南方熊楠全集6(新聞随筆)、606頁、平凡社、1973.6.30(91.3.20.11p)
 
(5)   田辺随筆
 
     白蟻
 
 二月二十日の『大阪毎日』に、名和靖氏「恐ろしき白蟻」の談を読むに、建築の木また畳などが中空になるまで壊れて、しかも外見さほどに見えず、たまたま押してたちまち崩れ去る例は、諸地方に古来多かりしも、その白蟻の所作たるを誰も知らなかったようなり、とあり。果たして然らば、ずいぶん迂闊な話なり。
 『和漢三才図会』(百九十七年前に成りし書)に、?《い》、一名白蟻、和名ハアリ、俗にいうハリ、羽蟻なり、人家古き松柱に間《まま》これを生ず、云々、とて、その害人為をもって如何《いかん》ともする能わざるを言い、相伝う、呪歌《まじないうた》を書いてその柱に粘《は》れば、すなわち?ことごとく除き去る、しばしば試みて験あり、その歌誰人の詠ずるところなるを知らず、「羽蟻とは山に住むべき物なるに里へ出ずるは己《おの》が誤り」、と言えり。紀州には古来この虫の害おびただしく、予自身もしばしばその害に遭い、家の一部、畳から風呂敷包み中の書籍までも、してやられたることあり。故老に聞くに、田辺辺には、もと大工が棟上の祝典に、頭領たる者、棟の上に登り、低音にてカラムシ大明神を祈りしが常例なり、と。カラムシは、この地方で白蟻の通称なり。白蟻一日も早く生じて、この建築を壊しくれよ、建築永く全くは、大工糊口に窮すべし、とて祈りしなり。
(6) 古い句に、「煙立つ富士の裾野の小家より」とあるも、白蟻が小家を食い潰して、空中に飛翻し、煙の状を呈せるを写せるにて、小虫ながら富士の煙と高さを争わんとするの気概をほめ、また笑えるなり。田辺にては、白蟻の群飛する日を吉日とす。これきわめて晴れ穏やかなる日にしてこのことあるによるものにて、支那にも地方によりて蜂の分かるる日を吉日として、婚姻、造作始《ぞうさくはじ》めし、また市を立つる所あるも、これに似たり。このこと三年前の十月、ロンドン発行『ノーツ・エンド・キリス』に、予「蜜蜂および吉日」と題して出したり。しかし、家主|無性《ぶしよう》にて家屋に注意せず、風通らず、湿気充満するより起こることなれば、その家に取っては不吉のこととす。
 『宇多天皇御記』に、寛平元年十月朔日、大臣いわく、一日安然法師いわく、近来雲林院にある人いわく、虫|蠢々《しゆんしゆん》としてここに出ず、これを看るにその虫の竟《わた》るところ、東、園池司に至り、西、絹笠岡に至り、北、紫野に至る、すなわち羽蟻なり、由るところを知らず、朕答えていわく、きわめて不善のことなり、先帝(光孝天皇)崩ぜんと欲するの時、かくのごときの怪あり、今このこと朕のために示すところなり、と見ゆ。また大坂陣の前に、城の天守より煙立ちしゆえ、火事と心得駆け付くるに、羽蟻の群がり登るなりしを卜して、兵乱の兆と知りし由、そのころの書に出でたり。豊臣氏衰うるのあまり、修繕に意を用いざりしより、大坂の天守閣にまで白蟻入りしなり。   (明治四十四年六月九日『和歌山新報』)
 
     千里眼
 
 一月三十日『大阪毎日』に、在ドイツ田中祐吉君の「欧州千里眼」の一篇あり。氏は、これまで科学者の一人にして唯物論を主張したが、欧米諸家の書を読み、種々不可思議な現象の存在を承認し、唯物論の信仰を放擲す、といわる。今日の科学には十分説明のできぬこと多きは、予も熟知するところにて、唯物論ばかりで宇宙の事情を解き得べ(7)からざることも、またこれを認むるが、千里眼ほどのことに、宇宙広大無辺の霊妙力などを引言《ひきごと》するも如何《いかが》にて、他に多少の科学的解説は必ずあるべしと思う。
 かかることは、庸衆稠人《ようしゆうちゆうじん》中に漫然喧伝さるる言を確信すべきにあらず。碩学大儒といえども、専攻の学問にのみ精しくて、詐譎《さきつ》百出する世間のことに疎《うと》ければ、その論必ず正しとも思われず。要は自分これを実験するが一番正確なり。よって予が躬《みずか》ら実験せるところを述べんに、十二年前、予大英博物館の植物部長ジョージ・モレイ氏に面せしに、氏いわく、日本の学術は、日将月就《につしようげつしゆう》のありさまなるに、隠花植物の調査なおはなはだ疎《を》なるは惜しむべし、貴公、国に帰らば何とぞこのことに留意されたきことなり、と。その翌年予帰朝せしが、何様《なにさま》十五年も不在なりしこととて、
  その時に着てまし物を藤衣《ふぢごろも》やがて別れになりにけるかな
と周公《これちか》も詠まれし通り、父母共に草葉の陰に埋まり、親戚にも知らぬ人のみ多くなり、万事面白からぬゆえ、那智山に籠ること二年ばかり、その間は多くは全く人を避けて言語せず、昼も夜も山谷を分かちて動植物を集め、またかねて心掛けて将《も》ち還りし変態心理学《サイキアトリ》の書を読み、生来女嫌いにて女人と語を交えしことすら少なく(数年後四十歳で始めて妻娶りたるも)、酒は大好きながら、その辺に乏しければ好都合なり、この場所と機会を逸すべからず、居常《きよじよう》世事《せじ》を聴かず思慮を省き、いずれか霊妙のことをもできるかと、何となく打ち過ぎけるに、ずいぶん面白いことを見たり。
 
 たとえば、ナギランという蘭は、『草木図説』に南紀に産すと見え、『古今要覧稿』には鎌倉に多しと言い、小野蘭山の『採薬志』にも熊野|太地浦《たいじうら》の向島《むこうじま》で取れりとあり。以前はずいぶん多かりし物と見ゆれど、採り尽せしにや、近時その天然産を見しことなく、牧野富太郎氏これを記載せし時も、培養品のみに拠りたるようなり。
 しかるに予那智にありて、一朝早く起き静座しいたるに、亡父の形ありありと現じ、言語を発せずに、何となく予(8)に宿前数町の地にナギランありと知らす。予はあまり久しく独居する時は、かかる迷想を生ずるものと思いて棄て置きしに、翌朝も、翌々朝も、続けて十余回同じことあり。件《くだん》の地は宿に近けれども、予がその時までかつて近づきしこともなかりしなり。さて縁戚の家の手代来たりしゆえ、このことを話し、共に往《ゆ》いて右の地を探るに、ナギラン一株を得たり。その日いかに捜すも一株しかなかりしに、翌日予一人行きて十七株を得たり。その後追い追い探すに、その近傍にかれこれ四十株ばかりありしも、みな取らず、二十余本を取り、田辺と和歌山に送り栽《う》えたるに、田辺のものは追い追い減りながら今もあり。夏に及び開花するを?葉《さくよう》にし、去年牧野氏に贈れり。その時持ち行きし友人へ牧野氏の談《はなし》には、土佐にもありとのことなり。ただし培養品か天然産かは知らず。
 またステファノスフェラというは、一八五二年ごろ、ステファノスフェラ始めてドイツで見出だされ、次にラプランド、英国等で探出されしが、きわめて稀有の微細なる藻にて、一八九〇年、予米国に留学のころずいぶん学者多かりし米国にすら見出ださざりき。図のごとく、直径千分の二十六至五十二ミリメートルの小球中に、八つの緑色細胞あり。地球の赤道のごとく最大軸をなして各自等距離におり、毎胞二|鬚《す》を具《ぐ》し、岩上の小窪に溜まれる雨水中を転げ徊《まわ》る。斯学に一生を廝殺《しさつ》せる諸大家すら、その生品を見し者少なし。しかるに、予、明治三十七年四月十八日、宿所にありて偶然、隣の裏口の田水にこの物ありと感得し、物は試しとその所に趣き、小瓶に水を取り帰り、鏡検せる第一点滴中にこの奇藻あり。直ちにオスミック酸もて固定し、今に現品を保存せるが、ただ一顆《いつか》を獲しのみ。その後、数日かかりて鏡検するも、さらに後を見ることを得ざりし。
 また、その前年、和歌山にありし日、一朝夢に亡父来たり、ピトフォラ・エドゴニア・ヴォーケリオイデスを獲んとならば、今日|日前《ひのくま》宮に詣《まい》れと誨《おし》え、その日晴天なりしを幸い、日前宮に詣り、帰途種々の藻を集めしも、件の種を見ず。夕近くなりしかば、和歌山市の東郊、畑屋敷《はたやしき》に入らんとする道傍に、紡績会社用のため新たに掘りたる小池あ(9)り。その中に一塊の暗緑色の藻浮かべり。これはその辺に多きヴォーケリア属のものならんと思い、そのまま行き過ぎんとせしが、何となく気に懸かり、また引き還してこれを取り、家に到りて鏡検せしに、夢に見しその種の藻なりし。よってこれを英国に送り、学士会員ハウス氏の鑑定を求めしに、全く予と同見の由、『ネーチュール』雑誌に載せられたり。
 この藻は一八七八年、米国のワレ氏米国北部にて見出だし、明治二十四年、予これをフロリダ州で採りしも、その後同州で採りし者なく、切に懇望し来たるより、昨夏予の採品の一部をワシントンの国立博物館へ寄付せり。その後、バーミンガム大学の藻学大家ウェスト教授より、この属の藻東半球に四、五種ありと承りたれど、予は旧説により、この属は全く西半球にのみ自生するものと心得おりたるに、かつてフロリダで見出だせしと同一種をまた和歌山で見出だしたるなり。
 
 またウチワカズラは、朝顔属の一種、熱国の海辺に生じ、小笠原島、琉球にもあり。四国、九州の暖地にもありや否、予は知らず。しかるに、一昨年春夢に、紀州|古座《こざ》と串本の間の海浜の林間に、白き羊毛を密生せる葉ある朝顔生えたるを見る。ウチワカズラのラテン名を山羊の足(ペス・カプラエ)といえば、羊の足〔傍点〕と毛〔傍点〕を取り違えてかかる夢を見しならん、と日記に控え置く。さて後に聞くに、玉置という人、串本近傍にてウチワカズラを採集せり、と。また今年春、富田《とんだ》の朝来帰《あさらぎ》君取りし品を宇井縫蔵氏方で見たり。
 何に致せ、予那智籠居中、いろいろの示現、霊感様のことあり。また実際顕微鏡的の微?《びよう》生物を志し集むるには、相場師同然、夢兆などを頼む外に宛てのなき物なり。かくて時間、郵便物の到達、近いうちに死すべき人、その他いろいろ言い中《あ》つること上手なり。追い追いは白昼にも幽霊を見るようになり、示現し教えくれる者が、幽霊か夢か分からぬこととなりしゆえ、いろいろ攷察してついに大発明とみずから惟う結果を得たり。そは、人間は生来直立する(10)を常とするものなれば、夢に見る一切の現象は、坐臥とも夢見る人の顔面平行して見《あら》わる。換言すれば、自分の顔面に直角をなせる平面を舞台として見わる。しかるに、睡裏ならぬ醒覚中に見わるる幽霊などは、見る人の顔面の位置方向の如何《いかん》を問わず、ただただ地面また畳面を舞台として見わるという一事なり。
 さて、かかる経験を多く記し集め、長論文を草し、英国不思議研究会へ出さんと意気込みおるうち、人生意のごとくならざるもの十常に八、九で、那智山にそう長く留まることもならず、またワラス氏も言えるごとく変態心理《サイキアトリ》の自分研究ははなはだ危険なるものにて、この上続くれはキ印《じるし》になりきること受け合いという場合に立ち至り、人々の勧めもあり、終《つい》にこの田辺に来たり、まずは七、八歳から苦学し、永らく海外に流浪し、熊野で不思議学《ふしぎがく》で脳を痛めて慰労にとて、今度|討死学《うちじにがく》という奴に鋭意し、大いに子分を集め、歌舞|吹弾《すいだん》して飲み廻り、到底独身では経済が持てぬところより、妻を迎え、子あるに及び、幽霊も頓《とん》と出でず、不思議と思うことも希《まれ》になりしが、予はこれを悔ゆることさらになし。なるほど只今とても閑殺《かんさい》されて、人と無用の雑談しちらし、話の種に困る折など、こちらのまさに言わんとするところを人が言い、人のまさに言わんとすることをおのれが言い出して、その奇遇に驚くなどの例少なからねば、変態心理学者《サイキアトリスト》のいわゆる以心伝心くらいのことあるを予は疑わず。
 しかし、予がみずから経験せし神通、千里眼的の諸例を、虚心平気に考察するに、さまで解説し得ぬほどの不思議なこと一つもなし。人間が物を考えるに、必ずしも論理法に示すがごとき正式を踏んでせず。故ハーバート・スペンセルなども、常人が日常の考慮に順序通りに推理することははなはだ稀にて、多くは直接到達《ジレクト・インフアレンス》を用ゆ、と言えり。仏経に一日一夜に八万四千の念ありと言い、楊朱が当身《とうしん》のこと、あるいは聞きあるいは見るも、万々一を識らず、目前のこと、あるいは存じ、あるいは発するを、千に一を識らず、といえるごとく、何の気も留めずぶらぶら見聞思慮するは忘れ易きものなり。また心理学者のいわゆる閾下《いきか》考慮(サブリミナル・ソーツ)、仏説にいわゆる末那識《まなしき》、亜頼耶識《あらやしき》様の物ありて、昼夜静止なく考慮し働きながら、本人みずからしかと覚えぬ一種の脳力ありとせば、予が多年の経(11)験より類推して、みずから知らぬうちに、地勢、地質、気候等の諸件、かくのごとく備わりたる地には、かかる生物あるも知れずと思い中《あた》れるやつが、山居孤独、精神に異状を来たせるゆえ、幽霊などを現出して指示すと見えたり。
 
 予かつて岡村金太郎博士が、武州で涌泉ある川底よりコムプソポゴンなる奇藻を採れる由、雑誌にて読みしが、その後夢に、熊野の川湯とて温泉多く湧き出ずる川に往かば、必ずかの藻を獲んと見、七年前往つて探せしも大水の後なりしゆえ見出ださず。しかるに、同じ夢を見ること依然止まぬゆえ、三年前また往つて、寒中に川下の寒水を潜《くぐ》り求めしも見えず。よって衣《ころも》を着て帰らんとするに、浅き所にかの藻多く生えおりたるを採れり。これも、予が雑誌で読みおりたることを忘れいたなら、ずいぶん不思議なことと思うべし。
 支那の『夢渓筆談』に、きわめて霊験ある女巫あり。人、白黒の碁石を数え、握りて問うに、百発百中なり。しかるに、碁石を数えず、むやみに握りて問いしに、答うる能わず。都子《とし》の言に、思慮いまだ起こらずんば鬼神も知るなしとはこのことなり、とあり。予が夢また幽霊に教えられて発見せるものは、いずれも自分が多少見聞せしものに限る。すべて何の学問も論理の上に立つものにて、論理の大要は、近く解説あるを措《さしお》きて遠き解説を求むるを不正とすることなれば、不思議の学も、まずは常人に例多き以心伝心くらいのことから攻究して可なり。むやみに神力、霊魂などを引き合わせにすべきにあらじ。
 このごろ流行の千里眼ごときも、むつかしき試験はさておき、予が神通大乗気なりし時、やって見て百発百不中なりし例に資《と》り、印を付けたる耳掻または楊枝などを、手近く積みたる百冊ばかりの書籍の紙間に挟み置き、その冊を言い中《あ》てしめては如何《いかん》。世に数学ほど確かな物なきに、それすら自分置いて見ぬ算盤は信じ難きものなり。いわんや千里眼、神通、幽霊等、自分の実験を真面目に述べんとするにさえ、ややもすれば言詞不足のため、虚謬を伝え易き事相においてをや。このことばかりは、いかなる大家の保証あるも猝《にわ》かに信ずべきにあらず。
(12) 欧米の不思議会報告に、植物学者が霊感により珍草木を獲たる例を挙げたるを見るに、予みずから経験せしほどの不思議もなし。寛政ころ、石を集むるをもつて名高かりし、江州の木内重暁は石類に熱心なりしあまり、奇異の石が手に入る前にこれを夢見たる由を、その著『雲根志』に言えり。故伊藤圭介先生、これを全く虚誕のごとく言われしが、実は予が経験せしと等しく、多くの夢の中には一つ二つ中《あた》りしを、非常に珍しく感ぜしならん。プロムネシアとて、今始めて見聞することを、世には似たことの多きより、かつてすでに自分が知っていたように思う、一種の錯誤等多ければ、事の起こらぬうちに夢なり霊感なり確かに筆記し置かずして、事起こりし後の吹聴のみでは、研究すべき価値なからん。
 さて、この長話の末に予が一言するは、霊魂とか不思議とかいう形而上がかった研究に、透視とか千里眼とか詐欺錯誤多きことによらずとも、ずいぶん機会の多き人間の死という現象を、生理・心理両学上より観察しては如何《いかん》。好んでなすべきことにあらざるめれど、医師、僧侶を始め、常人にも死蓐《しじよく》に立ち会う機会ははなはだ多し。インドなど、上古より飢饉、病疾、虐殺、兵乱、しばしば至り、人の生命の至って安値《あんちよく》な国なりしゆえ、平気にて人の死ぬを観察せしことも多かるべく、仏経に種々、死前死後、中有《ちゆうう》等のことを説けるも、ことごとく嘘と思われず。それに比して、この学問の分科多き今日、男色、手淫まで専門の学者あるに、物界心界の関頭たる死の学問あるを聞かざるは、いかなる手落ちぞや。死に頻《ひん》せること、たとえば気絶中の心相ごときも大いに攻究すべし。
 ただし前年、井上円了先生、妖怪学を立てたりと聞き、大英博物館にて、予先生の講義の序文を演《の》べ、何と欧州にはまだ化け物の学問はなかろうがと威張りしに、ある人それそれお前の肱のあたりの常備参考架を見よと言うから打ち見たるに、ずつと以前に出版せる『妖怪学書籍総覧』とて、化け物学一切書籍の索引だつたから、日本人の気の付くほどのことは、大抵泰西ではすでに古臭くなっておると心付き、赤面して退きしことあり。思うに泰西には、千里眼などは今日古臭くて、学者もっぱら死の現象を研究する最中かも知れず。
(13) 福本日南氏の「出て来た歟《か》」(昨年七月十七日の『大阪毎日』紙)に、予が大英博物館でロシア人の鼻を?つたとあるが、予は十四歳の時より前歯四本なく、そのお隣りもみな入れ歯で、元三大師が顔を焦がして勉学せし例に倣《なら》い、婦女に惚れられぬように、前歯四本は入れずに置いた。もっとも米国へ渡る際ちょっと入れたが、拳闘《ボキシング》を稽古して敲き折られ、面倒なりとて、売って酒にして飲んでしまうた。そのころ望小太《もちこた》が坂本|一《はじめ》(現任海軍中将)と口論した跡で、汝《なんじ》生意気千万なりとて小太の鼻を?ったのが、『朝日新聞』の伊東|祐侃《すけのぷ》で、無礼を咎めて露人の鼻を打ったのは予なり。いささかの間違いながら、歯のないものが?める気遣いはないと言うたら、日南はだから、ほんの歯なし〔三字傍点〕だよと言うかも知れぬ。
 また七月十八日の同篇に、キュー植物園には、予その前に園長シスルトン・ダイヤー男邸で、フランスの大園芸家ヴィル・モラン氏から聞き取った、わが国の植物、海外で雄威を振るう話を受け売りし、特に青木《あおき》の例を日南に談ぜしことを記して、日南当時(独人膠州湾占領の直後)邦人の意気|乏《とも》しきを青木に思い比べて、
  青木見て青木が原に禊《みそぎ》せし神の御裔《みすゑ》を思へば乏しも
と詠じたとあるが、予の日記には、日南の即詠を、
  御禊《みそぎ》せし青木が原は広がりて神の卸裔はいかがなりけむ
とし、予これに和するとて、伊奘冊尊《いざなみのみこと》が夫の神に絶たれしを憤り、われ汝が治むるところの国民、日に千頭《ちこうべ》を縊《くび》り殺さんと宣《のたま》えるに、伊奘諾尊《いざなぎのみこと》が、然らばわれは日に千五百頭《ちこうべあまりいおこうべ》を産むべしと対《こた》えたまいしを思い合わせて、
  黎民《あをひとくさ》も青木と倶《とも》に茂らなむ神の誓ひの頼もしき世や
と詠んだ、とある。しかし当日、余は道中で、十歩に蝶飲、百歩に鯨飲、日南の宿処へ帰ったころは玉山傾倒で、箱馬車で自宅へ転送し貰いしほどなれば、件《くだん》の日記は跡から書いたもので、自分の歌はむろん即作にあらず。それと同時に、日南が『大毎』へ出したのも、多少の改正を歴たものと見える。
(14) また偶然にも面白いは、当日、予日南に「むかしサー・ウォーター・ロリが、獄中にて歴史を編んで後世に伝えんと出精中、獄前で二人争闘して一人死するを目撃し、翌日その現場に居合わせし獄吏とそのことを語りしに、前後全く相違して、獄吏の言うところすこぶる根拠ありしかば、自分が正しく眼前に覩《み》しことすら、これほど事実に違う上は、百千年前の事実をいかにして判断し得んやとて、せっかく書き立てたる原稿を火に投じた」という一条の譚《はなし》をせしに、日南感心の色ありし、と予の日記に見ゆ。自身目前のことすらこの通り間違い多き世の中だから、千里眼、幽霊等の珍事は他人の筆記などなかなか宛てにならぬと重ねて言い置く。
 ついでに言う。「出て来た歟」の末段に、予の都々逸のことを載せておるから、承りたいなど言ってくる人がある。自分には分からぬことながら、去るやんごとなき御方が非常に秀逸だと褒めて下された拙作を、一つどどくり申す。声もなかなか旨いが、座右に蓄音機のないが残念だ。蠑?《いもり》を紙に包んで美人に贈るとて、
  黒焼きになるたけ思ひを焦がして見ても佐渡の土ほど利《き》かぬ物
 また那智に寓居せし時、恩人前ロンドン大学総長ジキンス氏叙爵の祝いに、何か銭の入らぬ、ぱっとしたことをと思うて、勧修寺門跡|長宥匡《おさゆうきよう》僧正等に請い、那智の滝に寄せたる和歌の短冊を集めて贈った。その内に予の兄の娘楠枝というが、十六歳で、英国の日本通|輩《ども》ことごとく舌を捲いた名歌をよんだ。
  君ならで誰にか見せん楠《くす》が枝《え》を石となるまで洗ふ滝水
 なんと世界的の歌詠みじゃ。今に舎利弗《しやりほつ》でも孕んで、長爪《ちようそう》梵士に比すべきこの叔父をやりこめるかも知れぬ。
 
 日南氏の『黒田孝高』、なかなか面白し。その当時、列侯中耶蘇教を奉ぜる者を挙げたるに、佐々成政を逸せり。中川清秀もその信徒にて、耶蘇教保全の条件にて、高山と共に信長に付きしと聞く。その家の紋|轡《くつわ》のごときをクルス(15)という。西語十字架の意なり。この人天主徒たりし由を記せるため、長門の宇都宮|由的《ゆうてき》の著書出版禁止されし、と湯浅常山の『文会雑記』に見ゆ。
 また内藤|如安《じよあん》の名は、わが邦ハイカラ名の嚆矢に近きは、日南氏の説のごとし。これに対して、そのころ名族女子のハイカラ輩を前年大英博物館の古文書で調べしに、天正十七年および十八年、支那よりジェス教会総長に呈せる書簡に、筑後のトシロドノ(久留米藤四郎秀包)はフランシスコ王(大友義鎮)の女マッセンチヤを娶り、夫婦ともキリストの教を奉ずること厚し、とありし。これらがずいぶんのハイカラ婦人と思わる。ついでに言う。むかしわが邦から外国へ渡せし印章にXiとあるは、誰のことか審らかならず、と書せし物多し。予惟うに、これ菊池か筑紫ならん。いずれも九州の旧家大名なり。
 さて日南氏は、孝高《よしたか》の子長政が、城井谷《きいたに》の宇都宮鎮房の娘を娶り、その父を誘殺してのち、娘すなわち自分の内室を磔殺《たくさつ》せしというは虚説と断定されたり。名教のために書を編むならばもっともらしき次第なれど、史実の判断としては如何《いかが》にや。
 『川角太閤記』巻五に、孝高、佐々成政を見舞いしに、肥後に往きし不在中に、長政、紀伊刑部少輔(鎮房)を打つ。「官兵衛、肥後に越され候時、紀伊を打ち果たされ候わば、内義《ないぎ》(鎮房の娘長政の窒)の親族ども周防の山口に有之《これあり》と聞こえ候間、局の女房たち下部《しもべ》に至るまで、難なく周防国へ送らるべし、と言い置かれ候ところ、筑前(長政)殿分別には、手ぬるく思し召さるまじきためにや、城下川原にて、御乳《おち》と内義と一柱《ひとはしら》に括《くく》り付け炙り申され候(内室十七歳という)。残りの上臈衆、下婢《はした》以下は残りなく磔物《はたもの》に上げ申され候こと、今にその隠れ御座なく候。その時の沙汰、かようなる先例はいまだ承らずとのことなり。右の通りに相治め、官兵衛殿まで注進仕られ候えば、仕様《しよう》残るところ御座なく候。さすが若者には似合い申したると感ぜられ、返事と聞き申し候、云々。後に取沙汰には、御前所《ごぜんどころ》成敗の様子惨《むご》き取沙汰仕り候こと」とあり。
(16) この書は黒川春村の説に、堀正意の弟、西川原角左衛門が、寛永中記せるものにて、日南氏が引ける広島の城|庚子《こうし》の役に籠城に不便なりしことなども出で、多くは実説と見えたり。外にもその時代に近かりし書に、黒田父子の仕方酷なりしよう筆せるものあれば、そのころ大いに世に非難されしことと見え、すなわち鎮房の欺《だま》し討ちは、長政のみならず孝高も予知せるところにて、その頑強不敵を悪《にく》むこと、骨に徹せし父の意を推して、長政その妻を火刑に処し、孝高これを聞いてすこぶる満足したるなり。
 
 すべて人間はみな揃わぬもので、唐太宗、宋太宗など、無前の賢主と言われながら、兄と兄の子を殺し、長孫無忌、?遂良の名臣なる、自門を張らんがために、公子、貴人を寃殺し、ナポレオンの大気なる、なお弱冠の先朝遺皇子ジュク・ダアンギアンを残害せしを、名相で旧臣たるタリロン知って知らざる真似せり。
 されば『老人雑記』に、孝高が秀吉の命を聴かざる真似して、松田左馬助を誅せず、その父兄を刑せしは一生の勝事なり、とあると同時に、宇都宮氏一族を惨殺せしは、この人にしてこの酷事ありと、世を驚かしたるなるべし。はるか後に筆せし、松浦侯の『武功雑記』に、長政に城井《きい》の娘を離別せよと家老の勧むるに聴かず、森但馬、野村太郎兵衛、かの娘を盗み出だし、殺し申し候、とあるは、この惨事世に広く聞こえ渡りて、容易に磨滅すべからざるにより、故《ことさ》らにその跡を覆わんとて作り出でたるもののごとし。
 近時一種の風潮を迎えて、むかしの人がどうのこうのと褒め立つること大流行なれど、むかしの人の所行に、今から考うれば一向分からぬこと多し。信長、秀吉、氏郷、政宗等、名将にして子弟を殺せし者おびただしく、細川幽斎など、ずいぶん学問ありし人ながら、娘婿|一色《いつしき》を宴席で手撃ちにしてその封を奪い、家康は孫女婿秀頼を亡ぼして、その孩児《がいじ》をえたの手に殺さしめたり。はなはだしきは、『朝倉始末記』に、本願寺の下間《しもつま》・筑前兄弟、大官高位を望み、天下の武士を攻め亡ぼして本願寺の上人を天子とし、わが身は将軍と仰がれて、四海を呑まんとせし由を筆せり。(17)されば江村専斎が著書の結末に、池田、細川等、不義不仁の者の子孫が盛えて、加藤清正など律義なりし人の跡絶えしを歎じ、後年『鳩巣小説』に見えたる儒者岩田彦作が、天道はなきものと断ぜると同様の意を洩らせり。さて、その律義もて称せられし清正すら、『夏山雑談』によれば、花山僧正の石塔を取りて、中を穿ちて茶亭の石燈籠にせしなど、不道の行いあり。物徂徠が彼輩を、武勇の外に取りどころなきように評せしももっともなり。
 父子兄弟をすら、利分のために残害して顧みざりし世に、孝高父子が鎮房を紿《あざむ》き殺し、その娘を酷刑せしなどは有《あ》り内《うち》のことなり。日南氏は、長政すでに蜂須賀の娘を娶りたれば、鎮房の娘を娶るはずなし、と言えれど、そのころ戦国の直後で、閨門の制何の定規なかりしは、秀吉が正室木下氏あるが上に、旧主の姪淀殿を妾とし、また政略上蒲生賢秀や前田利家の女《むすめ》を娶りしにて知らる。これらは妾といわば妾ながら、事情より考うれば副妻とも言うべきなり。そのころ政略上の結婚繁多なりしは、佐々醒雪氏の『日本情史』にも見え、城井鎮房は、関東八屋形の一、下野の名族宇都宮の別れにて、『野史』によれば、鎮房減後その領地を、下野の本家より無断で扱いおりたる答により、征韓の際秀吉の譴を獲て、本家も亡びしことと記臆す。とにかく由緒ある旧家なれば、後日長政が家康の姪女久松氏を娶りしと同様、正妻の有無に関せず、長政の副妻とせしなるべし。
 また日南氏は、刑死の際鎮房の女が詠みしという歌拙劣なればとて、酷刑のことを虚誕とせり。されど刑死に臨んで辞世を遺すは、わが国のみならず、アラビア、グレナダ、支那、朝鮮にも、古今例多し。これよりさき、立野弥兵衛、芦名盛隆に降《くだ》り、妻を質に出だせしが、また反《そむ》けるを盛隆怒って、かの妻を串刺にせし時、かの女、「浅猿《あさまし》や身をば立野《たつの》に捨てられて寝乱れ髪か串《くし》のつらさよ」と詠んで死せりという。和歌の巧拙は、必ずしも人物に相応せず。千利休など、当時風流の棟梁たりしが、その辞世に、「利休めが果報のほどぞ嬉しけれ菅丞相《くわんしようじやう》にならんと思へば」。宝鳩巣その最後の見事なるを褒めしを、喜多村信節さっぱり分からぬと笑えり。また惺窩先生は、和歌の名家に生まれ内外の学に通ぜりと聞こゆるに、その歌てにはも違い、意味分からぬこと多し、と契沖は言えり。されば、婦女子(18)の和歌の拙劣なるあるも怪しむに足らず。そのころ喧伝せし、荒木の女房娘極刑の辞世、また秀次の妻妾二十余人殺さるる前に詠み置きし和歌などの中には、寝言ごときも多く、他人のを盗みしようなもあり。和歌上手ならずとて、この人々別嬪ならざりしとも、辞世は虚構なりとも言い難し。   (明治四十四年六月十日−十八日『和歌山新報』)
 
     同盟罷工のこと
 
 二月中旬の『大毎』紙に連載せる、三浦博士の「国史の教育と社会問題」、面白く読みたり。大抵わが邦の社会問題を論ずる者、足利幕府の代に発生せる徳政などを、この問題が初めて顕出せる事相となすがごとし。されど実は、それよりもずっと古く、これが先駆をなすものありしにや。
 『赤染衛門集』に、「尾張に下りしに、云々、そのころ国人腹立つことありて、田も作らじ、種とりあげ干《ほ》してんと言うを聴きて、また、ますたの御社という所に詣でたりしに、神に申させし、『賤の男の種ほすといふ春の田を作りますたの神に任せん』、かくてのち田をみな作りきとぞ」。
 これ、取りも直さず、九百年前本邦に百姓の同盟罷工ありしを証す。   (明治四十四年六月二十四日『和歌山新報』)
 
     摩利支天
 
 二月五日の『大毎』紙に、京大文科大学教授某氏の摩利支天談あり。摩利支天と猪の関係、経典に確かなること見えずと言えるもののごとし。英人リチャード・コックスの日記に、元和中コックス、江戸の愛宕権現と愛宕八幡像を拝せしに、いずれも野猪に騎《の》れり、愛宕権現社の登り口に大いなる野猪を圏《おり》に飼えり、と載せたり。
(19) そのころは、摩利支天に限らず、軍神多くは野猪を使いとすと信ぜしにや。伊人グベルナチスの説に、インドの神に野猪身のもの多し、諸物を保護する大神ヴィシュニュなる名は、突貫の義なるにより、『梨倶《リグ》』の讃誦に、その牙鋭き野猪をもヴィシュニュと呼び、したがってこの大神、野猪身を現ずる譚あり。また風神ルドラスを赤くて刺毛あり、畏ろしき天の野猪と呼び、その子マルタス(電)を、鉄歯と金輪中より奔り出ずる野猪とす。『ラーマーヤナム』には帝釈《インドラ》誕生後、直ちに野猪形を現ぜり、と。この説によれば、野猪を摩利支天の使者とすれば、その牙鋭くて突貫の性あるに基づくがごとし。
 また古ローマの軍神マルスも、野猪を使者とし、かつ美にして好婬なるヴィヌス女神が美少年アドニスを愛するを妬《ねた》み、みずから野猪に化けて、アドニスを突き殺せしかば、女神愁傷のあまり、その血よりアネモネ(双瓶梅《いちりんそう》の属)を化生し、見てもってみずから慰せりとぞ。摩利支天とマルス、等しく軍神にて、野猪を使者とすれば、その間に多少の連絡あるべしということ、三十年ばかり前に、『花月新誌』か何かで述べたる人ありしと覚ゆ。かの真言宗に尊奉されながら、胎蔵曼陀羅中になき愛染明王も、インドの色の神カマ天も、ギリシアの色の神エロースも、斉《ひと》しく愛の矢をもって人心を射洞《したどう》すという。後の二者は艶容|饒《おお》き美少年像なるに、愛染のみは怖ろしき忿怒相に画かるれども、『岩清水物語』に、大納言が、美少年常陸の嬌姿を、愛染王の仮に人と現じ給えるぞ、と比ぶることあれば、本説には、愛染も美少年の相を具せるものと見え、かつ愛染は獅子の宝冠を戴き、カマ天は獅子に騎《の》りたり。これらの諸点より推して、愛染とエロースとカマ天を通じて、多少の関係あるべき由を、予先年ちょっとロンドンの『ネーチュール』雑誌に出だせしことあり。その他、インドの神と古欧州の神に相互の連絡混淆の例多ければ、摩利支天とマルスと、多少同一の由来を具するは疑うべからずと思わる。
 ついでに言う。沙翁《シエキスピア》三十七篇の内に、『ヴィヌス・エンド・アドニス』あり。上述の女神ヴィヌスがアドニスを愛し、マルスの嫉妬によってアドニス野猪に殺さるるところを述べたり。その発端に次いで、ヴィヌス種々の形容詞(20)を弄して女体の妙を説き、アドニスに婬事を勧むるに、吾輩壮年のころ大流行なりし、仙台節の「わたし○○○○播磨《はりま》の名所、○は高砂《たかさご》、中|明石《あかし》、云々」と同様の絶妙の文句多し。現今は、然るべき会席にてこの一篇を読まぬ定めなりと聞く。わが邦には耳食の徒多く、沙翁の所作は、ことごとく清浄神聖を極めたるもののごとく言い散らす人乏しからねば、注意し置く。   (明治四十四年六月二十四日『和歌山新報』)
 
     ウイグルのこと
 
 一月二十九日『大毎』紙に、橘瑞超師「新疆探検の序幕」を報ぜらる。中に、ウイグル文字、ウイグル語等の字しばしば見え、橘師みずからウイグル字の経片、銅銭等を得たる由を記せり。また昨年九月の『東京人類学会雑誌』、鳥居君子女史の東部蒙古旅行記にも、女史がウイグル字の碑文を写せしこと出でたり。
 橘師も鳥居女史も、十分知り切ったことと思えど、まだ知らぬ人のために説かんに、このウイグルとは、『十八史略』などで漢学者御馴染の回?《かいこつ》のことなり。十八年以前、予在英の日、当時パリにありし土宜《どぎ》法竜僧正の嘱に応じ、蒙古、西蔵等のことを調べたる時、初めて知り得たるなれども、欧州の支那学者間には、ずっと以前から知れ渡りいたるなり。
 安禄山の乱に、唐の粛宗巡幸して鳳翔に至りしみぎり、回?子|葉護《ようご》を遣わし、精兵四千人を将《ひき》いて至る。代宗、史朝義を討ち平らげし時も、回?の援兵功多きにおり、郭子儀が吐蕃《とばん》を破りし時も、回?の助力を須《ま》つこと大なり。『三才図会』に、回?その先、匈奴に本づく、およそ十五種あり。隋に至り韋 絵《いこつ》という、突厥に臣たり。突厥その財力に資《よ》って北荒に雄たり。大業中みずから回 乾と称す。突厥亡びて、ただ回 絃最も強し。薛延陀《せつえんだ》を攻めて、その地を并《あわ》せ有す。使を遣わして中国に献款す。かつてみずからその鷙捷《ししよう》鶻《はやぶさ》のごときをもって、唐の徳宗の時に至って、請(21)うて回?を易《か》えて回鶻となす。その地、今の和寧路なり、とあり。
 唐の時代にずいぶん盛大なる邦なりければ、文物観るべきものも多かりしと見え、わが邦にもその音楽を伝えたり。藤原守中の『歌舞品目』、唐部楽曲の新楽部に、廻忽《かいこつ》拍子十二と見ゆる、これなり。『和漢三才図会』に、廻忽は廻鶻なり、もと匈奴の国名、唐に降り、来たりてその国の楽を奏せしなり、と言えり。   (明治四十四年六月二十五日『和歌山新報』)
 
     食蛇鼠
 
 昨年七月二十三日の『大毎』紙に、渡瀬博士がインドより齎《もたら》せし食蛇鼠《へびくいねずみ》マングースの図説あり。
 マングース、梵語にてナクラという。『法苑珠林』巻四五に、『僧祇律』を引いて、邪倶羅《なくら》虫、その主人なる梵士の子を救うて毒蛇を殺せしに、梵士帰り来て、その獣の口血に塗《まみ》れたるを見、誤ってその子を殺せしものとし、これを殺せし話あり。この仏説よりや出でたりけん、本朝にも『今昔物語』巻二九「陸奥の国|狗山《いぬやま》の狗、大蛇を咋《く》い殺す語《こと》」あり。『和漢三才図会』巻六九に、参河の宇津左門五郎忠茂、白犬を随え、狩して山中の樹下に眠りしに、犬しきりに吠えて熟睡せしめず。忠茂怒って犬の首を斬りしに、たちまち樹梢に飛び、大蛇の頸に 噛み付きしに驚き、蛇を切りて家に還り、犬の頭尾を両和田村に埋め、二社を建ててこれを祭り、一を犬頭社、一を犬尾社と名づく、とあり。これをまた作り替えたるらしき譚、馬文耕の『近世江都著聞集』に出ず。いわく、吉原の遊女薄雲、厠に入らんとするに、日ごろ愛せる猫、共に入らんとするを咎め、亭主その首を斬りしに、たちまち厠の下隅に落つ。平生薄雲に想いを懸け、雪隠で出歯亀を極《き》め込みおりし蛇を咬み殺せしかば、薄雲そのために猫塚を築けり、と。なお、くわしくは昨年七月の『東京人類学会雑誌』に出だせる、予の「本邦における動物崇拝」に載せたり。
(22) かつて稲若水《とうじやくすい》の『結髪居別集』を見しに、往時蛮舶中の鼠を捕えしめんとて畜《か》い持ち来たれるカラネコという物を記し、支那の『本草』に見えたる蒙頌《もうしよう》に充てたり。たぶんマングースのことかと思わるる節多かりしが、今その書を有せざれば確言はできず。   (明治四十四年六月二十五日『和歌山新報』)
 
     王陽明と平田篤胤
 
 東京の新聞で見ると、前日花田氏が催せし演説会へ飛び入りの井上哲次郎博士は、奥宮健之の父が王陽明学者だったから、陽明の学説は、幸徳の師、故兆民居士が翻訳したルーソーと均しく危険だと述べられし由。前年『国光』という雑誌に、大分えらい学者が、藤樹、蕃山、南洲から、大塩平八郎、雲井竜雄、さては頭山満君までも引き出して、わが邦の英雄多くは王氏の学に私淑せりと賞美されたが、今日また、奥宮の父一人の例から陽明の学は危険だとは、『義経記』、『曽我物語』の文句で、「言わば言わるるものかな」と言わざるを得ず。
 さて、それについて思い合わすは、近ごろ本紙始め諸新聞に、国体を明らかにし士気を鼓舞せんためとかで、『平田篤胤全集』の広告が見える。平田氏が帝国の気運を挽回するにその功少なからざりしは、不肖もこれを熟知し、ことに東北の人ではあり、現内相と同苗字だから、この出板はなかなか気受けも宜しかるべく、また一方《ひとかた》ならぬ鴻益もありなん。しかるに、予幼年のころ、和歌山に森川という奇人あり。予が見る影もなき鍋釜売りの家に生まれ、五、六歳にしてブリキ板に、鍋に符牒付くる油墨もて絵を学ぶを憐れみ愛し、毎度紙筆などを恵まれたり。この翁、人と話すを聴きしに、かつて平田篤胤の大言を悪《にく》み、江戸に之《ゆ》きしおり議論してやりこめやりし。篤胤は、せめて一生に四万両ばかり借金して見たいなどいい、学問は精《くわ》しかったが、非常に口の悪い男ゆえ、その弟子にも癖のある人物が多かった、と言えり。
(23) 森川氏は、予十歳ばかりの時死に失せたれば、その話の実否を知らず。ただし、かの翁の言多少真に近かりしかと思わるるは、早稲田大学出版『徳川時代史』に、生田道満の伝あり。この人、篤胤と同じく秋田に産まれ、篤胤に従って国学を修め、高足たり。越後に遊び柏崎に留まり神道を講ぜしうち、天保七年、下民飢饉に泣くに、姦商、吏員、毫《ごう》もこれを憐れまざるを憤り、たまたま大阪に大塩が救民のために兵を挙げしと聞き、にわかに門人数人を語らい、「奉天命誅国賊」と書せる旗を樹て、所在豪商の宅を襲い米穀を奪うて貧民に頒ち、下民これに加わる者日に多く、ついに柏崎陣屋を撃ち、吏数人を殺して死す。幕府、その党を追捕するに当たり、道満の妻その幼児を刺して自殺し、ついにその罪魁を得ずして事平らげり。これより篤胤の学風は北越に跡を絶つのみならず、後年篤胤江戸追却もこれに起因せりという、とあり。
 今日までも高徳をもって仰がるる近江聖人や、勤王論の端緒を開ける蕃山先生が先師と仰ぎし王陽明も、大塩や奥宮ごとき者を出だしたからその説危険なりといわば、皇道興隆に大功ありし篤胤も、道満ごとき高足弟子を持ったから、その説すこぶる危険なり、と言われても詮方なからん。博士ジョンソン字書を作りし中に、猥褻の字を載せたりと尤《とが》めし貴婦人ありけるに、博士答えて、「貴女はそんなことばかり捜し廻るからだ」と言えり。好んで疵を覓《もと》めんに、何の人何の説か疵なからんやは。   (明治四十四年六月二十七日『和歌山新報』)
 
     神社合祀
 
 前日の本紙に、岡山の孤児院長とかが、今度の大逆事件の人物中、私生児持った者が数人あるは、大いに研究すべきことなり、と言われしと記臆す。
 ここに一言するは、わが邦只今の法律で、家系ということを個人よりも重んずるためか、跡取り息子と跡取り娘と(24)晴れて結婚すること成らず。されども、大江朝綱の「婚姻の賦」に、かの情感の交通は父母といえども禁禦し難し、とあるごとく、私通して子を生み、佯《いつわ》りて子を弟と届け出でなどし、反って大いに家系を乱し、もしくは私生児の扱いを受くる例多く、はなはだしきは現世に添い遂げられぬを悲しみて情死することもしばしば新紙に見え、前日も某紙に、大阪の梅原氏、これがために八百長的の廃嫡訴訟を提出せる記事あり。手数さえ惜しまねば佯りが通り、これをなさぬ者はせぬ損となるなり。百千年奉祀し来たれる神社さえ、金銭を標準に存廃するほど金銭が入用の世の中なれば、何とか基本財産でも積ませて税金を取り、跡取り子女の結婚を自由にさせ遣りては如何《いかん》と望まる。
 右の次第ゆえ、私生児を産む者、必ずしも非常の敗徳者にも限らず。もし私生児持てる者大逆事件の罪人に数輩あるゆえ、大いに研究すべき問題なりと言わば、予はこれよりも一層研究すべき問題を提出せん。そは今回の大逆事件に、罪人を六名までも出だせる紀州が、神社合祀|詩s《れいこう》の全国で最も盛んに行なわれたる三重・和歌山二県に跨がれることなり。三重県は伊勢、和歌山県は熊野とて、いずれももっとも由緒古き神社多き地なるだけ、合祀の災もはなはだしく、昨年六月までに、前者は五千三百二十社、後者は二千四百九社を滅却したり。
 さて紀州のうち、もっとも著しく合祀の行なわれしは、東牟婁郡新宮町にて、その合祀詩sのいかに惨状を極めしかは、一友人に宛てたる左の来状にて祭すべし。筆者は篤学徳行をもって地方に令聞ある君子なり。
  (前略)強制的神社合祀のこと、小子《しょうし》らにおいても、その理由の存するところを審《つまび》らかにする能わず。賢台および南方先生等の挺然御奮起、侃々《かんかん》その非を御論議成し下されおるを伝承仕り、陰《かげ》ながら深く感謝申し上げ候。すでに当新宮町ごとき合祀を断行致し、渡御前《わたるごぜん》社を始め、矢倉神社、八咫烏神社ごとき、由緒あり来歴あり、民衆の崇仰特に厚かりし向きをも、一列一併に速玉《はやたま》神社境内なる琴平社と阿須賀社とに合祀しおわれるのみならず、馬町、矢倉町なる矢倉神社、船町の石神社、奥山際地なる今神倉神《いまのかみくら》社(祭神熊野開祖|高倉下命《たかくらじのみこと》の御子天村雲命)のごときは、すでに公売に付しおわり、石段は取り崩され樹木は伐採移植せられ、神聖なる祠宇は群児悪戯の場となり、(25)荒涼の状真に神を傷ましむるもの有之《これあり》候。近ごろ、郡参事会員某君の話に、氏の村内某大字のごときは、これを悲しむこと、ことに深く、合祀実行の日は全大字を挙げすべて戸を鎖《とざ》して号泣哀痛の意を表し、また自分の大字の氏神のごときも、やむなく他に合祀せられたりしも、こは別に遥拝所を設け祭礼を執り行なうはずと話されおり候。神倉神社(史籍にその火災を特筆し、古歌に名高き社)も速玉社の摂社として遷され候。奥山際なる今神倉神社の、例の大老樟の立ち掩える社地は、宮本熊彦氏坪九円計七百円にて落札せるが、その日の中に千円にて他に譲り渡し、奇利三百円拾得致し候。(下略)
 
 この他に鳥羽帝熊野詣での節、随行せし官女が建てし尼寺をも、神社なりとて公売せんとせしが、証拠物を出してわずかに免れたり。また新宮と那智の間に、高田村とて、平家の落ち人が住めりという、しごくの山村あり。先年予も往きしが、白昼全く無人の路長く気味悪くて引き還せり。その南|檜杖《ひづえ》といえるは、わずかに十八戸なる小字なるに、須佐神社とて、古えより藤花の名高きあり。すべてかかる寒村ほど敬神の念厚きものにて、合祀を厭えばこそ、社殿拝殿を新築したる上、指定の基本金五百円を調達せしに、のちさらに一村一社の制定出でたりとて、高田村にも一社の外ことごとく潰すべしと命じ、神社総代を七回まで新宮へ召喚し、郡長みずから雑りて大宴遊し、さて出頭せざりし者を警察所罰令にて、一円ずつの科料を命ぜり。役人の所行すでにかくのごとくなれば、他県生まれの神官など、何ぞ関係なき古蹟勝景を愛惜すべき。
 本宮は二十二年の洪水に流失せしも、宮趾に老樹なお鬱蒼として、歴代の諸帝と供奉の公卿が一歩三拝して詣でたる古えを忍ばしむるに、昨年夏、宮司の邸宅を建て、ためにこれを伐り倒し畢《おわ》り、人民これを歎くも、その当世に通ぜざるを愍笑するのみ。旧史に見えたる熊野諸王子の社も、千古の老木を伐らんがために、村吏、奸商結托して、不毛|?埆《ぎようかく》の地に合祀し去られたるもの多く、幸いに昨年夏末に及び政府訓令して、指定の基本金を積まずとも将来維持(26)の見込み確かならば合祀に及ばず、とありしより、多少手後れたる合祀は中止となり、神社、老樹いささか生を聊すに至れりといえども、近くまた指定の神社は村費をもって維持するを得、とあれば、往く往くは、指定外の神社を維持せんとする大字民は、その大字の神社と、指定の一村一社との維持費を、二重に仕払わざるを得ず。神社興隆は名のみにて、いたずらに無学素餐の神官と、奸詐百出の村吏を肥やさんがために、この究困極まれる時節に、斉《ひと》しく皇家と血縁ある諸神霊を犠牲としてまでも、この不急の費用を調達して、埒《らち》もなきことのために積み立て置かしめんとするは、その意を解せざるなり。
 すべて事物の破壊は、理由の何たるを問わず、多大不快の感を起こさしむ。危険殺伐の念多くこれに生ずるは、他宗教の物と見れば破壊するを功徳とせるユダヤ、回々《イスラム》の諸教を例として知るべし。今それ、神明は天照大神にして、天王蛭子《てんのうえびす》はその弟尊《おとみこと》なり。八幡は応神帝にして、春日は元勲藤原氏の祖神なり。その他辺鄙の地主祠、名も知れぬ社に至るまで、いずれも八百万神の中を出でず、みな日本人民の先祖なり。深くその恩を懐うにあらざれば、いずくんぞよく寒村僻陬に血食すること、千百載なるを得んや。しかるに、何の訳なく、これを潰し去らんとするもまた酷《はたはだ》しからずや。
 予が学問上生物保存の点より考起して、神社合祀に反対説を唱えしに当たりて、もっともこれを冷笑せしものは、かの大逆の徒なりし。(菅野《かんの》といえる女が、獄中より出だせし書面に、地蔵の頭を火炙りにし遊びしを、快《こころよ》かりしと記しあるなど、参照すべし。)されば予が、私生児を生ぜし者、大逆徒中に数人ありたるが、研究を要するほどならば、神社破滅のもっとも行なわれたる新宮町に、大逆徒の六名までも集まりしは、なお一層の研究を要すというも、相当の理由ありと知るべし。
 
 このついでに言うは、この辺で、千百年古き神社の合祀減却さるるもの多きに反し、私慾一遍の徒が、其官幣大社(27)などに詣で、神霊を勧請して宅裏に小祠を建て、狐像を祭り、福を祈り、また術を行ないなどするもの、はなはだ多し。そのこの辺に限らざるは、昨年十月十五日の某紙に、大垣公園内に半白の老狐出でたるを、篤志家柵を構えて保護し、近々百余円もて祠を建て、稲荷大明神と崇め奉る計画中の由、岐阜来電を載せたり。はなはだ国体にも関することなれば、既存の古社を滅ぼすよりは、新規にいかがわしき社祠を立つるを制せられたきことなり。
 また国典研究もて名高き英人より、昨春聞き合わされしは、日本政府は、天照大神の彫像を日英博へ出ださんとすと聞く。欧州にて、無智の輩より言うに忍びざる猥褻行為の宛てになるものは、各国皇族の女性多し。いわんや、欧州凡人が日本人を見ること白人を見るに同じからざるにおいてをや。かかる出品は止められたきことなり、と。これは、伊勢大廟の模型を出ださんとせしことなどを誤聞せしと思わる。しかし咋年初め、大廟へ、見世物小屋同然、電燈を点じて景気を添えんと謀りし人もある由、某紙で見たれは、外人の誤聞も基づくところありと知らる。
 予在英のころ、アーヴィング男かウィルソン・バレット氏か忘れたり、何でも一、二の名優が、「誠信の火《フアヤー・オヴ・ジ・フエース》」とかいう外題で、キリストの役を勤めて芝居し、看板のかたわらに、ガス燈を十字架形に点ぜしを、ロンドンの諸新聞競うて、人民の宗教心を擾乱すと攻撃し、その芝居は他の外題に換うることとなりたりき。もっとも昨年、ドイツでも、名優がそんな芝居を無難にやり通したと予は承知するが、他国のことは他国民の勝手次第として、昨年二月上旬、帝国座で天の岩戸の芝居あり、天照大神は藤沢、手力男神以下役割あり、女優数名女神となりて、本当の女神だから拝み手が多かりし由、新紙で見たり。予には一向懸け構いのなきことながら、みずから侮って人これを侮るで、天照大神の顔の好悪や芸当の巧拙を、公衆の批評に任《まか》すような遣り方では、朝鮮や台湾へ神道を弘むるなどは、千歳河清を俟《ま》つの類ならんか。
 
 写真図は『後鳥羽上皇御幸記』に見えたる、出立《でたち》王子の社を潰したる趾にて、この社辺で塩垢雛を取らせ(28)たまえる、歴代諸帝に関係深き場所なり。唐の憲宗は、建州の刺史の治所、京師を去ること八千里と稟《もう》すを聞き、卿|彼《かしこ》に到り政をなす、朕みな知れり、遠しと謂《い》うなかれ、この階前はすなわち万里なり、と言いしとか。それは開けぬ支那の昔で、政府一味の『国民新聞』すら、昨年二月二十七日論ぜるごとく、今日のいわゆる模範村長などは、お上への書き上げさえ巧者なれば事が済む。定めて王刑公流の思し召しに投合するよう、こんな社を潰して、良田の一町もできたような書き上げをしたのか知らぬが、実際は丘上の小学校への通路を不恰好に広め、小児どもが人家を見下ろして悪戯をなすのみ、他に毫末の益なし。また合祀せずとも、維持の立ち行くべかりし証拠は、合祀後も祭日に神社なしに盛んに祭典をやっておる。その金はその辺の者が費やして、その辺へ落ちるのだから、楚人弓を遺《おと》して楚人これを得たりで、遠距離の合祀先の他の大字へ落ちると事|異《かわ》り、金銭の融通にこそなれ、何の損徳を見ず。
 この近所に出立の松原あり。『万葉集』に名高く、国典好きの外国人からも、写真を求めに来る。これも小学校建築のためとて、村民が木を抱いて哭泣するを、もぎ離して伐り畢《おわ》りしが、例の白蟻付きて、格別の所得もなく、盛夏に行人陰を失い、また『大毎』紙所載、浩々歌客の「人国記」に見ゆるごとく、木を伐ったために魚海浜に近づかず。俗吏ら今に及び後悔して保存計画など騒ぎおるが、ない物の保存が成るものか、ワハハハハハ。
 田辺に近き湊村、横手八幡社は、一昨年十二月、他の境内狭き神社へ無理に合併、その費用百二十円、跡地の鳥居を打ち倒したまま放棄しあり。むかし南蛮人入覲の時、京江戸の入口へ、磔刑《はりつけ》、獄門等の屍を駢《なら》べ、刑法厳正なるを誇示せしと、スペインの古書で見たが、日清・日露戦争中は大騒ぎしてこの軍神から路傍の小祠まで拝み廻らせ、さて喉元過ぐると、論功はおろか、鳥居を野|晒《ざら》しにして、神の畏るるに足らざるを示すも、面黒《おもくろ》い。この社に限らず、合祀されし跡はみなこの通りなり。
 もっとも、この八幡の跡は勝景の地なれば、富人の別荘にでも売ったら宜しからんが、人間は働いて税を払うばかりに生まれて来ぬものゆえ、参詣を兼ねて遊歩する場処を、あまり潰し奪うと、ついには鬱憤重畳して、変な事件が(29)持ち上がるも知れず。数日前、内務省の嘱托を受けて英国の公園制度を調ぶるとて、いろいろ予に問い合わせに来たりし人あるが、日本のもよりもよりの神社すなわち公園なり。一たび潰して売却せば、なかなか再び買い戻すことがむつかしい。殷の法に、灰を街に捨てる者を  則《あしき》りして酷過《ひどす》ぎると子貢が評せしに、孔子のいわく、灰を風が吹き散らして人にかかれば不快を感じ、自然騒動が多くなる、一人を刑して万人慎む、決して酷刑でない、と。田舎の喧嘩は、多く小児の遊び場処欠乏して、道上で戯れたり隣家を覗《のぞ》いたりするより、大人までに延《ひ》いて大事となるなり。されば、神社域内はよき遊び場にて、神威を畏るるよりむやみなことをせず。ケンシントン苑や、ハイド・パークごときものをして、身代不相応な日本で企て造らんよりは、ロンドン東端、無数の小児が墓場をもってわずかに遊戯所に充ておるに鑑み、神社を置きたりとて何の差し支えあらん。
 
 図(三)は、田辺より二里余、岩田村大字岡の八上王子の社、歴代熊野御幸に縁深く、『山家集』に、西行法師が熊野へ参りけるに、八上の王子の花面白かりければ社に書き付けける、
  待ちきつる八上の桜咲きにけり荒くおろすな三栖《みす》の山風
とあり、名高き社なり。伊藤篤太郎博士も、『科学世界』に述べられたるごとく、日本、支那にのみ特有なれば、何とぞ保存したき柯樹《しいのき》の密林をもって取り囲まれ、写真を取ることもならぬから、社殿の後ろよりわずかに写し得たるなり。
 寛政七、八年のころ、カラタチバナ大いに賞翫され、一本の価千金に及べるあり、従来、蘭や牡丹の名花百金に到るものあれども、百金を出でし例を聞かず、と『北窓瑣談』に見えたり。そのカラタチバナの本州における自生は、予始めて那智山で見出だせし次に、友人宇井縫蔵氏この神林でも見出だしたり。庭園の美観たるタニワタシ羊歯なども、当郡|周参見《すさみ》の稲積島の神林にのみ存するごとく、神林にのみ生を聊する珍な生物多し。これらが絶滅は哀しむべし。
(30) 図(四)は、前と同村の田中神社とて、田中にいと古き樹林|蓊鬱《おううつ》たり。柳田国男氏の『石神問答』に謂《い》えるごとく、本邦特有の勝景を存する社なり。
 これらの諸社七つばかりを、例の一社一村制を振り舞わして、松本神社とて、もとは炭焼きか何かの私宅の鎮守たりし小社に合祀せんとし、岡大字七十八戸ばかりの内、村長に姻縁ある二戸の外、ことごとく不同意なるにも関せず、指定の基本金五百円より追い追い値上げして二千五百円まで積み上げたるを、わざとその筋へ告げず、五千円まで上がりし際、また村民に迫り、村民絶体絶命の場合に及ぶ折ふし、やや寛和なる訓令出でて、幸いに合祀を免れたるなり。件《くだん》の松本神社は、役場のすぐ前にあり。予歩行してその広さを量りしに、わずかに長さ三十二歩、幅二十六歩ばかりの小境内なり。それに屋根を構え、平重盛が死を祈りしをもって名高き岩田王子を始め、すべて九社を蜂の子同然に押し籠《こ》み、さて跡の樹林を伐り悉《つく》して私利を営まんとせし村長の心と風評す。
 この村長は模範村長なり。さて決してこの人を指す訳でないが、よきついでゆえ一言するは、他にはなはだこれによく似た事情の村ありて、その村長お上を  胎《あざむ》くに妙を得て、立派な模範村長たるが、その手管こそ面白けれ。まず、その村の学校へ校医と裁縫教師幾名を置けり、と報告す。しかして、その校医は夢にも知らず、報告書中に指名されたる本人輩も知らず。また村の実況を書き上げよと托されたる教員が、村の一部に博奕する者多少ありと直書したるを悪《にく》んで、これを追い払う。またその村に道路を開かば、他村の便利なりとて、他村に相談せず、自村のみでこれを行なわんとし、その費用のためにとて、区有林を売却せんと謀る。その上に上述に似たる無法合祀を行なわんとせり。これは決して岩田村長を指すにあらず。似た点があるからついでに言うなり。予輩より見れば、かかる者は模範村長か模範姦物か、さらに分からぬ。
 
 そこで読者に一つの注意は、仏国フィリップ四世の朝に、官女ことごとく荒淫|度《ど》なかりしを、滑稽家ジャン・ド・(31)モング、これを暴露筆誅せしを憤り、その宮に入るを覗い、多くの宮女、棒を手にして取り囲む。ジャンいわく、余は他の宮女の非行を暴《あば》きしのみ、今貴女らを見て、貌《かんばせ》美に姿優しく、詞《ことば》和《やわ》らかに行い正しきにますます敬服せり。ただし、かく陳ずるをもかまわず、むりに予を打たんとならば、誰なりとも打ち始められよ、その打ち始むる女こそ、みずから悪女婬婦たる覚えあればこそ、根性|曲《ゆが》みて、自分のことにあらざる悪評を自分のことと早合点するなれ、と言いしに、一同顔見合わせて持った棒を捨てしとぞ。されば、右の怪事も紀伊のこととばかりで、どことも言わぬに、忙《あわ》てて取り消し文など寄せ来る者あらは、取りも直さず、その村役人が、自身に臭い覚え十分あるを自白するに外ならずと知るべし。
 さて、この文を草するうちに、当郡第一の模範村長某地の区有財産一万円横領の上一千五百円の公金費消のこと発覚し、仲裁人等尽力中との新聞に摂《せつ》し、草し畢るに臨み、右は多少の誤聞のあるも、収入役の辞職、村長の引籠りは事実なるのみならず、二十三日|昧爽《まいそう》、この事件の調査主任たる人の宅に放火せる者ありとの報を受けたり。とにかく怪しき模範村長なり。むかし陽成、道州に刺史たり。民を治むること家を治むるがごとし。その考を自書していわく、撫字《ぷじ》心労し、催科《さいか》政《まつりごと》拙し、考は下の下、と。千余年前の唐朝にも、実際人民に親切なりし役人ほど、それだけ模範の撰に不適当なりと見える。
 また昨今いずれの地方にも、公吏が帳面の誤魔化しや職任留続の受け合い、さては工費の上前《うわまえ》取りのために、不急無用の道路を開き、月に一、二回の役人の見廻りに便《たより》宜しきのみで、質朴の村に悪風を導き入れ、若者ども都会へ出でて帰らず。さて作った道を修繕するため、多大の費《ついえ》絶えぬ例多し。天野氏の『塩尻』にいわく、平信長、諸国の駅路を広くし、横五、六間に造り、左右に柳、桜を植えしむ。時に田畑の費多し。時の落書に、
  世は地獄道は極楽人は鬼身は濁り酒シポリ取らるる
とはよく似たことじゃ。
(32) 『老人雑話』に、明智光秀いわく、仏の嘘を方便、武士の嘘を武略という、嘘言わぬ土民百姓は真に憐れむべし、と。
 噫《ああ》、真に憐れむべきなり。   (明治四十四年六月二十八日−七月三日『和歌山新報』)
 
(33)   田辺通信
 
     オニゲナ菌
 
 拝啓。「草木相生相剋」の話さっそく差し上ぐべきのところ、当時小生自宅の庭にオニゲナと申す希有《けう》の菌《きのこ》あるを見出だし、その発生成長に関し、欧州学者の説を試みるため実験に掛かる。たとえば、その菌の胞子を毎夜庭の柚樹《ゆのき》に来たり宿《とま》る木菟《みみずく》に食わせ、糞に混じて落ちた上で初めて日々の経過を察し得る都合だが、なかなか思う通りに運ばず、二十日ばかりしてやっと一団の糞にかの菌が少しく生じたので連日鏡険に奔走中、一疋の蟻に陰茎を?まれ、身体所々に悪瘡を生じて、俗に陰茎には自防の腺液あってめったに虫に 噛まるるものでないと心得、拙者も数年熱地にあって猛烈なる蟻群についていろいろ研究したが、一度もそんな眼に遭わなんだ。
 しかし、久米博士の四九九頁を見ると、かの「道鏡は面中《つらぢゆう》鼻で参内し」と作られた大法王の偉物は蜂に螫《さ》されたるに起こり、また僕が五年前六月の『早稲田文学』に引いた通り、アメリゴの『南米紀行』に、ある民族の婦女、一種の草汁を男子に飲ませてその陰を膨大せしめ、なお足らざれば毒虫に咬ませてこれを倍にす、ために過《あやま》って睾丸を 噛み去られ、閹人《ユーナツク》となる者多し、とあり。東洋法律の大根本なる『四分律蔵』五五巻に、「仏いわく、五事の因縁あって男根を起たしむ。大便|急《せま》る、小便|急《せま》る、風患あり、慰周陵伽虫〔五字傍点〕?む、欲心(34)あり。これを五事となす」と見え、『根本説一切有部毘奈耶』には、睡中その根《こん》を虫に 噛まれ、ために衣裳乱し起ちたるを肥壮《たつしや》な婦人が見て就いて非法を行なうたので、仏ために制戒した、とある。これらは決してまるで虚談でもなかろうと思い、いろいろ故事を集め一論を草し、英国の梵学者へ送り、大意を抄して、来たる九月の『民俗』に出る拙者の「話俗随筆」に入れ、編者石橋臥波君へすでに廻した。
 さて、いろいろ聞き合わすと、この地方で小児が陰を虫に 噛まれて病を引き出す例は少なくないらしく、あるいは当西牟婁郡の海辺に行なわるる象皮病もこんなことから起こるのでないかと言う人もあり。とにかく陰を?んで全身腫れ出す蟻は何の種のものということを明《あき》らむるため、彼処《かしこ》へ砂糖また鶏の煮汁を塗り、毎日午後|件《くだん》のオニゲナ菌が生えた処に蹐《うずくま》りいた。蟻に?ませる処が処ゆえ妻は大いに心配し、必死になって思い止まって下さんせと諌めたが、こうして今に?まれて見ろ、済生術上の鴻益ともなり、たとえ?まれなんだところが希有の菌の発生経過について発見するところありだ、女子供の知ることならずと一月ばかり試《や》って見たが、彼処が湿って痒いばかり、蟻はさらに来たらず、旱魃《ひでり》で菌も消え失せて了《しま》う。切《せめ》て件の蟻らしい奴を採って辱知五島清太郎博士へ送り鑑定を頼まんと、今まで血眼になって捜せど、これも旱魃ゆえ跡を絶って一切見えず。こんなことで、「相生相尅」の話は大いに後れ申し候。しかし、大略は出来おるから清書の上差し上げ申さん。よって、この詫言と同時に、もし貴社員および読者諸君中に、蟻に陰を 噛まるる機会があったら、その蟻を取って当方へ送らるるよう頼み上げ置く。   (大正二年八月十三日『日刊不二』)
 
     煤煙の害
 
 都市の煤煙問題で、貴紙率先して抗議を持ち出されしは、まことに感謝し奉る。都会のみならず、この田辺ごとき(35)小さい地でも、勝手次第に煙突を起こし、日夜あたり構わず煤煙を飛ばす。一方には、やれ人の見ぬ所へ小便を垂れたら肺に悪いとか、町外れの溝に蓋をせぬと黴菌が殖えるのと言って叱り飛ばし、また罰金を徴《め》さるる一方には、煤だらけの井水を氷に和して売ったり、煙だらけの室で調《こさ》えた料理を余儀なく食らう。これをその筋へ訴えると、都会を見ぬ者は話せない、まだまだ大阪を手本に、この辺も煤煙で庭木が絶ゆるほどにならねば、土地繁栄の印可《いんか》を得ぬのだと諭《さと》される。小衛生を戒めて大衛生を怠る。実に矛盾極まる事体に候。   (大正二年八月十三日『日刊不二』)
 
     蜻蛉の脚
 
 藤田伝三郎の建碑の議論面白し。『像法決疑経』に、新しきを造るは故《ふる》きを修むるに如かず、とある。近来そんな奇特の志あるは一人も見えず。豊太閤の碑を倒して衡周町人の碑を立てたり、はなはだしきは仁徳帝御陵の陪塚《ばいちよう》を発《あば》きて大きな曲玉を獲、公然無類の掘出し物と誇称するを、官民共に怪しみ咎めぬ。皇族名門の跡さえかかる世に、蜻蛉《とんぼ》の脚とかの碑など百年も残るべきや。
 ただし其蜩《きちょう》老人の『翁草』に、河村随軒|己《おの》が知る知らぬに関《かかわ》らず、大家、豪家または寺院の作事など請負《うけおい》して大いに利得せしと聞けば、直ちに酒肴を調え、家内および家族を招き、大酒宴《おおざかもり》をなす。ある人不審して、識らざる他人の利益を祝い楽しむ訳を問うに、答えて、富家に積んだ金銭がかく町方へ出ずれば、請負は素《もと》より下職、日傭どもまで潤沢《うるお》いて、その金銭たちまち世上に融通す。かく世上の通用金の増さるを、世に住む身として争《いか》でか悦ばであるべきやと言った、とある。往年世間|窮迫《おしつま》った時、故福沢翁が、この際富豪はなるべく婚葬その他の儀式を賑わしくすべしと言い、一層古く本居宣長が、歳《とし》が凶なるほど一層|祭典《まつり》を盛んにして神慮を慰むべしと言えるも、結句はこの意らしいから、蜻蛉の脚の碑も、いっそ極めて盛んに行《や》って賞うたらどうだ。   (大正二年八月十三日『日刊不二』)
 
(36)     古社の滅却
 
 井上円了博士が南米から帰って出した物を見ると、チリとかアルゼンチナとかでは、墓地を五十年切りで貸し、その期が切れて地代を払い続け得ぬ一家の墓を、斟酌なく取り除いて、また他の家の墓地とし貸し渡す、とあった。欧州にはいかな偉人も身死し論定まった後でなければ、伝記を載せぬ類典《エンサイクロペジア》さえある。すでに地方の由来古く、帝王将相が奉幣親詣した神社をすら、無用の基本財産や神主の俸給を即急に調うる能わざるを、維持に堪えずと称して、虱潰しに滅却し、古伝失せ気風|廃《すた》るを顧みず、耕地が多くできたなどと、地方官の虚報を悦ぶ昨今の遣方だから、蜻蛉の脚〔四字傍点〕などに遠慮は入らぬ。世論定まらぬものに図外れの墓や碑を建てる奴より、ムッシリ税を取り立てたらどうだ。
 ついでに言い置くは、わが邦に久しくあって英国へ帰り、発起して日本学会を立てて、そのある年会に、先帝のために乾盃を挙げた有名の人から僕への来状に、貴国では神道を起こすと称して、古社を合祀する、合祀でなくて実は減却だが、その本心は外交が鈍《のろ》うて追い追い食うに困るから、苦しい時の神困《かみいじ》めで、合祀跡の地を有税地とし、表面神職の俸給を増し社の基本金を備えしめて、実は神主から所得税を引ったくり、売口の悪い公債証などと基本金を掏り替えてしまう魂胆だろう。それをひたすら神道興隆などと悦んで、手先に使われおる神職輩は、自滅の迫れるを覚《さと》らぬ鍋中の蝦《えび》だ。そんな輩《もの》が人民を教化《きようげ》も虫が好い。さて、ついでだから貴国の大臣輩に便《つて》があったら述べられよ、十四世紀のエジプト王ナーシルは、財政を救わんとて、女官をして毎《つね》に高位の婦人とその嬢《むすめ》たちで不貞の素行《おこない》ある者を検せしめ、これに重税を課した。何じゃ半開国を模範《てほん》に取り難いと言うか。実は文華で誇る欧州でも、仏国に十四世紀中、ロア・デ・リポーとて、日本中古の傀儡《くぐつ》の長吏ごとき親方が所々にあって、本夫《おつと》外の男と親しむ婦人《おんな》より金《こがね》五片《いつきれ》ずつ税を取り立てた。御国語《おくにことば》で神をも妻女をも、国音相通で「かみさん」だ。神社は潰してしまうて、樹を伐っ(37)たところが何にもならぬが、数年前大博士シャラーの『若き日本』に、「勇武、忠義、敏捷、精通、自抑はまことに日本人の美質で、ずいぶん感心だが、ここに日本人の肺肝に深く食い込んで到底脱け難い大悪質が二つある。不正直と不浄心だ。一つあってさえいかなる大国民をも亡ぼすに足るものを、二つまで兼備しおる」と言っておる。神教を起こすなど称し、宛てにならぬ基本金の多寡を標準として、かりそめにも皇祖皇宗から一国一地方に功績ある神霊の古社を滅却せしむる輩の不正直、不浄心は見え透きおる。その輩の夫人《かみさん》は、毎月金五片くらい取り立てたって何とも思わず、これも国庫の収入を増す御奉公など言うて不浄行を続けるだろうから、いっそ姦通税を起こしたらどうだ、とあって文末に、
  千早《ちはや》振る髪を斬られて野も山も間男髷《まをとこわげ》に結直《ゆひなほ》しかな
とは、この人文久ころから明治十二年ころまで本邦におり、古いことばかり言うから、吾輩には何のことか分からぬが、とにかく豪《えら》い気?だ。故パークス公使と親しかったので、その伝を出し、また牛浄印刷寮《オツクスフオ――ドプレス》から、わが古学に関する大著述を出し、拙者その校正を頼まれ、成功の上、本人が故小村侯を経て、先帝へ一本を献った。真実《まこと》にわが国の信友たるこの類の人から、近ごろかかる苦言を毎度聞くは遺憾千万に存ずる。   (大正二年八月十四日『日刊不二』)
 
     毒虫問題
 
 キングスレーの語に、人|毎《つね》にその隣人より何ごとか学び得る、とあるが、不幸にも僕の四隣は、寡婦《ごけ》や三絃《さみせん》の師匠女、それから米国から出張の女宣教師とその女弟子と、婦女《おんな》ずくめゆえ、俗に言う比丘尼に何とかで、蟻が陽根を咬んだらどうなるなどいうことは、さらに心得ておらぬ。しかるに、さすがは売れ先の広い『不二』新聞に、このことを掲げて一週間経たぬうちに、鳥が鳴く東《あずま》からも、不知火《しらぬい》の筑紫よりも、種々雑多の報告に接した。ちょっと読んで(38)も判るような鉄砲|譚《ばなし》も大分あるが、炯眼《けいがん》炬《きよ》のごとき予が何条《なんじよう》欺《だま》さるべき。
 多く受けた報告の内に、呉市の某氏が未丁年《みていねん》の折、伊予の和気浜《わけのはま》円明寺《えんみょうじ》の庭で仮寝《うたたね》中、蟻に彼処《かしこ》を咬まれ、翌日より永く麻疹《はしか》のごとき病に臥《ね》たということで、その蟻の図を付けられたが、予が咬まれたとまるで別属のものだ。とにかく大いに参考になるから、氏の好意を鳴謝し置く。
 次に東京遊楽園主人という名で、植木などを?《いじ》っておる際、彼処を腰細という蟻に咬まるることありと知らされたが、実例を挙げぬは遺憾だ。さて氏いわく、「小説や戯曲《じようるり》の内に例はなきか。京伝、馬琴などの因果物語の内に、何かの執念が蟻になって陰茎を刺し、それが原因で死ぬという筋などありそうなれど、いまだ思い浮かび申さず。ただし、かかることを小唄に作りたるはあり。すなわち、天徳寺の坊様《ぽうさん》が蜂に○○○○さーされてッ、というのなり。蟻とは御門《おかど》違いなれど、先生次には蜂の御研究あるかも知れずと御参考までに申し上げ候」。
 熊楠謹んで按ずるに、妬婦の執念が蟻でなくって蛇になり、人根に致命傷を与えた譚《はなし》が、今から六百五十九年前できた『古今著聞集』に出ず。すなわち白拍子《しらびようし》、太玉王《ふとだまおう》が家にある女に、ある僧が通う。本妻悋気すれど用いず通ううち、「建長六年二月二日の夜、またこの僧かの女に合宿して、事ども企てけるが(中略)、五、六尺ばかりなる蛇《くちなわ》いずくよりか来たりつらん、件《くだん》の頭に過《あやま》たず咋《く》い付きにけり。振り放たんとすれども、いよいよ咋い付きて、(中略)やがて蛇は死にぬ。その後この僧件の物腫れて心身《こころみ》も悩みて居ける。正体もなかりけり。件の蛇をば堀川に流したりければ、京童《きようわらべ》聚まり見けり。誠にや、この本妻もその夜より悩みてやがて亡《う》せにけると申し侍り。怖ろしきことなり」とある。
 また天徳寺の坊様という唄は上方で聞かぬが、二、三十年前まで力士《すもうとり》の踊る唄に、「西行法師が一歳《ひととせ》東《あずま》へ往《い》た時に、蟹に○○○○挟まれた」と言い、僕ら幼少の折、人力車の背《せなか》にその絵を描いておった。去年秋、当地付近岩田という所で、豪農の老父が蟹に指を挟まれ、その創より黴菌が入って数日経って死なれた。その病状はちゃんと控えある。(39)西行が挟まれたのが事実なら、文覚に覘《ねら》われたよりはるかに危険なことじゃ。『古今著聞集』は師範学校その他で国文の教科書とした物ゆえ、右の咄《はなし》は誰でも知っておるはずだ。   (大正二年八月二十七日『日刊不二』)
 
     蟻が陰嚢を咬む
 
 前文発送後、深夜、縁側で読書しおると、また蟻に酷《ひど》く陰嚢を二度まで咬まれた。今度は砂糖を塗らず、しかも浴湯後だった。妻の言うには、狸ほどにないがずいぶん貫目のある嚢《ふくろ》ゆえ、蟻が圧さえられて発狂して咬み付いたのだろう、と。かく言うには多少|拠《よりどこ》ろありで、数日前、僕、妻子に奇なことを見せ遣ろうとて、蟻の行列する上から昇汞の粉を撒いた。すると、蟻ども一同たちまち発狂して二疋ずつ咬み合う。ちょうど絶望した古武士が、味方同志今はこれまでと差し違えて死ぬようだった。それから思い付いての妻の言《ことば》だ。これに力を得て、翌日もその辺の樹の下におると、今度は樹から小蟻多く落ちて股に咬み付いた。貧家には天井から火が降るが、旱魃には食物に窮して癇癪を起こし、樹から蟻が降るのだ。何の抑圧も摘発も加えぬに、落ち下《くだ》りてやにわに?み付いて離れぬところを見ると、連日の旱魃で蟻がキ印となつたらしい。よって一論を草せんと唯今研究中じゃ。
 さて蟻が人の陰茎を咬んだのは、小生の外にも前例がある。嵯峨帝の弘仁中できた『日本霊異記』中に、聖武天皇の時、紀伊の人上田三郎、妻が寺に詣でしを憤り、往きて導師に汝わが妻を犯せりと罵り、妻を喚んで家に帰り、「すなわちその妻を犯す。卒爾《にわか》に※[門/牛]《まら》に蟻著きて嚼《か》み、痛み死にき」とある。
 むかし南唐の徐?《じよかい》、徐鉉《じよげん》、兄弟とも大博覧だった。時に六歳になる王子が仏前に遊びおると、猫が大きな瓶を堕としたに驚き、疾《や》んで薨じた。?に詔《みことのり》して墓誌を作らす。?が弟鉉に語りしは、この文には別に猫のことを引かぬが、本件に関する猫の故事|幾何《いくつ》知っているかと問うと、二十知っていた、兄はすでに七十以上|憶《おもいだ》しいた、とある。それ(40)に劣《ま》けぬよう予も蟻が陰茎を咬む故事を大成したいから、知った人は一つでも教えて欲しい。   (大正二年八月十五日『日刊不二』)
 
     ダリヤの花
 
 メキシコから国交を密にするため前大統領ジアスの甥君が来るということは中止になったそうなが、かの国については予も多少研究したことがあるから、一斑を本紙へ投ぜんとするうち、近所の漁師が海蛇を生擒《いけどり》して持って来て、予の宅に養うこととなったので、またその視察に忙しいから、メキシコに関する予《かね》ての考案を?《ひつくりか》えし逆縁ながら尻の方から始めるとしょう。
 昨今大阪でダリヤ花を玩賞すること大流行らしいが、かの人が来た時大阪で饗するようのことがあるなら、宴席の装飾に主としてこの花をもってされたい。ダリヤおよそ九種、いずれもメキシコの高い沙地《すなじ》の原産で、その内ダリヤ・ヴァリヤビリスという種から只今玩賞する種どもが最も多く生じたらしい。英国へは一七八九年スペインから始めて入った。最初は単花《ひとえのはな》、黄心《きのしん》、暗緋弁《くろひべん》だったのを、十九世紀の初めから、英仏二国で作っていろいろの美麗な変種ができた。わが国はまたわが国特有の培養次第で、追い追いと従来に優《まさ》る変種が出るだろう。一体本邦人は他国に優《すぐ》れて園芸術も古く開け、草木の変態を作出するに妙を得ておる。今春、英国のある華族から、本邦現存の八重千重咲の花を悉皆《しつかい》揃えて見たしとて、問い合わせがあったので、返答を出したが、抜萃が六月二十一日ロンドン発行の『ノーツ・エンド・キリス』に出ておる。予の専門でないことゆえ、ほんの一時間足らず調べたところで八重または千重に咲く花を生ずる本邦園芸植物が五十六種あった。この外に一重咲の花、また花を賞せずに葉や枝振りをもっぱら翫《もてあそ》ぷ奴を合わすとすこぶるおびただしいものだろう。
(41) さて三好学博士の『植物学講義』で見ると、本邦の園芸植物でもっとも変種の数に富むのは、菊、梅、桜、山茶《つばき》、躑躅《つつじ》、牽牛花《あさがお》、花菖蒲《はなしようぶ》、牡丹の八らしい。この内、桜と山茶と躑躅、花菖蒲の外は、みな外国から原種が来たのを、本邦で多大の変態を作出したのだ。帝室の御紋章たる菊は数千、花王の称ある牡丹は七、八十の変態あるが、両《ふたつ》ながら支那の原産から出たのだ。その国にその物あるばかりでは土や気候だけの高名に止まるが、他国の物を移して自国で原産地で見ない変り物を作り上げたら、その国民の好尚忍耐のほども判り、人文高進の度を示して甚《いた》く器量を昂《あ》げることじゃ。
 白井光太郎博士より来示に、ダリヤ初めてわが国に入ったのは天保十三年で、当時蘭名ラノンケルと呼び和名なかったが、その葉やや牡丹に似、花色も大きさもある牡丹に近いので、唐、日本、天竺を満足な国とし、その外の国は名もろくに知らぬ俗人どもが天竺牡丹と名づけた、このこと馬場仲達の『舶上花譜』に見えたり、とあり。天保十三年といえば吾輩の亡母が生まれた歳で、すでに人二代立つ間だから、ずいぶん美麗な変物もできおることだろう。むかし元明の際支那に入って帰らざりし日本人が、正月に万歳の擬《まね》して心を慰め、十七世紀にインドの王子|虜《いけど》られて欧州に到りしに、何を望むかと問われて、榕樹《バニヤン》の蔭で息《やす》みたい、と言った。法顕三蔵が、さしも身を捨てて万里に求法《ぐほう》せしうち、故国の団扇《うちわ》を見て不覚《そぞろ》涙|下《くだ》った、とある。何に致せ、他国で自国の物を見るは嬉しいもの、ことにダリヤは、今上の聖誕節の装飾にと主張する人も多い。まことに日墨両国の親交を旌《しるし》するに足るものゆえ、ジアス氏の歓迎装飾にしごく適当と思う。
 さて、去年ダリヤを天子牡丹と俗称するのも吉相だからいよいよこれを今上天長節の装飾花にせんと主張した学士があったが、予の幼時明治十年ころ、京阪から和歌山までもこの花大いに流行した時、もっぱらこれを「てんし」牡丹と呼んだが、そのころは至尊を俗人が向付《むきつけ》に天子と呼ぶなどはきわめて不敬と心得たので、決して天子牡丹の意でなかろうと思い、念のため予が恩師で元華族女学校教授たりし鳥山啓先生へ問い合わせしに、当時先生が監督せし和(42)歌山植物園にも纏枝《てんし》牡丹と札を立てたが、決して天子の意味で用いたのでなく、ほんの俗称に字を当てたのだ、と答えられた。この纏枝牡丹は千葉の旋花《ひるがお》、花色|粉紅《うすべに》なものの支那称たること、『本草綱目』に見え、白井博士来示には『本草図譜』二六に図ある由。全くダリヤでないが、浅学の本草家輩が多少似つかわしいので、むやみにダリヤを漢名纏枝牡丹に充てたのだろう。決して天子牡丹の意ではない。
 ついでに言う。外国で自国の植物が栄えるを見るは気持の良いものじゃ。檍《あおき》、まさき、葉蘭《はらん》など、欧州で煤煙に負けず、しごく強いので、ロンドンなどでは公園、私園から、ことに旅宿《やどや》の室内に栽えられ、まるでこの三者で持切りのありさまだ。十七年前、前田正名氏とキュー皇立植物園長シスルトン・ダヤー男を訪うた時、仏国の園芸大家ウィル・モラン氏も来合わせおり、右の三植物が日本から欧州へ来て大勢力を発展したは驚くの外なし、と言われた。檍などは公園という公園に蔓衍して、他国から入った植物のみかは、英国固有の草木をも打ち負かしおる。これはその実が赤くて鳥類の眼を惹き易く、鳥がその実を食ってその種子《たね》を糞と共に撒き散らすからのことかと思う。福本日南とキュー、レゼント諸園に遊び、この体を示して、日本の植物はかく揚威しおるに、当時膠州湾一件で政府と国民が味噌ばかり付け通すは残念、と語ると、日南取り敢えず手帳に一首をかくなん、
  祓《みそぎ》せし檍《あをき》が原は拡がりて神の御裔《みすゑ》はいかがなりけむ
予も何か言わんとしたが、例の大酔中で一口も出ず。帰宅して自分の手帳へ書き付けたのは、伊奘冊尊《いざなみのみこと》日に国民《くにのひとくさ》千頭《ちこうべ》を縊《くび》り殺さんと言いし時、伊奘諾詰尊《いざなぎのみこと》然らばわれは日に千五百頭《ちこうべあまりいおこうべ》を産まんと報《こた》え給いし故事を憶《おもいだ》して、
  黎民《あをひとくさ》も檍と共に繁らなむ神の誓の頼もしき世に   (大正二年八月十七日『日刊不二』)
 
(43)     天長節の花
 
 「ダリヤの花」にちょっと述べた恩師鳥山先生が、昨年今上陛下天長節の装飾花に関する僕の問に応えられた書面、左のごとし。
  今上陛下の聖誕を祝し奉るに、時節の花卉を選ばば、萩をもってすべきか。萩に宮城野萩《みやぎのはぎ》あり、宮城《みやぎ》の名帝王に因縁あり。ただ憾《うら》むらくは、該花《かのはな》は幽艶には富めども雄大の姿勢に乏し。されば、これに換うるに向日葵《ひまわり》を採用すべし。その姿勢壮大にして美麗なり。勇帝の徳を頌して、人民のこれに就くこと葵心《きしん》の日に傾くがごとし、と言えり。再び按ずるに、扶桑《ぶつそうげ》もまた採用すべからんか。わが国を支那人はむかしより扶桑《ふそう》と言えり。平田篤胤の説には、わが国は上古扶桑の化石したるなり、と。すでに東《とう》の字は扶桑木《ふそうぼく》に日の昇りたる象《かたち》なり(〓)。この花の候は春晩《はるのくれ》より初秋に至る。内地には自生の物あらざれど、沖繩県に自生あり。ただ、その名一に仏桑華《ぶつそうげ》と書く。仏字忌諱すべきがごとしといえども、ただふ〔傍点〕という仮字《かな》なれば拘《かか》わらずして可ならんか。
 熊楠いわく、先生の書に見えた向日葵は、アメリカの原産で、徳川氏の代に輸入した物だから、むろん古支那人が帝堯を頌《ほ》めた葵心の葵《き》にあらず。普通の向日葵、学名ヘリアンツス・アンヌウスは、単弁重弁変態多く、装飾上にも実利上にも功多し。葉をもって鳥獣を飼い、花から染料を採り、種子を食用にし、また油を搾るとオリブ油同様|庖厨《だいどころ》に使える。さて、その滓を鳥獣の飼料にとて露国からおびただしくデンマーク、スウェーデン等へ輸出す。向日葵およそ五十種あり。その多くは北米産で、少々は南米にも産す。予往年北米諸州を旅行し多く採ったが、本邦にまだ渡らぬ種にはなはだ美なるもの若干《そこばく》あり。これらを取り寄せて変態を作り出さば面白からん。帝堯のころは支那の開けた部分も狭く、わずかに尋常《なみ》の葵花《あおいのはな》を美として、その心の日に傾くを頌めたのだが、後にアメリカから雄偉の向日(44)葵を入れて、もっぱらその花の放光相あると日に向かって転《まわ》るを賞美したと見える。ちょうど西大陸発見前に英国で向日花《サンフラワー》と呼んだのは今の金盞華だったが、発見後はもっぱら向日葵《ひまわり》をサン・フラワーと呼ぶようなものだ。扶桑《ふそう》またこの同例で、支部の古書に扶桑と呼んだ国が果たして日本やら、扶桑と呼んだ木が今言う「ぶっそうげ」やら、ちょっと分からぬ。しかし、今言う「ぶっそうげ」はずいぶん美花で、色も種々あり、時候も今上の聖誕節に合っているから、南部諸国でこれを用うるも時宜に適せんか。
  御奉行の御名《おんな》も知らぬ御代の春
 吾輩一意かの蟻に?まれた一件の研究にばかり五、六十日を過ごし、世間のことはほとんどまるで聞かぬが、天長節の御宴は十月末日に振り替えられたとか承る。御宴のことは別にして、臣民が聖誕日を祝うに必ず多少花に関する議論が今もあることと察し、参考のため右申し上げ置く。   (大正二年八月三十日『日刊不二』)
 
     強姦されたと偽訴した婦人
 
 有岡の里人が、先月末の本紙に四回連載された強姦の偽訴婦人についての学論は、なかなか有益だった。二十四、五年前米国に留学中、彼方で父と娘、兄と妹等、同血親で至って睦まじいのを岡焼きして、隣人などがこれを訴え平地に大波潤を起こし、一村の名をも悪くし、その人々も離散せにゃならぬようなことあるを数回聞き知って、かかる一家切り秘密の件を他人が告訴するを允《ゆる》すは宜しからぬことと思うたが、帰朝以後の経験をもってすると、本邦では外聞を遠慮のあまり、他人から穢行凌辱を受けたのを訴え出ぬ風がおびただしいのもまた吉事《よいこと》でなかろう。現に和歌山県などには、官公吏が芸妓、仲居、宿屋の下女は申すに及ばず、時としては良家の妻女|令娘《むすめ》などに、欧米ならむろん懲役か私刑《リンチ》に処せらるべき非行を加うる者が多い。
(45) 梵語《サンスクリツト》でアウパリシュタカという行犯は、古来インドにはなはだ多く、仏の律蔵にも例繁く挙げて厳しく戒めおる。今月の『民俗』に出る予の「話俗随筆」に多少論じ置いたが、ただ一つ文を引かんに、姚秦三蔵弗若多羅、鳩摩羅什と共に訳せる『十誦律』巻五六、第九誦之一、四波羅夷法中問婬事第一に、仏、毘耶離《びやり》城に在《おわ》せし時、長老|優波離《うばり》往き詣《いた》りて問い申せしは、「口中に婬を行なうは、いずくに斉辺《いた》れば波羅夷《はらい》を得るや」。仏答う、「節《かぎ》りて歯を過ぐれば波羅夷を得」とある。パリなどには、これを糊口の業とする者が多い。
 日本人でずいぶん?遊《いつゆう》した人も多いが、このことだけは頓《とん》と試みた者がないらしく、さすが清浄を尚ぶ国民、天稟《うまれつき》かかる犯罪《つみ》が絶無だと心窃かに悦んで、念のため書籍を調べると、山岡明阿の『逸著聞集』に、若い時純友が率いた海賊の乱に懲り果てた嫗《ばば》が壮婦《さかりのおんな》と同臥《そいぶし》すると、その婦に忍ぶ男が人間違いでかの嫗の口を犯した。嫗大いに愕き、唯今賊入って矛の※[矛+贊]《いしつき》をわが口に突き入れたが、鹹《しおから》いから海賊に極まったりと呼ばわったので、その男|惶《あわ》て逃げ去ったという戯作《つくりごと》の外に、一つも例を見なんだ。しかるところ数年前、地方で飛ぶ鳥も落とす御役人が、しかも教育の視察に旅行の途次、宿屋の下女を落とさんとして遂げず、意趣晴らしに強いてアウパリシュタカを行なったのは、実に本邦に犯罪の新例を創めたものだ。上に立つ人がこのとおりだから、それより下の役人の所行は想察に余りありだ。例の神社滅却の催促に来る神官の元締めは芸妓と流連《いつづけ》し、当該県吏も芸妓を留めて終夜帰らしめず、警察を煩わしたんで名高いが、そんな人がどこかの警部長に栄転したのはろくな者が役人にならぬ確証だ。かかる不埒漢に、歴代聖帝賢君が一歩三礼して拝したまうた熊野沿道の諸社を虱同様に潰させおるのは、恐《かし》こけれども泰平の一瑕瑾じゃ。
 現時わが邦で強姦を親告罪とし、見るに見兼ねても本人が好かぬとあれば、傍《わき》から訴えることがならぬが、これも何とか別に除外の作法を設けぬとその弊に任《た》えぬことと思う。強盗が故《わざ》と強姦を兼ね行なうは、この弊の著しきものと聞く。さて下等無教育の輩の強盗強姦に比すると、かりそめにも地方の政《まつりごと》に与《あずか》り、教育の徳化のと昼間口を絶たぬ官公吏が、日が没《い》るとたちまち皮を脱ぎ、婦女《おんな》が慙じ怕《おそ》れて訴えざるを飲み込んで、不埒極まる非行を加うるは、(46)まことに地方民怨嗟の大?酵素に相違ない。故に僕は、病性の女が強姦されたと偽訴するを排すると同時に、官公吏が人の閨房《ねどこ》を汚すなどの場合には、本人と親族は勿論、他人もなるべく声高くこれを訴うるを切望する。社会の闕陥《おちめ》と個人《ひとびと》の病気は明白にその症候を声《なら》さぬと、とても平癒せぬ、とミルは言われた。
 こんな言《こと》を述べたつて何様《どうせ》ちょっとは聞かれず、南方も官人になって力次第面白いことをすりや好いでないか、働きのない学究《ほんよみ》だと笑われるが受合いだから、学究《ほんよみ》相応な珍談を申そう。
 
 いかさま有岡の里人の御説通り、強姦の訴えもことごとく信ぜられぬもので、トマス・ライトがラテン文の『英国昔話集』を出した内にこんな譚《はなし》がある。ある処で婦人《おんな》が裁判所へ出てある青年《わかもの》に強辱されたと訴えると、その青年、それは無実だと言う。判官、青年に、とにかく強姦の弁償として銀十両かの婦に渡させた。婦人大悦びで立ち出ずると、判官さらに青年にその縦《あと》を追うて銀を取り戻せ、と教えた。青年追い付いて婦の持った銀を捩取《もぎと》りに懸かったので、烈しく抵抗しながら大声を立つる。人多く集まって障《さわ》るから詮方なく二人|伴《つ》れて裁判所へ復《かえ》った。そこで判官、婦人にいったい貴女は何ごとであんなに叫《おら》んだのかと聞くと、かの男がせっかく妾の手に入った大事の銀を奪ろうとしたのを打却《なぐりかえ》しました、と対《こた》える。判官、さればこそという顔付で、「そんならその銀《かね》をあの男に返しなさい」。婦人|愕然《びつくり》訳《わけ》を問うと、判官落ち付き払って、「あんな大声と腕力を持つ貴女が、何故黙って柔順《おとな》しく強姦されなすったか。どうも貴女は貞操《みさお》より銀が大事らしいんで談《はなし》にならぬ」と言い渡した。
 男の力に抗《かな》わんで強姦されたという婦人が、銀を奪りに来る同じ男を見事に禦ぎ却《の》けたとは、強姦されぬ証拠で、まことに不埒な嘘突き女だ。そして右に似た話が東洋にもあって、五年前六月の『早稲田文学』六七頁へ僕が出した。いわく、南宋の世に成った『折獄亀鑑』の懲悪門に、孫?《そんべん》、杭州の知事だった時、左の手まるでなく右の手に指二つのみある丐者《こじき》が、人の?《かま》を盗んだ盗まぬちう争いで、その前へ訴え出た。丐者泣いて曰《い》いしは、手(47)のない者がどうして を盗めるものか、ワーイワーイ。この知事なかなかの機転者で、丐巧者の言い分をもっともとし、対手《あいて》を叱り退《の》かせた後、丐者に?を遣り、始めは受けぬ奴をいろいろ慰めやると、丐者謀られたと気付かず、二指《ふたつゆび》で?を摘《つま》み、手のない臂《ひじ》で徐々《そろそろ》持ち挙げ、頭に戴いて去るところを知事追捕し、さてこそ汝が盗人に定まったりとて二指を截って市に令《さら》した、とある。
 この書が支那でできてより百二十一年後に、前日蛇が陰茎を?んだ話を本紙へ引いた橘成季の『古今著聞集』が成った。その第十九偸盗部に、中納言兼光、建久二年、「検非違使別当になりて庁務ことに起こし沙汰ありけるに、賤《しず》の小屋に小さき釜の失せたりけるを、隣なる腰居《こしい》が盗みたりけりと言継《いつつ》ぎありて、贓物を捜し出だしたりけるに、腰居申しけるは、手を持ちてこそ躄《いざ》り歩き候え、手を離れては争《いか》でか取り侍るべき、他人ぞ盗み置きて侍らん、と陳じければ、云々。別当、ただこの釜を腰居に取らすべしと仰せ下したりければ、腰居悦んで、頭《かしら》に打ち冒《かず》きて躄り出でけるを見て、云々、科《とが》に行なわれけり」と見ゆ。小説としては無手人《てんぼう》よりも躄者の方が面白いから、『著聞集』の日本語は『亀鑑』の支那話に改良を加えたようだが、実際無手人は?を持つ手がなく、躄者も手で持っていては行くことが成らぬ故に、両人とも頭へ冒《かず》いて去ったとする外はない。それほどの智慧は他邦《よそぐに》の書を読まずとも出そうだ。よってこの二譚は異域同轍の偶合と見るが当たれりと知らる。   (大正二年九月十二、十三日『日刊不二』)
 
     平家蟹の話
 
 七月十二日の本紙三面堺大浜水族館の記に平家蟹の話があった。この平家蟹という物、所によって名が異《かわ》る。『本草啓蒙』に、「一名島村蟹(摂州)、武文蟹(同上)、清経蟹(豊前長門)、治部少輔蟹(勢州)、長田《おさだ》蟹(加州)、鬼蟹、夷《えびす》蟹(備前)。摂州、四国、九州にみなあり、小蟹なり。甲大いさ一寸に近し。東国には大いなるものありという。(48)足は細くして長きと短きと雑《まじ》りて常の蟹に異なり。甲に眉目口鼻の状《さま》宛然として怨悪の態に似たり。後奈良帝享禄四年摂州尼崎合戦の時、島村弾正左右衝門貴則の霊この蟹に化すと言い伝う。しかれども唐土《もろこし》にもありて、『蟹譜』に、「背殻《こうら》の鬼の状《かお》のごときものは、眉目口鼻の分布明白にして、常にこれを宝翫《めであそ》ぶ」と言い、野記に鬼面蟹の名あり」と見ゆ。
 平家蟹の学名ドリッペ・ヤポニクス、これはシーボルトが日本で初めて見て付けた名だが、種こそ違え、同様な鬼面の蟹は外国にも多い。例せば、英国の仮面蟹《めんがに》は、ドリッペ属でなくコリステス属のもので、容体《かたち》よほど平家蟹と違うが、やはり甲に鬼面相がある。ただし平家蟹ほど厳《いかめ》しくない。すべて蟹類は内臓の位置、容量に随い、甲上に隆低《たかひく》の線窪《すじくぽみ》が種々あり。こっちの想像《おもわく》次第多少人の面《かお》に見えるが、平家蟹や仮面蟹はことに著しく怒り顔を現わしおる。西洋で甘蕉実《バナナ》を横に切ると十字架を現わすと言い、日本で胡瓜《きゆうり》を横に切ると織田氏の紋が見えるなど言う。海蝦《うみえび》の胴を横截《よこぎり》せば婦人の上半身を顕《げん》ずと欧州の古書に見えるが、日本でそんなことを言わぬと同時に、鰕の眼を頭に見立てて雛人形を作るなど、東西の見立て様が差《ちが》うのじゃ。
 しかるに、物の似様が酷《えら》いと随処《どこでも》同様に見立てる。貫之の『土佐日記』にもローマの古書にも、海鼠《なまこ》様の動物を陽物に見立て、和漢洋インドともに貝子《たからがい》を女陰に見立て、また只今も述べた通り、ある蟹の甲を和漢洋いずれも人面に見立てたなど適当の例だ。古ギリシアで酒の神ジオニススの信徒が持って踊る棒の尖《さき》に松実《まつのみ》を付けたは陽物に象ったそうだが、本邦にも松実を松陰嚢《まつふぐり》と称え、寛永十二年板、行風撰『後撰夷曲集』九に、「唐崎《からさき》の松の陰嚢《ふぐり》は古への愛護の若《わか》の物かあらぬか」と、名所の松実《ちちりん》を美童の陰嚢に比《よそ》えた狂歌もある。東西とも松実を陽物または陰嚢に見立てたのだが、この見立て様が拙《まず》いのか、産付《うみつけ》が不出来ゆえか、熟《とく》と視ても僕のは一向似ておらぬ。
 右横の人間勝手の思い付きで、この蟹の甲紋を西海に全滅した平家の怨霊に擬《よそ》えて平家蟹と名づけたが、地方によって種々の人の怨霊に托《かこつ》けて命名されおるは、上に『本草啓蒙』から引いた通りだ。長田思致は、窮鳥となってその(49)懐に入った源義朝と自分の婿鎌田とを殺し、首を平家へ献じたところ、不道を悪《にく》んで賞を呉れず、「命ばかりは壱岐守《いきのかみ》、美濃尾張《みのをはり》をば今ぞ賜はる」と嘲弄中に礫《はりつけ》にされたのを不足で、長田蟹になったらしい。平清経は内大臣重盛の三男、左中将たり。一族没落のみぎり、女房を都にゥ《お》いて難に紛れて絶信三年、女房今は清経|様《さん》に心変りのあればこそ、さては形見も由なしとて、「見るからに心尽しの神なれば、宇佐にぞ返す本《もと》の社《やしろ》に」と歌を副《そ》えて夫の形見に残した髪を宇佐近傍まで送還したのを受け取り見て、都をば源氏に落とされぬ、鎮西をば惟義に追われぬ、細君からは手切れと来る、米代は昂る、悲しさの極、月晴れ渡れる夜|閑《のど》かに念仏申しつつ、波の底にこそ沈みけれ、これぞ平家の憂事《うきごと》の始めなる、と『盛衰記』にある。平家入水の先陣、まずは藤村操の前身でがなあろう。して見ると、清経蟹は怨める上に愁歎顔であろう。
 『和漢三才図会』に、元弘の乱に秦武文《はたのたけぶみ》兵庫で死んで蟹となったのが、兵庫や明石にあり、俗に武文蟹と言う、大きさ尺に近く螯《はさみ》赤く白紋あり、と見えるから、武文蟹は普通の平家蟹よりはずっと大きく別物らしい。
 
 秦武文《はたのたけぶみ》がことは『太平記』一八に見ゆ。後醍醐帝の長子|尊良《たかなが》親王、今出川右大臣の娘を見初め、千束《ちつか》ばかりの御文を送りたまうと、女も稲船《いなふね》の否《いな》にはあらずと見えたが、この親王は後に金崎落城の節新田義顕に面《まのあた》り切腹の作法を習い、武士同前に自刃して亡《う》せたまうた気象|尤《いと》傑《すぐ》れた方だった。件《くだん》の女すでに徳大寺左大将と約婚《いいなずけ》したと聞こし召し、むかし唐の太宗、鄭仁基の女《むすめ》を元和殿に冊《かしず》き納《い》れんとした時、魏徴この女すでに陸氏に約せりと諫めたので、すなわち宮中に召さるることを休《や》めたと儒臣が講ずるを聴いて、文を送るを止めてもなかなか思い切れず、徳大寺またなかなかの粋人で、この次第を気の毒に存じ、故《わざ》と他の女に通い始めたので、宮も今は御憚りなく、和歌の贈答で心の下紐を解き、生きては偕老の契り深く、死しては同じ苔の下にもと、思し召し通わして、十月あまりに元弘の乱出で来て、親王は土佐の畑《はた》へ流されたまう。御警固を勤めた有井庄司、情深き男で、御息所《みやすどころ》を密かに畑へ迎え下したまえと(50)勧め、親王大いに悦んでただ一人召し仕われた右衝門|府生《ふしよう》秦武文という随身に御文を賜わり、都へ登り御息所に差し上げ、輿に乗せて尼崎まで下し進《まい》らせ、渡海の順風を待つうち、同じく風待ちしておった筑紫の松浦《まつら》五郎という武士、御息所の御貌《おんかたち》を垣間見《かいまみ》て邪念を起こし、このごろいかなる宮にても御座《おわ》せよ、謀叛人にて流され給える人の許《もと》へ忍びて下し給わんずる女房を奪い捕りたりとも、さしての罪科でなかろうと思い定め、郎等三十余人|物具《もののぐ》国めてかの宿所へ夜討ちし、火を付けた。武文、心は武《たけ》しといえども、煙に目《め》暮《くれ》て何ともならぬから、まず御息所を負い進《まい》らせ向かう敵を打ち払いて、沖なる船を招くと、船Lも多きに松浦が迎いに来た船が一番に漕ぎ寄せて、御息所を乗せ奉った。松浦わが船にこの女房の乗り給いたること然るべき契りのほどかなと限りなく悦んで、今はみな船に乗れとて一同打ち乗り漕ぎ出だす。武文、渚に帰り来て喚べど叫べど帰りやせぬから手繰《てぐ》りする海士《あま》の小船に乗って追い付かんとすれど、順風を得た大船に追い着くべきにあらず。反って笑声をどっと仕掛けられて、今のほどに海底の竜神となってその船を遣るまいぞと怒って、腹十文字に掻き切って蒼海《あおうなばら》の底に沈んだとあるから、竜神にはなったろうが蟹になる気遣いはない。
 この後は平家蟹の話に用がないから短く言ってしまうと、松浦、御息所を執《とら》えてとかく慰め申せども聴き入れず、消え入らせ給いぬべき様子で、鳴戸《なると》を通るところに、にわかに風替わり渦と共に船の廻ること茶臼を推すよりも速やかと来た。三日三夜船進まぬから梶取《かじとり》の勧めに任せ御息所を竜神に進じて難を遁るべしとて、海に沈めんとするを乗り合わせた僧が諌め止め、一同観音の名号を唱えると武文の幽霊が出る。よって御息所と水主《かこ》一人を小船に乗せて放つと、風にわかに吹き分けて松浦の船は西へ去るうち波静まり、御息所の御船に乗った水主懸命に船を漕ぎ、淡路の武島《むしま》に着き、海人の子供の介抱で活《い》き出ださせ給う。それから土佐の畑へ送れと御頼みあると、海士どもみな同じ心に、これほど美しく御渡り候う上臈《じょぅろう》をわれらが船で土佐まで送らんに、いずこの泊《とまり》にてか人の奪い取り進《まい》らせぬことの候うべきと辞し申すから、拠《よんどこ》ろなく武島に留まり、翌年北条氏滅びて親王都へ帰り入らせたまうて後、武島より(51)都へ迎え上らせられたが、ほどなく尊氏の乱起こり、親王、義貞、義助とともに北国に下りたまいし時、また御息所を都に留められたが、親王金崎で御自害、御中陰の日数終えざる先に果敢《はか》なくならせ給いければ、聞く人ごとにおしなべて羸《たぐい》少なき哀しさにみな袂をぞ濡らしける、とある。
 
 西暦一五〇〇年ころ、イタリア・トラヘッタ女公兼フォンジー女伯ジュリア・デ・ゴンツァガ、若き後家となりて、愛の花というアマラント草と不死という二語と組み合わせて紋章とし、死んだ夫と初めて会うた愛情は永劫滅せぬという意《こころ》を標したまま、一生両夫に見《まみ》えなんだは結構だが、トルコ帝スライマン二世その芙無双と聞き、見ぬ恋に憧れてアルゼリアの海賊大将軍バーバロサをして夜襲《ようち》して女公を奪わせたが、忠臣ありてこのことを告げたので、女公襦袢裸で騎馬し、その忠臣とともに逃げ了《おお》せたが、裸姿を見たと泄《も》らさるるを慮《おもんばか》り、後日その忠臣を暗殺したという。この行為《おこない》についての論は、今月の『民俗』に出る予の「話俗随筆」で見られよ。
 一説には、この時女公幸いに海賊に辱しめらるるを免れたが、自国の山賊の手に落ちた。ただし辱《はじ》は見なかったと一派に信《う》けらるるが、プラントム評にかかる暴戻無慙《ぼうれいむざん》の悪徒が餓えたるに、かかる美《よ》き鮮肉を喫《くら》わずに置くべきや、かかる場合に高位徳望も美女を暴人の毒手より救護するに足らずとあるが、それはそんな風の欧州で言うべきことで、わが邦ではむかし人民一派、いかなる悪党までも斎忌《タブー》ということを非常に慎み畏れた。さればこそ御息所と同乗した一人の水主、武島の海士《あま》は素《もと》より、松浦ごとき兇漢までも、むりにその身を犯すようなことはなかったんだ。聴《ゆる》しなくて高貴の身体に触るるを大毒物に触れるように畏れたのだ。この斎忌の制が不成文ながらわが邦にははなはだ厳に行なわれたので、日本国民は読書せぬ者まで、恭謙温厚の風、清潔を尚ぷ俗が万国に優れたのだという訳を、明治三十年ブリストル開催大英国科学奨励全人類学部で、開会の辞に次いで熊楠が読んだ。その後大英博物館《ブリチツシユ・ミユジユム》の博物部長レイ・ランケスターは、人のみならず畜生の別種族独立にも、この斎忌が大必要だ、と論ぜられた。
(52) 斎忌《タブー》の論は、そのうちにくわしく本紙で演《の》べるつもりだが、ここに一言しおくは、古えの神職に斎部《いんべ》、卜部《うらべ》、中臣《なかとみ》ありて、斎部は斎忌《いみ》、卜部は卜占《うらない》、中臣は祈?を司った。斎忌《タブー》は大体について言うと、仏家の戒律に当たる。ただ不成文と成文の別はある。とにかく人の所行《おこない》を取り締り、万事を慎重に持敬謹厚ならしむる、口筆で述べられぬ本邦特有の感化法だ。しかるに近ごろ政府の神道隆興策を見ると、語らずして国恩の有難さを何ごとの座《おわ》しますかを知らずに感じて忘るるあたわざらしむる神林、古蹟、はなはだしきは皇室に縁故ある塚墓《はか》までも、惜し気なく滅却せしめ、その代りに天理、蓮門等の俗教と別たざる卑陋な建築を起こし、無用|尸餐《しさん》の神職を殖やして、心から出ぬ祝詞《のりと》や無効の祈?を空誦せしめ、肝心の斎忌《いみ》ということに一向懸念なきは、周亡びんとしてその礼まず滅ぶというものだ。かの体操のごとく手を叩いて拝する作法や、拝むごとに烏帽子《えぼし》が男根のように起伏するなどは、礼の最も末なるもので、斎忌の心得なき者がかかる虚礼を習い演じるのは、まるで酔狂の沙汰だ。先帝御重患の際、官幣大社|日前国懸宮《ひのくまくにかかすのみや》へ朝詣りして御平癒を祈る者多かりしに、宮司紀俊とて、神社滅却の張本で、家は男爵、皇室の藩屏《はんぺい》と誇称する身が、手水鉢《ちようずばち》の水を替えるを五月蠅《うるさ》がったと、当時の『和歌山新報』の切抜きを僕は現に持っておる。この者は毎年神道講習と称し、到る処|絃妓《げんぎ》の婬を買い、警察沙汰にならんとしたことが多い。田辺だけは、予がいるので病と称して鬼門を避ける。篤《とく》と調べおいた物があるから、そのうち監督官庁へ出してやるつもりだ。かかる者が斎忌を根本とする神道の一県の取締りたあ糞が呆れるのほかない。一昨年、友人が私刊して朝野の名士に配った『南方二書』とて、紀俊ら和歌山県神社撲滅の無法を述べた物がある。小島烏水氏、これは一篇の日本罪悪史だと寒心して、雑誌『山岳』へ転載した。それにも紀俊らの不行儀を序《の》べおいたが、欧州諸国へも廻った物で、隠す必要はないから、重ねて執念《しゆうね》く彼輩の不都合を鳴らし置く。
 
 平家蟹は異形のものだが、これに関する古語里伝は割に少ないようだ。紀州の海浜の家にこれを戸口に掛けて邪鬼(53)を避けるのは、毒をもって病を去ると同意だ。喜多村信節の『嬉遊笑覧』に、「江戸|町屋《まちや》に、門戸の上に蟹の殻を掛け、また蒜《たんにく》をつるし置くことあり。これ上総の俗の転《うつ》れるなり。『房総志料』に、上総穂田吉浜の漁家、門戸に奇状の蟹の殻を掛け出だし、俗に言う、悪鬼を避くる禁厭《まじない》なり、云々。『夢渓筆談』に、関中には蟹なし、秦州の人蟹の殻を得たり、土人その形を怖れて怪物とし、瘧《おこり》を病む者あればこれを借り、用《も》って門戸の上に掛くれば病|差《い》ゆ、と言えり。ただ人のこれを識らざるのみならず、鬼もまた識らざるにや、と言えり」と見ゆ。古え朝家に、支那の礼に拠り除夜|駆儺《おにやらい》を行なわるるに、方相《ほうそう》氏とて玄衣《くろいきもの》、朱裳《あかいはかま》、熊の皮を蒙《かぷ》り、金の眼四つある、怖ろしい鬼の大親分を作り、一切の疫鬼《やまいがみ》を追うた。そのごとく平家蟹の顔は鬼も怖るると見立てて門に懸けるのだ。
 ちょうど今日地方の俗吏が、基本金を積み神主に月給多く遣らず、社費支払いが俗吏の定めた勝手規定より少ない神社は至急潰せ、潰さぬと叡慮に背《そむ》く、禁獄するぞなどと村民を脅《おど》しつけ、熊楠など気の毒に思い、人民の尻を推すと、種々雑多の圧迫を加え、この癇癪《かんしやく》持ちを怒らせ拘禁などしたが、東京の雑誌へ出したり国会へ持ち出したりすると、たちまち蛭《ひる》に塩で敗走しおるごとしじゃ。この輩悪いことばかり考えおるから、人相もしごく険悪で、岩永左衛門、志賀弾七、薬師寺次郎左衝門、鷺坂伴内等の役は、素面でも十分勤まる。さて収賄や官金着服等でたちまち廃官また禁獄され、昨夜無理往生で遣っつけた芸妓《げいこ》に今日は一昨日《おとつい》来いを吃《くら》う態《ざま》てったらない。倩《つらつ》らその顔貌《かおつき》を察するに、盛んな時は空威張りで怒り散らすこと島村蟹に異ならず、零落《おちぶ》れた時は糊口に由なく愁歎眉を寄せて清経蟹そのままだ。
 新井白石の説に、平家を世人が悪く言うはその事記が多く源氏の代に成ったからだ、実は一族みな西海で一度に亡びたところが、源氏の骨肉相害し二代で跡絶えたよりもよほど見事だ、とある。それに平家蟹などと悪名を付くるは遺憾ゆえ、今後は俗吏蟹と名づけたら好かろう。もっとも日本中の地方吏ことごとく悪人にもあらざるべければ、「和歌山県の或る俗吏蟹」と名づけたら至当だ。岡村金太郎博士の説に、房州とかで大葉藻《あまも》を「竜宮の乙姫の元結《もとゆい》の(54)切解《きりほど》き」と呼ぶが、本邦で最も長い植物の名だとあった。動物にこれに対する長名なきは残念だから、ちょうど平家蟹をかく改号したら好かろう。
 このことはロンドン大学前総長ジキンス男の勧めにより、五百頁ばかりでグラスゴウ市で出版すべき「南方熊楠自伝《ゼ・オートバヨゲラフイー・オヴ・ミナカタ》」にも、神社合祀、山林乱伐、名勝破壊、史蹟減却、民俗擾乱に反抗して、妻子とも種々無惨な目に遭わされた記事中に書き入れあるから、ここに予告しおく。十室の邑《ゆう》忠信|丘《きゆう》のごとき者ありと魯聖は言われた。田辺は小さい所で、日本の科学者は大抵気力なき糞蛆《せつちむし》ごとき者だが、小を侮るなかれで、熊楠ごとき剛直の者もあるは真に国家のために慶賀すべきことと公言しおく。俗吏に対する怨念で僕の顔も平家蟹のようになって書くのだ。
 
 建部綾足の『折々草』に、赤間関《あかまがせき》にて平家蟹を売る、「最《いと》赤きものは必ず眦《まなじり》逆上《さかのぼ》り怒れる面相《おもざし》したり。また白きものは面相もまた甚《いと》温柔《おだやか》なり、云々。さて、その蟹の面《かお》のさまを見分きて白くもし赤くもす。赤きものは酒もて煮たるなりという。また面の怒れると和らぎたるとは、この蟹の雌雄《めお》なりと言いし。さるは白き方をば公達《きんだち》蟹と名付けて旅人には売るなり、と語りき」とあるが、白いのは波で曝《さら》されたのだ。この蟹の面相は長《としと》るとだんだん薄らぎ判然《はつきり》せぬ、それを綾足は和らぎたる顔と言ったものか。また西沢一鳳の『皇都午睡』に、伊勢の団友、讃岐の浦にて、「海鼠《なまこ》ともならで果てけり平家蟹」と句を作り、夢に蟹どもに責められ、「海鼠ともならでさすがに平家なり」と再案した。これ「景清」の謡《うたい》にも叶いたる、手《て》に波《は》自然と備わり、句振りも格別じゃ、とある。これは「景清」の謡曲に、「さすがにわれも平家なり」という詞あるを言ったんだ。動物の形体は無茶にできたものでなく、それぞれ生活相応に構成されおる。和歌山県の多くの俗吏が月給不相応な巨室に棲み、艶妾を蓄え、分かりもせぬ骨董を捻《ひねく》り廻し、たちまち収賄の尻《けつ》が露《あが》るに比ぶると、畜生の方が出来が好い。すでに『琴責』の戯曲《じようるり》にも、『荘子』から、鶴の脚長しといえどもこれを断たば患《うれ》いなん、南方先生は片陰嚢《かたきん》だがこれを整《そろ》えると股が擦り切れる、と引いたでないか。
(55) 発端にちょっと述べた英国の仮面蟹《めんがに》は何故第一図のかたちを具うるかと問うと、此奴《こやつ》は(イ)図のごとく常に泥沙《どろすな》に身を埋め、喙《くちばし》と眼だけ出して近処を見廻し、また長き角二つで聞き廻し、さて食えそうな小動物があると見ると、長い手を出して挟み食う。食い訖《おわ》ってたちまちまた深く身を埋めるに疾捷《すばや》いよう身が長くて狭く、螫《はさみ》と角《つの》がなるべく遠方へも届くために、(ロ)図のごとく細長いのだ。さてまた平家蟹、改号和歌山県のある俗吏蟹(第二図)は、上に引いた『本草啓蒙』に見えた通り、四脚は長くて横に付き、今四脚は短くて背に付き、四脚と四脚の屈み様が違うて、横の奴は這うばかりだが、背の奴は自在に物に鉤《ひつかか》り得る動作|如意《によい》と出来おる。
 僕は帰朝以来十三年熊野に僑居し、一向近ごろの書籍雑誌を見ぬから斬新な学説に疎遠だが、僕が欧米におった時、この蟹の脚に関する学説といったら、ステッビングの『介甲虫《クラスタセア》篇』に概述された通り、ヘルブストはこの蟹は大小の脚を二列に具えて?《からだ》の前の方でも後の方でも走り得るのだと言い、ある学者は小さき脚もて殻の背に物を持ち上げるのだと言い、またあるいは他の動物がその背を犯すを遂い除《の》けるためだ、と説いた。(56)いずれも篤《とく》と生きた蟹について実験しなかった推測論だ。しかるに、和歌山に三十年ばかり前、僕の亡父の持った地面に、丸之内の千草庵とて名高い風雅な花屋敷があって、島尾得庵なども毎々来寓された。主人も至って雅人だったが、その子に今は亡き数に入った鳥崎静太郎、この人は維新後東京で物産会を再興した本草家織田信徳氏に学び、おびただしく蟹類を集めたが、毎度平家蟹を生け捕って海水に飼養し慰みとした。ある日僕に語られたは、この蟹を箸で仰《あおの》けに仆《たお》すと、背に付いた小さき脚で身を柱《ささ》え起こし、造作もなく本位《もとどおり》に復《かえ》る、と。僕その時十七、八だったが、さてはこの蟹風波烈しき浅海に住み、仰《あおの》けに仆されるが毎々ゆえ、その時たちまち起き得るために横と背とに大小二様の脚を具うるんだと考え、日記へ書して現存する。十九の時米国に渡り、三十四で英国から帰り、今度本紙で平家蟹のことを読むまで別に念に留めなんだ。
 
 当田辺町に今川林吉という人おびただしく蟹類を集めおると聞いたから、七月十二日の本紙堺の水族館の記に、「滑稽なのは平家蟹で、何か背負うていないと納まらない性《たち》だから、嬶《かかあ》が死んだらその亡骸《なきがら》を死ぬまで背負うている。誰も死なない時は石を背負うそうな」とあるを見て疑いを起こし、判断を問わんがため今川林吉氏を訪うと、ただ見る三間半ばかりの表屋《おもてや》を二つに区《へき》り、一方は牛肉小売、一方は斬髪床で、主人林公、眉目清秀、音吐|嚠喨《りゆうりよう》、昼は剃刀《かみそり》と庖丁を把《と》って雑客の髭髪を剃除《そりおと》し、夜は早仕舞いで風流俳諧を事とする執心のあまり、事に触れ物に興じて、猫|洗顔《ちようず》使い犬|情《さかり》を起こすもたちまち句を吐かざるなければ、四隣|他《かれ》を開口諧床林《かいこうかいどこりん》と喚び做《な》す。現に肉を吊《ぷらさ》げた傍にも一軸を厳然と懸けたるを見ると、賞花庵ぬしの初音《はつね》を祝うと題して、「曇りさすまとひもなくて和清天《わせいてん》、素雄。藪鶯《やぶうぐひす》の老い初めし朝、酔夢」。これは前年初老の時の吟で、素雄は当時の宗匠、主人の号が酔夢だそうな。その他、「海にさす影|和《やは》らかき茂りかな、酔夢」などと、流行《はや》る稲荷祠の手拭のように手洗鉢辺は白吟の短冊だらけだ。ダーウィンはブラジルの林中にインジアン土蕃がヴァーギルやタシツスの古文を玩味し楽しみとするを見たとか言うが、燈台|本闇《もとくら》(57)しで御膝元のこんな所にこれほどの畸人がおるとは記が付かなんだ。名を聞くは面を見るに如《し》かず、面を見るは名を聞くに勝れり、挨拶済んで、平家蟹の一件を持ち出すと、当地に少なからぬ物ゆえ毎度|畜《か》うて見たそうでその経験談を聞いて大いに得るところあった。氏の話によると、平家蟹は底が砂で小石が散在する海に棲む。潮水を取り替えて飼えば幾日でも生きおる。仰けに仆せば背の小脚でたちまち身を柱《ささ》え起こすは、いかにも島崎氏の説のごとし。だが外にまだまだ面黒《おもくろ》いことがある。
 すなわちかれを飼うた水盆中に石片を多く入れ置くと、必ず小脚で一石片を負う。それから思い付いて盆の一半を板で蓋い薄闇くすると、幾度も幾度も石を背負うて陰に運び置き廻りて、ほどなく畑中の糞壺の雨防ぎに被《かぶ》せた藁小屋様の円廬《えんろ》を作り、一方に口を開けて中に棲む。幾度崩さるるも倦まず撓まず立て直す。この蟹の背に忿怒の面相あるは誰も知るが、腹も熟《とく》と視ると朧げながら鬼面の相がある。して見ると、甲の内の臓腑の配置が外に露われて偶然異相を示すのだろう、と。今まで書物でも見ず気も付かなんだことを教えられ、大いに天狗の鼻も折れ仕方がないから、『三国志』、諸葛武侯、司馬懿《しばい》に巾幗《きんかく》を贈って戦いを挑む、巾幗は婦人の飾りなり、懿怒って決戦を請う上表の文に、豈《あに》知らんや野夫にも功者ありとは、貴公などを指したんじゃ、陳勝は出世したら相忘れじと言った、立身したら用いて上げるから忘れずにおるがよい、しかし昔から床屋から立身した人を聞かぬから、こんな約束はまず廃《よ》そうと悪《にく》まれ口を吐いて逃げて来た。これは当県の役人ら、人民に対して冷淡無情、物を教えてもらって恩を仇で返すこと万《よろず》この通りだから、吾輩ごとき素性の良い者にすら悪風が徙《うつ》ったのじゃ。さて学問は活物《いきもの》で書籍は糟粕だ。書に見当たらぬことも間違ったことも多く、大家碩学の作述には至極の臆説もあるは、上述平家蟹に関する西人の諸説でも解《わか》る。
 
 科学の学理のと大層に言えど、やはり過去無数劫来、無学の者が経験を積んで来た結果に外ならぬ。指南針、火薬(58)の発明は申すに及ばず、海潮の原理、地震の観測、弾性|護謨《ゴム》の応用、色摺《いろずり》の板行、その他東洋人が西洋人に先鞭を著けて成功したものも多くある。今月十五日の『日本及日本人』に雪嶺が論じたごとく、顕徽鏡の発明前の生物学は、東西とも似たりはったりの愚説で充溢しおった。このことは僕も『ネーチュール』その他の欧米雑誌で年来発表するところあり、わずか数百年来東洋が西洋に科学が後《おく》れおるが、その前にはさまで西洋に劣らなんだ次第を述べて、いささか東洋のために気を吐いたつもりだが、追い追い本紙でも叙べることとしょう。
 西洋で顕微鏡やいろいろの機械の発明があって、大いに科学が勃興改進した蹟《あと》は誰も認めるが、今一つ心得て欲しいのは、十五、六世紀までは西洋でも古書を読むを唯一の学問とし、書籍にないことは知るに足らずとしたのを、そのころから学者が古書を疑い、書外にみずから実験を試み、また書籍に見えぬ俗伝や口碑によっていろいろと研究した一事だ。近代生物学の中興と言わるるスイスのゲスネルは、ドイツのプリニウスと呼ばれた大博学の人で、生物諸類の譜を大成するに苦辛し、乞食ごとき態《ざま》で諸国を走《は》せ廻り、牧童の話、漁婦の言をすら蔑《さげす》まずに記し留めて実否を試《ため》したという。
 わが邦の科学材料に外国と異なる物多きは勿論で、したがってわが国に分かり切ったことも外国人が一向知らぬが多い。鯢魚《さんしよううお》、銀杏《ぎんなん》等むつかしい物はさておき、明治八年にチャレンジャー号に乗って本邦へ海洋の観察に来た学者が、日本の女が水の代りに湯を飲むを見て驚いた。また、やつと去年できた英国の農書に、日本で人糞を肥料にするを初めて知ったようなことを書いておる。そんな東洋を見ぬ泰西人の書籍のみ読んで、それに載せぬことは学論にも研究にも適せぬことのように思いおる人が多いらしいのは実に歎息の至りだ。しかして、彼方には鋭意|弥《いや》が上に学術の改進を謀り、友人ウィルフレッド・マーク・ウェブなどは、自然研学《ネーチユールスタジー》とて書物を全く離れて山野海河に生きた物を自然任せに観察する方法をさえ実行しおる。
 しかるに、本邦には板権専有期限の切れるを俟って二、三十年前の洋書を翻訳する外に、たまたま新説を聞き込ん(59)でも、昔の公家が歌道を専有したように、博士学士の秘蔵として金にならねば世に弘めず、大金出して講釈の切売りを聞いても二伝三伝の受売りゆえ、多くは形骸のみで精髄を得ず。いわゆる本職の学者に融通の付かぬ駑才《どさい》多く、一事を仕出《しでか》すべき英俊はそのことに必須の智識を心得置くに途《みち》なきがゆえに、両方共に両損で終わる。前年北尾次郎氏 が何か数学上の発明をしたが、ドイツ人が少し早く発表したを知らずに苦辛して考え出したところで後れいたという。それと比類にはならぬが、僕も二十年ばかり前ヘブリウ語を学んだ折、本邦で斉?果《さいとんか》という漢名を「ちさのき」と読ますが、実はアラビア語のザイトンを唐訳したので、ザイトンはオリブ樹のこと、また『酉陽雑俎』の斉?樹の記載も全くオリブに合うておると考えて、英国の一雑誌へ投書したが、漢字を入れねば分からず、漢字を刷り込むは面倒とて没書となった。
 
 さて近く妻木直艮氏から明治四十四年一月の『東洋学報』を得て読んで、初めて明治四十二年の『亜米利加《アメリカ》東洋協会雑誌』にフリドリヒ・ヒルトが予と同様の説を出だしあるを知ったが、幸いに、明治四十年六月十三日の『大阪毎日』に、牧野富太郎氏の「オリフ樹の漢名」なる小篇ありしに対し、同年十二月の『東洋学芸雑誌』にオリフのもっとも古き漢訳名は斉 壊樹なる由を述べ置いたので、幸いに外人に発明の先鞭を著けらるるを免れたが、そんなこととは自分でも今年一月まで知らずにいた。東西の交通に手間を取り、その他いろいろの障碍多き本邦にいて、西洋の新智識、新出来事を相応の時日中に聞き知るちうことは、ずいぶん諸事を抛ちて注意尽力する吾輩ですら及び難きことかくのごとしだ。いわんや吾輩ほどの熱心なく、学位は看板、講義は俗を護摩化《ごまか》すの具と心得たる輩においてをや。またそんな者におのれを空しうして信頼する輩においてをやだ。
 よって思うに、遠邦の新智識、新出来事をわが民間にあまねく伝え参考に供するなどは、今日の学制では到底成らぬことだが、前にも申すごとく学問智識は欧米人の専売にもあらず、その材料は日本にも随処充満し、外国よりもわ(60)が邦に研究の便宜多きもの至って多い。されば一足飛びに欧米の偉人と相馳駆《あいちく》するような大発明大発見は二代後十代後の子孫に期することとするまでも、いささかも国の令名を揚げ同胞の幸栄と改進を冀《ねが》わるるの人は、身分、職業等、外相《げそう》の差別に頓着なく、例の下女の噂、芸妓の与奪など、和歌山県の官公吏が多くおのれの位置を忘れて熱心に恥を曝《さら》すようないかがわしきことに、十分なり二十分なり潰す暇があらば、これを自然の現象・動植物の観察、物理化学の実験等に応用されんことを切に望む。たとい世に知れずに終わるとしても、床林《とこりん》君が二十年前まで(おそらくは今日までも)欧米の学者が確言し得ざりし平家蟹の脚に大小ある理由を、誰に教えられずに気が付いて実験確証したのは、吾輩の眼から見ると、文化の昔、間宮林蔵が樺太と韃靼《だつたん》の間に海あるを創見したと並べ称しても苦しからぬ偉功じゃ。
 これを和歌山県の俗吏が、東京辺で聞き?つた筆記を米櫃の材料に町村を押し廻り、実際西洋の大学者よりも近海のことに明るい漁夫を駆り催し、微幺浮游生物《プランクトン》は魚に必要だからそう心得ろなどと、心得たところで何の益もなく、実は欧米ですら何たる定説もないので研究着手最中のむつかしいことを鵜呑みに講じ、それで漁民の膏血から月俸を搾り上げおるなどは、人のために官を設くで?倒もはなはだし。実は欧米人が調べに来ぬうちに、わが国水産物に関する古伝、俗信、里諺、児謡までも網羅して聴き取り、綜合して発見発明の大材料となし置くべく、それについては一童一嫗の説をも善思念之《ぜんしねんし》すること、上に述べたゲスネルが生物学中興に尽力奔走、日もまた足らざりしがごとくなるべきだ。右床林君の独立観察の大益ありしに感じ、平家蟹の話を述べた中ほどで俗吏蟹と改称して見たが、「衣《ころも》新しきに如《し》かず、友|旧《ふる》きに如かず」で、かかる慣れ来たったことは容易に改め得ぬもの、また改めて何の益なきことと悟った。官人が日傭根性で神社合祀とか講習開催とか入りもせぬことに人騒がしをやり、手間賃を取るもその時ばかりで跡を留めず元の木阿弥《もくあみ》に復《もど》るもこの例に同じ。   (大正二年九月二十日−二十八日『日刊不二』)
 
(61)     同性の愛に耽る女性
 
 本月十七日の本紙に「洋語で女子の間に行なわるる同性愛のことをトリバジーというのは、ギリシア古代にトリバスといえる女があって、これに耽り世に浮名を流したがためで」とあるが、ギリシアの古書を閲するにトリバスという女なし。しかして僕が知れる諸書、たとえば一八七七年パリ板、ジャクー博士纂集『内外科新辞彙』巻二四、一八九四年新板、ガーニエー博士の『オナニズム篇』等、いずれもこの語はギリシア語トリベイン(仏典にいわゆる摩触《すりさわる》の義)より出ず、としある。ギリシアのホマーとへシオッドを本邦の人麿・赤人に比ぶると、差し詰め衣通姫《そとおりひめ》に当つべき女詩聖サフォは、確かに知れぬがまずは西暦紀元前六百年ごろの人といえば、詩道の大聖ホマーより四百年、ヘシオッドより二百年後だったらしい。富人ケルカラに嫁ぎ一女を生んだ後、女は女ばかり団《かた》まり棲むべしと主張して、女子多く集め男子を避けて棲んだ。アミクテネ、アチス、フィリネ、チルネ、アナクトリア、ゴンギラ、エウニカ等、名高《めいこう》の女でその社に入った者が多い。その住所がレスボス島で本人の名がサフォだつたから、今に婦女相愛をレスボスの愛と称し、特に口をもってその事を遂ぐるをサフィズムすなわちサフォ流と呼び、口を用いざるをトリバジーと名づくる。
 仏の律蔵にはこれらの諸犯を精細に制戒しある。例せば東晋の三蔵法師仏陀跋陀羅、沙門法顕と共に訳せる『摩訶僧祇律』三五に、仏、迦維羅衛《かびらえ》国|尼拘類樹《にくるいじゆ》釈氏精舎に在《おわ》せし時、聚落中《むらのうち》いまだ精舎《てら》あらず。頼?《らいだ》比丘尼止むを得ず釈種の俗家に寄留して、釈種の年少《わかもの》に教授す。頼?比丘尼身色端正にして、いまだ離欲せず。弟子の年少また端正にして離欲せず。一日のうち三たび来て経を受く。比丘尼しばしばこれを見て欲心|耽著《たんじやく》、ついに病をなし顔色萎れ黄ばむ。諸比丘尼病を問うに、自然|愈《い》ゆべしとて薬を用いず。その少年《わかもの》また問うに、医者も介抱も薬も入らぬ、これ身病なら(62)ず心病なり、汝わが病を差《い》やす親切ありやと問い返すから、ありと答え、何物が効験《ききめ》あるかと問う。「比丘尼いわく、共にこのことを作《な》さん、来たれ、と。年少答えていわく、敢えてせず、余は出家人にして袈裟を被《き》る者なり、われすらなおこの心を生ぜず、いわんやこれ師はわが尊重するところなるをや、と。またいわく、もし能わざれば、ただわれを抱きて嗚《くちづけ》し、わが上下を捉《つか》みて捫摸《なでさす》れ、と。答えていわく、ただかくのごとくするを須《もち》うるのみなれば、われよくこれを為さん、と。すなわち抱きて嗚し、両乳を捻捉《つま》み、上下を摩捫《なでさす》り、適意するを得。已後《いご》しばしばかくのごとくす、云々」。余《よ》の比丘尼諫むれども、「われこのことを作《な》せば、すなわち悦楽を得」とて聴き入れず。諸尼これを仏の養母で尼衆の統領たる大愛道に語り、大愛道これを仏に語り、仏、頼?比丘尼を詰《なじ》るに、実に然ることありしと白《もう》す。仏、よって制戒す。「比丘尼の漏心のごときは、男子の辺に漏心して、肩以下膝以上を摩触《なでさわ》りて楽を受くれば、この比丘尼は婆羅夷罪たり」。他の諸尼共に住すべからず。肩以下とは「乳房|已下《いか》」を言い、膝以上とは「大髀《ふともも》の上、臍に至る」、摩触とは「手を移して摩捫《なでさす》る」をいう、とあって、比丘尼が不能男《ユーナツク》また女人とこれを行なう罪名をも定めおる。唐の義浄、制を奉じて訳せる『根本説一切有部?芻尼毘奈耶』一八に、仏在世の時、怨愛、上愛の二尼、「同じく一牀にあり、男と女のごとく、与《とも》に戯楽をなす。一《ひとり》の尼、のちについにすなわち娠《はら》むあり」。月満ちて一肉団を生むに、諸根、手足、みななし。仏命じて日中に置かしむるに、悉皆《しつかい》消散す。よって、その真《まこと》の胎児にあらざるを知り、二尼同牀に臥すものを波逸底迦《はいつていか》罪とした。
 欧州にも、男子に接した女が直《じき》後《のち》に他の女とトリバジーを行ない、男精を伝えて懐妊せしめた例が医書に載っておる。両尼サフィズムを行なうた例は律蔵に見えたが、劉宋訳『弥沙塞部五分律』二七に、「比丘、男根をもって比丘の口中に刺れ」、仏ために制戒したことがあるから、尼が行《や》った場合もこれに准じて罰したのだろう。近ごろは知らず、昔はわが邦のトリバジーにもっぱら角先生《ガウデミヒ》を用いし証多し。古書にいわゆる男橋形《おはしかた》だ。姚秦訳『十誦律』に、「もし比丘尼、樹膠をもって男根を作り、女根中に著《お》けば、波夜提《はやだい》となす。もし韋嚢《かわぶくろ》、脚の指、肉臠《きりみ》、藕根《れんこん》、蘿?《だいこん》の根、(63)蕪菁《かぶら》の根、瓜、瓠《ひさご》、梨を、女根中に著《お》けば、みな波逸提となす。作る時は突吉羅《ときら》となす。もし他《ひと》の女根中に著《お》けば、突吉羅となす」。これにて独り用いし場合と二人用いし場合あるを知る。
 本年六月の『郷土研究』、僕の「紀州俗伝」中に引いた通り、『?芻尼毘奈耶』一七によると、勝鬘《しようまん》妃が「もし王あちざれば、われは樹膠を取り、かの巧人《さいくにん》をして生支を作らしめ、用いてもって意を暢《の》ぶ」とて、吐羅難陀《とらなんだ》尼にその用方を教えたのだから、仏在時インド王の後宮に行なわれいたんだ。すなわちインド人そのころすでに弾力ある樹膠《ゴム》を製しながら、これを社会大有用の諸機械に作るを做《せ》ず、わずかに宮中や寺裏の淫具に適用したのだ。南米土人も弾性|護謨《ゴム》を早く作つたが、何たる必要の具と為《せ》ず、これを焚いて神を迎うるに供した。また徳川氏の世に、仏国へ奥女中|用《むき》の角先生《ガウデミヒ》一具を渡し、現に保存されおる。薄き金の板で作り、脈筋《みやくすじ》絡《まと》い、両端におのおの一丸あり、丸中に水銀を盛る。微《すこ》しくこれを動かせば水銀脈を伝うて走り、振盪|良《やや》久しく止まず。その機巧《からくり》実に驚くべし。これほどの妙機を作り出した才力もて世間一般に有用の物を考案創製したなら、汽船、汽車、電信、電話は欧米に先んじてみな日本人の発明に帰したはずだ。ちょうど磁針の南北を指す力は支那人もっとも早く見出だしたが、国が大陸続きで遠航の必要なく、ために永々磁針を風水すなわち地相や家相を観る迷信の用にのみ供せられたに同じ。実に惜しいことじゃと毎々《つねづね》予に語られた仏国知名の士があった。
 
 往年僕在英の折、シェパードという絵師、本邦の浮世絵、枕絵を買うこと断えず。よほど好淫の人と僕大いに呆れたが、帰朝して五、六年立たぬに、かの人初めて三色写真板の発明ありしを知り、往《さき》に春画を集めたは浮世絵の中で春画がもっとも真に逼るを要し、したがって着色印刷に最も力を入れておる。その印刷方を精究して新発明するところあったのだと別《わか》り、前日他を笑いしを大いにみずから慙《は》じた。菊池大麓男の説に、旧幕の役人は万事に窮屈で、少しく異《かわ》ったことを説き奇な物を発明すると、たちまちこれを世を危うくするものとして禁錮追放、はなはだしきは死(64)罪に処した。玉川上水を考え出した者なども、御用が済むと事に托して誅せられたとあったよう記憶するが、日本に限らず欧州中古久しく暗黒時代で、アラビア人が盛んにギリシア・ローマの開化を継述し、発明発見多かりしに比して全くの蛮夷同前だったのも、一に言論動作の自由を圧《お》さえ、社会に益するような発明発見の端緒《いとぐち》さえ着手し能わざらしめたに由る。
 道は糞土《ふんど》にありと古支那人は言つたが、果たしてアンモニアその他大有益の物料を糞土から取りおる。前通信「平家蟹の詰」の末にも述べた通り、わが邦には他国で手に入らぬ研究材料がおびただしくある。みなよくこれを応用したなら、その得るところ、徒《ただ》に春画から三色写真板を案出したくらいのことでない。これ大いに為政者のみならず国民一同の注意を須《ま》つところだ。何と己等《おいら》の講釈はトリバジーなど詰まらぬことに始まって、しごく真面目な教訓に終わる段、いつもながら感心の外ないだろう。
 さて、サフォと同時に彼女と対抗するほどの偉女数あって、いずれも男嫌いの女団に長たり。なかんずくゴルゴとアンドロメダの二女、最も名あり。サフォ、詩を作って彼らを嘲り、また自分の弟子が彼らに趣くを詰《なじ》ったり、とスミスの『希羅伝記神誌名彙《ジクシヨナリー・オヴ・グリーク・エンド・ロマン・バヨグラフイー》』巻三に出ず。英国の詩人、故ジョン・アジングトン・シモンズの遺著『希獵道義学の一問題《ア・プロブレム・イン・グリーク・エシクス》』、十二年前わずかに百部印行され、僕も一部を得たが、その十九章に、男子の同性愛がギリシアで特異の道徳を生じ、大いに敬慕されたと反対で、女子の同性愛は始終性欲の堕落したものと蔑視され、何たる特異の道徳らしいものを生ぜなんだ次第を論じおる。
 しかし、僕の所見をもってすると、尼などが男子から見て道徳堅固で一生何の醜聞もなく了《おわ》った者の内実は、同性愛で秘密に欲を慰め過ごしたのが多かつただろう。また武士が女を避けて同性慾で武勇を励んだ同様、武勇で鳴った婦女中には同性愛のみで満足した者も多かったろう。故リチャード・バートン、一八六二年西アフリカのダホメイ国の女軍を見て、その猛威を称したが、年長の女兵いずれも若き女兵を妹とし同性愛の語らいをした、と筆しおる。故(65)に、ある社会に取っては女子の同性愛が全然何の功なきものとも言い難い。
 支那で書に見えて古いのは、有岡の里人が引いた『漢書』の二宮人|対食《たいしよく》せりと言うに次いで、『漢武故事』に、皇后寵衰えて驕妬|滋甚《はなはだ》し。女巫《みこ》、楚服して言う、よく帝の意を回《かえ》さん、と。昼夜祭祀し薬を合わせて后に服せしむ。巫《みこ》、男子の衣冠?帯を着け、素《つね》に皇后と与《とも》に寝居《ねおき》し、相愛夫婦のごとし。上《じよう》聞いて巫と后と諸妖蠱|呪詛《じゆそ》し女にして男婬せるを究治し、みな辜《つみ》に伏す。そこで后を廃して長門宮に処《お》く、とある。康煕辛未に成った王阮亭の『池北偶談』巻二五に、山東済寧に四十余の婦人|寡居《ごけぐらし》数年にしてたちまち陽道を生じ、日々その子婦《よめ》と狎《な》る。久しうしてその子官に鳴《もう》す。事怪異にして律に明文なきをもつて空室中に閉じ置き、飲食を給せしむ、十三年前のことなり、とある。『改定史籍集覧』二四冊に収めたる『鈴鹿家記』に、応永元年十二月二十七日、大寒、御小姓衆、女小姓、云々、とある。僕は小姓という名がいつ始まつたか知らぬが、この女小姓は男小姓に対した名で、後々奥女中のトリバジー相手にしばしば用いられたものと想う。また後漢の安世高訳『仏説 奈女耆域因縁経』に、?女《ないによ》そのころ無双の美女で、仏に謁した時、仏、諸比丘を特に戒めてその色に惑うなからしめた。博学で、星暦、諸術、音楽等、その妙を極めざるなし。諸|迦羅越《からおつ》および梵志《ほんし》家の女、合わせて五百人従学して大師となす。?女、常に五百弟子に経術を授け、あるいは相|与《とも》に園池に遊戯し、また音楽を作《な》す。国人その故《わけ》を解せず、すなわち譏謀を生じ、呼んで婬女となし、五百弟子をみな婬党と号《なづ》く。また須曼女と波曇女あり、?女が?花より生ぜしごとく、須曼花と青蓮花より生ぜり。顔容《かおすがた》絶世なれば、求娉《よめいり》を申し込む者多かりしも、二女いわく、われら胞胎に由らず草花中に生まる、凡人と同じからねば世人に随嫁せんや、と辞退す。?女、聡明にして容貌絶世、与《とも》に譬うる者なく、かつ花より生まれしと聞き、父母を辞し、往いて?女に事《つか》え弟子となって経を明《あき》らめた、とあるはすこぶるサフォの女団のことに似ておる。
 追記。前文『十誦律』より引いた天然産の角先生《ガウデミヒ》の例はインド外にもある。明治四十年早稲田大学発行、久米博士の「奈良朝史」四九七頁に、鎌倉府より少し前に成った『古事談』の発端から、ある女主が道鏡をなお不足で薯(66)蕷《やまのいも》を用い、病んで神去《かんさ》りませし本文を引きおる。支那には『本草綱目』に、鎖陽は野馬や蛟竜が遺精した跡へ生える、その状《かたち》絶《はなは》だ男陽に類す、「あるいは謂《い》う、里の淫婦、就いてこれに合すれば、一たび陰気を得て勃然怒長す。土人掘り取って乾かし、もって薬となす。大いに陰気を補い、精血を益《ま》す」、とある。フルイキゲル博士その実物を検せしに、蛇菰《つちとりもち》科に属するチノモリウム・コクチネウムとて狗《いぬ》の陽物に似て赤い草だった、と一八九五年上海発行、ブレットシュナイデルの『支那植物篇《ボタニコン・シニクム》』に出ず。一六七五年板、タヴァーニエーの『土耳其《トルコ》帝後宮新話』二五三頁に、宮女に胡瓜を売るに必ず切片《きりへぎ》て売る、全きものを得て淫事に用いるを防ぐためだ、とあり。一六七九年板、ピラール・ド・ラヴァルの『航海記』に、マルジヴ島でプイタランとて甘蕉実《パナナ》で相|娯《たの》しむ貴婦人の団体三十人ほど罰せらるるを見た、とある。   (大正二年十月一日、二日『日刊不二』)
 
     情事を好く植物
 
 「同性の愛に耽る女性」に述べた通り、支那で健陽剤とする鎖陽という草は、学名チノモリウム・コクチネウムとて、蛇菰《つちとりもち》科に属し、色赤く狗《いぬ》の陽物に似た物だ。その形から思い付いたらしい珍説を『本草綱目』に載せて、鎖陽は野馬や蛟竜が遺精した跡へ生える、状《かたち》絶《はなは》だ男陽に類す。あるいは謂う、里の淫婦、就いてこれに合すれば、一たび陰気を得て勃然怒長す。土人掘り取って乾かし薬とす。大いに陰気を補い、精血を増す、と言っておる。
 この物は日本に産せぬ。この物の属する蛇菰科の物は三種ばかり日本にあると記憶する。蛇菰は琉球にあること古くより知れおったが、松村博士が往年伊豆で見出だし、それから土佐や信濃でも見出だしたと覚える。紀州でも東牟婁郡|大甲山《たいこうざん》の産を予が持ちおる。今一つ奴草と《やつこそう》いう奴は前年土佐で見出だされ、次に予が那智山二の滝の上で穫った。今一種はちょっと憶い出さぬ。いずれも寄生植物で、多少男根に似ておる。
(67) また支那で強陽益補剤とする肉?蓉《にくしようよう》というのも陽物状の物で、野馬の精液地に落ちて生ずるところという。これは列当《はまうつぼ》科のペリペア・サルサという草で、シベリア南部や蒙古等より塩蔵《しおづけ》して支那へ輸入する。わが邦の本草家は従来同じく列当科の「きむらたけ」また「きまら」また「おにく」という物を肉?蓉に充てておった。これも男根様の寄生植物で、全体|麟甲《うろこ》あり、長《たけ》一尺余に及び、黄褐《きちや》色で、「みやまはんのき」の根に付き生ず。日光の金精峠の産もっとも名あり。金精神を祭った山で、金精を「きんまら」と訓む。それを略して「きまら」、それから「きむら」というのだと聞く。壮陽益精剤として富士山等でも売る由。学名はボシュニアキア・グラブラだ。
 これらの植物いずれも形が陽物に似ておるので、同感薬法から健陽益精剤と見立てられ、また野馬や蛟竜の遺精から生えるの、淫婦に合《とぼ》されて陰気を得ると怒長するのと汚名を受けたのだ。同感薬法の訳は、月刊『不二』初号九−十一頁に載せ置いた。
 南欧州や西アジアで古来マンドラゴラという草を呪術《まじない》に用い、また薬料とし、情事《いろごと》の成就や興奮の妙剤としてすこぶる名高い。非常な激毒あって、ややもすれば人を狂せしむる。アラビア語でヤプロチャク、これを支那書に押不盧薬と訳し、尤《いと》信じ難い話を載せおるが、その話は支那人の手製でなく欧州の古書にも載せおる。明治二十八、九年の『ネーチュール』雑誌に予その論を長々しく出し、独蘭仏諸国の学報にも転載されたが、これはまた後日別に述ぶるとしょう。この草の根が人体の下腹から両脚の状《さま》に似ておるので、やはり陰部のことに妙効《ききめ》ありとせられたので、わが邦で婚儀に両岐《ふたまた》大根を使うのも似たことだ。
 レオ・アフリカヌスが十六世紀に書いた『亜非利加記《デスクリプチヨネ・デル・アフリカ》』第九篇に、アトランテ山の西部にスルナグという草あり、その根を食うて陽を壮《さか》んにし歓楽を多くし得る。たまたまこれに溺《ゆばり》する者あらば、その陽たちまち起立す。アトランテ山中に羊を牧《か》う童女《きむすめ》他の放《わけ》なくて破膜せる者多きは、みなこの根に小便しかけたからだ。この輩ために素女膜を失うのみならず、全身草毒で肥え太《ふと》る、とある。
(68) 一八九六年版、ロバートソン男の『カフィル人篇』四三三頁に、ヒンズクシュの山間アガルという小村に妙な草あり。鉄砲で打ち裂くと、その葉が地に落ちぬ間に砲声に驚き飛び散る鳩がことごとく銜《くわ》えて去る。かつて一男子この草の葉を得て帰ると、十余人の女子が淫情勃興制すべからず、坤吟《うなり》ながら付いて来る。内へ帰ると母出で来たり子を見るや否、声を放ち、お前は何物《なに》を持って来たのか、妾《われ》たちまち何とも気が遠くなって来て耐え難い、何であろうと手に持った物を捨てて仕舞えと命じたので、その葉を投げると、大きな樹の股に落ちると同時に樹の肢が二つに裂け開いた、とある。これ最も猛勢な婚薬で、婦女を破るの力烈しく、婦女これに近づくと性慾暴発して制すべからず、しきりに破れんことを求むるものらしいが、一向信をゥ《お》くに足らぬ譚《はなし》だ。
 
 前に述べた肉?蓉、鎖陽、「きむらたけ」等を健陽剤とするは、いわゆる同感薬法で、精神作用上これを信ずる者には多少利くこともあるべく、今日学識進み一向そんなことを信ぜぬ人には何の効もなきことながら、ここに一考を要するは、これらの植物が多種の帽菌《かさたけ》類と等しく人陽の形を具えおる一件だ。
 このことについて、過ぐる明治二十九年春、予しばしば当時ロンドン付近のチルベリー渠《ドツク》にあった富士艦士官室へ招かれ、士官の心得になるべき講釈をなし、今の海軍大臣斎藤実君なども当時中佐で謹聴された。その時たしか只今海軍中将たる坂本一君や野間口兼雄君に語ったと思う。軍人は武勇兵略を第一とすることだが、英国などには武人に科学の大家が多い。これはその人科学に嗜好深く、飲酒、玉突などむだなことにいささかたりとも費やす暇あれば、それを科学の研究に転じ用ゆるからだ。さてダーウィンが多年|猴舞《さるまわ》しに執心した者の説を聞いて記したは、一概に猴と呼ぶものの、舞が上手になる奴とならぬ奴は稽古始めの日から分かる。最初人が舞うて見せる手先に注意して眼を付くる猴は必ず物になるが、精神散乱して人の手先に気を付けぬ者は幾月教えても成功せぬ、とある。人間もその通りで、どんな詰まらぬ事物にでも注意をする人は、必ず何か考え付き、万巻の書を読み万里の旅をしても何一つ注意(69)深からぬ人はいたずらに銭と暇を費やすばかりだ。これを活きた製糞機というのだと言って、艦長三浦大佐から、野間口(当時の)大尉や、後年旅順の戦況を先帝に面《まのあた》り奏上した斎藤七五郎君(その時少尉)など、多く大英博物館《ブリチシユ・ミウジユーム》へ招き、いろいろかの人らが何でもないと思う物について、一々軍備上の参考となるべきことを話した。
 和歌山の県知事始め官吏などは、熊楠を狂人ごとき者と思いおり、少しも熊楠に対して安心を与えず、いわば畜生扱いで、先年代議士中村啓次郎氏その他県会議員等を介して、熊楠祖先六百年来奉祀し来たった官知社すなわち中古国司奉幣の大山神社《おおやまのやしろ》は由緒もっとも古き社なるを、郡村の小吏ら無性《ぶしよう》にて村役場に近い劣等の社に合祀を強制し、むりに合祀し請願書を書かせおる、しかるに前知事川上親晴氏は熊楠の志を諒とし、請願書は受けおるものの、かかる古社を合併するは残念なりとて合併されずに済んだ、よって何とぞ今の知事においてもそのまま保留に任せくれたいと頼んだ時、必ず保留せしむべければ安心せよ、と言われた。しかるに、わずか一、二年の間に地方の小吏や偽神主が意地づくに任せ、今度右の神社を合併され了《おわ》った。貧すれば鈍するというが、熊楠なども国のため学問のため永らく田舎に引き籠りおるから、和歌山知事など、そのむかし自分が欧州にあった日なら虫同様に見たはずの人物から、かような犬猫を欺くような仕向けを受くる。これをもって考えると、日本ごとき国では学術に身を捨てて不便を忍び田舎で深く研究を重ねる者を、熊楠の外に一向聞かぬももっともなことじゃ。
 それに引き替え米国ごときは人材を重んずるの厚き、予往年|大飲酒《おおざけのみ》してミシガン農科大学校長の前に陰茎を露《ろ》して臥したという、かの国で前例なき大不礼を遣っておる、その校長ウィリッツは後に農務次官となったから、むろん農務省の人々はこの椿事を伝聞しおるはずだ。しかるに、その植物興産局から前年もまた只今も種々辞を卑《ひく》うして予を招聘し、また腹蔵なくいろいろのことを諮詢《といはか》らるる。予は米人の麁野にして作法なきを不快で、かの国へ妻子を伴れ行くを好まぬから、毎度渡航を辞退しおるが、唯《ただ》利を惟《これ》事《こと》とする当世風の本邦人、地方の時事日に非なるを慨する者は、焼糞になってここばかりに日が照らぬなど言うて、追い追い国家有要の材を懐《いだ》いて空しく外国の用をなす者が出(70)来るだろう。「漢恩はおのずから浅く胡恩は深し」と古人も言うた。
 かくのごとく予に大不快を与え、予が学術上多少国家の名声に貢献し、また今もしつつある功に報ゆるに仇をもってする和歌山県知事などに比ぶると、往年在英のころ交わった官吏諸君は実に厚徳で、士に下るの美風に富んでおった。それもそのはず、いずれも歴々の子弟で、このごろ地方に肩を怒らす河原乞食の悴どもらしき者は一人もなかった。前外務大臣内田康哉子などは、故陸奥伯在日より予の名を聞いておったとて、毎度予が無礼を仕向くるを忍び、みずから馬小屋の二階に僑居する予を訪わんとまで申し出られ、今日北京公使たる山座円次郎氏も、予が大英博物館《ブリチシユ・ミウジユーム》にすら存せざりし希有の蛙ヒロデス・クニアツスをキュバで獲て披露せし時、小池張道氏と二人来たって慶《よろこ》んだ上、酒多く飲ませてくれた。こんな穢ないことは言いたくないが、民信なくば立たずというに、いわゆる牧民の職にある人が約束をたちまち破って平然とし、礼義廉恥を国の四綱とする大義を無視して顧みざる輩と大違い、と述べて置く。和歌山県知事、恥を知らばすべからく汗背《かんぱい》すべし。
 こんな懐旧談《よまいごと》はよい加減に罷めて、富士艦の士官連に話した軍備上の参考となるべきことは多かったが、それを公けにして外国人に聞かすと日本の大損となるも知れぬから多く言わずとして、南方先生が一物を見るごとに一考ある神才のほどを和歌山県知事などに例示するため、ただ二つだけ公けにして遣ろう。精しく言ったってとてもむだだから、ほんの雑《ぎつ》とだ。一つはアフリカの?鯉《りようり》という獣が、後脚と尾と腹の鱗とを甘《うま》く使って高い木へ上るに、どんなにしても外れ落ちぬことだ。これを模範として、指揮官が手放しで自在に艦橋へ上ることを考案したらどうだ、と言った。今一つは、すなわち本篇「情事を好く植物」の俗信から考え付いたことで、アラビアの諺に、穢ない根性の奴はいかほど奇麗な物を見るも穢なく思うというが、『維摩詰経』には、どんな穢ない物も浄心《きよきこころ》もて見れば美《うるわ》しく見えるとて、同じ水を餓鬼は火と見るに、人は水と見、天人は瑠璃と見る、と言っておる。されば、いわゆる情事を好く植物などを根性の?《よご》れた奴が見て幾許《いくら》考えたって長命丸の製法ぐらいが関の山だが、熊楠が考えるとそうでない。
(71) 一体、なぜ肉?蓉、鎖陽、「きまら」等の植物が、馬の遺精から生えるの健陽剤になるのと虚称せらるるかと問うと、形が男根に似ておるのと、一夜にたちまち無から有を生ずるごとく膨脹勃興する力が驚くべきからだ。予はこれら植物と斉《ひと》しく寄生植物たる菌類《きのこ》の発生を毎度調ぶるが、その膨脹力は実に啌《うそ》のごときものありて、一貫二貫の大石を数尺|跳《は》ね転《ころ》がすさえ例少なくない。肉?蓉等については実物が少ないので調べないが、これらの顕花植物も、菌《きのこ》よりはよほど高等の物ながら、生態が堕落して菌と同じく他の植物の根に寄生する。寄生植物は自活植物と違い他《ひと》の懐中宛込みで生きるものゆえ、永く世に存することがならぬ。故に、景気の向いて来たおり一時に花を咲かせ胤《たね》を残して、自分はたちまち枯れ失せる覚悟がなければならぬ。博徒や盗賊が儲《もう》けた時散財して了《しま》うようなものだ。今まで何にもなかった馬糞は明旦《あすあさ》見るとたちまち多くの菌が群生し、さて昼になると影も留めぬを、『荘子』に朝菌《ちようきん》晦朔《かいさく》を知らずと言って、いわゆる一日果てだ。そんな菌は多くは鎖陽等と斉しく男陽形をなしおる。
 田辺辺で「きつねのちんぼ」と呼ぶ菌がある。西洋でも学名チノファルスすなわち犬の陽物という。田辺より六、七町隔てたる神子浜《みこのはま》という村の少女、現に予の方に奉公する者言う、この菌は蛇の卵より生ず、と。実に胡論《うろん》なことと学校教師など笑う。熊楠はちょっとも笑わず、しきりに感心す。故何となれば、秋日砂地を掘ると蛇卵と間違うべき白い卵形の物がある。それを解剖するとチノファルスの芽だと分かる。それが久しく砂中にあるところへ雨が降ると、蛟竜|豈《あに》久しく地中の物ならんや、たちまち怒長して赤き長き茎が延び立ち、頭に臭極まる粘液潤う。それを近処の蠅が群れ至って食うと同時に、胞子《たね》が蠅の頭に着き、蠅が他所《よそ》に飛び行き落として菌糸を生じ、次に蛇卵ごとき芽を生じ、雨を得てまた怒長する。その他の菌類や寄生顕花植物もほぼ同じき発生をなすのだ。男根の時々膨宿して定まらざるは誰も知る通りだが、解剖すると中に海綿体という物が充ちおる。女子の大陰唇またほぼ同様で、その収伸《のびちぢみ》によって、あるいは膨れあるいは縮む。これらはその心得さえあらば自分で実験し得るものだが、広く他人《ひと》の物と比較研究という訳に行かぬ。しかるに、幸い菌や寄生顕花植物中には内部の構造が人身秘部の海綿体にほぼ同じき物が(72)多い。その海綿体中に気体また液体を詰め込み蓄え置いたのが、湿温宜しきを得てたちまち膨脹すると同時に、植物がたちまち怒長発生する。これを熟《とく》と精査して甘《うま》くこれに似た機関を作ったら、空気また水気ばかり使って重い物を持ち上げ、または跳ね飛ばし、狭い穴を拡大《ひろげ》る大有要の設備ができるだろ、と南方先生かく説き士官一同感心したことであった。
 昨今上下虚偽俗をなし、ただ言辞を謹むを盛徳と心得るのあまり、「きつねのちんぼ」など言わば、その菌その物に何か大敗徳の要素|盈《み》ちおるごとく心得、一顧の価なき物と擯斥し了《おわ》るが、万年青《おもと》や蘭の鉢栽を一年眺めたって心懸けなき者には何の所益なく、もし何か一功を立てて自他を救済《ぐさい》せんと万物に注意深き人が見れば、いわゆる情事を好く植物ほど詰まらぬ物も新しき機巧を考案する大材料となること件《くだん》のごとし。熊楠こんなことを口にするばかりでない。いろいろ考え付いた機巧すこぶる多いが、今日の日本では善いことを教えてやって、かえって功を掠《ぬす》まれ、加之《おまけ》に身を苦しめらるる経験が、自分だけでもすでに多いから、当分何にも岩躑躅《いわつつじ》が安全だ。桓温は、天下の英雄王景略を眼前に扣《ひか》えながら、その虱を捫《ひね》るを見て、英雄たるを知らず、空しく関中の英雄を問うた。舎衛《しやえ》の三億衆は仏|在日《ざいじつ》に生まれて仏を知らなんだ。返す返すも熊楠を狂人扱いにする地方俗吏こそ奇怪なれ。   (大正二年十一月六日、十八日『日刊不二』)
 
     瓦猴について
 
 九月十四日の本紙、青々の「掃地録」に、紀州熊野の瓦猴《かわらざる》のことを載せ、この瓦猴は全くの瓦焼で顔から前部は型で拵えてある、これは熊野権現様へ願掛けに持って参り、そして古いのを戴いて帰り、それを祀るのだという、と言っておる。
(73) 一体、猴は日吉《ひえ》山王権現の使い物たること誰も知るところで、その日吉の神は古来熊野の神と至って仲が悪いと伝えた。『続群書類従』巻四九に収めた『厳神鈔』にも、日吉の二宮《にのみや》権現はもとよりこの山の地主にて御《おわ》すゆえに、伝教大師登山して大宮して大宮の神|他所《よそ》へ移りたまう後も、立ち去るべき様なくしてただ独りこの峰に住みたまう。その時山神護り集まりていろいろの遊びをして、常に慰め申しけり。山神と申すはみな猿の形なり。これを猿楽の一つの縁起とも申すなり。一王子宮は熊野王子にて御《おわ》すを当社に取り留めたまう。故に当社と能面とは中悪しき神と申し伝えたり、と見ゆ。熊野の神が日吉山《ひえのやま》を去る時、猴形の山神どもが熊野の神の弟王子《おととみこ》を留めて兄と共に去らしめず独立させたので、今に熊野の神が日吉を恨み中が悪いという義《わけ》らしい。それゆえか熊野で猴を崇め祀るようのことは吾輩一向聞かず。青々の記文を見て三山の諸友に聞き合わせたが、瓦猿を神に捧ぐることも一向なかったような返事ばかり来る。
 しかるに、青々が記した通りの瓦像は、吾輩と同年ほどの和歌山生れの者はみな知っておる。これは熊野に何の関係なく、由来は知らぬが海草郡の今の四箇郷村大字有本付近、そのころ和歌山から大阪への街道の側に猿の像で充ちた小祠《ほこら》あり。猴は産安くまた痘瘡軽いもので、それに傚《あやか》るようと産月近い和歌山市内外の婦人が詣って祈願を掛け、その像一つを借り受けて枕頭に祭り、安産事済めば同様の像一つ求め添えて二つ共に件の祠へ持ち行き、礼賽《らいさい》して安置し還った。何という祠か知らぬが、山王様《さんのうさん》で通っておった。その猴の像は瓦土で焼き作ったもので、顔を彩色し桃を持たせあった。瓦町とて和歌山市の東郊近傍、今も瓦工《かわらやき》が多く住む所で焼いて並べあるのを十一、二年前見たが、今も焼き続けおるかどうだか。このこと三年前七月の『東京人類字会雑誌』三二五頁に載せ置いた。そこに土偶《つちにんぎよう》と書いたが瓦偶《かわらにんぎよう》としたら一層正確だったはず。
 さて猴を日吉山神に緑ありとするは由来を知らぬ。インドの『ラマヤナム』にスグリーヴァス猴王は太陽の子だ、とある。また去年八月一日の『日本及日本人』「日月中の想像動物」と題して書いて置いた通り、古エジプト人狗頭猴《シノケフアルス》を暁の精とし、日地平より昇り了れば狗頭猴に化す、と信じた。アフリカの林中この猴多く、日出前ごとに喧噪呼(74)号する。それを暁の精《あさひ)》が旭日を歓迎頌讃すと心得たからだ、とバッジ博士が言った。
 ついでに言う。わが邦には俗に猿をさると訓じ、猴と別たぬ例多く、青々も瓦猿《がえん》の字を用いあるが、誰も知る通り猿また?と書き、本邦に天然産なき手長猴《てながざる》のことで、『元康地記』に「?《てながざる》は?猴《さる》と山宿を共にせず、臨《のぞ》んでかつ相|呼《さけ》ぶ」とある通り、猿と猴は中悪しきものじゃ。今支那で主として猿と呼ぶは、学名ヒロバテス・ピレアツスと呼ばれ、南支那とシャムに産し、猿字の音をそのままユエンと英語ができて、ウェブストルの字書《じびき》などにも出ておる。追い追いわが邦も世間広くなるにつけ、かの物も輸着《ゆちやく》となるの日、ユエンの猿たるを知らずユエン猿などと書くと、穴《けつ》の穴《あな》と書くようで笑うべき重言を仕出《しで》かすはず。よって今から日本在来の猴は猿、南アジアの手長の奴は猿と書く癖を付けて置くがよろしい。
 
