古事記序文講義 山田孝雄述、編纂兼發行者 國幣中社【志波彦神社・鹽竈神社】、203頁、非賣品、1935.11.26印刷、1935.11.29發行、1938.5.15.訂正再版
 
(1)        序
 
 國幣中社志波彦神社は元宮城郡岩切村に鎭座し給ひしを、明治七年十二月國幣中社鹽竈神社に奉遷せられ、他日其境内に新築すべき旨、宣命を以て奏告したりき。而して閲歳六十一年にして、昨昭和九年漸く國費を以て社地を闢き、社殿以下諸建物の造營に着手せられぬ。これ予等が多年の宿願を達成せんとするものにして、威激これに過ぐるなし。
 されどこの喜悦の情は、單り新築造營に基く社頭の隆盛に非ずして、實は神明に對し奉り誓約の實を履み、別して宣命の輕んず可からざる道理を瞭にし得たるに在り。故に惟へらく、造營の事固より重大なれども、道義を明にし學理を窮むること、亦片時も疏にすべからずと。乃ち今茲奉賛會を組織するに當り、事業費の一部を割き、社務所内に古事記研究會を設け、毎月一日、元東北帝國大學教授文學博士山田孝雄氏の指導を仰ぎたり。博士は天下周知の碩學にして國語國文學界の權威、特に其國體に關する蘊蓄に至りては他人の追隨を許さざるものあり。往年營職を辭して專ら研究に没頭せらる。予再三博士を訪ひ懇に趣旨の存する所を述べ遂に指導を承諾せられたり。
 この企圖もと相倶に資料を聚集し、互に研究を發表して、一般識者の批判を求め、以て舊説に一歩を進めんと欲するに在りき。唯予等菲才にして志を遂ぐる能はず、全く博士の努力にのみ倚依す(2)るに至りたるは頗る慚愧に堪へざる所也。而して博士の篤學熱心なる、例へば一字の訓讀を附するに古事記の全篇を通讀點檢して一々其用例を比較し、更に関係諸文獻を精査して正確なる斷案を下し、或は一語の出典を求むるに各卷を熟讀玩味して著者の眞意を窮むる等、決して他書の引用に盲從せず、其該博なる學識と忠實旺盛なる研鑽努力とは、學問以外、更に高邁なる人格の感化を受くる事深甚なり。
 されば博士の貴重なる研究時間の大半は本講義準備のために費されたるが如く、古事記序文の講義にすら約八箇月を要したれども、全く博士獨特の研究にして本書に收むる所は博士の集められたる資料の一部分を載録したるに過ぎず、即ち本居平田二大人と雖も未だ開拓せられざりし所多く、以て其價値を想像するに足るべし。
 本講義の筆記に就ては出仕天野武雄君其任に當り、宮城縣女子專門學枚助教授糸原高禮氏之を補佐せらる。茲に山田博士の熱心に指導せられたる勞を謝すると共に其由來する所の一端を記して序と爲す。
  昭和十年八月十日
                  宮司 古川左京
 
(3)  口繪解説
 この古事記は名古屋市眞福寺寶生院に藏する所にして、現存最古の古事記の完本として、學界周知のものたり。この書はかく貴重なるものなれば、明治三十八年四月國寶に指定せられたり。
 原本は三帖、斐紙を用ひ粘葉装にしたるものにして、その上卷の第二十一張目の下に文字ありて「執筆賢瑜俗老廿八歳」とよまれ、中卷の末の糊目の下に同樣の文字見ゆ。又下卷の「古事記下十七丁」とある下にも「執筆賢瑜俗老廿九歳」とあり。以上の記入によりてこの本は賢瑜といふ僧が、二十八歳と二十九歳の時に書寫せしものなるを見る。この賢瑜は同じ寶生院に傳ふる「秘藏寶鑑卷上」の奥書によりて、應安三年に二十七歳なりしことを知る。さればこの書上中二卷は應安四年の書寫、下卷は應安五年の書寫にして今を距ること實に五百六十餘年前の書寫にかゝる。
 こゝに掲げたる寫眞は、古典保存會にて、複製せしものによるものなり。第一葉は上卷の序文のはじめを示し、第二葉は中卷の卷末の一面二葉を示したるものにして、第三葉は下卷の卷末の一面二葉を示したるものなりr。この中下二卷の奥書によりて、これが文永弘安の頃に書寫せられたる本に基づくことを知るべし。
 この本は本居宣長先生も古事記傳の編纂の際に使用せられしかど、それは粗惡なる傳寫本によられしものと見え往々誤を見る。その後も傳寫本の存するものあれど、なほ誤少からざりしなり。大正十四年に古典保存會が寶生院に請うて之を複製せしより後世人はじめて之を完全に利用しうるに至れるなり。
 
(1)   古事記序文
  臣安萬侶|言《マヲス》。
夫(レ) (發句)
混元既(ニ)凝《コリテ》、気象未(ダ)v效《アラハレ》、無(ク)v名(モ)無(シ)v爲《シワザモ》、誰(カ)知(ラム)2其形(ヲ)1。 (漫句)
然(レトモ) (傍句)
乾坤初(メテ)分(レテ)、参神|作《タリ》2造化之|首《ハジメ》1、
陰陽斯(ニ)開(キテ)、二靈|爲《タリ》2群品之|祖《オヤ》1。 〔二行に括弧をつけて、(雜隔句)〕
所以《コノユヱニ》、 (傍句)
出(デ)2入《イリテ》幽顯(ニ)1、日月彰(ハレ)2於洗(フニ)1v目(ヲ)、
浮(キ)2沈(ミテ)海(ノ)水(ニ)1、神祇|呈《アラハル》2於|滌《ソソグニ》1v身(ヲ)。 〔二行に括弧をつけて、(輕隔句)〕
故《カレ》 (傍句)
太素(ハ)杳冥(ナレドモ)、因(リテ)2本教(ニ)1而識(リ)2孕《ハラミ》v土(ヲ)産《ウミタマヒシ》v島(ヲ)之|時《トキヲ》1、
元始(ハ)綿※[しんにょう+貌](ナレドモ)、頼(リテ)2先聖(ニ)1而|察《アキラム》2生(ミ)v神(ヲ)立《タテタマヒシ》v人(ヲ)之世(ヲ)1。 〔二行に括弧をつけて、(雜隔句)〕
(2)寔《マコトニ》知《シリヌ》、(傍句)
懸(ケ)v鏡(ヲ)吐(キテ)v珠(ヲ)、而百王相(ヒ)續(ギ)、
喫《カミ》v劔《ツルギヲ》切(リテ)v蛇《ヲロチヲ》以萬神蕃息(スルコトヲ) 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕 與。 (送句)
議《ハカリテ》2安(ノ)河(ニ)1而平(ゲ)2天下(ヲ)1
論《アゲツラヒテ》2小濱《ヲハマニ》1而|清《キヨメキ》2國土(ヲ)1。 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕
是《ココヲ》以(テ) (傍句〕
番仁岐《ホノニニギノ》命、初(メテ)降(リタマヒ)2于高千《タカチホノ》嶺(ニ)1、
神倭天皇《カムヤマトノスメラミコト》經2歴(シタマフ)于秋津島(ニ)1。 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕
化熊|出《イデテ》v爪(ヲ)、天劔(ヲ)獲《エ》2於高倉(ニ)1、
生尾|遮《サヘギリテ》v徑(ヲ)、大烏|導《ミチビク》2於吉野(ニ)1。 〔二行に括弧をつけて、(輕隔句)(爪は※[災の上部]即ち川か)〕
列《ツラネテ》v※[人偏+舞](ヲ)攘《ハラヒ》v賊(ヲ)、
聞《キキテ》v歌(ヲ)伏(ス)v仇(ヲ)。 〔二行に括弧をつけて、(緊句)〕
即(チ)、 (傍句)
(3)覺《サトリテ》v夢(ニ)而敬(ヒタマフ)2神祇(ヲ)1、所以《コノユヱニ》稱《トナヘ》2賢(キ)后《キミト》1、
望(ミテ)v烟(ヲ)而|撫《ナデタマフ》2黎元(ヲ)1、於《ニ》v今傳(フ)2聖(ノ)帝《ミカドト》1。 〔二行に括弧をつけて、(雜隔句)〕
定(メ)v境(ヲ)開《ヒラクコトハ》v邦(ヲ)、制(シタマヒ)2于|近淡海《チカツアフミニ》1、
正《タヾシ》v姓《カバネヲ》撰(ブコトハ)v氏(ヲ)、勒《ヲサメタマフ》2于|遠飛鳥《トホツアスカニ》1。 〔二行に括弧をつけて、(雜隔句)〕
雖(ドモ)2 (傍句)
歩驟各々異(ニ)、
文質|不《ズト》1v同(カラ)。 〔二行に括弧をつけて、(緊句)〕
莫《ナシ》v不《ズトイフコト》d (傍句)
稽《カムガヘテ》v古(ヲ)以(テ)繩《タダシタマヒ》2風猷(ヲ)於既(ニ)頽(レタルニ)1
照(シテ)v今(ヲ)以(テ)補《オギナヒタマハ》c典教(ヲ)於|欲《スルニ》uv絶(ムト)。 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕
※[既/旦]《イタリテ》d飛鳥清原大宮《アスカノキヨミハラノオホミヤニ》御《シラシメシシ》2大八|洲《シマ》1天皇《スメラミコトノ》御世(ニ)u、
潜龍《センリヨウ》體《テイシ》v元(ヲ)、
※[さんずい+存]雷《センライ》應(ズ)v期(ニ)。 〔二行に括弧をつけて、(緊句)〕
(4)聞(キテ)2夢(ノ)歌(ヲ)1而想(ヒタマヒ)v纂《ツガムコトヲ》v業(ヲ)、
投《イタリテ》2夜(ノ)水《カハニ》1而知(リタマフ)v承《ウケムコトヲ》v基(ヲ)。 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕
然(レドモ) (傍句)
天(ノ)時|未(ダ)《・ズシテ》v臻《イタラ》、蝉(ノゴトク)2蛻《モヌケシタマヒ》於南(ノ)山(ニ)1
人事共(ニ)洽《カナヒテ》、虎(ノゴトク)2歩《アユミタマフ》於東(ノ)國(ニ)1。 〔二行に括弧をつけて、(雑隔句)〕
皇輿忽(チ)駕(シテ)凌(ヘ)2渡(リ)山川(ヲ)1。 (漫句)
六師雷(ノゴトクニ)震(ヒ)
三軍電(ノゴトクニ)逝(ク)。 〔二行に括弧をつけて、(緊句)〕
枚(ツキテ)v矛(ヲ)擧(クレバ)v威(ヲ)、猛士烟(ノゴトク)起(リ)、
絳旗《アカキハタ》耀《カカヤカセハ》v兵《ツハモノヲ》、兇徒瓦(ノゴトク)解(ケタリ)。 〔二行に括弧をつけて、(平隔句)〕
未(ダ)《・ズシテ》v移《ウツサ》2浹辰《セウシンヲ》1、氣※[さんずい+診の旁]自(ラ)清(マリヌ)。 (漫句)
乃(チ) (傍句)
(5)放(テ)v牛(ヲ)息《イコヘ》v馬(ヲ)、※[立心偏+豈]悌(シテ)歸(リタマヒ)2於華夏(ニ)1、
卷(キ)v旌(ヲ)〓《ヲサメテ》v戈《ホコヲ》、※[人偏+舞]詠《ブエイシテ》停(リタマフ)2於都邑(ニ)1。 〔二行に括弧をつけて、(輕隔句)〕
歳《ホシ》次《ヤドリ》2大梁(ニ)1
月|踵《イタリテ》1夾鍾(ニ)1。 〔二行に括弧をつけて、(緊句)〕
清原大宮(ニシテ)、昇即(キタマフ)2天位1。 (漫句)
道(ハ)軼《スギタマヒ》2軒后(ニ)1
徳(ハ)跨《コエタマフ》2周王(ニ)1。 〔二行に括弧をつけて、(緊句)〕
握《トリテ》2乾符(ヲ)1而|※[手偏+總の旁]《スベタマヒ》2六合(ヲ)1
得(テ)2天統(ヲ)1而|包《カネタマフ》2八荒(ヲ)1。 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕
乘(ジ)2二氣之正(シキニ)1、
齊《トトノヘタマフ》2五行之序(ヲ)1。 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕
設《マウケテ》2神理(ヲ)1以(テ)奨(メタマヒ)v俗(ヲ)、
敷《シキテ》2英風(ヲ)1以弘(メタマフ)v國(ヲ)。 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕
(6)重加《シカノミナラズ》 (傍句)
智海浩瀚《チカイカウカントシテ》、潭《フカク》探(リタマヒ)2上古(ヲ)1、
心|鏡《ケイ》※[火+韋]煌(トシテ)、明(カニ)覩《ミタマフ》2先代(ヲ)1。 〔二行に括弧をつけて、(平隔句)〕』
於v是《ココニ》 (傍句)
天皇|詔之《ミコトノリシタマハク》。 (漫句)
朕聞(ク)、諸家之|所《トコロノ》v〓《モタル》帝紀及(ビ)本辭  (漫句)
既(ニ)違(ヒ)2正實(ニ)1、
多(ク)加(フト)2虚僞(ヲ)1。 〔二行に括弧をつけて、(緊句)〕
當《アタリテ》2今之時(ニ)1不《ズバ》v改(メ)2其失(ヲ)1未(ダ)《・ズシテ》v經《ヘ》2幾年(ヲモ)1其(ノ)旨《ムネ》欲《ムトス》v滅《ホロビ》。 (漫句)
斯《コレ》乃(ハチ」)、 (傍句)
邦家之經緯(ニシテ)
王化之鴻基(ナリ) 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕焉 (送句)
故《カレ》惟《コレ》、 (傍句)
(7)撰2録(シ)帝紀(ヲ)1、
討2覈《タウカクシテ》舊辭(ヲ)1。 〔二行に括弧をつけて、(緊句)〕
削《ケヅリ》v偽(ヲ)定(メ)v實(ヲ)欲(ス)v流《ツタヘント》2後葉(ニ)1。 (漫句)
時(ニ)有(リ)2舎人《トネリ》1。 (漫句)
姓(ハ)稗田《ヒエダ》、
名(ハ)阿禮。 〔二行に括弧をつけて、(壯句)〕
年(ハ)是廿八、爲《ナリ》v人(ト)聰明(ニシテ)、 (漫句)
度《ワタレバ》v目(ニ)誦《ヨミ》v口(ニ)、
拂《カスムレバ》v耳(ヲ)勒《シルス》v心(ニ)。 (緊句)
即(チ)、 (傍句)
勅2語(シタマヒテ)於阿禮(ニ)1、令《シメタマフ》v誦2習《ヨミナラハ》帝皇(ノ)日繼及先代(ノ)舊辭(ヲ)1。 (漫句)
然(レドモ) (傍句)
運移(リ)世|異《カハリテ》、未v行(ハ)2其事(ヲ)1 (漫句) 矣。 (送句)
(8)伏(シテ)惟(ルニ) (傍句)
皇帝陛下 (漫句)
得(テ)v一(ヲ)光宅(シタマヒ)、
通(シテ)v三(ニ)亭育(シタマフ)。 〔二行に括弧をつけて、(緊句)〕
御(シテ)2紫宸(ニ)1而徳(ハ)被《オホヒ》2馬蹄《ウマノユメ》之所(ヲ)1v極(ル)
坐(シテ)2玄扈(ニ)1而化(ハ)照(ス)2船頭《フネノヘ》之所(ヲ)1v逮《オヨブ》。 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕
日浮(ビテ)重《カサネ》v暉《ヒカリヲ》、
雲|散《チリテ》非(ズ)v烟(ニ)。 〔二行に括弧をつけて、(緊句)〕
連(ネ)v柯《エダヲ》并《アハス》v穗(ヲ)之|瑞《シルシ》、史|不《ス》v絶《タタ》v書《シルスコトヲ》、
列v烽(ヲ)重《カサヌル》v譯(ヲ)之|貢《ミツギモノ》、府(ニ)無(シ)2空(シキ)月1。 〔二行に括弧をつけて、(重隔句)〕
可(シ)v謂(ヒツ)d (傍句)
名(ハ)高(ク)2文命(ヨリモ)1
徳(ハ)冠《タカシト》c天乙(ヨリモ)u 〔二行に括弧をつけて、(緊句)〕
(緊句)矣。 (送句)
(9)於v焉《ココニ》、。
惜(ミ)2舊辭之|誤忤《アヤマリタガヘルヲ》1
正(サムトシテ)2先紀之|謬錯《アヤマリミダレタルヲ》1。 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕
以(テ)2和銅四|年《トセ》九月《ナガツキ》十八日(ヲ)1、詔(シテ)2臣安萬侶(ニ)1撰2録(シテ)稗田阿禮(ノ)所v誦《ヨム》之勅語(ノ)舊辭(ヲ)1以|獻上者《タテマツラシムトイヘレバ》、 (漫句)
謹(ミテ)隨《マニ/\》2詔旨《オホミコトノ》1、子細(ニ)採(リ)※[手偏頁庶]《ヒロフ》。』 (漫句)
然(レドモ)、 (傍句)
上古之時、言意並(ニ)朴《スナホニシテ》、敷(キ)v文(ヲ)構(フルコト)v句(ヲ)、於(テ)v字(ニ)即(チ)難(シ)。 (漫句)
己《スデニ》因(リテ)v訓(ニ)述者《ノベタルハ》詞不v逮(バ)v心(ニ)、
全(ク)以v音(ヲ)連者《ツラネタルハ》事(ノ)趣《サマ》更(ニ)長(シ)。 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕
是《ココヲ》以(テ)、 (傍句)
今、 (傍句)
(10)或(ハ)一句之中(ニ)交(ヘ)1用(ヰ)音訓(ヲ)1
或(ハ)一事之|内《ウチニ》全(ク)以(テ)v訓(ヲ)録《シルス》。 〔二行に括弧をつけて、(雜隔句)〕
即(チ) (傍句)
辭理《コトバノコトワリ》、※[匡の王が口]《ガタキハ》v見《ミ》以(テ)v注(ヲ)明(カニシ)、
意況《コヽロノサマ》、易《ヤスキハ》v解《サトリ》更(ニ)非《ズ》v注(セ)。 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕
亦《マタ》 (傍句)
於(テ)v姓(ニ)日下(ヲ)謂(ヒ)2玖沙※[言+可]《クサカト》1於(テ)v名(ニ)帶(ノ)字(ヲ)謂(フ)2多羅斯《タラシト》1、 〔二行に括弧をつけて、(長句)〕
如(キ)v此(クノ)之|類《タグヒハ》、隨《ママニシテ》v本(ノ)不v改(メ)。 (漫句)
大抵《オホヨソ》所《トコロ》v記(ス)者《ハ》、自《ヨリ》2天地(ノ)開闢1始(メテ)以(テ)訖《ヲハル》2于小治田(ノ)御世(ニ)1。 (漫句)
故《カレ》
天御中主神|以下《ヨリシモ》日子波限建鵜草葺不合《ヒコナギサタケウガヤフキアヘズノ》命|以前《ヨリサキヲ》爲(シ)2上(ツ)卷(ト)1 (漫句)
神倭《カムヤマト》伊波禮毘古天皇|以下《ヨリシモ》品陀《ホムダノ》御世|以前《ヨリサキヲ》爲(シ)2中卷(ト)1。 (漫句)
(11)大雀《オホサザキノ》皇帝|以下《ヨリシモ》小治田(ノ)大宮|《ヨリサキヲ》爲(シ)2下卷(ト)1 (漫句)
并《アハセテ》録《シルシ》2三卷(ヲ)1 謹(ミテ)以|献上《タテマツル》、 (漫句)
 臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
和銅五年正月二十八日
正五位上勲五等大朝臣安萬侶。
 
 
(13)     古事記の本質
 
 古事記の研究は宣長の古事記傳の大きな研究が出來てから、殆んどそれが中心になってゐる。近頃に色々な學者が出て種々な方面より研究し、中には外國人も解釋したりして古來にない盛んな有樣である。然し古事記そのものの基礎的の學問的研究は少い。鎌倉時代に卜郡兼文の古事記裏書があるが、これらが最も古いもので、これの古寫本が神宮文庫にある。徳川時代に伊勢の神官度會延佳の鼇頭古事記が出たが、これは相當に研究したものてある、それから賀茂眞淵先生が自分が老年でもはや出來かぬるからとて古事記の研究を本居先生にすゝめられた。その本居先生の研究が源となつて今日までの古事記の研究になつてゐる。それ故に今更私がかれ是いふ必要はない樣に思ふが、しかし多少腑に落ちない點がある、それを先般古事記の本質と題して雜誌に發表した。その本旨は今迄の研究は部分的には細かいが、その本質が何處にあるかといふ事については物足りない。はつきりと古事記の本質を明言した人はない。本居先生は考へて居られたといふ事は、「直毘のみたま」等に見える。がこれも明言してはない。その以後の人は後をつけて行くだけである。露骨な言葉で云ふ事が許されるなら,すべての研究がばら/”\で本質に觸れてゐない。ばら/”\で中心點を何處に置いてゐるかわからぬ。
 最近に痛切に感じたのは明言は出來ないが、古事記をも研究した相當に修養のつんだ人が私の處へ來て、色々の話の末に「神皇正統記を讀めば國體がすぐわかるが古事記を讀んでもわからない」と云ふやうな談をした。それは若い人だからその人の惡口を云ふのではないが私は驚いた。古事記を讀んで國體がわからなければどこまで行つても國體(14)はわかる筈がない。古事記は元々國體を明かにするのが本旨で何處を讀んでも國體がわかる筈だが、それがわからぬと云ふのは困つたものだと思つた。それから私は古事記の本質と云ふ事を眞先に明かにしておかなければいけないものだと云ふ事を痛切に感じた譯である。そこで今迄出てゐる種々の研究を見ると、
(一) 歴史と見る説がある。古事記が歴史でないとは云はないが、歴史であると云つてそれが本質に觸れてゐるだらうか、さう云ふ事は一往考へなければならぬ。
(二) 文藝上の作品として見る説。これは全然誤つてはゐないが問題である。
(三) 神話と云ふ説もさう云へるかも知れぬが果して妥當であらうか。
 神話について云つても、古事記に限らずわが國の神々の事を西洋人のいふ神話と同じに見ると云ふことについて、私は疑を持つてゐる。神話神話と云ふが文字で云へば神樣の話ですむ。上卷、中卷、及び日本書紀にも神樣の話はある。然し今日普通の人の云ふのは西洋人の云ふ Myth の譯語である。それと同じに取扱つて宜しいか。西洋の神話學でやつてゐる研究對象とそれの研究をする學者との關係は何うか。一往考へてみる必要がある。希臘や羅馬のそれ、スカンジナビヤ、北欧の神話を研究する神話學者、それ等の心持及び對象とその學者との關係はどうかと云ふと殆んど精神的に生きた關係がない。だからどんな事を云つても差支へない。その神話の解釋が如何にならうとも彼等の生活には何の影響もない。彼等の神話は生きてゐない昔の話である。所で日本の神々の話はさうはゆかぬ。日本の神は現在我々の魂の内に生きてゐられる。天照大御神は國民の中に現在生きてまします。日本の神は吾々の精神生活の源泉である。古事記の中にある神々の話は古代の事ではなくして現代の話である。天照大御神のお生れの話は伊勢神宮(15)の起源を語るのである。吾々の最も崇高なる精神生活の現はれである。墨ノ江の三前の大神の話は大阪の住吉神社の起源を語るのである。宗像大神のそれは宗像神社の起源を示すものである。
 かくの如く日本の神話は吾々の生活の中に生きてゐるのであるから、それに批評なり何なりを加へる事は、現實に生きて居る吾々に研究なり批評なりを加へるのと同じ事である。それだから、吾々の身體を研究し批評しようとして、我々の身體に庖丁でも加へたら黙つては居らぬ。日本の神樣の話に一言でも不敬を加へたら、その反應があらはれるのは當然である。之がために社會より葬られた人、命まで失つた人は少くない。天照大神の話は現實の伊勢の大神宮の起源を現はしてゐる。古事記の話は過去の話に違ひない。然しそれは同時に現在にも生きてゐる。現實の國體を物語つてゐる。印度や埃及や波斯の神話が何故そんなに人々の胸にひゞかぬかと云へばそれが國體の相違である。吾國には國體の變革はない。國體が古今を通じて一である處から神代も今日も大した變りがないと我々は確信してゐる。斯く考ふれば日本の神樣の話は西洋の神話と同じに扱ふべきでない。此の意味で現在の神道學者の態度が根本的に間違つてゐはしないかと氣遣はれる。しかし幸に實際の神道家(神職、宗派神道家)の方には神樣に對して斯うした問違ひがないのは喜ばしいことである。
 先づかやうに現代の日本民族と神代の神樣方との間柄には切つたら血が出る樣な生きた血縁的關係があるといふ事を物語つてゐるのである。そこに西洋人の云ふ神話と全然別なものである點がある。西洋でもキリスト教を神話的に解釋したら大へんな問題が起きるだらう。
 今假りに數歩を讓つて日本の神樣方の話と西洋の神話とを同じに見ることをゆるすとして、古事記をば神話を書い(16)た本だと見得るかと云ふ事を考ふるに、古事記全體から見るとそれが出來かねる。それはどうかといふに神樣方の話の書いてあるのは上卷だけである。中、下卷には無いとは云はれぬが甚だ少い。古事記全體の内容から云つて神樣の話は半分もない。後の半分は神樣の話とは違ふ。だから古事記が神話を傳へる爲につくられた本とは云へない。中には神樣があるにはあるけれども本質が神話だとは云へない。故に日本の神話を研究するのに古事記を材料にするのは良いが古事記が神話を傳へるための本とするのは正しい考へ方でない。
 次に文學的に見る方はどうかと見れば、上代文學史には必ず最初に古事記を論じてゐるが、之は論じてはならぬとは云はないが古事記は文藝上の作品であるといふ事は云ひ得ない。文藝史上の作品と見て良いのは私の調べでは百十一首の歌です。長いもの、短歌の形のもの、之等は日本の文藝の歴史の研究には貴重なものではあるが、之は古事記全體から見ると僅かなもので、之を以て古事記は歌謠を傳へるためにつくつたものとは云へぬし、古事記の歌謠は文藝史にはなるが、古事記そのものを直ちに文藝上の作品として説くべきものだとするのも當らぬ。かやうに歌謠が少いのに文藝史で説くのでそこで色々な説が出て來る。即ちそれから起つて古事記全體が敍事詩だといふ説が出てゐるが私は賛成出來ない。其の人達は古事記は一つの物語りだ。口で誦んだものだと云ふ。成程古事記は口にのぼせて詠んだもので而もそれには相當に重い約束を置いた事がわかる。「上」「去」とか注して聲の上げ下げが書き記してある所が少くないから讀む上に嚴重な約束を置いて書かれた事が知られるのである。例を上ぐれば
 次、豐雲野神
 宇比地邇
(17) 妹阿夜※[言+可]志古泥神
 愛比賣
 大野手比賣
 大多麻流別
 天之吹男神
 大山津見神
 正鹿山津見神
 奥山津見神
 底津錦津見神
 中津綿津見神
 上津綿津見神
 市寸島比賣神
 大山津見神
 足名椎
 手名椎
 天之都度閉知泥
(18) 布帝耳
 刺國大神     (以上、上卷)
 妹菅竈由良度美 (中卷)
とあるが、これらはその「上」と注記したその上の字の音を上聲によむべきことを指示したのである、又、去聲の注記は、
 次、妹須比智邇神 (上卷)
の一つのみであるが、これもその「邇」を去聲によむべきことを指示したものである。しかもこの聲の注記は神名等のみに止まらず、たゞの文章の上にも見ゆる。
 その例、
 阿那邇夜志愛袁登古袁
 阿那邇夜志愛意登賣袁
 布斗麻邇爾上此五字以音 卜相而
 伊那志許米志許米岐穢國(以上、上卷)
 宇加比賀登母     (中卷)
又之は少し横道に外れるが大八洲をお生みになつた所に 「伊豫國謂2愛比賣1」とあつて愛の音を上げてよむべきことを示してある。此愛比賣が後世の書物と面白い關係にある、神皇正統記には流布本愛比賣と止といふ字が書(19)いてある、がこれは「上」の誤であつて、古事記のこの所をうけてゐることは著しい。所で神皇正統記には日本紀、舊事本紀、古語拾遺の外は信ずべからずと云つてゐるからして、古事記が材料として入つてはゐないので、親房卿は古事記は讀んでゐない筈である。これはどうした事かと云ふに舊事本紀によられたものと思ふ。舊事本紀にはこの所だけ愛比賣と書いてある。これは舊事紀が古事記を取つて書いたことを物語つてゐるのである。そのとりこんだ人間がうつかりして、その「上」の音の符號まで無意識にとり込んでおいたためにこゝで醜い馬脚をあらはしてゐるので面白いと思ふ。
 現在の古事記に上去の記入した所は斯樣な事であるが、これは恐らくは、もとはまだ/”\多く注記してあつたものだらうが、傳寫の際にそれらを寫し洩したものもあつたであらうと思はれる、兎に角こゝに現實見えるだけについて見ても聲の上げ下げにも嚴密に規定があつたわけである。讀み方に既にアヤがあつた。それにその行文の姿を見れば對句とか繰返しとか、序詞とか云ふ如く修辭的技巧を用ゐた所の著しいものがある。斯樣に古事記は支那の言葉で云ふ韻文的の要素が澤山ある事は否定出來ない、だから全體から見て文藝的のものである事は爭はれない。然らば古事記は敍事詩であるかと云ふに、さうは云へないと思ふ。一體古事記に限らず古代の物語は大抵韻文的のものであつたらう。左樣にあるのは目に訴へるものでなくて專ら口から耳に傳へた爲であつたからである。即ちそれは耳で聞いたものを覺えてゐたものである。覺えるには五・七等の形を整へたり對句にしたりする方が良い。かやうな譯でどこの國のものでも口誦のものはどうしても韻文的になり易いものである。古事記が韻文的の型式を持つてゐる事は當然である。それだからさう云ふ風に言へば古代の物語は凡て敍事詩と云へる。
(20) さういふ意味で古事記が敍事詩であると云ふならつまり古事記は物語りだと云ふと同じ事になる譯であるが、さういふ意味でこれを物語だと云つたとて別にそれが古事記の本質に觸れた説明となつてはゐない。そこでたとへ形は詩の形であつても果して詩と云ひ得るかどうかと云ふ事になる。現今古事記を敍事詩と見る人々の説は二通りある。一は上の卷が敍事詩であるといふ説である。成程上卷はことに形も内容も物語も敍事詩的である。それだから上の卷を敍事詩と見るのは一往尤であるといはねばならぬ。然しもともと上中下三册で完成してゐる中で上の卷だけが詩で他は別なものだと云ふのは隨分無理な話である。
 二は古事記全體を通じて一つの敍事詩だと云ふのであるが、この説は成程一の説よりも徹底して新しい説である。又これは部分的にばら/\にして、見たよりも全部を一として見るのであるかち優れてゐる。然しこれも實質的に見れば無理だらうと思へる。全體を敍事詩と云ふならそれが全體に通じてさう云へるだけのものでなければならぬ。古事記には成程神話もあり、説話もあるが上、中、下を比べて見ると之が徹底して云へない樣に思ふ。中卷と下卷の中にはどの位説話があるかと云ふと長短大小はあるが大體私は二十位ある樣に思ふ。之は分類の方法にも依るが兎に角二十位あると思ふ。中、下の卷にその説話なり神話なりがありその外には何もないと云ふなら良いが全體より見て説話の題材は少い。中卷は神武帝より初まり下卷は推古帝までゞあるが、その史實は經絲《タテイト》であつて其の中に織り込まれてゐる或物の中に所々説話があるのである。之を織物でたとへるなら神武帝で初まり推古の御代までの織物の中に二十ばかりの模樣をなすのが説話である。この模樣を出すために、この織物を作つたとすれば別であるが、しかしさうすると又變な事になる。それは二十三代顯宗天皇の説話が最後であるが二十五代武烈天皇以降三十三代推古天皇まで九(21)代の天皇の記事には全く何等の説話もない。説話を傳へる爲のものならば顯宗の御世て終るのが至當である。かやうに考へると説話を傳へるのが古事記の本質でない事が知られる。神話なり、説話が主でなければそれは本質的に敍事詩でないと云ふ事にならぬばならぬ。古事記の經糸とも見られる天皇の御名、皇居、帝都、御事蹟、御年齡、山陵、皇太子、御子樣の御名前の下には何氏の祖と必ず記してある。はつきりわからぬ時は仕方はなくて書かなかつたらうが、どの天皇樣も皆同じである。斯ういふものが敍事詩だとはどうしても考へられぬ。敍事詩の形は取つてゐるが實質は詩ではない。斯く考ふれば古事記は詩としての姿はあるが詩としての本質は持つてゐないと云ふ事になる。
 次に古事記は歴史てあると云ふ説を檢討して見よう。之は歴史でないとは云ひ得ないであらう。成程歴代の天皇の御事蹟、年代、御子樣、山陵、皇居は必ず書いてあるが之が果して歴史であらうか。之は今日の皇統譜に當るものである。之を以て古事記そのものを歴史と見る時には甚だ不完全であるといはねばならぬ。この點は神皇正統記と似た點がある。神皇正統記も亦同じで世間では歴史と見てゐる樣だが私には歴史とは思へぬ。歴史であるならば史實が手落ちなく傳へられ、變遷等も明らかになるやうに傳へられる筈である。それ等の點は書紀と比較すれば甚しく違ふことがわかる。神代卷は扨置き應神帝後は書紀は詳しく出てゐることがわかるが古事記はその邊からかへつて粗くなつてゐる。古事記を若し歴史と見るなら史實には非常に不忠實なものであると云はねばならぬ。それては何故さやうな不忠實なものを書いたか。この點について私に云はすればそれは元來歴史として書いたのではないから歴史の材料にする事は出來るが歴史そのものではないと云はねばならぬと思ふ。要するに私は、文藝的の作品、神話説話、歴史として古事記を考へる事には賛成出來ない。尤もそれ等の研究の資料には勿論なるけれど、しかし本質はそこには決し(22)てないのである。
 然らば古事記の本質は何であるか。本居翁の書を讀むと古事記は國語で書いてあるからよろしい。古事記は國語を傳へるから貴い等と取られる節がある。然し今日の古事記は讀方さへもむづかしいので誰がやつても到底古代のものをその著作當時のよみ方の通りに復舊出來さうにも思はれない節もある。國語を傳へるために古事記を書いたかと云へば之は言ひ過ぎであらう。尚古事記は神樣の事を傳へるために書かれた樣に取られる。即ち神道の上に經典の樣に取扱はれるが、それも當然と思はれるがしかしこれも主として上卷についていはるべき事であるので、それが唯一の目的であつたらうかといふ疑問を提出しなくてはならぬ。それが中、下卷には天皇の御名の下に宮殿、御年齡、御子樣、誰が誰の子孫といふ風に書いてあるがこゝ迄に神道は擴がりはしないと思ふ。然らば古事記は何を目的としたものであるかといふに、古事記の如何なる書であるかは私には言はすれば何でもない、それは序文を見ればはつきりしてゐるのである。それは今の本に序文とは出てゐるが實は之は上表文である、これは古事記の撰述と同時に奉られ、之を讀めばすべてのものがわかる樣に要旨を明らかにして添へて奉つたもので後に誰かゞ序とつけたものであらう。これを序文と云ふのは俗稱てあつて、上表であることは明白である。それ故に之を讀めば著述の本旨がわかるわけである。私は此の次から序文を委しく讀まうと思ふ。古事記の精神なり、目的なりが序文(上表文)に依つてわかると思ふ。然るに今迄の人は序文を非常に輕く見てゐたし、本居翁でさへ輕く見られた樣に思はれる。それで序文について眞面目に眞劍に研究した人は龜田鶯谷位のもので、他には一人も無いと云つてよい程である。此の上表文は大體三段に分れてゐる。第一段は國家の經緯の歴史を略敍してゐるが、その中にはまづ、
(23) 一、神祇のあらはれたまうた事
 一、天孫降臨
 一、神武帝の宏業
 一、崇神仁徳二帝の治
 一、成務帝の國郡制定
 一、允恭帝の氏姓を正された事
 を述べてゐる。このはじめの三項は國家成立の事を述べたもので、次の項は中興の業を述べたものである。末の二項は國家行政上の重大事項である。先づこれを第一段としてある事に我々は深く心をとめねばならぬ。第二段はこの古事記撰進の事情を述べたものである。はじめは天武天皇の威徳を讃美したもので、その天皇の勅を奉じてこの撰録が着手せられた事をそのうちの一小段とし、次に元明天皇がその御遺業を完成しようとして勅を安萬侶に下された事を言つてゐる。さてその撰録の主眼とする處は天武天皇の勅語に明かである。それは、
 朕聞諸家之所|〓《モタル》帝紀及本辭既違2正實1多加2虚僞1當2今之時1不v改2其失1未v經2幾年1其旨欲v滅
といふことを恐れ遊ばされた點にある。さうしてかうすることが
 斯乃邦家之經緯、王化之鴻基焉
であるとせられたのである。第三段は撰録の事情を述べたものである。私はこの第二段にこの古事記の本質が明記せられてあり、同時にその撰録の目的も示されてあると思ふのである。即ちこの上奏の文を正しく解釋する時に古事記(24)の本質が明かになるであらうと思ふものである。何となればこれは苟くも上表である。當代の帝徳を頌する辭令などは別であるが、その事業の本旨を上奏するに、かりそめにも虚僞や誇張があつてはならないのである。況んやそれが先帝の勅語であるに於てをやてある。私はこの  邦家之經緯、王化之鴻基焉
といふ語が古事記の本質を語るものであると思ふ。そこでこの語を先づ、文字の通りに解釋しておく必要があるから次に述べる。「邦家」は「國家」と同じ意であるから説くまでもない。「經緯」はもと織物の經《タテ》絲と緯《ヌキ》絲とで、これによつて織物が成立つものであるが、それを國家の組織の要素にかりたものである、「王化」は「教化」、「徳化」である、「鴻基」の「鴻」は大であつて形容の語であるから、王化之鴻基は帝王の教化の基といふことである。「王化之基」といふ語は詩經周南關雎篇の序にあつて、帝王が政教を行ふ基本であると云ふのである。即ち國體の如何及び天皇政治の根本と云ふ事になる。故に先のどの點がそれに當るかと云ふと前にあげた三段の中「神祇の出現」「天孫降臨」「神武の鴻業」は邦家の經緯の姿である。崇神仁徳二帝の治は王化の事實である。基ではない。所が成務帝の國郡制定、允恭帝の氏姓を正された事が意味深い、西洋の學説でも國土と國民と主權が合奏した姿が國家であると云ふ。天照大神の出現と天孫降臨とに依つて主權が確立し、國土は國生みの神話があるし、次は帝王の教化を致す基を立てる事が必要になる。序の中に國郡の條があるのは成務帝の時に領土の整理が出來た事を示す。允恭帝の時に氏姓が正された事は人間の整理である。上古は氏族政治だからその種姓《スジヤウ》を明らめなければ正しい政治が出來ぬ。誰か罪を犯すと氏の關係を見て、その氏の上《カミ》に引渡す。賞も亦同じ事であつて善も惡も氏の上に責任がある。氏姓《ウヂカバネ》が亂れたら政治が出來ない。(25)故に國民を整理するには氏姓を正さねばならぬ。故に允恭帝の氏姓の匡正は國民の身分を正しく審定せられた事を告ぐるものである。それ故に成務帝の國土の整理と允恭帝の國民の整理との二つだけ上げてゐる事はなか/\意味が深い。主權の作用は領土と國民との二つに働きかけるといふ事を明示してゐるのでこの點は今日の國法學から見ても間違ひてはない。故に文字通りに見ると邦家之經緯、王化之鴻基、之が古事記の本質である。さてこの樣に上表の文を正しく解釋してくると神話とか文學とか歴史とか國語とかいふ如き意見が成り立たなくなる事は明かである。然らば、この文字通りに果して古事記が國家組織の要素であり、又天皇の政教を行はるゝ基本であるであらうか。私は更にこの點に進んで考察せねばならぬ。
 從來の古事記研究者は一人も上奏文のこの眼目に注意したものがない。隨つて古事記の本質など考へてみた人は一人も無かつた樣である。然しながら古事記の内容を考へ、同時にわが國の歴史に照し、更に深く上代の國家の政教に思を致すときには、古事記の上表中に書いてある所の上に述べた眼目が、歴然としてわかる樣に思ふ。先づ第一に問ひたい事は、古事記が、天武天皇の御世に撰録せられる筈であつたのに、その内容が何故に推古天皇の御世で終つてゐるかといふ事を考へた人があるかと云ふ事である。古事記が推古天皇の御世の記事で終つてゐることはこの上表文にも明記してある事であつて後世になつて、その後が亡失したものでないことは明かである。初から斯くの如きものであつた事は一點の疑もない。そこてこの撰録の材料は何であつたかといふに、
 諸家所v〓帝紀及本辭
てあつた事は信ぜねばならぬ。然らば、その帝紀及び本辭が推古天皇以後の事を傳へないものであつたか、若くは推(26)古天皇以後の事も或ひはあつたけれど、それは採録せぬ方針であつたかの二者以外の事は考へられぬ。その何れにあつたかは今日より斷定的の事はいはれないが、しかし、推古天皇で打切つてある事實には、何か仔細が無くてはならない。而して勅語には、
 當2今之時1不v改2其失1未v經2幾年1其旨欲v滅
とある。これによれば、假りに推古天皇以後の事は、それらの材料にあつたとしても、これを採録せられなかつたのは、それは滅びてもよいとせられたといふ事になるであらう。然し乍ら、その古傳の亡佚を惜んで採録せしめられた天皇が、推古天皇以後の事は捨てゝしまへと仰せられようとは思はれぬから、これはやはり、推古天皇以後は、初からその材料とするもので無かつたであらうとするのが穩かであらう。斯樣にして考へて來ると、何故に推古天皇の御世でそれらのものが終つたのか、又何が故に天武天皇がその推古以後のものを別に採録せうとせられなかつたかといふ問題が生じる。推古天皇から天武天皇(弘文天皇を除いて)まで五代、四五十年その間に重大な政治上の變遷が著しくあらはれた。天武天皇はあゝした事情で即位せられたから控へたとしても、大化改新は書いてもよさゝうだ。單に前代の事實を後代に傳へる爲であるならば、それ等の帝紀や本辭になくても加へなければ「邦家之經緯、王化之鴻基」といふ勅語には一致せぬてあらう。然るにこゝにはさやうな事が行はれてゐない。こゝに私は古事記の本質と古事記撰録の目的が生じる事情とを見るのである。即ち政治上の變動の甚しいにも係らず、之を書かないで邦家の經緯、王化の鴻基であると思はねばならぬ理由がそこに在つたのでなければならぬと考へるのである。これについては先づ推古天皇の御代の政治をみなければならぬ。世間では大化の改新を以てわが政體の一大變革であるといふ。これには異(27)論はないが、それが大化に突然に起つたものとする人があるならば、私は反對するであらう。大化の改新は從來の祭政一致の政治、氏族政治、不文律の政治、口誦傳承の政治を改めて、支那流の教化政治、郡縣政治、成文法の政治に改められたものでまさしくわが國の政體の一大變革であつた。然しそれは一朝一夕に起つたものでなくて、それは既に推古天皇の御世に端緒を開いたものである。推古天皇の御世に聖徳太子が着手せられた事業をば孝徳天皇の御世に中大兄皇太子が繼承して完成せられたものである。推古天皇の朝に憲法を定められた事はわが國の不文律で治め來つた政體を改めて、支那流の法治制度に改められたものである。推古天皇の朝に冠位十二階を定められたのは、從來の氏族制度を改めて、個人的の人材登庸制度にせられたことを告ぐるものてある。即ち冠位十二階は個人的のものである。冠を下された人は生れが惡くてもずつと位が上になる。之に依つて氏族制度が壞れる。氏族の血統で天下を治める事が推古の朝に大方針が變つたのてある。又推古天皇の朝に天皇記國記を撰録せられたのは從來の口誦的傳承をば文獻として記録して後に傳へようとせられたものである。斯くの如くにしてわが國の古代の制度文物はこの推古天皇御宇の支那心醉的改革に依つて著しく面目を異にして來たと考へられる。勿論これには從來の政治的積弊のために改革を必要とした點もあつたらうし、内外の事情に逼まれて餘儀なくこゝに到つたといふ點もあつたらうが、支那心醉の弊は勿論無いとは云はれぬ。これらの爲に從來勢力を得て來たものが一朝にして顛落したものも少くは無かつたであらう。かやうにして大化の改革はそれは國家の全體にわたつて大衝撃を與へてこゝに、わが社會上下に一大混亂を生じたことは恰も明治維新の改革後の如き状態であつたらうか。しかし斯樣な大改革があらゆる人に一樣に歡迎せらるゝものとは思はれぬ。改革を好まぬ人からは頗る苦々しい事と思はれたであらう。天武天皇の壬申の亂は順逆の道(28)に於いては論ずべき所があるけれども、それが天智天皇の大改革を喜ばなかつた保守黨の反動勢力の勃興を意味するものとして見れば、實質的には止むを得なかつたものゝ如くにも見られる。とにかくに、天武天皇の御世には大分保守的の意味が政治の上にもあらはれたやうに思はれる。而してその反動的保守的政策の一の動きとしてあらはれたものが、この古事記撰録の企であらうと思はれる。
 古事記が口誦的傳承を忠實に採録せうとした事は上に述べたやうに、聲の上去を注記した一事件を見ても明かであるが、その事はかの上表の中に、
 即勅2阿禮1令V誦2習帝皇日繼及先代舊辭1
とあるのでもわかる。一體この「誦」といふ文字は説文には「誦(ハ)諷也」とあり、周禮春官大司樂の注に「以v)聲節v之曰v誦」とあるが如く語に一種の節《フシ》をつけてよむものであるが、これがたゞの語でもなく、又歌謠でもないのであつて、大體その中間を行くものであるが、わが國ではこれを「語る」といふのである。この「語る」といふ語は後世「物語」といふ語にも傳つてゐるが、今も「淨瑠璃語り」といふ語がある。この淨瑠璃のあるものは今は歌謠に近くなつてゐるものもあるが、しかし「語り物」である事は矢はない。古代の「語り」は、時世の變化により、今の「語り」とは全く同じ状であつたとは云はれないであらうが、然し今でも語りの本質は失つてゐないと思はれる。
 さてかやうに思ふと、古事記は古代の語部の物語を採録撰進したものと云ふべきである、然らばどうして、これが「邦家之經緯、王化之鴻基」といふ事になるかといふ問題が生じるであらう。こゝに私はこの事と推古天皇の御世で古事記の内容が終つてゐる事と必然的の關係があると思ふ。それには古代の政治の状態を考へて見なければならぬ。(29)古代の政治は不文律で行はれたといふが、しかし、それとてもたゞ勝手次第た行はれたものではなかつた。やはり古來の慣例に準據して行はれたものである。而して若し、その慣例が、直ちに知られぬ時には、どうしたかと云ふに、今日ならば、六法全書とか判決例とかいふものを繙いてみれば、わかるわけであるが、古代の政治にはさやうな文獻がないからその古例を誦んじてゐる人に問はねばならぬ。現に日本紀第十一の卷を見ると、さやうな場合の著しい例がある。應神天皇の崩御の後、皇太子と大鷦鷯皇子とが位を讓りあはれて、天下の人々が歸する所を知らなかつた時に、額田大中彦皇子が倭の屯田と屯倉《ミヤケ》とを掌らうと企てゝ、その屯田(ノ)司である所の出雲(ノ)淤宇《オウノ》宿禰にこの地は元、山守の地であるから自分が治める。汝は掌るべからずと謂れた時に、淤宇宿禰が皇太子にこれを訴へたが、大鷦鷯尊に啓せよと云はれたから尊にその事を申し上げた。そこで大鷦鷯尊が倭直麿といふものに倭の屯田は元、山守の地であるといふが、どうかと聞かれた時に、麻呂は對へて、臣は知りませぬ。臣が弟|吾子籠《アココ》が知つてゐますと申し上げた。この時に吾子籠《アココ》は韓國に遣はされて、未だ還らぬ。そこで淤宇宿禰を韓國に遣し、急ぎ吾子籠をつれて來いと仰せられ、即ち連れて來て奏上した。それで大中彦皇子の妄言があらはれたといふ事である。かくの如く國家の政治が人々の記憶を基にして行はれたものであるが、その故事の記憶を家の業として子々孫々これを傳へたものが語部である。而してその語部なるものは大は朝廷より小は各氏族にも、又各地方にもあつたものと思はれる。その語部なるものはつまり飯を食つて生きてゐる所の六法全書や判決令である。その語郡の傳承が口誦的の傳承であつたものであるが、私はそれは推古天皇の御世まで公式的に強制せられたものと思ふ。然るに推古天皇の御世に大改革を行はれて、その口誦的傳承の公式的強制はこの世で終り、以後はすべて文獻上に記録せられることになつたものと思はれる。そこで天武(30)天皇の御世に、この語部どもの朝廷及び各氏族各地方の傳承が、既に四五十年間放任せられて、古老も追々になくなり、舊傳故事が、全くわからぬ事になることを恐れられて、ここに採録の事業を起されたものと見るのである。かの上表のうちに
 帝吉日繼及先代舊辭
とあるは、まさしくそれに相違あるまい。これらの日繼及び舊辭は語部の口づから語り傳へたものであるから、その語勢までも後世に傳へたいと云ふのが、採録の本旨であつたらう。それ故に古事記のよみ方等も、吾々が考へてゐるよりも多く韻文的のものであつたらう。この點から見れば、敍事詩といふ見方もあながち不當とは云へない。たゞそれが本質に觸れてゐない點を遺憾とするのである。
 推古天皇の御世の事で打ち切りになつてゐるといふ點は上述のやうな事で一往説明をした事として、次に然らば、何を以て古事記が邦家の經緯、王化の基であるといはるゝかといふ點に目をうつす事にしよう。この事は、かの上表の中に、既にいつたやうに第一段に示された六の項目を見ても思ひ半にすぎるてあらう。そのはじめ三項は
 一、神祇のあらはれたまうた事
 一、天孫降臨の事
 一、神武帝の宏業
であるが、これはわが國家の成立組織の根本義を明かにしたものである。古代の政治は一面に於いて祭政一致であり、それと共にわが國は神の生んだものといふ信條がある。神祇のあらはれたまうた事を明かにせねばわが祭政一致の政(31)は正しく行はれがたい。又わが國體の本源は上の三項を明かにせねば知られぬものである。而してこれらの事は主として古事記上卷の説く所である。次に諸の政治上の事項のうちに特に、
 一、成務帝の國郡制定
 一、允恭帝の氏姓を正された事
をあげてゐる事も意味が深い。國家を治むるにその政治の管轄地域を明確にするといふ事は古今に通じて動かぬ原則である。それを取り出して一項とした事は意義明白なものがある。次に氏族政治にあつては、人々の氏族的所屬を明確にするといふ事が、行政司法上の第一原則であつたといふ事はこれ亦見易い事である。要するに上にあげた五項の、始の三項は國家組織の根本であつて云はゞ今日の憲法の如きものであり、次の二項は行政司法運用上の原則である。この二者が即ち邦家の經緯、王化の基と云はるゝ所である、而してこれ即ち古事記が、その本旨として、眼目として記す所である。それ故に、この上奏文を文字通りに解釋して、古事記は今日の憲法、行政法の如きものであると思ふ事が不審ではなくなつてくる。
 今古事記の内容を見るに、上卷に於ては神の初現よりして神々の系統と皇室の來由、國家の本源、祭祀の由來、行事の起源、神別氏族の祖等を説いてゐる。中、下の二卷に於いては歴代の天皇の御事を經として、皇位繼承上の變事、政治上の大事件、又神祇に關する大事件、及び、皇別氏族の祖を説いてゐる。而して此の神別、皇別氏族の祖を説くことが極めて詳密で、殆んど一も漏すまいとしてあるのである。而して又到る所に歌謠を挿入してあるが、これも偶然のものではなくて、朝廷所傳の大歌の由來を明かにする事が目的であつて、世間で往々云ふ樣に興味本位のものと(32)は受取れない。
 今この歌謠だけについて見るに大歌の傳承によるものであると思はれるが、その歌謠の名目のわかつてゐるものをあげると
 神語
 夷振 (以上上卷)
 (來目歌) (古事記には名目を記さないが日本紀には明かに記してある)
 思國歌
 片歌
 天皇の大御葬に歌ふ歌
 酒樂の歌
 吉野國主のうたふ歌
       (以上中卷)
 本岐歌之片歌
 志都歌之返歌
 志良宜歌
 夷振之上歌
(33) 宮人振
 天田振
 夷振之片歌
 讀歌
 天詔歌
 宇岐歌
 志都歌 (以上下卷)
即ちこれら大歌の由來を明かにする爲に、往々それに附隨した古傳説をも傳へたものである所が少くない。この事は後の琴歌譜と照し合せて見ても思ひ半にすぎよう。
かくの如くであるから古事記はその傳承の材料から見れば、大體
 中央語部の傳承
 氏族各自の傳承
 地方の傳承
 社會生活上の傳承
等であつたらう。又その傳承の内容から見れば、
 神祇及びその系統、神祇祭祀の大事
(34) 國體の本源、皇位の繼承
 政事上の大事、氏族の出自
 大歌の由來
といふ事になるであらう。かの上表文に述べた本旨が明かになると共に、古事記その物の本質も明かになつたと思ふ。即ち古事記は推古天皇の御世まで行はれた語部の傳承を採録したものてその傳承は主として國家統治の必要上傳へられたものであつたといふ事になる。而してそれが形式上語り物として傳へられたものであるが故に、敍事詩といはるゝやうな點は著しくある。しかし、目的は敍事詩にあるのではない。又歌謡や神話が豐富であるが、それらは古事記の全部てはない。又歴史のやうであつても實際歴史としての傳承が目的でなかつたので、どこまでも祭政一致氏族政治時代の國家統治上の口誦的傳承を組織したものであるといふ事になる。
 だから古事記を材料として神話、歌謠、歴史を論ずることはもとより吾人の彼是と喙を挿むべき事ではないが、古事記全體を一括して見れば、上述の如き事が本質であるといふより外にいひ方がない。若し古事記を、最もよく本質に觸れた見方からして材料とするならば、古代のわが國體法制を記述したものと見るべきものである。それ故に私は十數年前古代法制を講じた際には、推古天皇以前の法制を論ずる第一の質料とすべきものとして、古事記を用ゐて説いた事もあつたのである。
 然らば古事記は古代の法制を論ずる材料とするだけであるかといふに、さうではない。我々祖先の生活が、この書に具體的に描寫せられてあるが故に、今日からはこれを種々の方面からそれ/”\の材料として研究することが望まし(35)くもあり、又可能でもある。然らば古事記は今日では古代のものと見るに止まるかといふに、私はさうは思はない。わが國體が、千古かはらないものである以上、その國體の本源を説き傳へた古事記が、今日の吾々に没交渉であるとは考へられぬ。古事記の記し傳へた時代的の差別相はこれは今日には通用せぬであらうが、その根本とその精神の經常的のものは日本國家の存する限り、日本國民の存する限り永久不變であるによつて、その點に於いて、古事記は現代の吾々の精神生活の源泉であり、本幹である。日本書紀と古事記とを世界から除き去つたならば、わが國家精神は源頭を失ふであらう。かゝる意味に於いて古事記は單に古代のものにあらずして現代のものである。然らば、現代に於てはこれを如何に見るべきか。こゝにその本質論は今一歩深みに切り込む必要を生じてくる。
 はじめに述べたやうに古事記の神々の物語は、現實の我々の精神生活の中枢でもあり源泉でもある。又わが現實の我々のこの國體の尊嚴は古事記に述べてあるがまゝに千古にかはらぬ。又わが皇統の繼承も古事記に述べてある如く行はれてゐる。然らば、古事記の傳ふる根本の精神は現實に我々の目前に生々活々の大勢力を有してゐる。我々はこれを過去のものとは見得ない。果して然らば、現在の我々と古事記とは没交渉のものでなくて、切り放すことの出來ぬものである。それならば古事記は今日の我々からは如何に見るのが妥當であるかといふ間題がこゝに生ずる。私はこれに答へるのに、古事記はわれわれの尊重すべき古典であるといふことを以てするであらう。しかしながら、この古典といふ語の意味は往々世間に誤解があるから、一言しておく必要がある。或る人は古典といふ概念について
一、古典といふ事の一般的意義は現代より見て古い時代に作られた文獻である。
といふ。これは先づよいとする。次に
(36)二、更に特殊的意義としてそれが文獻として權威を認められてゐる事。
といふ。これは古典の概念の主たるものであるから、それもよい。それに附隨して
三、また現代の教養だけでは理解に困難であり、過去の言語、文化の智識がそれを理解するのに極めて必要となつて來る事がその文獻を古典といふものの中に入れるに必要なる要素となつて來る。
といつて居るが、これは一見尤もの樣であるが、冠履轉倒の謬見である。理解の困難なのが古典の本質では斷じてあるべきでない。理解の困難といふことは古典なるが故に附隨し易い偶然的現象であつて、古典の本質ではない。吾々が古典といふのは
「吾が民族の經常(即ち古今不易)の精神を徴するに足る、權威を有する古代の文獻、」
をさすのである。かくして古事記はまさしくこの意味での古典の一であり、しかも古典中の最も重要なものである。而して、この古典として最も重要なものであるといふ點が古事記の本質中の骨髓である。それは現代の流行語でいふならば皇道の本源が、この骨髓をなすのである。斯んな風に見ると古事記は非常に重大なものであるといはねばならぬ。古代の日本の姿を見ようとすれば、古事記に依つて大體の事がわかると思ふのであるがそれと同時に古事記を正しく理解することによつて、現代のわが國家をも正しく指導することが出來なければならぬものである。古事記をたゞ古いものとする事は確かに誤である。私は常にいふやうに現代のうちに神代を見るのであり、又古事記の精神を現代の日本人に實現して行かねばならぬと信ずるものである、
 
