上代歴史地理新考 東山道・附風土記逸文註釋、井上通泰、529頁、7円、三省堂、1943.6.30
 
(1)   緒言
 
大震災前カラ心ガケテ新刊ノ活版本ナガラ歴史地理ニ關スル書物ヲ集メ始メタガ大正十二年九月一日ニ悉皆燒失シテシマツタ。災後ニ盛ニ書物ヲ集ムルニ際シテ歴史地理ニ關スルモノノ蒐集ニハ以前ヨリ多ク力ヲ入レタ。無論自慢ニナル程ノ蒐集デハ無イガ圖書館ニ行カイデモ大抵ハ間ニ合フ程ニハナツタ。サテ之ヲドウイフ場合ニ利用スルカトイフ考ハキマツテヰナカツタガ播磨風土記新考ノ著作ニツヅイテ肥前風土記新考・豐後風土記新考・西海道風土記逸文新考ヲ著作スルニ當ツテ右ノ蒐集が大ニ益ニ立ツタ。カクスル内ニ歴史地理ニ對スル感興ガ起ツテ來タカラ次々ニ(順序ハ逆ナガラ)右ノ蒐集ヲ利用シテ南海道・山陽道・山陰道ノ風土記逸文ヲ註シタ。是ヨリ先ニ西海道ノ逸文ヲ註スル時ニ一國ノ地理ヲ述ベズシテ直ニ逸文ヲ註シテハ分リニクカラウト思ウタカラ最初ノ逸文ノ註ノ初ニ略一國ノ地理ヲ述ベタガ、對馬ノ如ク逸文ノ無イ國ノ地理ヲ述ベル機會ガ無カツタ(多禰島ノ事ハ大隅國ニ附ケテ略述シタガ)。サテ南海道(2)ノ逸文ヲ註スル時ニモ讃岐國ノ地理ヲ述ベル機會ヲ得ナカツタ(已ムヲ得ズ阿波國ノ末ニ僅バカリ書イテオイタガ)。機會ガナカツタカラ書カナカツタマデデアルト云ハバ理窟ハ立ツデアラウガ、カクスルト種々ナ不都合ノ生ズル中ニモ驛路ノ記述ガ中絶シテ讀者ヲシテ不滿ヲ感ゼシムルデアラウト思ウタカラ筆ガ山陽道ニ及プニ至テ、從來逸文ノ註ヲ主トシ一國ノ地理ノ記述ヲ從トシタ方針ヲ變ジ逸文ノ註ト一國地理ノ記述トヲ兩頭ニ扱ヒ、逸文ノ無イ備前・周防・長門ノ地理ヲモ述ベ同時ニオノヅカラ一國地理ノ記述ガ精シクナツタ。山陰道デモ逸文ノ無イ丹波・石見・隱岐ノ地理ヲモ述ベタ。進ンデ北陸道ノ風土記逸文ヲ註スルコトトナルト逸文ノアルハ越後ノミデアルガ、夙ク方針ヲ變ジタコトデアルカラ今ハ平氣デ若狹・越前・加賀・能登・越中・佐渡ノ地理ヲモ述ベタ。ココニ昭和十三年ノ初夏一代ノ名士ガ澤山集合シテ居ル席デ一人ガ近江ノ舊都ノ事ヲ聞カレタカラ愚考ヲ述ベタ。ソレデ話ガハズンデ次々ニ諸國ノ史蹟ニ就イテノ質問ガアツタガ終ニ「ナゼ今日マデノ研究ヲ發表ナサラヌカ」ト聞カレタカラ「研究者自身ニハ面白クテモ世間ガ共鳴セヌカラ進ンデ出版シテクレル者ガアリマスマイ」ト答ヘタラ某氏ノ如キハ多少興奮戟シテ
(3) 先生ナドニソンナ悩ガアラウトハ知ラナカツタ。我々ハ微力トイヘドモ誰デモ出版イタシマシヨウ
ト云ハルカラ
 今日迄ニ原稿ノ清書ノ出來テ居ルモノハ活版ニスルト二三册ニシカナルマイカラソンナモノノ出版費ヲ負擔スルコトハ諸君ニ取ツテ何デモアルマイガ、素人ガ出版シテハソレヲ讀ミ又ハ讀ンデ、益ヲ得ル人ニ配布スルコトガ困難デシヨウ。或ハ讀マヌモノガ貰ヒ、讀ミタイ者ガモラハレヌ事ニナリハシマスマイカ。折角ノ御厚意デスガ出版ハヤハリ營業者ニ眼ルデシヨウ
ト云ヒ棄テテ、此日モ余ハ人ヨリ先ニ歸ツタ。アトデ此事ニ就イテ人々ノ意見ノ交換ガアツタサウデアルガ、ソレガドウナツタカハ知ラヌ、其時恰東山道ノ研究ヲ始メテ居タガ、東山道ノ逸文ハ近江陸奥ニ各二節ガアルダケデアルカラ逸文ノ註ハ諸國ノ地理ノ記述ニ比スルト一駄ノ荷ニ一握ノ秣ヲ添ヘタル如ク兩者ハ對等トシテ扱フワケニハ行カヌ。ソコデ再方針ヲ變ジテ諸國ノ上代歴史地理ノ記述ヲ標的トシ、モシ逸文ガアツタラ其註ヲ附記スルコトニシタ。元來出版ノ時ニハ西海道風土記逸文新考ヲ樣トシテ(4)南海道風土記逸文新考等トスベキデアルガ、南海道以下ハ西海道ノヤウニ分量ガ多カラズ從ツテ一道一筋トスルコトガ出來ヌカラ風土記逸文新考 南海 山陽 山陰 北陸等
トシヨウカト思ウタガ、北陸道以下ハソレモ無理ニナツテ
 上代歴史地理新考 北陸道等
トシナケレバナラナクナツタ。然シ一書ヲ前後デ稱ヲ改ムルノモ體裁ヲ失スルカラ山陰以前二對シテハ不適當デモアラウガ
 上代歴史地理新考 南海 山陽 山陰 北陸
     附風土記逸文註釋
トデモシナケレバナルマイ。今は追々ニ書キ進ンデ東山道ノ中デハ羽後ガ殘ツテ居ルダケデアル。ソレガスンダラ東海道ヲ書クツモリデアル。畿内ハ讀ムベキ書物ガアマリニ多ク、考フベキ史蹟ガアマリニ多ク、ソレヲ讀ミソレヲ考フルニハ壽命ガ足ルマイカラ風土記逸文ノ註ダケデスマスツモリデアル。實ハ古ク出來上ツタ南海道等ハ勿論、新ニ書イタ東山道ニモ訂正スベキコトガ少クナイカラ今一度手ヲ入レネバナラヌ。サテ(5)本年八月二十日ニ執筆中ニ或危險ナル病ノ徴候ガ現レ爾來靜養ヲ續ケテ今ハ回復ノ途中ニアルガ正宗敦夫君ガ見マヒノツイデニ著書ノ整理ヲ頻ニ勸メテ來タ。整理ヲシタ所ガ直ニ出版ノ運ニナルカナラヌカ分ラヌガ、何分年ヲ累ネタ著述ノコトデアルカラ、マヅ記憶ヲ整理セズバ咄嗟ニ始中終ノ事ヲ語ルコトガ出來マイ。ソコデ思立ツタノヲ機會トシテマヅコレダケノ事デモ鉛筆ヲ執ツテ書附ケテオクノデアル。外ニモ思出シタ事ガアツタラ書添ヘヨウ。唯今ノ氣分デハコレガ遺言状代トナラウトは感ゼヌ。
 庭におりたちふる大刀の、風きるおとのここちよさ、あまたのふみを書きしかど、ああわれいまだ衰へず
コレハ昭和十一年七十一歳ノ時ノ作デアルガ、ナル程ソノ頃ヨリハ少シ弱ツタカナ(昭和十四年十月九日)
    ○
散歩スル時ニハ路傍ノ草木ヲセメテハ名ダケデモ知ツテヰタラ面白カラウト思ヒ、旅行ノ際ニハ到ル處ノ古蹟ノ歴史ヲ心得テヰタラ興味ガアラウト思フノハ恐ラクハ余一人ノ情デハアルマイ。余ハ幼時カラ歴史ト文學トヲ好ンダ。姫路ニ居タ時ニ漢學ノ師(6)田島廉介先生ノ末女ニ佳枝《カシ》トイフ才女ガアツテ余ヨリ三歳ノ姉デアツタガ此娘ニ誘ハレテ日本外史地名考トイフ外史カラ地名ヲ抄出シテ之ニ國郡ヲ註シタ一書ヲ共作シタノガ十三歳ノ時デアル。タトヒ幼稚ノ著作デモ今殘ツテヰタラヨイ記念デアラウニ養父ノ甥ノ中川某トイフ者ガ持出シテソノ放浪中ニ無クシテシマウタ。カヤウナクダラヌ舊事ヲ語ルノハドコノ家カノ本箱ノ中カラデモ見附ケ出シハスマイカトイフ未練ガ殘ツテヰルカラデアル。十五歳デ上京シテ養父ノ命デ大學醫學部豫科ニ入ツタ後モ暇サヘアレバ御茶ノ水ノ聖堂跡ノ圖書館ニ通ウテ史學文學ハ勿論、手當リ次第ニ諸種ノ古書ヲ讀ミ耽ツタ。ソレガ故郷ノ養父ニ聞エテ在京中ノ實兄ヲ通ジテ學校ノ正科ト、歌ヲ學ブコトト、武藝ヲ修ムルコトトノ外ハ一切ノ學問稽古ヲ禁ゼラレタ。無論史學モ亦許サレナカツタ。カクテ遂ニ醫師トナツタガ岡山在任時代ニソロソロ又史癖ガ出テ來タ。正續蕃山考ナドハ此時代ノ著作デアル。然ルニ歸京シテ開業シタ後ハスベテノ便宜ヲ失ウタカラ史學ノ研究ヲ止メテ一時ハ作歌バカリニナツタガ、ソレデハ無聊ニ堪ヘラレヌカラ長年月ヲ費シテ萬葉集新考ヲ作ツタ。ソノ間デモ少暇ヲ得レバ史籍ヲ繙イタ。然ルニ余ハ種々ナ事情ガアツテ旅行トイフモノヲ殆シタコトガ無イノデ、史(7)籍ヲ讀ンデ常ニ飽カズ思ウタノハ地理ノ知識ノ缺亡デアツタ。史籍ヲ讀ンデ地名ガ出テ來ル毎ニ少シ地理ヲ知ツテ居タラドンナニ面白ク興味ガアラウト思ウタ。ソレガ不思議ニ縁ガアツテ晩年ニ及ンデ今ノ如ク地理ニ親ムヤウニナツタノデアルガ、ソノ事情ハ正宗君等ニ見セル爲ニ書イタ別文デ明デアラウ。本書ノ著作ハ初ニハ自分ノ缺ヲ補ハン爲デアツタガ、中ゴロハ門人知人ノ有志ニハ見セテモヨイト思フヤウニナリ、終ニハ出版ヲ乞フ者ガアルナラ許シテモヨイト思フヤウニナツタノデアル。年月ヲ重ネテ書イテ行クウチニハ右ノ如キ思念ノ變遷ガオノヅカラ筆端ニ顯レテ居ルデアラウ
(昭和十四年十一月七日)
    ○
此書ヲ著作スルニ際シテモ亦多クノ人ノ厚意ヲ蒙ツタ。左ニ其人々ノ芳名ヲ掲ゲルガ誤ツテ漏シタモノガアルカモ知レヌ。
 外山且正君、鶴見左右雄君、森銑三君、遠藤二郎君、蘆田伊人君、江崎安子君、故樫内亀之助君、柴田常惠君、杉山琴子君、故高木利太郎君、遠山英一君、牧野悦子君、正宗敦夫君、長島豐太郎君、森繁夫君、故湯河元臣君、笠森傳繁君以上
(8)内外兩題ハ今回モ長島豊太郎氏ノ筆ヲ煩シタ
              南天荘主人
 
(1)     目次
 
上代歴史地理新考
 東山道
  近江國
   伊香小江
   江中島
  美濃國
  飛騨國
  信濃國
(2)  上野國
   上野國三古碑
  下野國
   那須國造碑
  陸奥
  磐城図
   八槻郷(風土記逸文)
  岩代國
  陸前國
   附、多賀城碑
  陸中國
(3)  陸奥國
  出羽國
  羽前國
  羽後國
 
(1)上代歴史地理新考
          井上通泰著
   東山道
 
東山道は西宮記卷五郡司讀奏の條に東山道又ヤマノミチ又東ノミチと訓じ日本紀の傍訓には東ノヤマノミチともあり。かく訓の區々たるを見ても常には訓讀せずして音讀しけむことを知るべし。さてその音讀はトウサンダウにあらでトウセンダウならむ。山の呉音はセンなればなり。近古以來の中山道《ナカセンダウ》は上野國までは略此道に由りしなり。景行天皇紀五十五年に以2彦狹島王1拜2東山道〔三字傍点〕十五國都督1とあり又崇唆天皇紀二年にや2近江臣滿於東山道〔三字傍点〕1使v觀2蝦夷國境1とあれど東山道といふ固有名詞の生ぜしは早くとも孝(2)徳天皇の御世ならむ。天武天皇紀元年六月丙戌に東海軍東山軍とあり。同十四年七月に
 東山道美濃以東、東海道伊勢以東諸國有位人等並免2課役1
とあり。又文武天皇紀四年二月に遣2巡察使于東山道1※[手偏+僉]2察非違1とあり。それより後の國史にはあまた見えたり(公式令にも凡朝集使東山道(ハ)山東(ハ)乘《ノレ》2驛馬(ニ)1とあり)。東山道と命名せし時代は右に云へる如くなれど此道は其時始めて通ぜしにはあらで早くより開けたりしなり。たとへば景行天皇の御晩年に日本|武《タケル》尊をして東夷の亂を平げしめ給ひし時皇子は往路には伊勢・駿河・相模・上總(即後の東海道)を經て陸奥に入り給ひ歸路には常陸(おそらくは武藏を經て)甲斐(轉じて)武藏・上野・信濃・美濃(即後の東山道)を經て尾張に還り給ひき。延喜民部省式に
 東山道 近江國・美濃國・飛騨國・信濃國・上野國・下野國・陸奥國・出羽國
とあり。但古くは出羽國なく又上野と下野との間に武藏國ありしなり。然るに和銅五年九月に始めて出羽國を置き寶龜二年十月に武藏國を東山道より東海道に屬せられしかばそれより後は民部式の如くなりしなり。又然るに明治元年十二月に陸奥を分ちて磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の五國とし又出羽を分ちて羽前・羽後の二國とせられしかば爾(3)來東山道は近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥・羽前・羽後の十三國となれり。右十三國中海に臨まざるは近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・岩代にして下野までは適《マサ》に東海道と北陸道との中間に在り
 
   近江國
 
北より西に亙りては越前・若狹・丹波(少許)山城に接し東より南にかかりては美濃・伊勢・伊賀に續けり。中央よりやや西北に偏りて琵琶湖あり。一國の諸川殆皆之に注ぎ湖の南端一川となりて山城に入れり。瀬田川即是なり。山城に入りては宇治川と稱せらる。此國の本名はチカツアフミなり。アフミの名義は淡海にてやがて湖なり。濱名湖を有せる遠江國に對して皇都に近きが故に近ツ淡海ノ國と名づけられしなり。チカツアフミといふことは和名抄の訓註に見えたるのみならず古事記神代上に
 大山咋神、此神者坐2近淡海國〔四字傍点〕之日枝山1
と見え又孝昭天皇の段に
 天押|帶《タラシ》日子命者近淡海國造之祖也
(4)と見え又開化天皇の段に
 娶2近淡海之|御上祝以伊都玖《ミカミノハフリノモチイツク》天之御影神之女|息長《オキナガ》水依比賣1生2子丹波比古多多須美知能宇斯王1
 水穗眞若王者近淡海之安《ヤス》直之租
など見えたり。ただに淡海と云へる例も無きにはあらねど(たとへば仲哀天皇の段に經歴淡海及若狹國之時とあり)いと稀なり。
 ○右は古事記に就いて云へるなり。日本紀には天智天皇三年十二月に淡海國〔三字傍点〕言とあり
神代上に
 故其伊邪那岐大神者坐2淡海〔二字傍点〕之多賀1也
とあるは恐らくは淡路又は淡道の誤ならむ。異本(所謂伊勢本)に淡路とあるのみならずイザナギノ尊が聖蹟を近江國に留め給ひしこと記紀に見えず、又もし淡海ならば外の例の如く近淡海とあるべきなればなり(南海道風土記逸文新考淡路國參照)。さてチカツアフミを略してアフミとのみ云ふは本名の長きを嫌ひての事なるがこれも古くより(5)云ひし事なり。たとへば古事記忍熊王の歌にニホドリノ阿布美ノウミニカヅキセナワ、日本紀|武内《タケシウチ》宿禰の歌に阿布弥能弥セタノワタリニ、記の顯宗天皇の御製に阿布美ノオキメ(紀にも阿甫弥ノオキメ)紀の毛野《ケヌ》臣妻の歌に阿符美ノヤ、ケナノワクゴイと見え特に萬葉集にはアフミノ海・アフミノ國・アフミ路などいと多く見えたり。思ふに歌は一句の字數に制限あり又一語の長きを便とせざれば早くより略してアフミとのみ云ひしならむ。さてチカツアフミ・トホツアフミを近江遠江と書くは強ひて二字とせむが爲にアフミに江字を充てたるなるが、いかで近湖遠湖とは書かざりけむ。強ひて思はば湖はいにしへ往々ミナトに充てたればそれとの混同を嫌ひてにや。或は史記貨殖傳(范蠡傳)の乃乘2扁舟1浮2於江湖〔二字傍点〕1などの江をも湖と同義と心得てにや。國語(越語)には遂乘2輕舟1以浮2於五湖〔二字傍点〕1とあり。
 ○證とするには足らねど續應仁後記卷九江州淺井家成立事の條に剰其後ハ亮政六角家ニ向テ江湖〔二字傍点〕南北ノ爭戰無止時云々とあり。江北京極氏に代れる淺井亮政と江南六角氏との爭を云へるなり
ともかくも續紀天平寶字八年惠美押勝伏誅の處に
(6) 押勝衆潰、獨與2妻子三四人1乘v船浮v江〔右△〕。石楯獲而斬v之。及《マタ》其妻子徒黨三十四人皆斬2之於|江〔右△〕頭1
とあり日本紀略弘仁十三年三月に近江國縁|江〔右△〕諸郡穀十萬斛、收2穀倉院1とあれば(縁江は沿江なり)確に湖を江と云ひしなり。さて最早く近江〔二字傍点〕の字を用ひたるは日本紀なり。即同書の垂仁天皇三年に近江國|吾名《アナ》邑また近江國鏡|谷《ハザマ》、景行天皇五十八年に幸2近江國1居2志賀1、安閑天皇二年に近江國葦浦屯倉、皇極天皇二年四月に近江國、大化二年正月に近江狹狹波(ノ)合坂山、齊明天皇五年正月に近江之平浦などあり。唯一つ異例なるは天智天皇三年十二月の淡海國言なり。日本地理史料に天平勝實三年國解所v※[足+榻の旁]印文用2逢江〔二字傍点〕字1といへるはいかが。アフミを逢江とは書くべからず。即ミに江を借るべからず。此印文は埋麝發香に見えたるが初の字は近の異體篆書なるべし○國造本紀に淡海國造と額田國造とを擧げたるが前者には
 淡海國造 志賀高穴穗朝御世|彦坐《ヒコイマス》王三世孫大陀牟夜別〔五字傍点〕定2賜國造1
と云へり。然るに古事記景行天皇の段に倭|建《タケル》命の妃の事を云へる處に近淡海之安國浩之祖意富多牟和氣〔六字傍点〕之女とあるオホタムワケと大タムヤ別とは同人と思はるれば國造(7)本紀考には淡海國造は近淡海安國造の脱字ならむと云へり。按ずるに古事記開化天皇の段に
 此美知能宇斯王之弟水穗眞若王者近淡海之安直〔二字傍点〕之祖
とありて景行天皇の段に近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女といひ國造本紀に彦坐王三世孫大陀牟夜別といへるに合へり。即
 
         「彦立王(即道主王)
開化天皇−彦坐王 |
         L水穗眞若王ソノ子又は孫大陀牟夜別
 
なればなり。但この大陀牟夜別を淡海國造とすれば古事記孝昭天皇の段に
 兄(○皇長子)天押帶日子命者近淡海國造之祖也
とあるに合はず。大陀牟夜別は開化天皇の御末にて押帶日子命の子孫にあらねばなり。是栗田氏の國造本紀考に淡海國造を淡海安國造の脱字と認めたる所以なるが、もし安國造ならば例の如くただ安國造と書くべく特に淡海又は近淡海を冠らすべからず。よりて更に思ふにこはもと
 淡海國造 △△朝御世天押帶彦命△世孫(又は孫)△△定賜國造
(8) 安國造 志賀高穴穂朝御世彦坐王三世孫大陀牟夜別。定賜國造
とありし二項を一項に寫し誤れるならむ。さて安は後の野洲郡なり。湖南の野洲郡に一國造を置かるる程ならば湖西の南部即後の滋賀郡にも一國造を置かれざるべからず。淡海國造の治は恐らくは後の滋賀郡にて安國造の治と勢多川をぞ隔てたりけむ。國造本紀次條に
 額田國造 志賀高穴穂朝御世和邇臣祖|彦訓服《ヒコクニブク》命孫大直侶宇命定2賜國造1
とあり。彦國葺命はやがて天押帶彦命(即日本紀及姓氏録の天足彦國押人命)の子孫なれば額田國道は眞野臣・和邇臣・小野臣(眞野・和邇・小野は皆滋賀郡の内)と共に淡海國造と同祖なり。さて近江國に額田といふ地名傳はらざれば出口延佳は額田は坂田の誤ならむと云へり。或はヌカ田にサを添へてサヌカ田といひしを
 ○萬葉集巻十にヌカ田にサを添へてサヌカ田ノ野ベノ秋ハギといへる例あり。但このヌカ田は大和國平群郡の地名なり
後にヌを略してサカ田といふやうになりしにや。はやく地名辭書(五五四頁上段)に
 或人の説にも坂田は佐奴加太の略言にして萬葉集の歌にツクマ左野方オキナガノ(9)ヲチノ小菅とあるを證とすべしと述べたり。坂田額田は正略の別に出づといふは疑ふべしと雖一地二名と思惟せば如何
といへり。萬葉集卷十三(新考二九〇七頁)にシナ立、ツクマ左野方、オキナガノ、ヲチノ小菅、アマナクニ、イカリモチ來といへるは關係なし。此歌の左野方は左野|自《カラ》などの誤にて淺井郡ナル息長ノ遠智ノ小菅ヲ坂田郡ナル筑摩ノ小野ヲトホリテ(湖ヲ渡リテ)持來テといへるなり。もし額田を坂田と同處とし又淡海を上に云へる如く後の滋賀郡とせば淡海國造と額田國造とは湖を隔てて斜に相對せしにて眞野臣・和邇臣・小野臣は淡海(滋賀郡)の中にて領地を分たれたりしなり。栗田氏は額田を「美濃國池田郡額田郷とある地かと云はれたれど湖東に一國ありて然るべく又美濃國は三野前國と三野後國とに分れたりきと見ゆれば額田はなほ後の坂田犬上の地方と認むべし○姓氏録未定雜姓に
 犬上縣主〔四字傍点〕天津彦根命之後|者《トイフ》。不v見
とあり。今の彦根は此神の名に據れるなり。アガタは皇室の御料地なり。萬葉集巻七なるアフミアガタノ物語セムのアフミは近江にもあれ遠江にもあれそのアガタは郡縣時代の稱即任地といふ事にて犬上縣のアガタとは齊しからず○和名抄に
(10) 近江國(國府在2栗本郡1) 管十二 滋賀 栗本(久留毛止、國府) 甲賀 野洲 蒲生(加萬不) 神埼(加無佐岐) 愛智(衣知) 犬上(以奴加三) 坂田 浅井 伊香(伊加古) 高島
とあり。栗本は延喜民部省式に栗太と書けり。モトを太と書けるは如何。或説に太は本の書損ならむかと云へるは辨ずるに足らず。雄略天皇紀十一年五月・天智天皇紀三年十二月・天武天皇紀元年七月丙午・續日本後紀嘉祥二年七月戊寅・三代實録貞觀五年八月十五日を始として國史古典に栗太と書ける例いと多ければなり。地理志料には太字訓2毛登1未v詳2其義1といへり。地名辭書に
 太字にフトの訓あれば栗太の古音はフモ二音の混轉なるべし
と云へるはもとクリフト(或はクルフト)と云ひしをクリモトと訛れるなるべしと云へるなるが、恐らくは誰もげにとは思はざらむ(此説は元來輿地志略の説なり)。按ずるに禮記文王世子に天子視v學大マ皷徴(ハジメテアクレバ皷ウチテ徴ス)とあり荀子禮論篇に貴v本之(ヲ)謂v文、親v用之(ヲ)謂v理、兩者合而成v文以歸2大一1とありて大(大太は通用なり)はハジメともモトともよむべければ或時代にはモトに太字を充つることを異とせざりしならむ。人名に大太と書きてモトと訓ますることあるは
(11) ○たとへば板倉|市正《イチノカミ》重大(勝重の四男)稻垣若狹守重大(一作重太。當國山上藩祖の父)
或は古のなごりならむ。されど後にはモトに太字を充つること一般には行はれずなりしかば、即太と書きてはモトと訓みがたくなりしかば栗太と書きし代に栗本と(又は栗本とも)書くこととなりにけむ。最古く栗本と書ける例は三代實録貞觀十七年十二月廿七日の近江國栗本郡〔三字傍点〕人小槻山公良眞等云々なり。但これより後にも栗太と書けるものあり。さて和名抄にクルモトと訓註せるは第二段の音が下へつづく時第三段となれるにて栗栖をクルスといふと同例なり。今栗太と書きてクリタと唱ふるはいとあさまし。字は栗本と書きても可なり。稱呼は妾に變ずべからず(今樣歌一三九頁參照)。次に甲賀〔二字傍点〕は天武天皇紀元年に鹿深又鹿深山とあればもとはカフカ(フ如音、カ清)と唱へしを後にコオガと唱ふることとなりしなり。次に野洲〔二字傍点〕は古事記に安と書き(安直・安國造)日本紀に安又|益須《ヤス》と書けり。次に蒲生〔二字傍点〕はもとカマフと唱へしなり。カを濁るは後世の訛なり。衣にエチを愛智〔二字傍点〕と書けるは愛媛の愛の例にて愛の異音を借れるなり。次に淺井郡〔三字傍点〕は怪しくも伊香郡に隔てられて東西二部に分れたりき。地理志料に
 寒川氏曰ク。淺井郡、中ニ伊香郡ヲ隔テ地脈聯屬セズ。蓋其南疆湖水ニ浸サレテ然ルナ(12)リト
と云へり。但此説輿地志略に見えず。北川氏の名跡案内記には
 此郡ハ湖水ニ傍テ地脈切レ二分トナル。伊香郡其間ニアリ首尾切裂スルガ如シ。思フニ往古ハ一圓ノ地續ナリシモ湖水ノ廣濶ナルヨリ陸地ハ沈没シテ湖底トナリ今ノ形ヲ残スモノナラン
といへり。又地名辭書に
 後世鹽津郷を西淺井と稱し本郡を東淺井と稱す。此鹽津は湖水を隔てて本郡の西北に在り。地形全く相離る。如何なる因由にて之を淺井郡に屬せられしにや。他に例なき境界なりき
とあれど他に例なきにはあらず。大隅國大隅郡を以て例とすべし。即大隅郡は明治二十九年までは肝屬《キモツキ》郡に隔てられて南北二郡に分れたりき(西海道風土記逸文新考二一七頁參照)。さて古圖(正保度國圖か)を※[手偏+僉]するに伊香郡は湖に臨まずして所謂東淺井は湖岸に沿ひて所謂西淺井に續けり。思ふに淺井郡と伊香郡とはもと一地域なりしに夙く其北偏の一部を畫して伊香郡とせしその伊香郡は初は湖に臨まざりしに後に南に延び
 
(13)〔古圖の写真省略〕
 
(14)て湖に觸れしかばその爲に淺井郡は中斷せられて清く東西の二部に分れしならむ。然も其兩部を共に淺井郡と稱せしを
 ○明治十年の縣圖に西部を淺井郡ノ内と標せり
明治十一年に東部を東淺井郡、西部を西淺井郡と稱し同二十九年に西淺井郡を伊香郡に合併しき。
 ○但今も竹生島に向へる半島の先端の東部は東淺井郡朝日村に屬せり
かく西淺井郡の消失せし上は東淺井郡を單に淺井郡と稱すべきを今なほ東淺井と稱するは妥ならざる事なり。
 ○日向國の北諸縣郡及南那珂郡と同例なり(西海道風土記逸文新考參照)
次に伊香郡〔三字傍点〕は萬葉集卷十三なる長歌(新考二七九入貢)に伊香胡〔三字傍点〕山、イカニカワガセム、ユクヘシラズテとあれば夙くよりイカゴと唱へしこと明なれど神名帳に伊香具神社とあるを思へば初にはイカグと唱へしにて、なほ參河國のイラゴをイラグと唱へけむと同例なるべし(萬葉集難攷一六五頁參照)。今イカと唱ふるは妄なり。伊香の香は訓を假れるにあらず。古、地名を書くに音訓を交ふることはあらざりき。香の音はカウ一音カグな(15)り。大和國の香山のカグは香の字音を假れるなり○和名抄に國府在2栗本郡1あり。其址は今の栗太郡瀬田町大字橋本にて瀬田橋の東に在り。又國分寺址は大津市大字石山|國分《コクボ》町に在りて府址よりは橋を隔てて西方に當れり。但初の國分寺は瀬田にありきといふ○延喜兵部式に
 近江國驛馬 勢多卅疋、岡田・甲賀各廿疋、篠原・清水・烏籠・横川各十五疋、穴太五疋、和爾・三尾各七疋、鞆結九疋
 傳馬 栗太郡.十疋、滋賀・甲賀・野洲・神埼・犬上・坂田・高島郡、和邇・鞆結驛各五疋
とあり。高山寺本和名抄に篠原に之乃波良、烏籠に止古、鞆結に止毛由比と訓註し和爾を和邇に作れり。以上十一驛は三道に分れたり。即穴太・和邇・三尾・鞆結は北陸道に、甲賀は東海道に、篠原・清水・烏籠・横川は東山道に屬せり。勢多・岡田は元來東山道の驛なるが皇都が平城より平安に移れる後は東山東海共通のものとなれるなり。まづ勢多〔二字傍点〕驛は東海東山兩道の初驛にて國府と同處に在りきと思はる。次に岡田〔二字傍点〕驛は今の栗太郡志津村大字追分ならむ。追分は草津の東南に在り。今は兩道草津にて(草津川の北にて)相分るれど古は追分ぞ岐路なりけむ。枕草紙に「むまやはなしはら〔四字傍点〕のむまや」とあり。その梨原は栗本郡の(16)郷名なればおそらくはやがて岡田驛にて岡田を後に梨原に改めしならむ。次に甲賀〔二字傍点〕驛は地名辭書に土山の西水口の東なる大野村なりとし其大字頓宮を齋王|群行《グンカウ》の垂水頓宮(甲賀と鈴鹿との間)の址とせり。頓官址はさもあるべし、驛址は前驛岡田と次驛鈴鹿との距離を思へば寧今の水口とせる志略・志料の説に従ふべし(さて甲賀頓宮は今少しこなたたとへば三雲に擬すべし)。轉じて東山道の篠原〔二字傍点〕驛は和名抄野洲郡の郷名に篠原ありて其次に驛家(在南北)とあり。地理志料には驛家在南北を(在を有に改めて)篠原の註文と認めたり。篠原の下驛家の上に之乃波良といふ訓註あり又神崎犬上坂田三郡にも驛家郷あるを思へば野洲郡の驛家も篠原とは別郷ならざるか。さて在南北といへる南は郷の誤にて在郷北か。即驛家郷は篠原本郷の北に在りといへるか。今蒲生郡界に近く篠原村大字大篠原あり。驛址は其附近ならむ。次に清水〔二字傍点〕驛は和名抄に神崎郡驛家郷とあるに當れり。今の旭村大字石塚ならむ。今蒲生郡老蘇村の大字に清水鼻ありて石塚に接したり。鼻は端といふことなれば此地ぞ清水驛家郷の南端ならむ。次に鳥籠〔二字傍点〕は和名抄に犬上郡驛家郷とあるに當れり。萬葉集卷四に淡海道ノ鳥籠ノ山ナルイサヤ川また卷十一に狗上ノ鳥籠ノ山ナルイサヤ河とよみ天武天皇紀元年七月戊戌に男俵《ヲヨリ》等討2近江將秦(17)友足於鳥籠山1斬v之といへる處なり。地名辞書には驛址を今の坂田郡鳥居本村に擬したれどトコノ山は今の正法寺山、イサヤ川は今の芹川なれば驛址は芹川を渡りたる處即今の犬上郡|千本《チモト》村大字正法寺の附近即彦根の東南方ならむ。次に横川〔二字傍点〕驛は志料にいへる如くヨカハとや訓むべからむ。和名抄に坂田郡驛家郷とあるに當れり。天武天皇紀元年七月に
 辛卯(〇二日)天皇遣2村國連男依等1率2數萬衆1自2不破1出、直入2近江1。……先v是近江放2精兵1忽衝2玉倉部邑1(○長久寺)。則遣2出雲臣狛1撃追v之。……丙申(〇七日)男依等與2近江軍1戰2息長横河〔四字傍点〕1破v之斬2其將境部連薬1。戊戌(〇九日)男依等討2近江將秦友足於鳥籠山1斬v之。……壬寅(〇十三日)男依等戰2于安河(○野洲川)濱《ホトリ》1大破、則獲2社戸《コソベ》臣大口|土師《ハニシ》連千島1。丙午(〇十七日)討2栗太軍1追v之。辛亥(〇二十二日)男依等到2瀬田1とあり。横川は本來川の名にて天《テン》ノ川(古名|息長《オキナガ》川)の上流なり。今東海道鐵道本線に沿ひて流るるが即是なり。驛址は地名辭書に云へる如く今の醒井《サメガヰ》村大字醒井ならむ。次驛は美濃の不破なり。さて不破驛の置馬十三疋なるに横川驛の配馬十五疋なるは美濃近江國界なる今須峠は美濃より登るには緩にて近江より躋るには急なるが爲ならむ。又醒(18)井より柏原に到るには今の鐵道の如く川に沿ひて上りしならむ。今の國道は山中を貫けり。元弘二年六月十九日に、源中納言具行の斬られしは此處なり。轉じて穴太《・アナホ》〔二字傍点〕驛は今の滋賀郡坂本村大字穴太なり。古はアナホと唱へしを今は訛りてアナフといふ。太をホに借りたるは太(太大は通用)の訓オホなるそのオは母韻なれば略して太をホに充てたるなり。景行成務仲哀三天皇の坐しし志賀高穴穗宮は即此に在りしなり。穴太は大津の北方に當れり。驛使の北陸道に到るには京より直に此驛に來りしなり。勢多驛を經しにはあらず。次に和邇〔二字傍点〕驛は今の滋賀郡和邇村大字和邇中なり。次に三尾〔二字傍点〕驛は今の高島郡大溝町なり。元來三尾は郷名なれば廣きに亙れる稱にて其内の勝野が今の大溝に當るなり。萬葉葉卷三に高島ノ勝野ノ原ニ此日クレナバとよみ卷七に高島ノ三尾ノ勝野ノナギサシオモホユとよめる是なり。延喜主税式に若狹國海路(自2勝野津〔三字傍点〕1至2大津1船賃云々)といへるも此地の湊なり。又高島津ともあり。次に鞆結〔二字傍点〕驛を地名辭書に高島郡|劍熊《ケンノクマ》村大字浦に擬したり。こは同處に鞆結神社がある故なれど驛の在りしはおそらくは今の海津《カイヅ》村大字海津ならむ。今の海津劍熊二村は共に古の鞆結郷なれば鞆結神社が劍熊村に在ること怪むに足らず。カイヅは貝津と書かむぞ宜しき。近世までも貝津と書きき。但夙く源(19)平盛衰記に海津と書ける例あり(たとへば卷二十八源氏追討使に今津海津〔二字傍点〕ヲ打過テ、同卷經正竹生島詣に海津浦〔三字傍点〕ヘゾ著ニケルとあり)。この鞆結津より愛發《アラチ》山即所謂七里半越を經て越前國松原驛に到りしなり。兵部式に
 傳馬 栗太郡十疋、滋賀・甲賀・野洲・神埼・犬上・坂田・高島郡、和邇・鞆結驛各五疋
とあるは栗太郡に傳馬十疋を備へ滋賀以下七郡の郡家〔二字傍点〕と和邇鞆結二驛家とに傳馬各五疋を備へしなり。されば高島郡には郡家と二驛家とに傳馬の備ありしなり(豐後風土記新考三六頁參照)○近江國は京幾に近く又東山北陸二道の衝に當りしかば其地名の萬葉集に見えたるものいと多し。今越中國の例に倣ひて其地名を五十音順についでて聊説明を試みむにまづアド川〔三字傍点〕及アドノミナト〔六字傍点〕は卷七(新考一三三六頁及一三七五頁)に
 竹《タカ》島の阿戸かはなみはとよめども吾は家もふいほりかなしみ
 あられふりとほつあふみの吾跡川やなぎ、かりつれどまたもおふちふ余跡川やなぎ(旋頭歌)
卷九(一六九九頁・一七二〇頁・一七三二頁)に
 高島の阿渡河波はさわげども吾は家もふやどりかなしみ
(20) あともひてこぎゆく舟は高島の足速のみなとにはてにけむかも
 高島の足利のみなとをこぎすぎて鹽津菅浦いまかこぐらむ
とあり。竹島は即高島なり。阿戸・吾跡・余跡・阿渡・足速・足利は皆アドの借字にて心に任せて書けるなり。古書に又安曇と書けり。今專安曇の字を用ふ。アドを安曇と書くはアヅミを安曇と書くとは全く無關係なる借字にて曇の呉音ドンを略して充てたるなり。此川は湖西唯一の大河にて主流は山城の北端花背峠の東方なる百井(愛宕《オタギ》郡大原村の大字)より發し近江に入りて滋賀高島二郡に跨れる朽木谷を縱貫し朽木村市場の下にて屈曲して東走し本庄村の南北舟木の間にて湖に注げり。アドノミナトといへるは其河口なり。トホツアフミは奥近江といふことにて高島郡を指して云へるなり。前賢いたく誤解せり(新考一三七六頁參照)○アフ坂〔三字傍点〕及アフ坂山の古典に見えたる始は神功《ジングウ》皇后紀の武内宿禰が忍熊王に迫りし處に
 武内宿禰出2精兵1而追v之適遇2于逢坂〔二字傍点〕1以破。政號2其處1曰2逢坂1也
とあり。又大化二年改新の詔に
 凡畿内ハ東ハ名墾《ナバリ》ノ横河《ヨカハ》ヨリ以來《コナタ》、南ハ紀伊ノ兄《セノ》山ヨリ以來、西ハ赤石ノ櫛淵ヨリ以(21)來、北は近江ノ狹狹波ノ合坂山〔三字傍点〕ヨリ以來ヲ畿内國トセヨ
とあり。當時皇都は難波(ノ)長柄(ノ)豐碕に在りしなり。アフ坂は山城近江の界にて長等音羽二山の山隘なり。元來坂の名が原にて其西側の山をアフ坂山と稱せしなり。萬葉集卷十(新考二一八五頁)に
 わぎもこにあふ坂山のはだすすき穗にはさきでずこひわたるかも
卷十三(二七九二頁・二七九三頁・二七九五頁・二七九八頁)に
 山科の、いは田の森の、すめ神に、ぬさとりむけて、吾はこえゆく、あふ坂山を(長歌)
 をとめらに、あふ坂山に、たむけぐさ、いとりおきて(長歌)
 相坂をうちでて見ればあふみの海しらゆふ花に浪たちわたる
 近江道の、あふ坂山に、たむけして、吾はこえゆく(長歌)
卷十五(三三〇九頁)に
 わぎもこにあふさか山をこえてきてなきつつをれどあふよしもなし
とあり。アフミノ海〔五字傍点〕は集中にあまた見えたるが之をアフミノウミとよみて不可なる事は無けれど武内宿禰の歌に阿布彌能瀰と書きたれば古風によまむと思はばアフミノ(22)ミとよむべし。ウは母韻なれば例の如く省きたるなり。相坂關〔三字傍点〕は名高く聞ゆれど始めて之を置かれし年代は史籍に見えず。但長岡遷都の後、三關廢止の前ならむ。日本紀略延暦十四年に八月己卯(〇十五日)廢2近江國相坂※[踐の旁+立刀]1とあり(日本後紀の此年は傳はらず)。※[踐の旁+立刀](漢音サン呉音セン)は我邦にては關と同義に用ひたり。然るに文徳天皇の天安元年に再相坂關を置かれき。即實録同年四月庚寅に
 始置2近江國相坂・大石・龍花等三處之關※[踐の旁+立刀]1分2配國司健兒等1鎭2守之1。唯相坂是古昔之舊關也。時屬2聖運1不v閉2門鍵1出入無v禁年代久矣。而今國守正五位下紀朝臣今守上d請加2二處關1而更始置uv之也
とあり。龍花は北陸より來りて京北大原に出づる路、大石は東海東山より來りて京南宇治に出づる路なり(今樣歌二三頁流華越及一三八頁佐久奈度神社參照)。相坂關は今其址も明ならず。大津市の大谷町よりは東方にて清水町の附近にや○イカゴ山〔四字傍点〕は卷八(一五六六頁)に
 笠朝臣金村伊香山作歌二首 伊香山野邊にさきたるはぎ見ればきみが家なる尾花しおもほゆ
(23)卷十三(二七九八頁)に
 いやとほに、里さかりきぬ、いや高に、山もこえきぬ、つるきだち、鞘ゆぬきでて、伊香胡山、いかにかわがせむ、ゆくへしらずて(長歌)
とあり。古義名處考に伊香郷の山なりと云へれど伊香郷は伊香郡の南部に在りて越前に下らむとする京人の經過すべき處にあらず。思ふにイカゴ山は伊香郡北境の連山の汎稱にてここに云へるは鹽津北方の連山即鹽津山なり。卷三(四五四頁)に
 笠朝臣金村鹽津山作歌二首 ますらをのゆずゑふりおこし射つる矢を後見む人は語りつぐがね 鹽津山うちこえゆけばわが乘れる馬ぞつまづく家こふらしも
とあると同時の作と思はるればなり。抑京人が越前國に赴くに(湖水を利用すれば)貝津にて上陸して七里半越を經ると鹽津に上陸して沓掛越を經るとの兩路あり。さて金村等の取りしは後路なり。さればイカゴ山といひシホツ山といへるは沓掛と新道《シンダウ》との間なる國界の山なり(北陸道風土記逸文新考越前國地理參照)○イサヤ川〔四字傍点〕は卷四(六一七頁)に
 あふみ路の鳥籠《トコ》の山なる不知哉《イサヤ》川けのころごろはこひつつかあらむ
(24)卷十一(二四五四頁)に
 狗上の鳥籠の山なる不知也河はさとをきこせわが名のらすな
とあり。イヌガミは郡名なり。イサヤ川は今芹川又大堀川といひて彦根の西南にて太湖に注げる小流なり。古義名處考に犬上川にやと云へる契沖の説を擧げたるは誤れり(近江輿地志略にも犬上川とせり)。犬上川は芹川の西南を流れたる川なり。又「鳥籠の山より流出る川なるべし」と云へるも妄なり。鳥籠ノ山ナルイサヤ川とよめるはトコノ山ノ下ヲ流ルルイサヤ川と云へるなり。此川は美濃界なる(靈仙山の南方なる)芹谷村より發せるなり。トコノ山は今正法寺山といふ。芹川の北岸にあり。昔は此山の西麓を北流して彦根の北方なる内湖(所謂界の入江)に注ぎしを彦根城を築きし時川筋を附替へて彦根の南にて湖に落ししなり(今樣歌續編第一集いさや川參照)○オキツ島山〔五字傍点〕は卷十一(二二八九頁及二四六五貢)に
 あふみの海|奥《オキツ》烏山おくまけてわがもふ妹をことのしげけく
 あふみの海奥津島山おくまへてわがもふ妹をことのしげけく
とあり。蒲生郡の湖岸に一半島あり。今は狹水道に由りて本土と隔てられ恰絶島の如く(25)なりたれど此狹水道は豐臣秀次が八幡《ハチマン》城に在りし時に掘りしなりといふ。名づけて奥の島といふ。今は島村と稱せらる。但島村は狹水道の南北に亙りて南、八幡町及宇津呂村に續けり。太湖巡覺船の寄停する長命寺は半島の西南端に在り。半島の西北十餘町に沖の島といふ島あり。湖中第一の大島なり。是萬葉集にいへるオキツシマ山なりといふ。ここに延喜式近江國蒲生郡に奥津嶋神社名神大とあり。之を或は島村大字奥島に在る神社なりといひ或は沖の島の頭山に在る神社なりと云ひて相爭へる由なるが(たとへば特選神名牒には甲とし地名辭書には乙とせり)萬葉集にいへるオキツシマ山はなほ今の沖の島ならむ。
 ○奥の島には廣狹二義あり。即半島全體をもいひ半島中の一部(大字)をもいふ
又ここに三代實録貞觀七年四月二日に
 元興寺僧傳燈法師位賢和奏言。久住2近江國野洲郡奥嶋1聊構2堂舍1。嶋神夢中告曰云々
とあり。地名辭書には野洲郡とあるは謬なるべしと云へれど然輕々しく斷定すべからず。思ふに沖の島は野洲郡の界より遠からざれば當時或は野洲郡に屬したりけむ。たとへば筑前の志賀島が那珂郡に屬したりし時代ある例を思ふべし○オキナガ〔四字傍点〕ノヲチ及(26)オキナガ川は卷十三(二九〇七貢)に
 しなだつ、都久麻さ野から、息長の、遠智の小菅、あまなくに、いかりもちき、しかなくに、いかりもち來て、おきて、吾をかれしむ、息長の、遠智のこすげ
卷二十(四一五五頁)に
 にほどりの於吉奈我がははたえぬともきみにかたらむことつきめやも
とあり。息長川は天武天皇紀元年七月丙申に息長(ノ)横河といへり。今は天《テン》の川又箕浦川といふ。伊吹山の西及南より發し横に坂田郡を貫きて(さればこそ横川といへるなれ)朝妻筑摩の北にて湖に注げり。今米原の東北、醍井の西に息長村ありて天の川に跨れり。但こは古の息長の全域にあらず(横川驛が今の醒井なるを思ひても知るべし)。所詮息長は天の川の流域なり。地理志料に坂田郡の東半とせるは非なり。遠智〔二字傍点〕は息長の内天の川の上流地方と思はるれど今明ならず。都久麻〔三字傍点〕即筑摩は入江の北方湖岸にて今米原町に屬せり。大字朝妻筑摩即是なり。息長といふ地名は始めて古事記開化天皇の段に見えたり。即
 日子坐《イマス》王(○天皇の御子)又近淡海ノ御上(〇三上)ノ祝ガモチイツク天之御影神ノ女(○子孫)息長〔二字傍点〕水依比賣ニ娶《ア》ヒテ生ミマシシ御子丹波(ノ)比古多々須美知能宇斯王
(27)とあり。神功皇后の御名氣長〔二字傍点〕足《タラシ》姫尊も舒明天皇の御名息長〔二字傍点〕足日廣額《タラシヒヒロヌカ》尊も共に此地名と關係あり。即神功皇后の御父息長宿禰王は日子坐王の曾孫なれど水依比賣ならぬ他の婦人の生みし王の御血統なるが日子坐王おそらくは水依比賣との結婚に由りて息長にて領地を獲たまひ又其縁故に由りて御父子の御名を息長宿禰王・息長帶比賣命息長日子王(皇后の御弟)と申し奉るならむ。又舒明天皇は息長眞手王の御外曾孫なり。くはしく云はば敏達天皇の皇后は息長眞手王の女廣姫にて押坂彦人大兄皇子を産み奉りしが其御子が即舒明天皇なり。この息長眞手王はその出自不明なるがその息長に住せし證は延喜式諸陵寮式に
 息長墓 舒明天皇之祖母名曰2廣姫1、在2近江國坂田郡1
とあり。廣姫を坂田郡息長(今の大原村大字村居田字北屋敷)に葬りしを思へば其實家は息長に在りしなり。息長眞手王の墓と傳ふるものも息長村の西隣なる日撫《ヒナデ》村大字|顔戸《ガウド》に在り。なほ云はむに舒明天皇も皇子にましましし時此地方にて 領地を有し給ひしにはあらずやと思はるる事あり。即萬葉集卷四に
 淡海路のとこの山なるいさや川けのころごろはこひつつもあらむ
(28)といふ歌あり。こは新考(六一五頁及六一八頁)にいへる如く舒明天皇が皇子にましましし時あからさまに犬上郡鳥籠附近に行きましたりし程妃寶皇女(即後の皇極天皇)の作り給へるなるべく皇子が鳥籠に行きまししは其處に領地ありし爲なるべし。犬上郡は坂田郡の南に隣り鳥籠は郡界に近し○大津〔二字傍点〕・シガノ大津・シガ津〔三字傍点〕・シガ津ノ浦は卷二(三一三頁及三一四頁)に
 ささなみの志我津の子らがまかりにしかはせの道をみればさぶしも
 そらかぞふ凡津《オホツ》の子があひし日におほに見しかば今ぞくやしき
卷三(三九三頁)に
 わが命しまさきくあらばまたも見む志賀の大津によするしら浪
卷七(一三四四頁及一四六一頁)に
 ささなみの思我津のあまは吾なしにかづきはなせそ浪たたずとも
 ささ浪の四賀津の浦のふなのりにのりにしこころ常わすらえず
とあり。地名辭書に
 按に「古の滋賀大津は此に非ず。今滋賀村なり」と云ふ。然れども日本紀略延暦十三年勅、(29)近江國滋賀郡古津者云々と見ゆ。古津は蓋和名抄古市郷にして(○否)古都廃したる後錦部古市の二郷に分れ宮址は錦部郷今の滋賀村なれど津頭は延暦再復の勅旨に任せ依然其南に在りて以て今日に到れるならん
といひて大津を古今同處とせり。按ずるに大津は皇都附近の津なるに由りて眇たる埠頭なるに拘はらず大の字を加へしならむ。萬葉集卷二にささなみの山守をササナミノ大山守といへるを思ふべし。天智天皇時代の大津は無論北陸東山二道の貨物を陸あげせし地なり(北陸道のは鹽津又は貝津より、東山道のは恐らくは筑摩より舟に積みて)。さてその湖舟の主として指しし處は皇都なるべければ今の大津の如く南に偏れる地なりせば陸あげせし後に再後送せざるを得じ。無論さる不便を忍ばざるべからざる理由なし。されば當時の大津は皇都の附近に在るべきなり。その證據にはなほ積極的なるものあり。即宮號を大津宮と云ひし事なり。大津宮といふ宮號は舒明天皇紀二年に一曰2葛城皇子1(近江大津宮御宇天皇)と見え萬葉集に近江大津宮御宇天皇代と見えたり。大津宮といへるを思へば皇都の在りし處は大津ならざるべからず。然るに大津宮の在りし處は後にいふ如く今の滋賀村大字南滋賀(今は大津市の内に入れり)と思はるれば大津の(30)在りし處は南滋賀の湖岸ならざるべからず。大津が南方なる今の地に移りしは東海道が近江國を經ることとなりし後の事ならむ。ここに日本紀略延暦十三年に(後紀の此年は亡せて傳はらず)
 十一月丁丑詔。近江國滋賀郡古津〔二字傍点〕者先帝舊都、今接2輦下1。可d追2昔號1改c稱大津u
又二十年に三月幸2近江大津1とあり又日本後紀大同三年十月乙亥に行2幸近江國大津1とあり。即彼南滋賀湖岸の埠頭を當時古津と稱せしを舊稱の大津に復せしめ給ひしなり。さて詔書の趣意は今ノ古津ハ御曾祖父天智天皇ノ舊都デアルカラナツカシクオボシメサルル上ニ平安ノ新京ニ近イカラモトノ如ク大津ト稱スベシとのたまへるなり。今接輦下、即平安ノ新京ニ近イカラとのたまへるを見て余が上に津に大の字を添へしは皇都に近きが故なりと云へる言の妄ならざるを知るべし。特に古津者先帝舊都とあるを見て大津と皇都と同處なる事即地名辭書の如く皇都と大津とを別處とせる説の誤れる事を悟るべし。詔書の文の傳はれるは僅に二十五字なれどかくの如くよく史疑を決するに足る。獨怪む。詔書に此文を引きながら其意を咀嚼することを得ざりしを。さて延暦當時に古の大津を古津といひし上は夙く新津も生じたりしなるべく其新津はや(31)がて今の大津なるべきが其名は何とか云ひけむ。思ふに古津に對して新津などぞいひけむ。さてその新津が今の如く大津と稱せらるることとなりしは彼有名無實の古津の大津がやうやうに荒廢し又園城寺がやうやうに盛になりし後ならむ。崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の頃の史籍に見えたる大津は今の大津なるべく平家物語卷九「木曾の最後の事」の條に
 今井の四郎兼平も八百餘騎にて勢田を固めたりけるが五十騎ばかりに討ちなされ旗を卷かせて持たせつつ主の行方のおぼつかなさに都の方へのぼる程に大津の打出の濱〔七字傍点〕にて木曾殿に行き逢ひ奉る
とあるは明に今の大津なり○カチ野〔三字傍点〕は卷三(三八二頁)に
 いづくにか吾はやどらむ高島の勝野の原にこの日くれなば
又卷七(一二八三頁)に
 大御舟はててさもらふ高島の三尾の勝野のなぎさしおもほゆ
とあり。勝野の事は夙く上に三尾驛の處に云へり。今の高島郡大溝町なり。今も同町の大字に勝野あり。大溝町は高島郡の東南瑞にて滋賀郡界に接し太湖に臨めり。高島ノカチ(32)野といへる高島は郡名にて三尾ノカチ野といへる三尾は郷名なり。古此附近即三尾川の南岸に廣野ありしにてそをカチ野ノ原といひしなり。前の歌は陸行途上の作なり。古、北陸道に到るには必勝野を經しなり。後者は舟行の趣なり。古、勝野津一名高島津が主要の湊なりし事三尾驛の下に云へり。勝野は今カツノと唱ふとぞ○カトリノ浦〔五字傍点〕は卷七(一二八四頁)に
 いづくにかふな乘しけむ高島の香取の浦ゆこぎでくる船
とあり。今香取といふ地名なし。地名辭書にこれも勝野なるべしと云へれど何の證もなき上に一首の調も勝野の事とは聞えず。歌の趣を思ふに作者の船の航行中横手の湖岸より別の船の離れ來るなり。さてその香取浦にもし湊あらばその湊より出來しものと思ふべくイヅクニカ船乘シケムとは疑ふべからず。されば香取浦は決して勝野浦の如き湊にはあらず。卷十三(二二八七頁)なる
 大船の香取の海にいかりおろしいかなる人か物もはざらむ
は前にアフミノ海といふ歌ありてそれに續きたれば高島の香取かとも思はるれど序三句の調を思ふにこは下總の香取ならむ○カマフ野〔四字傍点〕は卷一(三八頁)に
(33) 天皇遊2獵蒲生野1時額田王作歌 あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖ふる
とあり。ムラサキ野シメ野は地名にあらず。又別處にあらず。紫ノオヒタルシメ野といふことを二つに分けて云へるにてそのシメ野は禁野即御トメ野即皇室御專用の狩場なり。蒲生野は今の蒲生郡老※[蘇の魚と禾が逆]村及武佐村より東南方に亙れる廣き平野なり。今老※[蘇の魚と禾が逆]村の西南偏に蒲生野といふ小字あるはその遺なり○ササナミ〔四字傍点〕は集中に左散難彌・左佐浪・神樂聲浪・神樂浪・神樂波・樂浪・樂波と書きて國・シカ・ナミクラ山・ヒラヤマ・大津に冠らせたり。
 〇卷二なるササナミノ大山守はは大山守に冠らせたるなり。大山に冠らせたるにあらず。古義名處考にササナミノ大山として擧げたるは誤れり(新考二〇四頁參照)
滋賀郡の舊稱と思はる。地名辭書に
 滋賀の別名にて本郡の舊號と做すべし。……日本紀神功卷の狹々浪|栗林《クルス》は後世の粟津の栗栖に當り欽明卷の狹々波山は志賀山に同じ。天武卷の會2於篠浪1探2捕左右大臣1は大津の舊都に同じ
 狹々波山 樂浪の地の山なれば何山と限るべからずと雖欽明紀の本文に徴據する(34)に志資の大渡〔二字傍点〕の山なるべし。……又萬葉集に連庫山と云あり。即狹々波山なるべし。……再按に栗田氏、神樂入綾に引ける淺井家記録に據り近江國風土記云。淡海國者以2淡海1爲2國號1。故一名云2細浪國1。所3以目前向2觀湖上之漣※[さんずい+猗]1也とある逸文を采録す。疑惑なき能はず。古書に未だ細浪國の號ありしを見ず。恐らくは後人僞托の語のみ
といへり。欽明天皇紀三十一年に
 秋七月壬子朔高麗使(○越ヨリ)到2于近江1(○湖北ニ)。是月遣3許勢臣猿與2吉士《キシ》赤鳩1發v自2難波津1控2引船於狹狹波山1而装2飾船1乃往迎2於近江北山1
とあり。狹々波山〔四字傍点〕は本來汎稱なるがここにては相坂を指せるなり。淀川・宇治川より山科川を或處まで泝りそこにて舟を陸に揚げ之を擔ひて相坂を越え再太湖に泛べて湖北(おそらくは鹽津)に到りて高麗使を迎へしなり。この控引船於狹々波山の一句は近世の史學の大家さへ誤解せり。辭書に狹々波山を連庫山の事とせるは非なり。ナミクラ山は一山の名なり。ササナミ山は前に云へる如く連峰の汎稱なり。志賀の大渡の山といへるも非なり。萬葉集卷一(五二頁)なるササナミノ志我ノ大和太は大ワダにて大曲即※[さんずい+彎]なり。大ワタにあらず。從ひて渡の字を充つべからず。神樂入綾に引ける近江國風土記逸文は(351)無論古風土記の逸文にあらず。然し辭書にササナミノ國といへる例なしと云へるは非なり。萬葉集卷一(五四頁)にササナミノ國ツミ神ノウラサビテとあるにあらずや。但このササナミノ國は國造本紀の淡海國には當れども元來吉野國・泊瀬國の類にて淡海國・額田國又は安國の如き國造國にあらじ○ササナミノ大津ノ宮〔九字傍点〕(新考四八頁)ササナミノフルキミヤコ(五三頁・四〇五頁)近江荒都(四八頁題辭)近江舊堵(五三頁題辭)の事は夙く上なる大津の處にいへり(シガノミヤコは千載集なる忠度の歌が始なり)。此宮の在りし處がもとの滋賀村(今は大津市の内)なる事は略異説なけれど或は大字錦織とし或は大字滋賀里(舊北滋賀)とせり。即明治二十八年十一月に大津町長等錦織の字御所内に志賀宮址碑を建てき。然るに之に對して大字滋賀里字蟻之内の大鼓塚附近こそ眞の宮址なれと唱ふる人々ありしが近來土中遺物の調査に由りて大字南滋賀なる勸學堂附近を以て遺址に擬する説有力となれり。ここに續紀延暦五年正月に
 壬子於2近江國滋賀郡1始造2梵釋寺1矣
とあり。或は之を以て御曾祖父天智天皇御冥福の爲とし從ひて大津宮址に建てられしなりと考ふる人あり。始めて此説を唱へしは地名辭書の著者にして同書(四八二頁)梵釋(36)寺址の下に
 蓋天皇は大津宮御宇天皇の四世孫なれば故宮の址に就き営み給ふ所ありし也
と云へり。されど類聚三代格卷十五・類聚國史卷百八十などに出でたる延暦十四年九月十五日の勅にはただ
 是以披2山水之名區1草2創禅地1、盡2土木之妙製1荘2嚴伽藍1、名曰2梵釋寺1
と見えて特に大津宮址に建てられし事見えず。又
 以2茲良因1普爲2一切1、上奉2七廟1臨2寶界1而増v尊、下覃2萬邦1登2壽域1而洽v慶
と見えて特に天智天皇の御爲の御追善といふ事見えず(七廟の中にこもりておはすべけれど)。されば右の説はただげにもと思はるるのみにて確なる事にはあらず。因に云はむ。梵釋寺は夙く廢絶して其址今明ならず○シガ〔二字傍点〕は集中に四賀・志我・志賀・思我・思賀など書けり。ササナミノシガといひならひたればササナミの内、即その一部分なりしなり。其境界は確ならねど略今の滋賀村に當るべきか。但シガノカラ崎・シガノ高穴穗宮など云へれば北は少くとも今の阪本村及下阪本村の内に及びしなり。地理志料に例の如く私に滋賀郷を補ひたれど滋賀郷といふはあらざりき。今の滋賀村に當るは錦部《ニシゴリ》郷なるべ(37)し。シガノ大津〔五字傍点〕は大津の下に云へり。シガノ大ワダ〔六字傍点〕は大津と同處にて、古湖水今の下阪本村の南端にて彎入したりしか。さらばカラ崎を以て其北限とすべし。湖水の世と共に埋もれ行くは人の知れる所なり。シガノカラ崎〔六字傍点〕は卷一(五二頁)に
 ささなみの思賀のから崎さきかれど大宮人の船まちかねつ
卷二(二〇二頁)に
 やすみししわごおほきみの大御船まちかこふらむ四賀の辛崎
とあり。卷十三(二七九八頁長歌及反歌)にもササナミノ、志我ノ韓埼、サキカラバ、又カヘリ見ムまたサキカラバ又カヘリ見ム思我ノ韓埼とよめり。下阪本村大字下阪本に在る小岬角なり。大津宮に近かりしかば船を浮べて遊覧したまひし事あるなり。今は唐崎と書く。シガノ山寺〔五字傍点〕は卷二(一六四頁)に勅2穗積皇子1遣2近江志賀山寺1時但馬皇女御作歌一首あり。高市皇子の妃なる但馬皇女と通じ給ひしに由りて志賀山寺に流され給ひしなり。志賀山寺は即天智天皇勅建の崇《ス》福寺にて其廢址はもとの滋賀村(今大津市内)大字滋賀里字|見世《ミセ》の西方なる山中に在り○シホ津〔三字傍点〕シホツ山及スガ浦〔三字傍点〕は卷三(四五五頁)に
 笠朝臣金村鹽津山作歌二首 鹽津山うちこえゆけばわがのれる馬ぞつまづく家こ(38)ふらしも
卷九(一七三二頁)に
 高島のあどのみなとをこぎすぎて鹽津管浦いまかこぐらむ
とあり。夙く上なるイカゴ山の處に云へり。菅浦〔二字傍点〕は今の伊香郡永原村の大字なり。安曇川の河口より鹽津に到るには菅浦の方こなたなれど調に任せて倒にシホ津スガ浦とは云へるならむ○タカシマ山〔五字傍点〕は卷九(一六九九頁)に
 たびなれば三更《ヨナカヲ》刺而てる月の高島山にかくらくをしも
とあり。刺は過などの誤なるべき事新考にいへる如し。さらば第二句はヨナカヲスギテとよむべし。高島山は高島郡の山々の汎稱にて一山の名にあらじ。又高島郷の山にあらじ。高島郷は湖岸に接したる平地と思はるればなり○タナカミ山〔五字傍点〕は卷一(八一頁)なる藤原宮之役民歌に
 いはばしの、あふみの國の、ころもでの、田上山の、まきさく、檜のつまでを、もののふの、やそうぢ河に、たま藻なす、うかべながせれ云々
卷十二(二六七五頁)に
(39) ゆふだたみ田上山のさなかづらありさりてしも今ならずとも
とあり。又神功皇后紀なる武内宿禰の歌に
 あふみのみせたのわたりにかづくとり多那伽※[さんずい+弘]すぎてうぢにとらへつ
とあり。※[さんずい+弘]は瀰の誤にてタナカミなりといふ。忍熊王の屍が瀬田済より流れて數日の後に菟道河より現れしを喜びて作れるなり。又雄略天皇紀十一年に
 近江國栗太郡言。自※[盧+鳥]※[茲+鳥]居2于谷上〔二字傍点〕濱1。因詔置2川瀬舍人1
とあり。谷上濱は田上川ノホトリにや。田上川今|大戸《ダイト》川といふ。栗太郡の中央を横貫して宇治川に入れり。此川の下流を夾めるが即田上山なり。藤原宮を作られし時此山の木を伐りて田上川に流し、田上川より宇治川に入り巨椋池を經て其西口に到れるを取りて陸に揚げしなり○タムケノ山〔五字傍点〕は卷六(一一二八頁)に
 大伴坂上郎女奉v拜2賀茂神社1之時便超2相坂山1望2見近江海1作歌一首 ゆふだたみ手向乃山をけふこえていづれの野邊にいはりせむわれ
卷十二(二七〇七頁)に
 よそのみに君をあひ見てゆふだたみ手向乃山をあすかこえいなむ
(40)とあり。先なるは即相坂山なり。後なるも亦然らむ○ツクマ野〔四字傍点〕は卷三(四八八頁)に
 託馬野におふるむらさき衣しめいまだきずして色にいでにけり
卷十三(二九〇七頁)なる長歌に都久麻サ野カラとあり。ツクマサ野は筑摩狹野にて即ツクマ野なりとおぼゆ。筑摩の事は夙く上に額田國造の處・息長の處・大津の處に云へり。入江の北、息長川の南にて地域廣からざればげに狹野といふべし○トコノ山〔四字傍点〕の事は鳥籠驛の處又イサヤ川の處に云へり○ナミクラ山〔五字傍点〕は卷七(一二八二頁)に
 ささなみの連庫山に雲ゐれば雨ぞふるちふかへりこ吾背
とあり。今のいづれの峰にか知られず。但コノ山ニ雲ガカカレバ雨ガフルといへる餘山より高かるべき調なればもし滋賀郡の南部にての作とせば長等山脈の内にはあらで其後に聳えたる山城の如意が岳を近江の方より見てササナミノナミクラ山と云へるならむか。又もし北部にての作ならば比良山脈の一峰なるべし。
 ○長等山に廣狹二義あり。廣義の長等山一名滋賀山は比叡山の南方に連れる山々の總名にて北より數へて櫻嶺・宇佐山・三井寺山などの箇名あり。その三井寺山を取分きて又長等山といふ
(41)○ヒラ山〔三字傍点〕・ヒラノ浦・ヒラノミナトは卷九(一七一八頁)に
 ささなみの平山風の海ふけばつりするあまのそでかへる見ゆ
卷十一(二四七三頁)に
 なかなかに君にこひずば枚浦《ヒラノウラ》のあまならましを玉藻かりつつ
卷三(三八二頁)に
 わが船は枚乃湖《ヒラノミナト》にこぎはてむおきへなさかりさよふけにけり
とあり。比良山は滋賀郡の北部に在りて小松木戸二村の西に聳えたる高山なり。ヒラノ浦〔四字傍点〕は二村の湖岸なるべくヒラノミナト〔六字傍点〕は比良川の河口かとも思へど比良川は常には水なしといふ。さらば小松木戸兩村の内の湖岸なるべし。小松津といへるもここか。齊明天皇五年紀にも三月庚辰天皇幸2近江之平浦1とあり○マナガノ浦及ミヲノ崎〔十字傍点〕は卷九(一七三一頁)に
 おもひつつくれど來かねて水尾崎眞長乃浦を又かへりみつ
とあり。ミヲノ崎及マナガノ浦といへるなり。ミヲノ崎即三尾崎は高島滋賀二郡の界なる岬角なり。白髭明神いますが故に又明神崎といふ(今樣歌九五頁自髭神社參照)。眞長の(42)浦は勝野の原の湖岸即勝野ノナギサなるべし(三一頁参照)○ヤスノ川〔四字傍点〕は卷十二(二七〇九頁)に
 わぎもこに又もあふみの安河やすいもねずにこひわたるかも
とあり。第三句は安河の下に乃字などあらねばヤスガハノとは訓みがたし。宜しくヤスノカハとよむべし。但常にはヤスガハと云ひしをここには字数の都合にてヤスノカハと云へるならむ。さて安河はやがて野洲川なり。野洲川は甲賀郡の伊勢界より出でたる松尾川・田村川の相合して土山川となり同じく伊勢界より發したる油日川と合して横田川となり野洲郡に入りて野洲川と稱せられ末は二分して太湖に注げり。近江第一の長流にて源より漸次西北に向へり。天武天皇紀壬申の亂の處に安河濱と見えたり。其文は上なる横河驛の處に引けり(今樣歌續編第一集田村神社參照)○ヤバセ〔三字傍点〕は卷七(一四一九頁)に
 あふみのや八橋のしぬを矢はがずてまことありえむやこひしきものを
とあり。栗太郡|老上《オイガミ》村の大字にて大津市石場の對岸にて瀬田の北、草津の西南に當れり。本に八橋と書けるを見ればもとはヤバシと云ひしをヤバセと訛れるにて(さて後は矢(43)馳とも書けり)シをセと訛れるはアナシ・ミナシ川・ウツシ身をアナセ・ミナセ川・ウツセミと訛れると同例なり○ヨナカ〔三字傍点〕は地名にあらじ。卷七(一三二七頁)なる
 さよふけて夜中の方におほほしくよびしふな人はてにけむかも
は宣長の云へる如く渡中《トナカ》の誤にて卷九(一六九九頁)なる
 たびなれば三更刺而てる月の高島山にかくらくをしも
の刺は過の誤ならむ(三八頁參照)○ヲチ〔二字傍点〕は息長の處(二六頁)に云へり○萬葉集に見えたる當國の地名は略註し了りぬとおぼゆ。ここについでに瀬田橋の事を云はむ。瀬田橋は栗太郡瀬田町と大津市石山鳥居川町との間にて瀬田川にかかれり。東海道本線の鐵橋より下手即南方に在りて川中に島ある爲に東西二部に分れたり。東は長くして九十六間、西は短くして二十七間なり。東端の南に橋姫神社あり。歌にはセタノ長橋とよめり。又セタノカラ橋といひならへり。カラの義不明なり。或は構築に外國風なりし所あるにや。此橋の事は夙く天武天皇紀に見えたり。即元年七月の下に
 辛亥(○廿二日)男依等瀬田ニ到ル。時ニ大友皇子及群臣等共ニ橋〔右△〕ノ西ニ營シテ大ニ陣ヲ成シ其|後《シリヘ》見エズ。……其將智尊精兵ヲ率テ先鋒トシテ距グ。仍リテ橋中ヲ切斷ス(44)ルコト三丈バカリニシテ一ノ長板ヲ置キタリ。モシ板ヲ※[足+榻の旁]ミテ度ル者アラバ板ヲ引キテ墮サムトス。是ヲ以テ進ミ襲フコトヲ得ズ云々
とあり。思ふに此橋は大津遷都の時に始めて渡されしならむ。續紀天平寶字八年惠美押勝作逆の處に
 其夜相2招黨與1遁v自2宇治1奔據2近江1。山背守日下部子麻呂・衛門少尉佐伯伊多智等直取2田原道1先至2近江1燒2勢多橋〔三字傍点〕1。押勝見v之失v色
とあり。押勝は山科相坂を經て近江に入り將に美濃に到らむとせしを子麻呂等は宇治川の左岸を經て勢多に到り橋を燒きて押勝の逃路を斷ちしなり。さて橋は奈良朝時代に再渡されしか否か明ならねど都を山城に遷され東海道が當國を經ることとなりし上は必再架けられざるべからず。三代實録貞觀十一年十二月四日に近江國勢多橋火とあるは再架のものなり(同十三年四月四日にも近江國勢多橋火とあり)。これより後は廢絶せし事なしと見えて延喜式主税上にも
 近江國正税|公廨《クゲ》各四十萬束。……勢多橋〔三字傍点〕料一萬束
 凡近江國修2理勢多橋〔三字傍点〕1用途帳附2朝集使1毎年進上備2之勘會1
(45)とあり○今一つ鬼室集斯の碑の事を云はむ。日本紀天智天皇の四年二月に
 是月勘2※[手偏+交]百済國官位階級1仍以2佐平幅信之功1授2鬼室集斯小錦下1(其本位達率)
又八年十二月に
 以2佐平餘自信・佐平鬼室集斯等男女七百餘人1遷2居近江國蒲生郡1
又十年正月に
 是月以2小錦下〔左△〕1授2鬼室集斯1(學職頭)以2大山下1授2鬼室集信1(解藥)
とあり。又姓氏録右京諸蕃下に
 百済公△因2鬼神感和之義1命v氏謂2鬼室1。廢帝天平寶字五年改賜2百済公姓1
とあり栗田氏の考證に百済公の下に百済國鬼室集斯之後也といふ句を落せるにやと云へり。集斯は歸化して冠位さへ賜はりたる程なれば百済國とは云ふまじきに似たれど
 高野造百済國人佐平余自信之後也
とある例に據らばこはさてもあるべし。ただ集斯の直系のみならで傍系もありけむと思はるれば鬼室福信〔二字傍点〕之後也とすべし。又福信は(集斯にもあれ)國王にあらざれば百済國(46)人〔右△〕鬼室福信之後也とすべし。福信は百済の忠臣なり。佐平は百済の官名なり。隋書百済傳に
 官有2十六品1。長曰2左平1。次大率云々
とあり。齊明天皇紀に百済佐平鬼室〔二字傍点〕福信とあり。鬼室は姓、福信は名なり。集斯は其子なるべし。集信は集斯の弟にや。小錦下は天智天皇の三年に制定せられし冠位二十六階の第十二階、大山下は同じき第十五階なり。集斯に小錦下を授けられし事再見えたる後の方は小錦中又は小錦上の誤ならむ。達率は百済の位階名なり。集斯の碑と祠とは今も蒲生郡東櫻谷村大字小野(コノ)に在り。小野は日野町の東北方に當りて分水嶺を隔てたり。碑は葱花頭八面にして高さ一尺六寸なる石なり。頭下にクビレあり。正面に鬼室集斯墓、右側に庶孫美成造、左側に朱鳥三年戊子十一月十八日△とあり。末字扁は歹なれど歿にや※[歹+且]にや殞にや不明なりといふ。戊子は持統天皇の二年なり。朱鳥は天武天皇の末年(日本紀に據れば十五年)の年號にて翌年は持統天皇の元年なるをやと疑へる人もあれど萬葉集卷一シラナミノの左註に
 日本紀曰。朱鳥四年庚寅秋九月天皇幸2紀伊國1也
(47)同ワギモコヲの左註に
 右日本紀曰。朱鳥六年壬辰、春三月丙寅朔戊辰以2淨廣肆廣瀬王等1爲2留守官1。於v是中納言三輪朝臣高市麿脱2其冠位1フ2上於朝1重諫曰。農作之前〔左△〕車駕未v可2以動1云々
同藤原之宮役民作歌の左註に
 右日本紀曰。朱鳥七年癸巳秋八月幸2藤原宮地1。八年甲午春正月幸2藤原宮1。冬十二月庚戌朔乙卯遷2居藤原宮1
卷二シキタヘノの左註に
 日本紀曰。朱鳥五年辛卯秋九月己巳朔丁丑淨太參皇子川島薨
とあり。されば朱鳥の號は持統天皇の御世に及びしに似たれど右の庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午は持統天皇の四年五年六年七年八年なれば彼碑に朱鳥三年戊子とあると相合はず。戊子を三年とせば庚寅・辛卯・壬辰・癸巳・甲午は五年六年七年八年九年ならざるべからざればなり。此碑を登見せし仁正寺藩士西生懷忠の鬼室集斯墓考に
 石|※[さんずい+防]《コボ》レテ文字鮮ナラズ。唯秋日※[日+熏]映ノ時ニ視レバ隱然トシテ數字ヲ見ル。余暇日二三子ト展掃シ摩揩數次ニシテ始メテ能ク讀ムヲ得キ
(48)とあれば實は二年にや三年にや明ならざるを戊子とあるより推して朱鳥三年と定めしにあらざるかとも思へど靈異記卷上第廿五に
 故中納言從三位|大神高市萬侶《オホミワノタケチマロ》卿者大后天皇時忠臣也。有〔左△〕《或》記曰。朱鳥七年壬辰二月詔2諸司1當3三月1將v幸2伊勢1。宜d知2此状1而設備u焉。時中納言恐v妨2農務1上言諫。天皇不v從。猶將2幸行1。於v是脱2其蝉冠1撃2上朝庭1亦重諫之。方今農節不可也
とありて萬葉集の左註に朱鳥六年壬辰と云へるを此處には朱鳥七年壬辰と云ひて適に彼碑碣と同じき數へ方なり。されば古、持統天皇の元年を朱鳥二年とすると朱鳥元年とすると二樣の數へ方ありしなり。
 ○後の數へ方に據れば天武天皇の十五年丙戌と持統天皇の元年丁亥と二つの朱鳥元年を生じ干支を以て相分つの外なかりけむ。萬葉集卷三大津皇子被死之時云々の左註に右藤原宮朱鳥元年冬十月とあるは丙戌の朱鳥元年なり。いとまぎらはし
又西生氏の文の續に
 而ルニ碣中ニ朱鳥三年ノ字アリ。朱鳥ニ三年ナシ。三年ハ即持統天皇ノ二年ナリ。史ヲ按ズルニ朱鳥元年天武天皇崩ジ皇后制ト稱シ明年ヲ稱制元年トス。四年皇后、天皇ノ(49)位ニ即ク。是ヲ持統天皇元年トスルナリ。然ラバ其稱制ノ間朱鳥タリシコト必ナリ
とあれど持統天皇紀四年(庚寅)に春正月戊寅朔皇后即天皇位とあれば若朱鳥と解せしが稱制の間にとどまらば朱鳥辛卯以下はあるまじきなり。思ふに伴信友も云へる如く大化以前の年號は制度もいまだ立たずしていとしどけなかりしかば持統天皇の元年丁亥を或は朱鳥元年とし或は朱鳥二年として少くとも八年甲午までは朱鳥の年號を冠らせしが(前者に依れば朱鳥八年、後者に據れば朱鳥九年)後には年號を除くこととぞなりにけむ。萬葉集卷二ナキサハノモリニミワスヱの左註に
 日本紀曰。持統天皇十年丙申秋七月辛丑朔庚戌後皇子尊薨
とあり。さて萬葉集の左註の朱鳥四年庚寅・朱鳥五年辛卯・朱鳥六年壬辰・朱鳥七年癸巳に皆日本紀曰といふことを冠らせたるを思へば日本紀の古本には持統天皇の元年より少くとも七年までは(八年もか)朱鳥の號を添へたりけむを後に日本紀を改修せし時にしどけなくまぎらはしとてや除き棄てけむ。日本紀が屡改修を經しことは比古婆衣卷一日本書紀考に
 若槻幾齋と云人の見たりし古寫本の日本紀の押紙に裏書云。日本紀三十卷崇道盡敬(50)皇帝所撰也。近者文臣請v詔數増2補之1合2叡旨1永斂2秘|符〔左△〕1。嗟呼欲v取2一時之寵1輙紊2千古之實1。可v不v痛哉。愚竊寫2原書1藏2之函底1。若是證2乎來世1幸矣。承和甲寅左衛門佐藤原長良謹記と有しといへり
といへり(此文もと橘經亮の橘※[片+總の旁]自語に見えたる由なれど自語は藏せず)。同書卷十五鬼室集斯碑考の末に
 又因に聞く。蒲生郡日野より東の方三里ばかりの山中に古びたる石碑あり。正面に鬼室王女、その下に施主國房敬白、右の旁に朱鳥三年戊子三月十七日と彫りたるがありとぞ(この碑苔むして文字見えがたかりしを前に日野の大蓮寺の住僧がとかくはからひて讀みたる趣なりとぞ)
と云へるは妄語なるべく、其碑もし實在せば僞作なるべし(比古婆衣卷十五鬼室集斯碑考及長等の山風附録年號の論參照)
附記 昭和十三年五月七日蒲生郡|鎌掛《カイガケ》谷の石楠花を見に行いた。ついでに同郡東櫻谷村大字|小野《コノ》なる鬼室集斯の墓を見に行いた。鎌掛は日野町の東南に當り小野は同じき東北に當つて居る。されば鎌掛から一旦日野町に戻りそれから小野に向ふのである。集(51)斯の墓の在る處は日野町の郵便局の角から一里二十町餘あるといふ。其角には大きな道案内の碑が立つて居る。車上であるから文字は寫し取る暇が無かつた。分水嶺を越えて佐久良川の岸に出た時に車を駐めて川を隔てて北方に城山を望んだ。其山は戰國時代に五山の學僧を保護した小倉將監實澄の城址であるからである。山下は束櫻谷村大字佐久良で實澄の館址である。案内者の一人大野某が云ふには佐久良は自分の故郷で城山は自分等一族の持山であると云ふから川を渡つて行いて見たいと思うたが時間が無いから斷念した。さて程遠からぬ小野に到つた。東西小野の中間に西の宮と稱する一區の社地がある。道路の南なる田間の地で、はかばかしい樹叢も無いが南は小野川といふ小流に沿うて居る。小野川は佐久良川の支源である。社は東面して居る。これが集斯の廟である。社の後方即西方に長方形の石の玉垣があり其南半には一株の杉の大木があり北半には石龕がある。集斯の碑は龕中にあると思はれたから案内者並に車の運轉手を集めて前方の石扉を除かしめようとしたがどうしても外されぬ。そこで使を部落に走らしめた所が區長・氏子總代・宮守(神主)等が、宮守の外は野ら著のままで走つて來た。そこで手短に來遊の趣旨を告ぐると大に喜んで直に扉を除かうとしたが近年に(明治(52)三十六年か)龕を造つた後は曾て開いた事が無いと見えてやはり外れぬ。又そこで重い屋根石を持擧げて始めて扉が外れた。然しそのままでは碑の文字特に側面の文字が見えぬから宮守が抱いて社の縁の上に持來つた。重量は七八貫であらうといひ石は此地方の産で無いといふ。文字は本文に記せる通りで、やはり歹の旁は分らぬ。長は一尺六寸、八面の一面の巾は上がやや狹く下がやや廣いが中央の處で三寸である。基底の徑は計つて見なかつた。碑の下に臺石があるが碑は臺石に陷入して居るのでは無くてただ乘つて居るだけである。墓石の中央に凹處がある。其事は後に再云はう。碑の頸のくびれを村井古巖や西生懷忠は牡を繋いだ處であると云うて居るが、少くとも此碑では恐らくは恰好をよくする爲の装飾に過ぎまい。又石が土地の産にあらず又亡者の身分に合せて碑が小さいのを思へば此碑は他處で作つて此處へ運んで來たのではあるまいかと思はれる。但上古のかかる僻地に字を刻し得る者も無かつたらうからとは云はれぬ。集斯に從うて歸化土著した者の中には此技を能くする者もあつたかも知れぬ。ともかくも此碑は上古の百済式のものであらう。墓石の中央に徑三寸の孔が穿たれて居る。此孔は碑をはめる爲のものでは無い。碑の基底は此孔より大きいからである。區長が其亡父(53)から聞いた話に昔は此孔に髪がはひつてゐたといふ。或は遺骨を藏めた孔かとも思うたが遺骨ならば直に孔には入るまじく器に藏めて入れたとせんには孔が小に過ぎる。訝しきは西生懷忠の鬼室集斯墓考に此孔の事の見えぬ事である。据置のままで碑を見た人は碑石の下に孔の存ずる事に心附かぬは當然であるが懷忠は碑を西大路まで持歸つた事であるから孔を見附けねばならぬ筈であるが或は孔は土に埋れて懷忠の眼を逃れたのであらうか。區長に尋ぬるに集斯の子孫即室徒と稱するものは
 ○室徒は鬼室の徒といふべきを鬼の字を忌んで之を略したのであらうから(村人は鬼の子孫と呼ばるるを愧ぢて此碑も人に見せる事を嫌つたといふものがある。但眞否を知らぬ)シツトと唱へるのであらうと思うたに區長はムロトと唱へた
今二十一二戸であり苗字は區々である(區長及宮守は浦田で氏子總代は堀井であつた)。さうして以前は室徒ばかりで祭を行つたが今は一村共同の行事であると云ふ。明治三十六年十二月に時の郡長遠藤宗義氏が編輯發行した鬼室集斯墳墓考といふ菊判假装の一册がある。滋賀縣史蹟調査會報告にも記事があらうと思ふが余の文庫に在るものには見えぬ。蒲生郡志の著者は久しく同村佐久良に滯留してゐたさうであるから度々(54)墓を見たであらうと思うたに少くとも所藏の同書第一册には
 鬼室集斯は東櫻谷村の小野に墓ありと言傳ふ。事は古跡名勝志に記す
とあるのみ。古跡名勝志といへるは第何册か知らぬが其册は持つて居らぬ。ここに大阪府立圖書館長今井貫一君在職二十五年記念講演集といふものがあり其中に内藤虎次郎博士の「寛政時代の藏書家市橋下總守」といふ文があり又其附記に西大路藩主市橋下總守長昭の略歴が見えて居るが又其中に
 文化二乙丑年藩醫西生懷忠に命じ蒲生郡志を編製せしむ。この時隣村小野村に在る碑を侯の閲覧に供へんとし請ひて仁正寺の館に移しき。
  ○小野は丹後宮津領なりき。仁正寺は即西大路なり。西大路と改めしはこれより後なり
 侯儒臣をして苔を拂ひ水を洒ぎ種々手を盡さしめられければ果せる哉碑石に左の文字顯る。……右の碑石は疑もなき尊き學士の墓碑なりしかば侯大に喜ばれ敬を致し禮を盡し文化三丙寅二月廿九日西生懷忠・根本流石等をして之を小野の里に返還し清酌時羞の奠をもて恭しく弔祭を行はしめられたり
(55)とあつて文化三年丙寅二月二十九日に西生懷忠の書いた祭鬼室集斯墓詩並序に
 近我君侯將v修2郡志1召v余語及2于此1。乃迎2碣于公館1摩揩數次始見2鬼室集斯墓五字歴々然1
とあるに一致して居る(昭和十三年五月十五日草)
○當國幕末の治所左の如し
 大津代官所、信樂代官所、彦根藩井伊氏(犬上郡)膳所《ゼゼ》藩本多氏(滋賀郡)水口《ミナクチ》藩加藤氏(甲賀郡)大溝藩分部氏(高島郡)西大路藩市橋氏(蒲生郡、舊稱|仁正寺《ニシヤウジ》)山|上《ガミ》藩稻垣氏(神崎郡)宮川藩堀田氏(坂田郡)三上藩遠藤氏(野洲郡)
 
   伊香小江
 
古老傳曰。近江國|伊香《イカゴ》郡|與胡《ヨゴ》郷|伊香小江《イカゴノヲエ》在2郷南1△《也》。天之八女《アメノヤヲトメ》倶爲2白鳥1自v天而降、浴2於江之南津1。于《ソノ》時|伊香刀美《イカトミ》在2於西山1遙見2白鳥1、其形奇異。因疑若是神人乎。往見v之實是神人也。於v是伊香刀美即生2感愛1不v得2還去1、竊遣2白犬1盗2取天羽衣1得v隱2弟衣1。天女乃知、其兄七人飛昇2天上1。其弟一人不v得2飛去1、天(56)路永塞即爲2地民1。天女浴浦今謂2神浦1是也。伊香刀美與2天女弟1※[女を□で囲む]共爲2室家1居2於此處1、遂生2男女1。男二女二。兄名|意美志留《オミシル》、弟名|那志等美《ナシトミ》、女名|伊是理比※[口+羊]《イゼリヒメ》、次名|奈是理比賣《ナゼリヒメ》。此《コレ》伊香連|△《等》之先祖是也。後母即捜2取天羽衣1著而昇v天。伊香刀美獨守2空床1※[口+金]詠不v斷(○帝王編年記卷十元正天皇養老七年下所v見)
 
 新考 風土記曰とは無けれど明に近江國風土記の逸文と認めらるれば例を破りて採録するなり。本文は纂訂古風土記逸文に從へり。國史大系本に在郷南の下に也字あり又伊香連の下に等字あり。此一節は例の如き白鳥傳説なり(丹後國風土記逸文比治里新考參照)○與胡郷は和名抄伊香郡郷名に見えず。或は伊香郷の古名か。小江の語例はたとへば萬葉集卷十六爲v蟹述v痛歌にナニハノ小江とあり。從來伊香小江を余呉湖の事としたれど
 ○はやく袖中抄卷十六に曾禰好忠の田子ノ浦ニキツツナレケム處女子ガ天ノ羽衣サボスラムヤゾといふ歌をヨゴノウミニ〔六字傍点〕キツツナレケムヲトメゴカアマノハゴロ(57)モホシツラムヤハとして出し、さて
  顯昭云。これは曾丹三百六十首中に七月上旬の歌なり。歌の心は昔近江のくにによごのうみ〔五字傍点〕に織女のおりて水あみけるにそこなりけるをとこゆきあひてぬぎおけるあまのはごろもをとりたりければたなばたえかへりのぼり給はでやがて其男の女になりてゐにけり。子共うみつづけてとしごろになりにけれどももとの天上へのぼらんの心ざしうせずしてつねにはねをのみなきてあかし暮しけるにこの男の物へ行けるあひだにこのうみたる子の物の心をしるほどになりたりけるが「なに事に母はかくなき給ふぞ」といひければしかじかとはじめよりいひければ此子父のかくしおきたりけるあまのはごろもをとりてとらせたりければ母よろこびてそれをきてとびのぼりにけり。のぼりける時に此子にちぎりけることは「我はかかる身にてあればおぼろげにてはあふまじ。七月七日ごとにくだりて此うみの水をあむべし。其日にならばあひ待べし」とて母も子もともに別の涙をなんながしける。さて其子孫は今までありとなん申つたへたる云々
といへり
(58)湖を小江とは云ふべからねば、もし余呉湖を指せるならば小江はその入江とせざるべからず
 ○上(五頁)にも云へる如く古、江字を湖に充てきと思はるれば(世に江北江南といふも北近江南近江といふ事にはあらで湖北湖南といふ事なり)小江は小アフミと訓みて太湖に對して余呉湖を小江と云へるにやとも思ひしかどなほ然にはあらじ
然し入江とせば江之南津をその入江の南の船附とせざるべからず。思ふに伊香小江は琵琶湖の小湾にて今の伊香具村に屬せるものならむ。津といへるも余呉湖にふさはしからず○伊香刀美は實在の人なれど事は傳説なり。実在の人に關せる事なりとて悉く史實と思ふべからざるは言を待たず。仲哀天皇紀に
 於v是皇后及大臣武内宿禰匿2天皇之喪1不v令v知2天下1。則皇后謂2大臣及中臣烏賊津連〔六字傍点〕・大三輪大友主君・物部|膽咋《イクヒ》連・大伴|武以《タケモチ》連1曰云々
又神功皇后紀に
 皇后選2吉日1入2齋宮1親爲2神主1則命2武内宿禰1令v撫v琴喚2中臣烏賊津|使主《オミ》〔七字傍点〕1爲2審神者《サニハ》1
とあり。イカツムラジ又イカツオミは即本文のイカトミなり。イカツオミのツオを約め(59)てトと云へるなり
 ○允恭天皇紀の舍人中臣烏賊津臣は右の人の子孫にて祖裔同名なるなり
中臣氏及藤原氏の系國に
 津速魂《ツハヤムスビ》命−市千魂命−居々登魂《コゴトムスビ》命−天兒屋根命−天押雲命−天種子命−宇佐津臣−御食津《ミケツ》臣−伊香津臣〔四字傍点〕−梨津臣〔三字傍点〕
と見えたり。姓氏録左京神別上に
 伊香連 大中臣同祀天兒屋根命|十〔右△〕世孫巨知人命〔四字傍点〕之後也(〇十世は七世の誤か)
同河内國神別に
 川跨連 津速魂命九世孫梨富命〔三字傍点〕之後也(○津速魂を數へざるか)
とあり。又續紀天應元年七月に
 右京人正六位上栗原|勝子公《スクリコキミ》言。子公等之先祖伊賀都臣〔四字傍点〕是中臣遠祖、天御中主命二十世孫、意美佐夜麻〔五字傍点〕之子也。伊賀都臣神功皇后御世使2於百済1便《スナハチ》娶2彼土女1生2一男1名2日本《ヤマト》大臣云々
とあり。系圖に御食津臣の子とせるとここに意美佐夜麻の子とせると相合はず。オミサ(60)ヤマは姓氏録左京神別上伊香連の前に
 中臣酒人宿禰 大中臣朝臣同祖、天兒屋根命|十〔右△〕世孫臣狹山命〔四字傍点〕之後也
とあり。梨富命(系國の梨津臣)は即逸文に見えたる伊香刀美の次男那志等美なり。また巨知人命は逸文考證及姓氏録考證に巨を臣の誤としてオミシルヒトと訓みて逸文に見えたる伊香刀美の長男意美志留に擬したり。げに然るべし。さてイカツオミのツはノに同じき助辭なればイカツオミはイカノ臣といはむに齊し。從來烏賊津使主をイカツノオミと訓めるは非なり。ノを挿まずしてイカツオミと訓むべし。ツがノに同じければなり。さて伊香の地名とイカツ臣のイカと關係あるべきが、地名や原なる人名や前なる。おそらくは地名が原にて中臣氏の一族なる此人が始めて伊香といふ地を占有せしかば其名を伊香つ臣といひしにぞあらむ。ここに神名帳伊香郡に伊香具神社あり。本郡唯一の大社なり。今伊香具村大字|大音《オト》に在りて縣社に列れり。是此地最初の領主なる伊香刀美即中臣烏賊津使主をいつけるなるべし○西山は今伊香具村の大字に西山あれど無論それにはあらで(こは木之本の方より見て西方なる山の麓に在ればかく名づけたるにこそ)所謂江之南津の對岸なる山を云へるならむ。今此山の先端を藤が崎といふ○天(61)羽衣を逸文考證に浴衣なりと云へるはいみじき誤なり。こは天女が身に著けて空を飛ぶ翼なり。地民は此土の人なり。神浦は今其名傳はらず○與天女弟|女〔右△〕の女は衍字なり。好みて四言の句としたればわざとも與天女弟といふべき上に、夙く上にも弟衣とはひ其兄七人といひ其弟一人といへるをや。弟はやがて妹なり○室家は夫婦なり。夫より婦を室といひ婦より夫を家といふなり○帝王編年記二十七卷は新訂増補國史大系第十二卷に収めたり。同書に盗取天羽衣を盗取天衣とせるは羽字を脱せるなり。下にも母即捜取天羽衣とあるをや○捜神記卷十四に
 豫章新喩縣男子見2田中1有2六七女1皆衣2毛衣1。不知是鳥(○脱字あるべし)。匍匐往得2其一女所v解毛衣1取藏v之。捉往就2諸|鳥〔右△〕1諸|鳥〔右△〕各飛|去〔右△〕。一|鳥〔右△〕獨不v得v去(○鳥は皆女の誤か)。男子取以爲v婦生2三女1。其母後使2二女問1v父知3衣在2積稻下1得v之衣《キ》而《テ》飛去。後復以迎2三女1。女亦得2飛去1
とあり。是伊香小江説話の粉本ならむ。右の文は津逮秘書本即二十卷本(元緑十二年に飜刻せし本もあり)に見えたり。漢魏叢書本又之に據れる國譯漢文大成本(共に八卷)には見えず。又古風土記逸文考證に引けるには誤脱あり。又句讀を誤れり(柳田國男著「昔話ト文學」中竹取翁參照)
 
(62)   江中島
 
又云。霜速比古命之男多々美比古命是謂2夷服岳《イブキノタケノ》神1也。女|須〔右△〕佐志比女命是夷服岳神之姉、在2△《於》久惠峯1△《也》。次淺井比※[口+羊]是夷服神之姪、在2於淺井|岳〔右△〕1也。是《ココニ》夷服岳與2淺井岳1|相2競長高《タカサヲアラソフ》1。淺井|岳〔右△〕一夜増v高。夷服岳|△《神》怒拔2刀劔1殺《キル》2淺井比賣之|頭〔右△〕1。墮2江中1而成v※[江を□で囲む]島※[名竹生島其頭乎を□で囲む](○帝王編年記卷十養老七年下所v見)
 