 外国に猴を安産の守りとすることありや否ちょっと分からぬが、懐妊《みもち》に関係ありとする例を見出だしたから書き付く。ドイツ人ラッツェルの『人類史』(一八九六年英訳)巻一の四七二頁に、マレー人の妊婦は梟《ふくろう》を食えば産まれる子の声が梟に似るとて食わぬ、鶏を殺さず(別に訳を書いてない)、また猴に触《さわ》らず、触れば生まれる児の額と眼が猴に似て醜いからだ、とある。西洋にも、常に黒人の像を寝室に置いた婦人が、黒人と何の関係なしに、膚黒きこと黒人そのままな児を産んだ例があり。田辺の近在に蟾蜍巌《ひきいわ》とて蟾蜍が種々跳《は》ねる状《さま》したる大巌《おおいわ》が多く列《なら》んだ名所がある。その辺の婦女妊娠中朝夕その巌を見るので、毎度蟾蜍の形の児を産み、蟾蜍のさまして跳ね歩くそうだ。拙妻など実際見たことだ。それだから猿に触れて猿面の児を産まぬとも限らぬ。
 ジャワには猴に子を祈り求むることが古くあったと見えて、明の正徳庚辰(三百九十三年前)黄省曽が撰した『西洋朝貢典録』第三章に、「蘇児把牙《スラバヤ》(ジャワの港の名)の地に猴多し。孕まんと欲する者これに?る。註に、この港に洲《す》あり、林木森鬱たり。中に長尾の猴万余棲めり。老いて黒き雄猴を長《かしら》とし、一老番婦これに随いおる。およそ子なき(75)婦《おんな》、酒肴、花果、飯餌《はんじ》を持ってその老猴に?れば、老猴喜んですなわち食らう。その余りを衆猴食らう。随って雌雄二猴あり、前に来たり交感す。さて猴に?つた婦人、家に帰ればすなわち孕む。もし猴が食らわず交感せずんば、?った婦人孕むことなし。土人伝う、唐の時、民丁七百余口あり、無頼なり。神僧その家に至り、?《みずふき》化して猴となし、ただ一嫗を留めて猴と化《な》さず。これら民丁の旧宅、今になお存す。按ずるに、『宋史』に、ジャワの山に猴多し、人を畏れず、人が呼べば出で来る、果《このみ》を投ぐると大猴二つまず至る、土人これを王《さるおう》、猴夫人と謂う、この二つが食らい畢《おわ》って群猴食らう、とあるが、子を孕まんと祈る由は言いおらぬ」とある。   (大正二年十一月十二日、二十九日『日刊不二』)
 
     鴫の羽掻
 
 大正三は寅歳とあって諸方から虎の話を所望され、中には貸した物を取り立てるほど厳しく督促さるるもあるゆえ、一切謝絶しょうかとも案じたが、悪《にく》うて惚れてくれる女はなしと粋を利《き》かし、『日本及日本人』へ「虎に関する俚伝と迷信」、『太陽』へは「虎の話」と題したすこぶる長篇を大成し、新年号へその第一「虎に関する史話と伝説」を発送した。何様《なにさま》天地人の三才に通じ、見識エヴェレット峰より高く春三夏六秋一無冬《しゆんさんかりくしゆういつむとう》の算法まで、いかなる小技だに明らめざるなき僕のことだから、引用の書籍室に満ち、鞠窮如《きつきゆうじよ》として注意《きをつけ》て歩かぬと下女が蹶《つまず》き転《ころ》んで、「割鬚《わりづと》」というむかしの謡《うた》にいわゆる親の前でも張らぬ処を張るような椿事と来る。
 むかしギリシアの医聖ヒポクラテスは道徳堅固の偉人だったが、その肖像《にがお》を弟子|輩《ども》が当時第一の相人《にんそうみ》プヒレモンに示すと、これは好婬老爺《すけべいおやじ》の像だと言ったので、弟子輩ヒポクラテスほどの高徳を婬爺《すけべじじ》と見立てたのは世評と大違いの下手相人《へたにんそうみ》だと嘲って帰り、次第を師に語ると、ヒポ公いわく、いかにもプヒレモンは人相をよく見る、予《われ》実は至って(76)好婬だが、学問の力を積んで天性《うまれつき》を制《おさ》え尽したのだ、と。聞いて弟子輩、今さらのごとく師の物を覆《かく》さぬに感服したと言い伝える。熊楠も栃面屋《とちめんや》弥次郎兵衛様の言い分じゃないが、己等《おいら》の知己《ちかづき》に己等の性行《おこない》を知らぬ者は一人もねえ。全く内外の知人から聖人と呼ばれたほど真直な男で、ことに女に掛けては雌猫とも言《ものい》うたことなく、四十歳で始めて今の北の方を娶った。これも二十八歳まで田辺の真中に架かりおる大橋を見たこともなく、むつかしい親父に孝養して朝夕蚕や裁縫を力《つと》めおった。まことに摩訶迦葉《まかかしよう》と妙賢女も及ばぬ聖男賢女の結婚で、ますます励んで貞男両婦に見《まみ》えずと慎みおる。
 すでに三年前神社合祀反対の一件で入監した時も、卑劣千万な俗吏警官ども何がな白玉の微瑕を見出だして熊楠を傷つけ、上官の御気に入らんと、料理店《のみや》、妓家《おきや》から厨夫《りようりばん》、箱廻しまで穴栗《あなぐり》探し訊《ただ》したが、彼方《あのかた》に限って万々そんな穢ないことはなされません、全く貴公方と雲泥月鼈の違い、東京や県庁からお出でになる役人は毎々芸妓を下女に仕立てて終夜侍らせよとか、仕払いは次回に来た時とか、われわれども二重に迷惑するような難題ばかり課《おお》せられまするが、さすがは海南及時雨《かいなんきゆうじう》と綽名《あだな》立つる南方|様《さん》は名下不二《めいかにならず》で、仕払いは葬式勘定同様|即霄《そくしよう》に済まされ、大陽気に騒いだ上、十二時が打つと子分引き連れ整然《ちやんと》隊伍を乱さず引き上げられます、と一同の返事に不覚《そぞろ》厚顔の俗吏どもも恥の上塗りを感じたとは、しごく善い気味だった。僕は表面《うわべ》これほど聞こえ渡った聖人だが、実際はというと世評ほどの聖人でない。というはすでに『不二』雑誌第二号「蟹の卜占《うらない》」にも載せた通り、小金《こかね》という芸妓に惚れて身代不相応に使うたことがある。幸いに一度も交歓したことはないが、それは幸いに免るというものだ。
 また近ごろに至り静御前とか巴・山吹とか横櫛のお富とか富田《とんだ》屋の八千代さんとか、古今の名嬪美女をたびたび夢みる。仏教に夢にも婦女を見ぬを大覚の特徴とし、ギリシアの聖人ゼノンは、夢をもって人の品性の試金石とし、仕付《しつけ》の確かな畜生は絆《つな》がずに置いてもむやみな場所へ外《はず》れ行かぬ、人の神魂《たましい》も修養が十分なら夢にも道ならぬことを行ない間違った物を見ぬはず、と説かれた。これをもって活目入彦五十狭茅天皇《いくめいりびこいさちのすめらみこと》は御諸山《みむろやま》の頂で四方に繩を張ると(77)夢みて帝位を得、後醍醐天皇は笠置山で夢に正成を獲、殷の高宗は夢に傅説《ふえつ》を得、漢の薄姫《はつき》は竜その身に拠ると夢み、その翌夕高祖に幸せられて文帝を生んだ。これらと反対に、『和泉式部集』四に、夫《おとこ》の外《ほか》に在る夜、人に物言うさまに見ゆれば、「寝《い》ぬる夜の夢さわがしく見えつるは、会ふに命をかへやしつらむ」。『聞元天宝遺事』に、楊国忠出でて江浙に使いす。その妻|思念《おもうこと》至って深く、荏苒《ようやく》疾《やまい》をなす。たちまち昼、国忠と交わると夢み孕み、のち男を生んで咄と名づく。国忠帰るに及び、妻|具《つぶ》さに夢中のことを述ぶ。国忠いわく、これけだし夫妻相念じ情感至るところ、と。時人聞いて譏《そし》らざるなし、とある。
 詩歌に、情感切にして男女相夢みるを詠吟《よむ》のは尋常のことで、例せば、『赤染衛門集』二に、衝門が子|挙周《たかちか》が、あきのぶが女《むすめ》に言《ものい》い初めて、新蔵人《しんくらんど》にて暇なくて得往かぬに遣らんと言いしに代わりて、「暁《あかつき》の鴫《しぎ》の羽掻《はねがき》目をさめて、掻くらん数を思ひこそやれ」。返し、中将の尼、「夢にだに見ぬよの数や積もるらん、鴫の羽掻手こそ疲《た》ゆけれ」。夢にも思う人に逢い得ぬから手が疲れるまで○○ける、と思いの切なるを詠んだなかなかの名歌だ。「暁の鴫の羽掻|百羽掻《ももはがき》、君が来ぬ夜はわれぞ数掻く」という名高い歌もある。思いの切なるを鴫が羽を掻き鳴らすに譬《たと》えたんだ。
 近く十二月二十一日の『不二』紙上、しかも一頁、宮武の在獄日記に、「南方熊楠先生ならばこの夜|手篇《てへん》いくつと書くところだろう、云々」とあるが、浅学の奴はまことに話せない。これは三年前合祀反対で入監中、予の日記に、拙妻は世間|希《まれ》な貞女ゆえ定めて鴫の羽掻の思いをなしおるだろうと書いて置いたのを、誰かが見て奇《おつ》に感付き、魯魚《ろぎよ》の誤り一伝二伝して終《つい》にかかる尾籠なことと心得違い、したり顔に宮武氏に話したのを、面白けりゃあ何でも宜《よ》しと、無礼千万にもこの聖人が獄中で手篇などと書いたのだろう。まことに外聞が悪いから、予の日記に書いたのは、「鴫の羽掻百羽掻、君が来ぬ夜はわれぞ数掻く」という歌の意《こころ》で、決して手篇などでないと公告し置く。
 さてまた惟中の『続無名抄』には、恋しき人を夢に見んと思えば双六《すごろく》の盤を枕にして衣を覆《かえ》して夢の妙幢《みようどう》菩薩を念ずれば必ず夢に見る、ある歌に「糸《いと》切《せめ》て恋しき時は烏羽玉《ぬばたま》の、夜の衣を覆してぞ寝る」、とある。欧州にも、中古騎(78)士が軍陣に臨んで自分|贔屓《ひいき》の貴婦人を夢みんと欲する時、かねてその婦人から授かりし朝夕着ておる寝衣を裏返して着て臥すと、必ずその婦人を夢みた。このこと予古史より見出だし、『万葉集』の歌の注に用い入れたが、前ロンドン大学校長ジキンス男の『日本古文』巻一に編入された。この書は先年著者が故小村侯を経て畏《かしこ》くも先帝の御手許に献納した大著述だ。その序文に、前駐日英公使サトウ男、『ジャパン・メール』の持主兼編輯長だった故ブリンクリー大尉およびわが親友南方熊楠君が、本書纂訳に付き多大の助力を与えられしを鳴謝す、と書いておる。かく有名な外国の大家にさえ推尊さるる熊楠を手篇の名人などとは真に無躾千万だ。罷《まか》り間違ったら、またまた獄行きだぞと叱り置く。と立派に言うものの、熊楠も他人が言い囃すほどの聖人でないのは、どうも心底に多少不浄なところがあると見えて、時々古今の婦女を夢に見る。張喩《ちようゆ》が夢に楊貴妃と歓会し、シーザルがルビコンを渡る前夜母と臥すと夢みしは、一はますますその文藻を昂《たか》め、一はすなわちファルサリア大捷の前徴と称せらるといえども、心全く清浄ならば何を苦しんでかかる奇異の夢を見ん。
 明治三十四年経済雑誌社再刻『群書類従』四四七所収、『日本霊異記』中に、「和泉の国泉の郡|血渟《ちぬ》の山寺に、吉祥天女の※[土+聶]像《しようぞう》あり。聖武天皇の御世、信濃の国の優婆塞《うばそこ》、その山寺に来たり住む。天女の像を睇《めかりう》ちて愛欲を生じ、心に繋けて恋い、六時ごとに願いていわく、天女のごとき容好《かおよ》き女をわれに賜え、と。優婆塞、夢に天女の像に婚《くなが》うと見る。明くる日、これを瞻《み》れば、その像の裙《も》の腰、不浄に染み  汗《けが》る。行者これを視て、慚愧していわく、われ似たる女を願いたるに、何ぞ忝《かたじけ》なく天女|専《もは》らみずから交わる、と。?《は》じて他人《ことひと》に語らず。弟子、偸《ひそ》かにこれを聞く。のち、その弟子、師に礼《いや》なし。故に嘖《せ》めて擯《お》い去る。擯われて里に出で、師を?《そし》りて事を程《あらわ》す。里人これを聞きて、往きて虚実を問い、並びにその像を瞻れば、淫精染み穢る。優婆塞、隠すことを得ずして、具《つぶ》さに陳《の》べ語る。諒《まこと》に委《し》る、深くこれを信《う》くれば、感の応ぜざるなきことを。これ奇異《めずら》しきことなり。『涅槃経』に言うがごとし。多婬の人は画ける女に欲を生ずというは、それこれを謂うなり」と出ず。『想山著聞奇集』二、弁財天|契《ちぎ》りを叶え給うことの条に、多く(79)似たことを出だせり(博文館印行『続帝国文庫』四七編)。
 されば幾《き》を知るはそれ神か、と支那人も古く言えり。僕は夢に婦女を見るので自分の心全く清浄ならぬを知るところから、只今のごとく参考書多く室に満ちいて下女などが蹶《つまず》いて麁相《そそう》を現じては、久米仙同様|不図《ふと》堕落して済《すく》うべからざるに至らんを虞《おそ》れ、急いで片付ける片手に、虎に関する笑話一、二を集《あつ》めて『不二』雑誌へ寄せることとした。   (大正三年一月一日『日刊不二』)
 
     桜島爆発の余響
 
 新婚の翌朝、新婦を祝うて「破《わ》れたのが御里へ響く御目出度さ」という川柳があるが、万里同風の新年松の内から桜島爆裂はすこぶる不祥で、神社合併の冥罰に相違ない。予は何ごとも知らなんだが、十二日夕飯済むと、明けてようよう七年六ヵ月取った悴《せがれ》蟇六《ひきろく》奔り帰り、今栄町へ買物に往き戻った近所の子が彼町《あのまち》大地震中と語ったという。別段気に留めず、蛇は寸にしてその気ありだ、それほど上手に吹かねば生先《おいさき》が不安心で父の跡を襲《つ》ぎ得ぬと褒めておるうち、椽先《えんさき》の障子がコトコトとあたかも猫が障子に後頭を凭《もた》せ掛けて脚で喉を掻く時のごとく揺れ続ける。立って往って開き見ると何にもないから、天井で鼠が騒ぐ余響と思うておった。点燈後何となく世間が静まり返って物惨《ものすご》いのを奇怪に思い、入湯がてら近町へ出懸けると、諸所に多人群れ何ごとか相談の体《てい》、立ち寄って聞くと、いずれの家も障子襖が気味悪く盪《ゆ》れるとのこと。そのうち予の別懇にするある家には、新たに来た後妻が、数年前姉妹二人引き続いて死んだ前妻の位牌と神棚を風呂敷に包み、これさえ持って立ち退かば遺憾なしと詈《ののし》りおる。見れば亭主は不在なり、後妻は極上の別嬪なり。前妻の跡を大切にして亭主の機嫌を取る用意の周密なるに感心したが、また女の智恵は黠《ずる》極まるものと恐れた。また、ある大家には、戸障子の震動なかなか甚《きつ》いので一同火を滅《け》し、脚絆、草鞋《わらじ》から米炭を用意(80)し、サア事と言ったら駆け出す手廻しに、「枯れて落ちても両人伴《ふたりづれ》」と主人夫妻一盃遣って早寝としたのもあった。どこに逃げるつもりかと問うと、どこへ逃げると定見はなく、ただ人が多く逃げる方へ逃げるというようなことだ。地震はどこもここも揺するものゆえ、飛脚然として一夜|疾《とく》走ったところで逃げ了《おお》せるものでない。あまり早寝して人工地震で揺り巻いた結果、こんな不祥の夜さ万一孕んで見ネー、後年その子がこの大身代を根駄《ねだ》から揺り倒すかも知れぬ、と諭《さと》して立ち出た。さてまた、ある知人の方を尋ぬると、十人ばかり集まり会い喋々しおったが、一人もろくな意見を持たぬ。そのうち一人、今まで年酒に招ばれ泥酔中へ、妻が来て自宅の戸障子が揺れると告ぐると、たちまち立派に醒めて大頓悟し、妻子珍宝も自宅も忘れて、この家は毎夜人多く聚まる処ゆえ、ひたすら逃げて来たと言うもあり。また月刊『不二』で阪本君の「台湾土人の大往生」を読み?り、今夜はいよいよ蓮華往生のつもりで妻も決心しましたと敦圉《いきま》き去るのもあった。
 往年クリミヤの戦争に従軍した学者の記に、大砲弾が空中より落ち掛かる時、一同茫然と自失して花火見物同様に集まって眺めおり、さて地に堕ち了りてのち始めて気が付き大|周章《あわて》で四方へ逃げ出した、とある。また雀、蛙などが天災に遇うと、むやみに多く集まり囀りて人に捕らるるに気付かぬ例が多い。松平伊豆守信綱、殿中で人々が近来むかしと変わり落雷が人を多く殺すは不思議と語るを聞いて、何の不思議でもない、江戸追い追い人多くなり、その人多くは馬鹿か臆病で災難に遇うとむやみに一所へ聚まるから、大いに雷公《かみなり》の手数を省き、一人ずつ十度に落ちて十人を殺す代わりに一度に十人集まった上へ落ちると十人が往生即菩提と来るのだ、と言った。
 さればむかしから災難のおり貴人や富豪のしばしば一家全滅するに引き換え、乞食の悴や両親なしの孤児がめったに死なぬ。雀や蛙と斉《ひと》しく、人間も多くはかかる際に落ち着いて考える力を失い、ただただ一人でも多く聚まった処に付き随うことと見える。さて諸処巡りて視察すると、もっとも多く揺れる家々は街を隔てながら一直線に串《つらぬ》かれおる。南北に亘《わた》れる串線《かんせん》は少なく、東西に亘れる串線が多い。
(81) また俗にいう化物屋敷、すなわち夜間|故《ゆえ》なく障子襖が揺れて奇異の音を出したり、人が歩むように床板が鳴る家が、もっとも甚《ひど》く揺れる。して見ると、地には地脈ともいうべき筋があって、その筋に中った家々は地動く時同一に動き、動く家の比屋《ならび》近隣でも、その筋を外れておると一向動かぬことと知らる。また同じ揺れる内にも波動が前後異同する証拠は、一家一室の諸部が一斉に揺れず。予の寝室《ねま》ごときはわずか六畳と四畳の二間より成るが、異所の戸障子が揺れ鳴るに、おのおのその時を異《こと》にし、最初夕方に室の南北の障子が同時に鳴り出し、夜に入って西の戸が鳴り、それが止むと戸内の西の障子が鳴り、夜中には室内の襖のみ鳴り、暁近くなって南の戸障子ばかり鳴り続けた。その状況あたかも怪物が任意《かつて》に家を歩き廻りて、北を揺すり続けて南に移り、それが済んで室内の襖を揺すり、さて家を去るとて出口の戸を揺するがごとし。床板はあまり鳴らなんだが、多くの家の天井裏が鼬《いたち》など徐《しず》かに歩くように鳴った。それも怪物流に、其所《そこ》から彼方《かなた》と移り歩くようだった。
 少《ちい》さい時母の話に、尼崎とかの寺の天井におびただしく幽霊の血付の足跡が付いたのを見た、と言われた。幽霊が天井の上を歩くなら、人間が下から足跡を見得るはずがない。それとも幽霊の足跡に限って板を徹《とお》すのだろうか。ただし、人死んで熊野へ参るその姿を途中出逢うた者が見ると逆立ちになって歩き行くとむかしより言い伝え、『傾城反魂香』の戯曲にも見えおる。これはかつて予が『東京人類学会雑誌』で論じたごとく、深山濃霧中に人の影が蜃気楼様逆さまに映ったのを見て言い出したんだろう。古インドにもかかる説が行なわれたと見えて、苻秦訳、迦旃延子造『?婆沙論』巻一四に、中陰の状を序《の》べて、地獄に生ずる者足上にあり頭下に向かう、天上に生ずる者|頭《かしら》上《かみ》にあり足下にあり、と載す。
 ある人の説に、寺の本堂の廻り椽の天井板は年経ると必ず大小手足の印相を多く現出す。手足を柿渋で塗らして印《しるし》付けたごとく、指紋掌文の微かなるまでも現然たり。当田辺町にも四ヵ寺までかかる天井板歴然と現存す、と。とこ(82)ろが、その人の娘いわく、小学校の廻廓の天井にも、近ごろ同様の斑紋《まだら》を生出せりとのことで、たぶん雨風の作用で木の脂などが流れ出て成るか、また微細の寄生菌を生じて、その痕が多少手足紋相を形造ることと思うが、近日歴訪し実視した上、また一吹き吹くつもりだ。とにかく、むかし仏説あまねく行なわれた世に、好色の売僧《まいす》など、美貌《きりようよし》の若後家を堕とさんとて、われごとき名僧を懇待せぬその方を恨んで死んだ亭主が浮かまれず、地獄往きの中陰に漂《さすら》えて逆立ちで寺の椽や天井を歩き廻る足印がこの通りだなどと脅した、その迷信が今に遺《のこ》ったらしい。
 さて、かかる迷信を大いに助けたのは、寺堂の天井を何か歩くように聴こえることが間々《まま》ある一事で、それは鼬などが歩く外に、今度のごとく地脈を伝うて地下の微動を反響《ひびきかえ》す例も多かったことと思う。とにかくありそうに聞こえてないものは南方先生の金と妖怪で、今回の震動は心持|宜《よ》くなかったと同時に、化物屋敷の正体を明らむるに大益があった。
 
 十四年前、予ロンドンで出した『神足考《フートプリンツ・オヴ・ゴツズ》』は、東西諸邦、有史前から今まで足跡を記念また崇拝のために保存する民俗を詳述して、その起原沿革を論じたもので、このことに関する大必要の権威《オーソリチー》と推さるるものだが、木に遺された足跡の例に二つしか挙げおらぬ。−つは大和大三輪寺|艮隅《うしとらのすみ》の板に印《お》した足跡で、それが今に温かい。古伝に、三輪明神、里人の女に通じ、子を生ましむ。その子十歳で入定《にゆうじよう》した時、遺した跡という。今一つは蔀関月《しとみかんげつ》の『参宮名所図会』に、京、堺、山田等に、血天井とて戦死者の臨終に寺堂の天井に手足を血染のまま印《お》した痕があるということだ。これらも右に述べた幽霊の手足跡と同様の物だろう。
 十二日の夜は、予も妻子を気遣い読書して翌朝四時まで坐り、それまで戸障子が揺れたのを知っておったが、それから臥して起きて見ると、十三日の八時ごろには停《や》んでいて、昼また多少揺れ、その夜から翌十四日朝へ懸けて灰が降り、十五日早朝、未曽有の大雨で、その夜只今まで風強く海が荒れおる。大雨中しばしば海鉄砲《うみてつぽう》の音を聞いた。こ(83)の海鉄砲というもの、本邦の他府県に有無は詳しく知らぬが、田辺では珍しくない。インド恒《ガンジス》河口のパリサル砲《ガンス》と名づくる奇異の音に似ておる。かつてこの類の音に関する諸条を集め、『ネーチュール』へ出したことが数回あったが、自分が書きながら年久しく経《た》つと何を書いたか忘れ尽した。
 ここに一つ奇《おつ》なことは、十三日の晨《あさ》戸障子の震動が止んで、昼また多少揺れる前に、予の庭に鶺鴒《せきれい》来たり厠《かわや》の屋根を彼是《かれこれ》歩行し、また低い桑樹に棲《とま》り歩き、食を取りおった。人々に聞くと、鶺鴒は地上を歩むが常だが、屋根を行《ある》くことも絶無でない、しかし樹に棲るのはかつて見たことなし、と言った。またシロコというて小さい羽虫が、秋の末のみ群飛する例を破って飛びおった。それから、予の宅大小六疋の亀を畜《か》う。冬寒のため、古俵|被《かぶ》せた地下に蟄《かく》れおるが、震動前一日、一疋出でて池に遊びおったを見たきり、震動中にも後にもずいぶん暖かいのに亀は一疋も出なんだ。思うに、誰かが触《さわ》り続《つづ》めに触ると心得て一生懸命に身を縮めおったので、震動の続くあいだ犬も一向吠えず鼠もどの家にも静まり返りいたらしい。これら何の益もないことのようだが、観る人が観たら学術上の参考ともなることと思い、本紙面を借りて後世に遺し置く。
 この他、震動前から予の陰茎に異様の感覚を生じたが、素人|輩《ばら》にはちょっと解り難いから、ここには詳載を略する。ダウサーといって、英国などに細い棒を指に載せ眼を覆《かく》して歩くと、地下に水ある所に至れば、その指揺れて棒が地を指す。そこを掘れば必ず水を得る。よって井戸掘前に傭われて、わが邦の家相師同様酬金を得るを業とする者がある。学者の説|区々《まちまち》にて、その真因を今に見出だし得ぬが、とにかく験《ききめ》はあると確かに言う碩学が多い。これと等しく、大小の別こそあれ棒は棒なり。予ごとき日常虚心平気で何ごとも思わずにいる者の陰茎は、地下の動揺に感応するのか、また身体に多少の震動を伝えて自然陰茎に及ぼすのか、今度一回で判り兼ぬるが、いちもついちぶつにあらず、「一物知らざる、君子これを恥づ」。願わくは、世間博愛救済を志す人士、ことに予のごとく平生|止観《しかん》を修する人や、また坐禅を勤むる僧たち、今後地震地動あるに際し、いささかも心付きたることあらば留意報知されんことを望む。(84)遊ばせ置いても食い潰し同前の物ゆえ、追い追い研究して、地震計また地震茎の発明もありなんには、熊楠|起《た》って抃舞《べんぶ》して、「悴が御役に立ったわやい」と懌《ろこ》ぶべし。   (大正三年一月十七日−二十日『日刊不二』)
 
(85)     金屏風と米騒動の話
 
 予の家は旧《もと》雑賀屋と称した。今も和歌山に雑賀屋町というがあるは、その宅跡という。口碑に、むかし三井の主人が金屏風若干入用だったが揃わぬから雑賀屋へ借りに遣ると、二双しかないと言って使いを返した。三井、大いに怒って、雑賀屋ほどの旧家に金屏風の五、六双ないとは受け取れぬ、予に恥を掻かそうとて、ある物をないというのだ、今一度往つて来い、と叱った。使いがまた往つて話すと、雑賀屋の主人、全体汝の主人のいわゆる金屏風とはどんな物か、指し示せ、と言って、屏風ばかり納めた倉へ導いた。使者が入って見ると、どこもここも金屏風だらけだから、これはみな金犀風と言うと、雑賀屋主人、打ち笑い、三井では金箔を貼った屏風を金屏風というのか、それなら百双以上も持っておる、予が二双しかないと言った金屏風はこれじゃ、と出して見せた。使者よく覧ると、高さ幅とも一尺ばかりの純金製の屏風が二枚あったので大いに驚き、還って語ると、三井もとても雑賀屋に叶わぬと我《が》を折ったというが、そこがそれ、「大仏のまらの長さは書き落とし」で、その純金屏風の高さ幅とも一尺と豪《えら》く言っても、厚さを詳らかに伝えおらぬ。ブリキ、飽屑ほどの厚さだったら、たとい純金だったところがさまでの物でなかったろうが、法螺はすべて言い懸かり次第で旨く吹けるのじゃ。
(86) こんなことを聞き伝えたものか、先日当地のある職人、若い時和歌山で十七年暮らし、今は六十五ばかりなるが、近郊のよい加減な連中に向かい、何と南方様の内は大きいものだろう、このほど米騒動の時のことを聞いたか。一同、どうしたのかと問うと、かの老人、その夜他の家々は戸を閉めておったのでみな叩き破られたが、南方様は表を明け放して俟っておった。すると一揆の連中が入り来たって水を飲ませてくれという。サアサア裏へ通ってお上がりと主人が言うと、井の水でない、人の作った水を望みと言う。オイ長助、そこにある極《ごく》上酒を一石さし上げいと命ずると、一揆ども腰を抜かし、大八車は用意せぬから情願《どうぞ》堪忍してほしい。そんならせめて一斗だけ。イヤそれも御高免、と初めの擬勢どこへやら、一升入三本戴いて逃げ支度するところを、コリャコリャ貴様ども金は入らぬか、ハイ一万円だけと言うと、それでは数が悪い、これ持って往けと品能《しなよ》く捌《さば》く山吹色二万円|拠《ほう》り出した。何と古臭い田辺などと異《かわ》って、南方様などは大気なものじゃないか、と吹いて遣った。法螺もこれぐらい吹かぬと吹き甲斐がない、と一廉《ひとかど》よいことをしたように誇っておった。
 これは全くの虚談だが、騒動の初夜第一番にある家を襲い了りて、次に南方へ往けと押し懸けるまで見届けて、通信者が『大毎』紙へ報じたのが十五日の号外に出で、それを見て予和歌山へ急行して見ると、実はその時南方は跡廻しにせよと呼ばわる者多く、盛り返して他の家を襲い大乱暴を働いたこと、十六日の『大毎』紙所報のごとくだったんだ。われら兄弟一同豚犬の質《たち》で称するに足るものないが、雑賀屋の昔、紋羽織を発見して自他を利益した人を出だし、また予の父は、三命されてますます恭《うやうや》し、墻を負うて走れど人われを侮ることなしという風に、至って謙退な人で、そのころ名さえなかった。公共事業に尽した廉《かど》で一生に三度まで表彰された、その遺徳で、差したることもなき吾輩の家屋、蔵品等に何たる損害を受けなんだ、と。この一段は至って真面目に筆するので、子孫の一日も無事ならんことを望まば、何とぞ応分の公共事業に尽されたいことじゃ。   (大正七年九月十一日『牟婁新報』)
 
(87)     南方先生自叙伝の二、三節
 
 詩歌を解くに断章取義ということがあって、詠んだ人と別の意味に解いても、解く人の境界相応に間に合うを尚ぶのだ。「垂乳根《たらちね》はかかれとてしもうば玉のわが黒髪を撫でずやありけむ」。この歌は確か止むを得ず出家する人が、父母はわが坊主になると知ってこの黒髪を撫でたでなかろうという意味で作ったので、蜀山人の「老の頭撫づるに付けて恋しきは坊と云はれし昔なりけり」と詠んだのと等しく、感慨無量の歌だが、予も近来学事その他に苦慮烈しきゆえか頭が上《のぼ》せること多く、以前は酒を飲むと直ったが、年も寄り、この辺の酒が至って悪いので足まで病み出す。したがって酒は厳禁、その代りに二十日に上げず頭を丸剃りと出懸ける。そのたびごとに件《くだん》の歌を誦《そらん》じ、わが父母も、われはこんな旋毛《つむじ》曲りな人物になろうと夢更《ゆめさら》知らず頭を撫で育てられたことと、今さら昔を忍び身の成行きを悔ゆれど、お定まりの提燈持ち一向跡に立たずである。
 先年ロンドン大学前総長ジキンス男と『方丈記』を合訳して『英国皇立亜細亜協会雑誌』へ載せたところ、大好評で、グラスゴー市のガワンス会社から万国名著「袖珍文庫」の一冊として出し、さらに名高くなったに付いて、右の会社より馬琴の『夢想兵衛胡蝶譚』の訳出を予に頼まれたが、ジキンス男は、かの譯は日本人にはずいぶん面白いが、和漢の故事や引言が多きに過ぎて翻訳いかに巧くとも洋人にはちょっと分からず、さりとて巨細に註釈を付けてはいよいよ込み入って来て、常人が軽く読むに適せぬだろう。それよりも、熊楠は十五年も諸邦を流浪し雑多な目に遭い、千状万態の事物も観た男ゆえ、いっそ自伝を著わし、それらの経歴を叙べ、一冊五百頁くらいの物を出したら好かろうとの考えで、予に勧められたから、多年掛かって今日までの自伝を七分通り書き了りおる。ここにその内の数項を転載とせん。
(88) さて新井白石の父は、足軽から立身して土浦属の家老となったほどの極めて才幹ある人だったが、名は予の父と同様弥右衝門といった。先生自伝『折焚く柴の記』の序に、その父の行状を記していわく、父がかつて癰《よう》を病みてきわめて重症だった時、医者が診察済んで、この癰痛まばまだ治るが痛まずば治らぬはずだ、どうだちっとでも痛みますかと問うと、さらに痛まずと答えた。何度問うても痛まぬと言うから、医者も絶望して帰宅しようとするを、白石先生の母が別室へ招き、わが夫は平素武士は首を斬られても痛いと言わぬものという主張ゆえ、こんな剛情に痛まずと言い通すらしい、その実よほど痛むと見えて、しばしば壁の方へ顔を向け人に見られぬよう顔を蹙《しか》めて気張る様子、と告げたので、しからば療治に掛かろうとて灸を用いて、やがてその病を癒やした、とある。
 人その倫《たぐい》にあらずといえども、予の父もいささか似寄った廉なかりしにあらずで、六十四を一期として最後の病に罹《かか》り、土地の諸医手を束ねたので、大阪から当時の大国手緒方惟準氏を招き診を乞うたが、これもはかばかしからぬに及び、ある人、物は試《ため》し、このごろ世に喧伝する天理教会に頼み祈?して貰うては如何《いかん》、と言うた。何がさて玉の緒の命さえ一年半歳でも延びることならぜひ頼むことにしょう、しかしかの教会の祈?は病人の枕頭でする定めと聞けば本人に予告が必要、とその由を告げた。その時、予の父の答が振るっておった。いわく、人間の定業はいかな貴人も免れ得ず、われら天地の眼より見れば蚊一疋にだに及ばぬものが、いかでか定業を免れ得べき、いかに命が惜しければとて、わが祖先来の宗旨にあらぬ教会の徒を臨終の枕頭に招き、異様奇態の歌舞混雑中に紛れ死せんは、屍の上の恥これより大なるはなし、さらば末期の用意しょうとて一族を集め後事を嘱し、茶を一同に配らしめて瞑せられた。
 それは、予がちょうどフロリダを出で立ってニューヨークへ航する当日で、予がその席に侍せざりしを今に遺憾千万とするところだが、父の最期の様子を伝え聞いて、その健《けな》げさに感奮し、自分も何とぞ死に際だけは見苦しくなきようしたいと、そのことばかり思い続くる夜が多いが、また夜分になればその方を全く忘れて了《しま》い、この春伊勢の山(89)田へ去《い》んで、風の便りだになきお富のことが浮かみ出ずる折々もなきにしもあらず。われながら根性の父に劣れるに愛憎が竭《つ》きるが、そこが父が言った通り人間の定行何としても免れ得ず、全く拘婁遜仏《くるそんぶつ》説法の永遠の昔より、お富は予に付き纏うて生々世々離れぬものと見える。
 これだけは余計言《よけいごと》だが、ロンドンにあった日、その後無線電信の新案で大名を馳せた木村駿吾博士と知り合いとなり、博士が米国ハーバード大学へ帰ったのち書を贈った内に、上述通り亡父末期の様子を述べたのを読んで、博士の返書中に次のような言があった。むかしアテネのペリクレスは哲学文章通ぜざるなき政治家で、欧米今日の開化はギリシアの賜物、そのギリシアの古開化はアテネ市とて今日の和歌山市にも及ばぬ小市の文化の賜物、さてそのアテネ市の文化最も盛《さか》えたはペリクレスがその市を治めた三十年くらいの短月日間の賜物とは、学者の定評である。そのペリクレスが病んで、今度は快復の見込みなしというところへ見舞人が来て、驚いた話がある。
 
 さしも平生は大悟徹底したと聞こえた大哲学者たるペリクレスが、まことに笑うに堪えたる護符を帯びて臥しおった。その人至って不審して、閣下ごとき死生一如の覚悟すでに定まりおるべき大丈夫が、竜の落し子とかキン○ラとか、小児すら真《ま》に受けぬ符物を佩びてまでも命を延ばさんとするか、と問うと、ペリクレス恥じたる面色で、「貴言を聞いてわが頭がすでに狂い掛かれるを知った。また死ぬほど厭なことはないものと今さら悟った。まことに天地間に生きた者は必ず死す。定業いかにしても免るべきでないくらいのことを知り抜いた予も、サア今死ぬという一段に臨むと、覚えず正念を取り外し平素嗤うて一顧をだに与えなんだ竜の落し子、キン○ラごとき詰まらぬ物すら、ひょっとこれを佩びて命が延びるものなら物は試し、これを佩びて見ても損にならぬはずという気になり、ツイツイかようの為体《ていたらく》を貴下に見せて、今さら恥じ入った次第」と言って死んだそうじゃ。それに較《くら》ぶれば、尊父(熊楠の父)最後の御有様貴書で見て、面《まのあた》りその音容に接するごとく、貴下(熊楠)御平常の一事一行深く淵源するところありと知れ、(90)今さら欽羨の至りに堪えず、と木村博士の来書にあった。
 この博士の父君は木村摂津守、後に芥舟と號した文武兼備の士で、日本が開国して初めて米国へ使節を送った、その使節がこの摂津守で、故福沢諭吉先生はその時願うて、その従僕となり渡航した。したがって芥舟の世を終わるまで先生万事に付いて周旋絶えなんだと聞く。
 
 木村駿吉博士からかくまで讃められた予の父は、日高郡入野とて、今も三十戸ばかりしかない寒村の生れで、いつかは知らず大和より落ちて来た宮処采女《みやところうねめ》なる者の後で、采女の城跡というが三十年ほど前まであった。嵯峨帝御宇に成った『新撰姓氏録』巻二〇の和泉の国神別の天神の裔の第一に、宮処の朝臣は大中臣の朝臣と同祖で天児屋根命の後なり、と出ず。すなわち藤原氏と源を同じうするはずだが、今年五月の『太陽』にも論じ置いた通り、系図の売買や養子入婿の盛んに行なわるる本邦で、先祖を言い立つるは自分の甲斐性なさを自証するに同じく、何の自賛にもならぬ。宮処内蔵助とて、大阪の大丸の番頭から身代を持ち上げ、祖先来奉祀し来たった日高郡の官知社大山の社を一手で建て替えた人あったが、予の父と前後して物故し、その子が前年大流行だった京阪銀行破綻の嚆矢で飛んだ英名を挙げた。宮処の本家は村に現存するが、衰えて見る影もなく、博奕を打って巡査に打たれ寝ておると七年前聞いた。
 予の父の家は代々その寒村の庄屋で八、九十まで長生したが、父のみ六十四で若死した。柔道を善くした外に芸といっては年に一、二度至って機嫌の向いた日独座して屁を種々に放《ひ》り分けて楽しむ外に何もなし。ただし、無文な人に似合わず学者を敬い、好んでその説を聴き、また商売柄とて陶器、銅鉄器、刀剣の鑑定はすばらしかった。故吉川泰次郎男が一度見られて、甚《いた》くその為人《ひととなり》を讃められたと聞いた。当町の故多屋寿平次氏もかつて予に向かい、尊父は無学に似ぬ威光のあった人で対座すると頭の下がるを覚えた人だ、まずは佐藤長右衛門氏の外にその偶《たぐい》を見ぬ、と(91)言われた。
 十三の時にこんな寒村の庄屋を紹《つ》いだって知れたもの、何とか立身したいと思うて和歌山へ出て、現存する福島屋という家へ丁稚に住み込み、島吉といった。番頭に進んで佐助といった。藩の銀座を勤むる大店の大番頭で、弥七、佐助と呼ばれ、佐助すなわち拙父は主に京坂、弥七は新宮、田辺等へ往来した。主人の臨終に十四になる独り子を拙父に托し、二十一、二になる弟を弥七に托し、身代を分けて死なれた。その弟は怪しからぬ多芸な人だが放蕩で、加之《おまけ》に輔弼の任に当たった弥七また無双の好色ゆえ、十年ならぬうちに身代を亡ぼし陋巷に窮死されたが、弥七は平気で故郷田辺へ帰り、甥筋に当たる多屋長三郎氏方から扶持されて不足もなきに、石油など売り歩き、相応な老婦を欠かせし□なく、数年前八十ばかりで目出度く往生されたは一癖ある偉人だ。
 これに反し、拙父佐助は亡主の遺言を大事と、若い主人を守り立て丁年に達せしめたゆえ、主人その労に酬いんとて福島屋という暖簾を分かち与えん、と言った。その時父これを辞し、せっかく分かたれた暖簾を傷つくるようなことあっては相済まぬ、すでに先主の大恩に酬いた上は一本立ちで身を立てたい、と言った。ちょうどその時、上に述べた雑賀屋大いに衰え、家ばかり大きくて老母と男女二人の子のみ残ったが、その男子が学文《がくもん》好きで藩の学校(只今拙弟宅)へ出入りし帯刀を許され、『論語補解』とかいう書を自分で引き受け出板するなど、商人不似合いの振舞いのみし、ついに衰死した。女子は婿を迎え女子一人生んだが、その婿は死んだか出たかして母と二人大きな家に暮らし入費多く、何ともならず。かかる大厦の頽《くず》れ掛かったところを持ち直すには、非凡の養子を後入《あとい》りさせにゃならぬと、知る人々が相談して、そのころ一本立ちの商売は開店|叶《かな》わず、拙父が然るべき家に入婿となって商売したしと尋ねおるを幸いと、雑賀屋へ迎え取った。
 すなわちその家代々の弥兵衛を名とし、まず帳面を調べると、衰えた大家に有《あ》り内《うち》の借金おびただしく、しかも世間を繕うため、不用の入費すこぶる多し。ここにおいて姑と妻の愁訴を却け、邸宅から蔵書一切の物を沽却して借金(92)を皆済すると、わずかに十三両を残した。その時雑賀屋代々の仏壇をも売らんと言ったが、こればかりはと婆と妻が泣く態《さま》見るに忍びず、今日まで舎弟方に保存しあるが、ずいぶん立派な物で、上に述べた「金屏風」の法螺話もいささか拠《よりどこ》ろありと知る。今日ならば今思い立って今何の商売でも始め得るが、むかしはそれが成らず。父は主家より暖簾を分かたれては、子孫の末まで家来|遇《あしら》いにさるるを遺憾とし、独立で店を開くにかかる小むつかしき容態に陥りおった家に入婿となったのだ。
 かくて男子を二人生んだが、一人は盲で、今一人は不健康、そのうち姑も妻も年来の心労に堪えず相|踵《つ》いで死んで了うた。鬼のような達者な子を残して死なるるだに大抵の男は詮方を失うはず、いわんや盲目と不健全な幼子を二人まで遺して妻に死なれた亡父当時の迷惑は察するに余りあり。そのころ和歌山に直川《のうがわ》屋という一族大いに繁昌し、直常《のつね》、直吉《のきち》、直佐《のさ》などと号し、直川村(郡視学奥村氏の在所)より出たので呉服屋が多かつた。その一つに直清《のせい》という茶商あって、主人の妻の姪が寄食しおった。主人と縁続きなる江戸藩邸詰医師徳田諄輔(休職陸軍大佐正稔氏養父。正稔氏は本居豊穎博士や先年当地へ来た謡曲の名人荒巻左源太氏の弟)が、将軍家茂公病気のことに関し苫《とま》ガ島に謫居三年のあいだ件《くだん》の女が奉公しおったが、徳田翁罪赦されて和歌山に住むに及び、自宅へ帰ろうにも実父が身代を飲んでしまい、只今の予のごとく足が立たぬ長煩いに加えて兄弟も多く、往き処がなくて伯母婿直清方に寄食し、「もり岩井宇文字川下奥《いはゐうもじかはしたおく》の山《やま》麓の朝日琵琶を引くなり」など優しく唄いながら茶を磨《ひ》きおった。予の父、二人の子をば人に托し、活計のために橋向かい辺を通るたびに件の女の行儀崩さず茶を磨きおるを見、不覚《そぞろ》その店に入って茶を買った。まさにこれ一たび瓊漿《けいしよう》を飲んで百たび生を感ず、玄霜|搗《つ》き尽して雲英を見る、藍橋すなわちこれ神仙の宅、何ぞ必ずしも区々として玉京に上らん。覧者《みるもの》この珍紛漢《ちんぷんかん》語の意を暁《さと》らんと欲せば、すべからく次回の説話《はなし》を読むべし。
 
 茶番直清の妻の姪が雑賀屋弥兵衛の後妻となりてより、家運を追い追い持ち直して九人ばかり子女を生んだ。その(93)三男が予で慶応三年四月、ちょうど征長の官軍敗退して幕府の紀綱大いに弛み、兵庫開港を外国使節より逼らるるに付け諸侯より異議の申し立て多く、人々みな乱を思うて寧《やす》んずるところなしという、その四月の十五日に生まれた。舜も項羽も重瞳《じゆうどう》ありと聞くが、予も嬰児の時眼がことに光ったので、重瞳とはこのことであろう、町人の悴にしては異《かわ》ったものだ、と瀬見善水翁が言われたと聞く。
 これは日高郡江川の代官の副役か何かで、津田出氏が藩政改革のため衆に妬まれ一時日高に竄《かく》れた時十分保護を加えた酬《むく》いに、津田氏再び起って藩政を自在にするに及び、権参事とか何とかに抜擢され、羽織の紐の黄色なを特許されて威勢を張り、出府の折ふし拙父の宅へ来らるるを天人が降ったように敬い難有《ありがた》がった。あまり取り処のありそうにない人だったが、ことのほかの歌道の達人で、『紀伊国名所図会』にも宮原の渡しの詠など出でおり、栖原《すはら》の菊地海荘や天誅組の名士伴林光平などと親交あった由。後年県会議員となり、毎度議事が長くなると起立する。何を言うかと聞くと、「本員は腹痛に付きこれより」と言い終わらぬうちに、議長浜口梧陵また副議長中西光三郎が、「御退場なさいませ」と言い渡すが恒例で、衆これを嘲って「腹痛の瀬見」と言ったが、明治十五、六年ごろ七十余で物故した。その子は父より早く死に、嫡孫が何とかいって酒屋を営業したが、御当地三池屋にあった種子《たねこ》という美色に現《うつつ》を抜かし討死して身代を全滅した。
 拙父の前妻の兄に町人不似合いな学文好《がくもんず》きがあったとさきに述べたが、予は幼よりその人の遺した書籍を見るを好み、学校に入らぬうちから大抵の漢字の音訓を暗《そら》んじ、また叔母で屋敷奉公した者が謡曲や狂言をよく覚えて予を背負いながら教えられると、一度聞いて忘れず、兄が着古した自分に不似合いな長羽織を着て扇を持ち諸方へ押し掛け、叮嚀に挨拶して玄関に座り徐《しず》かに小謡を演じ一礼して帰った。子を見るは親に如《し》かずで、父が予のこの態を見て、商人の家に不似合いなものができた、定めて亡妻の亡兄が学文仕果てずに死んでこの子に転生したのであろう、ままよ只今全滅して種子《たね》を留めぬ雑賀屋の祖先への報恩と思い、この子だけは学問させようということで、ずいぶん学問を(94)奨励して呉れた。
 そのころ学校へ満足に通う者多くは士族の子弟で、平民と見れば侮蔑することはなはだしく、いずれも予の姿を見ると異態に踊り廻り、「鍋釜売っても嬶《カカ》売らぬ嬶に大事の○○がある」と喚《わめ》いた。これはそのころ父が鍋釜を売っていたからで、和歌山には鍋屋町という町さえ限られあって、むかし鋳造師《いものし》も長吏すなわちえた頭《がしら》の司配に属した賤民だったから、絶新前は鋳造師はもちろん、その輩が拵えた鍋釜を扱う商人をすら、ずいぶん卑蔑したのである。予このことを遺憾に思い、毎度学校から帰って父に鍋釜商売を罷めお侍の尚ぷ刀剣を商うて欲しい、と言った。
 そのころ和歌山のゴロツキ侍に三盃《さんばい》と綽号立《あだなだ》つ暴漢あって、毎度町人に難題を言い掛け困らせたが、川立ち川で果つる諺通り、「殺してくれの亀はん」という豪傑と衝突し刀を捻《ひねく》り舞わせど、亀公頓着せず、殺して呉れの一点張りで三盃を閉口謝罪せしめ、爾来三盃全くその威名を亡《うしな》い憂死したそうだ。その三盃が全盛中、拙父の店へ来たり無言で金盥を一つ持ち去るゆえ、これは理不尽な仕方と咎むると、やにわに打ち掛かり来る。父も柔道を関口に習いおり、ことに大兵であったから苦もなく捻じ伏せたが、その時三盃が父に「汝は福島屋の風呂焚きから出身した賤夫だ。侍がそんな者に組み伏せられたとあっては身が汚れる」と言ったので、父も心弱くなり覚えず手を緩めると逃げ去った由。近年柳田国男君が『郷土研究』を出した内に、諸国に風呂と呼ぶ賤民あり、むかし薬風呂を焚いて人に人らすを業とした、紀州海草郡辺にもあった、と見える。想うに、風呂を焚くに満足な薪を用いず、馬履《うまくつ》、草鞋《わらじ》、破れ垣、掃溜の藁屑、陳皮、瓢箪の破片、ろくでもない物ばかり集めて薪とした昔時は、これを焚くを至って卑しい業とし、したがって後々尋常な薪で焚く風呂焚男や丁稚までも、毎度風呂焚きと呼んで卑蔑の意を洩らされたと見える。
 拙父はずいぶん自主独尊の念に富んだ人だったが、因襲と範囲には勝ち得なんだと見え、件の三盃ちう兇士に風呂焚きと罵られしを深く遺憾に思うところへ、また予がいつも「鍋釜売っても、云々」と嘲らるるを見て、ことのほか憤慨したが、さすが料簡の立った人で、その都度予に赤穂の義士神崎与五郎の話を聞かされた。
(95) 予の父|毎《いつ》も寝物語に、神崎与五郎は又市《またいち》という小農の悴で孝心厚く、父が廃疾で永く臥しおるに、十歳なる与五郎は寒暑を厭わず介抱怠らず、父の好物なる鯉鮒を釣って奉るを無上の楽しみとした。
 ある日、赤穂郊外の苅屋の池で釣しておると、郡目付神崎氏の子与三郎、十三歳なるが、同じく釣したが一向魚が食い付かぬ。一方には与五郎は釣上手でしきりに魚を獲る。与三郎妬心暴発して、わざとその釣糸を流して与五郎の釣竿に縺《もつ》れ掛ける。与五郎遠い処へ場を換えて釣り始めると、与三郎またドシブトク追い来たって邪魔をする。何ともならぬから、とても本日はだめと諦め釣具を片付けて帰ろうとするを、ヒチクドク追い来たって、汝の籠の中の魚をわれに寄こせ、小百姓の悴が獲った魚は当然郡目付の子に献ずべき物、という。与五郎、これは病中の父の食料だから半分だけ差し上げよう、と言うと、過言を吐く憎き奴と言いさま刀を抜いて切り掛かるを、与五郎潜って、これを奪うと、また脇差を抜いて小鬢を切る。この脇差をももぎ取られ、いよいよ堪忍成らずと組み付きに掛かる。勢い余って与五郎が只今奪い取った刀で喉を突き破り即死した。
 もっての外の椿事に、病父の腰も卒《にわ》かに立ったと見えて、与五郎を連れ郡目付神崎氏に詣《いた》り仔細を語り、存分に遊ばし貴息の仇を討ちたまえ、と言った。神崎氏その妻を呼び、与五郎は十歳、わが子与三郎は三つの年上、ことに武士の子としてかくまでドシブトキ根性悪戯のありたけ尽して、小農の子に暗々《やみやみ》打ち負け死恥を露《さら》したは言わん方なき虚気者《うつけもの》、かかる阿房極まる子はいつかは誰かの手で殺さるるに定まりおり、到底わが家を断絶させるは必定だから、その方も思い切って終《しま》えと諭《さと》すと、さすがは武士の妻でさつそく承知した。それから神崎氏は小農又市に向かい、聞かるる通りわが子は不覚者で自業自得の死を遂げたは是非に及ばぬが、われも独り子を喪いて相続人なくて困るから、汝の子をわが手に掛かって殺されたと思うてわれに呉れ、わが子となして育てなば、君の御用にも立ち、わが家の筋も断えぬはず、と言った。又市涙を濺ぎ、御子息の仇とも思し召さるべきに、一命を助けたまうのみならず、養子と(96)せられんは冥加に余ると喜悦限りなく、与五郎ここにおいて神崎氏に養われたが、養父の死後跡目相続した。
 郡目付は罷めたと見え、討入の時の書上《かきあげ》には徒目付《かちめつけ》五両三人扶持とあるから、ずいぶん軽い侍だが、討入の夜雪|甚《いた》く降りければ、「あづさ弓春近ければこての上の雪をも花の吹雪ともみん」と詠んだ。この人無双の酒好きで、一友に贈った書に、われ義に趣《おもむ》かんこと遠からず、このごろ酒ことに貴《たか》く快く酔を尽し難けれど、人々われを恵まるるによっていつも盃を執り得る、酒の徳の大なる、天下に比なし、これをわが遺言とすべし、とあって、その浅草眺望の詩の末句にも、「首《こうべ》を回《めぐら》せば酒旗風颯々、嚢銭空しく尽きて涎流《えんりゆう》を拭う」とある。これらを見ると、身分の卑《ひく》いに似合わぬ風流|洒落《しやらく》な人で、大石良雄がとくにこの人を江戸に下した時、美作屋善兵衛という町人と仮装して、毎度無頼の酒徒と遊宴したので、誰もその赤穂義士たるに気付かず、思いのままに敵の動静を探り、また同志をその宅に集めて会議し得たるのみならず、堀部、奥田等、剽悍の士が軽挙事を急ぐを慰撫し終《おお》せた。水野家に預けられて二十八歳で死する時、介錯の士稲垣左助に向かい、某《それがし》切腹して声を掛くるまで首を打たぬようと頼み、心静かに腹切ってのち見事に討たれた。不思議なことと昨夜まで給仕した人に糺《ただ》すと、その人泣きながら言ったは、かつて与五郎の咄に、われはもと卑賤の生れだが、かくかくの次第で士の養子となったから、諸士われを軽んぜざるにあらず、よって討入の夜も、笑われては養家の恥と思い力一杯奮闘して敵方の勇士二人まで討ち取った、近日死を賜う場合に一層慎んで見苦しき死に様をせぬ工夫のみ致しおる、と言うた、と。かくのごとく亡父が予に語って、さていわく。
 
 人間はみな人間で、日本人は誰一人天神地祇の御裔ならぬはない、それにどの国どの時代にも尊卑貴賤の別を立てらるるは、全く「勤と惰」の二つから起こったに相違ない。むつかしいことは知らぬが、その初め尾張の一部分を領した織田家の家老職たる丹羽と柴田を羨んで羽柴氏を名乗った太閤様は、土民の悴に過ぎなんだが、草履取りの当日より人に優れて勤勉し、追い追い立身するに付けて、望み見込みも大きくなり、最初羨んだ丹羽、柴田を随え、天下(97)に号令するに及んだ。その時になって誰がその土民の子たるを譏《そし》ろう。追従欽仰《ついしようきんぎよう》して至尊の落胤とか公家の庶子とか持囃《もてはや》し、はなはだしきは名家旧族にあらずんば、どうして秀吉公ほどの大人物を出だし得んなどいう。これに反して、近い数年前まで祖先の余光で肩で風を切ったお侍方も、自身には郵便を配達する力もなく、秩禄奉還後何のなすところなくぶらぶら遊び散らすより、数年前までその顔を見上げさえし得なんだ平民どもに、士族士族と嘲笑され、四、五年ならぬうちに士族なる名は尊称から頓《にわ》かに侮蔑の語と成り了った。されば「勤と惰」と次第で、賤民も貴く思われ、貴人も相場を落とすのじゃ。卑分《ひぶん》の生れで世襲の歴々に優れる功名をなした神崎与五郎がよい手本だ。汝らわがこの言を心肝に銘して笑わるるな、と戒められた。
 
 昨年九月一日の『日本及日本人』に、女子高等師範学校長湯原元一君が「学生の国事運動」という一論文を出した。その内に幕府の末、西洋諸国との交渉が起こって全国の人心動揺するに至り、ここに始めて学者も周囲の影響を受け、その思想が一変して、儒官古賀、塩谷、安井諸先生が外患や国防について種々有益な論策を出された、と述べられ、同月二十日の同誌臨時増刊号へ予一文を掲げてこれを駁し、西洋諸国との切迫した交渉が起こらぬうちにもかかることに腐心した儒者が、しかも私学であった例として、まず熊沢蕃山の南蛮処分案を引き、次に天保八年松本胤通が水戸烈公に上った『献芹微衷』から「京師の儒者並河簡亮(号天民)は、伊藤仁斎の門人にて、性剛決なる者なるが、蝦夷地より満州に攻め入り、その君長を靡け従え、本邦に臣属せしめんと乞うこと再三に及んで許されず、京師に帰らんとて筥根《はこね》の関を過ぎける時、一首の詩を賦していわく、「芒?《ぼうとう》の祭雲、独り自ら奇なり、東海に遊びしがために帰期を失す。無情なるは最もこれ関門の吏、王者三たび過ぐるも曽《かつ》て知らず」とあるを引いた。前二句は、漢高祖が秦始皇を避けて芒?の山中に隠れた時、その上常に五色の雲が立つゆえ、その妻呂后がいつも尋ね出したと言うのと、始皇が天下を一統して東海に豪遊したことに寄せたので、簡亮自身を王者と見立てたのだ。三、四の句は、(98)かかる王者が雄略を懐《いだ》いて箱根の関を三度も過ぐるに、関吏がその王者たるを知らぬと歎思したのだ。
 『近世畸人伝』によると、この人の兄誠所も仁斎の門人で、『五畿内志』六十一巻を大成し、わが国地理学に偉功あった人だ。簡亮は、京都の南、鳥羽横大路に住み、生国によって丹波と俗称す。人《ひと》と為《な》り胆斗《たんと》、才秀比なし。仁斎に学ぶといえども、後その学を疑いてみずから一家をなせり。その説は『天民遺言』に見ゆ。伊予松山に下り学を講じ、別に臨みてその国老の請いに応じて著わせる『松山晤語』に、その領地の治まらざるは一己《いつこ》の治まらざるなり、座禅僧の蒲団上に鼻端の白きを守るごときにあらず、と言えるなど、その経済の才を見るべし。また『論語』の郷党篇に題し、「画き得たり金毛の獅子、皮を画きて骨を画かず、那箇《なこ》か這《こ》れ骨、道《い》え道《い》え」と書き、その説に、この篇孔子の礼貌を形容せりといえども、これ皮毛なり、われを用うる者あらば期月のみにして可なり、三年にして成すことあらん、あるいは訟《うつた》えを聞く、われなお人のごとし、必ずや訟えなからしめんかなと宣い、また魯の政を聞くこと三月、魯国大いに治まるごとき、その骨なり、と言われしとぞ。仁斎歿後、その徒仁斎の長子東涯に従う者と天民に属する者と分かれたり。ある時天民の門弟集まりて、先生もし志を得給わばわれは何にか使い給わんなどとりどり言える時に、一人、われごとき者は用に立つべからず、ただ倉廩を守るにおいては一粒米をも掠むべからず、という。天民、子《なんじ》がごとき者に争《いか》で倉を守らすべき、と言えば、その人色を変えて、こは情なき仰せや、盗むべき者とや思し召す、と言えば、先生笑いて、否みずから盗む才ある人には托すべし、子は人に盗まるべき人なり、と言えり。また東涯の天民を評して、その才は抜群なり、されど六尺の孤を托すべからず、と言えるを告ぐる者あり。天民|点頭《うなず》いて、東涯よくわれを知れり、自分は人の物を奪うかも知れず、ただ人のためには欺かるべからず、東涯はこれに反せり、危うし、と言えり。その器量すべてかくのごとし。官に上書して北狄の地を本邦に属せしめんとしたが、齢足らず三十九で歿したゆえ事成らず。また国学をも心得たる人なりとて、和文和歌に関して天民のなした批評をも載せおる。天民説に、儒者は医業を兼ぬべし、しからざれば金儲けなきゆえ貧乏で、学問が卑陋になる、と言った。これもその旧師(99)仁斎が儒を名とし医を内職として利を図るを儒医と名づけて譏《そし》ったと異なりおる、とある。
 
 橘南谿の『北窓瑣談』に次の談があって、上に引いた『畸人伝』の文を補うに足る。いわく、「並河天民、各は勘助といい、五一郎の弟なり。二十歳の時仁斎先生に従いて、二十六歳に及び仁斎の経義に不審ありて一日大いに論じ、その後は自身の発明の見識ありしとぞ。しかれども、仁斎先生一生は師恩を敬すること浅からず、わが子孫へも遺言して、伊藤家を粗略にすまじ、と戒められしとぞ。天民、豪傑の資にて頼もしき人なりしが、四十にて死せり。その兄を五一郎という。『五畿内志』を撰述せんことを願いしに、願いとてはむずかし、公儀より仰せ付けらるる由にて御聞き届けありて、五畿内|何方《いずかた》へも御触れありて、五一郎巡行し、神社、仏閣および諸家の秘記秘物をも一覧して、
『五畿内志』成就し、写本にて官へも献上せり。その後諸国に遊行し、伊豆国三島に住し、学校を建立して、自身の庵室をも構え、年七十余にて三島にて終われりとぞ」と。またいわく、「並河五一郎、同勘助の父を弥右衛門と言いて、丹波国並河村の人なり。弥右衛門、丹波より山城国鳥羽村へ出でて米商をなせり。五一郎、勘助、いまだ幼き時に、近所の人に頼みて四書の素読を学ばせけるに、ある時『論語』のわが党に身を直くする者ありという章を読むを聞きて、これは怪しきことなり、子として父の悪事を顕わすこと何として直しと言うべきや、と言いけるに、やがて次の孔子の御言葉を聞きて、かくあるべきはずのことなり、孔子は難有《ありがた》き人なり、と言われしとぞ。弥右衝門は文盲無学の人にて、四書の素読をも始めて聞くほどの人なりしかども、その所見かくのごとし、五一郎、勘助の父と言うべし。このこと、その子孫並河清助物語なりき」と。
 予の父雑賀屋弥兵衛は、後に予の兄に家督を譲り、隠居して弥右衛門と言い、並河氏の父と同名だった。前にも述べた通り、福島屋の幼主を守り立てて先主の顧命に背かず、その身代を強固にした二代への忠誠を官より褒美され、新主より福鳥屋の暖簾を分かち与うべしと言われた時、わが子孫までも他人の家来筋となるを好まず、われは奉公し(100)た者ゆえ、一代は旧主の家に臣礼を執り、たとえ断わらるるまでも出入りをさせ貰わんが、人間に独立ほど必要な物なければ、子孫は子孫で立派に勝手に門戸を張るべしという了簡で、さてこそ当時衰頽その極に達した雑賀屋へ入聟となったので……。
 
 明治五年に和歌山県令神山群廉男が、用途所すなわち県の財務調達局ごときものを立てた時、山崎庄兵衛、山崎与助、湯川太郎と拙父と四人に用途方を任命された時も、父は固辞して受任せず。さりとて県庁よりの勧め黙止難《もだしがた》きに及び、しからば旧主は年なお若きも財務のことは累代馴れおれば、万に一つも失策あるまじ、何とぞ旧主を四人の一に挙げられ、自分はその補佐として出頭すべしとのことで、旧主の副として出たが、湯川氏転退後自分も四人の一として出たことであった。この湯川氏は一時和歌山の財界に大勢力を振るうた人だが、しばらくする間に破産して了ったが一向頓着せず、風流韻事をもって京摂間に遊び、只今も東京に健在で徳川侯爵邸へも見える由。
 湯川氏の前に岩崎嘉兵衛というがあって、これも両替屋を業とし、両嘉とて大勢力の成金だったが、たちまち破産して見る蔭もなき士族屋敷に移り住み、男子四人、女一人にしきりに学問させ、自分は蜜蜂を畜《か》って悠々天命を楽しんで終わられた。その子らはいずれもよくできたが、早世したものか、一向聞こえず。末男は僧となって粉河とかにある、とその親戚で近年まで当町役場にあった稲垣与平次氏に聞いた。この与平次氏も一癖ある人で、壮時和歌山や大阪へ出てずいぶん学問に金を掛けたが、何様《なにさま》もっての外の酒好きで、暮れても飲み明けても飲み、五十余年を飲み潰してとうとう唐切《からき》りよい身代をお積《つも》りにして了《しま》い、「ないが意見の惣仕舞《そうじまい》」と、どど繰りながら、持つべきものは女の子で、その娘が大阪のどこかの女将で大景気と来たとかで、その方へ去年引っ越されたが、いよいよこれからが本場所だ、根限り呑んでやると豪語して走舸《はしけ》から落ちそうに酔い踊って乗船したは、今治《いまはる》港を立ち退いた篠塚伊賀守に劣らぬ武者振りだった。
(101) 何に致せ、むかしは町人として賤《いや》しまれた商賈《しようこ》の中にも大悟達観した人が多かって、新島襄氏のいわゆる得意冷然失意平然だったは感心の至りだ。だんだん管《くだ》になって来たが、とにかく拙父弥右衛門が子孫の独立を謀りながら旧主に一代奉公の心底を尽したのは、並河弥右衛門の子たる鴻儒天民が旧師と学問上の見解を異《こと》にしながら、子孫までも戒めてその師恩を忘れざらしめたと、その遣方《やりかた》は別にして、その揆は一なりだ。
 それから天民の兄五一郎が『五畿内志』を一己《いつこ》で撰述せんと願い出た時、八代将軍吉宗公(紀州出)が、さほどの大著述を私業にしては遺漏もあるべく遺憾この上なしとて、特に官命を奉じて撰述ということとして、天下に令して到るところの役所よりそのことに便宜を与えしめたなど、専制政府といいながら、その遣方は実に敏捷で、近世のドイツが専制政治ながら学問や公共事業に英俊の志を沮喪せしめず逸才の力を暢《の》べしむるに汲々たるを連想せしむる。それと較ぶると、多年私財を尽し一本立ちで研窮し《けんきゆう》おる予などは、昔に劣った時代に生まれたものと不覚《そぞろ》不遇を歎息せざるを得ぬ。
 
 後趙の始祖|石勒《せきろく》は、もと北狄から支那内地へ住み込んだ胡種で、并州の刺史司馬騰が無法にも軍費を払うために領内の胡種民を捕え、二人ごとに首伽《くびかせ》を嵌めて売った、石勒もその通り売られて買わるる身の辛さ、奴隷と成り下ったが、種々苦辛してついに帝業をなした。非凡の人ゆえ言行ことごとく異《かわ》りおった。その言に、大丈夫石の転がって物に構わぬごとく磊々落々《らいらいらくらく》として日月と光を争うべし、と言った。それから今も英雄小事に構わぬを磊落というのだ。またその言に、曹操や司馬懿はおのおの帝業を立てたは偉いが、いずれも幼主や寡婦を誑《だま》して天下を取ったは卑劣極まる、と言った。したがって、石勒は攻伐を専らとし、表向き力づくで天下を攻め取った。
 聞けば、このほど田辺のほんの一部の人が湊村を合併せんとて、その部落に人を派して、汝ら合併せずば仲仕業や履物直し業を田辺町内で行なわしめず湊村内でのみ行なわしむべしなど威嚇しおる由。鉄道を架け電車を通じ、乃至《ないし》(102)飛行機で融通を計る世の中に、仲仕や履物直しを攘夷とは気でも違いやせぬか。また湊村で作る藍も田辺で買わず、田辺の製酒も湊村へ売らぬつもりか、聞かまほしい限りだ。とにかく、むかし胡種など無学温和で、毎々|如何《いかが》わしい生?《なまかじ》りの支那人に種々威圧騙詐されたところから、大いに奮発して石勒ごとき英傑も出たのだ。かかる如何様師《いかさまし》を使うてまでも合併を逼る人は、日月どころか螢とも光を争うことがならず。そんな根性ゆえ、主人が腎虚や肺労で死ぬごとに首番頭《おおばんとう》が幼主や寡婦《ごけ》を誑《だま》して大鍵をやらかすは、しばしば見るところ、これすなわち自業自得じゃ。
 さて石動は一生を干戈の間に過ごしたゆえ、読書はできなんだが、暇ごとに人に史書を講ぜしめて聞いた。ある時『漢書』を講ぜしめると、漢の高祖が項羽に囲まれ困った時、?生《れきせい》が薦めて、むかし亡びた大国の後を立てたら、その君臣百姓みな高祖に勤め項羽を滅ぼすこと疑いなし、と言い、高祖これに従うた、とあると聞いて、それは拙策だ、さように大国の後を再興したら、銘々自国を大きくするに腐心して新出来の漢朝を見下げ、助力などは思いも寄らず、味方を多くせんとて却って敵を殖やす道理、そんな愚案でどうして高祖が天下を一統したろうか、と言った。さてその次の文に、張良がその策の不可七ヵ条を陳《の》べたので、高祖たちまちこれを取り消して用いなんだ、とあるを聞いて、さればこそ幸いに張良の諫言によって天下を失わなんだ、と讃めたそうだ。小説ながら『演義三国誌』に、呉の陸績、これは二十四孝の一人で、孝行篤学で聞こえた人だが、諸葛孔明に公はまことに偉いが誰に学んだかと問うたところ、孔明笑うて、管仲・楽毅は大賢人だが誰に学んだと聞かぬ、世間を教場として自身で学ぶ外なし、と答えた。稷《しよく》・契《せつ》・咎《こう》、何の書を読めりやで、俊傑は読書せずとも自分の了簡で立派に立つ、孔子のいわゆるいまだ学びずとも実は学べる者だ.
 されば並河弥右衝門、南方弥右衛門、共に一文不通ながら、石勒同様世間を教場とも教師ともして実際よく学んでおったから、学者も及ばぬ名言を吐いたのだ。上に引いた『論語』の、わが党に身を直くする者ありの一件というは、楚の国に直躬《ちよつきゆう》という男あり、正直の躬助《きゆうすけ》というごとく、一心太助、仏小平同然、正直で綽号《あだな》を得たんだ。その者の(103)父が、人の羊を攘《ぬす》んだ時、わが父ながらも知って盗人を匿す訳《わけ》に往かぬと言って、その筋へ告げ、併せて父の身代りに刑せられよと請うた。よって直躬を刑場へ引き出すと、大いに呼んで父をも憚らずその盗罪を告げたは正直の至りじゃ、さて子として父の代りに罪を受けんとするは孝行の至りじゃ、かく正直孝行兼備のわれを刑するは暴政でないか、と言ったので、楚王感心してこれを縦《ゆる》した。このことを孔子が聞いて、それは怪しからぬ男じゃ、父は子のために匿し子は父のために匿す、直きことその内にあり、と言われた。いくら罪があっても、父が子を告発し子が父を告発するとは酷《ひど》い、正直と褒むるに足らぬ、父子その罪を相匿すこそ正直に近い、と言ったのだ。並河弥右衝門、その子が右の所を読むを聞いて、これは怪しきことなり、子が父の悪事を顕わすこと何として直しと言うべきや、と言うたが、やがて孔子の評語を聞いて、かくあるべきはずだ、孔子は難有《ありがた》い人じゃ、と言われたのだ。   (大正七年九月十三日−十月十一日『牟婁新報』)
 
     鯰の話
 
 山中笑氏は博覧の人で諸方の土俗に通暁さる。本年一月の『土俗と伝説』に「食物部類」なる一小篇を出された中に鯰のことあり。いわく、「鯰を食うのは近年からのことらしい。根岸武香氏|話《はなし》に、同氏父の代には鯰捨つるべからずと制札を立てたことがあるという。今から八、九十年前の話である。上野新田郡でも鯰捨つべからずの札を立てたという。越後でも鯰を食い初めたのは近年である。また土佐では近くまで鯰を食わなかったそうである」と。予近くこの山中氏の説に対して、一書をかの雑誌へ寄せた。その内に田辺近傍をしばしば引き合いに出しおるから、多少和解して本紙へ載せる。
 まず『嬉遊笑覧』に、「鯰は寛永の料理集にも載りたれど、これは近在にあるを広く挙げたるものなり。『大和本草』(104)に、箱根より東にこれなし、とあり。これもまた誤りなり。『日東魚譜』に、昔は江戸に鯰なかりしが、享保十四年九月井の頭より水溢れ出でたることあり。それより鯰出来ける由見ゆ。『増補惣鹿子』に、往昔はこの魚関東にはかつてなかりき、享保年中より甚《いと》多くなれり、西国の鯰とはその形やや異《こと》なり、関東にては下品の人のみ食す。(西国の産と異なりと言えるは非なり。どこにも色の異《かわ》れるあり。)」と出ず(以上『笑覧』の現)。
 これで見ると、『徒然草』の鰹同然、もと鯰は上等な人の前へ出なんだようだが、それは関東だけのことで、他方では古くよりこれを賞翫した。証拠を少し挙ぐると、平安朝の末近くできた『宇治拾遺』に、京の上出雲寺の別当が、その父の転生《うまれかわり》と知りながら、寺の屋根の水溜りから出た大鯰を煮食らうとて、不孝の罰で喉に骨立てて死に、その妻見懲りて爾来鯰を食わなんだ話を出し、一条兼良公の『尺素往来』に、このあいだ霧雨で美味の食物得難いが済々《さいさい》尋ね出したとて列ねた魚の名の中に鯰あり。『宗五大草紙』に、鮎《なまず》のササラ切りの法を載せ、またいわく、蒲鉾は鮎《なまず》を本とす、と。これは田辺地方でも言い伝うることで、斎藤彦麻呂の『傍廂《かたひさし》』に図を出だしあり。只今も肥前、佐賀の蒲鉾は鮎《なまず》で製し、弾力強く、昧すこぶる美なりと聞く。『大草家料理書』また鮎《なまず》の料理方を示す。よって室町将軍の代に、貴人も盛んに鮎《なまず》を賞翫したと知る。
 それから常陸鹿島の神が要石《かなめいし》とて、柱の状で、地上わずか二、三尺出たるが、地下へどれだけ入りおるか知れず、数千人をして引かしめても抜けざる石をもって、地底の大|鮎《なまず》を圧《お》さえおるという。「ゆるぐともよもや抜けじの要石鹿島の神のあらん限りは」とあって、この石あればこそ件《くだん》の大|鮎《なまず》が不断地震を揺り続け得ぬそうだ。只今ちょっと分からぬが、この話はどうも享保以前からあったらしい。しからば、東国の地上になかった鮎《なまず》を地下にあったというも変だから考うると、以前も江戸近辺に鮎《なまず》があったがあまり食う人がなかったところ、享保度の大水におびただしく鮎《なまず》が出でたと同時に、水害で空腹極まり、食物の好き嫌いなど言うどころでない輩が、始めて食って見て相応に旨かったから、それより毎度食うこととなったのであろう。
(105) さて近年まで、所により鯰を食わなんだは、主として鯰とナマズ禿と密接した関係ありと信じたからだろう。和歌山の畔田伴存の『水族志』に、『湖魚考』を引いて、琵琶湖に住む四、五尺の鯰に多く斑《まだら》に白き痣《あざ》のごとく禿あり、と見ゆ。また『本草啓蒙』を引いて、一種|斑文《はんもん》あるものをゴマナマズと言う、按ずるにゴマナマズは背に黒点あり、また白点あるものもあり、と説く。
 予、鯰のことは一向知らぬから、近処の植坂氏理髪店と今福湯へ往って来合わせ入り合わす人々に尋ねたが、愛須菊七、小原久吉二民|話《はなし》に、必ずしも四、五尺の大きな鮎《なまず》に限らず、小さきものにも時としてナマズ禿のように白く禿げたのがある、と。また森栗栄吉氏話にも、いかにも鯰には白く禿げたのがあるといっているところへ、芳養吉先生入りに来たり、褌を解きに掛かるから、ちょっと待った、鯰を出さぬうちに聞くことがありと右の件を尋ぬると、鯰により横腹に暗褐《くろちや》色の斑点あって、はなはだ黒ナマズ病に似おる、これをゴマナマズという、と答う。よって今しも鯰をフンドシで包んだ森栗氏に、芳養吉氏は暗褐と言うに貴下は白い禿と言うは怪しいと言うと、何それアノその何じゃ、中が白うて周囲が暗褐だと、まことに曖昧至極の答だった。その他も大抵よい加減な答弁のみで、かようの連中に何を問うたって、どうせ本当のことは分からず、長居は無用と逃げて来た次第で、いわゆるゴマナマズと白禿の斑ある鮎《なまず》と同一か別物か今に分からぬが、白ナマズ禿のような禿点ある鯰が時々眼に掛かるという小原氏の咄《はなし》が事実らしい。宮武粛門氏説に、肥前川上郷の民は鯰を淀姫の神使と称え食用せず、また必ずお鯰様と尊称し、決して呼び捨てにせず、年魚《あゆ》を取る魚梁《やな》に鯰掛かれば周章《あわて》て釈《と》き放つ由。『和漢三才図会』に、竹生島の弁財天は鯰を愛すという。三年前、当町佐山亀吉氏が示された古い掛物は、若狭の八百比丘尼の縁起で、人魚を料理する宴会へ弁財天が大鯰に乗り游《およ》がせ行く体を画きあった。田辺闘鶏社内の弁財祠へ今も鮎《なまず》の絵馬を掲げてナマズ禿の平癒を祈り、その他薬師地蔵寺へも然《しか》するのが多い。また秋津の竜神山頂の神池に鮎《なまず》多し。これはナマズ禿を山神に治し戴くため放生せ(106)るところという。
 惟うに、邦俗シロイオは乳汁の色ゆえ生きながら嚥《の》めば婦人の乳汁を殖やし、チビキとヒメチの二魚は鱗も肉も血のように赤いから、これを食えば産婦の血を狂わせ、疣蛙《いぼがえる》に小便し掛けらるればそこに疣を生ずといい、東京《トンキン》国の声曲家《うたうたい》は声を美《よ》くせんとて好く鳴く蛙を食う。『本草綱目』に、啄木鳥《きつつき》は顔赤し、その血を呑む者、面色朱のごとく光彩人を射る、梟《ふくろう》は夜能く視る、その眼を呑む人も夜能く視る、とあり。予かつて同居した広東人が猫を料理するを怪しみ尋ねしに、猫は夜分も能く視る、そのごとくわが目を明らかにするため食うのだ、と答えた。
 
 もと西インド島に住んだカリブ人は、豚を食えば豚ごとく眼が細くなり、亀を食うと亀ごとく歩みが遅くなる、と信じた。アメリカのインジアンは、ウゴロモチ目至って小さいから触《さわ》ったら眼が悪くなる、と小児に教えた。また俗伝に、坂田の蔵人切腹する時、その生血《いきち》を呑んだ妻が産んだから、金時は全身赤かったという。日本でも支那でも、兎の肉を妊婦が食うと兎唇《いくち》の児を生むといい、スウェーデンでは妊娠中兎を見たり楔《くさび》で木を打ち開きあるを見たりすれば兎唇の児、灰色の鶏の卵を食えば飼面《そばかす》の児、その他の鶏の卵を食えば鶏の羽を抜いたようにきわめて麁《あら》い鮫肌の児を生むと伝え、ギリシアの小説『エチオピカ』には、暗色の女王が受胎の際白色の美女像を見、よって膚白き女子を生み、夫が自分を他の男に姦通したと疑うを惧《おそ》れてその子を棄つる話あり。これらいずれも、見られ触られ食われた物の性状が触れ見また食うた人に移り、はなはだしきはその子にまでも伝わるという見解だ。
 そのごとく鯰の禿点は病気のナマズ禿に酷《よく》似るゆえ、鮎《なまず》を食えばナマズ禿を生ずと信じて、忌み食わなんだのじゃ。しかして、初めはナマズ禿を生きた鯰に擦り付け神池に放ちて、神罰で受けたる禿を鯰に移して神に還納したつもりだったが、後には単に鯰を絵《えが》いて祠に献ずることとなったは、むかし生きた馬を神に奉ったが、追い追い木製の馬となり、終《つい》には絵馬となり了ったごとし。
(107) さて魚を神や神使とすること、古バビロニヤ人に文字と学芸を教えたオア神やフィリスチンの神ダゴン、それから夏の禹王が見たという河精(すなわち黄河の神)、いずれも半人半魚の形で、古エジプト人は鰻その他の魚類を崇拝した。インドの毘紐天《ヴイシユニユ》やギリシアのアフロジテ、いずれも魚に化けた話あり。ギリシアのアポロやシリアのアタルガチスは魚を使い物とした。東インド諸島や太平洋諸島やアフリカで鮫を、マリアナ島等で鰻を尊崇し、カロリン島のマニ神は魚形という。古ペルーのインジアンは食用する諸魚の祖を神とし祭り、欧州に今も神魚が守るという井や泉多し。北米のアルゴンキン人は鯉や鰻やチョウザメや鯰を各族の祖神とす。日本にも、摂州|昆陽《こや》の池の魚はみな眇《かんち》なるを行波《ぎようは》明神と崇め、富士山神はコノシロ、三島明神は鰻、伊雑宮《いざわのみや》は鮫を愛すといい、会津近き柳津虚空蔵は、ことに堂に近き神淵中の魚を愛し、参詣人近づけば魚水面に出で踊る、人これを取れば災に遇う。
 蒲生秀行は信長の外孫で家康の婿たり。その父氏郷死んで秀行の母すこぶる美人だったので、秀吉、故主信長の娘なるにかまわず、たびたび艶書を遺《おく》りしに、かの後室髪を断って尼となり堅く操を守る。秀吉これを恨む折から蒲生の家老二つに相分かれ争い出だせしに付け込み、わずかに十四歳の秀行はとても会津百二万石の政治を行ない得ぬ由をもって、その封を奪い、野州宇都宮十八万石を与えた。しかし、家康の婿ではあり、関ヶ原の役に徳川氏に大功あったので、慶長六年再び会津に復《かえ》り、六十万石を領した。
 
 この人将軍秀忠の妹婿という廉《かど》で乱暴はなはだしく、大科の者あるごとに釜煎りの刑に処す。釜煎りの刑は大臣将軍すら憚った。文禄四年巨賊石川五右衛門、兵刃をもって徒党し諸侯を犯すに至ったので、秀吉命じて石川とその母、並びに同類二十余人を捕え、三条河原で煮殺した。それをすら秀吉その憚りを知らずと世人嘲った。いわんや秀行故実を知らず我威に任せ法を知らずと人多く誹った由。
 こんな人ゆえ何がな人の好かぬことを行《や》って見たく、慶長十六年七月、件《くだん》の虚空蔵の神淵の上流只見川へ毒を流さ(108)せた。領分の土民に命じ、柿の渋や山椒の皮を戸ごとに課《あ》てて舂《つ》き砕かしむ。その節フシという山里へ夕暮に旅行の僧一人来たり宿り、その主人を呼んでいかな物も命を惜しむ、殿様は明日この川へ毒を流す由、全く無益のことでそれがため業報を得べし、其許《そこもと》何とぞ諫止したまわば莫大の善根たるべし、魚鼈の死骨を見給う、太守の御慰みにもなるまじ、要らざることかな、と深く嘆いた。主人も大いに同情を催したが、このこと先達《せんだつ》て家老の人々諫めたが聞き入れられず、われわれしきが申し上げても御取り上げもあるまじ、さてわれらずいぶんの貧者で進《まいら》する物もなし、佗《わび》しくともこれを聞こし召せとて、柏の葉に粟飯を盛って饗した。夜明けてかの僧深く愁いたる顔色で去って了うた。
 暁方に家々より毒類を持ち出で川上より流すと、無数の魚鼈また毒蛇、あるいは死し、あるいは酔うて浮き流る。その内に一丈四、五尺の鰻一つ浮き出でる。その腹ことに太かつたから、村人これを割《さ》き見るに粟の飯多く盈ちおった。昨夜の宿主、旅僧のことを語ると、聞く人、さてはこの鰻が僧に化けて来たことと憐れみ哀しんだ。その毒流しより三日目に、会津領内の地に限り七日のあいだ打ち続き暴雨、大地震、大雷電し、民家多く倒れ人馬おびただしく死に、中には陰茎を打ち折られ睾丸全く吹き飛ばされたも少なからず。八月二十一日辰の刻(午前八時)大地震で山崩れ、会津川の下流塞がり、会津四郡|丸浸《まるひた》りとならんとするを、秀行の家老町野、岡野ら、役夫を集め掘り開く。この時山崎の湖水できたり。かほどの大騒動だったが、神淵の魚のみは毒に中《あた》らず一疋も死なんだから虚空蔵菩薩は豪い。田辺に近い西ノ谷村天神山にも祭りあるから精々参るべし。
 さて、この大珍事の起こった翌年五月、秀行は三十歳で死に、その子忠郷ようやく四歳で嗣ぎ立ったが、二十一年経て寛永四年二十五歳で死に、会津六十万石を没せらる。しかし、この家断絶すべからずということで、忠郷の弟忠知に伊予の松山二十万石を賜わったが、七年経て三十歳で死す。その時内室懐妊中という。その腹の中の子は家康の正《まさ》しき曽孫に当たるゆえ、たとい女子だっても相違なく家督を賜わるべし、とあったので、家臣一同勇み立って待つうち女子が生まれた。諸臣|労《いたわ》り守り立つるに、三歳になって死んだ。その子の母は内藤家の出《で》で、夫にも子にも先立(109)たれ、内藤家より合力されて八十五歳まで長生し、元禄十三年に極楽へ往った。
 
 かくのごとく蒲生の家三代短命続きで、せっかくの名族が断絶したは、全く柳津の神魚を毒殺せんとし、只見川の多くの生物を何の益もなきに鏖《みなごろ》しにした報いということじゃ。
 それから馬琴の『玄同放言』に、『古事記』以下の国史より邦人魚を名とした例を多く挙げおる。鯛身命《たいみのみこと》や物部連鮪《もののべのむらじしぴ》や安倍朝臣鰹《あべのあそみかつお》のごとし。古え本邦人が魚類を崇拝し、あるいは魚類を祖先とした証だ。惟うに、鯰もいと古く神と崇められ、また一族一部の祖と尊まれたので、ギリシアのゼノフォンの遠征記に、シリア人は魚を使い物とする女神アタルガチスを尊奉し、カルス河の神魚を食えば身に惡瘡を生じ、腸も睾丸も陰茎も縮み骨は砕け了う、とあるごとく、古く鯰を食えば喉に骨立ちて死んだり、左なくとも自身また子孫までもナマズ禿を患《わずら》うると信じた部民が本邦にあった。その遺俗として、近年までこれを忌んで食わぬ所があったのだ。
 このついでに述ぶ。当町今福町の変須菊七氏は、予毎度今福湯で長入りの節|咄相手《はなしあいて》で、種々有益なことを聴く。玉置、湯浅、秋津、芋瀬、真砂、山本、日出《ひづえ》、湯川を熊野八庄司といって、南北朝ごろ高名だった。この内秋津の秋津氏を愛須と書き替えたと見える。近日菊七氏咄に、この辺の淡水魚はみな交合せず、雌が産み置いた卵へ雄が精液を塗り付けて生殖するらしいが、鯰だけは然らず、相纏い転んで交合の状をなし終わりて雌が逃るを雄が追い去るが常例だ、と。『大英百科全書』第二版五巻に、南米のコリドラス属の鯰は雄来たって雌を挑むこと久しきのち交合するうち、雌の腹鰭の膜で成った袋の中へ雄の精液を受け、その直後に卵五、六を生み、右の袋へ入れ、隠れた場所へ置きに往き、返ってまた精液を受け卵を生み、隠れた所へ置きに往く。かくて二百五十ばかり卵を生む。この魚は一夫一妻の定法で、夫婦揃うて卵の番し、他の物が近づけば猛烈にこれを撃退する、とある。
 予は魚学の方はあまり知らぬゆえ是非を言い得ず。しかし、愛須氏は釣好きですこぶる魚類の動作の観察に富んだ(110)人で、全く嘘を言うはずなければ、たとい本邦の鯰が交合せぬまでも、コリドラス同然授精前に雄が良《やや》久しく雌に挑み戯れるのかとも思えば、しばらく交わって雌が卵を産み付けに往くを雄が監視に往くのかとも思う。とにかく何かかかることがあるゆえ、ギリシアの艶道の女神アフロジテやシリアの生殖の女神アタルガチスが魚を使い物とした通り、もっぱら色情や生殖上の関係より、淀姫や弁財天は鯰を使い物とすと信ずるに及んだであろう。全体本邦の鯰が果たして愛須氏の言うごとき行ないをなすものか、読者諸君、願わくはいささかも知り及び聞き及び考え及ぶところあらば教え下されたい。
 それから湊村の塩田茂吉|大人《うし》の話に、和歌山辺では以前ナマズ禿に鯰の粘液を塗って癒ると信じ行なうた由。これは似た物が似た病を治すという療法で、キルギス人が黄金片や真鍮盥を見詰めおれば黄疸癒えるといい、英人が蕁麻疹《じんましん》に蕁麻《いらくさ》を、独人が衂止《はなぢど》めに薔薇の赤い花を、支那人が衂止めに赤い珊瑚の粉を、本邦人が古く難産に陰門形の子安貝を用いた等、その例多し。
 後記。本文中に鹿島の神が要石で鯰を圧さえるという話は享保前にもあったらしいと疑いを述べ置いたが、正徳五年すなわち鯰が関東に始めて現われたという享保十四年より十四年前にできた『広益俗説弁』に、すでに件の鹿島神が大鯰を圧さえおるという伝説を載せおる。   (大正八年二月二十三日−三月三日『牟婁新報』)
 
(111)     緊急広告
 
 西牟婁郡長楠見節等は、自身一箇の名利を好み無謀矢鱈に不急の新事業を興し、かのこともこのことも尻をつめずに留任を継続せん素志と見え、種々雑多の暴政を挙行す。例せば、片町「蛭子祠前」の漁夫が船を上下し漁具を調製するの必須の空地および「江川の河岸」を売り飛ばし、はなはだしきは雪隠を建つるにも足らざる弁慶松の下二坪ばかりの地を払い下げんとするがごとし。頭領かくのごとく不埒なる上は、その部下の俗吏輩の暴横察すべし。例せば、先日西の谷「西の王子」の氏子、わずかに七十二戸なるが、敬神の志厚くして、五百円から追い追いせり上げられて、ついに二千円まで基本金を積みたるも、私怨復讐的に聞き入れず、強盗詐偽兼備の脅喝もて、五千円という非法の積金を誅求して、むりにこれを「東の王子」に合併せしめたるがごとし。かかる奴原《やつばら》は人間の蠹賊《とぞく》にして、神怒り民怨むこと骨髄に徹せり。不肖このことを坐視するに忍びず、近日その筋へ上申し、また種々雑多の方法をもってこれを天下に暴露公表し、いささか懲戒を加えやらんと着手中なり。ちなみに広く郡民に告ぐるは、前日県庁より派出の田村という役人の言に、本郡神社の合祀は今冬末までに完結せよとのことなりし。只今は紅葉いまだ全く色付かざれば、冬いまだ始まらず、まだまだ十二月末までは時日もあることにて、神社合祀の無法詩sは、たぶんそれまでに廃止または改正さるべければ、郡村の役人いかに勧誘脅迫するとも、当郡の人民諸君極力合祀をずらしまくり、必ず取り忙いで合祀を挙行し後日|臍《ほぞ》を噬《か》むの悔を遺すことなかれ。謹白。          中屋敷町三九  南方熊楠   (明治四十二年十月三十日『牟婁新報』)
 
(112)     緊急広告に酷似の表示
                   中屋敷町三九  南方熊楠
 
 楠見節氏は十一月六日の『牟婁新報』に、予の「緊急広告」に対する弁明書を出だせり。その第一に、片町「蛭子祠前の空地は古来官有地にして、これを処分するは小官または田辺町といえどもなし能わざるところなり」とあり。いかにもさようなり。しかるに、世の中は三日見ぬ間の桜かなで、予の広告出でて数日のうちに、郡長点化の方術もて、件の地は見事町有となり、眷属ども大満足のところを、山敷君の注意もて、地上権登記を果たされ、仏経で謂わば、鳩槃荼《くはんだ》、薜茘多《へいれいた》などとしか尊称できぬ非類ども、挙げて手古摺《てこず》りおる。また、その第四に、「西の王子の氏子等、合祀を出願せしにより合祀してやつた」とあり。これは田舎の巡査などがむりやり女を姦して、本人の出願通りしてやったと言うがごとく、今日この地方俗吏のやり方万事この格で、事実と、御上《おかみ》を欺く上塗《うわぬ》りは、児手柏《このてがしわ》の両面《ふたおもて》じゃ。氏子らに聞き合わすに、むりに出願せよと役人様が仰せらるるから詮方なしにした、と言っておる。さて五千円誅求のことは、右の一例に止まらず。郡長の知人で至ってたしかな人に聞くに、安居《あご》の近処の田野井の社も二千円まで積みしも、五千円と価上《ねあ》げに辟易して、役人のなすままに移させ置いたとのことじゃ。人をば紿《あざむ》くべし、天をば紿くべからず。そもそも役人、ことに郡長などいうものは、彼輩より一層阿房なる人民を、どうやらこうやら治めて行かねばならぬものゆえ、威信を重んじ言行を慎むべきは、先日郡長より予の方へ使いに来たりし大村とかいう人も、郡長の言なりとて述べたり。しかるに、前項二条のごとき不確かなる言をもって新聞の弁明に充て、世間を瞞せんとするは、みずから好んで自分の威信を損ずるものにあらずや。宜《むべ》なり、世評一般に公園売却は高等女学校を出《だ》しに使うて、(113)郡長ら眷属の贏利《えいり》のために、「ホテル」を公園跡に建てんとするに基づくということ。管仲は礼義廉恥を国の四綱と言えり。俗の字の付きながらも吏人《やくにん》たる者はよくよく恥を知られたきことなり。(明治四十二年十一月十八日『牟婁新報』)
 
(114)     蘭学に関する南方先生の書簡
 
 玉置神社移転の件は、他日社地をかの例の煙突多き製造所とか下宿屋とか不浄極まるものに蚕食せられぬ一方便として、移転して社地を十分広げ置くならば宜しからんと存じ候。前日雑賀氏より聞きしは、玉置山はもと今の地にあらず、今度移さんとする地にありしを、いろいろの災難で当分今の地に移せしなりとか(拙妻も左様いう)。ただし、移すことは移すとして、それがために現在の樹木を一本なりとも伐らぬよう願いたい。
 小生、熊野植物精査西牟婁郡の分の基点は、実にこの闘鶏社の神林にて、言わば一坪ごとに奇異貴重の植物があるなり。前日、スウィングル氏などもこの理由あるゆえに、米国へ帰りての話の種に参拝したるなり。とにかくかの玉置山祠の直ぐ近処に、ジラリヤ・フィリフォルミスという北米とこの地点にのみ見出だされたる菌あり。またジジミュム・レオニヌムとて、セイロンとジャワにのみ産し、従来熱帯地を限りて生ずるものと学者どもが思いおりたる粘菌の一種も、この玉置社のすぐ近側の樹下において発見せり。また玉置社のすぐ後の丘腹には、一種の粘菌クリブラリア族とは判然しながら、スプレンデンス種と、アウランチカア種との性質特徴を半分ずつ雑え具えたるものあり。
 一体、粘菌は他の原始動物とかわり、その原形体非常に大にして、肉眼で視察しながらいろいろの学術上貴重の試験を行ない得。人間の児孫蕃殖のことを精査せんとするも、眼前男女を交会せしむることはならず。他の諸動植物とても、たとい雌雄交会せしむることは得るとしても、その際およびその際以後、男女の精液(すなわち原形体)の変化を生きたまま透視することならず、わずかに薬汁で固めたり、解剖して半死になったところを鏡検するのみなり。し(115)かるに、この粘菌類の原形体は非常に大にして、肉眼またはちょっとした虫眼鏡で生きたまま、その種々の生態変化を視察し得。故に生物繁殖、遺伝等に関する研究を至細にせんとならば、粘菌の原形体に就いてするが第一手近しと愚考す。
 さて異種の粘菌の原形体を混合して間種を得べきや否やは近来の問題で、知己の英人マッセー氏等は間種を得べしと言い、同じく知己の英人リスター女史等は決して得べからずという。(もし異種の粘菌の原形体を混じて間種を得べくんば、遺伝とか人種改良とかの上において、すこぶる有益なる発明をなし得るはずなり。)
 小生は二十四年間このことを実施研究するも、今まで実際間種を得たることなし。しかるに、二川村大字|兵生《ひようぜ》で、レビドダーマ・チグリヌムという粘菌が稀《まれ》にその体の一部、全く異属のジデルマ・オクラセウムの体となりおるを見たり。英国へ聞き合わすに、英国にもかかる例あり。ただし学術上至細に立論すると、これは人間の鼻へ豚の肉を?めて豚肉が生きおり、枳殻《きこく》の株へ蜜柑を接ぎて蜜柑が活きるごとく、一属粘菌の体へ他属の粘菌の体が飛んで来て?まり込みながら活きおるようなものとの拙見なり。しかるに、件《くだん》の玉置祠後の樹下に産するクリブラリアは、特別なる二種の粘菌の性質を半分ずつ全体に行き渡りて兼備するゆえ、どうしても間種としか見られず。しかるときは、格別なる二種の粘菌の原形体を混ずれば立派な間種を生じ得ることかとも思う。
 このことは今なお研究中にて、昨年まで見届けたる拙論は、昨年八月英国ハーフォードにて開会すべき英国菌学大会で、リスター女史が、「南方熊楠氏、過去十四年間紀州において成せる菌学事業」と題して読まるるはずと報告ありしが、今に報告が着かぬところを見ると、戦争でオジャンになったらしい。しかし、今年八月サンフランシスコ大博覧会場で開会の米国科学奨励会で、スウィングル氏が、同じく小生の「紀州にて成せる植物学および民俗学上の成績」を演ぜらるるはずにて、すなわち前日貴下御同伴の節撮りし神島等の写真、また拙宅家内の様子等の写真、それから当地湯川富三郎氏蔵「山の神草紙」の絵巻物の写し等は、一々幻燈にて拡大して、右の演説の節聴衆に実況を示すは(116)ず、と北京より申し越せり。その演説にはむろん件の闘鶏社の奇異植物のことも出るはずで、学術上大いに地方の名誉また日本の面目にもなることなり。
 吾輩は神社合祀反対で一度は未決監にまで投ぜられたが、政府でもすでに吾輩に耳を傾けくる役人多くなり、本月十三日の『大阪毎日新聞』東京電話によれば、原生林また学術上貴重なる林、名所旧蹟の風致に必要なる樹木、またことに学術研究上保護を要する生物の保護に必要なる樹木樹林を特別保護林として叮嚀に保存すべき旨、岡本山林局長より、各大林区署へ通牒を発したり、とあり。これまでは口外せぬが上山前山林局長(只今は農商務次官)などは、数年前すでに希有植物保護条例草案を予に起稿せよと頼まれた。またスウィングル氏が米国で演述さるべきごとく、当地方から、東西日高三郡に神林の伐らるべきものを伐られずに存置し、那智の濫伐を止め、神島に全滅せんとする彎珠《わんじゆ》を復活せしめたは、全く『牟婁新報』と吾輩の微力が九霄《きゆうしよう》に影響したに外ならぬ。
 去年徳川頼倫侯にも申し上げたが、新庄村長と村人が神島《かしま》の林を保安林とせしは日本最初の植物保護の実施せるもので、前日ス氏が撮影した五、六通の写真と共に、新庄村が目下日本で知られぬうちに海外で名を馳せる訳だ。
 近く当地のある外来の風流宗匠が、金魚の餌を闘鶏社の神池へ取りに往き、桶に入れて社内を通るを社掌が咎めたとて大いに気?を吐き、大阪天満の社は官幣大社だが魚売り等みなその境内を走る、神社は人民に便利を与うべきものなり、それにわずか県社たる闘鶏社の社司が金魚の餌を運ぶを咎むるタア不埒だと遣り込めてやった、と言いちらしおるを親しく聞いたが、大阪は大阪、田辺は田辺、大阪のことは大阪人の勝手として、田辺の闘鶏社はどこまでも古帝王が崇奉された遺址として、むやみに金魚の餌を運ぶどころか、第一神池へそんなものを毎度盗みに行くとは非常に不風流極まる宗匠と叱り置く。
 必竟《ひつきよう》こんなものの出来るも、従来この闘鶏社の世話人などという輩、社地を俗化するを非常に良いことと思い、あちらの木を伐り、こちらの山を拓き、本社を拝むことのならぬような拝殿を立てたり、ことにはなはだしきは○○が(117)社務所へ○○を引き入れ、竜虎采戦の秘戯を神前に御覧に入れて俗人に喚起叱責されるようなことがあったり、また兇状持ち前科者の神主が役向きでおびただしく羽振りをきかす等の面白からぬことを何とも思わぬような例多きより、自然に闘鶏社でも右様の怪しからぬ宗匠の所為も出来たことと思わる。
 とにかく玉置神祠を移すことは別事として、闘鶏社の樹木はこの上一本も伐らず、樹林の辺をこの上俗化せしめざるよう、貴下を通じ世話人諸氏へ願い上げ置く。『バイブル』に、馬鹿な者は笑うて罪を獲、とあるが、まことに笑う門に福来たるとて笑うほど善いことはなきその笑いですら、むやみに笑うて罪を獲ること多し。いわんやこれは一県の県社、一町の産土神、多数人士の氏神たる神社のことなれば、笑うどころか、もっとも真面目に処分してさえ、ややもすれば後日の譏《そし》りを招き易いことなれば、何とぞ慎重に慎重を重ねられたきことである。只今梅雨で日夜菌の画を書く等ですこぶる多忙、すでに二夜二日続けて眠らぬなり。かかることは毎度なり。ちょっと書く暇なきも巧遅拙速に如《し》かずと、今早朝|睡《ねむり》をこらえて乱雑ながら右認め候。大正四年六月十四日朝八時半。   (大正四年六月十五日、十七日『牟婁新報』)
 
(118)     自然保護に関する南方先生の書簡
 
       一 熊野三山と闘鶏社 付紀念植樹について南方先生の書簡
 
 一昨春酒井忠一子(旧上州高崎の城主)来訪された折の直話に、熊野三山というが、三山の周囲は別談として、三山の神社境内は、本宮は大水で流れ去った上に歴史上貴重の神林をことごとく伐り払い、現在の本宮は歴史に見えた本宮と何の縁由なきもの、那智も滝のあたりいろいろと人工を加えたので、一向高崇壮厳の想いを起こさしめず(ことに近来滝の奥の山林を伐採するので滝の水だんだん細くなり、遠方よりわざわざ看覧の人失望して帰るもの多し)、新宮は例の合祀でお客様の神たちの小祠で境内つまり、ここへも賽銭呉れ、ここへも一文下されというような俗祠となり了ったが、田辺に来たり闘鶏社を見るに及び、始めて古熊野式の神社を見る想いをなし、むかし諸帝王熊野御幸の御幸をも連想し、湛増や弁慶の由緒もおのずから心に浮かんだ、何とぞ世が繁熱になればなるほど、この闘鶏社は清浄幽雅にして、いかにも綽々として余韻の尽きぬように願いたいことだ、と話された。
 一体|上方《かみがた》を始め和歌山辺の社という社は、ことごとく闘鶏社ほどの丘巒《きゆうらん》神林なく、この社を見て始めて神林が神社を宏厳にする大背景たるを覚《さと》るは、毎々参詣の上方人《かみがたじん》が感に打たれて語るところなり。(しかるに、近年とかく枯損木などと唱えて官庁を偽り老樹を伐るは、もっての外の曲事なり。)しかるに、中には例の癩者《かつたい》の梅毒《かさ》恨みで、自分(119)らのきたない社から、おかしに闘鶏社の幽邃を羨望《うらや》み、なるべく多く早く疵の付くように、境内に餅屋がないが不便だとか、社務所へ仲居を置くが便利だとか、こんな樹木は伐り倒して球突亭を設くるがましだとかいうは、あたかも隣の女児《おなご》の美を嫉んで、どうか井戸へ陥ちて死ねばよいとか、牛頭魚《こち》の骨が喉へ立って病み出せばよいなどと念ずるようなものなり。それを知らずに余所《よそ》の者が言えばとて、発展発展とむやみに土ほぜり木伐りを始めて、あちらをいろい、こちらをくずし、毎度毎度社内に変革を起こし、氏子へ金をかくるは、万世不動たるべき神社維持の方法を得たりというべからず。(禁路山《きんじやま》にわざわざ路を造りて社殿の上を男女の遊び場所とし、わざわざ大金を費やし社務所を後へ引き、古雅の庭園を改変俗化せしは誰の罪ぞや。)
 なおまた言うべきは、今年の御大礼に際し、諸処、紀念樹を植うるは善いことには相違ないが、これも例の名前のみ美にして、その実はなはだ面白からぬ現象を生じはせぬか。すなわち紀念植樹の美名の下に、実は在来の大樹巨林を伐り倒し、さてその跡はいつ植えるやら分からぬようになったり、または植えたが一本も付かぬということになりはせぬか。非理法権天の五字を楠公が旗に書いたと聞く。いかに権力ある人も天には勝てず。本朝歴代の聖帝中、天運思わしからずして宝算長からざりし御方なきにあらず。(たとえば、後光明天皇のごとき、ずいぶん無類の聖帝なりしが、痘瘡にて早く崩じたまえり。)されば即位の御式あるごとに紀念何々を設くるという美名の下に、その実旧物を破壊する時は、世間安んぜず、すこぶる不穏の世相を出来《しゆつたい》せずや。樹を伐って樹を栽えずとも、教育に感化に、その他物を煩わさず、土地の旧蹟を破壊せずに、なすべき紀念事業の美なるものは多々ありなん。当局の諸士よくよく思慮すべきことなり。このことについては、そのうち大浦内相へ上書するつもりだが、ちょっと『牟婁新報』を借り予告し置く。   (大正四年六月十九日『牟婁新報』)
 
(120)     二 奇絶峡と南部の神島、湊村横手八幡社趾保護に関する南方先生の書簡
 
 次に、近次秋津川の水力を応用するとて、奇絶峡のある部分に人工を加うる由聞くこと毎々なり。已むを得ぬことにもあるべきが、これまた相応に注意して、行く行く天下の奇観として内外人が来遊すべき名勝をむちゃくちゃに殺風景に俗化せしめざらんことを望む。(水力電気事業に止まらず、すべて奇絶峡中の巌石を破壊するごときことは、断然廃めて貰いたい。石採取禁止区域も、現在の区域のみにてははなはだ狭し。ずっと上流をも禁止区域に編入せられたし。上秋津領の山にては、今なお石材を採取しつつあり。これらは本郡長においても十分厳重なる取締りをなすこと緊急なり。)
 次に、長岡介翁が一生奮発した事功の収獲として、南部の神島《かしま》を改善したりということ、毎々聞くが、これも改善ではなくて実は全く俗化したるなり。この人は精鋭な才人ながら学問なきゆえ、かかることを善きことと思いおるは気の毒なり。かの辺の人の中にも、いかにもひどい俗化を神聖の勝地に加えたと嘆じ来るもの多し。仏経に、何の訳も知らず、声自慢で念仏を多く唱えたり、早口に誇って経文を多回読みあるいたり、善いつもりで神聖の地に俗な物を建設したりするものは、死して仏にはなれず、鬼や阿修羅すなわち人間よりはずっと愉快な暮しをなし、頴敏で思うままの戯楽をなし得るが、人間と同じく寿命が終わる時来れば、犬や猫に生まれ代わるものとなる、と言えり。これらはほんの譬喩で言うたことながら、大いに味わうべきところがあると思う。
 不景気で神社の掛り物が多いなど嘆ずる人多し。闘鶏社には今のところ金銭は乏しからぬようだが、世間にいくらあっても一朝にして尽き易きものは金銭なれば、むやみに事を好んで氏子の懐中を困らせてまで、神社を遷したり新設したりするは長久の計にあらずと思う。ただし、前書申し上げしごとく、社地を清浄に保つために、今のうちに境(121)内を廓大し置くについて玉置神社を遷すという深い料簡なら、氏子の迷惑にならぬ限り、小生はこれに不同意を唱うるものにあらず。
 とにかく先年来長々嘲笑されたる吾輩の意見が届き、近時史蹟名勝天然紀念物保存の声朝野に高く、政府また近くその条例を発布する準備ある由、もと小生算学の恩師にして只今御陵頭山口鋭之助博士より承聞するを得たるは、大いに怡悦するところに候。当地方のごときは幸いに『牟婁新報』の力で大体において十の五、六は保存しあれば、この上ただただ求めて創を拵えぬが第一にて、むやみに発展とか開発とか称して、美名の下に実際の改変破損を戒むべきなり。終りに述べ置くは、かの湊村の横手八幡社趾、これは只今しばらく措くとも、何とぞ安藤直次公に縁あるにより、後年ある時機を見て何とぞ今の藤厳神社をこれに奉祠されたきことと思う。件《くだん》の八幡は、直次公の兜の八幡座の守り本尊を祠りしもの、と故矢野平次郎翁に聞けり。右走り書きにて校閲の閑もなく思い付いたまま申し上げ候。   (大正四年六月二十一日『牟婁新報』)
 
(122)     「万呂村天王池養殖談」を読む
 
 大正四年六月二十七日発行本紙上、佐々木技手の「万呂《まろ》村天王池養殖談」を読んで、第一に問いたきは、この池在来の鯉、鮒、鯰等の淡水魚を全滅して、その代りに技手がみずから言えるごとく二年以上淡水に生息し得ざる鯔《いな》を養殖せしめ、さてその小さき鯔を捕えて養殖に苦辛しただけで贏利《もうけ》となるべきや。技手自身の説を読むにも、かかる小鯔を養成するだけに、池底の泥土を浚《さら》えたり、鯉、鮒を征伐したり、菱を保護して蓴菜《じゆんさい》を除いたり、ずいぶん面倒と工賃のかかることと察せらる。
 しかして、この辺に二歳ばかりの小鯔をさほど珍重せず、遠国より買いに来たるべき見込みなしとすれば、飯米をむざむざ禮《あまざけ》に作って酔うて寝て了《しま》うようなことになり了《おわ》らざるか。予は何故に万呂村の有志が池の天然の素質を利用して鯉、鮒等の淡水魚を保護せず、天然に逆らうて好んで苦辛して、さて左までにもなき二年ばかりの小鯔を作り上げんとするかを解するに苦しむ。
 ついでに述べ置くは、数年前まで予の知れるところでは、天王池の蓴菜は池の片隅の方にしごくわずか生じいたるものにて、決して池全体の自然経済に影響を及ぼすようなことはなかりし。しかして、予の知れるところにては、この蓴菜は、実に紀州の蓴菜分布の最南端を示すものとして、植物分布学上もっとも貴重のものたり。すなわちジュンサイというもの、摂・河・泉の池沼に多きも、何故か紀州に多からず。和歌山辺で料理に使うには、もっぱら河内辺より取り寄せ、また一生ジュンサイを見た人もなかりし。しかるに、この万呂天王池ごときジュンサイ盛茂地を離れ(123)たる所に、僅少ながらその影を留めおるは非常に珍しきことと予は思えり。このジュンサイというもの、日本、支那、インドはもとより、北米にも濠州東部にも生じ、決して珍植物とするに足らず、何でもなきようなものの、日本本州における最南端の孤立存在点として、学問上この天王池のジュンサイを特に学者は貴重すべきなり。
 さて素人にはなかなかむつかしくて益なきことながら言い置くは、この池のジュンサイにはいろいろの珍しき微藻付く。中には学名の付かぬものも多く、前日来遊のスウィングル氏も大略そのプレパラートを拙宅で見て大いに感心し、ぜひ米国の諸大学へ組数を定めて譲り受けたしと申し出でられたことで、予に取っても貴重な品ゆえ、いかな大金にも売ることはできぬが、日本に参考文献少なくして久しく学名付かずにあるも遺憾なりと言うて、欧州は大戦争で学問調査は当分オジャンなり、幸い米国にコリンスという億万巨豪《ミリオネヤール》で、昼間は営利に鞅掌《おうしよう》し、夜間睡眠時間を節して、米国はもとよりメキシコ、中米、パナマ地峡までの淡水藻を鏡検して大著述を出した人がある。予の天王池の藻のプレパラートをこの人に一任するから、学界の利益のために一々予の図記に対照して精査命名さるるよう同氏に頼まれたしと言い出でしに、スウィングル氏は快諾されたことである。
 しかるに、この池の藻が精査命名せられて世界に名を拳ぐる時に、佐々木技手の一言のために肝心のそれらの藻の寄托主たるジュンサイが天王池に跡を留めぬとあつては、学界のために遺憾この上なきことなり。
 
 されば、かの池のジュンサイが、余の数年前見たるごとくわずかに一部片隅の岸際に止まることなら、池全体の自然経済に何の関係なく、さて世界に名を上ぐべき珍希の自然紀念物の寄托主なれば、何とぞ全滅せしめぬよう、また果たして最近余が視ざる僅々数年間に池全体に弥浸して適切《てつき》り養鯖に害ありと認めらるるほどならば、大部分はこれを除くとして、さほど養鯔に害なかるべき片隅だけは残されたきことなり。この池のジュンサイより種々奇異の微藻または淡水海綿を見出だしたが、本邦には予の外にあまり淡水藻や淡水浮游生物を調査した人はないようだから、詳(124)しく述べても言葉費えだが、一例をのみ挙げんに、アルツロスピラ・ゼンネリという碧藻などは、余の知るところでは外国でも希有で、わが国には今日までこの天王池の蓴菜の葉間よりのみ見出だしたる外に産するを聞きしことなし。※[縄のような図有り]かくのごとく海底の電線の鉄鋼ごときもので、深緑青色バクテリアに近き蕃殖をなすが、葉緑素を有するから他の生物を害せず、反って益あり。およそ六百四十倍の顕微鏡で見た大きさが図のごとき大きさである。
 また、この池に産する顕花植物は菱と蓴菜に限らず、少なくとも十種はあるべし。眼子菜《ひるも》もあり、河骨《こうほね》もあり。その河骨は、まず紀州で無類の立派な自然品なり。これらは養鯔に害ありとして全滅せしむべきか、将《はた》害なくして保留さるべきか。
 近来人民は何がな金にせんと強慾を出し、視察に来る官吏も、見当たり次第何ごとも目論見《もくろみ》を立て、何ごとか言い草を吐いて勤め振りを見せんとすること比々みなその例なり。これあたかも芸妓に昼間紡績を勤めしめ、幇間に雨夜に米を舂《つ》かさんとするごとく、多くは虻も蜂も取れぬこととなる。その結果としては実際思いしほどの効果少しも挙がらず、ただいろいろ改革事業を起こして手間費えとなり了ること多し。一方からいわばむろん労力人《はたらきて》の儲け、また官吏の忠勤振りでその人々に取ってはよい飯料ゆえ決して全く悪いことにはあらざるも、一方に少益ありて他方に大損あることは、全局から見て世間一汎の徒費なり。この天王池の養鯔業のごときも、ある人が王荊公に進言した、西湖ほどの山を潰して西湖を理むるような、むりに事を起こすものにあらざるか。もし熱心に鯔を養殖して大利を得んとならば、東郡の湯川の海に通ずる潟のごとく適当の地点は別にあることと思う。
 数年前|文里《もり》辺に蛤《はまぐり》を殖え、近年湾内諸方に石花菜《てんぐさ》を栽えしめしも、実際徒労で何の効もなかったらしい。いわんや鯔ごとき終生淡水池に生長し得ぬと分かり切ったものを、天王池を改革してまで養殖せんとするは格別の物好きで、むかしの大名の慰みなどには宜しからんも、万呂村には、さしてさほどまでして養鯔する必要はなしと思わる。
(125) 予欧州に在学の時、ロシア政府が、ノーガイ韃靼族《ターターぞく》が遊牧のみして安閑と一生を送るを改良せんとて、強いて煙草を作らせたるに、煙草は上出来に生じたが、近傍より一向買いに来ず、捨てる訳にも往かぬので、かの韃靼人自身等朝夕煙草のみ燻《くゆ》らし暮らし、在来の遊牧もせねば何もせずに遊び出し、政府も改良するつもりで改悪したと気付いたころは、煙草の毒その輩の膏肓に入って何ともならず、官民共に呆れおると露国の官吏より聞きしことあり。二年立てば捕らねはならぬ小鯔を作りて、多少ともせっかくの農桑の手間を欠くようなことありては、この養鯔事業の万呂村におけるは、かの韃靼人の煙草ごとき結果を来たさずや、と隣の疝気を病んで置く。   (大正四年六月二十九日、七月一日『牟婁新報』)
 
(126)     岩田村大字岡の田中神社について
 
 今回田中神社を八上《やかみ》神社に合祀したについて、その跡森を伐採して八上の神田とすると聞き及ぶ。この田中神社と八上神社と岡川八幡神社の写真は、かつて『日本及日本人』にも載せ、また前代議士中村啓次郎君より時の内務大臣平田男に示して讃称を得たこともあり、かかる古社はなるべく保留を望むとの言なりし。かつ理学博士白井光太郎君が特にその写真を複製して、井上前神社局長や徳川頼倫侯に示され、今も史蹟名勝保存会に保存されおり。田中神社の風景美観と紫藤《ふじ》の優雅なること、并びに現時植物学上の大問題たる松葉蘭発生研究に最好の場所たること(これは先帝より恩賜の金員をもって平瀬作五郎君が今に潜心精査中に属し、予より年に二、三|乃至《ないし》四、五回、その参考報告を発送中にて、この研究が成就せば日本の学問の令誉《ほまれ》たること申すもなかなか愚かなるに極まっておる)、またことに予が先年来潜思考鑿中なる、わが邦の古社にはオリエンテーション(方位)を正しく立てたる事証《あかし》ある論も、この田中神社を手掛りとして着手し得たところで、昨年四月東京発行『郷土研究』一〇二−四頁にその緒言を出してより、大いに識者の注意を惹きおる。京の伏見の田中神社も和泉式部の歌で名高いが、かの辺は今は昔と変わり人家も立て籠み古今の変動も偉いので、真正の田中神社というべからざるものとなりおる。本郡平瀬に今一つかようの位置を占めた社があると聞いたが、自分見ぬことゆえ確かなことは言えない。
 さて、誰も知るごとく播磨の生れで、眼科の大先生医学博士井上通泰という人がある。この人は、今日敷島の道に取って抜群の秀逸多く、名歌の誉れ九重の尊聴に達し、山県公その他高貴の方々多くその説を容れて自作を補わるる(127)ことで、和歌は元国体の芳華たれば、したがって井上先生も崇古敬神の念もっともこれ厚きは言を俟たず。先年熊楠が神社合祠反対意見を草した時、先生特にその稿本を手許に留め置かれ、知合いの人々へ示されたうち、故乃木大将と談このことに及び、大将それは一覧したきものなりとのことで、井上先生より予の稿本長さ二丈余なるを借り持ち行かれ、一週間ほど経てみずから件《くだん》の稿本を持って井上邸へ返しに来られ、熊楠の熱誠感心の趣きを兼ねて、かく長大の意見書もかく細筆ではちょっと多人数の読者に行き渡るまじければ、何とか然るべき方法もてこの意見書を弘く有志に示すの方便を望むという意の書翰を遺《のこ》し去られた。当日、井上先生の不在中へ大将来られて、かくの次第だった。
 それより井上先生の実弟で現に貴族院書記官長たる柳田国男君が、自費を払って右の意見書を「南方二書」と題号して出版し、前大蔵大臣田尻稲次郎子外六十余家の朝野名士に配られたので、当町の医士喜多幅武三郎国手は、現存する予の幼年の友としては陸軍大佐長尾駿郎氏に次いで最も古き知人かつ拙妻を娶った時の媒人《なこうど》であると同時に、不思議なことには井上先生が医業も歌学も今ほどに発達しない時、下谷区和泉橋辺に住まれた処が喜多幅氏通学の学校近いので、毎日喜多幅氏がその邸に立ち寄り弁当を食われた。その縁で今も上京するごとに井上先生を訪わるる。去去年春ごろ、例のごとく訪れた時、井上先生|件《くだん》のことを語り出され、右の乃木大将の状は絶筆とも見るべき自分宛てのもので、中に南方氏の名も入りあり、実に後世までの参考ともなるべきものと、近来いかに捜索に手を尽すもその時限り見失うたは遺憾の極と語られた、と喜多幅氏の話であった。
 
 乃木大将は、予在英中、陸軍大佐で来られ一ヵ月ばかり滞在されたと記臆するが、予はただ尋常《よのつね》の武官と思いおり、当時久しく識った大佐連から類推すると、特別に異常の人物というほどの人でもなかろうと惟い、推して面会を求めなんだ。ただ一事、亡中井芳楠氏が公使館で乃木大佐に逢った時のことを聞き込んだが、本間題に関せぬことゆえこ(128)こに略する。さて予が本文に乃木大将のことを持ち出すは、いささかも大将の名を借りて自分のためにせんとの意あるにあらず。予は不敏といえども自分専門の学問上二、三の心底から激賞感心し呉れた、もっとも高名な人士あるをもって潜かに大満足しおる者で、学問外の人が一揚一抑されたりとて、かれこれ懸念するほど堕落は做《し》おらぬ。
 ただ予がここに当該官公吏や一汎読者諸君の注意を惹き置きたきは、『論語』に、その鬼にあらずしてこれを祀るは諂《へつら》いなり、とあり。前年、乃木大将先帝に殉ぜしと聞いて衷心はなはだしく感動されて非を悔い行を改め、善を修め徳を施すに及んだ人もはなはだ多かったは、まことにいささか大将の志に報いたとも言い得べけれ。中には、何の訳もなく狂乱して自刃自損したり、また大将に何の縁もなき地で醵金などして、あらずもがなと思わるる似而非《えせ》文句を鐫《え》り付けた碑を立てて人寄せを謀ったり、はなはだしきはその遺族に電信を発して死所を得たるを祝した名僧が、自慢たらたらその由を触れ散らしたもあった由聞き及ぶ。まことに大将の烈死を売物にしたようで、その人々の根性の底も知れ、かつはその鬼にあらざるを祀る諂いのはなはだしきものと思う。
 ここに一言し置くは、大将自刃の年十二月の『日本及日本人』に、「自殺につき」角屋蝙蝠と署名して、谷本、浮田二博士が大将の自刃を難じた説を撃ったのは予で、角屋とはロンドンの町の角ごとに居酒屋があり、予、福本日南と岡部次郎氏を伴れ行《あり》くに、居酒屋ごとに一盃ずつ飲むに呆れて、日南が付けられた予の綽号《あだな》、蝙蝠《こうもり》とは大将自刃の前後に、予がこの田辺の片陬《かないなか》におりながら、毎々東京で大家先生と言わるる人々の説を打ち込むを、ある人が疳癪に思い、「汝は鳥なき郷の蝙蝠なり」、田舎の者どもの間に増長して向う見ずに人を打ち込むと言って来たので、この蝙蝠は田舎には棲むが、かつてまた今も欧米大都会の鸞鳳《らんぽう》と相駆逐し、東京ごとき小都会の鴫《しぎ》や鶉《うずら》を対手と心得ぬ、と返事した。予かつて土宜法竜僧正と劇論の末、ヒョットコ坊主と罵ると、僧正悦んでこれを甘受し、かつてロンドン大学総長へ贈るべき『古事記伝』買入を頼み上げた為替金の残額か何か送り来るに、差出人の名が仁和寺ヒョットコ坊とあったので、親しく見ぬことながら郵便局員の呆れさ加減を想い遭って気の毒に堪えず。また方外の交わりとて、(129)その奥処を覗い能わざるは勿論ながら、さすが身を寒微に起こして寛平法皇の法嗣となり、仁和寺門跡と仰がるる仁の度量は格別と感心措かず、せめてはその真似でもせんと、さっそく蝙蝠を自分の雅号とし拝受する旨、件の予を蝙蝠と呼んだ人に報《しら》せた。
 予若き時、支那の博徒間に寄食し、毎夜『水滸伝』を読んで、今も多くその妙文拍案のところを暗《そら》んじておる。その中の一豪傑の詞に、われ行くに姓を改めず、住《とど》まるに名を更《あらた》めず、とあるを見て、誰もかくこそあるぺけれ、人間運拙くていかに究すればとて、父母が付けられた姓名を須臾も改むということのあるべきと思い定め、いかな窮境に陥るも始終姓名を詐ったり、字《あざな》とか号とかを使うたことなかったが、件の『日本及日本人』の一文に限って変名を用いしは、当時かの二博士の評判はなはだ宜しからず、されど二博士を駁する諸家も必ずみな定見あつてのことでなく、弥次半分に無茶攻撃を行《や》ったのも多かったので、衆《おお》きに雷同して寡《すくな》きを撃ったと思わるるも面白からず、攻撃諸家が真に攻撃すべき諸点を逸しおるを自分眼が著きながら、いたずらに止むも遺憾|技癢《ぎよう》の至りと思い、止むを得ず一生に一度変名を使うた。さて、この駁論を出したは、大将が予の合祀反対意見を読まれた云々の話を、喜多幅国手から承った前約二年のことだから、予が件の駁論を出したは、毫末大将への御礼でも追従でもなかったと弁じ置く。
 さて乃木大将が予の合祀反対意見を愛読して、何とか多くの人の眼に懸かるようと注意されたのを見ても、旧蹟古社の保存はもっとも大将の望まれたところで、当時大将は公務多端で直接そのことについて予に書面を寄せられざりしも、実に当県に濫行されたような無茶苦茶合祀には将軍も大反対だったと分かり、また何の訳もなく大将を神とし斎《いつ》き、いわゆるその鬼にあらざるに諂《へつら》い祀るなどは、はなはだ好まれなんだことと想う。以上は本論田中神社のことに密接な関係はないが、ついでが宜しいので井上通泰先生のことに付けて書いたのだ。さて井上先生の実弟は多くあるようだが、予は確かに知らぬ。その内、柳田国男氏は二年前当地に予を訪われ面識あり。この人は下村宏氏等と同(130)じころ大学出の法学士で、只今貴族院書記官長たり。すこぶる多忙の身をもって公務の小暇、読書の功おびただしく、ことに本邦民俗制度の学に精しく、種々著述もある。外国のことはとても予ほど知り明らめおらぬが、外国のことを除いて日本のことばかりを潜心調べた上、氏の結論を予が見ると、ちゃんと外国のことばかりで調べ上げた予の結論と帰一することが多い。
 これが学問というものの尊い随一の理由で、往年英国のローリンソン等がアッシリアとバビロニアの上古の板状文字を読む法を考え出し、種々別世界の史実ともいうべき遠き世を隔てたことどもを知り得て訳出した時、仏国の大文豪ルナンと英国の史家サー・ジョージ・リュイスが彼輩の所為に疑いを挿み、いわゆるアッシリア学者なる輩は、自分ら銘々勝手をもって実際読めもせぬ文字を読めたりとみずから詐《あざむ》き、各自思い付き次第の訳解をなす、と言った。その論すこぶる喧しかったので、一八五七年、ロンドンの皇立アジア協会、特に調査委員を撰み、大史家ジョージ・グロートをその審判長とし、当時アッシリア学の名家ローリンソンとヒンクスとオッペルとフォクスタルボットと四人をして、おのおの一切交通を断絶して至難のアッシリア古文を翻訳せしめた。定めて甲乙丙丁おのおの相齟齬した物を出すであろうと反対派の面々が楽しんでおったが、四人の訳が成って持ち出すを見れば、瑣末な諸点を除きて古文の大旨全体が四人一手に出るがごとく符合した物だったので、アッシリア学はいよいよ正しい公明なものと判り、爾後これに対して異議を容るる者もなければ、すでに掘り出した古文を読んで、その文意に随って摸索すると果たしてその文に書いた通りの遺物を発見し、古きを温《たず》ねて新しきを知るで、前年穂積博士が先帝に進講した世界最古の法典ハムラビの法文なども見出だされた。かくのごとく箇々独立して研究し上げた成績が符《わりふ》を合わせたように帰一するので、始めてその学問が正しい物と分かり、その学説が決して牽強《こじつけ》でないと保証される。
 
 さて大正三年八月発行『郷土研究』二巻六号「聖という部落」という題号で柳田君が書いた中にいわく、「ヒジ(131)リという語が仏教の中で発生したものでないことは、その語義の方からも証明し得るように思う。ヒジリの日知りの義であるらしいことは、小山田与清(高田文相の祖父)などもこれを説いた。ただし、日知《ひじり》は日之食国《ひのおすくに》を知看《しろしめ》す日神《ひのかみ》に比したる美称なり」と言うに至っては、あまりに不自然な省略なるのみならず、聖帝と書いてヒジリノミカドなどと訓《よ》んだ場合には充《あ》て嵌《はま》るが、『日本紀』の古訓に大人と書いてヒジリ、また仙衆と書いてヒジリというものは勿論、人丸は歌の聖《ひじり》などいう聖《せい》にも適用し得ぬ説である。(これ『古今集』の序の詞が本で人丸を歌聖と言う習いであるが、実はこれも六歌仙などの歌仙であろう。)自分の意見では、ヒジリは単に日を知る人、すなわち漢語で書けば日者《につしや》という語などがその初めの意味であろうと思う。日の善悪を卜する風はわが邦にも古くからあった。たとえば出雲|国造《くにのみやつこ》の神寿詞《かむほぎことば》に「八十日日《やそかひ》はあれども、今日の生日《いくひ》の足日《たるひ》に」とあるなどがその証である。しかし、必ずしも日の善悪には限らず、日の性質を熟知してこれに相応する行動を取り、また巫術祈?をもって日の性質を変更することなども、上代の社会には最も必要なる生活手段であったかと思う。武蔵の旧族に日奉《ひまつり》氏、敏達帝の六年二月に詔をもって置かれた日祀部《ひまつりべ》、『延喜式』神名帳に見えておる陸奥|行方《なめかた》郡の日祭神社のごときは、いずれも天体の日を祭ったものではなくして、時間の日を祝する任務を持っていたために、公けの機関としての必要を認められたものであろう。
 また諸国の郡名郷名に日置《ひおき》というのがある。出雲の日置郷については、古風土記に日置伴部が来たり停まりて政《まつりごと》をなせし所とある。その日置部は、古くは「垂仁天皇紀」にも見え、社の名としては同じく『延喜式』に東西の六ヵ国に日置神社がある。今日の仮名遣ではオとヲとの差《ちがい》はあるが、日置のオキはたぷん韓招《からをき》などのヲキで、これも日祀《ひまつり》のことかと思う。日知は決して、右の日置部、日祀部の部曲の者の名だというのではないが、日の性質に通暁することを大事と考えた昔の人としては、聖者または仙人というがごとき優れたる人格に向かって、日知という名を付するのも不自然でないこと、あたかも先生を物知りというと同じである。ただし、かかる物知りに聖の字を持って行くのはあまりのことという人があるかも知れぬが、また例がある。『東国通鑑』に、新羅の第九三伐休尼師今、姓は昔、(132)名は伐休、脱解の子、角干仇鄒の子なり、王、風雲を占うて、あらかじめ水旱および年の豊倹を知り、また人の邪正を知る、人これを聖と言う、とある。
 これによって観れば、天皇をヒジリノミカドと申し上げたのは、たぶんは聖天子などいう漢語の直訳であって、いずれの世にも天皇を神とこそ申せ、ヒジリと唱えたことはなかったであろう。毛坊主ごとき賤民の元祖と共通の名というは畏れ多いが、要するに上古の文学などはこれほどまでに平民と没交渉のものであった。民間のヒジリという賤民にも聖の字を当てたのは、おそらく後世の仏徒などの業で、このころはヒジリという者はあっても、その業(日の性質を知り占い教える)すでに退歩し、何故にヒジリと呼ぶかがすでに不明に帰していたらしい。中国辺の地名に、小童と書いてヒジと呼ぶがある。美作真庭郡二川村大字|小童谷《ひじや》、備後世羅郡広定村大字|小童《ひじ》のごとし。備後御継郡八幡村にも小童山という城趾あり。他の地方に肘作《ひじつくり》また肘屋敷などの地名もあれば、このヒジも一種の部落で、たぷんはヒジリの下略であろう。小童と毛坊主とは一見関係がないように見えるが、日知にして念仏に携わらぬ者が残っていたとすれば、やはりまたハカセ(呪詞を事とする賤民の一種)や山伏と同じく、童児を使って因祈?《よりきとう》などをして生活したに相違ない。
 いわゆる念仏聖の方面においてもヒジリをヒジと呼ぶに至ったらしい一例は、例の秘事念仏である。三陸地方の秘事念仏のことは加藤咄堂氏の『日本宗教風俗』に見え、肥前の一部に今も行なわるる秘事法門の結社については井上円了氏の『日本周遊奇談』に書《しる》されおる。いずれも真宗の一派にして密室念仏をもっぱらとするがゆえに、異端のごとく取り扱われ、江戸では有名な御庫門徒の刑事事件も起こった、云々。かく考えて来ると、鉦打《かねうち》を被慈利《ひじり》と書き、高野の聖を非事吏《ひじり》と書かしめた理由もやや判る。すなわちヒジリに当てた聖という文字があまりに結構な字であるために、勢力ある名僧たちに横取りせられて終《しま》い、下品の念仏者は実に本家本元のヒジリであったにかかわらず、かえって遠慮をして安物を用いねばならなかったのである。
(133) このついでに言うは、漢字の輸入せられた時代には、後世の南方君のような博識家はあまりいなかったために、和漢の二種語の対照が必ずしも常に適当というを得なかった。しかも出発点を誤った漢字の進歩が、逆に日本の事物の解釈を変更した例は、特《ひと》り右の聖の字のみではない。「わが邦でも僧侶を上人と呼ぶことはいつのころよりか支那を真似した。しかも、その上人たちが上人でおればよいものを、聖人と書く方が堂々としているとでも考えたか、むりにこれをショウニンと読ませ、勧進聖《かんじんひじり》が勧進聖人と人の字を加えて格が昇った気でいると、結局そのために御里が露顕して、いつまでも三味聖や墓所聖との因縁を尋ねられるのである。不自然な万葉仮名などを用いて区別しても、ヒジリはことごとくみなむかしの日知の退歩したものである」と柳田氏が説かれた。
 
 同じ『郷土研究』の三巻二号(大正四年四月)、予の「ヒジリという語」なる一文が出た。そのままでは、ちょっと『牟婁』紙の読者に判らぬべきこともあるようだから、少々和解して出すとしょう。
 いわく、柳田君の論文に、小山田与清が「日知《ひじり》は日之食国《ひのおすくに》を知看《しろしめ》す日神《ひのかみ》に比したる美称なり」と言うは、聖帝と書いてヒジリノミカドなどと訓んだ場合には当《あ》て嵌《はま》れど、『日本紀』の古訓に大人また仙衆をヒジリと訓み、後に人丸は歌の聖などというに適用し得ぬ、とある。予『古事記』を見ると、故《かれ》、その大年神《おおとしのかみ》、神活須毘《かむいくすびの》神の女《むすめ》、伊怒比売《いのひめ》を娶りて、子|大国御魂《おおくにみたまの》神を生み、次に韓神《からの》、次に曽富理《そおりの》神、次に白日《しらひの》神、次に聖《ひじりの》神を生む、とある。本居宣長の『古事記伝』一二に、白日神は何だか分からず、白の字は向の誤字で牟加比《むかひ》なるべしとて、山城に鎮座した向日明神などを傍証として挙げおる。
 一体『古事記』に載せた同父兄弟諸神の名にその事功相類似せるが多い。これはギリシアやインドや支那でも、古くは同類の事功ある諸神を兄弟としたのが多いと同じことだ。大年神は穀物の神で、その子向日神と聖神の外に、山里を聞いて民の住処とした大香山戸臣《おおかがやまとおみの》神、その次に父神と同功の穀神|御年《みとしの》神、それから竈の女神|大戸比売《おおべひめの》神、次に大(134)山咋《おおやまくいの》神、これは本居氏は何とも言いおらぬが、一名を山末之大主《やますえのおおぬし》の神とあるから、山腹を守りて麓の里を安んじ、山崩れぬように鎮めた功ある神であろう。次に庭津日《にわつひの》神、これは古えは行燈などなかったので家を照らし、また暖を取るに、主として庭燎《にわび》を焚く、その火を守った神。次に阿須波《あすはの》神、阿須波は足場で、すなわち庭の土を守る神。次に波比岐《はひきの》神、宣長の説によると、波比岐は今《いま》這入《はいる》というに縁ありて、いわば玄関口の神。次に香山戸臣《かがやまとおみの》神、これ上の大香山戸臣神と同功の神だろう。次に羽山戸《はやまとの》神、これも同様の神と見える。次に庭高津日神、宣長は言っておらぬが、高い日が庭に光をさしこむよう、すなわち家内が明るいように祀る神でがなあろう。次に大土《おおつちの》神、民のために田地を守る神だから、土之御祖《つちのみおやの》神とも申す。かく穀の神、大年神の子供が、多く田地、百姓、住居に関する守護神だちう点から類推すれば、必ず向日《むかひの》神と聖神と同じく百姓家に功ある神でなけりやならぬ。宣長はこのことにたぶん気は付きながら、惜しいかな創学多端多忙のため精しく考える暇なくて、向日神と聖神の解義に手を付けず、判らぬを判らぬとするに止めたのだ。
 まず向日神は、『記伝』六に、上代日の向かう所を賞《ほ》め称《たた》えたること多しと言い、巻一五に、『古事記』一三に天津日子番能邇邇芸命《あまつひこほのににぎのみこと》、笠沙《かささ》の御崎《みさき》の地形を相《みそな》わして、此地《ここ》は朝日の直刺《たださ》す国、夕日の日照る国なり、故《かれ》、此地《ここ》ぞ甚《いと》吉《よ》き地《ところ》、と詔たまいて、底津石根に皇居を定めたまうた、とあるを釈くに、竜田の風神祭の祝詞、わが宮は朝日の日向かう処、夕日の日隠《ひかげ》る処等の古辞を引いて、古くあるいは日向あるいは日影を讃めたる由言い、『万葉集』に家や地所を詠むとて日に向かうとか日に背くとか言ったのがしばしば見ゆ。日当りは耕作牧畜に大影響あるのみならず、家事経済未熟の世にはことに家居と健康に大利害を及ぼせば、もっとも注意を要したはずだ。また日景《ひあし》の方向と増減を見て季節と時日を知ること、今もその心懸けさえあればできるものだ。したがって察すれば、頒暦など夢にもない世には、この点に注意して宮室塚墳を立てて、その影を察して時節や順気を知った処も必ず本邦に多かっただろう。されば向日神は、日の方向から、家相、地相、それから暦日と季候を考えることを司った神であろう(『エンサイクロベジ(135)ア・ブリタンニカ』一一板、巻二〇、知人サー・ノルマン・ロッキャー著『ストーン・ヘンジ篇』参看)。
 予は、柳田君以前に君同様「ヒジリは日を知る人、すなわち漢語で日者と『史記』などに書きおるが、その初めの意味」と解いた人あるを聞かず。したがって、この柳田君の解説を近来の大発明と感じ入り、それから類推して向日神を上のごとく釈いたのだ。かく向日神は日の方角を察して家相、地相や暦日を知る神で、その弟たる聖神《ひじりのかみ》は日の次第で善悪を知った神で、これらすこぶる似寄った役目を兄弟二神が司ったものに相違ない。
 日の次第で善悪を知る、すなわち暦と占を兼ねた者を聖人とするは、柳田君が挙げた新羅王の外に多く例あり。支那上古の三皇五帝は多く律暦制定と卜占の法を創《はじ》むるに功あって、いずれも聖人といえる。降って唐朝にも、方士|刑和璞《けいかはく》が暦の名人僧|一行《いちぎよう》を聖人ならんと歎美した、と『酉陽雑俎』に見ゆ。そのころの暦はいずれも暦と占を兼ねたものだ。ユダヤの史家ヨセフス言う、上帝が上古大洪水前の諸聖父を長生せしめたは訳あることで、六百年経て初めて一運を過ごす、せめて六百年生きて見ねば彼輩が各自発明した星学や幾何学を多少とも成就するは望むべからざるに由る、と。さてプレスコットは古ペルー人の暦学が甚《いと》未熟だったは、古メキシコの僧は若干の暦学智識を基として星占術を立て、他から神聖らしく見られたるに反し、ペルーの僧徒はことごとくみずから日の後裔と称し仰がるる貴族の出ばかりだったので、別段星占術を究めて身に威光を付くるを要せなんだからだ、と説いた。向日神や聖神が天照大神の末でなくて素盞嗚尊《すさのおのみこと》の胤《すえ》だったのも、古ペルー同然、天照大神の末たる方々は常身すでに日神の分体ゆえ、別段天文暦占を学んで身に威光を添うるに及ばず、素盞嗚尊の胤の諸神はこれに反して、特に種々の芸道を身に積んで民に尊ばれんと心懸けたまえるか。
 とにかくヒジリは日知《ひじり》で、暦書なき代にはなかなか尊ばれたこと、今日田舎で槌に入ったの八専《はつせん》が来たのと心得た者は、梅雨明かぬに糊を拵えず、種蒔き時を違えぬほどの益はきっとあり、これらの心得なき輩は、毎々大齟齬、大失敗をするので察すべし。これをもって『古事記』の筆者すでにヒジリに聖の字を宛てたは、孔子以後聖人なしなど(136)いう後世の儒者が見たらあまりのことと思わんが、孔子以後にも、確か『韓非子』にィ戚《ねいせき》という戎生れの賢相で秦国を強くした人を聖人と呼んであったと記臆する。常に優った物知りを賢人と見立てて、抜群の賢人を聖と做《な》す眼には、物知ったばかりの賢人の上に特種の神智を備えたよう見える日者、すなわちヒジリを聖と立てたはもっともな遣り方だ。その日知の道を司るとか始めたとかの意《こころ》で、聖神を立てたのであろう。
 近い話は、英語や仏語のセイジやサージュを聖人と訳した人あり。原《もと》はラテン語のサピエンス(博識《ものしり》)から出たので、聖にも賢にも充て得るが、英語でワイズ・マンと釈するから、まずは賢人に当たる。しかるに、英語でワイズ・ウーマン、仏語でサージュ・ファム、いずれも字のままでは賢女もしくは聖女だが、前者は巫女または卜女また魔術女、後者は産婆に限られて用いられおる。これはラテン語のサガ、複数でサガエが、産婆、卜女、媒女、女衒、香具婚薬売、堕胎師等に渉った総名で、老衰せる娼妓などがこんないかがわしい芸道なら何でも知っておった、怪しからぬ物知り女を指した名で、それを特に賢女や聖女と英・仏語に訳したところが、日知《ひじり》を聖と訳した『古事記』筆者の用意に酷《よく》似おるではおまへんか。以上、熊楠の説だ。
 
 上述のごとく『古事記』の白日神とは従来何のことやら判らなかったのを、本居宣長が城州などに向日神というがあるところから類推して、白日は向日の誤写だろうと言ったはよかったが、その向日神とはどんな功ある神ということに言い及ばず。その弟神たる聖神に至っては何やらさっぱり分からず、宣長もまるで放置した様子だったところ、柳田氏が官務多忙の小暇をもって年来研究して、聖をヒジリと訓むは日知、すなわち天文暦占に通暁して人民を鴻益するの義と暁《さと》られた。ただし、氏は多忙ゆえか聖をヒジリと訓んだ最古の例が件《くだん》の『古事記』の聖神の名号なる由を気付かなんだらしい。
 しかるに、一方に予は年来岡の田中神社の観察から、向日神は日影を観て地相家相を察することの神たる由を知り(137)おったところへ件の柳田氏の説を読んで、聖は日知だから、日の向き、日の影を察して地相家相を知る神たる向日神の弟聖神は、暦日の吉凶を卜い知った神で、この二神も父大年神や他の兄弟神と等しく、田家を助け土地開墾に大益あった神と発明したので、わが邦最古の宝典たる『古事記』の内、従来何やら分からなんだことが分かったのだ。
 さて建築学にオリエンテイションということがある。字義は東へ向けるというのだが、まずは方角と訳して然るべしだ。しかし、主に東の方を正面に定めてその方へ向けるか、またはそれから加減して然るべき方へ建築の正面を向けるのだ。古エジプトの堂殿の多くは、日またはある恒星を選定し、それに向けて立てた。その建様《たてよう》はすこぶる考えたもので、その堂の前から、その星また日を某の日に見ると、ちょうどどの方に中《あた》れば冬至とか夏至とか、年中のその季節が判る。すなわちその建築が取りも直さず暦の本元となるのだ。古ギリシアの建築またさようで、相当の天文学者がこれを観察して年々変わり行く地球の彼岸点を差し引く時は、その建築が今より何千年前に立った物と正確に判る。けだし古ギリシアの堂殿の正面は必ず正東《まひがし》に向かい、旭日まさに昇る際、その光線が内陣の正面の大戸口を通過して、最奥にある神像を照らすことが年にただ一度あるので、氏子らその日を侯ち兼ね参詣して御正体を拝し得たのだ。キリスト教の古義でも、ローマのコンスタンチン大帝が五大堂は、いずれも大僧正位《アプス》が堂の西端に建築より凸出《つきだ》し、祭僧は神壇の後に立って正東に向かうた。これはエルサレムの聖廟やベツレヘムの大寺に傚《なら》うたので、ローマの古寺の四分三までこの式だったが、後にできたものは多くはこれと逆様で、仏寺の多くが西に向かうて建つと同じ。コンスタンチノープルのサン・ソフィア大伽藍は、今は回教の大殿堂となりおるが、以前はギリシア・キリスト教(今の露国の国教)中心だった。それには大僧正位が堂の東端にあって、ギリシア教の主立った諸寺みなこれに傚い、シリアとエジプトの古派のキリスト教寺もみなかくのごとしだ。
 スペイン、ドイツ、イギリスでは寺堂を東向きに立つが通常《つね》なれど、フランスとイタリアには変化多く、スコットランドでは高い杭一本を宵から地に立て置き、翌朝旭日まさに出る時、その杭の日差《ひざし》を観《み》、その方向に内陣を立てた(138)が、他にもかようにして立てた古寺が多く、それが例の黄道傾斜が年所を経るに随い変わり往くから、後に建て増し建て添えた建築も多少方向が変わり来る。その変り様を計算して、何年の創立、何年の建て増し建て添えと判る。実に物質開化とか何とか分からぬなりに?《そし》るわが邦の半可通輩の想像と異《かわ》り、実際西洋にはかく旧儀古作法を重んずることが多いので、視る人が視たら、直ちにこの堂は何年ごろの創立、この庵は何時代の物と分かりもすれば、それより計算してその近辺に起こった史実をも確かめ、史料をも得ることで、例の大流行の虚談《うそ》だらけの郷土誌と事《こと》反《かわ》り、一小祠、一小塚の保存すら、その村、その所の過去の歴史を、不言の間、筆舌の外に確かに留めて、後代の智識研鑽の資ともなれば、その地方の由緒正しき誇りともなる例が西洋に多い。それに、他《かれ》を何じゃかじゃと蔑視し、宇内第一の帝国などと向う不見《みず》に自讃しながら、無智無識、はなはだしきは泥棒上りの神主などの愚見で、做《せ》ずともよき合祀などを挙行し、ために古人が意をこめて設けた紀念物を毀し、再び見ることのならぬ神宝を滅却するなど、いずれ遠からず冥罰も自悔の折もあることと惟う。
 今日文化をもって誇る欧米人にも、日を本として家屋を建築するがすなわち建築術の根本義で、窓などは日を本として研究設備せねば、ないに劣ることが多い。すなわち朝室《モーニングルーム》と食堂は必ず東に、会談室は西南に、書斎は西に、庖厨と食物置場は西から北の方、また余のごとく顕微鏡を用うる者は必ず北向きの室でせにゃならぬ等だ。東洋の地相、家相、みな只今|擬学輩《にせものしり》が演《や》るような空談に基づくにあらず。これに大関係ある易の六十四|卦《か》や五行《ごぎよう》ということ、いずれも日を本とした方位方角を微細に割り付けたに外ならず。新鮮なる脳髄をもって科学的に研究した、まさに大いに世を益し用を節し民を済《すく》う鴻益あるべきに、坊主が経文を空誦して何の義と知らぬと一般、空しく実際と離れて暗《むやみ》に籌《はか》り猥《みだり》に中《あ》てるから何の益もないどころか、大いに世の開進化育に背馳する詐騙《かたり》術と成り畢ったは、ちょうど神社を神職どもの糊口《くちすぎ》の事務所と心得て、社内に瓦葺の屋舎を立てたり、神林を潰し糞桶をもって汚して精勤に誇るより、心ある人はみな厭気がさして天理教や耶蘇教になって了うに同じ。みずから招くの禍は避くべからずとはこのこ(139)となり。   (大正五年一月十五日−二月一日『牟婁新報』)
 
(140)     三郡製糸会社設立許可条件について
 
 五月二十九日発行『紀伊新報』第二面に、三郡製糸会社創立総会の節、晩餐会席上、取締役福田服次郎氏は、同社許可の条件を報告し、かついわく、「本社の煤煙が松樹|蘇苔《せんたい》に害ありとて工場設置位置に反対を唱うる者ありたる結果、本社の許可有効期間を大正八年十二月末日限りとせられあり。われらは発起人として何ら害なしと信ずるものなるが、果たして向後二ヵ年半営業をなしたる結果害なきことを立証し得らるれば、当局においてもここにて営業を継続することを認容せらるべきか。当地某新聞には、本社が二年半後絶対他に移転せざるべからざるもののごとく報道したるも、そは右の被害の有無の決定したる後決せらるべきものにて、有効期間の今後二年半となれるは、たまたま当局が有害か無害かの試験をなさんとするものなりと思惟す。しかしてわれらは必ずや無害なりと信ずるもの、故に許可有効期間経過後も、依然ここにて事業を継続し得ることを確信するものなり、云々」とあり。
 右の福田氏の言は、すこぶる公衆を疑惑重畳裏に誘入するものなる上、予の人物性格を傷つくることもっとも少なからざるをもって、福田氏の件《くだん》の言を公示せられたる『紀伊新報』紙に対し、予は左の詳細なる弁駁をなし、全文掲載の上正誤を要求したり。
(一)只今の会社工場の地位に関し苦情を唱うる者はなはだ多きも、率先して公然抗議をなしたる者は熊楠一人なり。予は松樹蘚苔に煤煙の害を及ぼすとて反対抗議せしこと毛頭|無之《これなし》。いかにも神社境内の学術上有益必要なる生物はもっとも愛惜に勝《た》えたるものなるも、それらは比較的小事にして、もっとも憂慮に堪えざるは、国体の基礎たる敬神上(141)に大関係ある神社の尊威を傷つけ、神社の荘厳の大要部を占むる社殿社務所の清浄なるべき前面と背景に煤煙立ち上る等は、氏子一汎のみならず、遠近崇仰の念を懐《いだ》く者の見聞するに忍びざるところたるを抗議の主因として、書面に弁論に、有司に向かって陳述したるなり。かの社鳥居内に松樹の松樹らしきは一、二本しかなきようなり。また特にこの社境にのみ限り生ずる蘚苔は一種もあることなし。故に、単に松樹と蘚苔の枯死云々をもって予の抗議の理由というは、妄もまたはなはだしく、かかる比較的小事をもって抗議せしものというは、予の性格挙動を非常に軽忽にして争を好む者と誣《し》うるに同じ。
(二)煤煙が樹林に大害あるは誰も争うを得ざる事実にして、史蹟名勝天然紀念物保存会の重役三好、白井等諸博士の諸著すでにこれを尽し、その方の専門者ならぬ県当局者もみなこれを認む。ただし、東京、大阪、堺、浜寺、その他に例多かりしごとく、煙害が樹林に及ぼす結果は二年や三年の短日月で見得らるべきものにあらず。これに反し、清浄無垢なるべき神社近く煤煙を挙ぐるの、神威を蔑如し神境を汚し風景を損ずるは、常識ある者が即座に解し得るところたり。
(三)二年半後他に会社建物を移すべき条件の絶対的なるは、大阪の諸大新聞、和歌山の諸新聞まずこれを報じ、それに次いで、当地の『牟婁新報』は予の確報を得て後始めてこれを掲げたり。故に、その条件の絶対的にあらざるを証せんとならば、福田氏まず予の通告に依らずしてこれを載せたる大阪、和歌山の諸新紙へ正誤文を出すべかりしなり。しかして、その然《しか》するを得ざりし所以は、許可条件中、実に絶対に移転を要するの条件あればなり。そもそも官許の下に公然会社を組織し工場を設立する重役主事者輩にして、一方条件付きの官許を承け、一方公衆中にその条件を矯抂《きようおう》するは、成規を無視し自分の品性をみずから損ずるもまたはなはだしからずや。
 よって、左に予が本県知事公へ差し出せる三郡製糸会社に関する文書の一と知事公よりの返書その他を、一より六に分かち順次全載して、予の言の誤らざるを証し、単に予の報道に基づきこの条件を載せたる『牟婁新報』のみなら(142)ず、予に先だってこの条件書に接してこれを掲げたる大阪、和歌山諸新聞紙もまた何の誤謬なかりしものたるを立証す。
○その一 許可条件書謄本下付願
和歌山県西牟婁郡田辺町闘鶏社付近に製糸工場を建設せられ候時は、国体の基礎たる敬神崇先の上より見るも、学術材料保存の上より考うるも、将来快復すべからざる大害を醸成すべき儀に付き、大正六年五月四日知事公官舎へ小生出頭致し、知事公および内務部長警察部長諸位に対し、国体敬神上と学術上における闘鶏神社の品位につき、意見開陳致し置き候ところ、最近(五月下旬)に至り、終《つい》にある条件の下に右製糸工場建設の御許可相成り候由承り、実に失望落胆仕り候えども、また翻って考うるに、右の許可条件なるものにして確実に施行せらるる場合には、固《もと》より永久に亘るべきはずの損害を、条件書指定の時日内に短縮せしむるの功を奏することと信じ候に付き、せっかく微志の幾分を御採用下され候御厚志を貫徹せしむべく、後日の証左として右許可条件書の謄本一通至急御下付相成りたく、この段願い上《たてまつ》り候なり。
 大正六年五月三十日
       西牟要郡田辺町大字中屋敷町三十六番地 南方熊楠
   和歌山県知事 鹿子木小五郎殿
○その二
本年五月三十日付願出により、久村盛助製糸工場建設に関する許可指令書写および本件許可に関し所轄警察官署への指示写各一通、別紙交付に及び候なり。
 大正六年六月一日
                      知事官房
   南方熊楠殿
 
(143)○その三
             西牟要郡田辺町大字中屋敷町五十四番地 久村盛助
大正六年三月二十四日付製糸工場建設および原動機設置の件、左記条件を付し許可す。
 大正六年五月二十一日
                     和歌山県知事 鹿子木小五郎
     記
一、本件許可の有効期間は大正八年十二月末日までとす。
一、汽鑵に使用する燃料は雑木とす。
○その四 通牒
 大正六年五月二十二日
                     内務部長
                     警察部長
   田辺警察署長宛
田辺町久村盛助出願に係る製糸工場および原動機設置せんとする場所は、六十間の地に闘鶏神社あり、煤煙等のため自然神社の尊厳を損じ、なお神社森林の樹草を損傷するの虞れあるのみならず、同距離において湊村小学校あり、共に規則第四条に抵触するをもって不許可処分相成るべきのところ、今日不許可の処分に出ずるときは、せっかく成立を見んとする製糸事業を挫折せしむるに至るべきをもって、その移転に要すべき期間並びに燃料等に付き種々商量の末、格別の詮議をもって別紙条件を付し指令に及ばれたる次第に有之《これあり》候。ついては今後いかなる事情あるも期間の延長は絶対に許可せざることに決定相成りおり候条、大正七年末日までに適当の地を選定し、本文期間大正八年末日ま(144)でに必ずこれに移転するよう当事者にあらかじめ篤《とく》と注意警告し置かるべし。
 また西牟婁郡長へも本文の次第を通牒したり。
○その五 大正六年六月六日午後二時、南方熊楠代人安本安吉、田辺警察署へ出頭、署長との応対筆記
一、問。久村氏に前記条件およびこれに添付の通牒を見せしや。答。許可証は与え、条件および添付書類の話をなしたり。
一、問。右書類は何日警察へ着せしや。答。大正六年五月二十三日。
一、問。久村氏に見せし年月日。答。大正六年五月二十三日午後五時ころ。
一、問。久村氏より請書を出せしや。答。その翌二十四日差し出す。その請書の写しは、指令全文を写し、最後に右御請け候なり、云々。異議の申立などは毛頭なし。唯々諾々と引き下がれり。
○その六 大正六年六月六日午後二時二十分、同警察署にて辻巡査が手書して答文を安本氏に渡せし写し
一、問。久村に条件および云々添付の通牒を見せしや。答。条件付許可証は、久村盛助に直接交付し、その他通牒の趣旨を懇切に諭達す。
一、問。右書類はいつ警察へ着せしや。答。大正六年五月二十三日午前十一時ころ。
一、問。久村に見せし年月日。答。大正六年五月二十三日午後五時過ぎ六時までの間。
一、問。久村より請書を出せしや。答。その請書の写し、許可証交付翌日、すなわち二十四日条件付許可証の全文を記載し、請書なる旨を記し提出ありしも、即日県に発送し、当署にはその写しなし。
右のごとくなるをもって、福田氏がかの晩餐会上でなしたる言説は、何の根拠もなきのみならず、対手の地に立てる予や、予の報道を掲げたる『牟婁新報』を誣うるのみならず、当該官庁の法令指示を無視し、またみずからその性格を堕とすのはなはだしきものにして、当日席上その言を聞き流して何の一言も出ださざりし久村氏も、社会に立つべ(145)き君子の面目を百損自傷せるものと誰しもいうべしと考う。   (大正六年六月十日『牟婁新報』)
 
(146)     三郡製糸会社に関し謹告
                 中屋敷町  南方熊楠
 
 六月九日と十一日の『紀伊新報』、また十日の『牟婁新報』に載せた三郡製糸会社に関する知事より下付の書類一切は手前にあるから、必要あって原本を見たい人はいつでも来たれ。さて、五月二十七日右会社創立総会で福田順次郎が言い放った辞がことごとく虚偽なるは、右日付の『紀新』や『牟婁新』を見て直ぐ分かる。まず第一に、予は該会社に関係厚き僅数の没道理漢《わからずや》(安藤亥八郎)等を除き、ほとんどすべての田辺町民の意志を代表して、かの所工場を建つるは闘鶏神社の尊厳を漸々破壊するものなれば、氏子は勿論、奥羽地方その他古来この社を敬礼する遠方の衆人《もろびと》も黙忍する能わざる悖戻《はいれい》至極、非神非愛国の大悪事たること、第二に上世以来この社境内に保続せる諸種の生物、学術上きわめて貴重のもの多く、遠く名誉を万邦に馳せ、近く大いに世用を足すべき発明材料となりおる物どもを、煤煙のため徐々に滅尽すること、第三に、湊村小学校多数学童の健康を損じ、また工場作業に伴う俗塵雑擾が、大いに社畔の勝景を殺《そ》ぐべきことと、順序を立てて論難抗議し、知事公|已下《いか》有司みな大いにこれを然りとし、ついに絶対に石炭を焚かざることと、絶対に大正七年末日までに工場を移すべき地点を撰定し、同八年末日までに絶対移転すべく、また絶対にその延期を許さずという条件で、その建設を許可されたるは、上記日付両新紙に載せたる知事よりの指令書等を見て照々たり。実は会社の発起人等無茶苦茶で、総会を開かずに場所を定め、無届で工場を建て、ことに利慾一遍を旨とし、全町の産土神《うぶすな》たる県社の尊威を?《けが》すを何とも思わざる、盗賊《どろぽう》にも劣る所為《しわざ》を懲らしめに全然不許可となるべきところを、それではまことに迷惑と泣き付いてようやく件《くだん》の条件付きで当分許可されたるなり。それに福田(147)の暴慢無恥なる、予が単に諸植物中他に比して何の実用もなき蘚苔や社の鳥居内に最《いと》少なき松樹のみの亡ぶるを憂えて抗議せるごとく誣《し》い、また県有志は二年半の間に煙害の有無を験し、永久今の地点に持続を許すはずなど公言せるは、神明を凌夷し法令指示を蔑如し、また公衆に対して詐偽を働く大罪人と言うべし。よって福田の言みな空《うそ》で、知事より当地警察署長へ指示せるごとく、該会社は絶対に明年末日までにその地点を撰定し、明後年末日までに移転すべきものなる由を広告し、かつ右工場で一片でも石炭を焚く形跡あらば、予まで告げ来たられんことを、允恭帝御時より幾久《いくひさ》しくその神風を欽し、その神威を畏《かしこむ氏子その他諸君に望み置く。   (大正六年六月『牟婁新報』)
 
(148)     田辺町湊村合併に関し池松本県知事に贈れる南方先生の意見書
 
 大正七年七月四日午前十一時書き始め、□日午前二時終わる、午後十時半発送
   謹呈
   池松時和様                       南方熊楠
 『大阪毎日新聞』紙の和歌山号記事を見るに、田辺町民の輿論なりとて隣接湊村を併合せんことを望み、村民の要部分は反対を唱え協議調わず、閣下は、併合を時勢上必要のことと考え、近日これを強行せんと欲せらるるものに似たり。しかるに、この『毎日』紙の田辺通信員雑賀貞次郎は、合併首唱の一人同姓弥太郎の弟なるをもって、一概に閣下の真意が『毎日』紙所報のごとくなりと判じ難し。自分は和歌山生れなるも田辺町に住すること十三年、この地の者を妻《めと》り、始終この地方と休戚《きゆうせき》を共にし、その民俗、生産、故蹟、勝景等に関してはずいぶん知り及ぶところあるをもって、田辺町および湊村の事相を観察し、種々の人士の話を聞き取り、みずから判じ得たるところを御参考に供せんため、本書差し上げ申し候。けだし本書は何たる利己偏頗の見地より認《したた》めたるものにあらざるをもって、誰人に御示し下さるも毛頭異存なく、その要あるの場合にはいかなる所へ引き出ださるるもまた躊躇すべきにあらず。しかして前状申し上げたる通り、小生目下至難の研究学事に係《かか》り昼夜ほとんど安寝の暇なく、研究のかたわら切れ切れに筆すれば、字句章をなさず語路?倒するほどのことは多々|有之《これある》ベく、その辺は幾重にも御察読を祈り上げ奉り候。
 むかし家康公、その晩年の所生《うむところ》、義直、頼宣二卿を尾・紀に封ぜし時、義直の異父兄竹腰氏と家康の外叔父の子水(149)野を尾と紀に付けしは、親族関係上当然の挙なり。さて、それのみでは事足らざるゆえ、衆臣を召して、誰かわが二児に付き添いくるる者ぞ、と問いしに、かくては直参より陪臣と成り下がるはずゆえ、一人の応ずる者なし。時の重臣安藤直次と成瀬正成と、老いたる主人の心中を察し、一同の不忠を蔑《いや》しみ、進み出てて、われら二人二公子に付き添い申すべし、と言い切り、家康大いに安心して二公子に向かい、この二臣は特別の忠臣なれば、卿らわれを見るごとくこれを重んぜよ、と言いて、二を傅《ふ》とし就封せしめたり、と申す。
 安藤、紀州侯に傅となって毎々規諫のこと多く、その身十万二十万の封地にありつくべき身を、三万余石の小地に落として陪臣となったる忠志を後々までも称揚したり。頼宣卿非凡の英主にて、ややもすれば幕府の嫌疑を受けたることは、外国人当時の記録にも見え、したがって安藤をもってこの卿に添うるは、虎に翼を加えたるの観なきにあらず。かようのところを懸念してか、安藤の住地田辺はほんのその家臣を置いて、そのころ徳川氏に心服せざる頑民の押《おさ》えとなしたるに止まり、新宮と事《こと》異《かわ》り、これを田辺城と言わずに田辺の陣屋と申し候。されば、この田辺は大阪、名古屋など何たる商工業の発達の見込みあって建てたるごときにあらず。もっぱら江戸政府の嫌を避くるため、まことに詰まらぬ所を撰み、当時熊野入口の比較的繁華地で、四国その他へ通う船場《ふなば》でもあり、その前杉若氏の小城もありしを幸い、恰好の所と陣屋を構えしなり。さて安藤氏代々多くは和歌山に詰めおり田辺は陣代任せで、その商工は諸士の出入り御用を勤むるに止まり、卑劣といわば卑劣、安楽といわば安楽で、いわゆる士民おのおのその分を守りおりたるなり。
 小生ロンドンにありし日、大石公使が何か仕出《しい》でしとかの電信著し、朝鮮について正金銀行より調べ物を頼まれたることあり。その時、そのロンドン支店長故中井芳楠が公使館員(伊集院彦吉氏と記臆す)に話すを聞くに、朝鮮ごとき国を開くに手心を要す、紀州田辺と少しも違わぬ所なり、と申され候。よって、その邸を訪いしついでにその詳説を求めしに、中井いわく、田辺は領主常に不在して施政行き届かず、士族の上流は下流を圧し、士族の下流はまた領民(150)を虐す、よって人々みなその所有を隠匿するに力め、宅地広きもその表は狗竇《くとう》に等しく(これは積弊で名高きペルシア国の大都会の宮殿楼閣を備えたる大家の入口が、和歌山北の新地の遊処同様、外面一汎に素朴なる土塀の□方にあるに同じ)、二階ある家きわめて稀なり。(拙生明治十九年田辺に来たりし時、二階立ての家わずかに一軒を見たり。そは旅館なりし。)その人繊嗇《せんしよく》にして、ただ握った物を失わざらんことをのみ?《つと》むれば、華奢ということを夢にも知らず、遊蕩破産の例少なきも進取開発の念なし。表面は黙従で不平が心底に断えず、人々相疑うゆえ協力などいうこと思いも寄らず、公益公徳という観念なし。これ取りも直さず、韓人同様のところが日本にもあるので、かかる人民の開発は徐《しず》かにその自覚を促すの外なし、と。
 当時小生この言を意に留めざりしも、帰朝後その地に住み、その俗を察するに、まことに中井氏看取の当たれるを知る。すなわち人々謹慎みずから守り、家格劣れる者は喜んで資産厚き者に盲従す。富人に過差の行い少なきゆえ一朝傾頽する例少なく、十分富まざる者は言いたきことを言わば必ず富者の機嫌を損じ、自家の営業に差し響くをもって、一身に差し迫らぬことはなるべく言わず。故に、その町会といい議決というは二、三有力者の趣向に止まり、他は面従後言、いたずらに蔭で、「われはこの案の不可を知悉したれど、言うも益なしと思うて言わなんだ」と誇るが常事なり。
 近く一例を挙げんに、今春海浜の松を伐る議案出で、何の子細なくこれを伐るに決せしのち、匿名書を小生に送る者あり。いわく、「大浜の名松は何の心得なき俗吏輩のために伐られんとす。君知るや否や、云々」と。小生は年来この辺の勝景保存に苦辛する者ゆえ、さつそく聞き合わせしに、例のごとく切らで済む古松を枯損木とか何とか唱え、しかも全長の三分二か五分三ばかり切り去るを、枝を少々切り払うとてその筋を欺き伐らんとするものとて衆難|囂々《ごうごう》たり。よってその筋へ告げてこのことは止めとなる。その後聞き合わすに、議員の多くは、惜しいことだが自家に関係なきゆえ有力者のなすがままにどうなるも可なりという了簡、少しくその心懸けある二、三人は良からぬことと気(151)付きたれど、有力者の機嫌を憚り黙従したという。さて匿名書を送り越したる一人はやはり町会議員で、異議の権利ありながら何たる抗議もせず、件の二、三人に向かい私かに不服を洩らせしのみ、退いて小生に匿名書を出だせしとのことなるが、そのこと済んでのち、また同様の匿名書を小生に送り、今度はいずれかの地に建築せる家どもは定規に背けるものなれば、これをも取り払うよう尽力して呉れ、と述ぶ。この人自分町会議員で町の部長まで勤むる身なれば、近所に反則の建築起こらば、時を移さずこれを咎むべかりしに一向左様せず、建築成って数年ののち、全く無関係なる小生に葉書一枚を匿名で出し、かかる余所事《よそごと》に身労せしめんとする卑劣の根性呆るるの外なし。
 また只今時効すでに過ぎ去って大手を振って歩み得るものの、町内屈指の名家にして官地を侵掠せしまま事済みおるとて、そのことを知れる者が乱酔大呼すに驚き、黄白を与えて鎮撫中と聞きしことあり。積善をもって聞こえたる豪家が、私邸を建つるに街道を取り込み(役場員をも取り込んで)従前牛車の往来に児女道を避け得たるが避け得ぬゆえ、走り返らざるを得ぬ狭巷となりしを、今も親しく睹《み》る。はなはだしきは妻の妹に子を孕ませ堕胎せしに、何の罪に落ちず。同時に、他人のために孕まされたる子を堕胎せしめし近村の貧女は、如法の罰を受けたるあり。冬中通して大煙突より煤煙を吐き散らし、近所の人々毎家幕を張り井に蓋して苦しむも、例の土風として蔭口のみなるを幸い、少しも斟酌を加えず、自分は閑処に家を構え毎夜休養して平安を怡《よろこ》ぶあり。
 むかし劉毅は悪人を見ること仇《かたき》のごとくなりしとか。小生、車夫が差し迫って小溝に放尿し、漁師がたまたま陋巷に行水を使う時、小児が障子を開け放ち見付けられて、たちまち衛生に害あり風俗を壊《みだ》るとて、拘引され罰金を課せらるる一方、いわゆる一地方の紳士にして、かくまで多く衛生を害し風俗を壊るに何の説諭一つ受けざるを見、みずから往って面折《めんせつ》し遣らんと思うこと多きも、人世は意のごとくならず、妻がきわめて小気の者で、毎度小生の気質を心配して重患に陥るより、小児どもの成行きも案じられ、その都度差し控えおる。
 すなわち直接自分に痛痒を及ぼさざる限り、学問上重大の関係ある件の外はなるべく差し控えおるうち、ただ一つ(152)力を致せしは、九年前当時唯一ありし公園を売り払いしことなり。この公園は、わが邦で洋式の台場を築きし嚆矢にして、品川よりも早時の出来と言い、かつて佐久間象山に就き学びし栢木常雄という文武の士の設計に係り、勝安房守みずから軍艦に乗って視《み》に来たりしこともあり。かかる僻地にも、武を励むの人士少なからざりし名蹟として、かつは老若児女の運動場として、一寸目《ちよつとめ》には贅物のようで実際大用ある房なり。(今日とても小学児童の競戯場として欠くべからざる所なり。)しかるに、前年郡立高等女学校を建つるに際し、その資金を得んとて、漁民に必要なる漁具製修の用地とこの公園とを売却することとなり、漁民の用地だけは彼輩生命の繋《かか》るところとて中止となりしも、町会議員の重立《おもだ》ちたる輩、この公園を全然無用の荒蕪地と唱え、風雅の老樹他に見易からざるものを併せて、もってのほかの廉価に売り飛ばせしより、児童の遊び場を失い困却一方ならずとて町民大会を催し、その筋へ抗議の結果、川上知事これを保安林として今に至る。けだし一汎民意に副《そ》える済急《さいきゆう》の恵政たり。
 当時その抗議に与《くみ》せし小生に向かい、町会議員の一人語りしは、公園などは入らぬ物なり、貴君らは閑人ゆえかかる物を珍重がる、吾輩町人は金儲けさえすれば沢山なり、公園へ子弟を遣わして閑人の所業を学ばしむるを要せず、と。その町人、子女多きも、いずれも病身で薬代が少々ならず。すべてかような根性ゆえ、田辺の町家に徴兵に合格する者きわめて少なく、たまたま年に一、二人あれば鳳凰が岐山に鳴いたように驚き入る。さていわく、わが子弟は大丈夫なり、と。不合格受け合いの義なり。近来所々より聞く徴兵|除《よ》けの祈?など、この地さらにその例なきは結構のようだが、実は公園遊戯等を無用視して幼少より茶粥ばかり啜《すす》り、終日|危坐《きざ》せしむるによると知っては、額に皺せざる人なからん。これをもって公園を無用物と公言して憚らざるは、兵役に出ずるを忌避するに同じと知る。
 経済学の泰斗フォーセットは、二十五歳にしてその父が外《そ》らした弾丸で二眼を打たれ、たちまち盲目となり、十分間立たぬうちに、われはこれに屈せず、必ず済世の志を遂げんと決心し、歿前十一年も掛かりし二大遺業は、インドの財政を閑却せず英国民が始終を見届け尽力すべきことと、英国の都市ごとに公園を永設し、国会はその売却等のこ(153)とある前必ず審議すべき定めなりし。この人盲目となっていよいよ遊歩運動に力め、両眼開ける人の及ばぬ功績を建てたるゆえ、公園の必要を感ずることも明き盲《めくら》どもより切なりしなり。
 田辺の今の町長はその時公園売却に反対の方にて、これを売却せし前町長は衆人に非難されて辞職し、その跡へ坐りしなり。しかるに近年に及び、公園を買いし者が保安林の解除を求めんとて種々運動し、例の町会議員や町長が気の毒の次第なりとて尽力する形蹟あり。この輩無数の老若児女運動遊戯の安全不安全を念頭に止めず、年中煤煙を飛ばして隣近《りんきん》を悩ませて平気なる者、何か受くるところなくして他所《よそ》の他人に気の毒などの情感出でなんや。これより先すでにそのようの嫌疑にて、公園の買主が家宅捜索を二度とか受けたりと聞く。しかして直接そのことに関係なく、ただ公園売却の抗議を賛せし小生方へも砂糖を呉れし人あり。知人の間柄、暑気の見舞いに呉れた物と思い、礼言いて用い了りしが、他人より聞くに、右は件の運動のためとのこと、よってこのことを公言せしに、町長始め一同それ切り公園のことは一言も言い出ださず、また町会にも出ださずして今日に及べり。
 富人が買収所有の林野にして保安林に編入されたるもの多し。それを不当とせば保安林編入ということを全廃するよう請願して可なり。公衆の健康、児童の発育を念とせざる無情至極の輩が、今に公園無用などを唱え(自分の子弟をも毎々公園に遊ばせながら)かかることに運動を試みんとするは、賄賂的の約束あるものとしか思われず。町長などが毎度酒を飲み街上に蹌踉《そうろう》たるは、かかる疑念を深からしむるものなり。
 