(37)    序文の解釋
 
 序文の解釋に入る前に、この種類の文章の構造を調べておく必要がある。この句の種類に一定の名がある。これを作文大體に依つて示せば次の通りである。
  發句、
  壯句、 緊句、 長句、
  傍句、
  隔句、  此内有六隔句、
       輕句、 重句、 疎句、
       密句、 平句、 雜句、
  漫句、 送句、
        已上十三句雜筆之大體也。
 さて又この序文は前にも申した通り、上表文である。此の上表文の性質は文體明辨に委しく説いてあるが、要點を示すと、表は標也、明也。
とあつて、事柄を標徴して明白ならしめ、以て天子に告ぐるものである。表の文體は支那、漢の時代に起つたもので、晋の時代は多くは散文を用ゐたが唐宋は專ら四六文を用ゐた。(38) 表の目的はいろ/\あるがこの雎の序は、進書の表である。さて斯かる場合に文體は如何なるものをとるかといふに、それは上にあげた雜筆の筆といふ體をとるのである。その筆といふのは、今でも世間で文筆と云ふその筆である。文筆といふと今の人は或は文章を筆で書く意味だとするやうであるが、その意味ではない。文筆又は詩筆といふ時の筆で、支那では文章を二に大別して押韻をもつのが文、韻を押さないものが筆とした。
 そこで筆は韻のないものであるが、ざつと考へると散文(韻をふまぬもの)であるかの如く考へられるが、しかし之は後世の散文とは全く同一でない。矢張り、對句を重んじ、その聲の調ふことを要する。筆の如何なるものかといふ事を知らうとするならば、弘法大師の文鏡秘府論の中の文筆といふ書の文を讀めばわかる。この書はもと二卷あつたものらしいが、その書は傳はらない。しかし、その要領は文鏡秘府論に載せてある。それを讀むと大體の事がわかる。その要點を言ふと製作之道は唯文と筆となり。(文は云々を略する。)
  筆は
    詔
    策
    移
    檄−章−奏−書−啓等是也  〔四行の上に括弧〕
とある。言ひて韻ある者を文と爲し韻に非ざる者を筆と爲す。文は兩句を以て會し四句を以てなるとある。又筆は韻をとらず。四句にして成る。
(39) なほ同じ書に凡そ文章を爲《つく》るには皆須く對屬すべしと説いて、その對屬を取ることについての論があつて、對しないものが少しはあつてよいが、若し對しないことを常とするときは文章ではないとある。以上の事がわからなければこの上表文はわからないが、斯うした漢文の構造は文章軌範だけ讀んだやうな人々にはわからぬ。それを知るには、以上の文鏡秘府論、又は作文大體(群書類從に收む。大江朝綱の著といふ)に書いてある。又、信州の僧侶の著に四六文鑑といふものもあるが一體に僧侶の間には必要上、この文體が用ゐられてその作法が今に傳へられてゐる筈である。
 文體の構造はこれ位にしておき、次に表は如何なる心持で表はさねばならぬかといふことを考へてみよう。表をかく時の心持について、文鏡秘府論の論體の中に説いてあるのを見る。それには
 「要約を論ずれば即ち表啓その能をほしいまゝにす」とあつて、その註に「言は要にあり、理は約に歸す。」と説明してある。この言の要をうる事と理の約に歸する事とが表の本旨である。そのつもりで讀んでみると、この古事記序文は實にその注文通りに要約を得てゐる。そこでその要約の本旨は如何といふに
 事を指して心にのべ僻を斷じて理に赴く。微にしてよく顯、少くして之れあまねきは要約の旨なり。尚秘術論を見れば、定位の條中に「筆は皆四句を一對となす。」
とあり、又四言を以て其の半に居らしめるともあるが、その餘には
 五言、六言、又は七言以上を交へ、「然」「之」「於」「而」下句を隔て、頻りに對をなすとある。後世には四言の外に六言をも重要のものとした。これで四言と六言とが構成の基礎となるので、四六文といふ名目が生じた。此序文にも四六の句が少くないが、やはり本體は四言の句で四六文でも古體のものであらう。文體の事はこれ位にしておき、(40)いよいよ本文に入らう。
 
臣 安萬侶|言《マヲス》。
夫(レ)、 混元既(ニ)凝《コリテ》、 気象未(ダ)《・ズ》v效《アラハレ》、 無(ク)v名(モ)無v爲《シワザモ》、 誰(カ)知(ラム)2其形(ヲ)1。
ハ形》。
 
【臣…言】 上表文の初に用ゐる言葉でまだ文章の本體に入らぬ。それ故これは筆の所に入らぬ。上表文としては之を冒頭の文として特に置く。諸葛亮の出師の表には、臣亮言(ス)とある類である。この方式の例に文選等にもある表がそれだ。有名な李密の陳情表も亦さうである。
【夫(レ)】 之からが眞の文章になつてゐる、秘府論では之を發端と云ふが作文大體には發句とある。この發句といふものは對句はない。平仄にも規定はない。かやうに對のない平仄にかゝはらぬ句の類は發句と傍句と漫句と送句との四種である。この序文ていへば、
然(レドモ)、所以《コノユヱニ》、故《カレ》、寔知《マコトニシリヌ》、是以《コヽヲモツテ》、…………
等は皆傍句である〕
漫句とは對の無い散文の句であつて、この序文では末の「大抵所記者」以下がその著しい例である。送句といふのは句の終につける短い語で、この序文では「興」「矣」などがそれである。
コリテアラハレ ク  モ シ シワザモ  カ ラム    ヲ
混元既(ニ)凝《コリテ》、 気象未(ダ)v效《アラハレ》、 無(ク)v名(モ)無v爲《シワザモ》、 誰(カ)知(ラム)2其形(ヲ)1。
これは四字の句四句である。かやうに四字の句だけで出來てゐるもので文鏡秘府論にいふ筆の本體といふべきもの(41)である。これは四字の句二ツづつ一對をなして出來てゐるので作文大體に云ふ所の隔句の一種である。その隔句といふのは四句で出來てゐて、二句づつ相對してゐるものであるがその上下すべて字數が同じものを平隔句といふのであるが、これはまさしく平隔句である。
【混元】 この語は後漢の張衡の「應問」といふ文にも、班固の「典引」といふ文にもあつて、その意味は「混沌たる元始」といふことである。その「混沌」といふことは※[曷+鳥]冠子に「兩儀未v分其氣混沌」と見えて陰陽の二が分れず、差別がないのを云ふし、元は氣の始といふのであるから宇宙造化の未分な元始状態をいふものと思はれる。
【既凝】 といふのは古事記傳に「分れむとするきざしあるなり」とある。即ち混沌たる元始の氣が分れようとするに至るまでになつたことをいふのだらう。
【氣象】 現今いふ天氣の氣象ではない。氣の象といふことである。こゝにいふ所は列子の天瑞篇に基くのであらうと思はれる。その文は
 夫有形生2於無形1則天地〔二字右○〕安從《イヅクヨリシテ》生(ズル)、故曰有2太易1有2太初1有2太始1有2太素〔二字右○〕1、太易者未v見v氣、太初者氣之始也、太始者形之始也、太素者質之始也〔七字右○〕、氣形質具而未2相離1謂2之渾淪1、渾淪〔四字右○〕者言萬物相渾沌而未相離也。
易乾鑿度には大體同じく出てゐるが、ただ「天地」を「乾坤」とし「渾淪」を「渾沌」とした所がちがう。こゝで言ふ氣は如何なるものかと云ふと、先づ氣があり、次に形があり、次に質があるといふ順序になつてゐるから、その形も質も未だあらはれないものであるが然し何か感應するものがある、即ち形質の見るべきものなくして(42)相感度するものがある。それが氣である。その氣が外にあらはれたものが象である。氣の形質が表はれないのが氣象未v效である。
【未v效】 はその効力が末だ外にあらはれないといふ意である。之は要するに列子の太易者未見氣也である。
【無v】》 これは老子に「無名者天地之始」といふのによつたのであらうが、荘子には「泰初有v無無v有無v名〔二字右○〕」とも見える。天地の始の状態を云つたのであらう。「無v爲」これも老子にあるが、これはむしろ荘子の天道篇に依つてゐるらしい。その文は
 夫(レ)虚靜恬淡寂莫無爲〔二字右○〕者萬物之本也
とある。これは萬物の始の状態を云つたのであらう。
【誰知其形】 これは列子の上に引いた文に「有形生2於無形1」と同じく「無形」といふ意を強めて言つたものであらう。以上の四句で一つの思想をあらはしたものであつて、本居翁は「こは漢籍にこと寄せ天地の創めを書いた」と云はれた。これは列子の「太易者見v見v氣也」を基として云つたものであるけれども「既凝」とあるからして、たゞ太易の状態を云つたのでなくして、まさに太初太始太素〔二字右○〕(後に出てくる語である)にうつらうとする勢になつてゐることを示してゐる。しかし氣の象が未v效であるから、矢張り太易の状態を離れないのである。さてこゝにいふ所は太邦の神傳のことで無くて支那のことである。そこでこの文を見て支那の文化に溺れてゐるといふ人があるならば、私はこの文章のよみ方を知らない人だと斷定することが出來ると思ふ。これはもとより支那の神傳である。支那では宇宙の初をかくの如くいふが、しかし本邦の神傳では斯うであるといふ爲に斯樣に書いたのである。その(43)證據には次に「然」とあつて端を改めたのでわかるのである。
【然(レドモ)】 これは所謂傍句である。この語は端を改め上を承けて下を起すものである。何故斯ういふ事を書いたか。そこで「然」の一字には深い意味がある。私は思ふ。(夫(レ)……其形(ヲ))は支那に於ては天地のはじめをいふのは斯うだと云つておいて、然し〔二字右○〕日本では斯うだと云ふ。その意味をあらはす爲に「然(レドモ)」と云つてゐる。これからは日本の事である。支那人の云ふ理窟は斯うだが日本は斯うだと云つてゐるのである。これを正當に理解しないと安萬侶のいふ精神も苦心もわかるものではない。
 
乾坤初(メテ)分(レテ)、參神|作《タリ》2造化之|首《ハジメ》1陰陽斯(ニ)開(キテ)、二靈|爲《タリ》2群臣之|祖《オヤ》1。
 
これは作文大體で云ふ雜隔句の一種である。雜隔句といふのは上が四字の句、下が五字又は七字以上の句、或はその反對に重ねた聲の區別を互ひ違ひにする。たとへば
  ――平、――仄、 二句づつ四句一對のものである。
  ――仄、――平、
一體この隔句といふ名稱は、その四句がその末の字のやうにする所から生じた名目であるが、この句は分(平)首(上)開(平)組(上)で互ひ違ひにはなつてゐない。これは作文大體より古事記の方が二百年程古いので、その法則が違ふのであらう。
(44)【乾坤初分】 平田篤胤は古史徴開題記にアメツチノワカルルハジメと云つてゐるが意味はそれで良いと思ふ。意味はそれに相違ないが、元來漢文だから讀むのはその通りにするわけには行かない。
【造化】 は列子周穆王篇の中にいふ所の意味によると、萬物の化育者をさすことになる。淮南子の中にも造化といふ事が出てゐるが覽冥訓の註には造化は陰陽なりとある。これは古史徴解題記に「造化は漢籍に天地寒※[火+爰]の運行によりて萬物の成り出づるをいへり」とある通り、天地萬物を生々發展せしめる作用をいふのであらう。
【首】 は「はじめ」といふがその意味は時間のはじめだけでなく物事の基本の意味でもある、
【陰陽】 これは支那でいふ所の天地の間にあつて二つの相反對する外相を有し、而かもそれが相和合して萬物を生じるといふ作用を有する二つの氣であつて、その内にありて收める性質のものを陰といひ、外に向つて發展する性質のものを陽といふので、二者を合せて兩儀といふのである。
【斯開】 の「開」は分離することである。
【二靈《ジレイ》】「靈」は神靈の義で二人の神樣の義。陰陽を二神と云つた例は淮南子の精神訓の中にある。この言葉は支那のものだが意味は日本的で伊邪那岐、伊邪那美二柱の神を申上げるのである。
【群品】 之も易にある語で日本的の言葉ではない。「品」は物の種類を表はす語であるから結局、萬物と同じ意味である。祖は父の父。おぢいさんを本義とするがこゝは首祖の義であらう。
以上四句一の對句であるが、すべて對句はそれ全部で一つの意味をなすものであつて、必ずしもその語の排付の順序で解釋せぬでもよいし、又往々さ樣にしたらわからぬ事がある。この對句は言葉は漢語であるが内容は全く日本(45)のものである。はじめに述べた樣に上表文の本旨は要約である。古事記三卷の内容は、この序文の中に要約されてゐる。これを古事記傳に文章のかざりだけの事だとけなしてから、學者は甚だ輕んずるやうになつてゐるが、私はこれらの漢文の中に、わが古傳説の大要と本旨とを要約し得た安萬侶の苦心と手腕とに、非常なる敬服と尊敬と感謝とを捧げる。これを惡口いふのは罰のあたる話である。
 
所以《コノユヱニ》、
出(デ)2入(リテ)幽顯(ニ)1、日月彰(ハレ)2於洗(フニ)1v目(ヲ)、
浮(キ)2沈(ミテ)海(ノ)水(ニ)1、神祇|呈《アラハル》2於|滌《ソソグニ》1v身(ヲ)。〔二行に括弧〕
 
【所以】 これも古事記傳に「輕く看ずべし」と云つてゐるが私は左樣には思はない。吉岡徳明の古事記傳略にも云ふ通り、前にあげた事を受けて一歩進めて説明する爲のつなぎの語である。即ち以上の事に依り次の樣な事も出て來たのであるといふやうな意味をなすのである。
【出入幽顯】 これは上四、下六の句二つの對したもので輕隔句といふ名目にあたるものである。
【幽顯】 の幽は莊子の天運篇に「鬼神其の幽を守る」とあつて、陰微にして見えざる義であつて神靈界をさすのである。顯は幽に對して明の意味を持つ。易の繋辭傳には顯道通(ジ)神徳行はるとある。こゝには幽と顯と相對してゐるが、斯樣な用ゐ方は莊子の庚桑楚にも見えるし、その外、支那の書に多い。それで幽は神靈界、顯は人間界といふ事であらう。幽顯に出入するといふ文字は漢文だが事實は全く日本の古傳である。
伊邪那岐命が夜見の國に入られ、又出でて歸られたことを指すので、たゞ幽界と顯界とを出入するといふのでなく(46)之は幽界に入り、又顯界に歸られた事を指したのである。
【日月】 これは天照大神と月讀神とを指す。
【彰2於洗1v目】 これは日神と月神とが伊邪那岐命の御滌身の際にあらはれたのであるが、左の御目を洗ひたまうた時に日神が成りまし、右の御目を洗ひたまうた時に月神が成りましたことをいふのである。
【浮沈海水】 これは特に説明するまでもない。伊那那岐命が夜見の國の穢を祓ふ爲に、日向の橘の小門の檍原で海水におり立ちて御身を滌がれた事を指したものである。「浮沈」といふのはその御滌の時に海水におりかづきたまふとあることをさしたのである。
【神祇】 字義通りにすれば神は天つ神、祇は國つ神であるが、然しこゝでは神祇で廣く神樣といふ程の意味に用ゐたのであらう。
【呈《アラハル》2於滌1v身】 滌v身は前に述べた。呈はアラハルと讀むので意味もそれで分る。この御滌の時にあらはれた神樣は禍津日神、直毘神、綿津見神、墨江大神である。以上四句が又一單位をなし、四句混一して一の意をなすもので、二句づつ一意をなして、順序してつづくものではない。即ち此の一章の意味は
幽界に入りまして後、顯界にかへり出でまし、それから海水に浮沈して、みそぎし給うた時に多くの神樣があらはれ出でまし、最後に目を洗ひたまふ時日の神、月の神があらはれましたことを叙したものである。即ち「幽顯に出入して」後「海水に浮沈し」給ひしが、滌v身の時に神祇あらはれ目洗ふ時に日月の神彰れたまふ、といふ意であ(47)る。さて上の「乾坤初分」からこゝまでは、わが古傳説の天地の開闢から天照大御神出現までの事を、要をとつて叙べたものであつて、神國の神國たる所以、吾が國體の本源がこゝにあることを簡明に示したものである。即ちこれらの文句は國體の認識をはつきりさせる爲に、先づ固く杭を打つた樣な姿である。
 
故《カレ》、
太素(ハ)杳冥(ナレドモ)、因(リテ)2本教(ニ)1 而識(リ)2孕《ハラミ》v土(ヲ)産《ウミタマヒシ》v島(ヲ)之|時《トキヲ》1、元始(ハ)綿|※[しんにょう+貌]《バクナレドモ》、頼(リテ)2先聖(ニ)1而|察《アキラム》2生(ミ)v神(ヲ)立《タテタマヒシ》v人(ヲ)之世(ヲ)1。 〔二行に括弧〕
 
【故】 これも傍句で、上の事をうけて下に更に續ける力を示してゐる。古事記傳略には「今按ずるにこゝに故とおきてすべて上文の意をうけて、此のわけなるに由て、天地の初よりして神代のことをも知り得るなりとことわりたり」といつてゐるが、誠にその通りである。此
の文の姿は上四字と下十一字の二句が對立して四句で成つてゐる雜隔句である。次に六の隔句の形を説明してみよう。
  輕隔句   上四、下六
  重隔句   上六、下四
  疎隔句   上三、下五六七八九等
  密隔句   上五以上、下六或は三
  平隔句   上四、下四又は上六下六で上下同じ
(48)  雜隔句   上四、下五七より十二まで
        又は上五七より十二まで下四、
それでこれが雜隔句の一に當る譯になる。
【太素】 これは前にあげた列子の天瑞篇にいふ所で、質の最初であり渾沌の最後の姿である。張堪が天瑞篇の註で質の説明をしてゐる。それは性で既に物と爲ると各々その性を有することになるとある。今の性質といふ語もこれに基がある。白虎通には、太素を「形兆既になるを太素といふ」とある。これら大體似た樣な事をいふので、萬物が形を得ようとする最初の時期をいふのであらう。これをば古事記傳に「太素も元始も世のはじめを云ふなり」とあるのは甚だ疎略な見方である。安萬侶の文をよむと、列子を知つてゐて書いたといふ事がわかる。さうして見ると混元と太素と全然同じじではない。即ち宇宙の展開の經過の太素といふ名でいふべき頃には、氣、形、質を具へて、これよりまさに陰陽の二に分れようとし、萬物を生じようとする勢が出來てゐて、まだそれが實現せず、今一歩といふ所が太素といふのである。
【杳冥】 杳も冥も奥深くくらくして明らかにしがたいことをいふ。
【本教】 文字は世の中の根本になるべき教といふ意であるが支那では孝行を云ふ。禮記の祭義を見るとさうある。呂氏春秋にも同じでつまり支那では本教といへば孝行のことである。しかし之ではここの所の解釋がつかぬ。これは文字は支那のものであるが意味は日本の精神でなくてはわからぬ。これを以て見ると屹度日本には昔から傳はつた世の中の基となるべき教があつたものである、之は吾國特有の教である。それを本教と安萬侶が書いたのであ(49)る。本居、平田二先生は、これらを漢文で書いたものであるからと云つて輕く見られたのは殘念である。この本教の説明を
(一)古事記傳は神代の事を語り傳へた説をいふとある。が
(二)篤胤の古史徴開題記には天つ神の詔にて世の始めの事を詔教へ傳へませるをいふと述べてゐる。この方がすぐれてゐる。
(三)吉岡徳明の傳略には、所謂天つ神の諸々の太諄辭《フトノリトゴト》これなり。とあるがこれもわろくはない。
それでは今日何を本教と云ふかといふに、古事記三卷全部がそれであると私は答へよう。明治のはじめに平山|省齋《セイサイ》が本教眞訣といふ書を書いたが、之は良く知つてゐたらしい、この神の教によつて、天地開闢からわが國體の本源までを知るといふやうな教は支那にはないから、これは全く日本の本つ教である。
【率v土産v島之時》 は伊邪那岐伊邪那美二柱の神が大八島國を生み賜ふた事をさす。
【時】 時間のみでなくその時のすべての事を含めてさしてゐる。
【元始】 元もはじめ、始もはじめであり、河圖挺佐輔の中に「天、元始を授け帝號を建つ」などいふことがある。天地のはじめの事である。
【綿※[しんにょう+貌]】 年代が遠くはるかなことをいふ。さやうに年代遠くはるかであるからわからぬとはいふが、我が國ではわからぬことは無いといふのが次の「先聖云々」の句である。
【先聖】 文字から云へば、先古の神聖といふことで、支那の熟字の例は、班固の幽通賦の中に(50)「先聖の大猷に謨り云々」とある。しかしこれは支那の事ではない。古史徴開題記には「天(ツ)神を申すなり」とある。これがよいと思ふ。
【生v神立v人】 これは、意味は説明するまでもないと思ふが、古事記傳などには當を得た解釋がない。これは對句であるから「土を孕み、島を生み」と比べて見れば同じ行きかたであることがわかる。即ちこれに對する句が「國を孕み島を生む」とあるがそれは、孕んだのが土で産んだのが島であるといふのではない。土即ち島で、それを先づ孕み次に産まれたのである。ここも神即ち人でそれを生み立てたのである。その「立て」は「そだて」である。それだからこれは神や人を生んで育てたまふ。といふことである。
此の一章は
太素といふべき元始のあたりは、いかにも遙かな昔であるから、遠くくらくてはつきりしないが、先古の神聖の立てたまふ所の本教に因つて、伊邪那岐伊邪那美二神の大八島國を産みたまうた時の事、又海川野山草木の神々をはじめ日月の神までも産みたまうた時の事を知り得るのであるといふのである。斯樣に考へて見ると、この一章のはじめに「故」とかいたことがよくわかるのである。
 
寔《マコトニ》知《シリヌ》、(傍句)
懸(ケ)v鏡(ヲ)吐(キテ)v珠(ヲ)、而(テ)百王相續(ギ)、
喫《カミ》v劔(ヲ)切(リ)v蛇(ヲ)、以(テ)萬神蕃息〔二行に括弧〕 與。
 