 新考 これも纂訂本に從へり。大系本には在の下に於あり久惠峯の下に也あり。又須佐志比女命を比佐志比女命に作れり。以上は可否を知らず。又三つの淺井岳の内前後の二を淺井岡に作り淺井比賣之頭を頸に作れり。こは纂訂本に從ふべし。又夷服岳怒の岳の下に意を以て神を補へり。こは之に從ふべし。其他は後に云はむ○竹生島縁起(群書類從卷二十五及大日本佛教全書寺誌叢書第二)に(63)同御宇(○孝靈天皇御世)霜速彦命|生《ウメル》三兒|氣吹雄《イブキヲノ》命・坂田姫命〔四字傍点〕・淺井姫命共天2降坐豐葦原水穗國1。箇中氣吹雄命・坂田姫命二神下2座淡海國坂田郡之東方1淺井姫命下2座淺井郡之北邊1。爰淺井姫命與2氣吹雄命1競v勢爭v力。更去2北邊1下2座海中1。其下v海音云2都布都布《ツフツフ》1。故云2都布夫《ツフブ》島1云々
とあり。縁起には應永廿一年普文頭陀といふものが舊記を集め繁を刪り闕を補ひて正説を録せし由の奥書あり。縁起の趣と本文の趣とは少し異なり。即縁起の趣にては一男神二女神は兄弟にて本文の趣にては淺井姫は姪なり。又甲にては淺井姫は自去りて湖中に沈みしなるに乙にては叔父神に頭を斬られ其頭が湖中に落ちて島となりしなり。本文の多々美比古は縁起の氣吹雄命にて須佐志比※[口+羊]は縁起の坂田姫命なり。此一話は近江國の東北部に傳はりし傳説にて本文の趣にては所謂タケクラベ傳説なり。同地方なる寢物語の里の一名をタケクラベといひ近江と美濃との山が長をくらぶるより起りし名なりといふも當該の傳説と無關係にはあらざらむ。地名辭書などの説に據れば寢物語は即古事記景行天皇の段また日本紀天武天皇の卷に見えたる玉倉部なりといふ。然らばタマクラベとタケクラベと音の相似たるより此地方に傳はれるタケクラベ(64)説話に傅會したるか○須佐志比女の須は大系本に比とあり。逸文考證に「本書の趣にては坂田姫命の妹某比※[口+羊]命の子淺井姫命なり」と云へるは妄斷なり。本文に見えたる霜速比古の子は一男一女のみ。たとひ其外に子女ありとも淺井比※[口+羊]は兄弟の子とも姉妹の子とも知られじ。何に依りてか須佐志比※[口+羊]の妹の子とは斷定せる○夷服山は即伊吹山なり。古事記には伊服岐と書き日本紀には膽吹と書けり。ここにては服の一音ブクを轉じてブキに充てたるなり。坂田郡の東北に聳えて近江と美濃とに跨れり。近江第一の高山なり。神名帳に坂田郡伊夫伎神社とあるは此神を祭れるなり。考證に岳にヲカと傍訓したるは不可なり。タケと傍訓すべし。岳字は古典にヲカにもタケにも充てたれどヲカとタケとは同一ならず。因に云はむ。タケは高の本語なり。そが下につづき又は形容辭となる時にタカに轉ずるなり○久惠峯は今明ならず。地名辭書に「姉川の水濱の一山ならん」と云へるはスサシ比※[口+羊]をタタミ比古の姉と云へると俗説に閻魔王の姉が住めるに由りて姉川といふと云へるとに引かれたるなり。神の一名を坂田姫といふと縁起に下2座坂田郡之東方1とあるとに據りて思へば淺井郡にはあらで坂田郡就中其東方に在るべし。恐らくは今の靈山《リヤウセン》ならむ○淺井岳も亦明ならず。地名辭書には東淺井郡虎姫村の(65)虎御前山に擬したれど伊吹山に妬まるばかりの高山なれば虎御前の如き丘陵にあらじ(おそらくは考證に岳をヲカとよめるにも誤られたるならむ)。又虎御前としては縁起に下坐淺井郡之北邊とあるに叶はず。おそらくは淺井郡の北界に聳えて美濃に跨れる金糞岳ならむ。伊吹山の高さは一三七七米、金糞岳は一三一四米、靈仙山(正しくは靈山)は一〇八四米なり。但縁起の趣にては淺井岳は舊處を去りて湖中に没せしなり。金糞岳は竹生島の東北方に當りて其距離近からねど山上に登らば竹生島遙に見ゆべく「此山の頭ぞ彼島」といふ妄想も起るべし○相競長高は四字を連ねてタカサヲアラソヒキと訓むべし(考證にはソノタケタカキコトヲアヒアラソヒシニと訓めり。今少し)。アヒキソヒキなどは訓むべからず。語格上何々ヲキソフとは云はれざればなり○殺は斬なり。萬葉集にもヨコギル・キリメ山を横殺・殺目山と書けり(卷四及卷十二)○成江島の江は衍字なり。殺以下を考證に淺井比賣ノ頭ヲキリテ江ノ中ニオトシケルガヤガテ江ノ島トナリキと訓めるはわろし。宜しく淺井比賣ノ頭ヲキリシカバ江ノ中ニオチテ島トナリキと訓むべし(而を考證に枉げてヤガテとよみたれど實はテに充てたるなり)○江中といへるは湖中なり。古、湖を江といひしなり(五頁參照)○名竹生島其頭乎の七字は決して逸文(66)の内にあらず。帝王編年記の編者の附記したるなり○竹生島にいます式内|都久夫須麻《ツクブスマ》神社の祭神は此逸文に據りて淺井比※[口+羊]命と定むべし。宇賀御魂《ウガノミタマ》神又は市杵島姫命とせるは妄擬なり○國史大系の※[手偏+交]訂者が殺淺井比賣之頭の比賣の下に々々を補へるはわろし。かく比賣の二字を補へるは殺を誤りてコロスと訓みたる爲なり。殺は纂訂本の如くキルとよむべし
纂訂古風土記逸文に楠守部の神樂入綾なる篠波の註に
 淺井家記録に近江國風土記を引云。淡海國者以2淡海1爲2國號1。故一名云2細浪國1。所3以目前向2觀湖上之漣※[さんずい+猗]1也
といへるを拾ひ擧げたり。守部はササナミノ大津・ササナミノ志賀・狹々波山などいへるササナミを地名にあらずとして
 かのササナミヤ志賀と云類も皆湖上の小浪より出たるにて別に近江國に篠並と云し地の在しにはあらず
といひ從來地名をササナミと清み小波をサザナミと濁るは誤にて小波も亦ササナミと清むべきをサザレナミにまがへてサザナミと濁るなりといひて其證に右の文を引(67)けるなり。此文は僞作にあらずとしても決して古風土記の逸文にあらず。第一に文體いと新しく行文いと拙き事、第二に國號は古典たとへば古事記には必近淡海と書ける事(三頁參照)、第三に所謂ササナミノ國は近江一國の一名にはあらで湖西の南部即滋賀郡の古名なる事(三四頁參照)、第四に小波は古典にサザラナミ女はサザレナミといひてサザナミといへる例なき事(萬葉集新考二六六三頁參照)此等に由りて決して古風土記の逸文にあらずと斷定せらるるなり
纂訂逸文には此次になほ山槐記より近江國注進風土記事といふ一節を抄出せり。こは悠紀の歌の料として近江の國司より其國の名所を註進したるにてここにいへる風土記は所謂古地夾名注文(夾《ケフ》は交《ケウ》の誤、交名は連名といふ事)即古地名連記にて書名の風土記とは相與る所無きなり。逸文考證に
 當時國廳より風土記に載たる地名を抄出して注進《タテマツ》りしものと見えたり
 さて風土記の文とはなけれど注進風土記事とみえて風土記に載せたる地名なる事著ければ此に擧て地名を證注さむとす
といへるは從ひがたし。もし當國の風土記、當時太政官又は民部省に傳はらずして國廳(68)にのみ傳はれらば國司をして私に其中より地名を抄出して奉らしめむよりは寧全本の寫を奉らしめて作歌者に授けて參考に供せしめまし。恐らくは古くは然せしむる習なりしを風土記の國廳に傳はらずなりし後は用に臨みて何くれの古記録より地名を抄出せしめそを仍風土記注進とぞ稱しけむ
淡海録(元禄二年成)に
 勢田身投石ノ邊ニ鰐瀬ト云石アリト云。則俗ニドウガメ橋ト云石也。昔鹽ウミノ鰐湖ニ入テスム。湖魚此ヲハバミ鰐ト戰。鰐終ニ多魚ニタタカヒマケ死シテ勢田川ニ流ヨリテ一ノ石ト成。此ヲワニガセト云。出2風土記〔四字傍点〕1
とあり。この風土記は國名風土記を云へるなり。卷末に擧げたる所援用本朝書目録の中に國名風土記を擧げたり。近江國與志略卷三十六にも
 鼈橋 ドウガメバシと訓ず。石橋なり。鳥居川村を出て地藏堂へゆく中間にあり。……近世印行の國名風土記に云。古昔鰐海をさけて湖に來り湖魚と爭ふ。まけて勢多の河流に傍て一の石となる。是を鰐が瀬といふ。或云。身投石の邊鼈橋のこと也云々
とあり。又今昔物語卷卅一近江鯉與v鰐戰語第卅六に
(69) 今昔近江ノ國志賀ノ郡古市ノ郷ノ東南ニ心見ノ瀬〔四字傍点〕有リ。郷ノ南ノ邊ニ勢多河有リ。其ノ河ノ瀬也。其ノ瀬ニ大海ノ鰐上テ江〔右△〕ノ鯉ト戰ケリ。而ル間鰐戰負ヌレバ返リ下テ山背ノ國ニ石ト成テ居ヌ。鯉ハ戰ヒ勝ヌレバ江〔右△〕ニ返リ上テ竹生島ヲ繞リ居ヌ。此ノ故ニ心見ノ瀬ト云フ也ケリ。彼鰐ノ石ニ成タリト云フハ今山城國△△郡ノ△△ニ有ル此レ也。彼ノ鯉ハ于v今竹生島ヲ繞テ有トゾ語リ博ヘタル。心見ノ瀬ト云ハ勢多河ノ△△ノ瀬也トナム語リ博ヘタルトヤ
とあり。國名風土記なると今昔物語なるとは異傳なり。甲は乙に據れるにあらず。さていづれか古からむ、たやすく定めがたけれど共に古風土記式の傳説なり。鰐が湖魚又は鯉と戰ひて負けて石になりきと云へる、壹岐風土記の鯨伏《イサフシ》傳説と相似たり(西海道風土記逸文新考二四三頁參照)。或はもと近江風土記に見えたりしが二樣に岐れて傳はれるにあらざるか。なほ云はむに今昔には湖を江と云へり(昭和十三年三月七日稿)
 
(70)   美濃國
 
美濃國は北は飛騨及越前に、東は信濃に、南は三河及尾張に、西南は伊勢に、西は近江に續けり、國名の文字は古書に御野・三野・美努・美乃など書けり。もとはミヌと唱へしなり。名義は御野なるべし。和名抄本巣郡の郷名に美濃あり。國號は此より起れるならむ。今の本巣郡一色村大字|見延《ミノベ》は其郷名の遺なりといふ。
 ○ミヌのミはミチ(路)ミネ(峯)などのミにて美辭に過ぎざらむ。ミヌを禁野又は三野の義とせるは從はれず
國造本紀に
 三野|前《クチ》國造 春日|率川《イザガハ》朝(○開化天皇)皇子彦|坐《イマス》王子|八|爪〔左△〕《ヤツリ》命定2賜國造1
 三野|後《シリ》國造 志賀高穴穗朝御代物部連祖出雲大日命孫|臣賀夫良《オミカブラ》命定2賜國造1
とあり。前後兩國(ミチノクチ・ミチノシリ)は長良川を以て界としたりしにや。古事記開化天皇の段に
 神大根《カムホネ》王亦名|八瓜《ヤツリ》入日子王。……神大根王者三野國之本巣國造之祖
(71)とあり。又日本紀景行天皇四年に
 天皇、美濃國造名ハ神骨《カムホネ》ノ女、兄ノ名は見遠子《エトホコ》、弟ノ名ハ弟《オト》遠子、並ニ國色アリト聞シメシテ大碓命ヲ遣シテ其婦女ノ容姿ヲ察《アキラ》メシメタマフ(○古事記には兄比賣・弟比賣とあり)
とあり。神骨は即神大根なり。神大根もカムホネとよむべし。オホのオを略してホに充てたるなり。さてその神大根王即八瓜入彦王(即國造本紀の8瓜命)を古事記に本巣國造と云へるを見れば本巣國造は即三野前國造なり。三野前國造の外に本巣國造ありしにあらず(神大根王の御父彦坐王の御墓は稻葉郡岩村大字岩田字北山にあり)。又倭姫命世記垂仁天皇十年に
 遷2幸于美濃國伊久良河〔四字傍点〕宮1四年奉v齋。次遷2于尾張國中島宮1座天三箇月奉v齋。倭姫命國保伎給。于《ソノ》時美濃國造〔四字傍点〕等進2舍人市主地口御田1。並御船一隻進支。同美濃縣主角鏑〔六字傍点〕之作而進御船二隻。捧船者天之曾己立、抱船者天之御|都〔左△〕張止白而進支
とあり。伊久良河は今本巣郡と揖斐郡との間を流るる籔川か。籔川の左岸なる本巣郡川崎村大字居倉〔二字傍点〕に倭姫命をいつける祠ありといふ。角カブラは臣カブラの祖先と見ゆ。思(72)ふに當時は唯一の美濃國造なりしを國の開くるままに又一國造を置かれ前よりありしを美濃前國造とし新に置かれじを美濃後國造とし、さて美濃縣主を進めて美濃後國造とせられしか
 ○今岐阜市蕪城町金神社の境内にカブラギ又はミササギと稱する塚あり。是臣カブラの墓ならむといふ。もし然らばカブラギのギはオクツキのキと心得べきか
又釋日本紀卷十三男大迹《オホト》天皇云々の註に
 上宮記曰。……此|意富富等《オホホト》王娶2牟義都國造〔五字傍点〕名伊自牟良君女子名久留比賣命1生兒※[さんずい+于]斯王
といへり。牟義都《ムゲツ》は武藝《ムゲ》の古名なり。美濃國はもと前後の二國なりしを後に中部の北部を割きて牟義都國を置かれしか○當國の管は民部式にも和名抄にも十八郡とあり。即和名抄に
 美濃國(國府在不破郡) 管十八 多藝・石津・不破(國府)安八・池田・大野・本巣・席田・方縣・厚見・各務(加々美)山縣・武藝(牟介)郡上・賀茂・可兒・土岐・惠奈
とあり。延喜式には本巣を本※[木+巣]、武藝を武義、郡上を群上と書けり。和名抄高山寺本にも文(73)徳天皇實禄始置の記事にも群上と書けり。郡上は恐らくは誤寫ならむ。右十八郡中古くよりありしは十六郡にて石津群上二郡は文徳天皇斉衡二年の新置なり。餘十六郡の同年以前の古典に見えたる始は左の如し
 多藝   大寶二年三月(多伎)
 不破   齊明天皇紀六年十月
 安八   天武天皇紀元年六月(安八磨)
 池田   
 大野   大寶二年紀七月
 本巣   大寶二年戸籍(本簀)
 席田   靈龜元年七月始建
 方縣   大寶二年戸籍(肩縣)
 厚見   天平勝寶二年美濃國司|解《ゲ》
 各務   大寶二年戸籍(各牟)
 山縣   同    上(山方)
(74) 武藝   養老元年紀九月(務義)
 賀茂   大寶二年戸籍(加毛)
 可兒   天平勝寶二年美濃國司解
 土岐   天武天皇紀五年四月(礪杵)
 恵奈   天平勝寶二年美濃國司解
文徳天皇實録齊衡二年閏四月丁酉に
 分2美濃國多藝武義兩郡1爲2多藝・石津・武義・群上1。凡《スベテ》四郡
とあり。多藝の南部を割きて石津とし武義の北部を分ちて群上とせしにて、これより當國の管は十八郡となりしなり。以上十八郡中上郡三、中郡三、下郡十二にて大郡は無し(小郡も)。和名抄に據れば當國の郷數は一百三十一にて大郡八以下に相當する數なり。さるをかく多數なる郡に分たれしは當國には大河多くして交通不便なりし爲ならむ。さて天正中(十二年とも十四年以後とも云へり)豐臣秀吉、尾張より葉栗・中島・海西三郡の内木曾川の右岸に在る地を割きて美濃に屬し、木曾川を以て美濃尾張の界としきといふ。これによりて美濃にも葉栗・中島・海西といふ郡を生ぜしかば混亂を防がむとてにや美濃(75)の葉栗郡は羽栗と書く事となりき。爾來當國の管は二十一郡となりき。然るに明治十二年に石津を分ちて(石津の境域には變遷あり。地名辭書を見るべし)上石津下石津とせしかば終に二十二郡となりしに明治三十年に左の如き合併行はれしかば今は十五郡となれり
 多藝・上石津   養老
 下石津・海西   海津
 羽栗・中島    羽島
 池田・大野    揖斐
 本巣・席田    本巣
 方縣・厚見・各務 稻葉
其他九郡元の如し。但文字は夙くより武儀・郡上・加茂・惠那と書く事と定まれり。更にいささか郡別に(抄の十八郡に就いて)云ひ殘しし事を云はむ
多藝郡 タギと訓むべし。文字は多伎・當耆・當伎・多藝・多紀など書けり古事記景行天皇の段に
(76) 其處《ソコ》ヨリ發《タ》チテ(○倭建命が)當藝野ノ上ニ到リマシシ時ニ詔《ノ》リマシシハ吾心恆は虚《ソラ》ヨリ翔リ行クベク念ヒシヲ今吾足得歩マズ當藝斯《タギシ》ノ形ニナリヌトノリマシキ。故《カレ》其地《ソコ》ヲ當藝ト謂フ
といへるは所謂地名傳説のみ。タギと名づけしは所謂養老瀧あるに由りてなり。地理志料に取2之養老瀑布1瞽説可v笑といへるは卻りて笑ふべし。地名辭書に
 當藝の地名は本來瀑布のタキより出でしにや。又タギと濁り、おのづから別語なりや
などはひて地名と瀑布との清濁の相異に迷へるはあやなし。瀑布のタキの古語はタギなり
安八郡 天武天皇元年紀六月に
 汝等三人急往2美濃國1告2安八磨郡〔四字傍点〕湯沐令(○私邑の長)多《オホ》臣|品治《ホムチ》1宣2示機要1而先發2當郡兵1云々
と見えたればもとアハチマと云ひしを地名二字制に從ひてマに當る字を省きしなりとは誰も思ふ事なれど正倉院文書大寶二年の戸籍に味蜂間郡と書ける味はアとは訓むべからず。或は本來アヂハチマなるをまづヂに當る字を省き更にマに當る字を略せ(77)しにあらざるか。又思ふに梶をカとのみ云へる例あれば(萬葉集卷二十に夜蘇加ヌキ又卷十二に八十梶カケ)味もアとのみ云ひし事もあるにや
大野郡 地理志料に
 按飛騨越前又有2大野郡1三郡相連亙。蓋古一區也
といへる如し
本巣郡 古の美濃國造、後の美濃前國造即本巣國造の治所は本郡の美濃なるべく是郷名が廣ごりて國名となりし所以なるべし
席田郡 續日本紀靈龜元年七月に
 尾張國人|外《ゲ》從八位上席田君|邇近《ニコン》及新羅人七十四家貫2于美濃國1始建2席田郡1焉
とあり。邇近は新羅より歸化せし人の子孫と思はる。爲に本巣郡の内に當郡を置かれしなり。同書天平寶字二年十月に
 美濃國席田郡大領外正七位上子人・中衛無位吾志等言。子人等六世祖父午留和斯知自2賀羅國1慕化來朝。當時未v練2風俗1、不v著2姓字1。望隨2國號1蒙2賜《タマハラム》姓賀羅造1
とあるは邇近の子孫にあらじ。彼は新羅人此は賀羅人、彼は席田君といふ姓あり此は姓(78)なければなり。思ふに邇近の末衰へて午留和斯知の後新に興りしならむ。寶字の記事に據りて靈龜の記事中に新羅人とあるを疑へる人あるは與し難し。催馬楽歌に
 むしろ田の、いつぬき川に、すむつるの、ちとせをかねてぞ、あそぴあへる、よろづよかねてぞ、あそびあへる
とあり。イツヌキ川は今の絲貫川なり。長良川の支源にて席田郡の西を流れたり
方縣郡 大實二年戸籍に御野國肩縣郡肩々里とあり。和銅以前には文字は意に任せて書きしを思ふべし
厚見郡 靈異記巻下の第卅一に美乃國方縣郡水野郷楠見村の一女人が二石を産生せし事を云ひて
 有3比郡名曰2淳見〔二字傍点〕1。是郡部内有2大神1名曰2伊奈婆1。託2卜者1言。其|産《ウメル》二石是我子
と云へり。方縣郡と厚見郡とは長良川を隔てて相隣れり。伊奈婆大神は今岐阜市の稻葉山にいつける伊奈波神社なり
各務郡 今カガミと唱ふれど大寶二年の戸籍に各牟郡とあれば原はカカムと唱へ又第二のカを清みしなり。從ひて加加美之言鏡也といへる志料の説は從はれず
(79)武藝郡 ムゲツの略なる事上に云へる如し。古典に部名を務義・武義など書き此處の豪族の姓を牟宜都君・身毛津《ムゲツ》君・牟下都君・牟義都公・牟義公・身毛君・武義造など書けり。又和名抄の訓註に牟介とあり。されば原はムゲツ又はムゲと唱へしなり。宜・義はゲの假字、介はケの假字なり。今は武儀と書きてムギと唱ふ
郡上郡 文徳天皇實録・延喜民部式・高山寺本和名抄に群上とある事上に云へる如し。地理志料に
 立入氏(○伴信友)曰ク。郡ニ安郡郷アリ。蓋安郡上ヲ修セルナリト。寛知集ニ安具村アリ。此ニ據ラバ讀ミテ阿具乃加美ト云フベシ。塚本氏(○明毅)曰ク。本郡ハ武藝ノ北部ヲ割キテ之ヲ置キシナリ。郡上ハ地勢ヲ以テ之ヲ言フナリト。……大寶二年ノ戸籍ニ牟義郡|郡〔右△〕上里ノ戸主君子部|波尼多《ハネタ》アリ。安郡上ヲ修シタリトノ説是ナルニ似タリ
といへり。和名抄本郡の郷名に郡上あり。又安郡あり。高山寺本には群上・安群と書けり。大寶二年の戸籍に實に郡〔右△〕上里とありや。或は群〔右△〕上里ならずや。右の戸籍は大日本古文書には見えず。ともかくも若郡上がコホリノカミの義ならば齊衡二年の當郡始置の記事に群上とは書かざらむ。右の記事以下に群と書けるを見れば群又は郡はグの借字に過ぎ(80)ざらむ。安群(又は安郡)は寛文印知集の安具村なるべければアグと訓むべく群上(又は郡上)は安群上の略としてグジヤウと訓むべし。抑安群郷の北部を割きて群上郷を置きし上は爾餘の地は群下と稱すべ きを舊稱のままにて措きたるなり(丹波より丹後を分ちし後丹波を舊稱のままにて措きしと同例)
可兒郡 日本地誌提要にカコと傍訓せるは非なり。古うるはしく地名を書くに音訓を交ふる事は無かりき。又當郡出身の可兒才蔵を蟹才蔵とも書けり。又今もカニと唱ふ。國府の址は今の不破郡府中村大字府中なり。垂井町の北に當れり○兵部式に
 驛馬 不破十三疋、大野・方縣・各務各六疋、可兒八疋、土岐・大井各十疋、坂本卅疋、武義・加茂 各四疋
 傳馬 不破・方縣・各務・可兒・武義郡各四疋、大野郡三疋、土岐郡五疋、惠奈郡十疋
とあり。以上十驛は二路に分れたり。即不破以下八驛は近江より信濃に到る驛路に當り武義加茂二驛は美濃より飛騨に到る驛路に當れり。甲は當國を東西に横斷し乙は加茂郡を貰きて北上せしなり。兩路の分るる處は各務驛ならむ。驛路通に不破の後、大野の前に墨俣《スノマタ》を補ひて
(81) 山海兩道の通路として一驛なくばあらず。且尾張新溝驛と前後相距る四五里、其連絡亦無かる可からず。延喜式は佚脱として補ふ
といへり。墨俣はげに東海東山兩路問の要路なり。要路なれども驛路にあらず。驛路にあらざれば驛を置かれざる事勿論なり。驛路通の著者が驛路の事に通ぜざるは怪むべし。以下驛別に云はむ
不破驛 和名抄に不破郡驛家郷とある是なり。近江國坂田郡横川驛の次にて當國の初驛なり。馬數は流布本に三疋とあれど九條家本に十三疋とあり。横川の馬數の十五疋なるを思ひ又國界の山、特に今須の東方なる今須峠を越えざるべからざるを思へば十三疋とあるに從ふべし。さて此驛は今の青墓村なりと云へり
大野驛 抄に大野郡驛家郷とあり。今の揖斐郡豐木村か。同村の大字に大野又野あり。今隣村を大野といふは新名なり。さて驛路は近世の中山道よりは遙に上にて川を渡りしなり
方縣驛 抄に方縣郡驛家郷とあり。今の稻葉郡長良村なりと云へり
各務驛 抄に各務郡驛家郷とあり。今の稻葉郡鵜沼村か。以下は近世の中山道に一致せ(82)り
可兒驛 抄に可兒郡驛家郷とあり。今の可兒郡御嵩町か
土岐驛 抄に土岐郡驛家郷とあり。今の土岐郡釜戸村かと云へり。民部式に
 凡美濃國坂本・土岐・大井三驛、信濃阿知驛子課役並免
とあり。所謂神(ノ)御坂道に當りて驛子の勞苦甚しかりしなり。土岐と大井との順序相違せり
大井驛 以下二驛は惠奈郡に在り。今の惠那郡大井町なり。續後紀承和七年四月に
 太政官奏。去承和五年十一月二日美濃國言。管恵奈郡無v人2任使1郡司暗拙。是以大井驛家〔四字傍点〕人馬共疲、官倉顛仆。因v茲坂本驛子〔四字傍点〕悉逃、諸使壅塞。國司遣2席田郡人國造眞祖父1令v加2教喩1。於v是逃民更歸連v蹤不v絶。遂率2妻子1各|有〔左△〕2本土1云々
とあり
坂本驛 抄に惠奈郡坂本郷とあり。驛址は今の中津町大字駒場ならむ(地理志料同説)。類聚三代格巻七齊衡二年正月の太政官符に
 惠奈郡坂本驛與2信濃國阿智驛1相去七十四里(○今の十二里餘)雲山疊重、路遠坂高。戴v星(83)早撥犯v夜遲到。一驛之程猶倍2敷驛1。驛子負荷常困2遞送1。寒節之中道死者衆。朝庭悲v之殊降2恩貸1永免2件驛子租調1。……今※[手偏+僉]2彼郡課丁1總二百九十六人也。就中二百十五人爲2驛子1八十一人輸2調庸1。比2之諸郡1衰弊尤甚云々
とあり。又主税式上に
 凡諸國驛馬飼秣者國司量2路遠近嶮岨并使往還閑繁1十月以後三月以前爲v例飼養。其嶮路使繁疋|別《ゴトニ》十七束、使稀十束、平路使繋八束、使稀六束。但、美濃國坂本〔二字傍点〕信濃國阿智兩驛並疋別四十五束(〇十七束の倍量卅五束か)
又雜式に
 凡美濃國|互《カタミニ》差2掾若目一人1令v※[手偏+僉]2※[手偏+交]土岐惠奈兩郡雜事并驛家遞送事1
とあり。神御坂道がいかに官民を悩まししかを知るべし
武義《ムゲ》驛 續紀寶龜七年十月に
 美濃國菅田驛〔三字傍点〕與2飛騨國大野郡(○後の益田郡)伴有《トマリ》驛1相去七十四里。巖谷險深、行程殊遠。其中間量置2一驛1名曰2下留《シモトマリ》1
とあり。後に菅田驛を改めて武義驛とせしならむ。菅田郷は和名抄に見えたり(流布本作(84)菅田)。今の武儀都菅田町なり。菅田より金山を經、川を渡りて飛騨國益田郡に入りしなり。民部式に凡飛騨國金山河渡子二人免2※[人偏+徭の旁]役1とあり
加茂驛 高山寺本和名抄に賀茂と書けり。和名抄賀茂郡に驛家郷とある是なり。驛址は今の加茂郡三和村か。各務驛即今の鵜沼より加茂野を經て此に到り、間見峠・袋坂峠などを經て武義驛即今の菅田に到りしならむ。地理志料に蓋自2各務驛1經v此通2可兒土岐1者といへるは如何に思誤れるにか。各務の次驛は可兒なり。各務と可兒との間に豈一驛を要せむや。又此驛なくばいづくを經てか武義驛に通ぜむ。或は云はむ。もし各務より賀茂を經て武義に到るならむには賀茂武義とついづべきを武義賀茂と並べたるは不審なりと。答へて云はむ。かかる例は他國にも有り。たとへば筑前より豐後に到る驛を把伎・廣瀬・隈埼とついでたり。把伎(今の筑前國朝倉郡把木村)は最豐後の界に近きをや
坂本驛の次なる阿智驛は今の信濃國下伊那郡|會地《アフチ》村大字|駒場《コマンバ》なり。されば驛路は今の西筑摩郡即木曾川谿谷を經ずして其東方なる伊那郡即天龍川谿谷を通りしなり。續紀大寶二年十二月に始開2美濃國岐蘇山道1とあり。岐蘇は今の信濃國西筑摩郡なり。此時には美濃國に屬したりしかば美濃國岐蘇山道と云へるにて惠那山を越えて東方天龍川(85)谿谷に下るが困難なれば木曾川に沿ひて東北行する道を開きしなり。次に和銅六年七月に
 美濃信濃二國之堺、徑道險阻往還艱難。仍通2吉蘇路1
とあり。さきに令を撥せしが實行せられざりしかば十一年を經て命を重ねしならむ。十一年前に著手せしが今に至りて成りしにはあらじ。さて追ひては此新道を驛路とする豫定なりしなるべけれど當時新道は人煙稀疎にして驛|站《タン》を設くるに不便なりしかば依然として舊道を驛路とせしならむ。三代實録元慶三年九月に
 令d美濃信濃△國以2縣坂上岑1爲c國堺u。縣坂|山〔左△〕《ウヘノ》岑在d濃國惠奈郡與2信濃國筑摩郡1之間u。兩國古來相2爭境界1未v有v所v決。貞觀中勅遣2左馬權少允從六位上藤原朝臣正範・刑部少録從七位上靱負直繼雄等1與2兩國司1臨v地相定。正範等※[手偏+僉]2舊記1云。吉蘇小吉蘇兩村是惠奈郡繪上郷之地也。和銅六年七月以2美濃信濃兩國之堺、徑路險隘往還甚難1仍通2吉蘇路1。七年閏二月賜2美濃守從四位下笠朝臣麻呂封邑七十二戸田六町1少掾正七位下門部連御立・大目從八位上山口忌寸兄人各進2位階1。以v通2吉蘇路1也。今此地去2美濃國府1行程十餘日、於2信濃|國△《コフ》1最|逼《ヒヨク》近。若爲2信濃地1者、何令3美濃國司遠入v關通2彼路1哉。由v是從2正範所1v定
(86)とあり。美濃信濃の下に兩の字を補ふべし。筑摩郡は今の東筑摩郡なり。縣坂(ノ)上(ノ)岑は美濃國惠奈郡ト信濃國筑摩郡トノ間ニ在リとあれば地名辭書に云へる如く今の鳥居峠ならむ。繪上郷は和名抄惠奈郡の下に見えたり。伴信友の説の如く檜名上(惠奈上)の略としてうるはしくはヱナノカミと訓むべし。美濃國府は上に云へる如く不破郡府中にて一國の西端なり。信濃國と云へるは信濃國府なり。或は國の下に府を落せるにや。信濃國府は今の松本市の邊なり。關は山隘を云へるか。此時定めて美濃國の内とせしなり。地理志料(當國一丁裏)に後至2元慶三年1以2岐蘇1屬2信濃1矣と云へるは誤書又は誤解なり。それより後も木曾所屬の國郡は曖昧にて或は信濃安曇郡の内とし或は美濃惠奈郡の境とし或は單に木曾郡と稱せしを正保二年に信濃筑摩郡に屬し明治十一年郡區編制の時筑摩郡を東西に分ち木曾谷を以て西筑摩郡としき〇日本紀神代下天孫降臨章に
 先v是天稚彦在2於葦原中國1也與2味※[耒+巨]《アヂスキ》高彦根神1友善。故味※[耒+巨]高彦根神昇v天弔v喪。時此神容貌正類2天稚彦平生之儀1。故天稚彦親屬妻子皆謂。吾君猶在。則攀2牽衣帶1且喜且慟。時味※[耒+巨]高彦根神忿然作v色曰。朋友之道、理宜2相弔1。故不v憚2※[さんずい+于]穢1遠自赴v喪。何爲誤2我於亡者1。則拔2其所v帶劔大葉刈1以斫2仆喪屋1。此即落而爲v山。今在2美濃國藍見川之|上《ホトリ》1喪山是也。世人惡2以v生(87)誤1v死此其縁也
とあり。又古事記に
 此時阿遲志貴高日子根神到而弔2天若日子之喪1。時自v天降到天若子之父亦其妻皆哭云。我子者不v死有祁理。我君者不v死坐祁理云、取2懸手足1而哭悲也。其過|所以《ユエ》者此二柱神之容姿甚能相似。故是以過也。於v是阿遲志貴高日子根神大怒曰。我者愛友故弔來耳。何吾(ヲ)比2穢死人1。云而拔2所v御v佩《ハカセル》之十掬劔1切2伏其喪屋1以v足蹶離遣。此者在2美濃國藍見河之河上1喪山云者也云々
といへり(紀は天上にての事とし記は地上にての事とせり)。こは美濃國に傳はりし説話なるべく風土記〔三字傍点〕には無論載せたりけむをその風土記の傳はらぬは遺憾なり。さて藍見川は長良川の上流なる郡上川なり。川の右岸に武儀郡藍見村(新名)あり。其西に大矢田村あり。村の北方に天王山あり。天王山の麓につづきて今も喪山といふ岡あり。天王山に在る大矢田神社に天稚彦をいつき(喪山にもいつけり)藍見村大字笠神にある社に天稚彦の妻下照姫をいつけりといふ○不破關は越前の愛撥《アラチ》・伊勢の鈴鹿と共に古三關の一なるが其設置の時代、史に見えず。ここに天武天皇紀元年に鈴鹿關司云々と見えたり。鈴鹿(88)に關を置きしは寇の近江に入るを防がむ爲なり。されば鈴鹿關を置きしは近江大津宮の時ならざるべからず。然るに鈴鹿に關を置きしのみにては東山又は北陸より來る寇を防ぐべからず。されば不破・愛撥に關を置きしも亦大津宮の時ならざるべからず。元年紀に差2撥諸軍1急塞2不破道1また撥2美濃師三千人1得v塞2不破道1とあるは則且撥2五百軍1塞2鈴鹿山道1とあると同じく關を中心として防備を嚴しくせし事ならむ。一代要記甲集(改定史籍集覧第一珊)に天武天皇白鳳元年初置不破關といひ帝王編年記卷十(新訂増補國史大系第十二册)に天武天皇白鳳二年七月始立不破關といへるは信ぜられず。都を飛鳥に復したまふ上は新に美濃より近江に入らむ寇に備へたまはむ要なければなり。不破關址は今の不破郡關原町大字松尾字大關の大木戸坂に在り。藤川を東に渡りし處なり。大木戸は即關なり。さて此關址より東方が即關が原なり。關が原の名義は不破關に續きたる原野といふ事なり。又大關は小關に對する名にして(相坂關址にも大關小關の名あり)その小關は此道より北方なる傍徑に設けたりしなり。二路即中山道と北國街道との相合ふ處は今の關原町の大字關原なり○次に萬葉集に見えたる地名に就いて云はむ。まづ卷十三に
(89) (百岐年)三野の國の、高北の、八十一隣の宮に、(日向爾)行靡闕〔三字左△〕《キラキラシコ》を、ありとききて、吾|通《カヨフ》路の、奥十《オキソ》山三野の山、なびけと、人はふめども、如此〔二字左△〕《カク》よれと、人はつけども、こころなき山|之〔左△〕《ゾ》、奥磯《オキソ》山三野の山
といふ歌あり。誤字多しと見えて通じ難し。枕辭の事は新考(二八〇一頁以下)に讓らむ。新考に行靡闕を佳麗兒の誤としてキラキラシコと訓みおけり。たとひ字は佳麗兒にあらず訓はキラキラシコにあらずとも美女といふ事ならざるべからず。吾通路はワガユクミチと心得べし。何々ヲアリトキキテとあれば始めて行く趣にて反復往來する趣にあらねばなり。人ハフメドモ・人ハツケドモの人は吾なり。如此依等は片依等などの誤か。カクヨレトにてはナビケトと對せざればなり。山之の之は曾の誤ならむ。高北は恐らくは地形に由れる地名ならむ。地名辭書に「此地方は高原にて高き區分《キタ》なればなり」といへるはいかが。オキソ山は大岐蘇山にて木曾の山々の汎稱なり。元慶三年紀に吉蘇小吉蘇兩村といへる吉蘇には當らじ。三野之山も亦總名にて大岐蘇山を除きたる美濃の東南部(惠奈・土岐・可兒三郡)の山々をいへるならむ。本來岐蘇も亦當時は美濃(惠奈郡)の内なれど此地はおのづから一區を成したれば其山と自餘の美濃東南部の山々とを別ちて云へ(90)るなり。久々利は可兒郡の地名なり。日本書紀通釋に則惠奈郡郷名といへる通證の説を斥けて「今上岐郡に久々利あり」と云へるも亦誤れり。日本紀景行天皇四年二月に
 天皇幸2美濃1。左右奏言之。茲國有2佳人1。曰2弟媛1。容姿端正。八坂入彦皇子之女也。天皇欲2得爲1v妃幸2弟媛之家1。弟媛聞2乘與車駕《イデマス》1則隱2竹林1。於v是天皇權《ハカリテ》v令2弟媛至1而居2于泳《ククリノ》宮1鯉魚(ヲ)浮v池朝夕臨視而戯遊。時弟媛欲v見2其鯉魚遊1而密來臨v池。天皇則留而|通之《メシキ》
とあり。されば久々利は早くより開けたりしなり。八坂入彦皇子は天皇の御叔父なり(御墓は可兒郡久々利村大字久々利字大萱にあり)。されば弟媛は天皇の御從妹なり。さて此歌は木曾を經て久々利に行きし趣なれば信濃の人の作と見ざるべからず。されど上古の信濃人がかかる歌を作り得べくもあらず。又歌詞は長短句ありていと古めかしけれど人麻呂のナビケコノ山に倣へりと見ゆれば人麻呂以後の作と思はる。さて作者は國司中の歌人にて久々利に來て昔筑摩地方より妻を覓めに遙々と久々利宮に來りし青年ありといふ傳説に基づきて作れるならむ。再思ふに弟媛の姉にて弟媛に次ぎて天皇に召されし八坂入媛、七男六女を生み奉りしこと國史に見えたり。其皇女たち久々利宮にましまし其皇女を信濃の青年の來りてよばひきといふ傳説ありしにや。もし然らば(91)八十一隣之宮の宮字はもとのままにてあるべし(萬葉雜話參照)○卷六なる天平十二年に藤原廣嗣が謀反せし事に由りて伊勢美濃に幸したまひし時の歌の中に
 美濃國多藝行宮大伴宿禰東人作歌 いにしへゆ人のいひくるおい人のをつちふ水ぞ名におふ瀧の瀬
 大伴宿禰家持作歌一首 田跡《タド》河の瀧をきよみかいにしへゆ宮つかへけむたぎの野のへに
とあり。ヲツは若返る事、名ニオフは實の名に副ふ事、ミヤツカヘケムは行宮を造り奉りけむといふ事にて野ノヘはやがて野邊なり。元正天皇の養老元年紀に
 八月甲戊遣2從五位下多治比眞人廣足於美濃國1造2二行宮1
 九月丁未(〇十一日)天皇行2幸美濃國1
 甲寅(〇十八日)至2美濃國1
 丙辰(○廿日)幸2當耆《タギ》郡多度山美泉1
 癸亥(○廿七日)還至2近江國1
 甲子(○廿八日)車駕還v宮
(92) 十一月癸丑天皇臨v軒詔曰。朕以2今年九月1到2美濃國不破行宮1留連數日、因覧2當耆郡多度山美泉1自盥2手面1皮膚如v滑、亦洗2痛處1無v不2除愈1。在2朕之躬1甚有2其驗1。又就而飲浴之者或白髪反v黒、或頽髪更生、或闇目如v明、自餘痼疾咸皆平愈。……符瑞書曰。醴泉者美泉。可2以養1v老。蓋水之精也。寔惟美泉、即合2大瑞1。朕雖2庸虚1何違2天※[貝+兄]1。可d大2赦天下1改2靈龜三年1爲c養老元年u
 十二月丁亥令d美濃國立春暁把2醴泉1而貢c於京師u。爲2醴酒1也
同二年紀に
 二月壬申(〇七日)行2幸美濃國醴泉1
 三月戊戌(〇三日)車駕自2美濃1至
とあり。注意せよ。元年には美泉に行幸せしにあらず、不破に行幸せしついでに美泉を覧たまひしなるに。さて不破に行幸せしは恐らくは御祖父天武天皇の御蹟を弔ひたまはむ爲なるべし。又注意せよ。以上の記事の中に瀑布の事なく又天皇が御手面を盥ひ御痛處を洗ひたまひ一般人が飲浴し天皇が大瑞として爲に年號を改めたまひ又醴酒の料として貢せしめ給ひしは皆美泉の水にて瀑布の水にあらざるに。又注意せよ。瀑布に養(93)老と命名し給ひけむ事は國史に見えざるに。又彼美泉に酒氣ありし事は見えざるに。又萬葉集の歌二首の内家持の歌は瀑布の下流なる(恐らくは又美泉の下流なる)多度川の湍の清きをいへるなり。東人のもタギノ瀬といひ又符瑞書の醴泉者美泉也可以養老に據りたるを見れば亦美泉の下流を詠じたるなり。今流布せる傳説の根源は十訓《ジツキン》抄及古今著聞集なり。即十訓抄中第六可v存2忠直1事の十六に
 昔元正天皇御時美濃國に貧しく賤しき男有けるが老たる父を持たり。此男山の草木を取て其直を得て父を養ひけり。此父朝夕あながちに酒を愛しほしがる。これによつて男なりひさごといふものを腰につけて酒を沽る家に行て常に是を乞て父を養ふ。あるとき山に入て薪をとらんとするに苔ふかき石にすべりてうつぶしにまろびたりけるに酒の香しければ思はずにあやしとてそのあたりを見るに石中より水流出る事〔左△〕有(○著聞集ニハ水ながれ出る所あり)。其色酒に似たり。汲てなむるにめでたき酒なり。うれしく覺えてそののち日々に是を汲てあくまで父を養ふ。時に帝此事を聞召て、靈龜三年(○郎養老元年)九月にその所へ行幸有て御覧じけり。是則至孝の故に天神地祇あはれみてその徳をあらはすと感ぜさせ給ひて美濃守になされけり。其酒の出(94)る所をば養老の瀧とぞ申(○著聞集ニハ養老の瀧と名づけられけり)。且は依之同十一月に年號を養老と改められける(○著聞集略同文)
とあり。十訓抄及著聞集は興味ある説話を書留めたるまでにて史實如何と糺したるものにあらざる事云ふまでも無し。其上文中に矛盾あり。即石中ニ水流出ル所アリといへるとソノ酒ノ出ル所ヲバ養老ノ瀧トゾ申といへると相合はず。前者に依れば瀑布にあらずして泉なり。又後者に據れば泉にあらずして瀑布なり。田中大秀の養老美泉辨には
 抑かくめでたまはしし其美泉は今所謂多藝郡なる養老之瀧なも其なる。然るを御代の御紀(○元正天皇紀)に美泉醴泉とのみ記さえたれば其地の山口にいと寒き泉(○所謂菊水)のあるをそれ彼泉と思惑へる人多かり
といひ、さてかの東人と家持との歌を擧げて
 此二首の歌もて菊水は古の醴泉にあらざる事をしり瀧つ瀬即美泉たることをわきまへさとるべし
といへれど二首の歌は所謂美泉醴泉が瀑布の事たる證とすべくもあらず。いとあさましき事ながら大秀は東人の歌に瀧之瀬といひ家持の歌に田跡河之瀧といへるを證と(95)せるにや。家持の歌を釋して「此瀧多度山にあるゆゑ田跡川とはよまれつるなり」といへる(十七丁裏)に由りていよいよ然ならむと思はる。瀧を川と云はむやは、まづ思ふべし。タド河ノ瀧といへるは多度川の急湍なる事論なし。所謂養老瀧并に其他の山水の集まりて川を成せるが多度川なり。抑萬葉集にタキといへるは多くは川の急湍なるが中にもタキノ瀬タキツ瀬とよめるは明に川の急湍なり。即卷三に
 さざれ浪いそこせぢなるのとせ河音のさやけさ多藝通瀬ごとに
と見え卷九なる長歌に
 島山を、いゆきめぐれる、河ぞひの、丘邊の道ゆ、きのふこそ、わがこえこしか、一夜のみ、ねたりしからに、をの上の、さくらの花は、瀧之瀬ゆ、おちてながる云々
と見えたり。前者はノトセ川(今のヘサカ川)の急湍をタキツセといひ後者は龍田川(大和川)の急湍をタキノ瀬といへるなり。右の如くなれば元正天皇紀の美泉は決して所謂養老瀧にはあらず。然らば其美泉は今菊水といふ泉にやと云ふに東人家持の歌が共に多度川の急湍を詠じて美泉其物を詠ぜざるを思へば美泉は夙く(元正天皇の再度の行幸より僅に二十二年の後なれど)涸れ又は變質したりしにあらじやと疑はる。因に云はむ。(96)大秀は醴泉をコサケノイヅミとよめり。こは持統天皇紀七年十一月の近江國|益須《ヤス》郡醴泉の傍訓に據れるなれど此傍訓は妄なり。醴《レイ》には甜《テン》酒と甘泉と二義あり。醴酒はコサケ又はヒトヨザケとよむべけれど醴泉は元來靈泉の冷泉にて、其味甘くて靈酒に似たれば靈泉と稱するにて、靈泉に酒の義は無し(延喜治部式大瑞の條にも靈泉美泉也、其味美甘、状如靈酒とあり)。從ひてコサケノイヅミなどは訓むべからず。音にてレイセンと唱へて可なれど若強ひて訓讀せむとならばアマイヅミ・ウマイヅミ・ウマシイヅミなど訓むべし。醴泉に酒の義ありと誤解せし爲にこそ十訓抄以下の俗説は生ぜしなれ。後世の博士、十訓抄などに惑はされて可ならむや。ここに香川景樹に養老瀧之辨といふ小著あり。刊行せられざれば世に知られず。其書を讀見るに美泉を瀑布にあらずとし、菊水にもあらずとし、醴泉をコサケノイヅミと訓むを非とせり。以上の説皆めでたし。但美泉をやがて多度川の瀧つ瀬なりといへるは口をし。川を泉といふべけむや。なほ枝葉には誤れる事少からず。景樹が此書を作りしは文政九年六月にて大秀が美泉辨を作りしは同十二年九月なり。されば景樹は大秀の説を批評したるにはあらず。さて瀧のある處は今の養老郡養老村大字白石の山中なり。山は多度山の内にてやがて多度といひしを今は取分き(97)て養老といふ。多度山は蜿蜒五六里にして東南伊勢桑名郡に亙れり。多度川は今の白石川一名津屋川にて末は揖斐川に注げり○卷六なる彼天平十二年行幸供奉の作の中に
 不破行宮大伴宿禰家持作歌一首 關なくばかへりにだにもうちゆきて妹が手枕まきてねましを
とあり。此行宮のありしは新撰美濃志に「垂井宿の南の方に今御所野と稱する地なり」といへれどおぼつかなし。又卷二十なる常陸國の防人の作れる長歌にアシガラノ、御坂タマハリ、カヘリ見ズ、アレハクエユク、アラシ男モ、タシシハバカル、不破乃世伎、ワレハクエユク云々とあり。不破關の事は上に云へり○卷二なる高市皇子尊|城上《キノヘ》殯宮之時人麿作歌の中に
 やすみし」、わがおほきみの、きこしめす、そともの國の、眞木たつ、不破山こえて、こまつるぎ、和射見我原の、かり宮に、あもりいまして、天の下、をさめたまひ、をすくにを、定めたまふと云々
といへり。こは天武天皇元年紀に
 六月丙戊(〇二十六日)既到2郡家1(○伊勢朝明郡)先遣2高市皇子於不破1令v監2軍事1。……是(98)日天皇宿2于桑名郡家1
 丁亥(〇二十七日)高市皇子遣2使於桑名郡家1以奏言。遠2居|御所《ミモト》1行政不v便。宜v御2近處1。即日天皇留2皇后1而入2不破1。……到2于|野上《ヌガミ》1。高市皇子自2和※[斬/足]《ワザミ》1參迎。……皇子則還2和※[斬/足]1。天皇於v是行宮(ヲ)興2野上1而居焉 戊子(〇二十八日)天皇往2於和※[斬/足]1※[手偏+僉]2※[手偏+交]軍事1而還
 己丑(〇二十九日)天皇往2和※[斬/足]1命2高市皇子1號2令軍衆1。天皇亦還2于野上1而居之
 七月乙卯(〇二十六日)將軍等向2於不破宮〔三字傍点〕1。因以捧2大友皇子頭1而獻2于營前1(○不破宮といふ事は六月己丑にも見えたり)
 九月己丑朔丙申(〇八日)車賀還宿2伊勢桑名1
といへるに當り、就中眞木タツ、不破山コエテ、コマツルギ、和射見我原ノ、カリ宮ニ、アモリイマシテとあるは天皇が伊勢の桑名郡家より美濃國に入りて野上に行宮を建ててましましし事に當れり。ここに注意せずば誤るべきは不破山と和射見我原との位置の擬定なり。まづ歌に不破山コエテと云へるは桑名郡家より發して後の石津郡と多藝郡とを經て不破郡に到る路の事を云へるなり。其路に當れる山ありや、たとひ有りともそを(99)不破山といふべきか否かは問ふを要せず。人麻呂は無論實地を踏査して此歌を作りしにあらず。ただ伊勢の桑名より美濃の不破に到るには山を越ゆべしと假定して其山を不破山と稱せるのみ。次にワザミは野上よりあなた所謂不破道(即今の今須峠)よりこなたなれば關が原の事ならざるべからず。然るに天皇は二回假に關が原まで行きまししのみにて常に不破宮即野上行宮にましまししなり。されば行宮は野上宮又は不破宮とはいふべくワザミガ原ノカリ宮とは云ふべからず。嚴に云はば人麻呂の地理的認識不足といふべけれど歌は固より史にあらねば強ひて人麻呂を咎むるに及ばず。ただ後人が人麻呂の歌に誤られねばよきなり。次に卷十(新考二二一八頁)に
 和射美能嶺わがゆきすぎてふる雪のつつみもなしとまをせその兒に
といふ歌あり。こは美濃の國府を立ちて京に上る人の途中にて國府より送り來れる者に向ひて云へる趣の歌なり。さてワザミノ嶺は關が原と今須との間に在る山なり。即今の今須峠なり。地名辭書には人麻呂の長歌なる不破山を此山に混同せり。罪は寧人麻呂に在らむ。次に卷十一(新考二四六一頁)に
 吾妹子が笠のかり手の和射見野に吾は入りぬと妹につげこそ
(100)とあり。初二は序なり。こも國府に置ける女に傳語せる趣なり。ワザミ野は即關が原なり。府中の南が垂井、垂井の西が野上、野上の西が關が原にて不破關を過ぎ藤川(今フヂコ川といふ)を渡れば今須峠なり。東海道本線は此道に沼へり○藍見川喪山の次に云ふべきを云ひ忘れたれば今一つ居醒水と玉倉部とに就いて云はむ。景行天皇紀四十年に
 日本武尊更還2於尾張1即娶2尾張氏之女宮簀媛1而淹留踰v月。於v是聞3近江膽吹山有2荒神1即解v劔置2於宮簀媛家1而徒行|之《シテ》至2膽吹山1。山神化2大蛇1當v道。爰日本武尊不v知2主神化1v蛇|之《シテ》謂。是《コノ》大蛇必荒神之使也。既得v殺2主神1其使者豈足v求〔左△〕《コロスニ》乎。因跨v蛇猶行。時山神興v雲零v氷峯|霧《キラヒ》谷|※[日+壹]《クラク》無2復可v行之路1。乃|※[手偏+妻]遑《シジマヒテ》不v知3其所2跋渉1。然凌v霧強行方僅得v出。猶失意如v醉。因居2山下之泉側1乃飲2其水1而醒|之《キ》。故號2其泉1曰2居醒泉〔三字傍点〕1也
といひ古事記景行天皇の段に
 故《カレ》爾《ココ》ニ御合シテ其|御刀《ミハカシ》ノ草那藝劔ヲソノ美夜受《ミヤズ》比賣ノ許ニ置キテ伊服岐能《イブキノ》山ノ神ヲ取リニ幸行《イデマ》シキ。是ニ詔《ノ》リタマハク。茲山ノ神ハ徒手《ムナデ》ニ直《タヾ》ニ取リテム。トノリタマヒテ其山ニ騰リマシシ時ニ白猪、山邊ニ逢ヒキ。ソノ大キサ牛ノ如シ。爾《カレ》言擧シテ詔リタマハク。コノ白猪ニ化《ナ》レル者ハ其神ノ使者ニコソ。今|殺《ト》ラズトモ還ラム時ニ殺《ト》リテム。(101)トノリタマヒテ騰リマシキ。是ニ大|氷雨《ヒサメ》零《フ》リテ倭建命ヲ打惑ハシキ。故還下リマシテ玉倉部之|清泉《・シミヅ》〔六字傍点〕ニ到リテ息ヒマシシ時ニ御心稍寤メキ。故其清泉ヲ居寤清泉〔四字傍点〕トイフ
といへり。此泉を即近江坂田郡の醒が井なりといひ或は美濃不破郡の玉村に在りといひ或は同郡垂井に在りといへり。即古事記傳卷二十八に
 玉倉部は天武紀に近江放2精兵1忽衝2玉倉部邑1とある地よくかなへり。されど今詳ならず。美濃國不破郡なるべし(書紀に山下とあれば伊吹山遠からぬ所に在べし。今不破郡の内彼山近き處に玉村と云はあるなり。なほ次に云べし)
 居寤清泉は在所玉倉部の下に云るが如し。書紀に山下之泉とあれば伊吹山の麓なるべし。そは其次の文に還於尾張とあれば山下は(近江の方には非ず)美濃の方の麓なり。
 此記に還下坐とあるももと登坐し道を還り降り坐りと聞ゆ。此次に當耆野・尾津前《ヲツノサキ》とつづきたる路次も此清水の地美濃ならではかなはざるなり(式に美濃國多藝郡に御井神社あれども伊吹山より遠し。なほ不破郡にて彼山近き地を尋ぬべし。今も遺れることもあるべし。さて後世に近江國坂田郡に醒井と云て名高き清水ありて其里名をも今に醒井と云て驛なり。……醒井と云名は此《ココ》の倭建命の御事に因れるごと聞ゆ(102)るを彼清水は伊吹山よりやや遠く且道のゆくても違へれば是には非るべし)
といひ、日本書紀通繹卷三十二に
 ここに信濃人滋野(○岩下)貞融の不繋舟と云書に(○中卷居醒泉碑に)この居醒泉の事を今の美濃國垂井驛なる一宮南宮仲山神社の邊にある清水の事也として
  膽吹山にほど遠からず尾張國にかへりたまはむ路次よろしく古歌にアヅマ路ノヰサメノ里とよみオモフハ山ノヰサメ里と不破部名をいひかけたるをも合せて東路の不破の中山、わたりに名高ければ居醒泉ならむこといちじるし。此晴水玉倉部にあれば上世にはすなはち玉倉部の泉といひ日本武尊のゐさめ給ひしより居醒泉といふ名のみ高く聞えて即て其里をも居醒里とよびてしを中世よりこなた垂井の泉といへるはしたたる水のさまをもていひそめけんを後遂に里の名にもおほせつるなるべし
 と云り。此説實に然るべし。さて其泉の在所をなほ探るに垂井泉は仲山神社の鳥居を入る事半町許、右の方山の麓に在りと里人云り。決《ウツナ》く此處なるべし
といひ地名辭書醒井の條に
(103) 居寤水 按に玉倉部は柏原村のタケクラベと稱する地若くは美濃國不破郡玉村なるべし
といひ寢物語の條に
 又タケクラベと字す。二國の山その長をくらぶるが故とぞ。……按に長競は古史に見ゆる玉倉部邑歟。古事記に云々天武紀に云々とあり。蓋不破と横川の中間に玉倉部邑あるを知るべし。後世タケクラベと云もの必定タマクラベの訛のみ
と云へり。古事記に
 故還下リマシテ玉倉部之清泉ニ到リテ息ヒマシシ時ニ御心稍寤メキ。故其清泉ヲ居寤清泉トイフ
とあれば玉倉部の所在を明にせば居寤ノシミヅの所在はおのづから知らるべし。その玉倉部は天武天皇元年紀に
 六月壬午(〇二十二日)詔2村國連|男依《ヲヨリ》等1曰。……仍|經《フレテ》2國司等1差2發諸軍1急塞2不破道1
 丙戌(〇二十六日)男依乘v驛來奏曰。發2美濃師三千人1得v塞2不破道1
 秋七月辛卯(〇二日)遣2村國連男依等1率2數萬衆1自2不破1出直入(ラシム)2近江1
(104)とあり。美濃路の先鋒は村國男依にて此時不破道即今須峠にあり、高市皇子は其東なる和※[斬/足]即關が原にましまし、天皇は更に其東なる野上にましましき。さればここに自2不破1出直入2近江1とある不破は不破道即今須峠なり。紀の續に
 時近江命2山部王・蘇我臣果安・巨勢臣|比等《ヒト》1率2數萬衆1將v襲2不破1而軍2于犬上川|濱《ホトリ》1。……(○中間に近江軍内訌の事などあり)先v是近江放2精兵1忽衝2玉倉部邑〔四字傍点〕1。則遣2出雲臣狛1撃追v之
とあり。今須峠の西麓は今須、今須の西は長久寺(今の近江國坂田郡柏原村の大字)にて長久寺と今須との間が彼寢物語なり。忽衝玉倉部邑とあるは近江軍が美濃軍の前線を襲はむとせしなれば玉倉部邑は今の長久寺ならざるべからず。さて長久寺は伊吹山の南麓に當れば紀に山下といひ記に還下リマシテといへると扞格する所なし。然らば長久寺に居寤泉に擬すべき清泉ありやといふにその有無は問題にあらず。抑上古の清泉の今も存在する事は稀有の事なり。世人が今も存在するものと豫定して此處に彼處に清泉を物色して居寤泉に擬せむとするは寧滑稽と謂ふべし。なほ云はむに今の不破郡玉村を以て玉倉部邑に充てむとする説はうべなはれず。前にも云へる如く今の中山道の北に北國街道あり。玉村は此道に當れり。近江軍もし此道に由らば防備嚴しき不破道を(105)避けて直に高市皇子の和※[斬/足]の陣の横を衝くべし。されど此道當時夙く開けたりしか否か知られざるのみならず否恐らくは未開けざりしなるべく(此道に小關を置かれしは後の事ならむ)又若此道に由らむとならばまづ息長《オキナガ》川即今の天《テン》の川を渡らざるべからざるに近江軍の本陣は現に犬上川の邊に在りき。されば玉倉部邑は決して玉村にあらず○彼東常縁が應仁中將軍の命に依りて東國に下りたりし程同國の人齋藤妙椿に其居城を取られしが妙椿、常縁の述懷の歌にめでて城並に領地を返しきといふ美談の中心なる郡上の城は篠脇城にて今の郡上郡山田村大字牧に在りき。又妙椿は加納の城主なりき○當國幕末の治所は美濃郡代陣屋(羽栗郡笠松)大垣(安八郡、戸田氏)郡上一名|八幡《ハチマン》(郡上郡、青山氏)加納(厚見郡、永井氏)高須(石津郡、松平氏)岩村(惠那郡、松平氏)野村(大野郡、戸田氏)苗木(惠那郡、遠山氏)高富(山縣郡、本莊氏)今尾(安八郡、尾張藩附家老|竹腰《タケノコシ》氏)等なり。岐阜は尾張藩領なり。尾張藩は此地に町奉行を置きき
卜部兼倶の神名帳頭註(群書類從所收)美濃不破郡の下に
 金山彦 風土記云。伊弉竝尊生2火神軻遇槌1之時悶熱懊悩因|爲吐《タグリシキ》。此化《コレニナリシ》神曰2金山彦神1是也。一宮也
(106)といへり。纂訂古風土記逸文に之を採れり。但一宮也の三字を削れり。こは一宮也といふこと後世めきたれば此三字は風土記の文に屬せざるもの即兼倶の加へたるものと認めしが故ならむ。按ずるに日本紀神代上四神出生章第四の一書に
 一書曰。伊弉冉尊生2火神軻遇突智1之時悶熟懊悩因爲v吐。此|化爲《ナリシ》神名曰2金山彦1
とありて若風土記の文を是也までとせば其内容全く日本紀の一書と同じく文辭も冉《ナミ》を竝とし突智《ツチ》を槌とし化を化爲とせると終に是也を添へたるとが異なるのみ。されば此文は日本紀の一書に據りて書けるなり。兼倶は若此文を引かむとならば直に原書なる日本紀より引くべく他書に引けるをば孫引にはすべからず。然るに兼倶が特に風土記より引けるはそれに一宮也の三字が加はりたればなり。されば一宮也の三字は風土記の文に屬せるものにて兼倶の加へたるものにあらず。さて國々に一宮を定められしはいつの御世にか明ならねど早くとも延喜式の成りしより後なるべければ此風土記は固より奈良朝時代以前の物にあらず。さりとも延長承平の間の物即一千年以前の舊物かといふに地方相傳の舊聞に據らずしてさながらに日本紀の文を取れる、決して古風土記の樣式にあらず。されば此風土記は假托の書にあらずとも後世の撰にて、其文は(107)古風土記逸文に列すべきものにあらず。さて神名帳なる仲山金山彦神社は今不破郡垂井村の南なる宮代村、その村なる南宮山の北麓に在る國幣大社南宮神社なり(昭和十三年五月四日稿)
 
(108)   飛騨國
 
飛騨國は東は信濃に、北は越中に、西は加賀越前に、南は美濃に續けり。名義は不明なれど國の四周、高山に圍まれて大小の差こそあれ豐後國の日田郡と地勢を齊しくせり。飛騨をヒダとよまでヒダヌと訓みて(騨の音はタヌ)と訓みて眞野《ヒタヌ》の義とすべしと云ふ説は字を飛騨と書けるに眼奪はれて、古書に又斐陀と書き斐太と書けるを忘れたるなり。近世の人往々飛彈と書くは無學の致す所なり。伊呂波字類抄に飛彈と書けるをやなど強辯すべからず。誤書誤寫は古人も免れざる所なり。國名の初出は仁徳天皇六十五年紀に
 飛騨國ニ一人アリ。宿儺《スクナ》ト曰フ。ソノ人トナリ壹體ニシテ兩面アリ。面各相背ケリ。頂合ヒテ項《ウナジ》ナシ。各手足アリ。膝アリテ※[月+國]腫《クワクシユ》ナシ。力多クシテ輕捷ナリ。左右ニ劔ヲ佩キ四手並ニ弓矢ヲ用フ。是ヲ以テ皇命ニ隨ハズ人民ヲ掠略シテ樂トス。ココニ和珥臣ノ祖、難波根子武振熊ヲ遣シテ之ヲ誅ス
とあり。但飛騨國とあるは追書なり。※[月+國]腫を舊訓にヨボロクボとよめり。即ヒカガミにて俗にいふヒツカガミなり。股即大腿は左右各一にして脛即小腿は左右各二なりしなり。(109)國に宿儺の遺蹟といふものを傳へたるはあやなし。持統天皇前紀に
 新羅ノ沙門行心、皇子大津ノ謀反ニ與セシカド朕法ヲ加フルニ忍ビズ。飛騨國ノ伽藍ニ徙セ
とあるぞ國名の眞の初出なる。僧にして皇子の謀叛に與せし、寧皇子を赦して此僧をし誅し給ふべかりしを○舊事本紀の國造本紀に
 斐陀國造 志賀高穴穗朝御世尾張連△祖|瀛津世襲《オキツヨソ》命△大|八椅《ヤツハシ》命定2賜國造1
とあり。然るに同書天孫本紀に
 大八椅命 斐陀國造等祖彦與曾命之子
とあれば世襲命の下に兒の字を補ふべく又彦與曾命は尾張連の傍系なれば祖の上に同の字を補ふべし。國造の治所は今の吉城郡國府村大字廣瀬町の附近ならむ。此地方には前方後圓墳多し○延喜式・和名抄共に大野・益田・荒城の三郡とせり。もとは大野荒城の二郡なりしに後に大野郡の東南部を割きて益田郡を置かれしなり。即三代實録貞觀十二年十二月に
 八日勅分2飛騨國大野郡1爲2兩郡1
(110)とあり。益田は和名抄に萬之多と訓註せり。今或はマスタと唱ふるは訛れるなり。荒城を今吉城といふは近古に改めしなりといふ。今も川の名は荒城川といふ。田中大秀の總社考に
 中世荒字を惡みて改められつれど公の文書こそあれ常に此の郷を今に安樂岐とのみ呼て與之伎と云ては異樣なる如く聞知人まれなり
と云へりり拾芥抄に大野を大原と誤れり○國府は和名抄に在大野郡といへり。地理志料に府阯在2灘郷本母村1といひ地名辭書に
 國府址 今大名田村七日町の邊とす。國府(ノ)惣社并に國分寺此に存ず
 本母《ホノブ》 今灘村の大字とす。高山市街の南に接す(○西北の誤、今は町に入れり)。後風土記に本母は本府の義なりと云へるは謬れり。本母は古訓ホノボなるべく(○いかが)自ら別語とす
と云へり。辭書の説に從ふべし。七日町は今の大野郡大名田町の大字にて宮川の左岸に在り(高山町の大字にも七日町あり。七日町の一部高山町に入れるか)。今の高山町大字上岡木下岡本の二區に亙りて古タチといふ地あり。是府址なりといふ。當國最後の國司を(111)小一條家庶流なる姉小路《アネガコウヂ》氏とす。姉小路氏の事は不分明なること多けれど國の傳を參酌するに建武中興の時姉小路高基當國の國司に任ぜられ基尹・家綱を經て尹綱の時應永十八年に足利氏に滅され、其後一族師言・持言・勝言等相繼いで國司たりしに文明十六年尹綱の孫基綱新に國司に任ぜられ其子済繼、其子済俊まで續ききと云ふ(高基以來の歴代所傳區々なり)。基綱済繼父子は歌人として知られ其短冊は今も少からず傳はれり。俗に高基以下四代を前の國司といひ基綱以下三代又は四代を後の國司といふ。前後の國司共に小島城に居りき。小島城は今の吉城郡古川町大字沼町の山上に在りき。亂世なれば屡山城に籠りけめど事無き時は山下の館にぞ住ひけむ。後の國司の館は西北方杉崎村(今の細江村の大字)の岡前《ヲカマヘ》に在りて柳御所と呼ばれきといふ。沼町も杉崎も共に宮川の右岸に在り。館の附近に細江といふ小川あり。基綱之を萬葉集卷十二なるシラマユミ斐太ノ細江ノスガ鳥ノといふ歌の細江に擬して自細江漁叟(又漁夫)と稱しき。右の如くなれば當時の國府は今の古川町の北方なりしなり。又中の國司は信包《ノブカ》又は高野(共に今の小鷹利《コタカリ》村の内にて宮川の左岸に在り)にありしに似たり。然るに今同郡に國府《コクフ》村あり。村名は新名なれど同村の大字贋瀬町なる廣瀬神社の東方を土人は國府の址といひ(112)傳へたり。附近にコウ峠コウ野コウノ宮(廣瀬神社)などある由なれば地名辭書の如く一概に排斥すべからず。或は平安朝時代の末又は鎌倉時代の始に國司の七日町附近より移り來りたりしにや。廣瀬町は宮川の右岸に在りて七日町よりは下流に、杉崎よりは上游に當れり。此附近は國造治所の址ならむ。但國府といふは國造の治所なりしが故にあらず。國造の治所を國府とは云はざるが故なり○兵部省式に
 驛馬 下留・上留・石浦各五疋
 傳馬 大野郡五疋
とあり。益田郡家に傳馬を備へざること不審なり。益田郡十疋などありしを落したるにあらざるか。下留上留はカミノトマリ・シモノトマリと訓むべし。今下呂上呂と書きてゲロ・ジヤウロと唱ふるは下留上留をゲル・ジヤウルと唱へ僻め更にルをロと訛りし後に呂字を充てたるなり。さて驛路は美濃國|武儀《ムゲ》那武儀驛即今の菅田町より金山町を經、飛騨川を渡りて飛騨國益田郡|大船渡《オホフナト》(今下原村の大字)に到り、さて益田川(飛騨川の上流)の左岸に沿ひて下留驛に到りしなり。今の縣道即益田街道の内所謂中山七里が益田川の右岸に沿へるは金森長近以來即近古以來の事なり。續紀寶龜七年十月に
(113) 美濃國菅田驛(○武儀驛)與2飛騨國大野郡(〇後の益田郡)伴有《トマリ》驛1相去七十四里(○凡十二里)巖谷險深行程殊遠。其中間量置2一驛1名曰2下留1
といひ延喜式民部省に
 凡飛騨國金山河渡子二人免2※[人偏+搖の旁]役1
といへり。金山河は飛騨川なり(馬瀬《マゼ》川にあらず)。さて前人飛騨國とあるを怪しみたれど此川此處にては飛騨と美濃との間を流れたれば飛騨と云へるのみ。なほ落居ずば飛騨路ノと心得べし。下留驛〔三字傍点〕の址は今の益田郡下呂町下呂にて益田川の左岸に在りて益田街道に當れり。次に上留驛〔三字傍点〕の址は今の益田郡萩原町の大字上呂にて、亦益田川の左岸に在りて益田街道に當れり。次驛石浦〔二字傍点〕は今の大野郡大名田町の大字にて宮川の左岸に在りて七日町即國府址の南方又上流に當れり。其距離一里弱なるべし。地名辭書に
 延喜式に石浦驛あれど此にはあらず
と云へるは何の故なるか知られず○萬葉集卷七に
 斐太人の眞木ながすちふ爾布の河ことはかよへど船ぞかよはぬ
又卷十一に
(114) かにかくに物はおもはず斐太人のうつ墨繩のただひと道に
とあり。前の歌は吉野にてよめるなり。丹生川は吉野川の支源なり。但今いふ丹生川にあらで今の小川一名高見川なりとも云ふ。兩者共に河畔に丹生川上神社あり。否上中下三社の内上社は本流の上游に在り。なほ大和國の處に至りて云ふべし。一首の趣は川の幅さばかり廣からで彼我の岸の言語は通へど流急にして舟をさして渡り行きがたきをもどかしみたるなり。又後の歌のヒトミチニはヒトスヂニといふ事にて第三第四の句はそのヒトミチニにかかれる序なり。斐太人は飛騨の國人なり。否特種の技能ある飛騨の國人にてそを當時ヒダビトといひ慣れしなり。飛騨の國人は木樵木工の業にさかしかりき。そは國の内山岳多く平地少くて自然に農耕よりは木を扱ふ事に熟したる爲かといふに木を扱ふ事に巧なるは寧その天性なるべし。當國人は一種の異民族とおぼゆればなり。かかる天性あればこそ好みて山がちなる國に土著せしならめ。賦役令に
 凡斐陀國庸調倶免。毎v里點2匠丁十人1一年一替、餘丁輪v米充2匠丁食1
又民部省式上に
 凡飛騨國毎v年貢2匠丁一百人1。其返抄准2諸國調庸例1
(115) 凡飛騨匠丁役中身死者勿v貢2其代1。役畢還v國者免2當年※[人偏+搖の旁]役1
とあり。この飛騨匠丁即ヒダダクミなり。拾遺集に萬葉集卷十一なるカニカクニモノハオモハズ云々を
 とにかくに物はおもはずひだだくみ〔五字傍点〕うつ墨繩のただひとすぢに
と和げて出せり。さて調庸の代に匠丁を貢せしむるなれば其返抄は他國の調庸の例に准ぜしなり。返抄は受領書なり。役中身死者勿貢其代は仁政たるに相違なけれど諸國より輸しし調庸を受領せし後そが燒失などすとも其代を徴すべきにあらねばそれに准じて身死者の代を貢せしめられざりしなり。さて令に毎里點匠丁十人とありて式に毎年貢匠丁一百人とあるを思へば當時飛騨國の里數は三郡合計十里なりしにや。和名抄に見えたる郷數は餘部《アマリベ》郷を除きて三郡合計十二郷なり。右の年貢一百人の内三十七人を木工寮に、六十三人を修理職に屬せしめられしなり。事は中務省式諸司員の下に見えたり。さて昔時建築工業いまだ普及せず從うて世間は切に飛騨工をぞ求めけむ。然るに當時の制として課役の義務ある人民の妄に郷里を離るることを許さざれば、飛騨工が貢せられて上京する時又は役を終へて歸郷する時人より誘はれ又は自進みて逃亡し(116)て世間の要求に應ずる者少からざりけむ。日本後紀延麿十五年十一月に
 令3天下諸國捜2捕逃亡飛騨工1。若有2容隱1科2違勅罪1
とあり。又同弘仁二年五月に
 制。夫飛騨工者貢進之年課役倶免。至2于逃亡而不1v役何異2調庸之末進1。自v今以後※[手偏+僉]2返抄1拘2解由1一同2調庸1
とあり。拘解由は解由状を拘留して與へざるなり。解由は義務解除なり。此時の太政官符は類聚三代格承和元年四月廿五日の符の中に見えて
 得2飛騨國解1稱。貢2上丁匠1毎v年有v數。事畢之日規2避課役1庸2作他郷1積v年忘v歸。……望請下2知天下1勘責令2言上1者《トイヘリ》。右大臣宣。容2止逃人1律條立v罪。其飛騨之民言語容貌既異2他國〔八字傍点〕1。雖v變2姓名1理無v可v疑。然則留住之奸尤在2所由1。宜3重下知捜勘令2言上1。若有2容隱1者國郡官司准2太政官去延暦十三年符1科2違勅罪1、郷長隣保亦准v之科v之。雇役之家處2杖一百1。……永爲2恒例1以絶2奸源1者《トイヘリ》。職國承知、毎v年附2朝集使1言上
と云へり。三代賓録元慶三年十月に
 八日甲子大極殿成。右大臣設2宴於朝堂院含章堂1。賀v落也。饗d預2作事1四位已下雜工已上及(117)飛騨工等u。親公卿百寮群臣畢會。喚2大學文章生等1令v賦v詩、雅樂寮奏2音樂1。樂※[門/癸]2一曲1之※[門/月]飛騨工等二十許人不v任2感悦1起v座拍v手歌舞。合座大爲2咲樂1云々とあるは年貢一百人の内否木工寮所屬三十七人の内にや。恐らくは當時令式所定の數には達せざりけむ○萬葉集卷十二に
 しらまゆみ斐太の細江の菅鳥の妹にこふれやいをねかねつる
とあり。從來このヒダノ細江を或は飛騨とし或は大和とせり。いづれとも知られず。但飛騨國の細江は山間僻地に在りて當時の國府の附近にもあらず驛路の由る處にもあらず。夙く奈良朝時代の都人に知られけむやおぼつかなし○催馬樂の歌に
 あさんづのはしの、とどろとどろと、ふりし雨の、ふりにしわれを、たれぞこの、なか人たてて、みもとのかたちせうそこし、とぶらひにくるや、さきんだちや
とあり。入文に
 此橋の名はもと淺生津なりけるをさては此曲の此句の節問《フシノマ》に餘りける故に音便にアサンヅとはうたひし也。標に淺水と書たるはかの淺生津を淺生水とも書し生を省きたる也。……さて此橋は越前の鯖江にて今も存在せり。和名抄に越前國丹生郡朝(118)津(阿左布豆)とある是也。此に朝津と書て阿左布豆と訓たるも、もと朝生津なりしを生の字を省る事上の如し云々
といへり。太平記卷二十勾當内侍事といふ條にも淺津橋ヲ渡リ給フ處ニとありて異本には麻生津橋また淺生津橋とあり。然るに飛騨の國人田中大秀は文政九年に文を作りて
 淺水橋は往昔飛騨國益田郡上留驛ニ在リキ。享保年間府司長谷川君(○代官長谷川庄五郎忠崇、即飛州志の著者)碑ヲ其(○益田川の)西岸尾崎村ニ建テテ標シキ。……一條禅閤(ノ)梁塵鈔ニ曰ク。同名越前國ニ在リト。蓋淺水ヲ以テ朝津ニ混ズル者ニシテ恐ラクハ非ナラムカ。順徳天皇ノ八雲御鈔・藤原清輔朝臣ノ初學鈔皆飛騨國ニ在リト云ヘリ。因ツテ以テ證トスベキナリ。上留驛は今ノ上呂村是ナリ。中世新ニ河内道ヲ開キ橋ヲ小坂川ニ架シテ位山道ヲ廢シ此橋亦絶エキ。且《シバラク》此舊號ヲ取リ以テ彼新橋ニ名ヅケキ。因ツテ今ニ淺水橋ト稱ス云々(○原拙劣なる漢文)
といへり。小坂川は益田川の支源にて小坂町の南にて益田川の東潭に注げり。古は上留驛にて益田川を渡りしかば淺水橋は上呂と尾崎との間にかかりしに中世街道變じて(119)益田川の左岸を泝り其支源なる小坂川を渡ることとなりしかば橋を此處に移してなほ淺水橋といふと云へるならむ。
 ○今は再上呂の處に橋を架して之を淺水《アサンヅ》橋と稱し之に對して小坂川なるは朝六《アサムツ》橋と稱すといふ。いとあやなし
催馬樂の彼歌の次に
 さし櫛は、十まりななつ、ありしかど、たけくのじようの、あしたに取り、ようさり取り、とりしかば、さしぐしもなしや、さきんだちや
とあるタケクはタケフの訛、タケクノジヨウは武生國府の掾なるべければ前の歌のアサンヅもなほ越前のアサフヅなるべし(北陸道越前國總説參照)○上文に川名處々に見えたれば一言附加せむに當國に四大川あり。益田川高原川宮川白川是なり。益田川は益田郡の東北部より發し西南に流れ美濃國に入りて飛騨川と稱せられ太田町の東北にて木曾川と合流せり。宮川は大野郡の東部と中部とより發し北流し吉城郡の東部より發せし高原川と合流し越中國に入りて神通川となれり。白川は大野郡の西部より發し越中國に入りて射水川となれり。白川の主源上白川に又二源あり。庄川といひ尾上郷《ヲガミガウ》川(120)といふ。二川の相會點に近き尾上郷川沿岸に白川村大字尾神あり。又その上流に庄川村大字尾上郷あり。射水川の古名を雄神川といふと關係あるにや。一名を庄川といふは雄神村の大字圧に由れるにて飛騨國の庄川の名を繼げるにはあらざるべし。當國の文化の中心は古今共に宮川の流域なり○式内社又當國の一宮にて今國幣小社に列れる水無《ミナシ》神社(○又ミヅナシ又スヰムと傍訓せり)は今の大野郡宮村大字宮に在りて高山町の南方、位山の東北に當れり○當國は元禄以來幕府の直領にて高山郡代(初には代官)之を治めき
         (昭和十三年六月八日稿)
 