 かくのごとく人々繊嗇にして他を顧みざる、その毎度の議決で、田辺町有の空地というもの少しもなくなり、これを田辺町が発展したと称し誇るも、実は発達にあらずして混雑なり。先年錦城館(旅館)が失火せし時、衆人駆け付けずいぶん働きしが、物を取り除け置くべき空地乏しく、思い思いに持って走りしゆえ紛失多かりしと聞く。その時はまだ少々空地ありしが、今日は件《くだん》の旧公園の外にこれというほどの物はなきなり。風烈しき地ゆえ古来壁を厚く塗る。(154)よって火災少なきも、近年右述錦城館など壁薄く、またほとんど壁なき家も多くできる様子、それに空地なしと来ては、今後の危うさ想像するに足る。
 また当然その制限あるべき鉄工所とか銭湯とかを、隣家の安不安に関せず建てしむるゆえ、家に安身してその業を続け能わざることも多し。例せば、閣下今春御来田の節、宿所五明楼で芸妓に歌唱せしめんとて、警察署へ問い合わせし者あり。署長より、そこは中学校に近ければ知事公のための催しなりとも絃歌は一切ならず、と返事せりと伝え、町民一同大いに感心しおりたり。これより先、先年湊村へ製糸会社工場を何の許可なしに建て、建て了りて届け出でたるに関し、小生その県社および小学校に近きのゆえをもって抗議し、和田警察部長みずから来たり視て、煙突を移させ、また燃料を制定せしことあり。その辺従来混雑して汚穢名状すべからざりしが、これがためすこぶる旧観を改めたり。
 次に、昨年末高等女学校に接近して貝釦《かいボタン》の工場を建てんと地面を買い入れたるあり。かかる処に職工ども群集しては女学生の風儀を保たしむること至ってむつかしき由、校長および小生より抗議して、地面は買いながら工場建設は見合わすこととなれり。しかるに、拙宅を距《さ》る遠からず同町内に、湯屋を建てんとて地所を買い入れたる者あり。前年来町内に湯屋組合を設け、一の湯屋より他の湯屋へ歩行して百間以内にまた湯屋を立つるを許さず。これは田辺の地すでに理髪店と湯屋多きに過ぎ、かかるものは公衆の衛生に関すること少なからねば、田辺町が新たに廓張せざる限り、今のままの理髪店数と湯屋数で十分なり、この上新設を許さずとのことにて、一両年前理髪店を開かんとて家と道具を買い備えたる者が、この規定のため開業を得ざりしことあり。今度建ておる湯屋は小学校に近く、朝風呂すなわち児女と教師が登校開課するころ、盛んに煤煙を飛ばすべきもの、しかしてその直ぐ向いは清潔を重要とする葛粉晒製所《くずこさらしせいしよ》にして、この湯屋を距る百間ならぬうちに二軒まで年来営業し来たれる湯屋あり。よって湯屋組合よりこの湯屋の新設を見合わせられたき旨嘆願せしに、警察署長は清潔なる湯屋なら幾軒できるも構わぬでないか、と笑いて(155)顧みざりしという。したがって建築を続行しおり、一、二月中に開業すべきはずと見ゆ。
 小生は海外に十五年おり植物興産の学を修め、帰朝後十七年熊野におり、学問のためにほとんど私財を蕩尽し、ちよっとした博物館よりは多く標品図書を蔵し、今日まで海内で公けにせしは、わずかに本邦産粘菌という生物の一類、これまで十八種しか知れざりしを、自分百二十余種まで発見せし一事に過ぎざるも、他に本邦学問のため外国に向かい気を吐き得るようの問題、一ごとに八、九年また十六、七年掛かりおるもの多く、これがため身分不相応の邸に棲み、経費も少なからず。目下差し迫りおる研究は、この七、八年前より自分検定の種子を京都の平瀬作五郎氏(かつてイチョウの木に付き大発見をなし、学士院賞を受け天下に名を馳せし人)へ送り植え試みしも、寒地ゆえ事成らず。よって今の邸内に竹林あるを見込み、一昨年買い移し栽培中なるに、右の新設湯屋の煤煙がおびただしく竹林に達するなら、この研究は中止せざるべからず。また顕微鏡室を北向きの室と定めあるも、ちょうど西風吹くごとに煤煙が来たらば、その事成らぬゆえ、南向きの室に移るとすると、光線強くて到底十分の研究は成らず。しかしながら小生の住宅は湯屋の直ぐ隣にあらず。表門は大分隔たりおり、研究室と竹林のみこれに近きまでなれば、湯屋いよいよ建ち了り開業の後ならでは、実際の利害|如何《いかん》を述ぶるを得ず。
 先日、代議士中村啓次郎、隅田豊吉二人来訪されし節、このことを語りしに、さつそく警察署長に話しやるべしとのことなりしも、自分は一私人が好んで学問するに過ぎず、官公立学校研究所などと大いに体《てい》を異《こと》にするものなれば、さように勝手な抗議は出来兼ぬるゆえ、湯屋開業後の実際を視た上何とかすべしと答えたるが、いずれの町市にも大抵湯屋など開きて然るべきと然るべからざる町とあり。しかるに、あたり近所の生活如何にも構わず、従来の湯屋組合規定にも違《たが》い、小学校近所に朝風呂を許可さるるは、県知事の宴遊絃歌を聴《ゆる》さざりしに比べて辻褄が合わぬよう存ぜられ、当日の絃歌不許可も何だか八百長らしく推察され申し候。件の湯屋を新設する人は、もと近村の村長たりし人の弟で、米国で金儲け帰りし人の由。近来村部の人々が村を嫌い町に移ること盛んに、この輩無遠慮でできるだけ(156)の振舞いをなす。都市の平安衛生の役に当たる人々は、何とぞ制裁してみずから抑損するところを知らしめられたきことなり。一昨年無届で製糸工場を建てし時も、小生その由を警告し置きしに、時の警察署長は知って知らぬ振りをなし、建築を了《お》えしめしなり。(この署長は依怙のことありしやにて転任されたり。)
 今年十月、米国植物興業局主任がまた紀州へ来る旨、拙生へ通知あり。この人他にいろいろ用事あるも、紀州へ来る主用は、近来日米間の問題たる紀州柑橘禁輸入につき、日本側より抗議の旨もあり、公平を期してその病源を調べに来るなり。小生は一文にもならぬことながら、日本の面目にも関することゆえ、従来調査し置ける紀州柑橘類の寄生菌、自分手の届きしだけ一切の標本を一通り揃えてかの人に渡し、別に同様の標本を東京帝国大学へ寄進し、かくて双方遠方を往復せずに解決し得ることも多かるべくと存じ、食事中にも椀を手にして走り行きて調べおる。(自邸に柑橘多く栽えあり。)しかるに、日本には、われらごとき私人が自費を抛《なげう》つて家国のために学問を専らにする者を破落漢《ごろつき》、浪人、不逞の徒同然に見下げる人多く、その研究室の安不安などを湯屋の上り場よりも軽視す。かの米人また当地に来たり、この体を見ば、かかる不安全の地に躊躇学問する小生の愚に呆れ、兼ねてかようの地点に朝風呂など営業開始と聞いて、米国へ渡る邦人は何の文化道義の摂取をなさず、ただただ金銭を攫《つか》み去り我意を振舞いて、郷党に誇るを念とする者のみと判断すべし。(知事公へこの書を呈してまた考うるに、五明楼絃歌の一件は、知事の知らぬことにて、全く田辺町の有力者など、例の卑劣根性より、知事の名に托せば何ごとをなし、いかな規則を破るも可なりとの阿諛詐譎《あゆさきつ》から仕出でたこと疑いを容れず。)
 田辺町の事体が右様の混雑にあり、発展にも何にもあらずして混乱なり。その昨今も発展発展と言うて施設(否、成行きに任す)するところを見るに、蟻の歩行よりも劣れる者多く、近く街路を開きしを歩むに、思わず知らず同じ家の門辺へ旋《めぐ》り還る所あり。一町内の溝が南北へ背き走り、一方は流れ了るに、他の一方は青藻満ちたる水溜となって停滞するあり。塵捨て場さえすてにその地所なきに苦しみおる。これその住民が我利一偏で公共設備など思いも寄ら(157)ず、行きなり放題に捨て置いた結果で、阿房な芝居の木戸番が無差別に客を引き入れて大入りと心得たるごとく、その公職にある人々が人間の性質を問わず、家数人口さえ増さば土地の面目と心得、立錐の地も余さず建て連ねしめしによる。その発展の余地なしというは、実は混雑し尽して混雑の余地なきに至れるを謂うのみ。
 さて、何とも致し方なきところより、西ノ谷、湊両村合併の議起こる。この西ノ谷という所は、小字の異なるに随い多少寛急の差違あるべきも、その主分たる所がまた田辺を呆れしむるほど繊嗇な気風にて、多少植林農作に堪えたる丘陵を負いながら手を入れぬ所少なからず。冬中|豌豆《えんどう》花さき、棕櫚《しゆろ》、白桐などよく育つに、一向殖利挙がらず。前年往ってその理由を尋ねしに、今日物を栽えれば今夜中に盗まるとのこと、されば気風の悪しき所と見え、満蒙地方に見るごとく四方に家を立ててその中に畠を囲い、それに入用の菜蔬を種《う》えて窃盗を防ぎなどせり。定規の小学校を立つることもならず。物持はみな掛り物を恐れて田辺へ合併を熱望す。もっともといえばもっともの次第なるが、合併後田辺住民の荷が重くなるは知れたことなり。
 
 田辺人がもっとも切に合併せんとするは、西ノ谷にあらずして湊村にあり。湊村は田辺町よりも地面四、五倍し、種々に有望なればなり。しかるに、湊村の主部の人々がこれを好まぬは十分頬を焼きおるからで、一例を挙ぐれば二、三年前田辺の有力家が日高郡の親戚とかの手引きで、上方《かみがた》のある紡績会社の工場支部を湊村に設けたら土地が大いに繁昌すべしとて、大字|神子《みこ》の浜《はま》の海浜を引き浚《さら》えて会社へ譲り渡さしめし。かかる沙浜に紡績工場とは変なことと訝《いぶか》りおりしに、件《くだん》の会社金策切迫せることあって、右の口実をもつてこの地方で資金を募り調え、さて都合により工場建設は当分無期延引、募った金は本社救急の御役に立ち、見ず知らずの他国人を満足させ、絶景の眺望ある海浜地面は返して呉れず、河童に尻抜かれたような咄《はなし》ゆえ、田辺より懸合いに行きしも、他国人はもとより親族にまでその愚を笑われ、泣き寝入りとなってさっぱり埒明かず。いわゆる田辺町の有力家とは、こんな人々であるなり。
(158) すでに漁民が漁具を修補すべき猫額大の地まで売り飛ばさんとし、田辺町ともあろうものが、ただ一つしかなくて町民の気散じ場、児童の遊戯所たる旧公園をすら、荒蕪地など唱えて二束三文で棄て売りにして顧みざる御手前を見ても、今度合併したら、例の多数決の町会で湊村の者は新付の蛮民同前にやり込められ、これも町のためそれも町のためで、山も野も柴も草もことごとく売り飛ばさるるは知れたこと、それが田辺町民一同へ平分でもさるるならまだしも、町民の一部僅々の人数に壟断さるることと想えば、この話なかなか腑に落ち兼ねるはもっともな次第なり。
 この湊村は以前田辺と連合しありしに、そのころ田辺町の具眼(今日となりては不具眼)の人士がかかる無用の畑や空地までも町内の物とせんよりは、百姓などを拒絶し、田辺祭に笠鉾を出す町ばかりを田辺町として存せんと攘夷的の名説を立てて、すなわち上・中・下屋敷町から今福町など、今の田辺町の半分以上に渉るべき町々と共に、湊、磯間、神子の浜等をことごとく離出せしめ、また後日二十二年水害後おのれらが嫌悪する部落をも送り込み、これで気が済んだと得意の体、それをあまりなりと論ずる人もあって、結局右の数町は田辺町へ復《もど》り、その他の部落が湊村を立てたるにて、因果応報が已むを得ぬ天則ならば、合併軽々しく事行かずとも田辺に取って自業自得というの外なし。太公望のいわゆる覆《かえ》した水は容易に盥に戻らぬなり。
 神子の浜の人は以前浜の者と呼ばれ、祝いごとあるごとに近邑に行って饗応を受け、大酔帰村を事とせしゆえ、あまり好まれぬ惰民なりし。それが明治二十二年の水害後、以前ごとき酒も飲めぬこととなり、一同奮発して耕作し丘野を開き、また行商して遠地へ肆店《してん》を開き大いに面目を改めたので、磯間は『万葉集』に見えた名所という。何の由緒あってか、村の女多く京都へ奉公に出で帰ってのち方付《かたづ》く。それゆえその詞優しく田辺などの女に勝れり。この辺海に瀕《ひん》せるゆえ漁業を事とすれど、それのみにて事足らず、農圃をも務めて生活す。合併急に行なわれて一瀉千里の勢いで、この辺の地所を売られたり耕地を宅地に変じたりされては、只今田辺の中央近くアイヌ然と何物をも奪われて手も足も出し得ず残存する出崎と片町の漁家ごとく、すこぶる憐れむべき窮民を多く生ずるも知れず。
(159) 要は湊と磯間と神子の浜と他の少々の小字なる異部落どもが、田辺町より攘《はら》われて湊村を構成し一村の体面を保ち来たりしは、独伊仏の三異人が特別の事情より融和してスイス国を作り、仏独二種の民が協同してベルギーを成し、今度の大戦争を、スイスはもっぱらドイツに、ベルギーは堅く仏国に味方するごとく、人気士風の成立はまた別な物と見ゆ。これらを突然今まで対手たりし田辺町へ合併せしむるは考慮を要す。すなわち合併後種々の紛擾|踵《きびす》を旋《めぐ》らさずして起こり、一方は天佑を獲たごとく悦び制服者として傲ると同時に、他の一方はわれ何の罪かあるという風に事ごとに悲愴惨傷し、道理正しからざるものも押し通せば勝ち、正しき理由あつても力及ばざれば敗者また被制服者の地位に立たざるを得ざるの実状を示し、人心ただただ強ければよし、人情道理は顧みるに足らずとの悪感化を遺《のこ》すこと、前年小生申し唱え、今年高木・江木二君の発議で、当の本人水野内相も終《つい》にその議に従い訓示に及ばれたる通り、神社合祀の詩s《れいこう》が多少の物質上利益を挙げざりしにあらざると同時に、異類異態の思想を喚起し、人心化育上はなはだ面白からざる成行きを生じおるに等しからん。
 往年小生ロンドンにありしうち資金乏しくなりはなはだ究迫せし時、ロンドン大学総長が、故フランシス・ダーウィン(有名なるチャーレス・ダーウィンの息で学士会員)と談じ、ケムプリジ大学へ日本学科を置き、小生その助教として何とか立ち行くようすべしとの約束で、半年も蹈み止まりしに、南阿の二邦と英国と戦争になり日本学科設立は立消えとなり、止むを得ず帰朝して今に至れり。当時一身上南阿が一日も早く亡ぶるを心待ちすべかりしも、実際然らず。自分はいかに成り行くとも、南阿の独立の全からんことを冀《ねが》い候いし。御承知通り、初めオランダ人が母国オランダを離れて南阿に往き、蛮民を従え土地を開き疏水を専らにして熱地衛生の模範といわるる設備を完成し、蛮民心服して追い追い開明に進み、その間種《あいのこ》に小生らが専攻する菌学の父と呼ばるるペルソーン先生ごとき偉人も出で、最後まで国に尽せし英雄クルユゲルも生まれ候。しかるに、その土産物多く、ことに金剛石の大礦地なるを覦《うかが》い、英国より流民入り込み漸次利を争わんとするも、国制これを許さざるより、他国人の口にすべからざる種々の難題を言い掛け、(160)その国民を離間して内訌を起こさしめんとせるも、国民一致して応ぜず。ついに暴兵を挙げしが、たちまち鎮定されしを事端《じたん》に取り、英国より二十万の大軍を送り、わずかに六万ばかりの人口に止まるかの国を包囲せしも、南阿人屈せず十二、三歳の小児までも従軍してこれを拒ぐ。
 これ南阿の一国トランスヴァールのことにして、隣邦オレンジ自由国は何の差し構いなかりしも、当初国運を倶《とも》にすべき約束ありしを忘れず難に臨んで避けず、兵を挙げてトランスヴァールを助け戦争二年に渉りて已まず。二国の兵みな百姓が急に千戈を事とせるもので、その難苦実に憐れむべきものありしなり。かくて小生帰国後、二国ついに英国に降り、その併呑するところとなりしも、国民の気象依然旧のごとくなれば、名は英領にして実は本来通り自治独立し、英人に対して一事をも寛仮せず。同じ英領中なるインド等の民を滅多に入れず。戦争して敵国を従えてさえ無闇勝手なことはできず。しかるに何の戦争喧嘩もせず、しかも隣接して等しく自治を楽しみ来たれる日本の湊村に強いるに、日本の田辺町に併合するをもってし、その理由として悦び廻るは、田辺町の掛《かか》り物《もの》(課賦)が安くなるという一事なるごときは、旧時の士族が農民を虐し、今のいわゆる開化民が土蕃を強制するごとき心掛けで、日本人同士としてはほとんどその意を解するに苦しむ。吾輩もし隣宅の地広く勝手宜しきを見て、これを共有し同棲せんと強いんに、その人これを首肯すべきや。また現に小生の持てる貸家に人住まずとて、あるいは役人の権威を頼み、あるいは部長の口入れを仮《か》り、こちらに好かぬ人が押し借り来住せんとするを黙許すべきや。
 新聞の報ずるところを見るに、湊村の合併を日本の開化に必要と見る上は、知事公はこれを断行すべし、とあり。かかる強圧的の合併が  属行されて日本の文明に何ほどの稗益ありや。あるいはいわく、強が弱を併せ大が小を呑むは今日世界の大勢なり、と。しからば、田辺は湊村よりも地面小さければ大というべからず。湊村の民強きを持て余し、知事の威を仮りて合併を強いんとする上は、田辺はるかに澤村より弱し。かの言のごとくんば、田辺町はすべからく湊村に屈伏して万事|成《せい》を湊村に仰ぐべきはずなり。また、この世界の大勢という、その標準一定せず、日に時に推し(161)変わり行く。すでに前年神社合併は世界の大勢なりとて、吾輩血涙を注ぐ濺いで諫めしを聴かず、先聖帝王が奉幣したまえる諸社を打ち壊り神殿を路傍に雨曝しとなし、村民が祖先累代命の親と仰ぎ来たれる神体を伝染病人のごとく移し行《あり》かせ、その極ついにかかる暴挙のもっとも劇しく演ぜられたる本県より、本邦に先例もなき大逆の徒を數輩出だし、人心|雑揉《ざつじゆう》してただ利を事とし詐を尚ぶに及び、政府も十年目に後れ馳せながらようやく気が付き、今年五月ついに合祀令を撤《す》つるに及べり。
 欧米は欧米なり、わが邦はわが邦なり。米や茶糸の相場に世界の大勢ということあらん。一町村の併合に世界の大勢をかれこれ引くもまたおびただしからずや。ただし目今世界の大勢|如何《いかん》と問わば、一汎投票といい、部落自決、民族自決、地方自決といい、ノルウェーがスウェーデンと分立するを誰一人咎めず、東欧西亜の諸邦が陸続自立自治を承認されおる。いわんや湊村ごとき、昨今分立を企つるにあらずして、他に何の害を及ぼさず、多年自立目治し来たりしものを羨ましければとて、自家の不整理大混雑をも顧みず、種々に謀って合併を強いて聴かれず、その筋の威力を仮《か》りてそのことを押し付け通さんとするごときは、未来の国民たるべき児孫に盗を教ゆるに異ならじ。
 この町のある名士の説に、今日のように町村各別の経済にては、物価追い追い騰貴の今日経済上の大損となる、学校ごときも同様なものだ、かの地この地に立てて教育費倒れとなると思う、とあり。この教育費倒れということ、さらに解らず。小生は毎度紙を買いに近処の書肆へ走るに、郊外や近村の男女、牛車引き、人力車夫、職工、走卒《そうそつ》に至るまで、書籍雑誌の註文実に引きも切らず。自分方へ出入の漁婦、販菜女《なうりめ》に至るまで教育の必要を感ずること切に、あるいは夜分睡眠を節し、人より蚤《はや》く起きて賃仕事をなし、その夫また無用飲食を節し、動物譚や御伽草紙などを買い子女に読ますの多きを誇り楽しむ体なり。これまことに悦ぶべきの現象にして、只今ごとく人々おのおのその仕事にあり付き易く、賃金高く、仕払い確実なる時に当たり、教育費をかれこれ言う者は格外れの人物か、例の田辺流の繊嗇《せんしよく》紳士に止まるならん。
(162) いわゆる細民すらかくのごとく文字の尊きを知るに、教育費の出し惜しみを欲するなら、すべからく戦時中諸列国を鑑《かがみ》として、酒類、煙草より、無用またはあつてもなくてもの坐遊の具、その他その地方に何の必要なき物に大節制を加え、その料をもって教育費に充てて可なりと思う。町村を合併してその地広くなれば、小学ごときは児童通校保安の上よりいくつも分校を置かざるべからず。市町の真の発展整備を望む者が、費用の出し惜しみを専一と心得て、賦課が軽くなる、町割が安くなるなど説き廻りて得色あるは、これ文をもって野に化し民をして国に対する義務を忘れしめ、もしくは表面を美しくして内層を腐敗に委する、取りも直さず旧時の田辺根性を大発展して演出するに外ならず。もしそれ地方にある種の学校を競立せしむるの弊は、これなきにあらず。その要あらば、これはまた別に論ずべし。ここにはただ教育費を節せんがために町村合併など言うは今日の事情に通ぜざる由を述べ置く。
 
 また説をなす者あり。いわく、物は熟慮しては成功せず、まず斜二無二合併せしめなば、追い追い良成績を見ん、と。かくては、その良成績が幾十百年の後挙がるやら、追い追いとばかりでは分からず。何とも分からぬことに骨を折るは徒労無益なり。
 小生は、故福沢先生に銀座通りでちょっと目に掛かりたるのみ、対談せしことなければ、その実相を知るに由なし。先生みずからも称せしごとく、近世これほど大俗な人はなく、詰まり世間のことはいい加減に遣って渡れという主張なりしと想う。しかし、そはほんの一時の世弊を矯《た》めんとての奇言と見え、その勝伯や榎本子を抑え、秀吉が自分のために旧主の孤子《みなしご》を裏切り殺せし逆臣を賞せず、反って処刑せしを揚げたるなどを見れば、この人心底から名節を軽視せざりしを知るに足れり。只今の大戦争ごときも、人はただ機械や兵術の上進にのみ驚くも、小生は列国男女老若の気概盛んに志操高き例多きに感じ入り、わが邦人も何とぞことごとくかくのごとくならんことを祈りて止まず。機械兵術いかに上進すとも、志操なき者|争《いか》でか善くこれを用い得ん。
(163) 今度合併を主唱する湊村の発頭人高川某は、かつて刑獄に触れ所罰《しよばつ》されたことあり。その罪名はあまり芳しからざる種類に属せり。この人田辺町の生れで町内に住みしが、営業を閉じて湊村に閉居し、大宅名園を建てながら近頃まで久しく無届け寄留せしを、村役場より督促されてようやく届け出でたりと聞く。今にその子を田辺町の学校に通わせ、掛り物を納むる外に何一つその村に貢献せず。その村におりてその村を好まぬ寄生虫的の人なるが、すでに国法の下にかの地に久しく住みながら無届け寄留もまたはなはだし。決して紳士の所業にあらず。次に雑賀弥太郎という人に付いては、小生清聴をあまりに汚すを畏るれば、多くを語るを好まず。新宮で巡査たりしが、免職か何かになり、湊村に来たりて役場に勤務せしを罷免されたるにて、出所は海草郡なり。山本某というは、どこの人か知る者少なし。ある時は田辺町に、ある時は湊村に住み、これまたかつて湊村役場員たりしが、罷《や》められたるなり。かようの人々が湊村に住んで湊村を田辺町へ合併せんと首唱するには、種々の根胆《こんたん》もあるべく、前年小生ごとき狷介で知れ渡ったる者にすら、公園一条に付いて砂糖を遺《おく》られしほどなれば、香餌《こうじ》の下に懸魚《けんぎよ》多き世の中、例の陰謀多き町の有力者が何とかしおるとは誰も気が付くところで、すでに昨年村民の与《くみ》し易き輩に一盃飲ませたり種々勧誘して、例の合併すれば税が安くなるとて調印せしめたるを、今度合併反対の反対書として差し上げたるなり。
 さて湊村長が合併反対の答書を呈せる内に、田辺町に町是定まらずなど書きたりとて、これをこの輩が湊村長等は公徳に背きたりと憤る由を『大阪毎日』紙で見たるが、年久しくその村に住んで無届け寄留で済ませたり、その村の公吏たりし身の右様の仕方は、おのずからその人格の高下を露わすものにて、かようの行為ある者、何ぞ公徳を云々するに勝《た》えん。さて、いよいよ村会で議決し答書を差し上ぐべしという日、件の二人傍聴に出懸け、村長より何かあてこすりを言われたるも答うる能わざりしとか承わる。(雑賀の弟で『大阪毎日』紙の田辺通信員は小生別懇の交りあり。ただし、公事と私交を混ずべきにあらず。小生また一汎知人も、小生に莅《のぞ》むに決して公事と私情を混ぜざらんことを望む。)田辺町の有力者が真実合併を欲するなら、宜しく堂々と湊村の人々と会見し、合併後施設制禁の綱領を(164)開示し所期を陳《の》べ、折り入ってその同情に訴え、衷心より協力してそのことに取り係《かか》らしむべし。しかるに、かかる芳しからざる人々を使い、卑劣の方法もてその村民を離間し(兄弟親族にして争論を生ぜるあり)もって自分らの所志を徹せんとするは、そのこといまだ緒に就かざるに、すでに破裂が門に俟《ま》ちおるを視るなり。
 田辺町の鑑識あり名望第一流の人々にして、「この合併は、ただ田辺の人口が多くなるとか戸数が増すとか、町長の俸給が上がり合併に尽力せし犬どもが何かに使い貰うて飲めるという外に、何の益あるか分からぬ」と言う者少なからず。「合併を真面目な合併と成し上げんには、西ノ谷村はもとより、湊村をも従前よりはるか満足な物に仕《し》て進ぜざるべからず。これなかなかの費用を要し、例の村有地売り飛ばしでは数年の合併をだに支うるに足らず。さようのことありてはと最初から用心して拒む合併を做《な》し遂《と》げたりとて、売り飛ばしをなかなか承知もすまじ。何か事業を起こさんにも、上述紡績会社一条のごときヘマをやったる上のことゆえ容易に話に乗らず、始終背中合わせに不快で暮らす合併世帯ならむしろせぬが優《まし》」と言う人多し。
 明治二十三、四年の交、小生米国南部を長旅せしに、そのころは南北軍に出た人も多く生存し、小生の植物研究を助け呉れし人も退役大佐にて、いろいろ話も聞けば実蹟をも視たり。最初米国連邦の規約は、連邦のいずれにしても気に入らぬことある節は勝手に連邦を脱し得る定めにて、北方諸州と人情風俗を異《こと》にせる南部諸州が別に一国を建てたり。北方には棉花《わた》を作らず奴隷として黒人を使う必要なきより奴隷を廃せよと南部に強要せり。これ表面は人間みな平等と大道を説きたるごときも、実は南方が奴隷を使うて過分に繁昌するを嫉みしなり。南部には奴隷なしに綿花できねば、規約通り分離すべしとて別立《べつりつ》したり。それを事端として北方より奴隷解放を宣言し、南部の黒奴をして一斉に起《た》ってその主人に叛かしめ、また大軍を分かちて南部を攻めたので、南部も久しく対戦の末、時利あらずして北方に降服し、黒人の跋扈おびただしく北方の強勢を怙《たの》み何ともならず。南部の人々諦めて政庁を黒人に謙り渡すと、いよいよ勢を得て擅恣《せんし》放縦何ごとも方付かず。経済は大乱脈となり、北方の人々自分どもの利害より打算するも、と(165)ても遣り切れぬから、追い追い南人が黒人を圧さえるように助力し、黒人ようやくへこみ了りしところへ小生が往ったので、聞けば聞くほど北方の人も詰まらぬことをしたもの、戦争は勢い止むを得ずとするも、黒人を奴隷としてアフリカより掠《かす》め来たりしが道徳に反くとて起こした軍《いくさ》なれば、軍止み次第一切の黒人をアフリカへ送還したなら、戦後弱り入ったる商人がその上黒人に憂目《うきめ》を視ざりしはずと歎息致し候。(ちようど小生留在中、南北共に黒人を持て余し、アフリカへリベリア国を建てさせ、なるべく黒人はそれへ移住すべしと勧告となり、小生知れる黒婆など往くを好まずとて泣きおりたり。)田辺町のある人々も、余所《よそ》からの浮浪人などまで傭いて隣村に合併を強いるはあんまりにて、合併後に及び南北人ども黒人の始末に弱り切ったごときことを生ぜざるか。
 また、むかし孔子が不相応な小人を紹介として諸侯に謁せしを、その弟子が非難せしことあり。孔子すらかかる非難あれば、聖人ならぬ身は一層注意したきことにて、恐れ多いが、閣下もかような人々の言を真《ま》に受けて、これ田辺全町民の冀望なり、また湊村一半有力者の切願なりと惟わるることもあらば、小生は当地方の不幸事この上なしと存じ申すべく候。合併請願に調印せる湊村人は、多くは首唱者同様他所より来寓しおる輩で、土着の者至って少なし。
 人あるいは小生に向かい、汝もまた田辺の生れにあらず、他所より出た身が何をもって町村合併の意見を述ぶるやと問われんか。小生は和歌山生れながら、物の心を知りてより和歌山よりは田辺に住む方はるかに久しく、この地方の学術方面に尽瘁せること、世に比類多からず。例せば、アジアただ一種の海波が及ぶ所に生ぜる蘚と同様の苔(これは世界中に他の例なき物)をこの辺で見出だし、大いに学界の注意を惹き、またセイロンごとき、西洋学者が日本よりも古く入り込み、英領となりてより欧州学者その国に往来移住する者絶えざるに、これら諸学者がセイロンで古来見出だせる粘菌の総種数よりは、小生がこのわずかな地方で見出だせる方多し。その他この類のこと多ければ、帝国の誇りとして宇内に示すべく、なるべくこの辺の天産と勝景名蹟を保存せんと十年一日のごとく勉め、伐らるべき林も潰さるべき社も、幸いにその筋諸公と知友の力によって保留せるもの少なからざるは、内外人の斉しく知り及ぶと(166)ころなり。かの田辺旧公園一件に関せしも単《ひと》えにこの一念に惟《これ》由る。
 しかして、今回新聞紙に見及ぶごとき突飛偏頗なる町村合併を挙行されては、せっかく保存の途立ち行なわれおる科学上の貴重品や古蹟名勝は、例の通り何の心得なき者に売り飛ばされ、あるいは全滅、あるいは大破に及び、小生は行き懸かり上、またまたこれを抗争せざるを得ぬこととなるべし。小生いまだ多年研究の結果を公表せず、国家のために蓄積せる興産済民の諸案も残し伝え得ざるに、重ねて年月を我利一偏の俗人どもと抗争中に厮殺《しさつ》し了《おわ》らんは、国に取り身に取りて遺憾はなはだしきゆえ、新聞紙で見及ぶごとき、何の調査も準備も確たる目的もなき合併の不可を陳ずることかくのごとし。
 
 しかる上は、小生は始終町村合併に反対するものかと問われんに、決して然らず。本年二月十九日と二十二日、竹井内務部長へ差し上げたる書面に概略申し述べしと記臆する通り、小生は例の田辺町の二、三陰謀家が目論《もくろ》んだごとき姑息の蚕食的合併を望まざるも、新たに口熊野《くちくまの》の都会として恥じざるに足るべき町村の大合同を望むものなり。
 支那の黄河、揚子江、インドの恒《ガンジス》河、英のテームス、仏のセーヌを始め、古今の都会にして相応の川流に接せざるものなし。水電力が工業の大要素たるに及んでは、ますますこの点に留意せざるべからず。しかるに、前述通り安藤が田辺に陣所を設けしは商工の発達などを見込みてのこと毛頭なく、幕府の嫌を避けて何一つなし得ざるの地を撰みしと見ゆ。等しく安藤の所管たりし南部《みなべ》町のごとき、田辺の商家がわずかに陣屋|士邸《さむらいやしき》への出入り調進を事とせしと異《かわ》り、もっぱら商売の発達を期して建てたるらしく、田辺の街衢屈曲して行き止まり多きに比して、はるかによくできおり、泉州堺、肥前佐賀などに比すべくあらねど、海岸帯の町としてはすこぶるその体を得たり。すなわち真直に長き大通りありて、その一側にこれと直角をなせる多くの横町あり。いずれの点よりするも、大通りより海に至ること容易に、さて大通りの他の一側には、隣村諸方に行くべき相当の町通りあるなり。その体《てい》ややニューヨーク市に(167)似たり。
 田辺町もこれに傚《なら》い、何とぞ下芳養村の松原通り辺より、西ノ谷村の官道、それより田辺本町、栄町を経、湊村の通り、それから礫山《つぶりやま》という所は非常に危険な曲折あって毎度死傷を出す、これを開通して、それより新庄村、旦来《あつそ》村の官道を通じて、富田川(これは立派な大川)までも大道路を通じ、在来の田辺の諸横町、中巷などは、火事でもあったら整理すべく後廻しにし、差し当たり新開の大道路の両側に横町を作り、かくて工場、商店、その他新設すべき建築を大抵分類整立して雑揉《ざつじゆう》せぬよう群団をなして立たしめ(倒せば闘鶏社付近へ工場など建てしめず、程遠き禿山などは会釈なく取り崩して建てしむる等)、大いに富田川の水力を利用して種々の事業を起こさしめられたきことなり。かくのごときは、強いて町村の合併を要せず、経営上の相談さえ纏まらば町村分立しながら合同してその実は挙がることと存じ侯。(黒江町、日方町がわずかに一土橋を隔てて分立しながら、何の障りなくおのおの繁栄しおるがごとし。)一村を併合しては斜二無二《しやにむに》入り込み詰め込み売り飛ばし、女学校の前へ工場を建てたり、小学校のかたわらへ銭湯を許可したり、水なき所へ水を要する設備を行なうたり(只今の遊廓は堀の埋立跡にて良水乏しく、衛生上防火上実に危殆なり)、さて一村を併合して入り込み詰め込み売り飛ばしてのち、他の一村をまたかくのごとく併合し売り飛ばし立て詰むる時は、むかしの江戸の町々のごとく、素人が一日尋ねても通り抜け能わざる混乱物ができる。それでは町の拡張でも発達でもなくて乱雑なり。合併も合同も、期するところは商工の発達、地方の振興が主眼なれば、上述ごとく人車に乗って走っても一、二時掛かるようの長安大道と、これに出逢える横町多くとを作り、もっぱら商工を分類整斉して住ましむれば、例の勝景故蹟を濫滅したり沙浜へ工場を建てたり、虚偽の届け出して名木を伐ったり、むりに部落民を移したり、その位地を侵略したりせずに事済み、鬧所《とうしよ》人を鬧殺し閑所人を閑殺すで、清浄なる社寺、明媚なる漁邑、颯々たる松林、渡世に忙しき商店、工場、おのおのその所を得て、合同町村真にいずれも悦服するはずで、夢のような話なれど、只今紛擾中の狂気じみた強行合併よりは、はるかに道理と見込みあり。
(168) しかるに、現時田辺町の人の根性、汽車ができるなら自分の門を通って呉れるがよいの、湊村の通りが繁昌すると田辺の本通りが困るの、はなはだしきは富田川上筋の村民が旦来、新庄や湊村を通らずに田辺へ来るようにとて、岡という所に危険な隧道《トンネル》を開かせたり、まだ一層|可笑《おかし》きは、優等生へ賞品を与うべく学校に嘱托したは紳士らしいが、その条件にいわく、自家の所有地ある村に生まれし者に限り与えられたし、と。(これは賞品を受けた礼に、山番でも無給で勤めてくれというような、山椒大夫ごとき昔流の狭い根性。さて本書書き終えてのち何村とかの小学校長は後家に恋して聴かれざりし腹痊《はらいせ》に一番優等の児を措《お》いて次の優等児に右の賞品を与えしとて、捫択《もんちやく》中とか聞く。この賞品にしてこの依怙沙汰あるは自然の筋道なり。)
 
 大抵こんな紳士ばかりが田辺町の有力者なり。小生、明治十九年田辺へ来たりし時、大橋の西なる江川町もっとも繁華に、その東なる本町これに次いで繁栄せり。しかるに、只今この二町は見る影もなく衰えて、北新町と栄町がもっとも繁昌す。川が砂で埋まり船入らず、東南の諸村大いに開進したるをもってなり。町々の栄枯、時と推し移ること、かくのごとし。しかるに、田辺町の人々いつまでも封建時代の夢を貪り、みずから藩主領主が小農に臨むごとき権幕をもって隣村を服従合併せしめ、自分は家を動かさずして客を千里より招致し、いつまでも自分が住み来たりし町々のみを大繁昌せしめ、被合併村落をもってその秣料《まぐさりよう》に充てんとし、その有力者が公事に托して私利を営むの念深く、おのれ一文も出さずに他の物を取り込み売り飛ばしてみずから救わんという素志、骨髄に浸み渡りおり、万事に付けて請托、陰謀、教唆、陥擠《かんせい》を逞しうす。かくてはいかな妙案があっても、到底物にならぬはずにて、遺憾千万に存じ申し候。
 右の意見書に付けた注釈書あり。只今これを公開せんに筆写の暇なし。その一部はたぶん『日本及日本人』秋季拡大号に載るべし。もっとも軍国多事の際、あるいは掲載の見合わせになるも知れぬが、果たして然らば田辺湊村の合(169)併もこの際差したる不急の問題にあらざれば、もろともに見合わせになることと思う。なお一言し置くは、この意見書中に五明楼で知事公のために芸妓を招き弦歌の催し云々と載せたが、近くその場にありし人の話を聞くに、右は決して知事が酒に乗じてかようの望みありしにあらず、五明楼で遊興のことは知事より謝絶されたとのことなり。しからば、本文中に注せし通り、田辺町の有力者など人も言い自分も免《ゆる》す輩が、知事の名さえ用うればどんな曲事《きよくじ》をもなし遂げ得、いかな制条をも破り得べしと、知事公を自分ら同様の卑劣根性な者と断定した、阿諛《あゆ》詐譎の行為たりしこと疑いなし。
 また雑賀貞次郎氏より弁明書を贈らる。いわく、知事が合併を日本文化のため必要と認めこれを詩s《れいこう》すべしとは、雑賀氏の通信にあらず、全く『大阪毎日』紙和歌山通信本部で書き加えしことなり、と。知事が本件を軽々挙行せず、重大事として熟考すべき旨、予に通知せられた親書は、七月十一日の『紀伊新報』に載せたり。しかれば、合併詩s云々は虚談に極まりおるから、雑賀氏は片時も早く本部へ通信してこれを取り消さしむると同時に、熊楠がこの合併をはなはだ人道に背き、将来地方民の感化上はなはだ不良の結果を来たすべきものとして、極力その非を鳴らし、知事へ意見書を呈し、また『牟婁新報』にその本文を掲載した由をも、『大毎』紙および『田辺新報』へ載せられたきことなり。   (大正七年七月九日−十七日『牟婁新報』)
 
(170)     南方熊楠翁の書簡
 
  久々にて南方熊楠大人から長文の書簡を下さった。再三熟読するに及んで、独りこれを筐底に蔵するに忍びず、私信ではあるが、ここに公開することにした。処々標題を設けたのは小生の蛇足である。ただ、この書面を読みて警世済民の言としたまう人あらば幸いである。(柴庵)
 
 拝啓。過日は夜分御来臨、長々御引き留め申し、自分は当時気付かざりしも大分寒冷なりし由、跡にて承り聞き候。あるいは風でも引かれたるならんかと御気の毒に存じ上げ候。ちようどその翌二十二日の夜十時五分、荊妻、娘と打ちつれ帰宅。娘は全治とは申すものの、そは患部だけのことにて、今にしっかり致さず、この上一年半は何たる仕事もできず、自宅にて保養、時々御地へ便宜をもって上り、病院で診察を受けるが最善とのことと存じおり候。
 さて、その節御話し申し上げたる京大の当地|目良《めら》の地所一万坪無償寄付の件要求の由。当町には、前年大田辺経営など称し、むやみに町村合併を行ないたる結果、その大田辺へ満足な移住者はほとんどなく、多年県庁で打っちゃらかし置きたる本郡奥地、すなわち前年貴下御巡廻の三川、豊原、川添、大都河その他の山村にては、村民は炭にやくものは焼き了り、切って売るものは切り売ってしまい、神社仏寺なにからなにまで売ってしまい、小学教師の月給さえできず、まるで蒙古・韃靼《だつたん》の昔もかくやと思わるるような不断移動民のみとなり了り、その輩、村におりても生産とてはススキを刈りて炭俵を作る外に何もなし。炭俵とて、さように多く買い入るる向きもあらざれば、何とも詮方なく相率いて当町へ流れ出て、渚処に借り住居するも、元より何たる都会生活に慣れおらぬ人々なれば、夜分は相率(171)いて活動写真を見物にゆき、昼間は昼寝に日を送り、さて少々気のききたる人々は多年自村にありしときの心持にて諸処の丘陵森林などを見まわり、自分のものにもあらぬに、あれを売ったらよい、ここへ道を作ったらよいなどと、不動産を質入れ売り飛ばすことなどに相談|目論見《もくろみ》を事とするもあり、またその家内は近在の小山小林に潜入し、柴、薪、小材等を濫伐盗来するを内職とするもあり、出没不定、近村の人々も張り番に飽き果て弱りおり候よし。
 最初この町村合併を行ないしとき、当該吏員等が関係村民を奨励致し候理由は、この町村合併相成りたる上は町も村も経費減少して負担大いに軽くなるべしということ、その他は、西牟婁郡神子浜といわるるよりは、堂々と田辺町神子浜と書いた葉書が飛んでくる方、威勢よしというようなおどけたることばかりなりし。小生は最初よりこの町村合併を呑み込めず、反対せし理由は、○○町へ甲村を合併すれば地面多く町に入り、やりようによりては他府県の有力者も移住し来たり、多少の持参金も入り来たるぺければ、甲村のみの合併ならばまずは大なる損はなし、ただ困りたることは、すでに甲村を合併する上は、乙村丙村をも合併せざるべからず。その内の乙村というはずいぶん難渋な村にて、その難渋なる事情は、貴下の方が小生よりもよく知りおらるるはずゆえ、ここに述べず。小生懇意の友が大分山地を持ちおり、小生そこに植えたら大分恒産になるべき植物を心得おり、その人にすすめその人も試植せしに、まことに見込みたしかなるも、植えれば翌日村民が盗み取りて、たきつけ(にもならぬ苗なるに)か、なにかにし終わる。支那の陳語に、柳ほど根のつき易き物はなきも、十人これを地にさすに、一人これを抜きまわれば如何と問いしに、それでは幾年間柳を地にさし続けたりとて一本も育つまじと言いし由、乙村はまずそんな所なり。言わば、昔の黒旗軍のごとく、半農半盗のもの若干あり。人の物を盗るを常事とするゆえ、取調べに往ったところで何とも踪跡分からず。それゆえ右の友人はずいぶん広い土地を持ちながら、何も植えずに打ちやりあること、今も数年前も、おそらく数百年前も、同じ様子なり。故に甲村を合併して多少入るところありても、乙丙村を合併してその方へ費えて了うと小生は思いしゆえなり。これは一例ながら書いて置く。
(172) 小生は貴下等とかわり平生閉居読書して少しも世間のことを知らず。ただ地勢、人気、民俗等を時々考えて、それだけで右様の察知ができたるなり。盲目は花を見しことなきも花の詩歌をうまく詠み得るようなものなり。ただし、無上の名歌は盲人にはならぬものなり。小生の察知も無上に中《あた》れるものにあらず。しかし、何の考えなきものに勝ることは万々なり。
 
 しかるに、実際合併が行なわれて十年も立つが、その中の経過をみるに、小生の察知以上の不出来なことばかりなり。それは乙村が右述通りの素質として、○○町と合併後○○町へは何の足しにならざるのみか、足らされてばかりおるは、兼ねて期したることなれば止むを得ずと致し、もっとも予想にはずれしは甲村で、これまた○○町を煩わすのみ何たる手伝いをなさぬ。という訳は、上述通り炭焼きの失業者、山の売買上の外に何一つ常識なきいわゆる五村紳士(しゃれて五無紳という)の法螺吹き連の外に、これと指を屈するような身分のある人は多く移り来たらず。この輩ブラブラ遊びまわるのみで何にもせず。ただ子女のみふえるから教育費とか何とか町の費用は嵩みてやまず。しかるに、その支払は一向出で来たらず。昨年九月ごろ、町会議員の一人、かかる調査ばかりする人に聞きしは、甲村に他村より移入し来たれる輩の住む町で、十家のうち一家だけが子弟の教育費を自分で負担して支払うに堪え、他の九家はみな町全体の負担支払を仰ぐもののみとのことなりし。言わば、これ餓鬼ごときもののみ増殖して、この大田辺町の大部分を構成しゆく事実となりたるわけなり。
 すなわち合併前の乙村は合併後も○○町の厄介人、さて、その厄介人の入れ合わせの役に立つべしと思われたる甲村は、また十家のうち九家までは腰以下のなき幽霊とあつては、実力ある(それも教育費の上のみよりいう)一家を招致するために、影で場面を塞ぎおる九家を招致したるわけとなる。この影ばかりで実体なき九家がまるで○○町の厄介物にて、ともかくも貧乏ながら数百年間住居し家を構えありし乙村に比しては、新来なるだけが一層○○町の厄介物(173)たり。家賃もろくに払わぬものに家と地面を塞がるることとなる。
 かくのごとき事情で大田辺が出来上がるとしたならば、本来の田辺町民は大田辺が出来たためにはなはだ負担が重くなり、負担が重くなりたるを感ぜぬ人はそれだけ身も皮も痺れて不感覚になるまで全身が衰弱し果ておる人々なり。そんな人は虫のごとく蠢勤しおるというまでなり。結構な悟り果てたる人のようなれども、人間は社会に住んでの人間なれば、坐臥とも多少身辺の社会のことに懸念せざるべからず。自分一人よければ安しと安んじおりては、知らぬうちに自分がその社会に住みおることがならぬに至るべし。虱が人にかじり付きながら、その人の安危を懸念せずにおると、その人衰死して虱も自滅を免がれぬ理なり。
 さて田辺町民はずいぶん危殆な境涯に住みおれるなり。前日も納税遅れて出さぬもの多しとかにて、定日中に納税したるものに番号札を与え置き、抽籤とかで賞与を授くるとか下女より聞きたり。拙家の納税を持ちゆきたる下女は、二番違いとかで賞与にはずれた、とつぶやきおりたり。賞与を賭して納税を奨励するとは為政者のよき思いつきとや言わん。されど国民軍出征の留守中、父なし子を孕まなんだ妻女を旌表《せいひよう》するようなもので、平生妻女どもの心がけだによければそんな美風(?)はない方が満足なるごとく、小生三十年前こんな極楽土はなしと思い住居を定めた田辺町に(当時は盗人というもの、連年一人もなく、あらば必ず鉛山《かなやま》へ逃げ来たりし他郷の悪徒なりし。それもこの町にさような悪人一人もなかりしゆえ、すぐさま捕われたり)、懸賞して納税という国民に取って尋常極まる行儀を奨励せねばならぬようになりたる大田辺町の衰態は、言語に絶えたるものと嘆息の外なし。
 
 かかるところへ、今度京大より当町へ目良の地所一万坪を無償寄付せよとの厳命とか交渉とかありたるよし。御存知のごとく、この田辺町は、事情、地勢は大いに異なるも、ざっと申さば横幅まことに狭く海岸細長き所で、この上発展の余地とてはさらになく、ちょうど東京の南端品川ともいうべき所で、これを発展せしめんとならば大森、鶴見、(174)神奈川、横浜と海浜に沿うて発展線を下芳養、坂井、南部、印南とのばし行くの外なし。新庄、朝来、富田等、南東方のことは、今の所論にあらず。鉄路が田辺までのび来たるを目安に立てて、当面のことのみ説くが必要なり。しかるに、それに最も必要なる田辺の上方よりの入口たる、後来土一升金一升の見込みある地を一万坪も無償寄付ということ、さらさら分からぬのみならず、上述のごとく、懸賞して納税を奨励せねばならぬほど衰弱せる田辺町より、一万円一万坪という大金を、国庫支弁の京都大学へ寄付ということ、あたかもこれ時勢後れのくい潰し了りたる田舎の旧家へ、都会の山師風の若旦那が田舎者を取り込みやらんとて、家系を言い立て敷金付きの娘あらば嫁にとりやろうと言い込み来たるに、自家も内実弱り果てたれば、そんな高貴の名門へ持参金付きの娘を嫁入りさせたら、近所の者も羨み組合金でも預けに来たるべく、木に金のなるような相談も、新出来の婿方の名望に気を呑まれて近村より持ちかけ来たるべしと思い惑うような、双方とも何たる真実なき浮きたる心願と思う。
 第一に、亜熱帯植物がこの田辺辺に多いとは、二十余年前、予が御承知通り神社合祀反対や神島保存を主張せし時書き立てたることで、それらを読んで、小川琢治などが田辺へ京大の研究所(実は十年も立つに何一つこれという研究を挙げず、実は夏休みに一、二ヵ月遊びにくる別荘地)をこの辺に設ける気が付きたるなり。いかにも熊野一帯に亜熱帯植物は多くあり。ただし、この亜熱帯植物というもの、さして熊野にも田辺にも限れるものにあらず。宇井氏の「紀州植物目録」を見ても知るごとく、熊野のみならず、紀州の上等植物にこの辺特有で他に見ざるほどのものはきわめて少なく、たまたまそんなものありたりとて、特別の気候、地勢、土壌を要するゆえ、植えて生えるものにあらず。たとい生えたりとて、そんなものは天然自然のまま原産地点に自動車でなり膝栗毛でなり馳せ行き観察して、其正の研究はできるなり。それを慰み半分に栽培しては、奇形品、病弱品ができて、実の研究はできぬものなり。また亜熱帯上等植物は人生経済上より言うて頓《とん》とつまらず、役に立つほどのものはすでに数百年栽培されて役に立ちおり、この上何たる世益になるべき見込みのあるものなし。
(175) われら先年熊野および田辺付近に珍生物多しと言いしは、そんな上等植物のことにあらず。微細にして顕微鏡を用いいて始めて分かる、まことにこまかき生物どもを言いしにて、それならば今も多くあり。これらは一万坪も土地を要するものにあらず。顕微鏡の軽便に携帯のできるもの一つ、カバン一つに入れ得るだけの薬品等と、テント一つもあらば、その物の生える気候ごとにその所へ馳せ行き漕ぎ行き、生きたるものを生きたまま多く捉えて、その場で研究ができる。かくして研究するのが研究の合理化なり。一万坪どころか、この拙宅四百五十坪でも余りあり。過ぐる十四年間に、粘菌だけでも三十年前に本邦に十八種しかなかりしものを、小生一人の力で(もっとも東大の諸博士、その他京浜の千万長者の子息、諸会社の支配人重役等より金円を寄付せられ、標本を不断贈られたるを、うまく応用し研究して)、只今二百三十種まで検出、いよいよ今年より図譜を出す。日本中なりといえども、小生と小生一党同人の力で、米国に次ぎ英国と第二位を争うほどの名誉を博しおれり。
 何の埒《らち》もなきマンリョウ、タニワタリ、タマシダくらいがもっとも珍品、これとても日本の内には他地方にもあるものに候。フウランオニシダ、アマクサシダ、ヒチノキなど名を並ぶほどつまらぬ、房州、伊豆、駿河、伊勢、四国、九州にうんざりするほどある亜熱帯上等植物の栽培に、一万円の持参金をつけて天子さえ一分もふやし得ざる地面を一万坪寄付するということのあるべきや。
 
 要するに、亜熱帯植物はこの辺諸所に生えあり。研究は天然産でその産所に就いて研究すべきは勿論なれば、自動車でも人力車でも用は便ずべし。小生ごときは本年六十四歳の老体ながら、今に膝栗毛で五里七里を歩み手廻しして実地に天然生を見て、その場に研究してすますことに候。若い者は一層歩きまわりて、実地に実物を視察すべし。亜熱帯植物を寒地へ持ち行き、熱帯植物を冷地の温室で育てるならば、わけは分かっているが、亜熱帯の植物を亜熱帯で多く集め栽えたりとて、果たして生え付くか否か分からず。そんな面倒なことをするよりも、ニラバランを見んと(176)思わば新庄村へ、シランを見たくば救馬谷へ、クモランを見たくば秋津村へ、チャガセキショウを見たくば上秋津へ行けば、天然生の植物景観を見らるる。たとい一万坪ありとも、異なる地勢、異なる土壌に生ずるものを、ことごとく集め栽えたところで、根が付くか消失するか分からず。生じたところで、病身または出来損いなど生ずるときは、正真の研究はできず。しろうと女を見ずに売婬女ばかり検査して、日本女はみな黴毒ありと言い、漁村の小児のみを検してこの県の小児はみな色黒しと信ずるような結果のみ生ずべし。
 宇井氏の「高等植物目録」を見て知る通り、本県にのみありて他になきものとてはなはだ少なし。さて、そのはなはだ少なき本県のみにありて他府県になきものというも、実は人の目に付きにくきほどのつまらぬもの多く、追い追い他府県にて見出だすはずと認むるもの多し。
 例せば、小生那智の四の滝下にて採りしヤッコソウの一種、和歌浦愛宕山で採りしウォルフィアごときは、ただ一度極めて少数を取りしものにて、その後見当たらず。前者は標本どこかへ隠れて見当たらず。後者は幸いに今も保存しあるも、顕微鏡で見ねば見えぬものなり。こんなものは栽培のしようもなく、ただ見当たり次第標品にして置けばよいので、もし栽培せんと欲せば手水鉢一つあったら数千も養うことができる。ヤッコソウごときは深山の大木に寄生するものゆえ、一万坪の地があっても移植することならず。希珍のものはみなこの類にて、栽培の見込みなければ、山に入って捜索し、乾かして標本にして置く外に研究の妙方なし。下等植物には珍なもの多きも、いずれも顕微鏡的の微細なもの、または草木に寄生するものゆえ、栽培できず。栽培するにはちょっとした園庭でたくさんなり。小生は、このわずかに二百坪に足らぬ園庭に培養して、百種ばかりの粘菌を研究し、千種以上の菌類を作り出だし候。
 またミカンの若返り法の研究をする由。ミカンの若返り法は成るか成らぬか分からぬゆえ、成るか成らぬかの研究と思わる。それならば合理化合理化と連呼する政府の方針を欽守してミカンの多き有田郡へゆき、そのことに適応せる土地を選み、時季を違えず、毎年その村へとまり込み研究して可なり。若返り法は若木に就いて研究成らず、老衰(177)せる木に就いてのみ成るべき研究なり。有田郡には百年また二百年も古しと存ずる柑橘の木少なからずと聞く。その老朽しおる木に就いて研究して、始めて若返り法を見出し得べし。今、目良に一万坪の地を得て、これにミカンを栽えたところで、一年や三年で実は成らず。若返りを要するような老朽木はちょっとできず。しからば、地面にミカンを栽えて少なくとも老朽なるまで二、三十年は待たざるべからず。有田辺より老朽木を移栽したところで、研究を始めぬうちに途中で死んでしまうべし。移栽しても生きておるほどなら、その木は老朽にあらず。老朽に及ばぬ木に就いて研究したりとて、若返り法が発見さるるはずなし。
 また、このほどもお話し申し上げしごとく、当町に近きある村の村長の名説のごとく、ミカンは若返り法を必須とするほどの高価希珍の木にあらず。小生宅に、田辺で一、二と誇るべき安藤ミカンの大木三株あることは貴殿も御承知ならん。その一つは、どうしても百年近きものと思う。高さ二丈に近く、四方に枝が偃《ふ》しのびて、和歌山の東本願寺御坊にある老松(臥竜松)のごとき奇観なり。幹の径は三尺もあるべきが、中は全く朽ち洞穴となり、向うをすかし見得る。今年も三百ばかり実《みの》りしが、二十年前のよりは小さくなれり。こんなものでも、肥料をやれば相応に成り栄えおる。別に若返り法を要せず。若返り法を研究せんと思わば、こんな老朽木に限る。しかるに、こんな大木は移植するわけに行かず。これほどの大木になるまで待つには少なくも五十年はかかるべし。その間に世間も、京都大学もどうかわるか分からず。また一万坪の地にこんな大木を多く移し栽えんにも、その木はなかなか貴需に応じ難しというならん。かつ右の村長が言いしごとく、ミカンなどは安きものゆえ老朽せば、その木を伐ってしまい、新たに枝をさし、またキコク、ユズ等の株につぎて、いかほども若木を作り出だし得べし。その継ぎ木、さし木を売買し、生計を営むもの多し。ミカンを食い通しにして人間が生き得べきにもあらず、また生きにゃならぬものにもあらず。女郎屋の遣り手引き手は、男をさえ見れば  標客と心得、刑事は人さえ見れば盗人に見えるそうな。それとひとしくミカンを研究する人は、ミカンさえ若返らば天下のこと定まるとでも思うならんが、この世間はミカンばかりの世間にあら(178)ず。それより急務とすべきこと、すこぶる多し。
 この田辺町ごときは、町有の空地というものほとんどなく、わずかに一ヵ所、木引きが木を鋸《ひ》くわずかの地だけ町有として残りおるを、小生は知る。かようの不始末な町ゆえ、毎度毎度埋立埋立と埋立を行ない、貧民のために家を建てるとか何とか称し、さてその埋立ができると、始めの目的とまるで違うたことをなし、二、三の人が金儲けをするなり。その人々の不徳義はもとより、実は町民一同あまりに町のことに無頓着なる結果なり。これまた種類は違うが一種の不徳義というべし。
 今度一万坪を大学へ寄付のことに奔走する人々は、従来公衆公共の事業に何の寄付もしたことなき評判のある人々なり。自分のものは一文も出すを惜しみ、町のものは一万坪の上に金も出すべしと慫慂して、誰がこれを承知すべきや。つまるところ、この人自分の従弟が京大の助手か何かであり、それに大学の受けを善くさせ、行く行くは多く月給を取らしめんとてのことなり。すなわち年々よくくれて二、三千円の月給をわが親戚の一人にもらいやらんために、この地面少なき田辺町より一万坪の土地を(この貧乏人多くて町税の滞納者おびただしく、懸賞までして滞納の幾分を防がんとさえ苦慮する田辺町より)寄付せしめんとするは、あたかも人を殺してイタチを養うような奇策といえば奇策、愚策といえば愚策と存じ候。
 つまるところ、臨海実験所で瀬戸の村民をてこずらせたる上に、今また味をしめて田辺町へかかる難題をいい来たるは、よくよく田辺町民を馬鹿と呑み込んだ仕打ちと思う。官吏とか町長とかは他府県の人々で、いつどこへ移るか知れず。在職中、京大の植物研究所を田辺町へ設けやりたりなど言わば、名誉ともなり慰労金でもくれるかも知れず。田辺町に取っては、後世永々、難渋の端を開かるるものというべし。いわんや緊縮緊縮、合理化合理化と称うる今の政府の下に、かかることをされては、為政者の言行全く一人ながら二つの脳髄を持てるごとく、何が何だか分からず、町民は挙げて言う通りに行なわず、制止しおることをみずから行なうのが当世などと心得、奸偽百出、ただただ人の(179)眼を抜くを能事と心得るに及ばん。これ将《はた》昭代の盛事として慶すべきことならんや。つまり京大は田辺町民を大バカ者の集団と見下し、こんなことを好餌として今のうちに一万坪の地面をせしめ置き、夏休みにでも無銭遊びにくるべき別荘を田辺の入口に構うるの計をなすものにて、行く行くこの辺へ諸方の人が遊覧にくるをあてこみ、世もかわり学術研究の方法も大いに簡易になりたりなど称し、例の諸方の疑獄事件の根本たる土地払い下げ同様、一万坪の地面が不用になればとて田辺町へは返さず、よき価《あたい》を竢って転売し、その金を何とかしてしまうくらいが落ちにて、つまるところは田辺町民一同がよいつらの皮を見ることと存じ候。
 この状今少しく満足に書きたきが、病女今に十全と平愈《へいゆ》しおらず、妻は二十二日に帰りてより風を引きて臥しおり、小生は悴へ送金のため、この痩腕と老眼にて、千五百枚という原稿(一枚四百八十字詰め)を草せざるべからず。ことに昨年六月一日、進講のみぎり御約束申し上げたる粘菌御参照品を調製に余念あるべきにあらず。二日に五時間眠り、三日に七時間眠る。また、いろいろの俗事多し。昨夜より今に(二十八日朝八時)少しも眠りおらず。しかるところへ、昨日札幌大学より農科で作りしバターを贈らる。バターは小生何の嗜好なく、こんなものを貰うと、これと一所に食うべきパンを買わざるべからず。誰かにやってしまわんと思えども、そこが京都大学よりバターでなくてバカにされるほどの未開民多き町なれば、バターなどやったって膏薬をくれた、何のつもりじゃろうと小首を傾けるような人のみだから、棄てるわけにも行かぬから飯をやめてパンを食うつもりなり。ただし、このバターをくれたは、小生をバターにしたるにもあらず。札幌大学には宮部金吾博士など、小生一面識なきも有数の大学者あり。伊藤博士は小生文通の相識なり。その助手か何かに今井三子という人あり。小生年来集むるところの菌類標品のうちレオチヤ属の標品を求めらる。おのれを知られざるに屈しておのれを知らるるに伸びよと申せば、多忙多患のうちにもこれで国家への奉公、学問への尽忠と思い、動かぬ足をつっぱり、倉中に入り、数千万の標本中より標品のありたけ選出し、また彩色の図と記文を写し出て送り進ずるなり。そんなことをしたるゆえ、また足が悪くなりて動かず。その慰藉の心で(180)バターを贈られたるなり。
 とにかく人が多年調べたところへ、わり込み来たり、何の聞き合わせもせずに建築や築道を構え込み、多くの生物を調査も了らぬうちに全滅せしむるような不心得の輩のみより成る京大などに比しては、さすがに札幌大学の人々の所為は人間らしきところがあるといささか感心して、今日もこれよりこの状を出し、それより三時間ほど眠り、さて月末までに間に合うよう、件の標品を図記と共に調製してことごとく札幌大学へ寄贈するつもりであるなり。いわゆる学者の所為の人間らしきところありなどいうは奇妙と思われんが、かつて一文の寄付だにせぬ人が、町のものは一万坪、町になき金は多人の迷惑をも顧みず県または町より出さしめて、自分親族の一人の出身の地をなさんと図るような人のみ多きこの町には、人間というものはなきようにも思うなり。
 
 まだまだ言うべきこと多きも、そは大抵貴下も御存知のことなるべければ、これより粥をすするがために、この状をここで止め申し候。
  去年、御臨幸前に京大の人が新聞紙上へ四十日ばかり宣伝を書きつづりたるうちに、瀬戸の臨海実験所ほど大きな実験所はなし、と書きありLと覚え候。まことに左様なり。金力旺盛の米国にして、なおこんな大きな臨海実験所はなし。そは、こんな無用のものを立てるほどなら、その金をいかほども節倹して他の有益有力なことに使うなり。かの国より毎々送り来る写真などを見るに、テントと簡易に運び小さく畳み入れ得る顕微鏡や機械を備え置き、研究する人々の数に応じて貸し与え研究すべき物の生えおるところへ駆け行き、必要の日数だけテントを張り、必用なる道作り等の工事は研究者が協力してみずから働く。さて事終えたらはその地を引き上げ帰りて研究を続けるという仕組みなり。これがすなわち研究の合理化で、寸分のすきまなき研究方法に御座候。建物ばかり大きく地所いかに広くとも、そは娑婆《しやば》塞ぎと申すものにて何の誇るべきことかは。
(181)  宇井君は『紀州魚類編』を、聖上へ近ごろ献上せしと聞く。これを献上するほどなら、この類と唇歯輔車《しんしほしや》たる魚類標本もいっそ、直接に、陛下へ献納したら善かったことと存じ申し候。
 末筆ながら、珍聞を左に申し上げ候。動物慈愛の本家デンマーク国では牛乳配達車を犬に引かすこと常事となり、その写真が今度出版されたる『大英百科全書』第一四版(貴下前年買い入れたのは第九版)に出でおり候。犬を愛するゆえにこそ、犬の常職として車を引かすにて候。この犬は他に何の能もなき物ゆえ、車を引いて人に養われるにあらざれば全滅のはずに候。人の食を食うものは人のことに死すという理窟で、犬さえ働かぬものはただ遊ばしてはくれぬなり。これが常道に候。犬をあわれめばとて、車を引くためにこしらえ上げられたる犬に、車を挽かしめぬと同時に、一方、懸賞で納税をいそがしめんとするほど弱りおる町より一万坪という大きな土地を取り上げ、タニワタリ、クモラン、ニラバラン、キキョウラン、タマシタタキキビ、キシュウスゲ、クマノギクなどいう、何の功もなき亜熱帯植物の栽植(栽培せずとも到る所自生しあるなり)や、若返り法を必要とするほどの老朽木が一本もなき地で若返り法を研究するために、一万坪の地所になお一万円とかを添えて嫁入らせて貰わんとするなどは、緊縮が何のことやら合理化が何のことやらさっぱり分からず候。
 当地の県水産試験場などはずいぶん効果を著しく挙げおれり。県外のお客さんに寄付するほどの金があるならば、せめてはこの水産試験場やその他すでに県が立て置きたる所々の機関に寄付なり補助なりを奨励せられたきことなり。
 一昨年御大典記念として当地小学校構内へ町立図書館を立てたはよいが、書物をまるで豆腐の汁を絞るように積み重ね、その重さで書物のとじめは外れ、表紙は離れるばかりなり。さて新たに新書籍雑誌を買い入るることもなく、本箱一つ買うでなし。わずかに人の読みすての反古紙ごとき零冊断第を、稀《まれ》に寄付し来たるを待つのみなり。故に原秀氏より寄付の『大清一統志』その他は日に損じて失われ行く。建物のみは立てることを知って維持ということに念を留めざる、毎事比々としてこの類なり。浩嘆に堪えざる次第に候。
(182) 右は、いろいろと多事(雨のもりを防いだり、庭の落葉を拾うたり、風の防ぎをしたり、種々雑多の累い多し)中に、走り書きたるなり。はなはだ不完全なものなりといえども、止むに勝ると思うて差し上げ候なり。
 なお神島指定のことは村長より報告書を取り、追って申し上ぐべく候。
 昭和五年三月二十六日朝九時
                    南方熊楠
  毛利清雅棟
   (昭和五年四月十三日−十九日『紀伊毎日新聞』)
 
(183)     新庄村合併について
 
 昨年十一月一日、故斎藤内大臣が、明治九年阿田和付近で遭難の海軍軍人の六十年祭に来られた帰途、文里《もり》港へ立ち寄られた。その前に斎藤子がまだ内大臣にならぬうち和歌山へ来た時、往年英国で毎度富士艦将校連に招かれ、予が説教に往った時のことを話されたので、唐沢知事(後に警保局長)が当地へ来たり、大江刑事を介して面会を四度まで頼まれたが、一々予は裸で知事さんに逢うものかと言って断わったが、最後に断わった時は知事がはや玄関に坐り込んでおったから、然る上はと寝衣着て一時ばかり面会し、知事は上京したら予の現況を子爵に話そうと言って立ち去った。
 文里へ着いた夜は風波荒く、子爵夫人(故仁礼海相の娘)は暫時も子爵と離れぬ人だが、この大波ではとても上陸はできぬというので、子爵も上陸を見合わせ、名刺と贈品を、四十年前しばしば予の説教を聞いた海軍中将中島資朋氏に手渡し、当夜文里館に泊り、翌朝予を訪わしめられた。
 その朝は、三好学博士が神島の植物調査のために、予がぜひ渡行するを要するから、さっそく中将と同乗で、大風波のうちに往復中種々談話した。昔日予が毎度乗り込んで説教した富士艦も老朽して、いよいよ近日解体するから、最後の集会へぜひ熊楠も乗り込んで一場の引導を頼むとのこと。それから予がいろいろと中将に話したうちに、今度の選挙粛正はなかなかむつかしく、ある立候補者などは自分が当選したらこの辺の交通をもつとよくすると一言|演《の》べただけで起訴され、予なども推薦状の文句に付いて、至って通常の書状が犯則となると注意されて出さずに止めた。(184)こんなことははなはだ多い。
 しかるに、この春夏の際まで、この新庄村を田辺町へ合併すべし、と県庁よりの勧告一再ならず。ついには、村の有力者を一人一人県吏の宿泊所へ招請し何かを餐して、個別に合併を勧めおるところへ、予が往き会わした。村人は温順でただハイハイとばかりいうを、ハイハイといったから承諾したものと認めた様子だった。
 痩せても肥えても一村は一村なり。すでに自治の一群団をなす上は、むやみに他町村の威力を迎合屈服すべきにあらず。妄りに威嚇を加えらるれば、村社を奉じて一同討ち死にするのが自治の精神なり(このことは一昨日の『大毎』紙に蘇峰先生が旨く述べある)。町村おのおのその特性あり事歴あれば、他の都合よきままに勧められたからって、妄りに軽挙合同すべきにあらず。すでに選挙に付いては、一杯の水を与え、一足の履を貸しても検挙さるるに、県吏が個別に村民を招請して馳走して合併を勧めるなどは、けしからぬ辻褄の合わぬ話じゃないか。また今年四月ごろ、藤岡県知事みずから予の宅前まで通らぬような大きな自動車を町の角へ乗り捨て、学校生徒の往来を妨害してまで、馬場警察署長に大きな菓子折を持たせ、予の方へみずから賄賂を贈りに来た事実がある。向いの紀伊新報社より二、三人たしかに視ておった。
 
 前日広田首相の訓示に、地方町村をしておのおの自治確立するように尽力せしめよということがあって、その切抜きを取り蔵め置いたが、只今雑務繁多で即刻見出で難いから、今回は藤岡前知事について雅談を述べよう。
 藤岡氏は大正八年ごろ静岡県から本県へ転任し来たり学務課長となられた。その時、予、博文館から頼まれ、子歳に鼠、丑年に牛と、年々順番に十二支の話を『太陽』に出した。その趣向が面白く、種々の未聞を聞くということで、頼倫侯を始め、知る人知らぬ人より広く感謝された。藤岡氏またその愛読者で、田辺へ来るごとに予を訪われた。予は人に面会を暇潰しとて極めて嫌うものから、いつ来て呉れても玄関ぎりで、ただ奇特な若者と感心するのみ、別に(185)親交には及ばなんだ。
 しかるところ大正九年八月三日、その前夜研究事件に全く眠らず、夜があけ朝飯ののち午下りまで睡った。さて中食して書斎に坐し、研究を続けようと支度する最中、軍服をきた者二人、案内なしに走り込み来たった。それに続いて当時湊村村長だった佐山芳之介氏が入り来たった。子細を糺すと、海軍少将斎藤七五郎氏が同中佐白木直四郎氏と海兵の点呼検閲とかに来たついでに面会に来たとのことで、佐山氏が案内し来たと分かった。
 この斎藤氏は少にして父に死なれ、母の手一つで育ったが、母この子を負いて醤油屋へ備われ、豆と麦とで作った麹を塩水に混じ棒でかきまわして、辛い浮世と、その日を暮らし、わずかな賃銭を獲て子供を育てた。しかるに、蛇は寸にしてその気あり。七五郎氏、七つ八つの時より算術を習いたきも授業料なし。よって戸の口に立って師匠の口授を傾聴して一語も洩らさず。事|竟《おわ》りて韋駄天走りに宅へ帰って、尻拭紙に暗記のまま書き付け、さて夜更くるまで繰り返し繰り返し稽古をしたので、師匠もその熱心に感じ入り、月謝なしに入門を許した。万事こんなに勉強するをみて、醤油屋の主人も厚く同情し出し、出資して兵学校へ入れたところ、卒業のみぎり銀時計を賞賜された。予が英国で交わった時は少尉だったが、帰朝ののち中尉となって旅順閉塞に猛戦し、戦況上奏の使者に選ばれ東上し、明治天皇の御前でその?末を聖聴に達し奉ったは、氏が一生の光栄と一同に羨まれた。
 往年富士艦回航のためロンドンにあった連中が、よるとさわると熊楠のことを話す。その熊楠が熊野に沈淪しおると聞き、今度の検閲を幸い面会に来たとのことだった。二時間足らず話してのち、夜分に暇あらば五明楼の宿へ来たれ、と言って去った。その夜八時半五明楼へ行き、おびただしくビールを馳走され、越し方のことども話せども尽きず。十二時半過ぐるまで話して、自宅へ還れば一時だった。この長談中、ちょうど隣室に藤岡氏が泊りおり、大分有益なお話が多い様子、御差し支えなくば一座を許されたいとのことで、われらの談を聴きおられた。この日少将が当地へつくと同時に、少将が、これも予が知人宮川邦基少将の妹を娶って生んだ力氏が、本日高木中学に合格入学した(186)と電信あった祝いに、扇子へ何か一筆と望まれて辞退すれど聴かれぬから、当座の間に合わせに、「こととふも昔なじみの力かな」。その時座にあった一人が、この句には季節が見えませんな。
 熊楠ハッと思うたが、そこは玉山傾倒せんばかり飲んだビールがよく間に合うた、面の皮の千枚張り。いや季節はちゃんとは入っております。そもそも『伊勢物語』に、在五中将、三河の国八橋に着いた時、その沢にカキツバタいと面白く咲きたり、とある。この花は五月盛りに開くと『和漢三才図会』にみえる。それから駿河なる宇津の山辺の嶮岨を越えて、富士の山をみれば五月のつごもりに雪いと白うふれり、とあり。京都から下るに岡崎の手前に八橋あり。五月上旬に八橋、五月末日宇津の山を越えて鞠子辺で富士を眺めたという道程と日割で考えると、鞠子辺から隅田川まで行くにはちょうど二十日かかるだろう。さて隅田川で都鳥をみて、いざ事問わんと読まれたのだ。
 今日大正九年八月三日は旧暦の六月十九日だから、大抵勘定がよく合いおる。それによって、「こととふも昔なじみの力かな」。むかし英京で父君と交遊し、今田辺にあって合格入学の子息のために拙句を求めらる。昔日の因みあるによって今日拙宅をとわれ、その返しに今夜旅館をとう。ふたつながら旧く相識った力による。さて前に述べた勘定によると、業平が都鳥に事とわんとよんだは、ちょうど陰暦の六月二十日ごろに当たれば、ざっと今日の六月十九日になるに合う。これを何で季節なしというべきやと、記臆と弁舌とこじつけでさらりと埒を明けた手際に、無骨一篇の斎藤と白木は感歎止まず。俳句の宗匠たる藤岡も、なんと言わば言わるるものと、予の敏弁に驚き入った次第であった。
 その時の説明はなかなかこんなことでなく、隅田川から品川まで何里、品川より川崎へ何里と、隅田川から八橋までの里程をことごとく合算して、日数に割り付けたものだが、もはや七十歳となった今日、そんな芸当をすべき記臆力を持たぬ。そのころ当地在住増田有信氏は仙台生れで斎藤氏と知る人と聞くから、翌朝早く同伴して尋ねたが、それよりも早く、自動車を御坊町より呼び寄せ乗って出発した跡だった。これが予が帰朝以後かの人とただ一度の出合(187)いで、九年後に御召艦長門で進講ののち、加藤寛治大将より聞いたは、斎藤氏は中将まで進んだが胃癌で前年死去とのこと、予が祝いの句を書いた子息の力氏も二、三年前脚気で死んだと、昨年中島中将から聞いた。
 その夜、斎藤少将と予の談話半ばに、差し支えなくば席末に列し芳談を洩れ聞きたいと望まれた藤岡氏の作法に予も感心し、それより田辺へ来らるるごとに、和歌山へ上るごとに、訪い訪われて学問上の話をした。
 さて金盞花という物は、むかし足利氏の世に支那より入れ、立花道に欠くべからざる美花としたが、明治十七年ごろまでは本県にもあったが、近来絶滅してやや久しくなるらしい。予これを遺憾とし、友人小畔四郎氏より郵船会社のボンベイ支店長矢島氏に頼み貰い、インド・セーランプールより種子を得て、二年前より本邦諸方で咲き出した。一昨年、その種子を藤岡知事と毛利氏の和歌山宅へまかしめた。毛利氏のは去年も今年も咲く。藤岡氏のは何とも聞かぬ。
 
 去年春、文部省特に東京帝大名誉教授脇水鉄五郎博士を当県へ派遣し、東南諸郡の地質学上の天然記念物を視察調査せしめた。予は博士と一度の面識もなかったが、自分もむかし東大の予備門に学び、今も多くの教授博士連を知りおり、京大の連中に比して概して東大には正直な学者多きを知りおるから、書を和歌山なる毛利氏に飛ばして、脇水博士の熊野調査に先立ち、予の外に知った人なきことどもを挙げて、ちょっと注意申し上げたいと告げしめたところ、さっそく快諾あり。県吏が同行したのをまず新庄村役場に往かせ、自分は拙宅へ来られた。よって鮎川の亀甲石や中瀬三児氏が有田村辺で拾うた無双の品たる浮き貝の化石などのことを咄《はな》し、最後に調査の初めに、神島の香合石の図を引いて示し、必ずこれを検分さるるよう頼んだ。それまで予は知らなんだが、博士はその図を一見して直ちにこれは香合石と教えられたので、さすがは専門と予も感服した。
 役場へ着くと直ちに調査にかかり、翌朝第一番に香合石を検分して写真し、帰京後さっそく上申して天然記念物と(188)して発表された。それまでは良かったが、先月十九日、まだその辺の天然物について追申すべきことどもを再調査のため渡り行ったついでに、件《くだん》の香合石を見ると、無惨なるかな、主立った最美の香合石を数枚打ち砕いて海へなげ入れあり、ことのほか壮観を殺減しあった。
 よく聞き合わすと、鉛山《かなやま》村の人が、娯楽半分に食用するジイガセなどいう小貝を捕うるため、カナテコで香合石をこじ上げ離してしまうたとのこと、まことに無智ほど恐ろしい物はないと、呆れ蛙のつらに水で、この辺にはそんな者が多いとみえ、この島の草木を天然記念物に申請したのも、この島に何たる特異の珍草珍木あってのことにあらず。この田辺湾固有の植物は、今や白浜辺の急変で多く全滅し、または全滅に近づきおる。しかるに、この島には一通り田辺湾地方の植物を保存しあるから、後日までも保存し続けて、むかしこの辺固有の植物は大抵こんな物であったと知らせたいからのことである。
 皆が知る通り、支那は世界に一、二を争う大国だが、開墾と兵革打ち続いたため、十の七分通り、平原低地の森林は跡を絶ち、むかしあった生物は少しも残らず、科学調査に手のつけようもない現状で、非常に支那のために損を来たしおる。吾輩神島森林の保持を計ったは、支那のようなことのないようにとの篤志から出たことだ。
 しかるに、昭和四年に御行幸あった時、御上陸御野立ち遊ばされた地点へ、当時村へ下賜成った金円に、東大薬学教授朝比奈博士以下の寄贈金等を加え紀念碑を建つと間もなく、村出身で神戸とかにおる人が銀杏一本を無断で植えた。銀杏という木は支那の原産で、前述の濫状のため今は一本の天然生が残らず、人間で申さば原籍不明の物となりおり、かつ銀杏と淫行の字音が同じところからはなはだ不吉の樹と忌む所あり。日本でも実朝公が拝賀の日、鶴が岡に現存する銀杏樹の下で首を切られたところから、はなはだ不吉の物とする。こんな迷信は別として、予の宅にも一本あってよく知るが、この樹の葉が落ち積もるころ一種悪臭ある汁を落とし、それが紀念碑などにかかると黒茶色にしみこんて拭い去り得ず、全く汚してしまう。
(189) 御行幸の前数日、野手知事がこの島を視察して道路なきは不都合なりとて、急に道を拡げるため多少の樹木を除かせた。それを当日この島は原始林と奏上しあるに、木を切りあり、原始林でないではないかと勅問あって、御答えを申さんようもなかった。  すでに三好博士の『天然記念物概説』にも、文部省が特に天然記念物を指定するは、決して俗人の眼を悦ばし客を引くためにあらず、天然の状態をそのままに保存して、学術上の参考基礎とするためなれば、新たに外部より植物を移植する等は厳禁すべし、とある。それにまた、神島の廃祠前には牡丹桜を二本まで植えた者がある。これでは何のための天然記念物指定やら、警察署の長屋へ売淫婦を引き入れ住ませたような物で、全然その本意に反《そむ》きおる。
 
 八月三十日午前十一時、前田鉄相、椿へ往く途中、当町駅でひとまず下車、さてまた乗車して出発された。これは予、昨今軍国多事、皇国は四方八面から敵に重ね囲まれおり、この難境を脱するには、あれもしたし、これもしたし、奇謀妙策はいくらもあれど、先立つ物は金なり。されば一銭二銭もむだに使わず、無用のことに少しも手を出さず、さて貯え集めた金で、大田辺市等は百年後の建設として、さし当たり紀州田辺號とでも名づくる軍用飛行機の一つも調製寄付したいことだ。そもそも本邦古来戦争少なからなんだが、官民の有志が進んで軍隊に物件を寄贈したは、実に明治二十七年日清戦役に始まる。
 その年八月一日両国開戦を宣すると、三田の福沢先生が時事新報社で恤兵《じゆつぺい》事業を創めた。ちようどその時イタリアから帰朝した土宜法竜僧正からそのことを聞いた予は、同郷の人で横浜正金銀行ロンドン支店長たりし中井芳楠氏を訪うて勧むるところあり。中井氏、公使内田康哉氏(後に伯爵)等と謀って在英邦人へ廻文を配《くば》った。さて衆に率先して予は金一ポンド(十円ばかり)を寄付した。故に、その時の官報には、在英邦人和歌山県平民南方熊楠以下何十何人より寄付金を出願したから受け取ったとあって、予が一番、内田弁理公使が二番、大越総領事が三番に名を列ねある。(190)その後政府よりその褒美として銀盃とかを呉れる通知を受けた予は、予のごとき大飲家に盃を呉れる等ははなはだ宜しからずとて、寄付金の受領書を貰い、銀盃は受けなんだ。
 只今老衰してキンダマの外に金の字の付く物を持たぬが、国家いよいよ切迫の際は、そのキンダマを切って売ってなりとも、身分相応の献金をしょうと待ち構えある。まことに誰もかくこそあらまほしきことだ。しかるに、この皇国多難の間に、この紀州では、皇国多難等いうことを口にする者も耳にする者もなく、二、三年前山口県へ栄転せし高橋という教育課長などは、御時節柄に鑑みまではよいが、時態が時態だから、当町の高女内に女子の演舌場を建てにゃならぬなど言い出し、何の必要もなきに高女移転を言い始めた。
 そのことは別にいうとして、それよりもはなはだしきは今度の新庄村合併で、畢竟空想を地で行なう軽率な共産主義者等の唱うるところを実行せんとするもので、これをここに看過しては、一汎人気を損うことはなはだしく、ついにはまた収拾すべからざるに至るを怖るるところから、幸い現首相広田氏は、もと予と同校同級にあって、のち英京にあっても毎度往復した故山座円次郎氏の後進子弟のような人というから、近日上京して首相に面会し、近年本県官吏に不埒事連発する次第を告げ、その裁断を待たんと東京と和歌山の知友数輩に予告した。
 それを和歌山の友人等が聞き及んで、この残暑烈しきに両脚不自由の身で上京するは危殆なり、ちょうど前田鉄相が三十日に南下するから、田辺駅から熊楠も乗り込み、首相に話すべきことを鉄相に語り、鉄相帰京後、首相へ通達し貰うては如何《いかん》とのことで、まず鉄相に話せしにさっそく快諾され、さてこそ三十日の朝、鉄相一旦当町駅で下車して予の来会をしばらく俟たれたが、書信の延着で、当時予はそんな用意が鉄相にありしと少しも知らず。鉄相は来るか来ぬか不確かなる予を、いつまでも待つ訳に行かず、また乗って椿へ走られたと一日遅れて知るに及んだ。
 
 初回から四回までの本紙を東京の知人どもへ送ったところ、年はずっと若いながら、故頼倫侯と徳望伯仲すと世評(191)ある純真の貴公子よりさっそく来書があった。「『牟婁新聞』に御投稿遊ばされしごとき件は、定めて各地にも行なわれおるべく、後難を恐れて誰もこれを暴露する者なしと想像仕り候。官吏の素質も世間の悪化に伴い、ますます不良と相成る様子に付き、右様の非事を格別何とも感じおらぬかと存ぜられ申し候。軍人と官吏とには場合に依って切腹を命ずべしと申すような議論、先ごろ何かに見え申し候が、これも制裁の一法と存ぜられ申し候。只今の状態にては、世態に関せず、給料は定まって懐中に入り、将来は恩給に保証されおり、精神の弛むは必定と存じ候」とあった。
 さて八月二十九日の『熊野太陽』に、「安田前々地方課長時代より手を付けていた問題だけに、新庄村の反対によって水に流してしまうことも出来難い事情もあるので」、さらに九月七日田辺町役場で協議会を開くとのこと、この安田前々地方課長が合併を申し込み来たころ、予いろいろと用件あってしばしば町役場へ往ったが、この人は京都の製陶業の富家の子で、至って寛闊な若者だった。毛利助役に対して秘密室である件に付き話したいと言うと、官公吏が秘密に話すということがあるか、この役場に無用ゆえ秘密室は壊してしまうた、皆人の聞く処で遠慮なく話されたいと毛利助役の申し出に、一応メンを食うた様子、それから毛利が、しからば南方氏の家は閑静だからとて予の家へ伴って来た。
 しかし、何たる話もなく、ただ笑談を取り交したばかりで三時間も費やし、それから五明楼へ往ってパイ一となった様子。こんなことゆえ亭主だった予は大いに仕事の邪魔になったが、安田氏はまずは閑談漫語に来ただけで日当をせしめたようのこと、別に骨も何も折れておらぬ。さて、どうやらこうやら日方、黒江等を合併して海南市をでっち上げ、初代の市長で給料をせしめ、その功により広島とかへ栄転したときくが、困った物は海南市で、合併後黒江、日方の紛擾絶えず、市会議員にして入監せるもあり、二百五十円とかに定めた市長の月俸が、三年たたぬに四十五円に下ったとか。
 新出来の新宮市またそれと同様で、角源泉氏もこれでは堪らぬと市長職をにげ出し、むだ費えの多きに辟易して対(192)岸の三重県へ立ち退く人も多い様子。これでは合併を行なうて得色あるは、他府県から浮草根性で月給稼ぎにくる官吏だけで、合併町村民はそんな人々の栄達昇進の足踏み台に使わるる、いわば藤白峠の地蔵堂の額面にある、顔だけ人間で肢体は牛馬の怪畜生に異ならぬ。県庁の吏員で某大臣から承ったなどと称して鹿爪らしく予が方へ来た人は、覚え切れぬほどあるが、その内葉書の一つも寄せて旧誼を述べたは、御臨幸の際神島で一礼した別宮氏と、ただ一度深更まで予の談を聴かれた山内義文氏と二人しかない。
 されば官吏の十の八、九まで、田辺ごとき辺土へ来て去ってのち、三日もこの地を追懐する者はないようだ。そんな連中が今度こそ至誠もって合併を取り持つなど言ったって、何の一片の至誠もあるものか。すでに今度こそという一言で、従来のはみな誠意なかったと知れ、したがって今のいわゆる至誠もまことに怪しいインチキと知れる。新庄の水道は県庁よりも多少補助されたというが、さて水道成ってのち水質が悪いとて使用を許されぬ由。鮨を作ったのち、その魚が腐りおったと気付いたと同様で、鮨を作るほどの者が、第一に魚の質を検査せぬということがあるものか。言わば補助金を海に地げ込んだような不真面目な官吏たちだ。その金はみな人民へ掛かる物ゆえ、人民の丸損だ。そんな官吏が何を言ったって信ずるに足るものか。
 
 去年九月下旬、毛利氏の選挙事務長を頼まれ、しぶしぶ承諾をしたものの、両脚は不自由なり、何一つ奔走することも成らず。さりとて事務長たる者が、何もせずにおっては相済まずと、葉書を千十八枚認めて西郡の諸町村へ出した。一番豪かったのは十月一日の夜九時ごろから二日朝までに三百十二枚書いた。それを書くうち第三番めの脚がかゆくなってきた。それに構わず書き続くると、怪しむべし、かつて見知らぬ女の顔が現われた。不思議なことと筆を停めて、若い時から仕馴れた法身如来観を修めた。
 これはざっと申さば、自分の一身を宇宙と想定し、この一身の内に三界六道ことごとく包有して何一つ洩らすとこ(193)ろなしと観ずるので、猛獣も毒蛇も強賊も借金取りも火事も親爺も美女艶郎も身内の微分子に過ぎずとあきらめる。さればかゆきも痛きも苦しきも楽しきも、少しも意を動かすに足らず。ただそんなことと覚えるまでだ。かくのごとき観をなして葉書をかき出すと、また女の顔が現われる。筆を止めて観に入ると消え失せる。さて書き出すと、また現われる。そこで『呂氏春秋』に、これを制する能わずんばこれを恣《ほしいま》まにせよとあるを思い出し、遮二無二書き続けると、三本目の脚が耐えられぬまでかゆくなる。それにも構わず書き続けて三百十二枚ことごとく書き終わり、翌|旦《あさ》六時前筆を収めて、立ち上がらんとすると、二本の脚がひょろついて庭へ転び掛かった。
 かのケラという虫が両手で土を掘るように、両股を押し開く物があるので、よくみると、三本目の脚が勢いいと猛く脈を打たせてはね上がる。わが物ながらわが物と思われぬばかり太っているので、下女に曲尺を持ち来たらせ、測りみると驚くべし、直径一寸四分まであった。予十二歳の時、遠藤徳太郎先生に素読を習いに毎夜通うと、このほど大臣に成り損い、朝日新聞副社長をも棒に振った○○○君の亡父○○君が欠かさず酔ってきて唸った大津絵に、「景清は牢破り、宮本武蔵は風呂部屋破り、常盤御前はわが子のために操を破る、極道の女の世帯破り、権八は網乗り物を切り破る、六十に余った御方のむしろ被り、おかしな音だと障子を破って覗いてみて犢鼻褌《ふんどし》突き破る」とあったが、今六ヵ月で国に杖つく七十歳となる予の物が、こんなに精力が盛んとは大いに呆れたところへ、三、四の知人から松茸の初物を贈られた。
 むかし赤穂義士浅野稲荷へ参った時、小野寺重内、「千早振る神の恵みの雨露に、人の代かけて出づるくさびら」という歌を奉納し、それから東に下って本懐を遂げた。わが親譲りの松茸、一夜のうちにかく逞しくなったは、毛利当選の吉兆ならめと心窃かに悦ぶうち、当選の当日法官某氏また松茸五本を贈られたので、選挙騒ぎの最中に松茸を事務長に贈って差しつかえなしと判った。それよりいよいよ毛利が当選したのは十目の視るところで再説を要せず。今何故余の松茸がかく突然勃興したかと問わんに、ちょうど選挙が始まる二週間ほど前に、当代の清少納言と推さる(194)る長谷川時雨女史が、自著二部に書状を添えて贈り来たる。
 院本『積もる恋雪の関の戸』に、小町桜の精が女と化して、大友黒主に、「色になって下さんせ」と乞うところがある。これはそんな浮気なことでなく、足の生活を小説にしてみたいが、仏経に別らぬ点多し、師匠になって下さんせと懇請されたのだった。予は若い時、分からぬなりに多少の仏書をよみ、今も少しは覚えておるが、「何を言ふにも七十の秋」、なかなか尊女ごとき才媛の質問に応ずべき資格なしとて断わった。その後また『近代美人伝』の著あり。徳富蘇峰評に、著者自身まずこの伝中に入るべし、とあるを見て、一読を望んだ精神が通じたものか、近日それをも送り越された。
 
 小林一茶の句に、「白露に気のつく年となりにけり」。近来むしょうに年が寄ったように感じ、若い時の無鉄砲と反対に、草葉にすだく虫の音をきくに付けても、何か過ちをせなんだかと身をかえりみる。そこで気付いたは、前回の文中、故○○○○氏が毎度唄うた大津絵節を記すに誤脱が多かったから、ここに訂正して正本間違いなしという奴を載せるとする。いわく、景清は牢破り、宮本武蔵は風呂部屋破り、荒木の又右衝門は関所を破り、常盤御前はわが子のために操を被る、与三郎は大胆島被り、権八は網乗り物を切り破る、極道の女の世帯破り、六十に余った御方のむしろ被り、可笑《おかし》な音だと障子を破って覗いてみて犢鼻褌つき被る、テーンダ。
 大津絵なんぞは、今時あまり唄わぬ物ゆえ、知らぬが仏だ、間違ったまま押し通してよいようなものの、どんな名人が聞いて笑いおるかも知れずと、謹んで正誤しおく。さて七日の合併懇談会に、記者団に向かって官僚輩が傍聴遠慮とかを要求し、不慮の一波瀾を起こさせたとか。彼らややもすれば権威を振り廻し、むやみに面目を重んずるから、悪かつたと気が付いても、言い出したことは跡へ引かず、いらぬ所で人を怒らせキザがらせたは歎ずべし。その時『田新』の木下君が、合併問題について秘密すべき何物かがあるのかと問うて、課長とかを答えに窮せしめたは、臨(195)機の大出来だ。三十年前、予独身暮しで家におっても食事に差しつかえるところから、日夜木下君の叔母真安店に居続け呑み続けた。そのころ木下君はようやく三、四歳だったと覚える。
 君の叔母お栄というは、田辺などに比類なき東京風の粋な女で、いつも酒の相手をしてくれたが、一昨年皇儲御降誕祝いに、踊ってきたのを見ると、はや腰に梓の弓を張りて、シャリコツの化けたるごとく、それにつけても自分の老いたるを歎じた。真安へは酒ばかり呑みに往ったものの、先方が居酒屋でもないから必ずその都度検番へ口を懸けた。その仕払いが少なからぬものだった。前回述べた通り、毛利の推薦状を書くうち、直径一寸四分まで太り出した物は、今に余震治まらず、時々津浪のように脈を打たせて鎮めようもなく困りおるが、今となってみると、その時呼んだ誰彼を眺めたばかりで帰したのが一代の大不覚で、一々当座預けにして、利息は入らぬから望み次第にいつでも取れるようにして置けば良かったが、何を言っても若気の過ち、今となって歯抜け婆連が左褄で押し懸けてきても仕方がない。
 話を元へ返って、長谷川時雨女史へ返書を送って十余日、ちょうど毛利の立候補運動が盛んになったころ、拙宅の大掃除をやらかすと、大きな鼠が屋根裏に死んでおった。掃除人が何の気も付かず、それを二階の下へ投げ出した。それから三、四日経って下女が毎夜耐えられぬばかり身体が痒くなり、次に他の女どもも痒くなり、最後に予の寝室に毎夜至って小さい物が這い出した。そのうち女どもが至って微細な虫を捕えて、この虫が人を襲うてこんなに痒くすると言い罵る。顕微鏡で検すると、その形ダニのようだが、はるかに小さい。ところへ川島草堂が来て、これは前日白浜から当町そこここへ播《ひろ》がりおるイエダニという物で、これを退治るにはフマキラという薬あり、と教えられた。
 
 川島画伯の教えのままにフマキラという殺虫剤を求め、女ども総掛りで家内すっかり畳をまくり戸障子を外して、天井裏より床下まで、これを霧のごとく吹きまいたので、二、三日ののちまた家ダニを一疋も見ざるに至った。しか(196)るに、ここに不運なことには、ただ一、二疋の家ダニがどうしたものか、予の○道に入った。初めのうちは虫が動くごとに少しの痒さを感ずるばかりだったが、例の毛利の推薦葉書をうつぶいて書くに、手を動かすごとに腰がゆれる。したがって、○道が広く張り、家ダニ、これに自由を得て活動し出すにつれて、痒さが高まる。その上、俯して字を書く腰の備えが備えゆえ、痒さは痒し、脈はしきりに到る。
 いわゆる羅漢も情を思い王母も嫁を想うで、西鶴の『名残の友』の発端、伊賀の上野の正道という俳諧師が、七十余歳で、伊勢の光貞の妻が自筆の短冊に、「天の戸のすかし物かよ三日《みか》の月」とあるを、旦暮《あけくれ》身に添えて感吟すると、まのあたりかの女が現われたとあるごとく、数日前にその手書を見て讃嘆措かなんだ時雨女史の見たこともなき顔容が、家ダニを縁《たよ》りに何度も何度も現われたとみえる。これでは一夜に三百余枚の推薦状は書き果つべくも覚えずと、みずから○道を開き、下女をして必死になってその中へフマキラを吹き込ましめた。
 するとただ一、二疋の虫は薬液に浸されて死んだらしく、痒さは夜半までにやんだが、今度は一件えびをゆでたように赤くにえ、疳癪筋が坂泰宮林辺にすむ勘太郎ミミズのごとく太り脹れ、目も暈《めま》うばかりに発熱したが、前述のごとく遮二無二三百余枚を認め了り、さて喜多幅国手方へ五合入りの瓢箪ほどのやつをゆらかしながらたどり付き、実物を見せて治療を乞うたが、こんな病症はかつて心得ず、何様冷やすが第一との言に、またふりながら帰って盥に水を入れ、しばらく浸すと生ぬるくなる。入れ替え入れ替え冷やしつづけ、渋団扇で煽《あお》がせなどして、三日目からようやく平復した。
 大正六年ごろ、ある銭湯の浴室に多く用いた松材が朽ち、長さ七、八ミリでことのほか速く走る黒蟻を多く生じ、女客の秘部を喫むことしきりで、大騒ぎとなり、それに喫まれた婦人が病み付いたのもあった。別嬪に喫み付かれたほど有難くないは知れたことながら、物は試しと自分の一儀に種々と甘い物を塗り付け、毎夜長湯に出懸けたが、この蟻女のみを覘うらしく予の物をかつて咬まなんだ。さて半年ほどたたぬうち、インド洋のスマタラ島にやはり浴(197)室に蟻が生じ、妙に人を苦しめる、と科学週報『ネイチュール』に出てあったので、種々と質問を出したが、返事は来なんだ。それにも増して奇怪なは今度の家ダニで、選挙党当務の最中であり、病悩の場所が場所ゆえ非常に困った。
 さて、このことがたちまち東京へ知れたとみえ、十一月十八日に帝国水産会長野村益三子より、「令息の奇禍同情に堪えず、一日も早く御本復を祈る」と電信が着いた。その時予は仮寝か何かしており、家内がこれを読んで、先々月の水害に翠倅のおる洛北地は免れたが、さてはその時溜まった地下水が昨今溢れて山崩れを生じ、倅も今度は遁れなんだ様子を、万事抜け目のない子爵が逸疾《いちはや》く聞き知って、一番に知らせてくれたことと早合点して、愁傷限りなかったところへ、予がさてもきつい長寝じゃなと、阿漕の平次然と目をすりすり起き来たり、その電信をみて、いずれも令息に相違はないが、電文の令息は、むかし洛北におる令息を拵えた令息の、親のようでも兄のようでもある今一人の令息のことと説明して大笑いとなりぬ。
 何に致せ、かかる詰まらぬことを大層らしく電信で不意を討ち、人の家内を騒がす、怪しからぬ奴じゃと、怒っておると伝えくれたまえと、七月三十一日の朝お隣りの多屋家から竹垣一重で話しかけられた曽我子爵に、着物をきる間もあらばこそ、裸に令息そのままの出立《いでたち》で頼んで置いた。子爵夫人はかつて京都で参禅した嗜みあれば、垣を隔てて角を見てその令息たるを知ると吟じたであろう。
 
 元禄五年に桑門句空が出した『北の山』に、守水なる人の「死にたきといふ人食はぬふぐとかな」という句がある。それを見てたちまち一句が浮かんだ、「さしてくれと家ダニ拾ふ人もなし」。この家ダニにささるると、ちょうど婦人にささるるごとく狂興勃発して禁じ難い。多くの書籍の中にその記事がありそうなものと、種々と捜したが、一向見当たらない。ただ一つやや似寄った話が、清の王肱枕の『蚓庵瑣語』にある。いわく、新安の程孝廉という人、神仙呂祖を奉じてはなはだ謹む。たちまち男気ありて股引の中に入ると、婦女の陰を覚ゆるに似たり。一接して精大いに(198)泄《も》る。符薬を用ゆれども癒えず。一日、一道人に遇う。麝香を佩ぶれば癒ゆべし、と教ゆ。初め佩ぶること多からずして験あらず。のち両余を佩ぶるに、その祟りついに絶ゆ、とある。
 これナンザアあるいは家ダニ様の物に犯されたのを、大層にふれたのであろう。よほど高い物に付くが、なるほど麝香はきくだろう。それからわが輩の令息が直径一寸四分まで脹れたのは、家ダニの所為かフマキラ薬液の所為か分からなんだところ、ちょうどこのことを曽我子に話した前日か前々日(七月二十九日か三十日)の『大毎』紙に、家ダニ駆除薬の広告を載せ、婦人方の軟部を覘うエロ敵家ダニ云々とあったから、この虫が男子の令息のみならず、女人の令娘をも襲うて異様の感じを起こさしむるは、もはやあまねく知れ渡ったことと察する。
 それから過日、曽我子に語って大いに感心せしめた一大発見があるて。誰も知る通り新世界の発見は、一四九二年(わが後土御門天皇、明応元年)十月十二日、コロムブスが西インドのガナハニ島に着いたので、彼はこれをインドの一端と誤認し、インド地方と名付けた。明治二十四年、予その辺へ往つた時、天晴《あつぱれ》自分がこの地方へ先着第一の日本人と思うたが、実は自分より先に日本人が四人ほどおった。それはイタリア人でその五年ばかり前に東京へも来たカリニ(日本でチャリネ)氏の曲馬団の芸人で、そのうち作州津山の百済与一というは象を使いおり、ワタヤガクモノ(学問)はなし、何も国元へのみやげもないので、こんな物をきちょうめんに付けて、国へ帰ったらオッサンに読み聞かせて悦ばそうと丹誠しておますのや、とて一冊を示す。
 初めを見ると、元日、黒ん坊の○家を買って一ドルやる、毛が剛くてチチリン(松の実)のごとし、叶わん叶わん、とある。二日以下も外のことはなく、そんな物の品評と値段付のみで、笑うこともならず、怒る訳にはなお往かず、これはよい御思い付き、とほめて引き下がった。この人当時便毒を煩いおったから、遠の昔に十万億土へ都入りをしただろう。さて人間の功名は不定な物で、コロムブスが第一着に新世界を発見しながら、その名はわずかにその一部分たるコロムビア国に残れるに反し、コロムブスの発見より六年めに新世界に到り、帰国後その記事を出して大いに(199)吹聴したアメリゴ・ヴェスプッチの名が当時はるかにコロムブスを凌駕したので、その名に由って、新世界一面にアメリカと言われて今に及んだ。明治二十八年九月十九日、予その記行を大英博物館で一覧し、日本などでは見られぬ物と思い書き抜き置いたのが只今眼前にあって、その記事中に真に奇怪千万なことがある。
 
 予幼少の時、和歌山市で夕方に、子供が多く集まってレンコの戯れをした。鬮を引いて中《あた》った子が鬼となり、戸の内に隠れおる間に、外にある子供が横に列び、その一人が、レーンコレンコ、誰様隣りに誰がいる、と声高に問うと、鬼なる子が吉さん隣りに房公がいる、と答える。それが中っておったら、あてられた房公が、今まで戸内に立った子の代りに鬼になるので、中っておらなかったら、一同声を揃えて、言いそこないも聞き損い、熊ん(熊様)のチ○○はむけ損いなど言って踊り立てて、熊公は依然鬼の役を続けるのだった。
 民俗学の雑誌どもへ出して問い合わしたが、今は和歌山にもその他にもこのことは絶えたらしい。この言い損い聞き損いについて、珍聞が古来たくさんある。『韓非子』に、燕の相国に書を遺《おく》る者あり、それを夜分にかかすとて、暗くてよく書けぬから、燭を挙げよ、と言った。それを書状の本文と心得違うた書記が、状の中へ、燭を挙げよ、と書いた。さて燕の相国、その書を読んで、はて燭を挙げよとは、明りを高くせよとの教えと早合点の上、もっぱら賢明な人を挙げ用いたので、政治が大いに良くなった、聞き損いが大いに有効だった、とある。
 二百年ほど前盛名あった郡山の柳里恭は、和歌山の祇南海の画の弟子で、書画管絃その他に名を得た芸すべて十六あったという。当地の松山裁判所長も郡山生れで、その話に、里恭の後は只今大阪で鰹節の職工たる由。里恭が書いた『雲萍雑誌』に、信貴山で連歌の句合わせあった時、「五月雨に年中の雨ふり尽し」という句があった。某大納言、これは誰の句かと尋ねると、かの辺の村長の句と知れたので、京へ出ることあらは必ず来たれ、と書を賜うた。有難く思うてわざわざ京へ上り伺候すると、年中の雨という趣向が面白い、これは何の故事に拠って作ったか、と問われ(200)た。
 村長、別に故事とて知らず、五月雨毎日ふり続いて一年の雨をふり尽すように思わるるからよんだ、と申し上げて帰った。後で大納言仰せに、五月雨には四時のごとく、雨のさまいろいろふるゆえ、春雨の淋しきに比べ、夏の夕立にたぐえ、秋の雨の物凄きに歎《かこ》ち、冬の雨の寒きにもたとえたり、このこと古き物語にあれば、それを知りたる句にやと床しく尋ねたが、左はなくて雨が一度にふり尽すとばかり作ったでは詰まらない、と。深い考えもなく吐いた句を、意味深く受け取ったのだ。
 元禄四年出板『軽口露が咄《はなし》』一に、ある所に久七という下人よく働き、主人の気に入る、ある時主人他行の折ふし内義へ、近ごろ恥かしながら、私が心底を包まず咄《はな》し申したし、という。内義は面を赤めて、あら軽忽なる人や、何ということのあるべし、と申されける。久七、かように申し上げるに、御聞き入れなきにおいては覚悟致した、と言う。内義申すは、それほどに思わば重ねて折もあるべし、と言うた。幸いに今は人もなくよき首尾に候まま、ぜひ今申さんと、つかつかと耳の傍《はた》へ寄り、小声で、明日よりもつと飯の杓子を押し付けてたんと盛って下され、と言うた、と。
 『翁草』二八にいわく、天正六年六月播州上月城落ちた時、主将尼子勝久、大勢の士卒を殺すを惜しみ、山中幸盛これを率いて毛利氏に降り、時を待って尼子氏を再興せよ、と命じて自殺した。その遺命通り幸盛は毛利に降った。毛利家より勇名高き岡元良出でて幸盛に挨拶した。幸盛、元良の面醜き小男なるをみて、貴公は音に聞くと目に見たとは大いに違う、今対面して同氏とも思われぬ男振りだ、と言うと、岡いわく、まことに貴言のごとく、人は聞くと見ると違うもので、山中鹿之助は日本に隠れなき勇士と聞いたが、いくら敗軍したからとて、主を自殺せしめ身は敵へ降るとは案外だ、と言うを聞いて、山中、無言で落涙した。山中は岡の武勇をほめ揚げたつもりで、その名が聞こえ渡ったに比べて小男だ、と言いしを、岡は自分を嘲弄したと聞き違えしたのだ。
(201) それからまた聞き損いの奇抜な例を今一つ述べると、初期の衆議院でこの西牟婁郡を代表しおった故並木弘氏の死後、長男で跡を紹《つ》いだ松男氏が、父と同じ弘と改名し、和歌山の岡公園の近処で牛を飼ってその乳を売り、東牟婁郡古座町の支店を異母弟某に司らしめた。ところが、明治三十八年日露戦争|酣《たけなわ》なる時、その某が遊蕩を始め、その店にあった物をことごとく売って、酒と女に使うて了うた。誰彼これを聞き伝えて、当町の多屋秀太郎氏に、貴方と親緑ある並木氏の弟はとうとう討死したと告げた。
 すると秀太郎氏の母堂が、ちょうどその時予を訪問のため当町に来たりあった二代目の弘氏を訪ねて、威儀厳重に、弟君は国家のために討死遊ばされて遺憾なきも、御兄弟の間柄御淋しさ幾重にも御察し申し上げると、口上を述べたが、何のことか分からず、よい加減に答えおき、さて予の方へ走り来たり、只今古座町にある弟が討死したとて悔みにきた老女がある、かの者は数日前まで達者に遊び廻りおったが、とケゲンな顔付き。予いわく、言うもうし、言わぬもつらきとはこのことで、事実令弟は古座町の牛乳支店を見事に討死して了うたが、沙河や奉天の討死ほど名誉なことでない。まず討死の語意から説こう。
 先年予ロンドンにあった時、大井憲太郎氏が事業を起こすとて、シンガポールに渡ったが事成らず、随行の広島県人高橋謹一を置き去りにした。寄る辺渚の捨小舟、高橋は捨鉢になって日本領事藤田敏郎方へ据《すわ》りこみ、世話して呉れねば自殺するとわめくので、藤田氏止むを得ず自宅で使うたが、高橋、一向藤田氏に従順ならず。それを叱ると、われはこんな殖民地にいたくない、英本国へ往つたら天晴《あつぱれ》出世をして見しょう、と毎度いう。よって館員より醵金して甲板航客として渡英せしめた。その時、藤田氏が大倉組ロンドン出張所支配人大倉喜三郎氏に宛てた紹介状が振るった物で、いわく、この高橋謹一なる者、先途何たる見込み御座なく供えども、達《たつ》て貴地へ往きたしと申すゆえ、その意に任せ候間、然るべく御厄介願い上げ奉り候、とあった。改行
(202) 大倉氏もまことに困り切ったが、掃き出すこともならず、小使代りに使ううち、暇さえあれば台所に行き、賄い方の手伝をする振りしておびただしくビールを呑み、朝から眠りをし続くるから、大倉氏夫人が承知せず、夫に勧めて追放した。
 すると、少々の荷物をケットに包み、蝙蝠傘にかけて肩に担うただけでも英人は怪しむに、理髪店に入って頭を丸坊主に剃らせ、むかし豊年|糖《あめ》売りが佩びたような油紙製の大袋に火用心と漆書したのに煙草を入れ、それを煙管で吸いながら、大英博物館に予を訪れた。さすがは南方先生だ、支那から異様の仙人が来訪したと一同眼を張った。
 よく聞くと、大倉出張店に紀州田辺出で華族女学校教授たりし鳥山啓先生の息、嵯峨吉氏があった。この人から予が和歌山の財産家の子で博く人を愛すなどと法螺談を聞いて来たとのこと、鳥山もよい加減なことをいうと大いに困ったが、何と言っても去らぬから、差し当たり安宿を世話して泊らせ、そのころ仏経を詩で演じたサー・エドウィン・アーノルドが、知人加藤章造の世話で黒川玉とかいう軍人の後家を後妻にして日本からつれ来たりしを縁に、アーノルド男宅に学僕たらしめた。田辺町出崎にも黒川玉という素敵な美人の魚売り女があって、大正十年ごろ流感で死んだが、それとは別だ。しかるに、ここでも高橋は酒を飲み過ぎ、剃った頭に両手をのせ、猩々のような、しかも大ソッパの面に恥じず、「大阪を立ち退いても」などと大津絵を呻るから、下女ども主公がつれ来たった東京貴婦人の弟は気違いなどと言い散らす、外聞が悪いとて追い出された。ことのほか大胆で智恵に富んだ奴ゆえ、一、二ヵ月中に英語をどうやらこうやら話し、また書くようになると旨い物で、件《くだん》の加藤章造など日本骨董の店を駆け廻り、古道具売買の鞘取りをしてその日を送った。
 そのころ、予大喧嘩をして博物館を追い出され浪人となった。高橋入道来たって、報恩はこの時なり、和尚は物ごとに解説を面白く書くべし、入道はまるで痴漢を粧うて売り廻らば、精神一到何ごとか成らざらん、ということで、予はロッドン大学総長ジキンス男より五十ポンド借り入れ、前年本願寺の売立てを見に来朝したパリのビング氏から(203)千円近い日本の浮世絵を借り入れた。
 
 高橋入道の策略通り、予五百円の資本で千円ほどの浮世絵を借り入れ、面白くその筆者の略伝、逸事や、ことには数限りなき画題や故事の説明を書き並べ、講釈入りの目録を作り、安値に印刷させ、入道それを持って日々ロンドンの内外へ持ち廻り売り歩いた。予は大英博物館を出て間もなく、戯作の大家アーサー・モリソンの世話で、南ケンシントン国立美術館の技手となり浮世絵の調査を担当した。
 浮世絵というものは数限りもない物で、幕政時代いわゆる正則に学問をした人々と異なり、雅俗共に通じた奇才ある輩が、当時の大衆相手に微を穿ち神を凝らして煉出した物で、その説明を上手になさんには、一々の絵の画題や趣向を撰定した人々の精神分析からして掛からにゃならぬ。かの美術館では、明治十四、五年ごろ渡英留学した南条文雄師から、執行弘道、林忠正、高橋某(ただし入道と別人)、小脇源太郎、鴻池の総管で鉛山《かなやま》温泉の大華客たりし土居通夫氏の甥で、現に三井物産の重役。この人々に順次委托して調査させたが、そのころ浮世絵を俗極まる間違い切った物として、学者はてんで相手にせず、したがって関係の書籍文献が少しも発行されなんだ。故に、浮世絵の総目録はさすがの大美術館でも手のつけようもなかったところを、予が引き受け、事成って出版の節は管理者の序文に必ずこれは熊楠の力でし遂げたと書き入るる約束で着手した。このことあらゆる美術家間に知れ渡ったので、リヴァープールの日本名誉領事で、自力で日本美術館を建てたガウス氏なども、予を敬うこと一方ならず。
 かの館に、「頼政はいい見世物と射て落とし」という源三位と異なった人が、鵺《ぬえ》とは別な怪鳥を平らげる絵があって、誰も解き能わなんだのを、当時氏の宅に寄りおった松方伯の息、五郎氏に托して予に問わせた。予その様子をちょっと聞いて、それは隠岐広有が後醍醐帝の勅を奉じて火を吐く鳥を射落とした図だ。鳥の形がかようかよう、射手の粧いはこれこれだろうと書き立てて、『太平記』のその条を訳して送り、その本文を松方氏が絵と引き合わすと全く相違(204)なかったので、七十に余ったガウス氏、多年の暗霧、君によって今日解消した、と長文の感謝状を送り越した。
 その後また、炬火を執って神官が海中を歩くと、波が左右に開いて火を消さず、その後に竜神が行進する浮世絵を大英博物館で公衆に展覧したが、さしも上出来の絵が何ごとを示すものか分からぬは遺憾至極とあって、広く説明者を募った。その新聞を一覧して、予即座に答書を出した。
 これは豊前国企救郡隼部町の早鞘神社に和布刈《めかり》の神事とて、大晦日の夜半に、社人が宮前の底知れぬ石階を下り海中に入ると、潮が両方へ開く、その時社人海底の和布《わかめ》を一鎌刈って帰り、元旦に明神へ供える。二鎌刈ったら最後、波急に合って社人を溺死せしむ、と『和漢三才図会』や『諸国里人談』にみえる。この社は神武天皇の御祖父彦火火出見尊を祭る。この尊は海神の婿と申すから、絵師の機転で、除夜に竜王みずから和布刈をこの神に献上にきたように画いたのだ、と釈き了つたので、何と博識宏才な人もあったもの、と一同感に打たれ、和布は英国にないから、代りにビールを無量に供えくれた。
 
 横浜在に閑居して、悠々多般の科学を自修し、社会的人類学者としてほ欧州でも毎度論文を発表する一友より手紙が着いた。いわく、「『牟婁新聞』引き続き辱《かたじけな》く拝誦。貴町村合併懇談会の始末は実にはなはだしき醜態と存じ候も、役人どもは例により、さしたる恥辱とは存じおらぬに相違なく、それを感ずるくらいならば、合併問題は今少し手際よく処理さるるはずと思い候。彼らはよほど重大なる失策を致さぬ限り、免職にならず、まず大概は転任くらいで事すみ申すべく、その在職中何か中央官庁、つまり内務省辺で自分の功績を認め、行く行く栄達の端緒となるような、いわゆる派手なことにのみ目をつけ、万一失敗したとて、この県を去るだけのことくらいの考えでやり出すゆえ、真面目な地元の人民は実に迷惑無限にあるべく候。この神奈川県でも同様のことは珍しからず。大官の通行する通路を拡張し、実際必要なる方はまるで捨て置くとか、流行のオリムピック大会を口実に大埋立を計劃すとか、震災のため(205)県税の高きこと全国一、二と申すに、右様の不急の事業のみ計劃致し居り候。拝誦致し候御手植樹に関する儀もずいぶん不都合千万にて、かかる軽々しき回答を出した宮内省も宮内省に有之《これあり》。果たしてそのような回答を出したならば、例の宅野田夫氏あたりに突っ込まるるも無理ならず。どうして役人どもがかくまで理非を弁ぜざるか不思議極まる次第にて(以下四十七字略す)、今度御連載の玉稿を都会の諸紙に転載相成らば、到るところの心ある人々は大いに感謝仕るべしと存じ候」と。
 以下前回の続きを書く。予が面白く書き綴った浮世絵売品目録をロンドン内外へ配って追い追い顧客も来るうち、一日ウィムブルドンに城のような大厦を構え、そのころ美人の聞え高かった若手売り出しの画家ウルナー女史から、目録中奇抜極まる趣向の絵を選み出して持ち来たれと電信があったので、予はさすがの女史もこれはかつて見ずと驚くほどの物二十点ばかり調えて、解説を特に面白く書き添え、高橋をして持ち往かしめた。それが案の条、図に当たり、時の相場を忘れたが、何でも九百円ほどの即座払いをして呉れたはよいが、かつて見たこともない国立銀行の、今から思うと伝票のような物で、予も高橋入道も銀行へ預金したことがないから、受け取り得ない。
 そこで予、横浜正金支店に中村啓次郎氏の実兄巽孝之丞氏が副支配人格でおるを訪い、手続きを頼むと、林権助君(今は男爵)が、いつも南方は世間渡りだ、往くとして可ならざるはなしというが、金儲けの方もこんなに豪いとは気付かなんだ、まずは吉相吉相と祝うて、伝票を現金と引き換えるは只今できるが、これはちょっと大金だ、身に添えておる必要もなし、必要あるたびごとに引き出し得るよう当座預金として通い帳を渡そう、と言った。
 熊楠いわく、在米中ジョンスホプキンス大学を訪うたが、この大学を自力で立てたホプキンス氏は、一代で立身した偉人で、一生車に乗らなんだという。さて、その金言として、「今日できることを明日に延ばすな」という句を大学の応接室に掲げあって実に感服した。感服しながら実践せずにおられないから、その九百円をいよいよ手に握って明日と延ばさず、また一仕事に懸かるべし、通い帳では現金を握ったほど元気も力瘤も出ぬと言い張ったので、巽氏、(206)「これだけは明日と言わず、一年十年延ばすほど安全でないか」と諫め呉れたが、何様九百円の現金を高橋入道にみせて尻餅を搗かせやりたくてたまらず、とうとう現金を受け取って正金銀行支店から飛び出したるぞ、笑止なる。
 
 去年九月下旬、毛利の選挙運動の一周年がはや近付いてきたと同時に、そのころ家ダニに咬まれて令息がむしょうに立ち続け、ことのほか迷惑したその一周年ゆえか、二十三日に、あまり目が弱いから脂肪分不足の補いに鶏肉を多く食ったが、目に廻るべき脂肪が道筋を違えて下の方へ廻ったとみえ、ちょうどまた家ダニに咬まれたごとく立ち始めて止まず。終《つい》には、むかし和歌山辺でイナトビと称え、巧みに薄い石を池に抛ると、石がイナ魚が跳るように水面を五、六回もかすって飛ぶ、ちょうどそんなに令息が立つというよりは、はね踊るので、前回の投稿を休んだ。今二十六日もまだ静まらぬが、また休んでは一同の期待に背くから執筆とする。
 津田出氏全盛の時、近年明治大学長だった木下友三郎博士同伴、毎度出氏の二男安麿氏をその邸に訪うた。この人は弟の藤麿氏とは大違いで、遊んでばかりおり、種々の芸人と交わった。その内に英人が洋妾に産ませた石井ブラック、これは大酒好きで毎度大酒し、晩く築地の洋館へ帰ると嫌わるるとて途中で柿を多く食って吐き、酒の臭気を消すを例とした。落語家となって盛名を馳せたが、大正の中ごろもはや東京人に飽かれ、上方の田舎廻りをするうち宿料にも困り暴飲して頓死した。
 その男がしばしば安麿氏の室で、稽古半分小声で餅屋問答という噺をして旨いものだった。それから十四年外遊して帰ると、餅屋問答では通ぜず、コンニャク問答と称されおった。三遊亭円左の『新落語集』などに出たのは種々改良をへて長い物になりおる。
 しかし、この話はずっと昔からあったらしく、大正四年七月、上芳養村の小学校長硲良蔵氏が幼時父老から聞いたとて語られたのが、簡にして要を得ておる。禅宗の寺の住職が、今日本山から豪い学僧が問答にくる、それに負けた(207)ら傘一本持って立ち退かにゃならぬ、と心配するところへ、門前の餅屋が来て子細を聞き、ともかく私が住職に化けて臨機応変で済まそう、と言うので、住職幾分か安心し、自分の装束を餅屋に着せて待つと、定刻に及び学僧が来て問答となった。学僧まず両手で輪の形を作り示すと、餅屋は商売柄こんな大きな餅一つ何ほどと値段を聞かるると解し、十指を展開して十文と示した。次に学僧三指を示すと、三文にねぎると心得、片眼に指をあてベッコウをした。ここにおいて学僧驚嘆一方ならず、九拝して去り、人に向かって、ずいぶん世間も歩いたが当寺の住職ほどの碩学をかつて見ない、と称賛おかなんだ。
 全体どうした問答かと聞くと、学僧両手で日の形を作り、大日は如何《いかん》と問いしに、住職十方世界を遍照すと答え、弥陀三尊はいずこに在《おわ》すやと尋ねしに、言下に三尊は眼にありと答えた、その素早さ、われらの及ぶところでない、と言ったそうだ。
 守武『独吟千句』に、「わが身ながらも尊くぞある」、「目の仏かしらの神(髪)をいただきて」、貞徳『油粕』に、「今は二仏の中間ぞかし」、「鼻の上に黒まなこほどあざできて」、重頼『犬子集』に、「神と仏は少し隔たる」、「額より目は程近き物なれや」などあって、中古の邦俗、人の眼中に相手の人の顔が写るを遠く望んで眼中に仏ありと誤信したのだ。餅屋が問わるることごとに餅のことでザックバランに答えたるを、事むつかしく解釈して合点した学僧の了見違いは、前に述べた村長の、「さみだれに年中の雨ふり尽し」の句を、故事を調べて作ったと心得違うた公家衆に異ならず。さて道万里を隔つといえども人情は兄弟なりで、餅屋問答に似た話が西洋にもあって一段面白い。次回に述べよう。
 
 今回も令息の余震なお止まないが、次回にと約束した西洋の餅屋問答の類話を説こう。十六世紀の下半より十七世紀の初めごろの仏国文豪ベロアルド・ド・ヴェルヴィルが書いた『上達方』は、只今の名士が会合して自在に思い寄(208)ったことどもを語り合ううちに、奇想、頓才、博学縦横して、警句多く、読む者決して飽きず、英主の聞え高かったスウェーデン女皇クリスチナが毎度愛読したという。その第百章にいわく、そのころジュネーヴへ煩瑣神学の先生来たり、無言で手振りのみして問答しょうと望まれたが、その地にその道の達人なし。しかるに、ある大工某、かの先生をやりこめ呉れようというので、桟敷の上で問答をやらせた。
 先生、衣帽堂々と飭《かざ》って大工に向かい、臂を上げ手を突き出し拳を握り一指を示すと、大工即座に二指を示す。ここにおいて、先生さらに三指を出すと、大工握り拳を出す。次に先生芋一つを出すと、大工ポケットを探ってパンのかけ一片をさし出した。そこで先生感嘆限りなく、今日始めて世界一の碩学に逢い得たと悦んで退いた。それからジュネーヴの大学に無双の碩学あるとて名高くなった。ある人秘かにかの大工に向かい、一体あの問答はどんな意味だったのかと尋ねると、大工まず彼奴が僕の目を一つ打ち潰すとて拳と指一つ見せたから、こっちは目二つ打ち漬すぞと指二つ示した。すると目二つと鼻をもぎて取って遣ろうと三指を出したから、こっちもすかさず打ち殺して呉れんと拳を見せた。よほど怒ったと見えて怖れ出し、子供を宥めるように芋一つ呉れる様子だったから、芋なんか入らぬ、それよりも結構なパンを持ちおると見せて遣ったので、閉口して去った、と答えた。十六世紀には欧州にも禅学問答同様なことをする学者があったので、むかし南蛮やオランダ人よりこの話を伝え入れ、それを修正して餅屋問答となったのであろう。
 さてまた面白いのは、右の文の少し前に、夫婦おのおの人に対してその対偶者の器械について苦情を訴えた。一番に夫が片手の拇指と食指で環状を作り、これほどなら苦情なしといい、次に両手の栂指と栂指、食指と食指の端をひっ付け、これほどだっても辛抱ができるといい、さてところがこの大きさだとつぶやきつつ帽子の裏を示した。妻も負けてはおらず、その腱を?んでこれほどなら十分といい、次に臂を?んで、これほどでも構わぬといい、さてこれだからどうもと言って、小指を示した、とある。
(209) このほど死んだ岡崎邦輔氏は、予に長ずること十五歳、生家は長坂氏で血槍九郎とて槍が血に塗《まみ》れ通しだった勇士の胤だ。家康に頼まれて名古屋城を守った平岩主計頭親吉と、この長坂氏は、弓削宿禰より出た。例の道鏡が出た家だ。それゆえか陽相至れり尽せりで、いまだ二葉の若女から腰が二重に折れた皺くちゃ婆など、望んで慕わざるはなかった。静岡に福島勝太郎とて米国に留学中何とかいう十六、七の若い美娼を娶り米人を大騒ぎさせ、一日の間に到る処の新聞を賑わし、帰朝の後また、二、三万両で有名なる赤坂芸者を引かせ、貸金に付いて板垣伯を訴えたり、途轍もない放蕩家であった。何一つ芸はなかったが、陽相と陰相の鑑識無双と称せられた。
 この人秘かに予に語りしは、長坂はまことに取りどころとて一つもない男だが、彼のかの物ほど福徳円満なるをかつて見ず、詰まらぬ人物ながら、往く往く必ず大臣になる人だ、と。のち果たして然りだった。ハーバード大学生に相州の人小沢正弘とて、女に目のない男あった。ある日しきりに感心しておるから、予が問うと、貴公は毎々長坂をそしるが、年を取っただけあって、なかなか世間に明るい。貴公ごとく読書ばかりでは得られぬ金言を彼より授かって帰ったところだ、と言った。
 
 むかし伊藤、井上諸公に招かれてしばしば財政の枢機に参した人の令息で、地方に閑居静読しおる人から書状が着いた。いわく、「このたび増税案発表されたが、まことに不安のことで、第一拙生どもには現時わが邦が何の状態なるか、正しきことがさらに分からず。内閣が変わるごとに、重臣の内外要事に関する意見が変わり、中には当然変わるべき事項もあれど、終始一貫代々の内閣が同一方針で進むべきはずのことまでも変改せらる。その理由判然せず。これが理由かと想像することは、一切秘密で真相を知り得ず。新聞を便りに判断の外なきも、その新聞が少しも宛てにならず、ある事況が真実右に決定しおるに、あくまでも左として報導すること多く、はなはだ心細き次第なり。大綱だけでも宜しく、真の国情をぜひ知りたきものなり。増税に付いても、まずは財政大いに逼迫とだけはほぼ知れお(210)るものの、果たして○○や○○が言い立つほどか否かは疑わしく、果たして彼らが言い立つるように極めて重大の危機が迫りおるならば、彼らが率先して、第一に俸給はすべて半減、恩給の大部分は辞退し、かく真に危急の場合なりと範を示さば、世人が増税案を喜んで支持するは勿論、諸会社は利益を挙げて政府に捧げ、個人にして財産の大部分を献納する者、日清・日露事件の時同様続出し、電力国営問題などは立ちどころに解決せん。しかるに、噂だけとはいえ、官吏増俸案を持ち出し、官吏軍人の減俸を申し出る者一人もなきは、咄々怪事と言うべく、驚くべき利己主義のみの者が揃いおるか、あるいは実状を隠して世間を騙すか、いずれにしても国家の枢機を司る者がかかる心事にては邦家の前途まことに憂慮に堪えず。昨今も満州で戦死する軍人少なからず。まことに壮烈至極、遺族は実に気の毒なるにかかわらず、国民一汎近ごろ冷淡なりと陸軍省辺は大分憤慨の由なれど、果たして然らば大臣率先して陸軍省の役人は満州平定までは一切宴会並びに類似の席に出席せず、その費用の幾分を貯えて遺族救恤に支出するくらいの決心を示し戴きたきに、一向そんなことを聞かざるを不満とする者、拙生一人のみならずと確信す。他県は知らず本県ごとき、知事はもとより部長、課長級の者どもまで、官署の自動車で出勤退庁し、休日にはそれに乗って、ゴルフ競技に赴き、箱根辺まで遊山に遠乗りして人目を憚らず、しばしば問題を起こしながら一向止めず。かようの末事まで行き届くほどの真の吏道なり軍規なりの粛正が行なわれざる限り、人心ますます険悪となるは知れ切ったことと思わる」と。
 これをみると、いずこも同じ秋の夕暮れ、さきに述べた本県前知事が地処不案内の新米の警部に宮様を嚮導申し上げさせ、自分は官用の自動車で深山に祖先が立てた遍路道標を捜し遊んだなども、怪しむ者が野暮極まるほど、知事連には月並みのことと見える。されば、例の町村合併などもひまな官僚どもの月並み興行で、決して本県に限ったことでないらしいが、困ったものは、彼輩昇進の足踏みに使わるる人民と合併の跡始末で、論より証拠、前年、湊、西ノ谷二村を当町へ合併したが、当時合併賛成者が述べたほどの利益は何とて挙がりおらず、合併のために活計逼迫し(211)て遠地へ移住を余儀なくされ、合併主張者が今となって合併を憾むも少なからず。
 西牟婁郡湊村と書くよりも田辺町湊とかく方威勢よく、銀行へ往っても快く貸し呉れる、大阪へ往っても顔がきくなど言い誇った人々、今いずくにかある。九月九日の本紙に、当町と四村を合せば地面と戸数と人口が県下第二の大田辺市となるというたが、それでどうなるというのか。今日の東京はロンドンより百三十二万三千人、パリより二百八十二万九千人多いが、世界中誰一人東京をロンドン、パリより優等と言う者はない。市政の紛乱、風儀の壊敗などは第一であろう。和歌山出身で正金銀行を創めた小泉信吉氏(中村啓次郎氏外叔)の息が、近ごろ久し振りで帰市した時、誰かが何と町村合併で当市も立派になったろうと聞くと、何の答えもせず、ただただ街路と河渠の汚なさに驚いたとか。予、一昨年五年振りで同市へ往ったが、下手な棋客が碁子を置くごとく、そこここにむかしの横浜のチャブ屋群落のごとく、十戸十二軒ずつ固まりあり、素性の知れぬ男女が騒ぎおる。
 さて何とも知れぬ寂しい道を歩いて、またそんな小群落に逢う。夜は九時ごろだが、遊び場を冷やかしに行く不良と、近所の湯屋へ走る男の外は、死出の山路をたどるに同じ。これでは五十五万石の旧城下の面影は全滅、まるで卵塔場の延長ばかりと途方に暮れたところへ、知人の子が迎いにきたので息を吹き返した。翌朝街を通ると、むかしのごとく、誰一人自家の前に水をまくを見ず。土がことごとく枯れ果ており、以前は掃除を怠らなんだ河岸が、一面の塵捨場となり、犬のみか人の糞も累々たり。特に目立ったは、県庁前の掘割に水気乏しく泥濘たるに、去年来二度の暴風で砕けた瓦、すり鉢、天窓、天秤から、猫の餌を盛った欠け椀、底ぬけの螢籠、物としてあらざるなく、一切合切抛げ込んだまま一年三月打ちやりあった。
 県庁には六百余人も役人あるに、誰一人気付かぬとみえた。さて市内の滞納税が十六万円、あながち貧人に限らず、中流の家もこれを恥じぬが稀《まれ》ならずと聞いた。明治二年、英公使パークスの「遊和歌山記」に、市中静粛にして繁葉あたかも仙郷に入ったごとしとは予が三歳の時で、六十八の只今、この乱雑の光景に、命長ければ恥多し、と長嘆し(212)た。二十二歳で米国で社会学を修めた時、その原則を説いた教授が、動物の体格の最も進んだは鳥類で、鷲など羊や犬を?んで天を摩《ま》するばかり飛び上がるを、獅、虎も見て呆るるのみ。されば鯨や象ほどの鷲ができたら、何物もこれに勝てないはず。またアーチほど重量を多く負い得るものなし。
 しかるに、象ほどの鷲も、山の高さのアーチも世になきは、すべて物の大きさが二に二掛けて四と殖えると、これを支える力が二に二掛け、また二掛けた八と増す。大きさが平方で進むと、それを支えるに立方の力を要する、ままならぬ浮世だから、と言った。この道理は今も変わるまい。されば、何の実力もない町村が、地広く人多きを目的として合併したとて、カナクソと浮石を鼻糞で閉じた築山のような物ができ、不断砕けよう溶けようと待ち構えおる。何の大田辺市が確立しょうぞ。
 いわんや足の下に飲むに堪えたる水があるに、借金して鉄管を引いたり、虚誉空飾を先として、百年の負債を残す。さて、それを看板として近村を誘《いざな》い、立方の力の出所《でどころ》もなきに地面が平方で増大することをのみ心掛くるは、上に引いた書状に見るごとき世間大不安の中にあって、いささかの痛棒を感ぜざる古今に超絶せる閑人仙客とみえる。
 
 岡崎邦輔氏が死ぬ二、三年前、和歌浦合併に異存を唱えた時、鉄管引水を市の構成要件とすることを痛論したと聞く。汝に出ずる者は汝に返るで、鉄管師と狎れ合いの上この要件を政党どもが作って儲けたのが、岡崎自身和歌浦に住んだのちその弊によくよく懲りたのだ。それはしばらくおき、水を引かぬから田辺に悪疫が流行《はや》るとも人間が弱るとも聞かぬのみならず、この地に借金までして鉄管を引かねはならぬことを多年聞かなんだ。町内の医師も大体この見解だが、営業柄公言せぬようだ。
 さて会津川の水を鉄管で引くとならば、上の方から引くなら軽金属分が過多で、行く行く病気とか贅瘤とか、またある寄生虫から眼暗く痴呆するような人多くなるも知れず。下の方から引くなら、近年和歌浦東照宮前の池同棲アオ(213)サがおびただしく上り生えるから、有機分が増して水が不純、したがって永く飲み続くるに不当であろう。とにかく、水の性質を十二分に調べずに鉄管さえ引けば文化が進み、喝采を博すると思うと見当が差《ちが》う。
 去年五月十二日夜、安藤家の当主が突然この書斎を訪れ、何か一言の教えをと乞われた。二十余年前、当主の父君が貴族院の策士とか推称され意気揚々の最中、予一友をして言わしめしは、御家は自今わずか十万円ほどの身上ときく、それで四時東京に住んで自宅に備え付けの馬車で馳せ歩くようでは危うし、宜しく速やかに田辺に移り、子弟のために地方の富家と縁を結んで質素に暮らすべし、さもなき時は十年と待たず、災難は降って湧かん、と。
 その後上京の際、中松盛雄氏が来た時もこのことを話したが、憚って伝えなんだか、伝えても聞かなんだか、何の改革もせぬうち、急に屋敷は予の友人小畔四郎氏の物となり、男爵は田舎へ移り不意に死なれ了った。これ時勢の推移を察せなんだからだ。今は当時と変わり田辺に退いても守るべき家督を失い了った尊公が、家を再興すべき見込み絶無なれば、何とぞこんな辺土を念頭に置かず、永く都会に住んで鋭意勇進されたい、と言ったことである。
 安藤家の中興、直次は小さな庵寺の小僧より身を起こし、実際首相兼外相ともいうべき重職におった。当時の外交文書にこの人が署名した物を、大英博物館の特許で、頼倫侯、鎌田栄吉、浜口担、斎藤勇見彦氏一行に見せたことあり。斎藤氏一々控えおったから、侯の紀行に出でおると察する。さて家康公が老後に儲けた二子を分封するに及び、幼少の者ゆえ誰かしっかりした者を付けやりたいと、衆臣に語ったところ、いずれも陪臣に成り下がるを嫌い、返事なし。その時、成瀬正成、これは美男の大勇士で、秀吉が自分に仕えたら十万石遣ろうと言うを辞退し、徳川家におった。
 その成瀬が直次に向かい、老公が幼児を案じての御望みと知りながら誰一人進んで御受け申さぬに呆れた、この上はわれら二人ただ奉公忠義のために陪臣と成り下がろうでないかと言い、直次快諾して、われら二人が義直、頼宣二卿に付いて国へ下るから、十分御安心下されたいと申し、おのおの大名になるべき身を藩宰に落として老君を安心さ(214)せた。されば家康の内意で、幕府は始終成瀬、安藤二家を家老並みに扱わなんだ由、杉田玄白が筆しおる。
 さて家康薨じてのち、幕府より安藤に諸大名同様必ず幕府に反かぬべき誓書を徴された時、直次の子の返事に、成瀬、安藤二家は、神祖特別の恩命で二公子に付けられた者ゆえ、藩君が不軌を図らば諫争すべし、その上聴かれずば、臣道を守って藩君のために討死すべし、その他を知らず、と述べたので、幕府ももっともの次第と感じ入り、始終|件《くだん》の二家へは誓書を徴さなんだという。今日、白浜遊山、草堂寺の猿の画見物ついでに、町村合併など説き勧めにくる県吏の前に頭が上がらず、何ごとも承知しましたで通す町長など、これに対して恥じざらめや。
 と書いてるうちに、九月十九日の本紙二面に出た観雲楼主人の「アワテルに及ばず」の予想が当たり、税制改革がいよいよ発表成って、合併を勧むる口実は霧散ときた。また、三日の『大毎』に、山田主税局長いわく、「地方自治はその地方住民の負担のできる範囲で遣ってゆくべきで、地方住民を苦しめるような負担をむりに求めて立派な仕事をしても、それが果たして自治であるか否か疑問だと考える。(中略)全国を通じて戸数割滞納が五、六割にも及んでおるは、それを負担するだけの担税力がなくなっていることの証拠でないでしょうか。担税力のない者からむりに税を絞ってまで立派な仕事を遣って行こうとするのは考え直す必要があると思うのです」とは、まことに有難い。
 借財してまで百二十万円で伽藍堂的の県庁を新築して、千世万世もここは動かざれと思し召して、大正の摂政宮(今上天皇)が御手植えさせたまえる松樹を見捨てたり、もしくはむかし体刑を行なうた監獄跡へ移したり(凡人の手で移しては御手植えが名実とも消え失せる、高野山の御廟橋畔の碑石の紛失どころの失体でない)、何を目的と分からぬ築港、水質の分からぬ鉄管、それも有り余った金を散財でなく、子孫永々この恨み綿々として絶期なくなる重利の恐ろしい借財してまで、こんなことばかりして、高が今日はあちらの岸に咲く、浮草素性の地方常移の官僚に褒められたいとは情ない人もあったものだ。
 その官僚とても、根から岩永左衛門、鷺坂伴内様の者ばかりでなく、所詮上の口ひ上がらす、下の口が愉快で通し(215)たさからのことで、同情には十分値いするが、なるべく多くの人の今も未来も苦労のサッコラサノサ、種を蒔かぬ様こそ願わしけれ。ギリシアのジオゲネスが住んだ城下が敵に囲まれ、一同防禦のためとて、思い思いに奔走する。ジ一人それを眺め笑いおると、諸人大いに怒って、われらこんなに尽力するに遊んでおるは不埒だ、何なりともしっかり働けと言うと、ジ大力で屋根に届くほどの大樽を出し、宛てもなしに町内を転がし歩いた。
 みな呆れてこれは大変な行路妨害だと言うと、何なりともしっかり働けと言うたでないかとは、大事に臨んであてもなくさわぎ廻るの愚を諷した高名な噺だ。予の隣宅中山方に、今年の盆の朝から、仏の供え物、来客の接待膳、墓参の持ち物の調達に大騒ぎ最中、予が訪問すると、ようやく二歳の勇健なる女児が、仏前の蓮のツポミが鉄鎚のごとく曲がったのを執って振り上げ、不意に予の下げた頭をドヤした。
 衆と共に騒ぐが宜しと心得たのだ。地方官僚もこの通り、五・一五や二・二六事件などに睾丸を釣り上げ、軍国多事、時局切迫など聞いて大うろたえ、何が何だか分からず、時局に鑑み、学校に演舌場を建てにゃならぬとか、雨中に体操の堂も立てにゃならぬなど言い出し、血迷うた証拠には、今にも崩れるから移さにゃならぬよう言った当町高女が、三度の大風雨を経て三、四年も崩れぬじゃないか。されば、地方官僚の言うこと、病人のタワ言同然、『漢書』に見えた、県は州を欺き、州は朝を欺く今日、植えた樹も明日は成績最良と政府へ聞こえ、途中行悩みの工事も、万民安悦しおるよう新聞に吹聴さるとみえる。
 去年八月、有馬大将等白浜へ来たことあり。小山代議士の応援演説に来たよう咄《はな》す人あったが、不審に思うた。後に聞くに、それは全くの虚聞で、同じ旅宿に泊り合わせただけだった由。さて東上のみぎり一行に引き別れて、香坂昌康という名刺持った人が尋ねられた。一向知らぬ人、かつ丸裸で写生に余念ない最中で面会謝絶、その人大いに残念がって言ったと聞いて追わしめたが、自動車の行方不明で思い止まった。後に聞くと、この人は東北の生れで、その歳二月まで東京府知事なり、当時内相たりし後藤内相の参謀智嚢で、有力の政治家だった。
(216) 高橋是清、斎藤実子あたりから聞き及んで、何ごとか諮問に来られたことと祭するが、田舎におる悲しさ、会見に及ばなんだは遺憾千万で、その時会談したなら、地方官僚の暴状を十分後藤内相に通達し貰い得たはずだ。さて、こんな小むつかしいことを田辺の小新聞で繰り返しても効果はほとんど絶無だから、足元の明るいうちに本稿はこれで打ち切り、これから医師方へ立ち続けの令息の診断に往く。
 本稿は只今都会で再刊中ゆえ、入用の御方は御申し込み次第代価と引換えに送本さすべし。只今菌学の最好季節で昼夜多忙の真中で書いたものゆえ、跡の方付かぬ件々少なからず。それらは東京で本稿を改め出す節みな方を付ける。これほどの物すら少しく放漫に書けば、容易に方が付かぬ。合併や町債の方付けは千倍もむつかしきものと知るべし。   (昭和十一年八月二十三日−十月七日『牟婁新聞』)
 
(217)     オガタマの木について
 
 本月二十三日の本紙に、七川平井にオガタマの木あり、古え阿倍晴明この村に止まれる時、手植えの物ということ見えたり。このオガタマの木は、本邦南部諸国に産し、紀州には竜神辺に自生あり、と故伊藤圭介先生の説なり。予が知るところは、当郡瀬戸の藤九郎神社に一、二丈の大木数本あり、また二十五年前、日高郡和田浦の神社に一本あるを見たり。なお他にもあるべし。葉平滑、光沢あり、長楕円状、倒卵形、また倒披針形、長さ二寸乃至二寸、常緑で冬落葉せず。花三月より五月ごろ開き、白色にて帯紫、直径七、八分、花弁六、倒披針形、鈍頭、長さ五、六分、実叢長さ一、二寸、ちょっと見たところ松球《まつかさ》のごとく、赤き実多くその中より露出し、美なり。
 茅原定の『茅窓浸録』(文政十二年作)にいわく、「『古今集』物名に出でたるヲガ玉の木は、古今伝授にて往古より秘説とせり。伝授に御賀玉木《おがたまのき》と唱へ来たれり。それには訳のあることなり。ヲガタマの木は、榊なりといふより、御賀玉と書き伝へり。これは度会《わたらひ》社家の拠ろとする『神名帳秘書』に、興玉《おきたまの》社、宝殿なし、賢木《さかき》もて神殿とするなりといひ、対馬の藤斎延が説に、『諸神本懐』といふ書を引きて、八神殿は御体を安置せず、ただ賢木を用ふるなりといふにより、御賀玉《おがたま》、興玉《おきたま》と同じ仮名《かな》に用ひ来たれり。興玉社は、伊勢にて猿田彦大神を祭るといへど、社壇のみにて社なし。二見浦立石の辺に興玉石といふもあり。されども、ヲガタマ、オガタマの仮名相|違《たが》へり。御〔傍点〕は大・御など略して於〔傍点〕と書く時はオ〔傍点〕の仮名にて、ヲ〔傍点〕ガタマと書く時は御の仮名にあらず。故に御賀玉、興玉より牽強して榊なり、といふも妄説なり。一説に、ヲガタマは招魂《をきたま》の義にて、伊勢神宮の禰宜《ねぎ》の宝物をヲガマ(キタの反か)といふ。 (218)これらは似寄りたる説にて、招《をき》は『古事記』に遠岐《をき》、『日本紀』に招?《をき》と訓みて、ヲガミなり。よって考ふるに、ヲガタマの木は拝魂《をがたま》の木なり、神を祭る時、御魂《みたま》を拝む木なり。『日本紀』竟宴の歌に、『玉柏ヲガ玉の木の鏡葉に、神のひもろぎ供へつるかな』云々」と七六《しちむつ》かしく論じあり。
 いわゆる『古今集』物名の歌とは、勝臣の歌に、「翔りてもなにヲガタマノキても見ん、殻は炎となりにしものを」とあるがこれなり。茅原氏は、日向国|小戸《おど》の神窟《いわや》辺に、この木生えるを見し、と言えり。
 全体この木は、木蘭科のミケリヤ属の物で、外に褐黄花を聞くカラタネオガタマ、黄花あるキンコウボクの二種も、南アジアより本邦に移植せるが、紀州辺にはいまだ見えぬ。日本でオガタマの木を神木とするごとく、インドではキンコウポクを神木とし、その花香人を酔わし、婬慾を興奮さするゆえ、その花満開の節、男女その樹下に会し舞い踊り、ついに相撰んで匹配するなり。花香人を酔わし、樹形優美にして、花色金のごとしとて、インド詩にこれを称することおびただしく、はなはだしきはその香のために酔いて、最愛の情女を忘るることをさえ述べたり。学名はミケリヤ・チャムパカ、すなわち仏経にいわゆる瞻蔔迦華《チヤムパカ》これなり。
 『金燿童子経』に、むかし波羅奈《はらな》国の聞軍王《もんぐんおう》、猟を好み殺生はなはだし。太子これを嫌い、山に入って縁覚《えんがく》となる。縁覚とは、仏や菩薩に似たものだが、自分さえ善ければ善いと心得て、常に独居し、たまたま托鉢に出て物を貰うても、礼も言わねば説法もせず。ただただ空中に飛び上がり、いろいろの神変を現じ、施主これを見て祈願したことは、後世必ず叶うということだ。喩《たと》えに、菩薩は馬が人を騎《の》せて人もわれも川を渡すがごとく、また縁覚は、鹿が人に拘《かま》わず独り川を渡るごとし、とある。南方先生などは、神通自在だから、機嫌の悪い日は縁覚で、誰が何と言うて来ても取り合わず、いろいろの理窟ばかり考えて独り楽しむが、機嫌のよい日はたちまち菩薩で、一切子分を連れ出し、歌舞|華鬘《けまん》の天女を集め、酒を振れ舞うのだ。
 さて太子、山中で縁覚となり、なかなかえらくなったと聞き、父王大象に乗り、四兵に囲繞され、これを山中に見(219)舞わんと出で行く途上、一貧人これに遇い、われも王も同じ人だが、こんなに異《かわ》りのあるものかと嘆くところへ、鹿多く来たる。王は太子よりも鹿を殺す方が面白いから、たちまち太子のことを第二にして、鹿を逐いに行く。この間に、何とか縁覚に面謁せんと貧人山に入って見ると、無数の賢聖縁覚を繞《めぐ》り、曼陀羅華を振り撒き、縁覚の膝が埋もれるという大景気だ。貧人、われも何か供養したいと思い、近処より最上味の菴没羅《あんまら》果を持ち来たり、縁覚に奉る。汝は貧乏だが、よく気の付く奴だとて、その果を食い、空中に飛び上がり、神変を現わしたまう。貧人大いに悦び、明日もまた供養せんと誓い帰る。
 一方、聞軍王は鹿狩り最中、太子が緑覚となって、空中で芸当をやらかすを見、ハッと気が付き、鹿狩りを止めて来る途中、貧人に遇い、コラ貧乏人、と頭から呼び付ける。貧人、何と貧乏はせぬことじゃ、何の罪もなきに貧ゆえこんなに呼び捨てられると思うと、足が躓き、円き石を蹴り倒《かえ》す。その跡に一|鉄甕《てつのつぼ》あり、中に黄金満てりと来た。王は縁覚に面し、明日わが斎食《ごちそう》を受けたまえと言うに、明日は貧人の供養を請くる約があると言う。よって使いをやり、貧人に目を繰り延ばせと言うも承知せず。王みずから貧人を訪い、汝は雪隠へ行って尻拭く物もなき赤貧じゃ、朕は灌頂大王なり、何と小癪な、われと対抗して縁覚を馳走するような資本があるなら、切《せめ》て百両の金を出して見よ、お定《きま》りの金二両など酒落《しゃれ》て陰嚢などでは受け取らぬ、と意気巻くと、貧人まず徐《しず》かに御覧なさいと例の掘り出し物の鉄甕を見せ、傾けて振り出すと、出るは出るは〔六字傍点〕というと、また俗吏等は、何が出たんだ、猥褻罪の方じゃないか、いで罰金でもせびり取り高名せんと待ち構えるだろうが、南方縁覚先生、去年の「人魚の話」で大分懲りておる。調度《ちようど》一周忌に中《あた》っておる時節ゆえ、なかなか再び春画文句など『新報』へ書く気遣いはない。すなわち金がおびただしく、ドクドクニューニューニューウウウウウウウンというほど出たのだ。あまり出したから、がっかり疲れながら見ると、金が積もった一方から、他の一方に誰がおるか隔てて見えぬほど積もった。
 王、大いに胆を消し、降参して去る。翌日、件《くだん》の金でいろいろの馳走を拵え、縁覚を供養し、縁覚大悦びで空中に(220)飛び上がり、達磨大師座禅の形など種々の足芸を演じたまう。かの人これを見て発願し、われ願わくは、今わが散じ奉りし蓮花の代りに、世々瞻蔔迦華の天紫金がごとき色あるを得ん、またわが今供養し奉る瓦器の代りに、世々常に金盤に天食を満盛し、百千人食うも尽きざるを得ん、と請う。すなわちその通り、死後再び金耀童子と生まれ、身辺常に紫金色の瞻蔔迦華絶えず、また百千人に食わせても尽きぬ金盤を得て大富となった、とある。
 しかし、時節も変わって来たから、今時そんな花ができても、珍しがって来客ばかりで、見捨てにされたら茶を出すだけこっちの大損、また百千人食っても尽きぬ盤など手に入ったと聞いたら、米が高いから毎日田辺中から押し懸けて来る。ここは一つ考え物だ。三馬の『浮世風呂』に、富人が寄って妙な趣向を競う内に、一人は新しい灰吹の中へ牡蠣《かき》をトロロで雑《ま》ぜた奴を入れ、一人は新しい糞器《おかわ》へ卵黄と海胆《うに》を混じて入れ、酒の肴に持ち出したら、旨いと知りながら誰も箸も触れなんだ、とあり。米高で本当に飢えた者は、どんな外見の悪いものも穢なくさえなければ食うは知れたことなり。南方縁覚に何でもいいから、出してほしいほどの馳走に、酒を添えて振舞え。しかる時は、鱈腹やった上、後世では宛てにならぬから、未来と言わず現世で、目前、外見《みえ》が悪くても、実際は舌を鼓《う》たにゃならぬほど旨い御馳走を、酒の勢いで千万倍にして、嘔吐について貧人どもに食わせやるとは、弘誓《ぐぜい》のほど頼もしきかなじゃ。
 何に致せ、瞻蔔迦華は仏経でよほど褒めた物だが、日本でちょっと見られぬから、それと近縁の神木オガ玉の木は、大事に保存すべきことなり。七川の平井で、件のオガ玉の木を晴明が手栽えしたというも、例の似博士《にせはかせ》等、晴明が熊野へ来たとは歴史に見えぬ、嘘に相違ないなど言わんが、すべて種子のなき嘘はないもので、『古事談』巻六に、晴明は俗ながら那智千日の行人なり、毎日一時ずつ滝に打たれけり、前生も止《や》ん事《ごと》なき大峰行人なり、云々、とあり。この書は鎌倉将軍の初めごろに顕季卿が書いたもので、『大日本史』などにも多く引けり。また『元亨釈書』に、華山法皇、那智山にありし時、天狗多く祟りをなす、よって安倍晴明してこれを祭る、晴明、衆魔を呪し岩屋に狩り籠めて収む、那智の行者懈怠あらば天狗出でて害をなす、と。『紀伊続風土記』に、晴朋の社は那智神社の東三町ばか(221)りにあり、今|社《やしろ》なし、晴明橋という橋あり、とあるから、晴明も那智へ参ったことあるならん。たとい七川へ来ずとも、そのころ晴明の流を汲む修験師など平井へ来たり、かの木を手栽えせしなるべし。   (明治四十四年十一月三日『牟婁新報』)
【追加】
 支那北涼の世のころ翻訳せる『大方広十輪経』巻三に、世尊偈を説いていわく、「瞻蔔迦華《チヤムパカ》萎るといえども、もろもろの余花に勝れり。破戒の諸比丘がなお諸外道に勝れるがごとし」。これは腐っても鯛という譬えに同じ。また『一切如来秘密経』に、瞻蔔迦華《チヤムパカ》は吉祥なり、あまねく三族において供養すべし、とある。ちょうど日本で菊や梅を目出度い花とするようなことなり。   (明治四十四年十一月七日『牟婁新報』)
 
(222)     防火樹
 
 今年三月二十二日、貴社の本山先生、鉛山《かなやま》湯治のついでに駕を拙宅へ枉《ま》げられた時、予去年三十六年めで東京へ往った際の感想を述べて、人は東京が世界を驚かす大都会になったよう言うが、自分はそう思わず、三十年前ハヴァナを見た同然、むやみに家のみ高く立て、むかし深かった堀は浅く、池は埋められ、水《みず》の手《て》きわめて不十分になりおるから、大地震に続く大火の節は手を引いて見ておるの外なかろう、と申した。
 さて半年立たぬうちに、果たしてその通りの惨禍を見たので、何だか神が自分に憑《つ》いて託宣でもされたような気がする。このまま捨て置かれぬとあって、世界的の大債を募って、いよいよ世界的の大都に復興する一段となり、ずいぶん一夜漬けの妙案も輩出する。腐っても鯛、焼けても東京で、東京で見聞したといえば造作もなく諸府県で真《ま》に受けらるることの多い中に就いて、十月二十五日の『大阪毎日』を読むと、市理事者や市会議員、それから専門の技手までも、浅草観音堂が銀杏《いちよう》の樹で囲まれて火難を免れたから、大阪の公園にも道路にも必ずこの樹を植えねばならぬと主張し、技師は、京の本願寺の水吹き銀杏が火災を救うた昔話まで、間に合わせおる由。『五雑俎』巻の一六に、下役人が施政上の大名案を思い付いたとて、夜中に県令の門を敲《たた》いて止まず。是非なく通して訳を聞くと、全体百姓は春夏農事で忙しい、その上|蚕《かいこ》を飼わしむるは気の毒ゆえ、耕作の閑《ひま》な冬のうちに蚕を飼わせたら如何《いかん》、と言うた。県令、それは妙策だが、冬中どうして桑の葉が手に入ろうか、と問うとギックリ、夜も更《ふ》けたれば今夜は失礼すると言って逃げ去った、とある。銀杏を植えて火難を救うのも、この下役人の名案同然でないか。(223)というは、本願寺の水吹き銀杏の伝説はあてにならぬからしばらく措《お》いて、技師の言われた通りその葉が厚くて密生し、火に焼けないのは確かとするも、誰も知るごとく、この木は秋末葉が黄ばみ落ちて丸裸になり、次の春また芽を出す。さて地震や火事は冬間ない物に定《き》まってもおらぬから、葉のない銀杏が冬の火難に用立つまい。
 予幼時、和歌山に火事あって神社に及ぶと、その境内の大銀杏がちょうど黄落する最中で、吹き付ける風と防火の騒ぎでおびただしく飛び散り、空中に翔《かけ》り舞う葉に火が映じて火事が大層に見え、余計に人心を迷乱せしめたのを覚えおる。だから、防火のためにこの木を植えるというなら、再考を要すと惟う。前年スウィングル氏来訪された折、米国で道側に植えるため日本より銀杏を取り寄せる理由として聞いたは、この銀杏属の木は太古ずいぶん種類も多く、シベリアから欧州、それより縁州《グリーンランド》までも広がったが、ことごとく絶滅して化石に跡を留め、人間の保護を受けてわずかに日本と支那に一種を留めおるという、至極の珍物なる上、その樹蔭が役に立つから、もっぱら米人に賞観されるので、別に防火の功あるからと聞かなんだ。
 また技師の言として、貴紙に楠が防火の功あるから天王寺公園にも植え付けあると見え、それを感心して紀州田辺町の中学校とかにも近く防火用に楠を植え付けるはずと聞く。いずれ深く調べてのことだろうが、拙宅地にも大きな楠あって、風強いごとに枝葉が落ちるを、別段乾かさずに風呂場の焚付《たきつけ》に用いおるほど燃え易い。樟脳や樟脳油はこの木から採るので、火を出す手品に用いるは皆様御承知、当地の神社の火事は多く乞食の燃やした火が楠の木に移って生ずる。小野蘭山先生も、その老樹火を生じみずから焼く、『物理小識』に、老ゆればすなわち火を出だしみずから焚く、家宝に近づくべからず、と言えり、先年、城州八幡社外の老楠みずから焼けたり、これ樟脳あるゆえなり、と言いおり、拙宅の楠あまりに繁って大風のおり電線に触るることしきりなるより、漏電失火を惧れて、このほど人を雇い大いに枝を払わせた。それに樹蔭とか壮観とかのためなら知らず、防火用に楠を植えるとは重々不審の至りだ。
 楠より水を出すのは、埼玉県に高名のものあり、当地にも十年ほど前まであったが、楠ごとに水を出すではなく、(224)泉水湧き出ずる近くに生えた楠が、生長してその泉水を根本へ包み込んだので、火事に臨んで楠の木ごとに水を吐いてこれを消すなど誤り伝うるは、もっての外である。
 
