九「さしなみの隣の君はあらかじめしが妻かれて(一七三八)。
 
さし‐ば【翳】 大きな團扇の、柄の長いもの。上代の貴人の外出する時には、それを以て左右から、其顔の邊にかざしたものである。もとは鳥の羽をさして造つたものだが、後には織物となつた。又、菅を用ゐたのもある。
 
さす【番す】 矢を番《ツガ》へて覗ふ事。矢さす〔三字傍点〕など言ふ。又、ばね爲掛の物を設ける。卷十四「あしがりのをてもこのもにさすわなの(三三六一)。
 
さす【指・遣す】 命ずる。遣す。名ざしする。
 
さすたけ‐の 枕。卷三に「八雲さす〔二字右・〕出雲の子らが黒髪は(四三〇)とあるが、古事記には「八雲たつ〔二字右・〕出雲八重垣つまごめに(一)と、見えて居るなどから推して、さすたけ〔四字傍点〕とは立竹《タツタケ》、即、繁りあうて立つ竹を言ふのであらうと思はれる。其竹の籠りあうて居ると言ふ意味で、葉こもり〔四字傍点〕に、且、籠《コミ》と音の相通ずるきみ〔二字傍点〕に言ひかけたのではあるまいか。又、君のいます宮殿と言ふので、大宮〔二字傍点〕に、更に其大宮に仕へまつる舍人〔二字傍点〕にまでかけて言つたのであらう。けれども、立場を更へて、昔、神の宮居などを造る場合には、まづ四方に竹を立てゝ注連繩をゆひはへなどしたものだから、其處でさす竹の宮〔五字傍点〕と言つたので、舍人や君にかけたのは、第二次的のものであらうと言ふ豐田八十代氏の説も、而白い考へである。
 
さす‐やなぎ 枕。さす〔二字傍点〕は刺す。やなぎ〔三字傍点〕は柳。柳は水氣のある土に刺し込むと、よく根を出して生ひつくものである。そこで根張る〔三字傍点〕と言ふ言葉の枕詞としたのだ。
 
さだ【時】 廣く時・頃をさす語。香央をかさだ〔三字傍点〕と訓む處から見ると、時の盛りの意かも知れぬ。しだ〔二字傍点〕と轉じると、單に其さしかゝつた短い時を指すが、此方は、今が頂上の時と言ふ觀念を含んで言ふ語らしい。「このさだすぎて」は、此ちようどよい頂上の時をすごしてゞある。平安朝になつて、さだすぎたる女〔七字傍点〕と言うたのなどは、女の頂上の盛りを過ぎた意で(154)ある。
 
きだ‐の‐うら【佐太(ノ)浦】 國郡未詳。
 
さだ‐の‐をか【佐田(ノ)岡】 大和國高市郡。高取山から出る川の右岸にある。
 
さち‐の‐めうぐわん【薩(ノ)妙觀】 命婦。元正天皇の養老七年正月從五位上に敍せられ、聖武天皇の神龜元年五月河上忌寸の姓を賜り、天平九年二月正五位下になつた。曾て元正天皇の霍公鳥の歌に和し奉つた事がある。
 
さつき‐の‐たま【五月の玉】 くすだま。
 
さつき‐やま【五月山】 五月の頃の景物の備つた山・五月の季候をよくあらはした山。卷十「五月山卯の花月夜霍公鳥聞けども飽かに又鳴かむかも(一九五三)。同「五月山花橘に零公烏籠らふ時に遙へる君かも(一九八〇)。
 
さつひと‐の 枕。さつひと〔四字傍点〕とは、獵人の事で、その獵人の持つ弓と言ふ意味で、ゆ〔傍点〕につゞけたのである。
 
さつま‐の‐せと【薩摩(ノ)迫門】 今の肥後國・薩摩國と、天草諸島・島原半島とを以て圍む水路を、隼人の湍門とも、薩摩の迫門とも稱したのである。
 
さつ‐や【獵失】 獲物《サチ》を得る爲の矢。鳥獣でも敵人でも、目的物に區別は無い。獵に行く時の矢も、戰爭をしにゆく矢も同じ矢だ。卷一「健男がさつ失手插み立ち向ひ射る圓方は見るにさやけし(六一)。卷二十「天地の神をいのりてさつ失ぬき筑紫の島をさして行くわれは(四三七四)。
 
さつ‐ゆみ【獵弓】 狩獵、又は戰爭の實用に足る弓。裝飾もあまり無い丈夫一方の弓を思はせる。卷五「健男のをとこさびすと劔大刀腰にとりはきさつ弓を手握り持ちて(八〇四)。前條參照。
 
さつ‐を【獵夫】 弓矢を武器として、山野に鳥獣を狩る事を業とせる男子。重な獲物は、鹿・猪・兎・雉の類だ。獵夫は開けない民で、亂暴者・無鐵砲者と言ふ語感を持つてゐた。卷三「※[鼠+吾]鼠は木末求むとあしびきの山の獵夫に逢ひにけるかも(二六七)。卷十「山邊には獵夫の狙ひ畏けど小牡鹿鳴くなり妻が面を欲り(二一四九)。
 
さで【小網】 後を狹く、前を廣く、箕の如き形に作りて魚を掬ふ網。卷一「下つ瀬に小網さし渡し(三(155)八)。
 
さて‐の‐さき【佐提(ノ)崎】 伊勢國。所在未詳。
 
さと【坊・里】 せまいところと言ふ事。坊は、市中で、市街を區劃した行政上の名で、方四十丈を町と言ひ、四町を保といひ、四保十六町を坊としたのである。そして坊四つが條となるので、坊の間には、大路を通じて縱横に劃した。そして坊には、坊長と言ふのがあつて、正八位下で廉直なものを補して、戸口賦役の事などを司らしめた。坊を數へるのは、左京は西から、右京は東から始めるのである。里と言ふのは、郡の下に戸數五十戸をまとめた名で、班田の位置を指點する爲に設けたもので、里長があつて、戸口・賦役等の事を司つて居た。其里の四十集つたものを大郡と言ひ、三十以下四つまでを中郡と言ひ、三つ以下を小郡と言うた。
 
さどふ【迷ふ】 まどふ。うろつく。あてどの立たぬ事。行く處のわからぬ事。
 
さと‐をさ【里長・防長】 「さと」參照。
 
さな‐かづら 又、さなづら。さねかづら。かづら〔三字傍点〕・づら〔二字傍点〕は蔓草の總名。さね〔二字傍点〕・さな〔二字傍点〕が名である。美男蔓の古名。蔓長く亙つて、枝幹に粘液の多い草である。
 
さ‐なす【さ鳴す】 さ〔傍点〕は接頭語。なす〔二字傍点〕は鳴す〔二字傍点〕の古語。聲たてる。ひどい音の場合には用ゐない。
 
さな‐づら【左奈都良】 常陸國那賀郡。
 
さ‐なら‐く【さ寢らく】 「さぬらく」に同じ。東語の音價不確實の爲に、「さならく」とも「さぬらく」ともなるのだ。卷十四「ま愛《カナ》しみ寢らくしまらくさ寢《ナ》らくは伊豆の高嶺の鳴澤なすよ(三三五八)。
 
さに‐つく【さ丹著く】 土の赤い色が著く。赤土によごれる。か行四段活用。卷七「大和の宇陀のま埴のさ丹つかば其故《ソコ》もか人の吾を言なさむ(一三七六)。
 
さに‐づらふ 枕。さ〔傍点〕は、發語に〔傍点〕は丹、つらふ〔三字傍点〕は著いて居る事。即、愛らしい紅顔のにほへる形容で、わが大君〔四字傍点〕・いも〔二字傍点〕・をとめ〔三字傍点〕・きみ〔二字傍点〕などに冠らせたのだ。併、此枕詞は、單に人の上ばかりではなくて、紅葉〔二字傍点〕・色〔傍点〕・細〔傍点〕などにも言ひかけて居るが、これは其色の紅なる處から來てゐるのである。
 
さに‐ぬり【さ丹塗】 緒土に塗つてある事。さ〔傍点〕は接頭語。器物を赤く塗る事は、裝飾の意味の外に、魔よ(156)けの信仰を含んでゐる。卷九「しなてる片足羽川のさにぬりの大橋の上ゆ(一七四二)。同卷「さにぬりの小船を設け玉纏の小※[楫+戈]しゞぬき(一七八〇)。七夕に牽牛星が天の川を渡る船もさにぬり〔四字傍点〕である。卷八の七夕歌「さにぬりの小船もがも玉纏の眞櫂もがも(一五二〇)。卷十三「さにぬりの小船もがも玉纏の小櫂もがも(三二九九)。
 
さぬ【佐野】 上野國群馬郡。又、紀伊國東牟婁都、新宮より南一里許の地。渡〔傍点〕は、水を渡るべき場を言ふ。上野國のは、利根川の渡りである。
 
さ‐ぬ【さ寢】 さ〔傍点〕は接頭語。な行下二段活用の動詞。但、此ぬ〔傍点〕は、敬相化すると、なす〔二字傍点〕と言ふ。
 
さぬ‐かた【佐野縣】 近江國坂田郡。琵琶湖の東岸。
 
さ‐ぬはり【王孫】 さ〔傍点〕は接頭語。ぬはり〔三字傍点〕、又、一名つちばり〔四字傍点〕。野生の榛ではなく、草本であるが、亦、染料に用ゐられる。
 
さ‐ぬらら‐く【さ寢らく】 さ〔傍点〕は接頭語。さぬらく〔四字傍点〕は、動詞さ寢〔二字傍点〕の名詞形だ。卷十四「さ寢らくは玉の緒ばかり戀ふらくは富士の高嶺の鳴る澤のごと(三三五八)。
 
さね‐【實】 つきつめて。實の處。眞實。心の窮極を示す語。しんじつ〔四字傍点〕が、最、當つてゐる。他を顧みずにものを言ふ場合の副詞。
 
さは‐あらゝぎ【澤蘭】 植物の名。其莖は、四角で、其色は、青に稍、紫を帶び、高さ二三尺、秋の初に、少しく紫色を含んだ白色の花が開く。大體の形は、薄荷に似てゐる。
 
さは‐いづみ【澤泉】 水の湧出する沼澤。卷十一「隱處《コモリヅ》の澤泉なる石根ゆも通して思ふわが戀ふらくは(二四四三)、又、澤潦《サハタヅミ》とも言ふ。同卷「隱處《コモリヅ》の澤たつみなる石根ゆも通して思ふ君にあはまくは(二七九四)。
 
さ‐ばしる【さ奔る】 さ〔傍点〕は接頭語。はしる。さ〔傍点〕の細やかな容子を現すのでない事は、人の場合にも用ゐた常陸風土記に用例がある。
 
さは‐だ【多】 だ〔傍点〕は數語接尾語。さは〔二字傍点〕は多數。數にも量にも使ふ。仰山。澤山。うんと。
 
さは‐に【夥多に】 澤山に。十分に。
 
さばへ‐なす 枕。さばへ〔三字傍点〕は五月蠅、なす〔二字傍点〕は如くすの意。うるさく騷ぐから騷ぐ〔二字傍点〕の枕詞としたのである。(157)さばへ〔三字傍点〕のさ〔傍点〕は發語。併、古くから五月蠅と書いて居るし、蠅の最うるさいのも五月時分であり、且、五月をさつき〔三字傍点〕と言ふ其さ〔傍点〕とも關係があるので、一般に五月頃の蠅〔五字傍点〕と言ふ意味で、さばへ〔三字傍点〕と言つたのだと言ふ説も道理はある。さ〔傍点〕は五月・稻などに關係があると言ふよりは、稻にわさ〔二字傍点〕・わせ〔二字傍点〕など言ふ其さ〔傍点〕であらう。又、枕詞としては、蠅の樣に云々の義で、煩い容子を言ふ。卷五「さ蠅なす騷ぐ子どもをうつてゝは死には知らず(八九七)。
 
さひか【雜賀】 紀伊國海草郡。和歌浦を抱いてゐる半島地方。
 
さふ【障・碍ふ】 邪魔をする。塞ぐ。多く、道の行くてを喰ひとめる場合に言ふ。
 
さぶ ば行上二段活用。ば行上一段活用。其に叶うた行動する。其らしくなる。此にも些細な點に二條の別がある。其らしい。其樣に似て見えるの神さぶ〔三字傍点〕の類もあるが、多くは其に似つかはしいと言ふ意である。處女さぶ〔四字傍点〕・翁さぶ〔三字傍点〕など皆、其である。決して其めかすのでなく、處女としての行動、翁としての行動の適應してゐるのを言ふのである。上一段活用の方は、本集にはないが、宣命の上には、殊に多く見えてゐる。
 
さぶ【荒ぶ】 ば行上二段活用。すさぶ〔三字傍点〕の頭音脱落。心さぶ。殺風景になる。荒れる。
 
ざふ‐の‐うた【雜の歌】 相聞歌・譬喩歌・挽歌を除いた他の全部を雜の歌としてゐて、後世の雜の歌より部門が廣い。
 
さぶる【侍る】 貴人の傍につきそふ事。古くは遊女などが貴人の傍にゐる事を言うたのであらう。
 
さへ 助辭。其迄も、此上に加へ入れて。其だけでも、理想に近づいてゐる上に、附加を望む語。
 
さへきうぢ【佐伯氏】 皇別。景行天皇の皇子稻背入彦命の後。直姓。右京及び河内國に貫した。應神天皇、播磨巡幸の時、稱背入彦命の孫阿良都、神崎郡の水源を採り、日本武尊俘る所の蝦夷の餘蘖佐伯部を得た。天皇、阿良都に之を統治せしめ、姓を播磨別佐賜伯直と賜ふ。後、庚午、單に佐伯直と稱した。桓武天皇の時、播磨國揖保郡の人佐伯直諸成等に宿禰を賜ふ。大伴連の族にある佐伯宿禰は、派を異にしてゐる。「おほともうぢ」參照。
 
(158)さへき‐の‐あかまろ【佐伯(ノ)赤麻呂】 傳未詳。
 
さへき‐の‐あづまびと【佐伯(ノ)東人】 聖武天皇の天平四年八月西海道節度使判官で、外從五位下に敍せられて居る。
 
さへぐ わからぬ事をべちやくちやとしやべる。外國人の言語・鳥の囀などに、此語があてはまる。が行四段活用。卷二「言さへぐ百済の原ゆ(一九九)。騷ぐに通じるか。
 
さほ【佐保】 大和國添上郡、佐保川の流域。昔は原野であつたが、都が奈良に移されてから、大官たちは多く此地に邸宅を構へた。大伴氏も安麻呂の時から此地に邸を持つてゐた。佐保の内と言ふのは、佐保川と佐保山との間の地を言ふ。
 
さ‐まねし【さ多し】 さ〔傍点〕は接頭語。まねし〔三字傍点〕は多し〔二字傍点〕・行きわたつてゐるの意。今は後者の意を使ふが、此時代は多し〔二字傍点〕の方を用ゐた事がある。ともかく一杯になる程多いと解くと、よくわかる。
 
さみ【沙彌】 僧位を持つてゐない僧の稱。支那で、梵語に漢字を充てたのを、日本でも其儘、使用したのである。本集に見えるのは、笠沙彌と三方沙彌との二人であるが、笠沙彌は笠朝臣麻呂と言ふ人の僧侶になつたのを言ひ、三方沙彌は、山田史三方と言ふ人の僧侶時代の稱であるとも、又、沙彌と言ふ俗人の名であるとも言ふ。俗人が、沙彌とか、如來とか、言ふ名をつける事も行はれてゐたのである。
 
さみ‐のしま【狹岑(ノ)島】 讃岐國綾歌郡の海中にある。今、沙彌の島と言ふ。
 
さみ‐の=ひめおはきみ【沙彌(ノ)女王】 傳未詳。
 
さみ‐まむせい【沙彌滿誓】 俗名を笠(ノ)麻呂と言つて、文武天皇の慶雲元年正月從五位下に敍せられ、三年七月美濃守となり、元明天皇の和銅二年九月善政を賞せられて田十町・穀二百斛・衣一襲を賜り、四年四月正五位上に進み、六年正月從四位下となり、木曾路を通じた功によつて七年閏二月封七十戸田六町を賜り、元正天皇靈龜二年六月尾張守を兼ね、養老元年十一月從四位上に進み、三年七月初めて按察使を置いた時、尾張・三河・信濃の三國を管し、四年十月右大辨となり、五年五月勅許を得て出家して滿誓と號し、七年二月には勅命で、筑紫の觀世音寺を造つた。
 
(159)さもらふ【侯・侍ふ】 ぢつとして容子を見てゐる。具合よくなる迄待つてゐる。機嫌《キゲン》を見る。傍についてゐる。有樣を伺ふ。天氣を待つ。
 
さや‐か‐に【冴・鮮かに】 本集にはおもに、ひや/\との意に用ゐる。あざやかに・さつぱりとなど言ふ意にも使うてゐる。「さゆ」參照。
 
さやく【冴く】 さゆ〔二字傍点〕を語根とした動詞。騷《サヤ》ぐとは別の語、ひや/\する。冷くある。ぞつとする。冷い風ふく。但、騷ぐと混合して、言語情調の上には、冷くさわめくなど言ふ心持ちを起させてゐる事が多い。
 
さや‐に【冴・鮮に】 さやかに〔四字傍点〕の古形。副詞語尾か〔傍点〕をまだつけてゐないのである。「さやかに」參照。
 
さゆ【冴ゆ】 冷かさの身に沁む事。ひやつく事。寒くなる。光・色などにさゆ〔二字傍点〕と言ふのは、見るから、ぞつと寒く感じる樣な、色澤や光をしてゐるのを言ふ。
 
さ‐ゆり【さ百合】 百合。さ〔傍点〕は接頭語。
 
さゆり‐はな 枕。ゆり〔二字傍点〕にかゝる。同音を重ねて枕詞とした。
 
さら‐/\‐に【更々に】 あらためて。くりかへして・度重ねてはの意。本集中には轉用して、初めから拒否的にすつかり〔四字右・〕と言ふ風に使うてゐる。すべて否定の語を伴ふ。
 
さらし‐ゐ【曝井】 後世の井戸がへではない。蓋も井筒もなく、吹き曝しに暴露した井と言ふことである。井〔傍点〕は水を使ふに便利な場處で、必しも井戸でない。川の深みなどにも言ふ。或は今日の所謂ふきぬき井戸であらうと思はれるふしもある。
 
‐さら‐ず【不離】 あく間なしに。いつもそこにある状を現す副詞語尾。夕さらず〔四字傍点〕・朝さらず〔四字傍点〕は、毎晩・毎朝である。
 
さる【來る】 しある〔三字傍点〕の約だとする舊説はわるい。去る・行く・來るなどは、常に通用するので、此處でも、古く去るを進行の意に使うてゐた時代の意義が、時間に關する語の上にばかり分化し遺留して、春さる・秋さる・朝さる・夕さるなど言ふのである。ら行四段活用。
 
さ‐わたり【近邊】 さ〔傍点〕は接頭語。ちよつとで行き屆く事の出來る處。
 
さゐ‐の=おほきみ【佐爲(ノ)王】 敏達天皇五世の孫美奴(160)王の子。葛城王(橘諸兄)の弟。後、兄を橘大卿と呼んだのに對して橘少卿とも言はれた。元明天皇の和銅七年正月從五位下に敍せられ、元正天皇養老五年正月從五位上に進み、東宮に侍し、聖武天皇の神龜元年二月正五位下、四年四月從四位下、天平三年正月從四位上に進み、此頃、内匠頭であつたらしい。八年十一月には兄葛城王と共に上表して王を辭し、橘宿禰の姓を賜り、九年二月正四位下に進み、八月朔日中宮大夫兼右兵衛率で死んだ。
 
さ‐を【さ青】 さあを〔三字傍点〕の約語。さ〔傍点〕は接頭語。今日、此語から得る言語情調は、深青であるが、單に青い色であらう。深青にはひたさを〔四字傍点〕と言ふ。
 
さ‐を‐しか さ〔傍点〕は發語。牡鹿と言ふ意味である。その啼く聲に注意をひかれたので、悲哀の情を唆られたのは、後期王朝の事である。妻を求めてなきながら野の草を胸で押し分けて行くと言ふ處よりして、「つまよぶ」「つまどふ」「なくこゑ」「萩がつま」などゝ言ふ類語がある。
 
さ‐をどる【さ躍る】 さ〔傍点〕は接頭語。跳躍する。踊躍する。卷十九「椙の野にさをどる雉子いちしるく音にしもなかむ隱妻《コモリヅマ》かも(四一四八)。
 
さ‐を‐ぶね【さ小舟】 さ〔傍点〕は接頭語、卷十「牽牛の川瀬を渡るさ小舟の疾行きてはてむ川津し思ほゆ(二〇九一)。棹舟で、※[舟+虜]で漕ぐ舟と區別するのだと言ふのは、如何。
 
       し
 
しか【志珂】 筑前國糟屋郡。西方に長く突出して、博多※[さんずい+彎]を抱へてゐる半島。今の志賀島。此地の外は、海の荒海で恐しいから、出る船もよく手向をしてゆく。其神が志珂のすめ神である。
 
しが【滋賀】 近江國滋賀郡。琵琶湖西岸の南部の地。大友氏の根據滋賀の辛崎は、大津市より約一里北方にある。滋賀の山寺は、崇福寺と言ふ。天智天皇の創建で、聖武天皇も行幸せられた事がある。
 
しかま【飭磨】 播磨國飭磨郡。港を飭磨の津と言ひ、今の姫路市の東方を流るゝ川を飭磨川と言ふ。此地は古く褐染《カチン》を産した。
 
しぎ【鴫】 渉禽類の中で、形は水※[奚+隹]に似て嘴長く、全(161)身が青ばんでゐる。秋の頃、よく澤田や野原などにゐて鳴くものだ。
 
しきしま しきしま〔四字傍点〕は磯城島で、こゝに長らく崇神天皇が都して居られ、大和朝廷の基は、此都で定まつたのである上に、長く此附近が上古の都の地になつてゐた爲、有名になつたのだ。敷島の大倭〔五字傍点〕とつゞくのは、敷島の地が大倭郷に屬してゐる處から、石上布留と言ふ風の枕詞となつたのだ。島は水中の地でなく、一區域をさして言ふ語。後には枕詞としてではなく、大和國の代りに言ふ。
 
しき‐たへ‐の 枕。しきたへ〔四字傍点〕は、目のこまかい織物である。衣〔傍点〕・袖〔傍点〕・袂〔傍点〕・夜床《トコ》・家〔傍点〕などの枕詞に用ゐてゐる。卷二「しきたへの衣の袖はとほりてぬれぬ(一三五)と言へば、織目のこまかな衣の袖さへも、涙が浸みとほると言ふ心持ちで、夜床にかけたのは、此織物が衾に適したからであらう。家を呼び起したのは、夜床より延いて、常に寢る家と言ふ意味から來て居るものと見える。
 
しき‐つ【敷津】 攝津國住吉郡。住吉の西北方に當る。南より數へて、榎津・敷津・粉濱となるのである。
 
しき‐の‐ぬ【磯城(ノ)野】 大和國磯城郡の原野。
 
しき‐の‐みこ【志貴(ノ)皇子】 天武天皇の皇子磯城親王で、母は穴人臣大麻呂の女※[木+穀]姫で、忍壁親王の同母弟である。天武天皇の朱鳥元年八月二百戸を封ぜられ、元正天皇の靈龜元年九月なくなられた。天智天皇の皇子にも芝基皇子と言はれる方があつて、志貴皇子ともかき、朱鳥元年磯城皇子と共に二百戸を封ぜられ、靈龜二年八月十一日薨ぜられて居るが、勿論、別人である。
 
しく【頻く】 ある動作の屡繰りかへされる事。又は、ある動作の續いて、あとから/\起る事。しきる〔三字傍点〕・しきりに〔四字傍点〕など言ふ語は、この名詞法しき〔二字傍点〕を語根としてゐるのである。か行四段活用。
 
しく【及・如く】 似てゐる程度が或物に追ひつくばかりだと言ふ事。戀ふらくは玉の緒しけやは、焦れる心は、ちようど玉の緒に追つゝく位、長くあるよの意。併、又、形容詞の語尾しく〔二字傍点〕の職掌分化の發程にあるものとも見える。平安朝に到る程、長い名詞の後に、しく〔二字傍点〕がついて、何々の如く、何々めかしくと言ふ意に用ゐる事が多くなつてゐる。思へりしく〔五字傍点〕(162)し、そがひにねしくなどゝ混じてはならぬ。
 
‐じく 形容詞の語尾のしく〔二字傍点〕を普通の名詞語根としてついたもの。われじく〔四字傍点〕は、わが如くである。此副詞形の外には、われじ〔三字傍点〕・われじき〔四字傍点〕など言ふ事はない。前條參照。
 (補)のとほりに。のやうに。と同樣に』。しく活用。形容詞語尾の副詞法の形から出たものであらう。或は、犬じ〔傍点〕もの・をとこじ〔傍点〕もの・しゝじ〔傍点〕ものなどのじ〔傍点〕から、形容詞としての第一歩たる副詞法の屈折をはじめたものか。奈良の中期以後に著しく用ゐられた語と見えて、續日本紀の宣命には、じく〔二字傍点〕・じき〔二字傍点〕など言ふ形が多く見えるが、歌にはなるべく避けてゐたものであらう。卷十九「立ちわかれ君がいまさば、敷島の人はわれじくいはひ待たむ(四二八〇)。わたし同樣に大和國中の人が、と言ふ意である。
 
しぐふ(補) くつつく。密着する』。適合した状を現す語か。しつくり〔四字傍点〕は語根しく〔二字傍点〕に、しくひ(漆喰)は、しくふ〔三字傍点〕の名詞法と、關係があり相に思はれる。或はしやぶりつく〔六字傍点〕など言ふ樣に、口から離さずに物を喰べてゐる容子を言ふ語であるのかも知れぬ。
 
‐しけ(補) 形容詞の語尾。「かなしけ」參照。
 
しゞ‐くしろ 枕。しゞ〔二字傍点〕は繁、くしろ〔三字傍点〕は釧。釧には鈴を著けたものと見えるから、その澤山に著いて居るのを繁《シヾ》と言つたのであらう。繋釧をつけるのは、貴人であつた處から、よし〔二字傍点〕・うまし〔三字傍点〕にもつくのであらうう。賀茂眞淵は繋釧を好しとほめるのを黄泉《ヨミ》と言ひかけたのだらうと説いて居る。繼體天皇紀に「しゞくしろ、うまいねしとに云々」と見えて居るのも、美《ウマ》しとほめる語を熟睡にかけたと考へられる。
 
しゝ‐じ‐もの 枕。鹿如物、即、鹿と言ふものゝ如くとの意。其膝を折つて臥す所から、膝折りふせて〔六字傍点〕とか伏す〔二字傍点〕に、或は人の伏し拜む貌に聯想していはひをろがみ〔七字傍点〕などにつゞけた。又、獵に會うた鹿と見立てて弓矢かくみ〔五字傍点〕(弓矢に圍まれる)に言ひかけて居るのである。
 
しゞ‐に【繁々に】 細密に。みつしりと。透き間なく。
 
した【志太】 駿河國志太都。志太の浦は、其地の海邊。
 
しだ【時】 さだ〔二字傍点〕と同語。さしかゝつた其時の意。しだ〔二字傍点〕・さだ〔二字傍点〕共に時の義である。かなしけしだ〔六字傍点〕は、かあゆい時である。あけぬしだ〔五字傍点〕は、明けぬる時である。今、(163)上方・四國などで使ふ行きしな〔二字傍点〕・歸りしな〔二字傍点〕のしな〔二字傍点〕は、是である。昨日しな〔二字傍点〕・をとつひしな〔二字傍点〕など言ふ例さへある(伊豫松山)。
 
しだ‐くさ【羊齒】 此集に見えたのは、おもに軒端に生える類を言ふ。
 
した‐ぐつ【※[革+蔑]】 沓下。沓を穿く時、下につける足袋の類。傍岡・下簾などの如く、修飾語を上に置く例の少い日本語格の上の一例である。
 
したばふ【下延ふ】 ある思ひが心の下に絶す事の出來ぬ程に擴り延びてゐる。長く心の底に思ひこんでゐる。此語、或は偲《シヌ》ぶの轉のしたぶ〔三字傍点〕が語根となつて、出來た語かとも思はれる。
 
したび‐やま【萎び山】 枕。したびやま〔五字傍点〕は、紅葉のした山である。其した〔二字傍点〕の音から、下ゆく水〔四字傍点〕と續けるのだ。「したぶ」參照。
 
したぶ【偲ぶ】 ば行上二段活用。しぬぶ〔三字傍点〕の轉。心の中に萎《シナ》へて思ひこむ。次の語と混ずる事が多い。
 
したぶ【萎ぶ】 ば行上二段活用。萎《シナ》ふと同じ語。物の萎える状を言ふ語であるが、古くから、木の葉の青色が衰へると言ふ處から、秋に紅葉する事をしたぶ〔三字傍点〕と言うてゐる。古事記にも秋山(ノ)下火壯夫《シタビヲトコ》がある。樹木の黄紅になる状の人格化である。秋山のしたぶる妹は、秋山の紅葉する如く赤ら頬匂へる處女と言ふのか、秋山のしたぶると言ふ音から、しなしなとしたと言ふ意味にしたぶ〔三字傍点〕を用ゐたのか、判然せぬ。ともかく萬葉時代に秋山の黄化するのをしたぶ〔三字傍点〕と言うたのは、事實である。
 
したべ‐の=つかひ【之多敞乃使】(補) 下邊の使ひで、死人を夜見《ヨミ》(ノ)國へ迎へとる使ひだと言ふが、或は棄戸《スタヘ》の使ひで、黄泉棄戸《ヨモツスタヘ》から出た語ではなからうか。
 
しづ【垂づ】 だ行下二段活用。ほつに對する語で、しづ〔二字傍点〕は下〔傍点〕と言ふ語と縁がある。さげる。たらす。
 
しづく【志筑】 常陸國筑波山の麓にある里の名。
 
しつ‐たまき【倭文手纏】 枕。しづ〔二字傍点〕は古代の文布《アヤヌノ》で、其緯を青や赤に染めて織つた物である。しづたまき〔五字傍点〕とは、即、しづ〔二字傍点〕を織るに用ゐる苧だまきを言ふので、澤山に用ゐるから、數〔傍点〕に言ひかけたのだ。又、いやし〔三字傍点〕とつゞけたのは、倭文《シヅ》と賤《シヅ》と同音な處から聯想したのである。決して、倭文は下賤な者が着用したから、と言ふのではない。否、寧、倭文は上代にあつ(164)ては、上品な物だつたのである。
 
しづ‐の=いは‐や【志都乃石室】(補) 石見國邇摩郡靜間村の岩屋とするのが附會で、作者の生石《オフシ》(ノ)村主《スグリ》の姓は、播磨が本貫だから、今の印南郡の石(ノ)寶殿とする説の方がよい。但、此は岩屋と言ふべき程の物でもなく、弓削大連が拵へたと言ふ石(播磨風土記)らしくもある。ともかく石見國よりは播磨國に求める方が、大汝・少彦名傳説の集つてゐる地である上から見ても、理由がある。
 
しで‐の‐さき【志※[氏/一](ノ)埼】 伊勢國朝明郡。
 
しどりべ‐の‐からまろ【倭文部(ノ)可良麻呂】 常陸國の人で、孝謙天皇の天平勝寶七年筑紫へ遣された防人である。
 
しなが‐どり 枕。しながどり〔五字傍点〕は、息長鳥と言ふも同じで、鳰の事だらうと言はれる。此鳥が常に雌雄相率ゐて居る處からゐ〔傍点〕にかけ、又、水中に長く潜つてゐて、浮き出て長く息をするので、あは〔二字傍点〕のあ〔傍点〕の枕詞としたとも、或は特に其羽の美しい處よりして、あ〔傍点〕を隔てゝは〔傍点〕につゞけたのだとも説かれて居る。因みに、しなが〔三字傍点〕は、嘴長の略で、即、臈嘴鳥《アトリ》の事、群居するからゐ〔傍点〕に、其名によつてあ〔傍点〕に言ひかけたのではあるまいかと言ふ説もある。
 
しな‐さかる 枕。しな〔二字傍点〕は鄙《ヒナ》であらう。地方なる遠きの意。又、しな〔二字傍点〕は坂、さかる〔三字傍点〕は遠く離れる意、即、澤山な坂を越え、山を越えて遠く隔たる事をしなさかる〔五字傍点〕と言ふのだと言ふ。其意味からして越《コシ》(北陸道)の國の枕詞としたのだ。
 
しなぬ‐の=さか【信濃(ノ)坂】(補) 信濃國に入る名高い坂は二つある。一つは碓氷で、一つは美濃國惠那郡から信濃の伊那郡へ出る山道で、ともに信濃(ノ)坂と言ふが、本集に見えたのは、後の者である。此道は和銅六年に通じた吉蘇路《キソヂ》、即、新《イマ》(ノ)墾路《ハリミチ》を通る者が多くなつた爲に、平安中期迄も驛路とせられてゐ(延喜式)ながら、天延(紀略)・康平(扶略)に道の破壞した事が見えてゐる樣に、段々通る者がなくなつて、亡びたものと思はれる。惠那の千旦林(坂本驛)と伊那の駒場(阿智驛)との間に通じた道であるが、今は明らかには知れぬ。神(ノ)み坂と言うたのは、此山路に荒ぶる神があつたのを、旅人が賽して過ぎる處から出た名であらう。
 
(165)しなぬ‐の‐はま【信濃(ノ)濱】 越中國射水郡の海濱。
 
しに‐す【死す】 死ぬと言ふ事をする。死ぬと言ふよりは、死〔傍点〕の觀念が確固である。死ぬ〔二字傍点〕の名詞法を語根とした語。「す」參照。
 
しぬぐ【凌ぐ】 上に出る。上からおつかぶせる。
 
しぬ‐に【萎に】 萎《シナ》ふ・死ぬ・偲《シヌ》ぶなどの語根のしぬ〔二字傍点〕を副詞化したので、しほ/\と・力なく・しよんぼりと・勢なくなどの意に用ゐる。
 
しぬ‐の‐め‐の 枕。しぬのめ〔四字傍点〕は篠竹の群と言ふ意で、同音を重ねて、しぬぶ〔三字傍点〕の枕詞としたのである。これを東雲(曉)と解するのは惡い。古今集の「しぬのめのほがら/\と明けゆけば(六三七)などゝ言つた枕詞が轉じて、後に曉方の意に用ゐられる事となつたのだ。
 
しぬぶ【偲ぶ】 ば行四段活用。ば行上二段活用。しぬ〔二字傍点〕は下・萎《シヌ》に、死ぬなどゝ關係ある語で、しぬ〔二字傍点〕を語根としたのである。意氣※[金+肖]沈の意から轉じて、其程迄衰へて焦れると言ふ意を抽き出して、戀ふに近い意になつて來たのであらう。心深く思ふ。思ひ込む。
 (補)意氣※[金+肖]沈して考へこむ(ア)。心の底で思ふ。深く人に思ひをかける(イ)。思ひ出して戀ふ(ウ)』。語根しぬ〔二字傍点〕・語尾ぶ〔傍点〕で、しぬに〔三字傍点〕動く心の状態である、しぬ〔二字傍点〕・戀ふ〔二字傍点〕と違ふ點は、昂揚した感情でなく、沈鬱な情緒を表すのである。屈託し、鬱積して内に焦れる心持ちを示す。「しぬに」參照。
 
 しぬば‐ゆ ゆ〔傍点〕は不可抗な反射的な、心理を表す。しぬぶまいとしてもしぬばれてならぬ。
 
 しぬび 思ひ出して戀しがる事。思ひ出して前の事を戀ふる材料。
 
しば‐さす【柴插す】 道の神を祀る法。道の邊に、一郷・一村を守る神は、旅人を障ふる故、其神の在す衢・辻に小枝を插して神意を安めて、其處を過ぎ、兼ねてわが行路の平安を祈るので、ぬさ〔二字傍点〕を奉るのも同じ事である。但、其郷・其村の人が、わが神を祀るにも小枝をさす事は、勿論である。卷二十「庭中のあすはの神にこしばさし(四三五〇)の柴は、後者である。
 
しはせ‐やま【師齒迫山】 所在未詳。
 
しはつ【四極】 今の大阪府東成・中河内の兩郡に亙る地。喜連附近の丘陵地。大阪丘陵に屬して、百済川(166)を東・北に享けた地帶であらう。
 
しばつく【芝付】 所在未詳。相摸國三浦郡とも言ふ。
 
しひぬ‐の‐ながとし【椎野(ノ)長年】 傳未詳。
 
しひ‐の‐おむな【志斐(ノ)嫗】 持統天皇朝の人、傳未詳。志斐連の人で、語部の一人であらう。
 
しふ【強ふ】(補) は行上二段活用。他動詞。まげる。むりに……する(ア)。事實を※[手偏+王]げて話す。こじつけを言ふ(イ)。まだ、無理に……させると言ふ意は、生じてゐぬ。
 
しぶ【澁】(補) しぶる。ぐづ/”\する。澁滞する』。は行上二段活用。自動詞。鷹狩の用語。鷹のすばやく戻つて來ないで、姿を見せないでゐる。
 
 しび=に‐て に〔傍点〕・て〔傍点〕は、何れも現在完了の助動詞。今在る状態を、強く脳裏に印象せしめる爲に重ねたのである。
 
しぶたに【澁谷】 越中國氷見郡。二上山の東方の海邊。
 
しほつ【鹽津】 近江國伊香郡。琵琶湖の最北端にある地。
 
しほひ‐の‐やま【潮干(ノ)山】(補) 生死・輪廻の境涯を脱却して入る圓寂の境地を譬へて、涅槃山(涅槃經)・涅槃洲(智度論)など言ふ處から、生死の海の潮の、干た處にある涅槃の山の意で、本集時代に、わかり易く、説經者などが、かく言ひ慣してゐたものと見える。(新補)併、尚、潮干の意が徹らぬ。潮干で、うなび〔三字傍点〕、即、生死海の海岸の積りではないか。
 
しほやき‐ぎぬ 枕。鹽燒き衣は、いつもぐしよ/”\になつてゐる處から、なる〔二字傍点〕とかけたのである。なる〔二字傍点〕はよれ/\になる、よごれるなどの意。
 
しま【山齋】 或はやま〔二字傍点〕。島の方が古い樣である。古代築庭法の一つとして、庭中には必、水を通じ、水中に島山を作つたから出たのであるが、或は島(ノ)大臣蘇我(ノ)馬子の邸が飛鳥川の川島にあつて、其後、朝廷の離宮となつた處から、景色を主とする庭を島と言ふやうになつたのかも知れぬ。
 
しま【島】(補) 地名。大和國高市郡。今の飛鳥村の南。古來、推定して、岡(高市村)の南の大字島(ノ)莊は、其稱呼を存してゐるので、舊《モト》の地だと言ふ。ともかく、飛鳥の岡(上八釣・飛鳥・岡の上を過ぎて、島(ノ)莊邊で、東に折れてゐる、多武《タフ》(ノ)峯の端山とも言ふべ(167)き丘陵)の本《モト》に近く在つたものらしい事は、崗《ヲカ》(ノ)宮《ミヤ》(ノ)天皇と申した日竝知皇子の宮が、此島〔傍点〕に在つたのでも知れる。即、崗本・島の近接した地なる事も明らかである。飛鳥川の南淵・細川の細流を集めて廣くなつた邊に出來た島に在つたものと思はれるが、或は山齋《シマ》のけしきの勝れた、古い舶來の造庭術で、名高くなつたからかも知れぬ。此地は、島《シマ》(ノ)大臣《オトヾ》蘇我(ノ)馬子の家を没收して、御料地となつてゐたのを宮とせられたものと思ふ。馬子を島(ノ)大臣と言うたのは、飛鳥川の傍に家づくりして庭に小池をつくり、其中に小島を興した(紀)からだとある。小島と言ふのは、紀の記者の説明に過ぎないのであらう。
 
 しま‐の‐みや【島(ノ)宮】 前條を見よ。日竝知皇子の宮處。
 
しまくま‐やま【島熊山】 所在未詳。
 
しま‐つ‐どり 枕。島つ鳥の鵜とつゞけたゞけの事。「野津鳥のきゞし」「家つ鳥かけ」など言ふと同じ性質のものである。
 
しみゝ‐に【繁みに】 しみ/\に〔五字傍点〕の略。一杯に。みつしりつまつて。
 
しみ‐ら‐に【繁らに】 「すがら」參照。
 
しむ【使む】 使役の助動詞。さす。させる。但、命令によ〔傍点〕をつけぬものが多い。す〔傍点〕よりは意が強い。す〔傍点〕が敬語に使はれる事の多い處から、しむ〔二字傍点〕が勢力を得て來たのであらうが、本集にも、已に僅かではあるが、敬語に用ゐたものもある。或は時に敬語と使役と兩樣の役目を兼ねた樣なのさへある。
 
しむ【染む】 染まる。染める。但、自動詞は四段活用である。自然染まる。色がつく。深く色づく。他動詞は下二段活用で、色づける。變らせる。尤、本集には、そむ〔二字傍点〕・しむ〔二字傍点〕二つ乍らある樣で、鹿持雅澄の萬葉集古義の樣にしむ〔二字傍点〕ばかりに劃一する事は出來ぬ。
 
じむけう【仁教】 文武天皇朝頃の人であらうか。吉田連老、字は石麻呂と言ふ。大伴家持と相識の人の父である。
 
しめ【標】 領有の標《シルシ》につけておくもの。一つの地域、或は物品にもする事である。本集には、意が變つて、占有と言ふ觀念なしに、唯、人を入らせまいとする形が多い。「あさぢ原野べにしめ〔二字傍点〕ゆふ」などは前者で、卷二「大み船はてし泊りにしめ〔二字傍点〕結はましを(一(168)五一)などは後者である。もと占める意であるが、神の來降する山を標山など言ふ處から、不可侵の觀念を強めたのである。今日、臺※[さんずい+彎]生蠻人の間にも、自分の苅つた草や木を野山に置く場合に、繩を結んで置いて、占有のしるしとして置く事がある。
 
しもと【※[草冠/氓フムが凶]】 山中の灌木の眞直に長く延びて、且、枝の繁茂してゐるものを言ふ。しもとおしなべ〔七字傍点〕などゝ用ゐたのは、即、其繁茂してゐる若木を押しなびかせると言ふ意味だ。或はしらくちかづら〔七字傍点〕の類かとも思ふ。
 
しもと【笞】 人などを打つに用ゐる杖。むち。「しもととる」とは、笞を手にとつて罪人を打ち懲すと言ふのである。弾力のあるのを用ゐたから言ふ。
 
‐じもの【其物】 犬じもの〔四字傍点〕・鳥じもの〔四字傍点〕の場合と、をとこじもの〔六字傍点〕・をみなじもの〔六字傍点〕の場合とは、少し區別がある。じ〔傍点〕は其《ソ》であると言ふので、其物《ソノモノ》の意とする説が勢力を持つてゐる。けれども、じ〔傍点〕は形容詞語尾のし〔傍点〕がまだ分化せない前のもので、此二つは、親類の間であらう。いはゞの如きもの〔五字右・〕と言ふ事になるが、如きと迄は、強い内容を有つてゐない。として〔三字右・〕・であつて〔四字右・〕に近い意味を現す語と考へる。
 
しらかし【白橿】 かしの一種で、葉は細く小さく、材は白色である。
 
しらが‐づく 枕。白髪の樣なと言ふ意。白色で、ふは/\して居る處が似てゐると言ふので、木綿〔二字傍点〕の枕詞とした。
 
しらかみ【白神】 紀伊國西牟婁郡。切目と南部との間の地帶。白神(ノ)崎。
 
しらぎ【新羅】 天智天皇の時に新羅國を伐つて、却て敗れてから、新羅國は遂に朝鮮半島を統一した。其後、遣唐使を出す樣に、新羅國へも使を出して、其地の文物を輸入する事に努めた。丁度卷十五に見える、大伴三中が副使となつて行つた時は、大使阿倍繼麻呂は壹岐島で病歿し、新羅國での待遇がまた禮を失したので、歸つてから神宮其他へ新羅國の亡状を告げるなどの騷ぎがあつた。天平九年、即、遣新羅使の歸つた年は、また惡疾の大流行を來して、藤原麻呂・藤原武智麻呂・藤原宇合等を初めとして、權臣大官續々と斃れたが、或は三中等の船が將來したものであるかも知れない。かく惡い結果もあつた(169)が、當時の新羅は、唐の文化を受けて、物質的文明は中々進んで居つたもので、彫刻建築などの工藝が新羅の手を經て輸入せられた量も尠くない樣である。卷十六に見える新羅斧は、新羅風に模して作つた鐵斧で、新羅傳來の文化の一斑を示してゐる。新羅國では、又、日本を非常に良い國の樣に思つてゐたので、これを信じて、尼などが渡つて來た容子は、卷三に見えてゐるのでも知れる。
 
しらくも‐の 枕。白雲の立つ〔二字傍点〕と言ひ起したゞけである。「沖つ白浪立田山」などゝ同じ意味だ。
 
しらきき【白埼】 紀伊國日高郡。由良港の北方の岬角である。
 
しらすが【白管】(補) 遠江國濱名郡白須賀の地か。高市(ノ)黒人の歌に見えてゐる地名だが、黒人は行幸について三河國に遊び、又、駿河・遠江邊にゐた事のあるのは、本集の歌で知れてゐる。舊説しらすげ〔四字傍点〕と訓み慣れてゐるが、如何であらうか。菅は形容詞的屈折に限つて、すが〔二字傍点〕となるのであるが、茲は單に假名に借り用ゐたのであらう。
 
しらつゆ‐の 枕。け〔傍点〕にかゝる。はかなく消える〔三字右・〕事をもろき命の白露で譬へたのである。
 
しらとほふ 枕。しらとほふ〔五字傍点〕は、何の意味か訣らぬ。をにひた山〔五字傍点〕にかゝる。契沖は、白玉通す緒〔五字傍点〕とつゞけたのかと言つてゐる。白砥掘るか、空飛ばふか。
 (補)枕。にひ。をにひたやま〔六字傍点〕に係るものとしたのは、よくない。實は、にひ〔二字傍点〕、或は寧、に〔傍点〕につゞくのである事は、風俗《ヨノナカ》(ノ)諺曰2白遠新治之國《シラトホニヒハリノクニト》1(常陸風土記)とあるを見ても知られるが、但、白遠をしらとほ〔四字傍点〕と訓まずに、しらとほふ〔五字傍点〕と訓ますのか、しらとほ〔四字傍点〕と訓んだゞけでも同じであつたのか、斷言出來ぬ。或は、本集の志良登保布の布は夜《ヤ》・也《ヤ》などの誤りかも知れぬ。且、に〔傍点〕又はにひ〔二字傍点〕につゞくぐあひは知れぬ。
 
しらとり‐の 枕。白鷺の純白なるのをしらとりの〔五字傍点〕と言つて起し、又、鳥の飛ぶ所よりしてとば〔二字傍点〕にかけたのである。とぶ〔二字傍点〕と言ふ語の枕詞は、必しもしらとりの〔五字傍点〕に限つたわけではなく、卷十二には「ほとゝぎす、飛幡《トバタ》の浦にしきなみの(三一六五)とも見えてゐる。尚、倭姫命世紀には「白鳥の眞野の國云々」と用ゐてある。
 
しらぬひ【不知火】 枕。つくし〔三字傍点〕につく。不知火の字(170)義どほりに説いて、舊來二説がある。肥後・筑後の海に光る海光を原因知らずとして言うたのだとするものと、景行天皇紀に見えた葦北海上で、遙かな火光をたよりに着陸せられたが、其火は遂に知れなかつたと言ふ説との二つであるが、後者はあまりに歴史にたよりすぎて、不知火の起原とするのには、縁遠い考へである。前者は非常な勢力のある説ではあるが、これとて、海光を直にしらぬひ〔四字傍点〕と言うたと言ふ古い記録がなく、近代の附會と思はれる。白縫〔二字傍点〕と言ふ字面も意義を捉へ難い。此枕詞などは、成立の極めて古いものであらう。
 
しらぬり‐の‐すゞ【白塗りの鈴】 銀で鍍金をした鈴。鷹の裝飾につけたもの。
 
しら‐まなご【白沙】 枕。しらまなご〔五字傍点〕は白い砂である。難波の御津の濱の白砂は、當時の人の目に殊に心よく感ぜられたのであらう。それで白眞砂と言ふ言葉を感覺的にみつ〔二字傍点〕の冠辭としたものと見える。處が、服部高保は、眞砂は濱一杯に滿ち/\て一寸の隙間もなく敷きつめて居るものだから、みつ〔二字傍点〕を呼び起すに用ゐたのだと説いて居るが、どうであらうか。
 
しらまゆみ 枕。まゆみ〔三字傍点〕は單に弓の美稱と見るべき場合もあるが、茲では檀弓、即、檀《マユミ》で造つた弓と解して宜しからう。其檀の白木のまゝで拵へたのを、白檀弓《シラマユミ》と言つたのだ。だが、枕詞としては、白木の檀弓と言ふのは、言語情調以外に用なく、張る〔二字傍点〕とか、射る〔二字傍点〕とか、引く〔二字傍点〕とか言ふ處より、はる〔二字傍点〕・い〔傍点〕・ひ〔傍点〕等に懸けて居る。
 
しら‐やま【白山】(補) 又、しらね〔三字傍点〕。加賀國白山。最高峰が御前《ゴゼン》嶽で、白山神社がある。
 
 しらやま‐かぜ【白山風】 白山からおろす風。
 
しらゝ【白良】(補) 紀伊國北牟婁郡。今、湯崎の鉛山と瀬戸との間の白砂の濱だと言ふが、白〔傍点〕と言ふ語になづんだ考へで、ほゞ後の千里《チサト》(ノ)濱にあたる南部《ミナベ》・岩代の海岸で、即、有馬皇子の結び松のあつた處と同じ地であらう。
 
しりぐさ‐の 枕。知る。しりぐさ〔四字傍点〕は蘭の類で、みつかど〔四字傍点〕と稱するものゝ事だと言はれて居るが、よくは訣らぬ。同音重複の枕詞。
 
しるは【志留波】 遠江國敷智郡。今の濱松市の南方、遠州灘に臨んだ白羽村の磯で、昔は濱名湖が此地の(171)背面にまで入つて來てゐたので、一説に故郷の遠州の志留波の磯と、今ゐる伊勢の贄の浦とが合つてゐたなら、と詠んだのだ。
 
しろ【代】(補) はか〔二字傍点〕は刈る上の區劃。しろ〔二字傍点〕は作る時の限界で、しろ〔二字傍点〕の明瞭なのに對して、はか〔二字傍点〕は見つもりの上の語らしう思はれる。料《シロ》とは同音異語で、城壘のしろ〔二字傍点〕とは同源らしい。或は佃《タヅク》りの料《シロ》の地と考へられぬでもない。田地をしろ〔二字傍点〕と訓んだ(紀)のから見ても、初は漠然たる廣さを斥したものと思はれるが、令制には、すでに五十代を一段、五百代を一町としてゐる。其一代に稻一束を出す事になつてゐた。
 
 いほ‐しろ=を‐だ【五百代小田】 代數の多い田。一町ほどの田地。
 
しろ‐き【白酒】(補) 白く濁つた醴酒《ニゴリザケ》で、清酒ではなからう。大甞・新甞などの古式を貴ぶ祭りに、釀して神に獻り、天子以下群臣の相伴して飲んだものである。「くろき」參照。
 
しゑ‐や 感歎詞。投げ出す樣な場合に用ゐる。まゝよ。
 
しを‐ぶね【潮船】(補) 海の船。潮海《シホウミ》を漕ぐ船』。わが國古代の音韻では、わ行音と、は行吾とが近かつた。中央にも其傾きは見えてゐる。此事は、後世もやはりさうであるが、東語には、此傾向が著しかつたものか。卷十四の「をぐさ男とをぐさすけ男と斯乎布禰《シヲフネ》の竝べて見れば、をぐさかちめり(三四五〇)。又、「字志乎《ウシヲ》には立たむと言へど汝夫《ナセ》の子が、八十島がくり、わを見さばしりし(常陸風土記)など言ふ例、しほ〔二字傍点〕に限らず、散見してゐる。
 
しんけん=かゝる【懸信劔】(補) 史記呉太伯世家にも見えた季札の故事によつてゐる。季札が北方に使ひして、徐君の處によると、徐君は札の劔を見て、非常に欲しく思つたが、え言はずにすんだ。季札は其心の中を悟つてゐた。けれども使として赴く途であるから、其儘にしておいた。其還り路に、徐國に立ちよると、徐君は早死んだ後である。札は、「解(イテ)2其寶劔(ヲ)1繋(ケテ)2之徐(ノ)君(ノ)家(ノ)樹(ニ)1而去(ツタ)」。從者が、徐君は死んでゐるのに、誰におやりになる氣だと問ふと、札は「不v然(ラ)。始(カラ)吾心已(ニ)許(シタ)v之。豈以v死(ンダトテ)倍《ソムカウ》2吾心(ニ)1哉《カ》」と言うたので、信〔右◎〕劔と辭を造つたのである。
 
しん‐の=くわ+くわん【秦(ノ)和緩】(補) 秦の國の名醫の(172)和と緩と二人を併せて言ふ。晉の平公、疾ひの時に、秦の景公が、醫和を使として視にやつた(國語晉語)が、一方、成王の十年に、晋の景公、疾んで、醫者を秦の國に求めた處、秦伯は醫緩をやつた。晉の國に屆かない間に、景公が夢に、病ひの精靈たる二豎子《フタリコドモ》が話しをすると見た。一人の言ふには、今度來る醫者は名人だ。ひどい目に會はうから逃げようと言つたら、今一人が、肓の上膏の下にさへ居れば、どうも出來るものかと言つた。醫緩が着いての見たてに、もう駄目です。肓の上膏の下に隱れてゐますから、とても藥もそこ迄は屆きませんと言うたので、景公は良醫だと感心して、禮物を澤山やつて歸した(左傳)ともある。
 
     す
 
‐す【爲】 動詞の連用形を名詞と見て、之を語根として、共に語尾となつてつく語。單に動詞を語根として、更に動詞を作る場合には、本來の動詞の意義が失はれ勝ちであるが、此は、完全に原意を存してゐて、どう言ふ風の動作をすると言ふ事が、鮮やかに人の脳裏にうつるのである。たえす・枯れす・來《キ》す(明日來せざめや)。此方法は平安朝にも存してゐるが、萬葉時代に盛んであつた。
 
‐ず 助辭。否定の意のず〔傍点〕には、注意すべき働きがある。大體、體言的な心持ちをもつた語で、ぬ〔傍点〕・ね〔傍点〕と言ふ活用は、他の活用を混用してゐるので、元來、無活用であつた俤を存して、體・用いづれも融通する樣に見える。あらず〔三字傍点〕と言うても、あらざる時・あらざる事など言ふ意を含んでゐる。あらずよりは〔六字傍点〕と言ふ用例が宣命にある。本集の「戀ひつゝあらずは」などのず〔傍点〕は、戀ひつゝあらざる時はで、くはしく言ふと戀ひつゝあらざる時は、其かはりにと言ふ風の曲折を持つてゐる語と考へるがよろしからう。
 
すが【須我】(補) 信濃國。後期王朝の苧賀《ソガ》郷(和名抄)の地か。移動し易いす〔傍点〕・そ〔傍点〕を方言です〔傍点〕と發音したものであらう。東筑摩郡梓川と楢井川との間の地と言ふ。
 
 すが‐の‐あらぬ【須我(ノ)荒野】 須我の地の周圍の開墾せぬ野。
 
すが‐うら【菅浦】 近江國伊香郡琵琶湖の北端。竹生(173)島に面した浦の名。
 
すが‐じま【菅島】 所在未詳。志摩國とも言ひ、近江國とも言ふ。
 
すがのね‐の 枕。山菅の根は、方々へ長く張りまはると言ふ處から、思ひ亂れ〔四字傍点〕及び永き春日〔四字傍点〕にかけた。卷十二には絶ゆ〔二字傍点〕にもつゞけて居る。ねもごろ〔四字傍点〕につゞけたのは、同音を重ねたゞけかも知れぬが、恐らくは「根も凝」と言ふ意を含めて居るであらう。
 
すが‐の‐やま【須我(ノ)山】 越中國。所在未詳。又、出雲國とも言ふ。又、枕詞。すがなく〔四字傍点〕とかゝる。同音を重ねたのである。
 
すがはら‐の‐さと【管原(ノ)里】 大和國生駒郡。奈良市の西方約一里の地。
 
すがも【菅藻】(補) 淡水の藻の名。美藻《スガモ》の意ではなく、菅に似た處から言ふのであらう。法吉(ノ)坡《イケ》。周五里深七尺許。有2鴛鴦・鴨・鮒・須我毛〔三字右○〕1【當2度節1大有2美菜1】(出雲風土記)の須我毛は鴨の名でなく、恐らく、此藻であらう。
 
‐すがら【全】 ぴつたり其ばかりで一杯になる意を現す副詞接尾語。夜《ヨル》はすがら〔三字傍点〕に・夜《ヨ》すがら〔三字傍点〕など是である。晝はしみらも、晝は繁《シ》みらである。
 
すがる【※[虫+果]※[虫+羸]】 昆蟲類。蜂の一種。長さは七八分、全身黒色、腰の處が極めて細くくびれてゐる。俗に言ふじがばち〔四字右・〕。
 
すきた【次田】 筑前國筑紫郡。大宰府の南方に當る萬葉時代の温泉地。
 
すぎ‐の‐ぬ【椙(ノ)野】 越中國。所在未詳。
 
すぎむら‐の 枕。思ひすぐ。語をへだてゝ同音を呼應せしめたもの。
 
すぐろく【雙六】 支那から入つて來た遊戯の一種であるが、時代ははつきりしない。併、專ら博奕に用ゐられたとみえて、持統天皇の三年には、之を禁止して居る。亦、大寶令の規定にも、之を禁じて居るところを見ると、よほどはやつたらしい。昔の雙六は、今の雙六とは違つて、長方形の盤に兩側へ双方に十二づゝの目を盛り、此に十二の馬を配置し、二個の采を竹|筒《ドウ》の中に入れて、互に振り出し、采の目のまま馬を進めて、早く敵の線中に入つたものが勝つたのである。
 
すけ【次】 役所の次官で、神祇官では副、太政官では(174)辨、省では輔、職では亮、寮では助、司では佐、弾正臺では弼、衛府では佐、大宰府では貮、國では介、家では扶と、各、文字に區別がある。
 
すけき【隙】 すく〔二字傍点〕を語根とした形容詞の連體名詞であらう。隙あらい容子を言ふ語。單にすき〔二字傍点〕の延言とするのは、よくない。
 
すさ【須沙】 須沙の入江と見ゆ。所在未詳。
 
すさぶ【進ぶ】 客觀的にも、主觀的にも、事物・現象・心理の特異の衝動的運動をする事。手すさぶ〔四字傍点〕は手の發作的動作である。但、次のすさぶ〔三字傍点〕と概念の混同があるらしい。
 
すさぶ【荒ぶ】 語根すさ〔二字傍点〕は荒廢の意を持つてゐる。殺風景になる。荒れる。秩序を失うて収拾の出來ぬ有樣になる。此語、今も、すさむ〔三字傍点〕と言ふ。
 
すゝ【爲々】 今の爲々《シヽ》、即、斯《カ》うしい/\行つたなど言ふと同じで、つゝ〔二字傍点〕と語原的の關係がある樣である。かくすゝぞ〔五字傍点〕は、かうする/\と言ふ風にして、即、かうしつゝと言ふ事になる。
 
すゞか‐がは【鈴鹿川】 伊勢國鈴鹿郡。此川に添うて、大和國から伊勢國に出る路が通じてゐたのだ。
 
すそびく【裾牽く】 裳の裾をひきずつてあるく。上流婦人のゆるやかに歩いて、上裳を引く樣。
 
すだく【聚く】 人間以外の動物の一个處に集る事。鬼すたく・蟲すだくなど言ふ。
 
すで‐に 副詞。すつかり。殘る方なく。卷十七「天の下すでにおほひてふる雪は(三九二三)、すつかりの意である。此から今の既決の意のすでに〔三字傍点〕が出來たのである。
 
すで‐に【渾・既に】(補) すつかりと。まるきり。ひつくるめて。全體に。一般に。ずつと亙つて』。今の完了を表すすでに〔三字傍点〕は、既と言ふ漢字と結びついてから起つた事で、此字は時間關係を表す事が主になつてゐる爲に、勢、すつかりと了《シマ》うた、と言ふ意にばかり偏《カタヨ》つて用ゐられる事になつたのである。本集のすでに〔三字傍点〕は、また時間に關係した内容を持つてゐぬ。加茂島 既磯。子島 既磯(出雲風土記)などは、故らに悉く〔二字傍点〕と訓まずとも、すでに〔三字傍点〕と言うてよいのである。語根すで〔二字傍点〕は、古動詞すづ〔二字傍点〕の存在を見せてゐる。統《ス》ぶ〔傍点〕と同源ではなからうか。
 
‐ずは 普通よりは〔三字右・〕と譯す。口譯萬葉集には、大抵の(175)場合、する位ならばと説いて、ずば〔二字傍点〕と濁らずにおいた。義は、ざる時は・ざる場合はの意であるが、ず〔傍点〕はもと活用の不具な語で、ず〔傍点〕其儘で連體の用もするのである。即、何々せざる(時・處)はとなるので、卷二「かくばかり戀ひつゝあらずは(八六)、焦れてゐる事をせない場合には、一層かうした方がよい、と言ふ風の語の退化して機械的になつたものであらう。又、考へるには、此は〔傍点〕は、文段の末の感歎詞のは〔傍点〕と同樣のもので、かくばかり戀ひつゝあらずよ(焦れてゐないでね)、かうした方がよからう、と言ふ風な成立を持つた語かも知れぬ。
 
すま【須磨】 攝津國武庫郡。大阪※[さんずい+彎]に面してゐる。今よりは、もすこし地域が廣いであらう。
 
すみ‐さか【墨坂】 大和國宇陀郡。神武天皇の兵に備ふる爲に、八十梟帥が此坂の上に炭を燠しておいたと言ふ傳説のある地。
 
すみだ‐がはら【角田河原】 吉野川の一部。大和國と紀伊國との國境の邊の名である。
 
すみ‐の‐え【住吉】 攝津國住吉郡。難波の地が發達しない前は、住吉が要津になつてゐたので、此地に海神を祀つて、手向の神としてゐる。住吉の現人《アラヒト》神と言ふのは、此神の事である。住吉の御津と言ふのも、船の出入地である事を示す名だ。それが難波に離宮をおかれる樣になつてから、繁榮を大伴の三津に奪はれたのである。
 
すみ‐の‐え【澄(ノ)江】 丹波國與謝郡。浦島子の傳説のある地。
 
すみ‐の‐え‐の‐をとめ【清(ノ)江(ノ)處女】 文武天皇朝の人。住吉に住んで居た遊女であらう。天武天皇の皇子長皇子に歌を贈つて居る。
 
‐すら 助辭。それまで入れて。さへ・だにに通用する語。もとは動詞のみに屬した語であらう。
 
するが‐の‐うねめ【駿河(ノ)采女】 傳未詳。駿河國から召された采女か。
 
するが‐の‐ね‐ら 富士山の事で、ねら〔二字傍点〕は嶺ら〔二字傍点〕で、東歌に多く嶺呂〔二字傍点〕とよんで居る。ら〔傍点〕は添へた語で、意味はない。會津嶺《アヒヅネ》・甲斐个嶺・伊豆の高嶺・相摸嶺の類。
 
すゐこ【出擧】 王朝時代の制度。公私の財物を貸して利息をとる事。官稻を出擧するを公出擧と言ひ、私(176)稻を出擧するを私出擧と言ふのである。初は窮民を救ふ爲であつたが、後には利益を得る爲に、毎年の正税公廨を出擧したらしい。大寶令によると、期限は一年で、春に借して秋に返させ、利息は公稻半倍、私稻は一倍で、利を本とする事を許さなかつたのであるが、利息が高いので、返済が出來ず、利息を下げたが、それでも田を賣つて逃げるものが多いので、時々免除したが、其でも失敗したらしい。
 
すゑ【周准】 上總國周淮郡の地。陶。末。
 
すゑ‐つむ‐はな【末摘花】 紅草の花を言ふ。紅草は草の末に花を持ち、其花を摘み取つて紅を作る。紅草のあの末を摘む花の義。うれつむ花〔五字傍点〕と訓んでもよい。但、後期王朝には、すゑつむ花〔五字傍点〕とばかり言ふ。
 
すゑ‐の‐なかごろ【末中程】 先の方の中央と言ふ事で、弓などの弭の中軸を言ふ語を、男女の間の將來の中だゆみを慮つて言うたものらしい。
 
     せ
 
せ【瀬】 川の波を立てゝ流るゝ處を瀬と言ふ。瀬は始終動いてゐる。淺い場處。底は小石だ。卷五「松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ(八五五)。せ〔傍点〕は又、時・場合と譯すべきのがある。卷十一の「ちはや人宇治のわたりの速きせ〔傍点〕にあはずありとも後も我妻(二四二八)。古事記に「苦瀬《ウキセ》にしづまむ時」。
 
せいけん【清見】 聖武天皇朝の人で、國師の從僧である。大伴家持が歌と酒を贈つてゐる。
 
せき【關】 要路、國境に設ける門。初は警護を專としたが、中頃は、通行税を徴した事もある。人を防《セ》き留むる義。令義解に「謂依律關者檢判之處、 者塹檣之所」とある。神功皇后攝政の時、忍熊王の亂に、關を針間と吉備との界に設けて之を禦した。其を和氣關と言ふ。關を置いた事の現れ初めだ。孝徳天皇大化二年關塞の法を定め、鈴契を與へた。大寶令に關の制を設けた(軍防令參照)。鈴鹿・不破・愛發は三關として有名である。王朝末期には、權門勢家社寺などで、私に設けて人を困した事が多かつたのである。
 
‐せす【爲爲】 さつしやる。せられる。なさる。上のせ〔傍点〕(177)は佐變の將然、下のす〔傍点〕は純粹な敬語。古くは安治《ヤスミ》しし(<しす)など言ふ處である。二つのす〔傍点〕を重ねたのであるが、下のす〔傍点〕は動作的に效果を持つてゐる。又、さす〔二字傍点〕とも用ゐてある。
 
せちど‐し【節度使】 兵士及び其子弟や、水牛・官船・弓馬などの事を調べて行き、練兵をやつたり、武器をこしらへたりする役人で、聖武天皇の天平四年に初めて東海・東山・山陰・西海の四道に置き、道別に使の下に判官・主典が各四人、醫師・陰陽師が各一人あつた。六年に爲事がしまうたので、一時止めて、國司などにこれをまかせたが、淳仁天皇の天平寶字五年に東海・南海・西海にまたこれを置いた。此時は正使・副使・判官・録事などがあつたが、八年に再止めてしまつた。
 
せどう‐か【旋頭歌】 五七七・五七七の形より成る。五七七の形は、日本歌謠の原始的單位(片歌)と認められるが、此單位の複合が旋頭歌になる。此歌は、前の三句と後の三句とは別に一文を爲し、第三句と第六句とは、同一の句を用ゐるか、又は少し變へて押《フ》むかを原則としてゐる。併、柿本人麻呂あたりになると、第三句と第六句とは、全く別の句で作つてゐる。旋頭歌形式は短歌形式より古いのであるが、萬葉時代には、既に短歌形式の方が盛んになつて來た。原始旋頭歌は、後の三句は初の三句と全く同一のものか、又は少し變へたものを繰り返すかであつた處、人麻呂時代に至つて、六句とも違つた句で綴る樣になり、こゝに却て其生命を失うたのだ。平安朝に入つては、始三句と後三句とが連續して、一個の文を爲すやうな旋頭歌となり、旋尾歌と混雜して、「五七五七七七」「五七七七七七」のやうな形のものを生じたが、これはもう旋頭歌の範圍を脱してゐるのである。
 
せな‐の‐ゆきぶみ【消奈(ノ)行文】 元正天皇の養老五年正月、文人・武士は國家の重んずる所と言ふので、明經第二博士正七位上であつたのが拔擢されて、※[糸+施の旁]十五疋・絲十五※[糸+句]・布三十端・鍬二十口を賜り、聖武天皇の神龜四年十二月には、正六位上から從五位下に敍せられ、又此頃、大學助になつた。曾て長(ノ)王の宅に新羅の客を宴した時に「嘉賓韻2小雅1、設v席嘉2大同1、※[臨/金]v流開2筆海1、攀v桂登2談叢1、盃洒皆有v(178)月、歌聲共逐v風、何事專對士、幸用2李陵弓1」と、又、上巳の禊飲に詔に應じて「皇慈被2萬國1、帝道沾2群生1、竹葉禊庭滿、桃花曲浦輕、雲浮2天裏1麗、樹茂2苑中1榮、自顧2試庸短1、何能繼2叡情1」と歌つた事がある(懷風藻)。年六十二で死んだ。
 
せ‐の‐うみ【石花(ノ)海】 富士山の山北にある湖水で、今の川口・西・本栖・精進の四湖が、昔は一つにつゞいてゐたものと思はれる。
 
せ‐の‐やま【背の山】 卷四「紀の國の妹背の山にあらましものを(五四四)。
 
せんび‐か【旋尾歌】 短歌の末に、更に七言の句を添へた形式の歌を言ふ。即、五七五七七、七となる歌である。これは短歌を謠ふ時に、第五句を其儘に繰り返し、或は少しく變へ、或は上の意味を補ふべき句を添へて謡うた物だ。本集卷十六「伊夜彦《イヤヒコ》神の麓に今日らもか鹿の臥《コヤ》すらむ裘服て角|著《つ》きながら(三八八四)がこれである。又、卷五の山上憶良の「爲2熊凝1述v志歌」の反歌五首。卷十八「乎敷の崎漕ぎたもとほり日ねもすに見とも飽くべき浦にあらなくに(四〇三七)、其他數首が此形の歌である。是等の歌は卷十六のを除いては、皆、第六句が一(二)云(フ)となつてゐる。其爲に古來、第五句の異として解して來たが、此歌の性質上、第六句は小字で書いてあつた爲に、此誤を生じたのだ。旋尾歌は、一に佛足石歌の體と言ふ。それは文室《フンヤ》眞人|淨三《キヨミ》の建てた佛足石歌が、其體であるからだ。(「ぶつそくせきのうた」を見よ)。旋尾歌は、もと奈良朝に起つた短歌の謠ひ方である事は、前に述べたが、此謠ひ方は、神樂・催馬樂に傳つて、平安朝に入り、山王七社權現船謠・梁塵秘抄にまで及んでゐる。神樂歌「わが門の板井の清水里遠み人しくまねば水さびにけり水草ゐにけり」。催馬樂「伊勢の海の清き渚の汐がひになのりそやつまん貝や拾はん玉や拾はん」。山王七社権現船謠「ちはやぶる神の御代より呉竹の代々に絶えせぬ御あへにあふはのヤアけふのみあへに」。梁塵秘抄「月は船星は白波雲は海いかに漕ぐらん桂をとこは唯一人して」。此旋尾歌は、平安朝以後に於ける種々の謠ひ物の基本形式である點に於て、最、注意に値する。旋尾歌の名目は、本集には無く、今、新に附したものである。
 
(179)     そ
 
そが【宗我】 又、蘇我。大和國高市部、畝傍山の北方の地。
 
そきたけ‐の【割竹の】 枕。又、さきたけの〔五字傍点〕。そく。さくの音の類似から、そがひ〔三字傍点〕とかけたのである。
 
そく【退く】 彼方へ行く。其處を下《サガ》る。か行四段活用。卷四「天雲のそき方《へ》の極み遠けども心し行けば戀ふるものかも(五五三)。古事記「大和べに西吹きあげて雲ばなれ退き居りともわれ忘れめや(五五)。しりぞく〔四字傍点〕のそく〔二字傍点〕は、此が語尾風に退化した形である。
 
そこば【多】 こゝ・そこなど言ふ位置の代名詞は、多數を表す不定數詞の語根となる。そこだ・そこば・そこばく・そこだく・そこら・そきだく・こゝら・こゝば・こきし・こゝだく、など言ふ類。
 
そでかふ【袖易ふ】 男女が契つて、變らぬしるし、後會ふ迄のかたみに、袖を切つてとりかはす。衣を易へる事の簡略になつたもの。
 
そで‐かへす【袖飜す】 袖を吹きひら/\させる。
 
そで‐ふる 袖とは、今いふ袋形の袂の事では無い。筒袖形に手を蔽うてゐるのを言ふ。手よりも長く作られてゐる。それを振つて合圖をするのだ。袖を振るのは、人を迎へ、又は人を送る時に、親愛の意を表すのだ。遠方で言葉の聞えぬので、袖を振る場合は、卷二「石見のや高津濃山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか(一三二)。卷十四「味が門いや遠ぞきぬ筑波山かくれぬ程に袖はふりてな(三三八九)。袖ふるのを遠慮した例、卷六「凡《オホ》ならばかもかもせむを畏みと振りたき袖を忽びつるかも(九六五)。卷十二「草枕旗ゆく君を人目多み袖ふらずしてあまた悔しも(三一八四)。必しも遠くなくても、袖を振つて、意中を現したものと思はれる。卷五「しろたへの袖ふりかはし紅の赤裳裾曳き(八〇四)。
 
そでふる‐かは【袖ふる川】 袖をふると布留川のふるとを契機にしてゐる。袖は、此場合、枕詞である。「そでふる」と「ころもかすがの」とを見よ。同樣なのに、磯こせ路(越す−巨勢)と言ふ例も、また、袖ふる山と言ふ例もある。卷十二「吾妹子や吾を忘(180)らすな石の上袖ふる川の絶えむと思へや(三〇一三)。石の上と袖とは、各別個にふる川の枕詞となつてゐる。卷四「處女等が袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひきわれは(五〇一)。
 
そで‐まく【袖枕く】 共寐に袖さし交して寢るので、袖を枕とする事になるのである。
 
そで‐わかる【袖別る】 袖が別れる、密接した袖を分つとか、袖をとりかへて別れるとか言ふ事ではない。袖〔傍点〕は別る〔二字傍点〕の序で、袖の、衣服の身の兩側に分れたる如く、別れると言ふ事である。袖のわかれ〔五字傍点〕と言ふのも、同樣である。
 
そとほし‐の=おはきみ【衣通(ノ)王】 輕大郎女皇女とも言ふ。允恭天皇の皇女で、母は忍坂大中姫。木梨輕太子の同母味である。容顔艶美で、兄の太子と通じ、太子は遂に伊豫國に流されて自穀する事となつた。「かるのみこ」參照。
 
そとも【外方】 北方を言ふ。萬葉人の家は、南に向いて作られてゐる。其背面の方、即、背戸の方を言ふ。山を中心として、山の南を影方《カゲトモ》と言ひ、北を背方《ソトモ》と言ふ事もある。藤原宮より言うて、北方の大御門に聳ゆる山は、耳梨山に當り、畿内より言うて、北方の國は美濃國に當る。卷一「耳梨の青菅山はそともの大御門に宜しなへ神さび立てり(五二)。卷二「やすみしゝわが大君の聞しめすそともの國の眞木立つ不破山越えて(一九九)。外面・向う、又は遠隔の語感を持つてゐる。
 
その【其】 自分の位置よりすこし隔つた處の物を指す場合に冠らせる代名詞。又、稍遠く今、あのと言ふ樣な場合にも、それ・そのと指す。彼杵(ノ)郡の彼《ソノ》なども、此意であり。卷三の「憶良らは今はまからむ子泣くらむ其彼母も(三三七)の、其彼母も、そもそのはは〔六字傍点〕と訓むのである。又、現に今いうた所の、など言ふ意味にも使ふ。「あはれその水手《カコ》」。
 
その‐ゝ‐おみ‐いくは‐の‐をとめ【園(ノ)臣的(ノ)處女】 又、生羽とも書く。氏は薗《ソノ》(ノ)生羽氏で、薗氏の分派の姓である。名不詳。傳も知れぬ。
 
そひ【岨】 一方が急な傾斜になつてゐるところ。山に添うてある少しの平地、其一方は、谷になつてゐる。卷十四「伊香保ろの岨の榛原ねもころに奥をなかねそまさかしよかば(三四一〇)。同「いはほろの(181)岨の若松限とや君が來まさぬうらもとなくも(三四九五)。
 
そま‐やま【杣山】 木材を切り出す山。樹木の多く立つてゐる山。卷三「吾大君天しらさむと思はねばおほにぞ見つる和束杣山(四七六)。
 
そら【空】 天のこと。虚空。何もない處。雲の立つ處。宙有。少しでも地上を離れた處も、亦そら〔二字傍点〕である。
 
そら【心】 心の中を言ふ。おもふそら〔二字傍点〕、なげくそら〔二字傍点〕などある。今の、生きてるそら〔二字傍点〕がない、なども同じ語である。
 
そらみつ 枕。又、そらにみつ〔五字傍点〕とも言ふ。饒速日(ノ)命が天の磐船に乘つて大空から見さけ給ひ、やがて降りましたと言ふ神武天皇紀に見える傳説によつたものだと言ふ考へは、單に傳説だけの事である。古代人の信仰生活について考へれば、空御津山の意で、神のおりる處として山とつゞけたのであらう。或は、大和國は、四周山を以て圍まれ、恰も扉を立てた樣に山々が空に滿ちて居るから、空滿つ山戸〔五字傍点〕、或は空に滿つ山戸〔六字傍点〕とつゞけたのだらうとも言ふ。
 
      た
 
だいちやう‐し【大帳使】 一國所管の、戸口・課不課の戸口・見不輸・見輸・半輸・全輸竝びに其年の調庸・雜物などの數などを記す大計帳と言ふ帳簿を持つて、國司から中央に使する役人である。
 
たう‐いんきよ【陶隱居】(補) 陶弘景の事。丹陽秣陵の生れ。句容の勾曲山に這入つてゐた。自分で華陽隱居と名宣つた。陰陽五行・風角星算・山川地理・方圖産物・醫術本草に明らかであつた(梁書列傳)。
 
たかきた【高北】 美濃國土岐郡。泳の宮の舊地。
 
たかき‐の‐やま【高城山】 大和國吉野群山の一峰。
 
たかくら‐の 枕。みかさのやま。たかくら〔四字傍点〕は高座、即、高御座で、即位・朝賀・蕃客拜朝の時などに大極殿に之を飾りすゑて、陛下の御座としたものである。其には立派な蓋《ミカサ》のあるによつて、三笠山〔三字傍点〕を呼び起したのである。
 
たかしき【竹敷】 對馬國。對馬島の上島と下島との間に、西方から※[さんずい+彎]入した淺海※[さんずい+彎]に北面した港。元、要(182)港が置いてあつた地。渡韓の要津。
 
たかし‐の‐はま【高師の濱】 攝津國住吉郡、又、和泉國泉北郡にある。或は同地を近處故、紛したのか。
 
たかしま【高島】 近江國高島郡。湖水の東岸にある。
 
たかしる【高知る】 統治する。領有する。しる〔二字傍点〕は領有、司配の意味の動詞で、たか〔二字傍点〕は其動作の被包的で、莊嚴なる状態を形容してゐる。ら行四段活用。高知らす〔四字傍点〕と言ふのは、その第一變化に、其動作に敬意を表する助動詞のす〔傍点〕が添加したものだ。
 
たか/\に 人を待ち焦れてゐる有樣の形容。卷四「白雲のたなびく山のたか/”\にわが待つ妹を見むよしもがも(七五八)。卷十三「母父も妻も子どももたか/”\に來むと待ちけむ人の悲しさ(三三三七)。卷十二「もちの日にいでにし月の高々に君をいませて何をか思はむ(三〇〇五)。
 
たかた‐の=ひめおほきみ【高田(ノ)女王】 高安王の女。傳未詳。
 
たかつ【高津】 攝津國。大阪丘陵の北端。今の大阪城の邊か。天の探女の石船の泊てた津との傳説地。
 
たかつき【高槻】 山城國。今、乙訓郡。
 
たかつぬ‐やま【高角山】 石見國那賀都都野津にある山に、高と言ふ山の美稱をつけたのであらう。
 
たかはし‐の‐くにたり【高橋(ノ)國足】 聖武天皇天平十五年五月、正六位上から外從五位下に敍せられ、十八年四月從五位下に進み、閏九月越後守となつた。
 
たかはし‐の‐むしまろ‐の=しふ【高橋(ノ)蟲麻呂(ノ)集】 高橋蟲麻呂の作つた歌を集めたもので、多分、自身で集めたのであらう。集中に名が見えるのみで、實物は傳つて居ない。多數の傳説を敍した出色の長歌を含んでゐる。卷七には、殊に此集から出たものが多い。
 
たかはし‐の‐やすまろ【高橋(ノ)安麻呂】 元正天皇養老二年正月從五位下に敍せられ、四年十月宮内少輔に任じ、聖武天皇神龜元年二月從五位上、同年四月宮内大輔・從五位上で蝦夷征伐の副將軍となり、二年閏正月正五位下勲五等を授かり、天平四年九月右中辨となり、九年九月正五位上、十年正月從四位下に進み、十二月大宰大貮になつた。右大辨には何時なつたか訣らぬ。
 
たかはら‐の‐ゐ【竹原(ノ)井】 河内國中河内郡。龍田山(183)を越えて河内國に下りた處。
 (補)大和川の峽谷、即、河内國の名の起源なる地帶を通つて、河内平野に出た處は、衛我《ヱガ》川(石川)と、片鹽《カタシハ》川との河合で、眺めのはるかな美しい場所である。この片鹽の地の、今の柏原よりの場處で、片鹽の對岸・石川の西岸の餌我(ノ)市へ渡る河内(ノ)大橋の近くに在つたものと思はれる。今、高井田の邊だと言ふが、今すこし下であつた事と考へる。奈良時代には、竹原(ノ)井(ノ)離宮があつて、難波行幸の往還に中宿とせられてゐる。(養老元年頃になつた離宮である=續紀)。名の起りは、水汲み場の井でなく、大和川の川隈の淵の樣な處であつたからであらう。「かたしはがは」「かふちのおほはし」「ゐ」參照。
 
たかひかる【高光る】 枕。天高く光る日《ヒ》とつゞけただけである。
 
たか‐ひ‐しる【高日知る】 崩ず。薨ず。貴人の此國に在るは、天降りてあるに等しく、其死去は、即、高天の原に還るのである。故に、高日知る〔四字傍点〕とも、天知る〔三字傍点〕とも言ふ。知るは領有・統治の意で、高日〔二字傍点〕は日の世界の美稱である。天を御治めになるの義。卷二「泣澤の社に神甕《ミワ》すゑ祈れどもわが大君は高日知らしぬ(二〇二)。
 
たかまど【高圓】 大和國添上郡。高圓野、又、高圓山と見えてゐる。高〔傍点〕は山に添ふる美稱で、山の形圓なるを言ふ名であらう。弓に矢をそへて射る由の序を有してゐる點も、山の形の圓きを名としてゐるを示す。一名圓形山。其山の下の野には、聖武天皇の高圓の離宮があつた。
 
たがみ【※[木+覇]】 劔の柄《ツカ》。手で握るところ。卷九「燒大刀の手がみおしねり(一八〇九)。
 
たかみや‐の=おほきみ【高宮(ノ)王】 傳未詳。
 
たかや【高屋】 大和國十市郡。高屋の上と言ふのは、此地にある高屋丘の上を言ふ。
 
たか‐や‐が=うへ【高屋が上】(補) たかやの山の上(又は邊)。高屋《タカヤ》は地名。たかや〔三字傍点〕と訓むべき樣でもあるが、高家〔二字傍点〕ともあるから、尚、たきへ〔三字傍点〕と訓んでもよいかも知れぬ。大和國高市郡多武の端山に高家《タイヘ》と言ふのがあつて、飛鳥から八釣を經て登ると、御破裂山の西北に當つて、上高家《カミタイヘ》・高家《タイヘ》と分れてゐる。飛鳥より北山田に亙る間からは、仰いで望む事の出來る(184)高地である。卷九「衣手をたかや(一七〇六)でも訣るが、たきへ〔三字傍点〕と訓む方が枕詞として效果が多い樣である。上〔傍点〕(又は邊)と言ふ語は、山上の地を指す事、「今城《イマキ》なるをむれが上の雲だにも(齊明天皇紀)などあるから、たかや〔三字傍点〕、或はたきへ〔三字傍点〕を固有名詞と見てよかり相である。
 
たかやす‐の=おはきみ【高安(ノ)王】 元明天皇の和銅六年正月從五位下に敍せられ、元正天皇養老元年正月從五位上に進み、三年七月伊豫守で阿波・讃岐・土佐の三國を管し、五年正月正五位下に、聖武天皇神龜元年二月正五位上に、四年正月從四位下に進み、天平四年十月に衛門督となり、九年九月更に從四位上に進み、十一年四月大原眞人の姓を賜り、十二年十一月正四位下に進んで、十四年十二月十九日卒した。攝津大夫となつたのは、何時だか訣らない。
 
たかやす‐の‐おほしま【高安(ノ)大島】 傳未詳。持統天皇朝の人。
 
たかやす‐の‐たねまろ【高安(ノ)種麻呂】 聖武天皇・孝謙天皇の朝の人。天平勝寶二年越中大目であつた。
 
たから【寶】 大切なるもの。貴重なるもの。稀にあるもの。卷十六「ありぎねの寶の子ら(三七九一)。寶の子らとは、大切なる寶の如く思ひ扱ふ子の義。卷五「しろがねも黄金も玉も何せむにまされる寶子にしかめやも(八〇三)。
 
たかをか‐の‐かふち【高丘(ノ)河内】 樂浪《サヽナミ》(ノ)河内である。元明天皇の和銅五年七月功績があつたと言ふので、播磨の大目從八位上から一級を進められ、※[糸+施の旁]十疋・布三十端を賜ひ、元正天皇養老五年正月正六位下であつたが、詔によつて退朝の後、東宮に侍し、文章に秀でたのを以て、※[糸+施の旁]十五疋、絲十五※[糸+句]、布三十端、鍬二十口を賜り、聖武天皇の神龜元年五月高丘連の姓を賜ひ、天平三年正月外從五位下に敍せられ、九月右京亮となり、十四年八月信樂行幸に造宮輔で造宮司をつとめ、十七年正月外從五位上、十八年五月從五位下、九月伯看守となり、孝謙天皇天平勝寶三年正月從五位上、六年正月正五位下になり、次で大學頭になつた。
 
たぎ【多藝】 美濃國養老郡。元正天皇が養老の瀑布を愛せられて屡行幸あり、此地に行宮を定められた事もある。藤原廣嗣が叛した時にも、聖武天皇は東幸(185)の途次、此地にも行幸せられた。
 
だきう【打毬】 ぎちやうあそび。木の枝で作つた杖を以て、ぶる/”\樣のものをうつて遊ぶ春の行事。昔は農作の吉凶を行ふ一つの行事であつたのが、當時すでに、大宮人の遊戯になつてゐたのである。今も此遊びをする處は、處々にある。
 
たきゞ‐こる【薪樵る】 枕。鎌倉山〔三字傍点〕とつゞく。薪を樵る鎌〔傍点〕とつゞけたのだ。
 
たぎつ【激つ】 水の沸くが如くに騷だつ。激しく流れ落つ。た行四段活用。卷六「岩走り激ち流るゝ泊瀬川絶ゆることなく復も來て見む(九九一)。
 
たぎのや‐のあごね‐の‐はら【瀧屋(ノ)阿兒根(ノ)原】 山城國宇治郡。石田・宇治間にある原。
 
たぎま‐の‐ろ【當麻(ノ)麻呂】 傳未詳。位は大夫と言ふから、五位であつたらしい。今、麻呂子山がある。
 
たぎま‐の‐まろ‐の‐め【當麻(ノ)麻呂(ノ)妻】 傳未詳。
 
たく 髪を梳く。髪、又は絲を櫛などですいて、通りよく揃はせる。髪を整へる。一説に髪をとりあげる。か行四段活用。卷二「たけばぬれたかねば長き妹が髪この頃見ぬにみだりつらむか(一二三)。卷七「處女等が織る機の上を眞櫛もちかゝげたく島浪間より見ゆ(一二三三)。卷九「放髪に髪たくまでに(一八〇九)。馬の手綱を操る。卷十九「石瀬野に馬たき行きて(四一五四)。卷十四「さなづらの岡にあはまきかなしきが駒はたくとも吾はそと思はじ(三四五一)。舟を漕ぐ。卷七「大船を荒海に漕ぎ出で八船たけわが見し子等がまみはしるしも(一二六六)。
 
たぐ【食ぐ】 食物を調理する。食する。轉じて、注意する、看護する意を含む。寫音が不完全だから、活用はわからないが、下二段活用であらう。卷二「妻もあらばとりてたげまし狹岑《サミ》の山野の邊のうはぎたけにけらずや(二二一)。日本紀「岩の上に小猿米やく米だにもたげて通らせかましゝのをぢ(二一四)。
 
たくしま【栲島】 所在未詳。
 
たくち‐の‐うまをさ【田口(ノ)馬長】 聖武天皇朝の人。傳未詳。
 
たくち‐の‐おほへ【田口(ノ)大戸】 孝謙天皇の天平勝寶七年に正六位上で、下野國(ノ)防人部領俵をして居たが、淳仁天皇の天平寶字四年正月從五位下に敍せられ、六年正月日向守となり、七年正月兵馬正に移(186)り、八年正月上野介となり、光仁天皇の寶龜八年正月從五位上に進んだ。
 
たくち‐の‐ひろまろ【田口(ノ)廣麻呂】 傳未詳。慶雲二年十一月從五位下を賜つてゐる。
 
たくち‐の‐ますひと【田口(ノ)益人】 文武天皇の慶雲元年正月從五位下に敍せられ、元明天皇の和銅元年三月上野守となり、二年十一月從五位上で右兵衛率に移り、元正天皇靈龜元年四月正五位下から正五位上になつた。
 
たくち‐の‐やかもり【田口(ノ)家守】 聖武天皇の天平十一年十月光明皇后の維摩講に終日、唐や高麗の種々の音樂を奏した時、市原王等が琴を弾いて、家守らは歌つて居る。音樂家であつたらしい。
 
たく‐づぬ‐の 枕。たく〔二字傍点〕は栲、つぬ〔二字傍点〕は綱の轉。又、栲の芽立ちの角だとも言ふ。白色の物だによつて、しろ〔二字傍点〕・しら〔二字傍点〕などの枕詞としたのだ。
 
たくなは‐の【栲繩の】 枕。たく〔二字傍点〕は栲、なは〔二字傍点〕は繩。繩から長き〔二字傍点〕と言ふ語を呼び起して居る。
 
たく‐ひれ‐の【栲領巾の】 枕。栲領巾《タクヒレ》。其色から白濱〔二字傍点〕に、領巾は頸《ウナジ》にかける物である處からかけ〔二字傍点〕につゞけた。さぎさか山にかけたのは鷺の色から出たのだ。
 
たぐふ【副ふ】 竝ぶ。一處に物をする。夫、又は妻と添ふ。は行四段活用。
 
たく‐ぶすま【栲衾】 枕。たく〔二字傍点〕は栲。ぶすま〔三字傍点〕は衾。即、栲布製の衾をたくぶすま〔五字傍点〕と言ふのである。栲は木の繊維だから、勿論、眞白い。其處でしら〔二字傍点〕と言ふ語につゞけた。
 
たけ【嶽】 山を仰ぎ見て、高さの感じを主とする時に用ゐる。高嶺と言ふに同じ。嶽には必、神が住んで居る。其神性は、人間とは多く直接關係は無いが、雨・霧・雲等を支配してゐる恐しいものである。嶽は遠く仰ぎ見るもので、近づき難いものである。卷二十「高千穗(ノ)嶽(四四六五)。卷十三「三吉野の御金(ノ)嶽(三二九三)。
 
たけ‐そか‐に【邂逅に】 偶然に。ひよつくりと。だしぬけに。不意に。卷六「玉敷きて待たましよりはたけそかに來たる今宵したぬしく思ほゆ(一〇一五)。
 
たけだ【竹田】 大和國十市郡。大伴氏の莊園があつて、大伴坂上郎女が其處に住んで居つた。これは其(187)母から傳つた莊園なのだ。
 
たけち‐の‐おほまへつぎみ【高市(ノ)卿】 「おほとものおほまへつぎみ」參照。
 
たけち‐の‐くろひと【高市(ノ)黒人】 持統天皇朝の人、傳未詳。集中第一の客觀詩人。
 
たけち‐の=みこ《高市(ノ)皇子】 天武天皇の皇子。母は胸形(ノ)徳善の女尼子娘。草壁皇子・大津皇子などの異母兄弟である。壬申の亂に大功がある。天武天皇五年八月食封を賜り、十四年正月淨廣貮位に敍せられ、持統天皇三年四月草壁皇子の薨後、一時、皇太子に立てられた。四年七月には太政大臣になつて居られる。五年正月封二千戸を賜つて三千戸となり、六年正月にまた二千戸を賜つた。七年正月には淨廣壹位に進んで、十年七月十日に薨じられた。御墓は大和國廣瀬郡三立岡にある。
 
たけぶ【猛ぶ】 勇氣を發する。怒る。憤る。ば行四段活用。卷九「足ずりし牙《キ》がみたけびて(一八〇九)。
 
たける‐べ‐の‐うしまろ【建部(ノ)牛麻呂】 聖武天皇朝の筑前國那珂郡伊知郷蓑島の人。又、たけべ〔三字傍点〕と言ふか。
 
たこ‐の‐いりぬ【多胡(ノ)入野】 上野國多野郡で、鏑川沿岸深く山地に入つた開墾地。
 
たご‐の‐うら【田子(ノ)浦】 駿河國富士郡、富士の山の南にある浦。また、越中國氷見郡、布勢(ノ)湖水の一※[さんずい+彎]の名である。今、二上山の北方に田子村があるが、同名異地で、更に北方、氷見町附近だと言ふ。
 
たこ‐の‐さき【多古(ノ)埼】 越中國氷見郡。布勢の湖と日本海との間を劃した突出地。
 
たこ‐の‐しま【多古(ノ)島】 越中國氷見郡の海上。今、唐島とよぶもの、これか。
 
たこ‐の‐ね【多胡(ノ)嶺】 上野國多野郡。今の赤城山と言ふ。
 
たご‐の‐よびさか【手兒(ノ)呼坂】 駿河闘。今、田子(ノ)浦の地。昔あしき神が出て、人をとる故に、互に名を呼びかはして行つた。ある時、女と男とが別れて歸る時、神の爲にとられた。其時、そのたご〔二字傍点〕(娘)が聲をあげて呼んだので、たごのよびさか〔七字傍点〕と言ふと傳へてゐる。
 
たじま‐の=ひめみこ【但馬(ノ)皇女】 天武天皇の皇女、母は藤原鎌足の女冰上娘で、元明天皇の和銅元年六(188)月二十五日三品でなくなられた。情人穗積皇子や高市皇子とは異母兄弟である。
 
たすき【手※[衣+強]】 萬葉人の袖は長いから、働く時に袖を上の方へたぐり上げて結びおく紐。女子のは、美しい裂地で作り、裝飾も施してあつた。たすき〔三字傍点〕をかける事は、非禮にはならない。神を祀る時にも、たすき〔三字傍点〕をかけた。卷五「白栲のたすきをかけまそ鏡手にとりもちて天つ神あふぎこひのみ國つ神ふしてぬかづき(九〇四)。卷十三「木綿だすき肩にとりかけ(三二八八)。
 
たゞ‐か【直處】 起居。有樣。消息。卷四「わが聞きにかけてな言ひそ刈薦の亂りて思ふ君がたゞかを(六九七)。
 
たゞ‐ごえ【直越】 奈良の京から難波の津へ一直線に越える道。草香山を越えてゆく道。龜(ノ)瀬越の龍田路に對する。
 
たゝ‐さ【縱・竪】 竪と言ふ事。さ〔傍点〕はよこしま〔四字傍点〕のし〔傍点〕と同じ方角の語尾で、樣式は古形容詞の語尾に關係があらう。竪の長さ。卷十八「竪さにもかにも横さも奴とぞわれはありける主の殿戸に(四一三二)。
 