(121)   信濃國
 
信濃國は飛騨美濃の東に接し東は上野に(武藏にもすこし)東南は甲斐駿河に、南は遠江參河に、北は越後越中に續けり。文字は文科野・信乃など書けり。信をシナに充てたるは其音シヌを轉用したるなり。名義はシナノ木ノ生ヒタル野といふ事なりなどいへる説あれど當國の郡名に更級・埴科あり郷名に穗科・倉科・當信(訓タギシナか)あり神社の名に波閇科・妻科あり其他にも何科といふ地名の少からざると國名をシナ野といふと無關係にはあるべからず。
 ○隣國上野の郷名にも辛科・笠科・男信《ナマシナ》・生品《イタシナ》などあり
さて此等の地名にシナを下に附けたるを思へばシナは物名即シナノ木・小竹などにはあるべからず。冠辭考シナザカルの註に「信濃國は山國にて級《シナ》坂ある故の名なり」と云へり。此説に從ふべし。シナは階級なり。シナ野は段丘アル原野なり
 ○因にいふ。記傳卷十四(七九一頁)にシナをタクの方言とせるは非なり。シナもタクも共に繊維を産すれどもシナは田麻科の植物、タク即カヂは桑科の植物にて別木なり(122)〇當國に四大川あり。天龍川は諏訪湖より發し南流して遠江に入り、木曾川は西筑摩郡の北部より發し西南に流れて美濃に入り、犀川は西筑寧上伊那二郡の界なる駒が岳より發するもの(奈良井川)と信濃飛騨の界なる乘鞍が岳より發するもの(梓川)との合流にして東北に流れて千曲《チクマ》川に會せり。犀と書くは無論擬字なり。名義は古事記神武天皇の段なる狹井河又佐韋河のサヰにて山百合なるべし(犀の音はサイ)。千曲川は南佐久郡の東南端なる所謂|甲武信《コブシ》が岳より發し西北又東北に流れ上高井・更級二郡の交界にて犀川と合し更に東北に流れ越後に入りて信濃川となれり。二川の相合はむとして相近づける處(郎更級郡の東北部)が彼川中島なり(但廣めては更級・埴科・高井・水内四郡を川中島四郡といふ)。北方、長野市(善光寺)と犀川を隔て東南、松代町と千曲川を隔てたり○國造本紀に石城《イハキ》國造の次に那須國迫を擧げ其次に
 科野國造 瑞籬朝御世神八井耳命孫|建五百建《タケイホタケ》命定2賜國造1
と云へり。思ふに斐陀國造と上毛野國造との間に入るべきなり。古事記に神八井耳命者科野國造等之祖也とあるに合へり。科野國造の前なる那須國造を流布本(延佳本)に須羽國造とせるは誤なり。諸本に從ひて那須に改むべし。恐らくは科野國造の前に在るに由(123)りて後人が私に須羽に作りしならむ。さてこれも本來下毛野國造の次に入るべきなり。シナ野といふ地名は夙く古事記神代下なる建御雷《タケミカヅチ》神が建御名方《タケミナカタ》神と力くらべせし處に
 故追往キテ科野國之洲羽海ニ迫《セ》メ到リテ殺サムトセシ時ニ建御名方神白サク。恐シ。我ヲナ殺シタマヒソ。此地ヲ除《オ》キテハ他處ニ行カジ云々
と見え、垂仁天皇の段に鵠《クグヒ》を追ひ尋ぬる處に
 乃三野國ニ越エ尾張國ヨリ傳ヒテ科野國ニ追ヒ遂ニ高志《コシ》國ニ追ヒ到リテ云々
と見え、日本紀景行天皇四十年に
 於v是日本武尊曰。蝦夷凶首咸伏2其辜1。唯信濃國越國頗未v從v化。則自2甲斐1北轉歴2武藏上野1西逮2于碓日坂1
と見えたり。國造國の廢せられしは無論大化改新の時なり。ただ國名は從來の稱に依りしなり。續紀養老五年六月に割2信濃國1始置2諏方國1といひ同年八月に以2諏方飛騨1隷2美濃按察使1といへり。信濃國の東南部を割きて一國を置きしと美濃按察使をして諏訪飛騨二國を兼治せしめしと矛盾せる如く思はる。恐らくは故こそありけめ。この諏方國に就(124)いて地理志料に
 是時幾郡ヲ柝キテ之ヲ置キシカ史ニ徴スル所ナシ。信濃地名考ニ「古ノ諏方國ハ蓋諏方・佐久・小縣・筑摩・伊那五郡ヲ領ス」トイヘリ。其説之ヲ得タリ。塚本氏ガ伊那諏方二郡ノ地トセルハ謬レリ。飯田武郷、諏方國境考ヲ著シテ詳ニ之ヲ辨ジタリ。予|向《サキ》ニ如蘭社話ニ載セタリ。參考スベシ
といへり。當國三大川(又は四大川)流域中岐蘇川流域は美濃國に屬したりき。爾他の内新置の國に屬せしは天龍川流域、即塚本氏(國郡沿革考)のいへる諏方伊那の二郡にて千曲川及犀川の流域即佐久・筑摩・安曇以北は依然として信濃國に屬したりけむ。ともかくも一時の便宜は永久の不便に抗すべくもあらねば夙く十年後の天平三年の三月には諏方國を廢して信濃國に併せられき(如蘭社話卷十飯田武郷稿、古代諏訪國境考參照)○當國は式にも抄にも伊那・諏方・筑摩・安曇・更級・水内・高井・埴科・小縣・佐久の十郡とせり。訓は抄に筑摩(豆加萬)安曇(阿都|之〔左△〕)更級(佐良志奈)水内(美乃知)埴科(波爾志奈)小縣(知比佐加多)などあり。伊那〔二字傍点〕は中比伊奈とも書きしかど今は元の如く伊那と書く。諏方〔二字傍点〕は中比より諏訪と書く事となれり。スハを諏方と書くはシユの直音ス、ハウの略音ハなればなり。筑摩〔二字傍点〕は今(125)チクマと唱ふれど(近江の筑摩は今ツクマ)古はツカマと唱へしなり。天武天皇紀十四年十月に
 遣2輕部朝臣足瀬等於信濃1令v造2行宮1。蓋|擬《スル》v幸2束間温湯1歟
とあるは即筑摩湯にて(宇治拾遺物語卷六に「信濃國つくまの湯〔五字傍点〕に觀音沐浴の事」といふ一節あり)やがて今松本市の東北に在る山邊《ヤマンベ》(湯《ユノ》原又白絲)温泉なりといふ。かく遠國なる温泉に幸せむとしたまひしは此年四月紀伊國なる牟婁湯が没《ウモ》れて出でずなりし爲にや。或は前年二月及閏四月に
 遣2三野王・小錦下采女臣筑羅等於信濃1令v看2地形1。將v都2是地1歟
 三野王等進2信濃之圖1
といへると關聯あるか。將v都2是地1は遷都の意にはあらず。十二年十二月の詔に凡都城宮室非2一處1。必造(ラム)2兩參1。故先欲v都2難波1とあればなり。アヅミを安曇〔二字傍点〕と書けるは(近江の安曇はアド)曇の一音ヅムを轉用したるなり。和名抄の訓註に阿都之とあるは誤なること論なし。埴科〔二字傍点〕は近古以來ハジナとも唱ふ。さて明治十一年郡區編制の時伊那を上下に、筑摩を東西に、安曇を南北に、水内・高井を各上下に、佐久を南北に分ちしかば今は十六郡に分れ(126)たり。右の内西筑摩は即木曾谷にて古は美濃に屬したりしにいつしか所屬の國曖昧となり郡名の如きも或は恵奈郡(美濃)とし或は筑摩郡又は安曇郡(共に信濃)とし或は木曾郡とせり。拾遺集戀四に
 なかなかにいひははなたで信濃なるきそ路の橋のかけたるやなぞ
といふ源頼光の歌あり。頼光は信濃及美濃の國守たりし事あれど此歌を木曾が當時行政上信濃國に屬したりし證とすべからざるは、なほ源平盛衰記に安曇郡とせるが證とすべからざるが如し。かくて近古まで所屬曖昧なりしに正保二年に信濃國筑摩郡の内と公認し明治十一年の分郡の時西筑摩郡と命名せしなり(美濃國總説參照)。地理志料に天暦以後其地復隷2本州1と云へるは何に據れるにか知らず○國府は和名抄に在筑摩郡といへり。今の松本市の附近なり。地名辭書に
 國府址 今松本町の中とす。故に信府の名あり。……按に信府には國分寺なし。小縣郡に在り。而も此に惣社現存して舊府を表す
 一書に岡本村(?)の字大村に廳と云ふ地あり。廣さ百坪許、古來貢租を免除せらる。是國廳址歟。また此村の南西に國司塚あり云々(○原書の名を擧ぐべきを)
(127)といへり。松本附近には總社といふ神社二所あり。相混ずべからず。甲は筑摩《ツクマ》村の總社八幡宮なり。辭書に云へるものは是なり。筑摩は今は松本市の大字となり市の中心よりは東南に當れり。五萬分一地形圖に筑摩神社と標せるが即右の社にて今は縣社に列せり。乙は淺間村の總杜又六所宮、即今の村社伊和神社にてやがて其地を總社といふ。總社は松本の東方に當り今は本郷村の大字となれり。府址は此附近なり。廳といふ字ある大村も亦今は本郷村の大字にて適《マサ》に大字總社と相隣れり
 〇總社は一國の神々を合せいつけるもの(たとへば播磨國姫路なる射楯兵主神社にては本殿の後に十六箇の祠を二宇に聯ね作りて十六郡の神をいつき、さて本殿の主神と聯ねて總社伊和大明神と稱しき)、六所宮は或六柱の神をいつけるものなれば元來相異なる神社なれど六所宮も亦國府に設くれば六所宮と總社と往々混一せり。國府に六所宮を設けたる例は近國にては下野・相摸・武藏・下總・常陸などなり。さて信濃總社の伊和明神は明應三年に姫路より勸請せしなりといふ○今松本市の西口停車場の前を國府《コクブ》町といふ。無論新名なり。松本即信府の要枢なればかく命名せしなりといふ。人まどはしなり
(128)〇總社二所といふ事に就いて再考ふるに國の總社は本文に云へる如く淺間の總社にて筑摩の總社は筑摩安曇二郡の所謂總社(總鎭守、即代表神社)なり。即信府統紀卷十九松本領諸社記筑摩村八幡宮の條に
 筑摩安曇兩郡ノ内六百六所ノ諸神アリテ其内當社ヲバ惣社ト號セシトナリ
とあり
○兵部省式に
 驛馬 阿知卅疋、育良・賢錐・宮田・深澤・覺志各十疋、錦織・浦野各十五疋、亘理・清水各十疋、長倉十五疋、麻續・亘理・多古・沼邊各五疋
 傳馬 伊那郡十疋、諏|波〔右△〕・筑摩・小縣・佐久郡各五疋
とあり。注目せよ十五驛中麻續以下四驛の馬數、中路の制の如くならざるに、又注目せよ亘理といふ驛二所あるに。思ふに東山道の驛は阿知以下十一驛にて伊那・諏方・筑摩・小縣・佐久の五郡に分屬し麻續以下四驛は別路に屬し其路の經過する郡には傳馬を備へざりしならむ。又前の亘理は千曲川の渡頭にて後の亘理は犀川の渡頭ならむ。なほ次々に云ふべし
(129)阿知驛 阿知以下四驛は伊那郡に屬せしにて美濃の阪本驛より惠那岳の北を經て阿知驛に達せしなり。途に神御坂・園原・晝神などあり。今下伊那郡|會地《アフチ》村の大字に駒場《コマンバ》ありて阿知川に臨めり。是阿知驛址なり。村名の會知はた阿知の轉訛ならむ。延喜式の阿智神社は晝神に在り。晝神は駒場より遠からねども智里《チサト》村に屬せり。日本後紀延暦十八年九月に
 信濃國伊那郡阿智驛驛子永免2調庸1。以2道路險難1也
とあり
育良辞 イカラとよむべし。今飯田町の西南に伊賀良村あり。近古まで飯田以南阿知川以北を伊賀良莊といひし由なれば育良驛址は今の飯田町ならむ
賢錐 賢は堅の誤字ならむ。現に高山寺本和名抄には堅錐と書けり
 ○ナノリ名に賢をカタとよむは同音の堅字の訓を借れるならむ
今上伊那郡上片桐村に片桐あり。飯田町の東北に當りて三州街道を擁せり
宮田驛 同郡に宮田《ミヤダ》村あり。前驛の東北に當りて亦三州街道を擁せり
深澤驛 諏訪郡の内なれど遺址不明なり。信濃地名考に諏訪湖西の三澤ならむと云ひ(130)地理志料に深澤をミサハと訓みて右の説に迎合せり。三澤は今の川岸村の内なり。又地名辭書には上伊那郡中箕輪村の澤かと云へり。抑三州街道を北上するに上伊那郡箕輪村松島の北にて道路岐分せり。東なるを岡谷《ヲカノヤ》街道とし西なるを三州街道の續とす。宮田驛より國府即松本市に到るには直に三州街道を北上して東筑摩郡鹽尻町を經過すべし。若諏訪郡三澤に驛あらば岡谷街道に由りて天龍川を渡り更に鹽尻峠又は筑摩地《ツカマヂ》峠を越えざるべからず。然も出づる處は同じく鹽尻町なり。何に由りてかかる迂路の險路を取らむ。或は思ふに今中央本線に治へる松島より北方の三州街道は昔は無かりしものにて古は岡谷街道に由る外なかりしにや。深澤驛を三澤に擬するには先上記の街道の昔は無かりしことを前提とせざるべからず。澤に擬する説はた從はれず。澤は岡谷街道に當り又澤とすれば次驛覺志との距離遠きに過ぐればなり。後に伊那志略を讀むに
 深澤 今廢ス。竊ニ按ズルニ松島ノ北ニ深澤川アリ。深澤驛は必是地ニ在ラム。延喜式深澤ヲ以テ諏訪郡ニ屬セリ。故ニ地名考諏訪ノ三澤ヲ以テ之ニ充テタリ。箕輪以北は本是諏訪郡ノ地ナリ。今斷ジテ深澤川ヲ以テ深澤驛トスルハ恐ラクハ誤ラザラム。此ヨリ筑摩郡覺志ニ至ラムニ亦道路順タルナリ(○原漢文)
(131)といへり。此説首肯すべし。さらば深澤驛は松島に擬すべし。本書の著者中村元※[立心偏+亙](初醫後儒)は伊那郡の人なる上に久しく箕輪に住みたりしかば此地方の地理に精しかりき。箕輪附近は和名抄に見えたる諏訪郡弖良郷の内なり
覺志驛 武藏國荏原郡の郷名に覺志ありて其訓註に加々之とあればこれもカカシと訓むべし。今の東筑摩郡廣丘村の大字|堅石《カタセ》はカカシの轉訛なりといふ。實に是か。尚考ふべし。國府のこなたにて最國府に近きは此驛なれど距離なほ達し。驛路通には筑摩といふ一驛を補ひたれどそは著者の妄想のみ。再思ふに覺志驛址は今の鹽尻町にて此より桔梗原を經て國府に到りしか
錦織驛 地理志料に
 郡ノ東北ニ矢久村アリ。矢久ハ疑ハクは驛家《ヤケ》ノ轉呼ナリ
と云へれど矢久は經由すべからず。地名辭書に
 國府より此に至り一路は本道浦野に向ひ一路は越後道朝績に向ふ。即其路岐とす。今の會田の五常村蓋古驛なるべし
 東山道は錦織より小縣郡の浦野驛に向ふ。されば中川村の立峠を踰えしものとす(○(132)會田の下)
と云へり。即今の松本街道即上田路に擬したるなり。今縣道は上川手村の大口澤にて上田路と池田路とに分岐したれど古の分岐點は岡田村大字岡田町のハヅレなり。されば錦織驛址は岡田町にて(さらば國府に最近きは此驛なり)次驛浦野に到るには保幅寺峠を越えて青木に下りしならむ。今|錦部《ニシキベ》村あれど新名なり
 ○松本藩主水野忠職の時岡田を馬次とし稻倉《ヒナクラ》峠・保福寺通りを江戸往來とせしは偶然に古驛路に復せしなり。此道は當時始めて開きしにあらず。夙く天文十九年に武田信玄が松本の小笠原長時を攻めし時佐久郡より小縣郡にかかり浦野を經て保幅寺口に出でし事あり
浦野驛 今の小縣郡青木村の内なり。地理志料に
 當時路、茲ヨリ岐レ一ハ佐久郡長倉ヲ經テ上野國ニ道ジ一ハ水内郡多古ヨリシテ越後ニ至リシナリ
と云へるは誤れり。二路の相分れしは錦織驛なり。地名辭書に
 沓掛 今青木村の大字とす。浦野町の西二里にして保幅寺峠の下一里、即延喜式浦野(133)驛十五疋とある古|站《タン》にして筑摩府より此を經て亘理清水に向へる者とすと云へり。前に
 保福寺峠 近世松本上田間の通路とす
 會田 東山道は中川村の立峠を踰えしものとす
と云へると矛盾し余の説と合致せり。今浦里村に浦野あるは元來此地方の汎稱なるが一局部に殘れるなり
曰理《ワタリ》驛 延喜式流布本に亘理とあるは誤なり。和名抄高山寺本に日理とあるも未正しからず(但古寫本には往々曰を日と書けり)。さて此曰理は千曲川の渡津にて上田附近なることは確實なり。常識を以て思へば神《カン》川が千曲川に注げる處より上手なる如く思はるれど將門記に將門が貞盛を殺さむと欲してその東山道を經て上京するを追ひし處に
 以2承平八年(○天慶元年)二月中旬1自2山道1京上。將門具聞2此言1告2伴類1云。……以2二月廿九日1追2著於信濃國少縣郡國分寺之邊1。便帶2千阿《チクマ》川1彼此合戰間無v有2勝負1
とあり。帶千阿川とあれば貞盛は夙く川を渡りしなり。國分寺之邊にて對岸の貞盛と戰(134)ひしを思へば貞盛の渡りしは即東山道の渡津は國分寺の邊なり。國分寺は今の小縣郡神川村大字國分に在りて上田市の東南、神川の西北に當れり。されば曰理驛は國分寺の附近にぞ在りけむ
清水驛 地理志料に小諸ノ近邑ニ在ルカといひ地名辭書に
 亘理と長倉との中間なれば佐久郡の西端にして小諸の邊なるべきこと推斷すべし
といへり。げに然り
長倉驛 今の北佐久郡輕井澤町(舊名東長倉村)の西南部に大字長倉ありて西長倉村に亙り長倉の内に古宿《フルジユク》あり古宿の東に沓掛あり。されば驛址は古宿・沓掛の附近なり。此より碓氷峠を越えて上野國坂本驛に到りしなり○以上十一驛中阿知・育良・堅錐・宮田は伊那郡に、深澤は諏方郡に、覺志・錦織は筑摩郡に、浦野・曰理は小縣郡に、清水・長倉は佐久郡に在りて共に東山道に屬せしなり。就中錦織驛に對しては錦服郷あり。麻績以下四驛は志料及辭書に云へる如く旁徑即越後路に屬せしなり。志料に
 麻績以下ノ四驛ハ浦野ヨリ(○否錦織より)岐レ以テ越後ニ通ゼシニテ所謂小路ナリ。馬匹ノ多少ヲ視テ知ルベシ。信濃地名考此ニ察セズシテ麻績以下ノ地ヲ以テ諸ヲ小(135)縣佐久二郡ノ間ニ求メタルハ謬レリ。故ニ聊之ヲ辨ズ(〇二十七丁)
といへり。此書の著者も初には地名考に惑されきと見えて筑摩郡の部に清水曰理二郷を補ひて其下に清水驛・曰理驛の事を云へり
麻績《ヲミ》驛 和名抄に麻續と書けり。積と續とは固より別字なれど古書に往々麻績を麻續と書けり。曰理を亘理と書ける類ならむ。和名抄更級郡郷名に麻績あり。然るに近古の國圖に筑摩郡の北端|猿馬場《サルガバンバ》峠の南方に麻績と標せり。今の東筑摩郡麻績村是なり。麻績川之を貫けり。いつの世にか郡界の移りしなり
曰理驛 地名辭書に
 麻績と多胡の間なる驛名にして多胡は水内郡に在れば此亘理は犀川の渡津を指したること明白とす。地形を推論するに丹波島に外ならず
と云へり。丹波島は、狹義の川中島にて今の更級郡青木島村の内なり。青木島村と長野市との間に今橋ありて犀川に架せり。之を丹波島橋と稱す
多古驛 今上水内郡若槻村の大字に田子ある是なり
沼邊驛 志料に
(136) 蓋野尻池ノ上ニ在リ。因リテ名ヅケシナリ
といひ地名辭書に
 多胡より沼邊を經由して越後に入る。而も式に越後國に於ける信濃路の驛名を載せず。行程稍明ならず。多胡より次驛を推求すれば古間《フルマ》柏原の邊ならざるべからず。或は疑ふ。古間とは古驛の訛言にやと。一説沼邊は湖畔の義なれば野尻なるべし(沼尻《ヌシリ》の義)とも云ふ
と云へり。いづれとも決しがたし。野尻湖は上水内郡の東北部に在り。東西約二十町南北約十町、其水、北に決して關川となり荒川となりて直江津の東にて海にそそげり。驛路は此川の西方を北行して直江津の國府に到りしなり。信濃國の驛路と越後國との關係は長門國の驛路と石見國との關係に似たり。即長門國十五驛の内阿津以下十驛が山陽道に屬せずして石見國に通ずる小路に屬せる事なほ當國十五驛内麻績以下四驛が東山道に屬せずして越後國に通ずる小路に屬せる如し。かく小路を派生せしめたる所以は北海に面せる國々は外船來著の虞あるが故に特に別路を設けて隣道と連絡せしめ(彼は山陰山陽を、此は北陸東山を)以て緩急に備へしにや。又長門國小路の終驛小川と石見(137)國府との連絡の斷えたると信濃國小路の終驛沼邊と越後國府との連絡の斷えたるとも相似たり。長門信濃に小路を設けながら石見越後に小路を設けざれば一簣の功虧けたるにあらずやといふに此小路の主として利用せらるるは上路(即國司より急を中央に告ぐる時)なるべく其時には國府より馬を發して足るべければ費を嫌ひて國府より國界までを空しくせしなるべし。更に思ふに越後の驛路は滄海《アヲミ》・佐味サ《ミ》の間に杜絶の恐ある處あれば旁傍路を設くる必要ありしにや
當國の國分寺が今の松本市附近に在らずして上田市の東方に在る事は上に云へり。抑いづれの國にても國分寺は國府の附近に存ずる例なるに此國のみ然らざるは不審なり。驛路通に
 當國の國府その創置は小縣郡にて今も上田町の常田に國衙臺とて國府の墟あり。國分兩寺は其東北に並び存ず。諏訪大宮とて總社もませり。その筑摩郡に遷府せし年代は記録なけれども貞觀中美濃信濃の國界を縣坂岑に定むる議に此地去2美濃國府1行程十餘日、於2信濃國|府〔右△〕1最爲2逼近1とあり(○府の字流布本に無し。余も夙く補ひつ)。松本より鳥居峠(縣坂)へ十里、一日程なれば十餘日に對して逼近といふも不可なし。此時は既(138)に遷府せし後なるを知る。是より二十年前承和八年二月に信濃國言。地震。其聲如雷。一夜間九十四度。牆屋倒頽公私共損とあり。此災に逢ひて府廳移轉せしものと覺ゆ
と云へり。獨斷速了の多き著者の言なれど少くとも其一部分は傾聽せらるべし。
 ○諏訪大宮とあるは科野大宮の誤か。常田はトキダと訓むべし。國衙臺の事は初聞なり。但おぼつかなし。尼寺址は今なほ不明なれども小縣郡丸子町字大峽かと云へり。其地は國分寺址より離るること二里許にて剰千曲川を隔てたり。「國分兩寺は其東北に並び存ず」と云へるまづ疑ふべし
信濃國分寺之研究にも國府移轉説を取れり。但國分寺と國府といたく相離れたる例も無きにあらず。たとへば安藝國の國分寺は賀茂郡西條町の東北方に、同じき國府址は安藝郡府中村に在りて其聞八里許離れたり(又相摸國參照)〇日本紀景行天皇四十年に
 於v是(○甲斐國酒折宮にましまして)日本武尊曰。蝦夷凶首咸伏2其辜1。唯信濃國越國頗未v從v化。則自2甲斐1北轉歴2武藏上野1西|逮《イタル》2于碓日坂〔三字傍点〕1。……於v是分v道遣2吉備武彦於越國1令v鑒2察其地形嶮易及人民順不可1。則日本武尊進入2信濃1。是國也山高谷幽、翠嶺萬重。……然日本武尊披v烟凌v霧遙徑《ワカル》2大山1。既逮2于峯1而飢之、食2於山中1。山神|令《メム》v苦v王|以《トテ》化2白鹿1立2於王前1。王(139)異v之以2一箇蒜1彈2白鹿1則中v眼而殺之。爰王忽失v道不v知v所v出。時白狗自來有2導v王之状1。隨v狗而行之得v出2美濃1。吉備武彦自v越出而遇之。先v是度2信濃坂〔三字傍点〕1者多得2神氣1以※[病垂/莫]臥。但從v殺2白鹿1之後踰2是山1者嚼v蒜塗2人及牛馬1自不v中2神氣1也
とあり。古事記には
 還リ上幸《ノボリマ》ス時ニ足柄之坂本ニ到り御粮《ミカレヒ》食《ヲ》ス處ニ其坂ノ神白鹿ニ化《ナ》リテ來立チキ。爾即《カレ》ソノ咋遺《ヲシノコリ》ノ蒜ノ片端モテ待打チマシシカバ其目ニ中リテ打殺サレキ。故其坂ニ登リ立チテ三歎シテ阿豆麻波夜ト詔《ノ》リマシキ。故其國ヲ阿豆麻トハ謂フナリ。即其國ヨリ越エテ甲斐ニ出デテ酒折宮ニマシマシシ時ニ……其國ヨリ科野國ニ越エテ科野之坂ノ神ヲ言向《コトム》ケテ尾張國ニ還リ來マシテ云々
とありて巡歴の路次、日本紀と異なるのみならずアヅマハヤと三嘆したまひし處をも蒜を以て白鹿を打ちたまひし處をも共に足柄之坂本とせり(日本紀には甲を碓日坂とし、乙を信濃坂の山中とせり)。兩書の所傳いづれ正しきにか今にしては知るべからねど今はしばらく日本紀に據りて地理を説明せむにまづ碓日坂〔三字傍点〕は今の國道の碓氷峠よりは三十町許北に隔たりて峠といふ處即熊野神社の在る處なり。今の國道は明治十年に(140)開きしなり。輕井澤の内舊輕井澤は舊道に沿ひ新輕井澤は新道に沿へり。碓日は又碓氷・臼井・笛吹など書けり。但ウスヒ(ウスイ)を笛吹とは書くべからず。思ふになまさかしき者の※[竹冠/于]吹の字を充てそめけむにその※[竹冠/于]はフエなれば終に原《モト》を忘れて笛吹と書くこととぞなりにけむ(千曲之眞砂二五頁參照)。次に大山又山中といへるは信濃國伊那郡より美濃國に出づる路なり。信濃坂〔三字傍点〕は今の神坂峠なり。但古書に碓日坂をも信濃坂といへり。即推古天皇三十五年に
 夏五月有v蠅聚集。其凝累十丈之。浮v虚以越2信濃坂1。鳴音如v雷。則東至2上野國1而自散
とあり。さて今下伊那郡|智里《チサト》村に(神坂峠より三里許東に)晝神といふ處あり。晝神は嚼蒜《ヒルカミ》の擬字にて日本武尊の故事に據れる名なりといふ。自越出而遇之とは越中より飛騨を經て美濃に出でて尊に遇ひ奉りしならむ○以下當國の地名の萬葉集に見えたるを擧げむ。卷十四(東歌)未勘國歌に
 かの子ろとねずやなりなむはだすすき宇良野の山につくかたよるも
とあり。第三句はハダススキノ生フルといふことを略したる枕辭ならむ。ツクは月の訛なり。野外に女の來り逢はむを待ちくたびれたる趣なり。この宇良野を古義に小縣郡の(141)浦野ならむと云へり。或は然らむ。然らばウラ野ノ山は浦野の西方の山なり。保福寺峠を經て東北に下れば浦野驛址なること上に云へる如し○同卷に
 信濃ぢはいまのはりみちかりばねにあしふましなむくつはけわがせ 
とあり。シナヌヂは信濃國の驛路なり。イマノハリミチは新に開通せし道路なり。このイマノハリミチを地名辭書に和銅六年に開通せし吉蘇路としたれど吉蘇路は當時美濃路にして信濃路にあらず又驛路にあらざるをや○同卷に
 信濃なる須我のあら能《ノ》にほととぎすなくこゑきけばときすぎにけり
とあり。時とは夫ノ歸リ來ルベキ時なるべし。須我ノ荒野の所在は不明なり。地名考・古義名處考・地理志料などは伊那郡の菅野村(今の下伊那郡|下《シモ》條村の内)とし略解・地名辭書などは和名抄筑摩郡宇賀郷の内とし
 ○宇賀は曾加と訓註したれば字は誤字なることしるし。高山寺本には崇とし略解には苧とし(さては音訓相雜)地理志料には宗とせり。まづ志料に從ふべし
特に辭書には「梓川と楢井川の間なる曠野とす」といへり。さらば松本市の西南に當れり○同卷に
(142) 信濃なる知具麻のかはのさざれしもきみしふみてばたまとひろはむ
とあり。千曲川は又千阿川又筑摩川と書けり。南佐久郡の東南端即上野・武藏・甲斐との界より發せり。古義名處考に「筑摩郡にある河なり」といへるは妄なり。佐久小縣を貫き埴科更級の間、高井水内の間を經て越後に入れる川にて筑摩郡は通らず○同卷信濃國歌に
 中麻奈にうきをるふねのこぎでなばあふことかたしけふにしあらずば
とあり。久老の信濃漫録に
 彼國人小泉好平がいひけるはこは水内郡に中俣といふ村あり。そこなるべし。といへり。その地は千隈川へ犀川とすすばな河の流れ落る河股なり。今も上古船をつなぎし木ぞとて大樹の殘れる、村の内にありといへり
といへり。ススバナ川(煤鼻川)は裾花川なるべし。その裾花川は戸隱山より發し長野市の西を下りて犀川に注げる川なるが其附近に中俣といふ處なし。國圖を按ずるに中俣村はそれより遙に東北方に當りて小川の西より來りて千曲川に注げる北岸に在り。今の柳原村大字柳原に當るべし。恰長野市と須坂町との中程に在り。千曲川を下る川船の停泊して鄙ながら榮えし處にや○同卷に
(143) ひとみなのことはたゆとも波爾思奈の伊思井の手兒がことなたえそね
とあり。波爾思奈は埴科郡なり。コトは便なり。手兒は少女の愛稱なり。石井といふ處は今聞えず○卷二十なる信濃國防人の歌に
 ちはやぶる賀美乃美佐賀にぬさまつりいはふいのちはおもちちがため 右一首主帳埴科郡神人部|子忍男《コオシヲ》
とあり。イハフはイノル、オモチチは父母なり。神の御坂の事は夙く云へり。伊那郡より美濃の惠那郡に越ゆる山路即驛路に當りき。今神坂峠といふ○次に萬葉集以外の歌に見えたる二三の名所に就いて云はむにまづ伊勢物語第八段に
 昔男ありけり。其男身をやうなき物に思ひなして都には居らじ、住むべき所求めむ、とて行きけり。信濃國淺間のたけに烟のたつを見て しなのなるあさまのたけにたつけぶりをち方人の見やは咎めぬ
とありてそれより參河國八橋・駿河國うつの山・武藏國と下總國との中なるすみだ川まで行きし趣に記したれど、たとひ「道知れる人もなくて惑ひ行く」とも信濃の淺間より參河の八橋には到るべからず。恐らくは此歌は八橋以下の歌と別時の作ならむ。淺間山は(144)當國北佐久郡と上野國|吾妻《アガツマ》郡との界に聳えたる活火山なり。輕井澤及碓氷峠は其東南麓に當れり。此山の峰より常に立昇る烟は實は水蒸氣及ガスにして火烟にあらず。日本紀天武天皇十四年に
 三月……是月灰零2於信農國1草木皆枯焉
とあるは此山の噴火なるべく、さらば此山の噴火の書に見えたる始なり○新古今集戀一なる坂上是則の歌に
 その原やふせやにおふるははき木のありとはみえてあはぬ君かな
とあり。ソノ原ノフセヤノハハキ木を歌によめるはこれが始なり。是則は恐らくは風土記に據りてや〔八字傍点〕よみけむ。抑フセヤには二義あり。萬葉集卷三にフセヤタテツマドヒシケムとよめるは卷五にフセイホノマゲイホノウチニとよめるフセイホと同じくて陋屋なり。之に反してソノ原ノフセヤなどのフセヤは布施屋にて無料宿泊所なり(布施屋の事はたとへば元慶四年紀に見えて越後國總説渡戸驛の下に引けり)。昔僧侶などが旅行者の山中にて露宿せむことを憫みて園原に布施屋を建てけめど其事書に傳はらず。又その布施屋は夙く亡びてただ其處にフセヤといふ地名を殘ししなり。中古の書に園原(145)の伏屋と書けるは借字なり。之に誤られて伏屋即陋屋と布施屋とを混同すべからず。さてそのフセヤといふ處に箒木と稱せられたる木がありしなり。袖中抄卷十九に
 顯昭云。ははき木とは信濃國にそのはらふせやといふ所に杜あり。その社にて見れば箒に似たる木の末のあるを立寄りて見れば其木も見えず。となん申傳へたる
といひ家成卿歌合の基俊判を引きたる中に
 昔風土記と申ふみ〔七字傍点〕よみ侍しにこそ此ははき木のよしは大略みえ侍しか。されど年久にまかり成てはかばかしくおぼえ侍らず。件木は美濃信濃兩國の界その原ふせやと云所にある木也。遠くてみれば箒をたてたるやうにてたてり。近くてみればそれに似たる木もなし。然《サレ》ばありとはみれどあはぬ物にたとへ侍云々
とありて其次に
 無名抄云。此歌の心たしかにかきたるものなし云々
とあれば俊頼は風土記を得見ざりしなり(此無名抄は鴨長明のにあらで所謂俊頼口傳なり)。園原の事は上にも云へり。今の下伊那郡|智里《チサト》村の内なり。五萬分一地形圖に神坂神社の東に箒木と標したり。夙く箒木の材なりといひて或人の得させし物あり。又近古の(146)人の旅行記に箒木を見し由(然も園原ならぬあだし處にて)記せるものあれど風土記時代の大木が今に殘りたらむことおぼつかなし○古今集雜一に
 わが心なぐさめかねつ更科やをばすて山にてる月をみて
とあり。ナグサメカネツとあれば此月ヲ見テモといふやうに聞ゆれど、もしさる意ならば見テモと云はざるべからず。このモは雖のモにて大切なる辭なれば略すべからず。さればこは旅行者が此處に來て明月を見、姨捨といふ山の名を聞きて身の老を嘆きたる趣なり。我心ナグサメカネツは我心ガ黯然トナツタといふ意なり。姨捨山は更級郡更級村の南偏に在りて同郡上山田村及東筑摩郡に接し中央本線|篠井《シノノヰ》線ヲミ驛とヲバステ驛との間、冠著《カムリキ》隧道の東に聳えたり。古は信濃の國府より越後の國府に到るに此山の西方を通りしなり。姨捨山一名冠山又冠著山又更科山といふ。此山に就いて大和物語・俊頼無名抄・袖中抄(卷十七)などにまことしく甥又は姪の姨を捨てし傳説を述べ たり。此傳説はもと好事者が姨捨といふ名に彼孝子傳なる原穀の父が親を棄てし話又漢籍佛經に見えたる棄老棄母の故事を思ひ寄せて作爲したるものなり。無益なる事ながら左に俊頼無名抄に見えたるもの(此方大和物語に見えたるより短ければ)を掲げむに
(147) 此歌は信濃國更科の郡にをばすて山といふ所のあるなり。昔人の、姪を子にして年來養ひけるが母のをば年老いてむつかしくなりければ八月十五夜の月隈なくあかかりけるに此母のをばをすかしいでて其山にすててかへりにけり。只一人山の頂にゐて夜もすがら月を見てながめける歌也。さすがにおぼつかなかりければみそかに立歸りて聞ければ此歌をぞうちながめてぞ泣きをりける。其後此山をばをばすて山と云也。そのさきは冠山〔二字傍点〕とぞ申ける。冠のこじに似たるとや云々(〇二本對※[手偏+交])
といへり。然らばいかでかかる名は起りけむ。ここに和名抄更科郡の郷名に小谷あり。流布本に乎宇奈と訓註したるは無論誤なり。邨岡良弼氏はその姨捨山古名考に「小谷は小長谷《ヲハツセ》の略にてヲバステは小長谷の訛音にあらぬか」と云へり。されど又その地理志料に一説小谷修2小長谷1也と云へれば小谷を小長谷の略とする説は邨岡氏の創見にあらざるに似たり(按ずるに信濃地名考の説なり)。ともかくも八幡・稻荷山・桑原・鹽崎の諸村(今の八幡村・桑原村・稻荷山町・鹽崎村にて共に姨捨山の北方に相續けり)を近世までも小谷《ヲダニ》莊と呼びし由なる、其小谷莊は和名抄の小谷郷なるべき事又地名を強ひて二字とするに付きて中間の一字を略しなほ三字の時のままに唱へしを後に文字に引かれて唱呼を(148)改めし事は諸國の地名にあまた例ある事なれば今も小長谷を略して小谷とし(地名考に小長谷部の略とせるはわろし)なほヲハツセと唱へしを後にヲダニと唱へ更へしならむ。さてヲバステ山はそのヲハツセ郷の附近に在る山なればもとヲハツセ山(又はヲバツセ山)といひしをタ行とサ行とは相通ずる音なれば終にヲバステと訛られしならむ。右の小谷荘鹽崎村に式内長谷神社あり。特選神名牒に
 今按、當社鎭座の地を長谷郷山〔四字傍点〕といひ其山は鹽崎村の内長谷村〔三字傍点〕の地内にして此邊より以南を小谷庄と稱す。古事記に神八井耳命者小長谷造・科野國造等之祖也とみえたれば神八井耳命の當國に所縁あること知るべく庄名を小谷と云は小長谷の略〔小谷〜傍点〕、社號を長谷と云も小の字を省きたるにて神八井耳命の裔孫小長谷氏此地に居住し其祖神を祭れるなるべし
と云へり。萬葉集卷二十信濃國防人の歌の中に少長谷部《ヲハツセベ》笠麿の作あり。但郡名を記さず。前者(埴科郡神人部子忍男)と同郡なるに由りて略したるか。少は小の通用なり(如蘭社話卷四十一參照)。更に思ふに長谷郷山の長谷郷は即小長谷郷なるぺければ此山をこそヲバツセ山とは云ふべけれ、莊の南に續けりとは雖、更科郷の中なる姨捨山の本名とせむ(149)こと如何。されば地名辭書には
 長谷《ハツセ》神社 今鹽崎村長谷郷山に在りて八聖神と云ふ。蓋科野國造・小長谷部造等の祖神八井耳命を祭る歟。……長谷寺と稱する古精舍もあり。謂ゆる姑捨山即此とす〔七字傍点〕
 小長谷山 今鹽崎村の長谷寺山(○即長谷郷山)を云へり。……按に姑捨山とは小長谷の訛言にして即此を云ふ〔姑捨〜傍点〕
といひ又冠著山の下(二三八九頁)に
 近世に至り八幡村に姥捨山・田毎の月の名所を擬作して彼處を更級山・更級里など云ふは沙汰の限にあらず
といひ又姥捨山の下(二三九一頁)に
 八幡村の西にして山麓に一岩あり。之を姥岩と呼び側に庵を建て滿月殿放光院と云ひ……田毎の月と云ひ習はして賞美す。……姑捨山は古人(○俊頼)之を冠山と明言し又考證して之を究むれば(○即上に引ける考證なり)鹽崎の小長谷山にあたればいづれにしても八幡放光院にはあらず
といへり。五萬分一地形圖には更科村の南偏に冠著山(姨捨山)と標したる外に八幡村の(150)西南に姨捨と標し田毎月と標せり。私に取捨せざりしなり。ともかくも中古姨捨山と稱せしは今の更科村の冠著山なり〔中古〜傍点〕。因に云はむ。中古の萬葉學者成俊僧都が於2信州姥捨山之麓1結v草爲v廬養2餘生1耳といへる遺址は冠著山の東麓なる上山田村の堂の平といふ處なりといふ。又所謂田毎の月を賞するは八幡村の姨捨にての事なるが、その田毎の月は近古に云ひそめし事にて古き物には見えず。又因に云はむ。鹽崎の長谷神社を近古|八聖《ハツシヤウ》樣・八聖權現などいひしその八聖を特選神名牒に「聖字は則耳に從ふ字にて八井耳を變じたりと思はる」と云へるは鑿説にて恐らくは地名辭書に云へる如くハツセの牽強にてフタラ山に補陀落を充てたる類ならむ○當國の名祠は云ふまでも無く官幣大社諏訪神社の上下兩社なり。下社は諏訪郡下諏訪町に、上社は同郡上諏訪町の南方一里半許なる中洲村に在り。之に次ぎては小縣郡東鹽田村の國幣中社生島足島神社・上水内郡戸隱村の國幣小社戸隱神社なり。ここに神名帳水内郡に健御名方富命彦神別神社名神大とあり。此神は又水内神とも稱せられて諏訪社と同神なりといふ
 ○然るに神名帳に諏訪社は南方刀美神社といひ此社は健御名方富命彦神別神社といへり。されば古事記傳卷十四(七九二頁)に
(151) かく諏訪の外に別に水内社ありて共に名神大社に坐すは如何なる由縁にか。彦神別と申す號も故あることなるべし。又帳に諏訪の神名には健字なくて水内の方にしも・此字あるもいかなる事にか
と云へり。或は彦神別は子神の謂か。諏訪神にも健字を添へたる例は古事記國讓の段に建御名方神、文徳天皇實録仁壽元年十月に建御名方富命、三代實録貞觀元年正月及二月・同九年三月に建御名方富神などあり。因に云はむ。文徳天皇實録嘉祥三年十月に信濃國御名方富命神健御名方富命前八坂刀賣命神並加2從五位上1とあるを諸本に三神名として句讀したるは誤れり。健御名方富命の下に神字を略したるに注目すべし。御名方富命神トソノ前《キサキ》八坂刀賣命神トニと云へるなり。ソノといふ代に更に建御名方富命と云へるにて、なほ貞觀元年二月に
 授2信濃國從二位勲八等建御名方富命神正二位、正三位建御名方富命前八坂刀賣命神從二位1
といひ同九年三月に
 信濃國正二位建御名方富命神進2階從一位1、從二位建御名方富命前八坂刀|自〔右△〕命神正(152)二位
といへるが如し。ただ初に御名方富命神といひ次に健御名方富命といひて一には健なく一には健あれば別神の如く見ゆるなり。初見に健を補ふか又は次見の健を削るべし
然るに古事記傳の成りし比には其社いまだ知られざりしかば宣長は
 さて水内社は右の如く古は諏訪社に並ぶばかりの名神大社にまししに今の世に其社のさだかならぬは甚いぶかしきわざなり
と怪めり。然るに其後岩下|貞融《サダミチ》などの研究に由りて善光寺の年神《トシガミ》堂が此社なること世に知られき。貞融の善光寺史略に
 後深草天皇建長五年癸丑四月二十六日我寺修造畢成。金堂……念佛堂……觀音堂……南廻廊及常行堂・法華堂・中門・鐘樓……十王堂・五層塔……曼陀羅堂……、東廻廊及涅槃釋伽堂・聖徳太子御影堂……西廻廊……諏訪南宮社〔五字傍点〕今溝兵衛入道建v之。如是護法堂及籠屋・舞殿・唐門蓮淨坊建v之。至v是畢成云々
といへる目に
(153) 今ノ金堂ハ元禄中別當則往院權僧正、常憲公ノ教ヲ奉ジテ創立セシ所ナリ。……諏訪南宮社ハ即正二位健御名方富命彦神別神社ナリ。或ハ水内神ト謂フ。今年神堂ト稱スル是ナリ。是時別ニ年神堂ヲ建テズ。知ルベシ諏訪南宮社ガ年神堂タルコトヲ。ソノ諏訪南宮社卜稱スルハ蓋諏訪御名方富神・前八坂刀賣神二座、或ハ之ヲ諏訪南宮上下社ト稱スルニ據リ我モ(○善光寺にても)亦從ヒテ之ヲ稱スルナリ。……如是護法堂・籠屋・舞殿・唐門等都テ諏訪南宮社(○社字補)ニ屬セルニ似タリ。後世、年神堂ガ諏訪南宮社タルヲ知ラズシテ別ニ諏訪社ヲ建テ以テ熊野社(○上に所謂如是護法堂者今熊野社或是也と云へり)ニ對シ籠屋以下ハ重建スルニ及ハズ。赫々水内神社遂爲2如來越年之堂1。悲哉。暫此ニ記シ以テ來者ニ告グ(○原漢文)
といへり。如來越年之堂といへるは毎年十二月中の申の日の夜に御年コシと稱して如來像を本堂より年神堂に遷すを云へるなり。貞融は善光寺大勸進の世臣なり。又茜部相嘉の古事記傳追繼考附録に
 抑水内の御社は猶古のままに坐すを今は其御社を年神堂と申て金堂(如來安置堂なり)の北の方(後の方なり)に在《マ》すなり。されば金堂は御社の前に有りていはば拜殿とも(154)いひつべき樣なり。又ここに怪しういぶかしきは其金堂なる如來の座は最正面なるべきに西の方に片よりて安置すとぞ。故《カレ》つらつら案ずるに金堂はやがて拜殿の變じたるものと見え如來安置の所も正面を憚りたるものとおぼしくて今すべて佛地の如くなりはてたる所にしもさすがに神の社たるけぢめは見えたる、いとたふとくこそはおぼゆれ
 さて本社を年神堂といふ故は毎歳十二月中の酉の夜祭式あり。是を如來御年越といふ。是は其夜如來、年神堂に移り給ひ夜明けて歸座ありとぞ云々
と云へり。右に據れば善光寺は建御名方富命彦神別神社即水内神社を隱蔽せしにて其罪、叡山が日吉神社を、高野が丹生都比女神社を地主と稱して附屬とせしよりも重しといふべし。さて年神堂即水内神社(即今の縣社建御名方富命彦神別神社)は明治十一年に善光寺の東なる假寐岡に遷しき。假寐岡は今の城山公園なり(善光寺史略、芋井三寶記中所見年神堂辨、諏訪舊跡志、古事記傳追繼考附録、神祇志料下卷二五六頁、同附考下卷二四一頁、特選神名牒四四三頁、陸路の記、日本地理志料卷二十四の十九丁、大日本地名辭書二四〇四頁參照)
(155) ○右參考書の内神祇志料附考に見えたる安政六年五月阿部|連《ツラネ》の聞書(善光寺正實記といふ)の説は弘化中善光寺の僧と其境内なる水内神社の神主との間に爭論起りしかば寺社奉行脇坂安宅、屬吏をして善光寺に就いて※[手偏+僉]せしめしに本尊の後に鎖おろしたる扉あり、強ひてそれを開かしめしに實に水内神社の本つ社にして同時に水内神社御印と彫りたる八角形のかねの判をも發見しき、と云へるにて記述やや小説めきたれど無根事にはあらざるべし。此文を好古叢誌三編第三に淺井某といふ者阿部連の奥書を削りて己が説の如く装ひて出せり。狡猾惡むべし
○當國明治二年の藩治は松代眞田氏(埴科郡)松本戸田氏(今の東筑摩郡)上田松平氏(小縣郡)高遠内藤氏(今の上伊那郡)高島諏訪氏(今の諏訪郡上諏訪町)飯山本多氏(今の下水内郡)小諸牧野氏(今の北佐久郡)飯田堀氏(今の下伊那郡)須坂堀氏(今の上高井郡)岩村田内藤氏(今の北佐久郡)龍岡|大給《オギフ》氏(今の南佐久郡|田口《タノクチ》。參河國奥殿より移り來る)以上十一藩なり。此外に今の上伊那郡飯島村に駿府代官の出張陣屋ありき。又埴科郡中之條村(坂城《サカキ》町の南方)及下高井郡中野に代官陣屋ありき○近古の中山道一名木曾街道、即京都江戸間の驛路は道程一百三十五里驛數六十九にて驛の内當國に屬せしは
(156) 馬籠《マコメ》、妻籠《ツマゴ》、三富野《ミトノ》、野尻、須原、上松《アゲマツ》、福島、宮腰《ミナヤノコシ》、藪原《ヤブハラ》、奈良井、贄川(以上今の西筑摩郡)本山、洗馬《セバ》、鹽尻(以上今の東筑摩郡)下諏訪《シモノスハ》(諏訪郡)上和田、長窪(以上小縣郡)蘆田、望月、八幡、鹽名田、岩村田、小田井、追分、沓掛、輕井澤(以上今の北佐久郡)
以上二十六驛なり。此驛路を古驛路と比較するに一致するは僅に追分以東のみ(昭和十三年七月四日稿)
 
(157)   上野國
 
上野國は東は下野に、南は武藏に(神名《カンナ》川・烏川・利根川を隔てて)西と西北とは信濃に、北は越後に接し聊岩代とも接せり。初はカミツケヌと唱へて上毛野と書きしを地名は二字に書くべく定められしに由りて毛を略して上野と書くこととなりしなり(氏は定の外なれば後までも上毛野と書けり)。今カウヅケと唱ふるはカミツケヌのミをウと訛り、ツを濁り、ヌを略したるなり。さてヌを略せしはまづヌをノと訛りて(和名抄の訓註加三豆介乃)カミツケノノクニと唱へしを稱呼の便の爲に一のノを削りし爲に國名はおのづからカミツケとなり終にカウヅケと訛られしならむ。元來此國は下野國と一國にて毛野國といひしを仁徳天皇の御世に上下二國に分たれしなり。即國造本紀下毛野國造の下に難波高津朝御世元毛野國分爲2上下1とあり。同書に
 上毛野國造 瑞籬朝(○崇神天皇)皇子豐城入彦命孫彦狹島命初△2△△△1△d治2平東方十二國〔五字傍点〕1爲uv封
とあり。國造本紀考には瑞籬朝の下に御世以の三字を補へり。此説從ひ難し。彦狹島命は(158)崇神天皇の御世の人にあらねばなり。紀に
 三野前國道 春日率川朝皇子彦坐王子八瓜命定2賜國造1
とあるを例として原のままにて瑞籬朝ノ皇子豐城入彦命ノ孫云々と訓むべし。本來
 浮田國造 志賀高穴穗朝、瑞籬朝五世孫賀我別王定2賜國造1
 讃岐國造 輕島豐明朝御世、景行帝兒神櫛王三世孫須賣保禮命定2賜國造1
とある如く國造に定め給ひし御世を顯して
 纏向日代朝御世、瑞籬朝皇子豐域入彦命孫彦狹島命云々
と書くべきを略し又は脱したるなり。初の下に定賜國造令の五字を脱したるか。崇神天皇紀四十八年に
 以2豐城命1令v治v東。是上毛野君・下毛野君之始祖也
景行天皇紀五十五年に
 春二月以2彦狹島王1拜2東山道十五國都督〔八字傍点〕1。是豐城命之孫也。然到2春日|穴咋《アナクヒ》邑1臥v病而薨之。是時東國百姓悲2其王不1v至竊盗2王尸1葬2於上野國1
同五十六年紀に
(159) 秋八月詔2御諸別王1曰。汝父彦狹島王不v得v向2任所1而早薨。故汝專領2東國1。是以御諸別王承2天皇命1且欲v成2父業1則行治v之早得2善政1。……由v是其子孫今在2束國1
とあり。東山道十五國は國造本紀に東方十二國とあるに當れり。古事記崇神天皇の段にも
 建沼河別《タケヌナカハワケ》命ヲバ東方十二道ニやシテソノマツロハヌ人等ヲ和平《コトムケハヤ》サシム
とあり、景行天皇の段にも
 ココニ天皇亦頻ニ倭建命ニ東方十二道ノ荒ブル神及マツロハヌ人等ヲ和平《コトムケハヤ》セト詔リタマヒテ云々
とあり、高橋氏文にも東方諸國造十二氏とあれば十五國は十二國の誤ならむとも云へり(道は國に齊し)。然も其十二國の指す所明ならず。日本書紀通釋には
 東山道とあるは後にいふ東山道の事にはあらでなほ山東といふが如くその山東は碓日坂より東南の諸國を指して云へるなり(○撮意)
と云へり。若然らば直に山東といふべく東山道とは云ふべからず。按ずるに東山道十五國とは後にいふ東山道の内の或十五國(其國は無論後の國にはあらず)と云へるなり。全(160)道十五國と云へるにあらず。前人多くは誤解せるに似たり。春日穴咋邑は不明なり。通釋は神名帳の穴次神社を穴咋の誤として穴咋邑を添上郡古市村(今の東市村の大字)に充てたり。之に據らば彦狹島王はいまだ大和國の境を出でずして薨去し東國の百姓は遙々と大和國に上り來て王の尸を盗み又遙々と上野國に持歸りしものとせざるべからねど、そは頗疑はしき事なり。ここに信濃國北佐久郡春日村に周圍二百間許の前方後圓墳あり。國人は之を彦狹島王の墓といひ傳へたり。王の薨じきといふ春日穴咋邑は大和にはあらで或は此處にやといふに、もし此處ならば紀には春日穴咋邑に國名を添へ記すべし。又此村には右の外になほ三箇の大墳ありて特に其内の一を王妃の墓といひ傳へたり。かく僻遠なる山谷に數箇の大墳あるを思へば此等の墳は恐らくは此地方を領ぜし豪族代々の墓なるを村の名を春日といふより或者がもしくは彦狹島王の墓かと云ひ試みしが元にて終に王の墓ぞと決定していひ傳へしならむ。夙く地名辭書にも
 角間《カクマ》川の山谷に春日村あり。此に彦狹島王の墓と云ふことを説くは景行紀に云々とあるに附會せる者とす
と云へり。姓氏録左京皇別に
(161) 下毛野朝臣崇神天皇皇子豐城入彦命之後也。日本紀合
 上毛野朝臣下毛野朝臣同祖。豐城入彦命五世孫|多奇波世《タカハセ》君之後也。處……寶字稱徳孝謙皇帝天平勝寶二年改賜2上毛野公1、今上(○嵯峨天皇)弘仁元年改賜2朝臣姓1。續日本紀合
とあり。豐城入彦〔四字傍点〕の子八綱田、その子彦狹島〔三字傍点〕、その子御諸別〔三字傍点〕、その子荒田別・鹿我別・奈良別、荒田別の子竹葉瀬〔三字傍点〕かと云へり。かの蝦夷を伐ちて戰死せし田道《タヂ》は竹葉瀬の弟なり○大化改新後二百年に垂《ナ》りなむとする淳和天皇の天長三年に至りて當國外二國を親王の任國とし守を特に太守と稱することに定められき。即類聚三代格卷五に
 太政官符 應3親王任2國守1事 上總國・常陸國・上野國云々
とあり。こは清原夏野の奏状に
 今親王任2八省卿1、此人地望素高、不v得v就v職、無v知2碎務1。仍官事自懈、政迹日蕪。非2是庸愚之所1v致。因3地勢使2之然1也。……望請點2定數國1爲2親王國1迭任2彼《ソノ》國1身留2京師1。意欲v居2京官1者一兩人將v聽云々
と云へるに依れるなり。ただ國守の位階は從五位下以下にて親王を任ずるに卑きに過ぐれば天裁を下して
(162)但件等國|府〔左△〕官位卑下。宜d改定2正四位下官1以爲2勅任1號稱c太守u(○國府は國守の誤か)
とのたまひ又封建の端を開かむを恐れて限以2一代1不v可2永例1とのたまへるなり。ともかくも親王國に點定せられたる三國に取りては光榮と謂ふべきなり。さて上野太守の始は天長の葛井親王(訓はフヂヰか)にて其最後は康保安和の交の盛明親王なるが如し。元弘三年御中興の時に成良親王を任ぜられき。後村上天皇の御世に宗良親王が上野親王又は信濃宮と稱せられ給ひしは亦上野太守に任ぜられ給ひしか○此國もと碓氷・片岡・甘樂・緑野・那波・群馬・吾妻・利根・勢多・佐位・新田・山田・邑樂の十三郡なりしに和銅四年三月の紀に
 割2上野國甘良郡織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡武美、片岡郡山△等六郷1別置2多胡郡1
とありて十四郡となり爾來變ること無かりしに明治十一年郡區編制の時甘樂及勢多を南北に、群馬を東西に分ちしかば十七郡となり同二十九年郡制施行の時大に合併を行ひて
 多野《タノ》    多胡、緑野、南甘樂
 北|甘樂《カンラ》
(163) 碓氷
 群馬《グンマ》   西群馬、片岡 
 吾妻《アガツマ》
 利根        利根、北勢多
 勢多        南勢多、東群馬
 佐波《サハ》    佐位、那波
 山田
 新田
 邑樂《オフラ》
右の如くせしかば今は十一郡となれり。右の内北甘樂は南甘樂なくなりし上は單に甘樂と稱すべきなり(近江東淺井郡同例)○碓氷郡〔三字傍点〕は又碓日・臼井・碓井など書けり。思ふに初にはウスヒと唱へしを後にウスイと唱ふることとなりしなり。甘樂郡〔三字傍点〕はカムラと訓むべし。又甘良と書けり。此郡を流るる川を鏑川(又蕪川と書けり)といふも、もとはカムラ川ならむ。多胡郡〔三字傍点〕は和名抄に胡音如呉といへり。タゴと訓むべし。緑野郡〔三字傍点〕は和名抄に美止乃《ミドノ》(164)と訓註せり。那波郡〔三字傍点〕は又那和・名和とも書きたればナバとは唱へずナワとぞ唱へけむ。群馬郡〔三字傍点〕は和名抄に久留末と訓み國分爲東西二郡と註せり。太政官の命にあらずして國廳にて便宜の爲に私に東西二郡に分ちたりしなり。後の物には郡馬とも書けり。群馬をクルマと訓むは平群をヘグリと訓み駿河をスルガと訓むが如し。後人群をクルと訓むべきを忘れてグンマと唱ふるはうたてし。名義は車なるべし。吾妻郡〔三字傍点〕は和名抄に阿加豆末(アガツマ)とよめり。景行天皇紀に
 西逮2于碓日坂1。時日本武尊毎有d顧2弟橘媛1之情u。故登2碓日嶺1而東南望之三歎曰。吾嬬者耶(嬬|此《ココニ》云2菟摩《ツマ》1)。故因號2山東諸國1曰2吾嬬國1也
とあり。古事記には之を足柄之坂にての事として
 故登2立其坂1三歎詔云。阿豆麻波夜(自v阿下五字以v音也)。故號2其國1謂2阿豆麻1也
と云へり。古事記に阿豆麻と假字書にしたるを見れば日本紀の吾嬬もアヅマとよむべきが如くなれど嬬のみに訓註を附けたるを思へば日本紀にてはアガツマハヤと歎きたまひきとせるなり。碓日嶺は當國と信濃とに跨れり。其南麓が即碓氷峠なり。吾妻郡は碓日嶺の北方に當れり。名義は無論日本武尊の故事に因れるにて和名抄にアガツマと(165)訓めるは古來の稱呼を傳へたるにて、アヅマを文字に引かれてアガツマと訓み僻めたるにあらじとぞ思はるる。もしよみ僻めたるならむにはワガツマと訓むべければなり。新田郡〔三字傍点〕を和名抄に爾布太と訓註したるは後世の訛稱に從へるなり。萬葉集卷十四に爾比多ヤマネニハツカナナ云々とあり。さて訛稱に從ふともニウタと書くべくニフタとは書くべからねど、これにはカギロヒをカゲロフと書ける如き例あり。今ニツタと呼ぶは又ニウタを訛れるなり。邑樂郡〔三字傍点〕は和名抄に於波良岐と訓註せり。呂の呉音オフをオハに轉用し樂の音ラクをラキに轉用したるなり。今は訛りてオフラと呼ぶ○當國の水は皆利根川に集れり。利根川は利根郡北邊の國界なる大利根岳より發し沼田町の南に至りて左より片品川を容れ、澁川町附近に至りて右より吾妻川を容れ、南方國界に至りて右より烏川を容れ、それより東流して當國と武藏との間を經て武藏下總の間に至れり。ここに前橋市の北二里許なる坂東橋の下にて利根川より分れ南下して前橋を貫き更に東南に流れ南方國界に至りて再利根川に合せる廣瀬川といふ小流あり。是利根川の舊河道なり。足利時代に河道が變ぜしなり。俗に利根川以東を東上州といひ以西を西上州といふ。又渡良瀬《ワタラセ》川ありて勢多山田二郡を貫き又下野國との間を流れて末は利根川(166)に合せり。なは下野の處にていふべし○國府は和名抄に國府在群馬郡とあり。又群馬郡の下に註して國分爲2東西二郡1、府中間國府とあり。地理志料に府中問の三字を衍としたるは誤なり。衍字は國府の二字なり。府中間は府ハ中間とよむべし。即東西二郡の中間に在りと云へるなり。地名辭書には誤りて東西の下を句とせり。今の前橋市の西方に群馬郡元總社村大字元總社ありて今も總社神社あり。又其西北に接して國府《コクブ》村大字東國分並に西國分ありて東國分より同大字|引間《ヒキマ》、元總社村大字元總社に亙りて國分寺址あり。又其東方四町許に(同じく大字東國分に)尼寺址に擬せらるべき地あり
 ○此國府村といふ新村名は國府《コクフ》と國分《コクブ》とを混同して命名したるにあらざるか。舊國分村を含めるに由りての命名ならば國分村と稱すべし。又國府ならばコフと唱ふべくコクブならば國分と書くべし。元總社村の北に總社町あり。元總社村を移ししなり
 ○碓氷郡松井田町の東北に九十九《ツクモ》村大字國衙あり又上野志に據れば松井田に學校址ありといふ。或は國府は初國衙に在りしにあらざるか。地理志料に國衙即郡衙也と云へるは受けられず。地名辭書に
  中世の國衙領の公田の留保せられし地にて即國衙の名を負へるならむ
(167) と云へるもいかが。さらば國領などこそ稱すべけれ(諸國に國領といふ地名あり。當國にも)
○延喜兵部省式に
 驛馬 坂本十五疋、野尻・群馬・佐位・新田各十疋
 傳馬 碓氷・群馬・佐位・新田郡五疋
とあり。されば坂本驛は信濃の長倉驛を承け新田驛は下野の足利驛に接けるなり
坂本驛 和名抄碓氷郡の郷名に坂本あり。今坂本町大字坂本あり
野後《ノジリ》驛 和名抄碓氷郡郷名の終に石井野後驛家俘囚とあり。之に據れば野尻郷の外に驛家郷あるに似たり。地理志料には野尻驛家と續けて
 驛家ノ二字舊本ニ大書別提セリ。今之ヲ正ス
と云へり。近江國野洲郡郷名の
 明見(有南北)邇保(有南北)篠原驛家(有南北)
と同例とすべきか。上野志に
 今安中驛有2野尻町1驛西有2上野尻村1。是古郷之遺也(○依志料)
(168)と云へり。されば驛址は安中《アンナカ》町附近なり。與地全圖に安中の西に上野尻と標し東に下野尻と標せり。抑今の安中町はもと野尻といひしを永禄二年に安中越前守忠正が此地を占領せし時安中と改めしなりといふ
群馬驛 和名抄群馬郡郷名の終に
 群馬・桃井・有馬・利刈・驛家・白衣
とあるを地理志料に利刈驛家と續けて
 驛家ノ二字諸本ニ大書シテ別郷トセリ。今訂シツ
といへり。前驛は延喜式に野後驛とあれば和名抄に野後、驛家と分てるを「續くべきを誤りて分てるなり」とも見つべし。此驛は延喜式に群馬驛とあるを(即利刈驛とは無きを)妾に前行の利刈に續くべきにあらず。こは彼若狹國の彌美驛に當る驛家を和名抄同國三方郡郷名に能登・彌美・餘戸・三方・驛家と擧げたるに準じて群馬郷の外に驛家郷ありと認むべく又其驛を群馬驛と釋せしものと認むべし。今前橋市あり。其前橋を近世までも厩橋と書きてマヤバシと唱へき。さてそのマヤ橋のマヤは驛家なれば群馬驛址は今の前橋市内に在るべし。前橋市は今は勢多郡の域内に在れど其所在は明治二十九年までは(169)東群馬郡の内、同十一年までは群馬郡の内なりき。國府に最近きは此驛なり。恐らくは國府の東一里許にぞありけむ。兩地は今は利根川によりて隔てられたれど古は利根川はもとの群馬郡と勢多郡との間即今の前橋より東方を流れしにて今の廣瀬川は當時の河道なりといふ
佐位驛 和名抄佐位郡郷名の中に佐位淵名驛家とあり。地理志料に驛家を佐位に續けて
 驛家ノ二字原錯リテ淵名ノ下ニ在リ。延喜式ニ依リテ改メテ此ニ移シ以テ源君ノ舊ニ復シツ
と云ひて群馬驛の處にて取りしと態度を異にせり。さすがに上野名跡考の如く淵名驛家とするに憚りけむ。さてここも佐位郷の外に驛家郷ありて其驛を佐位驛とぞ稱しけむ。その佐位驛を地理志料は小保方村(今の東《アヅマ》村の大字)とせり。地理を按ずるに今の伊勢崎町附近ならむ。地名辭書にも「地勢を推すに伊勢崎町に外ならず。されど伊勢崎は美侶《ミモロ》郷の域内と見ゆれば其北にて太田村にあたる歟」と云へり
新田驛 和名抄新田郡郷名に新田・滓野・石西・祝人・淡甘・驛家とあり。名跡考には例の如く(170)淡甘驛家とつづけ地理志料には新田驛家とつづけて
 驛家ノ二字舊本ニ淡甘ノ下ニ在リ。今之ヲ訂シツ
と云へり。例の如く新田郷と驛家郷とは別なるべし。さて新田驛を地名辭書に
 形勢より推せば市村・市之井村などにあたり笠懸野の南とす
と云へり。市・市野井は共に生品《イクシナ》村の大字にて市野井は新田義貞が旗を擧げし生品神社の所在地なり。太田町に充てまほしけれど次驛足利との距離小に過ぐるの難あり。更に思ふになほ太田町ならむ。次驛との距離の小に過ぐるは兩驛間の驛路を修正せし結果ならむ。ここに續紀神護景雲二年三月に
 東海道巡察使式部大輔從五位下紀朝臣廣名等|言《マヲ》サク。……下總國井上・浮島・河曲ノ三驛、武藏國乘瀦・豐島ノ二驛ハ山海兩路ヲ承ケテ使命繁多ナリ。乞フ中路ニ準ジテ馬十疋ヲ置カムト。勅ヲ奉《ウケタマハ》ルニ奏ニ依レトナリ
又同書寶龜二年十月に
 太政官奏スラク。武藏國ハ山道ニ屬セリト雖|兼《マタ》海道ヲ承ケ公使繁多ニシテ祗候供シ難シ。ソノ東山ノ驛路、上野國新田驛ヨリ下野國足利驛二達《イタ》ラムニ此《コレ》便道ナリ。而ルニ(171)枉ゲテ上野國邑樂郡ヨリ五箇ノ驛ヲ經テ武藏國ニ到リ事畢リテ去ル日ニ又同ジ道ヲ取リテ下野國ニ向フ。今東海道ハ相模國|夷參《イサマ》驛ヨリ下總國ニ達《イタ》ラムニ其間四驛ニシテ往還便近ナリ。而ルニ此ヲ去リテ彼ニ就ケルハ損害極多ナリ。臣等商量スラク。東山道ヲ改メテ東海道ニ屬セバ公私所ヲ得、人馬息フコト有ラムト。奏可カル
とあり。即寶龜二年までは武藏國は東山道に屬せしかば上野の新田驛より下總の井上・浮島・河曲三驛、武藏の乘瀦・豐島二驛を經て武藏の國府に到り又右の五驛を經て下野の足利驛に達せしにて、新田驛より直に足利驛に到ることは、たとひ有りとも例外の事なりしかば兩驛間の距離の大小は問題に上らざりしなり(萬葉集追攷三三三頁以下參照)。又地名辭書に
 (市野井ヨリ)市村・寺井(○新田郡|強戸《ガウト》村大字)丸山(○山田郡|毛里田《モリタ》村大字)を經て足利に達する古道は行旅を絶ちたるも直〔左△〕徑今に存じて僅に尋ぬべしといふ
といひて古驛路が金山の北を通りて太田を經ざりけむ事を暗示したれど少くとも武藏國が東山道に屬せし時代の新田郡驛家はなほ今の太田ならむ。さて新田驛より直に足利驛に到る時代となりて、もし驛の位置を移しけむにはその新驛の位置は地名辭書(172)に云へる如く今の市野井ならむ。なほ云はむに武藏國が東山道に屬せし時代には新田驛と下總國河曲驛との間は邑樂郡に一驛ありけむ。但その驛は上野より武藏に到るには通過し武藏より下野に達するには經由せざるが故に神護景雲二年東海道巡察使の奏に
 下總國井上浮島河曲ノ三驛、武藏國乘瀦豐島ノ二驛ハ山海兩路ヲ承ケテ使命繁多ナリ。乞フ中路ニ準ジテ馬十疋ヲ置カム
といひ寶龜二年十月太政官奏に
 東山ノ驛路、上野國新田驛ヨリ下野國足利驛ニ達ラムニ此便道ナリ。而ルニ枉ゲテ上野國邑樂郡ヨリ五箇ノ驛ヲ經テ武藏國ニ到リ事畢リテ去ル日ニ又同ジ道ヲ取リテ下野國ニ向フ
といへる所謂五驛の内に加へざりしならむ。武藏國を東海道に屬せし後は邑樂郡驛家は無論廢止せられしなるべく其際或は新田郡驛家の位置を移しけむ○萬葉集卷十四に
 かみつけぬ安蘇〔二字傍点〕のまそむらかきむだきぬれどあかぬをあどかあがせむ
(173) かみつけ野安蘇やまつづら野をひろみはひにしものをあぜかたえせむ
とあり。前の歌の初二は序、カキムダキ・アドカ・アゼカは共に東國の方言にて雅言のカキウダキ(即イダキ)何トカ・ナドカなり。和名抄に下野國に安蘇郡安蘇郷ありて上野國に安蘇といふ地名なし。又同書同卷にシモツケヌ安素ノカハラヨとあり。さればカミツケヌとあるはシモツケヌの誤ならむといへる説もあれど右二首は旅行者の歌にあらで土人の作なればおのが住める地の屬する國を誤つべきにあらず。按ずるに安蘇足利の二郡は下野國の西南偏に在りて恰上野國に抱かれたれば其所屬(かの美濃信濃の界なる岐蘇谷の如く)曖昧なる所ありて少くとも俗間にては上野の安蘇とも下野の安蘇とも云ひしならむ。伊香保志卷二に
 安蘇山 萬葉に詠める山なり。裾野も廣く歌に由ありて即相馬が岳の一名なりといふ。又中古此邊より箕輪の邊かけて安蘇の莊と呼びしと云へり。或云。相馬が岳は安蘇山が岳といふを略轉せしにはあらぬ歟と。されども箕輪軍記に武田勢が城を圍める状を説けるには北は安曾山〔三字傍点〕・相馬が麓・船|方〔左△〕山・桃井が原・野尻が岳山云々とあれば相馬が岳とは別なる歟(一説に船尾山なるべしと云)
(174)といへり。こはただ掲げて參考に供するのみ。アソノマソムラとよめるを見れば山の名のみならず地の名にもアソといふが無かるべからず。相馬岳船尾山は共に榛名山の一峰なり。箕輪は群馬郡の町の名にて榛名山の東南麓に在り○同卷に
 伊香保〔三字傍点〕ろにあまぐもいつぎ可奴麻豆久ひと登おたばふいざねしめとら
とあり。初二は序、イカホロのロは助辭なり。可奴麻豆久は恐らくはタビタビといふこと、登は恐らくはゾの訛ならむ。さらばドと訓むべし。オタバフはオトタバフにて音づれするといふこと、ネシメトは寢ソメヨトの訛、ラは助辭ならむ
 伊香保ろのそひのはりはらねもころにおくをなかねそまさかしよかば
初二は序にて伊香山ノフモトノ萩原といふこと、ネモコロニはヒツコク、オクは將來、ナカネソは豫心配スナ、マサカは現在、ヨカバはヨカラバにて其下にサテアルベシを略したるなり
 伊可保ろのそひのはりはらわがきぬにつきよらしもよたへとおもへば
ツキヨラシはツキヨロシの訛にて附クニフサハシなり。結句は栲ナレバとなり。こは譬喩歌なり
(175) 伊香保ろのやさかのゐでにたつぬじのあらはろまでもさねしさねてば
上三句は序、ヌジは虹、アラハロマデモはアラハルルマデモ、結句はタビタビ寢タラバウレシカラマシといへるなり。ヤサカノヰデの事は後に云ふべし
 伊香保ねにかみななりそねわがへにはゆゑはなけども兒らによりてぞ
ワガヘは我上、ナケドモはナカレドモ、兒ラは妻なり。第三句以下は我上ニハ然祈ルベキ故ハ無ケレド妹ノ爲ニ然祈ルナリといへるなり
 かみつけぬ伊可抱のねろにふろよきのゆきすぎがてぬいもがいへのあたり
上三句は序、フロヨキはフル雪、ガテヌは敢ヘヌカナなり
 かみつけぬ伊可保のぬまのうゑこなぎかくこひむとやたねもとめけむ
譬喩歌なり。四五はカク戀ヒムトテヤ栽ヱ始メケムとなり
 伊香保かぜふく日ふかぬ日ありといへどあがこひのみしときなかりけり
なほあれど略しつ。さてイカホロといひイカホネといひイカホノネロといへる皆伊香保山にて、その伊香保山は榛名湖を中心とせる山彙の總稱なり。今の伊香保町は右の總稱がたまたま東北麓に殘れるなり。榛名といふ名は伊香保の如く古からず。此名起りて(176)伊香保といふ古名を驅逐せしなり。イカホノ沼〔五字傍点〕は榛名湖なり。ヤサカノヰデ〔六字傍点〕のヤサカを伊香保志に地名として
 船尾の瀧 船尾山の東北なる崖の絶壁より落つ。高さ二十丈幅二間。水烟四散して近づくべからず。壯觀なり。下流は瀧の澤といひて東に流れて利根川に入る
 八坂の井手 萬葉集に八坂の井手と詠める地は水澤村より南の方八九町なる八坂といへる小坂の上より此船尾の瀧の邊をかけて今井出野・井出野入或は井出平などいへる字あるがその舊跡にて堰の跡ありなどもいへり
といへり。船尾はフニウと唱へて不入の字をも充てたり。水澤は今伊香保町の大字となりて其東南部に在り。夜左可能爲提は八尺の堰にていと高く築ける堰を云へるにあらざるか。若然らばその堰を構へたりしは瀧の澤(澤は谿流の東國方言)には限るべからず。沼尾川といふ川、湖の東北隅より發し東北に流れて吾妻川に入り又榛名山といふ川、榛名山より發し西南に流れて烏川に入れり。其外にも谿流少からず。されば堰の跡はいづれの川にか今は知るべからず。さてヤサカノヰデニはヤサカノヰデノ上ニと心得べし。下手より仰ぎ見るヤサカノヰデの上に虹の現れて見ゆる趣を以てアラハルの序とし(177)たるなり。ヤサカノヰデは當時名高かりし構築なるべし。若然らずば直にイカホロ(廣き地域の名稱なる)に續けずして其中間に局地の名稱を挿むべければなり○同卷に
 かみつけぬ伊奈良のぬま〔六字傍点〕のおほゐぐさよそにみしよはいまこそまされ
 かみつけぬ可保夜がぬま〔六字傍点〕のいはゐづらひかばぬれつつあをなたえそね
とあり。同格の歌にて共に上三句は譬喩なり(ミシヨハは見シヨリハなり)。當國には、特に利根邑樂二郡には湖沼多し。就中邑樂郡には板倉沼・多々良沼・城沼・近藤沼・大輪沼などあり。古は今よりもなほ多かりけむ。板倉沼は當郡の東部に在り。今其西邊なる板倉・岩田・籾谷などを合併して伊奈良村と稱するは板倉を私に萬葉の伊奈良に擬したるのみ。證ありてにはあらじ。所詮伊奈良沼も可保夜沼も今のいづくにか知るべからず○同卷に
 日のぐれに宇須比のやま〔六字傍点〕をこゆる日はせなのが袖もさやにてらしつ
卷二十に
 ひなぐもり宇須比のさかをこえしだにいもがこひしくわすらえぬかも 右一首|他田部子磐前《ヲサダベノコイハサキ》
とあり。ウスヒノ山は上野信濃に跨れり。ウスヒノ坂は即碓氷峠なり。日ノグレ・セナノは(178)日ノクレ・セナネ(夫)の訛なり。コユル日ハは山ヲ踰ユル太陽ハとなり。踰ユル時ニハといへるにあらず。前註誤解せり。文選阮籍の詠懷詩の灼々西頽日、餘光照2我衣1と相似て、我衣とあると夫の衣といへるとが相異なるのみ。異曲同巧と謂ふべし。後の歌のコエシダニはコエシニダニとニを補ひて聞くべし。當國の防人が將に東山道を經て西征せむとする趣なり○卷十四に
 かみつけぬ久路保のねろ〔六字傍点〕のくず葉我多かなしけ兒らにいやさかりくも
とあり。我多は奈須の誤にて葛ノ葉ノヤウニといへるならむ。カナシケはカナシキの訛なり。久呂保ノネロは赤城山の最高峯なる黒檜山なるべし。今その東南麓なる渡良瀬川沿岸の地を黒保根村といふ。勢多郡の東邊なり○同卷に
 兒もちやま〔五字傍点〕わかかへるでのもみづまでねもとわはもふ汝《ナ》はあどかもふ
こは未得勘知國士山川之名の内に出でたれど當國の歌なるべし。群馬郡の東北邊に小野子山の東に隣りて子持山あり。伊香保の東北に當れり。上野國神名帳にも群馬郡子持明神とあり。是ならむ。肩部に小峰を具せるが故に子持山といふなりと云へり。五萬分一地形圖に碓氷峠の東北にも子持山と標したれど、それにはあらじ。モミヅマデはモミヅ(179)ルマデの古格、ネモはネムの訛、アドカは何トカの訛なり○同卷に
 かみつけ野左野〔二字傍点〕のくくだちをりはやしあれはまたむゑことしこずとも
とあり。ククダチは野菜、ヲリハヤシは折リテ潮漬トシテといふ事、マタムヱは待タムヨ、コトシコズトモは夫ガ今年歸來ズトモといふ事なり
 かみつけぬ佐野田〔三字傍点〕のなへのむらなへにことはさだめついまはいかにせも
初二は序、ムラナヘはウラナヘの訛、三四の意は占ニヨリテ夙ク夫婦ノ約ヲバ定メツとなり
 かみつけぬ佐野のふなばし〔七字傍点〕とりはなしおやはさくれどわはさかるかへ
初二は序、カヘはカハの訛、主文の意は親は二人ノ中ヲ取放チ離サムトスレド我は離レムヤハと云へるなり。抑佐野といふ處當國群馬郡と下野國安蘇郡と二處に在りて共に舟橋の遺蹟といひ傳へたり(たとへば宗長の東路ノツトに下野を舟橋の遺蹟とせり)。而して下野の安蘇も當時少くとも俗間には上野の安蘇といひけむこと上に云へる如し。右の三首の歌のサヌは上野と下野といづれのなるべきか。まづ上野の佐野は烏川に沿ひ下野の佐野は秋山川に臨めり。次に上野の佐野はかの當國三古碑の一なる山上碑に(180)佐野三家と見えたる地なれば其名古くより著れたるが、下野の佐野は古驛路に當りたれど其名古くは聞えず(特に今の佐野町は舊名|天明《テンミヤウ》、慶長七年に唐澤山「一名佐野の城山」の城を廢して新に此處に築きしより佐野と改稱せしなりといふ)。されば佐野の舟橋の遺蹟は上野の佐野と認むべし。或は舟橋を烏川に架せしものにあらずして田間の落水に渡ししものなりと云へるは從はれず。烏川に架するだに兩岸の交通頻繁なるにあらずば如何と思はるるに、衣を掲げて渡るべ き田間の細流に財と力とを費して舟橋を設くべけむや。第二首の佐野田はサヤダと訓みて那波郡郷名の鞘田に充つべしと云へる説あり。其説には俊頼の散木集にサヤ田ノ早苗トリモヤラレズとよめるを證としたれどよく思ふに萬葉にカミツケヌ佐野田ノ苗ノとよめる佐野田はさながらの地名にはあらでかの山城ノトバ田ノオモヲの類にて佐野の田といふことなれば佐野田はなほ鞘田に充つべからず。さて上野の佐野は今群馬郡の南邊、高崎市の東南に佐野村ありて其大字に上佐野・下佐野などあり○同卷に
 あがこひはまさかもかなし久佐麻久良多胡のいり野〔六字傍点〕のおくもかなしも
とあり。三四は序なり。マサカは現在、オクは將來なり。久佐麻久良は麻久佐可流の誤か
(181) 多胡のねによせづなはへてよすれどもあにくや斯豆のそのかはよきに
アニクヤは獲ニクヤの訛、斯豆は斯※[二/二]《シシ》などの誤にてシシ(ここにては鹿)なり。カハは皮なり。多胡は當國舊十四郡中の多胡なり。多胡郡は今緑野・南甘樂二郡と合ひて多野郡となれるが北は鏑川に南は鮎川に貫かれたり。今多野郡の北部吉井町の東に入野村ありて鏑川に跨れり。入野村は無論新名なり○同卷に
 刀禰がは〔四字傍点〕のかはせもしらずただわたりなみにあふのすあへるきみかも
とあり。第四句までが序なり。ノスはナスなり。第四句穩ならず○同卷に
 爾比多やま〔五字傍点〕ねにはつかななわによそりはしなる兒らしあやにかなしも
とあり。ネニハツカナナは雲ガ嶺ニハ附カズシテといふことか。初二はハシナルにかかれる序か。三四は偏ニ我ニ依ラズシテ間《ハシタ》ナルとなり。即半依り半離レタルとなり
 志良登保|布〔左△〕乎爾比多やまのもるやまのうらぶれせななとこはにもがも
志良登保布はシラトホシの誤にてニヒにかかれる枕辭か。セナナはセズシテの方言か。新田山又小新田山は新田郡太田町の北なる金山なり。モルヤマは人の守りて荒さざる山にてやがて新田山をいへるなり。之を山の名とせるは誤れり○同卷に
(182) かみつけぬ麻具波思麻度〔六字傍点〕にあさ日さしまぎらはしもよありつつ見れば
とあり。第二句のマグハは地名か。但今聞えず。シマドは島門か。利根川兩岸の山々相迫りて峽を成せる其山かたみに川中にさし出でたるを目して島といひ其島の間を島門と云へるか。さて其島門よりさし昇る朝日のまばゆき即まぎらはしきをキラハシの序としたるならむ。利根川の上流にはさる趣の處少からざるべけれど試に一を擧げて之に擬せば綾戸あたりの趣か。綾戸は勢多郡の西北界なり○同卷に
 かみつけ乃をど〔二字傍点〕のたどりがかはぢにも兒らはあはなもひとりのみして
カミツケノはカミツケヌの訛、アハナモはアハナムの訛なり。ヲドは或本歌に乎野とあるを見ればこれも小野の訛ならむ。さて小野は地名ならむ。即普通名詞より出でたる地名ならむ。當國には甘樂・緑野・群馬三郡に各小野といふ郷あり。就中甘樂郡の小野郷は川に近からざる如し。緑野郡の小野郷は蕪川の右岸に沿へるに似たり。群馬郡の小野郷は確には知られず。カハヂは川を渡り行く路なるべし。タドリはタドリ路にて即野中の路にや。但ガといふ辭うたてし○古碓氷關〔三字傍点〕ありて足柄關と相並びたりき。甲は山道より乙は海道より凶徒の上り來らむを防がむ爲なり。こを置かれしは昌泰二年なり。即類聚三(183)代格卷十八に見えたる同年九月十九日の太政官符に
 應2相模國足柄坂・上野國碓氷坂置v關勘過1事
 右上野國ノ解《ゲ》ヲ得タルニ※[人偏+稱の旁]《イハ》ク。此國頃年強盗蜂起シ侵害尤甚シ。靜ニ由緒ヲ尋ヌルニ皆※[人偏+就]馬之黨ニ出ヅルナリ。何トナレバ坂東諸國富豪ノ輩、啻駄ヲ以テ物ヲ運ブニ其駄ノ出ヅル所皆掠奪ニ縁ル。山道ノ駄ヲ盗ミテ海道ニ就キ海道ノ駄ヲ掠メテ山道ニ赴ク。爰ニ一疋ノ駑場ニ依リテ百姓ノ命ヲ害シ遂ニ群盗ヲ結ビ既《ハヤ》ク凶賊ト成ル。爰ニ因リテ當國隣國共ニ以テ追討シ解散之類赴件等堺(○誤字あるべし)。仍リテ碓氷坂本ニ權《カリ》ニ※[しんにょう+貞]邏ヲ置キ勘過ヲ加ヘシメ兼《マタ》相模國ニ移送スルコト既ク畢リヌ(○移送は通牒)。然而《シカ》ルニ官符ヲ蒙ルニ非デハ據行スベキコト難シ。望《ネガ》ハクハ官裁ヲ請ヒテ件《カノ》兩箇處ニ特ニ關門ヲ置キ詳ニ公驗ヲ勘ヘ慥ニ勘過ヲ加ヘムトイヘリ。左大臣宣ス。勅ヲ奉《ウケタマ》ハルニ件(○此請)ニ依リテ置カシムベシ。唯詳ニ※[(女/女)+干]類ヲ拘《トラ》ヘ行旅ヲ妨ゲル勿レト
とあり。翌三年八月にも官符を下して相模國の請に依りて過所(○關所手形)を發行することを諸司并に東海東山道等の諸國に命じき。將門記なる將門の語にも
 凡領2八國1之程一朝之軍(○々軍即朝軍ノ誤)攻來者足柄碓氷固2二關1當v禦2坂東1
(184)といへり。碓氷關は天慶三年四月六日に廢せられし由貞信公記に見えたりといふ。此時關は小盗の爲にはもはや之を存ずる必要なく將門の如き巨賊の爲には寧官軍を防ぐ方便となるが故に將門の亂の平定を待ちて之を撤せしにや。碓氷關の所在は今知られず。或は後の關名が原か。五萬分一地形圖に臼井町大字横川の西に碓氷關址と標したるは近古設置のものなり。即慶長十九年に横川の北なる闘長原(關名ガ原)に假番所を設けしを元和九年三月に至りて此處に移ししなり○當國には古墳の殘存せるものいと多し。今不完全ながらその主なるものを擧げむに群馬郡|上郊《カミサト》村保渡田の藥師塚、同郡總社村植野の二子山、同字光嚴寺内の實塔山、同字の愛宕山、同郡倉賀野町正六の淺間山及大鶴卷、同郡京島村元島名の將軍塚、多野郡藤岡町諏訪神社社地、同郡美土里村上落合の七輿塚、同郡平井村の稻荷山、前橋市天川町の二子山、勢多郡上川淵村朝倉の八幡山、同村後閑の天神山、同郡荒砥村西大室の前中後の二子山、佐波郡上陽村山王の御輿塚、新田郡|九合《クアヒ》村内ケ島の天神山、同字の女體山など即是なり。右の内寶塔山は方墳、女體山一名朝子塚は一種の異形(所謂帆立貝式)にて其他は皆前方後圓墳なり。又御輿塚よりは寶冠を出し藥師塚よりは古佛像を出しき。此等の古墳の外處々に古墳群ありて昭和十年までに(185)知られし古墳は實に八千三百四十五所なりといふ。右の内の大古墳は恐らくは多くは上毛野國造家のものなるべし。現に特に偉大なる物を以て豐城入彦・彦狹島・御諸別の諸王の墓に擬すれどいづれも未徴證を得ず。從ひていまだ宮内省より認定せられず○當國は偉大なる古墳いと多く其埋藏物の優秀なるを見れば東園中文化最よく開けしに似たるに延喜神名帳に見えたる當國の神社は僅に十二座(下野國のは僅に十一座)にて信濃國の神社の四十八座なるに比して及ばざること遠し。或は當國の文化は上古に盛にして中古に衰へしにあらざるか。もし然りとせば豪族の新陳代謝の少かりしと、即上毛野氏の永く餘勢を保ちしと關係あらじか。當國の神社の中にて今國幣社以上に列したるは國幣中社|貫前《ヌキサキ》神社のみ。貫前神社は北甘樂郡一の宮町大字一の宮に在り。一の宮町は富岡町の西に隣れり。社名は正しくはヌキノサキと訓むべし。和名抄郷名貫前に高山寺本に奴支乃左岐と註せり。同書に別に拔鉾郷を擧げたり。ここに續後紀承和六年六月に上野國无位拔|鋒〔右△〕神とあり。諸書に之に據りて拔鉾は拔鋒の誤として亦ヌキノサキと訓みて貫前の複出とすべしと云へり。特に地理志料には出雲神門郡に南佐《ナメサ》・滑狹《ナメサ》二郷を載せたるを誤複の例とせり。當國の神名帳の一本に拔鉾と書きてバツムと傍訓した(186)るを見れば鉾と書き來れることも久しきなり。奈佐勝※[白/本]の山吹日記には和名抄郷名の貫前拔鉾を併存し拔鉾郷を貫前神社の舊地と認むべきかと云ひ件信友の上野國三碑考別記にも貫前拔鉾を別郷とせり。從ひ難し。當國の神名帳に甘良郡拔鉾若御子明神と群馬郡貫前若御子明神とあるは用字を更へたるのみ。正一位拔鉾大明神とあるは適に拔鉾がやがて貫前なることを示すものなり。延喜式の貫前神社名神大の外に正一位拔鉾大明神に充つべきものあるまじきが故なり。又當國神名帳に別に貫前明神といふは見えず。祭神は經津主命なりといふ。此神を此處にいつけるは諏訪神即健御名方命が信濃を越えて威を張らむを抑へけむが爲ならむ。本國の神名帳は此神社に傳はれりといふ○神名帳流布本の群馬郡に榛名神社あり。即今の榛名神社なり。これに就いて諸説あり。即或は神名帳の椿名神社と今の榛名神社とを別なりとし或は椿を榛の誤字とし(神名帳の諸本に榛名とあるは恐らくは椿を誤字として改めたるならむ)或は榛名のままにてハルナと訓むべしと云へり。按ずるに榛字にてもハルナとは訓むべからず。榛はハリなればなり。されば原の唱はハリナにてハルナといふは其轉訛ならむ。從來榛名と書きてハルナと訓むことを怪まざりしは不審なり。さて椿名と書ける椿は字形はツバキ(187)の椿と同一なれど(元來ツバキを椿と書くは春木の會意字にて、我邦にて製造したる無音字にて漢字の椿とは相與からず。即漢字の椿をツバキに充てたるにあらず)實は春木の二合字ならむ。されば椿名はツバキナと訓までハルキナと訓むべきならむ。そのハルキナのつづまりてハリナとなりしより榛名の字を充て終にハルナと訛りしならむ。かくの如くなれば帳の流布本に椿名とあるは中々に古を存じたるなり。これによりても亦古書に見えたる字は妾に訓と照して改むべからず又多本に就いて改むべからざるを知るべし○當國には山多きが中に世に名高き上毛三山の内榛名山は群馬郡の西北部に在りて伊香保山の西南に連れり。又赤城山は勢多郡の北部に在りて前橋市の東北に仰がる。又妙義山は北甘樂郡の西北部に在りて碓氷郡に亙れり。山形嵯峨として恰唐畫に見る如し○當國には温泉いと多し。明治七年刊行の日本地誌提要に録せるもののみにても二十四所なり。就中最有名なるは群馬郡の伊香保、之に次いでは吾妻郡の草津・四萬などなり。又碓氷郡磯部の鑛泉あり○名邑は前橋・高崎・桐生三市の外、碓氷郡の安中町、群馬郡の澁川町・倉賀野町、北甘樂郡の富岡町、多野郡の藤岡町、利根郡の沼田町、佐波郡の伊勢崎町・境町、山田郡の大間々町、新田郡の太田町、邑樂郡の館林町などなり(余の耳に(188)熟せざるものの中には漏したるもあるべし)○明治初年の藩治は左の如し。前橋(今勢多郡、松平氏)高崎(群馬郡、大河内氏)館林(邑樂郡、秋元氏)沼田(利根郡、土岐氏)安中(碓氷郡、板倉氏)伊勢崎(今佐波郡、酒井氏)小幡(今北甘樂郡、松平氏)七日市(同上、前田氏)吉井(今多野郡、吉井氏)外に群馬郡岩鼻に郡代陣屋ありき。もと代官なりしを慶應二年に郡代に進めしなり○中山道の宿驛中當國に屬せるは坂本・松井田・安中・板鼻。高崎・倉賀野・新町にて高崎までは略古驛路と一致せり○因に云はむ。世に先代|舊事《クジ》本紀といふ十卷の書あり。常には略して舊事紀といふ。余が屡引ける國造本紀はやがて此書の第十卷なり。又同じく先代舊事本紀といふ七十二卷の書あり。一名を大成《ダイジヤウ》經といふ。二書共に假托の僞書なれども甲は平安朝の僞作にて今の世に傳はらぬ古書をも資料に供しきと見えて記紀などに見えざる史實を多く傳へたれば永く學界より棄てられざるべし。之に反して乙部大成經は近古に至りて潮音といふ僧の僞作したる荒唐無稽の書なれば悉く燒棄するか又は卷端に僞書といふことを明記して世人の惑を防ぐべきを、今もなほ往々世に傳はり特に上野國の傳説・社寺縁起などに其餘臭を殘せるはいとうたてし(たとへば榛名神社の祭神を社説に元湯彦命とせるなど)。本居宣長の玉かつま卷十一なる「舊事大成經といふ僞(189)書の事」といふ條に
 先代舊事本紀といふ僞書七十二卷あり。先代舊事大成經ともいふ。潮音といひし僧、志摩國の伊雜《イサハ》宮の祠人某とあひはかりて造れりしをいつはり顯はれて天和元年にかの二人ともに流罪になりて此書ゑれる板も燒すてられにき。潮音は黄檗といふ流の禅ほうしなりしとぞ
とあり。潮音名は道海、潮音は其字(人よりは字を稱し自は名を稱する習なり)、肥前の人なり。徳川綱吉が館林侯たりし時綱吉及其母桂昌院の歸依を得て館林に廣済寺を開きしが綱吉が入りて宗家を繼ぎし後天和三年に去りて同國|南牧《ナンモク》川の上流大鹽澤(今の北甘樂郡磐戸村の大字)なる黒瀧山に入りて不動寺を再興し以て一大禅林とし黄檗宗黒瀧派一名潮音門派の祖となりき。元禄八年八月寂す。時に年六十八。大成經の上木せられし時學問のいまだ開けざりし世なりと雖さすがに疑ひ又は覺りし者もありと見えて大成經疑問・大成經難文・大成經破文など次々に現れき。就中破文(出口延佳の作といふ)は上版せられしかば潮音も終に黙しかねて大成經破文答釋篇一卷を作りき。
 ○潮音の著述目録の中に答釋篇のみありて大成經の無きは之を著述に加ふればそ(190)の僞作なることを自白する結果となるが故なり。然も同人の一生の著述の中にて最多く時と力とを費ししは此書なるべきにそを自著と稱し得ざりしは神譴佛罰とも謂ひつべし
玉勝間に「天和元年にかの二人ともに流罪になりて」とあれど諸書に出でたる潮音の傳を※[手偏+僉]するに流罪に處せられし事は無きが如し。げに破文の出でし後潮音は奉行所に喚出されし事などやありけむ。破文答釋篇の末に天和第二壬戌年菊月念五日(〇九月二十五日)余罹2横難〔四字傍点〕1。於2一七日1正2受神助1述2作之1云々とあればなり。恐らくは巧に辯解するか又は陰に運動しなどして(時の將軍は曾て生母と共に此僧に歸依せし綱吉なり)同惡の伊雜宮祠人のみ刑に遭ひて潮音は罪を免れしならむ。正受神助とは運動の奏效を指せるにあらざるか。もし答釋篇を見るを得ば當時彼がいかに辯疏せしかを知るを得べく其外にも知らるることあるべし。増訂國書解題に
 先代舊事本紀七十二卷、僧潮音 一名を大成經といふ。聖徳太子の舊事本紀なりとて正部三十八卷・副部三十四卷共に僞撰したるものなり。本書は國史大系の第七卷にも收めたり。該書は中山繁樹が度會延佳本を校訂上木せしものを原とし云々
(191)といへり。本書は〔三字傍点〕以下は舊事記に係れる事なり。大成經に關せる事にあらず。初學の徒惑はされぬべし(古事類苑文學部四十の四五九頁以下參照)
 ○後に伊勢貞丈の安齋隨筆を見しに其卷十八に
  舊事大成經 此の書は僞書なり。天和の頃上野國黒瀧の潮音禅師と云ふ僧并に勢州堅田の神主〔五字傍点〕(○貞丈雜記卷十六には志摩國伊雜宮の神主とあり)永野某とり拵へて板行に出す。右僞書を作る旨露顯に及びて采女〔二字傍点〕事は遠島になり潮音も遠島に相成候處桂昌院樣御歸依の僧なれば寺へ歸され隱居したり。右板行本出したる本屋豐島屋豐八は追放になりしなり
とあり。余の推定と一致すれば是おそらくは事實に近からむ。但右の文には脱文及誤記ある如し。同人の神道獨語(群書備考卷六所引)に
 別に先代舊事本紀と云ふ書七十二卷あり。一名を先代舊事大成經とも云ふ。此書は近き頃黒瀧の潮音と云ふ禅僧(肥前の人、上野國館林廣済寺住職、黄檗宗)志摩國伊雜宮の神人に頼まれて浪士|水〔左△〕野采女〔四字傍点〕と相謀て僞作したりしに後に其事顯れて天和三年に兩人ともに流罪に處せられし也
(192)とあり。又俗神道大意一名巫學談弊卷二(平田篤胤全集第七册一六三頁)に
 既こ先年常憲院殿(○綱吉)ノ御代ニ上州館林ノ廣済寺ト云禅寺ノ住職ニ潮音トイフ者、ソノ砌智識ノキコエ有タル者デ、コレガ志摩國伊雜宮ノ神主ガ家ニ古キ僞書ノ少シバカリ有リタルヲ元トシテ加筆妄作増補イタシ七十二卷ニ書キヒロメ此ヲ聖徳太子ノ眞本ダト申テ印板ニシテ世ニ行ツタ。舊事大成經ト云ハコノ事ヂヤ。是ハ伊雜宮ノ神主ト潮音ト相謀テ伊雜宮ハ天照大御神ノ御本宮ダト云ヒカスメテ伊勢ノ神宮ヲ壓《オサ》ント巧ミ其澄據ニ引《ヒカ》ウトテ僞作シタモノヂヤ。所ガ天和元年ニソノ僞作ノ事ガ顯ハレテ伊雜宮ノ神主永野采女モカノ潮音モ流罪ニ仰セ付ラレ大成經ノ刻版并ニ所々ヘ賣リ遣ハシタル版本ヲ取集テ御燒棄ニナリ夫ヲ開版シタル書林豐島屋豐八ト云者モ追放セラレタ。所ガコノ潮音ハ將軍家ノ御母君一位樣ノ御歸依アソバシタル僧デ有タル故ソノ御願ニ依テ流刑ヲバ御宥恕アツテ上野國黒瀧山ヘ轉住仰セ付ラれた事ガアル
とあり。黒瀧山へ轉住仰セ付ラレタといへるは誤ならむ
 
(193)   上野國の三古碑
 
當國高崎の南方、舊緑野郡の西北隅と西隣舊多胡郡の北端とに珍しき刻文の三古碑あり。今一般に山上《ヤマノウヘ》碑と稱し金井澤碑と稱し多胡碑と稱す。甲乙は烏川の南邊に、丙は鏑川の南邊に在りて共に上信電氣鐵道(自高崎至下仁田)に沿へり。就中金井澤碑は根小屋《ネゴヤ》驛に近く山上碑は山名驛に近し。兩碑は又高崎街道に沿へり。山名驛の次が馬庭《マニハ》驛、其次が吉井驛にて多胡碑は此驛に近し。最東に在るは山上碑にて金井澤碑は其西北に當り多胡碑は少し離れて金井澤碑の西南に當れり。最東の山上碑と最西の多胡碑と相隔たること直徑にて僅に二十六町許なり。三碑共に今は多野郡に屬せり。就中山上碑と金井澤碑とは八幡《ヤハタ》村に屬し多胡碑は吉井町に屬せり。三碑の建立年代を云はば最古きは辛巳即天武天皇十年なる山上碑にして之に次ぐは和銅四年の多胡碑、又之に次ぐは神龜三年の金井澤碑なり。かく最後れたる金井澤碑といへども今昭和十三年を去ること一千二百十二年の物なり三碑の内體裁最うるはしく碑文の記事最重要にして又最早く世に知られたるは多胡碑なり。此碑はただ群馬縣の至寶なるのみならず亦皇國の重寶な(194)り。縣人特に吉井町の人は其誇として之を保護せざるべからず。多胡碑は多胡郡新建の記念碑なり。こはまづ前人の云へる如し。金井澤碑は祖先父母の安樂を願はむ爲に建てたるものなり。前人が説いて鵠に中らざるは天地誓願仕奉石文の語義を正解し得ざる爲なり。山上碑を佛教信仰關係のものと云へるは全く文意に通ぜざるなり。こは筆者の母が屯倉《ミヤケ》即御料田の管理人に指定せられしを榮とせる記念文なり。三碑は年の相去ること僅に四十五年、地の相去ること上に云へる如く僅に二十六町許なるが是に由りて察知せらるるは當時此地方の文化の大に開けたりしことなり。誰か思はむ一千二百年以前の東國に拙きながらも漢文を作り得るものあり、之を大書し得るものあり、之を貞石に刻し得るものあらむとは。又察知せらるるは當時此地方に建碑の流行せしことなり。もし三碑相去ること十年二十年ならば一人の好事者ありて衆人を勸誘しけむとも見らるべけれど前後四十五年に亙れるを思へばなほ建碑の好尚が此地方を浸染したりしなり。さて最古の山上碑を見るに始めて刻字を試みしものとは見えず。恐らくはいく度もこれより稚拙なるものを作りて熟練の末始めて此に至りしならむ。又碑の今に傳はるものは三箇に過ぎざれども初より唯三箇を作りしものとは思ふべからず。他年(195)或は土中又は水底より之より古きもの又は新しきものを新に發見することもあるべし。三碑中山上碑と金井澤碑とは多胡碑の如く切石ならずして自然石なること、手筆はた多胡碑の如く妙ならざることは私人の經營に由るが故ならむ。多胡碑はうつなく郡司の建設なり
 
    山上碑
 
集古十種に上野國山名村觀音堂碑といひ、好古小録に上野國△△郡山名村碑といひ、市河寛齋の金石題跋に上野群馬山上碑といひ、古京遺文に山名村碑といひ、伴信友の上野國三碑考に山名村辛巳碑といへるもの即是なり。碑は舊緑野郡山名村字|山上《ヤマノウヘ》(今の多野郡|八幡《ヤハタ》村大字山名字山神谷)にあり。細長き自然石にて同じく自然石なる臺石に据ゑられたり。高さは箝入の處まで三尺七寸なり
釋文 好古小録に
 辛巳歳集月三日記 伏〔右△〕野三家定賜健守命孫黒賣△自此新川臣兒斯△珍〔右△〕足△孫大兒臣娶三兒長利僧母爲記定文也 放光寺僧
(196)とし古京遺文に
 辛巳歳集月三日記 佐野三家定賜健守命孫黒賣刀自此新川臣兒斯多彌足|邊〔右△〕孫大兒臣娶|三〔右△〕兒長利僧母爲記定文也 放光寺僧
とせり。即伏を佐とし賣の下を刀とし斯の下を多とし珍を彌とし足の下を邊とせり。又伴信友は
 辛巳歳集月三日記 佐野三家定賜健|安〔右△〕命孫黒賣刀自此△△新川臣兒斯|冬禰〔二字右△〕足尼孫大兒|君〔右△〕娶三兒長利僧母爲記定文也 放光寺僧
とせり。即足の下を尼とせり。但守を安と誤ち斯の下を冬禰と誤ち大兒の下を君と誤ち又誤りて此〔右△〕の下を缺字とせり。終に黒板勝美博士は殆正しく
 辛巳歳集月三日記
 佐野三家定|給〔右△〕健守命孫黒賣刀自此
 新川臣兒斯多|々〔右△〕爾足尼孫大兒臣娶|生〔右△〕兒
 長利僧母爲記定文也 放光寺僧
とせり。三兒を生兒とし多の下に々を補へるは新發見なり。但賜を給とせるは誤筆又は(197)誤植ならむ
文義 辛巳を貞幹・寛齋・信友は天平十三年とせり。望之は獨、天武天皇の十年として
 蒙齋(○貞幹)其文ガ高田里碑(○金井澤碑)ニ似、其所在相近キヲ以テ或ハ一手二出デタラムト謂ヒ、定メテ辛巳ヲ以テ天平十三年トセリ。余ハ謂フ。高田里碑、神龜ヲ以テ年ヲ紀セリ。此《コレ》特《ヒトリ》天平ノ號ヲ舍テテ干支ヲ以テ紀スベカラズ。則天武天皇ノ十年ナルベキナリト(○原漢文)
と云へり。此碑は黒賣刀自を、始めて佐野三家に定めたまひし定文を記し金井澤碑は三家の子孫が七世の父母並に現在の父母の爲に死後生前の幸福を祈願する文を刻せるなれば甲は乙より後るべからざること勿論なり。されば辛巳は天武天皇の所謂十年とすべし○集月に就いて好古小録に
 古銅碑ノ銘ニ戊子集月銘文トアリ。疑クハ韓語ナラム
といひ古銅碑の銘は好古日録に載せたり。文解すべからざれば引かず。集は拾と同韻同音なれば非常識なる好事者(たとへば僧侶)が時として代用せしならむ。韓語にはあらじ。夙く寛齋は集月未詳。或當2十月之轉音1といひ信友は
(198) 十も集もともに入聲※[糸+揖の旁]韻の字なれば十に通はし用ひたるにはあらざるか
といへり○佐野は萬葉集卷十四にカミツケ野左野、カミツケヌ佐野ノフナバシなどよめり。今の群馬郡佐野村附近にて碑の在る處と鳥川を隔てて相對せり〇三家を信友はミツヤと訓みて
 黒賣刀自といへる女の志行などの聞えあるによりて其を賞てそれが子三人(○生兒を誤りて三兒と讀みてかく云へるなり)三家同等に定めて課役など免じたまへる事のありけるを共に三家といひておのづから氏の如くに稱號としたりしものなるべし。三家は美都也とよむべし
といへり。播磨風土記|神前《カムザキ》郡の下に其孫等川邊里三家人夜代等とあるは誤脱ありと見えて文義不明なり。古事記に神八井耳命者筑紫三宅連〔三字傍点〕等之祖也とあるを天武天皇紀十三年に筑紫三家斂〔三字傍点〕と書けり。又和名抄郷名にミヤケは多くは三宅と書けるを美濃の厚見郡と備前の兒島郡とに三家と書ける郷名ありて後者に美也希と訓註せり。かかればここの三家もミヤケとよむべし。余は播磨風土記新考印南郡|益氣《ヤケ》里の下(八〇頁)に
 ミヤケは上古御料の田より出づる穀を納置きし倉庫又は其田を管せし官舍なり。其(199)田をミヤケ田といひ又つづめてそれをもミヤケと云ひき。ヤケは元來家屋の古語なり
といひおけり。さてここに三家といへるは屯倉の預なるべし〔さて〜傍点〕。さらば古の屯倉《ミヤケ》ノオビトの類かといふにさる重きものにはあらじ。屯倉ノアヅカリを單にミヤケといへる例は知らねど今三宅氏と稱するものに古の屯倉ノアヅカリの子孫と思はるるものあるを例とすべきか。佐野三家定賜黒賣刀自は佐野ノ三家ノ預ニ黒賣刀自ヲ定メ賜フとなり。國造本紀に某ヲ何ノ國造ニ足メ賜ヒキと云へるを例とすべし○健守命孫の孫は後裔なり。マゴにあらず。天武天皇時代の人の祖父をナニガシノ命と稱すべきにあらねばなり。此はコハと訓むべし。此刀自ハとなり。新川臣兒、此下を句とすべし〔新川〜傍点〕。黒賣はクロメと訓むべし。信友はクルメとよみて群馬に引附けたれど郡郷の群馬《クルマ》とは關係なし○斯多々彌は細螺を名に負へるなり。信友は新川臣兒を下へ附けて讀みたるが故に新川臣ノ子斯多禰(斯多々彌の誤)足尼ソノ子孫大兒臣となりて
 但し斯多禰足尼、新川臣の子ならむには其骨を受て臣とこそはいふべけれ、足尼とはいふまじきことわりながら、もとは上古に人を美稱ふる言なりしかば、そのかみ邊鄙(200)にはなほいにしへの意の遺りて然もいへりしなるべし
などあやなき事を云はざるを得ざりしなり○定文はやがて佐野三家定賜健守命孫黒賣刀自といふ文なり〔定文〜傍点〕。記定文也を記ス定文ナリ又文ヲ記シ定ムルナリとよめる人あるは誤れり
訓讀 かかれば此文は次の如く讀むべし
 佐野ノ三家《ミヤケ》ニ健守《タケモリ》命ノ孫|黒賣《クロメ》刀自ヲ定メ賜フ。此《コ》ハ新川臣ノ兒ナリ。斯多々爾|足尼《スクネ》ノ孫大兒君ニ娶《ア》ヒテ生ミシ兒長利僧、母ノ爲ニ定文ヲ記セル也 放光寺ノ僧ナリ
古京遺文に碑在2上野國緑野郡山名村山上觀音堂傍1とあり。此觀音堂今は無し。碑前の石階は元來堂の爲に設けたるなり。同書に
 放光寺不v詳。按上野國神名帳有2群馬郡放光明神1。寺或在2是地1。然神祠亦廢不v知2其處1。今距2佐野村1一許町有2小堂一宇1。俗呼云2放光山顛邊寺1。或云。是放光寺舊址。未v知果然否
といひ三碑考に
 放光寺は今群馬郡下佐野といふ所に天平山放光|院〔右△〕といふがあり
 今下佐野に放光寺とて在りとぞ。この國内神名帳群馬郡に從四位上放光明神見えた(201)り。相並に由ある社寺なるべし
 放光寺そのかみこの碑の在るわたりにありけるを後に今ある地へうつせるにか。然らばいはゆる八幡山にありときこゆる八幡社はむかしの放光明神にはあらざるか
といへり。遺文の顛邊寺は或は天平の訛音なるべし。今碑の在る處は大寺などの在るべき地形にあらず。又八幡社は山名部落の西北邊に在りて緑野郡の内なれば下佐野とは郡を異にし、烏川を隔て、又三十町近くも離れたり。群馬縣史蹟等調査報告第一輯に
 放光寺は今所在を失ふも今佐野村に其跡なりといはれる村社放光神社がある
といへり。ともかくも放光寺は佐野に在りし大寺にて此寺の僧長利は佐野の屯倉の預黒賣刀自の子なりしかば母の爲に自此文を作りそを刻める碑を川を隔てたる丘陵の上に建てしならむ。三碑考に又
 此碑緑野郡山名村につける山名八幡山の上に山名上村と呼て民戸十烟ばかりある所の窟中に藥師佛の石像あり、其前庭の左の方に建り
といへり。山名上は上山名ならむ。山名村はもと上下に分れたりしか。窟といへるは發掘せられたる古墳なり。塚も碑も共に南面し碑は塚の向ひての左前に在り。近世の學者は(202)塚を黒賣刀自の墓に擬し碑を一種の墓標に擬して珍奇なる例といひはやせり。靜に思ふに此説いかがあるべき。まづ碑は初より此位置に在りしにあらず。史蹟等調査報告に
 地元に於ては觀音堂が主であつたので屡々碑の位置を變へられたことがある。即ち嘗ては堂側の松の木の根元にありしこともあれば或ひは山下に移されたこともある。明治以後にも附近の民有林にありしこともあるが同八年の頃には石段を登つた右手に建つて居つたともいはれてゐる
といひ陸路の記(明治十一年)に
 二碑(○山上碑及金井澤碑)共に地に打倒して長く保たん設なければ遂に雨露に損なはれて何ともしられぬ者にぞなりぬべき
と云へり。次に文意を按ずるに純然たる記念文なり。即母黒賣刀自が所謂|三家《ミヤケ》に定められしことを後に傳ふる文なり。たとひ作文不自由なりとも若墓標ならば其由を記さざるべからず。少くとも母の死去の年月日を録せざるべからず。又少くとも今の情を以て云はば塚も碑も北面して即佐野に向ひて築かざるべからず。今碑が塚側に立てるに由
りて塚を黒賣刀自の墓に擬するは危しと謂ふべし。ともかくも碑は塚と共に大正十年(203)三月内務大臣より史蹟として指定せられき。塚内の佛像を史蹟調査報告に「馬頭觀音と見るが適當なり」といへり。親しく見ねば可否は云ふべからず。但同書に「もと觀音堂内に在りき」と云へるは如何。堂の撤廢せられしは近年の事なるに佛像は夙くより石槨内に在りき。即三碑考に「窟中に藥師佛の石像あり」といへり。此藥師佛は史蹟調査報告に云へる馬頭觀音と別物にあらじ○三碑中、書の最勝れたるは多胡碑にして金井澤碑之に次ぎ此山上碑最劣れり。此碑の拓本の最鮮なるは柴田常惠君稿史蹟名膠調査報告第四に添へたるものなり
 
    金井澤碑
 
集古十種に上野國山名村碑といひ、好古小録に上野國群馬郡下賛郷碑といひ、金石題跋に上野群馬下賛碑といひ、古京遺文に高田里結知識碑といひ、三碑考に金井澤神龜碑と云へり。碑は前者と同村即舊緑野郡山名村の字金井澤(今の多野郡八幡村大字山名字金井澤)に在り。前者の西北に當り其距離十數町に過ぎざれど荊棘を披くに憚からば前者より山下の縣道に下り西北行し上信電鐵根小屋驛の先より左折して山に入らざるべ(204)からず。此路に由れば兩者の距離約一里なり。碑は一塊の自然石なり。故に俗に牡丹餅石といふと云ふ。文は其石の面のやや平なるに九行に刻せり。長は臺石に掘込みたる處まで三尺六寸にて厚さは幅よりやや小なり
釋文 好古小録に
 上野國羣馬郡下賛郷高田里三家子△爲七世父母現在父母現在侍家刀自△△君△△刀自|人〔右△〕兒△部|〔右△〕刀自|後〔右△〕物部君|千〔右△〕足次|※[馬+夭]〔右△〕刀自次△△刀自合六口又知識所結人三家氏人△△衆知万呂|※[金+(凶/峻の旁の下半)]師礒部君△麻呂今〔三字右△〕三口如是知識結而天地誓願仕奉石文神龜三年丙寅二月廿九日
とし古京遺文に
 上野國羣馬郡下賛郷高田里三家子孫爲七世父母現在父母現在侍家刀自△△君目道刀自又兒△那刀自孫物部君手足次※[馬+爪]刀自次△△刀自合六口又知識所結人三家氏人衆知万呂鍛師礒部君牛麿合三口如是知識結而天地誓願仕奉石文(○以下略)
とせり。即三家子の下を孫とし、第二の刀自の上を目道とし、人を又とし、部を那とし、後を孫とし、千足を手足とし、※[馬+夭]を※[馬+爪]とし、※[金+(凶/峻の旁の下半)]を鍛とし、麻呂を麿とし、今を合とせり。三碑考には
(205) 上野國羣馬郡下賛郷高田里三家子|等〔右△〕爲七世父母現在父母現在侍家刀自他田〔二字右△〕君|日頭〔二字右△〕刀自|大〔右△〕兒|君〔右△〕那刀自孫物部君|千〔右△〕足次※[馬+爪]刀自次△※[馬+爪]刀自合六口又知識所結人三家|毛△〔二字右△〕次|知〔右△〕万呂鍛師礒部君牛麻呂〔二字右△〕合三口(○以下略)
とせり。遺文と異なる所は子孫を子等とし、家刀自の下を他田君とし、目道を日頭とし、又兒△那を大兒君那とし、手足を千足とし、次△△を次△※[馬+爪]とし、氏人を毛△とし、麿を麻呂とせるに在り。又知万呂を考證中には治万呂とせり。信友の釋文を拓本と對照するに三家子の下は等にはあらず。日は明に目なり。千はげに千なり。毛△は毛人なり。特に毛は瞭然たり。知は明に知なり。治にあらず。麻呂はげに明に二字なり。終に黒板氏は
 上野國|群〔右△〕馬郡|卞〔右△〕賛郷高田里
 三家子孫爲七世父母現在父母
 現在侍家刀自△△君目|頬〔右△〕刀自又兒△
 那刀自孫物部君|午〔右△〕足次※[馬+爪]刀自次|乙〔右△〕※[馬+爪]
 刀自合六口又知識所結人三家毛人
 衆知万呂鍛師礒部君身麿〔二字右△〕合三口
(206) 如是知識結而天地誓願仕奉石文
  神龜三年丙寅二月廿九日
とし、さて家刀自の下の缺字を他田カといひ又兒の下の缺字を加カと云へり。目の下を頬と見、第四行の末より第二の字を乙と見、礒部君の下を身と見たるは黒板氏の功勞なり。初行の第四字は壞れて見えがたけれど字形長ければなほ羣にあらざるか。年足・麿はなほ千足・麻呂か。卞賛郷の事は次に云ふべし
文義 黒板博士は
 從來卞賛を下賛と讀んで下佐野といふ郷であるといふことになつてをるが原字は立派に卞賛となつてゐてどうしても下賛とは讀めない。しかしそれを何と讀んでよいかは疑問である
といへり。げに寫眞にても拓本にても明に卞賛と讀まる。何故に下を卞に作れるかは知られねどこは迎へて下賛と讀むべきことなほ目頬刀自の下の字が明に人の字なれど迎へて又と讀むべきが如くならざるか。余はなほ下賛と釋しシモサヌと訓みて下佐野(207)とせむとぞ思ふ。さて山吹日記に
 いにしへ河の向ひは上佐野といひこの根小屋のあたりは下佐野といひて中に流るる河なん佐野の中川にてやありけむ
とありといふ。又金石題跋に
 賛、佐野ト國音相通ズ。下賛は乃下佐野ナリ。村上下ニ分タレ今尚共ニ烏川ノ北ニ在リ。按ズルニ萬葉集ニ載セタル烏川ヲ咏ゼル者多クハ賛之中川ト稱セリ。顧フニ古昔下賛村、川南ニ在リテ水二村ノ間ヲ流レキ。故ニ中川ト稱スルナリ(○原漢文)
と云へり。サノノ中川は千載集以下にこそ見えたれ。三碑考にも
 今此碑の在る山名村わたりをおしなべてただに佐野と呼び川を隔ててあなたざまをば上佐野と呼びならへりとぞ。しかれば當昔は賛郷を上下に分て其川のこなたは下賛郷なりし事しるし云々
といへり。佐野郷は和名抄の何郷に當れるか詳ならねど今烏川の左岸(東北岸)に佐野村ありて大字上佐野下佐野などに分れたり。川の右岸を佐野とは云はず。さて金井澤碑所在地が川の右岸なることは前に云へる如し。群馬緑野兩郡の界は古も今の如く烏川な(208)るべきを、もし山吹日記・題跋・三碑考の如く下賛郷を川の右岸とせば賛といふ郷は兩郡に亙らざるべからず。又川を隔てて相對せる郷の一を上とし一を下とするは川上なるを上とし川下なるを下とする一般の例にもたがへり。思ふに上賛郷も下賛郷も共に今の上佐野下佐野と齊しく今碑の在る處の對岸なる群馬郡にぞ在りけむ。三書にかく没理的なる事を云へるは下賛郷の人が其郷に建てし碑ぞといふ初念に誤られたるなり。後に云はむ如く此碑は初より此處に在りしにあらねば初には何處にか在りけむ知るべからず。即初下賛郷に建てしかも知るべからざると共に初より郡界を越えて對岸の丘陵上に建てしかも知るべからず○高田里は古京遺文に
 按ズルニ上野國神名帳ニ群馬郡高田明神アリ。碑ニ云ヘル高田里ハ蓋是地ナラム。然レドモ神祠廢絶シテ今其處ヲ詳ニスル莫シ
といへり。又三碑考に
 此も里名のに見あたらず。當國の國内神名帳群馬郡西郡に從三位高田明神と申すを載たり。今山名村に遠からぬ中居倉賀などいふ村のわたりに高田と呼ぶ所ありとぞ
といへり。倉賀は倉賀野の誤にて今の倉賀野町なり。佐野村の東南に接せり。
(209) ○因に云はむ。倉賀野は群馬之《クルマガ》野の訛なりと云へる説あり。氏の車持も中世以來訛りてクラモチと云へり
中居は今佐野村の大字となりて上下に分れたり。此附近に高田といへる地名殘れりと云へる、おぼつかなし。ともかくも當時の里は後の村なり〇三家子孫とある三家は前に云へる如く屯倉の預なり。三碑考の訓も説も誤れり。下に三家毛人といふ氏名あるを思へば當時夙く三家氏とぞ云ひけむ○爲七世父母現在父母は信友に從ひて七世ノ父母現在父母ノ爲ニと讀むべし。黒板氏の訓讀は從はれず。七世父母といふこと漢籍にも佛經にも見えたり。ただ祖先と心得べし。國史にも齊明天皇五年に於2京内諾寺1勸2講盂蘭盆經1使v報2七世父母1とあり○現在侍家刀自、この侍を信友が「侍養の義ときこゆ」といへるは非なり。本來此文は信友のよく心得たる如く眞の漢文にあらず。古き物によそへなば古事記、後の物になぞらへば吾妻鏡の如き漢文なり。當時の上野國人に眞の漢文の書かれざりしは當然の事なり。侍はハベルと訓むべし。祖先に對して自謙してハベルと云へるなり。家刀自は戸主の妻なり。即三家氏宗家の主婦なり。其次の△△君を信友は他田君と釋せり。しばらく之に從はむにその他田君を信友が下に附けて他田君目頭(○目頬)刀自(210)と讀めるは誤れり。他田君は家刀自即主婦の氏カバネなり。信友が家刀自を山上碑なる黒賣刀自の事とせるはいみじき誤なり。以下信友の説には誤いと多けれど多くは山上碑の辛巳を天平十三年と誤認せる結果なれば必要なき限は一々辨へじ。是一には勉めて先正を犯さじとてなり〇日頬《メヅラ》刀自の名義は珍なり。刀自は人妻なり。家刀自とは異なり。此婦人は戸主の伯叔母にもあれ姉妹にもあれ戸口即家族の一人なり○又兒は其子と心得べし。目頬刀自が人に偶《ア》ひて生みたる子なり○孫物部君千足は△那刀自が又物部君某に偶ひて生みたる子なり○次※[馬+爪]刀自は物部千足の妹なり。二つの次は共にソノ妹なり。例は古の戸籍に就いて見べくオトともイモとも訓むべし。馬扁爪旁の字は常の字書に見えず。馬扁瓜旁の字は有り。即※[馬+渦の旁]の字に齊し。六朝の宋の明帝が[馬+渦の旁]字が禍字に似たるを忌みて改め作りしなり。夙く題跋には※[馬+渦の旁]とせり。※[馬+渦の旁]は字書に黄馬黒|喙《クワイ》また淺黄色と見えたればキウマなど訓むべけれど上野國の土民の娘の名にさる難字を用ふべくもあらず。黒板氏は爪旁のままにてヒヅメと訓めり。所據あるにや知らず。恐らくは信友の云へる如く馴の字の異體ならむ。馴を※[馬+爪]と書けるは近古の寫本にも例あり(たとへば近衛龍山公筆草庵集)。乙は弟に齊し。姉妹に名を命ずるに妹に弟を添へたる例古き戸籍(211)に多し○合六口は都合六人なり○知識に就いて遺文に
 結知識ハ結社ト謂フガゴトシ。蓋今ノ俗ニ構中ト言フ者是ナリ
といひ、信友も
 知識は相知相識の義にてもはら同心に佛教を信《タノ》む輩どち云へる稱にて今の俗に講中などいふが如き睦《ムツビ》するかぎりをいへりときこゆ
といひて若干の例を擧げたり。知識といふ語、用ひ慣れていく度も遷れりと見ゆるが、ここに云へるは單なる信仰組合にあらで寄進組合ならむ。即所謂知識物を醵出する一團ならむ。さて知識所結人とは其組合ニ加入セル人といふことなり〇三家毛人は三家氏の支族なり。初六人は三家氏宗家の人、後の三人は別戸の人なり。毛人はエミシと訓むべし。知万呂はチマロと訓むべきか。次とあれば前者の弟なり。鍛師はカヌチ即カヂなり。遺文に鍛師人名といへるは非なり。身が下に續く時はムとなる例なれど麻呂は添稱にて本名は身なればなはミマロと訓むべし○誓願仕奉の語例は法隆寺藥師佛造像記に
 池邊大宮治2天下1天皇大御身勞賜時歳次丙午年召3於大王天皇與2太子1而誓願〔二字傍点〕賜、我大御病大平欲v坐故將2造v寺藥師像作仕奉〔二字傍点〕1詔。然當時崩賜、造不v堪者小治田大宮治2天下1大王天(212)皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉〔二字傍点〕
とあり。遺文に
 仕奉石文、語意佛像ヲ造立シ碑ヲ建テテ之ヲ紀スト云ヘルニ似タリ。想フニ是亦造像記ナラム
と云へるは仕奉を見ること重きに過ぎ、三碑考に
 其々の名を告て天地誓願仕奉といへる意を推し量るに署名の六口同族なるがいはゆる知識を結びてますます親睦まじからむ事を天神地祇に誓願せるにて語は上に引出たるごときそのかみの文例に據れるなるべし
と云へるは仕奉を見ること輕きに過ぎたり。信友は誓願仕奉を奉誓願と云はむが如く心得たるなれど、もし信友の解せる如き意ならば初に七世ノ父母現在ノ父母ノ爲ニとは云はじ。仕奉石文といへるは作り奉ル碑といふことにて建碑の功徳に由りて祖先父母の安樂を冀へるなり〔仕奉〜傍点〕○七世父母は前にも云へる如くただ祖先といふ事なれば同社九人に共通したりとも云ふべけれど現在父母は九人に共通したるものにあらず。九人は兄弟にあらねばなり。それのみならず九人の中には現在父母なきものもあるべし。さ(213)れば現在父母ノ爲ニは現在父母アルモノは其現在父母ノ爲ニモといふ意とすべし
訓讀
 上野國|群馬《クルマ》郡|下賛《シモサヌ》郷高田里ノ三家《ミヤケ》ノ子孫、七世ノ父母現在ノ父母ノ爲ニ現在シ侍ル家刀自△△君、目頬《メヅラ》刀自、又兒△郡刀自、孫物部君千足、次《オト・イモ》馴刀自、次《オト・イモ》乙馴刀自合六口、又知識ヲ結ベル人三家毛人《ミヤケノエミシ》、次《オト》知万呂《チマロ》、鍛師《カヌチ》礒部君身麻呂合三口、如是《カクク》知識ヲ結ビテ天地ニ誓願シテ仕ヘ奉ル石文 神龜三年丙寅二月甘九日
好古小録に明和中上野國高崎ノ山崩レテ出ヅとあれど高崎は金井澤と離れたり。又高崎の近傍には山なし。金石題跋に
 明和中崖崩レテ石出ヅ。實ニ高崎ノ街吏田忠(○高崎連雀町年寄福田平左衛門方忠)トイフ者ニ由リテ始メテ著ル
といへり。題跋の著者市河寛齋は甘樂郡下仁田の人なり。始めて此碑を記述せしは天明六年の山吹日記か。それには
 いたう奥まりたる山陰の賤がふせやの庭に神龜三年の古き碑たてり。此山のかたはらより近き頃ほり出せしとかや。……今は八幡宮にいはひたるは高崎の宮部義正(214)(○家老、歌人)がいひすすめてかくしたりとぞ
とありと云ふ。但此書は余の文庫に有らず。古京遺文に
 舊《モト》山下(ノ)村民彌一ノ家ノ側ニ在リ。家人或ハ時《トキドキ》就イテ衣ヲ擣ツ。彌一家衰ヘ族絶ユ。村民等是碑ヲ犯穢《ボンエ》スルガ致セルナリト謂《オモ》ヒテ遂ニ之ヲ山上ニ移ス。或ハ明和中烏川ノ鵠ネノ崩壞シテ出デシ者ト云ヘルハ是ニ非ズ
といひ、三碑考に
 天明の始のころ長雨して其上の山の崩たるとき此碑顯れて今在る處に(當時民家の庭なりしとぞ)轉び落たりけるを村人ども神なりとしてやがて其處に崇めおけるを後に八幡宮と呼ぶこととなりぬとぞ
といひ、縣史蹟調査報告には
 又單に金井澤の溪邊に埋もれ居しを掘り出したものであるとも稱し傳ふる所一樣ならざるものがある。……明治の初年には發掘者の子孫と稱する春山直吉なる者の所有に屬し家の鎭守として八幡に祀られて居つたといひて諸説紛々たり。ともかくも明治十五年六月に政府に買ひ上げ同十六年三月に(215)所在地一畝二十歩はた官有となりき。さて大正十年三月に至りて内務大臣より史蹟として指定せられき○此碑を六刀自碑と稱せるものあれど結盟九人中刀自は五人なり。されば六刀自碑といふ名は正しからず○此碑の出現が好古小録・金石題跋などに云へる如く明和年間なりや然らずやはさだかならねど内務省及群馬縣より刊行せられたる一二の書に此碑の事の見えたる山吹日記は天明六年の著、其著者日下部高秀は寶暦元年歿にて寶暦は明和より前なれば明和年中出現といふ説は斷じて誣妄なりと云へれど山吹日記は奈佐勝※[白/本](日下部姓)の著にて日下部高秀の著にあらず。高秀の著といへるは下野國誌の誤を繼げるなり。又年號は寶暦・明和・安永・天明の順なるを寶暦元年に歿せし人が天明六年に書を作るべけむや。一犬吠虚萬犬傳實、今も猶昔の如し吁。因に云はむ。奈佐勝※[白/本]は寛政十一年三月十八日没年五十五なりといふ○此碑の拓本の最鮮明なるは山田孝雄博士増補古京遺文に添へたる中村不折氏所藏のもの及柴田常惠氏の報告に附したるものなり
 