 拙見の及ぶところ、防火に大功あるは高野槇《こうやまき》であろう。明治十三年ごろ、高野山の某院の住職、神奈川県から学問に上った少年僧の艶容に執着し、酒に酔わせて犯したのを憤り、放火して延焼数寺に及んだ。その時、高野槇で囲われた寺院はみな免れた。その後、予只今東大の農科大学長(?)たる川瀬善太郎博士と同行登山した時、老僧が焼跡を指さして現《まのあた》り高野槇の生垣の効を説きおった。檜皮葺《ひわだぶき》の建築で至って火の移り易いところで、檜皮葺に火が付いては白昼なかなか目に付くものでない。そんなところゆえ数百年の間いろいろ試して、高野槇で囲うが最も有効と知ったのだ、と教えて呉れた。しかるに、このごろ登って見ると、右の古伝も忘れられたらしく、以前に比してこの木ははなはだ少なくなった。
 今年六月の『太陽』に、予一生女犯せぬ素志だったところ、土宜《どぎ》法竜僧正の問条《といじよう》が気に入らず、廓然《かくぜん》大悟して妻を持つに及んだ始末を書いたのを、かの山の僧侶雀躍して『六大週報』へ転載し、南方菩薩にしてなおこの行いあり、われわれはぜひ『秘密相経』の本文に違わず、金剛杵《こんごうしよ》をもってかの清浄蓮華を打ち、二種の清浄乳相を成就して二大菩薩を生じ、諸仏最勝業を施作《せさ》せにゃならぬと、かの方へ奮進しおる由だが、高野槇の効用などは誰一人気付く者なきは残念である。
 三年前登山の節、菌類写生のため同伴した川島友吉氏、細心して金剛峰寺の高野槇の林下を隈なく授したが、菌類とては絶望的に少なく、わずかに痩せ細ったカンタレルス属のもの一種を見付けた。このことを宿院の住職に語ると、そのはずなり、以前この山はもっぱら菌類を食用したから、小僧が住み込むと必ず菌《きのこ》を集めに遣った。それが二、三度も続けて高野槇林へ出掛ける時は、その小僧は智恵の足らぬものと判じて、あまり学問を勧めず味噌摺り坊主に仕(225)上げたほど、全く高野槇林は菌を生ぜぬものと言い伝えた、と言われた。さて、その院の浴室は一向見馴れぬ木で張り詰めおるから尋ねると、みな高野槇の板で、何十年湯水に浸るも腐ることなき由。よって考うるに、高野槇には何か殺菌力の強い成分があるので、すでに火を防ぐの上に水に耐えて朽ちざるところから、研究したら後来きわめて用途の広い物でがなあろう。西洋でも、天主教のゼスイト僧など婦女や私財を遠ざくること、一に開祖の掟に違《たが》わず。全く当世に外れおるようだが、科学の精研に鋭意して種々の発見発明をなし、世間を鴻益すること今に絶えず。高野の僧たちも何とぞ女のことにばかり出精せず、高野槇の蕃殖利用くらいは研究されたいことである。
 都市の防火樹としては、モチノキの類に恰好のもの数種あり、生長も早く相好もよいようだが、話が長くなるから止めとして、高野槇のことを今少しく述べよう。この木は欧州で日本の特産と特書されいるが、日本では支那書に見えた金松がこの木だろうと言わる。しかるに、『大明一統志』などの金松の記載を見ると、その実の様子が高野槇の実に似ず、イヌマキの実に近い。だから、支那から弘法大師が高野槇を持って来たなどいうは疑わしい。
 わが邦本草学の中興祖師ともいうべき稲若水《とうじやくすい》先生も、この木の葉はイヌマキに似たれど実の形|松毬《まつかさ》のごとし、かつ葉の味も松葉に似て渋し、松の類にてイヌマキの類にはあらず、と言われた通り、松や杉と同じく松柏科に属し、カヤ、イヌマキ、イチイなどの属するイチイ科の物でない。只今普通にマキというはイヌマキで、自生も多く庭にも垣にも多く植えられる。支那と西洋で本物より大きいのを馬蓼《ばりよう》、馬蟻《ホールス・アント》と馬の字を付けるように、日本では本物に似て本物でないものを犬蓼《いぬたで》、『犬筑波《いぬつくば》集』と犬の字を冠らせる。今日マキと通称する木をもとイヌマキと呼んだは、マキなる本物に似て違うていたからで、その本物のマキはと問うと、貝原先生などは、日本の古書に艪フ字をマキと訓ました、字書には艨sすぎ》は杉なりとあるから、むかし日本で杉をマキと称えただろうと説いたが、杉とマキを古書に並び挙げた例多く、すでにもつて「神代巻」上に素盞嗚尊が鬚を散らせば杉となり尻の毛を散らせばマキとなるとあれば、杉とマキは上古より別物だ。貝原先生のころ、その生国筑前辺でマキという物聞こえなんだからのこじ付けと見える。
(226) 京阪にはマキという物知れおったと見えて、同時代に成った『和漢三才図会』には、立派にマキと犬マキを別条に述べてある。しかるに、そのマキの記述がすこぶる詳らかならず、木材と皮の記載ありて、よく水湿に耐える由を説いたばかりで、葉がヒノキに似て肥え厚く、実を結ばず、奥州や北海道から出る、と記せるを見ると、実物を見ずに聞いたままを書いたらしい。予、熊野の山中でイヌマキの外に、マキまたホンマキという物をしばしば見たが、いずれもことのほかの大木で下に雑木多く生い茂り、その葉や実を詳しく見る能わず。ただイヌマキの大木をかく唱えると思い気に留めなんだ。
 しかるに、拙妻の縁属で当地高女の教諭宇井縫蔵氏、博学の士で、『紀州魚類図説』を作るに、従前の書き集め物と異なり、校務の残暇をもって津々浦々を巡り、一々実物を集め洽《あま》ねく方言、俚譚を聞き、十余年を閲してようやく成り、日本当代のミケーナスたる徳川頼倫侯の助力で博文館で印刷中、工場が大震で潰れて原稿およそ五分の一の外全滅と来た。日本魚類学の元締《もとじめ》田中茂穂氏、親しく予に向かい、地方の魚学誌としてこの書は先蹤《せんしよう》なき傑作だと語られたほどの物をと、残念限りなく覚えて数日前尋ねると、多少手許に保存した麁稿に基づいて大略再書したが、学校の休暇に今数回旅行して不足を補い、来年中に完成して出版する、と話された。こんな博学の人ゆえ、従来高野槇が日本の特産ながらどの地に自生するか分からず、漠然本邦の暖地に生ずるなど書籍に見ゆるに満足せず、種々手を尽して探索の末、去年八月、ついに西牟婁郡|坂泰《さかたい》の国有林で確かにその自生林を発見した。この辺の諸村にはこの木の自生多かりしも、その水湿に耐えるをもって浴槽、釣瓶《つるべ》等の良材として切り尽され、只今ただこの国有林ばかりにその余命を保ちおるとのことだ。委細は本県史蹟名勝天然記念物調査会報告第二輯に出ている。
 宇井氏からこの話を聞いて、同じく拙妻の縁属で、東牟婁郡に生まれ今は当町で歯医院長たる須川寛得氏、この人はもと有名な豪族の出《で》で持ち山も多く、狩猟を好んで大塔《おおとう》の峰などを毎々《たびたび》歩いたから、林木のことに最も詳しい。そ(227)の須川氏に語、そんなことを今ごろ気が付いたか、俺の方では俗にいう高野槇をマキまたはホンマキと呼び、水に使う用材としてマキすなわち高野槇が最上、葉の形がややよく似て、用途も同じくホンマキに次ぐから、この辺で多く庭に植える、通称マキというのだ、と事もなげに言われた。その後東牟婁郡の木に詳しい人々に質《ただ》すと、みな同様の答えで、高野槙という名をしごくの俗称のように心得ていると見える。
 よって考えるに、神代にマキといったのは、杉でも、今通称するマキすなわちイヌマキでもなくて、高野槇たること必定だ。礼失してこれを野に求めるという通り、古伝の正しさは書籍や都会よりも田舎の山野に就いて掘り出すに限ると惟《おも》わる。今日も高野に詣ずる者、必ず高野槇の葉を購い帰って仏前に捧ぐるが、『和漢三才図会』の著者は、マキとイヌマキと別物たるに気付いて高野槇が真のマキたるを知らず、高野槇は紀州高野山より出ず、人その小枝葉を折って仏前に供う、故にいまだその大木を見ず、と記しおる。これは京阪の人が、つてを求めて高野山から取り寄せたであろう。『和漢三才』より三十七年前に出た『日次紀事』は京都の風俗記だが、七月九日、諸人六道に詣でて槇の枝を買い、家に帰り霊前に置く、俗に聖霊槇の葉に乗じて来ると伝う、とある。一向仏経に見えぬことだ。上古高野槇を死人の魂に関係ありとせること、欧州で古来|水松《いちい》を墓の木に植えたごとくだった遺風で、高野槇がもっぱらかの山に保存され、この木乏しいところではイヌマキを代用したのであろう。
 終りに一言するは、和歌山県の史蹟何とかという長たらしい名の報告に宇井氏が書いたごとく、高野槇の自生林ある坂泰国有林も近く伐り尽されるはずの由。これが伐り尽されたら、富田川とて再度洪水で名高い流れがますます氾濫すること眼前に見え透きおる。地方官などいう者は、飛ぶ鳥は跡を濁して構わぬという心持にや、やれ火事があったから植林せよ、それ大水の跡へ土堤《どて》を築けと、盗人出で去ってのち門戸を繕い、名聞をよくするのみ。大災まさに至らんとするに、その大災を予防する所以のものを斟酌なく破壊し売り飛ばして功利に誇る。これは官位昇進また収賄私利のためで、役人の常事としてほとんど看過すべきも、一方社会改造の人間平等のと諤議《がくぎ》する人々がこれらのこ(228)とに一言を吐かず、社会を改造すべき基礎も材料も全滅し、平等なるべき人間の多数が、少数人間の私慾のために家も命も流し失わるるを平気で一言もせぬは、畢竟その輩、何たる済世利他の志もなく、自分の外の物は一切破壊されたら結構という焼け糞根性の者ばかりで、予が在外中親灸した多くの憂世名士と月とスッポンの大違いである。   (大正十二年十一月十七日−二十日『大阪毎日新聞』)
 
(229)     花咲く庭木の話
 
       四月に花さく庭木
 
 四月に花咲く庭木は薔薇科に一番多い。その内に、杏は《あんず》もと北支那の産で、古く仙人の食物とす。それより東西に拡がり、日本では初め唐桃《からもも》、後に杏子の宋音でアンズと称え、古ローマ人はこれを早く実《みの》る桃と見てプレコキウム(早《はや》なり)と名づけ、順次、アラブ語アル・ブルクック、西《スペイン》語アルバリコケ、英語アプリコツとなった。日本で早桃《さもも》というは、旧三月花さき、四、五月熟するのだ。「乗り掛けの嫁も霞むや桃の花」とは、家光公が田舎女の馬に乗って嫁入るを遠見した句で、夜目遠目に嫁両脚を伸ばして幽《かす》かに腿を露わした体を桃に寄せた由。貝原先生は上野、下野に桃と李《すもも》多く花はなはだ美《うるわ》し、唐詩に桃李の花を賞せるを西国の桃李の色良からぬをのみ見て訝ったが、この辺の美花を見て疑いを解いた、と言った。今もそうだろうか。
 桃李また支那の原産で、古く老子は李の樹下に生まれたなどいう。この類に庭梅あり、千葉《せんよう》のものを庭桜といい、庭柳と共に、足利時代に始めて著われ、学名を日本梅というが、これまた支那の原産で、『詩経』に棠棣《とうてい》、『本草経』に郁李《いくり》とある物だ。支那で山吹を棣棠というが、混じ易い。庭梅の実を塩漬にすると咳によくきくと聞いた。『尺素往来』に、春花は庭梅、庭柳、とある。庭柳は四月咲く雪柳、一名|小米花《こごめばな》を指すか。
(230) 日本の土を踏まぬ洋人に桜の美を了《さと》らしむるは不可能だが、強いてもっとも似た景観を問われたらホーソーン(西洋|山査子《さんざし》)をもって答うべし。往年、徳川頼倫侯、鎌田栄吉君と、当時英国で支那学の親玉ダグラス男をダルウィッチの邸に訪うた時、その直ぐ向いにチャーレス・ジッケンスの旧廬が、その遺愛のホーソーン林中に保存されおり、うららかな五月の天気に徐《しず》かに花の散り積む状、そぞろに故郷の桜を想い出さしめた。この木今は渡りおるが、邦人さらに気に留めぬ様子、それと等しく何の縁起も知らぬ洋人が桜を見ても心底から感ずまい。ホーソーンは古ギリシア・ローマで目出たい木、また夫婦和楽の象徴として婚儀に使われ、古ドイツ人はこの木で屍体を焼けば、その煙が魂を天へ送り上げるとし、仏人はキリスト最期にこの木の刺《はり》で作った冠を着けたとて貴い刑《いばら》と名づく。以前メイデイにロンドン町家は戸ごとこの花の枝を掛けた。
 チェリー(ミザクラ)またこの月咲き始む。キリストの母孕んでミザクラを採り食いたきも手が届かず、その夫ヨセフに頼むと、かねてその姦通を疑いおったから、「それは腹なる子の父が採って呉れよう」と言った。その時、その木たちまち枝を屈めて実を聖母の手に採らせた。爾来この果物を聖母に献ずる。ドイツやデンマークでは、この木にしばしば悪鬼住んで近づく人を害すという。日本にも『今物語』に、桜の精が教通《のりみち》公に化して小式部の内侍を犯した話を載す。支那の桜桃は山ザクラ、山桜桃はユスラ、これらが『礼記』にいわゆる含桃だ。
 工藤、織田諸氏の紋の名モッコウは木瓜《もつか》で、もとボケの花を摸《うつ》す。ボケの名も木瓜の訛りだ。信長、祇園の社を再興して、モッコウの紋を付けた。木瓜をキウリと訓読し、誤ってこの社の境内氏子ども胡瓜を忌むなどいうが、其の木瓜はボケにあらず、カリンだ。赤い花が目に立つゆえ花梨《かり》、その梨をリンと跳ねたので、柳里恭が「大根と跳《は》ねつるもじは跳ねやらで、跳ねずともよき牛房《ごぼう》ごんぼう」と詠んだ通り。さてボケは刺多いから、「器量よけれどわしゃボケの花、神や仏に嫌はるる」と唄わる。しかし、かつて故前田正名氏とキュー植物園長シスルトン・ダヤー男を訪うた時、官舎の壁にこれを蔦のごとく這わせ、すこぶる美観だった。日本より園芸用としてこの木をおびただしく輪(231)出すと聞いたに反し、ここもとであまり見向きもされぬは、予言者は郷国に憚るの類か。
 これと同属のマルメロは、もと西亜から南欧へ拡がったもので、諸君が口に頌を絶たざる情事《いろごと》の女神ヴェヌスの好物、したがってギリシア情男女の印《しるし》とされた。ソロンの制に、花嫁床入り前に必ずこの果物を食え、とあり。その花、カリンと共に四月開く。増田有信氏|話《はなし》に、この物仙台に多く、渤海より来たとて渤海梨と呼ぶ、と。その実カリンの楕円なに異《かわ》り、円くて乱打された頭同様デクボクあり。ギリシアの古伝に、男どもアタランテ女を恋うれど聴かず、競走してわれに勝った人に添わん、と言うた。メラニオン、幸いヴェヌスに貰うた金色のマルメロ三つを落としながら走ると、女が足を駐めて一々拾う間に負けとなり、すなわちメに嫁した。また美女子クジッペ、女神ジアナの社に祈るを、青年アコンチオスが見初めてみても霞に千鳥、よってマルメロに、「妾《わたし》はアコンチオスに嫁すと誓う」と書き付けて投げ込むを乳母拾うて見せ、クジッペ高らかに読んでオー否《いや》いのと言って棄てた。のち、この娘を父が他に嫁せしむると、婚式前に病み出すこと三度、全く神前で朗読した誓言を破った罰と判って、素性劣ったアにクを遣った、と。
 海棠の花は香《におい》なし、蜀の嘉定州の産のみ香《にお》う由。花中の神仙と呼ばれ、陳思の『海棠譜』に多くその品を列ねた。徳川吉宗公、飛鳥山と隅田川に桜、芝の新堀岸にハゼ、本所羅漢寺に海棠を多く栽えさせた。海棠は湿地に合うゆえだ。海棠一色の景はこれが始めだが、程なく枯れたらしい。
 ヒラギナンテンは加賀山中から出たというが、実は支那産だ。下加茂の社地に南天を植えると葉がヒイラギになる、といった。白井博士往つてみると、ヒラギナンテンを植えあったという。
 プラタヌスは古ギリシアでヘレナの神木とされた。パリスに拐帯されてトロヤの大戦を生じた有名の美女だ。プラトン派の哲学者、みなこの木の蔭で玄談した。ペルシア王ゼルキゼスはプラタヌスの大木に惚れ込み、行軍中の百七十万の兵衆を駐め、君臣妃妾ことごとく玉飾りを解いてその木に結い付けた。ギリシアで男女別るる時、この木の葉(232)を切って半分ずつ持ち、再会の節これを合わした。   (大正十四年四月十五日『大阪毎日新聞』)
 
       五月に花さく庭木
 
 久しい以前から友達と銘々の住地の花暦を記して比べおるが、今年は一ぱんに冷たいゆえか閏年ゆえか、多くの花が例年より後れ咲く。自宅の草の王という花は、これまで必ず三月二十一日に咲いたに、今年に限り四月九日に綻び初めた。
 夏ミカンはいつも四月末に満開のところ、今年のみ五月二十日ごろまで延引した。しかるに、平沼大三郎君の東京邸の牡丹、芍薬などは、平年より十日ほど後れて咲き、九輪草は五月五日までに花茎一尺ばかり長じて咲くに、本年は一寸くらいの茎に開いた由。冷やかな年は暖地ほど咲き後れの日数が多く、またある花は季節に後れぬよう、葉や茎を節約してもっぱら力を花に尽すらしい。この五月にさく定例の花が、今年は六月に持ち越す地方も多かろうから、注意して右様のことを観察されたら、大きに学問を益するだろう。
 『大英百科全書』に、季春の日本の花どもは西洋のよりも豊富ならぬが、日本人を感ぜしむること比類なし、とある。そんなに感じようが別な欧米人は、桜以上に日本のツツジを賞する。これと等しく、「岩つつじ折りもてぞみるせこがきし紅染《くれなゐぞめ》の絹ににたれば」と和泉式部が読んだころは、本邦の男までも赤いベベをきて悦んだと見える。鎮守府将軍源の満仲八代の孫山田次郎重忠は、なさけ深い勇士で、承久の乱に官軍を率いて敗死した。その領地の山寺の僧が、そのころの珍花八重ツツジを持ったのを欲しかったが、遠慮し過ごすうち、その僧大罪あり、重忠、検断職藤兵衛尉をしてこの科料に八重ツツジか絹七疋四丈を出せと言わしめると、ツツジは惜しい、絹を出そう、と答えた。何分ツツジを出せと言ったのて、止むを得ず出した。藤兵衛尉、科料の半分を検断職にくれるが常法ゆえ、そのツツジ(233)の枝一つ取ろうといい、重忠は代りに絹をといいても聞かず枝を取った。共に優しい心掛け、と『沙石集』に記す。
 かく賞翫したから追い追い珍花も増し、三好博士説に今日園芸上の変種六、七十もあるという。ツツジの漢名羊躑躅、羊が足で地を打つちう意味だ。足利時代の俗説に、ツツジのつぼみを子羊が母の乳と思い飲もうと狂うからこの名ありといったは、羊この花を食えば躑躅《てきちよく》して死すとある『本草』説の誤伝だ。これは和漢共に産するキツツジで、その黄花に大毒ありと日本でもいう。東チベットやアフガニスタンにも、羊に毒なツツジあり。カウカサス産のアザレア・ボンチカというツツジは、花をかいでも害あり、ゼノフォンの軍隊がこの花の蜜を食って倒れたので名高い。シベリアでは、ツツジの一種の葉を煎じ、強い麻酔剤とする。ツツジと同科のアセボも毒物で、葉を煎じて畠の虫を殺す。馬が食えば酔うて死ぬとて馬酔木とかく。その用心に、「取りつなげ玉田|横野《よこの》の放れ駒、つつじの下にあせみ花さく」と俊頬は読んだ。ヒマラヤのアセボ、学名アンドロメダ・オブァリフォリアも、芽と種が牛羊を害し、花より取った蜂蜜も毒だそうな。すべて石南科には羊を殺す物少からねば、経験薄い本邦牧羊家の注意を要する。
 日本で花といえば桜、支那で花といえば牡丹、また花王ともいう。謝在杭これを難じて、牡丹は豊艶余って風韻乏し、幽は蘭に及ばず、骨は梅に及ばず、清は海棠に、媚は荼※[草がんむり/縻]《とび》に及ばず。しかして、世もって花王とするは富貴の気色人を動かし易きゆえなり。芍薬は草本といえども一種の妖媚?神《ふうしん》、ことに牡丹の右に出ず。これを名姫嬌婢、君夫人のそばに侍るに譬う。おそらくは識者ありて魂を消すこと、かれにあらずしてこれにあらん、というたは面白い。支那固有の物だが、六朝から少々持囃《もてはや》され、隋代に異品も出で、唐に至ってさかんに名花が出た。宋の銭思公は姚黄という黄花の牡丹を花王というた。黄花の牡丹、学名ペオニア・ルテア、尋常の牡丹ペオニア・ムータンと別種で希品だ。また墨色の物あり、実は藍色の濃いのだ。一茶句集に、魚淵が園に黒と黄との紙の牡丹を作りて人々を欺く、「紙屑も牡丹顔ぞや葉隠れに」とある。
 それから『続奇人談』に肖相が、「春咲かぬ花の心や深見草」と吟じてより、連俳家みな牡丹を首夏に付くるといい、(234)馬琴も初夏に花少なきゆえ牡丹と杜若《かきつばた》を夏に用うることになったというたが、頼朝同時の慈鎮和尚が、夏の牡丹をよみ、『夫木抄』、『蔵玉集』、『連歌新式』等、みな牡丹を夏部に入れおり、『尺素往来』と『西鶴冥途物語』くらいにのみ、春の花としある。この物語に牡丹の名目を多く載せおる。
 西洋で花中の女王というは薔薇だが、妙なことには、その旧伝よりも後世の作り話が多い。例せば、十七世紀のラパン法師の詩に、ギリシアの賢女ロダンテがコリント人のために法律を作り、ブリアス、オルカス、ハレススの三士に姫を望まれしを嫌い、その民を率い女神ジアナの社にこもり、三士怒って攻め戦うた。不破の関、荒れて優しい女武者で、男相手に奮闘すればするほどいよいよ艶|益《ま》す、この処女を讃めて、一同がロダンテを女神としてジアナ像に代わらしめよと呼び、彼女を神の座に据えた。ジアナの兄フェブス、その無礼を怒り、ロダンテを熱い光線で焼いて薔薇に化し、讃めた一同を刺《はり》に生かせてその美花を守らせ、相手三士は毛虫と花虻と蝶に化けて今に慕い廻る、と作った。古ローマでは、薔薇を愛と詩と美の花とし、特に女神ヴェヌスに捧げた。この神、その愛する少年アドニスが情夫マルスに妬み穀さるるを救いに走る際、バラを踏んだ足より出た血がその花を赤くしたとも、神に傷つけたを恥じて赤くなったともいう。
 ルマニアの伝説に、若く美麗な王女の海水浴するに見とれて、日が三日間立ちどまり、夜なし。これではならぬと、上帝、王女をバラに化し、日がさすごとにその花|俯向《うつむ》いて赤面す、と。エジプトの神ハルポクラテスは、見聞至って広いが、常に黙る。クピド、その母ヴェヌスの淫行を秘し貰わんと、これにバラの花を献じた。以来この花秘密沈黙の印《しるし》となり、客の間の机に懸けて話はここぎりと示し、後にはこれを食堂の天井の真中に描いたから、秘密にというをバラの下でという。
 一二二七年五月六日、仏国の摂政后ブランシュ・ド・カスチュがポアチエーのバラの野に幸し、翌日開廷の貴族裁(255)判所に臨まんとしたその夜、明日一番に難事件を審判すべきフィリペール・ド・ラ・マルシュ伯が年若きまま后の侍女マリーにつけ廻っていささかも裁判の準備せず、きびしく彼女に叱られ、即座に奮発精励して翌朝見事にその訟えを断じた。后これを嘉して伯を法院長としマリーを娶らせ、この慶事の記念、かつは仏国の貴公子をして伯に倣《なら》うて情事を勉強に融通せしめんため、年々その日にバラの花を貴族裁判所員に配らすこととし、すなわちかの伯が最初にこれを配った。バラの貢ぎとて名高い式だったが、一五四一年に貢ぎの一、二番について大争論を生じ、一五八九年にこの式全廃された。
 東洋には、西亜や欧米ほどにバラの美花多からず。支那でかきにうえて低くたれしめ盗人をふせいだゆえ、墻靡、次に薔薇となったらしく、日本でもイバラといわば、その刺と解し、花を賞せず、外来の美花のものをソウビと音読した。露国でもシプニクすなわち刺茨で、花を賞せず、後に花を賞する詩文には、もっぱらローザなるラテン名を使う。
 ウツギも青木も五月咲く。ふたつながら矢の根にしたこと、『北条五代記』などに載す。ウツギの木は柔らかいが、炒《い》り乾かすときわめて堅く、釘として用う。『類聚名物考』に、卯花咲くころは白くきらきらして月夜に似たれば卯花月という、雪にも見紛えしこと多し、蝉の声時雨に似たれば蝉時雨というごとし、と。一茶の句に、「寝所《しんしよ》みるほどは卯花明りかな」。「神代巻」に見る通り、青木は日本で最も古くあらわれた植物の一つだ。学名もアウキュバで通りおり、煙煤に堪えるから、欧州市中に多く植えある。明治三十一年、故福本日南とロンドンのレゼント苑に青木ばかり生えた所を歩み、この物が英国に跋扈する由を話すと、日南即詠に、「祓《みそぎ》せし青木が原は広がりて神の御末《みすえ》はいかがなりけむ」。熊楠取りあえず、「青人草《あをひとくさ》も青木と共に茂らなむ神の誓ひの頼もしき世に」。伊奘諾尊《いざなぎのみこと》、われは日に千五百頭《ちこうべあまりいおこうべ》を産ましめんと宣いしを思い出したからだった。   (大正十四年五月二十九日、三十日『大阪毎日新聞』)
 
(236)       六月に花さく庭木
 
 ナギの花は初夏にさくも目だたない。定家卿の詠に、「千早振る熊野の宮のなぎの葉を変はらぬ千代の例《ためし》にぞをる」。その常緑の葉を神威の尽きざるによそえて社頭に植えたのだ。紀州切部王子のナギの葉をかざして熊野へ参ること、『保元物語』に見え、これをかざすと山道で蛭に吸いつかれぬといい伝う。
 木やり節に、本町二丁目の糸屋の妹娘を欲しさに熊野へ三度詣ったと大層らしく唄えど、これ何ぞいうに足らんや。畏くも白河法皇は前生に蓮花坊という沙門なりしが、熊野信心の法力で天子に再生あったと申すことで、百余度も詣でたまう。さて老後の御幸大儀とあって、都近く三山勧請の御志あり。その時、神の告げにわが住む所には必ずナギ生ずべし、これわが殿舎なり、と。よって諸処をみせしむるに、一夜のうちにナギ生えて大木となった地あり。そこに新熊野宮《いまくまののみや》をたて、洛の三山とて繁昌したが、応仁の兵火に衰えてしまった。また奥州の巫女、多年熊野へ詣でたが、年老いて旅できなくなり、三山を自分の村へ勧請した。その後奥州へ下る者、本宮に詣ってねたところ小童現じて、奥州へ往かば名取の老女にこの物を渡しくれ、と言うたと思うと夢さめ、見ればナギの葉に歌をかきあった、「道遠し年もいつしか老いにけり、思ひおこせよわれも忘れじ」。ナギは熊野の神木で、熊野詣りの記念品、よって自笑の小説に、熊野生れの弁慶の姉をナギの前と名づけた。
 伊豆権現、実は百済の王孫辰爾という学者を祀った社とか。その高祖父辰孫王は、初めて韓国より書籍を持ち来たり、本邦に文学を起こした人だ。『貞永式目』の起請《きしよう》にも、違犯者は別して伊豆・箱根両権現の神罰を蒙るとあって、ことに武家にあがめられた。社の境内に高さ十丈のナギあり、その実を持たば災いを免れ、鏡に敷けば夫婦|中《なか》睦まじといったが、天保三年大風で倒れてしまった。ナギの菜は筋強く、いくら引いても切れぬから力柴と呼ぶ。したがっ(237)て夫婦の縁の切れぬよう、離れていても相忘れぬよう、と鏡の底に蔵めて守りとした。古い投げ節に、「今度ござらばもてきてたもれ。いづのお山のなぎのはを」。元禄十六年板「松の葉』には、「今度ござらはもてきてたもれ、ぎふのお山の檜《ひのき》の枝の浮き世がかりの思ひばを」。
 支那の話に、宋の康王が韓朋の美妻を奪い、朋を殺すと妻は自害した。二人の墓から二本の木が生え、枝も幹も水も洩らさず抱き合うありさまに、王やけてたまらず、伐ろうと思うと、その木が鴛鴦一双に化して飛び去ったという。これを作り替えて『曽我物語』に、夫妻が死んだ淵の中に赤い石二つ出来て抱き合い、また鴛鴦雌雄、その石の上で戯れる。王、気を悪くして見おるところを、その鳥飛びかかって思い羽で首掻き落として消え失せた。以来思い羽を剣羽《つるぎば》と名づくとした。余の亡母など嫁入った時、鏡に敷いた鴛の思い羽を一生大切にした。羽も葉も夫婦相思い愛する印として思いばといったのだ。
 それから、お江戸新吉原万字屋の玉菊は、酒に敗《やぶ》られ二十五歳で死んだ年の新盆の魂祭に、例の盆燈籠が始まったほどの名娼、その三回忌追善の劇曲《じようるり》『水調子』に、「なぎの枯葉の名ばかりに鏡の底に残るらん、なぎは鏡に残るらん」とある。朝に張郎の婦となり、暮に李郎の妻となる遊女、片時定まる夫もなきにナギの葉の変わらぬ色にその貞操を擬したは、全く筋が合わぬようだが、粉陣もとより孫呉多く、由来男子|自惚《うぬぼれ》強し。主に貰うたナギの葉をこの通りと示さるると、自分一人を夫と思えばこそと、打ち込む男多くて遊女が全盛した道理。また故エドウィン・アーノルド男は、日本人は欧米人とかわり神の名をひいて誓言しないとほめたは、以前を知らぬ話で、むかしの邦人は雑談にも誓言を乱発すること今の洋人に同じく、わが輩幼時も、この言《こと》違わは親の頭に松三本、すなわち親が墓に埋めらるべしと誓言したものだ。されば遊女も、八幡、天道、白癩など神号や恐ろしい病名をひき、また神木のナギの葉かけて誓言したのが多い。
 ナギイカダはナギと別類で百合科のものだ。ちょっと見たところ、葉の中央に花さくさま花筏に似るゆえ、この名(238)をつけた。欧州の原産で、英名ブッチャース・ブルーム、屠家の箒。その芽がこわくて牛の首斬り台のそうじに使われたからだ。塑像や古銭面に多きローマ偉人の頭に戴いた月桂冠は、ナギイカダの一種ルスクス・ヒポグロッスムで作った由。英語で単にブルームすなわち箒と呼ぶは、只今咲きおるエニシダだ。西欧諸国に自生し、薬や種々と用いらるるが、日本では花を眺めるばかり。この木の古名プランタ・ゼニスタ。一三九九年に絶えた英国プランタジネット皇統は、その号をこの木に取った。その始祖フルクは兄を弑し、家を奪い、後大いに悔いてエルサレムへ巡礼し、その地に多きエニシダの枝でひどく打って貰い、みずからこの木を名としたからという。一説には、その祖ジュフロア、戦争にゆく時、道の両傍の岩に生えて落ちかかった土を支えたエニシダをみて、その志の堅きを感じ、一枝折ってかぶとに立てたのが、この皇室にエニシダを紋章としたはじめという。シシリーの伝説に、キリスト、ゼッセマネ苑に祈るを、苑中のエニシダやかましく音を立てて近づく敵の足音を聞こえざらしめ、ついに捕われた。時にキリスト、エニシダを呪い、今にこの木焼かるる時おびただしく音を立つる、と。英国でこの花多くさく年は豊作という。
 
 エンジュは長じ易くて緑陰夏に宜し、庭に植ゆべし、と『古今医統』に出ず。むかし三公は三槐に面して任し、訴えを槐の下で聞いたなど、鬼神の宿る木として槐と書いたらしい。日本でも尊い木とし、箸に作ってきつねつきに食わすとたちまち直るという。陶弘景いわく、その実を久しく服せば頭白からず年をのばす、と。エンジュは延寿の義だろう。徐元扈は、まことに旨い物はエンジュの葉と煮た飯と、蕪と煮た飯と言ったが、そんな物入れずとも飯は旨く、三十前後の女は一層旨い。本当だ。
 棗は夏芽をだすからナツメ。これも支那で神木とし、卜者、楓木を上、棗の心を下にして、式盤、式局を作り、馬槽に置かば馬駭き、車跡に置かば、その車ひつくりかえるという。棗の核を咬んだ鼠の歯は大毒で、田辺出身の名高い力士千田川はそのために死んだそうだ。小野蘭山説に、棗の木、外白く内赤く堅いから、支那で板木にし、板刻す(239)るを梨棗に上すといって、梨と棗と別々だ、だが梨棗と一つにいえばケンポナシのこと、と。これも六月に花さく。ジャマイカで酒を作るカシュウナツと同前、真の実は食えず。その茎の先が珊瑚状にふくれ、初冬に熟して至って甘く梨の味あり。よって支那で木蜜、英語でハニー・トリーまたコラル・トリー、蜜木また珊瑚木と呼ぶ。
 前年、近松の何かの劇曲に、げんばの梨、王母が桃とかあるを見ていろいろ探すと、晋の王讃の梨樹の頌に、元圃より降り合体連性す、『淮南子』に、県圃は崑崙の疎水圃だ、『十洲記』に、崑崙山は三角で、西の一角を玄圃台というなど見出だし、大女仙西王母がすむ崑崙の頂き近い処で、絶世の梨の産地と判った。木蜜、もと南方より来たる、と支那書にあるから、本邦のはたぶん支那伝来で、当時名は知らず、梨の美味あって痘瘡を防ぐなどいう珍果ゆえ、県圃梨と美称したらしい。和漢とも、この物よく酒を水にするの、この木の火で焚かば味噌成らずなどいい、むかし大欲大流行の世に、酒に酔わず酒病を治むとてはなはだ貴ばれたらしく、『尤の草紙』、大切なる物の品々中に、けんぷの梨、とあり。『鉢かづきの草紙』に、母上、姫君の頭に鉢を戴かせ、種々の宝を納める中に、金作りの橘と銀作りのけんぽの梨あり。その初め悪酔いせぬまじないに、橘とケンポナシを酒席に飾ったを、後には金銀で作ったものか。宝尽しの中の珊瑚はこれを誤った、と喜多村氏の説だが、これは珊瑚でない。ナツメやケンポナシと同科に、熊野等の浜ナツメあり、独楽《こま》の形のへんな実を結ぶ。その別種キリストイバラは、ユダヤに多く、どんな風にも曲げ得るから冠に作り、キリストに戴かせたという。
 梧桐《あおぎり》は今月、桐は五月に花さく。梧桐の種子は妙っても煮ても食うべく、『尺素往来』に、茶の子は梧桐子《ごとうし》、と出ず。チョコレートと同科植物ゆえ、旨く香をつけたら自給自足の益あろう。『関秘録』に、黄帝の時、鳳凰、御門の梧桐に来たり集まった故事により、嵯峨帝はじめてこれを御紋とされた、と。しかるに、日本の桐の紋は、花も葉も桐で梧桐にあらず、画工の間違いと蘭山はいったが、唐の李徳裕の序によると、成都に桐花鳳とて燕より小さい五色の霊鳥あり、紫花の桐咲く時集まってその露を飲み、花ちれば来たらず。ジュアルドが成都の人に聞き合わすと、名(240)も知らぬというから、今は絶えたらしい。花の蜜を吸うて活くる鳥、熱地に多く、熱地ならぬ日本でも、メジロがビワ、ツバキなどの花を吸い、先年ブラジルへ日本のビワを移したところ、かの地に多い蜂雀が盛んに吸いにくるので大いに繁殖の助けとなったときく。成都にも、唐代まで桐の花を吸う美しい鳥があり、桐花鳳と名づけたので、それにちなんで御衣に紫花の桐と鳳凰を画かれたのかと推察する。
 御柳《ぎよりゆう》は雨を先知し、気を起こして応ずる、木の聖なるものとて?と書く。支那では年に三度花さくゆえ三春柳、西湖の美を添うるゆえ西湖柳、また楊柳観音が水をそそぐに使うとて観音柳、菩薩柳、長生するゆえ長寿仙人柳という。日本では初夏と秋と二度咲く。潮風に堪えるから海岸の家の生垣によろし。甘きマンナを生じ、蟻おびただしく集まるには閉口だ。
 この属の木、すべて六十四種。その一つタマリキス・オリエンタリスは、エジプト最初の統治神オシリスがくらやみの神チフォンに妬まれ、櫃に釘付にして河へ投げられた時、その櫃、この木の枝に留まり、枝たちまち長じて櫃をまるで包み隠したとぞ。古ペルシアのマギ僧は御柳の小枝を束ねて占うた。支那の筮竹のごとし。
 
 シュロの花は開かぬ時、魚の孕子を竹の皮に包んだようで、椶魚《そうぎよ》また椶笋《そういん》という。毒物といえど、広州蜀地の人は蜜で煮、酢に浸して珍重す、と。『中陵浸録』にいわく、王昌齢が僧房に題する詩に、棕梠花院に満ち、苔蘇空房に入り、彼是《ひし》名言絶え、空中異香を聞く。この詩を玩味するに、シュロの花さく時は梅雨で、寺院の苔蘚青々していと寂しい物だ、と。俗にシュロやソテツを眺めると色情を失うゆえ、特に寺に植える由。腎張《じんば》り男が泊り宿も、シュロのある処を避けたこと、『風流曲三味線』に見ゆ。
 マンネンロウ、英名ローズマリー、海の露の義、好んで南欧の海辺に生えるからの名だ。むかしは、これで宴会の主立った客の頭や頸を飾り、また葬式にも婚礼にも使うたから、十七世紀の詩人ヘリックは、「どちらでもわが礼の(241)ため茂れかし、婚も礼なり、葬も礼なり」と詠んだ。むかしは脳を安んじ記憶を強くすとて僧坊に多く植えたが、後には台所畑にのみ植えられ、マンネンロウはかか〔二字傍点〕旦那の処に限り茂るという。
 マグダレン女尊者忌、七月二十二日の夜、二十一歳以下の素女《きむすめ》三人二階に集まり、すり硝子《ガラス》の杯に葡萄酒、ラム、ジン、酢、水と五色まぜて、おのおのマンネンロウの小枝を浸して胸に着け、その杯から三度ずつ吸うて一つ床に眠ると、それぞれの行く末がことごとく夢に見えるそうだ。マグダレン大学など、この女尊者の名をかぶり、大した聖人のようだが、その実、売淫女で最もキリストをすいたから、キリストまた情なからんやで、再活後、諸使徒よりも聖母よりも第一着にこの女に見《まみ》えたという。それゆえ、わが身抓って人の痛さをしれという点から、中世女どもことに売淫女らに拝まれた。思うに上に述べた夢占は、中世この女郎出身の尊者忌の夜、女郎どもが苦界を免れんと祈ってした遺風だろう。酒に芳香物を入れて飲んだらよい加減な夢は見るはずだ。
 シシリーの口碑に、后、子なくてマンネンロウの枝多きを羨むと、たちまち孕んでマンネンロウを産み、鉢に植えて毎日四回乳をやる。后の甥スペーン王、これを盗んで笛をふくと、マンネンロウから絶世の美女が出る。王戦いに往った跡で、王の姉妹が王の笛を吹くと美女が出る。あまりの妬《ねた》さにこれを打つと、女は消えて木は萎む。それを王からあずかった園丁恐れて林ににげこむ。夜中に竜がこのことをその雌に語り、われらの血を掛けたら、かの木は活き返るというた。そこで園丁二竜を殺し、その血を持ってきて枯れた木を蘇らせたところへ、王帰って笛で美女を呼び出し、婚姻したという。
 似た話が諸邦にあって、チベットの経典に、医王|耆婆《ぎば》ロヒタカ国へ行った時、美麗な園の持主死んで鬼となり、何度も番人を取り殺すので園は荒れ果てた。行き暮れて耆婆がそこに宿ると、医者に見離された水腫患者も泊りおった。夜半に例の鬼がその患者を取ろうとすると、水腫の病神が現われて、わが占領しおるこの人を取ろうとは不埒だ、誰か山羊の毛を焼いてふすべるとよい、すると汝は十二|由旬《ゆじゆん》外へにげ去るはず、と罵った。園主の死霊も負けておらず、(242)貴様こそこの病人に大根の種の粉をバターでこねて食わされたら微塵に砕けしまうはず、とやり返した。翌朝伯曹、園の当主を尋ね、なぜ結構な園を捨ておくかと問うと、毎晩化物が人取りに出るからという。耆婆、山羊の毛で隅から隅までふすべさせて鬼を追いちらし、五百金をむくいられ、次に水腫患者にバターでこねた大根種を食わせ癒やして、また五百金を得た、と見ゆ。
 呉主孫皓が長さ十四里の溝をほらせると、昼ほれは夜塞がれ数月しても成り上がらず。工夫がその辺に臥しおると、その夜鬼来たって毎晩土運びに弱りいる、布嚢に土を入れて江中に棄てたら元へ戻すことはならぬのに、と独言《ひとりごと》した。夜明けて役人に告げ、右のごとくして工事が成った、と『広輿記』に出でおる。   (大正十四年六月二十三日−二十五日『大阪毎日新聞』)
 
       七月に花さく庭木
 
 南天は、義政将軍のころまで南天竺というた。『下学集』に、日本で手製の俗称のようのべあるが、それより百四十五年前、元の李氏の『竹譜』に、この木もと南天竺から来たゆえこの名をつけた、天竺では籠鳥の宿り木に使う、とあって、決して和製でない。ただし、これはむかしこの木が北支那に珍しかつた時のこじつけ説で、南支那には本来自生あり、インドにはない物だ。
 初めてこの木を記したは梁の陶弘景で、南天を草木の王と尊称し、秘法通りにその葉と米を煮て青く光る飯を作り、久しく食うと白髪を黒くし、老人が若返る、と述べた。もと仙人の食品だが、後には四月八日に仏に供え、秘法を守らず、なるたけ色を青くするため、柿、ハコヤナギ等の葉や鉄さえ加うる由。青精飯《せいせいはん》また烏飯《うはん》と名づく。また梁の程氏の「天竹賦」の序には、むかし女?《じよか》この木の枝で水を両分したり風を止めたりした、と神木のようにいいおる。本(243)邦には、秋海棠、吉祥草など、古来自生ありながら人が気に留めなんだところへ、外国から輸入されて初めて気がついた。南天また処々に自生あって、遠州一の宮は満山みな南天で実の盛りはなはだ美なり、と『和漢三才図会』に見ゆ。
 かほど美麗な南天も、足利時代以前はさらに顧みられなんだので、詩歌文章に一向みえず。南天という漢名のみで通りおり、上総の方言でランテンも、漢名闌天竹の略語だ。ただ和方書に三葉と呼ぶのが古い名とされる。よって考えると、国史に福草『さきくさ』、『姓氏録』に三枝と書いた三茎の瑞草とは、南天のことだろうか。支那でも、南天、初め三、四年は草のごとし、草とも木とも分からぬとあって、古く南燭草木と名づけた。南支那の産で、実が赤きを火に比べたのだ。その重複葉のくき〔二字傍点〕を上からみると三方へ出たようにみえるから、三枝と書いたであろう。古歌にさき草すなわちさい草の三つ葉四つ葉と詠《よ》めるは、南天の葉は三の数で成る重複葉で、三つ葉というを受けて四つ葉を重ねいうたのだろう。『俳諧歳時記』に、俗伝に南天は悪夢を消すという、ゆえに女子鏡の裏にこの葉を挟む、毎朝起きたらきっとみるからだ、それから鏡の背に南天の図を鋳る、とある。『和漢三才図会』に、作州、土州の山に、高さ二丈余、廻り一尺二、三寸の大木あり、枕を作って邯鄲《かんたん》の枕という、稀有の物ゆえ名づくるのみ、とあれど、その枕をあててねたらよい夢をみると信じてからの称《とな》えとおもう。隋の晋王広が智者大師へ贈り物の目録に、南榴の枕一枚とあるは南天らしく、支那書にみえぬが、支那でもこの木で枕を作ったらしい。
 俗にナルテンというは南榴から転じたものか。夢払いの一件は支那から移った迷信とするも、どうも日本に古くからこの木をことに崇めた余風と思わるる廉が多い。『和三』に、これを庭に植ゆれば火災を避け、はなはだ験あり、と見ゆ。熊野の公文山《くもんざん》に径一尺六寸ほどの南天の大木一本あり、毎度見付けて、さて支度してきりにゆくとさっぱりみえぬ。他の木に形をかえるのだそうな。また、土小屋の社に生きたオコゼ魚を献じて、無上にその神を悦ばせ、水乏しかった川に大水を出し賜わり、十津川から材木十万を一度に下して大いに細民を景気つかせた人あり。この人大(244)水出るをみて大きに悦び、径八寸の南天の大木に乗り、流れに任せて失せ去ったと伝える。支那では、南天の枝葉は腹下りを止め、睡りを除き筋を強うし気力を増し、久しく服すれば身を軽くし年を長じ、人をして饑《う》えず白髪を黒く変じ老衰をしりぞけしむ、とあるのみ。しかるに、その外の薬用法が日本に多い。犬子籠《いぬこごもり》とて、腿の付根や肩に塊を生ずるに、南天の実を三つ呑めば直る。見たところ乾いたようだが、葉に汁多く苦い。滞食したり毒を呑んだ者に、その実を塩で揉んで汁をとり、飲ませばたちまち吐く。
 
 タヴェルニエーの紀行に、カブル辺のアフガン人は、毎朝ある植物の根でその舌をけずり、多く吐く。ペルシアとインドの境の人も、そんなにすれど、多く吐かず。食う時、まず二、三口食えば必ず吐く。さて快く食事する。かくせざれば、三十になるやならずに死なさんすそうだ。また南米のヘベロス人は、毎朝グワユサの葉の浸液を服し、夜前からの不消化分を吐き尽し、空腹で狩に出る。日本で商店への挨拶によくはけますかというごとく、毎朝人に逢うてよく吐きなさるかと会釈する蛮民もある、と何かで読んだ。不消化物をもっぱら食ったり、運動が不足だったりの民には、吐くか下すかが摂養の大要件で、今も洋行して肉食になれぬ邦人に不断下剤を用うる者多く、中世大黄を下剤として露国その他欧州人にきわめて貴ばれ、田中祐吉君説に、何首烏《かしゆう》等支那で不老長生の神薬と重んぜられた物は多く下剤だそうな。されば、南天も滞食や毒物を吐かすききめ著しきより、食料に不消化品多く、世間に毒害大流行の昔、日本でもっとも尊ばれた余風で、今も食物にその葉をしいたり、その木で作った箸をめでたがると見える。南天を難を転ずる、ナルテンを万事成るの義に解いてめでたいとするのは、後れて生じた説明だろう。支那で、南天を植えると、かみさんのりんきが強くなるという。
 夾竹桃は、根と葉が竹に似て、花が桃のような色だから名づけたという。もと南欧諸国の産で、宋・元の際支那へ広がり、もっぱら寺院に植えた。花は美しく永く咲き続くが、木が毒物で、イタリアで驢馬殺し、インドで馬殺しと(245)という。トスカニーでは、ジョセフ尊者がこの木を杖につくとたちまち花咲いたとて、ジョセフ尊者の枝と呼ぶ。イタリアでは、この花は不幸を招くといい、トスカニーとシシリーでは屍骸を被い、インドでは、死人の額にのせ、また多く寺の飾りとす。これと同属のネリウム・オドルムは、花美なる上に匂い優《すぐ》れ、シヴァすなわち仏経の大自在天の好物とす。大毒あるゆえ妬み強い女が毎度用いて自殺する。女同士の喧嘩にこの木の根を食えと罵る。その木の粉を鼠殺し、その皮の煮汁を虱殺しにする。
 モッコクは、漢名厚皮香、日本、支那、セイロン、インド、スマトラに目生す。インドではよき材木だが、よく乾かさねば使えぬ。戸やタルキなどを作る。雲南では、夏の土用に咲くを?梅の花と称えて売る。本邦でマタタビの葉を去り、夏梅とて生花にするごとし。『本草』に載せぬから、支那で薬用するか否を知らぬが、日本では『雍州府志』に、木斛薬を記し、この木を伐り蔭乾にして外皮を去り、刻んで主薬となす、食傷、腹痛を治す、とあって、当時はやった売薬中に列しある。草の石斛《せつこく》は、本邦医術の開祖がもっぱら用いたものとみえ、和名を少名彦《すくなひこ》の薬根《くすね》という。それに対して木斛というたらしい。
 ナツツバキは、『大和本草』に、その花サザンカに似て大きく、微香を帯び、好花とすべし、とあり。京都の植木屋で沙羅双樹《さらそうじゆ》というたらしい。沙羅双樹、梵名サーラ、堅固また最勝の義、ナツツバキの茶科に属するに異《かわ》り竜能樹科の物だ。摩耶夫人手を伸ばし沙羅の花を折る時釈尊生まれ、老後また双生したこの木の下で入滅すると、木が花を落としてその屍体を埋めたと伝う。夏椿の幹、至って滑るゆえ、日光辺で猿滑りという。叡山等の寺で沙羅樹というもこの類だろう。サルとサーラと近いから一視に及んだものか、と『仏教大辞彙』に説いた。熊野で猿滑りまたサルタと呼ぶは、姫沙羅ともいい、皮滑ることは同前だが、花小さくて見るに堪えぬ。皮が赤いゆえ赤木ともいう。
 安堵峰辺で聞いたは、初冬山祭りの日、誰も山に入らず。山の神が山の木を数えるに、なるべく多くせんとて一本ごとに異名を多く唱え、赤木にサルタに猿滑り、抹香、香の木、香榊《こうさかき》などいう。そこへ往き合わすと木の中へ読み込(246)まれて死ぬゆえ、と。その山神は女神で、林下で男子が自?すると大悦びの由。為家卿歌に、「足引の山のかけちの猿なめり、滑らかにても世を渡らばや」とある。都会でいう猿滑りは、漢名怕痒樹、この木の皮をかくと梢まで感じ動くという。支那の原産で、かの地では四月から九月までさくゆえ、百日紅。久しく官僚を慰めるため、唐代に紫微省に多く植えたから紫微という。ミソハギ科に属する。サルタも百日紅も木が折れ難いから油のしめ木にするそうだ。
 
 素馨は、南漢にこの名の官女あり、死してその塚から生えた花という。茶に香を添うるに使う。野悉茗《イエスイツミン》また野悉密《イエスイツミツ》という漢名も、英名ジャスミン、共にアラブ名ヤースミーンをうつしたのだ。欧州ではこの花を夢みれば僥倖あり、情男女夢みれば程なく夫婦となるという。日本へは十九世紀、欧州へは十六世紀に入った。一六九九年、トスカニーの大公、その大きな八重咲き至って高く香《にお》うものをゴアより取り寄せ、園丁を厳戒して他にわかたせなんだ。げに色は思案の外で、その園丁、何がな情女をゾッとさせんと、花束にその素馨の小枝一つを込めて女にやった。女賞翫して、これを土にさし、情男の教え通り播殖させて高価で売り支度金して、貧乏極まる園丁と添い遂げた。これに感じてトスカニーの女、婚姻に素馨で頭を飾り、素馨冠をかぶるほどの女は、必ず夫を楽に養うほどの富をもつという。
 素馨と同じく木犀科の物で、やはり今月咲きおるネズミモチほ、彼とは雲泥に違うた、しみったれた小白花を開く。しかし、夏冬葉が落ちぬを婦女の操堅きに比して、漢名女貞。日本では、その実がよく似ておるより鼠の糞と俗称す。またタマツバキともいう。実朝公が、「千早振る伊豆のお山の玉椿ちよ万代《よろづよ》も色は変はらじ」とよんだはこれか。英国産は邦産より葉が長く、プリヴェットと名づく。本邦のと同じく垣に作るに、いくら切り込んでも衰えぬゆえプリム・プリヴェット(剪刀《はさみ》辛抱)、それを略してこの名になった。
 ザクロは、東南欧からヒマラヤ山まで自生あり。支那へは、漢の張騫《ちようけん》が安石国(サマルカンド)から持ち込んだ。よって安石榴とかく。榴とは実が瘤に似たからという。今もかの国はその名所で、核《さね》ないザクロある由。ギリシアの古(247)伝に、妻に後れた人、その娘を過愛し、娘悩んで自害した。諸神憐れんで、その娘をザクロに、父を小鷹に化した。よって、この鳥はザクロの木に宿らぬ、と。
 石榴は種多いゆえ、繁殖と豊富の印とされた。トルコでは、新婚の節、新婦が石榴を地になげわり、奔り出た種の数で、その夫婦間に生まるる子の数を占う。古ローマでは、婚姻と財富の女神ジュノの好物とした。支那でも、斉の安徳王延宗が、李祖収の娘を妃とした後、帝が李の宅に幸し、酒宴の席で妃の母宋氏が石榴二つを献じた。帝、魏収にその意味を問うと、石榴は子多いから王の子孫多かれと願い祝うたのだと答え、錦二匹賜わった、とある。先日の本紙に、近来夫婦反目、姦通、駆落ち多きは体格の相応せぬによること多いから、と論じてあった。まことに古来この用心を漢法医は怠らなんだもので、肉篇に寛と書く病名がある。それを直すにはザクロの煎じ汁がもっともきく、と『万宝全書』に出ず。   (大正十四年七月二十九日−八月三日『大阪毎日新聞』)
 
(248)     草花伝説
 
 紅花《べにばな》は、只今野生なく、どこの原産物かわからぬが、もとアラビアに野生したらしい。アラブ人はこの花を癩病薬とし、女の膚を淡黄に染むるに使う。インコがその種を好いて食うゆえ、エジプトでインコの種と呼ぶ。ミイラをまいた布をこの花で染めたのがあるほど、いと古く栽培されたのだ。
 支那の紅花は、染料として最上品だが、漢の張騫がバクトリアナからその種を持ち来たったという。その前にも花を輸入したらしく、『続博物志』に、三代以降紫草でベニを作ったが、周の時、紅花で作った、と出ず。また、美人|妲己《だつき》といちゃついて天下を失うた殷紂が始めたともいう。燕の地で紅花の汁を固め脂に合わせて女の顔に塗ったので燕脂といい、匈奴の皇后の美しさを燕脂に比べて閼氏《えんし》と称えた。両名同音だ。『史記』に、千畝の紅花を栽ゆる人の富は千戸侯と等し。
 本邦でもベニは高価なものだった。紀州伊都郡に、木下という豪家今もあり。むかし他国から紅を馬に載せて売りにきたものが、この辺の百姓がかの家の富を数え誇るのを聞いて、それほどの身上はこの馬一匹が負う紅の半分にも足らぬと笑うて去ったそうだ。小皿にちょっと塗っても四、五十銭のものゆえ、馬一荷の紅は大層な値段であったろう。
 紅花、古くは紅藍といった。紅は赤白の間とあれば薄紅《うすあか》だ。和漢とも白粉に紅を雑《まじ》えて顔に塗ったので、日本では享保ごろまでそうしたが、元文の初めより白粉ばかりぬり、まるで塗らぬもあり、これ遊女の風を学んだので、遊女は元来紅も白粉も嫌うた、と喜多村信節の説だ。されば薄紅の藍の義で紅藍といった。日本へは、初め呉《くれ》すなわち南(249)支那より輸入したゆえ、呉の藍、それを約《つづ》めてクレナイ、だからカラクレナイは支那の南支那と重言らしいが、韓《から》クレナイの意かも知れぬ。
 定家卿が『新勅撰集』を編んだ時、金源三の「もろこしのからくれなゐに咲きにけり、わが日の本の大和撫子」という歌はよいが、臣民がわが日本《ひのもと》とは僭上ゆえ、この日本と直せというと、この作者よほど平民主義の人で、そう直されて撰集に入ったって面白からぬ、日本人みな皇室と同氏で、天子をわが君という、この国に生まれてわが日本というに身分を別つべからず、と言い張って撰にいらなんだ。なかなか一癖ある申し分だが、歌を語意から正すと、「支那の支那のまた南支那の藍の色に咲いたわが日本の撫子」と、もってのほかに重言を詰め込んだものだ。それよりもずっと名吟を南方先生がやったは、そもそも紅花を末摘花というは、末より咲くゆえ末より摘むによる、と『夏山雑談』に出ず。『源氏物語』に、鼻赤く長い姫君に源氏が会うて悔しさに、「なつかしき色ともなしに何にこの末摘花を袖にふれけむ」、それよりこの女を末摘花と呼ぶ、とある。男女に関する面白い川柳を集めて『末摘花』と題した物を、止事《やんごと》なき方が絵巻にして巻頭に何か書けと仰せられたので、「なさけとは末摘花のしづくかな」。実に近来の名句と飯も食わずにわれながら感心しおり、時節がら大分の節約になる。「葛洗ふ水も桜のしづくかな」、「葛水は高々指のしづくかも」の二句を思い出しての即吟だった。
 スペーン人は、庭に紅花を栽えてスープを染め、また梅干のごとくオリヴを染める。英国でも、パンや菓子を染めたが、染め過ごすと下痢したので止めた。その種で鵞鳥や七面鳥をかうとたちまち肥るそうだ。申《さる》の日にまくとよく茂るとは猿の顔が赤いからだろう。
 「創世記」に、上帝アダムが禁果を食いしを怒り呪うて、汝は一生苦しみて土より食を得ん、土は荊棘《いばら》と薊を汝のために生ずべし、また汝は野草を食うべしと言った、と見ゆ。英国のカーチス、試みに四月薊の根二寸だけ植えると、十一月に八尺にのび、長《たけ》五尺の葉を生じ、掘り出して洗うと全く四ポンドの目方あり、残った小根からますます生え、(250)これを除くに七、八年かかったそうだ。まことに難物だが、葉も根も食えるから、貌《かお》?獰《そうどう》なれど質《しつ》和淑、と支那人は讃めた。
 田辺の矢野氏なる老人、茶菓子に砂糖漬の香気高い根を出すに、天門冬に優るも何物と知れず。予ひそかに問うと、浜薊の根だった。煮ると牛蒡の香味あり、浜牛蒡ともいう。生花に刺《はり》あるを嫌えど、薊の刺を日に中《あ》てると柔らぐから嫌わず。したがって、種々異色の花を作り出し、花薊また眉掃《まゆはき》と称えた。『犬子集』に、「鬼と思ふも女なりけり」、「美しや薊の中の眉作り」貞徳。薊の葉の白斑は、キリストの母マリアの乳が掛かった跡の由。むかしデーン人がスコッチ人を夜襲の際、その一人薊を踏み抜き、そぞろに声立て、スコッチ人眼を寤《さ》まして撃退した。爾来、薊をスコットランドの徽章として、その強き刺の進んで侵さず、みずから厳しく衛るに誇る。
 ノゲシは、今の人食うことを知らず、煮て苦汁を去り食うべし、と貝原先生は言った。兎の好く物だ。露国の伝説に、魔が上帝に何かくれと望むと、麦も稷《きび》もやれぬ、烏麦をやろう、と言った。大悦びで、烏麦、烏麦と呼びながら去った。上帝、烏麦を惜しくなり取り返したいというに、ポール尊者、承知の助と駆け抜けて、橋の下で待つと、烏麦と唱え続けてやって来た。ポール、突然ワッと驚かすと、何だ、お前か、上帝がよい物を呉れた、その名を今のびっくりで忘れたという。ライでなかったか、大麦でなかったかと問うに、否々と答う。ノゲシであったかと問うと、それだ、それだ、ノゲシ、ノゲシ、と大切に覚えて往った。以来、魔は後生大事と、この雑草を守りおるという。
 予幼時、毎度亡き母より聞いたは、老人が婿方で団子を馳走され、忘れじと団子、団子と覚えながら帰る途で、ポイトコナと呼ばわって溝を飛び越えた。それから間違ってポイトコナと暗誦し、家に入って婆にポイトコナを作れといえど、さっぱり判らず。気が違いやしないかと問われ大いに怒って、婆の額を打つと、何だってこの人は妾の額を団子のように腫れさせた。老人、「その団子のことよ」という落ちだった。古く「岡太夫」の狂言は、蕨餅というのを忘れて妻を打ち、その名を教えらるる筋に作られある。
(251) フランス菊の花は、雛菊に似て大きく、満月の相あるにより、月の雛菊(ムーン・デージー)という。一説には、子宮の諸病によくきくから、むかし月の女神アルテミスの物とした。月は月経を司どるに基づく。キリスト教の世となっては、マリ・マグダレン女尊者が婦人諸病を治すというので、この花の主とした。
 牛蒡《ごぼう》は欧州にもあるが、野生ばかりで日本のほど旨からぬ。驢の外の畜類は、これを食わず。その根の煮汁はサルサパリラほど黴毒にきくといった。その実に鉤《はり》多いから、蝙蝠に抛げ付けて捕えた。アルバニア人が山林の神に取り付かれたら、酒に浸したパンをその葉に載せて攘《はら》うた。本邦で牛蒡は精を益すという。西洋の星占家がこれを婬女神ヴィヌスの物とするも同じ訳か。
 オオバコは道路に生《は》えて、車にしかれても盛えるから車前とかく。ドイツ名はウェグワルテ(道番)。女が情人を街道で待ち佗びてこの草になり、土にひつつきおるという。英国の一部で伝うるは、オオバコの穂二本を採って花を一一去り、蕾のみ留め石の下に置き、翌朝見るに花さきおったら、男女二人の心が変わらぬと知るそうだ。
 ホール僧正の『セレクト・ソーツ』(一六四七年)に、動物がおのおのその病をみずから治す例を列べて、ヒキガエル病めばオオバコの葉を憑む、と書いた。『撈海一得』に、本邦の小児がガマを殺し、土を掘ってオオバコをしき死んだガマをのせ、またオオバコを被《かぶ》せ、子供ら取り巻いて、蛙殿のおしにやった、おんばく殿の御弔い、と誦《とな》えると、たちまち跳り出す。支那でも、この草の一名蝦蟇衣というから、こんな戯れをしただろう、と説いた。『嬉遊笑覧』に、『蜻蛉日記』より、「おほばこの神の助けやなかりけむ、契りしことを思ひかへるは」という歌を引きあれば、平安朝の世すでにこの信念があったのだ。また、この草の葉は血留めにきくとチョーサーの詩に見え、沙翁《シエクスピア》は、脛骨の折《くじ》けたによい、とロメオに言わせある。四碧庵の『忘れ残り』に、著者みずから砂で膝蓋をすりむき、歩み難きに紙を持たず、オオバコの葉をもんで付けると、膏薬のごとくよく付き、血も止まり、一夜へて癒えた、とある。
 ウツボグサを、英国で古くハーブ・カーペンター(大工草)、今はセルフヒール(自身療治)と呼ぶ。職人がのみ〔二字傍点〕、鎌(252)等の切れ物で怪我した時神効あるとてだ。『本草綱目』また、?んで付ければすぐさま撲傷《うちきず》、きり創を癒す、と記す。夏至に枯れるゆえ、夏枯草《かこそう》の名あり。チクマハッカ、英語でキャット・ミント(猫の薄荷)、マタタビ同然に猫好むことはなはだしく、かいだり咬んだり身を摺り付けたり、終《つい》には転がり廻る。ホフマン説に、猫のような人もこれを咬むと、怒って喧嘩をしだす。おとなしい刑手あって、いつもこの草の根を?み、焼糞になって後、罪人を殺したという。
 五世紀にアイルランドを教化して、その守護尊と崇めらるるパトリク尊者が、三位一体について説法してもわからぬものばかり、よってシャムロックの葉を採って、三つの小葉が一つの葉をなす、三位一体またかくのごとし、と釈いてよく判らせ、聴衆みなキリスト教徒になった。それからシャムロックを国の印《しるし》とし、尊者の忌日三月十七日に一同その葉を佩びた。しかるに、今日確かに何の草と知れず、米粒マゴヤシともオランダゲンゲともミヤマカタバミともいう。甲は春さくが、乙と丙は只今咲きおる。オランダゲンゲは牧草また肥《こや》しで大功あり。ミヤマカタバミの根は酸《す》いが、アイルランド人はこれを食うた。本邦人は気付かぬようだが、この根の汁を蒸発させると、多く結晶体がとれる。鉄気やインキで汚れたきれを水につけ、その結晶の粉を少しふりかけ、板に載せてすり、湯で洗えば落ちる。生薬二十ポンドで汁六ポンド、それから結晶二オンス余とれる。カタバミ属には根が食えるもの少なからぬ。ムラサキカタバミは米国原産で、九十年ほど前に始めて輸入され、予の幼時は鉢に栽えて愛玩したが、昨今田辺などには畠に拡がり荒らすことどえらく、予は日々家を挙げてその駆除に困りおる。ずいぶんみごとな球根も生じあれば、何とか食用に勝《た》えた物にできまいかと思う。
 ユキノシタの属名サキシフラガ、石割の義、石に生え込んだ根で石を割ると信じ、したがって胆石、石淋などを治す、と言った。その一種ロンドン・プライド(ロンドンの誇り)、またナン・ソー・プレチー(こんな綺麗な物はない)というは、格別の品ではないが、ロンドンで他の草木に優れて栄えるからこの名あり。
(253) 『続沙石集』に、長崎・大村間の山路に、一丈ほど高い石に径二尺余の丸い石乗って地震にも落ちず。むかし鯖を商うもの通り懸かって、この石落ちてのち通らんとて立って待つうちに鯖みな腐った。よってこの石を鯖腐らしと称う。人の命の危うきを忘れ、いつも変わらぬこの石を危ぶむは大きな間違いだ。さてユキノシタの花落ちるをみれば長者になると俗信のままに、半時も一時も悠然と眺めおる輩は、石を見て鯖を腐らせた愚人に異《かわ》らぬ、とある。これは百八十二年前に書いたのだが、今もそんな俗信あるか知らぬ。   (大正十四年十月四日『週刊朝日』)
 
(254)     草花の話
 
       五月の末に咲く草花
 
 シャクヤクは?約《しやくやく》と美しいからこの名を得た、と『本草』にみえる。ラテン名パイオニアから、英語でペオニーときた。ギリシアの古伝に、医王エスクレピオスの弟子パイオン、この草を日の神の母に授かり、地獄王プルトンのきずを療じた。医王これをねたんでパイオンを暗殺したところ、地獄王恩返しに、その体をシャクヤクにして、その名を伝えたという。また、この草は月から出たので夜は光り、これを植えた家を守って悪鬼を追い、その根を少し頸に掛けると魅せられぬと信じた。今も英国の一部で、その根で作った数珠《じゆず》をおびた小児は、歯がはえ易く、ひきつけを起こさぬという。仏国の天主僧ラパンは、でたらめに種々の故事を作った。その詩に、パイオニアは羊を飼うた神女で、日神アポロに口説かれ破戒してシャクヤクとなった。花が赤いははじ〔二字傍点〕、香の悪いは不行儀を表わす、と詠んだ。
 日本でも、この花を美女に比べて顔好草《かおよぐさ》と呼び、支那では、花王ボタンに次ぐとて、花相ととなう。和漢共にその根を薬用し、和方に熱さまし、漢方に婦人一切の病にきくといえど、『本草』にただ中品薬に列ねおり、ギリシアほど尊んだとみえぬ。日本で古くエビスグスリまたヌミグスリ、すなわち飲薬と名づけたは、もっぱら薬用のため輸入したと証する。『詩経』に、人と別るるにシャクヤクを贈るというも、薬用のためらしく、支那で盛んに花を賞する(255)は、宋の世にはじまったのだ。
 だから本邦にも古歌に見えず。延久四年に入宋した僧成尋の紀行に、シャクヤクの花ボタンに似て小さし、また花ならびに葉ボタンに似て赤し、と二度まで珍しげに書きある。日本で見なんだからだ。しかるに、その後百十余年、寿永中、奥州河沼郡に越後の城の長茂が二十八館を築き、千株のシャクヤクをうえ、その妻かまどの前と遊覧した、今にその原みなシャクヤクだから、ちさくのはらという、と会津の正之中将が書いた。この百十余年のうちに支那から美花が渡ったのだ。『秋田の仮寝』にいわく、出羽国小野邑に小町が植えたシャクヤク九十九本あり、薄紅色で他の花と違う、その盛りをまちて田を植えそめる。枝葉を少し折ってもたちまち雨ふる。ある俳諧師、みやげにとて枯葉を折ると、すなわち雨ふりぬれて帰る時、「また例のあうむ返しや村しぐれ」と。このシャクヤクは、本邦自生の山シャクヤクでがなあろう。時代が早過ぎる。
 シャクヤクと同じくキンポウゲ科の草で、今咲くものにヒエンソウあり。これももと外国産だ。支那でスイジャクというらしい。英名ラークスパー、ひばりのけ〔傍点〕爪。ラテンでデルフィニウム、シャチホコ花の義。みな形が似るからつけた名だ。むかしトロヤの戦に、ギリシアの軍土中でアヒレウス武勇第一だった。アヒレウス死してアヤスとウリッセスと、その跡に立たんと争うた時、一同アヤスはむやみに強いが、智慮はウに及ばぬと評定した。ア狂憤して敵と間違え多くの羊を殺し、翌朝本気に戻って大いに羞じ入り自刃した。その血が地に落ちて紫色の花さく飛燕草を生じ、その花びらに彼の名の頭字三つAYAと並び現じ、これを読み合わすとアヤ、すなわちああ〔二字傍点〕で悲しみを表わすという。
 また、立金花《りゆうきんか》あり。花のくき横に垂れ下がるを金立花《きんりゆうか》。まずは金持と持兼《もちかね》ほどのちがいだ。金立花はエンコウが月影をつかみにかかる趣きあれば、エンコウ草ともとなう。英名マーシュ・マリゴールド。沢のキンセン花だ。数年前死んだ英学士会員ウィリアム・ガウランドは、中之島造幣局に大功あった人で、あまり日本に長逗留して故国へ帰っ(256)たから不治のぜんそくにかかった、と余に語った。在留中多く狙仙《そせん》の画を集め、学士会院のソアレーごとに展覧して誇りとした。大戦争起こるに及び、その画を日本人に売却し、上り高を英政府へ皆納して軍費を助けた。毎々特に誇り示したワシがサルをつかんだ画は、本山社長が買われた由、みずからお話しだった。と、序文は長いが本文は短く、ガウランドなる語は、もとガウロンまたゴルランドで、立金花の義。英・蘇二回の境目に、この草多く生える沼があった。やがて地名となり、その辺の百姓か何かが氏《うじ》をガウランドと名乗った、その後胤とみえる。
 
 ケシは、花に種々の色模様あり、意を加えてそそぎ植ゆれば妍好《けんこう》千態、と王敬溪がいった。しかし、花が散り易いから、蜀山は、忠義空しく伝う国姓爺、終《つい》に見る韃靼の中華を奪うを、清風一たび頭上を掃いしより、四百余州ケシの花、中華とはいえども花は夏の夜の、一夜に変わるけし坊主かな、と読んだ。
 ベンガリの口碑に、恒河《ごうが》の岸に聖人住み、ネズミを愛して、人と話す力を与う。一日猫に威《おど》されたいまいましさに、どうか自分を猫になしたまわれと望むと、聖人たちまちそのネズミをネコに変じた。次に、犬に威されたから犬にして貰い、それからサル、それからイノシシ、それから象となったが、象は女に乗らるるがいやだと言って女に化し貰うた。さてポストマニ、ケシ姫と名付けられた。今度は女は男に乗らるるという番だが、果たして国王がその聖人を訪問したので、ケシ姫が給仕に出ると、王ネズミ色のよだれを垂れ流し、これは誰の娘と尋ねた。妾はもと王女だったが林中に迷いおるところをこの聖人に助け育てられた、と答えを聞いて、いつわりと知らず、聖人をなかだちにしてケシ姫をめとり、百年までもと楽しく暮らすうち、一日、ケシ姫、井戸端で目が舞って水に陥って死んだ。王わが身を忘れて嘆き悲しむところへ、聖人やって来たり、この女、実はネズミからいろいろと変化したもの、さまで惜しむに足らずといって、井に死骸の入ったまま土で埋めると、ケシが生まれた。それより阿片《アヘン》をとって用いると、ケシ姫が変化し来たっただけの動物の性質を兼ね現ずる。すなわちアへンを飲むと鼠のごとくいたずらし、猫のごとく乳(257)を好み、犬のごとく喧嘩し、サルのごとくきたなく、イノシシほど荒く、王后ほど勝気になるという。
 ケシの一種美人革、楚の項羽の死際を見苦しからしめた虞美人が化した草というが、実は欧州の本産で、支那へは後世ひろがったのだ。英国などには、麦とまじわっておびただしく生えるから、コーン・ポピー(麦ケシ)という。ドイツ、ベルギーでは、特にうえて油をとり、料理に使う。古欧人は、この草、常に麦畑に生えるをみて、麦の発育に必要と心得、穀物の神ケレスをまつるに、その種子を用い、むぎわらとこの花で冠をこしらえ、その像に被《かぶ》らせた。蘇子由、ケシの説に、麦とともに種《う》えるとあれば、支那でもケシと麦は棒組らしい。
 
 ケシ科の野草に、欧亜共に自生するクサノオウあり。ラテン名ケリドニウム、英名スワロー・ウォルト、いずれもツバメグサの意だ。春分にツバメが来ると同時に花咲くゆえ、なづくという。余その花を愛し、多く植え試みるに、毎年暦がいらぬほど正しく春分の日咲きそめる。今年のみ数日後れ開いた。西洋で古来ツバメのひな生まれて盲《めくら》なるを、母鳥この草で拭うて目を開きやると信じ、したがって眼病の妙薬とした。わが国でははれものの神薬だから、カサの王、それからクサの王というとか。この草や宝貝でツバメがその子の眼を開くということ、ロングフェローなどの詩にみえ、明治二十八年、あるオランダの学者『ネーチュール』誌へ質問を出したのを満足に答うる者なきより、熊楠発奮して十三ヵ国の語を学び、詳しく調べた上、「燕石考」という物あり。どこへ提出しても全篇を通読し得る者なく、今に引出しに隠居させあるは惜しいことじゃ。
 白鮮《はくせん》は、中南欧州からカフカスをへて北支那、黒竜江辺まで自生すれど、日本へは徳川氏の世に渡った。サンショウごとき香気あって、花も美しいが、あまり植えない。古来、漢洋とも薬用したもので、研究すべき一くせあるものだ。インドの拝火教徒、霊草としてことに尊ぶ。茎に細毛腺多く、それが揮発油を出し、不断蒸発して近所をはなはだ燃え易くするゆえ、火を近づけると草全体が暫時不動尊のごとく?に包まれるが少しも損ぜぬ。
(258) ノウゼンハレンも、昨今咲き初めおる。ペルーの原産だが、そのハスの葉様の葉と、かぶとようの花を、古欧州の円楯と金かぶととに見立てて、トロペオルム(戦利品)と学名した。葉と実を塩と酢に漬けると、からし漬のような味してなかなか旨いが、豪的《ごうてき》に飯が進むから叱られる。花も西洋料理のケンに使う。これも珍草で、夕方に定期にその花から電光を出すを、リンネの娘クリスチナが創見したというから、多く植えて研究したら大国益になる件を見出だすかも知れぬ。   (大正十五年五月二十八日−六月一日『大阪毎日新聞』)
 
       きのうきょうの草花
 
 今年は気候不順でさきおくれた花が多く、また秋開く花が初夏から盛りおるのもあるが、とにかく自分の家庭には石竹科の花がいと多くさき乱れおる。その中で一番妙な伝説をもつは眼皮《がんひ》だ。『枕の草紙』に、かにひ〔三字傍点〕(異本にがむひ〔三字傍点〕)の花とあるはこれらしいが、色はこからねど藤の花にいとよくにて、春秋と二度さくいとおかし、とは限皮と違う。達磨大師九年面壁の時、眠くてならぬから自分で上下のまぶたを切って捨てたところに、翌朝この草がはえあった、花が肉色でまぶたのようだったので眼皮と名づけた、と『和漢三才図会』に俗伝をのせある。石竹を仏語でアレ(小さい目)、英語でピンク(細目でまたたく)と呼ぶのも、花びらが肉色で端の歯が長くて、細目のまつげの体《てい》ゆえの名という。『和漢三才図会』出板の少し前に本邦へきたケムペルの『外国見聞録』には、達磨が切り捨てたまぶたからはえた植物の葉を用うると眠くなくなった、その葉のへりにまつげ様の歯ありてまぶたに似おる、これが茶の初まりだと日本で聞いた、と存分人を茶にした話を記す。
 オランダ石竹を、英語でカーネイションというは、肉色の義で、その花の色によると説くが、もとはコロネイションといったのでむかし花冠にしたから冠という意味が正しき由。花の香が丁子《ちようじ》のようだから、イタリーでジロフリ(259)エル、英国で中世ジロフル、共に丁字花の義だ。チョーサーの詩などにある通り、十四世紀ころ、もっぱら酒を匂わし、また料理にも高価の丁字に代用した。この花の砂糖漬は非常な強壮剤で、時々食えば心臓を安んじ、また熱疫を治すという。イタリーの百姓、これを熱愛の象とし、役得《ペートル》尊者特に好むとて、その忌日(六月二十九日)をカーネーション日と称う。
 石竹はもと瞿麦《くばく》と別たず。日本でも、撫子《なでしこ》また常夏《とこなつ》は撫子属の諸種の総称だったが、後には花びらの歯が細く裂けたを瞿麦、和名ナデシコまた常夏、細く裂けぬを石竹、と日本で定めた。清少納言が、なでしこ、唐のはさらなり、大和もいとおかし、というた通り、ナデシコは野山に自生多いから大和撫子、石竹は支那から入れたゆえカラナデシコという。金源三の歌に、「もろこしの唐くれなゐにさきにけり、わが日の本の大和撫子」。これ近代の秀歌なれば、定家卿が『新勅撰集』を編む時、わが日本とはこの輩の口にすべきでない、この日本と直さば入れようというと、一字でも直されてはいけない、かつ日本人はみな皇氏なれば天子をわが君という、この国に生まれてわが日本といわんこと、その人を差別すべきでないといい張って直さず、入れられなんだとは、よほどえらい。むやみにデモクラなど説く輩、わが日本に生まれてこんな故事に盲で外国の受売のみするは、片腹どころか両腹痛いとここに書くと、二月《ふたつき》も立たぬうちに、きっとわが物顔に「金源三の平等観」など題して書き立つる者が出るはず、それは盲が窃盗を働くのだ。さて、松島の雲居《うんご》は盗人に取られ残った金を渡しに立ちかえったというから、右の金源三の一条は『塵添?嚢鈔』七巻二章にあると出処までも教えおく。
 俊頼の歌に、「唐くににありけることはいざしらず、あづまの奥におふる石竹」。この歌の心は、むかし島田の時主という勇士が、霊あって人を悩ます石を射ると、矢が石に立って抜けず、撫子の花を開いた、と『藻塩草』に出ず。そのころは撫子と石竹を別たなんだのだ。石竹をカテナデシコというから、全く支那からきたと思う人もあらんが、故矢田部博士の『日本植物篇』に、本邦自生のコナデシコ花は淡紅で、栽培する石竹の原種だ、とみゆ。
(260) 熊楠按ずるに、菅公の知人島田忠臣が禁中の瞿麦花を詠んだ詩が二つある。花紅紫赤、また濃き淡きあり、春末初めて発し、夏中最も盛り、秋冬凋まず、続々|開拆《かいたく》す、四時翫好、蕪靡愛すべし、今年初めて禁籬に種《う》ゆ、物地を得て美を増す、数十の名花ありといえども傍ら色香なきごとし、けだしこの花、大山川谷に生じ、好家名処にあらず、と叙《の》べ、ばら刺《はり》あるを嫌い芍薬光なきを愧づ、と無上にほめたてた。大山川谷に生ずとは陶弘景の説で、支那でのことゆえ、忠臣が詠んだは、支那より渡った四季咲きの石竹を宇多帝が初めて宮中に栽えさせられたとみえる。林述斎いわく、桜の前の彼岸桜、牡丹の後の芍薬、カキツバタの後の花菖蒲、撫子の前の石竹、菊の後の寒菊、いずれも品格は劣れども、またすて難くや、とは憲政会連が若槻首相を評するように聞こえる。
 
 今さきおる石竹科の花に、道灌草は、むかし江戸の道灌山に植えたという。漢名|王不留行《おうふるこう》、『本草綱目』に、その薬性走って止まらず、婦人服し了って乳長く流るという語あり、王命ありといえどもその行をとどむる能わず、ゆえに名づく、と釈く。『下学集』には、この草本は剪金花と名づく、蜀主もとよりこの花を好む、宋に降り?《べん》に遷さるるによって、人この花を王不留行という、と記す。支那書に見ぬが、足利時代にそんな噂が伝わりおったのだ。
 ムシトリナデシコ、英名キャッチ・フライ(蠅取)、その茎に粘液を出し、蠅がとまると脱《のが》さぬ。それを面白がって、十七世紀にロンドンの花園に多く植えたそうだ。その学名シレネは、古ギリシアの神シレヌスに基づく。禿頭の老人、鼻低く体丸く肥え、いつも大きな酒袋を携う。かつて酒の神ジオニソスを育て、のちその従者たり。貌《かお》醜きも、聖智あればソクラテスに比《たぐ》えらる。栄利に構わず、酒と音楽と眠りのみ好む。過去と未来のことを洞視するゆえ、人その酔い眠れるに乗じ、花を連ねて囲み迫って、予言しまた唄わしむ。かかる智神も、酒という世の曲物《くせもの》に叶《かな》わないのだ。この神酔うて涎ばかり垂らしおるに較べて、ムシトリナデシコの一属をシレネと呼んだ。只今山野にさくフシグロや、維新後入来のシラタマソウなど、この属の物だ。シラタマソウは英国等に自生し、若芽が莢豌豆《さやえんどう》とアスパラグスの匂(261)いを兼ぬるから、それらに代用する。札幌辺に生えるというから、料理に使い試《ため》すべしだ。
 パースレイも只今花さく。至ってまずい花だが、古ギリシア人は、ヘルキュレス初めてこれを冠ったとて、極めてこれを尊び、乾からびたパースレイの冠をイスミヤ競技の勝者に授けた。これを佩びると、心落ちつき食慾が進むとて、会席の客がその冠を戴いた。また死骸にこの草の枝を撤いたから、人が死際にあるをパースレイが入用だといった。プルタルクス説に、パースレイを負うた驢馬に会った軍隊が、敗軍の凶兆と心得て大騒ぎした、と。また畑を作るに、まずパースレイとヘンルウタをその縁に植えた。よってまだ実行に取りかからぬという代りに、やっとパースレイとへンルウタの段だ、といった。
 ヘンルウタも今さき、これもまずい花だ。匂いが強いので、諸虫の毒を消し、眼を明らかにし、智を鋭くし、女が食うと操が固まるというた。むかしマルセイユでペスト流行の際、盗賊四人、この草で酢を作り飲んで、少しも感染せず。片っ端からペストの家に入って大窃みをした。アリストテレスは、イタチがこの草を食ってのち蛇と戦うに、蛇その匂いに堪えず必ず負ける、といった。英国で古く、この草を隣から盗んで植えればよく茂る、といった。紀州田辺でも、蓮芋《はすいも》とヒトモジ葱は盗んで植えよという。
 ダーリヤは、白井博士教示に、天保十三年初めて輸入され、初めは蘭名ラノンケルで通用したが、葉花共にやや牡丹に近いゆえ天竺牡丹と俗称した、と『舶上花譜』に出ず、と。今年紀元節号『日本及日本人』に、山内嵒氏いわく、雲南の大理府は、この草の原産地で、外国人はじめてこの花を広東で見た時、何の花ぞと問うと大理呀《ダリヤ》(ダリヤです)と答えたるを、そのまま花の名としたのだ、と。本邦諸所にドーレの木という物あり。妙な木ゆえ名をとうと、ドーレ(何れ)の木と問い返したのを、その木の名にしてしまったという類だ。しかし、『植物名実図考』など最も南支那の草木を満載した物に、ちっともダリヤを出さず。斯学の玉条たるエングレルおよびプラントルの『自然分科篇』に、ダリヤ九種みなメキシコの原産、とあり。一七八九年にイスパニア僧カヴァニエスが、スウェーデンの植物学者ダー(262)ルの姓によってダーリアと命名したこと、その著『西班牙植物図説』一と二の巻に明らかなれば、支那の原産でないは論を俟たず。   (大正十五年七月三日、四日『大阪毎日新聞』)
 
       七月にさく草花
 
 本邦固有の草花で、この月最も目立ってさくのはユリであろう。ユリ属、およそ八十種、松村博士の『帝国植物名鑑』によると、二十一種まで日本に自生する。欧米とも多少自生するが、英国には一つもない。今日でも、田舎で牡丹、芍薬、ユリの花と並べて、無上の美しい物と心得た人少からず。『万葉集』にもっぱらよんだサユリというのは、サミダレ、サツキ、サオトメなど、田植時の物にサを冠らす、と本居宣長の説から考えると、田植時にさき出すササユリのことだろう。花淡紅だ。その変種タモトユリは琉球の深い谷に生えたのをやつと一株取り袂に入れて持ち帰ったゆえ、タモトユリとて珍重したという。吉野ユリ、一名料理ユリは、色も香も味もすぐれて、近年海外へおびただしく出るときく。
 『徒然草』や『枕の草紙』に、草花を挙げたがユリを入れず。『庭訓往来』には果子《かし》の中に列ね、『類聚往来』には草花に入れ、『尺素往来』にはサユリと姫ユリを夏の花に掲げた。されば二百十八年前できた『大和本草』に、むかしはユリの品多からず、近年、世にその花を賞するゆえ、その品ようやく多し、幾十種ということを知らず、百種に及ぶ、その花、天に向かうも地に向かうも傍に向かうもあり、と載せた。伊丹の鬼貫が、「あちらむけ、後《うしろ》もゆかしゆりの花」と書いて四筵をアッといわせたは、傍に向いてさく花を意味する。まことに美女の後姿は真向きよりも床しいものだが、後姿のみ抜群な女もあり。後からヤアとほめて顔をみると、ハアとあきれるようなを、掛声にちなんで鼓《つづみ》女郎と呼んだとか。西鶴の『大鑑』に、京都の紺屋の娘が、世間の芋顔を一人で預かったみにくさと反対に、大幅(263)の帯をしめた後ろつきが絶世ゆえ、「姿のお春《しゆん》」と呼ばれ、名優上村吉弥これを模して吉弥結びをはやらせた、とみゆ。
 許六いわく、姫ユリは十二、ばかりなる娘の後に帯美しく結びたるごとし、と。この外、ユリの内にも博多ユリ等、後姿が特によいが、鬼ユリ等はみるに堪えぬ。天に向かってさくユリで、一番もて囃されたはスカシユリ、というと匂いが怪しいようだが、そんな訳でなく、花びらの下部が細くて透き間があるによった称《とな》えで、上に向いてさくゆえ天上ユリともいう。茎高からず花大きく、すこぶる端正だから、学名をリリウム・エレガンス(端正ユリ)とチュンベルグが付けた。むかし大阪で限りなく変生を作り、和歌山などへもその根を伝えたが、昨今どうなったか知らぬ。
 古歌に、「ともし火の光にみゆるさゆり花、ゆりもあはんと思ひ初めてき」、「さゆり花ゆりも逢はんとしたばふる、心しなくばけふもへめやも」。後にということをゆりといったゆえ、ユリの花に行く末を頼む心を寄せたのだ。西洋では、古来ユリを真っ白と清浄の象徴とし、リリーなる英名も、白の意義なるケルト語彙に基づく由。けだし欧州で最も古く著われたユリは、英名ホワイト・リリー、近年日本へ入ってニワシロユリと呼ばる。地中海の東岸諸国の原産だ。
 ギリシアの神代にアムフィトリオン、美女アルクメネを娶らんとすると、自分の兄弟の仇を討ってくれねばならぬというので、アムが仇を捜しに出た。ゼウス大神、好機逸すべからずとあって、アムフィトリオンにばけ、敵はすでに討ちおわったと物語り、一夜を三夜の長さにしてアルクメネと通じ、大剛の者ヘラクレスを産んだ。ゼウス、この子を不死にするため、本妻ヘラの乳を飲ませたかったが、大焼餅の本尊ゆえ思いも寄らず。左思右考して睡りの神フプノスが作った睡り薬を与えると、ヘラ前後も知らず深睡した。さてヘラクレスをヘラの胸におくと、無上の妙味があるので貪り飲んで乳を余し、天に流れては天の河、地に落ちては白ユリとなったという。『聖書』に載せたユリは別種で、花赤い物というが、天主教でもギリシアの旧伝をつぎ、白ユリを聖母マリア無垢の象徴とする。
 ローマの口碑に、聖母死んだ時、トマス尊者居合わさず。その復活を疑い、乞うてその墓を開くと、ユリとバラの(264)花のみで満ちたり。尊者呆れて見上げると、聖母が天へ登りながら後の証《しるし》に帯を投げ下ろした、と。さてユリの花さく時、ユリを夢みれば婚姻、幸福、繁昌の兆、季節外れて、または凋《しぼ》んだユリを夢みれば、願い叶わず、また好いた人が重く病む兆だそうな。支那で、何でも思う通りになるという祝意でユリ根《ね》と霊芝を画く。ユリを百合とかき、霊芝は坊主がもつ如意に似るから百事如意の謎という。ユリは、多くは葉が細いが、芋の葉のように広いのが、ただ二種ある。一はリリウム・ギガンテウムでネパール国の産、一は日本のウバユリで、北の方千島まで生ず。只今花さく時、葉はかれおるから、歯抜け婆に比べてウバユリだそうな。根が甘く、山人、ヤマカブラと称え、煮食う。また澱粉をとりユリ粉と名づけ、あるいはカタクリの擬品とし売る。紀州竜神村でこのユリをホッポウとよぶ。時鳥《ほととぎす》がホッポウタケタカと鳴くと、このユリが芽をだすという。今は小児のみその根を焼き食うが、むかしは村民一同生活の要品とし、時鳥の鳴声までも注意したのだ。
 前年、紀州第一の険処安堵が峰でソバマキトンボなる虫を見て、由来を問うと、このトンボが鍬の柄の高さにとぷ時ソバをまく例、と答えた。暦が行き届かぬ処には些細のことにも気を付けて季節を知ったもので、ギリシアのヘシオドスの詩に、槲《かしわ》の森でカンコ鳥なく時、百姓が地を鋤き初める。支那でも、この鳥の鳴声で農候を知る。日本でも同じ訳で、ムギウラシ、アワマキドリ、マメウニドリなど称う。こんなことを詳しく集めたら殖産科学上に大益あるはずで、支那の「月令」や「花月令」、上田余斎の『追擬花月令』等、ざっとその類だが、俳諧歳時記と同じく、あまねく地方による同異を調べおらぬから、実際に適せぬ場合が多い。
 右の他、只今さくユリ科の草に、車葉ツクバネ草あり。その本種、婚約草、ハーブ・パリスは、欧州と西亜に産し、茎を囲んだ四葉が、男女婚を約して紐を結び相贈る縁結びの結びめに似る。毒草だが、毒で毒を攻めるつもりでむかしは諸毒を追い出し、ペストを治し、その実は一切の眼病にきくと信じた。
(265) 萱草《かんぞう》は、その苗を食えば楽しんで憂いを忘れるとあって、一名、忘憂また忘れ草、それから日本でワスレグサという。『今昔物語』に、紫苑を見れば思うことを忘れず、ゆえに嬉しいことあれば紫苑を、憂いある人は萱草を常にみよ、とある。ギリシアの旧説に、アフリカに棗《なつめ》を常食する国あり、他国の者それを食うと、全く世間と心配を忘れてしまう。オジッセウスがトロヤ役果てて帰る途中、この所に立ち寄って、軍兵この棗を食うて故郷も知る人も忘れしまうを懼れたそうだ。今も支那人、一種の萱草、ヘメロカリス・グラミネアの花を乾《ほ》し、おびただしく在外支那人へ送るを、茶に点じて用い金鍼菜《キンツインツアイ》と呼ぶ。前年米国で調べると、すこぶる摂生に益ありと分かった。その苗を食うと少しく酔うというから、後家婆さんなどが憂いを忘るる便りとなるべく、さてこそ人の老母を萱堂《けんどう》というのだろう。
 これよりも物忘れで著名なはミョウガで、元和時代の笑話に、馳走の菜にミョウガあるを小児に示し、これは鈍根草と名づけ、食えば物忘るるゆえ、読書家は食わぬというと、それなら食おう、食って餓えを忘れようといった、とある。狂言『鈍根草』に、釈尊の弟子で智恵第一の阿難の塚から生えたゆえ、蓼《たで》を利根草と名づけ、愚鈍第一の周利槃特《しゆりはんどく》の塚より生えた草を鈍根草と名づけた、とあり。この人おのが名さえ覚えず、書き付けた物を荷《にな》うて歩いたから名を荷うと書いて名荷だという。仏経にそんなことさらにみえぬが、文安のころすでに名荷と書いた由、『下学集』にあれば、この字に由ってあんな談ができたと知る。食えば上《のぼ》せる物ゆえ、人により健忘をも起こすだろう。さりとて、むやみに嫌わぬのみか、冥加の意に取って祝事に用い、家紋にもされた。会席で見苦しく居眠るを禦ぐには、ミョウガを柔らかに叩き、尻に敷きて坐すべし、と『京童』にあるが、僕は別嬪の顔のみ見詰めて居眠りなど気《け》にもでぬからミョウガを要せぬ。夏ミョウガ、秋ミョウガとて、夏花あるのと秋咲くのとある。
 これと同科の生姜《しようが》は、呉《くれ》すなわち南支那から伝えたから、和名クレノハジカミ。ハジカミは辛料《からみ》の総称だ。インドの原産らしいが、どこにも野生なし。インド等の熱地でも、花極めて稀《まれ》に、実はみた者なく、和漢の書にはかつて花実を載せず。しかるに、余、熊野で二回その花を獲、アルコールに漬けて珍蔵しある。
(266) ヒガンバナ科で今さくのはサフランモドキ。メキシコの原産で、弘化の末、伝来した。初夏初めて花あり、尋《つ》いでまた花茎を出し、一夏二、三次に至る、盆玩の至宝というべし、と飯沼慾斎はいった。熊野でも、五十年ほど前までは鉢栽にしたが、現今余の宅地などは至る処にはびこり、蕃殖制限に手をやきおる。しかし、翫賞の外に実用にも立つ。拙妻の亡母、手織の機《はた》の遊び糸にこの根を潰しすりつけおくと、鼠に咬み切られずと教えのまにまに、拙妻また実行して大いに助かりおる。このこと洋書にみえぬ。
 イチハツ科で今さきおるはグラジオルス。この属九十種の内、五十まで喜望峰の原産だ。グラジオルス・コムムニスは、南欧に生じ、美花の変種数々あり。日神アポロ、愛童ヒアキントスと円盤《ジスクス》を抛げ遊ぶを、風神ボレアス妬んで円盤《ジスクス》を吹きそらせ、ヒの頭に打ちあて、これを殺した。その血が落ちた処にこの草生え、花びらにアポロの嘆声アイアイの字を現ずという。むかしは、この草の上の方の根は性慾を起こし、下の方のは生殖力を消す、と信じた。
 ヒオウギは、貴婦がもつ檜扇に似たによる名で、漢名射干また烏扇、それを直訳でカラスオウギともいう。日本、支那、北インドに産し、ビルマでも多く植えて薬とす。花、黄赤く、黒斑で虎豹の皮のごときゆえ、属名バルダンツス(豹花)、英名タイガー・リリー(虎ユリ)と呼ぶ。神代に、御歳神、稲虫を駆る法を伝えた語に、烏扇で扇《あお》げ、とあり。この草の種真黒で光るをヌバ玉と呼び、ヌバ玉の夜という古い枕詞もある。一属ただ一種あるのみ。『本草』に紫花の射千もあるとみえるが、メーソン氏の実視談に、支那ではヒオウギに限らず、若干のイチハツ属の草をも射干とよぶ由。ゆえにイチハツ属の一種春末にさくものを、邦俗シャガというは、射干の転音で、決して誤称にあらず。
 
 『南水漫遊』に、霊元法皇は万乗の君の御身として、あまねく下情をも知ろし召され、かつて近松の『最明寺百人上臈』を叡覧あり、これほどの文才で和歌をよまば秀逸多くできるはず、と御感あり。「清十郎きけ、夏がきてなくほととぎす」、「わせ中で晩稲《おくて》かるたの一二三ソ」などの玉句も遊ばされたとあるが、『野史』には「濁らずば、草も仏よ(267)庭のしゃが」というのを載せある。「シャガのガを澄ませば釈迦だから」。
 サギソウは、蘭科に属し、花真白で毛ありて鷺の飛ぶごとし。七月一日の『日本及日本人』に、故杉浦重剛先生が口授したこの草の話が面白く記された。清楚の二字は特にこの花のために作られたというてもよい、三伏の苦熱もたちまち忘れる、清楚その物の象である、とありて、三つばかり伝説を列ぬ。いずれも白鷺死んでこの花になったというのだ。英国では、実の形からオランダ・フウロを鷺の嘴、フウロソウを鶴の嘴、天竺葵を鸛の嘴とみたて、ヘロンス・ビル、クレインス・ビル、ストークス・ビルと名づく。みな今、花さきおり、フウロソウ科のものだ。
 バショウは熊野等では今ごろ花さくこと稀《まれ》ならねど、東国、北国ではずいぶん珍しいから、優曇花《うどんげ》と心得て大騒ぎした由、『東鑑』に見える。優曇花の講釈は『仏教大辞彙』一の二九四ページに詳しい。三千年に一度さくというので、ガラスより堅い石さえみれば金剛石と書き立つるごとく、稀にさきさえすれば優曇花と騒いだのだ。仏経に、人身の不定をバショウに比べたによりて庭に植えず。唐の段公路の『北戸録』に、隴州《ろうしゆう》に紅蝙蝠《べにこうもり》あり、ひと双《つが》いが紅蕉の花間に伏す、一を獲《と》れば一去らず、南人収めて媚薬とす、とあり。余、若い時読んで変なことと思うたが、のち熱帯地方で鳥が蜂同様に花を媒介するを見て、くだんの蝙蝠も媒花の功あるにあらずやと疑うた。その後、ジャワやトリニダッドで、蝙蝠が実際タコノキ科や豆科の植物を媒花するを読むに及び、どうも南支那にもそんな蝙蝠がありそうに察し、『植物学雑誌』へ書き置いた。紅蕉は、わが邦に伝わりある美人蕉と、今一種花赤いバショウが支那にありと覚える。南支那へ行く人の実験をまつ。
 蒲《がま》。その穂を形容して、英名キャツテール、猫の尾。学名ツファ、ギリシア語で沢の義。『四声字苑』に、浦《ほ》は大川の曲がった隅に船が風を避くる処、とあり。そんな所に多く生えるから蒲とかくに同じ。『古事記』に、因幡の白兎が傷み悩むを大国主の命が蒲の花粉で療じやった、とあって、本邦で最《いと》古く知れた薬草の一だ。
 支那でも金創の血留《ちどめ》とし、また鼻血、吐血、尿血、産後下血や打傷の妙薬とする。ことに、こればかりは必ず心得(268)置かねばならぬは、フランシス・ガルトンが、善胎学《エウゲニス》を首唱したはよいが体質上のことばかりに念を入れて倫理上のことは他力の及ぶところでない、と見離した。しかし、人為で体質をある程度まで和らげて倫理上の都合をよくすることはできる。去年の本紙に、近時、女房の家出や焼け糞的の密夫引入れ多きは、婚前体質の応不応の吟味不行届きなるによるとの社評あったが、こんな研究は支那人がえらく、丹波宿禰康頬の『房内記』でみると、彼らは古く大年増を二十日のうちに未嫁の童女に見事改造した。それには、硫黄と蒲黄すなわちガマの花粉を主用したのだ。大正十一年、余、植物研究所の寄付金を募りに上京した時、一大臣、室に怨女、野に曠夫なからしめ、百姓とこれを享楽せんとの天晴広大な仁心から、某局長立会の上このことを諮詢あり。余、かくのごとく答えたので悦服され、少なからず黄白を贈られたは、実に政治の大要点に気のついた名相と感心し奉る。
 さて蒲の苗は、周のころ支那貴人の珍饌とした物で、今もロシア人、コサック人等は賞用する。花粉は右に述べた偉効ある上に燃え易いから、花火に利用したらと熊楠は思う。西洋ではガマの葉を牛に飼い、蓆、籠、椅子の底、屋根葺に使い、桶の板間をつめ、その種を枕に入れる。インドの蒲は日本のと別種だが、その根で川の水を澄まし、葉を船の綱にし、その実をシックイに搗きまぜ、花粉で果子《かし》を作る。蒲といえば、小児がその穂に火を点《とも》して?燭代りに玩《あそ》ぶ外に用のないよう一汎に心得らるるに、実際右様多くの役に立つ。国勢調査とて大金を費やし、一切合財人間の頭数だけ知ったところでさしたる効もあるまい。それよりは、サアというに臨んで大小応分の功を挙ぐべき一切の物産を綿密に調査しおくが其の国勢調査と思う。   (大正十五年七月二十五日−二十七日『大阪毎日新聞』)
 
       このごろのくさ花
 
 八月の草花で一番目立つは、何といっても蓮だ。蓮の花の漢名が芙蓉で、これに似た花さく木を木芙蓉というたの(269)を略してただ芙蓉というから、間違わないように蓮を水芙蓉また草芙蓉。いわゆる長屋をかして母屋をとられたのだ。
 セイロンで蓮をネルムボというから、蓮属の学名がネルムビウム、これにただ二種あり。一つは日本、支那、インドでみなれた蓮で、東は濠州の東北部から西は裏海まで広がり、古エジプトでも作って食用したが、今は絶えた。花白きを梵語で三つに言い分ける。まだ開かぬをクマラすなわち童子、盛り過ぎて落ちかかったのをカーマラすなわち黄疸、盛り最中をプンダリカ、近松の浄瑠璃に『妙法蓮華経』をサツダルマフンダリゲと復訳しあるフンダリゲで、大蓮華また白蓮幸と訳する。花赤い蓮は梵名。ハドマ、紅蓮と訳し、チベットの仏徒は口癖にオム・マニ・パドマ・フムと念誦する。修羅《しゆら》の娘に生まれながら、天帝釈の后となった舎脂《しやし》夫人の頬が紅蓮のごとしとあり、梵教にはインドのヴェヌスと呼ばるる婀娜物《あだもの》ラクシュミ女神が紅蓮花に坐ったところをパドマヴァチー、蓮華坐尊《れんげざそん》と唱え、梵教に反対のジャイナ教徒も、この像に限って敬礼する。こんなことから、そして蓮の実を多く食用するから、蓮を英語でサクレッド・ビーン、神聖な豆という。
 欧州には、過去の地質紀に一種の蓮があったが、絶え果て化石に跡を留め、只今北京ごとき冬寒い地にも故障なくはえる蓮が温室でなければ育たぬよりみると、どうも蓮は欧州を嫌うらしい。支那には、春秋の昔、管仲が五沃の土蓮を生ずといい、まだずっと古く、周公が西暦紀元前千百年ごろ書いたという『爾雅』に、蓮の根から葉、茎から種子までの名を列べあるをみると、そのころすでにどこもここも利用したとしれる。
 日本でも、雄略天皇が美和《みわ》河の辺で洗濯しおった引田部《ひけたべ》の赤猪子《あかいこ》という童女を見初めて、人へ嫁ぐな、朕が召すをまてと仰せあったきり、取り紛れて八十年の永い間打ちやらかしおかれたので、せっかくの処女も乾き付いてしまい、何の役に立たぬと知りながら、年来の志を顕わさんとて進物を持って参ると、天皇大いに驚かせたまい、朕まことに失念した、いといとおしとのりたまいて婚せんと欲すれども、その極老を憚りたまいて婚をなすを得ず、御歌二首を(270)賜い、かの極老処女、その丹摺《にずり》の袖を涙にぬらして、二首の歌で答え申した。その一つは、「日下江《くさかえ》の入江のはちす花ばちす、みの盛り人ともしきろかも」。
 本居宣長がいった通り、古支那で蓮はハスの子《み》の名で、日本でも、もとハスをハチスというたは、その子《み》の土台たる花托に孔多く蜂の巣によく似たからで、われも年若くば今も帝に召さるべきに、夏のカズノコほど後れてさっぱり御用に立たず、それにつけても日下江の蓮同然に盛えおる若い人たちを羨ましく思う、と読んだのだ。
 蓮は仏臭い物で、何となく仏教につれて渡来したらしう心得らるるが、実は仏教のない昔より日本にあったのだ。しかし、神代の伝説にも神の名にも全く蓮がなく、そのころこんな美しい花があったら、まるで見遁すはずもないから、どうも蓮は初め外国から移した物と考えられる。
 前回には、蓮属二種の内、東半球産の蓮、学名ネルムビウム・スペシオスムについて述べたので、今一種ネルムビウム・ルテウムは、西半球に限り、米国の東部諸州より西インド諸島をへて南米コロンビアのマグダレナ川口まで生ずる。これは花が黄色だ。東半球の蓮にも、黄花に近いのはあるが、雄蕋の頂きの形が違う。米国の蓮は、東洋の蓮と同じく、根も実も食えるゆえ古来インジアン人がいろいろと植え弘めた。
 米国で十五年間、学校へ入らずに工場ばかりで実地に電気工学を修め、前年帰朝して商品用に工場を経営しおる飯島喜太郎氏は、明治二十二、三年ごろ、余と同じくアンナバーにぶらつきおった。七、八月の暑い最中に、余を訪うて、こら金色の蓮をみたことがあるか、しかも川に生えておるのだ、という。「学問の下地のない奴は嘘をいう働きさえ持ち合わさぬ。むかし桜井基佐、宗祇法師が歌道に名高きを悪み、どこかで辱しめやらんと待つうち、ある連歌会で川という字が前句にでると、基佐、蓮を付句にいれた。神武以来川に蓮ありと聞かぬ、証歌あらば出せ、と宗祇がつめ寄った。その時即座に基佐が『極楽の前に流るるあみだ川、はちすならでは異草《ことくさ》もなし』、どうだ、と手製の(271)偽歌で撃退したは、全く蓮は川にないからだ。もちっとの利いたほらをふけ」というと、飯島、目に角《かど》をたて、「一緒に往ってみようでないか」。「よし行こう。しかし、蓮を見ると死んだ人の顔を思いだして気が弱くなる。その予防にちょいと一盃」。「そらでた、それが成らぬ。道がはかどらぬばかりか、後日に及んで、あれは酔うて炎天に目が舞うて白い花が金色にみえたなど言われちゃ困る」と制止され、面倒な件が起こったと呟きながら、三マイルばかり上ると、ヒューロン河は湖水ほど広くなる。その岸に近い緩流中に、淡黄金《うすこがね》色の蓮花おびただしくさき並び、現世にありつつ極楽のあみだ川を眼前に眺めた。
 心を留めて吟味すると、この蓮は河に生えるせいか、立葉のみあって浮葉なし。ゆえに「蛙とんで浮き上がるはすの浮葉かな」という句などは、米人に判らぬことと悟った。そこで止むを得ず飯島に降参したが、残念でならず、あれは黄花の蓮だ、金色などもってのほか大層な言を吐く男だ、用心せよ、といいふらしたことだった。
 睡蓮およそ三十二種、本邦にはヒツジグサの一種だけ産し、未《ひつじ》の刻、午後二時白花を開くによって、この名あり。睡蓮という漢名は、花が夜分に水に入って睡るのでつけた由。英語でウォーター・リリー、水の百合。欧州には二種あり、共に白花だ。ギリシアの女精ニムフがヘラクレスにほれ、妬み死んでこの花になったとて、学名ニムフェア。文芸の女精団ムサイが、毎度であるくヘリコン野に多いからとかで、美と弁舌の象徴にした。
 古エジプト人は、淡《うす》赤い花さくニムフェア・ロツスの実と根を食い、宴席の客にその花を贈り、日の神ホルスは毎朝小児に現じてこの花から昇るから、再創と浄めの力ありとて、婦女のミイラの陰部におく等、すこぶるこの花を重んじた。よって欧人は、諸宗教で尊ぶ睡蓮科の花をロツスで通称する。インドの劫初《ごうしよ》に、大海より金色のロツス生じ、それより梵天王出でて大地を海中より呼び出し、創世を遂げた。万物保存の神ヴィシュヌも、諸仏もロツス花に座し、またこれを持つなど、欧人が書くが、熱地に睡蓮科の草多種で、日本では蓮の外にこの科の美花がないゆえ、欧人がロツス、支那人が蓮華と訳した物を、ハスに限ると心得違うた人が多い。
(272) 仏経に、釈尊三十二相の第九に、歯白くて軍図花《クムダ》のごとしとあるは、ニムフェア・エスクレンタなる睡蓮で、象牙のように黄ばんだ白花を開くから、黄蓮花と訳され、文殊菩薩が持ったり釈尊の紺青色の眼に喩えたりされた優婆羅《ウトパラ》は、ニムフェア・キアネアなる睡蓮で、経文に青蓮また碧蓮と訳しあれど、ハスにあらず。
 四年前の夏の日、故平沢哲雄氏と日比谷公園を歩むと、小池にこの睡蓮がさきあるをみて、『方広大荘厳経』に仏母|摩耶夫人《まやぶにん》の目浄く長く広くて青蓮花のごとしとあり、『大宝積経』に頂生王に奉仕のため天降った玉女宝の口気浄潔にして青蓮花のごとしとあるはこれだ。詩仙李白が青蓮居士と号したは、青蓮郷に生まれたからで、これは青みを帯びた白花のハスを産するので地名としたらしい。『秘密相経』に金剛杵で蓮花を開覚するを諸仏の最勝業と説く。蓮花を女の象徴とするは諸教に普通だ。この花びらの本広く末狭長くきよくて馨る通り、女人がその象徴を細心持ち続くるのが和合不断の基、と秘密法門を説いて、氏は勿論、今はその未亡人たる吉村勢子女史をも感泣させた。
 本邦の睡蓮科植物は、蓮と睡蓮の外にまだ三属あって、今花さく。河骨《こうほね》は世界に七種、うち二つ日本に産す。根と葉を豚が好み食えど、牛、馬、綿羊《めんよう》は食わぬ。むかしは日本人が食うたらしく、『新撰類聚往来』に、河骨を野菜に列しある。しかし、この類の植物を食うに注意を要するは、古ギリシア人は、睡蓮、精をへらすと信じ、毎夜へんな夢をみる人これを服用し、一度その汁を飲めば十二日間生殖力を失う、というた。
 ギボンの『ローマ史』にあるごとく、エラガバルス帝は半男女《ふたなり》帝と呼ばれた変態人で、西暦二一九から二二二年までの短い在位中、平生淫靡になれ切ったローマ都人さえ呆れ反るばかりの狂行をやり尽して、十八歳で殺された。初め女色を弄ぶこと限りなく、ヴェスタルの斎宮を掠め妻《めと》るに至り、それからみずから女装して皇后と称し、多くの情夫をこしらえ、中にも生支至健なる馭社者ヒエロクレスをローマ帝に推し昇せ、自分その妻となって打たるるを楽しんだ。ところが、ゾチクスという料理人が一層したたかな上美貌無双とあって、半男女帝みぬ恋にあこがれ、遠くアジ(273)アのスミルナより召し上せて大行列でローマに入れ、即時侍従に任じ、まさに大いに用いんとした時、ヒエロクレス賄賂もてゾの厨夫をなつけ、睡蓮をゾに食わせたので、ゾは真綿のごとく弱った。これは看板に大いつわりの男と帝激怒して、直ちに追放したという。
 南支那に、睡蓮を食うと美味な地があると『植物名実図考』にあるが、物は試しというものの、もしゾチクスのようなめにあうたら取り返しがつかぬ。そして、大阪辺でもっぱら賞美するジュンサイと同科で、同じ池に生じ、誤用のおそれが多いから、特に注意しおく。
 ジュンサイは、ただ一種だが、それが欧州の外どこにも産する。晋の張翰が、秋風起こるによって呉中のジュンサイを思い、官を捨てて帰り、人に咎められて、われに身後の名あらしむるは即時一盃の酒に如《し》かずといったは、食道楽で高士の名を取ったのだ。日本にこれほどのジュンサイずきはなかろう。
 オニバスも一属一種で、支那やインドにもあり、近畿の池に多いが、東京ではみなれぬから、往年不忍池へ植えて紫の蓮花が咲いたと吹いて、船賃で儲けた者あった由。岡田要之助君調べに、その葉の径|稀《まれ》に九尺余に及ぶのが富山県にあり、今年天然記念物に指定された由。その実は食うて益あり、池に多く植ゆべし、と貝原先生は述べた。支那で、その粉でビスキットを作り、小児に食わせ疳を治し、米と粥に煮て食えば精気をまし、蓮の実等と合わせて作った四精丸は、睡蓮と反対で、色慾過度より起こった諸病にきくという。
 
 トケイソウの花は、ほぼ蓮の趣きあれば、漢名が西番蓮。ただし、蓮と何の縁故なく、むしろ秋海棠など近類だ。トケイソウ属は二百五十種、最も多く西半球産で、南米や西インド島では小ザクロ、水レモン等の香果を出す。日本へも数種渡りあるが、普通にみるは一種で、ブラジルの原産。『近代世事談』に、時計草、享保の初め渡る、花五月初めより秋掛けてさく、紅紺白紫の花あって、花びら三重に重なり、しべ〔二字傍点〕多く糸を染めたるごとし、一日のうち色品々(274)に変わり、花形面白き花なり、とみゆ。
 それがちっとも面白くないという訳は、余の宅へ植えたところが、一丈余にのび、木を巻き枯らすから掘り去ったが、根が方々にひろがりおって諸処に芽をだし、ついには庭中の土を掘り反さねは絶やし能わず、困り切っておる。近村では、根が大溝の敷石の底に這い渡り、蔓が電柱を纏うて延びるに伴《つ》れて石を持ち上げ、その溝を荒らしてしまった。時刻に随い色が変わるから、時計草といったものか。天主僧初めてこの花をみた時、その諸部それぞれキリストを磔《はりつ》けた道具を表わすとこじつけ、土人感化の方便説に用い、キリストの受苦をパッションというゆえ、この草をパッシフロラ、受苦花と名づけた。一六二五年ごろ初めてローマで咲いた時、正教大いに起こるべき瑞兆として、猫も杓子も大騒ぎをやった。
 秋海棠は、『近代世事談』に、寛永年中、支那より渡る、『草本花詩譜』に、嬌冶柔軟にして美人粧いに倦《う》むに同じとあり、と書いた。『塩尻』にも、この花中ごろまでわが国になかりしにや、尾張敬公一本得て限りなく愛《め》で念《おも》われた、当時知る者|稀《まれ》なりしに今はどこにも多い、と記す。しかるに、実はむかしから本邦に目生した物の由。
 秋のキリンソウは、今年例より早く余の家にさきおる。英国で、この草切疵を合わすと信じ、学名をソリダゴ、合わせ草とつけ、エリザベス御宇まで外国より取り寄せて高価に求めたが、そのころロンドン郊外ハムステッドに多く自生せるを発見するや否、こんな物がきくはずなしと、この薬は全廃された。だから、かの国の諺に、遠くからきた高物が一番女中にむく、という。古来自国にありふれた説を、西洋人に聞いて新しがるのと同じ。ただし、余は那智山で野生の秋海棠をみたが、どうも支那伝来の栽培品に劣った物だ。越前三国の遊女歌川、のち滝谷尼《ろうこくに》とて東国を行脚す。その句に、「爪紅のしづくに咲くや秋海棠」。朱図南、羊亘《ようかん》の峭壁上の秋海棠、高さ丈余なるを見しに、花を吐くこと錦のごとく連綿十里、とは大法螺のようだが、只今さきおるロベリアすなわち沢桔梗の諸種、いずれも一、二尺を越えぬに、今年中|阿《アフリカ》ルエンズオリ山七千フィート以上で見出だされたものは、穂の長さ十五フィートといわば、(275)秋海棠の丈余のが支那にないと限らぬ。
 桔梗は一属一種で、沢桔梗が二百種あると大違いで、日本、支那、満州に自生す。吉慶の意に取って桔梗屋という女郎屋が多かった。鈴木主水の唄で名高い四谷新宿の橋本屋は、紺ののれんに桔梗を白く染め出したらしいが、時は今|天《あめ》が下しるとよんだ光秀も、その本家の土岐氏も、土岐の家来筋から起こったらしい清正も、桔梗が家紋だ。土岐は源氏で、源氏は白幡《しろはた》を用いたところ、頼光の玄孫が美濃の土岐郡に住んで土岐氏を称し、源の字の水篇にちなんでか、幡を水色にした。そののち野戦に桔梗の花を冑にさし大いに勝った以来、水色の地に桔梗を紋とした。いわゆる桔梗一揆だ。
 許六が、「桔梗はその色に目をとられり、野草の中に思い掛けず咲き出でたるは、田家の草の戸によき娘見たる心地ぞする」というたごとく、野戦に桔梗をしるしとしたは当意即妙だ。『多賀谷七代記』に、常陸の小田正治、鷹野に出でて硯を持ち合わさず、通行の廻国僧に借りしも水なし。かの僧、野辺の桔梗の花を揉んで硯に汁を落とし、墨すって奉る。正治、その才覚を感じ奉公せしめ、菅谷原で対面したからとて菅谷正俊と名づけ用いたが、正俊の孫正光に至り、佐竹氏に内通し、主家を滅ぼした、とある。桔梗の花は墨をすり得るほど水多い物だろうか。   (大正十五年八月三十一日−九月五日『大阪毎日新聞』)
 
(276)     紀州田辺湾の生物
 
 『論語』に、樊遅《はんち》、稼を学ばんと請う、子いわく、われ老農に如《し》かず、と。いくら農学書を読んだ先生でも、土地に応じて作物を作ることは、その所の年寄、百姓に及びも付かぬ、といったのだ。八年ほど前、田辺湾頭番所の鼻に京大臨海研究所が立てられた時、県庁より工事監督か何かに来た野口というは、今時の役人に希《まれ》にみる忠実な人で、数回弊宅を訪れ、この工事を営む者が生物の学識なくてはならぬに自分その心得なし、御気付きのことあらば何分教え下されたい、と請われた。まことに用意周到と感心して、思い付き次第書き付けて差し上げようと約したが、程なく蓄膿とかで罷職し、他県へ徙《うつ》った後までも時々慰問された。今はどうなったか知らぬ。その時、野口氏のために書き付け置いた一小冊は、爾来誰も尋ね来たらぬゆえ片付け置いた。『荀子』に、問わずして告ぐるを傲《ごう》といい、一を問いて二を告ぐるを?《さん》という、とあって、所詮差出口は入らぬことと思うたからだ。しかるに今度測らずも、田辺湾へ生物学御研究に御臨幸と承り、諸方より種々の問合せしばしばいたるゆえ、かの小冊によって多少述べよう。
 田辺湾内で目ぼしい処は、何といっても神島《かしま》だ。すでに神島と名づく。この島の神が湾内を鎮護すると信ぜられたるの久しきを知るべし。諸島中最も大きく、周《めぐ》り九町、二つの小山、東西にわかれ立ち、岩平らかな地峡で維《つな》がれ、大潮ごとに地峡も海となって一つの島を両分する。東の山は樹木秀鬱、古来斧で伐られず。西の山は明治十五年ころ一度|禿《はげ》にされたが、今はまた茂りおる。二つながら、この地方草木の自然分布の状態をみるに最好の場所である。新庄村大字鳥の巣という小さい岬より西の海上三町ばかりにこの島あり、また神楽島、加奈伊島等|棊布《きふ》して絶景なり、(277)と『紀伊続風土記』にあり。島の磯辺に立って眺むれば、みずから葛天氏以上の民と想うばかり静かな無人の境である。
 大正四年五月五日、米国殖産興業局主任スウィングル氏拙宅来訪のついで、田中長三郎博士等と神島に遊び、その風光ギリシア海島に似たるものありと称賛|已《や》まず、みずから写真して帰国後送られたのをここに掲ぐ。図中に採集罐を佩びたは田中博士で、紋付羽織が拙者だ。むかし宮女の怨みを制止するに用いたある妙薬について長広舌、それは近ごろ大儲けの妙薬と、手を口に加えて感じおるのが県会議員毛利清雅、その妙薬を捜しおるのが故湯川退軒という儒者の子だ。
 神島の植物さまざまだが、なかんずくもっとも名高いのは彎珠《わんじゆ》だ。もと?珠と書いたらしく、?はムクロジで、共に数珠にするから謬り称えたらしい。夏月淡緑の花さき、刀豆《なたまめ》に似て短い莢を結ぶ。内三、四子あり、大いさ四、五分、厚さ三分ほど、紫黒くて光沢あり、至って硬い。豆科のバウヒニア属の木質の藤《かずら》で、喬木によじ登り数丈に達し、終《つい》にその木を倒す。林中の幹から幹に伸び渡った形、大蛇のごとし。むかし、この神島の林に入って蛇というを禁じ、一言でも蛇といえば木がたちまち蛇に見えると言ったは、本来この藤が蛇に似たからだろう。
 ギリシアの古伝に、テッサリア王フレギアースの娘コローニスが、医神アポルロと通じて妊娠中、イスクスという若者と親しみ、アポルロが監視につけ置いた鴉がこれを告げた。アポルロ大いに怒り、その妹アルテミスしてコローニスを殺さしめ火葬し掛けた時、アポルロ?の中より胎児を取り出し、半獣半人形の神ケイロンに授けて医道と療法を習わす。これが医聖アスクレーピオスで、よく死人を活かすによって世に死人なくなり、地獄大不景気、鬼どもお茶をひくばかりと訴え出た。大神ゼウス、世界が人間でぎっしり押し詰まるも困ったものと、たちまち霹靂してアスクレーピオスを殺し、アポルロ、その復仇に電鋒を造った一眼鬼どもを皆殺しにしたそうだ。そのアスクレーピオスの像は常に蛇木の棒をもつ。いつももって毒蛇を制したのでインドからきたという。この蛇木は、学名バウヒニア・(278)スカンデンスで、彎珠、学名バウヒニア・ヤポニカと同属だが、藤はるかに長大、捻《ねじ》れ廻った状一層蛇に酷《よく》似おる。
 この彎珠属の学名を、ボーアニアという。十六世紀に、スイス・ボーアン家の兄弟、ガスパールとジャンが、共に著名の植物学者だった。この属の植物の葉は、みな図のごとく二つに別れおり、したがって和名をハカマカズラともいう。ブルミエー、すなわちボーアン兄弟の名声|相斉《あいひと》しきを、この葉の二つに等分せるに比べて、この属をボーアニアと名付けた。種数およそ百五十、東西半球の熱帯地に最も多いが、ヒマラヤの寒地に生じ、種子を食用さるるもあり。白井博士来示に、小野蘭山は、山城の八幡に彎珠を栽えて久しく活き、花実を生じた例を挙げた由。田辺近き山里の寒地にも生長して、多少結実した例もある。彎珠の産地は、主として琉球諸島、それから九州の肥後など、紀州ではこの神島の外に江住、見老津《みろつ》、同所海島、江田小島と、去年の御大典に贈位された畔田翠嶽の『熊野物産初志』にある由、白井博士示さる。江田小島には今もあり。また田辺から五里ほどの市江にもあれど実らず。
 白井博士説に、彎珠の字は『紀州産物考』に初めて見るもののごとし、小原良直の著かと惟わる、と。いわばやっと百年内外のことだ。同博士より来書に、「もっともワンジュという名は、宝暦庚辰(今年より百六十九年前)に戸田旭山が大阪に開きし物産会の記録『文会録』に、八幡の人片岡志摩が出品に、鬼見愁《きけんしゆう》、方言ワンジュとして、枝葉の図を出し有之《これあり》候。小生の所見にては、この書の記載が最も古きかと存ぜられ候」と述べられた。その書に基づいたものか、今もこの辺に彎珠を鬼見愁という人あり。『本草綱目』をみるに、鬼見愁はムクロジのことで彎珠でない。江住の彎珠は神島のより早く書籍に著われ、白井博士来示に、『紀州産物考』に、彎珠、一名はカマカズラ、紀州牟婁郡江住の島にあり、他処に見ず、大蔓にして、その茎の周囲二尺に及ぶ、長さ数丈にして喬木に蔓《まと》う、云々、俗にこの実を帯びて悪気を避くという、と出ず、と。
 万延元年斎藤拙堂の『南遊志』に、江住の地士城四郎右衛門方で馳走された時、「主人、木実《きのみ》を出し示す。名を彎(279)樹という。ムクロジに比ぶるにやや小さし。いわく、前島に採るところ、と。予おもえらく、これ念珠と作《な》すべし、彎樹おそらくは念珠の訛りか、かつて聞く、物産家、漢名鬼見愁なるものをもってこれに当つ、と。いまだ是非《ぜひ》を知らず。その木、灌木蔓生し、暖地にあらずんば生ぜず。すなわち一掬を乞うて旅装中におく」と記す。予若き時、和歌山生れで本願寺の学僧兼詩人として名あった小山憲英師を鉛山《かなやま》温泉に訪うと、この書が座右にあった。予ちょっと見て、ここに「非暖地不生」とあるは、あいまいな書き様だ、むかし冷泉天皇の御時、宮中で天台・法相の大宗論あった。『法華経』方便品の「若有聞法者無一不成仏」の句を、もし法を聞くことあらん者は、一として成仏せざることなし、と訓んだ。法相宗の学匠松室の仲算は、もし法を聞く者ありとも、無の一は成仏せず、と法相の意に訓み成した。そのごとく、この文もまた、暖地にあらざれば生ぜずとも、暖地の生ぜざるにあらずとも、全反対の意味にいずれにもよめる。そんな判然せぬ文を書いた拙堂は上手でない、と言った。小山師しばらく案じて、ホンに左様、これを判然と書くには則の一字を入れ、「非暖地則不生」とすべし、まだお若いのに大家の作をよく難ぜられた、天狗の生れ変りでもあろう、といわれた。
 彎珠の用途は、ただ今数珠に作るだけで、欧米でいわゆるシー・ビーンス(海豆)を種々の装飾や耳環の鎮《しず》に使うごときに至らず。数珠商人にきいたは、他所の産は種子の表裏共に多少の凹凸ありて下品なり、神島のもののみ表裏に凹凸なく滑らかで上品だ、と。これは神島の彎珠は、神が惜しむとて滅多に採らず、久しく木に付いて十分成熟した後、腐葉土に埋もれて滑らかになったのだ。しかるに、近来急いで蚤《はや》く採るから、神島また凹凸不斉なもの多し。
 ここに出す図は、件の彎珠を惜しむと伝えられた神島の神に詣る石段の掛りの鳥居前に、果たして大天狗となった鼻高の南方先生を石に腰掛けさせて、スウィングル氏が写真し、帰国の土産としたものだ。この辺に、他には多からぬクスドイゲの木密生し、上の山にただ今|楝《おうち》の紫の花盛りに、見馴れぬ人には紫藤《ふじ》かと見られ、この島特殊の景観をなす。
(280) 『類聚名物考』に、熊野は暖地で毒虫や瘴気が多い、だから他所と異《かわ》り、熊野詣りは冬これをなす、といった。しかし、夏も熊野詣りが盛んに行なわれたは、『盤游余録』に、熊野詣でというものは、虫垂絹をかぶり、杖、笈《おい》などにもめなれぬ形多く、古りぬる世の物とみゆ。註に、熊野の道は木深く蛭《ひる》多ければ、それをよけんためなりといえり、とある。才媛|小大進《こだいしん》が熊野より返る道中で、虫垂絹の透間から顔を見られて、思い掛けぬ筋の文を受け取ったことが、『続世継』に出ず。これは笠の周りにマントーのような物を垂れた物で、蛭のみならず、種々の毒虫を避けたのだ。『骨董集』に図あり。そんな大層な物をこしらえ能わぬ者は、切目王子のナギの葉を佩びて蛭を禦ぎ、この神島の彎珠を持って蝮、蛇、諸毒虫をしりぞけた。また熱病の節、その煎汁を飲んで神効ありと信じた。『紀州産物考』には、俗にこの実を帯びて一切の悪気を避くる様見ゆ。彎珠と等しく豆科の灌木で台湾や琉球に生ずるシロツブというものも、時々田辺湾へ漂いくる。ムクロジごとき球形の白い種子で、緒〆《おじめ》にして佩ぶれば邪見を避くるという。
 外国でも彎珠と同属のボウアニア・トメントサの芽や花で下痢を留め、ボウアニア・ワーリイの種子を強壮また健陽剤とするから、彎珠も実際多少の薬効はあるべし。さて英国の北部でも、熱地より漂著するシロップ類似の豆を数珠の親玉とし、聖母マリアの実と称え、佩びて邪視を避け得ると信ず。邪視は仏経に出た語で、あたかも英語のイヴル・アイに当たる。経文にまた毒眼など訳しあり。今年二月、七十二で死んだ人類学者で名画家サー・チャーレス・リードの直話に、氏の生国アイルランドでは、今も欣羨、貪慾、憎悪、嫉妬等の念いをもつて人や畜《けだもの》や物品をみれば、見らるる者その害を受くと信じ、むかしは邪視の力よく大建築を焼くとさえ伝えたから、古い大寺の前に女が陰を露わせる像を立てたのがある。人あってその建物を睨み詰めんとするうち、女陰をみてたちまち視力の過半をその方へ減じ去らるべき仕組で、ちょうど落雷の際、避雷柱よく電力を導き散じて災いなからしむるに同じ、と。
 ケオドール・ベント、ギリシアの一島で百歳ほどの老婆に逢った時、なおも齢《よわい》を松に契りけん、ベントの眼力に害(281)さるるをおそれ、しきりに十字架を描いて防いだという。あまり古からぬ一八四六より一八七八年までローマ法皇だったピウス九世は、邪視の聞え高く、その祝詞を受くる者みな面をそむけ唾《つばき吐いて、その害を防いだ。『享保世話』に、「五つ指、人さし指のその間に親指はさんで煮豆をかしき」。これは邦俗かようにして女陰にかたどり、人に示してその好色家たるをそしるを詠んだのだ。しかるに、西洋ではこれを陰嚢の間より男根のあらわれたるに比し、邪視の嫌いある者にあわば、示してその害を防ぐ。けだし、欧州には中古|妖巫《ウイツチ》を忌む風すこぶる盛んに、妖巫も女に相違なければ、男の物をみて眼の毒がたちまちその方へ引き去ると信じた遺風だと、リード氏予に語った。されば、予が年中何の煩いにもかからぬは、夏冬素裸で振り通すから邪視をはらい通すによるのだろう。きたない者や不具者は誰もこれを羨まぬゆえ、邪視を受けず。
 バートン説に、カイロでは十九世紀にも、富家した富豪の婦人が、その子供の面に泥を塗りボロをきせてつれ歩むをしばしばみる。家にあっては錦衣玉食させ、外出ごとに邪視を避けるため、わざと相好を損ずるのだ。インドでは、ナザル(眼害)とて何の邪念も悪意もなく、また最も親切愛敬して人や物を飽くまで見れば、見られた人物を害すという。その説に、例せば眇人《がんち》がいかに寡慾清淡でも、眼二つもち奇麗な人をみれば、思わず知らずこれをうらやみ、たちまち視害をその人に加う。今双眼いかほど美なりとも、その瞼にカジャル(煙墨)を塗って黒くよごし、または眉辺にあざをこしらえ、また白糸をつり下げてその貌を傷つけたのをみると、これを瑕とするの念、知らず知らずこれをうらやむの念と相剋して視害起こらず。ことにカジャルでよごした眼は、眼力これがために減じささえられて、他人に視害を及ぼすの嫌疑を免るとて、男女もっぱらこれを用ゆ。エジプト婦人がコール粉を眼のふちに黒くぬるも、装飾のためとはいえ、実はこの理に基づくならん、と。
 
 インドで、女子が成女期に達せる後は視害を受けず、視害を他人に加え得ると信ず。父母が、その児の片言いい初(282)め、あるいは歩み出すをみて滴足せば、必ずその児に視害を及ぼすとて、額の一側、また這い歩くうちならば左の足底に煙墨(カジャル)を塗ってこれに備える。不具や六指等の児は禍害を受けず、よって大吉として親に悦ばるとは、よほど変なり。肥満した壮者《わかもの》は痩男の視害を避けんため、左の臂《ひじ》に赤布を結び、頸に青糸を巻き付けなどし、はなはだしきは、その疑いある場合に臨み、突然卒倒、ひきつる真似して痩男の執念を乱すに力《つと》む。文人は筆跡見事にして人に羨まれんことを憂い、わざと一字を汚点して邪視を避く。ただし、巧みに仕組んで汚点したと知れるようでは、反って人にほめらるる惧れあるゆえ、一枚筆し了りて、最後のインキまだ乾かぬうち、急にこれを巻いて、汚点は実に不慮の過失に出たと見するを要す。また布帛の模様なども、一ヵ所をわざと不出来にして邪視を防ぐ。黄金と珠玉は誰も欲するところなれば、最も邪視を避けるに功あり。小王(ラジア)輩の書翰に金箔を散らせるも、飾りとせるにあらず。児童が盗人にあい命を失うまでも珠玉を飾るも、またこれがためなり。すべての海産物、ことに珊瑚はこれゆえに重んぜられ、これを買う能わざる貧民は銀の楊枝や環を佩ぶ。支那でも三瓦《さんが》の戒めとて、屋根の瓦を三枚ふき残して鬼神に睨まれぬよう心懸けた。
 支那には、『韓非子』に、趙王が虎の眼を丸くするを悪《にく》むと、左右の侍臣が、乎陽君の目はこれよりもずっと悪むべし、虎の眼をみても害なけれど平陽君の眼を丸くしたのを見れば必ず死ぬと言った、とある。貝子《たからがい》は、今もトルコ、アラビア、ヌビア等諸邦で広く邪視を避けるに用い、本邦でも子安貝と称え、産婦に握らせて難産を防ぐ。これは古ギリシア人がこれをアフロジテ女神の印《しるし》とせしごとく、はなはだ女陰に似た形ゆえ、最も人や鬼の邪視を避けるに効ありとしたからだ。さて漢の朱仲が作ったという『相貝経《そうばいけい》』に、一種の貝子を産婦に示すと流産せしむ、とある。それから推すと、漢代すでに普通の貝子をもって安産を助けたと分かり、またそれより古く支那に邪視の迷信あったと知る。晋の劉伯玉の妻、伯玉が洛水の女神の美を称せるを恨んで水死し、のち七日、夢に託して伯玉に語ったは、君もと神を願う、われ今神たるを得たり、と。伯玉おそれて終身また水を渡らなんだ。美人この津を渡る者は、みな衣(283)を壊《やぶ》り粧《よそおい》を擾《みだ》して、あえて済《わた》る。然《しか》せずんば風波暴発す。醜婦は粧飾すとも、神妬まざれば無難に渡り得る。婦人この妬婦津《とふしん》を渡るに、風浪起こらざる者は不器量ゆえ水神怒らずと心得、みなみずから形容を毀《やぶ》りて嗤笑《ししよう》を塞《ふさ》がざるなし。故に、斉人の語に、好婦を求めんと欲せば、津口に立ちあれ、婦|水傍《みずぎわ》に立ちて好醜おのずから彰《あら》わるという、と。妬神の邪視を畏れて貌《かお》を損じ、これを防いだのだ。『酉陽雑俎』またいう、百姓のあいだ面に青き痣《あざ》を戴くありて黥《いれずみ》のごとし、旧《ふる》く言う、婦人産蓐で死んだ時は夫の面に墨を点ずる、かくせざれば後妻に利あらず、と。これも前妻の霊の邪視を怖れ防いだのだ。
 古エジプトに邪視の迷信あった証拠は、ホルス神の眼力、よく大蛇アべブの首を斬り落とす。この神また怒れば、その眼力、叢林を剿蕩《そうとう》す。諸神ラー神に啓《もう》す、汝の眼をして進んで汝のために、汝の悪言する者を破滅せしめよ、汝の眼ハトール形を現ずる時、諸限一も抗し得ず、と。『日本紀』に引いた一書に、猿田彦大神の眼、八咫《やたの》鏡のごとく八十万《やそよろずの》神みな目勝《まか》ちて相問うを得ず、天鈿女《あまのうずめ》すなわちその胸乳を露わし、裳帯《もひも》を臍下に抑《おした》れ、あざわらいてよくこれと問答した、と見ゆ。明治十六年、予共立学校寄宿舎にあった時、童謡を聞くに、「上野で山下、芝で愛宕下、内の犬は縁の下、皆様すくのは○の下」と旨《うま》いかな言《こと》やで、いかな猿田彦の邪視も、朱門の妙相にうち負けたのだ。『田村の草子』には、悪路王が利仁将軍に睨み負けて血の涙を流した、とあり。近松門左の『大織冠』に、山上有風|眸《にら》めば、一双の鴉、念力の眼に気を打たれ落ちて死し、逆臣入鹿睨めば、南門の棟瓦《むながわら》、作り据えたる赤銅の唐獅子|揺《ゆる》ぎ溶《とろ》けて湯となり、軒に滴り流れしは、恐ろしかりける眼力なり、と述べた。『閑窓自語』に、裏辻《うらつじ》公風少将、姿艶に、男女老若ことごとく慕い、参内の日を計りて街に出で待ち見る人もあったが、四位にも陞《のぼ》らず二十歳で死んだ、恋した人々の執念付けるにやと人言えり、と出ずるは、詞こそ異《かわ》れ、視害に中《あた》って早世したと謂うのだ。インドの礼法、いかに壮健の友にあうも、これをほめず。反って、卿《きみ》は一向痩せてきた、よほど悪いでないか、気の毒千万などいうが常式で、人の子供、邸園、牛羊の美壮に繁栄するを見、その人の仕合わせなさまを知るも、一言たりとも誉めたが(284)最期、即座に妬念と視害の嫌疑を受くるを参考せよ。
 米人リーランド説に、ロマニア地方で邪視と妖巫を避け、奇幸を迎うるため壁に蛇を画くに、尾を上に頭を下に、身体諸部混雑して結びおるを要す。また二、三の蛇相纏うたところを編物にして戸口に掲ぐ。ペルシアで、絨氈の紋条をなるたけ込み入って絡み合った画にするも、邪気を禦ぐためだ、と。本邦でも以前、出雲の竜蛇その他蛇の画を悪魔除けとして多く門戸に貼った。リ氏いわく、妖巫や邪視する人、かくもつれ絡んだ物をみると、線の始めより終りまで詳しく見届ける。その間に邪念も邪視力も大いに弱り減ずるゆえ、災難を起こし得ず。疳持の小児がむつかしくぐずり掛けたところへ、迷宮様に道筋を引き廻した図や縺《むすぼ》れ解けぬ片糸を渡せば、一心不乱にほどきに掛かるうち、思い立ちいた小理窟を忘れ了るごとし、と。
 尾佐竹猛氏説に、伊豆の新島、利島、神津島、大島の泉津等では、正月二十四日を忌み、海難坊が来る日といい、夜は門戸を閉じ、柊《ひいらぎ》やトベラの枝を入口にさし、上に笊《ざる》をかぶせ、一切外を覗かず物音せず、外の見えぬようにして夜明けをまつ。伝説に、むかし泉津で代官暴戻なりしを村民が殺し、利島に遁れたが上陸を許されず、神津島に上ったので、代官の霊が襲いくるといえど、要領を得ず、と。代官暗殺は事実であろう。柊は刺《はり》、トベラは臭気で悪霊を禦ぐは分かるが、笊をなぜ用いるか。『用捨箱』に、ある島国で暗夜に鬼が遊行するとて戸外へ出でざることあり、その夜さり難き用あらば、目籠を持ちて出ずれば禍なしと、かの島人の話なり、と言ったは新島辺のことで、むかしは笊を戸口にもかけ、外出にも持ち歩いたであろう。
 
 一六六五年ローマ出版のマリニの『東京《トンキン》日本史談』に、そのころ東京《トンキン》で大晦日の夜、金箔で飾った籠を長い竿の先に掲げ、戸口に立てて鬼を追う、とあり。種彦の『用捨箱』に、江戸で二月八日の御事始に笊を門口に懸けた旧俗を釈《と》くとて、むかしより目籠は鬼の怖るると言い習わせり、これは目籠の底の角々《すみずみ》は※[☆の中に○をかいたもの]かく晴明九字(あるいはいう、晴(285)明の判)という物なればなり。原来《がんらい》の俗説ただ古老の伝を記す、といったが、その俗説が大いに研究に用立つ。すなわちこの星状多角形の辺線は幾度見廻しても止まるところなければ、悪鬼来たりて家や人に邪視を加えんとしても、まずこの形に見取れいるうち、邪視が弱り利かなくなる。また、たといこの晴明の判なくとも、すべて籠細工の竹条《たけすじ》は、ここに没してかしこに出で、交互起伏して首尾容易に認め難いから、鬼がそれを念入れて算える間に、眼疲れて邪視力を失うので、イタリア人が無数の星点ある石や砂や穀粒を皮に盛って邪視する者に示し、かれこれを算え尽した後にあらざればその力利かず、と信ずると同義だ。
 亡友小沢正太郎|話《はなし》に、氏が生まれた村は強盗に多く遇った。その経験から家に小銭を多くたくわえおく。泥公来臨とあって二、三問答の上、しからば余義なし、尊公らに金を貸したとあつては相済まない、少々ながら有合せをすっかり進上しょう、大臣にでもなったら返却されよ、その節は子供も引き立て下されなど、よい加減に述べて、引出しをぬいてその奴の顔前へ打ちかえすと、無数の小銭が八方へころがり走る。泥公ただこれを掻っ込むを急ぎ、銭の多寡を論じたり兇器を弄ぶに暇なく、拾い集め終わってあわて去るものだ、と。まことに無上の妙案らしいが、根っから盗賊に逢わぬから、実際ためさずに年を寄らせた。全体南方先生を人々が、どうも女に眉毛を読まれ易いという。いかにも眉毛が鮮かなとほめてくれると思いいたに、妻が聞いてさらに懌《よろこ》ばぬを不思議と惟いおった。ところが林魁一氏が美濃の俗伝を記したのを読むに、眉毛に唾を塗ると毛と毛が付き合うて狐が一々よむ能わず、したがって魅《ばか》し能わぬ、とあったので大いに解り、人、書を読まずんば、それなお夜行くがごとし、と嘆じた。こんな訳ゆえ新島の伝説も、もと目籠もて邪視を避くる風が、エジプト、インド、東京《トンキン》、イタリアなど同様、日本にもあったが、後世新島ごとき辺土にのみ残った。そこへ代官が暗殺され、その幽霊の来襲を怖るることはなはだしくなって、今さら盛んに目籠もてこれを禦ぎしより、ついにもっぱら代官殺しが、日忌みの夜、笊を出すただ一つの源因のように訛伝したのであろう。
(286) 尾佐竹猛君は法曹第一の名あれど、畠がちがうと鍬が利かず。伊豆の新島で正月二十四日の日忌の夜、外をのぞかず物音立てず、柊やトベラの枝に笊をかぶせて、入口にさすのが訳《わけ》分からぬと書かれたが気の毒さに、上のごとく長々と認めて『太陽』誌上で答えた。さて予久しく研究するに、癇癖の強き人や、さらに進んである狂人は、常人が看過ごす物どもを看過ごさず、至細に留意して究《きわ》めに掛かって息《や》まず。円形や三角形の図に逢えば、その辺線の止まる点を求め、多数の物を見ては必ずこれを算え尽さんとする。東西とも古今鬼の形容動作を説くに、狂人に基づいて作ったと思わるること多し。したがって狂人同様、砂や穀粒を多く鬼に示すと、鬼これを算え了らねば気が済まず、算うるうちに弱ってしまうと信ぜられた。それと等しくインドの貧民が邪視を禦ぐに、銀環を佩び、また三角形や菱形に金箔を切り、韋《なめしかわ》に貼り付けて護符とする。また神も邪視に害せらるとて、一日に両度遊女が神廟で邪視よけの式を行なうことより、本邦でむかし、浮世袋とて娼家の布簾《のれん》に遊女自製の三角の袋を掛けたことは、『南方随筆』に出した。
 されば、本邦の彎珠、悪気を避くという、悪気は悪鬼の邪視から転出したので、もと欧州で聖母マリアの果《み》、琉球でシロップが邪見邪視を避くといったと等しく、この豆、形円くてその曲線を見尽す能わず、鬼も草臥《くたびれ》て、これを佩びた人に邪視や悪気を加え能わぬという信念から、彎珠が大いに持てはやさるるに至った、と考える。
 
 彎珠を惜しむと伝えらるる神島の神は女神といい伝う。この辺の諸祠と等しく、石を神体とすというと、例のモダーン連、それはアフリカのフィチシズムの類で、二十世紀の日本に不恰好極まるなどいわんが、それこそ国体というところだが、そんな輩に国体論などは勿体ないから、しばらく説かず。耶蘇教のゴッドという英語の基原たるスカンジナヴィア語でゴッドは、もと石を意味し、むかしの剣、今の菜刀でなく、むかしの神が堕落した輩には、ただの石と見えるのじゃ。スピノザとかレーニンとか、突っ外れた説者を輩出するユダヤ人が無神論など口にするを驚讃して、(287)万事古い物を廃棄するよう心掛けるものと呑み込み違うのが大間違いで、この輩、ユダヤ外の民を煽動するには旧物を全廃するが能事と説くと同時に、数千年前のユダヤの古俗旧風を頑守すること驚くに堪えたもの多く、ユダヤ人が上帝の特恵を享ける象徴《しるし》として、今も上古石器時代の石器で孩児《がいじ》の包皮を切り吉舌を断つ。古風伝統を守りてみずから恃むところあるにあらずんば、いかでか新案を断行するの決心を出だし得ん。
 明治四十二年、為政者、政府の収入を多くせんと神社合祀を命じ、金銭を神祇より重んじ、利得を懸けて廃祠を励行し、大いに民心頽廃の端を開けり。その時、予、奮起してこれに反抗し、種々の禍難に遇いしも屈せず。代議士中村啓次郎をして、再三このことを衆議院で演説せしめ、また諸府県の有志と呼応して、その筋の注意を惹起したるため、合祀のこと有耶無耶《うやむや》に終わり、残存せる神社これ多し。ただ気の毒なは、南方先生の説法にあわぬ愚民どもが、ひたすら立ちん坊同然衣食のために、祖先来永々|斎《いつ》き来たった神社を減却せずんば厳罰すべしなどの威嚇におびえて、大忙ぎで合祀し了った神社の址が、私人利得のために址も留めず消えうせたのが多いことだ。むかし古田重然、好んで古器を破り自利を営みしを、大河内元綱、この人必ず禍にかかりて刑死さるべしといいしに、果たしてしかりし。予、神社合祀の弊大いに民心を擾《みだ》すべきをいいしに、本県にあって率先して合祀を濫行せし新宮辺より、果たして少なからぬ大逆徒を出した。その中の女の書翰と伝うる物を見るに、石地蔵を火焙りにして面白かつた、と述べある。そんな根性の者が、よく同胞を憐れみ国政の改善を企つべきか。
 その少し前、日露戦役起こるや、官民一致して社殿に日参、夜籠《よこも》りし、哀号して国難の救済を?るのさま、外国人すらために落涙の滂沱たるものありし。それに事治まりて数年を出でざるに、たちまち合祀を強行して、社殿、鳥居を滅却公売し、はなはだしきは山壑《さんがく》重畳の地に、赤子に命名するに二、三日の粮を携うるを要するに及ばしむ。むかし菅公、聖主の田猟を諫むるとて、今年鹿何の罪かある、といえり。銃を放ちし者は賞せられ、幕に参ぜし者は禄せらる。その輩、みなこれわが力にあらず、一に神助によれり、といわざるはなかりし。さて、その神は他の神殿へ押(288)し込められ、その跡は永く廃せらる。予をもってこれを見れば、当年諸神|将《はた》何の罪かある。世にこれほど分からぬことはなし。これほど不条理なことを行なうた人々が、赤化運動の族制廃頽のと、その報しきりに到るを見て、伊勢参宮を勧誘したり先祖墓参を奨励したりしても、『孝経』を棒読みして黄巾の賊を却《しりぞ》けんとしたほどの効果も挙げ得んや。このことの?末は、明治四十四年、予が東大教授松村任三博士に贈った書簡を、当時貴族院書記官長だった柳田国男氏が「南方二書」と題して私刊し、故田尻稲次郎、志賀重昂等、六十余人に配った物に詳らかだ。近日再版するから、読んで三嘆されよ。
 神島の小祠も、その時率先して合祀されたものの、この辺の民は比較的淳樸で、神体の石を村社へ移せしのみ、県吏などかれこれいうても依違《いい》して応ぜず、今に小祠を立て続けおり、この無人の小島に寄船する者、今も小銭を献じて漁利好風を祈る。舟人の心は神の心というたに一理あらば、日本国民の心は都会に亡びて、この田舎に存するというべし。
 ここに掲ぐるキシュウスゲは、学名カレキス・マツムラエ。松村教授が本県東牟婁郡黒島で発見し、次に予、この神島で十四、五坪の地に叢生せるを見出だした。それが合祀後二年にはわずかに十二株に減じあった。神社合祀がどれほど森林の荒廃を致したかを見るに足る。
 むかし藩政の時代には、御留めの物若干あり。例せば、田辺藩の古屋瓜谷の盆石、マンボウ魚、安藤蜜柑(予の現住宅と滝川氏邸にのみ大なる物あり)のごとき、藩主が時々これを江戸その他へ特別の贈品とし、その他一切これを境外へ出すを禁じた。古屋瓜谷の盆石が近く海内第一の名を擅《ほしいま》まにするに、さしも博綜した石譜と知られたる『雲根志』に録せられず、安藤蜜柑が本邦橘類中洋人の噂好に一番合うに、ただ今までも著聞せざるは、ふたつながら久しく御留め物だったからである。もと珍異の品々を藩主一人の専有とし、ひろく衆庶をしてその利を享けしめず、まことに(289)吝《けち》じみた仕方だが、これを占有したい愛惜心より、百方保護して絶滅せざらしめた功もまた大きい。日高郡の葦鹿《あしか》島のごとき、毎年秋分前後に葦鹿来たり遊び、春分前後に北海へ去り、殺傷する者あれば厳罰された。ちょうどサンフランシスコの金門園《ゴルズン・ゲイト》の小岩島に海狗《おつとせい》を遊ばせおくがごとし。その禁が維新後解かれて葦鹿は打ち殲《つく》され、見世物になったり安い油を搾られたりして跡を絶った。日露役までは、たまたま田辺の浜近く、一疋の葦鹿が祖先の蹤《あと》を尋ねて淋しく游《およ》ぎ来たったが、いつとなくそれも絶えた。
 南紀諸島の神林も、この変遷を免れず。古座浦の黒島は大タニワタリの名処だったが、今は濫採して尽きたとかきく。周参見《すさみ》浦の稲積島は、樹木鬱陶、蚊、蚋《ぶと》多く写真をとることもならず。神島同様、島の神樹を惜しむとて草木を採らず、午後四時までに引き上ぐる。古来大タニワタリを採る者、必ずその一本の代りに杉苗一本を植えて返る定法あった。神社あらば動植禁採の制札が口をきくところを、合祀されたから濫採自在となった。神島またこれに違わず。その神祠合祀後は、盗伐横行、落枝落葉を焚き尽したから、樹木おのずから育つに由なく、明治四十四年夏、新庄村に小学校とかを建つる費用の代りに、下木を三百円ばかりで入札売却した。島に最も近き鳥の巣の岩本金兵衛という人、そんなことをされては風浪烈しき時、この大字は全滅の外なく、またこの島が丸禿になっては、湾内第一の魚付林を失い漁業に大損害を加うべしとて、抗議しきりなりと聞き、予、毛利清雅氏とその抗議を助け、種々奔走したところ、当時の村長榎本宇三郎、助役田上次郎吉二氏、ずいぶん訳の分かった人で、ついに村会に議《はか》り、すでに伐り去ったる木の代価を引き去り、余分を入札人へ返付し、尋《つ》いで永く魚付保安林として今に至ったは、湾内の景観にも漁業にも無上の賜物である。
 日本薬局方に載せたバクチの木は、むかし田辺近方の名産だった。その一本を加賀金沢へ移植して今も花果ありという。故田中芳男男の遺弟で栗山昇平氏、手を尽して捜せしも田辺辺で見当たらず。宇井縫蔵氏わずかに一本を睹《み》しも、合祀のためなくなった。次に神島で多く発見せしも、老木みな枯れたから、已むを得ずその花果を見るため金沢(290)へ旅行した。その後、予と伴れて尋ね跡浦《あとのうら》の地ではじめて一本花果あるを見出だした。この宇井氏の甥は拙妻の姪の夫で、宇井氏は小学教師だった時から、県下の動植を博集し、顕花植物と羊歯類の目録を大成し、また二十余年の苦辛もて県下の魚類をもらさず集めて、田中茂穂、脇谷洋次郎博士の査定をへ、故頼倫侯の出資で六年前『紀州魚譜』を出した。田中博士、熊楠に語ったは、日本の地方魚譜としてこれほど完全な物は未曽有だ、と。前日の『大毎』紙に、京大の誰かが、田辺湾の魚類七百余種を某氏が集めた、とあった。これほどの大集彙をした人の名を逸するは不念至極と思いいたが、実は一種五銭ずつとかで京大へ譲れと前年来交渉あり、鰯のテンプラ二疋バク付いても五銭の世に、さりとはと呆れいたが、宇井氏大阪へ移って標本の置所に困るに付け込み、今度天覧に供するから無上の光栄と説き込んで、一切無条件で臨海研究所へ寄付させた由、宇井氏よりの来書にみえる。
 
 多年貧乏続けた研究所が、所員年来刻苦して拵えた大集彙などなきは十目の視るところで、それが忽然莫大数の標本瓶を張り込んで、一夜作りの魚類大集彙を造ったは、全く宇井氏の年来刻苦を奪胎換骨だ。三月来永々続いた宣伝書に、宇井ともヌイとも一言せぬは情ない。明治二十四年夏、予フロリダの支那人牛肉店で寄食するうち、緑藻ピトフォラ・エドゴニア・ヴォーシュリオイデスを発見した。それより北の三州にあったが、この半熱帯地にもあるとは誰も気付かなんだから、予が『ネーチュール』での発表を見、華府の国立博物館、辞を卑《ひく》うして求め来たったので、海外知己ありと悦び、お安い御用と機嫌よく、和歌山市で発見したのと標本二つ取り揃えて贈り遣ったに対し、館長みずから鄭重なる謝状を贈られた。わずか一種の藻すらかくのごとし。予は今度天覧の際、これは宇井縫蔵が多からぬ小学教師の俸給を割《さ》き、二十余年辛抱して集めた物と、明白に奏上称讃しやられんことを望む。
 大正十一年、予上京したと聴き、故渡瀬庄三郎教授みずから旅館について、田辺湾の動植の拙話を筆記された。その時、本邦で大学とか博士とかいえば、背後に円光でもさしたごとく畏れ入る。自適悠々して世外に勉強する輩を異(291)端邪徒のごとく軽侮冷遇する。これに反して、そんな人物を外国から厚待し来る。いわゆる漢恩はおのずから浅く胡恩は深しで、この鬱憂が爆発すると、匈奴に投じて漢使を拆《くじ》いた中行説《ちゆうこうえつ》のような者が輩出するはず、と述べたところ、教授も憮然として洵《まこと》に然り、僕は君がさような行いなきことを切望す、といわれた。例せば、三年前の九月、副島二郎とかいう人が中亜タシュケントに到り、はじめて日本人の顔を示した。しかるに、それより二月前に、かの地の労農大学、特に熊楠に一書を贈り、学識の交換を求め、その辞、慇懃を極めた。些細なことは面倒ゆえ、露国領の粘菌を総蒐して送り来たれ、日本の粘菌と対照比較して一論を綴り、標本共に送りやろうと言いやったきり、返事が来たらぬ。
 久しく原首相の秘書をつとめた亡友児玉亮太郎氏いわく、邦人は米人ほど無作法な者ないようにいう、しかし、よく観察すると、頭をさげてヘイコラ述べぬばかり、三三行の称すべきある者を尊敬して、弊衣の士に玉牀を譲り、麁食の君子に盛饌を供え、もってみずから誇るような真の大作法は米人に珍しからぬことで、日本人には絶無だ、まことに慙汗三斗以上を流すべし、と。神島の森林が保留されてより、ほとんど二十年、村の吏民|斉《ひと》しく注意して、「田村」の謡曲そのまま、枯枝一つ持ち出ださしめず、紀州沿海百二十里の間に、山頂より波際まで樹木の生い茂れること、この島に若《し》くはなきに至った。熊楠一人のみならず、湾内の住民、ことに漁家は、前現の二村長榎本氏、田上氏と、当初伐林に抗議した岩本氏に感謝せねばならぬ。初め花果なかったバクチの木も、おびただしく成長して花果多し。その木や葉は毒分を含むに、ある種の粘菌がこれに生ずるは、ある原形質が毒分に抵抗する例として大いに攻究を要す。けだし聖上万機の御暇に御研学の好材料と察し上る。
 バクチの木と並んで神島の森の要分をなすのが、タブ、方言トウグス。これは線香製造に必須の木だ。明治四十年余が発見したほとんど唯一の緑色粘菌アルクリア・グラウカは、この木に限って生ず。上にも述べた通り、只今|楝《おうち》(俗にいうセンダン)の花盛りだ。本邦で古く、この木に罪人を梟首した。『平治物語』に、源義朝、鎌田政家の首を左の獄門の楝の木に懸けた、とあり。西洋で霊木またインドの誇り(ホリー・トリーまたプライド・オブ・インジア)と唱え(292)て翫賞さるるに反し、あまり好遇されない。けだしインドで、この木は巫蠱《ウイツチクラフト》や邪視を避けると信じ、支那でも、屈原、五月五日に身投げしたるを百姓競うて食をもって祭った。ある年、その幽公、人に向かい、御馳走は忝ないがいつも蛟竜に盗まる、蛟竜が畏《おそ》るる楝の葉と五色の糸で包んで欲しいと言ったから、この日みなその葉を佩び悪気を辟《さ》くるそうだ。それから工夫して梟首の霊があばれぬよう、この木でしずめたらしい。鳥追女も旗本の目が懸かれば尤物たるを失わず。神島の楝花も、時に取って紫藤《ふじ》にまさりてみゆることもありなん。「有難き御代にあふちの花盛り」。ざっとこうだ。この木は支那からきた物というが、東牟婁郡七川村などの僻地に多きより考うれば、在来の自生かも知れぬて。
 木芙蓉また同様で、神島の浜に大きな老樹あつたが、今やすなわちなし。蜀の孟後主、成都城上あまねく芙蓉を種《う》ゆ、秋に至るごとに四十里錦繍のごとく高下相照す、よって錦城と名づく、と。田辺のことを古く錦城と呼んだは、何か芙蓉に縁ありや知らず。神風の伊勢生れ、錦城館のお富とて、南方先生に名を立てた妖物の話も、今は昔となりぬ。これはまた後日述べよう。
、それから、この湾外のある荒磯に潮波に浸りて蘚が生えおった。陸から落ち来たったのかと思うたが、かねてグリーン・ランドに海生蘚のあり、英国の渚にも一種の蘚を生ずるを知りいたから、取り収めて蘚学の元締岡村周諦博士に贈ると、全体の三分一まで食塩を含有する新種と分かり、ジクラネルラ・サルスギノサと命名されて、蘚学界をどよめかせた。これよりも仰天すべきは、神島に藻が蘚苔類に進化した実証に立つべき大珍品あって、多年研究を累《かさ》ねおるが、曽我祐成が言った通り、貧は諸道の妨げ、今もって方付かぬ。
 
 また珍なことは、この島にタチバナ一本自生して現に実《み》あり。中島清三氏聞き集めたは、むかしは近村にこの木多く自生し、一汎にこれを伐り焚くを忌んだ。維新後、禁戒緩んで伐り悉《つく》し、この一本のみ残ったとのこと。海草郡に(293)は今も自生多し、と田中長三郎博士の直話だ。「神代巻」すでに橘の檍原《あおきがはら》ち載れば、いと古くあったに違いないが、桃や楠、麦、本邦に自生なきも「神代巻」に出でおるから、橘は本来自生か移し入れて野生したかどうかも判らぬ。
 タイトゴメという景天《べんけいそう》科の小草は、二十九年前、東牟婁郡勝浦の一小島で予始めてみた。四、五年へて神島の海際に少しあるを見た。十二年ほど前に、田辺南郊、海近い沙地に生じて、大いに農作を妨げた。それが昨今まるで影を留めぬ。ヒュームは、欧州の多くの国に桜桃《チエリー》が入り来たってたちまち野生し永く絶えず、しかしルクルス始めてアジアよりこれを将《も》ち来たったのだ、国に興亡あり、暗世と明界と相交代するが、桜桃一たび入って、ギリシア、イタリー、スペインの林中に野生してより、永く絶ゆるなしとて、この地球の幼稚なるを説いた。予の愚見には、生物もまた興亡あり、好餌に富んだ場所へ移り入って一時大いに盛えるも、肥料を吸い尽してたちまち友食いをはじめ、共倒れとなって跡を滅すること、このタイトゴメごときあるを忘るべからず。あたかも地中海に横行したノルマンスや南洋、後インドに跋扈した日本人と異《かわ》ることなさそうだ。
 神島の森林が荒廃した時、キシュウスゲは十二本しかなく、彎珠はほとんど全滅しおった。新旧村長等の厚意で、保護二十年の今日となっては、全山ほとんどキシュウスゲで被われ、彎珠は在来の東の山から禿山だった西山にまで衍《はびこ》りおる。当初彎珠の衰え凋んだ枝葉の間に、図のごとき蛾がただ一匹花を求めて飛び廻るをみて、惨傷に堪えず。しかし、その蛾は後の証拠に取って今も保存す。それよりあまり落葉を採り焚いて、蛾化すべき蛹の休息所を失うたのも、彎珠が実らぬ一つの原由と考え、厳に落葉を採り去るを禁じて、これを復興せしめたは、ずいぶん苦辛したものだ。そのころ『日本及日本人』等へ書いたのを読まれたものか、四月二十三日、服部御用掛より来書に、神島に仮御立寄場を設け、そこで彎珠保存の一件を申し上ぐべしとのことだった。
 しかるに、そのころ県吏が村長に林下に道を開けと命じたと聞き、例の「吹き替へて月こそ漏れね板庇、とくすみ荒らせ不破の関守」の歌を引き、生物学御研究に、新たに草を除き枝を切っては何の御興味もなからん、人為の市街(294)をすら在来通りに御覧を望ませらるるに、天然の観察に人為を加うるを須《ま》たざるべしと申し上げ、また島の山頂には時として蟆子《ぬかご》(クレグ)あり、膚を刺すと久しく痒い、ゆえに山頂へ登臨は御無用と申せし。それを故意か不念か新紙に、大なる蚋《ぶと》(ナット)多くて刺し悩ますと書き、三変して、ある学者どもが、神島にはチフスを伝うる毒蚊(モスキト)あるゆえ臨幸遊ばさず、と悪評判を伝えた。その仕返しに、彼輩、利権者や官吏と結託して、巨万の投資し、大いに天然の地形を変革し、行幸を奇貨として船賃、自動車賃で儲け、さて聖蹟に別荘を構えたら一生チフスにかからぬなど広告して、その地を切り売り、山分けにせしめる魂胆をスッパぬきやりしに、大いに青い顔で降参し掛けおる。
 奉迎の張本連がこの通りゆえ、村民も不慎のこと少なからず。せっかく大金を費やしてデッチ揚げた御成路へ、血潮だらけの鰯や鯵子を乾し、追えば散じ、散じてはまた集まり乾す。まことに盗賊が三度まで留置所を破るほど無勢なわれらが、道路工事を監督した揚句、干鰯の片付けまで奔走せねばならぬは、ホホンホ、本に何たる因果ぞと、当職の役人の直話である。このごろ汎太平洋会議へ出掛けた博士で、郵船の珈琲が旨からぬとて、小言たらたら珈琲のみに上陸したと大評判の由。二十余年刻苦した集彙を丸取りして、その人名を一言しやらず、道普請を盛んにして得意を示すは、珈琲博士より以上の碩学というべしだ。
 田辺湾の生物にいと珍しい物多いが、今これを述ぶるは盗人の手引き同然ゆえ、ひとまずこれで筆を擱く。発端に書いた野口氏よりは最近来書あり。土地に事を興すに、まず土地の識者に問うは常礼だ、それをことのほか讃められたは恐れ入る、しかしてそれが貴下の大人物たる所以、と言われて痛み入る。知らず、今日はそんな者を大人物とするほど、学者の心がドン底に陥りあるか。   (昭和四年五月二十五日−六月一日『大阪毎日新聞』)
 
(295)       周参見から贈られた植物について
 
 五月二十一日、周参見《すさみ》の中村専輔氏から、同村山村守助氏が見出だした奇植物というを贈られ、添状に、多人打ち寄り評定したが何とも分からず、たぶん苔の花が咲いたのであろうと一決した、とあった。そのいわゆる奇植物は、一見春蘭(俗名ジイサンバアサン)の花のようで、茎に多少の鱗片あり。春蘭のような長い葉もなければ、緑色な処は少しもなく、全体白色で美《うるわ》しく光沢あり。長《たけ》四、五寸あって同根より叢《むらが》り生ず。これは密林の樹蔭にあるものゆえ、ちょっと人の眼に付かぬが、実は素人が想うほど少なくない。当町付近でも、闘鶏社、高山寺、それから例の稲成《いなり》山神林、奇絶峡、スクマ谷等の椎、樫等の下に、初夏しばしば生ずる。
 本草家の説に、支那書『物理小識』に載せた水晶蘭すなわちこれで、邦名はギンリョウソウ、ユウレイソウ、ユウレイタケ。それから『斐太後風土記』には、花葉茎共に純白、その光沢氷のごとくなれば氷草と呼ぶ、盛夏盆栽にして賞翫すべし、されど数日は保ち難し、とある。学名モノトロパ・ユニフロラで、欧州、米国にも産し、植物解剖の初歩を学ぶに胚珠等の顕微鏡試験をするにしばしば用いられる。学名モノトロパ・ヒポピチス、邦名シャクジョウバナというはこれと同属で熟《よ》く似おるが、色黄を帯び一茎に花数箇着き、このユウレイタケの一茎一花なるに異なり。(296)ちょうど秋蘭は一茎数花にして、春蘭は一茎ただ一花なるがごとし。シャクジョウバナは、那智その他比較的高山の産だが、英国などには海岸にも生じ、当地方でも稲成村ごとき海辺の森にある。これはユウレイタケよりは少ない。いずれも石南《しやくなげ》科(ツツジ、サツキ、アセボ等これに属す)に近い水晶蘭科のもので、水晶蘭科の植物はみなこの通り緑色な所は少しもなく、葉が鱗片《うろこ》となりて茎に付きおり、その他に尋常《なみ》の植物の葉らしい物を生ぜぬ。米国ロッキー山で積雪中に咲く雪植物《スノウプラント》というもこの科のもので、長《たけ》一尺五寸ほどで全体鮮紅すこぶる美観だが、ユウレイタケと同じくたちまち生じたちまち消え、移し栽《う》えることがならぬから、酒精浸《アルコールづけ》にして保存する外なし。
 この水晶蘭科の一類は、花実等の構造から案ずると、もと石南科に近い鹿蹄草《いちやくそう》族のものが変成したらしく、その変成の主なる源因は、その生活の方法にある。すなわちもと葉緑素《クロロフイル》を具えた緑色の葉が日光に触れて空気から炭酸を取り自活しおった奴が、腐土《フムス》とて木や落葉が腐って土になりかかった中に生じ、いわゆる腐生生活を営むに至ったから、自活に必要な葉緑素を要せず、菜は緑色を失うて鱗片に萎縮退化し了《しま》うたのだ。その根を顕微鏡で見ると、微細な菌類と連合しおり、その菌類が腐土から滋養分を取って水晶蘭を養うのだ。カリフォルニアに限りて産するレンノアという植物は、ただ一種で一属を立て、レンノア科という一科を建ておる。これははなはだ水晶蘭科に似おれど、蔓を延ばし他の物に巻き付き、またその根が腐土に生ぜず、微細菌に養われず、自分で他の植物の根に付き、その滋養分を吸い取る。すなわち腐生でなくて寄生生活を営む。誰も知る通り、寄生や腐生して自活を営み能わぬ動植物は、生活がまことに見込み確かならず、したがって種子を非常に多く生む。他人の懐中で自分が旨い暮しをするとはまことに旨過《うます》ぎた話で、果たして中《あた》れば旨いが、ちょっと中り難《にく》い。したがって無数に多く種を残し置かば、一つくらいは親同然に旨う中るであろうという算段だ。
 絛虫《さなだむし》など、俗にその頭という留針ほどの所がその虫の本体で、その後へズルズル長く続いて着いたサナダ紐ごとき奴はみなその卵巣で、一筋ごとに笑に数百万の卵を蔵めある。その卵が雪隠に落ちて畠に澆がれ、発生して菜の葉に(297)入り、羊に食われ、その羊肉を犬が食い、また糞になって出で、それがまた菜葉に入り、それを牛が食い、さて牛肉から人体に入るという風に、おびただしき経過の後始めて卒業して大発達をする。しかし、かくのごとき経過を遂げ得る見込みはほとんどないから、数百万も卵を準備せば、その中の僅数がようやく合格し得るという算段だ。そのごとく多くの蘭類やこの水晶蘭などは、なかなか恰好な菌類と連合して、それに養われるという幸運な目にちょっと逢い難いから、なるべく多く種子を生んで一つでも旨く物になるを庶幾《しよき》する。したがって蘭や水晶蘭の種子は、他の近類植物の種子に比して、その数はるかに多く、またなるべく諸方へ撒き布《し》くべきために身軽くできおる。
 件《くだん》のユウレイタケの現品は、拙方へ置いても数日も保たぬから、なるべく衆人に示すため近処の理髪店植坂久米吉氏方へ寄贈し、すなわち同店の鏡の前に鉢栽のまま列べあるゆえ、好事家《ものずき》は就いて一覧なされ。もっとも同店へ日々集まる連中にあまり篤実な人は少なく、すでに昨日|窃《そつ》と往つて何を言うかと聞いておると、ある人来たり、これは妙な物じゃ何で厶りますと問うと、一人、「これは芸妓蘭《げいしやらん》といって、インドのチンポウ博士という豪傑から南方先生へ贈って来ました。何でもお釈迦様が発見なさって、この花を一つ貰い守りにして歩くと、芸妓連が自花《じばな》を付けて野の末山の奥までもコチャ厭《いと》やせぬと、呻《うな》りながら付いて来るそうです。それから、このほどまでそれそこの小幡様方に和歌山産れの幽霊と綽名する、真白で少しも日に焼けぬ素的な看護婦が居やしたろう、あれがすなわちこのユウレイタケの精が人に化けたのです」などと出任せに言うもあり。また、この草の本名ギンリョウソウと聞いて、「ナニ、金竜が梅毒《かさ》で死んでこんな物に転生《うまれかわ》ったのか。可愛いそうに壺天斎《こてんさい》にずいぶん長くいたうち、末は夫婦と思い込んだのは憚りながら僕一人であった」と言う。傍より、いかにも思い込んだのは君一人で、彼妓《あちら》一人は舌を出しておった。
 「サア、それゆえ罰が中《あた》って、この草に化けて金竜草と異名を付けられたのじゃ」と打ち返す。トドのつまりは、このユウレイタケを花屋か俵屋へ持って往って、これを拝んだ妓《こ》は一生日に焼けぬと言ったら、一時間くらいは飲まして呉れるであろう、ということであった。何に致せ、木戸銭は入らぬから見に往って損にならぬ。南方様が見て来い(298)と言いなはれ。   (大正六年五月二十四日『牟婁新報』)
 