これは九字の句二句の對句で長句の一種である。
(51)【寔知】 これも傍句て又端を改めて説き出すのである。寔は音シヨクである。傳略には上文をうけて更に其明驗を識察するをいふとある。三宅觀瀾の助字雅の中に寔は實是の二字を併せたものだとしてゐる。佐藤六石の作文法には寔の字の意はよくよく其處に落つきたる意だといひ、又俗に「ほんまに」などいふが如しと云つてゐる、これらでその意味が知られるであらう。
【懸v鏡】 神代の故事をあげてゐる。これは古事記傳にいふやうに、天照大神の岩屋におこもりになつた時、眞榊に八咫鏡を取りかけたものであらう。これについて語のつゞきがわからぬといふ説もあるやうだが、この事は先になつて自然説明しよう。
【吐v珠】 これも神代の故事である。記の中に云ふ天の安の河で天照大神と須佐男命とのうけひの時に、須佐男命が天照大神の御珠を乞ひうけて、之をかみて吹きたまふその氣吹の狹霧に、天忍穗耳命等五柱の男神がお生れになつたことをさしたのであらう。
【百王】 神皇正統記には百王の意味を説いて十十の百にはあらざるべし。極り無きを百といへり。百官、百姓など云ふにて知るべき也とある通り、無數の意であらう。鎌倉時代に百王の意味を、九十九、百の樣に取り違へたために人心をして悲觀せしめたが、神皇正統記によつて、正しい解釋が復活せられたのである、百王といふ語は、禮記三年問に、「是れ百王同じうする所、古今の壹とする所也」とあるが、もとより古今多數の王の意味である。この百王といふ語が、荀子の不苟篇にも、漢書の董仲舒傳にもあつて珍らしい語でもない。こゝは勿論本邦の事實であつて、萬世一系の天皇が永遠にわたつて、相續される意味である。
(52)【喫v釼】 此の事實は支那にはない。記紀の内容、神代の故事である。上の「吐v珠」の對であの時に、天照大神が須佐男命の十握釼を喫みて、吹きたまふその氣吹の狹霧に、多紀理毘賣命等三柱の女神のお生れになつたことをさしたのであらう。
【切v蛇(ヲ)】 これも本邦の故事てある。その故事は世上周知の八岐大蛇を須佐男命が切りたまうた事であるが、これが一方は三種神器の天叢雲釼の出現の原因となり、一方は下にある萬神蕃息のもととなる。その萬神蕃息は櫛稻田姫に關係をもつ事實である。即ち大蛇を切られた後、櫛稻田姫を妃として、出雲の須賀の地にお住みになられたが、その御子として多くの神々が繁昌されたわけである、即ち「萬神蕃息す」にかゝるわけである。
【萬神】 八百萬神のことである。
【蕃息】 蕃は草木のしげること。息は動物の生れて來る事で、息は又むす子、むす女《メ》の場合に用ゐる。史記の秦紀(始皇帝の前)に「馬大に蕃息す」とあり。同じく孔子世家の中に牛馬の蕃息することを載せてあり。更に廣い意味では易林に「神厚(キハ)地(ノ)徳(ナリ)、萬物蕃息(ス)」とある。
此の四句は對句として形式が極めて整然としてゐるが、その巧妙さは形式だけでなく、意味の上に至つては容易に説明しつくせない程巧みなものである。
傳略には此の四句はもと珠釼御誓の事を云へるなれど上の句に「懸v鏡」と云つて、天照大御神の事を云ひ、下の句に「切v蛇」と云て、須佐之男命の御上の事なるを示せるなりとあるが、それはもとよりの事である。しかしそれよりも更に複雜な組織のものである。それは上句の中の「吐v珠」と下の句の上の「喫v釼」とは同時の事で、その誓約によつて(53)三女五男の神が生《ナ》りいでましたのであるが、この「吐v珠」「喫v釼」は文字のまゝでは意味が徹底しないのである。即ち「珠」も「釼」も共に喫んで吐かれたのであるから、これは一にして解しなければならぬものである。さうしてその結果あらはれ給うた神、即ち三女五男の神のその五神の中の天忍穗耳尊が皇室の御祖先で吾が天皇陛下の御血統がこゝにおこるのである。即ち此の御誓がもとで百王相續が表はれてゐる。故に懸鏡からの二句を一緒にして見なければ意味が通らぬ。さて又上に述べた樣に萬神蕃息は須佐之男命には關係するのであるが、これが又それだけでは不充分であつて、三女五男の神々の御子孫も蕃息せられたのである。それ故にこゝにも二句を一緒にして見なければならぬ事がある、斯樣にしてその萬神の末が國民であるから、こゝに國民の源と皇室の源とが一致してゐるといふことになる。さう見ると此の二句が千鳥がけの樣に複雜してゐるといふことがわかる。さうしてこれは同時に三種の神器の起源にも關したものである。こゝに「鏡」をかけとあるそれはまさしく三種の神器の一に相違ない。こゝにいふその蛇を切つて神器、天叢雲釼があらはれたのである。
結局三種の神器があらはれることになる。珠は大神の御首にかけ給ふたものであるがこれも神器の一である。
此の二句でわが皇統と國民との由來、又三種神器の出現とを説いたもので、この二句で我が國家の起源がわかる。實に要と約とを得たと云はねばならぬ。斯樣に考へてみると「寔知」の意味が一層強く感ぜられる。寔はまことに實是である。
【與】 作文大體に云ふ送句である。
普通の流布本には「歟」になつてゐて、伊勢本と眞福寺本とにだけ與になつゐる。之は支那の字から云ふと與は本(54)體であるが、歟は後世與に通用する樣になつたものである。論語にも、孝弟者夫仁之本與〔右○〕
これを普通に「か」とよむが、與には疑の意味があるわけではない。意味を確めてゐるのである。日本文では却つて讀まない方が良い位のものである。
これは文章形式が餘り對句ばかり續くと、平板となつてしまふから單調を破る爲にかうしたものであらう。
 
議(リテ)2安河(ニ)1而平(ゲ)2天下(ヲ)1
論《アゲツラヒテ》2小濱(ニ)1而|清(メキ)2國土(ヲ)1。
 
此の二句も七字二句の對で所謂長句であるが、上のも長句で長句と長句と直ぐにつゞくと平板に流れるから、調子を破《ヤブ》る合の手の意味で上の句の末に「與」を入れたものである。
【議2安河1】 安河は天孫降臨の前にあたつて、高産靈神と天照大神との御命令で八百萬神を集めて會議を開かれた天之安河原のことである。この時に思金神をして思ひ議らせられた。その時にこの葦原中國は天照皇大神の御子孫の治められる國であるが、今荒振神が多く居るから之を鎭めなければならぬ。それが爲には誰をこと向けに遣はさうかといふ御相談であつたが、その御相談の結果、天菩比神《アメノホヒノカミ》がよいといふことになつて遣はされたが、三年たつてもかへらぬ。そこで又御相談になり、次に天若彦を下されたが此神も八年まで復命しなかつた、その次に遣はされたのが雉の嶋女であつたが、之は天稚彦に殺された。最後に遣はされたのが健御雷神である。以上の事實が議安河の三字で表はされてゐる。
(55)【小濱】 古事記の本文に依ると健御雷神と天鳥船神とが神勅を受け降つて、出雲の伊那佐之小濱につかれ、そこで大國主神と問答せられた。その小濱である。〔論〕は武力に依らず、言論に依つて、此の國土の引つぎを了せられた事を云ふ。この國土奉還は兵力を以て壓倒してゐるのではない。勿論兵力の用意はあつたのではあるが。安萬侶は此點まで苦心をしてゐる。斯樣な用意までが行き屆いた文章であるから輕視することは出來ぬ。
【清2國土1】 その大國主神の國籍奉還の後にまだ荒振神があつたのを悉く服從せしめて後、健御雷神が國内を和平に歸せしめられたことを復命してゐる。それを云ふのである。
以上の二句も全くばらばらではない。安の河に議る事がなければ小濱に論ずることもない譯である。而して天下を平げて國土を清められたこの二句が一の意義をなし一つの事を物語つてゐるのである。
之について傳略には、「今按ずるに此二句は下文の天孫はじめて降ると天皇經歴とを云ひ起さんがためなり」。と云つてゐる。これは惡いといふわけではないが、ただ下の事を起す必要においた文では無い。これは古事記序解にいふ樣に天孫降臨の準備、下地を固められた大事件であるから、如何に約と要とを主としても、これを略してはならないのである。
 
是《ココヲ》以(テ)
番仁岐《ホノニニギノ》命、初(メテ)降(リタマヒ)2于高|千《チホノ》嶺(ニ)1。
神倭《カムヤマトノ》天皇經2歴(シタマフ)于秋津島(ヲ)1。
 
(56)【是以】 これも傍句で上の所以に似た所もあるが、ここは道理をいふのでなくて上に述べた事實から、必然の結果として生じた事を叙せむとするために、この語を用ゐたのである。
【番《ホノ》仁岐命】 正しくは天津日高日子番能邇邇藝命と申すのであるが、對句にするためホノニニギノミコトといふ語を四字とした。これは十字の句二が對をなしてゐるので、作文大體の長句に屬するのである。又「番」は「ホ」の音を表はす字であり、
藝は「ギ」をあらはす字として古事記本文にも使つてゐるから、此處では別に無理をしたわけではない。問題は仁の字にある。仁を「ニニ」と用ゐたのは記には例がなく、唯中卷應神帝の段に酒をつくる人の名は仁番《ニホ》と一つあるきりてあるが、それも「ニ」であつて「ニニ」ではない。
平假名の「に」は仁からでた事は明かで「仁」は「ニ」であるが、こゝの仁をニニと讀むかニとよむか、若くは高千〔二字右○〕嶺をタカチホ〔四字右○〕ノミネと讀む樣に仁一字をニニとはつきりよむかである。
古事記傳には仁の字は「ニム」の音をニニに讀ませたのであらう、と云つてゐる、この思ひ付は良いが、若しニムであつたらニミになつてニニになる道理はない。そこてこの「仁」の字の音を考へてみる必要がある。
一體「ニ」とはぬる音には三の種類があるので悉曇家はこれを三内といつてゐる。がこれを羅馬字にあてていふと
 1 唇内――m(マミムメモの頭になる子音)
 2 舌内――n(ナニヌネ(ノ)の頭になる子音)
 3 喉内――ng(花が月がなどいふ時のがの如く鼻にかゝつたガギグゲゴの頭になる子音)〔三行の上に括弧〕
(57)そこで地名などにある子音の「ン」がナニヌノになつてゐるのはこの舌内の「n」がアイウオの母音を伴つてなつた結果である。例へば因幡の因は「イナ」信濃の信は「シナ」、又古事記にある崇神天皇の御名の印惠(日本紀には五十瓊殖《イニヱ》とある)の「伊」は「イニ」となる。これらはその「ニ」が「n」にあたるからである。この仁は眞韻て因と同じ種類である。それ故に日本流にすれば「ニニ」となるのが當然である。
【高千嶺】 對句をつくるために四字とする必要上、穗の字を省いたものである、この一句は天孫降臨を説いたものである。
【神倭天皇】 神武天皇をさす。神倭伊波禮毘古天皇といふべきを四字にする爲に中間を略したものであるが、やはり神倭天皇と申し上げて見ると神武天皇のほかには申し上げることはない。
【秋津島】 これも本文には大倭豐秋津島とあるのを略したのであるが、本來は本州を指すのである。或はもつと廣いかもしれぬ。即ち大日本帝國といふやうな心持であるかもしれぬ。
【經歴】 これは神武天皇が日向國から各地を經歴せられて前後六年を經て大和國に入り、橿原宮に宮居を定められたことをさす。
以上二句は天孫降臨から神武天皇の御東遷に至つたまでを略説した。
 
化熊|出《イデテ》v爪(ヲ)、天劔|獲《エ》2於高倉(ニ)1
生尾|遮《サヘギリテ》v徑(ヲ)、大烏|導《ミチビク》2於吉野(ニ)1。 〔二行に括弧〕
 
これは四宇六字の二句が相對してゐるので、所謂輕隔句である。
 
(58)【出v爪】 これは古事記全篇中での大問題である。出口延佳は鼇頭古事記に「水」か「派」かの誤りならんと云ふ。然しあいにくさういふ字を書いた本もない。古事記傳は山か穴かの誤といふ。然し斯う書いた本もない。古事記序解には大熊被v髪出v爪とすれば良いと説いたが、然しそれでは四字の句が六字となり對句がこはれる、それではこゝにいふ事實はどうかといふに、古事記と日本紀とを湊合していへば、神武天皇が熊野村に到りました時に神が大きな熊にばけて出て毒氣を吐いたので皇軍がそれに中つて大きに弱つたといふ事で、古事記日本紀の本文からは爪が何であるかを決定する材料はない。然しこれは對句であるからその相對した句の相對した位置の字と比較して、釣合がとれなければならぬ。といふ制限なり條件なりが伴ふから無理な推量をすることを許さない。これは「出」と「遮」とがいづれも動作をいふ語で對してゐる。その下は一方「徑」であるから、こちらもそれに釣合のとれた地理的の語でなければならぬことは明かである。左樣に考へて來ると茲に面白いのは眞福寺本の水分神の下の註に「訓v分云2久麻理1」とある。「訓」の字、奥疎、神の下の註に「※[言+爪]疎」とある訓の字が「※[言+爪]〔右○〕」となつてゐることである。この外にも「天比登都柱」の註の中に 「爪天如天」とある「爪」又石土※[田+比]古神の註の中にも「爪石云伊波」とある「爪」は「訓」の誤記である。萬葉にも九卷に玉釧の釧が「※[金+爪]」となつてゐる。斯樣な例は少くない。それ故に「川」と「爪」とが同じであらうと思ふ。然し單獨に川が爪となつてゐるのは見當らないのであるが、此點より推察するに多分、爪は川であらう。然し私も今までの材料だけではつきりさうだと斷定するだけの蛮勇もない。もつと良い説が出たら何時でも撤回する。伊勢の神官田中頼庸の校訂古事記には出《イデテ》v巛《カハヲ》と直してゐる。これは「川」の字の源が「巛」といふ形であつたから(59)であるが、「巛」を「川」とする中間に「爪」といふ形があつても不思議ではない。而して「川」なら「徑」との相對も相當である。
【化熊】 記と紀とを參照して考ふればその熊は神の化して禍したものらしい。その熊を化熊と云つたのてあらう。それが川から出たといふことは古事記にもないが、何かさやうな傳説でもあつたのかも知れぬ。
【天釼獲2於高倉1】
熊野の高倉|下《ジ》といふ人が、健御雷神の教によつて得た釼を持つて來たら神武天皇が忽ちに眼を覺まされ、それから又皇軍が活動を起したその事を云つたのであるが、「高倉」といふのは、その高倉下の倉から神釼を得たのであるから「高倉」の人名と實際の倉とをかねていふ。
【生尾】 尾の生えた人、古事記には生尾人があり、日本紀の方には有尾になつてゐる。
【遮v徑】 徑の字は易に「艮を山となし徑路とす」とある。それを綜合すると多分山の小路を云ふのが本義であらうかと思はれる。そこで、これは神武天皇が吉野の河尻に到りました時に井光といふ生尾人、又石押分之子といふ生尾人が御迎へに出たことを述べたものである。
【大烏】 これは八咫烏の事をいふのであるが、神武天皇はその八咫烏の先導で大和國に入られたのであつて、日本紀では八咫烏の先導で最初に入り給ふた所は菟陀と記してゐる。こゝには吉野とあるが、古事記の本文と一致してゐる。それ故に古事記は日本紀の影響は受けてはゐない事がわかる。
以上四句一聯で神武天皇が大和に入りたまふまでの事を叙したのであるが、この句の語の順序通りにすると事實に(60)一致しない。事實は大烏が吉野に導いた後に生尾人が小徑に出て迎へたのである。これで見ても斯樣な文章の解釋のしかたによほど注意せねばならぬ事がわかる。
 
列《ツラネテ》v※[人偏+舞](ヲ)攘《ハラヒ》v賊(ヲ)
聞(キテ)v歌(ヲ)伏(ス)v仇(ヲ)。 〔二行に括弧〕
 
これは四字二句の對であるから所謂緊句である。
【列※[人偏+舞]】 ※[人偏+舞]の字は「舞」の字に同じ。これは久米歌に伴ふ久米舞の事をいふのであらう。
【攘賊】 攘は拂ひ去る、排除することである。
【聞v歌】 この歌は久米歌である。
【伏v仇】 「伏」は服と通ずるので降服の意味である。
以上の二句は一つの事をば對句にしたので語を文なして對句にしたてたものである。これは久米※[人偏+舞]の起原としての話に基いたもので、久米歌をうたひ、多人列をなして※[人偏+舞]うたのであるが、その時に或る合圖があるとその※[人偏+舞]人がいきなりその歌※[人偏+舞]に見入つてゐた賊どもを斬り屠つたのである。その時に※[人偏+舞]うたのが久米部(即ち軍隊)であつたから、その姿を後に傳へるための歌※[人偏+舞]が久米歌久米※[人偏+舞]と云ふものである。
 
即(チ)
覺《サトリテ》v夢(ニ)而敬(ヒタマフ)2神祇(ヲ)1、所以《コノユヱニ》稱《トナヘ》2賢(キ)后(ト)1、
望(ミテ)v烟(ヲ)而|撫《ナデタマフ》2黎元(ヲ)1、於v今傳(フ)2聖(ノ)帝《ミカドト》1。 〔二行に括弧〕
 
(61)【即】 これは傍句で、訓は日本では通例スナハチとよむが意味は多端に亘るのである。それ故に其時々に適當に解さぬばならぬ。有名な大典禅師の文語解には「即は意味多端にしてスナハチと讀んても當らぬ事多し」と云ひ、「即今」「其場を離れぬ意」と云つてゐる。詳しく云へば是だけでも暇がかゝるから簡單にするが、皆川※[さんずい+其]園の「助辭詳解」の中には
「即」と云ふ時は即字の上に云つたことが其處で即の字の下に言うた語に飛び越してつくのであると云つてゐる。こゝで云へば神武東遷、中州平定とこれから云ふ所の崇神天皇の神祇崇敬とを強く結びつけて行くのである。「即」字に依つて話が神武より十代の崇神まで飛び越すのである。「即」はたゞ漫然と使はれてゐるのではない。
さてその「覺夢而」以下は四句の對で隔句である。即ち、上六字、下五字の二句を對したので、作文大體の雜隔句の一種である。
【覺v夢而敬2神祇1】
之はこの古事記の中に説いてある事實である。
崇神天皇の時、流行病のため人民多く死し崇神天皇が御心配遊ばされ、神牀《カムドコ》にお入りの夜に大物主神が夢にお告げになり、その神の教に依り意富美和之大神を祭り天(ツ)神地(ツ)祇の社を定め神祇の崇敬著しく、殘る所なく御幣を奉られたので厄病は止み國家は平らかになつた。それを云つたのである。こゝは支那の字を借りたのみで事實は明らかに日本の事である。
【所以】 は普通にユヱニとよんでゐる。これは「ユヱニ」といふのを音便にしたもので後世の訛である。こゝでは(62)「コノユヱニ」とよむべきものである。
【稱2賢后1】 の「后」は皇后と君主と二つの意味がある。音はどちらの場合も「コウ」であるが、皇后の方は去聲宥韻(尻下り)君主の方は上聲有韻(尻上り)で發音が多少ちがふ譯である。こゝは君主の方の意である。
崇神天皇は古事記に「初國知ラシシ御眞木(ノ)天皇《スメラミコト》」と申上げてゐる。それをもとにして斯樣に記したのである。實際に於て御治績を拜すると崇神天皇を賢后と申すことは當つてゐる。神祇の崇敬の事は上に既に述べてある。その他の一例を云へば、四道將軍を四方に遣はされたといふ事は小學生も知つてゐるが、その四道將軍は皆皇族を以てあてられた。これは將軍といふ文字で書いてあるから兵を以て征伐に行かれた樣に思はれ易いけれども、實は教化を布かれたので、皇威を示し地方を綏撫し、人心を指導せらるる事を意味したのである。
この事は例へばつい此間まで當地の、師團長として宮樣が御在任であつたことなどを思へば多少はわかる。師團長宮の御在任は戰爭のためにおはしたのではないが、地方人心に大なる影響を與へた樣なものである。崇神天皇の御世にはその外に貢物の事等も定めてゐられる。「天(ノ)下平(ギ)人民富(ミ)榮(エキ)」とある。そこで賢后と申したのである。その御政治の内容は多端であるが、その中心が神祇奉齋であるので斯樣に書いたものである。さうして、天皇の御名を崇神と申し上げる如く洵にそれに相異ない。尚こゝにこれをあげた理由は後で述べよう。
【望v烟撫2黎民1】 これは仁徳天皇の御事である、これはこの記に依ると天皇が高山に上り、四方を見たまひ、國中に烟が起らないのは人民が難儀してゐるためであらうと云ふので、三年間「貢物及びエダチ即ち課役」を免ぜられた。エダチは役で努力を朝廷に奉ること、俗にいふ「役ニ立ツ」といふ語はこれから出てゐる。斯樣に遊ばされた(63)爲に、宮城は壞れたまゝで修繕をさせられない。終に雨の漏るのを樋を以て殿中より外に流された程であつた。斯ういふ有樣で黎元を撫で給ふた。
【黎元】 はもろ/\の民をいふ。「琴山は黒色で民の頭の黒いことをいふ。それ故に黎民とも云ふ。「黎」は民である。戰國策に「子(トス)2元元(ヲ)1」とある。元は善なり。民は善なるが故に元々といふと註がある。黎元といふ語の例は支那にある。漢書の郊祀志にもあり。又同書の谷永傳に「使2天下黎元、咸安v家樂1v業」ともある。もろ/\の民を愛撫せられたのである。
【於v今傳2聖帝1】 これば仁徳天皇を申し上げた。聖帝といふ文字は古事記本文にはつきり書かれてゐるし、日本紀にも見える。それ故に安萬侶がこの上表文の爲に特に作つたのでなく、天皇崩御前からあつたので、後人の語ではあるまいと思はれる。
「後に國中《クヌチ》ヲ見シ給ヘバ國ニ烟滿チタリキ。カレ百姓《オホミタカラ》富メリトオモホシテ今ハト課役科セ給ヒキ。是ヲ以テ百姓榮エテ役使《エダチ》ニ苦シマザリキ。カレソノ御世ヲ稱ヘテ聖帝ノ御代トマヲス」と本文にある。
日本書紀にも「故に今に於て聖帝と稱するなり」とある。これに依つて上表文制作の時の俄作の文字でない事がわかる。この四句一對の雜隔句は何を示してゐるかと云ふに、崇神、仁徳の御政治の立派な成績をほめ申上げたのである。しかし、又これは二帝の御改績をほめ上げ奉るだけが目的でなくて、目的はそれよりも大なる所にある。それはこゝにあげた二つが自ら天皇の天下を治めたまふ皇道の實質的極致をあげたのである。天皇として御政事を遊ばすには、上は神祇を崇敬し、下は人民を愛撫する。此の二つでピツタリと治るのである。これ二つで天皇の御政(64)事の實質は盡きてゐる。その著しき代表的のこととして崇神、仁徳を擧げ申したのである。
 
定v境開v邦 制2于近淡海1、
正v姓撰v氏 勒2于遠飛鳥1。
 
これも四句相對してなす隔句で、上四字下五字の對句二で雜隔句の一種である。
【定v境開v邦】 は成務天皇の世の事實である。日本書紀の文を漢文よみにしてみると
「五年秋九月諸國ニ令シテ以テ國郡ニ造長ヲ立テ縣邑ニ稻置ヲ置キ並ニ楯矛ヲ賜ヒテ以テ表《シルシ》ト爲ス、則チ山河ヲ隔《サカ》ヒテ國縣ヲ分チ、阡陌ニ隨ヒテ以テ邑里ヲ定ム。因リテ東西ヲ以テ日縱ト爲シ南北ヲ日横ト爲ス。山陽ヲ影面ト云ヒ山陰ヲ背面ト曰フ。是ヲ以テ百姓居ニ安ジテ天下無事ナリ」
とある。又古事記には同じ事を記して
「武内宿禰を大臣として大國小國の國造を定めたまひ、亦、國々の境を定め又、大縣小縣の縣主を定めたまふ」とある。これらの事を心得てからこの文をよむと意味がよくわかる。即ち境を定めるといふことは、國及び縣の境を定めるのである。つまり政治上の管轄區域を一定せられたのである。
(邦を開く)といふ語については從來古事記の解をなした人は一人も正しく解したものがない樣である。如何なる意味にてこれを輕視したか私にはわからない。或は開は開拓の意と考へたかも知れぬが、それはそんな淺薄な語ではない。これは深い意がある。
邦は「クニ」とよむが字義からいへば「大國」の意である。故に「開邦」は「開國」に同じい語てある。「開國」といふ語は(65)易の師の卦に
  上六、大君有v命 開v國|承《ツガシム》v家(ヲ)
とある。その疏に「若シ其功大ナラバ之ヲシテ國ヲ開イテ諸侯タラシム若シ其ノ功小ナラバ之ヲシテ家ヲ承《ツ》ガシメ卿大夫タラシム」とある。卿大夫は今なら、男爵位のものだらう。聞國は人を封して諸侯とすることで、日本人であれば大名とならせることである。
【開國】 といふのは大名の領國を創始することである、封建政治の基礎はこの「開國」の適否によりて成否が決定するのである。支那では晋以後唐の頃まで五等の爵は皆開國公(公侯伯子男)と云つた。手近に云へば顔眞卿の書などにその例が屡々見られる。こゝに「開邦」となるのは、つまり國造・縣主、稻置をその土地土地に定めお置きになつた事を云つたものであつて非常に意味が深い。國造や稻置や縣主が成務天皇の勅命を奉じてその委任せられた地方を治めた事を開國と云ふのである。境界を正しくせねば、政治上の地理的區劃隨つてその權限の及ぶ範圍が明確にならない。さてその境界が一定すればそれぞれの境域について、一定の責任者を定めなくてはならぬ。以上の事實を定境開邦の四字であらはしたのである。
【近淡海】 は今の近江であつて、遠淡海(今遠江と署く)に對して近淡海(今近江と書く)と云ふのである。
成務天皇は近淡梅之志賀高穴穗宮に於て、天下を治め給ふたから近淡海と云つた。
【制】 は天子の命を制と云ふ。近淡海に制すとは近淡海の朝に於いて、國造、縣主、稻置を任命し定め給ふたといふのである。
(66)【正姓撰氏】
これは允恭天皇の世に行はれたのである、古事記ではこの事を記して「是ニ天皇天ノ下ノ氏氏、名名ノ人ドモノ氏姓ノ忤ヒ過テルコトヲ愁ヘタマヒテ味白檮《ウマカシ》ノ言ノ八十禍津日ノ前《サキ》ニ玖※[言+可]瓮《クカベ》ヲ据ヱテ天ノ下ノ八十友緒ノ氏姓ヲ定メタマヒキ」とあり。日本紀には今一層詳しく出てゐる。
氏は家々の血統に基いて生ずる名目であり、姓は氏氏についての家柄、身分の尊卑を次第した名目である、姓を正し氏を撰ぶとは對句にするために斯樣に分けたのであつて、即ち氏姓を正しくし撰せられたのである。撰《サン》は單純なる選擇の意でなく、選定の場合に用ゐる選擇した上に定める意がある。氏姓のいろ/\過まれるのを正し撰び定め、それを記録に載せられた意味があらうと思はれる。撰《サン》は書きしるして書にするのである。
【遠飛鳥】 は(近淡海)と對句になる。然し之は實際この通りであつて文章の飾りの結果ではない。允恭天皇は「遠飛鳥宮にましまして天(ノ)下治しめしき」とある。これは後の顯宗天皇が近飛島宮にましましたのでそれに對して以前であるから遠飛鳥と云ふ。之は時間の遠近の方で云つたので場所の遠近をいつたのではない。
【勒】 は從來「シルス」とよみ、私も同樣に讀んで居た事もあつたがこゝには「ヲサム」とよむべきである。勒は馬勒の勒で馬の手|綱《ツナ》である。字書には「抑也」「制也」とあり尚ほ外に「治也」ともある。治の意をとつて「ヲサメタマフ」とよむ。此の四句の對は文字としての説明は前述の通りであるが、定境開邦、正姓撰氏の二つは國家統治上の大綱重大事項である。國家の要素については今更いふまでもないが、凡そ國土と人民の二つは國家の客體である。既に云つた通り、「境ヲ定メ、邦ヲ開ク」は國土に關する政である。國土に對して境遇を定め、そこに政治(67)上の責任者を置く。國造、縣主がそれである。現在でも府縣のきまり、師團、裁判所其他の管轄があり、帥團長、縣知事、裁判所長等が責任をとる。この區劃明かとなり、責任者明かとなれば國土の經緯の方の基礎が立つのである。
この點が明確となつたのが成務天皇の世である。次に人民の方の氏姓の問題については今とちがひ、當時の人民は血族の統制を以て政治の基礎となした。斯ういふ氏姓を基礎として行はれる政治である。それ故にその氏姓の始末を正しくすることは人民統治上の根本の條件である。
これは今日ではその一部が戸籍となつてゐる。今日でも戸籍が正しくなければ人事上の統制は決してつくものではないが昔は個々の家でなしに一つの血統で系統を追うて政治が行はれた。これが即ち氏族政治血統政治である。基礎として氏姓を正すことが最大條件であつたことはいふまでもない。所が中頃亂れかけたので允恭の世に更に氏姓を正ししるし定められたのである。氏族政治時代に於いて國民に對しての政治上の根本條件はここにある。
この二つの句(雜隔句)でいふ所は、國土國民といふ統治の客體に對して天子の治めらるゝ根本を正しく擧げたのである。これはまことに約にして要を得たものといふべきである。今日の西洋流の國法學者にあつてもこれ以上の事は決して云へるものではない。之に依つて安萬侶がどれ程頭が明確であつたかがわかる。然るに本居先生の之に對する御考へは誠に情ないと云はねばならぬ。古事記傳にはこの箇處を解して
 「上は志賀(ノ)宮(ノ)御代の御事にて近(ツ)淡海はその國の名なり。下は遠(ツ)飛鳥(ノ)宮(ノ)御世の事なり。制(ス)勒(ス)とはたゞ其の宮に坐まして天の下の政所聞看《マツリゴトキコシメシ》しをいふ。さて是までは古への御代々々に聞え高き事をこれかれと拔き出て(68)文飾に書けるなり。」
と云つてゐる。これは誠に安萬侶を侮辱した言といふべきである。而して大先輩たる本居先生がこの通りであるから、それより後の末學の輩、一人もこの大文章を理解し得ないで今日に至つた。私は先生の考へと全く違ふ。「即」より以下の對句二つ(四句一對二箇)これだけで日本の政治の要綱があげられてゐると思ふ。これらで示された所は
 第一は 崇神天皇の神祇の崇敬
 第二は 仁徳天皇の人民の愛撫
 第三は 成務天皇の國縣の制定
 第四は 允恭天皇の氏姓の正撰
右四ケ條であるが、初の二つ、第一、第二は政治の實質で、あとの第三、第四は治國の大綱で、第一、第二と相對して政治が形式内容完備するものである。なほ又別の方面から云へば第一第二は天皇大權の發動の大綱を擧げたので第三は國土に關しての大綱、第四は國民に對しての大綱をあげたものである。即ち前の對句は統治の内容で後の對句は統治の形式である。而して主權國土國民三者の統治の實は大綱として之に盡きてゐる。これだけのことが治國の要道である。この要道をたゞ四句で一つも殘さず擧げ要を抑へてゐる。このことは如何に安萬侶の智識また見識のすぐれてゐるかを證する。
本居先生がこの重大なことを輕視して文章の飾りと云はれたのは不可解である。しかし安萬侶のこの文の偉大さは之に盡きない。引き續いて次に更になほ大間題がある。
 
(69) 雖(ドモ)2
 
これも所謂傍句であつて、對なく、下の二句を導く。之は一旦下に云へる事をまたはね返す言葉である。この字の讀方は通例「イヘドモ」といふ、これが適當だとは思はれない。けれどもまあ斯樣に讀んでゐる。こゝでは下の對句を一括してそれを目宛にして他に對せしめる。即ち古を稽へ云々の句に對せしめる。その意味を一纏めにしたものをひつくりかへすのである。それで下の對句の意を一往説いた上に、この語にもどつて更にその下の對句に對せしめるものである。
 
歩驟 各々異(ニ)
文質 不《ズト》1v同。
 
これは四字二句の對である、作文大體の緊句の種類に屬する。この一對は「上2五經正義1表」に――これを古事記の序がまねたものといはれるが――「雖歩驟不同、質文有異」とあり「莫不……」の二字があつて下文につづいてゐる。その文は「雖2歩驟不v同質文〔七字右○〕有1v異、莫v不〔三字右○〕d開2茲膠序1崇以2典墳1、敦2稽古〔二字傍点〕1以弘v風闢2儒雅1以立2訓啓1含2靈之耳目1賛c神化之丹青u」といふのである。斯樣にこの對句が良く似てゐるために「上五經正義秦」を摸したといはれるが、しかし上の文を讀んでもわかる通りこれはたゞ此の箇所だけで他はまねないのである。「稽古」といふ文字もあるけれどその用ゐる本意が違ふのである。これは此の上表を眞似たといふ樣な薄つぺらな問題ではない。元來漢文には歩驟文質の語は古來屡々見受けられるものである。而してこの語は其源に遡り見るに甚だ深い意がある。これについて、從來これをどう見て來たかと云ふことを先づ一往顧みる必要がある。これについては本居(70)先生は、今までで最も偉い方であるから、やはり先づ古事記傳を問題にするが、古事記傳には
 歩は徐《シヅカ》に歩むこと、驟は疾走することにて、政も世々のさまに隨ひて寛きと急《スミヤカ》とのかはりあるをいふなり。
とあり、その下に〔三皇(ハ)歩(シ)五帝(ハ)驟(ス)などいへり〕
と記してゐられる。折角そこに氣がついてもそれを利用なさらす惜しいことである。
さて「歩」は徐行であり、「驟」は説文によると馬の疾歩《トクアユムコト》である。これはハヤ足であつて、疾走の走るのではない。こゝにも本居先生の註は字義とちがふのである、先づ第一に歩と驟とはどういふことが基になつて相對し用ゐるかといふに、本居先生は政治の方針に緩急ある意とせられたものらしいが、これではわかつた樣でわからぬ。歩と驟と並べ用ゐるときは支那では如何に用ゐたか。それは本居先生のいはれる如き淺薄な意は先づ稀である。
歩驟と相對するいひ方は到る處にあるが例へて云へば史記の禮書の中に
 君子上致(シ)2其隆(ヲ)1下盡(シテ)2其|殺《サイヲ》1而中|處《ヲリ》2其(ノ)中(ニ)1歩驟馳聘廣〔右○〕※[務の力が馬]不v外(ナラ)、
とある。これは荀子の禮論を殆んどそのまゝ取つてゐるのである。
荀子には
 故君子上致2其隆1下盡2其殺1、而中處2其中1、歩驟馳聘※[蠣の旁]〔右○〕※[務の力が馬]不v外v是矣
とある。荀子の「※[蠣の旁]〔右○〕」が史記の「廣〔右○〕」となつてゐる。
史記の正義に之を説明して
 三皇(ハ)歩(シ)五常(ハ)驟(シ)三王(ハ)馳(シ)五伯(ハ)※[務の力が馬](ス)
(71)といつてゐる。即ち歩驟はたゞ歩むことでなく三皇五帝を基礎にして云つてゐるのである。そこでこの典據を基礎にして具體的に考へればわかる。なほ他の例をいへば隋の薛道衡の老氏碑に
  皇王(ニ)有(リ)2歩驟之殊1
  民俗(ニ)有(リ)2淳漓之變1
とある。これを以て見れば帝王の政についていふ語であるといふことは明らかである。故に歩驟之殊といふことは何も唐の五經正義まで俟たなくとも既に隋の時にある。更に溯れば次に示す如く後漢書にもある。さて歩驟はどんなことをいふかといふに
後漢書の曹褒傳に
  三五歩驟〔二字右○〕(シ)優劣殊(ニス)v軌(ヲ)
といふことがある。これが上の老氏碑の「歩驟〔二字右○〕之殊〔右○〕」の語の基づく所である。そこで歩驟は三五歩驟の意であることは疑がないが史記元正義の「三皇ハ歩シ五帝(ハ)驟(シ)云々」はどこに出てゐるかといふに白虎通の號の篇に
 鉤命訣ニ曰ク三皇(ハ)歩〔右○〕(シ)五帝(ハ)驟〔右○〕(シ)三王(ハ)馳(セ)五覇(ハ)※[務の力が馬](ス)とあり
これは結局荀子の禮論、史記の禮書と同じ事になる。「三皇」は支那古代の三代の聖王をいふ。三皇の名については書によりて相違がある。最も普通な説は
天皇氏、地皇氏、人皇氏を三皇といふのであるが、これは三五暦記にある説である 「五帝」は禮記と史記とで説がちがふが禮記の説では、伏羲、神農、黄帝、少昊、〓〓《センギヨク》をいひ、史記では黄帝、〓〓、帝|〓《コウ》、堯、舜をいふ。「三王」(72)は夏の禹王、殷の湯王、周の文王武王をいふ。「五覇」は春秋時代の五人の覇者をさすので諸説があるが、荀子によれば齊の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王|〓閭《カフリヨ》、越王勾踐をいふ。
さて三皇は歩し(徐行)五帝は驟し(疾歩〕、三王は馳せ(疾驅)五覇は※[務の力が馬]す(奔馳、狂ひまはりとび行く)この四つに何のちがひがあるかといふに前述の後漢書の曹褒傳に
  歩(トハ)云(フ)2徳隆(ク)道備(ハリ)日月爲(ニ)歩(スルヲ)1時事彌々順(ニ)日月亦驟(ス)勤思|不《サレバ》v己(マ)日月乃(チ)馳(ス)是優劣也、
とある。その意は
天下泰平なるときは、人間の氣がのび/\して、月日のたつのが速くない。のんびりしてゐる。これ日月爲(ニ)歩(ス)である。
最も極端なのは五覇の世に至つては、東西にやれ戰爭やれ兵糧とせき立てられて、人民は忙しくてしやうがない。そんな意味で云つたので政治の善し惡しが原因になり人心が動いてゆく。これを表すのに先づ歩驟といひ次に馳※[務の力が馬]といつた。直接に政事の差別を云つたのではない。さて三皇五帝といへば後に「皇帝」といふ語をこれに基づいてはじめた樣に支那でいふと天下泰平の時代をさす、さやうな天下泰平の時でも三皇は歩し五帝は驟すといふ樣に多少の政治のやり方がちがふ。そこてこの文を書いた本人の心について考へてみる必要がある。この文の筆者、安萬侶にありては、決してわが歴代の天皇樣方の政治の善惡を批評したのではない。上表の文に於いて歴代の天皇の批判をなしうるものかどうか考へて見るとよい。又さやうな事をするのが上表文の體例かどうかを考へてみると良い。これは決して、天皇の前で御先祖の批評を善し惡しと御批評申し上げるのではない。安萬侶の意はどなたも三(73)皇とか五帝とか申上げる樣な立派な御方々であるが、多少政治のちがひは、御代御代であるものである。といふのである。
天皇陛下に上表するとき批評がましい事は出來ぬものであつて注意するなら裏よりこつそり申上げるべきで、表より堂々と批評する筈はない。これを批判の批評のといふ人間は臣子の分といふことに心得のない人間の言である。そこでこれは三皇五帝の如き至治の時代でも時代時代で多少の違ひがあると申すのである。
【文質不v同】
これも從來輕々しく見られて來たがそんな淺薄なものではない。先づ文は雅馴である。雅馴即ち文である。質は質素質朴で飾の無い事をいふ。この質と文との兩者は必ず相伴ふべきである、論語に
 文質彬々(トシテ)然(ル)後(ニ)君子といふ樣に文質均整を保ち行くのが人生の理想である。
然るに文質不v同と云つてゐる。これは深い意を持つてゐるが大抵の人は之を考へない。歩驟があれほど深い大きな典據の上に立つてゐる以上文質も亦同樣の典據の上に立つと見るべきである、さうでなければ對句の精神が徹底せぬ。これは歴代の天皇の政の上に多少の違ひがあると見たのであらう。然らばこんな事が支那にあるかといふに論語の爲政篇に
  子曰、殷(ハ)因(レリ)2於夏禮(ニ)1所2損益(スル)1可v知也。周(ハ)因(レリ)2於殷禮(ニ)1所2損益(スル)1可v知也。
とある。論語|集解《シツカイ》の中の馬融の説に
  所2損益(スル)1謂2文質三統〔四字右○〕1
(74)とあつて、これが文質不同といふ語の出てくるもととなるのである。
文質三統とは如何なる事かといふに、集解に之を註して、夫文質再(ビニシテ)而復(シ)正朔三(タビニシテ)而改(ル)とある。
「文質再びにして復す」といふ事については同じく集解に「一代の君、質を以て教をなせば則ち次代の君必ず文を以て教ふるが如きなり。文の後君則ち質に接し質の後君則文に復して循環して極まりなし。興ることあれば必ず廢することあり。廢すると興ると更る/\遷る。故に損益する所あり」と註せられてゐる。すべて文を以て治めて行くといつしか文が勝ちすぎる。そこで次は質でゆく。質で治めて行くとその時は良いが後には又質が勝ちすぎる、そこでその次は文でゆく。三遍目に又、元に戻る。斯樣に時の宜しきに適して行くのが、これが政治の要諦である。三統についは人々に依つて解が異なるが、こゝには大なる必要は無いから省く。元來これは禮に關する孔子の教へについての説明である。支那の禮といふのは今の法律、政治、遺徳を含んでゐる。そこで先に云つた樣に、正朔三たびにして改まるといふことも出でくるのである。一體に殷の政治は質が勝ち周の政治は文が勝つてゐたといはれてゐるものである。しかし三代、即ち夏、殷、周の世はやはり支那でも治世の見本としたものである、日本に於ても歴代天皇の政が時代によつて或は文を主とし或は質を主とせられるといふ事は在つたに相違ない。
斯樣にそれ/”\政治の上に多少の趣のちがひがある。しかし何れも天下が平かに治まつた。どんな聖天子でも時々政治が變つてゐるといふのである。「文質不同」といふのも上の「文質三統」から出たとすれば、これもどこまでも善惡の批判をなさず、支那の聖人の政治のみを云つてゐるのである。これだけを以て見ても安萬侶は一言をのべ一句を吐くにも用意周到なもので容易ならぬ油斷のならぬ人であると思はれる。
(75)私は思ふに安萬侶は論語を確かに讀んだに違ひない。何も五經正義の上表のまねでなく、論語を確かに讀んだのにちがひない。さうでなければこゝまでの文章はかけるものでは無い。
「歩驟各々異(ナリ)文質同ジカラズ」は歴代の天皇は何れも聖明の天子であるからして、その治めたまへるのはみな至治の政治である。然し、支那でも三皇は歩し五帝は驟すとある如く,又文質三統といふ樣にそれぞれ得意の政を行はれたものであるが、それと同樣に日本にありても、同じ至治と云ひながらその政治の姿は同じでないといふ事をば歩驟といひ文質といひ、何れも聖人の政であるといふ事を背景としてこの語を用ゐたもので、非常に深みのあることばである。本居先生の記傳に於て
 さてかくいへること必ずしも上に擧げたる事ども悉《コトゴト》には當らねども、只漢人の常にいふなる趣を文のかざりに書けるのみなり。さて如此言て下の文の本を記せるものぞ
と云つて居られる。これは既に述べた通り淺薄に見ての言であるが、これでは安萬侶に對して甚だ酷な見方で、私は安萬侶の爲に冤罪を訴へねばならぬ。私はこゝに辯護人として、千年以上虐待を受て來たその冤を雪ぐわけである。上の緊句の意が明瞭になつてそれから「雖」に來るのであるが、今いつた通りさま/\の有樣に何れも立派な政治をなされたのであるが、その御本意は結局次の如くであるといふので「莫不」に移るのである。
 