たゞ‐ち【直路】 直通した路。近路。卷十一「月夜よみ妹にあはむと直路から我は來つれど夜ぞふけにける(二六一八)。
 
たゞ‐て【直手】 ぢかの手。媒介によらずに。手そのまゝ。袖で蔽うたりしてないむきだしの手。卷十四「鈴が音のはゆまうまやのつゝみ井の水を賜へな妹がたゞ手よ(三四三九)。
 
たゝなづく【疊附く】 山の重なりあうてうづくまる有樣を言ふ。
 
 たゝなづ‐く 枕。あをがき山。にぎはだ。たゝなづく〔五字傍点〕とは、たゝなはりつくの意。山のなりあふにつづけ、又、やはらかなる肌の身に接すると言ふ意味で、にぎはだ〔四字傍点〕にかけたのである。
 
たゝ‐なめて 枕。い。たゝなめ〔四字傍点〕とは、楯竝《タテナメ》の轉で、敵の矢を防ぐために、楯を竝べ立てるを言ふのだ。かく楯を立て竝べた其陰で、此方からも弓を射かける處からい〔傍点〕(射)を起したのであらう。
 
たゞに【直に】 直接に。ぢかに。
 
たゝは‐し【滿はし】 滿ち足れる、完全なる、充滿せる。しく活用。卷二「もち月のたゝはしけむと(一(189)六七)。卷十三「望月のたゝはしけむと(三三二四)。
 
たゝみ【疊】 或人の屋敷なる床なり、疊なりは、其人の人格の宿る處として、古人は尊崇したものである。疊床を汚したり、現状を變へたりする事はなかつたので、殊に其人が位置を變へた、即、死去、或は旅行中は、其人の精靈の其處にあるものとして、大切に事へたのである。今、疊ばかりで言うても、旅行中には疊を其儘にして、決して移したり、汚したりしない。其を犯すと、旅人は生命に關する禍を受けるのである。卷十五「疊かもあやまちしけむ(三六八八)とあるのは、此場合を言ふのである。反正天皇記に「大君を島にはふらば船あまりいかへり來むぞわが疊〔三字右・〕ゆめ。言《コト》をこそ疊といはめ。わが妻はゆめ(八五)とある。ゆめ〔二字傍点〕は忌《ユ》めである。齋《イツ》き事へよと言ふ事である。今でも甲州邊では、家人の伊勢まゐり中は、家に標繩《シメナハ》を張つて出入を戒める。之は其疊を犯されない爲の遺風なのだ。「床」參照。
 
たゝみ‐こも 枕。へ。む。疊薦の意。疊にするために薦をあみ編《フ》と言つて、へ〔傍点〕につゞけ、「編む」を略してむ〔傍点〕にかけたと見える。卷十一に「疊薦、隔て編む數かよひなば(二七七七)とも見えて、彼方此方に越して編む方からへだてあむ〔五字傍点〕と言つたものらしい。
 
たゝり【線柱】 絲を績む時に使ふ繰り臺。卷十二「乙女らが績麻のたゝり(二九九〇)。
 
たち‐ど【立處】 立つてゐる場處。卷十四「青柳の張らろ川門に汝を待つと清水《セミド》は掬まず立處馴らすも(三五四六)。
 
たち‐ならす【立ち馴らす】 行き馴らす。行きつけてゐる。さ行四段活用。卷九「葛飾の眞間の井見れば立ちならし水をくみけむ弖兒奈し思ほゆ(一八〇八)。卷十二「椿市の八十の衢に立ち馴らしむすびし紐を解かまく惜しも(二九五一)。
 
たちばな 古くは、蜜柑類を總べてたちばな〔四字傍点〕とも言うた。又、からたちばな〔六字傍点〕を略してたちばな〔四字傍点〕とも言うてゐる。之については、田道間守《タヂマモリ》の傳説がある。
 
たちばな【橘】 大和國高市郡。橘寺のある附近の名。又、武藏國なのは、今の橘樹郡。
 
たちばな‐の 枕。橘の實〔傍点〕とかけたゞけであらう。
 
たちばな‐の‐さゐ【橘(ノ)佐爲】 「さゐのおほきみ」參照。
 
(190)たちばな‐の‐てら【橘(ノ)寺】 今、大和國高市郡にある。飛鳥川を隔てゝ東岸の岡町に對してゐる。北に一町隔てゝ、河原(ノ)寺・甘橿(ノ)丘(實は神奈備山)に向きあうてゐる。聖徳太子の創建で、法華經を講ぜられた精舍だと言ふ。當時、相當の勢力を持つてをり、又、稍、荒廢に近づいてゐたと見えて、其僧房(長屋)で、俗人が女をつれこんで寢たよしは、本集にも見えてゐる。
 
たちばな‐の‐ならまろ【橘(ノ)奈良麻呂】 橘諸兄の長男、母は不比等の女從三位多比能である。聖武天皇天平十二年五月天皇、諸兄の相樂の別莊へおいでになつて、宴飲酣暢した時に、從五位下に敍せられ、次で同十一月從五位上に進み、十三年七月大學頭となり、十五年五月正五位上、十七年九月攝津大夫になり、十八年三月民郡大輔にうつり、十九年正月從四位下、孝謙天皇天平勝寶元年四月從四位上に累進し、次で閏五月侍從となり、七月參議に任じ、四年十一月但馬・因幡の巡察使となり、伯耆・出雲・石見までも管し、六年正月正四位下に進み、天平寶字元年六月左大辨となつたが、父諸兄の失脚と共に意の如くならず、大伴胡麻呂を談つて、廢太子及び道祖王・長屋王の子、安宿、黄文、山背の諸王と共に惠美押勝の黨を却け、廢立しようと謀つたが、却て事破れて殺された。此時、大伴の一族は、多く奈良麻呂に與して除かれ、是から大伴氏は全く衰へた。後、奈良麻呂は、仁明天皇の承和十四年十月に太政大臣・正一位を贈られた。これは天皇の外祖父であるからでもあらうが、一は彼の死が餘りに悲惨であつた爲でもある。
 
たちばな‐のふみなり【橘(ノ)文成】 橘諸兄の弟佐爲の子である。傳未詳。
 
たちばな‐の‐もろえ【橘(ノ)諸兄】 敏達天皇四世の孫美努王の子で、葛城王と言ひ、元明天皇の和銅三年正月從五位下に敍せられ、元正天皇の養老元年正月從五位上、五年正月正五位下、七年正月正五位上、聖武天皇神龜元年二月從四位下に累進し、天平元年三月正四位下、同九月左大辨となり、二年九月催造司監に任じ、三年八月諸司推擧によつて參議となり、四年正月從三位に進み、八年十一月弟佐爲王と共に上奏して、皇族の高名を辭して橘の宿禰姓を賜つ(191)た。此時、元正・聖武兩天皇、光明皇后が共に皇后宮に宴を賜つて橘を賀する歌を詠ぜられた。九年九月大納言に任じ、十年正月正三位に進み、右大臣に拜し、十一年正月從二位に、十二年十一月正二位に、十五年五月更に從一位・左大臣の榮位を得て權勢竝ぶものがなく、十八年四月には大宰帥を兼ね、孝謙天皇天平勝寶元年四月正一位になつたが、八年二月惠美押勝等の爲に左大臣をやめられて、間もなく天平寶字元年正月六日に薨じた。
 
たぢひ‐の‐あがたもり【丹比(ノ)縣守】 左大臣・正二位島の子、文武天皇慶雲二年十二月從五位下、元明天皇和銅四年四月從五位上に進み、元正天皇靈龜元年五月從四位下にて造宮卿となり、二年八月遣唐押使に任じて翌年二月節刀を賜り、養老三年正月歸朝して正四位下に敍し、七月初めて按察使を置いた時、武藏守で相摸・上野・下野の三國を管し、四年九月播磨國の按察使から持節征討將軍に任じ、五年四月正四位上で、狄を鎭めて還つて六月中務卿となり、聖武天皇天平元年二月大宰大貮・正四位上で、權に參議に任じ、同三月從三位となり、三年八月民部卿で參議に任じ、同十一月山陽道鎭撫使をつとめ、四年正月中納言となり、八月山陰道鎭撫使に遷り、六年正月正三位、天平九年六月二十三日薨じた。
 
たぢひ‐の‐いへぬし【丹比(ノ)屋主】 乙麻呂の父で、元正天皇の養老七年正六位上で出羽國司をして居たが、聖武天皇の天平九年二月從五位下に敍し、十二年十一月伊勢國の行幸に從うて從五位上に進み、十三年八月鑄錢長官となり、天平二十年二月正五位下を授かり、孝謙天皇の天平勝寶元年閏五月に左大舍人頭となり、六年正月天皇の東院の宴に侍して從四位下を賜り、淳仁天皇の天平寶字四年三月二日散位で卒した。大藏大輔になつたのは、何時頃だか、はつきり訣らない。
 
たぢひ‐の‐おとまろ【丹比(ノ)乙麻呂】 屋主の第二子で、稱徳天皇の天平神護元年正月從五位下に敍せられ、同年十月紀伊國行幸の御前次第司次官となつて居る。
 
たぢひ‐の‐かさまろ【丹比(ノ)笠麻呂】 傳未詳。
 
たぢひ‐の‐たかぬし【丹比(ノ)鷹主】 孝謙天皇の天平勝寶四年遣唐副使大伴胡麻呂が出發の時に歌を贈つ(192)て、これを壽して居るが、大平寶字元年七月橘奈良麻呂陰謀の時にも、胡麻呂と共に之に與して居る。
 
たぢひ‐の‐はにし【丹比(ノ)土作】 聖武天皇の天平十二年正月從五位下に敍せられ、十五年三月新羅使の來朝した時、これが接待をつとめ、次で同年六月攝津亮となり、十八年四月民郡少輔に移り、孝謙天皇天平勝寶元年八月紫微大忠を兼ね、六年四月尾張守となり、天平寶字元年五月從五位上を授かり、淳仁天皇の同五年十一月西海道の節度副使となり、七年正月正五位下に進み、八年四月文部大輔となり、稱徳天皇の天平神護二年十一月從四位下に敍せられ、神護景雲二年二月左京大夫となり、七月に治部卿に任じ、光仁天皇寶龜元年七月參議となり、從四位上に進み、二年六月十日歿した。
 
たぢひ‐べ【丹比部】 未詳。丹比氏の所管か。
 
たちまち‐に【忽に】 即座に。急に。直に。
 
たぢまもり【田道間守】 新羅の王子(實は秦人)天(ノ)日槍《ヒホコ》の後で、垂仁天皇の朝、常世に使して「時じくのかぐの木の實」を求めに行き、木の實を持つて歸つて來た所が、天皇は既に崩ぜられた後であつた。それで木の實を捧げて、天皇の御陵に行き、常世の國の時じくの木の實を持つて參りましたと言つて泣き歎き悲しんで死んだ。今、此木の實を橘と言ふのも、田道間守の名から出て居ると言はれて居る。
 
たつ【立つ】 立つ。起つ。現れる。古き物去りて新しきもの來る。月立つ〔三字傍点〕・春立つ〔三字傍点〕は、舊に代りて新しき月・新しき春の此處に現れ出るのである。
 
たづ 田鶴《タヅル》の略か。常に田にある處からして、田をつけたと説かれてゐる。鶴と言ふに同じい。(古くは鵠・鸛などをも、皆、たづと呼んでゐた)其啼く聲の殊にめでられたのは、勿論の事だ。
 
たづ【※[金+番]】 刃の廣き斧。
 
たづ【接骨木】 にはとこ〔四字傍点〕の木。葉の互生する所からむかふ〔三字傍点〕の枕詞に使ふ。卷二「山たづの迎へを往かむ(九〇)。卷六「山たづの迎へまゐでむ(九七一)。
 
たつか‐づゑ【手束杖】 杖、握り太なる大きさについて言ふ。
 
たつか‐ゆみ【手束弓】 弓。握り太の弓。
 
たづき【便宜】 手づる。よきついで。方便。卷一「草枕旅にしあれば思ひやるたづきをしらに(五)。
 
(193)たづさはる【携る】 伴ふ。連れ立つ。手をひきあふ。妻、又は夫と共にする。卷十「萬代にたづさはりゐて相見とも思ひすぐべき戀ならなくに(二〇二四)、卷十「人言は野の夏草の繁くとも妹と我としたづさはり寢ば(一九八三)。
 
たつた【龍田】 大和國。生駒川の下流が大和川に流入する附近。即、龍田の地で、そこを流るゝのを龍田川と言ふ。龍田山は、其西方に當る生駒山脈の一部をさす。龍田の神社は、風の神で、風祭りとて暴風の吹かない樣に祈る祭りがある。
 
たづ/”\‐し 心もとない。探り足の樣な心持ち。卷十一「雨雲にはねうちつけて飛ぶ鶴のたづ/”\しかも君しまさねは(二四九〇)。たど〔二字傍点〕・たづ〔二字傍点〕は探《タツ》を語根としたのだ。
 
たづな‐の‐はま【手綱(ノ)濱】 所在未詳。東國の地名だらう。
 
たつ‐の‐ま【龍の馬】 馬の極めて駿きもの。周禮に「凡馬八尺以上爲v龍」と言うてゐる。支那語の直澤である。
 
たて【楯】 木に皮を張りて作る。征戰の具なる事、勿論なれども、朝廷に於ても、儀式の時に威儀の物として飾る。卷一に「健男の鞆の音すなり物部の大臣楯立つらしも(七六)とあるは、將軍の出征を意味してゐるので、此武具を借りて戰爭のある事を現してゐるのだ。
 
たて‐たつ【楯竪つ】(補) 大甞祭の威儀の一つ。宮門(或は由紀・須機の齋門の邊でも、したものらしく見える。或は齋門に限つたと言はれ相でもあるが、尚、姑らく斷言は出來ぬ)の邊で、物部の復姓なる石(ノ)上・榎井氏の人々が、内物部《ウチツモノヽベ》を率ゐて、整列して楯を竪て竝べさせて、威容を作らせたものと考へられる。和銅元年は、元明天皇御即位の翌年で(慶雲四年六月御即位)、即、其十一月大甞があつた。從來、東夷征討の事を思ひよせて、物部大臣が、征夷の軍の調練をしたのだと説くのは、誤りである。たつ〔二字傍点〕と言ふ語が、事業を起す意にとれる處から、うつかりさう感じてゐたのに過ぎぬ。實は「竪(ツ)v楯(ヲ)」は、一つの成語であつた。文武天皇の二年十一月廿三日には、大甞があつて、直廣肆|榎《エ》(ノ)井《ヰ》朝臣倭麻呂が、竪(テ)2大楯(ヲ)1、直廣肆大伴(ノ)宿禰|手拍《タウチ》が竪(テ)2楯桙《タテホコ》1てゐる(續紀)。(194)又、聖武天皇の神龜元年十一月廿三日にも、大甞があり、從五位下石(ノ)上朝臣勝男・石(ノ)上朝臣乙麻呂・從六位上石(ノ)上朝臣諸男・從七位上榎井(ノ)内朝臣大島等が、物部を率ゐて、立(テ)2神楯桙(ヲ)齋宮(ノ)南北(ノ)二門1(續紀)、光仁天皇の寶龜二年十一月廿一日にも、太政官院に御せられて、大甞の事を行はれ、參議從三位式部卿石(ノ)上(ノ)朝臣|宅嗣《ヤカツグ》・丹波(ノ)守正五位上石(ノ)上(ノ)朝臣|息嗣《オキツグ》・勅旨少輔從五位上兼春宮員外亮石(ノ)上(ノ)家成・散位從七位上榎井(ノ)朝臣|種人《タネヒト》が立(テ)2神《カム》楯|桙(ヲ)1た外に、大伴(ノ)古慈悲《コジヒ》・佐伯(ノ)今《イマノ》毛人《エミシ》が開門した(續紀)とある。元明天皇紀には、「竪楯」の事については何の記載もないが、此形式がなかつたのではなく、朝廷の記録に落ちて居たのと、今一つはありふれた事なる爲に書かなかつたものと見える。但、或は聖武天皇・光仁天皇紀に物部氏の人數の多いのは、文武天皇あたりに、一人の物部大臣が内物部に號令した形式を變へて、此等の人々が自身で「竪楯」したのかも知れぬ。聖武天皇の朝のをさうだとすれば、元明天皇の卷一「ものゝべの大臣《オホマヘツギミ》楯立つらしも(七六)も、小人數の竪楯であらう。石(ノ)上・榎井の人々の竪楯を言ふのだから、物部大臣はものゝふではなく、ものゝべ〔四字傍点〕であるに疑ひはない。尚、疑問として殘るのは、大楯と楯桙との違ひ、大伴氏の楯桙を立てた事も(文武天皇紀)、「竪楯」と言はれるのであらうかと言ふ事、竝びに楯桙と言ふのは、一つの物か、楯桙別物かと言ふ點であるが、光仁天皇紀の大伴佐伯の開門と言ふのに對して、物部氏は門外に居たものらしく、神楯桙〔三字右○〕の字面によると、單なる儀容ばかりでなく、神事の物かも知れぬ。さて、元明天皇の御製は、國事を憂へさせ給ふと言ふ樣な筋のものではなく、大嘗祭の近づいた時、或は當日の御心持ちであらう。「鞆の音すなり」の句から想像すれば、單に楯を竪てるたけでなく、其楯に向うて矢を射る行事があつたものと見てよからう。さうして尚、推察すれば、此儀式に惡穢魔厭を近づけぬ爲の、一種の蟇目式の壓勝かとも言へ相である。豫習と見ても、當日の樣と見ても、別樣の興味はある。此御製に對する和歌《コタヘウタ》も、卷一「ものな思ほし(七七)を天子の憂色を見ての語と見ずに、「すめ神のつぎて給へる君なけなくに、ものな思ほし」と輕く下に(195)廻して見るべきであらう。或は、前々年(慶雲三年)の十一月に、文武天皇不豫の節、其禅位を固く辭んで受けさせられなかつた事などから見て、此時、尚、大嘗祭の後、愈、天位に在ると言ふ心の明らかになるにつれて、女帝らしい御不安を「物部の大臣楯竪つらしも」で表されたのを、慰めなだめ奉つたのだとも説かれ相である、さすれば、「何もお考へ込みになる事は御座いません。皇神からどん/”\後から後からとみたまを賜うて助けられていらつしやる君でないなら、爲方も御座いませんが、さうではないのですから(君なけなくに、君になけなくにの意にとつて)と奏されたので、「われなけなくに」は、よくないと言ふべきであらう。
 
たて‐ぬき【經緯】 ぬき〔二字傍点〕は横である。竪と横と言ふに同じ。又、方角を充つれば、東西は經で、南北は緯である。「ひのたて」を見よ。
 
たてば‐つがる【絶てば繼がる】 斷絶する時もなく、切るかと見れば、あとの續く。卷十一「君がきる御笠の山にゐる雲の絶てばつがるゝ戀もするかも(二六七五)。同種の語に、止めばつがる〔六字傍点〕と言ふのが、卷三に「高座の御笠の山に鳴く鳥の止めばつがるゝ戀もするかも(三七三)。る〔傍点〕は、不可抗力を表す語である。
 
たど‐がは【多度河】 美濃國養老郡。養老の瀧の下流。
 
たどき たづき〔三字傍点〕と同じい。
 
たとつく‐の 枕。たとつく〔四字傍点〕は立月、現《タ》つ月の行く如く逃《ヌガ》なへ行くとかゝるのであらう。
 
たどり 地名か。川の名か。上野國。
 
たどる【辿る】 さぐる。さぐり/\あるく。
 
たなかみ‐やま【田上山】 近江國の南端の山。宇治川に臨んでゐる。名が手のかみ、即、腕と同音なので、衣手の〔三字傍点〕と言ふ枕詞を有してゐる。
 
たな‐ぎらふ 一面に霧がかゝる。
 
たな‐ぐもる 一面に曇る。
 
たなくら‐の‐ぬ【棚倉(ノ)野】 山城國綴喜郡。木津川の右岸。
 
たな‐しる 十分に知る、すつかり辨へ知る。卷十三「葦垣の末かきわけて君こゆと人にな告げそ言はたな知れ(三二七九)。
 
たな‐なし‐をぶね【笆ウし小舟】 笏ツも無い樣な小(196)さい舟。海は大きく荒いのに、あの樣な小さな舟に乘つてよく漕いで渡られるものだ、と言ふ感情を宿してゐる。
 
たな‐はし【棚橋】 河中に橋柱を打つて、其上に竪に橋板を渡した橋。打橋よりは柱を立てた迄は進歩した橋だけれども、やはり橋板を一二枚、竪に渡しただけだ。
 
たなべ‐の‐あきには【田邊(ノ)秋庭】 聖武天皇朝の人、傳未詳。
 
たなべ‐の‐さきまろ【田邊(ノ)福麻呂】 酒造司の令史で、聖武天皇の天平二十一年橘諸兄の使となつて行つて、大伴家持の爲に馳走になつて、新歌古詠を詠んで居る。歌集などもあつて、なか/\の歌人であつたらしい。
 
たなべ‐の‐さきまろ‐の=しふ【田邊(ノ)福麻呂(ノ)集】 田邊福麻呂が自分で集めた集と思はれる。之も今日傳つてゐない。年月を明らかにし、場所を明らかにしてある歌集で、長歌も多い。
 
たに【爲】 ために。其縁で。ために〔三字傍点〕の約ではなからう。
 
だに 價値・分量等の足らぬものをでも、此上に加へようとする心持ちから、低級の物と比較する今の用法が出たのであらう。すらだに〔四字傍点〕・さへだに〔四字傍点〕などの用例から見ても、さへ〔二字傍点〕・すら〔二字傍点〕との區別は疑しい。であるにつけても、位の用言接尾語だらう。
 
たに‐ぐゝ 蝦蟇の古語である。谷間に棲んでゐて、くゝ〔二字傍点〕と鳴くから出來た名だと言はれるが、くゝ〔二字傍点〕、即、蟇と言ふ事で、ひき〔二字傍点〕と同語である。
 
たには‐の‐おほめ‐の‐をとめ【丹波(ノ)大女(ノ)娘子】 傳未詳。
 
たのむ【憑む】 たよりに思ふ。身を任せる。安心してゐる。ま行四段活用。卷三「かくのみにありけるものを妹も吾も千歳の如く憑みたりけり(四七〇)。同「大伴の名に負ふ靱帶ひて萬代に頼みし心いづくかよせむ(四八〇)。
憑ませる。たよりに思はせる。ま行下二段活用。卷四「始より長くいひつゝ憑めずはかゝる思ひにあはましものか(六二〇)。
 
たばる【賜る】 頂戴する。賜る。貰ふ。卷四「古の人の食させる吉備の酒疾めば術なし貫簀賜らむ(五五(197)四)。
 
たふ【塔】 塔を作るのは功徳になるので、美々しく作る。萬葉人でも、大伴旅人はかう言ふ事に反感を抱いてゐたらしい。卷十六「香ぬれる塔になよりそ川隈の糞鮒はめるいたき女奴(三八二八)。
 
たぶ【賜ぶ】 物を賜ふ。物をやる。ば行四段活用。これに動作の主に對する敬語が添ふと、「たばす」となる』。して下さる。動作の主に對する敬語。ば行四段活用。卷十六「わが目らに鹽ぬり給ぶと申し賞へも(三八八六)。
 
たふさき【犢鼻褌】 ふんどし。陰部を掩ふ物。
 
たふし‐の‐さき【答志(ノ)埼】 今の志摩國の答志島。伊勢※[さんずい+彎]の入口にある島である。
 
た‐ぶせ【田廬】 田圃の小家。田舍の家。
 
たぶて【礫】 手で投げる石。卷八「たぶてにもなげこしつべき天の川隔てればかもあまたすべなき(一五二二)。
 
たふる【戯る】 ふざける。不眞面目なる。ら行下二段活用。卷十七「たふれたる醜つ翁(四〇一一)。
 
たべ‐の‐いちひ‐の‐こ【田部(ノ)櫟(ノ)子】 傳未詳。
 
たま‐あふ【魂合ふ】 心と心がしつくり合ふ。よく了解しあふ。信頼し合ふ。は行四段活用。卷十二「魂あへばあひ寢むものを小山田の鹿猪《シヽ》田守るごと母し守らすも(三〇〇〇)。
 
たま‐かづら【玉※[草冠/縵]】 玉にて飾りたる鬘。又、立派な美しい鬘。女子の頭髪の裝飾である。
 
たま‐かづら 枕。たゆ。長き。かけ。長く這ふ蔓よりして、絶ゆ〔二字傍点〕・長き〔二字傍点〕に縁を結んだのである。これはかづら〔三字傍点〕を蔓草と見ての方面であるが、今一つ、頭に裝飾として懸けた所の鬘と言ふ物の意味から見て、かけ〔二字傍点〕に言ひかけて居る。かけ〔二字傍点〕は又、影〔傍点〕ともなつた、と言ふのはわるい。かげ〔二字傍点〕は蔓草の名だ。
 
たま‐がは【多摩河】 武藏國を流るゝ川。
 
たま‐きはる 枕。たま〔二字傍点〕は魂、きはる〔三字傍点〕は極まる。即、たまきはる〔五字傍点〕は、人が生れてから死ぬる迄の間をかけて言ふのであつて、生れて居る中と言ふ意味から、うち〔二字傍点〕・いのち〔三字傍点〕・代〔傍点〕などにかけたと言ふ。卷十七の越中國立山の歌に、「たまきはる、幾代へにけむ云々(四〇〇三)とあるのは、幾〔傍点〕ではなくて代〔傍点〕にかけたのである。卷十五に「たまきはる、短き命惜しけく(198)もなし(三七四四)とあるは、「短き」を插んで命〔傍点〕にかゝる。卷十の「たまきはる吾が山のへに云々(一九一二)は、輪〔傍点〕にかけたものであらう。又、思ふに玉木|萌《ハ》るの意でもあらうか。
 
たま‐くしげ 枕。たまは美稱、くしげは櫛笥。蓋があつて、あける樣にしてあるので、ふた〔二字傍点〕とか、あく〔二字傍点〕(あき・あけ)とか、おほふ〔三字傍点〕につゞけ、其笥の身よりしてみ〔傍点〕、又、其内部に藏する處から、おく〔二字傍点〕にも言ひかけて居る。
 
たま‐くしろ【玉釧】 枕。釧とは、古く臂に飾としてつけた物である。因つて手にまき〔四字傍点〕とか、まきねし〔四字傍点〕とか言ふ語につゞけたのだ。
 
たましひ【魂】 生活の原動力で、生命のある中は、人間の體中に宿つてゐるが、死後は肉體と離れて、不滅の生を續けるものであるが、それにも永遠の考へはなかつたらしい。たゞ死者の魂は、人に災害を下すものとして恐れられてゐた。其上、生命ある間でも、熟睡したり、考へごとに屈托した時には、衰へた肉體から、暫時、遊離して對象物の方に行くものと思はれてゐた。尚、靈魂の遊離の爲に、さま/”\な病氣を受けるものとの考へから、鎭魂《ミタマフリ》(「たまふる」參照)と言ふ事をした。遊離魂は、それ自ら、樣々な災をするもので、今日の生靈の樣な作用のあるものと信じてゐたので、古代人は、自らも其靈のあくがれ出るのを恐れたのである。
 
たま‐しま【玉島】 肥前國東松浦郡。今、唐津市の東方、玉島村の地。昔、神功皇后が三韓を征伐の時、此地に來り、針を勾げて鈎とし、飯粒を餌として鮎を釣る。もし事成らば、魚を獲むと誓うたが、鮎を得た。其後、毎年春になれば、女子等が相競うて鮎を釣る。男子は一魚を釣る事も出來ないと傳へてゐる。
 
たま‐たすき 枕。かけ。うねび。襷はかける物だ。其頭に懸ける事をうなぐ〔三字傍点〕と言ふ。其處で、かけ〔二字傍点〕及びうね〔二字傍点〕(うなげ〔三字傍点〕の約)などの枕詞とした。
 
たま‐だれ 枕。を。たまだれ〔四字傍点〕は、玉を緒にぬきとほして垂れ懸けたもの。その玉だれの緒と言ふので、を〔傍点〕とつゞけたのだ。玉簾。
 
たま‐ちはふ【靈倖】 神靈が、人心に感應して、不思議の作用を下す事を言ふ。卷十一「たまちはふ神も(199)我をばうつてこそしゑや命のをしけくもなし(二六六一)と言ふのは、神の枕詞でなく、神靈感應して妙用を下し給ふと言ふ實質的の語である。靈さきはふの意で、ちはふ〔三字傍点〕は、さちはふ〔四字傍点〕の約であらう。
 
たまつくり‐べ【玉作部】 天照大神が岩戸にかくれられた時、八阪瓊曲玉を造つた。高魂命の孫天明玉(豐玉、櫛明玉)命の後と言ふ。上代、玉を造る事を職業として居た部民である。
 
たまづさ たまづさ〔四字傍点〕は玉梓で、此木に書状を插んで往來した處から、言だに告げず〔六字傍点〕だの、使〔傍点〕だの、言ふ〔二字傍点〕だのとつゞけたのである。卷七に「玉梓の妹は珠かも(一四一五)。或は同「玉梓の妹は花かも(一四一六)とあるのは、玉梓の珠、或は梓の花とかけて言うたらしい。
 
たまつ‐しま【玉津島】 紀伊國海草郡。若の浦にある島の名。萬葉人は、特に此島の風致を愛した。卷七の「※[果/衣]にせむ(一二二二)と言ひ、同「よく見ていませ(一二一五)と言ひ、これをもてはやした状が知られる。
 
たま‐とこ【玉床】 玉〔傍点〕は床をほめて言ふ。妹が寢る床は美しからずとも、かう讃へるのである。又、死んだ人の靈魂の在留を信じて、ある期間、其儘に死んだ時の床を殘して置かねば、靈魂が發散して、浮浪靈魂(無縁精靈)となつて了ふと考へてゐた。此方は、靈床と字を宛てるのであらう。卷二「家に來て我が家を見れば魂床のほかに向きけり妹が木枕(二一六)。
 
たま‐の‐うら【玉(ノ)浦】 紀伊國海草郡。又、卷十五なるは安藝國。
 
たま‐の‐よこやま【多摩(ノ)横山】 武藏國北多摩・南多摩に亙る丘陵。所澤・久米川邊より起る。
 
たま‐の‐を 枕。玉を貫き通す緒を玉の緒と言ふので、長きもあれば短きもある處から、長き〔二字傍点〕・短き〔二字傍点〕にかけ、其緒が切れるとか、又、緒が切れて玉が散らばると言ふので、絶え〔二字傍点〕・亂れ〔二字傍点〕等につゞけた。又、多くの玉を隙間もなく貫くとの意味から間も置かず〔五字傍点〕、古びていけなくなつた緒から、新しい緒に移しとほすと言ふ意味でもあらうか、うつし(現)にかけて言うて居る。
 
たま‐はゞき【玉箒】 飾のついた箒。玉〔傍点〕はほめて言ふ。(200)箒は箒草を刈つて作つた今言ふ草箒である。箒草をば玉箒と言ふは、箒に作りたる上より見て、美稱をつけたものである。卷十六「玉箒刈り來鎌麻呂梨の木と棗がもとゝかき掃かむ爲(三八三〇)。卷二十「初春の初子の今日の玉箒手に取るからにゆらぐ玉の緒(四四九三)。
 
たま‐はやす 枕。むこ。たま〔二字傍点〕は玉、はやす〔三字傍点〕は榮あらすの意。古には、男は女の家に行き住まうて、玉の樣にめではやされたものたから。「玉はやす聟」と言つたのだらうと言ふ説もあるが、よくない。磨いて玉の光をそへる椋と言ひかけたのだらうと説いた人もある。恐らく後の説が當を得たものであらう。堂の板敷などを木賊や椋の葉で磨き立てたと言ふ話は、古くから物に見えて居る。
 
たま‐ふる【魂觸・魂鎭る】 遊離魂の信仰から出てゐる。人間の靈魂は、知らぬ間に外界に遊離する事のあるものであるから、其を防ぐ爲に、鎭魂《タマフリ》と言ふ事をする。卷十六「魂はあしたゆふべに魂ふれど我が胸いたし戀のしげきに(三七六七)。「たましひ」を見よ。
 (補)魂と魂とが觸れ逢ふ。心あふ。魂合《タマア》ふ、と見ても説けるが、又、一方、鎭魂《タマシヅメ》をたまふり〔四字傍点〕とも言ふから、其元の動詞と考へる方がよさ相である。此意味では、たま〔二字傍点〕は靈魂であるが、ふる〔二字傍点〕の義が明らかでない。唯、諸種の文獻を綜合して、此だけの事は言へる樣である。――物部の一族、石上氏の齋く石上神宮に傳つた古代の禁厭法が、上流は固より、世間一般に流行する樣になつてゐたものと見えて、本集時代以前、既に支那思想をも習合して、純な古風の儘のものではなかつた樣である(天武天皇紀)。後期王朝の初めにも、此信仰は強く行はれてゐた樣であるが、段々形式化し、本意も忘られて來て、唯、朝廷の儀式として、南北朝の頃迄、存してゐた樣である。宇摩志麻治《ウマシマチ》ノ命が、其祖饒速日(ノ)命の天祖から傳へた十種《トクサ》(ノ)瑞寶《ミヅタカラ》(瀛都《オキツ》鏡・邊都《ヘツ》鏡・八握劔・生玉《イクタマ》・死反玉《シニカヘシノタマ》・足玉《タルタマ》・道反玉《チカヘシノタマ》・蛇《ヘミ》(ノ)比禮《ヒレ》・蜂《ハチ》(ノ)比禮《ヒレ》・品《クサ/”\》(ノ)物《モノ》(ノ)比禮)を神武天皇に獻つて、其靈寶の神秘力によつて、「帝后の御魂を鎭祭して壽祚を祈請せ」(舊事本紀天孫本紀)られる樣に、と言うたと言ふ傳説を持つてゐる。但、八神殿の中に大宮《オホミヤ》(ノ)※[口+羊]《メ》があり、(201)天(ノ)窟門の神樂と極めてよく似た儀式で、猿女《サルメ》(ノ)君の女子が、此祭事の重な役目を務める處から、鈿女(ノ)命を起原とする説は信ぜられる。其靈力と言ふのは、「天神(ノ)御祖教へて詔し曰はく、若し痛處あらば、この十寶をして一二三四五六七八九十と謂はしめて、布瑠部《フルヘ》。由良々々止布瑠部《ユラユラトフルヘ》。かくせば死人反生せむと詔しき。是則所謂布瑠之言〔四字傍点〕の本なり」(同書)と言ふので、たまふる〔四字傍点〕のふる〔二字傍点〕は、微かな明りを示されてゐる。布瑠之言と言ふのは、石(ノ)上布留(ノ)神宮に傳つた誦文《トナヘゴト》と言ふ位の意で、此誦文を誦し乍ら、疾患部に觸れて按《ナ》でたのかと思ふ。伴信友は、宮中の鎭魂祭に御魂代《ミタマシロ》の御衣《ミソ》の筥を振るから、みたまふる〔五字傍点〕だと言うてゐる(鎭魂傳)から、振揮の意にとつてゐたのである。布瑠部云々は、此方法を示したばかりで、誦文は一から十迄に過ぎぬ。さうして單に「ふるへ搖々《ユラ/\》とふるヘ」と假字書きしたのであるから、石(ノ)上布瑠の族としての布瑠部《フルベ》を想像したり、振る・觸るの布瑠部云々と布瑠之言とを關係あるものと見るのは、よくあるまい。病氣の時に、内臓の患部を按摩する時の誦文を、支那の招魂法と混同したか(天武天皇紀)と思はれぬでもない。ともかく、今の材料だけで確かに言ふ事の出來るのは、遊離靈魂に對する恐怖を抑へようとするにあるらしく、魂がひどくあくがれ出る爲に、内部の生活力が稀薄になつて、所謂かげのわづらひ〔七字傍点〕を起して、病死の境に到ると信じてゐた爲に、魂の隨意頻出を防がうとする儀式であつた。併、本集時代には、自ら其遊離靈魂の行ひを恐れてゐたので、たまふり〔四字傍点〕を行うたものと思はれる。本集時代には、民間にも、極めて簡單に行ふことが出來たのを、本意が忘れられ、形式が重くなつてからは、朝廷で、定期(天子十一月初中の寅の日)に行はれるばかりになつたが、めい/\にした事である證據は、皇后宮・院・皇太子職などで行うたのを見ても、其俤は殘つてゐる。民間には行はれなくなつて後も、人魂を見た時の禁厭・鎭花《ヤスラヒバナ》(ノ)祭りなどに姿をかへた樣である。要するに、一番古い信仰形式もやはり、古渡りの支那の方術などの影響から出來たものだと思はれるのは、所誓の語の言靈〔二字傍点〕によらず、意味不明の咒文に由つて、效験を得ようとしてゐるので見ても、知る事が(202)出來る。
 
たま‐ぼこ‐の 枕。みち。玉鉾の刃《ミ》と言ひかけたのである。
 (補) 此枕詞について、今、一つ異見を書く。み〔傍点〕にかかると言ふのは、賀茂眞淵の改説(冠辭考)にもある。併、此語などは、成立の極めて古い語で、我々の持つ文獻の時代には、其用法が擴つて、元のかゝり方は忘られて了うたものなので、最初の形はち〔傍点〕=路《チ》に接してゐたのが、みちに飜《ウツ》したものと考へる。ち〔傍点〕は血で、「くはしほこちたる國」も、刃物と血との聯想から千《チ》にかけてゐるのらしい。但、動物神靈をみち〔二字傍点〕とも言ふから、刃物の精靈にもみち〔二字傍点〕と言うたのかも知れぬ。
 
たま‐も【珠裳】 珠は美稱。女子の袴をば言ふ。赤裳に同じだと言ふ説もある。
 
たま‐も【珠藻】 藻の美しく水にゆらるゝを形容して言ふ。卷二「立たすれば珠藻の如く(一九六)。
 
たまも‐なす 枕。よりねし妹。うかぶ。波のまにまに靡きよる珠藻を以て、われに寄り來て相抱いて寢た女に譬へた。うかぶ〔三字傍点〕にかけた所以は説明する迄もあるまい。
 
たまも‐よし 枕。さぬき。たまもは珠藻。よ〔傍点〕は呼びかけの語。し〔傍点〕は助辭。讃岐國から出る藻は、最、喜ばれた爲に言ふので、よし〔二字傍点〕ははやしことばと見るべきであらう。
 
たま‐ゆら‐に【瞬間に】 一瞬時の意と言ふが如何。卷十一「たまゆらに昨日の夕見しものをけふの朝に戀ふべきものか(二三九一)。
 
たむ【廻む】 迂廻する。めぐり行く。まはり道する。漕ぎ廻むは、島などを漕ぎめぐるのだ。
 
た‐むく【た平く】 た〔傍点〕は接頭語。不逞の徒を平げ從はす。「むく」を見よ。卷十三「葦原の瑞穗の國にたむけすと天降りましけむ(三二二七)。
 
た‐むけ【手向け】 神に幣帛を奉る事。山、又は渡海の津などで、道祖神・海神などに切つた布を奉つて、わが行きの恙なからむ事を祈る事。卷十三「近江路のあふ坂山に手向してわが越えゆけば(三二四〇)。卷十二「我妹子を夢に見え來と倭路の渡る瀬毎に手向わがする(三一二八)。比例歌は、妹の夢に來る路の恙なからむ事を祈つてゐる。轉じて、山の(203)峠。峠には必、道祖の神が居られるから、きつと手向をして越えるのである。手向を越ゆ〔五字傍点〕と言ふ事は、他郷へ行くと言ふ事になる。卷三「佐保過ぎて奈良の手向に置く幣は妹が目かれず相見しめとぞ(三〇〇)。其路が危險なるほど、念を入れて神に手向をする。卷四「周防なる岩國山を越えむ日は手向よくせよあらきその道(五六七)。たむけぐさは手向にする品物、又、其代りに、木の枝を折つたり、草を結んだりする、其物。卷一「白浪の濱松が枝の手向草幾代までにか年の經ぬらむ(三四)。
 
たむ‐の‐やま【多武山】 大和國十市郡。今、多武《タフ》の峰と言うて、談山神社のある山である。
 
たむら‐の‐おほ‐いらつめ【田村(ノ)大孃】 大伴宿奈麻呂の長女で、坂上大娘・坂上二孃の同母姉、母は坂上郎女である。田村(ノ)里に居たから、田村大孃と呼ばれて居たのである。
 
だむをち【檀越】 檀那・檀徒などゝ同じく布施を出して、僧を保護し、寺を維持するもの。僧尼より言うて、俗人を呼ぶ敬稱。卷四に「碁檀越」と言うた俗人の名見ゆ。卷十六「檀越や然な言ひそね戸長等が課役はたらば汝もなげかむ(三八四七)。
 
たもち‐の=ひめおほきみ【手持(ノ)女王】 河内王の妻であらう。未詳。
 
た‐もと【手本】 手のもと、身に近きところを言ふ。今日いふ袋形の袖では無い。たもとを纏くは、腕を抱へる事だ。卷十二「現にも今も見てしか夢にのみ手本纏き寢と見てば苦しも(二八八〇)。
 
た‐もとほる【徘徊る】 逍遙する。徘徊する。一つ處をぶら/\まはる。た〔傍点〕は接頭語である。
 
たゆ【斷ゆ】 中絶する。斷絶する。人との中が切れる。
 
たゆたふ【動搖ふ】 ゆら/\と動く。たゆたふ海に、たゆたふ命などの用例がある。また、躊躇する。卷十一「白栲のわが衣手に露はおきぬ妹には會はずたゆたひにして(二六九〇)。
 
た‐ゆひ【手結】 越前國敦賀郡。
 
たゆら‐に 倦んで。たるんで。なまけて。ゆるんで。たよらに〔四字傍点〕も同じ。卷十四「筑波嶺の岩もとゞろに落つる水よにもたゆらにわが思はなくに(三三九二)。同「足柄の土肥の河内に出づる湯のよにもたよらに兒等がいはなくに(三三六八)。
 
(204)たらし‐ひめ【足姫】 神功皇后である。詳細は國史參照。
 
たらち‐ね たらち〔三字傍点〕は足らし〔三字傍点〕に同じく、足はし育てる意。古事記に「如何にしても日足らし〔四字右・〕奉りてむ」などゝ見えて居る日足らし〔四字傍点〕の日〔傍点〕を省いて、消す〔右・〕・消つ〔右・〕と相通ずるやうにし〔傍点〕がち〔傍点〕になつたもの。ね〔傍点〕はなつかしみの情を言ひ表す所の語。
 
 たらちね‐の 枕。はぐゝみ育てる母とかゝる。
 
たる【足・滿・具る】 滿つ。十分にある。飽き足る。滿足する。萬葉人は、此語にあやかりたいと願つて、屡、人名に用ゐる。年足・石足等それである。卷二「天地日月と共に足り行かむ御神の面(二二○)。足り夜〔三字傍点〕は長い夜である。卷十三「夢にだにあふと見えこそ天の足り夜に(三二八〇)。
 (補)十分である。不足がない。滞りなくなる。具足してゐる。滿足である。圓滿になる。現今の足る〔二字傍点〕は不足がない・缺けた分が補はれると言ふ用語例であるが、本集時代には、圓滿具足した容子、又、さうした心持ちを言ふのであつて、圓滿(‐である・‐になる)と言ふ處に中心意義はある。此點に於いて、たゝふ〔三字傍点〕と、關係がありさうに思はれる。
 
 たらす【足す】 足る〔二字傍点〕の他動詞。圓滿にする。十分にする。
 
 たらす【足す】 足る〔二字傍点〕の敬語。圓滿で入らつしやる。十分でおありなさる。あまたらす〔五字傍点〕は、天と(の如く)無碍圓滿で居給ふの意。
 
 たり‐よ【足夜】 何の障碍・恐怖・憂悶もない良夜。正しくはたるよ〔三字傍点〕ではあるまいか。
 
 たる‐ひ【足日】 圓滿な良い日。たる〔二字傍点〕は動詞たる〔二字傍点〕の原形tarと言ふ三字根的の無屈折の語根。母音を俟つて動詞にもなり、其儘で形容詞の職能を果す事が出來たのである。
 
たるひめ‐の‐さき【足姫(ノ)崎】 越中國氷見郡布勢湖の一角、湖水の神を祀つてある崎。
 
たる‐み【垂水】 湧きて垂れ落つる水。小瀧。
 
たるみ【垂水】 攝津國三島郡。古來、有名なる清水のある地である。
 
たれ‐し【誰し】 し〔傍点〕は強めて言ふ助辭。其物を確かにさして言ふ助辭。いかなるどの樣な人も。世間の人のどの人も。卷十一「古の狹織の帶を結び垂れ誰し(205)の人も君には益さじ(二六二八)。
 
たわや‐め【嫋女】 たわ〔二字傍点〕(嫋)に體言語尾や〔傍点〕のついた體言形容詞に女をつけたもの。なよ/\した女。女子自身にも言つてゐる。卷十三「たわや女にわれはあれども(三二二三)。
 
た‐わらは【た童】 た〔傍点〕は接頭語。男女に拘らず、幼兒の事を言ふ。集中、是非を分別せずして泣く事に比喩として用ゐてゐるから、ごく幼少の者の事と思はれる。
 
たわゝ‐に【撓に】 とをゝ〔三字傍点〕に同じ。撓むほどに。撓むまでに。
 
た‐ゐ【田居】 村から離れて、田の中に二三軒假小屋などを作つて、田畠の出作りをする場所。卷九「尾花ちるしづくの田居に雁がねも寒く來鳴きぬ(一七五七)。
 
たを‐り 峠に同じ。山撓のたわ〔二字傍点〕と同じ語根であらう。又、木の枝を折りかけ、道しるべとしたので、越える道ある處をたをり〔三字傍点〕と言ふのだとも言ふ。卷十八「あしびきの山のたをりにこの見ゆる天のしらくも(四一二二)。卷十九「あしびきの山のたをりにたつ雲をよそのみ見つゝ(四一六九)。
 
たん‐か【短歌】 五七・五七七の形式の歌を言ふ。起原は不明であるが、或は旋頭歌は短歌の謠ひ方の公式で、換言すれば、短歌は旋頭歌の第三句の省略せられたものかとも考へられる。多く繰り返しの形まで保存してゐる記紀に於て、短歌の方が旋頭歌よりも新しく見えるのは、やがて短歌の發生状態を語るものであらう。短歌が多く保存せらるゝ樣になつたのは、仁徳天皇の頃、即、文字の通用に伴ふ。奈良朝に於ても、短歌がなほ歌はれてゐた事は、神樂歌・催馬樂で證せられる。併、寶際、歌はれて居ない歌が澤山に作られた事は、既に藤原宮時代からの事である。短歌の基本形式は、五七・五七・七であるが、奈良朝に入つて、五七五・七七を生じた。反歌を「たんか」と讀むと言ふ説は惡い。「せんびか」「はんか」の條を見よ。
 
       ち
 
ちか‐の‐さき【値嘉(ノ)崎】 肥前國東松浦郡。昔、韓國(206)へ渡海するに、此地をわが本土のはてとして、後に見てゆく。波戸岬の事であらう。
 
ちから‐ぐるま【力車】 荷物を運搬するに用ゐる車。
 
ちぐま‐の‐かは【千曲(ノ)川】 北信濃の南隅、甲斐・信濃の國境に出で、佐久郡を通つて、北信濃を縱貫して越後に入る現在の川。但、犀川合流地點までの名であらう。其呼び名の中心地は今知れぬが、ほゞ國府の所在の小縣《チヒサガタ》の邊と見ればよからう。南信濃の筑摩《ツカマ》とは、自ら別である。
 
ちさ【齊※[土+敦]】 多く山野に自生し、高さ二三丈に達するものがある。葉はうめもどきに似て、長さ二寸ばかり、白い五瓣の花が、春から夏にかけて咲く。實は赤樫の樣に、長さ三分ばかりで、山雀などが喜んで啄む。
 
ちた‐の‐うら【知多(ノ)浦】 尾張國知多郡。知多半島の伊勢※[さんずい+彎]に面した方の浦。
 
ちゝ‐の‐み‐の 枕。ちゝ。同音を重ねた枕詞だ。ちゝのみ〔四字傍点〕とは、公孫樹の實だと言ふ。
 
ちどり【鵆】 渉禽類。冬に、河邊・海邊に多く群つてゐる。鶺鴒と一寸似てゐるが、それよりも稍小さく、頭・嘴は蒼黒く、頬は白く、背は青黒く、胸と翅とは眞黒だ。其種類は甚だ多い。萬葉集の中に、等しく千鳥と書いてあるものゝ中にも、卷十七「わが門の榎の實もり喰む百千鳥千鳥は來れど君ぞ來まさぬ(三八七二)の樣に、數多の鳥と言ふ意味である場合もある。
 
ちぬ【茅渟】 和泉・攝津兩國に臨める部分の大阪※[さんずい+彎]を言ふ。茅渟|曲《ワ》は、此名の起原地で、和泉國泉南郡の地である。神武天皇の皇兄五瀬命が賊の矢に中りて薨じ給うたからの名であると言ふ。
 
ちぬ‐の=おほきみ【智努(ノ)王】 天武天皇の長子一品長皇子の御子で、養老元年正月從四位下に敍せられ、同十月封を増され、聖武天皇神龜五年十一月造山房司長官となり、天平元年三月從四位上に進み、十二年十一月正四位下を授けられ、十三年八月木工頭となり、また同九月造宮卿をつとめ、十四年正月東※[糸+施の旁]六十疋・綿三百屯を賜り、次で同八月紫香樂の造離宮使となり、十八年四月正四位上、十九年正月從三位となり、孝謙天皇天平勝寶四年九月文室眞人の姓を賜り、六年四月攝津大夫となり、天平寶字元年六(207)月治部卿に任じ、淳仁天皇の同二年六月參議として出雲守に移り、勅を奉じて官號の改正に當り、四年正月中納言に任じ、六月皇太后崩御の時は山作司をつとめ、此頃、名を淨三と改めた。其後、天平寶字五年正月正三位に進み、同十月稻四萬束を賜り、六年正月御史大夫となり、八月には老年を以て杖と扇とを許され、伊勢神宮に奉幣し、次で十二月神祇伯となり、八年正月從二位に進み、九月致仕して几杖竝びに新錢十萬文を賜り、稱徳天皇の神護景雲二年十月には、新羅の交易物を買ふ爲に、又、大宰綿六千屯を賜り、光仁天皇の寶龜元年十月九日薨じた。
 
ちぬ‐の=ひめおほきみ【智努(ノ)女王】 元正天皇養老七年正月從四位下に敍し、聖武天皇神龜元年二月從三位になつた。天平勝寶年中になくなられたらしい。
 
ちば‐の‐ぬ【千葉(ノ)野】 二个處。一つは下總國千葉郡の原野。今一つは山城國葛野郡。
 
ちはふ【靈用】 靂妙な働きをする。幸福を降す。願ひ事を叶へる。「さきはふ」「たまちはふ」參照。
 
ちはや‐びと【暴人】 ち〔傍点〕はいち〔二字傍点〕の轉だと言ふが、ち〔傍点〕に風の如くと言ふ意があるのかも知れぬ。はや〔二字傍点〕は激しい・亂暴などの意。軍人などを其性質上から言ふ語であらう。
 
 ちはや‐びと。 枕。うぢ〔二字傍点〕の枕詞。軍人氏とつゞけたので、「ものゝふの」と同樣であらう。或は憂《ウト》とつゞけたのかも知れぬ。亂暴する事を、うとびあらぶ〔六字傍点〕と言ふ。
 
ちはや‐ぶる 枕。かみ。ちはや〔三字傍点〕は、ちはやびと〔五字傍点〕のちはや〔三字傍点〕で、暴力を振ふ意。ぶる〔二字傍点〕はさうした動作をすると言ふ事で、古代には神を恐るべきものと見て、決して親しむべき者と見なかつた證である。
 (新補)此野の中に、大沼あり。此沼の中に住める神、甚《イタ》く道速振神也(景行天皇記)。
 
ちびき‐の‐いは【千引の石】 大きな岩石。千人がゝりで引くだけの石。
 
ち‐ふ【茅原】 一面に茅の生えてゐる處。
 
‐ちふ【言ふ】 と言ふ〔三字傍点〕の融合。卷七「さゞなみの連倉山に雲ゐれば雨ぞ降るちふ歸り來わが背(一一七〇)。
 
ち‐また【衢】 道路の別れ路になつてゐるところ。十字路でも三叉路でも皆、衢である。衢は其性質上、人(208)通りが多く、從つて人家なども出來、繁華になつて來る。後世、商市や町などの意に用ゐてゐるのは、此爲である。卷十二「椿市の八十の衢に立ちならし結びし紐を解かまく惜しも(二九五一)。
 
ちまる【止る】 「とまる」に同じ。東國方言。卷二十「馬の爪筑紫の埼にちまりゐて(四三七二)。
 
     つ
 
つ【津】(補) 船つき場。みなと』。海にも川にも通じて使ふ樣であるが、つ〔傍点〕はつむ〔二字傍点〕(>つまる)・とむ〔二字傍点〕などの語根から、意義分化して、地形の名となつたもので、集る〔二字右・〕義があるのではなからうか。
 
つかさ【司】 役人。官廳。卷八「官にも許し賜へり今宵のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ(一六五七)。卷十六「官こそ指してもやらめ情進《サカシラ》に行きし荒雄ら沖に袖ふる(三八六四)。卷十八「大伴の遠つ神祖の其名をば大來目主と負ひ持てつかへし官(四〇九四)。又、小高き土地。卷十「里もけに霜はおくらし高圓の山のつかさの色づく見れば(二二〇三)。卷四「佐保川の岸のつかさの柴な刈りそね(五二九)。
 
つが‐ぬ【都我野】 攝津國、今の大阪市の北邊。昔、仁徳天皇難波高津宮に坐して、夜毎に都我野に鹿の鳴くを聞かせられた處が、一夜、遂に聞えなかつたので、其獵人に討たれた事を知られて悼ませられた云々の傳説がある。卷十四の「都武賀野・美都我野(三四三八)も東國でなく、同地ならんと言ふ説がある。
 
つが‐の‐き【樛木】 又、栂と書く。栂は多く山中に生ずる喬木である。う列・お列の音價が、動搖してゐたので、同じ集中にも、つが〔二字傍点〕とも、とが〔二字傍点〕とも見えてゐる。樅の木なるおみのき〔四字傍点〕と度々竝べて枕詞風に用ゐられてゐるのは、古代人の深山木に對する注意、山に關しての理會などを知る事が出來よう。
 
つが‐の‐き‐の 枕。つぎ/\に。つが〔二字傍点〕は栂の木。繼に聯想して、つぎ/\〔四字傍点〕の枕詞としたのだ。
 
つかはす 使ふ〔二字傍点〕の敬語。命令なさる。
 
つかひ‐ゞと【資人】 官位高き人に朝廷から賜つて、其使役に供したもので、持統天皇頃から見えて居(209)る。文武天皇の大寶令の制では、式部省の判補で、八位以上の庶人の子から採つた。位によつて賜るのを位分資人と言つて、一位は一百人、正四位まで順次二十人を減じ、從四位三十五人、正五位三十人、從五位二十人で、女は半減された。職によつて賜るのは、職分資人と言つて、太政大臣三百人、左右大臣二百人、大納言百人で、致仕は半減した。慶雲二年新に中納言が出來て、之には三十人を與へた。
 
つかふ【仕ふ】 必しも御側仕へをするのみには限らない。目上の人の爲にする事を總べて言ふ。卷十六「四月と五月の間に藥獵つかふる時に(三八八五)。以上のは下二段活用で、他動詞である。四段活用で他動詞なのは、使役するの意である。使〔傍点〕と名詞になるのも此である。卷十三「朝には召して使はし夕には召して使はし使はしゝ舍人の子等は(三三二六)。
 
つか‐ふ(補) 仕《ツ》くの再活用。奉仕する。侍する。事へ奉る。尊い人のお側で、樣々の用を達する(ア)。する〔二字傍点〕の最上敬語。なし奉る。致し申す(イ)。
 
つかふ【誓ふ】 ちかふに同じ。誓言を立てゝ神意をうかゞひ、又、祈願を立てるを言ふ。卷十四「妹なろがつかふ川門のさゝら荻あしと一言語りよらしも(三四四六)。
 
つき【盞】 深い皿。酒を盛るを酒盞、高い足のついたのを高盞と言ふ。卷三「しるしなく物思はずは一|杯《ツキ》の濁れる酒を飲むべかるらし(三三八)。
 
つき‐かふ【月易ふ】 其月を過ぎて、次の月に移る。新しき月に入る。下二段活用。かはると同じく自動詞。卷十二「月易へて君をば見むと思へかも日も更へずして戀のしげけき(三一三一)。
 
つき‐くさ つきくさは露草の古名で、花は碧色、採つて衣に摺ると善く染みつくによつて著草《ツキクサ》と言うたと言ふ。うつし花・うつし草などゝも言うて、これで染めたのが、即、縹色〔二字右○〕と言ふものである。よく移ると言ふので、うつにかけ、又、其花は、朝咲いて晝には萎むによつて、消え〔二字傍点〕、或はかり〔二字傍点〕(ともにはかない事だ)にも言ひかけて居る。
 
つく【魅く】 今みいる〔三字傍点〕と言ふのは、心だけを注入する事であるが、此意味の外に、身心すべてを宿し假る事を言ふ樣である。古くは神がある地を標《シ》める事を言うたので、天より着くの意であつたのを、ある物(210)に神靈を宿すと言ふ意を生じたので、其物品に觸れると禍を受ける。人から、故意に憑つて貰ふのでなくて、神に魅かれた場合には、狂氣し、死に至る事もある爲に恐れたのである。卷二「神ぞつく〔二字右・〕とふならぬ木ごとに(一〇一)のつく〔二字傍点〕は、神が宿り標めると言ふ原意を存してゐる。
 
つく【著く】 他物に附著す。卷八「衣手に水澁つくまで植ゑし田を引板われはへ守れる苦し(一六三四)。衣につく。王孫《ハリ》・月草などの染色が衣につき染む。卷十四「伊加保ろの岨の榛原わが衣につきよらしもよたへと思へば(三四三五)。目につく。いちじるしく注意される。卷一「三輪山の林の崎のさぬはりの衣につくなす目につく吾が背(一九)。他動詞の著く〔二字傍点〕。下二段活用。卷六「馬じもの繩とりつけ(一〇一九)。
 
つく【盡く】 無くなる。使ひ盡されて終になる。卷六「此山の盡きばのみこそ(一〇〇五)。
 
つぐ【繼ぐ】 一事物の終り盡くる時に、他の事物を以て有意的に續ける。絶えない。卷七「三諸のその山脈に子等が手を纏向山はつぎのよろしも(一〇九三)。
 
つぐ【告ぐ】 語り聞かす。卷六「わが宿の梅咲きたりと告げやらば來とふに似たり散りぬともよし(一〇一一)。
 
つくる【作る】 製作する。創作する。弱いものでは無しに、しつかりと丈夫に完全なものに作り上げる。卷一「わが作る日の御門に(五〇)。卷七 「大汝少名御神のつくらしゝ妹背の山は見らくしよしも(一二四七)。
 
つゞしろ‐ふ つゝく。すゝる。其進行状態をあらはす動詞。
 (新補) つゝしる〔四字傍点〕の再活用。此語は、後の今昔物語にもある。「此鯛・鮭のしほから・ひしほなどの辛き物をつゝしるに」。「喉かわきたる時に、李鹽の辛き魚どもをして、空腹に□くつゝしり入れさせて、酸き酒の濁りたるに、牽牛子をこくすり入れて呑ませば」。卷五「堅鹽をとりつゞしろひ(八九二)。
 
つゝむ(補) 水の外に溢れぬ樣に土でとりまく。水をだかへる』。つゝみ〔三字傍点〕(堤)は、此名詞法。卷三「石花《セ》(ノ)湖と名つきてあるも此山のつゝめる湖《ウミ》ぞ(三一(211)九)。卷十四「すゞがねの驛家《ハユマウマヤ》のつゝみ井のみづをたまへないもがたゞてよ(三四三九)は、筒み井でなく、普通の地面より低い井に對して、堤で水を湛へ堰いたのを言ふつ‐ゝ‐み=井〔四字傍点〕かも知れぬ。尚、卷二「埴安の池の堤のこもり沼(二〇一)は、或は池のつゝめる〔六字傍点〕で、埴安の池の中の深みが、同じ堤でつゝまれ〔四字右・〕てゐる上から言うたものかとも考へてゐる。
 
つなで【綱手】 岸より舟を引きて行く爲に、舟に取りつけた綱。
 
つな‐に‐さす【綱に刺す】 綱でさし貫く。綱にて繋ぎとめる。卷三「久方の天ゆく月を綱にさしわが大君はきぬがさにせり(二四〇)。
 
つな‐の‐うら【綱(ノ)浦】 伊豫國と言ふ。不詳。又、網の浦と訓む説がある。
 
つぬが‐の‐うら【敦賀(ノ)浦】 越前國敦賀郡。敦賀の津は、今の敦賀※[さんずい+彎]である。垂仁天皇の朝に都努我主阿良之等《ツヌガノアラシト》が來たから敦賀の浦と名づけると傳へられてゐる。古代から韓土との交通の衝に當つてゐた津である。
 
つぬ‐さはふ 枕。つぬ〔二字傍点〕は蔓草、さ〔傍点〕は接頭語、はふ〔二字傍点〕は匐ふで、蔓草がはひまつはる岩〔傍点〕とつゞけたのだ。
 
つぬ‐しま【角島】 長門國豐浦郡角島。
 
つぬ‐の‐うら【角(ノ)浦】 石見國那賀郡都野津の海岸。
 
つぬ‐の‐えまろ【角(ノ)兄麻呂】(補) 角は又、※[角+碌の旁]・都能《ツノ》ともある。元、僧籍に在つて、惠燿と言うた。文武天皇の大寶元年八月還俗させて、代りに一人を得度せしめて、本姓角(ノ)連に復らせた。元正天皇養老三年正月正六位上から、從五位下に敍せられてゐる。五年正月には、百僚の中、學業に優れて師範となるに十分な人たちに賞與があつた時に、彼は陰陽道に達してゐるので、※[糸+施の旁]十匹・絲十・※[糸+施の旁]布二十端・鍬廿口を授けられた。聖武天皇の神龜元年五月、角を改めて、羽林(ノ)連の姓を賜つた。處が、其四年十二月、巡檢使が國司の成績を調べて廻つた時に、當時、丹後守であつた彼は、法を犯してゐたと言ふので、流罪に處せられた(續紀)。周防(ノ)前守山田御方が官物費消で、同樣の事があつたのは、學者政務に疎い爲であらうか。角は古く俗に※[角の二画目なし](音ろく)とも書く。續紀には、角を書いて※[角の二画目なし]を用ゐてゐぬが、録に作つてゐる處があるので、鹿持雅澄の萬葉集古義では、之(212)を※[角の二画目なし]《ロク》(ノ)連としてゐるが、録は※[角+碌の旁]の誤りで、神龜元年五月、續紀に從五位下能兄麻呂林連云々とある。林連は言ふまでもなく、羽林(ノ)連である。さすれば、上にも脱字があつたものと見られる。即、都の字を補ふべきで、※[角+碌の旁]能は偏が似てゐるが、※[角の二画目なし]・録には遠い。
 
つぬ‐の‐ふくれ【角の腫れ】 額の邊に角の樣にふくれた瘤の腫物のあるのを嘲笑して言ふ。或は津濃(ノ)連であつた人を津濃氏のふくれた奴と罵つたのか。一説には陽物とも言ふ。卷十六「うましもの何處あかぬを尺度らし角のふくれにしぐひあひにけむ(三八二一)。
 
つぬ‐の‐まつばら【角(ノ)松原】 攝津國武庫郡の海邊にある松原。今は平野の丘陵地になつてゐる。
 
つね【常】 永久に。時間的に變らずに。いつでも。卷一「河上のゆつ巖村の草むさす常にもがもな常處女《トコヲトメ》にて(二二)。尋常のもの。平凡。よのつね。普通の凡人をつね人〔三字傍点〕と言ふ。平時。常時。卷七「常はかつて思はぬものをこの月の過ぎかくらまく惜しき宵かも(一〇六九)。卷五「常知らぬ道の長手をくれぐれと如何にか行かむかりてはなしに(八八八)。語尾に〔傍点〕を伴はぬ事が多い。
 
つばいち【海石榴市】 大和國山邊郡。武烈天皇、蘇我眞鳥の子鮪と、影媛を爭うて、海石榴市の歌垣の衆中に立ち給うたよしの話がある。又、同國高市郡にも同名の地がある。
 
つばら/\‐に 些細な點までも詳しく、一々に。
 
つぶれ‐いし【圓石】 つぶらなる石。圓形楕圓形の石。
 
つま【逑】 配偶者。男にも女にも言ふけれども、多くは女をさして言ふ。男を言うた例。卷四「ものゝふの八十伴の緒と出で行きしうつくし夫は(五四三)。萬葉人の妻は、必しも同棲してゐない。女が親の許にある場合には、男の方から通うて行く。妻の〔二字傍点〕命《ミコト》と言ふのは、妻をいつくしみ惠んで侮蔑しない心で、わが妻の兒〔五字傍点〕と言ふのは、妻を極めて親愛する心である。妻を有たない者は一般に侮られ、一人前と考へられない。卷七「春日すら田に立ち疲る君は悲しもわかぐさの妻なき君が田に立ち疲る(一二八五)。「かくしづま」「とほづま」「ひとよづま」を見よ。
 
つま‐ごもる 妻のこもつて居る屋と言ふ意。
 
(213)つま‐づく【躓く】 今の躓くよりも廣く立ち止る意をもつ。人が自分を思ひ、又、噂する兆と考へたのだ。卷七「妹が門泉の川の瀬を疾み我が馬つまづく家思ふらしも(一一九一)。
 
つま‐で【抓手】 材木にならぬはしくれ。卷一「眞木さく檜の抓手を(五〇)。
 
つま‐どふ【妻訪ふ】 妻を索める。卷九「いにしへのますらをのこのあひ競ひ妻訪ひしけむ(一八〇一)。妻の許を訪ふ。わが妻の許に通ふ。又、媾會する。卷十「高麗錦紐とき交し天人の妻どふ宵ぞ我も偲ばむ(二〇九〇)。萩は鹿の妻だといふ言ひ傳へがある。それで鹿は萩の許に妻どひに行く。卷九「秋萩を妻問ふ鹿こそ獨り兒に子持たりと言へ(一七九〇)。卷十「奥山に棲むとふ鹿の宵さらず妻どふ萩の散らまく惜しも(二〇九八)。
 
つま‐なし 山梨の類だとも、或は小さい梨の事だとも言はれて居る。
 
つま‐の‐もり【津麻(ノ)社】 紀伊國名草郡津麻郷にある神社。音が妻と同じなので、妻〔傍点〕と言ふ語を引き出す序に用ゐられる。
 
つまゝ【都萬麻】 樹名。越中國の方言。白井光太郎博士によれば、いぬつげ〔四字傍点〕だらうと言ふ。葉、深緑にして細く、冬凋まず、枝葉繁密にして、其年經たるものは、えも言はれぬ趣あるものだと。
 
つま‐や【閨房】 夫妻同寢する室。寢處は常に一定して設く。その正面なるは主人の寢處にして、傍去つて作るが、即、つまや〔三字傍点〕である。妻は常に此處に寢ね、男はこれに通ふ。
 
つみ【柘】 もと深山の木。今の名、やまくは。「つみのえのせんによ」參照。
 
つみ【罪】 人と人との間に行はれる犯罪行爲は、古くは、道徳も宗教的道徳であつたところから、すべて神に對して恐るべきこと、謹むべき事を犯した時に生ずるので、對人的の犯罪行爲も、畢竟は神が厭ふからである。此思想から、人に關係なく、神に對してのみある犯罪があつた。天津罪・國津罪などは、人間道徳に關係のあるのもあるが、主として、神に對して忌むべき穢れが犯罪行爲を構成してゐる。故に本集にもつゝみ〔三字傍点〕とも言うた。つみ〔二字傍点〕は、其融合である。つゝみ〔三字傍点〕は謹しみである。神に對して、あつては(214)ならぬ事、してはならぬ事が、つゝみ、即、罪なのである。其つゝみを犯すと神罰は下るのである。日本民族の罪惡觀念の起原は、宗教道徳にあり、主として觸穢觀念にある。人爲的の贖罪法としては、贖物《アガモノ》を出して、禊ぎをするのである。死人を見、血を神前に零しても罪になるのである。柳田國男先生は、天津罪を天神子孫、國津罪を國祇苗裔の罪と考へるものとせられた。
 
つみのえ‐の‐せんによ【柘(ノ)枝(ノ)仙女】 神婚傳説の一形式。神と人との間には、一條の溝がある。其溝を越える爲には、化身と言ふ段階を經ねばならぬので、大物主が丹塗矢となり、春山(ノ)霞杜夫《カスミヲトコ》が弓となつた樣に、吉野の女神(仙女は、奈良朝の唐風模倣で、實は國栖だらう)は、柘の枝に化つて、※[竹/梁]を吉野川に設けて生活してゐた味稻《ウマシネ》と言ふ老人に拾はれ、後、神人の通婚をして、味稻をも神界に連れ去つたと言ふので、當時の神仙談の一つであるが、大和人の常世に對する一種の憧憬を見せてゐるものとも言ふ事が出來る。
 
つむが‐ぬ【都武賀野】 所在未詳。
 
つもり‐の‐とほる【津守(ノ)通】 姓連。元明天皇の和銅七年正月從五位下に敍せられ、同十月美作守となり、元正天皇の養老五年正月百僚の内、學業に優遊し、師範たるに堪ふる者に賞賜を加へて、後生を勵すと詔せられて、※[糸+施の旁]十疋、絲十※[糸+句]、布二十端、鍬二十口を賜り、七年正月には從五位上になつた。陰陽道に勝れた人と見える。
 
つもり‐の‐をくるす【津守(ノ)小黒栖】 下野國の人。孝謙天皇天平勝寶七年筑紫へ遣された防人である。
 
つゆ‐じも 秋更けて、なかば霜を兼ねた露を言ふ。みづしも。單に露でも、又、霜でもない。
 
つら【弦】 つる〔二字傍点〕に同じ、弓の弦なり。つらを〔三字傍点〕は弦絲。つら・つる・つた・つぬ・つな、皆通ずるので、皆、蔓草をつら〔二字傍点〕と言うたのから出てゐる。
 
つら/\‐に つく/”\と。見る・思ふなどを修飾する。
 
つら‐なむ【列竝む】 行列さする。澤山に竝べる。卷十九「布勢の海に小舟つらなめ(四一八七)。ま行下二段活用。他動詞。四段活用の自動詞もある。
 
つらぬ【列ぬ】 ならべる。つゞける。
 
(215)つらゝ‐に づらりと澤山に竝んでゐる樣子。あま小舟つらゝに浮けり。列々《ツラ/\》にである。
 
つる【都留】 甲斐國都留郡。都留の堤は、桂川の岸堤。
 
つるぎ‐だち 枕。みにそふ。こしに取りはき。名。とぐ。劔大刀には身があるによつて、つるぎたちの身〔傍点〕とつゞけたのだと見ると同時に、人の身にそへて佩くものゆゑ、身にそふにかけたのだとも見るのが、穩當である。卷三「劔刀、腰爾取佩(四七八)の如きは、同じ道理で、名〔傍点〕にかけたのは、例へば草薙〔傍点〕劔などの樣に名ある物があつた爲でもあらう。とぐ〔二字傍点〕にかゝるのは、説明を要しない。又、鞘を拂つて拔き放てば、實にいか/\しいものだと言ふ處から、いか〔二字傍点〕にかけた例もある。
 
つるぎ‐の‐いけ【劔(ノ)池】 應神天皇の十一年に作つた池で、大和國高市郡にあると言ふ。此池に蓮のある事は、皇極天皇の朝に、一本の莖で二つ花のあるものが出たと言ふ事で知られる。
 
つるばみ 橡實《ドングリ》を意味する場合もあり、又、其實を以て染めた黒衣の名稱とする場合もある。
 
つれなし 縁も無い。思ひがけもない。何の關係も無い。卷十三「つれもなきゝのへの宮に(三三二六)。奈良朝の後期には、既に平安朝以後と同意味の、無情なる・情のうすい・薄情なると言ふ意味に變つて來た。卷十九「山吹の花とりもちてつれもなく離れにし妹をしぬびつるかも(四一八四)。又、此語、寂しいと言ふ意も含んでる樣である。
 
つゑ【杖】 杖に神格があるとした古人の考へから、色色な心定めの占ひの道具になる。卷三「杖つきもつかずも行きて夕占問ひ石卜もちて(四二〇)。卷十三「杖つきもつかずもわれは行かめども君が來まさむ道の知らなく(三三一九)。
 
つゑ‐たらず 枕。やさか。つゑ〔二字傍点〕は杖、杖の長さを尺度の單位と考へ、後、丈に固定した。たらず〔三字傍点〕は不足、やさか〔三字傍点〕は八尺。百不足八十と言ふと、成立は同じい。
 
つを‐の‐さき【津尾(ノ)崎】 伊豫國野間郡。
 
      て
 
て【價】 代償。沓代《クツテ》など言ふ。たへ〔二字傍点〕の約で、あ〔傍点〕をつけ(216)てあたへ〔三字傍点〕。栲《タヘ》のたへ〔二字傍点〕を約めて、て〔傍点〕と言うたのだらう。物品交易が進んで、貨幣の代りに布を以てした時代の遺風かと思ふ。即、布が物價を定める標準なのである。
 
てうだく【拱手】 支那の成語から來てゐる。書經云、「垂v拱而天下治、蔡注曰重v衣拱v手而天下自治」。腕ぐみをする。手を納めて置く。卷六「手うだきて我はいまさむ(九七三)。卷十九「手うだきて事なき御代と(四二五四)。
 
てこ【手兒】 嬰兄にも、娘にも言ふ。前者はご〔傍点〕と濁り、後者はこ〔傍点〕と清むが常である。石井の手兒など言ふ。娘をてこ〔二字傍点〕と言ふのは、當時から、東語であらう。
 
てこな【弖古奈】 てこ〔二字傍点〕に親しみのな〔傍点〕をつけたのであらう。眞間の弖古奈は著名なものである。
 
てしま‐の‐うねめ【豐島(ノ)采女】 聖武天皇朝の人であるが、武藏國豐島郡より出た人か、それとも攝津國豐島郡より出た人か訣らない。
 
て‐づくり【手作】 手作の布の略で、織物の事である。崇神天皇の朝、調役を課した時に、男の弓弭調に對して、女の手末詞《タナスヱノツキ》と言つて、綿布を徴して居る。孝徳天皇の時には、賦役を廢して之を徴し、文武天皇の大寶元年には、正丁一人に絹※[糸+施の旁]八尺五寸、六丁に匹を出し、長さ五丈一尺、廣さ二尺六寸に定めた。
 
ても‐すま‐に 手を休めずに、手のだるくなるまでに。手も屡《シマ》にである。
 
てら【寺】(補) ※[氏/一]良《テラ》(ノ)君(姓氏録)を、寺(ノ)直、改姓以前は、寺人(ノ)直(續紀)など書いてゐるから、本集時代にも、寺《ジ》をてら〔二字傍点〕と訓んだ事は、疑ひがない。語原は朝鮮の※[ハングル](tyol)師禮拜處の意の語だとも、刹《ハシラ》※[ハングル](chal)の轉訛だとも言ふ。寺の字は、支那では官衙の意であるのに、佛寺に用ゐたのは、漢代からの分化で、迦葉摩騰《カセフマトウ》・竺法蘭《チクホフラン》の兩人が、中印度の月氏國から來た時、明帝が尊信して、洛陽の西雍陽外に精舍を建てゝ、二僧を据ゑ、白馬寺と號けたので、其後も、精舍を嚴しく聞かせる爲に、襲用する事になつたのである。日本では、朝鮮から寺の名と物とが渡來したのは、蘇我(ノ)稻目の向原寺を最初とするけれど、事實は、繼體天皇の朝、既に梁人|司馬達等《シバタツト》が來て、坂田に精舍を建てた事があるから、欽明天皇以前早く、佛教は渡來してゐた。恐らく九州邊で(217)は、更に早く佛も寺も出來てゐた事と思ふ。
 
てらさ‐ふ【衒さふ】 見せびらかす。
 
てる【光る】 光體から光線を發射する。明色のものは色を他物から反射させる。卷十九「桃の花下照る道に出で立つ※[女+感]嬬(四一三九)。美しい物からは、光が照り出づる樣に見える。それを直に光が出る、又は光が反射する樣に取り扱ふ。卷十一「玉のごとてりたる君(二三五二)。高|照《ヒカ》る日の皇子と言ふ高〔傍点〕は、照る状態の壯大なのをほめてつけたのだ。
 
        と
 
と【外】 戸外。家の内外をしきる戸の外面を言ふ。其故、戸と同語であつたものが、戸を以て間隔のものの意に用ゐる樣になつてから、外は其また外面の意に用ゐられる樣になつた。卷十四「鳩鳥のかつしかわせをにへすともそのかなしきを外《ト》に立てめやも(三三八六)。とのへ〔三字傍点〕と言ふ語もある。外部と言ふ意味だ。卷三「外のへに立ちさもらひ内のへに仕へまつりて(四四三)。
 
と【門】(補) せと。海峽』。神《カミ》が門《ト》は、恐しい神のゐる海峽。由良(ノ)門・阿波《アハ》(ノ)門《ト》・速吸《ハヤスヒノ》門《ト》、皆、迫門の意である。
 
 しま‐ど【島門】 島と島と、又は島と陸地との迫門。瀬戸内海などには、數多い地形である。
 
‐と として。と言うて。暮ると明くと〔六字傍点〕は、暮れたと言うてはかう、明けたと言うてはかう、云々と言ふ意。
 
‐と【與】 二つ以上事物を竝べる時に使ふ。唯、使ひ樣に、今日の語と相違のあるのが見える。「青柳梅との花」は「青柳と梅との花」である。又、今日、破格とする「妹と夫《セ》の山」など言ふ例もある。
 
‐と 副詞語尾。とて。ものにいゆくと、など言ふ。
 
‐と 動詞を副詞化する一種の語尾。今のとて〔二字傍点〕に近い意。と〔傍点〕には日本語一般法則として、いふ〔二字傍点〕の意があるから、と言ふ爲に・と言うて而して・と言ふので、などの意であらう。卷十九「さ夜更けぬとに(四一六三)は、夜が更けたと言ふので、と譯すべきだ。
 
‐と【雖】 とも〔二字傍点〕の原形。としても。とした處が』。現在ない事を想像して、かうだつた處で、と言ふのである。下には想像の語を件ふ。條件法の語。
 
(218)とがり【鳥狩】 鷹を使役して鳥を狩る。卷十四「つむが野に鈴が音聞ゆかむしだの殿の仲男し鳥狩すらしも(三四三八)。秋になつて群鳥の渡來する初期に行ふのを、はつとがり〔五字傍点〕(始鳥狩)と言ふ。卷十九「始鳥狩だにせずやわかれむ(四二四九)。とがり〔三字傍点〕のと〔傍点〕は鳥の意味であるが、狩り取られる方の鳥の意ではなくして、鷹を使役する獵の意味である。
 
とき【時】 草花を序歌としたとき〔二字傍点〕と言ふ語は、必、時の語原がさかり〔三字傍点〕、或は見頃〔二字傍点〕と言ふ意を持つてゐた事を示してゐるのであらう。卷十四「うけらが花の時なきものを(三三七九)などの時〔傍点〕の使ひ具合は、さなくては説明が出來ないのである。
 
ときゞぬ‐の 枕。おもひ亂る。衣を解けばきれ/”\に亂れると言ふ處から、思ひ亂る〔四字傍点〕と言ふにかけて言うたものである。
 
ときじく【非時】 時ならず、いつでもある。季はづれの。その時候でない所の』。前の意味の例、卷十三「小治田のあゆちの水を間なくぞ人は掬むとふ時じくぞ人は飲むとふ(三二六〇)。後の意味の例、卷八「わが宿の時じく藤のめづらしく今も見てしが妹がゑまひを(一六二七)。此詞は、形容詞風に、ときじき・ときじくと活用し、又、ときじく〔四字傍点〕で體言となるが、終止法はまだ出來てない。あらむ〔三字傍点〕と融合したときじけむ〔五字傍点〕の形もある。
 
とき‐つ‐かぜ【時つ風】 時宜にかなうた風。時候毎に、其時候特有の風が吹く、其風を言ふ。
 
とき‐なし【時なし】 始終、間斷なく、止む時なしの意、卷四「間なく時なし我が戀ふらくは(七六〇)。
 
とき‐ならず 其時にあらず。時候はづれの。
 
ときもり【時守】 漏刻の節をうかゞひ、又は時の鼓をうつて知らす人を言ふ。守辰人・守辰丁などゝ言ふ。
 
と‐くら【鳥塒】 鳥の寐る場所。ねぐら。卷十九「とくらゆひ据ゑてぞわが飼ふましらふの鷹(四一五四)。
 
とこ(補) 岩石崇拜の對象になる岩を言ふのであらう。「とこなめ」のとこ〔二字傍点〕も此で、床波・床竝など言ふ姓は、神石の竝ぶ状か、或は神なび〔二字傍点〕のなび〔二字傍点〕・なみ〔二字傍点〕に關係があらう。天野の神人を長床衆と言ひ、播磨風土記に「伊師(播州讃容郡)即是※[木+安]見之河上。川底如v床。故曰伊師」なども、此俤を存してゐるのだらう。(219)又、播磨加西郡の地名|鎭岩《トコナベ》なども此證據であらう。(以上、柳田國男先生の説)。
 
とこ【常】 時間的に不變なる。いつも變らぬ。接頭語として用ゐる。常磐〔二字傍点〕は、岩石の虧けずして永久不變なるを讃美し、常處女〔三字傍点〕は、不老不死で、いつも若やかなる處女である事を言ふ。但、常夏〔二字傍点〕と言ふのは、たゞ夏を長く感じて、盛夏と言ふ位の意。
 
とこ【床】 寢處にしつらへてある寢場處だ。上流の家は、板敷に薦を敷き、衾を用ゐて寢る。下流は家の中も土間だから、そこに藁を敷いて寢床にする。上流の家では、奥まつたところが寢處であるけれども、下流の家には、そんな區別はない。此時代には、床は其主の靈魂の在る處として、旅立つた人ある時は、其床を其儘にして靈を散さない樣にした。卷十七「草枕旅ゆく君をさきくあれと齋甕据ゑつ我が床のへに(三九二七)。
 
と‐ごゝろ【利心】 しつかりした心、元氣。
 
とこ‐しく 常|頻《シ》くで、いつでもある、始終の意。卷十「白雪の常しく冬は過ぎにけらしも(一八八八)。
 
とこし‐へ【常久】 末遠い無限の時間。いつまでもいつまでも。
 
とこ‐とは【常久】 つねやまず』。永久に盡くることなき時間を言ふ。いつまでもの意。卷二に「千代とことは(一八三)と續けて用ゐてゐるのも、更に時間の永遠な事を示す爲の重語に過ぎない。
 
とこ‐なめ【床滑】 水苔などが生えて、つる/\と滑り易いところ。卷十一「こもりくの豐初瀬路は床滑のかしこき路ぞこふらくはゆめ(二五一一)。
 
とこ‐の‐やま【鳥籠山】 近江國犬上郡。
 
とこ‐は【常磐】 巖石の恒久不變であるのをほめて言ふ。さて、何でも變らずあるべきものゝ比喩として用ゐる。
 
とこよ【常世】(補) 異郷。他界。理想國。樂土。外國』。わが祖先の人々が抱いてゐた、異郷觀念の對象となつた空想的の土地。最古くは、海を隔てた土地として、海外にも海中にも其存在を考へてゐた樣で、海を挾んで此國に遠い地は、皆、常世であつたので、不可能な、畸形な人・動物・植物などの在る地と考へてゐた。其後、理想的な國土として、民族の前進の欲望を促す地の有樣を空想する時の對象となつて(220)來た。本集時代は、其である。常陸の國を常世だ(常陸風土記)としたものも、此頃である。支那南方の未經験の富源の多い地は、常住の常世であつた。又、常世を以て、富《トミ》の樂土と考へたのは、秦(ノ)忌寸の懲戒を加へた常世神が、蠶に類した渡來の富《トミ》の神であつたのに參照して知れる。すべて常世は、祖先の人々の空想界に存した國土で、實在以上、或は超現實的に理想化し、美化せられた異郷である。唯、常世のすべてが、光明的であつて、闇や恐怖の地でなかつた事は注意せねばならぬ。囘顧憧憬の對象としては、妣《ハヽ》の國《クニ》(神代紀・神武紀)があり、前進理想の目的としては、此國が在つたので、必しも一つの地を考へてゐたのではない。雜誌「あらゝぎ」第九卷第十一號「異郷意識の進展」(全集第二十卷所收)參照。
 
とし【稔】 みのり。米に就いて言ふ語。みとし〔三字傍点〕とも言ふ。一年に一度のみのりなる處から、此大切な作物の名としたか、年をとし〔二字傍点〕と言ふのは、此植物の名から出たのか、明らかでない。御歳神の名をとつたのだと言ふのは、逆である。
 
とじ【刀自】 此時代及び後世にも多く、Madamの意に用ゐて、幾分、尊敬の意を含んだ婦人の姓名につける接尾語風に考へてゐるが、此頃には、やゝ用語例が廣く、わが子の刀自・眉刀自女・櫛つくる刀自など言ふのがある。年の整うた程の女には、一般に言ふと共に、分化の結果、賤業に與る民の女性に通じて言ふ。夫人を大刀自と訓むなどは、尊稱である。眉刀自女・櫛つくる刀自は賤民である。或は賤者の場合は、語原が別で、男女の區別なく言うた爲に、刀自女など言ふのかとも思ふ。
 
とし‐に【年に】 一年目に。稀々に。卷四「佐保川の小石ふみ渡りぬばたまの黒馬のこむ夜は年にもあらぬか(五二五)。
 
とし‐の‐は‐に【毎年】 年毎に、いづれの年も。卷十九「毎年謂2之等之乃波1(四一六八註)。
 
とし‐の‐を【年の緒】 年の連續を緒にたとへて言ふ。いくつも/\繋がつて來る年。としのをながく〔七字傍点〕は、いつまでも、どの年も/\。
 
と‐つ‐みや【離宮】 常在の都宮の外、繁華なる市街、又は山川の要勝、風光の優れた處に離宮を設ける。(221)本集に屡、出づるは、持統・文武兩天皇以下の芳野の宮・聖武天皇の難波宮などだ。芳野の宮は、芳野川の急流に臨みて建てられ、屡、行幸あり、集中に柿本人麻呂以下の名篇を載す。難波の宮は、昔は、田舍と言はれた地の、奈良朝に繁華を來したのも、大宮人の行きかひしげくなつたのが亦一因だらう。
 
とゞこほる【滞る】 進みやらずして一つ處に躊躇する。卷二十「むら鳥の出で立ちかてにとゞこほりかへりみしつゝ(四三九八)。卷四「衣手にとりとゞこほり泣く子にもまされる吾をおきていかにせむ(四九二)。
 
とゞ‐と 物音の形容。卷十一「馬の音のとゞともすれば松影に出でゝぞ見つるけだし君かと(二六五三)。卷十四「奥山の眞木の板戸をとゞとしてわが開かむに入り來て寢さね(三四六七)。
 
とゝのふ【齊ふ】 亂れ散りたるを整へ集む。秩序よくする。卷二「とゝのふる鼓の音は(一九九)。卷三「網子とゝのふる海人のよび聲(二三八)。
 
となみ【礪波】 越中國礪波郡。礪波山は今、越中と加賀との國境をなす白山の一支峰。礪波の關は、加賀との通路に据ゑてあつた關所。
 
となみ【鳥網】 鳥を捕ふる爲に張る綱。かすみ〔三字傍点〕。明方、山|※[山+堯]《タワ》に張りて、鳥の群り飛ぶのを捕ふるを坂鳥〔二字傍点〕と言ふ。卷十七「足びきの彼面此面に鳥網張り(四〇一一)とあるが、之は文の綾であらう。主として小鳥を捕るものと思はれる。
 
となみ‐はる【鳥網張る】 枕。前條の義よりして、坂〔傍点〕にかゝる。
 
とね‐がは【利根川】 上野國利根郡利根川。
 
とねり【舍人】 王朝時代に天皇・皇子等の左右に近侍して雜役を勤仕したものを言ふ。殿侍り、或は殿寢入の義だと言ふが當らない。古事記應神天皇の條に「詐以2舍人1爲v王露座2呉床1」とあり、仁徳天皇紀十六年七月の條に、「天皇以2宮人桑田玖賀媛1示1近習舍人1曰云々」とあるを初見とする。大寶令制には、朝廷に使用する舍人を内舍人・大舍人と言ひ、略して舍人とも言うた。
 
とねり‐ちとせ 「くらもちのちとせ」を見よ。
 
とねり‐の‐いらつめ【舍人(ノ)郎女】 持統天皇朝の人。舍人皇子と贈答した。親王の乳母の子か。
 
(222)とねり‐の=みこ【舍人(ノ)皇子】 天武天皇の第三皇子。母は天智天皇の皇女新田部皇女。持統天皇九年正月淨廣貮を授けられ、文武天皇慶雲元年正月二品で封二百戸をまされ、元明天皇和銅七年正月また二百戸をまされ、元正天皇養老二年正月一品に進み、三年十月新田部親王と共に勲功を賞せられて、内舍人二人、大舍人四人、衛士三十人を賜り、封八百戸をまし、合せて二千戸に達した。また、勅を奉じて日本紀を修し、養老四年五月功成つて紀三十卷、系圖一卷を奏上し、次で八月知太政官事となり、聖武天皇神龜元年二月封五百戸を増され、天平七年十一月十四日薨ぜられた。で、葬儀は太政大臣に准ぜられ、太政大臣を贈られた。後、淳仁天皇の天平寶字三年六月には、崇道盡敬皇帝と稱し、當麻夫人をば大夫人と呼び、兄弟姉妹、皆、悉く親王と言ふ格にせよと詔を下された。
 
との【殿】 地位ある人の住む家。或は家の尊稱。或は奴婢の輩から、其主人の住む本家を言うた場合もある。今日の用語例の母屋《オモヤ》の樣に。
 
との‐ぐもり 一面に曇る。日の光もさゝない陰鬱な氣分を言ふ。
 
と‐の‐へ【外邊】 家の外。戸外。卷二「とのへに立ちさもらひ(四四三)。とのへ〔三字傍点〕に對して内のへ〔三字傍点〕と言ふ語あり。
 
との‐ゐ【宿直】 夜、主君の家に宿して、不時の用務に備ふるを言ふ。女子も宿直をなした事は、卷十六(三八五七)に佐爲王の侍女が、宿直の夜に夫を慕ふ歌を作つて、それより宿直を免されたと言ふ事で知れる。
 
とば‐の‐あふみ【鳥羽(ノ)淡海】 常陸國。今の霞が浦を言ふ。大寶湖とするは當らぬ。
 
とば‐の‐まつばら【飛羽(ノ)松原】 所在未詳。
 
とば‐やま【鳥羽山】 大和國高市郡。
 
とひさく 互にとひあうて慰めあひ、憂さを晴らしあふ。わが心の悲しきを人にも語つて慰められ、又、人の悲しみにも同情して慰めやる。非常に同情に富んだ言葉である。卷三「とひさくるうから同胞なき國に(四六〇)。卷五「石木をもとひさけ知らず(七九四)。此用例で、下二段活用なる事が知られる。
 
(223)とひ‐の‐かふち【土肥(ノ)河内】 相摸國と伊豆國との國境をなす川。即、今の湯河原の渓谷。
 
とふ【言ふ】 もの言ふ。卷六「言とはぬ木にすら妹と兄ありとふを、たゞ一人子にあるが苦しさ(一〇〇七)。記に八握髭胸先にいたるまで眞言とはずと。
 
とぶさたて 枕。ふなぎきる。足柄山。上代、船を造る木材を山から伐り出す時、その伐つた木の末を折つて同じ株の邊に立て、山の神を祭る風があつた。これをとぶさたて〔五字傍点〕と言うたのであらう。ふなぎきる〔五字傍点〕は船木伐るである。
 
とぶたづ‐の 枕。たづ/\し。同音を重ねた枕詞である。たづ/\し〔五字傍点〕は、たど/\し〔五字傍点〕と同じ意味で、ど〔傍点〕・づ〔傍点〕の音價動搖である。
 
とぶ‐とり‐の(補) 枕。あすか。※[獣偏+葛]子鳥《アトリ》と本集に言ふ鳥は、本名あ〔傍点〕で、此時代、既に發音の困難な處から、「あ鳥」と言うてゐたのであらうが、古くはあ〔傍点〕だけで通用した事は、一音名詞や一音地名のある事から考へて知られるから、即、飛ぶ鳥のあ〔傍点〕とつゞいたのが、あすか〔三字傍点〕に限つて用ゐられる事になつたのであらう。
 
とぶひ【飛火】 大和國生駒山の一峰。烽火を置いて急に備へてあつたよりして名づく。春日野の中にも同名の地がある。これも同じ烽火を置いたによつて名づけたのだ。
 
とほ【遠】 とほし〔三字傍点〕の語根の體言。時處の遠方を現す語。遠妻・遠のみかど・遠つ神・遠長秋など。
 
とほ‐しろし【遠著し】 遠方までも、はつきりと見えるのを言ふ。
 
とほち‐の=ひめみこ【十市(ノ)皇女】 天武天皇の長女。母は鏡王の女額田女王で、大友皇子(弘文天皇)に嫁し、葛野王を生まれたが、天武天皇七年四月卒然病を發してなくなられた。で赤穗に葬つたが、天皇もこれに臨まれて大層悲しまれた。自殺だと言ふ。
 
とほ‐つ‐あふみ【遠江】 近江國の地名である。日本靈異記には、近江國坂田郡遠江里と言ふ里がある。それかと思はれるけれども、阿渡川は高島郡にあるから、それとも思はれぬ。
 
とほつ‐おほ‐うら【遠津大浦】 未詳。近江國琵琶湖の一名とも言ふ。
 (補)遠津の地の大きい浦か。遠い大浦と言ふ地か。大浦は分布が極めて廣い地名である。今の處、いづ(224)れとも定められぬ。試に言ふと、遠江國磐田郡大乃浦を、濱名湖に對して、遠津大浦と言うたものか。但、大浦は漢意を以て書いたので、あふみと訓んで、遠つ淡海と訓むのではあるまいか。「おほのうら」參照。
 
とほつ‐の‐はま【遠津(ノ)濱】 未詳。
 
とほ‐つ‐びと【遠(つ)人】 枕。まつ。かり。とほつびと〔五字傍点〕とは、旅に出たりして、遠隔の地に離れて居る人を言ふので、それを故郷では待つて居ると言ふ意味からまつ〔二字傍点〕にかけて言ひ、雁は遠來の容として、人の樣に言ふのだ。
 (補)遠方にゐる人の歸るのを待つとかけたので、卷五「とほつびと松浦佐用媛(八七一)は、遠き昔の人なると言ふ意ではない。尤、遠しと言ふ語は、空間上にばかりでなく、時間の上にも用ゐはするが、それにも限りがあるので、時間を空間に譯して表すのである。雁〔傍点〕につゞくのも、雁のまれびとゝは言ふが、此場合、雁を人格化したのではなく、旅・歸るなどに似た意を持つた、かり〔二字傍点〕・かる〔二字傍点〕など言ふ死語のあつた事を見せてゐるのではあるまいか。
 