(216)    多胡碑
 
宗長の東路ノツトに上野國多胡郡辨官符碑といひ、※[車+酋]軒小録に|野〔右△〕州多胡碑といひ、好古小録に上野國多胡郡碑といひ、金石題跋に上野多胡分郡碑といひ、集古十種に多胡郡|眞〔右△〕井村碑といひ、古京遺文に建多胡郡辨官符碑といひ上野國三碑考に多胡郡和銅碑といへり。多胡碑といふ名も新しからず。夙く寶暦十一年刻の上毛多胡郡碑帖の序跋に見えたり。碑は舊多胡郡池村(今の多野郡吉井町大字池字御門)なる二反六畝二十九歩の指定區域の左奥に在りてやや西南に向へり。切石にて面の幅は二尺を出入し厚さは之よりやや小なり。されば約二尺の方柱なれど其形整齊ならず。特に下方は上方より大なり。高さは箝入部まで四尺二寸一分にて上に方約三尺厚さ凡九寸の笠石を戴き下は聊臺石に箝入せり。碑面の文字は六行八十字にて書體豪宕剛健なり(但信友は碑の字形奇古にはあれど手は拙くかたはに見ゆと云へり)。字大にして刻はた深ければ釋讀は困難ならず。ただ字に若干の異體を交へたるのみ
釋文
(217) 弁官符上野國片岡郡緑野郡甘
 良郡并三郡内三百戸郡成給羊
 成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
 宣左中弁正五位下多治比眞人
 太政官二品穗積親王左太臣正二
 位石上尊右太臣正二位藤原尊
文義 弁は辨の通用なり。辨官符はやがて太政官符なり。大臣又は大納言宣し辨官傳宣するなり。太政官に左右の辨官ありて八省の事を分管しき。郡郷登録の事は民部省の所管なれば左辨官傳宣せしならむ。但近藤芳樹のくぬが路の記(上卷十五丁裏)に「左弁官は京より東を掌り右弁官は京より西を掌る」と云へり。いかが。辨官は今の書記官の類なり。符は上より下に下す文書をいふ。※[車+酋]軒小録に「太政官符を刻して後世にのこすなり」といひ古京遺文に此碑蓋刻當時符文也といへるは精しからず。無論官符の文例にあらず。官符の趣旨を記したるまでなり。夙く三碑考にも
 今按るに此碑文辨官符を寫記せるにあらで其符旨を記せるものなり
(218)といへり○續紀和銅四年三月に
 辛亥(○六日)割2上野國甘良郡織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡武美、片岡郡山△等六郷1別置2多胡郡1(○郷と云へるは追書)
とあり。和名抄多胡郡郷名には山宗(也末奈)織裳・辛科・大家・武美・俘囚・八田とありて俘囚郷添へり。後に置かれしにこそ。甘良は後には(民部省式にも和名抄にも)甘樂と書けり。續紀は山等の間に名(又は字《ナ》)の字を落せるならむ。和名抄の山宗は山字《ヤマナ》の誤か。高山寺本には山字とあり。續紀に三月辛亥(○六日)とあり碑文に三月九日甲寅宣とあるに就いて古京遺文に是恐係追記之誤といひ金石題跋に
 史云2三月辛亥1乃詔出之日、碑云2甲寅1乃書2宣命1之日。故中間隔2兩日l也(○宣命にあらず官符なり)
といひ、三碑考に
 但しその辛亥は六日なるに碑文に九日甲寅宣とありて日の異なるは續紀なるは新に郡を置るる由の詔を下されたる事を記されたるにて給羊と書る事の勅は九日に辨官の傳宣符を下せるなるべし
(219)と云へり。思ふに六日宣九日傳宣ならむ。ここに和名抄片岡郡の郷名に多胡あり。新郡を多胡と稱せしは此郷名に據りしなるべきにその多胡郷は新郡に加はらずして片岡郡に殘れり。之と同例なるは肥前國神埼郡三根と三根郡との關係なり。神埼郡を分ちて三根郡を置き神埼郡三根郷の名に據りて三根と名づけたるにその三根郷は依然として神埼郡に在り。信友が
 和名抄片岡郡に多胡郷あり。此地名をもて郡名に著られたるなるべし。但し績紀には片岡郡にては山|奈〔右△〕郷(〇信友は續紀の山の下の落字を奈とせるなり)を割れたる由見えたれどそのかみ多胡はなほ廣き大名の地にて別に山奈郷内にもおよびて在りしなるべし
と云へるは如何三根郡の例を思へばただ舊郡の首邑の名を取りしまでならむ(肥前風土記新考四五頁以下參照)。さて三百戸郡成給といへる、一里(一郷)五十戸の制なれば三百戸にて六里にて續紀の記述と一致せり。又郡を大上中下小の五級に分ち七里以下四里以上なるを下郡とせし制なれば多胡郡は下郡なり○給羊は古來の謎なり。後に云ふべし○左中辨正五位下多治比眞人を好古小録に三宅麻呂とし古京遺文に
(220) ※[業の五画目以下が冢]齋(○藤貞幹)曰ク。多治比眞人ハ三宅麻呂ナリト。按ズルニ三宅麻呂ガ左中辨タリシコト續紀ニ載セズ。然レドモ位階適ニ合ヘリ。亦後ニ左大辨タリ。サレバ或ハ其人ナラム
といひ三碑考には「水守にやなほ考ふべし」といへり。ここに大寶元年七月に薨ぜし多治比眞人島あり。多治比氏の人々は國史にあまた見えたれど其系統明ならず。但池守・水守・縣守・廣成・廣足等は麻呂の子なり。天武天皇紀六年十月に見えたる多治比麻呂は島の兄と思はる。三宅麻呂は或は麻呂の子にあらざるか。さて水守は和銅四年には從四位下なり。されば碑の正五位下多治比眞人は此人にあらず。又三宅麻呂は本朝月令四月七日奏成選短冊事の條に式部記文云和銅四年四月〔二字傍点〕多治比眞人三宅麻呂授正五位下とあれば和銅四年三月九日傳宣の正五位下丹治比眞人は三宅麻呂にもあらず(萬葉集追攷五三頁參照)。さればこの丹治比眞人は誰にか知られず○太政官二品穗積親王は正しくは知太政官事とあるべし。信友は太政官の上に知の字を補ひたり。眞人の下に一字分の空虚あれど、字ありしが消えたるなりとは認められず。太政官を擡げし爲に一字あきたるならむ。其上知を補へるのみにては事足らず。上に知を補はば必下に事を補ふべし。知太政(221)官事は眞の太政大臣にあらず。准太政大臣と云はむが如し。石上尊は麻呂、藤原尊は不比等なり。左太臣右太臣と書きたる太は大の通用なり。大臣は夙くより大臣と書きしかど大神宮・大政官などは近世までも太と書きき。いと古くは大小共に太少と書きしをまづ太の方より大と改めそめしに似たり○尊はミコトに充てたるなり。ミコトは世俗の尊稱にて今ドノとかサマとか云ふが如し。澤田東江の多胡郡碑面考證に蓋取2義於朝臣1耳といひ和訓栞アソミの下に「アソンのアを略書せしなり」といひ伊勢貞丈が「尊字は朝臣也」と云へるは辨ずるに足らず。古京遺文には
 尊ハ美古登ト訓ム。古時其人ヲ尊重スル稱ナリ。谷川淡齋(○士清)誤リテ朝臣ノ省トセルハ笑フベシ
といひ、三碑考に
 此二人の公たちの名を書ずして尊としも書るはことに憚り敬ひたる辭にてそのかみの書體なるべし。尊は美許等と讀むべし。……東大寺に藏る天平年中の文書の中の啓文に十一月一日謹上道守|尊〔右△〕座下長瀬若麻呂謹上また乙萬呂|尊〔右△〕御從側云々とかける書も見えたり。證とすべし
(222)といへり。大日本古文書第九の五頁に擧げたる文書にも謹上乙滿尊左右とあり。又同第十六の三四一頁に載せたる文書にも謹上佐官尊左右邊とあり。又萬葉集卷六なる石上麻呂卿配2土左國1之時歌にイソノカミフルノ尊ハといひ又集中に父ノミコト、母ノミコト、弟ノミコト、妻ノミコト、妹ノミコトなどよめり(或者は又古事記に)。字は借物なり。尊といふ字に眩ずる勿れ○金石題跋に末刻奉勅三公とあれど勅を奉《ウケタマハ》りて宣せしは左右大臣の中の一人のみ。即官符には三公の名を連ねたりしにあらじを官符の趣旨を記したる末に私に當時の三公の名を擧げたるにこそ。夙く三碑考にも
 三月九日甲寅宣とあるは下文に記せる左大臣右大臣の内一人の宣なるべきを後世にも顯はさむとなるべし。左中辨多治比眞人は傳宣せし人を顯はさむとなるべし。知太政官穗積親王は符文には載られざらめど當時上官の一人なれば御名を顯はせるなり
と云へり○并三郡内三百戸郡成給|羊〔右△〕成多胡郡とある羊の字は古來難解とせられ今に至りてもなほ不明なり。まづ澤田東江の多胡郡碑面考證には
 郡成給羊 義未詳。土人呼爲2羊大夫碑1。故姑從2土人所1v傳記v此如v左
(223)といひて小幡羊大夫といふものに關せる傳説を記したり。次に金石題跋には
 給羊未詳。羊大夫事固齊東野人之語。藤貞幹云。當v作v半。亦屬2千載臆斷1。皆不v足v信也
といひ、古京遺文には
 碑文給羊字不v可v讀。俗傳2羊大夫之事1荒誕不經不v足v辨。蒙齋曰。應v作v半。然文義不v通。不v如2闕疑之爲1v勝也
といへり。右の内碑面考證には給v羊と返點を附けたれば羊ニ給ヒと讀めるなり。好古小録には
 羊 半ノ誤ナラム。并テ三郡ノ内ヲ三百戸ノ郡ト成シ給ヒ半ヲ多胡郡ト成スト讀テ其義通ズベシ
といへり。并三郡内三百戸郡成は并セテ三郡ノ内三百戸ヲ郡ト成シと讀むべし。右の如くには讀むべからず。但給を下に附けずして上なる成に附けたるはよろし。さて貞幹も亦
 土人誤テ羊大夫ナル者ノ碑トシテ牽合附會ノ説アリ。村民故事ヲ談ズルノ憑據ナキ者論ズルニタラズ
(224)といへり。伊勢貞丈も亦羊を半の誤字とせり。但ワカツテとよめり。柳庵隨筆には
 この碑文の中に給羊といふ字あり。藤貞幹が説に羊は半の字ならんといひ……源與清は羊養相通じて給養といふこころなるべしといへり。……穿ちて説をなさば貞幹の説のごとく半の字の點畫を益したるにてあるべきにや
といへり。近くは陸路の記の筆者近藤芳樹も之に左袒して「羊は半なること疑ひなし」と云へり。與清の給養説は亦松屋筆記卷六に見えたり。かくの如くいづれも羊ニ給ヒテと讀みて羊といふ土人に給ひきとする傳説の俗説なることを斷定せる中に獨信友の三碑考にはうたてくも俗説に從ひて
 羊は人の稱名なり。……おもふに羊この土人にて殊なる功勲ありけるによりて別勅をもてこの新郡三百戸を食封に賜ひ郡務など執らしめたまひしたりしなるべし
などいと長々しく説述せり。思へ三百戸は禄令に據れば四品又は正一位の食封《ジキブ》なるに、たとひ如何なる功勲ありとも一庶人に賜ふぺけむや。又郡縣制の御世にして新に一郡を建てそを悉く一人に賜ふことあるべきならむや。又もし人名ならば氏及カバネを記すべきをただ名のみを記すべけむや。近年羊を手の誤として給羊をタマヒテと訓むベ(225)しといひ又は羊を十二支の未の借字として未ノ方ヲと心得べしといふ説も出でき。窮愈濫と謂ふべし○今し試に余の按を述べむに播磨風土記|揖保《イヒボ》郡の下に
 林田里(本名淡奈志。土中下) 淡奈志ト稱《イ》フ所以《ユヱ》ハ伊和大神、國ヲ占メシ時此處ニ植《キウ》ヱムト志シ御《タマ》ヘバ遂ニ楡ノ樹生ヒキ。故|詳〔右△〕名2淡奈志1
とあり。アハナシは楡の古名なり。伊和大神が此處に木を植ゑむと心に思ひ給ひしに楡の木おのづから生ひしかば其處にアハナシと名づけきと云へるなり。されば詳の字は必要不可缺の語と思はれねばさるべき語の中にて平穩なるものを求めてサナガラと訓むべし。サナガラはソノママなりソックリなり。然らば詳にサナガラの義ありやと云ふに漢書儒林傳の序に
 今禮廢樂崩朕甚愍焉。故|詳〔右△〕延2天下方聞之士1咸|登《アグ》2諸《コレヲ》朝1
とありて顔師古の註に詳は悉也といへり(方は道にて方聞之士は有道博聞の士なり)。さて三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡の羊は詳の扁を略したるものと認むべし。されば十四字は〔羊は〜傍点〕
 三郡ノ内三百戸ヲ郡ト成シ給ヒ羊《サナガラ》多胡郡ト成ス
(226)と訓むべし〔五字傍点〕。思ふに漢書の詳延天下方聞之士の詳をサナガラと訓みしよりサナガラに詳の字を充て慣れ又詳を略して羊と書き慣れたりしかば(辨を畫の多きを嫌ひて弁と書き慣れたる如く)やや非常識ながら後人の訓み悩まむことなどは慮らで不用意に羊とは書きてけむ。扁を補ひて詳とだにも書きなば或は夙く訓み解く人もあらましを
 ○サナガラにソックリ皆といふとソックリソノママといふと二義あり。漢書の例は前者なり。播磨風土記なると多胡碑なるとは後者なり
文義右の如くなれば此碑は實に建郡の記念碑なり。さて之を建てしものは恐らくは上野國司にあらで多胡郡司ならむ。此碑は三碑中特に早く世に知られ又夙く保存の方を講ぜられき。此碑の事の最早く物に見えたるは永正六年(後柏原天皇御世)の連歌師宗長の道記なる東路のつとなり。但宗長は此碑を見しにはあらで濱川(今の群馬郡長野村の大字)の並松別當の許にて其家の系圖を見しに其中に
 上野國多胡郡辨官|府〔右△〕碑文銘曰太政官二品穗積親王左大臣正二位石上尊
とはふ文見えたりと云へるのみ。其後久しく少くとも上國の人には顧みられざりしに伊藤東涯その著盍簪録及※[車+酋]軒小録に著録してより始めて學界に知られにき。盍簪録に
(227) 此碎在2野〔右△〕州多胡縣本郷村界1。今屬2長崎豫州之采邑1
といひ(此節の終に庚子三月記とあり。庚子は享保五年なり)山吹日記に
 池村にいたる。古き石ぶみあり。和銅四年の事をゑりつけたり。世に羊の碑といへり。これは長崎彌之介がしる所なり。彼おほぢ豫州(○元仲)我あづまの仰をうけ奉りて(○正徳五年十二月仙洞附として)九重の御垣のほとりに仕うまつりけるほど伊藤東涯にかたれりしをやがて盍簪録にしるしたるより世にやうやう知りにたり。されどもそのころはまだ石のおもてながらにうつすことなどの沙汰には及ばざりき。近ごろ金井正宇がうちて傳へしよりあまねく人も知りて稀には打碑をさへもてあそぶ人もありて拓本も世にいできにたり。今は故ありて領主よりいかめしく拜殿などつくりて碑をうつことをとどめたり。是を預り守る家に行て休らふ云々
といひ柳庵隨筆にも長崎豫州が東涯に語りしを盍簪録に記ししより洽く人の知りしことを述べたり。寶暦十一年甘樂郡下仁田の豪農高橋九郎右衛門克明(字は子啓、號は道齋)上毛多胡郡碑帖と題して始めて其摸刻を公刊しき。同六年東郊平鱗(澤田東江)の跋に
 甲戊(○寶暦四年)之秋余遊2上毛1同2子啓1(○高橋克明)觀v之。……遂※[莫/手]2刻於南谷1續復附2考(228)證1于《ココニ》以作v帖
といひ、寶暦十一年克明自跋に
 丁丑(○七年)夏余奨成2上木1。庚辰(○十年)春東都罹v災寢不2施行1。……副本器|而《トシテ》藏v之。就復刻v之
といへり。又市河寛齋の金石題跋に
 寶暦己卯(○九年)余年十一從2先府君1訪v之。碑仆在2民家竹樹間1。石質麁惡不v易2摩搨1。後十六年乙未再訪v之。乃既埒而神v之不v許2濫搨1
といへり。乙未は安永四年にて山吹日記の作者奈佐勝※[白/本]が訪ひしより二年の前なり。先府君といへるは實父山瀬蘭臺か。蘭臺は下仁田の人市川小左衛門の次子なるが館林藩の山瀬氏を繼ぎしなり。さて其兄兵右衛門に子なくして實家絶えしかば寛齋を下仁田に還して市川家を相續せしめしにてその寛齋は同村の高橋克明の養子となりしが右の如き事情にて高橋の氏を冒《ナノ》らざりしなり。金井正宇が拓本を作りしは何年にか知らず。但正宇は碓氷郡豐岡なる若宮八幡宮の神主にて奈佐氏の知人なり
 ○克明の寶暦十一年の碑帖跋に庚辰春東都罹v災寢不2施行1、石不v可2得而叩〔六字傍点〕1、文不v可2得而(229)見1不2亦惜1乎とあれば題跋に云へる埒而神v之は寶暦十年前後か
○盍簪録及※[車+酋]軒小録に碑を本郷村に在り(又は在本郷村界)と云へるは傳聞の誤ならむ。本郷は碑の所在地なる池より西に當りて中に鹽川を隔てたり。和訓栞タゴの下には東涯の説をさながらに採れり。集古十種に眞井村とせるは吉井村(今の吉井町)の誤なり。碑の所在は上信線吉井驛の東北二十町許にて、もとは稻荷の社地なりといふ。碑の寫眞及拓本の内最明なるは柴田氏執筆なる史蹟名勝調査報告第四に添へたる寫眞なり。此碑は他の二碑と共に大正十年三月に内務大臣より史蹟として指定せられき○前述の柴田氏の著(八一頁)に
 上述せし如く此碑は割合に古くより重視されしかば其摸刻と見らるべきもの世に存じ予の觸目するもののみにても北甘樂郡高田村なる横尾壽平氏の藏するものと福島縣耶麻郡喜多方町なる冠木敏雄氏の手にあるものとがある。前者は厚さ一尺程の板石に刻せられ傳説には伊藤東涯の多胡碑所在地となせる本郷村に在りて古墳の蓋石に使用し居りしが今より約百年前其地の住民より北甘樂郡高瀬村なる醫師齋藤啓徳に贈られ更に明治二十二年頃其子孫なる洋之助と云へる人より横尾氏の(230)求めし所なりと云はれ後者は予の記憶にては根府川石に彫れるもので其下半部は折損して缺け居るが古く安達郡二本松城なる大手門の濠中より取出して城内に在りしを後其地の油屋某の庭中に建てられ居り明治の初年冠木氏の家にて之を買求めしものと稱せられる。此等の由來は所謂傳説にして深く考慮の餘地なきも字體の大小缺損の状態など殆原碑に等しきものあるより其拓本のみにては注意を拂はざれば彼此の識別に艱む程にて摸刻としては比較的上乘の作と云ひ得られる
といひて圖版第五三に眞碑の拓本と甲乙二摸刻の拓本とを並べ擧げたり。甲の摸、特にめでたし。東江の多胡郡碑帖跋に遂※[莫/手]2刻於南谷1と云へるは板にや石にや。高橋克明の同書跋に副本器(トシテ)而藏、就復刻v之とあるを味へば板にはあらざりしに似たり。横尾氏所藏のもの恐らくは是ならむ。なほ別に安中町臨江亭に藏せるものありと云ふ(昭和十三年九月八日稿)
 
(231)   下野國
 
下野國は東と東南とは常陸に、北は磐城及岩代に、西は上野に、南は下總及上野に(兩國の間にてすこし武藏にも)接せり。もと上野と共に毛野國といひしを上下二國に分ちしなり。さて上下は都に近きを上とし遠きを下とせるなり。さればシモツ毛野といふべきをシモツケと唱ふるは野《ヌ》を略したるなり○國造本紀に
 下毛野國造 難波高津朝御世元毛野國分爲2上下1豐城命四世孫奈良別初定2賜國造1
とあり。されば仁徳天皇の御世に毛野國を二分せられしなり。さて豐城入彦命の子某(八綱田か)その子彦狹島、その子御諸別その子奈良別なれば連身の法によりて云はば豐城命五世孫奈良別と云ふべきをここは離身の法によりて即豐城命を數へずして四世孫と云へるなり。同書に又
 那須國造 纏向日代朝御代|建沼河《タケヌナカハ》命孫大臣命定2賜國造1
とあり。延佳本に那須を須波に改めたるは非なり。建沼河命は孝元天皇の御子大毘古命の子にて崇神天皇の御世に東方十二道を平定して父子共に大功を立てし人なり。毛野(232)國の東北隅の地域を闢きて毛野國造族とは別なる人に賜ひしなり○延喜民部省式に
 下野國 上 管、足利、梁田、安蘇、都賀、寒川、河内、芳賀、鹽屋、那須
とあり。又和名抄に
 下野國(國府在2都加郡1) 管九 足利、梁田、安蘇、都賀(國府)寒川、河内、芳賀、鹽屋(之保乃夜)那須
とあり。右の如く九郡なりしが明治十一年に都賀を北西部と南部とに分ちて甲を上都賀、乙を下都賀とせしかば十郡となり明治二十二年に寒川を下都賀に合併し同二十七年に梁田を足利に合併せしかば今は足利、安蘇、上都賀、下都賀、河内、芳賀、鹽谷、那須の八郡となれり。梁田は足利の南に接し寒川は併合の時には下都賀の南部に包まれたりき。アシカガに足利を充てたるは利の古語カガなればなり。天武天皇紀九年の詔に利2國家1とある利にカガアリと傍訓せり。都賀、芳賀は今はツガ、ハガと唱ふれど、もとはツカ、ハカとぞ唱へけむ。賀の字は古くは清音に充てられたればなり。河内は今はカハチと唱ふれど、もとはカフチと唱へしなり。北方と東方とを毛野川(今の鬼怒川)に觸れられたれば此名あるなり。河内とは川に抱かれたる地域をいふ。鹽屋は今鹽谷と書きシホヤと唱ふ○國(233)府の址は今の下都賀郡國府村大字|國府《コフ》なり。その小字中坪なる勝光寺附近ぞ府址の地域ならむといふ。同じ小字に縣社大神神社あり。舊名總社明神又室明神又室六所明神といふ。又同村の大字に總社あり。又隣村大宮村の大字大宮に小字印役(印鑰)あり○兵部省式に
 下野國驛馬 足利、三鴨、田郡(一作田部)衣川、新田、磐上、黒川各十疋
 傳馬 安蘇、都賀、芳賀、鹽屋、那須郡各五疋
とあり。足利〔二字傍点〕驛の地は今の足利市の内なり。和名抄郷名に驛家あり。三鴨〔二字傍点〕は和名抄郷名に三島驛家ある是なり。三島は三鴨の誤ならむ。但高山寺本和名抄驛名にも三嶋とあり。思ふに三鴨を三嶋と誤り更にその嶋を島と書更へたるならむ。今下都賀郡の西部に三毳《ミカモ》山ありて安蘇郡に跨れり。今の兩毛線は恰その北麓を掠めたり。其東麓に下津原あり。今岩舟村の大字となれり。是三鴨驛の址なりと云へり。下津原の東北に駒場ありて大字靜の字となれり。美濃國坂本驛及信濃國阿知驛の址と思はるる處を今共に駒場といふを思へば三鴨驛の址も右の駒場にあらざるか。一説に今の三毳山は本名大多和山にて、ミカモ山は今の岩舟山なりと云へり。駒場は適《マサ》に岩舟山の南麓にあり。田郡〔二字傍点〕は異本並に高(234)山寺本和名抄に田部とあり。下野國誌以下田郡を正しとしてその田郡驛址を今の河内郡明治村大字|多功《タコウ》宿に擬せり。多功は河内郡の西界に近し。然るに河内郡に傳馬を備へざるを思へば多功は古都賀郡に屬したりきとすべきか。又多功とすれば次驛衣川に近く前驛三鴨にいと遠し。又前驛より此處に到るに永野川、小倉川、黒川、姿川の四川を渡らざるべからず。又國府との距離比較的に遠し。田郡驛又は田部驛は都賀郡の内黒川の西にて今の壬生町附近にあらざるか。さてかく多功にあらじとせば田郡と田部との内妄に田郡を正しと定むべからず。壬生町は國府址の東北に當りて相遠からず。更に云はむに多功は田郡の訛にあらで田川の轉ならむ。田川といふ川此地の東方を流れたり。次に衣川〔二字傍点〕は和名抄郷名に河内郡|衣川《キヌガハ》驛家とあり。今の鬼怒川と同名なるべければ址は河邊に求むべし。國誌に石井(今の平石村の大字)に擬し地名辭書には漠然と石井岡本の邊ならんと云へり。石井は今の平石村の大字にて中下の岡本は今の古里村の大字なり。恐らくは石井の方ならむ。次に新田〔二字傍点〕は高山寺本に新日とあり。傳馬に芳賀郡あり和名抄郷名に芳賀郡新田郷あれば新田驛とあるを是とすべし。その新田驛に就いて國誌に
 新田驛は氏家の東なる櫻野村上野新田といふ所なりといへり。中昔まではニヒタと(235)呼びしをことなる櫻の大木ありてをちこち人の愛あへりしよりいつしか櫻野里と稱すとぞ
といへり。櫻野は今の鹽谷郡氏家町の大字なり。さて此處は芳賀郡の内ならざるによりて國誌に又
 新田氏家二郷は和名抄には芳賀郡なれど中昔より鹽谷郡に屬したり
といへり。さもあるべし。衣川新田兩驛間の距離のやや近きは鬼怒川を渡る煩あるが爲ならむ。國誌には右に續けて
 磐上驛は今の石上村なり。黒川驛も黒川村にてともに那須郡なり
といひ又前なる那須郡郷名の下に
 石上は今上下二村に分れて太田原驛の西の方にあり
といへり。上石上、下石上は今の那須郡野崎村の大字にて郡の西界に近し。國誌の説はいたく方向を誤てり。古驛路は氏家町より東北に向ひ所謂關街道に由りて即伊王野・蓑澤などを經て隣國白河郡の旗宿に出でしにこそあれ。地名辭書には
 石上驛は新田より石上、黒川と相次ぐを思へば其地は湯津上村にあたること判知に(236)餘あり。且石上も古訓イソカミにてユヅカミも共に一語の互轉に出でしにやとも疑はる(○式には磐上とあり)
と云へり。湯津上村大字湯津上は所謂關街道に沿へり。但磐上の訓はイハカミなるべく(辭書はイハカミとイソカミとの間に迷へり)そのイハカミはユツカミに轉ずべくもあらず。磐上驛址はおそらくは箒川の左岸即湯津上より少し西南に當るべし。次に黒川〔二字傍点〕驛は伊王野附近なるべし。此附近にて黒川など三條の小流相合して余笹川に入り其地點に沓掛といふ字あり。次驛は即陸奥國雄野驛なり。右の如く當國七驛は足利郡一(足利)都賀郡二(三鴨、田部)河内郡一(衣川)芳賀郡一(新田)那須郡二(磐上、黒川)にて安蘇、鹽屋二郡には驛無きをその郡に傳馬を備へたりしは如何といふに恐らくは一郡に二驛ある都賀、那須の勞費の過重ならむを分擔せしならむ○當國の諸川は四系統に分つべし。渡良瀬《ワタラセ》川、思川、鬼怒《キヌ》川、那珂川即是なり。大むね南流又は東流せり。渡良瀬川〔四字傍点〕はもとワタリセ川と呼びて渡瀬川と書きしをワタラセと訛りそれに合せて良字を挿みしならむ。當國の西偏なる足尾より發し西南に流れて上野國に入り又東南に流れて足利郡を貫き安蘇郡及下都賀郡を上野の邑樂郡より隔て下總の古河《コガ》の南にて利根川に合へり。旗川・秋山川・巴(237)波《ウヅマ》川、渡良瀬川に加はれり。佐野町は秋山川に沿ひ足利市は渡良瀬川に沿へり。渡良瀬は上流足尾町の字なり。次に思川〔二字傍点〕は上都賀より發せる粕尾川と大蘆川とが相合ひて小倉川となり同東偏より來れる黒川を合せて思川となり更に河内・上都賀兩郡の界より出でたる姿川を合せ古河の北にて渡良瀬川と相合へり。國府址は小倉川の西方に在り。鹿沼町及壬生町は黒川に治ひ小山《ヲヤマ》町は思川に沿へり。次に鬼怒川〔三字傍点〕(一作絹川)本名毛野川(ケがキに轉じたれどヌがノと轉ぜずしてもとのままなるはうれし)、鹽谷郡の西端なる鬼怒沼より發し同郡北界より來れる五十里《イカリ》川と合ひ南に降りて華巌瀧の末なる大谷《ダイヤ》川を合せ、鹽谷芳賀二郡と河内郡との界を流れ下總に入り北相馬郡に到りて利根川に入れり。日光町は大谷川に沿へり。鬼怒川の西に田川あり。國界を越えて鬼怒川に合せり。田川の上流は宇都宮の東偏を流れたり。鬼怒川と思川とは恰國の中央を貫けり。次に那珂川〔三字傍点〕は那須郡の西北境より發し余笹川と相合して南流し箒川・武茂川・荒川などを入れ東に曲りて常陸に入り那珂郡と東茨城郡との間を經、湊に到りて海に入れり。鹽原町は箒川の上流に在り。佐久山町は同じき川に沿ひ大田原町は箒川の支流|蛇尾《ジヤビ》川に沿ひ喜連川町は荒川に跨れり。
(238) ○荒川を古く狐川といひしを狐といふ名を忌みて其岸に起りし邑を喜連川と稱せしなり
黒羽《クロバネ》町(羽はハネとよむなり。赤|羽《バネ》、羽《ハネ》澤などと同例なり)は本流に沿ひ烏山町も本流に近し。別に小栗・五行の二川あり。芳賀郡を貫き常陸に入りて相合して蠶養《コガヒ》川となれり。五行川の水源に氏家町あり○當國の主邑は宇都宮、足利の二市及栃木町なるが栃木はもと縣廳の在りし處なり。
 ○トチギは※[木+万]栃木、栃木、※[木+礪の旁]木など書きたれど三字共に辭書に無き字なり。トチは十千に通ずれば十千の代に万と書き之に木扁を添へて木のトチに充て、更に万に厂《ガンダレ》を加へ又更に萬を以て万に代へしなりといふ。又橡木と書けり。橡はげにトチに當るべし。但今は栃木と書き慣れ橡木と書きては通ぜず
上に擧げたる名邑の外に河内郡の上三川町・芳賀郡の眞岡町・那須郡の蘆野町などなほ擧ぐべきものあらむ。栃木町の西南に大平《オホヒラ》山(又太平《タイヘイ》山)といふ山あり。是近古彼水戸藩士藤田、田丸等の一時占據せし處なり。山名は一々擧ぐるに堪へず。用あらば云はむ○延喜式神名帳當國十一座の内大は一座にて河内郡二荒山神社名神大とあり。然るに今二所(239)の國幣中社|二荒山《フタラヤマ》神社あり。一は日光町に、一は宇都宮市に在り。甲の列格は明治六年にして乙の列格は十年の後即明治十六年なり。又甲の祭神を二荒山神とし乙の祭神を豐城入彦命とせり。神名帳の二荒山神社並に續日本後紀承和三年十二月以下の二荒神社又二荒神はいづれにか。古來これに就いての論争あり。近くも神祇志料附考、特選神名牒、川田氏の隨鑾紀程、日本地理志料等は甲をそれとし下野國誌、近藤氏のトフノスガ薦、大日本地名辭書等は乙を是とせり。甲論者はいはく。邦名フタラに二荒の字を充てその音讀|二荒《ニクワウ》を日光《ニクワウ》と書改め更に後世風にニッカウと唱ふること人の知れる如し。神名帳に二荒山神社とあればフタラ山の神は今の日光にいますこと論なし。又續古事談第四に
 下野國二荒山ノ頂ニ湖水アリ。廣サ千町バカリ、清クスメル事タグヒナシ。林四方ニメグルトイヘドモ木葉一(○モ脱せるか)水ニ浮マズ。魚モナシ。若人、魚ヲ放テバスナハチ浪ニウタレテイヅ。二荒ノ權現、山ノ頂ニスミ給フ。麓ノ四方ニ田アリ。其數ヲシラズ。國司※[手偏+僉]田ヲイレズ。千町ノ田代アリ。宇都宮ハ權現ノ別宮ナリ。カリ人、鹿ノ頭ヲ供祭物ニストゾ
とあり。又宇都宮方の史料なる文明十六年に撰せし宇都宮大明神代々奇瑞記に
(240) 凡當社之根元者稱徳天皇神護景雲元年顯2現日光山1。其後仁明天皇御宇承和五年戊午温左郎麻呂奉v懷2大明神1奉v移2河内郡小寺峰1號2補陀洛大明神1矣。於2社壇之南面1有2道路1(○ここに行人が屡罰を受けしことを云へり)仍往反之貴賤輒難v通之間則塞2宮南之路1奉v移2山北叢祠1。……今社壇是也。當國第一宮也
とあり。承和五年奉移の事はたやすく信ずべからねど、しばらく之を信じても、それより、二年前即承和三年に位階奉授ありしこと國史に見えたり。位階奉授ありし程の神社を一私人が妾に移し奉るべきにあらず。されば奉移云々は或時代に温の某が日光山より分靈して一社を今の宇都宮に經營せしことを誤傳せるにてやがて續古事談に宇都宮は權現ノ別宮ナリと云へるに一致せりと。
 ○小寺峯は今の宇都宮市内の下《シタ》宮山なり。温左郎麻呂は日光縁起に云へる小野猿麻呂なり。ヲヌノサラマロと訓むべし
乙論者は云はく。日光は都賀郡にして宇都宮は河内郡なり。現に神名帳に河内郡二荒山神社とあるにあらずや。又當國の一宮は宇都宮なる神社なるをやと。右の内續古事談は後世(鎌倉時代)のものなれば奇瑞記と共に確證とはしがたし。一宮といふ稱號はたいと(241)古きものにはあらず。所詮甲論者の論據中有力なるは古典に二荒山神社、二荒神社、二荒神といへること、乙論者の論據中有力なるは神名帳に河内郡と有ることのみ。右の外に日光なるは滿願權現と稱すれば皇國の神にあらじと難じたる説もあれど式内の神社に蕃神の交れることは普く知られたることにあらずや。試に愚意を述べなば二荒神はなほ所謂日光三所權現にて古くより中禅寺湖畔にましまししが山深く地僻にして參拜に不便なればいつの世にか今の宇都宮に分靈せしならむ。然るに延暦年間に僧勝道が二荒山を拓きし後妾に之を滿願權現と稱せしかば祭神は蔽はれはて給ひ終には世人これが二荒神の本社なることを知らずなり二荒神といへば專宇都宮にましますを指すこととはなりにけむ。然らば式に見えたる二荒山神社はいづれぞといふに式の成りしは勝道が本社を蔽ひ奉りしより夙く年所を經たるべき上に現に河内郡の下に擧げたれば恐らくは宇都宮なるを指ししにて陞位の宣命も初の程こそあれ後には宇都宮なるにぞ下りけむ。宇都宮系圖宗綱の下に日光山別當、宇都宮社務職とありて一を別當とし一を社務職としたるも、羅山文集に
 二荒宇都宮神不v異。而二荒不v供2鳥魚1宇都宮供2鳥魚鹿1
(242)とあるも日光なるは佛とせられ給ひ宇都宮なるは舊の如く神にてましませばなり。次に神ざねに就きて述べむに日光なるを近古大己貴命としたるものあれど、そは上野國誌に云へる如く根據なき擬定なれば論ずるに足らず。宇都宮なるは儒者宇都宮卜幽始めて之を豐城入彦命に擬せり。即その詩の中に
 我※[手偏+交]2之舊記1、崇神達2四聰1、遣2皇子豐城1、勅節2察關東1、東州從2皇風1、入彦第一功、上下毛野祖、開基最是|洪《オホキナリ》、然則此瑞籬、宜2入彦所1v※[丹+彡]《マツル》
と云へり。本居宣長も亦豐城入彦命といふ説に左袒せり。按ずるにもし豐城入彦命ならば中禅寺湖畔の如き深山にはいつくべからず。兩所の二荒山神社の祭神は恐らくは二荒山の山靈ならむ。今日光なるを二荒山神と定め宇都宮なるを豐城入彦命と定められたるは如何。豐城命ならば兩所共に豐城命なるべく山神ならば兩所共に山神なるべし。さて宇都宮は本來社號なり。後世地名を宇都宮といふは社號の地名に移れるなり。地名はもと池邊郷といひ中古には古多橋《コタハシ》驛といひき。社號を宇都宮といふはいつの頃よりにか。吾妻鏡元暦元年五月二十四日に宇都宮社務職と見えたり。ともかくも俗にジゲン太郎宮とも云ひき。こは或は社號が地名及氏に移りし後ならむ。さてジゲンには示現又(243)は慈眼の字を書きたれどおそらくはフタラに二現の字を充て(現人神などの現《アラ》なり)そを後に音讀してジゲンとぞ唱へけむ。此説若成立せば宇都宮なるをもフタラノ神社といひし一證とすべし。ウツノ宮のウツはウツノ山などのウツにて今は絶えたる語ならむ。二現と關係あらむかとも思ひしかど恐らくは然らじ○足利市に有名なる足利學校ありて多く古き漢籍の世に珍しきものを倉せり。其草創の時代は知られず。確に知られたるは今の所在地が舊地にあらざることと、永享年問(足利氏時代、義教の時)に上杉憲實が再興せしこととのみ。柳庵隨筆に
 足利學校今にその國にあり。その史書に見えしは鎌倉大草紙、桂※[草冠/合/廾]和尚家法和點などに出たるのみにして其草創何の時といふこと定かならず。或は小野篁の家塾といひ或は上古國學の遺制〔七字傍点〕といひ或は足利義兼の建立といふ。共に明澄なし。姑く是を措く。本朝通鑑に憲實の状を引て云く「本朝州學存者僅有v數焉。以v僧爲2之主1野之學爲v最」と有て末に永享十一年己未閏正月初吉、前房州刺史藤原憲實と記せりと云。……大草紙に「應仁(〇一本應永)元年長尾景久(○守重は景久ハ景文ノ誤ナルベシといへり)が沙汰として政所(○莊の治所か)より今の所に移し建立しけり」といふによれば今の學校は(244)古の學校の地にあらざること知るべし。同書に「此學校は上代承和六年に小野篁上野の國司たりし時建立の所同九年篁陸奥守になりて下向の時此所に學問所を建ける」と見えたれども文徳實録を閲するに……上野の國司といふは誤ならん。……東海談に分類年代記を引て義兼の建立といひ、尊氏聖廟に祈念せし事など見えたれども疑ふべし。……鑁阿《バンナ》寺舊記に學校興隆左馬頭基氏奉2行之1といへば貞和の頃(○高氏の時)すでに所見あり云々
といへり。右の外に或は藤原秀郷の曾孫の建立といひ或は足利高氏の草創と云へれどいづれも口に任せたる妄誕のみ。川上廣樹の足利學校事蹟考には
 廣樹つらつら思ふにこは國學の遺制なるべくなむ。そは何を以て知るといふに本朝通鑑に所v引上杉憲實の状に本朝州學存者僅有v數焉、以v僧爲2之主1、野之學爲v最といへり。また集古十種印章之部に足利學校の印を載たりごれには野之國學〔四字傍点〕の四字を刻せり。また鎌倉大草紙には此學校もと政所にありし由をいひ書籍目録(○寛政九年撰、足利學校書籍目録)には舊在2國府野1ともいへり。國學はいづれも國府に建られしものなり。さて下野國の國府は都賀郡なれば上古其地にありし國學を足利將軍の因縁あるこ(245)の足利の地に移|せ〔左△〕しならむ。……さてこの學校、足利に移したる始は今の地にはあらで足利驛の東、岩井村との境邊に字學校地先といふ所あり。今は大かた渡良瀬川敷となりたれど折々布目附たる瓦を掘出すことあり。古へ學校のありし地なりといひ傳へたり。しかるを洪水川缺のために今の地に移したるものと見ゆ。そはいつの頃に|や〔左△〕ありけむ詳ならねど云々(ト云ヒ足利興廢記ヲ引きて永禄十年ニ擬セリ)
といへり。著者は政所と國府野とを同一視したる趣なれど政所は地名辭書(三四〇一頁中段)に「庄の本所を指す」といへる如く足利莊の治所ならむ。又野之國學と刻める銅印は平安朝時代即上野にも國學ありし時代のものにあらじ。若その時代のものならば下野國學とあらざるべからざればなり。野之國學とあるは適《マサ》に野とのみいひて下野の學校と聞えし時代に製作せしものといふことを示すものなり。右文故事附録卷四に學校の藏書に捺したるを※[莫/手]し出して
 此印春秋傳ノ首ニ捺セシヲ※[莫/手]セシニ近年學校ノ舊蹟國府野ヨリ掘出シテ今學校ニ藏スト云フ
といへり。藏書即宋版毛詩鄭箋、同春秋經傳集解、同春秋經傳抄などに捺したるは或時代(246)に實在せし印にて、近年國府野ヨリ掘出シテ今學校ニ藏スといへるは僞作の物にあらずや。其印は今傳はらずと云ふ。今かかる疑はしき證を除き、さて靜に按ずるに足利學校はなほ所謂國學の遺側なるべし〔足利〜傍点〕。永享十一年の憲實の状に
 本朝州學存者僅有v數焉。率亦〔二字傍点〕以v僧爲2之主1。野之學爲v最
とあり。今こそ足利學校の外に國學の遺制に擬せらるるものなけれ、憲實の時代にはさる物なほ若干殘りたりしにや。さて國學は固より國府にありけむを當國にては時代は知られねど國府野即國府の遺址より足利には移しけむ。當時建築物又は若干の書籍器物の殘りたりしを足利にぞ移しけむ。若建築物も書籍器物も殘らずば新校は新設にて舊國學の轉移とは稱すべからず、從ひて本邦州學存者とはいふべからざればなり。山井鼎の七經孟子考文にいへる古本即周易、略例、尚書、毛詩、禮記、論語、皇侃義疏、古文孝經、孟子はおそらくは國學の遺物ならむ。同人の古文考に
 足利古本乃唐以前未v經2衛包之手1者、傳2諸吾邦1。而其字即馬端臨所v謂隷書也
といへり。さて足利學校を國學の遺制ならむといひし始は近世にあらず。夙く林守勝の讀耕集に
(247) 前古六十餘州皆有2國學1。足利學校或其下野國學乎未v可v知也。傳稱此處小野篁之古蹟。然篁到2下野1之事不著2于國史1。則未v聞2其詳1也
とありといふ(古事類苑文學部二十九足利學校參照)○國分寺址は下都賀郡|國分寺《コクブンジ》村大字|國分《コクブ》字東藥師堂に在りて字甲に跨れり。國府址の東方凡一里に當りて思川を隔てたり。今の國分寺の所在は別地なり。尼寺址は明ならず。僧寺址の東方なる字釋迦堂を以て之に擬するものあり○當國に藥師寺といふ大寺ありき。嘉祥元年紀に據れば天武天皇の創立なりといふ。但下野國誌に天武天皇紀九年十一月の皇后體不豫、則爲2皇后1誓願之、初興2藥師寺1を引きたるは誤れり。こは下野の藥師寺にあらで奈良の藥師寺なり。下野の藥師寺は伊呂波字類抄に天武天皇二年建立とあれど年次は確ならず(或は天智天皇九年の建立とし或は文武天皇大寶三年の建立とせるものあり)。其名の初出は正倉院文書天平十年の駿河國正税帳に下野國造藥師寺司宗藏上一口、助僧二口、從九口(大日本古文書第二册一〇八頁)とあるや是ならむ。續紀天平勝寶六年十一月に
 藥師寺(○奈良)僧行信與2八幡神宮主神|大神《オホミワ》多麻呂等1同意|厭《エフ》魅。下2所司1推勘。罪合2途流1。於v是遣2中納言多治比眞人廣足1就2藥師寺1宣v詔以2行信1配2下野藥師寺1
(248)とあり。藥師寺戒壇縁起に鑑眞大和尚に詔して下野藥師寺と筑前觀音寺とに戒壇を築かしめ給ひし事、天平寶字四年八月に鑑眞東國に下向して藥師寺に著き終に同寺にて入滅せし事などを記したれど鑑眞東下の事は信ぜられず。續紀賓字七年五月の下なる鑑眞傳には見えず。但我邦にて始めて戒壇を東大寺に築きしは鑑眞なる事、藥師寺戒壇の遺蹟なりといふ龍興寺が和尚出身の唐土揚州龍興寺の名に倣ひしなる事などを思へば鑑眞が藥師寺に因縁ありし事は察すべし。續紀寶龜元年八月に
 癸巳(○四日)天皇(○稱徳)崩2于西宮寢殿1
 庚戊(○二十一日)皇太子(○光仁天皇)令旨、如聞道鏡法師竊挾2|※[舌+※[氏/一]]《シ》梗(○粳《ヌカ》ヲ※[舌+※[氏/一]]メテ米ニ及《イタ》ルの略、俗にいふツケアガリ)之心1爲v日久矣。陵土未v乾※[(女/女)+干]謀發覺。……今顧2先聖厚恩1不v得2依v法入1v刑。故任2造下野國藥師寺別當1發遣。宜v知v之
同三年四月に
 下野國言。造藥師寺別當道鏡死。……※[さんずい+自]2宮車晏駕1猶以2威幅由1v己竊懷2※[人偏+堯]倖1。御葬禮畢奉v守2山陵1。以2先帝所1v寵不v忍v致v法。因爲2造下野國藥師寺別當1逓送之。死以2庶人1葬之
續日本後紀嘉祥元年十一月に
(249) 下野國言。藥師寺者天武天皇所2建立1也。體製巍々宛如2七大寺1。資財亦巨多△(○矣脱)。坂東十國得度者咸萃2此寺1受戒。今再2建之1由《ゴトシ》d與2太宰觀音寺1一揆u也。而只有2別當1無2講讀師1令3國講師勾2當雜事1。求2諸故實1未v覩v所v由。望請准2彼觀音寺1簡d擇戒壇十師之中智行具足爲2衆所1v推者u充2任講師1便爲2授戒之阿闍梨1。勅、講師依v請任v之。但讀師臨v事次第充2用彼寺僧中智行兼備者1。別當之職早從2停止1(○據2纂詁1)
とあり。藥師寺の在りし處は今の河内郡藥師寺村大字藥師寺なり。字中に安國寺、龍興寺の二寺あり。甲は西北に、乙は東南に在りて相距たること凡六町なり。共に我方こそ藥師寺の址なれと云ひて相爭へり。近藤芳樹の十フノ管ゴモ(卷一の十七丁)には
 龍興寺といふに至る。山號を祥雲、院號を戒壇〔二字傍点〕といふ。門をいでて右のかたに弓削道鏡がここに流されて身まかりしを埋めし塚あり。また鑑眞法師の墓あり(○共に眞物ならじ)。……ここを去て安國寺に至る。山號を醫王、院號を菩提といふ。本尊藥師〔四字傍点〕、殊勝の古佛なるよしなれども開扉せぬ例なりとて見せず。境内に戒壇〔二字傍点〕のありし處とて六角堂を建たり。この二寺ともに藥師寺のあとなるよしを爭ひて享保のころにや幕府の處分をこひたりしかど、いづれともわからざりき。おのれ思ふに藥師寺の舊きあとは(250)安國寺のかたなるべし
といひて其證として安國寺の境内より古瓦の出づる事(藥師寺瓦と款せる古瓦の拓本は下野國誌などに掲げたり)安國寺の本尊が藥師なる事などを擧げたり。又栃木縣史蹟名勝天然紀念物調査報告第一輯(三三頁)には
 寺址廢墟ノ地ハ現在ノ安國寺ノ建造物ヲ起點トシテ其左右並後方ニ及ボシ曩ニ内務省ニ於テ指定セシ七町三反四畝十五歩ノ區域ハ往時藥師寺ノ重要ナル建造物ノ配置サレタル箇所ニシテ今尚土壘ノ一部、塔趾土壇ノ痕跡ヲ認メ得ベク其間畑地トシ宅地ト化セルモ尚此ノ區域ガ道路溝渠等ニヨリテ境界サレ確然トシテ其迹ヲ徴シ得ラルル事ハ一奇ト云フベシ。而シテ此ノ區域内ニ於テ特ニ古瓦片ノ多ク散亂セルヲ見ル。コレ亦此區域ガ往時藥師寺主要建造物ノアリシヲ證スルモノト云フベシ。然モ亦現安國寺境内ガ藥師寺中心ノ一部タリシコトヲ認ムルニ難カラズ。而シテ現安國寺ニハ境内ヨリ出デタル礎石ノ一部ヲ傳ヘ又寺ノ西方ニ當リテ戒壇趾〔三字傍点〕ト傳フル土壇アリテ徳川期ノ建築ニカカル六角ノ建築物(〇六角堂一名釋迦堂)ヲ存ズ
といひ、さて後者に就いて
(251) 今ノ戒壇趾ハ果シテ往昔ノ遺趾ト同一ナリヤ疑ナキ能ハザルナリといへり。要するに藥師寺址は今の安國寺にて彼龍興寺は鑑眞出身の唐土揚州の龍興寺と名を齊しくせるを思へばなほ鑑眞縁故の寺にして鑑眞の設計に依りて(恐らくは弟子をして代り來らしめて)藥師寺境内に戒壇を築かしめし後藥師寺の別院として其境外附近に弟子等の創立せし寺の後なるべし。大日本地名辭書に
 龍興寺域に土中より發見せりてふ板碑あり。弘安九年の識あり。敗瓦今安國寺の方に見ゆれど往昔は通じて一藥師寺の境内たりと知るべし
と云へるは地域を顧みざる論にて從ひがたし。細事ながらいひ添へむに栃木縣史蹟等調査報告第一輯(三八頁)に
 正倉院文書天平十|一〔左△〕年正税帳ヲ見ルニ下野國△藥師寺司宗藏上一口助僧二口從九口ト見エテコノ頃ニアリテハ總計十二人位ノ人員ニシテ微々タルモノナワシコトヲ想像セラル
といひ「栃木縣に於ける主要史蹟等概要」(六頁)に「天平十一年の頃は役僧十二人位の微々たるものであつたが云々」といへるは誤解に基づける説なり。正倉院文書天平十年(非天(252)平十一年)の駿河國正税帳に下野國造藥師寺司宗藏上一口、助僧二口從九口云々とあるは當年當國を通過して當國の供給を受けし藥師寺使僧の一行の人數のみ○萬葉集卷十四なる下野國歌(新考三〇三五頁)に
 しもつけぬ安素のかはら〔六字傍点〕よいしふまずそらゆ登きぬよながこころのれ
とあり。安素川は今の秋山川なり。秋山川は安蘇郡の北部秋山より發し南流して渡瀬川に注げり。ソラユ登キヌヨの登は楚の誤又はゾの訛ならむ。ソラユは空ヲトホリテにてキヌヨは來ヌルヨの古格なり。石蹈マズ空ユゾキヌヨは足ノ石ニ附クヲモ感ゼズとなり。又ナガココロノレは我ニ逢ハムヤ否ヤ汝ノ心ヲ告ゲヨとなり(上野國の下にいへるカミツケヌ安蘇參照)○同卷にカミツケヌ左野〔二字傍点〕ノククダチ又カミツケヌ佐野田ノナヘノ又カミツケヌ佐野ノフナバシとよめる歌あり。この佐野を下野國安蘇郡佐野とする説あれど歌にカミツケヌとあるのみならず上野の佐野は天武天皇の十年辛巳に建てし山上《ヤマノウヘ》碑に見えたるに反して下野の佐野はいと古き物に見えねば上野國群馬郡なる佐野に擬すべきこと上野國の下に云へる如し○又萬葉集卷十四下野國歌(新考三〇三五頁)に
(253) しもつけ野美可母のやま〔六字傍点〕のこならのすまぐはし兒ろはたか家かもたむ
といふ歌あり。ノスはナスの訛にて上三句はマグハシにかかれる序、マグハシはウルハシにてマグハシ兒ロはマグハシキ兒ラの略又訛なり。又モタムはマタムの訛、タカ家カの家は多の誤にてタカダカは待つ事の形容なり。ミカモは三鴨又は三毳にてミカモノ山は今の下都賀郡大多和山(一説岩舟山)なること上なる三鴨驛の下に云へる如し。山は驛の附近に在りて驛路は山下を通じたりき○以下一二萬葉集以外の古歌に就いて述べむに詞花集戀上藤原實方の歌に
 いかでかは思ありともしらすべき室のやしま〔五字傍点〕の烟ならでは
とあり。袋草紙卷三に
 源經兼下野守ニテ在國之時或者便書ヲ持テ向2國府1。不v叶之間無v術之由ナンドイヒテハカバカシキ事モセズ。冷然トシテ出テ一二町許行ヲ更ニヨビカヘシケレバ不便《フビン》ナリトテ可v然物ナド可v賜カト思テナマジヒニ歸來ルニ經兼ノ云。カレ見タマヘ。ムロノヤシマハ是ナリ。都ニテ人ニカタリタマヘト云々。彌腹立氣有テ出云々
とあり。此事又|十訓《ジツキン》抄第一可v施2人惠1事の第四十六に見えて略同文なり。草紙の文意は
(254) 源經兼ガ下野守ニテ下野ノ國府ニ在りシ時或人ガ紹介状ヲ持ツテ京ヨリ遙々ト下野ニ下ツテ何カ依頼スル所アリシニ遺憾ナガラ應ジ難シト斷ツテハカバカシキ接待モセザリシカバ憤然トシテ辭シ去ラントセシニ人ヲシテ呼返サシメシカバ氣毒サニ何カクレルニヤト思ウテシブシブニ歸來リシニ「アレ見タマヘ。名高イムロノヤシマハアレヂヤ。京ニ歸ツテミヤゲ話ニシタマヘ」ト云ウタカラ愈立腹シテ立去リキ
といへるなり。又袖中抄卷十八に
  いかでかは思ひありともしらすべきむろのやしまのけぶりならでは
 顯昭云。これは實方中將歌也。此歌(ノ)返ナル女(ノ)歌
  しもつけやむろのやしまにたつ煙おもひありともいまこそはしれ
 此返歌は六帖にあり。……むろのやしまとは下野國の野中に島あり。俗にむろのやさまとぞいふ。むろは所の名歟。その野中にしみづの出る△けのたつがけぶりに似たる也。是は能因が坤元儀に見えたる也。……私考。俊頼歌云。歳暮
  さらひするむろのやしまのこさらひに身のなりはてん程をしるかな
 此歌はかまどをむろのやしまとよみたるにや云々
(255)と云へり。此等に依ればムロノヤシマといふ物は平安朝の中期より京人に知られ渡りしものにて下野の國府の附近に在りし物なり。ムロは地名にて今の下都賀郡國府村大字總社の内なり(さればこそ總社の一名を室六所明神といふなれ)。ヤシマは竈(今いふヘツヒ又カマド又クド)の古語なり。此地の土中より天然ガスの盛に立昇るをめづらしがりて竈の煙になぞらへてムロノヤシマ即室の竈と稱せしなり。袖中抄に下野國ノ野中ニ島アリといひ野中ニシミヅノ出ル|ニ〔右△〕氣ノタツガ云々といへるはなほヤシマを澤島、川島などと思ひ誤てる舊説を離れかねたるなり。近古に至りては池を穿ちて地中に八の島を作りたりきといふ(羅山文集及續奥之細道)。いとうたてし。又俊頼が勢多川にて
 河ぎりの煙と見えてたつなべに波わきかへる室のやしまに(夫木抄、霧)
とよめるは人まどはしなり。近江國栗|太《モト》郡なる地名はヤシ マにて室ノヤシマにあらず。又ムロノヤシマの内、地名はムロにこそあれ○後拾遺集戀一實方の歌に
 かくとだにえやはいふきのさしも草〔八字傍点〕さしも知らじなもゆる思を
とあり。イフキはイブキと濁らでイフキと清みて唱ふべし。カクトダニエヤハイフをイフキにいひかけ、サシモ草にてサシモ知ラジナを釣り出でたるなり。又オモヒに火を副(256)へてオモヒといふ火の意とせるにてモユルオモヒはサシモ草の縁語なり。辭を換へて云はばカクトダニ得ヤハ云ハム、得云ハジといふこととサレバ貴女は我燃ユル思ヲサシモ知リタマハジといふこととをイフキノサシモグサにて繋ぎたるなり。さればイフキノサシモグサは當時京人の熟知したりし物件なり。なほ云はばイフキは下野國の山名、モグサは艾を枯したるもの、サスは點にてモグサの用なり。灸治をするにモグサを肌に點ずればそれをサシモグサといふなり。袖中抄卷二に
 顧昭云。此イブキノ山美濃と近江のさかひなる山にはあらず。下野國のいふきの山也。能因坤元義に出也
といへり。伊吹山は下都賀郡吹上村の丘陵にて栃木町の西北に當れり。古の國府よりは西方に當りてそも程遠からず。又新古今集釋教に
 なほ頼めしめぢが原〔五字傍点〕のさしも草われ世の中にあらむかぎりは
とありて左註に「此歌は清水觀音の御歌となむいひ傳へたる」とあり。袖中抄卷二に
 此歌は清水觀音の示現し給へる御歌とこそは世に申ならはしたるに上下かけあひても覺えねど佛の御|前〔左△〕なれば様こそは侍らめ。若下野ヤシメヅノ原ノサシマ草と云(257)歌の下句にオノガオモヒニ身ヲヤヤクランとあれば「身をやきて思ふとも唯我をたのめ」とあそばしたる|に〔左△〕
とあり。
 ○タルニに續きて「しめぢが原、しめづのはら、しめじの原は同事也」とありて文義通ぜず。タルニをタルカの誤寫とし、ここを句とすべし
六帖第六雜の草なる
 下野やしめづの原のさしも草おのが思に身をややくらむ
に關聯ある歌と認むべし。思ふに清水の觀音に祈願し、さてかくよみて眠りし夢に觀音がナホタノメシメヂガ原ノサシモ草ワレ世ノ中ニアラムカギリハとよまししならむ。さて顯昭は「上下句かけあひても覺えず」といへり。げに單獨の歌としては意通ぜざれど彼六帖の歌の和とすれば義の融らざる所なし。即かの祈願してまどろみし作者をシメヂガ原ノサシモ草に擬してシメヂガ原ノサシモ草ヨ、サバカリ嘆クナ、ワガ世中ニ在ラム限ハナホ我ヲ頼メと云へるなり。さてシメヂガ原は伊吹山の東麓にて今の栃木町の北郊なりといふ○當國明治二年の藩治は左の如し
(258) 宇都宮(戸田氏、七萬石)烏山(大久保氏、三萬石、那須郡)壬生(鳥居氏、三萬石、下都賀郡)黒羽《クロバネ》(大關氏、一萬八千石、那須郡)佐野(堀田氏、一萬六千石、安蘇郡)大田原(大田原氏、一萬一千石、那須郡)足利(戸田氏、一萬一千石、足利郡)高徳《タカトク》(戸由氏、一萬一千石、鹽谷郡)吹上(有馬氏、一萬石、下都賀郡)喜連川《キヅレガハ》(足利氏、五千石、鹽谷郡)
高徳藩主戸田氏は山陵修理の功に依りて宇都宮の家老より大名に列せられし戸田忠至の家にて後に下總國千葉郡曾我野に移りき(國史大辭典に下|野〔左△〕曾我野とあるは訂正すべし)。足利氏舊姓は喜連川、鎌倉管領及|古河公方《コガクバウ》の後なり。世々五千石を食し又無位無官ながら徳川氏はその名家の子孫なるが故に四位十萬石以上の大名に準じて之を遇しき。明治に至りて華族に列し子爵を授けられしはなほ徳川氏の與へし特典を蹈襲せられしなり(但十萬石以上の大名は伯爵を授けられしが例なり)
 
    那須國造碑
 
有名なる那須國造碑即古京遺文にいへる那須直韋提《ナスノアタヒヰデ》碑は那須郡|湯津上《ユツカミ》村大字湯津上に在りて關街道の西に當れり。古京遺文に
(259) 碑ハ下野國那須郡湯津上村ニ在リ。俗ニ笠石〔二字傍点〕卜稱ス。舊《モト》荊棘中ニ在リ。土人觸犯スル者必|殃祟《アウスヰ》ヲ蒙ル。僧圓順トイフモノ有リ。是事ヲ以テ梅平《ウメガヒラ》村(○今の馬頭《バトウ》町大字|小口《コグチ》の字)ノ人大金重貞トイフ者ニ語ル。梅平ハ水戸府ノ封内ニ在リ。重貞以テ義公ニ聞ス。實ニ貞享四年ノ秋ナリ(○實は天和三年)。義公古ヲ好ム。即臣佐々宗淳ニ命ジ就イテ之ヲ搨ス。元禄四年三月更ニ有司ニ命ジテ封築シ碑ヲ其上ニ安《オ》キ亭ヲ建テ以テ之ヲ護ス。※[山/歸]然トシテ今ニ存ズルハ公ノ賜ナリ(○原漢文)
といひ下野國誌卷十二に
 那須國造碑 那須郡湯津上村にあり。黒羽《クロバネ》城下より南の方にて一里許なり。近郷の俗は笠石〔二字傍点〕と呼ならはしたり。其形扁石をくぼめて笠の如く碑の上にかぶらせたり。故に然いふなり。さて此碑は人皇四十二代文武天皇の庚子年に建しものにて今嘉永元年に至て千百五十年に及べり。されば日本第一の古碑なり(○否是ヨリ先ニ宇治橋斷碑アリ上野國山上碑アリ采女氏塋城碑アリ)。碑の高さ今の曲尺にて四尺許あり。石は石工のいふ御影石(○所謂黒羽御影)にて正面は砥の如く磨きて左右其外は自然石なり。碑文は一行十九字づつ八行にて百五十二字あり。此碑天和のはじめまでは草むらの(260)中に倒れふして知る人なし。故に草刈わらは等あやまりて腰うち掛、または其あたりに尿などすればたちまちに物狂となり或は大熟を發してさまざまの事ども口ばしりけるとぞ。然るに其頃奥州岩城の頭陀僧圓順と云者ありて其よしを同郡|武茂《ムモ》庄小口郷梅ケ平の里正大金久左衛門重貞と云者に語る。天和三年〔四字傍点〕癸亥六月廿七日(○實ハ八日)水戸黄門光圀卿武茂庄馬頭村(○今の馬頭町大字馬頭)へ下向の節重貞右の始末を言上す。貞享四年丁卯九月廿四日馬頭村へ再び下向有て儒臣佐々助三郎宗淳に命じてまづ彼所に遣し碑文を印打(○搨打)せしめて見そなはし則宗淳によましめ給ひ古を慕ひ給ふ御志深くましませば元緑四年辛未二月有司并に重貞に計りて湯津上村は御代官所并に坂本内記殿安藤九郎|右〔右△〕衛門殿の知行と入會の地なれば替代の地を加し給ひて碑の在所凡二反歩許を水戸封境となし給ひ竪八間横七間の塚を新に築かせ其上に寶形造《ハウギヤウヅク》りの堂を建て彼碑を安置す。但し堂は南向なり(○圖アリテ東南向一間四面ト附記セリ。方一間ノ謂ナルベシ)。然して同五年壬申六月廿五日光圀卿當所に下向有て其堂の東の傍に泉藏院(〇一作大寶院)と云修驗を住居させ月俸を下し給ひて彼堂を守らしめ給ふ。されば印打はさらなり容易には見る事をも許さざるな(261)り
と云ひ大金童貞自記の那須記(蓮實氏碑考所引)には
 延寶四丙辰年五月下野國那須郡梅平村大金重貞は當時水戸領の農民なり。然るに旅僧圓順と云ふ者重貞の家に來り云ひけるは湯津上村に高さ四尺餘の古碑茂草の裡にあり。里人誤て其邊に馬を繋げば馬、足を挫き或は口より血を吐く事是迄數度に及ぶと里人等が話なり。と語りければ重貞聞きて大いに怪み湯津上村に往きて其碑をよく見れば數百年の雨露に侵され苔累々として文字明かならず。重貞頻に悲嘆し、かかる古跡の碑銘解せざれば後世誰か崇尊すべけむやと虎杖の枯れたるを以て其の碧苔を落し文字に墨を容れ見れども讀むこと難ければ重貞再悴重興二男昭良を拉して文字を寫し來り見れども又明かならず。猶往き見ること六遍なり。遂にあらましを寫し得たり。知己に逢ひては彼を改め是を聞き略那須國造の碑たることを知り、嗚呼斯の如き尊き墳を古今知らず汚せしことの淺ましや、實に恐るべし貴むべしと、其のあらましに寫せし碑文を重貞著す所の那須記中へ載せ置きしに天和三年六月七日水戸前中納言從三位源光圀卿、常陸久慈郡新宿西山へ御退隱の後西山公那須郡を(262)微行し給ひて同郡馬頭村へ御止宿に付き御旅館の御慰にもと存じ同八日拂曉に大金重貞御旅館に罷り出で御供市川味禅殿の取次を以て那須記上覧に供へしに光圀卿重貞を召し右古碑の義悉しく御尋に付き件の由を申上げければ光圀卿余思ふ仔細ありと仰せて右那須記御携へ御歸館あり。後貞享四年卯九月光圀卿再び馬頭村に御出張あり、那須郡湯津上村古碑御建立被遊旨仰せ出でられしが、他領地の義なれば重貞御名代を蒙り建立の事と極りしが領主坂|和〔右△〕内記殿安藤九郎|左〔右△〕衛門殿公儀御代官樋口又兵衛殿御持合の地なれば右三人へ古碑建立の義湯津上村名主より願ひ出で普請延引と相成り漸く元緑四年末二月右願済にて村名主甚兵衛方より重貞へ通達有之に付き早速西山公へ申上げければ御當豪御儒者佐々介三郎殿、梅平村重貞宅へ出張あり光圀卿御差圖を受け碑堂營繕に取り懸り御郡奉行高村新右衛門殿出張にて諸入費材木等萬事重貞へ仰せ付けらるるに付き光圀卿御撰文の靈鏡納物有りて同年十二月十五日御普請出來し云々
と云へり。國誌には碑圖ありて
 笠石高五寸横一尺六寸五分、碑身高四尺厚五寸横幅上一尺二寸八分同下一尺六寸二(263)分、臺石(○上層)高七寸横二尺一寸、同(○下層)高一尺三寸横三尺一寸
と附記せり。二重の臺石は光圀が新に添へしめしならむ。碑の大きさは新しき計測に依れば臺石より笠石まで三尺九寸、上部巾一尺四寸下部巾一尺六寸、厚一尺二寸六分、石質は黒羽御影とあり。さて上野國多胡碑も亦笠を戴けり。多胡碑は那須國造碑の式に倣ひしか又は碑に笠を戴かしむること當時行はれしか(二碑の外に此地方に今傳はれるもの無けれど)。並河誠所の擬集古録此碑の條に
 土俗是碑ヲ以テ御笠石〔三字傍点〕ト稱シテ雨ヲ祈ル。笠ヲ以テ碑首ヲ覆ヘバ則必應アリト(○原漢文)
といひ、湯津上村の人木曾武元の書ける那須拾遺(蓮實氏碑考所引)にも
 湯津上村に石碑あり。何人の廟と云事を知らず。唯笠石と申傳へける。昔は笠の石を外して常に下に置き旱魃あれば村中集り石碑の四方へ旗を立て笠石を冠らせ雨祷《アマゴヒ》すれば必ず雨降るなり。然るに水戸公元禄中御堂建立有りてより笠右を常に掩ひ玉ひしより以來雨年多くありければ諸人笠石を常に冠らせ置き給ふ故かく雨降るならんと申けり。其後旱魃に昔の如く雨乞すれども降る事なし
(264)といへり。國誌に草ムラノ中ニ倒レフシテといひ草刈ワラハ等アヤマリテ腰ウチ掛といへるは荒廢を形容して實に過ぎたるにあらざるか。もし仆れ臥してあらむには笠を冠らすべからざればなり。又光圀が碑堂を建てし時新に縱八間横七間の墳を築き其上に碑堂を建てしこと下野國誌に見え那須拾遺に水戸中納言御堂御建立の事と題して
 貞享四年卯九月二十四日水戸前中納言從三位源光圀公馬頭村に御成りの砌梅ケ平の大金久左衛門重貞を召出され湯津上村の石碑の事を尋ね玉ふ。重貞あらましを言上し奉りければ乃ち御堂建立の儀を仰せ付けらる。重貞畏つて湯津上に至り先づ上郷名主六助爰は安藤九郎右衛門殿知行所、次に中郷名主半右衛門爰は阪本内記殿知行所、次に下郷爰は御代官樋口又兵衛殿御支配なり。右の名主を集め水戸公の仰を申しければ各地頭へ伺ひければ水戸公の御事故違儀に及ばず兎角水戸殿の思召次第とあつて元禄四年未の三月より普請に懸りけり。然るに水戸公唐の沙門越國の心越禅師を湯津上村へ遣され碑の文を石摺に寫し文字を吟味致し水戸へ歸りける。さて御堂は一間四面の橡葺なり。されば同年十二月十五日に成就せり。さても水戸中納言殿御忍びやかに此碑へ御參詣遊ばされそれより黒羽へ御立越し櫻馬場など御遊覧(265)ありて舟にて御歸府なり。其の後烏山城主永井伊賀守殿も御參詣なさる。それより遠近の老若男女參詣致すこと雲霞の如し。さて又石碑の靈は正月二日に薨じ〔二字傍点〕給ひけれども(○文武天皇時代ノ那須國造ハ一郡長ニ過ギザルヲヤ)年の始め内外忙しき時節なれば二月二日を御縁日と定め祭禮を行ひける。さて又御供料として田畑六反四畝一歩此の地御買上げ寄附なされける。別當は馬頭村大寶院へ仰せつけけり(○國誌には泉藏院とあり)
といひ、さて鏡の裏面の圖を出して
 光圀公此鏡を石碑の下へ埋め玉ふ云々
といへり。鏡の銘は國誌には
 那須國造墓、有碑不勒名、
 啓墓索無誌、仍舊復修塋、
 嗚呼斯何人、有靈|則〔左△〕無靈、
 死者若有知、盍鑒我|哀〔左△〕誠、
 元禄辛未冬某月某日
(266)    源朝臣光圀識
とありて鏡圖の下に徑五寸と附記せり。則は將又は耶の誤、哀は衷の誤にあらざるか。元禄辛未は四年なり。某月某日とあるも疑はし。鏡は墳墓修築の竣功を待たずして豫作るべきなれば月日を指すに由無くしてただ月日とのみは識しつべし。草稿にもあらぬを某月某日と記すぺけむや。蓮實氏碑考に引きたる那須拾遺には有靈耶靈無とあり。靈無は無論無靈の誤ならむ。盖鑒とあるも盍鑒を誤てるならむ。三田氏の碑考に仍舊修塋とあるは腰に復を補ふべく有靈耶無靈耶とあるは尾の耶を削るべし。又盖鑒我衷哉とあるは哉を誠と改むべし。名塋誠、韻相叶へり(靈は通韻か)。又これには月と日との上空しくして二つの某字無し。轉じて水戸の史料を※[手偏+僉]するに義公行實に
 公嘗歎。我邦碑碣無v古2於奈須國造碑1。而顛廢殆滅。忠義無v備2於楠河州1。而墓表未v勒。先v是既修2國造碑1。五年壬申(○元禄)八月建2碑於攝津港川楠正成之墓1云々
といへり。又西山遺事に
 元緑四年修2那須國造碑1鑄v鏡納2塋中1。徑五寸。銘2其背1曰。那須國造墓、有碑不勒名、啓墓索無誌、仍舊復修塋、嗚呼斯何人、有靈耶無靈、死者若有知、盍鑒我|哀〔右△〕誠
(267)といへり。我所藏の寫本にはかく哀誠とあれどもなほ衷誠の誤ならむ。又桃源遺事に
 本朝にて古き碑には下野國那須國造の碑(那須郡湯津上村)より古きはなし。然るに今道路にたふれ人の知る事なし。西山公此事を御歎じなされ御家士佐々介三郎宗淳をつかはされ地を御買はせ堂を御造らせ碑を安置なされ田畑御付、御領内の馬頭村大|法〔右△〕院といふ山伏を別當に遊ばされ侯
とあり。郡須國道の名は韋提なり。鏡銘に碑アレドモ名を勒《シル》サズと云ひ嗚呼コレ何人と云へるは此時いまだ那須直韋提の下三字を訓むことを得ざりしなり。之を始めて郡須直韋提と釋せしは新井白石なり。那須記に高サ四尺餘ノ古碑茂草ノ裡ニ在リといひ古京遺文にモト荊棘中ニ在リといひ下野國誌に車ムラノ中ニ倒レフシテといへるを見れば平地の草莱申に在りし如く聞ゆれど鐘の銘に墓ヲ啓キテ索ムレドモ誌ナシ、舊ニ仍リテ復塋ヲ修スとあるを思へばいかめしき塚にこそあらざらめ、いささかの封土は殘りて碑は其上に在りしなり。現に佐々氏の考文に此碑在2荒墳〔二字傍点〕茂草之間1無2人識v之者1とあり(又長久保赤水の東奥紀行には刮2墳上〔二字傍点〕之土1依v舊加2封築1建2一小室1といへり)。蓮實氏碑考に
(268) 右の鏡銘に墓ヲ啓イテ索ムルニとあるは光圀卿が古碑の主人公は何であるかを究めようとして湯津上村の中にある所謂侍塚を發いた事を言つたのである
といへるは誤解なり。碑と相去ること若干町にして碑との直接關係の有無も明ならざる上下の侍塚(當時は上下の車塚といひしなり)を發きしことを打任せて墓ヲ啓キテ云云と云はむや。又光圀、當時碑が上下いづれかの車塚に屬したるものと確信したらむには碑堂を建つる前にまづ碑を其塚の上にこそ移さめ。又萬一の失錯を處りて碑を舊位置に措きしならむには鏡銘に其旨をこそ述べめ。車塚を啓きて徒に墓誌を索め碑の舊位置に新に縱八間横七間の墳を築きしことを基ヲ啓キテ索ムレドモ誌ナシ、舊ニ仍リテ復塋ヲ修スと云はむや。さて碑文は左の如し。
 永昌元年己丑四月飛鳥淨御原大宮那須國造、追大壹那須直韋提評督被賜歳次康子年正月、二壬子日辰節△故意斯麻呂等立碑銘偲云爾、仰惟殞公廣氏尊胤國家棟△一世之中重被貳、照一命之期連見再甦碎骨△髄豈報前恩是以、曾子之家旡有嬌子仲尼之門无有罵者行孝之、子不改其語△△堯心澄神照乾六月童子意香、助坤作徒之大合言喩字故無翼長飛旡根更固
(269)異體字いと多し。活字を以て之を摸《ウツ》さむことは不可能なれば今は常の活字を以て之に充てつ。原體を知らむと思はば古京遺文に見えたる釋文並に拓本を見べし。まづ永昌元年に就いて佐々宗淳は
 貞享四年ノ秋予、君命ヲ奉ジ郡須ニ至リテ親シク碑文ヲ寫ス。元年ノ上ノ二字甚分明ナラズ。乃摸印シテ之ヲ見ルニ永昌ノ二字ナリ。然ルニ本邦ニ永昌ノ號無シ。飛鳥淨御原ハ天武ノ朝ナリ。天武ニ朱鳥ノ號アリ。永昌ノ字形稍朱鳥ニ似タリ。想フニ是歳月ノ久シキ字體ノ訛缺セルナリ。因リテ推シテ朱鳥ノ號トス。後ニ之ヲ考フルニ朱鳥元年ハ歳、丙戌ニ在リ。而ルニ此《ココ》ニ己丑ト曰ヘリ。則朱鳥ニ非ルヤ明ケシ。今按ズルニ唐ノ武后ノ永昌元年ハ歳、己丑ニ在リ。而シテ持統ノ三年ニ當レリ。此時本邦年號缺ケタリキ。故ニ異域ノ年號ヲ假用セシカ(○原漢文)
といへり。新井白石は之に對して永昌元年とよめるを朱鳥四年の誤釋として
 朱四ノ二字ノ上頭ノ一點ハ皆碑面剥落ノ跡ノミ。史ニ據ルニ持統三年ハ歳己丑ニ次リキ。實ニ朱鳥四年ナリ。明年庚寅正月朔持統即位ス。是ヨリ先前朝ノ號ヲ改ムルコト無シ。蓋ソノ攝ナルヲ以テナリ
(270)といへり。白石が據v史持統三年歳次2己丑1、實朱鳥四年也とことわれるは少くとも今の日本紀には天武天皇の御末年即丙戌を朱鳥元年と稱し丁亥、戊子、己丑、庚寅を持統天皇の元年二年三年四年と稱せるが故なれど、即史に朱鳥四年といふ年號見えざるが故なれど、萬葉集卷一及卷二の左註には日本紀曰朱鳥四年庚寅云々、日本紀曰朱鳥五年辛卯云云、日本紀曰朱鳥六年壬辰云々、日本紀曰朱鳥七年癸巳云々八年甲午云々と見え又靈異記卷上第廿五に朱鳥七年壬辰云々と見えたり。
 ○朱鳥七年壬辰といへるは萬葉集に朱鳥六年壬辰といへると相合はず。甲は天武天皇の朱鳥元年に續けて數へたるなり。くはしくは近江國の下なる鬼室集斯碑の考證に云へり。就いて見べし(四六頁以下參照)
白石が之を引かざるは之あることに心附かざりしなり。又白石が
 明年庚寅正月朔持統即位。先是無改前朝之號。蓋以其攝也
といへるは妄斷なり。日本紀に庚寅を持統天皇元年としたらばこそ、文物に見えたるが朱鳥四年までならばこそかくも斷ぜめ。現に萬葉集の左註に朱鳥七年(又は八年)さへ見えたるをや。白石は又跋文に宗淳の考を擧げて其次に
(271) 美竊ニ疑ヒ以謂《オモ》ヘラク。維我東方建國已來未始ヨリ藩ト異邦ニ稱シ其正朔ヲ奉ゼシ者アラザルナリ。僞周(○唐の僞朝武氏)ノ號亦何ヲ以テ假ルコトヲ爲《セ》ム。若|其《ソレ》果シテ然ラバ文武四年只甲子ヲ用フルハ何ゾヤ(○文中に歳次康子年とあるを云へるなり)。余ヲ以テ之ヲ考フルニ或ハ以テ永昌元年トスルハ即是朱鳥四年ナリ。持統制ト稱シナガラ前朝ノ號ヲ改ムルコト無シ。蓋ソノ攝ナルヲ以テナリ。史ニ據ルニ持統四年庚寅正月朔始メテ天位ニ即ク。亦以テ徴スルニ足ラム。歴代綿遠ニシテ文ニ※[元+立刀]《グワン》缺多ク盡ク解スベカラズ。但ソノ四ノ字僅ニ三畫ヲ存ゼリ。而ルニ右旁轉折ノ處隱トシテ挑勾《テウコウ》ノ勢ノ若シ。上頭ノ一點ハ乃是剥落ノ跡ナリ。逐ニ觀者ヲシテ以テ元ノ字ト爲《セ》シムルノミ(○原漢文)
と云へり。拓本に就いて審視するになほ永昌元年なり。次に伊藤東涯の※[車+酋]軒小録に
 シカレバコノ己丑は持統ノ朱鳥三年ナリ。シカルニ元年トアリ。唐ノ則天武后ノ永昌元年ニ當ル。文字ハ永昌ト云ガ大方近キ由云ヘリ。然レドモ唐ノ年號ヲ用ルイブカシ。コトニ元年四月トアレバ唐ヨリ日本ヘノ通路、京ヨリ野州マデノ路次數千萬里ノ隔テ俄カニハ達シ難キナルベシ
(272)と云へり。東涯は此文を己丑年四月に書きしものの如く誤解したるなり。此碑は文武天皇四年庚子以後に建てしものなるをや。次に藤貞幹の好古小録に冒頭の四字を白石の如く朱鳥四年として
 此碑文先輩説アリ。今ココニ擧ゲズ。唯朱鳥四年ヲ永昌元年トスル コト余信ゼザル所ナリ。朱鳥ノ號は此碑ニ限ラズ二年ヨリ十一年ニ至テ諸書ニ此ヲ用ヒタリ(○信ずべき古書に九年以後も見えたりやおぼつかなし)。洗者誤テ永昌元年トナ|セ〔左△〕シナラム
といひ屋代弘賢が白石の繹文に加へたる跋に
 弘賢曰。コノ碑ハ洗碑ニテ文字ヲ訛シモノナレバ強テ評ヲナスベキモノニアラズ。土人ノ説ニ昔行脚ノ修驗者來テ文字カスカニテ見ガタケレバアザヤカニナサントテホリ直シケルヨシ云傳ル所ナリ。コノ説ヲキキテ碑面ヲ見レバ永昌元トイヘル三字は全ク朱鳥四トイヘル文字ヲ彫直シケル樣ニ見ユルナリ。カノ修驗者ガ洗碑ノ時朱鳥ノ號四年ツヅキタル事ハ所見ナシトテ和漢合運ナドヲ見合セケン、カカルヒガゴトセシナリ。然ルニ白石先生ノ繹文ノ注ニ朱鳥四年トシルサレシハ傳摸飜(○字脱乎)ノ本ヲ見ラレシ故ナリ。鮮明石本ヲ見ルニ永昌元ノ三字アザヤカニ見ユ。然レドモ朱(273)鳥四トイヘル筆畫隱々ト見ユルゾメデタキ。資坦(○吉田篁※[土+敦])ガ説ノゴトキハモトヨリ論ズルニタラズ
といへり。支那と日本と風習相齊しからず、特に文運いまだ開けざる貞享以前に碑を洗ひ字を修《ツクロ》ひし者ありやいとおぼつかなし。又特に延寶四年五月に大金重貞が始めて此碑を見し時に數百年の雨露に侵され苔累々として文字明ならざりしを虎杖の枯れたるを以て其碧苔を落し文字に墨を容れて見し由云へり(那須記)。もし近く改刻せし跡あらば此時又は貞享四年の秋(十一年の後)に佐々宗淳が往き見し時にいかでか之を發見せざらむ。弘賢の言、若好事者作爲の爲ならずば或人が改刻の疑を懷きて土人に向ひて誰カ此碑ヲイロヒハシナカツタカと問ひ土人が昔回國ノ修驗者ガ(○或は圓順を指せるか)來テサマザマニイロツテヰマシタと答へしに依りて妾に改刻と斷ぜしならむ。たとひ其修驗者刻字の技に長じ又刻字の具を携へたりともいかでか匆卒にかく巧に永昌四と改刻することを得む。深く思ふことを要せざるなり。
 ○世に新井白石が享保六年に作りし那須國造碑考を傳へたり。たとへば甘雨亭叢書第一册、白石全集第一册(一四一頁以下)又所藏の寫本に見えたり。其末に吉田篁※[土+敦]の文(274)ありて右の所謂釋文の傳來を記せり。即
 右那須國造碑釋并跋は白石翁ノ手書ニシテ半幅ノ横紙ヲ用ヒテ書ケリ。蓋草本ナリ。土肥徳甫ノ家ニ藏セリ。其先人元成(○白石の門人土肥源四郎號霞洲)ノ遺ス所ナリ。友人滕之※[原/心]愛シテ之ヲ録ス。其親筆今有リヤ無シヤ知ルベカラズ。而ルニ此本一再ノ轉寫ヲ經テ誤訛|時《トキドキ》ニ有り。是ヨリ先、立伯時(○立原翠軒)此碑ヲ飜刻シテ一本ヲ寄致シキ。久シク篋笥ニ存ジ稍蠧食ニ供ス。因リテ分割|粘綴《デンテイ》シ以テ摸文ニ代フ。并《マタ》其碑ヲ收メ以テ左ニ係ク。……天明癸卯(〇三年)九月篁※[土+敦]草舍ニ識ス。吉林安資坦(○吉は吉田の修、林安又書林庵通稱、資坦は字)
とありて次に碑文あり。又次に資坦又識の跋文あり。余の玉川文庫に奈佐勝皋が以上の諸文と佐々宗淳の考とを合せ寫せるものあり。其跋文に癸卯歳孟冬十一月隅東日下部勝美誌とあれば篁※[土+敦]が寫本を作りしと同年の十月十一日に篁※[土+敦]の本を借りて寫ししものなり(日下部は奈佐勝皋の本姓、勝美は其初名なり)。ここに無窮會に此奈佐本を屋代弘賢が寫したるを
 ○乙巳初夏十日輪池源詮賢寫于易色軒とあり。乙巳は天明五年なり。詮賢は弘賢の(275)初名なり
 更に文化元年に飯塚某が寫ししものあり。上に擧げたる弘賢の跋文は此屋代本に見えたるなり
然るにあやしも狩谷望之すら此洗碑説に傾き釋文には永昌元年と讀みながら考證には
 蒙齋(○貞幹)曰ク。永昌元年ハ當ニ朱鳥四年ト作スベシ。蓋洗者ノ改作ニ係ルト。今審ニ之ヲ觀ルニ字樣類セズ。其説或ハ存ズベキニ似タリ
といへり。次に國誌には朱鳥四年なること論なしといひ次に栗田寛氏の國造本紀考に本文なる釋文には、永昌元年とし頭書の再按には古京遺文の考證を引きて此説似是宜併考といへり。余は毫も永昌元年と釋すべきことを疑はず。但白石の跋文に堂々天朝豈復有假以僞周之號哉と云へるは無論同感なり。然らば何故に支那の年號を借りたるかと云ふに蒲生君平の説に
 天朝古ヨリ未嘗テ年、永昌ト號スル者アラズ。永昌ハ是唐ノ則天ノ建テシ所ニシテ其元年己丑ハ實ニ持統帝ノ三年ニ當レリ。史ヲ按ズルニ持統帝元年及三年四年荐ニ新(276)羅ノ投化者ヲ下野ニ置ク。……知ラズ那須此時已ニ郡トナリ下野ニ隷シ國司ノ處分ヲ承ケテ新羅ノ投化者ヲ其地ニ置クカ。蓋當時新羅、唐ノ正朔ヲ奉ズ。所謂意斯麻呂等ハ或ハ其投化者ナラム(○否)。然ラズトモ亦投化者ノ言ニ效ヒテ彼ノ年號ヲ用ヒシナラム。……那須ノ鄙人固ヨリ名分ヲ知ラズ。偶年號ノ闕ケタルヲ視テ妄ニソノ文雅ナラザルヲ嫌ヒ因リテ如此ノ孟浪|謂《イハレ》ナキヲ致スノミ
といへり。又鹽竈の藤塚知明は
 持統紀云。元年三月以2段化新羅人十四人1居2于下毛野國1賦v田受v稟使v安2生業1、又三年四月以2投化新羅人1店2于下毛野1などあれば彼韓人を雇ひて此碑文を書せたる故にやあらん(○國造本紀考一一二頁所引)
といひ又
 想フニ此時投化ノ三韓人ヲ多ク此地ニ置カシム。蓋皇朝文學ノ始祖三韓ニ出ヅ。當時亦投化人中文學アル者有リテ之ヲ作りシカ。其又其書和ニ非ズ漢ニ非ズ〔八字傍点〕。殆韓人ノ手ニ出デシニ似タリ。韓ハ則唐ノ服從タリ。唐ノ年號ヲ假用セシハ疑フベカラズ(○原漢文、蓮實氏碑考八八頁所引)
(277)といひ(其文其書非和非漢は寧據漢非漢といふべし。さて非漢とは主として被賜、辰節、銘偲などを指せるか)又諸葛琴臺は
 鈴木澤民云(同國鹿沼人、號石橋、通稱大坂屋四郎兵衛、蒲生君平之師也)。此碑ハ投化人ノ書タルナルベシ。故(ニ)唐ノ年號ヲ用ヒタルナラント云。此説極メテヨシ。日本書紀ニ……然レバ持統ノ元年ヨリ四年ニ至ルマデ新羅國ノ投化人ヲ當國ニ置レタル事知ラル。今那須郡蘆野驛ト伊王野邑トノ間ニ唐木田村ト云所アリテ古ヘハ唐來村ト唱ヘシト云(○蘆野町大字蘆野の内)。此碑在ル所ヨリ三四里許北ノ方ナリ。按ズルニ其時投化人ヲ置シ所ナルベシ。然レバ彼投化人等國造ノ厚恩ニ依テ命ヲ助ケラレ其恩ヲ報ゼント國造ノ薨ゼシ時其子等ニ代リテ墓碑ヲ作リシモノナルベシ
といへり。琴臺は那須郡蛭田の人にて後に我姫路藩に仕へき。蛭田は湯津上の西南一里許に在りて今共に湯津上村の大字となれり。然レバ彼投化人等以下は誤解なり。次々に云ふべし。さて碑文を歸化人の作とし永昌四年の年號を用ひたるをそれが爲なりとするは右の琴臺の文に據れば鈴木石橋(名立徳・字澤民)の創見なり。君平は石橋の門人なれば其説を借れるなるべく藤塚知明は其人物其學問より察するに恐らくは君平より聞(278)知せしならむ。
 ○この鈴木石橋は即耳嚢卷五「陰徳繼嗣を設くる事」といふ條に見えたる野州鹿沼の富農鈴木四郎兵衛なり。小宮山楓軒の那須國造碑記事に收めたる蒲生君平著温古私録の後記なりとて森銑三君の寫して見せしを見るに
  右蒲生君平考也。君平名秀實、下野人。嘗來、談及d國造碑用2永昌號1事u。君平曰。是新羅投化人所v爲也〔是新〜傍点〕。予稱v善者三。君平喜。今讀2此書1猶其言在v耳也。屈v指二十有餘年而其人既在2泉下1矣。按續日本紀天平寶字五年三月有2百濟人伊志麻呂1。以2意斯麻呂1爲2新羅人1亦不v足v怪也(○否。意斯麻呂は那須國造韋提ノ子ナリ。投化人ニアラズ)。如2銘解1頗屬2二牽強1。如2其是非1讀者自知v之。文化十四年丁丑秋九月廿一日閲畢乃記。楓軒小宮山昌秀
  其後得2諸葛蠡(○琴臺)考1讀v之爲2投化人之作1者鈴木澤民之言也。澤民者君平之師也。蓋嘗述2師之言1也。而不v稱2師説1者何耶。昌秀又識
 とあり
ともかくも碑文の作者は歸化人なるべく其歸化人は或は新羅人なるべ し。但その新羅人は那須郡に在りしを要せず。他郡に在りとも招きて撰文を托しつべければなり。然る(279)に諸書に強ひて之を那須郡に引附けむとしたるは碑文を那須國造治下の歸化人の感謝文と誤り認めたるが爲なり。なほ下に云ふべし○飛鳥淨御原大宮 持統天皇はその八年まで此宮にましましき。大宮はここにては朝廷を云へるなり。白石が
 史ニ據ルニ持統ノ尊號ハ稱シテ藤原大宮ト曰フ。而ルニ飛鳥淨御原大宮ト稱セルハ亦前朝ノ號ヲ改ムル無キナリ
と云へるは無用の言なり。御宇三年の事を云はむとして若、藤原大宮と云ひたらばこそ後の稱を前に廻らして云へるなりなどことわるべけれ。さて飛鳥淨御原大宮とあるを淨見原大宮ガとは心得べからず。此文の主格は那須直韋提なればなり。又大宮を主格とせばタマフと云ふべく被賜(タマハル)とは云ふべからざればなり。されば淨御原大宮は大宮ヨリ又は大宮ノトキと心得ざるべからず。古京遺文に
 持統天皇嗣ギテ是宮ニ御シ八年ニ至リテ始メテ都ヲ藤原ニ遷ス。故ニ碑ニ持統天皇之時ヲ謂ヒテ猶淨御原大宮ト稱セルナリ
と云へるを見れば望之は大宮ノトキと心得たるに似たれど、もし大宮ノトキの意ならば之時の二字を添へざるべからず。恐らくは朝廷ヨリといふことを莊重に飛鳥淨御原(280)大宮ヨリと云へるならむ○那須國造 世にいふ。國造は本來職名なるが大化改新以後はややにカバネとなりきと。然ればここもカバネとして云へるかと云ふに下に那須直とあるそれ即カバネなれば那須國造はカバネにあらず。然るに大化改新以後に那須國造といふ職名あるべきにあらねば、ここに那須國造とあるは舊那須國造と心得るか又は那須は邊鄙なれば大化改新の制此時まで實現せざりしものと心得ざるべからず。現に甲の如く認めたる人と乙の如く解せる人とあり。ここに那須國造那須直韋提とあると同例なるは萬葉集卷二十に下總國の防人に海上《ウナガミ》國造|他田日奉直得太理《ヲサダノヒマツリノアタヒトコタリ》とある是なり(他にも例あり)。按ずるに國造は職名より直にカバネとなりしにあらず。其中間に職名にもあらずカバネにもあらざりし時代あるなり。辭を換へて云はば國造が一種の爵名たりし時代ありて其時代は頗久しく續きしなり。たとへば改新之詔を宣じ給ひしより二箇月の後なる大化二年三月甲子(二日)の條に詔2東國々司等1曰。集侍《ウゴナハル》群卿大夫及臣連國造〔二字傍点〕伴造并諸百姓等咸可v聽v之とある東國々司は職名にて云へるにて群卿大夫云々は爵名にて云へるなり。又辛巳(十八日)詔2束國朝集使等1曰とある中に又諸國造〔三字傍点〕違v詔送2財於己國司1遂倶求v利恒懷2穢惡1とあり。されば當時の國造は官に屬せずして民に屬せしなり。降(281)りて天武天皇紀五年四月に
 外國(○畿外)人欲2進仕1者臣連伴造之子及國造〔二字傍点〕子聽v之とあり。此國造も亦爵名なり。さて同十二年正月の詔に諸國司、國造、郡司及百姓等とあるを思へば國造の待遇は國司の下郡司の上なりしなり。奈良朝時代には新に國造の稱を賜ひし例續紀にあまた見えたり。但新賜の國造の稱は多くは大化新建の國の名を承けて那須國造の如く國造國の名を承けたるもの稀なること勿論なり。ここに面白き例あり。續紀延暦二年十二月に
 阿波國人正六位上粟凡《アハノオホシ》直豐穗、飛騨國人從七位上飛騨國造〔二字傍点〕祖門並任2國造〔二字傍点〕1
とあり。祖門は人名、前の國造はカバネ、後の國造は爵名なり。これに據れば國造はかたへには夙くカバネともなりたりしなり。暇あらば國造名稱沿革考を書きて示すべし。さてここに那須國造とあるは職名にあらずカバネにもあらずして一種の爵名なり。思ふに大化の御世に那須國を廢して下毛野國の那須郡とせられし時郡領には國造ならぬ他の人を任ぜられしに(韋提もし當時の國造ならばなほ少年ならむ)持統天皇の三年に新に韋提を那須郡領に任ぜられしかば葦提は本望を遂げて深く之を悦びしなるべくさ(282)てこそ碑文にも特筆したるならめ。さて那須國造の始は國造本紀に 纏向日代朝(○景行天皇)建沼河《タケヌナカハ》命孫大臣命定2賜國造1
とあり○追大壹 天武天皇の十四年に諸臣の爵位を正直勤務追進の六位とし更に各位を四階に分ち又更に各階を大廣に分たれしかば諸臣の位階は四十八階となりき。追大壹は追位の壹階の大なれば四十八階中の第三十三階なり○那須直韋提 佐々宗淳は誤りて那須宣事提と讀みて何の事とも得辨へざりしを白石始めて那須直韋提と讀むことを得て直をカバネとし葦提を人名とせしなり。即
 葺提ハ人名ナリ。葦ハ猶天武紀(○元年)韋那公高見ノ韋ノゴトキナリ(○又同前紀に韋那公|磐鍬《イハスキ》とあり)。提は猶欽明紀(〇六年)膳臣巴提使ノ提ノゴトキナリ(○俗にハデスと唱ふれど提の音は尚不明なるなり。又使は流布本には便とあり。されば寧允恭天皇紀の壓乞此云2異提1を例に引くべし。否そは人名にあらずと云はば神護景雲二年二月の
 額田部蘇提賣を擧げてむ)
と云へり。直はアタヒと訓むかアタヘと訓むか不明なり。余はアタヒとよみ習へり。ともかくも國造に多きカバネにて天武天皇の十三年十月に制定せられし八色之姓の外な(283)り○評督被賜 評督ヲ賜ハルと訓むべし。評は韓語にて郡に通用せり。されば評督は郡領即近古の郡長なり。白石はやく
 又欽明紀ヲ按ズルニ地名ノ背評讀ミテ邊郡《ヘゴホリ》ト云ヘリ。蓋古訓ナリ。
  ○繼體天皇紀二十四年なり。即毛野臣聞2百濟兵來1迎討2背評1とありて註に背許地名、亦熊備己富里とあり。又背評の傍訓にヘコホリとあり
 評督ハ猶宰ト言フゴトキナリ。郡ト評ト字似タリ。史ト碑ト皆訛リタラムモ亦未知ルベカラザルナリ
と云へるが古京遺文に至りて始めて評が韓國の方語にてやがて郡縣なることを明にせり。即妙心寺鐘糟屋評造の註に
 評造ハ猶郡領ト言フガゴトシ。古時郡縣ニ評字ヲ用ヒキ。太神宮儀式帳ニ難波朝庭天下立v評時ト云ヒ續日本紀天平寶字八年紀ニ紀寺ノ奴益人等ノ訴ヲ載セテ本國氷高評人内原直牟羅ト云ヘル是ナリ。郡司ヲモ亦評督ト稱シ或ハ評督領ト稱セリ。文武天皇四年紀ニ衣《エノ》評督|衣《エノ》君縣アリ、神護景雲元年紀ニ阿波國ノ百姓ノ上言ヲ載セテ評督|凡直《オホシノアタヒ》麻呂ト云ヘル、那須直韋提碑ニ評督被賜トアリ太神官儀式帳ニ小乙下久米勝(284)麻呂評督領仕奉トアル皆證トスベシ(繼體天皇紀ニ韓ノ地名ニ背評アリ。邊己富里ト傍訓セリ。本註ニ背評地名、亦名熊備己富里ト云ヘリ。新羅其邑ノ内ニ在ルヲ啄評ト曰ヒキ〔○梁書新羅傳〕。則知ル。古時郡縣、評字ヲ用ヒ又己富里ト訓ミシハ並ニ韓國ノ方語ナルコトヲ)
と云へり。例は此外にも若干あるべけれど手近きものにては常陸風土記多珂郡の條に石城評造とありて多珂國造と相對し又古文書時代鑑上の七に出せる金剛場陀羅尼經の奥書に歳次丙戌年(○天武天皇十四年即朱鳥元年)五月川内國志貴評内知識爲七世父母及一切衆生云々とあり。思ふに大化の改新に封建制を廢して郡縣制とせし時國といふ大行政區の下にあまたの小行政區を作りしかば之を韓語に據りてコホリと稱し文字は韓語の評又は漢語の縣又は郡を充てしに後に郡と定まりしなり。猶そのコホリの長官を初、造とも督とも督領とも云ひしに後に領と定まりしごとし(但督領助督と對し云へる時の督領は大領なり。儀式帳に見えたり)。被賜の例はたとへば續紀天平十三年閏三月乙丑の詔に如《モシ》有2事故1應2須《ベクバ》退歸1被2賜〔二字傍点〕官符1然後許v之とあり。なほ漢籍にて例を發見せば書加ふべし〇歳次康子年 康子は無論庚子の誤にて文武天皇の四年に當れり。古京(285)遺文に
 康ヲ借リテ庚トセルハ又|伊福吉部《イフキベ》氏墓誌及余ガ架中ニ插メル天平二年都菩臣足△ガ寫シシ大般若經ノ跋尾ニ見エタリ。唯《タダシ》未西土ノ人ガ康ヲ以テ庚トセルヲ見ザルノミ
といへり。思ふに當時の書家は書に巧なるのみにて文義に通ぜざるは勿論字形をだに審にせざりし如し。博く例を求むるに及ばず。彼金井澤碑に下賛郷を卞賛郷と書き又を人と書けるを見べし。甲は或は罪を刻者に歸すべけれど乙は必書者の責を負ふべき所なり。否撰文者も亦往々字を誤ちしにあらざるかと疑はる。文運の開けたりし近古の例を以て妄に上代を推すべからず。學令に凡書學生以2寫書上中以上者1聽v貢とある義解に
 其書生唯以2筆迹巧秀1爲v宗。不d以v習2解字樣1爲uv業
といへるをも思ふべし○辰節は辰刻なり。即今の午前八時頃なり。其下の二字を佐々氏は弥故と釋し貞幹は物故と釋し古京遺文には夕扁尓旁即殄の異體として殄故猶言病死也と云へり。おそらくは※[歹+勿]故ならむ。※[歹+勿]は歿に同じ○意斯麻呂等 意斯麻呂はオシマロと訓むべし。白石は葢是其僚屬也といひ君平は所謂意斯麻呂或其投化者といひ諸葛(286)氏は
 意斯麻呂は國造ノ子息ナルベシ。等ト云時ハ一人ニアラズ。兄弟數多アリテ亡父ノ爲ニ碑ヲ立ルニ投化人ヲ以テ文ヲ作ラシメ其徳ヲ銘セシメタルナリ
といひ栗田氏も韋提の子なるべしと云へり。諸葛琴臺の説よろし。意斯麻呂は韋提の子なり○銘偲云爾 白石は直に銘徳也といひ古京遺文に
 偲ハ志奴布ト訓ム。其人ヲ思慕スルノ義ナリ。萬葉集ニ多ク之ヲ用ヒタリ。蓋是間ノ會意字ナリ。詩ニ所謂美且|偲《サイ》ノ偲ニ非ズ(○齊の盧令に其人美且偲とあり。偲は多鬚の貌なりと云ふ)
といへり。銘偲といへる偲をシヌブココロヲと訓めば通ぜざるにあらねど歸化人の撰文とせば邦製字を用ふべからず。宜しく徳の書損として庚を康と書ける類とすべし○仰惟|殞《ヰン》公 赤水は仰を抑とし栗田氏之に從へり。白石は殞亡也。猶v言2亡君1也と云へり○廣氏尊胤 白石は
 廣氏ハ蓋廣來津公ヲ謂ヘルナリ。姓氏録ニ曰ク。豐城命三世孫赤麻呂依2居地1稱2廣來津公1
(287)といへれど那須國造は豐城入彦命の裔にあらずして建沼河別命の裔なり。即孝元天皇の後にして崇神天皇の後にあらず。吉田篁※[土+敦]の釋文の註に
 安(○林安即篁※[土+敦])按ズルニ故友山浚明(○山岡明阿)名物類聚三百六十卷ヲ撰ス。内ニ亦此碑ノ説ヲ著シテ云ハク。國造ハ姓名未知ルベカラズト雖而モ天武帝ノ時ノ貴介公子ナリ。故ニ廣氏尊胤ノ言アリト
と云へり。允恭天皇紀に或誤失2己姓1或故認2高氏〔二字傍点〕1とあり又萬葉集卷十六なるクハシ物イヅクアカジヲの左註ニ此娘子不v聽2高姓〔二字傍点〕美人之所1v誂とあり。廣氏は右の高氏高姓と同じくて名族といふことならむ○國家棟△ 佐々氏は梁と釋し貞幹及望之は之に木扁を添へたり。字滅して明ならず。三田氏は材と讀めり○一世之中重被貳照一命之期|連《シキリニ》見再|甦《ソ》 連を佐々氏は運と釋せり。始めて連と釋せしは白石なり。さて白石は蓋葢ソノ國人ニ於テ再造ノ功アルヲ謂フナリといへり。白石は此碑文を僚屬國人の感謝文と誤解したる爲にかく云へるなり。並河誠所は
 想フニ那須國造は本、王子大友ノ黨ナリ。故ニ天武ノ朝ニ既ニ廢黜セラル。持統ノ初年ニ其罪ヲ赦シ再那須國造追大壹宣事提評督ニ任ゼラル。故ニ下ニ一世之中重被貳照(288)一命之期|遙〔右△〕見再甦ト云ヘルナリ
といひ山岡明阿も亦
 蓋或ハ大友皇子ノ黨タラム。天武治平ノ後必檳斥セラレ持統ノ朝ニ※[しんにょう+台]ビテ赦ヲ蒙リテ再任セラル。故ニ提評督被賜マタ一世之中重被貳照一命之期遙見再甦ノ文アリ
といへり。明阿は誠所の説を取れるにこそ。大友皇子の黨といへるは何の根據もなき空想なり。次に諸葛氏が
 是投化人ドモノ國造ノ恩ヲ謝スル辭ナリ。……國造ノ恩ノ厚キニハ縱骨ヲ碎キ髄ヲアラハストモ此莫大ノ恩ヲ報ゼント云ナリ
と云へるは白石の蓋謂d其於2國人1有c再造之功u也を敷衍したるのみ。栗田氏は明阿の説即誠所の説に左袒せり。按ずるに一世之中重被貳照とは追大壹に叙せられしと那須評督を賜はりしとを云へるなり。一命之期連見再甦は辭を換へて同事を再言せるかとも思へど那須直韋提には仇家ありて再度まで讒構せられしに兩度共朝廷の明鑑に由りて冤罪と定まりけむを云へるならむ。尚後に云ふべし○髄の上を佐々氏は視とせるを長久保赤水・狩谷望之及栗田氏は飛とし諸葛琴臺は現とせり。拓本に就いて※[手偏+僉]するに恐ら(289)くは現ならむ。さてその碎骨現髄を諸葛氏は前述の如く投化者の言とせるを栗田氏は
 此二句拙き書法にて辭足らず聞えがたきを強て考るに韋提の意には如此思ひて朝廷に仕奉りし故に下文の如く子孫に惡者はなしとの義歟
と云へり。此説いとよろし。碎骨云々の上に常言を加へて見べし。事は之には與らねど續日本後紀嘉祥元年十一月藤原嗣宗卒之下に再度不期の朝恩を蒙りし事を述べさて
 此兩般榮進銘v肝不v忘。……毎稱2此語1以爲2口實1(○口實は即恒言、クチグセなり)
といへり。此を以て今を照すべし○是以曾子之家旡有嬌子、仲尼之門无有罵者 韋提の子孫に不良の輩の無きを云へるなり。驕子を嬌子と書けるは庚子を康子と書ける如き誤書なり。並河氏は
 孔子家兒不識罵、曾子家兒不識闘ノ語ニ原《モト》ヅケリ(○此文は五雜組事部一に據れるなり)
といひ諸葛氏は
 此二句ハ孟子ニ依テ作リシモノナリ(○否説苑に出でたるに心附かざりしなり)
といひ栗田氏は
(290) 説苑雜言に孔子家兒不知罵、曾子家兒不知跂とあるを取れるにや
といへり。説苑には
 是以孔子家兒不v知v罵。骨子家兒不v知v路。所2以然1者生而善教也
とあり。路はおそらくは誤字ならむ。或賂乎といへり○行孝之子不改其語 白石は
 ソノ道ヲ改メザルナリ。所謂三年無v改2父之道1ナリ
といひ諸葛氏は
 孝ヲ行フトハ意斯麻呂等ヲ云ナリ。不改其語トハ孔子曾子ノ語ヲ守りテ亡父ノ葬祭ヲナス禮假初ニモ其教ヲ背カザルヲ云ナリ
といひ栗田氏は白石に従へり。按ずるに語と道とは相齊しからず。此句は意斯麻呂等が父葦提の常に唱へし骨ヲ碎キ髄ヲ現ストモ豈前恩ニ報ゼムヤといふ語を改めずして朝廷に感謝せしを云へるなり○不改其語の次を佐々氏は
 銘夏堯心 澄神照乾 六月童子 意香助神 作徒之大 合言喩字 故無翼長飛 无根更固
と釋し白石は之を改めて
(291) 維蒭※[草冠/堯]〔三字右△〕心 凝〔右△〕神照乾 云兒〔二字右△〕童子 意育〔右△〕助|坤〔右△〕 作徒之|夫〔右△〕 合言愈|焉〔右△〕云々
とし銘(維)ハ或ハ雖ノ字、六(云)ハ或ハ亦ノ字と云へり。次に赤水は佐々氏の釋を改めて
 詢蒭※[草冠/堯]〔三字右△〕心 澄神照乾 六月童子 意|育〔右△〕助神云々
とせり。即いささか白石の釋をも取れり。又篁※[土+敦]は白石の釋に據りてただ夏ハ復ノ訛といへり。次に琴臺は銘の字を引離ち次の六句を一字おくりとして
 乃老〔二字右△〕心澄 神照乾|大〔右△〕 引〔右△〕童子意 香助坤作 從〔右△〕之大合 言喩|守〔右△〕故
とせり。右傍に△を附したるは釋の前人と異なる字なり。此説最わろし。琴臺は銘の次より下を銘文と認めたるなれど銘文は仰惟※[歹+員]公以下なるをや。次に武井は(國造本紀考に引けり)
 ○驥號は樗齋、此人の那須国造碑考は抄本を見しのみ。劉向新序纂註の著者にて長沼藩士なり。長沼藩は水戸の支封にて治は常陸の府中(今の石岡)に在り。長沼は元來今の岩代の地名なり。まぎらはしきに由りて因に記しつ。岡本保孝の相識人物志に「武井伊藤太、未熟ナリ。新序纂註反古ナリ」と酷評せり
銘夏を銘爰の誤とし銘爰を銘曰の義として
(292) 堯神澄神 照乾亦兒 童子意育助神 作徒之大 合言喩字
と讀めり。此人も亦仰惟※[歹+員]公以下が銘文なることを忘れたるなり。次に古京遺文と三田氏とは專佐々氏の釋に仍りただ助神を助坤に改めたるのみ。銘夏以下四句十六言は解すべからず〔銘夏〜傍点〕。古京遺文にも
 銘文多クハ讀ムベカラズ。言ヲ合セテ字ヲ喩セリ。故ニ此艱讀ヲ爲ス。亦黄絹幼婦ノ類ノミ。諸家ノ釋セル所皆強作解事ナリ。據信スベカラズ
と云へり。
 ○黄絹幼婦のことは世説の捷悟篇及異苑に見えたり。人が曹蛾の碑に黄絹幼婦外孫※[(柿の異体字の旁+次)/韮の草冠なし]臼と題せるを楊修(又は禰《デイ》衡)が見て絶妙好辭の義と解せし故事なり
狩谷氏の云へる強作解字は俗にいふ コジツケなり。たとへば藤塚氏は云々といひ三田氏は之に據りて銘夏堯心を忠字とし澄神照乾を烈字とし六月童子を孝字とし意香助坤を養字とせり。栗田氏は
 銘夏已下の文をこの合言喩字といふに因て字謎隱語の離合體にて忠烈孝養四字の義なりといふ説あれど甚うるさき説なればうべなひがたし
(293)といへり。思ふに忠烈孝養といふことならば何の憚る所ありてか特に隱語を用ひむ。其上合言喩字といへるを見れば二言を合せて一字とすべきにて各句二字に當り四句八言に當るべし(たとへば澄神は思字、照乾の乾は天にて照乾は目か)。されば六月孝子の如き一句にて一義とならざるを憂ふるに及ばず。白石の維蒭※[草冠/堯]心と讀み赤水が詢蒭※[草冠/堯]心と讀めるが如く第二字と第三字とを聯ねむとするは無用の努力なるべし。さてかく隱語を用ひたるは仇家に聞えて讒誣の資とならむことを恐れたるならむ○作徒之大以下隱語にあらず。さて此句の意は合言喩字の理由と思はる。作はオコスと訓み作徒之大は起徒之多と解すべきか。即人ヲツカフコトガ多勢デアルカラの義とすべきか。もし然らば其下に漏洩ノ恐アレバといふことを補ひて聞くべし○故無翼長飛無根更固辭は管子戒第二十六の無v翼而飛者聲也、無v根而固者情也、無v方而富者生也に據れること勿論なれど今は聲と情とを云へるにあらで 右ノ如クアラハニ或事ヲ云ハヌ(故人ノ徳ヲ頌スルナド)爲ニ仇家ニ忌マレテ毀損セラルルコトナド無クテ此碑ハ長ク且安全ニ傳ハラム
といへるならむ○此碑文は那須郡領那須直韋提の子意斯麻呂等に乞はれて恐らくは(294)歸化人が作れるならむ。但文中に歸化人と故人との關係を云へる所曾て無し。歸化人が故人に善遇せられし感謝の意を寓せりと思ふは誤解のみ。附けて云はむに佐々氏、新井氏などの考は各數本を對※[手偏+交]するに字に異同あり。されば某釋シテ何ト云ヘリと云へるなどの中には或は誤もあるべし○碑並に碑堂の寫眞は栃木縣史蹟名勝天然紀念物調査報告第一輯などに載せたり。就いて見べし。今の碑堂は明治三十五年舊碑堂が大風に倒壞せられし後舊制に據りて改築せしものなり。さて碑は明治四十四年七月に國寶に指定せられき。又今は碑堂を神社と認めて笠石神社と稱する如し。此事はなほよく確むべし
國造碑と同じく湯津上村大字湯津上に二大古墳あり。車塚一名侍塚と呼ばる。共に尋常の車塚にあらずして後部も亦方形なり。されば前後共方墳とも稱すべし。北方なるを下車塚又下侍塚といふ。大字湯津上字下侍塚に在りて國造碑の南方凡五丁、縣道即關街道の東方に當れり。其南々東凡七丁、同じく縣道の東方に上車塚一名上侍塚あり。地籍は字上侍塚なり。兩墳共に上に松樹繁茂し附近にあまたの小圓墳散在し就中下車塚には一箇の陪塚と認むべきものあり。下車塚は前後徑二百五十八尺、前方部の高さ二十一尺、後(295)方部の高さ三十三尺、上侍塚は前後徑三百二十四尺、前方部の高さ二十六尺、後方部の高さ四十八尺なり。されば上車塚の方大なり。兩墳共に環隍の跡あり。此兩墳と國造碑との關係は如何。曰く直接の關係は無し。墳は古く碑は新し。或人は碑はもと兩墳のいづれの上にか在りしを中世今の處に移ししならむと云へれど信じ難し。栃木縣史蹟調査報告第一輯侍塚古墳の項(一八頁)に
 天和三年水戸光圀此地ニ〔三字傍点〕那須國造碑ヲ發見シ元禄四年該碑石ヲ今ノ地ニ建テテ碑石ヲ安置シ云々
と云へるは移建の如く聞えてまぎらはし。大金重貞の那須記(蓮實氏考所引)に
 爰に又此碑堂を離るる事十餘町許りにして古塚二つあり。一つを上車塚一つを下車塚と里人云傳へしに光圀卿數十人の人夫をして此の塚を掘らせ給ふ。時に元禄五年申二月十六日也(○即碑堂建立後二箇月)。下車塚の地形南北十二間東西八間の古塚を掘りしに中より高さ九寸指し渡し一尺中程のクビレ周り一尺四寸五分、花瓶と思しき物出る。即ち古代の陶器にして素燒也。又又上車塚は南北二十一間東西十五間、此の塚より掘りし物は矢の根十八本、鎧板二十五枚、青玉の管二つ、鉾の折太刀の折、鏡大小(296)二面、大矢の根一つ、其他種々の物掘出ししが其形不分明。光圀卿御覽ありて其の品々を取集め松の厚板を以て箱を拵へ納め釘を打ち付け透き間に松脂を流し込み其箱の蓋裏面に光圀卿自ら筆を採り其の文に曰く
  下野那須郡湯津上村有2大墓1。不v知2何人之墓1也。其爲2制度1是侯伯連帥之墓也。是歳元禄壬申春命2儒臣良峯宗淳1啓2發塋域1。君有2誌石1知2其名氏1則欲3建v碑勒v文而傳2不朽1也(○欲字は若字の上に在るべし)。惜哉惟有2折刀破鏡之類1莫v有2銘誌1焉。於v是※[病垂/(夾/土)]藏仍v舊、新加2封築1四周栽v松防2其崩壞1云。前權中納言從三位源朝臣光圀識
とあり。今の松林はこの栽ゑし松の茂れるなり。此時發掘せし内藏物の圖は下野國誌卷十二に見えたり。此等の物の形状を見又墓制を思へば兩墳は那須直韋提の卒せし文武天皇四年よりは遙に古し。されば兩墳はもし韋提と關係ありとせば其祖先の物とすべし。前にも云へる如く韋提の碑の下にも塚ありけめど、そは崩れぬ前といへども圓墳型の小封土に過ぎざりけむ。當時はもはや大規模の塚、就中車塚を作らざりしが故なり。那須記の右の文の次に上塚下塚封築之節告辭といふ文を載せたり。文意を味はふにこは二月十三日に發掘に書手せし時の告辭なり。重貞が封築之節告辭とせるは誤なり。又其(297)次に
 斯て同年三月一日兩塚へ箱を納むるに三箇村の名主與惣右衛門、庄屋甚兵衛立ち合ひ上塚は一丈底に入れ下塚は八尺底に入れ四月七日修封畢つて小松を植ゑ(今は此の兩塚を侍塚と云)大金重貞同十一日西山へ罷り出で右成就の趣申上げしに光圀卿殊の外御滿足に思召され重貞を召して白金并御酒御料理を被下頂戴し目出度く歸村したりけり
といへり。されば兩墳の一名を侍塚といひそめしは元禄五年より後なり。今は土人は車塚とも侍塚とも唱ふれど侍塚の方ははやく地名ともなりたれば後世或は專、侍塚と呼びて車塚とは呼ばずやなりなむ。然るに侍塚といふ名は誰がいかに思ひて云ひそめにしか知らねど國造碑の主葦提の家人の墓の如く聞えて或は後人を惑はすべければ(恐らくは韋提の祖先の墓なるべきこと上に云へる如し)縣の有力者にもし心ある人あらば舊稱に復して上車塚下車塚又は上塚下塚と呼ばしむべく特に字の上侍塚下侍塚は侍の字を削りて上塚下塚に改むべし。上車塚下車塚の寫眞は栃木縣史蹟調査報告などに見えたり
 