莫(レ)v不(トイフコト)d
稽v古以繩(シタマヒ)2風猷(ヲ)於既(ニ)頽(レタルニ)1
照(シテ)v今以補(ヒタマハ)c典教於欲(スルニ)uv絶(エント)。〔二行に括弧〕
 
(76)【莫不】 これも矢張り一の傍句である。
文鏡秘府論では「右並(ニ)惣(ジテ)論2吻(ノ)状《サマヲ》1也」と云つてゐる。この言葉は面白い。否定の否定となつてその下に來る語句が非常に強い肯定となる。
「稽v古……
照v今……」これは二句の對句で、九字の句が二つで一對を爲してゐるのである。
【稽v古】 は書經堯典にある。後に俗化して物事の稽古の義となる。
堯典の初に
  日|若《シタカウテ》稽(ルニ)2古(ノ)帝堯(ヲ)1
とあるは堯の立派な政治を考へるにの義であるから、この上表文の方は古の神聖の御代を考へるにの義で、下の照v今に對する。今を照してどうしたといふのではない。こゝは對句である。そこで稽古照今の二句を一括して解すべきである、
さて照今は稽古に對した言葉てあるが、呂氏春秋の察今篇の中に「今を察すれば則以て古を知るべし」とあるが、それはこゝを逆に行つた語である。即ち古の事を稽へて今の有樣にくらべて見て政を行ふといふ意である。但しこの今は何時をさして今と云つたかといふ問題が生ずる。安萬侶が上奏文を書いたのは元明天皇の御代であるから、その當時の今か、或は又古事記編纂を企てられたのは天武天皇の御代であるからその當時の今かといふに、これはかういふ意味の今ではない。
(77)前述の聖天子、崇神、仁徳、成務、允恭の御世々々の政を遊ばされたその當時を指して云つたのである。
【風猷】 この字は文選の任ムの表に
  夫存(シテハ)樹(テ)2風猷(ヲ)1没(シテハ)著(ハス)2徽烈(ヲ)1
と見える。風は風教で教化のこと、猷は道也とせられるから風猷は教化道徳を指す。教化道徳が既に崩れてしまつた時に之をたゞすのである。
【繩】 は大工が墨繩を以てまつ直な線を木材につけるやうに、人生に存する正道を明かにして示す事である。人生の道徳を正す事である。
【典教】 は支那に存する熟字である。典は常であるから五倫五常の教である。風猷、典教二つは結局同じ事をさす。
【欲】 は普通の漢文よみでは何時でも「ホツスル」とよむけれども「欲」は「將也」で朗詠などでは「スル」とよみ必ずしも「ホツスル」とよまない。こゝも「スルニ」とよむべきである。この對句の意は風教道徳が既に頽れ絶えんとするに正し補はんとしたまふといふことでないことはない。確かにさうだといふのである。この目的を果したまふが爲には古代の事蹟、當時の有樣に考へ照して御覽になるといふ義である。
扨「雖」より「欲絶」までを一括して見るに
崇神帝の神祇崇敬、仁徳帝の國民愛撫、成務帝の國縣制定、允恭帝の氏姓正撰の四つは、それぞれ趣がちがふ。故に歩驟各々異なり、文質同じからずである。
(78)けれども何れも皇祖皇宗の御遺訓に基き宜しきを制せられたのである。何れも文、又は質のすぎた爲に一時衰へかけてゐたのを振興刷新せられたのである。即ち崇神帝の御代に神祇崇敬の興つたのは前にそれが稍衰へてゐたに違ひない。次に仁徳帝の御代には實際人民が困窮してゐたのである。成務帝の御代にはその前に國郡の管轄が亂れてゐたのである。允恭帝の御代には氏姓の關係が亂れてゐたのであらう。
結局、古を稽へ今を照したのは、實際文章の飾でも何でもないのてその通り行つたのである。これを文章の飾と見るのは當時の聖明の天皇の御苦心を拜察し奉らぬものである。この文は吾々の時代より千年も前に既にこの事をのべたのである。而して安萬侶の眞意がその千年もの間充分に悟られなかつたことは誠に殘念な事である。
さて顧みると初の「夫混元……」よりこの「……欲v絶」まで一括して第一段となる。
その大意は
我國家の初より古事記編纂を企てられた時代に至るまでの國家經緯の歴史の要點を取り來つて略説したのである。我國體の淵源、皇室の始まり、皇化の深厚なること、國家統治の大綱を短い文の中に巧にのべ、尚三種の神器の初までも記してゐる。文章は如何にも短いが内容は不充分と云へぬ程要點を皆擧げてゐる。
これだけでも安寓侶が文章の上に大手腕を有した人であることが考へられる。
掴へるべき事をよくつかまへたのは頭が良いからである。
 
※[既/旦]d飛鳥清原大宮《アスカノキヨミハラノオホミヤニ》御2大八|洲《シマ》1天皇御世《スメラミコトノミヨニ》u、
 
【※[既/旦]】 「イタリテ」とよむ。「至」の意に用ゐられたものである。從來は「オヨビテ」と讀んでゐた。この十五字が一句(79)をなしてゐるがこれは作文大體にいふ所の漫句である。對句をしない。聲を調へない。これが第二の大段の始まりである。
天武の御代に古事記を編纂せよと仰せられた。それをいふための冒頭として天武天皇のことを先づ申上げた。「※[既/旦]」は日傾きて見ゆる也とあり。午後四時五時頃の太陽の姿である。こゝは用言として「イタル」の意である。「イタル」と訓んだ例は
書經に「朔南(ニ)※[既/旦](ル)」とある。
【飛鳥清原大宮】
これは天武天皇の宮城である。「キヨミハラ」といふ場合、書紀には淨〔右○〕御原と書いてある。古事記本文には此時代は記されてゐないから分らぬが、この序文では清〔右○〕原とある。
然し「清」字を書いた例は他にもある。それは
奈良藥師寺東塔の※[木+察]《サツ》の銘に(この塔は三重塔で文武天皇の御代にできたから、安萬侶以前のものである。)
 維清〔右○〕原宮馭宇天皇即位八年
とある。
又慶雲四年に出來た威奈大村墓志にも
 「後清〔右○〕原聖朝」
とある。それ故に「清原」とあるから後世の文だなどいふことは出來ない。後世の清原氏は天武天皇の子孫である。(80)清少納言もさうである。
【御2大八洲1天皇】
この語は今更説明するを要しない語であるが、大寶令の公式令に「明神御大八洲天皇」と書くは朝廷の大事に用ゐる宣命の書方である。即ちこれは朝廷の第一の公式の御稱號である。こゝにこの文字を用ゐたのは非常に緊張して用ゐたのである。これも矢張り、安萬侶の心づかひを見るべき所である。こゝは古事記としてはさ程重くはないが文字として一往觸れてみた。
 
潜能體v元
※[さんずい+存]雷應v期 〔二行に括弧〕
 
これは短對の句で四字の對句であるから緊句である。「潜龍」はひそめる龍、下にかゝる。易の乾の卦にある文字であるが、これは天子の徳ありて未だ位に即かざる時を指すに用ゐる例となつてゐる。こゝは天武天皇御即位前の御時をいふ。
【體v元】 は春秋元命苞といふ書に
「王者體 元建 極而君臣上下各得2其位1故天下治也」 といふ語がある。體v元は帝王たるものについていふ語である。
易の文言《モンゴン》に「元者善之長也君子體v仁足2以長1v人」とある。長は長ずるものの義である。即ち王者としての徳を體にそなへたといふことをいふのである。
(81)春秋胡氏傳に
「體v元者人君之職、調(フルハ)v元者宰相之事」とある。
【※[さんずい+存]雷 は易の震の彖傳に
「※[さんずい+存](リニ)雷震(ス)」とある。そこで震のかへことばをば※[さんずい+存]雷といふのであつて、※[さんずい+存]雷はつまり震のことである。而して易の説卦には震は長子也といつゐる。そこで震は皇太子にあてる。前の潜龍も矢張り皇太子と云つてよいのであるから、この二者共に前に皇太弟であり、後に天皇になられた天武天皇を指すに適してゐる。さてこの※[さんずい+存]雷即ち震の用を考ふるにそれは序の卦に「震者動也」とあるから時機を見て活動を始める。その活動が時機を得ることを「應v期」と云つたのである。
易に
「震驚(カス)2百里(ヲ)1 不喪2匕鬯(ヲ)1」とあり。匕《ヒ》とは物をすくふ「サジ」鬯《チヤウ》は神酒で祭主之を執りて祖神を祀るのである。
彖の傳に之れを釋して「震驚(カス)2百里(ヲ)1 驚(カシテ)v遠(ヲ)而懼(レシム)v邇(キヲ)也 出(テハ)可d以守2宗廟社稷1 以爲c祭主u地」
とある。以上のいろ/\の意を綜合して「※[さんずい+存]雷應期」の説明をすることが出來る。
それを通俗的にいふと雷が動いて(※[さんずい+存]雷)ごろ/”\とやり出す。震即ち長子が出でて宗廟社稷を守り、その祭主となる。即ち祖神を祭る所の後繼天子となる。これだけで天武天皇が兵を動かして天子となられたことを含めて申し奉るのである。なほ又考へてゐるとなか/\文字の用ゐ方がうまい。潜龍は徳をいひ※[さんずい+存]雷は行動をいつてゐる。唯四字でこれらの意を表したのはえらいものである。
(82)震即ち震動雷發して、一旦天下に事を擧ぐれば遠近を震駭せしめ、その結果宗廟社稷を守り祭主となり、天子となりたまふ。※[さんずい+存]雷應期の意味は以上の如くである。
 
聞2夢歌1而想v纂v業
投2夜水1而知v承v基 〔二行に括弧〕
 
七字二句の短對で長句である。
【夢歌】 これは日本紀に明確な記載がない。それ故に古事記傳には、夢の歌の事は書紀に見えず漏れつるなるべしとある。
古事記序(ノ)解には天智天皇十年十二月近江宮にて崩御の時童謠三首あるが、それをいふにやとある。又曰ふには童謠は「冥々の中よりいはしめられる神語であるから、それを夢歌とも云ふべし」と云つてゐる。古事記傳略には之を引きよくは分らねが後人なほよく考ふべしと云つてゐる。今私の考へる所はこの上表文にいふ程の著しい歌をば同じ人の關係し編纂した日本紀に漏れることはあるまい。又日本紀に漏らす程の輕い事をこゝに書くわけはない。斯樣に考へてくると矢張り序(ノ)解に云ふ樣にかの天智天皇崩御の際の童謠の事であらうかと思ふ。
その童謠三首をざつと大意だけ述べてみよう。
一、御吉野《ミエシヌ》の吉野《エシヌ》の鮎、鮎こそは島邊を吉《エキ》。鳴呼《エ》苦しゑ。水葱《ナギ》の下《モト》、芹の下、吾《アレ》は苦しゑ。
 (解)
 吉野は大海人皇子に縁故が深い。それを云ふのであらう。なぎの下、せりの下は危ないぞと危險をいふ。なぎ、(83)芹共に煮てたべる野菜である。食べ物の傍に居ると危いぞ、一緒に居ると食はれるぞ。因にいふ吉野の鮎は實際うまい。芝居で名高い「鮨屋のお里」の鮨屋の鮨は鮎を材料とするが、東京のよりずつとうまい。それで吉野に居られるのは宜しくない。早く他の島邊におうつりなさいといふ意であらう。
二、臣《オミ》の子の八重の紐解く、一重だに未だ解かねば皇子《ミコ》の紐解く。
 (解)
 「臣の子の〔右○〕」、「皇子の〔右○〕」に見える「の〔右○〕」は「が」の意、臣の子は臣民の仲間をさす。八重の紐は幾重にもこんがらかつた紐で時世の難局をたとへたものであらう。大臣有力者は多いがこの難局を解決する者がない。彼等臣の子なるものがその八重の紐を一重も末だ解きえぬに皇子が紐を解いて解決なされた。天智天皇崩御の時は日本的に非常の難時であつたやうである。當時、難局打解を誰がするかゞ問題であつたらしい。
 三、赤駒のい行き憚る眞葛原、何の傳言《ツテゴト》、直《タダ》にし吉《エ》けむ。
 (解)
 元氣な赤駒に乘つても行き難い亂杭、逆茂木の樣な眞葛原であるが、何もそんな事に人傳に彼是議論する必要はない。時はこれ非常時だ。決してぐづ/”\すべきではない。直接行動せよ。爆彈三勇士たれ。
 これは天武天皇を諷したのであらうと私は思ふ。然し之は私だけの考に過ぎぬが私の考への樣にすると、この童謠が天武天皇に非常時局打開を諷してゐたと考へられるのである。
【聞】 は眞福寺本には聞となつてゐるが、他の諸本には「開」とある方が多い。但し古事記傳には開を誤りとしてゐ(84)る。けれど開の方が却つて意味がわかる樣に思はれる。古事記序(ノ)解には開として解く。その意を開發することとしてゐる。
【纂業】 纂は繼の意がある。皇祖皇宗の天業を纂がむと思召すことである。
【投】 は後漢書の任光傳に
  投(ル)v暮(ニ)
といふ例がある。投は「イタル」の意である。
【夜水】 「ヨルノカハ」とよむが天武天皇が吉野を出てて、夜半伊賀の名張の横河に行かれたことが日本書紀に見えてゐる。
【承v基】 は纂v業と同じい。祖宗の基業を承けつぐ、纂業する。基業といふ語は後漢書に例がある。
前の夢の歌は、天道が御自分の方に向つてゐる事を想ひ給ふ意であるが、この横河に至つて祖宗の大業を受けられる事を知り給ふといふ意である。
日本書紀に依ると
「夜半に及びて隱郡《ナバリノコホリ》に到りて隱《ナバリ》の驛家《ムマヤ》を焚く。因りて邑の中に唱へて曰く。
天皇東國に入る。故れ人夫諸參赴《オホムタカラモロモロマヰコ》然るに一人も肯て來《マヰコ》ず。
横河に及ばんとせしとき黒雲有り、處さ十餘丈、天に經《ワタ》れり。時に天皇|異《アヤシミ》たまひ則ち燭《ヒ》を擧《トモ》して親ら式《シヨク》を秉りて占ひて曰く。
(85)天下兩(ニ)分(ルル)祥《サガ》なり。然も朕れ、遂に天下を得む歟と。即ち急に行《ミタ》して伊賀郡に到りて伊賀驛家を焚く……。」
とある。
「式」とは如何なる形のものか、今はわからぬが、ぐる/\まはるもので上まるくして下四角、それをまはして占ふのである。天武天皇はこの式を以て占ふことに通じてゐられたのである。以上は天武天皇がその即位前に、いろ/\の事によつて事前にその天業を承けつがれる運命におはしまし、又御自身もそれを自覺してゐたまふたことを提し示したのである。
以上天武天皇の御事はこの上表文に於いて實際の事を述べてゐるので文飾ではない。寧ろ、これらを以て史乘の缺漏を補ふべきである。
 
然(レドモ)
 
天(ノ)時未(ダ)《・ズシテ》v臻《イタラ》、蝉2蛻《セミノゴトクモヌケシタマヒ》於南(ノ)山(ニ)1、
人事共(ニ)洽《カナヒテ》虎(ノゴトク)2歩《アユミタマヒキ》於東(ノ)國(ニ)1。 〔二行に括弧〕
 
【然】 傍句である。
天武天皇が天位に上られるといふことは豫め知られてゐた。けれども神より知らせられてゐたことを實現するは多大の努力によらねばならぬ。それをいふために、前に云つたことは斯くの如くである。然しそれは直ちにさうなつたわけではないといふ意味を明らかにするために、言葉の端を改めて「然れども」を用ゐた。
「天時……
(86)人事……」
上四字下五字の雜隔句である。
雜隔句の例は再々説明したから詳しくは云はぬ。
【天時未臻】 臻は音「シン」訓「イタル」。詩經にあるが一々例をいはぬ。單に天の時といへば時日をいひ、十干十二支、日の吉凶などもさす。然しこゝはもつと廣い意の天である。孟子公孫丑に天時不如地利地利不如人和とある。これは天地運行の常道である。支那の經書は始終斯樣に云ふ。もと/\支那人の思想は天と人生とが全く共通した點があるとの考へを有してゐるのである。
易にも天(ノ)時とある。禮記の中庸にも上律(リテ)2天時1下|襲《ツグ》2水土2とある。
【蝉2蛻於南山1】 蝉蛻は蝉が地面より出て腹を裂いて羽の虫となり羽化するのである。
その皮を去る樣に超然と世の中を出てしまふことを蝉蛻といふ。
史記屈原傳に蝉2蛻于濁穢1以浮2游塵埃之外1とある。これは汚れた所から遁れ出る意である。
それ程の意はこゝにはあるまいが、しかし多少その意があるであらう。それは當時近江朝廷で大海人皇子(天武)の御一身上のことが間題となつたらうし、なか/\衆議紛々としてうるさかつたであらう。南山は吉野である。吉野を南山といふことは南北朝時代に盛であつた。我古典においては此の古事記の序文が最古であらう。
奈良の都よりいふも、近江の都よりいふも、南にある山である。このことについて記傳は
  京師をのがれ出て吉野山に入りましゝことをいへり
(87)と云つてゐる。これは勿論都を遁れて吉野に行かれたことをいつたのにちがひないが、大海人皇子の御一身が近江朝廷で問題となつたことを意味してゐる。
日本紀に天智天皇が御危篤に近いとき皇子に位を傳へようとせられた時固く辭退し給ひて、出家して吉野に至られた事をいふ。俗の世間より出て僧の姿となられたことを蝉蛻といつた。だから屈原傳の如く塵の世の中の外に出るといふことが、唯文字の修飾でなく事實に合つてゐる。
【人事】 漢文では人事といふのは本來人に贈り物するをいふ。但し何時でもさうとは限らぬ。こゝは文字の通りの意味である。それも支那に例がある。史記の大史公の自序に
  夫(レ)春秋(ハ)上明(ニシ)2三王之道(ヲ)1、下新(ニス)2人事之紀(ヲ)1
とある。人事を廣くいへば斯ういふ意である。
天時人事と對句に用ゐてゐる以上、相對しての意がある。さう見ないと對句の意は徹底しない。孟子公孫丑の天時地利人和によつて、天時に對して人和を主にして云つてゐるのだらうと思ふ。
斯ういふ意味の人事は、孟子の他の箇處にもある。斯樣に見ると人事の意が徹底する。
初め南山に蝉蛻し、後に人事共に洽ひて東國に虎の如く歩みたまふ。こゝに人事といふことは兵を起されたことに關係がある。
支那の「國語」に
  夫人事必將與2天地1相參然後乃可2以成1v功
(88)とある。人事を普く施して後に功を奏する意味になる。
これは恐らく兵法の語に原づくのであらう。
六韜の龍韜の中の農器第三十二
  戰攻守禦之具、盡(ク)在2于人事(ニ)1
とある。これは、農器の章であるから農事を主としてゐる。今でも農事が兵法の基本である。尉繚子の中にもこれに似たやうなことが出てゐる。
  染惠王問2尉繚子1曰、黄帝刑徳、可2以百勝1有v之乎。
  尉繚子對曰、刑以伐v之、徳以守v之、非2所謂天官時日陰陽向背1也。黄帝者、人事而已矣、何(ト)者《ナレバ》今有v城、束西攻不v能v取、南北攻不v能v取、四方豈無2順v時乘v之者1耶、然不v能v取者、城高池深、兵器具備、財殻多積、豪士一v謀着也、若(シ)城下池淺守弱、則取v之矣。※[謠の旁+系]v是觀v之、天官時日不v若2人事1也〔天官〜右○〕。
とあるがこの天官時日といふは天時である。尉繚子には天時の二字にはなつてゐないが、しかし天時と人事とはつきり相對して出てゐる。
天時は到らないでも人事が到れば成功するといふ。尉繚子に出てゐる考が影響したのであらう。安萬侶は少くとも尉繚子を讀んだにちがひない。
(89)【洽】 こゝは人の和の意を述べたのであるから、洽は協と同義である。
詩經小雅正月篇に
  洽2其鄰1
とある。この場合の洽は和である。
又大雅江漢に
  洽(ス)2此四國(ニ)1
とある。この洽は和《カナフ》の意である。
だから人事共洽は人の和を十分に得たことをあらはす。對句のために四字にしたのである。
事實の方面から見ると天武天皇の吉野を出て兵を擧げられた初めは非常に人が少なかつたが、それが後に伊賀の郡司等數百の兵を率ゐて歸したことがある。(日本紀二十八卷參照、)そんなことをこの一句で示してゐる。
【虎2歩於東國1】
虎歩は支那に普通ある語で
魏志、夏候淵傳に
  虎2歩關右1、所v向無v前
とある。虎が大威張に歩いてゐる樣に見えることで、武威の盛なことを云つたのである。東國は天武天皇が吉野宮より出られて、伊賀伊勢を經て尾張を從へ、美濃に入られたのを云つたのであるが、このことは書紀に出てゐる。(90)萬葉二卷の高市皇子の薨ぜられた時の長歌にハツキリ東國と出てゐる。これまでの所は初めは吉野に出家の姿で此世を捨てゝ入られたが、間もなく東國に威風堂々として兵を擧げられたことをいひ、それから以下に於て今少し詳しく述べる。
 
皇輿忽(チ)駕(シテ)浚(ヘ)2渡(リ)山川(ヲ)1、
 
これは四字の句二句で對句に見えるけれども對句ではない。八字が漫句である。
【皇輿】 は文字のまゝで意が明らかであるが、眞福寺本には星輿となつてゐる。星輿も支那に例があつて全然誤とはいへない。又皇輿も例があるので誤とはいへない。大多數が皇輿とあるのでこの方を採る。
駕は動詞である。動詞のときは唐制では天子のお歩きなさることをいつたのである。強ち言葉のあやにおいたのでない。俄に吉野を出て東國に赴かれたといふのである。吉野を出られた時の記事に(書紀に)
  是日發途入2東國1、事急不待駕而行之、※[修の彡が黒]遇2縣犬養連大伴鞍馬1、囚以御v駕乃皇后載輿從之、逮2于津振川1車駕始至、便乘焉、是時元從者草壁皇子…………
とあるから、やはり、急を要する事件が出來て、遂に兵を起されたのであらう。それ故に、「忽」は「ナマヌルイ」字でない。明らかに生きた字である。
【浚】 は扁が三水である。
廣韻二(唐頃の辭書で宋になつてなほした。)
浚(ハ)歴也とあり。
(91)文選、木華の海賦に
  汎v海(ニ)浚v山
とある。浚は「コエル」か「ヘル」かで文選の方は「コエル」である。二の句全體の意は山を越え、川を渡つて東國へ行かれたことをいふ。これも事實をもとにして云つたのである。一例を云へば、書紀に天武天皇吉野を出でられたとき、
  即日到2菟田(ノ)吾城《アキ》1大伴連馬來田、黄所造大伴從2吉野宮1追臻至v於v此、時屯田司舍人土師連馬手、供2從駕者食1過2甘羅村1有2※[獣偏+葛]者二十餘人1夫伴朴本連大國、爲2※[獣偏+葛]者之首1則悉喚令2從駕1、亦徴2美濃王1乃參赴而從矣、運2湯沐之米1伊勢國駄五十匹、遇2於菟田郡家頭1、仍皆棄v米、而令v乘2歩者1到大野以日落也、山暗不v能2進行1、則壞2取當邑家籬1爲v燭、及2夜半1到2隱郡1焚2隱家1因昌2邑中1曰、天皇入2東國1、故人失諸參赴、然一人於2肯來1矣、將v及2横河1、有2黒雲十餘丈1經v天時、天皇異v之、則擧v燭親秉v式占曰、天下兩分之祥也、然朕遂得2天下1歟、即急行到2伊賀郡1焚2伊賀驛家1還2伊賀中山1而當國郡司等率2數百衆1歸焉、會明至2※[草冠/刺]荻野1暫停v駕而進食到2積殖山口1高市皇子自2鹿深1越以遇v之、民直大火赤染造徳足大藏直廣隅坂上直國麻呂、古市里麻呂、竹田大徳、膽香瓦臣、安倍從焉、越2大山1至2伊勢鈴鹿1。
(92)とある。これで大體はわかるであらう。
 
六師雷(ノゴトクニ)震(ヒ)、
三軍電(ノゴトクニ)、逝(ク)。 〔二行に括弧〕
 
四字の對句で緊句てある。
【六師】 は六軍と同義て天子の軍隊を指す。
書経の康王之誥に
  張2皇(ス)六師(ヲ)1
とある。周の制に天子は六軍、諸侯大國は三軍、次は二軍、小國は一軍とあり。一軍は一萬二千五百人をいふ。
三軍は諸侯の大軍の場合をいひ、普通にいふならば大軍の意に三軍をつかひ、軍が三つといふ意ではない。
論語子罕篇に、三軍可奪帥也とある。
こゝでは六師と三軍と多少相對してゐる。即ち六師は天武天皇の大本營をさし、三軍は大本營より派遣せられた高市皇子の軍隊をいひ、これが先鋒となって近江朝を攻められた。皇子は美濃の不破より向はれ、それから倭の大伴吹負の軍隊が攻め立てたので近江朝廷はあの如き結果となり、天武天皇が成功せられた。(書紀二十八巻參照〕)
【雷震】 とは雷の如く天下を震はしたのであり、
【電逝】 とは電の如く速かに逝くのである。皆支那に熟字がある。この二句は主として天武天皇が兵を擧げられたそのさまを説いたのである。
(93)一體に茲にいふ所は古事記の本文には大した関係なく、天武天皇の事を詳しく書き、あまり長くなってゐるから、なるべく簡單にし.唯意を明らかにするため必要な所を委しくいはうと思ふ。
 
杖矛擧v威 猛士烟起
絳旗耀v兵 兇徒瓦解
 
四字づつの句が相對してゐる輕隔句である。すべてが同数で云つてゐる。
【杖矛】 は二字を名詞と見る。すると杖を仗と通用すると考へた様である。杖は支那で矛の柄の如きをいふ。楊子方言の中に出てゐる。
呂氏春秋にも杖を以て戰ふとあるが、これは本當に杖をとったのではなからう。これを柄のある矛と考ふれば、從つて柄のない矛が考へられ、杖矛はむだになる様である。恐らく之は「矛をツエツイテ」と用言によむのであらう。さうなると絳旗の絳きは、形容詞、枚ツイテは動詞であつて多少不釣合に見えるけれども、絳旗の場合は旗のみが寶體、杖矛も矛のみが實體てある。武器を杖つくといふ例は書經の牧誓篇に
  王左杖2黄鉞1 右秉2白旄1以麾
とある。杖v矛といふ例は史記の朱建傳にある。こゝをよくよむとどうも関係がある様である。これは少し長いけれども一通りあげてみよう。
  初沛公、引v兵、過2陳留1、※[麗+おおざと]生踵2軍門1、上v謁曰、高陽賤民※[麗+おおざと]食其竊聞3沛公暴露(94)將v兵助v楚、討2不義1、敬勞2從者1、願得2望見1、口畫2天下便事1、使者入通、沛公方洗、問2使者1曰、何如人也、使者對曰、状貌類2大儒1、衣21儒1、冠2側注1、沛公曰、爲v我謝之言、我方以2天下1爲v事、未v暇v見2儒人1也、使者出謝曰、沛公敬謝2先生1、方以2天下1爲v事未v暇v見2儒人1也、※[麗+おおざと]生瞋v目按v劍叱2使者1曰、走復入言2沛公1、吾高陽酒徒也、非2儒人1也、使者懼而失v謁、跪拾v謁還走復入報曰客天下壯士也、叱v臣、臣恐至v失v謁、曰走復人言、而公高陽酒徒也、沛公遽雪v足杖v矛〔二字右○〕曰延v客入、※[麗+おおざと]生入揖2沛公1曰足下甚苦、暴v衣露v冠將v兵助v楚、討2不義1、足下何不2自喜1也、臣願以v事見、而曰吾方以2天下1爲v事、未v暇v見2儒人1也、夫足下欲d興2天下之大事1、而成c天下之大功u、而以2目皮1相、恐失2天下之能士1、且吾度2足下之智1不v如v吾、勇又不v如v吾、若欲v就2天下1而不2相見1竊爲2足下1失v之、沛公謝曰、郷者聞2先生之容1今見2先生之意1矣、廼延而坐v之、聞d所3以取2天下1者u、※[麗+おおざと]生曰、夫足下欲v成2大功1、不v如v止2陳留1、陳留者天下之據衝也、兵之會地也、積粟數十萬石、城守甚堅、臣素善2其令1、願爲2足下1説v之、不v聽v、臣請爲2足下1殺v之、而下2陳留1、足下將2陳留之衆1、據2陳留之城1、而食2其積粟1招2天下之從兵1、從兵已成、足下横2行天下1、莫d能有c害2足下1者u矣、沛公曰敬聞v命矣、於v是※[麗+おおざと]生廼夜見2陳留令1、説v之曰夫秦爲2無道1而天下(95)畔v之、今足下與2天下1從則可2以成2大功1、今獨爲2亡秦1嬰v城而堅守、臣竊爲2足下1危v之、陳留令曰奏法至重也、不v可2以妄言1、妄言者無v頼、吾不v可2以應1、先生所2以教1v臣者、非2臣之意1也、願勿2復道1、※[麗+おおざと]生留宿臥、夜半時斬2留令首1、踰v城而下、報2沛公1、沛公引v兵攻v城、縣2令昔於長竿1、以示2城上人1曰、趣下、而令頭已斷矣、今後下者必先斬v之、於v是陳留人見2令已死1、遂相率而下2沛公1、沛公舍2陳留1、南城門上、因其庫兵食積粟、留出入三月、從兵以v萬敷、遂大破v秦
こゝに沛公が「杖v矛」て※[麗+おおざと]食其に面會した話がある。それが、こゝにきかせてあるのでないかと思ふ。天武天皇は美濃の安八郡に湯沐の邑を有したまひ、そこに入つて東國の兵を集められた。現在でも美濃尾張は中央では最も米が多く富力の中心である。信長、秀吉、家康皆この美濃尾張をもとにして興つた。天武天皇は濃尾の兵を率ゐて近江を攻められたのである。沛公もまた同樣の意味で富力の中心である陳留に據つた。だから「杖矛」といふ文字は沛公が※[麗+おおざと]食其にあつたと同樣のことを天武天皇がおやりなされたといふ意味であらうと思ふ。そのことを匂はせて書いたのである。(書紀二十八卷參照。)
初め沛公は儒者のへりくつを云つて來たと思つて斷わり、次いで酒飲と聞いて矛を杖つき威を示して客を引見した。これは天武天皇が伊勢の桑名の郡家で、軍の相談をなされたとき近江の京では恐れ騷いだ。そのへんのことを想像させるために杖矛擧威の文字を用ひ來つたのであらう。
(96)……擧威の用例は見えぬが揚威、抗威の例はいくらもある。
【猛士】 は漢高組の大風歌に
  安得猛士兮守四方
とあつて。例が少くない。これは杖矛と共に漢高祖に關係がある。天武天皇を沛公に比べて、譬喩にしようとしたものと思はれる。
【烟起】 は支那に例がある。
この烟は實は火をたく煙でなく今少し廣い意味の烟である。雲と同樣であらう。雲起の例は多くある。
よつて同時に雲といふことを考へるに
漢の李陵が蘇武に答へた手紙の中に
  猛將如雲 謀臣如雨
とある。猛士は猛將謀士をさしていつたのである。
作戰計畫を定め、いよ/\美濃に入り天下の人々が雲の如く起つたといふのである。
この方は天武天皇の方の軍勢の勢の盛な状態を專らいつたのである。
【絳旗】 あかい色の旗である。絳は單なる飾りの語ではない。書紀二十八卷壬申の亂の記事を見ると、天武天皇の軍隊はあかい色でそのしるしとしてゐる。
  恐d其家與2近江師1難uv別以2赤色1著2衣上1
(97)これは軍服のしるしであるが、恐らく旗も赤かつたであらうと思はれる。
赤旗は事實であつて飾り言葉ではない。
萬葉集二卷(一九九)高市皇子尊の城上殯宮の時、柿本朝臣人麿の作れる歌に
  指擧有《ササゲタル》。幡之靡者《ハタノナビキハ》。冬木成《フユゴモリ》。春去來者《ハルサリクレバ》。野毎《ヌゴトニ》。著而有火之《ツキテアルヒノ》。風之共《カゼノムタ》。靡如久《ナビクガゴトク》。……
とあり、大きな野原を火で燃したやうに軍隊が殺到した。火の燃える樣なあかい色、あかい旗、あかい印、これが下の耀兵によくあふのである。
【耀兵】 兵は「ツハモノ」武器、弓、鉾、槍、長刀である。その兵を耀かすは支那に例がある。
楊雄の並州牧箴に
  大上(ハ)耀v徳(ヲ) 其次耀v兵
魏(ノ)明帝(ノ)詩にも耀兵の語がある。
その意は兵器で武威を示すのである。實際赤い色の旗や印《シルシ》は兵器の光つたのと相映じ、一層武威を耀かしたのてあらう。これは單なる虚飾ではない。
【凶徒】 惡逆のともがらである。事實は近江朝の人々である。今日より見れば穩でないが、當時は一般に斯樣に云つたのであらう。
【瓦解】 土崩瓦解と熟し、天下の崩れることを示す。
始皇本紀に
(98)  秦之積衰 天下土崩瓦解
とあるが、瓦解の出典は一々あげるに及ばぬ。
屋根の瓦がばらばらとなつてくづれ落ちることである。たゞ積んだ瓦でなく屋根瓦である。秦の國の破れ崩れることは、屋根が崩れてもろ/\の瓦の解散するごとくである。
【杖矛――瓦解】 以上四句一對の對句は、天武天皇の擧兵から天下擧つて之にしたがひ、近江朝廷の亡びたことをいふ。
 
未(ダ・ズシテ)移《ウツサ》2※[さんずい+夾]《セフ》辰(ヲ)1 氣※[さんずい+診の旁]《キレイ》自《オノヅカラ》清(マリヌ)。
 
これは四字二句である。短對の緊句に似てゐるが、對句にならぬ。八字で一つの漫句である。
【※[さんずい+夾]】 あまねしの意。
【辰】 十二辰、十二支で子より亥に至る十二の日をいふ。左傳成公九年に※[さんずい+夾]辰之間云々とあり、※[さんずい+夾]辰は十二日也とある。
【移】 年を移すは年を越える事である。
こゝは十二日を越えないといふ意で、速く治まつたことをいふ。壬申の亂は十二日目にすんだかと云ふに、天武天皇が吉野を出られたのは六月二十二日で、近江朝廷の破れたのは七月二十三日であるから、實際は一ケ月を費してゐる。一ケ月を移さぬと云ふのが本當である。こゝは誇張して云つたので、唯僅かな時日即ち多くの時日を費さずしての意である。
(99)【※[さんずい+診の旁]】 水の利せざる也、水のとほらぬことである。水流の停滯して、いやな氣持がし、どぶ水のくされた樣なものである。從つて妖氣、惡氣の如きものを云ふ。
支那に※[さんずい+診の旁]氣はあるが氣※[さんずい+診の旁]といふのは見當らない、
※[さんずい+診の旁]氣は、※[麻垂/叟]信の哀江南賦に
  ※[さんずい+診の旁]氣朝浮 妖精夜隕
とある。氣※[さんずい+診の旁]とわざ/\特別に作つたのではないであらう。
唐太宗の詩に雰※[さんずい+診の旁]といふ語がある。
壬申の亂が平定したので今迄天下にみちた不安の念、惡い氣、ゆき詰つた考が自ら消えてしまつたことをいふ。
 
乃(チ)
 
これも傍句で俗語の「ソコデ」、ゆるい意で言葉のつなぎになる。
 
放(チ)v牛(ヲ)息《イコヘ》v馬(ヲ)、 ※[立心偏+豈]悌(シテ)歸(リタマヒ)2於華夏(ニ)1
卷(キ)v旌《ハタヲ》※[楫の旁+戈]《ヲサメテ》v戈《ホコヲ》、 ※[人偏+舞]詠(シテ)停(リタマフ)2於都邑(ニ)1。 〔二行に括弧〕
 