とほ‐づま【遠妻】 遠方にゐる妻。旅に出でゝ家郷に殘した妻を言ふ。卷四「遠妻のこゝにあらねば(五三四)。
 
とほ‐な【遠名】 他處で、其人と名を指して立てる噂を言ふ。人の遠名は、名を立てられる其人とわれと事ありと、言ひふらさるゝ噂。いはゆる浮名を言ふ。卷十一「眞野の池の小菅を笠にあまずして人の遠名を立つべきものか(二七七二)。
 
とほ‐なが‐に【遠長に】 末長く。時間の長い事を示す爲に空間の延長を示す語なる、遠しと言ふ語を用ゐたのである。
 
と‐み【跡見】 大和國磯城郡。神武天皇が神籬を立てて、大祖を祭られたと傳へらるゝ地。
 
とみ‐の=を=がは【富(ノ)小川】(補) 大和國生駒郡法隆寺を流れる川。斑鳩の富(ノ)小川と言ふ。八田丘陵から出て、南へ下り、龍田川に入る川である。とみは地名で、長髄彦、一名|富彦《トミヒコ》の根據地である。今、富雄などの地名がある。小川のを〔傍点〕を、雄と解したのである。
 
とも【鞆】 古、弓を射る時に、左の臂に必、着けた道具で、革で製し形は圓く出來てゐる。弦の弾ねかへ(225)つて臂にうちあたるのを避ける爲だとも、又、弦を高く響かしめる爲だとも言ふ。
 
とも【輩】 仲間。人達と言ふよりは親しみのある語。卷二十「大伴の氏と名におへるますらをの輩(四四六五)。
 
ともし【乏・羨し】 少い。不十分である。卷十七「珠に貫く花橘を乏しみしこのわが里に來なかずあるらし(三九八四)。乏しみし〔四字傍点〕は少く思ふ。乏しみ〔三字傍点〕に動詞す〔傍点〕が添つたのである。次に、羨しの意味。卷十七「山吹のしげみ飛び潜く鶯の聲をきくらむ君はともしも(三九七一)。ともし妻・ともしき妹・ともしき兒らとやうに人倫につゞけば、あふ事の稀なる妹・あひがたきあひたき妻の意となる。卷十四「坂こえてあべの田の面にゐる鶴のともしき君は明日さへもがも(三五二三)。珍らかに。貴い。高貴の。卷二「味凝あやにともしき高照る日の皇子(一六二)。
 
ともしび‐の 枕。あかし。燈火の明しとつゞけたのである。
 
とも‐の‐うら【鞆(ノ)浦】(補) 備後國沼隈郡鞆町の海岸。船つき場として鞆(ノ)津(本集)と言ふ。内海航路の名高い港で、後世、益盛んになつた。此を今の鞆でなく、室津の事だ(金砂)と言ふのは、大伴旅人の歌に出た、鞆(ノ)津の※[木+聖]《ムロ》の木に囚はれた考へである。
 
とも‐の‐さわぎ【輩の騷ぎ】 朋友とうちむれて騷ぎ遊ぶ事。群集のとよみ。
 
とも‐の‐べ【伴(ノ)部】 配下の者。部下の人。部下の身分の輕い人たち。卷六「山のそき野のそき見よと伴の部をわかちつかはし(九七一)。
 
とも‐の‐を【伴(ノ)緒】 部族のつながり。一氏族を中心として絲の如く繋がつてゐる、一族より部族の民に至るまでの一團。氏族の縁によつて結びあうてゐる人達。かゝる氏族の團體は、人數の多いほど強いわけで、其かみ、大伴氏が有力であつたのも、其伴の緒が多かつたからだ。天智天皇の朝廷の改革は、此伴の緒の團結力を弱めようとして、舊族の反感を買ひ、やがて壬申の亂を來したのである。奈良朝に入つてから、此氏族を中心とする團結は、だん/\弱められて行つた。大伴氏の悲劇が、此處に起る。萬葉時代は、概して其衰頽期に屬するのだ。卷七「靭(226)かくる伴の緒廣き大伴に國榮えむと月は照るらし(一〇八六)。
 
とや‐の‐ぬ【等夜(ノ)野】 下總國印幡郡鳥矢郷かとも言ふ。
 
とよくに‐の‐みち‐の‐くち‐の‐をとめ【豐前(ノ)娘子】 字をば大宅女と言ふが、傳未詳。
 
とよ‐の‐あかり【豐明】 豐〔傍点〕は美稱、明〔傍点〕は赤らむ事で、饗宴の意味である。新嘗祭の翌日に、天皇が新穀を召しあがる儀式である。吉野の國栖は御贄を供し、歌笛を奏し、治部省雅樂部の工人は立歌を奏し、大歌所の別當は、歌人を率ゐて五節舞をした。
 
とよ‐の‐あかり【肆宴】 朝廷の御酒宴。萬葉時代には、まだ新嘗祭の翌日の節會のみには限つてゐない。卷十九「とよのあかり見します今日(四二六六)。
 
とよ‐はた‐ぐも【豐旗雲】 大きな雲。旗の如く大きく廣がつてゐる雲。豐〔傍点〕はそれが十分に立派である事を現す接頭語。
 
とよ‐みき【豐御酒】 豐〔傍点〕は、立派である事を現す接頭語。「くろき」「しろき」を見よ。
 
とよら‐の‐てら【豐浦(ノ)寺】 今、大和國高市郡豐浦村に其趾と傳へる寺がある。今の甘橿(ノ)丘(實は神南備)の北麓、飛鳥川を前に控へてゐる。もと飛鳥元興寺に合併せられてゐたものと考へられる。現在の豐浦寺よりは東、字|雷《イカヅチ》の對岸のあたりに近かつたのであらう。豐浦大臣蘇我馬子が、向原寺を修築したものである。
 
とら【虎】 虎は、日本には古から居なかつたが、韓土との交通は古くからあつたので、大陸に虎と言ふ猛獣がゐると言ふ怖い話は傳へられ、又、虎の皮なども入つて來た。日本では、神の性格の一面を恐るべき暴逆をなすものだと考へて居た所から、其一面を持つた猛獣なども虎といふ神〔五字傍点〕(卷十六、三八八五)と稱へてゐる。狼を大口の眞神〔五字傍点〕と稱へたのも同例だ。
 
とり【等里】 所在未詳。
 
とり‐が‐なく 枕。あづま。あづ〔二字傍点〕は建築の一部の名處であらう。鶏が其處で時をつくるので、あづ〔二字傍点〕を起したのだらうと考へられる。あづ〔二字傍点〕は今のづし〔二字傍点〕の類であらう。鶏が鳴く(夜も明けたらう)わが夫《ツマ》よと、夫を起す妻の常用の語から來たものか、と凝説もおも(227)しろいが、やゝ近代的の考へらしい匂ひがある。あづ〔二字傍点〕は方言研究によつて知らねばならぬ。
 
とりかひ‐がは【鳥飼川】 大和國、富の小川の一名。「とみのをがは」參照。
 
とり‐じもの 枕。うく。鳥の樣にと言ふ意。水鳥などは水面に浮くものだから、それでうく〔二字傍点〕の枕詞に用ゐたのである。
 
とり‐の‐せむりやう【刀利(ノ)宜令】 元正天皇養老五年正月詔によつて退朝の後、東宮に參じた時に、從七位下であつた。後、伊豫掾・正六位上になり、年五十九で死んだ。曾て長屋王の宅で新羅の客を寓した時、「玉燭調2秋序1、金風扇2月※[巾+韋]1、新知未v幾v日、送別何依々、山際愁雲斷、人前樂緒稀、相顧鳴鹿爵、相送使人歸」と歌つた(懷風藻)。また「縱v賞青2春日1、相期2白髪年1、清生百萬聖、岳土半千賢、下宴當時宅、披雲廣樂天、茲時盡2清素1、何用2子雲玄1(同上)と詠じた事がある。
 
とり‐よろふ 身邊を整へる。衣裝やいろ/\の武器などを身につける。とりよろふ天のかぐ山と言ふのは、山が樹木によつて裝束されてゐる事を言ふのだ。卷二十に「よりよそひ門出をすれば(四三九八)とあるのは、語は違ふが意味は同じだ。
 
とろしのいけ【取石(ノ)池】 大和國。所在未詳。
 
と‐わたる 元、海峽、即、門を渡る意から渡る意に用ゐる。卷六「さゝらえ男天の原とわたる光(九八三)。
 
とをよ‐る とを〔二字傍点〕はたわ〔二字傍点〕と同じく、よ〔傍点〕はや〔傍点〕と同じで、體言形容詞である。共に動詞語尾る〔傍点〕がついて、古事記のわかやる胸〔五字傍点〕と言ふ風な形をとつたのだ。卷二に「嫋竹のとをよる兒ら(二一七)。とをよる〔四字傍点〕と言ふ語は、女をほめて言ふ詞だ。
 
とをゝ【撓】 枝などの撓む有樣を形容して言ふ。なよなよ。卷十「春さればしだり柳のとをゝなる妹が心にのりにけるかも(一八九六)。
 
     な
 
‐な(補) 用言の將然形につゞく。感歎の助辭と同じものであらう。卷四「今しらす恭仁の都に、妹に逢はず久しくなりぬ。行きて早見奈《ハヤミナ》(七六八)。卷五「す(228)べもなく苦しくあれば、出ではしり伊奈々《イナヽ》と思へど、子らにさやりぬ(八九九)。卷二十「橘樹《タチバナ》の古婆《コバ》のはなりが思ふなむ心うつくし。いで、あれは伊加奈《イカナ》(三四九六)。卷一「君が齢もわがよも知らむ磐白の岡の草根を、いざ結び手名《テナ》(一〇)。自身ある行爲をしようとの決意を現す場合に限つて使ふ。む〔傍点〕の樣に想像や時に關係はない。又、同じ將然について、而も形のよく似てゐるなむ〔二字傍点〕とも別の物で、成立も全く違うてゐる。な〔傍点〕はむ〔傍点〕と似たものとして考へれば、なむ〔二字傍点〕と混同する訣もない。又、時の助動詞なむ〔二字傍点〕とも似てはゐるが、全く關係がない。てな〔二字傍点〕・なゝ〔二字傍点〕と言ふ風に、時の助動詞の將然と漆着して動詞の連用につく事がある。其時は、やはり、てむ〔二字傍点〕・なむ〔二字傍点〕などゝ似てゐるが、決意の外には使はぬ。
 
な【汝】 な〔傍点〕は二人稱代名詞で、な〔傍点〕ともなれ〔二字傍点〕とも使ふ。本集には、主な二人稱はな〔傍点〕ときみ〔二字傍点〕とであるが、きみ〔二字傍点〕の方は敬意がもとになつて居り、な〔傍点〕では昵近の意が、先に立つて來る事に兩者の相違がある。汝夫《ナセ》の君〔二字傍点〕と言ふ語法があるのでもわかる。な〔傍点〕は、男にも女にも區別なく使はれる。
 
な【肴】 魚類・野菜など副食物《オカズ》とせられる物の總稱。今言ふさかな〔三字傍点〕のさか〔二字傍点〕は酒で、な〔傍点〕はこゝに言ふな〔傍点〕である。集中に「あさなゆふな」と言ふ時のな〔傍点〕の借字に、朝魚夕菜と字を宛てたのがある。又、單獨に菜をな〔傍点〕とよぶ事はもとよりであるが、魚をも食はるべきかたより呼びて、な〔傍点〕と言うたのである。卷五「たらし姫神の命の魚《ナ》釣らすと御立しせりし石を誰見き(八六九)。
 
ないをむ【泥※[さんずい+亘]】(補) 涅槃《ネハン》』。Nirvana を音譯して、泥曰《ナイワツ》・泥※[さんずい+亘]・涅槃など書く。等しく、波利※[目+匿]縛※[口+男]《ハリヂバナン》(Parinirvana)の略で、舊譯皆之に從うてゐる。にるわぁな〔四字傍点〕を三樣に書く事、地方音の相違によつて音譯を異にしたのであらうが、泥をnirと發音する事、屑字の所屬であるから見ても、疑ひはあるまいが、※[さんずい+亘]をわぁな〔二字傍点〕に近いものとして宛てたのにも、理由がある。をん〔二字傍点〕(元音の所屬)、又は、ぐゎん〔二字傍点〕(寒の所屬)と我が國では、發音するが、所屬から見ればvanと言ふ音は發せられたに違ひなからう。槃の字も等しく、寒の所屬であるから見ても知れよう。即、支那では、泥※[さんずい+亘]をにるわぁな〔四字傍点〕に近く發音してゐたのを、(229)訛つて發音したのである。尤、本集當時は、ないをむ〔四字傍点〕と言はず、今少し原音に近い發音をしたものと思はれる。
 
な‐おと【汝弟】 弟を呼びかけて言ふ時に、二人稱のな〔傍点〕を添へて言ふのである。卷十七「はしきよし汝弟の命(三九五七)。
 
なが‐うた【長歌】 長歌は、短句と長句とを交錯して歌ふ事に起る。それが五七調となり、又、結末を五七七に結ぶ事は、もとは竝立してゐた旋頭歌、短歌の勢力に感化されたのだ。殊に結末を五七七に結ぶ事は、有史以後の出來事で、記紀萬葉には五七の循環のみに終る長歌を保存してゐる。其過渡時代に在つては、大結末のみでなく、中途の各節の終止形をも五七七の形式に取つたので、一方から見れば、五七五七七式の歌をいくつか連鎖せしめた形となる。これは即、長歌形式と短詩形式(五七・五七七を基本公式とする句數の少い歌の形式)とが雙方から歩み寄つて生じたのだ。これは結果から見て、過渡形式であるが、日本の歌謡としては、貴重な形式である。矩歌二つを續けたやうな形、短歌と旋頭歌、短歌と片歌を續けたやうな形等は、これに屬する。これが飛鳥・藤原宮時代に入つて、柿本人麻呂等の手によつて、今日のいはゆる長歌の形式が大成せられ、同時に反歌と稱して、短歌、又は旋頭歌を附隨させた根據になるのだ。人麻呂等の功は、いはゆる長歌形式を大成した點にあるので、罪は長歌形式を固定せしめて、單純無變化の患を生じ、後日の衰頽の起因を爲した事にあるのだ。かうして文字の盛行につれ、多くの長い長歌が出來、次に長歌は全く歌はれなくなり、こゝに奈良朝後期の廢絶を來す。平安朝に入つては、試に長歌の手習ひをして見たゞけで、論ずる價値も無い。徳川時代に入つて、まゝ長歌を作りがほの人も出たけれども、長歌廢絶の眞因たる單純にして無變化と言ふ缺點を除く事を知らず、徒に人麻呂等に心醉してゐた爲に、今日から見れば、倦怠の氣なしに讀む事の出來る作は、甚、乏しい。長歌はもとより形式の大きいものだから、貧弱な内容を盛つたのでは持ち切れぬ。長いものでは、方便に於て劇的手段を執つたものが、比較的成功してゐる。古事記に於ける八千矛命中心の詩作の生命(230)があるのも、此點であらう。人麻呂の高市皇子殯宮歌も、皇子の生涯の敍述に興味はあるが、肝腎の薨去を悼む情は、有力でない。却て、短い長歌に死別の情の惻々たるものがある。卷十三の比較的短い長歌に感情の微細に動いてるものが多いのも、長歌が文選の賦あたりを追ふべきものでなく、短歌・旋頭歌等の形式に束縛せられず、もとよりいはゆる長歌の形式をもあまり顧る事なしに言ふべくして言ひ、止むべくして止む點に自由な表現が期待せられる事を示すのであらう。
 
な‐かゝす【名赫す】 名を輝してゐる。有名なる。名の廣く聞えた。卷十七「天さかる鄙に名かゝす(四〇〇〇)。
 
なか‐ごと【間言】 二人の間に立ちて、互に感情を害ふ樣な事を言ふこと。中傷。讒誣。卷四「汝をと吾を人ぞ離くなるいで吾君人の中言聞きこすなゆめ(六六〇)。同「けだしくも人の中言聞けるかもこゝだく待てど君が來まさぬ(六八〇)。
 
ながた‐の=おほきみ【長田ノ王】 天武天皇の皇孫で、長親王の御子である。元明天皇の和銅四年四月從五位上から正五位下に進み、元正天皇靈龜元年四月正五位上、二年正月從四位下、十月近江守となり、聖武天皇の神龜元年二月從四位上、天平元年三月正四位下、九月衛門督、四年十月攝津大夫に歴任して、天平六年二月朱雀門の歌垣に主だつた人の一人として交つてゐる。九年六月十八日散位で歿した。
 
なか‐ち‐おひね【中大兄】 天智天皇のまだ皇子であられた頃の名である。
 
なか‐つ=すめら‐みこと【中皇命】(補) 舊説みな中皇女〔三字傍点〕の誤りとして、間人《ハシビト》(ノ)皇女《ヒメミコ》(後に孝徳天皇后)だと説き、舒明天皇朝の御歌も、齊明天皇朝の御歌も、同じ方の作としてある。けれども、其誤りな證據は、齊明天皇朝の方は、左註の類聚歌林逸文には、天皇御製とある事である。之をなかつすめらみこと〔九字傍点〕と訓む事は、喜田貞吉博士の創見で(藝文)、元正天皇を中(ツ)天皇とした宣命(續紀)、天智天皇の皇后倭姫女王を仲天皇と記した記録(大安寺資財帳)から暗示を得て、此説を樹てられたので、倭姫を中天皇と書いた理由に就いては、太后天皇と書いた文獻(懷風藻)によつて、天武天皇即位の前に一時、天皇とな(231)られた事があるからだ、と説かれた。
 
ながと‐の‐しま【長門(ノ)島】 安藝國佐伯郡。今の嚴島の古名である。
 
なかとみ‐の‐あづまびと【中臣(ノ)東人】 元明天皇和銅四年四月從五位下に敍せられ、元正天皇養老二年九月式部少輔、四年正月從五位上、十月右中辨、聖武天皇神龜元年二月正五位下、三年正月正五位上、天平四年十月兵部大輔、五年三月從四位下に歴任したが、治部卿になつたのは、何時だか判然しない。
 
なかとみ‐の‐きよまろ【中臣(ノ)清麻呂】 中納言意美麻呂の子。聖武天皇の天平十五年五月從五位下に敍せられ、六月神祇大副となり、十九年五月尾張守に移り、孝謙天皇天平勝寶三年正月從五位上、六年四月再び神祇大副、七月左中辨、天平寶字元年五月正五位下、淳仁天皇同三年六月正五位上、六年正月從四位下・文部大輔、十二月參議、七年正月左大辨、四月攝津大夫を兼ね、八年正月從四位上、九月正四位下に敍し、稱徳天皇天平神護元年正月勲四等を授けられ、同十月紀伊國行幸に御後次第司長官をつとめ、十一月神祇伯として其名の如く赤心を似て神祇に仕ふる事、まことに嘉すべしと言ふので、特に從三位に敍せられ、神護景雲二年二月中納言となつて、神祇伯元の如く、三年六月兩度神祇官に仕へて失なしと言ふので、大中臣朝臣の姓を賜り、光仁天皇寶龜元年十月正三位に進み、二年正月大納言で東宮傅を兼ね、二年二月左大臣藤原永手が暴かに病に罹つた爲、詔によつて大臣の事を攝行し、三月右大臣、從二位、十一月の大甞會に神壽詞を奏し、※[糸+施の旁]六十疋を賜り、三年二月其第に行幸あつて、正二位を授かり、五年十二月上表して骸骨を乞うたが、優詔して許されず、十一年四月備前國邑久郡の荒廢田百餘町を賜り、桓武天皇天應元年六月再び上表して骸骨を乞ひ、許されて几杖を賜つたが、延暦七年七月二十八日八十七歳で薨じた。
 
なかとみ‐の‐むらじ【中臣(ノ)武良自】 聖武天皇朝の人らしいが、未詳。
 
なかとみ‐の‐やかもり【中臣(ノ)宅守】 聖武天皇の天平八年歳部女を娶つたところが、狹野茅上娘子と通じたので、怒にふれて流罪に勅斷せられて越前國に流された。十二年大辟以下大赦のあつた時も、此限に(232)あらずと言つてゆるされなかつたが、後、淳仁天皇の天平寶字七年正月に從六位上から從五位下に敍せられて居る。
 
なかとみ‐の‐をとめ【中臣(ノ)女郎】 大伴家持の情人。傳未詳。
 
なかとみべ‐の‐たるくに【中臣部(ノ)足國】 下野國都賀郡の上丁で、孝謙天皇の天平勝寶七年筑紫の國に遣された防人である。
 
なか/\‐に なまなかに、なまじひ。卷三「なかなかに人とあらずは洒壺になりにしがも酒にしみなむ(三四三)。却て、卷十二「なか/\に死なばやすけむ出づる日の入るわき知らぬわれしくるしも(二九四〇)。
 
なが‐の‐おきまろ【長(ノ)奥麻呂】 持統天皇二年三河國の行幸に從うて居る。そして文武天皇の大寶元年紀伊國の行幸に從つた意吉麻呂ではないかと言はれて居る。宮廷詩人であらう。
 
なか‐の‐みかど【中(ノ)門】 後期王朝時代、貴人の邸宅の建築から類推する外はない。中央に南に面して母屋があり、其左右に東西の對屋を構へ、母屋の前に池を堀つて中庭を作り、中庭を圍んで、左右對屋から泉殿・釣殿へ廊をつけた、其廊に中庭へ入る門がある。比門を中門と言ふのである。で之等の建築は、築地垣を以て廻らされ、其垣にも門があつて、此門に對して、中とは言ふのである。本集時代のも、此形式に近かつたであらう。
 
なが‐の‐みこ【長(ノ)皇子】 天武天皇の第四の皇子。母は天智天皇の女大江皇女で、弓削皇子の同母兄である。持統天皇七年正月淨廣貮を授けられ、文武天皇慶雲元年正月二品で二百戸を増封せられたが、元正天皇靈龜元年六月四日一品で薨じた。
 
なが‐の‐をとめ【長(ノ)娘】 傳未詳。
 
ながはず【長弭】 長い弓弭。弓弭が長くついてゐる。
 
なかま‐な【中麻沼】 信濃國であると言ふが、所在不明。信濃川の流域であらう。
 
ながめ【霖雨】 長くつゞき降る雨。五月の霖雨をさして言ふ。卷十六「とぶ鳥の飛鳥男子が霖雨忌み縫ひし黒沓(三七九一)。卷十九「卯の花を腐す霖雨の始水逝縁る木積なしよらむ子もがも(四二一七)。
 
ながや【長屋】 一棟で長く建ちつゞいた家。本集に(233)は、橘の寺の長屋が見えるが、かゝる寺院建築の外、まだ長屋と言ふべき物はなかつた。長屋、即、僧房で、屋《ヲク》を以て數へる。殿堂以外の物。當時、風俗亂れて、かゝる僧房に女を連れて俗人の行く事もあつたと見える。
 
ながや【長屋】 大和國磯城郡。丹波市の南方に當る地である。
 
ながや‐の‐おほきみ【長屋(ノ)王】 天武天皇の御孫、高市皇子の御子である。文武天皇の慶雲元年正月正四位上に敍せられ、元明大皇和銅二年十一月從三位で、宮内卿となり、二年四月式部卿に遷り、七年正月封一百戸をまされ、次で靈龜二年正月正三位となり、元正天皇養老二年三月大納言に任じ、五年正月從二位・右大臣となり、聖武天皇神龜元年二月正二位・左大臣に進んだ。天平元年二月元興寺で元正上皇が大法會を修した時、ある僧侶の頭を破つたのを動機として、其勢を妬んで居た者が讒して謀反があると密告したので、其夜王の家を圍み、同十二日自殺せしめた。時に年五十四で、吉備内親王の屍と共に生駒山に葬つた。曾て元日の宴に詔に應じて「年光泛2仙※[草冠/御]1、月色照2上春1、玄圃梅已放、紫庭桃欲v新、柳絲入2歌曲1、蘭香染2舞巾1、於2焉三元節、共悦2望雲仁1」と詠じ、又、其宅に新羅の客を宴した時に「高※[日/文]開2遠照1、遙嶺靄2浮烟1、有v愛2金蘭賞1、無v疲2風月筵1、桂山餘景下、菊浦落霞鮮、莫v謂滄波隔、長爲2社思1、延」と歌ひ、また初春作寶樓に置酒した時「景麗金谷室、年開積草春、松烟双吐v翠、櫻柳分含v新、嶺高闇2雲路1、魚驚亂2藻濱1、激v泉移2舞袖1、流聲韵2松※[竹/均1]」と歌はれた(懷風藻)。
 
ながら‐の‐みや【長柄(ノ)宮】 孝徳天皇の宮處。長柄の豐崎の宮。今の大阪城の地か。又、長等《ナガラ》(ノ)宮は、近江の滋賀(ノ)宮の異名である。
 
ながらふ 生き永らへる。亡びないで、何時迄も存續する。卷八「泡雪の消ぬべきものを今迄にながらへぬるは妹に逢はむとぞ(一六六二)。時間を經過する。時がうつりゆく。卷十九「天地のはじめの時ゆ世の中は常なきものと語りつぎながらへ來れ(四一六〇)。
 
ながらふ【流らふ】 雨雪の流れ降る。梅花などの流れ散る。卷八「泡雪かはたれに降ると見るまでにな(234)がらへ散るは何の花ぞも(一四二〇)。卷十「天ぎらひふりくる雪の消なめども君にあはむとながらへ渡る(二三四五)。後の例は、此條の語と前條の語とを懸詞にして、雪のふると、自分の生命の續く事とを兼ねて言うてゐる。
 
ながれ‐ふら‐ふ【流れ觸らふ】 水や風などに流されてゆら/\ゆらぐ。卷二「上つ瀬に生ふる玉藻は下つ瀬に流れ觸らへ(一九四)。流れふる〔四字傍点〕の再活用。
 
なぎ 水葵と言ふ水草の一種。又、其葉の細いのを、小水葱《コナギ》と言ふ。
 
なぎ【水葱】 葱の一種。食用。
 
なぎ 梛。竹柏。一位科に屬し、暖地自生の常緑樹。高いのになると、六七丈もある。樹皮は帶緑濃褐色で、年を經ても、決して松などの樣にざら/\になつたり割れたりしない。尤、表皮は鱗片となつて脱却するが、其痕跡が紅黄色を呈して、頗、美麗である。葉は橢圓形で、先は尖り、竝行脉を有し、對生してゐる雌雄株を別にしてゐて、雄花は淡黄色、五月頃に開く果實は、球形黄褐色。革質は強靱であるが、材は比較的軟く、稍、緻密で、木理は往々波状をなしてゐるから、器具にもつくられる。昔から此葉の乾びても萎れないのを賞してゐる樣である。後期王朝には、熊野の梛が名を得た。
 
なき‐がは【名木河】 山城國久世郡。木津川の支流。
 
なきさは‐の‐もり【泣澤(ノ)森】 大和國高市郡。香具山の南麓に鎭まれる神。伊弉諾尊が伊弉冊尊を喪して泣いた時に生れた神の、泣澤女神と言ふのを祀つてある。
 
なきすみ【名寸隅】 播磨國印南郡。今の曾根の附近。舶瀬、即、波止場のあつた地。
 (補) 播磨國船瀕の在つた地。今の兵庫邊に當る大輪田(ノ)船瀬から西の、明石郡にあつた魚住(ノ)泊(意見封事・三代格)が其だらうと言ふ。天平年中に出來た舟泊りで、延暦の末迄五十年間、其便を享けてゐたが、弘仁年中に風浪の爲に、石や砂が崩れ、天長九年五月に、大納言清原(ノ)夏野が奏議して、朝廷の助力を願うて修復したが、承和の末に復壞れ、貞觀の初に東大寺僧が、八年からは、元興寺の賢養が盡力したが、其死後、壞れて、漂没する人民や、官物が非常な數であつた(三代格・封事)。上田秋成(235)は、加古の西の魚个橋を、其かと言うてゐる(金砂)が、三代格に明石郡とあるし、加古の西では、地理があはぬ樣である。荒木田久老は、藤井の西の魚住《ウヲズミ》(ノ)庄だ(萬葉集古義所引、播磨下向日記)としてゐる。ともかくも、名寸隅〔三字傍点〕と魚住〔二字傍点〕とは同じ地で、き〔傍点〕を脱略して、魚住《ナスミ》と言うたのを、後世、又、字面に從うて、うをずみ〔四字傍点〕に訓み出したのであらう。なきずみ〔四字傍点〕といふ名の泣き〔二字傍点〕に通ふのを嫌うて、なすみ〔三字傍点〕にしたか、或は強ひて二字名にする爲に、き〔傍点〕を落したか、今日では知れぬが、明石郡である事と、松帆に近い事などが亦一證であらう。殊に魚住(ノ)船瀬は、既に天平年間にあつたとすれば、大輪田から印南迄の間に、二个所も、大工事の船瀬を起す必要はなかつたであらう。
 
なぐ【和ぐ】 やはらぐ。荒れてゐたありさまから平靜状態にうつる。海上に波立たぬ樣になつて行く。元、海神について言うた語を人心の上にも轉用したものと見える。四段活用。他動詞には、なぐる〔三字傍点〕と、ら行四段に活用させ、又、なごる〔三字傍点〕と轉じて、自動詞にも使ふ。心中穏やかになり來る。心なぐさ〔四字傍点〕・なぐさむ〔四字傍点〕・凪《ナギ》なども、皆これから出てゐるのである。
 
なくこ‐なす 枕。したふ。ことだにとはず。ゆきとりさぐり。母を慕うて泣くと言ふ意味。只、泣いてばかりゐて、物も言へない嬰兒、さぐりまはる赤子と言ふ意味などから出て居る。
 
なぐ‐さ 心を慰めるたね。慰めになる物や事がら。心なぐさ〔四字傍点〕と續けるも同じ。言のなぐさ〔五字傍点〕は、口なぐさみ。じようだん。卷四「吾のみぞ君には戀ふるわが夫子が戀ふとふことは言のなぐさぞ(六五六)。
 
なぐさ‐む【慰む】 憂悶を靜め和げる。集中にては、自動詞も下二段活用と思はれる。自動詞的にはなごむ〔三字傍点〕の四段活用がある。卷七「名草山に言にしありけり我が戀ひの千重の一重もなぐさめなくに(一二一三)。
 
な‐ぐはし【名細し】 名は體をあらはすと言ふが、實物通り名前も美はしい。實物も立派だが、名前もよい名がついてゐるところの。名ぐはし吉野・名ぐはし狹岑の島・名ぐはしき稻見の海、等の用例がある。
 
なぐ‐や【投矢】 矢は遠く放ちやるものであるから、(236)投ぐと言ふので、必しも手投の意味ではない。卷十九に「投矢もち千尋射わたし(四一六四)とあるのも、拘泥すべき限では無いが、遠くへ放つ意味は知られる。
 
なぐるさ‐の 枕。なぐる〔三字傍点〕は投ぐる、さ〔傍点〕は箭で、投げる箭の遠く行くと言ふ意で、言うたのである。
 
なげく【歎く】 長き息をして悲歎する。溜息をつく。長息すると言ふ意味から轉じて、悲歎すると言ふ意になるのだが、此集には、まだ原意のものも殘つてゐる。卷十三「ぬば玉の夜はすがらに此床のひしと鳴るまでなげきつるかも(三二七〇)。
 
なけ‐なく‐に なくはないのに、あるものをの意。君なけなくに〔六字傍点〕は、君がなくはない、あるものをの意。
 
なけ‐なく=に(補) 「けなくに」參照。
 
なご【奈呉】 越中國、射水郡の浦。又、難波の一部。
 
なこせ‐やま【莫越山】 巨勢山と勿來とを懸詞にしたのである。巨勢山は、「こせ」の條を見よ。
 
なごや‐が‐した 大國主神の歌にある語を、襲用したので、や〔傍点〕は體言語尾、和やかなる意で、其下、即、ふは/\した夜着の下である、床の中である。
 
なご‐やま【名兒山】(補) 筑前國宗像郡田島の西。勝浦・田島の間の山越えで、昔は勝浦から、北山を越え、田島に出て垂水越えをして、内浦を通つて蘆屋へと向うたのであらう(筑前續風土記)。此山は、大汝・少彦名の國作り傳説を持つてゐて、此山を見て、心がなごんだ〔四字傍点〕とか、まなご〔三字傍点〕の樣な氣がするとか言ふ樣な、地名説明があつたのであらう。
 
なごり【浪殘】 海上に風吹き止んで、なほ浪靜まらず水動いてゐる事。卷七「奈呉の海の朝けの餘波今日もかも磯の浦曲に亂れてあらむ(一一五五)。潮干のなごり〔六字傍点〕と言ふは、潮の引き去りて後、浪の持ち來しものゝ磯に殘れるをいふ。卷四「難波潟汐千の餘波飽くまでも(五三三)。
 
なさか‐の‐うみ【浪逆(ノ)海】 常陸國、霞个浦の一名。其一部の名と言ふのは、よくない。
 
なし‐の‐まに/\ 作り上げたまゝに。
 
な‐す【寢す】 動詞|寢《ヌ》に、敬語助動詞す〔傍点〕が添つたもの。四段活用である。卷二「沖つ浪來寄る荒磯をしきたへの枕とまきて寢せる君かも(二二二)。殊に男女關係に、對手方の行動に言ふものが多い。卷十四(237)「奥山の眞木の板戸をとゞとしてわが開かむに入り來て寢さね(三四六七)。
 
な‐す【寢す】(補) さ行四段活用。他動詞。寢さす。寢つかす』。辭書本文なす〔二字傍点〕に、敬語としてのなす〔二字傍点〕ばかりをあげたのは不足である。卷五「……何處より來たりしものぞ。目間《マナカヒ》に、もとなかゝりて、安睡《ヤスイ》し寢《ナ》さぬ(八〇二)。
 
なす【鳴す】(補) ならす〔三字傍点〕のら〔傍点〕音を落したのである。「大刀の緒もいまだ解かずて、襲衣《オスヒ》をもいまだ解かねば、處女の那須夜《ナスヤ》板戸をおそぶらひ(記)。「潮《シホ》こをろ/\に畫鳴《カキナラシ》【訓v鳴云2那志(ト)1】て引き上ぐる時に(記)などある鳴す〔二字傍点〕である。
 
なす【如】 のやうに。の如く』。體言につくのは、巖なす常磐・錦なす花と言ふ樣につゞく。用言につくのは、卷一「衣につく〔四字傍線〕なす目につく我が背(一九)。卷十五「鳴瀬ろに木都の寄す〔九字傍線〕なすいとのきてかなしき夫ろに人さへ寄すも(三五四八)の如く、一個の文章について、其文と下述の文との類似を示してゐる。即、獨立して意味のある語、又は文にのみつく事は、如しと同樣で、東歌に、波にあふのすあへる君かもののす〔二字傍点〕も同じ。「のす」「がす」參照。
 
‐なす(補) これまでは、似すの轉だとも、其状を成す義だとも説いてゐるが、のす〔二字傍点〕・がす〔二字傍点〕など言ふ同類の語と比べて見ると、のす〔二字傍点〕と、轉音を都の萬葉人が用ゐてゐたものと考へる。(「のす」參照)なし〔二字傍点〕と言ふ形のあるのは、此語がなす〔二字傍点〕、又は、似す〔二字傍点〕と言ふ動詞から出た證據にはならぬ。「あかねさし」・「あられふり」の如く、職掌分化の爲に、形を固定せしめる必要から、出た體言化だと思ふ。此場合、す〔傍点〕がし〔傍点〕に轉じたとは言はれない。
 
なすき‐やま【名次山】 攝津國西の宮の北丘陵。
 
な‐せ な〔傍点〕は汝で、昵近親愛の意を以てよびかける詞。せ〔傍点〕は夫で、男子、又は兄弟を言ふ。なせ〔二字傍点〕は親愛の意を以て男子をよびかける詞。なせの兒〔四字傍点〕と言ふも、妻の兒と言ふと同じく、男子をいつくしみて言ふ詞。
 
なぞふ【比ふ】 比べる。等しく思ふ。肩を竝べる。
 
なだか‐の‐うら【名高(ノ)浦】 紀伊國海草郡。和歌の浦の南方に當る浦。
 
なづ【撫づ】 手もてさする。轉じて愛しいつくしむ。卷二十「やまぶきはなでつゝおほさむ(四三〇(238)二)。
 
なつ‐かげ【夏蔭】 夏の茂樹のかげ。
 
なつかし【懷し】 馴れ親しまるゝに言ふ。なつく〔三字傍点〕が語根となつて、形容詞となつた語。愛慕憧憬の意をもつて物に對する。愛撫するの意。卷十七「玉ほこの道の神たちまひはせむ我が思ふ君をなつかしみせよ(四〇〇九)。
 
なつく【馴付く】 馴染む。馴れ親しむ。卷六「なつきにし奈良の都の荒れ行けば出で立つごとに歎きしまさる(一〇四九)。
 
なつくさ‐の 枕。 しなゆ。しなゆ〔三字傍点〕は萎える意で、夏の日にあたる草が萎え伏す状から言ふのである。卷三に「夏草之、野島之崎云々(二五〇)とつゞけたのは、ぬ〔傍点〕をなゆ〔二字傍点〕の融合のぬ〔傍点〕に聯想して考へたからだ。
 
なつ‐くず【夏葛】 夏の葛。夏の葛は蔓長く茂りて、これを取りて繊維もて布を作る。夏葛を引くとも、夏葛の絶えずともよんでゐる。
 
なづさふ 拘泥して早く行かぬ。卷四「鳥じものなづさひゆけば(五〇九)。卷九「暇あらばなづさひ渡り向つ尾の櫻の花も折らましものを(一七五〇)。以上の例は、邪魔な物に障へられてなづむと言ふ意である。水中一處に滯ると言ふ意にも使ふ。卷三「やくもさす出雲の子等らが黒髪は吉野の川のおきになづさふ(四三〇)。
 
なつそ‐ひく 枕。なつそ〔三字傍点〕は夏麻、ひく〔二字傍点〕は引きぬく。ひいた夏麻を績むとかけて、う〔傍点〕を起したので、海上地方に麻が多かつたからではない。
 
なつみ【菜摘】 大和國吉野川六田の上地。
 
なづむ【難む】 澁り滯る。進み難くする。卷七「白栲に句ふ眞土の山川に我が馬拘泥む家戀ふらしも(一一九二)。
 
なつめ【棗】 鼠李科に屬する、栽培落葉樹。高さは二丈餘に達する。葉は卵形、三つの大きな脉が流れてゐる。夏になれば、葉腋に黄翠色の小さな花が咲く。果實は倒卵形赤褐色。食用にする。
 
なでしこ【撫子】 山野自生の多年生草で、種類は甚多い。高いものになると、二三尺を超えるものもある。莖には節があり、葉は竹の葉に似て對生。夏から秋にかけて花が咲く。其五瓣の綺麗な花は、古くから愛翫せられて、有名な秋の七草の歌の中にも數へて(239)ある。
 
‐なゝ 用言の第一變化につく。上のな〔傍点〕は打消のな〔傍点〕であるが、勿れの意ではなくして、ず〔傍点〕・ぬ〔傍点〕・ね〔傍点〕のぬ〔傍点〕の東國の方言。下のな〔傍点〕は助辭に〔傍点〕である。卷十四「梓弓未に玉纏きかくすゝぞ寢なゝなりにしおくをかぬかぬ(三四八七)は、行末の事を心配してゐて寢ない事になつてしまつた。同「白砥ほふ小新田山の守る山の末枯れせなゝとこはにもがも(三四三六)は、末枯れせずにの意。卷二十「わが門の傍山椿誠汝わが手觸れなゝ土に堕ちもかも(四四一八)。ほんにお前は椿の樣に美しい。我が手をも觸れない中には落ちようかの意。又、なゝ〔二字傍点〕の上を將然、下を否定と見る事も出來る。
 
なゝくさ【七種】 卷八に山上憶良の秋の七種花の歌がある。今、また秋の七草と言ふのも、此歌のうち、朝顔を桔梗に變へたゞけである。又、春の七草とて、縁起物に用ゐるけれども、憶良が七種を取りいでゝ言うたのは、別に意味のあつた事ではなからう。因に憶良の七草の歌は、短歌と旋頭歌とを併せて二首となすのである。
 
なゝくさ‐の‐たから【七種(ノ)寶】 七草の寶は佛説に出づ。金、銀、瑠璃、※[石+車]※[石+渠]、瑪瑙、珊瑚、琥珀とも、或は金、銀、瑠璃、頗梨、車渠、瑪瑙、金剛とも言ふ。
 
なゝ‐の‐かしこきひとたち【七賢人】 晉の時、※[(禾+尤)/山]康、阮籍、山濤、劉伶、阮成、向秀、王戎の七人、常に竹林に集つて清談を事とした。時人、これを竹林の七賢とよんだ。
 
な‐に‐おふ【名に負ふ】 名前通りの。名に現してゐる。評判どほりの。
 
なに‐す【何爲】 何すれば・何せむに・何すとかの何す〔二字傍点〕であるが、このす〔傍点〕には、普通のす〔傍点〕よりも廣い意味が含まれてゐる。何なり・何であるなどゝ同樣で、す〔傍点〕は、あり〔二字傍点〕・なり〔二字傍点〕等の代用である。何なれぞ・何ならむに・何なりとかの意である。
 
なに‐せむ=に【何せむに】(補) どう…。どうして…。なぜ…。なんで……』。不定條件文の條件提示の副詞。下の敍述語と相俟つて、不定條件文を完成する。せむ〔二字傍点〕は、何すれぞ〔四字傍点〕……のすれ〔二字傍点〕と同じく、あどすゝか〔五字傍点〕・あどせろとかも〔七字傍点〕・あぜゝろと〔五字傍点〕の爲《ス》・爲《セ》の同類で、本(240)集時代には既に、爲《ス》の意識は失はれて、單に意義を的確ならせる爲につけたに過ぎぬ樣になつてゐる。卷五「しろがねも黄金も珠もなにせむにまされる寶子にしかめやも(八〇三)は、「銀・金・珠玉も、何ぞ(子よりも)勝れる寶ならむや。子には(七寶の類も)豈如かめやも」の意で、「何せむにまされる玉(ぞ)」で、條件の呼應が完結するのである。決して何ぞせむ方あらむや、と言ふ樣に獨立した敍述風に譯してはならぬ。
 
なには【難波】 神武天皇の浪速(ノ)國の傳説はあるが、單に地名説明傳説と見るべきである。今の大阪の東高臺(上町)から、東へ段々下りに中河内中央部まで擴つてゐた沼澤地を言うたのが、一等古い稱呼らしい。であるから、大阪の古名なるをさか〔三字右・〕の地よりはずつと廣かつたので、又、難波の國などゝ言うてゐる。後には、淀川を隔てゝ北の三角洲地をも籠めたらしく思はれるが、難波高津・難波長柄豐崎などは、皆、今の上町の北端である。
 
なには‐の‐を‐え【難波(ノ)小江】 難波江と普通に言ふ。難波の地にあつた入江。今の大阪城の北を廻つて東へ入りこんでゐた廣い沼澤地を言ふ。を〔傍点〕は接頭語。
 
なには‐びと【難波人】 當時の都人たる大和人の目からは、日に燒けた難波の漁夫どもは、隨分、田舍びて見えたのである。其で、此語は、田舍人の代表に用ゐられたのである。
 
なには‐をとこ【難波男】 網引きなどするあらくれ男の意。
 
なぬか‐の‐よ【七夕】 七月七日の夜、年に一度牽牛星と織女星と相媾ふと言ふ。もとより支那思想だが、風俗などは日本化して歌はれてゐる。年に一度と限られたわけは、神代よりさう定められたのだと考へた。織女は機を織る女で、牽牛の職業を説かず。天の川を渡るには、船で渡り、または橋を渡す。これをわが世の戀に持ち來して歌へるものが多い。又、支那風の鵲の橋もある。
 
な‐ね【汝姉】な〔傍点〕は親愛の意によつて用ゐ、ね〔傍点〕は女に對する尊稱である。妹なね〔三字傍点〕は、可愛い妹の君の意に當る。
 
なのりそ‐の 枕。なはのりてしを。允恭天皇紀に、濱藻を「なのりそ藻」と呼べとの勅があつたと言ふ(241)記事がある。なのりそは穗俵《ホンダハラ》の別名と見るべきものである。さうして音ばかりではなく、其意味も相通ふ處からして名告る〔三字傍点〕の枕詞とした。因に、上代、女が自分の名を男に告げるのは、やがて身を任せる事であつた。次條參照。
 
な‐のる【名宣る】 名を言ふ。自分の親族以外には、古くは名をあかさなかつた。他人に名をあかすのは、即、夫として許す訣なのである。後には、男も自分が愛する心のある事を示すために、自分の名をなのる樣になつた。霍公鳥が名宣る〔七字傍点〕と言ふのは、戀人の門を、夜更けに己が名を言ひ乍ら通る樣に、霍公鳥が自分の名を名宣り顔に鳴いて通るのを言ふのである。幾分、滑稽味を持つて言ふのである。
 
なはしろ‐みづ【苗代水】 苗代に湛へた水。苗代水の中よどにして、と續け用ゐたのは、淀んで流れぬものだからである。
 
なは‐の‐うら【繩(ノ)浦】 攝津國武庫郡。
 
なは‐のり 枕。なは。ひく。なはのり〔四字傍点〕は實物はわからぬが、長い繩状の藻で、繩海苔と稱する一種の海草であらう、と古くから説かれて居る。同音によつてなは〔二字傍点〕にかけ、又、引き採るものと言ふので、ひく〔二字傍点〕にかける。
 
なばり【名張】 伊賀國。名張(ノ)山は、其地の山。大和國から伊勢國に出る道に當る。
 
なばる【隱る】(補) ひつこもつて出ない。すつこむ。顏を見せぬ』。ら行四段活用。此語又、本集になまる〔三字傍点〕ともある。單に隱れる事でなく、人に見られまいとして内に籠る容子を言ふ語で、偶、伊賀國の名張《ナバリ》と同音な處から、卷一「よひに逢ひて朝|面《オモ》なみなばり〔三字傍点〕にかけながき妹がいほりせりけむ(六〇)など言ふ洒落が生れたのである。本集には、既に俤を止めたゞけになつてゐるなむ〔二字傍点〕・なび〔二字傍点〕と言ふ動詞の再活用である。播磨風土記に、印南別孃女《イナミワキイラツメ》が、天子の求婚を避けて海中の小島に遁れ渡つて、「隱居《ナミヰ》」たので、件《カノ》島を南※[田+比]都麻《ナビツマ》と名づけたと言ふ傳説がある。栗田寛博士は、否み〔二字傍点〕、即、辭謝の義と説いてゐられるが、なみ〔二字傍点〕・なび〔二字傍点〕がなばる〔三字傍点〕の原語である事を思はねばならぬ。本集になみづま〔四字傍点〕と言ふ語の存してゐるのも、此意である。「なみづま」參照。
 
なびく【靡く】 物の力に動されて横に流れ行く。人の(242)心に從ふ。女が男に心を許す。
 
な・ふ(補) ぬ。ず。……ない』。否定の用言。但、形容詞か、助動詞か、明らかでない。卷十四「會津嶺《アヒヅネ》の國をさ遠み、會は奈波婆、偲びにせむと、紐結ばさね(三四二六)。同「人妻とあぜか其《ソ》を言はむ。然らばか、隣の衣《キヌ》を借りて着奈波毛(三四七二)。同「さ衣をを筑波|嶺《ネ》ろの山の崎、忘らえ來ばこそ、名をかけ奈波賣《ナハメ》(三三九四)。同「つしま嶺《ネ》は下草あら奈敷《ナフ》。かむの嶺《ネ》にたなびく雲を見つゝ偲ばも(三五一六)。同「みくゝ野に鴨のはほのす、子ろがうへに言をろばへて、いまだ寢奈布母《ネナフモ》(三五二五)。同「武藏野のをぐきが雉子。たちわかれ行《イ》にし宵より夫《セ》ろに會は奈布與《ナフヨ》(三三七五)。同「ま麻薦《ヲゴモ》の編《フ》のみ近くて逢は奈敝波《ナヘバ》、沖つま鴨のなげきぞあがする(三五二四)。同「栲衾|白山《シラヤマ》風の寢奈敝杼毛《ネナヘドモ》、子ろが襲衣《オソキ》の有《ア》ろこそ吉《エ》しも(三五〇九)、など言ふ類を見ると、略、動詞風になは〔二字傍点〕(將然)・なふ(終止)・なへ〔二字傍点〕(已然)と働く樣である。或は無し〔二字傍点〕の語根な〔傍点〕を動詞風に働かして、は〔傍点〕行の變化を促へた形容動詞とも言ふべき否定助動詞か。さすれば、ざら〔傍点〕・ざり〔傍点〕に對するものと見る事が出來る。尤、終止だけを見ると、所謂ぬ〔傍点〕の延言と説かれてゐるなく〔二字傍点〕のく〔傍点〕音がふ〔傍点〕音に變つたもの(本集時代のみならず、日本語にも、か〔傍点〕行・は〔傍点〕行相通の事實がある)と見られるが、將然・已然は少し無理である。併、なく〔二字傍点〕から、又、屈折を生じたものと見れば、なは〔二字傍点〕(<なか)・なへ〔二字傍点〕(<なけ)など言ふ形も、形式的には理窟に叶うてゐる。卷十四「晝解けば解け奈敝《ナヘ》紐の、わが夫《セ》なにあひよるとかも、夜に解け易《ヤス》け(三四八三)。同「とやの野に兎《ヲサギ》ねらはり、をさ/\も寢|奈敝《ナヘ》子ゆゑに、母に喚《コロ》ばえ(三五二九)、など連體形と見えるものが、なへ〔二字傍点〕(<なけ〔二字傍点〕)の形をとつてゐるのも、かなしけ妹〔五字傍点〕・あしけ人〔四字傍点〕など言ふ形に似てゐる。此け〔傍点〕はあり〔二字傍点〕と融合した形容詞の古い形の連體に似てゐるから、やはり、なく〔二字傍点〕の變化と見る證據となるかも知れぬ。
 
なほ【猶】 自分の思ふ所にはまだ距離のある。不足に思ふ。飽かず思ふ事。それでもまだ不足で。それでもやはり。卷四「かくしてやなほや歸らむ近からぬ道の間をなづみ參來て(七〇〇)。
 
なほ【不拘】(補) 副詞。でも…。にも關らず…(ア)。ぐづ(243)ぐづして、そのまゝに(イ)』。尚《ナホ》・不拘《ナホ》は、元一つである樣に見えると言ふよりも、寧、尚〔傍点〕が、不拘《ナホ》の一分化とも思はれる。なほ〔二字傍点〕が「にも拘らず…尚」と言ふ風に、副詞として固定する以前の、接續詞状態の不拘〔二字傍点〕は、其ほか、無關心の意の、そのまゝに措く・それはそれとしておくと言ふ意のなほあり〔四字傍点〕、不徹底・不適切・よい加減な容子を表すなほあり〔四字傍点〕・なほぞある〔五字傍点〕、空しくをる・ぐづ/”\する・著手もせぬなどの意のなほ〔二字傍点〕、又、貪著《トンヂヤク》・拘泥せぬ意のなほ〔二字傍点〕もある。卷十四「ひかばより來ね下なほ/\に(三三六四)などが、此である。此を直《ナホ》の意ととつて、すなほにと譯してはならぬ。すべて此語は、注意して讀まぬと、從來の語釋の内容だけでゞも意味は通る樣であるから、間違ひ易い。卷十「かくばかり雨の降《フ》らくに、ほとゝぎすうのはな山になほ〔二字傍点〕か鳴くらむ(一九六三)のなほ〔二字傍点〕は、時鳥が雨中なるにも係らず、無關心に鳴いてゐる状であるが、「雨が降つても、其でも卯の花山で時鳥が鳴く」と説かれ相である。
 
なほ/\‐に【不拘に】 副詞。尋常に。すなほに。其まゝに。世間通りに。おだやかに。
 
なほり‐やま【名欲山】 豐後國直入郡にある山。
 
‐なまし(補) ……ようもの。助動詞。活用はない。未來完了。未來、或は希望を現す』。なむ〔二字傍点〕の形容詞的屈折を採つたものか、な〔傍点〕にまし〔二字傍点〕の複合したものか。恐らく前の方であらう。卷九「遠妻し高にありせば、知らずとも手綱(ノ)濱の尋ね來名益《キナマシ》(一七四六)。卷十四「きべ人のまだら衾に綿さはだ、伊利奈麻之母之《イリナマシモノ》。妹がを床に(三三五四)。卷十七「誘《サス》ひ立て率而來奈麻之乎《ヰテキナマシヲ》。まぬらる奴わし(三八七九)。
 
なまよみ‐の 枕。甲斐國から、弓につくる生木を産出する處から生弓《ナマヨミ》と言うたのか。
 
なみくら‐やま【連庫山】 近江國高島郡。湖水の西方にある山。
 
なみ‐しば【浪柴】 大和國磯城郡。吉隱の地にある野。
 
なみだ‐ぐまし【涙含まし】 涙が出さうになる。悲しくなる。他人の泣き出し相な容子にも言ふ。
 
なみ‐づま【隱逑】(補) かくしづま〔五字傍点〕でなくて、意中をうちあけてくれぬ人・はにかむ人、と言ふ位の意であらう。口譯萬葉集に波妻〔二字右○〕の字に偏して説いたのは、誤りであつた。
 
(244)なみ‐の‐ほ【波の秀】 波の高く擧つた處。波うちぎはだとも言ふ。卷十四「おしていなといねはつかねど波のほのいたぶらしもよきぞひとりねて(三五五〇)。
 
なむ(補) 動詞の將然形につく。あつてくれゝばよい。…あつてほしいものだ。あり樣になるやうにありたい』。他に對しての願望の助辭。相手の意思の自由を認めた上で、自分の望む結果の生ずる樣に註文しかける。つまり強ひるのでなく、任意的・自然的な願ひで、幾分、相手の好意を豫想した言ひ方である。卷一「三輪山を然《シカ》も隱すか。雲だにも心あら南畝《ナム》。隱《カク》さふべしや(一八)。卷十四「ま遠くの野にも會は奈牟《ナム》。心なく、里のみ中に會へる夫《セ》なかも(三四六三)。卷二十「うちなびく春とも著《シル》く、鶯は、植ゑ木の木間《コマ》を鳴きわたら奈牟《ナム》(四四九五)。動詞の連用形につく時の助動詞なむ〔二字傍点〕とは、成立が違うてゐる。卷十四「あしがり〔四字傍点〕のわをかけ山のかづの木のわをかづさ禰母《ネモ》。かづさかずとも(三四三二)の禰母〔二字傍点〕は、禰〔傍点〕は命令語尾のね〔傍点〕、母〔傍点〕は感歎助辭で、恐らく此なむ〔二字傍点〕の古い形を存してゐたもので、其からなも〔二字傍点〕>なむ〔二字傍点〕となつて、都には痕跡をも殘してゐなかつたものと見える。卷十四「上つ毛のをどのたどりの川路にも、子らは逢は奈母《ナモ》。一人のみして(三四〇五)。現在完了のな〔傍点〕とむ〔傍点〕の結合から出來た、未來完了或は、未來の助動詞なむ〔二字傍点〕とは、全く別物である。又、行かな〔三字傍点〕・爲な〔二字傍点〕・あらな〔三字傍点〕のな〔傍点〕とも、無關係である。
 
‐な・む(補) 時の助動詞。主に、未來完了・未來、又は、將然につくなむ〔二字傍点〕と違うて、自分の願望・決意を現す事もある。用言の連用形につく。卷五「百日しも行かぬ松浦路。今日行きて明日は來|奈武《ナム》を。何かさやれる(八七〇)。卷十四「かの子ろと寢ずやなり奈牟《ナム》。はたすゝきうら野の山に月《ツク》かたよるも(三五六五)。卷二「…山科の鏡の山に……哭《ネ》のみ泣きつつありてや、もゝしきの大宮人は去別南《ユキワカレナム》(一五五)は、未來完了、或は完了想像とも言ふべく、卷六「住(ノ)吉《エ》の粉《コ》濱の蜆。あけも見ず、こもりのみやも、戀ひわたり南《ナム》(九九七)は、決意である。卷十四「伊豆(ノ)海に立つ白波のありつゝもつぎなむものを。みだれしめゝや(三三六〇)は、願望である。但、上に、ある状態を期待し願ふ意味の副詞がある時、將然に(245)つくなむ〔二字傍点〕と似た職分をとつてゐる樣に見えることがある。卷十七「零公鳥《ホトヽギス》來鳴かむ月に、いつしかも波夜久奈里那牟《ハヤクナリナム》(三九七八)。卷八「わがやどに蒔きし撫子。何時毛花爾咲奈武《イツシカモハナニ?ナム》。なぞへつゝ見む(一四四八)の中、(一四四八)の方は、(三九七八)のに準へて咲きなむ〔四字傍点〕と訓むべきである。いつしかも〔五字傍点〕・はやく〔三字傍点〕は、どちらもある状態を促進する心持ちで、他に對する願望は、副詞の方にある。なりなむこと〔六字傍点〕・咲きなむこと〔六字傍点〕を、早くと期待するのであるから、なむ〔二字傍点〕は未來完了形でよいので、ならなむ〔四字傍点〕・咲かなむ〔四字傍点〕では、願望が重つて、ならなむこと・咲かなむことを早くと願ふと言ふ事になる。殊に(三九七八)の樣に、いつしかも・はやくの重つてゐるのでは、勿論のことである。(はやく・いつしかもの事については、齋藤茂吉博士の考へから、啓發せられて思ひあたつたのである)。
 
‐なむ(補) ……てるだらう。…たゞらう』。らむ〔二字傍点〕の東國的訛音。卷十四「橋樹《タチバナ》の古婆《コバ》のはなりが思ふ奈牟心うつくし。いで、あれは行《イ》かな(三四九六)。卷二十「國々の社の神に幣《ヌサ》まつり、あが戀ひす奈牟《ナム》妹がかなしさ(四三九一)。
 
なめし【無禮し】 禮を失ふ。禮儀なし。卷十二「妹といへばなめしかしこししかすがに懸けまくほしき言にあるかも(二九一五)。
 
なよたけ‐の 枕。女竹のとをゝにしなふ處からとをよる〔四字傍点〕にかゝる。とをよる〔四字傍点〕はたわやる〔四字傍点〕で、とをよ〔三字傍点〕までが嫋々とした意の語根である。
 
なら【寧樂・奈良】 奈良山の南に接した處であつたからの名。古くは奈良山の奈良坂が、殊に著れてゐる。大和國から北方への出口の關門だからである。ならのたむけ〔六字傍点〕など言ふのも、是である。藤原京から元明天皇朝に遷都があつて、七代七十年、此處に都があつた。今の奈良市は、其東偏の一部で、其西端は郡山の南まで擴つてゐた。外國使節などを迎ふるに、はづかしからぬ京城をと言ふので作られたもので、尤さる傾向は、藤原宮にも見えてゐたのであるが、奈良に至つて、當時の外國崇拜熱を遺憾なく滿足させたのである。白金のめぬきの大刀をさげはきて、奈良の大路をねりあるいた子は、即、長安の大道を濶歩する貴公子の心持ちを樂しんだのである。(246)咲く花の匂ふが如と言ふ讃美は、丹青に色どりなした都に對する萬葉人の滿悦が見える。寺々の甍・山々の青瑞垣、佐保・率川の細流など、舊都を忘れしめるに十分な誘惑があつた。王城に近く、都を威嚇してゐた地主三輪や飛鳥の神々とも遠のいて、神の稜威は、だん/\寺々の佛の光にけおされて行つた時代である。
 
ならし‐の‐をか【無毛(ノ)岡】 大和國生駒郡生駒川が大和川に入る附近の右岸。ならし〔三字傍点〕は、草木を生ぜざる意。
 
なら‐の‐あすか【奈良(ノ)飛鳥】 飛鳥・藤原の都を奈良に遷す際、諸豪族の望郷心を緩める爲に、故京の地名を新都に持ち越したものが多かつた。其中でも、當時、信仰者の多かつた元興寺を新都左京七坊に移したので、此附近を飛鳥と稱したのである。其で、故京のと對して言ふ場合に、かう言ふのである。
 
ならはら‐の‐あづまびと【楢原(ノ)東人】 聖武天皇の天平十七年正月外從五位下に敍せられ、十八年五月從五位下に進み、十九年三月駿河守となり、孝謙天皇天平勝寶二年三月部内廬原郡多胡浦濱で黄金を得て獻じたので、勤《イソシ》臣の姓を賜り、五月その親族三十五人に伊蘇志臣族の姓を賜つた。同年十二月に從五位上に進み、天平寶字元年五月正五位下になつた。
 
なり【業】 生産事業。卷八「吾味子が業と作りし秋の田の早稻穗の縵見れど飽かぬかも(一六二五)。轉じて農工商いづれにても生活の爲の職業。卷五「家に歸りて業をしまさに(八〇一)。
 
なり‐どころ【別墅】 其人の生産をなす田園。領有せる莊園。以上の場處にある別宅。集中の題詞に見えたるばかりで、歌詞には無い。大伴坂上郎女が跡見莊・竹田莊等に居つた事が、卷八に見える。
 
なりはた‐をとめ 卷十九「光る神鳴りはた處女(四二三六)と見えてゐる。光る神は雷で、其鳴りはためくと、波多と言ふ地の處女とを懸詞にしたのである。
 
なる【成・熟る】 結果が生ずる。出來上りになる。結末がつく。結著がつく。
 
なる【褻る】 よれ/\になる。汚れる。くた/\となる。著物に言ふ語。馴る〔二字傍点〕と言ふよりも萎ゆ〔二字傍点〕の音轉と見るべきで、卷六「韓衣きならの里(九五二)も、此(247)なる〔二字傍点〕であらう。意味も亦、よごれると説くよりは、皺のよつた状と見る方がよさ相である。卷十一「志賀のあまの鹽燒衣なるといへど戀とふものは忘れかねつも(二六二二)。卷十八「紅はうつろふものぞつるばみのなれにし衣になほしかめやも(四一〇九)。馴る、近づき親しむ意を同音から聯想せしめてゐる。
 
なる【馴る】 人に近づきになる。極親しくなる。なじむ。
 
なる【業る】 職業をして生産の結果を收める事。又、其處に到る徑路の働きをも言ふ。爲事する。利分を收める。
 
なる【成る】 男女の間が成立する。成就する。成功する。夫婦になる。
 
なるかみ‐の 枕。おと。鳴神の音〔傍点〕と、つゞけたのである。
 
なる‐さは【嶋澤】 噴火口。鳴動を伴へる火山の地獄。
 
なる‐しま【鳴島】 播磨國揖保郡。室の津の海上にあり、鳴島は露礁の義に取る。
 
なる‐せ‐ろ【鳴瀬ろ】 所在未詳。
 
なると【鳴門】 門《ト》は追門《セト》、即、狹き海峽で、なる〔二字傍点〕と言ふのは、潮の干滿に際し、潮水が鳴り響いて渦流を生じて響き落つる處。淡路島と四國との間にあるは、古來、有名だが、萬葉集に見えたのは、大島の鳴門である。其條を見よ。
 
      に
 
‐に(補) と。とて。として。と言ふので。と考へて』。副詞語尾。此に〔傍点〕はの如く〔三字傍点〕と考へられつけてゐるの〔傍点〕と同じ系統のものであらう。但、の〔傍点〕を單なる比喩と誤解してはならぬ樣に、に〔傍点〕も如く〔二字傍点〕とのみ説いてはならぬ。「氷《ヒ》に〔傍点〕冷《サ》えわたり」のに〔傍点〕でも知れよう。卷二「東人ののざきのはこの荷の緒に〔傍点〕も(一〇〇)なども、これである。
 
‐に(補) 副詞語尾。一つの思想の終ひについて、形式上では、直上のく〔傍点〕語尾のついた動詞名詞をして、副詞的效果を強めさせる形をとる事になつてゐる。從來、此に〔傍点〕をすべて、に〔傍点〕・のに〔二字傍点〕に譯して文尾に添へて、感歎文的にしてゐるのはよくない。なくに〔三字傍点〕は、ないのに〔四字傍点〕ではなく、ない〔二字傍点〕・ぬ〔傍点〕など譯しきるべきで、まく(248)に〔三字傍点〕・むに〔二字傍点〕・ように〔三字傍点〕など飜《ウツ》すのがよい。此に〔傍点〕は、多少感歎のな〔傍点〕の言語情調を持つてゐる樣にも思はれる。「思はなくに」を思はない事よなど譯しても構はぬ樣にも考へられる。「寢なくも〔傍点〕」と「寢なくに〔傍点〕」とは違うた用語例とも見えぬ。
 
‐に(補) 命令の語尾。ね〔傍点〕と同じい』。卷五「ひさかたの天路《アマヂ》は遠し。なほ/\に家に歸りて、なりをし麻佐爾《マサニ》(八〇一)。此爾〔傍点〕を禰《ネ》の誤りだと、一概にはきめる事は出來ぬ。山上憶良は、他の人々と比べると、方言的の要素を多く持つた人と見えるふしが澤山あるから、此も訛つて言つたものと見るべきであらう。卷十四「此川に朝菜洗ふ子。汝《マシ》も我《アレ》もよちをぞ持《モ》てる。いで兒|多婆里爾《タバリニ》(三四四〇)。此も、賜《タバ》らねの訛りと見るべきである。
 
にぎた‐づ【熟田津】 伊豫國温泉郡。今、三津港か。
 
にぎ‐たへ【和栲】 栲の布。和〔傍点〕は荒妙に對して精製品なる事を示す語である。
 
にぎぶ【柔ぶ】 平和にある。賑やかにある。調和する。にぎ(<にご)を語根としてゐる。
 
にくし【憎し】 愛すべくもあらぬに言ふ。
 
にこ‐ぐさ【柔草】 草の名でなく、なよ/\とした草を言ふのであらうが、強ひて言はゞ、後のなよ草の類であらう。
 
にこ‐ぐさ(補) 草の名。箱根の名産らしいと言ふ處から、羊齒類のはこねさう〔五字傍点〕だと言ふ説もあるが、單に目についた物を詠んだゞげで、はこねさう〔五字傍点〕とばかりは言へぬ。にこ〔二字傍点〕・なよ〔二字傍点〕同樣の語であるし、はなづま〔四字傍点〕など言ふから、嫋草《ナヨグサ》かとも思うたが、尚、危い。和名考異によると、人參を仁古久佐《ニコタクサ》(輔仁本草和名・康頼本草和名・康頼醫心方)、加之仁介久佐《カノニケクサ》(輔仁本草・康頼本草・醫心方・和名抄)など見え、又、丹參をも仁古太久佐と訓んだ流布本延喜式は、類の似た處から混同したのであらうが、ともかくにこ〔二字傍点〕・にけ〔二字傍点〕などが本名らしい處から見ると、にこぐさ〔四字傍点〕も恐らく、人參の類であらう。
 
にこ‐よか‐に 考へると、心が和むやうな状。後世いふ所の外面上にあらはるゝ「にこやかに」に當る詞には「にふゞに」がある。卷二十「秋風になびく川邊のにこ草のにこよかにしもおもほゆるかも(四三〇九)。
 
(249)にし‐の‐いち【西(ノ)市】 古の奈良の都を左右兩京に分ちて、東(左京)なのを東の市と言ひ、西(右京)なのを西の市と言ふ。商業は西の市の方が盛んであつた。
 
に‐づかふ【似付かふ】 似合ふ。動詞「似つく」の再活用。
 
に‐づく【似付く】 似合ふ。ふさふ。卷四「僞も似つきてぞする現しくもまこと吾味子我に戀ひめや(七七一)。卷十一「僞りも似つきてぞするいつよりか見ぬ人戀ひに人の死にせし(二五七二)は、ほんとの事に似よつた僞。又、あなたらしい僞をする、丁度、似あつてゐるの意にもとれる。
 
に‐の‐ほ【丹頬】 赤い頬。萬葉人は紅顔の人を愛してゐる。血色のすぐれた人を美人としてゐるので、「あから孃子」と言ひ、卷十「わが戀ふる丹の頬の面わ(二〇〇三)と言ふのは、皆それだ。卷十三「秋づけば丹の頬にもみづ(三二六六)と言ふのは、紅葉の色が美人の紅頬の樣に色づいて美しいと言ふのである。
 
には【場】 廣い場處、陸上にも、海面にも言うた。人家の前にある空地。此は今日言ふ庭園の如くに作つてはないが、尚、樹木花草を植ゑ、農産物を作つたのもあつた。
 
には‐か【俄】 不意。豫期せぬ事の急速に起る意の副詞。
 
にはたづみ 枕。ながる。ゆく。にはたづみ〔五字傍点〕は俄雨で、庭の面を流れゆく水を言ふので、流る〔二字傍点〕・行く〔二字傍点〕などの枕詞としたのだ。
 
にひたべ‐の=みこ【新田部(ノ)皇子】 天武天皇の第七皇子。母は藤原鎌足の女五百重娘。文武天皇四年正月淨廣貮を授けられ、慶雲元年正月封百戸を増され、四年十月二品で、文武天皇葬儀の造御竈司をつとめ、元明天皇和銅七年正月封二百戸を増し、元正天皇養老三年十月詔して、内舍人二人・大舍人四人・衛士二十人・封五百戸を増され、通じて千五百戸となり、四年八月知五衛授刀舍人事となり、聖武天皇の神龜元年二月一品に上り、五年七月大將軍で、更に明一品に進み、天平三年十一月畿内總管諸道鎭撫使を置いた時、大總官となつて、七年九月三十日薨じた。
 
(250)にひた‐やま【新田山】 上野國新田郡にある山。小新田山とあるも同じ。今、太田の金山。
 
にひ‐ばり【新墾】 はる〔二字傍点〕は開墾する事。近く開墾した事を言ふ。田畑・道路・井戸にも言ふ。「今のはり道」なども是である。開墾した土地を其人に賜うた奈良時代を思ふに便利な語である。
 
に‐ふ【丹生】 大和國宇智郡。丹生の川・丹生の山と用ゐてゐる。此山から鑛石が出たよしは、卷十四に見えてゐる。
 
にふ‐の=おほきみ【丹生(ノ)王】 傳未詳。丹生女王と同人ではあるまいか。
 
にふ‐の=ひめ‐おほきみ【丹生(ノ)女王】 天平十一年正月從四位上に敍せられ、天平勝寶二年八月正四位上に進んだ。
 
にふゞ‐に にこ/\と。にこやかに。
 
にへ‐の‐うら【贄(ノ)浦】 伊勢國津市の地。又、遠江國濱名郡とも言ふ。
 
にほす 色をつける。匂はせる。はでな色をつける。四段活用。卷十六「住吉の遠里小野の眞榛もちにほしゝ衣(三七九一)。卷八「奈良山を丹ほす紅葉たをり來て(一五八八)。
 
にほどり‐の 枕。おきなが。ふたりならびゐ。かづしか。なづさひゆく。にほどりは水中を潜つて小さな魚を捕へまはるかいつむり〔五字傍点〕の事である。其水を潜つては、時々水面に浮び出ると樣に、長く息の續く處から息長《オキナガ》につゞけたものだ。又、鴛鴨の類は、必、雌雄相率ゐて居るから、二人ならび居に譬へ、或はその潜くと言ふ處よりして、同音かづ〔二字傍点〕に言ひかけた。なづさひ〔四字傍点〕にかけたのは、水面に浮び出た時の鳰は、多くは彼のまに/\身を任せて、敢て進まうともしないで居るのによつたものであらう。
 
にはふ【匂ふ】 色が美しく映發するのが原意である。白栲ににほふ眞土の山川、紅にほふの樣に、次に花、又は處女の美しく氣色ほのめき立ちて見えるのに言ふ。
 
にほん‐しよき【日本書紀】 元正天皇の養老四年舍人親王・太安麻呂等が撰した。神代から持統天皇までの歴史である。集中處々の左註に引かれてゐるが、其引用の年號と現存の日本書紀の年號と一致しないのは、後に日本書紀が改訂せられたものである事を(251)證すると言ふ。書紀には、又、百二十五首の歌謠を含んで居て、古事記の歌と相俟つて、上代の歌謠を知る事が出來る。
 
     ぬ
 
ぬ【野】 原野を言ふ。當時、既にの〔傍点〕とも言ふ。そのかみ熟田以外の土地は、毎年おのが耕種すべき地を索めて標をしておく。卷十八に見ゆる東大寺の占墾地使の如きは、その永久的性質を帶びた原野に標をする使だ。椙野の語あれば、樹木の生えたものも言ふ。野には未開墾地の意味がある。卷二十「赤駒を山野に放し(四四一七)と言ふのは、野と山とで無くして人手を入れぬ山である。野には、廣さから大野・小野の別がある。
 
ぬ【沼】 ぬま。古くぬ〔傍点〕とばかり言ふ。又、ぬな〔二字傍点〕。
 
ぬえこ‐どり 枕。ぬえこどり〔五字傍点〕(※[空+鳥]子鳥)は、梟の一種で、其啼く聲は、咽聲で、極めて物悲しく、又、人を戀ふる樣に聞えるので、うらなく〔四字傍点〕・のどよひ〔四字傍点〕・片戀ひ〔三字傍点〕などの語につゞくのである。
 
ぬえとり‐の 枕。ぬえこどり〔五字傍点〕と同じ意味で、同じ樣に用ゐられる。
 
ぬか【額】 ひたひ。ぬかづく〔四字傍点〕は叩頭する。
 
ぬかた‐の=ひめ‐おほきみ【額田(ノ)女王】 鏡王の女。天智天皇に嫁して、十市皇女を生んだ人である。天武天皇にも愛せられた才女。
 
ぬき‐す【貫簀】 水の散らぬ樣に盥の上にかける簀で、貫簀と言へば、盥をもこめてさす事になるのである。
 
ぬく【貫く】 穴をあけてものを通す。玉にぬくとは、例へば、花橘などに絲を貰いて玉の樣にする事。玉は穴をあけて絲を貫いてあるから其樣にするのだ。卷三「大舟にま梶しゞぬき(三六八)とは、櫂を澤山さして、と言ふ事である。
 
ぬけ‐の‐おほひれ【拔氣(ノ)大首】 傳未詳。
 
ぬさか‐の‐うら【野坂(ノ)浦】 肥後國葦北郡。
 
ぬし【主】 所有者。卷十一「夕されば床の邊さらぬ黄楊枕いつしか汝が主まちがたき(二五〇三)。轉じて、對手を尊敬して言ふ。卷五「あが主のみたま給ひて(八八二)。卷十八「縱さにもかにもよこさも奴(252)とぞ我はありける主の殿戸に(四一三二)。更に崇拜の意を強くした大主〔二字傍点〕と言ふ語もある。卷十九「いにしへに君が御代經て仕へけりわが大主は七代まをさね(四二五六)。
 
ぬじ【虹】 にじ〔二字傍点〕に同じ。ぬ〔傍点〕・に〔傍点〕は、極めて音價に動搖の多い音で、今も、のじ〔二字傍点〕・ぬじ〔二字傍点〕など言ふ方言がある。本集にても、東歌の中にあるのだから、方言と見られる。
 
ぬ‐しま【野島】 淡路の南海岸にある島。今も沼島と言ふ。
 
ぬすまふ【竊ふ】 しのびてする。しのびてゐる。ひそかにする。私事をする。うしろぐらい事する。卷十一「心さへ奉せる君に何をかも言はぬ言としわがぬすまはむ(二五七三)。同「山川に筌をふせて守りあへず年の八歳をわがぬすまひし(二八三二)。上例に倫盗の意は這入つてゐない。併、卷十二には盗人の語もあつて、實際には盗人の多かつた時代だ。其盗難屆が正倉院文書の中に殘つてゐる。
 
ぬ‐づかさ【野司】 野中の小高い處、即、岡・塚の如く、周邊の野が見やられるところ。野山づかさ〔五字傍点〕の語もある。「つかさ」を見よ。
 
ぬ‐つ‐とり【野つ鳥】 枕。雉子〔二字傍点〕につゞく。さぬつとり〔五字傍点〕と言ふも同じ。野に居る鳥の意。
 
ぬな‐がは【沼名川】 天上にある川。天の渟名井と言ひ、渟浪田と言ひ、又、沼名川と言ふぬな〔二字傍点〕は瓊の〔二字傍点〕の義であらう。即、水の清きを珠玉に比した詞。天の玉川の義。
 
ぬなは【蓴】 水草で、葉は馬蹄に似た形をもち、掌の大きさにも足りない程で、莖は紫色がゝつて、長く繩のやうに連つてゐる。夏、黄色の花が咲く。じゆんさい。
 
ぬ‐の‐へ【野(ノ)上】 へ〔傍点〕は上、邊の意。後の野べで、野其物である。野の上の宮、野の上のうはぎ、野の上の草、野と言ふ地面の上のゝ義で言ふのである。
                
ぬばたま‐の 枕。ぬばたま〔四字傍点〕は、射干《ヒアフギ》の實であつて、其色は、極めて黒いものだから、くろ〔二字傍点〕の枕詞とした。それが轉じて夜〔傍点〕・月〔傍点〕・夢〔傍点〕・寢〔傍点〕(い)・枢《クル》などにもつゞける。
 
ぬ‐はり【野榛】 榛の野生でなく、王孫、和名、ぬはり〔三字傍点〕、或はつちばり〔四字傍点〕と言ふもの。「はり」を見よ。卷一(253)「さ野榛の衣につくなす目につくわが背(一九)。
 
ぬ‐もり【野守】 開墾の目的にも、狩獵の目的にも標を立てゝ野を占領すれば、他人のこれを侵すを防ぐ爲に番をおく。これを野守と言ふ。
 
ぬる 髪のぬら/\とほどけ易いを言ふ。卷二「たけばぬれ(一二三)。擬聲、或は擬状動詞と言ふべきもので、ずる/”\する・すぼぬけるなどゝ譯すべきである。拔く〔二字傍点〕と通じて、語尾がる〔傍点〕と轉換したものとも考へられるが、恐らく前の方がよからう。
 
ぬるし 少し温いのに言ふ。少熱。卷十六に水葱少熱をなぎぬる〔四字傍点〕と訓ませ、卷十六「いづる水ぬるくは出でず寒水の心もけやに(三八七五)と訓んでゐる。
 
ぬれ‐きぬ【濡衣】 水に沾れた着物。
 
     ね
 
ね【哭】 哭く動作の名詞。寢《ヌ》の名詞として寢《イ》がある樣なものである。ねになく〔四字傍点〕を音に哭く、即、聲立てゝ哭くと言ふ風に説くのはわるい。反對の場合が集中にある。ねをなく〔四字傍点〕・ねなく〔三字傍点〕・ねしなく〔四字傍点〕、皆、寐寢《イヌ》・寐《イ》を寢《ヌ》と同じで、自動詞に所謂補足語めいた假目的を立てる、日本の語法の古格である。
 
ねぐ【犒ぐ】 慰勞する。ねぎらふ。卷六「すめら朕がうづの御手もて掻きなでぞねぎ給ふうちなでぞねぎ給ふ(九七三)。卷二十「いさみたる健き軍卒とねぎたまひ(四三三一)。
 
ねぐ【願ぐ】 願ふ。祈願する。ねがふ〔三字傍点〕は、此語の再活用。名詞法にねぎ〔二字傍点〕がある。
 
ねぢけ‐びと【佞人】 卷十六に「佞人(三八三六)とあるを、ねぢけびとゝ訓してゐる。佞人は便佞の才子。ねぢけびと〔五字傍点〕は正道ならぬ人、よからぬ人。
 
ねつこ‐ぐさ 草の名。不詳。
 
ね‐なく【哭く】 泣く。音を立てゝ泣く義と説いてはならぬ。哭になく・哭をなくとも言ふ。東歌に卷十四「吾をねしなくな(三三六二)とある。「ね」の條參照。
 
ねも‐ころ【懇】 切に。子細に行き屆いて。よく/\。委曲に。くよ/\と。ねもころに〔五字傍点〕と續く場合が多い。
 
ね‐や【閨房】 寢室。寢る屋。
 
ねよと‐の‐かね【寢よとの鐘】 亥の刻、即、今の午(254)後十時に當る時に打つ鐘。皆、人の寢しづまる時刻だから、寢よとうつ鐘と言うたのである。
 
ねらはり【覘はり】 覘ふ〔二字傍点〕の再活用の受身の相ではない。覘ふの方言。卷十四「鳥屋の野に兎ねらはりをさ/\も(三五二九)。又、ねらへり〔四字傍点〕の古い形か。
 
ねらふ【覘ふ】 目的物に注視する。手に入れようとして機會を覗ふ。
 
      の
 
のがろふ【遁ろふ】 のがる〔三字傍点〕の再活用で、は行に活くもの。免る。遁る。
 
のこ‐の‐うら【能許(ノ)浦】 筑前國那珂郡能古島の海濱。
 
の‐さき【荷前】 朝廷で、諸國から奉る貢物の荷の初穗を帝陵及び外戚の墓に獻ぜられる事である。此時の使をば、荷前便と言つて、大納言以下の人を選んで、十二月の中の吉日に遣されるのである。此公事は、持統天皇の時から初まつた、と言はれて居る。其帝陵・外戚の墓は、時に相違はあるが、大體は、きまつて居て、清和天皇の時には十陵四墓とか、延喜以來は十陵八墓とか言はれて、多少の増減が行はれたに過ぎない。
 
の‐す(補) 副詞接尾語。これ迄なす〔二字傍点〕の訛りと説かれてゐるが、どうであらうか。がす〔二字傍点〕と言ふ語もあるから、の〔傍点〕は所有格のの〔傍点〕と同じものと思はれる。却てなす〔二字傍点〕の原形ではあるまいか。す〔傍点〕はさ〔傍点〕・し〔傍点〕がさま〔二字傍点〕(樣・方)と言ふ意の副詞・形容詞語尾で、「何々の樣」と言ふ形の體言形容詞(又は副詞)を作つてゐるものと同じいと思はれる。「なす」「がす」參照。
 
のち【後】 まだ來ぬ時間。未來。今の意味よりは、もつと副詞的の内容がある。
 
のち‐せ【後瀬】 急湍に對して、同じ流域中ののろい〔三字右・〕瀬を言ふのであらう。のど瀬〔三字傍点〕の轉音から聯想して、早〔右・〕瀬後〔右・〕瀬と考へたのだらう。卷十一「鴨川の後瀕しづけく後もあはむ妹には我は今ならずとも(二四三一)。
 
のちせ‐やま【後湍山】 若狹國遠敷郡にある。
 
のち‐の‐をかもと‐の‐みや【後(ノ)崗本(ノ)宮】 大和國高市郡岡村にあつた。今でも、岡と言うて居る地。川原宮の東北に當る。齊明天皇の二年に定められた宮(255)殿である。飛鳥岡の麓に在つた故の名。
 
のと‐がは【能登川】 大和國、春日山より出で、三笠山の裾をすぎて佐保川に入る川。
 
のとか‐やま【能登香山】 所在未詳。
 
のとせ‐がは【能登瀬川】 大和國廣瀬川の上流。
 
のど‐に【徐に】 平和に。靜かに。ゆつたりと。のんびりと。のど〔二字傍点〕は、なだらか〔四字傍点〕・なだむ〔三字傍点〕のなだ〔二字傍点〕と同じ語であらう。のどか〔三字傍点〕・のどむ〔三字傍点〕などの語根。のんびり〔四字傍点〕など言ふ方言も同じ語根をもつてゐる。
 
のと‐の‐おとみ【能登(ノ)乙美】 聖武天皇の天平二十一年能登國羽咋郡の擬主帳であつた。
 
のど‐よふ うめく。喉ごゑで、ものをば言ふ。
 
のら‐ゆ【罵らゆ】 罵る〔二字傍点〕の所相。罵られる。叱られる。卷十二「おのれゆゑ罵らえて居ればあしげ馬の面高くせだに乘りて來べしや(三〇九八)。次條參照。
 
のる【告・宣る】 言ふ〔二字傍点〕の古語か。我が國文獻時代に入つて、言ふ・のる竝用せられてゐるのは、既に言ふ〔二字傍点〕と差別が明らかになつて、意義分化がしてゐるのである。畢竟は、すべて、言語表情を意味するものではあるが、唯の言ふ〔二字傍点〕の丁寧な會話敬語約なもの(イ)、敬語(ロ)の外に、ある事件の存在を拒否する心持ちの發表について呪※[日+且](ハ)と罵叱(ニ)との二つの方面に分れて行く。咒《ノロ》ふなども(ハ)の再活用である。
 
     は
 
はかひ‐の‐やま【羽易(ノ)山・羽買(ノ)山】 大和國添上郡の鳥貝である。
 
はかる 謀る。相談する。
 
はかる【別る】 東語、わかる〔三字傍点〕の音轉。
 
はぎ 萩。秋の七草の隨一である。其下蔭で、物あはれな蟲の音が聞える萩の花見を、既に當時の人々は喜んでなしたものである。阿陀・高圓・春日野・狹野縣・佐紀野・磯城野等、萩の名所だつた。さうして雁がねと妻よぶ鹿とが多く此に配せられ、又、其散り方のもろくて哀なさまが、殊に悲しく歌はれてゐる。
 
はぎのつま【萩の妻】 鹿は萩を妻として訪ひよるものだと言ふ傳へがある。「つま」の條を見よ。
 
(256)はく はめる。つける。緒をはく〔二字傍点〕とは、弓などに緒をつける。卷二「梓弓弦緒とりはけ引く人は(九九)。卷十六「牛にこそ鼻繩はくれ(三八八六)。
 
は‐ぐゝむ【養育む】 翼の裏に雛を掩《クヽ》める。起きて養育する。撫育する。卷九「わが子はぐゝめ天のたづむら(一七九一)。
 
はくづう【博通】 傳未詳。
 
はくひ【羽咋・波久比】 能登國羽咋郡の羽咋である。
 
はくり【羽粟】 羽栗(ノ)翔《カケル》だらうか、翔は光仁天皇の寶龜五年迎藤原清河使の録事(遣唐使録事)となり、翌年八月外從五位に敍して其准判官となり、七年三月勅旨大丞に任じ、同八月臣姓を賜り、十年四月從五位下となり、桓武天皇延暦元年二月丹波介となり、四年八月從五位上に進み、五年七月内藥正兼侍醫となり、七年三月左京亮を兼ね、八年二月内藏頭に遷つて、九年二月正五位下に敍せられた。
 
はこね【箱根】 相摸國足柄郡にあつて、相摸・伊豆の二國に亙つて居る山である。
 
はし【端】 物の中央ならぬを言ふ。「はしなる子等」とは、どこへも嫁けず、中途半端で身のおちつかぬ娘。卷十四「新田山嶺には附かなゝわによそりはしなる子等しあやにかなしも(三四〇八)。
 
は‐し【愛し】 いとしく、かあゆくある。
 
はじ【土師】 埴輪土器等を造る職人。土師部の略。
 
はしき‐や‐し また、はしきよし〔五字傍点〕・はしけやし〔五字傍点〕などある。皆、同じ語である。はしき〔三字傍点〕は愛しき。や〔傍点〕は感動の助辭、し〔傍点〕は確にそれと指定する助辭である。はしきやし〔五字傍点〕は愛しきかもと言ふに同じ。やし〔二字傍点〕は單に一種の囃詞風に見てよい。
 
はし‐だて【梯立】 はしご。竪橋の義で、修飾語を下に置く國語々法の一例である。
 
はしたて‐の 枕。くら。くまき。高い倉には梯を立てゝのぼると言ふ處から、くら〔二字傍点〕に言ひかけたので、古事記にも此用例はある。高い倉に梯子を立てゝのぼるのは、今日の藏と構造が違ふので、垂仁天皇紀に「五十瓊敷命曰、神庫雖v高、我能爲2神庫1造v梯云々」とあるが如きは、其證據としてよからう。又、棧や梯などの横に棚の樣に渡す木をくま木〔三字傍点〕と言ふから、熊來〔二字傍点〕につゞけたのだと言ふ説はよさゝうである。
 
(257)はじ‐の‐いなたり【土師(ノ)稻足】 傳未詳。
 
はじ‐の‐しひまろ【土師(ノ)志斐麻呂】 土師水通である。
 
はじ‐の‐みちよし【土師(ノ)道良】 聖武天皇の天平十八九年の頃、大伴家持が越中守であつた時、越中國の史生をして居た。
 
はしひと‐の‐おほうら【間人(ノ)大浦】 天武天皇朝以後の人であるが、傳未詳。
 
はしひと‐の‐おゆ【間人(ノ)老】 孝徳天皇の五年遣唐使の判官であつた。中皇命・間人皇女の乳母の一族であらう。
 
はじべ‐の‐みゝち【土師部(ノ)御通】 土師水通である。
 
はし=むかふ 枕。おと。はしむかふ〔五字傍点〕は愛し向ふと言ふ意味だと言ふ説もあるが、二本揃うて初めて箸は用をなすものとなる樣に、兄弟相助け合ふべきものと言ふ意味から來たものと、見る方がよい樣である。勿論「はし」と言ふ中には、可愛いゝといふ言語情調も含まれては居たゞらう。
 
はじ‐ゆみ【櫨弓】 はじの木でつくつた弓。
 
はし‐ゐ【端居】 家の軒近い方に坐る事。
 
はせ‐つかひ‐べ【丈部】 又、杖部。杖部直造は孝元天皇の皇子大彦命の後である。又、丈部は、天足彦國押命の孫|比古意祁豆《ヒコヲケツ》命の後である。又、丈部首は武内宿禰の男の紀角宿禰の後である。何れも駆使部《ハセツカヒベ》で、使丁の部曲の民であらう。或はすたんだあど〔六字右・〕の一種の杖矛の類を持つて前驅する部民かと思ふ。
 
はた【將】 一事を言うて、又、他事を別提する接續詞。其にしても。ところが。一方に。
 
はた【鰭】 魚の鰭を言ふ語であるが、尾・鰭こめて言ふ樣である。此鰭でもつて、魚の代りの物質名詞に用ゐる事が多い。又、鰭の廣物・鰭の狹《サ》き物など、鰭の大小を以て魚の大小を現してゐる。
 
はた‐ずゝき 枕。ほに出づ。うら。くめ。しの。はたずゝき〔五字傍点〕とは、薄の旗の樣に群草の上に動搖して居るを言ふと説くが、花薄の轉とも、神をまねく幡とも見られる。よく目立つによつて、ほにいづ〔四字傍点〕の枕詞とした。しの〔二字傍点〕とかゝるのは、萎える状からなのである。又、薄の末〔三字傍点〕(うら)と言ふ處から、うらのゝ山〔五字傍点〕に言ひかけたのであらうが、くめのわくご〔六字傍点〕にかゝる具合は、まだ考へ得られない。
 
(258)はたて【盡】 果。かなたの末。國のはたてとは、國の邊陲。雲のはたて〔五字傍点〕は、雲のつゞく限の末。
 
はた‐ぬ【旗野】 大和國高市郡波多の野で、波多神社のあるところである。
 
はた‐の‐こべまろ【秦(ノ)許遍麿】 傳未詳。
 
はた‐の‐たまろ【秦(ノ)田滿】 聖武天皇朝の人、傳未詳。間《ハシ》滿と同人で、何れか文字を誤つたらしい。
 
はた‐の‐てうぐゑむ【秦(ノ)朝元】 元正天皇養老三年四月忌寸の姓を賜り、五年正月醫術に長ずる故を以て物を賜ひ、聖武天皇の天平二年三月勅によつて漢語の弟子をあづかり、三年正月外從五位下に敍せられた。此は四年遣唐の準備で、此頃、遣唐(ノ)判官となり、次で大伴胡麻呂と共に入唐したらしい。七年四月外從五位上、十八年三月主計頭となつた。懷風藻に二首を殘してゐる僧辨正は、彼の父である。
 
はた‐の‐なでしこ【秦(ノ)石竹】 孝謙天皇の天平寶字八年十月外從五位下に敍し、淳仁天皇の寶龜五年三月飛騨守、七年三月播磨介に遷つた。名はいはたけ〔四字傍点〕とも訓む。
 
はた‐の‐はしまろ【秦(ノ)間滿】 「はたのたまろ」と同人。其條を見よ。
 
はた‐の‐やちしま【秦(ノ)八千島】 聖武天皇の天平十八九年の頃、大伴家持が越中守であつた時に、同國の大目をして居た。
 
はた‐の=よこやま【波多(ノ)横山】 伊勢國壹志郡。
 
はた‐の‐をたり【渡多(ノ)少足】 傳未詳。
 
はだ‐ら【斑】 點々としてまだらなる事。
 
はだれ【斑雪】 まだらに消えのこつた雪。又、多く積るほどは降らぬ雪。
 
はちす【蓮】 其蓮房の形が蜂の巣に似てゐるので、「はちす」と名づけたのである。今は略してはす〔二字傍点〕と言ふ。
 
はつせ【泊瀬】(補) 又、長谷・初瀬など書く。大和國|磯城《シキ》郡の奥、宇陀より亙つてゐる高原に出ようとする麓(此道が豐泊瀬道であらう)。南の多武峰續きの山と、北の三輪・穴師の連山との間の渓谷の行きどまりにあつて、泊瀬山が上に在る。渓谷は泊瀬川で、非常に籠つた地であるから、枕詞にもこもりく〔四字傍点〕と言ふのである。此地の長谷《ハセ》寺は、本集時代の末期には既に建つてゐたであらう。常陸風土記から推して、(259)はつせ〔三字傍点〕と言ふ地名は、埋葬地の意であらうと説かれてゐる。
 
 はつせ‐がは【泊瀬川】 初瀬から出て三輪川に入る川。
 
 はつせ‐やま【泊瀬山】 三輪・穴師連山の一峰。長谷坐山口神社は、古く此山本にあつたのである。
 
 を‐はつせ【小泊瀬】 泊瀬と同じい。又、此地名は、到る處に分布してゐる。
 
はつせ‐の=あさくら‐の=みや=に=あめ‐の‐した=しろす=すめら‐みこと【泊瀬(ノ)朝倉(ノ)宮御宇天皇】新(補) 雄略天皇である。後期王朝の記録には、泊瀬朝倉宮御宇雄略天皇(延喜諸寮式)とある。初瀬|峽谷《カフチ》朝倉の地に居られたからの、御名である。記におほはつせ・の=わか・たける・の=みこと(大長谷若建命)と言ふのが、御本名である。允恭天皇の皇子。安康天皇の弟。藤原都朝語部の物語時代の理想的な英雄である。單純と智惠と激情との美徳を備へた人格として、神話時代の大國主、草蒙時代の倭建(ノ)命と相通じる處がある。大陸文化が、具體的に國民生活の上に效果を現しかけたのは、此御代あたりからの事で、一つの境目に立つて居られた天皇である。大和朝廷には、色々な意味に於て、大切な天子として居たものであらう。本集に、二度迄、此天皇から卷を初めて居るのは、單に偶然とばかりは見られぬのである。大歌所の初めを此御代とした傳説などであつた爲に、此集の性質として、此天子の御歌を一番古いものとした(仁徳天皇の磐媛皇后は、問題である)のかも知れぬ。又は、大歌所關係の歸化音樂者の家で、古くから傳へた記録の一等古い歌が、歸來當時の天子の御作と、子孫から考へられて、雄略天皇作となる樣になつたものかも知れぬ。ともかくも、此天子は舶來音樂に對して、ある保護を加へられた方と見る事が出來るのである。但、卷一の卷頭の御製は、性質が頗、金※[金+且]岡《カナスキノヲカ》民譚(雄略天皇記)と似て居り、而も、妻|※[不/見]《マ》ぎ譚の多い方である爲に、旁、此天子の御製として傳る理由はあつたのである。
 
 ――・の=みよ【−代】 雄略天皇の治世。安康天皇弑虐の後、二十三年續いて居る。此御代の歌は、二首、本集に録してゐる。共に、此天皇の御製である。卷一の初めのと、卷三の初めのとが、其であ(260)る。但、卷三の方は、實は御製が洩れ落ちて、次の歌が御製となつて居る樣にも見える。
 
はつせべ‐の=ひめ‐みこ【泊瀬部(ノ)皇女】 天武天皇の皇女、母は宍人大麻呂が女|※[木+穀]《カヂ》媛(ノ)娘で、忍壁皇子、磯城(志貴)皇子の同母妹、詫基《タキ》皇女の同母姉である。元正天皇の寶龜元年正月四品の内親王で、一百戸を増封され、聖武天皇の天平九年二月三品となり、十三年三月二十八日に薨じた。
 