(298)    陸奥國
 
和名抄に三知乃於久と訓註せるは非なり。ミチノクと訓ずべし。オはノに接して唱へざるなり。萬葉集卷十四乃卷十八に美知能久また美知乃久と書けり。夙く平安朝時代の中期よりミチノク〔二字傍点〕ノクニのノクの重複を略し從ひて國名をミチと唱へ後には更にムツと訛れり。
 ○ムツといふはミチの訛にあらず、陸奥を漢めかして陸州ともいひしその陸は六に通ずれば(所謂大字)六の訓を陸に借りたるなりといふ説あれど從ひがたし
文字は古くは道奥とも書けり。道は官道にてやがて東海東山の二道なり。此國兩道の奥にあるが故に道奥と名づけしなり。ミチノクはミチノシリと云へるに同じ。但此國は漸次に南方より開けしかば道奥といふ名の指す所時代によりて廣狹相同じからず。上古崇神天皇の御世に大彦命・武渟川《タケヌナカハ》命父子の、又景行天皇の御世に武《タケシ》内宿禰及日本|武《タケル》尊の此國に入り又は入りたまひしあれど成務天皇の御世に國造を置かれしを以てまづ統治の始とすべし。即同じ御世に阿尺《アサカ》、思(?)伊久、染羽《シメハ》、浮田、信夫、白河、石背《イハセ》、石城《イハキ》の八九國を置(299)かれ次いで應神天皇の御世に菊多國を置かれき。以上十國皆今の磐城岩代の域内なり。即陸奥國の最南端なり。日本地理志料に
 孝徳帝國郡ノ制ヲ定メ之(○國造國)ヲ停メテ陸奥國ヲ置カル。當時ノ疆域、文獻()徴トスルニ足ルモノ無シト雖圖ニ據リテ之ヲ按ズルニ蓋今ノ磐城石代陸前ノ間ニ止リサテ賀美郡(○陸前國加美郡、鳴瀬川上流)以北は未版圖ニ入ラザルナリ
と云へり。次代齊明天皇の御世に津刈(○津輕)等の蝦夷の入朝せしことあり又阿陪臣が蝦夷を伐ちて渟代《ヌシロ》(○今の羽後國能代)津輕二郡の郡領を定め又|渡島《ワタリシマ》(○今の北海道)の蝦夷と接觸せしことあり又渟代津輕兩郡の大領の入朝せしことあり又、阿倍臣が北海道に渡りて後方羊蹄《シリヘシ》に郡領を置きしことあり。されば陸奥は南方よりの外、西方即日本海の方よりも開け行きしなり。陸奥の郡名の國史に見えたるは上見の津輕郡の外に
 丹取、香河、閇、石城、標葉、行方、宇太、曰理、菊多、白河、石背、會津、安積、信夫、田夷、遠田、賀美、柴田、苅田、少田、牡鹿、宮城、栗原、黒川、名取、新田、玉造(丹取改稱)桃生、上治、多賀、階上、長岡、志太、富田、色麻、讃馬、登米
などなり。以上は無論當時存在せし郡の全部にあらず又以上の内に夙く廢止又は併合(300)せられしもあり。されば延喜式以前の或時代の郡の實數は到底知るべからず。延喜式には
 陸奥國 大 管 白河、磐瀬、會津、耶麻、安積、安達、信夫、刈田、柴田、名取、菊多、磐城、標葉、行方、宇多、伊具、亘理、宮城、黒川、賀美、色麻、玉造、志太、栗原、磐井、江刺、膽澤、長岡、新田、小田、遠田、登米、桃生、氣仙、牡鹿
とあり(神名帳には別に斯波郡あり)。以上三十五郡、見よ今の陸中の西南部に止りて其以北と今の陸奥全部とは未郡を置かるるに至らざりしを。和名抄に至りて大沼郡加はりて三十六郡となれり。大沼の加はりしは建郡線の北進せLにあらず。會津郡を分ちて此郡を置きしなり。拾芥抄には延喜式の三十五郡の外に郡載、知我、蘇縫、斯波、磐手、高野の六郡を加へたり。されば四十一郡なるを標に陸奥大遠卅六郡といへり。思ふに三十六郡といへるは和名抄に據れるなり。されば大沼郡の見えざるは書落せるなり。さて新加のうち郡載は衍字なるべし。少くとも郡名にあらじ。又知我は和我、蘇縫は※[草冠/稗]縫の誤なり。日本後紀弘仁二年正月に於2陸奥國1置2和我、※[草冠/稗]縫、斯波三郡1とあり。此三郡延喜式及和名抄に見えざるはいかが。和我至磐手の四郡は今の陸中國に在り。高野郡は和名抄白河郡の註に(301)國分爲2高野郡1とあり。即今の磐城國東白川郡なり。爾來郡數漸次に増加せしが降りて近古の天保郷帳に至りて
 白河、白川〔二字傍点〕、石川〔二字傍点〕、菊多、磐|前《・サキ》〔二字傍点〕、磐城、楢葉〔二字傍点〕、標葉、行方、宇多、亘理、伊具、刈田《カツタ》、田村〔二字傍点〕、會津、大沼、河沼〔二字傍点〕、耶麻、岩瀬、安積、安達、信夫、伊達〔二字傍点〕、柴田、名取、宮城、黒川、賀美、玉造、栗原、遠田、志田、桃生、牡鹿、登米、氣仙、本吉〔二字傍点〕、磐井、膽澤、江刺、和賀、稗貫、志和、閇伊、岩手、九戸、鹿角、北、三戸、二戸、津輕〔和賀〜傍点〕
となれり。以上五十一郡之に一時玉造郡より分たれけむ葛岡郡を加へ ても五十二郡にて世に奥州五十四郡といふに合はず。地理志料に
 鎌倉ノ季世ニ至リテ陸奥五十四郡ノ稱アリ。太平記源顯家上洛ノ條ニ陸奥爲v州領2五十四郡1疆殆居2日本半國1トアリ。抑五十四郡ノ目、始メテ林逸ノ節用集ニ見エタリ。然レドモ重複セルモノ奇僻ナルモノ多ク、信ヲ取ルニ足ラズ。新井氏ノ五十四郡考モ亦譌謬尠シトセズ。終ニ其地ヲ的證スル能ハザルナリ。後ノ論者大抵節用集ニ泥ミ一モ明確ヲ得ルモノ無シ
といへり。思ふに五十四郡といふは或時代熄一時の實數に過ぎざるべし○和名抄に
 陸奥國 國府在2宮城郡1、鎭守府在2膽澤郡1
(302)とあり。地理志料に
 抑本州ハ夷民雜處シ叛服常ナシ。故ニ國府鎭守府ヲ並ベ置キ以テ之ヲ制馭ス
といへる如し。兩府の所在に就いては陸前國の下に云はむ○驛は兵部式に
 陸奥國驛馬 雄野・松田・磐瀬・葦屋・安達・湯日・岑越・伊達・篤借・柴田・小野各十疋、名取・玉|前《サキ》・栖屋・黒川・色麻・玉造・栗原・磐井・白鳥・膽澤・磐基各五疋、長有・高野各二疋
 傳馬 白河、安積、信夫、刈田、柴田、宮城郡各五疋
とあり。即下野國那須郡より白河關を經て陸奥國に入り白河、安積、信夫、刈田、柴田の五郡及名取郡を經て宮城郡の國府に達し、更に膽澤郡の鎭守府に到り、又松田驛より分れて東海道の延長路なる常陸國|雄薩《ヲサツ》驛と連絡せしなり○明治元年十二月に陸奥國を分ちて磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥の五國とせられき。本書は其性質として舊制に從ひて陸奥國と標して書行くべきなれど本來舊陸奥國は其地域極めて廣く束ねて之を記さむは不便尠からざるべければ今は憖に新制の五國に分ちて記さむとす
 
(303)    磐城國
 
又石城と書けり。共にイハキと訓むべし。東は太平洋に臨み北は陸前に、西は岩代に、南は下野及常陸に續けり(其他西北端なる刈田郡は西、羽前に觸れたり)。常陸風土記多珂郡の條に
 古老曰。斯我高穴穗宮大八洲照臨天皇之世以2建御狹日《タケミサヒ》命1任2多珂國造1。……建御狹日命當2所v遣時(ヲ)1以2久慈堺之助河1爲2道前《ミチノクチ》1陸奥國石城郡|苦麻《クマ》之村(ヲ)爲2道後《ミチノシリ》1。其後至2難波長柄豐前大宮臨軒天皇之世癸丑年1多珂國造石城直美夜部、石城評造《イハキノコホリノミヤツコ》部志許赤等請2申總領高向大夫1以2所部遠隔往來不1v便分2置多珂、石城二郡1(石城郡今存2陸奥國堺内1)
とあり。癸丑年は孝徳天皇の白雉四年なり。助川は今の常陸國多賀郡助川町の大字にて苦麻は今の磐城國双葉郡熊町なり。されば古の多珂國は其區域今の多賀郡と同じからで今の磐城國石城郡及双葉郡南部に亙りしを孝徳天皇の御世に至りて多珂石城二郡に分れその石城郡は後に陸奥國に屬せしなり。評造は後の郡領なれど當時(少くとも此處にては)國造の下に在りて國の一部を治めしなり。國造本紀に
(304) 道奥菊多國造 輕島豐明(○應神天皇)御代以2建許呂《タケコロ》命兒屋主|乃〔左△〕禰《トネ》1定2賜國造1
 道口岐閇國造 輕島豐明御代建許呂命兒宇佐比|乃〔左△〕禰《トネ》定2賜國造1
とあり。菊多は今の石城郡の南端にて常陸國と接壤せり。岐閇は知られず。彼を道奥と云へるに對して此を道口といへるを思へば彼よりは都に近くて今の常陸國多賀郡の内ならむ。名義は柵戸か。柵戸は後世の城下町に當れり。萬葉集卷十一(新考二三五一頁)にアラタマノキヘノタカガキアミ目ユモ云々といへる歌あり。アラタマノは枕辭、キヘは柵戸にて蝦夷を防ぐために設けたる城柵に附屬したる部落、タカガキは竹垣なり。タケコロノ命は常陸風土記に見えて神功皇后及應神天皇に仕へし人なり。其子等、以上兩國造の外に師長、馬來田、須惠、茨城、石背などの國造に任ぜられて東國にはびこりき。乃禰は刀禰の誤なり。茨城國造の下に筑紫刀禰とあり。國造本紀には又
 阿尺《アサカ》國造 志賀高穴穗朝御世阿岐國造同祖天湯津彦命十世孫比止禰命定2賜國造1
 思國造 志賀高穴穗朝御世阿岐國造同祖十世孫志久麻彦定2賜國造1
 伊久國造 志賀高穴穗朝御世阿岐國造同祖十世孫豐島命定2賜國造1
 染羽《シメハ》國造 志賀高穴穗朝御世阿岐國造|△《同》祖十世孫足彦命定2賜國造1
(305) 津田國造 志賀高穴穗朝|△△《御世》瑞籬朝五世孫賀我別王定2賜國造1
 信夫國造 志賀高穴穗朝御世阿岐國造同祖久志伊麻命孫久麻直定2賜國造1
 白河國造 志賀高穴穗朝御世天降天由都彦命十一世孫鹽伊乃己自直定2賜國造1
 石背※[イハセ]國造 志賀高穴穗朝御世以2建許侶命兒建彌依米命1定2賜國造1
 石城國造 志賀高穴穗朝御世以建許呂命(?)定2賜國造1
とあり。右の内阿尺は今も岩代國に安積郡あり。思は不明。伊久は今も磐城國に伊具郡あり。染羽は後世標葉郡ありて今楢葉郡と合ひて磐城の双葉郡となれり。浮田は後の宇多郡にて今|行《ナメ》方郡と合ひて磐城の相馬郡となれり。信夫は今の岩代の信夫、伊達二郡なり。白河は今の磐城の東白川、西白河二郡なり。石背は今も岩代に岩瀬郡あり。石城は後に磐城郡ありて今の石城郡の一部なり。天湯津彦命は天降天由都彦命に同じ。天孫に扈從して天降りし神なればたたへてアマクダルと添へ言へるなり。阿岐國造は安藝國造なり。湯津彦命の子孫安藝國と、國を隔てたる東國とに榮えしなり。うるはしくは阿岐國造同祖の下に天湯津彦命を補ふべし。石城國造の下に以建許呂命定賜國造とあるはいぶかし。古事記に神八井耳命者道奥石城國造等之祖也とあると合はざればなり。タケコロノ(306)命は天津彦根命の子孫にて皇別にあらず。別に古事記に天津日子根命者道尻岐閇國造之祖也とあり。道尻岐閇國は道口岐閇國に對したるにやと思へと國造本紀に道尻なく古事記に道口なきが不審なり。今の磐城國と今の岩代國の東部とがかくあまたの國造國に分れたるを思へば太平洋岸と阿武隈川の流域とは夙く成務天皇の御世に、即武内宿禰及日本武尊の東征以來頗開けたりしなり。續紀養老二年五月に
 割2陸奥國〔三字傍点〕之石城、標葉、行方、宇太、曰理、菊多六郡1置2石城國1、割2白河、石背、會津、安積、信夫五郡1置2石背國1、割2常陸國多珂郡之郷二百一十烟1名曰2菊多郡1屬2石|背〔左△〕國1焉
とあり。陸奥國は流布本に常陸國とあれど諸本に陸奥國とあるぞよろしき。石城は今の石城の内、標葉は今の双葉の内、行方宇太は今の相馬、曰理は今の亘理、菊多は今の石城の内なれば當時の石城國は太平洋岸の南端にて、今の磐城國の内伊具、刈田、田村、石川、東白川、西白河の六郡は當時の石城國に屬せざりしなり。割2常陸國多珂郡之郷二百一十烟1名曰2菊多郡1屬2石背國1焉とある、いぶかし。このままにては石城國なる舊來の菊多郡と石背國なる新建の菊多郡と同名の二郡存在せしこととなるが故なり。恐らくは屬石背國焉とあるは石城國の誤ならむ。さてもなほ同じ石城國に新舊の菊多ありしごとく聞ゆ。恐(307)らくは上なる割2陸奥國之石城、標葉、行方、宇太、曰理、菊多〔二字傍点〕六郡1置2石城國1とある菊多は竄入なるべし。なほ云はばもと割2陸奥國之石城、標葉、行方、宇太、曰理五郡1置2石城國1とありしに後人誤りて菊多を加へ又妄に五郡を六郡と改めしならむ。續紀考證は右の文の誤脱に疑を插みだにせず。國郡沿革考には第三節の石背國を石城國と改訂して原本作2石背1、今據v上改v之といへれど(はやく檜山坦齋、廣瀬※[業の四画目まで/冢]斎等も石城の誤とせり)第一節の菊多六郡が竄入妄改なるに心づかざるは惜むべし。地理志料に第一節を割常陸國〔三字傍点〕石城陸奥國〔三字傍点〕標葉云々として本書標葉上脱2陸奥國三字1、今依2常陸風土記1補v之といへるはいとわろし。常陸風土記は靈龜元年以前に成りしものにてそれに陸奥國石城郡とあり石城郡今存陸奥國境内とあれば養老二年には石城郡が夙く陸奥國に屬したりし證即村岡氏の説の反證とこそなれ。又和銅五年に成りし古事記に道奥石城國造とあるをや。
 ○扶桑略記に養老二年五月乙末日停石背|盤〔右△〕城等國安陸奥國とあるは不審なり
さて右の石城石背の二國は間も無く廢せられて再陸奥國に併せられき。其事は國史に漏して記さざれど續紀神龜五年四月(養老二年より十年の後なる)に陸奥國請3新置2白河軍團1、許v之とあり。養老二年の石背國白河がここに陸奥國の治下にあるを思へば石背國(308)は夙く廢せられしなり。石城國も亦同時にぞ廢せられけむ。かの養老二年紀に見えたる石城、標葉、行方、宇太、曰理、菊多六郡の内石城は延喜式以來磐城と書けり。又|曰理《ワタリ》は後には諸國の同地名とおなじく誤りて亘理と書けり。又後に磐城より磐崎、楢葉二郡を分立しき。されば明治元年十二月に陸奥を五國に分ちし時菊多、磐城、磐前、楢葉、標葉、行方、宇多、亘理の八郡は磐城國に屬せしが此外に白河、白川、石川、伊具、刈田、田村の六郡も亦此國に屬せしかば此國當時の管は十四郡なりき。右の新六郡の内白河、白川、石川以上三郡は延喜式の白河郡なり。和名抄郡名白河の註に國分爲2高野郡1とあり。此白河、高野を元禄中白河、白川(同訓異字)としその白河、白川を明治十一年郡區編制の時西白河、東白川と改めき。石川は白川の分郡なり。又田村郡は安積郡の分郡なり。明治二十九年以來は
 石城(合菊多、磐前、磐城)双葉(合楢葉、標葉)相馬(合行方、宇多)東白川、西白河、石川、田村、亘理、伊具、刈田
以上十郡にして田村までの七郡は福島縣に屬し亘理以下三郡は宮城願に屬せり。和名抄郡名白河の註に今分爲2大沼河沼二郡1とあるは會津郡の註の迷ひ入れるなり○古東山東海二道を經て陸奥の國府に到るに二道ありき。一を山道《センダウ》といふ(後又書仙道)。東山道(309)の延長なり。二を海道といふ。東海道の延長なり。甲は阿武隈川の峽谷を過ぎ乙は海岸を經。甲は下野國より白河關を入り乙は常陸國より菊多關即勿來關を入る。乙は太古より開け常陸(日高道《ヒタチ》の名も適《マサ》に此道に當れるが故に起れるなれど世降りては甲の方主路となりき。即まづ驛を置かれしは甲の道なり。その後養老三年に乙の道にも驛を置かれしかど九十三年の後に廢せられき。即續紀養老三年閏七月に石城國始置2驛家一十處1とあり又後紀延暦廿四年十一月に
 停2陸奥國部内海道諸郡傳馬1以2不要1也
とあり同書弘仁二年四月に
 廢2陸奥國海道〔二字傍点〕十驛1更於d通2常陸1道u置2長有、高野二驛1。爲v告2機急1也
とあり。右の十驛の名稱は知られざれど常陸國の終驛より菊多關を經て陸奥國に入りしなり。然るに此驛路を廢せられしかば新に長有、高野の二驛を置きて常陸の終驛(當時は棚島)と陸奥の松田驛とを繋ぎて緩急に備へしなり。二驛は恐らくは共に今の東白川郡にぞ在りけむ。即高野(舊郡名高野即出于此)は今の棚倉町の附近なり。地名辭書に今の近津村八槻又は高城村臺宿かと云へるはいかが。長有《ナガリ》は地名辭書に今の常陸國久慈郡(310)宮川村下野宮に充てたれど前驛との距離あまりに遠し(永正の頃までは今の久慈郡の頃藤と多氣との間が常陸陸奥の界なりきといふ)。恐らくは今の東白川郡豐里村の内ならむ。延喜式に見えたる陸奥國驛名の内今の磐城國に屬せるは前記の高野、長有の外は雄野、松田、篤借三驛のみ。雄野驛は和名抄郷名の白河郡小野驛家郷にて今の西白河郡|古關《コセキ》村大字旗宿即是なり。松田驛は和名抄郷名に白河郡松田郷あるそれなり。松田郷を塚本氏は蓋今西白河郡吉岡二子塚二村地也といひ(今兩村と川原田村とを合併し三村の各一字を取りて吉子川村といふ)吉田氏は「今|釜子《カマノコ》村小野田村にあたるべし」といへり。高野驛との距離を思へば驛址は恐らくは阿武隈川の左岸即今の吉子川村なるべし。常陸別路は此處より岐れて南方に向ひて高野驛に到り久慈川に沿ひて常陸に入りしならむ。篤借驛の事は便宜上岩代國の下にて云はむ○右は間道にて本道はこれより遙に東に當れる菊多關を越ゆるものと西なる白河關を越ゆるものと二つなりしこと略前に云へる如し。今まづ白河關の事を述べむに白河關は新舊二處あり。兩地相去ること凡一里なり。今下野國那須郡より磐城國西白河郡に入るに三路あり。最東なるは黒羽町より古關村に到る路なり。之を關街道といふ。舊白河關は此路に當れり。中なるは大田原町よ(311)り白坂を經て白河町に到る路なり。之を舊陸羽街道といふ。新白河關は此路に當れり。最西なるは黒磯町より小田倉を經て白河町に到る道なり。是即今の陸羽街道にて國道なり。東北本線は中路と西路との間を通れり。新舊二址共に南方に國界の關山を負へり。關明神をいつけることも相同じ。舊白河關址は西白河郡古關村大字旗宿字關の森にあり。寛政十二年白河城主松平定信一碑を建て表に古關蹟と刻し裏に
 白河關蹟|湮《イン》没不v知2其處所1者久矣。旗宿村西有2叢祠1。地隆然而高、所謂白河※[しんにょう+堯]2其下1而流焉。考2之圖史詠歌1又徴2地形老農之言1此其爲〔二字左△〕2遺址1較然不v疑也。廼建v碑以標焉爾。寛政十二年八月一日。白河城主從四位下行左近衛權少將兼越中守源朝臣定信識
と刻せしめたり。旗宿村西有叢祠と云へるは今の村社白河神社なり。西は南の誤ならむ。又白河※[しんにょう+堯]其下而流焉とあるに就いて吉田東伍氏は「此處は小野郷にして白川郷にあらず。社の下を流るるは久慈川の源なる社川にして白川にあらず。白川は阿武隈川の源なり」といへり。關の創置はいつの世にか知られず。關の名の始めて見えたるは河海抄(源氏藤裏葉クキタノ關の註)に引ける延暦十八年十二月十日の太政官符なり。即白河菊多※[錢の旁+立刀]守六十人と見えたり。類聚三代格卷十八に載せたる承和二年十二月三日の官符、應d准2長(312)門國關1勘c過白河菊多雨※[錢の旁+立刀]u事に右得2陸奥國解1※[人偏+稱の旁]、※[手偏+僉]2舊記1置v※[錢の旁+立刀]以來于v今四百餘歳矣とあるは御世の名を擧げずしてただ漠然たる年數を云へるのみなれば確に允恭天皇の御世なりとは聞くべからず。その廢絶の世はた明には知るべからず。但山家集に
 みちのくにへ修業してまかりけるに白川の關にとまりて所がらにや常よりも月おもしろく哀にて能因が秋かせぞふく〔六字傍点〕と申しけむ折いつなりけむと思ひ出でられて名殘おほくおぼえければ關屋の柱に〔五字傍点〕書きつけける しらかはのせき屋を月のもるかげは人のこころをとむるなりけり
とあるを見れば關門はとまれかくまれ關守の番所は當時まで存ぜしなり。一遍上人縁起には明に關屋を描けり。さてたとひ鎌倉時代まで關その物も殘りたりとも其關は古の關と同一性質の物にはあらじ。されば結局廢絶の世は知るべからずと云はむ外なし。思ふに皇政の弛ぶがまにまに關の修繕改築も關守の任命も行はれずなり關は終に一たび廢れけむ。さて其後は必要ある時領主より關めく物をぞ設けけむ。白坂の新白河關を設けしもいつの世にか知られねど思ふに白坂道開けて古關道を通る人少くなりしかば舊路を扼することを止めて新路を扼せしならむ。さて白坂道の開けしは白川町の(313)開けし爲ならむ。されば此處に所謂關を設けしは小峰城(白河城の舊名)主結城氏の時代か。世に二所の關また二所關明神といひならへり。或者は二所關を解して二重に關門を設けたるなりといひ又或者は旗宿大ヌカリの二關の併稱なりと云へり。按ずるに二所關といふは二所關明神より誤り來れるにや。二所關明神とは關の前後に各一所の神社あるが故に云へるなり。今も白坂道には下野側と磐城側とに各關明神社(又云堺明神)あること彼筑前肥前なる城《キノ》山に筑前側なる筑紫神社と肥前側なる荒穗神社とありて同一神(五十猛命)を祭れる如く、之に反して旗宿道即古關道(又曰蓑澤口。蓑澤那須郡地名)には今は磐城の關明神(即白河神社)のみ殘れりといふ。思ふに此路は夙く荒れにしかば下野側なるは廢れしにこそ。地名辭書には神名帳なる陸奥國白河郡伊波止和氣神社を關明神に擬し同白河神社を他社に擬せり。かくの如く二所關明神の二所は明神にかかれるなるを後人誤りて關にかかれりと認めて二所關といふことはいひ出でけむ。
 ○新白河關の事は明記せるものをさをさ無し。然れども戰國の世に領界に山隘あらむに此處に關を設けざることあらじ是一。白坂道にも關山又關明神の名あり是二。旗宿の方を古關と稱するも新關に對して云へるならむ是三。以上三つの理由に依りて
(314) 余は冒頭に「白河關は新舊二所あり」と斷言せるなり
○次に菊多關の事を述べむ。菊多關一名勿來闘、菊多は本名にして勿來は雅名なり。歌文にキクタと云へる例なく記録にナコソと云へる例なし。又菊多は地名(古は國名、後には郡名)に依れる名なり。菊多の訓に就いては後に云はむ。まづキクタと訓みて可なり。磐城常陸國界の山脈の東端を關山といふ。東は太平洋に臨めり。東麓は僅に洞道に由りて南、常陸の平潟町より北、磐城の九面《ココツラ》(本字は九浦か)に通ずべし。されば洞道の無かりし時代には東麓は一般の往復は不能なりしなれ。今常磐線、國道(濱街道といふ)の西を通過せり。關山の南は常陸國多賀郡關本村の大字關本中にして北は磐城國石城郡勿來町(前名窪田村)の大字關田なり。關門は白河關碓氷關などの例に據りても、否關の名を菊多と云へば峠のあなたに在りしなり。されば菊多關の址は關田の内なり。今の常磐線ナコソ驛の所在も亦關田の内なり。關田は大字九面の西北に當れり。天保十三年|平《タヒラ》藩主安藤信由、關址に一碑を建てむと欲して其家臣神林復所に命じて文を撰せしめしが石に刻するに至らざりき。文は磐城史料下卷(九八頁)に見えたり。嘉永四年土人一碑を關山の上に建て表に千載集に出でたる源義家の「ふく風をなこその關とおもへどもみちもせにちる山(315)ざくらかな」といふ歌を刻し裏に筒井政憲の文を刻せり。但碑の位置が實に關門址に當れりや否やは知らず。今ナコソ驛より碑の處に到る山路あり。それより以南は細徑を殘せるのみ。菊多は和名抄郡名に木久多と訓註せり。ここに神代紀に菊理媛神といふが有りて舊訓にククリと訓めり。又和名抄郡名に肥後の菊池を久々知と訓註し郷名に上總市原郡の菊麻を久々萬と訓註せり。されば菊多も初はククタと訓みしにあらざるかとは夙く前人の云へる所なり。思ふにククタがキクタに轉じたるなるべし。然らばククに菊字を充てたるは如何。ククに充つべき音字なきが故に強ひて類音の菊字を借りたるか。地名こそあれ神名には字數に制限なければもし充つべき一字の音字なくばククノチの例にて句々とも書くべく久々年神の例にて久々とも書くべし。思ふに菊字の音ククなりしが後にキクに轉ぜしならむ。又義經記なる吉次の辭に「ひたちの國とみちのくにとのさかひきんた〔三字傍点〕の關と申して云々」とあるはキクタをキンタと訛りしにはあらで、きくた〔三字傍点〕をきんた〔三字傍点〕と寫し僻めたるならむ。次にナコソノ關の名の初見は小町集に
 對面しぬべくやとあれば みるめかるあまのゆきかふみなと路〔四字傍点〕になこその關も我はすゑぬを
(316)とあり。見る目〔三字傍点〕と海松〔二字傍点〕と音相通ふに由りて戀する人を海人にしたてたるは陳套なれど、その海人の往來する海上に勿來關を我は据ゑぬをと奇拔なることを云へるが面白きなり。ナコソノ關モ我ハスヱヌヲとは尋常ノ來訪は曾テ拒バマヌヲといふ意なり。但ミナト路ニと云へる穩ならず。或は古、潮と湖とを混同して(たとへば績と續とを混同したる如く)ミナトに潮字を充てたる例あれば、もと潮路とありてウシホヂとよむべかりしを誤りてミナトヂと訓みて假字書にしたるか。路といふ語へのつづきもミナトよりはウシホの方叶へり。此歌一に小大君《コダイノキミ》の作とせり。又後撰集戀二に
 寛平のみかど御ぐしおろさせたまうての頃御帳のめぐりにのみ人はさぶらはせ給ひて近うもめしよせられざりければかきて御帳に結びつけける 小八條御息所
 たちよらば影ふむばかり近けれどたれかなこその關はすゑけむ
又亭子院歌合に
 元方(一作貫之) をしめどもたちもとまらでゆく春をなこその關のせきもとめなむ
とあり。第四句一にナラシノ山ノとあるは誤れるなり。さて一首の趣向は春が東より來りて又東に歸るやうに云へるなり。第四句は序にあらず。又世は少し後れたれど後拾遺(317)集に
 春は東より來るといふ心を 師賢 あづま路はなこその關もあるものをいかでか春のこえて來つらむ
とあり。こは身を關よりこなたに置きてよめるなり。關に置きてよめるにあらず。右の内元方の歌の外は皆ナコソノ關に或意を寓せり。さて其意はクナ(勿來)かコスナ(勿越)か熟考せざるべからず。御息所と師賢との歌は明に勿越なり。小町の歌は勿來とも勿越とも聞ゆるに似たれどよく思ふになほ勿越即莫通過なり。此等の歌を樣《タメシ》としたる義家のフク風ヲナコソノ關トオモヘドモも亦勿越を寓したるなり。
 ○フク風ヲのヲはヨの通用にて萬葉集卷四なるワガセコヲコチコセ山ト人ハイヘドのヲなり。又萬葉集新考一九一一頁に卷十なるワガセコヲナコセノ山ノヨブコ鳥云々の歌の初二の解釋に就いて二説を擧げたるその甲説に依らばこのヲも亦同じ類なり
然らば勿越をナコソと云ふべきかと云ふにナコシ又はナコシソとは云ふべくナコソとは云ふべからず。又然らば勿來をナコソと云ふべきかといふに、こはナキ又はナキソ(318)とはいふべく、こもナコソとは云ふべからず。畢竟勿越も勿來もそのままにては即多少牽強せではナコソとは通ぜず。反りて思ふにかの萬葉集卷十のワガセコヲナコセノ山ノヨブコ鳥といふ歌もヲをヨの意とせば第二句はナコシノ山ノと云はざるべからず。されば此歌は巨勢山にいひかけむが爲に無理なる事ながらナコシノ山ノをナコセノ山ノといへるにて、それと同じく小町、御息所、師賢の歌もナコソノ關をナコシに取做したるならむ。抑ナコソの名義は不明なるが
 ○浪越の義と云へる説あり。げに浪はただナとも云ひつべく(阿波國風土記逸文「波ヲバ奈ト云」之註參照)コソはコシの轉訛と認められざるにあらず。されど官道の要衝たりしナコソは山上にて浪の越すべき處にあらず
元來ナコソといふ地名にて勿越勿來などいふ意にて命じたる地名にあらじ。いつの頃よりかナコソを勿來と書き來れり。借字として勿來又は勿越と書かむは許されざるにもあらねどナコソといふ地名の本義を勿來なりと思はむは本末混同なり。地名辭書菊多※[錢の旁+立刀]址の下に
 道口道尻の二柵(○即二つの岐閇)の中間菊多※[錢の旁+立刀]の存在を必要とせず。疑はくは道尻遺(319)口の二柵後に至りて廢し菊多の※[錢の旁+立刀]を以て之に代へしならん云々
といへるは柵と關とを混同せり。柵は一種の城なれば關とは齊しからず。柵は隨處に設けつべし。されば通常華夷の界に在り。之に反して關は山隘ならでは設けられず。されば關が前線の後方に在ること怪しむに足らず○萬葉集卷十二悲別歌の中に
 磐城山ただこえ來ませ磯崎許奴美乃濱にわれたちまたむ
といふ歌あり。第三句を從來イソザキノと訓みたれど、もし然訓むべくば磯崎乃とあらざるべからず。或はイソノサキと訓むべきにあらざるか。タダコエキマセはまはり道をせずに越え來れと云へるにてその來マセは歸リ來マセなり。されば旅より歸り來る男を其妻が山のこなたなる海岸にて佇み待つ趣なり。無論イハキ山は海岸に臨みて街道に當れるなり。このイハキ山を或は駿河とし或は常陸とし或は當國とせり。當國とせる中にて權威あるは地理志料なり。その磐城郡磐城郷の下に
 萬葉集ニ磐城山アリ。山ハ絹谷村ノ上方ニ在リ。石森富士ト稱ス
といへり。かく云へるは磐城郡の東北部夏井川の左側に在りて五萬一地形圖に石森山と標したる山なるべし。又標葉郡宇良郷の下に
(320) 此間ノ濱海ヲ土人好見《コヌミ》濱ト呼プ。萬葉集ニ磐城山直越來益云々トアル即是ナリ
といへり。此間と云へるは今の双葉郡の東北端なり。上に余が歸納せる所と照し合せて地理の叶はざることを知るべし。地名辭書に駿河の薩※[土+垂]峠に擬したるは地理に矛盾なけれど、元來駿河と定めたるは下河邊長流の續歌林良材に引ける所謂駿河風土記逸文に據れるにていとおぼつかなし。なほ駿河國の處にて云はむ。所詮イハキ山及コヌミノ濱は所在不明なるなり○同集卷三なる笠女郎贈大伴家持歌に
 陸奥の眞野のかやはらとほけども面影にして見ゆとふものを
とあり。初二は序の如くおぼゆれど之を序とすればトフモノヲとはふ辭蛇足なり。されば此歌は新考(四八九頁)にいへる如く其世の人口に膾炙せる(又は作者も家持も共に諳んぜる)歌ありてそれを本歌とせるにてカノ陸奥ノ眞野ノカヤ原ノ遠キスラナホ面影ニ見ユトイフモノヲ、イカデカ近ク住メル君ノ、面影ニ見エザラムといへるなるべし。さて眞野は和名抄行方郡の郷名に眞野あり。今の相馬郡の内眞野川に跨れる地域にて今の眞野村、上眞野村、鹿島町にて所謂海道を擁せり。古、此處に眞野といふ平原ありて海道を經て陸奥の國府に下る人の通過せし處ならむ(この眞野を陸前牡鹿郡の内とせる説(321)は信ぜられず)○當國の河流中すぐれて大なるは阿武隈川なり。古書に逢隈、遇隈、安福麻、合曲、青熊、大熊など見えたれば原《モト》はオオクマと唱へしにて今阿武隈と書きてアブクマと唱ふるは訛れるなり。古今集東歌なる陸奥歌に
 あふくまに霧たちわたりあけぬとも君をばやらじまてばすべなし
とあるが此川の文學に見えたる始なり。第四句の君は六帖霧にセナとあり。此方ぞ原なるべき。但景樹が「アフクマニ云々と打任せていへるしたたかなるにはセナとあるぞ調かなふべき」と云へるは情に任せたる説なり。さる事あらむや。此川は西白河郡の西端なる甲子《カシ》山及旭岳より發し初は東流し中は北流し後は東北流して亘理郡と陸前の名取郡との間にて海に注げり。中間或は磐城岩代兩國の界を流れ或は全く岩代國に入れり。當國にては白河町、岩代にては郡山市・本宮町・福島市など此川に沿へり。所謂仙道は亦殆全く此川に沿へり。されば戯れて仙道は川道なりと云へる人あり○當國の名邑は白河町(西白河郡)棚倉町(東白川郡)小名濱町、平《タヒラ》市(共に石城郡)石川町(石川郡)三春町(田村郡)中村町(相馬郡)亘理町(亘理郡)角田《カクダ》町(伊具郡)白石町(刈田郡)などなり。白石町は白石川に沿ひ白石川は阿武隈川に合流せり○當國明治初年の藩治は中村(相馬郡、相馬氏)棚倉(東白川郡、(322)阿部氏)三春(田村郡、秋田氏)磐城平(石城郡、安藤氏)守山(田村郡、松平氏。後常陸の松川に移る)泉(石城郡、本多氏)湯長谷《ユナガヤ》(石城郡、今の磐崎村、内藤氏)以上七藩なり。外に角田、白石ありて仙臺薄の老臣石川氏及片倉氏の采邑なりき○神社の主なるものは二所の都々古別神社なり。一は東白川郡近津村に、一は同郡棚倉町に在りて共に國幣中社に列せり。くはしくは風土記逸文の註に云ふべ し
 
    八槻郷
 
陸奥國風土記曰。所3以名2八槻《ヤツキ》1者卷向日代宮御宇景行〔二字□で囲む〕天皇時日本武尊征2伐東夷1而到2此地1以2八目《ヤツメ》鳴鏑1射v賊斃〔右△〕矣。其矢落下處云2矢着1即有2正倉1(神龜三年改2字八槻1)。古老傳云。昔於2此地1有2八土知朱《ヤツノツチグモ》1。一曰2黒鷲1、二曰2神衣《カムゾ》媛1、三曰2草《カヤ》野灰1、四曰2保々吉《ホホキ》灰1、五曰2阿邪爾那《アザニナ》媛1、六曰2栲猪《タクヰ》1、七曰2神石萱《カムシガヤ》1、八曰2狹磯名《サシナ》1。各有v族而屯2於八處|石室《イハヤ》1也。此八處皆要害之地。因不v順2上命1矣。國造磐城彦(323)敗走之後虜2掠百姓1而不v止也。纏向日代宮御宇天皇景行天皇〔四字□で囲む〕詔2日本武尊1而征2討土知朱1矣。土知朱等合v力防禦、且|諜〔左△〕2津輕蝦夷1許多《ココバクニ》連2張猪鹿弓猪鹿矢於|石城《イハキ》1而射2官兵1。官兵不2能進歩《エススマ》1焉。日本武尊執2執〔□で囲む〕槻弓槻矢1而七發發《ナナサハナチ》八發發《ヤサハナチシカバ》則七発之矢者如v雷鳴響而追2退蝦夷之徒1、八發之矢者射2貫八土知朱1立斃焉。射2其土知朱1之|征箭《ソヤ》悉|生芽《メハエテ》成2槻木1矣。其地云2八槻郷1即有正倉〔四字□で囲む〕也。神衣媛與2神石萱1之子孫會v赦者在2郷中1。今云2綾戸《アヤベ》1是也(○陸奥國白川郡八槻村都々古和氣神社別當大善院舊記所v引)
 
 新考 八槻は今福島縣磐城國東白川郡近津村の大字となれり。棚倉町の南方に在りて其距離一里に足らず。部落の北に近津宮といふ名祠あり。新村名は此より出でたるなり○此逸文は或は疑はしく見え或は眞と見ゆ。よく見るに元來二段の文を継ぎ合せたるものなり。即改字八槻までが前段にて古老傳云以下が後段なり。さて疑はしく見ゆるは前段にて眞と見ゆるは後段なり。畢竟古風土記の一節の傳はれるは後段にて前段は後(324)人(おそらくは近古人)の僞作して添加したるなり。後段にも手を入れたる痕あり。即有正倉といふことが兩段に重出せるも其一例なり。文致も一は新しく一は古くして決して混一すべからざるを如何なればか從來一聯の文と認めて怪まざりけむ○景行の二字は削るべし○日本武尊の東夷征伐は景行天皇の四十年以後なり。日本紀に據れば此時上總より海を渡りて陸奥の竹水門《タケノミナト》に著し此處にて上陸し給ひしなり。八槻に到り給ひしことは無論國史に見えず〇八目鳴鏑《ヤツメノナリカブラ》は神代紀天孫降臨章第四一書に
 大伴連遠祖天|忍日《オシヒ》命……手|捉《トリ》2天|梔《ハシ》弓天羽々矢1及《マタ》副2持八目鳴鏑1云々
古事記神武天皇の段に
 於v是兄宇迦斯《エウカシ》以2鳴鏑1待2射返其使1(○八咫烏)。故其鳴鏑所v落之地※[言+可]夫羅|前《サキ》也
とあり。又天智天皇前紀に
 日本救2高麗1軍將等泊2于百済加巴利濱1而|然《タク》v火焉。灰變爲v孔有2細響1如2鳴鏑1。或曰高麗百済終亡之徴乎
とあり。八目鳴鏑はヤツ目ノナ|リ〔右△〕カブラと訓むべし。鏑は鏃の蕪の形したる矢なり。又カブラ矢といふ。
(325) ○蕪をカブラといふは其形、鏑に似たればカブラ菜といひ又略してカブラといふなり
その鏑は木にて作れる中空の球にて矢を放つ時高き音を發せしむべく之に小さき孔を穿てり。孔の數は一定せず。孔の數の多きをヤツ目といふ。無論八箇には限らざるなり。萬葉集卷九なる響矢〔二字傍点〕用鹿取靡を舊訓にカブラとよみ略解にナリヤに改めたるを古義に又カブラに復したり。余も新考(一六九〇頁)にカブラとよみたれどこはなほ一考を要す。しばらくナリヤと訓まむにそのナリ矢を即カブラの事とせむはいかが。カブラは一種のナリ矢なりといふべくや。
 ○物の始を嚆矢といふも本来はナリ失なり。戰闘の開始を告ぐる爲に響箭を發するなり。嚆は響なり。物の始をいふは轉義なり
さてカブラ矢は威嚇を主とする矢にて射殺を主とする矢にあらず。さればカブラ矢はソヤとは(サツ矢とも)異なり。さればこそ天孫降臨章に天羽々矢に對して又副持八目鳴鏑といひ此逸文の古老傳に初の七箭(鳴鏑)と後の八箭(征矢)との威力を書分けたるなれ。或は云はむ鏑矢もし射殺を主とせざるものならば征矢に對して無用に近きかと。答へ(326)て云はむ。物にはおのづから用あり。征矢は通例一箭にして一人を斃すに過ぎざれど鏑矢は或は一箭にして數十百人を散ずるに足らむ。固より武器としては征矢に及ばざれど征矢に副持つ利はあるなり。今や本文に返らむに以八目鳴鏑射賊斃矣とある斃の字叶はず。宜しく散などあるべし。斃とあるは鏑矢の效用を知らざる人の書けるなり。本文の古老傳にもかの鏑矢七條の威力を敍して七發之矢者如雷鳴響而追退蝦夷之徒といへり○其矢落下處云2矢著《ヤツキ》1とあるは諸國に例少からざる地名傳説なり。播磨風土記新考飾磨郡|因達《イダテ》里の下(一六二頁)に引ける矢落村も其一例なり○即有正倉の事は後段にいふべし○神龜三年改字八槻の例は出雲風土記の概敍の末に
 右|件《クダリ》郷字者依2靈龜元年式1改v里爲v郷、其郷名字者被2神龜三年民部省口宣1改之
とありて各郡の下に神龜三年改字母理、神龜三年改字屋代などあまた見えたり。その神龜三年の口宣は(靈龜元年の式も)續紀に漏れたり。さてここに神龜三年改字八槻とあるは彼僞作者が出雲風土記に倣ひて書けるなり○古老傳云 以下が古風土記の逸文なり。もし前段の筆者に※[(女/女)+干]情なくば此處にこそ陸奥國風土記曰と書くべきなれ○昔於此地 原本に昔の前に八槻郷とぞありけむ。知朱は共に虫扁を略せるなり。ツチグモはア(327)イヌの一種なり。神衣はカムゾ又はカムミゾと訓み草野灰はカヤヌハヒと訓み保々吉灰はホホキハヒと訓み阿邪爾那はアザニナと訓み栲猪はタクヰと訓み神石萱はカムシガヤと訓み狹磯名はサシナと訓むべし○要害は日本紀の傍訓にヌマ又はヌミとあれど未安んじて之に據るべからず。しばらく音讀すべし。上命は即皇命か○國造磐城彦は他に見えず。古事記に神八井耳命者道奥石城國造之祖也とあり又國造本紀に
 石城國造 志賀高穴穗朝御世以2建許呂命1定2賜國造1
とあり。磐城彦は景行天皇の御世の人にて其敗走は日本武尊の征討より前なれば國造本紀の記事よりは前なり。磐城は古くは石城と書けり。磐城と書けるが初見は續紀天平神護二年十一月か○景行天皇の四字は衍文なり○蝦夷を大別すれば東夷北狄の二種にて津輕の蝦夷は後の越後出羽のと共に北狄に屬しき○諜は牒の誤字ならむ。さらば言ヲ通ハシテの意とすべし。逸文考證に津輕ノ蝦夷許多ヲアザムキテと訓めるは誤れり。蝦夷の下を句として津輕ノ蝦夷ニコトカヨハシテ許多連張云々と讀むべし○猪鹿弓猪鹿矢といへるは大きなる幸弓幸矢なるべし。許多連張云々は猪鹿弓猪鹿矢ヲ石城ニ許多《ココバク》ニ連ネ張リテと讀むべし○石城は大きなる岩を並べて路の行手を塞ぎたるに(328)て字を充てなば磐柵ならむ。萬葉集卷十六なる
 事しあらばをはつせ山の石城にもこもらな共にな思ひわがせ
の石城と同稱異用ならむ。さて國號の磐城は此種のイハキに由あるか。地名辭書に石炭を産するに由るかと云へるはいかが。石炭をイハキと云ふは近古以來の事ならむ○執執の一は衍字ならむ(信友夙く云へる由)。考證にトリトラシテと訓みて弓を執り又矢を執り給ふ意としたれど、さる意ならば束ねてトラシテとこそ云ふべけれ○七發八發を考證にナナハナチ、ヤハナチと訓みたれど然訓まむは手づつなり。綏靖天皇紀なる一發中v胸再發中v背の傍訓にヒトサ、フタサとあり、又天武天皇前紀に射中一箭をヒトサとよめるに倣ひてナナサ、ヤサとよむべし。サは箭なり。萬葉集卷十三なるコモリクノハツセノ川ノといふ歌の中に投箭をナグル左といへり。七發々八發々の下の發は考證の如くハナチと訓み又八發々は同書の如く則につづけてハナチタマヒシカバと訓むべし。さて七發々八發々の七發はただ若干發といふことなるを八發にたぐへてうるはしく七發と云へるなり。又その七發は威嚇用のカブラ矢にて初に射給ひ、八發は實用のソ矢にて後に射給ひしなり○生芽はメハエテと訓むべし。芽ヲとは訓むべからず(萬葉集新考(329)八九三頁參照)○即有正倉の即は深き意義なく古事記などに故・爾など多く云へるに類せり。正倉は租税を收めおく倉庫なり。その正倉を建て連ねたるを正倉院又倉院又單に院といふ。延暦十四年までは一郡一院なりき(豐後風土記新考一一八頁以下參照)。之に反して正倉は諸郷に在りき。そは出雲風土記を見て知らる。考證に「即有正倉、上文に同じきを重ねて記せるなり」と云へるは前段が僞作添加なるに心附かざるにて眼利からず。更に思ふに余の眼もなほ利からざりき。この即有正倉の四字は竄入なり。其證には此五字、其地云八槻郷には續きたれど下なる神衣媛云々に續かで此處にあらむはいとはしたなり。若此五字を入れむとならばまづ
 其地云2八槻郷1。神衣媛與2神石萱1之子孫會v赦者在2郷中1。今云2綾戸1是也
と云ひ、さて其次に八槻郷今有正倉也とこそ云ふべけれ。即八土知朱の説話を了へての後にこそ始めて正倉のことは云ふべけれ。又後段に初より即有正倉也とあらば前段には即有正倉と重言することは避くべきなり(前後兩段が初より一聯の文ならば勿論、余の推定の如く前段が僞作添加ならむにも)。されば此四字は竄入なること明なり○又考證には(330)綺戸は姓か地名か未考へず。地名ならば(○今云綾戸の)云は之にて在郷中之綾戸といふ義となるなり
と云へり。綾戸はアヤベと訓むべし。その戸は家なり。萬戸擣衣聲などの戸なり。綾は、借字にて、アヤシのアヤにて其戸口の異相異俗なるを云へるにこそ○此逸文は日本武尊と書き神衣|媛〔右△〕・阿邪爾那媛〔右△〕と書ける、日本紀の書法に從へり。地名辭書四六八六頁津輕郡の下に
 栗田氏纂訂古風土記逸文に津輕蝦夷を日本武尊征討の事白河八槻宮の舊記に見えたりとて援かるるも今輕信し難きを覺ゆ。逸文の出處に疑惑あり
と云へり
 
    飯豐山
 
陸奥國風土記曰。白川郡飯豐山、此山者豐岡姫命之|忌庭《ユニハ》也。又飯豐青尊使3物部臣奉2御幣《ミテグラ》1也。故爲2山名1。古老曰。昔卷向珠城宮御宇天皇二十七年戊午(331)秋飢饉而人民多亡矣。故云2宇惠々山1。後改v名云2豐田1又云2飯豐一1(○陸奥國白川郡八槻村都々古和氣神社別當大善院舊記所v引)
 
 新考 此文も亦新古二文を繼ぎ合せたるなり。即、故爲山名までが後人の僞作添加にて昔卷向以下が古風土記逸文なり○白川郡は陸奥國(今の磐城國)の郡名にて古くは白河と書けり。白川と書ける初は拾芥抄なり(但取外しては夙くも白川と書けり。たとへば後紀延暦十六年正月)○飯豐は陸奥に多き社名又は地名なる中に神名帳に白河郡飯豐比賣神社あり又安積郡飯豐和氣神社あり。又和名抄に宇多郡飯豐郷あり。又岩代國耶麻郡の西北端より越後羽前二國に跨りて飯豐山といふ高山ありて頂上に飯豐山神社をいつけり。此飯豐は俗にイヒデと唱ふ。攝津國豐島郡をテシマと唱ふると同例にや。其外西白河郡信夫村大字増見の西南に飯豐又飯土用あり(地名辭書)又岩瀬郡(岩代)廣戸村の大字に飯豐又飯土用あり又田村郡に飯豐村大字飯豐又飯土居あり。かの飯豐和氣神社の所在は安積郡三和村大字下|守谷《モリヤ》の飯森山なり。さて飯豐比賣神社の所在は如何。特選神名牒には磐前縣注進状に白河故事考に據りて白河城北二里飯土用村の鹿島社を之に(332)擬したるを斥けて今の田村郡飯豐村大字飯豐なる鹿島社を以て之に充て、さては神名帳に白河郡とあるに叶ひがたければ牽強して「今磐城國田村郡の内飯豐は古への白河郡小野郷の内なるが云々」と云へり。白河郡小野郷は雄野驛の所在地にて今の西白河郡古關村なれば田村郡飯豐村とは風馬牛なり。元來田村郡は白河郡より分れしにあらで近古、安積郡より分れしなり。又逸文考證には語りて明ならねど彼耶麻郡の飯豐山神社を以て之に擬せるに似たり。さて
 神名帳に云々、白河故事考に云々、巡拜舊祠記に云々、また福島縣神社帳に云々などあれど飯豐山にある事を云はざるをもて考ふるに本文は白河郡の飯豐にはあらざるを後人みだりに白川郡の三字を加へたるものなるべし
とさへ云へり。行文晦澁なれど「本文に白川郡飯豐山とあるにかの白河北方の飯豐村なる神社は諸書に飯豐山ニアリと云はざれば本文に叶ひがたし」と云へるに似たり。飯豐といふ名たまたま山に絶えて部落に殘れりと見ば如何。その飯豐村は山中に在れば無論附近に古の飯豐山に擬すべき山あらむ。かの會津の飯豐山權現は恐らくは古き神社にあらじ。此山に就きては云ひたきことなほあれどしばらく措かむ。さて此文の前半即(333)故爲山名〔四字傍点〕までは上に云へる如く後人の僞作添加なれど其内白川郡(白河郡)は諸國の逸文に例ある如く標目より取來れるなるべく(即妄に加へたるにあらざるべく)飯豐山の三字は原文に有りしなるべし。さてその白川郡飯豐山を福島縣廳著作の福島縣名勝舊事抄には西白河郡小田川村大字豐地の村社飯豐比賣神社に充てたり。此神社は即白河古事考に「白河城北二里飯土用村の鹿島是也」といひ地名辭書に「信夫村の管内増見の西南なる飯土用又飯豐」といへる處に在る神社なり。明治年間に至りて鹿島宮を飯豐比賣神社と改めしなり○豐岡姫命は神樂歌にミテゲラハワガニハアラズアメニマス止與遠加比女ノミヤノミテグラなどある神にて即豐受神にて五穀を掌る神なり。但神名帳の飯豐比賣神が豐受神と同一なるかは疑はし。安積郡にその夫神とおぼゆる飯豐和氣神のいますを思へば恐らくは豐受神とは別神にて地方の農神ならむ○忌庭はユニハと訓むべし。神代紀に齋庭と書けり。やがて齋場なり○飯豐青損は仁賢顯宗二天皇の御姉とも、兩天皇の御叔母とも申し傳へたり○物部臣、物部氏のカバネの臣なるはをさをさ物に見えず。僅に出雲風土記楯縫郡の末に郡司主帳无位物部臣とあるのみ。さて飯豐青尊使物部臣奉御幣也故爲山名と云へる、いとあさまし。こは山の名を飯豐といふより(334)飯豐青尊に假托したるのみ。たとひ僞作にても今少しあるべかしく作らましを。逸文考證に「此は祭神を飯豐比※[口+羊]神と申奉るより飯豐青姫皇女にまがへて土人の如此は云傳へたるなるべし」と云へるは仍彼僞作者につままれたり○古老曰、以下古風土記の逸文なり。否古老曰の三字は恐らくは原文に屬せじ。卷向珠城宮御宇天皇は垂仁天皇の御事なり。二十七年戊午秋の七字は原文のままなりや疑はし。もと御世などありしを彼僞作者が私に筆を加へしにあらずや○飢饉兩人民多亡矣を考證にトシウヱテタミグササハニウセキとよめるは宜し。但人民はただタミと訓むべし。タミクサは古き物に見えねばなり○宇惠々山はげにウヱウヱ山の略なるべし。山に入りて木の葉草の根などをあさりわびて嘲りてウヱウヱ山といひしを世を經て其名を忌みて豐田と改め更に飯豐と改めきと云へるなり
以上二節は共に今の磐城國東白川郡近津村大字八槻の都々古和氣神社別當大善院の舊記に見えたりし由なるが其舊記は今神社に傳はらずと云ふ。知らまほしきは纂訂逸文に見えたる逸文の全部が舊記に見えたりしにや、即余のいふ前段と後段とが一續となりて見えたりしにや、そを發見して學界に傳へしはいつの年か又そを傳へしは誰ぞ(335)といふ事なり。否其舊記のものは實在せしものにや疑はし。さて前段の僞作者は誰ぞ。余が心に疑へる人あれどたとひ古人といふとも淡き疑に依りて人名を指すべからず。ともかくも一往古學修業を經たる人にて即有正倉、神龜三年改字八槻、古老傳云、物部臣など云へるを見れば出雲風土記を熟讀せし人なり。さて其人は陸奥風土記全部を見しにあらず從ひてその全部に妄改を加へしにあらじ。若全部を發見せば之をさながら發表して學界に功績を傳ふぺければなり。否たとひ二節の發見にても之をさながら發表して學界に寄與すべきに多少之を歪曲し其上に僞作添加を行ひたる心理や如何。そは常識にては忖度すべからざるなり(昭和十四年五月二十二日稿)
 
(336)    岩代國
 
岩代國は明治の初に陸奥國の西南端なる會津、大沼、河沼、耶麻、岩瀬、安積、安達、信夫、伊達以上九郡を割きて一國とせしなるが之にイハシロと名づけ岩代と書くことと定めしこそ奇怪なれ。こは石背を誤りてイハシロと訓み、さて世人の誤りて(實は正しく)イハセと訓まむことを恐れて字を岩代に更へしなり。あさましとも淺まし。夙く地理志料に
 昭代ノ初石代國(○岩代國)ヲ建テテ會津、大沼、耶麻、岩瀬、安積、安達、信夫、伊達ノ八郡ヲ管ス(○河沼郡を脱せり)。石背は即磐瀬ナリ。今石代ニ作レルハ史官ノ粗鹵ニ出デタルナリ
と云ひ地名辭書に
 明治維新の初め奥州を瓜分して磐城、岩代以下に分たる。岩代の文字古書に經見せず。當時の議者蓋石背の背字をウシロの訓に假れる者と誤り即イハシロと讀み更に岩代と更定したる者のみ
と云へり。明治の初年と云ふとも石背は即磐瀬にてイハセなることを知れる人はいく(337)らもあるべきを其人々の言を抑へ又は説を拒みてイハシロと訓むべきことを主張せしは誰ならむ。塚本明毅の地誌提要に諱みて此間題に觸れざるを思へばイハシロ主張者は頗有力なる人なりけむ。さて其人は山背を例とせし外に續紀養老二年五月に割2白河、石背、會津、安積、信夫五郡1置2石背國1とある初の石背に流布本にイハシロと傍訓したるに欺かれけむ(此傍訓は恐らくは立野春節の加へたるものならむ)。ともかくも或一人の淺識獨斷の爲に此國は消つべからざる黥を施されたり○此國の地域には成務天皇の御世に阿尺、信夫、白河、石背などの國造を置かれき。今郡山市に縣社安積國造神社あり。舊名は赤木山明神といふ。相傳ふ。もと阿賀岐山に在りしを天和年間に今の處に移ししなりと。又いふ。初阿尺國迫の祖比止禰命その遠祖なる天湯津彦命をいつきしを後に比止禰命を合祀せしなりと。又いふ比止禰命の子孫今も世襲の社司たりと。彼安積艮齋はその社司安藤氏の子なり。比止禰命を福島縣名勝舊蹟抄に比企禰命とせるは據る所あるにや。さて大化改新の結果國造國を廢して陸奥國某々郡と稱せしに養老二年五月にそノ陸奥國の内白河、石背、會津、安積、信夫の五郡を割きて石背國を置かれき。然るに間も無く廢せられて再陸奥國に屬せしこと磐城國の下に云へる如くなるが明治元年に再所(338)謂岩代國を分ちし時白河郡、白川郡、石川郡(以上古の白河郡の跡)及田村郡(安積郡の支)を磐城に屬せしかば岩代の管は會津、大沼、河沼、耶麻、岩瀬、安積、安達、信夫、伊達の九郡なること初に云へる如し。さてその、會津郡を明治十一年郡區編制の時南會津、北會津の二郡に分ちしかば今此國に屬せるは十郡なり○岩代は磐城の西に接せり。北は羽前、西は越後、南は下野上野に隣れり。天然の東界は逢隈山脈なり。されば西白河、東白川、石川、田村の四郡は地理上よりは岩代に屬すべきなり。磐城岩代の國境を撒廢したる今の福島縣を試に地理上より分たば海道、山《セン》道、會津の三區に分つべし。海道は東海道の續にて今の石城・双葉・相馬の三郡にて太平洋に臨み、勿來關を口とし阿武隈川の河口を奥とせり(但奥は亘理郡にて今磐城國に屬し宮城縣に屬せり)。山道は東山道の延長、逢隈山脈の西麓、阿武隈川の流域にて西白河・石川・田村・岩瀬・安積・安達・信夫・伊達の八郡之に屬し其口は白河關にて其奥は厚樫山なり。厚樫山脈のあなたは刈田郡にて其東方なる伊具郡・亘理郡と共に今磐城國に屬し宮城縣に屬せり。會津は山道の西方に位せり。阿賀《アガノ》川の上流の地域なり。山道との界に猪苗代湖あり。それより發したる日橋《ニツパシ》川が南より來れる鶴沼川又西南より來れる只見川と相合して阿賀川となり西に流れて越後に入れるなり。會津は今南(339)會津、北會津、大沼、河沼、耶麻の五郡に分れたり。南北會津を一として今も會津四部といひ習へり。又世に仙道六郡の目あり。白河、岩瀬、安積、安達、信夫、伊達の汎稱にて仙道は山道の借字なり。或は七郡又は八郡といふは田村、石川を便宜加除するなり○今岩代に屬せる十郡の内延喜式に見えたるは磐瀬、會津、耶麻、安積、安達、信夫の六郡なり。磐瀬郡〔三字傍点〕は近古以來岩瀬と書けり。西白河郡の北に在りて東は阿武隈川に沿へり。古の石背國(國造國)なり。郡中に磐瀬郷ありき。今の須賀川町附近なり。郡名は郷名に基づき國名は郡名に據れるなり。郡内に須賀川町の外長沼町あり。安積郡〔三字傍点〕は岩瀬郡の北に續き東は阿武隈川に沿ひ西北は猪苗代湖に臨めり。古の阿尺《アサカ》國なり。今の磐城國田村郡は近古此郡より分れしなり。即河を界として二郡に分ちしなり。郷に安積郷あり。萬葉集卷十六に安積香山カゲサヘミユル山ノ井ノといへるは此處なり。なほ後に云ふべし。郡中に郡山市あり。安達郡〔三字傍点〕は安積郡の東北に接して阿武隈川に跨れり。延喜民部省式頭註に延喜六年正月九日分2安積郡1置2安達郡1とあり。萬葉集卷七に陸奥之吾田多良眞弓と見え同卷十四に安太多良ノネニフスシシノ又ミチノクノ安太多良マユミとあれば本名はアダタラなるを之を二字に書かむとしてまづラを省き次に安達をアダタに充て、さてもなほアダタラと訓み(340)しに夙く字に引かれてアダチとなりしなり。そは古今集大歌所御歌にミチノクノアダチノ眞弓とあるにて知らる。安達太郎山は郡の西北隅に在り。これもアダタラの借字なるを今亦字に引かれてアダチタラウと唱ふるはうたてし。郡中に二本松町、本宮《モトミヤ》町、小濱町あり。信夫郡〔三字傍点〕は安達郡の西北に接ぎたり。古の信夫國なり。もとは伊達郡と一郡なりしに北部と東部とを割きて伊達とせしなり。夙く和名抄信夫郡の下に國分爲伊達郡と註せり。同書流布本郷名安達郡の次に信夫郡の一行を脱せり。されば流布本にては安達郡の郷名の如く見ゆる八郷は皆信夫郡の郷名なり。高山寺本には安達郡の下に郷名を擧げず。恐らくは原本に怠りて註記せざりしならむ。信夫の郡内に福島市あり。和名抄の郷名に信夫といふは見えねど今の福島市はやがて古の信夫國又信夫郡の中心なり。市の北に信夫山あり。今信夫公園を設けたり。伊達郡〔三字傍点〕は和名抄郡名信夫の下に國分爲伊達郡とあり。白河郡對高野郡また會津郡對大沼、河沼二郡の如く國衙の私分にて朝廷にて公認せられしに非ざるなり。さて磐瀬郡の下にも亦國分爲伊達郡と註せるは重複にして衍文なり。伊達はイダテと訓むべし。今イを省きてダテと唱ふれど近古までもなほイダテと唱へしなり。此地名を苗字とせる伊達政宗も或は假字にていだて〔三字傍点〕と書き或は羅馬(341)字にてIdateと書けり。伊達郡の北界は厚樫山にて山は刈田《カツタ》郡に跨れり。やがて山道の北限なり。或時代に此山に關門ありき。詞華集にシタヒモノ關とよめるもの是にて、やがて吾妻鏡にいへる伊達の大木戸なりと云へり。されど下紐關と伊達の大木戸と同處なりやは疑はし。官軍より關を設けば山の北麓に置くべく賊軍より關を造らば山の南に据うべければなり。今大木戸村字大木戸と稱する地は厚樫山の南麓なり。會津〔二字傍点〕は會津、大沼、河沼、耶麻四郡の總稱なること前に云へる如し。和名抄には會津耶麻二郡のみを擧げたり。さて白河郡の下に今分爲大沼河沼二郡と註せるは會津郡の下に註すべきを誤てるなり。古事記崇神天皇の段に
 故大毘古命ハ先ノ命ノマニマニ高志《コシノ》國ニ罷リ行《イマ》シキ。爾《ココ》ニ東ノ方ヨリ遣サレシ建沼河別《タケヌナガハワケ》、其父大毘古ト相津ニ往遇ヒキ。故其地ヲ相津トイフ
とあり。會津はかくいと古き世より顯れたるなり。さて御父子の路次や如何。思ふに北陸道より遣されし大毘古命は阿賀川の河口より泝り、東海道より遣されし建沼河別命は阿武隈川の河口より泝りしならむ。さて建沼河別命は阿武隈河の左岸より上陸し西を指して猪苗代湖の岸に出で(もし湖、當時夙く有りせば)湖を半周して日橋《ニツパシ》川を下りしな(342)らむ。されば御父子邂逅の地は日橋川又は其下流なる阿賀川の沿岸なるべきなり。もし相津地名傳説を信ぜば泊船に便なる處なりけむ。地理志料には會知村を以て之に擬せり。いかが。會知は耶麻郡堂島村の大字なり。さて會津四郡は分郡に由りて今五郡となれるが南會津郡〔四字傍点〕は會津南部の廣衍なる山地にて只見川及鶴沼川の上流地域なり。本郡にて邑を成せるは日光街道に當れる田島町のみ。もと幕領の陣屋ありき。北會津郡〔四字傍点〕は前者の東北端に附き東、猪苗代湖に臨めり。若松市は郡内に在り。會津といふ郡名は一たび亡絶せしを保科正之の時に復興せしなり。北會津郡の西に大沼郡あり大沼郡の北に河沼郡あり河沼郡の北に耶麻郡〔三字傍点〕ありて日橋川及會津川を以て郡界とせり。此郡は夙く會津郡より分れしなるが分置の年は知られず。郡名の初出は續日本後紀承和七年三月にて其處には※[王+耶]磨郡とあり。さて此郡は和名抄郷名に二處に重出したるが一には
 耶麻郡  津部 量足
とあり他には
 耶麻郡  分會 津郡 日量
とあり。分會と津郡とは郷名の如く見ゆれどもと分會津郡といふ分註なりしを誤りて(343)二郷の名と認めしなるべきこと寛文會津風土記以下に云へる如し。されば一處に津部とあるは分會津郡の分會を脱し又郡を部と誤てるか。其下の量足(一處作日量)を志料に置の誤とし辭書には
 恐らくは置是の二字を量足にあやまり再誤を累ねて日量ともなれるもののみ
と云へり(さらば置之とあるべし)。恐古くはまづ置を量と誤ち次に一處には量の上體を重ねて日量とし又一處には量の下體を重ね且誤りて量足と書きしならむ。さてかく強ひて二字とせむとせしは誤りて量(實は置)を郷名と認めし故なり。辭書には右に續けて
 かくて分會津郡置是の注文なりと正すも一郡の下に一郷の名さへなきは猶疑を存ずる者のみ。高山寺本耶麻郡の下に入野、佐戸、芳賀、小野の四郷を載せしは安積郡の屬郷を誤りし者とす
と云へり。新分郡の下に郷名なきは安達郡と同例なり。分郡の報告を受けていまだいづれの郷が新郡に屬すべきかを審にせざりしかば追ひて書入れむと思ひてそのままにせしならむ。上代の吏胥は後世のものの如く勤恪ならざりけむ。但郡名郷名の誤の特に陸奥國に多きを思へば獨中央の吏胥を咎むべからじ。和名抄郡名耶麻郡の下に山とあ(344)り。名義は訓註の如くならむ。本郡は其東南端、猪苗代湖に臨みたれど其東北部には吾妻山の如き高山あり又東部には有名なる磐梯《バンダイ》山(本名イハハシ山)あり。是本郡を稱して山といひし所以ならむ。今の南會津郡即會津の南部高山地方を近古私に南山郡といひしも北部高山地方を耶麻郡といひしに對せる名ならむ。磐梯山の南、猪苗代湖の北を猪苗代といふ。今猪苗代町あり。又磐梯山の西方には喜多方町あり○延喜兵部省式陸奥國驛馬の内刈田郡以南に屬せるは
 雄野、松田、磐瀬、葦屋、安達、湯日、岑越、伊達、篤借各十疋
と別路打長有、高野各二疋となり。又傳馬を置ける郡の今磐城岩代に屬せるは白河、安積、信夫、刈田郡各五疋なり。右の内雄野松田の二驛は西白河郡に屬し高野長有の二驛は東白川郡に屬したれば夙く磐城國の處にて云ひつ。磐瀬驛〔三字傍点〕は和名抄磐瀬郡に磐瀬郷と驛家郷とあり。地名辭書に
 磐瀬郷 本書(○和名抄郷名)驛家といふも本郷にて兼たるなり
といへれど、もし然らばただ磐瀬を擧ぐべく別に驛家と記すべからず。恐らくは磐瀬郷と驛家郷と別なりしなるべく、さて兩郷は相接したりしなるべし。さて磐瀬郷は今の須(345)賀川町附近なり。されば驛路は前驛松田より北行して此處に來りしなり。次に葦屋驛〔三字傍点〕は和名抄安積郡に葦屋郷あり。今の郡山市の附近なり。前驛より阿武隈川に沿ひて北行せしなり。昔アシヤノ大盡といふ者ありきといふ傳説今も廣く國人の耳に殘れどそのアシヤ今の何村の内にか知られず。次に安達驛〔三字傍点〕は和名抄安達郡には郷名を脱したれば何郷に當るにか知るべからねど恐らくは郷名をも安達といひしならむ。さて驛址は恐らくは今の本宮町附近ならむ。ともかくも郡の南部なり。次に湯日驛〔三字傍点〕は高山寺本に陽〔右△〕日とあり又日本紀略醍醐天皇寛平九年九月に
 授2陸奥國|坐《イマス》正六位上飯豐別神・安達嶺禰宜大刀自神・安達嶺飯津賣神並|正〔右△〕五位上、△△△△陽〔右△〕日温泉神正五位下1
とあれど
 ○陽日温泉神もし三代實録貞觀五年十月廿九日の陸奥國小結温泉神〔五字傍点〕等並授2從五位下1に同じくば其上に從五位下を脱したりと認むべし。さて小結の小は不明なれど結はユヒにて即湯日に齊しかるべし。又飯豐別神等に新に授けられし正五位上は從五位上の誤にあらざるか
(346)なほ湯日の誤として安達郡|油井《ユヰ》村大字油井に充つべし。次に岑越驛〔三字傍点〕は和名抄信夫郡に岑越・驛家とありて二郷の如くに記したれど、こはかの磐瀬郡の磐瀬と驛家との如く他郷を隔てずして二郷相次ぎたれば或は原は岑越驛家とありて驛家は岑越の註なりけむも知るべからず。高山寺本に岑越を脱したるも岑越やがて驛家なるが爲にあらずや。同本郷名には一般に驛家郷を略したり。さて辭書に岑越は信夫山附近かと云へり。なほ考ふべし。此界隈より驛路は川より離れしに似たり。次に篤借驛〔三字傍点〕は和名抄刈田郡に篤借郷あれば厚樫山よりあなたなり。地理志料に篤借郷を山に跨らせたるは失考ならむ。地名辭書に「古驛址は即越河にや。又齋川ならんかといへり」と云へり。恐らくは越河《コスガウ》村大字越河ならむ。抑刈田郡は明治元年十二月に磐城岩代二國を置きし時伊具郡と共に岩代國に附けられしを同二年十二月に磐城國に屬せられしなりといふ。然も今宮城縣の管となれるは中々に地理にも歴史にも叶へり。さて刈田は和名抄郡名に葛太と訓註せり。初には無論カリタと唱へしを夙く促聲にてカッタと唱ふることとなりしなり。但和名抄郡郷名の訓註は後世に至りて附加せしものなり。立歸りて尚云はむに驛なりしは白河二驛、磐瀬安積各一驛、安達二驛、信夫刈田各一驛なり。然るに傳馬を置きしは白河、安積、信(347)夫、刈田の四郡にて、驛ありて傳馬を置かざりしは磐瀬安達の二郡なり。特に安達郡には安達湯日の二驛あれば當然傳馬を置かざるべからず。思ふに兵部省式に傳馬、白河・安積・信夫・刈田とあるは延喜五年までの定にて同六年正月に安達郡を分置せし後には其郡にも傳馬を置きけむを例の如く吏胥が怠りて補入せざりしならむ。但磐瀬郡はさてもあるべし。驛ありて傳馬を置かざる例は諸國にもあればなり○萬葉集卷十六に
 安積香山かげさへみゆる山の井の淺き心をわがもはなくに 右歌傳云。葛城王遣2于陸奥國1之時國司祇承緩怠異甚。於《ソノ》時王意不v悦怒色顯v面、雖v設2飲餞1不2肯宴樂1。於是《ココニ》有2前采女1風流娘子。左手捧v觴右手撃2之王膝1而詠2斯歌1。爾乃《スナハチ》王意解悦、樂飲終v日
とあり。橘諸兄の初名をも葛城王と云へど本集の編纂者大伴家持は諸兄に親まれし人なれば、もし諸兄の事ならば契沖の夙く心附ける如く右歌傳云などよそよそしくは云ふべからず。されば此葛城王は同名異人にて又前代の人ならむ(大日本史に諸兄の事とせるは杜撰なり)。國司は守介掾目の總稱なれどここにては恐らくは國守ならむ。勅使として皇族の下れるなれば少くとも掾目の如き卑官をして接待せしめじ。祇承緩怠異甚とは接待ガ粗略ナリとなり。さて其國司は勅使の國府に到るを待たで途中まで出迎へ(348)しなり。地名辭書に
 安積山の詠は葛城王巡國の時陸奥府館に在りし時〔九字傍点〕出侍の采女之を歌へるなり。葛城王は蓋天智天武の朝の人とす。然らば大化改新の際に國郡の定制あるや安積郡に國府を置かれしを想ふべし。養老二年の改定に至り(○養老二年ニ陸奥國ヨリ石背國ヲ分チシ時)陸奥府は更に名取郡に進められし歟
と云へるは誤解に基づける強作なり。不肯宴樂は饗應を受けざるなり。采女は大化二年紀に
 凡采女者貢2郡少領以上姉妹及子女形容端正者1(從丁一人從女二人)以2一百戸1充2采女一人粮1。庸布庸米皆准2仕丁1(○一戸庸布一丈二尺、庸米五斗)
又續紀大寶二年四月に
 令d筑紫七國及越後國簡2點采女兵衛1貢uv之。但陸奥國勿v貢
とあり。陸奥國より采女を貢することを停められしは言語侏離にして使役に便ならざる爲にや。
 ○谷川土清(通證)は大寶二年に陸奥の采女を貢することを停められしに由りて安積(349)の采女を大寶二年以前の人とし從ひて葛城王を諸兄に非ずとせり
前采女は此時國に歸りて人に嫁したる者ありしが貴人の給仕に慣れたれば國司に召されて席上に周旋せしならむ。右手撃之王膝の之は助字なり。省きて讀むべからず。さて王の膝を打ちて酒を勸むるはなれなれしき擧動なり。老妓によそへて見べしアサカを安積と書くは積の呉音の直音サクをサカに轉用するなれば香字を添へむは不要なり。上三句はアサキにかかれる序なり。附近の勝景を以て序としたるなり。或は王當日遊覽もしけむ。山ノ井は山麓の泉なり。山ノ影サヘ見ユルといひアサキといへるを思へばこの山の井は淺く廣くて澤めきたる處と見ゆ。ワガモハナクニは我思ハヌコトヨとなり。心ヲオモフは後にいふ心ヲ持ツなり。さてワガといへるを思へば此歌は主人即國司に代りてよめるなり(新考三三七三頁參照)。今古の安積山に擬せらるる處二あり。一は河内《カウチ》村の西北なる額取《ヒタトリ》山にて一は日和田町大字日和田の北なる道路の右側にある丘なり。日和田の古名安積宿なる上、彼丘を今も安積山といへば古の安積山は今の日和田の安積山と認むべし。近き頃まで日和田町を山野井村と稱せしかどこは萬葉集の歌に據れるのみにて寧人まどはしなれば其名の消えしは幸なり。一千三百年を經たる今日山の(350)井の跡などを尋ぬるは愚なり。古今集戀四に
 みちのくのあさかの沼の花がつみかつ見る人にこひやわたらむ
といふ歌あり。上三句は序にて花ガツミは野生の花菖蒲なり。主文のカツは俗語のチョットなり。さて主文の意はチョット見タ人ヲイツマデモ慕ヒツヅケルコトカと云ひて己が痴を嘲りたるなり。アサカノ沼も今はあせ果てけむ○同卷十四なる陸奥國歌に
 安太多良のねにふすししのありつつもあれはいたらむねどなさりそね
とあり。又卷七及卷十四にミチノクノアダタラ眞弓とよめり。安達太郎山は安達郡の西北隅に在りて耶麻信夫二郡に跨れり。二本松町の西々北に當れるが故に又二本松岳又西岳と稱せらる。彼寛平九年九月授位の事の見えたるは皆此山又は其麓に坐す神々なり。歌は東歌に往々見ゆる違例の序歌にて初二は結句のネドにかかれり。其間に三四を插まむは妄なればしばらく
 ありつつもあれはいたらむあだたらのねにふすししのねどなさりそね
と改めて心得べし。野外にての出合にて女の先に到りて待てるに後れたる男の心の内に希へる趣なり。アリツツモはシバラクシテなり。イタラムは行カムなり。ネドは寢處に(351)て相寢べき處なり。即出合はむと契れる處なり○同じき陸奥國歌に
 あひづねのくにをさどほみあはなはばしぬびにせむ等ひもむすばさね
とあり。男の旅立たむとして女に記念の爲に衣の紐を結ばむことを求めたる趣なり。サドホミのサは添辭、アハナハバは逢ハズアラバといふことの東語なり。等はドと濁り訓みてゾの東訛とすべきか。初二はコノ會津嶺ノアル國ガ遠クナラム爲ニといへるなり(以上新考三〇三七頁參照)。アヒヅネはここにてはげに志料、辭書に云へる如く磐梯山なるべし。但かかる語は廣くいひ狹く指すことあるべければ磐梯山の別名とまでは思ふべからず。アヒヅネノ國は右に釋せる如くコノ會津嶺ノアル國と云へるなり。國の名にあらず。志料に萬葉集稱2阿比豆禰國1隷2石背國造1といへるはアヒヅネノ國といへるとアヒヅノ國と云はむとを混同せり。抑會津は地理上よりも歴史上よりも國造を置かるべきなり。地名辭書に「國造本紀に相津國を脱す」と云へるはうべなる説なり○因に云はむ。拾遺集雜下に
 みちのくに名取のこはりくろづかといふ所に重之がいもうとあまたありと聞きていひつかはしける 兼盛 みちのくのあだちの原の黒づかに鬼こもれりといふは(352)まことか
とあり。今二本松町の東方、阿武隈川の右岸に黒嫁といふ處あり。附近を安達が原と稱し今安達原公園をさへ設けたり。地は今|大平《オホダヒラ》村に屬せり。されば兼盛の歌の黒塚は此處に擬して可なるかと云ふにそはいかがあらむ。兼盛の歌の詞書にミチノクニ名取ノ郡黒塚トイフ處ニとあり。されば黒塚は今の陸前國名取郡の内ならざるべからず。然るに名取郡に今アダチノ(又はガ)原といふ處なければ相生集の著者の如きは
 こは兼盛があだし國にあり聞あやまりしなるべければ證として論ずべきにあらじかし
とさへ云へり(歌の第二句こそさもあるべけれ)。思ふに重之は清和天皇の曾孫にして身は下ながら廷臣なり。何の爲に遙々と陸奥に下りて安達郡などに住まはむ。之に反して名取郡とせば國府の附近(否前國府)にて重之、國司(恐らくは下僚)として多賀國府にあらむに其家族を近傍に住まはせたりとせむに無理なることはあらじ。今安達郡にて指して黒塚(地名の原《モト》)なりといふものの状を聞くに土窟の大かた埋もれたる上に大きなる巖のちりぼへるなりといふ。兼盛の歌の黒塚は單に地名なり(もとは塚ありてそれより(353)出でたるにもあれ)。黒塚といふ荒涼なる名の地に妙齢なる美人あまた住めりと聞きてそを物めづらしく思ひて伊勢物語に假ニモ鬼ノスダクナリケリとよみて女子を鬼と云へるに興じて彼妙齡なる美人等を鬼コモレリといへるが面白きなり。安達郡なる黒塚は本來右の歌によりて名づけたるなるが、似つかはしき窟又は塚の古きを見附けてこれぞ彼黒塚なると唱へそめし者はなほ恕すべし、歴代の物識人が之に雷同せるは何事ぞや。美人は土窟に住まはじ。又もし土窟に住まへるならば兼盛はかくはよまじ。彼雷同者等はシヤレを解せぬ人々なり。難いかな此等の輩に歌を説くことは○又因に云はむ。古今集戀四に
 題しらず 河原左大臣 みちのくのしのぶもぢずりたれ故にみだれむと思ふ我ならなくに
とあり。初二はミダレムにかかれる序なり。シノブモヂズリは亂れて見ゆるものなればミダレムの序としたるにてそがめづらしさに此歌は人口に膾炙せしなり。さてシノブモヂズリといふ物は之を序に使ひたるを思へば當時夙く世に知られたりしなり。河原左大臣源融は嵯峨天皇の御子にて仁明天皇の御弟なり。主文の意は君故ニコソ亂レメ(354)ト思フ我ナルヲヤとなり。伊勢物語に
 昔男ありけり。うひ冠して奈良の都春日の里にしるよしして(○便ヲ求メテトイフコトカ。ナホ考フベシ)狩にいきけり。其里にいとなまめきたる女はらから住みけり。彼男かいま見てけり。おもほえず古里にいともはしたなくて(○女ノ處ヲ得ズシテ)ありければ(○男ノ)ここちまどひにけり(○心ウゴキケリ)。男著たりける狩衣の裾を切りて歌を書きてやる。その男信夫ずりの狩衣をなん著たりける 春日野のわか紫のすりごろもしのぶのみだれ限しられず となん追附きて(〇時モ移サズ)いひやりける。ついで面白き事(○ヨイ都合)とや思ひけむ。「みちのくのしのぶもぢずりたれ故にみだれそめにし〔四字傍点〕我ならなくに」といふ歌の心ばへなり。昔人はかくいちはやき(○氣轉ノ利キタル)みやびをなんしける
とあり。此歌文さとりやすく見えて然らず。まづカスガ野ノワカ紫ノスリゴロモといへるは春日野ニ生ヒシ若紫ニテ搨レル衣といへるにあらず。女を見しは春日野、又春日野は柴草の好産地なればカスガ野ノを若紫の準枕辭に使へるなり。次にスリゴロモシノブノ亂はスリ衣ノ〔右△〕シノブノといへるにてシノブノまではミダレにかかれるなり。され(355)ばカスガ野ノワカ紫ノスリゴロモシノブノまで三句と四字とは序にて又其中にてカスガ野ノは枕辭なり。さて其序は常の例の如くミダレのみにかかれるにあらで違例ながらミダレ限シラレズといふ主文全體にかかれるにて、主文の意は偶然アナタ方ヲオ見カケ申シテ私ノ心ノ亂ハ無限デゴザイマスと云へるなり。かくの如き心を云はむとて己が恰紫色にしのぶ草の形を搨れる狩衣を著たるに心附き更に紫草が此處即春日野の名産なるを思ひてカスガ野ノワカ紫ノスリ衣シノブノといふ序を添へたるにて、そをツイデオモシロキ事と思ひしなれ。さてその狩衣を指さむ代に其裾を切りて此歌を書きて遣りしにて歌の趣向にもふるまひにも氣轉の利きたるをたたへて物語の作者はイチハヤキミヤビと云へるなり。以上諸註の解釋ことごとく誤れり。先入を捨てて余の説を味はふべし。さてシノブノミダレと云へるを見れば少くとも此歌のシノブは地名にあらで草の名なり。然らば原歌なるミチノクノシノブモヂズリのシノブは如何といふに從來或は陸奥の(今の岩代の)信夫郡とし或はしのぶ草とせり。袖中抄に引ける無名抄に
 シノブモヂズリとはみちのくにの信夫の郡にみだれたるすりをこのみすりけると(356)ぞ云つたへたる。所の名とやがてそのすりの名とをつづけてよめるなり
といひ童蒙抄に
 モヂズリとはみちのくにの信夫の郡にすりいだせるなり。うちちがへてみだれがはしくすれり
といひ袖中抄に
 シノブモヂズリとは陸奥の信夫郡と云所にモヂズリとてみだれたるすりをするなり
といへるは何を搨りたるにか明ならねど無名抄に所ノ名トヤガテソノスリノ名トヲツヅケテといへるを思へばシノブズリとは專産地の名に由れるにあらずとせるなり。さてシノブ草にて搨るに由れりとする説の證は勢語の歌にシノブノミダレとよめる事又公忠集に
 田舍へくだる人のもとに白き袋を青きものしてすりて火打を入れてやるとてうち見てはおもひいでよとわが宿のしのぶ草してすれるなりけり
とある事などなり
(357) ○此歌敦忠集には「ちかもりから物の使にいはにかねの火打をほくそにちんをしてしのぶをすりたる布の袋に うちつけに思ひいづとやふるさとのしのぶ草にてすれるなりけり」とありて新千載集離別歌には之に從ひてただ詞書を少し更へ又第二句をオモヒヤイヅトとし第四句をシノブ草シテとせり。余が敦忠集に依らざるは詞書に誤字あり又第二句ととのはざる故なり。又公忠の歌の詞がきにアヲキ物シテといへるはアヲキ繪具ニテといへるにて、その形は元來曖昧なる物なるを興あらせむとてシノブといへるならむ
又信夫郡にて搨出すに由れりとする説の證は河原左大臣の歌にミチノクノシノブモヂズリとよめる事又吾妻鏡卷九文治五年九月の下に見えたる昔奥州の藤原基衡が毛越寺本尊造立の時佛師雲慶に送りし物産の中に信夫毛地摺千端とある事などなり。春滿、眞淵、土清、御杖などは河原左大臣の歌の初句を枕辭とせり。即陸奥に信夫郡ある故にシノブモヂズリにミチノクノといひかけたるなりとせり。又吾妻鏡に信夫毛地摺と見えたるは當時夙く陸奥の信夫郡に河原左大臣の歌に依りて信夫モヂズリといふ名産を作り出でたりきとは見るべく左大臣の時夙く此名産ありて左大臣のよみしはそれ(358)なりといふ證とはすべからず。次にシノブの事を云ふべし。シノブといふ草に同科の植物ながら二種あり。一は俗にヤツメ蘭といふ物にて諸書に垣衣、瓦葦など書けるもの是なり。一は俗に單にシノブといふ物にて所謂ツリシノブのシノブなり。後者は古き名に非ざる上に所謂數回羽状葉の整然たる植物にてシノブノミダレといへるに叶はざれば古歌にシノブといへるはまさしくヤツメ蘭なり。ヤツメ蘭を一つづつむしりてかき亂したらむはげにミダレといへるに叶ふべし。次にモヂズリのモヂは前註に云へる如くモヂワ(捩)にて曲りくねらする事なり。整齊のうらなり。文字摺と書くは無論借字なり。さて植物を衣に搨ることを花葉に布帛を掩ひて裏面より石などにて扣くこととせむにヤツメ蘭は皮厚く汁少きものなれば衣に搨るには適せじ。思ふに植物を衣に搨るには大昔こそ上に云へる如くものしけめ、後には其花葉の形を板又は石に陽刻したるに布帛をあてて顔料を使ひて其形をすり顯しけむ。さればこそ若紫のしのぶ搨も作られしなれ。今福島市の東北凡一里に文字搨石といふ巨石ありて近古以來世に知られたり。福島顯名勝舊蹟抄に
 文字摺石は信夫都岡山村大字山口文字摺觀音堂の前に在り。東西一丈一尺六寸、南北(359)六尺九寸、高六尺二寸。又雲錦石・鏡石等の名あり(此石曩時古池の中に埋没し纔に一面を露すのみなりしが明治十八年信夫郡長柴山景綱役を起し池水浚をし之を發掘して全形を見はし繞らすに石柵を以てす)
相傳ふ。古昔畫工玉山峰實なる者あり。石面忍草の紋形あるを見、絹を摺染するを創む。是れ信夫毛知須理の濫觴なりと(○其紋形今も殘らば恐らくはツリシノブならむ呵々)
石傍碑あり。元禄中福島城主堀田正虎建る所。其文左に録す。
 陸奥國信夫郡毛知須利石始稱2其名1不v知2何時1。其説亦未v詳也。唯恐萬世之後人不v知2其斯石1。故表而立2碑於石傍1云 元禄九年丙子夏五月中旬 福島太守紀正虎表焉
とあり。正虎通稱伊豆守、今の堀田伯爵の祖なり。元禄七年より十三年まで福島藩主たりしなり。此文は僧鰲雲を京都妙心寺より招きて作らしめしなりと云ふ。此石はその大なる事といひ其面の自然に平にて鏡の如くなる事といひ實に奇石にて地方の名物とすべきものなるがシノブモヂズリとは毫も關係なき物なり。本名は恐らくは鏡石なるを輕佻なる或者が或は古歌にいへるシノブモヂズリを搨りし物ならむと云ひそめしが(360)領主堀田正虎の耳に入り恰新封に舊蹟名物を得まほしみする大名心理に投じて特に豐碑を建てしめしよりやうやうに世上の信を得るに至りしならむ。思へたとひ藤原基衡の頃に信夫郡にてモヂズリを製したりきともかかるあまたは得がたき平坦なる大石又厖大にて搨染に不便なる石を以て地方物産の製出に供すべけむや。石面のしのぶ草の文は固より有りしにはあらじ。之を鐫りしも雲錦石と名づけしも共に畫工玉山のさかしらならむ。今も福島にては諸種の布帛にツリシノブの文を搨染したるものを郷産とせる由なるがそれも恐らくは玉山より始まりしなるべく、玉山は適に功罪相半すと云ふべし。否日夜眞實のみを探究して曾て一地方の一小利だに興し得ざる吾人に比しては或は優れりとぞ云ふべからむ○當國の神社の中にて官國幣社以上なるは大沼郡高田町の國幣中社伊佐須美神社(祭神は大毘古命建沼河別命御父子なりといふ)と伊達郡|靈山《リヤウゼン》村大字大石の別格官幣社靈山神社とのみ。靈山神社の祭神は北畠親房、其子顯家顯信、顯信の子守親合四柱なり。靈山は伊達郡の東偏に在りて伊具相馬の二郡に跨れり。西麓の北部を靈山村大字大石といひ同南部を石戸村大字石田といふ。延元二年北畠顯家、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて此山に籠る。今頂上南嶺に在る國司館又國司城(361)といふ處即其跡なり。顯家は同年勢を得て西上し翌三年和泉の堺にて戰死す。明治十二年(一説十五年)大石村民靈山神社を其村に建て同十八年朝廷より別格官幣社に列せらる。但祭神と建設地とに就きて學者の議論なきにあらず。即靈山に關係あるは親王と顯家とのみ。顯信は宇津峰宮を奉じて宇津峰に在り。靈山には入らざりし如し(宇津峰は今の磐城國田村郡に在りて守山町の東南に當れり)。親房守親は靈山とは關係なしと云ふ。又頂上の國司館こそ顯家の遺蹟なれ、大石村は靈山の登口なると文化十四年に松平定信が靈山碑を建てし處となるのみにて此村に神社を建てて北畠氏を祀らむはふさはずといふ。元來頂上南嶺なる國司館と同北嶺なる靈山寺との跡は共に石田村の内なり。されば同村人は大石村人が其村に靈山神社を建つるを快からず思ひしが、そが別格官幣社に列せらるるに及びて之に對抗すべからざるを知りて明治二十一年に國司館址に義良親王靈山|在《ナル》御蹟と刻める碑を建てきといふ。建設地の妥ならざるはげに上の説の如くなれど今は何をか云はむ。たとへば阿部野神社・四條畷神社、特に藤島神社の地が顯家・正行・義貞戰死の地にあらずとも忠を施し義を奨むる上に於て妨ぐる所なきが如し。ただ當時石田村に人なかりしを憫むのみ。否たとひ國司館址を奥社(本殿)とし登山口(362)なる大石村を口社(拜殿)とすとも榮ゆるは口社のみなるべし。因に云はむ。別格官幣社中親房顯家父子をいつけるものに大阪市住吉區住吉町なる阿部野神社あり、又顯家顯信の弟顯能をいつけるものに三重顯一志郡多氣村なる北畠神社あり○當國幕末の藩治は會津(若松市、松平氏)二本松(安達郡、丹羽氏)福島(福島市、板倉氏)なり。明治維新の時松平氏は陸奥の斗南《トナミ》に、板倉氏は三河の重原に移さる。別に伊達郡|桑折《コヲリ》(今桑折町)に幕府の代官陣屋ありき。因に云はむ。白虎隊十九士の墓は若松市の東郊なる北會津郡|一箕《イツキ》村大字八幡なる飯森山に在り。日本精神邪津露の一名蹟として千歳の後にも殘るべし(昭和十四年六月十八日稿)
 