       支那の鰐魚について
 
 七月九日の本紙、湯原元一君の「支那の文化の特質」に、支那が一種特別の国たる由を述べるとて、「支那には駝鳥《だちよう》もいなければ鰐魚もいない」と説かれた。
 駝鳥はもと東大陸の沙漠地方に今日よりは多く拡がりおった物で、『大英百科全書』のその条に、レミュザーの『支那帝国広輿註』を引いて、唐の高宗の時、吐火羅《とから》から駝鳥を献じたとあれば、そのころは東ペルシアから時々トルキスタンへ舞い込んだだろうと言いおるが、これは支那内地でないから見合せとして、鰐魚に至っては確かに二種は支那に産する。
 一はクロコジルス・ポロスス、これは身長《みのたけ》二、三丈に達し、よく海を游《およ》ぐから分布が広く、ベンゴール全海岸より支那南部、それからインド洋諸島と濠州の北部よりフィジー島に及ぶ。今一つはアリガトル・シネンシス、これは身長六尺を越す。北米産のアリガトル・ミッシッピエンシスによく似おる。一八七〇年、スウィンホー初めて揚子江に鰐魚あるを知ったが、これを記載してこの学名を付けたのはフォーヴェルで、一八七九年のことだ。
 熊楠考えるに、『呂氏春秋』や『幽明録』などに、古く江に?《だ》また鮫《こう》という物住んだと見えるは、このアリガトルであろう。鰐魚は後れて唐朝より書に見え、  篭身蟹目《だしんかいもく》で、よく尾で人畜を撃ち取るのを見て臆断し、その尾に粘汁あって鳥さしの竿のごとく物をさして取る、と書いたのもある。概して鰐は?より大きく、南海地方に産すというから、上にいったクロコジルス・ポロススを指したのだ。わが国の古書にワニあり。これはフカの類で、さらに鰐魚でないが、当時の新しがりがワニに鰐魚の字をあてた以来、とうとう今ではわが邦に産したことのない鰐魚、すなわちクロ(299)コジルスをもアリガトルをもワニと呼ぶに至った。
 韓退之が潮州の民のために祝文を読んで悪渓の鰐魚を立ちのかせたは、『唐書』に見えて名高いか宋の陳堯佐も、潮州で水を汲みに往った母と子が鰐魚に尾で撃ち取られた仕返しに、鰐魚を捕え煮殺したことあり。梧州府の嘉魚池は、むかし鰐魚に罪人を与え、食わねば赦した所で、明代に鰐魚池を今の名に改めた。南寧府に鰐江あり、むかしここに鰐魚廟あって鰐魚を祀ったという。これらは広東と広西にあって、すなわち南支那いわゆる南海地方だ。その鰐魚とはクロコジルス・ポロススだ。むかしと異《かわ》り今はずいぶんと少なくなったろうが、とにかくかくのごとく鰐魚が二属と二種、支那に現在すると述べ置く。
 湯原君の論は、特に鰐魚の支那における有無について筆せられたものでなく、その有無はさらに論旨に影響しないが、これを読んでたちまち韓退之が鰐魚を立ち退かせたという祝文などを虚構のように心得る人もあっては、本家本元の支那人に笑わるる次第ゆえ、ちょっと弁じ置く。
 ついでに申す。ウェブストルの字書その他に、アリガトルを西半球、クロコダイルを東半球に限り生ずるように書きおり、わが輩も左様心得おったところ、大英博物館の爬虫室に支那産のアリガトルを列しあるを見て、これは定めて名札の誤筆だろうと思うたが、念のため館員に尋ねると、俟《ま》ってましたと言わぬばかりに、以前は誰もさように思うていたが、支那の古書にどうも中部支那に鰐魚があるごとき記事が多いので、追い追い探ってとうとう揚子江でアリガトルを見出だした。これは米国産と同属別種だが、ユリノキという木は世界中にただ一種現存するが、まず米国で見出だされ、後に支那に自生あるを見出だした。この二物は太古支那と米国東部とに深い因縁あった証左じゃ、と言われた。言った人は現に学士会員たる蝟状動物《エキノデルマタ》化石の専門家バサー博士だったと記憶する。
 その後、只今海軍大将たる野間口兼雄君と済遠艦長で日露役に戦死された田島惟孝君と(当時いずれも海軍中尉)富士艦長だった三浦功君とを、件の爬虫室に案内したところ、野間口君からアリガトルとクロコダイルの別るる特点を聞(300)かれたが、その心得なくって返事は預かりとし、爬虫学の大先生ブーランゼー氏に聞き合わして答えた。委細は忘れ了ったが、確かに覚えておるは、クロコダイルの後脚の裏に大津絵の鬼の頷《おとがい》に見える剣を並べたような縁《へり》がある、アリガトルにはそれがないという一事、それから件の縁がない内にも、鼻の孔二つを骨で隔ったのが真のアリガトルで、そんな骨のないのがカイマンだと教えられた。
 このことはその後『大英百科全書』の一一版出るに及び、同氏が書きおり、それにはカイマン属五種あって中南米に産し、正真正銘のアリガトルは支那と米国におのおの一種あり、クロコダイルはすべて七種、その内二種は中南米に産す、とある。この外にまだ三属三種あると見えるが、その区別は専門家ならぬわが輩ちょっと読んでも判らぬ。ただガリアルとてインド人が古来神と崇め、日本でも宮毘羅《くびら》大将、金毘羅神など拝まるる奴は、嘴がサヨリの口のように細長いということを実物を見て知っておる。近ごろ鰐魚がおびただしく輸入され、この田舎までも見世物となし持ち廻られ、大竜とか海鰻《かいまん》竜とか杜撰極まる名でその場を済ませおるが、見物人が右に述べた鬼の頷のような縁の有無だけ心得て見たら、アリガトルとクロコダイルのいずれに属すべき物くらいのことは、明らかに知れるはずである。   (大正十三年七月十二日『大阪毎日新聞』)
 
       鹿と緬羊
 
 一月二十九日の本紙に、鹿児島馬毛島に近ごろ緬羊牧場ができるため、幾千百年の昔からこの島に自生し来たった鹿も、この安全地帯から去らねばならぬ悲しい運命に打《ぶ》つかっておる由が載せられた。仔細は緬羊繁殖と農作物保護のため、今度いよいよ鹿の捕獲を許可されたとのこと。
 これと似たことがかつてスコットランドにあった。一八二七年に出たホーンの『ゼ・テーブル・ブック』に、アル(301)チヤ谷の男爵領に性質優れた鹿多く棲んで名高かったが、長者どもが鹿を愛せず緬羊を飼い出してより保護行き届かず、また鹿ははなはだしく羊を忌むところから追い追い荒れ、淋しい山地に退き籠ったが、緬羊に草を食い減らされ、人には情なく打ち殺され、終《つい》に全く跡を絶つに及んだとあって、ただ一疋残った大鹿がどんなに無残に屠られたかを記述しおる。
 アルチャ谷に限らず、スコットランドでは、到る処緬羊が見えると鹿の数は減り出し、ついに全滅する。緬羊は片端から草を食い平らげて鹿に少しの餌を遺さず、かつ鹿は緬羊の毛の臭気を忌むの余り、どんな草多き地でも緬羊が一疋もいたら避けて近付かない。これがその全滅の理由だ。しかるに、鹿はいささかも牛を嫌わず、好んで牛と雑《まじ》って食い臥す、とある。これは日本の鹿と別種だが、類をもって推すと、馬毛島の鹿もたとい捕獲の許可なくとも、緬羊がこの島に入り来たった以来、すでに滅亡に向かいおるものらしい。   (大正十四年二月九日『大阪毎日新聞』)
 
       トガサワラの産地と蟇岩について
 
 十一月二十五日の本紙和歌山版、阪口君の「熊野の珍食物(二)」に、大和の大峰山中にはトガサワラの純林あり、天然記念物になっている。東牟婁郡大塔山では、この大木が無数にあったらしいが、製材のためことごとく伐採されて跡方なく、今回七、八百メートル以上の高地に幼生を発見したのは愉快だった。トガサワラは紀、勢、和国境付近の外、土佐にのみ産する珍木で、云々、大塔山のトガサワラはぜひ保護を加えたい、と説かれた。
 十八年前、西牟婁郡坂泰官林へ往った時、しばしばトガのような木でトガより細長く、毬果またトガより細長きものを見て、同行の西面欽一郎氏(後に上山路村長、欽の字を飲と改めたが至当とみずから許した豪酒家で、今年二月頓死)に尋ねると、これはトガとは別物でカワキという木、と答えられた。この官林のある二川村の古老の説に、この木は外見(302)トガに似れど、よくみると姿勢から木質までもトガと異なり、トガより油脂多くて水分乏しく、五十近い女のように乾きおるので、カワキトガと呼び来たった、近ごろはただカワキと略称する、といった。
 当事務所現主任大江喜一郎氏|話《はなし》に、以来大阪峠から二川村の福定へ下る近遠谷《ちかとおだに》の民有林には、純林とまでなかったが、この木が多かったのをみな伐ってしまった、と。予、今年十月中旬当所へ来る途上、日高郡川又国有林でも、川又より中家口に至る谷間の民有林でも、しばしばこの木が自生せるをみた。この妹尾の国有林には一本もみないが、山一つ隔てた寒川村や、それに続いた山路三村にも、諸所にある由。数年前、川又で伐った内に径四尺の大木あり、脂分多くて鋸を使うに苦しみ、テレピン油で洗いながらやつと挽き切ったという。脂分に富むがゆえに水に犯されず、水道を構うるに妙なり。値はトガより廉にモミより貴《たか》し。
 今の田辺営林署の天井やゆか板は、川又産のトガサワラで、紀州でもっぱらカワキ、土佐でトガサワラと呼ぶ由。同署長談に、川又国有林で千本の伐木中トガサワラは十本ほどあり、したがって年々五、六十本は伐りおるが、まだまだ全滅には至らずとのこと。かくのごとく紀州には、大塔山ならでも諸所にトガサワラは現存する。それがさほどの珍木なら、前途不確かな大塔山の幼生を保護するよりも、現に諸方に栄えおる直径数尺もある大木を指定して保護するのが近道と思う。
 ついでに述ぶ。今年和歌山県で名勝とかに西牟婁郡稲成村の蟇岩という物を指定された。それは道側に高く突き出した一個の岩で、形ややカエルに似て鼻先が尖りおり、決してヒキに似ておらぬ。この岩のある小山の頂がやや広くほぼ平らかで、それに二、三十個の大小の岩が妙に双《なら》びある。熊野道者が田辺へ向かって潮見峠を下る時、その多くの岩があたかも大小のヒキガエルが列《つら》なり歩む態にみえた。中には空中に踊り飛ばんずる姿勢のものあった。その一群の怪岩を遠く望んでヒキ岩と称したとは、一九の『金草鞋《かねのわらじ》』を読んでも判る。
 十九年前、予三栖村より岩田村大字岡へ越える坂の上より、これを写真せんと企てたが、レンズが悪くて成らず。(303)みずから筆を執って画き写さんとしたが、ヒキ岩どもの雄姿奇絶で、とても拙毫の及ぶところでないから中止した。京阪その他より来遊の画家諸君は、何どぞ件の坂の上あたりから遠望して、この怪岩を写し伝えられんことを望む。
 今年指定の蟇岩ごときは、わずかに小児を喜ばすに足る物、わざわざ杖を曳くに足らざるなり。名勝指定には、それ相応の調査を重ねずば、こんな謬りが起こるという例として述べておく。(日高郡川上村妹尾国有林官行斫伐事務所にて)   (昭和三年十二月六日『大阪毎日新聞』)
 
       「谷ぐく」という古名
 
 十一月十一日の『大毎』硯滴欄に、「谷ぐくのさわたるきはみ」という詞が使ってあった。鹿持雅澄は諸説を参考して、「谷ぐく」とはヒキガエルのことで、このものよく谷のはざまなどを潜《くぐ》りあるくから、「さわたる極み」とつづけた、古えは潜るをククルと清《す》みて唱えたれはクグといわずグクといった、谷よりつづいた音便で上のグを濁した、と説いた。
 本居宣長は、祈年祭詞に谷蟆と書き、蟆はただのカエルでヒキガエルとは別なようだが、古えは二者を蝦蟆と通称した例、漢籍に多し、と言っている。今も予が識る広東人は、ヒキガエルを蝦蟆と呼ぶ。宣長またいわく、肥後でヒキガエルをタンガクというは「谷ぐく」の訛りだろう、と。
 四十年前、紀伊勝浦港でヒキガエルをダンゴクと呼ぶ人が多かった。同じ紀伊の東牟婁郡七川村から来て二年間予方に勤めた下女も、毎度これをダンゴクと呼んでおった。
 『和名抄』が成ったころすでに亡われた古言が、熊野地方に残ったのだ。このことについて気付いた人がないようだから申し上げておく。   (昭和十五年十一月二十日『大阪毎日新聞』)
 
(305)       人魚の話
 
 田辺へ「人魚《にんぎよ》の魚《うお》」売りが来たとかいうことじゃ。「頼光《らいこう》源《みなもと》の頼光《よりみつ》」の格で、叮嚀過ぎた言い振りだ。わが輩の家へ魚売りに来る江川の女が、柴庵のことをモーズ様《さん》と言う。吉人《きちじん》は辞《ことば》寡《すくな》しと言うが、苗字の毛利〔二字傍点〕のモ〔傍点〕と坊主〔二字傍点〕のズ〔傍点〕と、百舌《もず》のように弁《しや》べることと、三事を一語で言い悉《つく》せるところは、「人魚の魚」などよりはるかに面白い。さて、むかしの好人《すきびと》が罪なくて配所の月を見たいと言うたが、予は何の因果か、先日長々監獄で月を見た。昨今また月を賞するとて柴庵を訪うたところ、一体人魚とはあるものかと問われたが運の月、ずいぶん入監一件で世話も掛けおる返礼に、「人魚の話」を述べる。
 寺島氏の『和漢三才図会』に、『和名抄』に『兼名苑』を引いていわく、人魚、一名|?魚《りようぎよ》、魚身人面なるものなり、とある。この『兼名苑』という書は、今は亡びた支那の書だと聞くが、予『淵鑑類函』にこの書を引きたるを見出だしたれば、今も存するにや。普通に?というは、当町小学校にも蔵する?鯉《りようり》また穿山甲《せんざんこう》とて、台湾、インド等に住み、蟻を食う獣じゃ。インド人は媚薬《ほれぐすり》にするが、漢方では熱さましに使った。人面らしい物にあらず。たといそうあったところが、人面魚身とあるは、昨今有り振れた人面獣身よりも優《まし》じゃ。さて、『本草綱目』に、謝仲玉なる人、婦人が水中に出没するを見けるに、腰|已下《いか》みな魚なりしとあり、定めて力を落としたことだろうが、そんなところに気が付く奴にろくな物はない。また査道は高麗に奉使し、海沙中に一婦人を見しに、肘後《ひじしり》に紅鬣《べにのひれ》あり、二つながらこれら(306)は人魚なり、と言えり。『諸国里人談』にも、わが国で鰭《ひれ》のある女を撃ち殺し祟った、と載せたり。
 また寺島氏、「推古帝二十七年、摂州堀江に物あり、網に入る。その形|児《ちご》のごとく、魚にあらず人にあらず、名づくるところを知らず」といえる文を人魚として載せたるが、これは山椒魚《さんしよううお》のことだろう。形はあまり似ぬが、啼声《なきごえ》が赤子のようだから、前年京都で赤子の怪物《ばけもの》と間違えた例もあり。山師連がこれにシュロの毛を被《かぶ》せ、「へい、これは丹波の国で捕えました、河太郎《かわたろう》でござい」、「見ぬことは咄《はなし》にならぬ、こんな妙な物を一銭で見らるるもひとえに大師様の御引合せ、全く今の和尚様がえらいからだ」などと、高山寺などでやらかすなり。すでに山椒魚に近き鯢《げい》という物の一名を人魚と呼ぶ由、支那の書に見ゆ。
 さて寺島氏続けていわく、今も西海大洋中、間《まま》人魚あり。頭婦女に似、以下は魚の身、麁《あら》き鱗《うろこ》、浅黒くて鯉に似、尾に岐《また》あり、両の鰭《ひれ》に蹼《みずかき》あり、手のごとし、脚《あし》なし、暴風雨の前に見《あら》われ、漁父網に入れども奇《あや》しんで捕えず。またいわく、和蘭陀《オランダ》、人魚の骨を倍以之牟礼《へいしむれ》(ラテン語ペッセ・ムリエル、婦人魚の義なり)と名づけ、解毒薬となす。神効あり、その骨を器に作り、佩腰《ねつけ》とす。色、象牙に似て濃からず、と。いかさま二、三百年前、人魚の骨はずいぶん南蛮人に貴ばれ、したがってわが邦にも輸入珍重された物だった証拠は、大槻磐水の『六物新誌』にも図入りで列挙しあるが、今忘れ畢ったから、手近い原書より棚卸しせんに、一六六八年(寛文八年)マドリド板、コリン著『非列賓《フイリピン》島宣教志』八〇頁に、人魚の肉食うべく、その骨も歯も金創に神効あり、とあり。それより八年前出板のナヴァレッテの『支那志』に、ナンホアンの海に人魚あり、その骨を数珠と做《な》し、邪気を避くるの功ありとて尊ぶことおびただし。その地の牧師フランシスコ・ロカより驚き入ったことを聞きしは、ある人、漁して人魚を得、その陰門婦女に異ならざるを見、就いてこれに婬し、はなはだ快かりしかば翌日また行き見るに、人魚その所を去らず。よってまた交接す。かくのごとくして七ヵ月間、一日も欠かさず相会せしが、ついに神の怒りを懼れ、懺悔してこのことを止めたり、とあり。
 マレー人が人魚を多く畜《やしな》い、毎度就いて婬し、またその肉を食うことしばしば聞き及べり。こんなことを書くと、(307)読者の内には、心中「それは己《おれ》もしたい」と渇望しながら、外見を装い、さても野蛮な風など笑う奴があるが、得てしてそんな輩《やから》に限り、節穴でも辞退し兼ねぬ奴が多い。すでにわが国馬関辺では、?魚《あかえい》の大きなを漁して砂上に置くと、その肛門がふわふわと呼吸《いき》に連れて動くところへ、漁夫《りようし》夢中になって抱き付き、これに婬し畢り、また、他の男を呼び歓《よろこぴ》を分かつは、一件上の社会主義とも言うべく、どうせ売って食ってしまうものゆえ、姦し殺したところが何の損にならず。情慾さえそれで済めば一同大満足で、別に仲間外の人に見せるでもなければ、何の猥褻罪を構成せず。反ってこの近処の郡長殿が、年にも恥じず、鮎川から来た下女に夜這いし、細君|蝸牛《かたつむり》の角を怒らせ、下女は村へ帰りても、若衆連が相手にし呉れぬなどに比ぶれば、はるかに罪のない咄《はなし》なり。
 
 今日、学者が人魚の話の起源と認むるは、ジュゴン(儒艮)とて、インド、マレー半島、濠州等に産する海獣じゃ。琉球にも産し、『中山伝信録』にはこれを海馬《かいば》と書いておる。ただし、今日普通に海馬というは、水象牙を具する物で、北洋に産し、カムサッカ土人、その鳴き声によって固有の音楽を作り出したものだが、『正字通』にこれを落斯馬と書いておる。
 十余年前、オランダの大学者シュレッゲル、『通報』紙上に、これはウニコールのことだろうと言いしを、熊楠これを駁し、落斯馬はノルウェー語ロス・マー(海馬の義)を直訳したのだ。件《くだん》の『正字通』の文は、まるで『坤輿外紀』のを取ったのだと言いしに事起こり、大論議となりし末、シュレッゲルが、そのころノルウェー語が支那に知れるはずなし、故に件の文が欧州人の手に成った証拠あらば、熊公の説に服するが、支那人の作ではどうも樺太辺の語らしい、と言い来たる。ずいぶん無理な言い様じゃ。彼また自分がウニコール説を主張せしを忘れて、ひたすら語源のノルウェーに出でぬを主張すとて、落斯馬は、海馬は馬に似た物ゆえ「馬らしい」という日本語に出でしならんと、真に唐人の寝言《ねごと》を言うて来た。
(308) わが国では海外の学者を神聖のようにいうが、実は負け惜しみの強い、没道理の畜生ごとき根性の奴が多い。これは、わが邦人が国内でぶらぶら言い誇るのみで、外人と堂々と抗論する弁も筆も、ことには勇気がないからじゃ。しかし、熊公はなかなかそんなことに屈しはしない。返答していわく、日本の語法に「馬らしい」というような言辞は断じてない。しかし、「か」の字を一つ入れたら、お前のことで、すなわち「馬鹿らしい」ということになる。日本中といえども、すでに昨年支那に勝ったのを知らぬか。汝は世間に昧《くら》くて、ジャパンなる独立帝国と、汝の国の領地たるジャワとを混じておらぬか。書物読みの文盲《あきめくら》め。次に、人を困らそうとばかり考えると、ますます出る説がますます味噌を付ける。件の文の出ておる根本の『坤輿外紀』は、南懐仁著というと支那人と見えるが、これ康煕帝の寵遇を得たりし天主僧、イタリア人ヴァーベスチのことたるを知らずや。注文通りイタリア人の書いた本に、近国のノルウェーの語が出ておるに、何と参つたか。『和漢三才図会』に、和蘭《オランダ》人小便せる時、片足挙ぐること犬に似たりとあるが、汝は真に犬根性の犬学者だ、今に人の見る前で交合《つる》むだろうと、喜怒自在流の快文でやっつけしに、とうとう「わが名誉ある君よ」という発端で一書を寄せ、「予は君の説に心底から帰伏せり」(アイ・アム・コンヴィンスド、云々)という、なかなか東洋人が西洋人の口から聞くこと岐山の鳳鳴より希《まれ》なる謙退《けんたい》言辞で降服し来たり、予これを持ちて二日ほどの間、何ごとも捨て置いて、諸所吹聴し廻り、折からロンドンにありし旧藩主侯の耳に達し、祝盃を賜わったことがある。
 三年ほど後に、恵美忍成という浄土宗の学生を、シュレッゲルが世話すべしとのことで、予に添書を呉れと恵美氏言うから、「先年は学議に募りてついつい失敬したが、全く真の知識を研《みが》くがためだから、悪しからず思え」という緒言で、一書を贈りしに、それ切り何の返事せず、恵美氏の世話もせざりしは、洋人の頑強固執、到底邦人の思いおよばざるところだ。とにかくそれほどパッとやらかした熊楠も、白竜魚服すれば予且《よしよ》の網に罹《かか》り、往年三条公の遇を忝なうして、天下に嬌名を謡われたる金瓶楼《きんべいろう》の今紫《いまむらさき》も、目下村上幸女とて旅芝居《たびやくしや》に雑《まじ》われば、一銭で穴のあくほど(309)眺めらるる道理、相良無武《さがらないぶ》とか楠見糞長《くすみふんちよう》とか、パチルス、トリパノソマ同前の極小人に陥られて、十八日間も獄に繋《つな》がるるなど、思えば人の行く末ほど分からぬものはありやせん。しかし、昼夜丹誠を凝らし、大威徳大忿怒尊の法という奴を行ないおるから、※[其/月]年《きねん》を出でずして、彼輩腎虚して行き倒れること受合いなり。
 何と長い自慢、兼ヨマイ言じゃ。さて琉球ではまた、儒艮《じゆごん》をザンノイオとも言い、むかしは紀州の海鹿《あしか》同様、御留《おと》め魚《いお》にて、王の外これを捕え食うこと能わざりし由。魚《いお》というものの、形が似たばかりで、実は乳で子を育て、陰門、陰茎歴然たれば、獣類に相違ない。以前は鯨類と一視されたが、解剖学が進むに従い、鯨類とは何の縁なく、目今のところ何等の獣類に近縁あるか一向知れぬから、特にシレン類とて一群を設立されおる。シレンは知れんという訳でなく、シレンスという怪獣は、儒艮《じゆごん》の類に基づいてできたんだろとて採用した名じゃ。ギリシアの古語に、シレンスは海神ポルシスの女で、二人とも三人ともいう。海島の花畠に住み、死人の朽骨の間におり、ことのほかの美声で、一度は気休め二度は嘘などと唄うを、助兵衛な舟人ら聴いて、どんな別嬪だろうと、そこへ牽かれ行くと最後、二度と妻子を見ることがならず。オージッセウス、その島辺を航せし時、伴侶《つれ》一同の耳を?で塞ぎ、自身のみは耳を塞がずに帆柱に緊《きび》しく括り付けさせ、美声を聞きながら魅《ばか》され行かなんだは、何と豪《えら》い勇士じゃ。
 予もそれから思い付いて、福路町《ふくろまち》を通る前に必ず泥を足底に塗って往く。これは栄枝《さかえ》得意の「むかし昵《なじ》みのはりわいサノサ」という格で、いくら呼んだって、女史は大奇麗好きだから、足が少しでも汚れおつては揚げて呉れる気遣いなく、「飛んで往きたやはりわいサノサ」と挨拶して、虎口を遁れ帰宅すると、北の方《かた》松枝御前《まつえごぜん》が、道理で昼寝の夢見が危かったと、胸撫で下ろす筋書じゃ。それはさて置き、南牟婁郡の潜婦《あま》の話に、海底に「竜宮の御花畑」とて、何とも言えぬ美しい海藻《も》が五色燦爛と密生する所へ行くと、乙姫様《おとひめさま》が顕われ、ぐずぐずすると生命《いのち》を取らると言い伝う。シレンスが花畑におるとは、美しき海藻より出た譚《ものがたり》ならん。さて、シレンスは一人たりとも美声に魅《だま》されずに行き過ぎると、運の尽きで、すなわちオージッセウスが上述の奇策で難なく海を航したから、今はこれまでなりとみ(310)ずから海に投じて底の岩に化せりとあるから、南方が行き過ぎると栄枝女史も二階から落ちて女久米仙《おんなくめせん》と言わるるかも知れぬ。
 このシレン類は、あまり種類多からず。儒艮属、マナチ属の二属しか現存せぬ。マナチは南米と西アフリカの江河に住む。二属ともあまり深い所に棲み得ず。夜間陸に這い上がり草を食い、一向武備なき柔弱な物ゆえ、前述の通り人に犯されても、ハアハア喘ぐのみ、好いのか悪いのかさっぱり分からず。さて人間は兇悪な者で、続けざまに幾日も姦した上、これを殺し食う。それゆえ、この類の全滅は遠からず。すでに他の一属|海牛《シーカウ》というは、北永洋の一島に住み、その島へ始めて上陸した難船の水夫どもを見て珍しげに集まり近づきたるを、得たり賢し天の与えと片端から殺し食い尽され、その遺骨のみ僅少の博物館に保存され、観る人の涙の種となりぬ。また好婬家は儒艮の例を推し、この方が大きいから抱き答《ごた》えがあるなどと言い、眼からも下の方からも涙潤い下るじゃ。この類は三属とも、肉味ははなはだ旨く柔らかな由。ただし、食う時のことで、幹《す》る時の味は別に書いてない。儒艮の頭ほぼ人に似、かつその牝が一鰭をもって児を胸に抱き付け、他の一鰭で游《およ》ぎ、母子|倶《とも》に頭を水上に出す。さて驚く時は、たちまち水に躍り込んで魚状の尾を顕わす。また子を愛することはなはだし。これらのことから、古ギリシア人、またアラビア人などが儒艮を見て、人魚の話を生じただろうという。
 一五六〇年(永禄三年)、インドで男女の人魚七疋を捕え、ゴアに送り、医士ボスチこれを解剖せしに、内部機関全く人に異ならず、と記せり。また一七一四年ブロ島で捕えし女人魚は、長さ五尺、四日七時間活きしが、食事せずして死す、と。また一四〇四年(足利義満の時)、オランダの海より湖に追い込んで捕えし人魚は、紡績を習い行ない、天主教に帰依して死せり、と。十八世紀の初めに蘭《オランダ》人ヴァレンチン一書を著わし、世すでに海馬、海牛、海狗あり、また海樹、海花あり、また何ぞ海女あり海男あるを疑わんや、と論ぜり。
 岩倉公らの『欧米回覧日記』に、往時オランダへ日本より竜と人魚の乾物を渡せしに、解剖して後ようやくその人(311)造たるを知り、人々大いに日本人の機巧い驚けり、と見ゆ。動物学の大家クヴエー、かつてロンドンで人魚の見世物大評判なりしことを記し、いわく、予も人魚なる物を見たるに、小児の体で口に鋭き歯ある魚の顎《あご》を嵌《は》め、四肢の代りに蜥蜴《とかげ》の胴を用いたり、ロンドンで見世物にせしは猴《さる》の体に魚の後部を付けしものなり、と。予も本邦また海外諸国でしばしば人魚の乾物を見しも、いずれも猴の前半身へ魚の後半身を巧みに添え付けたるものなり。支那の古史に小人《こびと》の乾?《ひもの》ということ見ゆ。思うに猴の乾物もて偽り称せしが、後には流行《はやら》なくなり、ついに魚身を添えて人魚と称するに及びしか。『和漢三才図会』等に、若狭小浜の空印寺に八百|比丘尼《びくに》の木像あり。この尼《あま》、むかし当寺に住み、八百歳なりしも、美貌十五、六歳ばかりなりし。これ人魚を食いしに因《よ》る、と。嘘八百とはこれよりや始まりつらん。思うに儒艮は暖地の産にて、若狭などにある物ならねど、海狗などの海獣、多少人に類せる物を人魚と呼び、その肉|温補《おんぼ》の功あれば、長生の妙験ありなど言い伝えたるやらん。
 とにかく、人魚ということ本邦に古くより言い囃せし証拠は、「法隆寺の古記」なる『嘉元記』に、「人魚出現のこと。ある日記にいわく、天平勝宝八年(今年より千百五十四年前)五月二日、出雲国ヤスイの浦へ着く。宝亀九年四月三日、能登国珠洲岬に出で、正応五年十一月七日、伊予国ハシオの海に出で、文治五年八月十四日、安芸国イエツの浦に出で、延慶三年四月十一日、若狭国小浜の津に引き上げて、国土|目出度《めでた》かり。真仙と名づく(何のことか知れぬが、多少八百比丘尼に関係あるらし。)延文二年卯月三日、伊勢国二見の海に出で、長久なるべし。延命寿と名づく。以上六ヵ度出で、云々」とあり。また人魚を不吉とせし例は、『碧山日録』に、「長禄四年六月二十八日。ある人いわく、このごろ東海の某地に異獣を出だす。人面魚身にして鳥趾《とりのあし》なり。京に入りて妖を作《な》さんとす。人みなあらかじめ祓事《はらいごと》を修め、殃《わざわい》を禳《はら》うという」とある。まだまだ書くことがあるが、監獄で気が張っていた奴が、出てから追い追い腰痛くなり、昨今はなはだ不健全ゆえ、ここで話を止める。   (明治四十三年九月二十四日、二十七日『牟婁新報』)
 
(312)     財産分けの話
 
 英国土俗学会の発起人ジョージ・ローレンス・ゴム著『歴史科学としての土俗学』(一昨年出版)六七−八頁にいわく、むかしスコットランドに身代宜しき老翁あり、子多く持てり。子供成長しければ畑地を分け与えたり。老妻死しければ、今は思い残すことなしとて、財産を悉皆《しつかい》諸子に分かち、自分は巡廻して諸子の家に客たり。しかるに、いずれも不孝の悴のみで、父を倦み飽き何とかして厄介払いをせんと謀る。この翁大いに成り行きを悲しみ道傍に哭するを見し老友あり。問いてその故を知り、伴うて自家に置く。さて黄金一鉢を与え、爾々《しかじか》せよと教ゆ。翁その言に随い、息子、娘どもが寺へ往き、孫ども塚上に遊ぶ処へ往き、敷石を起こし物を取り出す態《ふり》して、距たれる処へ往き日向《ひなた》で大石の上に黄金を弘《ひろ》げ出だし、呟きていわく、「噫《ああ》、黄金、汝は古く蔵されて黴が生えそうだ。どれどれ日に乾かしてやろう」と、孫ども塚に登り、祖父の言行を見聞し、走り来て問う、「じいさん、何じゃ」と。老祖応えていわく、「お前らの構うことじゃない。こらこら触《さわ》っちゃいけねー」と言い終わりて、黄金を大袋に盛り、老友の方へ帰りぬ。
 諸子女、寺から還って孫どもの報知を得、何とか老翁の金をせしめんと、争うて機嫌取ることはなはだ力《つと》む。また老友の訓えに由り、老翁小作りな頑丈な箱を造り、常に身に随え歩く。皆々その何たるを問うごとに、老翁、「箱を開く時が釆たら、中の物が知れるんだ」と答うるのみ。さて児孫の追従大方ならぬうちに老翁没し、一族どもいずれも盗人の昼寝で、「宛て込み」があるから、争い飾りて大賑やかな葬式を済ませた上、相会してその箱を開きけるに、茶碗の破片と石數塊と長柄の白木作りの槌あるのみ。一同宛て込み大外れなりしが、もしや伝え聞く「打出の小槌」(313)などにやあらんかと吟味の末、槌の頭に文字あるを見出だし読みけるに、なになに
  この槌は子に分け尽し鵜の毛だに身に添はぬ馬鹿の頭をぞ打つ
子も屁もわが身から出る物ながら、大きくなれば一向親の心を知らず、わがままのみやらかし、せっかく哀々たる父母汝を生んで苦労すと、養育《やしなわ》れた恩を仇で、不親切極まる者じゃ(ただし、屁は小さい奴ほど一層出した人のみか他人までも因らせる)、されば、この老翁老友の告げに任せ子供を可愛ければとて、必ずおのが眼の黒いうちに、何もかも与え悉《つく》すな、飛んでもない馬鹿を見るという意を、槌に銘せし趣向、憐れむべく歎ずべし。
 さてゴム氏は、予の「神社合祀反対意見」にも引きしごとく、近代の大学者で、いかなる詰まらぬ里伝俗習にも、必ず多少の史蹟を包有す、故に史を研究せんと欲せば必ずしも文書のみを頼むべからず、不文不記の史実は俗間の伝話、旧慣、古蹟、故事を案ずるに、その方法をもってすれば必ず知り得るところ多し、と主張す。往年、予在英の時、インド人カナイヤラル、梵教の古語にラマ王誕生の時、諸星在天の位置を述べたるに基づき、星学上精算してその時代年月を判明するを得べしと論ぜしなど、道理至極の説なり。予も『人類学雑誌』(今年七月十八日発行)で、御嶽、玉置《たまき》山等で、狼を符《まもり》に画きて盗火を禦ぎ、また狼を祭りながら社畔の大杉を「犬吠杉《いぬぼえすぎ》」と名づくるなどより推して、古えわが邦固有の犬は狼種より出でたるを立証した。縁が近ければこそ、明治十三年ころ、目方《ひかた》近所で狼と犬と交合したことがある。仏国のブッフォン大先生は、犬と狼を交《つる》ませ間種《あいのこ》を得た、と自記しある。これらは学術上非常に必要なことで、決して風俗壊乱じゃない。現に、九年前に熊野勝浦で太地犬《たいじいぬ》というを見た。これは狼を畜《か》うて犬となったのじゃ。近ごろははなはだ少ない、猟犬に第一じゃ、と老人が惜しみおった。インド辺で野牛を畜うて数代の後また野牛と交《さか》らせねは必ず絶える。太地犬も狼が少なくなって狼を交《さか》ることならぬから、絶滅に近づいたんだろう。ただし、予は犬と狼の交《つる》むところなど決して見たくない。ただ本邦でせっかく古人が作り上げし好猟犬種の絶滅を哀しむのみ、と断言し置く。
(314) さて、ゴム氏、前述の老翁、槌の銘の古記を分析していわく、この話馬鹿げたるごとしといえども、左の史実を包み存せり、豈《あに》看過すべけんや、と。
(一)古え諸国に、地面持ちが子供|盛長《せいちよう》に及び、おのおのへ地面を分与し、子供分かれ住むこと、あたかも蜜蜂が巣より分かれるごとく、親はわずかに一片の小地をみずから有するに至れること。
(二)父老ゆれば財産を挙げて子に譲る風ありしこと。今も日本、カシュミル、ノルウェー等に、隠居の習《ならわ》せあり、その遺風なり。
(三)むかし、この話の本国たるスコットランドには、同源の諸家一団に群立し、近傍の畑地を諸家通じて共に耕せり。これより老翁すでに子供に産を分かち悉《つく》せし上、巡廻して諸子の厄介となりしというなり。
(四)諸子、老翁を殺さんとせしとは、最《いと》古く英国に旅せし人の記行に、「人老ゆれば、祝いし楽しみ、香油を塗り、ある巌より海に飛び込んで死する習いなり」とあり。むかしスウェーデン等の人は老父を槌殺し、近時まで、インドのトダス、南|非《アフリカ》のホテントットなどは、老親を遠地に捨てて餓死せしめ、タスマニア人は一族の見る前で子が親を縊り食うを義務とせり。熊楠謹んで案ずるに、本邦に今も親の臑《すね》を食う悴多し。他邦を笑うべきにあらず。
(五)古スウェーデン人は、老後岩より海に投じ自殺するが常ながら、もし海岸まで歩む力なき時は、老牛が藁上に仆死するごとき不面目なからしめんとて、一家伝来の棍棒を持ち来たつて老人を打ち殺せり。エルトン氏、その棍棒の保存されしを睹たりという。英国の古伝に、寺の入り口の戸の後に神槌を懸けたるを、父七十歳に及ばば、その子もはや耄《ぼ》れて用なしとて、件《くだん》の槌もてその頭を打ち砕き殺せり、と。ドイツにも、六百年前、旧慣により子に殺されんとする老父をナンスフィルド伯の妻が救いしことあり。この風習廃して槌のみ残存せしゆえ、その由来を説かんとて、本条の古話を造り出されしなり。
 以上ゴム先生の卓論なり。ただし、予が一昨年六月の『早稲田文学』「『大日本時代史』に載する古話三則」の条(315)下に論ぜしごとく、里伝俗語には、確かに一国から他の諸国へ伝播せしこと明らかなるものと、各地方境涯の同似より生ぜる同似のものとがある。
 当町前々代の原某は至って女好きで、妾を絶たざりし。妻が角《つの》の気味あるを察し、一日従容として、お前は何が好物かと問いしに、赤飯と答えしかば、爾後連日赤飯ずくめにせしに、大いに飽けりと聞き、語るらく、予もお前を至って好くが、不断お前ばかりでは飽きが来る、と。この人没して十余年の後、『ノーツ・エンド・キリス』に投書する者あり、いわく、古え仏皇シャール、婬縦《いんじゆう》度なかりしかば、その后の依嘱で大僧正これを諌めしに、皇、何の言もなく、「貴僧は何を食うを好むか」、答う「ヘイ、松鳥《パートリツジ》が一番旨うござる」。それから皇、日々僧正に食わしむるに松鳥肉のみをもってし、さてどうだと問いし、「松鳥もかく毎日続いては飽きます」、「そうか、朕も皇后いかに美なるも毎日皇后ばかりでは面白くない」。そこで申し合わせておのおの勝手次第に食い荒らすこととせり。毎度松島(ツーシュール・パードリス)という諺は、これによって生ぜり、とありし。これらはいかに推し考うるも、原某がそのころ世に顕われざりし仏国の諺を知り及ぶことも、古仏皇が原某の伝を聴くはずもなければ、全く範囲遭際の相似たるより、相似たる考えを生ぜるに外ならじ。
 されば、『史記』の陸賈伝の一節ごときも、前述スコットランドの古語と相似たるは、遭際の同じきに基づけるなり。さて、かのごとき槌の銘のことなきは、支那はさすが周孔忠孝の本土で、上古にも老父を義務として子が槌殺するようなことなかりしを証し、東洋の道徳古くより西洋に優れるを示すなるべし。すなわち『史記』にいわくさ、耶蘇紀元前一九六年、漢の高祖、趙佗を降さんとて、陸賈を使わせしに、賈能弁にして立ちどころに佗を説き伏せ、佗大いに閉口感心して、千金の価ある珍宝一袋を遺《おく》り、別にまた千金を道中の用意に送れり。さて高祖崩じて呂后政を専らにし、諸呂を王とせんとせしを、陸賈、とても諫めたって及ばざるを知り、病と称し田舎に退き耕田す。賈に五男ありしに趙佗が呉れし珍宝を千金に売り、二百金ずつ五子に分かちおのおの営業せしめ、さて自分は馬四疋で牽く(316)車と、従者十人、いずれもドド一、ステテコ等の大名人なり。さて、百両もする剣一本、上を求めて身に随え、諸子に語りけるは、「お前らの内へ予が遊びに来たら、十日間、予と従者と馬とに飲食を供せよ。さて予が誰かの家で死んだら焼いて砕いてブブで香むにゃ及ばないから、御馳走の礼に予の剣も車馬従者も、ことごとくその家の主人の所有とせよ。ただし、五子ある一子ごとに年に二、三度以上は世話懸けに往くまい。兄弟どころか親子も他人の始めじゃ。あまり長逗留したり、たびたび遊びに往くと厭《あき》が来ること必定じゃ」と。ここにおいて、悴ども何とか老父が己《おれ》の家で死んで呉れればよいと、飛んでもない勘定づくから、親を善く扱い、競走して振れ舞うたとは、いかにもさっぱりしたようで、現金ずくめな珍談じゃ。
 故多屋寿平次君在世中、予このことを談《はな》し出で、予の亡父、死なぬうちに財産を吉儕《われら》に分かち与え置かれしは、まことに達眼で、その一部を持ってみずから隠居されしは、至って陸賈の秘訣を得たものだった、と言ったことである。聴いて行なう能わざるを視肉《しにく》というとか。寿平次君は洵《まこと》に賢人だったが、以下は略す。   (明治四十三年十月三日『牟要新報』)
 
(317)     兎と亀との話
 
 『太陽』雑誌の新年号へ「兎に関する民俗と伝説」という長篇を書いたが、ここには『太陽』へ出さなんだことばかり書く。第一に、小学児童が熟《よく》知った亀と兎の競争の話について述べよう。これは『イソップ物語』に出たものだ。イソップはギリシアの人で、耶蘇紀元前五六〇年ごろ生きておった名高い教訓家だが、今《いま》世に伝われる『イソップ物語』は決してそんな古いものでなく、ずっと後の人がイソップに托《ことづ》けて書き集めたものという。しかし、何に致せ西洋|話本《はなしほん》の親方として、その名声を争うものはない。
 「亀と兎の競争の話」は、この物語に出た諸話の中もっとも名高い物で、根気よく辛抱して励めば非常の困難をも凌いで事業を成就し得ることを示したものだから、気力ある若い人々が世間へ出る始めに、この話を額の立物《たてもの》と戴き、真向《まつこう》に保持して進撃すべしと西洋で言う。この話に種々の異態がある。しかし、普通英国等で持囃《もてはや》すのはこうである。いわく、兎が亀に会うて自分の足|疾《はや》きに誇り亀の歩み遅きを嘲ると、亀|対《こた》えて然らば汝と競争《かけつこ》するとして、里程は五里、賭は五ポンド(五十円)と定めよう、さてそこに聞いておる狐を審判役としようと言うと、兎が承知した。よって双方走り出したが、兎は固《もと》より捷疾《あしばや》だから、亀が見えぬほど遠く駆け抜けた、ところで少し疲れたらしい。よって路傍の羊歯叢中《しだのくさむら》に坐ってうとうとと眠る。おのれの耳が長いから、亀がゴトゴト通る音を聞くが最期、たちまち跳《は》ね起きてまた走り抜けやるつもりだった。しかるに、あまり侮り過ぎて眠り過ぎた間に、亀は遅いものの一心不乱に歩み来たって到頭目的点へ着いたので、兎の眼が覚めた時はすでに欺けおった。
(318) 欧州外にもこれに似た話があるが、件《くだん》の話と異《かわ》り、辛抱の力で遅い奴が疾い奴に勝ったのでなくて、もっぱら智力の働きで勝ったとしておる。サー・アレキサンダー・ブルドンがフィジー島人から聴き取った話にいわく、鶴と蟹とがどちらが捷いと相論《そうろん》した。蟹が言うには、何と鶴が言っても己《おれ》が捷い、すなわち己が浜を伝うて向うに達する間に、鶴は今相論しおる場所から真直に飛んで向うへやっと達し得る、と言った。鶴、然らば競争を試《や》って見ようと言うと、蟹が応じたので、二人一斉に一二三と言い畢って、鶴が一目散に飛び出す。蟹は徐《しず》かに穴に入って己《おれ》の卷属が到処《どこまでも》充満しおるから、鶴はそれを己一人と惟うて騙されることと笑いおる。鶴が飛んでおるうち、どこへ往つても蟹の穴があるのを見て、さては己より前に蟹がそこへ来てはや穴を掘って住んでいやがるのかと不審して、そこへ下りて耳を穴に当てて聴いて見ると、ブツブツと蟹の沫吹く音がする。また飛び上がって少し前へ往くと、また蟹の穴が見えるのでまた下りて聴くと沫の音する。はや蟹がここまで来て穴を掘っていると思うて、何度も何度も飛んでは聴き聴いてはまた飛び上がり、あまり疲れてついに海に落ちて鶴は死んで了《しま》った。
 また一つフィジー島で話すは鶴と蝶との競争で、蝶が鶴に向かい何とトンガ島まで飛んで見よ、かの島には汝の大好物の蝦が多い、と言うた。鶴これに応じて海上を飛び行く。その背へちょっと鶴が気付かぬように蝶が留まって鶴の飛ぶに任す。さて鶴が些《ちと》休息しょうとしだすと、蝶たちまちその背を離れ、予《おれ》の方が捷いと言いながら前へ前へと飛んで往く。小癪なりと鶴が飛び出して苦もなく蝶を追い過ごすと、蝶また鶴の背に留まり、鶴が休もうとすると、また蝶が嘲弄しながら飛び出す。こんなに蝶は鶴の背に留まり通しで、鶴は少しも休むことならず、ついに労《つか》れ死んで終《しま》うた。
 マダガスカル島にもこんな話が若干ある。その一つにいわく、むかしむかし野猪《いのしし》と蛙が平地から山の絶頂まで競争しょうと懸かった。さて野猪が豪《えら》い勢いで駆け出すと同時に、蛙がその頸上に飛び付いて留まった。蛙の身は至って軽く、野猪の頸の皮がすこぶる厚いから一向気が付かぬ。かくて一生懸命に走って今一足で嶺《いただき》に達するという刹那、(319)蛙が野猪の頸からポイと躍《と》んで絶頂へ着いたので、野猪われは蛙にして遣《や》られたと往生を唱うた。残念でならぬから、今度はどちらが能く跳ぶか競べ見んと言うと、蛙|容易《たやす》く承諾し打ち伴《つ》れて川辺に到り、一二三と言い了《しま》うと同時に野猪が跳び出す。その時遅くかの時速く、また蛙めが野猪の頸に飛び付いたのを一向知らず。努力して川の彼岸《かなた》へ跳び下りる前に、蛙がその頸から離れて地へ下りたので、野猪眼を赤くし口から白い沫を吐いて降参した。
 今一つマダガスカル島の話には、野猪《いのしし》と守宮《やもり》と競争したという。ある日、野猪が食を求めに出懸ける途上、小川の側《そば》で守宮に行き逢い、何と変な歩き振りな奴だ、そんなに歩《あし》が遅くちゃアとても腹一盃に物を捉《と》り食うことはなるまい、お前ほど瘠せて足遅と来ちゃ、浮々《うかうか》すると何かに踏み殺されるであろう、よしか、一つ足を試《ため》して見よう、予《おれ》がこの谷をまるで歩き過ごした時に、汝《おまえ》はまだこの小川の底を這い渡って了《しま》わぬくらいだろう、と言うと、守宮、そう言われると一言も出ぬ、しかし日本の売淫などの通語にも女は面より床上手などと言って、守宮にはまた守宮だけの腕前足前もあればこそ、野猪|様《さん》の御厄介にならずに活きておられるというものサ、何と及ばぬながら一つ競駆《かけつこ》を試《や》って見ようで厶《ござ》らぬか、と言うと、野猪心中取るにも足らぬ守宮|奴《め》と蔑みながら、左様サ、だがここは泥が多い、万一|己《おれ》の足で跳び上がる泥塊《どろだま》が汝《きさま》の身に降り懸かって見ネーナ、たちまち鰻頭の上へ沢庵の重しを置いたように潰れて了うが気の毒だ、ちょうどソレそこの上の方に乾いた広場があるからそこで試して見よう、そしてもし予が負けたら予と予の眷属残らず汝《きさま》守殿の家来になりましょう、と言うと、どう致しまして野猪様、御一疋で入《い》らっしやっても恐ろしくてならぬ物を、御眷属まで残らず家来にしようなどとは夢存じ寄りません、だがほんの遊戯《あそぴ》と思し召して一つ御指南を仰ぎたい、と守宮が答えて、上の方の広場へ伴れ行き、サア彼処《あそこ》の樹の幹にヴェロという茅《かや》が生えておる、そいつを目的に競争《はしりつこ》と約束成りて、野猪がサア駆け出そう、と言うと、守宮、オット待ちなさい、足場を確《しか》と検《ため》して置こう、と言うて、野猪の鬣《たてがみ》の直側《じきそば》に生えおった高い薄を攀じ登り、サア駆けろ、と言うと同時に野猪の鬣に躍び付いた。野猪、一向御客様がおのれの頸に取り付いていると心付かず、無闇無性に駆け行きて、かの樹の幹に近づく(320)と、たちまち守宮は樹の幹に飛び付き、それ私の方が一足捷かった、と言われて、野猪腹を立て、一生懸命に駆け戻ると、守宮また素捷くその鬣に取り付きおり、今一足で出立点というとき、たちまち野猪の前へ躍び下りる。かくすること数多回《あまたたび》、一度も野猪の勝とならなんだので、憤《いか》りと憊《つか》れで死んで了《しま》った、とある。
 上述の諸話と大分変わったのが、セイロンに行なわるる獅《しし》と亀の競争の話だ。いわく、ある時、小川の岸辺で亀と獅と逢う。亀、獅に対《むか》い、汝《きさま》がこの川を跳び越えるよりも疾《はや》く、予はこの川を游《およ》ぎ渡って見すべし、と言った。獅、奇怪な申し条かなと怪しんで、日を定めて競争を約した。その間に亀その親族のある一亀を語らい、当日川の此方《こなた》におらしめ、自分は川の彼方《かなた》におり、おのおのラトマル花の莟《つぼみ》一つを口中に銜《ふく》むこととした。さて約束の日になって、獅、川辺に来たり、亀よ、汝は用意調うたか、と問うと、用意十分、と答えたので、獅、サア始めよう、と川を跳び越えて見れば、亀はすでにあの岸にいる。また、この岸へ跳び来たって見れば、やはり亀がはや渡り着いている。同じ花の莟を一つ含んでいるから、二疋の別々の亀を獅が同じ一疋の亀と見たんだ。獅、焼糞になり、何と貴様は足の捷い亀だ。しかし予ほどに精力が続くまい、いっそ那方《どちら》かが疲れ果てて動くことのならぬまで、何度も何度も試《や》って見ようじゃないか、と言うと、亀は一向動かずに二疋別々に両岸に坐りおれば好いのだから異議なく、サア試《や》ろう、と答えたので、獅、狂人《きちがい》のごとく彼岸へ飛んだり此岸へ飛んだり、何度飛んでも亀が先にいるので、ついに飛死《とぴじに》に死んで了《しま》いました。
 シャムの話には、金翅鳥《こんじちよう》、竜を堪能するほど多く食おうとすれど、そんなに多く竜はない、よって金翅鳥ある湖に到り、その中に亀多くおるを見て、これを食い悉《つく》そうとした。この時、亀、高声に喚んで、われらをただ食うとは卑劣じゃ、まず汝《きさま》と競駆《かけくら》して亀が劣《ま》けたら汝に食われう、と言うと、金翅鳥、しからば試ろう、と言って、高く天に飛び上がった。亀はたちまちその眷属一切を嘯集《しようしゆう》して百疋と千疋と万疋と十万疋と百万疋と千万疋と、それぞれ一列に並んで全地を覆うた。金翅鳥、その翼の力を竭《つく》し飛び進むと、その下にある亀が、われの方が早くここにある、と(321)呼ばわる。いかに力を鼓して飛んでも、亀が先に走り行くように見えて、とうとうヒマラヤ山まで飛んで疲れ果て、亀よ、われ汝が足捷の術に精通せるを了《さと》る、と言って、ラサル樹に留まって休んだ、とある。
 ドイツにこれに似た話があって、矮身《せいひく》の縫工《ぬいや》が布一片を揮うて蠅七疋を打ち殺し、自分ほどの勇士世間にあらじと自賛し、天晴《あつばれ》世に出で立身せんと、帯に「七人を一打ちにす」と銘して出立した。道で巨人に逢うて大力に誇ると、巨人、何だ、そんな矮身が、と嘲り、石一つ採って手で搾《しぼ》ると水が出るまで縮める。縫工、臆せず懐中より乳腐《チーズ》を取り出し、石と称し搾って見せると汗が出た。巨人また石を拾うて天に向かって抛げ上げると、雲を凌《しの》いでまた還らぬ。縫工、兼ねて餌食にと籃に入れ置いた生鳥《いきとり》を出し、石と称して抛げ上げると、飛び上がって降りて来ぬ。巨人、さても矮身に似ぬ大力かなと驚き入り、今一度力を試《ため》そうと大木を引き抜き二人で運んで見んと言うと、縫工すべて木の本の方より末の方が枝が多く張って重いものだ。汝《きさま》は前になって軽い根本の方を担《かつ》げ、われは後にあって重い末の方を持って遣ろうと紿《あざむ》いて、巨人に根を肩にさせ、自分は枝の蚊《また》に坐っているのを、巨人一向気付かず、一人して大木を担《かた》げ行《ゆ》いたので、憊《つか》れて了《しま》った。それから巨人の家に往つて宿ると、縫工、夜間寝床に臥《ふ》さず室隅に臥す。巨人知らず闇中鉄棒もて縫工を打ち殺さんとして、空しく寝床を砕く。さて、はや殺し遣ったと安心して、翌朝見れば縫工|恙《つつが》なく生きおるので、巨人怖れて逃げ去った。国王これを聞いて召し出し、毎々この国を荒らし廻る二鬼《ふたりのおに》を平らげしめるに、縫工恐る恐る往って見ると、二鬼樹下に眠りおる。縫工その樹に昇り、上から石を落とすと、鬼ども起きて互いに相棒の奴の悪戯《いたずら》と早合点し、相罵り同士討ちして死に了る。縫工還って、臣一人で二鬼を誅したと奏し、国王これを重賞した。次に一角獣現じ国を荒らすことおびただしく、国王また縫工してこれを平らげしむ。縫工|怖々《おじおじ》立ち合うと、一角|驀然《まつしぐら》に駆け来たって角を樹に突っ込んで脱けず。縫工幸いに樹の後に逃れいたが、一角は角さえ自在ならぬと至って弱い獣ゆえ、たちまち出で、その角を折り、一角獣を王の前へ牽き出した。次に類似の僥倖《しあわせ》で野猪を平らげ、恩賞に王女を妻に賜うた、とある。
(322) 前に述べた亀が諸獣を紿《あざむ》いた話に似たのは、わが邦にも『古事記』に因幡《いなば》の素兎《しろうさぎ》が鰐を欺き海を渡った語がある。この話の類譚や起原は正月十五日か二月一日の『日本及日本人』で説くつもりである。   (大正四年一月一日『牟婁新報』)
 
(323)     鳥を食うて王になった話
 
 『史記』の封禅書《ほうぜんしよ》にいわく、秦の文公、石のごときものを獲て陳倉の北阪城で祀る、その神あるいは歳に至らず、あるいは歳にしばしば来たる、来たる時は常に夜をもってし、光輝流星のごとし、東南より来たって祠城《しじよう》に聚まる、すなわち雄鶏のごとし、その声|殷《いん》という、野鶏夜鳴く、一牢をもって祠る、名づけて陳宝という、と。『評林』に、『三秦記』を引いて、太白山の西に陳倉山あり、山に石鶏ありて山鶏と別ならず、超高山を繞るに山鶏飛び去れど石鶏は去らず、晨《あした》に山頂に鳴く、声三里に聞こゆ、あるいはいわく、これ玉鶏なり、と。『括地志』にいわく、宝鶏神祠は、陳倉県の故城中にあり、云々、石鶏は陳倉山上にあり、祠は陳倉上にあり、故にいわく、石のごときを獲て陳倉の北阪城に祠る、と。?にいわく、陳倉県に宝夫人の祠あり、あるいは一歳二歳に葉君と合う、葉君来たる時天これがために殷々雷鳴す、雉ために鳴く、と、云々。『列異伝』にいわく、陳倉の人異物を獲てこれを献ず、道に二童子に遇う、いわくこれを?と名づく、地下にあって死人の脳を食う、と。?すなわちいわく、かの童子を陳宝と名づく、その雄を得れば王となり、雌を得れば覇となる、と。すなわち童子を逐うに、化して雉となる、秦の穆公大いに猟してその雌を得、ために祠《やしろ》を立てて祭る、光ありて雷電の声をなす、雄は南陽に止まる、長《たけ》十余丈の赤光あり、来たって陳倉の祠中に入る、故に代の俗これを宝夫人の祠《やしろ》という、葉は県の名で南陽にあり、葉君はすなわち雄雉の神なるゆえ、時に宝夫人の神と合うなり、と。野鶏《やけい》とは、漢の呂后の名は雉《ち》、その名を忌んで雉を夜鶏と言ったのだ。
 今も高野山の大名諸家の石碑林立した中に天降鉄の大塊を祠った小祠《ほこら》あって、弥勒菩薩の祠《ほこら》と名づけおった。それ(324)と斉《ひと》しく隕石の鶏の形したのが、光り吼えて降るを得て、秦の文公が宝鶏祠と祀った。その時もその後も隕石|天《てん》に冲《わた》って落ちる時、野鶏が驚いて鳴き噪ぐより、右様の咄《はなし》を生じたと見える。日本でも地震などの変異の節、雉や鶏が噪ぐ。また蒼鷺《あおさぎ》等の鳥が飛び光るを予も見たことあり。産死の女がウブメ鳥となって人を脅かすというを目撃した者、これ全く蒼鷺だったと言った由、『梅村載筆』に見ゆ。
 『和漢三才図会』に、ウブメ鳥は形も声も?に似て夜光る、五位鷺も夜光る、という。河内の平岡神社の神燈の油を毎夜盗んだ老婆、死後なったという姥火《うばがひ》に逢うた人、俯して窃《ひそ》かに見ると、鶏の大きさの鳥で嘴《くちばし》を叩く音あり、遠く見ると円い火なり、貞享ごろより死んだと見えて出でず、と。『諸国里人談』にこれを五位鷺としたが、嘴を叩く音ありというから鸛《こう》でないかと疑わる。
 
 秋津村から箒や鰻を田辺へ売りに来て、儲けただけ飲み尽して帰る八十ばかりの老爺坂本喜三郎の話に、三十歳ばかりのころ、その村の雑貨店の主婦《かみさん》が池に身を投げて死し、村の大庄屋が村役所より夜帰る時さしおった傘の上に彼女の幽霊が留まったので、大いに惧れ傘を捨てて近所の綿屋に駆け込んだ。その次、坂本翁、夏の夜一友と海へ網打ちに行かんと小泉堤を歩むに、友は十四、五間後れた。万呂村の方より鸛のごとき白き物飛んで来て五、六間|先《さき》になって消えたと思うところへ、三間ばかり前を常人の歩む速力で横ぎり行く婦人あり、髪を被《かぶ》り、藍縞の衣を着て腰以下なし。近処の綿畑に水を入れた中に入って立つところへ、後れ来たった友人が只今かかる物飛び来たったと噪ぐまぎれに、かの女は見えずなった。かねて幽霊に逢う者落ち着いて訊けば必ず意趣を語るものと聞きおったに、その時さほどの度胸を持ち合わさず、尋ね遣らなんだは残念なと力んでも、五十余年の跡の祭りで詰まらない。
 また、むかし田辺の北新町の三栖千という菓子屋の娘、いかなることに行き詰まってか礫山《つぶりやま》の池に惜しい盛りの身を授げて死んだ。只今もある玉置氏の先世、僧となって俳諧に遊んだ人、その池のほとりを通ると、件の女の幽霊が(325)追い来たるを、振り返り見ると金色の翼を生じあったという。これらは胆気に乏しき者が何かの鳥を見て幽公と早合点したに相違なし。ただし往年|土宜《どぎ》大僧正が、そのころ中僧正で英国に来たり、大英博物館へ予が案内して館長よりいろいろと示された内に、古エジプトの壁画に蚤《はや》く人の魂に鳥の翼を生じて飛ぶところがあった。鳥を神や祖先の霊と心得た例諸国に多く、ことに梟などは墓穴に住むこと多きゆえ、諸国でこれを祖神とし、古文明をもって名高いアゼンス人などははなはだこれを尊んだ。よって推すと秦の文公隕石を祀った陳宝祠のほとりで、時々夜光る雉様の鳥が相逢うより、その鳥を神と心得、雄神が時々雌神に逢いに来ると言ったのだ。
 西洋にもドイツに夜光る鳥ありとプリニウスはいい、イタリア、ギリシア等また夜光る鳥の譚《はなし》あり。委細は一九一五年ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』へ出した拙文「夜光の鳥」を見られよ。蒼鷺が夜光る由は英国のコープもいい、ハーチングはこの光で魚類を招き寄せて取って食うのだろうと言った。さて、『淵鑑類函』には、陳宝神を雉とせず鶏とし、秦の時、陳倉で二つの宝鶏が二童に化するを見る、ある人いわく、その雄を得る者は王たり、雌を得る者は覇たり、と。秦の穆公雌者を猟り得て西戎に覇たり、祠を立つるに神光東南方より来たり、雄鶏の声のごとし、と見ゆ。日本で雉を神とする例を聞かぬが、『奥羽永慶軍記』や、『土俗と伝説』に出た中山太郎君の説を読むと、山鶏を神の使い物としたり魔物としたりした所はあったようだ。   (大正十年七月二十一日、二十三日『牟婁新報』)
 
 昨年の本紙にやりかけた通り、支那の秦の時、陳倉という所で二つの宝鶏|化《か》して童子となるを見た。ある人いわく、その雄を得る者は王となるべし、雌を得る者は覇たるべし、と。秦の穆公《ぼくこう》猟してその雌を得たので、ついに西戎に覇たり、祠を立つ、神光東南方より来たり、その声雄鶏の声のごとし、と。これはその宝鶏の雄が時々雌の祠へ来たり(326)会うと信ぜられたので、けだし天から光り物すなわち隕石が落ちたのを、鶏が飛んで来て石に化したと思い祀ったのだと、その節詳論し置いた。
 この支那説に似た話はインドにもある。ドラコット女史の『シムラ村話』にいわく、子のない女が、毎日雀が巣を作って子を育つるを見るうち、母鳥が子を残して死んだ。父鳥が新たに後妻の雌を迎えたが、この継母雀はさらに継子雀をかまわなんだ。女これを見て夫に向かい、妾もし子を生んで後死んだら、あなたは後妻を納《い》れてこの雀のようにわが子を虐待せしむべきや、と問うと、案じなさんな、可愛《かわい》お前が死ぬものか、まして雀は鳥だ、畜生じゃ、われは人間だ、人間が鳥の真似をするものか、と答えた。数年後その女二男児を生み、やや成童した後母死んだ。案のごとく父は前の詞を忘れて新妻を娶った。ある日、兄なる子が?《まり》を投げて、誤って継母の室に落ちたから取りに入ると、なんだ、この子は継母を他人と侮っていやらしいことを仕《し》にくる、と讒言したので、父は二子を追うた。追われて林下に一夜を過ごすうち、弟が眼をさまして夜鷹二疋話すを聴くと、雄が雌に向かい、われを食うた者は王、汝を食うた者は総理大臣となるのを誰も知らぬから安心、と言った。弟、起き出でて二疋とも銃殺して煮たる上、みずからその雌を食い、雄の方を兄に食わそうと残し置いた。そこへ毒蛇が樹の上から来て?んだので、弟は眠ったまま死んだ。兄は朝起きて何気もなく弟の拵え置いた肉を食い、さて起こして見ると、弟は事切れた様子、よって梵志の家柄相応の火葬を営まんと、弟の屍骸を樹の枝の間に揚げ置き、葬りの用意のため立ち去った。その時大神シヴァ、これは仏経に第六天の魔王とも大自在天ともいってヒンズー教で最豪勢の神だ、その后《きさき》パルヴァチすなわち仏教で烏摩妃《うまひ》、この二神が伴れ立って来て、これを見付けた。后神その夫に勧め、可愛そうだ、活かしてやりなさい、と言う。シヴァ大神すなわち自身の血を少しかの屍骸に落とすに、たちまち蘇生した。
 
 この時その処の王死して嗣子なし。臣民、象の鼻に王冠を付け、象の随意に冠を頭に載せられた者はたれでも王と(327)すべし、と定めた。ちょうど件《くだん》の二人の兄、名はルパという方が通り合わすと、その頭へ象がヒョックリ王冠を載せたので、夜前夜鷹の話の通りルバたちまち浪人から王となった。弟のビスンタは大神の助けて蘇生はしたが、所々を流浪してまたここへ来たり、ある家に一宿を求めた。市に虎ありとは、支那で、ないにきまった物のたとえだが、インドはまた格別で、この市へ夜々猛虎が出て一人ずつ求め食う。市人幸いに今夜はこの外来人を名代にやれと、悦んでビスンタを虎伏す野辺に宿らせる。夜分に果たして虎来たるを一刀に斬り伏せ、その耳と髭を採って懐中した。翌日、一掃除人が、かの外来人は虎に食われただろう、その骨は散乱しおるはず、掃きてこまそと往って見ると、案の外《ほか》虎を殺して熟睡と来た。よって市に馳せ返って、われ昨夜虎を斬り外来人を救うたと詈《ののし》った。一同信じてビスンタの言を聴かず、掃除人に重く賞賜した。
 のちこの市に住む貿易商の船が海中に居据《いす》わって動かず。かかる時一人殺したら海神が船を縦《ゆる》し去らしめるということだが、誰一人殺されたい者がないから、王の判断次第で誰でも一人殺すことに決した。その時ビスンタは市中の油屋に奉公中で、親類もなし、恰好の品とあって、この者を伴れ往けと王命のまま、貿易商はビスンタを浜へ伴れ行き殺さしめた。ビスンタ、貿易商に、私が死のうが死ぬまいが船が動きさえすりやよいのでしょう、船を動かしたら命は助け下さるか、と尋ぬると、知れたこと、何の無益に汝を殺そう、と言った。ビスンタすなわちその指を切って血数滴を海に落とすと、見る間に船が動き出した。ビスンタはかつて大神シヴァの血滴を受け蘇生したゆえ、磁石ですった鋼が久しくその力を受け伝うるごとく、ビスンタの血にまた大神同様の神力があったのだ。貿易商これを見て仰天し、殺しもせねば放ちもせず、海上保険の代りにビスンタを同乗せしめて航海を遂げ、大儲けして伴れ還った。
 兄なるルパ王は即位の後久しく弟のことを忘れおったところ、一日たちまち思い出して森中に残した弟の屍骸はどうなったと気遣《きづか》わしくなり、毎日懸賞して種々の人を招き会談し、たまたまこのことに言い及ぶ人もあろうかと冀《ねが》いおった。ついにこのことビスンタの耳に入り、彼、娘の装いして王に詣《いた》ると、わが娘よ、汝何を語らんとするぞ、と(328)問うた。ビスンタ、王に向かい、王は種々のことを聞きたいか、われ一人の身の上話を望むか、と問い返す。汝の身の上話をこそ、と勅答あり。そこで、かつて兄弟二人、名はルパとビスンタといって継母につかえた、と語り出すと、王、息をもつかず傾聴す。ビスンタ少し話し疲れたと称し、その日は退いた。明日話を続けて、林下で蛇に?み殺され、大神夫婦に助命されたところまで述べたが、跡を忘れたとてその日も中止し、三日目にビスンタがある市へ行って虎に与えられた以来の次第を説き、虎を自分が殺した証拠に虎の耳と髭を出して見せたので、王始めて汝こそわが弟なれと大いに再会を悦んだ、とあって跡は本書に略しおるが、むろん夜鷹の言った通り弟は総理大臣となり、殺しもせぬ虎を殺したと虚言した掃除人は刑せられたであろう。
 『印度考古雑誌《インジアン・アンチクワリー》』四は予いまだ見ぬが、それに右類似の話がある由。マニプールの二王子、一はツリ、一はバサンタと名づく。このバサンタが右の『シムラ村話』のビスンタに当たる。この二王子、仔細あって漂浪して樹下に宿り、兄王子、眠らずして鸚鵡夫婦の語るを聴く。雄が雌に汝を食う者はどうなるかと尋ねると、初めははなはだ難儀し、のち大いに栄える、と答う。雄いわく、われを食う者は王たるべし、と。ツリ、そこで二鳥を殺し、あぶるうち眠くなり、弟を起こして代わり守らしむ。夜中に弟、腹へり堪え得ず、雌の肉を食い、夜明けて兄が雄の肉を食い、水を求めて二人相失う。ツリは王となり、バサンタは種々な目に逢うたのち兄弟再会す、とある由。
 熊楠案ずるに、この類の話の最も古いのは仏典にありて、食われた鳥を鸚鵡でもなく夜鷹でもなく、鶏としておる。『根本説一切有部毘奈耶雑事』にいわく、ヴィデハ国の無生王、きわめてその夫人を愛し、一子を生む。この児生まれた時、国中の飲食盈ち足る、よって足飲食と名づけた。年長じて諸芸に通じ、勇健無双だったので、大夫人その子の勢いを恃み、王に順従せず。王これを憂う。大臣いわく、女は一人に限らぬから、さらに温柔な賢女を娶り、大夫人をしてようやくまた和順ならしめよ、と。王すなわち大臣を隣国に使わし、女《むすめ》を求む。その王いわく、わが女が生んだ子をきっと世嗣に立てるなら差し上ぐべし、と。大臣承知の旨を伝え、礼を備えて迎え帰った。王その女の至っ(329)て温柔に、また絶大の美人たるに満足して、望むところを言えというに、女合掌して、もし子を生まな必ず儲君《ちよくん》となしたまえ、と望む。すでに足飲食と名づくる太子ある上は、このこと如何《いかん》と王躊躇するを見て、大臣いわく、実は先日この女を求めに往った時、その通り契約したから今さら彼是《かれこれ》言い難い、この女必ず子を生むと限らず、また生んだところが男子とも限らぬ、とにかくかの女の望みを聞き届けられよ、と。王止むを得ず、その請をゆるした。久しからざるにこの女、端正異常な男児を生んだ。生まれぬ前から王位を求めたからとて求王と名づく。長ずるに及び、いまだ太子に立てず。その母の本国の父王、わが孫を太子とせずば征伐と出懸けるぞ、と言い越す。ヴィデハ王は止むを得ず求王を太子と立てた。異母兄の足飲食太子、国に止まれば必ず殺さるることと悟り、母夫人に謁してハンサラ国に避難せんと言うに、母夫人大いに悲しむ。太子いわく、誰か常に安楽を受け、誰かまた常に難苦せん、厄屈人みなあり、倚伏必ず相随う、苦楽かわるがわる変遷すること、常に星漢の廻《めぐ》るがごとし、会合愛苦生ず、世法みなかくのごとし、と。世間は移り変わる、いつもかつも安楽ばかり続かず、苦あれば楽もあるから成り行き次第にせねばならぬというのだ。ついに辞し去ってハンサラ国に往く途中、飢渇して路傍の樹下に眠る。ハンサラ国の大臣来たり見て異常の人と知り、ゆすり起こして来歴を聞き、王に申す。王広い封邑を賜い、王女を妻《めあわ》せ、奇麗な一男を生む。その日、国中飲食物多く足り最も得易かったので、多足食と名づけた。
 
 が、程なく父の足飲食王子は、食い盛りなる女房の王女と幼稚の多足食を置き去りにしてあの世へ往かれしは、さても無常の迎い駕籠には大象を繋ぐ美人の髪の毛も留むる力のないものぞかし。されば、王女は夫に死なれて徴躬《びきゆう》を省みるに孤弱、穉子を顧みるにいまだ識らず、川を渉るに津《わたしば》なく虚《そら》を凌《しの》ぐに翼を夫うがごとく、日夜悼悲みずから勝《た》えず。「いづくにか見し面影の残るらん、宿は昔の秋のよの月」と日本の若後家だったら読むところじゃった。父王これを見て以為《おもえら》く、女人の性みな丈夫を念う、われ今宜しく改めて大臣に嫁すべし、と。すなわち足飲食の寡婦を大(330)臣プロヒタに妻《めあわ》せ、多足食童子も従ってその家にあり。その後、大臣の家の雄鶏を相師が見て、これを殺して食う者は王となるはず、と言った。大臣すなわちその鶏を殺し、妻に向かい、これを烹てわれが王に朝して還るを待てと命じ、さて王宮へ往つた。時に多足食、学校より帰るに母見えず、腹が減って屁を放《ひ》る力もなし、豈《あに》能く糞を垂れんやで、辺りを探すと鐺《かま》沸く内に鶏あり。その頭を切り取って小食に充てたところへ母来たり、誰がこの鶏の頭を食うたか、と問うに、われ聞こし召した、と答う。母、童子に食事せしめ、また学校へ遣った。すでにして大臣還り、鶏に頭なきを見て、誰が食ったか、と問う。妻、わが子が食った、と答う。大臣、頭なしの鶏を食い了って、そもそもこの鶏は全身を食うて始めて王となり得るのか、将《はた》部分を食うても王となるのか、どりゃ一走りと相師を訪うて尋ぬると、全身を食わずとも頭さえ食えば王となり得、もし人に頭を食われたら、その人を殺し、その頭を食うても王となり得、と教えた。
 大臣聞き已《おわ》って、多足食を殺し、その頭を食わんと念《おも》うたれど、母が知っては事むつかし、まず母の意中を捜らんとて、戯れのように汝は夫と子といずれか王たるを望むかと問うたは、『書紀』に狭穂彦王が狭穂姫皇后に汝兄と夫といずれを愛すると問い、『左伝』に雍姫がその母に父と夫といずれか親しきと尋ね、南方先生が自叙伝に先生毎度北の方に酒と飯とどっちが大切かと言い懸かった同然の難題だ。大臣の妻、もし子の王たるを望むと言わば夫に棄てらるべしと思案の末、知ったこと夫が王たるを欲すと答え、わが子は鶏の頭のゆえに殺されるはずと推量して、屏処で子に告げ、汝逃れて?提醯《ヴイデハ》国に行け、祖宗の郷土ゆえ親族現に存す、と訓えた。すなわち行く途上、樹下に困睡す。多足食の叔父求王、この時病?したるに、かの国法として嗣王立たぬうちは死んだ王を葬らず。求王後嗣なきゆえ立つべき王なし。大臣、王たるべき非凡の人を捜すうち、郊外の一樹下に獅子の胸を具えた極美の少年睡るを見るに、日動けども樹の影移らず。六人の大臣、世にかかる非常の人を見ぬから、この人の外に王とすべき者なしと決議して、彼を揺り起こすと、何故起こしたと問う。王に立つるためと答えると、睡った王を揺り起こすということがあるもの(331)かと詰る。一同大いに面食らって、しからばどう致して宜しきや、と尋ねる。まず美《うるわ》しい音楽を奏し漸々覚悟せしむべし、と答えた。群臣顔見合わせ、あんな作法を心得おるこの青年は高貴の生れに相違なかろうと懼れ入り、慎んでその名を問うと、獅子のように立ち上がって、?提醯国無生王の長子足飲食の子多足食王子を知らぬか、べら棒め、と謂うを聞いて、一同の睾丸釣り上がるどころか失踪したにも気付かず恐れ入る。しばらくして気と睾丸を取り直し踊躍《ようやく》して、われら今こそ本王を得たれと打ち悦び、威儀を盛備し音楽を広陳し、千草万衆従って城中に入り、灌頂して王と称し、洽《あまね》く黎庶を化す。一旦断絶した王室を再興したから、多足食を改めて重興王と号したそうだ。
 これより王の幼弱を侮り、件《くだん》の六大臣が政を擅《ほしいま》まにするを思い、神の告によって賢人大薬を挙げ用うること、大薬の妻毘舎?、儀容天仙に等しく智慈聴明、貞操挺特、諸大臣これを乱さんとして手ひどく懲らさるること、大薬奇謀もて六大臣の姦計を露わし、王彼らを放逐することなど、それはそれは面白い譚ばかりなれど、尻切れ蜻?でそれ限り、話の結末も王の成行きも伝わりおらぬ。
 
 多足食王子が六大臣に教えて、王者の眠りをさますに、まず美しい音楽を奏し漸々覚悟せしむべしと言うた、とあるを、ドイツのシェフネルの『西蔵《チベツト》諸譚』には、唄とドラと太鼓で起こすべし、とある。それでは「本町《ほんまち》ほし善《ぜん》なるほど安い」と騒ぎ立てるようで、喧しうて突然敲き起こす以上の大不敬となり、漸々覚悟せしむることとならぬから、これは日本に伝わった唐訳の方がチベット訳より正しいはずと、予一文をロンドンで先年出し置いた。似たことが東西共にあって、右の予の文を見て海外諸賢より種々告げられたのをざっと述べる。
 英国の『サー・デゴレ物語』は、十三世紀のころの作だという。それに美人が竪琴《たてごと》を奏してデゴレを眠らすとあれば、ネンネンコロリの唄と同じく、音楽で人を眠らすこともあったのだ。足利将軍家の礼式を述べた『宗五大草紙』に、毎年節分に室町将軍、伊勢守宿所へ御成り、食後小眠のほどを見計らい、「備後守、方《かた》に定まりて、障子の際《きわ》へ(332)そと参り候て、鶏のうたう真似を三声仕り、雀の鳴くまねを仕り候えば」、将軍起きて還御するが定例だった、と見ゆ。備後守宅は定めて伊勢守宅から程よくへだたった所で、鶏や雀の声がちょうどよいほどに聞こえて漸次将軍の眠りをさますようにしたのであろう。古ユダヤのダビッド王は、日の出時ごとに琴の音にさまされて起き、ランフレーンの『僧房法制』には、夜分許多の愚僧輩が厠に入りて居睡りするを、巡邏役人決して手を触れず、かすかな音を立ててしずかに起こすべし、とあり。沙翁《シエキスピア》の『キング・リヤー』にも、音楽で貴人の眠りをさますところあり。モンテーニュ、その父自分を愛育した次第を叙べた内に、小児を急に眠りさますはいたくその脳を害すとて、毎朝特に僕をして奏楽して漸々覚醒せしめた、と記しある由。
 けだし未開の民が、睡眠中は人の魂身を離れて遠く遊ぶゆえ、あまり周章すれば本《もと》へ還り得ず、その人たちまち死すとの考えから、急に驚かし起こすを禁ずる風、今も欧亜諸国に少なからず。『人類学雑誌』二八巻八号に予が出した「睡眠中に霊魂抜け出ずとの迷信」という一文に詳述した。ビルマなどでは、税を官吏が集めに行くと、只今主人が眠っておりますと言われて起きるまで俟たねばならず、大閉口の由。本邦でも伊賀の国にそのような処ありと聞いた。
 鶏や烏が早く鳴いて人に怨まれた例は昨年の『太陽』に書いたが、人が他人の眠りをさまして怨まれた例また少なからぬ。インドの大聖ジャラトカルはヴァスキ竜王の妹を妻とし、一日その腰を枕に眠る。日没の勤行時迫るゆえ妻が夫を起こすと、大いに怒って去って再び逢わなんだ。カンボジアの鳥護童子、生まれながらにして手足に金輪の紋あり。時の王、そのおのれの位を奪うべきを察し、捕え殺さんとす。鳥護はその母が王に殺されし後その腹より生まれ、鳥にまもられおったのを牧羊人ツクヘというが見付けて育て上げた。今この難に会い、ツクヘ鳥護を伴いて走り、艱苦千端諸方に流浪するうち、一夜樹下に臥す。たまたま木の葉の音を聞いて捕手の軍勢至ると心得、急に童子を起こした。やがて間違いと知るに及び、童子その安眠を妨げたるを大いに怨み、われ必ず後日ツクヘを誅せんと決心した。ついに王位に登るに及び、執念《しゆうね》くもこの大恩ある老人を刑し、厚くこれを葬り、みず(333)からその式に臨んだという。人の眠ったのを起こすはよっぽど考え物じゃて。
 パーリー語で伝わった『仏本生譚』の、鶏を食うて王となった譚は、大分唐譚のと違う。マガダ大王、ラージャガハ城を治めたころ、城内の大商人の嫁に子なし。インドでは子なきを家に取って大不幸とするので、この嫁はなはだ悲しみ、自分の乳母にどうしょうと問うと、懐妊の振りして見せたまえ、という。爾後月が重なりゃお中《なか》が膨れ、どしよぞいのと、まず月経が止まったふりをなし、酸味を好き出し、手足と背を打ち脹らし、腹を巻き太らせ、乳房を黒くし、身仕舞いには乳母の外誰も近づけず。ここにおいて夫もわが妻果たして孕んだと信じた。九月経て里へ出産に行くと暇を乞うて生家へ還る。時に商隊あって同じ道を行くに、いつもこの商婦の一行に先んず。その商隊の中に貧女あり、榕樹の下で夜分男児を生んだが、ぐずぐずして商隊に取り残されては思う所へ行けぬ。命さえあれば他日この児を取りもどすこともあろうと思い定めて、その児を包み、榕樹の下に置いて去った。これなみなみの子でなく、実は釈迦如来の前身ゆえ樹の神がこれを守った。そこへ件《くだん》の商婦の一行が着いて、商婦、例の懐妊を装うために乳母独り付いて榕樹下へ来たり、金色の嬰児を見出だし天の与えと悦んだ。乳母はその包みをとき、只今御寮人様がおめと呼ばわって、まだでたと言わぬに、はや随員一同エライヤッチャエライヤッチャと踊り舞い、天幕を張ってかこみまいらせ、出産目出度く途上で相済んだと夫の方へ注進した。しかる上は里へ行く必要なしと言って来たので、夫の家へ引き返し、生まれた場所によって榕子《ニゲロダ・クマーラ》と名付けた。この日、他の商人の嫁も子産みに里へ帰るとて、ある樹の蔭で男児を挙げたので、枝子《サークハ・クマーラ》と名付け、その商人が使う裁縫工の妻が布片中に男児を生み落としたから、布片子《ボツチカ》と号した。榕子の家、これは目出度いと祝うて、枝子と布片子とを預かり、三児を一緒に育て成長させた。
 それより三人タッカシラ城へ留学して、業成り、見学旅行してビナレスの堂に詣で一樹の下に泊った。その夜、市中を太鼓打ち廻り、国王死して今日は七日目ゆえ、明日儀車を出して新王を撰立すると触れ廻った。儀車というは、国王死して嗣子なき時は名馬四疋に空車を牽かせ、音楽で随い行くと、その車の止まる処で必ず王たるべき人を見付(334)けるというのだ。暁に布片子まず眼を開き、榕子を起こさんとす。その時、樹の頂に宿った雄鶏が糞を下枝の雄鶏に落としあてた。下の奴が、何をわれに投げたか、と語ると、上の方より、知ってしたのでない、怒りなさるな、と返す。下の奴上に向かい、汝はわが身体を雪隠《せつちん》と心得たか、わが品格を知らぬは不便《ふびん》、と詈る。上の鶏黙しおらず、して汝の品格は、と尋ぬる。下の奴いわく、そもそもわが品格と言えば、われを殺して肉を食いたる者は毎朝千金を得るのだ、何と恐れ入ったか、と言う。上鶏これを聞いて、気の毒だ、些細なことを高慢なさんな、かく申すわれを殺して脂を食ったら、他日と延ばさず、今朝たちまち王になる、中肉を食ったら元帥となり、骨を巻いた肉を食ったら大蔵大臣となるのだ、と言った。布片子、樹の頂に登って鶏を捉え、殺し炙って、榕子に脂、枝子に中肉、自分に骨を巻いた肉と頒ち食い終わって、君は今日王となり、汝は元帥、われは蔵相となるはず、と語った。
 かくてその朝、ビナレス市に入り、また出て王の園に遊び、榕子は平石上に横たわり、他の二人はその側に息《いこ》う時、儀車五つの王旗を立て来たって三人の前に駐まり、あたかも別嬪が色男の側に寝たごとく、早く乗りなと言うもののごとし。車奉行怪しんで園に入り、榕子の足の紋を検して、この人こそビナレス市のみか全インドを総領する人相ありと判じ、拝跪して王たらんことを求め、その承諾を得て灌頂式を行ない、榕子は旅客から一朝にして王位を踏み、枝子を元帥とし、布片子を随え、威儀厳重に入城し、よく国を治めた。
 
 一日、榕子王、故郷を思い出し、衆を従えて父母を迎えに往けと枝子に命ぜしに、それは元帥の役でないとて往かず。さらに布片子に命ずると、すなわち往って王と元帥と自分の両親を説いたが、いずれも今の身分で満足だ、知らぬ他国へ行くのは嫌い、という。布片子、使命を果たさずビナレスに返り、王に謁する前に旅の疲れを休めんと元帥の宅に在った。元帥枝子かつて布片子がおのれに鶏の脂を食わせて王とせざりしを恨み、賤人の子われを同僚視するは不届きなり、と散々打擲し蹴った上、その胸倉を取って投げ出した。布片子、この男はわが力に頼って元帥とまで(335)なりながら、われ彼をわが友と呼んだればとて、かくまで怒るこそ奇怪なれと思いながら、王の処に詣り、王の友布片子帰って戸辺にありと啓せしむると、王直ちに呼び入れみずから立って迎え、種々懇待ののち両親の返事を聞いた。枝子家にあって、今ごろは布片子わが悪態を王に告げおるだろうが、われその席へ出たら何にも言い得まいと考えて、王の前へ罷り出る。それに構わず布片子、彼の無情を奏すると、王大いに怒って元帥を槍で突き殺すべしというを、布片子諫めて赦さしめた。王、布片子を元帥に拝せんといえど固辞したから、さらに蔵相とした。これインドの蔵相の始めだ。蔵相布片子、のち子女多く栄えて臨終に遺教していわく、「榕子と共に住むは宜しく、枝子に侍するは宜しからず。榕子と共に死するは枝子と共に活くるに勝る」と。仏いわく、その時の枝子は仏敵|提婆達多《だいばだつた》で、布片子は阿難《あなん》尊者、榕子はわが前身だった、と。
 またいわく、梵授王ビナレスを始めた時、釈迦如来カーシ国の梵士の家に生まれ、父母死せしを悲しみ、ヒマラヤ山に隠れ修行す。久しき後、ビナレスに出で托鉢して象飼《ぞうかい》の戸に立つ。象飼、この仙人を敬し、自分の宅地に宿らせ、いつも奉仕して怠らず。その時、柴刈男が林中で日没して町へ帰る能わず、途上の一堂に臥す。
 熊楠いわく、『松屋筆記』に、浅草観音に鶏を納むるに日が立つと雌鶏必ず雄に変ず、作力でかくのごとしとあれど、霊場で交合したり雛を生みなどしては不体裁ゆえ、坊主が秘かに取り替えたであろう。むかし日比谷や三島、今も琴平の社に多く鶏をかう由。今福町の芳養吉君の話に、田辺へんでは維新前鶏を家にかえど絞め殺さず、ただ時を告げさせ卵を取ったばかりで、その肉は力士の老耄か博徒ばかりに売った。老鶏を殺さず、古い雛人形と等しく寺社へ放ち、高山寺や芳養越の秋葉に放たれた鶏が多く自活野棲した。その羽、夜露を受ければ、雌も雄も高飛びして狭い谷を飛び渡ること珍しからず、と。須川寛得氏話にも、鶏を放ち置くと山から山へ飛び廻り、鉄砲で打つ外に手がない由。足利時代にできた『庭訓往来』にも、糟鶏《そうけい》とてコンニャクを淡醤油《うすしようゆ》で煮たのを僧徒が鶏肉の代りに用いたのを珍饌として出しある。コンニャクは鶏肉に何の似たところもない物だが、梁の武帝が肉食を禁じた時、コンニャク(336)をも肉に似た物とて禁じたことあれば、昔の人はそう思うたと見える。とにかく『庭訓往来』に右の糟鶏を食品中に出しながら、鳥肉類の中に鶏肉が見えぬから推すと、そのころは鶏肉を忌みて食わなんだので、京都の妙心寺の僧天荊の『文禄役従軍日記』にも、泉浦という処で里長の家に宿すると、夜の子《ね》の刻に老僧が安否を問いに来た、鶏も犬もまだ鳴かぬ、早過ぎるではないかというと、軍兵が食物に困って鶏と犬を捕え毛を抜いて食うゆえ旦《あした》を告ぐるものがないと答えた、とある。秀吉公のころまでも鶏を食うを非常のこととしたのだ。
 
 故|田野栄枝《たのさかえ》女史は、柳田国男氏なども気象の面白い女と東京へ帰って後数年までも讃められた者で、五年前。パラオ島近海で船中に死なれたと聞いて、当町内で当日仕事を休んだ者三十人とかある由。元芸者でかくまで人心を一致せしめたのは、国葬の際異論者が衆議院で二人まで出た某公よりはずっとえらい。もっとも件《くだん》の三十人はソレ、あわび貝の片想いで、こっちから想うてもあっちは何とも思わず、憚りながらこの鼻に限っては、かの女今はの際《きわ》まで南方先生と繰り返し続けたと確信する。ブラントームの『艶婦伝』に、ある妓死ぬ際遺言して墓の上に平たい石を横にかぶせ、その上に「願わくは死体の上に乗ることなかれ、生きておるうちすでに乗せ飽いておるから」と銘せしめた由。かの女史は船中で死んだから乗り死にじゃ。よっぽど予を好いておった確かな証拠は、小児ども宅の二階へ上るとかの女が現わると言って単身登り得ず。かく思い込まれてはこっちも三年内に参らねばならぬかと思い、断わって見ようと三度までその墓を尋ねたが一向出ません。して見ると、妻の悋気から子供に教えた作りごとかも知れませんて。どうも死んだ火の玉よりも活きた眼の玉が恐ろしい。かの女史死に先だつ数月、一度帰って積もる思いを目尻に知らせ、予を訪ねていろいろかの島の話をしたが、これを一期の別れとは思い知らぬぞ哀れなる。かの地に以前内地に多かったカシワ様の鶏多く半野生となり、みな極めて高飛びするを、入用の都度みずから銃殺して食った、と語られた。大方そんな殺生の報いで死出の山を淋しく独り越えたのであろう。
(337) 古インドでも堂祠に鶏を多く放し飼いにしたらしく、かの柴刈男が宿った堂に近く、自前暮しの鶏が木に栖みおった。暁方にもっとも高く止まった鶏がその下の鶏の背に糞を落とすと、下の鶏が声に角《かど》を立て、このウンコは誰のか、と問うた。知れたことわがしわざ、と答う。何に意趣あってと詰ると、わざとしたのでないと言いながら、また一塊ポッタリ。堪忍ならぬといきり立って争論となった末、下の鶏が、われを殺し炙り食う者は毎旦《まいあさ》千金を得る、と言うと、上の鶏、千金なんて小穢《こぎた》ないことを言うな、わが肉を食う者は王となり、わが肌《はだえ》を食う男は元帥、女は正后となり、骨に近い肉を食う者、在家なら蔵相、出家なら王の寵を得る高僧となるはず、と言った。柴刈男、われ王とならば千金は入らぬと考え、樹梢の鶏を捉え殺し、夜明けて内へ帰り妻をして煮調えさせ、飯共に出来上がって妻が夫の前へ据えると悦んで、サアこれを食えばわれは王、汝は后となって、オレ、キサマなどはさっぱり似合わず、朕《ちん》といい陛下と言わるる身となるのだ、しかしこんな目出度い珍物を召し上がる前に身をきよめねば利かぬそうだ、と言って、鶏と飯を恒河《ごうが》の岸に置き、夫婦その水に入った。その時風たちまち起こって川波高く肉を浚って流し下し、柴刈夫婦は砂と水を呑んで腹がボテレン、わずかに命を全うして走り去った。恒河の下流でかの象飼が象に水飼うと変な物が流れて来る。拾い上げて見ると飯と鶏だったので包み封印し、予が帰ってのち開けと伝言して、人をして妻に送った。
 象飼の宅に居候の仙人、「居候ふ主人の留守にし候ふ」というが、これはそのような浮気な人物でなく、象飼の篤志を感じて何がな報恩せんと思ううち、神通もてこのことを知り、先だってその家に赴き坐しおるところへ象飼還り、仙人を礼して一方に坐し、「寺小屋」の松王丸もどきに、女房さっきの物こちらへ寄こせと取り寄せ、別に食物と水を仙人に供えたが仙人受けず、今取り寄せた物を頒つべし、という。主人諾して鶏肉を渡すを、仙人分かって象飼に肉、その妻に肌《はだえ》、そして骨廻りの肉を自分に配り食うた後、三日以内に汝は王になるから自重せよ、とおしえて去っ(338)た。三日目に隣国王が軍《いくさ》を起こしてビナレスを囲み大騒ぎとなる。ビナレス王、象飼をして王の装束して家を棄て往き戦わしめ、自分は微服して兵卒の風で戦いに出ると、たちまち矢につらぬかれて往生す。象飼これを聞いて大金を取り寄せ太鼓を打たせて、金をほしい者は進み戦えと触れしめた当智即妙、軍の沙汰も金次第で、勇士雲のごとく奮戦至らざるなく、瞬く間に敵王を仆《たお》した。それより諸官、誰を王とせんと謀る。一同、先王死なぬうちすでに王の装束をこの象飼大人に着せしめた上、善く戦うて国を全うしたから象飼が王となるは当然という。よって象飼は王、その妻は后、居候の仙人は寵臣となった。この象飼は阿難《あなん》尊者、仙人はわが前身、と仏が説かれたとあって、象飼の妻は誰の前身やら付け落ちになりおる。
 鶏を食うて国王となった話に似たのが、バスクの『羅馬《ローマ》俗伝』にある。貧人の子二人、林中で大鳥が卵を落とすを拾う。何か書き付けあるも読めないから農主に見せると、わが頭を食う者は帝となり、わが心臓を食う者は金常に充ち足る、とあったが、何とか自分独りで心臓も頭もせしめてやろうと思い、われを食えばなかなか甘《うま》いと書いてある、といつわり告げた。農主なお続けて、だから明日汝ら待ち受けてかの鳥来たらば打ち殺し煮て置け、われも往つて相伴《しようばん》しょう、と言った。兄弟翌日、かの鳥を殺しあぶるうち、頭が火の中へ落ちこげたので、農主に供うるに堪えずと心得、弟が拾うて食うた。直後にまた心臓が火に落ちこげたから、兄が出して食うた。農主来たって頭と心臓ばかり求めるとさらにないから、ただして二人が喰い了つたと知り、きわめて立腹した。二人家に帰って父に語ると、大いに憂いて速やかに脱走して自活の法を講ぜよ、とすすめられる。
 落花の雪に踏み迷う交野《かたの》の春の桜狩、紅葉の錦を着て返る嵐の山の秋の暮、一夜を明かすほどだにも、旅寝といえば物うきに、恩愛のゆかり仕方なき、中風病みの親爺をば行衛も知れず思い置き、判らぬ道を辿り行く心の中ぞ笑止なる。初めの夜、旅舎に着くと、亭主、二人を馬小屋の藁の上に臥さしむ。旦《あした》に兄が起きると、驚いたのは枕の下に金満もた一箱あり。さては吾輩の仁体《じんてい》を怪しみ、試すため亭主が仕業《しわざ》と心得てさっそく持ち往き、貴公この金箱を馬(339)屋に忘れ置いたでないか、と問う。亭主大いに驚いたが、さりげなく箱を受け取り、好食を与え、両人一日の食料を給して出で立たせた。次の夜宿った他の馬屋でも、旦に前夜同様の箱が兄の枕下から出たので前夜の亭主が執念く試し廻ると早合点し、戻り往ってその一箱をも与えると悦んで受けたが、一向仔細分からず。第三夜にまた他の旅舎に入って馬屋に泊ると、弟果たして初めの亭主が忍び来るかと験せんと、寝ずに番したが誰も見えず、しかも翌朝兄の枕下に同前の金箱あるを見、さては天より賜わるこの金と知った。行き行きて一大城に達すると、ところの帝崩じて人民その嗣帝を立てる選挙騒ぎの最中だった。弟が金箱かたげて兄より前に往くを番兵が捕えた。人民、その金多く持つを見て、一斉に弟を帝位に即《つ》けた。
 
 日本ではないことだが、ローマ帝国には兵士がペルチナックス帝を弑して帝位を競売し、スルピシアヌスは毎士《まいし》五千ドラクマを、ジュリアヌスは毎士六千二百五十ドラクマを与うべしといい、ジュリアヌス勝って帝となった等の例がある。この間に兄は城中に入って母と娘と住む家に泊り、毎朝出で来る金で奢り散らかし、持てること限りなし。娘巧んでこれ全く霊鳥の心臓を食うに因ると聞き出し、夕飯の酒に吐剤を仕込み飲ませて、かの心臓を吐き出させ、男を町へ逐い出した。金も力もなくなったこの若者、今さら何の宛てもなく川辺に伏して泣くところへ、精魅三人現われ、子細を聞いて同情し、ポケットに金の断えぬ羊の皮衣《かわごろも》を呉れた。それを着て後かの無情女の親子に贈り物を絶やさず。娘またその由来を喚ぎ付け、似合わせた皮衣を作らせ掏《す》り替えて男を追放す。再び川辺に赴くと、精魅また現われて、机を敲けば望み通りの物が出る棒を授く。例の通り持ち行き、例によって奪わる。
 さて追われて川辺に往くと、精魅今度という今度は、それに向かって望めば万事思いのままになる指環を与え、仏の顔も三度という、これを失うたらお仕舞いと思い、ずいぶん大切にせよ、と戒めた。これを佩びてかの娘に向かい、これは百事如意の指環ぞと示すと、物は試しだ、まずわれら二人、あの高山嶺に上り山海の珍味で楽しもうと念じて(340)見なさい、と勧む。男かく念ずると、たちまち二人は高山嶺にあって酒肴羅列せり。女|私《ひそ》かに酒の中へ持ち合わせの毒を加え、男を死んだように眠らせて指環を盗み、念じて独りすなわち家に飛び還った。男醒めて、また騙されたと悟り、三日続けて泣きありく。空腹の余り眼前の草を食うと、怪しむべし、化して両籠《ふたかご》を掛けた驢となったが、心はやはり人だった。その草を籠に入れ山を下り、偶然麓に生えた草を抜くと、見る間にもとの人の形となった。この草をも籠に入れて町へ還り、その籠を携えて無情女の家のあたりを、菜召さずや、と呼びありく。かの娘至って菜好きゆえ、呼び入れてその草を試みると、忽然驢となった。男その驢を追って町中を行き、烈しく撃って少しも止めず。人々あまり酷いと言って彼を執え、帝に訴え出た。その帝を見ると自身の弟だったから、乞うて人を退け、われは汝の兄と名乗り、一別来の始終を明かす。帝大いに驚いて、驢に化した悪婦をしてその兄に一切の盗品を返さしめた後、山麓で採り置いた草を食わせて女人の形に戻らせた。
 このローマ譚の前半の、鳥のある部分を食うて王となることと、前王|嗣《し》なしに崩じ後王を選立することとは、『シムラ村話』以下種々と上に引いたインド譚と同型だが、後半の兄が繰り返し奸婦に欺かれた談は、上に引いた諸譚中に似たところがない。しかし、これも仏典から奪胎換骨したのだ。多足食童子鶏頭を食うて王となった話を載せおる『尾奈耶雑事』に、次の物語あり。
 
 ヴァラナシ城の瞿曇《ぐどん》長者が妻を娶った後、タクシャシラ城へ交易に行き、名称長者の宅に泊り親交を結んで帰った。次に名称長者も交易のため来たって瞿曇長者の家に泊り、われわれの家に男女を生まば夫婦にしょうと約し、帰郷すると男子が生まれたので遊方と名づけた。久しからずして瞿曇方に女児を生み、美貌ながら痩せた女ゆえ痩瞿答弥《クリサゴータミ》と名付けた。痩せた瞿曇女の意だ。遊方長ずるに及び、父長者かつて知り合いの淫女に就いて陰書を学はせた。陰書とは女人男女と交通する私密矯誑知り難いことを論じた書なりとあるから、いわゆる遊女の手練手管の奥儀を習わせた(341)のだ。
 インドの婦女はきわめて無学だが、淫女すなわち傾城《けいせい》のみはすこぶる博く教育された。淫女の六十四技といって、唱歌、音楽、舞踊、書画、入れ墨から、体操、人相、詩賦、算法、造花、針工に至るまで、悉皆の諸芸を心得た淫女をガンカと呼び、国王も敬い、碩儒も讃歎した。本邦にはそれまで博通したのはなかつたようだが、名歌を詠んだり禅僧をやり込めた者乏しからず。『北窓瑣談』や『一代男』に吉野太夫を記せる、いかに当時の傾城が品格高く諸道に熟達せるかを示す。そのころの教訓書に、女子は遊女の筆蹟を学べ、とある。吉野が写した『法華経』が和歌浦の養珠寺にあって筆勢もっとも美なり、と『紀南郷導記』に見えるので、前年必死になって授したが今は亡《な》し。降って宝永八年にできた『傾城禁短気』にも、野郎すなわち男色を売る輩に能筆は稀なり、女郎は下品下劣の局芥《つぼねあくた》まで筆の歩みの惠しきはなし、とある。いわんや淫女全盛の古インドじゃもの、その教育はなかなか行き届いたもので、この淫女も百汎の技芸に通じおったので、人情の隠微と世渡りの機転を明らめしめんため、長者、その子をしてそれに就いて陰書を学ばせたものか。
 時を歴て遊方、学すでに成れりとて還り去らんと望み、淫女留むれど聴かず。淫女|私《ひそ》かに紅綿《べにわた》を取り、汝去るならわれみずからわが頭を打ち破らんと言うに、しからばとて思い止まる。淫女いわく、この大|頓魔《とんま》め、よく考え見よ、人の子が家へ帰ろうというを達《たつ》て留めるとて、大事の自分の頭を打ち被る阿房があろうか。われ紅絹を沾《ぬ》らし置き、頭の上で押えて赤い汁を出し、血と見せるつもりと知らぬか。そんな智恵なしは卒業の見込みなし、家に帰るなかれ、と。停まること久しからずして、また帰ろうと言い出す。淫女、汝去らばわれ井戸に身投げして死せんと言うから、また止まる。淫女|叱《しつ》して、汝はまだ少しも陰書を解しおらぬ、他人の子が還ればとて何の痛痒もなきわれが大事の身体を井戸に捨てるものか。井戸の中に多く草褥《ござ》を敷き重ね置き、その上に身を投じて死んだ真似すると気が付かぬか、と言うので、また止まる。少時を経てまた去ろうと言うと、淫女しからばわれ乳糜《にゆうび》を作るから、それを食うて去れ、(342)と言って、銅盤に乳糜を盛り、多く酥蜜《そみつ》を入れ、弟子の見る前で食い尽して盤中に吐き、これを食え、と命ず。吐いた物は穢なくて食われぬ、と言うと、淫女胸を打って啼《な》き、隣人聞き付けて走り来ると、この弟子はわが与えた乳糜を吐き出した物だという、何ぼ何でも吐いた物を可愛《かわい》弟子に勧めることがなろうか、と哭する。人々、それはもっともだ、サア食いなされ、と強いるゆえ、詮方なしに遊方が顔をしかめて食いに懸かる。その手を捉えてその面を打ち、汝はさらに陰書を解しおらぬ、眼前予が吐いたと知りながら、誰が何と言うたとて食う気になるということがあるものか、卒業せんこと思いも寄らず、勝手に去れ、と詈《ののし》って追い出した。
 漢の王充が書いた『論衡』に、蘇秦と張儀が鬼谷先生に縦横《じゆうおう》の術を学んだ時、先生、二人にわれを説いて泣かした者は人君の地を分かつに堪えるはず、と言ったので、まず蘇秦が演舌すると、先生泣く。次に張儀が弁じても先生は泣かなんだ。よって張儀の弁は蘇秦に比べて未熟と分かった、とある。今この淫女も弟子遊方が果たして陰書に達したかと再三試みたが、一向さとりが悪いので、見込みはないと見抜いて追い出したのだ。
 
 遊方、追い出されて故郷に帰り、みずから商主となって五百商人を率い、多く財貨を持って貿易に出た。途中でいつも諸人に向かって女の厭うべきを説いた。いやいやながら修業したことも丸切《まるきり》その益なしとは言われぬ物で、遊方久しく淫女に就いて陰書を学んだが、生来の鈍根で手練手管の懸引にはとんと向かず、さっぱり得るところがなかったが、概して女ほど詐謀百出、表裏出没のはなはだしい者なしと骨髄に浸みて懲り果てたので、女郎屋に就学したればこそ木真面目《きまじめ》骨頂の堅い男となったのだ。「傾城に少し迷ふも吉原や、深くはまるは馬鹿らしうおす」というが、多少ともその境に接して見ねば馬鹿らしさが分からぬ。可愛い子に旅をさせというが、電車や汽車が縦横する世には旅行に困苦が少ないから何の得るところがない。それより可愛い子には早く多少の放蕩をさせることだ。されば遊方の父が、世間へ子を出す前に早く淫女に就学せしめたは大いに見識ありと言わねばならぬ。と言うと、軍縮で節減し(343)た金額を遊廓大拡張に用いるが国民大教育の捷径と来るかも知れぬ。
 それはとにかく、遊方商主は漸次貿易してヴァラナシ城に至り、随伴の諸商人往還してしばらくここに止まる。この輩以前この地へ来るごとに淫女と交通したが、今度は遊方に戒められて一人も淫舎へ入らず。淫女ども議してタクシャシラの商人は来るたびにわれらと交わる、しかるに今度は一同石部金吉とは不審至極という。一女進んでいわく、われ聞く、商主遊方よく陰書を解し、淫女の秘術を暁《さと》り、諸々の女人きわめて厭い卑しむ、諸人その教えを守って往還を絶ったのだ、と。衆中に一年老の淫女あり、諸女に向かって真面目腐って彼らは男か女かと問うに、知れたことだよ、男だ、いずれも見事な道具を持ちおるという。老女いわく、もしわれわが娘をしてかの男の女嫌いを罷めしめば、汝ら閉口してわれを淫女の頭領とすべきや、と。皆々承知と述ぶ。老女ここにおいて、われ万一失敗せば五百金銭を汝らに与うべし、と賭した。
 それより老女は商主遊方の宿の近所に借宅し雑貨を売ると、商主の家人時々来たって買う。老女、汝は誰の家来かと問い、家人、われは商主遊方の家来と答えた。老女いわく、わが子も商主で他国へ貿易に往った、その家来は入用あるごとに所の人から借りて使うらしい、汝もわが家にある物は持ち去って自在に使うが宜しい、と。それより入用ごとに諸品を借り来て使うを怪しみ、商主が家来を詰《なじ》ると、右の通り言った。商主それは気の好い老婆だ、聞いただけでもわが母のごとく思うという。家人往って老女に語ると、その商主の面を見たいと言う。商主聞いてさっそく老女を訪うと、汝の名はと聞くから、遊方と答う。老女、奇縁とはこのことであろう、わが子の商主も名は遊方で、相好《そうごう》汝と少しも違わず、今後隔意なく来て下され、これはわが娘だと美しい若い女を引き合わした。『忠臣蔵』のお軽でないが、見れば兄様同様のお方、ワシャ恥かしいと会釈するを一目見るより愛著深く、この娘子に定まった男ありやと尋ねると、なしと答う。われに与えよ、見棄てまいぞえ、というと、娘は旧い知り合いでないゆえ、事に臨んで見離さりょうと心配の体、君の財物をみなわが家へ納れたら承知しょう、と老女言う。和女のためなら惜しからぬと、(344)財物を挙げて運び入れると、老女これを一切裏門から運び去らせ、吉日を択んで婚式を挙ぐべしと言う。当日、老女多くの盛装した淫女を招き宴会す。商主、老女に、これほどの盛会に女のみあって男なきは如何と尋ぬると、男は跡《あと》から来るはずと答う。一女、商主に耳打ちしたは、われらみな淫女だから男子が来ぬと気付かぬか、と。
 
 商主、さては淫女に欺かれたと知ったが、その娘と多日交歓の後、娘、われに金銭を与えよ、という。商主、われ銭を持たず、貨財ことごとく汝の家に入れた、と答う。老女、商主が酔い睡れるをうかがい、莚《むしろ》に包んで町に捨つ。夜明けて眼さめ、泣くより外はなかったが、飲食の必要より人足寄場に投じて日傭《ひよう》稼ぎとなった。時に瞿曇《ぐどん》長者、新たに家を立てるに多く日傭を募る。商主雇われんと望むに、長者その年若くて労働に馴れぬを見て雇わず。商主失望して泣くを憐れみ、長者、その名と生処を問う。タクシャシラ城生れと聞いて、名称長者を知るかと問うに、それはわが父と答えた。しからば、汝は予定のわが婿だ、この家すなわち汝の物と聞いて遊方元気を恢復し、種々と好遇さる。瞿曇その女を盛粧して、今夜婚すべしと言う。遊方、われ財貨を持ち来たるまで俟たれよと望むに、長者、この家の物、ことごとく汝の所有なれば、この上持ち来たるに及ばじと言う。
 遊方は、何とかかの淫女方に往きて復讐せんと欲するゆえ、われ財貨を持ち来たらずば身分相応の礼儀を備え得ぬ、と言って城を出てぶらつくうち、死骸あって大河の流れに随つて流る。岸の上の烏、その肉を食わんと嘴を伸ばすも及ばず、ついに爪もて枝一つ取って嘴をすると、たちまち伸びて肉を食い、満腹の後、別の枝でするや否、嘴もとのごとく短くなる。これは乙《おつ》なこととその枝二本を取り帰り、さらに五百金銭を持って淫女舎に往き、例の娘に逢って先日は銭なくてかつぎ出されたが、また銭を得たから遊ばせよ、といって遊ぶ。娘の油断をうかがうて一つの枝でその鼻をすると、高さ十尋まで伸び出す。家人驚き怖れ、もろもろの医師を招いて療ぜしむるに効なくしてみな棄て去る。娘ますます驚き先非を悔いて療治を求むると、遊方、先日奪われた財貨を一切返したらなおして遣ろう、という。(345)娘は今日中に返すべしと約束する。すなわち他の枝を取ってその鼻をすり本復させ、ことごとく財貨を取り還して瞿曇の宅に還り、その女痩瞿答弥を娶った。その後ますます珍事重ね到り、この女種々の不幸に遇い、多くの男にし倒され、丸裸となって万里を走るとは古今稀有の見物《みもの》で、終《つい》に釈尊に逢い、出家して持律第一となる次第は、本篇に要なければ他日別に述べよう。
 女の鼻を高くする譚はローマまたこれあり。一翁|死際《しにぎわ》に、長男に隠形の帽、二男に銭尽きざる袋、三男に如意の喇叭《らつぱ》を与う。これを吹く時は珍饌美衣でも宮殿でも軍隊でも、思うままに出で来るのだ。その後二男が町を通るを侍女が呼び込んで王后と博戯するうち、銭の出所を聞き出され不尽の衣を盗まる。それより長男の帽と三男の喇叭を借り往き、また王后に取らる。二男大いに失望して漂浪中、あるイチジクを採って食うと鼻が無上に高くなる。次にある桜の実を採り食うともとにかえる。両方の実を多く取って王宮に詣り、イチジクをその主従に食わしむるに、侍女どもの鼻すこぶる高くなり、王后のは特に十二尺に伸びる。他日、王宮辺を歩いて、高過ぎる鼻を低うしようと連呼するを呼び入れられて、桜の実を侍女どもに食わす。一同の鼻本復するを見て、王后自分のも低うしてほしいと望みながら、負けじ魂で汝の薬よりも不思議の物こそあれとて、盗み置いた三件を出す。二男そこでその帽を戴いて形を隠し、袋と喇叭を携えて退出した。
 
 鼻を高うする談《はなし》が支那にもある。『酉陽雑俎』に見えて、わが『宇治拾遺』にあらわれた鬼の瘤取《こぶとり》の物語の根本らしい、と古人は論じた。その話はこうだ。新羅国に第一の貴族、金哥なる者あり。その遠祖の名は旁※[施の旁]、弟一人あり、はなはだ富む。その兄旁※[施の旁]は貧乏で、乞食して暮らした。国人憐れんで一畝の空地を与える。弟方へ往って蚕と穀物の種を求めた。弟あくまで吝嗇で、平生兄を好かぬところから、種をむして渡した。兄は気付かずに持ち帰ると、春になってむした蚕種から蚕が一疋生まれた。長さ一寸に余り、十日後には牛の大きさとなり、桑を何本となく食って(346)足らず。弟これを知り、その蚕を暗殺した。ところが四方百里の内の蚕がみな飛んで、その家に来たり集まった。国中これは蚕の王だったと信じ、巨蚕と名づけた。隣家の者ども一同にその糸を繰っても繰っても尽きず。穀物の種もむして呉れたので、ただ一本しかはえなんだ。その穂が一尺に余る見事な物ゆえ、旁※[施の旁]珍重して常にみずから守る。ある日、鳥が来てこれを折ってくわえ去った。旁※[施の旁]これを逐って五、六里も山に上ると、鳥は石のわれ目に入った。日没し闇黒で道が分からず。旁※[施の旁]は石の側に止まりおると、夜半に月が出た。明るくなったので向うを見ると、小児赤い衣を着て群れ遊ぶ。一小児が他の小児に、汝は何を欲しいかと問うと、酒をほしいと答う。その小児、黄金の槌を出して石を打つと、たちまち酒樽が出た。また一人は、食物がほしい、というに応じて、また石を打つと、餅や汁や雑多の馳走が出た。それを石の上につらねて久しく飲食して去った。金の槌は石のわれ目に挟み置いた。
 旁※[施の旁]大いに悦んでその槌を取って家に還り、何でもほしいものは槌で打ち出した。よって大金持になり、もとより慈愛に富んだ男ゆえ、毎度弟方へ種々の物をめぐんだ。弟始めて先非を悔いたが、貪慾は少しも止まず。われも兄の通りの甘《うま》い目に逢って見たいから、わざと蚕と穀物の種をむしてわれを欺け、そうしたら兄同様の金の槌を得るかも知れぬ、と言って已《や》まず。兄、それは詰まらないと諭《さと》せども聞き入れぬから、已むを得ず、種をむして与えた。弟その蚕を養うと、果たしてただ一疋生まれたが、兄のとかわり平常の蚕の大きさだ。また、むした穀を植えると一本はえた。そして熟する前に鳥が来て取って往った。弟大いに悦び跡を付けて山に入ると、鳥が石のわれ目に入った。ところへ多くの鬼が出で来たり、是奴《こやつ》こそ前夜わが金の槌を盗んだのだ、罰として糠で三つの塀を築くか、ただしそれができずば汝の鼻の長さを一丈にしょうかと責められて、まず糠で塀を築こうと取り掛かったが、三日の間飢え苦しんでも成り上がらず。何とぞ御免とわび入れた。鬼承引せず、この上は鼻を一丈にしてやろうと言って、その鼻を抜くと、一丈まで伸びて象の顔になった。山を下り帰ると国人怪しんで集まり見て大騒ぎと来たので、大いに恥じ怒って死んだ。兄の旁※[施の旁]は家富み栄えてかの金の槌を珍蔵したが、子孫の世になって、戯れに異様の物を望んで狼の糞を(347)ほしいと言ってその槌を打つと、槌が怒ったと見えてたちまち雷が落ち、槌は行衛を失ったそうだ。
 これに似た話がインドにもある。弟はなはだ富みて、兄は極貧だ。ある日、弟が大宴会を催すに兄を招かず。兄、運の拙きをかこち野に往きて自殺を謀った。たまたま茶枳尼《だきに》鬼が聚まって岩のわれ目から袋を取り出し、金槌で袋を打つと飲食物がおびただしく出た。次にまた打つと金銀の飾りが多く出た。一同飲食を済ませて袋と槌をわれ目に入れ、消えうせた。貧人、その袋と槌を取って大富となった。弟これを聞いて自分もかのわれ目を尋ねたるところへ鬼どもやって来て、そりゃこそ前夜の盗人が来たとて殺しにかかる。いろいろ謝しわびると、しからばこれで堪忍せんとて鼻を四エル(一エルは四十五インチだから四エルは百八十インチ、すなわち一丈四尺四寸ばかりに当たる)に引き伸ばし、これを八返し結んだので九つ結び瘤《こぶ》ある長い鼻となった。こんな風では昼歩かれぬと夜陰になって家へ帰ると、妻大いに呆れた。そこで兄を招き、汝の持つ槌を何なり望んで打てば思う通りになるから、この鼻を直してくれ、と頼んだ。さて、直った礼に身代半分遣ろう、と言った。兄、承知して槌で打つと、一打ちごとに結び瘤一つずつ消えた時、弟の妻、身代半分兄貴に渡すを惜しみ、みずから槌をもぎ取ってかくれ去り、夫の鼻を打つと当りが烈しくて夫を打ち殺した、とある。
 
 日本にも鼻を高くする話があって、幼い時和歌山で学校友達に聞いたが忘れ畢り、いろいろ尋ねたが、くわしく知った人がない。しかるに数年前、友人ハザマ良蔵君が書き付けて送られたのを述べると、ある若者、衣食を薄うして人を賑わし、親譲りの身代をなくし、樵夫と落ちぶれてもなお慈善を楽しんだ。ある日、十七、八の手を引いて黄金の橋を渡ると夢みた。さめて後、一僧来たって食を乞うに、自分の弁当を傾け与えた。僧大いに悦び、返礼として扇を与え、チチンプイプイと唱え、これで煽げば欲するところ成らざるなく、諸病みな癒ゆるが、テレツクトントンと唱うればこれに反す、と教えた。これより米を煽ぎ出して貧人を救い、金を煽ぎ出して窮民を助け、また万病を煽ぎ(348)直した。隣家の欲深者、その扇を借り受け、チチンプイプイの呪言を習い、ついに返却せず。一日、富家の令嬢鼻低くて谷間の桜からツリを取るほどなるが来たって、鼻を高くせよと望む。例によってあおぐと調子に乗り、過まって鼻が高過ぎたので父母怒り責む。かの者|周章《あわて》て煽げばいよいよ高くなる。テレツクトントンと言うを忘れて臆い出し得ず、扇を捨て走るを人々追い懸くる。逃げる途上でかの若者に遇い、救いを求む。若者すなわちテレツクトントンと唱えあおいで娘の鼻を低くし、尋常の恰好とした。父母大悦して若者をその娘の婿にした。結婚の夕、離れ座敷に行くとて小橋を渡る。若者いわく、十七、八の手を引いて只今黄金の橋を渡る、と。その近所に邪慳な女あり。若者これを懲らすために、例の扇でその夫を馬に化した。馬驚いて哀《あい》を乞う。よって驚く夫と親につかうべしと誓わしめ、テレツクトントンと唱え煽ぎ続けると面《つら》から脚まで元の人となる。今一度あおげばある一ヵ所も人並になるという時、妻がそこだけは馬のままに置いて下さい、と言った由。
 支那にも、『笑林広記』に、一人死して地獄に至り、冥王これを罰して驢に変ぜしめた。その人哀願したので、また原形に戻るを得て娑婆へ帰ると、かの一ヵ所だけは驢の大きさで残りおる。あまり返りを急いだのでこの物だけはもとへ戻りおらぬ、今一度地獄へ往って取り替えて来ようと言うと、妻がそのままの方がよいと言った由。
 人を馬や驢や羊に化する語は、本邦で『今昔物語』、『奇異雑談』等、支那では『幻異志』や『聊斎志異』などにあるが、古くは『出曜経』巻の一〇に、南天竺に行って呪術家の女と心易くなった男が、故郷へ還ろうとして驢に化せられ、霊草を食うて復形する話あり。商主遊方、河岸の鳥から不思議の枝を得て鼻をすり高くした話を、川辺で精魅の助けを得たと翻案し、これに加えて上述二人兄弟のローマ談を造ったらしく、二男が性悪の王后に宝を取られ、その鼻を高くして取り戻したローマ譚は、むろん、商主遊方の譚から持ち出されたのだ。さて遊方が淫女の鼻を高くした話と、人を馬や驢にした話を取り合わせてチチンプイプイの日本談ができたと見える。人を馬に化する譚については、『郷土研究』一巻九号と一〇号および二巻九号に詳論し置いたから、今また述べず。
(349) 以上は、鶏を食うて王となる譚より他の譚を転出した次第を述べたもので、過ぐる明治三十三年の大英科学奨励会で読み上ぐるため綴ったところ、南阿戦争が長引いて英国不景気の余響が予の留学を許さず、止むを得ず早急に帰朝と決してそのことを果たさなんだ。爾来久しくトランクの底に蔵し置いたのを、今にこれらの諸譚を概括した学説が出ぬらしいから、本紙上に演出した訳である。   (大正十一年三月二十三日−四月二十一日『牟婁新報』)
 
(350)     鼠一疋持って大いに富んだ話
 
 永尾竜造君の『支那民俗誌』にいわく、「鼠の嫁入りといえば日本にのみあるお伽噺かと思えば、支那にもある。あるいは支那の方が本家かも知れない。もとは穀物に災する鼠を追い払って、穀物の安全を計る意味から来た行事であるが、今では一般にこの(一月七日)夜、鼠の嫁入りがあるのでその邪魔をしないようにと言って、燈を点《とも》さない習慣が広く行なわれている。もし燈火を点じて明るくすると、嫁入りの邪魔になるので、将来穀物に災を受けることを恐れるのであるが、婦女子はむしろその衣物《きもの》を?まれることを恐れて、ひどく怕《こわ》がるのである」と。
 『世事百談』に、「古き絵冊子に鼠の嫁入りということを作りし物あり。今も錦絵などに残りてたまたま見ることあり。こは鼠の異名を嫁とも嫁の君ともいえるより作意したるものと思われたり」とあり。人口問題など夢にも想わなんだ昔の日本人は、鼠のごとく子孫繁殖するようと願うて、こんな物を子供に読ませたらしい。『嬉遊笑覧』には、遠江国《とおとうみのくに》で年始に限り鼠を嫁と呼ぶと述べて、寝《ね》という韻《ひびき》を忌んでかくいうより鼠の嫁入りという諺を生じただろう、また鼠を夜の物、狐を夜の殿という、狐の嫁入りは鼠の後《のち》なるべし、と記す。辱知林若樹君は延宝ごろの鼠の嫁入りの一枚絵を蔵する由。寛永二十年に出た『寛永飢饉鼠物語』にも、古えは鼠の嫁入りとて、云々、とあれば、西暦十七世紀中もっぱら日本に行なわれた話と見える。
 同じころ英国で持囃《もてはや》された俗語にホイッチングトン出世噺ありて、鼠を相手に立身した物語で、追い追い種々に作り替えられた内、一七二七年ごろ仏人パラジ・ド・モヌリフの『猫の歴史』に巧《うま》く書かれおる。その大意は、リチャー(351)ド・ホイッチングトン、幼《いとけなく》て無一物だったが、一旦志を立ててインドに向かう時、何を頼みに出で立つかと舟人の問に対し、この猫一疋と出世の望みを力とするばかり、と答えた。健《けな》げな少年と感じて猶|共《とも》載せて出帆した。船がインド海で難破して船客一同ある島民に執《とら》われ、ホイッチングトンも猫を抱いて王の前へ伴れ行かれた。ところが王宮鼠おびただしく横行して玉座を犯し、王、大いに苦しむ体を見て、ホイッチングトン、この機逸すべからずとその猫を放つと、無数の鼠たちまち殺され、また逃げ去った。王喜悦限りなく、即座にホを寵臣とし、その猫を元帥とした。それはこの島古来鼠群を唯一の大敵としたからだ。ホは猫の力で大臣となり、全島を治めること数年の後帰国を望むと、王切に請うて猫を留め、宝を一船に満載して与えた。それに乗って英国に帰り、まもなくロンドン市長になされ、猫の恩を彰わすため、みずから猫氏《ねこし》を唱え、猫公閣下と呼ばれた。子孫この号を伝え、旗の真中にホが猫を肩に載せた体《てい》を美々しく現わした像がロンドン諸処にある、と。
 一八八二年、英国の故クラウストン著『俗譚および稗史《はいし》の移変《うつりかわり》』に、この筋の話が欧州諸国からペルシアまで行き渡りある由を述べて、その根源地はたぶんインドであろうと説いたが、その後誰もインドから似寄った咄を見出ださなんだところ、予、一切経通覧の際、果たしてインドにその根本譚あるを、唐の義浄訳『根本説一切有部毘奈耶』より見出だし、明治四十四年十二月ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』に載せ、その訳解を「猫一疋の力に憑って大富となりし人の話」と題して、大正元年一月の『太陽』へ出した。蒸返しは面白からぬゆえ、その後見出だした物ばかりについて、いよいよホイッチングトン譚はインドを根本とする次第を説こう。
 右に述べた唐訳の律典より約四百年前、三国の呉へ交趾から来た康僧会が訳した『六度集経』に、この根本譚がある。すべて何の宗教も、最初他国へ入る時、まず平凡な人間から感化し初めるが常で、当時仏教いまだ深く呉の民間に行き渡らず、この経もっぱら俗衆に読ますために当時の俗語を多く用いたらしく、そのころの人に分かり易かった代りに、今の人には読み悪《にく》いところが多い。よって大体を撮《つま》んで言うと、むかし大金持あって好んで貧者を救うたの(352)で、誰も彼もこの人を力と頼んだ。その友人の子が放蕩で文なしとなったのを憐れんで金千両を与えると、たちまち使うて了った。五度まで与えると五度までカラ穴《けつ》にして六度めに平気でまた借りに来た沈著《おちつき》加減に、長者もムッとして、門外の糞の上に死んだ鼠あるを指さし、人間は智恵さえあらは、あの鼠一疋を資本としてすら出世はできるはず、と言った。ちょうどその時門外へ来合わせた乞食がこれを洩れ聞いてなるほどと感心し、その鼠を拾い去り、諸家で香味を乞い受け旨く付け焼にすると二文に売れた。その二文で菜を買って売り、百余銭を儲け、ついに富人となった。閑《ひま》な時|惟《おも》うと自分が身上《しんしよう》を拵えたは全くかの長者の名言を聴いたからだ、これは返礼をせにゃならぬと気付いて、種々の珍宝を黄金作りの鼠の像の腹中に詰め込み、銀の案《つくえ》に載せて、衆宝で取り廻し、多くの珍肴と共に長者へ進呈と出掛けた。長者その訳を聞いて感心し、その娘を妻《めあわ》せ後継《あとつぎ》とした、とある。この話には猫のこと見えず、全く鼠一匹から長者になったのだ。
 
 一八九五年ケンブリッジ出板、パーリ文からチャルマース氏が英訳した『仏本生譚《ジヤータカ》』にいわく、むかし梵授王がビナレスを治めた時、釈尊の前身が大蔵大臣の家に生まれ、蔵相となって小蔵相と呼ばれ、英才ありて占候に長じおった。一日参内の途上で鼠の死骸を見て天文を考え、智恵ある青年が商売繁昌して妻を持とうと欲せば、ただこの鼠を拾うべし、と言った。たまたま生れは卑《ひく》からぬが貧しく暮らす青年あってこれを聞き、由来かの人の言うことに間違いなしと信じて、その鼠を拾い、最寄りの飯屋の猫の餌食に売って一文を得た。それで糖蜜を買い、水を壺に盛って花摘み輩が森より帰るを待ち受け、砂糖水を作って人ごとに施すと、その返しに花一把ずつ呉れた。それを聚《あつ》め売った上り高で、また砂糖水を作り、昨日より多く飲ますと、花を多く呉れたので、暫時に八文儲けた。その後一日大風雨で王の禁苑に枝葉おびただしく吹き落とされ、番人途方に暮れた。ところへかの青年が往って、落ちた枝葉を呉れるなら片付けて上げようというと、悦んで依頼した。青年、例の糖蜜を舐らせ、多くの小児を駆り催し、枝葉を拾わ(353)せ苑の入口に積み上げた。ところで王の陶師《せとものつくり》が御用の茶碗を焼くため薪代りにこの枝葉を望んだので、売ると二十四文できた。それから町の大手の門あたりへ大壺に水を満たせて持ち行き、草苅り五百人に施すと、インドは暑いから、一同その好意に感じ、御礼に何をしょうと問うた。用のある時改めて願おうと言い捨て、去って陸の商人や海の商人と交りを結んだ。
 陸の商人いわく、明日この町へ五百疋の馬を売りに来る者がある、と。青年これを聞いて草苅り輩に向かい、貴公ら毎人草一把を予に与えよ、して予が草を売らぬ間は貴公らの草を売るなかれ、と。彼輩《かれら》諾して草五百把をその家へ持ち来たった。馬商人五百匹の馬に草を飼いたきも、誰一人売らぬから、止むを得ずこの青年の五百把を千両に買った。数日の後、親しく交わる海の商人が来て、大船が入港したと告げた。青年また奇策を案出して、一時間八文で荘厳な車を借りて乗り、いと鷹揚に港へ出懸け、信用でその船を買い受け、自分の封印を付し、近処に小屋を立てその中に坐し、商人ども来たらば三人の取次ぎを経由して始めてわが前へ案内せよ、と子分どもに命じた。大船入港と聞いて、百人ほどの商人が見に来ると、すでに信用厚い大商人が船貨を買い占めたと聞いて、いずれも青年へ拝謁を望む。心得たりと三人の取次ぎが次第に案内する勿体さに一同恐れ入り、おのおの二千金を投じて貨物を買ったので、青年たちまち二十万両を得て、ビナレスに還った。それから十万両持って小蔵相へ往って礼を述べると、何でそんなに儲けたかと尋ねた。これ全く尊公の御蔭と鼠の死骸拾い以来の事歴を陳じた。小蔵相、感心跨潜《かんしんまたくぐ》りと来て、こんな豪傑を他家へ遣るは惜しい物と思い、すなわち請けて自分の聟とし、一切の産を譲った。小蔵相の死後、この聟が蔵相となった、目出たし目出たし、とある。この話には猫がちょっと顔出ししておるが、『根本説一切有部毘奈耶』に出た話には、一層長く顔を出しおる。その話は十二年前の『太陽』に出したから、今また繰り返さぬ。
 
 伴蒿蹊は、人は見馴れた物を尊ばない、鶏の美麗にして時を報じ、猫の多智にして鼠を捕うる、この二物が世に稀(354)だったらどれほど高価に求めらるるだろうか、と言った。フランソア・ルガーが十七世紀に書いた『航海記』に、インド洋のロドリゲー島に鼠群おびただしい由を筆して、こんな実際を睹《み》ると、ホイッチングトンの猫が無上に尊ばれた譚《はなし》も啌《うそ》らしく覚えぬ、と言った。そもそも猫は一癖も二癖もある獣で、インドでは西暦紀元前千年に成ったという『マヌの法典』、すでにこれを狡黠《こうかつ》極まる物とし、梵教、仏教、共にこれを不祥不浄の畜とし、わが邦にも東福寺の涅槃像に兆殿司《ちようでんす》がこれを画きしを稀有の特典とす。しかるに、古エジプト教や回教には、その霊智と貞良を称し、かつてエジプトの神としこれを尊び、また回祖の特愛を専らにしたと伝う。就いて考うるに、本題の話は最初鼠の死骸で大儲けするだけに止まった物を、後に死んだ鼠を猫の餌食に売るという一事を加えてより、その話がインドに往復する回教民の間に伝わって、主客たちまち位を換え、もっぱら猫の功徳を賞する話となったは、実際インド洋に近古まで鼠が多くて何ともならぬ島あったによる。さてそれより欧州に伝わって、ホイッチングトンの話となったのである。
 ホ氏は、十四世紀に男爵の子に生まれ、一四二三年卒すとあれば、伝説に言うごとき貧乏生まれにあらず。雑貨商を営み、すこぶる富み、一代に四度までロンドン市長たり。しばしば英皇ヘンリ四世と五世に大金を貸した。一四二一年、この人ヘンリ五世夫婦を饗した跡で、かつて貸すところの六万ポンドの証文を焼いて誠忠を表せりと伝う。子なかったから死に臨んで一切財産を公益慈善の業に遺した。生存中も善業多かったので、後世その徳を称すること多し、と。ホ氏の正伝はこれに止まる。
 俗間、紀伊国屋文左衛門が正月を宛て込んで江戸へ蜜柑船を仕立て、みずから冒険の航海して大利を獲たと伝うるが、何たる史実もないらしい。しかし、今もこの話を聞いて海外渡航を思い立つ人は多くある。そのこと及ばずながらホイッチングトンの咄《はなし》に類す。フィヤミンゴ教授の言に、十四世紀の末に当たり、英国が今のごとく工商業盛大になるべしと予想した者、世界中に一人もあったろうか。当時英人は小百姓と百年戦争に猛威を奮うた武士ありしのみ、商工業など思いも寄らず、悠々自適して村居するを惟《これ》楽しんだ。されば只今も旅行を英語でトラヴェルと呼ぶ。トラ(355)ヴェルはトラブルと同根の語で、もと英人は旅行ほど面倒な物なしと嫌うたのだ、と。落語か洒落のように思う人もあらんが、手近いウェブスターの字書を見ても、トラヴェルはトラヴェール(苦労)より出ず、とあるから、フ教授の言は当たれり。その英人が事情の差し迫れるより心機一転して海外発展に鋭意し出した時に、もとインド製の本題の話を点化《てんか》してホイッチングトン出世譚となし、児童の時から海外に足を伸ばすべく志気を鼓舞したのだ。本邦ごときは僅々数年前まで、僕は軍人大好きよなどと喧しきまで唄わせ置きながら、今は打って変わって僕は軍人大嫌いと唄わせ兼ねない様子、桃太郎童話は侵略主義で悪いなど、しみたれた穿鑿ばかりして気に病む。今に紀文冒険の話なども全く忘れられて、亀のようにすくみおるが老子の教えに叶うとか、虱のごとく垢を啜《すす》るに安んずるが安全無比とか唄わせるようになるかも知れぬ。   (大正十三年一月五日−七日『大阪毎日新聞』)
 
(356)     東牟婁郡請川村の須川氏について
 
 東牟婁郡|請川《うけがわ》村に須川氏多く、その内若干は郡内有数の豪家であったと聞こえ、有名な故|玉石磨礼彦《たまいしまれひこ》氏の家もその分れという。
 今より百余年前、須川徳卿というのがあって算学をもって名高く、かつて尾張の徳川家より徴《め》された時、自分往って、自分の藩を出て他藩に仕うること本意でない、と断わり還った。この人の家の前なる熊野川を下り来る船を算盤《そろばん》でおき留めたという。算術で人を笑うて止《や》まざらしめた話が『宇治拾遺』に見え、種々の天変を起こした話が『吾妻鏡』に出るところを見ると、むかしは名算家と讃めるあまりかようなことを付け加えたらしい。かつて川原で拾い来たった大小形状定まらぬ石で、垣を家のぐるりに築かしめた後、その数を算え当つるに一個足らず。徳卿、決して勘定は差《ちが》わぬはず、今一度垣を崩し数え見るべしとて、築き改めしめると、果たして一つの石を横に積まずに竪《たて》に積み入れあったという。また井側を砥石《といし》で築かしめ、子孫衰うればこれを売って家を維持せよ、と言った由。これは有田郡|栖原《すはら》の北村氏にもあったことと聞く。この徳卿の後いろいろに別れおり、当町の歯科医院主寛得氏もその一人だが、只今郵便局をしおる甚助氏の家が徳卿の長子の後で本家らしい。この徳卿のまたの本家をもと大庄屋と言った。代々の豪家で、新宮藩主が来たり宿する御殿を建てあった。その後、十太平《じゆうたへい》という人の代まで請川にすみ、その娘は北山より長三郎という入聟を迎えて、今は新宮に住む。十太平の弟隆吉は数年前和歌山で死に、その子は那智裏の色川村に教員たり。その母は熊楠の妻の姉だが、これも今は亡き人となった。
(357) 徳卿の子の代とか、飢饉年に村民を救うべく自邸に八つ棟造りの大建築を起こした。これは奢侈の沙汰ではなく、村民を賑恤《しんじゆつ》するに、何もせぬに米銭をやるは結果宜しからぬはずとて、日々労役せしめて工賃に托して救済したのでよほどよい考えを持った人と感心の外ない。この大建築の雨戸を朝からあけ始めてみな開き畢《おわ》るや、直ちに締めに掛からぬと日が暮れてもみなまで締まらなんだという。また尾鷲で捕われた盗賊を本国大和へ送るとて船で熊野川を上らしめた時、その盗賊この八つ棟造りの屋根の煙出しを見て色変わったから、付き添うた役人が問うと、われかつてあの煙出しに四年住んだが誰も気付かなんだ、と言った。その煙出しは八帖敷というから狸のキン玉の大きさだったのじゃ。何とえらいことで厶《ござ》る。
 
 故絲川恒太夫氏より聞きしは、この八つ棟造りの棟上げの時、大工の棟梁が式に用いた槌を天井裏に忘れ置いた。その後、夜に入ると天井を雷のように転がりあるく音がたびたびする。怪しんで天井を破り見ると、ツバキの木で造った槌を置き忘れあったのが化けたのだった。ツバキで槌を作らぬものじゃそうな。熊楠、福路町の松場久吉氏より聞いたは、那智に一つだたらなる一足の怪物あった時、三足の鶏とツバキ作りの槌を使い、三人づれで化け歩き、いろいろと人を悩ました由。これはツバキの棒は至って堅くて折れ悪《にく》いから、犬殺しや油をしめる人が使うたものだ。『日本紀』にも、景行天皇がツバキで槌を作らせ、豊後の群賊をたたき潰した、とある。致命傷を加うるほどの兇器だったから、むかしは殺人の外に用いず。自然これを忌むのあまり、化けるなど言い出したと見える。
 十七年前、予毎度謂川村の川湯辺にてマネアという藻があると夢み、往って見たところが果たしてそれを見出でた。その時、件《くだん》の徳卿の宅蹟に行き、上述の井戸と石垣を見た。また川湯の川上の薬師堂を尋ねたるに、堂のめぐりにおびただしく大きな石燈籠が立ちおった。年号は忘れたが、みな須川氏の人々が立てたので、須川……藤原の宣政などと刻みあった。こんな処にかかる石燈籠を多く立てたは、よほどの豪族と覚えた。いろいろ聞き合わすと、もと須川(358)氏はどこかから落ち来たった平家の余類で、今も請川に平家の岩屋などいう処あり、平家のタバコとてその人々が隠れながら用いたタバコも生えおるという。よって往って見ると、田辺近傍|稲成《いなり》村などにも岩に生ずるイワタバコという物で、タバコとは別類の物であった。石燈籠の銘には藤原氏とあるに平家とは怪しいと思うたが、諸国に例あるごとく、むかしは落人や隠れ人を一汎に平家と言ったらしい。
 須川氏のもっとも古い家は、代々長兵衛と名をつぎ、小口村の畝傍《うねはた》とて、嶮しい山の真中に深く穴のようにへこんだ底に住む。牛|幼《いとけな》い時この底につれ込まれて一生穴の中で暮らし、外へ出ることなしに死ぬという。また、よほど生産物に限りあった所と見えて、親が年よると子が谷底へつき落とすを恒例とした。その時親を坐らせてつき落とした岩が今にある由。飛驛の国|吉城《よしき》郡吉野村に人落《ひとおとし》という地あり。むかし六十二歳になった老人を必ずここに捨てたというが、これもつき落としたから人落と言うのだろ。須川寛得氏話に、この畝傍の山中に珈琲《コーヒー》の自然生がむかしからあって腹痛の妙薬とし来たった、と。これも上に述べた平家のタバコの同例で、何か別の物と惟《おも》う。
 須川長兵衛の家には、代々護長親王の兜と盃とかを伝え、その兜を模したという親王の像を、明治十六年東京上野公園の第一回絵画共進会で予は見た。兜はどうなったか知らず、盃は明治三十七、八年ごろまで長兵衛氏宅にあったと聞いたが、その後どうなったか知らぬ。また長兵衛氏の家、今も続きおるか否をも聞かぬ。
 
 大和国吉野郡|野迫川《のせがわ》村北股は、高野奧|立入《たてり》荒神が嶽に遠からず、なかなかの寒村らしい。そこの小学教員杉田定一氏は菌学上予と文通する。この人は同国笠置山に近き柳生藩の士族の出で、今年一月『柳生六百年史』を著わし、一本を予に贈られた。その内に偶然須川長兵衛という名見えたるより、予紀州の須川兵兵衛のこと、またその支流たる請川の須川氏諸家のことどもを筆して贈りしに、三月に至り、『須川氏について』なる全十一葉の謄写版刷の冊子を贈られた。
(359) それを見るに、大和の添上《そえのかみ》郡東里村大字須川という地あり。村役場ある所で、笠置山脈中の山村で、奈良の東方三里、関西線笠置駅より西約二里にあり。須川氏代々この地の住人で、その初めて見ゆるは、『多聞院日記』に、天文十年細川氏の家臣木沢長政が三好長慶と戦うた時、柳生子爵家の祖なる美作守家厳《みまさかのかみいえよし》、長政を援け、須川氏も長政を援けた。天文十二年四月十六日、三好方なる筒井順昭(山崎合戦に両端を持した日和見の順慶の父)、須川を攻む。須川に城二つあり。この日二つまで落城し、須川藤八(城主なるべし)親子始め打死、筒井方手負い限りなし。筒井の重臣中坊氏等も戦死す。筒井勢は六千余騎なるに、須川勢はわずかに五、六十人で楯籠《たてこも》り防戦した。弓矢取っての名誉、須川に過ぐべからず、まことに張良をも嘲るべき武士かな、とほめ立てある。
 翌年七月、去年の須川攻めに柳生家厳が須川を助けた仕返しに、順昭、大軍を向けて柳生の城を攻め、三日して落城し、家厳止むを得ず筒井に従うたが、永禄三年よりまた松永久秀の味方して筒井と戦うた。その後、家厳の第八子但馬守|宗厳《むねよし》、浪人となったが、剣術をもって著われ、その子但馬守宗矩、剣術無双で三代将軍家光公の師たり。この人関が原の軍功をもって家康公から先祖来の柳生の本領二千石を賜いしをふり出しとして、一万二千五百石の諸侯となり、正保三年七十六歳で卒した後、当時非常の恩典で武家ながら従四位下を贈られた。
 宗厳にすべて五男六女あり。第一子は新次郎厳勝、第八子がもっとも高名な但馬守宗矩だ。第二子は女で、大和|狭川《さがわ》村の領主福岡孫左衛門に嫁す。この夫婦が生んだ女《むすめ》が須川村の須川長兵衛に嫁し、生まれた嫡子は宗厳の外曽孫に当たり、宗厳の孫で宗矩の三男たる飛驛守宗冬より柳生|新陰《しんかげ》流の秘奥を伝えられ、柳生姓を許されて柳生内蔵助と名のる。
 
 元禄六年十二月三日、五代将軍綱吉公が柳沢保明の邸に臨むや、内蔵助は三学の太刀を御覧に入れ、また公の御相手となって撃剣す。同十二年閏九月三十一日、同邸に御成りの時は、内蔵助、将軍の前に新陰流兵法玉成秘書を講じ、(360)また仰せのままに宗冬の孫備前守|俊方《としかた》と三学九箇の小刀を仕った。けだし宗冬の子対馬守宗在は、五代将軍の兵法師範だったが、元禄三年に死んで、その養子俊方十七歳で継いだのが当時年若かったので、その祖父の入室の弟子で、芸道からいえばその父の従兄分に当たる内蔵助がもっぱら柳生流の勢望を維持したものと見える。寛得氏の話に、須川徳卿の後に循治《じゆんじ》という人、現に東京深川に住み養鶏を業とし、震災にも無事だった。この人、乗馬槍刀の武術に達し、以前は陸軍士官学校で教官だったという。思うに、むかし須川家より内蔵助ごとき達人を出した家の伝説に感じて、循治氏も武に志したものか。
 以上の次第によって考えると、請川に多き須川氏は、小口村なる須川長兵衛より分かれ出たので、長兵衛はもと大和須川の城主で柳生但馬守宗矩の姉の娘の夫だった長兵衛と同族らしい。思うに、天文十二年須川藤八父子戦死後、その子弟が四散して、一人は大和に留まって柳生氏に仕え、長兵衛と称して柳生宗厳の婿たり、また一人は紀州小口村に落ち来たって、これまた長兵衛を名乗り、家宝たる大塔の宮の遺品を伝え守ったので、藤八の外は代々多くは長兵衛なる名を世襲したゆえ、大和・紀伊に分かれ住んだ後、両方とも長兵衛と名乗ったのであるまいか。とにかく須川氏の先祖はどこから来たか、紀州では分からず、大和ではまた須川氏の後はどう成り行きしか、さらに知れなんだところ、杉田氏と予との文通よりこのこと明らかになったは、柳生子爵家にも須川家一同にも、また須川家と縁ある熊楠に取っても顕晦《けんかい》時ありと大いに慶賀喜悦すべき快事である。
 南方という家は、むかし三好氏の本家たる小笠原氏に東方、西方、南方、北方という四家老ありし。それが紀州へ来て落ちぶれた者の末と見える。しかるに、伊予国には、紀州から移り住んで大法螺でも吹いた者か南方殿と尊称された家もあった由、父《ちち》保盛丸《やすもりまる》氏より教えられた。また毛利元就の味方した出雲の南方氏もある。予、青年時代にしばしば小笠原|誉至夫《よしお》氏と?み合ったが、いわば主人と闘ったようなものだ。近日また主従の旧縁を言い立てて合力を乞いに往こう。さて小笠原の支流たる三好氏と敵だった須川と予と縁あるに及ぶも妙なことで、『野史』十河存保《そごうまさやす》伝をみ(361)ると、紀州の田村康広は三好方だったとあるから、予が田村氏の娘を妻としおるは、先祖の志に叶うものか。   (大正十四年四月三日−九日『熊野太陽』)
 
(362)     魚の口より銭を得た話
 
 七月二十五日は、耶蘇旧教徒が三世紀にこの教えのために殺されたクリストファー尊者の忌日とする。むかしは東西共に今のごとく信念薄からず。法然上人を勢至丸、義経を遮那王、伊達政宗を梵天丸、土佐や紀伊には楠《くすのき》を崇めて土方楠左衛門(久元伯)、南方熊楠等、いずれも仏の加護を願うて、子を思う親が付けた名だ。その通り、デンマルク、バーデン、ウルテンベルク等に、クリストファーと号した国王少なからぬが、こんなことに無頓着な日本ですら、西大陸の発見者をクリストファー・コロンブスと知らぬ者はなかろう。
 それほどあまねく持囃《もてはや》されたクリストファー尊者の事蹟は、すこぶる確かならず。異説紛々たるをよい加減に調合して述べると、この尊者シリアに生まれ、身体偉大、容姿端正、それが大いに教化の方便となった。かつて異端の輩が、その信念を乱すべく遊女を遣わすと、一たび尊者の美貌を見、二たびそのでっかさを想うて、ことごとく即座に改宗、殉教した。黒《くろ》うとさえそれだから、後家や人妻や素娘《きむすめ》の人気といったら格別で、女どものいいなりに男も相率いて感化され、尊者の力で教徒となった者、すべて四万八千人とはえらい。
 また杖を地に植えると、たちまち芽をだしてデートの木となるのを見て、改宗する者数千人。親鸞上人は、越後で三年住んでも帰伏しない奴多きを憂い、わが教えが仏意に合わばこの竹活くべしと言うて、杖を倒《さか》さまに植えると、不日《ひならず》に繁って、長《たけ》三十五間、幅二十間の紫竹林となった。また塩漬の梅の核《たね》をまくと、いわゆる八房の梅がはえ、焼いた栗を種《う》えると、八町に十五町の林ができて年に三度|実《みの》るというから、こんな手品は日本の方がうわ手らしい。ロ(363)ーマから置いたリジアの知事、クリストファー尊者を悪《にく》み、火で焙ったり油で熬《に》たりすれど、キリストのお蔭でビクとも感ぜず。終《つい》に首を刎ねると、やっとごねたそうだ。
 十三世紀にヤコブス・ド・ヴォラジン大僧正が書いた『尊者伝』によれば、クリストファー尊者は非凡の大男で、平生自分よりも強い者に仕えたいと志し、カナーン王に仕えたところ、王は魔を怖れた。よって魔に仕えると、魔は十字架を怖れた。すなわちキリスト教を奉じたが、断食や念誦の心得なし。そこで慈善業をもっぱら心掛けて、橋なき水に困る人々を負い、渉《わた》しやった。仏教にも弘誓《ぐぜい》の船と称え、玄賓僧都は、「都の内はすまぬ勝《まさ》れり」と僧位を辞し、田舎で渡し船を勤めた。さて、ある夕方かの尊者が入り海の口に立ちおると、小児が渡してくれ、と望んだ。すなわち負うて渡すと、だんだん重くて沈みかかるをやっと渡し、世界を負うたってこのがきほど重くはあるまい、と怒った。時に小児が、「驚くなかれ、われは耶蘇だ。全世界の罪を引き受けたわれを負うたら、重いのは知れたこと」といったという。
 バトラー説に、クリストファーは、もとラテン語のクリツスム・フェロ(キリストを運ぶ)に出ず。初めこの尊者、不断キリストの像を胸に掛け歩いたによる綽号《あだな》だ、と。それからキリストを負うて渡った話が出たらしい。この話から、この尊者の声価大きに揚がり、一時はキリスト教会の象徴とまでなった。航海、漁業、ペストよけの本尊、また無実の難で牢舎する者を救い出すとさえ信ぜられた。ここに掲ぐる第一図〔省略、入力者〕は、一四二三年、わが応永三十年、足利第五代将軍|義量《よしかず》が就職し、小栗判官が照手姫に助けられた歳に出た、最も古い欧州木版刷で、尊者、キリストを負うて水を渡る体《てい》を示す。病中の拙児写したゆえ略しおるが、像の下にラテン語で、「この図をみる者は、その日の内に凶死《わるじに》しない」と記しあるから、命が惜しくば飯を食わぬまでも、本日の(364)『大毎』紙を買い拝まにゃならぬ。
 この画〔省略、入力者〕の水中に、魚一疋あり。クリストファー尊者、件の水渡りの珍事を永々後世に証すべく、有り合わせた魚を捉えて指痕を留めたといい、今もギリシア人は尊者の名により、この魚をクリストフォロンとよぶ。仏名ドレー、鍍金の義。活きおるうちは目立って黄色だから。それより英語でドリー。もとは仏語でジョーン・ドレー(鍍金の黄色)、それから英語でジョン・ドリーともいう。三年前の七月二十一日の本紙に、「体の色をかえたり欠《あくび》をする珍しい魚のお咄」を出した人は、英語のままジョン・ドーリーとかきあったが、井上十吉先生の『英和大辞典』でも知れる通り、マトダイまたマトウオと書いたらよかった。江戸でマトダイ、上方でマトウオ、『和漢三才図会』早く的魚とかきあるゆえ、ここにはマトウオでやり通す。
 冬中田辺の海で多く取るを幸い、病中の倅に写生させ置いた第二図〔省略、入力者〕でみるごとく、体側の中央に著しい黒紋、的に似たるあり、よって名付く。佐渡の方言カネタタキとは、「かねたたき金がないゆゑかね敲く、金があるならかねは敲かじ」てな由来でなく、背鰭の長糸が動いて件の黒紋に向かい、ちょうど出家が鉦を敲くようだからの称えだろう。『和漢三才図会』など、マトウオを魴また?に当てたが、洛鯉伊魴は牛羊より貴し、洛は渾深《こんしん》をもって鯉に宜しく、
伊は清浅をもつて魴に宜し、また遼東梁水の魴特に肥ゆるをもって名ありなどみえて、紡一名?は川魚で、マトウオの海にすむと異なり。モレンドルフ説に、支那の魴に数種あって、みな英語でブリーム、学名アブラミスに属すといえば、まずは京都辺に多いタナゴに似た淡水魚だ。貝原先生はマナガツオを魴とした。これまた当たらない。
 ここで一言するは、英語のドリーをマトウオと訳するはよいが、イタチをウィーズルに、リスをスクワーレルに当(365)つると等しく、日本の物が西洋の物とまるで同一でなく、至ってよく似ておるというまでだ。ただし、西洋のドリーは学名ゼウス・ファベル、日本のマトウオは学名ゼウス・ヤポニクスで、科学上同属別種だが、洋種の写真と和種の実物と比べるに、ちょっと見わけが付かぬほど、どこもここも似おるから、以下の本文に二名を同物のごとく通用する場合多かりなん。
 さてグベルナチス伯説に、中世、鳥のトサカのラテン名クリスタと救世主の名クリスツスを混じて、鶏をキリストの使い物、ヒバリをクリストファー尊者の使い物とした。それと一様に、マトウオの背鰭が鶏冠によく似たゆえ、この尊者がこの魚を特に愛して指痕をその身に留めたと言いだしたのだ、と。すべて伝説は夢同然種々の臆想が混じ累なってなるもの、したがって一つの伝説の原因は一、二に止まらじ。
 されば、鶏冠とキリストのラテン名の混同も一つの原因に相違なからんも、これよりも大きにクリストファー尊者がマトウオに指痕を留めた話の原因というべきものが、『新約全書』にある。「馬太《マタイ》伝」一七章にいわく、彼らカペナウンに来たれる時、納め金を集むるものども、ペテロに来たりていいけるは、爾曹《なんじら》の師は納め金を出ださざるか。然らずといいて、ペテロ家に入りし時、イエスまず彼にいいけるは、シモン、爾《なんじ》はいかが思うや、世界の王たちは税および貢《みつぎ》を誰よりとるか、おのれの子よりか、他の者よりか。ペテロ、彼にいいけるは、他の人よりとるなり。イエス、彼にいいけるは、然《さ》らば子は与《かかわ》ることなし、されど彼らをつまずかせざるために、爾《なんじ》海に在って釣を垂れよ、初めにつる魚を取って、その口を開かば金一つを得べし、それを取ってわれと爾のために彼らに納めよ、と。
 寝言のような日本訳で判然しないが、キリストどこへ往っても貧乏で、この時も人頭税を取り立てられて持ち合わせなし。しかし、落ち付いたもので、弟子ペテロに、海へ往って初めに釣り得た魚の口をあけたら銭一文あるから、それで税を払えと命じた、と英訳にある。話はこれだけ。ペテロが果たして魚を釣ってその口より銭を得たとも、税を払うて受領書を取ったともみえない。ところが、悲しいかな人の奇を好むやで、イタリー人は、その時ペテロが釣(366)ったはマトウオで口から一銭を獲て納税を済ませた、その時ペテロの指痕またはその銭の形が魚の両側に残り伝わって、今に黒い紋一つずつ必ずあると信じ、ペテロ尊者魚また一銭魚と呼ぶ。
 
 銭に限らず種々の宝物を魚の体内に蔵めあった譚《はなし》は諸国にある。元相国、黄鶴楼から浜を望むに光あり。人をして尋ねしめると、漁船中の鯉から出る様子。その鯉を剖《さ》かしめると、鏡二つでてきた。宝応中、酉陽の人が魚の頭を黄色の筋が貫くを愛し、買い帰って食うと、背中より金のカンザシ六、七寸長きが出た。名和長年の裔《すえ》で肥後八代の城主村上顕忠は、寛正年間逐電して長門海を渡るうち、系図を海に落とした。のち帰城におよび、漁人が大きなニベ魚を取って腹をさくと、その系図が出たのでニベ大明神と祀った。
 英国でも一五三三年、当時の政府に悪《にく》まれた新教を主張して火刑されたジョン・フリスの著書は、爾後全く忘られいたに、一六二六年、ケムブリジの魚市でタラの首をきると、この小本が出たので、大学員が「書魚《ほんうお》」(ブック・フィシュ)と題号して再板した。明治十八年五月二十五日の『絵入朝野』紙に、二、三日前、浅草芝崎町平民宮崎喜兵衛は、大の蟹ずきゆえ鳥越町の魚屋で女蟹五疋を八銭で求め、晩酌の肴に食ううち、そのフンドシの間より一匁三分ほどの金塊を発見した、とあった。インド洋のロドリグ島で大事の財布を蟹に盗まれ、蟹を千人切りにした人のことは、『続南方随筆』に出した。漢の武帝が昆明池に釣ると、魚が釣糸を食い切って去った。帝の夢に、その魚が鉤を去って欲しい、と告げた。翌日池へゆくと、魚がきたから抜いてやった礼に、明珠一双をもてきたという。口に含んできて吐いたのだ。
 ユダヤの古伝に、天と空《くう》と地と水の四王が、ソロモン皇に四の玉を献じ、皇これを指環に嵌めて諸鬼を制服したれど、サクル鬼王のみ洋中の孤島に隠れて順わず。時にソロモン異教国を討ってその王女を捕え、帰ってこれを寵するのあまり、その妾と共に偽神に事《つか》えた天罰遠からず。一日、皇、浴湯《ゆあみ》のため指環を妾に渡し了ると、鬼王たちまち皇(367)に化して湯上りの体を現じ、さっきの物こちらへよこせと、妾から指環を受け取って皇位に座した。本物のソロモン皇は玉璽を失ったから何と言っても紛れ物に極まり、放逐されて国外にゆき、漁師に奉公した。本国では偽皇の行い暴虐極まり、どうもソロモン皇と思われず。輔相ら、試しに法典を読み懸けるに、たちまちばけ露われ、大いに叫んで逃げ出し、玉璽入りの指環を海に沈めて消え失せた。その後、ソロモンは主人より日傭賃に魚二疋を受け取り、一疋を割《さ》くと、かの指環が胃中にあった。すなわち指環の力で魔王を洞壺におし込み、玉璽で封印して海底に沈め、世界終わる日を俟たしめた。
 ユダヤの古伝にまたいわく、不信心の富人が、その財終りに隣の貧士の物となるはずと星占者より聞き、何とかそうならぬようにと計って、持ったものをみな売り、得た金で一の大金剛石を買い、帽子に縫い込んで遠国行きの船に乗り甲板上に立ちおると、金剛石いりの帽子が海へ吹き飛ばされた。隣の貧士はよく安息日を守り、明日も安息日ゆえ、今夜食って置こうと魚一匹買って腹をさくと、件の富人が失うた金剛石を呑んでいたそうな。
 スコットランド・グラスゴウ市の守護尊ケンチガーンの伝に、皇后が若い好男子の兵卒に惚れて、夫皇が呉れた高価の指環をやり、その指にささせた。夫皇これを知り、狩猟中その兵卒が川端に眠るに乗じ、指環を抜き取り川へ沈めた。それから帰って后に、かの指環をみせよとせがむと、密かに兵卒へ取りに遣ったれどなし。后、大いに憂いて救いをケンチガーン大士に求めた。ケは使者の口上を俟たず、子細を知りおり、川へ往き鮭を捕え、その腹より指環を得て后にやった。后、これを夫皇に渡すと、たちまち眼尻をさげ、后の不貞を密告した者を厳罰しようといい出したのを、后は寛大らしくいい宥めて済まし、私《ひそ》かにケンチガーンに詣《いた》り罪過を懺悔し、再びあんなことをしませぬと誓うた、という。
 
 北ドイツの旧伝に、学生三人、近付きの貧人に百ドルを与え、貧人、妻に語らずにこれを古ボロ切れの中へ隠し置(368)いた。一日、夫の不在にボロ買いがきたので、何の気も付かずに妻が売り渡した。一年立って三学生、定めて暮し向きがよくなっただろうと、きてみれば、右の次第で貧人はいよいよ貧し。以後を戒めて、また百ドルをやると、今度はこれを掃溜箱に隠し置いた。とは知らずして、妻がまたわずかの石鹸と引替えにお払い箱。よって相かわらず貧乏する。ところへ三度めに、三学生の御入来。こんな人物にこの上金を遣っては、やる方が大馬鹿と自証するのだ、これでも遣って行こうと、一片の鉛を投げて去った。それを拾うて窓敷にのせ置いた。
 その後、一夜、近所の漁師が来たり、網の錘が一つ足りない、何か重みのある物を貸して呉れたら、一番に取った大魚を上げよう、といった。学生が投げ去った鉛を渡すと、後剋《ごこく》やって来たり、お蔭で大分とれました、約束通り差し上げるとて、大きな魚を置いてゆく。それをさくと、大きな石が胃より出て夜通しかがやいて止まず。金剛石と知って千ドルに売り、村内筆頭の大富となった。運が向かぬ時は大金を貰うてますます貧し、運がむく時は鉛一片を元手に一夜に千ドル長者となる。ほんに果報はねてまてだ。そこで、その妻の差出口に、それ御覧な、私が大金百ドルを二度まで打ちやったらこそこんな仕合せ、何と気のつかぬ女房ほど家のためになるものがござんすまいとは、ずいぶん道理があるような。
 アラビアの譚《はなし》には、二人の紳士が麻繩をなうて生活する貧人を助けんと思いたち、その一人が金なしに身上を伸ばし得ずとて、若干金を授けると、貧人いくらかで麻を買い、残金を帽子へ捲き込んで被《かぶ》るを鳶にさらわれた。次の年、紳士来たってまた金を与えたところ、若干で麻を買うて残金を壺に入れ、砂で詰めた。それと知らない妻が砂のつもりで売って了《しま》った。三年めに二紳士伴れ立ってきて、この話を聞いても二度まで金を出した方はさらに信ぜず、二度ながら貰うとすぐ浪費したものと断じた。今一人の紳士は、運の向かぬ者に金をやるは無益ちう持論だったので、今度は自分が試そうと、一片の鉛を貧人に授けた。それからは、上に述べたドイツの話と同じく、貧人、その鉛を漁師に貸し、礼に貰うた魚の腹から金剛石を得て大いに身代を起こす。四年めに二紳士また来訪され、右の次第を聞いて、(369)なるほど金よりも運なき衆生は度し難しと感じ入るうち、前年失うた頭巾は金を捲き込んだまま近処の木の上に鳶の巣になっており、砂に金を埋め入れた壺も周《めぐ》り周ってこの麻繩屋の倉に納まりおりたるを見つけ、いよいよ運命の人智を超絶せるを感嘆した、とある。しかし、そう万事を運任せにみるべきでない。天運に任す前にもちっと念を入れて捜したら、近処の鳶の巣になった頭巾から金を早く見出だしたはずだ。故に多くの場合には運よりも注意が大事である。『轍耕録』や西鶴の『胸算用』に、鼠が包み金を引いたのを、人が取ったと疑うて大事におよんだ話あり。これらも不注意の結果だ。
 インドのカリダサ作劇『サクンタラ』六段に、漁夫がロヒタ魚の腹より、大きな真珠入りで国王の名を鐫《え》り付けた指環を見出だし売りに出し、怪しまれて縛らる。これはズシャンタス王が狩場でサクンタラ女を幸し、この指環を形見に渡し都へ還った。サクンタラ女は、その父仙人と屏居し続くるところへ、ズルヴァサ聖人が訪い来た。サクンタラ女は初めてズシャンタス王に会った快さやら恥かしさを忘れんとして忘られず、「昔は物を思はざりけり」と一心不乱に思い続けて、聖人への挨拶はなはだ粗略。それを聖人大いに怒り、この女がこんなに惚れ込んだ男が全くこの女を忘れおわれと呪うたが、それでは酷過《ひどす》ぎると思い反《かえ》して、その時形見に渡した指環を見たら男が女を思い出すようと修正した。サクンタラ女は、王のたった一夜のお情の種を宿し、何とか方を付けて貰うべく母もろともに都登りの途中、川に浴するうち指環を落としたゆえ、王に謁しても王これを認めず。母に伴れ帰られて林中で一男児を生ず。ところが、都では魚の腹から形見の指環が出で、王これを見てすなわちサクンタラ女を思い出し、みずから林中に行って母子を迎え取り、かの女を正后、その子ブハラタを太子に立てたという。むかし会離《えり》極めて不定の世には、出逢い頭にやらかした女に記念の品を男が渡すを、東西とも常例とした。
 
 魚の腹より宝を見出だした話の最も古く著われたは、西暦紀元前五世紀にギリシアのヘロドトスが書いた『ヒスト(370)リア』三巻三九章以下に出た、サモス島主ポリクラテスの伝に出ず。紀元前六世紀の人で、小さい賊団の長より起こり、南面して孤と称し、威華|夏《か》に震う最中、不慮に惨殺されて、ただ平生雅志の違うを恨むこと、このほど横死した張作霖氏に異《かわ》らず。初め何でもない平民だったが、わずかに十五人を率いて暴動し、兄弟三人でサモス島を従え、尋《つ》いで一弟を殺し、一弟を逐うて全島を専領した。程なく五十櫓付きの船百艘に弓手千人を備え、やたらに海上を荒らし廻り、出逢いさえすりや敵味方を別たず、きっと掠奪した。味方の物までとるは合点行かぬと不審すると、味方の物と知って初めから見遁すよりは、大ざっばに奪い取った上、これは若い者どもが不躾の至り、お心安い貴殿の物としれたので直様《すぐさま》お返し申しますと、勿体らしく言訳して戻しやると、先方の気持格別宜しく、大親分の度量と細心は見揚げた物と、随意渇仰してくる道理と説明した由。
 熊楠若い時、東京で同学の友に、近処の湯屋の帳場に坐る娘を思い込んで堪え難きも天性臆病で打ち出しえず、「せめては言《こと》のはにやかかると」と苦吟した者あり。艱難は発明の母、ついに一計を案出して、さいさい湯屋へ行くごとに他人の下駄を履き違えたり、褌をかき違えたり、時計をかけ違えたりして下宿へ帰り、しばらくしてまた出懸けてかの娘にその品々を返し、自分の物を渡し貰い、叮嚀に礼を述べて帰ったら、細眼で俺の顔を眺めてさても親切なお人と感心し、何を始めに思いそめけんなどとくるだろう、と言いおったが、どうなったかしらぬ。東西万里二千五百年を隔てながら、似た人があったものだ。
 ポリクラテスかねてエジプト王アマシスと攻守同盟した。アマシス熟《つらつ》らポリクラテスの幸運絶えず到るをみて、これを危ぶみ一書を贈った。大意は、同盟の友の繁昌を聞くはまことに嬉しいが、崇高は鬼神の嫉むところといえば、過度の繁昌をわれは嬉しがらぬ。自分に取っても、愛友のためにも、時に成功あり、時に沮失あり、よいこと悪いこと交《こもご》も到る方こそ、仕合せのし続けよりも、はるかに憑《たのも》しけれ。われいまだかつて何ごとにも仕合せよかった人の終りに凶をもって果てざりし例を聞かず。さればよくわが忠言を納《い》れて幸運を多少制限してみられよ。まず御自分の財(371)宝中もっとも高価で一番手離し難きは何物と考えた上、二度と何人の手にも入らぬように棄て了れよ。かくてなお仕合せ不仕合せが代わる代わる来たらずば、再度右の手段を行なわれたい、と言ったのだ。
 仏経に、頂生王は前世の宿業で、黄金の雨、美衣の雨、望んで到らざるなく、三十三天を究め登って、帝釈と座を分かつに及ぶも満足せず、終《つい》に帝釈を放逐して永く人天に君臨せんと念ずるや否、人間に落ちて死んだという。幸い続けばしまいにえらい奴がくる。エジプトは無仏国だが、アマシス王はよく悟りおった。その状を読んでポリクラテス大いに感じいり左思右考するに、あらゆる財宝中、自分がいつも佩ぶるエメラルド入りの金の指環は、名工テオドロス作で身にも替えられぬほど惜しい物、これを捨てて不幸を味わわんと決心し、島から遠く乗り出した船の中から、皆人の見る前で指環を海に投げ入れ、内へ帰ってこれを悲しんだ。さて五、六日後、漁夫が見事な大魚を獲てポリクラテスに献じ、臣僕がこれを料理すると腹から主君の指環がでてきた。よってポリクラテス、事の?末を記してアマシスに報じ、アマシスこれを読んで、人を定運から脱出しむることは人力の及ぶところでなく、万《よろず》に付けてめでたく、捨てた物さえ戻ってくるポリクラテスは、必ずよく終わらぬと暁《さと》り、使をサモスに馳せて攻守同盟を廃した。その後も天なおポリクラテスに幸いして已《や》まず。島内不平の徒が外寇を誘《いざな》い来たり囲むこと四十日、しかもポリクラテスよく禦いでこれを却《しりぞ》けた。
 