はつ‐たれ【初垂】 藻鹽木からしぼつた鹽の汁の初めて濾過せられて出たもので、極めて鹹い。卷十六乞食者の歌(三八八六)に、蟹に難波江の初垂をかけてたべる事が見えてゐる。
 
はつ‐と‐がり【初鷹狩】 秋、群鳥の渡來する頃に、初めて行ふ鷹狩。
 
はとりべ‐の‐あざめ【服部(ノ)呰女】 武藏國の人。孝謙天皇の天平勝寶七年、筑紫に遣された防人である。
 
はとりべ‐の‐うへだ【服部(ノ)於田】 武藏國都筑郡の上丁で、孝謙天皇の天平勝寶七年、筑紫に遣された防人である。
 
はな‐かつみ 枕。かつて。同音連鎖である。はなかつみとは、花の咲いたかつみで、眞菰の花のあるものゝ事となつてゐる。上田秋成の冠辭考續貂に、其友の岡氏の齎したかつみ〔三字傍点〕の粉と言ふは、眞菰草の根から探つた物ださうだから、恐らく眞菰の事であらうと記してある。本集中の歌を見ても、水草で花あるものなる事は明らかだ。
 
はな‐ぐはし 枕。さくら。花美麗なる處のと言ふ意で、我が國では古くから櫻の花を愛翫してゐたので、梅の花を賞した歌の方が、却て集中に多いのは、當時の唐風流行の結果だ。
 
はなだ【縹】 色の名。月草の花で染めたるもの。藍色の薄いもの。
 
はな‐ちらふ 枕。あきつのゝべ。秋津の野邊は、春には、專ら花が咲いたり散つたりして兩白い風情のある處だから、冠らせた枕詞なのであらう。
 
はな‐づま【花妻】 花の如く美しき妻。卷八「わが岳にさ牡鹿來鳴くさき萩の花妻とひに來なくさを鹿(一五四一)。又、嫋草の類の花草で作つた人形。卷十四「足柄の箱根の嶺ろのにこぐさの花妻なれや紐とかずねむ(三三七〇)。
 
(261)はな‐ゝは【鼻繩】 牛の鼻に通して使役に便する繩。
 
はなは‐だ【甚】 多數量を表す數詞。ひどく。
 
はな‐もの【花物】 華やかなる飾り物。上べだけのもの。はかないもの。脆いもの。卷十二「白髪づく木綿は花物言こそは何時のまさかも常忘らえね(二九九六)。
 
はなり【散髪】 取り上げて結ばずに垂らしておく髪、即、少女の髪。又、放髪にしてゐる少女。
 
はにしな【波爾思奈】 信濃國|埴科《ハニシナ》郡である。
 
はに‐ふ【埴生】 粘土の廣くつゞいた地。埴原の意。
 
はね‐かづら【葉根※[草冠/縵]】 女子の初めて男に媾ふ時にかづく※[草冠/縵]。製法未詳。卷四「はねかづら今する妹(七〇五・七〇六)と用ゐてゐる。
 
はね‐きる【羽切る】 羽ばたきをする。卷九「埼玉の小埼の沼に鴨ぞ羽根切る(一七四四)。
 
はねず【唐棣】 或は棠棣の事だと言はれてゐる。天武天皇紀には、朱華をはねず〔三字傍点〕と訓ませ、又、「山ぶきのにほへる妹が波禰受色の赤裳の姿」などゝも言うて、其花の色は赤いと言ふ事はわかる。又、卷八「夏まけて咲きたるはねず云々(一四八五)とも見えるから、夏頃花の咲くものだと言ふ事も知れる。が然らば、果して今謂ふ所の何の花か、明らかでない。舊來には、うめ(小梅)の事だらうといはれてゐるが、尚、疑はしい。
 
はゝそば‐の 枕。はゝ。同音を重ねて枕詞としたのである。はゝそ〔三字傍点〕は柞。即、※[木+解]の一種だ。
 
はひ=さす【灰指す】 灰を加へる。卷十二「紫は灰さすものぞ(三一〇一)と言ふは、紫草で染料を作るとき、灰汁を加へるからである。
 
はひつき‐がは【延槻河】 越中國新河郡の河の名。
 
はふ【延ふ】 ひろがる。のびる。切れないで續く。はふ蔦のなど言ふ。四段活用自動詞。下二段活用他動詞。
 
は‐ぶく【羽振く】 羽を振ふ。羽ばたきをする。小鳥に言ふ。羽ぶく鶯〔四字傍点〕とよんでゐる。
 
はふ‐くず‐の 枕。たゆ。いやとほなが。わかる。葛の延びてゐる處から、いや遠長くと言ふ意味につゞけられ、蔓のきれる處から、絶ゆ〔二字傍点〕にかけ、這ひわかれる處から、わかる〔三字傍点〕にかゝるのだ。
 
はふ‐こ【這兒】 緑兒。立ち歩きの出來ぬ子ども。
 
(262)はふ‐つた‐の 枕。わかる。つたかづらの方々へのびわかれる樣からして、人のわかれゆく事などに言ひかけたのである。
 
はふる【蕩る】 動搖する。ゆられる。ゆらぐ。卷二「朝はふる風こそ寄せめ夕はふる波こそ來寄れ(一三一)。
 
はま・つゞら【濱葛】 つゞらふぢの事だらうと言ふ説もあるが、よくは知れない。萬葉集の歌では、卷十四「はまつゞらいましをたのみはゝにたがひぬ(三三五九)などゝつゞけて用ゐてある。
 
はま‐づと【演裹】 海邊よりのみやげ。貝・藻・玉などの土産。
 
はま‐ひさぎ 枕。ひさしく。同音をかさねて枕詞としたもの。ひさぎ〔三字傍点〕(楸)は木さゝげ〔四字傍点〕と俗に呼ぶものである。因に言ふ。若歴木《ワカヒサギ》と言つて、やはり久しく〔三字傍点〕の枕詞として居る場合もある。
 
はまゝつ‐の=たむけ【濱松の手向】 濱に生えた松にかけてある手向物である。手向草の草〔傍点〕は、神に供へる品物である。道祖《クナド》(ノ)神を祭る旅人のわざ。
 
はま‐ゆふ【濱木綿】 海濱に生ずる草で、芭蕉に似、其葉は、やゝ萬年青の樣で、莖は淡黒い皮を以て幾重にも幾重にも包まれてゐる。初夏の頃、白色の花が咲く。幾重にも皮が包んでゐると言ふ處から、百重なす〔四字傍点〕などゝつゞけられてゐる。
 
ほま‐をぎ【濱荻】 濱邊に生ずる荻。莖は蘆に似てゐるが、節が短く、葉と花とは萱《カヤ》の樣で稍長い。さて伊勢で蘆の事を濱荻といふと言ふ話は、本集の卷四「神風の伊勢の濱荻をりふせて(五〇〇)から出たのだ。
 
はむ【食む】 食ふ。ぱく/\喰ふ。齒で?んで、食ふ。
 
はむ はめられる。ぶちこまれる。投ぜられる。下二段活用。卷十七「鶯の啼く暗谷にうちはめて燒けは死ぬとも君をしまたむ(三九四一)。
 
はや‐かは‐の 枕。ゆかくもしらず。河水の速く流れ行く〔二字傍点〕とつゞけたゞけの事。ゆかく〔三字傍点〕は行く事と言ふ意味である。
 
はやし【遊樂】 盛んな儀式。歌垣。卷十四「あら玉の伎倍のはやしに名を立てゝ行き敢《カ》つましゞ寢を先立たに(三三五三)。「はやす」參照。
 
はやし【榮し】 飾り。裝飾物。あへもの。そへもの。(263)卷十六「わが角は御笠の榮し(三八八五)。「はやす」參照。
 
はやし‐の=おほきみ【林(ノ)王】 淳仁天皇の御兄弟三島王の御子で、聖武天皇の天平十五年五月從五位下に敍せられ、六月圖書頭となり、淳仁天皇天平寶字三年六月再び無位から從五位下に敍せられ、五年正月從五位上になり、六年正月從四位下で木工頭となり、光仁天皇の寶龜二年九月從四位上で山邊眞人の姓を賜つた。
 
はやし‐の=さき【林の埼】 密林の岡の端。
 
はやす【榮す】 光榮ある樣にする。讃美する。頌する。立派にする。賑やかにする。感覺を喜ばせる。あるものゝ上に交へ附加して曲折趣味を増す。
 
はやす【放す】(補) はやす。頭をとりさる。友人土屋文明氏の話では、上野國では、今でも蕪をはやす〔三字傍点〕・大根をはやす〔三字傍点〕と言うて、それ/”\の野菜の首を根からとり去る意に用ゐてゐる。だから、卷十四「佐野《サヌ》の莖だち折りはやし(三四〇六)のはやすも、放つだらうとの事である。おもしろい考へである。
 
はや‐ひと【隼人】 上代、大隅・薩摩地方を本據として、其附近に蕃殖した種族を言ふ。敏捷勇猛な處から名づけた。書紀神代卷の火闌降命の事を言うた條に、是隼人等始祖也とあるを其名の初見とする。隼人の朝廷に奉仕した事も、其由來久しき樣で、履中天皇紀に近習隼人に刺領巾と言ふ者ありと載せ、其他、大分見える。大寶の令制に見ると、衛門府に隼人司あり、朝廷に奉仕する隼人を司る。大同三年兵部省に隷した。隼人の職とするのは、宮門を警衛し、歌※[人偏+舞]を奏し、竹器を製するのだ。交番、京都に出勤し、定額の員數の缺けた時は、京師に住するもので、之に宛てた。
 
はやみ【早見】 攝津國の地名であらう。
 
はゆま【驛】 驛路の驛馬・驛船のある處を指す。又、うまや〔三字傍点〕とも言ふ。陸驛・水驛などあつて、江戸時代の宿に當る。文武天皇の時の大寶令の制によると、道路には大中小の各等があつて、大體、地勢によつて、三十里毎に一驛を置いて、驛毎に驛長が居て、馬・船の事を管した。
 
ばらもむ【波羅門】 梵語の音譯で、印度の四姓階級の最上級に位して、神に仕へる僧侶學者の族である(264)が、奈良朝の頃、既に布教の爲に支那へ行つて居た者が、日本に來たものであらう。聖武天皇天平勝寶元年、東大寺の大佛開眼の導師も婆羅門僧正と呼ばれて居た、菩提犀那であつた。これ等、當時、來朝の印度人が、果して波羅門階級の者であるかどうかは訣らない。當時の日本人は、印度人をば單に波羅門と言うて、一種の魔術を知つた者と考へたらしい。
 
はら‐ゝ‐に ばら/\に。ちらばつて。
 
はり【鍼】 衣服を縫ふ爲に用ゐるもの。東語にははる〔二字傍点〕と言うた。卷二十「草枕旅のまるねの紐絶えば我が手とつけろこれのはる〔二字右・〕もし(四四二〇)。當時に在つても、裁縫は主として女子の任務であつたのは、此外にも例が見える。
 
はり【榛】 木と草と二種ある。木は今のはんのきで、皮の汁で染めた色は、即、澁茶染めである。草の方は、王孫と書いて、野はり〔三字傍点〕・土はり〔三字傍点〕と言ふ。萱草《ワスレグサ》の類。赤染めにする。本集のはり〔二字傍点〕には二樣あるから、氣をつける必要がある。
はん〔二字傍点〕の木の古名。多く山中に生じ、高いものになると、三丈に達する。葉は栗に似て柔かで、花も亦、栗の樣だ。材は薪に用ゐられるだけだが、樹皮からは染料を採る事が出來る。
 
はり‐ぶくろ【鍼嚢】 裁縫の女子の役なる事は、鍼の條にも見えたが、旅行などに當つては、女子の手を待つ事は出來ない。故に、男子としても身だしなみとして、鍼を入れた袋を持つてゐたのである。其中に絲なども這入つてゐる事は想像される。卷十八に大伴家持が池主に鍼嚢を贈り、池主が「草まくら旅の翁とおもほして(四一二八)と言うたのを見ても知られる。
 
はり‐め【針目】 衣服を縫ふ時、針でとほす、其穴目。細かな比喩に用ゐる。卷四「針目おちず入りにけらしもわが心さへ(五一四)と言ふのは、いかなるこまかい處までもの意。
 
はる【發る】 春になつて、草木の芽をふく事を言ふ。春の語原と言ふ。木の芽發る〔五字傍点〕とも言ふ。
 
はる【墾る】 荒蕪の土地を耕して、地味を開發する。新墾地をあらきはり〔五字傍点〕と言ひ、墾田をはり田と言ひ、新墾をにひばり〔四字傍点〕と言ふ。ら行四段活用。他動詞。
 
(265)はる‐かすみ 枕。ゐ。卷十四に「可須美爲流《カスミヰル》(三三五七)とある樣に、春霞の居とつゞけたのである。ゐる〔二字傍点〕は、とまる〔三字傍点〕・かゝる〔三字傍点〕である。「ゐる」參照。
 
はるかぜ‐の 枕。おと。春風の音〔傍点〕とつゞけたのである。併、特に春風の〔三字傍点〕と言うた心の中には、其時の風物が浮んで居た事は勿論だ。其詠んだ際の時候の風物によつて、興體の枕詞としてつゞけたのは、勿論である。吹く風のおと〔六字傍点〕とかける枕詞もある。
 
はるとり‐の 枕。さまよふ。此場合のさまよふ〔四字傍点〕は、鳥ののどよふ含み聲で言ふので、書紀に吟〔右○〕をさまよふ〔四字傍点〕と訓じてゐるのに當る。鳥ののどよひさまよふも、人の吟じ坤くも、一つに見るのである。而してさまよふと言はむために春鳥の〔三字傍点〕と言つたのである。
 
はる‐な【春菜】 春の新莱。一説にわかな〔三字傍点〕と訓むべしと言ふ。
 
はる‐の‐ひ=の 枕。うらかなし。春の日のうらゝ〔三字傍点〕にかけたと見るか。又、面白いものだから、うらかなし〔五字傍点〕に續けたものか、かなし〔三字傍点〕は悲哀でなく、懷しむ心持ちだ。此方は枕詞と見ぬ方がよい。
 
はるはな‐の 枕。たふと。うつろふ。はるはな〔四字傍点〕とは、櫻をさして言うたもので、其穢れなく、淨く尊い感じを起させる事から、たふと〔三字傍点〕を呼び起し、又、いづれはあれど、殊に其移ろふ樣のあはれに、哀しく感ぜられる處からして、うつろふ〔四字傍点〕にかけて言うたのである。
 
はる‐ひ=を 枕。かすが。春の日の霞む意味で、かすが〔三字傍点〕にかけたのだ。を〔傍点〕は呼格の助辭である。「春日」をかすが〔三字傍点〕と訓む事、理由不明であるから、或は飛ぶ鳥のあすか〔七字傍点〕などゝ同じく、地名から逆に訓讀した枕詞かも知れぬ。
 
はる‐べ【春邊】 春の頃。春の景況。春の時候。
 
はる‐やなぎ 枕。かづらき山。上代には柳をも、鬘としたので、春柳のかづらと言ひかけた。
 
はん‐か【反歌】 長歌の起原のうち、五七七公式の分子は、同一、又は類似の句を繰り返す性質を多量に持つてゐる。其繰り返しは、五七五七七形式などの單獨にも行はれる形式に惹かれ易く、即、長歌が(五七)五七七形式に一定した後までも、其形の繰り返しを遺傳したのである。これが反歌の起因である。長歌形式が固定すると共に、反歌も繰り返しと(266)言ふ性質を忘れて、長歌の意味の統括、又は其補遺となる樣になつた。萬葉時代の反歌は既に、こゝまで進化したものが多量を占めてゐる。長歌は形が大きいから、ともすればその主格内容を忘れ易い。此缺點を補うて、長歌の主旨を端的に主張し、若しくは、長歌に入れては長歌の統一を破る虞のある内容、長歌の内容を裏面から證する事實を盛りなどするのが、反歌の役目である。長歌が失敗しても、反歌は却て獨立して價値のある場合もある。反歌が有つても無くてもよい樣なのは、反歌としては失敗だ。反歌を「たんか」と讀み、三十一字音の歌の意味だと言ふ説もあるが、現に集中に旋頭歌をも反歌として取り扱つてゐる例があるから、此説は成り立たぬ。
 
ばん‐か【挽歌】 挽歌の字面は、支那から舶來したものだ。集中では哀傷歌を意味する。卷二に「右件歌等、雖不挽柩之時、所作唯擬歌意故、以載于挽歌類焉」として、後人追悼の歌を挽歌の中に入れてゐるので、支那の用例よりは意味の廣い事が知られる。記に見えた日本武尊の兒・妾の作は、挽歌として、最古いものである。集中では、聖徳太子の龍田山に死人を見て作つた歌が最古い。飛鳥・藤原朝に入つて、人麻呂の作に長篇の挽歌が甚多い。挽歌は哀傷の歌意をよく現したものがよいのは勿論であるが、誰の死んだ時にでも應用の出來るのはよくない。死んだ人と作者との特殊の境遇がよく表現せられてゐるのを以て、よしとせねばならぬ。本集時代、主として藤原時代以後は、宮廷詩の最勢力を持つてゐた時代で、柿本人麻呂其他の宮廷詩人が、貴人の殯葬の時の物に作つた歌が、其時々の殯葬の主任者の歌となつてゐるものが、頗多い樣である。又、明らかに人麻呂らに嘱んで代作させたと見られるのもある。又、必しも挽歌に限らず、朝廷の儀式竝びに公式の宴會、或は衆人の共に歌ふ唱歌の詞曲として、宮廷詩人の作つたものが、澤山にまじつてゐる。だから、挽歌とは言ふでふ、個人の悲痛な心持ちを述べたと言ふよりは、一般的群衆的になつて行くのは、自然の道理である。個人的のものでも、單に悲痛の情を吐いたゞけでなく、群衆の口に上つて唱はれたものとして、其間に幾分の斟酌が必要だ。
 
(267)     ひ
 
ひ【氷】 氷。川の氷《ヒ》こほり、氷《ヒ》にさえこほりと言ふ樣に、ひ〔傍点〕は名詞で、こほる〔三字傍点〕は、其に對する用言。こほり〔三字傍点〕は其體言である。
 
‐び【邊】 やゝ廣く、場處を指示する詞。山邊と言ふは、山の近處の意でなくして、山をもこめて山の方と言ふ位の意味になる。海邊《ウナビ》も海及び其附近、國邊も同じ。此にひ〔傍点〕と清む時と濁る時がある樣だ。
 
ひかさ‐の=うら【曰笠(ノ)浦】 播磨國印南郡。
 
ひかた【坤風】 西南の方より吹き來る風。
 
ひきた【引板】 田畠に板を吊り、人は彼方に居て綱を引いて、其板を鳴して、鳥の下るを追ふもの。鳴子の類。
 
ひき‐つ【引津】 筑前國糸島郡。今、船越村の附近。
 
ひきて‐の‐やま【引手(ノ)山】 大和國山邊郡。初瀬山の北方に當る山。
 
ひくま‐ぬ【曳馬野】 遠江國濱名郡。今の濱松市の所在地を古くは曳馬(ノ)莊と言つてゐた。其地の原野。
 
ひぐらし‐の 物を思ひつゞけて、絶え間のないのを日ぐらし〔四字傍点〕で表したものだ。日ぐらし〔四字傍点〕は、終日と言ふ意味である。の〔傍点〕はに〔傍点〕であらう。蜩ではない。
 
ひさかた‐の 枕。あめ。みやこ。 天は悠久にして堅牢なものだと言ふ上代の思想からして、久堅の天〔四字傍点〕と言つたのだらう。又、王城のゆるぎなく久しきをば、久堅の〔三字傍点〕と言ふに到つた消息も、おのづから明らかである。
 
ひさ‐ぎ【※[木+秋]】 木さゝげ。枝・葉共に對生で、幹は眞直に延び、葉は桐に似て鋸齒なく、直徑六七寸乃至一尺程ある。夏、穗を出して小さな花が咲き、やがて莢を結ぶ。其長さ一尺餘に達し、草本のさゝげ〔三字傍点〕に似てゐる。あづさ〔三字傍点〕・あかめがしは〔六字傍点〕などに似てゐる。
 
ひ‐さめ【豪雨】 大雨で、氷雨ではない。ひたさめ〔四字傍点〕と説くのは、肯ひがたい。
 
ひ‐ざらし【日晒し】 日に曝してよくほしたる布。
 
ひ‐しほ【醤】 豆米麥などを煮て、それに鹽を加へ、數十日を經過した上、濾して液状となしたもの。正倉院文書に醤・未醤(味噌)の名目がある。卷十六に「醤酢に蒜つきかてゝ(三八二九)とあるは、醤と(268)酢とを交ぜたものを蒜にあへて食ふのである。
 
ひ‐じり【聖】 支那では、聖・儒。すべて聖人の類を日本ではひじりと飜《ウツ》してゐる。日本では天子・仙人・賢者・名僧迄悉くひじり〔三字傍点〕である。廻國の行脚僧の類迄も、ひじり〔三字傍点〕と言うてゐる。柳田國男先生の日知者、即、日|置《オキ》・日祭《ヒマツリ》の輩を言うたもので、天文の事を知つてゐたものに對する尊敬から移つて出來た語としてゐられる説が、よい樣である。天子が大空まで領《シ》つてゐられると説く古來の説は、あまり尊く説き過ぎてゐるので、天文の事を知つてゐる人、即、さう言ふ賢い人と言ふ意から出たものと見るべきである。ひじりの宮〔五字傍点〕は、ひじり〔三字傍点〕の治めてゐられた宮で、聖宮ではない。
 
ひたうら‐の=ころも【無雙(ノ)衣】 表も裏も同一の布帛で、縫ひ作つた衣服。
 
ひたがた【比多我多】 地名。所在未詳。
 
ひた‐さを【純青】 眞青。まつさを。
 
ひた‐つち【直土】 地面。地にぢかに。ぢびた。
 
ひだ‐の‐おほぐろ【飛騨の大黒】 飛騨國より朝廷に頁ぐ大きい黒馬。卷十六のは「飛騨の大黒(三八四四)と斐太麻呂の大男で、黒いのとをかけて用ゐたのだ。
 
ひだ‐の=ほそ‐え【斐太(ノ)細江】 所在未詳。
 
ひぢかた‐の=をとめ【土形(ノ)娘子】 天武天皇・持統天皇朝の人であらう。傳未詳。
 
ひぢき‐の=なだ【比治奇乃奈太】 攝津國の海で、淡路島の東方の灘である。
 
ひぢ‐に‐つく【泥に漬く】(補) 泥となつて、からだ・着物などを汚す』。に〔傍点〕はとして〔三字傍点〕の意。つく〔二字傍点〕は今言ふつかる〔三字傍点〕で、ぐつしよりになる・びつしよりするなどの意。肱に着くと説いたのはよくない。
 
ひづ【秀づ】 草の穗を出すを言ふ。穀類の延びる容子に言ふ。
 
ひづ【沾づ】 濡れる。しめる。水漬く。
 
ひ‐つぎ【日嗣】 天皇の御統で、日の神(天照大御神)の御心を本として、其任け給へる大任を受け傳へ、皇位を継承するからである。で皇太子をば、ひつぎのみこ〔六字傍点〕と言ふ。上代は何人でも、母系のよい、勢力家の後援ある方をば、王位繼承候補者としてひつぎのみこ〔六字傍点〕と稱した。又、日嗣でなく、火嗣だとも言ふ。
 
(269)ひつぎ‐の‐みこ【日嗣の皇子】 前條參照。
 
ひづ‐ゝ【沾つ】 泥だらけになる。土にまみれる。土によごれる。ひづ〔二字傍点〕の再活用。た行上二段活用。
 
ひと【人】 おほよそに人々〔二字右・〕を指したものと、ある一人〔二字右・〕を指す代名詞に用ゐたのと、他人〔二字右・〕、見しらぬ人々の意に用ゐたのとの三樣がある。卷四「神代よりあれ繼ぎくれば人さはに國には滿ちて(四八五)と言ふは、第一の例である。これに人類全般をさすのと、例へば集會などで、そこに居る人々をさすのとがある。第二の例は、卷十三「母父も妻も子どもゝ高々に來むと待つらむ人の悲しさ(三三三七)。第三の例には「人國」がある。他《ヒト》國の意だ。卷十五「他國は住みあしとぞいふ(三七四八)。卷十二「他國に求婚《ヨバヒ》に行きて(二九〇六)などの用例がある。人の里と言ふも同例である。
 
ひとくに‐やま【人國山】 大和國吉野郡吉野にある山。
 
ひと‐なぶり【嘲弄】 人を弄ぶ。人をなぶる。人をいぢめる。此舊來の説は、今、一息おちつかぬ。
 
ひと‐の=こ【人の兒】 他人なる娘。こ〔傍点〕は妻の兒《コ》、妹の兒の兒と同じく、兒童の意でなくて、愛すべきもの・可愛きものゝ意に添へるのだ。卷十三「いかなるや人の兒ゆゑぞ通はすも吾子(三二九五)。又、人の子女の意に用ゐたものもある。「人の兒の生みの繼ぎつぎ」とあるのが、それだ。
 
ひと‐ま【人間】(補) 他人のすきま。人の油斷してゐる時。他人の注意をゆるめた間。卷十一「人間守《ヒトマモリ》(洩りか、瞻《モ》りか)蘆垣ごしに、わぎも子をあひ見しからに、事ぞさだ多き(二五七六)。
 
ひと‐みな【人皆】(補) 皆〔傍点〕は、體言形容詞を後置する古格の一つであらう。皆人《ミナヒト》とも言ふ。皆の人・すべての人の意。副詞的に、人が皆・人がすべてなど譯されぬ。
 
ひと‐め【人目】 世人の注意。人の注視。注意をむけられ人の注目にあふを、人目おほし・人目しげしと言ふ(ア)。又、人の顔を以て、其人を代表せしめて考へる樣に、又、目は顔の代表ともなる處から、人の顔・人の姿(イ)。卷十「春雨のやまず降る/\わが戀ふる人の目すらを相見せざらむ(一九三二)。卷二「人目に戀ひて(一七〇)などあるのは、後者の例だ。
 
ひとも‐ね【比等母禰】(補) 山の名。獨見嶺《ヒトミネ》であらう。(270)筑前國遠賀郡。獨見驛から十五疋の驛馬を出した(延喜式)。豐前國から入つて最初の驛で豐前・筑前の國境の邊にあつたものと思はれる。筑前國の境に在るから、筑前を後にして行く人に對して、大和境の龍田山と對照的に人格化して言うたものと見ておもしろいのである。卷五「比等母禰能《ヒトモネノ》うらぶれをるに、龍田山|御馬《ミマ》近づかば、忘らしなむか(八七七)。人皆の訛りでも、誤字でもなからう。獨見をひとりみ〔四字傍点〕と訓まず、ら〔傍点〕行脱落の例によつて、ひとみ〔三字傍点〕・ひとむ〔三字傍点〕など言うたのであらう。又、豐前國宇佐郡に人見嶽がある。參考の爲にあげて置く。
 
ひと‐よ=づま【一夜妻】(補) はじめて忍び會うた女に對して言ふか。遊女とするのは、後世的の考へであらう。但、本集時代、全く女より男の家に泊りに行く事はなかつたでもないが、主に男からである。思ふに、初めてと再三なるとに係らず、情人に對しては、つま〔二字傍点〕・いも〔二字傍点〕など言ふべきはずであるのに、故らに一夜の字をつけたのは、意味があらう。思ふに必、ある種の女の名詞であつたものであらう。でなくては、女によびかけて、一夜妻と故らに言ふのも變である。やはり遊行女婦のなかまの者で、男の家などへ泊りに來るのを職業とした者を、一般にかう言うてゐたものと考へる。「庭つ鳥かけろと鳴きぬなり。起きよ/\。わが一夜妻人もこそ見れ(神樂歌)。卷十六「わが門に、千鳥|屡《シバ》鳴《ナ》く。起きよ/\。我《ワガ》一夜妻《ヒトヨヅマ》人に知らゆな(三八七三)。さうした女を家に泊めた事が、人に知れるのを忌んだのである。
 
ひも【紐】(補) 此頃のは多くは、組み紐らしく思はれる。緒よりは太く、帶佩《オビ》よりは細いものゝ名であらう。但、ひものを〔四字傍点〕とも言ふ。道具・衣服などにつける(ア)。着物・裳、どれにもつけて、衣類のはだけぬ樣にするもの、上から別にまきつけて結ぶもの、孔をとほす〔三字傍点〕(入ると言ふ)もの、本を衣類に綴ぢつけたものなどがあつた樣である(イ)。裳の紐、或は褌《ハカマ》の紐(ウ)。卷二十「紐ときあけな(四二九五)卷四「紐ときさけず(五〇九)などいふのは、胸襟を開くなど言ふ風にひきしめてゐた衣裳をくつろげて、安らかにゐる意で、情事に關係はない。併、多くは紐とく〔三字傍点〕と言ふのは、褌の紐を解く事になつて情事を遂げる意になる。旅行中は厭勝《マジナヒ》として、門出の際に紐を結ぶ(裳・(271)褌の紐か)事があつたらしく、卷六「紐とかぬ旅にしあれば(九一三)。卷十「旅にすら紐とくものを(二三〇五)などある。其を旅中情事を禁ずる樣な心持ちをも加へて、妻が結んだ樣にも見える。卷三「淡路の野島の崎の濱風に妹が紡びし紐吹きかへす(二五一)が、其である。又、紐に物を結びさげると言ふのは、腰の紐で、大刀を吊る物であらう。卷三「萱草《ワスレグサ》、我が紐につく。香具山の古りにし里を忘れぬが爲(三三四)。(忘れぬ樣にとつけるのである)。
 
ひな【鄙】 文化の後れた土地。地方。邊土。
 
ひ‐な=ぐもり 枕。うすひ。ひなぐもり〔五字傍点〕は、日の曇り〔四字右・〕で、曇つて居る日を言ふのである。曇天の日影は薄い處から、うすひ〔三字傍点〕に言ひかけたのである。又、「ひのぐれに」と言つて、うすひ〔三字傍点〕にかけても居る。ひなぐもり〔五字傍点〕は、又、日の隱《コモ》りとも説ける樣だ。
 
ひなめし‐の=みこ【日竝知(ノ)皇子】 草壁皇子の尊稱である。「みこのみこと」參照。
 
ひなもり【夷守】 筑前國の驛名。
 
ひね/\し【古々し】 古臭くなつた容子。卷十六「荒墾田の鹿田の稻を倉につみてあなひね/\しわが戀ふらくは(三八四八)。
 
ひねもす【終日】 一日中。朝から晩まで。
 
ひ‐の=きはみ【日の極】 其日に極つて。それよりしてはの義で、其日以來、其日ぎりで、と言ふ意になる。本集中、其日のきはみ〔六字傍点〕と使うてゐるのは、あの事のあつた日この方の憲。
 
ひのくま【檜隈】 大和國高市郡。其附近より出て、畝傍山の西方を流れて、宗我《ソガ》川に入る川を檜隈川と言ふ。
 
ひのくま‐の=いはくま【檜前(ノ)石前】 檜前は檜※[土+囘]《ヒノクマ》で、前條に見えた地である。其土地に出た姓である。檜前の姓に連・直・村主・忌寸がある。連は火明《ホアカリ》命十四世の孫波利邪乃連公の後で、周防國・下野國に見えた。檜前直は大和國葛上郡に見え、檜前|村主《スグリ》は、漢高祖の男齊王肥の後、檜前忌寸は漢の阿智王の後で、大和國高市に住み、其族高市郡司となつた事がある。後に宿禰を賜うたのは、此族だらう。石前は何方に屬したか。其傳未詳。
 
ひのくま‐の=ひめ‐おほきみ【檜隈(ノ)女王】 續紀の聖武天皇の天平九年二月の條に從四位下|檜前《ヒノクマ》王從四位(272)上を授くと言ふのがあるが、即、女王の誤りでないかと思はれる。正倉院文書に天平七年に從四位下檜前女王の食封の事が見える。
 
ひ‐の=くれ‐に 枕。碓氷《ウスヒ》にかゝる。かに〔傍点〕はの〔傍点〕(領格)、又はぬ〔傍点〕(時)の音轉。薄日〔二字傍点〕とかけたのである。枕詞に用ゐたもので、前のひなぐもり〔五字傍点〕と同樣である。
 
ひ‐の=け‐に 日に日《ケ》にの轉。日の氣にではない。日に日に。一日々々と。
 
ひ‐の=たて【曰の經】 東西を日の經と言ふ。卷一「大和の青香具山は日の經の大御門に春山としみさび立てり(五二)とあるは、東方を言ふ。
 
ひ‐の‐つまで【檜の抓手】 檜のきれはし。檜の榑《クレ》材。「つまで」を見よ。
 
ひ‐の=みかげ【日の御蔭】 日光によつて出來る物の陰處を、日輪に對する敬語を添へて、日の御蔭と言ふ。主として家ぼめ〔三字右・〕に用ゐる語。卷一「高知るや天の御影天知るや日の御影の水こそは常しへならめ御井のま清水(五二)。枕詞「天の御影日の御蔭と隱り坐して」。
 
ひ‐の=みかど【日の朝廷】 日を王業の象徴と見て、帝王のいます宮の門、又は御領土を言ふ。
 
ひ‐の=みこ【日の皇子】 日の神の御子、天皇、若しくは高貴なる皇族に限つて用ゐる。高照る・高光るなど言ふ冠辭を有してゐる。
 
ひ‐の=め【日の面】 日輪の面。日光。太陽の形。
 
ひ‐の=よこ【日の緯】 南北を言ふ。南方、又は北方を日の緯と言ふ事もある。
 
ひばり【雲雀】 燕雀類の小禽である。其雲を突いて高く鳴き上るところが、特に萬葉人の注意を牽いたものと見える。「零雀あがる」と言ふのは、大空へ上る其鳴き聲を言ふのである。
 
ひみ‐の=え【氷見(ノ)江】 又、比美能江。越中國氷見郡。今の氷見(ノ)湊の地で、此地でちようど、富山※[さんずい+彎]と布勢湖がふりわけになつてゐたから名が擴つたので、布勢湖の口の西側に町が延びてゐる。此邊全體、富山※[さんずい+彎]に向いた方を稱へた名であらう。布勢湖を氷見(ノ)江とするのはよくない。
                   
ひむがし‐の=いち【東(ノ)市】 左京の市※[纏の旁+おおざと]《イチクラ》。左京職の所管である。大和國添上郡古市が、其趾だと言ふ。
 
ひむがし‐の=やすみ‐どの【東(ノ)常宮】 又、東(ノ)安殿。(273)本居宣長以下が大極殿・大安殿を一つにした考へはよくない。古くは、淨見原(ノ)宮の小安殿・外安殿、或は向小殿などが、後の東(ノ)常宮に當るかと思ふが、判然せぬ。唯、恐らくは、大安殿の東に在つた物であらう。
 
ひめ‐かぶら【姫鏑】 ひめ〔二字傍点〕は樋目で、此鏑矢に中ると、深く刺されて拔けない樣にしたのであると言ふが、音に拘泥してゐる。永目矢《ヒメヤ》(記)と同じ物で、箆の長く、音の高い物と思はれる。鹿持雅澄の笑うた契沖説の蟇目鏑とする方が、音韻の無理な説明さへ用ゐなければ、一番、事實に近さうである。
 
ひめ‐しま【姫島】 攝津國大阪の邊。淀川尻の三角洲の大きなもので、大隅島と對照せられてゐる。今、新淀川・神崎川の間に在る稗島《ヘジマ》村を其と言ふのは、例の音轉説である。も少し大阪丘陵によつた方と思はれる。天日槍《アメノヒボコ》に關した比賣許曾《ヒメコソ》傳説(攝津風土記)のある地で、仁徳天皇の行幸に、雁|子生《コム》と言ふ歌のあつた雁の出産した地(記)も比處であるし、安閑天皇の大隅島と媛島(ノ)松原とに、牛を放牧せられたと言ふ(紀)松原も此地で、和銅四年の河邊宮人の歌を作つた頃迄も、松原はあつたのである。尚、此島と密接な關係のある姫島が、今一つ豐後國國東郡|國崎《クニザキ》の海中にある。
 
ひめ‐すが‐はら【姫菅原】 姫と言ふ土地なる菅原。「天《アメ》なる」は日《ヒ》にかけた枕詞で、姫菅原が天に在るのではない。或は姫菅と言ふ一種の菅があつたのであらうか。姫・姫野・姫島・姫山など言ふ地名は多くあるが、どれが此地名としての姫か、訣りさうもない。唯、一个處、最有力さうなのは、伊豫國温泉郡の姫原〔二字右○〕郷(和名抄)の地だ。此處は、木梨輕太子の配流地で、道後温泉に近い關係から、都人に接する機會の多い地である。その旋頭歌の卷七「天なる姫菅原の茅な刈りそね(一二七七)と言ふ句には、傳説的な句ひが多樣であるのも、彼の皇子に關係があり相に思へぬでもない。
 
ひめ‐とね【命婦】 五位以上の位階を有する女官を内命婦と言ふ。又、之に對して、五位以上の位階を有する者の妻を外命婦と言ふ。此區別は、内位・外位に擬して、位の所在を標準として言うたので、外命婦は外官の妻であると言ふのはよくない。周禮の内(274)命婦は九嬪・世婦・女御を謂ひ、外命婦は卿大夫の妻を謂ふとあるのを飜《ウツ》したのである。但、外命婦は、妻たる人が死んで後配《ノチゾヒ》が出來た時、其をも外命婦と呼ぶか、不明(集解穴説)である。又、官仕の有無を論ぜずに、宮中に出入りする者は、すべて言うたのである(同)。其内外命婦とも、中務省の監督を受ける(職員令中務省條)。其朝參の有無は、尚侍が調べる(後宮職員令)。行立次第は、自身、又は夫の官位に從うた。後期王朝には、内命婦は上臈、外命婦は中臈と言ふ事になつてゐる。此等の命婦は、夫と提携して、宮中に權力を持つてゐた。殊に其典型とも言ふべきは、葛城(ノ)王、即、橘諸兄の母、三野王の妾、藤原不比等の後妻なる、内命婦縣(ノ)犬養(ノ)宿禰三千代である。
 
ひめ‐ゆり【姫百合】 今の姫百合と同じ物か、どうかは知れぬ。山地自生の多年生草で、人家にも植ゑて其花を賞する。一根一莖で、尺餘の長さに延び、葉はみつしりと互生してゐる。七月頃、紅黄色の六瓣の花が咲く。殆、躑躅ぐらゐの大きさで、仰向いて開く。
 
ひも‐かゞみ 枕。のとか。紐つきの鏡の意で、其紐は鏡を物に吊りかける爲に、鏡の裏につけてある。即、其紐鏡の紐を解くと言ふので、の〔傍点〕を隔てて解か〔二字傍点〕に係つたのか、又は莫解《ナト》きと言ふべき處を、音韻の上からのとか〔三字傍点〕に轉じてかけたのか。但、なとき〔三字傍点〕の義なら、解かぬものと言ふ事にはならぬ。解くなと言ふ禁止であるから、恐らくは、本集時代の婦人には、鏡の紐を解いてはならぬと言ふ信仰が行はれてゐた爲に、言うたものとも見られる。卷十一「ひもかゞみ能登香《ノトカ》(ノ)山の誰故か君來ませるに紐とかずねむ(二四二四)。
 
ひも‐の‐を=の 枕。心に入る。いつがる。紐の緒は、紐とした緒で、衣の紐か、裳の紐か、わからぬ。衣の紐と見れば、脇の下に穿けた孔から通して左右のを結び合せるものであるから、其孔を通す事を入る〔二字傍点〕と言うたので、紐の緒の入るとつゞけるのだと言ふ考へもあたつてゐる。又、いつがる〔四字傍点〕は、卷九「豐國の香春は我家紐(ノ)子にいつがりをれば香春はわぎへ(一七六七)のいつがる〔四字傍点〕で、つながる〔四字傍点〕と言ふ意では(い−継がる)あるが、此歌にもあるとほり、離れな(275)いでゐる・くつゝいてゐるなど言ふ用語例である。だから單に紐と言ふから、つなぎあはさるとつゞけたと見てもよいが、紐などの絡みあうて解けぬ容子と見るのが、適當らしい。遊女の名が、紐(ノ)子であつた處から、名に興を持つて、つがる〔三字傍点〕と言ふ紐の縁語で、纏綿する意を現したものと見るべきである。又、心に入りて〔五字傍点〕に接するぐあひは、或はこゞる〔三字傍点〕・こる〔二字傍点〕など言ふ語と縁のある語で、絲のもつれきつて解けぬ迄固まつたのを言うたので、其からこゝろ〔三字傍点〕と類音にかけたものと見るべきであらう。
 
ひやうえう【平榮】 聖武天皇・孝謙天皇朝の東大寺の僧で、越前國庄園の野占使となつた。傳は知れぬ。
 
ひゆ【譬喩】 作者の本意を、全く現さずに、すべてを物に托して歌つてある作を、譬喩歌と言ふ。寄物陳思は事物の特質を歌うて、それに續いて作者の思想を述べるのであるが、譬喩歌では、作者の心は全く陰になつてゐる相違がある。本集には、雜歌・相聞・挽歌と相竝んで、一部類をなしてゐるが、これは相聞のうちの正述心緒・寄物陳思と竝ぶべきで、すべて相聞往來に屬すべき戀歌なのである。毛詩に所謂「比」の體が譬喩歌である。譬喩歌の數は尠い。此名目は、柿本朝臣人麻呂集のを踏襲したものであらう、と友人武田祐吉は言うてゐる。なほ本集の譬喩歌は、單に比喩の歌ばかりでなく、興體の歌迄も一つにこめてゐるので、比興歌と實は言ふべきである。興體の歌には、主觀と客觀との融合が、自然にうまく行はれて、所謂象徴詩とも言ふべき歌も澤山ある。此體のものは、技巧の巧なのもあるが、概して、枕詞・序歌の系統から進んで來たものゝほかは、採るべきものは尠い。唯ある點まで、支那文學の影響を形式や内容の上に殘してゐるのが、文化史上から見て興味を惹くばかりである。
 
ひら【比良】 又、枚《ヒラ》。平《ヒラ》。近江國滋賀郡比良川を中心とした地方。元は木戸・比良・小松などに亙つて、漣地方の北に擴つてゐたのが、後に眞野《マノ》・和邇《ワニ》などを境として、遠ざかつたものと考へる。北は直に高島の勝野に接したのである。今、北比良・南比良などある。後に比良八講《ヒラハカウ》で名を得た最勝寺は、此頃、すでに此地にあつたのであらう。
 
 ひら‐の‐みなと【比良(ノ)水門】 又、枚(ノ)湖。比良川の川(276)口。比良颪に起ち騷ぐ、湖水の風波を避ける事になつてゐたのであらう。
 
 ひら‐やま【比良山】 比良地方の西に亙つた山で、三里程に連つてゐる。比叡山の翠黛山の北に續いて、高さは比叡よりも遙かに優れてゐる。
 
ひる【蒜】 水氣のある所には、山にでも野にでも生えてゐる。葉はねぎに似て大きく、細く微かな稜がある。長く年を重ねたものは、徑二分、長さ二尺ばかり、數葉互生して、其臭も葱の樣である。春、苗根を※[者/火]て食用にする。根は白色で、棗位の大きさである。夏一二尺の莖を出して、其端に紫色の花が群つて咲く。大抵、野生の物を用ゐた樣で、蒜摘むと言ふのは、根ばかりでなく、葉を摘んだ事もあるのだらう。古人は、此臭みの多い根を嗜んだ事は、勿論であらうが、其臭味を嫌うて、魔厭の近づかぬものだと言ふ信仰も、伴うてゐた樣である。
 
ひれ【領巾】 又、肩巾(紀)。領《エリクビ》・肩にかけて後に垂れる布。元は髪脂の襟を汚すのを防いだのであらうが、手繦の袖をからげるのに對して、髪の毛の散亂を防ぐ爲にしたものかも知れぬ。本集時代には、裝飾として專ら用ゐられてゐる。但、古代から、領巾には一種の不思議な力のあるものと信じてゐたと見えて、蛇《ヘミ》の比禮・蜈蚣の比禮(記)。又、蜂(ノ)比禮、或は振浪《フルナミ》(ノ)比禮、切浪《キルナミ》(ノ)比禮、振風《フルカゼ》(ノ)比禮、切風《キルカゼ》(ノ)比禮(同)などの信仰があつた。此比禮は、領巾に相違ない。松浦佐用媛が領巾を振つたと言ふのも、或は領巾の威力で、狹手彦の船を招きかへさうとしたと言ふ、肝腎の點が落ちてゐるのではなからうか。領巾は、常服に限つてつけたのであらうが、後には禮服にもつける樣になつたらしい。領巾掛くる伴緒《トモノヲ》・手繦《タスキ》かくる伴緒と對して、女に限る樣に考へるのゝよくない事は、隼人らの服裝に、緋帛肩巾とある(延喜式)のを見ても知れる。此も長髪の亂れて穢いのを防ぐ爲か。其材料は、よい絹布類を用ゐた樣である。領巾をつけた容子は、字豆良登理比禮登理加氣弖《ウヅラトリヒレトリカケテ》(雄略天皇記)とある樣に、鶉の頸の斑に似た樣に懸けられてゐたものと思はれる。
 
ひろかは‐の=ひめ‐おほきみ【廣河(ノ)女王】 穗積(ノ)皇子の孫女で、上道《カムツミチノ》王の女である。淳仁天皇の天平寶字七年正月に、從五位下に敍せられて居る。
 
(277)ひろせ‐がは【廣瀬川】 又、廣瀬川。大和國舊廣瀬郡を流れる川。今、北葛城郡の東部の高臺地を流れて、大和川に這入る川で、大和|國中《クニナカ》の川は、大抵、田原本平原に集つて(佐保川・初瀬川・飛鳥川・葛城川)北へ流れ、今の百済村の邊で廣くなり、川合に至つて、大和川と合うてゐる。廣瀬川と言ふのは、此川合を中心として呼んだ名であらう。川によつて廣瀬の地名が出來て、其が更に川の名ともなつたのであらう。名高い廣湍河合《ヒロセカハアヒノ》神は、川合の地にいます社である。
 
ひ‐を【氷魚】 近江の琵琶湖や、山城國の宇治川などに産出するものが、最、有名である。形は白魚の樣で、今少し小さく、色は白くて、氷の樣だからの名。秋から冬にかけて、網代をかけて捕へる。
 
ひ‐を=かふ【日を易ふ】 次の日にする。翌日までのばす』。卷十二「月易へて君をば見むと思へかも日もかへずして、戀のしげゝき(三一三一)。これは此詞の打消で、其日の中にの意味である。かふ〔二字傍点〕はかはらせるで、月かはる・日かはる(或は自動詞にも月かふ・日かふ)と言うたのを、他動詞にうつして、自然にかはつたのに、自分の所爲《セヰ》で、月かはり日がかはると言ふ樣な表出をしたので、動詞の相をかへる事に由つて、文章全體を轉換させたのである。
 
     ふ
 
ふ【編節】 次條の語の名詞。簾・疊・薦・筵などの經《タテ》とした絲・葛《カツラ》・繩などの間隔(ア)。此意を轉じて、布の隔。著物の身幅(イ)。「まをごもの」參照。
 
ふ【編】 間をおいて編む』。下二段活用の他動詞。前條の名詞を活用させたものか。隔《ヘ》を動詞化したのか。
                   
經《タテ》疎《アラ》く、横繁い筵・簾風の物は、槌《ツチ》の子《コ》の間隔を措《オ》いて編むから出た語であらう。
 
 へ‐あむ 筵などを編む(ア)。間があく。時日がたつ(イ)。卷十二「逢ふよしの出で來む迄は、疊薦|重編《ヘアミ》數《シバ/\》夢にし見てむ(二九九五)。
 
ふ【原】 はら。物の集つてゐる處』。もと稍廣めな場處を斥す語であつたのが、既に生《フ》の言語情調を持つ樣になりかゝつてゐる。これは飜切を國語の表記に應用した處から出てゐる。その主要植物の名をとつて(278)茅原《チフ》・葎原《ムグラフ》などゝ言ふ。又、埴原《ハニフ》・芥原《アクタフ》などは、生《フ》と言ふ終止名詞でない事を示してゐる。本集より古く、橿《カシ》(ノ)原《フ》など言ふ語があつたので見ても、原に近い意味で、元、獨立語であつた事は明らかである。
 
ふかつ=しま‐やま【深津島山】 備後國舊深津郡。今深安郡。川口・野上から福山市などに亙る地方は、もと穴(ノ)海〔簑島が蘆田川を障へてゐた爲に出來た地形で、今の手城・水呑の海※[さんずい+彎]が、山手・中津原・神邊の村々迄曲り入つてゐた(福山史料)〕。蘆田川の流域を中心にした福山平原が其跡で、元和・寛永頃迄は、まだ渺々とした海であつた(福山史料)と言ふ。穴(ノ)海が段々干潟になつて來たのを、正保年中に水野家で新田を開いて後、今では遙の川口に俤を止めてゐるばかりになつた。其穴(ノ)海の中に隆起してゐた地を言うたので、桑滄の變を經た今日では、殆、其と知る事が出來なくなつた。
 
ふかみ‐の=むら【深海(ノ)村】 元、越前國加賀郡。此時代には、まだ加賀國が分れてなかつたのである。今、加賀國河北郡。後期王朝に驛名(延喜式)として録せられてゐるから、本集時代も既に、人居が多かつたのであらう。驛名の田上・深見・横山とある順序から見ても、河北郡で、今の河北潟の東岸に在つたのであらうかと言ふ。
 
ふか‐みる=の 枕。ふかめて。ふか〔二字傍点〕と言ふ同音を繰り返した枕詞である。ふかみる〔四字傍点〕は深海松《フカミル》で、海底深き場處に生えたものを斥す。
 
ふか・む【深む】 深くする。深く何々する。深く入りこむ』。下二段活用。自他兩動詞に通じる。卷十一「石の上にもとほる※[木+聖]《ムロ》の心いたく何に深めて思ひそめけむ(二四八八)。形は他動的に出來てゐながら、實は自動詞にも用ゐてゐる(此方が古い樣である)點は、「根を深み」など言ふ副詞的語尾み〔傍点〕の過程を含んでゐる語である事を、明らかに見せてゐる。
 
ふき‐の=とじ【吹黄(ノ)刀自】 天武天皇朝の人。傳未詳。安貴(ノ)女王に侍してゐた事もあるが、乳母か、侍女か。或は單なる官女、又は志斐《シヒ》(ノ)嫗《オムナ》などゝ同じく、家庭教師のやうな者で、方々の宮に侍したものかとも考へられる。
 
ふ‐ぐし【掘串】 金屬製の物をかなふくし〔五字傍点〕−※[金+讒の旁](和名抄)と後期王朝にも言うてゐる。土を掘る匙形の器。(279)菜を掘り取る爲に用ゐる。今もふぐせ〔三字傍点〕など言ふ地方がある相である。ほるくし〔四字傍点〕の約だ、とする説は、名義適うてはゐるが、よくない。
 
ふけひ【吹飯】 和泉國泉南郡|深日《フケヒ》村。前に海、後に孝子の飯盛山を控へてゐる。紀伊國へ越える順路故、此處に深日(ノ)行宮が出來た(續紀)のである。大阪※[さんずい+彎]沿岸の地の中で、此地から淡路への距離が一番近い。此から三里の孝子《ケウシ》越えをして和歌山に出るのである。尤、本集時代には、海岸を加太へ廻つたものらしい。
 
ふさ【夥】 ふつさり。一杯に。たんまり』。ふすさ〔三字傍点〕の簡約か。又、た〔傍点〕は數詞語尾で、ふさ〔二字傍点〕が語根で、ふさた〔三字傍点〕迄を一語と見るべきで、ふさたをり〔五字傍点〕は、ふさ〔二字傍点〕手折《タヲ》りでなく、ふさた〔三字傍点〕折りかも知れぬ。
 
ふじ【富士】 常陸風土記に、昔、祖神尊《ミオヤノミコト》諸處を巡行して、駿河國の富士に至つて宿を乞うた時、富士の神が、今日は新嘗の夜だから、宿は貸されない、と斷つたので、祖神尊が恨んで、自分の親にさへ宿を貸さない樣な者の山は、夏冬とも雪が降つて、寒さは甚しく、人民が登り得ず、食物も無くなるぞ、と言つたと言ふ話が見えてゐる。
 
 ふじ‐の‐しばやま【富士(ノ)柴山】 裾野の灌木帶で、雜木をとる故の名であらう(杣山の對)か。或は富士の神を遙拜するのに、柴を折り插した爲の名であらうか。又、富士《フジ》(ノ)嶺《ネ》。
 
ふじ‐かは【富士川】 甲斐國の釜無・笛吹の二流が、西八代の市川大門で合うた處からの名である。其下流が富士の西を通つて、富士地方の水流を集めて下るから言うたのである。富士川十八里と稱へられて、甲斐國で十三里、駿河國に這入つて五里、蒲原附近で海に注ぐ。卷三「富士川と人の渡るも、此山の水のたぎちぞ(三一九)と言ふのは、大づかみに觀察して言うたのである。
 
ふし‐ごえ【伏越】 駿河國富士郡。富士の山麓の海と闘ふ處。昔は駿河※[さんずい+彎]が深く入つてゐたのか。又、大和國北葛城郡長尾の上の字岩橋から、河内國南河内郡|平石《ヒライハ》へ出る岩橋越えを、今に伏越と言ふ。此は草香|直越《タヾゴエ》の路に對した名か。葛城の岩橋山の南を通る道で、二上山の南を通る竹内越が出來てからは、人が通らなくなつた。
 
(280)ふしみ【伏見】 山城國紀伊郡。桂川・宇治川の河合の地。後に發達して今の伏見町となつて、北方へ擴つたのである。今南に、宇治川を隔てゝ、巨椋《オグラ》池に對してゐるが、本集時代には、此池は、此地點に出來た入り江だつたのである。「え」參照。
 
ふすさ‐に【夥に】 ふつさりと。十分に。たんまりと。豐かに』。卷十四「麻苧等を麻笥にふすさに績《ウ》まずとも明日來せざめやいざせ小床に(三四八四)。
 
ふすま【衾】 大和國山邊郡。石上・布留の南。柳本の東北。朝和村邊の汎稱であらう。手白香《タシラガ》(ノ)皇女の衾田(ノ)墓は、此地にある。衾田と言ふのは、山地に對して、耕地を斥したので、飛鳥に對する飛鳥田の樣なものである。此處は古の共同墓地として貴族たちの埋葬地となつてゐたのである。次條參照。
 
 ふすま‐ぢ【衾路】 衾間路、即、衾地方の意。衾田と衾路とを、音韻上から混同するはよくない。今、萱生千塚など古墳の分布の多いを見ても、此邊が墳墓地とせられてゐた時代が想見せられる。
 
  ふすま‐ぢ‐を 引手の山の枕詞とするのはよくない。近接の地名を竝べた迄である。石(ノ)上布留ほどの慣用語でもない。引手(ノ)山は、釜口山を其と認定する人もある樣だが、或はもつと北によつて、奈良に近かつたのかも知れぬ。
 
ふせ【布施】 梵語、檀那(Dana)の意譯。詳しくは檀波羅蜜(布施度・布施婆羅蜜)と言ふ。到彼岸六方便の一つである。博く捨捐して功徳を積んで、其によつて善果を得ようとする事で、財寶で以て布施するのを下布施、自身の肉身で以てするのを中布施、樣々の布施の功徳を積んでゐながら、其行ひに執着せないでゐるのを、上布施とする(智度論)。此語などは、外來そのまゝに用ゐられてゐた語で、ぬさ〔二字傍点〕と意譯したのはよくない。
 
ふせ‐いほ【臥せ廬】 賤しい土民の小家。地面と軒との離れてゐぬ、苫《トマ》を臥せたゞけの小屋である。其外觀のへたばつた樣に見えたからとも思はれる。卷五「伏せ廬の曲げ廬の中に(八九二)。
 
ふせ‐の‐ひとぬし【布勢(ノ)人主】 姓朝臣。天平勝寶四年、藤原(ノ)清河・大伴(ノ)胡麻呂等の下に、遣唐大使の判官正六位上で、第四船に乘つて出たが、六年四月に薩摩國石籬(ノ)浦に還つて來たので、其年七月、從五(281)位下になつて、駿河守に赴任し、翌七年、防人の部領使を勤め、淳仁天皇の天平寶字三年五月右少辨となり、四年正月山陽道巡察使をつとめ、七年正月從五位上・右京亮となり、同年五月文部大輔に轉じ、八年四月上總守、稱徳天皇神護景雲元年八月式部大輔、三年六月出雲守に歴任した。
 
ふせ‐の=みづうみ【布勢(ノ)湖】 越中國氷見郡布勢(ノ)里の湖。北國普通の潟の大きなもので、富山※[さんずい+彎]に出來た一つである。又、十二町潟とも言ふ。本集時代には、もつと大きかつたのが、今は水あせて田となつてゐる處も多い。所謂|乎布《ヲフ》(ノ)崎・垂姫《タルヒメ》(ノ)崎などは、夙くの昔に、平地になつてゐるのである。徳川初期の埋め立ての爲に、今では東西四十町、南北廣くて十町、狹ければ一二町の處もあり、細い水路で、富山※[さんずい+彎]と續いてゐる。此地方は、布勢朝臣(姓氏録)の本貫で、布勢(ノ)神社(延喜式)も在つたのである。
 
ふせや=たき 枕。すゝし。すゝ〔二字傍点〕は煤《スヽ》の原《モト》の動詞で「煤《スヽ》たれど」など言ふ。其をすゝし〔三字傍点〕(勤)にかけたので、すゝし〔三字傍点〕は形容詞の終止形連體、又、動詞とも考へられる。伏屋に焚く木の煤《ス》すとつゞけたので、「ふせやにたく」と言はずに、に〔傍点〕を脱して、「ふせやたき」と體言化したのは、枕詞の例によつたのである。
 
ふせ‐や=たて【臥せ屋建て】 伏屋の軒の端《ツマ》を、妻どひのつま〔二字傍点〕にかけた枕詞だと言ふが、此は、枕詞と言ふ程のものではなからう。妻どひして、其を容るべき小さな閨屋《ツマヤ》を建てたと言ふのを、時間を前後にしたものと見るか、迎へようとして、豫め閨屋を建てたと見るか、どちらでもとほる樣である。
 
ふた‐あや【兩綾】 二色綾であらうと、鹿持雅澄は主張しながら、二※[穴/果]綾・二花綾などに疑ひを繋いでゐた樣である。綾文の二※[穴/果]の物がよく見えるから、此も二※[穴/果]であるから言うたと見るがよからう。
 
ふたかみ‐やま【二上山】 越中國射水郡。高岡市の北方、伏木町の西南一里、所謂氷見(ノ)江の海岸から望むと、三百めいとる〔四字右・〕の小山も雄偉に見えて、目を惹いたのである。又、大和國北葛城郡。
 
ふたぎ【布當】 山城國相樂郡。恭仁京の地の舊稱である。其故、大養徳恭仁(ノ)京を、布當(ノ)宮とも稱へたのである。蕃種|福當《フタギ》(ノ)連の居地であらう。
 
ふたほ‐がみ【布多富神】 あしけ〔三字傍点〕(惡しき)を起す枕(282)詞と思はれる。布多富は地名で、下野國布多富と言ふ地に鎭まり坐した神であらう。卷二十「布多富神惡しけ人なり(四三八二)。又、富は良などの誤りで、布多良《フタラ》、即、二荒神か。或は備後風土記逸文に見えた、武塔《フタフ》神信仰が、東國にも行はれて、其「皆|悉《スデ》にころしほろぼしてき」とたけびをした樣な稜威を恐れ、又、疫病を避けようとしたのではなからうか。尚、強ひて言へば、東歌には、地理觀念の發達せぬ時代の事とて間違ひも見える樣だから、布多富の地を、他國に求めてよいかも知れぬ。二村山の如きも、村をふれ〔二字傍点〕と訓んでゐるから、布多富禮《フタフレ》山と言うたとしたなら、其山の神を布多富神(ら〔傍点〕行音の脱落は多いこと故)と言うたであらう。富は、ほ〔傍点〕ともふ〔傍点〕とも讀めるのである。又、下總國岡田郡(豐田郡)意富比神社(延喜式)を、舊訓にふとひ〔三字傍点〕とも訓み、太日(下總國太日河『浮橋』四艘−三代絡)の地もあるから、布多比《フタヒ》などの訛傳とも思へぬでもない。舊説では、ほがみ〔三字傍点〕は小腹で、ふた〔二字傍点〕は兩方の意、あしけ人なり〔六字傍点〕を獨立させて兩小腹の疝疾《アタヤマヒ》をわがする時にの意だ、と言うた本居宣長説は、考へた説ではあるが、轉倒のぐあひが苦しい。鹿持雅澄は、大小腹《フトホガミ》で感情の粗大な同情のない、惡しい人との意だ(萬葉集古義)としてゐる。又、或説に、小腹即心で、二心だから、腹ぐろくわるい(古義)と言ふやうに述べてゐる。此等の説、皆、自v臍以下謂(フ)2之(ヲ)水腹(ト)1、或云(フ)2小腹1、和名|古乃加美《コノカミ》とあるのを、ほがみ〔三字傍点〕にひきつけて、或は股上《モヽカミ》だ(宣長)と言ひ、或は、太小腹、古乃の切ほ〔傍点〕で、ほがみ〔三字傍点〕だ(雅澄)と言ふ類で、信じ難い。
 
ふたみ【二見】 三河國。在り處知れぬ。但、御油から本野《ホンノ》原・豐川へ出る道と、御油から渡津《ワタウツ》・豐橋へかかる道と二道が分れてゐて、前者を姫街道と言うてゐるから、後者は男の通る爲であつたのであらう(大日本地名辭書)と言ふのは、舊地誌の説であらうが、二見と言ふ名に囚はれた妄説で、道が分岐してゐるから、二見でない事は、全國に分布してゐる地名なる事から見ても明らかで、二見(ノ)里と言ふのが、古くあつたのであらう。
 
 ふたみ‐の‐みち【二見(ノ)道】 二見の里を通つてゐる道。兩方に分れて一つの目的に向はずとも、前後(283)に街道を別れて行く事は、あたりまへの事である。
 
ふた‐ゆく【二行く】 くりかへして來る。幾度もつゞく。二とほりの過程を經る』。か行四段活用。自動詞。二去(走は誤か)・二行・二往など宛てる。行く〔二字傍点〕は時間の上に使ふときは、其來去の意を現し、其過程を示す。「常夜往《トコヨユク》(記)は常夜のありさまで、時間が續く意である。卷九「とこしへに夏冬|往哉《ユケヤ》(一六八二)は、夏と冬とが共に來るで、いつも夏であり、冬でもある意である。だから、行く〔二字傍点〕と譯せず、來る〔二字傍点〕と説く方がよい。ふた〔二字傍点〕は二・再の意で、從來、雙・竝の義とし、交錯經過の意にとつたのは「わが君は」の歌に欺かれたので、亦單に二度の意でなく、幾度も〔三字傍点〕である。卷四「わが君は、わけをば死ねと思へかも、違ふ夜逢はぬ夜|竝行《フタユ》きぬ良武《ラム》(五五二)。同「うつせみの世やも二行《フタユ》く。何すとか、妹に逢はずてわがひとり寢む(七三三)。卷七「世の中は誠|二代者不往有之《フタヨハユカザラシ》。過ぎにし妹に逢はなく思へば(一四一〇)。
 
ふぢえ‐の=うら【藤江(ノ)浦】 播磨國明石郡。今、林崎村の大字に藤江がある。此地の浦を言うたのであらう。明石郡大領葛江(ノ)我孫《アビコ》ノ馬養《ウマカヒ》(續紀)など言ふ名も見えてゐる。
 
ふぢ‐ごろも【葛衣】 葛蔓《フヂツル》の皮の繊維で織つた布の着物。そまつな着物。帛・栲・麻の和栲なのに對して荒栲と言ふ。あらたへのふぢ〔七字傍点〕と言ふ枕詞の呼應は、之から出てゐる。庶民の服であるが、貴族も、服喪期間は、之を着る。それで喪服が即、葛衣と言はれたのである。
 
 ふぢ‐ごろも 枕。 まどほ。なる。ま〔傍点〕は目《マ》で、織り目である。ま〔傍点〕・め〔傍点〕は、本集時代には、常に共通してゐる。目が荒い處から、目遠《マドホ》と言ひ、庶民の勞働などに著て、よごれたり、よれ/\になつたりし易い處から、褻《ナ》るにかけたのである。
 
ふぢしろ【藤白】 紀伊國海草郡内海村。藤白の坂は、郡中で有田郡によつた地で、和歌山から有田へ踰える三峠のはじめにかゝる阪路の名。岩代と藤白と近接してゐる樣に考へるの(日本書紀通證、其他)は、書紀の文をよく讀まぬからである。後世、鈴木(ノ)三郎・龜井(ノ)六郎の郷貫となつてゐる。
 
ふぢ‐なみ【藤靡】 語意不明。藤靡《フヂナミ》の意とする説が勢(284)力を有つてゐる。藤かづらの柔軟な點からつけた名だと言ふ。或は藤波〔二字傍点〕と言ふ漢語の直譯が、奈良時代の人の嗜好に適うて廣くなつたのかも知れぬ。藤の花・藤なみの花とも言ひ、藤・藤なみとも言うて、等しく花を現してゐる。
 
ふぢ‐はら【藤原】 今、大和國高市郡高殿村の地。ほぼ今の鐵道線路より南、舊|甘橿《アマカシ》(ノ)丘(今、鋤かれて、處々小山となつてゐる)より東にあつたものと見える。喜田貞吉博士は、飛鳥(ノ)里をも含んで擴つた都だとしてゐるが、其はあまり廣きに過ぎ、八釣《ヤツリ》・藤原など二个處まである理由を知るに苦しむ。南は、どこ迄擴つてゐたか知れぬが、略、今ある大官大寺の跡位迄あつたものであらう。東は戒外の香具山の尾を境として、一直線に北に及んでゐたもので、宮城は、其北邊にあつたものと見える。藤原の名は、此處に藤井のあつた爲に、名づけた藤井个原の略だと言ふが、實は飛鳥の大原、一名藤原の名をうつしたものと見るが、適當な樣である。後の方の藤原は、藤原家(中臣)の本貫で、天武天皇の大原(ノ)夫人、一名藤原(ノ)夫人の家のあつたのも此處で、今、飛鳥村飛鳥の上、丘陵中の小原の地が、其である。淨見原(ノ)宮の天皇との贈答のあつたのも、此地形を知つてかゝらねばならぬ。
 
ふぢはら‐の=いらつめ【藤原(ノ)郎女】 藤原(ノ)麻呂の女。母は坂上(ノ)郎女であらう。さうすると、田村大孃や坂上大孃、二孃の異父姉に當るのである。
 
ふぢはら‐の‐うまかひ【藤原(ノ)宇合】 又、馬養。不比等の第三子で、天武天皇十三年に生れた。元正天皇の靈龜二年八月に遣唐副使となつて、從五位下に敍せられ、養老三年正月正五位上になり、七月常陸守で安房・上總・下總の三國の按察使となり、五年正月正四位上に進み、聖武天皇の神龜元年四月式部卿でゐて持節大將軍となつて蝦夷を征し、二年閏正月從三位勲二等を授けられ、三年十月知造難波宮事、天平三年八月參議・畿内副總管、四年八月西海道節度使に歴任し、六年正月正三位となつて、九年八月五日薨じた。年四十四である。懷風藻には、彼の詩六首を録してゐる。中に常陸國に在つた時、京に在る倭判官に贈つた詩・左僕射長(ノ)王の宅の秋日の宴の詩は、本集と交渉がある。又、「賢者悽2年暮1、明君(285)冀2日新1、周日載2逸老1、殷夢得2伊人1、搏擧非v同v翼、相忘不v異v鱗、南冠勞2楚奏1、北節倦2胡塵1、學類2東方朔1、年餘2朱買臣1、二毛雖2已富1、萬卷徒然貧(悲不遇)。往歳東山役、今年西海行、行人一生裏、幾度倦2邊兵1(奉2西海道節度使1之作)等には、彼の不平と、抱負とが見える。
 
ふぢはら‐の=おは‐ぎさき【藤原(ノ)大后】 藤原不比等の女で、安宿姫《アスカヒメ》と言ひ、聖武天皇の皇后となつて、光明皇后と言うた。人臣で皇后となられた最初の方である。此方の立后の時の宣命には、仁徳天皇の后磐(ノ)姫の事を引いた辯解がある。幼い時から聽明で、天皇まだ皇太子の時、十六で妃になつた。天皇が即位されると、從三位に敍せられて夫人となり、孝謙天皇・淳仁天皇を生まれ、次で正三位を授けられ、天平元年八月に皇后に立たれ、淳仁天皇の天平寶字四年六月七日に年六十で崩ぜられ、今の大和國添上郡佐保村大字法蓮の佐保山の東陵に葬つた。光明皇后と言ふのは、體貌、殊に麗しく光耀がある樣だと言ふので名づけたと言ふ。天資仁慈で、厚く佛教を崇信して、天皇に慂めて東大寺を建てたり、諸國に國分寺を創めたり、又、悲田・施藥の兩院を置いて、飢饉や病氣を救はれた。又、先妣の供養として、山階寺《ヤマシナデラ》に西金堂を建てられ、金字の一切經と、律論とを手寫して納められた。皇后は又、書に巧で、文章も上手で居られた。
 
ふぢはら‐の‐きよかは【藤原(ノ)清河】 房前の第四子。聖武天皇の天平十二年十一月從五位下に敍せられてから、十三年七月中務少輔、十五年五月正五位下、六月|大養徳《ヤマト》(ノ)守に歴任して、十七年正月正五位上、十八年四月從四位下、孝謙天皇の天平勝寶元年七月參議、二年九月遣唐大使に任じ、四年閏三月正四位上となり、出發したが逆風に逢うて、唐の南邊驩州に漂着し、土人の亂に會うて船を害せられ、やつと身を以て免れたが、唐に止つて歸朝する事が出來ず、前後十數年居て、終に唐で死んだ。朝廷では不在でも、累りに彼の官位を陞進させて、天平賓字四年二月文部卿、八年正月從三位に敍し、光仁天皇の寶龜六年には、時の遣唐使に託して、優詔を賜つて、共に歸朝せしめようとしたが、其も出來なかつた。十年二月には、從二位を贈つた。
 
(286)ふぢはら‐の‐すくなまろ【藤原(ノ)宿奈麻呂】 宇合の第二子、良繼の事である。聖武天皇の天平十二年藤原廣嗣の亂に坐し、伊豆國に流されたけれど、天平十八年四月從五位下に敍し、六月越前守と爲り、同九月上總守、天平勝寶四年十一月相摸守、天平寶字元年五月從五位上、翌六月民部少輔、同三年十一月右中辨、同五年正月上野守、同七年正月兼造宮大輔、同八年九月從四位下、同十月正四位上・大宰帥、天平神護二年十一月從三位、神護景雲二年十一月兼造法華寺長官、寶龜元年七月參議、同八月騎兵司、大宰帥、同九月式部卿を兼ね、光仁天皇の寶龜元年十月正三位となり、二年三月内臣に任じ、五年正月從二位に進み、八年九月十八日内大臣從二位動四等で薨じた。年六十二。從一位を贈られた。
 
ふぢはら‐の‐とよなり【藤原(ノ)豐成】 武智麻呂の長子。仲麻呂の兄である。聖武天皇の神龜元年二月從五位下に敍せられ、天平四年正月從五位上、九年二月正五位上、九月從四位下に累進して、十二月兵部卿で參議となり、十一年正月正四位下に敍し、十二年二月難波宮の行幸・伊勢國行幸に留守し、十五年五月從三位・中納言となり、十七年八月再び難波行幸に留守し、十八年四月東海道鎭撫使を兼ね、二十年三月從二位・大納言に敍し、孝謙天皇の天平勝寶元年四月右大臣に進み、天平寶字元年五月正二位になつたが、弟仲麻呂と隙を生じ、不忠不孝と言ふ名で、右大臣を停められ、大宰帥に貶せられた。併、難波の別業に行つて、病と稱して、大宰府には赴かなかつた。八年、仲麻呂の服誅と共に、讒訴であつたと言つて、九月右大臣に復し、帶刀四十人を賜つて、從一位に進んだ。稱徳天皇の天平神護元年四月には、上表して先代の功封を返し、十一月二十七日薨じた。時に年六十二。
 
ふぢはら‐の‐とりゆみ【藤原(ノ)執弓】 孝謙天皇の天平勝寶八年、播磨介となり、天平寶字元年從五位下に敍せられてゐる。名もとりゆみ〔四字傍点〕か、とらし〔三字傍点〕か判然せぬ。
 
ふぢはら‐の‐ながて【藤原(ノ)永手】 房前の第二子で、聖武天皇の天平九年九月從五位下に敍せられ、孝謙天皇の天平勝寶元年四月從四位下、二年正月從四位上、四年十一月大倭守、六年正月從三位、天平寶字(287)元年五月中務卿を經て中納言に、淳仁天皇の同七年正月兵部卿、八年九月正三位、稱徳天皇の天平神護元年正月勲二等を授けられ、從二位で、紀伊行幸の御裝束司長官を勤め、二年正月大納言から右大臣に陞り、其邸に行幸を蒙つて、正二位に敍せられ、同十月更に左大臣に任ぜられ、神護景雲三年二月その宅に行幸、從一位を授けられ、寶龜元年六月近衛・外衛・左右兵衛の事を攝し、八月天皇崩御あつて、遺宣を受け、光仁天皇の同年十月正一位に進んで、十一月山城國|相樂《サガラ》郡|出水《イヅミ》郷の山二百町を、父房前の功封として賜ひ、二年二月二十二日暴かに病んで薨じた。年五十八。天皇痛惜せられ、太政大臣を贈り給ふ。
 
ふぢはら‐の‐なかまろ【藤原(ノ)仲麻呂】 武智麻呂の第三子で、淳仁天皇の天平寶字二年に、姓名を賜つて藤原(ノ)惠美《ヱミ》(ノ)押勝《オシカツ》と言うた。敏捷なたちで、書史に通じ、阿部(ノ)少麻呂に就いて算數を學んで、其術に達した。内舍人・大學(ノ)少允を經て、天平十三年七月民部卿、同十五年五月從四位上・參議、翌六月左京大夫、同十七年九月兼近江守、同十八年三月式部卿、同四月東山道鎭撫使、從三位に進み、孝謙天皇の天平勝寶元年七月大納言に昇り、八月紫微令・中衛大將を兼ね、二年正月從二位になつた。彼は天皇に寵せられて、毎に左右に侍して居たが、天平寶字元年三月、皇太子|道祖《フナド》王が廢せられた時、皇嗣に關して、廟堂に異論があつたけれど、天皇は仲麻呂の議に從うて、其女婿大炊王を册立せられた。其爲、參議橘奈良麻呂は、彼を除かうとしたが、事成らずして亡び、仲麻呂の反対派は皆、却けられた。同年五月紫微内相となる。淳仁天皇の即位と共に、彼は、外戚と擁立との廉を以て、權威益隆に、勅を奉じて官名を改正し、翌年八月自ら大保(右大臣)となり、功封三千石・功田一百町を賜り、次で四年正月大師(太政大臣)に進み、從一位となり、六年二月正一位に陞つた。時に其子三人は參議、他は衛府・國司に任じ、親戚亦顯要の地位についたが、道鏡が新に恩寵を蒙る樣になつたので、彼は私かに之を除かうとして、四畿内・三關・近江・丹波・播磨の兵事都督となつた。で、反謀漸く露れて來たので、遂に天皇の逆鱗を蒙つて、官位姓名を奪はれ、功封を没收され(288)た。彼は近江國に去り、次で越前國に這入つて、鹽燒(ノ)王を立てようとして、愛發關に這入つたが、物部廣成の爲に破られ、其子越前守辛加知も亦、任地で殺されたので、進退據を失ひ、船で淺井郡鹽津に航しようとした處、逆風に逢うて、高島郡三尾崎に至つて、官軍と戰ひ、敗れて遂に斬られた。年五十九。
 
ふぢはら‐の‐ひろつぐ【藤原(ノ)廣嗣】 宇合の長子。聖武天皇の天平九年九月從五位下に敍し、十年四月|大養徳《ヤマト》守となつたが、藤原(ノ)豐成・仲麿・永手・吉備|眞備《マキビ》・僧玄※[日+方]と合はず、十二月大宰少貮となつたが、天平十二年八月上奏して、得失を論じ、災異を陳べて、眞備・玄※[日+方]を除かうと請うたが許されず、翌九月遂に兵を太宰府に起した。朝廷では、大野(ノ)東人を大將軍に、紀(ノ)飯麻呂を副將軍に任じ、諸道の兵を盡して之を征伐した。廣嗣は、別將佐伯(ノ)常人と筑後國飯櫃川に戰うて利なく、出でゝ降る者が多かつたので、遂に事の成らざるを知つて、肥前の値駕《チカ》(ノ)島から船に乘つて、耽羅《タムラ》(ノ)島に至り、漂蕩すること一晝夜で、西風吹いて船進まず、再び値駕(ノ)島に歸つたが、進士阿部(ノ)黒麻呂に輔へられ、十一月一日松浦郡で殺された。後、天平勝寶中に、吉備眞備が貶せられて、筑前守・肥後守となつた時、廣嗣の墓に詣でゝ、之を祭つて鏡尊廟(鏡宮)をつくり、又、爲に智識無怨寺を建てたと言ふ事である。皆、廣嗣の祟りを恐れた爲である。廣嗣は、博く典籍に亙り、佛教に通じ、武藝絶倫で、兵法に練達して居り、其上、天文・暦・管舷・歌舞の技藝までも精微を究めて、才能を以て稱せられて居た。少貮の官でゐて、中央政府と爭うた位だから、人物の程も察せられる。
 
ふぢはら‐のふさゝき【藤原(ノ)房前】 不比等の子で、文武天皇の大寶三年正月、勅を奉じて東海道諸國の政績を巡察し、慶雲二年十二月從五位下、元明天皇和銅二年九月東海・東山二道の按察使、同四年四月從五位上、元正天皇の靈龜元年正月從四位下、養老元年十月朝政に參與し、三年正月從四位上、五年正月從三位に進んだ。同十月元明天皇崩御の時、長屋王と共に遺詔を賜り、聖武天皇の即位と共に、神龜元年二月正三位に進んで封を益され、物を賜り、次で授刀長官兼近江・若狹の按察使となり、天平元年九月中務卿に任じ、更に民部卿・中衛大將となり、(289)同四年八月東海・東山二道の節度使となつて、九年四月十七日薨じた。年五十七。大臣の葬儀を賜り、正一位・左大臣を贈られ、二十年の間、食封二千石を賜つた。そして淳仁天皇の天平寶字四年八月には、太政大臣を贈られた。曾て七夕を題として「帝里初涼至、神衿翫2千秋1、 瓊筵振2雅藻1、金閣啓2良遊1、鳳駕飛2雲路1、龍車越2漢流1、欲v知2神仙會1、青鳥入2瓊樓1(懷風藻)と歌うた。又、秋日、長屋王の第に、新羅客を宴した時に賦した詩も殘つてゐる。
 
ふぢはら‐の=ふじん【藤原(ノ)夫人】 「おははらのおほとじ」參照。
 
ふぢはら‐の‐ふびと【藤原(ノ)不比等】 鎌足の第二子で(田邊(ノ)史の家で長じたので、不比等と言ふ)、持統天皇の三年直廣肆であつたが、判事となり、十年直廣貮で資人五十人を賜り、文武天皇二年八月藤原(ノ)朝臣の姓をつぎ、四年六月直廣壹で律令を制定し、大寶元年三月正三位・大納言となり、慶雲元年正月從二位で八百戸を増封せられ、同四年四月二千戸を賜ひ、元明天皇和銅元年正月正二位、三月右大臣、元正天皇の養老四年三月資人三十人を加へられ、八月危篤のをり、三十人の俗人を度して僧とせられ、又、大赦を令したが、同三日終に薨じた。年六十三。太政大臣・正一位を送られ、淳仁天皇の天平寶字四年八月、功績を追慕せられて、近江國十二郡を以て、淡海公に封ぜられた。彼の墓は多武峰にあつて、代々の朝廷から荷前《ノザキ》使を立てられた。曾て元日、詔に應じて、「正朝觀2萬國1、元日臨2兆民1、有v政敷2玄造1、撫v機御2紫宸1、年華已非v故、淑氣亦惟新、鮮雲秀2五彩1、麗景燿2三春1、済々周行士、穆々我朝人、感v徳遊2天澤1、飲v和惟2聖塵1」と賦した。此ほか尚、「懷風藻」に四首の詩を殘して居る。
 
ふぢはら‐の‐まろ【藤原(ノ)麻呂】 又、萬里《マロ》(懷風藻)。藤原不比等の第四子で、元正天皇の養老元年十一月從五位下に敍せられ、五年正月從四位上に進み、六月右京(ノ)大夫となり、聖武天皇の神龜三年正月正四位上、天平元年三月從二位に進み、兵部卿となり、三年八月參議に任じ、十一月山陰道鎭撫使となり、九年正月持節大使として陸奥國に遣され、其七月十三日薨じた。曾て第の園池に置酒し、私かに※[(禾+尤)/山]康・(290)李白を以て任じて、「城市元無v好、林薗賞有v餘、弾v琴仲散地、下v筆伯英書、天霽雲衣落、池明桃錦舒、寄v言禮法士、知3我有2 疎1」と詠じた。此外、今に殘つてゐる詩が、「懷風藻」に四首ある。神納言(大神(ノ)高市麻呂)の墟を過つての詩二首は、凡庸でない彼の理會力を見せてゐる。
 
ふぢはら‐の=みゐ【藤原(ノ)御井】 大和國高市郡。藤原宮地にあつた井である。今も、其清水の趾と言ふものはあるが、信用不信用の問題外である。
 
ふぢはら‐の‐やつか【藤原(ノ)八束】 房前の第三子。聖武天皇の天平十二年正月從五位下、十一月從五位上、同十三年十二月右衛士督、十五年五月正五位上、十六年十一月從四位下、同十九年三月治部卿、天平勝寶四年四月攝津大夫、六年正月從四位上、天平寶字元年八月正四位下、更に參議・中務卿を歴任し、名を眞楯と賜ひ、三年六月正四位上、四年正月大宰帥・從三位、同六年十二月中納言、八年九月正三位、天平神護二年正月大納言、三月十二日、薨じた。年五十二。
 
ふぢはら‐べ=うぢ【藤原部氏】 豐城入彦《トヨキイリヒコノ》命の三世の孫|大御諸別《オホミモロワケ》命の後で、允恭天皇が、藤原の家に居た衣通《ソトホリ》姫を得た時に、姫の爲に、諸國の國造に科して、定めた名代《ナシロ》の部民である。
 
ふぢゐ‐が=はら【藤井个原】 大和國高市郡。香具山の西、藤原の都のまだ出來ぬ頃の名。藤井、即、藤原(ノ)み井とも言はれた水の湛へた處があつたからの名である。尤、此地名を略して藤原と言うたと言ふ説には、賛成出來ぬ。「ふぢはら」參照。
 
ふぢゐ‐の‐おほなり【葛井(ノ)大成】 聖武天皇の神龜五年五月、外從五位下に敍せられて居るが、筑後守になつたのは何時だか判明せぬ。
 
ふぢゐ‐の‐こおゆ【葛井(ノ)子老】 傳は知れぬ。
 
ふぢゐ‐の‐ひろなり【葛井(ノ)廣成】 白猪(ノ)史廣成である。元正天皇養老三年閏七月大外記從六位下で、遣新羅使となり、翌月辭した。四年五月葛井(ノ)連の姓を賜り、聖武天皇天平三年正月外征五位下に敍せられ、十五年三月新羅使來朝の時、筑紫國に出張して供客の事を※[手偏+驗の旁]※[手偏+交]し、六月備後守、七月從五位下、二十年二月從五位上、八月車駕が其家に駐つて、妻の犬養(ノ)八重と共に正五位上に敍せられ、孝謙天皇天(291)平勝寶元年八月中務少輔となつた。曾て藤原不比等に和して、「物外囂塵遠、山中幽隱親、笛浦棲2丹鳳1、琴淵躍2錦鱗1、月後楓聲落、風前松響陳、開v仁對2山路1、獵v智賞2河津1」と詠じ、又「月夜坐2河濱1」と題して「雲飛低2玉柯1、月上動2金波1、落照曹王苑、流光織女河」と歌うた(懷風藻)。
 
ふぢゐ‐の‐もろあひ【葛井(ノ)諸會】 聖武天皇の天平七年九月、大史正六位下であつたが、從五位下・美作守阿部帶麻呂等の殺人罪を裁判するのに、訴人の事を理めずと言ふので、罪せられるところを、纔かに免れた。其後、十七年四月外從五位下に敍せられ、十九年四月相摸守となり、孝謙天皇の天平寶字元年五月從五位下になつた。
 
ぶつそくせき‐の=うた【佛足石(ノ)歌】 大和國添下郡の藥師寺に、佛の足の形を彫つた石がある。其石に垂直に竪てた石に題し刻まれてゐる歌。普通の短歌の形に、更に七言で出來た第六句の添はつてゐる歌が、二十一首殘つてゐる。之は天平勝寶年間に、文室(ノ)眞人淨三(珍努王)が其妻茨田郡の王氏の菩提を弔ふ爲に建てたのである事は、其碑文によつてわかる。其中の一首を、拾遺和歌集に、光明皇后の御歌としてあるが、恐らく誤傳であらう。今、其歌を擧げる。「せんびか」參照。
御足跡《ミアト》つくる石《イシ》の響は天《アメ》に到り、地《ツチ》さへ搖《ユス》れ。父母が爲に。諸人の爲に。
三十《ミソヂ》あまり二つの相《カタチ》、八十種好《ヤソクサ》と備《ソダ》れる人の踏みし足跡どころ。珍《マレ》にもあるかも。
良き人の現目《マサメ》に見けむ御足跡すらを、我はえ見ずて石《イハ》に彫《ヱ》りつく。玉にゑりつく。
この御足跡|八萬光《ヤヨロヅヒカリ》を放ち出《イダ》し、衆諸《モロ/\》救ひ度《ワタ》し給はな。救ひ給はな。
いかなるや人にいませか、石《イハ》の上を土と踏みなし、跡|遣《ノケ》るらむ。貴くもあるか。
健男《マスラヲ》の進み先立ち踏める足跡《アト》を、見つゝ忍ばむ。直《タヾ》にあふ迄に。現《マサ》にあふまでに。
健男の踏み置ける足跡は、石《イハ》の上に今も殘れり。見つゝ偲《シノ》べと。永くしのべと。
この御足跡を訪ね求めて良き人の坐す國には、我も參《マヰ》てむ。衆諸《モロ/\》を率《ヰ》て。
釋迦《サカ》の御足跡|石《イハ》に寫しおき、敬ひて、後の佛に讓り(292)まつらむ。捧ぎまうさむ。
これの世は遷り去るとも、永久《トコトハ》にさ殘りいませ。後の世の爲。再《マタ》の世の爲。
健男《マスラヲ》の御あ(以下缺落)
幸《サキハヒ》のあつき輩《トモガラ》參到《マヰタ》りて現目《マサメ》に見けむ、人の羨《トモ》しも。うれしくもあるか。
をぢなきや、我《ワレ》に劣れる人を多み度《ワタ》さむためと、うつしまつれり。つかへまつれり。
釋迦の御足跡石《ミアトイハ》に寫しおき、行きめぐり、敬ひまつり、わが世は終へむ。この世は終ヘむ。
くすり師は常のもあれど、珍客の今のくすり師、尊かりけり。愛《メグ》しかりけり。
この御あとを瞻《マハ》(廻《マハ》?)りまつれば、足跡主《アトヌシ》の玉の裝《ヨソホ》ひおもほゆるかも。見る如もあるか。大御足跡を見にくる人の過去《イニシカタ》千代の罪さへ滅ぶとぞいふ。除くとぞきく。
人の身は得難くあれば、法の爲《タ》の便《ヨスガ》となれり。つとめ、もろ/\。すゝめ、もろゝ。
四つの蛇《ヘミ》、五つのものゝ集れる穢き身をば、厭ひすつべし。離れ棄つべし。
雷《イカヅチ》の光の如きこれの身は、死《シニ》のおほ君常に竝《タグ》へり。怯《オ》づべからずや。
(上句缺落)ひたる人のたに(爲)、くすり師求む。よき人もとむ。醒さむがために。
以上の歌は、皆、漢字で以て、一字一音に、標音式に書かれてある。
 
ふつま【太馬】 肥え太つた馬。立派な馬』。卷十八「片思ひを馬に太馬に負せても越べにやらば人|掠《カタ》はむかも(四〇八一)。ふとうま〔四字傍点〕の融合。
 
ふと‐しく【太敷く】 しつかりと地を占める。堅固に基礎を固める』。太は、しく〔二字傍点〕を修飾した美稱で、しつかり〔四字傍点〕・丈夫・立派などの意を現す。しく〔二字傍点〕は、地を占める場合に使ふので、此場合は、据ゑる〔三字傍点〕と譯すべき用語例である。形容詞太し〔二字傍点〕の、しく〔二字傍点〕活に再活用したのでない事は、明らかである。
 
ふと‐しる【太知る】 しつかりと占める。或は、立派に著しくしたてる』。知る〔二字傍点〕は、占治の意で、ふとしく〔四字傍点〕とほゞ同義である事は、治《シ》く・治《シ》ると通じてゐるから見ても明らかである。又、知る〔二字傍点〕は著《シ》るで、著し(293)くなると言ふ意の、古動詞だから、著しくする意に用ゐたのだとも説ける。
 
ふと=のりと‐ごと【太祝辭言】 太〔傍点〕は壯大な容子を讃美する修飾語。立派な祝詞。中臣(ノ)太祝辭言〔六字傍点〕は、中臣《ナカトミ》(ノ)祓《ハラヘ》の詞。
 
ふな【鮒】 淡水に棲む魚で、幅は稍廣くて、ひらたく、首は小さく、脊骨は高い。色は全身薄黒、腹だけが幾分黄白である。「糞鮒」は、其泥臭い物を言ふのか、褐色に近い物をいふのか、知る事が出來ぬ。
 
ふな‐せ【船瀬】(補) 今の波止場の類。規模の小さな築港である。水門《ミナト》・入り江と言ふ程でない地形の海岸に、次の碇泊處迄の長い船路、或は難處を控へて、其用意をして行かねばならぬ處などで、一方だけ風あて〔三字傍点〕を防げばよいと言ふ樣な場處に、便宜上、設けた船どまりで、多くは、突堤を突き出して、外海の波を遮つたらしい。本集には、播磨の魚寸隅の船瀬が、二个處見えてゐる。卷六「名寸隅の船瀬ゆ見ゆる淡路島松帆(ノ)浦に(九三五)。同「行き廻り見とも飽かめや。名寸隅の船瀬の濱にしきる白浪(九三七)。鹿持雅澄が、船瀕を地名だとしたのは考へない説で、又、中山嚴水の船居、即、船瀬も(古義)、尤のやうで違うてゐる。船居《フナスヱ》は、今の船おき場・造船所・船おろしと言ふ樣な意で、遣唐使を出す時に、住吉大神に、「大唐に使遣さむとするに、船居なきによりて、播磨國より船乘りして、使を遣さむ、と念ほしめす間《カラ》に、皇神の命以ちて、船居は吾作らむ、と教へ悟し給ひながら、船居作り給へれば、悦び嘉《ウレ》しび、禮代《ヰヤジリ》の幣吊《ミテグラ》を……」と言ふのは、住吉の大前から、出發するのを、まづ大神に斷つて、此處の外には船おき場はありませんが、此處は恐れ多いから爲方なく、播州から出發させようと思うてゐた處が、(以下は、神の心をおしあてゝ言ふのである)、あなた樣が、船おき場は、おれがこさへてやらう、とお告げになつて、其と同時に、船おろし場をこさヘて下さつたから……と言ふので、勝手に船おき場をこさへるのだが、かう言うて、いやをうなしに大神に承知させるのである。又、開2遣唐船居1祭(臨時祭式)と言ふのも、船おき場をこさへる始めに、大神を祭るに過ぎぬのである。一體、船瀬は、支那の土工法の輸入によつて出來たものと見え、奈良か(294)ら平安初期へかけて文獻に現れてゐるので、近江國琵琶湖中の和邇(ノ)船瀬(三代格)の樣なものもあるが、多くは播磨灘を中心としてゐた樣で、攝津國の大輪田《オホワダ》(ノ)船瀬(同)、魚住《ナキズミ》(ノ)船瀬(意見封事・三代格)、水兒(ノ)船瀬(續紀)などが其である、其構造は、沙・石・木材でこさへてあるから、浪の爲に沙石を掠められ、木材は屡土人に盗まれたりして、漸々崩れて荒廢する(三代格の數條の意を摘む)樣である。其地形は、大同小異と思はれるから、魚住《ナキズミ》の船瀬を例にとると、明石郡の海崖に在り、諸國の舟舶、京に入る要路なり。而るに、東西に島|无《ナ》く、南海濶く遠し。微風|動《ヤヽ》吹けば、波涛山の如く起ち、經過の際、能く存する者鮮し。茲《コレ》に因りて、私かに封物を以て舟舶を草創しつ(三代格)とある。而して、多くは民力で經営したものと見えて、和邇・魚住ともに元興寺の僧侶が關係してゐるのは、功徳の爲の私設と見える。水兒は延暦八年十二月と十年十一月とに、國人で稻を獻つて外從五位下を貰つた者が二人迄ある(續紀)。天應元年正月に播磨國の人が蹈を造船瀬所に進つて外從五位下を授つたのも、やはり、此水兒の事であらう(續紀)。かう言ふ風に寄附によつて出來たものだから、船瀬功徳田と造船瀬料田とは、竝びに不輸租田(主税式)とするよしが見えてゐる。
 
ふな‐だな【舟※[木+世]】 舟の舷に添うて亙した、舟子の漕ぐ時に踏む板。卷十七「奈呉(ノ)海人の釣する舟は今こそは舟※[木+世]うちてあへて漕ぎ出め(三九五六)。※[木+世]も無い樣な小舟を、※[木+世]《タナ》なし小舟〔四字傍点〕と言ふ。
 
ふね‐の=おほきみ【舟(ノ)王】 舍人(ノ)親王の御子。淳仁天皇の御弟である。聖武天皇の神龜四年正月從四位下に敍せられ、天平十五年五月從四位上に進み、十八年四月弾正尹になり、孝謙天皇の天平寶字元年五月正四位下、淳仁天皇の同二年八月從三位に進み、三年六月、舍人親王を崇道盡敬皇帝と追謚せられた時、兄弟姉妹と共に、親王を稱し、三品に敍し、四年正月信部(中務)卿となり、六年正月二品に進んだが、八年十月惠美(ノ)押勝に黨した廉で、諸王に下つて、隱岐國に流された。
 
ふは【不破】 美濃國不破郡不破。不破の關の在つた地。郡名にも呼ばれてゐるから、可なり廣い地域である。東は垂井邊迄を稱へたのであらう。今の不破(295)郡よりは狹い。今、關の址と傳へる地は、鈴鹿・逢阪の他の二關に比べると、殆、平野と言うてもよいのであるが、全體が峽谷地で、北の伊吹連山、南の南宮山の尾とで圍まれてゐるので、要害の地であつた爲に、近畿の入口、其西端不破山に關を置いたのである。關の阯は、今の大木戸阪の地だと傳へて、近江との國境に近い中山道の今須《イマス》峠の傍に在るが、多少の相違はあるかも知れぬ。或は此大關に對して、小關と呼ばれる長岡道が、或は古關《コセキ》の義を示してゐるかと考へられる。關个原の地は、ほゞ昔の和※[斬/足]《ワザミ》の地と思はれる。天武天皇の行宮は、此處に在つたのである。「あらちやま」參照。
 