(363)    陸前國
 
陸前國は東及東南は太平洋に臨み北は陸中に、西北は羽後に、西は羽前に、南は磐城につづけり。今柴田・名取・宮城・黒川・加美・志田・遠田・玉造・栗原・登米・桃生・牡鹿・本吉・氣仙の十四郡に分れたり。陸前國即宮城縣にあらず。陸前の内氣仙郡は岩手縣に屬し宮城縣の内亘理・伊具・刈田の三郡は磐城に屬せり。陸前國は状水呑洋盃に花を盛りたる如し。洋盃は宮城郡以南なり。花は黒川郡以北なり。花の右側洋盃の外に咲き靡きたり。其部が桃生・牡鹿・本吉・氣仙の四郡なり。又氣仙を除けば略長方形の木塊に似たり。其下方の右側を鋭利なる刀を以て刳りたるが石卷灣以南の海岸なり。海に臨めるは名取・宮城・桃生・牡鹿・本吉・氣仙の六郡なり。直に海に注げる川の大なるものは阿武隈川と北上川となり。前者の下流を以て磐城との國界とせり。北上川の河口に石卷市あり。右の兩川に次いで大なるものは名取川と鳴瀬川となり。名取川は名取川と廣瀬川との合流なり。仙臺市は廣瀬川の北岸に沿へり。又北上川に合流せる川二つ。佐沼川といひ江合川といふ。共に西方より北上川に注げり。北上川の下流二分し一派は東北に向ひて追波《オツパ》灣に注げり。之を追波川とい(364)ふ。又北上川、上手にて二分し東派は本吉郡柳津町より南流し本郡飯野川町に至りて追波川に注げり。之を新北上川といふ。近年の掘鑿なり。島嶼中名高きものは金華山なり。牡鹿半島の東南端に附けり。當國には湖沼多し。その大なるものは宮城・黒川・志田三郡に跨れる品井沼、遠田郡の北偏なる蕪栗《カブラクリ》沼、登米郡の西部なる長沼・登米・栗原二郡に亙れる伊豆沼などなり。山の最高きものは兩羽との界にあり。就中西南端即柴田・刈田二郡界にあるものを以て最高とす。阿武隈・北上兩川の間に廣大なる平野あり。宜なり仙臺の雄藩なりしこと。今市二つあり。仙臺市と新興の石卷市となり。以上は一葉の分縣圖を展べて眼の移るままに記したるなり。一卷の地誌だに閲せずして云へるなり。言淺薄なれども卻りて概觀に便ならむ。是丸めて擲たざる所以なり○式及抄に柴田・名取・宮城・黒川・賀〔右△〕美・色麻〔二字傍点〕・玉造・志|太〔右△〕・栗原・長岡・新田・小田〔六字傍点〕・遠田・登米・桃生・氣仙・牡鹿とあり(抄の大沼は衍)。賀美は今加美と書き志太は今志田と書く。賀・太は後世濁音に使ふこととなりしより字を更へしならむ。今名の絶えたるもの色麻・長岡・新田・小田の四郡なり。就中色麻は加美に入り新田は登米及栗原に入り長岡は栗原及遠田に入り小田は遠田に入りしなり。なほ下に云はむ○成務天皇の御世に國を置かれしは浮田(宇多郡)伊久(伊具郡)以南にて阿武隈川の北に(365)は及ばざりき。その後南より西より次々に開けて皇化終に本洲を極めき。されどなほ今の磐城岩代以北を陸奥又は奥州と總稱して化外の餘影を殘ししに明治元年に至りて陸奥を磐城・岩代・陸前・陸中・陸奥の五國に分たれしこと略上に云へる如し○叙述の便宜上まづ各郡の大要に就いて云はむ。柴田郡〔三字傍点〕は當國の西南端に在りて西南刈田郡に接したり。績紀養老五年十月に柴田郡置2苅田郡1とあり。即柴田郡を二分せしなり。白石川、刈田郡より來りて本郡の南端を貫き本郡の東界にて阿武隈川に合流せり。人耳に熟したるウヤムヤノ關(夫木抄にはムヤムヤノ關とあり)は本郡と羽前南村山郡との界なる笹谷《ササヤ》峠なりといふ○名取郡〔三字傍点〕は柴田郡の東北に位し東、海に達し東南、阿武隈川に至れり。名取川、西より發し廣瀬川と合して東南、海に注げり。古今集に
 みちのくにありといふなる名取川なき名とりては苦しかりけり 忠岑
 名取川せぜのうもれぎあらはればいかにせむとかあひみそめけむ 作者不詳
とある是なり。續紀和銅六年十二月に新建2陸奥國丹取郡1とあり。丹取は名取の古稱なりといふ。元來夷語なるべし。名取と改めしは何年なるか明ならず。但名取郡の初見は神護景雲三年三月なり。本郡の邑にて注目すべきは岩沼町なり。邑は阿武隈川の北岸に在り(366)て(東北本線にイハヌマ驛あり)亘理郡より來る海道と柴田郡より來る山道との相會する處(今も常磐線と東北本線との相會する處)又官道玉|前《サキ》驛のありし附近、又おそらくは陸奥の古國府の在りし處、又古歌に名高き武隈の松の在りし處なり○宮城郡〔三字傍点〕は始めて天平神護二年十一月に見えたり。延暦四年四月陸奥按察使鎭守將軍大伴家持言上して是より先に權に置きし多賀|階上《シナカミ》二郡を眞郡とせむことを請ひて許されき(夙く天平勝寶四年二月に陸奥國調庸者多賀〔二字傍点〕以北諸郡令v輸2黄金1とあり)。さて兩郡は間もなく廢せられしが和名抄宮城郡郷名に科上多賀の二郷あるを思へば廢せられし後宮城郡に入りしならむ。其故地は何處ぞといふに舊宮城郡を割きて二郡を置く要は無ければ(もし百姓を移植するが主ならば新郷を置きて足ればなり)二郡の故地は舊宮城郡より彼方黒川郡より此方ならざるべからず。さて彼上言の中に募2集百姓1足2人兵於國府1設2防禍於東西〔六字傍点〕1とあれば多賀郡は國府の東北、階上郡は國府の西方にて冠川の北方なるべし。其兩郡は固より小郡なるべき上本來一時の便宜の爲に建てしものなれば間もなく宮城郡にぞ併せけむ。當時の國府の所在に就いては後に云はむ。後の宮城郡は名取郡の北に在りて亦東海に至れるが右端延びて冠の巾子《コジ》の如く其先桃生郡に連り以て黒川郡を海よ(367)り遮斷せり。巾子の裏面は深く彎入せり。是即松島灣なり。仙臺市は本郡の東南部に在りて廣瀬川の北岸に沿へり。されば廣瀬川は又仙臺川といふ。本郡には國府及多賀城の址あり。多賀城碑あり。項を分ちて述ぶべし○宮城郡の西北に黒川郡〔三字傍点〕あり。郡名は始めて天平十四年正月に見えたり。國史に往々奥郡〔二字傍点〕といふこと見えたり。又奥邑・奥縣とも云へり。類聚三代格大同五年二月の官符に黒川以北奥郡浮浪人云々とあり。復軒雜纂に
 宮城黒川の郡界に山脈あり。今も山脈以南の者以北へ行くを奥へ行クといふ
といひ又
 奥州の舊史を考へ置郡の次第など考證するもの此地文の區畫に心付くときは成務の朝に志太郡に國造あり大化建國の初より賀美都・志太郡ありなどいふ説は妄想なるを覺るなるべし
といへり(地名辭書四〇四七頁所引)。續紀寶龜元年四月に
 陸奥國黒川賀美等十一郡俘囚〔二字傍点〕三千九百廿人言曰。己等父祖本是王民。而爲2夷所1v略遂2成賤隷1。今既殺v敵歸降、子孫蕃息。伏願除2俘囚之名1輸2調庸之貢1。許v之
また延暦八年八月に
(368) 牡鹿・小田・新田・長岡・志太・玉造・富田・色麻・賀美・黒川等一十箇郡與v賊接v居不v可2同等1。故特延2復年1
とあり。以て當時黒川郡以北が所謂華夷の界なりしことを知るべし。因に云はむ俘囚〔二字傍点〕は王民の夷に入りたるもの、夷俘は夷の降伏したるものにて相同じからず○加美郡〔三字傍点〕は黒川郡の北、志田郡の西、鳴瀬川の上流に位せり。國史の初見は天平九年四月に從2賀美郡1至2出羽國最上郡玉野1八十里とあり。式抄に見えたる色麻《シカマ》郡は後に此郡に入りにき(又上引延暦八年紀に見えたる富田郡は夙く同十八年に色麻郡に併せられき)○志田郡〔三字傍点〕は古、志太と書けり。加美郡の東に附きて栗原・遠田・宮城・黒川の四郡と接壤せり。鳴瀬川半、郡内を貫けり。續紀慶雲四年五月に陸奥國信太部壬生(○原作生王)五百足とあるは誤記にあらずば追書と認むべし。此時いまだ志太郡を置かるべからざればなり。大槻吉田二氏は信夫の訛なるべしと云へり。國史には之に次いでは延暦八年紀に志太郡と見えたり。内山眞龍が國造本紀の思國道を思太の脱字とし地理志料が之に從へるも非なり。郡の北界江合川のこなたに古川町あり。後拾遺集戀四に
 みちのくのをだえの橋〔五字傍点〕やこれならむふみみふまずみ心まどはす 路雅
(369)とあるは此邑内なりといふ。式及抄に見えたる長岡郡は亦一部、本郡に入れり○遠田郡〔三字傍点〕は志田郡の東北に續き東南は桃生郡、東北は登米郡、西北は栗原郡と交はれり。古、田夷《タエミシ》山夷の別あり(日本後紀延暦十八年三月)。田夷は熟蕃にて平野に住みて農耕を業とし山夷は生蕃にて山地に住みて狩猟を業としきと見ゆ。史の天平二年正月に
 陸奥國言。部下田夷村蝦夷等永悛2賊心1既從2教喩1。請建2郡家于田夷村1同爲2百姓1者。許v之
とあり。この田夷村は田夷の住へる地域といふことにはあらで一つの地名なり。田夷の住へる處は無論此村の外にもありしなり。その新建郡家を初には田夷遠田郡といひしに後には單に遠田郡といひしなり。即同九年四月にはなほ田夷遠田郡領遠田君雄人といへり。この田夷は遠田郡に冠らせたるにて姓にはあらず(延暦九年五月款參照)。式及抄に見えたる長岡郡は志田・栗原・遠田三郡の交界に在りて後に三郡に分屬し同じき小田郡は遠田郡の東南境に在りて後に本郡並に隣郡に入りにき。萬葉葉卷十八にミチノクノ小田ナル山ニクガネアリトマウシテマツレとある處即神名帳なる小田郡黄金山神社は今の遠田郡元|涌谷《ワクヤ》村の内なりといふ○玉造郡〔三字傍点〕は加美郡の東北に在りて荒鮭川(一名玉造川又江合川)の上流なり。郡名の始見は神護景雲三年三月なり○栗原郡〔三字傍点〕は玉造郡(370)の東北、國の西北端に在りて三つの迫《ハザマ》川(若柳川)の上流なり。續紀神護景雲元年十一月に置2陸奥國栗原郡1。本是伊治城也とあり。伊治城は前月の勅に
 見2陸奥國所1v奏即知2伊治城作了1。自v始至v畢不v滿2三旬1。朕甚嘉焉
とあり。城址は富野村城|生野《シヤウノ》に在りといふ。すべて奥羽の經營はまづ敵を撥ひて塞又柵又城を設け其地の略治るを見て郡を建て以て軍政を民政に更へしなり。同三年六月に浮宕百姓二千五百餘人置2陸奥國伊治村1とあり。伊治村は即栗原郡なり。郡の下に伊治村あるに非ざるなり。日本後紀延暦十五年十一月戊申に發2相摸等國民九千人1遷2置陸奥國伊治城1とあるも亦やがて栗原郡なり。先是寶龜十一年三月の紀に
 陸奥國上治郡〔三字傍点〕大領|外《ゲ》從五位下伊治公|呰《アザ》麻呂反、率2徒衆1殺2按察使參議從四位下紀朝臣廣繩於伊治城1
とあるは栗原郡即伊治郡を上下に分てる上伊治を修して上治と云へるにやと云へり。式及抄に新田長岡と見えたる新田は後に本郡と登米とに入り長岡は後に志田・遠田の外本郡に入りき。伊勢物語第十三段に
 むかし男みちの國にすずろにゆきいたりにけり……男京へなんいぬるとて く(371)り原のあねはの松の人ならば都のつとにいざといはましをとあり。今澤邊村の大字に姉齒あり一ノ迫《ハザマ》川の北方に當れり○登米郡〔三字傍点〕は和名抄の訓註に止與米とあり近古のものに又トヨネ又トヨメと訓みたれど今トヨマと唱ふるを思へば訓註に止與米とあるは止與末の誤寫ならむといふ。されどトヨマを登米と書かむこといかが(もしくは米音マイの下略とすべきか)。なほもとトヨメなりしを今訛りてトヨマといふにあらざるか。もしトヨメを正しとせば宣長のいへる如く與の字を略して登米と書けるなりとすべし。又もし寶龜五年十月の陸奥國遠山村が大槻氏のいへる如く登米に齊しくば元來侏離なる夷言にてトヨメともトヤマともトヨマとも聞ゆるに由りてさまざまに書き傳へ又は唱へ傳へしならむ。日本後紀延暦十八年三月に
 陸奥國富田郡併2色麻郡1、讃馬郡併2新田郡1、登米郡併2小田郡1
とあれど延喜式に小田と登米と並び出でたるを思へば延長以前に再小田と相分れしか。又其後小田郡は遠田郡・登米郡等に分屬し新田郡も亦栗原郡と本郡とに入りき。本郡は佐沼川(若柳川の下流)の左岸に沿ひ又北上川の本流に跨れり。喜田貞吉氏曰く。北上は日高見の訛にて日本後紀延磨十六年二月撰續日本紀成上表の中に威振日河〔二字傍点〕之東、毛狄(372)屏息といへる日河は日高見河の略にて即北上川なりと○桃生郡〔三字傍点〕は和名抄の訓註に毛牟乃不とあり。率は mu といふ音に充てたるにあらで u に充てたるならむ。後にモノフと唱へしはそのンを省けるにて今は更に訛りてモノオと唱ふといふ。本郡は北、本吉郡に接し西は登米遠田二郡に、西南は宮城郡に隣り東は海に、南は牡鹿郡及海に向へり。就中西北部は北上川を界とせり。又|追波《オツパ》川本郡の東北部を貫けり。郡名の始めて見えたるは寶龜二年十一月なり。是より先天平寶字四年正月の紀に又於2陸奥國牡鹿郡1跨2大河1凌2峻嶺1作2桃生柵1奪2賊肝膽1とあれば原は牡鹿郡の内なりしを大河を渡り(北上川の河流古今非常に相違したれば今の何處にか知られず)夷境に逼りて桃生柵(今の桃生村大字|脇谷《ワキヤ》の東北なる茶臼山なりといふ)を作り其境やや治りての後に牡鹿郡の北部を割きて新に桃生郡を置きしならむ。さてモンノフは恐らくはもと夷語にて之に桃生の字を充てしはトヤマに遠山の字を充てし類ならむ。さて桃生といふ地名の初見は天平寶字元年四月にて桃生城(又は柵)を造り始めしは同二年十月なり。桃生村大字樫崎字石文岬に高道墓、貞觀五年五月日と刻せる碑ありといふ。おぼつかなし○牡鹿郡〔三字傍点〕は桃生郡に抱かれ東南に半島を放出せり。之を遠島といふ。郡名の初出は天平寶字四年正月にて柵名の(373)始見は天平九年四月なり。郡名の牡鹿は和名抄に乎志加とありて今もヲジカと唱ふれど竊に思ふに是眞に本來の稱呼なりや疑はし。抑ヲシカは牡鹿の歌語なり。鹿の牝牡を通じてカと云ひ取別きて牡をシカ又はヲカ(男鹿)といひ牝をメカといふにてヲシカのヲはシカ(牡鹿)に添へたる辭に過ぎず。されば牡鹿を以て地名とせむにはシカ又はヲカとこそ云ふべけれ。但牡鹿宿禰を雄鹿宿禰といへる例あれば郡名もシカにはあらでヲカなるべし。そをヲシカといふこととなりしは恐らくは字に引かれたるならむ。仁徳天皇紀に見えたる伊寺水門は今の石卷(舊名牡鹿湊)なりといふ。但これには異論もあり。なほ後にいふべし。石卷市の大字湊(東岸)なる多福院に奉爲《オホンタメ》吉野先帝御菩提也、延元二年己卯霜月廿四日敬白と刻める豐碑あり。いとたふとし。但此地を護良親王潜匿の處といひ傳ふるは無論俗説なり。又石卷市の西北北上川右岸なる蛇田村に靈蛇田道公墳と※[金+雋]れる碑あり。一時千蔭・春海・赤水なども欺かれしがこは藤塚知明が僞造せしものにてまづ同人に利用せられしものは蒲生君平なり○本吉郡〔三字傍点〕は西南|柳津《ヤナイヅ》町より東北鹿折村に至れる狹長なる郡なり元は同國(岩手縣)氣仙郡に接し西は陸中國東磐井郡と同國登米郡とに接せり。和名抄は勿論拾芥抄にも見えず。近古(おそらくは足利氏時代)桃生郡の北部(374)及氣仙郡の南部を割きて置きしなり○氣仙郡〔三字傍点〕、本吉郡の北端陸中國に突入して左右に開けたるが氣仙郡なり。されば今は宮城縣に屬せずして獨岩手縣に屬せり。北は上閉伊郡に、西は江刺郡及東磐井郡に接し東南は海に臨めり。氣仙川西北より來り東南に注ぎて郡の一部を限れり。河口に高田町あり。氣仙は和名抄の訓註に介世とあり。神名帳に牡鹿郡計仙麻神社及桃生郡計仙麻大島神社あり。其社今明ならねど共に今の本吉郡の内とおぼゆ。社名のケセマと郡名のケセとの間に關係はあるべし。但地理志料に
 仙讀ンデせまト云フハ所謂轉音ナリ。けせまハ蓋氣仙沼ノ義ナリ。今介世牟ト呼ブハ妄ナリ
と云へるは支離滅烈なり。仙の音は sen にて sem にあらざれば氣仙をケセマに轉用すべからず。氣仙《ケセ》をケセマに充てたるは後略のみ。なほ安八《アハチ》(美濃)をアハチマに充てたるが如し。郡名の初見は弘仁元年十月なり。抑當國の諸郡中最早く開けしは南方の柴田名取二郡にて最遲く開けしは北端の氣仙郡なり。おそらくは甲は奈良朝の初即和銅年間にて乙は平安朝の初ならむ○和名抄に
 陸奥國 國府在2宮城郡1、鎭守府在2膽澤郡1
(375)とあり。國府は初より宮城郡に在りしにあらず。初今の岩代國に在りしが進みて名取郡に移り終に宮城郡に移りしなるに似たり。地名辭書(三八七一頁)に
 安積山の詠は葛城王巡國の時陸奥府館に在りし時〔九字傍点〕出侍の采女之を歌へるなり。葛城王は蓋天智天武の朝の人とす。然らば大化改新の際に國郡の定制あるや安積郡に國府を置かれしを想ふべし。養老二年の改定に至り(○養老二年ニ陸奥國ヨリ石背國ヲ分チシ時)陸奥府は更に名取郡に進められし歟
と云へり。葛城王が陸奥國に遣されし事の見えたるは萬葉集卷十六のみなるがそれには采女がアサカ山カゲサヘミユル山ノ井ノといふ歌をよみしことを國府の館にての事とせず。されば陸奥府館ニ在リシ時と云へるは辭書著者の作言のみ。事情を思ふに皇族の貴き御身にして(葛城王は天智天皇にや)特に勅命を帶びて陸奥國の如き邊鄙に下られしことなれば國の界に入られしより國守は接待の爲に又視察を助くる爲に王の身を離れざること影の如くにぞありけむ。されば王の爲に飲饌を設けしは國守の館には限るべからず。少くとも飲饌を設けきといふ事を以て其地に國守の館の有りし證とはすべからず(本書岩代國參照)。辭書信夫郡|宮代《ミヤシロ》の下(三九二七頁)に大槻文彦氏の復軒雜(376)纂を引きて
 陸奥國府は多賀國府以前に名取郡の武隈(岩沼)にありしが如し。されど名取は和銅六年の置郡なれば其前の國府無くばあるべからず。按ずるに今の信夫郡|摺上《スルカミ》川の南岸に宮城村(又宮代)國府臺とてある是當時の國府なりしにはあらぬか。伊達郡ももと信夫郡の内にて此二郡の平野は山《セン》道中にて最も廣き所なり。齊明紀五年三月に陸奥國司始めて見え(○道奥與越國司とあり)和銅元年三月、同二年三月、同年七月などに云々とある國司將軍は皆信夫郡の國府に居たりしならむ。斯くて養老二年五月石城石背の二國を置かれしに及びて陸奥國府は北進せずばあるべからず。此時武隈に移りて信夫なるは石背の國府とはなりけむ
と云へり。即國府の名取郡移轉を早くとも和銅六年遲くとも養老二年とせるなり。此説げにもと思はる。宮代は今信夫郡|餘目《アマルメ》村の大字となれり。摺上《スルカミ》川は阿武隈川の支源にして信夫伊達二郡の間を流れたり。袖中抄卷十六に
  うゑし時ちぎりやしけむたけくまの松をふたたびあひみつるかな
 顯昭云。タケクマノ松はみちのくの武隈と云所に二木ある松也。此歌は宮内卿藤原元(377)良が陸奥の初任に件松をうゑて後(ノ)任によめる歌也。其松野火のために燒うす。其後滿正が任にうう。其後又うす。道貞が任にうう。其後孝義きりて橋に作。其後うせをはりにきと云々(或古抄説也)(○後撰集ノ詞書ヲ以テ正シトスベシ。後ニ云ハム)又能因法師みちのくへふたたびくだれりけるに後のたびはたけくまの松もなかりければ
  たけくまの松はこのたびあともなしちとせをへてや我はきつらむ
 橘季通朝臣みちのくよりのぼりて
  たけくまの松は二木をみやこ人いかがととはばみきとこたへむ
 (○共ニ後拾遺ニ見エタリ。次二首略)古歌云
  われのみや子もたるといへばたけくまのはなはにたてる松も子もたり
 拾遺集云
  我のみや子もたるてへば高砂のをのへにたてる松も子もたり
 私云・二木の松なれば武隈の松こそ子モタリとはいはれたれ。たかさごの松は二木ともきこえず。又總じて山の松ならば二木にかぎるべからず
(378)○この歌は顯昭の云へる如くタケクマノハナハの方が原作にて拾遺集にタカサゴノ尾上として出せるは半解の徒の改作なり。さて原作は私生兒を持てる賤女の歌又はその吐きし秀句を歌人の歌にととのへたるならむ。武隈の松の二木相たぐひて一は高く一は低くて恰母の子を擁したるに似たるに興じたるにこそ
奥義抄に(○著者清輔は顯昭ノ兄)武隈の松はいつの代よりありける物ともしらぬ人はウヱシ時と(○元良ノ)よまれたればおぼつかなくもや思とて書いでて侍也。此松は昔よりあるにあらず。藤元良といひける人の任に館の前にはじめてうゑたる松なり。みちのくのたちは武隈といふ所に有。此人二たびかの國に成て後(ノ)度よめる歌也。武隈ノハナハノ松ともよめり。重之歌
 たけくまのはなはにたてる松だにもわがごとひとりありとやはきく
武隈のはなはとて山のさし出たる所のある也とぞ近く見たる人は申しし。此松野火にやけにければ源滿中(○滿仲)か任にうう。次第塊如前。孝義ほりて橋につくる。うたてかりける人なり。なくとも(○今はナクトモ)猶よむべし
私云。滿正(○滿政)とこそふるき物に書たるを滿仲とかけるは可就何書乎。又共陸奥國(379)司歟。滿正は滿仲が弟也。教長卿云。宮城野に武隈松も侍けれどいまは見えず。今云。宮城野・武隈のはなは・館はひとつ所なり
といへり。藤原元良は尊卑分脈卷一藤原北家の宮内卿元善、この人にはあらで卷三南家眞作卿流の從四位下陸奥守元善、この人なるべし(國郡沿革考には前者とせり)。さて其人の從兄弟に承平年中に薨じ又は卒せし人あれば此人は醍醐天皇の御世の人なるべし。奥儀抄に據れば此人の時に陸奥の國府は名取郡武隈なりしやうに聞ゆれど國府が宮城郡多賀に移りしは奈良朝時代の末なり。されば奥儀抄に云へる所は清輔の知識の不備に基づけるにて實は後撰集雜三に
 みちのくにの守にまかり下れりけるにたけくまの松の枯れて侍りけるを見て小松を植ゑつがせ侍りて任果てて後又同じ國にまかりなりてかのさきの任に植ゑし松を見侍りて 藤原元善朝臣 うゑし時ちぎりやしけむたけくまの松をふたたびあひ見つるかな
とあるが正しからむ。即始めて武隈の松を栽ゑしは元善にあらず。その元善がうゑ繼がしめしも國司の館にてせしにあらで古府武隈にてせしなり。否奥儀抄の
(380) 藤元良といひける人の任に館の前にはじめてうゑたる松なり。みちのくのたちは武隈といふ所に有
を抹殺すれば國府が多賀に移る前に武隈に在りし證もなくなれど國府はおそらくは山道(たとへば信夫郡宮代)より直に多賀に移りしにあらで奈良朝の初及中頃にはなほ武隈にぞ在りけむ。奥儀抄に任とあるは國守の任、館とあるは國守の館即國衙、カノ國ニ成テとはカノ國ノ守ニ任ゼラれテと云へるなり。觀蹟間老志にフタ木ノ松とハナハノ松とを別とせるは重之の歌を解せざるなり。ハナハはハナハや正しきハナワや正しき。恐らくはハナワが正しかるべし。ハナワは東語にて丘陵のハナ(岬)なり。塙と書くは高土を合せたる邦製字にて漢字の塙とは別なり。されば音は無きなり(萬葉集追攷三三八頁參照)。顯昭が又共陸奥國司歟と疑へる源滿仲滿政の兄弟は共に陸奥守たりき。教長及顯昭が武隈と宮城野とを同處とせるは誤れり。武隈は前にも云へる如く名取郡岩沼町にて宮城野は仙臺市の東郊なり。いたく相隔たれり。最後の國府即和名抄に見えたるものは今の宮城郡多賀城村大字市川の所謂多賀城址なり。多賀は後世タガと唱ふれど正しくはタカと唱ふべし。古文書に高(ノ)國府と書けるがあり。多賀は元來郷名なり。古典に賀の(381)字は通例清音に假借せり。市川といふ小流、城址の西南を流れたり。市川は古くは市ノ河と唱へしなり。國府ノ市ノ川の略なり。多賀城址(正しく云はば多賀國府址〔正し〜傍点〕)は丘陵及沼地に倚れる方形の地域にて南北十町東西八町なり。周圍に土塁(即堡)を築きたりきと見えて其土壘今も斷續して殘れり。今道路一條斜に地域を貫きて其西南より東北に至れり。之を鹽竈に至る舊道とす。おなじき新道即顯道は市川の左岸にて舊道より岐れ東方に走りて地域の南邊を掠めたり。多賀城碑の存ずるは此道路の南側なり。地域の中央に又南北五十六間東西五十間の小地域あり。又土壘を周らしたり。是府廳の址ならむ。此址の北方舊鹽竈道の北側に多賀神社あり。神名帳に見えたる多賀神社即是なりといふ。特選神名牒には式社の所在を高崎村とせり。乙は何に據れるにか。高崎村は今の多賀城村大字高崎なり。高崎は大字市川の東南に在り。地域の東北部に特別の土壘を築きたる處あり。之をトウモンといふ。即國府の東門にてやがて正門なり。東に向ひて此門を開きたるは海(鹽竈港)に近くして進退に便なる爲ならむ。東門の東北、舊塩竈道の北側に奏社宮あり。奏社は總社の訛字なり。宮城顯史蹟調査報告第三輯五一頁に(地名辭書四一一二頁にも)大槻氏の復軒雜纂を引きて(今いささか略しつ)
(382) 多賀國府とは古への陸奥の國府の稱なり。其所在地は今宮城縣仙臺の東北三里餘、鹽釜港の西南一里許、新名多賀城村大字市川に多賀城の址とて壘礎の現存する處是れなり。此地即ち和名抄宮城郡多賀郷の地に屬せり。さればこそ郷名を負ひて多賀城とも多賀國府とも稱したるなれ。府址の外郭内に多賀神社といふも現存す。延喜式内の神なり。陸奥の國府は其初め名取郡の武隈(今の岩沼町の邊)にありしが如し。然るに神龜元年宮城郡に多賀城を築きて(○多賀城碑ノ文ニ據レルナリ。證トハスベカラズ)鎭所とせられ後幾ばくもなくして〔九字傍点〕國府をも移して多賀城内に併置せられたり。此後鎭守府は膽澤城に移れり。是に於て多賀城は單に國府となりぬ。鎭守府は既に膽澤城に移り蝦夷も次第に征平に就き奥州兵革の事も聞ゆることなきに至り多賀城も全く國司民政の治所となるに及びて多賀の城名は何時か失せて當時專ら多賀國府と稱することとなりぬ。台記に引ける藤原佐世の古今集註孝經の跋に寛平六年〔四字傍点〕二月二日一勘了、于時謫在陸奥多賀國府〔四字傍点〕云々とあり。是に由て之を觀れば宇多帝の寛平の頃既に專ら多賀國府と稱したりしこと知らる。扠又府址牙城の東北六七町の地にトウ門と稱する地ありて之を正門の跡なりと稱す。礎石散點して門外左右に袖垣の如き土(383)壘も現存せり。其北に升形と稱して數十歩の間に方形に土壘を築きし所あり。其郭外の北に奏社宮といふ神祠あり。是れ總社の訛なり。多賀の賀の字は清濁兩用なり。多賀國府も古へは清音なりしならむ。白河文書に高國府と借字せるにても知るべし。市川村の西〔右△〕南なる高崎村・高橋村、岩切村の高森など皆多賀に因める名にて此邊すべて多賀郷の部内なりし故の名なるべし。今市川村に存ずる國府の跡は東西五十間南北五十六間方形なる平地にて四圍に土壘現存し中央に芝生地あり。村人はこれを御座の間の跡といふ。此芝生地の處々に石面直徑二尺乃至四五尺なる自然石の礎十數箇點點列を成して現存す。其區域十五間に八間もあらむか。地勢高くして南方は宮城野より相馬嶺の山々まで見え左に大海を望む。又此城の總外郭は六七町四方もあらむとおぼしく四圍の土壘斷續して存じ正門の跡は東北にありて其規模極めて大なるものなり。古へに所謂柵戸など皆此部内に住せしものか
といへり。多賀城址附寺址は大正十一年十月内務大臣より史蹟として指定せられき。寺址は城址の東南なる大字高崎なる丘上に在り。多賀國府と關係あるものなるべけれど寺名は知られず。抑國府を武隈より多賀に移ししは何の世ぞ。大槻氏は
(384) 神龜元年宮城郡に多賀城を築きて鎭所とせられ後幾ばくもなくして國府をも移して多賀城内に併置せられたり
と云へれどイクバクモナクシテと云へる曖昧なるのみならず神龜元年築多賀城といへるは僞造の多賀城碑の文に據れるのみにて他に證のあるにはあらず。地名辭書四〇七六頁に
 名取鎭所址 養老六年紀(○八月)陸奥鎭鐘所といふ。後の武隈の館といふ即是れ歟。初め名取鎭所を以て軍事民政を併せ執る所とせられしが神龜元年多賀築城(○多賀城碑に欺かれたり)の後は鎭守將軍の牙營多賀に移り國府亦之に從ふ。舊説延暦四年まで國府は名取に在りしならんと云ふ
といひ同四〇七七頁に國郡沿革考に
 陸奥國府の宮城郡へ定められしは彼郡の鎭守府(多賀城)を膽澤城に徙せる後なるべし。延暦四年三月大伴家持奏言に據るに名取以南十四郡云々足人兵於國府云々とあり。蓋此時國府名取郡にありしならん。藤原清輔奥儀抄に武隈の松云々宮内卿藤原元善と云ひける人の任に館の前に始めて植たる松也。陸奥の館は武隈と云ふ所にあり。(385)……此等の説に據れば延暦の初までは名取郡岩沼の武隈を府とせられしか。或は曰く。武隈の府の宮城郡へ遷移せられしは蓋天平勝寶の初めに在りと
と云へるを引き同四一二二頁多賀國府址の下に
 府は蓋名取郡玉前郷に移さる。武隈館是なり。後多賀城へ移す勝寶以前也
と云へり。按ずるに續紀寶龜十一年三月に
 陸奥國上治郡(○栗原郡)ノ大領伊治公|呰《アザ》麻呂反シ徒衆ヲ率テ按察使紀朝臣廣純ヲ伊治城ニ殺ス。……猶唯介大伴宿禰眞綱圍ノ一角ヲ開キテ出デ多賀城〔三字傍点〕ニ送ラルルヲ獲キ。其城久年國司所治、〔八字傍点〕、兵器粮蓄|勝《エ》テ計フベカラズ。城下ノ百姓競ヒ入りテ城中ニ保《ヨ》ラムト欲ス。而ルニ介眞綱・掾石川掾足潜ニ後門ヨリ出デテ走ル。百姓遂ニ據ル所ナク一時ニ散去ス。後數日ニシテ賊徒乃至リ爭ヒテ府庫ノ物ヲ取リ重ヲ盡シテ去ル。ソノ遺レルモノハ火ヲ放チテ燒キキ
とあり。國府は寶龜十一年に久年といへるばかり古くより多賀城に在りしなり。されば延暦四年に又はその初に多賀に移りきといへる説は一掃すべし。學者往々鎭所と鎭守府とを混同し多賀城と膽澤城とを共に鎭守府と誤認し又鎭守將軍は多賀城より直に(386)膽澤城に移りしものと誤認せるにあらざるか。鎭守府は始めて膽澤城に置かれしなり。それより前に鎭守將軍の駐在せし處は鎭所といひて鎭守府とは云はず。多賀城も亦鎭所なり。鎭守府にあらず。鎭所は次第に前進すれば膽澤の府の開かるるまでは一處に固定せず。前引の伊治城も亦鎭所ならむ。なほ次々に云ふべけれど國府が武隈より多賀に移りしは鎭所が多賀より伊治に移りしと同時にて神護景雲、寶龜の際ならむ。ここに多賀伊治二城の陷没より快復までの事情を考察せむに寶龜十一年三月に夷俘伊治呰麻呂が叛せし時多賀城には國府あり伊治城には鎭守將軍の鎭所ありき。山道の伊治城に對する海道の桃生城は牡鹿郡の大領道島大楯ぞ戌りたりけむ
 ○初大伴駿河麻呂陸奥按察使に任ぜられ(寶龜三年九月)次いで按察使、守、兼鎭守將軍となり(四年七月)寶龜七年七月に卒せしかば介紀廣純代りて守となり次いで兼按察使となり(八年五月)又鎭守將軍を兼ねき
廣純は守兼鎭守將軍として多賀伊治二城の間を往復しけむ。さて廣純は呰麻呂に殺され兩城は賊手に落ちしが介掾などの免かれしその人々はいづくにか遁れけむ。恐らくは舊國府即武隈の館に留りてしばらく形勢をば觀望しけむ。朝廷は直に藤原繼繩を征(387)東大使に大伴益立及紀古佐美を副使に任じ益立を兼陸奥守に、介大伴眞綱を鎭守副將軍に任ぜられき。鎭守將軍の任命は見えず。眞綱は寶龜八年三月に廣純の後任として介に任ぜられ呰麻呂の亂に幸に免かれし人なり。同年六月に百済俊哲が鎭守副將軍に、多治比宇美が陸奥介に任ぜられしを思へば眞綱は當時の事情が朝廷に知らるると共に官を免ぜられしか。さて同月に征東副使(持節副將軍)益人がいまだ國府に進入せざることを責められLを思へば征東使も亦武隈に滯りしなり。同年七月の勅に今爲v討2逆虜1調2發坂東軍士1限2來九月五日1並赴2集陸奥國多賀城1とのたまひ又軍粮を運輸すべき處を軍所とのみのたまへり。又同年十月の末の勅に夏稱2草茂1冬言2襖乏1縦横巧言遂成2稽留1とのたまひ又若以2今月1不v入2賊地1(○不字錯置)宜d居2多賀玉作等城1能加2防禦1兼練c戰術uとのたまへり。見つべし當時の將士は今の如く勇敢ならざりしを。天應元年五月に紀古佐美爲2陸奥守1とあるを見れば益人は少くとも陸奥守を免ぜられしなり。古佐美は益人と共に征東副使たりし人なり。此頃征東使は全部交佚せられしならむ。同年六月の記事に持節征東大使兼陸奥按察使藤原小黒麻呂、副使内藏全成・同多犬養と見えたればなり。さて同八月に陸奥按察使藤原小黒麻呂征伐事畢入朝とあればともかくも事平らぎ國府はた多(388)賀には復しけむ。同年九月の記事に
 初征夷副使大伴宿禰益立臨v發授2從四位下1。而益立至v軍數※[人偏+((天+天)其心]2(○愆《ケン》の俗字なり。アヤマチと訓むべし)征期1逗留不v進空費2軍粮1延2引日月1。由v是更遣2大使藤原朝臣小黒麻呂1、到即進v軍復2所v亡諸塞1。於v是責2益人之不1v進奪2其從四位下1とあり。現代と比較して感慨無量なり。前大使藤原繼繩は故ありて事に當らざりしなり。其後の記事には同年十二月に陸奥守内藏全成爲兼鎭守副將軍、延暦元年二月に民部卿藤原小黒麻呂爲兼陸奥按察使、同年六月に春宮大夫大伴家持爲兼陸奥按察使鎭守將軍などあり。かくて叛亂の善後處置は了りしかど朝廷にては蝦夷征伐の國策は無論止められず、同二年十一月に大伴弟就呂爲征夷副將軍、同三年二月に大伴家持爲持節征夷將軍、文室與企爲副將軍、入間廣成・阿倍※[獣偏+爰]嶋墨繩並爲軍監、同五年八月に「使2人於東海東山二道1簡2閲軍士1兼檢2戎具1。爲v征2蝦夷1也。」同七年三月に「軍粮仰2下陸奥國1運2収多賀城1文糒并鹽仰2東海東山北陸等國1限2七月以前1轉2運陸奥國1。並爲d來年征c蝦夷u也」など征夷に關せる記事跡を絶たず○初多賀城といふ項を設けて別に記述せむ豫定なりしかど云ふべきことは大抵國府の下に云ひ蓋したれば今は補遺として聊初時の事を云ひてむ。國史に多賀柵(389)の名の始めて見えたるは天平九年四月なり。即
 遣陸奥持節大使藤原麻呂等言ス。去二月二十九日ヲ以テ陸奥國多賀柵ニ到リ鎭守將軍大野東人ト共ニ平章(○協議)シテ且《マヅ》常陸・上總・下總・武藏・上野・下野等六國ノ騎兵總一千人ヲ追《メ》シテ山海兩道〔四字傍点〕ヲ開カシム。……仍リテ勇健一百九十六人ヲ抽キテ將軍東人ニ委ネ、四百五十九人ヲ玉造等ノ五柵ニ分配シ、麻呂等餘レル三百四十五人ヲ帥ヰテ多賀柵ヲ鎭ス(○共に一千人)。副使坂本宇頭麻佐ヲ遣シテ玉造柵ヲ鎭セシメ判官大伴美濃麻呂ハ新田柵ヲ鎭シ國大掾日下部大麻呂ハ牡鹿柵ヲ鎭セシム。自餘ノ諸柵ハ舊ニ依リテ鎭守ス。廿五日ニ將軍東人、多賀柵ヨリ發シ四月一日ニ使○征夷使)ノ下判官紀武良士等及委ネラレタル騎兵一百九十六人・鎭兵四百九十九人(○彼一千人の外なり)當國ノ兵五千人・歸服ノ狄俘(○越後の蝦夷)二百四十九人ヲ帥ヰテ部内|色麻《シカマ》柵(○今の加美郡)ヨリ發シ即日ニ出羽國大室驛ニ到ル。……同月十一日將軍東人|廻《カヘ》リテ多賀柵ニ至ル。自導キテ新ニ開通セシ道總テ一百六十里。……但今間無事ニシテ時、農作ニ屬セリ。發セシ所ノ軍士ハ且放チテ且奏ス
といへり。奏言中東人が麻呂に復命せし辭に折角夷地ニ入リシガ城※[土+敦]モ作ラズシテ歸(390)リシハ無用ノ征役ニ似タレド其功後年必現ルベシといひて但爲※[vを□で囲む]東人自入d賊地u奏3請將軍鎭2多賀柵1といへり。文意やや不明なれど征夷大使ハ今ノ如ク多賀柵ヲ根據地トスルガヨシと云へる如し。さて其言の如く多賀城は其後久しく征討の根據地となりしなり。所謂多賀城碑に
 此地神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將軍從四位上勲四等大野朝臣東人之所置也
とありて諸書皆之に誑かれたれど東人當時未按察使にも鎭守將軍にもあらず。何の權に依りてか擅に此城を築かむ。もし上司に命ぜられて築きしならば築城者としてはその上司の名をこそ録すべけれ。なほ多賀城碑考にいふべし。所詮多賀柵(多賀城)始置の年月は知られざるなり。麻呂の先任は其兄宇合なり。即神龜元年十一月に征夷持節大使藤原宇合等來歸(○凱旋)とあり。さて翌年閏正月に宇合等十四人に位勲を授けられし中に東人は第二位として從四位下勅四等を授けられたるを見れば東人が當時征夷に大功ありしことは明なり。山海兩道とは多賀柵を基として東、牡鹿郡を經る道と西、賀美玉造の諸郡を經る道とを云へるなり。當時多賀の外に牡鹿・新田・色麻・玉造等の五柵ありしこと奏言中に見えたる如くなるが多賀柵は海山二道の相會せる處なれば特に重要なる(391)地として征夷使の根據地と定められしなり○兵部省式陸奥國に
 驛馬 柴田・小野各十疋、名取・玉前・栖屋・黒川・色麻・玉造・栗原各五疋
 傳馬 柴田・宮城郡各五疋
とあり。柴田驛〔三字傍点〕は篤借驛の次なり。和名抄柴田郡に同名の郷あり。地名辭書に白石川の左岸なる大河原町とし大槻修二氏の驛路通にその東北なる舟迫《フナハザマ》村(今|槻木《ツキノキ》町の大字)とせり。即吾妻鏡文治五年八月の船迫宿とせるなり。小野驛〔三字傍点〕は和名抄に小野、驛家と並べ擧げたるを地理志料には驛家を小野の註と認めたり。然るに地名辭書には柴田驛の所在地とせり。辭書の文義混亂せり。おそらくは錯誤あらむ。今川崎村に大字小野ある是にて(或は大字前川か)こは羽前より多賀國府又は京師に通ずる別路に當れるなり。驛路通に
 同國同郡小野宿 奥羽兩路の分岐地なれば以下馬數半減となるなり
といへり。奥羽兩路の分岐地は柴田驛なり。名取驛〔三字傍点〕は和名抄名取郡郷名に名取、驛家とあり。名取驛家郷と心得べし。地理志料に前田村(中田村大字)とし地名辭書にも中田村とせり。驛路通には其北なる郡山村(今仙臺市の内)とせり。按ずるにこも亦別路驛ならむ。小野驛より國府に到るに今一驛を要すればなり。又別路驛なればこそ玉前驛の前についで(392)たるなれ。玉前驛〔三字傍点〕は名取郡に同名の郷あり。はやく云へる如く今の岩沼町の附近なり。地理志料に
 今南|長谷《ハセ》村(○今千貫村大字)ニ玉崎ノ地アリ。玉崎神祠在り。是名ノ遺レルナリ
といひ地名辭書に
 今千貫村南長谷に玉崎の地名の遣れるは蓋驛家の址にして山海兩道の交會とす。原書一本にタママヘの傍訓あるは誤れり
といひて封内風土記に
 玉前者武隈以南之地。今長谷邑有d號2玉崎1地u
といへるを引けり。和名抄郷名に
 名取郡 指賀、井上、名取、磐城、餘戸、名取〔二字傍点〕、驛家、玉前
とあり。地理志料に第二の名取を重出として
 蓋書胥ノ失ナリ。高山寺本之ヲ載セザルヲ正シトス。宜シク刪リ去ルベシ
といひその次の驛家を玉前の下に轉して玉前驛家と改めて
 按ズルニ驛家ノ二字諸本錯リテ玉前ノ上ニ在リ。今延喜式ニ依リテ訂ス
(393)といへり。削れるも轉じたるも共に非なり。名取は重出にあらず。名取驛家とつづけるなり。本郷の外に驛家郷ありしなり。高山寺本に之を載せざるは驛家郷なるが故なり。さて志料辭書に名取驛を今の中田村に擬したるは本郷と驛家郷とを混同したるなり。栖屋驛〔三字傍点〕は和名抄宮城郡に柄屋郷あり。いづれか正しからむ。驛路通に栖屋を正しとしスノヤと訓みて今の利府《リフ》村の大字|菅谷《スゲヤ》に擬したり。一流の頓智のみ。何の證據もあるにあらず。學問と座興とは混同すべからず。さて驛址は今知られず。無論仙臺市附近なるべく最國府に近きは此驛なるべし。黒川驛〔三字傍点〕は和名抄黒川郡に驛家郷あり。志料に
 田邊希文(○封内風土記)曰。今下草村有2黒川地1。是其遺名
とあり。今の鶴巣《ツルノス》村大字|下《シモ》草は吉岡町の東南にあり。驛路通に
 下草村 村人は黒川町と唱ふ。今の國道仙臺市より吉岡町に通ずるは元和二年開通せしもの、多賀國府より玉造への古道は此黒川町を通行せしなり。近來四近を合せて鶴巣村となる
と云へり。此驛は多賀の國府より膽澤の鎭守府に到る第一驛なり。色麻驛〔三字傍点〕は和名抄色麻郡に同名の郷あり。色麻《シカマ》は今の賀美郡色麻村の大字|四竈《シカマ》にて中|新田《ニヒタ》町の南に在りて縣(394)道に沿へり。古、此處に色麻柵ありき。前引續紀天平九年四月の文に見えたり。地名辭書(四一五四頁)に
 色麻は播磨國飾磨と同言なるが又此に伊達《イダテ》神社ありて播磨にも射楯神社あれば此神の氏人が遷住せるに因りて此にも其名あること明確なり。從ひて信夫郡を分てる伊達郡も此なると同類なるべきこと推斷すべきに似たり
と云へり。播磨國と直接の關係あるは色麻郷ならむ(播磨風土記新考一五八頁以下飾磨郡因達里參照)。伊達神社は今も大字四竈に在り。玉造驛は和名抄玉造郡〔三字傍点〕に同名の郷あり。今の岩出山町の附近ならむ。古、玉造軍團・玉造柵のありしも亦此地なるべし。軍團と柵とはもとより別處なるべからず。軍團は神龜五年四月に見え柵は天平九年四月に見えたり(因に云はむ。伊達政宗は千代即仙臺に徙る前は岩手山に居りき。岩手山は即岩出山なり)。終に栗原驛〔三字傍点〕も亦和名抄栗原郡に同名の郷見えたり。今の尾松《ヲノマツ》村に大字栗原あり。此地なり。伊治城・姉齒松なども遠からず。日本後紀延暦十五年十一月に
 陸奥國伊治城玉造塞相去卅五里。中間置v驛以備2機急1
とあり。今の一迫《イチノハザマ》町にや○仁徳天皇紀に
(395) 五十五年蝦夷叛之。遣2田道《タヂ》1(○上毛野君祖|竹《タカ》葉瀬之弟)令v撃。則爲1蝦夷所1v敗以(テ)チ》死2于|伊寺水門《イシノミナト》1。時有2從者1取2得田道之|手纏《タマキ》1與2其妻1。乃抱2手纏1而縊死。時人聞v之流涕矣。是後蝦夷亦襲|之《テ》略2人民1因以掘2田道墓1則有2大蛇1發瞋v目自v墓出以(テ)咋2蝦夷1、悉被2蛇毒1而多死亡。唯一二人得v免耳。故時人云。田道雖2既亡1遂報v讐。何死人之無v知耶
とあり。飯田氏の通釋に
 伊寺水門未詳。いにし享和元年春陸奥國牡鹿郡石卷蛇田村より靈蛇田道公墳とゑりたる石碑を掘出せる事あり。石卷古の伊寺水門と云事しられたり(橘千蔭が歌集うけらが花にもこの事をよめり)といへれど右の墳は全く後人の僞造と云事後に知れて今は誰も諾なふ者もなしといへり。按に墳こそは僞造なるべけれど牡鹿郡は桃生郡に隣りて古昔夷地の界にてはありけらし。石卷も兩郡の堺にて(○否)海邊へ突出たる湊なれば(○否)此伊寺水門ならんも知がたし。されどなほよく考ふべし
といひ十符のすが薦に
 蛇田村の禅昌寺にゆく。田道の墓を見んとてなり。寺のかたへに杉の大木ふたもとたてり。その下に臺石ありて墓はなし。さるは小さき石なる故に里の兒輩のもてあそび(396)ものにすれば常は寺にをさめおくよしにて則ち禅昌寺にいりたるに住持ひとりいだきてもて出たり。表に靈蛇田道公墳と※[金+雋]れり。公は此人の姓なり(○即上毛野君の君なりといへるなり)。かたはらに一行こまかなる文あり。もじ篆書めきてよめがたし。これもし眞物ならんには仁徳の御代の頃などにもやたてけん。さては皇國のうちにこれより古きはなき碑なるべけれど石の質もじの樣など事好める人のいつはりつくれるにやの疑ひありてうけがたくおぼゆるものから委しくただすいとまなくてその處を去りぬ。後にきけば今はむかし鹽釜神社の神官藤塚知明といふ者ひそかに此碑をつくりて土の底に埋めおき享和元年の五月に掘り出てここに置たるよしなり。さるはかかるあぢきなき事をなどてしつらんとおもふにこの考證をかきて博識の名を世に賣らんとてのわざにてそのあかしぶみを江門《エド》におくりたりしにそのころ名だかき千蔭春海、水戸の赤水なども一たびは欺かれたりしとぞ
といへり。蛇田村は石卷市の西北に在り。又蒲生君平の靈蛇冢碑に
 蓋土人昔神トシテ之ヲ祀ル。其祀既二廢セラルルコト數百年、而シテ今ヤ能ク此ガ何ノ冢タルヲ識ル鮮シ。寛政乙卯(〇七年)ノ秋余陸奥ニ遊ビ諸ヲ石卷ニ問ヒ一老樵夫ニ(397)從ヒテ之ヲ認ムルコトヲ得キ。其《ソレ》邑ノ西三里蛇田村ノ野中ナリ。崇サ丈餘、廣サ十五六歩ナリ。石卷は是古ノ伊寺水門ナリ。伊寺ハ石、水門ハ港ナリ。港ノ字水ヲ省ケバ卷ニ似タリ。故ニ此ヲ以テ誤ルナリ。時ニ老樵年七十餘、乃謂ハク。幼時嘗テ諸ヲ故老ニ聞クコトヲ得キ。蓋吾村ノ名タル乃此冢ニ在リト。嗟|夫《カノ》蒭※[草冠/堯]ノ言古事猶存ゼリ。還リテ鹽竈ノ源子章(○藤塚知明)ニ語ル。子章ハ好古ノ士ナリ。欣然トシテ喜、色ニ形《アラハ》ル。乃余ニ強ヒテ之ガ碑文ヲ撰ス云々(〇原漢文)
とあり。君平が如何なる理由にて此塚を田道の塚と認めしかは不明なれど(おそらくは老樵が野中の古墳を指してただ吾村之爲名乃在此冢と告げしを君平が私に田道の墓と定めしならむ)此時いまだ碑はありしにあらず。從ひて君平が藤塚某に欺かれしは某が靈蛇田道公墳といふ碑を造りて土中に埋め享和元年五月に之を發掘してかかる物彼塚より出できと君平に知らせ遣りし後の事なり。地理志料私加牡鹿郷の下に
 伊能穎則曰ク。伊寺清讀。今之石卷即其地也ト。因リテ謂《オモ》フニ湊村ハ即伊寺水門、石卷ハ即伊寺牧ナリ。牧山アリ(○石卷市湊の東北端に)。蓋古ノ放牧ノ處ナリ。……予嚮ニ伊寺水門考ヲ著シテ如蘭社話ニ插刻セリ。參覽スベシ
(398)といひ如蘭社話卷二に
 この伊寺といへる地は陸奥國ならでは事實の※[立心偏+篋の竹冠なし]はぬことと年まねく疑ひ居しを此ごろ伊能穎則の陸奥日記(天保十四年著)を見しに
  松島を立いでて高木・小野・矢本を經て石卷にやどる。田道《タヂ》の臣の蝦夷と戰ひし伊寺のみなとはここなりとぞ
 とあるにて疑團はやや釋けたれどいと簡潔にかかれたれば伊能氏自らの發揮なりや、はた先輩の説を引れたるにや知りがたきなんくちをしき。
  ○伊寺水門が石卷なりといふ説は地方にては夙く行はれたりしなり。君平の寛政七年の作なる靈蛇冢碑にも石卷是古之伊寺水門也とあり。村岡氏が珍説として驚けるはやや※[立心偏+貴]からずや。又穎則の發見にあらざるはココナリトゾと云へるにて明ならずや
 故姑く石卷なりといへる説に因りて彼此の書を徴《アカ》すに延喜神名帳に陸奥國桃生郡石神社(今本にイシガミノヤシロと旁訓さしたれどこはイシノカミノヤシロとぞ讀べき)といふがありて文徳實録に仁壽二年八月辛未陸奥國石神授從五位下とある同(399)神なるべくて石は即ち伊寺にてこの地名に依て稱へ奉りし御名なるべし。石卷今は牡鹿郡に屬《イリ》たれど桃生郡とその境いとちかく郡郷のいりみだれたるは諸國に例多かれば論なかるべし。
 ○石神社はげにイシノ神社と訓むべし。但此神社は決して石卷に在るべからず。牡鹿郡は本來桃生郡の母郡なり。即桃生郡は牡鹿郡より分れたるなり。さて牡鹿郡は眞野川の河口より開けしなり。即石卷は牡鹿郡の中心地なればいつの世といふとも石卷即眞野川の河口を桃生郡に屬すべからず
抑寺は本來清音なれば伊寺も清音にて石と同言なる事の知られて石卷その地なりといはれつる誠に卓論と云べし(井上頼圀云。石卷の隣村蛇田村より田道墓を掘出しし事のありしは俗人の僞作ながら石卷に然る古傳のありしに據しなるべく云々)。地圖にあかすに石卷驛と北上川を隔てて湊村といふがあり。其間の海灣を總て石卷港とぞいふなる。湊は即伊寺水門、石卷は即伊寺牧にて中古牛馬をやしなはれし故の名と聞え奥羽觀蹟聞老志卷九に牧山大悲閣在2海門《ミナト》村1、石旋《イシノマキ》河東大山、有v寺云々と。ここなん其牧の遺址なるべき。むかし伊達政宗卿その封内の古跡勝地どもここばくさぐり(400)出されしに〔伊達〜傍点〕田道將軍墓と石神社とに及ばざりしはいとも口をしき限なりけり
といへり。石卷は伊寺牧にて伊寺水門は石卷港なりと云へる、殆動かすべからざるが如し。人或は封内名蹟志卷十四に
 或は曰ク。往古北上川流レテ直ニ追波湊ニ至リテ海ニ入リシニ中古鹿股ノ地(○今の桃生郡|麻又《カノマタ》村)ヲ裂イテ石卷ノ海門《ミナト》ニ入リ二流トナリテ海ニ人ルト云フ。然レドモ何ノ代ナルコトヲ知ラザルナリ(○原漢文)
とあるに據りて伊寺水門が今の石卷港なりといふ説を疑はむ。名蹟志にいへる事は事實にてそは元和寛永の交なり。但そは眞野川の河口を利用せしなり。水門は夙くより有りて之を牡鹿湊といひき。此湊ありしが故にこそ牡鹿郡は夙く開けしなれ。眞野川は石卷市湊の東北方より發し末は今は北上川と合一せり。官軍はこの牡鹿湊より上陸せしなり。もし牡鹿半島を周りて追波川の河口より入りけむには桃生柵を作るに大河に跨り峻嶺を凌ぐべからざればなり(續紀寶字四年正月參照)。ここに水戸の青山延壽の作れる田道將軍墳墓并祠廟考といふ書あり。其説に
 青森の市中に猿賀神社あり。何の神たるかを知らず。又弘前の東なる猿賀村に此社あ(401)るには田道將軍を祀れりと傳へたり。ここに秋田縣陸中國鹿角郡に猿賀野村あり。又猿賀權現あり。猿賀權現祠ハ郡署ノ北ナル猿賀野村ニ在リ。村ノ東南二町ニ一小丘アリ。東西七八間、南北五六間。其上ニ祠堂アリ。方二間。又小神殿アリ。其下ニ一大石アリ。横五尺、縦四尺、高サ一尺。形菱角ノ如シ。相傳フ石下ハ則權現ノ遺體ヲ葬レルナリト。土人尊尚シテ大權現トシ何ノ神タルカヲ知ラズ(○原文直譯)。傳説を參考するに是田道將軍の墳墓并祠廟なり。又本郡ニ米代《ヨネシロ》川アリテ南ヨリシ大湯川(○毛馬内《ケマナイ》川)アリテ北ヨリシ二川合流シテ秋田ニ人レリ。是ヲ野代《ノシロ》川トス。合流ノ處ニ石野村アリ。伊寺水門は此處を云へるならむ。サルガは蝦夷の語にてサルは蘆葦水澤の義、カは語助なり。然れば猿賀神社は此地を以て本社とすべし。弘前青森に在るものは分社なり。抑當時ノ大勢ヲ通觀スルニ元正帝而上數百年蝦夷ニ事アル者ハ皆越後蝦夷ナリ。同帝靈龜元年而下ニ事アル者ハ陸奥蝦夷ナリ。余故ニ云ハク。田道將軍ガ征セシ所ノ者ハ越後蝦夷ナリ。其戰死ガ鹿角ニ在ルハ明ナリ。其祠ガ鹿角ニ在リ弘前青森ニ在ルモ亦宜シ。イハムヤ渡島人ガ今ニ至ルマデ尊奉セルコト亦以テ一證トスベシ(○原漢文)
と云へり。鹿角と津輕と今國を異にし縣を異にすれど鹿角郡は北、南津輕郡に接して境(402)相へだたらず。所謂弘前之東なる猿賀神社は南津輕郡猿賀村大字猿賀に在り。日本地誌提要にも
 猿賀神社 郷社○津輕郡猿賀村、上毛野君田道ヲ祭ル
とあれば(隨鑾紀程卷四參照)猿賀神社の祭神は田道にてもあるべし。米代《ヨネシロ》川大湯川等の合流の處を伊寺水門とするは如何。川の合流せる處は昔より落合川合など云ひてミナトとは云はず○當國に國幣中社二所あり。今共に宮城郡鹽竈町なる千賀《チカ》山上に在り。一は志波彦神社にて一は鹽竈神社なり。甲は神名帳の名神大社にてもと同郡岩切村に七北田《ナナキタ》川一名冠川の北岸に在りて近古冠明神と稱せられしが明治四年五月國幣中社に列せらる。然るに社頭いたく衰微したりしかば同七年十二月鹽竈神社の境内なる別宮に合祀せられき。但本來塩竈神社とは何の關係も無きなり。塩竈神社は式内社にあらねども夙く其名は延喜主税式に見え又鎌倉時代より漸次世に時めき伊達氏以來いたく尊敬せられしかば志波彦神社を其境内に遷すと共に即明治七年十二月に至りて始めて國幣中社に列せられしなり。兩社共に祭神は不明たり。されば今もただ志波彦神と稱し鹽竈神と稱せり。冠川一名神降川、恐らくは此方が原名ならむ。即カムオリがカモリと(403)つづまり更にカムリと訛られしならむ。その冠川明神を又志波ノドウジヨウノ宮と稱しき。さてそのドウジヨウに或は道上の字を充て或は道場の字を充てたり。道上が正しきなり。觀蹟問老志に道上を同社の誤とせるは甚しき誤なり。道上はミチノホトリと訓むべし。志波は地名なり。從來その志波を在志波と解釋せるに似たり。按ずるに志波は到志波の義にて志波道上宮は志波ニユク道ノホトリノ宮の義なり。神名を志波彦といふを思へば志波を開きし神又は志波を開きし人の奉じていつきし神ならむ。その志波は何處ぞ。今の陸中國盛岡市の南方北上川の兩岸に亙りて紫波郡あり。始めて郡を建てられしは弘仁二年なれど志波村の名は夙く延暦八年の紀に見えたり。志波(又斯波又紫波)郡は當時の華夷の界にて彼岩切村は實に多賀國府より玉造城・膽澤の鎭守府などを經て志波郡に到る途なり。志波彦神の志波は此志波郡なり。神は蓋嚮導先鋒の神か。以上所言を基礎として研究せば此神に就いて多少闡明する所あるべし。從來の如き消極的の認識にては此神の特に貴ばれし所以は悟るべからず○今の陸前國の全部陸中國の江刺・膽澤・東西の磐井、磐城國の亘理・伊具・刈田(外に宇多の一部)即宮城縣全部と岩手縣の南部とは悉く舊仙臺領なり。かく居然たる大封なれば家中に一門一家一族などあまたの(404)門閥ありて其中には采地二萬石以上のもの四家、一萬石以上のもの又四家あり。以上八家は伊具郡|角田《カクタ》の石川氏、亘理郡亘理の伊達氏、膽澤郡水澤の伊達氏(留守氏)、遠田郡|涌谷《ワクヤ》の伊達氏(忠臣安藝宗重の家)登米《トヨマ》郡登米の伊達氏、玉造郡岩出山の伊達氏(以上一門の内)刈田郡白石の片倉氏(一家の内)志田郡松山の茂庭氏(一族の内)にや。文庫に然るべき参考書なし。他日審定すべし。右の内亘理の伊達氏と片倉氏とは明治年間に男爵を賜はりき
                (昭和十四年七月二十九日稿)
 
  〔多賀城碑〕
原文左の如し
   去京一千五古里
多賀城
   去蝦夷國界一百廿里
   去常陸國界四百十二里
   去下野國界二百七十四里
   去靺鞨國界三千里
(405)西
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎮守將
軍從四位上勅四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬虎参議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎮守
將軍藤原惠美朝臣朝※[獣偏+葛]修造也
     天平寶字六年十二月一日
〔入力者注、去京〜一日、まで全体を□で囲む。「西」はその外。〕
 