 それよりポリクラテス、区々の小島主をもって万乗の権を致し、海利を壟断して対岸諸国を脅かし、奢侈を肆《ほしいま》まにして華麗を窮極した。作るところのトンネルと防波堤とヘーラ女神廟は、ギリシア中で最大の工事、アリストテレスその壮観をエジプトの金字塔に比べた。また好んで文芸堪能の士を延《ひ》き、なかんずく詩聖アナクレオンを特過した。かほど仕合せ打ち続き結構尽しで千歳も生き延ぶべく羨まれたに、一朝凶運到って無上に非業な惨死を遂げた。
 そのころ、ペルシア皇がサルジスの節度使としたオロイテスが、一日隣地の節度使ミトロバテスと自慢話が昂じて(372)喧嘩の最中、ミがオに向かって、汝の管轄地にいと近いサモスの島主ポリクラテスは、もとただの平民、わずか十五人を率いて島を切り従え、今にその王として威勢赫々たり、汝これを征服してペルシア領としないで男といわりょうかと罵った。オロイテス、一切ポリクラテスに何の恩怨なきのみか、その顔をみたこともなし。されど、至って僻《ひが》んだ根性から、自分かかる悪罵に遇ったも、ポリクラテスがあまり世を旨く渡るからと、骨髄に徹して恨みだし、ぜひ彼を捕えて殺さにゃならぬ、と考え込んだ。
 すなわち使者をしてポリクラテスに述べしめたは、わがペルシア皇はいつも臣を殺さんとす。臣、大王が常にギリシアとペルシアを一統せんと欲するを知る。それにはお金が必要ゆえ、願わくはみずから来たって臣と臣が貯えた大金を持ち去り、もってまずギリシア諸邦を併呑に出懸けられよ。臣の献金の多寡を心元なく惟《おも》わば、最も信頼さるる家来を見分《けんぶん》に遣わされよ、と。聞いてポリクラテス大いに悦び、昵近する秘書をサルジスに派遣した。
 オロイテス、あらかじめ謀って石を八つの大箱の口まで詰めこみ、黄金をその上に敷いた。平賀源内やアラビアの猴舞《さるまわ》しも、この手で騙った話は、『続南方随筆』にだした。秘書見分し帰って、オロイテスの言|佯《いつわ》りなし、と告げ、ポリクラテス太《いた》く勇んでみずから金を受け取りに往かんとした。前夜、その娘の夢に、父王の身高く空中に懸かり、ゼウス大神これを水で洗い、日神アポロンが香油を塗ると見たので、不吉と思い、ひたすらこの旅行を諫め、父乗船の後も呼び留めて止まず。ポリクラテス怒って、われ無事に帰って、無用の諫言の罰に多年汝を男に合わせず苦しめ置こう、と言った。娘はそれぞれが願うところ、これきりわが父に別れ切って妹背の語らいも何かせん、父に死に別るるより独身で永く暮らす方がどれほど楽しかろう、と言った。これを最後の応対とは思い知らぬぞ哀れなる。
 さてポリクラテスがオロイテスの住地マグネシアに着く。塩谷家の浪人斧定九郎氏の言草通り、金が敵《かたき》じゃ、いとしぞや、たちまちオロイテスに捕えられ、「筆するに堪えざる方法」で殺された。その尸骸を十字架にかけると、雨に打たれてゼウス神に洗われ、日に焼かれ、油がわきでて、アポロ神に香油を塗られたから、ポリクラテスの娘が見(373)たは正夢だった。また過度に仕合せの続く人は凶をもって終わると断じて、ポリクラテスと同盟を廃したエジプト王アマシスも、先見の明あったとしれたという。
 ここにヘロドトスが「筆するに堪えざる方法」と書いたを、熊楠は仏経に地獄の刑を列ねた内に、鉄炎鋸《てつえんきよ》をもって人根を割《さ》き、糞門より鉄鉤を入れて背上また卵上に出す等あり、川柳にも、「常磐めをこれでと長田《をさだ》握りつめ」などあるを考うるに、どうも秘処を傷害して殺したのであろう。しかし、ローリンソンは、プルタルクスの『列伝』に載せた舟刑(スカフェウシス)のような法でポリクラテスが殺されただろ、と言った。これは舟を蛤《はまぐり》の殻のごとく二つ合わせて、その間に人を仰ぎ臥さしめ、頭と両手を前へ、両脚を後へ出させて圧《お》さえ挟み、毎日食物を与え、食わぬ時は眼を突いて食わしむ。食事済めば乳と蜜を混じて口に入れ、顔に澆《そそ》ぎ、絶えず方位を転じてその眼を日に向かわしむ。すると、顔一面に蠅が止まる。不浄が舟に溜まって蛆無数生じ、彼の肉を食い腸《はらわた》に徹し、その人死んで上の舟を除《の》けると、肉渇きて虫に?まるる腸のみ残るという酷刑だそうな。
 日本にもやや似たことがある。会津城主加藤明成、家老堀主水正の諫めを聴かず、亡父嘉明が預けた采配を取り返したことを憤り、寛永十六年四月十六日湯治を申し立て、兄弟三人、家臣八人、妻子従類三百余人、城に向かって一面に発砲し、橋を焼き関を被り、携え来たった兵刃を山上に棄て鎌倉へ立ち退いた。それより明成に追窮されて諸方へ逃げ廻った末、江戸へ往って明成の無道と旧悪を訴えた。詮議の末、主水正が主人を訴えたはみな非拠たるにより、兄弟三人を明成に賜わり罪に行なわせた。明成大いに悦び、主水正兄弟を高手小手に括り、乗物に載せ釣るし置き、当番の輩に命じて乗物を動かし罵らしめ、次に美酒好肉を食わしめた。主水正は搦《から》められた日より飲食を断ったが、その兄真鍋小兵衛、弟多賀井又八郎は食事したから、乗物の中でジャア、スウ、ブウ、ビリビリビリと垂れ散らした不浄に埋もれて、いと醜かったそうだ。それから寛永十八年三月二十一日、真鍋、多賀井は切腹、堀主水正は縛り首を討たれた。(未完)   (昭和三年七月二十五日−八月二日『大阪毎日新聞』)
 
(374)     竹馬およびホニホロ
 
 大正七年は午の年だから、馬のことを書いて『牟婁新報』に出して呉れ、と社主から頼みであった。しかるところ、馬の話はずいぶん穴繋《あなぐ》り探《さぐ》って『太陽』の新年号へ送り置いたから、『牟婁新報』へは馬に縁ある竹馬のことをちょっと書こう。
 唐の太宗の語に、土城竹馬は児童の楽《たのしみ》なり、金翠 ?綺《きんすいがんき》は婦人の楽なり、有無を留遷するは商賈《しようこ》の楽なり、高官厚秩は士夫の楽なりとあるは、官吏の楽しみは月給を取るにあるというので、はなはだ怪しからぬ言振りだ。次に、戦うて前敵なきは将帥の楽なり、四海寧一は帝王の楽なりとはもっともなことだ。この通り楽しみに種々ある中に、土で城を築いたり竹を馬としたりするのが児童の楽しみだとは、まことによく言った物だ。すでに蜀山人の詠にも、「老の頭撫でてしきりに恋しきは坊といはれし昔なりけれ」と詠んだ。それをほぼ同じ心で西行の歌に、「竹馬を杖にも今は頼むかな、童遊びを思ひ出でつつ」。また九条三位入道知家が、苦を恋うという題で、「竹馬に起きふし馴れしそのかみの世々《よよ》はふれども忘れやはする」と詠んだ。
 吾輩もすてに五十を二つ超して、少々年が寄ったと自覚するに付け、過ぎし昔を懐うと、七、八歳の時遊んだ友で(375)現存すると確かに知れおるは陸軍少将長尾俊郎氏一人あるのみで、古支那人が、およそ七歳にして竹馬の楽あり、と言ったから見ると、真に竹馬の友として現存するは長尾少将ばかりじゃ。しかし、また錦城館のお富女史というのがあって、これは七生前からの宿縁厚いものありだが、機いまだ熟せずして今生でも添い遂ぐることがならぬは残念至極である。ところへもって前月一種の病気で入院したと聞いて、その一種とは何種かと調べて見ると、あまり感心のならぬ病気と知ったので、七生前からの宿縁を破毀したくなって来た。と、こんなことばかりではだんだん竹馬に縁遠くなるから、お富女史のことはこれで打ち切り、純《もつぱ》ら竹馬について述べよう。
 京伝の『骨董集』に、唐土《もろこし》の竹馬の戯れは後漢の時すでにあればいと古し、とある。これは後漢の陶謙、年十四にしてなお帛《きぬ》を綴って幡《はた》となし竹馬に乗じて戯る、甘公その容貌《かたち》を異《あや》しみ、許し妻《めあわ》すに女《むすめ》をもってす。夫人怒っていわく、陶家の児、遊戯度なし、いかんぞ女をもってこれを許さん、と。甘公いわく、かれ奇相あり、必ず大成せん、と。ついにこれに女を与えた、とある。この陶謙というは、後にある州の刺史となり、善政の聞え高かったが、後漢も末になり海内麻のごとく乱れた折悪しく、この人腎虚のような不起の病という奴に犯され、とても自分は死んで往くに極まったものの、何とぞ州民をして塗炭に苦しまざらしめんとの誠心から、そのころ自分方へ食客のようになりおった劉玄徳にその職の印綬を譲り、朝廷へ奏聞推薦した上死んだという。真に上に忠に下に慈に、友に厚かった偉人じゃった。誰が作った物か忘れたが、小栗判官の脚本に、古く横山という悪人の長男が、父や弟どもと打って変わった善人また賢人で、みずから韜晦《とうかい》して父弟の姦謀団より除外されんと欲するのあまり、壮歳にして母や妻の前で竹馬に乗り遊ぶ一条を作り込みあった。これ全く件《くだん》の陶謙がことを作り替えたのだ。すべて人間はあまり小さい時から慧《さか》しく見える者に碌なはない。甘公ごときは洵《まこと》に人を知るの明ありと謂うべし。
 身その数にあらざれど、余も七、八歳のころ同歳なる長尾少将と打ち連れて、雄《おの》小学校とて今も舎弟方の隣にある学校へ寄合町の自宅から通う途上、わずか二町足らずの間を一時間も懸かって歩き、しばしば教課時間に後れて二人(376)ながら立罰という奴に処せられた。かく後れた訳は、長尾が寄合橋の欄干外の縁《へり》を前後疾走しながら横笛を吹く真似すると、今一人和田という同年輩の児が太鼓打つ真似をなし、時々、熊公○○向け、おら太鼓叩く、と囃す。それと同時に、予○○を露わし手ぶらで欄干の上を牛若同前飛鳥ごとくに駆け廻ったので、実に前代未聞の見世物、近処の仲仕、人足等、昼飯後の休息しながらこれを見て、また始まった、阿呆な児が三人までよく揃うた、と嘲り笑うたが、今日寄合橋を通って見れば、その時笑うた人足は今に白髪また禿頭ながら仲仕や馬力を勤めおり、予はとにかく、長尾は素貧《すひん》な養家で養母に非常に酷使されながら、やっとのことで士官学校に入り、追い追い出世して陸軍少将にまでなった。かの太鼓を囃した和田というた児も、小さい醤油屋の子じゃったが、無類に南画が旨いので、父がありもせぬ身代を搾り出して京都に遊学させ、十三、四で成業して和歌山へ帰る乗船が外浜沖で難破して死んで了《しま》うた。その後、この児が家へ帰って無言で奥へ通り仏壇の前で消え失せたと言って母親が泣きおるを見て、長尾も予も気味悪く一目散に逃げ帰り、万一幽霊が遊びに来ては困るとて申し合わせて寄合橋辺で遊び廻るのを全廃した次第である。
 さて世は面白い物で、何が役に立つか知れず、その時欄干の上を走り廻った嗜みが身に副うて、後年大いに予に面目を添えたことがあるという一条は、次回に述べるとするが、ここにちょっと言い置くは、京伝などはみなあり触れた類書に拠って陶謙の故事を引き、竹馬は後漢の世に始めて物に見えた証とするが常だ。しかし、陶謙は後漢の末、三国の世の際の人で、同じ後漢の人ながら、後漢の開祖光武帝の時、并州《へいしゆう》の牧だった郭?《かくきゆう》の伝すでに竹馬を載す。いわく、建武十一年(わが垂仁帝六十四年)、盧芳北土に拠って叛きければ、帝、?を并州の牧に任じてこれを鎮めしむ。?、并州に入って諸部を巡視するうち、西河の美稷《びしよく》という地に到ると、数百の童児、おのおの竹馬に騎《の》って道次に迎拝し、郭、外まで送り行き、知事様はまた何日ごろこの地へ還らるるか、と問うと、?その日を計《かぞ》えて答え、北方へ往った。さて事済んで美稷へ還ると約束より一日早かつたので、約束ちう物は子供に対してすら守らにゃならぬと言って、市外に野営して一夜を過ごし、翌日、小児が約のごとく竹馬に乗って出迎うるを俟《ま》って始めて市内へ入った。(377)小児に対してすらかく威信並び行なわれたから、とても叶わぬと思うて、賊は逃げて匈奴ヘ隠れ終わった、とある。まず、これが支那で竹馬が物に見えた始めであろう。(未完)   (大正七年一月一日『牟婁新報』)
 
     法螺吹きを彦八と呼ぶこと
 
 明治四十三年十一月より十二月末まで、予|西面《にしお》欽一郎氏の厚意により二川村|兵生《ひようぜ》奥の製材小屋で起居し、朝夕菌藻の研究をした。その時、杣人《そまびと》どもが小屋に出入して話すうちに、かの男はよく彦八を言う、この者は大彦八の名人じゃなど、毎度言った。何のこととも知れぬが、追い追い聞き慣るるに随い、法螺《ほら》を吹くを彦八というと分かった。西面氏その他にその理由を尋ねたが頓《とん》と分からず、今に至った。
 しかるところ、七月一日の『日本及日本人』一〇一頁に、「京に名高き軽口家米沢彦八、初代は露の五郎兵衛とほぼ同時代なり。二代は文四郎という者襲名して明和に及び、三代は勝五郎といえるが嗣ぎたり。これは安永度なり。井上金峨が世儒の講を罵りて、東にある者は汚れ氏《うじ》、西にある者は米沢氏と姓を賜わしめんと言いし。米沢は彦八が苗字なり」と見えたのを読んで初めて分かったは、京に三代まで名高き話し家米沢彦八という者ありしが、兵生や丹生川辺の僻地まで聞こえて今に遣《のこ》り、法螺吹きや虚談《そらばなし》の名人を彦八と呼ぶ習わしとなったに相違ない。
 右の本文に見えた露の五郎兵衛は、京伝の『近世奇跡考』に、この者は夷洛《いらく》に名を知られて、洛陽の仏事祭礼に彼が芝居を張らざることなし、世にいう辻咄の元祖なり、延宝・天和の時代なり、云々、とある。それと同時というから、初代彦八は今より二百四、五十年前盛《さか》えた人だ。ただし、『嬉遊笑覧』には、彦八を元禄末より宝永ごろの人としておるから見ると、初代彦八は露の五郎兵衛よりはやや後の人だ。
 安永三年大坂板行の『自慢顔』という草子に、「夜は別して楽しみの景色《けしき》彦八ばなし」とあるによれば、そのころす(378)でに落語を指して彦八咄と言ったので、兵生の山民が彦八咄を略して今は単に彦八と言うと見える。また右の本文中の汚れ氏《うじ》とは風来山人の『放屁論』に汚れ銀杏《ぎんなん》が弁舌には蘇秦・張儀も跣足《はだし》で逃げ、とある。明和中(今より百五十年ほど前)、江戸高名の講談師銀杏和尚といった人のことだ。右、七月十五日の『日本及日本人』に短く出し置いた拙文を補うてここに出す。   (大正八年七月二十三日『牟婁新報』)
 
     馬子を救った河村瑞軒
 
 『奇異雑談』は、天文十年よりやや後に、中村豊前守の子が書いたという。文体『因果物語』などに似て、禅家の語多し。豊前守の子で禅宗を奉じた者の筆だろう。その下巻の一〇章は、「馬、細橋を往きて渡らざること」という題下に、次の話を述べおる。
 「尾張国|与太郎《よたろう》語りていわく、旅人十四、五人あり。主人は女房なり。諸所において駄賃馬を立て替えてゆくに、ある所にて馬を替えてゆく。馬の口付き後《あと》に来ること遅しと言えば、馬に任《まか》せて往かれよと言って用を弁じゆく。道二、三丁往けば、山際《やまぎわ》に川あり。川の面《おもて》六、七間なり。大木を二つに引き割りて、一つ橋に掛けたり。木の本の広さ三尺ばかり、末は至って細し。橋の高さ一丈余り、下は岩石多く嶮々と聳えて、その間、流水たぎりて深し。徒《かち》にて橋の上を行くとも、目まい足ふるうべし。馬この橋にゆくを、伴の衆、橋の末をも見ず、馬に任せてやれば、一間余り行きて馬立ち止まる。その時、供の衆、橋の末の細きを見て驚き、跡の口付きをみれば、はるかにして来たらず。笠を脱《ぬ》いでこれを招く。口付き急ぎ来たりて、馬を見ていわく、これは馬道にあらず、不案内の人馬をやるものなり、という。供の衆いわく、何ごとに追いやるべきぞ、馬に任せてゆけと言いしほどに、任せやるなり、しかしながら汝ら馬に付かざるゆえなりとて、刀を抜いて切らんという。傍輩《ほうばい》これを抑えていわく、いかんとして良かるべきぞ、上様《かみさま》(379)(主婦)の御命《おんいのち》大事なるべきぞと言えば、口付きがいわく、某《それがし》が馬は五貫に買い申す、上様よりも馬は大事に候と言えば、緩怠《かんたい》を言うものかなと、また二、三人刀を抜いて切らんとす。傍輩しばらくと取りさえていわく、これを殺しても詮なし、ただ談合して、よきようにすべきこと肝要という。声の高きを聞きて、その辺の地下人男女みな出でて見る。供衆のいわく、この里に老人あらば問い談合すべし、と言えば、地下人のいわく、この里には老人なし、西の隣郷に八十余の老人あり、「こうざい」の人なり、行歩叶わず、という。口付き往きて負いて来たり、橋の辺におらしむ。老人、馬をみていわく、こは一大事なり、聴きも及ばず、見も及ばず、いかがなるべきや、という。供衆のいわく、いかさまにも思案を廻らし、調法頼みいる、と言えば、さればとて、長竿二つ、繩の切れ二、三尺、青く新しき草二、三把取り寄せて、一つの竿の先に草を一把、繩をもって固くからみ付けて、馬の後足の間より、足にさわらぬように、前足の間へさし入るれば、馬やがて知りて草をはむ。一口はみて草を跡へ引くこと、二、三寸にして置かば、馬足を二、三寸跡へ拒み戻して、また草を一口はむ。また二、三寸草を引いて置けば、また足を蹈み戻してはむ。その草尽くる時は、竿を引き取りては、また一つの竿に草を付けやれば、また足を踏み戻して草をはむ。かくのごとくすることたびたびにして、一間余。跡へ蹈み戻る。橋詰《はしつめ》よりなお土の上まで戻る時、馬の口を取って引き還す。安穏にして皆々大いに喜ぶ。老人に引物《いんぶつ》礼銭|済々《せいせい》にして帰るなり。この雑談、奇異にあらずといえども人の智略となるべきゆえに記す。」
 予八、九歳の時、『和漢三才図会』に、禅僧が女に変じて人の妻となった話を、『奇異雑談』より引きあるを見、定めて珍談を多く集めた書だろうと想い、手を尽して捜したが見当たらなんだ。しかるに、過ぐる大正元年、故高木敏雄君、件《くだん》の馬の話を抄して、その根本また類似の話が本邦もしくは外国にありや、と問われた。抄文のみ見て考証は出来難く、かの書は四十年近く一見を渇望するものゆえ、何とぞ一本を手に入れて送りくれぬか、と頼みやった。すると高木君は貧乏世帯の多忙中にも関せず、印刷本がないから、数日限りの約束で人から借り受け、上下二巻を残ら(380)ず写し了り、手ずから表紙なしの仮綴《かりとじ》に仕立てたとて、全篇を送り越された。その二冊が現に眼前にある。その写本を通覧して、それに出た諸話を種々と考証して、しばしば高木君に送ったが、件の「馬、細橋を往きて渡らざる」を老人の智略で、安穏に引き戻した話の根本どころか、類話一つをすら内外の文献より見出だし得ずして、今年に及んだ。その間に、過ぐる大正十一年上京の際、高木君を尋ぬると、すでに死後数歳と聞いた。
 ところが、今年六月十三日の『日本』一二頁に、少年読物「馬子を救った河村瑞軒」の話あり。瑞軒七歳の時、村寺へ手習いに通う途上、馬が狭い橋の真中に立ち止まって動かず、一同大困りの体を見て、瑞軒一?みの草を馬に突き付けると、それを食いたさに馬が歩み出す。瑞軒は船宿の主婦がさせそうでさせないごとく、草をやりそうで遣らず、一足ずつ退くに随って馬は歩を進め、終《つい》に橋を渡り了ったところで、瑞軒は草を与えた、とあった。瑞軒は元禄十二年八十二歳で死んだと言えば、『奇異雑談』が書かれたより六十余年の後、元和八年生れだ。瑞軒の事蹟をもっとも詳載した神沢貞幹の『翁草』に、件《くだん》の七歳で馬子を救うた話がないから考えると、『翁草』がほぼ成った明和・安永ごろ以後、誰かが『奇異雑談』から翻案して、馬子を救った瑞軒の話を作ったのだろう。『雑談』の記事が込み入ったに反し、瑞軒の話が簡単なるは、前者が八十に余った翁の老功なると異《かわ》り、後者がたった七歳の小児の発明なるによる。
 かくて高木君より依頼されてより二十五年目に、『奇異雑談』「馬、細橋を往きて渡らざること」の根本譚にはまだ手が届かぬが、幸いに今年六月十三日の『日本』のお蔭で類語一つを獲たるを鳴謝す。よってそのうち招魂の法を修して、高木君にこのことを告げようと思うが、件の少年読物の筆者は、どんな処からこの「馬子を救った河村瑞軒」の話を得たか。高教を惜しまざらんことを切に願い奉る。(九月三十日朝四時)   (昭和十一年十月三日『日本』)
 
(383)     大きな蟹の話
 
 一八九三年板、ステッビング師の『介甲動物史』二六頁に、一八五五年ヘッフェル纂『広伝記新編』一四巻を引いていわく、キャプテーン・フランシス・ドレイクがアメリカの蟹島に上陸して、たちまち蟹群に囲まれ、兵器もて健《したた》か抵抗したれど蟹に負けた、これらの怪しい蟹は世界で最大の物で、その螯《はさみ》でドレイクの手脚や頭を散々片々に切りさいなみ、その尸骸を骨ばかりに  噛み尽した、と。ス師はこの話に多少|拠所《よりどころ》ある由を述べていわく、ドレイク、実は失望のあまり病んで船中に死んだ。世界周航をここまで無難に遂げ来たったのだ。蟹がドレイクを食うたでなく、ドレイクとその徒が蟹を食うたので、その蟹一疋で四人の食料に十分だったと、その徒が後日言った。そんなことがあったかも知れない。と言うは、濠州の大蟹で、ラマークがプセウドカルキヌス・ギガスと学名を名付けたのは、時に殻の幅二フィートに及び、一の螯がよほど大きいという。蘭人リンスコテンスの『ゴア航記』に、ゴアの南サンペテロ州なる地に、人がその一の螯で挟まれたら死ぬゆえ、注意して禦がにゃならぬほど大きな蟹がおびただしくすむと書いたも、右様の大蟹が実在するより推してもっともらしく思わる、と。(『宋高僧伝』一九、唐の成都法定寺惟忠の伝に、この寺塔より一巨蟹の身足二尺余なるを獲た、と記す。海より遠い地だから、そんな物がいきおったはずなし。どこかの海辺より取り寄せた山車《やまごと》だったろう。)
 ス氏の書二七頁にいわく、現存のカブトガニ(これは蟹よりも蜘蛛に近い)に縁あるプテリゴツスは、全属過去世に絶滅した。その遺体より推すに、身の長さ六フィート、最も広い幅が二フィートに及ぶのがあったらしい。見様によっ(384)て確かに最大のプテリゴツスとその大を争うべく、古来、巨蟹に関する種々の怪談の根本たりと思わるるものが日本にある。シマガニすなわちこれで、大英博物館に展覧せるものは、その雄の二腕を張らせ両端のあいだ八フィートあり、十一フィートに及ぶもありときく。まことに恐れ入った大きさだが、この蟹、実はクモガニの一種に過ぎず、足弱く細い方で、その殻、長幅共に十二インチを踰えず、と。予、英国にあった時、介甲類の専門家どもに聞いたは、蟹類の頭と胴と分かち難く密着した物はすべて穎敏活?で、頭と胴と区別されて脳髄が著しく発達したらしいものほど痴鈍因循だ、と。このシマガニも頭が挺出して賢そうにみえるが、実はきわめてボンヤリで、行動すこぶる遅緩、それにつけ込んで棒で敲き殺して罐詰にするは酸鼻の至りと、故福本日南が北海道での目撃談だった。とにかく世界一の大蟹ゆえ、何とか保続させてやりたい。
 怪異的の巨蟹の咄《はなし》が日本の記録に少なからぬ。例せば、寛永二年板、菊岡沾涼の『諸国里人談』五に、参河国幡頭郡吉良庄富吉新田の海辺は大塘にして、根通りは石をもってつきたて、高さ一丈二、三尺余、小山のごとくなるが、享保七年八月十四日の大嵐にてこの堤きれたり。里人多く出でてこれを防ぐに、甲の径《わたり》七尺ばかりの蟹出でたり。水門の傍を穿ちて栖家としける。その穴より潮押し込みて切れたるなり。人夫大勢、棒熊手をもって追い廻しける。右の鋏を打ち折りたり。それながらにして海に沈む。件《くだん》の鋏は人の両手を束ねたるがごとく、今もって時として出でけるなり。一方の鋏また出生す。しかれども左よりは抜群小さLと言う、とみゆ。古い大津絵節の文句に、「蟹の穴から堤が崩れる、気を付けな」というた誡めの適切な実証だ。
 播磨の蟹坂は、むかし大蟹しばしば出でて往来を妨げ、弘法大師これを池に封じ込めたという(藤沢氏『日本伝説叢書』明石の巻)。万治元年、了意筆『東海道名所記』五に、伊勢の「蟹坂。蟹が石塔は左の方にあり。松二本植えたり。むかしここに妖怪ありて往来の人を悩まし侍り。ある時、会解《えとき》僧一人ここを通りけるに、かの妖怪出でたり。僧すなわち問うていわく、汝は何物ぞ、名のれ、聞かん、という。怪物答えていわく、両手空をさし、双眼天につけ(385)り、八足横行して楽しむものなり、という。僧すなわち悟りていわく、横行は横に行くと読めり、双眼天につけるも、両手空をさし、八足にして横に行く、汝は定めて蟹にあらずやと言われて、姿を現わしつつ戒を授かり、永く禍いを致さざりけり。その標《しるし》とて今に塔石あり、云々」と。
 安永六年成った太田頼資の『能登国名跡志』坤巻に、右の話の異伝あり。珠洲郡寺社村の蟹寺は、「法成山永禅寺という。この寺むかしは教院なりしが、妖怪のために住持を取り殺すこと久し。よりて住職する人もなきあき寺なりしに、貞和年中のころか、同国酒井の永光寺堂山和尚の御弟子月庵禅師行脚の時、この寺に来たりて、客殿に終夜坐禅しておわせしに、丑満のころ震動して、眼日月のごとくなる恐ろしき物顕われ出でて、禅師、しばらく待った、問うことありや。かの者いわく、四足八足、両足大足、右行左行、眼天にありという。禅師、汝は蟹にてあるやとて、払子を持って打ち給う。たちまち消えて失せにけり。夜明けて里人きてみれば、禅師の恙なきことふしぎに思い、その様子を尋ねみるに、後の山に千尋深き池あり、その水の面に幾年ふるとも知らぬ一丈余の蟹の甲八つに破れて死して浮かみいたり。その後妖怪なし。すなわち月庵禅師を開山として、二世天桂和尚、三世北海和尚の木像、開山堂に安置あり。また蟹の住みし池の跡、後の山にあり。また、この月庵和尚、俗姓は曽我家にて至って美僧なりしと言えり、云々」とのせ、「蟹寺の謂《いは》れをきくに今さらになほ仰がるる法の力は」としゃれておる。
 大正九年『民族と歴史』三巻七号七一三頁に述べた通り、明治十一年ごろ、予、和歌山のある河岸で、当時あまり他に重んぜられなかったある部民が流木を拾うをみおると、その一人が、「昨夜何其方に産まれた子は男か女か」と問うに、今一人、「ガニじゃ」(蟹だ)と答えた。予方へ同部から来る雪踏直しがあり合わせたのに尋ねると、蟹は物を挟むゆえ女児を蟹という、工人の地搗唄にも、「おすきおめこは釘貫おめこ、またではさんで金《かね》をとる」というて、総別女はよく挟むもの、と博識振って答えた。全体仏僧はよく啌《うそ》をつく。すでに月庵和尚は至って美男とあれば、名門曽我氏の出《で》でもあり、辺土の女どもに厚く思い付かれたであろう。そこで男に渇《かつ》えた近村の若後家などが(386)和尚を挟まんと、右行左行で這い来たり、据膳をしいたので、眼天にありとはその女がヒガラメだったとみえる。よって和尚も鼻もちならず、願意却下としたのを憤って女が水死でもしたでしょう。それを挟みにきたちう縁起で蟹の妖怪とふれ散らし、衆愚の驚駭に付け込んで、蟹の弔いに寺を建立させたと熊楠がみる目は違わじ。また、同書乾巻に、鳳至郡五十里村に町野川の淵跡とて今蟹池とてあり、むかし、この淵に大いなる蟹住んで人をとる。弘法大師威力をもって退散あり。その後もこの池にありて大石となり、いろいろ怪異をなすゆえ、この池を埋めしなり。今もこの池を穿ち石を顕わすと霖雨して数百日已まず、とある。
 頃日、中道等君がみずから写して贈られた弘前の平尾魯仙の著『谷の響』は、たぷん嘉永ごろのもの、その巻五に、弘前付近の地形村石淵の主は大きな蟹で、魚とりに入る人を魅して動く能わざらしめ、はなはだしきは死せしむ。また、この淵に入る者、手足に傷つくことあり。剃刀傷のようで深さ一寸ほどに至るも開かず、痛みも出血も少なく、世にいう鎌鼬に逢うたごとし。土人これを主の刃に触れたという、と。これにやや似た話が、一八八三年板、イム・ターンの『ギアナ印甸人《インジアン》内生活記』三八五頁にある。オマールはその体を種々に記載された生物で、巨蟹また大魚に似るという。急湍の水底にすみ、その辺を射て廻るインジアンの船をしばしば引き込むと伝う。ウロポカリの滝に住んだのは常に腐木を食い、多くの船を浮木と誤認して引き入れ、ためにインジアン多く溺死した。よってアッカウォイの覡が、摩擦せば火をだす二木片を包んで湿気を禦ぎ、携えて滝の真中に潜り入ってオマールの腹内に入りみればおびただしく腐木を積みあり。よって件の木片を擦って火を付けると、オマール大いに苦しみて浮き上がり、覡を吐き出して死んだ、と。
 支那には、西暦紀元前二千年ごろ、夏の禹王作という『山海経』一二に、「姑射《こや》国は海中にあって、列姑射《れつこや》に属し、西南は山これを環《めぐ》る。大蟹、海中にあり」。郭璞注に、けだし千里の蟹なり、と。予、数字に疎く、この千里の大蟹とマレー俚伝の巨蟹といずれが大きいかを知らぬ。一九〇〇年板、スキートの『巫来《マレー》方術』六頁に、海の臍(プサット・(387)タセク)は大洋底の大穴で、中に巨蟹すみ、日に二度出て食を求む。蟹がおるうちはこの穴全く塞がれて、大洋の水地下に入り得ず、その間に百川より海に注ぐ水の行き処なくて潮満つ、蟹出で食を求むるうちは、水がその穴より池下に落つるから潮がひくという、と出ず。
 
(388)     安宅関の弁慶
 
 伴蒿蹊の『関田耕筆』二に、「弁慶、義経を打ちて人の見咎むる難を遁れしこと、『義経記』にみゆ。世にも伝うる話なり。『鶴林玉露』の内、三事相類すという条下に記されし事状、全く同じ。ここにしては四事相類すというべし、云々」とある。『耕筆』より四十四年ほど前(宝暦五年)出た新井白蛾の『牛馬問』にいわく、「義経奥州下りの時、安宅の関にて、弁慶、義経を打ちたるという、云々。謡などの作意にて、実はなきことなり。さて、晋の成都王、名は頴という者|反《そむ》く時に、晋帝この害を恐れて、京を潜幸あって、河陽の渡りに至る。津吏《わたしもり》これを咎めて河を渡さず。時に宗典という臣下、跡より来てこの様を見、すなわち鞭を揚げて帝を打っていわく、津の長吏《ぶぎよう》は非常の奇を止め禁ずるの役なり、汝今留められて急ぎの道を妨げ、貴人に似たる奴《やつこ》かなといえば、津吏も釈《ゆる》して通しけるとなり。弁慶、義経を打ちたるとは、これより作りたるにや」と。蒿蹊の言に随えば、こんな話が今二つ支那にあるのだが、只今『鶴林玉露』を持たぬから手が及ばぬ。持ち合わせた方は教えて下され。
 この一件、『義経記』七には如意の渡しで渡し守平権頭に、謡曲「安宅」には富樫介の安宅の関所で、「笈探し」の舞の本には鼠つきの関守井沢与一に、咎められた節のこととした。河陽の渡しに倣うて如意の渡しと書いた『義経記』が、謡曲や舞の本より古いと判る。白蛾は宗典が主君を打った話を何の書でみたか。たぶん記臆のまま書いたらしい。それに帝と言ったは琅邪王睿で、この時まだ帝位に即かず、後に東晋の中宗元皇帝と立ったのだ。宗典が琅邪王を打ったは、弁慶が義経を打ったという年より八百七、八十年早い。白蛾が述べた譚の本文らしいのは、『淵鑑類(389)函』鞭二に、蕭方等の『三十国春秋』を引いて、成都王睿、黄門孟玖を誅す、ここにおいて東海王越、高密王簡、みな懼れて国に奔る。琅邪王睿またまさに出でんとす。しかして徼禁はなはだ密なり。穎またまず諸津に下して禁止し、諸貴人河陽に至ればすなわち拘せらる。宗典後れ至り、鞭をもってこれを払うていわく、舎の長官貴人を禁ず、しかして爾《なんじ》拘せらるるや、と。よって大いにこれを笑う。吏すなわち放ち遣る、よって帰国するを得たり、云々、というのだ。
 この筋の譚で欧州に生じたのは、十四世紀の初めごろ成った『ゲスタ・ロマノルム』一八〇章で、ロンゴバルジの史家パウルス(八世紀)が書いたは、ロンゴバルジ王ゴドベルトをラヴェンナの君ゲリバルズスが弑した時、王弟ポルタチクスは、ベネヴェントの君グリムモアルズス方へ奔り、自家の臣オヌルフスの斡旋で和睦した。しかるに讒言を信じてグリムモアルズスたちまちポを殺そうとて、まず人をしてポに酒を勧め大酔せしめた。オヌルフスこれをきき郎党一人を率いてポの家に入り、ポの身代りに郎党を褥を被《かぶ》って臥さしめ、ポを郎党の体《てい》に作り立てて伴れ出で、叱ったりどやしたりしたから、ポルタチクスの邸につけあった番卒も怪しまず、平凡な郎党と思うて看過ごした。それからオヌルフスが主人を石垣の上に立てた自宅へ伴い、繩で吊り下ろしたから、主人ポルタチクスは拾い馬に乗って仏国へ遁れた。明朝事露われて、オヌルフスと郎党をグリムモアルズスが糺明すると、ありのままに白状した。陪席の輩いずれも死刑が相当と判じ、磔殺すべしとも生きながら皮を剥ぐべしとも言った。グリムモアルズスは、われを作った上帝も照覧あれ、この二人は処刑すべからず、その不撓の忠誠は洵《まこと》に褒美すべきものと言って、おびただしく賞賜するところあった、と。
 同じことをしても、やり方の少しの手加減と、相手の気質のちがいで、もってのほかの悪結果を致した例もある。唐の昭宗が寿王といった時、兄の僖宗に従って黄巣の乱を蜀に避けた。急なことだったゆえ諸王多くは徒《かち》で歩いた。山谷中で寿王疲れて進む能わず、石の上に臥した。ところへ、宦者田令孜来たり、速く行け、というた。王は、足痛(390)むから幸いに一馬を給せよ、というと、令孜が、この深山に馬があるものかとて、鞭で王を打ち進めた。王顧みて言わず、心これを銜《ふく》む。即位に及び、人を遣わし西川軍を監せしむるに、令孜詔を奉ぜず、とあって、トドの詰りはどうなったか知らぬが、むかし鞭で打たれた仕返しに、帝は令孜をたしなめんとし、令孜は抵抗して、大|椚択《もんちやく》があったらしい(『淵鑑類函』鞭四)。
 鱗長の『猿源氏色芝居』、木曽路の流人駕籠の章に、宮女奉公の詰まらなさを述べたにも増して、宦者の多くは貧乏な親が糊口のために幼い子を害した者で、満目みな花なる美姫の中に常住しながら、提燈で餅を搗いても何ともならず。したがってわが一生を廃物にした親を怨んで骨髄に徹する者多し。明の時、「中官初めて選に入り、東華門を進む。門内に橋あり、皇恩橋という。これよりすなわち皇恩を受くるの謂なり。俗に呼んで亡恩橋という。中官すでに富貴となれば、必ずその所生《おや》に讐《むく》いるをもってなり。けだしこれを恥とするなり」。自分を生んだ親にさえ不足はなはだしい上は、一切の他人に酷薄残忍なは固《もと》よりその所で、胃癌で飲食の成らぬ者が美酒珍膳を破棄するごとく、威勢を濫用して不自然にも万人の羨む美女を淫し、はなはだしきは強辱するもある。その初め、人主の勢力無限で無用の妻妾を多く蓄え、一人も他人に触れしめざるべく、男子の睾丸を抜き去って監視の役を勤めしめ、婦女にのろければのろいほど宦者を寵用し、これに信頼すること骨肉にも勝り、ついには定策国老門生天子の号を事実に挙げしめたので、支那といいローマといい、東京《トンキン》といい回教諸国といい、宦者のために亡びたり衰えたりしたは、上一人の情慾を擅《ほしいま》まにせんとて、多くの男子去勢した輪廻で自業自得、宦者輩の立場より言わば、窮して後に大いに通じたのだ。されば田令孜が寿王を鞭打ったも、不断睾丸分配の不公平に対する鬱憤の勃発せるもので、気の毒千万な訳もある。(『日下旧聞』七および三八補遺。一八一一年板、ピンカートン『水陸紀行全集』八巻一〇八頁、九巻六九〇頁。関徳氏標註『十八史略校本』五。一七一八年板、アンシヨン『閹人顕正論』)
 事《こと》倉卒に起こって諸王多くは徒歩し、一疋の馬もない所で馬を給せよと寿王が望んだは無理な注文だが、すべて貴(391)人は世事に疎いから、この深山にいずくんぞ馬あらんやと言い放って鞭打たれたのを憤ったのも、もっともなことだ。むかしカムボジア〔未完〕
 
(392)     人死する前に葬送現わるること
 
 慶長五年九月十五日越前敦賀の城主大谷吉隆が関ヶ原で戦役に先だち、十三日の宵に留守の女房達月を賞しおると、庭前の木蔭に大勢の声立てていとも哀れになく声せしかば、内室を始めその坐にあり合う女房どもに至るまで、こはいかなることぞとて、怖ろしながら物蔭より庭の面をみ渡せば、男女その数一、二百、いと気高き柩をかき、幡、天蓋、挑燈等、堂々たる規式にて葬送の有様なり。いずれもこれをみて、気も魂も身に添わず、侍どもを召し寄せて、穿鑿せよといううちに、消すがごとくにうせにけり。これを見聞く人ごとに折柄の凶ければ、忌み思わぬはなかりける。奥方の女性達おじ怕れわなないて、内室の御手をひき、御休み候えと帳内へ誘い入れ、大勢の女房衆前後左右に円座して御伽致し勤めらるる。さて御留守居の家老達、出頭の面々、次の間に伺候して、鎗長刀の鞘外し、鉄砲には薬をこめ、弓は弦をくいしめし、守護の体にて寄りこぞり、いろいろの雑談し、先ほどの葬送は狐狸の業なるべし、妖は徳に勝たずなど祝い言しておるところに、また最前の庭中に大勢の声してどっと笑う音しければ、これはこれはと肝をけし、皆々呆れし折からに、いと怪しげなる声音《こわね》にて、少しも驚き申さるるな、追っ付け御不審はれ申さんと、高らかに呼ばわって掻きけすごとく失せにけり。それより内議評定して、こはこのまま捨て置かれじ、軍の様子を聞かんため、またこの次第を知らしめんと委細のことを書き認め、早々飛檄を遣わしける。その使いまだゆきもつかぬまに、関ヶ原敗軍して、刑部少輔(吉隆)たちまちに自害せしとありければ、みな腰ぬけ力を失いてぞ呆れける(『石田軍記』一一)。
(393) 『甲子夜話』三五にいわく、ある権家の語られしは、文化四年仲春、公主会津侯に尚せられしが、尋《つ》いで仲秋の末薨逝ましましける。侯も明年帰国ありて間もなく卒去す。この以前に会津にて空中に葬礼のさまみえて、柩を二つかきゆき、扈従も多くありし。人々いかにと驚き見たるが、果たしてかの凶事ありし、と。また夜陰にも戸外に物音せしゆえ、人出でてみたれば、これも葬送の体にて、また柩二つありしと、云々、と。
 人死する前にこんな幻相を現ずることは外国にも往々あるらしく、ポドモアーは未来をあらかじめ示現する象徴の最も著聞するものの例として、バンシース(家内に人死する前に窓辺で哭き、また哀しく歌う鬼)や人玉、凶兆動物、凶音、凶夢(歯抜ける夢等)と幽霊の葬送行列を挙げた。その理由は今のところさっぱり分からぬらしい。ここにはただ幽霊の葬送行列の欧州の例を少々示す。英国のエール川岸に住んだ農家の妻が窓から眺めると葬送が来る。よって来合わせた隣人どもに話すと、一同駆け出しみれど何にもないので、主婦は間違っている、と言った。主婦はいかにも不安を感じ、また窓より覗いて、やはり葬送が来る、と言った。みな出てみたが何にもなかった。三度目に主婦が窓に往って、それそこへ来た、もう戸口へ来ると、呼ばわるに付いて、みなみな見に行きたるも何ごともなし。しかるに半時立たぬうちに戸外に異様の騒ぎがしたゆえ、出て見ると、作男どもが主人の死体を持ち込むところで、車より堕ちて落命したと知れた。またオランダの熱心方正な宗教改革主唱家メール博士の言行録に、その祖母ヘーグに住んだ夏の一夜眠られず。朝四時ごろ窓より覗くと、棺が坂を上りくる。あたりに人もあったが誰も気付かぬらしい。さて、ある家の開いた窓の前に立って消え失せた。それより六週間のうちにその家人はペストで全滅した、と記す。英国マン島人信じたは、人死ぬ前に何者か葬送を現わす。ワルドロンが知った数人は、誓うて、われら道を歩きおるうしろから幽霊葬送が来て、われらの肩に棺の荷い棒を載せた、と言い、その一人はこれがため肩の肉破れ、数週間黒アザを現じた、と言った。島内にこのような葬送を見た聞いたと言わぬ者少ない。けだしこれに与《あずか》る鬼どもは真の葬送同然讃美歌を唄い、寺の戸口で棺も会葬者も消え了るまで鬼どもと判らぬ。これらは人間に親切な鬼どもで、かくして(394)人に無常を示し、また外人が家に近づく時、その門前に馬の足を踏ませてその家人を警《いまし》めしむという、と。(『大英百科全書』巻二二。一八七九年板、ヘンダーソン『北英諸州俚俗』四四頁。一九〇五年板、ハズリット『諸信および俚伝』二巻三八九頁)
 この他に、個人が死する前兆としてみずから棺を見た例は、『老媼茶話』の堀部主膳がこと(『続南方随筆』一〇七頁、その他にもあるべし。凶宅に葬送が現じた例は、グリンムの家庭譚なる恐れふるえぬ少年ハンスの話等、少なからぬ。支那にも長山李翁の宅に妖異多く、康煕十七年、王生なる者が寝ておると、長さ三寸ばかりの二小人がわずか四寸ほどの棺を舁ぎ入れ、クラカケに載せ、同じ小ささの一女子が婢数人をつれ来たり、大蠅ほどの声で哭した。王生、身の毛立って牀下に落ち、起き上がり能わなんだ、と『聊斎志異』一五に出ず。だが、これがために王生が死んだとはみえない。
 また、今昭和三年四月二十一日の『ネーチュール』に、四月二十五夜、十一時より一時まで、寺の車寄せで三年番し続けると、第四年内に死すべき人の霊を見得ると、英国ヨークシャーの俗信を載せある(『続南方随筆』三一七頁をみよ)。これは葬送が現ずるのでなく、死すべき人々の霊が凶装して寺へ歩み入るので、幼児や乳呑子は敷石の上を転がり来るとみえるという。
 
(395)     人死する前に哭く妖精
 
 前条(「人死する前に葬送現わるること」)にちょっと出たバンシーは、アイルランド等ケルト族諸民の俗信する妖精で、ある旧家に限り、人が死ぬる前にその辺へ来て哭叫し続くという。十七世紀に英国の政治家兼詩人サー・リチャード・ファンシャウ夫妻が、アイルランドの旧城にすむ貴族方に泊りおるうち、夜中にフ夫人が悽愴極まる叫び声きき、見れば月明りに若く十人なみな女の、面青く、髪乱れて、上半身だけアイルランド古代のなりで、窓辺に飛び廻りおった。良《やや》久しいのち二声叫んで消え失せた。その夜さり居《い》も寝られず、暁《あ》くるを俟って主人に問うと、落ちつき払っていわく、実は昨夜近縁の者がこの城内で死にました、お客様の機嫌を損ずるも如何と思い、申し上げ置かなんだが、この家と城内にこんなことがあるごとにあんな物がみえます、それは私の先祖が素性劣った女を妻《めと》ったのち、家の恥を隠すために城堀に沈め殺した、その女の幽霊と承る、と答えた。また、十八世紀の中ごろコールク州に高名な楽人バンウォース師が死ぬ少し前に、一牧羊人が師の住宅に近い木の下で、バンシーが手を叩いて號哭するを聴いた。いよいよ臨終の夜、娘二人が病父を守りおると、窓に口を付けたように声低く呻吟して手を叩く者あり。娘一人次の間にゆきその由を告げると、二人の男が出て窓下を捜せど足跡なし。宅辺を見廻ったが何物もなく、何の音もせず。帰って聞くと件の怪声は少しも止まぬのみか、だんだんと高まりおり、暁近く師の命終わったそうだ。妖精が人の死ぬ前に号叫するとは早くよりアイルランドで信ぜられた。神の子クフリンが大敵と戦いにゆく途中、若い娘が血染めの衣を洗うて止まず、同時に哭叫し続くるを見てカツバッドがクの敗死をあらかじめ知ったという。スコットランドで(396)もロクブイのマクレーン氏の人が死ぬ前ごとに、氏長の先霊が海渚から城辺まで哭叫しながら馳せ行き、十九世紀の初めごろ、当時の氏長がポルトガルで戦歿した時も、この方便によって、氏人がそのことを予知しおったとぞ。(『大英百科全書』一一板、三巻三五五頁。一八八四年新板、ベーリング・グールド『中世志怪』四八九頁以下。一九二〇年板、グレゴリー『西|愛爾蘭《アイルランド》の幻像および信念』二編四五頁。スコット『鬼神巫蠱状』第一〇)
 このような妖精で最も名高きは、ドイツ帝ハインリヒ七世を始め数多の王公がその祖と崇めたメルシナだろう。アルバニア王エリナス、妻に死なれた憂晴《うさばら》しに狩を事とするうち、一日渇を医せんとて泉を尋ね、美女精プレッシナに逢うてこれと婚す。その時、「神代巻」の豊玉姫同様、安産するとき必ず覗かないようと切望した。さて一度に三女を生んだの知らせに、父王驚悦のあまり産室に飛び込み、プレッシナ破約を憤って母子共消え失せた。それから島へ伴れ行って三女が十五になるまで養うた上、父が約を破った次第を語ると、長女メルシナ、二妹と協力して父王を山中に幽閉した。母プレッシナその不孝を怒り、三女を罰するに、メルシナは首唱者ゆえもっとも重く、土曜日ごとに腰以下蛇となり、さて誰か土曜ごとにメを見ない約束でこれを娶る者あるを俟てと命じた。よってそんな男を尋ね歩いてコロムビエールの林に至り、女精群の王となりおるところへ、フォレー伯の養子レーモンダンが来たり、思い付いて離るる能わず。よって土曜日に必ず妾を見るなかれ、この約を破らば夫婦たちまち離れてまた会わず、両《ふたつ》ながら不幸のみ続くべしという条件で婚姻した。メルシナすなわちその地ヘルシニヤン城を立て夫と共に住んだ。ところが災難なことには、生まれる子も生まれる子も不具だった。されど何さま無双の別嬪なる上、要処また一高二饅三蛤四蛸五荷包の諸美を兼ね備えた者だから、レーモンダンその妻にのろけて余念なかった。けだし女がよくて金持で、それで男が惚れないはずなく、レーモンダンの父や兄弟はみなメルシナの厄介となって安く暮らし得たのだから、不出来な子を産むほどのことを非難すべきでなかった。しかるに、レの父が悴夫妻の城に同居して、ある土曜日に昼飯に悴の妻を呼ぶと、レが妻は土曜日ごとに不在、と答えた。そこへレの兄弟の一人がレに向かい、メルシナが土曜日ご(397)とに人目を避けるについて、民間に雑説が行なわれおる。何とか取り調べて人心を鎮めたらよかろう、と説いた。なるほどと興奮して、夫が妻の私室に入ると誰もなく、ただ一つの戸に鎖おろしたその鍵穴から覗くと、そこは浴室で、メルシナは下体が魚また蛇の尾になって水に浸りおった。レーモンダンこれを見て大いに愕いたが、早まってはこの美妻に永別せにゃならぬと思い返し、黙って退き無言で過ごした。メもまた一向覗かれたと勘付かないようだった。ところが『水滸伝』にも言った通り、福|双《なら》び起こらず、禍|単《ひと》り行かずで、一日、この夫婦の第六子ジオフロアとて、『西遊記』の猪悟能そっくりの怪顔な奴、それが第七子フロアモンの住む僧院を焼き、フとその師と百僧を殺したと聞いて、小室に閉じ籠った夫を慰めに妻が往くと、夫が覚えず、「あちらへ往け、いやな蛇、わが名門の面汚しめ」と罵った。メルシナここにおいてたちまち気絶し、蘇ったのち夫に向かい、この上は永く別れ去り、最終審判の日まで霊怪となって苦しみさまよい、ルシニヤン城で子孫が死する前ごとにのみ形を現ずべし、すなわち妾が現われたら年内に城主がかわる、ことに城主が死ぬ前の金曜日に現わるべしと告げ、大いに哭叫して消え失せた。果たしてその後この城の主が死ぬ前ごとに、空中にメルシナが喪服姿を現じ、永く号哭して聴く人を断腸せしめた。後年この家断絶してより、今度は仏皇が死する前ごとに泣きに出た。(ベーリング・グールド『中世志怪』四七一頁已下。一八四五年四板、コラン・ド・プランシー『妖怪事彙』三一五頁。一八八四年新板、ケイトレイ『精魅誌』四七九頁)
 熊楠按ずるに、東洋にもバンシーがかったことあり。『漢魏叢書』の『十六国春秋』の前趙録に、「建元三年、劉聡|居《す》むところの螽斯則百堂《しゆうしそくひやくどう》の災《かじ》にて、その子会稽王哀|已下《いか》二十有一人を焚《や》く。聡聞いて哀しみ塞《ふさ》ぐ。これより鬼、宮中に哭《な》き、九月に至るも、夜声絶えず。四月、尚書令の王監、崔懿之ら、極諫す。聡大いに怒り、監らを収《とら》えてこれを殺す。秋七月、鬼、光極殿に哭く。聡、昼に東平王約を見て、はなはだこれを悪《い》む(去年死んだ)。(中略)癸亥、建治殿に薨ず」。また『夜譚随録』下に、「貴陽の太守某公の母、病んで危うきに瀕す。親戚隣里の来たり候問《みま》う者、みな酒?《しゆこう》を庁上に設けて、これを款《もてな》す。二更にして始めて散去す。?余《くいあまし》なお多く、子姪四、五人、また聚まって斎中に飲(398)む。三更の後、たちまち哭く声あり、北窓の外より起こる。音《こえ》はなはだ惨切にして、室を挙げて驚愕し相向《かおをみあ》わす。二、三の胆勇なる者あり、戸を出でてこれを視る。月下に、一《ひとり》の白衣の婦人、牆《かき》を循《めぐ》って西し、径《ただ》ちに角門に入って去るを見、毛の戴《さかだ》たぎるなし。みなその鬼たるを知ればなり。一食頃《つかのま》にして、内宅に悲声起こる。家人|奔《はし》り告ぐらく、太夫人|気絶《いきた》ゆ、と。俗に喪門弔客の説あり、理としてあるいはこれあらん」。これは全くバンシーだ。『法苑珠林』一二に、『捜神伝記』を引いて、廬江のある二県の境なる山野の中に、時に哭声をきく。多きは数十人に至る。男女大小始めて喪するもののごとし。隣人駭いて奔り赴くに人を見ず。しかるにその地に必ず人が死ぬ。哭声多きは大家、少なきは中家の人の死ぬべき前兆だ、と。これは多勢のバンシー組合で、死人が出ずべき家の大小に応じ、大騒ぎに、あるいはひっそりと、号哭したのだ。
 スコットの『鬼神巫蠱状』一〇にいわく、スコットランド高地の旧家どもにも、これに付いた鬼精が、アイルランドのバンシーと同役を務むる由を言い伝う。ただし、これは家内に死人を出す前に哭き知らすが上に、戦争の難を防ぎ、主人の嗣子を守り、氏長の競技を助け、将棊やカルタ遊びに助言しなど雑多の忠勤を励む、と。これではバンシーが専門の泣き役の外に諸役を兼ぬるになって、露国のドモヴォイ(家のヌシ)といと近くなる。これは家主の先祖の霊で、その家をよく取り締り、家内と休戚を共にし、その一人死んだら夜哭いて弔い、家主死する前には泣いたり歎息したり、帽子を眼の隠るるまで下げて被《かぶ》ったりして予示する。戦や火事、疫癘をば、戸を敲き、馬を乗り疲らせ、犬に庭土を掘らせ村中吼え走らしめ、近火や盗賊の節は家主を起こして警《いまし》める(一八七二年板、ラルストン『露国民謡』一二九頁)。グレゴリーの『西|愛蘭蘭《アイルランド》の幻像および信念』二編五四頁には、領主死ぬごとに狐が近く現わる、某家の最後の主人が死ぬる前夜、家外に妙な音がするからその娘が戸を開くと、階段に多くの狐が聚まり鳴き走り廻りおった、翌朝その辺で狐狩をしたが一疋もなく、その日領主が死んだ、と記す。バンシーの本元の地だけ、狐までもバンシー臭く振舞ったものだ。さて、『続群書類従』一六三の「中岩系図」に、この家に生まれた美女を娶らんとする者、戦争(399)して両陣死者多かった。自分よりこんな騒ぎが起こったは罪なことと、みずから咎めて自殺したまでは筋道が通るが、どうしたものかそれが祟り出したので、邸内の大樹の下に祭り、毎月亥の日飯を供える。「蓋斑白之野狐栖遅樹叢、分悲歎之鳴告吉凶、見聞歎奇異」とあって、誤写ゆえか意地の悪い姑でよめ悪《にく》いが、件《くだん》の美女の霊を祭り鎮むると、何かこの女に因縁あって、取り分けその変死を悲歎しおった野狐に、この女の霊が付いて、ドモヴォイ流に、鳴声で中岩家の吉凶を予報せしめたと言ったものと考う。
 メルシナやバンシーは、形を現わすと必ず領主城主が死ぬ。それに反しカムボジア国では、七百余年前まで、国守毎夜宮中の金塔上に臥す。土人みな謂う、塔中に一国の地主たる九頭の蛇精すみ、女身で毎夜現われる、と。王まずこれと同寝歓会し、二鼓の時剋《じこく》に出でてまさに妻妾と同睡すべし。もしこの精一夜見えなんだら、すなわち番王の死期至る。王一夜往かずば必ず禍いに罹《かか》る、と『真臘風土記』に出ず。西園寺家に祀る蛇体の弁天が嫉妬はなはだしきより、この家代々正室を迎えぬというも似た話のようだ。
 追記。『甲子夜話』七〇に、明暦の火災後、東禅寺を今の地に移す前に、嶺南和尚この寺の檀那日向|飫肥《おび》の伊東侯と倶に海浜を行くと、一狐ありて和尚の衣をくわえ引きしにより、そこに寺を立てた。この寺の住持遷化する時は必ず狐ありて出ずる、と載す。
 
(400)     自分を観音と信じた人
 
 『今昔物語』一九巻一一語はこうだ。「今は昔、信乃国《しなののくに》、□の郡に□(『宇治拾遺』六に、筑摩に作る)の湯という所あり。諸《もろもろ》の人、薬湯なりとて来たりて浴《あ》むるところの湯なり。しかる間、その里にある人夢にみるよう、人来たりて告げていわく、明日の午時《うまのとき》に観音来たり給いてこの湯をあみ給うべし、必ず人|結縁《けちえん》し来たるべし、と。この見る人問いていわく、何様《いかよう》なる姿して来たり給わんとするぞ、と。告ぐる人答えていわく、年四十ばかりなる男の鬢《ひげ》黒きが、綾藺笠《あやいかさ》をきて、節黒なる大|胡 誅《やなぐい》を負いて、革巻きたる弓を持《も》て、紺の水干を着て、夏毛の行騰《むかばき》、白□を履きて、黒造りの太刀を帯《は》きて、葦毛の馬に乗りて来たる人あらば、それを必ず観音と知り奉るべし、と告ぐるを聞くと思うほどに、夢さめぬ。驚き怪しんで、夜明けてのち、あまねくその里の人にこのことを告げ廻らし語り聞かしむ。然《さ》ればこれを聞き次ぎて、この湯に人集まること限りなし。たちまちに湯を替え、廻りの庭を掃除し、注連《しめ》をひき、香花を備えて、多くの人居並みて待ち奉るに、曰ようやく午時傾きて未になるほどに、かの夢に見つる様なる男来たりたり。貌《かお》より始めて夢に見えつる様に露違うことなし。諸の人に向かいて、こは何ごとぞと問えども、ただ礼拝のみしてこのことを語る人なし。一人の僧ありて、手を摺りて額に宛てて礼《おが》み居たる所に寄りて、男、こは何ごとに依りて、おのれをみて万《よろず》の人は礼み給うぞと、横なまりたる音をもて問うに、僧答えていわく、この過ぎぬる夜、人の夢に然々《しかじか》みけるに依りてなり、と。男これを聞きていわく、おのれはこの一両日が前に、狩をして、馬より落ちて左の方の肱《かいな》を突き折りたれば、それをゆでんがために来たりたるを、かく礼み合い給うこそ怪しと思ゆれなどいいて、とかく行(401)くを、万の人|後《しりえ》に立ちて、礼みののしる。男わびて、わが身は然《さ》れば観音にこそあるなれ、同じくはわれ法師となりなん、と言いて、その庭に弓箭を棄てて、兵仗を投げて、たちまちに髻《もとどり》を切りて法師となりぬ。かく出家するをみて、万の人貴び悲しむこと限りなし。しかる間、おのずからこの男の知りたる人出で来たりて、みていわく、彼は上野の国にある王藤《わとう》大主にこそあるめれ、と言いければ、万の人これを聞きて、名を王藤観音とぞ付きたりける。出家してのち比叡の山の横川《よかわ》に登りて、覚朝僧都という人の弟子になりたりけるが、五年ばかり横川にありて、その後は土佐の国にぞ行きにける。その後、その有様を伝え聞きたる人なし。これ希有《けう》のことなり。実《まこと》の観音のおわしけるにや。かく出家する、仏のきわめて貴きなりとなん語り伝えたるとや」。言うまでもなく『今昔物語』と同著者の手に成ったという『宇治拾遺』六にも、ほぼ同文の話が出でおる。
『初音草噺大鑑』は、『風俗』一巻四号八頁、林若樹氏説に、元禄ごろの印本という。その巻三にこの話を出し、場所を信濃国草津の湯の山に作り、年四十を三十、葦毛の馬をかげなる馬と替え、その男を僧が礼拝すると、「この男、人々に向かいていわく、われは甲州方の侍なるが、ふと狩に出でて狼に尻をかまれ、疵養生のため湯治に来たり、観音とは勿体なしとて、あなたこなたへ逃げ惑えば、人々これを聞きて、さればこそ尻食らい観音と昔から申せば、いよいよ観音様に疑いなしとて、この男の尻に付いて拝み歩いた」と笑わせおる。
 故芳賀博士の『攷証今昔物語集』第二冊、この話の条末に出処、類話とも一つも挙げおらぬ。ところが予はその前から多少聚めおり、往年攷証本の脱漏を補うて『郷土研究』へ連載したおり出さなかったので、これらは博士の本へ無断転載の厄を免れた。ざっと、その一、二を載せると、『今昔物語』一九に、この話の次に出た「鎮西武蔵寺《ちんぜいむぞうじ》にして翁出家せる語《こと》」第一二も、この話と趣きがいと近けれど、道祖神祠に宿りて、明日武蔵寺に新しき仏出で給うべしと神が神に語るを聞いた僧が、このことを告げ歩かず、自分独り往って、七、八十歳の翁が出家受戒するを目撃したとあって、信濃におけるごとき群聚大騒ぎを致さなんだのが異なりおる。神祠等に宿って鬼神相語るを聞く話は諸国(402)に多く、その例若干を、『南方閑話』、「神様の問答を立聞きした話」九七−一〇六貢に載せた外に、まだまだ大分ある。
 房玄齢と杜如晦が微なりし時、伴《つ》れて旅行し敷水店に宿した深夜、相対して酒肉を喫《くら》うと、燈下へ両黒毛手を出し何かほしそうだから、おのおの一つずつ炙り肉をやり酒もやると消え失せた。それから寝て二更に至ると、街中より王文昂と呼ぶ、たちまち燈下より応と答えた。これより二十里東の村で神を祀りたくさん酒肉を供えるところだ、一緒に行かぬか、と問わるると、燈下の者、われはすでに酔い飽きた、公事に当たりおるから往き得ぬ、と答えた。汝は終日飢え困《くる》しむ、かつ吏人でないに、公事に当たるなどうそをつくな、というと、今夜この界吏に使われて二相に当直し、二相から馳走を賜わった、と対《こた》えたので、それは結構と謝して走り去ったという。これを聞いて房杜二人とも、後日宰相たるべきを知った、とみえる。また天宝玉載、予章の楊溥なる者、材木を求め山中の樹洞中に宿りしに、夜深く雪はなはだし。一人樹下に来たり、今夜この村に嫁取りで大酒宴あり、同行しないか、と問うと、樹頭に人あり、ここには客人がある、夜明けまで守りやらねば、無知の黒狗子に傷つけらるべし、と答えた。重ねて、今夜はことのほか寒いから往って飲んでこないか、というと、樹上より、いかにも寒いが、客人が宿る時われを拝み頼んだものを、棄て去るに忍びぬ、と答えたので、樹下に呼んだ者は去った。翌朝起きて毛氈を片付けると、その下より長《たけ》三尺の黒い毒蛇が現われた、とある。(『太平広記』三二七、三三一)
 琉球にも樵夫が路を失うて、椎の木の下に一夜の加護を頼めば遭難せず、その椎の木精を他の木精が夜遊びに誘いにくれば、倶《とも》に往きたいが、人を泊めてあるから今夜は失敬と答うるを毎度きく由。欧州にも似たことあって、むかしローマで、男は女の妍醜を問わず、財産のみ目当てに娶るべく、女も自家と相応に富んだ男に限り夫とすべしという法制が出た。その時、ある貧士が有福なる貴女に婿たらんと冀えども、『忠臣蔵』の文句通り、釣り合わぬは不縁の本《もと》と受け付けられず、憂愁して方便を捜すうち、生来盲目で素的に金持なる公爵あり、昼は兵仗せる僕従、夜は一(403)疋の忠犬に護らると聞き出し、夜分忍び入ってその犬を射ち仆し、次に公爵を殺し、その金を盗んで貴女に婚を求めたところ、どうしてこれを獲たかと問われたので事実を明かした。しからば婚姻に先だち、公爵の墓上に臥し、何か耳に入ったら来たり告げよと望まれたから、武装して往き泊った。墓所で夜半にキリストの声で、公爵何用あってわれに請うか、と問うと、妄《みだ》りにわれを殺した奴に復讐し給え、と言った。すると、その願いは三十年後に満たしやる、と告げた。その通り彼女に知らすと、三十年はずいぶん永い、そのあいだ面白く、やり続けにさせ飽くが上策と、貴女は胸を極めてその男を夫とし、いと幸福に暮らしたが、歳月は情《なさけ》の水の流るるよりも速く、快楽の日数がだんだんと減じゆく。いよいよ三十年がたった当日、かの士あらゆる諸友を一堂に招いて宴を張り、楽工盛んに絃歌するうち、一羽の美鳥窓から飛び入って、唄う声尋常ならず。かの士これは不吉の兆らしいと、怖れて矢を放つと同時に、その城二つに割れて、かの士夫婦も、宴に与《あずか》った諸人も、ことごとく地下の奈落に沈んだ。城地は大湖と変じて今に至り、何物を投げ込んでも浮かばず、直様《すぐさま》底まで沈む、と。(佐喜真興英『南島説話』四四頁。ボーンス文庫本、『ゲスタ・ロマノルム』緒言四八頁)
 中入りが長くなったから急いで本文に取りかかる。自分を観音と言い囃されてたちまち観音の気になり、出家を遂げたという話の根本ともいうべきは、姚秦の秦皇六年(西暦紀元三九九年)竺法念が訳した『出曜経』一一にある。むかし婬逸の人あって、もっぱら女色を意とし離し去る能わず。さめては女の姿顔を思い、与《とも》に言語文通せんと欲し、寝ねては上々吉の別嬪と手を携え共に遊ぶと夢む。時にその妻|疾《や》んで骨消え肉尽き、毛脱けドテ陥り、形骸独立す。かの家もとより恒《つね》に知識の道人あって往反す。その婦、道人に白《もう》せしは、われ今病患して日夜困しみ羸《つか》るるに子細あり、思わくを述べて宜しきか、と。道人いわく、お発しなさい、隠すべきことあらば決して洩らしません、と。婦人いわく、わが夫は途方もない多婬で、昼夜一件をつけ廻し、食事も休息もさせず、それから疾み出して直る見込みなし、と。道人、婦人に告げたは、今度御亭主が貴女の身に近づき来たら、こちの人は須陀?《しゆだおん》たるに、そんな不作法を(404)して宜しいかと言い給え、と。のち果たしてまた夫が妻に迫り来ると、妻が通人の教えのままに、あなたは須陀?の身でもってそんなことをして宜しいか、と尋ねた。夫これを聞いてはなはだ慚じ入り、さては自分は須陀?かも知れぬ、須陀?とは何であろうと案じ出し、すなわち意を息《や》めて閑静処にあり、思惟校計して須陀?から斯陀含《しだごん》を経上り、阿那含《あなごん》となった。
 小乗仏教に、常人が涅槃に達するまでに四果を証するを要す。まず須陀?、入流と訳す。聖流に入るの初めで、これを証した者は天、人、修羅、地獄、餓鬼、畜生と六道の内、人より下の境界に再生するの気遣いなきも、涅槃に達する前に、天と人との間に七度生まれ変わらにゃならぬ。第二に斯陀含、一来《いちらい》と訳し、宇治川合戦に軽業を演じた一来法師はこれに資《よ》つた名だろう。もと一往来の義で、この果を証した人は、一度死んで天上に往き、そこで死んで今一度人間に来たり、さて衆苦を尽すを得るのだ。第三に阿那含、こいつは死んで再び人間に生まれず、天上に生まれ、それより阿羅漢となって涅槃に達する。この上、人と生まれ還らぬから、不還《ふげん》また不来と訳す。第四が阿羅漢で、不生と訳す。この上、六道のいずれへも転生せず、すぐ涅槃に達し得るのだ。
 さて、かの夫すでに阿那含となり、すなわちまた女人と従事せず。されば川柳氏は穿ったもので、「医者がもういいといったとかかるなり」。妻は久しく休戦し、兵勢溢るるばかりに恢復して夫に向かい、汝今何故に永く欲心を息め、われと事に従わざるか、と尋ねた。それ、事の種類千様万態で際涯なし。しかれどもここにいうところはかの一事で、本邦でも古く一儀、近くは一件と呼び、その意相同じ。それより転じてか、「かの御ン事の空割《そらわ》れより」など、かの物をも御ン事と敬称する。空割れとは医者のいわゆるヴェスチブルム(前庭)だ。夫、ここにおいて婦に告げたは、われ審らかに汝を見已《みおわ》る、何によってまた共に汝と往反せん、と。そこで婦その夫に語る、汝審らかにわれを見たところ、われに何の咎かある、われ恒《つね》に真潔にして女礼を犯さず、かの御ン事もシンコで築《つ》き上げたごとく、改造怠りなきに、何をもって掃溜同然に罵らるること、かくのごときに至る、と。婦人すなわち五親宗族を集め告げていわく、(405)今わが夫主《おつと》、意見疎薄にして永く親情を息め、また夫婦の語らいなく、また罵詈称言せらる。今衆前において夫の口よりその説明を聞きたい、と。
 夫いわく、しばらく止まってわが引証を須《ま》って、すなわちみずから明らむるを得ん、と。夫主還って好瓶に彩画し、糞穢を盛満し、牢《かた》くその口を蓋い、香花もて芬薫し、還ってかの衆前に至り、その婦に告げていわく、もしわれを愛せば、わが身を愛するごとく、この瓶を抱くべし、と。婦その語に随い、瓶を抱いて翫弄し、意捨て離さず。夫主、婦がこの瓶に愛著するを見了り、すなわち瓶を打ち破るに、臭穢流溢し、蛆虫現出した。また婦に語っていわく、汝今に至って、なおよくこの破瓶を抱くや否や、と。婦答えていわく、これではむしろ死すともこの破瓶に近づく能わず、むしろ火坑に入り、深水に投じ、高山よりみずから投下し、頭足処を異にするとも、終《つい》にこの瓶に近づく能わず、と。夫その婦に告げていわく、われが汝の身を観るは、この瓶よりも劇《はなはだ》し、頭より足に至り、分別思惟するに、三十六物何の貪るべきあらん、と。爾《その》時《とき》また重ねて偈を説いていわく、勇者定に入って観れば、身心所々に塵を興す、見已って穢悪を生ずること、かの彩画瓶のごとし、と。この男初め妻に須陀?と呼ばれて、たちまち須陀?の心持になり、それから発起して阿那含まで上進したこと、湯本の人々に観音と呼ばれて、たちまちみずから観音なりと信じ、すなわち出家修行した王藤大主の所為に同じ。
 似た話がセイロン所伝『仏本生譚』にある。舎衛に仏教篤信の一士あり、一日美食香花を持って祇?精舎に詣り、仏に奉って説法を聴いた。留守宅へ姑来たり、かの士の妻たる自分の娘を訪い、食事後眠くて溜まらず、眠け醒《さま》しに、汝は夫と仲よく暮らすか、と問うた。妻答えて、言うにや及ぶ、どんな尊い隠遁者を捜しても、わが夫ほど善くて徳ある人はない、と言った。ところが妻の母はドエライ聾で、隠遁者という一語のみ耳に入ると、たちまち勘違い、それは大変だ、なぜ汝の夫は隠遁者になったか、と喚き立てた。家内の者どもこれを聞いて、また、親方が隠遁者になったと噪ぎだし、近処の者また戸口に集まり、ここの主人は隠遁したといい詈《ののし》る。一方主人は、仏の説法を聴き了っ(406)て帰宅の半途で一知人に遇うと、イヨウ大将、貴公は隠遁者になったそうで、家内下々まで泣き噪ぐ最中だ、と告ぐ。かの士聞いて、われ隠遁せざるに、一同われを隠遁したという、こんな吉報をむだに聞き過ごすべきでない、今日よりわれは隠遁すべしと決心し、すぐ引き返して仏に謁し、授戒して隠遁し、程なく証果した。後に仏その因縁を説き、仏前世にビナレスの梵授王治下に豪商の子と生まれた、一日往って王に謁した間に、その姑来たってその妻を訪い、前述同様の間違いより噪ぎ出し、豪商の子帰途でその由を聴き引き返し、再び王に謁して、すでに隠遁者と呼ばるる上は、隠遁者たらざるべからずとて、王の許しを受け、ヒマラヤ山に退き苦行して、終《つい》に梵天に昇ったと語られた、ということだ(一八九五年板、カウエルおよびラウス『仏本生譯』二巻四四頁)。
 東西人とも多分は、現代の世相人情を標準として、昔の譚を批判するから、少しも思いやりなく、一概に古伝旧説を、世にあり得べからざる仮托虚構でデッチ上げた物と断ずる。『今昔物語』一九巻一四語に讃岐多度郡の源大夫《げんたいふ》という悪人が、鹿狩の帰途で不慮に仏堂内の説法を冷やかし、すなわち平凡な講師の言に感じ、即座に剃髪して衣裳武具を僧衣と金鼓《こんぐ》に替え、西に向かって邁進して海浜に至り、阿弥陀仏|何処《いずく》にあると呼ぶに、微妙《みみよう》の声ありて海中より、ここにありと答うるを聴き、そこで往生したとあるも、そのころそんな人が、その世態相応に往々あったので、虚誕でない。星移り時|更《かわ》りて、観音と言われて自身を観音と確信する人こそ現代になからめ。色男と呼ばれて、鏡と相談もしないで、自分を色男と有頂天になって確信する者は滔々みなこれだ。確信さるる物が時と共に変わったばかり、確信が古えと今とその力を異にするのではない。太宰春台だったか、「仏法の大海は、信を能入《のうにゆう》となす」という成語をはなはだほめあった。むかしこの語を「仏法の大開は、信を能入となす」と聞き違え、仏法は、大きな一件の底限りなく深くて、小男の物で届く見込みなくとも、精誠工夫を運らさばその女を迷乱せしめ得るがごとく、われは必ず能《よ》く入れ、否、入り得べしと、信の一念によってのみ仏法に入り得と心得、果たして成道した人あったと、大分|胡論《うろん》な弁舌僧から聞いた。信念が種々の霊験的事実を生ずるは、天主教徒に時々、仏教徒に稀《まれ》に生ずるスチグマタ、すな(407)わち自身の一処に精神を集中して念誦すれば、そこに磔創状や文字状の痕痣が生ずるで知れる。(一九二九年、一四輯『大英百科全書』二一巻四〇六頁。一九二三年ロンドン発行『ノーツ・エンド・キーリス』一三輯一巻五一三頁、拙文「スチグマタ」)
 ボーンス文庫本『ゲスタ・ロマノルム』一三二語に、四医の内、一医もっともはやる。三医これを妬んでこれを除かんと謀る。良医が公爵を訪う道長さ三里、その一里ごとに各医が待ちおり、良医来たるをみてすなわち彼に向かって十字を画く。何故そうするかと問うに、汝は癩人だからと答えた。三人みな自分を癩人と呼び厭《まじな》い辟《さ》くる、さては自分は癩を病みおるかと怖れた。癩を怖るる者癩を病み出すとヒッポクラテスが言った通り、その良医ついに真の癩人となった、とあるも似たことだ。フッパー注に、ヒトパテッサより、一梵士が山羊をかつぎ行く。道士別処に三人立って、梵士その前を過ぐるごとに、何故尊い梵士の身で犬をかつぎゆくか、と尋ねた。犬は梵士が禁忌とするものだ。三人言えば市に虎ありと言っても通る理屈で、梵士、さてはわが眼に山羊とみえるが、実は犬だと信じ、その山羊を棄てたので、悪徒どもがよい拾い物をした、という話を引き比べある。
 信念が真底から人の気質を変革する最も著しきその例は、古今シベリア諸民族中に、俘囚を女装女工にみせしめて、全然男子と見做《な》さず、常に女人のみと同居せしむると、その俘囚全く去勢されたようで、心性婦女に化するので、その他諸国にも、幼少より女子として育てられた男子の精神が婦女化してしまうのが多い。これらみなまで、実際去勢されたでも非処行犯されたでもなく、一に自身を女人と専念せるより、かく変化したのも少なからぬようだ。また米国のインジアン中には、夢に感じてたちまちみずから女化するのが往々あり、アーヴィングの『印甸人《インジアン》記略』には、武名赫々たる勇士が一夕霊夢を感じ、全族にきわめて卑蔑さるるも厭わず、女装自化した由載せあるという。和漢にも夢や神の告げを感じて、直後女に化した例がある。(一九一四年板、チャプリカ『原住民のシベリア』二五五頁。一九二七年二板、クローレー『玄妙薔薇篇』二巻一一二頁。一八六二年ライプチヒ板、ワイツ『未開民人類学』三巻一一三頁。『奇異雑談』上巻二章。『招提千歳伝』中三。『夷堅丙志』一)改行
(408) 前に述べた「仏法の大海は、信を能入となす」という語を、人間徳行上に実証した話を挙げると、正徳二年成った『一夜船』五に、和州山本村角左衝門の子角兵衛、ずいぶんと不孝で父母の諫めを用いず、礼養なきこと畜類に劣り、時としては父を打擲《ちようちやく》に及ぶ。しかるに父は、「近きあたりは言うに及ばず、遠方より来たる者までに、わが子の孝行深きゆえ、快く世を経る老の果報、只わればかりのように触れありきければ、さてさて見かけは不孝者とみゆるに、親の口からかくのごとく吹聴する上は、内証はよくよくの孝行ならんと、角兵衛にあうほどの人々、さてもその方は今時まれなる奇特人かな、親の悦び世の誉草《ほめくさ》、話し伝えて国々巡見役人衆の耳に入りなば、上《かみ》より御褒美を下され、後記にも留まるべき孝行人なり、と言えば、この不孝者、思いのほかの評判に逢いて、いよいよ人にほめらればやとのみ思う一つにて、心にもあらぬ孝行振りして、今まで悪口せしをも改め、衣類、食物に至るまで、初めに変わりて気を付けぬれば、まことの孝に違《たが》うことなくて、その里より近在、人の子たる者の手本に語り伝えければ、おのずから角兵衛と鬼神に横道なく、人の思わくを恥じて勤めければ、真実の孝子の行いに差《たが》うことなかりけるといえり」と述べ、「角兵衛も孝行のまねをすれば直《じき》に孝子なり。されば恵心僧都、『世を渡る橋と思ひてふみみしに、誠の道に入るぞ嬉しき』とよみ給いぬ。これ名聞《みようもん》に学びぬれども、ついに本理に入る橋となりし道理をよみ給えり。法然上人は、疑いながらも念仏すれば往生す、と宣《のたま》えり。然ればよき道には、詐りになりとも進み入るべき義を教え給うなるべし。名聞にはいらざる者とて、善道に趣《おもむ》かずんば、永劫をふるとも、勝縁にもとづくことはあるべからざるものなり」とヒチクドク論じある。
 『一夜船』は戯作だが、角左衝門がその子を孝子に化したにほとんど同じ紀事が、誰かの史伝にあったと覚えるも今臆い出し得ず。ただし、『利家夜話』上にみえたる、前田利長若き時、ことのほか行儀悪しかりしを、その父利家旨く仕向けて改喜せしめた話ややこれに似おる。一九〇三年板、マヤースの『個人性とその身後の存留』一巻五七五条および付記に、少しも霊符の効を信ぜざる多人が、試しにこれを佩びて、たちまちその病患を除き得た例を列ねた。(409)その実表面霊符の効を信ぜざる人も、往々その不自覚心(サブリミナル・セルフ)に霊符の力を感受して、病が癒えるという。山本村角兵衛が、訳もなく人々に孝子とほめ囃されて、冷やかし半分孝子のまねし、竟《つい》に真の孝子となったは、この者表面不孝に誇りおったものの、その不自覚心が多少不孝に安んじ得ず、父角左衛門の旨き執成《とりなし》で追い追い啓発され、われほどの不孝人も孝子となり得べしという信念起こり、固まるに及んで、終《つい》に真の孝子となったので、父はよくその子を称讃という霊符を用いて、子の不自覚心を刺激し、この信念を起こし固めしめて、不孝という病を癒やし除いたのだ。
 この父子の話は小説だが、似たことが実在せぬでもない。『常山紀談』に、立花道雪、常に士に弱きはない、大将が励まさざるゆえ弱し、他家で後れた士あらば、来たってわれに仕えよ、取り飼いて逸物《いちもつ》にせんといい、たまたま武功なき士あれば、彼弱からざるはわれ見定めたり、身を全うして道雪を見つぎ給われ、おのおのを打ち連れたればこそ、かく年老いたる身の、敵の真中にありてひるみたる色をみせぬぞと、共に一盃やらかし、流行の武具をくれたので、重ねて軍《いくさ》あらん時、必ず人に後れじと勇む。いささかも武者振りのよくみゆれば呼び出だして、人々見候え、この道雪がみしところに違うべきにあらずと、無上やたらにほめ立てたから、人々感涙を流し、この人のために命を捨てんと励んだと記し、『山鹿素行精神訓』には、片倉小十即は常に人をほめてける、たとえ一度二度場を脱《ぬか》したる者をも、この人、時の仕合せゆえなり、重ねては必ず大功あるべき、と言いてほめ、若き者をも、この者達々かくのごとくあるべき、見事なるところありしなどとほめて、終《つい》には打死致すごとくなりしとなり、この故に人をほめて多く殺したると、常に言いしとなり、と出ず。両人共よくその臣下をして、われは必定勇士だという信念を起こし固めて、果たして勇士たらしめたのだ。(十月二十九日午前二時稿成る)
 
(410)     巫が高処に上る
 
 『春日権現験記』一七に、明恵上人紀州白上(『沙石集』一には湯浅)にありて宋に渡らんとしたところ、建仁二年正月十九日より八日間、橘氏の女、絶食しながら顔色違わず、常よりも肥えて見ゆ。毎日ゆを浴みて読経念仏したが、「二十六日午時、新しき席を障子の鴨居の上に打ち掛けて、それに登りて宣うよう、われはこれ春日大明神なり、御房の唐へ御渡りのこと、きわめて歎かわしく侍れば、このことを制し奉らんがために参りたるなり、御房智恵人に勝れたるゆえなり、御房を信じ奉る人をばみなわれ守護するなり、時々は南都の住所へも来たらせ給うべし、と仰せらるれば、上人忝なくこの仰せを蒙り侍れば、渡海を停むべしと申さる。その時鴨居よりおりさせ給う。懐妊の人なれど、おり上りいささかも障りなし。その御威儀どもも寂然にして、飛蛾の羽をふるうがごとし。
 「同二十九日酉時、かの女人、前のように加行して、一重上人同朋|数多《あまた》具して、彼所《かしこ》へ到りて、障子を明けてみれば、女房、とのい物を顔に被《かず》いて臥しけり。上人をみて顔を引き上げてほほ笑みたり。上人、この異香は何ごとにかと問い申せば、何とも知らず、妾も身の香ばしく覚えて見参のしたく侍りつるなり、高き所に登りたければ、天井へ登るべし、この障子をたて給うべしと仰せらるれば、引き立てつ。やがて天井に上りぬ。この時あけて見れば、天井の板一枚あきて、異香におうことさきに勝れり。上人以下集会して、南無春日権現と礼し奉る。時に天井より柔軟微妙の御音を出だして宣わく、高き所に侍ること無礼なれども、われらが輩はもとより高き所にあれば、つくべき物を引き上ぐるなり、付きおおせてのち美《うるわ》しく下《しも》へおりて見参すべきなり、さきの見参御不審残りなければ、また参れるなり、(411)この御拝を停めらるべしと仰せらるれども、なお拝し奉れば、しきりに無礼の由を仰せられて宣うよう、神明みな御房を守護し奉らずということなし、その中にわれならびに住吉の大明神とは随従し奉る、中にもわれはことに腹中より添い奉る、されば御渡海の時も、われらは離れ奉るまじければ苦しみあるまじ、しかれどもこの国におわしませば、諸人善縁を結び奉るべきことを悦び思えば、遠き御修行を傷み申すなり、われは仏法を信ずる人をみな愛す、その中にことに三人に思いを掛けたり、三人と申すは御房と解脱など、また京に一人あなり、この三人の中に御房にことに心をかけ奉るなり、と仰せらる。
 「さて天井よりおりさせ給う時、物散るがごとく音もせず、御香につきて、妙香いよいよ匂う。その香沈麝などの類にはあらで、こく深き香い、すべて人間の香にあらず。諸人みな感悦にたえず。御手足を舐《ねぶ》り奉れば、甘きこと甘葛などのごとし。その中に数日の内をいたむ人ありける。舐り奉りてたちまちに愈えてけり。人々きおい舐れども、慈愍の御気色にて、さらに厭わしげにも思し召さず。御身動かず、色相鮮やかに白くして水精のごとし。すべて御形体凡類にあらず。御目まじろかず、御目広く長く、黒眼は少なく白眼は多し。見る者涙を流さずということなし。われ昔より、いまだかように真形を現わして、人の前に降ることなし、後にもまたあるべからず、これはきわめて御房を尊重し奉るにより、形を現わして見参するなり、ともしては辺土山林に思いを掛けてましますは、御自分の修行には目出たけれども、有縁の衆生結縁の便宜なければ、われらはそのことを歎くなりなど、さまざまのことども仰せられて、今は時刻久しくなりぬ、帰り去らんとするに、この見参嬉しければ、罷りやらぬと仰せられて、御手を合わせて上人を拝し給う。上人辞し申さるれども強いてなお拝をさせ給う。(中略)また、われ御房を愛念し奉ること、世間の人の一子を思うに超えたり、また善財の善知識の、善財の発心を哀愍せしに同じ、今は罷り帰りなん、必ず必ず春日山へ御渡りあるべし、その時われ、形はみせずとも出で会い奉るべし、その心を得て、心を静かにしておわしますべきなり、時刻すでに久し、罷り去りなん、と仰せられて、上人の両手を御身に引き寄せさせ給う。異香ことに匂うて、(412)諸人泣き悲しむことはなはだしければ、(中略)御眼より涙を流し給う。御気色哀傷の色外に顕われて、衆会の心を動かす。このこと見聞する諸人みな悲慟す。およそ哀悲の御姿不可思儀なり。御面をあげて、衆会に告げ給わく、今すでに罷り去るなり、しばし匂いを留め置かん、形見《かたみ》としておのおの心を慰め給うべきなり、御房とくとく春日山へ来たり給うべしとて、還御の作法さきのごとし。この時毎月今夜の問答講なんどのことも契り申されしかば、われらは左様の仏事には、いかなる所へも降臨せずということなしとぞ仰せられける」。
 と長々しく述べ、翌年明恵また、「春日詣を思い立ちて、二月二十二日国を立たんとするほどに、二十二日、さきの女房、例のようにして、大明神おりさせ給いける。しきりにわが影像のことを尋ねしめ給えば、そのこと申さんために来たるなりとて、委《くわ》しく示し給いけり。また(この月七日)東大寺中門にて、鹿の(三十頭余同時に)膝を折り(て一面にふしたり)しことは、われ三日先立ちて、御迎いに参りて侍りししるしなり。また今出河にて、二月十五日涅槃会に参りて聴聞して、礼盤より左の方、少し仏前によりて、三尺ばかりあがりて侍りしなり。「如来の光明の、出で已《おわ》りて、ついに入るは、因縁なきにあらず。心は十方において作《な》すところすでに解くれば、まさにこれ最後の涅槃の相なり」の『涅槃経』の文を誦して、釈かせさせ給いし時こそ貴さに堪えずして、おり降りて板敷にて聴聞せしかなと、すべてさまざまの密事数刻御物語ありけり。上人御形身に、御歌一首を賜わらんと思うと申さるれば、この見参に過ぎたる形身や候べき、またわが影像を形見とせさせ給うべし、されども仰せらるることなればとて、『千早振る君がいがきにまどゐせん、かたみに恵みたるるとぞしれ』、かくなん仰せられけり」とあって、その後この女のことはみえぬ。
 この橘氏の女が、春日神その身に乗り移ったと称し、託宣を述べるため、鴨居や天井へ登ったは、諸神もと高き所にあれば、つくべき者を引き上ぐるなりと宣うたとあって、棟やクラカケを用いた沙汰なく、全く神変もて神がその女を引き上げ、接神家《セオソフイスト》のいわゆるレヴィティション(泛空)、道教にいわゆる軽挙(『漢書』郊祀志、谷永が成帝に説いた言に見ゆ)を現じたのだ。仏教には、仏およびその諸大弟子より役行者、釈陽勝まで、足地を距って行止し、ことに久(413)米仙は高く大空を飛び渡るうち、衣を掻き上げた女の脛白きをみて、『犬筑波』に「内は赤くて外は真黒」とよんだ物を想い出し、彼女の前へ其逆さまに落ちたで名高い。道教に天仙、地仙、尸解仙を別つ。その天仙のみよく形を挙げ虚に昇る。また九品を別つ。その第一なる九天真王より第八飛仙に至る八品は、よく軽挙浮遊し、最下級たる仙人のみは、ただ長生するだけで、少しも空中に騰り得ぬらしい。欧州には、四世紀のヤムブリクスや十七世紀のクペルチノのヨセフス、十九世紀のホウムやモセス、もっとも泛空で著われ、英科学士院のサー・ウィリヤム・クルックスごとき精確なる科学眼もて、ホウムがまるで床板を離れて空中にあるを、異日三度まで目撃して、何たる詐巧を見出ださざりし由。(『天中記』三六。『広博物志』一二。『古今図書集成』神異典二六二所収、南宋の曽慥『集仙伝』序。一九〇三年板、マヤース『個人義とその身後の存留』一巻、「用語解」一八頁。一九二九年一四輯『大英百科全書』一三巻九七九頁)
 南宋の洪邁の『夷堅志』支戊五に、淳煕十三年(本邦文治二年、明恵上人十四歳の時)、福州の天心法の行者任道元が、上元の夕修法の際、若い両女子が観音中に並び立つを見て猥語を発した。?祭《しようさい》罷んで後、耳に瘡を生じ痛み劇しくなった。法師を呼んで見せると、これわがよく弁ずるところにあらず、聖童至るを俟ってすなわち決すべし、と言った。少頃《しばらく》して門外に一村童を得、わずかに至ればすなわち跳って梁間に升り、神語をなして、任が香火を謹まず、貪淫兼ね行なうた罪を語り、言い訖《おわ》って、童地に堕ちて醒め、茫然として知るところなかったという。よって考うるに、そのころ和漢とも、神託を宣べる婦人や童男が、ややもすれば鴨居や天井や梁に登り神語を発したので、あるいはこの童のごとく軽業師的に梁に飛び上がるもあり、また橘氏の女のように、特に障子を引き立てしめ、人の観ぬまに天井に昇ったので、それには何かの設備があったものとみえ、前述のホウムごとき不可解な神変ではなかったようだ。カラウェイが記した、ズールーの神に付かれた女は、神語がその女の口より出でず、屋根から発し、いずれもよく中《あた》ったとは、二人懸かりでやつたと見える(一八九八年板、ラング『宗教作成論』一五三頁)。
 『沙石集』一に、「春日大明神の御託宣には、明恵房解脱房をば、わが太郎次郎と思うなりとこそ、仰せられけれ。(414)ある時この両人春日の御社へ参詣し給いけるに、春日野の鹿の中に、腰を折りて伏して敬い奉りけり。明恵房上人、渡天のこと心中ばかり、思い立ち給いけるに、湯浅にて、春日大明神御託宣ありて留め給えり。かの御託宣の日記侍るとぞ承る。遙々《はるばる》と離れんことを、歎き思《おぼ》し召す由の仰せありて、御留めありけるこそ、哀れに覚ゆれ。もし思い立ち候わば、天竺へ安穏に渡らなんやと申し給いければ、われだに守らば、などかとこそ仰せありけれ。その時上人手を舐らせ給いけるが、一期のほど芳《こう》ばしかりけるとぞ」とあって、渡唐と渡天となど少々の違いあれど、記事の大要相符合しおる。想うにそのころ名高い接神現象だったのだ。明恵、解脱ともに慧学を次にして定修をもっぱらにし、浮誇を却けて行業不退だったが(『元亨釈書』五。『太平記』一二)、古今を通じて傑僧にはいわゆるプリーストクラフト(僧策)多し。『沙石集』一に、この二僧共に春日大明神に格別の眷顧を受け、解脱、笠置に閑居して明神を請ぜ《しよう》しに、明神、童子の形で上人の頸に乗って渡り、「われ行かん、行きて守らん、般若台、釈迦のみのりのあらん限りは」と詠じ、常に法門など仰せられたという。同書三に、解脱上人、如法の律儀興隆の志深く、六人の器量の仁を択びて持斎律学せしめた。その一人持斎を破り、僧房に美童数多置き愛し、あまっさえ童に食わすため魚を捕え煮た記事あり。ところが、『太平記』によれば、後堀河帝即位の時、上人なお存し、しばしば召して官憎たらしめんとされたらしいが、『和漢三才図会』七二には、それより前建暦三(すなわち建保元)年五十九歳で死んだとみゆ。
 これより算えて、二百四十七年後の日記、『碧山日録』長禄四(すなわち寛正元)年九月二十日の条に、解脱上人貞慶興福寺にありて唯識を学びその奥に造《いた》る。「時に、同房に一《ひとり》の童児あり、呉竹と名づく、はなはだ美麗なり。慶深くこれを愛す。一夕、童見えず。慶みずから謂《おも》えらく、他人これを挑む者あらん、と。よって、ひそかにその所在を窺うに、童は一《ある》野人の家にあって、小麦餅を食う。慶、嘆じていわく、予が呉竹の意《こころ》を得るは、小麦餅に如《し》かざるなり、と。すなわち寺を出でて笠置山窟に棲み止まる。この時、慶、三十|又《ゆう》七歳なり。よって興福(寺)の耆老、胥議していわく、慶の去るは呉竹のためをもってなり、と。すなわち呉竹をして笠置に入り、慶の帰るを求めしむ。慶、和歌一(415)首を詠じ、その来意に報ずるに出でざるをもってす、云々。慶かつて春日神に詣《もう》ずるに、すなわち群鹿その前足を折り、敬仰の意を致す。その異事これに類するもの多し。のち解脱上人と謚《おくりな》すという」と出ず。してみればこの上人、もと破戒僧で、その弟子が美童に惑溺したのも師匠の先蹤を追ったまでだ。後年春日神が童子と現じ、常に来たって法問したというも、古灰再燃してまたまた精進料理の賞翫に耽ったのでなかろうか。そして逸興まさに酣《たけなわ》なるに際し、上人が「われ行かん」と言ったのに基づいて、件の神詠などを捏造したでもあろう。何しろ怪しい坊主だ。明恵また畠山重忠や北条泰時を心服させたほどのえら坊主ゆえ、なかなか食える人物でない。この両人が申し合わせて橘氏の女に神託の狂言をやらせ、京都の権門藤原氏が崇むる春日神が、自分ら二人を太郎次郎と愛惜するなど言わせたとみえる。
 一九二七年三板、エリスの『性心理学』一巻三一〇−三二五頁に、性熱と宗教熱とその質はなはだ相近く、しばしば併発、しばしば融通する由を詳説しある。時間がないから、逐一指摘解説するを見合わすが、上に『春日権現験記』から引いた橘氏の女が明恵上人に対しての所為は、春日神信仰が厚きに過ぎて、神その身に降り寄ったと自信したのと、平素明恵を愛惜するのあまり、内々その渡宋の志あるを推してこれを停めんと熱望したのとが、自分懐妊して身心ともに常を外れたに乗じ暴発して、良《やや》久しく治まらなんだらしい。『元亨釈書』に、明恵生まれて形貌端麗なり。父平重国、戯れに烏帽をその頭にきせ、かくのごとき美児、早く成長するを得て、冠巾を加え仕途に登らしめん、と曰《い》った。児|私《ひそ》かに念えらく、われ僧儀を慕い官属を覦《ねが》わず、もし容質をもってこれを拘《かか》えば、膚を毀《やぶ》らんに如《し》かじ、と。すなわちみずから庭下に投ず。傍人救い抱いて児志を果たさず。また火炉に近づいて、火箸もて面を焼かんと欲す。まず試みに左臂に著くるに、熱痛忍ぶべからず、すなわち止みて泣く。稚孩《ちがい》の励操多くこれに類す、とある。幼かっただけに、「生ける身を捨ててやく身のうからまし、つひの薪と思はざりせば」と詠んで、顔を焼き損じた了然尼ほどの決心はできなんだとみえる。(了然尼については、昭和五年の『集古』庚午五号、三村清三郎君の「美人が(416)みずから面を烙き爛らした話」を見よ。)しかし成人後も面を焼いたことを聞かず。ただ耳を截って仏眼に供えただけだから、どうも焼くに忍びないほどの美貌だったとみえる。
 さて、仏かつて阿難に説いたは、「婦女の人、五種の相を具え、かの沙門釈種弟子《しやもんしやくしゆでし》において、染著《せんじやく》を作《な》し、彼のところにおいて、欲心最も生ず。余の丈夫《おとこ》(の比類するところ)にあらず。何等を五となす。この沙門釈種弟子、恒常《つね》に梵行し、いまだかつて婦人と共にその欲事をなさず。かくのごとき丈夫は、はなはだ得べきこと難《かた》し。手脚柔軟にして、事業を作《な》すこと少《まれ》なり。阿難よ、これらの五相に、婦女の人、最も沙門釈種弟子に染著をなし、極欲心《ごくよくしん》を生ず。余の丈夫の比類するところにあらず。復次《また》阿難よ、また五相あって成就具足し、婦人最もきわめて沙門釈種弟子に染著し、最欲心《さいよくしん》を生ず。余の諸丈夫の比類するところにあらず。何等を五となす。この沙門釈種弟子|輩《ども》、多く善根あり、福業《ふくごう》を具有し、多くの気力あり、多く勢望あり、多く精進《しようじん》あり、多聞にして巧みに諸論を知る。阿難よ、これらを五相となし、婦女の人、最も沙門釈種諸弟子に染著をなし、きわめて欲心を生ず。余の丈夫の比類するところにあらず。阿難よ、また五種の相あって具足し、婦女の人、沙門釈種諸弟子に向かって、きわめて染著を生じ、極欲心を生ず。最も欲心を生ず。余の丈夫の等比するところにあらず。何等を五となす。これら沙門釈種諸弟子等、普遍端厳《ふへんたんごん》にして、威儀を具足し、諸根を覆蔵《ふくぞう》し、諸事を隠密にし、他人をして疑念するところあらしめず。まさにしばしば来たるべし、われまさに子と、および財物を得べしと。阿難よ、これらの五相に、婦女の人最も染著をなし、最も欲心を生ず。余の丈夫の等比するところにあらず」(隋の闍那崛多等訳『大威徳陀羅尼経』一九)。
 解脱房は尚書左丞藤原貞憲の子、明恵上人は高倉帝の衛兵曹平国重の子、いずれも由緒正しい立派な家に生まれた。決して今日多きデモ坊主ではなかった。その上、明恵は抜群の美男だったから、橘氏の女など田舎女は、平生溜まらぬ思いを包んでおったに相違ない。それに婦人の多くは、孕んだ当座ははなはだ情を催すが常だから(エリス『性心理学研究』五巻二二七頁)、欲心勃発抑うべからざるところへ、上人渡宋の志切なりと知って、春日明神額わくは上人の(417)渡海を思い停まらしめ給えと、祈念したのがが高《こう》じて、明神その身に乗り移ったと信じ、託宣を伝うるに至ったとみえる。しかしてその間の振舞いは、明神が明恵を愛するのか、彼女が明神を慕うのか判然せぬ程度で、高い処へ登ったり、身より香気を放ったり、ことには手足が甘くなって、多くの人に舐らせて平気でおったなど、いとヘンなこと多し。しかし身心に異状ある人が、稀《まれ》にかかる事実を起こすは、変態心理学者や接神家の毎度説くところだから、むやみに虚談と押し片付くることも成らず。上に論じた解脱・明恵二僧の本心と共に、この女に神が乗り移った実情は、心理学や精神病学や宗教学の上から最も考究を要するはずと述べて筆をおく。
 ついでに述ぶ。紀州の内、熊野街道近くには古く春日の祠が多かった。今も残ったのが少なからぬ。これは熊野|詣《もうで》盛えてより、権門藤原氏の諸家が、参詣や寄進の便宜のため、その辺に多く所領を持ち、したがってその領地にその祖神を斎《いつ》いたものと惟う。(昭和六年十一月四日午前四時稿成る)
 追記。博陵の劉伯祖が河東太守たりし時、天井の上に神あって、常に伯祖と語り、京師より詔書著する前にあらかじめ告げた。伯祖が何を食いたいかとその神に問うと、羊の肝をと望んだので、買い来たって切ると、たちまち切った片がなくなる。かくて羊の肝二つを食い尽したところ、一の老狸がよろよろ案前に現われた。肝を切りおった者が、その狸を切りにかかるを伯祖が呵《しか》り止めた。狸はみずから天井に還り、大いに笑うて、先刻羊肝を食うて酔うたので、不躾《ぶしつけ》な体を現じて大いに恥じ入ったとわびた。のちまた、伯祖に告げて、某月某日君は司隷に上進すると告ぐると、その日果たしてその通り拝命した。伯祖が司隷府に入ると、狸がまたその府の天井上にあって、しばしば省内のことを言うので、それでは迷惑至極というと、もっともだと言ったきり、二度と声を出さなんだ(『古今図書集成』神異典三一七、引『捜神記』)。
 
(418)     神の男女を誤る
 
 ギリシアの諸島で、古代の諸神をキリスト教の諸尊者として崇むるに、男女性を誤ったのが少なからず。例せば、勢力の女神アルテミスが男となってアンテミドス尊者、大地と食糧の女神デメテルも男となってデメトリウス尊者と変じたごとし。支那で古くデメテルに相応した大地神は、もと男だったが、後には女と一汎に信ぜられた。南宋の兪?の『席上腐談』に、「『書』にいわく、皇天后土、と。皇は大なり、后はすなわち厚なり。古字にて后と厚は通用するなり。揚州の后土夫人の祠にて、后土を塑して婦人の像を為《つく》れるは謬《あやま》れり。「月令」にいわく、その神は后土、と。注にいわく、?《せん》帝の子孫なり、と。「祭法」にいわく、共工氏の九州に覇たるや、その子を后土という、能く九州を平らげたり、故に祀ってもって社となす、と。『左氏伝』にいわく、共工氏に子あり、勾竜《こうりよう》という、后土となる、と。これ豈《あ》に婦人ならんや。古え、天子は元后と称せられ、諸侯はすなわち群后たり。もし厚土をもって婦人となさば、すなわち后?《こうき》、后稷《こうしよく》も、また婦人となすべきか」と言った。その男神后土がおいおい女化して、唐の時すでに、「汾陰の后土の祠は、婦人の?像《そぞう》を為《つく》る。武后は河西の梁山神の?像を移して、もってこれに配す」。ローマの半男女帝エラガバルスは好んで男女神を婚合させたが、則天武后も大好淫の老婆相応に、流俗のまにまに、后土を女神と心得、梁山の男神をこれに婿入りさせたので、神情あらば、梁山神は后土の裏門を犯したはずだ。そのころ后土を女神と盛んに持囃《もてはや》した証拠は、則天武氏の大足年中、とあるが、この年号は正月より九月までしか続かず、十月は長安と改元された。本朝文武天皇の大宝元年に当たる。その一月より九月までの間に、次の椿事があったそうだ。京兆の起居舎(419)人韋真の子安道、進士に及第せずして、久しくのらくらしおったが、ある日早く洛陽の慈恵里の西門に至ると、甲騎数十隊を先に立て、飛傘の下に、珠翠の服を衣《き》た婦人皇后のごときが、大鳥に乗って、光?人を動かす。また後騎あってみな婦人で武装し、千余人という大行列だった。これは未明から、則天武后が遊幸に出掛けるところに参り合わせたと思い、同行者に問うに、みな見ずという。ようやく夜が明けて後騎の一宮監が馳せ来たるを留め、今通ったは天子でないかと問うと、然らずと答えた。なお問い詰めると、宮監ただ慈恵里の西門を指さし、かの里門より牆について百余歩南へ行ったら、朱の扉が西に向かうた家がある、そこで問うたらよく分かる、と言って去った。教えのごとくその家にゆき、扉を扣《たた》くと、久しうして朱衣の官人出で来たり、公は葦安道でないかと問う。然りと答うると、后土夫人、公を俟つこと久しと言って延《ひ》き入れた。すると今度は紫衣の宮監が来て湯に人らせ、結構な衣裳に著替えさせ、安道を大馬に乗せ、騎馬の女数人を従え、建春門を出て、東北に行くこと約二十余里にして、甲士守衛はなはだ厳《おごそ》かで、あたかも王者の城のごときに至った。幾度も幾度も門を通りて大殿あり。上に広莚重楽を陳し、据ラを羅列し、九奏万舞して鈞天の楽のごとく、美婦人十数、妃主の状のごときが莚の左右に列んだ。宮藍の教えのままに、西階より上り、東に向かって立つこと頃刻にして、微《ほの》かに環佩の声が聞こえると、美婦人あって謁廟用の服ごときを著て来たり、西に向かうて安道と対立した。すなわち先に慈恵西街で飛傘下に見た尊勝婦人だった。その時宮監が、后土夫人、すなわち冥数《めいすう》合して匹偶をなしたまうと賛し、安道をして拝せしむると、夫人これを受け、夫人拝すると、安道これを受けた。それから礼服を去って安道と莚上に対坐し、前に見えた十数美婦人も左右に列坐し、奏楽飲饌して昏に及んで罷めた。すなわちその夕をもってこれに偶するになお処子なり、「かくのごとくすること、けだし十余日。服御するところの飲饌は、みな帝王の家のごとし」とは大変だ。天地開闢以来、古く皇天后土と対称された后土が、すでに夫人の号あるに、則天の大足元年まで処女でいたとは不審極まる。それからまだ種々と面妖な話が続くが、紙数限りあり、あまり長く書くと悴が落涙し始めるから、大部分を中略と致し、最後に冥数すでに尽き、后土夫人|終《つい》(420)に韋安道と永訣するに臨み、夢中に則天武氏を召して安道を引き合わせ、銭五百万と官三品を与えよ、と命じた。安道、夫人と別れ東都に至ると、武氏洛陽城中に伝令して、安道を捜索最中だったので、さっそく拝謁すると、先に夢中で引き合わされた男に違わない。よって武氏ついに安道を魏王府の長史となし、銭五百万を賜うたという。この韋安道は何たる善行あって、飽くまでふれ舞われ、高官になり、大枚を賜わったか、その辺は一向記し及ばずにある。
(Bent,‘The Cyclades,’1885,p.339;『琅邪代酔編』二九。『  核余叢考』四二。Gibbon,‘The Decline and Fall of the Roman Empire,’ch.vi;Dufour,‘Histoire de la prostitution,’tom.ii,p.348, Bruxelles,1851;『古今図書集成』神異典一二)
 この長話は『異聞録』に出るそうだが、『四庫全書総目』にこの書名なし。一八八一年上海刊、ブレットシュナイデルの『支那植物篇』一の一五四頁に、宋の何先の『異聞記』あって、『五百家小説』に収めらるとあれど、それではない。『説郛』据明抄本三に『異聞録』あれど、件の譚はなく、わずかに一条を抄せるのみ。かつ著者の姓氏と時代を記せず。『文献通考』一八中巻に、『異聞集』十巻、(南宋の)?氏(名は公武)いわく、唐の陳翰編む、伝記載せるところの唐朝の奇怪事類をもって一書となす、と。(南宋の)陳氏(名は振孫)いわく、(陳翰は)唐末の人、『唐志』にみゆ、云々、とあるのが、正しくこの『異聞録』だろう。『後山詩話』は、北宋の陳師道の名を仮りて、南宋人が筆したという。それに唐人后土のことを記せるは、もって武后を譏れるのみと言ったは、まさしく『異聞録』に、進士及第さえしかねたのら男に、畏くも后土夫人が、大事の初物を賞翫させ、加之《そのうえ》仕まつり賃、銭五百万を賜わった譚は、唐人李翰が、則夫武氏が出処素性を論ぜず大陽漢を起用寵嬖されたを語った戯作だ、と述べたのだ。
 この譚が出た唐末より二百四十年ほどのち、南宋の紹興中に、漢唐以来の大祠たる汾陰の后土詞が、女真兵数万の統軍、黒風大王に占領された。物の心をえぞしらぬ荒夷のことだから、所構わず料理しちらし、腥羶汗穢、盈積して阜のごときを少しも掃除せざるさえあるに、一夕酔に乗じ、后の真容を観て??せんとしたので、たちまち神譴を受け、士卒十の二、三を亡うたそうだ(南宋洪邁『夷堅甲志』一と『夷堅支志』甲二)。唐宋の間、后土は全く女神となり切(421)ったと知れる。ただし後漢以来仏教入り来たるにつれて、インドの諸神にそれぞれ妻室あり、后土男神もまた細君ありと信じ、さてこそ単に后土と言わず、特別に后土夫人と称えたのかとも察する。果たして然らば、前に引いた后土夫人が韋安道に会うた譚は、后土男神の目を忍びて、その夫人が大年増ながら、処女身を現じて年下の男に通じた譚になる。
 明の謝在杭の説に、陳子昂が生まれた?州《ろうしゆう》に、子昂を祀って陳拾遺廟と名づけたが、のち訛って十姨となし、ついに婦人の像に作り替えて、厳かに崇奉する。温州の杜拾遺廟も、のちに訛って杜十姨となし、婦人の像を祀った。さて五髭鬚相公神に妻なきは気の毒とて、杜十姨と配偶させた。五髭鬚は呉の忠臣伍子胥を訛ったのだ。拾遺の官は、かくたびたび人の身後を誤らせた。陳子昂が婦人となったは、それでよいが、詩聖杜子美を伍子胥の妻としたは、間違いにも程がある、と(『文海披沙』七)。
 本邦でもこんな間違いがあった一例は、正徳三年に出た『和漢三才図会』七六にいわく、粟島大明神、祭神一座、少彦名命《すくなびこなのみこと》、云々、けだし彦は男子の通称、天稚彦、吉備武彦等のごとき、これなり。俗もって女神となす。すなわち住吉神の后、帯下《こしけ》の痼疾あるをもって棄て去らる。故にこの神に祈れば、よく腰以下の病を治すと、云々、謬りのはなはだしき、それ何ぞかくのごとくなるや、と。それより二十三年前、元禄三年板『人倫訓蒙図彙』七にも、粟島殿、その神は陽体にして女体にはあらず、しかるを頗梨《はり》才天女の宮というなり、笑うべし、笑うべし、とある。井沢長秀の『広益俗説弁』三に、白井宗因いわく、「神代巻」に、大己貴命《おおあなむちのみこと》、少彦名命と心をあわせ、天下を経営し、(中略)後に大己貴、少彦名命に謂いていわく、われらが造れるところの国、豈《あに》善《よ》く成れりと謂わんや。少彦名命答えて、あるいは成れる所もあり、あるいは成らざるもありとて、淡島に至り給う、と記せり。粟島の神社は、紀伊国にあり。思うに少彦名命、大己貴に伴い、諸国を巡り給いしゆえに、陰《め》神と心得、病を療《おさ》むるの方《みち》を定め給いしことを、婦人の病のみを愈やし給うとし、大己貴に背きて淡島に至り給うことを、病いによって陽《お》神より謫せられたりと、訛《あやま》り伝(422)うのみとあり、と。まずはそんなことかも知れない。
 また勢州安濃津称念寺僧沙門の『弘安九年大神宮参詣記』に、「さても斎宮は、皇太神宮の后宮に准《なずら》え給いて、夜な夜な御通いあるによりて、斎宮の御衾の下には、晨《あした》ごとに蛇《くちなわ》のいるここち侍るなど申す人あり。本説おぼつかなく侍り。俗にいう、このこと人つねに尋ね申すことなり、はなはだ不実なり」とあるので、鎌倉時代に、天照大神は男神という俗信行なわれたと知る。『明良洪範』二〇に、戦国蒙昧の余弊で、伊勢両宮共に浮屠師《ふとし》の寄り合いとなり、御祓筥の銘に、時として両大神宮八大竜王の御守りと書いたとあるも、天照大神男神で、蛇形を現じて斎宮へ通い給うという昔の俗説に因んだものか。
 熱田大神宮は、卜部兼倶説に、日本武尊の垂跡なり。『尾張風土記』に、尊、東国巡歴の帰途、尾張連等の遠祖宮簀姫命を娶り、その家に宿る。とは妙な書き方だが、そのころその辺で母系統をもっぱら行なうたので、年ごろの女は好みのままに、その家に来る男に会うたのだ。さて一儀|事《こと》済んで尊|厠《かわや》に向かう時、帯剣を桑の木に掛け忘れ、殿に入って気がつき、取りに往くと、剣に神光あって把り得ず。そこで姫に向かって、この剣神気あり、宜しく斎《いつ》き奉って、わが形影となすべし、と言った。一説には、この剣を宝に持って、わが床の守りとせよ、と言ったという。これが熱田の御神体で、形影にせよ、床の守りにせよ、尊の跡に留まり、尊を代表する物ゆえ、この神剣は尊と等しく男性たるに論なし。しかるに後世説をなす者あって、唐の玄宗日本を取らんと企てた時、この明神楊貴妃と化して世を乱し、ついに日本を取らざらしめた。されば楊貴妃殺されたのち、方士楊通幽が貴妃の魂|蓬莱《ほうらい》にありとて、熱田神社へ尋ね来たったという。これもまた男神を女化したものだ。ただし日本武尊十六歳で熊襲を撃った時、髪を解いて童女の姿をなし、賊魁|川上梟帥《かわかみのたける》を刺し殺したことあれば、犬坂毛野、弁天小僧等、女形どもの鼻祖として、身後なおよく楊大真に化して、皇国を全うし給うたと作ったものか。(『延喜式神名帳頭註』。『熱田大神宮縁記』。『東海道名所記』四。『日本紀』七)(昭和七年十月十四日午後三時)
 
(423)     俵の字
 
 曲亭馬琴の『昔語質屋庫』三に、「俵《へう》の和訓たはらとは、たちはしるの義にて、米をつつむたはらにはあらず。また米をつつむ巻筵をたはらと和名せしは、手束藁《たばねわら》の略なり。しかれどもいつのころよりか借り用ひて、俵の和訓を、手束藁に当てたり。字書に、俵は悲廟の切、音標、俵散《あらはしちる》なり、とあり。これをたちはしると和訓して、略してたはらと唱へたるなるべし。かかれば手東藁に俵の字を当てたるすら、昔の人の誤りなるに、また田原の仮字に手束藁の義を取りても、はらとわらとの仮名ちがひあり」と論じある。なるほど『和漢三才図会』一五、「倭字大略」の中に、俵は散なり、あるいは※[手偏+表]に作るもまた同じ、しかるに倭もって穀※[竹/屯]の名となす、と述べ、『康煕字典』には、俵は散なり、(また)分?なり、散る、分かち与うるの二意ありとし、少しも穀を盛る藁製の袋という解を出しおらぬ。まことに馬琴の大捷のようだが、よく穿鑿すると、馬琴の不穿鑿と知らる。
 『北夢瑣言』二十巻は、初め五代の南平王高氏五世に歴任し、のち北宋の太祖に事《つか》えた孫光憲の筆で、五代の事蹟を調ぶるにいと必要な書で、『旧五代史』の闕分を、この書に拠らずに補い得ないのが多くある。さて、後唐の荘宗の神閔敬皇后劉氏は、藪医と卜術で糊口した貧人の女、それが荘宗に幸されて、帝の最愛子継岌を生み、寵待日に盛んなりと聞いて、件の老父が尋ねてきた。その時劉氏は嫡夫人と寵を争う最中で、自分の素性が知れては一大事と、自分の老父を全くの詐欺漢と誣い宮門で苔うった。また敵将の子李継宣が脱走して来たのを養子とし、宮掖のあいだ穢声流聞した。荘宗、劉氏生むところの皇子継岌を大将、重臣郭崇韜を副将として蜀を討ち平らげたのち、劉后|私《ひそ》かに(424)継岌に教書を遺り、崇韜を族滅せしめた。これより人気頓《とみ》に悪化し、軍士反乱して、荘宗流矢に中《あた》り、傷はなはだしくて殿の廊下に臥せるを、后みずから省視せず、帝崩じてのち、皇弟李存渥と偕《とも》に逃れた。その道中で存渥と同簀して寝たとあるから、夫は戦死し、子は遠征して帰らぬ、人並の女なら気が気でない危急の際にも、かの事を専念し、今のさき死んだ夫の弟におびただしく気を移して楽しんだので、荘宗の次に立った明宗その穢を聞き、すなわち自殺せしめたはもっとも千万な処分だ。劉后かくまで好婬なる上に、ことのほか吝嗇で、好んで利を興し財を聚めながら、仏経を写し尼師に施す他に、何一つ人に物をやらず、軍士これを怨み、一旦乱をなし、国を亡ぼし族を滅する、かの褒?、姐己と異なるなし、と『北夢瑣言』一八に評しある。そこの本文に、闕下諸軍困之、以至2妻子餓殍1、宰相請出内庫俵給とある。
 この宰相請出内庫俵給を、「宰相、内庫の俵を出だし給せんことを請う」と読んだら、まことに誂えむきで、米を貯うる俵という物が、五代の支那にあったとこじつけ得るようだが、『古今図書集成』や『欽定授時通考』などを通覧しても、俵という農具さらにみえず。かつ『五代史』一三に、朱友珪その父梁太祖を弑し、「すなわち府庫を出だし、大いに群臣および諸事に賚《たま》う」。『通鑑』に、「多く府庫の金帛を出だし、諸軍および百官に賜い、もって悦を取る」とあり。『北夢瑣言』の、闕下諸事困乏、以至2妻子餓殍1、宰相請出内庫俵給という記事を、欧陽脩の『五代史』一四には、「同光三年秋、大水あり、云々、京師の賦調充たず。六軍の士、往々|殍?《うえたお》る、云々。明年三月、客星、天庫を犯す、云々。占星者いわく、御前《ぎよぜん》まさに急兵あるべし、よろしく積衆を散じて、もってこれを禳《はら》うべし、と。宰相、庫物を出だし、もって軍に給せんことを請う」に作る。よって考うるに、宰相請出内庫俵給は、「宰相、内庫を出だし俵給せんと請う」とよむべきで、内庫中の財物を出し、諸軍に俵給、すなわち分かち?《あた》えんと請うたというのだ。
 『百川学海』丙集所収、北宋の朱ケの『可談』に、「黄州の董助教、はなはだ富む。大観己丑、歳《とし》歉《ききん》す。董、飯を為《つく》って、もって飢えたる者に食らわし、また?餌《きゆうじ》を為って小児輩に与う。まさに羅列して分俵《わかちあた》え、云々」とある。俵は(425)分?なりとは、元の戴?の『六書故』に出ずる由、『康煕字典』にみゆ。この字典は、わが享保元年成る。その五年前より三年前まで、正徳中に白石先生が撰んだ『同文通考』、すでに俵は分?なりとあるは、この字典より引くはずなければ、たぶん直ちに『六書故』から引いたであろう。それに正徳より百年ほど後に成った馬琴の『昔語質屋庫』に、明の『洪武正韻』の俵は散なりという説のみ引いて、この俵は分  昇なりという解を載せざるははなはだしき不穿鑿だ。『玄同放言』などに種々と字書を引いたが、『六書故』や『康煕字典』や『同文通考』がみえぬは、これらの書を馬琴は見なんだものか。さて、分?の?は、音比で、賜なり、また與なり、と『字典』に出ず。『説文』に、賜は予なり。『正字通』子集上に、「予、通じて與に作る」。賜も予も與も同一義だ。給は、『字典』に、足なりとも、供なり、備なりともみえ、事をかかぬように十分用意せしむることだから、?すなわち賜與は、給足に結果する。だから『瑣言』の俵給、すなわち内庫を出だして軍士に分かち賜わるは、取りも直さず、『五代史』の、庫物を出して軍に給する訳になる。かく賜も給もただ物をやると、貰う者が事足るようと心掛けてやるとの差《ちが》いあるのみ、結果がほとんど帰一するところから、古来邦語でこの二字を斉《ひと》しくタマフと訓ませたのだ。
 さて、上に引いた通り、『瑣言』に見えた宰相請出内座俵給とある内庫中の物は、必ずしも米穀に限らなんだようだが、何と言っても人々に俵給、すなわち分かち与えておのおの満足せしむるに最も適した物は米穀で、米穀をタハラに容るるは上古以来の邦俗ゆえ(『日本百科大辞典』六巻一〇一一頁)、五代またたぶん唐朝の支那で、多人に分かち与うるために貯蔵運輸する米穀を、俵米、俵物(この二語、今は知らず、予若き時、上方で通用した)など呼んだのを聞きまね、本邦でも俵米、俵物など呼び続くるうち、俵字の分?という本意を忘れて、米を容るる藁作りの嚢に冒《かぶ》せてしまうたのであろう。
 上に引いた『五代史』に、占星者が客星の天庫を犯すをみて、御前まさに急兵あるべし、宜しく積聚を散じてもってこれを禳うべしと勧めたので、宰相庫物を出だして軍に給(『瑣言』には俵給)せんと請うた、とあるをみると、俵は(426)散なりという『正韻』の説でも通ずるようだが、それでは椀久や紀文が金銀をバラ撒いたようで、餓殍に瀕せる軍士にあまねく行き渡らず、一層不平を激成するはずだ。故にここはどうあつても、俵給は分賜と解するが最上と考う。さて曲亭は、俵は散なりという散を、散ずるという自動詞と解して、「これをタチハシルと和訓してタハラと唱へたるなるべし」と説いたが、少なくとも俵給という成語に限り、俵は決して自動詞でなく、これを散の意に解するも、散ぜしむるという他動詞と見るの外なければ、タチハシラスと訓まねばならぬ。「あられたばしる那須の篠原」くらいは知れておるが、まだ俵の字をタハラと訓まない古え、果たしてタチハシラスなどいう語があったろうか。
 タハラの語源については予に何たる定見がない。しかし、このついでに自分のデモ説をちょっと述べると、予の少時は固《もと》より、今でも紀州の諸処(また、おそらくは隣国の諸村)で神前の物を拝受するをタバルといい、この田辺町では神酒をタバリに往く、神鬮《みくじ》をタバリて見たなど毎度聞く。賜ハルの略語たるは疑いなし。俵給の給字を古来賜の字と同じくタマフと訓ませた関係から、俵字をタマハラスからタハラと約したでなかろうか。十日戎の売物を買えば福を賜ハルという、その小宝の随一にタハラの縮像があるも、その遺意かと出放題に言っておく。(昭和七年十月十六日夜十二時)
 昭和七年十一月十八日追記。明の彭大翼の『山堂肆考』徴集六にいわく、「張居士は宋朝の都吏なり。妻の馮氏とともに道を好む。かつて輔真道院を湖墅《こしよ》に建て、修文坊扇子巷内に家住《すまい》す。輔真道院薬局を設け、もって人を済《すく》う。一日、斎《とき》百分を設け、期に先んじて俵子《ひきかえふだ》を散じ、日に至り、これを齎《も》つて斎に赴かしむ。期に臨んで、ただ九十九の俵子を収むるのみ。斎|訖《おわ》って、この心|終《つい》に満たず。後に輔真道院に往くによって、塑するところの鉄拐僊《てつかいせん》の上に一の俵子あるを見る。題していわく、特に来たって斎に赴きしに、われを見て采《とりあ》わず、腹を空しうして回《かえ》りしに、俵わが拐を縛る、と(下略)」。多人に物をやるに、あらかじめ人数だけの手形を配りおき、当日毎人その手形を持ち来たって物品と引き替えた。その引替手形を俵子と称えたので、俵は分?なりという『六書故』の解によく合う。
 
(427)     仏が癩人と化現したこと
 
 『元亨釈書』一八の「光明皇后伝」に、東大寺成るに及び、后|以謂《おもえ》らく、大像大殿みなすでに備わり足れり、帝外に?《つと》め、われ内に営む、勝功鉅徳、加うべからざるなり、と。うたた詫《ほこ》る意《こころ》あり。一夕閤裏の空中に声あっていわく、后誇るなかれ、妙触宣明、浴室澣濯、その功言うべからざるのみ、と。后、怪しみ喜ぶ。すなわち温室を建て、貴賤に浴を取らしむ。后また誓っていわく、われ親《みずか》ら千人の垢を去らん、と。君臣これを憚る。后の壮志|沮《はば》むべからざるなり。すでにして九百九十九人を竟《お》う。最後に一人あり、偏体疥癩、臭気室に充つ。后、垢を去るを難《はばか》る。また、みずから思うていわく、今千数に満つ、豈《あに》これを避けんや、と。忍んで背を揩《す》る。病人いわく、われ悪病を受けてこの瘡を患うること久し、たまたま良医あり、教えていわく、人に膿を吸わしめば、必ず除癒を得んと、しかるに世上深く悲しむ者なきゆえに、わが沈痼ここに至る、今、后無遮の悲済を行《ぎよう》ず、また孔《はなは》だ貴し、願わくは后意あらんや、と。后|已《や》むを得ず、瘡を吸い膿を吐いて、頂より踵に至ってみな遍《あまね》し。后、病人に語っていわく、われ汝が瘡を吮《す》う、慎んで人に語るなかれ、と。時に病人大光明を放ち、告げていわく、后、阿?《あしく》仏の垢を去る、また慎んで他に語るなかれ、と。后、驚いてこれを視れば、妙相端厳にして光耀馥郁たり。忽然として見えず。后、驚喜無量なり。その地に就いて伽藍を構え、阿?寺と号す、と出ず。
 宝暦中大坂板『好色節用集』には、その時癩人快極まり、この御恩あしくは思い奉らず、あしくはあしくはと、ぶつぶつ呟いたので、聞く人、さてはあしく仏の来現したまうと、皆々随喜の喜《き》をぞやりけると、いと可笑《おか》しくも作り(428)替えある。阿?如来は、真言宗の五仏中、東方の主尊で、東方浄瑠璃世界の教主薬師如来と別ちて、室町時代より盛んに崇拝された十三仏の二員たれど、この二仏実は同一と、明治二十六年、故|土宜《どぎ》法竜師が大英博物館で、当時の宗教部長サー・ウォラストン・フランクスに語られたを、予が通弁した。高野山金堂の本尊薬師如来丈六の坐像は、当山開闢の時、地鎮の御本尊なり、深旨には阿?如来というと、『紀伊国名所図会』三編五巻に見ゆ。
 『古今著聞集』釈教篇には、「行基菩薩、諸《もろもろ》の病人を助けんがために、有馬の温泉に向かい給うに、武庫山の中に一人の病者臥したり。上人憐れみを垂れて問い給うよう、汝何によりてかこの山の中に臥したる。病者答えていわく、病身を助けんために温泉に向かい侍る、筋力絶え尽きて前途達しがたくして、山中に止まれるあいだ、糧食《かて》与うる者なくして、ようよう日数を送れり、願わくは上人憐れみを垂れて身命を助け給え、と申す。上人この言葉を聞きて、いよいよ悲歎の心深し。すなわちわが食《じき》を与えて、付き添いて養い給うに、病者いわく、われ鮮かなる魚肉にあらでは食することを得ず、と。これによりて、長洲《ながす》の浜に至りて、生《なま》しき魚を求めて、これを進め給うに、同じくは味《あじわい》を調えて与え給えと申せば、上人|躬《みずか》ら塩梅《あんばい》をして、その魚味を試みて、味調うる時すすめ給うに、病者これを服す。かくて日を送る。またいわく、わが病い温泉の効験を頼むといえども、たちまちに癒えんこと難《かた》し、苦痛しばらくも忍びがたし、喩《たとい》をとるに物なし、上人の慈悲にあらでは、誰かわれを助けん、願わくは上人、わが痛むところの膚《はだえ》を舐《ねぶ》り給え、しからばおのずから苦痛助かりなんという。その体焼爛して、その香はなはだ臭くして、少しも堪え怺《こら》うべくもなし。しかれども慈悲至りて深きがゆえに、相忍びて、病者の言うに随いて、その膚を舐り給うに、舌の跡、紫磨金色となりぬ。その仁をみれば、薬師如来の御身なり。その時、仏告げて曰《のたまわ》く、われはこれ温泉の行者なり、上人の慈悲を試みんがために、病者の身に現じつるなりとて、忽然として隠れ給いぬ」。その時上人発願し、薬師の堂舎を立てんとて、その地を占定し、今の昆陽寺を立てた、とある。
 支那ては『宋高僧伝』二八に、五代の時、洛腸の中灘浴院を開いた釈智暉は、多能放達の僧だったが、帝京の諸寺(429)に浴室の備え不十分なるを憾み、「戸を鑿《うが》って室を為《つく》り、南北の岸を界《くぎ》りて数畝の宮《てら》を葺《ふ》き、示すに標?をもってし、その福業《ふくごう》を楽しむ者を召して、これに占《お》らしむ。いまだい※[其/月]《いちねん》ならずして、ようやく構え、欲閏みな周《そな》わる。浴具と僧坊は奐焉《かんえん》として序あり。これより洛城の緇伍《そうご》、道観の上流、至る者は帰るがごとく、来たる者は阻むなし。毎《つね》に合朔《がつさく》の後五日をもって、一たび洗滌を開き、かつて間然することなし。一歳にすなわち七十有余たび会す。一たび浴あれば、すなわち遠近よりすべて三、二千の僧を集む。暉、躬《みずか》ら執役《しつえき》し、いまだかつて倦《つか》ると言わず」とあり、「終うるところを測《はか》るなし」、いつごねたとも知れぬようだが、『神僧伝』九には、周の顕徳三年(村上天皇の天暦十年、西暦九五六年)八十四歳で化す、とあり。毎々浴したから長生したのだろう。さて、「初め暉が中灘におると、病比丘あり、衆に悪《にく》み粟てらる。比丘哀しんでいわく、われ宿業をもって白癩たり、師|能《よ》くわがために洗摩せんや、と。暉これをなして難色なし。にわかに神光異香あり。方《まさ》にこれを訝かるに、たちまち所在を失う。帰りて視れば、瘡痂もまたみな異香あるなり」と見ゆ。『宋高僧伝』は北宋太宗の端拱元年(一条天皇の永延二年)成り、『古今著聞集』より二百六十六年、『元亨釈書』より三百三十四年早く、『神僧伝』は明の太宗の永楽十五年(称光天皇の応永二十四年)成り、『著聞集』より百六十三年、『釈書』より八十五年後れた物だ。予が見た本どもには、智暉が白癩人を洗うた一条は『神僧伝』のみにあって、『宋高僧伝』になし。ただし『神僧伝』の文はなはだ簡略で、物足らぬ点多く、もと種々の古書から抄纂した物らしいから、旧くそんな原本どもが本邦に渡りあって、智暉は、光明皇后や行基より約二百余年晩れた人なるに関せず、多少智暉の一条に基づいて、光明皇后や行基が難病者の膿吮い談を拵え上げたことと想う。『古今図書集成』神異典七八に、『薬師経』を引いていわく、「薬師如来、もと菩薩道《ぽさつどう》を行《ぎよう》ぜし時、十二の大願を発し、もろもろの有情《うじよう》をして求むるところをみな得しむ。(中略)第六の大願。願わくは、われ来世にて菩提《ぼだい》を得るの時、もしもろもろの有情《うじよう》、その身下劣にして、諸根具わらず、醜陋《みにく》く頑愚《おろか》にて、盲聾??《めくらつんぼおし》、攣躄背僂《てなえあしなえせむし》、白癩?狂《びやくらいてんきよう》、種々の病苦あらんも、わが名を聞き己《おわ》らば、一切みな端正|黠慧《きつけい》なるを得て、諸根|完《まつた》く具わり、もろもろの疾苦なからん(430)ことを。第七の大願。願わくは、われ来世にて菩提を得るの時、もしもろもろの有情《うじよう》、衆病逼切し、救いなく帰するなく、医なく薬なく、親なく家なく、貧窮にして苦《く》多からんも、われの名号《みようごう》一たびその耳を経《へ》ば、衆病ことごとく除《のぞ》かれ、身心安楽に、家属《かぞく》資具《しぐ》、悉皆《しつかい》豊足せん、乃至《かいし》無上の菩提を証得せんことを」と。諸有情をして、持って生まれた不具と癩患等の諸病を脱せしめんと第六大願、その身一代に起こった衆病、それから和歌に「南無薬師救はせたまへ世の中に」、浄瑠璃文句に「貧よりつらい病ひはない」とある、四百四病中の最重患までも除きやらんと第七大願を発したのだ。したがって療治に大効ある浴室や温泉を薬師如来が加護するとの信念から、有馬の温泉寺、湯峰の東光寺を始め、本邦であまねく温泉場に薬師堂を建てた。これはむろん支那伝来で、それと同時に、薬師如来が悪病人に化して、遇《あ》う者の慈悲心を試み証した譚が輸入され、種々形を更《か》えて、光明皇后や行基菩薩の伝記に挿まれたのだ。
 上に述べた通り、『神僧伝』の文簡に過ぎて、始末を悉《つく》さないが、智暉伝の原本には、たぶん、この僧が洗摩しやった白癩人を、阿?仏とか薬師仏とか、指示してあったと推する。左なくとも、今一段調査を精しくしたら、智暉より早く、こんな伝説の付いた人を若干見当て得るはずと惟う。只今そんな暇がないのが残念な。欧州にも六世紀にフランク皇クロテール一世の后だったラデグンダ女尊者は、在世間中すでに、皇后でなくて尼だと評されたほどの浄信家で、かの一儀などにさらに趣向を悉さなんだその憤りを移したものか、夫皇|終《つい》に后の兄弟を殺したので、后は遁れ去って尼となり、専心慈善を業とし、貧女を多く浴室に致し、みずからその垢を摩《す》りやったというから(一八五三年ブルッセル板、ジュフール『売靨史』四巻二三一頁。『大英百科全書』一一板、二二巻、その条)、精査したら光明后に似た話が付きおるかも知れぬ。
 
(431)     吝嗇漢を放蕩に導いた神
 
 元文三年其碩の自序ある『御伽名代紙衣』二は、浪速の放蕩家として高名な椀久の一代記だ。堺筋の椀屋《わんや》久右衛門、一代に二万両余を儲け蓄え、七十五歳で頓死し、一子久兵衛すなわち世に語り伝うる椀久その跡を丸取りにして、「二十一の年より生まれ付きたる長者なり。親に勝りて嗇《しわ》く、諸親類に所務《しよむ》分けとて、箸片し散らさず、(中略)動かぬ身上羨まぬ者はなし。ここに谷町の末に、奇麗なる露路の入口の柱に張紙見えける。何の所作もかかず、筆太に鳥右衛門宿とばかりは曲者なり。三光を囀《さえず》る鶯がな持ち、付け子の礼銀取りて身を過ぐるかと思えば、様子を知りし者の咄を聞けば、色神使いの鳥右衛門とて、この者の親きわめて色好みなれども、身貧なれば、美形の女をみても、恋の叶わぬを憤り、鴛鴦《おしどり》の番いをわけて、雌を捕えいて、この鳥に最愛したくば、われにつけ、われにつけと、雄鳥に恋い焦がれさせて、殺して埋めければ、その念その者に取り付きて、昔より言い伝えし、土佐の国畑という郷の狗神《いぬかみ》使い同然になりて、人の器量よき女の親しき中を見ると、たちまちその男に付きて、一生色事にかかって身を果たさせる畏《こわ》き者の悴にて、この鳥右衛門に無心いわれ、聴き入れぬ者には色神取り付き、身代を色事に使い潰すことぞかし。
 「ある時椀久、又太夫が舞の配り札を二枚貰い、これをみずに果てるは一代の損と、握り飯|懐《ふところ》にいれ、わが年とは合わぬ六十ばかりの銀《かね》貸し仲間の親仁を誘いて見物にゆき、果てると幸い出たついでに、清水へ詣つて帰ろうと、浜茶屋に腰をも掛けず、腹のへるを厭うて静かに歩み、当世仕出しの風なる女中の芝居帰りにも目をやらず、親仁と道(432)々味噌、塩薪の少なう入る魂胆|咄《ばなし》、または利銀宿賃の納まる算用ごとばかり咄して、互いに嗇き心の逢阪の清水を手して掬《むす》びあげ、咽の渇きをやめて、野に働く農夫の火繩煙管借りて、二文粉の煙草を烟《けぶ》らせ、それより新清水へ参り、散銭《さんせん》なしに伏し拝み、また折り返しに長町の裏道を戻るに、当流造りの下屋敷、東見晴らしの中二階、今日一日切りに借りて、西国へ根引にしてゆく女郎を、九軒町の揚屋が、大臣逗留のうちしたたか貰いしものとみえて、亭主夫婦が立ち振舞に、この所へ招待して、手合いの末社遣手雑《まつしややりてまじ》りに、めでたいを八百ほども申せば、田舎大臣置き頭巾にて、書院けぬきで生えもせぬ髭抜きながら、国元の母者人も、長う取って今年来年の中には、極楽か地獄へ参るべし、したらばこの君をおか様と言わせて、大黒柱に凭れ掛からして、出入り人に奥様奥様と腰屈めさすことと言えば、いずれも詞を揃え、太夫様の御仕合せをこの上ながら願い奉ると、追従申せば、女郎はわが親ともいいそうな、年寄男になずみたる顔して、嬉しがること言いてのぼしいる。(中略)「椀久はるかにみ込んで、件《くだん》の親仁の袖引きて、あれみさっしゃれ、この儲け悪《にく》い金で、啌《うそ》で固めた傾成に鼻毛読まれて、受け出してゆくそうなが、可愛や追っ付け使いなくして、塵も灰もなく、火吹く力もなく、身代破れ編笠きて、一度は栄え一度は衰うると、身の程を謡い諷《うた》いとなって、今旦那旦那とそやし立てる太鼓持が、門に立ったと米一?み取らせは致すまい、惣《そう》じてあの太鼓持つ奴らが、人の子息子を惡うすることで厶《ござ》ると、まだ二十五にもならぬ口から、世界の末社どもを、厄病の神のように謗《そし》るを、(椀久の)借屋にいる万三《まんみつ》の太助が、跡から往き合わせてこれをきき、おのれが苦にもならぬ言《こと》を吐《ぬ》かして、太鼓持を万更《まんざら》人間の外のように沙汰し、このごろしきりに宿を替えと催促しおる憎さ、妻子を持たぬ身ならば、後ろから切り付け、日ごろの意趣を晴らしたいものなれど、第一命惜しければ堪忍すると、椀久を跡から睨みつけ、いかにもしてこの遺恨晴らすべしと思案して、直《すぐ》に色神使いの鳥右衛門方へゆき、堺筋の椀屋の久兵衛に取り付いてたまわれ、御礼はきっと申さんと頼みて還りぬ。
 「ころは七月二十五曰、四ツ橋あたりの材木屋へ椀久|同行《どうぎよう》とつれだち、念仏講に行きけるが、材木屋の母の三十三年(433)に中《あた》られたるとて、念仏講の夜食の掟《おきて》に外れ、いつよりは精進料理ながら叮嚀なる夜食、酒も今宵は少し過ごして、機嫌よう遊んで下され、親の代より少々仕合せも致して、隣をかうたし、人も以前よりは置き増して繁昌して、母の遠忌《おんき》を弔いますは、何ほどか悦ばしう存ずる。五十年忌までは、寿命のほども知れませぬ。これが私の弔い納めと存ずれば、一入《ひとしお》まいって下されと、摺り芋の吸物などして強いられければ、講中いつにない大酒せられ、おのおのよい機嫌にて立たれけるが、講頭《こうがしら》の禅門熱に浮かれ、何といずれもこの機嫌で、いざ揚屋の座敷踊りをみて帰るまいかと言い出されければ、みなみな十盃機嫌にて、こりゃよかろうと、椀久も進みて打ち連れ立ちて、西口の香具屋は、講中の焼香買う得意なれば、この香具屋を頼み、扇屋という大揚屋の座敷へ見物に行きける。太夫揃え一様に絹縮《きぬちぢみ》に、牧の放れ駒の墨絵、広袖に紅《もみ》の襟裳、楊子のようなる手を打って、華車なる踊りぶり、蹴返し、はね褄、引き足の麗わしく、みとれているところに、阿波座の雲井という端女郎、裾に七疋の狐付きたる模様の踊り浴衣きて、見物の後ろより押し分け押し分け入りて、椀久が背を叩き、どうもそこへ行かれませぬ、そこを明けて通して下さんせと、頼みしなに何心なく手をとってひたひたと身を添えける。椀久よい機嫌の上にて心も浮きたち、そもじのことなら任せておけと、力一盃あたりを突きのけ、この女郎を心易く通して踊らせけるが、これぞ女郎買いの病み出しとなるべき因縁にや、狐の模様の浴衣忘れず、わが前に廻る度ごとにほめて、踊り果てると講中の親仁どもをまきて、香具屋の亭主を頼み、件の雲井に登りそめ、局の契りが恋のいろは、念仏講の酒に酔いもせず、けうとう取り乱せしも、思えば浴衣の模様の狐に化かされて、ねもせで迷うたさ」。
 熊楠いわく、この無粋漢が一夕揚崖の座敷踊りを見物して頓悟し、にわかに大金遣いになった一条は、これより前四十五年(元禄六年)に出た『西鶴置土産』二の三、「憂きは餅屋、つらきは碓《からうす》ふみ」に倣うたもので、享保三年、一洞作『寛濶大臣気質』四の三、「猫さえ吟味てかけ大臣」の一章は、その西鶴の全文を盗んだものだ。その譚の大要は、河内のある庄屋が、大坂白髪町に妾を囲いおき、昼は公用を務め、毎夕、四里ある道を早駕籠で走らせ、所も(434)あろうに新町の遊廓を東門より西へ通らせ、その妾へ通うた。ところが七月末よりかの遊廓揚屋ごとに座敷踊りを始め、庄屋の妾も見たいと切願したので已むを得ず、西口の香具師新九即という幇間に案内させ、おのおの引きつれ見物に出た。廓内二十四人の太夫、十九人まで一処に集まり、この外、天神《てんじん》、鹿恋《かこい》、店の声ある女郎|双《なら》べて百三十二人、みな紫の帽子、揃うたりや手拍子、腰付きに気をとられ、蹴返し、はね棲、引き足の麗わしく、云々、日の暮れ行くを惜しむ折ふし、伏見屋の端局《はしつぼね》に勝之丞とて、一匁取りの女郎、踊り装束して、大勢の中を押し分け押し分け入りて、かの庄屋が左手を何心もなく締めて、そこをあけて通したまえと、ひたひたと身を添えたので、力に任せあたりを突きのけ、この女郎を踊らせたのが、恋の初めとなって、石畳の浴衣忘れず、わが前を廻るごとにほめて、踊り果てれば妾を先へ帰し、香具屋を頼んで女郎買いにかかり、この意気地|蚤《と》く知らなんだは無念と、そのまま妾を暇出し、端女郎をやめて太夫を買い出し、破産して村を立ち退き、玉造の末場でいささかの餅屋を営んだ、というのだ。
 椀久も、「念仏講の酒《ささ》機嫌の拍子に乗って、廓踊りみてから色の淵に足踏み込み、始めて食い付きし局女郎も、この道に染むに随い、安きところに目が付きて否気《いやき》になり、押し出して囲い女郎」、それから天職と、「だんだんに奢りが付きて、廓の者も見しるほどの買手になれば、はや天神などまだるくなりて、その時分盛りなる丹波屋の松山という太夫にあい出し」、種々と贅沢して面白かった末の語りは、松こさじと契った松山も、人手に渡って互いに袖をしぼりつつ生き別れ、頼みに思う姨《おば》は死なるる、金とては一分もなし、姨の跡目は他人が継ぎ、十両取らせて追い出さる。終《つい》に出家して発狂し、三十三の年の暮れ、雨中に水に入りて姿見えず。その時椀久が著た布子の袖より、色神の魂が飛び去ったそうだ。
 椀久が扇屋の座敷踊り見物の節、端女郎雲井を思ひ初めてより放蕩三昧に足を入れた一条は、其碩が西鶴に範を採ったと上に述べた。それと等しく、初め吝嗇だった椀久が、色神に取り付かれて、ついに家産を傾け尽して失心横死した次第も、其碩がどこかから移し取ったか、はたその独創かを、予は只今判断し能わず。だが次の支那譚が、ある(435)いは多少、其碩が椀久の一代記を『御伽名代紙子衣』に書き入るるに役立ったものかと考える。この書が出た元文三年より約八百五十年前成った唐の張読の『宣宝志』六にいわく、「郭?、櫟陽の県尉を罷《や》め、久しく調《め》さるるを得ず。京華に窮居して困しみはなはだし。??《きつきよう》の間、常に一物あり、猿?《さる》のごとく、青碧を衣《き》て、出入と寝興《ねおき》に相|逐《したが》わざるなし。およそ意を挙げて求索せんと欲すれば、必ず?と倶《とも》に往くに、造詣《いた》るところ枳棘《ききよく》を礙《さえぎ》るがごとし。親友これを見れば、倶に讐隙《かたき》のごとし。あるいはこれを厭《はら》うに符術をもってし、あるいはこれを避くるに山林においてするも、数年ついに能く絶つなし。一夕、たちまち来たり別れを告げていわく、某等《われら》、君の厄運を承《う》け、相別れざること久し。今すなわち暁を俟《ま》って行き、また至るなし、と。?すでにその去るを喜び、ついに詣《いた》る所を問う。いわく、世路《よのなか》に某《われ》のごとき者はなはだ多し、ただ人の見ざるのみ、今われの詣る所は、すなわち勝業坊の富人王氏にして、まさに往ってこれを散らさんとす、と。?いわく、彼の聚斂は豊盈なり、何をもって遽《にわ》かに散らん、と。いわく、先に計を安品子に得たり、と。暁鼓たちまち鳴り、ついに所在を失う。?すでに興《お》きて盥《てあら》い櫛《くしけず》れば、すなわち愁憤の開豁するを覚ゆ。試みに親友に詣《いた》るに、観を改めて相|接《むか》えざるなし。いまだ旬《とおか》ならずして、宰相に見《まみ》えて面白《めんはく》し、ついに通事舎人に除《じよ》せらる。
 「?に表弟《ははかたのいとこ》の張生なる者あり。金吾衛《きんごえい》の佐たり、交遊はみな豪侠なり。少年奇を好み、これを聞くもいまだこれを信ぜず。勝業の王氏の左軍に隷するを知り、これより常に往ってこれを伺う。王氏は性倹約にして、費やすところいまだかつて分を過ぎず。家に妓楽あり、端麗なるもの至って多し。これを外《べつ》にして、R服冶容《げんぷくやよう》、造次《つかのま》もその意《こころ》を回《めぐ》らすなし。一日、賓朋と鳴珂曲を過《よぎ》る。婦人あり、?粧《よそおいかざ》つて門首に立つ。壬生、馬を駐めて遅留し、喜んで顔色を動かす。よって、同列の者を召し置酒《さかもり》して歓をなし、張生これに預かる。これを訪うにすなわち安品子の第《やしき》なり。品子|善《よ》く歌い、この日数曲を歌う。壬生ことごとく金綵をもってこれに贈る。衆みなその広費を訝《いぶか》る。これより輦を挙げて資貸し、日々その門に輸《いた》す。いまだ数年を経ずして、ついに貧匱《ひんき》に至る」と。
(436) この貧乏神は猿の形で鳥の死霊にあらず。また被害者の怨みある人に使わるるでなく、自分の意に任せて人を困らす。だが色仕掛けで人を貧乏せしむることは色神に同じ。尾張の徳川義礼侯は、生来真面目な人だったが、ある年の年始に柳橋とかを通ると、若い芸妓が過って羽子をなげあてた。即坐にその女を可愛くなり、寵遇のあまりお家騒動中に物故された由、その時その邸へ暴れ込んだ高名の侠客の親友だった人からも聞けば、新聞紙でも読んだ。けだし色神に取り付かれたのかも知れんて。(昭和五年三月二十六日)
 
(437)     アンコルワットの戯書者について
 
 予小壮の時、『天竺徳兵衛物語』や、その抄文が『和漢三才図会』六四に出たのを読んで、そのいわゆる天竺は今の何の地に当たるを審らかにせず。のち多少インドの諸語を窺い知るに及び、ますます疑いおったところ、近年徳富氏の「徳川幕府」鎖国第、天竺徳兵衛物語の条に、この天竺というは安南・暹羅《シヤム》方面のことを意味するとあるをみた。しかし、かの物語に、交趾、占城、柬埔寨《カンボジア》、暹羅を経て西北にゆき、天竺|摩訶陀《まかだ》国流沙河口に至ったとあるので、いわゆる天竺はあるいはビルマあたりのことかとも思いおった。ところが今年九月一日の『大毎』紙に出た黒板博士の実践記を読んで、徳兵衛等のいわゆる天竺摩訶陀国は、中インドのそれではなくて、柬埔寨(カムボジア)のことと知り得たは感謝の至りである。博士の記に拠れば、カムボジアの大伽藍アンコルワットは、三百余年前より本邦人に知れおり、水戸彰考館に存する祇園精舎の図なるものは、長崎通辞島野兼了が和蘭《オランダ》船に便乗して渡航し、家光将軍の命によって作ったアンコルワットの実測図で、天竺徳兵衛の渡天物語にも、アンコルワットを祇園精舎としあるそうだ。
 当時の邦人がアンコルワットを祇園精舎と信じた確証は、かの寺の石柱に日本人が戯書を留めあるを聞いて、博士がみずから写し取ったもので、分からぬ字を除き、まず次のごとしと拝見する。
  寛永九年正月ニ初而此所来ル、生国日本肥州之住人藤原之朝臣森本右近大夫一房、御堂ヲ心ニ為、千里ノ海上ヲ渡、一念之儀ヲ念生々世々娑婆寿(山カ)世之思ヲ清ル者也、為其仏ヲ四体立奉物也
(438)  摂州北西池田之住人森本儀大夫右家之一吉善魂道仙士為娑婆是書物也
  尾州之国名谷之郡後室其老母者明信大姉為後世是書物也
    寛永九年正月廿日
 博士いわく、寛永九年は肥後加藤家が改易される以前で(熊楠いわく、この年六月改易)、清正以来御朱印船を海外に送っていたのであるから、おそらく森本右近太夫もこれに搭じて、この地に来たのであろう。この文中にある森本儀太夫は、清正の家来で有名な勇士であった。右近太夫が島野兼了と同じく、この寺を祇園精舎の跡と信じて、千里の波濤を凌いでこの寺に詣で、仏像四体を奉献した熱烈なる信仰、そこに当時の日本人がまた海外発展の実力を有《も》っていた所以も諒解される。その母が尾張名古屋の生れで、明信大姉という法号を有しているので、法華宗であったかと想像される、云々、と。
 熊楠按ずるに、カムボジアの初王は、仏が涅槃に入る少し前、仏に謁した大トカゲの転生といい、アンコルワット等の建築は毘首羯摩天《びしゆかつまてん》の作と伝うるなど、天竺そのままの口碑が多いから、日本人がひと呑み込みにカムボジアを天竺、アンコルワットを祇園精舎と信じたももっともだ。明治の初年大いに行なわれた松山棟庵の『地学事始』は、天と天竺を区別しない人々を啓発せんとて出したものと断わりあるに、セイロンを仏が出世した国のように書いてあった。それに比べると、寛永ごろの武士が、アンコルワットを祇園精舎として疑わなんだも怪しむに足りぬ。(一八八三年パリ板、ムラ『柬埔寨王国誌』二巻六頁等。一八七三年パリ板、ガーニエー『印度支那探討記行』一巻二六頁参照)
 また按ずるに、森本儀太夫の子が祝園精舎に遊んだということは、従前全く本邦に知れおらんだでない。『甲子夜話』二一に、「森本儀太夫の子を宇右衝門と称す。儀太夫浪人の後、宇右はわが天祥公(『夜話』の著者松浦静山侯の祖先)の時、しばしば伽に出ず、(中略)かつて明国に渡り、それより天竺に往きたるに、かの国の界なる流沙河を渡る時、顔を見たるが、ことに大にして数尺に及びたりという。それより檀特山に登り、祇園精舎をもみて、この伽藍の様は(439)みずから図記して携え還れり。今その子孫わが藩中にあり、まさしくこれを伝う。しかれども今は模写なり。また跋渉の中、小人国に抵《いた》るに、折ふし小人うち聚まりて一石を運びて橋にかけいしを、宇右見てすなわちみずから一人にて石を水に渡したれば、小人ら大いに喜び、謝酬と覚しく菓物を多く与えたり。今に伝えしが年をへたるゆえか、今にては梅干のごときものなり、と。始めは多かりしが、人に与えて今はわずかに二、三を存せり。近ごろ、ある人のいわく、これらの到りし処、まことの天竺にはあらで他邦なり、と。流沙河もその本処は沙漠にして水なし、云々」と記す。しからば今も捜したら、平戸旧藩士民の家に、この森本氏のアンコルワット図記を発見し得るかも知れぬ。
 件の小人国は怪しい談だが、アジア大陸の東南部に小人国というべき矮人は確かにある。マレー半島の蛮民セマンは、身長四フィート九インチで果物を食い石と石板を器用す。人死すればその魂熱く湧く湖上に架けた橋を渡り楽土へ趣くに、罪ある魂は熱湖に堕つと信ずという(一九〇六年板、スキートおよびブラグデン『馬来《マレー》半島異教民俗』一巻一一四頁、二巻一八七頁。一九〇八年板、ゴム『歴史科学としての俚俗学』二四二−三頁)。楽土へ橋で往く話さえ伝うるほどゆえ、石橋を設くるくらいのことはよくしただろうから、森本氏の談は虚言でもなかろう。流沙河で数尺長い大鰐をみたというも法螺がかっておるようだが、日本の河鰕の二、三寸を過ぎぬと異《かわ》り、恒河《ごうが》にすむ鰕バレモン・カルキヌスは長さ一フィートばかりある(一八八五年板、バルフォール『印度事彙』三巻一六三頁)。一房もそんな物を見たのだろう。
 黒板博士の記と『甲子夜話』を対照するに、森本一房は加藤家に仕えたうち右近太夫、加藤家改易後松浦家に事《つか》えて宇右衛門と称したらしい。その父儀太夫出身については、『続群書類従』六五三本所収『加藤家伝清正公行状』奇之巻に、清正、父清忠死して孤となり母に育てられ、五歳より山州山崎に飄零す。その時、隣家の二児、森本力士、飯田才八と遊ぶ。清正八歳の時、勝った者が君、負けた者が臣たるべしと約して、竹刀で闘うと清正が勝った。森本力士は清正と同年生れ、その祖父は細川高国に従い桂川で戦死した。のち天正十一年清正二十一歳で七本槍の高名あり、采地三千石を加禄された将、旧日の好《よし》みをもって森本、飯田二人を招き、始めて采邑七十石ずつを下行し、永く志を(440)忘れず影と像のごとくなるべしと君臣の誓約をした。さて清正は虎之助を主計頭、力士は儀太夫、才八は角兵衛と改めたと載せ、儀太夫、名を一久としある。同書に、天正十七年清正天草城を屠った時、家士の軍功を賞し、ことに森本、飯田、庄林(隼人近次)が挙動、漢の古えに準《なずら》えてわが家の三傑ならんと、感書ならびに恩地二千石ずつを下行す。のち秀吉長槍三本を清正に授け、黒を森本、白を飯田、黒白交われるを庄林に与えしめた、とある。『常山紀談』に、天草一揆の時、ある夜、森本、清正の前で軍議せしに、組打は力に由らず、心剛に手利きたれば易い物、と言った。清正、組打は危うきものだ、勇に誇らばきっと仕損ずべし、と戒めた。翌日、「清正の真先に森本馬を進むるところに、歩行《かち》武者一人寄せ合いたり。森本聞こゆる馬の上手なれば、敵を横さまにあててひらりと飛び下り、立ち上がらんとする敵を引っ組んでやがて首をとる。清正に向かい、夕べ申せしに違い候やと言えば、清正大きに賞せられけり」と見え、『川角太閤記』三には、この時清正、森本、庄林二人と一、二の槍を争うた。君臣一番槍を争うたは、この外に、高麗陣の時、加藤嘉明が藪与左衛門、塙団右衛門と敵船一番乗りを論じた例あり、この時まで庄林は百五十石、森本は二百石取ったのを、その場で七千石ずつ加増したとあって、諸書の石数は不同なるも、清正が士を愛し武を励ましたほどが著われおる。『紀談』にまたいわく、朝鮮でどこかの戦いに、森本流失で臂を射させ、たまたま馳せ来たった庄林隼人に、この矢を抜いて賜われ、と言った。庄林馬より下り抜き捨てると、森本さても快きことと言いも敢えず、馬に乗って馳せ出し、庄林に、続かれよと言い捨てて、敵にあい、首を取った。二人とも清正の士大将大剛の者で、森本の槍は白鳥毛、庄林のは黒鳥毛を鞘としたから、世に二人を黒鳥毛、白鳥毛と称えた、と。すなわち秀吉より賜わった物だ。『清正記』二には、文禄二年晋州城攻めに、清正内森本儀太夫一番乗りをしたが鉄砲に中《あた》り落ちる。続いて黒田長政内後藤又兵衛と堀久七が乗ったが、名乗りをあげぬうちに、清正内飯田覚兵衛、後藤が上帯引きすえ、「妙法蓮華経」の旗を指し上げ名のり、敵一人斬り殺した。清正帰陣して、森本、飯田を日本一の手柄者と賞し、飯田に三千石、森本に二千石加増した、と記す。『老人雑話』坤巻に、清正の先手の大将は森本儀太夫五千石、(441)庄林隼人五千石、飯田覚兵衛五千石。『加藤清正侍帳』は何年ごろの記録か分からぬが、飯田覚兵衛四千五百六石一斗二升、森本儀太夫五千百二十六石三斗。森本が一層高禄を受けたように書きある。
 『老人雑話』に、江戸で評議あって、陪臣で確かな武勇は誰かと問うと、清正内の飯田覚兵衛だ、高麗で天下の人数を引き廻したるは古今これなりと言った、と出ず。覚兵衛、加藤忠広が父清正に劣れるを嘆き、その没落後再び仕えず、京に籠居した時、われ一生清正にだまされたと言った由、『常山紀談』に出ず。森本儀太夫は忠広の代に、加藤の家中が両派に別れ争うた時、庄林隼人と共に佐幕派たり(徳富氏の「徳川幕府」統制篇、二九六頁)。上に引いた通り、『甲子夜話』に、儀太夫浪人後、その後宇右衛門松浦侯に事えた、とあれば、儀太夫も覚兵衛と等しく加藤家改易後まで存命したらしい。この二人清正と竹馬の友より身を起こし、その功業を翼成したのち、主家の没落を見届け、余命を浪人して送ったは悲惨の至りである。(十月八日早朝四時稿成)
  (ついでに記す)黒板博士が記した三百年ほど前の人々は別とし、日本人が日本におっていささかもアンコルワットの古物を睹《み》た初めは、明治十八年ごろ、仏国人某氏がカンボジアを経て東京に来たり、上野の博物館へ多少のカンボジア品を寄贈した。大きな野猫の肉を抜いたのや鰐魚の子などあった。その小鰐を土人より買い馬車に載せて走るうち、ひそかに繩を脱け御者の脚を咬んだ、と書き付けあった。それから石灰石のような石の壁片に、五、六の天人が蛇ごときものを引っ張って踊る体を薄彫りにしたのに、アンコルワットの石壁の一片、と書き付けあったと記臆する。今も同館に陳列されあると思う。
 