ふゝ‐む【含む】 つぼむ。ふくらむ。花がまだ咲かずに蕾んでゐる』。葉の若くて、まだ開きゝらぬ時にも言ふ事がある。卷十四「何《アド》思《モ》へかあじくま山の楪葉のふゝまる時に風吹かずかも(三五七二)。ふくむ〔三字傍点〕と同じ語であるが、音韻の上から、内藏して、まだ外發せぬ形を言ふ。ふゝむ〔三字傍点〕が古く、ふくむ〔三字傍点〕が新しく思はれる上に、意味も甚しく分化してゐる。
 
ふみ‐おへる‐かめ【圖負へる龜】 支那成語の直譯。字面は、河圖〔右・〕洛書〔右・〕の混淆であるが、意は同じ事で、易經の繋辭に見えた、易の兩つの起原説(俯仰説・河圖説)の一つで、周易は勿論、尚書の洪範九疇も、此に根ざしたものと信ぜられてゐる。支那數理哲學の基礎となるものである。背に圖樣《フミ》をつけた龜の意で、「河出(シ)v圖、洛出(ス)v書(ヲ)(繋辭)の本文の註に、「孔安國云(ハク)、河圖者(ハ)、伏羲氏(ノ)王(タリシトキ)2天下(ニ)1、龍馬出(ヅ)v河(ヲ)、逐(ニ)則(リテ)2其文(ニ)1以畫(シヌ)2八卦(ヲ)1、洛書者(ハ)、禹治(メシ)v水(ヲ)時(尚書正義洪範九疇の條には、天與(フルニ)v禹(ニ)洛(ヨリ)出(シ)v書(ヲ)の六字がある)神龜〔二字右・〕負(ヒテ)v文(ヲ)而列(リ)2於背(ニ)1數〔四字右・〕至(レリ)v九〔右・〕(ニ)、禹遂(ニ)依(リテ)第(イデ)v之(ヲ)、以(テ)成(シタリ)2九類(ヲ)1(孔頴傳)とあるのに據つたので、萬端の事を聖儒にかづける支那では、單に數理の起原としたのみならず、是皆、伏羲・禹王の盛徳の致す所と考へて、聖代には、鳳凰・麒麟、或は龍馬・神龜が出現すると信じてゐた爲に、孔子も道行はれぬ世を歎じて、鳳鳥(ハ)不v至(ラ)、河(ハ)不v出(サ)v圖(ヲ)〔論語子罕篇〕と言うてゐる。祥瑞靈應の迷信は、近江・飛鳥・藤原・寧樂と次第に甚しくなつて來て、朱鳥・大寶・慶雲・和銅・靂龜〔二字傍点〕・養老・神龜〔二字傍点〕・天平〔二字傍点〕(左京職から獻じた龜の背に、天王貴平年知百年の文字があつたから)・感寶(勝(296)寶)・寶字・神護景雲・寶龜〔二字傍点〕(肥後から獻つた白龜に因り)など、孝徳天皇の大化六年から奈良の末迄、皆、祥瑞改元である。其中、龜は、河圖洛書の思想から、殊に慶ばれたので、天智天皇の九年六月に、某邑の中(誤字か。恐らくは都の字)で龜を獲たが、背に、申の字が書かれてあり、上は黄色で、下は玄《クロ》くて、長さは六寸許だつた(紀)とある外、龜は、數度改元の動機となつてゐる。
 
ふみ‐どの【書殿】 文書を所藏しおく館舍。卷五の題詞に見えたのは、大宰府所屬の書殿で、公文書・記録類を藏してゐたものと見える。
 
ふみ‐びと【目・史・主帳・主典・録】 ふびと。しゆてん』。各官廳の第四等の官で、文書記録の事を司る役人。事務員である。太政官に居るのが史、八省に居るのが録、國に居るのが目、郡に居るのが主帳で、主典と言ふのは、勘解由使・齋院等に居るのであるが、後には一般に通用して主典と言ひ、佐官《サクワン》とも言うて居る。
 
ふむ【踏む】 物の上に全身を置いた時の足の動作。足をあげて物を踏む(ア)。あるく(イ)。足を入れる。ふみこむ(ウ)。ふみ固める(エ)』。卷十一「劔大刀|雙刀《モロハ》の鋭きに足踏みて死にゝも死なむ君によりてば(二四九八)、卷十四「信濃路は今の墾《ハリ》路かりばねに足ふましむな沓はけわが背(三三九九)は、(イ)の例で、卷十二「あさぢ原《フ》の茅原《チフ》に足ふみ心ぐみ(三〇五七)は、(ウ)の例、卷十一「新室を踏む靜の子が手玉ならすも(二三五二)は、(エ)の例である。大足別をおほすわけ〔五字傍点〕と言ひ、あし〔二字傍点〕・すね〔二字傍点〕のす〔傍点〕・し〔傍点〕轉じる事は、古代音韻にはありふれた事實であるから、ふむ〔二字傍点〕は足《ス》むであらう。其で、足の動作に汎く亙るのである。
 
ふもだし【絆】 今も言ふほだし〔三字傍点〕で、其原形である。即、馬の足を繋ぐ綱であるが、褌《ハカマ》の一種にも、既にふもだし〔四字傍点〕はある。卷十六の乞食者の歌の「馬にこそふもだしかくも(三八八六)と言ふのは、蟹のふんどしを、當時も、やはり、蟹のふもだしと言うてゐたからの聯想であらう。萬葉時代には、面繋《オモガイ》・腹繋《ハラガイ》・尻繋《シリガイ》をも、ふもだしと言うたのを、其用・其形状が、人間の犢鼻褌と似てゐる處から、馬からうつして、人間の褌にも、ふもだし〔四字傍点〕と言ふ名を隱語として用ゐたのであらう。此は現今、日本民俗の研究によつて(297)も證せられる。因州鳥取邊では、節分に若者中から家々に配るしめ繩の類を、おもがい〔四字傍点〕と言ひ、其眞中に男の生殖器の形をつけておく相である。面腹尻の區別はあつても、等しくおもがい〔四字傍点〕と言ふ事が出來るはずで、元は絆の變形であらう。さすれば、ふもだし・褌などの關係も見えて來る。乞食者の歌も、單に馬の樣に絆つけられてと言ふ事ではなく、馬にふもだしをつけるのはよいが、蟹なるわたしにふもだしかけてと言うて、所謂蟹のふんどしを利かしたのである。
 
ふや‐の‐ちぬまろ【文屋(ノ)智努麻呂】 「ちぬのおほきみ」參照。
 
ふや‐の‐ますひと【文屋(ノ)益人】 「へぐりのふやのますひと」參照。
 
ふゆ‐ごもり 枕。はる。王仁博士の「難波津に咲くや木の花。冬ごもり、今を春べと咲くや。木の花」と言ふ歌が、尠くとも此時代の一時期前から諷誦せられた爲、一文中に主要な地位を占めてゐた、冬ごもりと言ふ語の確實性・描寫性が失はれて來て、とうとう退化して、春の枕詞となつたのであらう。王仁の歌迄も、枕詞と見るは、如何。冬ごもつた草木が發《ハ》るからだと言ふ從來の説はよくない。(尤、此場合の冬ごもりは、冬のうちから「兆す」と言ふ風に説くので、夜ごもりになどのこもる〔三字傍点〕である。又、冬ごもりは、冬ごもるの名詞化で、枕詞の一つの格である)或は、冬ごもる葉の義かと思ふ。
 
ふら‐く(補) ふる事。ふるの(ア)。ふること(である)(イ)』。く〔傍点〕は體言副詞語尾。(ア)(イ)の意味は、其で出來るのである。卷十一「わが夫子《セコ》が使ひを待つと、笠も着ず出でつゝぞ見し。雨の落久爾《フラクニ》(二六八一)は、ふるの〔三字傍点〕に〔右○〕・ふること〔四字傍点〕だのに〔三字右○〕の意。「く」參照。
 
ふら‐ふ【觸らふ】 物に障る。障碍物に行き逢ふ。觸れる。さはる。つきあたる』。は行下二段活用。自動詞。觸る〔二字傍点〕の再活用で、更に再活用して、ふらばふ〔四字傍点〕となる。
 
ふら‐ま‐く(補) 未來に降る事を想像して言ふ。降らむにく〔傍点〕の接續したのである。ふること(未來に)。ふるの(後に)(ア)。ふること(だらう)(イ)。卷二「我が里に大雪ふれり。大原の古りにし里に落卷者後《フラマクハノチ》(一〇三)。
 
(298)ふら‐ゆ【所降】(補) ふられる。降るのに會ふ』。ゆ〔傍点〕は助動詞。動詞下二段と同じ活用をする。る〔傍点〕と同じ所相である。古代には少い自動詞の所相である。卷八「沫雪に所落開有《フラエテサケル》梅の花(一六四一)。
 
ふり‐さく【振り離く】 遠くに目を放つ。遠望する。目の及ぶ限りを見やる』。ふり〔二字傍点〕は敢行の意をもつた接頭語。さく〔二字傍点〕は離《サ》くで、離《サカ》るの原語。能動的の語で、放つの意に近いのである。見さく〔三字傍点〕とも言ふ。
 (補) ずつと目を放つ。遠く見やる』。か行下二段活用。他動詞。さく〔二字傍点〕は離《サカ》らせる意で、遠く放つ意になる。ふり〔二字傍点〕は頭、或は目の動作から出て、接頭語風に固定したのだとも思はれる。卷二「其山を振放見乍《フリサケミツヽ》夕さればあやにかなしみ(一五九)。卷六「振仰而若月《フリサケテミカツキ》見れば(九九四)。必しも高遠な處を見あげる場合ばかりでなく、水平的にも言ふ事は、(一五九)の例で知れよう。
 
ふり‐しく【降り頻く】 頻りに降る。盛んに降る。絶え間なく降る。どん/\ふる』。地面に降り布く意味ではないであらう。
 
ふりわけ‐の=かみ【振り分けの髪】 少女の髪形。頭の頂上で、二つに分けて、兩側へ垂し放した髪。がつそ〔三字傍点〕。おかつぱさん〔六字傍点〕など言ふ。
 
ふる【布留】 大和國山邊郡は、大倭朝廷の故地である處から、其中心地たる石上・布留の地は、大和國中で最古い由緒のある地と、俗間には考へられてゐた上に、石(ノ)上(ノ)神宮あり、地名も布留〔二字傍点〕なり、旁、此地方に對する憧古的の傾向は深かつた樣である。布都《フツ》(ノ)御靈《ミタマ》(又、布留(ノ)御魂)から出たとする地名説明も、極めて古い傳説である。石(ノ)上の地域は廣くて、布留は其中に含まれてゐた爲に、石(ノ)上布留とつゞけ呼ばれ(布留に石上神宮があつた關係で)た習慣から、終に、石(ノ)上が枕詞、布留が古《フル》を現す樣になつたのであらう。石(ノ)上(ノ)乙麻呂の事を、石(ノ)上布留(ノ)命など言うてゐる處から見ても、石(ノ)上布留が、枕詞的交渉を持つに到つた歴史は、極めて長いのである。天武天皇の朝に、此地の神主物部(ノ)首を布瑠(ノ)宿禰とせられたのは、地名から出たのである。
 
ふる‐え【舊江】 又、古江(和名抄)。越中國射水郡舊江村。今、氷見郡に屬してゐる。布勢湖の邊。布勢(ノ)湖南東一帶は元、舊江(ノ)郷に屬してゐたのであらう(299)(北西は、布勢(ノ)郷である)。
 
ふる‐かは【古川】 又、布留川。大和國山邊郡石(ノ)上から、丹波市に出て、郡界二階堂の邊で、長谷川に入る川。長谷川古川の邊など言ふ古川も、此を言ふので、決して、長谷の地に在つたのではない。布留(ノ)高橋のあつたのも、此川であらう。又、布留(ノ)市川(ノ)宿禰と言ふ布留氏から出た複姓も、此川を市川というた爲であらう。(市川は丹波市邊での名か、或は、石(ノ)上(ノ)市(ノ)邊(ノ)宮・石(ノ)上(ノ)市(ノ)神社などがあるから、やはり石(ノ)上邊での名か)。又、時には、普通名詞として、河道の變つた爲に小さくなつた川を斥す樣な場合もある樣である。昔からある川と言ふ意ではないと思はれる。
 
ふる‐ごろも 枕。まつち。うつて。きなら。古びて垢のついた衣は、度々洗ひ張りをして、砧で擣つ處から、(再擣《マタウ》ちと言ふのを融合して、當時まつち〔三字傍点〕・まつゝ〔三字傍点〕などいふ動詞があつたと見える)まつち山〔四字傍点〕に言ひかけたのであらう。うつて〔三字傍点〕につゞくのは、擣つ〔二字傍点〕とも思へるが、着古した物を棄てる、即、うつゝ〔三字傍点〕とかけたのである。又、きならの山〔五字傍点〕につゞく訣は、古衣は着褻れて、よれ/\によごれた物だと言ふ意味から出たのである。
 
ふる‐さと【故郷】 ふるびた里。さびれた里』。昔、盛んであつた都・郷などが、人多く移り、建て物も廢れて、さびれて了うたのを、囘顧的に言ふ時に、舊里《フルサト》と言うたので、本集時代のは、勿論、後期王朝にも、多くは此意味に用ゐてゐる。今の生れた里・長く住んた里など言ふ意は、昔、其處の盛んな時代に住んでゐた事を憶ひ起して言ふ處から胚胎せられたので、必しも自分が住まなかつた地でも、すべて歴史的にも、目撃しても、盛んであつた他の變つてゐる場合に言ふ。
 
ふる‐の=たか‐はし【布留の高橋】(補) 布留川にかゝつてゐた橋の、唐風の物であつたから言ふのであらう。布留の市路に架つてゐた爲に、注意を惹いた事と思はれる。卷十二「石(ノ)上|振之高橋高々爾《フルノタカハシタカヽヽニ》妹がまつらむ。夜ぞ更けにける(二九九七)の樣に、序歌に使はれたのも、名高かつたからであらう。
 
ふる‐の‐たむけ【振(ノ)田向】 傳知れぬ。布瑠氏の人であらう。
 
(300)ふる‐の=みこと【振乃尊】 石(ノ)上振乃尊で、尊は、母の尊・弟の尊など言ふ語を、貴族であるから、自分の事にも言ひ慣して、尊大にかう言うたものか。石(ノ)上はもと物部氏。振、即、布留は、大和國山邊郡の地名。石上布留とひつくるめて言ふ處から、布留と言うても、石(ノ)上なる事が現れるのである。物部氏の祖饒速日命の子孫を言うたので、石(ノ)上乙麻呂が自身をかう稱したのである。又、思ふに、此歌などは、民謠的な素質を多く持つてゐるから、或は記紀の歌に、其人の傳記の一部を詠んだものが、其人の作として傳つて居るものゝ多い樣に、此も、世人が乙麻呂に同情して歌うた歌なので、石(ノ)上布留と遠まはしに言うて、石(ノ)上氏なるを示し、布留(ノ)尊と敬稱を添へたものと見るのが、當つてゐるかも知れぬ。「いそのかみのおとまろ」參照。
 
ふるひ【古日】 山(ノ)上(ノ)憶良の子。憶良の悼古日之歌より外に、此子に關する材料はない。此子の兄弟と見える人の事は、卷二十にある。
 
ふる‐へ【故家】 もと住んで居つた家。むかしの家。故郷の家』。此處のふる〔二字傍点〕は舊・前の意である。卷三「わが夫子が古家の里の飛鳥には千鳥なくなり君待ちかねて(二六八)。又、住み捨てた空家をも言ふか。卷十一「人言を繁みと君を鶉なく人の古家に語りてやりつ(二七九九)。
 ふるへ‐の‐さと もと住んだ家のある里。故郷。奈良に移つて後も、難波・近江・恭仁京などの例があるので、何時、歸住せねばならぬか知れなんだので、家を殘してあつた。飛鳥・藤原の舊都附近を思ひやつて言うた語。
 
ふる‐や【古家】 地名。大和國か。卷十六「虎に乘り古家を越えて青淵に※[虫+交]取り來む劔大刀もが(三八三三)。神樂歌「いそのかみ古家男の大刀もがな組の緒しでゝ宮路かよはむ」。水靈を捕へた壯夫の古傳説が、此地についてあつたものと見える。之を紀伊國日高郡切目川添ひの古屋の地とする(大日本地名辭書)のは、地名に偏依した考へである。
 
ふる‐ゆき‐の 枕。いちじろし。け。けぬべし。しろかみ。ゆき。卷十「梅の花それとも見えずふる雪の市白兼名間使《イチジロケムナマツカヒ》やらば(二三四四)は、白し〔二字傍点〕にかけたとも見えるし、著《イチジロ》しに接したとも考へられる。卷十(301)「吉隱の野木に降り蔽ふ白雪のいちじろくしも戀ひむ我かも(二三三九)と言ふのも見える。降り積んだ雪の消《ケ》と起して、消なば消《ケ》ぬかに・消《ケ》ぬとか言はも・消ぬべく思ほゆ、などは、單なる修飾句と見ても、よい位であるが、更に日《ケ》長し、卷十「あまを舟初瀬の山にふる雪の消長《ケナガク》戀ひし君が音ぞする(二三四七)とも使ふ。降つてゐる雪の色の白さから、白髪に聯想したので、しろ〔二字傍点〕だけにかゝつたのではあるまい。又、同音聯憩で、行き〔二字傍点〕とつゞく。卷六「わが宿の君まつの木にふる雪の行者不去《ユキニハユカジ》待ちにし待たむ(一〇四一)。
 
     へ
 
へ【舳】 みよし。へさき。船の尖端(ア)。卷二十「朝凪ぎにへ向け漕がむと、さもらふを、わが居る時に(四三九八)。卷十四「大船を、へゆも艫《トモ》ゆも固めてし、こその里人顯さめかも(三五五九)。ふねのへ〔四字傍点〕と多くいふ。又、船の傍《へ》、即、舷をも言ふ樣である(イ)。卷二十「潮《シホ》舟のへ(弊)越そ白浪にはしくもおふせたまほかおもはへなくに(四三八九)。
 
へ【岸】 きし。海岸』。次條の語の轉用。澳《オキ》に対して言ふ語。卷七「わたの底澳漕ぐ船を於邊《ヘニ》よせむ風も吹かぬか。波立たずして(一二二三)。
 
へ【邊】 そば。はた。ほとり(ア)。概括的に廣く場所を指定する語。必しも、山のそば、里のはたを、山べ海べと言ふのみならず、山里をもこめて、山べ・里べと言ふ(イ)』。(ア)は獨立して用ゐる事もある。卷十八「海行かば水《ミ》づく屍。山行かば草むす屍大君のへ(敝)にこそ死なめ(四〇九四)。其場合は、清音である。(イ)の時は、すべて濁音を用ゐる。
 
 へ‐つかふ 次條の再活用。其條參照。
 
 へ‐つく【岸接く】 澳に遠つて漕ぐの反対で、岸によつて舟をやる。
 
 へ‐なみ 沖つ波〔三字傍点〕の対。岸にうつ浪。又、へつなみ〔四字傍点〕。
 
へき‐の‐こおゆ【日置(ノ)少老】 傳未詳。
 
へき‐の=ながえ‐の‐をとめ【日置(ノ)長枝(ノ)娘子】 大伴家持の情人。傳未詳。但、長枝は、後世に發達した苗字の樣な復姓か。或は處女の名か。判然せぬ。
 
へぐり【平群】 今、大和國生駒郡の中。近年迄、平群(302)郡があつて、添下郡の南に續いてゐたのを併せて、生駒郡と呼んだので、其故地は、平群谷、即、今の平群三郷村の地で、東は斑鳩の丘陵、北は暗峠、南は信貴山に亙る山地及び平地であらう。本集時代には東南の平野へ廣く、龍田社・法隆寺なども、其地に籠めてゐた樣である。
 
 へぐり‐の‐やま【平群(ノ)山】 平群の西境の山脈で、信貴・暗の間を言ふのであらう。或は、法隆寺の後(北)、平群村の東、矢田村・富雄村の西。龍田川・富雄川で圍まれた丘陵地の事とも思はれる。
 
へぐり‐の‐ひろなり【平群(ノ)廣成】 聖武天皇の天平四年八月遣唐使判官に任ぜられた。歸路、崑崙國に漂着し、土民の襲撃にあつてあやふく唐にのがれ、九年九月在唐中に外從五位下に敍せられ、十一年十一月渤海人を從へて歸朝し、十二月正五位上に進み、十五年六月刑部大輔、十六年九月東山道巡察使、十八年三月式部大輔、九月攝津大夫に歴任し、十九年正月從四位下、孝謙天皇の天平勝寶二年正月從四位上、四年五月武藏守、五年正月二十八日死んだ。
 
へぐり‐の‐ふや‐の‐ますひと【平群(ノ)文屋(ノ)益人】 聖武天皇の天平十七年、民部省の小録であつた。此人の名、正倉院文書に見えてゐる。
 
へぐり‐の=をとめ【平群(ノ)娘子】 聖武天皇の天平十八年、大伴家持が越中守で居た時分の情人。傳未詳。
 
へそ‐かた【綜麻形】(補) 口譯萬葉集には、形似から來た戯訓と見て、三輪山と訓んでおいた。三輪山は事實、紡《ツム》形の美しい山であるから、三輪に綜蘇麻《ヘソヲ》の三勾《ミワ》殘つたからと言ふ大物主《オホモノヌシ》の神婚三輪民譚の出來たのも、山の形の聯想があるのであらう。かた〔二字傍点〕は縣《アカタ》の母音脱落で、へそ〔二字傍点〕は上の神婚民譚から出た三輪山の異名だらう(萬葉集古義)と言ふのは、妄りである。橘守部のそまがた〔四字傍点〕と訓んて、近江國としてゐるのもよくない。
 
へた【邊】 波打ち際。水邊』。はた〔二字傍点〕と言ふ語と通ずるやうにも思はれるが、又、へ〔傍点〕は海岸の意のへ〔傍点〕とも見られる。東國に多いへた〔二字傍点〕と言ふ地名は、多く海岸の船つきに不便な場處を斥《サ》すらしい。伊豆國の戸田《ヘタ》も、古い地名で、那賀郡(君澤)部多(ノ)神社(延喜式)が見えてゐる。
 
へだつ【隔つ】(補) た行下二段活用。自動詞。他動詞。(303)本集のは、へなる〔三字傍点〕と訓む事が出來る。へなる〔三字傍点〕は自動詞である。卷四「唯一夜|隔之《ヘダテシ》からに、あらたまの月か經ぬると、思ほゆるかも(六三八)は、他動詞ではない。但、卷十四「床のへだし〔三字傍点〕―<へだて(三四四五)など言ふ語もあるから、他動詞もあつたのであらう。尚、前代から持ちこした活用として、た行四段の自動他動兩用のものがあつたらしい。かのへだし〔三字傍点〕なども、へだち〔三字傍点〕の訛音と見るべきであらうか。
 
へ‐つ=かい【邊(つ)櫂】 岸近くゆく時の櫂の操り方。海岸によつて漕ぐのを櫂の方から見て言うたので、沖(つ)櫂と言うて、沖を漕ぐ事を現す語と對してゐる。
 
へ‐つかふ【邊附ふ】 船が岸にくつゝいて漕いでゆく。又、其状を心の上にうつして、人の傍にくつゝいてゐる。近くに居よる』。卷四「絶ゆといはゞ佗びしみせむと燒大刀の邊つかふ事はからしや吾君(六四一)。又、どちらつかぬ容子だとも言ふ。
 
へな‐る【隔る】 へだゝる。間に障碍となる物が介在してゐる爲に、離れてゐる。距離がある。遠のく』。へだつ〔三字傍点〕に對する自動詞。(へだゝるの「へだつ‐ある」で、受動的の自動詞であるのと區別せねばならぬ)。語根はへな〔二字傍点〕・へた〔二字傍点〕であるが、更に詳しくは、へ〔傍点〕だけで、物の介在する状は知れたのである。「隔編《ヘア》む」などが即、此である。今の言語情調では、へなる〔三字傍点〕は行爲的動的に聞え、へだゝる〔四字傍点〕は状態的靜的に聞えるが、もと/\遠ざかつて行くと言ふ意はない。
 
べむき【辨基】 春日(ノ)藏(ノ)首老の、まだ還俗せないでゐた時の名。
 
へ‐むく【舳向く】(補) 自動詞、か行四段活用。他動詞、か行下二段活用。へさきが向く。舟が其方へ向く(自)。へさきを向ける。舟を向ける(他)。本集には他動詞の方がない樣に見えるが、自動詞もあつた事は、へむかる〔四字傍点〕を見ても知れるし、東歌に船向かも〔四字傍点〕とあるのは、へむかむ〔四字傍点〕の訛りである。卷二十「夕汐に船を浮けすゑ、朝凪ぎに倍牟氣許我牟等《ヘムケコガムト》(四三九八)
 
へ‐むかる【舳向かる】 へさきが向いてゐる。舟が其方に向いてゐる』。前條の語の現在完了形。へむけり〔四字傍点〕にあたる。卷二十「筑紫へに敝牟加流《ヘムカル》船の、いつしかもつかへまつりて、國に舳向《ヘム》かむ(四三五九)。
 
へ‐をさ【戸長】 令制には、五十戸を里として、一里(304)毎に戸長を置いた。堂《イヘ》に在る戸はと〔傍点〕で、戸邑《ムラ》の地はへ〔傍点〕である(和名抄)とあり、戸籍をへ‐ふむた〔四字傍点〕(籍・簡ふむた=ふみた〔和名〕)〔紀〕と言ふから、へ〔傍点〕は戸である。へをさ〔三字傍点〕は戸長である。職とする所は、戸口の調査・農事蠶業の監督・勵行、犯罪者の有無を調べ、賦役に出る者を催《ウナガ》し駈《ツカ》ふ事で、里長・郷長・さとをさ〔四字傍点〕とも言ふ。戸主・家長ではない。都では功長と言うた。或は保(五戸)長の事かとも思ふが、卷五の貧窮問答歌に「五十戸長(三九二)とも書いてあるから、やはり里長の事であらう。憶良の「楚《シモト》とる五十戸長の聲(三九二)と書いたを見ても、なか/\權式を持つてゐたのである。又、役※[人偏+搖の旁]《エダチ》を促《ハタ》ると言ふのも、令制に見えた通りである。
 
          ほ
 
ほ【穗】 禾本の穗(ア)。廣く草木に通じて、花葉などの表れる事にも用ゐる樣である。卷十「言に出でゝ言はゞゆゝしみ、朝顔の穗には咲き出ぬ戀もするかも(二二七五)(イ)。又、梢の一番上の方。突端(ウ)。表面。うはべ。内にこめた事の表に顯れる場合に、表面を斥して言ふ(エ)。(次條參照)。此語、すべて秀《ホ》から出た樣に説かれて居るが、順序は、却て逆で、穗から秀の意識が出たものと見るべきであらう。
 
ほ‐に‐いづ【穗に出づ】 穗となつて、抽け出る(ア)。内に籠めて居た事が、表面に泌み出る。隱しきれないで、顏色に出て人に悟られる(イ)。すべて無意識不隨意な場合である。多くは、ほにはいでず〔六字傍点〕と否定を用ゐる。
 
ほ【頬】 ほゝ。ほべた』。ほゝ〔二字傍点〕はほ〔傍点〕と一音に發するのが不便であつた處から、長音、又は重母韻に發音したのを文字の上には、同音を重ねた樣に標記したのである。ほゝ〔二字傍点〕は本集には見えぬ。
 
ほか‐ごゝろ【外心】 よそにそれた心。一人の上に止らず、他人の上にも散る心。あだしごゝろ。氣のよそにうつる事。
 
ほぐ【祝ぐ】 祝福する。縁起を祝ふ。祝言を申す。めでたい結果の來る樣に、語で祈る』。ほむ〔二字傍点〕と通じる。言語精靈の存在を信じてゐた古代人は、事の好果を祈る爲に、まづ神徳を讃へ、幸福に充ちた語で、言(305)靈《コトダマ》のさきはへを祈願したので、單に祝ふ(今の意の)と譯してはわるい。齋戒の意のいはふ〔三字傍点〕と互に近似の内容を持つに到つた徑路には、好結果を得たから祝賀するのでなく、豫めめでたい語を盡して祝福する意を含めなければわからぬ。「汝《ナ》が御子や竟《ツヒ》に治《シ》らむと、雁は子《コ》生《ム》らし。此は本岐歌《ホギウタ》の片歌なり(仁徳天皇記)の意は、君の御子孫が、いつ迄も續いてお治めになると言ふので、こんな珍しい事があるに違ひないのです、と言ふので、豫祝したものだから、ほぎうた〔四字傍点〕と命けて謠はれてゐたのである。
 
ほこ【矛・桙】 柳田國男先生は、手にもつに都合よくした棒の類を言ふので、ぼう〔二字傍点〕と言ふ語も、此ほこ〔二字傍点〕の轉訛であらうと。又、竿の意にも使ふ。劔戟をほこ〔二字傍点〕と言ふのは、ほこ〔二字傍点〕のさきに刃物のついてゐた物が、獨占した名なのであらうと言うてゐられる(郷土研究)。垂仁天皇記の橘渡來傳説の※[草冠/縵]八※[草冠/縵]《カゲヤカゲ》・矛八矛《ホコヤホコ》(頭に纏ふ物としては八枝、棒なり〔二字右・〕の枝としては八本の意)などは、確かに棒・柄の意である。池上の力士舞の矛も、戟ではなくて、後の延年舞などに用ゐた棒の類であらう。恐らく力士舞は、仁王に扮した假裝の人が棒を使うて舞うたので、後世の練供養の類であつたと考へる。婆羅門の作れるを田を喰む鴉の坐《ヰ》た旗矛も、旗竿なのであらう。崇神天皇紀・雄略天皇紀に見えた弄槍《ホコユケ》は、寶は槍を振るのではなくて棒をつかふ術、即、兵士を麾く術であつた事と思はれる。杠谷樹《ヒヽラギ》の八尋桙根《ヤヒロホコネ》(記・播磨風土記・續紀)を祭事にも軍陣にも使うたのは、軍|帥《スヰ》は同時に神官でもあつた事を示すのだが、或は桙八桙の桙で、神前に獻つて植ゑた根の長い木を言うたものであらう。であるから、戟・槍の類をほこ〔二字傍点〕と言ふのは、さきに刃物のついたほこ〔二字傍点〕と言ふ事になるのである。此語などは、漢字と聯絡する時代に、既に六分迄、戟・槍の意に用ゐられてゐた事を示すものであると言ふ事が出來る。神事に桙を用ゐた事は、甲斐の桙衝《ホコツキ》神社・伊豆の多 富許都久和氣《タケホコツクワケ》(ノ)命(ノ)神社・杉桙別(ノ)命(ノ)神社(延喜式)などの祠名・神名でも想像は出來るが、神功皇后の邇保津比賣《ニホツヒメ》(ノ)命に授けられて、赤丹を塗つて、御舟の艫舳に樹てられた天之逆桙(播磨風土記)は、名高かつたものと見えて、書紀の記者は、其矛、今、猶、樹于新羅王之門と書い(306)てゐるが、實は、之を以て、神の依代《ヨリシロ》として置かれたので、爾《カレ》其御杖を似て、新羅の國王の門に衝立て、即、墨(ノ)江(ノ)大神の荒御魂を以て、國守神として祭り鎭む(記)とあるのを衝き立てき、と段落にする(古事記傳)のはわるい。又、中臣の神主の持つた茂槍《イカシホコ》の中執り持ちて仕へた(中臣壽詞)のも、劔戟ではなく、前述の大宮(ノ)※[口+羊](ノ)祭のと同じ棒であらう。
 
ほこ‐すぎ【桙杉】 桙を竪てた樣な形をした杉の樹だと言ふが、棒の樣に直立《スグタチ》な處から、杉をすべてかう言うたのか、或は殊にますぐな種類の木の名か、或は唯、瞥見的に桙にするによさ相な杉を斥して言ふのか、判然せぬ。
 
ほころ‐ふ【誇ふ】 誇るの再活用。ほこる〔三字傍点〕と言ふと、内的過程を示すだけであるが、此方は外貌的・行爲的に言ふのである。鼻蠢す樣である。
 
ほし‐けし【欲しけし】 く活用。うつくしけし・うれしけし・あしけし、などゝ同類で、欲しの再活用である。語幹ほしけ〔三字傍点〕は欲し〔二字傍点〕を語根として、副詞を體言化する語尾か〔傍点〕の接續を待つて、又、形容詞となつたので、ちようど、さやか〔三字傍点〕・はるか〔三字傍点〕・しづか〔三字傍点〕が語幹になつて、さやけし〔四字傍点〕・はるけし〔四字傍点〕・しづけし〔四字傍点〕となる類を類推したもので、ほしけ〔三字傍点〕は假に副詞的過程を踏んでゐるのであるが、本來の副詞から出た「−けし」とは、大分容子が違うてゐる。同じ類に、く活用の形容詞よし〔二字傍点〕・うし〔二字傍点〕・さむし〔三字傍点〕の語根よ〔傍点〕・う〔傍点〕・さむ〔二字傍点〕から、「よけく」「うけく」「さむけく」などがある。
 (補) く活用。意味はほしい〔三字傍点〕と變らぬが、欲しか〔三字傍点〕と副詞過程を經て、更に形容詞活用に移した爲に、け〔傍点〕(<か)し〔傍点〕となつたので、意味に曲折が出來てゐる。終止法は本集には見えぬが、あつたものであらう。唯、散文的になる終止を避けたものであらう。尤、大體に、かう言ふ種類の語は、副詞法が先に發達して、終止法などの出來ずに了うたものもある樣である。うけく〔三字傍点〕・つらけく〔四字傍点〕などのうけく〔三字傍点〕の如きは、終止形うけし〔三字傍点〕はない樣である。
 
ほ‐だ【穗田】 稻の穗が、注意にのぼる樣になつた田。卷八「秋の田のほだをかりがね闇爾《クラケクニ》夜のほどろにも鳴きわたるかも(一五三九)。
 
ほ‐たで【穗蓼】 其穗を食料に使ふからの名で、蓼の事である。
 
(307) ほたで‐ふる‐から【穗蓼古幹】 ふる〔二字傍点〕は古で、宿・舊など譯する。から〔二字傍点〕は幹で、木本には、もと〔二字傍点〕と言ひ、草本には、から〔二字傍点〕と言ふ。粟の幹(桿)を「粟がら」と言ふのと同じである。卷十一「わがやどのほたでふるから採生《トリオフシ》、實になる迄に、君をし待たむ(二七五九)。
 
ほたる‐なす 枕。ほのかに。螢火のいぶせい光から聯想したのである。卷十三「いつしかとわが待ち居ればもみぢ葉の過ぎてゆきぬと玉梓の使ひの言へばほたるなすほのかに聞きて(三三四四)。
 
ほつ‐【秀】 最上・優秀の意を表す語根形容詞。しづ〔二字傍点〕が、下〔右・〕の意で、下向の動作・状態を示すのに對して、上向の義を持つたのが、第一次用例の遺りであらう。本集時代には既に、普通は優良の意に用ゐたものと見えて、最勝海藻を保都米《ホツメ》と訓して(豐後風土記)ゐる。ほつ鷹〔三字傍点〕・ほつ手〔三字傍点〕などは此で、ほつ枝〔三字傍点〕・ほつ峰〔三字傍点〕などは彼であらう。ひづ〔二字傍点〕と通じた語と思はれる。
 
 ほつ‐え【上枝】 樹木の梢の方の枝』。しづ枝〔三字傍点〕に對する。「いざ子ども。野蒜《ヌビル》つみに、蒜つみに。我が行く道の香ぐはし花橘は、ほつえは、鳥|棲枯《ヰガラ》し、志豆延《シヅエ》は、人|採《ト》り枯《ガラ》し、みつぐりの中つ枝のほつもり、あから處女を(應神天皇記)。
 
 ほつ‐たか【秀鷹】 逸物《イチモツ》の鷹。優秀な鷹。鳥をよく捕へる鷹。
 
 ほつ‐て【優手】 上手。手だれ』。或は最良の方法の意か。「ゆきのあまのほつてのうらへ」を見よ。
 
ぼつかい【渤海】 滿洲・東蒙古の地方で、高勾麗の裔、大氏が、奈良朝以前に國を立てゝ、震國と言うた。高勾麗が唐に亡された時、一度、北方へ逃れたが、文武天皇の朝に、大祚榮と言ふ者が、附近を併呑して、國勢大に揚つたので、唐では、之を封じて、渤海郡の王としたので、渤海の名は、始つたのである。大祚榮の子の大武藝の時、即、聖武天皇の神龜四年、寧遠將軍高仁義等をよこしたが、海上途を失つて、蝦夷に入つて、仁義以下殺され、高齊徳等の八人が、出羽に遁れ來たので、迎へて十二月奈良に入れ、明年、大極殿の朝賀に參列せしめた。其二月、引田(ノ)蟲麻呂を附けて、送りかへした。蟲麻呂の二年後、歸朝した際にも、王から万物を獻じた。其後、(308)國際關係は二百年間、圓滑に行はれて、貿易なども行うたが、醍醐天皇の延長八年、其國が契丹に降つたと聞いて、使を歸して、爾後、交際を斷つた。雅樂の中、渤海樂は、此國から傳つたのだと言ふ。
 
ほつて‐の‐うらへ【秀手(ノ)占】(補) 「ゆきのあまのほつてのうらへ」を見よ。
 
ほづみ【穗積】 大和國山邊郡、丹波市の南方。今、新泉だらうと言ふ。併、つみ〔二字傍点〕と言ふ音に附會してゐるのだから、大體の地を知るほかはない。古く臍見《ホゾミ》(神武天皇記)とも言うた。穗積(物部)朝臣の本貫。後には、同族の石(ノ)上氏が盛んになつてゐるが、ずつと古くは、非常な勢力を持つてゐたので、彼家の石(ノ)上神宮に對して、此は大和神社に、深い關係を持つてゐる。
 
ほづみ‐の‐おいびと【穗積(ノ)老人】 聖武天皇の天平九年九月外從五位下に敍せられ、同十二月左京亮となり、十八年四月從五位下、九月内藏頭となつた。腋の下に毛の多かつた處から、わきくさ〔四字傍点〕を刈れ、と言ふ嗤笑歌が出來たのだと言ふが、腋臭、即、わきが〔三字傍点〕を持つてゐた、と説くべきであらう。
 
ほづみ‐の‐おゆ【穗積(ノ)老】 文武天皇大寶三年正月正八位上で山陽道巡察使となり、元明天皇和銅二年正月從六位下から從五位下に敍し、三年正月朔日拜朝の日、左將軍大伴旅人の下に副將軍として、城門外朱雀大路の東西に於て騎兵及び隼人蝦夷を率ゐて、列兵式を行ひ、六年四月從五位上、元正天皇の養老元年正月正五位下に進み、式部少輔になり、二年正月正五位上、同九月式部大輔に進んだが、六年正月乘輿を指斥したと言ふ罪で死罪に斷ぜられ、皇太子の奏によつて、死一等を減じて佐渡國に流され、聖武天皇天平十二年六月大赦にあうて上京し、十六年二月大藏大輔として恭仁宮の留守をつとめた。
 
ほづみ‐の=みこ【穗積(ノ)皇子】 天武天皇の第五皇子。母は次夫人蘇我(ノ)赤兄《アカエ》の女|大※[(草冠/豕]+生]《オホヌ》娘で、多紀(ノ)皇女・田形(ノ)皇女の同母兄である。持統天皇の五年正月淨廣貮で、五百戸を増封され、文武天皇の大寶二年十二月、二品の時、持統天皇崩御に際して、作殯宮司を勤め、慶雲元年正月また二百戸を増封せられ、二年九月知太政官事となり、三年二月季禄は右大臣に準じて賜ひ、元正天皇靈龜元年正月一品に進み、七月(309)二十七日薨じた。
 
はとゝぎす 枕。とばたのうら。「白鳥の飛羽《トバ》山」などゝ言ふから、鳥の飛ぶと言ふとぶ〔二字傍点〕を、とば〔二字傍点〕に言ひかけたのであらう。特に時鳥と言はねばならぬ事もないのであるが、枕詞は其時の心持ちで創作せられるのだから、其場合の聯想が制限したのである。
 
ほと‐/\【殆】 大方……になる處。あぶなく……になる處』。十中八九迄ある状態に近づいてゐる事を表す事は、今のほとんど〔四字傍点〕に同じであるが、本集時代、或は後期王朝の中頃までも、危險・危殆の意を表す副詞として用ゐられてゐる。今の「あぶなく、死ぬ處だつた」「あぶなく、だまされる處を氣がついた」など言ふのと、殆、同じ用語例を持つてゐる。即、非常に接近して、間一髪を容れない迄に、惡い状態に薄《セマ》つた場合の囘想なので、殆の字に譯したのは、よく當つてゐる。此副詞、危險の觀念を除くと、今も用ゐるほとんど〔四字傍点〕になるのである。卷十五「還りける人來たれりと言ひしかば、ほと/\死にき君かと思ひて(三七七二)。あぶなく氣絶する處だつたと言ふ追想。卷十「春されば螺※[蟲+羸]鳴く野のほとゝぎすほと/\妹に逢はず來にけり(一九七九)。此など、危殆の意に遠ざかりかける過程を見せてゐる。まう一寸で逢はれぬと言ふ状態で(出會うて)やつて來たの意。卷三「わが盛りまた復《ヲ》ちめやも殆(ほと/\に)奈良の都を見ずかなりなむ(三三一)。どうやら十中八九迄、危くなりかけてゐるの意。
 
 ほと/\・しく【殆しく】 右の副詞形。但、語幹にし〔傍点〕を持つてゐる處から見れば、もはや形容詞的屈折に這入つてゐた語であらう。卷七「三幣帛取《ミヌサトリ》神《ミワ》のはふりが齋《イハ》ふ杉原。燎《タ》き木|伐《キ》り殆之國《ホト/\シクニ》手斧とらえぬ(一四〇三)。まうちよつとで、あぶなく手斧をとりあげられる處だつたの意。前の「ほと/\妹に會はず來にけり」と同じく、此副詞が、下の句・文の意を轉換するのである。
 
ほど‐ろ【斑ろ】 むら/\に。まばらに。まだらに。ばら/”\に。だらけて』。副詞。普遍せず、散亂してゐる状である。處まだらに散在してゐる樣を概見して言ふ。語根は、ほど〔二字傍点〕で、散漫・不緊束な態を現す。ろ〔傍点〕は語尾。副詞指示助辭に〔傍点〕を伴ふ事が多い。はだら〔三字傍点〕(=まだら〔三字傍点〕)・はだれ〔三字傍点〕と同じ語である。「はだれ」(310)參照。
 
ほどろ・/\【斑ろ/\】 前條の疊語。意義を重ねたのでなく、重疊によつて、情調を深めるのである。卷八「あわ雪のほどろ/\にふりしけば(一六三九)。
 
ほど‐ろ【頃】 ほど。時分。ころほひ』。夜のほどろ〔五字傍点〕と熟して三个處ある。卷四「夜のほどろわがいで來れば、わぎも子が思へりしくし、おもかげに見ゆ(七五四)。卷八「秋の田の穗田をかりがね、くらけくに、夜のほどろにも鳴き渡るかも(一五三九)。前條の「斑《ホド》ろ」と混同して、夜の班《ホド》ろ、即、夜と朝と交つて、明け離れぬ、ほのぐらい時を言ふのだとする説は、よろしくない。又、離《ハナ》れの音轉で、夜の明けはなれる時だ(萬葉集古義)との考へもわるい。ろ〔傍点〕はあり〔二字傍点〕の過程を含んだ語で、「ほどなるに」の意を現したのが、本集時代には、體言的に固定して了うたので、ほかに、此語を用ゐなかつた理由も、其處にあるのであらうと考へる。
 
ほ‐に=いづ(補) うはべに心が表れる。目につく程に顯れる。内に壓へられずに、表に出て來る。顔色に出る。思ひをうちあける』。卷九「石(ノ)上布留の早稲田の穗庭波《ホニハ》出でず、心のうちに戀ふる。此ごろ(一七六八)。卷十「言にいでゝ言はゞゆゝしみ、朝顏の穗庭《ホニハ》咲き出ぬ戀もするかも(二二七五)。朝顔が穗を出すと言ふのでなく、朝顔の花の樣に目につく程に顯れての意である。卷十四「新室の蠶時《コドキ》にいたれば、はたずゝき穗爾※[氏/一]之《ホニデシ》君が見えぬ此ごろ(三五〇六)。君がほに出たのでなく、われの、君の爲に、ほに出て、戀を表した其あひての君が、と言ふので、うちあけた人が來ぬのを、爲事の爲と知り乍ら案じるのである。此は前々の例とは、すこし變つてゐる。卷十六「はたずゝき穗庭《ホニハ》出でじと忍びたる心は知れつ。我もよりなむ(三八〇〇)。一所懸命に表に出すまいとする心である。卷三「見わたせば明石(ノ)浦にともす火の保爾會出流《ホニゾイデヌル》。妹に戀ふらく(三二六)。人を戀ふ事が、隱すおもてに顯れたと言ふ意。
 
ほの‐に【仄に】 ほんのりと。ぼんやりと。かすかに』。語根ほの〔二字傍点〕に體言副詞語尾か〔傍点〕をつけると、ほのか〔三字傍点〕となる。か〔傍点〕の助けを俟たずとも、副詞的表現を完成する事の出來る此語の方が、古い形なのである。ほんの(311)り〔四字傍点〕は、即「ほの‐り」で、り〔傍点〕は新しい副詞語尾である。おんもり(<おも‐り)・のんどり(<のど‐り)・はんなり(<はな‐り)・こつそり(<こそ‐り)・ひつそり(ひそ‐り)づつしり(づし‐り)などに同じい。
 
ほゝ‐がしは【朴葉】 厚朴〔二字傍点〕をほゝがしは〔五字傍点〕の木と訓む(和名抄)。今の朴の木。葉の見事な點からかしは〔三字傍点〕をつけたのであるか。かしは葉にする朴の意か。又、此時代に、朴の字をえ〔傍点〕とも訓んでゐる(光仁天皇紀・新撰姓氏録)。但、榎《エ》の木とは全く異なる事は明らかである。皮は重皮と言ひ、器具などを作る。卷十九「わが夫子がさゝげてもたる保寶我之波あたかも似るか。青き蓋《キヌガサ》(四二〇四)。同「すめろぎの遠御代々々はい頻釀《シキヲ》り酒飲むと言ふ。この保寶我之婆(四二〇五)。二つ乍ら、酒宴の興で、古代は匂ひをめでゝ酒盃にした事もあるので、大御酒粕《オホミキノカシハ・オホムサカヾシハ》(仁徳天皇記)と言ふ語もある。其風を本集時代にも存してゐたと見える。
 
ほゝま‐る【含まる】(補) ら行四段活用か、ら行變格活用か。自動詞。ふゝめる・ほゝめると言ふ處を、古い形に近くまる〔二字傍点〕と言うたのは、もたり〔三字傍点〕・もてり〔三字傍点〕、とらる〔三字傍点〕・とれる〔三字傍点〕の關係と同樣である。ほゝむ〔三字傍点〕・ふゝむ〔三字傍点〕は、ふくむ〔三字傍点〕と音通で、蕾が捲いてゐて開かぬ事。蕾んでゐる。まいてゐる。單につぼまる〔四字傍点〕など言ふ受身の心持ちから出た自動詞ではない。卷二十「千葉の野の兒の手柏の保々麻例等《ホヽマレド》、あやにかなしみ、おきて誰が來ぬ(四三八七)。之は卷十四「あどもへか、あじくま山のゆづる葉の布敷麻留《フヽマル》時に、風吹かすかも(三五七二)のふゝまる〔四字傍点〕と全く同一である。
 
ほゝ・む【含む】 ふゝむ〔三字傍点〕に同じい。卷二十「千葉の野の兒の手柏のほゝまれど(四三八七)。
 
ほむ【讃・頌・賞む】 ま行下二段活用。他動詞。語《コトバ》で、將來を祝福する(ア)。たゝへる。讃美する(イ)。口に出して勤勞を賞する(ウ)。卷二十「眞木柱《マケバシラ》寶米弖《ホメテ》つくれる殿の如、いませ。母刀自《ハヽトジ》。面《オメ》がはりせず(四三四二)。言靈の妙用《サキハヒ》を信じてゐたから、事の始に、縁起よい語(祝詞《ホギゴト》)で祝福して、かく榮える樣にと祈るので、今の萬歳《マンザイ》が家ぼめ・柱ぼめなど建物をほめるのも、同じ風である。又、卷四「黒木とり草も刈りつゝつかへめど、勤《イソ》しきわけと將譽《ホメム》ともあらず(七八〇)。ほぐ〔二字傍点〕・ほむ〔二字傍点〕が同原で、從うて(ア)(イ)(ウ)の順序(312)に、意義が展開して來た事は明らかである。所相にほまる〔三字傍点〕(下二段活用、自動詞)があつた樣である。
 
ほ‐むき【穗向き】 禾本の穗は、稔るにつれて重さに堪へないで、一方に頭を垂れる。これを穗向きと言ふ。風の爲に、等しく一方に穗の傾くのも、穗向きである。卷二「秋の田の穗向きのよれる片寄りに(一一四)。或は、穗の日に向ふ癖などから、言ひ出した語か。
 
ほよ【寄生】 ほや。やどり木』。これを取つて※[草冠/縵]として用ゐた事もある。此木はまじなひ〔四字傍点〕に關係のある植物で、さう言ふ意でかざしたのかも知れぬ。※[木+解]の類の喬木に寄生する植物で、葉は常緑で、花も咲く。卷十八「あしびきの山の木ぬれのほよ取りて、かざしつらくは、千歳ほぐとぞ(四一三六)。
 
ほり‐え【堀江】 又、穿江。疏水である。地形上、川、又は海の入り込みの樣に見える處から、江と言うたので、川其物を江と言ふのではない。本集に見えたのは、難波(ノ)穿江である。大阪市の北東の地は、河内川(舊大和川)・山城川(淀川)その他の川の川《カハ》合なる上、潮水と淡水との爭ふ處故、海へ注ぎゝれなかつた上に、山城川の上流では、茨田堤の決潰などがあつた爲、河内の山際迄かけて、日下《クサカ》江・難波江其他の沼澤地が、大阪の東郊に擴つてゐたのを、仁徳天皇が、宮北の野に疏水を穿つて、其に南水(河内川)迄も引きこんで、海に落された(紀)。此疏水を利用した事の、文獻に初見したのは、磐(ノ)姫皇后の山代潜啓である。尤、二大河のはけ口故、本集時代迄も、度々變遷はあつたらうが、ほゞ大阪城の北の低地を流れる、現在の淀川筋が、其に當るであらう。
 
ほり・す【欲す】(補) さ行變格活用。他動詞。ほしく思ふ。ほしがる。手に入れたく思ふ』。ほる〔二字傍点〕の名詞法ほり〔二字傍点〕を語根にした動詞。ほる〔二字傍点〕はすべて、欲望の單純な發現であるが、此は、とりいれる事を目的とした欲望である。併、ほる〔二字傍点〕よりも更に用言過程の複雜なものとして、ほる〔二字傍点〕よりも強い欲求の場合に使ふのが普通である。促音化してほつす〔三字傍点〕となる。卷三「いにしへの七《ナヽ》の賢き人たちも欲爲物者《ホリセシモノハ》、酒にしあるらし(三四〇)。
 
ほる【欲る】 したく思ふ。得たく思ふ。のぞむ。ほし(313)がる』。ら行四段活用。他動詞。ほ〔傍点〕が語根。形容詞にほし〔二字傍点〕がある。譯訓の欲す〔二字傍点〕の如く、必しも目的語を俟たずとも、意味は完全に現れる。但、本集には、目的、或は目標を置く事が多い。
 
ほろ‐に(補) ぼろ/”\に。ばら/”\に。ちり/”\に。さん/”\に。むちやくちやに』。物の散亂した有樣。卷十九「天雲をほろに蹈みあたし鳴る雷《カミ》も、今日にまさりてかしこけめやも(四二三五)。
 
ほろ・ぶ【亡ぶ】(補) ば行上二段活用。自動詞。さんざんになる。あれる。むちやくちやになつてなくなる。ほろ〔二字傍点〕は前條の語と同一であらう。
 
ほろぼ・す【亡す】(補) さ行四段活用。他動詞。さんざんにあらす。むちやくちやにして亡くして了ふ。卷十五「君が行く道の長てをくりたゝね、燒き保呂煩散牟《ホロボサム》天《アメ》の火もがも(三七二四)。
 
       ま
 
ま=うら‐がなし ま〔傍点〕は接頭語。今日の言語情調には、つきつめた心地を感得するだけで、的確には意味は知れぬ。「うらがなし」に同じい。
 
ま‐かい【眞櫂】 ま〔傍点〕の意味は知れぬ。姑らく無意義の接頭語と見て、櫂の事と定める外はない。
 
ま‐がき【籬】 目垣で、隙間のある垣とも言ひ、馬垣《マガキ》で、馬妨ぎであるとも言ふ。
 
ま‐かご=や【眞鹿兒矢】 鹿兒を射る矢の意か。眞※[鹿/兒]《マカコノ》(?)鏃《ヤサキ》と言ふ語もある(綏靖天皇紀)。天孫降臨の際、先頭に立つた大伴氏の遠祖|天《アメ》(ノ)忍日《オシヒ》(ノ)命・久米氏の遠祖|天津《アマツ》久米(ノ)命の武裝に、天之|石靭《イハユキ》・頭椎之大刀《クブツヽイノタチ》・天之波士弓《アメノハジユミ》竝びに此矢の名(神代記)が見える。日本紀には、天《アメ》(ノ)羽々矢《ハヾヤ》となつてゐる。
 
ま‐かぢ【眞※[楫+戈]】 ま〔傍点〕は意味不明。※[舟+虜]。櫂。
 
ま‐かな=もち 枕。ゆげ。まかな〔三字傍点〕のま〔傍点〕は接頭語。かなは※[金+施の旁]《カンナ》である。※[金+施の旁]で、木材を削ると言ふ、け〔傍点〕を起して、弓削《ユゲ》と音を隔てゝかけたのであらう。弓を削るからゆげ〔二字傍点〕だと言ふのは、字面に拘泥してゐる。或は當時、弓師を弓削《ユゲ》と言うた爲に、眞※[金+施の旁]持つと冠せたのか。其とも、削り方、又は、弓を削る事などに、特別に、ゆげ(動詞?)と言ふ語があつたのかも知れぬ。卷七「眞※[金+施の旁]持《マガナモチ》弓削の河原のうもれ木の顯るまじきこと(314)にあらなくに(一三八五)。
 
まがねふく 枕。にふ。まがね〔三字傍点〕は鐵。ふく〔二字傍点〕は、鑛石から、金屬を冶き出す事。丹生は、地名か。又は丹の意を擴充して、土の意として、出土状態からつゞけたものか。卷十四「まがねふく(麻可禰布久)爾布のまそほの、色に出《デ》て言はざるのみぞ。あが戀ふらくは(三五六〇)。此歌、東歌である處から、上野國甘樂郡丹生郷の事とし、古く鐵を出したのだ、と考へられてゐる。尤、小阪鐵山も、二里程の處に在るから、鐵を出さなかつたとも言へぬ。併、まがねふく〔五字傍点〕と言うて、又、すぐに、其地の礦物のまそほ〔三字傍点〕を出すのは、如何に枕詞とは言へ、聊か變である。但、古今集には、吉備の枕詞として、「まがねふく吉備の中山」と言うてゐる。あらたまの〔五字傍点〕もき〔傍点〕にかゝり(其條參照)、まがねふく〔五字傍点〕も、き〔傍点〕にかゝるのは、き〔傍点〕に璞・鑛などの意があつたのかとも考へるが、王朝時代に吉備地方から鐵を産出した事は、事實であるから、直に地名に接したものと見てもよい。さて、丹生も亦地名であるとすれば、上野國か、他國かゞ問題になる。上野國にも言はれぬ筈はないが、今一説を述べると、吉備の中山に近い備中國賀陽郡庭妹は、吉備津(ノ)宮にも近い郷で、古くは、爾比世(和名抄)と(※[女+夫]の誤り)訓んでゐる。此地、本集頃、或は以前に、丹生瀬とでも言うたのでなからうか。さすれば、まがねふく丹生は、東國の地へ轉用した(丹生は分布の廣い地名である)ものか、又は東歌に錯亂があるのかとも考へられる。
 
まかみ‐の=はら【眞神(ノ)原】 又、眞髪(ノ)原。大和國高市郡飛鳥の地。今、飛鳥廢寺の在る邊とするのは、書紀に惑された説で、恐らくは、橘・川原の間を西へ延びて、白橿村見瀬に到る野を言うたものであらう。橘守部の、大口の眞神(ノ)原は、大内(ノ)眞神(ノ)原の誤だ、としてゐるのは、一理がある。昔、飛鳥の地に、古狼がゐたのを、土民が恐れて、大口(ノ)神と言うたので、大口の眞神(ノ)原だと言ふ(風土記逸文)のは、單に眞神(ノ)原の地名説明ばかりでなく、檜隈《ヒノクマ》(ノ)大内《オホチ》の説明傳説であらう。飛鳥の地は、古くは、檜隈をも籠めて言うたものである。此地に、歸化人を置いたと言ふ傳説(紀)は、飛鳥南部の歸化人部落の多かつた地方を斥すと見る方が正しからう。
 
(315)まかり‐ぢ【罷り路】 御所をさがつて家へ歸る往還の路』。滋賀津(ノ)采女の家は、近江國滋賀邊にあつたので、其罷り路は、湖水に入る長良川などの川瀬づたひの路であつたのであらう。滋賀津は、大友(ノ)村主の複姓であらうか。死に行く路、又は葬送の路と説くのはおもしろいが、身まかると言ふ語に煩されてゐる樣である。
 
まがり‐の=いけ【上(ノ)池】 勾池で、上〔傍点〕は勾字の略形のムの變化したものである。大和國飛鳥の橘寺の附近、島の宮にあつた池である。うへのいけ〔五字傍点〕と訓むのはよろしくない。
 
まか‐る【罷る】 さがる。おいとまする。退出する(ア)。此處を去つて他方へ行く(イ)。(イ)の意は、本集時代には、あまり用ゐなかつた。任《マ》くの再活用所相で、まけらる〔四字傍点〕の意の命令で、外へ行くと言ふのを、貴人に自分の退出を、對話風に告げる場合に、所相的に言ふ事があつた爲に、一轉して、退出の丁寧な表し方になつたのであらう。卷二「漣の滋賀津の子らがまかり路(二一八)のまかる〔三字傍点〕も、葬送の道など説くのは、後世の考へで、退朝歸路の意である。卷三「憶良らは今はまからむ(三三七)は、尊者大伴旅人への對話上の敬意が、明らかに見えてゐる。
 
ま‐き【眞木】 建築材料になる立派な木と言ふ意であらう。眞木立つ荒山路・眞木立つ不破山などの用例がある。即、物質名詞とも言ふべきまき〔二字傍点〕を轉用して、立ち木にも言ふのである。また、檜の異名とするのは、まき〔二字傍点〕の中、一番すぐれたのが、檜である處から、言ふのであらう。
 
 まき‐さく 枕。ひ。斧などで眞木を裂き割つて、立派な檜の木の材を造ると言ふ意で、檜とつゞく。さくを幸《サ》くだとするのは、よくない。檜、或は眞木(建築材)に裂く檜と言ふ、つゞきであるかも知れぬ。本集には、「眞木さく檜のつまで」とあるばかりで、ひ〔傍点〕にかゝつた證據は、眞木さく檜の板戸を(紀)、眞木さく檜の御門に(記)などがある。
 
 まき‐つむ【眞木積む】 川に眞木を積み下す。卷十三「まきつむ泉の川のはやき瀬に棹さし渡し(三二四〇)とある。此は、枕詞ではない。
 
まき‐はしら 立派な材木で造つた柱。檜の大柱。枕。ふとし。太く立派な状態から、ふとし〔三字傍点〕とつゞ(316)け、太き心を起したのである。
 
まきむく【纏向】(補) 又、卷目。卷向。大和國磯城郡纏向村の東に在る山の總稱で、弓月个岳・穴師山などが其中に在る。元、此地名は、三輪から東、初瀬に到る間の平地・山地をこめて言うたもので、珠城(ノ)宮・日代(ノ)宮なども、此地名の中にあつたのである。
 
 まきむく‐の‐ゆ‐つき‐がたけ【纏向の弓月个岳】 纏向山の一峰。秦(ノ)弓月《ユツキ》(ノ)君に附會する説はよくない。恐らく齋槻《ユツキ》が樹つてゐたからの名であらう。
 
ま‐ぎらは‐し【眩し】 まぶしい。光彩に射られて目がちら/\する。はつきりと、物の見えぬ状』。目霧《マギラ》ふの形容詞的再活用か。紛《マギ》らふの再活用か。卷十四「上(ツ)毛野《ケヌ》まぐは島門《シマド》に朝日さし、まぎらはしもな。ありつゝ見れば(三四〇七)。まぶしくて、ぢつと見てゐられぬ意で、差恥の爲に、目をあいて、よく見る事の出來ぬのだとも言ふ。
 
まく【撒く】 風葬する。火葬にした骨灰を、山野に撒き散す』。火葬は佛教と共に這入つて來たので、下流の民に始つて、漸次、上流にも行はれる樣になつて行つたのであらう。公認したのは、文武天皇四年三月の道照和尚の粟原火葬が始で、天下の火葬、此より始るとある(續紀)が、恐らく、もつと古くからあつたので、本集の風葬歌に道照以前のものもあるらしい。風葬は、道照の時にも行うたらしく、其火葬が畢つて、親族と弟子とがてんでに骨を奪ひあうた處が、飄風忽に起つて、灰骨を吹き※[風+易]げて、とうとう其行く處が訣らぬ樣になつた(續紀)とあるのは、世傳であるだけに、風葬であつた事を示した傳説ではあるまいか。後期王朝の初期の淳和天皇は、遺詔して、嵯峨野に風葬せられたほどである。
 
まく【枕く】 枕とする。枕として寢る(ア)。人の手を枕として、とも寢する(イ)。
 
まく【纏く】 纏ふ。絡み付く』。手に纏くとは、玉などを手に卷き付けるを言ふ。卷七「秋風は繼ぎてな吹きそわたの底沖なる玉を手に纏くまでに(一三二七)。玉纏きのを櫂〔六字傍点〕は玉の緒を捲きつけて飾つた櫂である。
 
まく【蒔く】 種をおろす』。植ゑるが、苗、又は芽を樹《タ》てるのに對してゐるので、實生《ミシヤウ》をさせるを言ふのである。卷七「妹背の山に粟蒔く吾味(一一九五)。(317)卷八「あが蒔けるわさ田の穗立ち(一六二四)。卷三「吾宿に韓藍蒔き生《オフ》し(三八四)などの用例がある。
 
まく【設く】 豫め……する。用意する。備へ設ける(ア)。待つ。待ちつける(イ)』。まつ〔二字傍点〕と語根を一にし、語尾は結《ユハ》く・縛《クヽ》すなどの樣に、轉換しあふのであらう。卷十二「雨も降り、夜もふけにけり。今更に、君行かめやも。紐解き設名《マケナ》(三一二四)。卷八「天の川。あひ向き立ちて、わが戀ひし君來ますなり。紐解き設奈(一五一八)。卷十一「葦鴨のすだく池水、溢るとも、儲溝方《マケミゾノヘ》に吾《ワレ》越えめやも(二八三三)。皆(ア)の用語例を持つた語で、儲溝〔二字傍点〕は溢れる時の用意にこさへた、常は水のない空濠《カラホリ》の樣なものであらう。又、(イ)の方を見ると、卷十九「春儲而《ハルマケテ》ものかなしきに、さよふけて羽ぶき鳴く鴫《シギ》誰《タ》が田にか棲む(四一四一)。同「春|設而《マケテ》かく歸るとも、秋風にもみぢむ山を越え來ずあらめや(四一四五)。同「宇都世美《ウツセミ》は戀ひを繁みと、春|麻氣※[氏/一]《マケテ》思ひ繁けば、ひきよぢて折りも折らずも見る毎に心は和《ナ》ぎむと……山吹をやどに引き植ゑて(四一八五)。卷五「梅の花散りまがひたる岡びには鶯鳴くも春加多麻氣弖(八三八)。卷十一「いつはしも戀ひぬ時とはあらねども、夕方※[手偏+王]《ユフカタマケテ》戀ひはすべなし(二三七三)。卷十「くさまくら旅にもの思ひわが聞けば、夕片設而《ユフカタマケテ》鳴くかはづかも(二一六三)。此等は皆、待ちつける・さう言ふ傾向を顯すなど言ふ意で、かたまく〔四字傍点〕、傾設くで、すつかり其らしくなると言ふ意である。
 
まく【任く】 か行下二段活用。他動詞。言ひつけて事をしに行かす。つかはす(ア)。委任する。任す(イ)。人を他にやると言ふのが、本義であらう。まかる〔三字傍点〕は此語の所相から出て、能相の自動詞となつてゐるのである。之を反對に説明して、まからす〔四字傍点〕の飜切だと言ふ樣に説くのはわるい。又、此語の役相にまかす〔三字傍点〕がある。自動詞は、か行四段活用で、よそに行く。現在の地を離れる意である。卷二十「まくらたち腰にとり佩き、ま愛《カナ》しき夫《セ》ろが麻伎《マキ》來む月《ツク》の知らなく(四四一三)。鹿持雅澄は、此語を、まかりの約音と考へてゐるが、言語生命が固定し、表面的になる。又、其根據とした大伴家持の卷十八「大君の遠のみかどと末伎《マキ》給ふつかさのまにま(四一一三)。又、同「大君の末伎のまに/\(四一一六)なども、單に活用(318)が違ふばかりで、性相には移動がない。此は、音韻變化か、誤用であらうと思ふ。
 
‐まく 助動詞まし〔二字傍点〕の第二變化の名詞法・副詞法』。卷九「橿の實の獨りか寢らむ問卷乃《トハマクノ》ほしき我妹が家の知らなく(一七四二)。卷五「かけ麻久波《マクハ》あやにかしこし(八一三)。皆、將來を豫期した名詞である。卷六「深海松の見卷《ミマク》ほしけど、莫告藻《ナノリソ》のおのが名をしみ(九四六)。卷十「秋萩の咲きたる野べのさ雄鹿は、落卷《チラマク》をしみ、鳴きぬるものを(二一五五)。此等は、副詞として用ゐられてゐるが、要するに皆すべて名詞竝びに副詞の過程を兼ね備へぬものはない。
 
まぐ【※[不/見]ぐ】 求む。探し求む。探し出す』。卷二十「踏み通り久爾麻藝《クニマギ》しつゝ(四四六五)。記「八千矛(ノ)神の尊は、八洲國|配偶麻岐《ツママギ》かねて(二)。本集には、つまどふ〔四字傍点〕・さよばふ〔四字傍点〕・よばふ〔三字傍点〕はあるが、つままぐ〔四字傍点〕はない。此には、「まぐはふ」のまぐ〔二字傍点〕の聯想がある樣である。又、國※[爪/見](ノ)忌寸「陸奥新田郡」と言ふ姓(坂(ノ)上系圖)が見えるのは、王朝前期の國※[爪/見]熱を示すのである。
 
ま‐くず=はふ 枕。かすがの山・野。春日山は、葛が多かつたのであらう。眞葛|延《ハ》ふで、這ふ〔二字傍点〕ではない。野《ヌ》は野をつゞけた迄である。卷六「まくず(眞ハフ葛|延《はふ》)春日(ノ)山はうちなびき春さり行くと(九四八)。卷十「まくずはふ(眞田葛《マクズ》延)夏野の繁く、かく戀ひば(一九八五)。卷十二「まくずはふ(眞葛延)小野の淺茅を心ゆも人引かめやも(二八三五)。
 
ま‐ぐはし【目細し】 しく活用。注意をひく美しさに言ふ。きらびやかである。美しく見える』。ま〔傍点〕は目《マ》であらう。唯の接頭語ま〔傍点〕ではなからう。此語、本集の中でも、比較的に古い時代のものと見える。卷十三「水門《ミナト》なす海も廣し。見渡しの島は名高し。こゝをしもまぐは(間細)しみかも、かけまくもあやに畏し、山(ノ)邊(ノ)五十師《イシ》(ノ)河原に、うちひさす大宮つかへ、朝日なすまぐは(目細)しも。夕日なすうらぐはしも(三二三四)。卷十四「下(ツ)毛野三鴨の山の小楢のすまぐはし(麻具波思)子ろは誰《タ》がけか持たむ(三四二四)。
 
まく‐ら【枕】 しきたへの〔五字傍点〕と言ふ枕詞が、枕・床に係る外に、袖・袂・衣手《コロモデ》などにかゝる點から見ると、枕は數栲で作つた物が多かつたらしく思はれる。其外(319)にも、菅枕・薦枕などを用ゐたらしく、此は大抵、質素古風な儀式の時や下層地方の民が用ゐたと思はれる。又、木枕を用ゐる事もあつた。此も上流には用ゐなかつたであらう。岩枕・石《イソ》枕は、死人の墳の中での調度であつた外に、旅寢を現す事になつてゐる(石枕を又、磯枕とも書く。同じく石である)。草枕も旅中かりそめに作る物で、菅や薦の職人のこさへた物とは、比べ物にならなかつたのであらう。人と纏綿して寢るを手枕《タマクラ》枕《マ》くと言ふ。人の旅行中に、其床・其枕を動す時は旅人の身に變事が起ると、嚴重に慎んだ訣は、床・枕が、其人の象徴になるからである。人の來ぬ夜は、人の枕ばかりが、片避る床の中にあるから、卷十「蟋蟀の待ち喜べる秋の夜は、寢るしるしなし。枕與吾者《マクラトワレハ》(二二六四)。卷四「玉ぬしに玉は授けて、かつ/”\も、枕與吾はいざ二人ねむ(六五二)など言ふ。卷十の歌は、吾は枕と二人寢むの意で、自身の枕でなく、人の枕である。後の枕は戀人でなく、自分の娘の枕が、母の床に竝べてあつたのである。旅人から見れば、自身の枕を齋《イツ》いてゐる家の床には、片|避《サ》りて寢る妻もあるから、其枕を偲んで、卷一「玉藻刈る沖べは漕がじ、しき栲の枕之邊〔三字右・〕忘れかねつも(七二)と歌うたのである。又、男の通ふ女の家にも、男の爲の枕が床に動さずあつたものと見え、卷十一「敷栲の枕は人事問哉《ヒトノコトヾヘヤ》(舊説ニヒトハ)其枕には苔|生《ム》しにたり(二五一六)といふ怨言もあるのである。其問答の對になつた「敷細の枕動夜不寢思人後相物《マクラウゴクヨイモネズオモフヒトニシノチアハムモノ》(舊説ハ)は、わが寢る枕が動くと、人に逢ふ事が出來ぬと言ふ信仰があつたのであらう。卷十一「數栲の枕|動而《ウゴキテ》いねらえず、もの思ふ今宵はやも明けぬかも(二五九三)も、其人に逢はうと思ふ心焦《コヽロイ》られで、卷十二「さ夜ふけて妹を思ひ出、敷栲の枕毛衣世二《マクラモソヨニ》歎きつるかも(二八八五)の、煩悶して自ら枕を軋ませるのとは違ふであらう。枕もと・寢床の邊を枕といふ事もある。卷五「敷栲の枕さらずて夢に見えこそ(八〇九)などは、其で、卷二「荒波により來る玉を枕|爾置《ニオキ》(二二六)は、枕としてすゑる意か。枕上に置くのか訣らぬ。
 
 まくら‐たち【枕大刀】 枕上にすゑおく刀か。卷二十「麻久良多知腰にとり佩きま愛《カナ》しき夫《セ》ろが罷《マ》き來(320)む月《ツク》の知らなく(四四一三)。防人《サキモリ》は黒漆刀を佩いたから、眞黒《マクラ》大刀だらうとも言ふ(古義頭註)。
 
まくらが【麻久良我】 下總國猿島郡。古河《コガ》邊の汎稱か。くらが〔三字傍点〕をば實の名、ま〔傍点〕を接頭語と見た説は、三首迄まくらが〔四字傍点〕と詠みこんでゐる確實性をば無視したもので、又、延約説に囚はれて、強ひて古我にこじつけようとした誤りであらう。但、卷十四「まくらがゆあま漕ぎ來《ク》見ゆ(三四四九)の歌で見ると、今の古河はあまり上流すぎる感がある。又、渡瀬川と利根川との關係から見ても、昔は、さ迄川幅が廣くなかつた樣であるから、旁、麻久良加の地を、古河の名に左右せられ過ぎた説は、よくない樣である。
 
まくら=かた‐さる【枕片避る】 床の眞中に据ゑる枕を片よせて寢る』。かたさる〔四字傍点〕は、かたよる〔四字傍点〕・わきへよける〔六字傍点〕である。二人寢の時は、どちらが眞中に寢ると言ふ事もなく、枕の位置に就いては、注意はひかぬが、一人臥しとなると、枕は眞中にすゑるはずを、旅中、或は外泊中の人の寢床をかへる事を忌む信仰の上から、殘つた者は、やはりいつものとほりに、枕竝べて偏《カタヨ》り寢るのである。一つには、よそに在る人をひきよせる爲、又は戀人と共寢を願ふ時の禁厭にもなつたのであらう。或は一つ枕を二人でして寢るから、一人のゐぬ時は、枕かたさつて寢るのだとも考へられる。旅行・外泊は、男のするものだから、自然、まくらかたさると言ふ行爲は、女の事になるのである。但、某(ノ)娘子《ヲトメ》の湯原(ノ)王に答へた歌、卷四「いかばかり思ひけめかも。しきたへの枕片去《マクラカタサル》夢に見え來之(六三三)。枕かたさる夢とつゞいてゐるとも思はれ、「枕かたさり寢る」状が夢に見え來しとも考へられる。同類の語に「夜床かたさる」がある。卷十八「はしきよしつまの命の衣手のわかれし時よ、ぬばたまのまくらかたさり出て來し月日よみつゝなげくらむ(四一〇一)。此も亦、意は同じである。又、床さる〔三字傍点〕には「愛知《アユチ》潟|氷上姉兒《ヒカミアネコ》は我來むととこさる(止許佐留)らむや。あはれ、姉兒を(熱田縁起)がある。床さりて寢てるだらうよの意である。
 
まくら・く【枕く】 枕とする』。他動詞。枕を語根とした動詞。本集時代には、まく〔二字傍点〕・まくらく〔四字傍点〕と言ふ新舊の二語を併用してゐたのである。「まく」參照。
 
まくら‐つく 枕。つま。まくらつく〔五字傍点〕は、枕付くで、(321)夫婦は閨房《ツマヤ》に枕をつけ竝べて寢るから、つまや〔三字傍点〕の枕詞としたのだ(冠辭考)と言ふ。けれども、枕を近《ツ》けて寢る配逑《ツマ》とかゝつたのであらう。つく〔二字傍点〕と言ふ語尾のある枕詞には、「あもりつく」「くしろつく」「またもつく」「みもろつく」などあるが、「あもりつく」は到著、「くしろつく」は附著、「またもつく」も附著、「みもろつく」は造築、或は近接の義と思はれて、皆、統一ない樣に見える。故に、枕つくも枕近接の意としても、さしつかへはない樣であるが、或は、全體に通じて、つくる〔三字傍点〕・つくろふ〔四字傍点〕などの義があるのかとも思ふ。
 
ま=け‐ながし 日數が長くなる。時日が多くたつ』。ま〔傍点〕は接頭語。けながし〔四字傍点〕に同じい。
 
まさ‐か【目前】 まのあたり。目のまへ。現在、面と向うてゐる時』。おく〔二字傍点〕に對した語。まさ〔二字傍点〕は現實・目前などの意で、今の「まざ/”\」「まざとした僞」のまざ〔二字傍点〕と同じである。まさし〔三字傍点〕・まさしに〔四字傍点〕・まさで〔三字傍点〕・まさめ〔三字傍点〕などの語根は、皆一つである。か〔傍点〕は體言副詞語尾。卷十二「梓弓すゑはし知らず。然れども、まさか(眞坂)は君によりにしものを(二九八五)。卷十四「伊香保ろの岨《ソヒ》の榛原、ねもごろに於久《オク》をなかねそ。まさか(麻左可)しよかば(三四一〇)。同「我《ア》が戀ひはまさか(麻左香)もかなし。くさまくら多胡の入り野《ヌ》の於久《オク》もかなしも(三四〇三)。同「梓弓すゑはより寢む。まさか(麻左可)こそ、人目をおほみ、汝《ナ》をはしにおけれ(三四九〇)。卷十二「しらがつく木綿《ユフ》は花物《ハナモノ》。言こそは、何時のまさか(眞坂)も常《ツネ》忘らえず(二九九六)。何時のまさか〔六字傍点〕は、眼前に會うた何時でもの意である。今「まさか、そんな事はあるまい」など言ふ反語の前提になる副詞も、「まさかに〔四字傍点〕かくの如し。何ぞ…ならむや」の意であらう。
 
ま‐さきく【眞幸く】 息災に。たつしやに。幸福に。祝福せられて。禍なく』。さきく〔三字傍点〕に接頭語ま〔傍点〕がついたのである。さきく〔三字傍点〕に副詞法ばかりで、「さきゝ」・「さきし」のないやうに、此も「まさきく」と言ふ副詞法のほかはなかつた樣である。さきく〔三字傍点〕は神の祝福を受け、さきはへられてゐる状を言ふので、身體に厄難のない事になるのであるが、此語が音轉で、まそけく〔四字傍点〕となつたものか、其とも、二つの語の類似から、内容の混同を來したのか。ともかくも、まそけく〔四字傍点〕が(322)必しも此語から出たとも言へぬのは、まそけく〔四字傍点〕のまそ〔二字傍点〕は、ますら雄・天《アメ》の益《マス》人などのます〔二字傍点〕で、強健の意を示す語根と思はれるからである。
 
まさ‐で=に 副詞。はつきりと。きつぱりと。まざまざしく現れる事。占卜の結果の著しく現れる時の副詞。卷十四「武藏野に占《ウラ》へ象《カタ》燒きまさでにものらぬ君が名卜に出にけり(三三七四)。同「鴉とふ大をそ鳥のまさでにも來まさぬ君をころくとぞ鳴く(三五二一)。目の前に見る樣に、隱れない容子を言ふ語なのが、一轉して表は現實な樣で、内實は空疎な場合に用ゐる。例歌の後のものが其である。まさ〔二字傍点〕は現《マサ》・目下《マサ》。で〔傍点〕は意味不明の接尾語。正出・眞定など説くのはわるい。事實にぴつたり符合するのをまさうら〔四字傍点〕、又、融合して、ますら〔三字傍点〕(龜のますら〔三字傍点〕など言ふ)と言ふのは、やはり、まさ〔二字傍点〕、即、現の意である。
 
まさ‐め【現目】 目で現實的に見る經験。直接に見ること。目のまへ』。まさ〔二字右○〕は顯現《マサ》で、目に見てゐる事實である。人傳てや、うろおぼえでない事。
 
まし【汝】 二人稱。同等、或はその以下に親しみを持つて用ゐる代名詞。みまし〔三字傍点〕・いまし〔三字傍点〕の頭音脱落。但、みまし〔三字傍点〕・いまし〔三字傍点〕は、敬稱の代名詞である。
 
‐まし・ゞ 想像・決斷の否定である。まい。あらうまい』。宣命には、殊に多く見えてゐる語で、まじ〔二字傍点〕の原形。從來、ましも〔三字傍点〕と訓んだのは、大抵、此語尾のじ〔傍点〕を表した自(ジ)を、目(モ)と寫し誤つてゐたから出たのである。助動詞まし〔二字傍点〕を否定する形で、「まじ」・「まい」と同樣、未來を思ふ助動詞である。但、活用のない點も、「じ」に似てゐる。
 
ま‐しば=に【眞數に】 たび/\。何度も/\』。ま〔傍点〕は接頭語。此副詞否定の語の應じるが例で、度々は出來ない・復とはない・容易にはないなどの意を示す。卷十四「おふしもと木のもと山のましばにも宣らぬ妹が名可多に出でむかも(三四八八)。同「あしびきの山かづらかげましばにも得がたきかげをおきや枯らさむ(三五七三)。此語、或は語根のしば〔二字傍点〕は吝《シハ》で、ま吝〔二字傍点〕、即、節制する所があつて思ふ存分でない心持ちを表すものゝ樣にも思はれる。さすれば、否定の語句と呼應して「ちよつくらちよいとには」「なかなか容易には」など言ふ内容を持つものと思はれる。
 
ます【坐す】 さ行四段活用。自動詞。居り〔二字傍点〕の敬語(ア)。(323)在りの敬語(イ)。行くの敬語(ウ)。單に敬意を表す助動詞(エ)。但、天子の言語には、自動の動作にも用ゐる事になつてゐる。卷一「吾こそ坐せ(一)。又、(ウ)の例には、卷十七「吾が背子が國へましなば、霍公鳥鳴かむ五月はさぶしけむかも(三九九六)。(エ)の例に、又、あもります・くだり來まして、などがある。
 
ま‐すげ=よし 枕。そが。「まそがよ、蘇我の子ら(推古天皇紀)とも用ゐた。ますげ〔三字傍点〕もまそが〔三字傍点〕も同じ事で、眞菅である。そが〔二字傍点〕と言ふために通音の語を上に冠らした事は、卷十四「山菅のそがひに寢しく(三五七七)などゝ同じである。よし〔二字傍点〕は例の指示する意を持つたはやし語。
 
ま‐すみ‐の=かゞみ【眞澄(ノ)鏡】 くもりなく照り澄んだ銅鏡。大抵は、漢鏡・唐鏡など、舶來の品である。まそみのかゞみ・まそかゞみとも言ふ。
 
ます‐ら=を【健男】 健康な男。立派な一人前の男』。ます〔二字傍点〕は健康・生長の意。ら〔傍点〕は體言語尾。を〔傍点〕は男。ます〔二字傍点〕は健全生育の意の語根。いゆ〔二字傍点〕(>いよゝ)に對する。ら〔傍点〕は體言副詞語尾。「たわ‐や=め」と言ふのと同じ風に出來た語で、元來、勇武の意はなかつたのを、後の分化で出來た意義だから、武力ある人と言ふ風の譯はわるい。ますらたけを〔六字傍点〕となつて、初めて武力ある樣は現れるのである。ますらわれ〔五字傍点〕は、ますらをわれ〔六字傍点〕の略とも、立派な一人前の自分ともとれる。「天(ノ)益人」のます〔二字傍点〕も、五百頭づゝ一月に増すからだと言ふのは、單なる神話説明で、健康なる生を享樂する人との意である。釋迦如來をますらを〔四字傍点〕と言うた事は、佛足石の歌に見えてゐる。此は立派な人の意が理想的に用ゐられてゐるのである。
 
 ますらを‐の 枕。たゆひがうら。ますらをの手に著ける手纏と言ふ意味で、たゆひが浦の名に言ひかけたのである。足につけるあゆひ〔三字傍点〕に對して、たゆひ〔三字傍点〕だ(冠辭考)と言ふが、此は手纏《タマキ》の訓み違ひで、たゆひ〔三字傍点〕は手結とも書くが、ゆひ〔二字傍点〕、即、協同作業が手業であるから、手をつけたのであらう。或は田結かも知れぬ。ゆひ〔二字傍点〕は古書にも見えて、隣保相扶けて、互に勞働をしあふ組合的な作業である。だから、を田のますら雄、即、健康な田夫らが、協同で田植などしてゐる樣を聯想してつゞけたのだ。
 
ま‐そ【眞麻】 そ〔傍点〕は麻で、夏麻・青麻・綜麻など熟す(324)る。ま〔傍点〕苧《ヲ》、即、からむし〔四字傍点〕の事で、普通の麻《アサ》とは區別がある。
 
 まそ‐むら【眞麻群】 眞麻の繁み。
 
 まそ‐ゆふ【眞麻木綿】 ゆふ〔二字傍点〕は栲の木の繊維でこさへるのであるが、神前に垂れる布の名となつてからは、麻で作つたにぎて〔三字傍点〕の類も、ゆふ〔二字傍点〕と言うて通ずる樣になつた。からむし〔四字傍点〕でこさへたゆふしで〔四字傍点〕。
 
まそ‐かゞみ【眞澄鏡】 ますみのかゞみ〔七字傍点〕の音轉脱略。
 
 まそ‐かゞみ 枕。み。てる。きよし。かく。ふた。おもかげ。とぐ。とこ。鏡を見ると言ふ處から、み〔傍点〕、又はみる〔二字傍点〕にかけて、卷十一「まそかゞみ見とも言はめや(二五〇九)。卷三「まそかゞみ仰ぎて見れど(二三九)。卷六「まそかゞみ見宿女《ミヌメ》(敏馬)(ノ)浦は(一〇六六)とかけ、其澄み明らかな點から、照る〔二字傍点〕・清し〔二字傍点〕にかけて、卷十一「まそかゞみ照り出る月の(二四六二)。或は、卷八「まそかゞみ清き月夜に(一五〇七)とも言ふ。其紐でかける處から、卷十二「まそかゞみかけてしぬびつ。逢ふ人毎に(二九八一)。卷十五「まそかゞみかけてしぬべとまつりだす(三七六五)とつゞけ、鏡筥の蓋《フタ》を聯想しては、卷十九「まそかゞみ蓋上(二上)山に(四一九二)。磨ぐにつゞけては、卷四「まそかゞみとぎし心をゆるしこし(六一九)とかけ、又、卷十一「まそかゞみ床のへさらず(二五〇一)とつゞけたのは、とく〔二字傍点〕の音點を利用したので、寢床の傍においておくからではなからう。おもかげ〔四字傍点〕につゞく理由は、言ふまでもなからう。
 
ま‐そほ【眞赭土】 辰砂・朱砂だと言ふ。後には、ますほ〔三字傍点〕と言うた。そほゝ〔三字傍点〕(赭丹)に、接頭語ま〔傍点〕がついたのである。硫化水銀の自然に採取せらるゝものであつて、朱色の彩具に用ゐる。天平時代は、佛寺の建築が盛んであつた爲、眞朱の供給足らず、朝廷の造佛寺の役人が、朱が足りないとて騷いでゐるのを、嘲弄氣味に詠んだのが、卷十六「佛つくるまそほ足らずば、水たまる池田のあそが鼻の上を掘れ(三八四一)の歌であらう。當時、造佛の爲に、國用の疲弊した状態の一面も知られる。又、同「何處にか眞朱掘る岡。薦疊|平群《ヘグリ》(ノ)あそが鼻の上を掘れ(三八四三)。又、朱に限らず、何でも、赤い土・丹《タン》の類の赤い鑛石などを言ふか。
 
(325)また・く【遽く】 いらつ。あせる。もどかしがる』。か行四段活用。自動詞。待つの再活用。待ち心の焦慮を現す。後期王朝のまたき〔三字傍点〕と言ふ副詞は、此名詞法である。
 
また・し【全し】(補) もとの儘である。其なりで變らぬ。存在をつゞける。そつくり其儘持ちこす樣。前どほりでちつとも缺けぬ』。具備・完全・圓滿など言ふ意は、まだ出てゐぬ。記「命のまたけむ人(三一)。卷十二「まことわぎのちまたからめやも(二八九一)。卷四「わぎのちのまたけむ限り忘れめや(五九五)。
 
まだ・す【奉す】 人をして物を奉らせる。贈り物を持つて行かせる』。さ行四段活用。他動詞。卷四「わが衣を形見にまだすしきたへの枕|離《カ》れずて枕《マ》きてさ寢ませ(六三六)。まつりだす〔五字傍点〕の略のまつだす〔四字傍点〕の、又、略せられたもの。
 
ま‐たま‐つく 枕。を。眞玉を作る緒と言ひつゞけて、「をち」にかけて言ふ。ま玉に附くと考へぬ方がよい。卷四「またまつくをちこちかねて言ひはいへど(六七四)。卷七「またまつく越《ヲチ》の菅原わが刈らず(一三四一)。
 
ま‐たま=づら 枕。たゆ。またまづら〔五字傍点〕は、玉蔓の事であらう。さて、かづら〔三字傍点〕は、中から斷れてしまひやすい物だから、絶ゆ〔二字傍点〕に言ひかけたのである。卷十二「丹波路《タニハチ》の大江(ノ)山のまたまづら絶えむの心、わが思はなくに(三〇七一)。
 
まだ‐ら【斑ら】 はだら〔三字傍点〕と通じる。まだらのころも〔七字傍点〕は、月草・榛などで、斑らに摺つた衣類である。まだら衾も、これと同じ方法で、色つけた衾。此頃の人の着物は、單純な一色に染めたものが多かつたので、班ら染めは喜ばれたのであらう。
 
 まだら‐の‐ころも 前條を見よ。
 
 まだら‐ぶすま おなじく。
 
まち‐いづ【待ち出づ】 待ちをふせる。待つてゐて出るのにあふ』。だ行下二段活用。他動詞。自然的の動作を、自分の行爲にうつして、強く言ふのである。
 
まち‐がたし【待ち難し】 待ち遠しい。ぢれつたい。待ちかねる。
 (補) まつ〔二字傍点〕と言ふ語に、まちとる・まちつけるの過程が含まれて居るので、まちつけ得ないで、待ち焦れてゐる事になるのである。待ちかてに・待ちかてず(326)と言ふのも、同じ意。
 
まち‐ざけ【待ち酒】 遠方から來、又は戻る人の爲に、其來るのを待つて、特に釀造する酒。卷四「君が爲釀みし待ち酒、安の野に一人や飲まむ。友なしにして(五五五)は、遠くにゐる人に贈つた歌。古く神功皇后が、應神天皇の還幸を待つて釀された待ち酒の話(記)がある。此は恐らく單に、歡迎の宴の爲につくるのでなく、一種の酒占とも言ふべき信仰で、旅行者の安否を氣遣うて、其出來ぐあひで、平安か否やを知る爲、故らに釀すので、無事で歸つたら其を呑むと言ふ習慣があつたのだらう、と考へる。又、一夜酒など言ふ、特殊の釀し方の物だらうとの説もある。
 
まち‐とふ【待ち問ふ】 人を待ち受けて、逢はなかつた間の容子を尋ねる』。卷六「難波潟汐干のなごり委曲見《ヨクミテナ》。家なる妹の待將問《マチトハム》ため(九七六)。卷七「玉津島よく見て行《イマ》せ。あをによし奈良なる人の待問者《マチトハバ》、如何に(一二一五)。或は、問はう/\と待つてゐる意であるかも知れぬ。
 
まつ‐が‐うら【松个浦】 陸前國宮城郡七箇濱村附近の海岸、松濱の古名だと言ふが、如何であらうか。所謂松个浦島も、此地だと言ふ。或は、今の松島※[さんずい+彎]を言うた名ではなからうか。さすれば、松个浦島は、一島の名でなく、群島の總名になるのである。
 
まつ‐がへり【待つ返り】 鷹狩の用語。山詞(ノ)記(古今要覧)にも見えない。鷹が、暫く姿を隱して後、還ること。卷九「待つがへりしびにてあれやも(一七八三)。卷十七「待つがへりしびにてあれかも(四〇一四)。しび〔二字傍点〕は歸り澁る事と思はれる。
 
まつした・す 東語。まつりだす〔五字傍点〕の訛。待慕《マツシタ》す、即、待ちこがれる意と説くのは、不可。まぶしたつ〔五字傍点〕と言ふのも、如何。まつりだす〔五字傍点〕の訛として、祀り出す、即、神を祀つて、旅路の平安を祈つて、送り出すと言ふ意にもとれるが、此もよくない。
 
まつだ‐え【麻都太江】 越中國氷見郡。太田村澁谷の岩埼から北方の濱地。松田江の長濱と言ふ。
 
まつち‐やま【眞土山】 紀伊・大和の國境、南葛城山脈の小支峰で、吉野川の北岸にある。徳川期にも既に、國境變じて、大和國字智郡牧野村|木《コ》(ノ)原の地に入つた。今の待乳峠よりは、少し南を越えた(名所圖會)。大和から紀伊に行くには、必、此道を通つたの(327)で、木(ノ)戸(紀(ノ)門の意。垂仁天皇紀)も、此山峽を斥《サ》したのであらう。本集時代には、此處に紀(ノ)關があり、此山から見た景色も勝れてゐる。此等の理由で、紀路と言へば眞土山が聯想せられたのである。廬崎・角田《スミダ》川原、皆、此山の西の川邊にあつた地名である。
 
 まつちやま 枕。待つ。まつ〔二字傍点〕の同音聯想で待つ〔二字傍点〕にかけたので、まつちやま待つほどすぎて、まつちやま待つらむ君など、此山の紀伊と大和との國境にあつた處から、主として紀路旅行中の贈答の歌に使はれた。
 
まつほ‐の‐うら【松帆(ノ)浦】 淡路國津名郡。岩屋村の西北の松尾は、松帆の轉であると言ふ。さすれば、松尾崎・江崎に亙る※[さんずい+彎]入の名であらう。一説には、三原郡湊村附近だと言ふ。
 
まつら【松浦】 古くはまつうら〔四字傍点〕とは讀まぬ。元筑紫國の中であつた(記)と思はれる。今、東西北松浦郡に分れてゐる。此はすべて、末羅《マツラ》(ノ)國の舊地で、古代に、日本國中で、一番早く外國文化に觸れたのは、此地方である。魏朝に既に、末盧國として四千餘家あり、山海に濱して居る(魏志)處と傳へられてゐる。其中心は、西北に玄海灘を受けた唐津・滿島附近にあつたらしく、本集に言ふ松浦潟は、唐津※[さんずい+彎]であり、玉島川・領巾振山など、歴史傳説地の此地方に集中してゐたのを見ても、北部松浦(東西松浦郡)の此頃迄、盛んであつた事が知れるので、値鹿《チカ》島(五島)を中心とした此松浦郡地方が、繁昌したのは、後れてゐる。
 
まつら‐さよひめ【松浦佐用媛】(補) 傳説上の人物。肥前國松浦の人。肥前風土記には、名は弟日姫子となつてゐて、篠原村の人としてある。日下部(ノ)君の祖とあつて、傳説上に系圖正しくはなつたが、恐らく遊女の類であつたらうと思はれるのは、弟日姫子と言ふ名が、實は遊女の總稱であつたらしい事からでも知れる。佐用媛の石に化した逆化生傳説は、まだ當時、生じてゐなかつたと見えて(本集)、大伴(ノ)佐提彦《サデヒコ》の松浦滞留中に寵愛した佐用暖《サヨヒメ》が、佐提彦《サデヒコ》が新羅へ向けて出帆したのを悲しんで、此山に登つて、領巾《ヒレ》を麾《フ》つて行く船を招いたので、其後、領巾麾麾《ヒレフルミネ》と言うたとあつて、後日譚は載せないが、當時、既に下の樣な話があつたのを、望夫山の傳説などか(328)ら、後人が後世的な貞婦としたものであらう。其後、狹手《サデ》彦の形見の鏡の緒が斷れて沈んだ渡を、鏡(ノ)渡と言ひ(肥前風土記鏡渡)、又、夫に別れて五日の後から、毎夜、佐提彦に似た男が通うて、彼女と共に寢た。不審に思うて緒《ウ》み麻《ヲ》を男の襴につけて置いて、其後を尾《ツ》けて行くと、褶《ヒレ》を振つた峰の頭《ホトリ》の沼に、頭は※[虫+莽]《ヲロチ》で、からだは人間の姿の物が、沼の堤に寢て居て、佐用媛を見ると、すぐに人に化《ナ》つて、「篠原の弟媛《オトヒメ》の子をさ一夜《ヒトユ》も率寢《ヰネ》てむ時《シダ》や家に罷《クダ》さむ」と歌うたので、侍女が驚き逃げ歸つて家の人に告げた。人々が山に昇つて見ると、二人の姿はなくて、沼の底に人の屍があつたので、佐用媛の體だと考へて、此峯の南に墓をこさへた(肥前風土記)。
 