碑の高さ凡六尺五寸、濶さ凡三尺四寸なりといふ。今の宮城郡多賀城村大字市川なる縣道鹽竈街道の南側なる丘上にあり。仙臺市より東北に、鹽竈港より西南に當れり
多賀城碑は古くよりツボノイシブミと混同せられたり。近古多賀城碑現はれぬと聞きし世人は多賀城碑の名は初耳なればそれこそ従來所在の不明なりしツボノ石ブミなれと速断して後に一二の識者の警告せしをも顧みず全く兩者を同物と誤認せしなり。されば多賀城碑の事を云はむとするにはまづツボノ石ブミの事を云はざるべからず。新古今集雑歌下に
 前大僧正慈圓、文にては思ふ程の事も申し盡しがたきよし申し遣して侍りける返事(406)に 前右大將頼朝 みちのくの いはでしのぶはえぞしらぬかきつくしてよつぼの石ぶみ
とあり。岩手も信夫も共に陸奥の地名にて名高かれば言はデ偲ブといふことにミチノクノを枕辭として冠らせたるにて彼|垣衣《シノブ》ノミダシ榻の義なるシノブモヂズリにミチノクノと冠らせたると同巧なり(イハデのみに冠らせたるにあらず)。又ツボノ石ブミは同じき陸奥の名物なれば之をカキツクシテヨのカキの倒置枕辭に用ひたるにてその倒置枕辭はマダフミモミズアマノ橋立などの例を追へるなり(萬葉集新考二二二三頁以下倒置の枕辭〔五字傍点〕參照)。されば一首の意は口ニ言ハズシテ唯心ノ内ニ我ヲ偲ビタマフトイフハ得知ラズ、タダオモホス心ヲ書キ盡シテ我ニ見セタマヘといへるなり。ともかくもツボノ石ブミは當時夙く世に知られたりしなり(エゾは縁語と見ざらむ方まされり)。袖中抄卷十九に
 いしぶみ  いしぶみやけふのせば布はつはつにあひ見てもなほあかぬけさかな
 顯昭云。イシブミとは陸奥のおくにツモノイシブミあり。日本の果といへり。但田村將軍征夷之時弓のはずにて石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば石文といふ(407)といへり。信家侍從の申ししは石の面ながさ四五丈許なるに文ゑりつけたり。そのところをツボと云云々。それをツモとはいふ也云々
と云へり。初二はハツハツニにかかれる序と見ゆれどイシブミヤケフノセバ布といふこと通ぜず。誤字あるにや。長久保赤水東奥紀行中多賀城碑を尋ねし條に
 岐路アリ。甚小シ。誤リテ大路ニ就ク。傍叢中ニ石アリ。題シテ壺碑路ト曰フ。南都ノ墨匠古梅園ノ建ツル所ナリ。……右折シテ野徑ニ入ル。一室アリ。方九尺許。瓦屋ニシテ四面|隔子《カウシ》ナリ。中ニ多賀城碑アリ。高サ六尺有奇、幅三尺餘ナリ。諸國ノ道程ヲ記セリ。千餘年ヲ經ト雖字摩滅セズ。楷正視ルベシ。俗ニ之ヲ壺碑ト謂フ。余按ズルニ壺碑ハ本、南部ニ在リ。袖中鈔ニ見エタリ。今多賀城修造碑ヲ以テ目シテ壺碑ト曰フ。蓋風土記ノ譌ナリ(○此風土記は僞作の總國風土記なり。古風土記にあらず)。諸國ノ風土記巳ニ亡《ナ》シ。今世ニ存ズル者多クハ後人ノ附會ニ出ヅ。信ズルニ足ラズ。古歌ハ皆南部ノ壺碑ヲ詠ゼルナリ。碑ハ北郡(○青森縣上北郡)七戸《シチノヘ》ノ壺村ニ在リ。今ノ南部ノ北郡ノ地、古岩手郡ニ屬シキ。碑面ニ日本中央ノ四字ヲ題セリ。相傳フ田村將軍ノ所爲ナリト。後人之ヲ埋メ祭リテ石文明神トス。碑今ハ亡シ。元禄年中吾藩ノ士丸山可澄遠ク東奥ニ遊ビ因リテ(408)便《ツイデ》ニ南部ノ壺碑ヲ尋ヌ。土人ノ傳フル所モ亦是ノ如シ。事ソノ紀行ニ見エタリ(○原漢文)
といひ文化の初盛岡藩が其家人をして作らしめし舊蹟遺聞に
 つぼの碑は北郡七戸と野邊地との間に壺村石ぶみ村といふところあり。この所にむかし碑ありし故に壺碑と名づけしといひ傳ふ。今はその碑なし。土人いひ傳ふるには壺村と石ぶみ村との(此間二里許へだたりぬ)中らに千引明神の宮あり。昔この宮の下に彼石は埋めたりとぞいふ。……土人のいふ。昔このあたりに碑あり。いと大なる石なりしをいつの頃にかありけむこのあたりを田畑などにせんとにや便あしとて彼石碑をひきのけんとするに多くの人ものしけれども彼石碑動くべくもあらず。然るに……さるあやしき事のありしによりてそを土中に埋めて其上に宮をたてて神といはひ千引明神と申けりと云へり。……さて今千引明神の宮所は壺村へもいしぶみ村へも一里程づつ隔たれり云々
と云へり。多賀城碑とツボノイシブミと無關係なること既く明になりたれば以下は專多賀城碑の事を云はむ。然るに多賀城碑の事を誤りてツボノイシプミといへるものあ(409)り(五萬分一地形圖にすら壺之碑と記せり)。此等はツボノイシブミとありても多賀城碑の事を云へりと心得べし。茲に水戸彰考館所藏に支禄清談といふ書あり。其奥書に文禄の年號ありといふ。文禄は天正の後、慶長の前なり。栗田氏が其中より抄出せる一節に
 奥州宮城郡〔三字傍点〕ニ坪(ノ)石文ト云名所〔四字傍点〕ハ古ヨリ其名高ク侍リ。去ル頃(○夢庵の晩年より數へても凡七十年)夢庵老人(○牡丹花肖柏)ノ云。坪石文ト云ハ昔東夷蜂起シテ帝都ヲ蔑如シ奉ラント企テ已ニ軍勢馳上ルベキ由急カニ聞エケル間帝都ヨリ征伐ノ斧鉞ヲ下サレ勅使已ニ馳下リ敵軍ヲ遮テ宮城野ニテ〔五字傍点〕相闘ヒ忽一戰ノ下ニ官軍討勝、彼賊徒ノ大將ヲ生捕テ重テ帝城ヘ敵對シ奉ルマジキ由ノ誓文ヲ石ニヱリツケ扠彼所ニ哩ミ置タリトゾ。彼誓文ノ償トシテ死刑ヲ免ゼラレ賊徒ハ還リニケルトカヤ。此故ニ石文トハ云傳ヘタリト云。又去ル永禄ノ中ゴロ彼石文ノアタリヲ其隣里ノ農人畑ヲウタントテ土ヲ掘カヘシケルニ不思アヤシキ石を掘出シケル。其石ニ文字アマタ見エケル間是ハイカニト長ニ告ケレバ長頓テ彼石ヲ見テ工夫スルニ疑フ所モナキ石文也ト云テ其石ニアル文字ドモヲ書トメテ又モトノ如ク埋ミ置タリト云。扠石ノ文字トテ寫シケルヲ見レバ天平〔二字傍点〕年中大野東人軍忠アリシ事ナド書テ其外に此所ヨリ東西(410)南北ノ道ノ法ヲ書セリ。或ハ△鞨國ヘ(○上字は靺の謬字)三千里或ハ帝都ヘ何程又イヅレノ國ヘ何百里ト方角トヲ書計也。是彼誓文ナルカ。此趣バカリニテハ誓ノ文トハ見ガタシ。但シ右ノ分計ニテモ誓ナルニヤ。時代ハルカニ押移リタルコトハ加樣ノ類多シ。其上當代ノ歌人達ヘ此事問侍レド治定ノ説スクナシ。但又此事歌道ノ上ノ秘事ナルニヤ
とあり。前半は所謂ツボノイシブミの事をいひ後半は多賀城碑の事を云へり。此書もし信ずべくば多賀城碑は夙く文禄年間に、否永禄の中ごろに(文政より更に三十年許古く)世に知られきとすべく從ひて伊達家の僞造なりといふ疑は晴れぬべし(政宗が仙臺に移りしは慶長七年)。されど此文禄清談とはふ書は極めて疑はしき物にて奥州宮城郡ニ坪石文ト云名所ハといふ冒頭を見ても仙臺に多賀城碑が出現せし後に書けるものにて文禄年間に書けるものにあらず。されば此書は僞書と斷ずべし。之を除きて多賀城碑の事を云へるに似たる史料の最古きものは(否之より古き物あり。末に擧ぐべし)水戸光圀が仙臺に贈りし書状なり。栗田氏の多賀城碑ヲ發見セシ事といふ文に
 陸奥多賀城ノ碑ハイツバカリノ程ニカ世ニ隱レテ久シク知ル人モ無カリシヲ我舊(411)藩主源義公好古ノ御心深ク仙臺領主伊達某侯ニ其碑石捜索ノ事ヲ依頼セラレシニ依リ仙臺ニテ諸所ヲホリ穿チナド辛ジテ世ニ顯ルルニ至リシ也トゾ承ル。ソハ如何ナル徴證アリテ云ゾト云ンニ
と云ひて久方蘭溪の見聞録と山田聯の北裔備考とを引けり。さて栗田氏の云へる事は見聞録に依れるにて光圀の書状に云へる所は全然右と別なり。その書状を光圀が仙臺に贈りしは那須國造碑修復後なれば元禄五年以後なり。されば伊達某侯といへるは政宗の曾孫綱村なり。栗田氏は筆を繼ぎて
 コノ二證ヲ得タルニヨリ確實ナル證ヲ得ント其事跡ヲ捜索セシニ果シテ義公ノ書簡集ニ左ノ一通ヲ得タリ
といひて光圀の書状を掲げたり。その文にいはく。
 下野那須領湯津上と申所にて那須國造之墓有之其上に石碑立申候。持統天皇時代之碑にて御座候。下官領分近隣に候故石碑之事具に傳承、近年石碑を致修復、其上に一小亭を建、側に一小庵を構候て別當を指置申候。就夫存寄申候。陸奥守殿御領内宮城郡壺之石碑之事古今其かくれなき碑にて候。近來及破損候由傳承候。御領内之事を外より(412)箇樣之事申候段指出申たる樣に候得共何卒修復を加へ碑の上へ碑亭を建、永代迄傳り申樣に仕度念願に候。下官修復仕候と申事御家中之衆被存候所も如何に存候間家來之者などは遣し申間數候。出家を一人頼、其出家方々勸化いたし修復仕候分に致申度候。陸奥守殿と下官間柄之事に御座候故心底を不殘申達候。御料簡之上不苦思召候はば出家一人遣候て修復いたし候樣に可仕候。此段は御家老中へも御沙汰被成候事御無用に被成被下候樣にと存候。右之段委細御物語頼入存候以上
といへり。栗田氏は提綱《ミダシ》に答松平陸奥守某書と書きたれど綱村の事を陸奥守殿といへるを思ひ綱村ニ話シテクレといふ事を「御物語頼入存候」と云へるを思へば此書状は綱村に充てたるにはあらで恐らくは其一族の大名某(從兄田村建顯か)に贈れるものならむ。さて光圀は宮城郡にツボノ石ブミに擬せらるる古碑ありと聞きしのみにてそが如何なる物とも知らず其現状如何といふ事も知らざりしなり。さればこそ「近來及破損候由傳承候」といへるなれ。見聞録に
 坪碑イツノ頃ヨリカ士中ニ埋レテ知ル人ナシ。……然ル處近頃水戸相公光圀卿是ヲ再興センコトヲ國主ニ望玉フ。依テ國主捨ガタク彼城跡ヲウガタシメ玉ヒ石ブミ(413)再ビ世ニアラハル。彼城跡ニ建置カレ諸人ノ見ル所一字ノ磨滅ナク筆跡甚奇古也
といひ北裔備考に
 此碑久ク湮滅ス。水戸義公命ジテ捜索セシメ今ナホ之ヲ遺址ニ存ズ
といひ田宮仲宣の橘庵漫筆に
 多賀城碑は伊達吉村〔二字傍点〕朝臣大に巨萬の費を費し宮城郡二里四方を地下五尺づつ掘せられてその掘出せる所におかる。今宮城郡市川にあり
と云へるは(三書の文は共に栗田氏之を引けり)光圀の書状の趣と一致せず。光圀の書状の趣は專博傳に依れるなれば實は多賀城碑は當時いまだ土中より現れず光圀の要求に促されて仙臺藩主が試掘せしめしに由りて始めて土中より現れしにか知るべからざれども、もし當時夙く現れたりしにあらずば宮城郡〔三字傍点〕壺之石碑之事とまでは云ふべからず。又光圀はたとひ傳聞に依るとも信ずべき取據あるにあらずば輕率にも他領内なる古碑を修復せむとはいひ入れじ。常識を以て斷ぜば元禄五六年の頃多賀城碑は夙く土中より現れたるに藩主厚く之を保護せずその荒廢に任せたりしかば光圀此事を傳聞して自之を修復せむことを望みしならむ。さて鋼村、光圀に答へて「碑は決して破損に(414)至らず。儼然として存ぜり。近く雙鉤を造りて送るべし」とぞ云ひけむ(當時我邦にてはいまだ拓本を造ることを得ざりき)。其返書の傳はらざるは伊達家の爲にも遺憾なり。
 ○橘庵漫筆に碑の出現を吉村の時とせるは誤なり。吉村は綱村の養子にて其治封は元緑十六年八月以後なり。即佐久間洞巖の打碑にさへ後るること四年なり。「宮城郡二里四方を地下五尺づつ掘せられて」と云へるは辨せずとも人信ぜざらむ
佐久間氏の奥羽觀蹟聞老志卷六下に
 壺碑ノ我東奥ニ在ルヤ久シ。然ルニ累世人ノ其神妙ヲ識ル者無ク空シク古城草莽ノ中ニ蕪没セシ者幾千年ナラム。水戸黄門君其文字ヲ我大守綱村君ニ請フ。儒臣田邊氏(○希賢)ヲシテ雙鉤シ以テ遣ラシム。未石刻(○摸刻)ニ及バザルハ尤惜ムベシ。元禄十二年江定守及亡子義|方《ノリ》ト此地ヲ經、義方ガ術ヲ以テ之ヲ打シ去リテ其文字ヲ閲スルニ筆勢高古字體寛閑ニシテ殆尋常ノ書ニ非ズ。……爾後州人略ソノ奇跡ナルヲ知ルナリ。正徳甲午春(〇四年)當太守君(○吉村)僕ニ命ジテ雙鉤シ以テ之ヲ進メシム。筆者ノ姓名ヲ質シテ其左證ヲ風土記殘篇中ニ得テ始メテ見雲眞人ノ筆痕ナルヲ知ル。謂フベシ其時ヲ得テ顯ハルル者ト(○原漢文)
(415)と云へり。風土記殘篇中ニ得テといへるは彼日本總國風土記に
 陸奥國宮城郡坪碑|有〔左△〕2鴻之池1(今廢)。爲2故珍守門碑1。惠美朝※[獣偏+葛]立v之見雲眞人清書也。記2異域東邦之行程1令d旅人不uv爲2迷塗1
とある是なり。此書は徳川氏時代に成りし僞書にて(肥前風土記新考緒言一三頁)洞巖は京都より來り仕へし田邊希賢に聞きて此書にかくあることを知りしなり
以上所言の如くなれば多賀城碑はもし僞造とせば藩主の僞造とせざるべからず。資力を具し特に人の眼を掩ひ人の口を塞ぐには威力を具せざるべからざればなり。藩主とせば政宗・忠宗・鋼宗・綱村四代の内、誰にか擬すべき。政宗は仙臺に移りし後三十四年にして寛永十三年に薨し子忠宗は封を治むること二十五年にして明暦四年(萬治元年)に卒し子鋼宗は夙く二年の後に隱居を命ぜられ子綱村は僅に二歳にて家を繼ぎ光圀が古碑の保存を諷喩しけむ元緑五年には年甫めて三十一歳なり。されば僞造者に擬すべきは政宗忠宗二代の内にて偽造は慶長七年より明暦四年まで凡六十年の内とせざるべからず。思ふに碑の成りし後直に之を土中に埋めさせ一方には文禄清談の如き僞書を作らせ又風説を假りて宮城郡の土中に所謂ツボノ石ブミ埋没せりといふことを傳へ(416)しめけむ。さて故意又は偶然の發掘に由りて元禄以前に(否白石に依れば萬治寛文の間に)彼碑世に現れけむ。さて人もあらむに光圀の如き人物より交渉を受けしかば當主綱村は何も知らず老臣中には前年偽造の事を傳聞せるものも無きにはあらねど此等は固く口を※[箝の竹冠なし]みて終に田邊某に雙鉤を作らしめて光圀に贈り引いて世人を欺くに至りしならむ。今世人が如何に此碑を見たるかを見むに伊藤東涯の※[車+酋]軒小録、並河誠所の擬集古録、長久保赤水の東奥紀行、藤貞幹の好古小録、狩谷望之の古京遺文、石原正明の年々隨筆、近藤芳樹の十符ノスガ薦、川田剛の隨鑾紀程、細川潤次郎の奥游日記等皆之を眞として疑はず(田中義成氏の論文の事は後に云はむ)。但東涯は
 大野東人ト云ハ糺職大夫直廣肆果安ノ子ニシテ神龜二年征夷ニ從テ戰功ヲ著シ從四位勲四等ヲ授ケラル。天平三年ニ陸奥按察使トナリ鐘守將軍ヲ兼、後官ヲ累テ參議大養徳守征西將軍トナリ從三位ニイタリ十四年ニ薨シ給フ。コノ碑神龜元年ニ按察鎭守從四位ノ官ヲ書スハ碑ヲ立ル時ニアトヨリ書タルニ因テ相違アリト見ヘタリ
といひ狩谷氏は
 按ズルニ續日本紀ニ東人ハ神龜元年二月從五位上ヲ授ケラル。二年閏正月從四位下(417)勲四等ヲ授ケラル。天平三年正月從四位上ヲ授ケラル。ソノ鎭守將軍タリシコト天平元年九月紀ニ見エ按察使タリシコト九年正月紀ニ見エタリ。碑ニ書ケル冠位ハ皆是城ヲ置キシ後ニ得ツルナリ。其後十一年四月參議トナリ十三年閏三月從三位ニ叙セラレ十四年十一月職ニ薨ジキ。碑ニ參議從三位ト言ハザルハ何ゾヤ。若置城ノ時ヲ以テ之ヲ言ハバ未嘗テ勲四等從四位上トダニ爲ラズ。疑ハクハ朝※[獣偏+葛]暗記ノ誤ニコソ。朝※[獣偏+葛]ノ官銜ハ續紀所載ト皆合ヘリ。但寶字五年十一月丁酉ノ紀ニ東海道節度使ト爲ルト曰ヒテ東山ト曰ハズ。然レドモ紀ニ其所管ノ國ヲ載セタルニ上野下野アリ。則知ル東山|兼《マタ》其中ニ在ルコトヲ。又六年十二月ノ紀、八年七月ノ紀及九月押勝傳ニ據ルニ並ニ從四位下ト云ヒテ從四位上ニ至リシコトヲ載セズ。是碑ハ自己ノ署名タリ。當ニ史ヲ以テ遺漏トスベキナリ(○原漢文)
といひ川田氏も
 但朝※[獣偏+葛]從四位下ナルコト正史ニ見エタリ。今、上ト曰ヘリ。未孰カ是ナルヲ知ラザルノミ(○原漢文)
といへり。又赤水は
(418) 按ズルニ多賀城碑文ニ去常陸國界四百十二里、去下野國界二百七十四里ト曰ヘリ。常陸界ノ勿來關・下野界ノ白河關各多賀城ヲ去ルコト道程稍相似タリ。而ルニ碑ニ記セル里數ノ差殆倍ナリ。疑フベキノ甚シキナリ。或ハ歌枕名寄ヲ考ヘ萬葉ノ歌ヲ引キテ曰ク。常陸ハ本陸奥ノ分國ナリト。然ラバ天平之時ノ常奥之界ハ蓋今ノ那珂港ナラム。六町ヲ以テ一里トセバ多賀城ヲ去ルコト四百十二里ナリ。此時仲・久自・高ノ三縣猶奥州ニ屬セシコト知ルベシ(○養老六年二月に菊多郡以北を陸奥國とせしこと史に見えたるにあらずや)。後世或ハ之ヲ奥郡ト謂フモ亦此ニ由ルカ(○原漢文)
といひ並河氏は
 二百七十里ハ今ノ三十一里二十五町有奇ニ當ル。按ズルニ此一路程今ニ於イテハ甚近シトス。想フニ三百里ノ三或ハ一點ヲ映キタルカ(○原漢文)
といへり(東涯の盍簪録にも亦かく云へり)。又近藤氏は
 但此碑も奈良の御代に建たりといふはいかにぞやなど疑へる人もあれどそは中々にみづからさかしがりてさくじりうがてるしれ言にて田道の碑とはならべいふべくもあらぬただしきものなり
(419)といひ川田氏は
 此碑燕澤ニ前ダツコト數百年
  ○宮城郡岩切村大字燕澤に一碑あり。弘安第五天云々と記せり。文に異字多くして釋すべからず。學者多くは信ぜず。田道碑と同じく藤塚知明の僞造なりといふものあれど知明の時代より遙に古く見ゆ。或は多賀城碑と同時の僞作にあらざるか
 而ルニ色澤反りテ及バズ。然レドモ其文簡僕其字蒼勁ニシテ決シテ後人ノ能ク捏造スル所ニ非ズ。余嘗テ文禄清談ヲ讀ムニ云ヘラク。永緑中宮城郡人古碑ヲ掘リ得尋イデ復之ヲ埋ム。其文四方ノ里程ヲ記セリト。又嘗テ水戸侯光圀ガ仙臺侯ニ答ヘタル書ヲ讀ミシニ竊聞貴邦宮城古碑頗致破損宜加修理ノ文アリ。則《サラバ》原碑毀壞シ重刻シテ之ヲ建テケムモ亦知ルベカラザルナリ
と云へり。此碑の拓本を一見して誰しも感ずべきことは古色の無きこと、字畫の明晰なること、特に燕澤碑と共に彫刻の極めて巧妙なることなり。誰か信ぜむ一千二百年の昔にかく巧妙なる彫工あらむとは。又誰か信ぜむ九百年間雨露に暴され又は土中に埋められながら毫も毀損を受けざらむことを。耳を信じて眼を頼まざるが人間の通弊とは(420)いひながらもし傳説文獻に囚はれざる外國人に之を示してこは一千二百年前の物ぞと云はば日本の學者の鑑識なきを笑ひなむ。殆無用なることなれど大略文の内容を批判せむにまづ碑の額に西といふ大字あり。碑は城の四門に建てしならざるべきに西と題せるは如何。狩谷氏は碑上有西字、其義未詳といへり。或は西は京都の方位にて碑は西門のみに建てたりしならむと云へり。京都は實は西南に當りたれど多賀城は東海東山の奥なれば逆に京都を指して西といへるなりとも見つべし。さるにても無用の標識と謂ふべくこそ。或は此碑は方位を正して正西に向ひて建てたりしにて京都の方といふ意にはあらざるにや。次に常陸國界と下野國界とは略相齊しかるべきを甲を四百十二里とし乙を二百七十四里とせるがいぶかしきことは前人のいへる如し。こは常陸國界が夙く養老六年に後世の如く菊多關となれるを知らでただ常陸の北部は昔は陸奥の内なりきと云へるを聞傳へて深くも史實を究めずして下野國界より三分ばかり遠くせしにぞあるべき。よしやただしく書くとも國界までの距離を記して何かせむ。藤貞幹は風土記殘篇といふ僞書に之を解して記異域東邦之行程、令旅人不爲迷塗と云へるを嘲りて
(421) 國界ヲ去ルノ里數ヲ記スノミニテ途ニ迷ハザラシムト云大簡ナラズヤ。此ヲ以テ塗ニ迷ハザル旅人アラバ一奇ト云ベシ
といへり。特に滑稽なるは去蝦夷國界一百廿里といふ文なり〔特に〜傍点〕。一百二十里は今の二十里許なれば當時の華夷の界は略今の陸中國界とすべし。さて鎭守將軍の職はただ邊境を戌るのみにあらで漸次蝦夷を驅逐するにあれば征討功を奏せば蝦夷國界は次第に加遠せむ。之を常陸下野の國界の如く固定のものとせるは何の意なるかを知らず。次に東人朝※[獣偏+葛]二人の官位のことを云はむに東人は神龜元年には按察使兼鎭守將軍にも、從四位上勲四等にもあらず。若後に陞りし官位を前に廻らして書かむとならば參議從三位とこそ書くべけれ。こは狩谷氏の云へる如し。又惠美朝※[獣偏+葛]の位階が從四位上にあらで、從四位下なりしことは狩谷河田二氏の云へる如し。又朝※[獣偏+葛]が參議に任ぜられしは〔朝※[獣偏+葛]〜傍点〕天平寶字六年十二月一日にて恰碑記と同日なり〔八字傍点〕。碑文は豫作り豫書き豫刻み碑記は今いふ除幕の日を計りて豫記すべきを朝※[獣偏+葛]は如何にしてか當自榮任を蒙らむことを知るべき。右の如くなれば此碑文は地理も歴史もよく心得ぬものの妄作なり〔右の〜傍点〕。決して朝※[獣偏+葛]の自作にあらず
(422)余ははやく大日本地名辭書を※[さんずい+劉]覽して田中義成氏が敢然として多賀城碑僞造説を唱へしを知り又恰本日(昭和十四年七月九日)其論文が古き史學雜誌に出でたるを知りき。されど其雜誌は急に獲べからず。是より先余は余の文庫に到りて多賀城碑に關せる書を拾ひ出でしに其數頗多くして之を通讀すとも一々其内容を記憶すること難からむと思ひしかばまづ十種ばかりの書を持ち歸りて此處まで書き來りき。今や地名辭書並にそれに引ける甲中氏の論文を讀み又文庫に殘れるものを讀み盡さむとす。筆を繼ぐは恐らくは數日の後ならむ
栗田大槻二翁は勿論吉田東伍氏も亦多賀城碑を眞物とせり。即吉田氏は
 本碑の制作につき之を疑ふ者ありて學者の論難今に往々之を聞くも稍少累を爲すのみ。其古碑たるに害せず(○地名辭書四一一八頁)
といひ又
 下野國界の二百七十四里の二字に(○東涯の説の如く)一畫の存滅の疑ふべきありと雖何ぞ大累と爲すを得んや。もし少故を以て物を疑はば天下の古書古器悉皆其信を失はんのみ。豈之に與みするを得んや
(423)といへり。同書に田中義成氏の文を抄して
 近世鑑古家間々多賀城碑の眞僞を議する輩ありて栗原信充氏は伊達綱村朝臣の造設となし余も亦字畫の間摸擬の氣あるを認め竊に疑心を抱き居たり。然るに文禄清談にも「宮城郡に坪石文と云ふは……」とあり(○上に引けり)。而もこの文禄清談と云ふ書は足利時代に成れる塵塚物語を改題せしものにて石文の一條は全く後人の※[手偏+讒の旁]入なり。中山信名文禄の古寫本を見て其疑を散ぜし由鍋田三善の磐城志に見えたり(○岩磐史料叢書上卷所收磐城志卷二)。また水戸藩の佐々宗淳が那須國造碑考に
  凡上世碑※[石+曷]今存2于世1者此碑與2陸奥壺碑1也。而壺碑|爲《セラル》2好事者往々摸寫1。此碑在2荒墳茂草之間1無2人識v之者1
とありて多賀碑は郡須碑よりも先出と見ゆ。宗淳が那須碑考は貞享元禄の際に書せしものとす。吉田友好(天保年中人)の著仙臺金石誌に
  佐久間洞巖殘篇風土記を京師より購ひ得て坪碑は宮城郡市川村にありといふを看て驚き頓てその邑にゆき普く尋るに得ず。水に没せるにやあらんと市川と云ふ水の流に治ひそこはかとなく掻き探りけるにいづれの橋にやそが下に泥の中に(424)大なる石の埋れたるを見て土人して揚げしむるに果してこの碑を得たるは洞巖の功なりと云ふ云々(○原文のままならず。特に原文には初に日野昌輔の話とあり又終に天保壬寅十月十九日とあり)
 之に據れば洞巖の發見の如くなれど實は僞作にして當時の藩主綱村亦與りて之を知れるに似たり云々
と云へり。綱村洞巖の僞造にあらざること夙く大槻氏の辨じたる如し。水中に没したりしを洞巖が發見して引揚げしなりといふ金石志の説はた齊人の語に過ぎず。此碑は夙くより(洞巖の少年の時綱村の幼時より)世に現れて土人は勿論旅行者も往々寓目せしものあるべくはやく元禄二年の刊行なる一目玉鉾また同年の紀行なる奥の細道に見えたれば元禄五年の光圀はたとひ此等の書を讀まずとも旅行者の談話を傳聞したるべく栗田氏の如く光圀が此碑の事を知れるは文禄清談を讀みし爲ならざるべからずとは推定せられざるなり。さて田中氏が此碑を僞造と斷ぜしは上文に見えたる「字畫の間摸擬の氣あるを認め」といふ理由のみにはあらじ。田中氏の原文こそ見まほしけれ。又見まほしきは大槻文彦氏の復軒雜纂なり。此書は數箇月前より探させ居れど未手に入(425)らざるなり。近日物故せし喜田貞吉氏も亦僞造論を公にしきと云ふ。其文も亦見まほし昭和十四年七月十二日森銑三君、蘆田伊人君より借り出でて古き史學會雜誌(第三十七號より史學雜誌と改題す)二綴を見せられき。直に之を閲するに田中義成氏の論文は
 明治二十五年十月發兌の史學會雜誌第三十五號 多賀城碑考
 史學雜誌第四十號 多賀城碑の事に就て栗田寛氏の駁論に答ふ
 史學雜誌第四十二號 多賀城碑の餘論
以上三篇にて、第一は明治二十四年七月出版の如蘭社話卷二十四に出でたる栗田寛氏の多賀城碑發見始末を駁したるもの、第二は史論第四號に出でたる栗田氏の駁論を反駁したるもの、第三は栗田氏の徒鈴木成章といふ人の再駁を反駁したるものにて爭論は鮮に栗田氏の敗北に歸したり。右の内第二と第三とは光圀が松平陸奥守に答へたる書といふものの眞僞を論じたるものにて、主たるものは第一の論文なり。
 ○余も亦答松平陸奥守某書を疑へり。此事は此月四日の國史回顧會例會にて森君に語りしが、ただ水戸の代表學者たる栗田氏の發表したる光圀の書状なれば輕々しく否認はせじと云ひき。余が此書を疑ひしは其内容にて、もし仙臺領に在る古碑の荒廢(426)を憂ひば直に藩主に對して其修復保存を勸告すべく密に出家一人を遺して私に之を企つることを諒せられよと云へるは適に仙臺の如き大藩を侮辱するものなり。光圀豈さる事を云はむや。と云ふが余が匆卒に森君に語りし所なり。此論恰田中氏が擧げたる否認理由の一と合致せり
さて第一のものをくはしく抄せまほしかれど紙を費すこと少からざるべければただ要領を抄するに止めむ。其代に論文の出でたる處を明しおきたれば見たき人は直に見ることを得べし。其説に曰く
 余を以て之を見るに義公の書簡甚疑はし。伊達家に問合するに同家には傳はらず。因りて思ふに那須碑は義公に頼りて世に顯れしかば多賀城の發見をも公に托せんとてかかる書簡を作りしならん。さて伊達家譜を※[手偏+僉]するに吉村の條に元禄十六年宮城郡市川村ニテ壺碑ヲ得タリとあり。然るに佐々宗淳が那須碑考に已に本碑の事を載せたれば本碑の發見は吉村襲封以前の事たるや明けし。仙臺金石誌といふ書に佐久間洞巖の發見なる由見えたれど洞巖の聞老誌に自發見しきとは明言せず。されど本碑を發見せしは疑もなく洞巖にして時代は元禄の初年と考定す(○共非)。さて惠美朝(427)※[獣偏+葛]の署銜東山道節度使となり從四位上に叙せしは明文なきも績紀にはまま叙任の漏れたるもあれば是も闕漏と見れば亦妨なし。然るに去常陸國界四百十二里とありて甚く今の里數と違へり。されど當時の國界は常陸の久慈川なれば下宮より西金までの里程を加算するに三百四十三里餘となり碑文の里程より少きこと三十里に過ぎず(?)古道は必迂回なるべければ少許の差あるは怪むに足らず。されば常陸への里數も強ち疑ふべからず。碑文の記事といひ里數と云ひ一通り考究せし所にては右の如く別段不都合の處なけれど多賀城は養老六年以前の建置にて(○同年八月の紀に陸奥鎭所とあるのみ)神龜元年の建置にあらず。又朝※[獣偏+葛]の參議となりしは天平寶字六年十二月一日なれば即ち此碑を建てし日にて餘りきはどき事ならずや。又其位階は續紀に從四位下とあるを從四位上に作りたるは故さらに國史と參差せしめて其僞を飾るの手段と思はる。偖又碑額に西の字を題するも何の謂れなることを知らず。また蝦夷國界とて畫然たる區域ありとは思はれず。然るを去蝦夷國界百廿里として陸中の衣川を限るは疑ふべきの甚きなり(○衣川とするは鍋田三善磐城志所引國號考之説)。また靺鞨は當時渤海といひき。また當時は海道山道の内海道を以て官道となし(428)き。されば海道の里程に據りて二百九十二里とすべきを延喜式後の山道に據り更に常陸へ斗入せる依上の地(○下ノ宮より西金まで)さへ加へて四百十二里と記せしは風土記及び後記とは合はず。是れ余が斷じて此碑を以て僞造となす第一の要點なり〔是れ〜傍点〕。然らば此碑は何人の僞造なるやと推究するに其人考據に長じ且書法に邃きものならでは決して做し得ず。思ふに此碑を發見せし佐久間洞巖こそ其人なれ。時の國主綱村朝臣も才學優にして古を好み洞巖に命じて奥羽の古區名勝を歴證せしめ奥羽觀迹聞老誌の著あり。また末松山等の名跡を仙臺城下に引付たるも綱村朝臣の時なりと傳へたり。洞巖の古を考へ書を善くすること彼が如く綱村朝臣の古蹟を假托せんとすること此の如し。此を以て之を推せば此碑は洞巖の作にして綱村朝臣預りて之を知るに似たり。而して陸奥殘篇風土記に末松山坪碑等を並載し文禄清談に石文の一條を※[手偏+讒の旁]入せしも皆同時の事にて此碑を實にせんとの目的なるべし。余は未だ其碑を實見せざるも碑面は磨※[龍/石]を經たるが如しと傳聞せり。磨※[龍/石]せるは古體ならざるが如し。碑字に至りては古人多く自ら※[金+雋]る由。此碑も或は洞巖の自刻ならん。其字體は務て本朝の古風を摸すと雖も仍ほ晋唐法帖の態を存ぜり。字體を比較しても眞僞は自(429)から判然たらん
と云へり。余の意見は初に述べたり。右の説と比較するに一致せる所もあり一致せざる所もあり。一致せざる所は見む人よしと思はむ方に從ふべし。田中氏の論文に對しては鈴木省三氏(仙臺叢書編輯者)の多賀城碑辨疑あり。研究者は一讀せざるべからず(宮城縣史蹟調査報告第三輯八八頁以下)
多賀城碑に關せる記事の抄録は略左の二書に盡されたり。
 仙臺金石志 本篇二十八卷、附録四卷、補遺一卷。吉田丈太夫友好著。初二卷を所謂壺碑に充てたり。友好は仙臺藩士、慶應元年三月歿、年五十五。本書は菊判洋装二册として仙臺叢書に収められたり
 宮城縣史蹟名勝天然紀念物調査報告第三輯
世人も亦余の如く捜索に苦しむべければ特にここに記しおくなり。さて記事の抄録は右二書に譲りて今は諸書の中より特に參考となるべきもの僅に數條を據げむとす
新井白石の同文通考卷二の八分《ハツプン》飛白の條に
 チカキ比ホヒ陸奥ノ國宮城ノ郡ノ土の中ヨリ出タリシ碑モ其文字ハワキマフベケ(430)レドソノ體ハ又サダカナラズ(萬治寛文ノ間土ノ中ヨリ出シ所ニテ〔萬治〜傍点〕世ニハコレ壺ノ碑ナルヨシヲイフナリ。碑ハ天平寶字六年ニ藤原惠美朝臣朝※[獣偏+葛]ノタテシ所ノヨシソノ文ニ見エタルナリ)
とあり○林春齋の國史館日録寛文九年〔四字右△〕九月十七日に
 長谷川藤信來示2奥州壺碑刻文1曰。或入至2彼地1寫v之云々。少焉去
とあり。佐久間洞巖は承應二年の生なれば寛文九年には十七歳なり。洞巖の僞作にあらざること明けし。伊達綱村は此年十一歳なり○黒川道祐の遠碧軒隨筆下之三に
 奥州多賀城の古跡に壺の碑今もあり。石の高さ六尺、横三尺、厚さ一尺半。西向にたてたり。此多賀城に神龜元年甲子按察使兼鎭守|府〔右△〕將軍大野朝臣東人之所築也。其後天平賓字六年十二月東海道節度使鎭守|府〔右△〕將軍藤原朝臣惠美於2此城内1立2此碑1云々
とあり。文辭に誤あれば目睹せしにはあらじと思ふに下文に「爰にて人に尋侍りしに」とあり。此書には序の代に延寶三年乙卯春正月の林春齋の遠碧軒記を添へたり。寛文十二年、延寶八年、天和三年、貞享四年、その次が元禄なり○元禄二年已正月板行の傳西鶴作の一目玉鉾に
(431) 壺石文 此石高さ六尺、横三尺、厚一尺五寸。西向に立。抑多賀城は神龜元年甲子按察使鎭守|府〔右△〕將軍大野朝臣東人所築也。其後天平寶字六年十二月東海道節度便兼鎭守|府〔右△〕將軍藤原惠美朝臣此城内に立置て此碑といへり
とあり。山下に臺石の上に立てる碑をゑがきてツボノ石ブミと標せる本あり。此圖は想像圖ならむ。記事は遠碧軒隨筆よりさながら取れるなり○芭蕉の元禄二年の奥の細道に
 壺碑 市川村多賀城に有り。壺のいしぶみは高さ六尺餘り横三尺ばかりか。苔を穿ちて文字幽かなり。四維國界の里數をしるす。此城神龜元年按察使鎭守|府〔右△〕將軍大野朝臣東人之所置也、天平寶字六年參議東海東山節度使同將軍惠美朝臣朝※[獣偏+葛]修造也、十二月一日と有。聖武天皇の御時に當れり。むかしよりよみ置ける歌枕多く語り傳ふといへども山崩れ川落ちて道あらたまり石は埋て土にかくれ木は老いて若木にかはれば時移り世變じて其跡たしかならぬ事のみを爰に至て疑なき千載の形見今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の勞をわすれて泪落るばかり也
とあり○安藤爲章の年山紀聞卷一に
(432) 壺碑 奥州宮城郡市川村にあり。佐々介三郎宗淳先年西山公の命をかうぶりて一覽のためかの所にいたりてこれをうつし侍りぬ
とあり。宗淳が一覽せし年の見えぬは惜むべし。但伊達綱村が家臣田邊希賢をして碑文の雙鉤を作らしめて光圀に贈りしより前なるべし。さらずしてもしそれより後ならばまづ其事をいふべければなり○伊藤東涯の盍簪録卷四に
 壺碑高六尺五寸、濶三尺一寸。界方内縦三尺八寸五分、横二尺六寸。碑背類2馬鬣1此碑在2奥州宮城縣市川村|北〔右△〕岡上1。世有2多賀城1。此其古墟。有2※[莫/手]本1行2于世1。予亦打2一本1※[衣偏+背]爲2一幅1。……或云。此碑所v在今距2下野州界1以2今里程1計v之爲2三十一里二十五町餘1。碑中二百字或三百之訛
とあり。予亦打一本といへるは佐久間洞巖より搨本を贈られしを云へるならむ(元禄十二年以後)。去下野國界二百七十四里の二を三の誤とせること並河誠所の擬集古録に同じ。誠所は東涯の父仁斎の門人なり。先説者は東涯にや誠所にや○橘經亮の橘窓自語卷一に
 近世にいたりここかしこより古碑の類を多く掘出せるが多賀城碑を寛文二年土中(433)よりほり出せしなどぞ始なるべき
とあれど語りて詳ならねば聊おぼつかなし○右の外諸書に引ける仙臺鎭内古城延寶〔二字傍点〕書上といふ書に
 宮城郡市川村多賀城平城なり。東西五十間、南北五十六間。此城は奥州國司之館と申傳候。此所壺の石文も御座候へば云々
とありといふ。余が一見せし書頗多かれど用なきものは引かず。無用の逸聞は引くと辨ずると二重の勞を要すればなり。以上余が引ける信ずべき數條の記事によりて明に妄語と定まりしもの左の如し(先後は本論に現れし順序に依る)
 多賀城碑は徳川光圀の求に依りて仙臺藩にて諸處を掘り穿ちて捜索せしに由りて始めて世に顯れきといふ事(一三五丁及一四〇丁)
 伊達吉村廣く地下を掘りて始めて發見しきといふ事(一四一丁)
 伊達綱村の僞造とする事(一六六丁)
 佐久間洞巖が市川の水中より發見せしなりといふ事(一六八丁)
 佐久間洞巖の僞造にて綱村も亦與りきといふ事(一六九丁及一八〇丁)
(434) 元線十六年伊達吉村の時發見すといふ事(一七五丁)
 元緑初年佐久間洞巖之を發見しきといふ事(一七六丁及一八〇丁)
又東巡録(明治九年御巡幸の記)卷十の四九頁に
 或は曰ク。政宗ノ摸造ニ出ヅト。未ダ當否ヲ知ラズ
といへり。げに政宗の僞造にて僞造後直に土中に埋めさせしを故意又は偶然に之を發掘せしは政宗の子忠宗(萬治元年卒)の晩年なるべし。政宗に乞はれて碑文を僞作せしは或は林羅山か
 
(435)    陸中國
 
明治元年に舊陸奥國を分ちて磐城以下五國とせしには妥ならざる所頗多し。當局も漸次その地理に叶はず又実際にも不便なるを悟りけめど同四年に行政區畫は縣制となりて國制はもはや舊時の遺物となりしかばこれには手を著くること無くして今の如く國と縣と一致せざるに至りしなり。たとへば陸中國を主體として新設せし巖手縣(今は岩手と書す)にも東南には陸前國|氣仙《ケセン》郡、西北には陸奥國|二戸《ニノヘ》郡の來り加はりしあり、又西北には鹿角《カツノ》郡の逸し去りて秋田縣に入りしありて爲に岩手縣陸前國氣仙郡、同縣陸奥國二戸郡と秋田縣陸中國鹿角郡とを生じたるなり。さて此書には陸中國を標目としたれば東西磐井、膽澤、江刺、和賀、稗貫、紫波《シバ》、岩手、上下|閉伊《ヘイ》、九戸《クノヘ》、鹿角《カツノ》以上十二郡に就いて記述すべきこと言を待たず○磐井郡〔三字傍点〕は國の南端にて東北、陸前國氣仙郡に隣れり。明治十一年東西に分たる。兩郡は北上川を界とせり。東郡は北、江刺郡に接し西郡は北、膽澤郡に接せり。國道は陸前の栗原郡より來り西郡の一(ノ)關町を經て膽澤郡に至れり。鐵道東北本線之に追隨せり。建郡は史に脱したれど延暦の初なるべし。今の東磐井郡を古くよ(436)り俗に東山といふ。其東北部に大原町あり。西磐井郡の首邑を一ノ關町といふ。磐井川之を貫けり。故に又一ノ關川といふ。藤原清衡以下三世が豪盛を極めし平泉は一ノ關の北方なり。寶龜十一年二月の陸奥國奏言に須v造2覺鼈城1といひそれに對せる勅に宜d造2覺※[敝/魚]城1得c膽澤之地uとのたまへり。城名は又同月及三月の記事に見えたり
 ○別※[敝/魚]は鼈に同じ。カクベツはアイヌ語の地名にてベツは川の義なり
地理を思ふにカクベツは即後の衣《コロモ》川なり。衣川は膽澤郡の西部より發し西磐井郡の界に沿ひて北上川に注げり。但古圖に依るに北上川は今より遙に東方を流れ衣川は一ノ關の北に至りて始めて北上川と會せしに似たり(奥游日記)。さて城は平泉の背後なる關山に在りて衣川に臨むべき筈なりしに伊治|呰《アザ》麻呂の亂に逢ひて成るに及ばざりしなり。延暦八年五月の勅に省2比來奏状1知3官軍不v進猶滯2衣川1云々と見え同六月の征東將軍の奏言に從2玉造塞1至2衣川營1四日云々と見えたり。この衣川營はかのカクベツ城の後身なるべし○日本紀略に延暦廿一年正月遣2坂上田村麿1造2陸奥國膽澤城1とあり。日本後紀延暦廿三年五月に陸奥國言。斯波郡與2膽澤郡〔三字傍点〕1相去一百六十二里とあり。郡名始めて見えたり。本郡は東、江刺郡と北上川を界とせり。首邑は水澤町なり(舊名鹽竈)。國道並に鐵道、此(437)地を經て北、和賀郡に入れり。明治の初縣廳此地に在りて(後一ノ關に移る)陸中の南部と陸前の北部とを管せしことあり。鎭守府址は水澤の北方に在り。府の事は後に云ふべし。延喜式及和名抄の郡名は本郡と江刺郡とを北限とせり。かの安倍頼時の衣館は衣川の北にあるべし。延暦八年の衣川營と混同すべからず。彼我共に川を前とするが利なればなり○江刺〔二字傍点〕の郡名は始めて承和八年紀に見えたれど建郡は膽澤に次ぎしならむといへり。ともかくも延暦八年六月の奏言に渡v河討v賊といひ更有v賊出v自2東山1といひ其勅報に賊集2河東1抗2拒官軍1とのたまへるは江刺郡にて初は膽澤と一境なるべきを早く治まりしを延暦の末に建てて膽澤郡とし後れて平らぎしを後に離ちて江刺郡とせしならむ○和賀郡〔三字傍点〕は膽澤江刺二郡の北に在りて東は上閉伊郡に接し西端は北に伸びて直に岩手郡に連れり。明治十一年に東西二郡に分たれしが同二十九年に又一つとなりき。和賀の地名は延暦八年六月の征東將軍の奏言に膽澤之地賊奴奥區。……又子波和我僻2在深奥1と見えたれど置郡の事は始めて弘仁二年正月の紀に見えたり。即於2陸奥國1置2和我・稗縫・斯波三郡1とあり。地理志料に延喜式不v載v之、或所2權置1也と云へれど正しく國史に置郡の事の見えたるを延喜式に載せざるを理由として權置と認むべけむや。延喜式及(438)和名抄の郡名は延暦年間に著録せしままにて爾來増補を行はざりけむ。本郡の西部には和賀川あり東部には猿石川ありて共に北上川に會せり。本郡の南界は適に南部仙臺二領の界なり。本郡以北は所謂遠膽澤(トホツイサハ)なり。トホツは今外人の好みていふultraなり。近世和賀稗貫二郡を合稱して和稗といへる例あり(延暦八年の奏言にも稗貫を攝して子波和我と云へり)。なほ肥前國の基《キ》肄養父二郡を合稱してキヤブといひ筑前國の恰土《イト》志摩二郡を合稱してイトシマといふが如し○稗貫郡〔三字傍点〕は和賀郡の東北、上閉伊群の西北に在り。北上川その中央を貫けり。首邑は花卷町にて北上川の西岸に在り。郡名は又稗拔・部貫《ヘヌキ》・戸貫《ヘヌキ》など書けり。へはヒエの急呼なり。然るに日本後紀弘仁二年正月建郡の處には※[草冠/稗]縫とあり。稗に艸冠を加へたるは俗字にて、刈を苅、兔を菟、陰を蔭、園を薗と書く類なり。其外瓜豆などにも艸を冠らせたる例あり。さて稗縫と書けるを思へば原名ヒエヌイなるが後にヒエヌキに轉ぜしなり。前書にヒエヌイ(ヒエヌヒ)をヒエヌキの音便とせるは擬字の新古を忘れたるなり。又此地名は恐らくは夷語にて華言にあらじ○紫波郡〔三字傍点〕は稗縫郡の北、岩手郡の南に在りて深く岩手郡に抱かれたり。國内第一の小郡なり。地理のみより見れば岩手郡の内に入るべけれど平安朝の初弘仁二年に皇化の北限と(439)して此地を劃して一郡を立てし後岩手も亦次第に開けしかど故ありて岩手の内に加へられずしてもとのままに一郡として殘りしなり。文字は子波・斯波・志波・紫波・斯和・志和など書けり。近古南部藩にて紫波を志和と書きて幕府より咎められし話あり(南部史要二九六頁)。シワと訓むべし。今は紫波と書く。その紫波を今シバと唱へ此地名を取れる斯波氏をシバと唱ふるは來歴を忘れて發音の好尚に從へるなり。本郡の事は夙く上に陸前國志波道上宮の處に云へり。參照すべし。寶龜七年五月の紀に
 出羽國志波村〔三字傍点〕賊叛逆與v國相戰官軍不v利。發2下總下野常陸等國騎兵1伐v之
同八年十二月の紀に
 志波村賊蟻結肆v毒。出羽國軍與v之相戰敗退
とあるはこの陸奥の志波にはあらざるべし。まさしくこの志波なるは延暦八年六月の奏言に子波和我僻2在深奥1といへる是なり。又同二十二年二月の日本紀略に令3越後國米三十斛鹽卅斛送2造志波城所〔五字傍点〕1とあるはいづれにか。恐らくは陸奥のならむ。弘仁二年閏十二月の征夷將軍の奏言に
 今官軍一擧寇賊無v遺v事。須d悉廢2鎭兵1永安中百姓u。而城柵等所v納器仗軍粮其數不v少。迄2于遷(440)納1不v可v廢v衛。伏望置2一千人1充2其守衛1。其志波城〔三字傍点〕近2于河濱1屡被2水害1。須d去2其處1遷c立便地u。伏望置2二千人1※[斬/足]充2守衛1遷2其城1訖則留2千人1永爲2鎭戌1、自餘悉從2解却1。又兵士之設爲v備2非常1既無2遺寇1。何置2兵士1。但邊國之守不v可2卒停1。伏望置2二千人1其餘解却。又自2寶龜五年1至2于當年1總卅八歳邊寇屡動、警△無v絶。丁壯老弱或疲2於征戌1或倦2於轉運1百姓窮弊未v得2休息1。伏望給2復四年1殊休2疲弊1。其鎭兵者以v次差点輪轉復免|者《トイヘリ》。 並許v之
とあり。自寶龜五年と云へるは同年七月の勅に
 將軍等前日奏2征夷便宜1以爲一者不v可v伐一者必當v伐。朕爲2其勞1v民且事2含弘1。今得2將軍等奏1蠢彼蝦狄不v悛2野心1屡侵2邊境1敢拒2王命1。事不v獲v已。一依2來奏1宜2早發v軍應v時討滅1
とあるを云へるにて此時對夷の方針は征伐と決定せしなるが此に至りて光仁・桓武・平城・嵯峨四天皇の御世を經て其征夷の大事業は一段落となりしなり。近于河濱といへるは無論北上川なり。志波城址は確ならねど今の日詰町附近ならむ。弘仁五年十二月の紀に
 陸奥國言。膽澤徳丹〔二字傍点〕二城遠去2國府1孤居2塞表1。城下及津輕狄俘野心難v測至2於非常1。不v可v不v備。伏望豫備2糒鹽1收2置兩城1者。許v之
(441)とあり。徳丹城は即志波城を便地に遷立したるものならむ。其址は日詰町の北なる徳田村なりといふ。地理志料に
 按ズルニ民部省式ニ本郡及和我稗縫ヲ載セズ。知ルベシ已ニ之ヲ廢シタルコトヲ。而ルニ神名式ニ斯波郡ヲ載セタルハ舊文ニ從ヘルノミ(○神名帳に斯波郡一座あり)。下總ノ岡田郡モ亦此ト同ジ
と云ひ地名辭書(四三一七頁)に
 延喜式國郡部に斯波郡を載せざるは脱漏したるならむ。而も或は眞假の説あり。南部舊蹟遺聞曰く云々。斯波岩手の權置の故を以て延喜式に擧げられずとの論は能くきこえたり
と云へり。權置にあらざることは和我郡の下に云へる如し。然も改廢にもあらじ。延喜式の郡名は延暦年間調査のものをそのままに採用したるならむ○岩手郡〔三字傍点〕(手〔右△〕清)の初見は大和物語なり。即
 同じみかど(○ならのみかどヲ受ケタリ)狩いとかしこく好み給けり。みちのくにいはての郡〔五字傍点〕より奉れる御鷹世になくかしこかりければ二なうおぼして御手だかにし給(442)けり。名をばいはて〔三字傍点〕となむつけ給へりける云々
とあり。ナラノミカドは奈良朝時代の或天皇を指し奉れるにか又は平城《ナラ》天皇を申し奉れるにかまぎらはし。されば昔よりナラノミカド又はナラノ御時といへるを或は甲と解し或は乙と認めたり。地理志料に
 大和物語云。大同中陸奥岩手郡獻2鷹一隻1。帝甚愛v之名曰2岩手1。郡名始見
といへるは乙説に從へるなるが紫波郡だに弘仁二年に建てられしをそれより奥なる岩手郡の、弘仁より前なる大同に置かれたらむこと決してあるべからず。元來大和物語は聞き傳へたる歌話を眞僞も糺さずして書き留めたるものなり。かかる書を據として大同中など書くべきかは。こは著者の失錯の一なり。無論弘仁より後に置かれしなり。地名辭書の大同權置説も採るべからず。岩手郡は西は羽後國及鹿角郡に、北は陸奥國と九戸郡とに、東は下閉伊郡に接せり。北上川その北端より發し南北に郡を貫けり。其南端東岸に盛岡市あり。舊南部藩治なり。岩手山、郡の西北部に聳えたり。本郡は明治十一年南北二郡に分割せられしが今は又合一せり。彼阿倍貞任の本據たりし厨川柵の在りし處は北上川の西岸(今の盛岡市の對岸)その支源なる雫石川(一名厨川)の北岸なり。後冷泉天皇(443)の康平五年八月に兩軍の衝突せしは磐井郡にて翌月貞任は衣川柵を落され又十日餘にして厨川柵を燒かれ身も亦斬られしなり○閉伊郡〔三字傍点〕は南、氣仙郡に及び北、九戸郡に及べる大郡なり。明治十一年に東西南北中の五郡に分たれしが同二十九年に今の如く上下二郡とせられき。南を上とし北を下とせり。兩郡は東、大洋に臨み西、和賀・稗貫・岩手三郡と北上山脈を隔てたり。舊南部領と舊仙臺領との界は上閉伊郡の南界にて和賀郡の南界の延長線なり。其東端に釜石灣あり。兩閉伊郡の河川は東海に入れるにただ上閉伊郡の西部(即明治年間の西閉伊那)の水のみ西走して北上川に注げり。此地域(即猿石川流域)を遠野といふ。されば遠野は地理上よりは寧和賀郡に屬せり。閉伊の本名はへの單音にてイは母音を添へたるなりといへり。されどへの母音はエなれば薩摩國の頴娃《エエ》郡の如く(西海道風土記逸文新考二三五頁參照)もし補音ならばヘエと書かざるべからず。なほ考ふべし。靈龜元年十一月の紀に
 蝦夷須賀君古麻比留等言サク。先祖以來貢獻スル昆布ハ常ニ此地(?)ニ採リテ年時ニ闕カズ。今國府郭下(?)相去ルコト道遠ク往還旬ヲ累ネ甚辛苦多シ。請フ閉村ニ便ニ郡家ヲ建テ百姓ニ同ジグシ共ニ親族ヲ率テ永ク貢ヲ闕カザラムト。之ヲ許ス
(444)とあり。この閉村を後の閉伊村とする説あれど頗うたがはし。まづ國府の所在如何。靈龜元年には名取國府はやく立ちたりしか否かおぼつかなけれど(陸奥の國府を名取郡に移ししは和銅六年より靈龜を經て養老二年に至る間ならむ)しばらく名取國府とせむに其地より海道を經て閉伊に至らむに宮城・桃生・氣仙の數郡を經ざるべからず。然も此等の諸郡は靈龜以後年所を經て始めて開けしを懸絶せる閉伊郡のみ夙く皇化に霑ひて靈龜年中の人の先祖以來昆布を獻じ來れりとせむこといかがあらむ。右の閉村は恐らくは別處又は誤字ならむ。新に和我以北三郡を置かれし弘仁二年の三月の勅に
 去二月五日奏※[人偏+稱の旁]。請發2陸奥出羽兩國兵合二萬六千人1征2爾薩體幣伊〔二字傍点〕二村1者云々
とあり。閉伊始めて見えたり。爾薩體は今の馬淵《マベチ》川の流域なり。同年七月の勅に
 省2今月四日奏状1具知d以2俘軍一千人1可uv襲2伐弊伊村〔三字傍点〕1。彼村夷俘黨類巨多。若以2偏軍1臨討恐失2機事1云々
と見え又
 出羽國奏。邑良志閉村降俘吉彌侯部都留岐申云。己等與2貳薩體村夷伊加古等1久構2仇怨1。今伊加古等練v兵整v衆居2都母村1誘2幣伊村〔三字傍点〕夷1將v伐1己等1。伏請2兵粮1先登襲撃者云々
(445)と見えたり。邑良志閉村は恐らくは貳薩體村の西隣ならむ。閉伊村は後者の東南に在り。都母村は陸奥國の下に云ふべし。又同年十二月の詔に
 陸奥國ノ蝦夷等代ヲ歴、時ヲ渉リテ邊境ヲ侵亂シ百姓ヲ殺略ス。是ヲ以テ掛ケマクモ畏キ柏原朝庭(○桓武天皇)ノ御時ニ故從三位大伴宿禰弟麻呂等ヲ遣シテ伐平《コトム》ケシメ給ヒキ。而ルニ餘燼猶遺リテ鎭守未息マズ。又故大納言坂上大宿禰田村麻呂等ヲ遣シテ伐平ケシメ給フニ遠《トホク》閉伊村ヲ極メテ略|掃除《ハラヒノゾ》キテシカドモ山谷ニ逃隱レテ燼頭《コゾ》リテ究殄《ホロボ》スコト得ズナリニタリ。茲ニ因リテ正四位上文室朝臣綿麻呂等ヲ遣シテソガ※[斤+頁]覆(○傾覆か)ノ勢ニ乘リテ伐平掃治《コトムケヲサ》メシムルニ……幽《フカ》ク遠ク薄伐《セマリウ》チ巣穴ヲ破覆シテ遂ニ其種族ヲ絶チテ復一二ノ遺モ無ク邊戎ヲ解却《ト》キ轉餉ヲモ停廢《ヤ》メツ云々
とあり。遠閉伊村乎極※[氏/一]を地理志料にトホツ閉伊(地名辭書にトホ閉伊)と訓みたれど閉伊治りて其彼方未治らざらむにはこそトホツ膽澤の例に依りてトホツ閉伊とも云ふべけれ。今は閉伊だに未治らざるなれば然は云ふべからず。遠閉伊村乎極※[氏/一]はトホク閉伊村ヲ極メテと訓むべし。右の如くなれば再前の御世に坂上田村麻呂が征討せしかど未徹底せざりしに此御世に文室《フムヤ》綿麻呂の力に由りて終に絶滅することを得しなり。然(446)も當時置郡までには至らざりき。置郡の年は物に見えず。恐らくは鎌倉時代即頼朝の奥羽平定の後ならむ。本郡今上下に分れたり。上郡に釜石市あり、下郡に宮古町あり。是兩郡の首邑なり。宮古町は閉伊川一名宮古川その南を流れたり。盛岡市より宮古町に通ずる所謂閉伊街道は適に此川に沿へり○九戸郡〔三字傍点〕の名は始めて寛文印知集に見えたり。もと糠部《ヌカノブ》郡の内にてその東南端なり。糠部郡は始めて吾妻鏡に見えたり。即文治五年九月三日の條に
 泰衡被v圍2數千兵1爲v遁2一旦命害1差2夷狄島1赴2糟〔右△〕部郡1
とあり。糟部は糠部の誤なり。白石の五十四郡考にはやく九戸乃古糠部郡といひ廣瀬典の補遺に
 秋田藩白川七郎藏ノ古文書ヲ以テ之ヲ觀ルニ元弘ノ時九戸ハ糠部郡中ノ一郷名ノミ。後ニ糠部ノ郡名ヲ靡シ九戸ヲ以テ其地ヲ統ブルカといへり。後廢2糠部郡名1以2九戸1而統2其地1乎といへるは誤れり。陸奥國の下にいふべし。明治十一年に南北二郡に分ちしが同二十九年に復して一郡としき。當國の東北端にて南は下閉伊に、西南は岩手に、西は陸奥國二戸に、北は同三戸郡に隣り東は海に臨めり。久慈(447)川ありて久慈灣に注ぎ河口の南岸に久慈町あり。久慈川の流域即本郡の東南部を元弘の頃久慈郡といひしことあり○鹿角郡〔三字傍点〕は其東南の一隅岩手郡に連れるのみにて東は陸奥の二戸郡及三戸郡に、西北は同南津輕郡に、西は羽後の北秋田郡に、南は同仙北郡に隣り東北隅は十和田湖を限れり。かくの如く陸中國とは懸絶したる上に羽後國北部の大河たる能代川の上流なれば無論出羽に屬すべきなり。然るに強ひて陸中に附けたるは南部領なるが故にて明治維新當時の政策として已むことを獲ざりけむ。鹿角舊名は上津野、鹿角は好字に代へ二字に代へたるのみ三代實録元慶二年に藤原保則を出羽權守とし小野春風を陸奥鎭守將軍とし坂上好蔭を陸奥權介として出羽の夷俘の叛亂を鎭めしめられし時の記事に秋田城下賊地者上津野〔三字傍点〕等十二村也(七月十日)また春風好蔭等取2陸奥路1入2上津野〔三字傍点〕村1與2兩國兵1夾2攻首尾1(八月四日)また春風重含v詔先入2上津野〔三字傍点〕1教2喩賊類1皆令2降服1(十月十二日)また去年九月十五日好蔭來v自2流霞路1二十五日春風來v自2上津野〔三字傍点〕1(三年三月二日)とあり。流霞路は地名辭書に流※[雨/衆]路の誤としてナガシグレヂと訓むべしと云へり。ナガシグレは今の七時雨山にて岩手郡と二戸郡との界に在り。此道は今も岩手郡より二戸郡を經て鹿角郡花輪町に出づる道なり。建郡の年は知られず。但建武元年(448)の文書に見えたり(本郡の事ははやく陸前國伊寺水門の條にも云へり)○鎭守府は和名抄に
 陸奥國 國府在2宮城郡1鎭守府在2膽澤郡1
とあり。鎭守府といひしは何時よりか。類聚三代格卷六(舊版本國史大系六二五頁)に
 乾政官謹奏 陸奥國鐘守|府〔右△〕給2公廨《クゲ》事力1事 將軍 准守 將監 准掾 將曹 准目 若帶v國者不v須2兼給1云々 天平寶字三年七月廿三日
と云ひ續日本紀天平十一年四月に
 陸奥國按察便兼守、鎭守|府〔右△〕將軍|大養徳《ヤマト》守從四位上勲四等大野朝臣東人
と云へり。見つべし。夙く鎭守府といひ鎭守府將軍といひしことを。されど續紀に鎭守府といふ衙名は見えず。又其職員も彼處の外は鎭守將軍、鎭守副將軍、鎭守權副將軍、鎭守判官、鎭守軍監、鎭守軍曹とのみ見えたり。又日本後紀及續日本後紀には鎭守將軍、鎭守副將軍、鎭守官人、鎭守官員とのみ見えたり。されば大野東人の官銜に鎭守府將軍とあるは衍字にてもあるべし。然るに日本後紀弘仁三年四月に
 己丑(○二日)定2鎭守官員1。將軍一員、軍監一員、軍曹二員、醫師弩師各一員也
(449)とありて其時の官符の三代格に出でたるに(卷五大系本五五一頁) 太政官符 定2鎭守|府〔右△〕官員1事 將軍一員、軍監一員、軍曹二員、醫師弩師各一員 右被2右大臣宣1※[人偏+稱の旁]。奉v勅鎭兵之數減定已訖。其鎭官員數宜v依2前件1 弘仁三年四月二日
とあり。かくの如く、かの寶字三年の乾政官奏にもこの弘仁三年の太政官符にも鎭守府とあるを見れば鎭守將軍の官衙を鎭守府といひもしけめど
 ○建武年間記(群書類從卷四五四)の建武三年二月源顯家の請v被v加2大將軍號1状に弘仁三年殊下2勅符1建2立鎭守府1とあるは誤傳なり。前後の事情に依りて明に然りと知らる
當時その鎭守府はまだ國府の別衙の如くなりき。その名實共に獨立の官衙となりしは即鎭守府の狹義の開設〔五字傍点〕は承和元年七月なり。即續日本後紀同月の記事に
 賜2陸奥鎭守府印一面1。元用2國印1。今殊賜v之
とあり。思ふべし。從來國府との關係未清く離れざりしかば國府の印を借用せしかど此時名實ともに獨立の官衙となりしかば特に鎭守府印を賜ひしなることを。さてこそ同二年十二月の記事にも
 夷俘出v境禁制已久。而頃年任v意入v京有v徒(?)仍下2宮符1譴2責陸奥出羽按察使并國司・鎭守(450)府等1
と見えて始めて國府と相並びたるなれ。されば鎭守府の開設〔六字傍点〕はと問はれて簡單に云はむと思はば承和元年七月〔六字傍点〕と、答ふべし。鎭守府址は膽澤郡佐倉河村大字宇佐の内にて五分一黒澤尻の下端に八幡宮と記したる處なり。北上川の西岸、膽澤川の下流の南岸にて今八幡宮のある處なり。此所謂鎭守府八幡宮は恐らくは源頼義の勸請したるものならむ。吾妻鏡文治五年九月廿一日の條に
 於2伊澤郡鎭守府1令v奉2幣八幡宮瑞籬1給云々
とあるは即此八幡宮なり。但右の文のつづきに是田村將軍爲v征2東夷1下向時所v奉2勸請崇敬1之靈※[まだれ/苗]也と云へるは誤傳なり。陸奥話記(群書類從卷三六九)に
 源朝臣頼義拜爲2陸奥守兼鎭守府將軍1……境内兩清一任無事。終任之年爲v行2府務1入2鎭守府1數十日經廻之間頼時傾v首給仕
とあり。府務は鎭守府將軍の職務なり。頼義は陸奥守の兼忍なれば常には多賀國府に在りしなり。續後紀承和六年四月の陸奥守及鎭守將軍の奏状に
 膽澤多賀兩城之間異類延蔓控弦數千。如有2驚急1難v可2支禦1。須d下徴2發援兵1靜v民赴uv農。又多賀(451)城者爲2膽澤之後援1。不v益2兵數1何以救v急
とあるは昔にて頼義の初任中は多賀膽澤兩城間の往來は自由なりしを間もなく頼時の亂起りて膽澤城は賊地に入り亂平ぎし後も荒るるにぞ任せけむ。その後清原武則を經て藤原秀衡鎭守府將軍に任ぜられしかど平泉なる居館を府とせしかば、膽澤は狐兎の巣窟となり秀衡の死に至りて鎭守府將軍も復任ぜられずなりにき。建武中興の復制は一時の事なる上に膽澤城とは關係なし。いひ忘れつ。膽澤城は日本紀略延暦二十一年正月に
 遣2從三位坂上大宿禰田村麿1造2陸奥國膽澤城1
とあり又同廿三年正月の日本後紀に
 刑部卿陸奥出羽按察使從三位坂上大宿禰田村麻呂爲2征夷大將軍1、正五位下百済王教雲・從五位下佐伯宿禰|社屋《モリヤ》・從五位下道島宿禰御楯爲v副。軍監八人軍曹廿四人
とあり。田村麻呂は位階高く陸奥出羽按察使なるが上にこたび征夷大將軍にさへ任ぜられたれば國守または鎭守將軍などの比肩すべき品にあらず。田村麻呂を見る目を移して鎭守將軍を見るべからず。鎭守將軍と國守との關係は略旅團長と縣知事との關係(452)の如し。
 共に大官にはあらず○兵部省式驛馬の續に
 磐井、白鳥、膽澤、磐基各五疋
とあり。磐井驛は和名抄磐井郡の郷名に磐井とある是なり。同書に磐井磐本驛家と並べ書けるを地名辭書に誤りて本の如く三郷と認めて「本郡に驛家郷と擧げしも本郷(○本驛)に外ならず」と云へり。こは本來磐井磐基の二驛にて驛家は後者の註に外ならず。正しくは「磐井 磐基驛家」と書くべきなり。高山寺本に磐基を載せざるは適《マサ》に磐基驛家なるが故なり。辭を換へて云はば磐井は郷にして驛を兼ねたるなれば郷に就いて之を擧げ、磐基は所謂驛家郷にて正眞の郷にあらざれば此本の例として之を載せざるなり。かく磐基を載せざるを見ても驛家の二字が磐基に屬したるもの即その註なることを知るべし。磐基驛家郷のことは後に云ふべし。磐井驛は今の西磐井郡萩荘村大字上黒澤なりといふ。上黒澤は今の一ノ關町の西南にて磐井川の南岸なり。陸奥話記に
 則赴2松山道1(○栗原郡津久毛村大堤の内小堤)以|南〔右△〕2(○出の誤かと云へり)磐井郡中山大風澤1翌日到2同郡荻馬場1。去2小松柵1五町有餘也
(453)とある荻馬場はやがて此地なりといふ。次に白鳥驛〔三字傍点〕は和名抄膽澤郡に白馬驛家と並べ擧げたる白馬は白鳥の誤字にて驛家は白鳥の註なり。高山寺本に白鳥を擧げざること例の如し。陸奥話記に
 九月七日破v關(○衣川關)到2膽澤郡白鳥村1攻2大麻生野及瀬原二柵1拔v之
とあり又奥州後三年記(群書類從卷三六九)に
 ここに清衡家衡よろこびをなして勢をおこして眞衡がたちへ襲ひゆく道にて伊澤の郡白鳥の村の在家四百餘家をかつがつ燒きはらふ
とあり。白鳥は今の膽澤郡前澤町の大字にて大字前澤の南なり。次に膽澤驛は和名抄に膽澤といふ郷の見えざるは必脱漏したるなり。鎭守府又膽澤驛の所在地なれば必郷はあるべきなり。地名辭書に白鳥、驛家とある驛家を之に充てたるは非なり。彼は白鳥の驛家なり。或は云はむ。膽澤城下の民戸は所謂柵戸なれば特に膽澤郷は置かざるならむと。もしさるが故ならば膽澤驛も置くべからず。思ふに驛を兼ねたる郷のありしを書き落したるならむ。さて驛の所在は今の佐倉河村の内にて府址よりは少し南の方なるべし。終に磐基驛〔三字傍点〕はいづくぞ。和名抄磐井郡の郷名に磐本驛家とあるが是なること明なれど(454)其地今知るべからず。距離より云へば磐井と白鳥との間に一驛を要せず。思ふに此處には故ありて二路を通ぜしにて(陸奥話記に特に赴松山道と云へるも松山道ならぬ別路のあるを明にしたるものなり)從ひて驛も東西に相並びて二驛ありしならむ。其一は磐井驛にて他の一は磐基驛なり。さて磐基驛は後に置きしによりて四驛の最後についでたるならむ。磐井と磐基と兩驛の名稱の間にも關係ある如し。關元龍の陸奥郡郷考上卷郷名の下に
 磐井郡磐本 今按西岩井郷一關邑有2岩本1。未夫v知2是非1
とあり。著者は一關藩田村氏の文學にて其地の人なれば浮きたる言にあらず。地名辭書(四三〇六頁)に延暦二十三年五月の紀に
 陸奥國言。斯波郡與2膽澤郡1相去一百六十二里、山谷峻△往還多難。不v置2郵驛1恐闕2機急1。伏請准2小路例1置2一驛1。許v之
とあをを妾に此磐基驛の事として
 膽澤郡の北なる和賀稗貫の地と推定せらる。其里程より考ふるも稗貫郡花卷の邊と爲すべし
(455)と云へるはあやなし。彼は彼なり此は此なり。豈相與らむや。磐基驛は和名抄に磐井郡磐本驛家とあるをや。又續紀天平寶字三年九月に
 始置2出羽國雄勝平鹿二郡及玉野避翼……并陸奥國嶺基〔二字傍点〕等驛家1
とあるに就いて村尾元融の續日本紀考證に
 兵部式有2陸奥國驛磐基1。蓋此歟未v詳
と云へるを地名辭書に評して
 陸奥の邊境開拓の形勢を并考するに磐井膽澤の地は寶字の當時には猶賊の奥區に屬す。いかでか稗貫の邊に驛家を建つべき
と云へり。村尾氏は磐基驛と嶺基驛とを同一視せむとし地名辭書の著者は又磐基驛と延暦二十三年の某驛とを混同せり。寶字三年の嶺基驛は恐らくは賀美郡(今の陸前國)にありて出羽國に到る道に當れるならむ。なほ出羽國の下に云はむ(陸前國加美郡參照)○當國に國幣小社駒形神社あり。奥宮は膽澤郡永岡村の駒が岳(一名駒形山)山上に、口宮即本社は水澤町に在り。駒が岳は本郡の西北部和賀郡界に峙てり○當國和賀・上閉伊二郡以北は上に云へる如く南部領なり。その藩治は盛岡なり。又西磐井郡一ノ關町に田村氏(456)の治所あり。田村氏は仙臺藩主の支族なり(昭和十四年八月九日稿)
 
(457)    陸奥國
 
明治元年にもとの陸奥國を分ちて五國とせし時此國には陸前陸中に對して陸後と名づくべきに陸奥と名づけしは吉田氏の云へる如く失當なり。特に陸奥と書きてムツと訓ませたるそのムツはミチノクの片言なるミチの訛言なるをや。丹波丹後の例ありといふ勿れ。そが本、失當なるなり。夙く丹後國の下に指摘せり。さて狭義の陸奥國を建てし時二戸・三戸・北・津輕の四郡をその所管とせしが明治十一年に北郡を上下に、津輕郡を東北南中西に分ちし爲に今は陸奥國九郡、青森懸八郡となれり三戸郡は陸奥國にて岩手縣なり。二戸郡は其南隣なる岩手郡と分水嶺を隔てたれば之を陸奥に屬せしは可なり。但九戸郡は本來二戸の本郡にて又新井田川(九戸川)の上流なれば此も亦陸奥に加ふべきなり。陸奥國は八甲田《ヤツカフダ》山の山脈に由りて自然に東西二部に分れたり。甲を糠部地方とし乙を津輕地方とす。糠部は二戸郡・三戸郡・上下の北郡と陸中の九戸郡となり。津輕は津輕五郡にて地理上寧羽後國に隷すべし。歴史上にても甲は東山道より開け來り乙は越後及出羽より開け來りき。是陸奥國にて獨津輕が夙く古史に見えたる所以なり。又甲は(458)南部領特に南部氏の發祥地にて乙は津輕領なり。甲に南部藩の支なる七戸八戸の二藩あり乙に津輕の本藩と其支なる黒石藩(弘前の東北)とあり。青森縣管轄(即陸奥國より二戸郡を除きたるもの)の形状は駱駝の膝を折伏せて後顧せるに似たり。頭は下北郡、頸と胸とは上北・三戸の二郡なり。爾餘は津輕にてその東北二郡によりて駱駝の肉峯は形成せられたり。頭頸と肉峯との空間が即陸奥灣なり。胸が太平洋に向ひ尻が日本海に向へるは言を待たじ。首邑は西部の弘前市及青森市と東部の八戸市となり。弘前を經る鐵道は奥羽本線にて八戸を經るは東北本線なり。兩線の相分るる處は福島市にて相會する處は青森市なり。湖沼の大なるものは上北郡及三戸郡と陸中鹿角郡とに跨れる十和田湖、上北郡なる小川原《ヲガラ》沼、西津輕郡と北津輕郡との界にて又岩木川(弘前川)の河口なる十三潟なり○糠部郡〔三字傍点〕は始めて吾妻鏡文治五年九月三日の條に見えたり。糠延又糠夫又ヌカノブと書けるものあり又ヌカツプと唱へし由なればヌカノブと訓むべし。ヌカベと訓めるはわろし。吉田氏は類聚國史卷百九十の俘囚に延暦十一年十一月饗2陸奥夷俘宇漢米公〔四字傍点〕隱賀等於朝堂院1とある宇漢米は即ヌカノブならむと云へり。後に北・三戸・二戸・九戸の數郡に分れ今陸奥陸中の二國又は青森岩手の二縣に分屬せり。糠部地方に一戸二(459)戸などいふ地名多し。
 一戸    二戸郡町名
 二戸    郡名又二戸郡地名(福岡舊名)
 三戸    郡名又三戸郡町名
 四戸    今絶
 五戸    三戸郡町名
 六戸    上北郡村名
 七戸    同郡町名
 八戸    三戸都市名
 九戸    郡名
即是なり。之を總稱して糠部九个之|戸《ヘ》(又|部《ベ》)といふ。戸(部)は馬牧の區域なり。本來夷語にて馬牧といふ義なるべく〔馬牧〜傍点〕戸又は部と書くは借字なるべし。地名辭書(四六三七頁上段及中段又四六三九頁中段)に邦語として又「本來イヘの義にて此には數戸數烟の聚落を指せる稱とす」と云へるは從はれず。一二の順序は一至七は南に始まりて北に上り八は東南(460)に轉じ更に南に進みて(新井田川の上流に溯りて)九に終れり。陸前栗原郡の一ノ迫《ハザマ》二ノ迫三ノ迫の如く又陸中磐井郡の一ノ關の如く數字の下に必ノを插むべし。今は唱へ誤る人なけれど後にイチヘ・ニヘなど云はむを恐る。ヘはヘと唱ふべし。エと唱へベと濁るべからず○二戸郡〔三字傍点〕は今岩手縣に隷せり。岩手郡の北、九戸郡の西なり。馬淵《マベチ》川(間部地川)九戸郡葛卷の奥より發して本郡に入り南より來れる平糠川と西南より來れる安比《アツピ》川(淨法寺川)とを容れ北流して三戸郡に入れり。其左岸に一戸町、右岸に福岡町あり。福岡町は舊名二戸、九戸氏が一時此に居りしに由りて之を九戸といへるものあり。いとまぎらはし。地理志料に吾妻鏡文治五年の比内又は肥内を本郡の古名とせり。こは白石の五十四郡考に據れるなるが同書に證として擧げたる肥内郡贄柵は二戸にあらず。贄はニヘにして二戸は二ノヘなればなり。特に比内郡は出羽國の内即今の羽後國北秋田郡なり○日本後紀弘仁二年三月に
 陸奥出羽按察使文室綿麻呂等ニ勅シテ曰ク。去二月五日奏シテ※[人偏+稱の旁]ク。請フ陸奥出羽兩國ノ兵合二萬六千人ヲ發シテ爾薩體〔三字傍点〕幣伊二村ヲ征セムトイヘリ。數ニ依リテ差發シテ早ク襲討ヲ致セ。……時ニ出羽守大伴今人謀リテ勇敢ノ俘囚三百餘人ヲ發シ賊(461)ノ不意ニ出デ雪ヲ侵シテ襲伐シ爾薩體ノ餘※[蘖の木が子]六十餘人ヲ殺戮シテ功一時ニ冠シ名不朽ニ傳ハル云々
とあり。又同年七月に
 出羽國奏ス。邑良志閉村ノ降俘吉弥侯部都留岐申シテ云ハク。己等貳薩體村〔四字傍点〕ノ夷伊加古等ト久シク仇怨ヲ構フ。今伊加古等兵ヲ練リ衆ヲ整ヘ都母村ニ居テ幣伊村ノ夷ヲ誘ヒテ己等ヲ伐タムトス。伏シテ兵粮ヲ請ヒテ先登襲撃セムトイヘリ
といへり。今福岡町の東北に仁左平あり。ニサタヒと唱ふ(此地方に平と書きてタヒと訓む地名少からず)。爾薩體村(新名)の大字なり。こは大名の小名となりて殘れるなり。古爾薩體といひし夷種は今の二戸・三戸・九戸等の郡即馬淵川及新井田川の流域に蔓り南、閉伊の夷とぞ隣りけむ。さて村といへるはその占居の廣き地方の汎稱のみ。福岡町の西即對岸に斗米村あり。大字に下斗米あり。シモトマイと唱ふ。トマイは無論夷語なり。是彼盛岡藩の烈士下斗米將眞(相馬大作)の名字の地なり。此人の名字を往々シモトメと訓めるは誤れり○古今集冬歌に
 寛平の御時后宮の歌合の歌 藤原興風 浦ちかくふりくる雪はしら浪のすゑの松(462)山こすかとぞ見る
又同じき東歌の陸奥歌に
 君をおきてあだし心をわがもたば末のまつ山浪もこえなむ
とあり。乙は甲の本歌なり。今當郡福岡町の南に浪打峠又末松山といふ處あり(今新村名を浪打村といふ)。近年まで陸羽街道に當りしかど今の國道は西方に去りて馬淵川に沿へり。古歌の末の松山は或は此處ぞといひ或は陸前宮城郡多賀城村大字|八幡《ヤハタ》ぞと云へり。此處ぞと云ふは路傍の岩壁に波濤の痕の如きもの見え又往々貝殻を孕めるが故なり。彼を信ずるものと此を眞とするものと世上にはいづれか多からむ。地名辭書の著者の如きは強く陸前説を主張して
 多賀城碑(○これをも吉田氏は眞とせり)には猶一二の疑惑を挾むべき餘地あれど末松山に至りては白日を觀るよりも明なり
といへり。宗久紀行(一名みやこのつと、群書類從卷三三二所収、作者は觀應年間の人)などより古き物に見えたるか又は末といふ地名が殘りたらばこそ余も左を袒がめ。抑末松山は古今集なる陸奥歌に入りたるを見れば陸奥國の歌枕なることは明なり。さて興風(463)の歌に由りて處の状を思ふに波濤高き海岸の曲浦に近く、さばかり高からぬ松山の砂丘のある處と見ゆ。もし峰高き岩山ならば或は浪ガ越シハスマイカなどかけても人は思ふまじきが故なり。然も絶對に浪の越すこと無ければこそ彼陸奥歌に若ワタシガ變心シタラ末ノ松山ヲ浪ガコスダラウとよみたるなれ。二戸郡なる波打峠は勿論古歌の末松山にあらず。鹽竈の南方なるは歌の趣にはかなへり。ただ吉田氏の如く強く主張するを得ざるのみ○三戸郡〔三字傍点〕は南、九戸二戸の二郡に、西、鹿角郡に、北、上北郡に隣り東大海に、西北十和田湖に臨めり。九戸川(又湊川又新井田川)九戸郡より來りて北走し馬淵川、二戸郡より來りて東北走し共に湊にて海に注げり三戸川(熊原川又|田子《タツコ》川)が將に馬淵川に會せむとする處の右岸に三戸町あり。南部信直が祖先以來居城とせし處にて其子利直の代に至りて始めて盛岡に移りしなり。八戸市は九戸川の河口と馬淵川の河口との間に在り。南部の支藩(俗稱小南部)の治所なりき。八戸市の南方、郡界に階上《ハシガミ》岳といふ山あり。今其北麓を階上村と稱す。ここに近古階上郡〔三字傍点〕の目ありて又海上と書けり。其地域確ならず。地理志料の如き之を北郡に擬したれど恐らくは三戸郡の舊稱又は一稱にて郡名は山名に依れるならむ。南部史要(三頁)に或郷土誌に
(464) 糠部は總稱にして階上・北・津輕・九戸・鹿角を糠部五郡といふ。三十世行信公時代階上郡を改めて三戸郡とし九戸郡の内福岡一戸(○舊九戸郡の西部)を割きて二戸郡を置き六郡となれり
といへるを引けり。階上を三戸の前名とせるは可なれど三戸二戸兩郡の名、行信の時代に起りきと云へるは非なり。行信が家を継ぎしは元禄五年なるに夙く寛文印知集に三戸二戸とあればなり。否寛永十一年八月(二十八代重直の時)の朱印安堵状にはやく三戸二戸とあり。すべて郷土誌といふものの妄信すべからざるが中に南部領の郷土誌は特にしどけなし。是一には三十一代信恩以下が曲れるを矯めて儒學文學を排斥せし爲にあらざるか。又右の書には津輕鹿角をさへ糠部の内に入れたれど糠部と津輕・鹿角とは歴史的にも地理的にも區別せざるべからず。又諸書に往々海上と書けるは階上の音讀の又書に過ぎざらむ○北郡〔二字傍点〕も亦近古以來の稱なり。明治十一年上下に分ち南を上とせり。上北郡〔三字傍点〕は三戸郡の北、下北郡の南にて西は津輕に隣れり。鐵道並に國道は三戸郡より來り西北に向ひ野邊地町にて相會せり。相坂川(奥入瀬《オイラセ》川又六戸川又下田川)十和田湖より發し東走して郡界にて海に入れり。中部の東部に小川原《ヲガラ》沼といふ大湖あり。七戸川此(465)に注げり。其外にも大洋に濱せる小湖多し。首邑の一を七戸町といふ。七戸川に沿へり。南部の支藩の治所なり。かのツボノ石ブミにて名高き坪村は今天間林村の大字|天間館《テンマタテ》の字となれり。坪川の左岸に沿へる部落にて陸羽街道に當れり。坪川は甲田沼に注げり。甲田沼は小川原沼の支湖なり。彼碑を埋みていつけりといふ千曳神社は甲地《カツチ》村千曳(東北本線ちびき)の東南、尾山頭の東方にて五萬分一圖に千曳神社と標せり。坪より北方二十餘町なり。千曳神社の東方半里許に石文といふ部落あり。碑はもと此處に立ちたりしを尾山の麓に移していつきしにや。夢をたどるに似ていとはかなし(多賀城碑附ツボノ石ブミ參照)。日本後紀弘仁二年に(又は二戸郡の下に引けり)貳薩體村夷伊加古等練v兵整v衆居2都母《ツモ》村1誘2幣夷村夷1將v伐2己等1
といへる都母は即この坪なれど紀にては廣き地域(たとへば小川原沼沿岸)を指せりと心得べし。本郡の今の首邑は野邊地町にて陸奥湾の東南隅なる野邊地灣に荏めり○下北郡〔三字傍点〕は半島にて僅に頸に由りて上北郡に連れり。頭より頸に遷る處の内側に田名部《タナブ》町あり。大湊灣に臨めり。明治維新の時會津の保科氏を此處に移して新に斗南《トナミ》藩と稱せしが廢藩によりて斗南の名は田名部に復しき。但今も斗南半島斗南灣などいふは名の佳(466)なるが爲に總稱として殘されたるなり。斗南は北斗の南即本洲の北端の義なり。半島の東北角を尻屋崎といふ。又西北角を大間崎といふ。本洲の最北端にて津輕海峽の東門の南角なり。半島の中央に恐山あり。本名は宇曾利山、ウソリは本來夷語なり。音の近きに由りて恐の字を借れるなり。其南に湖水あり。恐山湖一名釜伏湖といふ。その水は東北に流れてシヤウヅ川となれり。此附近はもと人鬼の交界と稱せられき。少くとも蝦夷の氣味今なほ濃厚に殘れる處なりといふ○津輕〔二字傍点〕は南、羽後國に接し東南、糠部に界せり。夙く齊明天皇紀元年に授2津刈〔二字傍点〕蝦夷六人冠各二階1と見え同四年四月に定2淳代《ヌシロ》(○羽後國野代)津輕〔二字傍点〕二郡郡領1と見え同年七月に津輕郡大領馬武、少領青蒜と見え同五年七月に使2於唐國1仍以2陸道《ミチノ》奥蝦夷男女二人1示2唐天子1といへる註に
 伊吉連博徳書曰。天子問曰。此等蝦夷國在2何方1。使人謹答。國在2東北1。天子問曰。蝦夷幾種。使人謹答。類《オホムネ》有2三種1。遠者名曰2都加留1、次者名麁蝦夷、近者名|熟《ニギ》蝦夷。今此|熟《ニギ》蝦夷、毎歳入2貢本國之朝1云々
と見えたり。都加留が麁蝦夷即生蕃より更に劣りたりしを見べし。然るに當時東海東山兩道の聞けたりしは阿武隈川以南にして(今の磐城岩代には浮田・伊久・信夫などの國造(467)國ありき)。今の陸前は其南境だにいまだ皇化に接觸せざりしにそれより北なる陸中、又それより北なる陸奥東部、その西に當れる津輕に郡を置き郡領を任ぜられしは如何にしてかと云ふに津輕の蝦夷は當時東蝦夷即陸奥蝦夷(古史に云へる狹義の夷)には屬せず、北蝦夷即|越《コシノ》蝦夷(古史に云へる狄)に屬し越後より今の羽前羽後を經て開け行きしが故なり。其後も津輕は久しく出羽と密接なる關係を保ちしにその出羽に離れ陸奥と親み終に今の如く糠部の北部と共に相合ひて今の陸奥國と成りしは源頼朝より糠部に封ぜられし南部氏が次第に強盛となり當初半治外の姿なりし津輕を侵略せし後に在り。津輕を初より南部の封内とせる南部藩の傳説は信ぜられず。さて南部氏第二十六代なる信直の時九戸政實と大浦爲信とが東西謀を通じて信直に叛せしに信實は敗れて身首處を異にせしかど爲信は成功して永く津輕の藩主となり津輕伯爵家の祖となりしは一には爲信が※[夕/寅]縁に長じたる爲なれど一にはその根據地なる津輕が地理上糠部と全然別境なるが爲なり。地理と歴史と相離れざることかくの如し。政治に當る者は留意せざるべからず。さて齊明天皇の時に津輕郡を置かれしこと上に云へる如くなるが津輕郡が延喜式にも和名抄にも見えざるを思へば郡領をさへ任ぜられしはただ一時(468)の事にて後には治外即所謂棄地として放置せられたりけむ。時到らざれば果の熟せざること昔も猶今のごときなり○世に津輕ノソトノハマといひ習へり。名義は外の濱なり。率土の濱なりといふは附會なり。さて内外の外をトはいはでソトといふは平安朝晩期以來なればソトノ濱といふ名は古からず。歌にては夫木集なる西行の
 陸奥のおくゆかしくぞおもほゆるつぼの石ぶみそとのはま風
などぞ最古からむ。因に云はむ。此歌の初句を往々ミチノクハと傳へたり。思ふにそは歌意を誤解してミチノクを主格と思ひしもののノをハと改めしが傳はれるならむ。作者の意にてはツボノ石ブミ及ソトノハマ風を主格としたるにて旅行者が或はツボノ石ブミを語り或はソトノ濱を語るを聞きてオクユカシクオボユ即我モユキ見タシト思フと云へるにて陸奥(ここにては正しくはミチノ|オ〔右△〕ク)はオクユカシクの枕辭に使へるのみ。もし世人の解せる如く
 或ハ坪ノ石ブミトイヒ或ハソトノ濱風トイヒ陸奥ハ奥ユカシク思ハレル
といふ意とせば極めて平凡なる歌とならむ。さてソトノハマのみにて可なるをソトノハマ風といへるは七言とせむが爲なれど玄人ならずは風とは得いふまじきなり。その(469)ソトノ濱とは何處にかと云ふに縱ちて云はば津輕の否陸奥の海濱をいづくをもソトノハマといふべけれどさては旅行者も土人も共に甘んぜざるべし。地名辭書には
 津輕沿海の地にして西方并に東北の二區あり。西北は深浦鯵澤港の一帶にして中世專之を西濱といふ。東北は龍飛《タツピ》より平館油川(此間を上磯又北濱)烏頭《ウトウ》(青森)等の一區にして之を東外濱といふ。此北濱は近世まで夷種遺存し專外濱の名を負へり。されば外濱の泛《ハン》稱に廣狹東西の別ありて往々同からず
と云へり。皆考證を經たる言なるべければ余はさながらに之を容認せむ。ただ余が知りたしと願ふは吾妻鏡に見えたる外濱なり。同書文治五年九月廿七日の條に
 二品歴2覽安倍頼時衣河遺跡1給。……西界2於白河關1爲2十餘日行程1、東據2於外濱1乎、又十餘日。當2其中央1遙開2關門1名曰2衣關1云々
と見え翌六年(建久元年)二月十二日の條に
 而於d外濱與2糠部1間u有2多宇末井之梯1。以2件山1爲2城郭1兼任(○泰衡の殘黨大河氏)引籠之由風聞云々
と見えたり。白河關ヨリ二十餘日ノ行程といひ外濱ト糠部トノ間ニ多宇末井之梯アリ(470)といへるを見れば吾妻鏡にいへる外濱は廣漠なる海際をいへるにあらで或一地域を指せるなり。其地域は今の東津輕郡なるトウマイ坂より西方に當ればやがて青森灣底にて適《マサ》に今の青森市に一致すべし○中津輕郡〔四字傍点〕は南は羽後の山本・北秋田二郡に、西北は西津輕郡に、東は南津輕郡に、東北の一角は北津輕郡に隣れり。東方に偏して弘前市あり。岩木川、郡の西南隅より流れ來り弘前の北郊に至りて北方に轉換し南北津輕郡との界を流れたり。郡の西北に岩木山聳えたり。一名を津輕富士といふ。弘前は津輕平野の奥地に在る天然の城府なり。津輕藩の始祖大浦爲信初堀越(弘前の東南郊)に在りしが慶長十六年に此地(當時稱高岡)に新府を開きしなりといふ。弘前の東北に平川ありて南津輕郡との界を流れ弘前の北方に至りて岩木川と相會せり。弘前は東西南の三方或は近く或は遠く山岳に圍まれたるが平川を泝れば碇が關を經て(南津輕郡を經て)羽後の北秋田郡に出づべ し。奥羽本線は恰此國道に沿へり○南津輕郡〔四字傍点〕は南は羽後の北秋田郡及陸中の鹿角郡に、西は中津輕郡に、西北は北津輕郡に、東北は東津輕郡に、東は上北郡に隣れり。弘前の東北に黒石町あり。是郡中の首邑にて津輕分家の藩治のありし處なり。其東北に浪岡村あり。北畠氏の子孫(顯家の裔とも弟顯信の後とも云へり)世々此處に住して浪岡(471)御所と稱せられしが天正六年に大浦爲信に滅されき。土人は長慶天皇、北畠氏を頼みて下りたまひしが此地にて崩御ありきと云ひ傳へたり。今中津輕郡相馬村紙漉澤に御陵參考地あり。天皇の御陵所の未定なるは人の知れる如し○西津輕郡〔四字傍点〕は南は羽後の山本郡に、東南は中津輕郡に隣り東北は北津輕郡と岩木川を隔て西北は日本海に臨めり。首呂を鯵が澤町といふ。北部に田光《タツピカ》沼あり(一作達飛。蓋夷語)。北に決しし岩木川と共に十三潟に注げり。湖西の砂嘴に十三村あり。湖を十三潟と稱するは此故なり。十三はもとトサと唱へしに津輕土佐守の稱に憚りてジフサンと改めしなりといふ説あり○北津輕郡〔四字傍点〕は斜に東西二郡に挾まれ東南は南郡に連り西北は海に向へり。首邑を五所川原町といふ。岩木川の右岸に沿へり。かの龍飛《タツピ》崎は無論夷語の擬字なり。縦に二裂せられて東北二郡に分屬せり。津輕海峽西門の南角にて渡島《ヲシマ》の白神崎と相對せり○東津輕郡〔四字傍点〕は西南は北及南の津輕郡に、東南は上北郡に隣り其他は海に臨めり。東西不對の二支に分れたり。兩支の中間が即青森市なり。堤川その東郊を貫きて海に入れり。沿海の平野(所謂ソトノ濱)も無きにはあらねど郡界悉く山岳を隔てたれば眞箇の別天地にて僅に東、トウマイ坂と西、鶴ガ坂(津輕坂)とに由りて人寰と交通せしのみ(以上八月二十日稿〔八字傍点〕)○吾妻鏡に於d(472)外濱與2糠部1間u有2多宇末井之梯〔六字傍点〕1といへるは青森灣の東岸|野内《ノナイ》村(東津輕郡)の大字|久栗《ククリ》坂と同淺蟲との間(根井川の河口と淺蟲川の河口との間)に在り。海岸の路絶え深潭に棧を架したるが故にカケハシといふなり。多宇末井はトウマイの填字にて本來ウトウマイなるを頭音のウを略したるなり。そのウトウマイはもと夷語なるが就中マイは岬の義なりといふ。五萬分一地形圖には善知鳥崎と書きてウトウマイと傍訓せり。ウトウに善知鳥を充てたることは後にいふべし。吾妻鏡のトウマイがウトウマイの略なることは明なれど有多宇末井之梯と書けるを往々ウタウマヰノ梯と訓めるは妄なり。こは要目集成に誤られたるなり。外濱ト糠部トノ間ニといへるを受けたれば無論タウマヰノ梯有リ〔二字傍点〕と訓まざるべからず。烏頭前・善知鳥前・塔前・當前・戸前・兜昧・唐昧など書けるは皆擬字なり。今は國道(奥羽街道)その上方に通じたり。明治九年及十四年の巡幸には上方の道に由らせ給ひき。その道ははやくより開けたりしかど雪に悩み又は遠きを嫌ふものは後までも下なる棧をかよひきといふ。ウトウといふ地名は外にも有り。たとへば青森市内に善知鳥神社あり。又羽後國|仙北《センボク》郡|千屋《センヤ》村に善知鳥(ウトウ)あり同|平鹿《ヒラカ》郡八澤木村に善知鳥(ウトウブタ)あり同由利郡に玉米村(トウマイ)あり(烹雜記參照)。ウトウが本來夷語な(472)るべきことは前に云へる如し。其義は知られざれど(地名辭書には「中にも坂路に此名を負はするもの最注目すべし」と云へり)はやく地名となれるを、俗説に鳥の鳴聲とし、夫木抄に定家の
 みちのくのそとの濱なるよぶ子どりなくなる聲はうとふやすかた
といふ歌ありと稱し(さる歌實は夫木抄に見えず)、母島ウトウと呼べば雛鳥砂中の穴より出でてヤスカタと答ふと云ひ、ウトウ鳥一名をヤスカタ鳥といふと云ひ、一種の水禽(バンに似たりといふ)を指してこれぞウトウといひ、其鳥に善知鳥といふ名を命じ(ゼンチテウとよむにはあらでヨシチドリとよむなりといふ。愈あさまし)、遂に善知鳥と書きてウトウと訓むこととなれり。又別に青森のウトウ神社のある處をヤスカタ町といひ烏頭中納言安方といふ流人又は安倍貞任の臣鵜藤安方といふものよりウトウといひヤスカタといふ地名は起りきと云ひ、さてはウトウを鳥の名とする説と没交渉となるが故に彼人の靈、鳥となりしをいつきてウトウ神社といふといひ、否彼神社の沼に此鳥多く住みしなりと云へり。人々が口に任せたる妄語なれば終に収拾しがたくぞなりにけむ。彼ウトウ神社は昔より海路の神なる宗形三神をいつけりといふ。よりて思ふに其(474)祠をサトウ宗形(ウトウに在る宗形神社の略)とぞ稱しけむ。ウトウが夷語にて地名なることは夙く云へり。然るに無學の社人誤りて宗形を安形と書き(諸書に安形・安方・安潟など書けり)終にはウトウヤスカタと云ひそめ、彼一種の鳥好みて此社にすだきしかば其鳥をもウトウとは呼びそめけむ。かの陸奥ノソトノハマナルヨブコ鳥ナクナル聲ハウタウヤスカタといふ歌の始めて見えたるは世阿彌の善知鳥の謠詞なるが、それにはただ古歌として引けるを夙く寛永十六年の春雨抄に妄に夫木抄の歌とし更に後には定家の歌とせるなり(大日本地名辭書四七四一頁及四七四五頁、青森縣史蹟調査報告第二輯、青森縣史第一卷三六〇頁、松屋筆記卷七十等參照)○養老四年正月の紀に
 遣2渡島《ワタリジマ》津輕津司從七位上諸君鞍男等六人於靺鞨國1觀2其風俗1
とあり。諸書に往々渡島ノ〔右△〕津輕ノ津ノ司とよめるはわろし。さては渡島ニ在ル渡2津輕1津ノ司と聞ゆればなり。ワタリ島津輕ノ津ノ司諸ノ君鞍男と訓みて渡島津輕間ノ津と心得べし。渡島はエゾノ島即北海道の南端、今の渡島《ヲシマ》地方にて當時津輕と共に出羽に屬したりしなり。津司は渡島に在らずして津輕に在りしなり。但小泊灣なりしか又は三厩灣なりしかは知られず。地理志料松前郡の下に
(475) 按ズルニ福山ニ大松前小松前ノ二街アリ。水ヲ隔テテ相對セリ。大松前舊名は津輕津、蓋養老中渡島津輕司ヲ此ニ置ク
といへり。渡2津輕1津の舊址は或は大松前にてもあるべし。大松前は少くとも津司の所在地にあらず○國幣小社岩木山神社は中津輕郡岩木村大字|百澤《ヒヤクサハ》にあり。即岩木山の東南麓、弘前市の西方に當れり。又縣社猿賀神社といふがありて南津輕郡猿賀村大字猿賀、即黒石町の西南に在り。上毛野君田道をいつけり(陸前國伊寺水門附録參照)。此社にても大昔洪水のありし時神體は南部鹿角郡猿賀野より流れ來りしなりといひ傳へたり。社林に五位さぎ青さぎ川鵜蕃殖し俗にサルガ樣ノサギと稱せられて此社の保護鳥即ツカハシメとなれり(昭和十四年九月二日病中稿)
 
 
(476)    出羽國
 
 昭和十三年一月東山道の、上代歴史地理の研究を始む。筆、近江國に始まりて翌十四年八月二十日陸奥國の終に近づく。此時忽卒中の徴候あらはる。爾後門下の醫師伊澤元藏君等の盡力に由りて病は速に平癒に赴きしかど多く讀み深く考ふることを許されねば茲に計畫を變じ主として大日本地名辭書及日本地理志料と五萬分一地形圖とに據りて羽前羽後を書繼ぎ以て僅に未完の憾を免かれむとす。若一二の發見あらば幸とすべく、無論之あることを期すべからず(九月八日起筆)
津輕の南、陸中陸前の西、岩代の北、越後の東北、日本海の東に在り。もとはイデハと唱へき。近古以來イを略してデハと唱ふること、なほ岩代のイダテ(伊達)を略してダテと唱ふる如し。明治元年羽前羽後の二國に分ち置賜・村山・最上・田川の四郡を羽前に屬し飽海・由利・雄勝・平鹿・仙北・河邊・秋田・山本の八郡を羽後に屬しき。されど飽海は鳥海山脈の南、最上川の北岸にて地理上決して羽後に屬すべからず。後に山形秋田二縣を建てし時飽海を秋田に附けずして山形に附けしは當を得たる處置なり○續紀和銅元年九月に越後國言。(477)新建2出羽郡〔三字傍点〕1。許v之と見え同二年三月に
 陸奥越後二國蝦夷、野心難v馴屡害2良民1。於v是以2左大弁臣勢朝臣麻呂1爲2陸奥鎭東將軍1民部大輔佐伯宿禰石湯爲2征越後蝦夷將軍1内藏頭紀朝臣諸人爲2副將軍1出v自2兩道1征伐
 秋七月令3諸國運2送兵器於出羽柵〔三字傍点〕1。爲v征2蝦狄1也。令3越前・越中・越後・佐渡四國※[舟+公]一百艘送2于征狄所〔三字傍点〕1
 八月征蝦夷將軍佐伯石湯・副將軍紀諸人事畢入朝
と見えたり。出羽柵は最上川の下流の南岸にありきとおぼゆ。征狄所は即出羽柵なるべし。又
 同五年九月始置2出羽國〔三字傍点〕1
 冬十月割2陸奥國最上置賜二郡1隷2出羽國1焉
とあり。越後國より割きて置きたる出羽郡(今の飽海・田川)に新に陸奥國より割きし最上・置賜の二郡(今の最上・村山・置賜)を添へて出羽國を置きしにてその出羽國は今の羽前國なり。天平五年十二月紀に
(478) 出羽柵遷2置於秋田村高清水岡1。又於2雄勝村1建v郡居《オク》v民焉
とあり。經營やうやうに今の羽後國に及びしなり。秋田村高清水岡は雄物川下流の右岸、今の秋田市の西北に在り。雄勝郡は羽後國の東南端なり○和名抄郡名に出羽國(國府在平鹿郡)と見え又出羽(國府)と見えたり。國府在平鹿郡とあるいぶかし。國府の所在は先の出羽柵にて最上川下流の南岸なり。光孝天皇實録仁和三年五月に
 先v是出羽守坂上茂樹上言。國府在2出羽郡井口地1。即是延暦年中陸奥守小野岑守據2大將軍坂上田村麻呂論奏1所v建也。去嘉祥三年(○三十七年前)地大震動、形勢變改既成2雲泥1。加之海水漲移追2府六里|所《バカリ》1、大川崩壞去v湟一町餘。兩端受v害無v力2※[こざと+是]塞1湮没之期在2於旦暮1。望請遷2建最上郡大山郷保宝士野1據2其險固1避2彼危殆1者《トイヘリ》
とありてそを廷議に附せしが不許可と定まりて
 太政官因2國宰解状1討2覈事情1曰。……南遷之事難v可2聽許1。須d擇2舊府近側高敞之地1閑月遷造不v妨2農務1用2其舊※[木+戈]1勿uv勞2新採1云々
とあり。最上郡大山郷は其地今よく知られざれど最上川の上流にて國府より東南に當れりと思はる○兵部式に
(479) 出羽國驛馬 最上十五疋、村山野後各十疋、避翼十二疋、佐藝四疋船十隻、遊佐十疋、蚶方由理各十二疋、白谷七疋、飽海秋田各十疋
 傳馬 最上五疋、野後三疋船五隻、由理六疋、避翼一疋船六隻、白谷三疋船五隻
とあり。續紀天平九年四月陸奥持節大使の奏言の中に
 將軍東人多賀柵ヨリ發シ四月一日部内(○今の加美郡)色麻柵ヨリ發シ即日出羽國、大室驛〔三字傍点〕ニ到ル。出羽國守田邊難破此驛ニ在リテ相待チタリキ。……將軍東人自導キテ新ニ開通セシ道總テ一百六十里、或ハ石ヲ剋リ樹ヲ伐リ或ハ澗ヲ填メ峯ヲ疏《トホ》ス。賀美郡ヨリ出羽國最上郡玉野ニ至ル八十里、總テ是山野ノ形勢險阻ナリト雖而モ人馬ノ往還大ニ難難スル無シ。玉野ヨリ賊地比羅保許山ニ至ル八十里、地勢平坦ニシテ危嶮アル無シ。狄俘等曰ク。比羅保許山ヨリ雄勝村ニ至ル五十餘里、其間亦平ナリ。唯兩河アリテ水漲ニ至ル毎ニ並ニ船ヲ用ヒテ渡ルト
とあり。玉野は羽前國北村山郡玉野村にて銀山越の西なり。大室驛は即玉野なるべし。ヒラホコ山は雄勝最上の郡界なり。又天平寶字三年九月に
 始メテ出羽國ノ雄勝平鹿ニ郡及玉野・避翼・平戈・横河・雄勝・助河并ニ陸奥國ノ嶺基等ノ(480)驛家ヲ置ク
とあり。平戈までが今の羽前國にて横河以下は今の羽後國なり。當時の驛路は今の陸前加美郡|色麻《シカマ》村より三本木川に沿ひて西上し銀山越又は母袋《モダイ》越を經て今の羽前北村山郡玉野村に出で、それより北上して避翼《サルバネ》驛(今の最上郡舟形村附近)に到り更に北上して平戈《ヒラホコ》驛(即今の同郡|金《カネ》山附近)并に平戈山を經て雄勝郡に入りしにて由利の道は此時未開けざりしなり。後世の驛路即和名抄時代の驛路とは別なり。混同すべからず。又嶺基驛は陸前加美郡の西偏に在るべし。此驛路に就いては從來の説とは見解を異にせるもの多し。試に比較せられよ。和名抄の驛路は陸前柴田郡なる小野驛より出羽の最上驛即今の山形市に越えしにて、それより村山|野後《ノジリ》二驛を經て避翼驛に到り、ここにて古驛路とは道を變へて最上川に沿ひ下り遊佐蚶方等の驛を經て秋田城に達せしなり
 
(481)    羽前國
 
明治元年に羽前國を分置せし時置賜・村山・最上・田川・飽海の五郡を所管とすべきを政治上の理由(莊内藩に對する懲罰)によりて飽海《アクミ》郡を羽後國に屬しき。然もそは地理にも實情にも叶はざる爲に後に山形縣を置きし時飽海郡は他の四郡と共に同縣に附けられき。されば飽海郡は山形縣にして羽後國に屬したり。さて今は國名を標目としたれば飽海郡を除くべきなれど、さては記述をも了解をも妨ぐれば今は例を破りて羽前國に附載せむ。さて明治十一年に置賜郡を東西南に、村山郡を東西南北に、田川郡を東西に分ちしかば羽前國四郡は今は十郡と(飽海をこむれば十一郡と)成れり○置賜郡は和名抄に於伊太三と訓註せり。オキのキの父音を略するは所謂音便なるが此事は地名にも早く行はれてたとへば羽後の秋田をアイタと訓み武藏の埼玉をサイタマと唱へき。賜をタミに充てたるはタブといふ語の名詞形はタビ又はタミなるが故なり。今オイタマと唱ふるは音の頽れたるを字に叶へりと誤解したるなり。置賜郡は國の南部に在り。就中西郡は郡の西北半分を占めたり。爾餘の半分の東北部を東部とし南部を南郡とせり。三郡(482)は最上川の上游なり。西郡の水は又西に流れて越後の荒川となれり。持統天皇三年正月の紀に
 務大肆陸奥國優※[口+耆]曇郡〔四字傍点〕城養蝦夷脂利古(ノ)男麻呂與2鐵折1講d剔2鬢髪1爲c沙門u云々
とあるはやがて置賜なりと云へり。優※[口+耆]曇は從來ウキタム・ウキタ・ウキタミなどよめり。曇の漢音はタムなればタミにも轉用すべし。南置賜郡〔四字傍点〕は南、岩代國耶麻郡に、東、同國信夫伊達二郡に隣れり。郡の東北偏に米澤市あり。東、栗子トンネルを經て福島に到るべく南、檜原峠及大峠を經て會津に到るべし。奥羽本線、福島より板谷トンネルを經て米澤に赴けり。最上川の源流なる松川(羽黒川)、その支源|鬼面《オモノ》川と共に米澤を夾めり。西偏に白川あり。是亦松川の支源なり○東置賜郡〔四字傍点〕は東は伊達刈田二郡に、西は西置賜郡に隣れり。高畠赤湯などの町あり。高畠町より東、白石川に沿ひて刈田郡白石町に到るべし○西置賜郡〔四字傍点〕は西は越後の岩船郡等に、南は會津の耶麻郡に界せり。長井町荒砥町ありて松川に沿ひ野《ノノ》川、松川に注げり。中部以西は荒川上游の流域にて所謂小國谷なり。その西南隅に飯豐《イヒデ》山聳えて當國と會津越後とに跨れり○最上川の中流に貫かれたる廣き地域を最上〔二字傍点〕といふ。和銅五年十月の紀に割2陸奥國最上置賜二郡1隷2出羽國1焉といへる最上即是にて今(483)村山四郡と最上郡とに分れたり。なほ云はば最上は最上川中游の域域にて、上游米澤と下游莊内との間にて、今山形市及楯岡・新庄の二町を主邑とせり。三代實録仁和二年十一月に勅分2出羽國最上郡1爲v二とあり。又民部式郡名の頭註に
 仁和二年十一月十一日分2最上郡1置2村山郡〔三字傍点〕1
とあり。此時分れて最上村山二郡となれるなるが、その最上村山の位置は今の最上村山の位置とは全く相異なり。よくせずば混同すべし。抑足利氏時代延文年間最上氏の興りし時二郡を混一して最上郡とし同文禄年中再兩郡に分ちしなるが其際兩郡の位置を顛倒して今に及べるなり。今所謂最上の北端を最上郡としたれど高山寺本和名抄に
 最上郡 郡下 山方 最上 芳賀 阿蘇 八木 山邊 福有(○流布本には此次に柴田・大倉・村上・長岡・大山・福岡とあり)
 村山郡 大山 長岡 村上 大倉 梁田 徳有
とあり。前者の福有と後者の徳有とには或は誤字あるべし。右最上郡八郷中郡下(流布本作郡可)阿蘇・八木・福有は其地知るべからず。山方は今の山形と名相關する所あるべし。但同地にはあらじ。最上は陸奥國小野驛の次驛の所在にて笹谷《ササヤ》峠の西方なれば今の山形(484)市なるべしと云へり。芳賀は今の東村山郡高タマ村の大字に芳賀あり。山邊は今の同郡に山邊町あり。されば最上部八郷中其地の知られたる四郷は南村山郡と東村山郡とにて適に所謂最上の南端に當り、今北端を最上郡とせると氷炭相容れず。さて今の村山四郡中南村山郡〔四字傍点〕は四郡の東南端にて東南は磐城の刈田郡に、東は陸前の柴田郡に隣り笹谷峠のウヤムヤノ關を越えて柴田郡に出づべきこと上に云へる如し。最上川の支源なる須川、郡を貫けり。郡の北偏に山形市あり。國道及奥羽本線、米澤市より此に通ぜり。山形市の西南に上《カミ》ノ山町あり。是和名抄の山方郷の地なりと云へり○東村山郡〔四字傍点〕は南郡の北に接して東、陸前の名取郡に隣れり。二口峠を越えば名取郡より山寺村及天童町に通ずべし。山寺に有名なる立石《リフシヤク》寺あり○西村山郡〔四字傍点〕は東西の置賜郡の北、東及北の村山郡の西に在り。最上川東偏及東界を流れたり。寒河江《サガエ》・谷地《ヤチ》・左津《アテラザハ》の諸町あり。寒河江川(一名白岩川)西より來りて最上川に加はれり。浮島を以て世に聞えたる大沼は本郡|大谷《オホヤ》村に在り。左澤の西南に當れり○北村山郡〔四字傍点〕は東郡の北につづき東は名取・宮城・加美の三部に隣れり。主邑は楯岡・尾花澤・大石田の諸町なり(楯岡は最上徳内の郷里なり)。最上川、西郡より來りて郡の西部を縱貫せり。古の村山郡は略本郡と今の最上郡とに當れり○今の最上郡〔三字傍点〕は(485)當國の東北端、陸前國加美・玉造二郡の西隣にて東南は北村山郡に、南は西村山郡に接したり。最上川、東南なる北村山郡より來り西北に向ひて本郡を貫けり。鮭川北より來りて最上川に注げり。本郡の主邑は新庄町なり○最上川下流の南北三郡即今の飽海・東西田川三郡の地方を稱して俗に庄内〔二字傍点〕三郡といふ。庄内は大泉庄内の略なり。大泉圧は今の西田川郡鶴岡市附近なり。されば庄内の稱は一地方より起りて廣汎なる地域に及べるなり。飽海郡の事はしばらく措かむ。川南の地は今東西の田川郡に分れたるが延喜式及和名抄に田川・出羽とあり。今出羽郡〔三字傍点〕なし。其地は今のいづくにか。又田川郡の建置は何時にか。地名辭書には田川郡の置かれしを出羽郡より前とし天武天皇十一年紀四月に
 越蝦夷伊高岐那等請。俘人七|千〔右△〕戸爲2一郡1。乃聽v之
とあるが即田川郡なりと云へり。此説誤れり。其郡は何と名づけられしか知られねど恐らくは永續せざりけむ。和銅元年九月に出羽郡を置かれしが後の出羽國に郡を置かれし始なり。さてその出羽郡は後の出羽郡及田川郡にて恐らくは飽海郡も亦其内ならむ。田川郡の名の初出は續後紀承和六年十月に
 出羽國言。去八月廿九日管田川郡司解※[人偏+稱の旁]云々
(486)とある是なり。建置の年は明ならねど出羽郡の内恐らくは赤川以西を割いて田川郡を置きしに其境界次第に廣まりて川東に及び(神名帳に田川郡伊※[氏/一]波神社とあるを一證とすべし)出羽郡は終に最上赤二川の隅角に壓追せられしならむ。かくて出羽郡の名の消滅せし後川南を更に櫛引・田川二郡に分ちて恐らくは櫛引川を以て界とせしに(櫛引は赤川の一名)寛文年中川南全部を又田川郡と稱することとなりしなり。
 ○されば櫛引郡は原の出羽郡にあらず。又今の東田川郡の舊稱にあらず
庄内三郡の境界は南は越後の岩船郡に、東南は西村山郡に、東は最上郡に、北は羽後の由利郡に隣り西は海に臨めり○西田川郡〔四字傍点〕は東田川郡の西に連なり其東北は赤川を界とせり。西南端に關川といふ谿流あり。是越後出羽の界にて念珠閲《ネズガセキ》の址は其河口の北にあり。念珠又念種又鼠と書けり。吾妻鏡文治五年七月十七日に出羽國念種關と見えたり。鶴岡市は當郡の東偏、赤川の左岸に在り。舊庄内藩の治所なり。明治維新後藩名を大泉と改稱す。鶴岡は昔の大泉郷又大泉莊の地なればなり。鶴岡はもとツルガヲカと唱へしに今はツルヲカと唱ふ○東田川郡〔四字傍点〕は庄内三郡の東南部にて東北、飽海郡と最上川を隔てたり。赤川一名櫛引川一名大鳥川といふ巨川あり。郡南の大鳥沼より發して北流し鶴岡の(487)東方より以下は西郡との界を流れ西北走して最上川と共に海に注げり。此川昔は或は最上川と別に海に注ぎしか。而して古の酒田津は兩川の河口の間に在りしか。國府の所在はその東方にて最上川の南岸なりしならむ。なほ下に云ふべし。修驗道にて羽黒山伏の熊野三山に擬して尊崇せし出羽三山は本郡に在り。三山とは云へど湯殿は一山を成さず。月山《グワツサン》高く聳えて東田川・最上・西村山の三郡に跨り羽黒山は遠く西北方に、湯殿山は近く西南方半腹に在るなり。羽黒より月山に登るを順路とし湯殿より月山に攀づるを逆路とす。續紀寶龜六年十月に
 出羽國言。蝦賊餘燼猶未2平|殄《チン》1。三年之間請2鎭兵九百六十六人1且鎭2要害1且遷2國府1。勅差2相摸・武藏・上野・下野四國兵士1發遣
とあり。且遷國府を從來國府ニ遷サムと訓みたれど宜しく國府ヲ遷サムと訓むべし。一時國府ヲ他處ニ遷サムと云へるなり。その新舊の府の址今知るべからず。又三代實録弘仁三年五月に
 國府ハ出羽郡井口ノ地ニ在リ。即是去延暦年中陸奥守小野岑守ガ大將軍坂上田村麻呂ノ論奏ニ據リテ建テシ所ナリ。去嘉祥三年地大ニ震動シ形勢變改シテ既ク雲泥ト(488)成ル。加之海水漲移シテ府ノ六里所ニ迫リ大川崩壞シテ湟ヲ去ルコト一町餘ナリ。兩端害ヲ受ケ※[こざと+是]塞ニ力ナシ。湮没ノ期旦暮ニ在リ(○文は上に引けり)
とあり。この井口地も亦今知るべからず。兩端受害は海と最上川との侵蝕を云へるなり。思ふに屡災異に遭ひて府址は土中又は水底に沈没したるならむ。今の東田川郡の西北端なる廣野村其址なりといへり。或は然らむ。古今集陸奥歌に
 もがみ川のぼればくだるいな船のいなにはあらずこの月ばかり
とある歌の序は諸郡より最上川の河口なる國府に競ひて租稻を運ぶ趣にてノボレバクダルは一舟の上にはあらで用果テテ上ル舟アレバ又今稻ヲ積ミテ下ル舟アリといへるなり。國府殷賑の状見るがごとし○飽海郡〔三字傍点〕は今羽後に屬せること上にいへる如し。最上川の北鳥海山脈の南に在りて東は最上郡に續けり。中世遊佐郡と云ひき。遊佐は郡内西偏の地名なり。酒田市は最上川河口の北岸に在り。地の利を得て富裕なる商都なり。昔は左岸に在りきと云ふ。所藏の寶暦四年筆寫の圖には明に左岸に酒田湊と標せり(參考書目參照)。最上川の上流に松嶺町あり。庄内藩の分封なる酒井氏の藩治の有りし處なり。もとは松山といひしを明治維新後廃藩前伊豫の松山・備中の松山と名相渉るが故に(489)松嶺と改めしなり。鳥海山は月山と南北遙に相對せる高山にて本郡と由利郡とに跨れり。山中に鳥海といふ湖水あるが故に名を得たるなり。吹浦村吹浦の洋上凡七里に飛島あり○出羽の諸驛中羽前に屬するは最上・村山・野後・避翼・佐藝にして飽海郡に屬するは遊佐なり(飽海の事は後にいふべし)。最上驛〔三字傍点〕は陸前柴田郡小野の次驛にて今の山形市に當れり。村山驛〔三字傍点〕は村山郷にぞありけむ。今北村山郡東根町の西南、最上川の東岸に小田島村大字郡山あり。是郷址にて又驛址なるべし。野後驛《・ノジリ》〔三字傍点〕は式に驛馬十疋、傳馬三疋船五隻とあり。地名辭書(四四二八頁)に天平寶字三年に置かれし玉野驛と同一とし北村山郡宮澤村大字正嚴を以て之に擬したり。從はれず。玉野は東方嶺基驛(陸前加美郡)より來りし處、野後は南方村山驛より來る處にて近處なれど同處には有るべからず。銀山越の路が廢せられし後笹谷峠の路が開けしなれば新路の驛は便宜の處に置くべく、舊路の驛を利用せざるべからざる理なし。且野後は玉野原の野尻なれば丹生川を隔てたる正嚴などを以て之に擬すべからず。野後驛は恐らくは今の尾花澤町にて傳馬に船五隻を設けたるは丹生川を渡らむ料なるべし。丹生川は陸前國界の水の集りて玉野原を經て最上川に赴く流なり。地名辭書に野後驛より最上川を渡ると心得たるも誤れり。次に避翼驛〔三字傍点〕は(490)式に驛馬十二疋、傳馬一疋船六隻とあり。サルバネと訓むべし。誰かはかかるうたてき文字を充てにけむ。最上郡と北村山郡との界に猿羽根峠あり。北に下れば小國川の南岸に舟形村ありて適《マサ》に羽州街道即雄勝道に當れり。寶字三年に置かれし避翼驛即平戈の前驛なるは必是ならむ。されど後の驛路即由利道に由らむには前驛野後と近きに過ぎ次驛佐藝と遠きに過ぎたる上に最上川の渡津(本合海《モトアヒカイ》)との距離大に過ぎて不便に堪へじ。地名辭書(四四三七頁)に
 天平寶字三年玉野・避翼・平戈と定められたる雄勝道は正しく猿羽峠の下(今の舟形)ならん。而も其後秋田城の通路をば白絲峽流(出羽府經由)に改定せられしなれば延喜式は野後・避翼・佐藝三驛に馬匹船隻を双び備へしめらる。即避翼の山驛を合川(○義經記に見えたり。今の本合海なり)の水驛に改め而も舊名を以て官公に用ゐらる
と云へり。まさに此説の如し。驛路變動の結果舟形に在りしサルバネ驛を西方二里許なる本合海に移ししかど驛名は舊に仍りしなり。白絲峽は本合海と清川との間なり。驛路の渡津は今の本合海橋の處なり。本合海は最上郡|八向《ヤムケ》村の大字なり。佐藝驛〔三字傍点〕は東田川郡清川村にて白絲峽の西口なり。白絲峽は北岸不通なれば本合海(避翼驛)にて最上川の左(491)岸に渡り清川(佐藝驛)にて右岸に復せしなり。さて遊佐驛以下を經て秋田城に到り又出羽國府に到るには佐藝驛より左岸を西下せしなり。遊佐驛〔三字傍点〕は即飽海郡遊佐村大字遊佐町なり○官幣大社|月山《ツキヤマ》神社は奥宮は月山頂上に、口宮は東田川郡泉村大字川代に在り。國幣中社大物忌神社は鳥海山頂上(本殿)と飽海郡|吹浦《フクラ》村大字吹浦及同郡蕨岡村大字上蕨岡(共に口之宮)とに在り。國幣小社出羽神社は東田川郡手向村大字羽黒山に、同湯殿山神社は同郡東村に在り。又別格官幣社上杉神社あり。米澤市に在り。上杉謙信をいつけり○當國明治二年の藩治は米澤(上杉氏、南置賜郡)大泉(酒井氏、西田川郡)新庄(戸澤氏、最上郡)山形(水野氏、南村山都)上ノ山(松平氏、南村山郡)天童(織田氏、東村山郡)長|瀞《トロ》(米津氏、北村山郡)外に飽海郡松嶺(酒井氏)なり(米澤新田にて藩治なし)○以上は初にことわれる如く地名辭書等を基礎として聊私見を添加したるものなり。近時の研究は多くは雜誌に散見すれば之を渉猟せむことは平時といへども困難なり。まして今の境遇にては不可能なり。試に國分寺の研究上卷(八七一頁以下)なる出羽國分寺といふ論文を※[さんずい+劉]覽するに
 出羽柵は初河南大山(○西田川郡大山町)に在りしが飽海郡|本楯《モトダテ》村大字|城輪《キノワ》に移り次に由理に移り終に秋田村高清水岡に移つた。又國府は初東田川郡|渡前《ワタマヘ》村大字平形で(492)あつた。同大字にコフヤシキ・コフヅヤシキ・國分といふ字がある。然るに寶龜六年に出羽郡井口即飽海郡上田村大字中吉田の井(ノ)口に移り延暦年中にその井口に本建築を行つたが仁和三年に同郡本楯村新田目に移つた
といへり。夫々原論文を讀み見ずば輕々しく批評を加ふべからざれども、ただ一二自然に起り來る疑を述べ試みむに寶龜六年十月に出羽國が三年之間請2鎭兵九百六十六人1且鎭2要害1且遷2國府1と乞へるは何處より何處へ遷さむとせるにか知られねど(或は今の渡前村平形より遷さむとせるにてもあるべし)その遷移は一時の事と思はる。決して後の出羽郡井口地への遷移には有るべからず。次に弘仁三年五月先是の出羽守の上言に
 國府在2出羽郡井口地1。即是去延暦年中陸奥守小野岑守據2大將軍坂上田村麻呂論奏1所v建也
とあるは延暦年中に某處より井口地に移して建てしことと解すべく夙く此地に移ししかど初には假建築なりしを延暦年中に本建築に改めしこととは解すべからず。又その井口の府を飽海郡上田村大字吉田字井口に在りしものと定めたるは井口といふ名が同じき爲なるべけれど弘仁三年紀に見えたる井口地は彼上言に(493)
 海水漲移迫2府六里所1大川崩壞去v湟一町餘、兩端受v害
とありて大川の邊にて海に近き處なれば飽海郡上田村吉田としては叶はず。從ひて舊府近側高敞之地を擇びて移しけむ新府も本楯村新田目には擬すべからず。又出羽柵は最上河南より海路を經て直に雄物河北に移ししにて城輪柵は出羽國府の前衛に過ぎざるべく又由理柵は城輪柵と關係あらざるべし。上田三平氏の城輪柵阯といふ論文ある由なれど未見ず○今山形市内に國分寺あり。寺内に鴻池あり。又市外に印役村(今東村山郡鈴川村の大字)ありて印役明神社あり。國府のコフを鴻と書ける例、下總の鴻臺を始めて諸國にあり。又諸園の府址に印鑰社あり。印役は無論印鑰の借字なり。されば今の山形市が國府なりし時代あるにや。延暦以前の出羽國府の所在は明ならず。或は山形市がそれにや。と云ふに越後の出羽郡を獨立せしめて出羽國とせしが和銅五年九月、陸奥の最上郡(山形市は其内)等を割きて出羽に屬せしめしが同年十月なれば出羽國府は無論出羽郡内(今の田川飽海二郡)に在るべく、最上郡内(今の村山最上二郡)には在るべからず。或は弘仁三年の上言に
 望請遷2建最上郡大山郷保宝士野1據2其險固1避2彼危殆1
(494)といへるが今の山形市にやと云へる人あれど大山郷は和名抄村山郡の郷名にてその村山郡は今の最上・北村山の二郡なれば今の南村山郡なる山形市には擬すべからず。其上國府を最上郡に移さむとする申請は太政官にて南遷之事難v可2聽許1と議定し宜v依2官議1といふ勅裁を下されしなるをや。右の如くなれば朝政時代には今の山形市に國府を置かれし事なし。恐らくは足利氏時代最上氏が出羽探題たりし時代此地(當時最上といふ)を私に國府に擬せしことあるにて國分寺・鴻の池・印鑰明神などは當時の遺稱ならむ                         (昭和十四年九月二十三日稿)
 