(442)     与次郎人形とお花独楽
         The Dolls that dance in Equipoise and Teetotums
 
       一 与次郎人形
 
 吾輩幼時、蚕豆《そらまめ》や豌豆《えんどう》三個を細串また簓条三本でさし繋ぎ、玉の盃ではなく、鈍頭三角形に底なき状にし、別に短い串一本を三角頂の豆に差しこむと、年に一度の逢瀬を俟ちかね、閏情勃発して堪うべからず、大いに股を拡げた織女星の形したる〔図有り〕こんな物ができる。その短い串の下尖を、鼻や指の先に載せると、左右二串の前端の両豆が均しく重くて、重心常に短い串の足本《あしもと》にあり。いくらゆり動かしても、釣合を失わずして、この物決して落ちず。それを楽しみ見て静かに遊び興じた。紀州到る処でみたが、現今この田辺などではその物を覚えながら、その名を忘れた人ばかり残ったようだ。現在拙宅の下女二十歳なるが、十八歳の一昨年まで、八里距てた山村を出なんだ。その者に問い試みると、蚕豆も豌豆も自宅に多く、白身またまだ裂けやらぬ親譲りの見事な玉豆を一つ持ち合わせおれど、豆で作ったそんな玩具を生来見識らぬとの答え。ただ一つ和歌山辺でこれを正直坊と呼んだだけは予確かに記臆する。『狂言記』五、「不立腹」の狂言に、腹立てずの正直坊あり。この玩具もいかほどゆすぶっても悠々自適して、かつて落ちざるよりこの称あるか。今一つの解釈は後文に述べよう。また恩師伊藤新六郎先生(東大最初の化学専門理学士の随一)(443)より、水戸の方言ドッコイドッコイ、友人須川寛得氏より、 来町水声紆方言ド芸車ドサjコィ、友人須川寛得氏より、東牟婁郡|請川《うけがわ》村方言マメゾウと承りた。ドッコイドッコイは、誘惑豊富な環境に住む処女同様、落ちそうで落ちない危なさの形容、豆蔵は豆作りのこの人形を、かつてこの名で著聞せる芸人と見立てた称呼であろう。
  斎藤月岑の『百戯述略』二、「物真似」の条に、「近年豆蔵と唱え候乞丐人は、豆と徳利をなげ、放下《ほうか》を所業と致し、歌舞伎その他の物まね致し候ところ、云々」。『守貞浸稿』三二に、「京坂の軽口という(は)芝居俳優の身振物真似といいて、扮および口技をにせ、あるいは種々の諧謔をなして、観者の 腮《おとがい》を解かしむるを旨としたり、云々。江戸にて豆蔵は、京坂の軽口と異なること無之《これなし》、云々」。これでは豆蔵でなくて真似蔵のようだ。『嬉遊笑覧』九に、今豆蔵というは口まめ(口達者)ということより然《しか》名づくるか、または物まねする者なれば、真似蔵の訛りか、と述べた。かつて英国高名の小説家アーサー・モリソン(『大英百科全書』一一、一四両輯共にその小伝出ず)方で、氏秘蔵の春信の笑画を見、不足分を予の蔵中より補い進じた。その時始めて気付いたは、この絵をあまねく「豆右衝門巡遊図」と称うれど、実際マネ右衛門と刷りあった。紀州の幼児が小学読本を速読するに、牛若丸を牛ニカ丸とよむ癖が多い。その通り、むかしどこか都会地に、マネとマメと混じ謬る癖の人が多くて、マネ蔵を豆蔵と訛ったのかと書き了って、『日本百科大辞典』九巻九五二頁をみるに、豆蔵を放下師の異称、また物まね師のこととし、別々に説あり。放下師を豆蔵というは、大阪にこの名の曲芸師ありしに始まる、そのこと『齋諧俗談』に詳らかなり、と記す。この『齋諧俗談』は、大部分『五雑俎』や『和漢三才図会』等より窃み集めたものだから、『和漢三才図会』を閲するに、果たして巻一六に豆蔵を載す。貞享・元禄のころ乞士あり、豆蔵と名づく。辻に立ち、毎《つね》に重き物を捧げて銭を賃う。児をして梯に登らしめ、楊枝を銜《くわ》えてその端にその梯を立て、起居行止意に任す。児もまた常となして怖れず。あるいは長き鎗を倒《さかし》まにし、鋒先を鼻尖にあてて行《ある》く。あるいは稈心《しべ》一条を鼻尖に立てて稈心?仆(444)せず。けだし軽重懸隔共に奇異なり、しかれども練磨のみ、とある。『和三』より九年前出た『諸国落首咄』一に、さる人の露程《ろてい》(狂歌師)にいわく、都には花売木蔵、放下《ほうか》の豆蔵、杵蔵《きねぞう》とておかしき者どもあり、これらを狂歌の題としてよみ給えと所望ありければ、「仏には立像《りうぞう》座像涅槃像、人に杵蔵|木《き》ぞう豆蔵」。これは『和三』に出たと同人だろう。その放下師が、重い鎗も軽い稈心も、鼻尖に立てて落とさず。本文述ぶるところの豆作りの正直坊が、よく釣合を取って落ちざるに均しいから、正直坊をも豆蔵と呼んだとみえる。
 南紀田辺で杜騙《とへん》をヨシベというは、元禄二年ごろ大坂で礫刑された兇賊梅渋吉兵衛を由兵衛《よしべえ》と改名して芝居に仕組んだ、その由兵衛はことに杜騙を巧みにしたからで、西牟婁郡二川村等で法螺をふくを彦八を言うというは、享保・明和の間|持囃《もてはや》された京の笑話の名人米沢彦八に基づく(『新著聞集』一四。『実事譚』二。『翁草』一二六。『嬉遊笑覧』九)。都会でまるで忘られた旧事が、辺土で何の訳と知らずに話さるる名詞に、その痕跡を遺せる、かくのごとき例は、外にも多々あると察する。惟うに、件の笑話家彦八の弟子が軍書読みに変わったごとく(『翁草』同上)、放下師豆蔵の後葉も、時世と共にいつのまにか物まね師に変わったので、中には、初代の所業の痕跡を幾分留めて、豆と徳利をなげ放下しながら、物まねを演じた者もあったのだ。
 五十年ほど前、『東京学士会院雑誌』へ、故伊藤圭介先生が書かれた「植物雑記」とかに、たぶんコロガキか何かの小果で、右様の玩具を清国人が造ると述べられ、その支那俗称を出し、ツリアイニンギョウと傍訓しあった。その支那称を久しく覚えおったが、四十一歳で始めて妻を娶った翌旦から、洗うたように忘れ了つたは、烈しく洗濯し過ぎたに由るか。御存知の方々は遠慮なく教示し下さい。また各地でこの豆人形を何と呼ぶかも御知らせを乞い置く。と書いたところへ娘が持ち来たった『守貞漫稿』一三に、笠きた東西屋体の小人形の広袖の肩を通して、左右へ長く曲がり張った針金の各前端に、鉛かムクロジか、鼻糞を丸めたか知らず、等大の球を一つずつつけ、一本しかない脚の下端を尖らせた図あり。この翫具の名を豆蔵、江戸で弥次郎兵衛としある。喜多村信節の『嬉遊笑覧』六下には、(445)かかる翫具を与次郎人形と書き、その名の起りを説き、次の一説に「行人の与次郎つりあふ片歯下駄」なる句を不角の『わくがせわ』より引き、今これを与次郎兵衛というはますます鄙俚なり、と評した。それを一層下品に訛って弥次郎兵衛としたのだ。「与次郎釣り合ふ」とあるにて、これもツリアイ人形の一態たりと判る。
 『笑覧』六下にいわく、「与次郎、『屠竜土随筆』に、能狂言、手遊や、おとろん、鞠、小弓という、おとろんは、今様の手遊びに、紙にて作りたる人形に笠をきせ、細き串を両方の脇の下にさして、末の開きたるところに重りを付けて、人形を指の先に立たすれば、重りにて釣り合うて立つなり、それが人の踊るようにみゆれば、踊ろうということにて、おんどれおんどれという物にて、この前与次郎という非人の笠の上に舞わしてきたるものなるべし、と言えり。猿楽の狂言何という物に出でたるか、今覚えず。与次郎は非人頭の通称なり。『風流旅日記』(貞享四年刻)、伊勢|間《あい》の山お杉お玉がことをいうに、みなこれここの与次郎が御内儀娘達なりといい、また『雍州府志』に、「乞食の酋長を、惣じて与次郎と謂う、云々。四人あるいは六人、人の家庭に入り、踊躍して手を敲《たた》き祝語を唱《とな》う」、このゆえに敲きの与次郎という。件の『随筆』に非人が笠の上に舞わして来たりとあるは、近時のことと聞こえたれば、それゆえに与次郎というにはあらず、与次郎が踊る様に似たるゆえに名づけしなり。この人形遊女が指の先に舞わす図、宝永七年板本、『伽羅女』という草子にあり。『和名抄』酒胡子、云々」と、『和名抄』酒胡子条を引いて、与次郎人形すなわち酒胡子と暗示し、巻一〇上には、「与次郎人形は、その向かいたる人酒を飲む」と、もっぱら酒令に用いられたるを言いある。『雍州府志』に四年後れて出た『人倫訓蒙図彙』七にいわく、与次郎、彼が居所を悲田寺というは、むかし清代の御時、世に便りなき者、病気の輩を養い置かせ給う所をいうなり。今は与次郎が住家となして、非人乞食の大将をし、二季の彼岸、所々祭礼のころは、敲きといいて、口早なることを言いて物を貰う、この故に敲きの与二郎というなり、と。
 元文三年半二作、おしゅん伝兵衛『近頃河原の達引』に、その年九月、青銅七貫文を賞賜された京の孝子、猿廻し(446)の佐吉を与次郎と替名して取り入れた。松村操の説に、『音曲類纂』などに、享保の末、たたきの与次郎とて、手に古びたる扇をもち、掌をたたき、可咲《おか》しげなる顔をして浄瑠璃を語り、または世上のことどもに節をつけ、叩きながら戸ごとに立ちて銭を貰い歩きし者ありたるより、これをまねる銭乞《ぜにもらい》の者多くあり、これを押しなべて叩きの与次郎という、と記せり。また馬琴の『旬殿実々記』にも、叩きの与次郎がことを挙げたるところあり。ある人いわく、この佐吉もその節の形を取りて、鞭にて地を敲き、猿廻し節を唄うたるがゆえに、与次郎節の猿廻しが褒美を貰いしと、市中の噂高く、本名を言わずして、与次郎の猿廻しと言いしゆえ、直ちに狂言にその名を仮りて作りたるものなるべし、と(『実事譚』初篇)。貞享・元禄ごろすでにあったものを、享保の末始まったとは不穿鑿だが、もと与次郎という一乞丐がこの業をなし始め、追い追いこれに倣う者増してより、その徒を与次郎と惣称したとは事実であろう。和歌山の町外れ近く、与次郎という地あり。田辺郊外にも与次郎谷あり。思うに追い追い類似の者が諸国にできて、その住地を与次郎谷など称えたものだろう。
 『嬉遊笑覧』より三年早く成った狩谷?斎の『箋注和名抄』二に、「酒胡子《しゆこし》。諸葛相如の「酒胡子の賦」にいわく、木によって形を成し、人に象《かたど》って質《からだ》を立つ、掌握《てのうち》にあって玩《もてあそ》ぶべく、盃盤に遇えばすなわち出ず、と。諸葛相如の賦は攷うるなし。按ずるに、『?言』(『欽定四庫全書総曰』一四〇に、五代周の顕宗の世に王定保撰、と出ず)にいわく、盧汪、進士《しんし》に挙げらるるも、二十余|上《たび》も第《ごうかく》せず。晩年、失意し、よって「酒胡子」の長歌を賦す。叙《じよ》にいわく、觴《さかずき》を巡らすの胡、人心あって俛仰《ふぎよう》旋転し、向かうところの者、杯を挙ぐ。胡の貌《かたち》は人に類し、また意趣あり。しかして傾倒して定まらず。緩急は人に由り、酒胡にあらざるなり。酒胡の歌を作って、もってこれを誚《そし》るは、すなわちこれなり、と。また、『墨荘漫録』にいわく、飲席にて、木を刻んで人を為《つく》り、しかしてその下を鋭くし、これを盤中に置けば、左右に?側《かたむ》き、※[人偏+其+欠]々然《ききぜん》として舞う状《かたち》のごとし。これを久しうして力尽くれば、すなわち倒る。その伝籌《でんちゆう》の至るところを視て、これに酬ゆるに盃をもってし、勧酒胡《かんしゆこ》と謂う。あるいは伝籌を作らざるあり、ただ倒れて指《さ》さるる者あれば、(447)まさに飲むべし、と。これまた酒胡子の類にして、みな今俗の拳《けん》人形なり(下略)」。酒子子、勧酒胡ともに酒令の具だ。『韓詩外伝』に、斉桓公、管仲と飲んで酒令を置いたことあり。『事始』に、「古えは酒令を巻白波《かんばくは》と名づく。東漢にて、白波の賊を擒《とら》うること、席巻するがごとくなりしより起こる。故に酒席にこれを言い、もって人心を快くするなり」とあれど、春秋、斉・桓時代すでに酒令はあった。これらはただ飲客著到の前後や言辞の巧拙で酒を令したらしい。約期に後れてきた者に飲ませたり、イロハのイの字は石亀のイの字、石亀のイの字はイタチのイの字などと続け唄ううち、イの字を冠した動物の名を臆い出だし得ず、イセエビのイの字は陰門のイの字など、けしからぬことを唄うた者に罰杯する等だ。ところが後には異《かわ》った酒令が出で来たった。謝在杭いわく、「後漢(五代の)の諸将、相宴集して手勢の令をなす。その法は、手掌をもって虎膺となし、指節を松根となし、大指を蹲鴟となし、食指を鉤戟となし、中指を玉柱となし、無名指を潜?となし、小指を奇兵となし、腕を三洛となし、五指を奇峰となす。ただし、その用法の云何《いかん》を知らず。今、里巷の小児に、中指を捉《とら》うるの戯《あそび》あり。その遺意にあらざるを得んや」と。この明朝の「中指を捉うる」の戯とはジャンケン様の物か。唐末より支那に拇戦行なわれて、日本に伝え、『和名抄』すでにこれを拳(ケン)と載せた(『山堂肆考』徴集四八。『琅邪代酔編』三五。『五雑俎』六。『撈海一得』上)。和漢にその種態多かったこと、『嬉遊笑覧』一〇上に詳し。
 『肆考』に、「『東※[白/本]雑録』、孔常甫いわく、唐人の詩にいうあり、城頭の椎鼓《ついこ》花板を伝え、席上の搏拳《たんけん》松子を握る、と。すなわち酒席にて蔵鬮《ぞうきゆう》の戯をなすは、その来たれるや久しきを知る」。只今上句の意味は判らぬが、下句は団めた拳に松子を握るというので、一人、握り拳を出すを、松子何箇を握りあると、他の一人が言い中《あ》てたのだ。追い追いは、二人おのおのその手に松子を握り、一斉に突き出すと同時に、敵手が握った松子の数をいいあて、あてた者が中てられた者に罰盃を令したので、拇戦すなわちケンはかくして始まったと察する。蔵鬮は邦俗ナゴというて、握った拳中の物を祭する戯れだ(『嬉遊笑覧』四)。それが二人分を一斉に行なわれて拇戦となったのだ。その拇戦(ケン)の(448)代りに、与次郎人形を用ゆるから、拳《けん》人形と呼んだのだ。
 馬琴の『著作堂一夕話』中に、京の六条の名娼吉野遺愛の蟹盃、止動両態を図し、小鍵柱で機関《かりくり》を働かすと、蟹像が螯《はさみ》を揚げ盃を載せて客前まで横に進み歩き、はなはだ興あったという。働かせ様次第で、蟹は吉野が志す人に盃を運び、また漫歩して行き止まった処に近く坐った者が、その盃を受けたことと察す。宝永五年板『野傾友三味線』二に、三人の嫖客鬮どりで吉野に会う記事あれば、数客中の一人、まずこの蟹に盃をさされた者が、この花魁《おいらん》にその肉鉢を自由にさされたこともあったろう。これぞ蟹が取りもつ縁かいなで、吉野の其白い股に挟まれて、即身成仏の境に入ったのだ。さて、この吉野の肉鉢こそ、当時、「高きかな芳野の玉門の其(佐禰)、僧俗金銀を吹いて塵となす、五十三匁一夜の夢、覚め来たって後悔す鼻毛の人」、「ほのぼのと揚屋を出でてけさ帰り、名残をしより金|惜《をし》ぞ思ふ」と喧伝されたる無上の名宝なれ(元禄七年板『増補江戸咄』六)。かの蟹盃は琉球製という。琉球人の創案に出たか、外国品を摸したか分からぬが、とにかく酒令の具が種々ある中で、もっとも奇抜な一品たるを失わぬ。酒胡子ももと外国製の模倣で、早く『和名抄』に載せられながら和名なく、もっぱら漢名のまま通称されたらしければ、むろん支那より伝来したのだ。『箋注和名抄』、『嬉遊笑覧』共に、酒胡子と勧酒胡を同物と視て与次郎人形に充てたようで、その人形の顔容が胡人に似たゆえ、胡子また酒胡と称えたと解したらしい。熊楠、『箋注』を熟読するに、どうも酒胡子と勧酒胡は別で、勧酒胡は完全な人形だが、酒胡子は人形でなく、よくよく寛容しても準人形としかいわれぬ物とみえる。
 第一に酒胡子の胡は胡人を指さない。『康煕字典』胡字の下に、「『正字通』、鋒の曲がって旁出せるものを胡という、戈の頸なり。『周礼』冬官考工記、冶氏、戈胡は、これを三とし、戟胡はこれを四とす。註に、これを三とするは長さ六寸、これを四とするは長さ八寸なり」。『格致鏡原』四二に、「『二儀実録』、双枝を戟となし、独枝を戈となす。『玉海』、戈に傍出せるものあり、勾子となす。また胡子と名づく」などあって、ザッと言えば戟は十文字、戈は片鎌(449)の鎗だ(『和漢三才図会』二一の図。『本朝軍器考』七、参照)。その身の横に出た鎌を胡といい勾と言ったので、『揚子方言』に、戟の刃なくて曲がれるを鉤※[金+子]鏝胡《こうけつまんこ》と言う、とあれば、勾は鉤に通じカギのことだ。大身鎗の身の本近く、一傍は前、一傍は後に曲がり出た鍵あるごとし。されば酒胡子は酒鉤子の義だ。これ実に南方先生独特の大発明で、これさえ分かればこれから先はお茶の子とけつかる。
 盧汪の「酒胡子」長歌叙(上に引いた)にいわゆる「觴《さかずき》を巡らすの胡、人心あって」は後に述ぶべきベロベロの鉤様《かぎさま》で、この物人造の鉤ながら、人心を具えてよく推測思慮するごとくみえ、俛仰旋転するというのだ。さて旋り止んだ時、指し向かうた人が一杯飲まにゃならぬ。「胡の貌《かたら》は人に類し、また意趣あり」は、その鉤を粗末な人面に作りあるので、その貌人に似て意趣あるようにみえる。「しかして傾倒して定まらず。緩急は人に由り、酒胡にあらざるなり」は、貌も人に似、人心をも具えたようなれども、傾くも倒るるも定まらず。鉤はこれを廻す人次第で、緩くも急いでも廻り、鉤自身が思うままには少しも廻り得ないというのだ。さて盧江が毎度落第して、晩年失意のあまり酒胡子を賦したは、酒胡子が外見上、自力で動き、飲むべき人をさし中《あ》つるごときも、実はこれを廻す人の心次第だ。そのごとく試験官が受験者を及第落第せしむるにも、自分の判断力を自在に揮い得ず、全く上司の掣肘のままだと  論ったなるべし。要するに酒胡子は、与次郎人形ほどに首尾整うた人形でなく、鉤に目鼻を付けただけの準人形で、後に述ぶべき東北地方の鉤仏《かぎぼとけ》や前述豆製の正直坊程度の麁作品を、たぶん手で揉《も》んで廻したのだろう。なおこのことは後に述べよう。
 これに反し『箋注』に、『墨荘浸録』(『欽定四庫全書総目』一二一によれば、南・北宋間の人、張邦基撰す)の記載を引いた勧酒胡は、十分与次郎人形に比すべき完全な人形だ。酒席に木を刻んで人となし、その下を鋭くして盤中におくに、左右に?側し※[人偏+其+欠]々然として舞うごとし、とあり。これを舞わせば正直坊同然左右に傾きながら廻り、久しうして力尽きて倒る。その時、「その伝籌《でんちゆう》の至るところを視て、これに酬ゆるに盃をもってす」。伝籌はよく分からぬが、まずは(450)倒れた所に書き付けある番号符号などに引き合わせて、盃を飲むべき人を見出だす。また番号等なしに、人形が倒れて頭を向けさした人に飲ますのもあるというのだろう(『  核余叢考』四三「籌馬」参照)。ちょうど後に述ぶるブンマワシとアテモノゴマの差《ちが》いのごとし。これまた酒胡子の類で、酒胡子と同じ趣向ながら、勧酒胡は立派な人形で、たぶん糸で巻くか、あるいは機関《からくり》仕掛けで、独楽《こま》様に廻しただろう。これに倣うて本邦で与次郎人形を作ったものか。
 また、勧酒胡を摸したか否を知らねど、往年京阪地方に、独楽が廻る上へ軽い人形を載せて舞わすのが種々あった。紙製住吉踊りが独楽上に舞い踊るのもあった。一六四七年英国で出たハムフレイ・エリスの『時の廻り』の表題画に、人が独楽に乗って、身の釣合をとる図ありとか(Hazlitt,‘Faiths and Folklore,’1905, vol.ii p.591。)そんな奇想が泛《うか》ぶほどなら、たぷんそのころ独楽仕掛けの人形が英国にできおったはずと想う。三十余年前、英国等の田舎町のバーで、箱の上に觴《さかずき》を持った人形立ち、箱の機関を仕掛けると、中よりたちまち奏楽始まり、人形が舞い廻る。それが了って觴をさし出す。手先に当たった人が呑んだり奢ったりするを毎度目撃どころか、自分もしばしばやらせてみた。何と呼んだか、いつごろの創製か、飲む方に夢中で聞き置かなんだ。
 「北斉の沙門霊昭、はなはだ巧思あり。武成帝、山亭において流杯の池を造らしむ。船の帝の前に至るごとに、手を引いて杯を取れば、船すなわちみずから住《とど》まる。上に木の小児あって掌を撫《う》ち、ついに糸竹《しちく》と相応ず。飲み訖《おわ》って杯を放てば、すなわち木人あって刺《さおさ》して還る。上飲みてもし尽《つく》さざれば、船|終《つい》に去《ゆ》かず。『逢原記』、李適之の酒器に、蓬莱?あり。上に三山あって三島を象《かたど》り、酒を注ぎ山の没するをもって限となす。また舞仙?は関?《からくり》あって、満てばすなわち仙人出でて舞い、瑞香の毬子《まり》、?外に出ず」。隋煬帝上巳の日、群臣を曲水に会して学士杜宝の水飾《かざりぶね》を見た内に、「また、小舸子《こぶね》長さ八尺なるもの七艘を作る。木人、長《たけ》二尺ばかりにて、この船に乗り、もって酒を行《すす》む。一船ごとに二人酒盃をフ《ささ》げて船の頭に立ち、一人酒鉢を捧げて次《なら》び立ち、一人船に?《さおさ》して船の後にあり、二人|?《かい》を盪《うご》かして中央にあり。曲水の池を繞《めぐ》りて、廻曲の処におのおの坐して賓客に侍宴す。その酒を行《すす》むる船は、岸に随って行《すす》(451)み、行むこと水飾よりも疾《はや》し。水飾の行んで池を一匝《ひとめぐり》すれば、酒船は三たび遍《めぐ》るを得て、すなわち同《とも》に止《とど》まるを得。酒船は坐客の処に到るごとに、すなわち停住《とどま》り、酒をフ《ささ》ぐる木人は、船の頭において手を伸ぶ。酒客の酒を取って飲み訖《おわ》り杯を還すに遇えば、木人杯を受け、身を廻らして酒鉢の人に向かい、杓を取って酒を斟《く》み杯に満たす。船は式によってみずから行み、坐客の処に到るごとに、例みな前法のごとし」。これは妙工黄袞が巧み作った由。また唐の洛州殷文亮、「かつて県令たり。性、巧みにして酒を好み、木を刻して人を為《つく》る。衣《き》するに上\《いろぎぬ》をもってし、酒を酌み觴《さかずき》を行《まわ》すに、みな次第あり。また、妓女を作る。歌を唱い笙を吹くに、みな能《よ》く節に応ず。飲んで尽さざれば、すなわち木の小児|肯《あ》えて把《と》らず、飲んでいまだ竟《おわ》らざれば、すなわち木の妓女、歌管|連《しき》りに催す。これまたその神妙を測るなきなり」。また、「将作大匠《しようさくたいしよう》楊務廉、はなはだ巧思あり。常に沁州市内において、木を刻して僧を作る。手に一椀を執り、みずから能く行きて乞《きつ》す。椀中に銭満てば、関鍵たちまち発して、自然に声を作《な》して布施《ふせ》という。市人|競《きそ》い観て、その声を作さんことを欲し、施す者、日に数千に盈《み》つ」。
 また開元の末年、東海の奇才馬待封が、崔邑令李勁と共に作った酒山、撲満、欹器一揃いは、なかなか複雑したもので、径四尺五寸の盤中に酒山立ち、盤下に機関《からくり》備えの大亀あり。酒山を遶《めぐ》って酒池あり、池中に鉄製の荷花と葉あり。葉中に珍果嘉肴を盛り、山の半腹に半身隠れた竜あり。口を聞いて大荷葉中の杯、四合入りなるに八分めに酒を吐く。飲む番に当たった人これを飲み後れると、山頂の重閣開いて、衣冠正しくした人が催促にくる。すなわち飲み了って、蓋を大荷葉中に帰せば、竜また酒を吐き、催促使者は山頂に還って閣門おのずから閉ず。酒を池に覆えしたら、池内の穴より潜かに山中に納まり、また竜口より出で来たる等、啌《うそ》にしてもよくこれまで考えた。日本にも秀頼五歳で参内の節、秀吉と同輿して、銭を箱に入れたら廻る人形を輿前に持たせ行ったという。貞享中出た小説には、遊蕩のほて入道した男が、持ち伝えた霊宝どもを展覧する内に、「これ秘伝と錦に包みし高蒔絵の箱あり。いずれもぜひ拝みたく願いければ、戸帳揚げけるに、この前の吉野が姿をからくり仕掛けの独り笑い、目口の働き、手足の働(452)き、みなみな気を湿いなしける」。(『格致鏡原』五一。『老人雑話』乾。『西鶴栄花咄』三の五)
 これらことごとく無根でもあるまじく、それほど巧思に富んだ者が古く和漢にあった上は、予が英国等で観たほど奇絶な勧酒胡も、しばしば和漢人に創製されたなるべし。
 
       二 ベロベロの神様
 
 『南方随筆』四一五頁に、和歌山で行なわれた「法師さん」という酒令を記した。たとえば、酒客数輩環り坐したその一人が、手拭で眼を覆い、他の一人は環座の真中へ出て、「法師さんえ、法師さんえ、どこへ盃さーしましょ」と唄い、ここかここかと唱えながら、任意に一座の人々を指す。仮盲人「まだまだ」と言えば、人をさしかえ、「そこじゃ」と言えば、指された人が一盃飲んで手拭を受け、代わって仮盲となって前同様に問われ答える。また田辺で行なわれた「ベロベロの神様」ちうは、同様の酒令ながら作法は異なり。たとえば環座の正中に坐った一人、扇を両手に挟み、振鼓《ふりつづみ》のごとくもみ廻し、「ベロベロの神さんは、正直な神さんで、おささ(御酒)の方へ面《おも》向ける、面向ける」と唄い了ると同時に、環座中の一人を指して、他の一人、手拭で眼を隠せる者に、「誰じゃ」と尋ねる。仮盲者が指されおる人の名を言い中《あ》てれば、中てられた者一盃飲み、手拭を受け取って、新たな仮盲者となり、言い中て得ざれば、あるいは仮盲者が罰杯を飲み、言い中てるまで同じことを繰り返す。
 以上見聞したのみでは何の得るところもなかつたが、大正七年八月発行『土俗と伝説』一巻初号に、佐々木君が、陸中でスカシ屁の放手を見出だすに、ベロベロの鉤《かぎ》の神裁を伺う記事を出した。いわく、一童車座の中央に坐して、萱または萩の茎を折って鉤を作り、両手でもみ廻して唱うらく、「なむさいむさい(あるいはくさい〔三字傍点〕)、ベロベロの鉤は、とうたい(尊とい?)鉤で、たれやひった、かれやひった、ひった者にちょっちょむけ」、この語尾と共に、(453)鉤の先に向かれた者が罪を負う。しかしすでに早く、鉤遊びの誓いを立てぬ前に、挙動表情で、本人は判っておるゆえ、神秘に先だち、術者が機を刺して、おおよそ当てるのです、と。紀州和歌山より田辺までの間には、そんな鉤などを作らず、年長者が車座の中に坐り、ヘーヘリヘナイボ、ヘッタホウヘチャットムケ、また叮嚀な口上では、ヘーヘリヘナイボ、ヘーヘッタコー(児)は、ドノコデゴザル、コノコデゴザル、ヘツタホウヘチャットムケと唱えつつ、片手の食指で列んだ子供を指し廻り、詞終わった時、指がさし留めた子を犯人と定める。盧江が酒胡子について、「緩急は人に由り、酒胡にあらざるなり」と言ったごとく、詞を長短自在に唱え、指を遅速任意にさし廻れば、指し手の思うままに犯人を当て、また免じ得る。そこに昔の子供は気付かなんだが、昨今はどの子供も承服しない。佐々木君またいわく、ある所では、例のオシラ様(馬頭神)の頭部が鉤に似るゆえ、鉤仏《かぎぼとけ》と名づけ、正月十六日のオシラ遊びの日、この像をベロベロの鉤のようにして、年中の吉凶善悪を占う所もあった、と。
 ベロベロなる称呼は、振鼓の俗称ベロベロ太鼓、それを揉み鳴らすようにこの準偶像の一本脚をもみ廻したに基づく。式正の振鼓は、『和漢三才図会』一八に、上下の小鼓二つを十字形に重ね、長柄頂に貫いた図あり。『周礼』注にいわく、「?鼓《ふりつづみ》は鼓のごとくにして小なり。その柄を持ってこれを揺《ゆす》れば、すなわちその旁《かたわら》の耳還って、みずからこれを撃つものなり」。『詩経』に、「?鼓は淵々たり」。『釈名』に、「?は導なり。楽の作《おこ》るを導く所以《ゆえん》なり」。奏楽の呼び出しに振ったのだ。「月令」に、「??《とうへい》を修す」。『世紀』に、「帝?《こく》、垂に命じて、??を作る」。『釈名』にいわく、「?は裨なり。鼓節を裨助するなり」。大いなるを?といい、もと?に作る。小なるを?という。夏禹王は、われに獄訟を語らんとする者は?を揮え、と言った。漢代に大  関を大儺の節用いたが、後世問うことなし。宋の俗にこれを撚梢子という。(『文献通考』一五。『潜確居類書』七九。『格致鏡原』四七。『説郛』一九所抄、『因話録』)
 清の潘孝子が相失した父母を求め、乞食して「跳り走って哭泣す。聚に至るごとに、一の?鼓を持って、大声に郷語をなす。観る者これに従って笑い、その意を測るなきなり」。?が児戯具に堕落しおったのだ。日本にも、『栄花物(454)語』に、大晦追儺の節、幼帝これをふり興ぜさせ給いし由みえ、当時はや玩具化されたのだ。吾輩幼時、和歌浦東照宮の祭礼行列に、これを肩にして歩く役人あったが、ホンの飾りで、その人どうしてこれを鳴らすか知らなんだ。『和漢三才図会』に、「今これを用いず。しかしてただもって児童の弄翫となす。はなはだ軽小にして、その形を失わざるのみ」とあれど、予は幼時かつてそんなのをみなかった。『守貞漫稿』二五に、二図を出し、「近世京坂|有之《これあり》、豆太鼓、一名ブリブリ太鼓という。削り竹の身を輪とし、削り竹の柄上まで貫き、片面黄紙をはり、膠を引けり。左右に茜糸をもって大豆を付くる。近ごろは土丸をもってこれに代う」。また「今世江戸|有之《これあり》、両面赤紙はり、膠をひき、巴墨、天竜《あまりよう》鍮泥かき」と説明し、この二品、?鼓、振?の類ならんと註せる物のみ普通だった。?また?に作る。大きな?だ。それを混じて、『?嚢鈔』(文安二年筆)三、小児翫物の中に、?鼓をフリツヅミと訓ませある。
  『翁草』八四に、松平信綱、人の天性、才覚の有無を、振鼓に小豆の有無に譬えた咄あり。その振鼓は右述の物と異なり、曲物様の物の両面を赤紙ではり、中へ小豆粒をいれ振り鳴らす、とある。
 予の記臆にして誤らずば、明徳ごろの画という「百鬼夜行」の巻に、一眼小僧が右様の小鼓を持った図があった。したがって、それよりやや前に虎関が作ったという『異制庭訓』に出た振?(フリ鼓)またこのブリブリ太鼓だろう。古くは紀州同様一汎にブリブリ太鼓をベロベロ太鼓と称え、類似の偶像をベロベロの神、それより転出せる鉤状の準偶像をベロベロの鉤と呼んだので、いずれも本式の振鼓廃れて、ベロベロ太鼓が行なわれた後の称呼らしいから、まず足利時代に始まっただろう。元禄十一年板『小夜嵐』四に、塞の河原の子供の遊戯の名を列ね、カクレン坊に子取りぞう、ヘロヘロ、火渡し、雛張子《ひいなはりこ》。このヘロヘロもベロベロ太鼓に外ならじ。ベロベロの鉤で屁の放手を占うことは、上総や日向にもありという(『土俗と伝説』一巻二号三八頁、内田君の「おしら様」)。
 それから拙妻説に、ベロベロ貝という小螺は、全殻いささかも突起隆条等なく、白くされて、口辺に長溝あり。両掌間に狹んで、錐をもむようにもみ廻せば、放屁に紛う音を出す。ベロベロとは屁の音の形容詞で、ベロベロの神様(455)は本来屁の神だろう、と。古エジプトや古ローマに屁の神あり(Dufour,‘histoire de la prostitution,’tom.ii,pp.177-178,Bruxelles,1872)。わが八百万神中にも古く屁の神もあったであろう。が、このベロベロ貝はある海辺の子供が振鼓を欲しくても手に入らず、たまたまこの貝を両手で揉み廻して振鼓に擬したに止まると考う。この貝を廻して屁の放手を占い中てることなし。
 以上述べたことどもを合わせ稽うるに、支那元初の詩にみえた掃晴娘、本邦平安朝すでにあったらしいテルテル法師(『?余叢考』三三。『蜻蛉日記』。『嬉遊笑覧』八)と同格なる、半神半玩物のベロベロの神という偶像が本邦にあって、旧く雑多の俗占に用いられたが、後に支那の勧酒胡と合併して与次郎人形となり、あるいは合併せずに偶像は廃せられて、空しく「ベロベロの神様は、正直な神様で、おささの方へ面《おも》むける、面むける」という詞だけ残りて、両《ふたつ》ながらもっぱら酒令に用いらるるに至ったと察する。その正直なベロベロの神像を、子供が豆もて擬造したから正直坊と称えたと考う。また支那で勧酒胡より先にできたらしい酒胡子、すなわち鉤に目鼻を付けただけの準偶像は、唐朝のころ本邦に渡ってもっぱら酒令に使われたが、後には東北地方や上総、日向に残って、ベロベロの神様の株を受け嗣ぎ、ベロベロの鉤また鉤仏と名乗って、むかしのベロベロの神様同様、雑占に用いられ、ことにスカシ屁の放手の検挙に有功と認められ、『和名抄』時代の本旨を失い、酒令には遣われなくなったと思う。さて紀州ではベロベロの神早く偶像を失うて、酒令用の「ベロベロの神様は」という詞のみ残り、ベロベロの鉤なる準偶像また形を留めず、「ヘーヘリヘナイボ、云々」なる放屁手検挙の詞だけ存するのである。ヘナイボは屈の音にちなんで、もとこの準偶像を平内坊とでも呼んだ痕跡でがなあろう。
 精確に言わば、酒胡子も勧酒胡も、「傾倒して定まらず」の、「力尽くればすなわち倒る」のとあるから、独楽式に廻したもので、与次郎人形や正直坊の指先に舞わされて、かつて釣合を失わなんだ物と構えが差《ちが》うたとみえる。ベロベロの鉤は、両手でもみ廻して、廻す人の任意に停め得た物ゆえ、倒るることなければ、この点で酒胡子と異なり。(456)本文はその大体についてその移り変りを論じたので、大要左の系図のごとし。                正直坊
  振鼓  ベロベロ太鼓 ベロベロの神  ベロベロの神様という酒令詞
             勧酒胡     与次郎人形
             酒胡子     ベロベロの鉤《・(または鉤仏)》 へ−ヘリヘナイボという放屁手検挙の詞
 ついでに言う。清の趙翼の『?余叢考』三三にいわく、「児童の嬉戯に不倒翁あり。紙を糊して酔漢の状《かたち》を作り、その中を虚にしてその底を実《みた》す。按捺《おさ》えて旋転《ころが》すといえども倒れざるなり。『呉偉業集』中に詩あり。これを『  摂言』に考うるに、すなわち唐人すでにこの物あり、酒胡子と名 づく。すなわち酒を勧むるの異なり。盧注、挙《しけん》を連ぬるも第《ごうかく》せず、酒胡子の長篇を賦し、もって意を寓す。序にいわく、觴《さかずき》を巡らすの胡、人の旋転するを聴《ゆる》し、向かうところの者、杯を挙ぐ。すこぶる意趣あり。しかれども傾倒して定まらず。緩急は人に由り、酒胡にあらざるなり。すなわちこれがために歌を作る、と。これを按ずるに、すなわちその形勢《つくり》は今謂うところの不倒翁なるものと、まさに相似たり。特《た》だその名同じからざるのみ」と。
 しかし前述ごとく、酒胡子は廻り舞うて人に指し向かうを要とし、勧酒胡は力尽くれば倒れて人に向かう。不倒翁の底を広く重く実《みた》しあるから、いかに倒さんと懸かっても倒し得ざるは、「俛仰旋転し」「傾倒して定まらず」なる酒胡子とまるで差う。?斎の説通り、起上り小法師だ。?庭は「饅頭食」という狂言に出ずと言ったが、「二人大名」また「長光」にも出である。室町時代よりあったらしく、呉偉業は明・清間の人ゆえ、呉氏が初めて詠じたなら、本邦の物にみえた方が早い(『箋注和名抄』二。『狂言記』四および五。『嬉遊笑覧』六下。『欽定四庫全書総目』四九)。インド、スペイン、ドイツ、スウェーデン、イギリスにもあり。仏国でプッサー(菩薩)というから、支那より弘まったらしい。(457)しかし米国インジアン間にも広く石製の物を崇拝され、同式の陶器を古墳より見出でたというは、例の金マラ形の起上り像だろう。さればそれに縁ある穴がち、一箇処に始まったでもなく、自分に得手物を勃起させる力のある者は、早晩こんな像を作っただろう(Jackson,‘Toys of Other Days,’1908,pp.39-46)。起上り小法師が以前、達磨像に限らなんだは、『守貞漫稿』二五にみえ、吾輩幼時陽相に擬した品多かった。支那の物は、主として種々扮装した俳優に象る(The Encycloaedia Britannica’,14th ed.,1929,vol.vii,p.509,with a plate,fig.6)。
 と書き終わったところへ、むかし里見伊助の糟屋お仙殺しで名高い摂州高槻町の藪重孝君より来書あり。正直坊のこと、大阪市内一般に豆蔵、伊賀の上野も同じ、伊予松山で豆蔵、高槻町ではヤッコ、山口県で油屋の庄右衛門サン、和泉泉北郡でショウブ人形、讃岐一円でチョンベサン、福井市で正直又兵衛、宇和島市で正直ボンボ、みな老人の詞で、今の小児は弥次郎兵衛とのみいう。小学校で手工に教え作らすが、あまり玩ばず。売品には、土製人形笠きたるが、両方に筒袖を張り出せる各端より、長く曲がれる針金出で、その端ごとに鉛球一つずつ付いたのがあると記臆す、と。熊楠母は安政震災の際、二十二歳で大阪の商家に奉公した。そのころ品玉師が箱に物を入れて、「品玉や品玉や、変わるが早いか、オデデコテン、ちょんベサンのバー」と、唄い了つて蓋を開くと、入れた物はなくなり、代わりに人形出で舞うた由。それは正直坊でなく、与次郎人形だったらしい。讃岐でも以前、与次郎人形をチョンベサンと言いしが、後にかの人形はやらなくなり、正直坊をチョンベサンと称えたであろう。
 と書き了ったところへまた、宮武省三氏よりの注進に、御照会の正直坊は、郷里讃岐の高松ではチョンベサンでなく、ショウシキショライまたヨカンベイ、大阪でマメヤッコ(熊楠いわく、神戸で全盛だった光村利藻氏の愛妾に豆奴があった)、山州石清水八幡辺でヤノスケ、神戸市ではヤジキタと申す由、耳に致し候。支那名は存ぜず候えど、知人が支那より帰った人に貰うた玩具に、これに似た物ありとて、図を示さる。木造の猴の肩より、左右二条の細竹を曲げて張り出し、その各端に糸を垂れて、立方形の木片を吊り下げる。猴は一脚を曲げ跳ね、一脚直立してその端尖る。そ(458)れを木の円柱の窪んだ上端へ載せると、旨く重心を保って倒れずに傾動するのだ。むかしの勧酒胡の遺製かと惟わる。
 
     三 お花独楽
 
 超宋の洪邁の『容斎続筆』一六に、「白楽天の詩に、「鞍馬《あんば》、呼んで住《とど》まらしめ、骰盤《とうばん》、喝して輸《いた》さしむ。長駆、波は白《はく》を巻き、連擲、采《さい》は盧《ろ》を成す」。注にいわく、骰盤、巻白波《かんぱくは》、莫走鞍馬《ばくそうあんば》、みな当時の酒令なり、と。予、皇甫松の著わすところの『酔郷日月』三巻を按ずるに、骰子令を載せていわく、十隻の骰子を聚めて斉《ひと》しく擲《なげう》ち、みずから手を出だせる六人、采《さい》によって飲む。堂印はもと、采人の合席を勧め、碧油は擲外を勧め、三人の骰子、一処に聚まる。これを酒星と謂い、采によって聚散す。骰子令の中、改易せるは三章に過ぎず。次に鞍馬令を改むるは、一章に過ぎず。また、旗幡令、閃?令、抛打令あり。今人もはやその法を暁《し》らず。ただ、優伶家《わざおぎ》は、なお手打令を用い、もって戯《あそ》びとなすという、と」。骰子は博奕用のサイだ(『箋注和名抄』二)。唐時それを酒令に使うたのだ。『嬉遊笑覧』一〇上にも、「なお酒令にはさまざまあり。骰子《さい》を振りて酒を飲むことあり。景象如意また花紅柳緑また清風明月、何なりともその時の思い付きに定めてするにや。喩えは清風明月は、六を風、?を月と定め、骰六つを用いてふり、?と六を出ださんとす。出でざれは酒を飲みて骰と盆とを送るなり。(景象如意などは晴和日なり。日を?と定め、骰一つを用い、?をふり得ざれば酒をのみ盆を送ること同じ。童のするピンコロガシということに似たり。)」とあり。下記、八方という独楽で賭する記事を参照せよ。また五代の陶穀の『清異録』にいわく、「開元中、後宮|繁《はなはだ》衆《おお》く、御寝に侍する者、取捨するに難し。彩局児《すごろく》をなして、もってこれを定む。宮嬪を集め、骰子を用《も》って擲《なげう》ち、最も勝てる一人、すなわち夜を専らにするを得。官?《かんがん》、私《ひそ》かに骰子を号《なづ》けて、?角媒人《ざかくばいじん》となす」。けだし玄宗の時、宮女|幾《はと》んど四万人、古今掖庭の盛んなる、これに過ぐるものあらず。どれをしてよいか判らないので、骰子を投げて当番の女を(459)定めたという(『五雑俎』八)。
 上に『野傾友三味線』から、三人の嫖客鬮を引いて名娼吉野に会う記事を引いたが、その外にも貞享元年板『諸艶大鑑』四の一に、大尽、三浦隠居の遊君を総揚げし、幇間どもに目なしどちして捉えた娼《よね》をおのおの相方たらしめ、同三年板『好色一代女』五の一に、「二人ある娼《よね》に客五人、座につくより、はや前後の鬮取り」。同四年板『本朝若風俗』七の一に、「品は異《かわ》れどなお勤め子(売色?童)の悲しきは限りもなし。昨日は田舎侍のかたむくろなる人に、その気に入相《いちあい》頃《ごろ》より、夜更くるまで無理酒に傷《いた》み、今日はまた七、八人の伊勢講中|間《ま》として買われ、床入は私《ひそ》かに鬮取りしらるるなど、その中に好ける客もあるに、鬮の習いとて、いや風《ふう》なる親仁めに取り当てられ、云々、夜ふけ起き別るるまでに、いかばかり年を寄らしぬ」。元禄十四年板『傾城色三味線』大坂の巻三に、閑《ひま》なる鹿恋《かこい》女郎を十人招き、十人の末社《まつしや》に、鬮取りして夜の契りを白昼に鱈ばしめた話あり。その前年出た『御前義経記』三の三には、ヤカラ組の悪党等、関の宿に泊り合わした比丘尼二人を、鬮取りして夜襲した次第を載せ、西洋にも、ローマの諸帝中婬戯を大成した半男女帝ヘリオガバルスは、介殻に鬮文を入れて諸臣に頒ち、披見してその文通りに行なわしめ、大笑して楽しんだ。半死の老翁が帝の夫となって婚したり、腰の曲がった老嫗が美少年の妻となつたりなどだ。米国の文豪ワシントン・アーヴィングの書いた物には、イタリアの山賊が処女を鬮引きして輪次強幹した記事あり(Dufour,op.cit.,tom.i,p.350;Washington Irving,‘Tales of a Traveller,’London,George Bell & Sons,1883,p.223)。捜したら、骰子等の博具で鬮に代えた例も多かろう。
 ここまで読んだ人々は、いかな安本丹《あんぽんたん》でも、酒胡子、勧酒胡、与次郎人形等は、ベロベロの鉤同様、酒令にも雑占にも買靨夜這の相方撰取にも用立て得ると同時に、賭博にも使われ得と気付くはずだ。ところが、実際きわめて酒胡子に近い道具で賭事するのがある。上方でこれをブンマワシまたアテモノという。『和漢三才図会』二四、「規。俗に不無末波之《ぶんまわし》という。規矩は工匠肝要の器なり」。それより四十七年前、寛文六年に成った『訓蒙図彙』にも、親をブ(460)ンマワシと訓じあったと記臆するが、それより古い諸書に工具を列して規に及ばず。『和名抄』以下、曲尺すなわち矩を載せながら規を載せず。天仁二年三善為康作『童蒙頌韻』と、嘉慶三年写した『平他字類抄』下にのみ、規をノリと訓じあれど、そは規則という意義で、工具の規の和名でなかろう。故に規をプンマワシと呼んだは戦国から徳川幕府創業ごろの間に始まったと推する。したがって規と同様に廻るからプンマワシの名ある博具は、徳川幕府の中ごろあたり行なわれ初めたものか。この博具、支那またあって、上海で転盤という、と中井秀弥氏知らさる。
 本邦でみるのは、大抵第一図のごとく、ハ、ニなる圏を数多に分劃し、毎区種々と億の異《かわ》った品を置き、圏の真中の円柱ホの頂に扁たく狭い一桿イ、ロを載せ、廻旋羅針のごとく自在ならしめ、桿の一端ロに糸を維《つな》ぎ、針ヘを垂れる。賭を試みる者まずお定まりの銭を払い、指で桿を払えば、桿疾く旋って止んだ時、針先が留まった区にある品を賞与さる。二区を分かつ線に正中したならやり直しだ。賞品の値が試料より高いも安いもあるので、幾度もやりたくなる。堂元の棒組が遠方より微かな糸を引いたり、見物に知れぬよう圏を傾けたり、乃至《ないし》圏下に磁電力を仕掛くるもありとかで、一、二等賞の区に針が留まると雀躍しおると、たちまち外れて行き過ぎる。その時|堂本《どうもと》ドッコイドッコイと唱うるゆえ、ドッコイドッコイの一名あり。しかしそればかり続けば顧客が絶える。よってたまには不慮に大当りもさせくれる。また開場の当初や、開場者多くて立ち寄る人少ない時は、よい加減に最高賞を贏《か》たせくれる。所詮「傾倒して定まらず。緩急は人に由り、酒胡にあらざるなり」と、盧江が吐いた言葉はこの博具にも恰当する。プンマワシの寸法は大小不定らしい。
 ブンマワシが独楽仕掛けなると異《かわ》り、直ちに独楽でもって博戯するのもある。その一は第二図に示すもので、アテモノゴマとかジゴマとかいうようきくが、確かな名を知った人に逢わぬ。これも御存知の方は教示を吝《おし》むなかれ。これは銭独楽に略《ほぼ》似て上面平坦なれど下面は傾斜し、中軸と共に心柱を繞《めぐ》って廻り、心柱は台に固著して動かざること、ブンマワシの円柱に同じ。独楽の上面を賞品の種数に区劃し、毎区サイダー、ビール、饅頭、羊羹などと(461)品名を書きあり。独楽の一方にへなる柱あってトなる矢を戴き、矢尖が独楽に向かいおる。お定まりの料銭を払うた人、手でもって独楽を廻し、廻り罷《や》んで矢尖に対した独楽上面の分区に書き付けある品を賞与さるる定めだ。また、これに似て予幼少のころから今もあるものは、右の独楽の上面同様に区劃して賞品を書き付けた円板を壁に掲げ、試料を払うと、壁裏の機関を働かせるから円板が廻り出す。その廻りおる最中に、吹矢また楊弓で射中てた分区に書き付けある賞品を受けるのだ(『癸辛雑識』後集、故都戯事条参看)。この円板を何と称うるか知らねど、玄恵作という『遊学往来』上、五月六日の状や、文明十八年乙夜刃丸筆『類集文字抄』芸能部一一にみゆる鬮的《くじまと》は、多少こんな物だったかと想う。
 今一つ独楽で博具たるのは、八方またお花独楽だ。と言わせも果てず読者諸彦は、そりゃまた『嬉遊笑覧』にいわくだ、と仰せあるだろうが、果たして然りの大当りだ。すなわち『笑覧』四を引くはずだが、以前蠣殻町近処の芸妓どもが、水天宮群集の中で、帯を穢されて不吉としたごとく、あてられたが不快ゆえ、別の物を引こう。山崎美成の『博戯犀照』にいわく、「『江戸塵拾』(宝暦の末ごろ誰か書いた物)巻下にいわく、沢村宗十郎訥子、後に助高屋高助と改め、延享のころ始めてこれを作る。こまを六角になして、お花半七、お菊幸助、お初徳兵衛を画《えが》く。その中にお花の絵姿至って見事に彩色せしゆえ、お花こまというとかや(以上『塵拾』の文)。この後こまの造りは変わらねども、絵様いろいろに変われ。。小児の手遊びの具などをも絵《えが》けり。『好階川傍柳《すいたどしかわぞいやなぎ》』(俗に長作という)といえる豊後節の浄るりに、コレききや、方々へ高札に、若い男と若い女と二人|欠落《かけおち》が尋ね物、その男今は半七というげなが、もとは侍で、アア苗字は何とやら、江戸ではやる髪のような名だっけが、オオそれよ本田本田、本田の次郎よ、女の名は、ハアだるでなし、ぴいでなし、オオそれそれお花お花、といえるを思うに、だるぴいというは、そのころかのこまに、手遊びの起上りの達磨と、ぴいぴいの笛などを付けありしなり。故に達磨とぴいぴいといいて、さてお花に及べるなり。また、古きお花こまの絵とて、達磨と桃太郎との絵を帖に押したりしをみた。(青夢館蔵)。それを考うるに、(462)小児の常目馴れたらん人物を絵けるなるべし。また、ある人いわく、お花こま、後にはお花といえるにつきて、草花など絵《えが》けるもあり。されど一方にはいずれ女の姿を画きて、これをその徒の詞に娘と称し、そのところ出ずれば勝になる由聞けり。また遠国に、木にて六角にこまを作り、焼印にて紋押したるは、お花ごまの遺風とやいうべき(熊楠謂う、このことは後に説く)。  笥居主人(すなわち『嬉遊笑覧』の筆者喜多村信節で、以下の説は、『笑覧』四の文とほぼ同じ)いわく、お花ごまのこと、『塵拾』の説は妄なり。按ずるに『欠唇《いぐち》物語』(曽我自休著、寛文二年刻)いわく、「われ幼稚の時、木をもって八方という物を、こまのごとく作りて、その八つの面に春夏秋冬、花鳥風月という文字を書いて、同じ文字の札を七つ書いて、めんめんに持たせて門とし、鳥という字を成目と定め、これを廻してばくちのごとく勝負とす。八方なれば八度に一度鳥あるは順なるべし。されど初めのほどは、十度、十五度に一度も鳥出でかねけるが、廻す者ども気を屈し、精を出だして鳥々と念じければ、この八方のこま次第に古くなるほどに、人の念力入りて、後には二度、三度に一度は必ず鳥出でけり。ばくち双六の賽なども、一粒転ぶうち、精を尽し気を屈して、わが思う目を深く念じこいぬれば、必ずそのうちに転び出ずるものなり」と見えたり(以上『欠唇物語』の文)。しからばこの戯も古くよりなせしことなり。花という名目は、固《もと》より花字あり、後これを絵にかきたるには、程々風流なるもあるべけれど、花は必ず画きしこととぞ思わる。余が家にも、このこまの壊れたるが、箱に入れて札もそろいてありしを、先年土蔵の隅よりみ出だして、骨董家に与えぬ。その画今ことごとくは覚えず。桜花、傾城、達磨(半身。手遊びの達磨にはあらず)、和藤内、ちゃるめら吹ける唐人、その余は忘れたり。札も画はこまと同じくて、こまよりは大なり。こま心棒は銀鍍金、惣体黒上花塗り、画の処は絹地に金箔を押したり。ピイ、ダルの名もこれにて知るべし。思うにこの画、花鳥風月の対するごとく、二枚ずつ具する訳ありとみえ、『俗塵拾』にお花半七を画くというは覚束なし、すべて付会の説なるべし」と。
 『江戸塵拾』と北峯と?庭と、三角関係の長文重畳して、五十近い老女が若い燕に摩触されたごとく、読んでいるう(463)ちに気が遠くなりやした。だが物は一概にいうべからず。?庭の駁論もつとも至極ながら、すべてこんな物は流行盛衰循環して、似た物が幾度も繰り返して作り出され、加之《くわうるに》専売特許の商標登録のという面倒も見なんだ昔は、出処来歴の調査も手が及ばず、以前あったと知らず拵え出して、自分も世間も創作と心得た例がはなはだ多かったろう。されば寛文二年出版された『欠唇物語』の著者が幼稚だった文禄・慶長・元和のころ、八方という独楽がはやってのち、江戸でほとんど忘れ切られいたるを、延享ごろ、むかしそんな物があったと、聞いたか聞かぬか、助高屋が作り出して再びはやらせ、そのお花の絵が特に目立って、お花ごまの名を博したので、お花と同時に絵かれたお菊、お初、半七、幸助、徳兵衛等は、むかし八方ごまに書かれた鳥風月等の字に何の因みもなさそうなれば、八方ごまの八字の内、鳥の一字こそ皆人が出るを熱望した成目なれ、花の一字のみ選抜されて、特に目立った美女お花に絵き出さるるはずなく、八方ごまに花の字、お花ごまにお花女を画いたは、ホンの偶合と惟わる。延享前の文献にお花ごまの名ありや、聞きたきことだ。
 『博戯犀照』を読んだばかりでは、お花独楽の様子を十分に知り得ない。しかるに、『日本百科大辞典』巻二、お花独楽の条は、よくこれを説明しある。いわく、「一種の独楽。六角形にして一角ごとに絵あり、また、これと同様なる絵を画ける札六枚を添う。札の大いさはおよそ六寸余、横三寸八分くらい、絵様は一定せず。あるいは六歌仙、または六玉川等、すべて六の数に依りて画く。箔置・着色等精巧なる物あり。また麁製なるもあり。まず六人を一組となし、各人に一枚ずつ札を配りおき、次いで独楽を廻し、その止まりたる時に、上面の一角に現われたる絵と符合せし人を勝利とす。この遊戯は元禄ごろに流行せし物なりという。これをお花ごまと言えるは、ある俳優が阿花半七の狂言を演ぜしに因みて名づけたりと、山崎美成の『耽奇浸録』に委《くわ》しく見ゆ」と。予は『耽奇浸録』のその巻をみざるゆえ、これ以上を知り得ざるを憾む。
 ところが自分の宅地に住する金崎宇吉氏、生来こんなことに心篤く、予が一度もお花独楽をも、その図をも見ざる(464)を怜れみ、名は知らねどかつて見た賭事用の六角独楽を記臆のまま図して授けられた(第三図)。田辺町から三里西北、南部《みなべ》町のあなたに千里の浜あって観音を祠る。華山法皇熊野御幸の途上ここで病んで、石を枕に臥させ給い、いと近くあまの塩焼く煙のたち上る心ぼそさを、「旅の空よはの煙と上りなば、あまの藻塩火たくかとやみむ」と詠《なが》め給いし由、『大鏡』にみえ、『伊勢物語』には、三条の大行幸せし時、この浜にあったいと面白き石を奉った、この石、聞きしよりは、みるは優れり、とあり。牡丹花肖柏が歌に、「遠妻をとふや千里の浜ちとり、さそな苦しきよなよなの声」。これを読むと今までヘナヘナに凋れおった奴も忽然立ってくる。それから、「思ふて通へば千里の浜も、障子ひとゑと思ふてくる」など、種々吟詠された素敵な名所である。毎年初午の日、遠近より男女この観音へ参詣の群集引きも切らず。以前は今と異《かわ》り自働車などなかったから、海士のたく繩長々と歩を運ぶに、まだ寒い時ながら、キンダマ汗に沾《ぬ》れて股を打ち、女は鉢が煉れて、所々で息うてその乾くをまつ。その所々に種々の飲食店と興行物あって賑わうた。三十五、六年前、その興行物の一つとして、六角独楽で賭事するを金崎氏が見たので、その後は同じ物を一度も見及ばず。誰に問うても知れず。熊楠も金崎氏の画を写して諸国の友人へ聞き合わしたが、いずれも知らぬとばかり答え来るから、もはや全く廃れ忘られた物と考う。
 千里浜の観音詣りの途上で、金崎氏が見た第三図の独楽は、何と名づけた物か同氏も知らず。全体木か竹で作った軽い物で、いかな小児でも容易《たやす》く廻し得た。その胴高さ三寸ばかり、横厚さ二寸ほど、胴の上下は心棒に向かって傾斜し、六つの三角面より成り、側面は縦に伸びた長方面六より成り、その六面に玉、槌、砂金袋、鍵、簑、笠の六宝を配り描きあり。心棒は胴の上へ二寸五分、下へ一寸ほど出おる。これを廻す盤は径二尺ばかり、その面を六に等分して件の六宝を配り描く。賭料を払うた者、盤の中央で独楽を廻すに、その胴、縦が横よりも厚いから久しく廻らず、少時廻ってたちまち倒れる。その重心が六側面のいずれか一つの内に落ちて安んずるよう拵えた物ゆえ、――親仁と紙袋は入れにゃ立たぬというが、この独楽と竜巻は強く廻さにゃ立たず――廻り弱れば直ちに仆れて横臥す。その時(465)天を仰いだ一側面の宝の画を、盤面の画と引き合わせ、その画の分区に置かれある賞品を獲る定めだった、と金崎氏が語られた。
 熊楠惟うに、むかし絵札八枚また六枚を八人また六人に売り、興行師手ずから八方また六方の独楽を廻して、廻り止んだ時上面に現われた絵と同じ絵札を持った一人に、規定の賞品や賞金を与え、他の五人の絵札料は興行師の丸儲けとなったのだ。それを維新後博奕と見てむつかしく言われるので、ホンの小供相手の小賭事として、絵札の代りに盤に絵をかき、絵札を六人に売る代りに、やって見たがる一人より一度幾許と極まった試料を取り、その人みずから六方の独楽を廻して、高かれ安かれ何か六品中の二品を取り中てしむることと改めたのだ。さて、?庭は、「思うにこの画、花鳥風月の対するごとく、二枚ずつ具する訳ありとみえ」と述べながらその訳を知らなかったようだが、これを解くは難事でない。昨今債券の抽籤などに、大当りの奴から十番目に当たる者に一円やるなどあるごとく、独楽の上面に風の字が出たら、風に対せる月の札にも幾分の賞与あり、春が出たら、これに対せる夏にも多少|霑《うるお》いが及ぶ定めだったと見る。
 さてまた、いつもながら熊楠の大発見を一つ述べると、清の呂種玉の『言鯖』上に、「倒擲戯なるものあり。玉をもって橄欖の状《かたも》を作り、六|觚《こ》にして一二三四五六を刻み、玉盆中に推旋《ころが》せば、久しくして方《はじ》めて倒る。その数に中《あた》る者を勝となす。すなわち今の骰子《さい》に似たり」。『康煕字典』に、「觚は方なり、また角なり。六觚は六角なり」とあって、橄欖の核は正しく結晶した水精の両端尖ったような物、その通りの状に作った玉の六面へ、一から六までの字を刻み、玉盆中にバイを廻すごとく廻すと、倒れて天に向かった一面に現われた数をみて勝負すること骰子のごとしというのだから、形と物こそやや異なれ、倒擲戯は本邦のお花ごまにはなはだ近いものだ。(『本草図譜』六四巻九葉表に、橄欖核の図あり。)
  小野蘭山いわく、橄欖、暖地の産にして嶺南地方に多し、大木となるという、云々。清商、生実を長崎へ持ち来(466)たる者あり、形榧実のごとくにして肥潤なり。長さ一寸余、皮は緑色、熟するに至りても色変ぜず。故に青果の名あり。よく魚毒を解し骨?を治す。核は六稜にして厚く硬し。破れば三孔ありて、おのおの細長き仁あり。故に新鮮なるを下種すれば、一核にして三苗を生ず、云々。長崎崇福寺および薩州には実を結ぶものあり。自生は本邦になし。核をとり、咽喉腫、痛骨?を治す、云々、と。北宋の馬志説に、その実および木の煮汁は河豚の毒を解く、その木を舟の?《かい》にして水に働かすと、魚類みな浮き出ずる、と。王禎いわく、その実の味わい苦渋いが、久しうして甘くなる、王元之の詩、これを忠言耳に逆らい、乱れてすなわちこれを思うに比す、故に人名づけて忠果また諫巣となす、と。明の張岱、その友、祁止祥の梨園癖を叙べていわく、「壬午、南都に至る。止祥、阿宝を出だして余に示す。余いわく、この西方の迦陵《かりよう》鳥は、何処より得来たれる、と。阿宝、妖冶《ようや》なること蕊女《てんによ》のごとくして嬌痴無頼なり。故《ことさら》に渋勒を作《な》して、肯《あ》えて人に著かず。橄欖を食いしごとく、咽《のど》渋く味なきも、韻《よいん》は回甘《あとあじ》にあり、云々。初め厭うべくがごとくして、過ぐればすなわちこれを思う、云々。丙戊、監軍をもって台州に駐す。乱民|鹵掠《ろりやく》し、止祥の嚢篋すべて尽く。阿宝、沿途《みちすが》ら曲を唱い、もって主人に膳《くわ》す。帰って剛《わず》か半月に及び、またこれを挾《さしはさ》んで遠く去る。止祥、妻子を去《す》つること?《くつ》を脱《ぬ》ぐがごときのみにて、独り?童?子《れんどうさいし》をもって性命《いのち》となす。その癖《へき》、かくのごとし」と。それほど特妙な趣きある外色と比べられた橄欖、またなかなかの風味あるものとみえる。この物、学名カナリウム・ピメラ、支那の広西、福建や交趾の産。その実の形色ほぼ似たるより、ジュアルド等橄欖をオリヴに当て、本邦にも左様沿襲した向きもあれど、支那人はその差別を知って、オリヴを洋欖と書き、近ごろ欧人は橄欖をチャイニース・オリヴと呼ぶ。ただし、唐代すでにオリヴが多少支那に知れおり、斉暾樹また斉※[厂/虚]と書かれた。(『重訂本草啓蒙』二七。『本草綱目』三一。『陶庵夢憶』三。Balfour,‘The Cyclopaedia of India,’3rd ed.,1885,vol.i,p.566;Engler u.Prantl,‘Die natürlichen Pflanzenfamilien,’III Theil,IV Abteil.,S.240,Leipzig,1897;F.P.Smith,‘Contributions towards the Matena Medica and Natural history of China,’Shanghai,(467)1871,p.160;Astley,‘Voyages and Travels,’vol.iv,p.290,e;『酉陽雑俎』一八)
それが『本草綱目』に、斉?果として出されてより、本邦の学者これをチサノキ、一名エゴノキに当てたは、大きな謬りだ。『雑俎』に、この樹、「波斯国に出で、また払林国に出ず、云々。長《たけ》二、三丈にして、皮は青白く、花は柚に似て、きわめて芳香あり。子《み》は楊桃に似て、五月に熟す。西域の人は、圧して油を為《つく》り、もって餅菓を煮ること、中国の巨勝(すなわち胡麻)を用うるがごとし」。波斯はむろんペルシア、払林はシリアまた東ローマ帝国らしい。チサノキは日本と支那の原産、熊野でその皮の煮汁で魚を毒し捕う。仁に油あり、採って小鳥に飼うというが、胡麻油に匹敵すべき食用の油を獲べくもない。西亜や欧州に産せず、決して斉暾でない。これに反し、オリヴのペルシア、トルコ、クリム韃靼の名はセイトゥン。アラブ名、ヒンズ名、共にゼイトゥン。これらからスペイン名アセイトゥナスとポルトガル名アゼイトゥナスが出た。むかし福建の泉州に城を築いた時、刺桐を環らし植えたから、刺桐城と通称された。盗賊禦ぎに刺多い木を撰んだだろう。刺桐は琉球名梯姑を採って邦名デイゴ、英語でコラル・トリー。花赤く美なるゆえ、珊瑚木としたのだ。梵名マンダーラ、仏経の鼻陀羅花だ。帝釈天五木の一とす。唐の陳陶が泉州城の刺桐花を詠んだ六首等あり。そのころアラブ人多く渡唐し、刺桐の音がゼイトゥンに近いから、刺桐城すなわち泉州城をゼイトゥンすなわちオリヴ城と呼んだは、彼らがエルサレムをゼイトゥニヤーと称えしに類す。(Yule,‘Cathay and the Way thither,’1866,vol.i,pp.1vi-1vii;De Candolle,‘Origin of Cultivated Plants,’N.Y.,1890,p.282;Balfour,‘The Cyclopaedia of lndia,’3rd ed.,1885,vol.iii,p.21;Yule,‘The Book of Sir Marco Polo,’1875,vol.ii,pp.219-220;Eitel,‘Handbook of Chinese Buddhism,’1888,p.94.『広群芳譜』七三。伊藤武夫博士『台湾植物図説』正篇、一〇一九図)されば唐人がペルシア名セイトゥンとアラブ名ゼイトゥンを斉暾と音訳したので、正しく言わば斉暾果科はオリヴ科すなわち木犀科を意味し、チサノキ科に当たらぬ。(マレー人もゼイトゥンを訛ってか、オリヴをゼットと(468)いう。)このこと予過ぐる明治四十年十二月発行『東洋学芸雑誌』三一五号に、「オリーヴ樹の漢名」と題して書き、明治三十年ごろの『ネーチュール』にも何かのついでに書いたが、のち妻木直良師から、明治四十四年一月刊行『東洋学報』一巻一号を贈られたを読んで、明治四十二年の『アメリカ東洋協会雑誌』三〇巻に、フリードリッヒ・ヒルト氏が、少なくとも、予より二年後れて同説を出したと知り得た。同胞日本人諸君は予を祝ってくれにゃならぬ。
 それからまた、すこぶるややこしいから書き付けおくは、同じ『言鯖』巻上に、擲倒伎あって、すこぶる倒擲戯と紛らわしい。いわく、「漢に魚竜百戯あり。斉・梁以来これを散楽と謂う。舞盤伎、舞輪伎、長?伎、跳鈴伎、跳剣伎、呑剣伎、擲倒伎あり。今の教坊百戯におおむねこれあり。ただ擲倒は何の法なるかを知らず。疑うらくは、すなわち今の翻金斗《とんぼがえり》か。伎人、頭をもって地に委《つ》けて翻斗跳過《とんぼがえり》し、かつ四面に旋転すること毬《まり》のごとし。これを金斗と謂う。相伝う、趙簡子、中山王を殺すに、厨人に命じて金《こがね》の斗《ひしやく》を翻してこれを撃たしむ、と。字義の起こるところ、これに由る」。清の袁枚の『随園随筆』一二に、「翻筋斗、唐の著作郎|崔令卿《さいれいけい》の『教坊記』に見ゆ。宋人に、「無頼を教うるの賦」あり、いわく、延寿門前に、衆は筋斗を翻えし、朝元閣下に、馬は柘枝を舞う、と」。『古今説海』に収めた『教坊記』に、「筋斗は、裴承恩の妹の大娘、善《よ》く歌う、云々」とあるのみ、翻筋斗なる語を見ず。翻筋斗、翻金斗、同一で、まずは越後獅子様にかえり続くるをいうか。小説『西遊記』に、孫悟空、須菩提祖師より雲中飛行の法を得たるに、「?が雲中にあるは飛行にあらず、雲中をはいありくなり。今、?斗雲の法を授くべし」とて、一尅に十万八千里を飛行する法を授かることあり。?斗も翻筋斗から出た語で、『太平記』に、「山雀《やまがら》がさのみ戻りをうつの宮」とある。モドリを空中で打っても打っても、雲がその身を離れずして、堕落せしめぬという意味だろう。何にしろ、お花ごま近似の倒擲戯と、トンボガエリ連続の擲倒伎は全然別物ということを注意しおく。
 お花独楽同然の賭具は西洋にもあって、英語でチートタム、独語でドレー・ウュルフェル(英語、スピンニング・(469)ダイ〔以下欠文〕
 
(470)     古谷氏の謝意に答え三たび火斉珠について述ぶ(上)
 
 四巻四号二三四頁に、古谷君は、予に「硝子の名称が明代において用いられたるものなるべしとの示教」を受けたりとて大謝さる。しかれども事実はかくのごとくならず。予はただ、明の李時珍が硝子のことを書きたる前にこの語を用いたる実例を確かに知らず、古谷氏果たして隋唐の世にこの語を用いたる例を知らば、挙示されんことを望みたるまでなり。明朝に硝子なる語行なわれたる実例は、時珍の書の外にも若干ありと記臆すれど、僻地書籍乏しくて見出だし得ず。『康煕字典』玻字の下に、「『正字通』にいわく、明の三保太監、西洋に出で、玻?を焼く人を携えて中国に来たる。故に中国の玻?は頓《とみ》に賤《やす》し。焼けるものは気眼あって軽し、と」と見ゆ。三保太藍とは、永楽の時、太宗の命を奉じ二十余国に便いせる鄭和を指す(正徳庚辰黄省曽撰『西洋朝貢典録』序また三仏斎国の条)。これより先、ガラスは多く外国より輸入し、たまたま支那にて製せしもその法を秘せしを、永楽のころ西洋の工人来たり、その法以前よりは広く知れ渡り、価も大いに廉に、支那製粗品多く出来しなり。「『正字通』にいわく、方書に、硝は七種あり、朴硝、芒硝、英硝、馬牙硝、硝石、風化硝、玄明粉なり。もと消に作り、俗に譌《あやま》って硝となす、と」。仏人スーベイランおよびド・チェルサン共著『支那本草編《ラ・マチエル・メジカル・シエー・レー・チヌワ》』(一八七四年板)、これら諸硝の何物たるを示しありしと記臆すれど、予の抄記全からねば今一々に明指し得ず。何に致せ、かかる硝塩類を珪砂に和鎔してガラスを作り、したがって硝子と名づけしものならん。とにかく明朝と隋唐は少なくとも五百年を距てたるに、何を証拠として、古谷君は硝子の語が隋唐の代の書に見ゆと言われたるか、麁略なる仕方なり。
(471) 次に四巻三号に、予は玻?なる文字が、隋唐前成りし陳訳『立世阿毘曇論』、姚秦訳『大智度論』と、東晋訳『観仏三昧海経』にすでに見ゆるを言えり。その後また左の諸例を見出でたればここに記す。
  劉宋元嘉の初め(隋朝初年より一五七年前)沙河より京邑に来たりし西域沙門時称訳『観無量寿経』に、「また国土あり。玻?〔二字傍点〕の鏡のごとし。十方の国土、みな中において現ず」。
  姚秦の沙門法明(隋初より一八四年前、?賓より支那に来たり、一二六年前去る)訳『仏説楽瓔珞荘厳方便経』下、長者の女《むすめ》、須菩提に告ぐ、「もし衆生あって、金、銀、瑠璃、玻?、諸珍宝等を楽向《ねがいもと》むれば、われ、金、銀、瑠璃、玻?等の楽《ねが》いを与えて、しかるのちに無上の道心を勧発せん」。
  曹魏康僧鎧(外国人なり。嘉平末すなわち隋初より三二六年前ごろ洛陽に来たれりと『高僧伝』に出ず)訳『仏説観無量寿経』上に、「安楽世界、その仏の国土には、自然の七宝、金、銀、瑠璃、珊瑚、琥珀《こはく》、??《しやこ》、瑪瑙、合わせ成って地を為《つく》る。また、その国土には、七宝の諸樹、あまねく世界に満ち、金樹、銀樹、瑠璃樹、玻?〔二字傍点〕樹、珊瑚樹、瑪瑙樹、??の樹あり」とあって、地の七宝と樹の七宝と名目異なり。さて、「あるいは瑠璃樹あり、玻?もて葉となし、花果もまた然り。あるいは水精樹あり、瑠璃もて葉となし、花果もまた然り」と、玻?水精の両名を同物に用い、以下の文には水精の語のみを用いあり。
 故に、予が只今知れる最も古き玻?の字の用例は、三国曹魏廃帝芳の時にあり、上に引ける諸文、いずれも邦刻黄檗板一切経本に拠り、中には原文頗梨、頗胝などありしを、後人|叨《みだ》りに玻?と更めしもありなんが、すでに見出でたる六経文、ことごとくかかる改変を受けたりとも思われず、まずは玻?の字、隋唐前支那に行なわれしと信じて不可なかるべし。
 四巻四号二三四頁に古谷君は、「今回の示教中南方氏の最も力を致されたるは、『淵鑑類函』所引の哀牢云々とある『続漢書』についてなり。もちろん漢代に火斉珠なる文字の使用せられたるの証左は、余|曩《さき》にこれを掲げて訂正をな(472)したれば、今回氏の最も重きを致したるは『続漢書』そのものについてなり」と言わる。『説文』以下「西京賦」に至る六書に火斉の字あるは、稲葉氏珍蔵官版宋槧『太平御覧』を拝閲するの便なき熊楠も、夙《つと》に三巻二号八五頁「火斉珠について」を草する時、『類函』三六四、瑠璃の条に、『集韵』、『漢武故事』を、『続漢書』の文|倶《とも》に引けるを見知り、次に明治三十九年板、中沢・八木二君共著『日本考古学』三五四頁、早く右二書と『南州異物志』を引けるを見、近く三巻七号古谷君の文を読んでのち、嘉慶十七年刻成りし?宋刻『太平御覧』珍宝部七(巻八〇八)に、稲葉氏珍蔵官版宋槧『太平御覧』と同じく、ことごとく右の六書の文を引けるを確かめ得たれば、古谷君がこれら六書の文を、稲葉氏珍蔵官版宋槧『太平御覧』より見出だして、火斉の字が隋唐前に行なわれしを信ぜらるるに及びしを疑わず。これに反して今に至るまで、『類函』に引きたる『続漢書』の文もまた、李時珍火斉すなわち火精の訛りなる説と参攷して、火斉の語源を求むるに有用なる火精なる語が、隋唐より?《はる》か前に行なわれたるを、古谷君が認識するに及べりと明言されしを承らず。
 これ予が前回四巻三号の文、最も重きを『続漢書』に置ける所以にて、その重きを『続漢書』に置きたるは、『続漢書』と『後漢書』の異同と、『続漢書』に火精の字の有無とにありて、『統漢書』の著者が何人なるやの論にあらざりし。これ三巻三号一四九−一五〇頁、三巻六号三二五頁、共に古谷君は、『続漢書』と『後漢書』は同書なりや異書なりやの明解を下さず、直ちに『後漢書』の諸本を丁寧反覆して、『続漢書』の文字を解かんとせられたるをもって、予は古谷君はこの二書を混じて一の書と做《な》せるものと見たればなり。もっとも四巻四号二三八頁十二行以下を見れば、古谷君は最初より『続漢書』と『後漢書』の別物たるを心付きおられたるごとくなるも、心理学にいわゆるプロムネシアとて、何人も多少、今初めて聞きたることをこれに似たることと混じて、おのれ以前より知りおりたるごとく想う傾きあり。予自身ごとき、四十歳を超えてよりこの病おびただしく、よって毎事自記手筆し置かざることは、たとい従来知り切ったることといえども憑《たの》むべき証拠とせぬ定めなり。いわんや負け嫌いの我執強き人などは、かり(473)そめにも人に先を超さるるを、元を喪うよりも残念がり、何ごとを注意され、何ごとを初めて聞くも、それも心得おる、それは古臭いで押し通さんとする人、鄙池辺陬よりも都会の「でも」学者、「でも」紳士に多きは、古谷君も十分御存知ならん。毎《つね》に敵たるに熟《な》れて方《まさ》に敵を愍れむとか聞けり。予、自分かかる卑劣な心癖絶えざるより推して、古谷君果たして最初より『続漢書』と『後漢書』の別物たるを知らば、大儒名山に蔵せらるる『後漢書』の稀覯の諸珍本を尽瘁捜索さるる前に、たった一言『続漢書』と『後漢書』の区別を述べられ、その『続漢書』は今亡びたれば、已むを得ず『後漢書』について判断する由を述べられたく思うは、あながち予の無理所望にあらざるべく、論戦圏外に環視さるる本誌読者も、過半は古谷君のためにそのこの手段を執られざりしを惜しむならん。
 さて古谷君は、『続漢書』を謝承著とせしは熊楠の独断なりとし、「その他に深く拠るところあれば、とにかく、氏が示されたるところのみにては、『続漢書』をもって謝承の著とする能わず」と疑わる。故カノン・テーロルは、読者が筆者自身に関係ある人のみならぬ場合には、なるべく善悪とも自身の履歴がましきことを書くな、と教えられたり。予は平生この教訓に服膺する者ながら、身の必要に迫られて只今だけちょっとこの制戒を破り一言せん。熊楠生来内外の学会へ差し出す文書に所拠なきことを載せず、と。さて著しき二、三の例を挙げんと欲すれど、手前味噌の?《そし》りを憚り、ここには省く。されば、『続漢書』を謝承著とせしは、予の杜撰にも独断にも無之《これなく》、四巻三号一四五頁一四行以下に、「『続漢書』は露人ブレットシュナイデルが引きたる『事言要元』にもいわく、三国の世に謝承作る。『後漢書』は、芳賀・下田二君の説に、その八志は晋の司馬彪撰し、本紀と列伝は宋の苑蔚宗作れり(ブ氏の『ボタニコン・シニクム』一九三頁。二君の『日本家庭百科字彙』云々)」と明らかに出処書目頁数までも挙げたり。古谷君の炯眼何としてこれを見落とせるか。
 ブ氏は宿徳好学、一昨年まで北京にありしは予これを知る。往年故伊東錦?先生が、始めて大鳥圭介氏に托して『植物名実図考』を本邦に入れしも、ブ氏の著に依りてかの書あるを知るに及ばれしほどなれば、ブ氏の支那学に精(474)通せるは、なかなか今日道に聴き道に講ずる本邦の「でも」学者輩の倫《たぐい》にあらず。中央アジア諸国の名号、古今の沿革、支那欧州往来の変遷等、ブ氏の諸著を使って初めて明らかなりしもの多く、碩学伊藤篤太郎博士ごとき、本草累代の名家をもって、なお時にブ氏に諮詢さるる由、博士が書きし物で見たり。なかんずく上引『ボタニコン・シニクム』は、ブ氏が十五年の苦辛研究を積んでようやくその初篇を出だせしもの、予のごとき貧生すら、百方費を節して三篇までを購い蔵せり。およそ今日の植物学に照らして、支那の草木を調査せんとする輩の一日も座右に欠くべからざる大著たり。
 その第一篇一九三頁にいわく、『続漢書』、三国の世に謝承作る、と。所拠として『事言要元』を挙げたり。『事言要元』は、ブ氏いわく、一六一八年(明の万暦四十五年)成る、と。予は『事言要元』を見しことなし。されどそれより三十五年前成れる『本草綱目』(本邦で翻刻し訓点を付けたり。何年刊行と知れねど、稲若水《とうじやくすい》の『図翼』と『結髦居別集』を同刊せし体なれば、たぷん若水が出だせるならん。往年見し大英博物館蔵本、刊年不知 15251.c.3 号は、唐本にて訓点なけれど、その他一切|件《くだん》の和板に同じかりし)巻一上、引用書目、三〇葉表また謝承続漢書〔五字傍点〕と明記し、他に同名の書なし。そもそも『綱目』の一著たる、今日科学大いに闡《ひら》け、古今東西の観察について、砂を汰し金を萃《あつ》めたる時代より見れば、実に謬説僻論その多部分を占むとはいえ、近日雪嶺先生も『日本及日本人』に説かれしごとく、当時欧州名家の博物大著述諸篇に比していささかの遜色なく、採?の広博たる、排列の整然たる、まことに東洋の一大業を做し遂げたるものにて、李時珍これがために二十六年の長月日を費やし、その心血を注いで全璧としたるなれば、吾輩八、九歳より四十七歳の今日まで、旦暮その余光に浴する身が、その書目に拠って『続漢書』を謝承作と信ずるは至当のことならずや。加之《しかのみならず》碩学多年その研究に身を委ねたる、ブ氏また『続漢書』を謝承作と明記せるをや。
 古谷君は、李時珍が『続漢書』、「哀牢夷は火精琉璃を出だす」の文を引けるは、『太平御覧』よりせしならんと言わる(四巻四号二三七頁)。果たして然らば、時珍は司馬彪の『続漢書』を引きながら、書目に謝承『続漢書』と誤記せし(475)こととなる。しかしながら今『綱目』巻八、瑠璃の条を按ずるに、「蔵器(唐の開元中、『本草拾遺』一〇巻を著わす。時珍評に、その博きわめて精覈、『神農本経』より来《このかた》一人のみ、と)いわく、『集韻』にいわく、琉璃は火斉珠なり、と。『南州異物志』にいわく、琉璃は本質はこれ石にして、自然灰をもってこれを治《おさ》むれば器となすべし。石これを得ざれば、すなわち釈《と》くべからず、云々、と。時珍いわく、云々、『異物志』にいわく、南天竺の諸国、火斉を出だす。状《かたち》は雲母のごとく、色は紫金のごとし。重沓《かさな》つて開くべし。これを拆《さ》けばすなわち薄きこと蝉の翼のごとく、これを積めば紗《しや》の?《ちぢみ》のごとし、云々、と」。時珍の書目、丁度の『集韻』のみを挙げて『韻集』なし。丁度の『集韻』は、ウィリーいわく、十一世紀の中ごろ成る、と(上引ブ氏の書、二〇一頁)。これ趙宋皇祐二年ごろに当たる。宋代の書を唐開元二十七年(宋の銭易の『南部新書』辛巻に見ゆ)成りし『本草拾遺』に引かるるはずなければ、陳蔵器が「『拾遺』に、『集韻』(『類函』瑠璃の条には『集韵』)にいわく、琉璃は火斉珠なり」と引けるは、『太平御覧』に「『韻集』にいわく、琉璃は火斉珠なり」とあると同書ならん。しかして『御覧』は『拾遺』に後るる二百七十年にして成れり。されば『御覧』に『韻集〔二字傍点〕』とせるを執って、『拾遺』また『類函』に、集韻、集韵〔四字傍点〕とせるを排し難し。もし誤写と言わば、大部の書はいずれも誤写あるを免れじ。
 また『綱目』引用書目とブ氏の書を合わせ稽うるに、『南州異物志』は西暦三世紀に万震作る、すなわち三巻七号四〇一頁に、古谷君が呉丹陽大守万震著とせるに合う。『異物志』は陽孚作、何の朝の人と明記なけれど、ブ氏いわく、この人名『隋書』経籍志に見ゆ、と。しからば唐代以前の著なり。さて『御覧』に、「『南州異物志』にいわく、火斉は天竺より出ず。状《かたち》は雲母のごとく、色は紫金のごとし。これを離別すれば、節は蝉の翼のごとく、これを積めば、紗《しや》の?《ちぢみ》のごとく重沓《かさな》るがごとし」とあるは、時珍が引ける「『異物志』にいわく、南天竺の諸国、火斉を出だす、云々」と同意ながら、『御覧』の方、引文やや省略せり。思うに万震の作、陽孚の著、共に『南州異物志』とも単に『異物志』とも呼びしにて、時珍は特に判別に便せんとて、前者を南州、後者を単に異物志と呼びたるなり。
(476) 時珍が『御覧』を見しは、引用書目にその名を出だせるにて知らる。しかるにその陽孚の文を引く。?宋刻『太平御覧』巻首、楊州阮元序に、この書、「太平興国八年に成る。北宋の初め古籍いまだ亡《う》せず。その引くところの秦漢以来の書、多きこと一千六百九十余種に至る。その書の今に伝うるものを考うるに、十に二、三を存せず。しからばすなわち『御覧』の一書を存するは、すなわち秦漢以来の佚書千余種を存するなり」と言えるほど重宝なる『御覧』のままを写さずして、別にやや詳しき文を引けるを見れば、その人、引書に注意深く、猥《みだ》りに孫引きを行なわざりしを察するに足れり。
 再び思うに、古今載籍題目の一定せざるは、何ぞ『集韻』と『韻集』、『南州異物志』と『異物志』を限らん。『呂氏春秋』一に『呂覧』と呼び、新旧『唐書』共に『唐書』が真の名にて、『今昔物語』と『宇治大納言物語』、『日本霊異記』と『日本国現報善悪霊異記』と同一書を指すごとく、『本草綱目』や『事言要元』の成りし万暦の世には、謝承の著を『後漢書』とも『続漢書』とも呼びしならん。ブ氏は『後漢書』を後の漢代の史、『続漢書』を『漢書』に続くの意とせり。謝承は三国呉の人なり。当時呉魏と鼎峙せし蜀主は、みずから蜀帝と称せず、漢帝と称したれば、後世、西漢、東漢に対して蜀漢また後漢とさえ呼ぶ人あり。三国の代に東漢を後漢と呼びし例ありや。予は一向その有無を決する智識を備えざるも、ブ氏がもろもろの『後漢書』中、特に三国の代に呉武陵太守謝承の著を、晋・宋両朝に成りし諸書と別ちて、『漢書』に続くの義に解せるは、拠《よりどこ》ろなくんばあらずと惟う。宋の『太平御覧』に、司馬彪の書を特に『続漢書』とせしは、彪の『続漢書』、『続漢書礼儀志』と、二著を列挙して、范華謝薛二袁六氏の『後漢書』と別たんがためならざりしか。もし康煕朝に成りし『後漢書補逸』や『七家後漢書』は斬新の編、その定名はもっとも穿鑿考察を尽したる物ゆえ、『本草綱目』やブ氏が拠ろとせる『事言要元』に、謝承『後漢書』とあるは採るに足らずと言わば、同じ筆法で、『太平御覧』より?《はる》か昔できたる『隋書』経籍志二に、薛瑩『後漢記』六十五巻、張瑩(?か)『後漢南記』四十五巻とあるも、清朝にできたる『補逸』や『七家後漢書』に、薛瑩『後漢書』、張?『後漢書』(477)とあるを正とすべきにや。愚見をもってすれば、かくのごときは後人我見を振り舞わして叨《みだ》りに正号を改変せるのみ。ただし予は『補逸』と『七家』を見しことなければ、古谷君が引きたる文だけに基づいてこの見を立てたること弁ずるまでもなし。
  ?宋刻『太平御覧』の経史書綱目には、薛瑩『後漢書』とあるに、『御覧』より八十年後れ成りし『新唐書』芸文志四八には、薛瑩『後漢記』一百巻、弘(張の誤写か)瑩(?か)『漢南記』五十八巻と見ゆ。『隋書』をそのまま写せしかと思えど、巻数の相違せるより推すに、その書を見ずして妄りに録したりと惟われず、同じ宋朝の人士が同じ薛瑩の史を『後漢記』とも『後漢書』とも呼べりと断ずるの外なし。『続漢書』またこの例に同じからん。
  清朝の編纂や書目や評註、他朝に後れてできたるだけに、もっとも詳細を極め正鵠を得たるごとく思う人多きも、人おのおのその志を異にすれば、編者論者が看過したることも多し。予往年ダグラス男より特許を得て、『古今図書集成』を大英博物館の東洋読書室外に持ち出し、勝手次第に諸邦異方の書籍と対照せしことあり。また『欽定四庫全書総目』の写しを借りて、支那の書を何でも知ったごとく振舞いしことあり。何かのことでダグラスと論争せし時、件の二書を拠ろとして遣り込めたりと、故楢原陳政氏へ報ぜしに返書あり、「君好まばかかることを成せ。かかる書目や抄纂物を拠ろとしては、一論どころか一丁字を解することも成らぬと陳政は心得る」とのことなりし。後日福田令寿氏(日本であまり聞こえぬ人なれど、当時エジンバラ大学でラテン語優等特待生たりし)より聞きしは、楢原氏その時、南方は書目をおびただしく知っておると一言されしのみ、と。
  さて三年ばかり歴《へ》て、『酉陽雑俎』の斉暾樹はオリヴ樹のことと考え付き、調べに掛かると、明朝に成りし『本草綱目』、『食物本草』共に載せあれど、清朝の大著述、『古今図書集成』にも『植物名実図考』にも一切見えず。また『史記』の倉公列伝に見えたる火斉湯、火斉米汁、火斉粥のことは『本草綱目』にあるべしと思い、昨今その書を借り覧るに、一向なし。されば何の書も、編者の力と紙数に限りあれば、何ごとも無尽蔵とまで集めおら(478)ず、書目や抄纂物で真に一丁字の正解をも得ぬことと、楢原氏の言を今さら思い中《あた》れり。ただし、予のごとく不便の僻地に住む者が、いかにあせりたればとて、一事一物その出所を尋ねて、読み極むることは不可望なれど、図書多く益友備われる都会に住む学者は、なるべく書目や抄纂よりも、一々本書に就いて明らめられたきことなり。『四庫全書総目』が必ずしも支那の書籍を録し尽せる物ならざるは、しばしば先輩の説を聴きたり。
  四巻三号一四六頁に、『類函』一八二、挽歌三に、司馬彪『後漢書』をも引けりとあるは、古谷君の注意通り、原本に『続漢書』とありしを、予の麁稿に写し、その傍らに、『文献通考』一九一より、「陳氏いわく、唐の「芸文志」を按ずるに、後漢の史を為《つく》る者は、謝承、薛瑩、司馬彪なり、と」と写し置きたるより、病眼の悲しさ、見過って続を後と書きたるなり。これと同時に古谷君は、「遠遊司馬彪『漢書』にいわく」と示されたるも、予の本には袁遊とあり、左なくては義が通ぜず。ある人二代目アレッサンドル・デュマの文に語句の過ち多きを詰りしに、それは印刷工が正すべきものだと答えし由。語句の過ちさえ然らんには、一字二字の間違いは察読して御了簡の外なかるべし。
 次に古谷君は、予が君に、「『後漢書』と『続漢書』の相似たるより何の精査をなさず、漫然『続漢書』の文字を論ずるに『後漢書』の諸本をもってするは、『旧唐書』や長門本『平家物語』、また『?嚢抄』や『東海道名所記』を見ずに、『新唐書』、普通の『平家物語』、『塵添?嚢抄』、『東海道名所図会』にのみついて、その文字の正否をかれこれ論ずるに同じからずや」と述べしに対し、南方は、「司馬彪の『続漢書』を謝承の『後漢書』と誤認し、何の精査をなさず、云々、もしも余輩を目するに如上の言辞をもってせば、この辞は余輩一人にて専有すべきものにあらず、謹んで貴下に返上せんとす」と言われたるは、世に謂う狗の糞の仇討ならずや。
 古谷君の目白によれば、君は『続漢書』と『後漢書』の別物たるは初めより知りながら、二書の別物たるは『類函』に引ける火精の字の有無正否にさしたる関係なしとし、浸然世間稀覯の『後漢書』の諸本を臚列して、『続漢書』の文(479)をかれこれ論ぜしものなれば、その探索の粗略なる、予がこの僻陬不便の地に、昼間顕微鏡に病眼を労し、また神社合祀、勝景破滅反対運動の奔走に席暖まるを得ざる身をもって、わずかに夜中他人が睡眠に充つる時間を窃みて、一書を引き出すごとにランプとマッチと傘を携え、十たび戸を開閉して一たび書斎と書庫の間を大跛《おおちんば》で往復し、できる限りの精査を、欠陥多き自分の蔵書と、たまたま借り来たる他人の蔵書について做《な》したるものを、「何の精査をなさず」と返上さるべきにあらず。その他言いたきこと多きも、予は固《もと》より考古学会員にあらず、評議員柳田氏より、時々寄稿せよとて、雑誌を贈らるる縁によって、火斉のことにつき注意せしことを筆して雑誌に寄せ、読者諸君に質せしなり(三巻二号八五−八六の拙文を見よ)。予はまた本誌は箇人の確執を闘わす場所にあらざるを知悉すれば、古谷君の仕打ちに対して言いたきこと多きも、忍詬して黙過せん。
 ただ重ねて念のために古谷君に問い置くは、すでに氏は『後漢書』と『続漢書』の別物たるを知り、その謝承の筆また司馬彪の手に出でしものたるに論なく、『続漢書』に、「哀牢は火精瑠璃を出だす」の文あるをも、みずから確かめられたる上は、三巻二号に予が注意書せし、『淵鑑類函』三六四巻に、「『続漢書』にいわく、哀牢は火精瑠璃を出だす」の火精は、水精の誤刊にあらざるを是認せらるるか否か(第一問)。すでに是認せらるるならば、火精は水精に対する字という説を是認せらるるか否(第二問)。この二問の解決は、『続漢書』が謝承の筆に成り、もしくは司馬彪の手に成りたるにより左右さるべきものなりや否(第三問)。以上の三間は、『続漢書』が康煕朝まで伝存せしと伝存せざりしに依って、多少の影響を受くべきものなりや否(第四問)。すでに予の証明ある上は、『統漢書』を謝承作と予が信ぜしは、予の杜撰にも牽強にもあらざりしを是認さるるや召(第五問)。多事の病?をもって、年末多煩の際、三連夜全く鈍眼を休めざりし骨折り賃に、右の五問を明答されんことを切願す。
 古谷君またみずから「不敏にして、ためにその教に答うるに礼を欠くこと」多きを謝せらる。予は古谷君の仕打ちを見て自分ならばかくはすまじと思うことあるも、世に予自身ほど無礼の所行多かりし者なしと信ずるをもって、他(480)人が少々の無礼を加えらるるも自分一向これを感ぜず。「賭銭場裏に父子なし」と言えるごとく、学説の議論に礼法等の斟酌は、少なくとも予には加えられざらんことを望む。予は在外中、ある邦の王子の面を打ち、また米国大学校長(後に政府一省の次官)の前に陰を露わして臥し、また大英博物館で、五百人ばかりの中で、名乗り掛けて人を打ちしこと数回、その都度庇蔭する人多くて復館せしも、自分で自分の乱行に呆れ出し、進んでみずから退館せしは、当時公使館にありし諸友以下もあまねく知るところ。かかる無礼多き者と議論するに、多少の無礼をもってするは、強盗の留守宅で小盗を働くようなもの、少しも障りにならぬと断言し置く。
 さて、近く尾崎咢堂の自叙伝様の物を読みしに、すべて過去の自歴を譚《ものがた》るは、その人衰耄に近づける徴なり、とありし。予は今も衰耄はせぬつもりながら、無礼ということについて、面白く感じた履歴譚を、一つ御免を蒙りて本誌に述べ置かん。これその我執深き者同士の学論成行きの一班を示して、興味多しと信ずればなり。
 過ぐる明治二十七年十月、蘭国レイデン市発行『通報《ツング・パオ》』四号に、G.S.と署名して、『正字通』に「落新馬。長《たけ》四丈ばかり、海底におり、水面に出ずること罕《まれ》なり。皮堅くして、これを刺すも入るべからず。額の二角は鉤《かぎ》に似たり」と出でたるは、海一角《シー・ウニコルン》を指せり、落斯馬は支那語にあらず、何国の語なりや、と問えり。そのころ予が東西科学上の事物を比較し、毎度ロンドンの『ネーチュール』に投ぜし文、しばしば『通報』に転載されたれば、直ちに右の問を解き遣りなば、『通報』編輯人も悦ぶことと思い、すなわち一書を贈り、件の『正字通』の文は海一角にあらずして海馬《シー・ホルス》(日本で水象またセイウチと名づく)を指せり、海馬は鉤状の二角を額に帯びざれど、上顎に鉤状の二長牙を具せり。その他の記事は一切海馬に合えり。古え学者観るよりも聞くままをもっぱら記せし世には、牙を角と謬るほどのこと多し。プリニウスは海亀の両前鰭足を両角と誤解せる例さえあり、落斯馬はノルウェー語ロス・マル海馬の義なり。一五五五年ローマ板、オラウス・マグヌスの『北国民史《デ・ゲンチブス・セプテントリオナリブス》』二一巻二八章すでにロスマルを詳記し、その両牙を岩に懸けて眠るところを捕えることなど載せたれば、それより百余年後に、『正字通』編者が、かかる西人(481)の説を伝聞して載せたるなるべし、と答えしに、『通報』の編輯主宰ガスダブ・シュレッゲル博士(当時蘭国第一の支那学者)より来書あり。『正字通』が成りし時代に、かくまで欧州動物のことが支那に知れ渡れりとは信じ難し、もし落斯馬が果たして欧州の海馬なりと断ぜば、?は『正字通』の把勒亜という長身の魚、また薄里波とて物に随って色を変ずる虫は??(カメレオン)を指す物ながら、これらもみな欧州の語を漢字で音訳せる物と見做すかと問われ、またいわく、思うに落斯馬は日本語の「馬《ま》らし」より転訛せるもの、海馬の形が馬らしく似たるより出でし名ならん、と。
 予、書を復して答えしは、『正字通』が成りし十七世紀に、天主僧おびただしく支那に入りおれり。欧州動物のことを支那に伝えたるは疑いを容れず。把勒亜は、鯨のラテン名バレナなり、「身長は数十丈、二大孔あって、水を噴いて上に出だす」の文に合う。薄里波はギリシア語ポリプスの音訳、この語今は珊瑚、水母等、射形動物に専用さるれど、古ギリシア・ローマの学者みな全く章魚《たこ》を指せし名なり。章魚が寄るところの物に随って色を変ずるは、漁夫の知るところにて、ポリプス海に棲んで場所に依って色を変ずと、西暦一世紀にプリニウスの『博物志』九巻四六章これを載せ、八巻五一章別に??を載せたれば、薄里波の??艇ならで章魚たるは明らけし。『正字通』すでに欧州名を音訳して、把勒亜と薄里波を載せたる上は、欧州名落斯馬音訳の下にその欧州話を載するも何ぞ怪しまん。人を困らさんとて問うたこの二名が、反って敵勢を助くるとは、天の意地悪き者に与《くみ》せざるを知るに足れり。また自分すでに落斯馬の海馬にあらざるを主張しながら、落斯馬は日本で海馬を、馬に似たゆえ「馬《ま》らし」と名づけしに出ずとは、何たる自家撞著ぞ。日本に「馬らし」などいう名詞かつてなし。ただし海馬と縁ある海豹を「あざらし」と和称するから、海豹の斑紋痣《あざ》に似るゆえ、痣らしなどと酒落たら、欧州で信徒もできなんが、日本には俗人にも通ぜぬ。いっそ馬の次に鹿を挿んで、「馬鹿らし」としたら、?の見解に適当ならん、と言い遣りしに、シュレッゲル大いに怒り、?は無礼極まる不忠実《ジスロヤル》の者なり、追って落新馬の意義をトングス、ギリヤク、カムシャダル等の語で見出だし、教え遣るべし、と言い越さる。
(482) 予面白くなって来て、また状を出し、?は無礼の不忠実のと無礼極まることを言うが、それはジャワ人と日本人の己様《おれさま》を取り違えたのでないか。那翁《ナポレオン》一世の大戦に、蘭国全く封土を失い、わずかに長崎出島に国旗を樹て得て、いささか面目を保ったのは、わが幕府の寛典に惟《これ》頼る。そのような者ゆえ、『和漢三才図会』一四には、阿蘭陀を日本の付庸国ごとく記し、その人、「常に一脚を提《あ》げて尿を去る、貌《かたち》犬に似たり」と書けり。落斯馬が海馬のノルウェー語ロス・マルなるを教えられて、ハッと思い中りながら、日本人に教えられしが残念で、トングス、ギリヤク語まで調査して我意を張らんとは、偏執の強さずいぶん見所あり、一体この論は、『通報』四号に問を出したG・S・なる人に答えたまでなるを、予の答文を『通報』に出さず、?がむやみに怒り来るは何ごとぞ、と問えり。シュレッゲルまた、答え来たりしは、G.S.とはわが名ガスタヴ・シュレッゲルの二頭字なり。?膚が何と言うとも、『正字通』落斯馬の条の出所を見出だし告げ来たらぬうちは、?の言一切信ぜられぬと、小児がだだを捏ねるような文句で、さすがの南方先生も大いに辟易し、苦笑いばかりで過ごすうち、ダグラス教授所用あって招かれ、用談済んでその案上の小本の赤表紙が美しいので取って見ると、極西南懐仁敦伯著『坤輿外紀』で、かれこれ読むうち、前述把勒亜と薄里波のみかは、親の仇同様尋ねおった落斯馬の記載も見出だした。いわく、「落斯馬は長四丈ばかり、足短くして海底におり、水面に出ずること罕《まれ》なり。皮はなはだ堅くして、刀を用《も》ってこれを刺すも入るべからず。額に角あり、鉤のごとし。寝《い》ぬる時は角をもって石《いわ》に掛け、尽日醒めず」。「額に角あり、鉤のごとし」を『正字通』に「額の二角は鉤に似たり」とせる外、文体全く相違なく、ただ『外紀』の方やや文詳しきのみ、大要は上述オラウス・マグヌスの『北国民史』より抄せるがごとし。
 よって書を飛ばして、『正字通』落斯馬の条は、『坤輿外紀』より抄出せる物、『外紀』の文はオラウス・マグヌスより採りしものなる由を告げしに、シュレッゲルますます業腹を煮返し、何が何でも、件の『坤輿外紀』が欧人の手に成った物でなければ、支那人がいかにして、オラウス・マグヌスの欧文を訳採し得ん、と答え来る。議論もこうなっ(483)ては、予も全くこのことを放棄し、良《やや》久しくありしに、また一日ダグラスに招かれて、書籍目録編纂を助くるうち、ふとウィリーの『支那文学注記《ノーツ・オン・チヤイニス・リテラチユル》』(一八六七年板)で、『坤輿外紀』はブルィジュ(今ベルギーにあり)生まれの天主僧フェルジナンド・ヴェルビェストが、康煕朝支那にて作りし『坤輿図説』より、奇異の事物の記文のみを抜萃せるものたるを識り、新板『万国人名事彙《ビオグラフイー・ウニヴエルサユ》』(パリおよびライプチヒ板)四三巻を探して、この人一六三〇年ごろ生まれ、一六五九年波清、諸学について著作多く、康煕帝の眷顧を蒙り、みずから名を南懐仁、字《シユルノム》を敦伯と付け、欧州に還らずして一六八八年歿せる由を写し取り、また書を遣わしてシュレッゲルに告げ、何と難題を言い懸けても、注文通り、『正字通』落斯馬の条は、もと欧州の海馬の話を、欧人が欧語から漢訳したと分かった上は、最初熊楠が答えた通り、落斯馬はノルウェー語ロス・マルの音訳で不服がなかろと言い遣り、この上不服なら止むを得ず、蘭国の碩学シュレッゲルが日本の学生南方を蔑如し、種々の難題を言い掛けしも、ついに打ち負けた次第を詳叙し、シュレッゲル毎敗執拗の罰、南方全捷天佑に由ると、詩を題してロンドンで出すから、左様心得ろと申し送れり。
 これに弱りしと見え、一八九七年三月四日付返書来たり、シュレッゲル手書で、「君はこのほどの状で、落斯馬なる語を支那に入れしは、欧人フェルジナンド・ヴェルビェストたるを明証せる上は、年来の疑問ここに始めて解け、予は今は全くこの語は海馬を意味すと了《さと》れり。君、心身健康なるの日、落斯馬について一小扁を綴り投寄あらば、予はこれを『通報』に載せて公けにすべし。君に誠実なるガスタヴ・シュレッゲル」と告げ来たれり。よって予は「落斯馬が海馬と別《わか》つたらそれで宜し。日本人は蘭領ジャワ人と名は似ておるが、堂々たる独立国民で、気象が軒昂だ。よって以後これに手懲りして、日本人に入りもせぬ悪意地をもって打ち掛からぬよう忠告申し上げる。『通報』へは何となり勝手に出さるるも出されぬも、落斯馬が海馬と別りさえする上は、他のことは一切問うところでない」と言い送り、それで事済みしが、後年浄土宗のある僧、ロンドンで貧渋し、シュレッゲルに助力を求めしに、レイデン博物館で使い遣ると返事あり。その僧予の証明状あらば一層シュ氏の信認あるべしとて、強いて求められしゆえ、予より(484)シュ氏に一書を送り、かの僧のことを頼みしも、その後一切返事なかりしは、落斯馬の一件の遺恨勃発してのことと思わる。右の論戦終結までに二年余を費やし、実に詰まらぬことなりしが、予は当時三十歳の血気盛りで、別段障りもなく、徳川頼倫侯始め内外の人士に、本邦のため気を吐いた男と褒められ、酒多く賜わりしが、シュレッゲルは老人で大分弱りし様子、孫逸仙などは、南方はまことに執念深き男と気の毒がりおられし。
 今や古谷君の問に応じ、予が『続漢書』を謝承作とせしは予の独断杜撰ならず、李時珍とブレットシュナイデル先生の説に基づく由を明らかにし、出処の巻付け丁付けまで申し開けり。しかる上は、君もはや、予が『淵鑑類函』、「哀牢は火精云々を出だす」の文を、謝氏の筆とせしに相当の理由あるを認めらるべく、この上強いて、謝氏の書は明代には存したるべきも、康煕朝には全く存せず、故に熊楠が李氏とブ氏の説によって『続漢書』を謝氏の書と信じ、『類函』、「哀牢は火精云々を出だす」の文を引いて、火精の字が隋唐以前にあり、火斉、火精同物なるべしと注意せしは、採るに足らずなど繰り返さるれば、予はこれを往年欧人がみずから欧書より欧語欧譚を漢訳せし証を挙げぬうちは、『正字通』落斯馬はノルウェー語ロス・マルの音訳と信ぜられずと難題を主張した、シュレッゲル以上の負け嫌い、無恥極まれる人と敬遠するに躊躇せず。
 ついでに言う。瑠璃の原語吠瑠璃(ヴァイズリア)が空青(ラピス・ラズリ)を指すは、古来梵語を訳する人みな首肯するところ、疑いを容れず。今日梵文の古医法を行なう輩に逢うて聞くも、梵語ヴァイズリアとある方剤には、必ず空青を用ゆという。前日、白井光太郎博士、「明治二十四年帝国博物館金石岩石および化石標本目録」を恵贈されしを見るに、その四五頁、一二四頁、共にラピス・ラズリを瑠璃とし、九二頁には瑠璃石とせり。これそのころ瑠璃、空青一物たるをわが帝国博物館すでに認識しおりたるを証す。空青は石の腹空なるゆえ名づくと時珍言いたれど、空青必ずしも腹空(鈴石態《ジーオード》)ならず、全くラテン名ラピス・ラズリ、英名アジュール・ストーンと同じく、もと天空の色に斉《ひと》しきゆえの名ならん。『大英類典』に、その色紺にして微細の金光粉を雑ゆ、古人、碧天星辰を列せるに比し、ラ(485)ピス・ラズリ(碧天石)と呼べり、と見え、『智厳経』等に、帝釈天の地面瑠璃より成る、この閻浮提《えんぶだい》の人見て天色を瑠璃色となす由言えり。回教徒がカフ山大地を周繞す、山底|縁玉石《エメラルド》より成る、その光、天に映りて天色青しと言うに似たり(一八四五年板、コラン・ド・プランチー『妖怪事彙《ジクシヨナル・アンフエルナル》』四〇八頁)。
 日本で現時空青を「こんじょう」と呼ぶ。『和漢三才図会』に、「金青、紺青、共にこれ俗称」とし、古く『続日本紀』に、「金青は上野国より出ず」とあり、と載す。只今証拠を出し得ねど、金青を瑠璃に宛てし例、仏経にあり。紺色中に微細の金光粉光るゆえの名ならん。瑠璃を紺青とせし例は、確かに仏経にあり。元魏の慧覚訳『賢愚因縁経』八の三八品、刹羅伽利の頭髪を形容して、前に、「身は紫金色、頭髪は紺青にして、光相|モ著《へいじやく》す」、後には、「身色は晃曜《かがや》きて紫金の山のごとく、頭髪は奕々《えきえき》として紺の瑠璃のごとし」とせり。されば金青、紺青いずれの字を用うるも、「こんじょう」は本邦でできた俗名にあらず。仏経外の古支那書に見えぬまでも、古支那より伝来の称なり。紺瑠璃、青瑠璃を別ち記せる例、経文に多し。『大涅槃経』に、世尊、盧至長者を化せんとて首波羅城に至る。尼乾外道、仏の宿るべき林を絶やさんと、諸人に樹木を伐り尽さしむ。如来、慈心もて樹木を復活せしめ、「河池泉井は、その水清浄にして青瑠璃《せいるり》のごとく、その城壁を変じて紺瑠璃となす」、これは扁青(空青の形扁なるもの、成分および用方同じ)、緑青共に「細末すれば色浅くなるなり。故に初め色濃くして黒を帯ぶるを貴ぶ。設色《さいしき》に用うるに、頭青、二青、三青の名、『芥子園画伝』にあり。本邦にても、一番、二番、三番の名あること緑青に同じ」と『本草啓蒙』巻六に言えるごとく、色濃き紺青を紺瑠璃、色浅き「ぐんじよう」を青瑠璃と言いしなり。
 さて、ラピス・ラズリが紺青なるは、吾輩少時|夙《つと》に知れおりしことにて、和田維四郎、白井某(夏雲氏の息)、杉村次郎、須川賢久等諸氏の礦物学・博物学書、多くはラピス・ラズリを紺青また紺青石とし、杉村氏は少々ながらその邦産あるを述べたりと記臆す。吾輩明治十三至十九年間、おびただしく内外国の礦物を蒐め、今も和歌山舎弟の宅に存するを、このほど帰省して見たるに、そのころの自筆にてラピス・ラズリに紺青と名札を付しあり。もっとも摂津(486)多田より出でし紺青などは、ラピス・ラズリならで、実は碧銅鉱(また鋼青石と訳せり)の由。とにかく古谷君は、ラピス・ラズリが瑠璃なるを知って、画家が用ゆる紺青(人工品もあり)たるを知らず、もしくは知りながら認識せぬと見え、ラテン名を欧字で印刷しおるを見て、かのラテン名は紺青を指すものと注意し置く。バルフォールの『印度事彙』には、支那人磁器に画くに紺青(すなわち瑠璃)を用ゆという、とあり。真偽は知らず、大英博物館に東洋陶磁器の大品彙を寄付せし故フランクス男の直話には、支那人紺紫色を磁器に施すに、酸化コバルト土、アスボライトと呼ぶ物を用ゆ、漢名画焼青、和名ゴスと呼ぶ、呉州産を日本に伝えたるゆえ名づく、と。これはたぷん予の前に南ケンシントン美術館でかかることの調査を担当せし小脇源次郎君の説を採れるならん。
 『和漢三才図会』六一、「茶碗薬《ちやわんぐすり》。下品なるものは、色光潤ならず。俗に呉須手《ごすで》と名づく」と見ゆ。むかし紀州の一位治宝公、偕楽園に窯を開き、支那よりゴスを取り寄せ、紺碧色の器を焼き成し、御浜焼と名づけし。そのゴスことのほか上品にて、今日支那にも少なくなる。よって多くは洋人に買い去られ、御浜焼の器、明治に至ってはなはだ少なくなれり、と亡父に聞けり。ゴスは本邦にも尾張、美濃に産し、予も高木勘兵衛より美濃産を買いて今に蔵せり。
(「博物館目録」土岐郡三ヵ村の産地を出せり。)むかし紺青と称せしは、ラピス・ラズリと碧銅鉱の外に、ゴスをも称せしことも全くなきを保せずと思い記し置く。(未完、大正二年十二月十六日起稿、十九日成りて発送す)
 
(487)     春駒
              佐々木喜善「馬首飛行譚」参照
              (『郷土研究』五巻一号一八−一九頁)
 
 本文の引合に予の名が出ておるによって、読者諸君の参考までに少しく述べる。『嬉遊笑覧』五下に、「「『通雅』にいわく、「月令」に、仲春には馬祖を祭り、季春には先蚕を享《まつ》る、原蚕を禁ずるは、馬を傷つくるがためなり、云々、と。何子元いわく、後世ついに蚕女児、馬明《ばめい》菩薩、馬頭娘の説あり、『中華古今注』および『捜神記』、『乗異集』に見ゆ、何ぞそれ妄なる、と。また、『周礼』、馬質に原蚕を禁ず、注に、天文にて辰を馬となし、『蚕書』にて蚕を竜精となす。月、大火に直《あ》えば、すなわちその種《たね》を浴す、これ蚕と馬とは気を同じくして、両《ふたつ》ながら大となること能わず、再蚕を禁ずるは馬を傷つくるがためなり、と。旧《ふる》く先蚕を祀りしは、馬と祖《まつ》りを同じくせしか、またいまだ知るべからず」などあるをもて、春駒は蚕を祀るとするは非なり。ただそのことの似つかわしきはこれのみにあらず、白馬節会《あおうませちえ》のことに拠れりと言えるは、穏やかなるべし」とある。
 件《くだん》の『通雅』は、明の崇禎十六年、方以智が書いた物で、それより少なくとも七十八年前、嘉靖四十五年に大部分がすでに成りおった郎瑛の『七修類藁』一九に、大略方以智と同様の説を出しあって、その文簡明だ。(『笑覧』には抄節されたが、万民の原文は大分繁長だ。)いわく、「『皇図要記』にいわく、伏羲は蚕を化して糸を為《つく》り、また黄帝の四妃、西陵氏始めて蚕を養って糸を為《つく》る、と。しかして干宝の『捜神記』に、以為《おもえら》く、古え遠征する者あり、女《むすめ》、父を思い、養うところの馬に語っていわく、もし父の帰るを得れば、われまさに汝に嫁《とつ》がん、と。のち、馬、父を迎えて帰り、女を見てすなわち怒る。父、馬を殺し、皮を庭の中に曝《さら》すに、たちまち女を巻いて飛び去り、桑間に下っ(488)て蚕と化す。故に『乗異集』に載す、局中の寺観、多く女人を塑し、馬の皮を披《き》せ、これを馬頭娘と謂い、もって蚕を祈る、と。予意《おも》うに、蚕と化するの説は荒唐なり、しかして西陵氏の蚕を養うは是《ぜ》となす。ただ世遠くして稽《かんが》うべからざるなり。干宝の記すところのごときは、ただ馬頭娘の一事によって、ついに空《くう》を駕してその説を神にす。いわゆる馬頭娘は、荀子の「蚕の賦」の、「身は女好《じよこう》にして頭《かしら》は馬首なるものか」の一句に本《もと》づく。また、荀子はかつて蘭陵の王たり。あるいは世誤って馬明王となすなり。かく干宝、乗異、みな言に因ってもって訛りをなすのみ。ただ蚕はすなわち馬の精の化するところ、故に古人の原蚕を禁ずるは、馬を傷つくるを恐るるなり。白?蚕《はくきようさん》の馬歯に擦《ふ》るれば、馬すなわち食わざること見るべし。その神を祀らんと欲し、古えは、后妃、先蚕を享《まつ》る。先蚕は天駟《てんし》なり、馬の精にあらずして何ぞ。『漢旧儀』にまたいわく、蚕神は、苑?婦人《えんわふじん》、寓氏公主なり、と。これに拠れば、すなわち西陵氏に始まること知るべし。故に世に蚕をもって婦人の業となすなり」と。
 最《いと》古く西洋で蚕業の起りを説いたはアリストテレスで、その『動物志』五巻一七章六節に、コスのパムフィレという女、始めてその地自生の蚕より絹を造った、と出ず(プリニウス『博物志』一一巻二六章参取)。コスは小アジアの西南にある。長さ二十五マイルの小島で、七年前よりイタリア領となった。ローマ帝国の盛時、この島より出たコス織は、もっぱら貴婦人に愛用され、織目《おりめ》細かくてほとんど透明、それを時に紫に染め、また金線で飾ったというから、誰も彼も「見た事があるにといやな口説きやう」、しごく挑発的のアブナ物だったらしい。さほど貴重な品が手近にできたに関せず、ユスチニアヌス帝は、百方、支那より蚕種を致さんと苦心し、かつてかの国にあって蚕業を心得たペルシアの二僧を奨《はげ》まし、再び往つてその種を竹杖に蔵し、コンスタンチノプルに齎さしめてその志を遂げた。これ西暦五五〇年ごろのことで、爾来千二百余年間、西洋人はもっぱら、当年その竹杖から出た卵より化成した多くの蚕品で絹を造った。(一九二九年一四輯『大英百科全書』六巻四八二頁、二〇巻六六五頁。ボーンス文庫本、英訳『プリニ博物志』三冊二六頁、脚註八三)
(489) コス島の蚕は生まれて蛹化するに六月かかるようアリストテレスがいい、槲等の葉を食うようプリニウスが書いたから、家蚕でなくて山繭ごとき野蚕だったらしい。『書紀』に、保食神《うけもちのかみ》死して眉上に繭生ぜり(故に繭をマユというと谷川士清の洒落だ)。『古事記』には、大気津比売之神《おおげつひめのかみ》という女神は、尻から大豆を出して素戔嗚尊に供え、きたないとて殺された、その頭に蚕生ぜり、とある。尻が大きいので大ゲツ媛と名づけたでないが妙な偶合だ。尻は『和名抄』に、和名シリ。その通りによむべし、後世尊勝の御前でシリなど読んでは尾籠ということで、カクレと訓んだは古風に背いた偽飾だ、シリクメ繩などシリを忌避せずに読んだ例が多い、と宣長は言った(『古事記伝』九)。まことに左様で、後世尻をケツと呼ぶ世となっては、シリばかりカクレと読み替えても、大ゲツ媛の神名をいかに君前なりとて、大力クレ媛と改めることもなるまい。
 かく神代の本邦に蚕が出たのに、?《はる》か後れて仲哀天皇四年、秦始皇帝十一世の孫、功満王帰化して蚕種等を献じたとあり(『三代実録』五〇)。(『新撰姓氏録』には四年を八年、十一世を四世に作る。)本来あった物なら余所から貰うはずなしなどいう人もあるが、晋の陳寿の『魏史』三〇、倭人伝に、「禾稲《かとう》、紵麻《ちよま》を種《う》え、蚕桑|緝揖績《しゆうせき》し、細紵《さいちよ》、?緜《けんめん》を出だす」。劉宋の茫曄の『後漢書』にも、「土《ど》は禾稲、麻紵《まちよ》、蚕桑に宜しく、織績を知り、?布を為《つく》る」。『康煕字典』に、『前漢』外戚伝註を引いて、「?はすなわち今の絹なり」とあれば、仲哀天皇前|蚤《はや》く蚕も絹もあったに、仲哀帝のころより秦人毎度帰化して蚕の良種を齎し、著しくその業を発達せしめたのだ。『新撰字鏡』に蚕(蠶の俗字)をクレノミミズと訓じあるは、家蚕の良種は呉地より来たれるを証すること、後世本邦固有の犬ある上に、外国から入った犬を唐犬と呼んだと同例だ。
 これらの例と等しく、支那養蚕の起源も帰一しないとみえる。上に『七修類藁』より孫引きした『皇図要紀』に、「伏羲は、蚕を化して糸を為《つく》る」。『路史後紀』一や『農政全書』三一には、『皇国要覧』から、「伏羲は、蚕桑を化して?帛《けいきん》を為《つく》る」とある。『字典』に、「布の細くして疏なるもの」を?緯というとあれば、?帛は、糸が細く眼があらい(490)絹であろう。いずれにしても、太古の人は鳥獣の皮を著たが、人多く鳥獣少なくなったので、糸麻布帛を製出したのだ(『農家全書』三一)。
 『爾雅』に四種の繭の名を列せるに、四種の蚕が、桑、樗、麻、欒、蕭と五種の植物を食うによって、称を異にしたとみえる。後世の史乗にも、桑とその他の物を食う野蚕の繭が民用を達した例多く出で、はなはだしきは、唐の開成二年陳許奏す、野蚕おのずから桑上に生じ、三遍繭を成し、九十里に連綿す、百姓もって糸綿細絹となすと、など記した。されば伏羲のころはもっぱら野蚕を用いたであろう。ところへ黄帝の代に元妃西陵氏が始めて家蚕を養い育て、帝その糸をもって衣裳を制作したものの、広い支那中へ十年や百年で養蚕が拡まるべきでないは、ずっと降って後漢の范克が呉の桂陽の太守たりし時、「民に桑を植え蚕を養うを教え、民、利益を得」などあるで判る。かく無識な人間ばかりの諸僻陬で、率先して蚕業を奨め教えた人々を、その地方の人々が蚕神として崇めたから、広い支那には天駟という星、西陵氏という元妃ばかりが蚕神でない。漢朝に?られた苑?婦人寓氏公主も、初めはある地方に限った蚕業家だったろう。『天中記』に、蜀人二月望日、蚕器を市で売り、楽を作して縦観するを蚕市という。『茅亭客話』に、蜀に蚕市あり、正月より三月まで、州城および属県十五処で毎歳市を立つる、古老の伝聞に、古え蚕叢氏が蜀主たりし時、民に定居なく、蚕叢のある所に随って市を致しおった遺風だ、と。『方輿勝覧』には、成都は古え蚕叢の国で、その民蚕事を重んずるから、毎年二月望日、花木と蚕器を大慈寺前で売り蚕市と號す、と。時代と所により市日が多少|差《ちが》うたが、養蚕を特に重んじ、その用器の売買に賑々しく市を立てたのだ。蜀はむかしわが熊野のような偏土で、黄帝の子昌意が蜀山氏の女を娶り帝?を生んだから、帝?その庶子を蜀に封じた。けれども、きわめて辺鄙ゆえ、周の王職を奉じながら春秋盟会に与《あずか》り得ず。忠志も薄かったので、周が綱紀を失うと蜀侯蚕叢がイの一番に王と僭称した。この王は目が顔に横たわらず縦だったという。上に列ねた伝説でみると、この蚕叢王が雄略天皇同然奮うて蚕業を起こし、後には有名な蜀江の錦も出た。されどその国富饒、その布帛金銀を得ば軍用に給するに足ると勧められ(491)て、秦の恵王が蜀を伐ち滅ぼした。だからむやみに富むのも考え物だ。明の郭子章の『蚕論』に、「蚕叢、蜀に都し、青衣を衣《き》て、民に蚕桑を教う」。『方輿勝覧』に、「蜀王蚕叢氏の祠は、今呼んで青衣神となす。むかし蚕叢氏、人に蚕を養うを教え、金蚕数十を作り、家ごとに一蚕を給す。のち聚めて給せず、これを?《うず》めて蚕基を為《つく》る」。蜀に古く青衣羌住んだ。もと青衣したからの称らしく、蚕叢王はその出身だろう。(『欽定授時通考』七二および七三。『?史』四四。『淵鑑類函』三五六。『格致鏡原』九六。『華陽国志』の蜀志。『談薈』二四。『水経注』三六)
 永尾君の『支那民俗誌』に、現時支那の養蚕地方で青衣神を祀るとあるは、この蚕叢王だ。その眼が縦だったとは馬面に像つたものか。金蚕は黄金製の蚕で、蚕利を招くマジナイ道具だったものか。斉桓公や晋の桓温女の墓に蔵しあったとは、早く貴宝となりおったらしい。
 件の青衣して顔に両眼が縦列した蚕叢王よりも、蚕神としてずっと著名なは、馬皮を衣《き》て、腹下に一眼が縦開した無名の一女子で、蜀王の威望をもってしても、女郎花には靡きけりなと歎息さる。
 この馬頭娘の伝は、晋の干宝の『捜神記』に出るときけど、拙蔵の『増訂漢魏叢書』本にみえず。『津逮秘書』にはこの本を欠く。よって『斉民要術』五と『格致鏡原』九六に引けるを校合して出そう。いわく、「太古の時、人あり、遠征す。家に一《ひとり》の女《むすめ》ならびに馬一匹あり。女、父を思い、すなわち馬に戯れていわく、能くわがために父を迎うれば、われまさに汝に嫁《とつ》がん、と。馬、?《つな》を絶って去り、父の所に至る。父、家中に故《わざわい》あるかと疑い、これに乗って還る。馬のちに女を見れば、すなわち怒って奮撃す。父これを怪しみ、密《ひそ》かに女に問う。女、もって父に告ぐ。父、馬を屠《ころ》して皮を庭に?《さら》す。女、皮の所に至り、足をもってこれを蹙《け》っていわく、爾《なんじ》は馬なるに人を婦《よめ》となさんと欲し、みずから屠《ころ》され剥がるることを取《まね》く、如何《いかん》、と。言いまだ竟《おわ》らざるに、皮|蹶然《けつぜん》として起《た》ち、女を巻きて行く。父、女を失いてのち、大桑樹の枝間に、女および皮を得たるに、ことごとく化して蚕となり、樹上に績《つむ》ぐ。繭は厚く大きく、常に異なる。隣の婦これを取って養うに、その収数《みいり》倍す。世に蚕を謂いて女児となすは、古えの遺言なり。よってそ(492)の樹を名づけて桑となす。桑《そう》とは喪《そう》を言うなり」と。
 『法苑珠林』六三に載するところは、やや差《ちが》う。「旧説を尋ぬるに、いわく、太古の時、大人あり、遠征す。家に余人なく、ただ一《ひとり》の男《むすこ》、一の女《むすめ》、壮馬一匹あり。女|親《みずか》らこれを養う。幽処に窮居し、その父を思念《おも》い、すなわち馬に戯れていわく、爾《なんじ》能《よ》くわがために父を迎え得て還れば、われまさに汝に嫁がん、と。すでにしてこの言を承《う》け、馬すなわち  鱒《つな》を絶って去り、径《ただ》ちに父の所に至る。父、馬を見て驚き喜び、よって取ってこれに乗る。馬、自《よ》りて来たるところを望み、悲しみ鳴いて息《や》まず。父いわく、この馬無事なることかくのごとし、わが家、故《こと》あることなきを得んか、と。すなわち亟《すみ》やかに乗ってもって帰る。畜生にして非常の情ありとなし、故に厚く芻養《すうよう》を加う。馬|肯《あ》えて食わず、女の出入するを見るごとに、すなわち喜び怒って奮い撃ち、かくのごときこと一ならず。父これを怪しみ、密《ひそ》かにもって女に問う。女|具《つぶ》さにもって父に告ぐ、必ずやこの故のためならん、と。父いわく、言うなかれ、おそらくは家門を辱《はずかし》めん、かつ出入するなかれ、と。ここにおいて弩《いしゆみ》を伏せ、射てこれを殺し、皮を庭に曝《さら》す。父|行《いでゆ》きて、女、隣の女とともに皮の所に之《ゆ》き、戯れに足をもってこれを蹴っていわく、汝はこれ畜生なり、しかるに人を取《いた》して婦となさんと欲するや、かく屠《ころ》し剥がるることを招く、如何ぞみずから苦しむ、と。言いまだ竟《おわ》るに及ばざるに、馬皮蹶然として起ち、女を巻きもって行く。隣の女、忙《あわ》て怕《おそ》れ、あえてこれを救わず、走ってその父に告ぐ。父還って求索《たず》ぬれども、すでに出でてこれを失う。のち数日を経て、大樹の枝間に得るに、女および馬皮はことごとく化して蚕となり、しかして樹上に績《つむ》ぐ。その繭は、綸理厚く大きく、常蚕と異なる。隣の婦、取ってこれを養うに、その収数《みいり》倍す。よってその木を名づけて桑という。桑は喪なり。これより百姓|競《きそ》ってこれを種《う》う。今世に養うところはこれなり。桑蚕というは、この古蚕の余類なり」というので、これには男子と女子とあったそうだが、その男子はこんな騒動を父と妹に任せて傍観したらしい。
 次に『太平広記』四七九に、『原化伝拾遺』から引いたはまた差《ちが》う。いわく、「蚕女なる者あり。高辛帝の時にあた(493)り、蜀地いまだ君長を立てず、統摂するところなし。その人、族を聚めて居《す》み、逓相《たがい》に侵噬《しんぜい》す。蚕女の旧跡は、今広漢にあり、その姓氏を知らず。その父、隣の掠むるところとなり、去ってすでに年を逾《こ》ゆ。ただ乗るところの馬なおあり。女《むすめ》、父の隔絶せるを念い、飲食を廃することあり。その母これを慰撫し(と母もある)、よって衆に告げ誓っていわく、父を得て帰る者あらば、この女をもってこれに嫁がしめん、と。部下の人、ただその誓いを聞くも、能く父を致して帰る者なし。馬その言を聞き、驚躍振迅して、その拘絆《ともづな》を絶って去り、数日にして父すなわち馬に乗って帰る。これより馬、嘶《いなな》き鳴いて肯《あ》えて飲?《のみくい》せず。父その故を問う。母、衆に誓いし言をもって、これに白《もう》す。父いわく、人に誓って馬に誓わず、いずくんぞ人を配して非類に偶《つれあわ》すものあらんや。能くわれを難より脱せしめたる功また大なるも、誓うところの言は行なうべからざるなり、と。馬いよいよ?《あが》く。父怒ってこれを射殺し、その皮を庭に曝す。女行きてその側を過《よぎ》るに、馬皮蹶然として起《た》ち、女を巻いて飛び去る。旬日にして、皮|復《ま》た桑樹の上に栖《とま》る。女は化して蚕となり、桑の葉を食い、糸を吐いて繭を成し、衣をもって人間《じんかん》を被《ひ》す。父母悔恨し、これを念いて已《や》まざるに、たちまち蚕女の流雲に乗ってこの馬に駕し、侍衛数十人にて、天より下るを見る。父母に謂いていわく、太上わが孝にして能く身を致し心に義を忘れざるをもって、授くるに九宮仙嬪の任をもってし、長《とこしえ》に天に生く、また憶念するなかれ、と。すなわち虚《そら》に冲《のぼ》つて去る。今、塚は什?、緜竹、徳陽三県の界《さかい》にあり。毎歳、蚕を祈る者、四方より雲集し、みな霊応を獲《う》。宮観みな女子の像を塑し、馬皮を披《き》す。これを馬頭娘と謂い、もって蚕桑を祈る。「稽聖の賦」に、いずくんぞ女あって、かの死馬に感じ、化して蚕虫となり、天下を衣被せん、というはこれなり」。
 第一と第二の文に、その繭厚く大きく常蚕に異なり、その収穫も数倍したとあるので、その前にも若干の蚕種はあったが、繭の大きさ厚さと収穫は、今度始めて生じた桑蚕には及ばなかったと分かり、その前の蚕は桑ならぬ他の植物を食ったことも察せられる。女身や馬皮が蚕となったとはいと怪しいが、享和三年刻、上垣守国の『養蚕秘録』下に、「一説に、中華舜の御代に、官人馬を引き出でて、庭上に放ち置きぬ。折ふし皇女玉簾を挑《かか》げ馬を見給う。かの(494)馬、皇女を深く見入りて止みぬ。ある夜の夢に、かの馬告げていうよう、われ畜類ながら、姫の艶色に牽かれて思い入ること切なり、しかれども、人間ならざれば力及ばず、死して一方の蚕と生じ、真綿に引かれて、皇女の御身に添うべし、と告げて夢さめぬ。翌日かの馬果たして死す。故に野外に埋めしかば、その地に虫多く生じ、あたりの桑の葉を食い、繭を作る。これを真綿に引かせける、と古書にみえたり。また唐土に、云々(ここに馬頭娘の話を引く)、馬皮娘を纏い、ともに化して蚕となりけるとかや。按ずるに、これらは妄説にして信用し難し。もっとも世に蚕の種類余多にあれば、一方の蚕にてもあるべきか。さりながら、生皮をそのまま置く時は、虫わくこと馬の皮に限るべからず」と説いて、暗にむかしの愚民が馬皮に生じた蛆を幼蚕と誤認しはせぬかと、疑いを示しおるはやや卓見だ。
 支那人が始めてコチニールをみた時、虫と知らずに穀類と心得、呀?米と書いたと聞いた。古エジプト、ギリシア、ローマの人は花アブと蜜蜂の別類たるを識らず、牛の屍体から蜜蜂が生ずると信じた由(一八九四年ハイデルベルヒ板、オステン・サッケン男『古人の牛生蜜蜂』二〇二二頁)。その説を輔くるため、かつて予が『ネーチュール』に掲げたは、清の張爾岐の『蒿庵間詰』一に、馬歯?《すべりひゆ》と鼈肉を雑えて一器に入れおくと鼈に化すと聞いた、と出ず。何か鼈形の半翅虫でも孵り出すか、来たり著くのだろう。また『増補万宝全書』に、種菜即生という手品法あり。小さい浮萍《うきくさ》を壁土にまぶし乾かしおき、水に漬して火に掛けると、たちまち拡がって菜が生えたようにみえる。方法が浅近なだけ愚者は騙されやすい。それと均しく、むかし蚕があまねく行き渡らなかった世には、馬皮の蛆を蚕児として、しばしば欺かれたこと、あたかも本邦で、毎々偽薬を沿用したあまり、サルトリイバラを山帰来と通称する処多きに同じからんか。『荀子』賦篇に、蚕を賛して、「帝これを占していわく、これそれ身は女好《じよこう》にして頭《かしら》は馬首なるものか」。これに基づいて閔鴻の「蚕の賦」に、「体は竜頸にして驥《き》喙なり、云々」。『東方朔別伝』に、「蚕の状《かたち》、喙《くちさき》は?々《ぜんぜん》として馬に類し、色は斑々として虎に類す」。本邦でも天平宝字改元の詔に、「蚕の物たること、虎の文《もよう》ありて、時に蛻《からぬぎ》することあり。馬の吻《くちさき》ありて相争わず」とある。それから古支那で、四星より成る房宿を四匹の馬と見立て、天駟と一(495)名するゆえ、蚕馬同気とて、房宿を蚕精とす。(『潜確居類書』一一七『格致鏡原』九六。『続日本紀』二〇。『山堂肆考』角集四八。『農政全書』三一)
 また『易』に、乾は竜をもって天を御し、坤は馬をもって地を行く、竜は天類、馬は地類なり。ひらたく言わば、人が馬に乗って地を行く通りに、鬼神は竜に乗って天上を行くてな比較で、漢代竜を馬首蛇尾に画き、支那に竜馬、インドに馬頭竜王あり。この両国とその間の諸邦に竜が馬を孕ます誕多し。李時珍いわく、馬と竜は気を同じくす、故に竜馬ありし 蚕また馬と気を同じくす、故に竜頭馬頭のものあり、と。陳敷の『蚕書』に蚕を竜精と謂ったも、蚕と馬と至って性相近いものと見たに根ざす。(『潜確居類書』一一四。『論衡』六。大正七年四月『太陽』二四巻四号拙文「馬に関する民俗と伝説」一九一頁。『大雲輪請雨経』上。『本草綱目』三九。『淵鑑類函』三五六)
 されば穆希文の『?史』にも、「世に伝う、蚕はすなわち馬の化せるなり、と。故に背に馬の跡を負い、殻を蛻《ぬ》ぐ時、頭は馬のごとし。今人、馬頭娘を祭り、馬面菩薩と名づくるは、すなわちその神なり」と筆した。
 馬面菩薩を『通雅』四七に馬明菩薩に作る。いずれも馬頭娘を指す。ところが、馬頭娘には全く無縁ながら、インドの馬鳴《めみょう》菩薩が蚕に係わった仏教説がある。この菩薩が富那夜奢《ふなやしや》尊者に従って出家受戒した時、夜奢が謂ったは、汝前世梵天より降って毘舎離《びしやり》国に生まれた時、その国に三等の人間あり、上等の人は身に光明あり、中等の人はこれなし、この二等の人は、欲しいと思えば望み通りの衣食を自然に得れど、下等の人は裸で形《かたち》馬のごとし、汝これを憫れみ、神力もて身を分かちて蚕となし、彼輩に衣服せしめ、馬のような大きな物を隠さしめた、その功徳で今中天竺に再生した、汝かの国を捨てた時、馬人どもみな汝の徳を感じ恋《した》いて悲しみ鳴いた、よって今馬鳴と名づけらる、と。このこと趙宋朝に成った『伝法正宗記』三、『景徳伝燈録』一等に見ゆれど、それより約五百年前訳された『付法蔵因縁伝』にさらにみえず。なお百年ほど早く訳された『馬鳴菩薩伝』には、餓えた馬がその説法に感じ、餌を食わずに聴いて鳴いたので、馬鳴と号《なづ》けた、とあり。かたがた分身して蚕となし云々は、支那で拵えた話かと惟う。
(496) しかしインドには、支那から伝わった家蚕の外に、桑等を食う野蚕が少なからず。アッサムのムンガ、西北ヒマラヤスのロイル氏蚕などは家でも育つ(一八八五年三板、バルフォール『印度事彙』三巻六三四頁)。『仏国記』に、法顕が師子国(セイロン)無畏山伽藍で青玉の巨像を拝した時、自分漢地を去って積年、「与《とも》に交接《まじわ》るところ、ことごとく異域の人にして、山川草木、目《まなこ》を挙ぐるも旧《なじみ》なし。また、同行《どうぎよう》も分かれ析《さ》かれて、あるいは流《るろう》し、あるいは亡《う》せ、影を顧みるにただ己《おのれ》のみ。心つねに悲しみを懐《おも》う。たちまちこの玉像の辺《ほとり》において、商人、晋地の一の白絹扇をもって供養するを見、覚えず悽然として、涙下って目に満つ」。『徒然草』にこれを「法顕三蔵の天竺に渡りて、故郷の扇をみては悲しび、病いに臥しては漢の食《じき》を願い、云々」と作り、扇をオウギとよみ、古い絵にも摺扇に画きあったが、晋朝のいわゆる扇はウチワで、オウギでなかったらしい(『嬉遊笑覧』二)。しかし日本、高麗等より摺扇が入らぬうちの支那扇は、ことごとく団扇だったと謂うのも正しからず。多少方形のものもあっただろう。それを別つためか、『梁高僧伝』の法顕伝には、特に「晋地の一の白団扇」と記しある。
 さてインドにも古来、椰樹葉や孔雀尾などで団扇を造ったから、晋地の団扇とさしたる異形でないが、法顕が態々《わざわざ》泣いたは、商人が供養した団扇が、当時セイロンできわめて珍重された晋国製の白絹地だったに由る。だから千五百年前、セイロン辺には漢種の家蚕が、影も見なかったと知る。そこでインド半島はどうかと問わんに、仏が倶舎弥国にあった時、繭|貴《たか》く、諸比丘繭を治めて読経や坐禅行道を怠ったとみえ、前世生じた繭を煮殺した者は大熱地獄に落つともあり。唐の玄奘は、インド人は?奢邪《カウセヤ》(野蚕糸)および※[疊+毛]布等を服す、と書いたから、仏在世は勿論、唐太宗の時までも、梵土では固有の野蚕絹を用い、家蚕はなかったのだ。して近時にあってもミルザプルの野民など野蚕を飼うに、シンガルマチー天女を祀り、種々の儀式禁戒を行ない、ベンガルでは蚕房に婦女を入れぬなどをみると、古来野蚕の方にはずいぶん注意したと知る。(『十誦律』七。『経律異相』四九。『西域記』二。一八九六年板、クルック『北印度の俗教俚伝』二巻二五七頁)
(497) 唐の釈道宣の『法苑珠林』三八に、正経にない説あり。いわく、釈尊は成道より涅槃まで、粗布と白※[疊+毛]のみを著し、蚕絹をきず。しかるに、悪比丘等、仏律に絹を著るを許しある、と誘った。仏聞き捨てならずと弁じていわく、初め成道の時、愛道比丘尼金縷袈裟をわれに施したを、われ受けず、僧衆に施さしめた。(とは合点が行かぬ。師匠が著ぬ物を、弟子に呉るるは罪作りだ。ただし廓通いならでも金には詰まる習い、質にぶち曲げて小遣銭にさっし、という意味か。)われ三蔵教中において、絹もて仏法僧に供養するを聴《ゆる》したが、それは蚕口より出た物でない、この閻浮洲と洲外千八百大国、ならびに蚕口より出ない絹の糸綿あり、その衆生が殺生せぬ福業が感じて女の口中より糸出ず、その糸入用の時、香を燃やして桑樹の下に至れば、化女子二人樹下に出で、八歳ばかりにみえる、その口から吐く糸を、国人が  把車(和名ヌキカブリ)に上せ、足るだけ取り了ると、化女はアバヨとも言わずに消え去る、われが著用を聴した絹は、この化女が吐いた糸で作った物と、天の絹で、生物を殺して取った糸で作ったでない、と。この文の前に「道宣律師、乾封二年仲春二月、感応の因縁あり、云々」とあれば、この一条は支那僧が絹袈裟を用うる弁語に捏造した物だ。もと支那には、『山海経』の海外北経に、「欧糸《おうし》の野は、大踵の東にあり。一《ひとり》の女子《むすめ》、跪いて樹に拠って糸を欧《は》く」。楊慎の『山海経』後序に、夏禹王九鼎を鋳て、これに遠方の山水奇物を図した、これを山海図という、陶潜の詩にも、「山海図を観る」とあり、その図の説明文を『山海経』という、今は図亡びて経のみ存す、と。湯浅常山の『文会雑記』三上にも、この書もと図が主、経は従だった、と説いた。件の文もただ見たままに、女一人跪いて樹に拠り糸を吐く図を、短く書き留めたまでで、委細は分からぬ。しかし『珠林』の化女が糸を吐く仏説や、『日本書紀』一、保食神死して眉上に生ぜる繭を口に含んで糸を抽き得、始めて養蚕の道あり、と出ずるを参すると、和漢またあるいはインドとも、最初は絹を作るに、野蚕や家蚕の繭を口に含んで糸を抽く法に依ったと判る。
 『大英百科全書』一一輯、一四輯とも、絹および養蚕の条に、西暦三百年ごろ、日本よりある韓人を支那に遣わし、製絹教師を求め、女工四人をつれ来たり、この四女工、朝野に絹織る技を教えたので、摂津国に祠られた、さて大い(498)に斯業を奨励してより、国民の一大事功となったとあるは、よく国史に合いおるが、次に、「たぷんこれより少し後に、絹作る術が西方へ伝わり、インドで養蚕業が確立された。口碑に拠れば、支那の一公主が、その帽裏に蚕卵と桑種子を匿し、インドへ運んだそうだ。養蚕術がまずブラマプトラ流域と、ブラマプトラ河と恒《ガンジス》河との間の地とに始まったからみると、この術は支那から陸路インドへ届いたらしい。さて家蚕は恒河流域から、漸次西行してコータン、ベルシアおよび中亜諸邦へ拡がった」と書いたは不審だ。
 玄奘の『西域記』一二に、「瞿薩旦那《クスタナ》国。王城の東南五、六里に、鹿※[身+矢]僧伽藍あり。この国の先王の妃の立つるところなり。むかし、この国いまだ桑蚕を知らず、東国(ビール英訳に支那のこととす)にこれありと聞き、使に命じてもって求む。時に東国の君、秘して賜わらず。関防《せきしよ》に厳勅して、桑蚕の種を出ださしむるなし。瞿薩旦那の王、すなわち詞を卑《ひく》うして礼を下し、婚を東国に求む。国君、懐遠の志あり、ついにその請いを允《ゆる》す。瞿薩旦那の王、使に命じて婦を迎え、しかして誡めていわく、爾《なんじ》、詞を東国の君の女《むすめ》に致し、わが国、素《も》と糸綿なし、桑蚕の種、もって持ち来たって、みずから裳服を為《つく》るべし、と。女その言を聞き、密《ひそ》かにその種を求め、桑蚕の子をもって帽絮の中に置く。すでに関防に至り、主《つかさど》る者あまねく索《さが》すも、ただ王女の帽はあえて検せず。ついに瞿薩旦那国に入り、鹿※[身+矢]伽藍の故地に止《とど》まり、まさに儀礼を備え、奉迎して宮に入る。桑蚕の種をもってこの地に留め、陽春の始めを告ぐれば、すなわちその桑を植え、蚕月すでに臨めば、また採養を事とす。初め至るや、なお雑葉をもってこれを養うも、それよりのちは、桑樹|蔭《かげ》を連《つら》ぬ。王妃、すなわち石に刻んで制を為《つく》り、傷殺せしめず、蚕蛾飛び尽くればすなわち繭を治むを得、あえて犯違あれば明神も祐けず、と。ついに先蚕のために、この伽藍を為《つく》る。数株の枯桑あって、これ本種《もと》の樹なり、という。故に、今この国にては、蚕あるも殺さず、窃《ひそ》かに糸を取る者あれば、来年すなわち蚕に宜しからず」と述べ、支那の公主が帽裏に蚕卵桑種を密輸入したはインドへでなく、瞿薩旦那国へだった。
 同巻に、「瞿薩旦那国(唐言は地乳《ちにゆう》、すなわちその俗の雅言なり。俗語にこれを渙那《かんな》国と謂い、匈奴はこれを于遁《うとん》(499)と謂い、諸胡はこれを谿旦《けいたん》と謂い、インドはこれを屈丹《くつたん》と謂う。旧《ふる》く于?《うてん》というは譌りなり)」とみえ、『皇朝文献通考』二五下に、「和?《わてん》。漢時、于?《うてん》国となし、唐時また瞿薩旦那国と号《なづ》く」。一八八八年板、アイテルの『支那仏教必携』八〇頁に、クスタナまた于?また和?、現今のコーテン(屈丹)。『大英百科全書』一一輯一五巻その条に、コータン、梵名クスタナ、漢名于遁、于?、瞿薩坦那、屈丹。しかるに同輯二五巻と一四輯二〇巻の絹および養蚕の条に、中亜のクスタナへの密輸一件をインドへのこととし、家蚕はインドから西してコータン、ベルシアおよび中亜諸邦へ拡がったとは、人を馬鹿にして居過ぎる。一一輯、一四輯ともにその条に言える通り、コータンは支那よりインドへ往くに必ず通らにゃならぬ大必要の地であったに、それを経由しないでどうして家蚕がインドへ届こうか。いわんや公主がコータンへ家蚕と桑を密輸しあったにおいてをや。それにコータンを経ずに、養蚕術が海路に由らずしてブラマプトラや恒河流域に伝わり、それよりコータン、ベルシア、中亜諸邦へ弘まったとは、全く道筋を逆に行くもので、コータンまた中亜の一邦たるを忘れた話である。コータンは西亜へ行くにも、インドへ行くにも、必須の場所ゆえ、かの公主がここで養成した蚕桑種が南してインドに、西してペルシア等に入ったと予は信ずる。
 また、『大英百科全書』に、西暦三百年ごろ、支那女工四人日本へ来てより、大いに蚕業を奨励して国民の一大事業となった、たぶんこれより少し後に、絹作る術が西方へ伝わり、インドで養蚕が確立されたとあるも、まことに粗忽な咄し方だ。かの『全書』にいわゆる摂津国に祀られた女工四人とは、兄媛、弟媛、呉織、穴織で、応神天皇三十七年(西暦三〇六年)阿知使主等勅を奉じ呉に入ってこの四女工を得、四十一年(西暦三一〇年)筑紫へ来た時、胸形大神に乞われて兄媛を奉り、残る三女を伴って津国に著いたら、天皇崩御の後だったので、大鷦鷯尊(仁徳天皇)に献った(『日本書紀』一〇)。仁徳天皇七十六年(西暦三八八年)九月十七日に縫媛二人とも死んだので、これを祀る。豊島郡池田村の呉織、穴織の二社だというように『摂陽群談』一一にみえ、外に『延喜式神名帳』に、島上郡に神服神社、これは元禄ごろすでになかったらしいが弟媛を祀ったものか。さて久米博士の『日本古代史』六九節でみると、(500)雄略天皇は、后妃に蚕を躬《みずか》らせさせ給い、また秦民を奨《はげ》まして養蚕織絹せしめ給いしこと顕著なれば、大いに斯業が奨励されたのは、西暦五世紀の下半期にある。さて前述ごとく、玄奘の在インド中(西暦七世紀の上半期内)、インド人は野蚕絹を用いて家蚕を知らなんだ証拠があるから、本邦養蚕業が、西暦三百年ごろに起こったとするも、五世紀に興ったとするも、それより少し後に、斯業がインドに確立されたと説くは不当だ。
 ついでにいう。瞿薩旦那国で太《いた》く蚕を重んじたは上に述べた。が、本場本元の支那でもはなはだこれを重んじた。例せば超宋の淳煕十四年に、予章の桑葉高値過ぎて、蚕を養う能わざる家多く、みな蚕室に哭し、僧に誦経せしめ、大板に蚕筥をのせ、側らに銭を置き、川下の人々桑多くあらば、この銭を奉るから、この蚕を育て下されと書き添えて流した。胡二という男、こんな時は桑を売って儲けるが上分別とて、蚕を埋め了って蜈蚣に喫み殺された。紹興六年にも、桑で儲けるつもりで、蚕を鏖殺し、錯つて妻子を殺した者あり。また晋朝にも、一村婦、自分の養蚕が連年損耗する腹立たしさに、その夫の兄の妻の蚕繭を一つ窃み焚いた。しばらくして背に瘤一つでき、大きさ数斗の嚢のごとく、繭様の物中に満ち、歩くと声を立てる。衣で覆えば気が詰まって苦しく、露わせば快いが、嚢を負うほど重いと告白して乞食し歩いた由。(『夷堅志』支景一〇と『夷堅甲志』五。『広博物志』五〇)「済陰の人、園客、姿貌《かおかたち》美なり」。常に五色の香草を種《う》え、その実を食う。たちまち五色の蛾あってその上に集まる。客これを収むるに花蚕を生ず。蚕時に至り一女みずから来たり助け、香草もて蚕を飼うて繭百二十枚を得。大きさ甕のごとし。一繭ごとに六、七日繰って糸すなわち尽く。繰り訖《おわ》つてこの女、園客とともに仙し去る。済陰今に花蚕祠あり(『格致鏡原』九六。『淵鑑類函』三五六)。実はこの女、平生客の美貌に属魂《ぞつこん》きていたので、蚕をダシに使うて押し付け来たり手伝ううち、六十双の蛾が雌雄交歓するをみて、アレアレ蝶々が喧嘩を初めましたなどいうと、男も春興勃発また禁ずべからず。すなわち引き寄せて大喜楽定に入ったところを、誰かに覗かれ、面目なさに逐電した。村民十分気を悪くしたものの、絶好の蚕種を残し呉れたを徳として、かの男女はともに仙し去ったとふれちらし、祠を立て(501)て祀ったとみえる。諸府県志などを精査せば、こんな特種の艮蚕を養い出した事蹟なおあるべし。繭の大きさ甕のごとしなど、大法螺たるは言を俟たず。
 『山堂肆考』角集四八に、「蚕は馬と同気なれば、物|能《よ》く両《ふたつ》ながら大となることなし。原蚕を禁ずるは、その馬を傷つくるためなり。故に『?雅』にいわく、原蚕を禁ずるは、特《ただ》に桑を護るのみにあらず、また馬を害するをもっての故のみ、と」。夏蚕をかうと桑がへり過ぎるのみか、自然の力が蚕に偏して、それと同気の馬に及ぼさぬゆえ、『周礼』に夏蚕を飼うを禁じたというのだ。また術家?蚕の粉末を馬の口に傅《つ》くれば、馬車を?む能わず、けだしその気類自然相感ず、とは妙な理屈だ。一度試しみたい。「旧《ふる》く先蚕を祀って馬祖となす。事はこれに本《もと》づく。馬のために福を祈り、これを馬祖と謂い、蚕のために福を祈り、これを先蚕と謂う。これ馬は蚕とその類を同じくするのみ」。この事、先に、「黄帝元妃の西陵氏螺祖、始めて民に蚕を育て糸を治《と》るを教え、もって衣服を供す。後世、祀って先蚕となす」とあるが、そは後世のことで、『七修類藁』に、「古えは、后妃、先蚕を享《まつ》る。先蚕は天駟《てんし》なり、馬の精にあらずして何ぞ」といえるごとく、究意の蚕神は天駟すなわち房宿で、馬神また蚕神だから、馬の福を祈るには馬祖、蚕の福を祈るには蚕祖と、目的が異なれば異なった名を称えたのだ。
 
(502)     猫又
 
 答(六四)。猫又。『和名類聚抄』獣名一〇二に、「『文選』注にいわく、?※[?+廷]《どうてい》」と出し、「『漢語抄』にいわく、麻多《また》」と和名を出す。狩谷?斎の箋注に、「この名、今伝わらず。あるいはいわく、今俗|禰古麻多《ねこまた》と呼ぶものは、けだしこれなり、と。谷川氏いわく、土佐の国白髪山に猫多し、猟師|畏《おそ》れて入るを得ず、まさにこれ麻多なるべし、と」。そこに?斎が引いた諸書や、『古今図書集成』禽虫典八七※[?+戎]部を参勘するに、?は※[?+戎]ともいい、時として?※[?+廷]とも呼んだ。※[?+戎]また?と※[?+廷]とは別獣という説もあるが、?斎が『文選』李善注より孫引きした通り、?は?に似たり、また※[?+廷]は?の属とあるきり、他に※[?+廷]のことみえず。『本草綱目』五一下、『古今図書集成』禽虫典八五−八八巻に、ずいぶん多種の猴類を載せあるも、※[?+廷]の字は一つもみえず。張平子の「南都賦」、左太沖の「呉都賦」、共に?※[?+廷]と連ねあるをみると、駱駝、蜻?と同例で、一物を二字で表わしたものと想う。このところ予は?斎と見を異にする。
 ?、一名※[?+戎]に至っては、諸書にその説あり。大要、?(テナガザル)に似て毛長く黄赤色、またいわく、尾長く金色をなす、俗金線※[?+戎]と名づく、軽捷にして善《よ》く木に縁る、はなはだその尾を愛す、人薬矢をもってこれを射、毒に中《あた》れば、すなわちみずからその尾を囓む、宋の時、文武三品以上、※[?+戎]を用うるを許す、座するにその皮をもって褥となすなり。またいわく、※[?+戎]、大猴に似、その背毛最も長く、色黄金のごとし、取って数十片を縫い合わせ一座となすに、価直《あたい》銭百千、あるいはいわく、※[?+戎]毛を籍《し》けば、衣皺よらず、と。四川、雲南辺、また嶺南の深山の産、と。明治三十二年ごろ予英国にあり、西南支那に旅猟した人々に聞き合わせ、※[?+戎]の属名の見当だけはつけ置いたが、只今その控えが(503)みえないから、不確かなことを述べずにおく。明の方密之の『通雅』四六にいわく、「?《どう》、一に※[?+戎]《じゆう》と名づく。その毛は茸《しげ》りて長く、金色の異采あれば、世にもって?褥《せんじよく》(馬の鞍覆い)となし、これを金線※[?+戎]と謂う。今、香山の?《くま》に、来たりて貿《あきな》う者あり。その毛は柔らかく長く、籍《し》くべし。字を制《つく》りて柔に従うは、これをもってなり」と。崇禎のころ(わが寛永年間)海商が支那へ持ち来たったのだ。ところが『和漢三才図会』には、『和名抄』の和名マタの外に、支那の記文から推してムクザルと新名を付けたまま、何たる考案を添えず。『大和本草』は全く※[?+戎]を載せず。『物品目録』には日本称を出さず。『本草啓蒙』には、ただ和産詳らかならず、と記す。徳川時代を通じて、今日までもまるで日本に知れなんだ物だ。
 ついでにいう。『古名録』に引いた明の沈万?の『詩経類考』や、『檀几叢書』四七に収めた清の張綱孫の『獣経』に、?は睡を嗜む、とある。昼間もっぱら睡るのだろう。しからば、石川五右衛門、筑紫権六の流れを汲んで、夜働きする猴で、狐猴(レムール)の一種であろう。
 『古今図書集成』の※[?+戎]部紀事に、明の陳継儒の『偃曝談余』より引いたは、「陳貞父いわく、宝鶏かつて皮を市に鬻《ひさ》ぐを見る。猿?《さる》に似て長尾にして、尾色は紅なり。これを間うに、いわく、※[?+戎]なり、と。林間を去来すること飛ぶがごとし。猿?の族、千百の群をなし、出でて山の核《このみ》を采《と》るに、※[?+戎]至れば、俯首して帖服《ちようふく》せざるなく、あえて目を張って視ず。※[?+戎]、その肥?《こえふと》りたるものを歴視《みまわ》して、小石あるいは落葉を取ってその首に識《しるし》し、?《くら》いかつ飽くれば、※[?+戎]は臥し、あるいは他へ去る。猿?散走するも、その首に識あるものは、惴々《ずいずい》として牙吻を待って動くことなし。その黠《わるがしこ》きものは、間《すき》に乗じて首に識するところを窃《ぬす》み取って、これを隣れるものへ移し、すでにして脱れ去るを得。しかして隣れるものこれに代わる」。清の屈大均の『広東新語』に、「東粤の山中に※[?+戎]あり、云々、?猴《さる》絶《はなは》だこれを怖畏《おそ》る。その?族をもって食となすや、はなはだ怪し。元孝に賦あり、いわく、ただ猴の※[?+戎]における、大吏を見るがごとく、爪を縮め唇を戦《おのの》かせ、相泣いて跪く。?、猴を呼んで前《すす》めば、膝行|蒲伏《ほふく》し、手を伸ばして喉を探り、胸を捫《たた》き背を抵《お》し、(504)その腹腰の、いずれが肥えいずれが瘠せたるかを験し、瘠せたるはこれを遣《や》り、肥えたるは首に石を載す。みずから?《すす》ぎ洗わしめ、みずから毛を抜かしめ、須臾の間に、かの貪饕《たんとう》を飫《みた》す、と」。
 いずれも※[?+戎]が猿や猴を脅迫威圧して食って了《しま》うというので、自分の口に合いそうな、肥えた猿や猴に印《しるし》を付けると、あえて逃げ去らず、自身を洗い浄め、毛を抜き去って食わるるとは奇想天来だ。『古名録』に引いた『嶺南雑記』には、?は猿猴をもって糧すなわち常食となす、とある由。『説鈴』後集に収めた清の呉震方の『嶺南雑記』にはみえない。北宋の陸佃の『?雅』四にいわく、独は?の類で?より大きく、?を食う、今俗これを独?という、けだし?の性は群《むれ》し、独の性は特《ひとり》、?鳴は三、独鳴は一、ここをもってこれを独という、と。『本草綱目』五一下には、李時珍、猴の種別を述べて、猴に似て長臂なるは?(また猿とかく)、?に似て金尾なるは※[?+戎]、?に似て大に、よく?を食うは独だ、と言った。『?雅』四に、独と別に※[?+戎]、一名?を載せながら、?や猴を食うと言わず。『本草綱目』また然り。されば※[?+戎]と独は別物で、等しく猿猴を好み食うのだ。
 五十年前読んだきりな英華字典か『博物新編』かに、マンドリルを独に充てあったと想うが、久しく見ないので、記臆十分ならず。マンドリルは、高さ五フィートに達する大きな狗頭猴で、容貌凶醜、天性猛悪、動物園にあっても、しばしば他の猴類を害し、太《いた》く畏怖されて孤居する。これは西アフリカの産だが、その譚を、例のアラビア商客などが支那へ伝えてより、独?が他の?猴を食う説を生じたものか。『古名録』七二に、大和吉野十津川小川栗平の方言に、一つざるといって、群衆に混ぜず、ただ一の大猴、深山中におり、人をみればつかみ食らう、山人これをみれば畏れ隠る、とあるも似た話だ。
  独という字は、古く『詩経』の「小雅」にも、「念《おも》うはわれ独《ひと》り」とか、「われ独《ひと》り憂いに居《お》る」とか、しばしば出で、伝に独は単なりとあるのみ。蜀地の犬は群居せぬというほどのことから作った字らしく、独?が独居するに基づいたのでない。故に独が?猴を食う話は、ずつと後代にできたのだ。
(505) 同じ「小雅に」、「?に木に升《のぼ》るを教うるなかれ。塗《どち》に塗を付くるがごとし」とあって、?の字も古い物だが、三国呉の陸?の『毛詩草木鳥獣虫魚疏』下に、?は?猴なりとあって、もと尋常の猴を?と言ったのだ。それが後に※[?+戎]また金線※[?+戎]という別獣の名となったらしい。※[?+戎]を詳記したもっとも早い文献は、予の知るところ、北宋の太宗の世に成った『太平広記』四四六に引いた『玉堂間話』で、この書は『文献通考』、『説郛』、『百川学海』等にもみえず、『四庫全書総目』にも脱しておる。ただ予未見の書、明の陳懋学の『事言要元』に、五代の時の筆とあると承る(一八八二年上海刊、ブレットシユナイデル『支那植物篇』一巻二一三頁)。
 『太平広記』に引いた『玉堂間詰』の文は、※[?+戎]は猿?の属、その雄の毫《け》長さ一尺、尺五なるもの、常にみずからこれを愛護すること、人の錦?の服を披《き》るがごとし、きわめて佳なるもの、毛金色のごとし、今の大官暖座となすもの、これなりとあって、その雄の小さきものを※[?+戎]奴という、猟師をみれば、毫長き雄は、たちまち群を捨てて逃げ隠れるが、※[?+戎]奴と雌は緩々と食らい廻る。捕るべき高価の毫なきを知悉するからだそうな。それから、※[?+戎]猫が射られて死ぬ時の惨状を詳載しある。※[?+戎]は猿?の属とあるから、そのころまでも?は尋常の?猴《さる》で、※[?+戎]と別だったと判る。北宋朝に至って?と※[?+戎]を同物となしたのだ。けだし、『四庫全書総目』一五に、虫魚草木今昔名を異にし、年代迢遙道にして伝疑いよいよはなはだし、と言った通り、「猴猥ならば猴にしておけ呼子鳥」、呼子鳥は猴だとかウグイスだとかホトトギスだとかヤマドリだとか山ツグミとか(中堀僖庵『萩の栞』中巻)、エテ吉は猴だとか陰茎だとか、浪速の蘆は伊勢の浜荻だとか、時代と場所に随って、同名?※[?+廷]すなわち※[?+戎]に当てたのだ。さて、『明月記』天福元年八月一日の条にみえたごとく、その猛獣の目が猫のようなるより、これを猫マタと名づけ、『和名抄』穿鑿せずに、マタに胯の字を充てた。それを宛て字と知らず、牽強して、猫老いて尾に岐あって、化けるから猫胯など言い出したとみえる。
 異物、異名同物の例が、支那にもウンザリとある。それから、むかし渡唐した日本人が著到した辺海地方の用語や伝説などは、中央都会の文人学者に顧みられずして、文献に迹を留めぬも多かろう。明治二十四年冬、予米国最南端(506)のキイ・ウェスト島へ往き、かねてフロリダ州ジャクソンヴィルの支那洗濯屋主人から、渡りを付けられた支那人の侠客方に厄介になった。毎夜その子分どもと種々話すと、中にも年長で、かつてちょっと日本にあった者が、日本には何たる宗教なく、ただわずかの酒を毎夜供えてサンバイサンという埒もなき小神を祀るのみと、いとしたり顔で言った。何のこととも合点往かず、年ごろ過ごしたところ、二十余年のちたまたま『郷土研究』三巻八号四五六頁と一二号七六一頁を読んで、中国や四国では、田神をサンバイサンと称うると知り、かの支那人が日本で逢うた下等娼妓等が、そのころ因襲のままに、毎夜酒を供えて、親に産み付けて貰った至極の不動産たる肉田の好収獲をサンバイサンに祈ったと察した。
 少しく話が違うが、小児が廻し玩ぶコマを支那で陀螺という。本邦ではもっぱら独楽と書いて、『和名抄』の昔より今に?《およ》んだ。コマを独楽とは、支那で言い初めたに相違なきも、一向昨今の支那書に見えぬようだ。しかるに狩谷?斎の『箋注和名抄』二に、北涼の時訳された『優婆塞戒経』、『毘婆娑論』、後魏朝に成った『斉民要術』に、コマを独楽と書きあり、隋朝に成った『摩訶止観』に独落と書きあるを引いて、本邦で独楽をコマと訓むは謬りでないと証しある。六朝のころ支那でコマを独楽と呼んだのが、かの土に亡《う》せて日本に存するのだ。また『和名抄』に、逸書『楊氏漢語抄』を引いて、吉舌、比奈佐岐《ひなさき》、とある。『箋注』二に、烏帽子の前辺|窈※[穴/失]《よういつ》の処を眉といい(熊楠いわく、小陰唇。『箋注』にいわねど、額という処もある。陰皐に当たる)、その中央尖り高き処を比奈佐岐という、この形状と相似たり、しかしてその名を同じうす、今俗|佐禰《さね》とよぶ、とある。この吉舌も、もと支那でクリトリスを呼んだ名だが、かの邦に失せて書籍にみえず。幸いに『和名抄』に収められて今に伝わったのだ。これらと同様に、『和名抄』に『漢語抄』を引いて?※[?+廷]をマタと訓せたも、決して拠《よりどこ》ろなき出鱈目でなく、六朝より唐に至る間に、?※[?+廷]という猛獣また怪獣の話ありしを、伝承して日本のマタという獣に充てた物と惟う。
 上に述べたごとく、※[?+戎]は古く『詩経』などに尋常の猴を呼んだ名らしく、※[?+戎]を?と同物としたは、予の知るところ(507)》宋朝に成った『?雅』あたりがもっとも早い文献だ。それにそののち数百年、明の陳継儒は、※[?+戎]は猿?の族を食うとて、依然※[?+戎]と?を別物とす。また※[?+戎]の毛尾が長くて大いに重用されたことも、唐以前はなかったようだ(『古今図書集成』※[?+戎]部雑録所引『石林燕語』)。それから※[?+戎]が他の猴どもを食うという話も、明朝より前の書に見ず。さしも博採摘要した明の『本草綱目』にもさらになし。『綱目』に、独よく?猴を食うと言った独?は、予の知るところ、北宋朝に成った『?雅』に初めて著われ、それには※[?+戎]と?を同物とし、独と別に記しある。故に明の陳継儒などが、独と混雑して※[?+戎]よく他の猴どもを食う、と言い出したかと考う。
 さて一方には?斎が言ったごとく、晋の左太沖の「呉都賦」の劉逵注に、?は猴に似て尾長し。晋唐の間、すでに?を尋常の猴と別に、尾長猴の一種とした人もあったので、唐の陳蔵器の『本草拾遺』は開元中に作らると『本草綱目』一上にあるが、熊楠、『南部新書』をみると、判然開元二十七年蔵器撰す、とある。それに、「※[?+戎]は山南の山谷の中に生ず。猴に似て大きく、毛長くして黄赤色なり。人その皮を将《も》って鞍褥を作る」。これが※[?+戎]の毛皮が鞍褥に作られたを証する早い文献の一だ。もっともその前に顔師古が、「今の戎なる獣、皮を褥《しとね》となすべきもの、云々」と書いたのが一番早い(『箋注』七、『匡謬正俗』を引く)。むかし支那が後世ほど広大ならざりし時、西戎より獲たので※[?+戎]、毛が柔らかなから?と書いたという(『本草綱目』五一下)。?に二音あって、一は戎の音だから、俗語変化して?を※[?+戎]とするに至った、と?斎の説だ。前述通り、地方と人によって、?※[?+戎]同一としたのも、異物とし通したのもあったのだ。さて、?と※[?+廷]は、もと別物だったにしろ、張平子や左太沖の高名な賦どもにいずれも?※[?+廷]と連ね出しあるより、ある地方の俗、?すなわち※[?+戎]を?※[?+廷]と呼んだは、邦俗珊瑚を珊瑚珠というに似たらんか。そして唐代すでにこのもの他の猴を食う等の譚があったものか。また、古く?の字を、滅法界にむつかしい、撰字泣かせの?と書いた。一層古くは※[?の旁]と書いた(『康煕字典』)。また、これによく似た?《き》の字あり。蚤《つと》に『山海経』に著われ、以来その説一ならず。牛の状で角なく一足ありとも、竜の形で一足ありとも、鼓の状で一足で行く山の精だともいう(明の呉任臣『山海経広注』一四)。(508)『山海経』には、皇帝これを得て、その皮で鼓を作り、雷獣の骨で打てば、声五百里に聞こゆ、もって天下を威《おど》す、とある。そんなことから、甲州山梨神社に?《き》の神あって雷除の祭あり。山中共古説に、実は狛犬の三足欠け失せ一足残ったを、物徂来が?とこじつけたとのこと(『甲斐之落葉』四二頁)。
 