上四字、下六字が二つ對して輕隔句をなす。
【放牛】 書經武成篇に
  厥四月哉生明(三日) 王來v自v商 至2于豐1 乃偃v武修v文
  歸2馬于華山之陽1 放2牛于桃林之野1 示2天下弗1v服
(100)周武王殷を亡ぼして歸り、馬牛を華山桃林に放ち飼ひにし、戰争を全然しないことを示した故事に依つて書いた。
【息馬】 歸2馬子華之陽1によつたのであらう。
【※[立心偏+豈]悌】 立心篇のない「豈弟」がよくつかはれる。又凱悌ともかいてゐる。※[立心偏+豈]悌の意は樂易也とある。たのしくして心の安いこと。詩經によく豈弟の君子といふことを云ふ。
それでは樂しむ意だけかといふに
 詩脛の齊風、載驅篇の中に
  齊子發夕 といふのが第一章の末にあり、
  齊子豈弟 といふのが第二章の末にある。
さうして豈弟は猶發夕と云ふが如しといふ註がある。
發夕の夕は初夜也とあり、日暮れて間もない時をいひ、撥夕は初夜にして則ち行くをいふ也とある。
そこで※[立心偏+豈]悌には兩意があり、一は樂易の意、他は發行(行程をはじむる)の意である。
爾雅に
 ※[立心偏+豈]悌(ハ)發也とあり、疏の中に發明して行くを謂ふ也とある。
※[立心偏+豈]悌は兩意をかねてつかつたのであらう。
※[立心偏+豈]悌の用ゐ方についは古事記傳より今日に至るまで疑はれてゐた。
(101)本居先生は
 ※[立心偏+豈]悌は軍勝たる時の樂なり。書紀にイクサトケテと訓めり。
といひ、これに註して、
 〔今按ずるに悌(ノ)字心得ず其の故は※[立心偏+豈]こそ※[立心偏+豈]樂とも云つて軍勝之樂なれ、悌(ノ)字には其義あることを聞かず※[立心偏+豈]悌と連ねいへることは多かれども其は義の異なることなり。然るに今※[立心偏+豈]樂を※[立心偏+豈]悌といへるは※[立心偏+豈]の字にひかれて、彼の※[立心偏+豈]悌と一ツに思ひ混《マガ》へるにや、但し此は世になべて誤れることにやありけむ。書紀などにも然あり漢籍にも例ありやなほ尋ぬべし〕
といつてゐられる。書紀の景行天皇の條に日本武尊が上奏せられる所に、
  是以卷v甲※[揖の旁+戈]v戈※[立心偏+豈]悌(シテ)還《カヘル》之 (之は助辭)
  冀(クハ)曷《イヅレノ》日曷《イヅレノ》時(ニカ)復2命(セン)天朝(ニ)1、
とあり。※[立心偏+豈]悌を「イクサトケテ」とよんでゐる。谷川士清の日本書紀通證に
  爾雅※[立心偏+豈]悌(ハ)發(スル)也 註發(ハ)發行也 詩目齊子※[立心偏+豈]悌 疏謂發明行也 今按悌字疑衍
  字書軍勝之樂曰※[立心偏+豈] 周禮※[立心偏+豈]樂献于社
  左傳※[立心偏+豈]以入于晋 杜註※[立心偏+豈]樂也
とあるが本居先生の意見は谷川より出たのであらう。本居先生の言はれた樣に書紀のも凱旋の意、こゝのも同義である。これは安萬侶が意識して用ゐたのにちがひない。よく考へてみると※[立心偏+豈]は凱に同じいのであるから、
(102) ※[立心偏+豈]悌して歌ふのが凱歌
 ※[立心偏+豈]悌して奏するのが凱樂
 ※[立心偏+豈]悌して歸るのが凱旋
である。さうして※[立心偏+豈]悌二字には歸る意も、音樂の意も見えない。辭書には※[立心偏+豈]は康也、樂也とあり、歌ふ意は勿論、殊に戰勝の意は全くない。しかし兵法の書、司馬法の中に
  天下既平 天子大(ニ)※[立心偏+豈](ス)
とあり。註に
  ※[立心偏+豈](ハ)軍樂也
とある。
又凱風の如く使ふ事がある。凱風とは天地の怒氣散ず、凱樂を奏すれば、人の怒氣止む、※[立心偏+豈]悌の意となる。だから斯樣に見るも、誤りとは云へない。※[立心偏+豈]悌に發行の意があるとすれば、戰地より發行し、歩き出して歸ることが凱旋である。即ち※[立心偏+豈]悌は良く考へれば音樂の意も、戰地より歸ることも兩意にとることが出來るので必ずしも誤りとはいへない。
【華夏】 中華、諸夏を合せて云つたのである。
書經の武成篇にある。主として支那の中原地方をさす。轉じて都をさす。※[立心偏+豈]悌して華夏に歸るは都に凱旋することである。旋は歸る意。
(103)【卷v旌※[揖の旁+戈]v戈】
前記の日本武尊の上奏に非常によく似てゐる。書紀が古事記をまねたのであらう。旌は羽をつけた旗の事をいふけれども、こゝはひろく旗をさす。
卷は「シマヒコム」ことである。收の意
論語衛靈公に、可(シ)2卷(キテ)懷(ニス)1v之(ヲ)とあり、卷懷の熟字が出來た。※[揖の旁+戈]戈はホコをヲサム。干戈ををさめること、干戈を※[揖の旁+戈]むは詩經頌四時邁篇に
  載※[揖の旁+戈]2干戈1
とある。それを簡單にして二字とした。晋書王鑒傳に
  班爵序功酬2將士之勞1卷v甲韜v旗廣2農桑之務1
とあるが戰爭をやめることである。
【※[人偏+舞]詠】 ※[人偏+舞]は人篇のない舞と同じ。
顔延之の曲水詩序に、
  舞詠之情不v一、
とあるが※[立心偏+豈]悌と同義である。※[立心偏+豈]悌が心をいふに對し、※[人偏+舞]詠は動作をいふ。
【停】 とどまるとよむけれども意味は「サダマル」である。釋名に停定也、定2於所在1也、とある。そこにおちついて都とすることである。
(104)【都邑】 みやこで支那に例が多い。
各々一對の隔句に於て、亂平ぎ天下泰平となり、天武天皇都に還りたまふことを云つたのである。
 
歳次大梁
月踵夾鍾
 
四字の句、二句の對で緊句である。
【歳】 遊星、木星のことである、木星は十二年目にもとにもどる。この星のやどることによつて暦をきめる。「トシ」がやどるのでなく「ホシ」がやどるのである。そのために木星を歳星といふ。酉の方角に木星のやどる年が酉の年である。
【夾】 ヤドル、これも支那の例、潘岳、西征(ノ)賦に、「歳次2元|※[木+号]《ケウ》1」とある。元※[木+号]は子の方角である。それに准じて解釋するとわかる。大梁は昴のことである。昴《スバル》は二十八宿の一つで、これは方角でいへば、大體西にあたるが、十二支では酉にあたる。国の方角に歳星のやどる年をば歳大梁に次《ヤド》ると云ふのである。即ち壬申の翌年癸酉の年に天武天皇が即位したまふたのである。この序文の記事を書紀に比すれば、書紀以前のものであるといふことがわかる。こゝをよむと古事記僞作説といふことはいはれない。書紀では壬申の年を天武天皇の元年とし、翌年酉年は元年ではない、二年である。その二年に即位したまふことに記してゐる。こゝが日本紀とこの古事記序文と考へのちがふ點である。恐らくは古事記は書紀より八年前に出來て酉年の即位としてあつたのを、書紀編纂のとき議論があつて、現今の書紀に記載の如くなつたのであらう。奈良の藥師寺東塔※[木+察](心ノ柱)銘に
(105)  維清原宮馭宇
  天皇即位八年庚辰之歳
とある。庚辰の歳が八年ならば元年は癸酉の歳になる。すると書紀と合はないので、古事記とこの序文とあふ事實の通りを書いたのであらう。【踵】 辭書に至也とある。
【夾鍾】 は十二律の一つである。これを日月にあて、配當することがある。禮記月令仲春の月の説明に、
  其音角、律中夾鍾、
とあり、二月であることは明かである。實際御即位が癸酉歳二月二十七日であつたことは紀に見られる。
 
清原大宮 昇即天位
 
四字の句二字で對句でないから漫句である。
【清原大宮】 清原の文字は上にあげた藥師寺東塔※[木+察]銘にも見える。
【昇】 上進する意である。皇太子より天皇にすゝみたまひ、天皇の位に即きたまふのである。
【天位】 詩經に既に見えてゐる。大雅文王大明篇に
  天位(ハ)殷(ノ)適
とある、適は嫡と同義である。
こゝまてが第二大段中の一小段で、天武天皇が天位をおつぎになることを敍した。
 
(106)道(ハ)※[車+失]《スギタマヒ》軒后(ニ)1
徳(ハ)跨《コヱタマフ》2周王(ニ)1。 〔二行に括弧〕
 
四字短對の句、緊句である。
「道」と「徳」と相對して用ゐてあるが、相合して道徳の意であると見てよい。
「※[車+失]」は「過」の義で、人にすぐれたる才をば「※[車+失]材」といふ。
【軒后】 支那の五帝の一人である黄帝をさす。黄帝は軒轅氏といふことから軒后といつて黄帝を指す。
上2五經正義1表に「名※[車+失]2軒昊(ヨリモ)1」とあり、昊は伏羲氏太昊をさし、軒は黄帝軒壕氏で二帝を並べて云つたのである
 が、この軒后は、黄帝軒轅氏をさすので、次の周王に對してゐる。「后」は君の意で、前の崇神天皇の條には賢后といふ字が用ゐられてあるが、軒后といふ熟字は既に支那に於て用例があり、安萬侶が勝手につくつたものではない。時代は安萬侶と同じ頃、唐の張|※[族/馬]《サク》の仙都山の銘に「永懷2軒后1」とある。その他、詩などにも用例がある。これらは傍證になるのであるから、安萬侶の考へて造つた字ではない。道徳は支那の五帝の一人なる黄帝軒轅氏よりすぐれてゐるといふ意である。
【跨】 は玉篇に「越也」とある。用例は左傳昭公十三年に康王(ハ)跨(ス)v之(ヲ)とあつて、その註に「過2其上1也」とあるからコエル意である。現に玉篇に越也と註してゐる。
【周王】 は周の文王か若しくは武王である。それで徳は周の聖人文王武王よりすぐれたまふといふ意である。この二句は對句であるから、二つが集つて一つの意をなすので、遺徳は五帝の一、三王の一よりもすぐれ給ふと云つて、(107)天武天皇が徳をそなへ給ふのをおほめ申したのである。
 
握2乾符1而※[手偏+總の旁]2六合1
得2天統1而包2八荒1 〔二行に括弧〕
 
七字二句の短對で作文大體の長句である。
【握《トル》2乾符1】 はすつかり文選の東都賦に見えてゐる。
  於v是聖皇乃握2乾符1闡明2坤珍1披2皇圖1稽2帝文1
この文句に關係があるが、少くも握乾符の三字は文選の文字である。この文選の文の聖皇は後漢の光武皇帝を云つたのである。東都は後漢の都を云つたのであるから、光武の事であることは明らかである。文選の註に、握は持也、乾符は赤伏の符をいふ。闡は開也、坤珍は洛書也、皇圖は河圖をいふ也、稽は考也、帝文は天文也とある。するとこれは、光武が赤伏の符をとりて洛書をひらき河圖をひらき天文を考へたといふことになる。その赤伏符といふものは後漢書の光武紀を見るに
  光武先在2長安1時、同舍生彊華、自2關中1奉2赤伏符1曰劉秀發v兵捕2不道1、四夷雲集、龍闘v野、四七之際火爲v主、群臣因復奏曰、受命之符、人應爲v大萬里分v信不v議同情、周之白魚曷足v比焉、今上無2天子1海内淆亂、符瑞之應、昭然著聞、宜d答2天神1以塞c群望u、光武於v是命2有司1、設2壇場於※[高+おおざと]南千秋亭五成陌1。
赤伏(ノ)符には劉秀から火爲主までの文句があつたのである。赤伏符といふのは赤色の伏符といふことであるが、伏(108)符は陰伏の符の義で天命を暗示してゐる符といふことである。赤伏符は光武皇帝が位に即くときにあつたものである。東都賦の註に見える洛書河圖の如きは、光武即位の時には聞かない。河圖は伏羲氏の時、黄河から出た馬背にあらはれた文で、太昊伏羲氏はこれに依つて八卦を考へ出したといふ。洛書は洛といふ河から出た龜の背の模樣に依つたもので、夏の禹王が之に依つて、洪範九疇を定めたといふが、さういふものが光武の時に出たのではあるまい。文選東都賦は以上の如くであるが、後漢書の班固傳に載つてゐる東都賦には(班固は東都賦の作者)その註に
  乾符坤珍謂2天地符瑞1也、
  皇圖帝文謂2圖讖之文1也。
とある。光武即位のとき圖讖、赤伏符が豫言的にあらはれたのであるが、後漢書光武紀に
  宛人李|通《トウ》等、以2圖讖1説2光武1云劉氏復起李氏爲v輔
とあるのに依れば李通が光武に圖讖を申上げたことが知られる。皇圖帝文は皇帝たるべきことを示された圖讖である。さてこゝの乾符は矢張り文選の註に云ふ如く、赤伏符を指したのであらうと思ふ。何故に赤伏符を乾符と云つたかといへば、乾は易では帝王の徳を示すのであるから、意味の上からいふと良くあたつてゐる。赤伏符の樣にそれに依つて帝位に上るべき由を示された。だから握2乾符1※[手偏+總の旁]2六合1といふことは、文字通りにいへば、天武天皇が帝王の符をとつて天下を總べられたといふ、文句より云へば斯ういふ意味になると思ふ。然し古事記序解には次の樣に云つてゐる。
(109)  この文はかくてわが天つしるしの神寶をさし奉るべし
と云つてゐる。恐らくはさういふ意味でこゝに云つたのだらうと私も思ふ。すると乾符も文字通りに解してはならぬ。實際は我が三種神器を受けられたことをさし奉つたのであらう。前述の如く乾は易の卦で天子の位をさす。天子の徳を乾徳、天子の大權を乾綱、天子の裁きを乾斷といふ。それ故に乾符は天子の御しるしである、といふ解釋も出來る。
乾符を握るとは、三種神器を承け繼ぎなされたことを漢文風に書いたのであると見られぬこともない。さうすると、乾符を握りたまふことは、天統を得たまふことゝ同じことゝなる。天統と云ふのは、支那では漢高祖の記事にあらはれた。史記(ノ)高祖紀(ノ)賛に
  漢興承v敝易v變使2人不1v倦得2天統1矣、
漢書(ノ)高帝紀賛に(史記より取つて來たのであらうが)
  漢承2堯運1徳祚己盛斷v蛇著v符、旗幟上(ブ)v赤(ヲ)協2于火徳1、自然之應得2天統1矣、
とある。天統を得たといふことは、天の統序を得たと云ふことである。これはさういふ意味で、天より與へられた天命に依りて天の統序を得たのである。しかし日本の國ではさういふ抽象的の意味ではない。天御中主神より伊弉諾尊、天照大神につたはり、一系連綿として現在に及ぶ皇統をいふ。即ちこれは天津日繼を天統といつたのである。これは意味はむろん日本のものである。
この對句の意は三種神器を受けられて天津日繼を傳へられたといふことであらう。
(110)【六合】 唐初に出來た初學記に天地四方を六合と謂ふと出てゐる。六合の語は荘子の中にも既にある。
【八荒】 は説明するまでもなく四方とその間の隅とを加へて八方となる。八隅をいふ。その八隅の荒遠の國までの意である。八荒の語も支那に古くよりある。例へば文選、楊雄の甘泉賦に
  八荒協兮、萬國諧、
とある。又文選賈誼の過秦論に
  有d席2卷天下1苞2擧宇内1嚢2括四海1之意并2呑八荒1之心u
とある。八荒を包むといへば、皆自分のもちものにしてしまふ意であるが、それほどの意としなくても良い。要するに皇化が遠い外國にまで及んだことである。
この二句は三種神器と天津日繼の事を云つて、皇威の外國に及んだことをいつたのである。
次に
 
乘2二氣之正1
齊2五行之序1 〔二行に括弧〕
 
五字の句二つ、短對の句、一種の長句である。
二氣は支那で陰陽をいふ。易の咸の卦、彖傳の中に、
  咸感也、柔上而剛下、二氣感應(シテ)以相與、
とある。その陰陽二氣の正しさに乘ずるのである。
(111)【乘正】 の字は支那にある。それをもとにして斯ういふ文章をつくつたのである。これは支那の梁の元帝の薦鮑幾1表に
  陛下則v天緯v地乘v正馭v才沙2汰八風1澄2明六合1
とある。故に正しき皇道を行ひ行くのが正に乘ずるのである。その正道に乘つて行けば間違ひがない。古事記序解に
  二氣とは高神二産の造分に根源して、陰陽二神の誘諾に開張せし天中(天御中主神の意)の神軌を指す。故に之を正といふ。
とある。即ち天御中主神より展開した氣を正といふ意味に解してゐる。
【乘】 については序解に
  本分の神軌に乘つて駕するをいふ。
とある。即ち陰陽二氣の正しい道、それに依つて事を行ふといふことである。
【五行之序】 五行は書經の洪範に見えてゐて、世界を構成する五要素と支那で考へられた木火土金水である。今日でも一週の曜はこの五行と日月とを加へたもので世界同じである。五行は又五才といふ。五行と名づける所以は漢書の五行志に唐の顔師古の註がある。
  謂2之(ヲ)行1者言2順v天行1v氣
即ち五行は其名の如く、絶えず運行して止まらぬものであるが、その動き行く間に自ら順序がある。それには生々(112)の道として正しく動く順序、その道に動く順序とがある。これを相生、相尅といふ。相生の序は次の様である。
 木は火を生じ(木と木を擦れば)
 火は土を生じ(あとが衣になる)
 土は金を生じ(地中から金屬が出る)
 金は水を生じ(金属から水が出る)
 水が木を生ずる(水分は木を育てる)
その逆を行くのが相尅てある。
 木は土を尅し(土が崩れる時木でとめる)
 土は水を尅し(洪水を土で防ぐ)
 水は火を尅し(火は水で消す)
 火は金を尅し(金属は火に溶ける)
 金は木を尅する(金屬で木を伐る)
相生相尅の序を知って宜しきにかなはしめるのが齊へるのである。これは通俗の解である。序解には
  五行は※[藕の草冠なし]生五代(【國常立・ウヒチニ・スヒチニ】)の神功に出て專ら獨化の神軌を國土に施化し給ふべき位分の順序あることなれば序とは云ひし
とある。又
(113)【齊】 は過と不及とを裁判してその中和を致す。
ともある一體にこの序解は、陰陽五行説をもとにして序文を説いたのであるから直ちに賛する事が出來ぬ。しかし、かやうに五行にあてることは、鎌倉時代殊に伊勢の外宮神道に見えてゐる。北畠親房は五行を基礎にして神道を説いた。然し太安萬侶の考までも五行にピツタリ當て嵌めることはどうかと思ふ。これを今われ/\の立場より如何に見るか。眞に神道説に依つたのであるか。支那の語を借りて文章を飾つたのであるかといふ問題がある。記傳に
  二氣は陰陽をいふ。君の政宜しければ陰陽五行のはこび正しくして四時の氣候みだれずといふ漢人の常の談《コト》なり
と書いて判断は下さないが、漢人の飾りに止まれることを暗々裡に云はれた。序解に
  今二氣五行の名を外視して一概に「※[賤の旁]除《センジヨ》ニ附セン」とするはこれ形魄を※[澤の旁+攵]ひて、魂氣を棄るに近し。
といふ。私も五行説を信ずることは出來ないが、しかし、大體は序解の考へ方に同意する。傳略に
  二氣とは支那の字義より云へば、一束に陰陽と云ことなれども、皇國の神典の上にて云は、産靈《ムスビ》の二神《フタハシラノカミ》より伊邪那岐、伊邪那美の神に至るまでの神の御所爲《ミシワサ》にして、陰陽《メヲ》の理《コトワリ》もとより正しきなり。五行の序は謂ゆる風火金水土の五元神のみしわざの順序を申すなり。
とある。風を入れた所は印度的であるが、日本の神道に實際どこまで當て嵌めてゐるか。多少は考へてゐる點もあらうが判然とはわからない。さて五行の木は何、火は何とは云ひがたい。然し全體を以てただ飾りだとは云ひがたい。大體傳略の考が穩かであると思ふ。
(114)この二句は天武天皇の御政治が、上は神祇の道にかなへることを褒めたのである。これが次の神理といふ語に影響する。
 
設2神理1以奨v俗
敷2英風1以弘v國 〔二行に括弧〕
 
六字二句の短對の句で長句の一種である。設は「マウク」とよむ。けれども意味は今いふ「マウク」の意ではない。
易の中に
  聖人設v卦觀v象
とあり。註に設は「施(シ)陳(ル)也」とある。こゝはさういふ意味の設であると考へる。今でも座敷に疊をしくのを鋪設といふ。あゝいふ風に物の用意を整へる事に違ひない。故に次のこの「設」は敷2英風1の「敷」と大體同じ意である。
【設神理】 支那に此の通りの語がある。文選王融の曲水詩序に
  設2神理1以|景《アキラカニシ》v俗、敷2文化(ヲ)1以柔《ヤスクス》v遠
とあり、李善の註に、神理猶2神道1也周易曰聖人以2神道1設v教而天下服とある。その聖人神道を以て教を設ける。これだけをこの三字であらはしてゐると思ふ。序解のうちに、
  設は設2爲庠序學校1以教v之。或は聖人以2神道1設v教など皆同じ義にて、その神理を顯はして教條學件と設け爲すをいふ。この神理はまた獨※[藕の草冠なし]繼序の本教を指すなり。
(115)と云つてゐるがこれはその通り賛成すべきである。これと文選の註と併せて考へればこの文の意は十分わかる。
【奨俗】 は上の曲水詩序の「景俗」に似てゐるが實は多少ちがふ。奨は景よりつよく勸めて善をなさしめるのである。序解に
  奨は勸奨をいふ。俗は民俗なり。これ其教化を施すをいふ。上の典教を既に絶えんとするに補ひたまふの文に回視すべし。
とあるが、その通りで上の「照v今※[示+甫]2典教於欲1v絶」にかへり、照しあはせて考ふべきである。
【敷英風】 これは前の曲水詩序の「敷2文化1」に良く似てゐるやうだが意味は違ふ。英風の文字はやはり前の曲水詩序にある。それは
  皇帝體膺2上聖1運鍾2下武1冠2五行之秀氣1邁2三代之英風1、昭2章雲漢1、暉2麗日月1牢2籠天地1彈2壓山川1設2神理1以景v俗敷2文化1以柔v遠右の英風の英はすぐれたる風といふことで、風は教化で、すぐれた教化である。文化も大體同義であるが支那古代は文を以て教化したから文化といふのである。序解に
  英風は皇風を※[風+易]賛して葦原水穗國者神在隨事擧不爲國と云ふ如き神習を云ふ。これ彼の中庸に唯天下(ノ)至誠爲2能化1など與言せるは此神習を云なる。其を一概に外視して、所謂神習を恍惚に求んとするもの怪譎に陥らざるは寡し。
と云つてゐるが、尤もな事である。
(116)【弘國】 は前の「柔遠」と意が大體似てゐる。弘は序解に
  弘國とは國の光華を耀赫するをいふ。
といひ同時に序解は此の句は、上文の風猷を既に頽れたるに繩すと其意同じ。と云つてゐる。
この二句は天武天皇の政治を稱へ奉つて云つてゐるのである。さうして上の「二氣(ノ)正(シキニ)に乘り、五行(ノ)序を齊ふ」は神樣に仕へられることをのべ、こちらの二句は下民を治める政治を主とする。この四つの句で一つの意が出來上り天武天皇即位後の政治の立派であつたことをほめたのである。こゝまで行くと前の放牛息馬以下の偃武修文の意が明らかに説明されたのである。
これで天武天皇を外的に仰ぎ奉る姿を終へた。
 
重加
 
これは傍句である。今まで説いた所に一歩進めて、加へ説かうとするのである。
 
智海浩瀚《チカイカウカントシテ》、潭《フカク》採(リタマヒ)2上古(ヲ)1
心|鏡《ケイ》※[火+韋]煌(トシテ)、明(カニ)覩(タマフ)2先代(ヲ)1、 〔二行に括弧〕
 
四字句二つの對、平隔句である。
【智海】 は天皇の智慧の廣大なことを海にたとへた。梁の簡文帝の與廣信侯重述内典書に、
  慈雲既擁智海亦深
とあり。その他にも例がある。
(117)【浩瀚】 は水の廣大なるを指したのであるが上の智海の海の字に因み云つたものである。
【潭探上古】 は深く上古をさぐること。
【心鏡※[火+韋]煌】 は心鏡は御心の明らかなのを鏡にたとへたのである。魏の曹植の文帝誄に、「心鏡萬機鑑2照下情1」とある。※[火+韋]煌は光明の貌、支那に例が多くある。
智海は海であるから潭く、心鏡は鏡であるから明らかであると云つたのである。この文の意は天武天皇が現代の政のみならず、古く國家の古事を重んじ給ふを云ふのである。序解に
  上古は獨※[藕の草冠なし]神軌出づる所の所謂神代を指すなり。これ潭探の極至にあらざれば其幽頤を獲んこと難し。また先代とは始馭天下之天皇の後歴朝の文質禮變をさすべし。明覩とは檢討考覈を究めて其損益の如何を審議するを云ふ。
とある。
 
是於
 
「コヽニ」とよめば充分、「コヽニオイテ」とよむは下手なよみ方である。傍句である。
前の意を受けその精神によつての御企の起る所以を述べようとして新に端を起すのである。即ち智海浩瀚……心鏡※[火+韋]煌……がもとになり、そこで天皇が仰せられた。
 
天皇詔之
 
これだけで漫句である。
 
(118)【詔之】 之の字は記全體を通じて出て來る。
之は「コレ」とよむけれども、斯の如き場合は日本語ならば讀まずとも良い。支那の古代の助辭である。元來、之の用法は支那に色々ある。普通は三種にして説く。
 一つは代名詞の「コレ」
 一つは動詞の「ユク」
 一つは何々としてつづけゆく「ノ」
ところが、こゝのはこの三用法に入らぬ「之」である。支那流の文法で云へば普通の漢文典にはどうした譯か之を説かない。たとへば論語學而篇の「習之」の之〔右○〕も同樣である。「コレ」とよまずともよい。「これ」とよむと代名詞となり、解釋がつかなくて、面倒である。こゝもこれを代名詞とすれば、何をさすのか徹底しない。之の字を説明すると長くなるから簡單にするが、孟子に(離婁)
  不知2手之舞之〔右○〕足之蹈之〔右○〕1
とある。これは「手ノ舞ヒ、足ノ蹈ムヲ知ラズ」とよめばよい。このことが支那では近頃大分詳しく知られて來た。清朝に出來た、經傳釋詞に
  之猶v兮也
と云つてゐる。「兮」は日本語にはあてやうがないから昔からよまぬ。故に詔之は「詔したまはく」て良い、直譯に及ばぬ。經傳釋詞、左傳昭公二十五年に
(119)  ※[擢の旁+鳥]之〔右○〕※[谷+鳥]之〔右○〕公出辱之〔右○〕(讃み方、クノヨクノアラントキ公出デテ辱メラル)
とある。※[擢の旁+鳥]※[谷+鳥]は一羽の鳥の名であるのに之字を入れて二羽の鳥の樣に見えるのは韻の關係で斯うなつたのである。又「之ヲ辱シム」とよんでは意味をなさない。「辱シメラル」とよんで「之」はよまぬが良い。春秋の本文に
  六月癸卯、日有v食(スル)之
斯樣に澤山例をあげることが出來る。つまり語末の助辭でよまずともよいのである。それを無暗に之《コレ》とよんだので手紙などに有之候とか、無之候とか云ふ樣になつた。殊に之の字を多く使つた例は詩經に見える。鄭風女曰鷄鳴篇に
  知子之來之〔右○〕鶏佩以贈之〔右○〕
  知子之順之〔右○〕雜佩以問之〔右○〕
  知子之好之〔右○〕雜佩以報之〔右○〕
とある。之はおき字である。古事記にも多い。又たとへば久之を「之ヲ久シウス」とよむのはよくない。「久シクアリテ」でよい。書紀の推古天皇十年冬十月に
 百済僧觀勒來之〔右○〕
とあるが、斯ういふ所は皆置き字として讀む必要があろ。古事記上卷に
  爾《ココニ》天(ツ)神之命(モチテ)以布斗麻爾爾|卜相《ウラヘテ》而詔之〔右○〕
とある。之はオキ字である。この之字は終りに切れる場合と續く場合とがある。詔之のときは「ミコトノリシタマ(120)ハク」と續けるのである。
左傳宜公十七年に
  過而不v改、 而又久之〔右○〕、 以成2其悔1
とある、修飾格になつてゐる場合にもある。同じく宜公十七年の所に、
  吾人緩之〔右○〕逸
とある。これも置き字である。斯ういふ例が非常に多い。
この詔之の「之」の使ひ方は、平安朝又はそれ以後の文にない。唐宋八家文などには使はれない。六朝以前の用法では詩經に最も多い。これは古事記序文の古い證據になる。之の字一字でも古事記僞作説はこはれてしまふ。さてこの「詔之」は一體何年何月の事實か。これが問題である。そのことはこの上表文中に書かれてゐない。今までの學者の意見を徴するに、古史徴開題記において篤胤は
 此|詔之《ミコトノリシタマ》へるは何時ともあらねども必上條に引ける御記に此御世の十年と云年に大極殿に御して彼川島皇子等十二人に詔命《ミコトオホ》せ給へる時なるべし【其由下に云を見よ】
といつて下文に
  さて是まで詔命《オホミコト》なるを熟《ツラツラ》案《オモフ》にこは彼十年三月に川島皇子等十二人に仰せ給へる度《トキ》の大御言なりけむを彼の紀には記し漏されたるを遇々に此序文に傳へ記されたると知られて甚《イト》たふとし、
と云つてゐる。そこでそれでは先づ一往斯樣に考へてみようとするが果してさうであらうか。書紀の十年三月に
(121)  天皇御2于大極殿1以詔2川島皇子、忍壁皇子、廣瀬王、竹田王、桑田王、三野王、大錦下上毛野君三千、小錦中忌部連子首、小錦下阿曇連稻敷、難波連大形、大山上中臣連大嶋、大山下平群臣子首1令v記2定帝紀及上古諸事1大島子首親執v筆以録焉
とあるが、日本書紀の天武十年三月に詔勅があつて、記し定めせしめられた、それは如何なるものか、又どうして定められたか。今日殘つてゐないからわからない。又帝紀及上古諸事といふのは何を定めたのか、これは我國の歴史の編纂の事である。歴史に編纂したのが中絶し、後にそれを完成せられたのが、日本書紀であると考へられる。しかし帝紀といふ書物は假りにあるとしても上古諸事といふ書物は決してないであらう。
上古諸事は書名でなくて、書物に書くべき内容を指したのである。さうすると上古諸事に對して用ゐられた帝紀といふ語も矢張り内容をさしたのであらう。飯由武郷の通釋には
  帝紀は帝皇の本紀なり
と簡單に言つてあるが、飯田氏の考へはどういふのであるか。これは書名のつもりで書かれたのか、その内容をさして書かれたのか明かでない。これは學者、人を惑はすものといはねばならぬ。私は考へるのに古事記の序文にも帝紀があり、日本書紀の天武十年三月の帝紀と文字は同じい。たとひそのさす所の文字が違ふとしても又指すところの實質は違ふかも知れぬが、文字としての意は同じであらう。すると記の本辭も書紀の上古諸事と同意のものであらう。これも語の形は違つても意は同じであらうと思ふ。しかしこゝは詔之の説明であるからいづれ後に云ふこ(122)とにする。
さて書紀の天武十年三月の文と記の上表文と照し合せて考へると國史編纂は天武の御代に何回もあつたのでなく、矢張り十年三月の詔が源をなしたと考へられる。そこで帝紀及び上古諸事を定めよとの詔は如何なる手續で下されたかといふに、天皇が大極殿におでましになり、川島皇子忍壁皇子の如き皇族及び大臣を召して御下しになつた。これは國家の大事件であつたであらう。そこで次に日本書紀の文句に、帝紀及上古諸事を記定せしむとある。當時その帝紀とか上古諸事とかについては未だ一定した記録がなかつたのてらう。若しあつたとすれば、記録せよと云はれる筈がない。十年三月の詔に依つて中臣連大島|平群《ヘグリ》臣子首等が筆を執つて書かうとした當時の帝紀及上古諸事であつたか。若くはそれらに關聯してそれらの材料とするためにこの古事記の原本が出來たのか、どちらか明瞭に云ひがたいが、とに角、この十年三月の詔勅に基いて起つたものであると考ふべきである。書紀の帝紀及上古諸事を記録せよとは結論だけを書いたので、古事記序文中の「朕聞より欲v傳2後業1」と仰せられた勅語が源をなして、それがその事業の目的であつたと考ふべきである。谷川士清の日本書紀通證には、この「令記定帝紀及上古諸事」といふ文句を出してその註に記の上表文のこの所を以て説明してゐる。これは當を得たやり方と思ふ。なほそれから考へるとこの三月十二日の詔勅より二十日ほど前二月二十五日に
  天皇皇后、共居2于大極殿1以喚2親王諸王諸臣1詔之曰、朕今更欲d定2律令1改c法式u故倶修2是事1然頓就v是務2公事1有v闕分v人應v行
とある。云ふまでもないが古事記の編纂が邦家の經緯、王化の鴻基と仰せられた通り律令の改正と關係が深い。そ(123)こで之に關聯してここの「天皇詔之」があるのであらう。それでなければ邦家の經緯王化の鴻基といふ語が適切に生きない。
 
朕聞
 
は勅語の發端をなす句、
 
諸家之|所《トコロノ》v賚《モタル》靜紀及(ビ)本辭、
 
對をなさない漫句、
諸家は家柄のある多くの家々である。我國古代の政治は神樣の教を受けて行はれる祭政一致である。さうして一面は氏族制度である。家々の統御は氏《ウヂ》の頭、氏《ウヂ》の上《カミ》がやる。それは各々一つの小さな政治團體を組織してゐる。それらの家々には、それ/”\國家に關した傳承もあり、自分々々の氏々の大事件についての家々の傳承もあつたのであらう。氏族制度であるから、それらが一切の法政の源の基準であり、その傳承なければ統御がつかぬ。推古天皇の時、氏族制度を改め、氏族より個人を重んじ官位をも設けた。斯くて支那風の制度に方針を改められたが、大化改新に於て根本的に官職政治となつた。そこで家々の傳承は國家政治上に直接關係のないこととなつた。しかし天下の實情は二三十年間に法律命令に依つて根本的に改められないものである。それは丁度今日の舊暦の如きもので、まだ舊來の潜勢力は十分あつたであらう。さうして諸家のもたる所の傳承は相當あつたであらう。况んや、昔の事は口傳へが主で、書いたものがない。前の樣に古を照し、今を稽へるその古の傳承が基礎的の重要なものとなる。ところで、この御代の頃、家々は如何になつたかといふに、その前に既に大事件が起つて物部氏、蘇我氏の如き大(124)きな家々の本家は亡んだが分家は殘つてゐた。殊に中臣氏などの大きな氏族が殘つてゐた。それ故にそれらの傳承推古天皇以後に至つて用ゐられなくなつたとしTも、それより五六十年後になつて、なほ古老は存したのである。
【賚】 は俗字で正しくは齎である。説文に持|遺《オクル》也とある。こゝは家々に古來持ち傳へ來たのを齎すと云つたのである。
【帝紀】 書紀の天武十年三月のと同じ文字である。これは書名であるか何であるか、從來の説には書名の如くに見てゐるやうであるが精査する必要がある。紀は説文に絲別也とある。國語の周語の中に「數之紀也」とあり註に「數起2於一1終2於十1、十則更改日v紀」とある。つまり一より十まで來ると改める。かくして所々にしまりをつけて行くのであるが、そのしまりをつける爲に皇帝の御世の家筋を數へるのである。これは後に出てくる帝皇日繼に同じいものであらう。その帝皇日繼を漢文で書けば帝紀となるわけである。古事記傳に
  帝紀は下の文に帝皇日繼とあると同じく、御代々々の天津日嗣を記し奉れる書なり、書紀の天武の御卷の川島皇子等の修撰の處にも帝紀とあり、推古御卷の皇太子の修撰の處、又皇極の御名の蘇我蝦夷が燒ける處などには天皇記とあり、國史などいはずして、かく帝紀天皇記といへるので、古の稱なるべき、
とある。この書名説には反對意見がない樣だが帝紀が果して書名であるかといふことについては議論がある。なほ又考ふべきは、帝紀が帝皇日繼といふことであるとすれば、それを帝紀といふは、差支ないが帝皇日繼を、國史といふのはよくない。國史の基本とはなるが。從來は帝紀を一部の出來上つた書であると考へてゐたが、私にはそれは賛成出來ない。それは第一に支那に於て、帝紀といふのは書名でないといふ事である。漢書の李尋傳に
(125)  紫官極枢通位帝紀、大微四門、廣開大道、
とあり。後漢書の崔※[馬+因]傳に
  古者陰陽始分、天地初制、皇綱|云《ココニ》緒(シ)、帝紀乃設(ク)
とある。これらは帝皇の紀綱を帝紀と云つたのであつて、支那では帝紀といふのは書名ではない。それによると日本でも書名とは考へられぬ。少くも漢文漢語を手本とすると帝紀といふ書名があつたとは考へられぬ。しからば帝紀といふ言葉は書物について如何なる關係をもつかといふに、漢書に十二帝紀といふものがある。即ち十二帝紀、八表、十志、七十列傳がある、後漢書には十二帝紀、三十志、八十列傳がある。これらの帝紀といふのは歴史の中の或部分の名目であるので、獨立の本の名ではない。元來この帝紀の源は史記にある。史記には本紀、年表、書、世家、列傳がある。史記評林では本紀を帝紀とも云つてゐる。帝紀は本紀に該當する。史記の本紀が十二卷であつたので、漢書、後漢書みな之に倣つてゐる。それ故に漢書では呂后本紀をたてゝわざ/\十二にしてゐる。後漢書では光武紀を上下に分ち、後の方には皇后のみをあつめて十二にしてゐる。丁度文法の八品詞の樣に、無理無體に十二帝紀をつくつてゐる。
本居先生初め、すべての學者が帝紀を本の名としてゐるやうだが、さうではあるまい。これは帝皇日繼を書いたため、帝紀と云つたのであらう。
史記の本紀については鄭樵は
  本紀紀(シ)年(ヲ)世家(ハ)傳(ヘ)v代(ヲ)表(ハ)以(テ)正(シ)v歴(ヲ)書(ハ)以(テ)類(シ)v事(ヲ)傳(ハ)以(テ)著(ス)v人(ヲ)といひ、林※[馬+回]は
(126)  子長(ハ)長以v事之繋2于天下1則謂2之事1
と云つてゐる。唐の司馬貞の史記索隱には
  絲縷有v紀、而帝王書稱v紀者言v爲2後代綱紀1也
この三つを合すると本紀の説明が徹底する。紀とは年を紀して事の天下にかゝるものを書き、それが後代の綱紀となるものをいふのである。その本紀が帝紀ともいはれたのである。漢書、後漢書に於ては帝紀と云ふ以上は、我國でも帝皇日繼を基礎にしたものを帝紀といふべきである。それ故にこれは書名ではない。帝紀はその内容をさした言葉で、内容を年代の順序にならべ、歴史の幹になるもの、根本になるものとしたのである。それ故にこれまで語りついで來たものは、文字に書かなくとも帝紀といふべきである。勿論、帝紀には書いたものもあり、口傳へのものもあつて良い。けれども帝紀といふのは、史記、漢書、後漢書等の歴史の根本となる部分の名であつて、決して一部の成書ではない。
【本辭】 これは日本で造つた文字らしく、支那の例を探しても出て來ない。記傳に、
  本辭は下文に先代の舊辭とあると同じ、かの蝦夷が燒し處に國記といひ、聖徳太子の修撰の處に國記臣連、伴(ノ)造、國(ノ)造、百八十部、并八氏爲本記と云へるなど是にあたるべきか。川島皇子等の修撰のところに上古(ノ)諸(ノ)事とあるは正しくこれなり、然るに今は舊事と云はずして、本辭舊辭と云へる辭の字に眼をつけて天皇の此の事おもほしめし立し、大御意はもはら、古語に在ることをさとるべし。
開題記に
(127)  本辭は下の文に舊辭また先代の舊辭など有と同じく、先代に漢字と倭語を配したるを記し驟めたる辭書《コトバノフミ》を云へるなり。
とある。
本辭の文字の意を調べるのに、先づ「本」といふ字を見ると、本は木下がもとで、木ノモト(下)の意である。
周禮の地官大司徒の中に、
 以2本俗1大安2萬民1とある。本俗は舊俗の意である。
禮記の中に
  禮也者反v本修v古不v忘2其初1者也、
とある。すると本は舊に同じく又初に同じいので、本辭も舊辭も同じ意である。
「辭」といふ語は荀子の正名に
  辭也者兼2異實之名1以論2一意1也、
とある。辭には名と實と兩方が含まれる。辭は説事の言辭である。事實なければ辭がない。事と辭とは表裏の關係がある。詩經にも大雅板篇に
  辭之|輯《ヤハラゲルハ》矣 民之|洽《カナヘルナリ》矣 辭之※[立心偏+譯の旁]矣 民之莫矣
その註に辭辭氣謂2政教1也とある。その辭をば政教を謂ふと註してある。日本語では言も事も「こと」である。だから、舊辭も本辭も古事に同じい。それ故に古い言葉で古い事を書いたのが古事記である。それは又本辭と云つて(128)も舊辭と云つてもよい譯である。さうして、天武帝の詔の上古諸事はこゝの舊辭にあたる。さて諸家の賚たる本辭は如何なるものかといふに、本辭とは古い言葉であるから、國家でも家々でも言ひ傳へ來たものであらう。平田先生はこれを辭書であるといはれたが、それは問題である。私には賛成出來ない。今その本辭とは如何なるものかといふに、こゝにその一例を書いてみる。
  天有一神名稱天御中主神 次有一神名稱高産日神又有兩神【伊佐諾命伊佐波命】兩神有天浮橋指下矛攪探引上矛之末落下之|〓《アハ》凝成一島名曰淤能其侶島所謂此島在紀伊國|海部《アマ》郡此(ヨリ)以西加太浦建加太驛通淡路國津名郡由良驛其加太驛乾在伴島此島西南在淤能碁侶島島躰圓(圍)六十町許無有|人居《ヒトヰ》高廿丈許冬見草石唯有聚木茂高相去伴島二三亦非人居兩島同v根|屬《ツケリ》也湖生通海凡此三從艮連坤兩神降坐島見立天御柱八尋殿坐也、
これは新撰龜相記の中の一文であつて、井上賚圀氏の古事記考の中にもこの一文が載せられてゐる。この新撰龜相記といふ書は、幕末の頃に卜部家(吉田子爵家)から出たのであるが、今も同家にある筈である。私も原本は見ないが、その全文の寫本を藏してゐる。これは圓融天皇の天禄二年六月二十八日に書きしるしたものであるが、この書物の出來たのは淳和帝の天長七年である。その拔書が明治二十四年角田忠行氏によつて出版され、(明治二十四年二月坂正裕發行〕新撰龜相記抄講義上下も同氏に依つて大正二年に出版された。吉岡徳明もそれを知つてゐたであらう。平子鐸嶺は明治四十年頃この書について學燈に述べてゐる。
 