まつり‐だす【令獻す】 さしあげさせる。人の手から進上させる』。まつり致す〔五字傍点〕で、だす〔二字傍点〕はい〔傍点〕の脱落による音の緊張から、濁音になつたので、出すではない。まつだす〔四字傍点〕・まだす〔三字傍点〕など言ふ語の元である。單に獻るのでなく、人を中介にして致さしめるのである。佛足石の歌に見えた、まゐたりて〔五字傍点〕と言ふ語も、來至る(>きたる)及び奉《マツ》り致すと同じ樣な成立を持つてゐるのである。さ行四段活用。他動詞。
 
まつろふ【服ふ】 は行四段括用。自動詞。服從する。附順する。歸順する』。は行下二段活用。他動詞。征服する。歸順させる』。奉仕《マツ》るの再活用の意義分化で、此迄叛いてゐた者が、軟化し從ふ意で、殺伐な聊想を伴はぬ語である。他動詞の方は、自動詞の轉成に過ぎぬ。
 
まとかた【的形】 圓方(ノ)浦、又は海の略。伊勢國多氣郡。今、松阪の東南、東西|黒部《クロベ》村邊の海岸。地形が的に似てゐたので、命けられた(風土記逸文)名だと言ふ。まとかた〔四字傍点〕は的の形の意でなく、的其物をいくは〔三字傍点〕、又はまとかた〔四字傍点〕と言うたのである。壹志※[さんずい+彎]の南隅で、櫛田川が流れ込んでゐる。附近に服部《ハトリ》(ノ)麻刀方《マトカタノ》神社があつた(延喜式)。
 
まとかた‐の‐ひめおほきみ【圓方(ノ)女王】 長屋王の王女。天平九年十月從五位下から從四位下に敍せられ、淳仁天皇の天平寶字七年正月正四位上に進み、八年十月從三位を授かり、稱徳天皇の神護景雲二年正月正三位になり、光仁天皇の寶龜五年十二月二十三日になくなられた。
 
(329)まどふ【惑ふ】 は行四段活用。自動詞。目のばんやりして遠目のきかぬ容子(ア)。目が定らない。見當がつかぬ。どうしてよいかわからぬ。まよふ(イ)』。ま〔傍点〕は目《マ》であらうか。まど〔二字傍点〕は不的確・不明瞭の意の語根なのか判然せぬが、本集時代にあつたさどふ〔三字傍点〕及び後のまよふ〔三字傍点〕と、形が酷似してをり、おぼる〔三字傍点〕と用法の近い事は注意すべきである。「雲路まどひて行くへ知らずも(出雲風土記)などは、踏み迷ふではなく、虚空の路がはつきり知れぬと言ふ(ア)の意で、卷十一「夢にだになどかも見えぬ見ゆれども我かもまどふ戀ひのしげきに(二五九五)も、(ア)に屬する。
 
まとり‐すむ 枕。雲梯《ウナテ》(ノ)杜《モリ》。賀茂眞淵は、此詞について、數段の思索を重ねてゐる。まとり〔三字傍点〕は鵜で、うな〔二字傍点〕(海)だらうと言ふ人の説にも耳を傾け、又、ま〔傍点〕はな〔傍点〕、即、魚の誤りだらうと言ふ考へにも同感してゐる。最後に、まとり〔三字傍点〕を鷲ときめて、雲梯《ウナテ》(ノ)杜に、此鷲鳥が棲んでゐたからだと定めて居る。併、鶴を眞鳥と言うて居る(倭姫世紀)事もあるから、鶴の棲んだと主張した上田秋成の説は傾聽すべきである。但、雲梯(ノ)杜に鶴が棲んでゐたと見るよりは、鶴の海邊に宿る(すむ〔二字傍点〕は、鳥などには多く一時的に宿る事を言ふ)處から、うな〔二字傍点〕を起したと説く方がよいと思ふ。眞島・鮪(平群)が父子なのを見ると、やはり魚の名とも考へられる。さすれば、うな〔二字傍点〕とのつゞきあひは簡單になる。
 
まな【眞愛】 かあゆし。いとし』。語根形容詞で、子を修飾すると、まなご〔三字傍点〕となる。卷十四「あしびきの山澤人の人さはに、まなといふ兒が、あやにかなしさ(三四六二)。
 
まなが‐の‐うら【眞長(ノ)浦】 近江國高島郡三尾の中の地名であらう。よなかの潟〔五字傍点〕と、地も、音も近い。
 
ま‐な‐かひ【目之間】 眉間の下』。目の間《カヒ》で鼻準《ハナバシラ》の上の凹くなつた處で、決して目前などの意ではない。まなかひにかゝると言ふのは、目から離れぬので、鼻準の上を去らぬとの意である。
 
まな‐ご【愛兒】 かあゆい子。いとし子』。まな〔二字傍点〕は親愛の意を表す體言で、語原、語義は判然せぬが卷十四、「まな〔二字傍点〕といふ子が(三四六二)など獨立して用ゐられる。
 
まなご【沙】 まさご。いしなご』。なご〔二字傍点〕が沙で、ま〔傍点〕は接頭語。水邊の細かな石。眞愛兒と同音な處から、(330)屡かけことば〔五字傍点〕に用ゐられる。卷十四「相摸路の餘綾(ノ)濱のまなごなす兒等しかなしく思はるゝかも(三三七二)。
 
ま‐な‐ぶた【※[目+匡]】 まぶた』。目の蓋の義。瞼《マブチ》と混同せられ易い。
 
ま‐なほ‐に【眞直に】 副詞。まつそのとほり。僞でない事。
 
まぬ【眞野】 兩説ある。近江國滋賀郡眞野と攝津國武庫郡と二个處が、其である。何方ともきめにくいが、淀の繼橋・眞野(ノ)池など言ふ語によつて、姑く近江國に傾く。平安朝末期の歌は、すべて琵琶湖西岸の地と見てゐる。
 
ま‐ぬらる【ま罵らる】 ま〔傍点〕は接頭語。ぬらる〔三字傍点〕は罵《ノ》らるだと言ふ。併、まぬれる〔四字傍点〕の古形で、文意を推すと、酒に醉うてくだをまいてゐる事を言ふらしい。卷十六「はしだての熊來酒屋《クマキサカヤ》にまぬらるやつこ。わし。誘《サス》ひ立て、率《ヰ》て來《キ》なましを。まぬらるやつこ。わし(三八七九)。或は、まどふ〔三字傍点〕の語根まど〔二字傍点〕と通じてゐるのか。
 
まねし【多し】 時間の上の多い(ア)。量の多い(イ)。く活用形容詞。卷二「まねく行かば人知りぬべみ(二〇七)は、度數の多いこと。卷十九「逢はぬ日まねみ思ひぞわがする(四一九八)も、時數の重る事である。接頭語の「さ」がついて、さまねし〔四字傍点〕となるのも同じい。あまねし〔四字傍点〕も接頭語あ〔傍点〕がついたのである。まね〔二字傍点〕は同系の朝鮮語に、まん〔二字傍点〕と言ふのと通じてゐる。又、卷二「うらさぶる心さまねし(八二)は、深いなどゝ通ずる量の上の語である。
 
ま‐はり【眞榛】 眞〔傍点〕は接頭語。はり〔二字傍点〕に同じい。
 
まひ【賄】 當時、すでに、賄賂(袖下の意を持つてゐるが、山上憶良のは、輕く、賃・手數料・贈り物位の意味に用ゐられてゐる。まひなふ〔四字傍点〕は其行爲で、本集時代の世間にも、まひ〔二字傍点〕はかなり行はれたと認められる。
 
ま‐ひと【眞人】 姓《カバネ》の一種で、まぶと〔三字傍点〕・まつと〔三字傍点〕ゝも言ふ。うまびと、即、貴人の義から出て居ると言ふが、天武天皇の十三年、八色《ヤシナ》の姓《カバネ》を改定した時に、第一等に置かれたもので、王孫に賜つた姓である。新撰姓氏録には眞人を姓とする氏が、すべて三十六ある。
 
ま‐ほ‐ら【眞秀ら】 本集時代には、すでに意義の反省なく、莊重な語として襲用した迄である。國のまほらと成語になつてゐる。ま〔傍点〕は接頭語で、ほら〔二字傍点〕はひろ〔二字傍点〕・(331)はろ〔二字傍点〕・ほら〔二字傍点〕(洞)などゝ通じる廣濶な土地の意だと説くが、唯、言語情調の分解に過ぎぬ。ともかくも、國土の讃美に用ゐる語には相違ない樣である。
 
まゝ【眞間】 下總國葛飾郡。此地、昔は海に面してゐた。此地に手古奈《テコナ》と言ふ女があつた(次條を見よ)。又、相摸國足柄上郡。所在未詳。
 
 まゝ‐の‐てこな【眞間(ノ)手古奈】 競婚傳説の中、競爭者を特定の人とせずに、多數の男とした點、注意すべきである。下總の國府に近い所にゐた女だけに、東國官人等の注意に上つてゐた爲、都迄も傳つたと思はれる。卷十四「足の音せず行かむ馬もが(三三八七)と言うたのは、恐らく其等の都人だらう。鄙處女の美しいのが、時々出て水を汲むと言ふ場合に、衆人の注目する處となつて、求婚者の多いのに堪へず、水に投じたのである、此は恐らく、孤立古冢傳説の一つだつたのであらう。現在では、江戸期式の臭双紙化を受けて、烈女の一人とせられてゐる。
 (補)崖の截り落した樣になつた處を言ふ地名で、相摸國足柄上郡には※[土+盡]下と言ふ處がある。卷十四「あしがりのまゝの小菅(三三六九)のまゝ〔二字傍点〕は此で、岨《ソヒ》などに似た地形を言ふ方言であらう。即、足柄地方にまゝ〔二字傍点〕といはれた大きな崖の、半固有名詞であつたものと思はれる。下總國の眞間も、國府臺高地の崖上にあつたからの名であらう。伊豆國田方郡には、※[土+盡](ノ)上をまゝのうへ〔五字傍点〕と讀む地名のあるのも、やはり崖の上の義で、下野國の間々田・下總國の缺眞間《カケママ》、皆、此種の地形を持つた土地だからであらう。
 
ま‐み 目つき。まなこゐ』。目が一番印象の深い處からして、顏つき・おもざしなどの意に轉用せられる場合にも、目〔傍点〕と言ふ事は觀念から落ちぬ樣である。
 
まむだ‐の=おほきみ【茨田(ノ)王】 聖武天皇の天平十一年正月無位より從五位下に敍せられ、十二年十一月從五位上に進み、十六年二月少納言であつた時、難波(ノ)宮から恭仁宮に使して、驛鈴及び内外の印を取りに行き、十八年九月宮内大輔となり、十九年十一月越前守になつた。中務大輔となつたのは、何時であるか判然しない。
 
まむだ‐の‐さみまろ【茨田(ノ)沙彌麻呂】 上總國の少目で、孝謙天皇の天平勝寶七年筑紫へ遣された防人の(332)部領使。
 
まゆかせらふ 東語。意義明らかでない。ゆかせらふ〔五字傍点〕は、ゆかしく思ふ意で、ま〔傍点〕は接頭語だと言ふ。卷十四「崖岸《アズベ》から駒の行《ユ》このす、危《アヤ》はども、人妻子ろを、まゆかせらふも(三五四一)。らふも〔三字傍点〕のも〔傍点〕は感歎助辭で、らふ〔二字傍点〕はなふ〔二字傍点〕か。東語では、都のなく〔二字傍点〕・なし〔二字傍点〕に當るなふ〔二字傍点〕(其條參照)と言ふ動詞がある。「まゆかせなふよ」・「なふも」など用ゐられてゐる。但、同「を筑波の繁き木の間よ立つ鳥の目由可《マユカ》汝《ナ》を見む。さ寢ざらなくに(三三九六)のまゆか〔三字傍点〕と尠くとも形式上の類似がある。思ふに、古語に、まゆに〔三字傍点〕・まゆか〔三字傍点〕など言ふ副詞(體言形容詞)があつて、其が東語にはまだ殘つてゐたので、意味は、なほざりに〔五字傍点〕・おほよそに〔五字傍点〕・おろそかに〔五字傍点〕などであつたのが、動詞となつて「まよ‐ふ」「まゆか‐す」など樣の形を持つてゐたので、「まゆ〔二字傍点〕か汝《ナ》を見む」の方は、まゆ‐に‐か〔おろそかに(よそに)汝を見むや〕の意と考へられ、「人妻子ろを、まゆかせらふも」の方は、「人妻なるに、其人をおろそか(よそ)に思はれぬ事かな」の意であらう。
 
まゆ‐ずみ【眉墨・黛】 女が眉毛を削り落して、其跡に眉形を畫きつける墨。又、其引き眉を言ふ。
 
まゆみ‐の‐をか【檀(ノ)岡】 大和國高市郡。檜隈川の西岸、坂合村眞弓の地の丘陵。今、越の地に日竝知皇子の檀(ノ)岡(ノ)墓を指定してゐる。
 
まよ‐ごもり【繭隱り】 蠶が繭を作つて籠る事。
 
まよ‐ね=かく【眉根掻く】 眉が痒くて掻きたくなるのは、人に會ふ前兆とせられてゐたのである(ア)。卷十一「眉根かきしたいぶかしみ思へるに、いにしへ人を相見つるかも(二六一四)。又、其俗信が轉じて、人に會ひたい時のまじなひに、眉を掻いて待つ事もあつたか(イ)。卷六「月立ちてたゞ三日月の眉根かき、日《ケ》長く戀ひし君にあへるかも(九九三)。或は(イ)の方が本集時代の信仰で、(ア)は近代の變形した形式で推した解釋かも知れぬ。
 
まよ‐びき【眉引き】 青丹《アヲニ》などの黛で畫いた引き繭。或は、眉の曲線を言ふと説くは、如何。
 
 まよびき‐の 枕。よこやま。其形似から言うたものか、唯、横にかけたのか、判然せぬ。横山は、普通、道路の過ぎる丘陵の事であるから、故らに横山を聯想するのは、變である。
 
(333)まよふ【紕ふ】 布帛の摺りきれて、經緯の絲の薄くわゝけること。卷七「今年ゆく新|島守《サキモリ》が麻ごろも。肩のまよひは、誰か取り看む(一二六五)。卷十一「白栲の袖はまよひぬ。我妹子がやどのあたりをやまずふりしに(二六〇九)。
 
まりふ‐の‐うら【麻里布(ノ)浦】(補) 周防國玖珂郡。所在不明。後の、麻里布村(今、岩國市の中)と言ふのは、室木(ノ)浦を、其地と考へて名づけたのである。
 
まろ‐ね【轉寢】 ごろね。ころびね。うたゝね』。着物のまゝに帶も解かずに、まろびねる事。卷九「石(ノ)上布留の里に、紐とかずまろねをすれば、わが着たる衣はなれぬ(一七八七)。卷十「旅にすら紐とくものを。ことしげみ、まろねわがする。長きこの夜を(二三〇五)。卷十八「み雪ふる越にくだり來、あらたまの年の五とせ、しきたへの手枕まかず、紐とかずまろねをすれば(四一一三)。又、まるね〔三字傍点〕とも言ふ。
 
ま‐わか‐の=うら【眞若之浦】 紀伊國の和歌浦である。眞は接頭語。眞熊野のま〔傍点〕と同じい。卷十二「ころもでのまわかのうらのまなごぢの、間なく、時なし。わが戀ふらくは(三一六八)。
 
まゐ‐づ【參出】 參上する』。まうづ〔三字傍点〕の原形。まゐいづの融合。
 
まゐ‐のぼる【參昇る】 參内する。上京する。參殿する。參上する』。まゐりのぼるのり〔傍点〕音脱落。
 
まを‐ごも【蒋薦】 薦の一種。小さな草木であらう。眞小薦と説くのはよくない。此を編んで席筵《コモ》にしたものも、亦、まをごもと言はれたのであらう。卷十四「人言の繁きによりて、まをごもの同《オヤ》じ枕は、我《ワ》は枕《マ》かじやも(三四六四)。此もまをごもで編んだ枕の意で、席筵《コモ》の意ではない。薦で編んだ枕を使ふことは、卷七「薦枕相|枕《マ》きし子もあらばこそ(一四一四)などを見ても知れる。
 
 まをごも‐の 枕。ふ。ふ〔傍点〕は席・簾などを編む槌《ツチ》の子《コ》と槌の子との距離を言ふ語であらう。即、ふ〔傍点〕が多ければ、其菅・薦・柴・竹などの尺が、長い事になるのである。七編菅《ナヽフスゲ》・八編の柴《シバ》垣(耶賦乃|之魔柯枳《シバガキ》−武烈天皇紀)。十編《トフ》の菅筵《スガゴモ》などは、其非常に長い事を表す。本集にあるへあみしま/\〔七字傍点〕のへ〔傍点〕も、此ふ〔傍点〕から分化した語であらう。卷十四「麻乎其母能、布能未知可久※[氏/一]逢はなへば、沖つま鴨のなげ(334)きぞ、我《ア》がする(三五二四)。即、蒋薦で編んだ筵のふ〔傍点〕とかゝるので、ふのみちかくて〔七字傍点〕はふの短くて〔五字傍点〕の訛りかも知れぬ。又、未は末の誤りで、ふ〔傍点〕の間近くてだらうとも考へる。此方がよい樣である。
 
まをす【申す】 言ふ・告げるの敬語。敬語としても、又、單に會話を丁寧にする場合にも用ゐる。卷十二「たらちねの母がめす名をまをさめど、路行く人を誰と知りてか(三一〇二)。卷十六「七重花さく八重花さくと申したゝへも(三八八五)。次條の語との成立の順序は、容易にきめられぬ。
 
まをす【奏す】 貴人の爲に取り行ふ。天子の爲に與り行ふ。貴人の爲に、取りまかなふ事にあづかる』。卷五「萬代に坐《イマ》したまひて、天の下まをし給はね。朝廷《ミカド》去らずて(八七九)。卷十九「いにしへに、君が三代まで仕へけり。わが大主〔二字傍点〕は七世まをさね(四二五六)。まうす〔三字傍点〕とあるのも同語で、を〔傍点〕がう〔傍点〕に轉じたゞけである。卷十八「堀江より水脈引きしつゝ御舟さす賤男のともは、川の瀬まうせ(四〇六一)。此も申しあげる意でなく、川の瀬に舟のすわらぬ樣、よきに操り奉れの意。すべて天子・皇族など尊貴に對して、或人が事とり行ふを言ふので、政に言ふと、まをす〔三字傍点〕は攝政とか參政とかの意になる。上の例は皆、命令になつてゐるが、あひて〔三字右・〕に對して、第三者なる貴顯に、事よくつかへ奉れと言ふ注文である。
 
     み
 
み【身】 からだ(ア)。自分、おのれ、みづから(イ)。身のうえ(ウ)。着物の身幅(エ)。身其物。正身《シヤウミ》。さうじみ(オ)。記紀時代からの風で、む〔傍点〕と音轉で言ふ事もある。
 
み【見】(補) 見ること。見え』。見る〔二字傍点〕の名詞法。見がほし・見のともし。皆、名詞として、見らく〔三字傍点〕など言ふ副詞に似た職分をも持つてゐる。
 
み‐【御】 敬意を示す接頭語。但、體言に限つてつく語で、用言には接した例がない。古事記傳以下用言につけた訓み方は、すべて誤りだ。卷二「御立爲之(一八〇・一八一)をみたゝしゝ〔五字傍点〕と訓まず、みたゝしの〔五字傍点〕としたのは、此爲だ。
 
‐み 副詞語尾。但、形容詞の語根について、一文を副詞句化する務めをする。元は動詞化したもので、(335)對象語は他動詞的にを〔傍点〕を附ける習慣があるが、實は「假目的格」で、自動詞的のものである。「さに」「ので」「くして」など譯する。
 
み‐あらか【御殿】 大きな家を讃美して言ふ語。御所・宮殿・家の敬語』。御在香(本集)・殿・大莊・大殿(紀)・御舍(記)など、字を宛てる。義は、在處だと言ふが、如何。「わたつみのいろこのみや」などを中介にして、「あらか」「いらか」の關係を見ようとしたのもあるが、どうだらうか。(甍をいらか〔三字傍点〕と訓む「和名抄」から、壯大な屋根を殿舍の代表と見るのだと言ふ。本集にも、卷十六「海神之殿盖《ワタツミノトノノイラカ》(三七九一)と訓んだのが見える。祝詞に瑞之御殿《ミヅノミアラカ》【古語云阿良可】(大殿祭)とあるが、接頭語、又は敬語と見えるみ〔傍点〕なしに使うた例を見ぬ。
 
みうら‐さき【御宇良佐伎】 相摸國三浦郡の三浦三崎のことか。又、陸奥國富山の麓の、海に出張つた三浦崎であらうか(萬葉集古義)。卷十四「芝付《シバツキ》のみうらさきなるねつこぐさ(三五〇八)。芝付は地名と思はれるが、斷言出來ぬ。
 
みえり‐の‐さと【美衣利乃佐刀】 遠江國山香郡|與利《ヨリ》郷(和名抄)を、音價動搖で、えり〔二字傍点〕とも言うた爲、橘の實えり〔三字傍点〕と言うたのであらう。又、駿河國志太郡にも夜梨郷がある。夜は衣の誤とも考へられる。
 
みかさ‐の‐もり【三笠杜】 筑前國筑紫郡大野村(元、三笠郡山田村)。神功皇后の熊襲征伐に出られた松(ノ)宮の地である。
 
みかさ‐の‐やま【御笠(ノ)山】 大和國添上郡春日。春日山の一名とも、春日山の西の峰で、春日神社の東に立つた山の事だとも言ふ。本集の歌でも、春日山と言へば廣く、三笠山と言ふと狹い樣である。卷三「高※[木+安]之御笠乃山(三七三)。卷七「大王《オホギミ》之御笠山(一一〇二)。卷十一「君之服《キミガケル》三笠之山(二六七五)など、枕詞を冠らしてゐる。
 
みかた‐の‐うみ【三方(ノ)海】 若狹國三方郡。三方湖である。
 
みかた‐の=おほきみ【三形(ノ)王】 御方王も同人である。聖武天皇の天平勝寶元年四月從五位下に敍せられ、淳仁天皇の天平寶字三年六月從四位下に進み、同七月木工頭となつた。又、三方(ノ)王とあるのも同じ人であらうか。三方王は、光仁天皇の寶龜三年正(336)月無位から再び從五位下に敍せられ、五年正月從五位上となり、三月備前守となり、八年正月正五位下、十年正月從四位下に進み、桓武天皇の延暦元年閏正月氷上(ノ)川繼に黨して、日向介として、其妻弓削氏と共に日向國に流された。
 
みかた‐の‐さみ【三方(ノ)沙彌】 山田(ノ)史御方が還俗せぬ前にかう言うたのであらう。早く沙門に入つて、新羅に留學したが、持統天皇の六年十月、山田(ノ)史御方と言つて、務廣肆を授けられ、文武天皇の慶雲六年四月正六位下であつたが、學士を優待する趣旨で、物を賜り、元明天皇の和銅三年正月從五位下、四月周防守となり、元正天皇の養老四年正月從五位上となり、同五年正月、詔によつて、退朝後、東宮に侍し、次で文章に勝れたと言ふ廉で、物を賜つたが、六年四月に盗を犯して、官を免ぜらるべきところを、功によつて免れた。或は、三方氏の人に沙彌と言ふ名を持つた人か、又、一説には優婆塞を三方沙彌《サンハウシャミ》と言ふのだとも言ふ。
 
み‐かど【御門】 もと皇居、又は皇親の家の御門。即、宮闕の意(ア)。後、天皇を直接にさしまつるは畏いので、此語を用ゐて天皇をさす事になつた(イ)。國の版圖内をもさす、御門内の義で、境界の中を意味するのであらう(ウ)。書紀には人王・王室・天闕・國家・朝廷・日本國・中國をもよんでゐる(倭訓栞)。宮門の意味なのは、卷一「大和の青香具山は日の經《タテ》の大御門《オホミカド》に…畝火のこの瑞山は、日の緯《ヨコ》の大御門に…耳無の青菅山はそともの大御門に…名ぐはし吉野の山は、かげともの大御門に…(五二)である。又、卷三「皇子の御門のさばへなす騷ぐ舍人は(四七八)。卷二「わが大君皇子の御門を神宮によそひまつりて、使はしゝ御門の人も白栲の麻衣着て(一九九)。此等は、皆、皇子の御所の意である。宮殿の意のは、卷一「あらたへの藤井个原に大御門はじめたまひて(五二)が其である。又、卷二十「かしこきや、天の御門をかけつれば、哭《ネ》のみし泣かゆ。朝よひにして(四四八〇)の御門は、天子を暗に斥してゐる。畢竟、此頃は、まだ明確にみかど〔三字傍点〕で天子を示すのでなく、仄かに示してゐたのである。版圖・本朝などの例は、卷十五「大君の遠の美可皮登《ミカドト》思へれど日《ケ》長くしあれば戀ひにけるかも(三六六八)。卷五「大君の(337)遠の朝廷《ミカド》と、しらぬひ筑紫の國に(七九四)。卷二「大君の遠の朝廷《ミカド》と、ありがよふ島門《シマド》を見れば、神代し思ほゆ(三〇四)などが、此である。
 
みがね‐の‐たけ【耳我嶺】 (嵩・御金ー)大和國吉野郡。吉野町の東南。大峰の山口。金峯神社のある山。本集時代前期には、役(ノ)小角が山籠りしてゐた。
 
みか‐の‐はら【甕(ノ)原・三香(ノ)原】 山城國相樂郡。木津の東北一里。上狛《カミコマ》村の東、泉川のところの北。近く和束山が在つて、布當川が流れ出てゐる。大養徳《ヤマト》(ノ)恭仁《クニ》(ノ)宮の所在地。聖武天皇の天平(十二−十五)の造宮工事があつて、遷都後(天平十五年)忽、廢せられたが、其以前には離宮があつた(元明天皇紀)やうである。光仁天皇の天平寶字元年にも、此處に行幸があつた(光仁天皇紀)。
 
み‐が‐ほし【見が欲し】 見ることがしたい。一番見るによい。見るなら、此が見たい』。單に見たく思ふ意に使ふだけでなく、見るとすれば、と言ふ樣な前提を置いて考へるべき語である。紀卷十五「大和べに※[さんずい+彌]我保指ものは、忍海《オシノミ》の、此高きなる角刺《ツヌサシ》(ノ)宮(一九一)は、見の欲しけむもなど言ふ時のの〔傍点〕と同じものか。卷六「山見れば山も見貌石。里見れば里も住みよし(一〇四七)。卷十一「見我欲君が馬の足音《アト》ぞする(二五一二)。卷十九「白玉の見我保之|御面《ミオモ》直《タヾ》向ひ見む時迄は(四一七〇)。
 
み‐かも=なす 枕。ふたりならびゐ。み〔傍点〕は接頭語。鴨は初中終、つがひ離れぬものであるから、其容子を聯想して、夫婦の樣を現したのである。
 
みかも‐の‐やま【美可母乃夜麻】 下野國都賀郡。藤岡・岩舟及び佐野(安蘇郡)の中心になつてゐる三鴨村附近の大田和《オホタワ》山だと言ふ。又、一説には、岩舟の岩舟山だとも言ふ。三鴨は下野國の驛名(延喜式)であるし、都賀郡三島郷と言ふ郷名(和名抄)も、三鴨の誤字だらうと言ふ。ともかくも注意には上つてゐた地である。
 
みくゝ‐ぬ【水久君野】 武藏國兒玉郡仁手村の久々宇《クヽウ》が、幾分、此地名に似てゐるだけで、更に何處とも知り難い。但、出雲國神門郡に古く美久我《ミクガ》(ノ)社と言ふがある(風土記)のは、地名を負うたものだらう。東歌のみくゝ〔三字傍点〕も、或は此と關係があるのか。
 
み‐くさ【水草】 水中の雜草を總稱したものであらう。
 
(338)み‐くさ【み草】 みを接頭語と見る説と、美稱と見て、尾花の事と説く説とがある。此説、おもしろいが、尚、例證を要する。
 
みくに‐の‐いほくに【三國(ノ)五百國】 傳未詳。
 
みくに‐の‐ひとたり【三國(ノ)人足】 姓眞人。文武天皇の慶雲二年十一月從五位下に敍せられ、元正天皇の靈龜元年四月從五位上に、養老四年正月正五位下になつた。
 
みくに‐やま【三國山】 越前國坂井郡。此郡は古の三國々造の領してゐた地で、今、三國港もある。山は所在不明だが、或は三國神社の山でもあらうか。
 
み‐くまぬ【み熊野】 熊野。紀伊國東西(和歌山)南北(三重)牟婁郡一帶の地。み〔傍点〕は接頭語。吉野を御吉野と言ふ類であるが、語義に就いて、徹底した解釋はない。三〔右・〕字面に拘泥して、熊野三所權現に附會する説は、よくない。
 
みくまり‐やま【水分山】 大和國吉野郡。吉野町の上、吉野|水分《ミクマリ》(ノ)神社のある山。早くから|みこもり〔四字傍点〕とも言うてゐる。其爲に、中世以後、此神社を子守明神と言ふ。
 
み‐け‐つ=くに【御饌(つ)國】 御饌の料の贄の魚介を獻る國』。本集時代には、攝津・淡路・伊勢・志摩などの諸國が指定せられて、日次《ヒナミ》の贄を獻つたのであらう。後期王朝には、京都が北によつた處から、紀伊・淡路の外に近江・若狹の四國を日々の貢の番とせられてゐる(延喜内膳式)。卷六「みけつくに(御食都國)日の貢と淡路の野島の海士の…鰒《アハビ》玉さはにかづき出、船竝めてつかへまつるが尊し、見れば(九三三)。卷六「朗凪ぎに※[楫+戈]の音聞ゆ。みけつくに(三食津國)野島のあまの船にしあるらし(九三四)。卷六「みけつくに(御食國)志摩のあまならし。ま熊野の小舟に乘りて、沖べ漕ぐ。見ゆ(一〇三三)。みけつくにの蜑どもの日々の御贄を獻るとて勤しんだ樣は、卷二十の大伴家持の陳私拙懷歌(四三六〇)を見れば、知る事が出來る。一つ疑問にせられるのは、卷六「やすみしゝわが大君の御食國は、大和も、こゝもおなじとぞ思ふ(九五六)で、御食國は、やはりみけつくに〔五字傍点〕と訓んで、御贄獻る國と解くか、此儘で、御治國の意にとるか、或はをすくに〔四字傍点〕・みをしぐに〔五字傍点〕など訓むべきかである。
 
(339)み‐け=むかふ 枕。き。あはぢ。あぢ。みな。御食《ミケ》に供へる物の名に冠らしたのだらう(冠辭考)と言ひ、むかふ〔三字傍点〕はむく〔二字傍点〕で、供・奉の意(萬葉集古義頭註)。きのべ〔三字傍点〕は酒之瓶《キノベ》・あはぢ〔三字傍点〕は粟にかゝつたもの、あぢふ〔三字傍点〕は美味なものを言ふか、或は味鴨《アヂカモ》・味魚《アヂノヲ》などの贄の意か、南淵は蜷貝《ミナカヒ》に言ひかけたのか、又は眞魚《マナ》の意であらうと言ひ(冠辭考)、鹿持雅鐙は、又、き〔傍点〕にかゝるのは、葱《キ》か、葱《キ》(ノ)※[薺の上半/韮の下半]《アヘ》、南淵につゞくのは、肉《ミ》、又、御魚菜《ミナ》と言ふ具合だらうと説いてゐる。或は御饌《ミケ》に對《ムカ》ふ意で、食膳の上の食物の名にかけてあるのかとも思ふ。又、大抵、副食物にかゝつてゐるから、あはぢ〔三字傍点〕・あぢふ〔三字傍点〕も、或はち〔傍点〕につゞいたのでもあらうか。卷二「みけむかふ(御食向)きのへの宮を(一九六)。卷六「みけむかふ(同)淡路の島に(九四六)。卷六「みけむかふ(同)味原《アヂフ》(ノ)宮は(一〇六二)。卷九「みけむかふ(同)南淵山の巖には(一七〇九)。
 
み‐こゝろ‐を 枕。よしぬ。天子が御心を寄し〔二字傍点〕とかけたのであらう。本文には、大御心を良し〔六字傍点〕と言ふ説をも擧げて置いたが、さうとすれば、を〔傍点〕はよ〔傍点〕だと言ふ事になるが、みはかしをつるぎの池〔十字傍点〕も、御佩刀を吊るとつゞけたのと思はれるから、此處も、み心がよしなど言ふ説明は、どうも不適當である。
 
み‐こゝろ=を(補) 枕。よしぬ。柿本人麻呂の作(三六)、吉野行幸の際、出來た即興の枕詞。みこゝろ〔五字傍点〕は天皇の大御心である。吉野の景色を見そなはして、御心をなぐさめ給ふと言ふ意味で、よしぬ〔三字傍点〕に言ひかけたのであると言ふ。「御心を廣田の國」とか、「御心を長田の國(神功皇后紀)と言ふのも見えてゐるから、を〔傍点〕はよ〔傍点〕、即、感歎呼格と見るのであるが、或はみ心を寄すの意かとも思ふ。又、良しにかゝつたとすれば、よ〔傍点〕(良)だけが枕詞をうけるのだ、と説かねばらぬ。
 
み‐こし‐ぢ【み越路】 越の國の地方で、今の越前・加賀・越中・越後の事である。み〔傍点〕は美稱で、三熊野、御吉野など言ふ類。
 
みこし‐の‐さき【美胡之能佐吉】 相摸國鎌倉の見越(ノ)崎である。今の腰越の邊、即、稲村个崎であらう。又、鎌倉御輿个嶽の山の崎だとも言ふ。
 
み‐こと【命】 後世のおんこと〔四字傍点〕ゝ同じ尊稱接尾語。至つて貴きを尊と言ひ、次なるを命を書くと言ふ定め(340)であるけれども、本集のは、必しもこれに依つてゐぬ。記・紀に書かれた時代とは遠のいた爲に、語も擴つて、人名の下につくのみでなく、母の命・妻の命・弟《オト》の命などの用例もある。のみならず、氏の下につけて言ふ石の上布留の尊の如きものさへある。「ふるのみこと」參照。とにかく、此頃では、非常な敬意ではなく、親しみの中に、貴族らしい丁重さを以て附けたのであらう。
 
みこ‐の‐みこと【皇子(ノ)尊】 皇太子の尊稱』。數人の日嗣《ヒツギ》(ノ)皇子《ミコ》の制度をやめて、唐風を輸入して、一人の皇太子を定められた頃から出來た語であらう。皇子の中、とりわけ尊い方なる事を表さうとて、みこと〔三字傍点〕の尊稱をつけたのであらう。聖徳太子の厩戸(ノ)豐聰耳(ノ)皇子(ノ)命(紀)が初見であらう。普通の皇子であつた時と違つて、御名をも變へる事があると見え、草壁皇子を日竝知皇子尊と言うてゐる。天武天皇・持統天皇二朝に跨つて、高市・日竝知の御兄弟で、兩皇子尊であられたのは、草壁皇子まづ薨ぜられたから、高市皇子が次で皇子尊になられたのである。
 
みさご【雎鳩】 みさご〔三字傍点〕は鷲の類で、其形は鳶によく似て稍大きく、色は淡黒で少しく黄味を帶びて居り、常に山中の湖水の近くなどに棲んでゐるが、海へも翔つて行つて、小魚を捕へて食ふ。
 
 みさご‐ゐる 枕。す。いそ・ありそ。雎鳩の棲《トマ》つて魚を覗ふ洲とかけて、卷十一「みさごゐる洲にゐる舟の(二八三一)。又、海邊の石に、よくとまるから、石《イソ》・荒石《アリソ》とつゞけて、卷三「石轉《イソワ》に生ふる莫告藻の(三六二)。卷十一「みさごゐる沖つありそによする波(二七三九)など言ふ
 
み‐さと【京】 みやこ。王城の地』。御里の義で、元、京坊の訓であらう。左右京職(みさとづかさ)の管轄に屬して、朱雀大路の東西に左右京に分れてゐる。卷六「山見れば、山も見がほし。里見れば、里も住みよし(一〇四七)の里は、京中の條坊の樣を言ふのである。
 
み‐さを【水棹】 舟を漕ぐ棹。水馴れ棹。
 
み‐しぶ【水澁】 田の中に浮く垢。水垢。水錆』。又、水上に浮く小さい植物の名だとも言ふ。卷八「衣手に水澁つくまで植ゑし田を(一六三四)。
 
みしま‐え【三島江】 越中國射水郡三島郷邊の射水川(341)の沼地。又、攝津國島上郡。今、三箇牧村附近。淀川と芥川との淀川の舊河道、竝びに芥川との合流の爲に、出來た入り江であらう。此邊は、上古、三島氏の根據地で、神武天皇の皇后を出した事などもある。對岸に茨田《マムタ》(ノ)堤(仁徳天皇記)の出來て、河内側の沼澤地が尠くなつて後も、長く殘つた入り江。今も、其俤を有してゐる。
 
みしま‐ぬ【三島野・美之麻野】 越中國射水郡二口村附近であると言ふ。此處に、三島(ノ)郷があつたからの名である。此頃、すでに、三島神社(延喜式)も、此邊にあつたのであらう。
 
みしま‐の=おほきみ【三島(ノ)王】 舍人親王の御子で、林(ノ)王・河邊(ノ)女王・葛(ノ)女王の父である。元正天皇の養老七年正月、無位から從四位下を授けられた。國史には、此外、此王についての傳へはないが、寶龜二年七月に、二女王が伊豆配流を赦されて、皇族の待遇に復せられ、九月には、林(ノ)王が山邊(ノ)眞人の姓を賜つた處から見ると、藤原仲麻呂の亂の際、淳仁天皇の御兄弟の諸王が、皆、罰せられた時、三島(ノ)王も或は伊豆國へ配流せられて、其處で亡くなられたので、今の三島の地も、單に神社からとのみ見ずに、或は此王の關係もあるべきかと思ふ。
 
み‐す【見爲】(補) 見るの語根に、敬語々尾をつけたもの。さ行變格活用と、さ行四段活用に動搖してゐた樣である。目の動きに敬意を含めて言ふ場合と、治める・支配する意の敬語に使ふ時とがある。見し給ふ・見しあきらむるなど言ふ語、必しも治め領《シ》る意ばかりでなく、觀祭・望覧などの意も、同時に失うてゐぬ事が多い。治めるの意に固定したものは、めす〔二字傍点〕と音の變化を來したものに多い。
 
み‐すゞ=かる【み篶刈る】 枕。しなぬ。み〔傍点〕は接頭語。篶〔傍点〕は竹類の禾本で、しのべ竹とも言ふ、山地に多い、小さな色の黒い竹である。又、すゝだけ〔四字傍点〕とも言ふ。山國信濃には、多く出て、都へ獻る事などがあつたのであらう。賀茂眞淵は、篠を刈る野、即、しなぬ〔三字傍点〕とうけるのだ(冠辭考)と説いたが、如何。篠を起したのだ。或は野にかけたのだとか、單純に説く方が可能性が多い。鹿持雅澄は、元來、薦とあるのだから、み薦《コモ》刈ると言ふべきだと主張して、み薦刈る裏沼《ウラヌ》だ、と煩瑣な説を立てた。けれども、此も、み〔傍点〕(342)こも〔二字傍点〕とするならば、沼《ヌ》一音につゞけたのだ、と言うてよい筈である。
 
みすみ‐の=つぼ【御墨の壺】 み〔二字傍点〕は、乞食が聽衆に對して、丁寧に言うた敬語。鹿の耳の、竹を殺《ソ》いだ樣な恰好、竝びに、耳の中に生えた毛を、墨壺の毛に見立てゝ言うたのであらう。
 
みす‐やま【三栖山】 紀伊國西牟婁郡東部の山中に在る山。田邊から本宮への中邊地《ナカヘチ》を、三里進んだ途中に、三栖村がある。其邊の山であらう。後世の歌に、熊野へまゐりけるに、八上《ヤガミ》の王子《ワウジ》の花おもしろかりければ、社に書きつけゝる、「待ち來つる八上の櫻咲きにけり。あらくな吹きそ。三栖の山風(山家集)、と言ふのがある。牟婁《ムロ》(ノ)温泉《イデユ》は、熊野本宮と、鉛山温泉と、兩方に通じてゐる樣であるから、此歌は、本宮温泉行幸の時のものと思はれる。
 (補)本集に、莫囂とあるのを、みす〔二字傍点〕と訓んだのは、大野郡|網磯《アミシ》野の地名傳説に、獵人の聲がやかましかつたので、天皇が大囂(謂2阿那美須1)と勅せられたので、大囂斯《アナミスシ》と言うたのを、訛つて網磯野と言ふ樣になつた(豐後風土記)と言ふのによつて、莫囂は喧しいのを却ける樣だから、大囂と同樣、みす〔二字傍点〕と訓じたのである。圓隣をやま〔二字傍点〕としたのは、圓の音を三内相通でや〔右○〕と考へ、憐は※[人偏+舞]の魯魚と見て、※[人偏+舞]をま〔右○〕に用ゐたと思ふのである。
 
みそら‐ゆく【み空行く】 空を運行する(ア)。空までのぼり行く(イ)』。雲・月を修飾するのが常で、枕詞ではない。卷四「三空去月の光に唯一目(七一〇)。卷十四「美蘇良由久雲にもがもな(三五−○)。處が違うた用例として、卷十二「三空去《ミソラユク》名の惜しけくも吾はなし逢はぬ日まねく年の經ぬれば(二八七九)がある。これは、(イ)の義で、(ア)の義とは全く違うた語なのである。評判が高くなる意味である。
 
み‐たゝ・し‐の【御立爲之】(新補) お立ちの。お立ちどころの。み〔傍点〕は躰言につく敬稱接頭語であるから、みたゝしゝ〔五字傍点〕として、上を敬語、下を過去助動詞と考へた時には、み〔傍点〕のつく筈がない。訓み方を變へて、おほたゝしゝ〔六字傍点〕と訓むか、意味だけに用ゐた敬字と見て、たゝせりし〔五字傍点〕と訓む外はない。其で、みたゝし〔四字傍点〕(御立爲)を躰言と見て、之〔右・〕をの〔傍点〕と訓んだ。さすれば、み〔傍点〕には、不都合がない。處が、尚一つ考へねば(343)ならぬのは、やすみしゝ〔五字傍点〕、いよしたゝしゝ〔七字傍点〕(其條參照)などゝ關係のあるものが見られ相な事である。さすれば、みたゝしゝ〔五字傍点〕と舊訓の儘に訓んで、み立たせすと言ふ形の、古いものだと見られるのである。併、此にも、み〔傍点〕のつく場合としては、不適當な用言形だと言ふ不都合がある。恐らくは、「安見」しゝが「安見」をせす、「い依《ヨ》し立ち(>て)」をせすと見て、やすみしゝ〔五字傍点〕・いよしたちしゝ〔七字傍点〕と訓むのかも知れない樣に、こゝも、みたちしす〔五字傍点〕と訓んで、み立ちをなさる、即「御立ちをなさるが常の」、或は、「御立ちなさつた」の時間脱落と見るべきであらう。
 
みたま=たまふ【恩賚賜ふ】 お心入れを蒙る。お蔭になる。御恩を下さる』。卷五「吾が主の恩賚腸ひて、春さらば、奈良の都に召上げたまはね(八八二)。御魂賜ふ義で、元は、信仰に根ざしのある語で、神靈を授つて、妙用を恣にすると言ふ風の意であつたものと思はれるが、山上憶良の頃には、さうした内容はなく、凡化してゐる。
 
み=た‐や【御田屋】 神田の番小屋。卷十三「神南備の清き御田屋の垣内田の池の堤の(三二二三)。
 
みち‐の‐く【陸奥】 今の陸奥・出羽七國(但、出羽の一部は、和銅五年九月に出羽國がおかれる迄、越後についてゐた)の總稱で、今の陸奥一國ではない。陸奥の國が出來たのは大化の頃で、陸奥の字が、北邊の一國の名となつたのは、明治元年の分國以後の事である。出羽の建置は、和銅五年であるが、本集頃は、其區別がなかつたらしい。東(ノ)海(ノ)道(ノ)奥の意で、奥《オク》は、後《シリ》とおなじく、ある一地方の邊陬を言ふ語である。道は、今地方と言ふ樣な意で、中央から離れた處は、すべてみち〔二字傍点〕と言はれたので、中央の畿内に對して、七道のあるのも此意である。道(ノ)前《クチ》・道(ノ)後《シリ》と言ふ語は、諸書に見える。日本國中、王化に霑うて後も、氣の知れぬ邊陬の國として殘つた奥羽は、此みち〔二字傍点〕の名を獨專する樣になつたと思はれる。後期王朝中期まで、屡みち〔二字傍点〕のくにと言ふ名を以て、此地方を表してゐるのは、みちのくのくに〔七字傍点〕の約(大日本地名辭書)などでなくて、邊土の國の意なのである。本集時代まで、尚、東(ノ)海道(ノ)奥として、みち〔二字傍点〕‐の〔傍点〕‐おく〔二字傍点〕、又は、みち〔二字傍点〕‐の〔傍点〕‐く〔傍点〕と融合させても稱へたのである。後にむつ〔二字傍点〕と言うて、七國を總べてゐた名は、(344)やはり此みち〔二字傍点〕の音韻變化である。本居宣長の、陸〔傍点〕の字に六を借つたのを訓讀した爲に、むつ〔二字傍点〕と言ひならはしたのだらう(古事記傳)と言うたのは、愚かである。後世にはみち〔二字傍点〕をさへ捨てゝ、奥と言ふ樣になつた。尚、陸奥の範圍が、白河・菊田(ノ)關を越えて常陸國にも這入つてゐたかと思はれるのは、卷十四「筑紫なるにほふ子ゆゑに美知能久《ミチノク》の可登利《カトリ》處女の結《ユ》ひし紐解く(三四二七)の歌である。本集に陸奥の歌としてゐるが、此可登利〔三字傍点〕、或は常陸國の香取であるかも知れぬ。併、香取・鹿島の東北に於ける信仰上の勢力と地名の分布とから見て、磐城・岩代邊の地名と見る方が、適當らしくもある。ともかくも、問題として殘しておく。此廣漠たる國原の開發には、上毛野朝臣・下毛野朝臣の一族の殖民が、最、效を奏したらしく、上(ツ)毛野(ノ)名取(ノ)朝臣・上(ツ)毛野(ノ)陸奥・上(ツ)毛野鍬山「安達郡」・上(ツ)毛野(ノ)中村「陸奥新田都」・上(ツ)毛野(ノ)加美「加美郡」・上(ツ)毛野(ノ)膽澤の五公姓、下(ツ)毛野(ノ)俯見《フシミ》「玉造郡」・下(ツ)毛野(ノ)靜戸《シヅベツ》「安達郡」・下(ツ)毛野(ノ)陸奥の三公姓(新撰姓氏録考證)など、其複姓が多く見えるのに徴しても訣るであらう。
 
みち‐もり【道守】 關守・津守の類で、街路・驛路を守る番人。又、ちもり〔三字傍点〕。卷四「獣然《モダ》もえあらねば、我が夫子が行きのまに/\追はむとは千度思へど、嫋女《タワヤメ》のわが身にしあれば、道守《ミチモリ》の問はむ答へを言ひやらむすべを知らにと立ちてつまづく(五四三)。道守(ノ)朝臣に二流あり、又、道守臣にも二流がある(新撰姓氏録)。又、其|部曲《カキベ》の民と見える道守部の人名、三野(ノ)國肩縣郡人道守部(ノ)鹽賣、本簀郡栗栖太(ノ)里人道守部(ノ)邑等《オビト》など(正倉院文書)が見える。此部民が、道守の職に與つたのであらう。又、守道屋と言ふ字が、萬葉集古義の引いた令抄に見えてゐる。※[しんにょう+貞]邏を知毛利と讀んでゐる(和名抄)。思ふに、本集時代には、主として、京職の所管で、京の道路の守備を司つたものであらう。其旁證とも見るべきは、後期王朝の貞觀三年に、平安京の朱雀道に、晝は、馬牛が街樹《ウヱキ》の柳を摧折し、夜は盗賊の巣になると言ふので、坊門毎に十二人の兵士を置くよしの太政官符が出てゐる(類聚三代格・三代實録)。古く泉守道者《ヨモツチモリ》の字が(神代紀)見えたのは、後世の考へを及したので、道守部の盛んな時代、關塞の法の出來た孝謙(345)天皇以前の事なのであらう。
 
みち=ゆき‐ぶり【道行き觸り】 途中でのすれちがひ。出會ひがしら。袖すりあひ』。卷十一「たまばこのみちゆきぶり(道吉夫利)に、思はぬに、妹を相見て戀ふるころかも(二六〇五)。又、古今集卷一「春くれば雁かへるなり。白雪のみちゆきぶりに言やつてまし(三〇)。道での行き觸りと言ふ組織である。
 
みづ‐え【瑞枝】 みづ/”\しい若い枚。葉の若々と茂つた枝(ア)。元氣のよい美しい枝(イ)』。(イ)の意に用ゐたものは、卷十三「もゝたらず齋槻《イツキ》が枝にみづえさす秋のもみぢ葉(三二二三)である。
 
 みづえ‐さす さす〔二字傍点〕は、さし出す、又は、かぶせる・おほふの意に思はれるが、前記の(イ)の例は、さし交す・交叉する意であるから、卷六「激湍《タギ》のうへの御舟の山に、みづえさし、しゞに生ひたる樛《トガ》の木の(九〇七)場合も、其用語例かも知れぬ。
 
みづがき‐の 枕。ひさし。みづがきは瑞垣で、みづみづしい籬、即、みづ/\した青い若木を以て結うた籬である。青瑞垣など言ふのも、灌木等の木を植ゑたからの名で、そんな垣根に、瓢を作つて這はした習慣から、瓢《ヒサ》>久と聯想したのではないか。(瓢をひさご〔三字傍点〕と言ふのは、瓢籠《ヒサゴ》の意で、本名はひさ〔二字傍点〕である)。或は、立木の垣根は、他の垣と違うて、朽り、壞れる事がない處から、久しき時を起したものか。舊説、磯城瑞籬(ノ)宮から、石上神社の神垣に聯想したと言ふ(燭明抄)のも、單に石上神社に思ひよせたのだとする考へ(萬葉集古義)も、傳説的でおもしろいが、卷四「處女子が袖ふる山のみづがきの、久しき時ゆ思ひきわれは(五〇一)の場合はよいが、卷十三「みづ垣の久しき時ゆ戀すれば、わが帶ゆるぶ。朝よひ毎に(三二六二)の方には、的確にはまらぬ。殊に、卷十三の方が、柿本人麻呂のよりは古さうである點から見ても、布留山としたのは、みづがきの〔五字傍点〕と言ふ枕詞があつて後の技巧であらう。
 
みつ‐がは【三河】 川の名であらう。近江國滋賀郡の坂本の湖岸を、古く御津と言うたからの名であらうか。近江國滋賀郡には、三津(ノ)首など言ふ姓もある。
 
みづ‐き【水城】(補) 筑前國筑紫郡水城村。天智天皇三年に、大堤を築いて水を貯へて(書紀)、大宰府の鎭護に具へた。天平神護元年三月に、大宰少貮采女朝(346)臣|淨庭《キヨニハ》が主任として修理した(續紀)。
 
み‐づく【水漬く】 水にひたる。水づかりになる。づぶ/”\になる。
 
みづ‐しま【水島】 肥後國天草郡の所屬。今、所在知れぬ。葦北都田浦・佐敷(野坂(ノ)浦)から渡るべき島であるから、樋島・御所浦島・獅子島(以下薩摩)・長島の中の何れかであらう。殊に長島は、薩摩(ノ)追門《セト》(又、隼人(ノ)迫門)の口にあつて、名高かつたと思はれるから、或は此島かも知れぬ。
 
みづ‐たまる 枕。いけ。此處には、唯たまる〔三字傍点〕について、説明すればよからう。たまる〔三字傍点〕は湛へてゐる意で、水渟國《ミヅタマルクニ》と言ふ語は、湖沼の多い國の讃美に用ゐられてゐる。沈澱など言ふ感じは、此にはないのである。
 
み‐づち【※[虫+交]】 想像上の動物で、をろち〔三字傍点〕に似てゐて、角のないものだと説くのは、※[虫+交](雨龍)の漢意に拘泥したのである。水中にゐる、荒ぶる神、即、所謂水のぬし〔二字傍点〕で、水の神罔象女も、※[虫+交]の同身異面であつた事は、闇淤加美神・闇御津羽(ノ)神の竝稱(紀)でも知れる。蛇體と考へてゐた事は、疑ひがないらしい。つち〔二字傍点〕は蛇の類の荒ぶる神につける語で、野槌も此である。いかづち〔四字傍点〕も蛇體と想像してゐた事は、小子部栖輕の捉へた御諸山の神(雷)が、蛇體であつた(靈異記)のを見ても知られる。雷を二箇處迄つち〔二字傍点〕と訓ませ、山雷《ヤマツチ》と野槌《ノツチ》とを對照してをり(神代紀)、又、※[虫+交]をつち〔二字傍点〕と訓ませた後期王朝の野※[虫+交]《ノヅチ》神社が、加賀國に二个處迄(延喜式)あるのを合せて考へると、雷と蛇とには、常に共有した性質があつたのである。水中にゐる故にみづちと言ふのであるが、蛇はすべて、水の縁を離れなかつたらしく、※[雨/龍]《オカミ》は陸地にゐるけれど、雨雪を降す(本集)事がある。
 
みづ‐ゝたふ 枕。いそ。いそ〔二字傍点〕は磯でなく、石《イシ》であらう。川などの上を、石竝《イシナミ》傳ひに渡るのを水傳ふ石と言うたので、枕詞ではなからう。うち寄せてくる波は、磯をつたうて流れるものだから、水つたふと言つて磯にかけたのだ(冠辭考)と言ふ説も、水の傳ひめぐる磯と言ふ(萬葉集古義)説も、皆わるい。
 
みづとり‐の 枕。かも。あをは。たつ。うきね。鴨を水鳥の代表として考へたのである。卷十一「みづとりの鴨のすむ池の下樋なみ(二七二〇)。卷八「みづとりの鴨の羽の色の春山の(一四五一)。又、鴨の(347)青い羽と言ふので、山の青葉にとりなしてゐる。卷八「みづとりの青葉の山の色づく、見れば(一五四三)。又、卷二十「みづとりの立ちのいそぎに(四三三七)。卷十四「みづとりのたゝむよそひに(三五二八)の類は、水鳥の飛び立ちから縁を引いてゐる。卷七「浪高し。いかに、※[楫+戈]とり。みづとりの浮き寢やすべき。なほや、漕ぐべき(一二三五)は、水鳥の水上に漂ひ乍ら寢るのに聯想したのである。
 
みづ‐の‐え【水之江】 丹波國與謝郡。本莊村・筒川村の中。日本海に面した地。浦島傳説の出來たのも、其外洋に向うた地形に胚胎せられてゐるのであらう。雄略天皇紀には、丹後國|餘社《ヨサ》(ノ)郡管川(ノ)人水(ノ)江浦島(ノ)子とある。此地を亦、澄《スミ》(ノ)江(ノ)浦とも書いてゐる(扶桑略記續傳)。
 
みつ‐/\‐し 枕。くめ。此枕詞は、當時、既に固定してゐた爲、唯、傳習的に用ゐたゞけで、言語情調はあつても、意味の反省はなかつたであらう。神武天皇の御製と傳へた記卷中「みつ/\し久米の子らが粟原《アハフ》には、か蒜《ミラ》一もと。其根《ソネ》がもと…(一二)。同「人さはに入りをりともみつ/\し久米の子らが頭椎《クブツヽイ》・石椎《イシツヽイ》もち(一一)が、恐らく此種の初のものだらう。久米の子は、久米氏の下に屬してゐた久米部の民である。獰猛・慓悍な軍卒であつた事と思はれる。此みつ/\しも、其方面をたぐつて考へるのが、よさゝうである。鹿持雅澄がみつ〔二字傍点〕と稜威《イツ》と通ずるものとして、證據に引いた不才の字をみつなし〔四字傍点〕と訓んだ(顯宗・繼體天皇紀)例、不佞を同じく、みつなし〔四字傍点〕と訓んだ(仁徳天皇紀)例は、考へ違ひで、みつ〔二字傍点〕は才氣ばしつたとは反對の、魯鈍な容子の語根で、なし〔二字傍点〕は普通いたし〔三字傍点〕だと説かれてゐる、副詞體言語尾な〔傍点〕と形容詞語尾し〔傍点〕との結合で、不才・不佞はみつ〔二字傍点〕の内容であるが、書紀の記者が、或は漫然と、なし〔二字傍点〕を無しと解して、魯とか鈍とかで、みつなし〔四字傍点〕を示す事の出來るのに考へ及ばないで、不〔傍点〕の字をなし〔二字傍点〕の積りで入れたものかも知れぬ。雅澄は、みつ〔二字傍点〕を才・佞と信じて、みつ/\しを才徳勇威ある貌と主張したのは、よくない。おぞしが、魯鈍の意を示す以前に、悍惡な者に對しての畏怖を表す語であつたのと、(本集の「みつる〔下二段活用自動詞〕は、憔悴の意に説かれてゐるが、豐滿な顔に對して、骨ばつた顏は野蠻的で(348)あるからであらう)。同じ過程を持つ語で、文化の後れたおぞ人〔三字傍点〕・みつ人〔三字傍点〕に對する、先進種族の恐れは、才佞でなく、蠻力である。此意味で、みつ/\し〔五字傍点〕は、久米部の種族の蟹勇を表したものと見られる。形容詞の終止形は、其語根に最近い形であるから、語根形容詞が、體言として體言を修飾する樣に、語根に近い形から、修飾せられる久米の子についたのである。古い枕詞は、一音に接すものと信じてゐるので、恐らくは、く〔傍点〕又はめ〔傍点〕に接するのかとも考へるが、姑らく久米につゞいたと見る外はない。其他、若々しく、瑞々しい意に説く賀茂眞淵説(冠辭考)は、一番適切な樣でゐて、清音濁音混じた弊のある事は、雅澄も言うた通りである。本居宣長の滿々《ミつ/\》し(即、圓《マド》かな貌)くる目〔三字傍点〕につゞくとして、大久米(ノ)命の目の大きかつたを證とする説は、想像説である。卷三「みつ/\し(見津々々四)久米の若《ワク》子が、い觸りけむ石《イソ》の草根の、枯れまく、惜しも(四三五)。
 
みづら【鬘・角髪】 びんづら。ひさごばな』。男子の結髪、頭髪を左右に分けて角の如く輪にして結ぶ。卷二十「阿母刀自《アモトジ》も珠にもがもや戴きてみづらの中にあへ卷かまくも(四三七七)。古代より、本集末期迄も男子の髪となつてゐるが、後期王朝に入ると、十四五迄の少年の髪になつた。
 
みてしろ‐うぢ【御手代氏】(補) 此氏を冠したのに、連と首《オビト》とがある。人名《ヒトナ》と言ふ人は、連姓の人か。此氏人は、神事に奉事して、神意の如く動く事を職としたのであらう。天子の御手に代つて仕へた爲だ、とする栗田寛博士説は、考へ直す餘地がある。
 
みてしろ‐の‐ひとな【三手代(ノ)人名】 聖武天皇朝の人。傳未詳。姓は連で、大倭氏の複姓と見えて、此後、十年目の天平廿年七月に(續紀)從五位下大倭(ノ)御手代連麻呂(ノ)女が宿禰姓を賜つてゐる。
 
みとほり【水通】(補) 又、御通とも書く。土師(ノ)水通をみとほし〔四字傍点〕・みゝち〔三字傍点〕など訓んでゐたのは、實は謬りであらう。史料編纂所撮影正倉院文書の斷片に美止保利と言ふ名が見える。だから、此人も又、みとほり〔四字傍点〕と訓むべきであらう。
 
み‐とらし【御執】 とらしは取るの敬相の名詞法。御手に取らるゝもの。御とり料。弓のこと。卷一「御執しの梓の弓(三)。
 
(349)みどり‐こ【緑兒】 立ち歩きの出來ぬ子。三歳以下の子』。養老の令制では、三歳以下を黄と言ふとある(戸令)。其が、神龜の戸籍(正倉院文書)には、「男出雲臣廣成。年三歳。緑兒」と見えるのみか、大寶二年の戸籍殘缺(同)を見ると、やはり緑兒・緑女があるし、「年三緑兒」に對して、「年四小子」となつてゐるから、全く令の黄と同じである。思ふに、大寶令では、當歳から三歳迄が、緑であつたのを、養老に黄と改めたのだが、養老令の實施は天平勝寶元年だから神龜になつても、實行はまだせられなかつた。さうして、本集時代、既に、之を訓讀して、みどりこ〔四字傍点〕と言ひならはしたものと思はれる。
 
みな【蜷】 今は、にな〔二字傍点〕と言ふ。mn通用は例が多い。淡水に住む一種の介である。湖川溝渠の、あまり清淨でない處によくゐる。長さ一寸許、大體の形は筆の頭のやうで、色は眞黒で、其肉は、食用とする事が出來る。併、きたないから、賤しい人しか食べない。川蜷・海蜷の二種がある。
 
みな‐ぎらふ【水霧ふ】 水煙が、あたりのはつきり見えぬ樣に立つ。卷七「水霧ふ沖の小島(一四〇一)。水の盛んな勢ひにも言ふ。紀卷二六「飛鳥川みなぎらひつゝ行く水の(二二五)。水が物にあたつては、しぶきが立ち上り/\して流れるのである。後の漲る〔二字傍点〕とは違ふ。
 
み‐なし=がは【水無川】 水の無い川。河床に、水の吸ひ込まれた川。水路のみあつて、雨後でなくば、水の流れぬ川(ア)。また天漢《アマノガハ》の意に用ゐる(イ)。卷十「久方の天つしるしと、水無し川隔てゝおきし神代し怨し(二〇〇七)。
 
 み‐なし‐かは 枕。たゆ。水が絶えてゐる處を以て、つゞけたのである。卷十一「みなしかはたゆと言ふ事を(二七一二)。
 
みなせ‐かは【水無瀬川】 前條に同じい。字には水無瀬と書くが、瀬に關係はない。し〔傍点〕の音轉である。卷十一「うらぶれてものは思はず。みなせかは、ありても、水は行くといふものを(二八一七)。久しく水のない状態であり續き乍ら、いつか又、水が流れるの意。
 
 みなせ‐かは 枕。したゆ。上には流れないで、川底をば潜つて流れると言ふので、下ゆ〔二字傍点〕(下をばの意(350)で、ゆ〔傍点〕は媒介格〔造格〕を示す)にかゝる。卷四「戀にもぞ人は死にする。みなせかは下ゆ我《ワレ》痩す。月に日にけに(五九八)。
 
みな‐と【水門】(補) 兩側から迫つて來るか、眞中のきれた土地が、門の樣に立つてゐて、其間を通る樣になつた地形は、山にも、川にも、海にもあつて、山門《ヤマト》・川門《カハト》・迫門《セト》など言ふ。みな〔二字傍点〕は水の形容詞的屈折で、水之《ミノ》ではあるまい。今日の湊と言はれてゐるのは、すべて海※[さんずい+彎]の船泊りの事であるが、海から川へ入る川口の、波除けに便な地を言ふので、海から川口へ狹窄した地形をさして言ふのである。だから、水門と言はれるものは、皆、大河の口に近い處にあつて、單なる海※[さんずい+彎]を言ふのではない。思ふに、最原始的な船がゝり〔四字傍点〕は川口の地であるから、水門の稱が、海の船どまりの稱になつたので、津の用語例が忘られた時代に、津のすべての内容を持つ事になつたのであらう。近江國の湖水に、比良(ノ)水門や、阿渡(ノ)水門のあるのも、比良川・阿渡川の口にあつたので、水門の語の海に關係ない事が知れよう。本集に多く、湖の字をみなと〔三字傍点〕に宛てゝゐるのも、川の鹽海《シホウミ》に出る眞水の場處の、湖に似て廣い處から來た誤訓で、海上《ウナカミ》(ノ)安是《アゼ》(ノ)湖・阿多可奈《アタカナ》(ノ)湖(常陸風土記)などもみなと〔三字傍点〕で、やはり川口の意で、安是は利根川口、阿多可奈は今の涸沼とするのは、地理上、當つてゐるが、湖をうみ〔二字傍点〕と見たのは、よくない。
 
みな‐の‐せ=がは【美奈能瀬河伯】 相摸國鎌倉郡鎌倉長谷を流れる河である。今、稻瀬《イナセ》川。古くはみなのせかはと言ひ、後、稻(ノ)瀬川と言うたのが、稻瀬川になつたのである。
 
みな‐の‐わた 枕。かぐろし。みなのわたとは、和名抄に年魚《サケ》(鮎に非ず)背腸《セワタ》【美奈和多】とある物を言ふのであらうと言ふ。みなのわたは、鮭の※[魚+而]を取り去つて、かしら・背骨に粘りついて凝つて居る血液を刮げ取つて、※[底本一字分空白]《ヒシホ》にしたものである。其色の黒い處からして、かぐろしにつゞけたと言ふ説(萬葉代匠記)が有力である。蜷の腸も、黒い物であるから、蜷の腸と言ふ説も一概には却けられぬ。美奈和多は、すこし異を樹て過ぎた觀がないでもない。
 
みなぶち‐の=ほそかは‐やま【南淵之細川山】 大和國高市郡。今、高市村細川の山。高市村岡から、多(351)武峰へ上る橘寺(ノ)道(玉葉)のある入野と、飛鳥川に沿ふ低地との丁字形をした、南東側の山の稱呼であらう。飛鳥川を溯つても、此山地を行つても、半里で、南淵(今、稻淵)に達するのであるから、かう言うたのである。此地は、飛鳥にも屬し、南淵にもついて、所屬不明の地であつたらしい。多武(ノ)峰の南から出る細川によつて負うた地名である。
 
みなべ‐の=うら【三名部(ノ)浦】 又、南部(和名抄)。紀伊國日高郡。今、南部町のある邊の海岸。北西には岩代(ノ)濱があり、南には西牟婁郡田邊(ノ)浦(牟婁(ノ)江)がある。南部川が、ほゞ其北の境であらう。白良(ノ)濱も此邊であらう。
 
みなべ‐の=ひめみこ【御名部(ノ)皇女】 天智天皇の皇女で、母は蘇我(ノ)山田(ノ)石川麻呂の女|姪《メヒ》(ノ)娘《イラツメ》(又、宗我嬪《ソガヒメ》「續紀」)である。文武天皇の慶雲元年正月一百戸を増封された事がある。阿閇《アベ》(ノ)皇女、即、元明天皇の同母の姉君である。
 
みなわ【水沫】 みづのあわ。あぶく』。水沫《ミナアワ》である。はかない事の譬に用ゐる。卷五「水沫なすもろき命も栲繩《タクナハ》の千尋にもがと願ひくらしつ(九〇二)。此は枕詞ではない。
 
みぬし‐の=ひめみこ【水主(ノ)内親王】 天智天皇の皇女で、母は栗隈(ノ)徳萬《トコマム》の女黒媛(ノ)娘《イラツメ》である。元正天皇の靈龜元年正月四品の時、封一百戸を増され、聖武天皇の天平九年二月三品を授かり、八月二十日薨じた。御名をもひとり〔四字傍点〕と訓む説(天智天皇紀)もあるが、山城國久世郡|水主《ミヌシ》(ノ)郷に關係があられたからの名に相違ない事は、栗隈氏の本貫が、水主に接した栗隈郷であつた事を見ても知れる。此地名、もひとり〔四字傍点〕と訓まぬ故、書紀の訓は、恐らく誤りであらう。
 
みぬ‐の‐いはもり【三野(ノ)石守】 姓《カバネ》、眞人。桓武天皇の延暦五年十二月、陰陽助正六位上であつた路(ノ)三野(ノ)眞人石守ではないだらうか。本集の石守は連姓であるから異人かと思ふが、併、後に眞人を賜つたものと思へば、同人と考へられない事もない。名をいそもり〔四字傍点〕と訓む(萬葉集古義)と言ふ説がある。
 
みぬ‐の=おほきみ【三野(ノ)王】 栗隈王の子で、橘(ノ)諸兄らの父の美努王である。壬申(ノ)亂に、天武天皇は、佐伯(ノ)男を太宰府にやつて援兵を求められたが、大宰(ノ)帥栗隈王が之を却けたので、男は王を殺さうと(352)した時、傍に王の子三野(ノ)王と武家(ノ)王とが、剱を佩いて立つて居たので、空しく還つた事がある(紀)。後、天武天皇の十年三月詔を奉じて、帝紀及び上古の諸事の記定に與り、持統天皇の八年九月大宰帥、文武天皇の大寶元年十一月造大幣司長官、同二年正月左京大夫、慶雲二年八月攝津大夫、元明天皇和銅元年三月治部卿に歴任して、同年五月三十日、從四位下で卒した。
 
みぬ‐の=やま【三野(ノ)山】 美濃國の山の汎稱か、或は固有名詞か、わからぬ。但、高北(ノ)泳《クヽリ》(ノ)宮は可兒郡の東邊・土岐郡の北邊と思はれるから、信濃路に向ふと、美濃の山・信濃の山が重疊してゐるから、其當時、惠那郡あたりの山を美濃の山、其上に聳えて見える西筑摩郡の山々を大木曾山と言うたのであらう。或は惠那《エナ》个嶽の事か。又、此地名を聞いて直に聯想せられるのは、美濃のおやま〔三字傍点〕(不破郡南宮山だと言ふ)だけれど、あまりに離れ過ぎてゐる樣だ。
 
みぬ‐の‐をかまろ【三野(ノ)岡麻呂】 文武天皇の大寶元年正月、從七位であつた時、遣唐使の小商監となつて、栗田(ノ)眞人に從うて入唐し、元正天皇の靈龜二年正月正六位上から從五位下に敍せられてゐる。
 
みぬめ【敏馬】 又、三犬女。攝津國武庫郡。神戸・御影の間であらう。※[さんずい+文]賣《ミヌメ》(ノ)神社のあつた地(延喜式)。
 
 みぬめ‐が‐うら【敏馬个浦】 敏馬を中心として、魚崎、或は西(ノ)宮以西、兵庫以東の浦を斥したものであらう。
 
み‐はかし=を 枕。つるぎ。みはかし〔四字傍点〕は、即、佩刀である。を〔傍点〕は感歎呼格の助辭である。御佩刀よ、その佩き給へる剱とかゝると言ふ。或は御佩刀を吊る〔二字傍点〕とかゝつたとも思はれる。
 
みはら‐の=おほきみ【三原(ノ)王】 舍人親王の御子。淳仁天皇の御弟で、元正天皇の養老元年正月從四位下、聖武天皇の天平元年三月從四位上、九年十二月弾正(ノ)尹、十八年三月大藏卿、四月正四位下、十九年正月正四位上、二十年二月從三位、孝謙天皇の天平勝寶元年十一月中務卿、八月正三位、四年七月十日薨じた。小倉(ノ)王は其子、右大臣從二位清原夏野は、王の孫である。
 
みぶ‐うぢ【壬生氏】(補) 又、美文。にぶ〔二字傍点〕とも、音通で言うた樣である(和名抄)。此氏は、もと皇子の産《ウブ》(353)やしなひの事を司つた爲に、みうぶべ〔四字傍点〕の職名が出來たのが、融合したものであらう。乳部を、みぶ〔二字傍点〕と訓ませてゐる(皇極天皇紀)のは、其爲である。其|部曲《カキベ》の壬生部《ミブベ》を支配したのが壬生氏で、仁徳天皇の太子の爲に、御名代として壬生部を定めた(記)と言ふが、壬生氏配下の總べての壬生部が、此時に初まつたものとは言はれまい。此氏に、朝臣・臣・連・公(直)などがある。
 
みふね‐の‐やま【三船(ノ)山】(補) 大和國吉野郡。今、菜摘の東南の、船の樣な形の山が、其であらうと言ふが、吉野(ノ)激湍《タキ》を、今の宮瀧の地とすれば、湍の上《ヘ》の三船(ノ)山は、今少し下流の川に臨んだ地であらう。或は、此激湍を、三舟谿(懷風藻)の事とすれば、宮瀧附近を主張する事も出來ぬ。
 
みぶ‐の‐うだまろ【壬生(ノ)宇太麻呂】 聖武天皇の天平九年正月從六位上で、遣新羅使の大判官として歸朝、十八年四月、正六位上から外從五位下に敍せられ、八月右京亮となり、孝謙天皇の天平勝寶二年五月但馬守に遷り、六年七月玄蕃頭となつた。
 
みへ‐の‐かはら【三重(ノ)河原】 伊勢國三重郡内部川の河原。内部川は舊《モト》の三重川で、其上流に、葦田《アシミタ》郷、中流に采女郷が在り、下流には河後郷がある。采女には古く郡家もあつた。今の鈴鹿を越える東海道の舊道筋の郷々と思はれる。以上の邑々が在つたのは、皆、此川沿ひであるから、近江國から伊勢國へ出る道は、此川を溯つて八風《ハツプウ》を越えてゐたものと考へられる。此河原と言ふのも、采女郷(今内部村邊)邊での名と思はれる。
 
みほ【三穗】 紀伊國日高郡。今、三尾。日(ノ)岬の端に近い處に在つて、有田郡の由良の入り江と、日高の海岸とに向うてゐる。日(ノ)岬の鼻を南に廻ると、海が荒くなる爲と、今一つは陸路を來ると、今の鹿脊《シヽガセ》越えをせずに、由良へおりて三穗へ出て、それから、日高郡に這入る道順であつた爲、注意を牽いたものであらう。
 
 みほ‐の‐いはや【三穗(ノ)石室】 三尾村に、今も其趾と言ふのがあるが、よくは知れぬ。久米(ノ)若子なる人の隱れてゐた處と言ふ。久米(ノ)若子を顯宗天皇として、二王子流離譚に結びつけてゐるが、事實は、恐らく、久米(ノ)仙人など言はれた修道者の、(354)行處であつたものと考へられる。
 
みほ【見穗】 駿河國富士郡。清水・江尻・三保(ノ)崎に跨つた海岸の地。紀伊國日高の三穗〔二字右・〕と混じ易いが、田口(ノ)益人の歌の如く、明らかに駿河國の地と知れるものゝ外は、大抵、紀伊國の方と見てよい樣である。古く美穗神社がある(延喜式)。
 
みゝなし‐やま【耳成山】 大和三山の一。三山の中、一番低い山であるが、容姿は飯盛形で極めてうるはしく、どこまでも女性らしく見受けられる。十市郡にあつて、今は天神山とも、みゝなり山とも呼んでゐる。三山の中、北方に位して、藤原の宮都の北に立つてゐたのである。此山の麓に池があつた事は、卷十六に見えてゐる。此山を香具山と共に男性とし、畝傍山を女性とするのは、おもしろくない。寧、此山竝びに、香具山を女性と見、畝傍山を男性と見るが、妻爭ひ傳説としては、複雜ではあるが適當である。
 
 みゝなし‐の=いけ【耳成(ノ)池】 耳成山の麓に在つた池。櫻(ノ)兒(卷十六)の身を投げたと言ふ、妻爭ひ傳説のある處である。
 
みゝらく‐の‐さき【旻樂(ノ)埼】 本集には美禰良久。肥前國松浦郡。五島の福江島の西北の端、今、三井樂《ミヰラク》村の地。古く旻樂(ノ)済《ワタリ》とも、川原(ノ)浦の西《ニシ》(ノ)ノ済《ワタリ》とも言ひ、値嘉島を出て外國へ向ふ船の、終りの泊りである。其字面と字音の外國風な處、及び日本の果と言ふ考へなどから、後期王朝に入つては、異郷趣味を動したものと見えて(散木弃謌・蜻蛉日記)、歌枕の一つとなつて、日本の地でないと迄考へられてゐた樣である。
 
みもろ【三諸】(補) 又、みむろ〔三字傍点〕。み室《ムロ》の義か。此が正しければ、室《ムロ》は岩窟《イハムロ》で、山上の岩窟が信仰の對象になつてゐたのであらう。みもろの山のいはほ菅〔十字傍点〕と言ふ語は、其暗示を與へてゐるものと言はれる。又、ひもろぎ〔四字傍点〕との類似にも注意すべきである。但、もろ〔二字傍点〕・むろ〔二字傍点〕は、杜《モリ》・牟禮《ムレ》・つむれ〔三字傍点〕など山の意味の語と關係がありさうにも見える。さすれば、み山《モロ》か。此も亦、かむなび〔四字傍点〕と同樣に、出雲系統の神を祀つた處らしく觀察せられるが、或は存外、他の國祇《クニツカミ》の社かも知れぬと思はれる節もある。隨分、分布の廣い、古い地名で、大和朝廷が勢を得てからは、三輪のみもろ〔六字傍点〕が(355)稜威を逞して朝廷を脅してゐる。本集に、單にみもろ〔三字傍点〕・みむろ〔三字傍点〕とあるのは、皆、三輪の神山と思つてよいと言ふ説(玉勝間)もあるが、飛鳥の神南備のみもろ〔三字傍点〕の山を、唯、みもろ〔三字傍点〕と言ふ事もある樣である。立田山の一部をも言うたと思はれる歌もある。畢竟、固有名詞でなく、神山〔二字傍点〕位の心持ちで用ゐてゐたのだから、みもろ〔三字傍点〕と言ふだけの條件を備へた山なら、作者の都合で、何處のをも詠みこんだであらうが、略、時代によつて區別のあるのは、都に近いものを普通に固有名詞化して用ゐてゐたものと見える。出雲國大原郡の御室《ミムロ》山は、須佐之男(ノ)命が御室令v造《ミムロツクラシ》て宿らせ給うた處だから、御室と言ふのだ(出雲風土記)との傳説から見ても、既に此時代の人が、單に神山〔二字傍点〕をみむろ〔三字傍点〕と考へてゐなかつた事が知れる。もろ〔二字傍点〕の音に守《モル》の心持ちを感じてゐた事は、「みもろは、人のもる山……哭く子もる山」と言ふ、民間語原的な解釋を見ても知れる。
 
みもろと‐やま【見諸戸山】 山城國宇治郡三室戸寺の在る地の事か。藤原鎌足がとりわけて、三室戸山をとつた理由が明らかでない。宇治邊で作つたと見るか、三室戸山のさね蔓が名高かつた爲と考へるべきか、判然せぬ間は、姑らく、みもろと〔四字傍点〕のと〔傍点〕は、の〔傍点〕の音轉と見て、やはり飛鳥、又は三輪のみもろの山〔五字傍点〕と解くのが、適當らしい。作者が作者だけに、筆録せられる迄の、人の口の上の轉訛はないとは言へぬ。
 
みやけ‐の‐うら【三宅之※[さんずい+内]】 下總國の地名。印幡郡にも、海上郡にもある。併、鹿島に向つて居るのは印幡郡であるから、印幡郡の三宅だらうか。
 
みやこ‐どり【都鳥】 水禽の名。かもめの類で、全身が白く、嘴と脚とが赤い(伊勢物語)と言ふ。或はけりかもめ〔五字傍点〕、又は、うばしぎ〔四字傍点〕の異名だと言ふが、正確にそれとは定めにくい。
 
みやこ‐の=て‐ぶり【都風】 都會の風儀・風流を言ふと説くが、如何。手振りと言ふ以上は、手に關係して考へぬ迄も、身體の上の表出に就いてなる事は知れる。思ふに、宴席の興に、舞踊などを所望せられたのを、卷五「鄙に五年住まひつゝ(八八〇)。都手ぶりの舞ひを忘れた、と辭退したと見るべきか、又、他に、遊行女婦などがゐて、其舞ひ振りの、都風の手つき・足つきなのに詠歎したものとも考へられ(356)る。後世風の、舞ひの手ぶりと、少し意味が違ふ樣である。後世のは、舞ひぶりを斥す樣であるが、此は、手振り・足振りなど、字義どほりで、手を動かす樣などを言ふのであらう。伎・狛の舞ひの足振りを主としたのに對して言うた語ではなからうか。
 
みや‐しく【宮敷く】 宮敷を建てる。宮地と定めて宮を作る。宮殿の地形《ヂギヤウ》をひく。しく〔二字傍点〕は、すゑる〔三字傍点〕・しめる〔三字傍点〕などの意で、宮として地を占め、礎を定め、殿を建てる、など言ふ。宮殿造営の總べての過程を含めた上に、堅固に立つてゐる樣迄も考へて言うた語。
 
みやじろ【美夜自呂】 地名。但、何處たか訣らぬ。岡の名と見てよからう。
 
みや‐で【宮出】 御殿をさがる。退出する。宮の御門を出る』。卷二「宮出もするか佐日の隈わを(一七五)、と言ふのは、佐日の隈わ〔五字傍点〕なる皇子の在り處をさがつて來ると言ふ意で、御所に出仕する事ではない。又、職を罷めて宮を下る意でもない事は、勿論である。
 
みや‐をみな【宮女】 宮中に仕へてゐる女。御所女房舍人男と對して、若い美しい意味を有たせてゐる。或は、都會の女位の意で、必しも女官たちの事でないかも知れぬ。
 
みよしぬ【み吉野】 み〔傍点〕は接頭語だが、意味は訣らぬ。美稱と説き棄てたのも、如何。三《ミ》でない事は、勿論である。或は、神聖の意を含んだ語かとも考へる。整調の必要からの繰り返しの爲に、卷三「みよしぬのよしぬ(三一五)と重ねて言ふのが、枕詞風に聞える樣になつたのは、近接地名を竝べる「石の上布留」・「さゝなみの志賀」などゝ同類である。
 
みる【見る】(補) 無意識になる視覺の働き(ア)。意志を加へて視覺を働かす(イ)。女を見る意から、人に會ふ。情人とあひゞきする。人と共寢する意などに轉じる(ウ)。但、男女關係のみる〔二字傍点〕は、或は語原が別であるかも知れぬ。状況を見盡し、知り盡して、支配する。治める。領有する(エ)。此は、多くの場合、敬語形さ行變絡に活用して、みせ・みし・みす、又、轉じてめさ・めし・めすなど言ふ。
 
みる【海松】 藻の名前。海の岩に附いて生える。枝はしげくて、緑色である。みる〔二字傍点〕布《メ》・みるぶさ〔四字傍点〕など言ふ。みる〔二字傍点〕は外の藻よりは、稍、廣い處から、ぼろ〔二字傍点〕の着物(357)に譬へること、本集からある。
 
みわ【三輪】 大和國磯城郡に在る山。奈良の南より來た丘陵が、茲で折れて、初瀕の方へ走る角に當つてゐる。所謂|紡※[糸+垂]《ツム》状の山で、綜麻形《ヘソガタ》と書いたのは當つてゐる。東裏には、穴師山を隔てゝ初瀬山があり、前には十市・高市の平野がある。此處は、大物主(ノ)神の鎭ります山で、大和朝廷に對して一種の苦手なる神の、居處であつたのである。大物主は大國主の和靈《ニギミタマ》だと言ふが、是は舊説の樣に、大國主自身の魂でなく、外在的に大國主を助けた神、即、全くの別神と見るべきであらう。さうして國と物と二音の相違のあるばかりな所から、習合せられて、一神となつたものとも見える。又、同時に、事代主の異名だとするも、語形の類似から出た奈良時代のおしあてで、恐らく大國主以前の大倭を領してゐた國魂《クニタマ》の神なのであらう。藤原・飛鳥以前の時代には、屡崇りを下して、朝廷を脅したのである。古くは山が即、殿堂で、社はなかつたとしてゐるが、又一方、應神天皇の御製に三輪の殿戸とも言うてゐるから、社殿があつたかとも思はれる。三輪の三諸〔五字傍点〕、或は單にみもろ〔三字傍点〕とも言ふ。但、都の所在によつて、みもろ〔三字傍点〕と呼ばれる山は變つたと思はれる。古くは、三輪、後には飛鳥の神南備を言ふ樣である。
 
み‐わ【酒甕】(補) 酒を釀す壺。其壺の儘、地に掘りすゑて、神に獻る事もある。みわ〔二字傍点〕は元、酒の事であるらしい。三輪の地名民譚が、三※[塋の土を糸]説に固定してからは、三輪の酒に關係ある部分は、忘れられて行つたのであらうが、古くは必、酒釀みの傳へがあつたであらう。大神《オホミワ》・神人《ミワビト》等の氏の中には、必、酒に關係があつたのがあるであらう。天(ノ)諸神《モロカミ》(ノ)命の後と言ふ御手代(ノ)首と同祖の神人《ミワビト》の一流は、もろ〔二字傍点〕・かみ〔二字傍点〕など酒に關係ある神名を思ふと、酒作りの家筋と思はれる。酒部《サカベ》は、大彦命の後と言ふが、恐らくは蕃種で、其以前の釀酒の家が、此|神人《ミワビト》であつたのであらう。酒人は進酒の役だと、栗田寛博士は區別してゐられる。或は宮中の酒の事に與つたのが、酒人で、神事に關するのが、神人であつた爲、神の字を宛てたのが、次第に發達して、大神氏なども出る樣に、なつたのかも知れぬ。みもろ〔三字傍点〕のもろ〔二字傍点〕・みわ〔二字傍点〕など言ふ語の、酒に關係ある事が、三輪と酒との關係を、深(358)くしたのであらう。
 
み‐わたし【見渡し】 ずつと見やつた處。目の屆くところ。向うの方。あちら。こちらから向うのある處迄、かけて見た目の限り。
 
みわ‐の=たけちまろ【三輪(ノ)高市麻呂】 「おほみわのたけちまろ」參照。
 
みわ‐やま【三輪山】(補) 義訓に、綜麻形と書いたのは、此山、今でも綜麻《ヘソ》の紡※[糸+垂]《ツム》の樣に、山の尾長く引いて磯城平野の、初瀬河内《ハツセガフチ》の入口に延びてゐる處から、當時の人、綜麻形と言へば、三輪山を思ひ浮べた爲であらう。此山、みもろ〔三字傍点〕山と言ふこと、時代によつて、飛鳥のみもろ〔三字傍点〕と區別すべきである。又、眞穗御諸《マホミモロ》山とも言ふ。
 
み‐ゐ【御井】(補) み〔傍点〕は、單純な敬語とは見られぬ。井《ヰ》(ノ)上《ヘ》の神などの存在を考へる點から出た尊敬である。水は水汲場・用水路などの意で、多くは、清水の湧く場所の心持ちである。自然の水ので〔右・〕が、とりわけ問題になつてゐた、昔の部落生活のあり樣を考へに置いて見るべきである。山(ノ)邊(ノ)御井・藤原(ノ)御井・※[木+渫の旁]の御井など、本集にも、可なり見えてゐる。
 
み‐を【水脈】 みづさき。航路。本流』。河海を問はず、船の通路は相當の深さを要して、淺瀬や岩礁などがあつてはならぬから、一定してゐたものだ。
 
 み‐を‐つ=くし【浮標】 みづさき〔四字傍点〕を示すしるし棒〔四字傍点〕。みをじるし。舊説は澪つ串〔三字傍点〕だと説くが、柳田國男先生は、みを〔二字傍点〕‐つくし〔三字傍点〕だと言はれてゐる。川にも潟にも、立てられてゐた樣である。同音を利用して、身をつくす〔五字傍点〕と言ひ懸けたり、筑紫〔二字傍点〕を起したりする事もある。
 
 み‐を‐ひき みづさき案内すること。水脈を導《ヒ》く義。
 
みを【御尾】 近江國高島郡。此郡の地、古く彌乎《ミヲ》(ノ)國(上宮記)と言ひ、高島は其一部であつたのである。三尾郷の地(和名抄)は、其中心であるが、滋賀郡の境迄、御尾の名を稱へたので、御尾(ノ)埼は、今の明神崎の事である。後の水尾神社(延喜式)は、此頃、既に在つた(續紀)のである。みを〔二字傍点〕の地形は川の峽谷を出た地點を斥す樣であるから、御尾の地も、三尾川(今の大溝村邊)を中心にして擴つたものであらう。
 
(359) みを‐の=かちぬ【御尾(ノ)勝野】 又、高島の勝野。高島郡の南方の沼澤地の墾かれなかつた地と思はれる。後期王朝に、勝野津と言ふのは、湖水に面した船泊りで、明神崎の北陰であらう。
 
     む
 
むかし【昔】 過去。以前。そのかみ。先年。曩昔。古代』。時間の長短をこめて過去の事を言ふ。わりあひに近い頃の事は、そのかみと言ふ風の意に使うてゐる。卷四「吾妹子は、常世の國に住みけらし。昔見しより反《ヲ》ちましにけり(六五〇)。此意味のむかし〔三字傍点〕より更に、今に近いのが、きす〔二字傍点〕・きそ〔二字傍点〕であるが、むかし〔三字傍点〕には過日・先日などの意はない。年《トシ》と言ふ考へが這入つてゐる樣である。
 
むかし‐へ【往方】 むかし』。へ〔傍点〕はいにしへ〔四字傍点〕などのへ〔傍点〕で、方の意。或は、むかし〔三字傍点〕と言ふ語も、此へ〔傍点〕を略して、獨立した語かも知れぬ。次の條の向かし〔三字傍点〕と似た義で、へ〔傍点〕に接したので、後に形容詞語根となるものと同じ、と考へられる。又、し〔傍点〕は單なる助詞かも知れぬ。
 
む‐かし 懷しい。奥ゆかしい』。形容詞。そちらへ引きつけらるゝ樣な心持ちを表す語。向かし〔三字傍点〕の意。又、母音をとつて、おむがし〔四字傍点〕・おもがし〔四字傍点〕など言ふ。卷十八「白珠の五百つ集ひを手にむすび、おこせむ蜑は、むかしく〔四字傍点〕もあるか(四一〇五)。
 
むか‐はき【行縢】 馬に乘る時、腰の兩側を蔽うて、濡れたり、汚れたりする事を防ぐもの。獣の皮で作つてある。向《ムカ》と言ひ、倭名抄に旡如波岐《ムカハキ》。外へ反つた物だから向《ムカ》と言ひ、はき〔二字傍点〕は穿《ハ》きか。
 
むかふ【抗ふ】(新補) むかなふ。はむかふ。敵對する』。は行四段括用。向ふ〔二字傍点〕の分化。働きかけた力に對して、反抗する。
 
むか‐ぶす【向伏す】 雲が大地の果てに垂れさがつてゐる』。祈年祭祝詞に、白雲の墜居向伏限《ヲチヰムカブスカギリ》とある墜居の字から見ても、此解は當つてゐる樣である。併、本集時代には、祝詞などの古辭に使ひ馴れた處から、唯、大地の極限を表す場合に用ゐたばかりで、意味の反省なしに使うたものと考へられる。廣い天を行きづまりのあるものと考へて、其處からは雲も(360)立たずなびきおりて居、地に向伏してゐるものと信じてゐたのである。卷十三「白雲の、たなびく國の、青雲の向伏國《ムカブスクニ》の、天雲《アマグモ》の下なる人は(三三二九)。卷五「天雲の牟加夫須《ムカブス》きはみ(八〇〇)。
 
むく【平く】 たひらげる。從はせる。歸伏させる』。下二段活用。他動詞。向く〔二字傍点〕の意義分化。卷五「帶《タラシ》媛神の命《ミコト》、韓《カラ》國を武氣多比良宜弖《ムケタヒラゲテ》(八一三)。此語、軟化させる意を持つた處が、平ぐ〔二字傍点〕・鎭む〔二字傍点〕などゝ違ふのであらう。卷十八「遠き代になかりし事を、我がみ代にあらはしてあれば、食國は榮えむものと、神ながら思ほしめして、ものゝふの八十伴(ノ)緒を、まつろへの牟氣乃麻爾麻爾《ムケノマニマニ》、老い人も女の童子も下願ふ心だらひに撫で給ひ(四〇九四)。此は其例である。
 
むぐら【葎】 雜草の名。今言ふ葎が其かは訣らぬ。又、かなむぐら。卷十一「思ふ人來むと知りせば八重|六倉《ムグラ》おほへる庭に玉敷かましを(二八二四)。
 
むこ【武庫】 又、六兒。攝津國武庫郡。蕃別|牟古《ムコ》(ノ)首《オビト》の本貫。今の武庫村が其中心であらう。武庫郷(和名抄)の地。務古(ノ)水門《ミナト》も此處に在つた。
 
 むこ‐の‐うみ【武庫(ノ)海】 武庫より西、和田(ノ)岬迄の名。播磨潟に出入りする船路の穩やかさから注意に上つたのである。
 
 むこ‐がは【武庫川】 武庫郡。播磨への陸路は、此川を渉つたのである。務古(ノ)水門も、此川の船泊りで、兵庫・神戸などではない。
 
むさゝび【※[鼠+堰の旁]鼠】 稍、栗鼠に似た體で、毛色は稍、美しく尾は丸柱の形である。體の兩側に沿うて、前後の股間に、皮膚の擴張で出來た蹼が張つて居り、樹間を存分に飛躍する事が出來る。山中に棲んで、果實・鼠・小鳥・卵などを喰ふ。
 
むさび【六鯖】 淳仁天皇の天平寶字八年正月、正六位上から外從五位下に敍せられた、六人部連鯖磨を略して、六鯖と書いたのであらう、と言はれて居る。
 
むし‐ぶすま【苧被】 むし〔二字傍点〕は布の名である。苧麻《カラムシ》で織つた布で作つた衾。柔かいので、なごやが〔四字傍点〕下《シタ》と言ふ語の修飾語になる。蒸す樣に温かい衾と言ふ事ではない。
 
むす【生す】 發生する。出來る。後から/\と出る』。さ行四段活用。自動詞。形もない處に、はじめて物の發生して、殖えて行く意味を持つてゐる樣であ(361)る。苔むす〔三字傍点〕は、苔の生える。
 
‐むた【共】 …と共に(ア)。…と同時に。…の如く(イ)。何々と共に、何々同樣になど言ふ用語例を持つて、物に共通する意を表す、むつ〔二字傍点〕と言ふ語の、名詞法から出たものだらう。接續詞風の助詞。此語と、上の名詞とを續ぐには、必、が〔傍点〕・の〔傍点〕など言ふ領格の助詞がつく。併、此語は、長い使用の間に、用語例の變改があつたものらしく思はれて、(ア)と(イ)との間に著しい隔りがある。本集時代のむた〔二字傍点〕は、概ね(イ)に屬するものと見られる。
 
むだく【抱く】 いだく。だかへる。かゝへる。抱擁する(ア)。獣などの前足を擴げて、後足で立つ動作。人立する(イ)。いだく〔三字傍点〕ともうだく〔三字傍点〕とも言ふから、む〔傍点〕はい〔傍点〕・う〔傍点〕の鼻母音化と見るべきである。身《ム》ではなからう。(イ)は本集に用例を見ぬ。卷十四「上(ツ)毛野安蘇の眞麻群かきむだき寢れどあかぬをあどかわがせむ(三四〇四)は、抱擁である。此語は、必しも東語の訛りだとは言へぬ。
 
むつだ【六田】 大和國吉野郡。吉野川の北岸に在る。對う岸は大淀である。宮瀧邊の急流が、此邊では靜かになるので、六田(ノ)淀とも言ふ。又、吉野川を此あたりでは、六田(ノ)川とも稱した。後世、專らむた〔二字傍点〕と言うてゐる。
 
むつ‐たま=あふ【睦魂合ふ】 睦魂は、人の魂の作用に、諸方面あるうち、睦び親しむ方を見て名づけたので、荒靈・和靈・寄靈などの類か。併、「すめらがむつ〔二字傍点〕かぶろぎ・かぶろみ」など言ふ用例によると、體言形容ともとれる。即、親《シタ》しい・なつかしむ・親《チカ》しいなど、上の主格に對しては敍述語の樣な働きを持ち、下の體言に對しては形容詞の役をする。單に心にかなふ・氣に入るなどでは足らぬ。卷三「大君の睦魂あへや豐國の鏡の山を宮と定むる(四一七)。
 