(509)     穴一つで男と女を捕えた話
 
 こんな題号を掲ぐると、悟り早い読者の中《うち》には、古い情歌《どどいつ》に、「貞女立てたし○○したし、心二つに○一つ」とある、たぶんそんなことを書いて、この寒天にまたまた大阪三界へ喚起となりはせぬかと、贔屓眼《ひいきめ》から心配下さる方も多かろう。かようの心配家に対して熊楠は大きにその厚意を謝すると同時に、桃井家《もものいけ》の老臣加古川本蔵然として御無用と呼ぼう。なぜとならば、本話は一八九八年ロンドン民俗学会《フオークロールソサイエチー》発行、デンネット氏の『フィオート民族(仏領|公果《コンゴ》国)俚伝篇』から訳出したアフリカ土人間に行なわるる昔話で、題号の穴は穴だが風紀とか倫理とかに何の関係なく、全く蛮民が獣を捕うる陥穴《おとしあな》で、単《ほん》の陥穴へ男と女が落ちたばかりで、中で何にもするのでないからだ。
 むかしある市に兄弟二人あって、弟《おとと》が不断自分が兄よりも智慧ありと主張するので毎《いつ》も不和だった。ついにこんな所に居耐《いたま》らないとて弟その婦《つま》とともに土地を離れ、どことも知らず漂遊《さまよ》い行き、森林《もり》を潜り歩くうち、水|最《いと》浄き小川の側《はた》に著くと、川の彼方《あなた》に塗《みち》がない。よってしばらく休んで水を飲み、川に沿《そ》うて下ると塗があったので、川を渡って行くと人声がする。心も知れぬ所へ往ってどんな目に逢うも知れぬから引っ返そうと妻は言う。夫はせっかく来たんだからと強いて妻を引っ立てて声のする方へ往って見ると、小屋が二つ三《み》つある。それにただ夫婦二人住んでおって、今来た夫婦にここへ来た子細を尋ね聞き了り、それは気の毒だからと言って、一つの小屋を譲り棲ましめた。四日間、徒食《ただぐい》で過ごしたが、五日目に家主が言うには、こうしておっても詰まらぬ、両《ふた》夫婦で仕事に掛かろうとて、相応の場処へ伴《つ》れ行き、鋤もて穴を掘り柴や落葉で蓋《おお》うて立派な穽《おとしあな》を作った。さて家主が言うよう、獣が穽《あな》に陥《お》ちぬ先に喧(510)嘩の起こらぬよう約束を定《さだ》め置こう、獣が陥ちたら?《きさま》はそもそも牝を欲しいか牡を欲しいか、と問うと、弟、牡を欲しい、と答えた。そんなら己《おれ》は牝を自分の物にしょうと家主が定《き》めた。おのおの舎に還って熟睡し翌旦《あすのあさ》往って見ると、穽に牡牛が落ち入っておったので弟の所有となる。明日《あす》在って見ると牡|羚羊《れいよう》、次日《つぎのひ》は牡のチムビムビ獣、次日は牡|豕《ぶた》と、弟の運の吉《よ》さという物は、毎日毎旦引き続いて牡の獣ばかり穽《あな》に陥りおるので、ついにはどうして佳いか分からぬほどたくさん食料を獲たが、この弟無類の恩|不知《しらず》で少しも家主に分与《わけや》らず、自分の妻を森の中に遣わし、柴を聚めて肉を燻《ふす》べしめてことごとく貯蔵し置いた。ある日例のごとく妻を森の中に遣わすと、日が昏《く》れても還らぬ。弟大きに心配し、家主に告げて一緒に尋ねに往ってくれと乞うと、夜は危険故《あぷないから》明日往こうと言う。終夜《よどおし》独りで呼び歩いても妻らしい者は見えず。外骨ほど剛強でないからなかなかもって手篇《てへん》どころの洒落も出でばこそ、大弱りで還り来て家主を起こし、何卒《どうぞ》尋ねに往ってくれと望むと、家主言うには、昨夜夢にわれわれの運が従前《これまて》と全く変わって今朝から牝ばかりかの穽《おとしあな》へ落つるはずと見た、よってまず穽《あな》を見に往こう、と打ち伴れて彼処《かしこ》へ往くと、牝も牝もかの弟の妻が陥っておった。大喜びで弟が穴に入って妻を援《すく》い出そうとすると、待った待った、約定通りこの牝は家主の物だ、?《きさま》はこれまで毎旦《まいあさ》牡の獣を獲続けながら一疋も己《おれ》にくれず、それにこの初物の牝まで取ってしまっては約定が何の役に立つか、と一本参られた。弟、大きに僕が悪かった、貯え置いた肉をみな進《あげ》るから宥《ゆる》してくれ、それに僕の妻は獣でない、人間だ、人間を殺して食える物でない、と言うと、家主、「だって約束は約束だ。?《きさま》の妻も牝に相違ない、すでに穽《あな》に入った以上は己《おれ》の物と定《きま》っておる。己の物なら食おうと食うまいと己の勝手だ。こんな尤物《あだもの》が穽に陥って、今後己と一緒に穽を掘る御用に立とうと言うのは、穴賢《あなかしこ》という物だ」と言い張るので、弟何とも詮術《せんすべ》を失い、終日妻を戻せ戻さぬと争いおった。かかるところにこの弟の兄、狩りに出でてこの穽に遠からぬ森の中に来ると、大声で穴穴穴穴と穴のことばかり争う音《ね》が聞こえる。希代《けげん》に思うて潜《しの》び近づき見ると弟だった。弟、兄さん好いところへ来てくれたと悦んだが、兄は一向相手にならぬ様子。家主、さてはお前さんがこの者の兄か、飛んだ不解漢《わからずや》を弟に持たれ(511)た、御察し申す、と挨拶して紛議の?末を語ると、兄、それは家主さんがもっともだ、弟の妻はむろん家主さんの物で弟の了簡違い、鴻恩を忘れて一疋の獣すら進《あげ》なんだが重々悪い、懲らしめのため眼前|穽《あな》に入ってかの妻を殺して遣りなさいと勧めたので、家主、支える弟を衝き退け穽に飛び入った。その時なおも家主の跳び入るのを止めんと急《あせ》る弟をハッタと睨んで兄言いけるよう、「馬鹿者奴、これでも?《きさま》は生平《いつもの》通り自分をこの兄より智慧が多いと誇り得るか。今家主が穽にみずから陥った。家主は牡だから約定通り家主の命は?の所有《もの》だ。家主の命を縦《ゆる》して自分の妻を放し貰わぬか」。そこで家主、兄の奇計に中《あ》てられたと了《さと》り、仕方がないから穽中《あなのなか》の婦《おんな》を扶けてその夫に復《かえ》し、兄と弟夫婦三人伴れて目出度く故郷へ帰った。これが穴一つで男と女を捕えた話。
 と言うと、むかし川村瑞見の智慧と言って、瑞見口を開くと人々また何か格別な名言《めいごん》を吐くことかと注意したと聞くが、南方《なんぼう》先生もその通りで、何か教訓らしいことを述べるのだろうと、眼を張り息を凝らしおった読者が、これは全然《まるきり》河童に尻抜かれたような短話《みじかばなし》で、むやみに穴穴と穴呼ばわりをしながら、穴の中で何たる狂言もなく、穴から出て三人伴れ帰ったでは、屁を撒《ひ》つて尻|窄《すぼ》めたような落語に過ぎぬ、覿切《てつき》り話の種が尽きたのでがなあろう、などと呟くだろう。南方先生と呼ばれて飯を食う者が神通力でそれほどのことを知らざらめやは。全くは末世の衆生に仏法の有難さを教え遣る手解《てほど》きに、仏教のコンスタンチン帝と呼ばるるまで正法を弘降し、広く仏舎利を布いて八万四千の法王塔を造った阿育《アソカ》大王の伝を述べんと企てたが、その伝中に上述穴一つで男と女を捕えたアフリカ昔話に似たところがあるから、眠気《ねむけ》覚しに類話としてまず挙げたんで、これからが難有《ありがた》いのだ。
 むかし釈迦如来が王舎城に入って乞食《こつじき》したまうと、童子二人|沙《すな》遊びしておった。その一人|闍耶《じやや》童子が仏に麦?《こがし》を奉ると念じて細かき沙を仏の鉢中《はちのなか》に入れた。さて合掌随喜して発願《ほつがん》し、この善功徳をもって一天下の纉蓋王《さんがいおう》たらしめよ、と言った。この功徳で仏滅して百年目にかの小悴が巴連弗邑《はれんほつゆう》の王家に生まれ、後に阿育王となった。巴連弗邑の王|頻頭娑羅《びんずしやら》、子あり修師摩《すしま》と名づく。時に瞻婆《せんば》国の婆羅門に一人の女《むすめ》あり、素敵無類の美人なり。相師《にんそうみ》見て、この女必ず(512)王妃となり一天下を領すべき子を生むべし、と言った。父婆羅門大きに喜んで、この女を荘厳《かざりたて》て頻頭娑羅王に奉ると、前夫人《さきのふじん》および諸?女《おつぼねども》、嫉妬《ねたみ》のあまりこの女に剃毛師業《けをそるわざ》を習わせた。これは賤業だから何《いか》に美人だっても王の身に接《まじわ》ることが成らぬ。ところがこの女|剃毛《けぞり》なかなか上手で、王の毛を剃る間王が安眠し、剃って畢《しま》うと覚めたんで、王大喜びで汝《そなた》は何を望むかと問うと、王と共に娯しみたい、と言った。王、われは刹利姓の灌頂王《かんじようおう》で、汝は下姓《げせい》の剃毛師《けそり》だ、インドの法として上姓の男女が卑姓の男女と相愛するを得ぬ、と言うと、剃毛女《けそりおんな》、われは下姓の生れにあらず、高き婆羅門姓の女《むすめ》で、相師《にんそうみ》この女必ず王妃たらんと父に勧めたから来ました、と答う。王、誰が汝にこの下劣の業を習わしめたか、と問うと、旧夫人の?女《おつぼね》がした、と答う。王、それは怪しからぬ、と言って、件《くだん》の女を第一夫人とし二人まで男子《おのこ》を生んだ。
 兄の方が阿育で無憂《うれいなし》という意味だ。生まるる時しごく安産だったからこの名を付けた。しかるに前生に仏に沙を施した因縁で、阿育の?《からだ》が麁《あら》かったゆえ、父王これを愛せず。一日《あるひ》父王諸王子を金《こがね》の御殿に集め、相師《にんそうみ》して誰《どの》王子が父の後を嗣ぐべきかを相《み》せしめた。阿育、父がおのれを好まぬを知るから、とても王位に望みなく、往かずにおると母が荐《しき》りに勧めるので、不承ながら往く途中、成護《じようご》という大臣に逢うて一番老いた象を貰い、騎《の》って往った。他の王子|輩《ども》殿中に坐り金銀の器《うつわ》に山海の珍饌を盛っておる。阿育は見淋《みすぼら》しく地上《ちのうえ》に坐り瓦器《かわらけ》に飯と酪《ちち》を盛って弁当としおった。その時、相師あまねく諸王子を相ると、阿育一人が王位を嗣ぐべき者と判ったが、父王の好かぬ子だから、言わば必ず殺さるるは必定だ。よって王に白《もう》すよう、誰と名を指して啓《もう》しては不敬だから、ただこの内で何《どん》な風の王子が王位を嗣ぐということを申し上げよう、まず一番好い畜《けだもの》に騎った人が後日王となるはず、と言うと、諸王子おのおのわれこそ一番好い畜に騎ったと想う。次に相師言うには、一番|勝《よ》い坐処《すわりば》に坐った人が後来の王となる、また一番好い飲食を好い器で食う人が王たるべし、と言った。諸王子いずれもそれは己《おれ》だろう己だろうと己惚《うぬぼほれ》おる間に、阿育思惟して、われは一番老いた象に乗って来た、これほど好い乗物はない、土は万物の母だ、われ大地に坐り、土で作った器(513)で、人間一日も欠くべからざる飯と酪を食つたから、これほど揃って好いことはまたとない、父王死んだらわれ必ず王となるに定《き》まった、と明察した。王宮に還って後、母が相師に、そもそも多くの王子の内で誰が王位を嗣ぐかと問うと、阿育だと答えたので、重く礼物《れいもつ》を遣って、また王に問われては返答に困り殺さるるも知れぬとて、他国へ逃げ退かせた。
 ギリシアの昔、リカオンという大馬鹿者、神の智慧を試《ため》すとて、小児《こども》を殺し、その腸《はらわた》を他《ほか》の肉に混ぜて大神ゼウスに食わせた。大神大きに怒って、リカオン父子をことごとく狼に化《け》し、ギリシア中の人間を絶やすつもりで大水を出し、人みな流れ死んだが、プチア王デウカリオンとその妃ピラ二人のみ神告《かみのつげ》によって難を免《のが》れ、水|退《の》きて後ゼウスの第二后テミスの廟に詣でて人類を再興せんと祈ると、女神教えて、二人の頭を覆《かく》し廟から歩き出る時、後方へ二人の母の骨を投げよ、と言うた。左思右考の末、母の骨とは地《つち》の骨すなわち石だろうと勘付き、夫婦石を集めて後へ投げて歩くと、夫が投げた石から男ども、妻が投げた石から女どもが生じた、とまであって、その男女どもが何をしたか書いていないが、それから人間|夥《おお》く繁殖した、とある。されば阿育もデウカリオン同様の考えで、地は万物の母だ、自分はその万物の母たる地上に坐ったから、金殿上に坐った諸王子よりも吉相だと考えたはもっともなことだ。すでに不二新聞社|事《こと》も前日《せんじつ》門人をして覗かしめしに、梅田にあった時はまるで土間だったが、北浜へ移ってから畳を敷いたらしい。はなはだ了簡が間違っておるから、さっそく元の通り土間に復り、畳を売って酒券にして贈ってくれると、ますます繁盛する理屈だ。
 さて頻頭娑羅王の属国|徳叉尸羅《たくしやしら》が反《そむ》いたので、王その子阿育に往いて伐たしめながら一切武器を与えぬ。家来ども、これでは戦争に往き得ぬと呆れおる。阿育いわく、われもし王たるべき善根果報あらば兵器自然に来たるべし、と言うと同時に、地が開いて多くの武器を出した。すなわち往って伐つと敵戦わずに降《くだ》り、遠近みな降伏《こうぶく》するので、天下を平らげて海際《うみぎわ》に至った。時に阿育の異母兄《はらがわりのあに》で王の長子たる修私摩《すしま》、苑《その》より城に還り入ると、成護大臣が城から出(514)ると行き逢うた。この大臣は宮武氏の前身で頂上|無髪《かみなし》、あまり見事に光るのを面白がって手で頭を拍《たた》いた。大臣大いに憤り、今さえこの通りだ、王となったら必ずわれを殺すべしとて、王の臣五百人と謀って阿育を立てうとした。この時徳叉尸羅の民また叛いたので、王、今度は修私摩をして往き伐たしめ、阿育は本国へ還ると、ちょうど王重病で死せんとす。勅して修私摩を召し還して王位を譲り、阿育をして代わって征伐に往かしめよ、と言う。諸臣詐りて薑黄汁もて阿育の身に塗り、阿育は病気だから軍《いくさ》に往き得ぬ、と啓《もう》す。さて王の臨終近くなって阿育を王の前へ伴れ出で、当分王位を阿育に譲り、修私摩還った上阿育より王位を伝うべしと勧めると、王大いに怒って承引せぬ。時に阿育、われもし如法に王たるを得ば天即時われに天冠を与うべし、と言うと、諸天たちまち天冠をその頭に載せたので、王ますます恚《いか》り熱血を吐いて死んだ。阿育、王位に登り、成護を第一大臣とす。修私摩、兵を率いて来たり攻むると、成護大臣|方便《てだて》して城門に阿育と諸軍士の木像を立て、地に坑《あな》を掘り無煙火《けむりなきひ》を充《み》て物もて覆し置く。修私摩、木像を見て当の敵と謂《おも》い前《すす》んで坑に堕ちて焼け死んだ。
 諸臣すでに阿育を王とし、擁立の功を恃《たの》んで君臣の礼なし。王諸臣に語るらく、汝ら華果之樹《はななりみなるき》を伐《き》って刺棘《いばら》を植ゆべし。諸臣命を奉ぜず、刺棘樹を伐って華果之樹を植ゆべきだ、いまだかつて華果《はなとみ》を却除《の》けて刺樹《いばらのき》を植ゆるを聞かずと吐《ぬか》す。再三勅するも従わぬゆえ、王怒って利剣もて五百大臣を殺した。また、ある時阿育王諸宮女を将《ひき》いて華園に遊ぶと、無憂樹《アソカじゆ》が一本|甚《いと》奇麗に咲き乱れおった。無憂樹は槐《えんじゆ》、皀莢《さいかち》などと同じく豆類の樹で、三、四月満開し、花が橙《だいだい》色から濃紅《こきべに》、それから鮮黄《まつき》に変わる。その間|種々《いろいろ》の異彩《かわりいろ》があるので、花中の最美なものとしてシヴァ神廟近く神木として植え、美人の足に触《さわ》ると花咲くと信ぜらる。悪鬼王ラヴァナがインド一の美后シタを奪うて無憂樹園に囲い置いたとあって、これは憂いを忘るるというほどの美花だ。養生のため灸据えておる美女の像に題して、「熱い目をした〔二字傍点〕のもした〔二字傍点〕で無駄になり」という川柳があるが、ここに言うシタは美后の名で、決して何にもシタんでないから夙俗壊乱などと疑われぬよう弁じ置く。阿育王自分と同名の無憂樹の満開せるを見て大機嫌で眠りおった。それに引(515)っ換え官女|輩《ども》王の形醜く皮膚《かみはだ》麁渋《ざらつけ》るをもって王を愛せず、王に宛て付けて無憂樹を毀き折った。王眠りより覚めてこの狼藉を見、怒って諸宮女を竹筒に裹《つつ》んで焼き殺した。
 これより王殺人を好み暴虐はなはだしいので国民が王を旃陀《チヤンドラ》すなわち屠者王と呼ぶ。見るに見兼ねて成護大臣、王みずから人を殺すだけは止めて殺すべき者あらば屠殺人《ころして》に付《わた》せ、と言った。王もっともなりと勅して屠殺《ひところし》の名人を求むると、耆梨山《ぎりざん》に住む織師《おりや》に耆梨と名づくる子あり、大悪の性《うまれ》で好んで小男《こども》、小女《こむすめ》を縛り打ち、また水陸の生物《いきもの》を捕り殺し、父母を困らすことに比類なければ、世人これを旃陀|耆梨子《ぎりし》と呼んだ。王大きに悦んで彼に使いして、汝能く王のために悪人どもを斬らんや、と問うと、世界中の罪人をすらわれことごとく浄除《きよめさ》らん、況《まし》てこの一地方の奴輩《やつばら》をや、と答えた。よって彼を将《つ》れ来たらしむる使いに向かい、父母に告別《いとまごい》すべき間|俟《ま》ってくれと頼んで父母に事情《わけ》を告げると、父母三度まで子を諫めて行くなと言う。耆梨子大きに怒って父母を殺し王の所に至り、王に乞うてきわめて端厳《きれい》な舎《いえ》を作り、ただ一つきわめて精厳《りつぱ》な門を開き、この舎の中に入った者は出ることが成らぬと定め、さて寺に往って諸僧が経を講ずるを聴くと、熱鉄丸を呑ませたり、融銅汁《あかがねのしる》を灌《そそ》いだり、火車《ひのくるま》、?煮《かまいり》、刀山《かたなのやま》、剣樹《けんのき》、種々雑多の地獄がある。耆梨子委細|記《おぼ》え帰り、件《くだん》の舎の中に経説通りの人造地獄を設け、経説通りに法律を案《しら》べて罪人《つみびと》を責めた。
 これより前《さき》、舎衛国の商人《あきゆうど》、妻とともに航海貿易に出で海上で児を生んだので海と名づけ、十二年間海上を往復するうち、群賊その父母を殺し子ばかり免れ、世を果敢《はかな》んで仏法に帰し、出家|遊行《ゆぎよう》して巴連弗邑に著いた。晨《あさ》早く起きて托鉢し行《あり》くと荘厳《きれい》きわまる門を見、食を乞わんと入って見れば人造地獄だ。驚いて出ようとすると、耆梨これを執え、一たび入った者は出るを得ぬ、と言う。海比丘《かいびく》泣き出すを見て、なぜ小児のごとく啼くぞ、と問う。比丘答えて、われ死を畏れず、解脱を求めんと志す、求むるところいまだ得ず、故に啼くんじゃ、人身きわめて得難し、出家また然り、たまたま人間と生まれ、釈迦仏法の世に生まれながら解脱を得ずに死ぬが残念じゃ、情願《どうぞ》それまで一月間|刑殺《しおき》を延ばせて晩《くれ》の鐘と願うと、耆梨子、危急の場合に晩の鐘なんて洒落《しやれ》るたあ面白い坊主だ、一月は長過ぎるから七日待(516)って遣ろう、と言ったので、海比丘、儘《まま》よ七日でも生き延びたが得《とく》と、一心不乱に勤修《ごんじゆ》精進しおったところ、七日目に獄へ送られ越した男女がある。全く王の宮女がある王子と私語しおったのを王が見て大きに妬み恚《いか》り、二人を人造地獄に送ると、耆梨がこれを鉄の臼で搗き砕いたんだ。隣に餅擣播く杵の音は羨ましい喩えに引かるるが、幾程《いくら》奇麗な男女でも、臼で責めらるるところは色気もなく、海比丘これを見てきわめて人身を厭い、この身|聚沫《あわ》のごとし、義において実あるなし、向者美女色《さきのびじよしよく》、今将何処在《いまはたどこにある》、だからこの人身を断念して二度と生まれ出ぬ工夫をしたら、一切結《いつさいのけつ》を除いて阿羅漢となるはずと悟った。ところへ獄主来て七日の期限が満ちたからとて、海比丘を引っ立てて油盛れる鉄?《おおがま》中に入れ薪を燃やすに一向燃えず。よって?《かま》に蓋して猛火を燃やし、もはや溶《とろ》けたろうと思うて蓋を聞くと、海比丘平気で蓮華に坐りおった。
 王これを聞いて無量の臣衆を将《ひき》い来て看ると、海比丘雁王のごとく虚空に昇り、種々の神通変化を示す。王これを見て即座に仏法に帰依し、かの比丘より、自分前世、仏に沙《すな》を奉った時、仏、阿難に予言して、仏滅後百年この国王に生まれ、仏法を弘通《ぐつう》し八万四千塔を建つべき者だと宣うたと聞き、帰命《きみょう》して懺悔すると、海比丘空中で遷化《せんげ》した。王ますます信心の臍《ほぞ》を固め人造地獄から出るを見て、獄主耆梨、たとえ国王たりとも一たびこの中に入った者は出さぬ定めじゃ、耆梨耆梨《きりきり》歩めと引っ立てに懸かる。王いわく、そんなら一番先にこの獄に入ったのは誰だ。耆梨子いわく、知れたことだ、この鼻様《はなさま》だ。王いわく、しからばわれより先に汝が死ぬべきじゃ、と言って、耆梨を作膠舎裏《にかわつくるいえうち》に火刑《ひあぶり》にし、勅してこの地獄を壊《やぶ》って大赦を行なうた、とある。耆梨が自分作った人造地獄にまず入ったので、自分が作った規定通り殺されたのは、商鞅や江藤新平が自分作った法律で刑せられたのと同じことで、俗にいわゆるミイラ取りがミイラになる、女を取ろうとして穽《あな》に入った男が、その女の夫に殺され懸かったアフリカ談と同趣向だ。
 跡片付に言って置くは、最初二人の童子が沙遊びするところへ仏が来るを見て、阿育の前身闍耶童子が沙を奉って、後身一天下の纉蓋王たらしめよと発願すると同時に、今一人の毘闍耶童子が、わが後身得道して無上正覚たるを得せ(517)しめよと願うた。果たしてこの童子の後身が阿育と同腹の弟に生まれて、離憂の義で毘多輸柯《びたゆか》と名づけらる。この人初め仏僧が苦行せざるを見て仏法ではとても解脱を得ぬと信じ、外道法を信じた。兄阿育すでに仏法に帰依し種々勧めたが聞き入れぬ。ある時離憂狩りせんとて山に入り、一仙人身焼けるごとく熱し苦しむを見て感心し、その足を礼して、この山で幾年《なんねん》おるかと問うと、十二年間樹の果《み》と根のみ食い茅を衣《きもの》とし草に臥す、と対《こた》えた。それほど功を積んだに、なぜかく熱し苦しむか、と尋ねると、われ実は鹿が行欲するを見て欲心起こり、欲心の火わが心を焼き苦しむ、と言う。離憂、さればこそこの仙人ほど多年苦行してすら鹿の交わるを見てたちまち色情を起こすを免《まねか》れず、いわんや仏僧は乳味を食らい衣服を捨てず、何《どう》して欲念を捨て得んや、必竟兄王阿育は仏僧に誑《だま》されおる、と謂《おも》うた。
 阿育王これを知って、何卒《どうぞ》弟を教化《きようげ》せんと思い、大臣に勅して、われ今|入浴《ゆあみ》するから弟にわが衣服《きもの》を著せ王位に登らしめよ、と言うた。大臣王が脱ぎ置いた装束を離憂に示し、兄王なくなったら君が王になるはずゆえ、ちょっと試《ため》し著て見なされとて、天冠を著せ王位に坐らしめた。ところへ阿育王現われて、われいまだ死なぬに汝われを擬《まね》する罪死刑に中《あた》れりとて?手《きりて》を召す。大臣、王の足を礼し寛宥を乞うによって、王、然らばわれ弟に七日間王たらしめ、期《とき》過ぎて死罪に処せんとあって、離憂を王位に坐らせ、飲食妓楽何から何まで王の暮しをなさしめた。七日過ぎていよいよ死刑の日が来た。王、離憂に、この七日間面白い目をしたか、と問うと、命あっての物種、一日過ぐれば一日縮まる命もて、どんな旨味、どんな美女、どんな好い音楽も念に留まらぬ、と答う。王いわく、サアそうじゃろ、仏法もその通りだ、生死無常を不断念頭に置くから何を見聞くも煩悩が起こらぬ、かのいたずらに苦行の外面《そとも》を装うて内心邪想断えず、鹿交わるを見て手篇とくる仙人などとは大違いだ、深く仏教を信じて解脱法を楽しむ者は、心|蓮華《れんげ》の水に処《お》って水を著けざるごとし、われ全く汝を教化せんとて奇計を用いたのだ、これでも悟らぬか、と叱ったので、離憂始めて首を継《つ》いで安心し仏道に入って出家した。と言うと立派だが、熊桶|謂《おも》うに、阿育王は兄を殺し父の王位を横取同然にしたほどの男ゆえ、後日弟がまたおのれを殺し位を奪うを惧れてむりに出家せしめて、その後《のち》を絶ったの(518)だろ。
 離憂出家し功積もりて阿羅漢となったが、辺地で頭に重病《おもきやまい》を得、差《い》えてのち養生のために牛乳のみ用いて活きおった。しかるところ分那婆陀那《ブンダヴアルダナ》国に外道大いに行なわれ、裸形神像を拝《おが》む者多し。阿育王聞いて大いに怒り、ことごとくこれを刑し一日に十万八千人を殺したが、なお勅して裸身外道の首一つ持ち来たる者に金銭一を賞与《ほうび》することとした。時に離憂、牛乳を求めてある家に入り一日|住《とどま》る。病み上がりゆえ、頭髪《かみ》鬚爪ことごとく伸び衣服|弊悪《やぶれ》光色《いろつや》なし。養牛女《うしかいおんな》、これはきっと裸身外道が世を忍ぶんだろと念い、夫に勧めてこれを殺さしめた。離憂その時自分の業報とても脱処《のがれどころ》なきを知り、快く刀を受けたので、その頭を持って牧牛人《うしかい》王に詣《いた》り金銭を求めた。王その頭を見ると髪の中処々に瘡の跡で禿斑《はげぶち》となりおる、このほど頭瘡を病んでおった弟離憂でないかと、忙《いそ》ぎ医者を召《よ》んで尋ねると、弟だったので、一度は気絶したがやがて活き還り、大赦して以後一切外道を殺さしめず。
 これより先、釈迦涅槃に入って、大|迦葉《かしよう》法統の初祖たり。阿難は二祖、商那和修が三祖で、優婆?多《うばきくた》、商那和修に紹《つ》いで四祖たり。阿育王の師なり。諸僧、四祖に、離憂なぜかかる非業の死を遂げたかと問うと、答えていわく、過去世一猟師あり、鹿を捕えて業とす。大林中に一泉水あり、この猟師、網をその辺に施《は》り置くと、鹿水を飲みに来て多く捕わる。時に林中に一人の縁覚あり。縁覚とは仏なき世に出る聖人で、阿羅漢ごとく他人に就いて学ばず、自分一人で悟るが、菩薩よりは卑《ひく》い。菩薩は馬が川渡るついでに他《ひと》をも乗せやるごとし。縁覚は鹿が川を渡るごとく自分さえ渡れば済むという覚悟だ。真言宗の大親分土宜法竜は、熊楠を明治聖世第一の縁覚だ、と吐《ぬか》した。これは実は熊楠の無量記臆力を買い被《かぶ》った言《こと》で、予は決して縁覚じゃない。元日の『日刊不二』に自白した通り、毎度|婦女《おんな》の夢を見るから久米仙じゃ。さてかの縁覚日々泉の辺《そば》で食事し覚《おわ》りて澡浴《ゆあみ》し樹下《きのした》に還り坐したので、群鹿《しかども》その香を?《か》ぎ知って水辺へ来なくなった。猟師|活計《くらし》の妨げだと怒ってかの縁覚を斫《き》り殺した。この猟師が離憂の前身で、多く鹿を殺した罪で今生に病多く、むかし縁覚を殺した報いで五百世中常に他《ひと》に殺され、たまたま前世に沙《すな》を仏に奉る童子の伴《つれ》だ(519)った縁で阿羅漢となりながら、惨《むと》くも人に殺された、と四祖が語った、とある。
 因果はすべて争われぬ物で、宮武氏なども前生に蛙の眼が上に付いて向う見ずなところが面白いとて、毎度|尿《しようべん》をその頭に仕掛けた報いで、今生に自分が毎度|向不見《むこうみず》なことを筆《ひつ》して入獄し、また頭が早く禿げた。かつ至って無頓著な性《たち》で、晦日《みそか》に払う金はありながら、債金取りの困るのが面白いとて留守を遣うて六、七度も無駝足《むだあし》を運ばせた報いで、無罪ながら獄裏に多日の憂目《うきめ》を見たんじゃと、南方久米仙、過去世を観じて説教し置く。
 
(520)     釜煎りの刑
 
       一
 
 『犯罪科学』二巻七号、三田村君の「石川五右衛門の釜入り」四一頁に、「われらの知っておる釜入りの刑は、芸州、甲州、三州、奥州、讃州で行なわれ、天正・慶長間の二十余年の話である」と言われた。が、まず釜入りは、釜煎りとか釜熬りとか、古く書かれたと記臆する。そして五右衛門は三条河原でこの刑に処せられたから、右の五州に城州をも加えにゃならぬ。それから、天正以前にこの刑が行なわれた例が美濃国にある。斎藤道三、美濃の守護土岐頼芸を逐つてその国を奪い、善《よ》く兵を用いたが、政を行なうに苛酷で、裁刑厳獅ネり、およそ罪ある者、あるいは生きながらこれを焚《や》き、あるいはこれを牛裂きにし、人みな厭苦すと、飯田氏の『野史』に『国史実録』と『信長記』を引き書きある。しかるに『信長記』をみると、道三は、「小科の輩をも牛裂にし、あるいは釜をすえおき、その女房や親兄弟に火を焚かせ、人を煎り殺せしこと、すさまじき成敗なり」とあり。実は生きながら釜煎りにしたのを、『実録』や『野史』に生きながら焼き殺したと書き謬ったと判る。頼芸、一に芸頼に作る。その道三に逐い出されたは天文十一、また十六、また十七年と諸説定かならず。仮にこれを最も晩き十七年とせんか。それより道三がその子義竜に弑せられた弘治二年まで八年の間、道三が濃州に君臨したのだ。その弘治二年の正月に父子の戦い始まり、四(521)月に道三が殺されたから、人を釜煎りにするような暇なし。よって道三が人を煎り殺せしは、弘治三年を終りとすと仮定しても、三田村氏が最も早く釜煎りが行なわれたように言われた天正の元年より、十八年以前すでにこの刑が濃州で行なわれたのだ。熊楠知るところ、この天文年間、斎藤道三が美濃で行なうたのが、本邦釜煎り刑の最も早く物にみえた例である。
 三田村君は、蒲生氏が釜煎りの刑に処したは大科の者に行なうたと『古今武家盛衰記』にみえるが、どんな罪科ということが判らぬと説かれた(四二頁)。すでに「会津にて大科の者あれば、毎度釜煎りの刑に行なう」とあるから、罪条も一つに限ちなんだはずだが、その大科の一種を徴し知るべき文献はある。
 『老媼茶話』にいわく、「『諸家深秘録』には、釜煎りは大臣家にあらずしては成り難し、とあり。台徳院様御代、石川五右衛門という盗人三条河原にて釜煎りに仰せ付けらる。御当代これ始めてなり。蒲生藤三郎秀行卿、その身正四位下宰相にて、子孫断絶せしと言えり。宰相の御代、会津中荒井組蟹川村、平太という百姓あり。この者鳥殺生を能《よ》くす。ある時|白斑《しらふ》の雲雀を、本郷河原という所にてと。、宿へ帰り、女房にみせて申しけるは、この雲雀は当時珍しき白斑なり、天下押しなべて小鳥流行なれば、殿様へ差し上げ、過分の御褒美戴くべし、嬉しきことなりとて、大きに悦ぶ。女房聞きもあえず、今の殿様をば渋柿宰相様とて、人みな疎みて大慾無道の殿様なり、たとえ白斑の雲雀はさて措きて、金雲雀を上げたまうとも、御褒めは存じもよらず、結句百姓の務むべき農作は勤めずして、殺生致すこと不届きなり、見こらしにとて、いかなる憂目にかあいたまうべき、とくして仙台へ持ち行き、仙台の殿様へうりたまうべし、必ず当所の殿様へさしあげたまうな、と申しける。平太、女房の申すに任せ、急ぎて間道を経、仙台へゆき、仙台中納言政宗卿へ売り上げ、金十五両下されける。乎太大きに悦び、会津へ帰り、女房に悦び、汝が教えに随い、かくのごとしと、金子を差し出だしみせて悦びける。女の饒舌、末の禍いを知らざりけり。この雲雀、政宗卿より将軍家へ差し上げたまう。将軍様はなはだ御寵愛遊ばされ、この雲雀白斑にして類《たぐい》なき名鳥なり、鳴音大音にて(522)潔く御所中に響く、定めて伝え聞こし召し及ばれし、かの奥州名取郡、宮城野の萩の名所の野辺より求めつらんとの上意なり。政宗卿謹みて申されけるは、この鳥はわが領内より求めつるにては候わず、若君様小鳥御好みなされ候ゆえ、もし珍しき鳥も候わば、御慰みに差し上げたく存じ候て、近国へ申し遣わし、会津郡より求め候て差し上げ候、と申されける。会津にかようの名鳥出ずるならば、宰相の方よりこそ差し上ぐべきに、麁末なる仕方なりとて、御機嫌あしく、秀行卿迷惑なさるる。依って秀行卿御在国なりければ、江戸家老より会津国家老へ、右の趣き細やかに申し遣わし、会津にても小鳥殺生の役人ありて、惣《すべ》て小鳥をもその筋へ差し上げ候|掟《おきて》なり。国家老きびしく詮議の上にて、平太罪ことごとく顕われ、女房が悪事もしれければ、夫婦共に、大川河原にて釜煎りになさる。その刑罪場所、平太畑とて近きころまでありけるが、元禄十五年午の十月二日の洪水にて、その所押し流し、今は河原となる。平太が幽霊、雨ふり闇《くら》き夜は、夫婦ながら、件の刑罪場へ立ち出でて泣き叫びしを、村人たびたびみたるとなり。蟹川村宝光院の過去帳には、釜煎りとはなく、雲雀上げざる咎にて、重き刑に行なわるるとありとなり」とある。
 蒲生家釜煎り刑の他の例は知らず、この白斑雲雀密輸出者は、会津産の珍品を隠して隣藩へ売り、他国を利して自国を損ぜしめた咎で、釜煎りにされたのだ。類推するに戦国時代、敵国へ内通した罪で、釜煎りにされたのが少なくなかったであろう。
 『和漢三才図会』八〇に、肥前国|温泉嶽《うんぜんだけ》は、往昔大伽藍あり、日本山大乗院清明蜜寺と号す。文武帝大宝元年行基建立し、三千八百坊と塔十九基あり。(『西遊記』五には、天草の乱までは、寺も多く、四十八院までありしという。)天正年中|耶蘇《やそ》の宗門盛んに行なわれ、僧俗邪法に陥る者多し。当寺の僧侶また然り。故に破却せられて、正法に帰せざる者、生きながら当山地獄池中に陥る。礎石あるいは石仏のみ(残る?)、今ただわずかに一箇寺および大仏あるのみ。方一里ばかりの中、地獄と称する穴数十箇処あり、とあって、各穴熱泉と熔岩を噴き出す状を記す(『笈埃随筆』七参照)。これでは、『今昔物語』に、提婆達多が、三逆罪を犯したゆえ、大地破裂して地獄に堕ちたとか、吉志火麿《きしのほまろ》が、(523)妻に会いたさに母を殺さんとして、妻の巾着穴の代りにあらがねの土の穴へ吸い込まれたなどあるごとく、温泉嶽の坊主ども、仏法に背いた報いに、生きながら熟坑に陥ったと聞こえるが、その実自然に陥ったのでも、みずから身を投げたでもなく、宗門上の迫害で、酷吏に投げ込まれたのだ。
 天和二年筆『有馬古老物語』に、元和二年、松倉重政、島原城主となり入部し、寛永二年、島内の耶蘇教徒を穿鑿すると、改宗を拒む者七人(内一人は口津村助太夫の妻)ありしを、温泉山の地獄に沈め、その一人の子供三人を海に沈めた。深江村の庄屋甚平も地獄に沈めらるはずのところ、まず炙《あぶ》り籠に載せて炙り過ぎたので、お先へテコネ了《しま》った。その母また地獄へ沈められた。そののち島原の古町《ふるまち》休意、中町彦右衝門女房等、十人も沈められた。寛永四年長崎で改宗しない三百四十二人を松倉家へ送り、種々手を尽し改宗せしめたが、紙子屋浄弥《かみこやじようや》のみ飽くまで順わず、地獄へ沈められた。本邦で熱泉や噴火口を地獄と言ったこと、平安朝すでにあって、「修行者あって、越中の立山《たてやま》に往く。かの山に地獄原あり。遥広たる山谷の中に、百千の出湯あって、深き穴の中より涌き出ず。ー《いわ》をもって穴を覆うも、出湯、麁強にして、巌の辺《ふち》より涌き出ず。現に湯力によって、覆えるーは動揺し、熱気充塞して、迫《せま》り見るべからず。その原の奥の方に火柱あり、常に焼け爆《は》ぜ燃ゆ。ここに大峰あり、帝釈嶽と名づく。これ天帝釈の冥官集会し、衆生の善悪を勘定する処なり」と『日本法華験記』下に出で、『今昔物語』一四の七および八語にも、立山地獄で死人の霊に逢うた話を載す。貞徳の『油粕』にも、「雲の上にも湯や沸かすらん、けぶりぬるあそこぞ地獄阿蘇の山」とある。
 熟泉や噴火坑の沸騰するを、罪人叫喚の声に比べて、地獄と言った例は、外国また多い。唐の玄奘の『大唐西域記』九、に摩竭陀国《まかだこく》、毘布羅山《びぶらさん》の西南の崖蔭《きしかげ》に、古く五百の温泉があった。奘の時には数十だけ残った。冷たきも暖かきもあって、ことごとく暖かならず。その泉は源を雪山の南なる無熱悩池《アナヴアタプタ》に発し、潜み流れてここに至る。その水はなはだ清美で、味わい本池に同じ。流れて五百枝の小熱地獄を経るに、火勢上炎してこの温泉を致す。(中略)諸方異域より咸《みな》来たりてこれに浴す。浴すれば宿病《しゆくへい》多く差《い》ゆ。王玄策の記行にも、吐蕃国の熱泉より時々人の骸骨を涌かし(524)出すから?湯《かくとう》すなわち釜煎り湯と名づく。支那の諸処にも同様のがある。『四分律』に、王舎城北に熱湯あり、地獄より来たる。初めははなはだ熱いが、道中で冷えるから、よい加減になる、と仏が言った、とある(『法苑珠林』一、二)。
 地獄といえど一通りですまず。八大地獄、十六小地獄、百三十六地獄などと、いわばデパート流に秩序整然たる広大な奴の外に、孤地獄、独一地獄など称え、至って細本《ほそもと》で、海辺とか曠野とかに散在して、みじめな仕出《しだし》輩を相手に営業する小店もある。それが本文の小熱地獄である。無熟悩池から出た水が、そんな小地獄を五百も通ると、塵積もって山の譬え、ちょうど人が浴しつついちゃつき得る温かさとなる。これが温泉で、地獄の火さえむだに使わず、温泉を湧かし、惚れた病以外の諸病を直す有難さに、むかしは必ず温泉場に行基菩薩作などいい加減な薬師仏を祠ったが、近く流行の合理化で、そんな信仰は地を掃い、湯女《ゆな》が温泉ガールと改号して、地獄商売が繁昌する。婆舎斯多《ばしやした》尊者説、温泉の三縁の一、鬼業《きごう》とは、鬼が地獄を出て人間に遊び、余業力《よごうりき》もて、この泉を煎灼し、もってその夙債《しゆくざい》を償う。免獄者が風呂屋奉公をするのだ。宋の秦少游の「温泉賦」に、「沈魂幽積せる、陰《ひそ》かにその負を償いしや」とはこれだ。中アメリカのニカラガ国のインジアンは、以前マサヤ火山の噴火口に人牲を投げ込んだ。キリスト教化後も、その教師が、信徒に地獄をみせるとて、かの山上より熔岩流を眺めしむ。キリスト教化前のハワイ人も、死人の骨を噴火口に投げれば、その死人火山神に入夥《なかまいり》し、返酬に骨を投げた者に火山の難を免れしむと信じ、マラガシー人は温泉に神住むと信じたなどみえる。これらは火山怖るべく、温泉病を療ずと知ったばかりで、業報《ごうほう》の天罰のということに思い到らず、地獄の観念を生ぜなんだのだ。欧州に至っては、ラプランドの妖巫輩は、谷間の大湖に熱湯満ち、肉を入るれば即時に煮えるを地獄とす。ギリシアのサントリン島に名高きヘフィストス噴火坑は、かつて一僧正が一切の幽霊と吸血鬼とを追いこめ封じた。それを大立腹ときて、毎度彼らが石を投げ出して旅人を脅《おぴや》かすそうだ。イタリアの俗、エトナ、ヴェシュヴィウスの二山を地獄の入り口としたは周知のことである。(『仏教大辞彙』二巻二一一二頁。『潜確居類書』三〇。『伝法正宗記』四。一八八八年米国三坂、タイラー『原始人文篇』二巻六九頁。一八七四年板、スペンサー『記(525)載社会学』一の一、三八および四二頁。一八〇八年板、ピンカートン『水陸記行全集』一巻四七三頁。一八八五年板、ベント『シクラデス誌』一一四頁。ボーンス文庫本、ブラウン『俗説弁惑』二巻四〇二頁、五註)
 本邦でも火山を地獄と信じたは、信州の浅間山は、「土人いわく、古えより四月八日、峰の?《いただき》に詣ず。?の周廻一里余、中に当たり窪んで鉢のごとく、底を見ず。火?炎々として石を飛ばし砂を吹く。皆いわく、詣でて後世菩提を祈る、と。先年晦朔|差《やや》互《たが》うにより、七日にして登り、焚死せる者百余人、これより以来恐懼して詣でず。天下変あれば、すなわちあるいは期に先だって山鳴り、あるいは期に後れて焚焼す、云々。大乱に戦死する者、三日の間に必ずこの山に登る。あるいはその形を見、あるいは人馬喧?の声を聞く。近時|難波《なにわ》の役、前年より焚焼し、乱後に至り止む。前大樹(秀忠)薨逝の前また焼け、煙中に数千の僧徒を現じ」たと、寛永十三年に堀正意が書いた。本邦那須野の殺生石や有馬地獄谷の鳥地獄、いずれも温泉近所にあって、火山跡の毒気が動物を殺したらしい。そんな毒気を、古ローマ人が神女と見立てて、メフィチスと号《なづ》けた。その社が今もイタリアのアムサンクツス谷に存し、かの神女の代りに、天主教に殉じたフェリシタ女尊者を祠《まつ》る。その辺に熱池あり、遠雷のごとき音して不断泡立つ。これをメフィチスの池と呼ぶ。その少し上の地に大小の穴|数多《あまた》あって暖かい毒気を吐く。古え地獄王プルトの息と言ったものらしい。池のあなたに小池あって沸《わ》いて已《や》まず。(地獄の)釜と名づく。これらの湯より出ずる悪気は時として人を殺せど、風強からぬ時は、空気より重いから池辺を歩くも無難だという。また西アジアのリジアとフリギアの境なるヒェラポリスの熱泉は、飲みに来た鳥獣、時々毒気に窒息して死し、浴客も毒気に負けて溺死するを、神に引き込まれたというそうだ。この地にむかし地獄王プルトの社あったというが、委細を予は知り得ぬ。近世欧州で熱泉を地獄とした例は、十六世紀に、アイスランド・ヘクラ山より硫黄を噴出し、海辺の氷塊岸を打つ音が、罪人叫喚の声のごとくなるより、これを地獄と信じ、同時代に、英国ダーリングトンより一マイルの地に三小池あって地獄の罐子《かんす》と呼ばる。罪ある男女の魂をそれで淪《ゆで》る、その泣き声がしばしば聞こえるとの噂。実は地下熱の作用で生ずると知れたという。(526)支那戦国の時、楚の宋玉が作った「招魂」の篇は、屈原の魂が、天地四方どこへ在ったって、悪い奴ばかりまち受けおるから、速《はや》く帰り来たれと説いた物で、仏教が入ってこないうちの、死後に関する支那人の想像を窺うに便りあり。それに「西方の害は、流沙千里なり。旋りて雷淵に入れば、靡散《びさん》して止まるべからず。幸《さいわ》いにして脱するを得るも、その外は曠宇なり。赤?《せきぎ》は象のごとく、玄?《げんぽう》は壷《こ》のごとし。五穀は生ぜず、?菅《そうかん》をこれ食らう。その土《ど》は人を爛《ただ》らし、水を求むるも得るところなし」とある。「その土は人を爛らし、云々」は立山や温泉嶽にあるような地獄坑に基づいた詞《ことば》かと思う。(『続々群書類従』九冊所収『中山日録』五八五頁。『和漢三才図会』六六および七四。一八四六年板、スミス『希羅人伝神誌名彙』二巻一〇四五頁。一九〇七年板、フレザー『アドニス、アッチス、オシリス』一七〇および一七三頁。一五五二年バール板、ムンスチル『坤輿全志』一〇五一頁。一八七六年板、サウゼイ『随得手録』初輯一八二頁。『文選』李善注、三三。参考、顧炎武『日知録』三〇)
 こんなに火山や火山跡の近辺で熔岩や熱泉や毒気を噴き出す穴を現世の地獄と心得た例が外国に少なからず。本邦またその例多きは、『和漢三才図会』五六に、日本に地獄あり、みな高山の頂《いただき》、常に焼けて温泉絶えず、肥前の温泉、豊後の鶴見、肥後の阿蘇、駿河の富士、信濃の浅間、出羽の羽黒、越中の立山、越の白山、伊豆の箱根、陸奥の焼山等のごとき、頂|※[凪の止が火]々《かか》と燃え起こり、熱湯|汪々《おうおう》と湧き出で、宛然として焦熱修羅の形勢あり、と述べあるので知るべし。その湯が人の沸かしたものでないばかり、そんな極熱《ごくねつ》の湯に投げ込まれた寛永の西国天主教徒は、実に本邦でレコード破りの釜煎り男女と言わねばなるまい。それから南部の恐山に九戸《くのへ》地獄あり。その縁《ふち》に太刀跡のごとくなる物ありとのこと。これは天正十九年、先に南部氏継嗣の紛議より本家を恨みおった九戸政実が兵を挙げ、一向南部信直の手におえず。信直の子利直、京都に上り秀吉に師《いくさ》を乞うたので、秀次、家康以下の大軍が来たれるを、福岡の孤城に拠って捍《ふせ》ぎこたえ、とうとう敵の詐言《いつわりごと》を信じて降り殺された。その政実が陥った地獄というのだが、政実は当時秀次の陣営(または下野の氏家駅)で殺されたのだから、生きながら陥ったでも投げ込まれたでもなく、まず幽霊が陥った(527)のだろう(中道君『奥隅奇譚』一五〇頁。『野史』二七七)。
 
     二
 
 支那で人の釜煎りはずいぶん古くより行なわれたらしい。予が只今知り及ぶところ、もっとも古いのは、『帝王世紀』に、周の文王の長子伯邑考を殷紂が羮《あつもの》に烹《に》て文王に賜い、聖人まさにその子の羮を食わざるべしと謂いおると、文王これを食うた。紂いわく、誰か西伯(文王)を聖者という、その子の羮を食うてなお知らずと、とある。斉の桓公が、易牙その子を烹《に》て寡人を快くす、なお何をか疑わんやと言ったり、項羽が漢の高祖に告げて、急ぎ下らずばわれ大公を烹んと曰《い》った時、高祖が、われ汝とかつて約して兄弟たり、わが翁はすなわち若《なんじ》が翁たり、必ず汝の翁を烹んと欲せば、幸いにわれに一杯の羮を分かて、と答えた。その時項羽は高い俎《まないた》に太公を載せあったという。これらは煮らるる者必ずしも罪人でなく、羮とか俎とかあるから、切り?《きざ》んで後に烹た人肉の料理で、正しく釜煎りの刑とはいえまい。しかし、晋の襄公大いに秦軍を?《こ》に破り、その三将を虜《いけど》り帰った時、襄公の父、故文公の夫人が襄公に向かい、わが父秦の繆公《ぼくこう》は、この三人が敗軍せるを、怨み骨髄に入った、願わくはこの三人を帰らせ、わが父君をしてみずから快くこれを烹るを得せしめよ、と紿《あざむ》くを聞き入れて襄公が三将を秦に帰した、とあり。斉の?王《びんおう》、瘡《かさ》を病み、宋から文摯《ぶんし》を迎え診せしめた。摯、太子に語る、王をやたらに怒らせたら全快すべし、ところが王怒りて必ずわれを殺さん、と。太子そんな場合には、われ母と共に死をもって争うて汝を救うべし、と言った。よって文摯、王に対し種々の無礼を働くと王たちまち癒えた。しかし怒りはなはだしくて、太子と后が何と諫めても聴かず。鼎で生きながら文摯を三昼夜烹れど、顔色変わらず。摯、頭《かしら》をもたげて、われを穀さんとならば、なぜに鼎を覆《ふた》して陰陽の気を絶たないか、と言った。鼎を覆するとすなわち死んだそうだ。
(528) また、誰も知る通り、戦国の大山師|呂不韋《りよふい》、邯鄲《かんたん》に賈《あきない》し、秦の孝文王の庶子(後に荘襄王《そうじようおう)》名は子楚が、趙国に人質たり、窶《やつ》れ暮らすをみて、自分の父に向かい、田を耕すの利幾倍ぞと問うと、十倍と答う。珠玉の贏《もうけ》はと尋ねると百倍、王を立て国を定むるの贏はと聞くと、無数と答えた。しからば無数の贏に掛かろうと、言ったばかりで始まらね−からよい加減なマヤ言《こと》を述べて、父からよほど引き出したんでしょう。それから子楚に遇うて、われ能《よ》く子《なんじ》の門を大にせん、と言うと、子楚笑って、まず君の門を大きくしてから、わが門を大きくせよ、というた。呂不韋いわく、子《なんじ》は仕様《しよう》を知らない、わが門は子が門を待って大きくなる、と。子楚その意味を解《げ》し、与《とも》に坐して深く語った。そして呂不韋五百金を子禁に渡し、賓客と結ばしめ評判をよくした。また五百金で奇物珍玩を買い、みずから持って秦に入り、孝文王の本妻華陽夫人に献じ、夫人ははなはだ愛幸さるるが子がない、子楚は庶子ながら賢智にして諸侯の賓客と結ぶこと天下に?《あまね》しと説き付けたので、夫人感じ入り、夫に勧めて子楚を嫡嗣とした。不韋、邯鄲に帰り、名古屋辺にも例あるごとく、豪家の娘で絶好の美人、善く舞う者を、格子作りの囲い者とやらかし、孕ましたところへ子楚が飲みに来たり、一見して足が立たぬほど惚れ込み、これを所望したので不韋は怒ったが、これも奇利を釣るべき一手段《ひとてだて》と思い翻《かえ》して、その姫を子楚に献じた。姫は妊娠を匿して子楚に帰《とつ》いだが、旨《うま》い工合に常例に後れ、十二月めに子政《しせい》すなわち後日の始皇帝を生んだ。それゆえ子楚は子政を自分の子と確信したらしい。そののち秦より趙を伐ったので、子楚は殺さるべきところを、呂不韋の賄賂で免るるを得て秦へ帰った。六年後に子楚の父孝文王即位し、子楚太子となり、趙国も恐れ入って子政とその母夫人を秦へ帰した。さて一年して孝文王が死に、子楚即位して荘襄王となり、呂不韋を丞相文信侯となし、河南洛陽の十万戸を食《は》ましむで、目論見《もくろみ》通り、子楚の門を待って不韋の門も大きくなった。
 ところがまた別口の門から大騒ぎが起こりました。という訳は、荘襄王あまりその美后の門へ出入りし過ぎたものか、即位して三年めに死し、十三になったばかりの太子政が王に立った。すなわち呂不韋を尊んで相国となし、仲父《ちゆうほ》(529)と称えた。次の父の意《こころ》で、斉の桓公が管仲を仲父とした例に倣うたんだそうな。太后その時何歳と書いていないが、まず二十で始皇を生んだとしても三十三の年増盛り、本邦でも、二十後家は立つが三十後家は立たぬと申し、薄雲の女院が光源氏を見るたびに、もやもや催したまいしごとく、呂不韋また太后に謁する都度、「大原やをしほの山もけふこそは」の歎《かこち》なからず。ついに「太后、時々|窃《ひそ》かに呂不韋と私通す」ときた。そのうち始皇帝ますます壮《さかん》になったに、「太后の淫は止まず」。「大年増|糊《のり》つけ物の音がする」で、呂不韋もやりきれず。「すなわち私《ひそ》かに大陰の人|??《ろうあい》を求め、もって舎人となす。時に倡楽を縦《ほしいまま》にし、  毒をしてその陰をもって桐の輪を関《つらぬ》きて行《ある》かしめ、太后をしてこれを聞かしめて、もって太后を啗《たぶらか》す。太后聞き、果たして私《ひそ》かにこれを得んと欲す」。太后に見せたとなく聞かせたとあるから、ちょうど河村瑞軒(あるいは紀国屋文左がしたともいう)が、木曽で材木を買わんとて、小判に紙縷《こより》を通し舞わして、児戯のガラガラにして、問屋の心を攬《と》ったに同じ。呂不韋すなわち??を進め、常態《つねてい》の男では宮中に入れ得ないから、太后に策《はかりごと》を献じ、太后厚く宦者係の吏に賂《まいな》うて、これを宦者に粧い成し、ついに太后に侍せしめた。?も偉岸絶倫、どうせ焼き直さねば今生で稲負《いなおお》せ鳥の教えを実行は絶望と諦めおったに、「道鏡も浮世は広い物といひ」、破鍋《われなべ》に閉じ蓋とは、旨いかな言《こと》なりと感涙を流して、日夜忠勤を励んだので、その効空しからず、太后その種を二人まで産んだ。それから?を封じて長信侯となし、賞賜はなはだ厚く、家僮数千人、諸客その舎人となる者千余人で、国事をもっぱらにし、ますます驕奢となり、侍中左右貴臣と博飲するごとに、目を瞋《いか》らし大いに叱って、われは皇帝の仮父だ、鼻垂らし野郎の悴ども、何ぞあえてわれと亢《こう》すると罵ったので、相手が走って始皇に告げる。始皇大いに怒ると聞いて、?誄殺を懼れ、よって乱を作《な》して咸陽宮に戦い敗れた。
 これは始皇の九年の出来事だから、始皇は二十一歳、太后は前述の推量に拠ると、四十一歳。昭和五年五月発行、『民俗学』二巻五号三三〇頁、山口麻太郎君の「壱岐国テエモン集」に、「四十女にまら見するな」とある。烏蛇に馬糞を抛げ付けたことほど左様に、口をパックリ開いて追っ駆けくるそうだ。けだし女子二七にして天癸《てんき》至り、七七に(530)して天癸絶ゆ。もはや先のみえた身だから、伍員が申包胥に謝した通り、日暮れ塗《みち》遠し、われ故に倒行してこれを逆施すと、死に物狂いに愛を縦《ほしいま》まにし、ことに前述ごとく、他に相手のない偉人同士だから、似るを友とかやの風情にて、太后のすいたりければ、かの??も雄なりけりだ。
 そこで?を捕え吏に下して治し、具《つぶ》さに情実を得、事《こと》相国呂不韋に連なる。とあれば始皇帝も「郡《こはり》でも豊島《としま》といへば広いやう」くらいのことは知っていたが、桐の輪をガラガラにして舞わすほどの偉器でなければ湛能せざる太后の広さに驚き入り、むかしわが父荘襄王趙国に人質として五人組の独り暮し、ところへ呂不韋やつて来て、われよく子《なんじ》が門を大にせん、と言った。先生笑って、まず君が門を大きくしてからわが門を大きくせよというと、子は仕様を知らない、わが門は子が門を待って大きくなると言ったと聞くが、最初自分の物として太后をわが父王に献じ、父王の死後また自分の物とし、それをまたかかる大物主《おおものぬし》の男の物と切り換えて、その都度太后の門を広大無辺に廓張しやがった。事ごとに外れぬ大山師の成算、こうもよく当たるものかと、その手際兼○○際にさすがの始皇も舌を巻いた。差し当たりかの大○○め、朕の生母《うみのはは》に跨って異種《かわりだね》の弟を二人まで産ましめ、朕が死んだら後《のち》と立てんと謀ったは、悪《にく》さも悪しと??の四肢を取ってこれを車裂《くるまざき》にし、その三族を夷《い》し、太后が産んだ二子を嚢に入れて撲ち殺し、太后を取って?陽《ふよう》宮に遷した、と言ったってただの宿換えでなく、犬猫までも男という男の出入を厳禁したこと無論だ。それから令を下して、あえて太后のことについて諫むる者は、誅戮した上、その背の肉を?藜《しつれい》し、四肢を幹《かん》してこれを闕下に積ましめた。
 ?藜、学名トリブルス・テルレストリス。実《み》に刺《とげ》ある草で、東南欧州、アジア、アフリカ諸方の乾いた砂地に生じ、日本名はハマビシ。その形を鉄で模《うつ》した鉄?藜という兵器あって、古く『六韜《りくとう》』にみえ、孔明が五丈原で死んだので、蜀軍が退くを魏兵が追った時、蜀の長史楊儀多くこの物を地に布《し》いて防いだ。文明十八年筆『応仁乱消息』に、田舎|籠屋《こもりや》入りの用意、山を切り剥がし握り落とし、車菱子《くるまびし》を蒔き、云々。鉄?藜を邦俗ヒシと称う。それに輪を付けて踏(531)めば転がり、一層人馬の足を損ずるよう作ったとみえる。応仁乱か両川相|鬩《せめ》いだころ、朝倉勢が鉄?藜で勝利を得た記事があったと覚えるが、われら悪い癖あり、そんな暗記をたどるとたちまち、むかし惚れてくれた娘の顔容が髣髴とくるから面倒だ。御存知の方に何に出おるか伺いおく。というと押しの強い割合に、辞《ことば》が優しいというだろう。だから皆が惚れたのさ。さて四肢を幹するとは、存分に解らねど、まず胴体と手足を切り離したのだろう。これに酷《よく》似たクヮーター・リングという残刑は、一八六七年すなわち南方先生が生まれた年まで、英国で大逆罪に課せられた。
 かく苛刑もて威《おど》したが、剛情な人も少なくなかったとみえ、太后のことで始皇帝を諫むる者二十七人あって、ことごとく刑された。時に斉の客|茅焦が《ぼうしよう》、願わくは諫めを皇帝に上《たてまつ》らん、と申し出た。帝、それは例の太后のことじゃないか、と問わしむると、その通りと答えたので、若《なんじ》は闕下に積まれた二十七人の尸体《したい》を見ざるや、と問わしめた。茅焦いわく、臣これを聞く、天に二十八宿ありと、すでに二十七人まで死んだから臣はその数を満てんと欲するのみ、と答えたので、始皇大いに怒って、こやつ故《ことさ》らに釆たってわが禁を犯す、趣《すみや》かに?湯《かまのゆ》を炊いてこれを煮よ、闕下に積まるるを得んや、と曰った。そこで茅焦巧みに言詞を弄し、陛下|狂悖《きようぼつ》の行いあり、みずから知らずや、と問うと、始皇、そいつは聞きたい物だね。茅焦|対《こた》えて、陛下、仮父を車裂したは嫉妬の心あり、両弟を嚢撲《ふくろたたき》にしたは不慈の名あり、母を?陽宮に遷したは不孝の名あり、?藜を諫士に縦《ほしいま》まにせしは桀紂の治あり、今天下これを聞かばことごとく瓦解し、秦に嚮《むか》う者なけん、臣|窃《ひそ》かに秦の亡ぶるを恐れ、陛下のためにこれを危ぶむ、と言い畢《おわ》つて、サー殺せと衣を解き、陰嚢《きんたま》をブラブラさせたので、何と坐った度胸と始皇も感心し、殿を下って左手これに接し、右手で左右を麾《さしまね》きて、これを赦せ、先生衣に就《つ》け、陰嚢が風をひくとの聖旨だ。すなわち焦を立てて仲父となし、これを上卿《じようけい》に爵《すす》め、たちどころに千乗万騎に駕して左方を空しくし、みずから行って太后を?陽宮に迎えて威陽に帰る。太后大いに喜び、大いに酒を置いて茅焦を待った。飲むに及び、太后いわく、抂《まが》れるに抗して直からしめ、放れたるをしてさらに成らしめ、秦の社稷を安んじ、妾母子をしてまた相会うを得せしめしは、ことごとく茅君の力なり、と。太后(532)も今度はよくよく懲りたとみえ、茅焦の陰嚢にも思い付かず、十年後に、まずは五十一歳ほどで薨じ、その本夫荘襄王と同穴に葬られた。地下の荘襄王は呂不韋が先日の言のごとく、果たして門を大きくしたのに苦り切っただろう。始皇、太后を迎えて咸陽に帰ると同時に、呂不韋を出だしてその領国河南に就かしめた。けだし太后余熱醒めず、呂不韋とまた一儀を始めるを遮断したので、一年あまり後にまた不韋を蜀に徙《うつ》らしめたので、絶望のあまり毒を仰いで不韋は死んだ、とある。
  (『史記評林』諸巻。『呂氏春秋』一一。『説苑』九。『翁草』八。『本朝虞初新誌』上。『本草綱目』五二。一八九五年上海刊、ブレットシュナイデル『支那植物篇』三篇二二八頁。一八九七年ライプチヒ板、エングレルおよびプラントル『植物自然分科篇』三篇四巻八七頁。『広群芳譜』九六。『続群書類従』五七八。『重訂本草啓蒙』一二。一九二九年一四輯『大英百科全書』七巻六三七頁)
 
     三
 
 久米邦武博士の『奈良朝史』(早稲田大学出版)四九八頁に、片仮名書の『水鏡』別本より、「この孝謙天皇の『涅槃経』文を焼き給いて、その罰を蒙り給い、次の年の天平勝宝二年の春ごろより御婬慾も人に勝れ、云々、諸卿にはこの仲麿一人、類いなき大物の大臣にて、太上天皇の御覚え、暇《ひま》なかりしと、云々」、また道鏡三年間、『如意輪経』を、「読み行ない、年満ちて国王の宣旨を蒙らざりければ、本尊の六臂如意輪?像を閉じ籠めたる岩屋の雨落《あめおとし》にすて、あまつさえその上に尿をかけ奉る。この時蜂一つ飛び来たりて道鏡が※[門/牛]《まら》の先を螫《さ》す。その疵より大物になること、いうばかりなく成りにけり、云々」と引き、その妄を弁じある。最後に「かかる文は、抄略すればかえって事実に似よりやすきゆえに、紙一頁を費やして録出し、仲麿、道鏡の邪婬を語るの無根なるを知らしむ」とは、学問に探切なる詞だ。(533)ただし足利氏の世に成った『塵添?嚢鈔』一九にも、「女帝|当初《そのかみ》『涅槃経』、「所有《あらゆる》三千界において、男子の煩悩の合集するは、一人の女人の業障《ごつしよう》のためなり」の文を叡覧ありて、朕女人なりといえども、全くこの儀なし、仏妄語し給いにけりとて、すなわちこの経に小便を仕掛けたまえり。経王守護法の善神や怒り給いけん、たちまちに婬欲熾盛に成り給うのみならず、女根広博にして、あえてその欲を停むる者なし。よって天下に勅を下して大根の者を求め給う。押勝その仁に当たるといえども、道鏡なお能《よ》くこれに叶えり。ここをもって天平神護元年に大師となし、二年に法皇位を授け給う、云々」とあって、幾世を経てもこのような噂が行なわれたとみえる。けだしこれより八、九十年前、唐の則天武后、北宋の禅師神秀を都下に召し、内道場に供養し、親《みずか》ら跪礼を加えたことあり。中書令|張説《ちようえつ》いわく、禅師、身長八尺、厖眉秀冒《ぼうびしゆうもく》、徳巍々、王覇の器なり、と。身長八尺といえば身体諸部これに称《かな》うて偉大な物だったろう。それに倣うてか、天平神護元年より二十八年前、天平九年、玄ムを僧正となし、内道場に安置さる(『仏祖統記』四〇。『宋高僧伝』八。久米博士『奈良朝史』二五一頁)。『元亨釈書』二二に、この歳十有二月玄ムに綿帛を与うと記し、伝にいわく、「皇太后の藤宮子、沈痾に染み、帝を誕《う》みてより、いまだかつて相|見《まみ》えず。十二月、皇后の光明子(太后の御妹)、玄ムを法事に延《ひ》き、帝も預かり聴く。この日、藤宮子も在《おわ》しまし、ム師を見て、洗然として病《やまい》愈《い》え、ついに帝と晤《あ》う。母子相喜び、百僚みな賀す。帝、綿帛と糸布おのおの一千|純《たん》を賜い、書していわく、与う、と。淫の萌しなり。ム師何ぞ官氏を書かざる、蠱なり、と」と。玄ムの濫行は、虎関も匿し得ぬほど、後世まで伝わりおったので、『大日本史』七六には、「この時、皇太夫人、皇后の宮に就《つ》きて僧玄ムを見る。聖武帝もまた造《いた》る。皇太夫人、帝を誕《う》みし後、久しく玄ムと相見えず、沈憂して事を廃す。この日一たび見て、恵然として開晤し、たまたま帝と相見ゆ。天下慶賀せざるなし、云々」に作る。これは『釈書』二に、「釈善珠は、あるいはいわく、太皇后藤宮子の?子なり、と」とあるを、玄ムの種と推して書いたのだ。その他、『釈書』九に、光明后、浴を賜うて釈実忠を観ること、『源平盛衰記』三〇に、光明后は十一面、玄ムは千手観音と現じ、共に慈悲の御顔を並べて、同じく済度の方便を語り給え(534)ることあり。
 これらいずれも主として当時を距《さ》ること遠からざる則天武后の噂に胚胎して、いろいろと作り出されたものだろう。初め后その母楊氏が外孫|賀蘭敏之《からんびんし》と私通し、その俊才たるを語るを聴いて、意をこれに属し、あろうことか宮中の宴に乗じて后これに逼った。ところが敏之罪を得るを惧れ固く辞し、后愧じかつ恨むうち、敏之も家筋に恥じぬ健《したた》か者で、太子の妃に選ばれた女を強犯し、また多くの宮人を逼乱したので、后これを雷州に流し、道中で自経して死んだ。それから后は僧|薛懐義《せつかいぎ》を寵した。この僧、名は小宝、陽道偉岸、性淫毒、洛陽の市に佯り狂し、その穢《わい》を露わすとあって、振り歩いたのだ。千金公主聞いてこれに通じ、小宝入って侍すべし、と上言した。后召して与《とも》に私《わたくし》し大いに悦び、祝髪して僧たらしめ白馬寺主となし、懐義、工事について巧思ありと托《かこつ》けて、楚中宮に入らしめた。その時その係の者が上言して、武后が最初|閨《ねや》奉公した太宗の時、羅黒々なる琵琶の名人を閹《えん》して給使となし宮人に教えしめた例により、懐義を閹して宮中に入れたら間違いが起こるまいと主張したが、表|寝《や》んで出でず。アベラール一たび去勢されては、エロイーズいかに歌い、いかに絡み付いても、一儀に及び得なかった理屈で、今懐義の肝心の物を抜き取っては、宮中入りの存在理由を失うから、上言しても用いらるる見込みなしと諦めて引っ込めたのだ。
 むかし仏が阿難に説いたは、この沙門釈種弟子|恒《つね》に梵行を常にし、いまだかつて婦人と共にその欲事をなすを経ず。かくのごとき丈夫ははなはだ得難し。手脚柔軟にして事業を作《な》すこと少なし。これらの五相のために、婦女の人最も沙門釈種弟子に染著《せんじやく》をなし極欲心《ごくよくしん》を生ず。余の丈夫の比類すべきにあらず。またこの沙門釈種弟子輩、多く善根あり、福業《ふくごう》を具有し、多くの気力あり、多く勢望あり、多く精進あり、多く聞いて巧みに諸論を知る。これらの五相に婦女の人最も染著をなし、沙門釈種諸弟子にきわめて欲心を生ず。余の丈夫の比類すべきにあらず。またこれら沙門釈種諸弟子等、普?|端厳《たんごん》に、威儀を具足し、諸根を覆蔵し、諸事を隠密にし、他人をして疑念するところあらしめず。しばしば来たるに応じて、われまさに子と財物とを得べし。これらの五相に、婦女の人最も染著をなし、最も欲心を生(535)ず。余の丈夫の等比するところにあらず、と。
 そもそもインドの四姓は梵種を頂上とす。したがって梵士が他姓の者どもの妻を犯すと、その夫妻ともにこれを有難さ身に余るとせる例多し。これ女は不浄物で、ややもすれば不吉を招致すれど、神聖種の梵士にさわって貰えば、鬼魅怖れて来たらず、その家常に安く昌《さか》えると信ぜるに因る。ところが仏教一たび出でて、仏を?《はる》かに梵教諸神の上に、仏僧を梵士の上に置いたから、仏徒の妻女が仏僧の一顧を得るを無上の福業と心得たに無理はない。古くは、玄賓僧都が自分の北の方を見初め、どれほど土砂を振り掛けても収まらぬ息子を持余《もてあま》して悩むと聞き、お安い御用と北の方を納得せしめて、僧都を自宅へ招待した某大納言、近代蒙古人が喇嘛を尊奉し、その至るところ天幕を譲り、羊馬肉と?酪《とうらく》を奉り、夜はすなわち妻妾子女を供養して、ただ当たるを得ざるを恐るるなど、みなその余風だ。
 そんなに僧が持囃《もてはや》されたから、仏も在世中このことに重く懸念した。初め波斯匿王《はしのくおう》、諸夫人をして比丘に従い経法を受け学ばしむるに、諸比丘教授を欲せず。仏に白《もう》すと、仏諸比丘にこれを聴《ゆる》した。末利《まり》夫人は迦留陀夷《かるだい》を請うて師となした。その時諸夫人次第に王に宿直《とのい》した。一夜末利夫人、下に珠網《じゆもう》を著、上に磨貝衣《まばいい》を著て、肉身を露わし、その王に如《ゆ》き宿《とま》った。宿るばかりでなく、魂消え魄散ずるまで快然たる催しを済ませたのだ。了ってこの衣を著て、中庭に出て林上に坐した。時に迦留陀夷、著衣持鉢して王宮に入り、門下に至って立ち、弾指した。末利夫人師の来たれるを見てすなわち入れ、おはいりなさいと言ったまま、その露身を羞じ、胡跪《ごき》して坐し起つを得ず。迦留陀夷|見已《みおわ》ってまた羞じて還り出た、とのみ書きあるが、「心の鬼めが狂ひ出す毎《たぴ》に、犢鼻褌《ふんどし》つっぱ胯《また》の角《つの》」。これは予十七歳の時、神田連雀町の白梅亭で、何とかいうまじめな男が教訓都々逸とて謡った一つだが、迦留陀夷もそんな角を一本にわかに生やしたのだ。仏これを聞いて、もし比丘、王家に入らば、十種の過失あり。何等を十となす。もし王、夫人と与《とも》に坐し、比丘来たり入る、爾時《そのとき》夫人比丘をみてあるいは笑い、比丘夫人を見てあるいは笑う。爾時王この念いをなす、もし夫人比丘を見て笑い比丘夫人を見て笑わば、この比丘必ず悪業《あくごう》を起こさん、と。これを初過失と名づく。(536)復次《また》、王、夫人と宿り、みずから憶念せず、この夫人あるいは外に出で住《とど》まり、還って身《はら》めるあり。時に王、比丘の入出をみて、この念いをなす、この夫人外に出で比丘しばしば入出す、必ず共に悪業を起こす、と。これを第二過失と名づく、と。こんな風に、比丘が宮中に出入して種々の嫌疑を招く次第を説き戒めた。けだし今日と異《かわ》り、むかしは高貴の人々良家の子弟がもっぱら出家したから、容姿動作なかなか凡〔以下原稿無し。〕
 
(537)     坊主と御殿女中
                田中香淀「随筆漫録」参照
                (『変態心理』一六巻六号)
 
 「坊主と御殿女中」の条に、田中君は、絵島の一件などは彼女の行動があまり大胆に過ぎたので、意外に早く発覚したのであるが、内密に異性と接触しながら露顕せずにすんだ者は意想外に多かれると思われる、と言われた。まことに左様で、当時室鳩巣の書翰にこのことを記して、「常憲院様(綱吉将軍)御代以来、段々不作法に罷り成り候時分も、この類のこと有之《これある》由」とあり。小谷勉善の付記には、「ある説に、先々御代(綱吉)より先御代(家宣)には、別《わ》きて踊り子等の女中芸を御好みなされ候ゆえ、御用の筋にて密《ひそ》かに小女中方より役者どもへ通路あり来たり候ところ、当御代(家継)伎女御用|無之《これなく》、御暇下され候えども、御城女中へはすべてその馴染の旧習|有之《これあり》、この一巻(一件に同じ)起こり申す旨申され候。これはいやな沙汰に御座候。先年五丸様年寄女中増見と申す者も、江島同事の行跡有之候えども、御先代には役者へ参会|不珍《めずらしからぬ》風俗に候ゆえ、かようの御吟味には及び申さぬ沙汰仕り候」と見ゆ(『日本経済叢書』所収、『兼山秘策』第二冊)。
 五丸様とは綱吉に愛されて二人まで子をなした堀田氏お伝の方で、延宝八年綱吉嗣ぎ立ったのち、五の丸殿と称した。その年寄女中に江島に先鞭を著した者があつたが、そのころ宮女と役者の参会は珍しくなかったから、そのまま済んだというのだ。そんなことは当時江戸に限らなんだとみえて、京の女形の名優上村吉弥、ある夜貴女より舞台姿のまま参れと召され、忍び乗物で往き、女一人と唱えて門を通り入って、貴女と酒事を初めるところへ、貴女の兄君還り去るを、女どもと共に吉弥も送り出るを見て、何者ぞと問われ、歌舞《かぶ》の女と答えると、地下には稀《まれ》なる者とあっ(538)て、兄君が吉弥を自分で賞翫したくなり、戯れかかる迷惑さに、女鬘を取って野郎頭を見せると、男の方が一層よいとて愛された。思わぬ方の床のあけぼの、最前の妹君のさぞ本意《ほい》なかるべし、と西鶴が書いて、「忍びは男女の床違い」と題した話が、江島一件より二十七年前に出板された。江島刑された時、宝鳩巣は、この度のこと、第一間部殿(詮房)厳重に御申し候て、秋元但馬守殿(喬朝)御同意にてかくのごとく候、御先代よりの大弊を御除きなされ候こと、よほどの儀と感じ奉り候、と書いた。しかるに当時物徂徠が、秋元侯四代の執政を勤め失策もなかったところ、この捌きことのほかやり過ぎたから、秋になれば後悔して死ぬべしと予言したのを、皆人笑うたが、果たしてその九月に喬朝は死んだ。この徂徠の謗議を考うるに、秋元侯は婬乱の人にてか、好色の妬みより起こりたる政《まつりごと》と見えたり、後世俗情大方は兄弟なり、呂后、則天のみを咎むべきにあらず、と言った人もある。喬朝この時六十七歳、まさか三十三歳の江島を心掛けておったでもあるまいが、バックルも言った通り、あまりにおのれを持すること堅過ぎた人は、他を寛恕するところがないから、こんな大獄を起こして自分も命を縮めたのだろう。(徳富氏「元禄時代」中巻。『兼山秘策』第二冊。『男色大鑑』六。『一話一言』五)
 この時将軍家継幼く、間部詮房は男寵をもって能役者の子から諸侯に出世し、前将軍の顧命を受けて家継を守り立て、よってその生母月光院に私し、頭巾を冒って共に炉を擁し私語するに至ったので、宮中禁弛み男女別なく、近臣侍医宿直した跡を朝になって掃くと、女の簪が落ちおることあり、詮房知るといえども禁せず、王宮内外の乱、前世いまだあらざるところなり、と『三王外記』に出ず。あまりなことのようだが、鳩巣の書で見るも、月光院はもと小つまと名のつた生れの高からぬ女で、家継薨じ吉宗紀州より入って立つに及び、これと面白い噂が立ったようなことゆえ、幼将軍の在世中ずいぶん乱れたこともあったとみえる。したがって上の好むところ下これに傚うで、江島の淫行も初まったのを、秋元侯が突然綱紀粛正をやったので、江島の一党がその鎗玉に揚がったものだ。つまり田中君が言われた通り、江島の振舞いが大胆すぎたので、斯道に取ってやり様がきわめてまずかったと言うの外なし。江島は(539)学問を好み、高遠《たかとお》に囚居中も『論語』を読んだとかで、その学問何の益もなかったと笑うた物を読んだことあり。これまた思いやりなき論で、過ちを悔いたればこそ『論語』を読んだもの、と予はいと気の毒に思う。そのころの将軍を始め、経書を講じながら非倫を行なう人多かったは、徳富氏の「元禄時代」や鳶魚先生の書かれた物どもをみれば瞭然と判る。江島をのみ責むべきでない。
 次に田中君は、天保ごろ幕府の宮女が鼠山の新感応寺の僧と濫行に及んだことを書かれた。新感応寺あれば旧感応寺もあるべしと捜すうち見付かったは、『江戸真砂六十帖』に、「谷中感応寺住僧遠流のわけは、何方より出ずる者にや、美麗なる比丘尼、年のころ二十四、五歳ばかりなり、折々屋敷方奥向または御城長局、日蓮宗帰依して紫の袈裟をかけ、後にはあじろの乗物にのり供人大勢召し連れ歩きぬ。公辺の御咎め遊ばされ御詮議の上、比丘尼牢舎して段々白状して、日蓮宗の寺々召し出だされ御吟味|有之《これあり》。まず感応寺のヒモン谷の住僧深川の法専寺、右の沙汰を聞きて欠落《かけおち》す。もっぱら諸国人相書をもって御尋ねあれども、入水にや一向みえず、云々。さて比丘尼白状しけるは、もと深川法専寺檀那にて、親はさる御屋敷の浪人なり。不如意にして暮らし兼ぬるところに、檀那寺折々みつぎくれられし。ある時私十八歳の折、親に向かい、御屋敷奉公に出で候に身の廻り此方にて取り計らい遣わすべき由、忝なく存じ候て寺へ親どもとつれ立ち参りぬ。衣服等までさっそく仕立て持たせ遣わし供。御屋敷より下見参り候まま、支度致して参り候よう申すに付き、さつそく参り、侍衆二、三人出合い酒盛致して一日罷り在り、暮合に罷り帰り候。その後侍衆も相見え申さず、住持ばかり居申され、いろいろ戯れ申され候えども、親ども困窮を救い呉れられし大恩御座候間、本意には御座なく候えども、住持の申すように罷り成り候。だんだん目立ち候まま、とかく髪をおろして出入り候えば目立ち申さぬ由にて、是非なく比丘尼に罷り成り候。それより経文を読み習い御屋敷方へ出入り仕り候。谷中感応寺はことのほか法専寺心安く、私が訳も存知のことゆえ、感応寺へも行きて屋敷方また御城女中方に御心易く仕り候。よってだんだんと御出入りの屋敷も出来申し候。親ともども歓楽に朝夕暮らし申し候。紫の袈裟は感応寺(540)より免され候。何方にても此方弟子と申し候えば宜しと申され候。乗物の儀はヒモンヤの寺より申し受け候との白状にて、比丘尼親ならびにヒモンヤの住持また弟子ども、俗には役者宮崎伝吉、山下小左衝門、女形葉山主水、町人は五、六人、これは比丘尼と出合い、感応寺にて心易くせしゆえ、町人役者は程なく出牢す。右比丘尼と親は張付《はりつ》けに行なわれ、感応寺ヒモンヤ住持は三宅島へ流罪、感応寺は弟子願いにて島へ供《とも》す。それより天台宗となる」と見ゆ。この書は宝暦ごろの著というから、この件は鼠山の新感応寺の件よりむろん百年ほど前のことだ。かく年を隔てながら、また僧尼の違いはありながらも、同名の寺二つとも宮女に信仰されて事を生じたのが珍しいから記しおく。
 田中君が述べられた、長持に入り運ばれて相手に逢いに往った男女のことは、古く例がある。『古今事類全書』後集一五に、晋の恵帝の后賈氏、荒淫放恣なり。洛陽尉部の小吏美男なるが、たちまち非常の衣服を持つゆえ、みな盗品だろうと疑うた。小吏弁じていわく、一日道を行き一人の婆にあうと、病人があって卜《うらな》うたところ、城南の少年を得てまじなえとのことだから、しばらく来てくれぬかとのことで、われを車にのせ箱に入れ、十余里ばかり行って六、七門を過ぎ、箱より出されみると楼閣好屋に到りおった。ここはどこと尋ねると、天上だとのことで、香湯に浴せしめ、引き入れて一婦人に逢わせた。年三十五、六、せい低く色青黒くて、肩後に疵あり、共に寝ること数夕ののち、この衣服をくれた、と。一同これを聞き、さては賈后に召されたと知り、慙《は》じ笑って去った。他人が賈后に召されたら、用を足した跡でみな殺されるが、この小吏特に后に愛されたから身を全くして出るを得た、とある。
 『淵鑑類函』五七には、賈后、性酷虐なり、手ずから数人を殺す、あるいは戟を孕妾に擲《なげう》ち刃に随って子が地に堕ちた、とある。田中君はメッサリナに匹敵すべき歴史的淫婦は東洋にないと言われたが、賈后はあるいはメッサリナ以上だったかもしれぬ。この后はかく淫乱ながら、なかなかのえら物で、夫恵帝太子だった時、よく弥縫してその愚を隠しおおせ廃せられざらしめた。帝の即位後、賈氏は楊太后を廃し、太后の父楊駿や汝南王亮、太保衛?、楚王?また自分の生まざる太子?を殺した。しかし一方に張華、斐?、王戎などの名臣を重用したところ、後世の則天武后に(541)よく似ておる。また後魏の宗室文は、明帝の時、領軍をもって政をもっぱらにし、婦人を食輿に臥さしめ?をもって覆い輿して禁中に入る、直衛知るといえどもあえて言う者なかったという。日本で故事となりおるのは、『俊頼口伝集』に、「さがの后、常にみそかごとを好みて陣の戸に出でさせ給いけるとかや。菓子と覚しくて長櫃に入れてぞ出で給いける。もち奉りたりける夫どもや心得たりけん、心を合わせて逆さまにたてて侍りければ、顔に血たまりたまいて、堪えがたく覚えて、それよりぞこりはててとどまりけると物語にしけるとかや、云々」とあるのだ。もとより無根の作りごとで、何か外国の話を伝え誤った物らしいが、いまだ出処を知り得ぬ。
 それから一言するは、昔から僧が宮女に好まるるは、双方禁慾に堪えずして同病相憐れむに出たが多かるべきも、仏典に慾事に何の禁制を受けざる婦女が僧を好むこと多く、はなはだしきは強いて僧を犯し礼謝したさえある。例せば『四分律蔵』五五に、「世尊、舎衛国にありしとき、比丘あり、阿蘭若《あらんにや》の処へ往って昼日に眠る。時に薪を取る女人あり、比丘の形《からだ》の上において婬を行ない已《おわ》り、比丘を去ること遠からずして住《とどま》る。比丘、覚《さ》め已《おわ》って、身の不浄に?《けが》れしを見、念《おも》いていわく、この女必ずやわが身の上において婬を行ないしならんとて、疑いを生ず。仏、問いていわく、汝|覚《おぼ》えたるか不《いな》か、と。答えていわく、われ覚えず、と。仏いわく、不犯《ふぼん》なり、比丘はまさにかくのごとき処に在って昼日に眠るべからず、と」。『根本説一切有部毘奈耶』二に、仏、給孤独園《ぎつこどくおん》にありし時、一長者妻を娶れば妻死し、七人まで娶った妻みな死し、妻に来る者なし。友人ために老婬女を求め妻たらしむ。この妻家事を主《つかさど》り衣食豊盈、久しからざるにその身きわめて肥え盛う。一日諸婦女来たり誘うて、逝多林に往き功徳を観るべしという。老女|荘飾《そうしよく》して諸女を尋ぬるに、みな寺門に入った跡だった。
 この寺中に一比丘あり、「戸を開いて睡《ねむ》る。衣裳|撩乱《みだ》れ、生支《いんけい》ついに起《た》つ。時に諸婬女、房を巡って観看す。すでにこのことを見て、衆みな大いに笑って出ず」。老婬女これを見て、寺中で笑う者は虫歯の報いを受くるというに、汝ら何を笑うかと問えど、答えずして去った。老女、寺に入り、一房内に一比丘あるを見るに、「戸を開いて睡り、(542)身体|露現《あらわ》る。婬情すでに起こり、ついにすなわち上において非法を作《な》す。比丘、睡著《ねむりこけ》てみずから覚知せず。時にかの女人すなわちこの念《おも》いを作す、われら婬女は六十四能を解し、この出家は六十五を解す、言語を作《な》さずして欲楽を受くるを得たり、と。暗にかの老女すでに婬情を暢《の》べ、ついにすなわち手をもってかの比丘を覚まし、報《つ》げていわく、聖者よ、われの家第《やしき》は某坊の中にあり、もし須《もち》うるところあれは、よろしくまさに就《つ》かるべし、と。比丘、報《こた》えていわく、汝は愚痴の人にして僧の住処を?《けが》し、今われ無心にしてこの悪事を受く、誰か能《よ》くさらにまた汝の家中に向かわん、と。女、聞いて黙して去る。仏いわく、もし諸比丘、寺近き村坊にて、昼日に睡る者は、まさに?《かんぬき》にて門を閉ざし、あるいは比丘をして守護せしめ、あるいは下裙《すそ》をもって急《きび》しく相|絞繋《しば》るべし、もし依らざる者、脇を床に著《つ》くる時に悪を得れば罪と作《な》す、と」。
 また、『弥沙塞五分律』二八に、「毘舎離《びしやり》に、一《ひとり》の阿羅漢比丘あり、風病を得て拳体強直す。看病人、挙げて露地に著《お》き、聚落に入って乞食《こつじき》をなす。女人あり、来たって上において婬を行なう。婬を行ない已《おわ》るも、比丘の男根、強直して故《もと》のごとし。もろもろの女人いわく、これはこれ雄士なり、と。すなわち香をもって塗り、幸鬘《けまん》を頭に結び、礼を作《な》して去る。看病人還って、不浄のその身体を?《けが》すを見て、この念いを作《な》す、この比丘、梵行を修せずして浄戒を破る、われまさにその布薩《ふさつ》を住《とど》めん、と。また念う。世尊、病める比丘の布薩を住むるを聴《ゆる》さざれば、まさにその差《い》ゆるを待つべし、かの病、差え已《おわ》れば、すなわち布薩を住めん、云々。仏いわく、この比丘、すでに阿羅漢を得、風病の強直、みずから摂する能わず、受楽せざるゆえ不犯なり、看病の比丘は、露地に置いて去り、突吉羅《ときら》を犯す、と」〔以下欠〕
 
(543)     失うた帳面を記憶力で書き復した人
 
 五年九号四二頁に宮本君が書いた、周防大島願行寺にむかし住んだ、非常に強記な僧の話は、和漢諸方に古来類話が多い。今ほぼその話を添えられた本人どもの時代の新古に順次して、左のごとく列ね挙げる。
 「蜀山人は、(中略)伝えていう、かの入|江都《えど》小田原町辺の魚肆に因みありて往きかいけるが、一日かの家に往きけるおり、店《みせ》にありける帳を把《と》って、漫《すずろ》に披閲しけれども、その身に無用の物なれば、熟視するというにはあらず、物語などする間《ま》に間に、始めより終りまでくりてみたりしが、そのままに掻いやり捨てて気にもとめず。かくて帰り来たりしが、その家祝融氏の怒りに触れて、たちまち灰燼となりぬ。よって蜀山も彼処《かしこ》へゆき、その無事に火を避けしや否をとうに、主答えて、おのおの無事なり、さわれ不慮なる急火にして、家財は大半失いぬ、そはとまれかくもあれ、
店にありつる帳を焼きつ。こは浜方より運送の多寡、かつ諸方への出入り勘定、みなことごとく帳に託す。しかればかの帳はわが家産《しんだい》なるを、遽《あわただ》しき騒ぎに紛れ、焼き失いしや弗《ふつ》にみえず。これ身においての大難なりと、眉をひそめて吐息をつけば、蜀山しばしありていうよう、そは例《いつ》もこの店先にある日用諸雑記の帳なるか、もしそれならばわれ覚えたり、いざいざ書いて得させんとて、新しき帳を開き、ことごとく写し認《とど》めて与えにければ、主の男はかつ感じかつ歓びけり、云々」(嘉永三年、中村定保輯『松亭漫筆』二)。
 「林道春、(中略)二十五歳の時、江戸に下り、日本橋辺に旅宿せられけるに、本町の呉服屋|家城《いえき》八十郎という者、道春を招き、よりより性理の旨を尋ねければ、道春常に心やすく彼が家に出入りせらる。折から夏のことなるに、道春、(544)家城が家に居ながら、しきりに眠りを催しければ、側《そば》にありたる大福帳を引きよせ、枕にして、宰予が楽しみに周公をや夢みられしと思わる。ややあって目をさまし、暮れがたき日を憾みながら、かの帳を披《ひら》き、瑞から奥まで一通り繰り返してもとのごとくに収め、暇乞して帰られける。その年の冬不慮に出火ありて、かの家城も類火にあい、難儀の中の小屋掛けへ、道春見舞に来たられ、(中略)まずはおのおの怪我もせず立ち退かるること珍重なり、して財宝は残りしか。八十郎申すよう、家財をやくこと少しも苦には存ぜねど、苦々しきことには、大切なる懸け帳を焼き失い候て、大分の金銀を捨て申したること残念に候という。道春聞いて、その帳とはいかなる物ぞ。家城答えて、(中略)当夏|私店《わたくしみせ》へ御出での時、取り敢えず枕にして昼寝をなされた大福帳のことで厶《ござ》ります、(中略)もはやかの帳を失い申す上は、病目《やみめ》に茶を塗ったごとく、座頭の杖に離れしように、便りなく覚え、これからは身代潰し申すより外なく候と、うろうろ涙の悔みを聞いて、道春手をうち、われいつぞや一睡さめての後、かの帳をくり返し、さらさらと一通り披見せしが、その帳の付け自然と心に止まり、今もって忘るることなし、(中略)まず何にもせよ書いてみん、ひらさら帳をとじよとて、しきりに催促せられければ、是非なく紙を差し出だす。道春筆を執って、何月何日何貫目、何屋誰へ、縮緬五巻、晒し五反、代|幾何《いくら》、何某誰殿へ、使い誰と、一字一点毛頭まで、うの毛ほども違いなく、両手に提《さ》げる大帳を半日ばかりに書きしまい、これでも銀《かね》にならぬかと、空嘯いておわしければ、家城大いに胆を漬し、絶入《ぜつじゆ》するほど我《が》を折りけり。まことに羅山の記臆古今に稀なり。『古文類聚』などをば、暗に覚えて語られける、云々」(元禄十五年板『元禄太平記』七巻一章)。
 このほかに水戸義公父子を離間せんと謀って、義公に手討にされた藤井紋太夫にも、同上の逸話あるを何かで読んだが、その書名を忘れた。天保八年の自序ある日尾荊山の『燕居雑話』一に、その幼時親交した老人の話に聞いたとて、むかし読書好きの法師が、酒屋で飲みがてら、側らにあった懸け帳を披閲したが、はるか後にかの酒屋類焼して懸け帳を亡失し、かの僧に語ると、僧しばし小首を傾け、やがて筆取って、おのれが見たほどの酒の貸し高を、一つ(545)も洩らさず書いて取らせた由を記しおれど、いつごろのことか、支那のことか日本のことか、明記していない。
 本邦の例で予が知ったは右の通り。さて支那の例は、『松亭漫筆』二に引きあるごとく、明の謝在杭の『五雑組』六にいわく、「人一目して数行|倶《とも》に下る者あり。真に倶に下るにあらず、ただ目|捷《はや》きのみ。遅速相去る、はなはだしきものは四、五倍を差う。ただ三のみならざるなり。一覧して遺すなきは、すなわちかつてこれあり。?《びん》の林誌、雨を避けて染坊《ぜんぼう》に寓す。その染帳《ぜんちょう》を得て漫《すずろ》にこれを閲し、匆々として去る。二日を越えてその家回禄す。帳を索むる者、紛然として計をなすを知るなし。林またこれを過《よぎ》りていわく、われ能《よ》くこれを記せん、と。筆を取って疾く録《しる》すに、一字を爽《たが》えず、云々」と。この書は万暦三十七年(わが慶長十四年)ごろ成った証がその巻四にある。林誌もたぶんそのころの人であろう。
 これより約四百年前、南宋の費袞が書いた『梁谿漫志』は、予かつて見ないが、『燕居雑話』に引かれある。いわく、「江陰の士人葛君、その名を忘る、強記人に絶す。葛、閭里間に浮沈す。家の傍らに民の染肆を張るあり。簿書その目を識す。葛かつて酒を被り、たまたまその肆に坐し、手に信《まか》せて繙閲す。一夕民家火|作《おこ》り、およそあるところの物、文書をあわせてみな燼す。物主競い来たりて、数倍の売償を求む。民もって質験するなし。憂撓出ずるところを知らず。その子諸父に謀りていわく、われ聞く、里中葛秀才、天性よく記すと、渠《かれ》、昨わが家を過《よぎ》り、かつてこの籍を閲す、あるいはよく記憶せん、なんぞ情をもって叩かざるや、と。即日父子葛に詣《いた》り、その状をいう。葛笑うていわく、汝が家染肆を張る、かつわれ何に従ってその数を知らんや、と。民拝しかつ泣く。葛また笑うていわく、汝壺酒をもって来たれ、まさによくこれを知るべし、と。民喜んで亟《すみ》やかに帰り、酒?を携えて至る。葛飲み畢り、命じて紙筆を取らしめ、ために某月某日某人、某の物若干を染むと疏すること、およそ数百条、書くところの月日姓氏、名色丈尺、毫髪の差《ちがい》なし、民持ち帰り、物主を呼び、読んでもってこれを示すに、みな頭を叩いて駭き伏す」と。この書き振りより推するに、葛君もほとんど『漫志』の筆者と時を同じうした人と思わる。
(546) それより約三百八十余年前、今年よりは千六百十余年前、唐の李肇が書いた『唐国史補』は、三十余年前見たがまるで忘れた。かつ自分の蔵中にないから、また『燕居雑話』から孫引きする。いわく、「陳諫なる者、市人にて強記なり。たちまち染人が、歳ごとに染むるところの綾帛の尋丈尺寸を籍して簿となし、合囲するに遇う。諫、泛覧してことごとくこれを記す。州県の籍帳、すべて一閲するところ、終身忘れずと」。
 もっとも古いところでは、今より約千八百年前成った、班固の『前漢書』五九の張安世の伝にある。「上、河東に行幸す。かつて書三篋を亡《うしな》う。詔して問うに能《よ》く知る者なし。ただ安世これを識り、〔以下欠〕
 
(547)     筑摩の鍋かぶり
        「膝栗毛輪講第二回」(五編追加)参照
        (『日本及日本人』七五七号一一七頁)
 
 
 このことについては二十年ほど前の『ネーチュール』へ書いたことがあるから、それに基づいて述べよう。『和漢三才図会』近江の筑摩明神の条に、「筑摩の庄は、大膳の職|御厨《みくりや》の地なり。運送のこと、『延喜式』等に載す。故に衛食津《みけつ》の神を祭るか。けだし、この神、稲食を掌るによって、里の女、嫁《よめいり》をなせば、すなわち祭祀には必ず鍋釜を戴き、これを神に奉る。もし再び嫁《よめいり》する者は二枚、三たび嫁する者は三枚、これを被《かづ》きて、祭の日に神幸《みゆき》の後《しりえ》に候す。中世、業平《なりひら》の花詞《うた》に倣《なら》って、里の婦、笑靨《えくぼ》を鬻《ひさ》ぎ、数枚を重ねて艶態《えんたい》の故《ならわし》をなす。まことに胡慮《わらう》べきかな」。『拾遺集』に、読人不知、近江なる筑摩の祭とくせなんつれなき人の鍋の数みん、業平の歌なりという。『和漢三才』の文短くて分かりにくいが、『和訓栞』には、「この神、四月朔の祭日、里の女すでに嫁する者鍋釜を戴きて神幸の後《しりえ》に候す。再嫁の者は二枚、三嫁の者は三枚もて神に奉るといえり。御厨の神なるをもてなり。むかしは土鍋を小さく造り、板に据えてかづく。今は大鍋を一つ戴き、小さきを内に入るといえり。中世より後は、里婦笑靨を鬻ぐ者、強いて鍋の数を多くして艶容とす、云々」とあるのでよく分かる。初めは既嫁婦人が夫を重ねた数の鍋釜を戴いて渡ったが、後には売女が全盛に誇るため、故《ことさ》らに鍋を戴くの多きを競うに至ったというのだ。
 茂蔦の『忘れのこり』に、吉原江戸町二丁目佐野槌屋の抱え遊女黛、美貌廓中無比で孝心深し、父母の年忌に、廓中そのほか出入りの者まで行平鍋を一つずつ施した時、誰かが詠んだ歌とて、「わがかづく多くの鍋を施して万治この(548)方にる者ぞなき」と載せおる。万治高尾以来、全盛この妓に似る者なしちう意を、鍋で煮る義に凭《もた》せたのだ。これは戯詞だが、欧州でも、該撒《カイゼル》ゴール攻めの陣へ来たった一娼は、能《よ》く少時日に単身二大隊の兵卒を慰め、平気健全で踊り興じて去ったと記され、ローマ帝国驕奢を極めた時、妓女?童、ヘルクレスやプリアプスの神像に捧ぐる花冠の数で、夜前歓楽の多少を示したと言えば、筑摩庄の売女が鍋を戴くの多きに誇ったは事実であろう。
 さて、『後魏書』に、「??国、風俗は突厥《とつけつ》とほぼ同じ。その俗、兄弟にて、一妻を共にす。夫、兄弟なければ、その妻一角の帽を戴き、もし兄弟あれば、その多少の数によって、さらに角を加う」。『唐代叢書』三集三冊に収めた『教坊記』に、「坊中の諸女、気類の相似たるをもって、約《ちぎ》りて香火《こうげ》兄弟となる。(武徳七年、突厥入寇した時、「秦王|世民《せいみん》、騎をして突利可汗《とつりかかん》に告げしめていわく、爾《なんじ》かつてわれと盟し、急難相救わんとす、爾今兵を将《ひき》いて来たる、何ぞ香火《こうげ》の情なきや、と」とあって、香火を供え神前に誓うて兄弟分となるを香火兄弟と言ったらしい。)毎《つね》に多きは十四、五人に至り、少なきも八、九輩を下らず、児郎のこれを聘する者あれば、すなわち婦人をもって称呼さる。すなわち聘するところの者、兄は見《まみ》ゆれば呼びて新婦となし、弟は見ゆれば呼びて嫂《あによめ》となす。児郎の官僚に任ずる者あれば、宮参して内人と同日に対す。内門に到らんとして、車馬の相逢えば、あるいは車の簾を?《カカ》げて、阿嫂《あそう》もしくは新婦と呼ぶ者あり。同党のいまだ達せざるものは、ことに怪異《ふしぎ》となし、呼ばれし者に問うも、笑いて答えず。児郎すでに一女を聘すれば、その香火兄弟多く相|奔《おもむ》く。いわく、突厥《とつけつ》の法を学ぶ、と。またいわく、わが兄弟の相憐変すれば、その婦を嘗《こころ》みんと欲得《ほつ》す、と。主たる者、知るもまた妬《ねた》まず。他の香火はすなわち通ぜず」。
 およそ一妻多夫の俗に、兄弟が一妻を娶るチベット流と、若干の他人どもが一婦と婚するナイル流と、二流ありと説くが、今日の通論だが、件の『教坊記』の文を稽えると、突厥人は初め兄弟一妻を娶ったが、後には真の兄弟ならぬ輩が香火兄弟の組合をなして、一妻もしくは数妻を共同融通したらしい。しかるに??すなわち欧人のいわゆる白匈奴は、風俗ほぼ突厥と同じながら、いまだ香火兄弟の域に達せず、骨肉の兄弟が一妻を娶るチベット流の一妻多夫(549)で、妻の帽にその夫と同数の角を戴いた。ポール・ダンジョア説に、今も中アジアに既婚女人が角ある帽を戴く地多きは、一妻多夫の遺風だという。ところが、『慈恩伝』に、「?摩怛羅《しまだいら》国、風俗は突厥と大同なり。しかしてもっとも異《かわ》れるは、婦人、首《かしら》に木角を冠《かぶ》る。高さ三尺余にして、前に両《ふた》つの岐あり、夫の父母を表わす。上岐は父を表わし、下岐は母を表わす。先に喪亡《なくな》るに随い一岐を除去《のぞ》く。もし舅姑ともに歿すれば、すなわち冠を挙げて全《す》べて棄つ」。して見ると、角ある帽をことごとく一妻多夫の遺風とも言い得ぬ。そもそも仏典に一妻多夫を戒めたるに反し、ヒンズー教は厳にこれを尤《とが》めず、『マハバーラタ』などにこれを弁護した処あり。近世にもマラバルのナイル婦人は、貴人尊種に会いし数多きを栄とし、北ペルシアのアトロパシア人いまだ回化せざりし時、その妻みな夫の数多きほど敬われた。それから類推すると、??等の中アジア民の妻も、帽の角をもって夫の数を標示して、その多きに誇ったのだろう。これと同様、筑摩の鍋も、婦女が夫と共棲したるを鍋で標識し、祭日にその夫ありたけの数の鍋を戴いて、その多きに誇ったのだが、俊頬のころすでにこれを醜として、なるべく鍋の数を減ぜんと企つる婦女が出るようになり、後には売女が全盛を衒うて鍋多きを競うたのだ。『近江輿地志略』に引ける「筑摩縁起」に、「四月八日、八人の乙女子(いまだ男子に通ぜざるの女《むすめ》)、おのおの鍋を戴き、神供を備えて会舞す。もし犯婬のことあれば、載するところの鍋おのずから破《わ》れ、事発覚す」とあるは、鍋を戴く形式ばかり行なわれて古意は全く忘られたんじゃ。筑摩の鍋被りについて輙《たやす》く連想し起こさるるは越中鵜坂の神事で、祠官が祝詞を宣ぶる時、一郷の婦女にその年幸せられた男子の数を言わせ、その数だけその尻を笞うったという。藤岡・平出二氏合著『日本風俗史』に、これらは淫風を防がんため神事に託して誡めしなるべしと言われたは、今の心で古えを測った謬見だ。婦女の尻を打てば性慾亢奮して受胎しやすしという説東西|倶《とも》に行なわれ、ローマのルペルクス祭の羊皮条、わが邦正月十五日の祝い棒、いずれもこの信念に基づく。鵜坂の尻打ちも人口蕃殖を祈る本意なりしを、世開けてはこれを恥じ嫌うようになったのだ。わが国の小部分に古え一妻多夫の俗あったと聞いて国辱のように思う人もあらんが、これ反ってその旧邦たる証(550)拠ゆえ、少しも恥ずるに足らぬ。すでにもって英人の祖先も十人十二人で一妻を共にし、ことに兄弟父子の聚?《しゆうゆう》多かった由、該撒《カイゼル》が目撃のまま筆しおるでないか。
 八丈島の俗、一婦多夫なりしは、早く欧州までも聞こえた。また『西域見聞録』三に、中アジアのボロール人、「その風、男女別なし。恒《つね》に弟兄四、五人にて、ともに一妻を娶り、次第《じゆんぐり》に歇宿《ねとまり》して、靴をもって戸上に懸けて記《しるし》となす」。『マルコ・ポロの書』に、カインズ国人、争うて旅客をその家に迎え妻女をして懇待せしめ、客の笠が戸に懸かりおる間は遠慮して自宅に入らずと記し、ピラール・ド・ラワルの『航海記』には、マラバルのナイル人は一妻数夫を兼ね、毎夫一昼夜を限り妻の家に宿り、そのあいだ戸口に武具を置けるを見て他の諸夫入ることなしと載せたは他所事《よそごと》でなく、徳川時代まで日本〔以下欠〕
 
(551)     夢違いの獏の札
        ――読『一代男輪講』――
 
 『輪講』三巻五二貢、末より六行、本文、「夢違いの獏の札」。『日本百科大辞典』八に、獏の条あって一通りよく説きあるも、なぜこの獣が夢を食うと信ぜらるるかに関して、なお悉《つく》さざるところあれば、差し代わって一場吹こうに、などか奇特のなかるべき。ポロボンポロボンボロボン。
 まず『嬉遊笑覧』八にいわくさ。「ある人いわく、今内裏より堂上方に賜わる舟の獏字は、後陽成院宸翰を刻させ給うとなり、云々。『一代男草子』に、夢違い獏の札とあるは、これを宝船と共に売りしなり。もと二物にてありしをやがて一つにしたるにこそ。今は宝船の絵に神前の獅子狛犬のごとき物二つ向かい合わせて描きたるは誤りにて、ただ獏一つをばかくべきなり。『本草啓蒙』に、本邦にては悪夢を食うと言い伝えて、節分の宝船の画の帆に獏字を書きたるを枕下に襯す、このこと唐山にはなきことなり、しかれども交趾焼に獏枕あり、虎頭を用いて枕とするは和漢共にあり、と言えり。この交趾焼の枕は獏にはあらず、辟邪なるべし。『三才図会』に出でたる辟邪の形と同じ。獏は象鼻、豺目、牛尾、虎足といえれば、その形異なり。『唐土(書か)五行志』三四、「韋后の妹、かつて豹頭の枕を為《つく》って、もって邪を辟《さ》く。白沢《はくたく》の枕は、もって魅を辟け、伏熊《ふくゆう》の枕は、もって男に宜しく、また妖を服す」とみゆ。白沢は獏なるべし。沢獏白同韻なり。白はこの獣の色黄白あるいは蒼白と本草諸書にみえたり。また『白氏文集』に「獏屏の賛ならびに序」あり。悪夢を食う由は言わざれども、これも邪魅を避くるの呪《まじな》いなり」。それから、加藤清正(552)朝鮮将来という獏枕、実は虎枕で、陶弘景は虎頭骨を枕とせば悪夢魘を避くと言った、と引きおる。これらの連想よりか、春英画作の『春遊七福曽我』には、毘沙門が虎に乗らずに獏に騎ったところを出した。京都では今も宝船に獏字を書き、吉田神社より出すものは光格天皇の辰翰と承る(『郷土趣味』二号一〇頁、田中来蘇氏説)。『橘窓自語』二には、節分の夜、内裏宿直の者に賜う宝船の画は、花園実久朝巨摸写、後陽成帝宸翰で、絵文字とも宸刻せり、とある。
 貝原好古いわく、除夜、「獏の形を図して枕に加え侍れば悪夢を避くるとて、今の世俗にすることなり。俗説に、獏は夢を食う獣なるゆえこれを用うる、と言えり。按ずるに、獏は『爾雅』に出でたり。鉄、銅および竹を食らう。唐の白居易が「獏屏の賛の序」にいわく、「象鼻、犀目、牛尾、虎足。その皮に寝《い》ねて湿(瘟《えやみ》を正とす。伝染熱病だ)を避け、その形を図して邪を避く。今俗これを白沢と謂う」。また、陸佃がいわく、「皮を坐毯《ざたん》、臥褥《がじょく》となせば、すなわち膜外の気を消す、と」、これらの説をもって見侍れば、邪気を避くるものなるゆえ、今宵このことをするなるべし。夢を食うということはいまだその説を見侍らず。ただし『続漢書』に、大儺《たいな》の時、伯奇という神、夢を食うということ侍り。『山海経』にも記せり。されども獏のことなし。ことに夢は睡中の思想にして、形ある物にしあらねば、これを食うといえるも、理《ことわり》なきことにぞ侍る」と。黒川道祐は、「瘟《えやみ》を避くるのことをもって、悪夢を食うとなすの説は、すなわち謬れり」と断じながら、「唐《から》に、夢を食うの説あり」と述べたは、何に拠った物か。たぶん伯奇と混じたであろう。(『日本歳時記』七。『遠碧軒記』下の二)
 形なきものを食うは洵《まこと》に難事だが、そんな想像が他に例なきにあらず。『旧約全書』何西亜《ホセア》書四の八に、「彼らはわが民の罪をくらい」とあるを、二世紀の法皇|亜歴山《アレキサンドル》が、僧が上帝に供え?りて民の罪を食い尽すを言ったもの、と釈いた。それから天主僧が人の罪を食う行事が起こったが、後には英国諸部で罪食いという乞食様の者がその役を勤め、新死の家を訪うてパンと酒と銭六文を貰い、すっかり死人の罪を負うと言った。仏経に、蚩陀羅餓鬼は人身中に入っ(553)て人の気力を食う。また、説く、「一切の衆生に四種の食あり。もって諸大を資《やしな》い、みずから住持して、諸有を成すを得《え》、相摂受するを得《う》」、一の一には麁段食で、豆穀、魚肉、蒲鉾、煎餅、あんころ餅、ビスキット、オムレツ、カトレツなど手で取り歯でかみ舌で舐り得る物、一の二には微細食で、按摩、澡浴、摺拭や身体に脂膏を塗る等、この内には形のない物もある。二には触食で、卵生のものはみな母等に暖め養わる、その体温を食物と見立てたのだ。三には思食で、魚や亀など卵を生みちらしの物は、親が触れ暖めずとも、思念するばかりで子が孵り長ずるというのだ。四には識食、これは地獄や無辺識処天の衆生はただ識るばかりで活命するというのだ。また男は女をもって食となし、女は男をもって食となす、と仏が言った。ポール・ダンジョア説に、キッスは男女相愛の極、いっそ食ってしまおうという熱情より起こったとか。漢の武帝は、能《よ》く三日食わざるも、一日婦人なき能わず、善く導養術を行なうゆえに体常に壮悦、と言ったとあり。バクトリナ州の一賢人、かつて天主教僧が女を断って?童に泥《なず》むを責め、われらは食事せずにおるも女なしにおるほどの難事と思わぬ、と言った。いわゆる飯よりもすく人はまた格別なものらしい。これらは身体組織の営養分を取る作用に限らず、汎《ひろ》く身心を享楽安処せしむる方便をも網羅して食と見立てたので、そんな見解より言わば、全く捕捉のならぬ罪も夢も食うことができるかも知れない。(一八六四年板、ホーン『年中書』四二九頁。『正法念処経』一六。『起世因本経』六。『根本説一切有部毘奈耶』三七。『漢武故事』。一八一一年パリ板、シャーダン『波斯記行』一巻二二一頁)
 貝原氏が引いた大儺の儀は、歳末、疫鬼を逐ったので、中黄門の子弟、年十から十二まで百二十人を?子となし、赤帽黒衣で大きなふり鼓を持ち、中黄門が方相氏に扮し、黄金の目四つ、熊の皮を蒙り、玄衣朱裳して犬をとり盾を揚ぐ。また毛皮をきて角を戴き十二獣に化けたもあり。式が始まると、中黄門唱え?子和して、悪鬼を食う十二神獣の名を列ね、急ぎ立ち退かねば食われてしまうぞと威《おど》し、さて方相氏と十二獣が舞い廻ったのち、炬火を持って悪神を門外へ送り出す。その時の唱え詞にいわく、甲作は※[歹+凶]を食い、?胃《ひつい》は虎を食い、雄伯は魅を食い、騰簡は不祥を、攬(554)諸は咎を、伯奇は夢を〔五字傍点〕、彊梁・祖明は共に磔死寄生を、委随は観を、錯断は巨を、窮奇・騰根は共に蠱を食う、すべて十二神をして悪凶を追わしめ、汝が?を嚇《おど》し、汝が幹節を拉《くだ》きひしぎ、汝が肉を解き、汝が肺腸を抽《ぬ》かん、汝急ぎ去らず、後るれば糧となさん、と。虎や蠱は悪性の動物で、巨は巨大な鬼、魅は人を惑わす鬼等の例からみると、ここに夢、不祥等を食うというも、夢や不祥等無実体の現象を食うというのでなくて、夢や不祥を作り出す悪鬼や悪人の魂を食うといったものと考う。礫死寄生とあるも、磔殺された罪人の魂や人に寄生する餓鬼様の物だろう。鬼や魂が食わるるということ、この他に例多し。支那の旧伝に、尺郭は朝に悪鬼三千、暮に三百を呑み、鬼をもって飯となす人だ。また度朔山上の大桃木の下に鬼門あって万鬼出入す、神荼《しんと》・鬱塁《うつるい》兄弟その門におり、鬼どもを検閲し、妄《みだ》りに人を害した児を葦索で縛り、虎に食わす、と。唐の玄宗が夢みた終南の進士鍾馗の霊は、大鬼となって帝を害せんとする小鬼の目を刳り劈《つんざ》き啖《くら》うた。(『浪邪代酔篇』二。『神異経』。『風俗通』八。『続博物志』五。『?余叢考』三五)
 ヒンズー教のシンガヴァヒニ女神は、チャンダとマンダ二鬼の血を呑み、その鬼隊の大部分を食い、巨鬼クムブハカルナ一万年の苦行を初めた時、諸神彼に呑み尽さるるを懼れた。仏教には鉄烏・鉄狗が剣林地獄、銅狗・鉄嘴虫が阿鼻地獄の罪人を食い、羅刹女が餌食として人を捉え来たらざれば衆鬼に責め食わる。古エジプト人は、死後オシリス神庁で有罪と裁判さるると、?頭河馬後で獅子の胴ある怪獣アーメメットに魂を啖《くら》い尽さると信じ、マレー半島のビヌア人は河神ハンツ・スンギエが人魂を食うといい、シベリアのヤクト人は死後その魂を悪鬼に食わるとし、ソロモン群島のある地では、凡民死せばその魂白蟻?の土となって有勢の死人の魂に食われ、有勢者の魂も忘られて弔う人なくなれば、これまた白蟻?の土となって他の魂の餌となるといい、フィージー島では、死人の魂冥庁への道中に、殺魂鬼サムヤル榛中に匿れて覘い襲うを、死人の魂が撃退すれば通り得るも、闘うて負けたら殺して煮食わるといい、また凡民の魂は食われ、貴族の魂は食われずという。サモア島人は、急死者の魂を他の死人の魂が食うと信じ、タヒチ島民は、人死してその魂身をぬけ出るを、他の死人の霊が捉えて冥界へつれゆき、その祖先や親族の霊が鋸歯立て(555)る介殻で、その魂を削りおろして神に供え、三度食われて三回神の体内を通ると、罪障全く抜けて清浄不死の純魂となり、好み次第人界に遊び霊験を現じ得と説き、マンガイア島の古伝には、醜女鬼ミルが地下に住み、好んで人魂を煮食うとある。(一九一三年板、ウィルキンス『印度《インド》鬼神誌』三一六および五〇一頁。『観仏三昧海経』五。『経律異相』四九。『元亨釈書』九、源心伝。一八九四年板、英訳マスペロ『開化の暁』一八八頁。一八九八年板、バッジ英訳『死人経』一〇二および一〇七頁。一九〇四年板、同氏『埃及《エジプト》神譜』二巻一四四頁。一八四七年シンガポール発行『印度群島および東亜雑誌』五巻二七頁、ロガン氏説。一九一四年板、チャプリカ『原住民の西伯利《シベリア》』二八〇頁。一八九一年板、コドリングトン『ゼ・メラネシアンス』二六〇−二六一頁。一八七四年板、スペンサー『記載社会学』一巻一部三八頁。一八九六年板、英訳ラッツェル『人類史』一巻三一六頁。一八七二年ライプチヒ板、ワイツおよびゲルラント『未開民人類学』六巻三〇四頁。一八二九年板、エリス『多島洲探究記』一巻五一六頁。一八七六年板、ギル『南太平洋志怪および民謡』二五六頁)[未完。〕
 
(556)     名古屋山三郎
 
 明和七年成った西村白鳥の『煙霞綺談』四に出た名護屋山三郎の伝は、鳶魚先生が引かれた神田白竜子の『雑話筆記』の説とほぼ同じきが、差《ちが》いもそこここにあるから写し出す。いわく、「世にいう名古屋山三郎は名古屋庄兵衛という者の子なり。この庄兵衛は秀吉公の家人なり。山三郎無双の美少年なるを、蒲生氏郷奥州入部の時、父庄兵衛に貰い召し連れしに、佐沼一揆のとき十三歳にて高名す。秀次の愛せられし不破万作と山三郎は天下の美色なり。氏郷没後山三郎浪人にして伏見へ登り、父庄兵衛富貴なるゆえに奉公を稼《かせ》がず、山左衛門と名を改め、衣類等に香りを好み、風流の体、人の目を驚かす。出雲国お国という妓女に馴れて、歌舞伎ということを始め、かのお通が造りし牛若十二段に人形を舞わせし操り芝居も、この山左衛門が巧み始めしなり。かかる縁あるゆえに、山左衛門|媒《なかだち》してお通も森家に寵せられ、山左衛門も三千石にて抱えられける。一歳《ひととせ》京都の普請手伝いを勤められしころ、洛中に出火あり。家老伊木宇右衛門なども折ふし松茸狩に行きしが、あわて返る道にて、山左衛門下駄をはき、美麗風流手ぬるき体にて行き逢いしかば、宇右衛門さんざんに悪口す。これを意恨の本《もと》とし、主人へ折々宇右衛門を悪しざまに讒言す。その後居城普請の節、主人の目通りにて、山左衛門、宇右衛門を切りかくる。この者元来|藤身《ふじみ》にて少しも敗れず、山左衛門返り討に逢いて犬死す。その時高木右馬之助という者切って懸かりけれども、これにもひるまず、主人|長刀《なぎなた》を取って向かわれしかども、これにも構わず、思うままに傍輩を切り散らして、終《つい》に鎗ずくめになって死す」と。
 これには氏郷奥州入部の時、山三郎始めて仕え、佐沼一揆の節十三歳で高名したとあるに、『雑話筆記』には、そ(557)の前に小田原陣に氏郷出立の砌《みぎ》り、山三郎十四歳で小姓に召し抱えられたとあるは、いずれが事実か分からぬ。さて『陰徳太平記』七四には、一層早く、太閤九州陣に氏郷が豊前の巌石城を攻めた時、先を争い郭一つを乗っ取った勇士の内に、那古屋山三郎を列ねあるからいよいよ判らない。
 『常山紀談』に、浅香庄次郎は奥州|葛西大崎《かさいおおさき》の木村(秀俊)に仕え、そのころ関白秀次の不破万作、蒲生氏郷の名越山三郎と共に天下に聞こえたる美少年なり。『明良洪範』二に、庄次郎十六歳で木村より五千石賜わった、とある。それと等しい逸品で山三郎はあったのだ。『野史』六七に、天文二十三年、尾張の守護斯波義統、その家宰織田信友に弑せられた。事の起りは、義統、名古屋弥五郎高正なる美童を寵し、多く食邑を与えおったところ、梁田弥二右衛門これと密通した。信友も高正の美姿に惚れてしばしば艶書を寄せたが、肱鉄のみしきりに到ったので大いに業腹をにやし、弥二と私通の件を発《あば》かんとした。二人怖れて信友は君に異図を抱くと讒し、義統これを信じて、信友の一族ながらその敵たる信長と通謀して信友を除かんとしたから、信友急に義統を襲い、義統自殺した、とある。惟うに、この弥五郎高正は山三郎の一族で、赤松の家から義持将軍に愛された弥五郎持貞と、義教将軍に幸された伊豆守貞村を出したごとく、名古屋の家から天文・天正の間に、弥五郎、山三郎と二人すてきな美少年を出したのだ(『武功雑記』)。「織田系図」に、信長の叔父信次の孫女養雲院は、那古屋因幡守敦順に嫁し五子を生む。一は女で金森可重の室、次は男で那古野内膳と號す。三は女で森蘭丸の弟忠政の室、四も女で小沢某の妻、五は男で那古野山三郎、のち左衛門と号す、嫡子蔵人、その子は隼人佐、と見ゆ。しからば山三郎が森家に仕えたはお通の手引きによるにあらず、自分の姉聟に仕えたまでだ。鳶魚先生が引いた文に、「山三郎が姉、これまた無双の美女にして森忠政の妾なり。その子内記、忠続を生む。その縁に依って山三郎も後は作州津山に住し、三左衛門と号し、家老職となり」とあるは事実で、その姉は初めは妾だったが後に妻室となったものか。何にしろ姉が無双の美女で弟は天下に著われた美少年とは、重ね重ね好もしい。むかし秦主苻堅は燕を滅ぼし、十四歳で殊色ある清河公主を納れて、寵後宮に冠たり。また、その(558)弟慕容沖が年十二で竜陽の姿あるを幸し、姉弟寵をもっぱらにし宮人進むなし。長安の人民これを歌うて、一雌また一雄、双び飛んで紫宮に入る、と曰《い》った。察するに、忠政も山三郎とその姉を前後兼備の名将ときたものだろう。鳶魚先生が引いた『雑話筆記』に、天正十八年山三郎十四歳で氏郷の小姓たり、氏郷逝去ののち遺物金銀沢山に持って上洛、時に十九歳で容色はなはだ美麗、とある由。森忠政は寛永十一年六十五で死んだから、元亀元年生れで山三郎より一歳年長だ。してみると山三郎の姉は忠政と同齢か、または年上だったを、秀次関白がおのれより年上の菊亭氏を寵したごとく娶ったものか。
 足利義政将軍の世にできた『若気《にやけ》勧進帳』に、若道に用ゆる児の年齢は上七歳より下二十五に到る、これまず諸家の通用の道、とあり。馬琴の『美少年録』第二回に、近世戦国となりしより、大将も士卒も戦場をもて家とすなれば、男色を愛《め》でて妻妾に易えて陣中の徒然《つれづれ》を慰めらる。このゆえに美童竜陽の者、歯を染め紅粉《おしろい》を施して女子に彷彿たるも多かり。ここをもて、その年二十四、五までも額髪《ひたいがみ》を剃らずして、なお少年の面色《おももち》すなる、なべて今の世の風俗なれば、怪しむ者もあらずかし、と言った。『藩翰譜』一一に、北条綱成いまだ童なりし時、容顔ことに麗《うるわ》しく、また、さる者の子なりければ、氏康の寵愛浅からず、二十二歳の時、髻《もとどり》取り揚げさせ、名氏賜わって北条左衛門大夫と召さる、とあり。注に、家の系図に、綱成、氏康の舎弟の由みゆ、覚束なし、と書いたが、覚束は大ありで、氏康、綱成のただ夢のまの姿の花の散るを惜しんで、一日延ばしに二十二歳まで元服せしめず、色濃き兄弟分の契りをしたので、氏康また綱成より一歳の年長だった。降って徳川幕政の中葉までも諸侯などにそんな嗜好が行なわれたは、享保中の作『雲州松江の鱸』に、池上文蔵、器量世に勝れたれば、十五歳で若殿の御小姓相勤めるうち、十七歳で中林幸介の娘お清二十二歳と艶書を取り替わしたが事に及ばず。文蔵十八の春、若殿の御供して江戸へ往き、二十八歳で帰国して一旦消えた燃杭に火を点じ、すでに人妻となって三子を生んだる三十三歳のお清と通じて、倶《とも》にその夫に討たれた。文蔵帰国の時の叙述に、近年ようやくと元服仰せ付けられ中小姓を勤めた、とあれば、これもなかなかの美少(559)年で、若殿に二十四、五歳までも元服を聴《ゆろ》されなんだのだ。
 古くは藤原兼実公の『玉葉』三八に、「寿永二年八月二日。伝え聞く、摂政(基通公)、二カ条の由緒あり、動揺すべからず、云々。一は、去月二十日ごろ、前内府(平宗盛)および重衡等、密《ひそ》かに議していわく、法皇を具し奉りて海西に赴くべし、もしくはまた、法皇の宮に参り住すべし、云々。かくのごとくの評定を聞き、女房(故邦綱卿の愛物、白川殿の女房、冷泉局)をもって、密《ひそ》かに法皇に告ぐ。この功に報いらるべし、云々。一は、法皇、摂政に艶し、その愛念によって、抽賞すべし、云々。秘事たりといえども、希異の珍事、子孫に知らしむるために記し置くべきなり」。十八日の条に、「また聞く、摂政、法皇に鐘愛せらるること、昨今のことにあらず。御逃去の以前、五、六日を先んじて密かに参り、女房の冷泉局をもって媒《なかだち》となし、云々。去る七月御八講のころより、御艶気あり、七月二十日ごろ、御本意を遂げらる。去る十四日参入の次《ついで》、また艶言、御戯れ等あり、云々。事体、御意浅からず、云々。君臣合体の儀、これをもって至極となすべきか。古来かくのごときの蹤跡《しようせき》なし。末代のこと、みなもって珍事なり、勝事なり。密告に報いらるるの思い、その実、ただ愛念より起こる。(下略)」
 艶また艶気はニャケとよむか。『嬉遊笑覧』九に、『古事談』などにも、長季は宇治殿|若気《にやけ》なり、云々、宇治殿は頼通なり。今按ずるに、男のなまめける者をニャケたりというは、すなわちこの若気なり。若道、衆道などいえるは、若衆の二字を分かち呼ぶなり、云々。『昨日は今日の物語』に、云々、おにやけということ余多《あまた》ある、みな尻をいえり、名の移りたるいとおかし、と出ず。艶言は痴話だろう。
 この基通公は近衛家の始祖で、近衛中将より参議、納言を歴《へ》ず、急《にわ》かに台輔に升りしは古例なしという(『大日本史』一五九)。それは後白河法皇が素《もと》よりその艶容に著《じやく》したまいしにより、終《つい》に官女冷泉局の媒介で、文字通りに君臣合体を遂げさせられたのだ。時に法皇五十八、基通公は二十四歳だった。同じ年の十一月十七日、「義仲、院の御所を襲うべきの由、院中に風聞す、云々。摂政、召しによって参入、今夜宿候せらるべし、云々。これ御愛物のためによっ(560)て、ことに召しに応ぜるなり。他に公卿、近習、両三輩のほか、参入の人なし、云々。弾指すべし、云々。長方卿(清盛、都を福原に移した時、その不便を直言した人)一人参入し、悲泣して退出す、云々。十九日、義仲、法皇の宮を襲う。(中略)摂政、いまだ合戦せざるの前に、宇治の方へ逃れられ了《おわ》んぬ、云々」。かかる  愈劇中にも召し愛せられしに、その方の戦いには忠を尽したが、正真の戦いとなると尻をほっ立て逃げたのだ。「けつの恩|命《いのち》なげ出す関ヶ原」と石田三成を讃めた川柳があるが、基通公も二十四歳のひね物を厭わず拮据勤勉し、西海へ具し奉るべき密議を告げ参らせたり、乱兵来たり通る騒動中にも特に入って宿直したなどは、この縁あって甫《はじ》めてこの誠が出ると感心の至りだ。この君臣合体の御媒だった冷泉局は、坊門納言妻で、後鳥羽院の御思い人大宮局を生んだ(『紀伊続風土記』付録二)。
 
(561)     お万の方
 
 四年九号二七頁、赤堀君の説に、「お万の方の父は安房の里見氏の世臣、主家が豊臣氏に滅ぼされたことにつき深く恨みを抱き、畢生の努力もついにその意を果たさずして終わる。お万の方は父の遺志を受けて、日蓮上人に深く訴願し、その望みを遂げられたことが数々ある。その中でも重きは、第一、豊臣氏を滅ぼしたこと。第二、頼宣公を生んだこと。第三、頼房公を生んだこと。二公共に日蓮上人の申し子である。故に奉賽のためにその宗の寺々を興隆し、身延の七面山へも女の身にて参詣せられた」とある。
 里見氏が豊臣氏に滅ぼされたちうこと史書にみえず。初め里見実堯、足利義明の味方して小田原の北条氏綱と三浦に戦うてこれに克ち、その子義堯、義明と共に鵠台の大戦に氏綱に破られ、義明討死してより、代々北条氏と敵たり。義堯の玄孫義康、天正十四年父に嗣いで立ち、十八年秀吉小田原征伐の時、款を秀吉に送りしが、北条氏滅びて、秀吉義康が早くその陣に馳せ参ぜざるを怒り、両総の地を没収して本領安房九万三千石のみを賜い、その後豊臣姓を賜い、四位侍従になされた(文禄三年またはその前に)。慶長五年の役に、結城秀康と宇都宮に駐まり、上杉に備えた勧賞として、家康より常陸鹿島郡三万石を加賜され、同八年卒す。その子忠義、封を継ぎ侍従に任ぜらる。慶長十九年、私に城を修め客を募り、その舅の父大久保忠隣へ兵器を送り謀反に加担したという咎で国除せられ、伯耆に流されて元和八年かの地に死んだ。以上は、『藩翰譜』一二上、『野史』一一九、『前田亭御成記』、『里見軍記』を参取したものだ。これをみて、里見氏は決して豊臣氏に滅ぼされたでなく、全く徳川氏に亡ぼされたと知る。
(562) 里見氏の旧臣が書いた『里見軍記』に、秀吉、北条征伐の時、「里見義康、旗下《はたもと》なれば小田原へ発向せらる。高名手柄ありしゆえ、その時の御褒美に上総国を給わりける。その替地に三浦四十余郷を上げられ、これによってまた(安房、上総)両国の大将となりたまう。その後、慶長五庚子九月、徳川家康公濃州関ヶ原において凶賊を亡ぼしたまい、同八年癸卯の春江戸より国替致すとて上総を取り上げ、鹿島にてわずか三万石出でたり。これよりも里見家日夜に困窮|勝《まさ》りける。関ヶ原の合戦にも御発向なされなば、かくのごとくにあるべからずと、近習外様の諸侍、歯がみをなせども甲斐ぞなき。これはまさしく家康憎み給う。その子細は、小田原合戦の時は、大坂大閤より下し置かれし知行処なれば、憎しと思えど取り上げ難し、今は征夷将軍の位に上りたまうゆえ、関ヶ原の合戦には病気ゆえに不参の由、たびたび願いたまえども、憎みの故に聞き分けず、終《つい》に上総を取り上げたまう、無念千万のことなりと、君(義康)を始め一家中胸を痛めぬ者ぞなき。君はこのこと御心に鬱《ふさが》りしか、御病気さまざま変化して、今は医も及ばれず、御年三十一歳にて、慶長八癸卯十一月十六日薨じたまうぞ無常なる」とあり。里見氏至って秀吉にもてたが、家康に憎まれたようだ。それから義康の子忠義封を褫《うば》われ、諸臣離散し流牢した惨状を述べある。『里見代々記』、『里見九代記』もほぼ同文だ。
 予は小田原戦役について何一つ知らねど、徳富氏の「豊臣氏時代」丙篇に、里見義康遅参のこと見えず。兵船三十隻を率い、早川口の海上に碇泊して上方勢に来たり投じたと出で、小田原包囲二十余日に及べど城兵屈せざるゆえ、これを孤立せしめんため、秀吉と家康その部将を分遣して両総の数十城を徇《したが》え下し、北条滅後、家康全く武相豆両総五州を受領したのだから、その時里見を安房・上総両国の大将としたはずなし。これは里見の遺臣等、旧主の家が忠義の代に、徳川に滅ぼされた遺恨のあまり、秀吉の処置のやや寛大なりしを誇大に吹き立てた言だろう。実際は小田原征伐の時、里見氏大分衰えて上総の諸城これに服従せず、あるいは北条に与《くみ》し、あるいは両端を持する者多かったゆえ、上総を召し上げて安房のみくれたのだろう。
(563) お万の方の実父は、里見家最後の主人忠義の曽祖父義弘の三男、左近大夫邦時、正木氏を継ぎ、剃髪して環斎と称した(『野史』八一、一一九)。(『武徳編年集成』五〇に、名を康永とし、七五には頼忠、『武野燭談』七には、康善また康長に作る。)『武徳編年集成』四九に、この人房州(上総の誤り)勝浦の旧主、と載す。『野史』一一九に、里見家の国老上総大多喜の城主正木大膳亮時網、実は相模の三浦道寸の子とも孫ともいう。年代から推すと孫とするが正しいようだ。有名な大力の人で、鵠台の戦に手ずから二十一人を斬獲したという。その孫憲時、天正六年主の里見義頼に反き部下に殺された。その跡を義頼の二男が継ぎ、正木大膳亮時堯とてこれまた無双の勇士だった。『里見軍記』等でみると、主家滅亡の際ずいぶん食いとめに粉骨したらしい。鳥取に預けられた時、藩主池田光政に好遇されたは、武勇のみならず、その誠忠|洵《まこと》に人を感動せしめたからと見ゆ。お万の方の父が主家の恢復に畢生の努力とは、この時堯を誤伝しただろう。
 さて時堯の祖父時綱の弟、左近大夫時忠は、鵠台に戦歿し、その子左近大夫正康(また正春)も剛勇父に減ぜず。主人里見義頼と快からず、勝浦城に拠って佐竹氏に通じた。のちしばしば里見氏と戦うたところ、小田原役の時徳川勢に攻められ、城を明けて落ち去った由(藤沢氏『日本伝説叢書』安房の巻、参取)。察するに、さしも武勇の時忠が忠死したに引きかえ、その子正康は義頼に反いたので、義頼、名門の絶ゆるを惜しみ弟邦時をして時忠を相続せしめ、正木左近大夫と名乗らしめたであろう。しかるに、正康は勝浦城に拠って里見氏に対捍《たいかん》し、終《つい》に徳川氏に明け渡して逐電したから、邦時が勝浦城主とは名のみで、いつも安房に留まったのだ。慶長十五年、邦時の甥義康の世に書いた「里見家分限帳」に正木氏の本家大膳亮(時堯)高八千石、御一門正木環斎高千石、とある。勝浦城は天正十八年(二十年前)すでに徳川氏に渡って植村泰忠に与えられ(『集成』四〇)、里見氏の領地も狭くなったから、わずかに千石で安んじおったのだ。
 このような次第ゆえ、お万の方の実父正木左近大夫邦時入道環斎(家伝には観斎)が、主家が滅ぼされたことにつき(564)深く豊臣氏を恨み、畢生の努力を果たさずして終わり、お万の方その遺志を継ぎ成したなどは、あり得ぺからざることだ。慶長十九年九月九日里見忠義重陽の賀に江戸城に登るところ、たちまち秀忠将軍より、大久保忠隣へ米豆を送った等の罪で、領地没収、その身は一僕を携え大久保忠任の宅に蟄居を命ぜられ、常陸鹿島郡三万石の替地として伯耆倉吉の地を賜わることとなりしが、元和二年倉吉の地も没収、わずかに伯耆田中で生涯百人扶持を宛て行なわれ、同八年二十九歳で死んだ。全く本多正信父子が大久保氏を傾くべき計より出たという(『藩翰譜』一二上。『集成』六五、七五。『古老茶話』上参照)。それに引きかえ慶長七年三月七日、環斎の娘で足利持氏の第九男広氏の後胤、蔭山長門守氏広の養女だったお万が、伏見で頼宣を生み、同八年八月十日頼房を生んだので、家康お万の方の饅頭の蒸し加減を感賞斜めならず。同十六年四月二日、秀頼大坂城で義直と頼宣を饗せし時、随行した三浦長門守邦時(為春の誤り)に長光の刀を賜わり、元和元年正月二十七日蔭山新十郎因幡守に任ずる等、その門戸|猝《にわ》かに光彩を生じ、環斎老も、旧主里見が領地を没収された年の十二月十九日、遠江参議中将頼宣卿の外祖父、浪客正木左近頼忠入道環斎落馬のこと上聴に及ぶ、すなわち片山与庵法印に命じ摩沙円を賜うなど、種々と優遇されたが、翌《あ》くる元和元年八月十九日卒去した。(『集成』四九、五〇、五九、七五、七七。『野史』六五。『紀伊続風土記』一五)
 けだしお万の方初め北条左衛門に許嫁されありしを、養父氏広奇貨置くべしとなして家康に事《つか》えしめ、家康その饅頭に箸を下ろして頼宣、頼房を生ましめた。北条左衝門とは、小田原の氏康の第五男氏忠、第六男氏光、共に左衛門佐といったとあるが、氏忠は佐野宗綱の女に入聟たり、佐野足柄の城主たりといえば、お万の方が許嫁されあったは、小机の城主氏光で、小田原落城の時、氏直に従って高野山に入った(藤沢氏『日本伝説叢書』伊豆の巻、三三五頁。「小田原北条系図」。『野史』一二六)。何歳でいつどこで死んだと知れないが、死ぬまでお万の饅頭を想うたでしょう。その怨念で、老父環斎は不慮に落馬し、その小田原提燈を被って死んだのであろう。お万は承応二年七十七歳で卒したといえば(『野史』八一)、天正五年生れで、氏先高野入りの時十四歳。いつ初めて家康に幸せられたか判らねど、二十六歳(565)で頼宣を生んだ。当年六十一、席《むしろ》破りの家康、関ヶ原大捷後初めて挙げた男児ゆえ大恐悦のところ、「房州は争《いか》で相模に劣るべき」。産後ほどなくまた饅頭を押し付け、中一年おきに頼房を生んだので、家康この女真にわれに情を移すかなと、無上にお万を寵愛したとみえる。元来家康もってのほかの好色家で、かつて金谷の鎔工の妻に横恋慕してその夫を冤殺した代官を誅し、その妻を浴室に使うて忠輝松千代を?胎《れんたい》せしめ、また竹腰正時の寡婦に義直を孕ませ、また神尾久宗の後家を陣中につれあるき、のち一位局に昇るまで顕達せしめ、大坂落城の節も特に懇《ねんご》ろにした二位局渡辺氏を救い出さしめた(『野史』八一。『集成』八五)。家康淋病を煩うたことも散見し、松前氏に健陽薬海狗腎を献ぜしめたこともある(『集成』五三、五八。白井博士『増訂日本博物学年表』三八頁)。
 これに相応してお万の方が饅頭を温めに温泉行きの記事もある。物徂徠いわく、「東照宮の御妾七人衆とてあり。駿府より毎年御鷹野に東金へ御成りの時七人衆御供なり。女一人も連れられず、馬にて御供なるゆえ、江戸にしばらく御滞留のうちは、某が曽祖母の許へ女を借りに来たり、貸して遣わし、曽祖母も折々七人衆の御部屋へ行き、留まりなどして、東照宮をも見奉ると、父また祖母の物語にて承る。この七人衆と申すは、三家の御方にはいずれも御実母様にて、重き御事なりしかども、その御代はかくのごとくにてありしことなり」と。これむかしの風俗の質素なりしを讃美して、教えのために発した辞で、これを読んで猝《にわ》かに当時の貴女はことごとく騎馬を善《よ》くしたと謂わば事実と違わん。支那の則天武后は〔未完〕
 
(566)     紙子について
 
 宝暦四年平瀬徹斎著『日本山海名物図絵』は、本誌五巻二号六八頁に、木村君が引かれた『和漢三才図会』より四十一年後にできた。その巻四に紙子製造の図あり。詞書に、「奥州仙台紙子。地紙強く、よくもみ抜きてこしらゆるゆえ、柔らかにてつやよし。奥州は木綿少なきゆえ、中人以下は多く紙子をきるなり。夜具も大方は紙子にてこしらゆるなり。そのほか諸国紙子の名物、肥後八代紙子、播磨紙子、紀州花井紙子、美濃十文字、大坂松下一閑紙子」と見ゆ。『和三』に白石と書いた代りに仙台と記し、駿州安倍川を挙げずに、肥後八代と播磨と美濃十文字を列したのだ。『雍州府志』等より木村君が引かれた京都は、『和三』にも『山海名物図絵』にも出でおらぬ。木村君は花井および大阪についてはまだ考えてみないそうだが、『紀伊続風土記』九七に、花井(ケイ)紙、花井紙子、右二種奧熊野花井荘花井村の条に詳らかなりと言いながら、巻八四、花井荘と花井村の条に、さらにこれに説き及ぼさず。紀州詞でそんなことはケイ(気)にもないだ。現時三重県に属し、南牟婁郡にある地だ。
 二十三年前、大和の玉置山へ詣ずるとて熊野川を溯った時、ちょうどこの花井荘の地で、二つの川が会うデアイとなん呼ぶ所で船を俟った。とみると田辺町のあるお茶屋の娘、芳紀十九歳なるが、いつの間にかこの辺の男にそうて、ようやく生んだばかりの子を負い、淋しい初冬の石河原を歩み来たった。ともに天涯淪落の、あい合うたりし身の上とわびあえるに、荷持ち男、はや船に乗れ、日も暮れなんというから別れたものの、その女の影消ゆるまで頸を伸ばして見送ったので、所の人に花井紙子の成行きを尋ぬるをすっかり忘れた。今この文を草するにも、その女の顔がこ(567)の紙面に映るようで、どうも痴呆症になりそうだ。今日生きておれば四十一歳で、老木の桜に相違はないが、近ごろ出た内田邦彦君の『津軽口碑集』八七頁に、四十仕盛りという成語が出でおるからいよいよもって(以下略)。
 大阪のことに至っては、『近代世事談』一に、「大坂一閑という者、一閑紙子を製す。至って強く、手綱にするに切れず。また米を煮、豆を煎る、焙烙の代りをすと言えり」とある。熊楠いわく、この書より一年前(享保十七)に成った『万金産業袋』六に、蒟蒻《こんにやく》玉の名誉奇妙に紙を固くなす物なり。近年仕出しの浅黄地、鼠地、茶類、白等の洗濯請け合い紙子というは、この蒟蒻玉の糊なり。紙は生漉《きすき》の奉書あるいは仙過《せんか》の極上《ごくじよう》等、いろいろに染めて、墨形の小紋などして、留めに右の玉をよく煮て皮をさり、水気をいれず摺鉢にてすり、固く糊になして、右の紙衣へ裏表なく引きて日にほす。成るほど日に強く干して剛《こわ》ばりたるを、地を沾《ぬ》らし、一夜|湿《しめ》らせ置きて、よく湿りたる時、矢竹のごとくなるに巻き付け?《ちぢみ》を寄する。縦横《たてよこ》十文字によくしめよせ揉みて柔らげ、また締《しめし》をかけ、幅をのし畳み付けて碪《きぬた》にてうつ。いかにも水に入れて少しも損ぜず、性《しよう》固し。また、ただの国栖《くず》紙、美濃の大直しなどに、右のごとく蒟蒻玉の糊を両面より引きて日にほし、これを四角《よすみ》を取りて箱形にして、早業《はやわざ》の料理鍋とす。豆腐のくず煮、玉子のふわふわ等は、いかにも安くできることなり。五徳に掛け炭火を強くしてにるに、少しも紙にこげ色付かず、銘々鍋に拵え、貝焼の代りなどに用ゆるに、しごく興ある物なり。またつめ茶の袋のごとく細長に、右蒟蒻玉の糊にて拵え、湯に入れ酒の燗をするに、早ちろりともいうべきほどに早く燗のできることなり、とのべ、なおこの蒟蒻紙で泉水、堤等の底をはり、水を畏くもたす等の功能を称揚しある。これすなわち一閑創製の紙らしい。
 『守貞漫稿』一六に、件の『世事談』の文を引いて、一閑紙子の外に、この類(米をいり豆をいる焙烙の代用品)も製せしなるべし。大坂何町の人か「いまだこれを詳らかにせず」。今も三都ともに、机、煙草盆、上下狭、上下筥の類、中に薄板をいれ、紙ばりにして黒漆かき合わせぬりにしたるを、一閑張りといい、三都とも諸所に有之《これある》か。大坂には、年来、下寺町にこれを製して売る店あり、当地外に「これを見ず」と記す。『日本百科大辞典』一に、寛永ごろ帰化の(568)明人飛来一閑が、一閑張りを創製したとあるは、一閑紙子の発明人と同異を知らぬ。
 木村君は落ちぶれた大尽の紙子姿を列ぬるに、椀久を脱した。『椀久一世の物語』(貞享二年板)下六に、「世の取沙汰を大和屋が狂言に作りて、甚兵衛が身振そのまま椀久を生き写し、これをみし人、恋を知るも知らぬも泪《なみだ》を求めける。ある時甚兵衛椀久を招きて、何か望み物ありやと尋ねければ、紙子|紅裏《もみうら》付けて物まねをすることならば、その外に願いはなしという。それこそ易けれと、にわかに拵えさせて待ちけるに、その後は面影もみえずなりにき」。終《つい》に紅裏の紙子を貰わずに、立縞の布子きて水死した由書きある。さて木村君は、紙子姿は遊冶郎のみにみるべき風彩であろうかと言われたが、『日本百科大辞典』二に、紙衣・紙子、カミコ、「カミコロモの略と言う。古昔は貴賤を問わず、一般にこれを著用せしこと、『源平盛衰記』、『曽我物語』等の書に出でたり。また『老人雑話』に、長尾謙信が、信玄を亡ぼさん談合せんとて、紙子一つ小脇差一腰にて、山越に越前の朝倉が許へゆくことありしとぞと言い、また『一話一言』に、渡辺幸庵が対話をのせて、天正十八年、小田原へ秀吉出陣の時、駿河宇津山にて馬の沓のきれたるをみて、土民石垣忠左衛門という者、沓を献じたるに、秀吉手ずから紙子の羽織を賜いしことを記せり。徳川時代に至りては、天和・貞享のころ大いに流行し、野郎も遊女も著したり、と『滑稽雑談』にみえたり。されば夕霧伊左衝門の浄瑠璃にあるごとく、貧窮の者のみ着用せしにはあらざるなり」と見ゆ。
 戦国の時、紙子羽織を著て戦った例を二、三知りおったが、昨今耄碌して記臆しない。ただ一つ確かに知るは、天正十四年、秀吉、妹を家康に妻《めあわ》せ、和親して家康入洛、十一月四日、秀吉、家康に茶を饗してのち、諸侯ども多く見る前で、かねての密嘱により、家康、秀吉にその紙子羽織を望み、家康かくてあらば尊公に甲冑を著せまじと言ったので、秀吉欣然これを授けたというのだ。白紙子、襟祖先赤き地に桐唐草、萌黄自浅黄いろいろの縫紅梅裏の羽織、とある(『武徳編年集成』三二)。『一語一言』三一に、『諸家深秘録』から、「真田伊豆守信之、常々紙子をふみ給いて着用なされたるとなり。いかが思われけん、ある時家中の士卒どもに、向後紙子着用仕るまじき旨、堅く制せられける。(569)しかるに、児玉三助と申せし軽き侍ありしが、この者紙子を手細工に仕立てて、正月元日に著し登城し、各列座し並み居けるなり。三助分限の侍には通りがけの目見え、大勢の内に罷りあり候に、豆州見付けられ、法度に申し付くる紙子をば、三助何とて著し申すやと怒り、立ち留まり給いて、荒らかに御咎め姑《しばら》くありて、汝は常に軽口者と聞き及べり、早々何にても申すべしと有之《これある》時、三助□□□、古へのよろいに勝る紙子かな、風の弓矢は通らざりけり、御詞の下より申しければ、伊豆守殿も興じ笑い給いしとなり」と引きある。(『甲子夜話』二三には、これを『市井雑談集』を引きて高野山熊谷寺所蔵直実の詠歌としあり。「古への鎧にまさる紙ころも、風の射る矢もとほらさりけり」と作る。)
 日露役にも紙子が多く利用されたと聞いた通り、戦国の武士は紙子をもっぱら防寒に用いたのだ。『守貞浸稿』また「紙衣、昔はこれを著するか。今はこれを著する者さらに無之《これなし》。たまたま京坂にて、文政中、処女の無袖羽折に錦絵を皺して縮緬のごとくし、縮緬紙と号《なづ》けて、絹縮緬と交え継いで著せり。稚女のみなり。その他に紙を著すは乞食非人等、稀《まれ》に芝居をまねるに、紙の上下《かみしも》また紙の大紋等を著するあるのみ」と記す。明治十八、九年までは、上方また東京で、時おり侠客体の者や理髪師が、書画をかいた紙衣を著たのを見受けたと覚える。それから十四年も海外にあったうちに、そんな者は跡を滅したものか。
 木村君は別段実証を挙げずに、すでに紙子は室町中期から行なわれていたことと考えられる、それは製紙の業が盛行されるようになって、その応用の範囲も拡大されたのであろう、と言われた。けれども不思議なことには、その前後にできた『尺素』、『庭訓』諸往来や、『下学集』、『?嚢鈔』等の名彙類に、紙衣の紙子のという字をさらに見受けず。ようやく享禄三年の著『撮壌集』中の家具部に紙帳を載せ、確かにいつできたか知れない『滑稽詩文』に、あるいは客僧と同宿して紙被を重ぬとあるので、紙帳や紙ぶすまを拵えるくらいなら、紙衣もたぶん作っただろうと察するのみだったところ、上に引いた『日本百科大辞典』二をみて、初めて『源平盛衰記』などにも紙衣を記しありと知り及(570)んだ。ただし、今に『盛衰記』のどの辺に出であるかを巨細に知らぬ。(と書いて、さて茫漠たる古い記憶をたどり、藤原明衡の『新猿楽記』を見ると、その最末に、九郎小童が舞を巧みにして衆人に愛敬さるることを述べて、「なかんずく睿岳《えいがく》の諸僧、辺山の住侶、これを見、これを問い、あるいは目を迷わして著裳を飛ばし、あるいは肝を砕きて紙衣を振るう。すべて洛陽の貴賤、田舎の道俗、これを寵せざるなし」とあるを見出だしたから、紙衣は『盛衰記』に記した史実よりも早く、後冷泉帝のころすでに本邦僧俗が着したと知った。また、紙衾は、『古今著聞集』一九の終り、恵心僧都妹安養尼、盗にあい、紙衾ばかり着ておりしことあり。)
 惟うに、紙子の創製はやはり支那が本邦より早かったろう。謝承の『後漢書』に、羊続、南陽太守たり、清をもって下を率ゆ。ただ一副の布に臥し、綯敗るれば紙を糊してこれを補う。敷き布の敗れめを紙を張り付けて塞いだのだ。『唐書』に、淮西の李忠臣、入朝して潼関に次し、周智光反すと聞き、兵を率いてこれを討ち敗れ、華に入って大いに掠む。赤水より潼関に至り、畜産財物みな尽く。官吏紙を衣としみずから蔽い、累日食わざる者あるに至る(『淵鑑類函』三七三)。こんな間に合わせ法から、追い追い紙被も紙衣も調うに及んだとみえる。支那に満足な紙衣が古来あった証拠は、『広東新語』一五に、長楽に穀紙の厚きものあり、八重を一となし、衣服を作るべし。これを浣うて再びするに至るも壊《やぶ》れず、はなはだ煖かく、能く露水を辟《さ》く。穀紙、昔より重んぜらる。唐の蕭倣が嶺南節度使たりし時、諸子に勅し、穀紙をもって残書を繕い補わしむ。子廩諫めていわく、この州は京師を万里も距ておる、さればこの書どもをむきだして持ち運びはならぬ、必ず嚢や行李に入れて往かねばならぬ、すると馬援が?苡《よくい》を持ち上って疑われた同様の目にあうはずと。倣いわく、善し、そこまで気が付かなんだと。そのころすでにこの紙子用の穀紙があったのだ、と。まだ言うべきことがあれど、先刻述べた四十仕盛りの女の顔が、眼前にちらついてどうもならぬから、これでこの稿を打ち切る。(三月八日午後四時)
 
(572)     無帽塔と浮島
                         
          K.Minakata“Brereton,Cheshire:St-Maurice,Burgundy”参照
          (一九二四年四月『ノーツ・エンド・キーリス』一四六巻三一一頁)
 
 一九二三年十二月『ノーツ・エンド・キーリス』一三輯一巻四二八頁に、ウェーンライト氏問い、四九一頁にピエールポアソ氏が答えたものをよむと、英国七不思議の一にこんなことがある。チェッシャー州プレヤートン家の主人が死ぬ前に、近処の湖に数本の木幹が浮き游《およ》いでこれを知らす。一六二一年初出、バートンの『解憂編』には、これをフィンランドのルペス・ノヴァ近傍の湖に現われて、城代の死を予告する幽霊に比べおる、と。予未見のカムデンの『ブリタンニア』(一五八六年初出)には、バーガンジーのモーリス尊者寺の側に池あって、寺内の法師と同数の魚を飼う、一法師病めば一魚また病んで池に浮かび、いよいよ死ぬに極まれば、数日前にその病魚死ぬと出ず、とある由。
 日本でこれに似たのは、『雲根志』前編一に、信州高井郡渋湯村横井温泉寺の前に、幅三町ばかりの星河という大河あり。温泉寺の住僧死する前年、この川中へ何方《いずかた》よりともなく、高さ二尺ばかり、方形自然石の美しき石塔一つ流れ来る。実に彫刻したようで天然物だ。土民これを見付けて寺へ報ずると、必ず翌年住僧死し、その墓にこの石を立て(573)る。代々九代の石塔少しも違わず並びあり。九代前より始まった由。ある住僧の代に、この石出た時、その僧天を拝し、われ法華千部読経の願あり、今一年ですむから一年だけ延引したまえと祈り、塔を川の淵に投げ込んだ。さて一年立ち読経|了《おわ》った月に、件《くだん》の石また川に現われ、翌年果たして死んだ。次の住僧は、塔出た時、何の願なしに幾度投げ込んでも毎夜出で、翌年死んだ。その地でこれを無帽塔と名づく、と載す。
 藤沢君の『日本伝説叢書』信濃巻には、この石塔は星河の水源、沓野の大沼尻から四里余流れ来たり、山神が献ずるもので、極まって橋場という所に止まった。その格好が住職の気に入らない時は、その望みの格好を断わり、一、二里川上へ上げ返すに、また望み通りの石塔が流れ下る。住職この石現わるるを見て、即時に隠居せば少し長生すという、とある。『北越奇談』には、越後七不思議の一として、河内谷の湯谷寺にも同事あり、と言った。津村正恭の『譚海』一〇に、越後蒲原郡のある寺、昔より怪事あり、云々、石塔現われた時、住持逐電したら死を免る、とある。支那にも秦の時、丹陽県の湖側の魔姑廟あり、「鈴下の巫人、常に殯?《かりもがり》せしめ、墳?《はか》を須《もち》いず。その時、方頭の漆棺の、祠堂の下に在るあり」(『法苑珠林』七九)というのがよく似ておるようだ。
 事ややこれに近きは、出羽の最上郡佐沢の大沼に、六十六の浮島あって、径三、四尺より一丈二、三尺に至る。おのおの国々の名ありといえども、ことに大きなを奥州島という外は分明ならず。池の中央に動かざる小島に葭蘆の生いたるを蘆原島と名づく。諸島常は汀に片より、地に添い、松、柏茂り、桃、桜、藤、山吹など生いたり。春夏秋かけて毎日浮かみ廻り、風に随い、また風に向かうて行く。時には二十島、三十島も浮かみ巡る。春夏、藤、山吹、つつじ、さつきの花の色、水に映じて風景斜めならず。汀より出でんとする島は出でざる島を押し除けて出ること、もっとも奇だ。祈願の人志す島をさして、旋行を観て吉凶を占うことあり、と(『諸国里人談』四)。
 橘南谿の『東遊記』前編五に、この池の向うの右方に寄り、浮かみたる色黒き木株ごとき物を浮木と称えて天下の吉凶を占う。天下太平なれば浮かび、凶変あらば沈んで見えずと言ったは、前に引いたチェッシャーの浮木に近い。(574)しかし古河辰の『東遊雑記』二でみると、寛文のころ奸曲な山伏が大木を中空に丸くし種々の草木を植えて浮島を作ったので、さらに古書に見えぬらしい。故に『東遊記』なる「四つの海波静かなるしるしにや、おのれと浮きて廻る島かな」という実方の歌も、実は山師の手製だろう。これに似た欧州の例は、予未見の書『スペクルム・レガレ』(一二五〇年ごろの筆)に、アイルランドのロギカ湖に一小島浮きあるき、時たま人が歩み移り得るほど陸に近づく。このこと日曜日に多し。病の何たるを問わず、病人がこの島に乗って、そこに生えた草を食えば即座に癒《なお》る。ただし一人乗るとたちまち浮き出るから一人より多く乗れない。六年浮いたら陸と連合して区別付かず、その時雷ごとき音してたちまち右同様の一小島が浮き出すが、どこから来るか知れないとある由(一八九四年ロンドン発行『フォークロワー』五巻四号、三〇四−五頁)。
 
     守宮もて女の貞を試む
 
 『古今図書集成』禽虫典一八四に、『淮南万畢術』を引いていわく、「七月七日、守宮を採り、これを陰乾《かげぼし》し、合わすに井華水をもってし、和《ね》って女身に塗る。文章《もよう》あれば、すなわち丹をもってこれに塗る。去《き》えざる者は淫せず、去ゆる者は奸あり」。晋の張華の『博物志』四には、「蜥蜴、あるいは??と名づく。器をもってこれを養うに朱砂をもってすれば、体ことごとく赤し。食うところ七斤に満つれば、治《おさ》め擣《つ》くこと万杵す。女人の支体に点ずれば、終年滅せず。ただ房室のことあればすなわち滅す。故に守宮と号《なづ》く。伝えていわく、東方朔、漢の武帝に語り、これを試みるに験あり、と」。『本草綱目』四三と本邦本草諸家の説を合わせ考うるに、大抵蜥蜴はトカゲ、??はヤモリらしいが、古人はこれを混同して、いずれもまた守宮と名づけたらしく、件《くだん》の試験法に、いずれか一つ用いたか、両《ふたつ》ともに用いたか分からぬ。李時珍が「臂に点ずるの説、『淮南万畢術』、張華の『博物志』、彭乗の『墨客揮犀』に、みなその法(575)あるも、大抵は真ならず。おそらくは別に術あらんも、今伝わらず」と言えるごとし。『墨客揮犀』には、北宋の煕寧中、京師久しく旱《ひで》りしに、旧法により雨を?るとて、蜥蜴を水に泛べるつもりで、蠍虎(すなわち??)を用い、水に入ると死んで了ったので、何の効もなかった、と記す。事の次第を按ずるに、北宋朝に京師で蜥蜴と名づけたは、トカゲにあらず、水陸両棲のイモリだったのだ。かくトカゲ、ヤモリ、イモリを混じて同名で呼んだから、むかし女の貞不貞を試みた守宮は何であったか全く判らぬ。
 『塵添?嚢鈔』八に、いもりのしるしというは何ごとぞ。これ和漢ともに沙汰あることなり。いもりとは守宮とも書けり。『法華経』にも侍り。(熊楠按ずるに、『法華経』譬喩品に、長者の大宅頓弊せるを記して、「鴟梟、G鷲、守宮〔二字傍点〕、百足等、交横馳走す」とあるを指す。)その本《もと》の名は蜥蜴なり。これを血を取って、宮人の臂等にぬることあり。「その法は、蜥蜴を取り、飼うに丹砂をもってし、体ことごとくに赤き時、これを搗《つ》き」、その血を宮女の臂に塗るに、いかに洗い拭えども、さらに落つることなし。しかれども、「淫犯あれば」、その血すなわち消失するなり。ここをもって、あえて不調の儀なし、よって守宮とはいうなり。されば古詩にも、「臂上の守宮、いずれの日にか消えん。鹿葱《ろくそう》、花落ちて、涙雨のごとし」と言えり。鹿葱は宜男草《ぎだんそう》なり。さればまた和語(歌?)にも、「脱ぐ履のかさなることの重なれば、守宮のしるし今はあらじな」。ぬぐ履の重なることの重なればとは、人の妻のみそかごとする節に、著けたる履のおのずから重なりて脱ぎ置かるることありと言うなり。「忘るなよたぷさに付きし虫の色の、あせては人に如何《いかが》答へん」。これはその験《しるし》あせぬべければ合いがたしと言えるなり。この返歌にいわく、「あせずとも、われぬりかへんもろこしの、守宮の守る限りこそあれ」、と出ず。古歌にもろこしのいもりとあるので、守宮もて女人の貞操を試したことは古く日本になかったと知る。
 しかるにどう間違ったものか、いつのころよりか、水中のイモリが雌雄中よく、交われば離れぬとかで、その黒焼きを振り懸ければ、懸けられた男また女が、たちまち振りかけた女また男に熱くなってくるということが、浄瑠璃な(576)ど(例せば『朝顔日記』)に著われ出た。しかしこれは守宮で女の貞不貞を試《ため》すと全く関係なく、古来日本に限った俗信とみえる。ついでにいう、蜥蜴類でエジプトとサハラの沙中にすむスキンクスは、古く催淫剤として著名なと同時に、その羮《あつもの》を蜜と共に啜れば、せっかく起った物もたちまち痿え了る由。『淮南万畢術』に、守宮を婦人の臍に塗れば子なからしむ、とあるも似たことだ。支那の広西横州に蛤?《こうかい》多し。牝牡上下し相呼ぶこと累日、|洽《あまね》くしてすなわち交わる。両《ふたつ》ながら相抱負してみずから地に堕つ。人往きてこれを捕うるもまた知覚せず。手をもって分劈するに死すといえども開かず。すなわち(中略)、曝乾してこれを售《う》り、煉って房中の薬となし、はなはだ効ありという。これは学名を何という蜥蜴か知らぬが、むかしは雌雄相抱いたまま紅糸で縛り、源左衛門が非道のやいば、重ね切りの代りに重ねぼしと、乾かして本邦へも舶来したという。(一九二〇年三板『剣橋《ケンブリジ》動物学』八巻五六一頁。プリニウス『博物志』二八巻三〇章。『本草綱目』四三。『重訂本草啓蒙』三九)
 まことや老いたるも若きも、後家も比丘尼も、この迷いの一ぞ忘れ難きで、小生などは、はや七十近い頽齢をもってしてなお、この文を草するうちすら、名刀躍脱、さやつかのまも油断ならず。イモリの黒焼など何のあてにならぬ物が、年々この迷いのことに盛んな欧米へ数万円の輸出あり、大分国益となると聞けば、件《くだん》の蛤?も早く台湾辺へ移し入れて養成したらよかろう。榕樹間に住む物の由。
 守宮で女の貞否を験するに似たこと、支那以外にも多い。その一例は、一九〇六年板、デンネットの『黒人の心裏』八九貢に、レムベという腕環を佩びて嫁した人妻をンカシ・レムベと呼び、その夫のすべての守護尊の番人たり。かかる婦人が「伊勢の留守、天の岩戸をあけ放し」、鬼の不在に洗濯をさせると、夫が帰り来て、婚儀の守りとした品々を入れ置いた籃を開けば、ことごとくぬれているので、さては厳閉し置かれながら、鬱情勃発して誰かを引き入れ、ぬれ事をしたと判ず、とある。
 昭和七年一月二十八日追記。バープ・サラト・カンドラ・ミトラ氏説に、アフガニスタンとベルチスタンではトカ(577)ゲを壮陽剤とし、北インドの沙地にすむトカゲの一種ウロマチスク・ハルドウィキイは陰萎の妙薬と信ぜらる。またインドのある土人はトカゲの油を催淫剤とす、と(一八九八年発行『ベンゴル亜細亜協会雑誌』六七巻三部一号、四四−四五頁)。
 
     乞胸
 
 『嬉遊笑覧』一一にいわく、「乞食の部類に、乞胸《ごうむね》と呼ぶ者あり。辻はなし、辻講釈、その外編笠をきて物こう者、みな乞胸に属す。その者を仁太夫という。その由緒書という物あり。その始め上方浪人とみえて、江戸に下り、説教祭文を三味線に合わせ、往来の路次に蓆を敷き、合力を請いたるが、いつのころにか処々の明地、寺社の境内にて葭簀をはり、木戸銭を取り、小みせ物、綾取り、猿若、江戸万歳、辻放下、からくり、浄るり、説経、講釈、物よみ等支配すべき御許しを蒙りしとなん。惟うに、慶安中に武士浪人、御府内に住居致すまじき御定めありしころにもあらんむ非人頭善七より、毎年節季に、鳥追の編笠いくつにて何程とか定まりて、役銭と号し、仁太夫へ贈ることとなん。これを思うに、京師の与次郎に等しき者なり。乞胸というは、胸たたきの名に似つかわしけれど、これはもと乞旨などの意にや」と。
 胸たたきは、同巻に、「『三十二番職人歌合』に、胸たたきという物貰いあり。頭に編みたる頭巾のようなる物を着、裸にて腰に餌ふごを付けたり。手して胸を扣《たた》くによりて、名に負えるなり。その歌、宿ごとに春参らむとちぎりしは花のためなる胸たたきかな。判にいわく、春参らむと節季に契りしを、花のためぞと、春思い知らせぬる胸のうち、優しくこそ侍れ、とあり。これ後世の節季候《せきぞろ》なり。胸扣きという名は、後世扣きの与次郎というも似つかわし。与次郎は悲田寺の内に居て、その類の頭たり。二季の彼岸、また所々の祭礼のころは、扣きといいて、口早なることを言いて、物貰うとなり。また毎年臘月より節季候となり、元日より十五日まで鳥追となる。これを扣きというといえり。(578)『俳諧染糸』、たたきくたびれかへる門前、口々にこへど勘進入れずして」とある。
 与次郎、たたき、節季候、鳥追、共に元禄三年板『人倫訓蒙図彙』七に出でおるに、乞胸はさらにみえず。『守貞漫稿』六に、「乞胸。ある書にいわく、ごうむねと唱え候は、何故に候や、ならびに如何様の儀を渡世に致し候や。先年より追い追い、両御役所にて尋ねの節、書き出だし候ケ条も有之《これあり》候えども、なおまた申し立つべき旨、ごうむね頭仁太夫へ相尋ね候ところ、左の通り申し立て候。乞胸の唱ならびに文字、何故に候や。先年類焼の節、右帳面焼失仕り、相合わず候えども、家々の門に立ち、施しを乞い候義、先方の胸中の志を乞い候と申す意にて、乞胸と唱え候趣き申し伝え候。追書、江戸にて市中の門戸に立ち、あるいは流しと号《なづ》けて歩行ながらにも、三絃その他、総じて鳴物を用い、銭米を乞う者は、みな必ず仁太夫の鑑札を受くるなり。これを受けざるを潜(もぐり)と號け、もし露顕する時、その具を取り上げ、乞丐を禁ずと聞く。因みにいう。仁太夫鑑札を出だすこと、江戸のみか関東八州か、後考すべし。また京坂および諸国如何、これまた後者識者に間わん」とあるを読むと、乞胸は上方になく、江戸特有のものだったと察せらる。京伝の『近世奇跡考』四に、寛水中、京都の角力に召された東の大関仁王仁太夫、西の大関明石志賀之助、とある。それほどの人気者が、好んで乞胸の親方と同名を付くべきにあらざれば、当時まだ仁太夫という乞胸の親領はなかったものか。『笑覧』に、仁太夫が乞胸の支配人となったを、慶安ごろと推したは当たりおるようだ。
 さて、この乞胸の語原について、旨を乞うの旨と胸と訓相同じきより書き謬ったとも、施主の胸中の志を乞うという意味で書いたとも言うは、上に引いたごとし。どうも両《ふたつ》ながら付会らしい。惟うに、『前漢書』六四上、朱買臣伝に、買臣四十余歳まで、薪を担いながら誦書して、一向立身せず、妻に離れ去られたのち数歳、「買臣、上計の吏に随って卒《そつ》たり。重車を将《ひ》いて長安に至る。闕に詣《いた》って上書するも、書久しく報ぜず。詔を公車に待つに、糧用乏しく、上計の吏卒|更《かわ》るがわるこれを乞?《きつこう》す」とある。?は音、工大の反、師古註に、「?はまた乞なり」 とみえ、乞?は乞丐とまるで同意だが、初めて乞胸群に入った浪人中に、ひねくった者もあって、賤民の乞食・乞丐と自分らを別たんた(579)め、小むつかしく乞?と書いたのを、何と読むか知らぬ者多くて、胸(もと匈に作る)の字と心得違い、施主の胸中の志を乞うなどこじつけ、コウムネ、それからゴウムネと唱え慣れたであろう。(昭和七年十月十二日)
 追記。乞?という語はしばしば仏教にみえる。後漢の世に訳出された『仏説阿鳩留経』に、豪薛茘が富賈阿鳩留に怪しまれて、自分の履歴を説く内に、「時に迦葉仏《かしようぶつ》、般泥?《はつないおん》して去り、もろもろの比丘来たり、われに従って乞?《きつこう》す」という辞がある。(昭和七年十一月八日記)
 
     狼が人の子を育つること
 
 『淵鑑類函』四二九に、「『後周書』にいわく、突厥の先は匈奴の別種なり。隣国の破るところとなる。その族に一小児あり、草沢中に棄つ。牝の狼あり、肉をもってこれを飼う。長ずるに及んで狼と交合《まじわ》り、ついに孕むあり、と」。さすがは畜生、人の児を育て上げてその子を孕み、十子を産んだのが突厥狼種民の祖という。また、『地里志』、陝西慶陽府に狼乳溝あり、周の先祖|后稷《こうしよく》ここに棄てられたを、狼が乳育したという。
 一昨年出た柳田氏の『山の人生』二〇章に、予の書翰によって上述インドの事例を略叙し、「この種の出来事は必ず昔からであろうが、これに基づいて狼を霊物とした信仰はまだ聞かぬに反して、日本の狼は山の神であっても、子供を取ったという話ばかり多く伝わり、助け育てたという実例はないようである」と言われた。ところが、インドに狼を氏に名のり、その子孫と自信する者多く、狼を族霊(トーテム)とする部種また少なからぬ。上述通りウーズ州にもっとも狼害多いが、ここのジャンワール・ラージュプット族は狼と厚縁あり、その児女狼に食われず、時としてその?に養わると信ぜらるというから、突厥狼種と等しく、狼育人児の一件に基づいて狼を霊物としたのが少なからじ。(一八九六年版、クルック『北印度俗宗および俚俗』二巻一五二−三頁。一九二四年版、エントホヴェン『孟買《ボンベイ》俚俗』六章)
(580) すでに上に引いたボールの書にも、ヒンズ人が狼に養われた児を礼拝して、一族狼害を免ると信じた旨明記しある。また日本の狼が人の子を助け育てた実例はないとはもっともな言分だが、そんな話は確かに伝わりおる。『紀南郷導記』に、西牟婁郡、「滝尻五体王子、剣山権現ともいう由なり。往昔、秀衡の室、社後の岸窟にて臨産の節、祈顕して母子安全たり。また王子に祈誓し、この子をすなわち巌窟に捨て置き、三山に詣して帰路にこれをみるに、狐狼等守護していささかも恙なきゆえに、七重伽藍を建立」した、と見ゆ。拙妻の妹が剣山の神官の子婦だから、この話は毎度耳にしおり、乳岩という岩あって乳を滴《したた》り出し、狐狼がそれでもって秀衡の幼児(後に泉三郎忠衡)を育てたそうだ。それから前年柳田氏に借りて写し置いた『甲子夜話』一七に、旗下《はたもと》の一色熊蔵|話《はなし》とて、某といえる旗下人の領地にて、狼出でて口あきて人に近づく。獣骨を立てたるを見、抜きやれば、明日一小児門外に棄てあり。何者と知らず、健やかに見えしとて、憐れんでおのが子のごとく養い、成長後嗣子とせり。もと子なかりしを知りて、何方《いずかた》よりか奪い来たりしとみゆ。狼つれ来たりし証は、肩尖に歯痕あり。子孫も連綿と勤めおるが、肩には歯痕ごとき物あり、と載す。事実か否は判らないが、柳田氏の書に引いた他の譚なみになら十分通ると察する。これで日本にて狼が人の子を育てたり、食わずに人に養わせたりの話が皆無でないと知るべし。
 また大分新しいのは猴が人の子を養うという奴だ。というと、板垣退助伯の娘猿子の名などより仕組んだ咄など邪推されんが、予の手製でなく、昨年八月九日ロンドン発行『モーニング・ポスト』紙に出た。二十五年前、喜望峰東南州の荒野で邏卒二名が猴群に雑った一男児をみつけ、伴れ帰ってルカスと名づけ、農業を教えると、智慧は同侶に及ばねど力量と勤勉と信用は優り、よく主人に仕え、ことにその子を守るを好む。珍なことは、この者に時という観念全くなしとのことだ。
 
(581)     桃栗三年
 
 「桃栗三年、柿八年、梅はすいとて十三年」という諺あり。吾輩幼時、毎度聞いた。桂川中良の『田舎芝居』や為永春水の『伊呂波文庫』にも、そのまま、または作り替えを出しおる。元禄十六年板『風流夢浮橋』六の二にも、「大方の客衆娘を望むは、三年になる桃の木と茶屋の娘が同じこと、もう成ろうか、もう成ろうかと通う物」とある。『大和本草』一〇に、桃早く長じて、三年を歴《へ》ば花さきみのるとあるに、『本朝食鑑』四には、「桃は実を植うるも生じやすくして、早く繁茂す。故に貨殖の人これを愛す。三年にして薪《たきぎ》となり、五年にして実を結び、もって素封となる」。また栗も生え易き由いえど、結実までの年数を述べず。柿は植えてのち遅く長じ、七、八年をへて実ると見え、件《くだん》の諺を聞かざるもののようだ。故にこの書が成った元禄七年ごろは、この諺が広く行なわれなんだかと疑う。しかし、元禄元年の自序ある源為憲の『口遊』飲食門に、「桃三、栗四、柑六、橘七、柚八、これを果木の頌と謂《い》う。今案ずるに、桃樹は栽えてのち三年にして子《み》を結ぶ。他はこれに準じて知るべし」とあれば、平安朝の中ほどには、桃の三年だけ後世の諺通りで、栗は四年、柿の代りに柚八年と言ったのだ。予みずから実験せるに、拙宅地の梅などは核より七、八年でみのり、栗は三、四年立っても結実せぬから、右の諺|両《ふたつ》ながらよい加減なものだ。
 
     虎の子渡し
       K.Minakata“Folk-lore:the Tigress crossing a River with her Whelps”参照
       (一九二八年『ノーツ・エンド・キーリス』一五四巻三三三頁)
 
 榊原篁洲の『榊庵談苑』付録に、元の周密の『癸辛稚識』を引いて、諺にいわく、虎三子を生むうち、必ず一は彪《ひゆう》(582)とて、最も悪性で兄弟を食う。猟人の話に、虎が三子を伴れて水を渡るに、必ずまず彼岸まで彪を負い往き、終わって一子をつれゆき、彪を伴れ帰り、また一子を伴れゆき、最後にまた彪を渡して去る。かく注意深く彪が他の二子を啖《くら》うを防ぐそうだと書いて、これ此方《こなた》の童部《わらべ》の戯れにする虎の子渡しの法に同じ、と述べた。『鳴呼矣草《おこたりぐさ》』五に、虎の子渡しとは世話《せわ》しき商売の工面を言えり、とあり。それより古く、篁洲と同時の著、『新色五巻書』二の四に、貸金催促の辞に、「虎の子渡し算盤の桁違い、身体《しんだい》仕廻《しまわ》ねばならぬ」。『今様二十四孝』二の四に、「この亭主目の黒いうちは、人の金銀を虎の子渡しに借り違えて、門並《かどなみ》の商いせしに」とあれば、一汎に商売の工面を言った名でなく、あちらこちらと借り廻す石井定七君流の遣繰《やりくり》を称えたので、そんな素養のためでもあるまいが、虎の子渡しを真似た遊戯もあったのだ。『嬉遊笑覧』四には、碁子でする遊戯の名、と出ず。女子節用集『花鳥文章』から、明治四十三年刊行『此花』第一枝に引かれた男女十二子の宝分算法でも知れる通り、昔はこんなことを家庭で小児に教えて実用に立つ脳力を発達せしめたので、今日の学校よりもその効が多く挙がったらしい。虎が普通三子を生むは事実で(『大英百科全書』一一板二六巻、虎の条)