(129)既(ニ)違(ヒ)2正實(ニ)1
多(ク)加(フト)2虚僞(ヲ)1 〔二行に括弧〕
 
四字二句短對であるから緊句である。これは「正」と「僞」と又「虚」と「實」とが襷掛けになつて對して居るものであるが正實に違へば虚僞てある。
【既】 は分量的の意のあるもので、博雅に盡也とある如くすべてを盡すといふ意の字である。左傳桓公三年、日有v食うv之既とある。「既」は日蝕の既《ツ》きることである。この場合上記の全部分を盡す意かといふに、それほど深い意はない樣であつて、玉篇に已也とある程の意であらう。已は國語にスデニとよむ。スデニは萬葉などでは悉くの義となるが、已は支那でハナハダシの意である。こゝも甚しいの意であらう。この對句の意は、諸家のもたる所の帝紀及び本辭には甚しく正實に違つたものもあり、而して多く虚僞が加はつてゐるといふことであらう。しかしこれは昔より私のいふ如くには解しない。古史徴開題記に
  既違2正實1は其辭書の漢字に和訓を配《ソヘ》たる状の正實に違ひて當らざる事の有るよしなり。
  多加2虚僞1は本辭既違2正實1の文を隔て帝紀に係る漢文の一格なり。
平田翁は本辭が正實にたがふと見るのである、翁は漢文が出來た人だから、この意見には相當の根據があらうけれども、この先生の考へには賛成出來ぬ。第一に本辭は辭書と云はれたが信ぜられない。對句として見るときは一つの意味しかなさぬ。若し平田先生の如く「正實に違ひ」は本辭にかゝり、「虚僞を加ふ」は帝紀にかゝるとするならば、安萬侶は二句を短對として立てるか、若しくは後の正實と虚僞と四句對して隔句とするかしたであらう。然る(130)に前の方は一本筋の漫句である。だからそれが正實に違ひ虚僞を加へるのである。この二句が一つの意を以てなり又全體的に前の帝紀本辭をそつくり説明したのである。正實に違ふといふことは虚僞であるといふことである。これは本辭のみでなく帝紀にも正實に違ひ虚僞を加へることがあるのをいふであらう。なほ正實に違ひ虚僞を加へた事情は、どういふ風にしてなつたかについては、古事記序解に詳しく論じてゐる。然しそれは一種の考へ方として參考にはすべきであるが、然しながらそこに擧げられたのは皆後世の考へ方である。古事記と比べさういふ事を見るべき材料が現在にない。それ以前の材料があるならば、それがいかにちがひ、古事記によつて如何に正されたかわかるわけであるが、古事記以前の資料が全然なく、その姿の如何がわからないから、正實、虚僞の實際、記自體が資料と如何に違ふかといふことは論じられない。
帝紀と本辭とがどう違つてゐて、古事記にどういふ風にとられたかは、こゝに云ふことは出來ぬ。故にこの點は一切論ぜず、こゝに論ずる要あることのみをいふのである。序解には斯ういふ風に改められたであらうかといふことのみを云つてゐる。
 
當《アタリテ》2今之時(ニ)1不《》v改(メ)2其失(ヲ)1未(ダ)《・ズシテ》v經《ヘ》2幾年(ヲモ)1其(ノ)旨《ムネ》欲《ムトス》v滅《ホロビ》、
 
四字句、四句を重ね對がない。作文大體の漫句である。
【今之時】 は天武天皇が勅したまうた時である。その時の何時であるかは明言できぬ。「失」は前にある帝紀本辭のその缺點である。
【其旨】 は帝紀本辭の傳へんとした本當の心持、本當の姿、精神であつて、それが滅びんとするのである。
(131)【欲】 はホツスとよむが、それは欲望の意のあるわけである。元來この字は用言として欲望の意をあらはす字であるけれども、助字としては「將」字と同一義に用ゐてゐる。例へば書家王羲之の法帖の中に
  後期(ト)欲(ス)v難(カラン)v冀(ヒ)
とある。これは「トス」とよむので、若し「ホツス」と讀むならば、後に再び會ふ時期を冀ひたくないといふ妙なことになる。朗詠集に
  漸欲(ス)v拂(ハント)2他騎客1
とあるが、この「欲」は昔より「トス」と讀むことになつてゐたのを徳川時代の板本には「トホツス」とよむ、かやうに後世は誤讀した。さてこの句の意味は古事記傳の中に
  當時虚僞多くなれりといへどもなほ正實も全く滅びたるにあらざれば、天皇の海のごと廣き御|智《サトリ》、鏡のごと明けき御心もて辨へたまへばいとよく分る故に今是時に改め正しおかずばいよゝ虚僞おほくなりもてゆきて、今幾ほどもなく正實の旨は滅びうせなむ物ぞとかしこく愁《ウレ》ひ坐《マ》せるなり。
とある。これは勿論それに相違ない。然し「今之時に當り」と仰せられた。この事については、唯天皇御一人の聰明にいらせられたことについて仰せられただけのものてない。「今之時ニ當リテ」には深い意義がある、朕の生きてゐる中にやらなくてはだめだといはれるのでなく、もつと深い意義があるだらう。それは如何にといふに我國の御代の姿は推古帝の御代より上代の風がすつかり變り、その御代に文獻本位となつた。推古帝からは今まで口傳へであつたものを皆文献でやるといふ御代に變つて來た。そのため從來の樣に口で唱へて人から人の頭に傳へる。即(132)ち覺えてゐる事を口にするのを本位とすることは、公に認められなくなつて、時代はすつかり變つて來た。推古帝の御代から天武天皇が古事記をお書きなさらうとせられた今の時まで、凡そ七八十年經過した。それをばわれ/\が現在生きてゐる今の世の姿で比較するに、略明治維新より唯今の昭和十年あたりまでの隔たりであると見られる。昭和十年を基礎にして、明治維新に出合つた人を見ると、もう八十歳以上の人である。それでも明治維新のとき、いくらか物を知るといつた年輩にすぎぬ。九十歳百歳以上でなくては實際はわからない。しかし、六十歳、七十歳の人は父兄からその經歴談をきいてゐるから大した間違ひはない。そこで六十、七十、八九十歳の人の話を綜合すれば明治維新のことは大體わかる、これが十年、二十年たつと、八十歳位の人はなくなり、又聞きの直接的でない知り方の人のみとなる。まことに不確實である。故に七八十年といふ隔たりの年代は、この例でよくわかる樣に餘程重要性を持つてゐる。天武天皇の時でも今少し過ぎると、推古帝以前の文獻本位でなかつた時の事が不明となる。そんなきはどい時である。そこで「今之時」は非常に利いてゐる。だから天武帝御一人の聰明にとゞまらず、非常にあぶない。そんな時に際會したのである。今日もう五年十年たてば明治維新の姿がわからなくなると同樣の關係である。それを、天武天皇が非常に御心配遊ばされたと私は思ふ。その意味から考へるのに、古事記の編纂は今の政府のやつてる維新史料編纂に似てゐる。これは明治の末年から今まで續いてゐる。だから「今之時」といふは、明治維新史料編纂の着手の場合より十何年おくれてゐる。聖徳太子の外國文化重視はいふまでもなく、天智天皇は恐れ多いが、「からひと」と呼ばれ給ふた位支那文化崇拜の方である。壬申之亂はそれらの極端な改革主義に對しての反動であると思ふ。天武天皇はその反動の勢力に推立てられた御方(133)である。天武天皇が位をとられたことは道徳上賛成出來ないが、當時は恰も今、國體論、國民精神論の盛なのと同じ樣な時代であつたらう。唯天武天皇の御代になされた事は稍々遲れてゐると思ふ。それ故に記傳の説は惡いとは思はぬが、物足らぬのである。
 「今之時ニ當リテ」は古事記編纂事業の起つた主眼點であるから、こゝに深い意味があるのである。そこでこゝに深く考へをつけておいて頂きたい。この點が古事記では最も大事である。本居先生はこゝより先が大事てあるといはれるがさうでない。記の中心點はこゝとこの次にある。
 
斯乃
 
傍句、上を受けて下をおこす。
意は帝紀本辭が大分わからなくなりかけてゐるのをば、虚僞を去り過誤を改めて正實にもどす。その正實の姿を明らかにしなくてはならぬといはれた。さうしてこのことが即ち、
  邦家之經緯(ニシテ)
  王化之鴻基(ナリ)、
であるといふために「斯乃」といふ媒語をおいて結ぎ合せた。下を導き出す意である。これは前と後と直接關係がある。
帝紀本辭、明かとなれば、そこで邦家之經緯、王化之鴻基が明かとなる。
 
(134)邦家之經緯(ニシテ)
王化之鴻基(ナリ) 〔二行に括弧〕
 
五字二つの短對の句、作文大體の長句である。これは前々からいふやうに、對句として一つの意しかなさない。
前の長孫無忌の上五經正義表に似た文字を用ゐてゐる。それは、
  斯乃邦家之基
  王化之本者也
である。かういふ文字をもとにして、古事記の表をつくつたと考へた人は、この正義の表の臺本を、經緯鴻基と取り換へたのであるといふけれども、然し私はこれは必ずしも上五經正義表に限らず、漢文によくある語であると思ふのである。
なほ上五經正義表と此の記の序とを比するに、成程同樣の對をなしてゐるが、彼の基と本とは同じ意である。こちらはさうでなくて經緯と鴻基と意はちがふのである、故に對句として見れば基と本との對したのよりは、格はむしろ破れてゐるといはねばならぬが、意味はさやうに窮屈とはなつて居らない、意味の上で經緯は基でない。此の點に深い意味があるので單なる眞似ではない。
【邦家】 は國家の意である。邦は大國の意である。大國を邦といひ小國を國といふ。今も云つた樣に邦家之基は詩小雅南山有臺に
  樂只《タノシメル・タノシキ》君子、邦家之基
(135)とある。此の邦家之基を上五經正義表が持ち來つたのである。だから古事記の方の邦家云々は、詩經から取つた事になる。
【經緯】 は左傳昭公廿五年に
  簡子日甚哉禮之大(ナルコト)也對曰禮上下之紀天地之經緯也。
とあり、その註に
  經緯(ハ)錯居(シテ)以相成(ス)者也、
とある。元來「經」は織物のタテイト、「緯」はヨコイトであつて、「經緯」といふときはタテヨコ入り交つて織物をなすといふ意である。「經緯」とは國家といふものの組織の根本となるのである。そこで面白いことは、左傳にいつてゐる「天地之經緯」は禮をさしてゐる。禮が天地を組織する基本であるといふのである。禮記の禮運篇に
  孔子曰、夫禮先王以承2天之道1以治2人之情1故失v之者死得v之者生。
とある。これを以て見ても支那の禮は禮儀作法の樣な小なるものでない。天地の經緯であり、われ/\の神ながらの道全體にあたる。そこから考へて見ると「邦家之經緯」といふことは、非常によく使つてある熟字である。唯文字の面だけでなく、そこに立派な見識を有してゐる。上五經正義表のまねをしたといふのは、たとへ文字をまねしたとしても精神は違つたのである。その「邦家の經緯」がはじめにある「本教」で、その「本教」は「其旨欲滅」の「其旨」であつて、支那の意とちがふ。
「王化之鴻基」はやはり詩經の序から出てゐる。結局「邦家之經緯、王化之鴻基」は詩經より出て居る。詩、周南(136)の大序に
  周南召南(ハ) 正始之道 王化之基
とある。王化之基といふ詩(ノ)序の語を持ち來つてゐる。片方が邦家之經緯とあるので對句にするため鴻基とした。
【鴻】 は雁の種類の大きな鳥である。こゝは大の意である。鴻は天子の大業をいふ慣例である、鴻業は天下を治めるしわざ、鴻緒は皇室の大系統である。「鴻基」といふ語は支那に出來た。隋書地理志に
  皆所d以式固2鴻基1藩2屏王室1興v邦致v化康v俗庇uv人
とある。
【鴻基】 は帝皇の事業の基となるものをいふ。大本といつてもよい。
【王化】 は詩の序にある。帝王の徳化、徳を以て化する、徳を以て人を導くことが王化である。だから本教といふものがこゝに來るのである。文字は斯うである。こゝを私は非常に重視して、これこそ古事記の眼目になる點であると思つてゐる。こゝより前は、編纂事業の起る主眼點で、編纂事業の目的は邦家之經緯王化之鴻基である。これがぶんまはしの中心點である。これをもとにしてまはるのである。古事記傳はこゝを極めて簡單に書いてゐる。四十何卷の大著もこの點は徹底しない。
  經緯とは國を知しめすになくてえあらぬ物なることを、機《ハタ》の經緯《タテヌキ》の糸にたとへて云なり。鴻は大なり。
と記傳にあるが、言葉々々と云つて、國語を大切にしてあるのはよいが、漢文を輕蔑してその爲に大事なことをぬかしてあるといはねばならぬ。しかし、平田先生は大分喧ましく云つてゐる。開題記を見ると、
(137)  經緯とは織《ハタ》の經緯の糸をいふ言なるを、かく詔へる意は上古の故事は國を治し看すに、順考《ヨリカンガ》へ給はでは得有らぬ鴻基なる事を織《ハタ》に經緯なくては、繊《オリ》得まじきに譬へて詔へる漢文なり、【鴻は字書に大也とあり】此序の始めに上古の天皇命たちの御々代々に、聞え高き故事《フルコト》どもを次々に擧て雖歩驟各異文質不同莫不稽古以繩風猷於既頽照今以補典教於欲絶、と云へるも此意なり、さてかゝる類の語等をば、俗の古へ學する徒など甚だ惡《キラ》ひて心留めて見むとも爲ざるは固陋なり、語は漢文に飾れるなれど意は信にかくの如くなるべき物ぞ、其は古事を傳へやる業は古に稽へて、後の頽廢を繩さむの御心ならずは何の要とかせむ、次(ノ)文に故惟撰2録帝紀1云々と詔ひ承たると初條に云し、天(ツ)神の太詞事を依し賜へる事とを思ひ合せて辨べし。皇極天皇記に天皇順2考古道1爲v政とあるも古に稽へ今に照して政事を爲たまへる由なり。
とある。こゝにいふ天(ツ)神の太詞事とは即ち本教で、本教はこれを云つたのである。斯ういふ風に、上古、古のふるごとは國家を治め遊ばすことを始終考へて居た。これが根本である。たとへば、ぬきいとがなければ、織《ハタ》をおることを得ない。この序文のはじめに、神武、崇神、仁徳、成務、允恭帝の方々のことを少しあげた。
  雖歩驟各異………
然るに、斯ういふ大事な言葉を無視し、古學をやる人は漢意をきらひ、漢文で書いてあると、どんないい事でも嫌ふ。そして氣をつけて見ようともせぬのは固陋である。この平田先生の云はれた意味は、本當に私のいふ通りである。古事記が古事を傳へるしわざは何のためか。古に稽へて頽廢してゆくのを正さうとしなくて何の必要があらうぞ。その點は、平田先生は強く云つてゐる。
(138)古事記に就いて、かういふ車を云つたのは平田先生が初めである。この説に私は最も賛成する。しかし、私は考へるのに、平田先生の言ひ方も足りないと思ふ。平田先生の説明が足りないと、考へられるのは「邦家之經緯王化之鴻基」の語についてである。先生はこれを譬への如くとつて居られる樣に考へさせられる言ひ方である。今少し先生と違つた意味に取りたい。
經緯はたて糸、よこ糸でなく組織の意にとる。こゝがしつかりわかれば、後は皆よんでわかる。
この上表文全體のうち、こゝで第一段となる。前の「莫不稽古以繩風猷於既頽照今以補典教於欲絶」この一段の項目を數へると、九ケ條ある。
 一、神祇の現はれたまふたこと、
 二、我が國家の成立、國土國民はすべて血統的一體である。
 三、皇統の源流、三種神器の起源、
 四、天孫降臨、
 五、神武帝の宏業、
 六、崇神帝の敬神、
 七、仁徳帝の人民愛撫、
 八、成務帝の國郡制定、
 九、允恭帝の氏姓を正されたこと。
(139)これらの事柄が邦家の經緯王化の鴻基である。何故かといふに、一より五までは、國の成立の意義を明らかにした箇條である。古の我國の統治のやり方は、一方よりすれば祭政一致である。その根源は外國とちがふ。國民は神の裔《スヱ》である。神々より生れたといふ自信を有する。だから一番先に、神祇の現れたことを言はなければ祭政一致の政は正しく行はれない。これがなければ國體の本源も正しく認識できない。不明である。第六からは、神武帝よりはじまる、人皇の代である。人皇のはじめを考へるにあたり、第五の神武帝宏業から出て、第六の崇神帝の神祇を敬はれたことを強調した。天皇の御わざは神祇崇敬が基本である。神樣を尊崇なされたことを日本人民が手本にすればよいわけである。神祇崇敬は天皇が國家統治の根本のなされ方である。これは上に向つてのなされ方であるが、下に向つては國民を愛撫なさればよい。そのことが、天皇の下に向つてなされる要點である。その手本としては仁徳帝を例とした。この二つを十分に行はるれば、日本はいつまでも國家安康である、神祇崇敬、國民愛撫、これがやはり王化之鴻基である。
又國家を實際に治められる制度よりいへば、西洋の憲法學者は國土國民の二つのことをいふ。それで、その管轄區域を明確にすることは第一に必要である。これが行政上の根本である。その原則として堺を定め、國をひらくことがあげられた。又古代の政治は一面氏族政治である氏族を制度の中心としたのである。氏族制度は氏族の關係を以て政治の實際上行政上の基本にせられた。それで國民の統御には氏姓がはつきりしてゐなければ何も正しいことは出來ない。氏姓に明らかなこと、確かなこと、これが用語上、行政上第一の定則となる。その意味て姓を正し、氏を撰ぶといひ、その模範として、允恭帝をあげた。即ち第八、第九の二項目で、國土統制、國民統制の制度を正し(140)くする。これは形式的方面である。之に對して上は神を敬ひ、下は民を愛する。これは國家統治の内容的方面である。
敬神、愛民、境を定め、氏姓(戸籍)を正す、この四つをなされば、天皇が天下を治めなさる統治の内容形式全體の具備した手落ちない政治が行はれる。敬神、愛民と同時に、國土國民を整理して行くことが、邦家の經緯、王化の鴻基である。
第一段のことをこの二句でひつくるめた。瓢箪のしめくくりにあたる。著しこれが主眼でないならば、古事記はたゞ古いことを並べたものとなり、古道具屋の店と大したちがひがないといふ批難が出ても反駁のし樣があるまい。ただ古いのがいゝならば、徒然草の話にある尨犬の古いのがよいわけである。
それでここは今までの人のいふやうな淺いものでなくて、實際もう少し深い意味があるのである。
右の二句は記全體の精神的中枢をなすのである。序文をよまなくては古事記はわからない。又記の序文の中でも、こゝを讀まなくてはならぬ。こゝを顧みないで如何に詳しく説いても、それは末節に拘泥するのである。東郷大將の偉いのは精神が立派なのである。これを重く見ることは、記の本質に觸れてゐる。斯樣に考へて見ると、從來の學者では平田篤胤先生一人である。太安萬侶も、天武天皇もえらい。その御精神を遙かに時代をへだてて知つたものは、平田先生である。太安萬侶より平田先生の出られるまで、この眼目をすてておいたといふ事は恐れ多いことである。
 
 
(141)作文大體の送句である。俗におき字といふ。おき字は國語ではよまぬ。しかし、これには意味のないわけではない。支那文法では終止である。同時に、上の文を指定してゐる。「サウダゾ」と指定する。故に「コレ」とよむことがある。しかし、強くなくてゆるい。一寸押へつけたのである。大事な所であるから焉とした。
 
 
傍句である。
 
 
も傍句であるが
「故」は今の文法で云へば、接續詞である。廣池千九郎氏の支那文典にいふ原因を前において結果をとり、斯ういふ原因があるから、そこでかうなると、その原因結果の關係を示すのが、故の字の本體である。故を「カレ」とよむことについて、記傳に、句の頭では「カレ」と讀んでゐる。これは古事記中に殊に多い。記傳に
  語の下にあるは、由惠《ユヱ》とも、由惠爾《ユヱニ》とも訓こと常の如し………又句(ノ)頭にあるをば、迦禮《カレ》と訓めり。其は記中に殊に多し、其の中に此字の意にはあらずて、たゞ次の語を發《オコ》すとて、於是《ココニ》などいふべき處に置るいと多し、それにつきて、思ふに、迦禮《カレ》は迦々禮婆の切《ツツマ》りたる辭ならむか、迦々禮婆は如此有者《カクアレバ》にて上を承て次の語を發す言なり、さて其を切《ツヅ》めては、迦禮婆とこそいふべきに婆をしも略けるは、いかにといふに、古語に婆を略きて、婆の意なる例多し、(此の例萬葉に多く見ゆ、別に出せり、又長歌に奴禮婆、都禮婆などと云べき處を、婆を省きて、奴禮、都禮などとのみ云へる例もあり、是も別に出す、)然《サ》て、その迦禮に故(ノ)字を書るはいかなる(142)由ぞといふに、凡て、祁婆《ケバ》、泥婆、禮婆《レバ》の類は由惠といふ意に通ふ例多ければ………迦々禮婆は、如是有故《カカルユヱニ》といふに適ふを以て、此の字を當ぬるなるべし。
故を「カレ」とよむ、理由はまづかくの如くであらう。私はこれでも多少不充分であると思ふ。記傳につゞいて云ふ。
  また加良爾といふ辭、故《ユヱ》にといふ意に近ければ、加禮は加良の活轉《ハタラキ》きなるかとも思へども、然にはあらじ、加良は別なるべし。さて漢籍にて句(ノ)頭にある、故の字をば、加流賀由惠爾とよむは、是も加々流賀由惠爾を切《ツヅ》めたるなるべし、
右の如く「カルガユヱニ」とよむまでそれでよい。しかし、下の方の「ユヱニ」が本來の意で、「カルガ」は上の文をうけて、「さうであるから」の意となる、所謂同意接續的の意を、明らかにするためである。「カルガ」をつけた方が意味は徹底する。その「カル」と「カレ」とは、同語の變化であらう。「カル」は連體形「カレ」は已然形である。「カカル」が「カル」となり「カカレ」が「カレ」となる。「カクアリ」が「カカリ」「カリ」となることは、一般的である。「カカルガ故」が「カル」となり「カカレ」が「カレ」となるのは、此の二つの場合のみに限り、他の場合は然うでない。そこでこれが問題である。故を「カレ」と讀んで可なるかは問題である。調べて見るに、假字で「カレ」と書いたのは古典に一つもない。唯斯樣によんだのみである。唯書紀には「故」を「カレ」と讀む。釋日本紀の秘訓の一の卷の中に
故を「カレ」とよみ、
(143)  「一部之内皆以カレ止可v讀v之」
とあり。書紀では古來「カレ」とよむことにきまつてゐる。この釋紀は鎌倉時代に出來た本であるから、我々は之に從はねばならぬといふこともないが(辭書にはあるが)、これが最古であつて、それ以前には見えない。本居説の如く「カカレバ」が「カレ」とつまり、意味はかゝればと同じとし、「バ」を省いたと見るべきかといふに「バ」は昔はつけないでその意にとつたのである。
【惟】 は傍句である。これは發端の語である。
語を改めて下をおこして來る。其次の
 
撰2録(シ)帝紀(ヲ)1
討2覈《タウカクシテ》舊辭(ヲ)1、 〔二行に括弧〕
 
これは、四字二句緊句である。對句であるから、バラ/\でなく、これで一つの意をあらはすのである。これを對句としなければ、後で妙な議論に對してそれを破るわけにゆかなくなる。
【撰録】 の語は支那にある。王臺新詠といふ支那の六朝時代の謠ひものの詩歌を集めたもの、その序文は徐陵の作であるが
  撰2録艶歌1凡爲2十卷1
とある。隋の魏收が上2魏書十志1啓(一種(ノ)上表文)に
  晩始2撰録1
(144)とある。撰は選と意がちがふ。周禮の夏官の中に
  群吏撰2車徒1 (群吏は役人)
とある。そこには之を、「數擇《カゾヘエラブ》を謂ふ也」と註する(謂數擇之也)。こゝでは詩文書物を著すことをいつてゐる。撰録は書物に著すことである。之を「ツクル」とよむべきである。
【帝紀】 は帝紀といふ書名でなく、帝紀といふ實質をさす、あとに帝皇曰繼と書いてあるものである。
【討覈】 上五經正義表にこの字がある。
これもその源は古く文心雕龍(六朝のとき文章の理窟を書いたもの)にもあるが、書經洪範の疏の中にも討覈の文字がある。
【討】 は今日いふ討論の討であつて、道理をたづねきはめてゆくのが討である。
【覈】 は※[しんにょう+激の旁]v辭得v實で、裁判官が被告にものを言はせて實を判斷してきめてゆくのである。古來言ひ傳へた文章言葉をしらべて道理をきはめて行つて、さうして正實を得るに至るのである。
【舊辭】 といふ語は文心雕能事類の篇に
  「雖v引2古事1而莫v取2舊辭1」
とある。こゝでいふ舊辭は上にいふ所の本辭に同じく、あとにある先代舊辭は之を詳しく云つたのである。然しこれは支那流でなく、我國の事實上の特殊の意をもつ舊辭である。この二句について言ふのに、開題記の中に
  「是の文は撰2録帝紀1削2虚僞1討2覈舊辭1定2正實1と詔へる意なり」
(145)とある。この削v僞と定v實ととを對句の樣に用ゐてゐるといふ平田先生の言ひ方には賛成出來ない。何故なれば一般の對句に二字一句二字一句の對句はない。對句は三字が字數最も少い。だからその成立から考へてさうであるのみならず、平田先生の撰録を帝紀にのみかけ、討覈を舊辭にかけるといふ事は對句の意味より徹底しないのである。古事記傳略には
  「今按に帝紀は舊辭の中より撰採て録すべきものなれば、討覈舊辭撰録帝紀を撰録すといふべきを、如前後せる所は、帝紀を撰録するが正意なればなるべし。」
と云つてゐる。帝紀を本とすべきものだといふ考へには同意が出來る。紀がなければ、ものをしばるのに都合がわるい。本筋の紀がなければ、横にもののはさまるわけにゆかぬ。然し、此の傳略は漢字の讀みそこなひをしてゐる。
「撰」は文章に書きあらはす意味である。だから、選擇の意とする傳略の吉岡式にやつて見るといけなくなる。前から再々いふやうに、私は對句ならばそれで意味は一つになるものと考へる。即ちこゝは帝紀及び舊辭をば討覈するのである。討覈するといふことは、あとの削僞定實の手段となる。そして帝紀及舊辭を討覈した結果、現れたのが正實なものである。だから帝紀舊辭兩方ともに關係するのである。一方だけでは理窟が合はない。
「討覈」は撰録の準備工作である。討覈した結果を撰録すべきである。この四字を比べて見るに、中々うまいものである。
 
(146)削《ケヅリ》v僞(ヲ)定《サダメ》v實(ヲ)
欲(ス)v流《ツタヘント》2後葉(ニ)1  〔二行に括弧〕
 
四字二句であるが、漫句である。意はつづいてゐるが對句ではない。前を受けて虚僞を削り、正實を定めんとするのである。それが即ち討覈することなのである。その結果として正實が定まり、その定めた正實を撰録するのである。その撰録の目的は欲流後葉にあるのである。
【後葉】 の葉は、世に同じい。
詩經の商頌に
  昔在中葉。有震且業。
とあるが、中葉は、中世の義である。從つて後葉は後世である、これは多數の例がある。漢書、司馬相如傳に
  恐後葉靡麗遂往而不返
とあるなどがその一例である。
【流】 は つたへるの義、蜀志呂凱傳に「流名後葉」とある。晋書、劉波傳に「勲傳2後葉1」、とある。
【欲】 の字は前にものべたが、然し、こゝは本當に欲する意があるだらう、だから前とは少しちがふ。ところがこゝに妙な議論がある。傳略に「欲しは、撰録の上、惟の下にあるべし、斯うしなければ漢文の法則に合はぬ。と云つてゐる。(欲(ノ)字は撰録の上に在べき文意なり)すると、安萬侶が無理に漢文法則を破つたのであらうか、又はその法則を知らぬであらうか、よく考へるにさうではない。「欲撰録」となれば「欲」を「將」の字の意とし、現在のこ(147)とをお考へにならぬ事となる。然るに、削僞定實以上は現在のことに屬し、後葉に流へる事は將來のことに屬するのである。それを欲であらはした。しかし、「欲スル」といふ心は、現在心中におこり、その對象が流後世である。私は、これについて斯樣に考へる。即ち、もつとわかり易くするならば、之に一字を加ふべきである。欲の下に「以」を加へる。左傳宜公十八年に
  如楚乞師 欲以伐齊
とある。序文の方は字數の關係よりして「以」を入れなかつた。「欲」をこゝに入れることは、破格でなく、斯樣に書いたために、天武帝の聖旨が徹底する。「欲を上に持つてゆくと聖旨があやふやとなる。傳略は愚論である。記傳には
  此の一句疎に古學の要とあることぞ。な看過しそ、後葉は後世なり、
  〔欲の字は撰録の上にあるべき文の意なり、〕
とある。私はこれほどにいはれる本居先生がなぜ「邦家之經緯 王化之鴻基」について云つてくれられなかつたかと殘念に思ふのである。
【欲流後葉】 までが、天武天皇の勅の内容である。
 
時有(リ)2舍人《トネリ》1
 
これは漫句、
 
姓(ハ)稗田、名(ハ)阿禮
 
(148)これは壯句、三字句二句の對で、
 
年(ハ)是(レ)廿八、爲(リ)v人(ト)聰明
 
四字句二つで、漫句である。
この時は天武天皇が勅を下されて、編纂せしめられた時であるが、その時はいつか、ここでは全くわからない。
【舍人】 昔より「トネリ」とよむ。實際より云つて、天皇側近の職名である。その舍人は姓は稗田、名は阿禮といつたが、此の人につき、男といふ説と女といふ説と二つあつてなか/\面倒である。記全體より見れば大したことではないが、昔から男と信じて來たのに、平田先生が女であると言ひ出したのでこんな事になつた。迷惑ではあるが考察してみよう。
そもそも支那で舍人とは如何なるものかを考へねばならぬ。一例をいふに、有名な藺相如が、この人はしまひには大臣となるが、始めはいかなる人かといふに、史記の傳に趙の宦者の令(長官)繆賢の舍人であつた事があるが、相如が偉くなつて上卿となつたが、將軍廉頗を避けたのを、舍人たちがいさめたところに
  於是舍人相與諫曰、臣所d以去2親戚1而事uv君者、徒慕2君之高義1也。今君與2廉頗1同v列。廉君宣2惡言1、而君畏2匿之1恐懼殊甚。且庸入尚羞v之。況於2將相1乎。臣等不肖辭去。
とある。舍人は臣といつてゐる。史記藺如傳に見るに、舍人は男か女かといふに、臣といふ以上は男である。女ならば妾と云つたであらう。始め支那で舍人と云ふは、王侯貴人が自分の手近に使つた門下生、召使をいつたもの(149)らしい。秦始皇の大臣となつた丞相李斯ももと舍人であつた。高祖の擧兵せし時樊※[口+會]なども舍人であつた。だから舍人は元來本當の役人でなく、食客、玄關番の如きものらしい。その舍人といふ名目を官職にした例は周の時にある。これは大分重く、宮中の米穀の出し入れをするものであつた。漢以後はいろ/\の役につかはれた。六朝頃から天子はもとより、侯、五爵は自分を守らせるものとした。晋の時代に太子舍人があり、近侍して宿衛した。宋になつて亡んだ。その外、中書省の舍人が多くあつた。元になると、侍儀舍人がある。これは帶釼して警衛した。明には帶刀散騎舍人がある。之も武装した。
これらは皆男であらう。日本では大寶令に大舍人《オホトネリ》、内舍人《ウチトネリ》があるが、皆男である。
内舍人は刀を佩き宮中にとまり、陛下の用をつとめた。大寶令ではその仕事がいろ/\ある。大體をいふと、軍防令に出てゐる。大體今の宮中の侍從武官の地位の低いもので、勅使になつてゆく。大舍人寮が左右二ケ所にあり、宿直警衛をする。今の皇宮警察の樣な事をなすものである。中宮にも、東宮にも、中宮舍人、東宮舍人があり、これは、軍防令によるもやはり武装してゐる。軍防令の採用規定は
 五位以上の子孫で歳二十一以上になり、現役なきものはそれを調べ、その中より性識聰敏なるものは内舍人としてとる。それ以外は大舍人に當てる。
 六位以下及八位以上及び八位以上の子は、二十一以上で現任なく儀容端正のものを上等とす。上等のものは大舍人となる。これも男だけである。
以上どちらから考へでも、支那でも日本でもみな男である。萬葉集でも舍人が出る。大伴家持も内舍人であつた。(150)すべてわかつてゐる範圍は男であつて、女が舍人である例はない。けれども右の大寶令は天武天皇より後のものである。今度は逆に古い所から考へてみる。
書紀の中舍人の名の見えるのは仁徳天皇十六年の所である。そこに近從の舍人とあるが男女不明、又仁徳帝舍人鳥山とあるが、これも男女不明。大舍人は雄略帝の初めである。允恭天皇が、眉輪王に弑せられ給ふたことを、走つて報告したから、宮中に奉仕をしてゐたことは明らかである。之が男とも女とも取れるが、確かな證であるのは雄略天皇の五年に天皇が葛城山に猪を踏殺された記事に猪が荒び來るとき天皇舍人に勅して、あれを射とめよと云はれた。舍人は逃げて正氣を失つた樣子である。すると舍人は獣などを仕とめる職務があつたものの樣である。これはどうも男らしい。
なほ天武天皇の舍人については、天皇擧兵の初に吉野宮にこもられるとき、諸の舍人を集め、汝等は從ひたければ從へよ、反對者は歸れとその意見を聞かれた事が二回ある。その舍人連中が天皇を奉じて兵を起した。これは男であらう。同じ二年五月の勅に、初めて出身するものは、大舍人に仕へしめ、それから才能をえらんでその當職に宛てよ、又婦女は夫の有無及長幼を問ふことなく進み仕へむとする者を聽せとある。すると天武帝の世では出身せむとする者その者、大舍人は男である。さうして大寶令以後でも男、又前の雄略帝の代に於ても男である。女の例は一つも出て來ない。
支那の舍人の場合も官職の場合も、さうでない場合も男である。これはいづれ後ていふべき筈である。開題記に
  舍人は刀禰《トネ》と訓《ヨム》べし【そは書紀に舎人皇女とあるを、古事記に杼泥《トネ》王と書き百官男女をすべていふ、刀禰を舍人とも書きもて知べし。】
(151)とある。この考へ方はもつともらしいが、舍人皇女は欽明帝の皇女にあり、書紀には舍人皇女と書いてあるが、古事記を見るに欽明天皇のところに、泥杼王とある。この通りに讀めば、ネドノ王である。平田先生は字を勝手にトネノ王と讀まれた、一方が舍人皇女であるから「トネリ」かも知れぬが、それでは記の方は字が逆になり、又一字脱けてゐるかも知れぬ。舍人の語は平安の頃までに、祝詞などに出てゐるが、「トネ」とよんだ例がない。舍人を百官男女をすべて云ふと考へるのは少し無理である。これは賛成出來ない。
【姓】 この姓といふ字は日本では此の時分、「かばね」の意に使つたが、こゝは支那流の氏の意である。
稗田の姓は姓氏録には出てゐない。弘仁私記の序文に天鈿女命の子孫といふ。そのことを延佳本に書いてある。書紀の天武卷にこの地名か見えてゐる。それらのことを記傳に云つてゐる。それを詳しくして、古史徴開題記にも云ふ。その點は簡單に云はう。平田先生は稗田について
  さて弘仁私記序に天傳女命(ノ)後也と見え、西宮記裡書に貢2媛女1事、延喜廿年十月十四日、咋尚侍令v奏、縫殿寮申(ス)以2※[草冠/稗]田福貞子1請v為2※[草冠/稗]田海子(ガ)死闕(ノ)替1。【媛女は宇受賣命の裔なること、諸書に見えたるが如し、稗田は其住所を氏と爲たるならむ
と云つてゐられるが、斯ういふことを基礎として先生は稗田阿禮は女であるといはれる。いかにも稗田氏が媛女となることは間違ひない。そして媛女となるのは女であらうことは古事記にも「女呼媛女君之事是也」とあるのでもわかる。しかし稗田氏が女ばかりでつぐとか、子が女ばかり生れることはない。それは非常識てある。なる程女の媛女から稗田氏が生じ、その中に男のありうることは分りきつた事で問題ではない。
次に「トネ」の問題である。「トネ」は男にも女にも云ふ。それは如何にもさうである。大寶令に散位寮がある。(152)それを「とねのつかさ」とよむことは散位の人々を管理してゐる、今の宗秩寮の樣なものである。現在、位はあるが官はない、その人を普通刀禰と書く。すると散位寮で司つてるのは一位二位、みなさうであつて、普通は六位以下をいひ、又京都町の區長の如きものをいふ。それを若し舍人と云ふとする時は、それはどういふわけか。舍人は支那でも日本でも、無位であるのが普通てある。大伴家持も内舍人の時は位がなかつた。その一位二位の人々に至るまで、位なき人につかふ。舍人の字をあてることは考へられない。況んや安萬侶が字の用法のやかましい人であつて姓の字も、支那流につかふ位の人であるにおいては尚更である。
平田先生が尊卑男女をめちやくにせられたのはよくない。故に舍人を女とする事は絶對的に成立しない。
【年是廿八】
延佳本には二十八としてある。するとこゝだけ五字になるから、矢張り廿の字である。廿は俗字ではない。支那で最も古い、後漢の許慎の説文に※[十+十]とある。即ち「廿、二十并也省」とある。※[十+十]は并の字の略である。廣韻には音入とある。漢音はジフであらう。この時代廿を「ニジフ」とよんで差支ないであらう。それは延佳本に「二十」とあるので、一言したのである。
倉野憲司氏の説であるさうだが、時有舍人云々の書振から見ると、阿禮は死んでしまつてゐたらしいといふのである。しかし私はこれと反對に考へる。何故かといふに年是廿八と云ふもその時は何時のことかわからない。何も何年ときまつてゐないから「時(ニ)」と云つた時が二十八であつたのだが、その時がわからぬから、その「二十八」といふことが何時の事かわからぬ。つまり、算定の基點がないといふ事になる。こんなわからぬ事は多くあるもので無(153)い。そこで、どうして斯ういふ事を安萬侶が書いたかと考へてみるに、それは稗田阿禮が和銅五年に生きてゐた證であるといふ事にならぬばならぬ。現在生きてゐる人だから、その時廿八と云へば何年前のことであるといふ事がわかる事になるのである。さうしてその時に、阿禮が幾歳であつたかは、天皇も安萬侶自身もわかつてゐたので、殊更書く必要がなかつたであらう。そこで今度、逆にして行つて、假に川島皇子に勅せられた時とすれば、天武帝の十年で、その時が二十八とすれば、和銅五年は五十八歳である。安萬侶がわからぬ事を書くわけはない。でなければ何時までたつてもわからない。
【爲人聰明】
論語のはじめの學而篇に、有子曰其爲人也孝弟而好犯上者鮮矣とある。そこに爲人とある。
「聰」は聞かざる所のないもの、「明」は見ざる所のないものを云ふ。この熟字は易にある。
  古之聰明睿知 神武而不殺者夫
とある。上にあげた令の規定によれば、聡明な人でなければ一般に舍人には採用せられないのであらう。
 