むとべ‐の=おほきみ【六人部(ノ)王】 又、身入部《ムトベ》(ノ)王。元明天皇の和銅三年正月、無位から從四位下に敍せられ、元正天皇の養老五年正月從四位上、七年正月正四位下、聖武天皇の神龜元年二月正四位上に進み、天平元年正月十一日歿した。
 
むなかたべ‐の‐つまろ【宗形部(ノ)津麻呂】 筑前國宗像郡の百姓で、聖武天皇の神龜年中、對馬の粮米を送る船の舵師《カヂトリ》になつた。
 
(362)むなぎ【鰻】 うなぎ』。胸黄の意と言ふ。卷十六「石麻呂に我もの申す。夏痩せによしと言ふものぞ。武奈伎とりめせ(三八五三)。
 
むな‐ごと【虚言】 根なし言。根柢のない噂。ちよつとした評判(ア)。でたらめの言。よいかげんの口上(イ)』。卷二十「おほろかに心思ひて牟奈許等母《ムナコトモ》祖の名立つな(四四六五)。(イ)の例には、卷十二「淺茅原小野にしめ結ふ空言毛《ムナゴトモ》あはむと聞こせ。戀のなぐさに(三〇六三)。茅原に標《シメ》結ふ事と空言との關係ある事を示した歌が、卷十一・十二に亙つて三首迄ある。
 
むなわき【胸別】 胸脇で、胸と脇との間、即、胸間の意か。昔は、胸の廣い女を、美人とした。廣い刀の鋤を童女の胸※[金+且]《ムナスキ》と言うた事、出雲風土記にも見える。卷九「末の珠名は、胸分の廣き吾妹。腰細の螺※[虫+羸]《スガル》處女の、其顏のきら/\しきに(一七三八)。
 
むな‐わく【胸わく】 胸で物をおしわけて行く』。鹿などの野獣が、胸で草をおし分けるに言うた樣だ。
 
むら‐ぎも‐の 枕。こゝろ。肝むかふ〔四字傍点〕と同じく、臓腑、即、靈魂の所在と考へたなごりで、群肝の意だと言ふ。
 (補) 枕。こゝろ。きも〔二字傍点〕は臓腑の汎稱で、臓腑の所在、即、生活機能の中枢と言ふ考へが、靈魂臓腑存在觀を形づくつた素朴な古人は、むらきもの心〔六字傍点〕とつゞけたのだと説くが、寧、ひものをの心〔六字傍点〕と同じく、臓腑の錯雜してゐる樣から、こがらかる〔五字傍点〕の意の、凝《コ》る・こゝるに接したのであらう。友人ろしや人ねふすきい・にこらい氏は、むら〔二字傍点〕はむらと〔三字傍点〕であり、むらぎも〔四字傍点〕、即、むらとぎも〔五字傍点〕の義で、腎と言ふ臓腑と言ふ意で、心を起したのである。狩獵の際に獲た動物の内臓をふわけ〔三字傍点〕すると、生殖器官を傳うて第一に達するのが、腎臓であるから、精氣・生活力の集中する處と考へたので、むらとぎも〔五字傍点〕、即、心の所在としてゐたので、此枕詞が出來たのだ、と説いてゐる。手ぎはのあざやかすぎる程、明快な説明である。可能性の多いおもしろい考へである。
 
むらさき‐の 枕。にほふ。こ。なたか。紫のはでな色からにほふ〔三字傍点〕を起し、又、其濃染めである處から、こ〔傍点〕を聯想し、殊に貴い色として、名高〔二字傍点〕につゞけたものであらう。卷一「紫草能爾保敝留《ムラサキノニホヘル》妹を憎くあらば(二一)。卷十六「紫乃|粉滷《コカタ》の海にかづく鳥(三八七(363)○)。卷七「紫之|名高《ナタカ》(ノ)浦《ウラ》のまなごづち(一三九二)。
 
むら‐とり‐の 枕。たつ。たつ〔二字傍点〕をもとゝして、あさたつ。むらたつ。いでたつ。など。朝になると、鳥は皆、ねぐらを飛び立つて、皆、一處に遠くへ出かけるから言うたのである。卷二十「群鳥の安佐大知《アサダチ》いにし君が上は(四四七四)。卷二十「むらとりの伊※[泥/土]多知加弖爾《イデタチカテニ》(四三九八)。卷九「むらとりの群立《ムラタチ》いなば(一七八五)。
 
むらなへ(補) うらなひ〔四字傍点〕の頭音が、鼻母音化したものか。卷十四「上(ツ)毛野佐野田の苗の武良奈倍爾《ムラナヘニ》ことは定めつ。今はいかにせも(三四一八)。二句迄は三句を起す序で、群苗《ムラナヘ》にとりなして、實は、占《ウラ》なへにかけたのであらう。苗のむらなへ〔六字傍点〕を、苗のうらなひ〔六字傍点〕と説いた賀茂眞淵説も一概に捨て難い。蘆を以て占ふ蘆占などもあるから、苗占と言ふ事はあり相である。
 
むろ【榁】 杜松ともかく。※[木+聖]を宛てるは誤りである。圓柏《イブキ》に似て、高さ三四丈。葉は頗細くて、柔かな刺がある。年を經たものは、碧い實がつく。麥門冬の實に似てゐる。又、葉が柔らかに垂れて實を結ばないものもある。材は槙に似て、水濕に堪へる。本集では、室木・室乃樹・天木香樹・牟漏能木など宛ててゐる。
 
むろ【宝】 播磨國揖保郡。此津は、後世までも中々繁昌したもので、瀬戸内海航路の要津に當つてゐた。港内は廣くは無いけれども、昔の和船時代の碇泊地としては、十分であつた。今は鐵道から離れた爲に 淋しくなつた。
 
むろがや‐の(補) 枕。つる。むろがや〔四字傍点〕は草の名で、蔓〔傍点〕とかけたものか。或は地名で、小地名の都留《ツル》と重ねたか。卷十四「武呂我夜乃都留《ムロガヤノツル》の堤の成りぬかに、子ろは言へども、いまだ寢なくに(三五四三)。
 
むろ‐の‐え【牟婁(ノ)江】(補) 紀伊國北牟婁郡。今、田邊※[さんずい+彎]と言ふ。牟婁の温泉《イデユ》は、本宮・湯崎ともに言うたので、その湯崎に擁へられてゐる※[さんずい+彎]を、牟婁江と言うたのである。白良《シラヽ》(ノ)濱・南部《ミナベ》(ノ)浦、皆、此江の中にあつた。
 
むろ‐ふ【室生】(補) 又、※[木+聖]生(三代實録)。大和國宇陀郡の奥三本松町・内牧・曾爾の間に、丘陵で一區劃をした盆地。此盆地を中心として、萩原《ハイバラ》から伊勢國(364)への道は二つに分れて、一つは伊賀國尾張に出、一つは岩坂越えをして伊勢國に出るのである。此地は、※[木+聖]の木(川柳)の密生してゐた爲に、命けたのであらう。室生龍穴神社と言ふ高※[雨/龍]の社・桓武天皇の朝に出來た室生寺などが、今もある。
 
      め
 
め【面】 目は顔面のうちで、印象し易いものでもあり、又、最よく感情を表すものであるから、人の顔の事を言ふに、目を以て顏面を代表させて、顔・おもばせの意味に用ゐる。妹がめ・妻がめ・めかるなど言ふのは、皆、此意である。卷七「嫁があたり今ぞ我が行く。目耳谷《メノミダニ》我に見せこそ。言とはずとも(一二一一)。卷二十「まけのまに/\、たらちねの母が目《メ》可禮弖《メカレテ》(四三三一)。又、男女の情事にも言うた樣で、めごと〔三字傍点〕などある。
 
め【女】 男子に對して、廣く女性を斥す(ア)。女の神・女奴・大和女などの用例がある。又、配偶者を持つ女(イ)。妻に同じい。妻字をめ〔傍点〕と讀ませた例もある。妻子の意味に、めこ〔二字傍点〕と用ゐたのもいくつかある。
 
めぐ‐し 可愛らしい。いぢらしい』。卷五「父母を見れば貴し。妻子見ればめぐし、うつくし(八〇〇)。卷九「今日のみはめぐしも勿見そ(一七五九)。この語は、心くし〔三字傍点〕などのくし〔二字傍点〕とおなじで、目くし〔三字傍点〕、即、見るに堪へぬ意から出て、愍然に思ふ・可愛さうに思ふの意に移つて、更に轉じたので、次の例の如きは、かあいさうにも・愍然にもの意に使うてある。卷十一「人も無く古りにし里にある人をめぐゝや君が戀に死なせむ(二五六〇)。「めぐしも勿見そ」のめぐしは、めぐし子・めぐし人などを略した形で、をさなき人ををさない〔四字傍点〕など後世に言うたと、同樣であらう。
 (補) く活用形容詞。目〔傍点〕を痛ませる程だ。むごい。見づらい(ア)。いとしい。かあゆくてならぬ(イ)。萬葉集古義に「われは思へば惑毛安流香」を、めぐ〔二字傍点〕しく〔二字右○〕もあるか〔四字傍点〕と、訓んだのは、尚、考へねばならぬ。心ぐし〔三字傍点〕とおなじく、目ぐし〔三字傍点〕であるが、めぐむ〔三字傍点〕(惠)の語根であらう。(ア)の用例は、後迄も存してゐたと見えて、卷十七「妹も吾も心はおやじ。竝《タグ》へれどいや懷(365)しく、相見れどとこはつはなに、情具之《コヽログシ》眼具之《メグシ》もなしに、はしけやしわがおくづま〔四字傍点〕(三九七八)と言ふのがあると共に、今少し古い歌と見える。卷九「今日のみは目串毛《メグシモ》な見そ。言も咎むな(一七五九)は、通例(イ)の方に説かれて、めぐゝ思ふ妻〔六字傍点〕などの意とせられる。併、思ふに、見づらい〔四字傍点〕・見ともない〔五字傍点〕などの意であらうか。但、此語、頗、變態で、上に擧げた二つの例の樣に、普通ならば、連體形に、めぐき〔三字傍点〕と言ふべき處を終止(或は語根)の儘で、體言としてゐる。一體、くし〔二字傍点〕と言ふ語は、熟語となると、くゝ〔二字傍点〕・くし〔二字傍点〕・くき〔二字傍点〕と働く樣であるが、尚、語根形容詞時代の意識を失はぬと見えて、語根(終止に最近い)の儘の名詞形が用ゐられるのである。卷五「父母を見れば尊し。妻子《メコ》見れば米具志《メグシ》うつくし(八〇〇)。卷十一「人もなき古りにし里にある人を。愍久也《メグヽヤ》、君が戀ひに死なせむ(二五六〇)などは、(ア)の意識は全くは失はないにしても、もはや(イ)の方に移つてゐると見える。
 
めぐ‐む(補) いとほしがる。あはれむ。同情する』。ま行四段活用。めぐし〔三字傍点〕の語根の動詞再活用。いたましさに愛情を起す事であるが、多く上より下に對しての心持ちである。卷十七「道《ミチ》の中《ナカ》國つみ神は、旅行きも爲知《シヽ》らぬ君を、米具美《メグミ》たまはな(三九三〇)。卷十九「食國の四方の人をもあてさはず愍賜者《メグミタマヘバ》(四二五四)。
 
め‐ごと【目辭】 まのあたり會うて、語をかはす事と言ふが、或はこと〔二字傍点〕には辭〔右○〕の意なく、事〔右○〕で、男女の媾會をめ〔傍点〕と言うたものかと思ふ。(「め」參照)。卷二「君と時々いでまして遊びたまひし御食むかふ城《キ》(ノ)上《ヘ》の宮を常宮と定め賜ひて、あぢさはふ目辭《メゴト》も絶えぬ。そこをしもあやにかなしみ(一九六)。卷十一「遠みこそ目言《メゴト》かるらめ。絶ゆと思へや(又、隔つや)(二六四七)。
 
めさぐ(補) よびよせる。身分の高い人が、離れてゐる目下の者を來させる。地方官から、内官に任命する』。が行下二段活用。他動詞。召し上ぐの融合。あぐ〔二字傍点〕は昇進の意よりも、中央へ上らせる意である。卷五「あがぬしのみたまたまひて、春さらば、奈良の都に※[口+羊]佐宜《メサゲ》たまはね(八八二)。後期王朝の縣召除目など言ふ召す〔二字傍点〕の意も、既に含まれてゐるのである。
 
(366)めさまし‐ぐさ【目覺し種】 眠い眼を移し、眼を醒ますべき料《タネ》の品物。卷十二「曉の目ざましぐさとこれをだに見つゝいまして吾としぬばせ(三〇六一)。
 
めす【見す】 御覧になる。御承知になる。おをさめになる』。さ行四段活用。他動詞。動詞の語根、見〔傍点〕に、敬語の助動詞がついたもの。卷二十「時の花いやめづらしも。かくしこそめし〔二字傍点〕あきらめゝ。秋立つごとに(四四八五)。しめすの意にも用ゐる。卷一「藤原が上に食國をめし〔二字傍点〕給はむと(五〇)。知ろしめす・聞こしめすの語尾のめす〔二字傍点〕も、これと同語の固定である。萬葉集古義には、見〔傍点〕の敬語をすべて、めし〔二字傍点〕と訓んで、みし〔二字傍点〕を否定してゐるが、本集時代、尚、やすみしゝ〔五字傍点〕の如き、硬化した語でなくても、みし〔二字傍点〕はあつたものと考へられる。
 
めす【食す】 さ行四段活用。他動詞。食ふ・飲むの敬語。卷八「わけが爲わが手もすまに春の野に摘める茅花ぞ。食《メ》して肥えませ(一四六〇)。此語も又、前條の語の轉義で、きこす〔三字傍点〕などゝ一類のものであらう。
 
‐めす 動詞の下につく敬語助動詞。ほゞ給ふ〔二字傍点〕と同じであるが、給ふ〔二字傍点〕は、して下さるの義から出、めす〔二字傍点〕は御取り用ゐになる義から出てゐる。卷二「いかさまにおもほしめせか(一六二)、などの用例がある。
 
めづ‐こ【寵兒】 ほんそご。可愛い兒』。卷十六「母に奉りつやめつこ〔三字傍点〕の刀自(三八八〇)。愛《メ》づと言ふ動詞はあるが、此は、其語根形容詞とも言ふべきmedと子〔傍点〕と熟したものである。
 
めづま【愛妻】 かあゆい妻』。めづ〔二字傍点〕とつま〔二字傍点〕との融合か。恐らくは、上のめ〔傍点〕は妻女の意ではなからう。卷十四「わがめづま人はさくれど(三五〇二)。
 
めづ‐ら‐し【珍らし】 可愛さに堪へぬ(ア)。賞美するねうちがある。結構だ(イ)』。稀に見る・多く無いの意は、此から轉じて出たので、此程に賞翫すべきは稀だ、の意を含んでゐるのであらう。いくら見ても飽かない・飽く程に度々は無いの意である。卷十二「浦曲《ウラワ》※[手偏+旁]《コ》ぐ熊野船はて、目頬志久《メヅラシク》かけて思はぬ月も日もなし(三一七二)。卷八「わがやどの非時藤《トキジクフヂ》の目頬布《メヅラシク》今も見てしが。妹がゑまひを(一六二七)。此等は(ア)の意に近く、此語、めづらかである〔七字傍点〕と譯すれば、今の珍らしの言語情調を脱する事が出來る。希見を(367)梅豆羅志《メヅラシ》と訓み、希見國《メヅラノクニ》が松浦《マツラ》(ノ)國となつた(肥前風土記)と言ふから、珍の意も含まれたと考へるべきか。卷三「青山の嶺の白雲朝に日に常に見れども、目頬四《メヅラシ》。吾君(三七七)は、(イ)の方に傾いてゐる。
 
め‐に=つく(補) 初中終、目から離れぬ。目にくつゝいてゐる。幻に見える』。今の目につく〔四字傍点〕の、注意を惹くと言ふ程度よりは強い。卷一「三輪山の林の崎のさ王孫《ヌハリ》の衣につくなす、目爾都久《メニツク》わがせ(一九)。
 
めひ‐の=ぬ【賣比能野】 又、婦比《メヒ》。越中國|婦負《ネヒ》(ね〔右・〕ひとも言ふ)郡の野。此野を流れる川を賣比川と言ふ。卷十七の婦比郡渡2※[盧+鳥]《ウ》坂河1時作歌の次の條に、「賣比河波《メヒガハ》の速き瀬毎に(四〇二三)とあるから、※[盧+鳥]《ウ》坂川の一名である事がわかる。
 
‐めり(補) 本集には、まだない。但、普通あつたと言ふ證據と考へられる、卷十四「をぐさ男《ヲ》と、をぐさすけをと、しをぶねの竝べて見れば、をぐさ可利馬利《カリメリ》(三四五〇)は、恐らく可|知《チ》馬利の方が正しいので、かちめり〔四字傍点〕、即、傾《カタ》めりで、かしぐ〔三字傍点〕・かしぶ〔三字傍点〕などゝ一つの語である。紀にも、傾子〔二字傍点〕と書いて、かたむこ〔四字傍点〕と訓む人名がある。つまりかたむく〔四字傍点〕の原形かたむ〔三字傍点〕(=かちむ)の完了形と見るべきで、助動詞として、めり〔二字傍点〕と放しては、考へられぬのである。
 
        も
 
‐も(補) 感歎語尾。文の末の敍述語について、深い感動を示す。ことよ〔三字傍点〕など譯する。同じ感歎語尾、か〔傍点〕のついた文の末について、かも〔二字傍点〕と言ふ接續をする事もある。か〔傍点〕は體言・副詞語尾であるから、其眞上の敍述語を副詞的過程を與へる爲に、體言化するものと見られるが、此は單に敍述語をと言ふよりは、文章を感動的にする力を持つてゐる、と言ふ事が出來る。卷九「あさ月夜明けまく惜しみ、あしびきの山彦とよめよびたて鳴毛《ナクモ》(一七六一)。卷二「秋山のもみぢを茂み、まどはせる妹を求めむ山路|不知母《シラズモ》(二〇八)。卷一「さゝなみの國つみ神のうらさびて、荒れたる都見れば悲毛《カナシモ》(三三)。卷三「遊ぶ船には※[楫+戈]棹《カヂサヲ》もなくて不樂毛《サブシモ》(二五七)など、動詞にも、形容詞にもつく。反語のや〔傍点〕疑問のか〔傍点〕につくと、やも〔二字傍点〕・かも〔二字傍点〕(368)として、反語なり、疑問なりの心持ちを深くさせる。
 
‐も‐な も〔傍点〕だけでは、感歎の意が固定して深く響かぬと考へられた時には、完成した感歎文に、今一つな〔傍点〕を加へる。卷十四「上(ツ)毛野まぐはしまどに朝日さし、まぎらはし毛奈《モナ》。ありつゝ見れば(三四〇七)。
 
‐も‐よ 職分はもな〔二字傍点〕とほゞ同じい。指定の心持ちが加はると考へるのは、近代的な言語情調か。紀卷十五「置目《オキメ》もよ、近江の置目(一九三)。卷一「籠毛與《コモヨ》みこもち、ふぐし毛與、みふぐしもち(一)。卷十四「あしがりのあきなの山に引《ヒ》こ船の、しりひかし母與《モヨ》、こゝはこがたに(三四三一)。
 
‐も(補) 助動詞、想像のむ〔傍点〕に同じい。音價動搖の爲に、も〔傍点〕ともむ〔傍点〕とも書き記したとも見えるが、或は、も〔傍点〕は前條のも〔傍点〕と分化してむ〔傍点〕と變じ、む〔傍点〕・め〔傍点〕と言ふ活用迄備へる樣になつたものか、いづれとも定められぬ。卷十四「上(ツ)毛野《ケヌ》佐野《サヌ》田の苗のむらなへに、ことは定めつ。今は如何に世母《セモ》(三四一八)。同「諾《ウベ》子等《コナ》は我《ワヌ》に戀ふ奈毛《ナモ》。立《タ》と月《ツク》のぬがなへ行けば、戀《コフ》しかる奈母《ナモ》(三四七六)。卷二「玉かづら花のみ咲きてならざるは、誰が戀|爾有目《ナラモ》。我は戀ひ念ふを(一〇二)。
 
も‐が(補) も〔傍点〕は副詞語尾風の助辭。が〔傍点〕はある状態が實現する樣に、心の中に望みを持つ事を示す。も〔傍点〕助辭を、時には、し〔傍点〕と換へて、しが〔二字傍点〕(しがな・しがも)と言ふ事もある。も〔傍点〕を、さう言ふ風に、でもあつてほしい〔八字右・〕と、譯する事は出來ぬ。卷十四「足《ア》の音《オト》せず行かむ駒|母我《モガ》。葛飾《カツシカ》の眞間の繼橋《ツギハシ》やまず通はむ(三三八七)。卷三「石竹《ナデシコ》のその花に毛我《モガ》。朝にけに手にとり持ちて戀ひぬ日なけむ(四〇八)。
 
‐もが‐な もがも〔三字傍点〕と、ほゞ同じい。
 
‐もが‐も もが〔二字傍点〕に感歎の意を添へたもの。卷二十「津の國の海のなぎさにふなよそひ立《タ》し出《デ》む時に、母《アモ》が面母我母《メモガモ》(四三八三)。卷一「河上のゆつ岩むらに苔むさず常にもがもな〔四字傍点〕常《トコ》處女にて(二二)。此例がもな〔三字傍点〕と考へられ相であるが、常にもがも〔三字傍点〕を續けた組織である。
 
もがり‐の=みや【殯(ノ)宮】 昔の墳墓は、大規模の工事であつたから、人が死んでも暫らく葬らず、假りに其屍を收め置いた處。皇族には、もがりの宮〔五字傍点〕、普通にはもがり〔三字傍点〕。元明天皇以來、之を作らず、此禮を廢した。又、あらきのみや〔六字傍点〕とも言ふ。かりもがり〔五字傍点〕と言ふから、下のがり〔二字傍点〕は、或は古格の後置形容詞で、假喪《カリモ》の意であつたのを、後に忘れて、又、かり〔二字傍点〕を添へたものか。
 
もく【茂】(補) しげく。みつしりと。さかんに』。木の枝葉の繁つた容子。形容詞の副詞法。枝葉|扶※[足+流の旁]《シキモシ》(神代紀)・厥《ソノ》功|茂《モシ》焉(顧宗天皇紀)と言ふ形が見えるから、終止形もあつたのである。尚、連體形とも言ふべき、もき〔二字傍点〕と言ふ形も、後には見える。百木|成《ナス》とも言ふ。卷六「百木盛《モヽキモル》山は木高し(一〇五三)が正しいとすれば、盛《モル》の語根と相通じるものと言ふ事が出來よう。宣命に見える「牟久佐加《ムクサカ》」と言ふ語は、勿論、此語と同じで、さか〔二字傍点〕は榮である。「もくさか〔四字傍点〕りに」など言ふべき處を、古い副詞の形式をとつたのである。卷二「水傳ふいその浦わの石つゝじ木丘《モク》咲く道をまた見てむかも(一八五)。
 
もころ【如】 同樣。如《ゴト》』。體言副詞で、語根形容詞の樣に語根にも語尾にもつく。古くは獨立する事が出來ぬ附屬辭として、如《ゴト》と等しいものであつたのが、本集の末期には、語頭にも上る樣になつたものか。若《モコロ》2※[火+票]火《ホベノ》1(神代紀)とあるに似たものは、東歌にある。卷十四「沖に棲《ス》も小鴨の母己呂《モコロ》八尺鳥《ヤサカドリ》息づく妹をおきて來ぬかも(三五二七)。卷二十「松の木《ケ》の竝《ナ》みたる見れば、家人《イハビト》の我《ワレ》を見送ると立たりし母己呂《モコ口》(四三七五)。尚、東歌にも、卷十四「かなし妹を弓束竝べまき、母許呂乎のことゝし言はゞ、いやかたましに(三四八六)と、獨立詞の扱ひをしてゐる。卷九「きがみたけびて如己男爾〔四字傍点〕負けてはあらじと(一八〇九)の如己男を、もころを〔四字傍点〕と訓ませてゐる。
 
もし【若し】(補) しく活用と同じ活用もしく〔三字傍点〕、及び、語原もし〔二字傍点〕と言ふ形だけがある。但、本集、若の字に、もし〔二字傍点〕・もしく〔三字傍点〕と訓みをつけたのは、皆、けだし〔三字傍点〕・けだしくは〔五字傍点〕と訓じかへる事が出來る。もし〔二字傍点〕は、もしも〔三字傍点〕など言ふ形も考へられてゐる。蓋の字をも、もし〔二字傍点〕と訓むか、若の字をけだし〔三字傍点〕と訓ずるかゞ問題である。
 
もず‐の=くさくき【百舌鳥の草潜き】 普通、俳諧者流の解釋によれば、百舌鳥の自分の餌として、草の莖にさして置く餌食を言ふとしてゐるけれども、其は百舌鳥の速贄《ハヤニヘ》と言ふものである。此は春になると百舌鳥が草の間を出たり這入つたりする樣を、言(370)つたのであらう。
 
もだ【黙】 黙つてゐる事(ア)。ぢつとしてゐる事。徒らにある樣(イ)』。卷三「黙然居而《モダヲリテ》さかしらするは、酒のみてゑひなきするになほ如かずけり(三五〇)は、(ア)にも(イ)にも通じる。卷十七「咲けりとも知らずしあらば黙然將有《モダモアラム》此夜萬夫吉を見せつゝもとな(三九七六)。卷四「旅をよろしと思ひつゝ君はあらむとあそゝにはかつは知れども、しかすがに黙然得不在者《モダモエアラネバ》わがせこが行きのまに/\追はむと(五四三)。此等は(イ)の部類で、幾分なほ〔二字傍点〕・なほあり〔四字傍点〕と通じる樣である。
 
もち【望】 滿月の意から轉じて、十五日を言ふ。卷三「富士の根に降りおける雪は、六月の十五日《モチ》に消ぬればその夜降りけり(三二〇)。もち〔二字傍点〕くだつ清き月夜は、十五日過ぎた月を言ふ。
 
もち=くだつ【望降つ】 十五日すぎの。滿月あとの』。卷八「望くだつ清き月夜に(一五〇八)は、十六夜頃のよい月夜なのであらう。
 
 もち‐つき‐の 枕。たゝはし。たれり。たらはし。望月の圓滿な形から、滿ち足らふ形容に用ゐたのである。たゝはし〔四字傍点〕は、湛ふを形容詞にしたもので、やはり圓滿具足と言ふ意味である。
 
もちとり‐の 枕。かゝらはし。黐にかけてとつた鳥の樣から、拘泥して離れぬ事に言ふ。もちどり〔四字傍点〕とは、即、黐にかゝつた鳥を言ふ。かゝらはし〔五字傍線〕とは、かゝはる・かゝづらふ、などゝ同じく、煩しい意を持つた形容詞である。
 
もと【本幹】(補) 稍、直立する植物のねもと(ア)。みき(イ)』。すゑ〔二字傍点〕の對。卷十七「もとも枝《エ》もおなじときはに(四〇〇六)。卷十四「植ゑ竹のもとさへとよみ出でゝいなば(三四七四)。末の動くは勿論と言ふ事を含めてゐる。もとしげしと言ふ語も(ア)の意である。(イ)は木に言ふ語で、草本には幹と書いても、から〔二字傍点〕と言ふ。木を勘定する語尾も、此意義を使ふのである。
 
 もと‐しげし【本繁し】 もと疎《アラ》しに對する語だから、幹が多い、即、木が澤山ある意ではない。根が岐れてゐる樣である。卷十一「大和の室生《ムロフ》の毛桃|本繋《モトシゲク》いひてしものを。ならずはやまじ(二八三四)。
 
もと‐つ=びと【本つ人】 昔、馴染の人。本から馴れた人。もとの配偶者。故人』。卷十二「つるばみの衣と(371)き洗ひまつち山。もとつ人にはなほ如かずけり(三〇〇九)。ほとゝぎすの鳴き聲は、處によつて樣々に聞く。萬葉人には「もとつひと」と鳴くと聞えたのであらう。卷二十「ほとゝぎす。なほも鳴かなむ。もとつ人かけつゝ〔四字傍点〕もとな、吾をねし哭くも(四四三七)。此もとつ人は、故人の意であらう。それで、ほとゝぎすをさして、本つ人山ほとゝぎす〔九字傍点〕・もとほとゝぎす〔七字傍点〕など言うてゐる。
 
もと‐なし 心もとない。たよりない。思ひ遣りがない』。多く「もとな」だけを獨立させて、副詞として使うてゐる。やるせなくて、どうにもしかたの無い樣な場合の感情を言ふ時に用ゐてゐる。
 
もと‐ほとゝぎす【本霍公鳥】 昔、馴染の霍公鳥。其鳴く聲から、混同聯合して言うたのである。「もとつびと」の條を見よ。
 
もとほる【廻る】 ぐる/\廻る。一處を徘徊する。まつはる』。もとほり〔四字傍点〕と名詞形になつたのは、周圍・ぐるり〔三字傍点〕を言ふ。卷十九「大殿のこのもとほりの雪な踏みそね(四二二七)。
 
も‐とむ【求・※[爪/見]む】(補) つきとめる(ア)。たづねる。さがす(イ)。とむ〔二字傍点〕にも〔傍点〕がついたものか。も〔傍点〕の意訣らぬ。或は目の融合か。卷十七「まつがへり澁《シビ》にて(鷹がである)あれかも、さ山田の翁《ヲヂ》が其日に母等米《モトメ》會はずけむ(四〇一四)。卷十三「直《タヾ》に來ず、此從巨勢路《コユコセヂ》から石《イハ》瀬ふみ、求曾《モトメゾ》わが來る戀ひてすべなみ(三二五七)。(ア)の用語例に屬するもので、心證とするものについて、段々先に辿つて行くこと。卷十三「汝が待つ君は、沖つ浪來よす白玉、邊つ浪のよする白玉|求跡曾《モトムトゾ》君が來まさぬ(三三一八)。直に來ずの長歌であるが、此は(イ)の意の方に入るべきである。
 
もとゆひ【元結】 髪を結ぶ絲。卷二「歎きつゝますらをのこの戀ふれこそ、わがもとゆひの漬《ヒ》ぢて濡れけれ(一一八)。自分の元結の濡れたのを、男子が戀うたしるし〔三字傍点〕とした俗信が見える。
 
も‐なく(補) 恙なく。障りなく。無事に。災難なしに。さしつかへなくて』。旅行に關してゐるばかりでなく、凶事の意にも見られる。喪《モ》なしの意だと言ふが、尚、考へねばならぬ。卷五「たまきはるうちの限りは事もなく平けく安くもあらむ裳無母《モナクモ》あらむを(八九七)。卷十五「わたつみの畏き道を、やすけく(372)もなくなやみ來て、今だにも毛奈久《モナク》行かむと(三六九四)。同「旅にても母奈久《モナク》早來と、我妹子が結びし紐はなれにけるかも(三七一七)。
 
‐もの‐か ものよ。ことよ』。もの〔二字傍点〕は獨立しても感歎の意を表す。其に又、感歎語尾がついたのである。
 
も‐の=すそ【裳の裾】 裳は、腰より下に、着物の上に著けるもので、上裳と譯すべきである。其裾である。主として、女子に言ふけれども、男子に言ふ事もある。卷十一「はしきやしあはぬ子ゆゑに、徒に、この川の瀬に裳の裾ぬれぬ(二四二九)の如きがそれだ。玉裳の裾・赤裳の裾の如きは、女子のである。
 
ものゝ‐べ=うぢ【物部氏】 姓連。大春日朝臣と同祖で、孝昭天皇の皇子|天帶彦《アマタラシ》國押入命の後|米餅搗大使主《タガネツキオホオミノ》命の後。大和國山邊郡石上の布留社に仕へ奉るによつて、名を負うた氏の名である。
 
もの‐もふ【物思ふ】 物を思ふ〔四字傍点〕の融合。心配事をする。物案じをする。
 
もの‐ゆゑ【物故】 であるそれに。だのにも係らず』。ものから〔四字傍点〕と同じく、故〔傍点〕の意は、必しも原因を示すばかりでなく、其をうちかへして、であるのに、其爲にと言ふ風に反對に言ふ方面もある。ゆゑ・から・ものゆゑ・ものからは、故〔傍点〕の正面の意を用ゐる事は出來ぬ。
 
もはき‐づ【裳羽服津】 常陸國筑波郡。筑波山の中の地名だらうが、判然しない。
 
もふ【思ふ】 「おもふ」に同じ。母音脱落と言ふより、上の音に融合すると見るべきであらう。
 
もみだ・ふ 動詞もみづ〔三字傍点〕が、は行に再活用したもの。卷十五「百船の泊つる對馬のあさぢ山。時雨の雨にもみだひにけり(三六九七)。
 
もみぢ‐ば‐の 枕。すぐ。すぐ〔二字傍点〕は盡き、又は、枯死などの意である。紅葉など植物に言ふ場合は、散る事になるが、人の上には死ぬる事であるから、すぎていぬ・すぎにし君・すぎかてぬるを、などゝかけるのである。
 
もみ‐づ 黄葉をする。葉の色がそまる』。此語は、上二段活用と、四段活用との兩語がある。意味は同じい。四段活用のは、卷八「わが宿の萩の下葉は秋風もいまだ吹かねばかくぞもみでる(一六二八)の例がある。上二段活用のが、普通である。
 
(373)もむ‐にれ【樅楡】 楡の葉を粉にして、食用に供したものである。宮中でも用ゐられたものと見えて、延喜内膳式に見えてゐる。乞食者の詠に、樅楡を日に干して、蟹と一處に碓について、食用とするよしの歌が見えてゐる。
 
もゝ‐しき‐の もゝしき〔四字傍点〕とは、百の石城と言ふ意味で、大宮の形容に用ゐて居る。後世になると、もゝしき〔四字傍点〕とだけ言うて、直に大宮の意味ともなつた。
 
もゝしぬ‐の 枕。みぬ。もゝしぬ〔四字傍点〕は百小竹で、百〔傍点〕は數の極めて多い事。しぬ〔二字傍点〕は小竹、或は柔軟な竹草の類をも言ふ。其しぬ〔二字傍点〕で蓑を作る處からみぬ〔二字傍点〕に言ひかけたのである。
 
もゝしね 枕。みぬの國。ね〔傍点〕もぬ〔傍点〕も同じ事である。茲に更めて説明するにも及ばぬ。
 
もゝ‐たらず【百不足】 枕。やそ。やまだ。い。いか(筏・齋槻《イツキ》)。もゝたら〔四字傍点〕ずは、百に足らぬとの意味から、八十《ヤソ》、或は五十《イ》につゞけ、又、や〔傍点〕・い〔傍点〕に移して續けるのである。山田の道〔四字傍点〕・齋槻が枝〔四字傍点〕など接するのは、此爲である。此詞の組織は、「丈《ツエ》足らず八十」と同じである。
 
もゝ‐つたふ 枕。い(いはれ)。やそ。もゝ〔二字傍点〕は百。つたふ〔三字傍点〕は、近接する意の古語であらう。「天づたふ日」なども同樣である。傳ふではない。もゝたらずと異趣同巧である。磐余《イハレ》にかけるのは、五十《イ》とつゞけたのである。
 
もゝよ【百代】 長い間。よ〔傍点〕は齢。もゝ〔二字傍点〕は多數。長壽《ナガイキ》。卷二十「父母の殿のしりへのもゝよ草、もゝよいでませ。わが來到《キタ》る迄(四三二六)。
 
もゝ‐よ【百夜】 澤山の夜。幾晩も/\』。卷四「秋の夜のもゝよの長くありこせぬかも(五四六)。
 
もゝよ‐くさ【もゝよ草】 今知れぬ。菊を百代草《モヽヨグサ》と言ふのは、後世風である。其名よりして、百代〔二字傍点〕を起してゐる。
 
もゆ【燃ゆ】(補) 盛んにいきり立つ。いら/\と煩悶する。焦慮する』。火の樣から譬へ言ふ。卷十二「心には燎而《モエテ》思へど(二九三二)。
 
もり【杜】(補) 神のある處。神の下る場處』。杜の字は社〔傍点〕の字を當時からも書いたのである。神のいます家を社と書くのに對して、單に神の在處を示す處に、木偏の字を用ゐたかとも思はれる。むれ〔二字傍点〕・つむれ〔三字傍点〕な(374)どゝ同じく山〔傍点〕の意で、朝鮮語では、今ももい〔二字右・〕と言うてある。此がもり〔二字傍点〕の子音脱略なる事は、彼國の音韻轉訛例によつて知れる。今日、我が國西部の山々に森《モリ》・丸《マル》など言ふものゝ多いのは、皆、山の意である。山は天に近く、神のあもりつく地であるから、もり〔二字傍点〕が神の在處の意に用ゐられたのである。神(ノ)山・神(ノ)丘のつもりであつて、今日の樣に木が茂つてゐれば森と言ふのとは違ふ。而して今日、尚、言語情調を外にして、森・林の區別の知れないのも、此意義を忘れたからなのである。さうした山には木立があり、木立ある處には神が宿ると言ふので、今日の杜〔傍点〕の用語例が定まつたのであらう。本集の杜〔傍点〕には、神の在處と言ふ意を外にした森はない。
 
もり‐べ【守り部】 又、守り戸。山丘・原野、又は陵墓の番人』。其皇室の陵墓に關係あるものをば、陵戸と書くが、訓みはやはり、もりべ〔三字傍点〕であらう。多く木草の濫伐を防ぐ爲の者で、此役を常置駐屯させる事を、もりべを=すう(据)と言ふ。又、山守り、野守りなどゝも言ふ。道守りと言ふのも、守り部の一つである。守り部の部曲民は、賤民であつたらしく、本集に見える、橘の守り部の里の門田早稻など言ふのは、守戸の賤民部落であらう。
 
もりべ‐の=おほきみ【守部(ノ)王】 舍人親王の御子。聖武天皇の天平十二年正月、無位から從四位下に敍せられ、次で其年の十一月從四位上に進んで居る。其王子、笠王・何鹿王・猪名王は、寶龜二年九月山邊眞人の姓を賜つた。
 
もろ‐ち【諸茅】 地名か。絹織り物を多く出す村で、販《ヒサ》ぎ婦《メ》などが多く行商して、人を欺して歩いたものと思はれる。今日では、此語の意味は、徹底して知られぬ。
 
     や
 
やかた‐を【矢形尾】 鷹の尻羽の斑によつて言ふ名。やかた〔三字傍点〕と言ふ語は、意味が知れぬが、卷十六「染めやかた葱《キ》染めのやかた神の門わたる(三八八八)など言ふのも、同類の語で、信仰に關係のある語らしく思はれる。
 
やかみ‐の=うねめ【八上(ノ)采女】 光仁天皇の御子安貴(375)王の情人で、因幡國八上郡の采女である。安貴王に熱愛されたので、どう言ふ關係か、勅命で不敬罪に問はれて、本國にかへされた。
 
やかみ‐やま【屋上山】 石見國邇摩郡淺利村、八神の丘陵。
 
やき‐たち=の 枕。とごゝろ。へつかふ。大刀は、燒いて鍛へるからして、燒き大刀と言つたのである。其刀の鋭さを、人の心の鋭《ト》きに言ひかけたのである。又、へつかふ〔四字傍点〕は、隔て、且、著くこと。不即不離の状にあるのを言ふ。大刀は、鞘を隔てゝ身につくものだから、へつかふ〔四字傍点〕につゞけたのである。
 
やき‐たち=を 枕。となみ。燒き大刀よと提示して、と〔傍点〕(鋭)を聯想せしめるのである。
 
やきづ【燒津】 駿河國益津郡。日本武尊が草薙剱を振つて、向へ火を放つた地である。
 
やくも‐さす 枕。いづも。いづも〔三字傍点〕は出づる雲と言ふ語であるから、それに八雲さす〔四字傍点〕と言ふ詞を冠らせたのである。八〔傍点〕は數の多い事を言ふ語。さす〔二字傍点〕は、例の有名な記上卷「夜久毛多都、伊豆毛夜弊賀岐都麻碁微爾(一)の歌の多都〔二字傍点〕と同じい意味である。賀茂眞淵は、立ちのぼる〔五字傍点〕をさしのぼる〔五字傍点〕と言ふのでも、此間の消息は能く訣るではないかと言つて居る。因に、古事記には「夜都米佐須伊豆毛《ヤツメサスイヅモ》」ともつゞけてある歌がある。
 
やけ【宅・家】(補) 大きな家の事であらう。屯倉《ミヤケ》・家持・公(大宅)など皆、此語から出たもので、やかた〔三字傍点〕(館)と言ふ語も、屋形でなく、やか〔二字傍点〕にやけ〔二字傍点〕の形容詞的屈折を含んでゐるのであらう。
 
やさか‐の‐なげき【八尺の歎息】 大きな溜め息。歎息の大きさは、別に、よい現し方もないので、吐き出す息の白々と見える處から、其長さを以て歎息の深さを示すのである。大息|吐息《トイキ》と言ふ處を、尺量で現した處は、素朴であるが、男らしく強い、古人の才覺が見える。「なげく」を見よ。
 
やさ‐し【恥し】 氣はづかしい。他に対してひけ目を感じる』。卷五「世の中をうしとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(八九三)。痩す〔二字傍点〕を語根とした形容詞で、身窄《ミスボラ》しいなど言ふと同じ過程を經て出來た語かと考へる。
 
や‐しほ【八漿】 手のこんだ染め方。濃染めの色あひ(376)(ア)。手のこんだ容子を表す體言(イ)』。しほ〔二字傍点〕は染め漿《シル》である。染物は、幾度も、染めて干し、干しては染めする程、色が深くなるのである。八の字を宛てるのも、此爲である。八しほと言ふと、あまた度染汁に浸された事になるので、色の濃い事に言ふ。八しほの紅葉〔六字傍点〕など言ふのも、たゞ染め色の濃い事をあらはすのだ。八鹽折り〔四字傍点〕など、酒にも言ふのは、普通、折り〔二字傍点〕を釀の意に説いて、八鹽〔二字傍点〕を(イ)の用語例としてゐるが、實は、(ア)の意で、折り〔二字傍点〕は今言ふ液體のをり〔二字傍点〕(滓)で、動詞としては、飽和する意なので、漉した酒漿《シル》を飽和させる爲、幾度も/\漉す事で、やしほをりのさけ〔八字傍点〕が、美酒と言ふ事になるのである。
 
やしろ‐の=ひめ‐おほきみ【八代(ノ)女王】 聖武天皇の天平九年二月正五位下に敍せられたが、淳仁天皇の天平寶字二年十二月、先帝に倖をうけてゐて、志を改めたと言ふので、從四位下の位記を奪はれて居る。或は橘(ノ)奈良麻呂等に黨したのではあるまいか。先帝と言ふのは、孝謙天皇の樣に見えるけれど、聖武天皇でなくては、倖せられたと言ふ事が通じぬ。
 
やすけ‐なく=に(補) 「けなくに」參照。
 
やす‐ぬ【夜須野】 筑前國朝倉郡。元、夜須郡安川(小石原川)の流域にあつた野。上古には層増岐《ソヽキ》野と言うたのを、神功皇后が獵幸を獲て、我心則安と言はれたので、安《ヤス》と言うた(紀)と傳へてゐる。
 
やす‐の=かは【安(ノ)川】 近江國野洲郡の野洲川。鈴鹿山中から出て、近江國の一番高い部分を横斷する長流である。後期王朝の野洲驛・野洲郷は、守山邊の地と思はれるから、川の名も此邊から下流に言うたものであらう。
 
 やす‐の=わたり【野洲(ノ)渡り】 前條の河の渡り場であらう。又、湖水を渡る船の泊り場處とも思はれぬではない。
 
やすみこ【安見兒】 藤原鎌足の情人で、美人の譽高かつた采女であらう。但、或は全く戀愛的の交渉などなく、宴席の即興に、侍してゐた采女を捉へて、たはむれに情人の樣に言ひかけて見たのかも知れぬ。
 
やす‐み=し・ゝ【安見爲々】(新補) 枕。元は、枕詞と言ふべきものでない。大君と言うても、皇族、皆に當る事になる爲に、天子である事を特に斥す爲に、(377)專らつける事になつて、枕詞となつたのである。此語を、どこでも、やすみしゝと訓む事にしたのは、仙覺からである。「安」は古人の好んだ讃美の修飾語で、語根形容詞である。平安・無事の意。「見」は治める意のみ〔傍点〕である。しゝ〔二字傍点〕は、せす〔二字傍点〕で、下のし〔傍点〕は、本居宣長の言ふ樣に、す〔傍点〕が枕詞になる時の機械化と見るのがよい。けれども、御立爲之〔四字傍点〕・伊縁立之〔四字傍点〕を同類と見れば、固定した枕詞の形と見ずに、唯の音轉と説くべきのかも知れぬ。但、上のし〔傍点〕は唯の爲《ス》で、下のし〔傍点〕は敬語である。此點、宣長説は逆になつて居るが、間違ひである。荷田春滿は漠然と乍ら、下のし〔傍点〕を敬語として居るのは、よい。上のし〔傍点〕は安見と言ふ體言を動す爲《スル》動詞で、安〔傍点〕・見〔傍点〕に敬意はあつても、安見すと言ふす〔傍点〕には敬意がない。若し此み〔傍点〕を體言と見ずに、將然形風の意味のものとすれば、し〔傍点〕・し〔傍点〕兩つ乍ら、敬語となつて、唯のせす〔二字傍点〕・さす〔二字傍点〕と同じものになるのである。此方にしても、宣長の下を唯の動詞とするには、はまらぬのである。此に似た例には、卷一「夕《ユフベ》には伊縁立之《イヨシタヽシ》(三)。卷二「御立爲之《ミタヽシヽ》島のありそを(一八一)がある。立てさす(たゝしゝ)・立たせす(みたゝしゝ)(其條參照)の古い形である。同じ例を、前の方針で見ると、いよしたち(<たて)しゝ・みたちしゝと訓むのである。ともかくも、鹿持雅澄の知らし〔三字傍点〕が餘《アマ》す・渡《ワタ》すと同じ理で、しゝ〔二字傍点〕となつたのだとする考へ、木村正辭翁の安見し知る(日竝|知《シ》・日御|宇《シ》のし〔傍点〕から出て)だと言ふ考へ、契沖の八州しらし〔三字傍点〕だとする考へ、仙覺の下のし〔傍点〕を單なる助辭と説く考へは、皆わるい。やすみ〔三字傍点〕を八州と書いた處の多い處から、八州、即、八方とする契沖説・やすみ〔三字傍点〕<やしま〔三字傍点〕(八洲)だとする仙覺説・雅澄の、形容詞語に安みと言ふ副詞形とした説は、皆よくない。但、雅澄の説は、一顧の價値がある。即、此考へからすれば、安んじ給ふ意となるのなら、とれるが、「安み知らす」と理に落ちた解説は、甚、わるい。
 
やそ‐うぢ‐がは【八十宇治川】 八十〔二字傍点〕は序。八十氏、即、澤山の氏とかけて言ふので、同音聯想である。やそうぢがは、と川をよんだのではない。
 
や‐そ=か【八十※[楫+戈】〕 澤山の※[楫+戈]』。か〔傍点〕は※[楫+戈]の修約。大舟には※[楫+戈]を多くつけてあるので、八十※[楫+戈]かく〔五字傍点〕とも、八十※[楫+戈]ぬく〔五字傍点〕とも言ふ。
 
(378)やそ=とも‐の‐を【八十伴(ノ)緒】 澤山の部屬者。「とものを」見よ。
 
やそ‐の=ちまた【八十の衢】 澤山に岐路の岐れた衢(ア)。占ひの一つの方法。辻占の一種で、八十の衢に立つて問ふものか(イ)。これは、或は、鹿の肩骨のまち〔二字傍点〕形から言うた名か。
 
やたぬ【矢田野】 大和國生駒郡。古くは添下郡(和名抄)矢田村邊の高地の野。矢田(ノ)池・矢田神社・矢田寺などは、當時、在つた地名である。
 
やち‐ほこ‐の=かみ【八千矛(ノ)神】 大國主神の異名。武器を多く所藏した神の意か。即、武力を備へた神人と言ふ意味と普通は説くが、或はあまたの祭柱《ホコ》を連ねて、よびよせ祀り奉る神と言ふ意かも知れぬ。
 
や‐つ=こ【奴婢】 家つ子の義。家つきの奴隷である。昔は、世襲奴隷制度であつたから、豪族の家には、皆、家についた男女の賤民があつたのである。本集時代には、既に、用語例が擴つて、賤民をすべて言ふ樣になつてゐる。
 
やつ‐よ【八(ツ)代】 永い時間をよ〔傍点〕と言ふ。其時數を多く重ねる事。限りのない長い時間の心に用ゐる。彌つ代だと言ふが、八つ〔二字傍点〕を極數と見て、八つ代と説いてもよい。
 
やつり【八釣】 同じ高市郡の中に、二个處ある。一つは、今の飛鳥と奥山との間を、東に這入つた、現在の八釣(やとり)。今一つは、高殿村香具山近くにある下八釣。此二个處が、飛鳥朝と藤原朝とによつて位置を異にしたので、今、大原の藤原が、藤井个原の名となつて、藤原(ノ)宮となつた樣な事情は、奈良の飛鳥〔五字傍点〕の條を、參照して知られたい。
 
やつ‐を【八(ツ)峯】 多くの峰。方々の峰。卷十九「あしびきの八(ツ)峰の雉なきとよむ朝開の霞見ればかなしも(四一四九)。
 
や‐ど【宿】(補) すまひ。やしき』。本集のやど〔二字傍点〕は、すこし用語例がかはつてゐる。單にすまひ〔三字傍点〕とばかりでは足らぬ使ひ方が多い。其で口譯萬葉集には、多くやしき〔三字傍点〕、又は、やしきうち〔五字傍点〕と飜しておいた。單に家の建て物ばかりを斥すのでなくて、屋敷中にある庭・園などを籠めて言うたものらしい。屋處、即、ある家の境域内の地は、すべてやど〔二字傍点〕である。
 
や‐ど【家門】(補) 又、やのと〔三字傍点〕。いへに入る戸。建物の(379)戸。門』。前條のやど〔二字傍点〕とは別である。卷四「夕さらばやどあけまけてわれ待たむ(七四四)の、やど〔二字傍点〕は、宿でなく、此やどである。
 
やぬ【矢野】 矢野は國々にあるが、大和國磯城郡の東方のであらう。矢野の神山は、神の坐す山の義。矢野の神山と言ふべきもので、最名高いのは、出雲國神門郡八野郷の八野神社(式)で、大汝命の妾八野若日女(ノ)命を祀つた。
 
やはきべ‐の=まなが【矢作部(ノ)眞長】 下總國結城郡の人。天平勝寶七年に筑紫へ遣された防人。
 
やは‐す【和す】 歸服せしめる。心から服させる』。卷二「人をやはせとまつろはぬ(一九九)。
 
やぶなみ‐の=さと【藪波(ノ)里】 越中國礪波郡。小矢部川の岸にある藪波村の地。荊波《ヤブナミ》神社(式)のあつた地であらう。
 
やへ‐たゝみ【八重疊】 幾重にも積んた疊。古代は疊を重ねて、高い座を作つて、貴人をも、神をも招いたものと思はれる。すべて疊と言ふ語は、信仰に關係があるので、「わがたゝみ」「やへたゝみ」「たゝみこも」など言うても、常人常用の座敷疊と考へてはならぬ。或はへ〔傍点〕は編《フ》と同じく八編《ヤフ》の意かとも思ふが、三重の疊〔四字傍点〕の場合は、あまりに狹すぎるから、やはり重《ヘ》であらう。
 
 やへ‐たゝみ 枕。へ。疊から重《ヘ》を聯想したので、卷九「わがたゝみ三重の川原(一七三五)、卷十六「こもだゝみ平群《ヘグリ》の山(三八四三)、などゝ同じ成立で、同「やへたゝみ平群ノ山に(三八八五)。
 
やべ‐の=さか【屋部(ノ)坂】 大和國磯城郡。元、十市郡|多《オホ》村矢部の地にある故か。桓武天皇登詐の兆だと言はれた童謠《ワザウタ》の「おほみやに直《タヾ》に向へる野倍《ヤベ》の坂」も、此坂にかけて言うたものか。
 
やへ‐むぐら【八重葎】 歌に用ゐてゐるのは、盛んに生ひ茂つた葎と言ふ意味である。併、又、特に八重葎と呼んでゐる草もある。荒野や人家の庭前などにも生じて、莖は細く長くのび、葉と共に毛がある。其葉は、あかね〔三字傍点〕に似て小さく、七八葉、車輪の樣に一處に著いて、八九層をなしてゐる。
 
やま【山齋】 庭園。庭の樹木のこんもりとしてゐる樣を、山とも言ひ、池があり、山がある場合には、島とも言つたのである。「しま」を見よ。
 
(380)やま=かた‐つく【山傍付く】 山に傍ふ。山にくつゝく』。かたつく〔四字傍点〕は傾き接近してゐる状である。山を修飾にしたので、山にくつゝく意になる。卷十「雪をおきて梅をな戀ひそ。あしびきの山片就而〔四字傍点〕家居爲流君《イホラセルキミ》(一八四二)。
 
やま‐かづら【山※[草冠/縵]】 ※[草冠/縵]の原始的な物は、此山※[草冠/縵]であつたと思はれる。其が、種々の草木の蔓竝びに花などを使ふ樣になつたのであらう。山に出來るひかげのかづら〔七字傍点〕(さるのをがせ)でこさへた※[草冠/縵]の意である。山の草や木でこさへれば、何でも山※[草冠/縵]だ、と言ふ訣ではなかつたらしい。古今集卷二十「卷向の穴師の山の山人と人も見るがに、山※[草冠/縵]せよ(一〇七六)と言ふのは、神樂歌にも用ゐられた古い歌である。山人が常住でなくとも、必、山※[草冠/縵]を額に纏《マ》く時があつたらしい。天平勝寶五年の山村行幸に、卷二十「あしびきの山行きしかば、山人の、我にえしめし山づとぞ。これ(四二九三)と言ふのも、山※[草冠/縵]であつたものか。俳諧流の和學者は曙雲の樣に解いてゐるが、愚説である。
 
 やま‐かづら‐かげ【山※[草冠/縵]蔓】 山※[草冠/縵]にするひかげの蔓《カヅラ》。
 
やま‐ぎり‐の 枕。いぶせし。わが胸の中の結ぼれて、氣の塞つて居るのを、山霧に塞つた容子に譬へたので、同類の枕詞に、卷四「朝霧のおほに〔三字傍点〕(五九九)とかゝるのもある。
 
やまくち‐の=ひめおほきみ【山口(ノ)女王】 傳知れぬ。大伴家持に、思ひを寄せた歌五首を賜うて居る。
 
やまぐち‐の=わかまろ【山口(ノ)若麻呂】 聖武天皇朝の人。大伴旅人が大宰(ノ)帥として、九州に居た時、大宰少典であつた。
 
やま=こえ‐て 枕。とほ。山を越えて行けば、路は國境を出るから道の遠きを感じる爲に、とほ〔二字傍点〕とかけたとするが、或は、鳥の山飛びこえる樣に聯想して、とぶ〔二字傍点〕ともぢつたものか。卷七「山越而遠津之濱の石つゝじわが來たる迄ふゝみてあり待て(一一八八)。枕詞・序歌の類と見ずに、第四句の上にうつして見ると言ふ説(萬葉集古義)は、如何。
 
やまさき‐の=おほきみ【山前(ノ)王】 或はやまくま〔四字傍点〕か。天武天皇の皇子忍壁皇子の御子。茅原王の御父である。文武天皇慶雲二年十二月從四位下に敍し、元正天皇養老七年十二月二十日散位でなくなられた。刑(381)部卿になられた事はあるが、何時だか訣らない。曾て宴に侍して、「至徳洽2乾坤1、清化朗2嘉辰1、四海既無爲、九域正清淳、元首壽2千歳1、股肱頌2三春1、優々沐v恩者、誰不v仰2芳塵1(懷風藻)と歌つた。
 
やま‐さくら【山櫻】 自生の櫻と考へるのは、普通であるが、「木辛夷。山左久良(字鏡)とあるから、或は辛夷《コブシ》かも知れぬ。其とすれば、櫻戸と言はずに、山櫻戸と言うた訣も知れるのである。
 
 やまさくら=と【山櫻戸】 山櫻の材で作つた戸。卷十一「あしびきの山櫻戸をあけおきて(二六一七)。山家の櫻戸と言ふ風の言語情調によつて、後期王朝迄も好んで用ゐられてゐる。
 
やま‐さは‐びと【山澤人】 山の澤に棲んでゐる人。先住民の遺種なる山人〔二字傍点〕が、當時、大和平原をとりまく山にも住んでゐたのは、事實である。山間の澤邊などで、大和人がよく見かけたり、又、其邊から獲物を交易に來た爲に、山澤人と言ふ語も出來たのであらう。
 
 やまさはびと‐の 枕。ひとさはに。同音聯想。
 
やましな【山科】 山城國宇治郡。郡中宇治川沿岸の地を除けば、大部分、此地名に總括せられる。古くは、田原(ノ)路によつて瀬田の方へ出るか、宇治から山科地方を通つて、今の逢坂の追分の方に出るかであつた。田原(ノ)路は、近江朝には盛んであつたが、本集の中心の時期には專ら此道になつたのである。山階寺(興福寺の元)の古くあつた地で、日《ヒ》(ノ)岡《ヲカ》邊が眞中であらう。伏見の木幡を山科の強田《コハタ》(本集)と言うたのから見ても、廣い地域であつた事が知れる。
 
 やましな‐の=かゞみ‐の=やま【山科(ノ)鏡(ノ)山】 天智天皇の陵の在る處。御陵の小名の地。卷二「みはかつかふる、やましなに(一五五)。
 
やましろ‐の=おほきみ【山背(ノ)王】 佐保大臣長屋(ノ)王の御子。聖武天皇の天平元年二月、父が自盡の時、膳部(ノ)王・桑田(ノ)王・葛木(ノ)王・鉤取(ノ)王等、皆、自殺されたが、母が不比等の娘であつた爲、安宿(ノ)王・黄文(ノ)王と共に殘り、十二年十一月從四位下に敍し、十八年九月右大舍人頭となり、天平勝寶年中出雲守に遷り、八年十二月勅によつて大安寺に梵網經を講じ、天平寶字元年五月從四位上となり、六月但馬守に任ぜられ、七月兄の安宿王・黄文王・奈良麿等の(382)陰謀を密告して、從三位を授けられ、藤原姓を賜ひ、名を弟貞《オトサダ》と言うた。淳仁天皇天平寶字四年正月には、坤官大弼となり、元通り但馬守を兼ね、六年十二月參議に進み、翌年十月十七日參議・禮部卿として薨じた。
 
やま‐すげ【麥門冬】 やぶらん。高さ一尺餘に延びる。陰地に多く瑠璃の玉のやうな實を結ぶが、稀に出來る。葉は茂つて亂れ易いものだと言ふ。卷三「奥山の菅の葉(二九九)、同「奥山の磐本管(三九七)など言ふのは、普通の菅でなく、やますげである。實は藥用に用ゐた事もある樣である。
 
 やますげ‐の 枕。み。そがひ。麥門冬の實を珍重した處から、み〔傍点〕を起したらしい。みならぬ〔四字傍点〕・みだれ〔三字傍点〕など、實が稀だからとか、葉の亂れ易い爲だとか説くのは、よくあるまい。そがひ〔三字傍点〕は同音聯想。
 
やまだ【山田】 地名。大和國磯城郡。元、十市郡の内。阿部に接した山田の地であらう。山田の道は、日本靈異記にも見えてゐる道筋で、此處は蘇我(ノ)倉山田(ノ)石川麻呂の本據であつた上に、山田寺も名高かつた。高市平原の道の外に、香具山の後を通つて、磯城の方に通ずる道であつたのである。
 
やま‐たちばな【山橘】 藪柑子《ヤブカウジ》だとも言ふし、橘の一種だとも言ふ。普通の野生の橘で、實の小さな柑子の類と見るべきであらう。或は舶來の橘に對して、此頃、山中などに存してゐた一種土着の柑橘類であつたかも知れぬ。貝原益軒は平地木・小青樹・通仙木などを宛てゝゐるが、如何。早春の山に實つてゐたものと思はれる。卷十九「この雪の消《ケ》殘る時にいざ行かな。山橘の實の光毛《テリモ》見む(四二二六)。卷二十「消のこりの雪にあへ照るあしびきの夜摩多知波奈をつとにつみ來《コ》な(四四七一)。
 
やま‐たづ 造木《ミヤツコギ》、即、今の接骨木《ニハトコ》。對生葉の灌木である。たづ〔二字傍点〕と言ふ名は、今も阿波國の山間部の方言に殘つて居るさうである。古事記に、此《コヽ》に山|多豆《タヅ》といへるは、是、今の造木《ミヤツコギ》といふ者なり、とあるのを、本居宣長の造v木者と讀んで※[金+斤]《テヲノ》だとする説(記傳)はよくない。尤、※[金+番]をたづき〔三字傍点〕と言うた事もあるが、此場合は讀み違へである。やまたづ〔四字傍点〕を木とする考への率先者は、加納諸平であらう。
 
 やまたづ‐の 枕。むかへ。接骨木の芽の、對生して(383)出るのが、殊に著しく注意を惹いた爲に、むかふ〔三字傍点〕にかゝつたもので、斧は刃を此方に向けて使ふからだと言ふ(記傳)説は、よくない。卷二「君が行きけ長くなりぬ山多豆の迎へを行かむ(九〇)。
 
やまだ‐のきみまろ【山田(ノ)君麻呂】 姓史。聖武天皇の天平二十年に大伴家持が越中守となつて越中國に居た時、家持の下で、鷹飼をして居た。
 
やまだ‐の‐ひぢまろ【山田(ノ)土麻呂】 傳知れぬ。但、孝謙天皇朝の人で、天平勝寶五年五月、藤原(ノ)仲麻呂の家に天子行幸の際、謠ふべき歌詞を問はれた時、少納言大伴家持の爲に、聖武天皇・舍人親王の贈答の歌を教へたこと(卷二十)がある。山田史の一族として、故実を知つた人だつたのであらう。
 
やまだ‐の‐み‐おも【山田(ノ)御母】 姓史。後に宿禰。山田(ノ)日女島《ヒメシマ》(又比賣島)で、孝謙天皇の乳母《オモ》であつたから、御母《ミオモ》と言つたのだと言ふ。天平勝寶元年七月孝謙天皇の即位と共に、すぐ從五位下に敍せられ、七年正月に其娘など七人に、山田(ノ)御井《ミヰ》(ノ)宿禰の姓を賜うた。日女島の死後、天平寶字元年、一族が橘奈良麻呂等に與した爲に、死後、其御母の名までも除かれ、宿禰の姓をも奪はれて、舊の山田(ノ)史に復した(續紀)。天平勝寶六年三月二十五日に、左大臣摘(ノ)諸兄が其家で宴して、大伴家持も陪したよし、本集に見えてある。此時の御母の稱は、追記と見られる。
 
やま‐ぢさ【山萵苣】 ちさのき』。卷七「いきのをに思へるわれを。山治左《ヤマチサ》の花にか、君がうつろひぬらむ(一三六〇)。
 
やま‐つと【山裹】 山からのみやげ。山の産物の包み物』。卷二十「あしひきの山行きしかば、山人のわれにさづけし山裹《ヤマツト》ぞこれ(四二九三)。
 
やま‐つみ【山祇】 山の神。つみ〔二字傍点〕はすべて地に屬する精靈を言ふ樣である。卷一に「やまつみの奉る御調と(三八)と見えてゐるのは、吉野山の山神である。
 
やまと【大和】 日本國の義に用ゐたのと、大和一國の意に用ゐたのと、山邊郡倭の地を斥したのとある。總名に用ゐたのも、古くは帝都のある國を中心として、其四邊をおほよそに指すのであるが、奈良中期になつては、外國に對して、日本國と言ふ觀念が明(384)らかになつて來てゐる。大和一國を指すのも、どこからどこまでと言ふ樣な明瞭な考へは這入つてゐない。やはり帝都のある國と言ふ心の方が、主になつてゐる。卷一「大和には鳴きつゝ行くかよぶ子鳥(七〇)。卷十四「わがせこを大和へやりて(三三六三)。卷十四「大和女の膝まくごとに(三四五七)などは、明らかに此傾向が見えてゐる。卷一「大和の青香具山(五二)などの用例は、磯城郡が、山邊郡に近い處から言うたものか。又は御膝元と言ふ樣な意味を持つてゐるか。卷十三「大和のつげのをぐし(三二九五)など言ふのは、倭の闘鶏《ツゲ》をつげ〔二字傍点〕にかけたので、山邊郡の倭である。思ふに奈良の未迄は、やまと〔三字傍点〕と言ふ語は、樣々の聯想を喚んだものと見える。
 
やまと‐ごと【大和琴】 東琴《アヅマゴト》と同じい。六絃琴。神樂や雅樂に用ゐる。日本古代よりの樂器で、六弓を竝べて弾いたのに起つたと言はれてゐる。わごん〔三字傍点〕とも言ふ。
 
やまと=さんざん【大和三山】 大和國の中央平野に、對立的に存在して、目につき易い三つの山。高市郡の畝傍《ウネビ》山、十市《トヲチ》郡の耳無《ミヽナシ》山、磯城《シキ》郡の香具山が其である。皆、粗廿町ほどづゝを隔てゝゐる。山の形も、長い年月の間に變化はあつたであらうが、又、一面、此等の山は、今も神靈の所在と崇められてゐる理由から、存外、變化してゐないかも知れぬ。耳無山は最形よく、笠を伏せた樣、畝傍山は二子山風の雄偉な形で一番高い。香具山は山容もよほど劣つてゐるが、更に少しの平野を隔てゝ後に、多武峯を負うてゐる。三山中、形容に變容があつたとすれば、此山が一番ひどかつたのであらう。此外、見渡す限り、南の甘橿《アマカシ》・神奈備・東北の三輪山を除いては、目につく山のない平野の山。而も藤原(ノ)都の三方に立つてゐた處から、とりわけ注意を惹いたものであらう。山の性について、畝傍山を男性、耳無山・香具山を女性とする説が、やはりよい。畝傍山を女性とするのは、「うねびを愛《ヲ》し」と訓む處から來るのだが、を愛し〔三字傍点〕は音律の流動に無理がある。畝傍山の陰《ホト》と言はれた地を以て證とするのも、成立せない。陰《ホト》は古く男女に亙つて言うた語で、男子の陰部の名にも、大富登《オホホト》(ノ)命・袁富登《ヲホト》(ノ)命など言ふのはある。最女(385)權時代が假にあつたとすれば、雄健な畝傍山を女性と見る事もあるべきであるが、有史以後には、男性的なる畝傍山を女性と見て、不思議とせぬ民譚時代はなかつた筈である。三山を望むのは、八木の町を南に出外れて、飛鳥へ向ふ飛鳥川の堤防の上、飛騨部落の邊が、最優れてゐる。今は三山民譚が忘れられて、耳無・畝傍兩山の間に、巨人民譚が行はれる樣になつてをり、香具山は夙に忘れられてゐる。
 
やまと‐しま【大和島】 島は、必しも今日言ふ樣なものでなく、本集時代には、尚、古代の用例に從うて、國、又は一地方の意にも用ゐてゐた樣である。大和島は、即、大和の國である。大和島根と言ふのも同じい。
 
やまと‐の=おほ‐きさき【倭(ノ)皇后】 天智天皇の皇后。天皇の庶兄古人大兄皇子の女倭(ノ)媛王で、天智天皇の七年立つて、皇后となられた。
 
やまと‐の=おほくに=み‐たま【倭(ノ)大國御魂】 大和國山邊都倭に鎭座の大國魂神社で、大物主神を祭ると言ふが、實は何神とも定め難い。國魂は其地の先住者の靈を祀つて、祟りのない樣にするのである。
 
やま‐の=とかげ【山の常陰】 山間に樹木が茂つてゐて、年中太陽のあたらぬ處、即、いつも陰なる處の意だと言ふが、口譯萬葉集には、山の外影《トカゲ》の意で、山陰《ソトモ》・山陽《カゲトモ》をつゞめて、とかげ〔三字傍点〕と言つたとして説いた。そとも〔三字傍点〕は山北、かげとも〔四字傍点〕は山南である。
 
やま‐の=は【山の端】 山の空との境を言ふ。此方より眺めて、山の端の樣に見ゆるからであらう。皆、遠望の時に言つてゐるから見ても明らかである。
 
やま‐の‐へ‐うぢ【山(ノ)上氏】(補) 又、山(ノ)於と書く。此氏を冠する者に、眞人と臣とがある。憶良の家の山(ノ)上は、神護景雲二年船主等十人が、朝臣を頂いた中にあらう。山(ノ)邊・山(ノ)上の地名、諸國に分布が廣いが、恐らく大和國の添下郡の郷の名から出たものであらう。山邊郡かとも言ふが、如何。
 
やま‐の‐べ‐の‐いし‐の‐はら【山(ノ)邊(ノ)五十師(ノ)原】 伊勢國鈴鹿・河藝郡中の、鈴鹿川沿岸の地。今、石藥師の地も、元、奇石があつた爲にいし〔二字傍点〕と言ひ出したのを、後に石佛像を刻んだので、いし〔二字傍点〕と言ふのは、古くからの稱であらうと言ふ。持統天皇の行宮となつた地である。
 
(386)やま‐の‐へ‐の=おくら【山上(ノ)憶良】 又、山(ノ)於(ノ)憶良。文武天皇の大寶元年正月粟田眞人等遣唐使派遣の節、其少録となり、元明天皇の和銅七年正月從五位下に敍せられ、元正天皇寶龜二年四月伯耆守となり、養老五年正月には詔によつて、退朝の後、東宮に侍して居る。文獻には殘つてゐぬが、大伴旅人の大宰(ノ)帥時代に、筑前守であつた事は疑ひがない。又、末子と思はれる、古日と言ふのゝ外に、越中國の邊に住んだ子もあつた(本集)樣である。
 
やま‐の=へ‐の=みゐ【山(ノ)邊(ノ)御井】 伊勢國鈴鹿郡山邊村か。石藥師に近い鈴鹿河原の邊。
 
やま‐の=ゐ 山の井とは、岩間に水の湧きでる處を言ふので、泉も流れも、皆、井である。
 
 やま‐の=ゐ・の 枕。あさし。山の清水の底淺い爲に、あさき〔三字傍点〕・あさき心〔四字傍点〕などつゞけるのである。
 
やまびこ【山彦】 反響。こだま』。此方の聲をかなたにて言ひ返す樣に聞えるから、山彦など言ふものがゐると考へたのであらう。
 
やま‐ふれ【山村】 後にやまむら〔四字傍点〕(今昔物語)。大和國添上郡(和名抄)。今、帶解邊と言ふのは、如何。山村中里など言ふ小名(日本靈異記)も見え、山村(ノ)臣(淳仁天皇紀)・山村(ノ)宿禰(日本紀略)・山村(ノ)忌寸(新撰姓氏録)・山村(ノ)己知部(欽明天皇紀)などの貫地であらうと思はれる。
 
やまべ‐の‐あかひと【山部(ノ)赤人】 聖武天皇の神龜の初、紀伊國行幸に從ひ、天平中陪從して吉野離宮に遊び、勅に應じて歌を獻つて居る。又、春日山に上り、神岡に至り、伊豫國の温泉に浴し、辛荷島、敏馬浦に遊び、又、東國にも遊んだと思はれる歌がある。宮廷詩人の最傑出した人とせられた一人。
 
やまべ‐の=おほきみ【山部(ノ)王】 壬申(ノ)亂の時、近江軍(弘文天皇方)に加つて、蘇我(ノ)果安、巨勢(ノ)比等などと共に、數萬の兵を率ゐて、不破を破らうとして、大養濱に陣した時、果安・比等の爲に殺された方をも山部王と言ひ、又、桓武天皇も、諸王の時、山部王と言はれた。卷八に見える山部王は、どちらの方だか訣らぬ。或は此二方以外の人とも思はれるふしがないではない。
 
やまゐ【山藍】 やまあゐ〔四字傍点〕の融合。山中に生ずる一種の藍。其葉に皺のあるのが、特徴だ。又、採つて衣を(387)染めたので、卷九「山藍もて摺れる衣(一七四二)などゝ言つてゐる。
 
やみ‐の‐よ‐の 枕。行く先しらず。一寸さきは、方角も訣らぬ闇の夜と言ふので、行く先知らず〔六字傍点〕につゞけたのである。
 
やゝ‐/\‐に【漸々に】 段々に。漸次に。いよ/\〔四字傍点〕と通じる。
 
やよひ【三月】 彌生の義だと言ふ。萬葉集の三月は季春で、初旬には春花春鳥の盛りな時で、下旬は既に夏の茂みに近い季候である。
 
やら(補) 訣らぬ。但、仙覺抄に、やら〔二字傍点〕とは、水つきて、かつみ・蘆やうの物など生ひ茂りたるうき土なり。田舍の者は、やはら〔三字傍点〕とも言ふ、とあるのによれば、沼地などの事と見えて、熊來《クマキ》のやら〔二字傍点〕が適切に聞えて來る。や〔傍点〕・やつ〔二字傍点〕などに關係のある谷の意の語か。東條操氏は、常陸國のやあら〔三字傍点〕・信濃國のあわら〔三字傍点〕をやち〔二字傍点〕(濕地)と同じ系統の語かとして(土俗と傳説一の二)ゐられる。
 
やら‐の‐さき【也良の埼】 筑前國早良郡。今、荒崎が其かと言ふ。糸島郡小田村の昔、韓良《カラ》郷・韓(ノ)泊の地の音轉かとも言ふが、如何。
 
     ゆ
 
ゆき【靱】 矢を盛つて背に負うた道具、後世の胡※[竹/禄]《ヤナグヒ》・箙《エビラ》の類である。神代に既に、千箭靱《チノリノユキ》、五百箭靱などの種類が見えてゐる。延喜式には、姫靱・蒲靱・草靱等の名稱があるが、其製作は、今一々詳細に知る事が出來ない。法隆寺の寶物中には、現存してゐる。東京大學の人類學教室には、下野國河内郡で發掘した土偶の靱がある。靱は武具中の重要なもので、これを背に負うた姿は、當代の人の憧れの的になつたものであつたらう。卷三「ゆきとりおひて(四七八)などゝ言ふ語は、本集にばかり見えて、他の歌集には、全く見えぬ。
 
ゆき‐あひ【行合ひ】 いりあひ。すれちがひ。彼方からと此方からと道の出會ふところ。接頭語をつけて、卷九「いゆきあひ〔五字傍点〕の坂の麓(一七五二)と言ふ句が見えてゐる。又、ゆきあひのわせ〔七字傍点〕と言ふのは、夏と秋と行きあふ時分の早稻の意。
 
(388)ゆき‐かくる=とも‐の‐を【靭懸くる伴(ノ)緒】 靭を懸けて負うてゐる部屬の人たちで、即、武器を執る人々。軍人の群。「とものを」見よ。
 
ゆき‐たらはす【行き足はす】 思ふ通り先方へ行きつく。滿足に行きつく』。航海の危難などを凌いで、先方へ到着するに用ゐる。卷十九「韓國に行きたらはしてかへり來むますらたけをに御酒たてまつる(四二六二)。
 
ゆき‐の‐あま‐の=ほつて‐の‐うらへ【壹岐(ノ)海人(ノ)秀手(ノ)占】(補) 壹岐國の土民のする占の術で、古事談に見えた伊豆大島の卜人などの樣に、海島の土民の占うた處から、海人の占と言ふのであらう。延喜臨時祭式に卜部取(ル)2三國卜術優長(ナル)者(ヲ)1【伊豆五人壹岐五人對馬五人】とあるので見ても、平安朝初期には、わざ/\彼島から召してゐたので、「若取(ルニハ)2在都之人(ヲ)1者、自《ヨリハ》v非(ザル)2卜術絶群(ナルニ)1不(レ)v得2輒充(ルコトヲ)1」と同條に見える。此は卜象の、純朴な人によく象れると信じた爲と、古くからの傳習の結果とであらう。前期王朝の本集時代にも、既に壹岐人の卜術は名高かつたのである。貞觀五年九月に壹岐國石田郡の人で、宮主の職に在つた外從五位下卜部是雄・神祇權少史正七位上卜部業孝に、伊伎(ノ)宿禰を賜つた(三代實録)のは、本貫によつて姓を作られたのである。又、此等の人々が用ゐられて都に住んだ事は、伊岐(ノ)京(ノ)卜部(同集解)があつたのでも知れる。ほつて〔三字傍点〕は、必、占術の名であらう。が知る事の出來ぬ今日の處では、秀手と字を宛てゝ上手の意に説いておくが、ほんの假説に過ぎぬ。うらへ〔三字傍点〕はうら〔二字傍点〕の動詞化で、うらふ〔三字傍点〕の名詞法占なひ〔三字傍点〕である。件信友は古いわが國の卜法を鹿卜と信じて、龜卜説を採らないでゐるが、水國の卜法であるから、龜卜の材料が多かつたのであらうから、強ちに龜卜を比較的新しい輸入とばかり却ける事は出來ぬ。ゆき〔二字傍点〕はいき〔二字傍点〕である。
 
ゆき‐の‐しま(補) 枕。いかむ。壹岐(ノ)島。壹岐(ノ)連《ムラジ》を、本集に雪〔傍点〕(ノ)連〔傍点〕とある。此い〔傍点〕はや〔傍点〕行のい〔傍点〕で、い〔傍点〕・う〔傍点〕列移動したのだ。音聯想の枕詞。
 
ゆき‐の‐やかまろ【壹岐(ノ)宅麻呂】 姓連。聖武天皇朝の人、傳未詳。
 
ゆく‐さ=く‐さ【行くさ來さ】 行きしな歸りしな』。行くさま來さまの意で、行く時と來る時とである。續(389)けて用ゐれば、往復の途の心である。
 
ゆく‐とり‐の 枕。あらそふ。大空を渡りゆく鳥が、われ一番にと、先を爭うて飛ぶ状から、つゞけたもの。或は飛ぶ鳥のあすか〔三字傍点〕と同じく、あ〔傍点〕にかけたもので、あとり〔三字傍点〕のあ〔傍点〕を起す爲に、ゆく鳥と言うたのかも知れぬ。
 
ゆく‐へ【行く方】 行く先』。ゆくへなし〔五字傍点〕は、行く先がわからない。將來がおぼつかない。行く方をしらず〔七字傍点〕・行く方もしらず〔七字傍点〕は、亦、行く方なしと同じ意。
 
ゆく‐みづ‐の 枕。かへらぬ。ときぞともなく。水は流れて歸らぬから、歸らぬにかゝる。始終流れてゐるから、卷十一「ゆく水の、時ともなくも戀ひわたるかも(二七〇四)の如き、かゝり方もある。
 
ゆく‐/\‐と 物思ひしげき時に、身のわく/\とゆれてゐる樣な氣がして、落ちつかぬのに言ふ。次のゆくらかに、ゆくら/\皆、同じい。行く/\とではない。
 
ゆく‐らか=に ゆら/\と、心の落ちつかぬ状。
 
ゆくら‐/\ ゆく/\のゆく〔二字傍点〕に語尾ら〔傍点〕がついたのである。ゆら/\と心の落ちつかず、物思はれるのに言ふ。天雲の・大舟の、などを冠らせて用ゐるのも、其意からである。
 
ゆげ【弓削】 河内國中河内郡。元、若江郡の中の郷名(和名抄)。舊大和川左岸の地で、廣く南河内の舊志紀郡へも亙つてゐた樣である。其中心は、今の八尾の南の邊にあつたらしく、神別弓削(ノ)宿禰の本貫で、道鏡も此族らしい、稱徳天皇の由義《ユゲ》(ノ)宮・弓削寺(續紀)・弓削神社(式)も、此内に在る。
 
 ゆげ‐の=かはら 舊大和川(長瀬川)の川原。此川、又、博多《ハカタ》川とも言うたらしい。
 
ゆげ‐の=みこ【弓削(ノ)皇子】 天武天皇の第六の皇子で、母は天智天皇の皇女大江皇女で、長(ノ)皇子の同母弟、草壁皇子・大津皇子等の異母弟である。持統天皇の七年正月淨廣貮を授けられ、文武天皇の三年七月二十一日に薨ぜられた。
 
ゆげひ‐の=みゐ【靭負(ノ)御井】 平城京のうち、靭負府の邊にあつた井か。光仁天皇の寶龜三年三月三日酒を靭負御井に置いて、曲水《ゴクスヰ》(ノ)宴を催されたよしが見える(續紀)から、泉の水の流れであらう。
 
ゆ‐たね=まく【齋種蒔く】 ゆ〔傍点〕は齋《ユ》である。田に蒔く種(390)にさはりない樣、清めてあるのである。上田秋成は、ゆだね〔三字傍点〕は五百種《ユダネ》だ。穀種を蒔ゑつけるのには、其田に眞柴折りさし、繩引きはへて忌むと説明して居る。
 
ゆつ=いは‐むら【五百都巖群】 巖石の群がり立つてゐる處。岩山。ゆつ〔二字傍点〕は多く群がつてゐる樣。
 
ゆ‐づか=まく【弓束卷く】 弓の手に握る處に、蔓などを卷きつけて、用ゐ易くする。卷くと意ふよりして、妹を枕《マ》くに言ひ懸ける。卷七「南淵の細川山に立つ檀弓《マユミ》。弓束まくまで人に知らえず(一三三〇)。卷十四「かなし妹を。弓束なべまき、もころ男の事としいはゞ、いやかたましに(三四八六)。卷十二「梓弓弓束卷き易へ中て見てば、更に引くとも君がまにまに(二八三〇)。
 
ゆつき‐が=たけ【弓槻个嶽】 大和國磯城郡。三輪山の北方にある山。齋槻が生えてゐた爲か。秦(ノ)弓月《ユツキ》(ノ)君《キミ》に關係があるとするのは、俗説であらう。
 
ゆつる【移る】 ら行四段活用。自動詞。うつる〔三字傍点〕に同じい。一處より他處に移動する。卷四「松の葉に月はゆつりぬ。黄葉の過ぎけむ。君が會はぬ夜ぞ多き(六二三)。讓る〔二字傍点〕と關係ある樣である。
 
ゆづるは‐の=みゐ【※[木+牒の旁]葉(ノ)御井】 大和國吉野離宮の水たまりの名。此井は、天武天皇の頃から、既にあつた井戸である。
 
ゆ‐とこ【夜床】 東國の方言で、ゆとこ〔三字傍点〕と發音したのを、其まゝ寫したのである。夜寢る床。
 
ゆはら‐の=おほきみ【湯原(ノ)王】 天智天皇の皇子施基(志貴)皇子の御子。光仁天皇の御弟。壹志濃《イチシヌ》(ノ)王・尾張(ノ)女王等の父君である。傳訣らぬ。
 
ゆふ【木綿】 栲《タク》の木の繊維にて織つた布。色が白いので、白木棉とも言ひ、白栲《シロタヘ》の木綿《ユフ》とも言ふ。又、幣帛を木綿《ユフ》と言ふ。木綿を樹につけて、神に奉るより、一般的に名の廣まつたもの。木綿しづ〔四字傍点〕とは、木綿を樹に垂れてつけるのである。木綿花〔三字傍点〕は木綿でこしらへた飾りである。
 
ゆふ【楡※[木+付]】(補) 又、兪※[足偏+付](史記扁鵲傳)。黄帝の時の醫者の名である(周禮疾醫註)。
 
ゆふ‐かげ【夕陰】 夕方の物陰。夕方のうすぐらきところ。卷十「影草の生ひたる屋外の暮影《ユフカゲ》に鳴くこほろぎは聞けどあかぬかも(二一五九)。ゆふかげ草(391)は、夕陰に咲く草であらう。
 
ゆふ=かた‐まく【夕片設く】 かたまく。
 
ゆふ‐かは【遊副川】 吉野川へ入る枝川の名と思はれる。然るに飛鳥川をば一名遊副川と呼ぶ(大和志)とするのは、何の根據があるのであらうか。
 
ゆふ‐け【夕占】 日暮れ頃にする占ひ。辻に出て往き來の人の口うらを聽いて、自分の迷うてゐる事、考へてゐる事におし當てゝ判斷する方法で、日の這入つた薄明りのたそがれに、なるべく人通りのありさうな八衢を選んで、話し/\過ぎる第一番目の人を待つたのである。夕方の薄明りを擇んだのは、精靈の最力を得てゐる時刻だからであらう。遙かに時代が下ると、三つ辻と定めて、其處に白米を撒いて、區劃をかいて、其處を通る人の話を神聖なものとして聽き、又、禁厭の歌もあつて、道祖《フナド》の神に祈つた樣である(拾芥抄)。此は塞《サヘ》(ノ)神をば占ひの目的の邪魔を拂つてくれるものと考へたからで、米を撒くのも、神聖で、惡神の虚言などが這入りこまぬ樣にと言ふのである。ゆふけ〔三字傍点〕のけ〔傍点〕は占の意か。
(補) 日暮れに、辻、或は橋の袂などに立つて、往來の人の無意識に言ふ語から、判斷を得ようとする事。今の辻占。
 
ゆふし‐やま【結石山】 今、ゆひいし山。對馬國下島に在る。
 
ゆふ‐たすき【木綿襷】 栲布で作つた繦。神事にかけて、神につかへる。
 
ゆふ‐だゝみ【木綿疊】 栲布で作つた疊薦。神座としてすゝめるのである。卷三「ゆふだゝみ手にとり持ちて(三八〇)などあるのは、神の座を設ける時に、捲いてあつた疊をのべるのである。
 
ゆふ‐づく=ひ【夕づく日】 夕方になる日。傾いた大陽』。夕つく夜との關係の有無は訣らぬ。
 
ゆふ=づく‐よ【夕月夜】 夕暮れの月。晝の明りを待ち取る月夜。上弦の月であるのと、晝の殘光があるので、光りは弱い。
 枕。をぐら。闇《クラ》にかけるのである。
 
ゆふ‐つゞ【明星】 あけのみやうじやう。よひのみやうじやう。金星』。又、あかぼし〔四字傍点〕。ゆふ〔二字傍点〕は夕。つゞ〔二字傍点〕は不明。づゝと訓むか、つゞと訓むかも不明。日の暮れには、一番注意を引くから、此名がある。
 
(392) ゆふ‐つゞ=の 枕。かゆきかくゆき。此星の、夕は西、朝は東と、居場處を移すところから、かゆきかくゆき〔七字傍点〕に聯想したものである。
 
ゆふ‐はた【纐纈】 しぼり染め。鹿の子』。又、ゆひはた〔四字傍点〕。唐土將來の染め方で作つた品であらう。結《ユ》ひしぼつて染めた上帛《ハタ》と言ふ意で、緒《ユ》ふ帛《ハタ》と言うたのである。
 
ゆふ‐はな=の 枕。さかゆ。冠辭考には、木綿で造つた花と言うてゐる。栲布でつくり、髻華《ウズ》などの飾りにつけたものと思はれる。恐らく、木綿の花の咲く樣などではなからう。其白々と垂れた樣を、榮ゆ〔二字傍点〕と言うたので、泊瀬女がつくる木綿花も、やはり棉畠の樣ではなく、栲布でつくつた飾りであらう。
 
ゆふま‐やま【木綿間山】 所在未詳。或は木綿山のことか。
 
ゆふ‐みや【夕宮】 別の御殿の事ではない。常の御殿を、夕方を主として言ふ時の稱。或は夕宮づかへをも言ふ樣である。
 
ゆふ‐や‐がは【結八川】 吉野川の枝川の、一名木綿川に同じか。
 
ゆふ‐やま【木綿山】 豐後國速見郡。大分※[さんずい+彎]に臨んで立つた山。今、由布嶽と言ふ。
 
ゆめ【忌】(補) つゝしめ。敬虔の念を保つてせよ。おろそかにすな。注意せよ。念を入れよ(ア)。念を入れて……せよ。氣をつけて……せよ(イ)。氣をつけて……せぬやうにせよ、せぬやうにせよ。きつとすな。決してすな(ウ)』。此語、本來、齋《ユ》むの命令形で、齋戒せよ、潔白を保て、と樣の意である。記・紀に見えた「わが疊ゆめ」「わが妻もゆめ」のゆめ〔二字傍点〕は、此意であるが、本集には此用語例はない。本集に前後して出た文獻類に通常見えたのは、(ア)の意義である。「さとびとさわぐ客人もゆめ」などは、やはり此部類である。本集のは、(ウ)になつてゐるものが多く、さうでないものは、大抵(イ)である。「ゆめ心せよ」などは、命令文の前提としての副詞となつてゐる。此が一轉して、禁止の前提となつたのである。本集のゆめ〔二字傍点〕を單に禁止にばかり考へてはならぬ。
 
ゆゝし【忌々し】 つゝしむべき事に對する氣持ち。勿體ない。戒心すべきだ。注意すべきだ』。卷十五「青柳の枝きりおろし齋種蒔きゆゝしき君に戀ひわたるかも(三六〇三)。
 
ゆら‐に 物の動搖してよい音を立てる。「小鈴もゆらに」など用ゐる。
 
ゆら‐の=みさき【由良(ノ)岬】 紀伊國日高郡。由良港の南の方の岬。
 
ゆり【後】 暫くして後。植物の百合と同音であるから、多く、白百合の〔四字傍点〕・草深百合の〔五字傍点〕とか言ふ枕詞をつけてゐる。
 
ゆる‐す【縱す】 ゆるくする(ア)。ゆるべる。油斷する。氣をゆるす(イ)』。卷十七「千鳥ふみ立て、追ふ毎に由流須《ユルス》ことなく(四〇一一)は、鷹が油斷せぬ樣で、(イ)に屬するもの。卷四「今は我はわびぞしにける。いきのをに思へる君を縱左久《ユルサク》思へば(六四四)は、(ア)の方で、ゆるべて思ふとほりにされたのを悔いたのである。卷九「官にも縱し給へり。今宵のみ飲まむ酒かも(一六五七)は、今日の許可するの意に似てゐるが、ゆるべる意。
 
        よ
 
よき‐ひと【良人】 神性を持つてゐる偉い人。神は言はず、仙人など言ふ類のもの。天子を斥《サ》したとするはよくない。卷六「韓衣|著楢《キナラ》の里の島松に、玉をしつけむよき人もがも(九五二)。卷一「よき人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ。よき人よ。君(二七)。
 
よく【避く】 か行四段活用。他動詞。場處、又は人を避けて、他に移る。よきぢ〔三字傍点〕は避き路で、まはり路・迂廻せる路・ほかの路の意。
 
よこしま‐かぜ【邪風】 わるい風。颱凰』。農産に妨げをする惡風。
 
よこ‐す【讒す】 曲げて惡く言ふ。惡口する。實ならぬ事を言ふ。誹謗する。
 
よ‐ごと【吉言】 お祝ひの語。賀詞。よい話』。卷二十「今日降る雪のいや頻けよごと(四五一六)は、後のよい噂であらう。吉い事と譯せずとも通る。
 
よこ‐ぬ【横野】 河内國澁川郡。
 
よ‐ごもる【夜籠る】 夜の中である。夜がまだ深い』。夜どほしと譯するのはわるい。まだ朝に發展〔二字傍点〕しないでゐる樣。卷九「夜ごもりに出で來る月(一七六三)(394)と言ふのも、夜の中にの意である。次條參照。
 
よ‐ごもる【世籠る】 まだ情事を解《ケ》せぬ』。世〔傍点〕は男女の間の情事である。共に發展しきらぬのである。
 
よこ‐やま=べろ【横山邊ろ】 ろ〔傍点〕は接頭語。横山の邊の意。
 
よ‐こゑ【夜聲】 夜もの言ふ聲。火を警める聲とか、又、夜の高聲の話とかである。卷十一「隼人の名に負ふ夜聲(二四九七)。
 
よさ‐の=ひめ‐おほぎみ【與謝(ノ)女王】 文武天皇の慶雲三年六月二十四日、從四位下でなくなられて居る。
 
よさみ‐の=はら【依網(ノ)原】 三河國碧海郡。
 
よさみ‐の=をとめ【依羅(ノ)娘子】 柿本人麻呂が、石見國に居た時の妻である。嫡妻と言ふのではあるまい。
 
よし【由縁】 關係。機縁。手づる。ゆかり。
 
よしき‐がは【吉城川】 大和國添上郡。春日野の中を流れる川。水尾川。
 
 よしき川 枕。よし。同音聯想である。序歌の一部と言ふ方が適當であらう。卷十二「わぎも子に衣かすがのよし木川、よしもあらぬか。妹が目を見む(三〇一一)などゝ用ゐる。
 
よしだ‐の=おゆ【吉田(ノ)老】 此姓きしだ〔三字傍点〕と訓むか。仁教の子で、字を石麻呂と言つて、痩せた人であつたのであらう。光仁天皇寶龜九年二月に外從五位下で、豐前介となつた吉田(ノ)連古麻呂と言ふのが、此人ではないかとも言はれて居る。「よしだのよろし」の條參照。
 
よしだ‐の‐よろし【吉田(ノ)宜】 姓連。惠俊と言うて僧であつたが、其才藝を惜しまれて、文武天皇の四年八月、勅によつて還俗し、姓を吉《ヨシ》(或はきし〔二字傍点〕と訓むのだと、栗田寛博士は説かれた)、名を宜と賜つた。元明天皇の和銅七年正月從五位下に敍せられ、次で從五位上に進み、元正天皇の養老五年正月には醫術を以て、※[糸+施の旁]十疋、絲十約、布二十端、鍬二十口を賜り、聖武天皇の神龜元年五月、更に吉田《ヨシダ》(ノ)連の姓を賜つた。天平二年三月には、弟子の養成を命ぜられ、五年十二月圖書頭となり、九年九月正五位下に進み、十年閏七月典藥頭となり、年七十で死んだ。曾て秋日長屋王の家に、新羅の客と宴して、「西使言v歸日、南登餞v送秋。入隨2蜀星1遠、※[馬+參]帶2斷雲1浮。一去殊2郷國1、萬里絶2風牛1。未v盡2新知趣1、還作2飛乖愁1(懷風藻)と。又、駕に吉野に從つて、「神居深亦靜、勝地寂復幽。雲卷三舟谷、霞開八石洲。葉黄初送v夏、桂白早迎v秋。今日夢淵々、邊響千年流(同上)と歌うた。大伴旅人から、松浦歌を贈られた返書も、よく出來てゐる。
 
よし‐なし【由縁無し】 訣《ワケ》がない。關係の無い。縁も無い。
 
よしぬ【吉野】 又、えしぬ〔三字傍点〕。大和國南部。吉野川を中心として、北は龍門・鷹取から南葛城山に續く山脈を境として南に亙る山地及び、吉野川の流域。こゝに離宮があつて、持統・文武の兩天皇は殊に屡、行幸せられた。此地は、天武天皇發祥の地であるので、山川の美以外に、兩帝の御代に重んぜられたものである。吉野國とは、此地一帶をさすのである。山と川との相應じた勝地である事は、柿本人麻呂の長歌にもよく現れてゐる。美蹈の神婚傳説などが、此川についてある。
 
よし‐ゑ よしや。どうでもかまはぬ。まあよい。どうでもよい』。ゑ〔傍点〕は感歎語。よしゑ〔三字傍点〕は縱《よ》しや〔二字傍点〕と同じで、それもよしの意になる(「ゑ」を見よ)。卷十一「たらちねの母に知らえずわが持《モ》たる心はよしゑ君がまに/\(二五三七)。よしゑやし〔五字傍点〕と言ふのも、更にやし〔二字傍点〕と言ふ囃しの語尾がついたまでゞ、意味は同じい。
 
よす‐が【便宜】 縁故とするもの。たよりとするもの。たづき。よるべ。ゆかり』。卷十六「志珂の山いたくな伐りそ。荒雄らが餘須可《ヨスカ》の山と見つゝ偲ばむ(三八六二)。卷三「ことゝはぬものにはあれど、わぎも子が入りにし山を因鹿《ヨスカ》とぞ思ふ(四八一)。寄《ヨ》す處《カ》で、心をよする目的點と言ふ事であらう。
 