(495)    羽後國
 
明治元年に羽後國を分たれし時雄勝・平鹿・仙|北《ボク》・飽海《アクミ》・由利・河邊・南秋田・北秋田・山本の九郡を此國に附けられき。飽海郡の事は羽前國の下に述べき。此郡と男鹿《ヲガ》半島とを除けば國の形状、柱を豎てたる如く南は羽前に、東は陸中に、北は陸奥に接し西は日本海に臨めり。國中に三大川あり。最大なるは雄物川にて仙北《センボク》三郡(雄勝・平鹿・仙北)より發し西北に流れて河邊・南秋田二郡の間にて海に入り、中なるは能代《ノシロ》川にて陸中鹿角郡と北秋田郡とより發し西走して海に入り、最小なるは古雪《フルキ》川にて由利郡南北の水を集めて西海に注げり。八郎潟といふ大湖あり。山本郡と南秋田の本土と男鹿半島とに包まれたり。又仙北郡に田澤湖あり○雄勝・平鹿・仙北(舊名山本)の三郡を總稱して山北三郡といひ山の異音センなればセンボク又センボウといへり。山北の山は平戈山なり。地理志料に葢在2駒形山陰1故云v爾といへるは非なり。平戈山は雄勝郡と今の羽前國最上郡(昔の出羽國村山郡)との界の山なり。特に云はば最上郡有屋と雄勝郡|役内《ヤクナイ》との間の山なり。昔は最上郡|金《カネ》山町有屋より東北方雄勝郡秋(ノ)宮村役内に越え役内川に沿ひて横堀町に到りしに近古以來(496)今の羽州街道に由ることとなりしなりと云ふ。即昔は山脈の東をとほりしに今は西(雄勝峠一名杉峠一名院内峠)をとほるなり。雄勝郡〔三字傍点〕は又男勝又小勝と書けり。羽後國の東南端にて東は陸前の栗原郡並に陸中の西磐井・膽澤の二郡に、西は由利郡に隣れり。國道及鐵遺奥羽本線、羽前より來れり。首邑を湯澤町といふ。天平五年紀に十二月於2雄勝村1建v郡居v民焉とあり。出羽柵を最上川河口の南岸より雄物川河口の秋田村に遷ししと同時なり。雄物川を泝りて雄勝村を開きしなり。なほ後に云はむ。同九年紀正月に
 先v是陸奥按察使大野東人等言。從2陸奥國1達2出羽柵1道經2男勝1行程迂遠。請征2男勝村1以通2直路1
とあり。此一節難解にて學者の頭を悩ましき。地名辭書に
 本文經男勝の上に不字を脱する歟。文理通ぜず
と云へり。此説極めて佳なり。然も衆口一聲之を賛するに至らざるは地理を明にせざる爲なり。まづ
 從2陸奥國1達2出羽柵1道經2男勝1行程迂遠
とあるを陸奥國ヨリ出羽柵ニ達スルニ道、男勝ヲ經レバ行程迂遠ナリと訓めば次なる(497)請ハマクハ男勝村ヲ征シテ直路を通ゼムと文脈相通ぜざること吉田氏の云へる如し。されば道經男勝を道|不〔右△〕經男勝の脱字として道、男勝ヲ經ザレバ行程迂遠ナリと訓むべし。抑陸奥國より出羽柵に達するには今の羽前國を經ざるべからず。而して陸奥國の内天平九年に夙く開けたりしは陸前國加美郡以南なれば陸奥國より出羽國に出づるには加美郡銀山越(又は母袋《モダイ》越)宮城郡關山峠・名取郡二口峠・柴田郡|笹谷《ササヤ》峠などを經て今の北村山郡又は東村山郡又は南村山郡に出でざるべからず。さて今は北村山郡より北上せば山脈を越えて雄勝郡に入るべけれど此道は當時いまだ開けず。又今は本合海《モトアヒカイ》にて最上川を渡り其南岸に沿ひて西行し清川以西にて再最上川を渡り飽海郡を經て由利郡に入るべけれど此由利道も當時いまだ開けず。加之最上川白絲峽の南岸はいまだ交通を許さざりけむ。されば當時陸奥國より出羽柵に到るには恐らくは宮城郡の關山峠又は名取郡の二口峠を越えて最上川の右岸に達し、同じ川の支源なる寒河江《サガエ》川に沿ひて西に泝り、所謂六十里越街道を經て北に下り、赤川の河口より船に乘りて海に航し、雄物川の河口にて上陸しけむ。陸奥國より出羽柵に達するには其行程かくの如く迂遠なりしかば大野東人は村山郡を北上して(即今の北村山郡及最上郡を經て)平戈山を越え(498)て雄勝郡に入る直路を通じ、雄物川に沿ひ下りて其河口なる出羽柵に達せむとは企てしなり。さて東人の上言に基づきて陸奥特節大使藤原麻呂を發遣せられしかば麻呂二月十九日多賀柵に到り東人と協議せし結果として東人は廿九日に同處を發して色麻《シカマ》柵に到り、四月一日に色麻柵より(今の加美郡銀山越又は母袋越を經て)出羽國大室驛に到り、三日を以て賊地に入り(今の北村山郡及最上郡を經て)翌四日比羅保許山に達し、十一日に多賀柵に還りて復命して云はく
 自導新開通路總一百六十里。或剋v石伐v樹或填v澗疏v峯從2賀美郡1至2出羽國最上郡玉野1八十里、雖2總是山野形勢險阻1而人馬往還無2大艱難1。從2玉野1至2賊地比羅保許山1八十里、地勢平坦無v有2危嶮1(○都合百六十里、即今ノ二十六七里)。狄俘等曰。從2比確保許山1至2雄勝村1五十餘里、其間亦平。唯有2兩河1毎v至2水漲1並用v船渡(ルト)。四月四日軍屯2賊地比羅保許山1云々
とあり(全文は天平九年紀四月戊午の條を見べし)。出羽守田邊難破の議に依りて直に雄勝村に入らむは形勢の不可なるを察して平戈山より引還りしなり。即此時には雄勝村を征して出羽柵に達する直路を通ずるに至らざりしなり。平戈山は今の羽前羽後兩國の界の山なり。古は金山川に沿ひ上り國界の山を越え役内川に沿ひ下りしかば平戈山(499)といひしは今黒森水晶森などいふ山々にて通路は今の有屋峠ならむ。唯有兩河云々を或書に役内院内二川なりと云へれど役内川東南より來り院内川西より來り相合して雄物川の上流となれるなれば平戈より雄勝に到るに院内川は渡るべからず。兩河といへるは役内川と其北なる高松川となり。天平寶字二年紀十二月に
 徴2發坂東騎兵鎭兵役夫及夷俘等1造2桃生城小勝柵1。五道倶入並就2功役1
同三年紀九月に
 始置2出羽國雄勝平鹿二郡及玉野・避翼・平戈・横河・雄勝・助河并陸奥國嶺基等驛家1
 遷2坂東八國并越前能登△△越後等四國浮浪人二千人1以爲2雄勝柵戸1及《マタ》割2留相模・上總・下總・常陸・上野・武藏・下野等七國所v送軍士器仗1以貯2雄勝桃生二城1
とあり。寶字二年には平戈山の道はやく通じたりしなり。雄勝城(又雄勝柵)は今の湯澤町なるべし。なほ後にいふべし。平戈驛は今の最上郡|金《カネ》山町有屋なるべく横河驛は雄勝郡秋(ノ)宮村役内なるべく又雄勝驛は雄勝城と同處なるべし○和名抄郡名雄勝の註に有v城謂2之答合1とあり。答合城〔三字傍点〕は即雄勝城なるべけれど其名國史に見えず。答合は何と訓むにか。平鹿郡郷名の塔甲と名義上の關係あるべし。地理志料にはタカハと訓めり。若タカハ(500)ならばかく難訓なる字を充てずして田河など書くべし。地名辭書にはタカホと訓みて城址に擬せらるる高尾田村に合せたり。答合をタカホとよめるはタフカフの上のフを略し下のフをホに轉じたるなり(例は邑知・邑久のオフチ・オフクをオホチ・オホクとよめる)。ここに當郡|新成《アラナリ》村に大字郡山あり。志料にも辭書にも此附近を和名抄の雄勝郷とし此郡山を郡家及雄勝城並に驛家の所在地とせり。陽成天皇紀元慶二年七月に
 其雄勝城承2十道之大衝1也。國之要害尤在2此地1
とあり。雄物川の左岸なる郡山よりは右岸なる湯澤町の方十道之大衝とあるに當らずや。新成村の南に西|馬音内《モナイ》町あり。佐藤信淵は此地に生れき○平鹿郡〔三字傍点〕は和名抄に比良加と訓註せり。天平寶字三年紀九月に始置2出羽國雄勝平鹿二郡1とあり。但雄勝郡は天平五年紀十二月に於2雄勝村1建v郡居v民焉とあると重複せり。或は初は假建なりしか。又山本郡即今の仙北郡は雄物川沿岸即秋田城より平鹿郡に到る道の外は當時いまだ開けざりしなり。平鹿郡は雄勝郡の北、由利郡の東に在りて東は陸中の和賀郡に隣れり。雄物川西偏を貫けり。郡内の首邑は横手町なり。雄物川の支源なる横手川(一名旭川)に跨れり。鎭守府將軍清原武則はもと仙北の人なるが本郡増田町大字金田字平鹿は其城址なりとい(501)ふ。いかが○仙北郡〔三字傍点〕は仙北三郡中の大郡にて南は平鹿郡、西は由利・河邊の二郡、北は北秋田郡及陸中の鹿角郡、東は同和賀郡及同岩手郡に隣れり。南偏に金澤町あり。後三年の戰に清原武衛が其甥家衡を扶けて金澤柵に據りて源義家を悩まししその柵の址は此町の東方なる山の塙に在り。義家が雁行の亂るるを見て野中に兵を伏せたるを知りしも亦此附近なり。雄物川、西南偏を貫き玉川、北境に發し西南に流れて雄物川に合せり。北部に田澤湖あり。一名田子潟。西に決して潟尻川となり檜木内《ヒノキナイ》川に注げり。檜木内川は玉川の支源なり。地理志料に下流爲2玉川1注2御物川1といへるは誤解を來すべし。仙北郡舊名は山本郡〔三字傍点〕。陽成天皇紀元慶四年二月に
 出羽國言。管諸郡中|山北《センボクノ》雄勝・平鹿・山本三郡遠去2國府1近接2賊地1。昔時叛夷之種與v民雜居動乘2間隙1成2腹心病1云々
とあるが郡名の初出なり。然るに中古三郡共に其名を失ひ通じて山北郡と稱せられしを寛文中に舊稱に復せしが、和名抄流布本郷名の部に山本郡を脱し、平鹿・山本兩郡の郷八處を共に平鹿郡に屬したるを見て平鹿郡の北境を何と稱すべきかに迷ひ、私に仙北郡(狹義)と稱し、和名抄郡名部の山本をあらぬ處即國の西北部に差充てき。國史に山北ノ(502)雄勝・平鹿・山本三郡とあるをだに知りなばかかる失錯はあるまじきに當時の吏胥の無識獨斷なる惡むべく憫むべし。なほ後に今の山本郡の下に云ふべし。さて和名抄流布本に
 平鹿郡 山川 大井 邑知 山本 塔甲 御船 鎰刀 餘戸
とあるに高山寺本には
 山本郡 山川 大井 邑|加〔右△〕 山本 △△ 御船 鎰刀
とあり。こは平鹿郡を脱せり。思ふに山本郡の置かれし時平鹿郡の數郷を割きしに原帳の訂正うるはしからざりしかば流布本には書入の山本郡を脱し、高山寺本には地の本の平鹿郡を誤りて消ししならむ。天平寶字三年紀九月に始置2出羽國玉野・避翼・平戈・横河・雄勝・助河等驛家1とある助河驛を地理志料には今の神宮寺町として(地名辭書には河邊郡、否今の由利郡とせり。なほ由利郡の下に云はむ)
 兵部省式ニ助川驛ヲ載セズ。當時之ヲ廢セルナリ。神名式ニ山本郡副川神社アリ。副ハ須介ト訓ムナリ。即助川ナリ。出羽風土記ニ云ハク今在2神宮寺村1曰2八幡宮1。玉川舊名副川、至v此會2雄物川1ト
(503)といへり。神宮寺町は玉川が雄物川に合流したる下方に在り(五萬分一大曲を見よ)。さて寶字三年紀の平戈以下の諸驛が兵部省式に見えざるは雄勝道が由利道にかはりたればなり。志料に兵部省式不v載2助川驛1、當時廢v之也と訝れるを見れば志料の著者はなほ地理を審にせざるなり。近年高梨村大字|拂田《ホツタ》にて柵址を發掘しき。玉川流域の蝦夷を征服するに就きて即山本郡を建置する前に構築せしものなるべし。或人(發見者にあらず)が之を雄勝城に擬せるはいみじき誤なり。或はこれが塔合城にて和名抄郡名雄勝の註は誤れるにか○由利郡〔三字傍点〕は秋田縣の西南端に在り(國にて云はば其南方になほ飽海郡あり)。南は飽海・最上の二郡に、東は雄勝・平鹿・仙北の三郡に、北は河邊郡に隣り西は日本海に臨めり。雄吻川その東北角を掠めたり。郡内の水は相集りて北は芋川、南は子吉川となり相合して古雪《フルキ》川となりて日本海に注げり。首邑は本莊町にて古雪川の南岸に在り。其外北部には龜田町あり。南部には矢島町あり。又南部の海岸に有名なる象潟の名を傳へたる町あり。由利郡は又百合・油理・由理など書けり。元禄以來由利と定まれり。郡名は國史は勿論、延喜式和名抄にも見えず。初出は吾妻鏡建暦三年(建保元年)五月七日に
 勲功事今日先被v定v之……陸奥國遠田郡……同國由利郡云々
(504)とある是なり。陸奥國由利郡とあれど陸奥に由利郡なきのみならず文中に由利中八郎遂被v召2放所領1とあれば同國とあるは出羽國を書き誤てるなり(大槻氏は由利を曰理の誤書とせり)。由利中八郎維久は由利維平(八郎又中八)の子にて由利の土豪なり。由利郡は何故に和名抄に見えぬぞと云ふに、見えぬが當然なり。抄に見えたる河邊郡の改稱なればなり。即抄の河邊郡は後の由利郡なり。抑出羽の海道の内飽海郡までは越後國より歩歩に開け來りしが鳥海山脈に衝突して其北方には及ばざりしなり。然るに秋田村、海路より開けそめしかば飽海と秋田との間は中斷したりき。其後秋田より南進して由利柵を築き又其後飽海より北進して驛路を通ぜしかばここに由利もまた開け海道は國府(最上川河口南岸)より直に秋田城に至りき。又其後郡を建つるに及びて子吉川までを飽海郡に屬し
 ○和名抄飽海郡郷名雄波・由理是なり。由理を流布本に曰理と誤てり。高山寺本には由理とあり
子吉川より秋田川(雄物川)までを河邊郡としき。
 ○和名抄河邊郡七郷及餘戸是なり
(505)然るに後に河邊郡の名滅び鳥海山脈以北秋田川以南を由利郡とせしに(吾妻鏡時代)例の無識の吏胥が事に當りし寛文年間に至りて和名抄に河邊郡あるに現に其地なきを訝り、河邊郡が名を由利郡と更へたるを悟らずして、強ひて由利郡と秋田郡との間に作り設けたるが今の河邊郡なり○續紀寶龜十一年八月に
 由理柵〔三字傍点〕者居2賊之要害1承2秋田之道1。亦宜2遣v兵相助防禦1
とあり。賊ノ要害ニ居リとあれば賊地を扼せしにて秋田ノ道ヲ承ケタリとあれば此時いまだ飽海との交通は開けざりしなり。由理柵址を舊説に平澤町としたれど地勢を按ずるに地名辭書に云へる如く今の本莊町ならむ。否本莊町の對岸即|古雪《フルキ》川の北岸ならむ。
 ○由理柵は秋田城より南進して賊地に臨みて設けたるものにて其賊地は子吉川(古雪は其下流)と鳥海山脈との間なればなり。
 此小地域が最後まで皇化に抗し終に飽海よりの進入に由りて平らぎしは、なほ雄勝の南境役内が最上よりの進入を待たざるべからざりしと同例なり
古雪川は子吉川の下流にて古雪の稱呼はフルキなり。古雪は本莊の古名にて地名辭書(506)にフルキは古柵の義かと云へり○延喜式驛名〔二字傍点〕は
 驛馬 最上十五疋、村山・野後各十疋、避翼十二疋、佐藝四疋船十隻、遊佐十疋、蚶方・由理各十二疋、白谷七疋、飽海・秋田各十疋
 傳馬 最上五疋、野後三疋船五隻、由理六疋、避翼一疋船六隻、白谷三疋船五隻
とありて順序亂れたり。少くとも傳馬は最上・野後・避翼・由理・白谷と改むべし。飽海は未考。蚶方《キサガタ》は後世蚶潟又象潟と書けり。遊佐の次驛なり。象潟は海邊の湖水なり。湖中に九十九島の勝ありしが文化元年の大地震に湖底隆起し其後開墾を加へられて今は島は丘陵となり水は平地となれり。今の象潟町は明治二十九年までは鹽越村と稱せられき。それも近古以來の存在なり。驛址は知られず。次に由理驛〔三字傍点〕は地名辭書に云へる如く本莊町ならむ。地名辭書には寶字三年設置の助河驛を昔の河邊郡中山郷(後の由利郡の内)に擬して
 雄勝秋田の間は助河の一驛にては達し難し。助川は雄勝由理二城の間の驛にて恐らくは玉米《タウマイ》・下郷二村の間なるべし
といへり。按ずるに
(507) 出羽柵を秋田村に遷ししと雄勝村に郡を建てしとは   天平 五年
 最上より雄勝に直路を通ぜむとして遂げざりしは       天平 九年
 雄勝柵を造りしは                     寶字 二年
 雄勝・平鹿二郡と玉野・避翼・平戈・横河・雄勝・助河の六驛とを置きしは                                   寶字 三年
 由利柵の初出は                      寶龜十一年
にて寶字の初年には山道即|山北《センボク》を經て秋田に到る道は夙く開けたりしかど海道即由利を經て秋田に到る道は未開けず。されば助河驛は雄物川に傳ひ行く道に求むべく山路を經て後の由利郡の中部に出づる道には求むべからず。又和名抄所見の驛路は當時いまだ開通せざれば強ひて危險なる山路を凌ぎて由利郡の中部に出づとも利用すべき驛路なからむ。されば若事情ありて雄物川に沿ひて下ることを得ずて雄勝より横に由利に出でむと欲せば彼六驛の次に新に由理驛を置かざるべからず。然るに寶字三年に玉野以下六驛を置きしこと見えて由理驛を置きしこと見えざれば旁辭書の説は從ふべからず○河邊郡〔三字傍点〕は和名抄に加波乃倍と訓註せり。今はカハベと唱ふ。北は北秋田郡に、西北は南秋田郡に、東南は仙北郡に、南は由利郡に隣り西は海に臨めり。雄物川、斜に郡(508)を貫きその下流は南秋田郡との界を成せり。本郡の大部分は川の東北に在り。川の西南に在るは小部分に過ぎず。然も南北連續せず。本郡の境域は昔時と大に相違せり。和名抄の郷名を按ずるに當時の河邊郡は雄物川より子吉川までにて今の由利郡の東北部凡三分二なり。即河邊郡は夙く亡びてその故地に子吉川西北の地域を飽海郡より割き取りしを加へ て由利郡としたりしを寛文年中郡名整理の時和名抄に河邊郡の名ありて今は其地なきを訝り由利郡が河邊郡の變名なることを知らずして強ひて河邊郡を復せむと欲して中世私に豐島郡(又書戸島)と稱せし地に由利郡の西北端の地域少許を添へて強ひて河邊郡としたるなり。今雄物川の西南に連屬せざる二地域の存ずるは由利郡より割きたるにて和名抄河邊郡稻城芹泉二郷の遺なるべければこれのみ昔の河邊郡の故地なり。郡名の初出は續日本後紀承和十年十二月に出羽國河邊郡百姓云々とある是なり。その建置の年は知られねど由理柵を造りしより後なるべければ寶龜以後延暦以前なるべし。地名辭書に「恐らくは天平中の事に屬す」といへるは事情の誤解に基づけるならむ。寶龜十一年八月の紀に
 又由理柵ハ賊ノ要害ニ居リ秋田ノ道ヲ承ケタリ。亦宜シク兵ヲ遣シテ相助ケテ防禦(509)スベシ。但|以《オモ》フニ寶龜ノ初國司|言《マヲ》ス。秋田ハ保チ難ク河邊ハ治シ易シト。當時ノ議河邊ニ治スルニ依レリ。然ルニ今歳月ヲ積ミテ尚未移徙セズ。此ヲ以テ言ハバ百姓遷ルヲ重《ハバカ》ルコト明ケシ。宜シク此情ヲ存ジテ狄俘并ニ百姓等ニ歴問シ具ニ彼此ノ利害ヲ言スベシ
とあり。依治河邊を從來河邊|ヲ〔右△〕治スルニ依レリと訓ぜるはわろし。河邊ニと訓むべし。依は決なり。秋田ヲ棄テテ河邊ヲ據トスルニ定マレリとなり。先輩皆心を得ざるなり。又延暦二十三年十一月の紀に 出羽國言ス。秋田城建置以來四十餘年、
  ○出羽柵を秋田村に移ししは天平五年なれば延暦二十三年まで七十二年なり。又延暦二十三年より四十餘年の前は天平寶字の末年なり。いかが
 土地※[土+堯]※[土+角]ニシテ五穀ニ宜シカラズ。加以《シカノミナラヌ》北隅ニ孤居シ相救ワニ隣ナシ。伏シテ望マク、永ク停廢ニ從ヒ河邊府ヲ保タム。トマヲセリ。宜シク城ヲ停メテ郡トシ土人浪人ヲ論ゼズ彼城ニ住セシ者ヲ以テ編附スベシ
とあり。地名辭書に進藤重記の風土略記に右の河邊又は河邊府を今の河邊郡と心得た(510)るを斥けて
 城府遷置の河邊を以て本郡と爲すは最紛錯なり。抑々河邊府とは出羽國最上河の南邊の井口の府邑に外ならず。秋田の形勢已に守り難き危殆に臨まば河邊郡何ぞ獨安きと爲すを得んや
といへるはいたき誤なり。上文の河邊又は河邊府は即由理柵なり。子吉川(古雪川)の北岸に在るが故に河邊府といひしなり。
 ○之を思へば郡名の河邊も郡が雄物川に沿へる故の名にあらで府(柵)が子吉川の北岸に在るが爲の稱なり
當時子吾川以南の地も開けて由理柵は後安くなりたりしなれ○白谷驛〔三字傍点〕は地名辭書にシラヤと訓めり。據る所あるにやおぼつかなし。さて兵部式に驛馬七疋、傳馬三疋船五隻とあれば雄物川の左岸に在りしにて所謂|百三段《モモサンダン》の内なるべし。因に云はむ百三段は地名辭書に據れば吾妻鏡文治六年正月大河次郎起兵の處に
 仍維平馳2向于小鹿島大社山・毛々左田〔四字傍点〕之邊1防戰及2兩時1維平被2討取1畢
とある毛々左田の擬字に過ぎずといふ○雄物川〔三字傍点〕は又御物川と書けり。ヲかオか定まら(511)ざるは遺憾なれど、しばらく五萬分一地形圖に雄とせるに從ひつ。山北三郡を經るが故に又仙北川といひ下流秋田市の傍を過ぐるが故に又秋田川といふ。役内院内の二谿流、雄勝郡の南境より發し横堀町に至りて相合して本流となり、北走して山北三郡を貫き仙北郡神宮寺町にて方向を西北に變じ南秋田郡土崎港町の西に至りて海に入れり。支源の主なるものは皆右より來り加はれり。之を南より數ふれば岩崎川(皆瀬川)横手川・玉川・淀川・岩見川などなり○南秋田郡〔四字傍点〕は南は河邊郡に、東は河邊郡及北秋田郡に、北は山本郡に隣り西は海に臨めり。本土(地方《ヂカタ》)と男鹿《ヲガ》半島とより成り兩者は八郎潟を隔てたり。男鹿半島はもと絶島にて本土の大灣の前に當りしに後に砂土の堆積に由りて其東北端本土と相連りしかば灣は湖となり湖は其西南端(即島の東南端)に決口を求めしなり。今の河邊郡の河外部が近古まで本郡の地なりしこと上に云へる如し。和名抄秋田郡の郷名を推按するにそれに相當するに似たるは本郡の本土のみなり。されば男鹿島及今の山本・北秋田二郡は和名抄の郡郷帳の原簿を作製せし時代には今の陸中の和賀・上閉伊二郡以北と共に治外の地たりしなり。雄物川下流の右岸に秋田市あり。舊名を久保田(又書窪田)といふ。其西北方に土崎港町あり。兩地の中間に寺内村あり。秋田城即出羽柵の址(512)は此村に在り。延暦二十三年に城を廢し同時に秋田郡を置きしかど後に城を復しき。但その年代は知られず。元慶中夷地大に亂れ城は一たび賊に陷りき。なほ下に云はむ。和名抄郡名に秋田(阿伊太、有v城企治)とあり。有城企治は有v城謂2之企治1の略なり。上なる雄勝の註に有城謂之答合とあり。阿伊太は置賜の註に於伊太三とある如く音便なり。否尋常の音便にはあらで秋田は(置賜も)本來夷語なるが其發音うるはしからずしてアキタともアイタとも聞ゆるに由りて字には秋田と書きながら阿伊太と唱へしならむ(今はアキタと唱ふ)。古史には※[齒+愕の旁]田とも飽田とも書けり。※[齒+愕の旁]は※[月+愕の旁]顎に通じ訓はアギにて即アギト・アゴなり。秋田をアギタと書けるを見てもキの發音のうるはしからざりしを知るべし。齊明天皇四年に
 夏四月阿陪臣、※[舟+公]師一百八十艘ヲ率テ蝦夷ヲ伐ツ。※[齒+愕の旁]田《アギタ》渟代《ヌシロ》二郡ノ蝦夷望ミ怖レテ降ヲ乞フ。是《ココ》ニ軍ヲ勒《オサ》ヘテ船ヲ※[齒+愕の旁]田浦ニ陳ヌ。※[齒+愕の旁]田ノ蝦夷恩荷進ミテ誓ヒテ曰ク。官軍ノ爲ノ故ニハ弓矢ヲ持タジ。但奴等性、肉ヲ食フガ故ニ持タム。若官軍ノ爲ニ弓矢ヲ儲ケバ※[齒+愕の旁]田浦ノ神知ラム。イザ清白ナル心ヲモチテ官朝ニ仕ヘムト。仍リテ恩荷ニ授クルニ小乙上ヲ以テシ、渟代津輕二郡ノ郡領ヲ定メ遂ニ有間濱ニ渡嶋《ワタリジマ》ノ蝦夷等ヲ召聚メ(513)大ニ饗シテ歸ル
とあり。※[齒+愕の旁]田は秋田なり。渟代は野代にて今の山本郡地方なり。※[齒+愕の旁]田浦は今の雄物川河口なるべし。出羽の沿岸には良港なく又古人は船を泊するに河口を好みし故にかくは云ふなり。※[齒+愕の旁]田浦神は今の古四王社なるべし。赤神社とし七座《ナナクラ》神社とせる説は從はれず。※[齒+愕の旁]田浦神知矣の知ラムは罰セムといふことなり(萬葉集新考六八三頁及二六八八頁參照)。有間濱は津輕の内か。同五年に飽田渟代二郡蝦夷といふこと見えたり。されば此御世に飽田・渟代・津輕の三郡を置かれしかど久しからずして再夷地に没せしなり。續紀天平五年に
 十二月己未出羽柵遷2置於秋田村高清水岡1
とあり。今の寺内村古城山なり。寺内村は和名抄の高泉郷の内なれば諸書に高泉をタカシミヅと訓みたれどこはなほ一考を要す。タカシミヅを後にタカイヅミと更へけむこともあるべく又大同類聚方に
 阿伊太藥秋田郡人高出水〔三字傍点〕彌禰麻呂家方
とあればなり。地名辭書に
(514) 寶字中に至り此柵城に國務をも視しが寶龜の初治府を出羽郡(河邊)に復し兵鎭舊に仍る
といひ又
 寶字の建置といふは(○蒲生君平説)專國務に係けて曰へるにて兵事の上の柵城は早く天平五年に此に定められ後國府をも此地に移されければ云々
といへるは妄なり。國府を最上川南岸より秋田に移ししことなし。陸奥國にて城柵は次第に北に進めて終に膽澤に進めし後も多賀國府は依然たりし事例を見てもさる事のありしが國史に落ちたるにあらざることを知るべし。世に秋田城介〔四字傍点〕といふ官職あり。寶龜十一年八月に出羽國鎭狄將軍の上言に對して下されし報に
 夫秋田城ハ前代ノ將相僉議シテ建ツル所ナリ。敵ヲ禦ギ民ヲ保チテ久シク歳序ヲ經キ。一旦ニ擧ゲテ之ヲ棄テムコト甚善計ニ非ズ。宜シク且多少ノ軍士ヲ遣シテ之ガ鎭守トスベシ。彼ガ(○狄の)歸伏ノ情ヲ※[血+丑]《ヤブ》ラシムルコト勿レ。仍リテ即使(○征東使)若クハ國司ノ一人ヲ差シテ專當トセヨ
とあり。かくて國司の介をして秋田城の專當たらしめし時には秋田城介と云ひき。たと(515)へば類聚國史災異部五に
 天長七年正月癸卯出羽國驛傳奏云。鎭秋田城〔四字傍点〕國司正六位上行|介〔右△〕藤原朝臣行則今月三日酉時牒※[人偏+稱の旁]云々
とある是なり。初には無論出羽介は必しも秋田城司たらず秋田城司は必しも出羽介ならざりしなるべけれど多くは國介が城司たりしかば終に秋田城介といふ一種の熟語が生ぜしにてその城介は初は官職なりしに後には一種の稱號となりしなり。織田信忠の秋田城介など即是なり。平繁盛の秋田城介、安達氏代々の秋田城介、秋田實李の秋田城介など名相齊しくして實必しも相同じからざるなり○延喜式の秋田驛〔三字傍点〕即當國の終驛は秋田市の西北、寺内村の東方にぞ在りけむ。白谷驛より雄物川を渡りて此處に來りしなり。延喜式驛馬に白谷七疋、飽海秋田各十疋とあり。順序より見れば飽海は白谷と秋田との間に在るべけれど兩驛の間に一驛を容るる餘地なく又此地方に飽海といふ處なし。地理志料飽海郡飽海郷の下に
 出羽風土記云。鵜渡川原村舊名飽海、是郡名所v起。其東爲2郡山村1。是郡家所v在
といへり。鵜殿川原村は今の酒田市の東南部なり。地名辭書には
(516) 飽海郷は郡家の所在にて今南平田村に郡山の大字の遺れるは疑もなく其徴語たるべし。延喜式には飽海驛といふを載せしも此地なるか。其路次については多少の考察を要す。……飽海は佐藝(今の清川)より遊佐への直徑にあたり國府の傍路に屬す。故に後に於きて追録せる歟(○理由とは成らず不審)。新風土記鵜殿河原を以て飽海驛といへる信け難し
と云へり。ともかくも佐藝と遊佐との間なるべし。然も兩驛の間に次でずして最後に飽海秋田各十疋と擧げたるは此兩驛は追ひて置きたるにやとも思へど兩驛共に馬數多きに過ぐるがいぶかし。又傳馬中の避翼の順序は確に誤れり。されば出羽國の驛馬傳馬には誤ありと認むべし。再按ずるに秋田より發して國府に到らむに遊佐より東南佐藝に到り佐藝より更に西北國府に到らむに徒に途と時とを費せば遊佐の南方に飽海驛を置き遊佐より飽海を經て直に國府に到りしか。即飽海は秋田城と出羽國府との交通の爲に設けしにて、驛路の幹線に屬せず從ひて佐藝と遊佐との間についでがたければ故《コトサラ》に白谷と秋田との間についでたるか。但若然らば飽海に船を備へざるからず○八郎潟は南北六里東西三里にして山本南秋田の二郡に圍まれたり。舊名は秋田(ノ)大方。吾妻(517)鏡文治六年正月に大河兼任首途の事を述べて
 秋田大方〔四字傍点〕ニ打通リ志加(○連氷)ヲ渡ルノ間ニ氷俄ニ消エテ五千餘人忽ニ以テ溺死シ訖ンヌ
とあり。秋田ノ大方は即秋田ノ大潟にてカタは湖の方言なり。男鹿島は大さ略八郎湖に同じ。吾妻鏡には小鹿島と書けり。ヲカはもと夷語なるべし。本山・新山・寒風《サムカゼ》山の三峯あり。本山に赤神社をいつけり。赤神は夷神なるべし。國史の※[齒+愕の旁]田浦神を之に擬するものあれど從ひ難し。八郎湖の西南端に決口ありて海に通ぜり。水道の東(地方)に天王村大字天王あり西(島)に船越町あり。今は兩地の間に長橋を架せり。之を八龍橋といふ。八龍は八郎湖の雅名なり。さて船越は地峽といふことなれば此處に水道ありては船越の名叶はず。地名辭書に
 昔は此湖西北宮澤に決潰し船越天王の間は沙洲連續したる歟。今の如く船越に斷ち宮澤に續くは後世の變に由る者のみ
と云へるはげにもとおぼゆ。宮澤は湖の西北部、砂洲の巾の最狹き處、又山本郡界に近き處にて潟西村大字野石の内なり○羽後の誇の一は平田篤胤の出でし事なり。篤胤の墓(518)は旭川村大字手形、即秋田市の東北郊に在り。又縣社日吉八幡神社の境内に平田神社ありて篤胤をいつけり。日吉八幡神社は秋田市の西方なる寺内村大字|八橋《ヤバセ》に在り○山本郡〔三字傍点〕は羽後國の西北端にて南は南秋田郡に、東は北秋田郡に、北は中津輕・西津輕二郡に隣り西は海に臨み又西南は八郎潟に臨めり。能代川(一名米代川)東方陸中の鹿角郡より發し北秋田郡及本郡を經て海に注げり。河口の南岸に能代港町あり。續紀寶龜二年六月に
 渤海國使青綬大夫壹萬幅等三吉廿五人駕2船十七隻1著2出羽國賊地野代湊1。於2常陸國1安置供給
とあるは此河口なり。恐らくは困苦に遭ひし後幸に秋田城に達し、それより出羽國府に送られ、山道の助河・雄勝・横河・平戈・避翼以下のあまたの驛を經て常陸國に安著せしならむ。萬福等は其後京に召され翌年二月に歸國せし由二年三年の紀に見えたり。是より先齊明天皇の四年四月に阿陪臣が船師を率て蝦夷を伐ちし時※[齒+愕の旁]田渟代二郡の蝦夷が望み怖れて降を乞ひしこと、渟代等の郡鎭を定めしこと、同年七月に蝦夷が都岐沙羅・渟足等の柵造に率られて闕に詣でて朝獻せし時渟代郡の大少領に位階を賜ひ同大領におほせて蝦夷の戸口と虜俘囚の戸口とを※[手偏+僉]覆せしめられしこと、同五年三月に阿倍臣が(519)再蝦夷を討ちし時渟代郡の蝦夷等を懷柔せしこと國史に見えたり。惜むべし此時の開拓は永續せざりしなり。元慶二年の亂の事は北秋田郡の下に云はむ。本郡及北秋田郡は源頼朝の奥羽平定の後に至りてもなほ津輕と共に半治外とせられたりき。本郡の中央に今檜山町あり。昔此地に檜山城ありて安東氏が此處に治せし時より檜山郡の私稱ありて後世之を沿用せしに寛文四年に幕府命じて山本郡と改めしめき。こは吏胥が和名抄に山本郡ありて今其地を失へるを見て妄に此地域を山本郡に擬せしなり。山本郡は實は其地を失ひたりしにあらで仙北郡の内となりたりしを幕府の吏胥が知らざりしなり。
 ○これと同じきは河邊郡が由利郡と改稱せられたるを悟らずして昔の秋田郡の一地域なる私稱の豐島《トシマ》郡を河邊郡と改めしことなり。大隅國の姶良《アヒラ》郡・薩摩國の伊佐郡(西海道風土記逸文新考二一七頁以下參照)安藝國の高宮沼田二郡など權に任せて地理を弄したる、一々に其罪を數へて當時の吏胥の墓碑を鞭うたまほしくこそ思へ
地名辭書に羽陰史略を引きて
 寛文の比此方樣(○藩主)御公儀役人小笠原山城守樣の御振舞に御出、御咄しに「領分の(520)郡分け山本郡は仙北郡に成り檜山郡は山本郡に成り戸島郡は川邊郡に直り候事大繪圖とは相違」の段小笠原樣へ御直に御尋被遊候得ば「少も不苦儀に御座候。御判物(○將軍ノ印ヲ捺シタル文書)直り候處多御座候」と御物語の由に候
と云へり。今も耳にする役人ラシイイヒワケなり○北秋田郡〔四字傍点〕は東は陸中の鹿角郡に、南は仙北・河邊・南秋田の三郡に、西は山本郡に隣れり。北は矢立峠を經て津輕に入るべし。此峠は相馬大作が津輕藩主を狙撃せし處なり。本郡は上古には名なし。中古には私に肥内《ヒナイ》郡(又稱比内)と云ひき。吾妻鏡文治五年九月三日に
 泰衡數千ノ兵ニ圍マレ一旦ノ命害ヲ遁レムガ爲ニ夷狄ノ島ヲ差シテ糟〔左△〕部《ヌカノブ》郡ニ赴カムトシ此間數代ノ郎從河田次郎ヲ相恃ミ肥内郡贄柵ニ到リシ處河田忽年來ノ舊好ヲ變ジ郎從ヲシテ泰衡ヲ相圍マシメテ梟首シ此頸ヲ二品ニ獻ゼムガ爲ニ鞭ヲ揚ゲテ參向ス
とある是なり。やがて今も本郡二井田村に泰衡の冢あり。二井田は贄の轉訛ならむ。さて比内郡といひしは本郡の一地方(今の大館町は其中心なり)を泛稱して比内と云ふが故なれど其郡名も終に廢れて近古の本郡は秋田郡の内なりき・元來鹿角・北秋田・山本の三(521)郡は能代川の流域なれば地理上より云はば一郡とすべきなり。若其地域廣大にして一郡とせむに不便ならば三區にも四區にも分割すべし。たとへば鹿角・比内(或は比内及阿仁)檜山ともすべし。能代川の流域中上流を鹿角、下流を檜山としながら中流のみ西南方なる秋田(雄物川の流域なる秋田)に併屬すべけむや。明治十一年に秋田郡を南北に分ちて本郡を北秋田郡としき。秋田の稱を殘せるは快からねど本秋田郡と分離したるは可なり。本郡の首邑は大館町にて能代川の北岸に沿へり。之に次ぎたるは其下流なる鷹巣《タカノス》町にて亦北岸に治へり。能代川は一名|米白《ヨネシロ》川。鹿角郡の南端より發し北流せし後強く屈曲して西流し北秋田・山本の二郡を横斷し能代港町の北にて海に注げること上に云へる如し。大小の阿仁《アニ》川、本郡の南境より發し相合して阿仁川となりて本郡の西偏にて能代川に注げり。大阿仁川の大又川の右岸に阿仁合《アニアヒ》町あり。鑛山の爲に開けし邑里なり。國道及鐵道奥羽本線、山本郡より來り大館を經て弘前に向へり○陽成天皇の御世に出羽國大に亂れき。三代實録に精しき記事あり。今其要を撮みていささか地理を註せむに元慶二年三月廿九日に
 出羽守藤原興世飛騨上奏。夷俘叛亂、今月十五日燒2損秋田城并郡院屋舍城邊民家1。仍且(522)以2鎭兵1防守、且徴2發諸郡軍1
とあり。郡院屋舍は租税を納めたる倉庫の郡家と同處に在るものなり(豐後風土記新考一一八頁以下參照)。國府は今の羽前國なる最上川の南岸に在りしこと屡云へる如し。四月二日に
 藤原興世飛驛奏d言秋田郡城邑官舍民家爲3凶賊所2燒亡1之状u。去月十七日上奏、厥後差2權掾小野春泉・文屋有房等1授以2精兵1入v城合戰。夷黨日加、彼衆我寡、城北郡南公私合宅皆悉燒殘、殺虜人物不v可2勝計1。此國器仗多在2彼城1擧城燒盡一無v所v取。加之去年不v登百姓飢弊、差2發軍士1曾無2勇敢1。望請2隣國援兵1戮v力襲伐
とあり。當時の秋田郡は今の南秋田郡及河邊郡にて雄物川の右岸を盡ししなり。城は前回には燒損に過ぎざりしに此に至りて燒盡せしなり。同月廿八日に
 藤原興世飛驛奏言。賊徒彌燒不v能2討平1。且差2六百人兵1守2彼隘口野代營1。比v至2燒山1有2賊一千餘人1逸2出官軍之後1殺2略五百餘人1。脱皈者五十人。城下村邑百姓盧舍爲3賊所2燒損1者多|者《トイフ》
とあり。隘口ノ野代營といへるは能代川の河口の南岸に番所の如きものぞありけむ。賊(523)は能代川の上流より來りしなり。守2二彼隘口野代營1は守ラシムと訓まで守ラシメムトスと訓むべし。いまだ野代營に到らざるにて燒山は其途に在るなり。燒山は地名辭書にいへる如く八郎潟の東岸にて山本南秋田二郡の界なる三倉鼻なり。此地の外に擬すべき處なし(五萬分一五城目參照)。背後に高岳山あり。燒山と名相渉るべし。地名辭書に燒山をタケ山とよめるも亦之を思へるならむ。城下村邑といへるは郡内村邑と云はむが如し。五月四日に
 右中辨藤原保則拜2出羽權守1左衛門權少尉清原令望爲2權掾1右近衛將曹|茨田《マムダ》貞額爲2權大目1三人並發2遣出羽國1擬v討2反虜1
六月七日に
 藤原興世飛騨奏言。權掾小野春泉・文室有房等在2秋田衛1。去四月十九日遣2最上郡擬大領伴貞道・俘魁玉作宇奈麻呂1將2官軍五百六十人1須2候賊類形勢1。路遇2賊三百餘人1合戰、貞道中2流矢1而死。二十日賦衆増加不v可2相敵1。會v暮戰罷引v軍還v衛。明日凶徒挑來接戰。官軍疲極、射矢亦盡。因引還v衛。今月七日重遣2宇麻麻呂1登v高候望。俄爾遇v賊宇奈麻呂没2於賊手1。其後有2俘囚三人1來言。賊請2秋田河以北1爲2己地1。自後賊徒猥盛、侵凌不v息。官軍征討未v由2摧滅1(524)是日重飛驛言曰。權介藤原統行・權掾小野春泉・文室有房等進至2秋田舊城1畜v甲積v粮。陸奥押領大掾藤原梶長等將2所v授兵1與2本國兵卒1合五千餘人、聚在2城中1。賊出2不意1四方攻圍。官軍力戰賊勢轉盛。權介統行等戰敗而皈。權掾有房昧死而戰。軍無2後繼1※[手偏+適]〔左△〕v身逃皈(○挺カ)。權介統行男從軍在v戰及權弩師神服直雄並戰而死。甲冑三百領・米糒七百碩・衾一千條・馬一千五百疋盡爲2賊所1v取。自餘軍實仗物一無2存者1
秋田河は即雄物川なり
 八日散位小野春風爲2鎭守將軍1。詔令d春風與2陸奥權介坂上好蔭1星火進發、先入2陸奥1各將2精兵五百人1奔赴救uv之。九日勅2小野春風1卒2將軍兵1向2出羽國1
 十六日藤原興世飛驛奏言。賊鋒強盛日増2暴慢1固守2營所1視《シメス》v無2去意1。官軍畏懦只事2逃散1。陸奥軍士二千人△2押領掾藤原梶長等1竊求2山道1皆悉逃亡
竊求山道とは雄勝道ヲ經テと云へるならむ
 七月十日出羽國飛驛奏曰。權守藤原保則到v國遣2權掾文室有房・權掾清原令望・上野押領使權大掾南淵秋郷等1率2上野國見到兵六百餘1屯2秋田河南1拒2賊於河北1
此時河北は殆皆賊地となりたりしなり
(525) 又秋田城下賊地者上津野・火内・※[木+褞の旁]淵・野代・河北・腋本・方口・大河・提・姉力・方上・燒岡十二村也。向v化俘地者添河・覇別・助川三村也。令3此三村俘囚并良民三百餘人拒2賊於添河1
ここの秋田城下は前なるより意義廣くて今の南秋田・山本・北秋田の三郡並に鹿角郡に亙れるに似たり。上津野は即鹿角なり。但無論今の鹿角郡全體にあらで其中心地なり。火内は即比内にて今の大館地方なり。※[木+褞の旁]淵は地名辭書に今の鷹巣地方ならむと云へり。げに然るべし。野代は能代川河口地方なり。地名辭書に河北は能代川河口の北岸即向能代、腋本は男鹿島の脇本村、方口は潟口にて八郎湖の西北なる野口宮澤の附近、大河は湖の東南なる大川村とせり。なほ考ふべきものあり。添川は雄物川の支源なる旭川の一名なり。今も其北岸に添川といふ部落ありて南秋田郡旭川村の大字となれり。覇別は三代實録の流布本に霜別とあれど類聚國史地震部天長七年の奏にも覇別とあり。ベツは川の夷語なればワケとは訓むべからず。さてかの奏言に添河覇別兩岸各崩塞其水汎溢とあれば添川の如き谿流なるべし。或は今の太平《オイダラ》川か。太平川は旭川と合流して雄物川に注げり。助川は今の岩見川の古名なるべしと地名辭書に云へり。されば秋田城の東方以南の三谿谷の夷は夙く治に向ひたりしかば之をして北のかた添河を隔てて賊を拒がし(526)むと云へるなり。此處に插みて云ふべきことあり。天平寶字三年九月に新に雄勝道を開きしに附けて置きし驛の中に平戈・横河・雄勝・助河あり。助河は雄勝驛より秋田城に到る道にあるべきなり。地理志料には之を仙北郡なる神宮寺町とし地名辭書には之を由利郡なる玉米《タウマイ》下郷二村の間に擬せること上に云へる如し。熟思ふに此奏言に向化俘地者添河覇別助川三村也と云へるは共に同名の川に沿へる村落にて添河は今の旭川、覇別は今の太平川なれば助川は今の岩見川ならざるべからず。岩見川は秋田市の南方にて雄物川に注げり。今河邊に助川といふ地名は殘らざれど之をたとへば今の河邊郡|豐島《トシマ》村大字豐成の附近とせむに(豐成は岩見川の北岸に在りて羽州街道に當れり)秋田城の東南四里許にて雄勝道の終驛とするに適すべし。助河驛は或は此地ならざるか。但此地とすれば前驛雄勝との距離、神宮寺町とするより更に遠くなるは如何といふに元來雄勝驛と秋田城との距離は今の二十里餘もありて其間に少くとも二驛を要するなり。若助河驛を雄勝驛に近づけなば秋田城との距離遠くなるべく又若秋田城に近づけなば雄勝驛との距離遠くなるべきは理の當然なり。寶字三年の記事に雄勝助河とあるは中間に一二驛を落したるにてもあるべし。さて七月十日の奏言の續に
(527) 次攻2雄勝1後勝v侵v府。其雄將城承2十道之大衝1也。國之要害尤在2此地1。仍遣2左馬大允藤原滋實(○守興世ノ子。時ニ父ヲ訪ヘリ。勅シテ從軍セシム)權大目茨田貞額等1以2雄勝・平鹿・山本三郡不動穀1給2郡内及添河・覇別・助川三村俘囚1(○郡内ハ上述三郡、不動穀ハ常備米ナリ)慰2喩其心1令2相勵勉1。於v是俘囚深江弥加止・玉作正月麻呂等誘2率三村俘囚二百餘人1夜襲殺2賊八十人1燒2其粮食舍宅1。感2恩賚1也
とあり次攻雄勝の上に脱文あり。此時いまだ雄勝を攻めしにあらず。恐らくは賊聲言などの落ちたるならむ。府は國府なり。雄勝は助川の東南に在り、國府は雄勝の西南に在りて賊は添河・覇別・助川の向化俘を破らざれば雄勝を攻むるを得ざりしなり。官軍の主將藤原保則は恐らくは由理柵にぞ在りけむ。八月四日及九月四日に飛驛奏言ありしかど文、國史に脱せり。かかる程に小野春風・坂上好蔭等は陸奥の二戸郡より鹿角郡に入りて賊の背後を突きしなり(五萬分一荒屋・田山・花輪參照)。
 十月十二日出羽國司飛驛奏言。秋田營(○燒亡セシ秋田城ノ跡)申牒※[人偏+稱の旁]。八月二十九日逆賊三百餘人來2於城下1願d見2官人1時|得〔左△〕uv乞v降。權掾文室有房・左馬權大允藤原滋實二人單騎直到2賊所1。賊先申2心憂1次乞v降。有房等雖v不v被2明詔1而豫聽2其降1。是日陸奥權介坂上好蔭率2(528)兵二千人1自2流霞〔左△〕道1(〇五萬分一荒屋ノ七時雨山ノ西方)至2秋田營1。賊乞v降之日好蔭皷躁而來、盛建2旗幟1示2威賊虜1
好蔭は安比《アツピ》川の谿谷より轉じて米代川の谿谷に下り今の鹿角・北秋田・山本の三郡並に南秋田郡の北部即賊地を貫きて秋田營に來りしなり。
 又鎭守府將軍小野春風九月二十五日率2二軍四百七十人1來著2秋田營以北1即言曰。春風重含v詔先入2上津野1教2喩賊類1皆令2降服1。賊首七人相從同來
春風は膽澤鎭守府に留まりしかば後れしなり。さて將軍等は降服を許さむと欲し義從の俘囚等は後に怨を報いられむことを恐れて殄滅を勸めしが朝廷にてはたやすく決するを得ざりき。夷賊叛亂の原因その中途降服の事情などに就いて國史の裏面を觀察することも不可能にあらざれども今は歴史地理の研究に止めむ。以下にも權守藤原保則又は出羽國の飛驛奏言は屡見えたるが中に三年三月二日の保則の奏言ありて其中に
 去年九月十五日好蔭來v自2流霞〔左△〕路1二十五日春風來v自2上津野1
とありて好蔭の來著、昨年十月十二日の奏言に
(529) 八月二十九日……是日坂上好蔭率2兵二千人1自2流霞〔左△〕道1至2秋田營1
とあると相合はず。又流霞〔左△〕道は即上津野道なるべきに此奏言にては別路のやうに聞ゆ。或は春風の經過せし上津野はおなじく鹿角郡の内ながら好蔭の經過せし地とは異なるにや。即鹿角郡の内に特に上津野と稱せし地ありて(米代川に沿へる花輪町にあらで北に入りたる毛馬内《ケマナイ》町か)其地は好蔭の經過せざりしにや○當國には南秋田郡寺内村大字寺内に國幣小社古四王神社あり。祭神に就いては考ふべきことあれども今は武甕槌命及大彦命と定められたり○當國は由利・飽海二郡の外は秋田領なりき。明治二年の藩治は秋田(舊名久保田、佐竹氏、南秋田郡)岩崎(佐竹氏支封、雄勝郡)本莊(六郷氏、由利郡)龜田(岩城氏、由利郡)矢島(生駒氏、由利郡)なり(昭和十四年十月十七日稿)
 
 
(1)   參考書目
 
 ○余ニハ圖書館ニ道フ暇ナシ。又余ハ人ヨリ書籍ヲ借ルコトヲ好マズ。人ノ研究ヲ妨ゲムコトヲ恐ルレバナリ。サレバ弟ノ藏書ヲダニ借覧セズ。左ニ掲ゲルモノハ皆我玉川文庫ノ藏書ナリ。カカレバ必見ベクシテ見ザリシモノモアリ。カク不完全ナル書目ヲ載スルハ自己ニ取リテハ耻トモナルベケレド人ニヨリテハ多少益ヲ得ラルルコトモアルベシ。タトヘバ多賀城碑ノ文献ノ如キ一學者ノ來訪セシ時ニ「一通リハ知ツテ居ルガ或ハ心ヅカヌモノガアルカモ知レヌ。モシソノ文獻ノ書名デモ集メタモノガアルトヨイガナ」ト云ヒシニ言下ニ「アリマスヨ」ト答フ。「ソレハ何トイフ書カ」ト問ヒシニ「内ニ還ツタラオ知ラセシマス」トイフ。爾來頸ヲ伸ベテ空シク待ツコト半月乃至一月、終ニソノ教ニ由ラズシテソレガ仙臺金石志ト宮城縣史蹟調査報告第三輯トナルコトヲ知リテキ。カカル事モアレバ不完全ナル此參考書目モ或ハ多少世上學者ノ參考トナルコトモアルベシ。○此ニ擧ゲタル外ニモ一讀セシモノアレド無用トオボエシモノハ省キテ加ヘズ。人ヲダニ徒勞セシメジトテナ(2)リ。但ソノ書名ヲ揚ゲムハ人ワロケレバ得セズ○書籍ノ著者ノ時人ナルニハ知ル知ラヌニ拘ハラズ氏ノ字ヲ添ヘタリ。但取外シタルモアルベシ○此書目ハ一時ニ作リシモノニアラネバ體裁ハ其時ノ心々ニテ一定セズ
 
   一般又は數國ニ互レルモノ
 
日本地誌提要
  菊判洋装八册。元正院地誌課編纂。自明治七年十二月至同十二年十二月刊行
 
日本地理志料
  半紙本七十一巻、附録考據書目一巻、合爲十五册。邨岡良弼氏著。漢文。明治三十六年九月發行。和名抄ノ國郡郷部ノ考證ナリ。狩谷望之ノ箋註和名抄ニ國軍郷部ノ無キハ人ノ知レル所ナリ
 
和名抄地名索引
  半紙本一册。内務省地理局編纂。明治二十一年七月出版
 
和名抄高山寺本
  昭和七年複製。史料編纂掛選定古簡集影ノ内
 
(3)大日本地名辭書
 
國造本紀考
  四六判洋装一册。栗田寛氏著。明治三十六年九月訂正再版
 
驛路通
  菊判假装二册。大槻如電氏著。上册ノ發行ハ明治四十四年七月、下册ノ發行ハ大正四年九月ナリ
 
國分寺の研究
  四六二倍判厚册二。角田文衛氏編。昭和十三年八月發行
 
郡名異同一覧
  美濃紙判一册。明治十四年六月内務省地理局編纂
 
都區町村一覧
  美濃紙判一册。内務省地理局編纂。明治十四年三月出版
 
市町村大字讀方名彙
  菊判洋装一册。小川琢治氏著。大正十四年月發行
 
(4)六十五大川流域誌
  四六二倍判洋装一冊。明治十九年九月内務省土木局編纂。所蔵本ニハ當局者ノ補正アリ
 
利根川流域沿革考
  寫本一冊。河田羆氏稿。六圖ヲ附セリ。内務省備本カ。原文ハ史學雜誌第四編(第四十三號)ニ出デタリトイフ
 
神宮官幣社一覧
  帙入折本一帖。内務省神社局編纂。昭和四年一月發行
 
寛文印知集
  二十四卷。續々群書類従第九地理部所収
 
縣令集覺
  小横本。元治二丑正月改正
 
列藩武鑑
  小横本。明治二巳年改
 
(5)大武鑑
  極大本、附纂ト共ニ十三冊。始刊昭和十年四月、終刊同十一年十二月、印刷部数三百部。自明暦元年至明治二年武鑑ヲ網羅セリ
 
大日本國全圖
  銅版。南北五尺三寸七分、東西四尺九寸八分。地理局地誌課製作。明治十六年十月補正
 
地誌目録
  半紙一册。明治十八年二月内務省地理局編纂
 
同上
  菊判假製一冊。昭和十年六月複刊。限定二百部
 
日本地理志料考據書目
  志料附録。同書第十五冊ノ末ニ附ケタリ
 
家蔵日本地誌目録
  菊版假装一冊。高木利太氏著。昭和二年十一月發行
 
同續篇
(6)  同上。昭和五年十二月發行
 
東巡録
  四六判假装二冊。官撰。明治九年巡幸記。とふの菅薦屬此度
 
北陸東海兩道巡幸日誌
  同上明治十一年巡幸記。陸路廼記屬此度
 
東海東山巡幸日記
  同上明治十三年巡幸記。みともの數屬此度。所蔵本ハ上冊缺ケタリ
 
從駕日記
 とふのすがごも 明治九年。途經東山道。半紙本四冊。近蔵芳樹氏編集。同十年十一月出版
 
 陸路の記 明治十一年。同上。半紙本二冊。近藤芳樹氏著。同十三年六月刻成
 
 みともの數 明治十三年。同上。半紙本五册。池原香穉氏述。同十五年二月出版
 
 隨鑾紀程 明治十四年。同上。半紙判八巻五册。漢文。川田剛氏撰。明治十七年四月出版
 
 扈蹕日乗 同時。中本四册。兒玉源之丞氏撰。同十八年四月出版
 
(7)纂訂古風土記逸文
  菊判仮装一冊。栗田寛氏纂訂。明治三十一年八月發行
 
古風土記逸文考證
  菊判仮装二冊。栗田寛氏著。明治三十六年六月發行
 
輯採諸國風土記
  日本古典全集本。小本洋装一册。正宗敦夫氏編纂校訂。昭和三年三月發行
 
   近江國
 
近江國輿地志略
  菊判洋装二册。大日本地誌大系第二十二巻及第二十六卷所收。膳所藩士|寒川《カンカハ》辰治編輯享保十九年成。原本首巻、附録一巻
 
淡海録
  所蔵ハ零本一册(石山寺記以下)。寫本。元禄二年淡海處土藏六軒原田俊信著
 
近江名所圖會
(8)  一名琵琶湖勝概全覧圖書。美濃紙判四冊。秦石田・秋里籬島共輯。文化十一年四月新刻。江北三郡ハ與呉湖ノ記述アルノミ
 
近江名蹟案内記
  四六判假装一冊、北川舜治氏著、明治二十四年三月出版(著者自刊)。名稱卑近ニシテ體裁貧弱ナレド實ハ堂々タル著述ナリ
 
日本國誌資料叢書 近江
  四六版洋装一册。太田亮氏著。大正十四年三月發行
 
近江史蹟
  菊判假装一冊。明治四十三年十月滋賀縣發行。皇太子殿下行啓記念
 
歴史地理近江號
  菊判假装一册。明治四十五年六月發行。日本歴史地理學會編輯
 
滋賀縣史蹟名勝天然紀念物調査報告概要
  菊判假装一冊。大正十一年十一月滋賀縣保勝會編輯發行
 
滋賀縣史蹟調査報告
(9)  四六二倍判假装。保勝會發行。所蔵ハ第二第五第六ノ三冊ノミ
   大津京阯の研究  第二冊
   國分寺阯     第五册
 
大津市史
  菊判洋装三册。明治四十四年發行。大津市私立教育會編纂
 
近江蒲生郡志卷一
  菊判洋装零本一冊。大正十一年三月蒲生郡役所發行
 
鬼室集斯墳墓考
  菊判仮装册子一。明治三十六年十二月發行。蒲生郡長遠藤宗義氏編輯
 
近江人物志
  菊判洋装一冊。大正六年二月發行。滋賀縣教育會編輯
 
滋賀縣寫眞帖
  四六二倍到。明治四十三年十月縣發行。皇太子殿下行啓記念
 
(10)  菊二倍判。大正四年十一月縣發行。前者ノ改版ナリ
 
湖國聚英
  四六二倍判ノ寫眞帖ナリ和洋二樣ノ解説アリ。滋賀縣トアルノミニテ刊行年記ナシ
 
近江國圖
  肉筆著色古圖。東西凡一丈、南北凡九尺七寸。正保圖ノ略摸カ
 
滋賀栗木兩郡繪圖
  肉筆著色。東西一尺二寸六分、南北二尺二寸。明治初年ノ作製ナリ。滋賀縣廳ヲ標セリ
 
近江國細見圖
  寛保二年版
 
近江國實測圖
  明治十九年一月滋賀縣出版
 
   美濃國
 
(11)新撰美濃志
  菊判洋装一册。原本三十卷。故岡田文園著。昭和六年十二月發行。右文園ノ校正ヲ加ヘタル改正美濃國全圖トイフ刊行ノ小地圖アレドモ杜撰ニシテ學間上ニハ使用スベカラズ
 
岐阜縣紀要
  菊判假装一冊。明治四十二年九月縣發行
 
美濃文教史要
  菊判假装一册。伊藤信氏著。大正九年二月發行。好書ナリ。但名ハ文教史要ト云ヘド實ハ漢學史要ナリ
 
岐阜市史
  菊判洋装一冊。昭和三年四月市役所發行
 
大垣發展史
  菊判洋装一冊。市制施行記念。大正七年四月美濃新聞社編輯發行
 
岐阜縣史蹟名勝誌
(12)  四六判折表装一冊。昭和二年十一月縣發行
 
岐阜縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書
  菊判假装。縣内務部發行。所藏ハ五册(第一缺)
 
美濃國繪圖
  肉筆著色美圖。南北五尺七寸、東西四尺五寸。年記ナシ。但寶暦五年以後
 
美濃尾張二國圖
  肉筆著色。南北五尺八寸、東西三尺七寸。圖ノ肩ニ美濃國元禄十一寅年御繪圖郷帳面云々トアレバ同年作製ノ圖ヲ摸シタルカ。無論油島ノシメ切ハ見エズ
 
岐阜縣寫眞帖
  四六二倍判横本一册。明治四十二年九月縣發行。東宮行啓記念
 
美濃奇觀
  半紙判二冊。三浦千春氏著。明治十三年一月刊行。多ク繪ヲ交ヘ テ長良川鵜飼ト養老瀧トヲ記述セリ
 
養老瀧の辨
(13)  寫本一冊。文化九年六月香川景樹著
 
養老美泉辯
  美濃紙判一冊。文化十二年九月田中大秀著
 
         ―――――――――――
 
養老瀑
 星野恒氏ノ史學叢説第一集三一二頁以下ニ「養老ノ稱ハ醴泉ニシテ瀑ニ非ザル辨」ヲ載セタリ。著者ハ醴泉ハ泉ニシテ瀧ニ非ズト云ヒテ所謂菊水ヲ以テ之ニ擬シタリ。然ルニ萬葉集ノ名におふ瀧之瀬ヲ瀑布トセリ。醴泉非瀑布ト云ヘル外ハ余ノ説ト異ナリ
 
くくりの宮
 みともの數卷三ニ洗宮古趾圖・八坂入彦命御墓圖ナドアリ
 
      追加(本文稿了後ニ入手セシモノ)
 
大矢田神蹟圖攷
  半紙本一冊。三浦千春氏著。明治七年五月官許
 
(14)   飛騨國
 
斐太後風土記
  明治六年富田禮彦著。二十卷、外附録一卷。菊判洋装二册トシテ大日本地誌大系ニ收メタリ
 
飛騨遺乘合府
  菊判假装一册。故桐山力所編纂。大正三年九月發行。飛騨ニ關セル史籍地誌ヲ寫シ集メタルモノナリ。自著飛州志拾遺及飛騨群鑑ヲモ加ヘタリ
 
飛騨山川
  四六倍洋装一册。岡村利平氏著。明治四十四年十一月發行
 
稿本飛騨史談
  半紙判一册。田中貢太郎氏著。明治二十八年六月發行
 
運材圖會
  一名官財圖會。美濃紙判石版本二卷一册。嘉永七年(安政元年)富田禮彦著。松村寛一作圖。刊行年月不明
 
(15)附 木曾御料林之造材運材附圖
  菊判假装一册。大正五年六月帝室林野管理局發行
 
飛騨國繪圖
  年記ナシ。版ハ木版ナレドモ圖樣書風新シキガ上ニ高山ニ高山縣ト標シタレバ明治初年ノ物ナリ
 
   信濃國
 
信濃史料叢書
  菊判洋装五册。大正二及三年發行
 
 信濃地名考三卷 叢書第一册所收。明和年間吉澤好謙著
 
 千曲之眞砂十卷附録一卷 同上。瀬下敬忠著。序ニ寶暦三歳次癸酉トアレドモ附録中ニ明和六年己丑ノ記事アリ
 
 信府統紀三十二卷 叢書第二册所收。松本ヲ主トシタル地理書ナリ。享保九年鈴木重武及三井弘篤、藩主水野息幹忠恒二代ノ命ニ依リテ編纂ス
 
(16) 諏訪舊跡志一巻 叢書第三册所收。安政四年飯塚久敏著、宮阪恒由補(諏訪史料叢書卷十四ニモ入レリ)
 
 善光寺史略二卷 同上。元治元年岩下貞融著
 
 芋井三寶記三卷(零本) 所收著者同上。天保十一年成。二書共ニ學問ト世途トノ間ニ挟マレテ懊悩セシ状見ラル。著者ハ善光寺ノ家隷ナリ
 
 伊那志略十六卷 叢書第四册所收。文化年間中村元恒著
 
 吉蘇史略三卷 同上。尾張士松平秀雲(君山)著
 
信濃奇勝録
  美濃紙判五册。井手道貞著。天保五年脱稿。明治二十年出版
 
洲羽國考
  松澤義章著。諏訪史料叢書卷二十所收
 
洲羽事跡考
  勝田正復著。同上卷二十一所收
 
古事記傳追繼附録
(17)  善光寺年神堂即水内社ノ考ナリ。美濃紙判一册。明治十五年十二月出版。茜部相嘉著。著者ハ名古屋ノ人鈴木朗ノ門人。初故樫内亀之助氏ヨリ版本ヲ贈ラレシガ大正十二年ノ大火ニ焼失セシカバ同人ヨリ留置ノ寫本ニ就イテ再寫シテ贈ラレシナリ。特ニ記シテ故人ノ厚意ヲ傳フ
 
木曾路名所圖會
  六卷七册(第一卷分册)。文化元年秋里籬島著。翌二年上版。卷五卷六は附録ニシテ卷五ハ江戸ヨリ香取・鹿島・筑波山ニ到ル道ヲ記シ卷六ハ日光ヨリ江戸ニ歸ル道ヲ叙セり
 
日本國誌資料叢書 信濃
  四六判洋装一册。太田享氏著。大正十四年六月再版發行
 
諏訪史第一卷
  四六二倍判仮装一册。鳥居龍藏氏著。大正十三年十二月發行
 
同 第二卷前編
  同上宮地直一氏著。昭和六年二月發行
 
(18)甲信紀程
  半紙判二册。村岡良弼氏著。明治三十九年遊記。同四十三年一月發行
 
信濃國分寺之研究
  菊判洋装一册。藤澤直枝氏著。昭和六年十二月發行
 
長野縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
  菊判仮装十八册。縣發行
 
一府十縣聯合共進會記念寫眞帖
  四六倍判一册。明治四十一年九月長野縣協賛會發行
 
木曾のにしき
  四六二倍判一册。一名木曾百景寫眞帖。明治四十四年再版發行
 
信濃國全圖
  肉筆著色精圖。南北六尺八寸。東西三尺一寸。無年記。但名所温泉ノ符、信濃地名考ノ附圖ニ齊シク又筑摩郡埋橋ノ傍ニ特ニ清水ト標シタルナド地名考ニ関係アル如シ
 
筑摩安曇二郡圖
(19)  即松本領ナリ。肉筆著色古圖。南北四尺、東西二尺
 
信濃明細全圖
  銅版。明治十三年六月出版
 
   上野國
 
上野國志
  菊判洋装一册。安永三年當國世良田人毛呂權藏義郷著。明治四十三年九月發行
 
上野國神名帳
  群書類従卷二十三所收
 
前橋風土記並附録
  貞享元年九月古市刊依藩主命著之。續々群書類從第八所收。前橋領全體ニ亙レリ。但平凡ナル地誌ナリ
 
上州碓氷郡地誌
  完本一册、紙數百四葉。外題ナシ。内題モ上邊ノ紙斷エテ碓氷郡部ノ四字ヲ殘セルノ(20)ミ。ヨリテ假ニ標題ノ如ク名ヅケツ。記事イト詳ナリ。末ニ享和亥春睦月成風亭主人述トアル自罸アリ
 
群馬縣史
  菊判洋装四册。昭和二年八月群馬縣教育會發行
 
伊香保志
  半紙判木版本三册。明治十五年新鐫。大槻文彦氏輯
 
上野國輿地全圖
  東都村上吾雄著。刊行年記ナシ
 
新撰上野國全圖
  銅版。明治十八年九月出版。スベテ明治二十九年以前ノ府縣圖は舊郡境ヲ見ルニ便ナレバ地理ヲ研究スルモノニハ缺クベカラズ。此圖ハ地名ニ誤字多キガ瑕ナリ
 
群馬の史蹟名勝
  四六判洋装一册。柴田常惠・高橋誠司二氏合著。昭和三年七月發行
 
群馬縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
(21)  菊判假装四册。縣發行
 
 第一輯一名上毛金石文年表
 
群馬縣下國寶並指定史蹟名勝天然紀念物
  四六判假装一册。昭和八年九月縣發行
 
群馬縣古墳概説
  菊版假装一册。昭和十一年四月縣發行
 
史蹟精査報告
  四六二倍判洋装。内務省發行
 
 第一 上野國三碑等。大正十五年五月發行
 
 第四 上野國三碑及上野國分寺阯。昭和二年三月發行
 
群馬縣史蹟名勝(寫眞帖)
  四六二倍到一帖。諸田八百六氏編輯。大正十五年五月發行
 
         ―――――――――――
 
上野國三碑
 
(22) 多胡碑舊拓本
 
 多胡碑拓本 多野郡吉井町役場頒布。大正初年作製
 
 山上碑拓本 林若樹氏手拓
 
 東路のつと 永正六年連歌師宗長道記。群書類從卷三三九所輯(多胡碑)
 
 ※[車+酋]軒小録 伊藤東涯著
 
 盍簪録卷四 同上
 
 擬集古録 並河誠所著。三十輻第三册所收
 
 上毛多胡郡碑帖 大本一册。上毛高克明摸。寶暦十年刻。罹災不施行。翌十一年就副本復刻之内容ハ即井上蘭臺七年序、拓本、高克明十一年跋、碑圖并記、澤田東郊著高克明校碑面考證并碑字考證、東郊六年跋以上。克明、氏ハ高橋、字ハ子啓、号ハ道齋、又九峰山人、通稱ハ九郎右衛門、甘樂郡下仁田ノ豪農ナリ。寛政六年二月六日歿ス。井上蘭臺は ソノ學間ノ師ナリ(市河寛齋文稿所收道齋高先生墓表參考)
 
 伊勢貞丈考 安永四年閏十二月成。兔園會集説所載
 
 金石題跋 市河寛齋餘稿所收(三碑)
 
(23) 好古小録上卷(三碑)
 
 集古十種 碑銘第三。原本不良ニシテ參考ニ供スルニ足ラズ(三碑)
 
 續昆陽漫録(多胡碑)
 
 上野國三碑考 伴信友全集第二册所收(三碑)
 
 松屋筆記卷六(多胡碑)
 
 古京遺文 狩谷望之著(三碑)
 
 柳庵隨筆(多胡碑)
 
 陸路の記 近藤芳樹著(三碑)
 
 史蹟精査報告第一
 
  上野三碑調査報告(黒板勝美氏)
 
  山の上古墳(田澤金吾氏)
 
 同 第四 柴田常惠氏著(三碑)
 
 群馬縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書第一輯
 
 群馬の史蹟名勝
 
(24) 群馬縣史蹟名勝(寫眞帖)多胡碑、同全景
 
 名胡碑集説 雜誌上毛及上毛人第三号。菊版假装一册。豐岡義孝氏編輯。大正三年八月發行
 
    追加
 
 山吹日記
  雜誌上毛及上毛人癸酉篇附録(昭和八年 一・二・三・四・六・七・九・十月號)、天明六年四月及五月幕士奈佐勝※[白/本]ガ上毛各地及足利ニ遊ビシ假字文ノ記ナリ。善本ナリ。某所所藏ノ一本ト比較スルニ雲泥ノ差アリ
 
   下野國
 
下野國誌
  美濃紙判十二册。當國芳賀郡ノ人河野守弘ノ著。嘉永元年五月著者ノ自序アリ。文久元年五月新彫。挿圖多シ。圖ハ梅溪田崎明義即後ノ草雲ノ筆ナリ。草雲ハ當國足利藩ノ士ナリ
 
(25)足利學校
  近藤正齋全集第二册所周右文故事附録卷四及卷五
 
足利學校事蹟考
  半紙判一册。足利郡ノ人川上廣樹氏著。明治十三年九月出版。足利學校ハ古ノ國學ノ遺ニテモト國府ニ在りシヲ足利ニ移シシナリトイフ説
 
遊中禅寺記
  安中藩主板倉勝明著。外人舟ヲ中禅寺湖ニ泛ベシ嚆矢トイフ。嘉永三年遊同四年刊行
 
栃木縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
  菊判假装三册。縣發行
 
 第一輯 國分寺趾 藥師寺趾 足利學校校趾 那須國造碑全景
 
 第三輯 國府址
 
栃木縣に於ける主要史蹟名勝天然紀念物概要
  菊判假装一册。縣發行。侍塚等
 
(26)那須郡誌
  菊判假装一册。大正十三年十月同郡教育會發行
 
那須の史蹟と名勝
  四六判假装一册。大正十五年八月縣發行
 
栃木縣寫眞帖
  原無題名。四六四倍判一帖。明治四十三年七月栃木縣發行
 
下野九郡村里方角案内
  國圖ナリ刊行年月不明
 
同上
  肉筆著色。南北五尺四寸、東西三尺。前者ト同圖ナリ。タダ西北隅ナル一區域足ラザルノミ。恐ラクハ前者ノ原本ニテ前者ハ之ニ彼一區域ヲ補ヒタルナラム。折方サヘ兩圖同一ナリ
 
栃木縣御通輦沿道略圖
  無表紙折本一帖。モト無題名。他縣ノ例ニ倣ヒテカク名ヅケツ。明治十四年奥羽北海(27)道御巡幸ノ時豫各縣廳ニ命ジテ作製セシメラレシ物ナリ。此時ノ記行ガ即隨鑾紀程及扈蹕日乘ナリ。此圖ハ世間ニ出サズ。サレバ今ハ珍物ナリ
 
栃木縣御通輦沿道名勝畧誌
  四六判假装一册。前者ノ附録ナリ。他縣ニハ例ナキ如シ
 
         ―――――――――――
 
那須國造碑
 
 下野國誌卷十二
 
  碑圖碑堂圖、碑文摸刻
 
  佐々宗淳碑文考
 
  新井白石碑文釋
 
  伊藤長胤※[車+酋]軒小録
 
  長久保赤水碑文釋
 
  蒲生秀實碑文考
 
  諸葛琴臺碑文解
 
(28)  狩合望之古京遺文
 
  車塚
 
  出自車塚器物之圖
 
 新井白石那須國造碑釋文并跋 本文二七三頁參照
 
 ※[車+酋]軒小録
 
 並河誠所擬集古録
 
 東奥紀行附録
 
 好古小録上卷
 
 那須國造碑考 下野國學助教藤原夷麿トアリ。蒲生君平ノ變名ナリ
 
 古京遺文
 
 栗田寛氏説 國造本紀考一一二頁
 
 那須國造碑考 美濃紙半切木版本。黒羽人三田稱平氏編輯。明治十一年十月出版。著者ノ事ハ隨鑾紀程卷一及卷五ニ見エタリ
 
 那須國造碑考 菊判假装一册。蓮實長氏著。大正十五年十月改訂増補發行
 
(29)栃木縣史蹟名勝天然紀念物調査報告第一輯
  湯津上侍塚古墳(古墳・碑堂・碑石ノ寫眞)
 
栃木縣に於ける主要史蹟名勝天然紀念物概要 同上(全景寫眞)
 
   陸奥國
 
五十四郡考
  新井白石著、廣瀬蒙齋補、甘雨亭叢書第四集所收
 
陸奥五十四郡考
  邨岡良弼稿。如蘭社話卷五十所載
 
   磐城國及岩代國
 
磐城風土記
  一卷。寛文年間平藩主撰。磐城志ニハ處士葛山爲篤撰トセリ。會津風土記ニ倣ヒテ作レルナリ。續々群書類從第八册所收。又岩磐史料叢書中卷所收。海道一部ノ地誌ナリ
 
(30)磐城志
  鍋田晶山著。岩磐史料叢書上册所收
 
白河古事考
  美濃紙判活版、六卷二册。蒙齋廣瀬典著。文政元年成。明治四十二年初版、昭和二年再版
 
磐城史料
  半紙判活版二册。大須賀※[竹冠/均]軒氏著。明治四十五年發行。磐城四郡(菊多・磐前・磐城・楢葉)ノ沿革ヲ叙セリ。末ニ奈古曾關及海道ノ考アリ
 
西白河郡誌
  菊判一册。明治四十四年十月發行
 
會津風土記
  一卷。寛文年間藩主保科正之撰。續々群書類從第八册所收
 
新編會津風土記
  一百二十卷。會津藩編纂。文化六年成。大日本地誌大系第三十册至第三十四册所收
 
相生集
(31)  二十卷。二本松藩士大鐘彌兵衛義鳴著。岩磐史料叢書中册及下册分收。二本松領安積・安達二郡ノ地誌ナリ
 
信達一統志
  十二卷、附人物類二卷。信夫・伊達二郡ノ地誌ナリ。信夫郡民志田春治正徳著。岩磐史料叢書上册及中册分收
 
岩磐史料叢書
  菊判洋装三册。同刊行會發行。大正八年再版
 
福島縣名勝舊蹟抄
  菊判假装一册。縣廳著作。明治四十一年九月發行。先是福島縣名勝舊蹟誌ト題シテ印刷セシカド世ニ公ニセザリキ。其本モ亦文庫ニアリ
 
福島縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
  菊判假装六册。縣廳發行
 
福島縣寫眞帖
  四六二倍判一册。大正五年七月縣發行
 
(32)福島縣御通輦沿道地圖
  明治十四年縣廳作製。洋紙二帖、無表紙。隨鑾紀程及扈蹕日乘ト併セ見ベキモノ
   御往幸路次一帖
 
   御還幸路次并左府宮御代視路次一帖
 
   陸前國
 
奥羽觀蹟聞老志
  洞巖佐久間義和著。中本二十卷二十册。明治十六年宮城縣刊行。近年一冊本トシテ再版シキトイフ
 
封内名蹟志
  二十一巻四冊。寫本漢文。佐藤信要著ニテ卷蹟聞考志ノ補訂ナリ。前志ノ著者洞巖モ亦之ニ與ル。寛保元年成ル。仙臺叢書第八巻ニソノ譯讀本ヲ收メタリ
 
仙臺金石志
  本篇二十八巻、附録四卷、補遺一巻。吉田文太夫友好著。昭和二年發行。仙臺叢書ニ菊判(33)二册トシテ收メラル。友好ハ仙臺藩士。慶應元年三月歿ス。年五十五
 
鹽竈神社史料
  菊判洋装一册。昭和二年四月社務所發行、良書ナリ
 
仙臺市史
  菊判洋装厚册一。明治四十一年八月市役所編纂發行
 
宮城縣寫眞帖
  四六倍判縱本。明治四十一年十月發行。宮城縣編纂
 
宮城縣史蹟名勝天然紀念物寫眞帖
  四六倍版横本。昭和三年十二月發行。前者ト重複セズ
 
宮城縣史蹟名勝天然紀念物調査報告
  菊判仮装。所蔵ハ初十二册迄(二・九・十・十一缺)
 
宮城縣下御通輦沿道略圖
  明治十四年。帖子。洋紙、有表紙
 
        ―――――――――――
 
(34)伊寺水門
 蒲生君平全集 靈蛇塚碑
 
 如蘭社話卷二 伊寺水門(村岡良弼氏)
 
 同 後編卷二十 請褒崇田道將軍祠廟議附田道將軍墳墓并祠廟考(青山延壽氏)
 
 田道將軍墳墓并祠廟考 秩入一册。著者稿本(重野成齋氏舊藏)。本文ノ末ニ明治廿三年六月十日青山延壽未定稿トアリ。小田島由義氏ノ調査書並圖四葉ヲ附載セリ
 
桃生城墟
 好古叢誌卷十二 茶碓山墟記
 
 宮城縣史蹟調査報告第五輯 桃生城址
 
高道宿禰墳記
 
 好古叢話卷十二
 
名取鎭所址
 
 宮城縣史蹟調査報告第五輯
 
中山柵址及色麻柵址
 
(35) 同第一輯
 
多賀城碑及多賀址
 
 仙臺金石志卷一及卷二
 
 宮城縣史蹟調査報告第三輯
 
 如蘭社話卷二十四 多賀城碑發見始末(栗田寛氏)
 
 史學會雜誌第三十五號 多賀城碑考(田中義成氏)
 
  ○右ノ外ハ本文ニ擧ゲタルヲ見ヨ
 
   追加(本文稿了後ニ入手セシモノ)
 
復軒雜纂
  菊判洋装一册。明治三十五年八月發行。大槻文彦氏ノ隨筆ナリ。凡例モ目録モ無シ。内容中陸奥ノ歴史地理ニ關係アルハ
 
   多賀國府考      一頁
 
   遠田郡小田郡沿革考 一二頁
 
   伊治城墟考    一一一頁
 
(36)   宮城縣福室村正平親王御碑考    四九六頁
 
   桃生城ノ考             五四一頁
 
   陸奥國古驛路考           五六七頁
 
   古奥舊地考摘録           五八〇頁
 
    道江岐閇國造 阿岐閇國造
 
    思國造
 
    伊寺水門
 
    陸奥古國府
 
    丹取郡(名取郡)
 
    香阿村 閇村
 
    奥郡 奥邑 奥縣
 
    玉造塞
 
    遠山村
 
    賊帥阿※[氏/一]流爲の居 巣伏村
 
(37)    鳥海柵
 
    志波城 徳丹城
 
    閇伊村 爾藷體村 都母村
 
伊達行朝朝臣勤王事歴第三册
  半紙判三册之内。大槻文彦氏著。明治三十三年七月發行。本篇ニ關係アル歴史地理ノ論文ヲ集メタル。其二三ヲ擧ケバ
 
   多賀國府
 
   靈山城
 
   宇津峯城
 
   白河城
 
   常陸ノ内海ノ地變
 
   奥州ニ於ケル南朝皇胤ノ御遺蹟
 
   奥州ニ於ケル北畠氏ノ子孫
 
   牡鹿湊吉野先帝碑
 
(38)玉造塞跡
  史學雜誌第十九編第八號(原秀四郎氏)
 
   陸中國
 
舊蹟遺聞
  四卷。美濃紙判。文化三年南部藩士坂牛助丁等藩主ノ命ニ依リテ作ル。事、巖手縣志二三八頁黒川盛隆ノ傳ニ見エタリ
 
陸奥郡郷考
  二卷文政七年一關文學關元龍著。仙臺叢書第十一卷所收。元龍通稱ハ良作、養軒ト号ス。天保三年十月十日歿ス。年七十二
 
巖手縣志
  菊判洋装一册。明治四十一年九月發行。巖手懸教育會著作
 
南部史要
  菊判洋装一册。明治四十四年八月發行。菊池悟郎氏著。良書ナレド惜ムベシ非賣品ナ(39)リ(原敬氏特志發行)
 
(岩手縣)史蹟名勝天然紀念物
  菊判假装一册。昭和四年三月岩手縣發行
 
(岩手縣)史蹟名勝天然紀念物調査報告
  菊判假装。所藏ハ四册ノミ(第八・第九・第十・第十二)。縣發行
 
岩手縣全圖
  銅版縱一尺三寸、横九寸。明治十七年四月出版。陸中國十八縣岩手縣十九郡時代
 
中尊寺總鑑
  菊判折衷装一册。大正十四年三月發行
 
        ―――――――――――
 
鐘守府
 如蘭社話後編卷十八(邨岡良弼氏)
 
   陸奥國
 
(40)青森縣史第一卷
  菊判洋装厚册一。大正十五年成。縣發行。全部八卷。收藏困難ナルニ由リテ第一卷ノミヲ求メシナリ
 
青森縣史蹟名勝天然記念物調査報告
  菊判。所藏ハ四册ノミ(一・二・四・五)
 
   うとう前     第二輯
 
   猿賀神社     第四輯
 
   おそれ山     第五輯
 
青森縣寫眞帖
  四六四倍横帖。大正四年十月縣發行
 
青森縣輦道略圖
  明治十四年。卷子和紙、有表紙
 
   羽前國
 
(41)出羽風土略記
  寫本十卷合四册。寶暦十二年進藤和泉重記著。和泉ハ飽海郡吹浦兩所社ノ社人、寶暦三年神宮寺トノ爭ノ爲ニ罪ヲ蒙リテ社人ヲ免ゼラレ父子共ニ田川郡ニ追放セラレ今ノ西田川郡大山町ニ寓シ明和三年十一月七日年六十歳ニシテ悲惨ナル死ヲ遂ゲシ人ナリ。此人又ソノ爭ノ事ハ山形縣史蹟調査報告第五輯九四頁以下ニクハシ
 
山形縣地誌
  菊判洋装一册。大正九年六月山形縣教育會發行
 
出羽十二郡繪圖
  肉筆著色。東西二尺、南北四尺四寸。題簽ニ寶暦四戌年寫之豐島氏筆トアリ。東田川郡ヲ櫛引郡トシ、飽海郡ヲ遊佐郡トシ、河邊郡ヲ川邊郡トシ、八郎潟ヲタダ潟ト標セリ又田川郡ト櫛引郡トノ界ハ赤川ノ左方ニテ鶴ケ岡城ハ櫛引郡内ニアリ。又酒田ハ明ニ河ノ左岸ナリ(線ヲ以テ田川郡ノ西北端ヲ劃シテ酒田湊二標セリ)。又男鹿嶋ハ山本郡ニ屬セリ。貴重ナル地圖ナリ
 
(42)羽州莊内一分百間縮繪圖面
  肉筆著色。東西二尺六寸、南北四尺三寸。拙圖。但村名ヲ見ルニハ足レリ
 
山形縣御通輦沿道略圖
  明治十四年。卷子。洋紙。無軸無表紙
 
山形縣寫眞帖
  四六二倍判。明治四十二年八月縣廳發行
 
山形縣名勝誌
  四六二倍判。明治四十三年四月縣廳發行。前者ノ解説トシテ使用スベシ
 
   追加(本文稿了後ニ一讀セシモノ)
 
史蹟精査報告第三
 城輪《キノワ》柵阯(上田三平氏)
  四六二倍判假装一册。昭和十三年七月文部省發行
 
史蹟名勝天然紀念物調査報告
  菊判假装四册。山形縣發行
(43)   玉野原          第一輯六〇頁
 
   本楯村新田目城址      第二輯五七頁
 
   出羽國分寺址(○城輪柵址) 同  五九頁
 
同上
  四六二倍判假装三册
 
   鳥海山           第五輯
 
   羽後國
 
拂田《ホツタ》柵阯
  菊判假装一册。上田三平氏著。昭和六年八月秋田縣仙北郡高梨村史蹟保存會發行
 
秋田縣史蹟名勝天然紀念物調査報告書
  菊版假装一册。大正十一年三月縣廳發行
 
秋田縣史蹟調査報告第一輯
  四六二倍判一册。昭和七年十二月縣廳發行
 
(44)秋田城阯及金澤柵阯
 
秋田領六郡圖
  東西二尺六寸、南北四尺五寸。肉筆著色。天保八歳酉水無月寛之トアリ。但題簽ニハ天保八丁酉年四月易鞍寫之、村木教成トアリ
 
秋田縣御通輦沿道略圖
  明治十四年。帖子。和紙、有表紙
 
秋田縣寫眞帖
  四六二倍判一册。東宮行啓記念。明治四十一年九月縣廳發行
 
   追加(本文稿了後ニ一讀セシモノ)
 
史蹟精査報告第三
 拂田《ホツタ》柵阯(上田三平氏)
  四六二倍判假装一册。昭和十三年七月文部省發行(城輪柵址同載)
 
藤原保則傳
  續群書類從卷一九一。三善清行記
 
 
 上代歴史地理新考第二索引〔49頁まで省略〕
(50)能代川           五一八
能代港町           五一八
野代湊            五一八
渤海國使           五一八
渟代郡及其大少領       五一八
檜山郡            五一九
北秋田郡           五二〇
矢立峠            五二〇
肥内郡            五二〇
藤原泰衡ノ家         五二〇
比内             五二〇
肥内郡ヲ秋田郡ノ内トセシ不當 五二〇
能代川            五二一
阿仁川            五二一
元慶年中出羽北邊ノ亂     五二一
郡院屋舍           五二二
元慶時代ノ秋田郡       五二二
野代營            五二二
燒山             五二三
山道             五二四
河北             五二四
秋田城下賊地         五二五
上津野            五二五
火内             五二五
※[木+鰮の旁]淵      五二五
添川             五二五
覇別             五二五
助川             五二五
安比川谿谷(流霞道)     五二八
流霞路、上津野        五二八
上津野ハ毛馬内町カ      五二九
古四王神社          五二九
羽後ノ藩治          五二九
 
 
   井上通泰博士著述 (昭和三年以來公刊之分)
萬葉集新考       菊判 八册      絶版
南天莊歌集      四六判 一册 古今書院 再版
南天莊墨寶       菊判 二册      絶版
南天莊雜筆       菊判 一册      絶版
播磨風土記新考     菊判 一册   大岡山書店
萬葉集雜攷       菊判 一册 明治書院 再版
肥前風土記新考     菊判 一册    再版絶版
豐後風土記新考     菊判 一册    再版絶版
西海道風土記逸文新考  菊判 一冊      絶版
南天莊次筆       菊判 一冊     弘文莊
今樣歌        四六判 一冊     福壽堂
南天莊歌集第二篇   四六判 一冊    古今書院
萬葉集追攷       菊判 一冊    岩波書店
上代歴史地理新考第一  菊判 一冊     三省堂
 
昭和十八年六月二十日 初版印刷
昭和十八年六月三十日 初版發行 (二、〇〇〇部)
 
上代歴史地理新考 東山道
 定價七圓
 【持別行爲税相當額】十一錢 合計 七圓十一錢
 著作者  井上 通泰《ゐのうへみちやす》
 發行者  東京市神田區神保町一丁目一番地
      【株式會社】 三省堂
 代表者  龜井豐治
 印刷者  東京市蒲田區仲六郷一丁目五番地
      【株式會社】三省堂蒲田工場
      代表者 岸本玄男
          東東五六九
 
         2008年9月28日(日)午前10時28分、入力終了