度《ワタレバ》v目(ニ)誦《ヨミ》v口(ニ)
拂《カスムレバ》v耳(ヲ)勒《シルス》v心(ニ) 〔二行に括弧〕
 
緊句である。文選の孔融が薦|禰《デイ》衡表に
  目〔右○〕所2一見〔右○〕輒誦〔右○〕2於口〔右○〕1耳〔右○〕所2暫聞1不v忘〔右○〕2於心〔右○〕1、
とあるに、もとづく。又晋書の符融載記に
(154)  聞v耳則誦、過v目則不v忘
ともある。
【度目】 の語は殆んど過目と同義である。度は説文に通過の義とある。
【誦】 はあとの「勅語阿禮 令誦習Jのところで詳しく説くけれども、聲に節つけてよむことである。聲を出して讀まなければ誦ではない。こゝは暗誦の意に重きをおくのである。
【拂耳】 は耳をかすめる事である。一寸こすつて行く、さつとさはる、一寸聞くこと、拂耳の例は見えない。探したら或はあらうか。漢書東方朔傳に於て、非有先生論の所に「拂(スル)於耳」とある。しかし、これは意味がちがふので、拂は違戻也とある.これは耳に戻ることである。文選にも出てゐる。「佛於耳」となってゐる。「佛」の方が本當であらう。それにしても佛教家がどうして「ホトケ」に佛の字を用ゐたのか私は疑ふ。佛には違戻の意さへある。「拂《カス》むる」は文選にも例があるけれども、耳に拂《カス》むるの例は未だ見ない。
【勒】 は刻也とある。
心にしつかりきざみ込むことである。
 
即(チ)
勅2語(シタマヒテ)阿禮(ニ)1令《シメタマフ》v誦(ミ)2習《ナラハ》皇帝(ノ)日繼及(ビ)先代(ノ)舊辭(ヲ)1
然(レドモ)
運移(リ)世(ノ)異《カハリテ》未v行(ハ)2其事(ヲ)1矣
 
(155)【即】 傍句
阿禮が聰明であることを敍したわけは、日繼本辭を誦み習はしめられるだけの知識才能あることを述べ、だから阿禮に勅語されたといふそのことを承けてゐる。
【勅語阿禮令誦習】
漫句である。
天皇自ら語を下したまふ。天皇自ら勅語を下したまふのは、大寶令の制度以後になると、有爵者(五位以上)にのみ許される。御前に出て藝をなすのも五位の取扱をうける。だから大夫(五位以上の通稱)といふ。天武帝の代になると、大寶令の制には全然同じであつたとは思はれぬが、舍人などの身分の卑い人に勅したまふことは、尋常一樣の事でなく、意外に大事件であることを示すものである。傳略に
  勅語は天皇の大御口づから詔ひ屬《ツク》るなり、【有司をして傳へ宣へしめ、又は書にかけるなどをもたゞ勅とは云へども其は勅語とは云はず。】かくて此はなほ殊なる意もあるべきか、其は下に云べしとある。
之に依れば、天皇御自身國民に直接御傳へになる勅語といふことになる。その最初の例とも見える。こゝは特に天皇が阿禮に御自ら勅したまうたのである。
【誦】 この字には固有の意がある。説文に諷也とあり、又唐に出來て、宋に修補された廣韻には、讀誦也とあり。周禮春官大司樂の中に
  以2樂語1教2國子1興v道諷2誦言語1とあり、誦の註に以v聲節v之曰v誦
(156)とある。普通には暗誦と思ふけれども、聲を出して節をつけるのが誦である。今は學校で黙讀させるが、昔は支那日本では聲を出して盛に音讀させた。斯樣にはつきりした意であつた。禮記の文王、世子に
  春誦夏弦
とあり、誦は歌樂の篇章を口誦すること、弦は樂器を鳴らすこと、これは昔から支那でも書物は字を讀むばかりでなく、一旦覺えると諳じなければいけなかつた。一例をいふと、漢書東方朔傳に
  十六學2詩書1誦2二十二萬言1。十九學2孫呉兵法戰陳之具鐘鼓之教1。亦誦2二十二萬言1。凡臣朔固己誦2四十四萬言1。
とある。聲を出して節をつけなければ誦といへぬのである。然るに今までの人はこの根本義に依らずに、勝手なことをいつてる樣に思ふ。又實際古事記そのものよりいふも、本文を理解するにあたり、この「誦」の意味を、如何にとるかによつて、大分意味が違つて來る。
【習】 も
説文に、數飛也とある。意味は易の坎の卦に
  習謂v便2習之1
とあり。釋文に
  習(ハ)重也
とある。故に、しばしば飛ぶとは、繰返すことゝなる。
(157)【誦習】 とは誦することを、しば/\繰返すことである。ところで「誦習」の字は、珍らしいことではない。これが、賓例は、史記儒林傳に、兒寛の事を註して
  兒《ゲイ》寛行(クトキ)常(ニ)帶(シ)v經(ヲ)止息(スレバ)則誦2習之(ヲ)1、
などゝある。最も卑近な例は、論語學而篇に
  學而時習之、
とあり 何晏の註に
  學者以v時誦2習之1、
とある。
【帝皇日繼及先代舊辭】 この上表中に同じ事が屡々書かれてゐるが、その度ごとに少しづつ文字がちがふ。上の
  諸家之所賚帝起及本辭
  撰録帝紀討覈舊辭、
とあるのに、又こゝに出す、かやうに同じ事實を何ケ所にもかく時に、場所によつて同じ形になるのを避けるのは、漢文の平板を避ける所謂避板の法である。讀者をして飽かせない爲の技巧である。漢文の斯樣な避板法を知らぬと飛んだ間違を生ずる。文字が違ふから、中身が違ふと思つてはならない。唯その本體に重點をおいた所を示したのである。この同字の重なることをさけたのに過ぎない。あとの「勅語舊辭」とあるのは、ここの「勅語阿禮令誦習帝皇日繼及先代舊辭」といふ所を略して示されてゐる。そこでこゝに、一番重點がおかれてゐる譯である、これは(158)古事記序文全體から云へば、實質的に眼目であつて、從つて誦習二字が非常な重い意味をもつ、こゝが徹底しなければいけない。
「帝皇日繼、先代舊辭」について少しく述べてみよう、
これと似た樣なことが日本書紀にある。持統紀二年十一月の條にある。先帝即ち天武帝をいよ/\葬り奉らうとする最後のときである、何回も誄(シヌビコトバ)がある、誄は生きてゐる人間が今なくなられた方を慕ふのであるといふ精神を明かにするために申上げるのである。これは日本では昔より申上げた。支那の誄と日本の「シヌビコトバ」とは中身がちがふが精神は同じい。さていろ/\の人の「シヌビコトバ」の最後に
 布勢朝臣御主人、大伴宿禰|御行《ミユキ》、遞ニ進ミテ誄ビタテマツルとある。
これは丁度、持統二年のとき御家來の一番頭であつた。そこで最後にこの二人が出て誄を奉つたのであるが、その記事には
  奉誄皇祖等之騰極次第禮也古云日嗣也畢葬于大内陵
とある。
そこで、此の文に依つて考へると、皇祖等之騰極次第といふ文字は説明で、古云日嗣と合せてその事實行はれた場合は違ふにしても、ここの帝皇日繼と事實同じ事を云つたのであらうと思ふ。それを、「シヌビコトバ」にし奉つたのは、天武帝の葬儀の場合のみでなく幾回かある。皇極紀の記事に舒明天皇を葬り奉る所に、矢張りこのことがある。十二月の所に
(159)  息長山田公奉v誄2日嗣1
とある。飯田武郷の日本書紀通釋に
  御代御代の日嗣知看しゝ天皇等の御次第より、當今天皇の相承給へるまでの御事を、具に申して誄して奉れるなり、
とあるが、先づさういふことであらう、
こゝにある帝皇日繼と、日本書紀の日嗣とは、唯書き現はす字の違ひがあるのみで、言葉は同じい。帝皇日繼はどうしても先刻云つた、天武天皇の葬儀の際の記事にある登極の次第である。これを簡單に書きかへるから、帝紀の二字で書き現すのである。こゝに、數學の方程式の樣に並べてみるに、皇祖等の登極の次第を簡單に縮むれば、帝皇日繼四字となり、それを漢語に直せば帝紀となる、それは古來よりの日嗣である。斯樣に言葉や文字を替へたのであるが事實は一つである。前述の天武天皇を誄び奉つたのと、實質は同じいのである。即ち皇祖より當代までの皇位繼承の次第である。
それが、古事記の中心となつて、全部を貫いてゐる。帝皇日繼、即ち帝紀である。前掲の「諸家之所賚帝紀」とある樣に、いろいろの帝紀があり得るのである。家々の傳があり得るのである。朝廷に傳へられたものと、銘々の家傳のと全く同じでないことはあり得ることである。
自分の家の大事件をはつきりさせるため、家々の傳にも帝皇日繼をあげるのである。自分に關した所は詳しく、關係ないところは飛ばすのである。それらの爲にその傳が種々の姿になる。この家々の日繼はこの天皇を詳しく傳へ(160)あの家の日繼はあの天皇を詳しく傳へる、といふ風に傳が多少づつ違ひ又宮中でも場合に依り、司《ツカサ》々で多少の違ひがなかつたとはいへない。
これは、御葬儀の時に申上げ又御即位の時に申上げる。朝廷の大事ある毎に繰返すことが、これを傳へる所以となつた。かやうに皇祖などの登極の次第が、日嗣にあてはまるといふことが、天武天皇の御葬式の記事で明白に示されてゐるのである。
【先代舊辭】 これも前に本辭舊辭と云つたのに同じい。これは日本書紀の天武十年の條の文字にあはせると、帝紀及上古諸事の上古諸事にあたる。
日本の言葉では「コト」と「コトバ」とは實は一つである。今でもさうである。古い「コト」を傳へるのは、古い「コトバ」を傳へるので、結局は一つ事に歸する。
以上の一節について云ふならば、こゝでいふ所は
天武天皇が阿禮に親しく言葉を傳へられ、讀み習はしめられた帝皇日繼、先代舊辭があるわけである。
その帝皇日繼、先代舊辭は如何なるものであつたかを今一度考へて見るべき必要がある。古事記の實質を知らうとするには、こゝが眼目となるから今少し考へて見る必要がある。その要點は二つある。即ち
一、その誦み智はしめられた實質はどういふものであつたか。(どういふものを誦み習はしめられたか)
二、誦み習はしめるとはどういふことをするのか、
である。
(161)先づ帝皇日繼、先代舊辭が實質である。その先代舊辭、帝皇日繼は前文によると、
 諸家之所賚帝紀及本辭であつて、既違正實多加慮僞をもとにせられたことは確かである。
その正實に違ひ虚僞を加へたと天皇の認められたものを、そのまま阿禮にわざ/\覺えろとおつしやるわけはない。誦み習はせられた帝皇日繼、先代舊辭といふものは、それらの帝紀舊辭を討覈し、僞を刷り、實を定めなされた結果であると考へなければならぬ。でなければ聯格がとれず無意味となる。
討覈既に終り、これは僞なく、實であると定められたものが、こゝにいふ誦習せしめられる實質である。帝紀舊辭を討覈せられたのであつて、撰録はあとに殘るのである。
次に誦み習はしめるとはどういふことか。
前に文字について、説明した如く、誦と習と二方法を行はしめられたであらう。
【誦】 は帝紀及先代舊辭をよむのに聲に節をつけてよんだもので、それぞれよみ方があつたのであらう。そのよみ方はただ發音するといふだけのことでなくて、そのよみ聲に上げ下げ長短があつたであらう。現在古事記を見るに、はじめに多いが所々に上去の聲のしるしがある。すると聲の上げ下げを喧しく云つたもので、唯ずらずら讀んだものではあるまい。そこで誦の字が生きて來る。
そのよみ方を阿禮が陛下の御指圖で覺えたものであらう。けれども上去のしるしを加へぬ所か多いが、それはどうであらうか。それは簡單にしたので、上げ下げなしに簡單に、平聲によむところであるとすると、そこは一々平をつけないでもよいと考へる。これは普通の考へ方であるが、然しさう考へても上去のつけ方が餘りに少ない、上(ノ)卷(162)に比し下(ノ)卷はあまりにない、又去の場所は一ケ處にだけ見える。どうもそれ位しか節がちがはないのだとは考へられぬ。それをわれ/\は如何に考ふべきか。この點について如何に考へるかといふに、二通りの考へ方がある。−つの考へ方は、安萬侶の編纂した原本は今よりはずつと多く上去の發音のしるしを書加へたのではなかつたか。それが何故斯樣に少くなつたかといふに、寫し傳へるうちそれが文字だけの事となり、何の事かわからぬためだん/\落したのであらう。斯樣に考へられる事情はある。たとへていふに、これは序文の所ではないが、讀み方に關係して、舊事紀についてゞある。舊事紀は聖徳太子の撰と云はれてゐたが、古事記は舊事紀をまねたといふ事は信ぜられない。反對に舊事紀の方が古事記を取つてゐる證がある。それは伊豫の二名島を生み給ふ所に、愛 上 比賣といふのがあつて、愛の下にどの本にも上を書きそして比賣となつてゐる。ところが古い寫本では、上を大字に書いて、愛上比賣となつてゐる。然るに舊事紀國生みの段をよむと、ほかの所にはないのに愛比賣だけ愛上比賣と書いてある。これは何のことかわからぬのでその儘となつたであらう。それに面白いことは、神皇正統記の親房は古事記を讀まず、舊事紀を信じ、舊事紀をよまぬものは駄目だといふ。そして舊事紀に愛上比賣とあるのを、正統記に愛止比賣と書き直してゐる。斯ういふ事が現實あるのである。親房がもしこのわけを知つてゐたならば、愛の下の上は除いたてあらう。すると舊事紀は、發音の符號を除いて寫したのに、唯一箇所誤つたのであらう。しかし以上は、斯ういふことがあつたのではないかといふだけである。
次に今一つ斯ういふ凝がある。こゝに上とか去とかのしるしが割合に少いのは、初より斯樣であつたかと思はれる(163)古事記の編纂せられた當時、普通に讀むのと違ふ所だけを記したものかとも見られる。さうすると、安萬侶の當時の發音の仕方を知つてゐなければ始末がつかない。
斯ういふわけで結局どちらとも斷言はできぬ。唯聲に節がある樣に上げ下げに注意したことは明かである。讀み方に節がついてゐる。唯猥りに讀んだのではなからう。
次に
「習」である。
之は習慣の習である。天武天皇が折角討覈せられて、正しいときめられた結果を阿禮に教へられ、それを阿禮が覺えて忘れぬ樣に習熟したのである。かういふことを意味するのである。若しさうでなく、あとで忘れる樣では古事記はできない。誦と習とに重い意味がある。
それが後に、古事記編纂となつたので、それは、これを主として起つたのである。そこで、誦習せしめられたが、天武帝の討覈を經て、正實であると勅諚せられた帝皇日繼、先代の舊辭それに對して、よみ方に聲の長短に一定の節度があるといふに至つたもの、それに習熟せしめられたであらう。
その事に適任の者だと認められた阿禮が承つて傳誦習熟したと思はれる。このことについては、序解に
  勅語とは、天皇親刪の帝紀舊辭を阿禮に口授したまへるをいふ、古語拾遺に、上古之世。未v有2文字1。貴賤老少口々相傳、とあるも、かの神代欲里伊比都藝家良志と詠せし如く、凡そ秘訣神傳は必ず口傳すべきは、上古の敦朴の神習なるべし。説文に古(ハ)故也。从2十口1。識2前言1者也。論語にも我欲v無v言などあるは、皆口々相(164)傳と云る秘訣口授の古傳なるを云ふ。但し天皇撰録の睿旨に出でたるを、阿禮が誦習に入りし事は、討覈親刪既に定まりぬる事なれば、古道古辭の更に誤謬せん事を恐れ玉へるに在ん。
とある。これは序解がこの一節について述べた意である。
近頃の次田氏の新講に、
  天武天皇が阿禮に口授し給うた事を、暗誦せしめられた様に記傳には解釋してあるが、是は誤つてゐる。文字を使用する事は、既にそれより古くから行はれてゐて、皇室や諸家の舊記が幾らか存在した當時に、わざ/\暗誦せしめられる必要のある筈はない。是は平田篤胤翁以來既に定説〔二字傍点〕となってゐる様に、古記録が特殊の文字使用法によつたものであつて、隨分訓み惡いものもあつたから、その訓み方を記憶のよかつた阿禮に誦み習はしめられたものと解すべきである。
とある。氏は篤胤以來これが定説となつたと云はれるが、私はそんな定説を知らない。私共は平田先生を深く尊敬するが、われ/\國學者にはそんな定説は未だかつて成立しては居ないのである。平田先生は舊辭本辭は見て居られない、而もそれを辭書であると云ひ出された、それが定説となつたとは思はれない。私は誦と習との字義をよく調べて、今日跋扈してゐるそんな謬説に反對することを公言する。この前にも述べた樣に、帝紀本辭には書いたものもあつたてあらうし、又口傳へもあつたであらう。古事記は天武天皇の御編纂であるのに、推古天皇で切つたのは、推古朝までが口誦の時代であつた爲に相違ない。その口誦の傳承の誤を正さうとせられたのである。若し專ら文字を使用するだけの事であるならば、誦習せしめるといふは不可解である。若し字の訓み方がわからず、訓みに(165)くいならば、萬葉假名で假名をつければよい。大寶二年の戸籍から萬葉假名を使つてある。況んや、推古帝の御代に於てをやである。古記録の訓み方を教へたといふのは妙な議論である。自家撞着である。右の如き意見をたて、公に言つたのはこの十何年來私一人であらうと思ふ。私は十余年前日本大學での講演には、「誦」といふ字をよく調べなければならぬといふことを言つた。結局誦の一字で一般の誤つた議論をぶちこはすことができる。
 
 
前から云つた、これだけのことが行はれたけれども、その後は行はれなかつたのである。それをいふ爲の「然」で、これは蝶番の樣なものである。
 
運移世異未行其事矣
 
對句ではない。漫句である。
【矣】 は送句である。ここで一段落つく。
【遷】 は運數の運である。この運は今俗語となつてゐる程である。これは支那の思想で、天より人に與へた命數である。この御運は天武天皇の御運であらう。運移は崩御のことを云つてゐる。天武天皇は、丙戌の年、十四年九月九日崩御になつたため、天皇の御代がかはつたのである。それを「世異」と云つたのてある。
【未行其事】 は記傳に
  天皇|崩坐《カムアガリ》て御世かはりにければ、撰録の事、果し行はれずして討覈ありし帝紀舊辭は、いたづらに阿禮が口にのこれりしなり。
(166)とある。これは正しい。
この邊の見解は本居先生が最も偉い。平田先生のは初はよいがあとがわるい。ちやうど人をたぶらかす樣な結果になつてゐる。さて未だ其事を行はず、といふことに就き、前の文をよめば自然わかるのであるが、一體天武天皇の御企とは何かといふに、
帝紀舊辭を討覈し、虚僞を削り、正實を定め、そして得たものを撰録して、それを後世に傳へようとせられたことは明かである。だから「其事」の示す内容は、今云つた一切の事を示したのである。誦習せしめられる迄に討覈は既に終つたので、事業として殘るは撰録のみである。斯樣に考ふるに、記傳の説明は詳しくないといふ非難はあるが、間違でなくピツタリあてはまる。
天皇崩御じたまひて、撰録のこと果さず、而もいはゆる阿禮の誦習に殘つたといふことは、その通りであつて、無論討覈の出來てしまつたのを後に撰録するのである。
以上を總括すると、第一大段の
「照今以補典教於欲絶」は根本の問題である。それからこゝまで「未行其事矣」は第二の大段で、この事業は天武天皇でなければ起らなかつた。しかしその事は完成せずして中絶の姿となつたと述べ、これより第三大段にうつる。
 
伏(シテ)惟(ルニ)
皇帝陛下
(167)得(テ)v一(ヲ)光宅(シタマヒ)
通(ジテ)v三(ニ)亭育(シタマフ) 〔二行に括弧〕
 
【伏惟】 傍句である。はじめをおこす。
今上天皇を申上げるのであるから言葉を改めて、最敬禮をなす。上表文としては當然なことである。本居先生は文飾と云はれるが、それは漢文をきらひすぎたのであつて偏つた説である。當時の法令によるとどうしてもかうせねばならぬのである。
【皇帝陛下】 漫句である。對がない。尊嚴絶對である。これは今上陛下、即ち元明天畠を申上げる。大寶令の儀制令を見ると、皇帝とあつてその註に華夷(ニ)所v稱(スル)とある。皇帝は外國に對して宣誥せられる時の稱號である。日本國内では天皇といふのであるが、外國に對して皇帝と云ふ規定である。こゝは漢文であるから、華夷に稱する所の稱號と陛下を用ゐてある。陛下は儀制令に上表に所v稱(スル)とある。皇帝陛下といふ文字がピツタリ當時の法令に當てはめてあるのである。
皇帝なる稱號は、普通は始皇帝に始まる。皇帝は天子の正號となり、それが今でも動かない。しかし、皇帝は始皇以前に書の呂刑に
  皇帝哀2矜庶戮之不辜1
とある。この皇帝は舜帝をさしてゐる。斯くの如く始まりは古いが、一定したのは始皇のときである。陛下もまたさうである。これは支那の戰國時代に秦の國に於て、臣が皇帝を申上げた言葉てある。戰國策の秦策にある。秦が(168)支那を統一したため、その語が支那の中央語となり、漢以後まで傳はつたのである。
 
得(テ)2一(ヲ)光宅(シタマヒ)
通(シテ)v三(ニ)亭育(シタマフ) 〔二行に括弧〕
 
四字句二つ、緊句である。
これに似たのは上五經正義表に
  得一繼明
  通三撫運
とある。それてこの上表文にならつたのだといふ人がある。しかし、こんなことを支那で云ふのは昔から當り前の事である。それを之にならつたなどいふのは、あまり見識の卑いけちな話である。葭の髓から天を見る樣なものである。これは特殊の語でなく、普通の語である。ならふもならはぬもない。
【得一】 記傳に
  得v一とは老子に、天得v一以清、地得v一以寧、王侯得v一以爲2天下貞1と云へるより、いふことなり。
とあるが、これはその通りである。老子から出たのにきまつゐる。然し今少し意味が深い。記傳の説明は徹底しない。得一は老子三十九章の文である。記傳は大事な所を一ケ所拔かしてしまつた。
  昔之得v一者天得v一以清地得v一以寧、神得v一以靈谷得v一以盈萬物得v一以生王侯得v一以爲2天下貞1其致v之一也〔五字傍点〕、
(169)とある。其致v之一〔右○〕也の一〔右○〕を得るのである。大事な所を拔かしてゐる。すべてのものは一を得なければ成立しない。物理學でもさうである。凝集力は一でなくてはならぬ。「ブンマハシ」の中心は一である。何も珍らしくない、當り前である。帝王にたとへて云へば、一は天下の萬般の政事を維持してゆく中心點となるその一である。主弼の註に
  一(ハ)數之始(ニシテ)、而物之極也、各々是(レ)一2物之生1、所2以爲1v主也、
とある。それを林希逸の老子註に長いことを書いてゐる。
  一者道也、天之所2以清明而垂1v象地之所2以安靜而載1v物、
  神之所2以虚而靈1、谷之所2以虚而盈1皆此道也、
  萬物之所2以生1亦此道也、侯王之所3以保2正萬邦1亦此道也、
「一ヲ得ル」ことは、皇位を得たまふことである。皇位に上りたまふことである。唯の飾りでなく、支那に多くある例である。後漢書の※[登頁おおざと]禹傳には
  光武舍(イテ)2城樓(ノ)上(ニ)1披(テ)2輿地(ノ)圖(ヲ)1指2示禹1曰、天下郡國如v是今始乃得2其一1、
とある。これは天下を統一して天帝の位に即く事を云つたのである。又屈原の楚辭の遠遊篇に
  羨(ム)2韓衆(ガ)之得(タルヲ)1v一(ヲ)
とある。これは仙人になることを指したのである。その外梁の簡文帝の昭明太子集の序に「得一之休徴」ともある。それだのに上五經正義表を取つたと云ふはどうしたことでらう。
【光宅】 記傳に
(170)  天下を凡て家とする意にて、オホキ〔三字右○〕にヲル〔二字右○〕とも、ミチヲル〔四字右○〕(光は充也といふ註もあり)とも訓《ヨメ》り(古文尚書(ノ)堯典に、光2宅天下1と云へるより出たる字なり)
とある。これは、堯典の本文にあるのでなく、本文の光2被四表1格2于上下1とある事柄に基づいて、堯典の序文に
  昔在帝堯聰明文思光2宅天下1、
とあるのに基づくのである。光は充《ミツル》の意である。
光宅の文字は澤山支那にあるから、一々擧げない。
「得一、光宅」は、帝王大極の位を得たまひ、聖徳は光の充ちみちる樣に充ちわたつたといふ。斯樣な意味で申上げた。
【通v三】 天地人三才に通ずることであるが、これも上五經正義表にある。これを今少し詳しく書いたのは序解である。これは適切な説明である。重要な點をあげると
「通v三」とは天地人を通貫すといふともいひ、左の樣に述べてある。説文に王の字を天下所歸往也といひ前漢の董仲舒の語に
  古之道v文者、 三畫而連v中、 謂2之王1 三者天地人也、 而參2通之《(文字の義)》1者王也、
とある。この董仲舒の語は「春秋繁露」の中に「王者通三」と題した一章となつて見える。王者三通の章の中に、
  古之造v文者 三畫而連2其中1 謂2之王1 三畫者、 天地與v人也、 而連2其中1者、 通2其道1也、 取2天地與v人之中1以爲v貫而參2通之1非2王君1孰(カ)能(ク)當(ラン)v是(ニ)
(171)とある。「通三」は常套語である。初學記(唐の徐堅の著)の中の帝王總敍の中に、通三の語があつて、董仲舒の語をひいてゐる。唯今傳はる春秋繁露と、初學記とは文字に多少の出入があるけれども王者通三といふはきまりきつてゐる。これは言ひたくないが、近頃の「國語と國文學」の中に、通三は老子より出たと云つてゐる。老子には一より二が出る。二が三を生ずるとあるが、この考へ方は易にもある。しかし老子には三に通すといふその通ずる事がない。結局この通三の通まで行かなければその出典とはいへない。これはどこまでも、春秋繁露から出てゐるのである。さて通三は貫三とも云ふ。三があらはれ、それに通じて帝王となる。老子には三に通ずることがなく、三から得一まで來なければならぬがそれがない。これは董仲舒である。この人は漢の儒者としては、第一等の人である。この人の思想に老子が入つてゐるけれども、通三の語が老子より出たとは云へない。この得一と通三とは對句となる。支那に例が多い。一々あぐるまでも無い。
【亭育】 亭毒ともいふ。
記傳に
  亭育とは亭毒と云へるを通はして如此も云ならへり民を化育するなり(是も始は老子に亭之毒之と云へるより出たり、註に今作v育といへり)とある。
亭は王弼の註に
  亭謂v品2其形1毒謂v成2其質1
とある。つまれりこれは形式(亭)と實質(毒)とを云つたのである。老子釋文(唐に出來た)に
(172)  毒今作v育
とあるが、それは六朝頃からよく使つてゐる熟字である。
得v一通v三光2宅天下1亭2二育庶民1の意である。
 
御(シテ)2紫宸(ニ)1而徳(ハ)被《オホヒ》2馬(ノ)蹄《ヒヅメ》之所(ヲ)1v極(ル)坐(シテ)2玄扈(ニ)1而化(ハ)照(ス)2船頭《フナノヘ》之所(ヲ)1v逮《オヨブ》 〔二行に括弧〕
 
十一字づつの對句、長句てある。
これは、上五經正義表に
  御2紫宸1而訪v道
  坐2玄扈1以裁v仁
とあり、同じ文字を使つてゐる。こゝに來ると、上五經正義表と恐らく連絡がある樣だ。それは何故かといふと「紫宸」の熟字の出來たのは唐の頃であるらしい。それ以前はこの意味だけあつたてあらう。古事記の序を上五經正義表と關係をつけるならば、斯ういふ所を云ふべきである。紫宸はわれ/\の知る所では初から支那の宮殿の名である。「合光之北爲2宣政1、宣政之北爲2紫宸1」とあり。長安志に
  宣政之北 謂紫宸門 内有紫宸殿 即内衙正殿
紫宸殿は何時の頃造られたかといふに唐會要の中に、
  龍朔三年四月始御紫宸殿聽政
(173)とあり、先づ龍朔三年に出來た。これは天智二年にあたる。かういふ意味での紫宸といふ語は、唐以前にはないであらう。
【宸】 の字は建物に關した文字で、屋字の最も深奥なものである。それから轉じて、天子のすまひを宸といふに至つた。
【紫】 の字をかくのは、北極星のある所の星座を紫微宮といふ。これは支那の天文で古い語である。北極星のある所が天帝のおいでになる場所であるといふ。そこで「紫」といふことが、帝王のおすまひになる場所であるとするのである。紫禁、紫宮、紫闕、柴極といふ。みな天子の住居をさしてゐる。柴宸と用ゐた例は、唐より外に今の所見當らないが、この熟字も唐以前からあつたかも知れぬ。
【御】 天子のことを申上げることになつてゐるが、これも支那の例によつたものである。
【玄扈】 記傳に
  玄扈は黄帝が洛水の上なる玄扈といふ石室にゐたりし時に鳳凰圖を含來て授けつと云ふことあるによるといへり。
とある。やかましく云へば、玄扈は地名である。鳳凰の出て來たことは、初學記に出てゐる。その邊の出典が普通に行はれたものてあらう。これは汎く行はれた語で上五經正義表に據つたものとはいへない。
【徳被】 いくつも例があるが、文選の一例をいふに
班固の陳武の銘に(陳武は大將軍)
(174)  功成食v土 徳被〔二字傍点〕2遐邇1、
とある。しかし、その次の
【化照】 は支那に例がない樣である。化は徳化で天皇の徳化が天下に光被する意であらうが、こゝは安萬侶が困つてこの熟字をつくつたのか上手でない樣てある。
さてこの「馬蹄之所極」「船頭之伊逮」は本邦の古語を漢文にしたのである。祈年祭、月次祭の天照大神に申上げる祝詞の中に見える。
  皇神の見霽るかします、四方國は天の壁《カキ》立つ極み、國の退《ソ》き立つ限り、青雲の棚引く極み、白雲の墮坐向伏す限り青海原は棹舵干さず舟艫の至り留まる極み、大海原に舟滿ち續けて、陸より往く道は荷緒|縛《ユヒ》竪めて、磐根木根履みさくみて、馬の爪の至り留まる限り、長道間なく立ち續けて、
これから出たのであることは著しい。太安萬侶が祈年祭や月次祭の祝詞を知つてゐたことは、その意味を漢文であらはし、この上表文に應用してゐるのてわかる。之を逆にして考へるとこの上表文を書いた、和銅五年に既に、祈年祭月次祭の祝詞があつたことゝなる。これが祝詞の歴史の上の一つの大きな楔《クサビ》となる。即ちこれらの祝詞の古さが、これより下らず、奈良朝以前に既にあつたのであるといふ事になる。
 
日浮(ビテ)重《カサネ》v暉《ヒカリヲ》
雲|散《チリテ》非(ズ)v烟(ニ) 〔二行に括弧〕
 
これは、緊句である。記傳に
(175)  浮は出づるなり、重(ヌ)v暉(ヲ)とは光暉の明らけきをいふ。雲云々とは雲の如くにして、雲にあらず、烟の如くにして烟にあらず、虚空《ソラ》に見ゆるといふ、いはゆる慶雲なり。
とある。
【浮】 は支那人のうまい考へである。太陽の空中にあるのは浮ぶといふ語でよくあらはされてゐる。「暉ヲ重ネル」の本居先生の説明はわからぬ。暉は日光である。(暈はくもるであるが)重暉の實例は晋の大豫舞歌に
  赫々(タル)大晉、三(ノ)后《キミ》重暉
とあり、なほ例は多い。殊に支那の朝廷の樂の歌にある。唐の大廟樂章の中に
  金相載穆 玉裕重暉、
暉は日光であるから重暉は重光と同義となる。重光の字は古くからある。書經の顧命篇に、
  昔(ノ)君文王武王、宜2重光1
とある。これは、明徳の君相ついで重ねて光を放つ意である。この重光の意を調べると、二通りある。實際太陽が光を重ね來る場合がある。之をたとへて云へば、明徳の君が續いて重ねて光を放つのである。この顧命もその前の例も同樣である。それ故に重暉は、太平の象のみではない。天武持統文武と代々英明の君がつづき給ひしを云ふのである。本居先生は、之を文飾と云はれるが、唯の文飾ではない。
【雲散非烟】
記傳に「雲の如くにして雲にあらず、烟の如くにして烟にあらず、所謂慶雲である」とある。これもそれで分つた(176)樣だが不十分である。實は非烟といふ文字は、このまゝで慶雲の意を示してゐるのである。孫氏の瑞應圖に
  景雲顯者 泰平之應也 一謂2慶雲1
  非氣非烟〔二字右○〕 五色※[糸+因]※[糸+慍の旁] 是謂2慶雲1
とある。非氣非烟の非烟の二字だけを取つて、あとを思はせる樣にしてゐる。非烟は本居先生の云はれた如く説明の要がある。瑞應圖より前、史記の天官書に
  若v烟非v烟、若v雲非v雲 郁々紛々 蕭索輪※[くにがまえ/禾] 是謂2卿雲1
とある。本居先生は、延喜式を見られたのであるが、延喜式のもとは天官書である。延喜式の治部省式の祥瑞(ノ)部に
  慶雲    右大瑞
とある。大瑞と見るべき慶雲が現れたのである。序解には聖徳を奉v賛なりといふ。しかし、たゞそれだけではない。又文飾のみではない。前の文武帝の世に慶雲現れ、その年號も出來た。又元明帝のとき、武藏から銅が出て、和銅といふ年號が定められた。故に代々祥瑞があらはれたのである。
 
連(ネ)v柯《エダヲ》并《アハス》v穗(ヲ)之|瑞《シルシ》、史不v絶《タタ》v書《シルスコトヲ》
列(ネ)v烽(ヲ)重《カサヌル》v譯(ヲ)之|貢《ミツギモノ》、府無(シ)2空(シキ)月1 〔二行に括弧〕
 
上六字下四字の對、重隔句である。
この連柯、并穗は上五經正義表にない。文選廿三、顔延年の作つた三月三日曲水詩序に
 ※[赤+貞]《テイ・アカギ》莖素|毳《ゼイ》并柯共穗之端、史不v絶v書、とある。
(177)この并柯は連理の木である。共穗は嘉禾である。皆太平(ノ)瑞である。そこで并柯を連柯と云つたのである。連柯の字も支那に例がある。安萬侶の勝手の作ではない。共は并と同義のことがある。記傳に
  連柯はいはゆる連理の樹なり、并といふのは莖は異にして穗は一つにあひたる稻にて、いはゆる嘉禾なり。
とある。延喜式の治部省に
  嘉禾【或(ハ)異(ニシ)v畝(ヲ)同(ウシ)v穎(ヲ)或(ハ)※[茲/子]2連《ツルミツラネ》數穗(ヲ)1或(ハ)一※[禾+孚](ニ)米也、】
とあるが、支那の嘉禾は必ずしもさうでない、その多く用ゐられてゐる意は莖一つで種が非常に多く出てゐる、幾つかの穗を一つの莖で合せるのである。宋史、天文志に
  大中祥符五年召2近臣1觀2嘉禾于後苑1有3七穗至2四十八穗1以示2百官1
南齊書、瑞祥志に
  永明二年、梁郡雅陽縣界田中獲嘉禾、一莖二十三穗
とあるから、大體斯ういふものであらうと思ふ。
【史】 は書記すことをする役人である。支那の古には左史は記v言右史は記v事とある。史不絶書は前の顔延年の曲水詩序にもあり、上五經正義表にもある。然しそれは皆左傳から出たのである。襄公二十九年に、事柄はちがふが魯が賄賂を使つた所に
  魯之於v晉也職貢不v乏玩好時至、公卿大夫、相2繼於朝1史不v絶v書府無2虚月1〔八字傍点〕、
(178)とあり、史不絶書、府無虚月と左傳につゞけられたのを、こゝではわけて書いてゐる。そのうち「空月」といふ文字を用ゐただけが違ふのである。
【列烽】 文選、顔延年三月三日、曲水詩序に
  棧v山(ニ)航v海、 踰v沙、 軼v漠之貢 雁無2虚月1 列(ネ)2燧(ヲ)千城(ニ)1通(ズ)2※[馬+單](ヲ)萬里(ニ)1、 穹居之君内首禀v朔、 奔服之酋、 廻v面受v吏
とある。これに基いたことは確かである。
この二句は外國より來る貢の使が月々に絶間ないことを云ひ、「列v燧」は常にトブ火を列ね構へて防ぎをすることをいふ。
【重譯】 譯を重ねて遠くより來る國々
【府】 は貢物を入るゝ倉である。
【烽】 も「※[火+逢]」も兩方とも、トブ火であるが、※[火+逢]は飛ぶ火を守るものをいふ。どちらも結局同じ事になる。文選註を參照するがよい。本居先生は列烽は常に烽《トブヒ》を列ね構へおきて防をする國々といはれるが、顔延年の詩序には、※[火+逢]を千城に列ねるとあり、千城は郡縣の多きをいふ也と註してあるから、これはそこまで行くのに國の多いことをいふのである。重大事件の生じたのを知らせるのに飛火の野守を所々に置き、のろしをあげる。かくして瞬く間に、大事件の起つた事を中央で悟る。のろしの方角によつて、その事件のある方角がわかる。それだけの烽をつまなければ達せられぬ。遠方の國の意であらう。以上を考へてみるに、本居先生の解釋は王道約でなく、覇道的である。(179)敵對して來る國を從へるのは覇道である。日本には斯ういふ例はない。防がなけばならぬ國々といふやうなことはない。力で從はせるといふのは支那の方であつて、そこからいふと本居先生はまだ漢意《カラゴコロ》があるのである。これは、これまでまつろはぬ、敵對した國々を從へるのではなく、皇道、王道を以て化するので、先生の解釋は不用意の中に、漢意があらはれた。列烽の二字を顔延年の詩序から引き拔く安萬侶の持つ力の深さは不可測である。本居先生は漢文を輕視せられた罪として漢意に解せられたが、これは大和心が十分に現はれてゐる。
「重譯」 俗に九譯を重ねる、といはれるその事であるが、わかりきつてゐるから説明を省く。
「府」 は寶物をしまひ込んでおく所である。今は役所をいふ。
「無2空月1」は左傳の「無2虚月1」を「無2空月1」と直した。顔延年、五經正義、どちらも虚月としてゐる。空月の字はへたである。
 