よする‐なみ 枕。あひだ。ま。よす。かしこし。浪のよせてかへす樣から、間〔傍点〕(ま・あひだ)を聯想して、あひだもなけむ・あひだもおかず・間《マ》なく此頃、など言ふ。又、同音を繰りかへして、よす〔二字傍点〕にかける。又、浪の恐怖から、かしこき人〔五字傍点〕になどゝつゞける。
 
よせ‐つな 八十綱の轉音であらう。縒せ綱ではあるまい。
 
よそ【外處】 他處。別處』。自分を中心として、其以外のものを、差別的によそ〔二字傍点〕と言つたのである。人を(396)よそに見ると言ふのは、自分の手を離れて、自分と無關係のものとして見る、と言ふ意なのである。
 
よそふ【裝ふ】 完全に身につける。裝束する。衣服や武具などを身につける。仕度をする。用意をする』。は行四段活用。他動詞。
 
よそふ【比ふ】 なぞらへる。比較する。擬する。あてて見る』。下二段活用。自動詞。卷十「梅の花まづ咲く枝を手折りては裹と名づけてよそへてむかも(二三二六)。
 
よそる【寄る】 ら行四段活用。自動詞。寄す〔二字傍点〕の再活用。卷二十「白波の寄そる濱邊に(四三七九)。よる〔二字傍点〕が既に、信頼の意味をもつてゐるのであるが、よそる〔三字傍点〕となると更に強く、たよりとして、近づいて來る傾向を持つてゐる。卷十四「新田山|峰《ネ》にはつかなゝ、わによそりはしなる子らしあやにかなしも(三四〇八)。又、名詞法として、よそりなし〔五字傍点〕は、よしなし〔四字傍点〕と同じに用ゐる。よそり妻〔四字傍点〕は、信用してゐる妻の意である。
 
よ‐だつ【役立つ】 徴發せられる』。役《エ》だち、即、上の賦役に徴發せられる事。よ〔傍点〕は訛音である。夜立つではあるまい。役だつ〔三字傍点〕の名詞が役徭《エダチ》である。卷十四「よだち來ぬかも(三四八〇)とあるのは、所相に用ゐたので、よだゝれて來たことよの意。所能相が混亂してゐるのである。
 
よち【同年兒】 おないどしの兒。同年輩の兒。遊び仲間』。よちご〔三字傍点〕とあるも同じい。男色のかたらひある兒だとも言ふ。さすれば、念者・念友など譯すべきである。
 
よづ【攀づ】 高いものに取りすがる。手元へひきよせる』。卷八「よぢてたをりつ(一五〇七)。卷十三「手弱女に吾はあれども、ひきよぢて峰もとをゝに、うちたをりわれはもてゆく(三二二三)。本集には、後のよぢのぼる〔五字傍点〕・山をよづ〔四字傍点〕など言ふ用語例はない。
 
よつ‐の=ふね【四艘】 遣唐使の船は、常に四艘で、當時も、孝謙天皇の天平勝寶四年に出發する、遣唐大使藤原清河・副使大伴胡麻品等の船が、四艘であつたから言うたのである。恐らく既に一つの成語として取り扱はれてゐたのであらう。
 
よ‐どこ【夜床】 床。夜寢る床』。ゆどこ〔三字傍点〕と音を寫したのもある。
 
(397)よ‐と=で【夜戸出】 夜の門出《モンデ》。夜おもてへ出ること。夜あるき』。戸出〔二字傍点〕は、家を出る時の意でなく、門を出て外に蹈み出してゐる事を言ふ。卷十二「我妹子が夜戸出の姿見てしより、心空なり。地はふめども(二九五〇)。外出の途中で逢うた事を言うたともとれる歌である。
 
よど‐の=つぎはし【淀の繼橋】 川の淀にかけた繼ぎ橋。
 
よなか【夜中】 地名であらう。恐らく近江國高島郡の中にあつたと思はれる。本集には三更とも假書してゐる。よなかのかた〔六字傍点〕と言ふのも潟であらう。今、其地は知れぬ。
 
よなばり【吉隱】 又、吉魚張。大和國磯城郡。初瀬の東、阪路を上つて宇陀平原に出た處。磯城より宇陀へ出る北道の地である。本集に見えた猪養岡(ノ)墓(但馬(ノ)皇女)の外に、光仁天皇の生母紀大后の吉隱(ノ)墓がある。隱の字なまり〔三字傍点〕と訓む訣は、書中に書いた。古くはよごもり〔四字傍点〕・きなばり〔四字傍点〕など訓んでゐる。
 
 よなばり‐の=なみしば‐の=の【吉隱(ノ)浪柴(ノ)野】 一本に夏身とある。浪はな〔傍点〕で、柴は柘などゝ同じくつみ〔二字傍点〕と訓むのかも知れぬ。
 
よ‐に【世に】 ほんたうに。實に』。下には常に打消の語が來てゐる。卷二十「我がつま〔二字傍点〕はいたく戀ひらし。呑む水に影《カゴ》さへ見えて餘爾《ヨニ》忘られず(四三二二)。卷十二「海處女かづきとるとふ忘れ貝。代二毛《ヨニモ》忘れじ。妹が姿は(三〇八四)。此語、世と關係のないものかも知れぬ。よも〔二字傍点〕・よもや〔三字傍点〕など言ふ語も、此よ〔傍点〕である。或は誓約の意味を持つた齋《ユ》などに關係があるか。
 
よ‐の=ほど‐ろ【夜のほどろ】 夜のほど。夜のうち』。卷八「秋の田の穗田をかりがねくらけくに、夜のほどろにも鳴きわたるかも(一五三九)。明暗の斑《ホド》ろな樣だと言ふ説は、とるに足らぬ考へである。「ほどろ」參照。
 
よば‐ふ よぶ〔二字傍点〕の再活用。男子が女子に結婚を申し入れるのに、古くは男子がまづ、女子を訪れて、自分の名を呼ばつた事から、求婚を、よばふ〔三字傍点〕と言うたのである。名のる〔三字傍点〕と言ふのも、此である。女子の方に應ずる意があれば、又、自分の名を言ふ。昔は女は自分の名を、許す人の外には知らせなかつたのであ(398)る。接頭語さ〔傍点〕をつけて、さよばふ〔四字傍点〕と言ふのも同じい。名詞法は、よばひ〔三字傍点〕である。夜這ひ〔三字傍点〕と言ふのは、民間語原である。幾日も久しく、求婚をつゞけるのが、よばひわたるである。
 
よぶ‐こ=どり【呼子鳥】 閑古鳥と呼ばるゝ郭公《クワクコウ》の事であらう。此鳥は、ほとゝぎすと混同せられてゐるが、其鳴き聲が子を喚び立てる樣に聞える處から、子を失うた親の化したものだなど言ふ民譚も、生じた程である。鳴き聲の「くわくこう」と言ふのを、「わがこ」「わこ」など聞いた爲であらう。卷一「大和には鳴きてか來らむ。呼兒鳥象の中山よびぞこゆなる(七〇)などは、此民譚を背景としてゐる。喚ぶと言ふ名から、人をよぶ〔四字傍点〕に聯想して、卷九「誰喚兒鳥(一七一三)。卷十「なこせの山の喚子鳥。君よびかへせ(一八二二)など言ふ。
 
よみ‐がへる【蘇る】 黄泉《ヨミ》より歸る意の語。生き歸る。黄泉國より還つてくる。
 
よむ【數む】 數へる』。ま行四段活用。他動詞。卷十一「時守りのうち鳴《ナ》す鼓|數見者《ヨミミレバ》、時にはなりぬ。會《ア》はなくもあやし(二六四一)。よ〔傍点〕は代・世・重《ヨ》などのよ〔傍点〕で、重ねて見る意であらう。
 
よゝ‐む 發音の明らかでない容子を言ふ語。よ〔傍点〕は擬聲。はつきりせぬ、散漫な、人の音聲である。今日でも、唖・子ども・老人などの音聲の、うゝ・おゝなど母音に近いのと同じ理くつである。よゝと泣く〔五字傍点〕・よだれ〔三字傍点〕などのよ〔傍点〕である。ま行四段活用。自動詞。言葉が齒の間から漏れるのだ、と言ふのはよくない。
 
よら‐の=やま【欲良(ノ)山】 所在未詳。
 
よる【依る】 寄る。うちよせる(ア)。心をよせる。信頼する(イ)。夫とたのむ(ウ)。「よそる」參照。
 
よるか‐の=いけ【因可(ノ)池】 大和國平群郡。今の法隆寺の近邊にあつたものと思はれる。或は平群高地に在る沼の名か。
 
よる‐は=すがら‐に【終夜に】 今で言ふ夜どほし。夜を徹して、晝はしみら〔三字傍点〕に對した語。後に、夜すがら〔四字傍点〕・夜もすがら〔五字傍点〕、と副詞に固定した。又、卷四「ぬば玉の夜者須我良爾《ヨルハスガラニ》、あからひく日も募るゝ迄(六一九)の樣な對照もある。ら〔傍点〕は副詞語尾で、すが〔二字傍点〕が語根であらう。繁・續などの意のある語か。
 
(399)よる‐ひかる‐たま【夜光る玉】 西域から齎した金剛石に對する驚異を、支那から日本にも傳へたのであらう。史記に、隋公の祝元陽が死なうとする蛇を助けて後、ある夜、庭が輝いて見えるので、調べて見ると、蛇が珠を銜《クハ》へて來てくれたのである。此珠が、暗夜にも光るので、夜光〔二字右○〕と名づけたとある。我が國にも、珠玉類は盛んに用ゐてゐても、夜光珠の樣なのはなかつたので、其不思議な珠のある唐土に對して、ある異郷的な憧憬を持つた事であらう。卷三「夜光玉《ヨルヒカルタマ》と言ふとも、酒のみて心をやるに、あに如かめやも(三四六)。
 
よろぎ‐の=はま【餘綾(ノ)濱】 相摸國。後の陶綾《ヨロギ》郡大磯・小磯附近の海濱。後世、こよろぎの濱と言ふ。
 
よろ‐し【宜し】 適當である。よい加減だ』。しく活用。善し〔二字傍点〕の語根よ〔傍点〕に副詞體言語尾ろ〔傍点〕(>ら)のついたものであらう。或はよる〔二字傍点〕の形容詞活用とも考へられる。古くは、よろし〔三字傍点〕と言ふ形が多く見える。後期王朝のよろし〔三字傍点〕は、讃美の徹底せぬ状で、中位の善さを言ふのであるが、本集のは、近代のよろし〔三字傍点〕の用法に似てゐる。
 
よろし‐なべ 宜しくとゝのほつて』。卷二「見《ミ》し給へば、大和の青香具山は……。畝火の此瑞山は……。耳無の青菅山は、そとも大御門に宜名倍《ヨロシナベ》神さび立てり(五二)。卷六「山高み雲ぞたなびく。河はやみ瀬の音ぞ清き。神さびて見ればたふとく、宜名倍《ヨロシナベ》見ればさやけし。此山の盡きばのみこそ、此川の絶えばのみこそ(一〇〇五)。此らの例を見ると、名倍《ナベ》は竝べて、宜しく竝び叶うてゐるとも説け相であるが、なべ〔二字傍点〕は他の意味の語尾であらう。卷三「宜奈部《ヨロシナベ》わが夫《セ》の君がおひ來にし此背の山を妹とはよばじ(二八六)の例で見ると、竝べ〔二字傍点〕とは説けぬ。やはりよろしなべ〔五字傍点〕は、圓滿具足の意の副詞であらう。
 
       ら
 
‐ら【等】(補) 體言にら〔傍点〕を添へて言ふのは、其周圍、其附屬物をもこめて言ふ迄で、複數の意味は初めからして無いのである。だから、かなしき兒ら〔六字傍点〕、妻の兒ら〔四字傍点〕と言うても、唯一人の愛人を斥すだけなのは、別に不思議は無いので、草野清民の含蓄を現す語と言ふ(400)説もある。など・なんか(東京)・みな(大阪)が附屬辭風に用ゐられる時と、氣分は同じであるが、此は漠然と含蓄を傳へるたけで、數の觀念などは全然ない。直指を避ける後期王朝の病的な發想は、古くから胚胎してゐたのである。現在の外國文法直譯の文法から見るのはよろしくない。ら〔傍点〕は屡、ろ〔傍点〕に變化するが、意味は同じい。
 
‐ら(補) 副詞語尾。語根の體言性を確固ならしめて、副詞の職分をさせる語。形容詞の語根・動詞の語根の中に、ら〔傍点〕、又はな〔傍点〕・た〔傍点〕・ろ〔傍点〕などのあるのは、多く此ら〔傍点〕である。又、や〔傍点〕も同類の語尾で、古くは、や〔傍点〕の方が多いから、此は、や〔傍点〕の轉と見るべきであらう。副詞として獨立する場合には、更に副詞語尾に〔傍点〕を呼んで、とぼしら‐に〔五字傍点〕・かなしら・に〔五字傍点〕など言ふ。又、語根の儘で、に〔傍点〕を俟たずに、修飾の位置にあることもあれば、語根自ら敍述の勤めをしたり、位置を轉倒して修飾する樣な場合もある。
 
‐らし(補) 助動詞。根據ある想像。夏來たるらしは、夏來到るらしであるが、卒然と言ふ事は出來ぬ。衣ほしたりと言ふ根據があるから、其故に夏來たるらしと歸着するのである。但、全く外形上の根據のみを主張するのはよくない。内的・心理的の經過に於て、根據となるべきものがあれば、よいのである。卷七「靭かくるとものをひろき大伴に、國榮えむと、月は照るらし(一〇八六)は、外的には照るらしと言ふ想像の出る根據はないが、心理的には確實なる證據を捉へてゐる。即、此樣に國が榮えて居り、又、將來、榮えようとすると言ふ心を根柢にすゑて、言ふのである。此類のらし〔二字傍点〕には、卷二「やすみしゝ我が大君の夕されば見《メ》し給ふ良之《ラシ》。明け來れば問ひ賜ふ良志《ラシ》、神岳《カミヲカ》の山のもみぢを今日もかも問ひたまはまし〔二字右○〕。明日もかも見《メ》し腸はまし〔二字右○〕(一五九)。過去の確定に對してけらし〔三字傍点〕に代るらし〔二字傍点〕、未來の想像にまし〔二字傍点〕を使うてゐる。らし〔二字傍点〕は現在完了想像で、過去完了想像には、けらし〔三字傍点〕を使ふ。本集には、らし〔二字傍点〕とらしき〔三字傍点〕との二つの活用形を録してゐる。卷一「香具山は畝火雄々しと、耳無とあひ爭ひき、神代よりかくなる良之《ラシ》。古も然《シカ》なれこそ、うつせみもつまをあらそふ良思吉《ラシキ》(一三)。同「ますらをの鞆の音すなり〔二字傍点〕。物部のおほまへつぎみ楯|立良思母《タツラシモ》(七六)。けらし〔三字傍点〕では、卷四「わぎも子は常世の國に住み家良思《ケラシ》。昔見しより變若《ヲチ》ましにけり(六五〇)。同「わが夫子《セコ》が着《ケ》せる衣の針目おちず入りに家良之《ケラシ》な我が心さへ(五一四)。
 
‐らむ(補) 助動詞。現在完了の想像。同時に他處に於ける他の人の動作。或は物の状況を思ひやる語。卷二「ありがよひつゝ見らめども(一四五)、卷一「大和には鳴きてか來らむ(七〇)、卷十「鳴き渡るらむ(一九四八)など、ありがよひ/\して見てるだらうが、此時は大和の都に鳴いて行つてるだらう、鳴きわたつてるのだらうなど譯す。單なる想像と見るのは、よろしくない。本集には、らむ〔二字傍点〕・らめ〔二字傍点〕の二つの活用を存してゐる。
 
‐らゆ【能】(補) ら〔傍点〕れる』。ら行音の發音の困難からゆ〔傍点〕とや〔傍点〕行音を使うたものと言ふよりも、や〔傍点〕・ら〔傍点〕の音價動搖の激しかつた時代ではあるが、寧、や〔傍点〕行音に發音したものを、後にら〔傍点〕行音に言ひ改めたと説く方がよい。卷十五「寐《イ》の禰良延《ネラエ》ぬに(三六六五)、同「寐《イ》の禰良要《ネラエ》ぬも(三六八四)などの外、不所〔二字右○〕の字は大抵らゆ〔二字傍点〕(又はゆ〔傍点〕)と訓んでよい樣である。所相には、殆、用ゐる事なく、多くは不可坑、或は自然・放射的な心持ちを表す。さうして總べてらえず〔三字傍点〕・らえぬ〔三字傍点〕と否定に言ふ。但、東語には、らる〔二字傍点〕とも言つて、所相にも使つたらしく、「まぬらる〔二字傍点〕奴《ヤツコ》わし」と言ふのが見える。
 
          り
 
りき‐し【力士】 執金剛神・金剛力士、即、仁王尊のこと。佛法擁護の力者である。力士舞と言ふのは、惡鬼を掃ふ爲に、金剛力士に假裝して舞つた一種の舞樂であらう。それには桙を持つて舞つたものと見える。池上寺に、屡行はれたのであらうか。
 (補) 金剛《コンガウ》力士の略。執《シフ》金剛|神《ジン》・金剛夜叉・持金剛・護法金剛など言ふ。皆Vajrayaksaの譯である。五大明王の一つで、北方に居る。三面六臂の忿心怒身で、七寶の瑶珞に身を飾つて、其身の丈は無量の長さである。からだ中には火※[火+餡の旁]が燃えて、あたりを睨め廻す事、獣王なる象の樣で、(金剛藥叉瞋怒王息災大威神驗念誦儀軌)、手には金剛鈴(又、金剛杵)を持つ。金剛手虚空庫菩薩摩※[言+可]薩の權身(同上)とも、(402)釋迦牟尼佛の化現なる不空成就如來の忿怒身だとも言ふ。皆、佛法守護の天部神に、假託した説であらう。處が大寶積經に、金剛力士を、勇群王の子法意王子の化身で、前生に、父王が數多の子の未來生で、成佛する有樣を見ようとして籌を探らした。其時、第一籌が淨意大子で、後に拘留孫佛《クルソンブツ》、第四籌を探りあてたのが、後に釋迦と生じた。千人の子がかうして籌を探つた後で、法意・法念の二子が自ら誓うた。法意は、金剛力士とならうと言ひ、法念は、焚天王の業を成さうと言うたとある。此本地譚から、今、寺々の門々にある、二王尊は出來たものと思はれる。法意が金剛力士になつたのだから、二王は一人でよいと言ひ、今、阿(開口)の像が金剛で、吽《ウン》(閉口)の像を力士だと分けて言ふ説もあるが、法意・法念の釋迦に近づき、佛道を勸助しようと言うた話から、二つの像を置く事になつたのであらう。尚、思ふに、金剛力士〔二字傍点〕と言ふ語に、守護・力役の意味を持つたのは、今一つ釋迦の棺を舁いた拘尸那掲羅《クシナガラ》城の力士族の聯想も、伴うてゐるのであらう。
 
りきし‐まひ【力士舞】(補) 金剛力士の扮裝をして舞ふ外國傳來の舞樂』。此も伎樂《クレガク》の一種で、印度地方から支那へ、支那から我が國へ、將來せられた舞で、仁王の姿にいでたつて、ほこ、即、棒をつかうて、佛敵を降服させる状を舞うたものと思はれる。池上寺に傳つたものが、名高くて、定時の法會に行はれた法樂であらう。今日なほ古い寺に殘つてゐる練供養と言ふ無言の假裝行列に、佛菩薩に扮して出るものなどが、力士舞の風を幾分想見せしめる。りきしまふかも〔七字傍点〕、と訓むべきだと言うた説はわるい。
 
       る
 
るゐじゆう‐かりん【類聚歌林】 山上憶良の撰と傳へられる歌集。集中の左註に引用してあつて、歌はあまり引いてゐない。殊に實物が殘つてゐないので、どの樣な書かはわからぬが、多分、古歌を主として集めたものであらう。古事記を引用してゐるから、出來たのは、其後である事は明らかである。天平勝寶五年に、市原王が歌林七卷を寫さしめた事が正倉院文書に見えてゐる。或は此書の事であるかと思(403)ふ。其後、平安朝に這入つては、たゞあるとばかりで、諸書に名は見えるが、實際に引用したものを見ない。後人假託の書と言ふ説もあるが、取るに足らぬ。集中に引用した文でも訣るが、憶良のこしらへた書の事であるから、定めて詳細な題詞左註等がついてゐる事と思はれて、今日、若し出たら、上代の歴史の明らかになる點が尠くあるまいと思はれる。
 
       ろ
 
‐ろ(補) ら〔傍点〕と同樣の、含蓄を示す語尾。東語には多く古いろ〔傍点〕の方を使つてゐた樣である。せ〔傍点〕ろ〔右○〕・いも〔二字傍点〕ろ〔右○〕・いもな〔三字傍点〕ろ〔右○〕・なるせ〔三字傍点〕ろ〔右○〕・ね〔傍点〕ろ〔右○〕・こすげ〔三字傍点〕ろ〔右○〕・横山べ〔三字傍点〕ろ〔右○〕など、人にも地にも限らず、ある親しみを持つた樣な發想をする場合に使ふ。或は感歎のや〔傍点〕などゝ一つで、近江のや〔二字傍点〕・石見のや〔二字傍点〕などに似た用法で、の〔傍点〕に接する事もあるのかも知れぬ。
 
‐ろ【有】(補) ある〔二字傍点〕、又は、である〔三字傍点〕(なり)の過程を持つた語尾。「をそ〔二字傍点〕ろと言はゞ」などは、うそなりと言はば〔八字傍点〕で、今ならば、うそよ〔三字傍点〕(又はぞ〔傍点〕)と言はゞ〔四字傍点〕位に見るべきであらう。
 
 (補)よ〔傍点〕の轉音。感歎語尾。「おもはずろ〔傍点〕」と言ふのは、思はざらむ〔五字傍点〕ではなく、やはり此ろ〔傍点〕の部類に這入るものである。
 (補)形容詞の意味を的確にする爲に、連體形につけて、敍述の意を助けるもの。金澤庄三郎先生は、ある〔二字傍点〕の過程を含んだ語尾だと言うてゐられる。戀しき‐ろ=かも〔三字傍点〕・悲しき‐ろ=かも〔三字傍点〕・とぼしき‐ろ=かも〔三字傍点〕、など言ふ。
 
 ‐ろ‐かも かなしきろかも〔三字傍点〕・たふときろかも〔三字傍点〕、などは、かなしくあるかも・尊くあるかも(又はなるかも〔四字傍点〕)などに當るのである。惟ふに、或は例のやら〔二字傍点〕と一つの體言副詞語尾で、かなしきこと・尊きことゝ固定させて、かも〔二字傍点〕の感歎語尾に接したものか。其でなくては、記紀に見えた、大君ろかも・わが大君ろかも・たがたねろかも、などは説けぬ。
 
ろく‐の‐えまろ【※[角の初めの画のないもの](ノ)兄麻呂】 又、※[角+碌の旁](ノ)兄麻呂。録と誤寫してゐる(續紀)處から、古義によつて、ろく〔二字傍点〕としたのはよくない。「つぬのえまろ」を見よ。
 
ろく‐の‐くわうべむ【※[角の初めの画のないもの](ノ)廣辨】 傳訣らぬ。兄麻呂と(404)おなじく角氏の誤りであらう。角氏は新撰姓氏録に、紀角宿禰の後と見える。雄略天皇の九年に、紀小弓らが大將軍となつて、新羅を攻めて、彼の地で遺體を還した時、其子の小鹿火は、獨り韓半島の角國に止つた。其で角臣と言うたのだと言ふ。天武天皇の十三年に朝臣の姓を賜つた。本居宣長は、此人の名をひろべ〔三字傍点〕と訓んでゐる。
 
     わ
 
わ【我】(補) 一人稱の代名詞。指定の語尾れ〔傍点〕をとらぬのが、古い形である。あ〔傍点〕とわ〔傍点〕と相通じるので、あ〔傍点〕の方が古いと思はれるが、記紀などの可なり古い出來と思はれる部分にも、兩方ともに使うてゐる。本集には既に、が〔傍点〕を伴はずには、所有格を示す樣なことはない。又、動詞の人稱を表す樣な方法(次條參照)も、痕を潜めた樣であるが、卷二十の東歌に「わろ〔二字傍点〕たびは旅と思《オメ》ほど(四三四三)とあるのは、われ〔二字傍点〕が直に、所有格に似た務めをしてゐるとも見える。わが〔二字傍点〕、われ〔二字傍点〕・わけ〔二字傍点〕・わろ〔二字傍点〕・わぬ〔二字傍点〕などの語根となつてゐる。
 
わ(補) 感歎語尾か。「いざ和出で見む」「いざわ/\」など、よ〔傍点〕と言ひかへて訣《ワカ》る樣である。或は古く、人稱代名詞を動詞にわざ/\添へて言ふ、「かづきせな吾《ワ》(記)などのわ〔傍点〕の固定して殘つてゐたものか。
 
わが‐いのち 枕。なが。わが命よ、長かれと祷る意でつゞいた枕詞である。寧、序歌と言ふ方が適當かも知れぬ。卷十五「我が命長門の島の小松原(三六二一)。或は、我が命は汝がものと言ふ意で、汝が〔二字傍点〕と言ふ所有格を起したのかも知れぬ。
 
わか‐くさ‐の 枕。つま。わか。あゆひ。にひ。つく。うぶ/\しく、愛らしい妻を、嫩草を以て形容したものか。或は爪《ツマ》・摘む〔二字傍点〕などに關係があるか。或は若草の食用にする部分を、特につま〔二字傍点〕と言うた事、さいたづま〔五字傍点〕の如きか。但、つま〔二字傍点〕は、單に妻ばかりでなく、夫をもさして言ふ。又、同音を繰りかへして、わか〔二字傍点〕を起して、卷十六「射ゆ鹿《シヽ》をつなぐ川邊の和草《ワカクサ》の身の若可倍《ワカガヘ》にさ寢し子らはも(三八七四)。あゆひ〔三字傍点〕とかけるのは、若草を結ぶと言ふ處から、ゆひ〔二字傍点〕を起したか。或はいちひ〔三字傍点〕などを以て行纏《ハヾキ》を作ること、和名抄(405)にも見えるから、若草の足結《アユ》ひとかけたものか。卷十七「和可久佐能安由比多豆久利《ワカクサノアユヒタヅクリ》(四〇〇八)。若から新《ニヒ》を聯想したから、或は若草で枕をあむと言ふので、にひたまくら〔六字傍点〕とつゞけたものか。卷十一「若草乃新手枕をまきそめて 夜をや隔てむ。憎くあらなくに(二五四二)。又、卷十三「藤なみの思ひまつはし、若草の思就西《オモヒツキニシ》(三二四八)と言ふは、つく〔二字傍点〕にかゝつてゐる樣に見えるが、よくは訣らぬ。但、つく〔二字傍点〕は絡みつくなどのつく〔二字傍点〕か。
 
わが‐こゝろ 枕。つくし。きよすみ。卷十三「わが心つくしの山の黄葉の(三三三三)などゝ言ふ。我が心を盡すを、筑紫〔二字傍点〕にかけたのである。清澄の池を起すのは、男女の誓ひにとりなして、わが心は清く澄んでゐる。邪《キタナ》い心はないと言ふのにかけたのである。
 
わか‐ごも=を 枕。かり。若薦よ。其を刈ると言ふ所から、獵《カリ》に言ひかけたのである。獵路《カリヂ》の小野につゞく。
 
わかさくらべ‐の‐きみたり【若櫻部(ノ)君足】 傳訣らぬ。若櫻部氏は、大彦命の後である。
 
わかとねべ‐の‐ひろたり【若舍人部(ノ)廣足】 常陸國茨城郡の人。孝謙天皇の天平勝寶七年、筑紫に遣された防人。
 
わか‐の‐うら【若(ノ)浦】 紀伊國海草郡。今、和歌の浦と言ふは、玉津島明神などの聯想から出てゐる。續紀に聖武天皇神龜元年十月行幸あつて、弱《ワカ》(ノ)浦の字を明光《アカ》(ノ)浦と換へさせられたよしが見える。今よりはもつと、海が陸地に入り込んでゐたものと思はれる。古く、此邊は、雜賀《サヒカ》の地につゞいて、一體に若《ワカ》と言ひ、浦をもかうよんだのであらう。又、ま〔傍点〕の接頭語をつけて、眞若《マワカ》(ノ)浦とも言ふ。多少讃美の意があるのか。卷七「若浦爾《ワカノウラニ》白波立ちて沖つ風寒きゆふべは、大和し思ほゆ(一二一九)。卷十二「衣手の眞若(ノ)浦のまなごぢの、間なく時なし。我が戀ふらくは(三一六八)。
 
わがへ【我家】 うち。たく』。わがいへ〔四字傍点〕の融合。わぎへ〔三字傍点〕と融合する事もあるが、此は、が〔傍点〕音の勢力が強かつたのである。或は、卷五「妹がへ〔三字傍点〕(八四四)など言ふ樣に、いへ〔二字傍点〕がへ〔傍点〕と器械化したものか。卷十四「伊香保|嶺《ネ》に雷《カミ》な鳴りそね。和我倍《ワガヘ》には、ゆゑはなけど(406)も、子らによりてぞ(三四二一)。
 
わかみや‐の‐あゆまろ【若宮(ノ)年魚麻呂】 傳訣らぬ。
 
わか‐め【稚海藻】 今のわかめ〔三字傍点〕と同じ物か否か。褐色藻類で、淺海の岩に著いて生長する隱花植物。長さ三尺内外。全體褐色で、羽根形に裂けた帶の形をして、短い柄で、岩石に密着してゐる。食用に供するもの。和布《ニギメ》と同じ物だと言ふが、和布(わかめ)・海藻(にぎめ)・荒布(あらめ)の區別が見えてゐるから(延喜式)、別の物であらう。
 
わかやまとべ‐の‐むまろ【若倭部(ノ)身麻呂】 遠江國麁玉郡の主帳の丁で、孝謙天皇の天平勝寶七年、筑紫に遣された防人である。
 
わかゆ【若鮎】 わかあゆ〔四字傍点〕の融合。
 
わかゆゑ‐の=おほきみ【若湯坐(ノ)王】 傳訣らぬ。聖武天皇朝の人。産事に與る湯坐《ユエ》(大湯坐・若湯坐)の家筋と見えるものに、若湯坐(ノ)連・若湯坐宿禰、其|部曲《カキベ》と見える若湯坐部などの姓がある。此王は、其いづれかに特別の關係、譬へば乳母が若湯坐氏であつたと言ふ如き事があつたからの名であらう。
 
わかをみべ‐の‐ひつじ【若麻績部(ノ)羊】 上總國長柄郡の上丁で、孝謙天皇の天平勝寶七年、筑紫へ遣された防人。名を串とした本は、誤りであらう。
 
わかをみべ‐の‐もろひと【若麻績部(ノ)諸人】 上總國の上丁で、孝謙天皇の天平勝寶七年、筑紫に遣された防人。
 
わき【區別】(補) わかち。區別。見さかひ。四段活用、他動詞のわく〔二字傍点〕の名詞法で、思慮辨別の意になるのである。文章の一部としては、「さう言ふ風であることさへ、訣《ワカ》らぬ」と言ふ風に譯すべき用ゐ方が多い。卷十二「出づる日の入るわき知らず(二九四〇)は、日が出て這入つた事さへ訣らぬと言ふので、晝夜の區別もない事。卷一「暮れにけるわきも知らず(五)。和豆肝《ワヅキモ》となるのは衍で、同じく日の暮れたのも訣らず、夢中で歎いてゐる樣である。卷十「わが夫子《セコ》に戀ひてすべなみ、春雨の零別不知《フルワキシラズ》出でゝ來しかも(一九一五)は、春雨が降つてゐるのも、訣らぬのである。
 
わき‐くさ【腋草】 腋の下の毛が多いのを、草に譬へたのだと言ふが、腋臭(狐臭)、即、わきが〔三字傍点〕の事であらう。卷十六の「小兒ども草は勿《ナ》刈りそ。やほた(407)でを穗積のあそが腋草〔二字傍点〕乎可禮《ヲカレ》(三八四二)は、わきくさ〔四字傍点〕をもぢつて、草に見立て、草はあるが、外の草はやめて、わきくさ〔四字傍点〕と言ふ草を刈れ、と出來ぬ相談を言うた處に嘲笑があるので、腋の毛では、尋常の事である。
 
わぎへ【我家】(補) うち。たく。自分の家』。わがいへ〔四字傍点〕の融合したもの。卷八「わぎへの里(一四八八)は、うちの處と言ふ位の親しみである。家を離れてゐて言ふ語として、奈良のわぎへ〔六字傍点〕など言ふかと思ふと、又、家にゐて、わぎへのその〔六字傍点〕などとも言ふ。
 
わぎめ‐こ【我妹子】(補) わぎもこ〔四字傍点〕の訛り。東語。其條參照。
 
わぎも【我妹】(補) わが妹〔三字傍点〕の融合。自分の愛し、又は親しく思ふ、總べての女性に言ふ語で、多く情人・配偶者に言ふが、目上にも、目下にも、叔母にも、肉親の妹などにも言ふ。行きずりに見た賤女などに對しても、戀ひ心なくわぎも〔三字傍点〕と言ひかけた、卷七「麻蒔くわぎも(一一九五)などの類もある。此語に更に子〔傍点〕をつけて、親しみ深く言うたのが、わぎもこ〔四字傍点〕である。
 
わぎも‐こ【吾妹子】 わが妹の融合なる、わぎも〔三字傍点〕に親しみの子をつけたのである。
 
 わぎもこ‐に 枕。あふち。あはぢ。あふみ。ころもかす。わぎも子に會ふ〔二字傍点〕とかけて、あふちの花〔五字傍点〕、又は淡路島〔三字傍点〕・近江〔二字傍点〕を起したのである。本集の頃は、相思の男女は、互に衣をとりかへ著せ合うたものであるから、さて衣貸す〔三字傍点〕を序として春日〔二字傍点〕を起したのである。卷十「わぎも子に樗の花は散りすぎず(一九七三)。卷十五「わぎも子に相坂《アフサカ》山を越え行きて(三七六二)。卷十二「わぎも子に又も相海《アフミ》の安《ヤス》の河(三一五七)。同「わぎも子に衣借香《コロモカスガ》の吉木《ヨシキ》川(三〇一一)。
 
わく‐ご【若兒】 わくご〔三字傍点〕に兩樣あつて、頭是ない子をも言ふ樣だが、萬葉集古義には、ある處にはわかき子〔四字傍点〕と訓み、時にはわくご〔三字傍点〕と訓んで統一がない。少年と言ふばかりでなく、親しみの意がある。實際、若くなくても、少年時代の稱を持ちこして、何時迄も單に敬稱として用ゐるのもある。正倉院文書に、石川年足を石川若子。寶龜年間の物と言ふ短歌標式には、柿本人麻呂をさして、柿本若子と言うてゐる。
(408) (補) 貴族の少壯な男子を言ふ語で、今日の若さま〔三字傍点〕・ぼつちやん〔五字傍点〕などに似た語。わく〔二字傍点〕は若し〔二字傍点〕に對する動詞で、四段に活用したらしい痕が見える。わかき子〔四字傍点〕の融合でなく、其終止(又は語根形容詞)からすぐに、子〔傍点〕に接したのである。多くは尊稱であるが、人名として若子をつけて言うたのもある。但、本集の久米(ノ)若子・來世《クゼ》(ノ)若子は、皆、前者であらう。殿の若子はお屋敷の若さまの意である。本集卷三に、頑是ない子の事を「若子をおきて(四六七)と言うたのは、轉用であらう。
 
わくま‐の‐うら【分間(ノ)涌】 豐前國築上郡。今の中津市の邊である。
 
わくらは‐に【邂逅に】 ひよくりと。たま/\に。偶然に。不意に。ゆくりなく』。よく/\のことで、やつとの思ひでなど言ふ下に、滿足な心持ちで、結果を享樂する語。卷五「和久良婆爾《ワクラバニ》人とはあるを、人竝みにあれもなれるを(八九二)。値遇《チグウ》に感ずる心持ち。
 
わけ【我】 やつがれ。わたくしめ』。元、奴隷の如き賤人が、一人稱に江戸期の下郎〔二字傍点〕と自ら呼んた樣に言うた處から、奴婢でないもの迄、自遜の極を示す代名詞として用ゐたものらしい。われ〔二字傍点〕・わが〔二字傍点〕などゝ同じく、吾《ワ》を語根とした代名詞であらう。卷四「黒木とり茅《カヤ》も刈りつゝ仕へめど、いそしき和氣《ワケ》とほめむともあらず(七八〇)。下臈・下郎など譯してよいが、直接に奴婢の意ととらず、やはり「忠實な此やつがれめ」と言ふ風に、代名詞と見るべきだ。第二人稱「汝」と譯するのは、一人稱から移つた二人稱と見るべき場合に限る。其も紀(ノ)郎女の大伴家持に與へた卷八「戯奴《ワケ》(反云2和氣《ワケ》1)が爲わが手もすまに春の野に拔ける茅花ぞ。めして肥えませ(一四六○)、同「晝は咲き夜は戀ひ寢る合歡木《ネム》の花。我のみ見めや。和氣《ワケ》さへに見よ(一四六一)と言ふのは、前に家持の贈つた歌にわけ〔二字傍点〕と言ふ卑稱一人稱があつたのを、利用したしやれ〔三字傍点〕と見るが適當で、二人稱の卑稱と見るのは、いくら戯れでもひどすぎる樣である。われ〔二字傍点〕が二人稱に移ると、きはめて遜意を深くする樣に、卑稱として用ゐられたと見る事も出來る。彼の歌に和《コタ》へた卷八「我が君に戯奴《ワケ》は戀ふらし。賜ひたる茅花ははめどいや痩せに痩す(一四六二)は、(409)一人稱である。
 
わご‐おほぎみ【我大君】(補) 私のつかへ申す天子。我が主の皇子・王子。卷一「和期大王(五二)。卷十八「和期大皇(四〇六三)。卷二十「和其大王(四三六○)など、皆わご〔二字傍点〕と言つた證據であるが、吾大王〔三字傍点〕と書いたもの迄、わご〔二字傍点〕と訓むは、如何。下のお〔傍点〕に引かれた母音調和と見るべきであるが、長歌の儀式の謠ひ物たる性質上、意味の反省なしに、わがおほぎみ〔六字傍点〕と言ひ馴れてゐたのであらう。
 
わさ【早生】(補) わせ〔二字傍点〕の形容詞的屈折。わせ田〔三字傍点〕をわさ田〔三字傍点〕、わせ穗〔三字傍点〕をわさ穗〔三字傍点〕、わせはぎ〔四字傍点〕をわさ萩〔三字傍点〕など言ふ。え列音で終つた名詞は、熟語となる時には、多く、あ列音に變つて、形容詞としての職分をとる。
 
わざみ【和※[斬/足]】 美濃國不破郡。關个原邊の地であらう。或は不破郡の東の端に考へる説もある。高市皇子の軍營を此原に張り、天武天皇が野上《ヌガミ》(ノ)行宮からこゝに出張せられた事がある(天武天皇紀)。
 
わし(補) 囃し詞。或は後のかし〔二字傍点〕などゝ通ずる感歎的な語尾かも知れぬ。よ〔右・〕又はよし〔二字傍点〕と譯してわかる樣だから、よし〔二字傍点〕・やし〔二字傍点〕と一類のものと見てもさしつかへはあるまい。卷十六「おとし入れ和之《ワシ》(三八七八)。同「奴和之《ヤツコワシ》(三八七九)。同「將見和之《ミムワシ》(三八七八)。中央には既に亡びてゐたものであらう。
 
わすれ‐かひ【忘貝】 今、言ふ物は、蛤に似て、殻が深く、縱に深い筋があり、且、茶褐色の斑がある。けれども、本集に果して、此貝を呼んだのか、どうかわからぬ。後世のは、萬葉・古今以來、歌によく詠まれる處から、ある貝に假に名を定めたものと見るべきである。本集時代にも、忘れと言ふ名に興味を持つてゐる歌が多い。浪のひいた後に遺つてゐる處から、浪のわすれ貝の意で、一つの貝に限つた名でないかも知れぬ。
 
わすれ‐ぐさ【萱草】 後に漢名の儘、くわんざう〔五字傍点〕と言ふ。山野に自生する多年生草。春になると、宿根から芽を出し、根は、三つ又は五つほどづゝの小さな塊をしてゐる。葉の形は、菖蒲に似てゐて、秋になると、長い莖を抽き出し、其先に、紅黄色の中に、黒い斑のある、單瓣の花が咲く。又、信濃邊の方言で、桔梗を忘れ草とも言ふさうだ。忘れ〔二字傍点〕と言ふ名に興味を持つて、屡、歌に詠まれたのであるが、此草(410)は禁厭《マジナヒ》にも使はれてゐた樣である。唯、卷三「わすれぐさわが紐に着《ツ》く。香具《カグ》山の古《フ》りにし里を、忘れぬが爲(三三四)など言ふのは、一種の即興に過ぎないが、衣の紐につけて、一種の護りの樣に考へてゐた事は、事實らしい。
 
わすれて‐おもふ(補) 思ひ忘れる。外の事を考へて、此事を忘れる』。思ひ忘ると言ふ處を、古い格では忘るを副詞的に扱うたものか、或は思ふは、心をはたらかす事に使ひ、其事をわすれて、心を他に動かすと言ふ風に出來た語か。恐らくは前の方がよいであらう。卷十六「須磨の海人の鹽やき衣の馴れなばか、一日も、君を忘而將念《ワスレテオモハム》(九四七)。此歌なかばで反轉するので、他は多く、わすれて思へやと用ゐてゐる。すべて否定の心持ちを伴ふ語。
 
わた【腸】(補) はらわた。ひやくひろ』。卷五「美奈乃和多(八〇四)。卷七「彌那綿(一二七七)。卷十六「三名之綿(三七九一)。卷十三蜷腸(三二九五)などあるは、蜷貝の腸を食物としたから出來た枕詞だ。
 
わた【大水】(補) 海をわた〔二字傍点〕と言ふ事、綿津見神が海祇《ワタツミ》(ノ)神である事でも知れるが、或は海〔傍点〕と限らず、大水をわた〔二字傍点〕と言うたのが、轉じて海の事となつたのか、或は逆に海から淡水にも言ふ樣になつたのか、明らかでない。わたる〔三字傍点〕と言ふ語の語根のわた〔二字傍点〕は、此語に關係があらうが、渡る水面だからわた〔二字傍点〕と言ふは逆で、わた〔二字傍点〕を根本觀念にして出來た語であらう。卷一「渡中《ワタナカ》(六二)。卷六「渡底《ワタノソコ》(九三三)など、尚、海の事を言うてゐる。本集時代には、意味の中心が稍移つてゐる樣に見えて、廣い水上を考へてゐた樣である。志我能《シガノ》大和太、夢乃《イメノ》和太を水の※[さんずい+彎]曲した處と考へてゐるのは、如何。夢のわたの如きは、吉野川の一局部であるが、尚、くま〔二字傍点〕・え〔傍点〕などゝ似た地形とは思はれる。併、當時既に、曲《ワタ》と和太とを民間語原では一つに考へてゐたかも知れぬ。
 
わた【綿】(補) 固有の物と、舶來のとがある樣である。固有の種類は、所謂絮で、蘿※[草冠/摩]《カヾミ》(ぱんやの類)・蘆の穗などの類で、此が草のわた〔二字傍点〕であるのに對して、衣の原料となると言ふ意で、木綿の字を、栲《タク》・穀《カヂ》の類の布、即、ゆふ〔二字傍点〕に宛てたのであらう。さうして、草わたに對して、繭から作る眞綿を、きぬわた〔四字傍点〕(絹綿の意でなく、衣綿の意で、草わたは、布に出來ぬの(411)に、此は衣の料の帛を織る事の出來る綿の意か)と言うたらしい。今の普通の綿は、桓武天皇の延暦十八年七月に、三河國に漂着した、所謂崑崙人の持つて居た草の實を、(後紀)十九年四月に、紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊豫・土佐・九州(大宰府)に植ゑさせた。植ゑ方は、日をうける土地に深さ一寸の穴を掘つて、穴の間の距離は四尺にして、種を一晩水に漬けて、翌日植ゑるのに、一つ穴には四つ宛で、土を被せて置き、水氣を多くしておくので(類聚國史)あつたが、其後、此綿種は絶えて、豐臣秀吉の朝鮮征伐の時に持つて歸つたのが、其二度目の渡來で、此間は、衣服は絹でなくば、麻布・葛布を着てゐたのであらう。本集の棉は官符類に、多く單に綿と書いてゐる物が、絹や養蠶に關係してゐる(三代實録元慶八、貞觀十二・十四)處から見ても、眞綿、即、きぬわた〔四字傍点〕の事と思はれる。即、之を草わた〔三字傍点〕と分つ爲に、きぬ〔二字傍点〕の修飾語を冠らしたのであらう。筑紫綿が名高くて、年々多量を貢いだ(三代實録、元慶八)とあるが、支那方面との交渉の深い九州だから、既に今の綿が渡來してゐたと想像せられぬでもないが、姑くきぬわた〔四字傍点〕と見て置く方がよい。又、きぬわた〔四字傍点〕と言ふ名稱は、後期王朝に「國々のみしやうより、せちれうに人の獻るわたなど(うつぼ物語)、「しづが山田をかへさねば、米穀の類もなく、國の桑をとらざれば、わたの類もなかりけり(平家物語)などゝ書いてゐるのを見ても、一つの成語であつた事が知れる。歴史地理卅一の三所載、南※[片+總の旁]子(大森金五郎氏)の「木綿の種類及其傳來」に負うてゐる。
 
わた‐つ【渡津】 石見國那賀郡都野津。和多の字をにぎたつ〔四字傍点〕と訓む説はよくない。
 
わた‐つみ【海祇】(補) 海の神(ア)。海。海上(イ)。
 
わた‐の=そこ 枕。おき。わたのそこ〔五字傍点〕は、海《ワタ》の底である。おきは奥《オキ》で、手近の處に對して言ふ。必しも邊《ヘ》に對して言ふばかりではないから、こゝは水平距離の沖に對して、垂直的に水中をさして、海の底おき〔二字傍点〕とつゞけたものである。
 
わたらひ【度會】 伊勢國度會郡。渡會の齋宮は、渡會の地にいます神の宮。即、天子のいつきかしづき給ふ宮の意。神宮の事である。齋《イツキ》(ノ)宮がゐられるから轉じたとするのは、逆である。
 
(412)わたり‐の‐やま【渡(ノ)山】 石見國那賀郡。石見の國府より大和國へ上る通路に當つてゐたのである。
 
わたる【渡る】 甲處から乙處へ移る間の運動過程を表す。川の瀬を渡る、渡渉する。又、は〔傍点〕行に再活用して、わたらふ〔四字傍点〕の語がある。意は同じである。雲間よりわたらふ月〔五字傍点〕などの用例がある。
 
わたる【亙る】 つゞく。時間をふる。日を送る』。前條の分化。卷十三「太夕占置きて齋ひわたるに(三三三三)。卷五「いかにしつゝか汝が世はわたる(八九二)。
 
わづか‐やま【和束山】 山城國綴喜郡。恭仁《クニ》の京の西北にある山。杣山として造林せられてゐた。卷三「わが大君天知らさむと思はねば、おほにぞ見ける。和豆香|蘇麻山《ソマヤマ》(四七六)。
 
わにこ‐の‐おほとし【丸子(ノ)大歳】 安房國朝夷郡の上丁で、孝謙天皇の天平勝寶七年、筑紫に遺された防人。
 
わにこ‐の‐おほまろ【丸子(ノ)多麻呂】 相摸國鎌倉郡の上丁で、孝謙天皇の天平勝寶七年、筑紫に遣された防人。
 
わにこべ‐の‐すけを【丸子部(ノ)佐壯】 常陸國久慈郡の人。孝謙天皇の天平勝寶七年、筑紫に遺された防人。
 
わぬ【我】(補) われ』。われ〔二字傍点〕の音轉か。卷十四「うべ子なは、和奴《ワヌ》にこふなも、立《タ》と月のぬがなへ行けば、戀《コフ》しかるなも(三四七六)。尚、卷二十「大君のみことかしこみ出で來れば、和努《ワヌ》とりつきて、いひし子なはも(四三五八)のわぬ〔二字傍点〕も、我《ワ》にの訛りでなく、我《ワレ》とりつけて、などの意であらう。
 
わぶ【侘ぶ】 悲觀して日を送る。どうしてよいか、致し方もなく心配してゐる』。ば行上二段活用。自動詞。卷十六「思ひわぶれて寢る夜しぞ多き(三七五九)とあるのが、それである。
 
わる【破る】 碎き破る』。他動詞は四段活用で、自動詞は下二段活用だ。われにし胸〔五字傍点〕は、失望した心で、無形の事に用ゐてある。
 
われ‐じく(補) 「じく」參照。
 
われと【我と】 自然と。おのづと不可抗的に。ひとりで』。卷十一「あしがきの中のにこ草にこよかにわれと笑まして人に知らゆな(二七六一)。
 
(413)わゝ‐く ぼゞける。ほつれる』。か行下二段活用。自動詞。破れるのではなく、繊維のぼやけて來る樣で、衣服に主として言ふが、此場合は、緯絲《ヌキイト》がすりきれて、經絲の間が透いて來るを指す。卷五「海松のごとわゝけさがれる。かゝふのみ(八九二)。
 
わゝら‐ば‐に 亂れてゐる状を形容して言ふ。卷八「玉にぬき消たず賜《タバ》らむ秋萩のうれわゝらばに置ける白露(一六一八)。ばら/”\と譯すれば當るが、斑々の意でなく、ばら/”\に亂れるばかりの容子である。
 
わをかけ‐やま【和平可鶏山】(補) 相摸國足柄群山の中の一峰。但、実の名は、かけ山で、かく〔二字傍点〕と言ふ語の序に「我《ワ》を」を据ゑたものと考へられる。關本宿の老人が、矢倉嶽(今の足柄峠の北に在つて、其峠と御殿場道を挾んでゐる山)だと言うたのは、根據が知れぬ。箱根の神山の高峰で、大地獄の眞上な冠嶺が、冠、或は冠の裝飾品を、古くかけ〔二字傍点〕と言うた點から見て、若しくはかけ〔二字傍点〕山を、形の冠に似た點のいつまでも忘られなかつた爲に、冠嶽と言ひかへて、稱へつゞけて來たものかと考へられる。
 
     ゐ
 
ゐ【井】(補) 本集時代の井は、まだ、多く掘り井であつたものと思はれる。歸化人、或は、歸朝僧などの手で掘られたものも、幾らかはあつたであらうが、多くは、自然井なる泉の水を利用して居たので、此頃の人居が、尚、此井を中心に發達してゐた事は、市が、多く井の邊(ゐのへ)に在つた事でも知れる。藤原の宮《ミヤ》ぼめも、藤井《フヂヰ》が主になつてゐる。此藤井も、掘り井でなく、大きな湛へであつた事は、天のみかげ・日のみかげの水と言ふ、古い祝詞を轉用した稱《タヽ》へ辭で見ても知れよう。尚、古くは、單に流れ川の一部分、或は池・淵などをも言うたらしく、其遺風は、今日、尚、方言に淵・池をゐ〔傍点〕と言ふ地方もある。天《アメ》(ノ)安川《ヤスカハ》の清き瀬を天(ノ)眞名井《マナヰ》と言うたのを初め、段段例がある。本集時代にも、地方、或は中央にも、流れ川の用水場を、井と言うた風は殘つてゐたらしい。岩井・山の井など言ふのも、岩間の清水である。井が用水路である處から、堰代《ヰデ》など言ふ語もある。(414)すゞがねの驛舍《ハユマウマヤ》のつゝみ井と言ふのは、筒み井で、井筒を使つた掘り井ともとれるが、或は包み井の意で、堤樣の物を築くか、蓋をした泉であつたかも知れぬ。所謂|八信井《ハシリヰ》も大津の走り井の類でなく、量多く噴き出す泉か、急流の水汲み場であつたのであらう。思ふに、井は共同の水汲みであつたらしく、卷九「眞間の井見れば、立ち馴らし水を汲みけむ手古奈《テコナ》し思ほゆ(一八〇八)。卷十四「埴科の石井の手古が言は絶えそね(三三九八)など言ふ歌も出來、男が水汲みに出る女を見ることも出來たのであらう。田舍と言ふ語も、或は井中《ヰナカ》の義かと思はれぬでもない。井を尊重する心から、井の神は到る處に祀られた。
 
 ゐ‐のへ【井(ノ)上】 用水の邊』。井の邊には、多く市姫を祀り、市を立てるから、井(ノ)上と言ふ語が、屡用ゐられたので、卷七「春霞井(ノ)上ゆたゞに云々(一二五六)の井(ノ)上は、地名と見てもよし、又、井(ノ)上と言へば、直に聯想する樣な、名高い井があつての、半固有名詞と見てもよろしい。
 
ゐかひ‐の=をか【猪養(ノ)岡】 大和國磯城郡。吉隱にある崗。又、猪養(ノ)山とも言ふ。
 
ゐ‐で【堰代】 井代《ヰデ》の義か。人工で、流れを堰いて灌漑《ミヅカケ》の深み、即、井〔傍点〕を作るから言ふのであらう。ゐで〔二字傍点〕には、川の全體を堰くのと、一部分を堰くのとがある樣である。此頃の者は、多く後者と思はれる。
 
ゐど‐の=おほきみ【井戸(ノ)王】 傳訣らぬ。天智天皇・天武天皇の頃の人であらう。
 
ゐな【猪名】 攝津國川邊郡。後に郡域が變改して、隣郡の豐島郡へ一部這入つたと見え、豐島の方に爲那都比古《ヰナツヒコ》(ノ)神社(神名式)がある。猪名川は、今の武庫川で、猪名の水門は、武庫川の川口である。猪名野には爲奈野(ノ)牧があつた。
 
ゐなか【田舍】(補) 邑落發達の形式から命けた人居の名で、今日の人が感じる樣な、中央都府に對する地方と言ふ樣な語でなかつた事は、近い地方をあがた〔三字傍点〕、遠い地方をみち〔二字傍点〕と言うたのから見ても、ゐなか〔三字傍点〕と言ふ語が、地方を表したとは考へられぬ。從つてひなか〔三字傍点〕(鄙處)だとする喜田貞吉博士の説の如きも、採り難い。なか〔二字傍点〕と言ふ語は、元、中〔傍点〕よりも廣く使はれたもので、人居などの意ではなかつたかと思(415)はれるふしが、古語にも方言にも見える。ゐ〔傍点〕は田居の田に關した名だと言ふ事が、あまり明らかであつた處から略して、ゐ〔傍点〕とのみ言うたと思はれる。田居中の人居の意で、元は必しも定住せず、農繁の時、そこで寐起きしたのが、終には村の形をとつて、定住を見るに到つたものであらう。本集時代には、二樣の意義の推移の時にあつたものらしい。難波田舍と言ふは、「難波は田舍である」と言ふ文章でなく、難波田舍と名詞として考へるべきで、田舍状態なる難波、即、人居疎らに定住者尠い處と言ふ樣な意に使うてゐるのであらう。柳田國男先生は、居中〔二字傍点〕、即、家居の中〔四字傍点〕で、臺地の人居から低地の田をゐなか〔三字傍点〕と言ひ、枝《エダ》村風にゐなか〔三字傍点〕が發達して行つたものと見てゐられる。とにかく黄牛田器を負うて田舍に將ち往い(垂仁天皇紀)た田舍《デンシヤ》の字は、田居中の掘り立て小屋などの意と思はれる上に、書紀記述の頃、既に、ゐなか〔三字傍点〕と言ふ語が、あつたのだから、此字をゐなか〔三字傍点〕と訓まなかつたとも言へぬ。
 
ゐ‐ぬ【率寢】(補) とも寢する。同衾する。男と女と一處になる』。自動詞。い‐ぬ〔二字傍点〕(寐寢)とは別である。おもに男の方から言ふ語で、此語の對象となる語は、助辭を〔傍点〕を伴はないで、助辭と〔傍点〕のついてゐるのが、本則である。卷十四「筑波嶺の嶺ろに霞|坐《ヰ》すぎかてに息づく君をゐねてやらさね(三三八八)は、君をゐぬではなく、「わが息づき思へる君なるよ。いざ君、とも寢して後こそわれを措きても行《ヤ》らさね」と言ふ意である。を〔傍点〕の有無に關せず、他動詞らしく感ぜられ相であるが、本集時代には、既に自動詞的情調に固定してゐるのである。
 
ゐ‐まち‐つき 望《モチ》・立ち待《マ》ち・居待《ヰマ》ち・臥《フ》し待ちなどと月あかしの戸巾は云々と言ふ、此「ゐまち月」は、後世に言ふ所の十八夜の月の事である。宵の程は眞の闇なのだから、月ののぼるや、殊更に明るく感ぜられて、此詞を似て「あかし」に冠らせるに至つたものであらう。
 
ゐる【居る】(補) わ行上一段活用。自動詞。すわつてをる。下《シタ》にをる(ア)。ぢつとしてをる。動かずにをる(イ)。棲む。宿る。とまる(ウ)。ある。一つの働作の續く(エ)。ゐ〔傍点〕は、ゐ〔傍点〕・ゐ〔傍点〕・う〔傍点〕(坐)と働いた古形の名詞法から出たもので、語尾のる〔傍点〕は、あり〔二字傍点〕の意識を失う(416)た接尾語である。此點、をり〔二字傍点〕のり〔傍点〕と違うてゐる。卷十七「立ちて爲底《ヰテ》(四〇〇三)、同「立ちても爲底毛《ヰテモ》(三九九三)、卷五「二人竝び爲《ヰ》(七九四)、卷十五「向ひ爲弖《ヰテ》(三七五六)、卷九「傍爲而《ソヒヰテ》(一七三七)などは、坐する意である。(イ)の意に使うたのは、卷十四「つくばねの嶺《ネ》ろに霞|爲《ヰ》(三三八八)、同「霞|爲流《ヰル》富士の山びに(三三五七)、其外ゐる雲〔三字傍点〕・雲居〔二字傍点〕など多い。かゝる〔三字傍点〕と譯してもよい。卷十四「望多《ウマクタ》の嶺ろに可久里爲《カクリヰ》(三三八三)、おくれゐて・とまりゐてなど言ふのも、皆、此類である。(イ)が一轉すると、卷十九「千鳥鳴くらし爲牟《ヰム》ところなみ(四二八八)。卷十四|爲流《ヰル》たづの(三五二三)などのゐる〔二字傍点〕となる。記卷中「ほつ枝は鳥|韋賀良斯《ヰカラシ》(四三)及び鳥に關したゐ〔傍点〕と言ふ語にあてた居の字は、すべて此である。人にも使ふ事はある樣である。(エ)は、存續の意を示すもので、今のゐる〔二字傍点〕の用法と似てゐる。が、(ア)(イ)(ウ)の何れかに割り込ませて考へる事も出來る。今の活用は、古形の名詞法ゐ〔傍点〕に用言語尾る〔傍点〕をつけて、終止以下を作つたのである。今は生物の存在を示す樣になつてゐるが、元は、まうすこし廣くて、ぢつとしてゐると言ふ意味には、無生物の雲や霞も雲ゐ〔二字傍点〕・霞ゐる〔三字傍点〕など言ふ。ぢつとかゝつてゐる意である。又、後期王朝の物だが、伊勢物語に、「燠《オキ》のゐて〔二字右・〕身をやくよりも悲しきは都島べのわかれなりけり(二二)と言ふ風なゐ〔傍点〕がある。此ゐる〔二字傍点〕は、古い内容を存してゐるので、今ならば、活かつてゐる・活けられてゐると言ふ處を、熾《オコ》り火《ビ》が在ると言つてゐるのである。又、立つとゐると〔六字傍点〕など言ふ時は、すわつてゐる・下にゐると言ふ事で、寐ないでゐるの場合は、居《ヰ》明して〔三字傍点〕など言ふのが、其である。「う」「をり」參照。
 
ゐる‐くも=の 枕。たちてもゐても。山にかゝつてゐる雲の、起る樣、懸つてる樣などを譬喩にしたのである。拾遺集卷十三「あしびきのかづらき山にゐる雲の、立ちてもゐても云々(七七九)。
 
ゐる‐たづ‐の 枕。ともしききみは。洲に立つてゐる此鳥の姿を珍重して、言ひかけた詞であらう。友とかけて、つがひを聯想したものではなからう。
 
     ゑ
 
(417)‐ゑ(補) 感歎語尾。よ〔傍点〕と譯《ウツ》して訣る。形容詞にも動詞にもついて、卷十四「上つ毛野|佐野《サヌ》のくゝたち折りはやし、あれは待たむゑ。今年來ずとも(三四〇六)。卷四「山のはにあぢ群《ムラ》さわぎ行くなれど、吾はさぶしゑ。君にしあらねば(四八六)。苦しゑ・よしゑ・かなしゑ、などのゑ〔傍点〕も、此である。
 
ゑぎやう【惠行】 傳訣らぬ。越中國の國分寺に講師としてゐた僧である。
 
ゑぐ 慈姑の類で、其葉は、蘭に似て、もつと小さく、根に白くて小さい、慈姑の樣な塊根があつて、其味がゑぐい〔三字傍点〕處から、ゑぐ〔二字傍点〕と言ふのだと言ふ。又、芹の異名だ、とする説もあるが、從ひにくい。
 
ゑ‐に【故に】(補) 其によつて』。卷十五「思ふ惠爾〔二字傍点〕逢ふものならば、しましくも、妹が目かれて、あれ居らめやも(三七三一)とあるのを、賀茂眞淵がゆゑ〔二字傍点〕だとしたのがよい樣である。鹿持雅證は、やうに〔三字傍点〕と説いて、如く・通りに・まゝになどゝ譯すべきものと考へてゐた樣である。
 
ゑにす‐の=もと【槐(ノ)本】 (補)山上・春日・高市などの氏と竝べてゐる處から見れば、名を言ふに及ばぬ程名高かつた人の氏であらう。但、此氏、書物には見えて居ぬが、ある氏の複姓と見るべきであらう。
 
ゑひ‐なく【醉ひ哭く】 酒に醉うて哭く。くだ〔二字右・〕をまく』。大伴旅人の讃酒歌十三首のうちに、此語が三个處も見えてゐる。字面から見れば、泣き上戸の哭く容子であらうが、單にくだ〔二字右・〕をまいて、語音の明らかでないのを言ふとも、とれる樣である。
 
ゑまは‐し【笑はし】(補) ほく/\とした心持ちを表す語』。思ひ出し笑ひをする樣な快さを言ふので、卷十八「あぶら火の光りに見ゆるわがかづらさゆりの花の、ゑまはしきかも(四〇八六)の上句は、さゆり〔三字傍点〕を起す序と見るべきで、※[草冠/縵]を詠んたのでなく、愉快な心の衷を歌うたのである。
 
ゑま・ひ【笑ひ】(補) ゑむ〔二字傍点〕の再活用ゑまふ〔三字傍点〕の名詞法。につこりした顔つき。卷三「常なりしゑまひふるまひ(四七八)、卷十二「わぎもこがゑまひまよびき(二九〇〇)など言ふ。
 
ゑみ‐まがる【笑み曲がる】(補) 首を傾けて感じ入つて、ほくそ笑みしてゐる容子。笑む時に眉の撓《マガ》るを言ふとした鹿持雅澄の考へも、笑み設《マ》けだとした説(418)もわるい。卷十九「桃の花紅色に匂ひたる面わのうちに、青柳のくはし眉根を。咲麻我理《ヱミマガリ》朝かげ見つゝ處女らが手にとり持《モ》たる(四一九二)は、眉根をで、一旦きつて、よ〔傍点〕と譯するか、或は咲みまがり朝かげに眉根を見ると説くか、すべきである。
 
ゑみ‐ゝ=ゑまずも(補) にこ/\してゐる時も、又、さうでない時も引きくるめて。
 
ゑ‐む【笑む】(補) ほく/\する。にこ/\する』。壓へきれぬ心持ちよさの湧いて來る時の容子。大笑するのでなく、僅かに口を開く位の樣で、ゑ〔傍点〕を語根としてゐる。
 
ゑら‐/\=に 心滿足して歡喜怡樂する状。酒を呑んで、上機嫌の容子』。ゑら〔二字傍点〕はゑらぐ〔三字傍点〕の語根である。
 
      を
 
を【緒】(補) 物を貫いてつなぎ止める絲・紐の類の總名(ア)。又、用途に係らず、細長くて、紐の樣な物(イ)。苧《ヲ》を以てこしらへた爲の名と見えるが、或は形の上から、尾に關係がないとも言へぬ。又、伴《トモ》(ノ)緒《ヲ》のを〔傍点〕・年の緒のを〔傍点〕・いきの緒のを〔傍点〕など、皆、此をに交渉あり相に考へられてゐるが、其らは、實は、何の縁もない語原不明の語であらう。玉の緒が當代以前から注意に上つて、修辭的に始終用ゐられてゐる。荷の緒《ヲ》など言ふ語もあるから、(ア)は(イ)の分化したものと見る事が出來るかも知れぬ。(イ)の例として變つてゐるのは、弦緒《ツラヲ》(弓弦)である。
 
を【男・雄】(補) め〔傍点〕に對する。をとこ。男性(ア)。をつと。男性の配遇者(イ)。又、接頭語として名詞の男性を表し、時としては、強い者・優れた者・大きな者などを示す事がある。いもせ〔三字傍点〕のせ〔傍点〕に同じくて、稍、新しいものと言ふ事も出來るが、時代の前後は、一概には定められぬ。いも〔二字傍点〕・せ〔傍点〕、を〔傍点〕・め〔傍点〕は古くから併用せられてゐる。
 
を【岳・峰】(補) 谷に對した語。山の脊《セ》。山や丘の高み。必しも頂上の意味でなく、山中の高みは、皆を〔傍点〕である。尾の字に囚はれて山裾などゝ考へてはならぬ。元來を〔傍点〕は、高地の意であるらしく、今日も方言にあるそら〔二字傍点〕・たか〔二字傍点〕など言ふ語と似て、漠然たる地形を指す語らしい。むかつを〔四字傍点〕は向うの山の意でなく、(419)目の前の高地を言ふのである。を〔傍点〕に峽の字をあてたものが、記紀には見えるが、峽《カヒ》の意はない樣である。
 
 を‐の‐へ【峰(ノ)上】 山・丘の高みの邊。
 
 を‐ろ【峰ろ】 を〔傍点〕と同じい。
 
 を‐ろ=た【峰ろ田】 東語。山田。高地につくつた田。
 
を【尾】(補) 獣の尻尾(ア)。鳥の尻羽根(イ)。さき〔二字傍点〕・すゑ〔二字傍点〕・はし〔二字傍点〕などの轉義をも持つてゐた樣である。
 
 を‐ろ【尾ろ】 ろ〔傍点〕は意味訣らぬ語尾。尾〔傍点〕と言ふと、同じい。山鳥の尾の極尾《ハツヲ》など言ふ。俳諧派の倭學者が、山鳥の姿をうつし見る野中の水溜りををろのかゞみ〔六字傍点〕など言ふのは、獨斷の虚妄で、卷十四「鏡かけとなふべみこそ(三四六八)の歌を誤解したのである。
 
を(補) 或は尾と關係ある語で、限り〔二字傍点〕・はて〔二字傍点〕など極限を言ふ語であらうか。「年のを〔傍点〕長く」は、世のある限り、永久にの意。「いきのを〔傍点〕に思ふ」は、生きの命の限りをかけて、即、一所懸命に思ひつめる意になるのであらうか。併、或は「いきのを」「としのを」は、すつかり別の語原を持つ語かも知れぬ。但、ともかくも、緒に關係ない事だけは、確かである。
 (補)感歎語尾として、よに通じるものと説いてゐる。併、記紀の用例で見ても、可なり古いものと思はれるのにも、單なる詠歎から、躊躇反省の意を示す爲に用ゐられてゐるものが澤山ある。本集のを〔傍点〕は、多くは此意味に使はれてゐる。一通りは、よ〔傍点〕・なるよ〔三字傍点〕に譯しても訣る樣であるが、よ〔傍点〕・なるよ〔三字傍点〕と、一且、感歎して、更にそれに〔三字傍点〕・にも係らず〔五字傍点〕など、飜つて考へる意に用ゐたと見れば、一層明らかに、適切なものが多い。此點、ゆゑ〔二字傍点〕・から〔二字傍点〕の反覆と同樣である。卷四「難波潟潮干のなごり、飽く迄に人の見る子を。われしともしも(五三三)は、人の會ひ見る子よ〔傍点〕でも、子をば可愛《カナ》しく思ふでもなく、「人の見る子よ。然るに……」「人の會ふ子なるに……」など飜すべきである。
 
を‐【小・少】(補) 接頭語。織細・可憐な氣持ちを表すものであつたのが、本集時代には、無意味に、習慣的に附けた樣である。多くは、前代から持ち越した熟語を其儘、踏襲したゞけで、地名・物名其他、奈良盛期には、自由に生きて用ゐられたのではない。
 
‐を(補) 獨立絡を示す語尾。感歎のを〔傍点〕なるものと常に(420)一つにして、あげられてゐる。本集時代には、既に死語として、枕詞の後《シリ》に遺つてゐた。やほたでを〔五字傍点〕・みはかしを〔五字傍点〕・みこゝろを〔五字傍点〕などの類である。尚、其あるものは、本集の人々の心には、目的格のを〔傍点〕の樣に感ぜられて用ゐられてゐたものも、あつたらしく思はれる。
 
をか‐の=みなと【岡(ノ)水門】 筑前國|遠賀《ヲンガ》郡。遠賀川の川口の船どまり。岡は遠賀《ヲカ》と同じで、此邊一帶の地名である。崗《ヲカ》(ノ)水門(神武天皇紀)、崗浦・崗津(仲哀天皇紀)など見える。
 
をかみ‐がは【雄神川】 越中國射水川の一部分の名。礪波郡より出て、二上山の東方で、海に入る。礪波郡の雄神々社の邊での名であらう。
 
をかもと‐の=すめらみこと【岳本(ノ)天皇】 舒明天皇。飛鳥岡本宮に居られたからのよび名である。後(ノ)岡本宮は齊明天皇の皇居であるから、女帝の方の事と、萬葉集古義はしてゐるが、本集のは、舒明天皇の御事であらう。
 
をぎ【荻】 禾本科の植物で、概して水邊に生ずる宿根草。高さ四五尺になつて、莖、蘆に似て、節の問は短くて厚く、中の孔は小さい。花も、莖も、茅に似てゐる。「はまをぎ」參照。
 
をぐ【招ぐ】 が行四段活用。他動詞。おびきよせる。招き寄せる』。本集には、鳥を待ち設ける心持ちに言つてゐる。卷十九「月立ちし日より乎伎《ヲギ》つゝ、うちしぬび待てど來鳴かぬほとゝぎすかも(四一九六)。卷十七「雲がくり翔りいにきと、歸り來てしはぶれつぐれ呼久《ヲク》よしなければ(四〇一一)。
 
を‐ぐき【小岫】 を〔傍点〕は接頭語。くき〔二字傍点〕は峰の意。東條操氏は、常陸で言ふと言はれた(土俗と傳説一の二)。武藏野のをぐき〔三字傍点〕と言はるべき地は、平野の中では、或は狹山地方の丘陵及び國府邊の獨立の岡の外はないが、其と限らずとも、多摩川向ひの相摸側の山、或は西の秩父の端山を斥したと見てもよからう。ともかくも岫の漢字の意に囚はれる必要はない。
 
をぐさ【乎具佐】 在りか訣らぬ。
 
をぐら‐の=やま【小椋(ノ)山】 飛鳥岡本宮の近傍にある山と思はれる。多武峰の端山であらう。卷八「夕されば小椋(ノ)山に鳴く(伏す)鹿の今宵は鳴かず。いねにけらしも(一五一一)、卷九に「白雲の龍田(ノ)山の(421)たぎの上の小鞍(ノ)嶺に(一七四七)とあるのは、生駒郡龍田山の一つの峰である。
 
をさ【筬】 機織の器で、竹を竝べて櫛形に作つてある。其目に縱の絲を入れて、間隔を調節し、又、横糸を壓して、隙間のない樣にする器。機を織る時には、忙しく筬を動かすから、暇なし〔三字傍点〕と言ふ意の譬へに、よく用ゐられる。
 
をさだ‐の‐おほしま【他田(ノ)大島】 舍人の家である。信濃國小縣都の國造で、孝謙天皇の天平勝寶七年、筑紫に遣された防人。
 
をさだべ‐の‐こいはくま【他田部(ノ)子磐前】 上野國の人。孝謙天皇の天平勝寶七年、筑紫に遣された防人。名はこいはさき〔五字傍点〕ではなからう。
 
を‐さと【雄里】 所在訣らぬ。但、雄の字を用ゐる地名が多いから、小里ではなく、雄里であらう。卷十四「乎佐刀《ヲサト》なる花橘をひきよぢて(三五七四)。
 
をさむ【治む】 亂れない樣に整へる。國を統治する。卷二「和※[斬/足]《ワザミ》个原のかり宮にあもりいまして、天の下|治賜《ヲサメタマヒ》、食國を定め賜ふと(一九九)。
 
をさ‐/\ とりたてゝ……ぬ。はか/”\しくも……ぬ。立派に……ぬ』。副詞語尾も〔傍点〕を添へる事もある。本集時代、既に、下に否定を伴うてゐる。語原は長々〔二字傍点〕である事勿論であるが、否定の意が其を掩うて反對を言ふ事になる。卷十四「鳥矢《トヤ》の野に兎(をさぎ)ねらはり、乎佐乎左毛《ヲサヲサモ》寐なへ子ゆゑに、母に罵《コロ》ばえ(三五二九)。
 
をし【鴛鴦】 をしどり』。水禽。形はこがもに似てゐる。雄の頭の上には毛冠、翼の上には一對の飾り羽、即、思ひ羽〔三字傍点〕とも劔羽〔二字傍点〕とも言ふ物が立つてゐる。雌は雄ほどに美しくはない。嘴は平たくて短く、趾の間にみづかきがある。雌雄常住離れないので、男女の睦まじい譬喩にも使ひ、戀愛的の聯想も起したものと見える。卷十一「妹に戀ひいねぬ朝明に男爲鳥從是《ヲシドリノコユ》飛びわたる妹が使ひか(二四九一)。
 
を‐す【小簾】 小〔傍点〕は意味のない接頭語。すだれ。
 
をす【食す】 めしあがる。食ふの敬語(ア)。轉じて、知ろしめす。統治せられる(イ)。語尾めす〔二字傍点〕と同じ樣にも使ふ(ウ)。御食物ををしもの〔四字傍点〕と言ふ。をすくに〔四字傍点〕のをす〔二字傍点〕は(イ)の例。きこしをす・しろしをすは、(ウ)の例。
 
をす‐くに【食國】 天皇の領せられる國。夜(ノ)食國は、(422)夜の神の領する國の意か。
 
をすて‐の‐やま【小爲手の山】 紀伊國。在りか訣らぬ。但、卷七「安太部《アダヘ》行く小爲手《ヲステ》の山(一二一四)とあるから、大和國との境と見える。本居宣長の在田郡保田庄|推手《オシテ》村と言ふ説は、確かでない。
 
をそ‐ろ【虚言ろ】 嘘。僞り言。ろ〔傍点〕は語尾。或はあり〔二字傍点〕から退化した助辭で、なり〔二字傍点〕の意を含むものか。
 
を‐だ【小田】(補) 田。接頭語を〔傍点〕は、本集には、何の反省もなしに使はれてゐる。併、此らの中には、或は丘田《ヲダ》の意に用ゐたものがあるかも知れぬと思はれる。
 
を=だえ【緒絶え】(補) 紐ちぎれ、紐の斷れること。玉の緒を掛けてゐるから、緒絶えは、日常の問題であつたのである。夫婦の絶縁に譬へてゐる。
 
をだ‐の=おほきみ【小田(ノ)王】 聖武天皇の天平六年正月從五位下に敍せられ、十年閏七月大藏大輔となり、十六年二月木工頭で恭仁宮の留守となり、十八年四月因幡守に移り、從五位上に進み、天平勝寶元年十一月正五位下に敍し、ついで正五位上になつた。
 
をだ‐の‐ことぬし【小田(ノ)事主】 傳訣らぬ。流布本には小田事とよりないが、六帖にことぬし〔四字傍点〕とある。
 
をたひ‐の=おほきみ【小鯛(ノ)王】 傳訣らぬ。但、小註に、小鯛(ノ)王者、更(メテ)名(ク)2置始(ノ)多久美(ト)1斯人也。とある。置始《オキゾメ》(ノ)連を賜つて、臣下に列した人であらう。
 
をち【彼方】 向う。あちら(ア)。遠い處(イ)。場所を示す代名詞。をちこち〔四字傍点〕は彼方此方で、あちらこちらの意。又、時間を表す時に用ゐる事もある。卷四「眞玉つく彼此《ヲチコチ》かねて言ひは言へど逢ひて後こそ悔いにはありと言へ(六七四)、卷十二「眞玉つく越乞《ヲチコチ》かねてむすびつるわが下紐の解くる日あらめや(二九七三)。をち〔二字傍点〕は過去、こち〔二字傍点〕は現在及び未來にかけてゐる。又、未來にも言ふ。卷十五「このごろは戀ひつつもあらむ。玉くしげ明けて乎知欲利《ヲチヨリ》。すべなかるべし(三七二六)。
 
を‐ぢ【翁】 ぢいさん。老人(ア)。年とつた人を呼ぶ時の二人稱の代名詞(イ)。
 
をち‐かた【彼方】 あちらの方。向うの方(ア)。遠くの方(イ)。古くより單に向うの方、遠方など言ふに止らず、邊土・田舍など言ふ意に使つてゐるのでないかと思はれる。恰もあなた〔三字傍点〕とあがた〔三字傍点〕とに關係があり相な樣に。卷十一「彼方《ヲチカタ》の赤土少屋《ハニフノコヤ》にながめふり、床さへ濡れぬ。身に副へわぎも(二六八三)、卷二「大名古が彼方野邊《ヲチカタヌヘ》に刈る草《カヤ》の束の間も我忘れめや(一一〇)などに、さう言ふ意が感ぜられるのは、彼方乃繁木我本《ヲチカタノシゲキガモト》(大祓)。烏智可※[方+施の旁]《ヲチカタ》の阿婆努のきゞしとよもさず(齊明天皇紀)などに徴しても、理由があり相だ。
 
をち‐みづ【變若水】 わかやぎの泉。fountain of youth。若がへりの水』。支那思想から來たものか。飲めば若くなる不思議な水。かの養老の水も、此一種である。本集時代の人々は、此泉の實在を信じたものらしく、かの多度山の養老の泉の見出されたのも、或は天子、方士の言を信じて、諸國に若やぎの水を求めしめられた結果かも知れぬ。多く、此水は月中にあるものとして考へてゐる樣である。不老不死の泉と言ふよりも、若がへる泉と信じてゐた樣である。卷四「わが手本纏かむと思はむますらをは變水《ヲチミヅ》とめよ白髪生ひにたり(六二七)。卷十三「月よみの持《モ》たるをち水い取り來て(三二四五)。月神が持つてゐると考へたなどは、太古の月讀(ノ)神と、支那流の月神思想との相違を示してゐるので、山城國綴喜郡には月神の社もあつた。持たると言ふからは、單に月中にあると言ふのではなからう。卷四の變水は、古くから戀水として、なみだ〔三字傍点〕と戯訓せられたものであるが、友人武田祐吉の創意で、をちみづ〔四字傍点〕と訓む事になつたのである。
 
をつ【復つ】 くりかへす。もとに還る。再戻る(ア)。若がへる(イ)』。上二段活用と思はれるが、連體以下の形は見えない。をちかへり鳴くと言ふ句は、集中に數个處ある。卷十七「手放れも乎知《ヲチ》もか易き此を措きて、またはありがたし(四〇一一)。此も鷹が、出發も、立ち歸りも澁ることなく、使ふによかつた事を言ふのである。卷六「いはつなのまた變若反〔三字傍点〕あをによし奈良の都を又も見むかも(一〇四六)も、變若反〔三字傍点〕の字は、(イ)の意であるが、其は宛て字に過ぎないで、實は(ア)の意ともとれる。(イ)の用語例のものは、卷五「我がさかりいたくくだちぬ雲にとぶ藥はむとも麻多遠知米也母《マタヲチメヤモ》(八四七)。卷六「いにしへゆ人の言ひ來る老い人の變若云《ヲツチフ》水ぞ。名に負ふ瀧の瀬(一〇三四)。卷四「我妹子は常世の國に住みけらし。昔(424)見しより變若《ヲチ》ましにけり(六五〇)。又、變〔傍点〕一字でをつ〔二字傍点〕と訓ましたのは、卷三「わがさかり復將變八方《マタヲチメヤモ》ほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ(三三一)。變水と書いてをちみづ〔四字傍点〕と訓ませる處もある。
 
を‐つくば【小筑波】(補) つくば〔三字傍点〕と同じい。常陸國筑波山及び山下の地方。
 
 を‐つくば=ねろ【小筑波嶺ろ】 筑波山。
 
をづめ【小集樂】 神事の日に、氏子の者が神社近くに集つて、宴樂をするのだと言ふ。或は歌垣・※[女+耀の旁]歌會《カガヒ》の類の行事か。左註には衆集野遊の字が見える。をづめ〔三字傍点〕と訓む事、尚、一部の疑問が殘つてゐる。仙覺抄にはをべら〔三字傍点〕とも見える。卷十六「住の江の小集樂に出でゝまさかにも己妻《オノヅマ》すらを鏡と見つも(三八〇八)。を〔傍点〕の字に小〔傍点〕を宛てたのは、民間語原であらう。併、紀卷二十七「うちはしのつめ〔二字傍点〕の遊びに出でませ子(二三一)のつめ〔二字傍点〕は、此に關係あるか。
 
をて‐も=この‐も【彼面此面】 をちもこのも〔六字傍点〕の訛り。をち〔二字傍点〕は遠方にも通ずるあちら〔三字傍点〕と言ふ語。あちの方面《ガハ》、こちらの側の意。山について言ふ語。
 
をとめら‐が 枕。そでふる。布留山の序。袖ふる〔三字傍点〕を 起す爲に、をとめの舞ひぶり、或は人を喚ぶ樣に聯想して、枕詞としたのである。
 
をとめら‐に 枕。あふ。處女に媾會する意から、逢坂山を起す。
 
をな‐の‐を【乎奈之蜂】(補) 山の名。今、知る事が出來ぬ。
 
をぬ‐の‐あはまろ【小野(ノ)淡理】 傳訣らぬ。朝臣姓の人であらう。名、或はあはまさ〔四字傍点〕とも訓むか。
 
をぬ‐の=おゆ【小野(ノ)老】 姓朝臣。元正天皇の養老三年正月從五位下に敍し、四年十月右少辨となり、聖武天皇の天平元年三月從五位上、三年正月正五位下、五年三月正五位上、六年正月從四位下になり、九年六月十一日大宰大貮で卒した。大伴旅人が大宰帥の頃は、少貮であつたと見える。
 
をぬ‐の‐くにかた【小野(ノ)國堅】 姓朝臣。聖武天皇の天平十一年に大初位上史生であつた。
 
をぬ‐の‐たもり【小野(ノ)田守】 姓朝臣。聖武天皇の天平十九年正月從五位下に敍し、天平勝寶元年閏五月大宰少貮となり、孝謙天皇の天平勝寶五年二月遣新羅大使となり、四月大宰少貮となる。ついで天平寶(425)字元年七月刑部少輔に移り、二年遣勃海大使として行つて、大使なる輔國大將軍兼將軍行木底州刺史兼兵署少正開國公楊承慶以下廿三人を從へて、歸朝して、十月從五位上を授かり、宛も唐の安禄山の亂に遭遇したので、其状を上奏して居る。
 
をぬ‐の‐つなで【小野(ノ)綱手】 姓朝臣。聖武天皇の天平十二年十一月外從五位に敍せられ、十五年六月内藏頭となり、十八年四月上野守に遷り、從五位下に進んだ。
 
をぬ‐の=まへつぎみ【小野(ノ)大夫】 「をぬのおゆ」參照。
 
を‐の‐かみ【雄(ノ)神】 男の神。主として、山の二上山型で、男體・女體ある時に、男體の峰をさして言ふ語。山岳神靈を信じた時代に、山を直に神と觀じたのである。卷九「嘯き登り、峰上《ヲノヘ》を君に見すれば、男神毛《ヲノカミモ》許し給ひ、女神《メノカミ》も倖《チハ》ひ給ひて(一七五三)。
 
をの‐と【斧音】 をのおと〔四字傍点〕の融合。をのゝ音〔四字傍点〕のの〔傍点〕が落ちたのではない。
 
をはつせべ‐の‐かさまろ【小長部(ノ)笠麻呂】 信濃國の人。孝謙天皇の天平勝寶七年、筑紫に遣された防人である。
 
を‐ばな【尾花】 薄。禾本科の自生の多年生の草。高さ七尺位になる。秋闌けて、長い穗状の花が集つて莖の頂に簇生する。をばな〔三字傍点〕と言ふのは、尾の樣だからの名か。秋の七草の一に數へられる。卷八「萩が花・乎花《ヲバナ》・葛花・撫子の花・女郎花、又、藤袴・朝顏の花(一五三八)。
 
 はつ=を‐ばな【初尾花】 はじめて穗に出た頃の、若やかな輝いたのを、賞美して言ふ。卷十「さをしかの入野のすゝきはつをばな(二二七七)。
 
を‐はなり【放髪】 を〔傍点〕は接頭語。はなり〔三字傍点〕に同じい。童女の髪の形(ア)。さう言ふ髪形にしておく年頃の童女(イ)。
 
をはりだ【小墾田】 又、小治田、大和國高市郡。元、飛鳥の都の一部分の地名。恐らく其南の部分と思はれる。推古天皇の十一年、豐浦(ノ)宮から小墾田(ノ)宮に遷られた。奈良に遷都あつて後は、飛鳥・藤原京をこめて小治田京とも言つてゐる樣である。此は地名の發展と、今一つは飛鳥京・藤原京と言ふ、紛しさをさけたのであらう。現に奈良遷都の際には、藤原(426)京をも飛鳥の里と言はれたらしい、紛しい御製がある。延喜式には、治田《ハリタ》神社がある。小治田の地であらう。卷十一「小墾田之坂田の橋のくづれなば、桁《ケタ》より行かむ。な戀ひそ我妹(二六四四)。
 
をはりだ‐の‐あづまゝろ【小治田(ノ)東麻呂】 傳訣らぬ。小治田氏は朝臣姓。武内宿禰五世の孫、稲目宿禰の後である。飛鳥の小治田に居た處の家名であらう。
 
をはりだ‐の=ひろせ‐の=おほきみ【小治田(ノ)廣瀬(ノ)王】 單に廣瀬(ノ)王とも言ふ。小治田は居所より言ふか。思ふに飛鳥川の廣瀬の地に家が在つたので、廣瀬郡の廣瀬とわける爲の名か。天武天皇の十年三月川島皇子・草壁皇子等と共に帝紀及び上古の諸事の記定を命ぜられ、十三年二月淨廣肆であつたが、畿内で遷都の地を視祭し、十四年八月畿内の人夫の兵を檢し、持統天皇の六年三月伊勢行幸に留守し、文武天皇の大寶二年十二月從五位下で、造大殿垣司となり、三年十月持統天皇の御葬司御裝(ノ)副《スケ》となり、元明天皇の和銅元年三月從四位上で、大藏卿となり、養老二年正月正四位下に進み、六年正月二十八日散位で卒せられた。又、廣湍(ノ)王。
 
をはりだ‐の‐ひろみゝ【小治田(ノ)廣耳】 姓朝臣。績紀には廣千とある。恐らく此人の誤りであらう。廣千は、聖武天皇の天平五年三月外從五位下に敍せられ、十一年正月從五位下に進み、十三年八月尾張守、十五年六月讃岐守になつて居る。
 
をはりだ‐の‐もろひと【小治田(ノ)諸人】 姓朝臣。聖武天皇の天平元年三月外從五位下に敍せられ、九年十二月散位頭となり、十年八月豐後守に遷り、十八年五月從五位下、孝謙天皇の天平勝寶六年正月從五位上を授けられた。
 
をはり‐の‐をぐひ【尾張(ノ)少咋】 聖武天皇朝の人。大伴家持が越中守であつた時、越中國の史生であつた。姓は連であらう。
 
を‐ふ【麻原】 麻の澤山生えてゐる場處。ふ〔傍点〕は原の意。生《オフ》のつまつたものではない。卷十一「櫻麻《サクラソ》の苧原《ヲフ》の下草露しあれば(二六八七)。
 
を‐ふ【終ふ】 他動詞。は行下二段活用。終へる。完結する。成就する。成功する』。卷十四「紫は根をかも終ふる。人の子のうら悲しけを、寢を終へな(427)くに(三五〇〇)。根を終ふ〔四字傍点〕は、根を採り果して殘さぬ事であらう。寢を終ふ〔四字傍点〕は、共寢をする事に成功するの意。
 
をふ【終ふ】(補) 完全圓滿に事を處理する。遺漏なくする(ア)。しまひ迄|爲《シ》遂げる。とゞのつまり迄おしとほす(イ)。此語、今は單に、しまふ・遂げる・はたすなどゝ譯されて了ふが、本集のをふ〔二字傍点〕は(ア)(イ)の兩義を心得て見ねばならぬ。即、副詞過程が深く含まれてゐるのである。祝詞に屡見える稱辭竟奉留《タヽヘゴトヲヘマツル》など言ふのも、決して終る意でない事は、常に文章の初めに來て、「何神のみ前に……」と言ふ風であるのでも知る事が出來る。古今集に見えた卷一「睦月たち春の來たらばかくしこそ梅を折りつゝ樂しき乎倍米《ヲヘメ》(八一五)のをふ〔二字傍点〕も、(ア)の意味に於て、完全に説く事が出來るのである。同じ例に屬するものには、卷十九「春のうちの樂しき終者《ヲヘバ》、梅の花たをり持ちつゝ遊ぶにあるべし(四一七四)。古今集卷二十「新しき年の始めにかくしこそ千年をかねてたのしきをへめ(一〇六九)などがある。
 
をふ‐の=さき【麻生(ノ)埼】 越中國氷見郡、布勢(ノ)海の中にあつた埼の名。布勢湖の變改から、今は恐らく其地も、平地の高處位になつた事であらう。
 
をみなへし【女郎花】 又、娘部思。佳人部爲。美人部師など假名書きする。敗醤科に屬する山野自生の多年生草。三四尺に延び、葉は複葉で對生してゐる。秋になると、黄色な小粒の花が、繖形に列んで奇麗に咲く。秋の七草の一である。宛て字を見ても知れる樣に、をみな〔三字傍点〕を民間語原的に女に聯想してゐた事は知れる。又、をみなへし〔五字傍点〕から既に、をとこへし〔五字傍点〕の名を作つてゐた事も、卷二十「秋の野に今こそ行かめものゝふの平等古乎美奈《ヲトコヲミナ》の花にほひ見に(四三一七)とあるので知れる。女郎花〔三字傍点〕の字は、菊の異名として作られたもので、をみなへし〔五字傍点〕の事でない、とせられてゐる。
 
 をみなへし。 枕。さき。卷十「女郎花咲野に生ふる白躑躅(一九〇五)。同「女郎花咲野の萩ににほひて居らむ(二一〇七)。卷四「女郎花咲澤に生ふる花勝見(六七五)。卷七「女郎花生澤邊のまくず原(一三四六)などゝ見えてゐる。女郎花の咲と言ふのに、佐紀〔二字傍点〕とかけたのである。さて佐紀〔二字傍点〕は、大和(428)國添下郡の郷名で、そこの澤を佐紀澤、野を佐紀野〔三字傍点〕と言ふ。生澤〔二字傍点〕もおふる澤邊でなく、さきさは〔四字傍点〕と訓むべきであらう。
 
をみ‐の=おほきみ【麻績(ノ)王】(補) 日本紀によると、天武天皇の四年四月三位で、罪あつて因幡國に流された。一子は伊豆島、又、一子は値嘉島に流された。卷一の伊勢國伊良虞島に流すと言ふのも、一説であらう。常陸國行方郡板來の驛の西の榎林の在る處が、天武天皇朝に、此王を居させた處、と傳へるが(常陸國風土記)、現にある。契沖は、父輕くて子の重いのは、子の罪に坐したものだらう、と言つてゐるが、何とも訣らぬ。壬申の亂の關係かも知れぬが、此亦何とも言はれぬ。貴種流離譚の古いものゝ一つで、更に古いのは、久米(ノ)若子《ワクゴ》であるが、此は、其が後の形であらう。海邊の土地と貴種流離とが、備つて居ると、此王の事と考へられる事になつたのであらう。日本紀に傳へた通りの事實を、あちこちで附屬したと説かれ相であるが、日本紀の方で、因幡の古傳を採用したのかも知れねのである。奈良の文獻が皆、違うた傳へを持つて居るのは、おもしろい事である。
 
をり【坐り】(補) ら行變格活用。自動詞。ゐる〔二字傍点〕の状態的なのに対して動作的に使つてゐる。而もあり〔二字傍点〕の情調を多量に持つてゐる。ゐる〔二字傍点〕を使ふよりも、此意味には、をり〔二字傍点〕を多く用ゐる風が見える。卷十九「い群れて乎禮婆《ヲレバ》(四二八四)。ゐ〔傍点〕とあり〔二字傍点〕との融合。ゐる〔二字傍点〕よりは存續の過程を多く含んでゐる。生物等の存在する事を示す語。すわつてゐる。ありつゞく。寢ないでゐる。ぢつとしてゐる。此はゐる〔二字傍点〕の樣に無生物に用ゐる事はない。
 
 いへ‐をり 家を作つて住む。いほる〔三字傍点〕と言ふ語の元か。
 
をる【折る】 ら行四段活用。自動詞。波のうちかへし飜る樣を、をれる〔三字傍点〕と言うたのである。波折《ナヲリ》と言ふ名詞もある。卷七「今日もかも沖の玉藻は、白波の八重折之於丹《ヤヘヲルガウヘニ》みだれてあらむ(一一六八)。
 
をる【浸る】(補) 本集時代には、既に死語の部に這入つてゐたかも知れぬ。やしほをり〔五字傍点〕と熟して殘つてゐた語。普通に釀《カ》むの意に考へられてゐる。或は飽和などの意で、上ずみを捨てゝ濃くする意かと考へてゐ(429)る。酒折の宮のをり〔二字傍点〕も、此意であらう。「やしほ」參照。
 
をろ‐がむ【拜む】 這ひつくばうて、お辭儀をする。低頭平身する(ア)。をがむ(イ)。本集には、まだ明らかに(イ)は出てゐぬ樣である。「折《ヲ》り屈《カヾ》む」だと説く樣に、身を折つて敬ふ樣に使ふ。がむ〔二字傍点〕はやさかむ〔四字傍点〕などのかむ〔二字傍点〕と同じ語尾で、屈むに似た内容の語の退化であらう。古い最高の禮法では、跪《ヒザマヅ》き匍《ハラバ》うた上に、掌をも合せたものか。卷三「鹿こそはい這《ハ》ひをろがめ(二三九)は、跪伏の樣を主として敍べてゐると見える。
 
をゝる【撓る】 ら行四段活用。自動詞。ふつさりとある重みに撓《シナ》うてゐる容子。をゝりにをゝり〔八字傍点〕と言ふは、木の枝などのぶら/”\に撓うてゐる事。咲きををる〔五字傍点〕は、花が枝もたわむ迄咲いてゐる樣である。
 
 
萬葉集辭典終
             2006年7月30日(日)午後12時55分、入力終了。
             2007年1月13日(土)午後2時27分、校正終了