可(シ)v謂
 
傍句、
上の文をつづけて、名高文命、以下を云ひ出すためにおいた。
 
名(ハ)高(ク)2文命(ヨリモ)1
徳(ハ)冠《タカシ》2天乙(ヨリモ)1 〔二行に括弧〕矣。
 
二句對、緊句
【矣】 は送句、
(180)これで一段落をつける。
【名】 は徳によつて生ずる名譽でなければならぬ、唯の名ではない。論語衛靈公篇に
  君子疾2歿v世而名不1v稱焉
とある。その名である。それ故に次の徳と同じ義である。名と徳と相對するが一物の二面である。
文命は夏の禹王の名である。禹と云ふのは、ほめた場合の稱號であるが、元來は尺蠖《シヤクトリムシ》の意である。一歩一歩進んで大事業をなした人である、とほめたのである。
【徳】 は道を行つて身に得たものをいふ。
【天乙】 は、殷の湯王の名、湯は稱號て、本名は天乙である。
一體に古からえらい人には名のわからぬのが少くない。紫式部などは本名が知れない。太閤も本名の方をいはぬ。ここは天皇の御名と御徳とは支那でいふ禹や湯に比すべきだが、むしろそれよりも、すぐれ給ふと云つて、今上に頌徳を上つたのである。
 
於v焉《ココニ》
惜(ミ)2舊辭之|誤忤《アヤマリタガヘルヲ》1
正(サムトシテ)2先紀之|謬錯《アヤマリミダレタルヲ》1 〔二行に括弧〕
 
【於焉】 傍句、
(181)これから元明天皇が古事記を撰録することを勅命あらせられた。その事を云はうとして語を改めた。
  惜舊辭〔二字傍点〕之誤忤
  正先紀〔二字傍点〕之謬錯
六字の句、二句の封、長句、
【舊辭】 は先から何回も現れた。
  帝紀及本辭
  討覈舊辭
  帝皇日繼及先代舊辭
の本辭、先代舊辭である。是等は言葉は變つてゐるが、その舊辭をさしてゐる事は云ふ迄もない。扨舊辭に對して對をなしてゐるのは、帝紀、帝皇日繼であるから、何れも同一のものを指してゐることは著しい。帝紀と云はないで先紀と云つたのは、別に深いわけはない。漢文の平板になるのを避けて語を云ひかへたのである。これに就いて帝紀の帝を省いたのが先紀であるといふのは漢文の作法を知らぬ人の言葉てあつて採るに足らぬ。書き方の始終變るは當然の事で、
  帝紀及本辭
  撰録帝紀討覈舊辭
  帝皇日繼及先代舊辭
(182)  惜舊辭之誤忤正先紀之謬錯
これを見ると、帝紀は既に二回も出てゐるので、先紀と文字を換へたのである。同字をなるべく使はないといふ漢文の作用によるのである。舊辭が二回出てゐると共に帝紀も二回であるから、こゝは先紀といふ風に取り換へた。
【誤】 はあやまり、
【忤】 はタガフこと「逆」の字の意である。正しい事に違背したのが「忤」である。ちがつてゐるといふ意である。その誤の對の謬は妄の意で誤と謬と相對する。
【錯】 はちがふ意、舛《セン》也とある。舛錯といふ。以上の意は、舊辭及先紀即ち本辭及帝紀の誤り亂れ、正實に違つてゐることを惜まれ、正しいものにしようとせられるのを云ふ。これは天皇が先代よりの思召を受け繼がれ、即ち天武天皇の御遺志を相承せられたのである。すると、この元明天皇の御企の當然の結論として、天武天皇が阿禮に勅せられ、誦み習はしめられた帝紀本辭をば撰録するといふ所に理由があつた事は云ふに及ばない。從つて此文はずつと前の帝紀を撰録し、舊辭を討覈し、僞を削り、實を定め後葉に流《ツタ》へんとすといふ文と照應してゐるわけである。僞を削り實を定めることは誤り忤へることを惜んで、謬り錯れたるを正すといふことになる。天武天皇の正されたものがそのまゝになつてゐることを惜まれる。その惜むに重みがある。惜の一字がこゝでは眼目となる。そこで、次の語が生きてくる。
 
以(テ)2和銅四|年《トセ》九月《ナガツキ》十八日(ヲ)1詔(シテ)2臣安萬侶(ニ)1
撰2録(シテ)稗田阿禮(ノ)所v誦《ヨム》之勅語(ノ)舊辭(ヲ)1以(テ)獻上者《タテマツラシムトイヘレバ》
 
(183)これは全體が漫句であつて、對句になつて居らぬ。この和銅四年のこの時、天皇の詔があつたといふことも詔の文句も續日本紀には出て居らぬ。そこで議論がある。但し續紀には誤りや脱漏が隨分ある。前に掲げてあつて後にないことは大分ある。しかし績紀の批評は後まはしにする。
こゝには撰録といふ事があつて、討覈といふことがない。前には撰録討覈とあつてこゝには何故討覈がないかと云ふに、前述の如く阿禮に勅語して帝皇日繼先代舊辭を誦習せしめられたのは、すつかり調べられた結果であつて討覈は既に終了してゐる。後の天皇の御企としては討覈終つてしまつた、それらの撰録だけが天武の御代に實行せられないで殘つてゐるのを惜しまれたのて、前の文章より考へて當然となる筈である。然らば何を撰録したかといふに、阿禮の誦む所の勅語の舊辭を撰録したことは實際上疑ふことはできない。この阿禮が前の如く生きてゐた。さうでなければ撰録は出來ない。阿禮が口で云ふ所の勅語の舊辭を撰録するのである。
ところが茲に、撰録の當時阿禮が既に故人となつてゐたといふ説が行はれてゐる。然し既に故人になつた人のことは今でも聞かれず、普もその點は同樣である。これは常識でわかる。若しも阿禮が既に死んで居れば、阿禮より傳承した人があらう。阿禮が傳へておいたそれを誰それが誦んでそれを撰録したとなれば、その大事件を傳へた人の名前を書いておかぬといふ上表文はない。阿禮が現實そこに居て相對してゐたので、阿禮が死んでしまつて、その後の人が勅語の舊辭を讀んだわけではない。阿禮のよむ所は、天武帝の勅命に依つて誦み習つた帝皇日繼及先代舊辭を指してゐる。然るにこゝには勅語舊辭とあつて帝皇日繼といふことがない。そこでいろ/\議論がおこり易い。記傳では、
(184)  かくては彼の清御原(ノ)朝の御世に誦習ひおきつる帝紀舊辭は、此の人の口にのこれるを今安萬侶朝臣に詔命仰せて撰録せしめ賜ふなり。さて此には舊辭とのみ云て帝紀をいはざるは舊辭にこめて、文を省けるなり。〔又こゝには口に誦習へる語をいふなれば、帝紀も其語の中にあれば、別には云ふまじきこと、もとよりなり〕帝紀をばおきて舊辭のかざりと謂にはあらず。
とある。序解には、
  これ前朝の遺志を繼いで、この撰録を命じ給ふをいふ。こゝにその叡志をかゝぐる所なり。但し舊辭をあげて帝紀を省けるは、帝紀は舊辭の中に藏すれば、別に帝紀なるものなし。
といふ見解である。この考へ方は結果は同じでも文章の上より賛成出來ぬ。こゝは始から帝紀の語を用ゐないであらう。態々前に帝紀、帝皇日繼と云つてゐる程であるから、帝紀は帝紀でいゝ筈である。斯ういふ云ひ方は狂誕、言ひすぎである。次田氏の新講には、
  記傳の説では、阿禮は當時なほ生存してゐて、彼が口に諷誦する所を安萬侶が文に記したのであると云つてゐる、併し是も誤つた見解であつて、近來の定説では天武天皇が訓まれた古記録の訓を傳へたのが阿禮て安萬侶が撰録したといふのは、天武天皇の時に整理せられた舊辭を基として一の國史を選述したのであると、解せられてゐる。下に「子細採※[手偏+庶]」といふ語のあるのを見ても、其撰録の方法が判る。當時阿禮が既に故人であつた事は前文に「時有2舍人1姓稗田名阿禮年是廿八」とあつて傳記を記すやうな文章が用ゐてあるのを見ても判斷される。
(185)とある。一體近頃の定説とは恐らく平田翁を基としたのであらう。翁の舊辭本辭は實際にあはず、定説とする事が出來ぬ。この上表の文を素直に讀み來つて、黙つて文字通りに讀み、自然に文字の解譯をする。誰が讀んでもさうである。古事記傳の考が一番素直で穩かである。唯記傳に云ふ所は物足りない。即ち「舊辭とのみこそ云て帝紀を云はざるは、舊辭にこめて文を省けるなり」と云つてゐる。
之について考ふるに文を省いたといふことについては異議はない。如何なる必要あつて文を省いたか。それは理解が出來ない。近頃の考は子供の考の如く簡單である。舊辭とのみあつて帝紀とないから帝紀がないといふのである。斯ういふ場合、前の文章を基礎にして書くとき後の方をそのまゝ繰返すのに種々のやり方がある。例へば帝紀を先紀といふ樣なこともある。又勅語〔二字右○〕阿禮令誦習帝皇日繼及先代舊辭〔二字右○〕といふのを、阿禮所誦之勅語舊辭〔四字右○〕といふ僅かな文字に壓縮して全體を包含さしてゐるのである。これは記傳の説明の仕方が足りないといふ缺點はあるが、決して誤りではないのである。斯樣なことは漢文に多く見る所である。從來は舊辭だけにとらはれ、勅語の舊辭を考へなかつた。これは漢文の作法を知らないのてあつて、斯ういふことに立脚して來た近來の定説は一顧の價値もない。
然し又一方から云へば「勅語阿禮令誦習帝皇日繼及先代舊辭」を節略して「阿禮所誦之勅語舊辭」と云つたことはさうつゞめても意味のわかるといふ事情があつたのであらう。單に漢文の作法からばかりでなく、事實さうしてもよかつたであらう。帝皇日繼先代舊辭といふことを舊辭で一切代表せしめた譯て、それは帝紀よりも舊辭に重點のあるためである。序解に
(186)  帝紀は舊辭の中に藏すれば別に帝紀なし、
と云つてゐる。これは云ひ過ぎであるが大體あたつてゐる。何故かと云ふに舊辭でない帝皇日繼はある筈がない。帝皇日繼は舊辭の一種類である。廣く云へば舊辭であるが、帝皇日繼はその中心になる最も重いものである。それは日本のあらゆる舊辭の中において支那語の紀(タテスヂ)となるもので、あらゆる傳説は何か一つ中心點があつて竪に通つてゐてそこから派生して行かなくてはならぬものである。同じ舊辭の中でも帝皇日繼は重大である。即ち分けて云へば帝皇日繼、先代舊辭である。序解の言ひ方は云ひ過ぎだが意味はわかる。斯うすると勅語の舊辭がはつきりする。古事記は阿禮の誦んだ勅語の舊辞を撰録したのに相違ない。古事記の本文を見るに、實際帝皇日繼が中心になつてゐる。それにいろ/\の話を緯線として織込んでゐる。だから實際に於て「勅語阿禮令誦習帝皇日繼及先代舊辭」を撰録せしめられたことは、古事記そのものを見ればわかる。なほ次田氏の新講に
  天武天皇の時に整理せられた舊辭を基として、一の國史を選述したのである。
とあるが、古事記は世の所謂歴史ではない。歴史としてはこんな粗い歴史はない。これは、どこまでも舊辭を撰録せられたのである。斯ういふ事は、古來誰も言はないかも知れぬ。若し誰も言はぬとすれば、私に全責任があるわけてあるが、私の一身を賭してもこの考は斷乎として主張する。古事記《フルコトブミ》とは文字をかへてかけば舊辭記《フルコトブミ》ともなる。古事と舊辭とは畢竟同じ意で、又同じ語である。古事記は舊事の備忘録の意であることは斷じて疑がない、
【者】 支那でいろ/\の使ひ方があるが、こゝでは語|已《ヤム》之辭とあるにあたる。文章の終にあるおき字である。切れるときは「トイヘリ」といひ、下につゞくときは「トイヘレバ」といふ。平安朝の公文書には「テヘレバ」と云つ(187)てゐる。支那には例が多い。公羊傳莊公四年に
  古者有2明天子1則紀侯必誅必無v紀者。
とある。「モノ」の意でなくて文の終になる例である。こゝまでひときりとなつてゐる。この邊は前に述べた第三段の前段となる。元明天皇が勅を下されて古事記を撰録された事情を述べてゐる。これより後は後段となる。安萬侶が勅命によりて撰録した手續を述べてゐる。從來の古事記の序文の研究ではこれより先をやかましく言つてゐる。
私の考ではこれ以下は手續論で體裁より云へば必要であるが、本質論より見れば枝葉の末節で簡單にしてよい。
 
謹(ミテ)隨《マニ/\》2詔旨《オホミコトノ》1子細(ニ)採※[手偏+庶]《トリヒロフ》
 
四字の句二句であるが漫句てある。
【子細】 はこまやかなことであるが精審委曲の事情を云つたのである。これは支那に例が多い。俗の場合、「子」に人偏をつける場合が多い。特に説明しない。
【採】 は、手篇のないのがもとである。上に爪、下に木、爪で木の葉でもつみとる意。その場合えらびとるのである。
【※[手偏+庶]】 はヒロフである。漢書司馬遷の傳の賛に、
  至(リテハ)2於采v經|※[手偏+庶]《ヒロフニ》1v傳(ヲ)分2散數家之事1甚多2疏略1。
とある。この採と※[手偏+庶]とを用ゐたのは司馬遷が史記をつくるとき、いろ/\の書を參考とした。その經傳を採り※[手偏+庶]ふといふ、その熟字を取つて來つた。又文章をつくる時よくこの字を用ゐる。支那の六朝時代の修辭學の書、文心雕(188)龍に、
  是以後來詞人採2※[手偏+庶]英華1、
とある、これは文章の中でいゝ所を取つて來たのである。採※[手偏+庶]はそれだけの出典をもつてゐる字である。斯うして考へると面白いもので、司馬遷の採經※[手偏+庶]傳を以て考へると勿論斷言は出來ぬが帝紀の經に準じ、舊辭を傳に準じた樣な心持が確かにあつた樣である、斯う見るとこの採※[手偏+庶]の二字は深い考で書いたのである。古史徴開題記の中に
  子細採※[手偏+庶]とは阿禮に誦せしめ給ひし、帝皇日繼の記等の中にも猶未だ虚僞の加はれるを正して、實を※[手偏+庶]ひ採り、子細に撰び定むる由なり。
とある一翁の考は天武帝の御代に討覈が出來上つて居らぬ。それをば安萬侶が討覈したと説いてゐる。さうすると誤の多いのをわざ/\誦み習はしめられた事になる。近頃の議論は翁のこの説に基く。然し私は斯樣に思はない。そのわけは翁は撰録の撰を選擇の選の意にとり、傳をのぞいて實をえらび出すと解せられた樣である。撰は著述の意であつてエラビ出す意ではない。文章をつくる意である。すると次の採※[手偏+庶]はエラビ出す意と考へられない。子細は一つ/\とり全部書いたのである。「探※[手偏+庶]」は前に云つた樣に文章に書いたといふことてある。さて書いたには書いたが
「然(レドモ)」と續く。
 
然(レドモ)
上古之時(ハ)、言意並(ニ)朴《スナホニシテ》、敷(キ)v文(ヲ)構《カマフルコト》v句(ヲ)、於(テ)v字(ニ)即(チ)難(シ)。
 
(189)【然】 傍句である。困難でありましたために、斯ういふ方法を採りましたといふことを詳しく述べようとして用ゐた。
【上古之時(ハ)】と「ハ」の字をつけてよむがよい。四字の句用句であるけれども漫句である。「上古」は大昔である。記傳には專ら我國の上古を指してゐるが、固より我國の上古てあるけれども、こゝに上古と言つたのは多少の下心がある。易の繋辭傳の中に
  上古結v繩而治後世聖人易v之以2書契1、
とあり、琉球ではこの結繩の風習が近頃まで殘つてゐたと云ふ。この易にある上古を下において考へた樣である。即ち上古とは文字の行はれなかつた時代を主とした樣である。文字の行はれなかつた上古の時代に於いては、言葉を主としたといふのである。
【言意並朴】 言葉は人間の心を現はす道具で、意《ココロ》があつても言葉がなくてはいけない。この二つは兩々相俟つべきもの、それを言意と並べ云ふのである。易の繋辭傳の中に、
  書不v盡v言、言不v盡v意
とあるが、ピツタリと當はまることはむづかしい。さうして言と意とが何時でも相竝んで關係する。
【朴】 樸と同じく質朴で飾り氣のないこと。
【敷v文構v句】
「敷文」と「構句」とは同じことを云つたので、四字にしただけである。文は文章全體、句は文を組立てる一部分(190)である。これも支那に似た例がある。「文ヲ敷ク」の「敷ク」は詳しく敷き述べることである。敷文の例は支那にいくらもある。一つ擧げれば、謝靈運の(文選にはなし)山居賦の中に、
  研v書賞v理敷v文奏v懷《オモヒヲ》
とある。「句ヲ構フ」は句を構成することである。
【於v字即難】
【於】といふは古典では、往々「ウヘニ」と訓ませてゐる。こゝも寧ろ「ウヘニ」とよむ方がわかり易い。上古は言意並に素樸で細かなことを餘り言はない。それを今日の漢字で書き一つの文とすることは非常に困難である。即ち上古の言意をば字の上にあらはして來ることは困難である」
【即】 には「或ハ」「近イ」の意があるが「若ハ」にすると面白くなる。「上古は言意並に朴にして文字にあらはすことが或は難し」となる。「近シ」とすれば「困難なこともあります。書きにくいこともあります」の意となる。即ちこの意味は漢字の上で文句として書き現すのに因難なことがあるといふのである。このことについては、鎌倉時代の釋日本紀に
  古事記者只以2立意1爲v宗不v勞2文句之躰1
とある。即ち古事記は意を立つるを本旨となし、漢文としての體裁に骨折らない。この批評は古事記の記載精神をよく知つてゐると云ふべきである。
 
(191)已《スデニ》因《ヨリテ》v訓(ニ)述《ノベタルハ》者詞|不《ズ》v逮《オヨバ》v心(ニ)
全《マタク》以(テ)v音(ヲ)連《ツラネタルハ》者(ノ)趣《サマ》更(ニ)長(シ) 〔二行に括弧〕
 
上五字下四字二句を合せる。一見隔句の樣に見えるが九字の句二つの短對の句、一種の長句である。この長句の意は如何と云ふに前のことを今一層敷衍して述べてゐる。一體如何に困難であるかといふに、こんな事情であるといふことを云つたのである。
【已】 は今は過去の意に用ゐるが、さうでなくて「全ク」の意である。萬葉に
  天下須泥爾於保比底《アメノシタスデニオホヒテ》、
とある。全くの意である。それでこゝは「全く訓だけで書きますと」の意になる。
【訓】 は字の意味をさすのである。字の意味で以て書くと詞は心に逮ばない。心と詞との關係は前述の如く、前と同じ事を書き加へて、文章のおもてを醜くせぬ用意より來てゐる。全く訓によりて述べる、即ち全く漢字の意味を以て書くから、日本の昔からの精神が十分現はれない。逮は及の意である。及にはいろ/\の意があるが後より追ひつくこと、又適當することである。こゝは漢字の訓だけ用ゐて書くと漢字の現はす言葉が我國の古傳を十分適當に現はすことが出來ない。
漢字だけ書いて十分意味をあらはすかどうかといふに、萬葉の卷七、卷八より卷十三位までの間がその例であるがそれらの歌は考へやうに依つてどの樣にもよめる例が多い。山を「ヤマ」一を「ヒトツ」位は出來るが國語の意と漢字の意が何時もピツタリ當てはまらない。そこで心持はわかるが訓み方がわからぬといふこともあり、又はちが(192)つた意味に取られる恐れがある。昔の話に醫者が漢字で鰒(アハビ)を食べていゝと云つたら、フグ(鰒)を食つて死んだといふ話がある。斯ういふ事は古今を通じて存在する。そのために古事記にも自註といふことがある。これはかういふ意味であると漢字を書き乍ら説明する。似た樣な漢字で説明し、まあこれだと註する。古事記でその例をいふと、高天原の訓み方のとき
  訓(ミテ)2高(ノ)下(ノ)天(ヲ)1云(フ)2阿麻(ト)1、
 天(ノ)常立神に
  訓v常云2登許1訓v立云2多知1、
といふ樣に斯ういふ場合、記紀には自註がある。しかし、これはお互に隨分面倒で難しいことである。
【全以v音連者事趣更長】
これは全部漢字の音で書くと萬葉假名の書き方であるが、萬葉の五卷と十五卷とは殆んど萬葉假名で書いてある。古事記でも日本書紀でも歌は斯樣に萬葉假名で書いてある。
【事(ノ)趣《サマ》更(ニ)長(シ)】 記傳には
  事の趣は連ねたる文面をいふなり。然《シカルニ》言こゝろは全く假字のみを以て書るは字の數こよなく多くなりて、かの因v訓述べたるに比ぶれば其文更に長しとなり。
とある。これは先づその通りである。然し「更」の解は考へる要がある。
【更】 は更改の意である。前に云つた草とは變つて來る。違つた意味で面倒な事が起る。前の方と違つて今度は意(193)味は徹底するけれども、文章が冗長となる。繁雜の弊がおこる。以上の二句は「於v字即難」を説明したものである。
 
是(ヲ)以(テ)今
 
傍句である。全く訓によつて書くわけにも全く音に依つて書くわけにもゆかぬから、今は別に方法を立てたといふ事をいふ爲である。
 
或(ハ)一句之|中《ウチニ》交(ヘ)2用(ヰ)音訓(ヲ)1
 
或(ハ)一事之|内《ウチニ》全(ク)以(テ)v訓(ヲ)録《シルス》。 〔二行に括弧〕
 
これは、五字の句、四字の句二つを相對せしめたので隔句である。一句の中、音訓を交へ用ゐる事については、最早詳しく説明する要がない。記傳に
  こは上文にある如く悉く訓に因て、眞字書《マナガキ》にせるは中に借字多くて語の意さとりがたく、さりとてはた全く假名書にしたるは文こよなく長くなりて、煩はし、散れ是以今は宜しきほどをはかりて二つをまじへ用ふとなり。
とある。この音訓兩方を交へた書き方は明治の新聞の書き方もさうである。唯萬葉假名と平假名、片假名との違ひである。これは或は古事記の新發明であるかも知れぬ。これは日本に最も適してゐると見えて、漢字廢止が叫ばれ、ローマ字の主張があつてもこの書き方はすたらない。「一句といひ一事といふは文を變へたのである」と記傳に云はれたが、こゝでは本居先生は、漢文の書き方の平板を避けることを論ぜられ、兩方の意味が徹底する。何故なれば一句は表示せられた文章の方から見たので詞である。一事は表示せられた事柄を主として考へたのである、これは心である。斯樣に詞と心とが相對してゐる。句によつては音訓を交へ用ゐ、事柄によつては全く訓を以てしるす。(194)となる。かくて以上二つの方法を混用したのである。これも記傳の説があるから、そのまゝ取次がうと思ふ。
  全く眞字書にても古語と言も意も違ふことなきも、又字のまゝに訓めば語は違へども、意は違はずして其の古語は人皆知りて訓誤てることあるまじきと又借字にて意は違へども世にあまねく書きなれて、人皆辨へつれば字には惑ふまじきとこれらは假字書は長き故に簡約なる眞字書の方を用ふるなり、一事といひ一句と云へるはたゞ文をかへたるのみなり。
 
 
傍句である。
 
辭理《コトバノコトハリ》〓《ガタキハ》v見以(テ)v注(ヲ)明(カニシ)
意況《ココロノサマ》易《ヤスキハ》v解《サトリ》更(ニ)非(ズ)v注(セ) 〔二行に括弧〕
 
七字の句二句だから短對の句で長句である。
【辭理】 は辭の道理である。支那ではよく用ゐる。文心雕龍に
  辭理(ノ)庸※[人偏+雋](ハ)莫(シ)2能(ク)翻(スモノ)2其才(ヲ)1
とある。文心雕龍にはまだ例がある。辭理は分ければ二つ、實際は一つである。二つとして見た例は矢張り文心雕龍に
  辭高理疎
とある。尚同書に
(195)  理既切至辭亦通暢
とある。これは漢代の文章家の文をほめたのである。又同書に
  情者文之經辭者理之緯
とある。辭《コトバ》の理で分けて考へず、一緒にして考へる。
【〓】 はカタシとよむ、不可の二字を一つにして〓にしたといふ。これは不可能の意である。「カタシ」には日本語で色々の意味があるが、こゝは、「不可」「できない」の例である。後漢書に呂布が劉備を見て云つた言葉に
  大耳兒最(モ)〓(シ)v信(ジ)
と出てゐる。だから我々は「見ガタシ」とよんでゐるが實は「ベカラズ」の意があるのである。但し釋日本紀にはこれを引いて難v見としてゐる。この句の意は、言葉はわかつてゐるが意味道理が現れがたい。さういふ時には注を以て明かにした。といふのである。然るに記傳では「意」の字を前につけて解してゐるが、斯うすると對句がこはれてしまう。一方を八字にすると、他方は六字になつて跛になる。これは記傳のみでなく、早く釋日本紀にこゝを引いて「意ヲ明カニス」として「意」で切つてゐる。記傳では訓み方が少し變だけれども意味はよくわかる。
  さて記中に種々の注ある中に辭理を明らかにしたるはいと/\稀にして只訓べきさまを教へたるのみ、常に多かれど、此《ココ》は文のまゝに心得ては少し違ふべし。たゞ大概《オホヨソ》にこゝろえてあるべきなり。
記にあつては理の字に餘りとらはれぬ方がよいのてある。併し記傳では自分の方で讀みちがひして酷な批評をしてゐるが、それはよすことにする。辭理は辭と辭によつて現はさるべき理義と二つに分けて考へられるが、次の「意(196)況」に比すれば辭の意味の義であらうと思ふ。辭理のわかりかねるとき註を加へて明かにする事である。記傳の評ではヨミ方を註したのみで辭理の註がないと非難してゐるが、例へば八岐大蛇の所で
  此謂(ヘル)2赤加賀知(ト)1者今酸醤也、
と註したのや、又、神武の卷に
  疊々《エエ》【音引】志夜胡志夜此者伊碁能布曾 【此五字以v音】阿々【音引】志夜胡志夜此者嘲笑者也、
とあるは訓み方の註である。だから記ではそれほどやかましく云ふわけでなく本文で説明しきれぬのを註で説明したのである。
「意況易v解更非v注」
昔は「況ンヤ解シ易キハ更ニ注セズ」としてゐた。斯うすると對にならぬ。「意況」といふ風に誰が正しくよみはじめたかは明かでない。平田先生も本居先生と同じよみ方をして居られる。明治十六年に出來た古事記傳略の中に「意況」とよんでゐる。傳略には
  此は以v注明にて句とし意況云々と七字を一句と爲すべし、意況は意趣〔二字右○〕と云ふが如し
と云つてゐる。けれども是は吉岡徳明の創見かと云ふに、私の所有する古史徴開題記は内藤翁の藏本であつたが、それには意況とよんで、
  かくよみて文法にあふなり。宣長、篤胤誤れり。意味といふが如し、辭理に對して云ふなり。
とある。なほ明治十五年、田中頼庸の校訂古事記には田中氏は本居以後の研究家としての第一人者であるが、流石(197)にこれには意況と正しく句讀訓點をつけてある。又明治九年版の龜田鶯谷の古事記序解に正しく句讀訓點を施し、
  意況は意趣と云ふが如し
とある。これがどうも吉岡徳明の傳略の源をなしたであらう。内藤翁のは意味〔二字右○〕とあつて意趣とはな。傳略とは源がちがふ。すると龜田鶯谷の説以上に古いものを知らぬから今日は龜田鶯谷の説とすべきであらうが、その後に意況の説を述べたものを二人知つてゐる。現に一人は生存して居られる。どうも人の説を自説とするのはをかしいと思ふ。要するに今日では序解の説が最も古くたゞ意況が正しいといふ説明がない。然し説明なくとも斯うでなくてはならぬが古事記傳の樣にすると、對句をなさぬ。辭理に對して意況、〓見に對して易解、以注明に對して更非注といふ樣に二字二字、三字が對してまことに巧みな對句をなしてゐる。
【意況】 の「況」は如何なる意かと云ふに、今日状況といふことがある。これは我々でも日常使ふ所である。その況である。この「況」は「オモムキ」でなく「サマ」である。「オモムキ」といふ訓み方は傳略によるのであるが、傳略のもとは序解である。序解には「意趣といふが如し〔二字傍点〕」とあつて「オモムキ」とよめといふのではない。さて「意況」といふ熟字は支那に古くあるかどうか、その例は見當らない。やつと佩文韻府にある。舒元輿の録桃源畫記に
  視其意況皆逍遥飛動
とある。然るにこれは古事記よりずつと後代の例である。多分昔からある熟語と思はれる。たゞ意況の熟字がさがせないので從つて訓み違へも起るのであらう。とにかくに意況は立派に支那にある熟字である。
【非v注】 は「注セズ」である。非は不也とある。こゝの「非」字のつかひ方は序解にほめて
(198)  漢書の賈誼傳に 非(ヲ)作(ル)v不(ニ)。作者それ古文に精達すと云ふべし。
と云つてゐる。こゝに一番判り良い一例を擧げよう。淮南子の修養訓に
  故美人者非2必西施之種1通士者不2必孔墨之類1
とある。荘子の山木篇に
  衣|弊《ヤブレ》履|穿《ウガテルハ》貧也、非〔右○〕v憊《ツカレタルニ》所謂非v遭v時也、
その他呂氏春秋等にもある。
 
 
傍句である。大體はさうだが、又斯ういふこともあると上に加へる意である。
 
於(テ)v姓(ニ)日下《ニチゲヲ》謂《イヒ》2玖沙※[言+可]《クサカト》1
於(テ)v名(ニ)帶《タイノ》字(ヲ)謂(フ)2多羅斯《タラシト》1 〔二行に括弧〕
 
これはよみ方が惡いため、記傳などではいろ/\議論が起つてゐる。私は上の如くによむがよいと思ふ。然し斯ういふ書方は漢文に例がある。中庸に
  天命之(ヲ)謂(フ)v性(ト)、
とある。これは天命を性といふの意である。これは八字の句二句、單對の句である。記傳に
  此文は於2姓(ノ)玖沙※[言+可]1謂2日下1於2名(ノ)多羅斯1謂v帶とあるべきことなり。其故は玖沙※[言+可]に日下多羅新に帶と本より書來れるまゝに今も改めず、其(ノ)字もて記すぞと云ふ義《ココロ》なればなり。
(199)とあるが、この記傳の説明はその通りである。唯説明の前の議論は困る。序解に之を批評して
  舊説に此の文は於(テ)2姓(ノ)玖沙※[言+可](ニ)1謂(ヒ)2日下(ト)1於2名(ノ)多羅斯(ニ)1謂(フ)v帶(ト)と云ふべしと。此説恐くは非ならん。此は姓の日下に於て玖沙※[言+可]と云べく、名の帶の字に於て多羅斯と云べし。然れども其を帶と日下と書來れば依v舊改めずと樣に讀て、其義明白なるべし。
と云つてゐる。これは書き現はし方の論であるから、意味はわかるが不徹底である。私の考へではこれは元來、國語の玖沙※[言+可]は多羅斯を問題にしてゐるのではなく、漢字の日下、帶の方を問題としてゐるのである。人の姓名を書くとき、日下として玖沙※[言+可]とよませ、帶として多羅斯と讀ませるのである。斯樣なのはもとのまゝにして改めぬと云ふのである。
 
如《ゴトキ》v此《カクノ》之|類《タグヒハ》隨《ママニシテ》v本(ノ)不v改(メ)
 
四字二句の漫句である。記傳に
  如此之類とはまづは、長谷、春日、飛鳥、三枝などなり。なほこのたぐひのみならず、地の名、神の名など古來書ならへる字のまゝに記せり。
とある。今日われ/\の用ゐてゐる人の苗字、地名等の文字が記編纂以前に既にあつて、そのまゝ記に採用してゐるものが多い。例へば伊豫、讃岐、出雲、多賀、遠江、熊野、吉野、大|分《キタ》、伊勢等は千何百年前からつかつて來た事がわかる。丹羽、久米,大伴等の苗字は古い。以上は撰録の用意を述べ昔のまゝのものはそのまゝにしておきましたと云つたのである。書き方の事はこれで終り、これより全體の編纂について申すのである。
 
(200)大抵《オホヨソ》所《トコロ》v記(ス)者|自《ヨリ》2天地(ノ)海幕1始《ハジメテ》以(テ)訖《ヲハル》2于小治田(ノ)御世(ニ)1
 
漫句である。これは撰録の始と終をあげた。
【大抵】 は大略に同じい。支那に例が多い。
【小治田御世】 は推古の御代である。古事記の最後を見るべきである。
【訖】 は「トドマル」が元來の意である。「イタル」の訓もある。
 
故、
 
は傍句である。さう云ふ風にしましたが、なほ簡單に次の如く分けましたといふために用ゐてゐる。
 
天御中主神|以下《ヨリシモ》、日子波限建鵜草葺不合《ヒコナギサタケウガヤフキアヘズ》命|以前《ヨリサキヲ》爲(シ)2上(ツ)卷(ト)1、
 
漫句である。上、中、下三卷に分けて、上(ノ)卷はこゝまでといふのである。この「命」の字は普通行はれてゐる本の古事記では「尊」の字となつてゐる。たゞ眞福寺本では「命」となつてゐる。記傳に
  命に尊字を書ることめづらし「此記には美許登には尊き卑きおしなべて命字をのみ用ひたり。他の書どもにも天皇などの大御名にも多くは命の字を書けり。かくて、書紀には尊字と命字とを分用ゐて、至貴曰v尊自餘曰v命と自注あれば、尊字は彼撰者の新に用ゐ初められたることゝ思はれ、又日子日女に彦、姫字を書くも書紀より始まれりと見えて此の記などには一もなきことなり、これらを以思に今此文に尊字を書るは疑ひなきにあらず。故此序をなべて、疑ひて後人の僞作れる物ぞと云人もあれど其は中々にひがこゝろえなり。つら/\思ふに大雀を舊印本に大鷦鷯と作るも書紀に目なれたる後人のひがごとなれば、此尊字も其類にて書紀なりを見な(201)れて、ふと寫し誤れるか、眞福寺本には命字を作りこれや正しからむ、又思に次文に伊波禮毘古には天皇、品陀には御世、大雀には皇帝、小治田には大宮と各異に申せる如く、これもたゞ色々にかへて書けるにて必ずしもたしかに美許登と云に此字を用ひたるにも非るにやあらむ」
とある。日本書紀で始めて、きめた用字をそれより七八年前の古事記に用ゐるわけはない。しかし、尊の字は實は當時の通俗用の一つの書き方であつたらしい。正倉院に人の名前に尊を書いたのがあり、又群馬縣多胡郡の碑に石上尊と書いてある。
これらは通俗用である。しかし、又考ふるに通俗用であるとすると、かやうな俗用の文字を上表文に書くわけはない。本居翁が俗用の文字を使つたのであらうかと云ふ考をのべたのには賛成出來ない。古事記の本文では前述の如く、葺不合命と命の字を書いてゐる。尊の字は後人が書紀に依つて誤つたと考へなくてはならぬ。
 
神倭伊波禮※[田+比]古天皇以下品陀御世以前《カムヤマトイハレビコノスメラミコトヨリノシモホムダノミヨヨリサキヲ》爲(シ)2中(ツ)卷(ト)1、
 
神倭伊波禮※[田+比]古天皇、これだけの文字は古事記の中卷にそつくりある。本居先生はこちらに天皇と書き分けたと云はれるけれども、はつきり中卷の本文にこのまゝある。のみならず天皇といふ文字は中卷以下到る處にある。古事記に使はない文字を用ゐたのではない。又天皇といふのは大寶令の公式令に定められた文字であつて、違例ではない。「品陀」も古事記の本文にある。勝手に使つたのではない。
 
大雀《オホサザキノ》皇帝|以下《ヨリシモ》小治田(ノ)大宮|以前《ヨリサキヲ》爲(シ)2下卷(ト)1、
 
【大雀】 といふのは序文にあるが、唯皇帝は本文にない。これは、前述せる樣に天皇と皇帝と文字をかへたのであ(202)る。これは漢文の字面をいたはつたことが現はれたのである。公式令には皇帝の文字が規定せられてゐるから用ゐてよいのである。皇帝陛下の語は前にのべた。天武天皇は天皇と申上げ元明天皇は皇帝と申上げた。なほ仁徳天皇を帝と申した例がある。古事記に聖帝と申上げてゐる。
【小治田大宮】
本居翁は大宮と書いてあるのではないかと云はれるが、小治田御世と對したので、而も前にも大宮の例がある。斯ういふ點を考へても尊の字を用ゐたのはどうしても誤りであらう。
 
并録《アハセテシルシ》2三卷(ヲ)1謹(ミテ)以(テ)献上《タテマツル》、
 
大抵よりこゝまで來て、全體が結ばれる。これだけで上表文の趣意が終る。
 
臣安萬侶 誠惶誠恐 頓首頓首
 
これは上表文の體裁である。
 
【臣安萬侶】 は初めの「臣安萬侶言」と首尾照應してゐる。詳しく説く要がない。
 
和銅五年正月二十八日正五位上勲五等太(ノ)朝臣安萬侶謹上。
 
これは上《タテマツ》つた日であるが勅命の下つたのが和銅四年九月十八日で出來上つたのが和銅五年正月二十八日だから約四ケ月餘りで撰録が出來たのである。序解に
  蓋阿禮が所v誦の勅語を其儘に撰録して別に意見結構の煩無れは奏功尤速なる所以なるべし。
とある。書くのに拔きさしする必要があれば斯う急速には出來なかつたであらう。私もこの意見である。その次の(203)文字は一々説明する要はない。安萬侶は神武天皇の御子神、八井耳命の子孫である。慶雲元年正月從五位下和銅四年四月正五位上、となつた。この間の上表文である。それから靈龜元年正月從四位下となつた。勲のことは詳しく書いてない。養老七年七月、民部卿從四位下大朝臣安萬侶卒とある。年齡は詳かでない。この人の直接の親などについて議論があるけれども皆想像説に過ぎない。
 
古事記序文講義 終
 
      2009年8月19日(水)、午後3時14分、入力終了。